これが
今日のおしまいだろう、と
云いながら
斉田は青じろい
薄明の
流れはじめた県道に立って
崖に
露出した
石英斑岩から一かけの
標本をとって新聞紙に包んだ。
富沢は地図のその点に
橙を
塗って
番号を書きながら読んだ。斉田はそれを包みの上に書きつけて
背嚢に入れた。
二人は早く
重い岩石の
袋をおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。
道の左には地図にある通りの細い
沖積地が
青金の
鉱山を通って来る川に
沿って青くけむった
稲を
載せて北へ
続いていた。山の上では
薄明穹の
頂が水色に光った。
俄かに斉田が立ちどまった。道の
左側が細い谷になっていてその下で
誰かが
屈んで何かしていた。見るとそこはきれいな
泉になっていて
粘板岩の
裂け目から水があくまで
溢れていた。
(
一寸おたずねいたしますが、この
辺に
宿屋があるそうですがどっちでしょうか。)
浴衣を
着た
髪の白い
老人であった。その着こなしも
風采も
恩給でもとっている古い
役人という風だった。
蕗を
泉に
浸していたのだ。
(宿屋ここらにありません。)
(
青金の
鉱山できいて来たのですが、何でも鉱山の人たちなども
泊めるそうで。)
老人はだまってしげしげと二人の
疲れたなりを見た。二人とも
巨きな
背嚢をしょって地図を首からかけて
鉄槌を
持っている。そしてまだまるでの
子供だ。
(どっちからお
出でになりました。)
(
郡から
土性調査をたのまれて
盛岡から来たのですが。)
(
田畑の
地味のお
調べですか。)
(まあそんなことで。)
老人は
眉を
寄せてしばらく
群青いろに
染まった夕ぞらを見た。それからじつに
不思議な
表情をして
笑った。
(青金で
誰か
申し上げたのはうちのことですが、
何分汚ないし、いろいろ
失礼ばかりあるので。)(いいえ、何もいらないので。)
(それではそのみちをおいでください。)
老人はわずかに
腰をまげて道と
並行にそのまま谷をさがった。五、六歩行くとそこにすぐ小さな
柾屋があった。みちから一
間ばかり
低くなって
蘆をこっちがわに
塀のように
編んで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。
老人は
蘆の中につくられた四角なくぐりを通って家の
横に出た。二人はみちから家の前におりた。
(とき、とき、お
湯持って
来。)老人は
叫んだ。家のなかはしんとして
誰も
返事をしなかった。けれども
富沢はその
夕暗と
沈黙の
奥で誰かがじっと
息をこらして
聴き耳をたてているのを
感じた。
(いまお湯をもって来ますから。)老人はじぶんでとりに行く風だった。(いいえ。さっきの
泉で
洗いますから、
下駄をお
借りして。)老人は新らしい
山桐の下駄とも一つ
縄緒の
栗の木下駄を気の
毒そうに一つもって来た。
(どうもこんな下駄で。)(いいえもう
結構で。)
二人はわらじを
解いてそれからほこりでいっぱいになった
巻脚絆をたたいて巻き
俄かに
痛む
膝をまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの
灌漑の
水路のように
勢よく岩の間から
噴き出ていた。
斉田はつくづくかがんでその
暗くなった
裂け目を見て
云った。(
断層泉だな。)(そうか。)
富沢は
蕗をつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで
汗をふきながら云った。
頭を
洗ったり口をそそいだりして二人はさっきのくぐりを通って
宿へ帰って来た。その
煤けた
天照大神と書いた
掛物の
床の
間の前には小さなランプがついて二
枚の
木綿の
座布団がさびしく
敷いてあった。
向うはすぐ
台所の
板の
間で
炉が切ってあって青い
煙があがりその間にはわずかに
低い二
枚折の
屏風が立っていた。
二人はそこにあったもみくしゃの
単衣を
汗のついたシャツの上に
着て今日の
仕事の
整理をはじめた。
富沢は
色鉛筆で地図を
彩り直したり、
手帳へ書き
込んだりした。
斉田は岩石の
標本番号をあらためて
包み直したりレッテルを
張ったりした。そしてすっかり夜になった。
さっきから台所でことことやっていた
二十ばかりの
眼の大きな女がきまり
悪そうに夕食を
運んで来た。その
剥げた
薄い
膳には
干した川魚を
煮た
椀と
幾片かの
酸えた
塩漬けの
胡瓜を
載せていた。二人はかわるがわる
黙って
茶椀を
替えた。
(この家はあのおじいさんと今の女の人と二人切りなようだな。)膳が下げられて
疲れ切ったようにねそべりながら斉田が低く
云った。
(うん。あの女の人は
孫娘らしい。
亭主はきっと
礦山へでも出ているのだろう。)ひるの
青金の
黄銅鉱や
方解石に
柘榴石のまじった
粗鉱の
堆を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って
押入れをあけて二枚のうすべりといの
角枕をならべて
置いてまた台所の方へ行った。
二人はすっかり
眠る
積りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。
ダーダーダーダーダースコダーダー
強い
老人らしい声が
剣舞の
囃しを
叫ぶのにびっくりして
富沢は目をさました。台所の方で
誰か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。
ランプがいつか
心をすっかり細められて
障子には月の光が
斜めに青じろく
射している。
盆の十六日の
次の夜なので剣舞の
太鼓でも
叩いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの
主人なのかどっちともわからなかった。
(
踊りはねるも三十がしまいって、さ。あんまりじさまの
浮かれだのも見だぐなぃもんさ。)むっとしたような
慓悍な三十台の男の声がした。そしてしばらくしんとした。
(
雀百まで踊り
忘れずでさ。)さっきの女らしい細い声が
取りなした。
(
女※
[#小書き平仮名こ、128-12]引ぱりも百までさ。)またその慓悍な声が
刺すように
云った。そしてまたしんとした。そして
心配そうな
息をこくりとのむ音が近くにした。富沢は
蚊帳の外にここの主人が
寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分
夢のように見た。
(さあ帰って寝るかな。もっ切り二っつだな。そいでぁこいづと。)(
戻るすか。)さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん
続けて叩いていた。(
亦来るべぃさ。)何だか
哀れに
云って外へ出たらしい音がした。
あとはもう聞えないくらいの
低い
物言いで
隣りの主人からは
安心に
似たようなしずかな
波動がだんだんはっきりなった月あかりのなかを
流れて来た。そして
富沢はまたとろとろした。
次々うつるひるのたくさんの青い山々の
姿や、きらきら光るもやの
奥を
誰かが高く歌を歌いながら通ったと思ったら富沢はまた弱く
呼びさまされた。おもての
扉を誰か
酔ったものが歌いながら
烈しく
叩いていて主人が「
返事するな、返事するな。」と低く
娘に云っていた。さっきの男も帰って娘もどこかに寝ているらしかった。「寝たのか、まだ明るぞ。
起きろ。」
外ではまたはげしくどなった。
(ああこんなに
眠らなくては明日の
仕事がひどい。)富沢は思いながら
床の
間の方にいた
斉田を見た。
斉田もはっきり目をあいていて低く
鉱夫だなと云った。富沢は手をふって
黙っていろと云った。こんなときものを云うのは老人にどうしても気の
毒でたまらなかった。
外ではいよいよ
暴れ出した。とうとう娘が
屏風の
向うで起きた。そして(酔ったぐれ、大きらいだ。)とどうやらこっちを見ながらわびるように
誘うようになまめかしく
呟いた。そして足音もなく
土間へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で
訴えるようにしていた。男は
酔っていないような声でみじかく何か
訊きかえしたりしていた。それから二人はしばらく
押問答をしていたが間もなく一人ともつかず二人ともつかず家のなかにはいって来てわずかに
着物のうごく音などした。そしていっぱいに
気兼ねや
恥で
緊張した
老人が
悲しくこくりと
息を
呑む音がまたした。