一日一筆

岡本綺堂




     一 五分間

 用があって兜町かぶとちょう紅葉屋もみじやへ行く。株式仲買店である。午前十時頃、店はき廻されるような騒ぎで、そこらに群がる男女なんにょの店員は一分間も静坐じっとしてはいられない。電話は間断しきりなしにチリンチリンいうと、女は眼をけわしくして耳を傾ける。電報が投げ込まれると、男は飛びかかって封を切る。洋服姿の男がふらりと入って来て「郵船ふねは……」とくと、店員は指三本と五本を出して見せる。男は「八五だね」とうなずいてまた飄然ふらりと出てゆく。詰襟の洋服を着た小僧が、汗を拭きながら自転車を飛ばして来る。上布じょうふ帷子かたびら兵子帯へこおびという若い男が入って来て、「例のは九円には売れまいか」というと、店員は「どうしてどうして」とかしらって、指を三本出す。男は「八なら此方こちらで買わあ、一万でも二万でも……」と笑いながら出て行く。電話のべるは相変らず鳴っている。表を見ると、和服や洋服、老人やハイカラや小僧が、いわゆる「あしそら」という形で、残暑のはげしい朝の町を駈け廻っている。
 私は椅子に腰をかけて、ただ茫然ぼんやりと眺めているうちに、満洲従軍当時のありさまをふと思いうかんだ。戦場の混雑は勿論これ以上である。が、その混雑の間にも軍隊には一定の規律がある。人は総て死を期している。随って混雑極まる乱軍のうちにも、一種冷静の気を見出すことができる。しかもここの町に奔走している人には、一定の規律がない、各個人の自由行動である。人は総て死を期していない、むしろ生きんがためにあせっているのである。随って動揺また動揺、何ら冷静の気を見出すことは能ない。
 株式市場内外の混雑を評して、火事場のようだとはいい得るかも知れない。いくさのような騒ぎという評は当らない。ここの動揺はたしかに戦場以上であろうと思う。

     二 ヘボン先生

 今朝の新聞を見ると、ヘボン先生は二十一日の朝、米国のイーストオレンジに於て長逝ちょうせいせられたとある。ヘボン先生といえば、何人なんぴともすぐに名優田之助たのすけの足を聯想し、岸田の※(「金+奇」、第3水準1-93-23)せいきすいを聯想し、和英字書を聯想するが、私もこの字書に就ては一種の思い出がある。
 私が十五歳で、築地の府立中学校に通っている頃、銀座のきゅう日報社の北隣きたどなり――今は額縁屋がくぶちやになっている――にめざましと呼ぶ小さい汁粉屋しるこやがあって、またその隣に間口二けんぐらいの床店とこみせ同様の古本店があった。その店頭みせさきの雑書の中に積まれていたのは、例のヘボン先生の和英字書であった。
 今日こんにちではこれ以上の和英字書も数種刊行されているが、その当時の我々はずヘボン先生の著作にすがるよりほかはない。私は学校の帰途、その店頭に立って「ああ、ほしいなあ」とは思ったが、あたいくと二円五十銭なり。無論、わたしの懐中ふところにはない。しかも私は書物を買うことがすきで、「お前は役にも立たぬ書物を無闇むやみに買うので困る」と、毎々両親から叱られている矢先である。この際、五十銭か六十銭ならば知らず、二円五十銭の書物を買って下さいなどといい出しても、お小言こごとを頂戴して空しく引退ひきさがるに決っている。何とかいい智慧ちえはないか知らぬと帰る途次みちみちも色々に頭脳あたまを悩ました末に、父にむかってこういう嘘をいた。
 学校では今月から会話の稽古けいこが始まった。英語の書物を読むには英和の字書で済むが、英語の会話を学ぶには和英の字書がなくてはならぬ。就てはヘボン先生の和英字書を買ってもらいたい。ことに会話受持のチャペルという教師は、非常に点数のからい人であるから、会話の成績が悪いとあるいは落第するかも知れぬと実事まこと虚事そらごと打混うちまぜて哀訴嘆願に及ぶと、案じるよりも産むがやすく、ヘボンの字書なら買ってもいいということになって、すぐに二円五十銭を渡された。父は私の申立もうしたてを一から十まで信用したかどうか判らないが、とにかくにヘボンの字書ならば買っておいても損はないという料見であったらしい。その当時に於ける彼の字書の信用は偉いものであった。
 その字書は今も私の書斎の隅に押込まれている。今日こんにちではあまり用をなさないので、私もほとんど忘れていたが、今や先生の訃音ふいんを聞くと同時に、にわかにかの字書を思い出して、塵埃ほこりはたいて出して見た。父は十年ぜんに死んだ。先生も今や亡矣なし。その当時十五歳の少年は、思い出多きこの字書に対して、そぞろに我身の秋を覚えた。すだれの外にはきりの葉が散る。
(明治四十四年九月)

     三 品川の台場

 くもった寒い日、私は高輪たかなわの海岸に立って、灰色の空と真黒の海を眺めた。明治座一月興行の二番目を目下起稿中で、その第三幕目に高輪海岸の場がある。今初めてお目にかかる景色でもないが、とにかくに筆をるに当って、その実地を一度見たいというような考えで、わざわざここまで足を運んだのである。
 海岸には人家がつらなってしまったので、眺望ながめが自由でない。かつは風が甚だしく寒いので、更に品川の町にり、海寄りの小料理屋へあがって、午餐ひるめしいながら硝子戸がらすど越しに海を見た。暗い空、濁った海。雲は低く、浪は高い。かの「お台場」は、うかぶが如くによこたわっている。今更ではないが、これが江戸の遺物かたみかと思うと、私は何とはなしに悲しくなった。
 今日こんにちの眼を以て、この台場の有用無用を論じたくない。およそ六十年の昔、初めて江戸の海にこれを築いた人々は、これによって江戸八百八町の人民を守ろうとしたのである。その当時の徳川幕府は金がなかった。むを得ずして悪いかねを造った、随って物価は騰貴とうきした、市民は難渋した。また一方には馴れない工事のために、多数の死人をいだした。かくの如く上下ともにくるしみつつ、予定の十一ヵ所を全部竣工するに至らずして、徳川幕府も亡びた、江戸も亡びた。しかも江戸の血をけた人は、これに依て江戸を安全ならしめようと苦心した徳川幕府の当路者とうろしゃと、彼ら自身の祖先とに対して、努力の労を感謝せねばなるまい。
 今日は品川荒神しながわこうじんの秋季大祭とかいうので、品川の町から高輪へかけて往来がはげしい。男も通る、女も通る、小児こどもも通る。この人々の阿父おとっさんや祖父おじいさんは、六十年ぜんにここを過ぎて、工事中のお台場を望んで、「まあ、これが出来れば大丈夫だ」と、心強く感じたに相違ない。しかもそれは殆ど何の用をさず、空しく渺茫びょうぼうたる海中に横わっているのである。
 荒神様へまいるもよい。ついでにここを通ったらば、霎時しばらくこの海岸に立って、諸君が祖先の労苦をしのんでもらいたい。しかし電車で帰宅かえりを急ぐ諸君は、暗い海上などを振向いても見まい。

     四 日比谷公園

 友人と日比谷公園を散歩する。今日は風もなくて暖い。芝原に二匹の犬が巫山戯ふざけている。一匹は純白で、一匹は黒斑くろぶちで、どこからくわえて来たか知らず、一足のふる草履ぞうり奪合ばいあって、追いつ追われつ、起きつまろびつ、さも面白そうに狂っている。
「見給え、実に面白そうだね」と友人がいう。「むむ、いかにも無心に遊んでるのが可愛かあいい」といいながらふと見ると、白には頸環くびわが附いている。黒斑の頸には何もない。「片方かたっぽは野犬だぜ」というと、友人は無言にうなずいて、互に顔を見合せた。
 今、無心にむつまじく遊んでいる犬は、おそらく何にも知らぬであろうが、見よ、一方には頸環がある。その安全は保障されている。しかも他の一方は野犬である。何時なんどき虐殺の悲運に逢わないとも限らない。あるいは一時間乃至ないし半時間ののちには、残酷な犬殺しの獲物えものとなってその皮をがれてしまうかも知れない。日暖き公園の真中まんなかで、愉快に遊び廻っている二匹の犬にも、これほどの幸不幸がある。
 犬は頸環によって、その幸と不幸とが直ちに知られる。人間にも恐らく眼に見えない運命の頸環が附いているのであろうが、人も知らず、我も知らず、いわゆる「一寸先は闇」の世を、いずれも面白そうに飛び廻っているのである。我々もこうして暢気のんきに遊び歩いていても、二人のうち何方どっちかは運命の頸環に見放された野犬であるかも知れない。
「おい、君。そこらで酒でも飲もう」と、友人はいった。





底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
   1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
   1911(明治44)年12月、1912(明治45)年1月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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