一
「当分御逗留でござりますか」
宿の亭主に
「旦那はまた長逗留かね。お
「いや、もう、お話にならねえ」と、治六は帳場の前にぐたりと坐って
「実をいうと、佐野のお
亭主はしばらく黙って、旅疲ればかりではないらしい彼の痩せた顔を見つめていた。
「お家が潰れた」と、亭主は呆れたように言った。「いつ、どうして……。この前に見えた時にはちっともそんな話はなかったが……」
「なに、あのときにも内々覚悟はしていたのだが、この秋になって急にばたばたと傾いて来たので……。こうなっちゃあ人間の力で防ぎは付かねえ」
治六はきれいに諦めたらしく言っていた。去年からの主人の放蕩で、佐野で指折りの
「百姓の
口癖にこう言っていた父は、自分の生きているあいだに、形見分けの始末なども残らず決めておいた。
「これでいい。あとは潰すともどうとも勝手にしろ」
父は財産全部を忰の前に投げ出して、自分は思い切りよく隠居してしまった。それでも先代の息のかよっている間は、若い次郎左衛門はさすがに幾らか遠慮しているらしい様子も見えたが、その父が六十一の
次郎左衛門には栃木の町に
彼は博奕場へ入り込むようになってから、ある浪人者に就いて一心不乱に剣術を習った。その動機はこうであった。あるとき博奕場で他の者と論争を始めると、相手は腕をまくってこう言った。
「いくら佐野のお
幸いにささえる者があったので、その場は何事もなく納まったが、もし彼がいう通りに腕づくの勝負となったら、次郎左衛門はとても彼の敵でないことを自覚していた。次郎左衛門はその以来、人間がいざという場合にはおのれの力のほかに
父が死んだのちの彼はもう唯の百姓ではなかった。彼はむしろ博奕打ちとして世間から認められていた。彼もそれを得意としていた。しかし彼は大親分と立てられるような徳望にかけていたので、相当の子分をもちながら彼の縄張り内は余りに拡げられなかった。子分にも片腕になって働くような者が一人もできなかった。彼はいつまでも孤立の頼りない地位に立っていた。彼は
去年の春、彼は治六とほかに二、三人の子分を連れて江戸見物に出た。この佐野屋に宿を取って、彼はその頃の旅人がみんなするように、花の吉原の夜桜を観に行った。江戸めずらしいこのひと群れは
江戸のよし原のいわゆる
彼はほかの子分どもをひとまず国へ帰してしまった。治六だけを宿に残して、それからほとんど一夜も欠かさずに
「旦那さま、盆がまいりますぞ。いい加減に戻らっしゃい」と、治六も呆れてたびたび催促したので、次郎左衛門もさすがに気が付いたらしく、
帰って見ると、百日あまりの留守の間に子分どもの多くは散ってしまった。自分の縄張り内は大抵他人に踏み荒らされていた。いつもの次郎左衛門ならばとても堪忍する筈はなかった。彼は虎のように
彼が性格のいちじるしく変化したことは、佐野屋で一緒に起き
「まあ、まあ、打っちゃって置け」と、次郎左衛門は子分どもを却ってなだめていた。
自分の縄張りを踏み荒らされても、指をくわえて黙っている次郎左衛門のなまぬるい態度が子分どもの気に入らなかった。かれらは歯がゆく思った。親分を意気地なしと卑しんだ。折角踏みとどまっていた少数の子分もみんな失望して散った。さらでも孤立の次郎左衛門は、いよいよほんとうの一本立ちになってしまった。彼の影はいよいよ寂しくなった。
「いっそ、この方が旦那のためになるかも知れねえ」と、治六はひそかに喜んだ。
縄張りは人に
次郎左衛門は果たして博奕打ちをやめた。喧嘩もやめた。今までは奉公人まかせにしておいた帳簿などを自分で丹念に
それを聞いて、足利の姉は再び涙を流してよろこんだ。
明くる年の春は来た。
吉原は去年にまして賑わっていた。
次郎左衛門は今年も立花屋から送られて、大兵庫屋の客になった。彼は八橋に二百両の土産をやった。そうして、ことしも春から夏の終りにかけて百日ほども遊んで帰った。
「いくらお大尽さまでも、ちっと道楽が過ぎましょう」と、佐野屋の主人は二年越しの遊蕩に少しく顔をしかめていた。治六は喧嘩づらで
「ことしの内にまた来るかも知れません」
「お急ぎの御用があれば格別、今年はまあ
次郎左衛門は唯にやにや笑いながら
「なにしろ、もう七、八年前から
「それで
「それでも足利のおあねえ様や分家の手合いが寄り集まって、何とか
「千両……。
二階で治六を呼ぶ声がきこえるので、彼はそそくさと
二
暗い
次郎左衛門も今夜はすぐに吉原へ行かなかった。あしたは
ちらちらと揺れる行燈の灯を見つめて、彼は自分の過去を静かに考えた。十六の年から博奕場に足を入れて、
それが去年の春からがらりと変った。自分でも不思議に思うほどに変ってしまった。それは八橋から唯ひとこと、こう言われたからであった。
八橋があるとき彼の商売を訊くと、彼は野州佐野の博奕打ちで、三、四十人の子分を持っていると自慢らしく答えた。すると、八橋はにやりと笑った。
「ほかにもいろいろの
なるほど危ない商売には相違なかった。博奕打ちに喧嘩は付き物である。次郎左衛門はその命賭けの危ないなかに興味を求めていた。世間にはほかにいろいろの渡世があることも、喧嘩商売のあぶないことも、いまさら八橋の意見を聞くまでもなかった。そんなことは足利の姉からも、分家の人びとからも耳うるさいほどに聞かされていた。
「あぶのうおざんす」
この一句が今夜はふかく彼の胸に食い入った。相手はどれほどの親切気で言い聞かしたのか知れないが、次郎左衛門は心からその親切を感謝した。自分の
「今度来るときには堅気の百姓で来る」
彼はその約束を忘れなかった。盂蘭盆まえに国に帰ると、もとの百姓生活に立ちかえる準備に取りかかった。しかし、もう遅かった。いわゆる喧嘩商売で幾年も送った禍いは、彼の身代の大部分を
彼はその衰えを自覚しないほどに八橋にあこがれていた。そうして、約束通りに堅気の百姓になって、ことしの春ふたたび吉原へ来た。その話を聞いて、八橋は又こう言った。
「よく気を入れ替えなんした。人間は堅気に限りいす」と、
その深い意味は判らなかったが、女に褒められた次郎左衛門は子供のように嬉しがった。
しかし、その百姓生活を長く営むことを許されなかった。彼が今年の盆に国に帰ってから後、いろいろの禍いがそれからそれへと落ちかかって来た。彼は一家の後始末を親類に頼んで故郷を立ち
「旦那さま。まだお
治六は寝返りを打って、
「天井でえらく鼠がさわぐので、眼が醒めてしまいました」と、彼はまた言った。
今までは気がつかなかったが、低い天井には鼠の駈けまわる音がおびただしく聞えた。次郎左衛門も無言で天井を仰いだ。
「旦那さま。おめえさま何か考えているんじゃごぜえませんかね。道中では毎晩よく眠らっしゃるのに、どうして今夜は寝ねえんだね。もう江戸へへえったから、ゆっくりと手足が伸ばせる筈だが……」と、治六は半分起き返って言った。「おめえさま。あしたの晩に吉原へ行くつもりかね」
「むむ。
治六は黙っていた。
「いやか」と、主人は少し面白くない顔をして苦笑いをした。
「おめえさまも止したらどうだね。いや、行くなじゃあねえが、まあ当分は……。ともかくもここの御亭主と相談して、何か商売の道を立てて、自分たちの身分を決めた上で、それから行っても遅くはあるめえと思うが……」
今度は次郎左衛門の方が黙っていた。
「佐野の家をぶっ潰して唯ぼんやり江戸へ出て来たじゃあ、吉原へ
「まあ、いい。そんなことはあしたの話にして、今夜はお前も寝ろよ。おれももう寝る」と、次郎左衛門は相手にならずに
主人が寝ると、家来があべこべに起き直った。
「いや、こんな事は今のうちにしっかり決めて置くがいい。わしはさっきから寝た振りをしておめえさまの様子を見ていたが、何をそんなに考げえていなさるね。聞かねえでも判っていると言うかも知れねえが、もし、旦那さま。江戸へ出るまではなんにも言うめえと思って、道中でも口を結んでいたが、あの吉原の女はおめえさまに隠して
去年の春は治六もちっとも気がつかなかったが、ことしの春になって彼はその噂を聞き出した。八橋には若い浪人者の馴染みがあって、
彼は今夜初めてその秘密を洩らした。
三
八橋の男に
治六もその以上のことは詳しく知らなかった。しかしこれだけの事実でも、主人の寝ぼけている顔を洗うには十分の冷たい水であると彼は考えていた。彼は今夜それを残らず打ち明けた。そうして、もともとが気晴らしの遊びであるから、女に
「おめえさまも昔とは違う身分だ。千両の金をなくしてしまえば、乞食するよりほかはあるめえ。主人と家来が二人つながって
次郎左衛門は
「馬鹿野郎、くよくよ心配するな。今だからこそ遊んでいられるのだ。これから商売を始めて、千両の金を元手にかけてしまったら、どの金で遊べる。遊ぶなら今のうちだ。八橋に
「千両を半分やる……」と、治六は呆れて笑い出した。「それよりもおめえさまの首をやった方がよさそうだ。わはははは」
「事によれば首をやらないとも限らない」と、次郎左衛門も笑った。「だが、金のあるうちは命が大事だ」
もう相手になるのが面倒になったらしい。次郎左衛門はくるりと寝返りを打ってこちらへ背を向けた。いつもの癖で、衾をすっぽりと頭からかぶってしまった。雁の声がまたきこえた。
ことばの行きがかりでそんなことを言ったのだろうとは思うものの、冗談にも千両の半分を八橋の情夫にやる――飛んでもないことだと治六は思った。どっちにしても、
夜の明けるのを待ちかねて、治六は佐野屋の亭主に相談した。どうで千両の金を首へかけて歩いていられるものでない、外へ出る時には宿へあずけて行くに決まっている。そのときに受取ったが最後、なんとか文句を付けて
「八橋に土産もやらなければならない。二階じゅうの者にも相当のことをしてやりたい。まして歳の暮れの
彼は治六を叱り付けて、五百両を持って供をしろと言った。治六は渋々ながら付いて行くことになった。二人とも
二人が駕籠で
駕籠を出ると、彼は小走りに駈けて行った。呼び止められたのは、
「栄之丞さんじゃあございませんか」
編笠の男は宝生栄之丞であった。
「おお、次郎左衛門どの。また
「江戸が懐かしいので又のぼりました」と、次郎左衛門は笑った。八橋に変ることはないかと取りあえず訊いた。
臆病らしい態度で栄之丞は始終挨拶していた。自分も久しく無沙汰をしているが、八橋には多分変ったこともあるまいと言った。自分は浅草観音へ参詣した帰りで、これから
おとなしい男だと次郎左衛門はまた思った。
治六にいくら注意されても、彼はこのおとなしい若い浪人者に対して、いわゆる色がたきの恋争いのという強い反抗心をもち得なかった。彼は恋のかたきというよりも、むしろ一種の親しみやすい友達として栄之丞を取扱いたかった。
しかしその親しみやすいといううちには、おのずからなる軽蔑の意味も含まれていた。次郎左衛門が彼に対して反抗心や競争心をもち得ないのは、相手を余りに見くびっていた結果でもあった。次郎左衛門は芝居や講談で伝えられているような
それに較べると、栄之丞は哀れなほどに貧弱なものであった。目鼻立ちこそ整っているが、背も低い、病身らしく痩せている。次郎左衛門と立ちならぶと、まるで大人と子供ほどの相違があった。次郎左衛門もこんな者を相手にして、まじめに闘う気にはなれなかった。情夫であっても何でも構わない。八橋ぐるめに可愛がってやりたいと思っている位であった。
栄之丞のうしろ姿を見送って、次郎左衛門は駕籠の方へ引っ返すと、治六もいつの間にか駕籠を降りて、不安そうにこっちを窺っていた。
「旦那さま。今のは栄之丞でねえかね」
「むむ。丁度ここで逢ったのも不思議だ」
「わしがゆうべ、あんなことを言ったから、この往来なかで喧嘩でもおっ始めるのじゃあねえかと思って内々心配していたが、だいぶ仲がよさそうに別れたね」
「誰が喧嘩なんぞするものか、昔のおれとは違う」と、次郎左衛門は笑いながら駕籠に乗った。
四
仲の町の立花屋では、佐野のお大尽が不意に乗り込んで来たのに驚いた。亭主の長兵衛は留守であったが、女房のお藤がころげるように出て来て、すぐに二人を二階へ案内した。女中は兵庫屋へ
二階には
そのうちに女房はこんなことを言った。
「八橋さんの
「可哀そうに……。たんと金がいるのかね」と、次郎左衛門が訊いた。
「さあ、どんなものでござりましょうか。わたくし共も詳しいことは存じませんが、なんでも
浮橋というのは八橋の
「そうか。おい、治六。貴様どうかしてやれよ」と、次郎左衛門は笑った。
治六はにっこりともしないで、黙って酒を飲んでいた。
そうでなくても、主人は金を遣いたがっているところへ、花魁が手詰まりだなどという噂を聞かされては堪まったものではない。治六はもう逃げて帰りたくなった。
女中の迎いを受けて浮橋がさきへ来た。女房と女中が
「これで花魁も浮かみ上がるでおざんしょう」と、浮橋は自分も生き返ったように喜んでいた。
「今ここへ来る途中で、栄之丞さんに丁度
どこで逢ったと訊き返したので、雷門まえで逢ったというと、浮橋は黙って少し考えているらしかった。この頃こっちへ来るかと訊くと、浮橋はちっとも寄り付かないと答えた。八橋と喧嘩でもしたのかと訊くと、そんな訳でもないらしいとのことであった。
いい加減な嘘をついているのだと治六は思っていた。しかしそれは客に対する新造の駈け引きでもなんでもなかった。じっさい栄之丞はこの冬の初め頃から八橋のところへ顔を見せないのであった。使いをやっても
女房も八橋があまり遅いのを待ちかねて、もう一度催促をやろうかと言った。
「いいえ、わたしが見てきいんしょう」
浮橋は自分で兵庫屋へ引っ返して行った。
八橋は明けて十九になろうという若い遊女で、しもぶくれのまる顔で、眼の少し細いのと歯並みの余りよくないのとを疵にして、まず仲の町張りとしてひけを取りそうもない上品な花魁であった。彼女は持病の癪にひどく苦しんだと見えて、けさ結ったばかりの
「花魁。心持ちはもうようおすかえ」と、浮橋は摺り寄って彼女の蒼ざめた顔を覗くと、八橋はただひと言いった。
「浮橋さん。くやしゅうおざんす」
彼女は張りつめた胸をせつなそうに抱えて、蒲団の上に又うつ伏してしまった。苦しいのは判っているが、くやしいのは判らなかった。浮橋は黙って暫くその顔を見つめていると、掛橋が薬を
「悪いことができいしてね。困ったものでおぜえすよ」と、掛橋は顔をしかめた。
十月頃からかの栄之丞がちっとも顔を見せない。手紙をやっても返事がない。呼びにやっても来ない。それで八橋はじれ切っている矢先へ、あいにくにまた悪いことが耳にはいった。店の若い者の伊之助がさっき
そんな騒ぎで、八橋は仲の町へも立花屋へも、とても出て行かれる訳ではなかった。
「立花屋のお客は誰でおぜえすえ」と、掛橋はまた訊いた。それは佐野の大尽であることを浮橋は話した。そうして、次郎左衛門も雷門まえで栄之丞に逢ったという話を自分もいま聴いて、不思議に思っていたところだと言った。栄之丞が病人でないことはいよいよ確かめられた。
栄之丞がなぜそんな嘘をつくのか、二人にも判らなかった。なんにしても花魁の怒るのは無理もないと思った。くやしがって癪をおこすはずだと思った。しかし、そんなことを評議している場合でない。次郎左衛門は茶屋に待っている。いつまでも沙汰なしにしておいて、機嫌を損じては悪いと思ったので、浮橋と掛橋は取りあえず仲の町へ行った。出がけに掛橋は禿を叱った。
「お前がよけいな告げ口をしなんすから、こんなことにもなるのでおざんす。これからはちっと口を慎みなんし」
わたし達がいないあいだは、花魁の枕もとへ行っておとなしく坐っていろ、何か変った事があったら直ぐに
二人は女中と一緒に立花屋へ行って、花魁が急病の話をすると、女房もおどろいた。そこで相談の上で、八橋の病気がもう少し納まるまで浮橋だけが茶屋に残っていて、いい頃を見て掛橋自身が迎いに来るか、禿を使いによこすか、それまでもう少し待っていて貰いたいということになった。女房も承知した。掛橋も二階へ顔をちょっと出して、気の毒そうにその訳をことわって行った。次郎左衛門は掛橋にも十五両やった。
掛橋が二階を降りると、やがてそのあとから便所へ起つ振りをして、治六も降りた。彼はすぐに茶屋を駈け出して、江戸
「八橋花魁、よっぽど悪いのかね。もしよくねえようだったら、無理に我慢して迎いをよこすことはいらねえ。きょうは引っ返してもいいんだから」
「馬鹿らしい」と、掛橋は笑った。たとい花魁の病気が納まらないとしても、茶屋からすぐに帰る法はない。こっちでも帰されるものでない。ともかくも一旦兵庫屋へ来て、花魁の様子を見届けて、ほかの座敷であっさりと飲んで、それから帰るとも
治六は詰まらない顔をして仲の町の曲がり角に突っ立っていた。八橋の病気というのを幸いに、彼は日のあるうちに主人を連れて帰ろうと思ったのであるが、そんな
自分の相方の浮橋は茶屋の二階に来ているのであるが、彼はそんなことに係り合いのないようにぼんやりと考えていた。
主人は八橋にもう二百両やった。新造二人に十五両ずつやった。まだやらないが、茶屋の女房にも女中にもきっとやるに相違ない。まずあしたの朝日を拝むまでに、あわせて三百両は朝の霜のように消えてしまうものと思わなければならない。千両の三分の一はもうなくなる――こう思うと、治六は肉をそがれるように情けなかった。それでも、あしたの朝すぐに帰ればいい、もしまた未練らしくぐずぐずしていたら、きょう持って来た五百両はみんな飛んでしまう。おとなしくここまでは付いて来たものの、彼はもう主人の胸倉を掴んで引き摺って帰りたいようにもいらいらして来た。
背中合せの松飾りはまだ見えなかったが、家々の
五
その頃の大音寺まえは人の家もまばらであった。枯れ田を渡る夜の風は
栄之丞が堀田原から帰った時には冬の日はもう暮れていた。妹のお
「今も言うような訳だが、どうだ、その
彼が堀田原の知りびとをきょう訪ねたのも、その用向きであった。妹のお光ももう明ければ十八になる。年頃の娘を浪々の兄の手もとにおいて、
浪々しても宝生なにがしの妹を町家の奉公には出したくない。たとい
帰ってゆっくりとその話をすると、お光にも別に故障はなかった。
「
すなおな妹の返事を聞くと、栄之丞も何だかいじらしいような暗い心持ちになった。自分がまじめに
「わたくしが居なくなりますと、兄さまおひとりではさぞ御不自由でございましょう」と、お光も寂しそうに言った。
「いや、こっちはわたしひとりでもどうにかなる。結構な主人といったところで、どうで奉公、楽なわけにも行くまい。まあ辛抱しろ」
「それで、いつから参るのでございます」
「さあ、いつと決めて来たわけでもないが、むこうも
お光はもう一日待ってくれと言った。目見得に行くといっても碌な着物も持っていない。いま縫いかけている春着はあしたでなければ仕立てあがらないから、どうかあさってに延ばしてもらいたいと言った。栄之丞も承知した。約束さえ決めて置けば一日ぐらいはどうでも構わないと言った。それにしても気が
――心弱しや白真弓 、ゆん手にあるは我が子ぞと、思い切りつつ親心の、闇打ちにうつつなき、わが子を夢となしにけり――
栄之丞は柱に今の栄之丞には妹に春着を買ってやるような余裕はなかった。お光がいま縫っているのは、先月の末に八橋から送ってよこしたものであった。八橋はお光も識っていた。栄之丞の妹といえば自分の妹も同様であるというので、彼女は今までにもお光にいろいろの物を送ってくれた。くるわの年季があければ八橋は自分の姉になるものとお光も思っていた。粗末ではあるが春着にでもと送ってくれた
それが今の栄之丞には心苦しく思われてならなかった。彼は八橋と縁を切りたいと思っていた。この夏の初めに八橋から使いが来て、少し用があるから是れから直ぐに来てくれとのことであった。
昼の九つ(十二時)過ぎで、栄之丞は夏の日を編笠によけながら出て行くと、八橋の座敷には次郎左衛門が
彼がその金を断わったのは、ひとを欺すことのできない彼の正直な心から出たのでもあったが、もう一つ彼を恐れさせたのは、次郎左衛門その人の容貌と態度とであった。案外に正直らしい、
「ぬしも気が弱い。なぜあの金を断わってしまいなんしたえ」
八橋はあとで失望したように言った。
「いや、あの人を欺すのは悪い。ああいう人を欺すと殺されるぞ」と、栄之丞はおびえたように言った。八橋はただ笑っていた。
その以来、栄之丞は八橋に近づくことがなんだか
それからいろいろに奔走して、この冬の初めから謡いの出稽古の口を見つけ出した。それは堀田原のある
「
その次郎左衛門にきょう
次郎左衛門はあれから直ぐに吉原へ行ったに相違ない。今頃は八橋が彼にむかってどんなことを言っているだろう。自分の噂も出たかも知れない。それを思うと、栄之丞はますます忌な心持ちになった。妹が一心に縫っているのは、八橋から送ってくれた品である。それを見ながら栄之丞は次郎左衛門と八橋との行く末を考えたりしていた。八橋が自分のために癪をおこして半病人になっていようなどとは、彼は思いも付かなかった。
「これで妹のからだも落ちつく。おれも細ぼそながら、
次郎左衛門を欺すと欺さないとは八橋の勝手であるが、自分だけはその係り合いを抜けたいと彼は思った。しかし、八橋に対してそれも余り薄情のようにも思われた。
ふんべつに迷った彼は、気をまぎらすために又もや小声で謡い始めると、お光はふと振り向いて訊いた。
「兄さま。わたくしが橋場へまいることを、八橋さんへ
お光は八橋と文通をしていた。兄の使いで吉原へ行ったこともあった。
「いや、それにも及ぶまい。わたしからそのうちに知らせてやる。廓の者は無考えだから、お前の奉公さきへ返事などをよこされると迷惑だ。まあ止した方がよかろう」
「そうでございますねえ」
お光はおとなしく黙ってしまった。
六
次郎左衛門はその明くる日も、またその明くる日も
「治六さん。相変らず長逗留だったね」と、佐野屋の亭主が顔をしかめてささやいた。
「どうも仕方がねえ」と、治六もあきらめたように溜め息をついていた。しかしただ諦めてはいられないので、彼は亭主になんとかいい工夫はあるまいかと更に相談した。
「いっそ、その花魁を請け出したらどうだろう」
亭主はしまいにそんなことを言い出した。こういう風にだらしなく金をつかっていたら、千両が二千両でも堪まったものではない。いっそ千両の金をたんと減らさないうちに八橋を請け出してしまって、残った金でどんな小商いでもはじめる。その方が却って無事かも知れないと彼は言った。
治六も考えた。さきおとといからの流連でも、自分が恐れていたほどに金は懸からなかった。ここの亭主に預けてある五百両のほかに、まだ百六七十両は確かに残っている。もし四、五百両ぐらいで、そっと八橋の
「花魁の身請けは幾らぐらいかかるだろうね」と、彼は試みに亭主に訊いた。
亭主も首をひねった。幾らの金があればこの問題が解決するのか、彼にも確かな見当は付かなかった。百両で身請けのできるのもあれば、千両かかるのもある。しかし、吉原で大兵庫屋の花魁を請け出すという以上は、何かの
「千両かかっちゃあ大変だ。どうにもならねえ」
もともと千両しかない金のうちが、もう三分の一ほどは食い込んでいる。千両の身請けはとてもできない。たとい残りの三分の二で、どうやらこうやら埒が明いたところで、主人と花魁と自分との三人が一文なしではどうにもならない。して見ると、八橋の身請けなど初めからできない相談であった。
「だが、一概にはいえない。花魁の借金が案外すくないようならば、
それは治六も知らなかった。しかし旦那は大抵知っているに相違ない。一応はそれとなく次郎左衛門に訊いて見て、とても出来そうもないことならば、その儘に聞き流してしまうもよし、又どうにか手出しのできそうな話であったら、改めて自分の考えも言い、旦那の料簡も訊いて見ようと、彼は亭主と相談して別れた。
日が暮れて、夜食の膳が運び出される頃になって、次郎左衛門はようよう眼を醒ました。彼は治六に、もうなんどきだと訊いた。すぐに駕籠を呼べとでも言いそうな
「いっそ早くに請け出した方がよかったかも知れない」
次郎左衛門は今さら
その暁にどういう料簡を付けるのか、治六はそれを心もとなく思った。勿論、根掘り葉掘り詮議したところで、どうで要領を得るような返事を受取ることのできないのは
その晩、治六は自分の相方の浮橋にむかって、それとなく八橋の身代のことを探って見ると、浮橋は急にまじめになった。
「なぜそんなことを聞きなんす。身請けの下ばなしでもありいすのかえ」
「なに、別にそういう訳じゃあねえ」と、治六はいい加減に胡麻化してしまったつもりでいた。
しかし相手の方では胡麻化されていなかった。くるわに馴れている彼女は、これを治六の一料簡ではないと見た。主人の次郎左衛門と内々相談の上で、それとなくさぐりを入れるに相違ないと鑑定した。彼女は直ぐにそれを花魁に耳打ちすると、八橋はしばらく考えていた。
「あとでその御家来さんに逢わせておくんなんし」
引け過ぎになって、次郎左衛門を寝かしつけてから、八橋は治六の
「口は禍いの
「嘘をつきなんし」
「隠すと、
八橋は睨んだ。浮橋は
防ぎ切れなくなって、治六もとうとう白状した。主人がいつまでも廓がよいをして、こういう風に無駄な金をつかっていては際限がない。
「まず、三、四百両、その上はむずかしい」と、治六は正直に答えた。
二人の女は顔を見合せた。とても問題にならないとでもいうふうに、八橋はただ笑って起って行ってしまった。
「久し振りの土産にさえ二百両もくれなんした佐野の大尽が、おいらんの身請けを四百両や五百両で……。ほほ、馬鹿らしい」と、浮橋もあざけるように笑った。
この廓へ足踏みをしてから、彼は幾たびかこの「馬鹿らしい」を浴びせられているので、治六は別に恥かしくも腹立たしくも感じなかったが、今の二人の顔色や口ぶりによると、身請けなどという相談はとても今の懐ろでは出来ないものと諦めるよりほかはなかった。
そうすると、主人は相変らず現在の放蕩を続けてゆく。金はみすみす減ってゆく。それから先きはどうなるだろうと思うと、彼は実に気が気でなかった。こうして暖かい蒲団の上に坐っていても、彼の胸には冬の夜の寒さが沁み渡るようにも思われた。しかもその「馬鹿らしい」ことを言った
けさも
「貴様には暇をくれる。どこへでも勝手に行け」
ゆうべの祟りの余りに
「今更ぐずぐず言うな。出て行け」
次郎左衛門はどうしても取り合わなかった。それでも十両の金をくれて、すぐにここを出て行けと言った。治六も途方に暮れて、帳場へ行って亭主に泣きついた。亭主もおどろいて二階へ行って共どもに口を添えて取りなしたが、次郎左衛門はやはり
いったん言い出したらあとへは戻らない主人の
「ご亭主さん。いろいろ有難うごぜえました。これもわしの不運で仕方がごぜえませんよ」
「だが、旦那の料簡が判らない。お前さんのことだから、どれほどの悪いことをした訳でもあるまいに、
「いや、これもわしが至らねえからでごぜえますよ」
治六はゆうべの吉原の一条を話した。それを聴いて亭主はいよいよ気の毒になった。八橋の身請けのことも元来自分が知恵をつけたのである。それがもとで治六が勘当されるようなことになっては、いよいよ黙って見ている訳には行かなくなった。しかし今が今といってはどうにもならないのを知っているので、いずれそのうちにいい折りを見てもう一度詫びを入れてやろう。これが一季半季の渡り奉公というではなし、児飼いから馴染みの深い奉公人である。一旦は腹立ちまぎれに何と言おうとも時が過ぎれば機嫌が直るに相違ない。まずそれまでおとなしく待っている方がよかろうと、亭主は親切に治六をなだめた。
「ここの
それも一応は
「旦那さま。長々お世話になりました」
次郎左衛門は返事もしなかった。
七
治六が心配するまでもなく、これから先きをどうするかということは、次郎左衛門の胸を強くおしつけている問題であった。治六や佐野屋の亭主は、金のあるうちにどうにかしろと言うけれども、次郎左衛門はそれと反対に、金のあるうちはどうすることも出来ないと思っていた。彼は同時に二つの仕事を抱えるほどの余裕をもたなかった。金のあるあいだは八橋に逢うのが
その金がいよいよなくなったらどうする――その時になったら初めてなんとか考えよう、又なんとかいい考えも出るだろうと、彼は努めてなんにも考えないようにしていた。
「治六の馬鹿野郎」
それにつけても腹立たしいのはゆうべの治六であった。八橋を身請けするほどならば、あいつらの知恵を借りるまでもなく、おれが自分から進んで立派に身請けをする。それがもう出来ないのを知っているから、今もこうして通いつづけている。その入り訳はきのうも宿で言い聞かせてあるのに、うっかりと詰まらないことを浮橋に言い出して、それが八橋の耳へもはいって、おれはいい恥を掻かなければならない事になった。佐野の大尽ともあるべき者が、
「一年まえのおれだったら、治六の奴め、生かして置くものか」と、彼はいきまいた。
まったく一年まえの彼であったら、憎い治六の襟髪を
もうこうなったら男の意地としても、彼は八橋を請け出さなければ顔が立たないように思われた。いかにあせってもその金はもう出来ないと思うと、次郎左衛門はなんだか悲しくなった。現にゆうべも八橋から、身請けをするならばするようにしてくれと口説かれた。自分もこんな所に永くいたいことはない。まったく自分を請け出してくれる料簡があるならば、たとい立派というほどでなくとも、人並の引祝いをして廓を出られるようにしてくれと、彼女はしみじみ言った。
これには次郎左衛門も返事に困った。今の身の上でとてもそんなことの出来そうな筈はないので、彼もなま返事をしてその場はいい加減に切り抜けたが、これも
日が暮れると、彼はふらふらと宿を出た。今夜は駕籠に乗らずに北をむいて歩いた。憎い奴だとは思いながらも、治六に離れて彼は心さびしかった。並木の通りには宵の灯がちらちらと揺れて、二十五日の暗い空は正面の観音堂の
「吉原へ行こうか、行くまいか」と、彼は立ち停まって思案した。雷門はもう眼の前に立っていた。
今夜行ったら八橋がまたゆうべの身請け話をくりかえすかも知れない。いつもいつも曖昧な返事ばかりもしていられない。治六のお蔭で自分はどうにもこうにもならないことになった。いっそ正直に今の身の上を打明けて、とても人並の身請けなどはできないと断わろうか。それが潔白で一番いいのであるが、それを聴いて八橋がなんと思うか、次郎左衛門はすこぶる不安心であった。彼は八橋にこんなことを聞かせたくなかった。ふところに金のある間は、なるべく佐野の大尽で押し通していたかった。
彼は酒が飲みたくなった。今夜は宿屋で夕飯の膳に
田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。
「おれは男らしくない」
こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。自分が故郷を立ち退いて、今は一種の無宿者同様になっていることを知ったあかつきに、八橋はどんな態度を取るか。それは彼にも確かな想像はつかなかった。
もし八橋が
今夜は酒を飲んでもいい心持ちに酔えなかった。ほかに二、三人の客がはいって来て、何かいそがしそうに話していたが、それも次郎左衛門の耳へははいらなかった。彼は自分でも不思議なくらいに今夜は寂しく感じた。それはなぜだか判らなかった。
彼は子供の時のことをふと思い出した。それは歳暮にでも持って行くらしい
「治六がいなくなったせいではない」
しいてそう思いながらも、やはり治六に離れたのが寂しかった。宿の亭主も自分の味方ではないらしかった。そんなことを考えると、彼は我ながら意気地がないと思うほどに寂しかった。いつもの彼の魂はどこへか抜け出してしまったように思われた。碌に酔いもしないで茶漬屋を出た彼は、これからどうしようかとまた迷った。吉原へ行くのはどうも気おくれがした。さりとてこのまま宿屋へ帰る気にもなれなかった。彼はただ無暗に寂しかった。この遣る瀬ない寂しさを打ち消すには、理屈も人情もない、なにか非常手段を取らなければならないように思われた。
「栄之丞の所へ行って見ようか」
八橋の
八
思いもつかない客におそわれて、栄之丞はどぎまぎしながら挨拶した。
「こんな所がよくお判りになりました」
「ここらだろうと思ってうろうろしていると、お前さんらしい
栄之丞も無理に笑顔を
「お独りですか」と、彼はまた訊いた。
「妹がおりましたが、一両日前にほかへやりました」と、栄之丞は火鉢に
「おかたづきになりましたか」
「いえ、奉公に出しまして……」と、栄之丞はきまりが悪そうにうつむいた。
思ったよりも侘びしげな暮らしの有様を見て、次郎左衛門は可哀そうになった。大兵庫屋の八橋の情夫はこんなにおちぶれているのかと思うと、彼は可哀そうを通り越して、栄之丞を軽蔑するような心持ちの方が強くなって来た。自分の従弟――八橋はそう言っている――が不自由な暮らしをしているという事は、かねて彼女からも聞かされていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
かすかな火種では容易に火が起らないらしく、栄之丞は破れた扇で
「こっちへ来たらば、一度はお訪ね申そうと思いながら、いつも御無沙汰をしていました。八橋に聞きましたら、この頃はちっとも
栄之丞は蒼白い顔を少し紅くした。次郎左衛門が今夜なにしに来たのか、彼は一種の不安に囚われて碌々に返事もできなかった。
「私はこのあいだ雷門でお目にかかってから、ゆうべまで続けて八橋の所へまいりました」と、次郎左衛門はにこにこしながら言い出した。「今夜も行こうかと思って宿を出ましたが、途中でなんだか寂しくなったので、ふいとこちらへ伺おうと思い立ちました」
吉原へ行くのがなぜさびしいか、それは栄之丞には判らなかった。彼は黙っておとなしく聴いていた。
「奉公人が詰まらないことをしゃべったもんですから、八橋はわたくしに身請けをしてくれと言うのです」
八橋と自分との仲をうすうす覚った彼は、八橋を請け出すについて
「ですが、わたくしに請け出されたら、栄之丞さん、八橋はお前さんをどうする気でしょう。いや、お隠しなさるには及びません。お前さんと八橋のことはもう知っています。それでも私はお前さんを正直な善い人だと思っています。わたくしはお前さんと喧嘩をする気にはなれない。いつまでも仲好くおつきあいをしていたいと思っている位です。そこで、お前さんに少し御相談があるんですが、聞いて下さいましょうか」
いよいよ
「実はわたくしには身請けの金がないのです」と、次郎左衛門は思い切って言った。
少し拍子抜けがした気味で、栄之丞は相手の顔をぼんやりと眺めていた。
「わたくしはもう昔の次郎左衛門ではございません」
身代をつぶして故郷の佐野を立ち退いて来たことを彼は残らず打明けた。
そこで、ふところに金のある間は今までの通りに華やかな遊びをして、金がなくなったら又なんとか考えようと、たった今までは平気で落ち着いていたが、なんだか急に心寂しくなって、どうもこの
次郎左衛門が自分にむかってこんなことを言い出すのはよくよくのことであろうと、栄之丞は気の毒でもあり、薄気味悪くもなって来た。実をいえば、自分も八橋を次郎左衛門に譲り渡して、その係り合いをぬけたいと考えている折柄であるから、八橋さえ納得すればそうしてもいいと彼は素直に考えた。たとい多少の不満足があるとしても、この場合、彼は眼のまえで次郎左衛門に反抗する力はなかった。
そこで、彼はこう答えた。
「お話はよく判りました。出来ることやら出来ないことやら確かには判りませんが、身請けの儀は早速相談いたして見ましょう。但しその余分の金は、いかほどであろうとも手前が頂戴いたすわけには参りませんから、それは前もってお断わり申しておきます」
「ごもっともでございます。それはその時に又あらためて御相談をいたしましょう。まことに
まったく我儘な申し分であった。自分が身請けをしたいのであるが、それだけの金がないから、お前の方から金のかからないように請け出してくれ。そうして、女はこっちへ渡せというのである。それも本当の親兄弟か親類ならば格別、その女の情夫ということを承知の上で頼むのである。栄之丞としては見くびられたとも
それでも彼は争わなかった。争っても勝てないのを自覚しているのと、これまでこの人を
彼は大音寺前の細い路をつたって、
威勢のいい
「人違いでございましょう」
まったく人違いであったのか、あるいはこっちに心得があると思ったためか、相手は無言で
九
次郎左衛門を驚かしたのは、そのころ折りおりに行なわれる辻斬りであった。
「辻斬りか、栄之丞か」
彼は立ち停まって考えた。しかし場合が場合だけに、彼は栄之丞を疑った。うわべは素直に何もかも承知しておいて、あとから付けて来ておれを
もともと今夜の相談は自分の方が少し無理である。無理は自分も万々承知している。しかし無理ならば無理で、なぜ面とむかって不承知を言わない。おとなしそうな顔をして万事呑み込んでおきながら、暗い所でおれを
「よし、これからもう一度引っ返して行って、あいつの
彼はむらむらとして、ふた足三足行きかけたが又かんがえた。あんな意気地のない奴でも人ひとりを殺せば、こっちも罪をきなければならない。罪人になったら八橋にも、もう逢えまい。こう思うと彼の張り詰めた気もまたくじけた。
真っ暗な枯れ田の上を雁が
いつもの通りに立花屋から送られて、彼は兵庫屋の客となった。その晩、座敷が引けてから次郎左衛門は八橋になにげなく訊いた。
「栄之丞さんはこの頃ちっとも見えないのか」
「ちっともたよりはありんせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「なぜだろう」
「なぜか知りんせんが、あんな不実な人はどうなっても構いいせん」と、八橋はさらに
親身の
それからだんだん
そこへ新造の浮橋が来て、今夜はどうして治六を連れて来ないかと訊いた。あいつは勘当したと次郎左衛門は正直に答えると、二人の女は黙って顔を見合せていた。治六の噂がいとぐちになって、又ぞろゆうべの身請けの話が出た。
「三月になると国へ一度帰る。そうして、金を持って来るから待ってくれ」
次郎左衛門もよんどころなしに一時のがれの嘘を言った。浮橋が出て行ったあとで、八橋は急に泣き出した。
「堪忍しておくんなんし」
今までお前を欺していたが、栄之丞は自分の
「今まで欺していたのが憎いと思いんすなら、請け出して三日でも女房にした上で、突くとも斬るとも勝手にしておくんなんし」
彼女は次郎左衛門の前にからだを投げ出した。栄之丞のことはとうの昔から承知しているので、今この白状を聴いても次郎左衛門は別に驚きもしなかった。むしろ八橋の口からこの正直な白状を聴いたのをこころよく思った。よく白状してくれたと嬉しく思った。しかも悲しいことには、今の自分にはその願いを
「八橋も白状した。おれも男らしく白状しようか」
相手が正直に何もかも白状した上は、自分も今の身の上を正直に白状すべきである。折角の頼みではあるが、今の次郎左衛門としてはお前をどうすることも出来ないと、彼は正直に打明けなければならないと思った。しかし彼は自分でも歯がゆいほどに男らしくなかった。女の前で宿なし同様の今の身分を明かすのは如何にも辛かった。彼の胸の底には、やはり佐野のお大尽で押し通していたいという
「治六がゆうべどんなことを言ったのだ」と、彼はまた捜りを入れた。
あるいは無考えの治六めが今の境界をべらべらしゃべっているのではないかという不安もあった。八橋の口ぶりによると、治六もさすがにそんなことは口外しなかったらしく思われたので、次郎左衛門もまず安心したが、それにしても乗りかかった舟の
「さっきもいう通り、来年の三月には国へ帰って身請けの金を持って来る」
「ほんとうざますか」
「嘘はつかない」
次郎左衛門は息が詰まるほどに苦しくなった。今までは八橋が自分をだましていたのであるが、今は自分が八橋をだましているのである。だまされている身よりも、だましている身の方がどのくらい
八橋の方では容易に帰そうとはしなかった。彼女は全く栄之丞を見捨てた証拠だといって、
「この通り、よく見ておくんなんし」
彼女はその起請をずたずたに引き裂いて、行燈の火にあてると、紅い小さい焔がへらへらと燃えあがった。彼女は更にその火を枕もとの手あぶりに投げ込むと、
恋の果てはこうしたものかと思うと、次郎左衛門はなんだか果敢ないような心持ちにもなった。それと同時に子供が
その灰の中から栄之丞の蒼白い顔が浮き出したかのように、八橋は眼を据えて煙りのゆくえをじっと見つめていた。彼女の顔も物凄いほどに蒼白かった。やがて彼女は次郎左衛門の方をしずかに見かえった。二人は黙ってほほえんだ。
あくる朝、次郎左衛門が帰る時にも、八橋は茶屋まで送って来て、身請けのことをくれぐれも頼んだ。
「ほんとうざますか」と、彼女はここでも念を押した。
「嘘はつかない」と、次郎左衛門も同じ誓いをくりかえして別れた。
仲の町には冬の霜が一面に白かった。次郎左衛門を乗せた駕籠が
初めから相手に足らないやつとは思っていたが、それでも栄之丞を見事に蹴倒してしまったということは、次郎左衛門に言い知れぬ満足を与えた。ゆうべの
「八橋はもうおれの物ときまった」
それに付けても、彼は八橋を
栄之丞を弱いやつだと笑ったおれも、やっぱり弱い奴であった。栄之丞を卑怯な奴だと罵ったおれも、やっぱり卑怯者であった。そう思いながらも、彼は自分を自分でどうすることも出来なかった。歯がゆいような、情けないような、辛いような、こぐらかった思いに責められて、彼は一人でいらいらしていた。
次郎左衛門はその後も八橋のところに入りびたっていた。暮れから春の七草までに彼は四百両あまりの金を振り撒いてしまった。どこまでも佐野のお大尽で押し通そうという
栄之丞は踏みつぶしてしまった。ほかの客は蹴散らしてしまった。次郎左衛門は今が得意の絶頂であった。彼は天下を取った将軍のようにも感じた。しかもその
芸妓や
「旦那さま。おめでとうござります」
治六はもとの主人の前にうやうやしく手をついた。
「お帰んなさいまし」と、亭主も会釈した。
それらを耳にも掛けないように、次郎左衛門は二階へすたすた昇って行った。
さすがに遊び疲れたような心持ちで次郎左衛門はぼんやりと角火鉢の前に坐ると、亭主は自分で
「松の内もいいあんばいにお天気がつづきました」
彼は手ずから茶をついで出した。それは治六が帰参の訴訟に来たものと次郎左衛門も直ぐにさとった。彼はわざと
「治六さんもしきりに頼んでおります。わたくしも共どもにお詫びをいたしますから、どうか幾重にも御料簡を……」
次郎左衛門は顔をそむけて聴かないふうをしていた。離れていると何だか寂しいようにも思いながら、顔を見ると彼はやっぱり治六が憎くてならなかった。
十
暮れから催していた雪ぞらも、春になってすっかり持ち直したが、それも
「今夜も積もるかな」
栄之丞は夕方の空を仰いで、独りごとを言いながらよそ行きの支度をした。今夜は謡いの
春とはいっても底冷えのする日で、おまけに雪さえ落ちて来たので、遠くもない堀田原まで行くのさえ気が進まなかったが、約束の稽古日をはずす訳にもゆかないので、栄之丞はいつもよりも早目に夕飯をしまって、
「
傘も持たないで門に立ったのは妹のお光であった。雪はますます強くなって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。
「妹か。今頃どうして来た」
門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。
「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく
「なんだ」
少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か
「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」
お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっと泣き出した。
「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」
お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら
「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し
「申します。堪忍して下さい」
彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお
世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちらと落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、
しばらく
「どうしたらよかろう」
お光は橋の上に泣き伏していた。人びとに慰められて彼女はようよう起ち上がったが、これからどうしていいか判らなかった。二十両といえば大金である。それを
「それも災難で仕方がない。早く
もしや川へでも飛び込むかと危ぶんだらしい一人の老人が親切に意見してくれたので、お光は泣きながら欄干を離れた。そうして浅草の方へとぼとぼと歩き出したが、
「困ったことになった」
栄之丞もその話を聴いて
「どうも仕方がない。これから
「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。
「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが
「はい」と、お光はまだ躊躇していた。
年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが
「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。
栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの
足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と
主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を
「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。
この返事を聴いた栄之丞もほっとした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。
「御主人のお慈悲を
主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常に遅くなった。殊に雪はまだ降りやまないので、彼がようようそこへ行き着いた頃には、家の遠い弟子などはもう帰ってしまっていた。栄之丞はここでも主人にむかって遅刻の詫びをしなければならなかった。
それでも妹の一条が案外に手軽く片付いたので、彼もまず安心していると、それから五、六日経って、その夜の雪もようよう消え尽くした頃に、お光が又しょんぼりと訪ねて来て、兄の前に泣き顔を見せた。
「兄さま、くやしゅうございます」
また何か
お光の主人の寮には人形町の本宅から付いて来ているお
「人間はいくら自分が正直にしていても、ひとはとかくに何のかのと言いたがるもんだからね。これからは
お光は泣きたいほどに悲しかった。なるほど、自分の兄は貧乏している、自分も貧乏のなかで育った。しかしいい加減の拵え事をして主人の金を掠めようなどという、そんなさもしい怖ろしい心は
「けしからんことだ」
栄之丞もくやしかった。妹がくやしがるのも無理はないと思った。いくら落ちぶれていても、奉公の妹をそそのかして主人の金を盗み取るほどの人間と見積もられたのは
「よし、よし、万事はおれに任せて置け。決して短気を起してはならないぞ。ここでお前がうっかりしたことをすると、あれ見ろ、あいつは悪い事をした申し訳なさに自滅したと、かえって理を
彼は噛んでふくめるように妹をさとして、きょうはおとなしく帰っていろ、いずれ改めておれが掛け合いに行くと言い聞かせた。
こうしてお光を帰して置いて、栄之丞はその翌日堀田原へ出向いて行った。お光はここの主人の世話で三河屋の寮へ奉公するようになったのであるから、その関係上まずここへその事情を明らかに断わって置かなければならないと思ったからであった。
「なるほど、ごもっともでござります」
その場はすなおに得心して出たが、栄之丞もまだ若かった。事にこそよれ、兄妹がぐるになって二十両の金を
案内を乞うと、お光が取次ぎに出て来た。
「兄さま。いいところへ……。もう少し前からお
「そうか。それは丁度いい。兄がまいりましたと取次いでくれ」
「あの、旦那さまが……」と、お光は少し言い渋っているらしかった。
「旦那がどうした」
「わたくしに暇を出すようにと、お内儀さんに言っているようで……」
お光の声は陰って、その眼にはもういっぱい涙を溜めていた。
「なに、お前に暇を出す……」
栄之丞も
「それならば猶更のことだ。早く主人に逢わせてくれ」
十一
栄之丞は奥へ通されて、三河屋の主人に逢った。主人は四十以上の穏やからしい人物であった。栄之丞の話を聴いて彼は気の毒そうな顔をしていた。
「いや、それは御迷惑お察し申します。わたくしの方でも決して
こう言われて見ると、栄之丞の方でも取ってかかりようがなかった。そのうちに女房も出て来て、同じく気の毒そうに言い訳をした。自分たちも決してお光を疑ってはいない、お光の正直なことは自分たちも知っている、たとい誰がなんと言おうとも必ず気にかけてくれるなと繰り返して言った。こうなると、栄之丞はいよいよ張合い抜けがした。
「妹もなにぶん
お光が死ぬの生きるのという問題も案外にたやすく解決して栄之丞もまず安心した。それから主人夫婦と差しむかいで世間話などを二つ三つしているうちに、主人は言いにくそうにこんなことを言い出した。それはお光が追剥ぎに
災難とあきらめるという口の下から、こんなことを言い出すのは甚だ
女房もそばから口を添えて、何分これが店じゅうの者にも知れ渡ってしまったのであるから、お光一人のためにこの掟を破ると他の者の取締まりが付かない。
もともとこっちの過失であるから、全額をつぐなえと言われても仕方がない。それを半額に負けてやる、年季が済めば返してやる、そっちの都合が悪ければこっちで立て替えてやると言う。これに対して栄之丞はなんとも言い返す言葉はなかった。彼はすなおに承知した。
しかし年の若い彼としては、主人夫婦に対して一種の
「お話はよく判りました。いずれ両三日ちゅうに十両の金子を持参いたして、あらためてお詫びの規模を立てましょう」
帰りぎわにお光を
「でも、兄さま。そのお金は……」
「心配するな。なんとかするから」
口では
「なに、金は湧き物で、又どうにかなるものだ。わたしに任せて置け」
「八橋さんのところへでもお出でになりますか」と、お光はそっと訊いた。差しあたってはそれよりほかに工夫はあるまいと彼女は思いついた。
栄之丞は黙って考えていた。
「もし兄さまからお話しがなさりにくければ、わたくしから手紙でもあげましょうか」
「それにも及ぶまい。どっちにしても何とか埒をあけるからくよくよするな。胸に

春の寒い風が兄妹のそそけた
妹に別れて栄之丞は南の方へ
「ほかに工夫はないか知ら」と、彼は歩きながら考えた。
ちっとばかりの親類は、みんなもう出入りの叶わないようになっていた。堀田原の主人とても小身で、余事はともあれ、金銭づくの相談相手にならないのは判り切っていた。吉原へ行くよりほかはない、いやでも八橋のところへ行って頼むよりほかはない。栄之丞も絶体絶命でそう決心した。
去年の暮れに次郎左衛門が不意に押しかけて来て、八橋が身請けのことを頼んで行った。その場は栄之丞もおとなしく受け合ったが、相手の要求があまり手前勝手で、むしろ自分を踏みつけにしたような仕方であるので、彼は内心不満であった。二つには八橋に逢いに行くということが
思えばいっそいい機会であるかも知れない。この話を兼ねて八橋に逢いに行こうと彼は決心した。彼はすぐに向きを変えて、寺の多い町から
「栄之丞さん、お久しい。どうしなんした」
新造の浮橋がすぐに出て来たが、いつものように八橋の座敷へは通さないで、別の
「どっちの話から先きにしようか」と、栄之丞は思案した。問題の重い軽いをはかりにかけると、どうしても身請けの話の方をさきに切り出さなければならなかった。彼はそのつもりで待っていたが、八橋は容易に顔を見せなかった。しかし、ほかの客が来ている以上は座敷の都合もある。彼はこれまでにもたびたびこういう経験があるので、貼りまぜの金屏風の絵などを眺めながらいつまでも気長に待っていると、浮橋から
「八橋の座敷には誰が来ている。立花屋の客かえ」と、栄之丞は訊いた。
「あい、そうでござります」と、女は答えた。
栄之丞と次郎左衛門とは茶屋が違っていた。
立花屋の客というのは、もしや次郎左衛門ではないかと栄之丞は直ぐに胸にうかんだ。次郎左衛門が来ているとすれば、挨拶をしないのも義理がわるい。しかし彼は次郎左衛門と顔を合わせたくなかった。次郎左衛門が来合せている時に、八橋にむかって身請けの話を言い出すのも妙でないとも思った。
栄之丞はいっそ八橋に逢わずに帰ろうかとも考えた。しかしまた出直して来るのも面倒であった。身請けの話はともかくも、かの十両の問題はどうしてもきょうのうちに解決して置きたかったので、彼は考え直してまた
八橋はなかなか来なかった。栄之丞よりも茶屋の女が待ちかねて、新造のところへ催促に行った。催促されて八橋はようよう出て来たが、風邪をひいて頭痛がするとかいって、彼女はひどく不気色らしい顔をしていた。
「お客は佐野の大尽かえ」と、栄之丞が念のためにまた訊いた。
「いいえ」
その返事を聞いて栄之丞も少し安心した。杯のとりやりを型ばかりした後に、茶屋の女を遠ざけて栄之丞は早速本題にはいった。
「佐野の客からこのごろ何か身請けの話でもあったかえ」
「いいえ、なんにも知りいせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「実は旧冬二十五日の晩に、わたしのところへその相談に来たんだが……」
八橋は思いも付かないことを聞かされたように、
「佐野の客人がお前のところへ……。して、なんと言いんしたえ」
栄之丞は正直に話した。表向きに八橋を身請けするにはどうしても千両以上の金を積まなければならないが、身代をつぶして故郷を立ち退いた今の次郎左衛門にはその工面ができない。そこで自分に頼んで、親許身請けとかいう名目にして、四、五百両で埒をあけて貰いたいという相談を受けたと、何もかも詳しく話した。
八橋の顔の色は変った。
十二
八橋は栄之丞に嘘をついていたので、自分の座敷にきょう来ている客は、やはり次郎左衛門であった。彼女はいくら自分の方から親切を運んでも、それを歓んで受け入れてくれないばかりか、むしろいろいろの口実を作り設けて、なるべく自分から遠く離れようとしている栄之丞がこのごろの態度に就いて、初めは堪え切れない恨みをいだいた。
「そうした義理じゃあござんすまいに、栄之丞さんも随分不実な人でありんすね」などと、新造の掛橋や浮橋もそばから
八橋はそれを次郎左衛門に頼んで、次郎左衛門も承知した。その以来彼女は努めて栄之丞のことを思うまいと念じていた。次郎左衛門の見る前で手ずから焼き捨てた起請と共に、むかしの恋は冷たい灰になったものと諦めようとしていた。栄之丞がきょう思いがけなく訪ねて来たというのを聞いた時に、彼女は逢うまいかと躊躇した。
逢うまい。いつまでも打っちゃって置いて
次郎左衛門の
相手のおちぶれたのも仕方がない。自分はおちぶれた男を見捨てるほどの薄情な女でもないと、彼女は自分でも思っていた。現に今でも栄之丞を
思い切ろうとした栄之丞は、呼びもしないのに向うから来た。取りすがろうとした次郎左衛門は足もとのぐらついているのが今判った。すべての事が自分の考えと食い違って来たので、八橋はちょっと見当がつかなくなった。
「そうして、その話をしに来なんしたからは、
「男が恥を打明けて頼むのだ。わたしも
男の弱いのが八橋の眼にはおかしいように思われた。
自分の方から頼んだ身請けの相談ではあるが、こうなると八橋も考えなければならなかった。第一には宿無しの次郎左衛門に自分のからだを任せたくはなかった。それも自分の前で正直にそれを白状することか、蔭へ廻って弱い者をおどしつけて、腕づくで自分を安く買い取って行こうとする。どう考えても卑しい
「そんなことは直ぐに返事も挨拶もなりんすまい。まあ、よく考えさせておくんなんし」と、彼女はともかくもそう言って置いた。
「急ぐこともあるまい。まあ考えて置いてくれ」と、栄之丞も言った。久し振りでこう差しむかいになって見ると、彼にもさすがに未練はあった。
ひとには
「ぬしはこの頃なぜちっとも寄り付きなんせん。わたしというものに愛想がつきなんしたかえ」と、八橋の方でも男の顔を覗きながらまた
「愛想がつきたというじゃあないが、あんまり近寄るとお互いのためになるまいと思うからだ」
「なぜお互いのためになりんせんえ」
「身請けの相談などが始まろうという時に、私たちがしげしげ逢うのはよくない」
「嘘をつきなんし。その相談の始まらない遠い昔から、ちっとも寄り付かないじゃありいせんか。ぬしにはたんと恨みがおざんす」
いっそ突き放してしまおうと思い切ってしまった男でも、さてこうして顔を見合せると八橋も十分に強いことは言えなかった。未練は栄之丞ばかりでない、彼女も軽率に起請を焼いてしまった自分の短気を咎めたくなった。
「久しくたよりを聞きなんせんが、妹御さんはお達者でおすかえ」
「お光は橋場の方へ奉公にやった」
「奉公に……。さぞ辛いこっておざんしょうに……。よく辛抱していなんすね」
八橋とお光とは仲好しであった。彼女はわが身に引きくらべて、奉公にやられたお光の身の上に同情した。
「なに、奉公といっても楽なものだ」
栄之丞は第二の相談を持ち出す機会を得たので、奉公早々にお光が災難に逢ったことを話した。それがために二十両の半金を償わなければならない事情も話した。
「どうかして都合してやらないと、わたしも義理が悪いし、お光も居づらいだろうと思っているのだが、どうもその十両の工面ができないので困っている」
顔を陰らせて八橋も聴いていたが、金の話になって彼女は案外にたやすく受け合った。
「お光さんも可哀そうに……。さぞ苦労していなんしょう。ちょいとお待ちなんし」
彼女は
「あれ……」
驚いた八橋を押し戻すようにして、次郎左衛門は一緒に座敷へはいった。
さっき浮橋が来て八橋にささやいていた様子といい、あとからまた茶屋の女が催促に来て同じく八橋に何かささやいている様子を見て、次郎左衛門はそれがどうも普通の客らしくないことを直感した。普通の客でないとすれば、それが栄之丞ではないかという疑いが直ぐにまた彼の胸に
佐野の身代のつぶれたことが栄之丞の口から出た。それは単に栄之丞と自分との間にのみ保たれているべき筈の秘密で、それを遠慮なく八橋の前にさらけ出されようとは思っていなかった。いっそ思い切って打明けようとしながらも、きょうまで
「栄之丞さん。このあいだは失礼をいたしました」と、次郎左衛門は彼のそばへむずと坐って、まず挨拶した。
思いがけなく次郎左衛門に出られて、栄之丞も少しあわてた。
「まあ、ここではお話もできません。なにしろわたくしの座敷へ……」
無理に誘われて栄之丞も仕方なしに座を起って行った。八橋もあとにつづいた。
十三
「さて、栄之丞さん。何もかもよく正直に言って下すった。花魁もびっくりしたろう。次郎左衛門の身代は潰れてしまったのだ。なんどき乞食になるかも知れないのだ」
酒に酔っていながらも、次郎左衛門の顔は蒼くなっていた。
「わたしはお前さんに親許身請けのことを頼んだ。それは確かに頼みました。しかし佐野の身代の潰れたことまで
恨まれては迷惑である。なんだか怖ろしくもある。栄之丞も一応の言い訳をしないではいられなかった。
「いや、お言葉ではございますが、当節のわたくしに何百両という金の才覚の届こう筈はございません。それは八橋もよく知っております。金の出どころ、身請け人の身許を正直に打明けませんでは、とても得心いたすまいと存じまして……」
「それはよろしい。判っています。身請けの相手が次郎左衛門ということを隠して下さるには及ばない。しかし次郎左衛門の身代の潰れたことまでは……。いや、それもどうで遅かれ早かれ知れることで、秘し隠しにしようとするのは卑怯というもの。わたしが自身の口からは言いにくいことを、いっそあなたが打明けて下されば却って仕合せかも知れません。今のは言い過ぎで、どうぞ悪しからず思ってください」
案外にもろく折れられて、栄之丞もほっとした。次郎左衛門はふいと、こう言い出した。
「そこで、栄之丞さん。わたしの方でも卑怯なことはやめにして、こうして三人
奥歯に物の挟まった言いようである。自分は次郎左衛門に対して、薄暗い所で卑怯な真似をした憶えはない。それには何か思い違いがあるに相違ないと栄之丞は思った。誰に対しても、自分が恨まれているというのは
「今うけたまわりますと、何か私が卑怯なことでも致したようにも聞えますが、それは何かのお考え違いで、わたくしはあなたに対して……」
次郎左衛門は杯をおいて、凄い眼でじっとこっちを睨み詰めているので、栄之丞は中途で臆病らしく口をつぐんだ。
「やかましい」と、次郎左衛門はだしぬけに呶鳴り付けた。「卑怯だから卑怯だと言ったのがどうした。やい、
その権幕が余りに烈しいので、栄之丞は
「全体おもしろくもねえ野郎だと思ったが、おとなしいのを
次郎左衛門はつづけて呶鳴りつけた。彼の濃い眉は毛虫のようにうねって、その大きい眼は火のように燃えていた。この怒れる獅子に対して、栄之丞は哀れな小兎であったが、それでも彼は一生懸命に言い訳をしようと努めた。
「それは思いも寄らない儀で、私があなたを闇撃ちにしようとしたなどとは……。夢にも憶えのないことで、それは大方人違いかと……」
次郎左衛門はただ黙ってあざ笑っていた。
「さような
「よし、よし。もうなんにも言うことはねえ。こっちでももう聴かねえから、黙ってけえれ。ただひとこと言って聞かして置くが、八橋はもう貴様の起請を灰にしてしまったぞ」
今度は栄之丞の方が蒼くなった。膝の上についている彼の指さきはぶるぶると
それでも栄之丞は素直であった。素直というよりもむしろ男らしいというのかも知れないが、もうこの上は、何を言うのも無駄であると彼は考えた。野獣の怒ったような次郎左衛門を相手にして、いつまでとやこうと言い争っても果てしがない。ここで女の薄情を責めても始まらない。こういう不快な、そうして危険な場所からは、ちっとも早く立ち退いてしまった方が無事であると考えた。
むこうで帰れというのをしおに、栄之丞はおとなしく挨拶して起ちかかると、次郎左衛門は紙入れから一両を十枚出した。
「おい。さっき聴いていりゃあ、十両の金が要るとかいって、八橋に無心を言っていたようだったね。さあ、十両はおれがやる。その代りに八橋の起請を置いて行くがいい」
ここで持っていないと言うのは余り卑怯だと思って、栄之丞は
芝居のようなこの場は、これで終った。
栄之丞は黙って起ち上がると、次郎左衛門はうしろから声をかけた。
「おい、栄之丞さん。この金を持って行かねえのか」
聞かない振りをして彼は廊下へ出た。次の間にいた浮橋も気の毒なような、困った顔をして、これも黙って送って来た。栄之丞が二階の
「みんなあとで判ることでありんす」
彼女は紙につんだ十両を男の手に掴ませた。いっそ叩き返そうと思っても、その手さきは女にしっかり握られているので、栄之丞はどうすることも出来なかった。彼はくすぐったいような心持ちで、とうとうその金をふところに収めて出た。
「寒いようでも、もう春だ」と、栄之丞もふと思った。
そう思いながらも、彼は春らしいのびやかな気分にはとてもなれなかった。
闇撃ち――飛んでもないことを言うと、彼は次郎左衛門の無法におどろいた。八橋と言い合わせて、おれと手を切るためにわざとあんな無法な言いがかりをしたのではないかとも疑った。こうと知ったら、きょうは廓へ来るのではなかったものをと、彼は今更のように後悔した。
自分の方から遠ざかろうとしていながら、女の不実を責めるのは手前勝手かも知れないが、八橋が起請を灰にしたということは、どう考えても腹立たしかった。自分が今まで欺かれていたようにくやしく思われた。その女の手からなぜこの金を受取って来たのであろう。なぜ女のひたいに叩き付けて来なかったのであろうと、栄之丞は自分の弱い心を自分で罵り恥ずかしめたかった。
「お光も可哀そうだ」
彼はまた思い返した。
十四
三月になって絹糸のような雨が二、三日ふりつづいた。馬喰町の佐野屋の二階から見おろすと、隣りの狭い庭に一本の桃の花が真っ
座敷の片隅には寝床が延べてあった。先月の末から十日あまりも吉原の三つ蒲団に睡らない彼は、明けても暮れても宿の二階に閉じ籠って、綿の硬いごつごつした
こんなことをして冬の蛇のように唯ぼんやりと生きているのは、彼に取って実に堪え難い苦痛であったが、今の彼はもう穴を出る力を失っていた。宿の亭主にあずけておいた五百両も、とうに喧嘩づらで引き出して、二月の中ごろまでには一文も残さずつかった。彼はいよいよ大尽の
博奕打ちをやめたのも八橋の意見に基づいたのである。
栄之丞の口から佐野の家の没落が発覚したときに、八橋はなんと感じたであろうか。彼は
「わたしに突き出されたのを遺恨に思って、栄之丞さんは嘘をつきなんした。それはわたしがよく知っておりいす」
彼女はあくまでも栄之丞の話を嘘にして、佐野の家の没落を信じないというのであった。次郎左衛門はまた白状する機会を失って、それをいいしおに嘘だとも本当だとも、はっきり言い切らずに別れてしまった。
「おれも昔は男を売ったものだが……」と、彼は過去のおのれと現在のおのれとを対照して、あまりに男らしくない卑怯な心持ちを自分であざけった。そうして、相変らず夢のように吉原へ通いつづけていた。
それももう行き詰まった。茶屋はさておいて、宿屋の払いさえも出来なくなった。彼は髪結い銭にも煙草銭にも困って、宿の者の眼につかないように着替えの
「もうこの上は、籠釣瓶を手放すよりほかはない」
村正は徳川家に
町人や百姓に刀は不用だというが、おれは佐野の次郎左衛門である。刀はおれの魂であると、彼は平生から考えていた。八橋の意見について一旦は土臭い百姓に
今の次郎左衛門からどうしても引き放すことの出来ないものは、この籠釣瓶と八橋とであった。八橋は自分の命であった。籠釣瓶は自分の魂であった。どっちを離れても、自分というものはこの世に存在しないように思われた。どんなに落ちぶれても、どんなに行き詰まっても、彼はこの二つを手放したくなかった。たとい籠釣瓶を手放したところで、その金で一生を安楽に送られるという訳でもない。思い切ってこれを手放したところで、多寡が百両に足りない金を握るだけのことで、その金の尽きた時には八橋にも別れを告げなければならない。こう思うと、籠釣瓶をむざむざ手放すのがいよいよ惜しくってならなかった。
雨は小やみなしにしとしとと降っていた。そろそろ花見どきに近づいて、どこの宿屋も江戸見物の客で込み合う頃であるのに、ことしは田舎の人の出が遅いとかいうので、広い佐野屋の二階も
次郎左衛門は戸棚から籠釣瓶を取り出して、なんということもなしにするりと引き抜いて障子のあいだから流れ込む真昼のうすい光りに照らして見た。彼は水のように美しく澄んでいる
「もう一度人を切って見たい」
彼はふとそんなことを考えた。村正は不祥の刀であるということもまた思い出された。自分と八橋と籠釣瓶と、この三つはどうしても引き放すことの出来ない約束になっているらしくも思われた。八橋とも別れたくない、籠釣瓶とも別れたくない。それを煎じ詰めて考えていると、彼はとうとう最後の結論に到着した。
「籠釣瓶で八橋を殺して、自分も籠釣瓶を抱いて死ぬ。これよりほかに途はない」
重荷を
あくる日も雨が降っていた。
「毎日降って困りますね」
佐野屋の入り口へ治六が寂しそうな顔を出した。
「治六さん。しばらく見えなさらなかったね。どうかしなすったか」と、帳場にいる亭主が宿帳をつけている筆をおいて訊いた。
「はい。少し
三日目に一度ぐらいずつは必ずそっと訪ねて来て、主人の安否を蔭ながら訊いてゆく治六が
「旦那さまはこの頃どうでごぜえます」と、彼は帳場の前ににじり寄って来てすぐに訊いた。
「相変らずさ」と、亭主はにがい顔をした。「だが、もう大抵遣い切ってしまったらしい。吉原へもだいぶ遠退いたし、この頃では髪結い銭もないらしい」
次郎左衛門は二月の勘定もまだ払わない。長年の馴染みであるから、勿論あらためて催促もしないが、今まで
治六はじっと俯向いて聴いていたが、やがて肌に着けていた
「旦那さまの二月分の勘定というのは幾らになるか知りませんが、まあこれで取って置いて下せえまし」
「冗談言っちゃあいけない」と、亭主は叱るように押し戻した。「お前さんに立て替えさせようと思って
「これもみんな旦那さまから貰った金で、つまり旦那さまの物を預かっているも同様でごぜえます。こういう時の用にと思って、去年お暇の出るときに貰った十両はちゃんと手をつけずにあります。どうぞ受取って置いて下せえまし」と、治六の方でも押し返した。
亭主の眼からは涙がこぼれた。お前さんの志はよく判っているが、どうもこの金をお前さんから受取るわけには行かない。旦那がああいう始末になっては、お前さんももう帰参の見込みもあるまい。その十両を元手にして何か自分の身を立てる工夫を付けた方がよかろうと、亭主は親切に意見すると、治六はときどきに眼を拭きながらおとなしく聴いていた。そうして、久し振りで旦那さまに逢って来たいと言った。
「どうでいい顔もしなさるまいが、逢いたければちょいと顔を出して来なさるがいい」と、亭主は言った。
治六はそっと二階へあがって行くと、もうやがて八つ(午後二時)というのに次郎左衛門は
「治六か。どうしている」
久し振りで主人から優しい声をかけられて、治六は急に悲しくなった。彼は胸がいっぱいになったようで、腰から手拭を取って顔に当てたまま俯向いていた。
「何を泣く。馬鹿野郎」と、次郎左衛門はあざけるように叱りながら起き直った。「だが、貴様が来たので丁度いい。少し頼みたいことがある。国まで使いに行って来てくれ」
ここの亭主からもう聞いたかも知れないが、おれも財布の底をはたき尽くして、宿の払いにも困るような始末になってしまった。もう、うかうかしてはいられない。今度という今度は本気になってなんとか身の振り方を付けなければならない。それには幾らかまとまった金が欲しい。これから故郷の佐野へ行って、姉や親類にもその訳を話して、金の都合をして来てくれ。なんといっても
正直な治六はなんにも疑わなかった。主人としては今の場合こうするよりほかに、知恵も工夫もあるまいと素直に考えた。しかしこれは余ほど難儀な使いで、今さら故郷へのめのめと引っ返して、おまけに無心がましいことを言い出して、親類たちに
「よろしゅうごぜえます。すぐにめえります」
治六はこころよく承知したので、主人も久し振りで笑顔を見せた。
「あいつもやっぱり可愛い奴だ」
馬鹿と叱った主人の口から、こんな情けぶかい独り言も洩れた。
十五
毎日ふり続いた雨が今日はからりと晴れると、春の光りが一度に輝いて来た。栄之丞が窓をあけて見ると、急に雪でも降ったように、近所の屋敷や寺の桜がみんな真っ白に咲き出して、いろいろの鳥の声がきこえた。彼の若い心もそそられるように浮き立って、なんとはなしに
きょうは人通りも多かった。吉原では仲の町の桜が咲いたといううわさ話をして行くのもあった。その噂の種になっている吉原の空は薄紅く霞んで、
「きょうは奥のお使いで
使いに出て道草を食ってはならない。用がなければ滅多に来るなと栄之丞はふだんから言い聞かせてあるが、兄思いのお光はときどきに訪ねて来る。兄も叱りながら悪い気持ちはしなかった。
「内へあがると長くなる。
二人は門口に立って、薄い煙りのあがる水田を眺めていた。
「どうだ。この頃は主人の首尾もいいか」
「はい」と、お光はにこにこしていた。お
その晴れやかな顔を見るに付けても、栄之丞はこの正月のことが思い出された。あの時に八橋というものがなかったら、妹は勿論のこと、自分もどんなに苦しい思いをしたかも知れない。金は次郎左衛門の懐ろから出たにしても、つまりは八橋に救われたのである。その時すぐに金を届けてやると、お光は泣いて喜んだ。主人は満足した。それから二、三日経つと、お光は礼手紙を書いて、ついでの時にそれを八橋さんに届けてくれと兄にくれぐれも頼んで行った。そうして、今度の事が首尾よく済んだのもみんな八橋さんのお蔭であるから、兄さまもどうぞ忘れないでくれと、栄之丞がこの頃とかくに八橋に遠ざかっているのを、それとなく注意するように言って帰った。
栄之丞は少し迷惑したが、その手紙を握り潰してしまうのも妹に対してなんだか義理が悪いように思われるので、さらに二、三日経ってから吉原へ届けに行った。しかし八橋には逢わないで、茶屋の
八橋が起請を焼いたことを栄之丞は妹になんにも話さなかったが、彼の内心には消すことのできない一種の不満と嫉妬とがみなぎっていた。勿論、自分も八橋から遠ざかりたいと念じていたが、むこうから突き放されようとはさすがに思い設けていなかった。落ちぶれたといっても一方は佐野の大尽である。その大尽の襟もとに付いて、浪人者の自分を袖にした女の心が憎かった。手前勝手ではあるが、栄之丞は自分の方から女を突き放したかった。女の方から突き放されたくなかった。
しかしそれももう仕方がない。これで切れる縁ならば、こうして切れてもよんどころない。お光の礼手紙をとどけた以上は、八橋にも妹にも義理は立っている。もうこれでなんにもない昔と思えばいいと、彼も一旦は思い切りよく諦めた。ところが、八橋の方ではそう素直に諦めさせなかった。すぐに打ち返してお光に宛てた手紙をよこした。お光ばかりでなく、栄之丞にも三日にあげずに手紙をよこすようになった。
起請を焼いたのにも、いろいろの訳がある。もう一度お目にかかって、よくその訳を言いたいから、ぜひ逢いに来てくれという手紙を受取っても、栄之丞はもう吉原へ足をむける気にはなれなかった。次郎左衛門に逢うのも怖ろしかった。彼は廓の使いに対しても、なんとか、かとかいい加減の作り口上をならべて、努めて女に近寄らない手段を講じていた。実はきのうも八橋から呼び出しの手紙が来て、いろいろの恨みつらみや愚痴が長々と書いてあった。そうして、この頃は次郎左衛門がちっとも影を見せないというようなことも書き添えてあった。それでも栄之丞はまだ釣り出されようとは思っていなかった。
「兄さま、吉原では桜がもう咲いたそうでございますね」と、お光は言い出した。八橋さんからたよりがあったかなどとも訊いた。
兄の返事がなんだかあいまいなので、お光は少し疑うような眼色を見せた。
「この頃もやっぱり八橋さんのところへお出でにならないのですか」
「むむ。行こうとは思っているが……。行ってもおもしろくないから」
「面白づくばかりでなく、時どきは行ってあげて下さい。このあいだの手紙にも、兄さまを是非よこしてくれとくれぐれも書いてございました。このお正月のこともみんな八橋さんのお
あんなに世話になって置きながら、それぎりに顔出しをしないでは、義理知らずだと思われるのも心苦しいとも言った。
「そのうちに一度行こうよ」と、栄之丞も妹の気休めにまずこう言っておいた。
「では、ぜひ近いうちに……。いずれ又お話を伺いに出ますから……」
お光は余り遅くならないうちにと、言うだけのことをいってすぐに帰った。
さっきから
ゆうべは八橋から手紙を受取った。きょうは妹に一度は行ってくれと頼まれた。しかも、このうららかな春の日にあぶられて、栄之丞の肉も心もおのずと春めいて来た。ともかくも一度八橋に逢って、起請を焼いたわけを聞いて見ようかというような未練もおこった。次郎左衛門がこの頃ちっとも来ないという訳も聞きたかった。
この際よし原に入り込んでも次郎左衛門と顔を合わせる気づかいはあるまいという一種の安心もあった。ちょうど天気もよし、いっそ今夜行って見ようと、彼はふらふらとその気になった。別に用もないからだであるので、彼はそれから髪結床へ行って、その帰りに湯にもはいって来た。
今夜八橋に逢って、起請を焼いたわけも判って、次郎左衛門ももう来ないと決まったら、これから後はどうするか。やっぱりもとの通りに八橋との縁をつなぐか、それともあくまでも彼女の冷たい心を恐れてなんとか縁をきる工夫をするか。栄之丞もまだそこまではよく考え詰めていなかった。ゆうべの八橋の手紙と、きょうのお光の頼みと、自分自身の春めいた心と、この三つにそそのかされて、彼は唯うかうかと春の日の暮れるのを待っていたのであった。
先月は霜枯れで廓も寂しかったのは、この大音寺まえを通る駕籠の灯のかずでも知られた。いよいよ今が花の三月となっても、毎日の雨に邪魔されていたらしかったが、きょうは俄か天気で世間も俄かに春めいたので、日が暮れると表には駕籠屋の威勢のいい掛け声がつづけてきこえた。ひやかしのそそり
栄之丞ももうじっとしてはいられなくなって、六つ(午後六時)を合図に家を出ると、十日のおぼろ月は桜の梢を夢のように淡く照らしていた。
兵庫屋へ送られてゆくと、八橋は待ちかねていたように彼を迎えた。手紙に書いてあった恨みや辛みは口へも出さないで、彼女はただ懐かしそうな笑顔で男と向き合っていた。お光の安否などもたずねた。こっちで第一に詮議しようと思っている起請のことも次郎左衛門のことも、容易に彼女の口から出そうもないので、栄之丞の方から催促するように訊いた。
「佐野の大尽はどうして来ない」
「来られた義理でもありんすまい。三月までに請け出すのなんのと嘘ばかり言って……」と、八橋は冷やかに言った。
人の心づくしを仇にして、去年以来とかくに自分から
いったん次郎左衛門に
次郎左衛門を見限ると同時に、彼女はむやみに栄之丞が懐かしくなって、うかうかと起請を焼いたことがしきりに悔まれた。いろいろの手段を尽くして、むかしの恋人を引き寄せようとあせった。その念がふた月越しでようように届いて、眼に見えない糸に引かれたように男が今夜ふらりと来た。彼女は嬉しいので胸がいっぱいになって、次郎左衛門のことなどを話している余地はなかった。
栄之丞から訊かれて、彼女は初めて思い出したように、二月以来、次郎左衛門の足が遠ざかったことを話した。浮橋の噂によると、次郎左衛門は余ほど内証が詰まって来て、茶屋にも借りが出来たらしい。今まで大尽かぜを吹かせていた彼が、廓の人たちの手前、余り落ちぶれた姿を見せたくもあるまい。このごろ足をぬいたのも無理はない。利口な人ならば、ここらでもう見切りをつけて、二度と
「そうかも知れない」
栄之丞は思わず溜め息をついた。廓で全盛を尽くした大尽の零落は珍らしくない。次郎左衛門が佐野の
「何を考えていなんす。花の三月、浮きうきとおしなんし」と、八橋は華やかな声で笑った。
栄之丞は黙っていた。こうしてうかうか釣り出されて来たものの、彼は女の心がやはりおそろしかった。
新造の掛橋や浮橋が催促に来た。八橋は仲の町の茶屋へ行かなければならなかった。彼女は栄之丞を待たせて置いて出た。
十六
享保時代の仲の町には、まだ桜が多く植えられていなかった。その頃の夜桜というのは、茶屋の店先や妓楼の庭などへ勝手に植えられたもので、それが年中行事の一つとなって、仲の町に青竹の垣を結い廻して春ごとに幾百株の桜を植え、芝居の「
そのぞめきの群れにまじって、次郎左衛門は仲の町を忍ぶように通った。八橋の予言ははずれて、彼は再び大門をくぐったのであった。しかも、なんの躊躇もせずに彼はまっすぐに立花屋の店先へずっとはいった。
「おや、佐野の大尽さま。お久し振りでござりました」
女房のお藤はいつもの通り愛想よく迎えた。次郎左衛門はもうこの茶屋に百両余りの借りが出来ていた。
「この頃はどうなされたかとお噂ばかり致しておりました。浮橋さんの噂では、ひょっとするとお国へお帰りなすったのかなど申しておりましたが、やはりまだ御逗留でござりましたか。八橋さんの花魁もさぞお待ちかねでござりましょう。まあどうぞお二階へ……」
「いや、急に暖かくなったせいか、駕籠にゆられてなんだか頭痛がする。少しここで休ませてもらおうか」
次郎左衛門は店さきの
「あ、これ、わたしは少し都合があって、今夜はここで帰るかも知れないから、八橋をここへ呼んでくれまいか」
「まあ、そんなことを仰しゃりますな。茶屋で帰るという法はござりますまい」
女中は笑って行ってしまった。
次郎左衛門は少し
腕に覚えはある、刀は銘刀である、骨の細い女ひとりを
一旦ひそんだ野性が再びむらむらと頭をもたげて、すでに人を殺すと覚悟した以上、なんの遠慮も容赦もない筈であるが、相手が八橋であるだけに彼はやはり臆病らしい一種の未練に
「いっそ喧嘩でも吹っ掛けようか」
彼は更にまず刀をぬく機会を求めなければならなかった。尋常に八橋と向き合っていて、とても彼女に切り付けることはできない。何かの切っ掛けを見付けて、ひと思いに切り付ける工夫をしなければならないと思った。八橋がいつものように笑い顔をしていたら、とても切るも突くも出来そうもない。何か相手の方からいい機会を与えてくれればいいと、ひそかに祈っていた。
やがて女中が帰って来た。やはり八橋は来なかった。新造の浮橋が来て、無理に次郎左衛門を兵庫屋へ連れて行ってしまった。彼はよんどころなしに、籠釣瓶を茶屋にあずけて出た。
次郎左衛門が来たと聞いた栄之丞は、案外に思った。八橋は別に驚きもしなかった。
「ほほ、未練らしい。また来なんしたか」と、彼女は平気で笑っていた。
栄之丞は廊下へ出るにも注意して、なるべく次郎左衛門と顔を合わせないように念じていた。彼は引け四つ(十時)前に帰ろうといったが、八橋が無理にひき留めて放さなかった。
この晩は夜なかから
夜があけるのを待ちかねて、栄之丞は兵庫屋を出た。八橋も茶屋まで送って行った。その留守の間に次郎左衛門も飛び起きて、忙がしそうに顔を洗った。
「いっそ直しておいでなんし」
新造たちの止めるのを振り切るようにして、次郎左衛門は立花屋へ帰った。浮橋が送って行った。ゆうべの風の名残りで、仲の町には桜が一面に散って、立花屋の店先には白い花の吹き溜まりがうずたかく積もっていた。まだ大戸をあけたばかりの茶屋では、次郎左衛門がいつにない早帰りに驚かされた。
「お早うござります」
二階へあがれと勧められたが、次郎左衛門はすぐに帰るといって、籠釣瓶をうけ取って腰にさした。女中は駕籠を呼びに行った。浮橋は栄之丞の茶屋へ八橋を迎いに行った。ひと足さきへ帰るつもりであったのを、かえって次郎左衛門に
「そんなら、ちょいと行って来るまで待っていておくんなんし」と、八橋は念を押して出て行った。
浮橋はひと足さきへ駈けぬけてゆくと、次郎左衛門はやはり立花屋の店先に腰をかけていた。表はもう薄明るくなっていたが、店の奥には
「もう帰りなんすかえ」
八橋は次郎左衛門のそばへ来て同じく腰をかけた。籠釣瓶を身に着けていながら、次郎左衛門はまだ思い切って手をかける機会がなかった。彼は花の吹き溜まりを
「まあ、大尽から」と、女房は手を揉みながら言った。
次郎左衛門は無言でずっと起って店口の
彼女が階子の中ほどまで登った時に、もう上がり切っていた次郎左衛門が上から不意に声をかけた。
「八橋」
思わず振り仰ぐ八橋の頭の上に、さっという太刀風が響いたかと思うと、彼女の首は籠釣瓶の水も溜まらずに打ち落されて、胴は階子に倒れかかった。兵庫に結った首は
丁度そこへ次郎左衛門を迎いの駕籠が来た。駕籠屋がおどろいて口々にわめいた。近所の者も駈けて来た。
「逃げ隠れする者でない。次郎左衛門はここで切腹する。見とどけてくれ」と、次郎左衛門は二階から叫んだ。しかし彼が最後の要求は誰にも
「人殺しだ、人殺しだ。逃がすな、
立花屋の店先には人の垣を築いた。聞き分けのない奴らだと次郎左衛門は憤った。卑怯に逃げ隠れをするのでない。ここで尋常に自滅するというものを、無理無体に引っくくって生き恥をさらさせようとする。それならばこっちにも料簡がある。最後の邪魔をする奴は片っ端から切りまくって、一旦はここを落ち延びて、人の見ないところで心静かに籠釣瓶を抱いて死のうと、彼は八橋を切った刀の
「屋根から窓の方へ廻れ」と、誰か叫ぶ者があった。
逃げ路を塞がれては不便だと気がついて、次郎左衛門は敵の廻らないうちに、自分から先きに窓を破って大屋根の上に逃げて出た。風は暁け方から吹きやんで、三月の朝の空は眼を醒ましたようにだんだんに明るくなった。幾羽の鳩の群れが浅草の五重の塔から飛び立つのが手に取るようにあざやかに見えた。眼の下の仲の町には妓楼や茶屋の男どもが真っ黒に集まっていた。
火消しは長ばしごを持ち出して来て、方々から屋根伝いに追い迫って来た。次郎左衛門はそれでも二、三人を切りおとして、隣りの屋根から物干の上に出た。物干のあがり口には窓があったが、その窓はもう固く閉められて、はいることは出来なかった。彼は屋根伝いに隣りからとなりへと伏見町の方へ四、五軒逃げた。
この騒ぎを聞いて栄之丞も茶屋から出ると、狂人のようになって駈けて来る浮橋に出逢った。彼は自分の胸に時どき
次郎左衛門は急に栄之丞を殺したくなった。しかし敵の群がっている往来へ飛び降りることの危険を知っているので、彼は屋根の瓦を一枚引きめくって栄之丞を目がけて投げおろした。それが丁度彼の右の
大門の会所をあずかっている三浦屋四郎兵衛は
彼は血走ったまなこで栄之丞はと見廻したが、その顔はそこらに見えなかった。栄之丞はほかの
次郎左衛門の終りはあらためて説くまでもない。彼は
栄之丞のことはよく判らない。その疵がもとで死んだともいい、あるいは次郎左衛門と八橋との菩提を弔うために出家したともいい、ある町家の入り婿になって七十余歳で明和の末年まで生きていたとも伝えられている。お光のことは猶わからない。
治六が佐野へ帰って、次郎左衛門の姉や親類の眼さきへ突き出したのは、思いも寄らない主人の書置きであった。それと知って、彼がおどろいて江戸へ引っ返したのは、次郎左衛門が
籠釣瓶の刀はあがり物になって、官に没収されてしまった。