目黒の寺

岡本綺堂




 住み馴れた麹町こうじまちを去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに『目黒町誌』をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。ことに新市域に編入されてからは、碑衾町ひぶすまちょうをも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。
 ほか土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでも一通りは心得ておくべきであると思いながら、いまだに果し得ないのは甚だお恥かしい次第である。その罪ほろぼしというわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い附いたことを書いてみる。

 目黒には有名な寺が多い。ず第一には目黒不動として知られている下目黒の滝泉寺りゅうせんじ、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天寺、政岡まさおかの墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺しょうがくじなどを始めとして、大小十六の寺院がある。私はまだその半分ぐらいしか尋ねていないので、詳しいことを語るわけには行かないが、いずれも由緒の古い寺々で、旧市内の寺院とはおのずからその趣をことにし、雑踏を嫌う私たちには好い散歩区域である。ただ、どこの寺でも鐘をかないのがさびしい。
目黒には寺々あれど鐘鳴らず鐘は鳴らねど秋の日暮るる

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 前にいった滝泉寺門前の料理屋角伊勢の庭内に、例の権八ごんぱち小紫こむらさきの比翼塚が残っていることは、江戸以来あまりにも有名である。近頃はここに花柳界も新しく開けたので、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろの新市内の繁昌には少しく驚かされているかも知れない。
 正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人さんけいにんを見ないようであるが、近年その寺内に裲襠うちかけ姿の大きい銅像が建立されて、人の注意をくようになった。いうまでもなく、政岡というのは芝居の仮名で、本人は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにしても、小紫といい、政岡といい、芝居で有名の女たちの墓地が、さのみ遠からざる所にならんでいるのも、私にはなつかしく思われた。
草青み目黒は政岡小むらさき芝居の女おくつき所

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 寺を語れば、行人坂ぎょうにんざかの大円寺をも語らなければならない。行人坂は下目黒にあって、寛永の頃、ここに湯殿山行人派の寺が開かれたために、坂の名を行人と呼ぶことになったという。そんな考証はしばらくいて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、明和年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。
 行人坂の大円寺に、通称長五郎坊主という悪僧があった。彼は放蕩破戒のために、住職や檀家に憎まれたのを恨んで、明和九年二月二十八日の正午頃、わが住む寺に放火した。折から西南の風が強かったので、その火は白金、麻布方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸の内を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦の振袖火事と明和の行人坂火事で、相撲でいえば両横綱の格であるから、行人坂の名が江戸人の頭脳に深く刻み込まれたのも無理はなかった。
 そういう歴史も現代の東京人に忘れられて、坂の名のみが昔ながらに残っている。
かぐつちは目黒の寺に祟りして長五郎坊主江戸を焼きけり

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 滝泉寺には比翼塚以外に有名の墓があるが、これは比較的に知られていない。遊女の艶話は一般に喧伝されやすく、学者の功績はとかく忘却され易いのも、世の習であろう。それはいわゆる甘藷かんしょ先生の青木昆陽の墓である。もっとも境内の丘上と丘下に二つの碑が建てられていて、その一は明治三十五年中に、芝、麻布、赤坂三区内の焼芋商らが建立したもの、他は明治四十四年中に、都下の名士、学者、甘藷商らによって建立されたものである。
 こういうわけで、甘藷先生が薩摩芋移植の功労者であることは、学者や一部の人々のあいだには長く記憶されているが、一般の人はなんにも知らず、不動参詣の女たちも全く無頓着で通り過ぎてしまうのは、残念であるといわなければなるまい。
芋食ひのうまし少女をとめら知るや如何に目黒に甘藷先生の墓





底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「短歌研究」
   1938(昭和13)年11月号
初出:「短歌研究」
   1938(昭和13)年11月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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