氷と後光

宮澤賢治




「ええ。」
 雪と月あかりの中を、汽車はいっしんに走ってゐました。
 赤い天鵞絨の頭巾をかぶったちひさな子が、毛布につつまれて窓の下の飴色の壁に上手にたてかけられ、まるで寢床に居るやうに、足をこっちにのばしてすやすやと睡ってゐます。
 窓のガラスはすきとほり、外はがらんとして青く明るく見えました。
「まだ八時間あるよ。」
「ええ。」
 若いお父さんは、その青白い時計をチョッキのポケットにはさんで靴をかたっと鳴らしました。
 若いお母さんはまだこどもを見てゐました。こどもの頬は苹果りんごのやうにかがやき、苹果のにほひは室いっぱいでした。その匂は、けれども、あちこちの網棚の上のほんたうの苹果から出てゐたのです。實に苹果の蒸氣が室いっぱいでした。
「ここどこでせう。」
「もう岩手縣だよ。」
「あの山の上に白く見えるの雲でせうか。」
「雲だらうな。しかし凍ってゐるだらうよ。」
「吹雪ぢゃないんでせうか。」
「さうだな、あすこだけ風が吹いてるかも知れないな。けれども風が山のパサパサした雪を飛ばせたのか、その風が水蒸氣をもってゐて、あんな山の稜の一層つめたい處で雪になったのかわからないね。」
「さうね。」
 月あかりの中にまっすぐに立った電信柱が、次々に何本も何本も走って行き、けむりの影は黒く雪の上を滑りました。
 車室の中はスティームで暖かく、わづかの乘客たちも大てい睡り、もう十二時を過ぎてゐました。
「今夜は外は寒いんでせうか。」
「そんなぢゃないだらう。けれども霽れてるからね。こんな雪の野原を歩いてゐて、今ごろこんな汽車の通るのに出あふと、ずゐぶん羨しいやうななつかしいやうな變な氣がするもんだよ。」
「あなたそんなことあって。」
「あるともさ。お前睡くないかい。」
「睡れませんわ。」
 若いお父さんとお母さんとは、一緒にこどもを見ました。こどもは熟したやうに睡ってゐます。その唇はきちっと結ばれて鮭の色の谷か何かのやうに見え、少し鳶色がかった髮の毛は、ぬれたやうになって額に垂れてゐました。
「おい、あの子の口や齒はおまへに似てるよ。」
「眼はあなたそっくりですわ。」
 山の雪が耿々と光り出しました。と思ふうちにいきなり汽車はまっ白な雪の丘の間に入りました。月あかりの中に、たしかにかしはの木らしいものが、澤山枯れた葉をつけて立ってゐました。
 そしてみんなはねむり、若いお父さんとお母さんもうとうとしました。山の中の小さな驛を素通りするたんびにがたっと横にゆれながら、汽車はいっしんにその七時雨ななしぐれの傾斜をのぼって行きました。そのまどろみの中から、二人はかはるがはる、やっぱり夢の中のやうに眼をあいて子供を見てゐました。苹果の蒸氣がいっぱいだったのです。電燈は青い環をつけたり碧孔雀になって翅をひろげ子供の天蓋をつくったりしました。
 ごとごとごとごと、汽車はいっしんに走りました。
「おや、變に寒くなったぞ。」
 しばらくたって若いお父さんは室の中を見まはしながら云ひました。電燈もまるでくらくなって、タングステンがやっと赤く熱ってゐるだけでした。
「まあ、スティームが通らなくなったんですわ。」
 若いお母さんもびっくりしたやうに目をひらいて急いで子供を見ました。こどもはすっかりさっきの通りの姿勢ですやすやと睡ってゐます。
「どうしたんだらう。ああ寒い。風邪を引かせちゃ大へんだぜ。何時だらう。ほんのとろっとしただけだったが。」
 時計の黒い針は、かっきりと夜中の四時を指し、窓のガラスはすっかり氷で曇ってゐました。
 月が車室のちゃうど天井にかかってゐるらしく、窓の氷はただぼんやり青白いばかり、電燈は一そう暗くなりました。
「寒いねえ、もう一枚着せよう。」
「そんならわたしのコートやりますわ。」
「コートなんかぢゃ着ないも同じこったよ。だまって起しておやり。却って一ぺん起した方がいいよ。同んなじ姿勢でばかり居たんだから。」
「ええ。ですけど大丈夫ですわ。外套はお脱ぎにならなくてもいいのよ。」
 若いお母さんは、窓ぎはから子供を抱いて立ちあがりました。毛布は暖かいぬけがらになって殘りました。こどもは抱かれたまま、やっぱりすやすや睡ってゐます。
「まあ着せとけよ。どうせおれは着てなくたって寒くないんだから。」お父さんは立って席の横に出て外套をぬぎながら云ひました。
「毛布の中へ包めばいいよ。そら。」
 汽車は峠の頂上にかかったらしく、青い信號燈や何かがぼんやりと窓の外を過ぎ、こどもはまた窓のところに、前より少しうつむいて置かれました。深く息をしながらやっぱりすうすう寢てゐます。
 たしかにそこは峠の頂上でした。にはかに汽車のあへぐやうな歩調がなくなり、速さは加はり、まっしぐらに傾斜を下って行くらしいのでした。
 間もなく電燈はさっと明るくなりスティームも通って來て、暖かい空氣が窓の下の隅から紐のやうになってのぼって來ました。若いお父さんとお母さんとは安心して、またうとうと睡りました。外が冷えて來たらしく窓は湯氣が凍りついて白くなりました。そしてまた夢の合間あひまに、電燈はまばゆい蒼孔雀に變って、紋のついた尾翅をぎらぎらにのばし、そのおいしさうなこどもをたべたさうにしたり、大事さうにしたりしました。
 ごとごとごとごと汽車は走ったのです。
 そしていつか汽車はとまってゐました。
「盛岡、五分停車、盛岡、五分停車。」それからカラコロセメントの上をかける下駄の音、たしかにそれは明方でした。
(ふう、今朝ずゐぶん冷えるな。)犬の毛皮を着たり黒いマントをかぶったりして八九人の人たちがどやどや車室に入って來ました。その人たちの頭巾やえり卷には氷がまっ白な毛のやうになって結晶してゐて、ちょっと見ると山羊の毛でも飾りつけてあるやうでした。
 いつか窓はすっかり白く明るくなりました。電燈も水のやうでした。
「夜が明けましたわね。」
「うん。すっかり睡っちゃった。」
「ここ、どこでせう。」
「盛岡だらう。もうぢき日が出るよ。ああすっかり睡っちゃった。」
 窓はいちめん蘭か何かの葉の形をした氷の結晶で飾られてゐました。
 汽車はたち、あちこちに朝の新らしい會話が起りました。
(へえ、けれどもみそさざいなら射てるでせう。)
(いいえ、みそさざいのやうな小さな鳥は彈丸で形も何もなくなります。)
 窓の蘭の葉の形の結晶のすきまから、東のそらの琥珀が微かに透いて見えて來ました。
「七時ころでございませうか。」
「丁度七時だよ。もう七時間、なかなか長いねえ。」
 子どもが眼をさまして舌を出しました。
「おお、いいよ。泣かないわね。ずゐぶんねんねしましたね。さあお乳をあげますよ。ようっと。」お母さんは子どもを抱きました。
「そんなに舌を出してはばけてはいかん。」若いお父さんはトランクから楊子を出しながら云ひました。
 窓は暗くなったり又明るくなったり汽車はごとごと走りました。
 お父さんが洗面所から歸って來ました。
 俄かにさっと窓が黄金いろになりました。
「まあ、お日さまがお登りですわ。氷が北極光の形に見えますわ。」
「極光か。この結晶はゼラチンで型をそっくりとれるよ。」
 車室の中はほんたうに暖いのでした。
(ここらでは汽車の中ぐらゐ立派な家はまあありゃせんよ。)
(やあ全く。斯うまるで病院の手術室のやうに暖かにしてありますしね。)
 窓の氷からかすかに青ぞらが透いて見えました。
「まあ、美しい。ほんたうに氷が飾り羽根のやうですわ。」
「うん奇麗だね。」
 向ふの横の方の席に腰かけてゐた線路工夫は、しばらく自分の前のその氷を見てゐました。それから爪でこつこつこそげました。それから息をかけました。そのすきとほった氷の穴からくろずんだ松林と薔薇色の雪とが見えました。
「さあ、又お座りね。」こどもは又窓の前の玉座に置かれました。小さな有平糖あるへいたうのやうな美しい赤と青のぶちの苹果を、お父さんはこどもに持たせました。
「あら、この子の頭のとこで氷が後光のやうになってますわ。」若いお母さんはそっと云ひました。若いお父さんはちょっとそっちを見て、それから少し泣くやうにわらひました。
「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、そのときは本當にその光がこの子に來るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ。」
 若いお母さんはだまって下を向いてゐました。
 こどもは苹果を投げるやうにしてバアと云ひました。すっかりひるまになったのです。





底本:「宮澤賢治全集第六卷」筑摩書房
   1967(昭和42)年9月25日初版第1刷発行
入力:土屋隆
校正:阿部哲也
2012年8月7日作成
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