十番雑記

岡本綺堂




 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前はくもり、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取はかどらない。いよいよ晦日みそかであるから、思い切って今日中に片附けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見出した。いずれも書き捨ての反古ほご同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町こうじまちの家を焼かれて、その十月から来年の三月まで麻布の十番に仮寓していた。ただ今見出したのは、その当時の雑記である。
 私は麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓の下で、師走の夜の寒さに竦みながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後の今日偶然に発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮んだのは震災十四週年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでもないように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯の下で再読、この随筆集に挿入することにした。

     一 仮住居

 十月十二日の時雨しぐれふる朝に、わたしたちは目白の額田ぬかだ方を立退たちのいて、麻布宮村町へ引移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷が六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢ぜいたくをいっている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多めったに空家のあろうはずはなく、さんざん探し抜いた揚句の果に、河野義博君の紹介でようようここに落付くことになったのは、まだしもの幸いであるといわなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯持の我々はいよいよ心ぜわしい日を送らなければならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。ふすまいたんでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋きょうじやの職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、ず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、更に壁紙で上貼りをして、これもどうにかこうにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 そのかたわらに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢やたらいやバケツや七輪のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具が一通り整うと、今度は冬の近いのに脅かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢じゅばんや、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代る代るに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統が色々に変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有の混雑をきたしている。それらの不便のために、一日苛々いらいらしながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。またそのあいだには旧宅の焼跡の整理もしなければならない。震災にって生じた諸々の事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗むやみにあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでもいうより外はない。なにしろよほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽ろうばい混乱、どうにもしようのないのが当りまえであるかも知れないが、罹災りさい以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落付かないのは、まったく困ったことである。年があらたまったといって、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥な年は早く送ってしまいたいというのも普通の人情かも知れない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現れてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何にもいうことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書一切をうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であるといわなければならない。わたしは今までにも奢侈の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。先ず第一に書庫の復興を計らなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるより外はない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書き抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今更悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束おぼつかなそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはり何らかの意義、何らかの形式に於て、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家ではこれまでもあまり正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。その外には、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけるということであるが、元日までには恐らく咲くまい。
(大正十二年十二月二十日)

     二 えびらの梅

狸坂くらやみ坂や秋の暮
 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推量おしはかられて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名が一層幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売物にも狸羊羹ようかん、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきというのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかしは狐や狸の巣窟であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とかいわなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所なし」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒ならびに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前にひろがっている。ここらは震災の被害も少く、勿論火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮に押詰まって、ここらの繁昌と混雑は一通りでない。あまり広くもない往来の両側に、居附きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなくならんでいるあいだを、大勢の人が押合って通る。またそのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪にかれるか、みちばたの大溝へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは正に数百年のむかしの夢である。
「震災を無事に逃れた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ」と、わたしは家内の者に向って注意している。
 そうはいっても、買い物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災にりたのと、経済上の都合とで、無用の品物は一切買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現れて来て、いつまで経っても果てしがないように思われる。一口に我楽多がらくたというが、その我楽多道具をよほど沢山に貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであるということを、この頃になってつくづく悟った。私たちばかりでなく、総ての罹災者は皆どこかでこの失費と面倒とを繰返しているのであろう。どう考えても、怖るべきわざわいであった。
 その欝憤をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面のぬかるみで、ほとんど足の蹈みどころもないといってよい。その泥濘ぬかるみのなかにも露店が出る、買い物の人も出る。売る人も、買う人も、足下あしもとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空しく引返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを蹈み、その混雑をおかして、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套がいとうの袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、先ごろの天長祝日に町内の青年団から避難者に対して戸ごとに菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んでおくに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店さきで徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走もだんだんに数え日に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにかこうにかくぐりぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女のげてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少いところで袖の下からかの花をり出して、電灯のひかりに照らしてみると、寒菊は先ず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾もかなりにいためられて、梶原源太が箙の梅という形になっていた。
「こんなことなら、明日の朝にすればよかった。」
 この源太は二度のかけりをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋が来て待っていた。
「渋谷の道玄坂辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ」と、彼はいった。
「なんといっても、焼けない土地は仕合せだな。」
こういいながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。
(十二月二十三日)

     三 明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。今朝は手水鉢ちょうずばちに厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、にわかに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまん中に、死んだ物のように寂寞じゃくまくとしてよこたわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火のけむりが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明しであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍らしそうにそれを眺めている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上こうじょう看板がもうがっている。二部興行で、昼の部は『忠信の道行』、『いざりの仇討』、『鳥辺山心中』、夜の部は『信長記しんちょうき』、『浪花の春雨』、『双面ふたおもて』という番組も大きく貼り出してある。左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が始めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが始めであるから、その前景気は甚だ盛で、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るともなしにたたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、またその上演の番組のことも、わたしはとうから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とかいうような、新しく勇ましい心持が胸一杯にみなぎるのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回に上っているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむる所とで、わたしは従来自分の作物の上演ということに就てはあまりに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、またさのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の亢奮こうふんを感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに『鳥辺山心中』と、『信長記』と、『浪花の春雨』と、わたしの作物が三種までも加わっているというばかりでなく、震災のために自分の物一切を失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物かを失わずにいたということを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇はない。わたしは焼跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……」と、そこらに群がっている人の口々から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快にそれを聴いた。わたしもそれを待っているのである。少年時代のむかしにかえって、春を待つという若やいだ心がわたしの胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物たまものである。
「いや、まだほかにもある。」
 こう気がいて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はかちかちと蹈んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立退たちのくという間際に、書斎の戸棚の片隅に押込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで出た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を叮嚀ていねいに調べてみる気も起らなかったが、麻布に一先ひとまず落ちついて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切抜いて保存しておいたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでもつかみ出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊にまとめてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまでそのままになっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きを一々にひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分沢山の雑文をかいている。その全部のなかから選み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手当り次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古ほご同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、何でもかまわずにきあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取はかどらず、どうにかこうにか片附いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんといっていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにしておいた。これもまた記念の意味に外ならない。
(十二月二十五日)





底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
初出:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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