奇禍
一
汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く
彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、
時は六月の
常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。たゞ
が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や
日は、深く翳つてゐた。汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光を
『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、
「
汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎてゐるのであつた。
二
湯の宿の欄干に身を
つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみ/″\と悟ることが出来た。
結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だん/\現はれて来る彼女のいろ/\な美質、さうしたことを、取とめもなく考へてゐると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々しい静子の透き通るやうなくゝり顎の
『僅か一週間、離れてゐると、もうそんなに逢ひたくて、堪らないのか。』と自分自身心の中で、さう反問すると、信一郎は駄々つ子か何かのやうに、じれ切つてゐる自分が気恥しくないこともなかつた。
が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取つては、
今朝着いた手紙から見ると、もうスツカリ好くなつてゐるに違ひない。明日の日曜に、自分と一緒に帰つてもいゝと、云ひ出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎へに来てゐるかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利く女ぢやない。あれは、おとなしく慎しく待つてゐる女だ。屹度、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸つてゐる木橋をぢつと見詰めてゐるに違ひない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかす毎に、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟かしてゐるに違ひない。
信一郎の、かうした愛妻を中心とした、いろ/\な想像は、重く垂下がつた夕方の雲を
秋の末か何かのやうに、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条たる色を帯びてゐた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇つたやうに、座席を蹴つて立ち上つた。
三
汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかつた乗客は、我先きにと降りてしまつた。此の駅が止まりである列車は、見る/\裡に、洗はれたやうに、虚しくなつてしまつた。
が、停車場は少しも混雑しなかつた。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫らく
信一郎は、身支度をしてゐた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの
「もし/\如何です。自動車にお召しになつては。」と、彼に呼びかけた。
見ると、その男は富士屋自動車と云ふ帽子を
「さうだねえ。乗つてもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕を以て、答へた。
「何処までいらつしやいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までぢや、十五円で参りませう。本当なれば、もう少し頂くので
十五円と云ふ金額を聞くと、信一郎は自動車に乗らうと云ふ心持を、スツカリ無くしてしまつた。と云つて、彼は貧しくはなかつた。一昨年法科を出て、三菱へ入つてから、今まで相当な給料を貰つてゐる。その上、
「まあ、よさう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考へてゐる事とは、全く反対な理由を云ひながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗らうとした。が、大男は
「まあ、一寸お待ちなさい。御相談があります。実は、熱海まで行かうと云ふ方があるのですが、その方と
信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやらうとした手を、引つ込めながら云つた。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」
四
洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎へて来る為に、駅の真向ひにある待合所の方へ行つた。
信一郎は、大男の後姿を見ながら思つた、どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との
彼は一寸した好奇心を唆られながら、暫らくの伴侶たるべき人の出て来るのを、待つてゐた。
三分ばかり待つた後だつたらう。やつと、交渉が纏つたと見え、大男はニコ/\笑ひながら、先きに立つて待合所から立ち現れた。その刹那に、信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽を
「お待たせしました。此の方です。」
さう云ひながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。
「御迷惑でせうが。」と、信一郎は快活に、挨拶した。学生は頭を下げた。が、
「それで
「さうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となつた。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。
「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が云つた。
運転手の手は、ハンドルにかゝつた。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追ひかけるやうに、凄じい爆音を立てたかと思ふと、まつしぐらに国府津の町を疾駆した。
信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許に行けるかと思ふと、汽車中で感じた
五
小田原の街に、入る迄、二人は黙々として相並んでゐた。信一郎は、心の中では、此青年に一種の親しみをさへ感じてゐたので、
殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、
信一郎はなるべく相手の心持を擾すまいと思つた。が、一方から考へると、同じ、自動車に二人切りで乗り合はしてゐる以上、黙つたまゝ相対してゐることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるやうにも思はれた。
「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」
と、信一郎は漸く口を切つた。会話のための会話として、判り切つたことを尋ねて見たのである。
「いや、此の前の上りで来たのです。」と、青年の答へは、少し意外だつた。
「ぢや、東京からいらつしたんぢやないんですか。」
「さうです。三保の方へ行つてゐたのです。」
話しかけて見ると、青年は割合ハキ/\と、然し事務的な受け答をした。
「三保と云へば、三保の松原ですか。」
「さうです。
「やつぱり、御保養ですか。」
「いや保養と云ふ訳ではありませんが、どうも頭がわるくつて。」と云ひながら、青年の表情は暗い陰鬱な調子を帯びてゐた。
「神経衰弱ですか。」
「いやさうでもありません。」さう云ひながら、青年は力無ささうに口を
「学校の方は、ズーツとお休みですね。」
「さうです、もう一月ばかり。」
「尤も文科ぢや出席してもしなくつても、同じでせうから。」と、信一郎は、
青年は、立入つて、いろ/\訊かれることに、一寸不快を感じたのであらう、又黙り込まうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずつと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とさうした方面の話をも、して見たいと思つた。
「失礼ですが、高等学校は。」暫らくして、信一郎はまたかう口を切つた。
「東京です。」青年は振り向きもしないで答へた。
「ぢや私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないやうですが、何年にお出になりました。」
青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたやうであつた。華やかな青春の時代を、同じ
「さうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君は。」
青年は初めて微笑を洩した。淋しい微笑だつたけれども微笑には違ひなかつた。
「ぢや、高等学校は丁度僕と入れ換はりです。お顔を覚えてゐないのも無理はありません。」さう云ひながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。
「あゝ渥美さんと
六
名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。
青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく
信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に
「
「が、僕の場合は少し違ふのです。東京にゐることが何うにも堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」
青年は、又黙つてしまつた。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けてゐるらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。
自動車は、もうとつくに小田原を離れてゐた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けてゐる高い崖の上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆してゐるのであつた。
道は、可なり狭かつた。右手には、青葉の層々と茂つた山が、往来を圧するやうに迫つてゐた。左は、急な傾斜を作つて、直ぐ真下には、海が見えてゐた。崖がやゝ滑かな勾配になつてゐる所は蜜柑畑になつてゐた。しら/″\と咲いてゐる蜜柑の花から湧く、高い匂が、自動車の疾駆するまゝに、車上の人の
「日暮までに、熱海に着くといゝですな。」と、信一郎は暫らくしてから、沈黙を破つた。
「いや、
「それぢや、是非湯河原へお泊りなさい。折角お
「貴方は永く御滞在ですか。」と、青年が訊いた。
「いゝえ、実は妻が行つてゐるのを迎へに行くのです。」と、信一郎は答へた。
「奥さんが!」さう云つた青年の顔は、何故だか、一寸淋しさうに見えた。青年は又黙つてしまつた。
自動車は、風を捲いて走つた。可なり危険な道路ではあつたけれども、日に幾回となく
「軽便かしら。」と、青年が
七
轟々ととゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。自動車が、ある山鼻を廻ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えてゐた。絶えず吐く黒い煙と、喘いでゐるやうな恰好とは、何かのろ臭い生き物のやうな感じを、見る人に与へた。信一郎の乗つてゐる自動車の運転手は、此の時代遅れの交通機関を見ると、丁度お伽噺の中で、亀に対した兎のやうに、いかにも相手を馬鹿にし切つたやうな態度を示した。彼は擦れ違ふために、少しでも速力を加減することを、肯んじなかつた。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁の間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを廻しかけたが、それは、彼として、明かな違算であつた。其処は道幅が、殊更狭くなつてゐるために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあつた、軌道と岩壁との間には、車体を容れる間隔は存在してゐないのだつた。運転手が、此の事に気が付いた時、汽車は三間と離れない間近に迫つてゐた。
「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士の烈しい罵声が、狼狽した運転手の耳朶を打つた。彼は
最初の危機には、冷静であつた運転手も、第二の危険には度を失つてしまつた。彼は、狂人のやうに意味のない言葉を発したかと思ふと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂ひの努力は間に合つた。三人の生命を託した車台は、急廻転をして、海へ陥ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走つたかと思ふと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶつ
信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、たゞ嵐のやうな混沌たる意識の外、何も存在しなかつた。
信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のやうに折り曲げられて、一方へ叩き付けられてゐる自分を見出した。彼はやつと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で廻はした彼は自分が少しも、傷付いてゐないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にゐる筈の、青年の姿を見ようとした。
青年の身体は、直ぐ其処にあつた。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ出してゐるのであつた。
「もし/\、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたやうに、ゾツとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答へなかつた。たゞ、人の心を掻きむしるやうな低いうめき声が続いてゐる
信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色を呈してゐる。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であつた。
返すべき時計
一
信一郎が、青年の身体をやつと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されてゐた運転手は、漸く身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、凡ての血の色を無くしてゐた。彼はオヅ/\車内をのぞき込んだ。
「何処もお
「馬鹿!
「はつはつ。」と運転手は恐れ入つたやうな声を出しながら、窓にかけてゐる両手をブル/\顫はせてゐた。
「君! 君! 気を
信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返さうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてさうなうめき声を続けてゐる
口から流れてゐる血の筋は、何時の間にか、段々太くなつてゐた。右の頬が見る間に
「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」
運転手は、夢から醒めたやうに、運転手席に着いた。が、発動機の壊れてゐる上に、前方の車軸までが曲つてゐるらしい自動車は、
「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のやうに顫へ声で云つた。
「ぢや、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴なら、遠くはないだらう。医者と、さうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、直ぐ自動車を寄越すやうに頼むのだ。」
運転手は、気の抜けた人間のやうに、命ぜらるゝ儘に、フラ/\と駈け出した。
青年の苦悶は、続いてゐる。半眼に開いてゐる眼は、上ずツた白眼を見せてゐるだけであるが、信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起してゐるだけで、
信一郎は青年の奇禍を傷むのと同時に、あはよく免れた自身の幸福を、欣ばずにはゐられなかつた。それにしても、
信一郎は、ふと思ひついた。最初、車台が海に面する断崖へ、顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違ひなかつた。もし、さうだとすると、車体が最初怖れられたやうに、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此青年であつたかも知れなかつた。
車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだつた。自動車の
信一郎は、さう考へると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になつたやうな、青年のいたましい姿を、一層あはれまずにはゐられなかつた。
彼は、ふとウ※[#小書き片仮名ヰ、17-上-16]スキイの小壜がトランクの中にあることを思ひ出した。それを、飲ますことが、かうした重傷者に
二
口中に注ぎ込まれた数滴のウ※[#小書き片仮名ヰ、17-下-2]スキイが、利いたのか、それとも偶然さうなつたのか、青年の白く
「気を
青年は、ぢつと眸を凝すやうであつた。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りさうになる意識を懸命に取り蒐めようとするやうだつた。彼は、ぢいつと、信一郎の顔を、見詰めた。やつと自分を襲つた
「
青年は意識が帰つて来ると、此の
「あり――ありがたう。」と、苦しさうに云ひながら、感謝の微笑を湛へようとしたが、それは
「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」
信一郎は、相手の苦悶のいた/\しさに、狼狽しながら答へた。
青年は、それに答へようとでもするやうに、身体を心持起しかけた。その途端だつた。苦しさうに咳き込んだかと思ふと、顎から洋服の胸へかけて、流れるやうな多量の血を吐いた。それと同時に、今迄充血してゐた顔が、サツと蒼ざめてしまつた。
青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだつた。
医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分つた。青年の顔に血色がなかつた如く、信一郎の
太平洋を圧してゐる、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまつた。夕闇の迫つてゐる
吐血をしたまゝ、仰向けに倒れてゐた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるやうな容子をした。
「何です! 何です!」信一郎は、掩ひかぶさるやうにして訊いた。
「僕の――僕の――
口中の血に咽せるのであらう、青年は喘ぎ喘ぎ絶え入るやうな声で云つた。信一郎は、車中を見廻した。青年が、携へてゐた旅行用の小形の
「一体、此の
青年は、何か答へようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻の吐血の名残りらしい少量の血であつた。
「開けるのですか。開けるのですか。」
青年は肯かうとした。が、それも肯かうとする意志だけを示したのに、過ぎなかつた。信一郎は
三
「何を出すのです。何を出すのです。」
信一郎は、薬品をでも、取り出すのであらうと思つて訊いた。が、青年の答は意外だつた。
「
「ノート?」信一郎は、
青年は、眼で肯いた。彼は手を出して、それを取つた。彼は、それを破らうとするらしかつた。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻る
「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」
彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼつた。そして、哀願的な眸で、ぢいつと、信一郎を見詰めた。
信一郎は、大きく肯いた。
「承知しました。何か、外に用がありませんか。」
信一郎は、大声で、而も可なりの感激を以て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云ひたい所であつた。が、さう云ひ出すことは、此のうら若い負傷者に取つて、余りに気の毒に思はれた。が、さう云つてもよいほど青年の呼吸は、迫つてゐた。
信一郎の言葉が、青年に通じたのだらう。彼は、それに応ずるやうに、右の手首を、高く差し上げようとするらしかつた。信一郎は、不思議に思ひながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透して見ると、青年は腕時計をはめてゐるのであつた。
「時計ですか。此時計を
烈しい苦痛に、歪んでゐる青年の面に、又別な苦悶が現はれてゐた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかつた。彼の
「時計を――時計を――返して下さい。」
「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になつて訊き返した。
「お願ひ――お願ひ――お願ひです。返して下さい。返して下さい。」
もう、断末魔らしい苦悶に裡に、青年は此世に於ける、最後の力を振りしぼつて叫んだ。
「一体、誰にです? 誰にです。」
信一郎は
「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」
青年の四肢が、ピクリ/\と痙攣し始めた。もう、死期の目睫の間に迫つてゐることが判つた。
「時計を誰に返すのです。青木君! 青木君! しつかりし給へ。誰に返すのです。」
死の苦しみに、青年は身体を、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死の耳に通じないやうに見えた。
「時計を誰に返すのです。名前を云つて下さい。名前を云つて下さい。名前を!」
信一郎の声も、狂人のやうに上ずツてしまつた。その時に、青年の口が、何かを云はうとして、モグ/\と動いた。
「青木君、誰に返すのです?」
永久に、消え去らうとする青年の意識が、ホンの瞬間、此世に呼び返されたのか、それとも死際の無意味な
「瑠璃子! 瑠璃子!」と、子供の片言のやうに、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思ふと、それがサツと潮の引くやうに、衰へてしまつてガクリとなつたかと思ふと、もう、ピクリともしなかつた。死が、遂に来たのである。
四
信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎から咽喉にかけての、血を拭つてやつた。
だん/\蝋色に、白んで行く、不幸な青年の
が、青年の身になつて、考へて見ると、一寸した小旅行の中途で思ひがけない奇禍に逢つて、淋しい海辺の一角で、親兄弟は勿論親しい友達さへも居合はさず、他人に外ならない信一郎に、死水を――それは水でなく、数滴のウ※[#小書き片仮名ヰ、20-下-20]スキイだつたが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまつた情なさ、淋しさは、どんなであつただらう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇ゑたことだらう。殊に、母か姉妹か、或は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただらう。彼が、口走つた瑠璃子と云ふ言葉は、
その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考へられ始めた。彼は、最初にかう疑つて見た。他人同然の彼に、
信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずにはをられなかつた。名乗り合つたばかりの自分に、心からの信頼を置いてゐる。人間として、男として、此の信頼に背く訳には、行かないと思つた。
人が、臨終の時に為す信頼は、
さう思ひながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を
五
が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだらうかと、信一郎は思つた。青年が、死際に口走つた瑠璃子と云ふ名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と云つたのは、時計を返すべき相手の名前を、云つたのだらうか。時計などとは何の関係もない、青年などとは何の関係もない青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。
『時計を返して呉れ。』と云つたとき、青年の意識は、可なり
『瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂つた心の最後の、偶然な
信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透して見た。ぢつと、見詰めてゐると最初銀かニッケルと思つた金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄つぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫でて見た。それは、紛ぎれもなく
日は、もうとつぷりと、暮れてしまつた。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うてゐるばかりだつた。運転手は、なか/\帰つて来なかつた。淋しい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍を、たゞ一人で見守つてゐることは、無気味な事に違ひなかつた。が、先刻から興奮し続けてゐる信一郎には、それが左程、厭はしい事にも気味の悪い事にも思はれなかつた。彼はある感激をさへ感じた。人として立派な義務を尽してゐるやうに思つた。
信一郎は、ふとかう云ふ事に気が付いた。たとひ、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙つて、此の高価な
さう考へると、信一郎の心は、だん/\迷ひ始めた。妙ないきがかりから、他人の秘密にまで立ち入つて、返すべき人の名前さへ、判然とはしない時計などを預つて、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合はした一個の旅の
が、かう考へたとき、信一郎の心の耳に、『お願ひで――お願ひです。時計を返して下さい。』と云ふ青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるやうに、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然しながら、力強く
『さうだ。さうだ。兎に角、瑠璃子と云ふ女性を探して見よう。たとひ、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は
信一郎は、『瑠璃子』と云ふ三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、
その時に、急に近よつて来る人声がした。彼は、悪い事でもしてゐたやうに、ハツと驚いて振り返つた。警察の提灯を囲んで、四五人の人が、足早に駈け付けて来るやうだつた。
六
駈け付けて来たのは、オド/\してゐる運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしい袴をつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であつた。
信一郎は、彼等を迎へるべく扉を開けて、路上へ降りた。
巡査は提灯を車内に差し入れるやうにしながら、
「何うです。負傷者は?」と、訊いた。
「
暫らくは、誰もが口を利かなかつた。運転手が、ブル/\顫へ出したのが、ほの暗い提灯の光の中でも、それと判つた。
「兎も角、一応診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に云つた。運転手は顫へながら、車体に取り付けてある
「お
「さうです。たゞ国府津から乗合はしたばかりなのです。が、名前は判つて居ます。
「何と云ふ名です。」巡査は手帳を開いた。
「青木淳と云ふ文科大学生です。宿所は訊かなかつたけれど、どうも名前と顔付から考へると、青木淳三と云ふ貴族院議員のお子さんに違ひないと思ふのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べれば直ぐ判るでせう。」
巡査は、信一郎の云ふ事を、一々
「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、
信一郎は言下に「運転手の過失です。」と云ひ切りたかつた。過失と云ふよりも、無責任だと云ひ切りたかつた。が、
「運転手の過失もありますが、どうも
「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから云つた。「いづれ、遺族の方から起訴にでもなると、貴君にも証人になつて戴くかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思ひます。」
信一郎は乞はるゝまゝに、一枚の名刺を与へた。
丁度その時に、医者は血に塗みれた手を気にしながら、車内から出て来た。
「ひどく血を吐きましたね。あれぢや負傷後、
「さうです。三十分も生きてゐたでせうか。」
「あれぢや助かりつこはありません。」と、医者は投げるやうに云つた。
「
信一郎は、兎に角当座の責任と義務とから、放たれたやうに思つた。が、ポケットの底にある時計の事を考へれば、信一郎の責任は何時果されるとも分らなかつた。
信一郎は車台に近寄つて、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。
巡査達に挨拶して、二三間行つた時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思ひ出した。彼は驚いて、取つて帰した。
「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽しながら云つた。
「何です。」車内を覗き込んでゐた巡査が振り顧つた。
「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずツた声で答へた。
「これですか。」
七
真鶴から湯河原迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になつてゐた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現はれて来たのだらう、頭がヅキ/\と痛み始めた。
青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白んで行つた死顔などが、ともすれば幻覚となつて、耳や目を襲つて来た。
静子に久し振に逢へると云つたやうな楽しい平和な期待は、偶然な
馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲つたと思ふと、眼の前に、山
信一郎は、愛妻に逢ふ前に、何うかして、乱れてゐる自分の心持を、整へようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になつて、自分の
藤木川の左岸に添うて走つた馬車が、新しい木橋を渡ると、橋袂の湯の宿の玄関に止まつた。
「奥様がお待ち兼で
「いらつしやいませ。何うして、かう遅かつたの。」静子は一寸不平らしい様子を嬉しさの裡に見せた。
「遅くなつて済まなかつたね。」
信一郎は、
その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套のポケットに入れてゐるのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう/\と思ひながら、小使の手前、何うしても果し得なかつたのである。当惑の為に、彼の表情はやゝ曇つた。
「御気分が悪さうね。何うかしたのですか。
さう云ひながら静子は甲斐々々しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取つたり、
その中に、上衣を
「あれ!」と、可なりけたゝましい声を出した。
「何うしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。
「何でせう。これは、血ぢやなくて。」
静子は、真蒼になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈の真近に持つて行つた。それは紛ぎれもなく血だつた。一寸四方ばかり、ベツトリと血が
「さうか。やつぱり付いてゐたのか。」
信一郎の声も、やゝ顫ひを帯びてゐた。
「
信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答へた。
「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶつ
「
「運がよかつたのだね。俺は、かすり傷一つ負はなかつたのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云ふんだね。」
静子は、夫が免れた危険を想像する
信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢つたのは、大学生ばかりではないやうな気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるやうに思つた。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依つて、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだやうな気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢ひながら、優しい言葉一つさへ、かけてやる事が出来なかつた。
夫と妻とは、
美しき遅参者
一
青年の横死は、東京の各新聞に依つて、可なり精しく伝へられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵の長子であつたことが、それに依つて証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩してゐた。信一郎は結局それを気安いことに思つた。
信一郎が、静子を伴つて帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行はれることになつてゐた。
信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると云ふ事を、名乗つて出るやうな心持は、少しもなかつた。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取つた青年が、傷ましかつた。他人でないやうな気がした。十年の友達であるやうな気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。
遺族の人々とは、縁もゆかりもなかつた。が、弔はれてゐる人とは、可なり強い因縁が、纏はつてゐるやうに思つた。彼は、心からその葬ひの席に、列りたいと思つた。
が、その上、もう一つ是非とも、列るべき必要があつた。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列つてゐるのに
その日は、廓然と晴れた初夏の一日だつた。もう夏らしく、白い層雲が、むく/\と空の一角に湧いてゐた。水色の空には、強い光が、一杯に充ち渡つて、生々の気が、空にも地にも溢れてゐた。たゞ、青山の葬場に集まつた人
青年の不幸な夭折が、特に多くの会葬者を、惹き付けてゐるらしかつた。信一郎が、定刻の三時前に行つたときに、早くも十幾台の自動車と百台に近い俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあつた。控席に待合はしてゐる人々は、もう五百人に近かつた。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から/\到着するのだつた。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為に、政界の巨頭は、大抵網羅してゐるらしかつた。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にも直ぐそれと判つた。葉巻を横
誰も彼に、話しかけて呉れる人はなかつた。接待をしてゐる人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、たゞ儀礼的な一揖を酬いただけだつた。
誰からも、顧みられなかつたけれども、信一郎の心には、自信があつた。千に近い会葬者が、集まらうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けてゐるのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けてゐるのは自分一人ではないか。その死床に侍して介抱してやつたのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに欣ぶかも知れない。さう思ふと、信一郎は自分の会葬が、他の
二
霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。信一郎は、群衆を擦り脱けて、馬車の止まつた方へ近づいた。次ぎ/\に、馬車を降りる一門の人々を、仔細に注視しようとしたのである。
霊柩の直ぐ後の馬車から、降り立つたのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であつた。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、直ぐ判つた。それほど、二人はよく似てゐた。たゞ学習院の制服を着てゐる此青年の背丈が、国府津で見たその人の兄よりも、一二寸高いやうに思はれた。
その次ぎの馬車からは、二人の女性が現はれた。信一郎は、その
それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であらう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降り立つた。信一郎は、その裡の誰かゞ、
霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ
式が始まる前の静けさが、其処に在つた。会葬者達は、銘々慎しみの心を、表に現はして紫や緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視してゐるのであつた。
式場が静粛に緊張して、今にも読経の第一声が、この静けさを破らうとする時だつた。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないやうなけたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、
自動車は、式場の入口に横附けにされた。
会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないやうに、翼を拡げた白孔雀のやうな、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スツクと降り立つたのは、まだうら若い一個の女性だつた。降りざまに、その
白襟紋付の瀟洒な
会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、此の美しい無遠慮な遅参者の姿を追つた。が、さうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いてゐたのである。
彼は、何よりも先きに、此女性の美しさに打たれた。年は
信一郎は、頭の中で自分の知つてゐる、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、此婦人の美しさを、少しでも冒すことは出来なかつた。
泰西の名画の中からでも、抜け出して来たやうな女性を、信一郎は驚異に似た心持で暫らくは、茫然と会衆の頭越しに見詰めてゐたのである。
三
信一郎が、その美しき女性に、釘付けにされたやうに、会葬者の眸も、一時は此の女性の身辺に注がれた。が、その裡に、衆僧が一斉に始めた読経の朗々たる声は、皆の心持を死者に対する敬虔な哀悼に引き
が、此女性が、信一郎の心の裡に起した動揺は、お経の声などに依つて
彼は、直覚的に此女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持つてゐることを信じた。此女性の美しいけれども颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に
が、見詰めてゐる
此の女性の顔形は、美しいと云つても、昔からある日本婦人の美しさではなかつた。それは、日本の近代文明が、
婦人席で多くの婦人の中に立つてゐながら、此の女性の背後
年頃から云へば娘とも思はれた。が、何処かに備はつてゐる冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示してゐるやうに思はれた。
信一郎が、此の女性の美貌に対する耽美に溺れてゐる裡に、葬式のプログラムはだん/\進んで行つた。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者の為に一抹の香を焚いた。
やがて式は了つた。会葬者に対する挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥と自動車とが暫くは右往左往に、入り擾れた。
信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、彼の女性に近づいた。
女性が、式場を
「本当にさう考へて下さつては、
大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止つて見送ると、その儘肩を揃へて歩き出した。信一郎も学生達の後を追つた。学生達に話しかけて、此女性の本体を知ることが時計の持主を知る、唯一の機会であるやうに思つたからである。
学生達は、電車に乗る
「青木の変死は、偶然だと云へばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、直ぐ自殺ぢやないかと思つたよ。」と、一番肥つてゐる男が云つた。
「僕もさうだよ。青木の奴、やつたな! と思つたよ。」と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。
四
「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だつたよ。」と、たゞ一人夏外套を着てゐる男が云つた。
信一郎は、さうした学生の会話に、好奇心を唆られて、思はず間近く接近した。
「兎に角、ヒドく
さう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を直ぐ思ひ出した。その悲しみに閉された面影がアリ/\と頭に浮んだ。
「相手つて、まさか我々の
「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。
其処は、もう三丁目の停留場だつた。四人連の内の三人は、其処に停車してゐる電車に、無理に押し入るやうにして乗つた。たゞ、後に残つた一人
半町ばかり、付いて歩いたが、
「失礼ですが、
「さうです。」先方は突然な問を、意外に思つたらしかつたが、不愉快な容子は、見せなかつた。
「やつぱりお友達でいらつしやいますか。」信一郎はやゝ安心して訊いた。
「さうです。ずつと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」
「なるほど。それぢや、
「あの自動車で、帰つた人ですか。あの人が何うかしたのですか。」
信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。
「いや、
学生は、一寸信一郎を憫れむやうな微笑を浮べた。ホンの瞬間だつたけれども、それは知るべきものを知つてゐない者に見せる憫れみの微笑だつた。
「あれが、有名な荘田夫人ですよ。御存じなかつたのですか。
さう云はれて見ると、信一郎も、荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思ひ出した。が、それに対して、何の注意も払つてゐなかつたので、その名前は何うしても想ひ浮ばなかつた。が、此の場合名前まで訊くことが、可なり変に思はれたが、信一郎は思ひ切つて訊ねた。
「お名前は、確か何とか云はれたですね。」
「瑠璃子ですよ、我々は、
五
葬場に於ける遅参者が、信一郎の直覚してゐた
「それぢや、青木君とあの瑠璃子夫人とは、さう大したお
「いやそんな事もありませんよ。此半年ばかりは、可なり親しくしてゐたやうです。尤もあの奥さんは、大変お
大学生は、美貌の貴婦人を、知己の中に数へ得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにさう答へた。
「ぢや、可なり自由な御家庭ですね。」
「自由ですとも、夫の勝平氏を失つてからは、思ふまゝに、自由に振舞つてをられるのです。」
「あ! ぢや、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可なり意外に思ひながら訊いた。
「さうです。結婚してから半年か其処らで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂つたのです。今では、荘田家はあの奥さんと、美奈子と云ふ十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切廻してゐるのです。」
「なるほど。それぢや、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながらさう呟いた。
大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来てゐた。学生は、今発車しようとしてゐる塩町行の電車に、乗りたさうな容子を見せた。
信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。
「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思ふのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切つた。
大学生は、信一郎のさうしたやゝ不自然な、ぶつきら棒な願ひを、美貌の女性の知己になりたいと云ふ、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思つたらしく、一寸嘲笑に似た笑ひを洩さうとしたが、直ぐそれを噛み殺して、
「貴君の御身分や、御希望を精しく承らないと、僕として一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違ひますから、突然尋ねて行かれても、
さう云ひ捨てると、その青年は身体を
信一郎は、一寸おいてきぼりを喰つたやうな、
が、さうした不愉快さが、段々消えて行つた後に、瑠璃子と云ふ女性の本体を掴み得た満足が其処にあつた。而も、瑠璃子と云ふ女性が、今も尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持つて来た時計の持主らしい。凡ての資格を備へてゐることが何よりも嬉しかつた。短剣を鏤めた
六
電車が、赤坂見附から三宅坂通り、五番町に近づくに従つて、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな
たけた若き夫人の姿は、彼が思ふまいとすればするほど、青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂つたお濠の
「荘田さんですか。それぢやあの停留場の直ぐ前の、白煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教へて呉れた。
その家は、信一郎にも最初から判つてゐた。信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼を
彼は、予想以上に立派な邸宅に
入らうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思ひ悩んだ。手紙で訊き合して見ようか、それでも事は足りるのだと思つたりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思はず
七
樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの
彼の心に、
彼は時計を返すなどと云ふことより、兎に角も、夫人に逢ひたかつた。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会ふことが出来さへすれば、その事
躊躇してゐた足を、踏み返した。思ひ切つて門を潜つた。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のやうに、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでゐる車寄せで、彼は一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう
茲まで来ると、ピアノの音は、
呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の裡に、一分ばかり待つてゐた。その時、小さい靴の足音がしたかと思ふと
「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思ひますが、御都合は如何で
彼は、さう云ひながら、一枚の名刺を渡した。
「一寸お待ち下さいませ。」
少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、
信一郎は少年の後を、ぢつと見送つてゐた。
忽ちピアノの音が、ぱつたりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知つたと云ふことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を
「一体、何う云ふ御用で厶いませうか。一寸聞かしていたゞくやうに、仰しやいました。」
信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会ふ確な望みを得た。
「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、一寸お目にかゝりたいのですが……」と、云つた。少年は、又勢ひよく階段を馳け上つて行つた。今度は、以前のやうに早くは、馳け降りて来なかつた。会はうか会ふまいかと、夫人が思案してゐる様子が、あり/\と感ぜられた。五分近くも経つた頃だらう。少年はやつと、二階から馳け降りて来た。
「御紹介状のない方には、
女王蜘蛛
一
信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面してゐる広い明るい部屋だつた。花模様の青い絨氈の敷かれた床の上には、
杜絶えたピアノの音は、再び続かなかつた。が、その音の主は、なか/\姿を現はさなかつた。少年が茶を運んで来た後は、暫らくの間、近づいて来る人の
その裡に、ふと気が付くと、正面の
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」
長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と
「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ずツて、少年か何かのやうに、赤くなつてしまつた。
深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるやうに、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳さんのやうに、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のやうでございますもの。」
初対面の客に、ロク/\挨拶もしない
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の
信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸つたやうに、話手の美しさに
二
夫人は、口でこそ青年の死を悼んでゐるものゝ、その華やかな容子や、表情の何処にも、それらしい翳さへ見えなかつた。たゞ一寸した知己の死を、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己の死を、話してゐるのに過ぎなかつた。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子と云ふ名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだらうと思つたのは、自分の思ひ違ひかしら。夫人の容子や態度が、示してゐる通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。さう、疑つて来ると、信一郎は、青年の死際の
「
その癖、夫人はきまりが悪かつたやうな表情は少しも見せなかつた。あの葬場でも、それを思ひ出してゐる今も。若い美しい夫人の何処に、さうした大胆な、人を人とも思はないやうな強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気に取られてゐる
「実は、今日伺ひましたのは、死んだ青木君の事に就てでございますが……」
さう云つて、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかつたのである。が、夫人は無雑作だつた。
「さう/\取次の者が、そんなことを申してをりました。青木さんの事つて、何でございますの?」
帝劇で見た芝居の噂話をでもしてゐるやうに夫人の態度は平静だつた。
「実は、
信一郎は、女王の前に出た騎士のやうに慇懃だつた。が、夫人は卓上に置いてあつた支那製の
「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりさうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違ひでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云つた。
信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度に揶揄れたやうに、まごつきながら云つた。
「実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然、同じ自動車に乗り合はしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」
「ほゝう
さう云つた夫人の顔は、
「さう! まあ何と云ふ奇縁でございませう。」
その美しい眼を大きく
「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」
信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突つ込むやうにさう言つた。
「遺言を
さう云つた夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。
三
今迄は、秋の湖のやうに澄み切つてゐた夫人の容子が、青年の遺言と云ふ言葉を聴くと、急に
「衝突の模様は、新聞にもある
信一郎が、茲まで話したとき、夫人の
「その時計を
夫人の言葉は、可なり急き込んでゐた。其の美しい白い顔が、サツと赤くなつた。
「その時計を返して呉れと云はれるのです。是非返して呉れと云はれるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答へた。
「
夫人の言葉は、更に
信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるやうにして云つた。
「それが誰にとも分らないのです。」
夫人の顔に現れてゐた緊張が、又サツと緩んだ。暫らく杜絶えてゐた微笑が、ほのかながら、その口辺に現はれた。
「ぢや、誰方に返して呉れとも仰しやらなかつたのですの。」夫人は、ホツと安堵したやうに、何時の間にか、以前の落着を、取り返してゐた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫つてゐたのでせう、私の問には、何とも答へなかつたのです。たゞ臨終に
信一郎は、肝腎な来意を云つてしまつたので、ホツとしながら、彼は夫人が何う答へるかと、ぢつと相手の顔を見詰めてゐた。
「ホヽヽヽヽ。」先づ美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。
「淳さんは、本当に頼もしい方でいらつしやいましたわ。そんな時にまで私を覚えてゐて下さるのですもの。でも、
もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかつた。澄み切つた以前の美しさが、帰つて来てゐた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフに
「確か女持には違ひないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」
「妹さんのものぢやございませんのでせうか。」夫人は無造作に云ひながら、信一郎の差し出す時計を受取つた。
信一郎は断るやうに附け加へた。
「血が少し附いてゐますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰ひ入つたのです。」
さう信一郎が云つた刹那、夫人の美しい眉が曇つた。時計を持つてゐる象牙のやうに白い手が、思ひ
四
時計を持つてゐる手が、微かに顫へるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したやうだつた。ほんのもう、痕跡しか残つてゐない血が、夫人の心を可なり、脅かしたやうにも思はれた。
一分ばかり、無言に時計をいぢくり廻してゐた夫人は、何かを深く決心したやうに、そのひそめた眉を開いて、急に快活な様子を取つた。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが交つてゐたけれども。
「あゝ判りました。やつと思ひ付きました。」夫人は突然云ひ出した。
「
夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく云つた。が、何処となく力なく空々しいところがあつたが、信一郎は夫人の云ふことを疑ふ
「私も、多分さうした品物だらうとは思つてゐたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思ひますが、御名前を教へていたゞけませんでせうか。」
「左様でございますね。」と、夫人は首を
「ぢや、
「ホヽヽヽ貴方様も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽ち信一郎を突き放すやうに云つた。その癖、顔一杯に微笑を湛へながら、「恋人を突然奪はれたその令嬢に、同情して、黙つて私に委して下さいませ。私が責任を以て、青木さんの
信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかつた。さうした令嬢が、本当にゐるか何うかは疑はれた。が、夫人が時計の持主を、知つてゐることは確かだつた。それが、夫人の云ふ
「それでは、お委せいたしますから、何うかよろしくお願ひいたします。」
さう引き退るより外はなかつた。
「
さう云ひながら、夫人はその血の附いた時計を、懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。
信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、嬉しいやうな、同時に呆気ないやうな気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のやうに立ち上つた。
信一郎が、勧められるのを振切つて、将に玄関を出ようとしたときだつた。夫人は、何かを思ひ付いたやうに云つた。
「あ、一寸お待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。
五
信一郎が、暇を告げたときには何とも引き止めなかつた夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思ひながら、振り顧つた。
「つまらないものでございますけれども、
さう云ひながら、夫人は何時の間に、手にしてゐたのだらう、プログラムらしいものを、信一郎に呉れた。一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであつた。
「御親切に対する御礼は、
さう云ひながら、夫人は信一郎に、最後の魅するやうな微笑を与へた。
「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘ポケットに入れた。
「御迷惑でございませうが、是非お出で下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」
さう云ひながら、夫人は玄関の
電車に乗つてから、暫らくの間信一郎は夫人に対する
が、さうした酔が、だん/\醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処かに、嘘偽りがあるやうに思はれてならなかつた。最初冷静だつた夫人が、遺言と云ふ言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知つてゐると云ひ出したりしたことが、今更のやうに、疑念の的になつた。疑つてかゝると、信一郎は大事な青年の
その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ/\と甦つて来た。『時計を返して呉れ』と云ふ言葉の、語調までが、ハツキリと甦つて来た。その叫びは、恋人に恋の
さう考へて来ると、瑠璃子夫人の云つた子爵令嬢と青年との恋愛関係は、烟のやうに頼りない事のやうにも思はれた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのではあるまいか。
が、さう疑つて見たものゝ、それを確める証拠は何もなかつた。それを確めるために、もう一度夫人に会つて見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度体よく追ひ返されることは余りに判り切つてゐる。
信一郎は、夫人の張る蜘蛛の網にかゝつた蝶か何かのやうに、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたやうに思はれた。彼は、自分の腑甲斐なさが、口惜しく思はれて来た。
彼の手を離れても、謎の時計は、やつぱり謎の尾を引いてゐる。彼は何うかして、その謎を解きたいと思つた。
その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思ひ出したのである。
六
青年から、海へ捨てるやうに頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡に、持つてゐた。海に捨てる機会を
それを、今になつて披いて見ることは、死者に済まないことには
でも家に帰つて、まだ旅行から帰つたまゝに、放り出してあつたトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責を感じた。
が、彼が時計の謎を知らうと云ふ慾望は、もつと強かつた。美しい瑠璃子夫人の謎を解かうと云ふ慾望は、もつと強かつた。
彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くやうな興奮と恐怖とで、オヅ/\表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だつた。その次ぎの五六枚も、白紙だつた。彼は、裏切られたやうなイラ/\しさで、全体を手早くめくつて見た。が、何の
信一郎は胸を躍らしながら、貪るやうにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体が
――彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝつた蝶の身悶えに、過ぎなかつたのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見てゐたのだ。
今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々として之 れを手首に入れてゐた。彼女の愛の把握が其処にあるやうに思つてゐた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるやうに思つてゐた。
が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。
昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭 きは、何んなであつたらう。若 し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違 ない。自分が、それを持つてゐる手は思はず、顫へたのである。
自分は急 き込んで訊いた。
「これは、何処からお買ひになつたのです。」
「いや、買つたのではありません。ある人から貰つたのです。」
大尉の答は、憎々しいほど、落着いてゐた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えてゐるではないか。
今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々として
が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。
昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の
自分は
「これは、何処からお買ひになつたのです。」
「いや、買つたのではありません。ある人から貰つたのです。」
大尉の答は、憎々しいほど、落着いてゐた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えてゐるではないか。
七
――その時計は、自分の時計と、寸分違つてはゐなかつた。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取つてかけ替のない、たつた一つの時計ではなかつたのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないやうに、
「何うです。仲々奇抜な意匠でせう。一寸類のない品物でせう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けてゐた。自分は、自分の右の手首に入れてゐるそれと、寸分違はぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の誇 を叩き潰してやりたかつた。が、大尉に何の罪があらう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思つた。
が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤 と恨 との為に、わな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈 の勇気と力とを。
が、二つとも自分には欠けてゐた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追ひ、自分を悩ませる。
「何うです。仲々奇抜な意匠でせう。一寸類のない品物でせう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けてゐた。自分は、自分の右の手首に入れてゐるそれと、寸分違はぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の
が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は
が、二つとも自分には欠けてゐた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追ひ、自分を悩ませる。
手記は茲で中断してゐる。が、半
何うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のやうに、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思ふ。
又一寸中断されてから、
さうだ、一層死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ。自分の真実の血で、彼女の偽 の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、恥 しめてやるのだ。
手記は、茲で終つてゐる。信一郎は、深い感激の中に読み了つた。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持は自殺であると云つてもよかつたのだ。青年は死場所を求めて、箱根から
彼女が、瑠璃子夫人であるか何うかは、手記を読んだ後も、判然とは判らなかつた。が、たゞ生易しい平和の裡に、返すべき時計でないことは
が、『彼女』とは一体誰であらう。
そのかみの事
一
「あら! お危うございますわ。」と赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追ひ纏はれながら、荘田勝平は庭の丁度
丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝く春の名残りを止めてゐた。其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\と射してゐる。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作つて、落ち込んで行つたところには、美しい水の湧く泉水があつた。
その小山の上にも、麓にも、芝生の上にも、泉水の
人の心を浮き立たすやうな笛や鼓の音が、楓の林の中から聞えてゐる。小松の植込の中からは、其処に陣取つてゐる、三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いてゐる。拍子木が鳴つてゐるのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だつた。それに吸ひ付けられるやうに、裾模様や振袖の夫人達が、その方へゾロ/\と動いて行くのだつた。
勝平は、さうした光景や、物音を聞いてゐると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依つて帝都の上流社会がこんなに集まつてゐる。自分の名に依つて、大臣も来てゐる。大銀行の総裁や頭取も来てゐる。侯爵や伯爵の華族達も見えてゐる。いろ/\な方面の名士を、一堂の下に蒐めてゐる。自分の名に依つて、自分の社会的位置で。
さう考へるに付けても、彼は此の三年以来自分に降りかゝつて来た夢のやうな華やかな幸運が、振り顧みられた。
戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であつたのが、偶々持つてゐた一隻の汽船が、幸運の緒を紡いで極端な遣繰りをして、一隻一隻と買ひ占めて行つた船が、お伽噺の中の白鳥のやうに、黄金の卵を、次ぎ次ぎに産んで、わづか三年後の今は、千万円を越す長者になつてゐる。
しかも、金が出来るに従つて、彼は自分の世界が、だん/\拡がつて行くのを感じた。今までは、『其処にゐるか』とも声をかけて呉れなかつた人々が、何時の間にか自分の周囲に蒐まつて来てゐる。近づき難いと思つてゐた一流の政治家や実業家達が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くやうになつてゐる。自分を招待したり、自分に招待されたりするやうになつてゐる。その他、彼の金力が物を云ふところは、到る処にあつた。緑酒紅燈の巷でも、彼は自分の金の力が万能であつたのを知つた。彼は、金さへあれば、何でも出来ると思つた。現に、此の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金を投じて買つたのである。現に、今日の園遊会も、一人宛百金に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を招んだのである。
聞えて来る笛の音も、鼓の音も奏楽の響も、模擬店でビールの満を引いてゐる人達の哄笑も、勝平の耳には、彼の金力に対する讃美の声のやうに聞えた。『さうだ。凡ては金だ。金の力さへあればどんな事でも出来る』と、心の裡で呟きながら、彼が日頃の確信を、一層強めたときだつた。
「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールの
「やあ! お蔭さまで。」と、勝平は傲然と答へた。『
二
「よく集まつたものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えてゐますね。我輩一昨日は、英国大使館の
代議士の沢田は真正面からお世辞を云ふのであつた。
「いゝ天気で、何よりですよ。ハヽヽヽヽ。」と、勝平は鷹揚に答へたが、内心の得意は、
「素晴らしい庭ですな。
さう云ひながら、澤田は持つてゐたビールの
「主人公が、こんな所に、逃げ込んでゐては困りますね。さあ、
澤田は、勝平をグン/\麓の方へ、園遊会の賑ひと混雑の方へ引きずり込まうとした。
「いや、もう少しこの儘にして置いて下さい。今日一時から、門の処で一時間半も立ち続けてゐた上に、先刻
さう云つて、捕へられてゐた腕を、スラリと抜くと、澤田はその
「それぢや後ほど。」と云つたまゝ空になつた
園内の数ヶ所で始まつてゐる余興は、それ/″\に来会した人々を、分け取りにしてゐるのだらう。勝平の立つてゐる此の広い丘の上にも五六人の人影しか、残つてゐなかつた。勝平に付き纏つてゐた芸妓達も、
が、勝平は
彼が、暫らく、ぼんやりと咲き乱れてゐる八重桜の梢越しに、薄青く澄んでゐる空を、見詰めてゐる時だつた。
「茲は静かですよ。早く上つていらつしやい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下しながら、誰かを
青年は、今日招待した誰かゞ伴つて来た家族の一人であらう。勝平には、少しも見覚えがなかつた。青年も、此の家の主人公が、こんな淋しい処に、一人ゐようなどとは、夢にも気付いてゐないらしく、麓の方を麾いてしまふと、ハンカチーフを出して、其処にある陶製の腰掛の埃を払つてゐるのだつた。
急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。
「まあ、ひどい混雑ですこと。
「どうせ、園遊会なんてかうですよ。あの模擬店の雑沓は、何うです。見てゐる丈でも、あさましくなるぢやありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下しながら、答へた。
それには何とも答へないで、昇つて来るらしい人の
三
やがて、女は丘の上に全身を現した。年は十八か九であらう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れてゐる八重桜の、絢爛たる美しさをも奪つてゐた。目も醒むるやうな藤納戸色の着物の胸のあたりには、五色の色糸のかすみ模様の
「疲れたでせう。お掛けなさい。」
青年は、埃を払つた腰掛を、女に勧めた。彼女は進められるまゝに、腰を下しながら、横に立つてゐる青年を見上げるやうにして云つた。
「
「僕も、妹のお伴で来たのですが、かう混雑しちや厭ですね。それに、此の庭だつて、都下の名園ださうですけれども、ちつともよくないぢやありませんか。少しも、自然な素直な所がありやしない。いやにコセ/\してゐて、人工的な小刀細工が多すぎるぢやありませんか。殊に、あの
年の若い二人は、此日の園遊会の主催者なる勝平が、たゞ一人こんな淋しい処にゐようなどとは夢にも考へ及ばないらしく、勝平の方などは、見向きもしないで話し続けた。
「お金さへかければいゝと思つてゐるのでせうか。」
美しい令嬢は、その美しさに似合はないやうな皮肉な、口の利き方をした。
「どうせ、さうでせう。成金と云つたやうな連中は、金額と云ふ事より外には、何にも趣味がないのでせう。凡ての事を金の物差で計らうとする。金さへかければ、何でもいゝものだと考へる。今日の園遊会なんか、一人宛五十円とか百円とかを、入れるとか何とか云つてゐるさうですが、あの俗悪な趣向を御覧なさい。」
青年は、何かに激してゐるやうに、吐き出すやうに云つた。
先刻から、聞くともなしに、聞いてゐた勝平は、烈しい
「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢な生活を、謳歌してゐるやうですが、金で
青年は、成金全体に、何か烈しい恨みでもあるやうに、罵りつゞけた。
「飽きるつて。そりやどうだか、分りませんね。貴方のやうに、敏感な方なら、直ぐに飽きるでせうが、彼等のやうに鈍い感じしか持つてゐない人達は、何時迄同じことをやつてゐても飽きないのぢやなくつて!」女は、美しい然し冷めたい微笑を浮べながら云つた。
「貴方は、悪口は僕より一枚上ですね。ハヽヽヽヽヽ。」
二人は相顧みて、会心の笑ひを笑ひ合つた。
黙つて聞いてゐた勝平の顔は、憤怒のため紫色になつた。
四
まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍に居合す此邸の主人の勝平にどんな影響を与へてゐるかと云ふ事は、夢にも気の付いてゐないやうに、無遠慮に自由に話し進んだ。
「でも、お
令嬢は、右の手に持つてゐる華奢な象牙骨の扇を、
「いや、もつと云つてやつてもいゝのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凜々しい顔を、一層引き緊めながら、「第一華族階級の人達が、成金に対する態度なども、可なり卑しいと思つてゐるのですよ。平生門閥だとか身分だとか云ふ愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか云つて、軽蔑してゐる癖に、相手が金があると、平民だらうが、成金だらうが、
「おや! 今度は、お父様にお鉢が廻つたのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニツコリ笑つた。
「其処へ来ると、貴女のお父様なんか立派なものだ。何処へ出しても恥かしくない。いつでも、清貧に安んじていらつしやる。」青年は靴の先で散り布いてゐる落花を踏み躙りながら云つた。
「父のは病気ですのよ。」女は、一寸美しい眉を落し「あんなに年が寄つても、道楽が止められないのですもの。」さう云つた声は、一寸淋しかつた。
「道楽ぢやありませんよ。男子として、立派な仕事ぢやありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦つて来られたのですもの。」
青年は、女を慰めるやうに云つた。が、先刻成金を攻撃したときほどの元気はなかつた。二人は話が何時か、理に落ちて来た為だらう。
勝平は先刻から、幾度此の場を立ち去らうと思つたか、分らなかつた。が、自分に対する悪評を怖れて、コソ/\と逃げ去ることは、傲岸な彼の気性が許さなかつた。張り裂けるやうな憤怒を、胸に抑へて、ぢつと青年の攻撃を聞いてゐたのであつた。
彼は、つい十分ほど前まで、今日の園遊会に集まつてゐる、凡ての人々は自分の金力に対する讃美者であると思つてゐた。讃美者ではなくとも、少くとも羨望者であると思つてゐた。否少くとも、自分の持つてゐる金の力
五
さうした恐ろしい豹が、彼等の背後に蹲まつてゐようとは、気の付いてゐない二人は、今度は
もう一言、学生が何か云つたら、飛び出して、面と向つて云つてやらうと、
自分に対する罵詈のために、カツとなつてしまつて、青年の顔も少女の顔も、十分眼に入らなかつたが、今は少し心が落着いたので、二人の顔を、更めて見直した。
気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかつた。殊に、少女の顔に見る浄い美しさは、勝平などが夢にも接したことのない美しさだつた。彼は、心の中で、金で購つた新橋や赤坂の、名高い美妓の面影と比較して見た。何と云ふ格段な相違が其処にあつただらう。彼等の美しさは、造花の美しさであつた。偽真珠の美しさであつた。一目
勝平が、今迄金で買ひ得た女性の美しさは、此少女の前では、皆偽物だつた。金で買ひ得るものと思つてゐたものは、皆贋物だつたのだ。勝平は此少女の美しさからも、今迄の
それ
二人の睦じい容子を見てゐる裡に、勝平の心の中の憤怒は何時の間にか、嫉妬をさへ交へてゐた。『凡ての事は金だ。金さへあればどんな事でも出来る。』と思つてゐた彼の誇は、根柢から揺り動かされてゐた。此の二人の恋人が、今感じ合つてゐるやうな幸福は、勝平の全財産を、投じても得られるか、
青年が、勝平の金力をあんなに、罵倒するのも無理はなかつた。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平の前で示してゐるのだつた。
青年の罵倒が単なる悪口でなく、勝平に取つては、苦い真理である
その時に、蹲まつてゐた青年がつと立ち上つた。女も続いて立ち上りながら云つた。
「でも、何か召し上つたら
「僕は、成金輩の
青年は、半分冗談で云つたのだつた。が、憤怒に心の狂ひかけてゐた勝平にとつては、最後の通牒だつた。彼は、寝そべつてゐた獅子のやうに、猛然と腰掛から離れた。
六
勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下らうとしてゐるのだつた。
「もし、もし、暫らく。」勝平の太い声も、
青年は、何気ないやうに振返つた。
「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だつた。それと同時に、連の女も振返つた。その美しい眉に、一寸勝平の突然の態度を咎めるやうな色が動いた。
「いや、お呼び止めいたして済みません。一寸御挨拶がしたかつたのです。」と、云つて勝平は、息を切つた。昂奮の為に、言葉が自由でなかつた。二人の相手は、勝平の昂奮した様子を、不思議さうにジロ/\と見てゐた。
「先刻、皆様に御挨拶した筈ですが、
さう云ひながら、勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル/\と顫へてゐた。
「あゝさうですか。いや、今日はお招きに
青年の顔色は、青白くなつてゐたが、少しも狼狽した容子は見せなかつた。昂然とした立派な態度だつた。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、微塵
「いや、先刻から貴君の御議論を拝聴してゐました。いろ/\我々には、参考になりました。ハヽヽ。」
勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑しようとした。が、彼の笑ひ声は、咽喉にからんだまゝ、調子外れの叫び声になつた。
自分の罵倒が、その的の本人に聴かれたと云ふことが、明かになると、青年も
「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止むを得ません。僕の不謹慎はお詫びします。が、持論は持論です。」
さう云ひながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。
自分が飛び出して出さへすれば、周章狼狽して、一溜りもなく参つてしまふだらうと思つてゐた勝平は、当が外れた。彼は、相手が思ひの外に、強いのでタヂ/\となつた。が、それ
「いや、お若いときは、金なんかと云つて、よく軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判りになりますよ。金が、人生に於てどんなに大切であるかが。」
勝平は、出来る
「僕などは、さうは思ひません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと云ふことに、なるのぢやありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでゐる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかさうとするやうな人は嫌ひです。」
もう、其処に何等の儀礼もなかつた。それは、言葉で行はれてゐる格闘だつた。青年の顔も蒼ざめてゐた。勝平の顔も蒼ざめてゐた。
「いや、何とでも仰しやるがよい。が、理窟ぢやありません。世の中のことは、お坊ちやんの理想
勝平は、その大きい口を、きつと結びながら青年を睨みすゑた。が、青年の直ぐ傍に、立ち竦んだまゝ、黙つてゐる彫像のやうな姿に目を転じたとき、勝平の心は、再びタヂ/\となつた。その美しい顔は勝平に対する憎悪に燃えてゐたからである。
七
青年が、何かを答へようとしたとき、女は
「もういゝぢやございませんか。私達が、参つたのがいけなかつたのでございますもの。御主人には御主人の主義があり
少女は、青年より以上に強かつた。其処には火花が漏れるやうな堅さがあつた。それ丈、勝平に対する侮辱も、甚だしかつた。こんな男と言葉を交へるのさへ、馬鹿々々しいと、云つた表情が、彼女の何処かに漂つてゐた。孔雀のやうに美しい彼女は、孔雀のやうな態度を持つてゐるのだつた。
青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思ひ返したのだらう。女の言葉を、戈を収める機会にした。
「いや、飛んだ失礼を申上げました。」
さう云ひ捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下つて行つた。敵に、素早く身を
彼の
青年の父の杉野直と云ふ子爵も、少女の父の唐澤男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金の戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だつた。
が、何うして戦つたらいゝだらう。彼等の父を苛めることは何でもないことに違ひない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかつた。その時に、勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。睦じく語つてゐる恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、
まだ、春の日は高かつた。彼が招いた人達は園内の各所に散つて、春の半日を楽しく遊び暮してゐる。が、その人達を招いた彼
「あら、まだ
突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓達が帰つて来たのである。
「さあ!
「あゝ行くよ行くよ。行つて酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたやうに、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなつた来客達の集まつてゐる方へ
父と子
一
『またお父様と兄様の争ひが始まつてゐる。』さう思ひながら、瑠璃子は読みかけてゐたツルゲネフの『父と子』の英訳の
『父と子』の争ひ、もつと広い言葉で云へば旧時代と新時代との争ひ、旧思想と新思想との争ひ、それは十九世紀後半の
五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のやうに違つてゐる。一方が北を指せば、一方は西を指してゐる。老人が『山』と云つても、青年は『川』とは答へない。それだのに、老人は自分の握つてゐる権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがつてゐる者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行かうとする。其処から、色々な家庭悲劇が生れる。
瑠璃子は、父の心持も判つた。兄の心持も判つた。父の時代に生れ、父のやうな境遇に育つたものが、父のやうな心持になり、父のやうな目的のために戦ふのは、当然であるやうに想はれた。が、兄のやうな時代に生れ、兄のやうな境遇に育つたものが、兄のやうに考へるのも亦当然であるやうに思はれた。父も兄も間違つてはゐなかつた。お互に、間違つてゐないものが、争つてゐる丈に、その争ひは何時が来ても、止むことはなかつた。何時が来ても、一致しがたい平行線の争ひだつた。
母が、昨年死んでから、淋しくなつた家庭は、取り残された人々が、その淋しさを償ふために、以前よりも、もつと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を云へ!」
父のしはがれた張り裂けるやうな声が、聞えた。それに続いて、何かを
瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなつた。また父が兄の絵具を見付けて、擲つてゐるのだ。
さう思つてゐると、又カンバスを引き裂いてゐるらしい、
芸術と云つたやうなものに、粟粒ほどの理解も持つてゐない父が悲しかつた。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に卑しく
カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫らくは何も聞えて来なかつた。争ひの言葉が聞えて来る裡は、それに依つて、争ひの経過が判つた。が、急に
二
瑠璃子は、そつと足音を立てないやうに、
父と子とは、思想も感情もスツカリ違つてゐたが、負けぬ気の剛情なところ
二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散つてゐた。父の足下には、三十号の
さうした光景を見た
が、父と兄との沈黙は、それは戦ひの後の沈黙でなくして、これからもつと怖しい戦ひに入る前の沈黙だつた。
「考へて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄んでゐて
「考へて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答へも冷たく鋭かつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を?[#「?」はママ]」父は、又カツとなつてしまつた。「画などと云ふものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云はゞ余戯なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、
父は、さう叫びながら、手近にある
「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、
それは、父が少し昂奮すれば、
「黙つてゐては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の
三
「お父さん!」兄は
「もう少し待つて下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その中に、画を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだらうと思ふのです。」
「あゝよして呉れ!」父は
「お父さんには、
「解つてたまるものか。」父の手がまたかすかに顫へた。
二人が、
「光一!」父は改まつたやうに呼びかけた。
「何です!」兄も、それに応ずるやうに答へた。
「お前は、今年の正月
「覚えてゐます。」
「覚えてゐるか、それぢやお前は、此の家にはをられない訳だらう。」
兄の顔は、憤怒のために、見る/\中に真赤になり、それが再び蒼ざめて行くに従つて、悲壮な顔付になつた。
「分りました。出て行けと
「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時云つて置いた筈だ。お前が、
瑠璃子は、胸が張り裂けるやうに悲しかつた。一徹な父は、一度云ひ出すと、後へは引かない
父の言葉に、カツと逆上してしまつたらしい兄は、前後の分別もないらしかつた。
「いや承知しました。」
さう云ふかと思ふと、彼は俯きながら、狂人のやうに其処に落ち散つてゐる絵具のチューブを拾ひ始めた。それを拾つてしまふと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在つた二三冊のノートのやうなものを、風呂敷に包んでしまふと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のやうに
父が、
「兄さん! 待つて下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちやん!」
兄は、荒々しく叱するやうに、瑠璃子の手をもぎ放した。
瑠璃子が、再び取り縋らうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳け下つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下つたとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走つてゐる兄の後姿が、チラリと見えた。
四
兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めてゐた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を
母が亡くなつてからは、父子三人の淋しい家であつた。段々差し迫つて来る窮迫に、召使の数も減つて、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがゐる
それだのに、僅かしか残つてゐない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるやうに、兄がゐなくなる。父と兄とは、水火のやうに、何処まで行つても、調和するやうには見えなかつたけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だつた。母が亡くなつてからは、更に二人は親しみ合つた。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊に父と不和になつてから、肉親の愛を換し得るのはたゞ妹だけだつた。妹もたゞ一人の兄を頼つた。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでゐた。瑠璃子には父の一徹も悲しかつた。兄の一徹も悲しかつた。
が、何よりも気遣はれたのは、着のみ着の儘で、飛び出して行つた兄の身の上である。理性の勝つた兄に、万一の間違があらうとは思はれなかつた。が、貧乏はしてゐても、華族の家に生れた兄は、独立して口を
父はやつぱり兄の書斎にゐた。先刻と寸分違はない位置にゐた。たゞ、傍にあつた椅子を引き寄せて、腰を下したまゝぢつと
『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のやうに云ふ
一生を通じて、やつて来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだらうかと思ふと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなつて、その儘床の上に、再び泣き崩れた。
最愛の娘の涙に誘はれたのであらう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の痕が印せられた。
「瑠璃子!」父の声には、
「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答へた。
「出て行つたかい!
「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかつた。
「いやいゝ。出て行くがいゝ。志を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いてゐても路傍の人だ。瑠璃子! お前には、父さんの心持は解るだらう。お前
瑠璃子は、それには何とも答へなかつた。が、瑠璃子の胸に、一味焼くやうな激しい気性と、父にも兄にも勝るやうな強い意志があることは、彼女の平生の動作が示してゐた。それと同じやうに、貴族的な気品があつた。昔気質の父が時々瑠璃子を捕へて『男なりせば』の嘆を漏すのも無理ではなかつた。
まだ父が、何か云はうとする時であつた。邸前の坂道を疾駆して馳け上る自動車の爆音が聞えたかと思ふと、やがてそれが門前で緩んで、低い
五
父子の悲しい淋しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もつとかうしてゐたかつた。父の気持も訊き、兄に対する善後策も講じたかつた。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪をさへ感じたのである。
「老婢はゐないかしら!」さう呟くと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。
「大抵の人だつたら、会へないと断るのだよ。いゝかい。」
さう言葉をかけた父を振り顧つて見ると、相変らず蒼い顫へてゐるやうな顔色をしてゐた。
瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸意外な人だつたのに駭いた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵であつたからである。
「おや入らつしやいまし。」さう云ひながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとつては懐しい恋人の父だつた。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかつた。同じ政治団体に属してゐたけれども、二人は少しも親しんでゐなかつた。父は、内心子爵を賤しんでゐた。政商達と結託して、私利を追うてゐるらしい子爵の態度を、可なり不快に思つてゐるらしかつた。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと云ふ噂なども、瑠璃子は何時となく聴いてゐた。
さうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかつた。それかと云つて、自分の恋人の父を、
「いらつしやらないのですか。」
「いゝえ!」彼女は、さう答へるより外はなかつた。
「杉野です。一寸お取次を願ひます。」
さう云はれると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはゐられなかつた。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある
杉野子爵の長男直也は、父に似ぬ立派な青年だつた。音楽会で知り合つてから、瑠璃子は知らず識らずその人に惹き付けられて行つた。男らしい顔立と、彼の火のやうな熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だつた。二人の愛は、激しく而も清浄だつた。
二人は将来を誓ひ合つた。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のやうに繰返した。
青年は今年の四月学習院の高等科を出てゐる。『学校を出ると云ふことが、学習院を出ることを、意味するなら。』さう考へると瑠璃子は踏んでゐる足が、階段に着かぬやうに、そは/\した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ/\尋ねて来る。さう考へて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻き擾されてしまつた。
が、つい此間青年と園遊会で会つたとき、彼はおくびにも、そんなことは云はなかつた。正式に突然求婚して、自分を駭かさうと云ふ悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟の間に空想した。
が、苦り切つてゐる、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなつた。
「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはづんでゐた。
六
父は娘の心を知らなかつた。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情があり/\と動いた。
「杉野! ふーむ。」父は苦り切つたまゝ容易に立たうとはしなかつた。
父が、杉野子爵に対してかうした感情を持つてゐる以上、又兄の家出と云ふ傷ましい事件が起つてゐる以上、
「仕方がない! お通しなさい!」さう云つたまゝ、父は羽織を着るためだらう、
瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつはる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行つた。
「お待たせいたしました。何うぞお上り下さいませ。」
「いや、どうも突然伺ひまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立つて、応接室に通つた。
古いガランとした応接室には、何の装飾もなかつた。明治十幾年に建てたと云ふ洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だつた。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子の
父は、直ぐ応接室へ入つた。心の中の感情は可なり隔たつてゐたが、面と向ふと、
立ち聞きをするやうな、はしたない事は、思ひも付かなかつた。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云つて、不快ではない心配を続けてゐた。
恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去つた一年間の、恋人とのいろ/\な会合が、心の中に蘇へつて来た。どの一つを考へても、それは楽しい清浄な幸福な思出だつた。二人は火のやうな愛に燃えてゐた。が、お互に個性を認め合ひ、尊敬し合つた。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく
恋人の凜々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。
が、来客の話は、さう永くは続かなかつた。瑠璃子の夢のやうな想像を破るやうに、応接室の
見ると父は、兄の家出を見送つた時以上に、蒼い苦り切つた顔をしてゐた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追はれるやうに玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去つてしまつた。
父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交つた眼付で、しばらくの間見詰めてゐた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる/\父に訊いた。
「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は、唾でも吐きかけるやうに罵つた。
七
杉野子爵に対する、父の燃ゆるやうな憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のやうに、オドオドしてしまつた。胸の中に、ひそかに懐いてゐた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られてゐた。踏んでゐた床が、崩れ落ちて、其儘底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くやうな、暗い頼りない心持がした。
「一体
瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オヅ/\訊いた。父は口にするさへ、
「訊くな。訊くな。汚らはしい。
自分までもと、云はれると、瑠璃子は更に不安になつた。自分のことを、一体
「一体どんなお話が、ございましたの。
「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却つて気を悪くするから。あんな賤しい人間の云ふことは、一切耳に入れぬことぢや。」
やゝ興奮の去りかけた父は、却つて娘を
「でも、何と
瑠璃子は、父を追ひながら、甘えるやうな口調で云つた。娘の前には、目も鼻もない父だつた。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だつた。瑠璃子が執拗に二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だつた。
「なにも、お前の悪口を云つたのぢやない。」
父は憤怒を顔に現しながらも、娘に対する言葉
「ぢや、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」
「それを侮辱するから
父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思ひ出したのだらう、その人が、前にでもゐるやうに、拳を握りしめながら、激しい口調で云つた。
「
瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがつて、畳みかけて訊いた。
「彼の男は、お前の縁談があると云つて来たのだ。」父の言葉は意外だつた。
「
買ひ得るか
一
父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は電火にでも、打たれたやうに、ハツと
やつぱり、自分の子供らしい想像は当つたのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らしたに
「縁談のお話が、
瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だつた。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、ゐられない女だつた。
瑠璃子の抗議を、父は憫むやうに笑つた。
「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云ふ名目で、
父の眼は、激怒のために、狂はしいまでに、輝いた。さう云はれると、瑠璃子は、一言もなかつたが、さうした縁談の相手は、一体誰だらうかと、思つた。
「
「此年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしてゐる。政戦三十年、家も邸も抵当に入つてゐる。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」
父は、
が、それに付けても、杉野子爵は、何の
「
「何でも、今日の縁談の申込み手と云ふのが、ホラ瑠璃さんも行つたゞらう、此間園遊会をやつた荘田と云ふ男らしいのだ。」
父は何気なく云つた。が、荘田と云ふ名を聞くと、瑠璃子は直ぐ、豹の眼のやうに恐ろしい執拗なその男の眼付を思ひ出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあつたけれども、悪魔に頬を、舐められたやうな気味悪さが、全身をゾク/\と襲つて来た。
二
荘田と云ふ名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思つたのも、無理ではなかつた。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な
太いガサツな眉、二段に畳まれてゐる鼻、厚い唇、いかにも自我の強さうな表情、その顔付を思ひ出して見る
瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかつた。容易に、その事を信ずることが出来なかつた。
「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰しやつたのでございますの?」
「確かに、あの男だと云はないが、
父は相手の無礼を怒つたものゝ、先方に深い悪意があらうとは思はないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直つてゐるらしかつた。
が、瑠璃子はさうではなかつた。此の求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰ひたいと云ふやうな単なる虚栄心だとは、
瑠璃子は思つた。自分が傷つけた蛇は、ホンの僅な恨を酬いるために猛然と、襲ひかゝつてゐるのだと。が、さう思ふと、瑠璃子は却つて、必死になつた。来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の
「いや、杉野の奴一喝してやつたら、一縮みになつて帰つたよ。あゝ云つて置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」
父は、もう凡てが済んでしまつたやうに、何気なく云つた。が、瑠璃子にはさうは思はれなかつた。一度飛び付き損つた蛇は、二度目の飛躍の準備をしてゐるのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目の準備まで整つてゐるのかも知れない。さう思ふと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女の誇が、烈火のやうに激しく燃えるのを感じた。
「本当に口惜しうございます。あんな男が
瑠璃子は、興奮して、涙をポロ/\落しながら云つた。それは口惜しさの涙であり、
「だから、聴かない方が、いゝと云つたのだ。さうだ! 杉野が怪しからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、彼奴が怪しからんのだ。が、あんな堕落した人間の云ふことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時までも、
父は、瑠璃子を慰めるやうに、快活に笑つた。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になつてゐた。何時までも、父の傍にゐて、父の理解者であり、慰安者であらうと思つた。
「
さう云つて瑠璃子は初めてニツコリ笑つた。嵐の過ぎ去つた後の平和を思はせるやうな、寂しいけれども静かな美しい微笑だつた。
三
二つの忌はしい事件が、渦を捲いて起つた日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のやうな寂しさに、包まれてしまつた。
家出した兄からは、ハガキ一つ来なかつた。父は父でおくびにも兄の事は云はなかつた。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと云ふことを、父は夢にも思つてゐないらしかつた。自分を捨てた子の為には、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかつた。
かうした父と兄との間に挟まつて、たゞ一人、心を傷めるのは瑠璃子だつた。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探つて見た。兄が、その以前父に隠れて通つたことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑してゐる二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処でも兄の消息は判らなかつた。
兄の友達の二三にも、手紙で訊き合して見た。が、どの返事も定まつたやうに、兄に暫らく会つたことがないと云ふやうな、頼りない返事だつた。
突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては何事も起らなかつた。十日経ち二十日経つた、父は、その事をもうスツカリ忘れてしまつたやうだつた。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のやうに、何となく気がかりだつたが、一度
その裡に五月が過ぎ六月が来た。政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のやうに書斎にばかり、閉ぢ籠もつてゐた。瑠璃子は何うかして、父を慰めたいと思ひながらも、父の暗い眉や凋びた口の
六月のある晴れた朝だつた。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾された心も、だん/\薄らいで行く頃だつた。瑠璃子は、その朝、顔を洗つてしまふと
父宛に来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だつた。その朝は、父宛の書留が一通
『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思つた。さうした書状を見る毎に、
彼女は、何気なく封を破つた。が、それは
債権譲渡通知書
通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合に依り荘田勝平殿に譲渡し候に付き通知候也
大正六年六月十五日
通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合に依り荘田勝平殿に譲渡し候に付き通知候也
大正六年六月十五日
通知人 川上万吉
被通知人 唐沢光徳殿
荘田勝平と云ふ名前が、目に入つたとき、その書式を持つてゐる瑠璃子の手は、その儘しびれてしまふやうな、厭な重くるしい
悪魔は、その爪を現し始めたのである。
四
相手が、あの儘思ひ切つたと思つたのは、やつぱり自分の早合点だつたと瑠璃子は思つた。求婚が一時の気紛れだと思つたのは、相手を善人に解し過ぎてゐたのだ。相手はその二つの眼が示してゐる通り、やつぱり恐ろしい相手だつたのだ。
が、それにしても何と云ふ執念ぶかい男だらう。父が負うてゐる借財の証書を買入れて、父に対する債権者となつてから、一体何うしようと云ふ積りなのかしら。卑怯にも陋劣にも、金の力であの清廉な父を苦しめようとするのかしら。さう思ふと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤る熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つやうに思つた。
父の借財は多かつた。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかつた。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかつた。父が持つて生れた任侠の性質は、頼まるゝ毎に連帯の判も捺した。手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。さうした父の、金に対する豪快な遣り口は、最初から多くはなかつた財産を、何時の間にか無一物にしてしまつた。が、財産は無くなつても、父の気質は無くならなかつた。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまふと、高利貸の手からさへ、借ることを敢てした。住んでゐる家も、手入は届いてゐないが、可なりだゞつ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入つてゐることを、瑠璃子さへよく知つてゐる。
金力と云つたものが、丸切り奪はれてゐる父が、黄金魔と云つてもよいやうな相手から、赤児の手を捻ぢるやうに、
瑠璃子は、今の場合、かうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭なことだつた。父が、どんなに怒り、どんなに口惜しがるかが余りに見え透いてゐたから。
でも、かうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかつた。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行つて見た。が、父はまだ起きてはゐなかつた。スヤ/\と安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪つてゐる父の
その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも云はなかつた。夜の八時頃、一人で棊譜を開いて盤上に石を並べてゐる父に、紅茶を運んで行つたときにも、父は二言三言瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も云はなかつた。
願はくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にさう祈つた。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかつた。
が、翌日眼を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を想ひ浮べながら、その朝の郵便物に眼をやつたとき、彼女は思はず、口の裡で、小さい悲鳴を挙げずにはゐられなかつた。其処に、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられてゐたのである。
それを取り上げた彼女の手は、思はずかすかに顫へた。もう、父に隠すとか隠さないとか云ふ余裕は、彼女になかつた。彼女はそれを取り上げると、救ひを求むる少女のやうに、父の寝室に駈け込んだ。
父は起きてはゐなかつたが、床の中で眼を覚してゐた。
「お父様! こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時になく上ずツてゐた。
「昨日のと同じものだらう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」
父は、静かにさう云つた。昨日の書状も、父は何時の間にか、見てゐたのである。
瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思はずにはゐられなかつた。
五
唐沢の家を呪咀するやうな、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に依つて運ばれて来た。
「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の蒐まつた方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていゝ。」
父は何気ないやうに、済ましてゐるやうだつたが、然し内心の苦悶は、
が、瑠璃子には相手の心持が、判つてゐる丈、わづかばかりの恨を根に持つて、何処までも何処までも、付き纏つて来る相手の心根の恐ろしさが、しみ/″\と身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になつた。彼の金力を罵つた自分達丈を苦しめる丈なら、まだいゝ、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはゐられなかつた。
かうして、父が負うてゐる総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たつた一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまつた頃であつた。
ある朝、彼女は
彼女は、その朝もオヅ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれてゐた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれてゐる四字に、釘付けにされずにはゐなかつた。それは紛れもなく荘田勝平の四字だつたのである。
黒手組の脅迫状を受けたやうに、悪魔からの挑戦状を受けたやうに、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごつちやになつて、わく/\と胸にこみ上げて来た。
彼女は、その封筒の端をソツと、醜い
父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。暫らくは開いて見ようとはしなかつた。
「何と申して参つたのでございませう。」瑠璃子は、気になつて、
父は、荒々しく封筒を引き破つた。
「何だ!」父の声は、初から興奮してゐた。
「――此度小生に於て、買占め置き候貴下に対する債権に就て、御懇談いたしたきこと
父は、さう云ひながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老い
六
父も瑠璃子も、心の中に戦ひの準備を整へて、荘田勝平の来るのを遅しと待つてゐた。
手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前の坂道を、見下してゐると、
自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬつとその巨きい頭を出したのは、紛れもないあの男だつた。何が嬉しいのか、ニコ/\と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだつた。
瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考へ迷つた。顔を合はしたり、一寸でも言葉を交すのが厭でならなかつた。が、それかと云つて、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、此の人に限つて出ないのは、何だか相手を怖れてゐるやうで彼女自身の勝気が、それを許さなかつた。さうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。彼の男こそ、自分の清浄な処女の誇の前に、愧ぢ怯れていゝのだ。さう思ふと、瑠璃子は
勝平は、瑠璃子の姿を見ると、此間会つた時とは別人ででもあるやうに、頭を叮嚀に下げた。
「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお
かうも白々しく、――あゝした非道なことをしながら、かうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆れたほど、相手は何事もなかつたやうに、平和で叮嚀であつた。
瑠璃子は、一寸拍子抜けを感じながらも、冷たく引き緊めた顔を、少しも緩めなかつた。
「
瑠璃子は、さう高飛車に云ひながら、二階の父の居間に取つて返した。
「やつて来たな。よし、下の応接室に通して置け。」
瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にさう云つた。
応接室に案内する間も、勝平は叮嚀に而も馴々しげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかつた。
「やあ!」挨拶とも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入つて来た。父は相手と初対面ではないらしかつた。二三度は会つてゐるらしかつた。が、苦り切つたまゝ時候の挨拶さへしなかつた。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿ふ縁側の椅子に、主客には見えないやうに、そつと腰をかけながら、一語も洩さないやうに相手の話に耳を聳てた。
「此の間から、一度伺はう/\と思ひながら、つい失礼いたしてをりました。今度、閣下に対する債権を、私が買ひ占めましたことに就ても、屹度私を
勝平は、いかにも鄭重に、恐縮したやうな口調で、ボツリ/\話し始めたのであつた。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のやうに、気味の悪い生あたゝかさを持つた口調だつた。
「うむ。志! 借金の証書を買ひ蒐めるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭から嘲るやうに
「ございますとも。」相手は強い口調で、而も下手から、さう云ひ返した。
七
「
さう云つて、勝平は叮嚀に言葉を切つた。老狐が化さうと思ふ人間の前で、木の葉を頭から被つてゐるやうな白々しさであつた。人を馬鹿にしてゐる癖に、態度
「殊に近頃になつて、所謂政界の名士達なるものと、お
父は黙々として、一言も発しなかつた。いざと云ふ時が来たら、一太刀に切つて捨てようとする
「いつか、日本倶楽部で、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、
父が、面と向つてのお世辞に、苦り切つてゐる有様が、室外にゐる瑠璃子にもマザ/\と感ぜられた。
「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金
さう云つて、言葉を切つた、がいかにも恐縮に堪へないと云ふ口調で、
「ところが、その申込が杉野さんの思ひ
一寸殊勝らしく声を落しながら、
「その倅とても、年こそお嬢様に似合ひでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、
虚心平気に、勝平の云ひ分を聴けば、無躾なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思はれなかつた。が、瑠璃子にはさうではなかつた。瑠璃子と、その恋人とを思ひ知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪つて、自分の妻に――名前
八
瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされてゐる。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい
父を
が、瑠璃子の心配は無駄だつた。父は相手が長々と
「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考ふる所あつて、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限
父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で云ひ放つた。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずにはゐられなかつた。何と云ふ凜々しい態度であらう。どんなに此の先苦しまうとも、あゝした父を、父としてゐることは、何といふ幸福であらうかと思ふと、熱い涙が知らず識らず、頬を伝つて流れた。
真向から平手でピシヤツと、
「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」
相手の言葉付は、一眸の裡に変つてゐた。豹だ、一太刀受けて、
「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、云ひ張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ。はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を蔑すみ切つたやうに
「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになつたために、何時の間にか、僻んでおしまひになつたと見える。此の荘田が、誠意誠心申上げてゐることが、お分りにならない。」
相手も、負けてはゐなかつた。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上つたのだつた。
「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買ふと云ふ恥知らずに、誠意などがあつて、堪るものか。出直してお出なさい!」父は、低い力強い声で、さう罵つた。
「よろしい! 出直して参りませう。閣下、覚えて置いて下さい! 此の荘田は、好意を持つてをりますと同時に、悪意も人並に持つてゐるものでございますから。お言葉に従つて、いづれ出直して参りますから。」さう云ひ捨てると、相手は荒々しく
瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立つてゐた。半白の髪が、逆立つてゐるやうにさへ見えた。
「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄つた。
「あゝ瑠璃子か。聞いてゐたのか。さあ! お前もしつかりして、飽くまでも戦ふのだ。強くあれ、さうだ飽くまでも強くあることだ!」
さう云ひながら父は、彼の痩せた
罠
一
羊の皮を被つて来た狼の面皮を、真正面から、引き剥いだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝつて来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあつた。
が、その狼の毒牙は、法律に依つて、保護されてゐる毒牙だつた。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。
勝平に買ひ占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であつた。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増えて行つたものゝ、
六月の末日が、段々近づいて来るに従つて、父は毎日のやうに金策に奔走した。が、三万を越してゐる巨額の金が、現在の父に依つて容易に、才覚さるべき筈もなかつた。
朝起きると、父は蒼ざめながらも、
「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶する外は何の言葉もなかつた。が、送り出す時は、まだよかつた。其処に、僅でも希望があつた。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然と帰つて来る父を迎へるのは、何うにも堪らなかつた。父と娘とは、黙つて一言も、交はさなかつた。お互の苦しみを、お互に知つてゐた。
今迄は、元気であつた父も、折々は嗟嘆の声を出すやうになつた。夕方の食事が済んで、父娘が向ひ合つてゐる時などに、父は娘に詫びるやうに云つた。
「皆、お父様が悪かつたのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れてゐたのぢや。
父の
父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられてゐた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断つた。断られると、潔癖な父は、二度と頼まうとはしなかつた。
六月が二十五日となり、二十七日となつた。連日の奔走が無駄になると、父はもう
今年の春やつと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、何うしようと云ふ術もなかつた。彼女は、たゞオロ/\して、一人心を苦しめる
彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也がある丈だつた。が、彼女は恋人に、まだ何も云つてゐなかつた。
家の窮状を訴へるためには、いろ/\な事情を云はなければならない。荘田の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云はなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云はなければならない。それでは、恋人に訴へるのではなくして、恋人を責めるやうな結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分つてゐた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに
父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何の
二
もう、明日が最後の日といふ六月二十九日の朝だつた。荘田勝平の代理人と云ふ男が、瑠璃子の家を訪づれた。鷲の
父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨を相手に伝へると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、
「いや、お会ひ下さらなくつても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝へ下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、
「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。
瑠璃子が、大理石で作つた女神の像のやうに、冷たく化石したやうな美しい顔の、眉一つ動かさず黙つて聞いてゐるために、男はある威圧を感じたのであらう。さう云つてしまふと、コソコソと、逃ぐるやうに去つてしまつた。
父に、この督促を伝へようかしら。が伝へたつて
「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴へる!」
父はさう云つて、腕を
「執達吏を寄越すと云ふのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違つたら、競売にすると云ふのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」
父は、元気らしく笑はうとした。が、それは空しい努力だつた。瑠璃子の眼には、笑はうとする父の顔が、今にも泣き出すやうに力なくみじめに見えた。
「何うにかならないものでございませうか、ほんたうに。」
父の大事などには、今迄一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生のたしなみを忘れてしまつた。
父も、それに釣り込まれたやうに、
「さうだ! 本多さへ早く帰つてをれば、
父は、娘に対する虚勢も捨てたやうに、首をうな垂れた。さうだ、父の莫逆の友たる本多男爵さへ日本にをればと、瑠璃子も考へた。が、その人は、宮内省の調度頭をしてゐる男爵は、内親王の御降嫁の御調度買入れのために、欧洲へ行つてゐて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだつた。
住んでゐる家に、執達吏が、ドヤ/\と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ/\と付ける。さうした光景を、頭の中に思ひ浮べると、瑠璃子は生きてゐることが、味気ないやうにさへ思つた。
父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間も坐つてゐた。いつまで、坐つてゐても
その時である。また唐沢家を訪ふ一人の来客があつた。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかつたけれど。
三
父と
が、父は久し
「何うだい! 面白い事でもあるかい!」
父は、心の
「お蔭さまで此の頃は、何うにかかうにか、一本立で食つて行けるやうになりました。もう、二年お待ち下さい! その
さう云ひながら、得意らしく哄笑した。此の場合の父には、さうした相手のお世辞さへ嬉しかつた。
「さうかい! それは、結構だな、俺は、相変らず貧乏でなう。年頃になつた娘にさへ、いろ/\の苦労をかけてゐる始末でなう。」
父はさう云ひながら、茶を運んで行つた瑠璃子の方を、詫びるやうに見た。
「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。此の頃ポツ/\新聞などに噂が出ますやうに、若し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るやうな事がありましたら、閣下などは、誰を差し措いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、報はれないで了ると云ふことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思はずかうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参つたのは、一寸お願ひがあるのです。」
さう云ひながら、その男は立ち上つて、応接室の入口に、立てかけてあつた風呂敷包を、
「実は、
瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂に入つてゐた。殊に北宗画南宗画に於ては、その道の権威だつた。
「うむ! 品物は
「
「馬鹿な。」父は頭から嘲るやうに云つた。「そんな品物が、君達の手にヒヨコ/\あるものかね。それに、見れば、大幅ぢやないか。まあ黙つて持つて帰つた方がいゝだらう。見なくつても分つてゐるやうなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」
父は、
「閣下に、さう手厳しく出られると、一言もありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。贋物は覚悟の前ですから。持つてゐる当人になると、怪しいと思ひながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」
四
久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は
「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰ひたいね。」父は余儀なささうに云つた。
「いや決して、直ぐ只今見て下さいなどと、そんな御無理をお願ひいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、何うかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に
「だが、夏珪の山水なんて、大した品物を預つておいて、
父は、品物が贋物であることに、何の疑ひもないやうに笑つた。
「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です。ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言仰しやつて下さると当人も諦めが、付くものですから。」
相手に、さう如才なく云はれると、父も断りかねたのであらう。口では、承諾の旨を答へなかつたけれども、
その用事が、片付くと客は、取つて付けたやうに、政局の話などを始めた、父は暫らくの間、興味の乗らないやうな合槌を打つてゐた。
客が、帰つて行くとき、父は玄関へ送つて出ながら、
「凡そ何時取りに来る?」と訊いた。やつぱり、軸物のことが少しは気になつてゐるのだつた。
「御覧になつたら、ハガキででも、御一報を願へませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」
客は幾度も繰返しながら、帰つて行つた。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、
「
「あ、さう。やつぱり一寸見て置くかな。どうせ贋に
さう云ひながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くと
「瑠璃さん! 一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」
瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸つて居る、父が好きな維新の志士雲井龍雄の書の上へ、夏珪の山水を展開した。
先づ初め、層々と聳えてゐる
父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかつた。が、ぢつと見詰めてゐる眸には感激の色がアリ/\と動いてゐた。五分ばかりも黙つてゐただらう。父は感に堪へたやうに、もう黙つてはゐられないやうに云つた。
「逸品だ。素晴らしい逸品だ。此間、伊達侯爵家の売立に出た夏珪の『李白観瀑』以上の逸品だ!」
父は熱に浮かされたやうに云つてゐた。夏珪の『李白観瀑』は、つい此間行はれた伊達家の大売立に九万五千円と云ふ途方もない高値を附せられた品物だつた。
五
「不思議だ! 木下などが、こんな物を持つて来る!」父は暫らくの間は魅せられたやうに、その山水図に対して、立つてゐた。
「そんなに、此絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、かう訊いた。
「いゝとも。
父は、名画を見た欣びに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたやうに、瑠璃子に教へた。
「さうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物だからいくら預つてゐても、心配ないと思つて預つたが、本物だと分ると急に心配になつた。さうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に
父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、さう云つた。
瑠璃子は、それを持つて、二階への階段を上りながら思つた。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。此の一幅さへあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であらうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さへある。それと同時に、同じ金額のために、いろ/\な侮辱や迫害を受けてゐる自分達父娘もある。さう思ふと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示してゐるやうに思はれて、その品物に対して、妙な反感をさへ感じた。
その日の午後、二階の居間に閉ぢ籠つた父は、
あんなに、父が昂奮してゐるとすると、若し明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思ふと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なつて来るやうで、こんな時家出した兄でも、ゐて呉れゝばと、取止めもない愚痴さへ、心の裡に浮んだ。
その日、五時を廻つた時だつた。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云つた。もう、金策の
「何処へ行らつしやるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止めるやうに云つた。
「いや、木下から預つた軸物が急に心配になつてね。これから行つて、届けてやらうと思ふのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思はずに、預けたのだらうから。」父の答へは、何だか曖昧だつた。
「それなら、直ぐ手紙でもお出しになつて、取りに参るやうに申したら、如何でございませう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だつた。
「いや、一寸行つて来よう。殊に此家は、何時差押へになるかも知れないのだから。預つて置いて差押へられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するやうに云つた。さう云へば、父が直ぐ返しに行かうと云ふのにも、訳がないことはなかつた。
が、父が車に乗つて、その軸物の箱を肩に
六
到頭呪はれた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとした朗かな朝だつた。明るい日光の降り注いでゐる庭の樹立では、朝早くから蝉がさん/\と鳴きしきつてゐた。
が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のやうに澱んでゐた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰つて来たことが、彼女の新しい心配の種だつた。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だつたのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗な圧迫のために、自棄になつたのではないかと思ふと、その事が一番彼女には心苦しかつた。
つい此間来た、鷲の嘴のやうな鼻をした男が、今にも玄関に現れて来さうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、ぢつと坐つてゐることさへ、出来なかつた。あの男が、父に直接会つて、弁済を求める。父が、
父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合はせたときにも、苦り切つたまゝ一言も云はなかつた。
が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あか/\と照し出す頃になつても、あの男は来なかつた。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思ふと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたやうな、心持にさへならうとした。
が、然し悪魔に手抜かりのある筈はなかつた。その
「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺ひました方が、御都合が、およろしからうと思ひましたのですから、お父様は御在宅でせうか。」
瑠璃子が、出迎へると、その男は妙な薄笑ひをしながら、言葉
来る者が、到頭来たのだと思ひながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧き立つて来るのだつた。
「お父様! 荘田の使が参りました。」
さう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに顫へを帯びるのを、何うともする事が出来なかつた。
「よし、応接室に通して置け。」
さう云ひながら、父は傍の手文庫を無造作に開いた、部屋の中は可なり暗かつたが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束が、――さうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ/\と見えた。
瑠璃子は、思はず『アツ!』と声を立てようとした。
七
父の手文庫に思ひがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、
瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るやうに、無言のまゝぢつと見詰めて居た。
父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たやうに、ペコ/\した。
「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、荘田に使はれてをりまする矢野と申しますものでございます。今日は止むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願ひ致しまする次第で、何の御猶予も致しませんで、誠に恐縮致してをる次第でござります。」父は、さうした挨拶に返事さへしなかつた。
「証文を出して呉れたまへ。」父の言葉は、匕首のやうに鋭く短かつた。
「はあ! はあ!」
相手は、
父は、ぢつと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにしてゐた札束を、相手の面前に、突き付けた。
相手は、父の鋭い態度に、オド/\しながら、それでも一枚々々
「荘田に言伝をしておいて呉れたまへ、いゝか。俺の云ふことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れ給へ。此の唐沢は貧乏はしてゐる。家も邸も抵当に入つてゐるが、金銭のために首の骨を曲げるやうな腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞ。といゝか。帰つて、さう云ふのだ! 五万や十万の債務は、期限
父は、犬猫をでも叱咤するやうに、低く投げ捨てるやうな調子で云つた。相手は何と、罵られても、兎に角厭な役目を満足に果し得たことを、もつけの幸と思つてゐるらしく、一層丁寧に慇懃だつた。
「はあ! はあ! 畏まりました。主人に、さう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと云ふ者は、金ばかりありましても、人格などと云ふものは皆目持つてゐない者が、多うございまして、私の主人なども、使はれてゐる者の方が、愛想を尽かすやうな、卑しい事を時々、やりますので。いや、閣下のお
丁度
卒として帰つて行つた。さうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴したのだつた。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる本多男爵も帰つて来る。さう思ふと、瑠璃子はホツと一息ついて安心しなければならない筈だつた。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もつと
「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかつたなう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」
父は、客が帰つた後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にさう云つた。
が、瑠璃子の心は、怏々として楽しまなかつた。
『お父様! あなたは、あの大金を何うして才覚なさつたのです。』
さう云ふ不安な、不快な、疑ひが咽喉まで出かゝるのを、瑠璃子は、やつと抑へ付けた。
ユーヂット
一
一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟のやうに見出された、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子の心の新しい不安は、日の経つに連れても、容易には薄れて行かなかつた。
七月も
荘田の、思ひ出す
が、それは瑠璃子の空しい
七月の末だつた。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると云つて、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔を合せた
「何の用事だらう?」
父は、一寸不審さうに首を傾けた。警視総監と云つたやうな言葉
が、父は何か考へ当る事があつたのだらう、割合気軽に出かけて行つた。が、掻き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送つた後も、暫らくは静まらなかつた。
父は、一時間も経たぬ間に帰つて来た。瑠璃子は、ホツと安心して、いそ/\と玄関に出迎へた。
が、父の顔を一目見たとき、彼女はハツと立竦んでしまつた。容易ならぬ大事が、父の身辺に起つたことが、直ぐそれと分つた。父の顔は、土のやうに暗く蒼ざめてゐた。血の色が少しもないと云つてよかつた。眼
「お帰りなさいまし。」と、云ふ瑠璃子の言葉も、しはがれたやうに、咽喉にからんでしまつた。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しさうに、コソ/\と二階へ上つて行かうとした。
父の狼狽したやうな、血迷つたやうな姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になつてしまつた。彼女は、父を慰めよう、訳を訊かうと思ひながら、オヅ/\父の後から、
が、父は自分の居間へ入ると、後から随いて行つた瑠璃子を振り返りながら云つた。
「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いて呉れ!」
父の言葉は、云ひ付けと云ふよりも哀願だつた。父としての力も、権威もなかつた。
それにふと気が付くと、さう云つた刹那、父の二つの眼には、抑へかねた涙が、ほた/\と湧き出してゐるのだつた。
父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たつた一度だつた。
瑠璃子は、父にさう云はれると、止むなく自分の部屋に帰つたが、一人自分の部屋にゐると、墨のやうな不安が、胸の中を一杯に塗り潰してしまふのだつた。
夕食の案内をすると、父は、『喰べたくない』と云つたまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと云ふ物音一つさせなかつた。
十時が来ると、寝室へ移るのが、例だつた。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上つて行つた。そして、オヅ/\
「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としてゐた父は、手を拱ねいたまゝ、振向きもしないで答へた。
「俺は、もう少し起きてゐるから、瑠璃子さんは先きへお寝なさい!」
さう云はれると、瑠璃子は、
二
二十分経ち三十分経つても、父は寝室へ行くやうな様子を見せなかつた。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするやうな物音一つ聞えて来なかつた。瑠璃子も、息を凝しながら、ずつとほの暗い廊下の
十二時を打つ時計の音が、階下の闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかつた。
夜が、深くなつて行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だん/\深くなつて行つた。十二時を打つのを聞くと、もうぢつと、廊下で待つてゐられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。云ひ争つてでも、父を寝室へ連れて行かうと決心した。彼女が、さう決心して、
『
さう思つた瞬間に、瑠璃子は鉄槌で叩かれたやうに、激しい
「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だつた。が、瑠璃子が、さう声をかけた瞬間、今迄
「お父様! お開けなすつて下さい! お父様!」
瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかつた。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スツカリ動顛させてしまつた。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充ち溢れた。彼女は、
「お父様! お父様! お開けなすつて下さい!」
彼女の声は、狂女のそれのやうに、物凄かつた。魔物に、その可憐な弟を奪はれて、鉄の
「お父様! 何うして茲をお閉めになるのです。茲をお閉めになつて何う遊ばさうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」
が、父は何とも返事をしなかつた。父が返事をしない事に依つて、瑠璃子は、目が眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入らうと、
彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。
「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。何う遊ばさうと云ふのです。此瑠璃を捨てゝ置いて何う遊ばさうと云ふのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きてゐないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございませうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいぢやございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。兎に角、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」
狂つたやうに、
その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更の暗を物凄く顫はせるのだつた。
三
よゝと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凜々しく奮ひ起して、女々しく泣き崩れてゐるべき時ではないと思つた。彼女は、最後の力、その繊細な身体にある
「お父様!」と、上ずツた言葉が、彼女の唇を洩れると共に、彼女は暫らくは失神したやうに、父の
気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だつた。
「瑠璃さん! あはれんでお呉れ! お父さんは死に損つてしまつたのだ! 死ぬことさへ出来ないやうな臆病者になつてしまつたのだ! お前の声を聞くと、私の決心が訳もなく崩されてしまつたのだ! お前に恨まれると思ふと、お父様は死ぬことさへ出来ないのだ。」
父は、瑠璃子の昂奮が、漸く静まりかけるのを見ると、呟くやうに語り始めた。
「まあ、何を
「あゝ恥しい。それを訊いて呉れるな!
父は、座にも堪へないやうに、身悶えして口惜しがつた。握つてゐる拳がブル/\と顫へた。
「彼奴と
瑠璃子も烈しい昂奮に、眼の色を変へながら、父に詰め寄つて訊いた。
「今から考へると、見え透いた罠だつたのだ。が、木下までが、
父は、木下が
「へえ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も暫らくは茫然となつた。
「
「木下が、
瑠璃子も、父の激昂に誘はれて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問ひ詰めた。
「此間、彼奴が持つて来た軸物を、何だと思ふ、あれが、
父は、眼を熱病患者のそれのやうに光らせながら、ぢつと瑠璃子を見下した。
「あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しく
「何の為でございましたらう。何だつてそんなことを致したのでございませう。でも、お父様はあの晩、直ぐお返しになつたではございませんか。」
瑠璃子が、さう云ふと父の顔は、見る/\曇つてしまつた。彼は、崩れるやうに後の腕椅子に身を落した。
「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやつぱり卑しかつたのだ。」
父は、さう云ふと肉親の娘の視線をも避けるやうに、
四
暫らくは、強い緊張の裡に、父も子も黙つてゐた。が、父はその緊張に堪へられないやうに、
「瑠璃さん! お前にスツカリ云つてしまはう。
父は、のたうつやうに、椅子の中で、身を悶えた。
「それで、それで、何うなつたと云ふのでございます。」
彼女は、身を顫はしながら訊いた。卓の上にかけてゐる白い蝋のやうな手も、烈しい顫へを帯びてゐた。
「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴は、
父は吐くやうに云つた。蒼白い頬が烈しく痙攣した。
「そんな事が罪になるのでございますか。」
瑠璃子の眼も血走つてしまつた。
「なるのだ! 逆に取つて、逆に出るのだから、堪らないのだ。預つてゐる他人の品物は、売つても質入してもいけないのだ。」
「でも、そんなことは、世間に
「さうだ! そんなことは幾何でもある、
瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしい
「人非人
彼女は、平生のたしなみも忘れたやうに、身を悶えて、口惜しがつた。
「お前が、さう思ふのは無理はない。お父様だつて、昔であつたら、そのまゝにはして置かないのだが。」
父の顔は
「あゝ、男でしたら、男に生れてゐましたら。残念でございます。」
さう云ひながら、瑠璃子は卓の上に、泣き伏した。
何処かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切つて、遠くから響いて来る電車の音さへ、絶えてしまつた。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん/\と迫つて来た。
「それで、その告訴は
瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配さうに訊いた。
涙に洗はれた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いてゐるのであつた。
五
「さあ! 其処なのだ! 今日警視総監が、個人として
父は低くうめくやうに云つて来たが、茲まで来ると急に烈しい調子に変りながら、
「だが、瑠璃子考へておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさへ、
瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のやうに黙つて聴いてゐた。火のやうに熱した身体中の血が今は却つて、氷のやうに冷たくなつてゐた。
「
父は、さう云ひながら、心の裡の苦しさに堪へられないやうに、頻りに身を悶えた。
「が、
父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いてゐた。彼は、子に対する愛に依つて、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救はれようとしてゐるのだつた。
六
さうだ! 子の心は、凄じい憤怒と復讐の一念とに、湧き立つた。父が、子に対する愛のために、敵の与へた恥辱を忍ばうとするのに拘はらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂つてしまつた。
「お父様、それでいゝのでございませうか。お父様! 金さへあれば悪人がお父様のやうな方を苦しめてもいゝのでございませうか。而も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云ふ、そんなことが、許されることでございませうか。」
瑠璃子は、平生のおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるやうに、熱狂してゐた。父は子の激昂を
「いゝえ!
「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるやうな、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦つて、相手の悪意を懲しめてやつて下さいませ。あゝ
瑠璃子は、熱に浮かされたやうに、昂奮して叫び続けた。
「が、瑠璃子! 法律と云ふものは人間の行為の形
「
気が狂つたのではないかと思ふほど、瑠璃子の言葉は烈しくなつた。父は呆気に取られたやうに、子の口もとを見詰めてゐた。
「金の力が、万能でないと云ふことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるやうな事がございましたら、荘田は何と思ふか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思ひ知らせてやらねばなりません。金の力などは、本当の正義の前には
さう云ひながら、瑠璃子は父の顔をぢつと見詰めてゐたが、思ひ切つたやうに云つた。
「お父様! お願ひでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しませうと、
瑠璃子の顔に、鉄のやうに堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と愛児の顔を見詰めてゐた。
「お父様?[#「?」はママ]
七
「ユーヂット?」老いた父には、娘の云つた言葉の意味が分らなかつた。
「左様でございます。
「その娘にならうと云ふのは、どう云ふ意味なのだ!」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になつてゐた。
「ユーヂットにならうと申しますのは、
瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く氷の如く冷やかであつた。
「えーツ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然となつてしまつた。
「お父様! お願ひでございます。どうか、
瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。
「馬鹿なツ!」父は、烈しい、然し慈愛の籠つた言葉で叱責した。
「馬鹿なことを考へてはいけない! 親の難儀を救ふために子が犠牲になる。親の難儀を救ふために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考へる。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考へる。お
父は、思ひの外に、激昂して、瑠璃子をたしなめるやうに云つた。が、瑠璃子は、ビクともしなかつた。
「お父様! お考へ違ひをなさつては、困ります。お父様の身代りにならうなどと、そんな消極的な動機から、申上げてゐるのではありません。
瑠璃子は、昂然と現代の烈女と云つてもいゝやうに、美しく勇ましかつた。
「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、
「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凜然と火花を発するやうに云つた。
「お父様、昔
八
瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれてゐた。牝獅子の乳で育つたと云ふ野蛮人の猛将を、細い
「
二千有余年も昔の、
が、父は冷静だつた。彼は、熱狂し過ぎてゐる娘を、
「瑠璃子! お前のやうに、さう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考へては困る。数万の人の命に代るやうな、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違ひない。が、あんな獣のやうな卑しい男を、懲すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を
「だが、お父様!」と、瑠璃子は直ぐ抗弁した。
「相手は、お父様の
瑠璃子は、処女らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨てゝしまつたやうに、叫びつゞけた。
父は、子の烈しい勢を、持ち扱つたやうに、黙つて聞いてゐた。
「それに、お父様! ユーヂットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかつたからです。
其処には、もう優しい処女の姿はなかつた。相手の卑怯な執念深い迫害のために、到頭最後の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取つて立ち上がつた彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のやうに美しく凄愴だつた。
「瑠璃さん! あなたは、今夜は
「でも、お父様!」瑠璃子は少しも屈しなかつた。「
瑠璃子の興奮は何処までも、続くのだつた。父は黙々として、何も答へなくなつた。父と娘との必死な問答の裡に、幾時間も経つたのであらう、明け易い夏の夜は、ほの/″\と白みかけて居た。
美奈子
一
「はゝゝゝ、唐沢の奴、
荘田は、籐製の腕椅子の裡で、身体をのけ反るやうにしながら、哄笑した。
「どうも、
木下は、
「あゝいゝよ。分つてゐるよ。君の苦衷も察してゐるよ。
荘田は、その赤い大きい顔の相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のやうに、得意な哄笑を笑ひ続けた。
「どうだ! 俺が云つた
此の世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることの無いやうに、勝平は得意だつた。
「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思つてゐるのです。何うもやりさうですよ。
「うむ! 自殺かね。」
「はゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はさう易々とは、死なないよ。いや待つてゐたまへ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさへすれば、さうは
「それでも、もしお嬢さんをよこすと云つたら御結婚になりますかね。」
「いや、それだがね、
「御子息の嫁に!」
さう云つたまゝ、木下は二の句が継げなかつた。荘田の息、勝彦と云ふその息は、
「なに、
荘田は、何物も恐れないやうに、傲然と云ひ放つた。
丁度、その時だつた。荘田の背後の
「電報! 電報!」と、誰かゞ大声で叫んだ。
二
「電報! 電報!」
「おい! 勝彦! おい! よさないか、お客様がゐるのだぞ。おい! 勝彦!」
客を憚つて、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかつた。
「電報! 電報!」強い力で、
「まあ! お兄様! 何を遊ばすのです。さあ!
「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ、美奈さん。」男は抗議するやうに云つた。
「あら! 電報ぢやありません、お客様の御名刺ぢやありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」
さうした問答が、聞えたかと思ふと、
「お父様! お客様でございます。」
客に、丁寧に会釈をしてから、父に向つて名刺を差し出しながら、しとやかさうに云つた。傲岸な父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は狼に伍した羊のやうに、美しく、しとやかだつた。
「木下さん。これが娘です。」
さう云つた荘田の顔には、娘自慢の得意な微笑が、アリ/\と見えた。が、彼の眼が、開かれた
「あゝ美奈さん。兄さんを早う向うへ連れて行つてね。それから、杉野さんをお通しするやうに。」
娘に、優しく云ひ付けると、客の方へ向きながら、
「御覧の通りの馬鹿ですからね。唐沢のお嬢さんのやうな立派な聡明な方に、来ていたゞいて、引き廻していたゞくのですね。はゝゝゝゝ。」
馬鹿な長男が去ると、荘田は又以前のやうな得意な傲岸な態度に還つて行つた。
其処へ、小間使に案内されて、入つて来たのは、杉野子爵だつた。
「やあ! 荘田さん! 懸賞金はやつぱり私のものですよ。到頭、先方で
「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」荘田は、凱旋の将軍のやうに哄笑した。
「案外脆かつたですね。」木下は傍から、合槌を打つた。
「それがね。令嬢が、案外脆かつたのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思ふのです。私の所へ、今朝そつと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉れるのなら荘田家へ輿入れしてもいゝと云ふのです。」
「なるほど、うむ、なるほど。」
荘田は、血の臭を嗅いだ食人鬼のやうに、満足さうな微笑を浮べながら、肯いた。
「ところが、令嬢に註文があるのです。荘田君! お欣びなさい! 私に対する懸賞金は
さう云ひながら、子爵はポケットから、瑠璃子の手紙を取り出した。丁度
三
凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするやうに、荘田は瑠璃子が杉野子爵宛に寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと云つたやうな、賤しい微笑が、その赤い顔一面に拡がつた。
「うむ! 成る程! 成る程!」
舌鼓をでも打つやうに、一句々々を貪るやうに読み了ると、彼は腹を抱へんばかりに哄笑した。
「はゝゝゝゝ。強いやうでも、やつぱり
王女のやうに、美しく気高い処女を、到頭征服し得たと云ふ欣びに、荘田は有頂天になつてゐた。彼は、
「お嬢さんに、さう云ふのだ。俺の手提金庫に小切手帳が入つてゐるから持つて来るやうに。」と命じた。
良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、
「十八の娘にしては、なか/\達筆だ! 文章も立派なものだ!」
荘田は、尚飽かず瑠璃子の手紙に、魂を擾されてゐた。
が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依つて、魂を擾されてゐたのは荘田勝平
瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、一通の手紙を送つた。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のやうな心とで書いた。直也に送つた手紙は、熱い涙と堅い鉄のやうな心とで書いた。
荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天になつたと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたやうに思つた。
父を恐ろしい恥辱より救ひ、唐沢一家を滅亡より救ふ道は、これより外にはないのでございます。……
法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。妾 の行動を奇嬌だとお笑ひ下さいますな。芝居気があるとお笑ひ下さいますな。現代に於ては、万能力を持つてゐる金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、さうです、妾 はありとあらゆる手段と謀計とで以て、妾 の貞操をあの悪魔のために汚 されないやうに努力する積 です。北海道の牧場では、よく牡牛と羆 とが格闘するさうです。妾 と荘田との戦ひもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のやうな角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、妾 も、自分の操を汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思ひます。
妾 の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……
が、どうか妾 を信じて下さい。妾 には自信があります。半年と経たない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。
直也様よ、妾 のためにどうか、勝利をお祈り下さい。
法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。
が、どうか
直也様よ、
手紙は、尚続いた。
四
貴君を愛し、また貴君から愛されてゐた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡ての女性らしさを、自分から捨ててしまふのです。凡ての女性らしさを、復讐を神に捧げてしまふのです。愛も恋も、慎しやかさも
次ぎのことを申上げるのは、一番厭でございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君のお父様です。従つて、求婚に対する
それを思ふと、
一句一句鋭い
最初は、
彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除してゐた。
「お父様は何うした。」
彼は女中を叱咤するやうに云つた。
「今しがた、荘田様へ行らつしやいました。」
瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取つたやうに、荘田の所へ馳け付けたのだと思ふと、直也の心は、恐ろしい憤怒のために燃え上つた。
五
美奈子が、小切手帳を持つて来ると、荘田は、傍の小さい
「はゝゝゝゝ、
その次ぎの一葉を、木下も杉野も、
「
食事を与へられた犬のやうに、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出さうとしてゐる時だつた。荘田の
「旦那様! あの杉野さんと云ふ方が、御面会です。」と、云つた。
「杉野!」と、荘田は首を傾げながら云つた。「杉野さんなら
「いゝえ! お若い方でございます。」
「若い方? いくつ位?」と、荘田は訊き返した。
「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」
「うゝむ。」と、荘田は一寸考へ込んだが、ふと杉野子爵の方を振向きながら、
「杉野さん! 貴方の御子息ぢやないかね。」と、云つた。
「私の倅、私の倅がお宅へ伺ふことはない。尤も、私にでも用があるのかな。さうぢやありませんか。私に会ひたいと云ふのぢやありませんか。」
子爵は小間使の方を振り向きながら云つた。小間使は首を振つた。
「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと
「あゝ分つた! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈服しようと云ふ今の場合、是非とも来なければならない方です。さうだ! 私も会ひたかつた。さうだ! 私も会ひたかつた! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしてゐましたと云つてね。貴君方は、別室で待つていたゞくかね。いや、立会人があつた方が、結局いゝかな。さうだ! 早くお通しするのだ!」
興奮した熊のやうに、荘田は
杉野子爵には、荘田の云つた意味が、十分に判らなかつた。何の用事があつて、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかつた。が、それは兎も角、自分が荘田から、邪しい金を受け取らうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いてゐる子が――突然現れて来ることは、いかにも愧しいキマリの悪い事に違ひなかつた。彼は、顔には現はさなかつたが、心の裡では、可なり狼狽した。荘田が、早く気を利かして、小切手帳をしまつて呉れればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早く蔵つて呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考へてゐたけれど、荘田は妙に興奮してしまつて、小切手帳のことなどは、念頭にもないやうだつた。マザ/\と見えてゐる一万円也と云ふ金額が、杉野や木下等の罪悪を、歴々と語つてゐるやうに、子爵には心苦しかつた。
「一体、私の倅は何だつて、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるでせう。」杉野子爵は、堪らなくなつて訊いた。
「いや、今に直ぐ判ります。やつぱり、今度の私の結婚に就てです。が、媒介の
と、荘田は腹を抱へるやうに哄笑した。その哄笑が終らない中に、彼の
六
直也の姿を見ると、荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、傲岸な荘田の心にも鋭い刃物に触れたやうな、気味悪い感じを与へたのに
「いやあ!
「何う云ふ御用か、知りませんが、よく
荘田は、直也と面と向つて立つと、すぐ挑戦の第一の弾丸を送つた。
直也は、それに対して、何かを云ひ返さうとした。が、彼は烈しい怒りで、口の周囲の筋肉が、ピク/\と痙攣する丈で、言葉は少しも、出て来なかつた。
「
荘田はのしかゝるやうに畳かけて訊いた。直也は、心の裡に沸騰する怒りを、何う現してよいか、分らないやうに、暫らくは両手を顫はせながら、荘田の顔を睨んで立つてゐたが、突如として口を切つた。
「
「良心を!」と、荘田は直ぐ受けたが、問が余りに唐突であつたため暫らくは
「さうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君は良心を持つてゐますか。」
直也は、卓を叩かんばかりに、烈しく迫つた。
「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合はしてゐるものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買はされた覚えがある。が、私自身には生憎良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、貴君に云つた通り、金さへあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡つて行けますよ。良心は、羅針盤のやうなものだ。ちつぽけな帆前や、たかが五百
荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じてゐるやうに、出来る
それを聴くと、直也は堪らないやうに、わなわなと身体を顫はせた。
「貴君は、自分がやつたことを恥だとは思はないのですか。卑劣な盗人でも恥ぢるやうな手段を廻らして、唐沢家を迫害し、不倫な結婚を遂げようと云ふやうな、浅ましいやり方を、恥づかしいとは思はないのですか。貴君は、それを恥づる丈の良心を持つてゐないのですか。」
直也は、吃々とどもりながら、威丈高に罵つた。が、荘田はビクともしなかつた。
「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動してゐるのですよ。何を恥ぢる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざ嗤つた。が、御覧なさい! 貴君は、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪はれてしまつたではありませんか。貴君こそ、自分の不明を恥ぢて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此の通り、ちやんと前非を悔いてゐる。御覧なさい! 此の手紙を!」
さう云ひながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のやうな
七
「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、却つて私の妻になりたいと望んでをられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! かう書いてある。あはゝゝ[#「あはゝゝ」は底本では「はあゝゝ」]。
荘田は、得々とその大きな鼻を、うごめかしながら、言葉を切つた。
直也は、湧き立つばかりの憤怒と、嵐のやうな嫉妬に、自分を忘れてしまつた。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向つて、その不正と不倫とを罵り、少しでも残つてゐる荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐な計画を思ひ止まらせようと決心したのだが、実際に会つて見ると、自分のさうした考へが、獣に道徳を教へるのと同じであることを知つた。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄に、直也自身まで、獣のやうに荒んでしまつた。彼の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来た
暴に報ゆるには暴を以てせよ。相手が金を背景として、暴を用ゐるなら、こちらは死を背景とした暴を用ゐてやれ。憤怒と嫉妬とに狂つた直也は、さう考へてゐた。さうした考へが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののやうな決死の相が浮んでゐた。
「
「でなければ、何うすると云ふのです。あはゝゝゝゝゝ。
直也は、無我夢中だつた。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまつた。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、何うにでも叩き潰したかつた。
「中止しなければ……かうするのです。」
さう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されてゐた。その手先には、白い光沢のある金属が鈍い光を放つてゐた。
「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、
直也の父は、狂気のやうに息子の右の腕に飛び付いた。
「直也! 何をするのだ! 馬鹿な。」
その声は、泣くやうな叱るやうな悲鳴に近い声だつた。
父の手が、子の右の手に触れた刹那だつた。轟然たる響は、室内の人々の耳を
その響きに応ずるやうに、荘田も木下も子爵も「アツ。」と、叫んだ。それと同時に、どうと誰かが崩れるやうに倒れる音がした。帛を裂くやうな悲鳴が、それに続いて起つた。その悲鳴は、荘田の口から洩るゝやうな、太いあさましい悲鳴とは違つてゐた。
八
父の手が直也の手に触れた丁度その刹那に、発せられた弾丸は、皮肉にも二十貫に近い荘田の巨躯を避けて、わづかに開かれた
荘田は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危さをも忘れて飛び付くやうに、娘の身体に掩ひかゝつた。
美奈子は、二三度起き上らうとするやうに、身体を悶えた後に、ぐつたりと身体を、青い絨毯の上に横へた。絶え入るやうな悲鳴が続いて、明石縮らしい
「美奈子! 気を
狼狽して、前後左右にたゞウロ/\する、召使の男女を荘田は声を枯して叱咤した。彼はさう云ひながらも、右の掌で、娘の傷口を力一杯押へてゐるのだつた。
直也は、自分の放つた弾丸が、思ひがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪はれた人間のやうに、茫然として立つてゐた。色は土の如く蒼く、眼は死魚のそれのやうに光を失つた。彼はまだ
荘田は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまふと、やつと小康を得たやうに、室内に帰つて来た。その巨きい顔は殺気を帯びて物凄い相を示した。
「お蔭で傷は浅いです。可哀さうに、あれは大層親思ひですから、あんな
彼は、氷のやうな薄笑ひを含んで、直也の顔をマジ/\と見詰めながら云つた。赤手にして一千万円を越ゆる暴富を、二三年の裡に、攫取した
「いや、私は暴に報いるに、暴を以つてしません。たゞ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委せる丈です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息は直ぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでゐて下さい。おい警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直ぐ来て呉れと。いゝか。」
荘田は、冷然として、鉄の如く堅く冷かに、商品の註文をでもするやうな口調で、小間使に命じた。
小間使の方が恐ろしい命令に、躊躇して、ウロ/\してゐる時だつた。仮の繃帯が了つて、自分の部屋へ運ばれようとしてゐた美奈子が、父の烈しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであらう。彼女は、ふり搾るやうな声を立てた。
「お父様! お願ひでございます。
彼女は、哀願するやうに、力一杯の声を出した。
荘田は、娘からの思ひがけない抗議に、
「お前さんの知つたことぢやない。お前さんは、そんなことは、一切考へないで、気を落着けてゐるのだ。いゝか。いゝか。」
「いゝえ! いゝえ!
美奈子は、息を切らしながら、とぎれ/\に云つた。傲岸不屈な荘田も、
直也の二つの眼には、あつい湯のやうな涙が、湧くやうに溢れてゐた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い
心の武装
一
記憶のよい人々は、或は覚えてゐるかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃へて報道した唐沢男爵の愛嬢瑠璃子の結婚を。それは近年にない
此の結婚が、一世の人心を湧かし、
無論、新郎の荘田勝平は、当時の田中伯よりも若かつた。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かつた。
新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を顰めた。が、此の結婚が
が、さうした轟々たる世論を外に、荘田は結婚の準備をした、春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかつた彼は、晴の結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込であつた。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に
彼は、あらゆる手段で、朝野の名流を、その披露の式場に蒐めようとした。彼は、あらゆる縁故を辿つて、貴族顕官の列席を、頼み廻つた。
九月二十九日の夕であつた。日比谷公園の樹の間に、薄紫のアーク燈が、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から、軽快な車台で夕暮の空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まつて来た。最新輸入の新しい型の自動車と交つては、昔ゆかしい定紋の付いた箱馬車に、栗毛の駿足を並べて、優雅に上品に、
祝宴が始まる前の控場の大広間には、余興の舞台が設けられてゐて、今しがた帝劇の嘉久子と浪子とが、二人道成寺を踊り始めたところだつた。
二
新郎の勝平は、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立つて、次ぎ次ぎに到着する人々を迎へてゐた。
彼は嘘から出た
が、結婚の式場に列るまで、彼は瑠璃子を高値で購つた装飾品のやうにしか思つてゐなかつた。五万円に近い大金を投じて、
が、雪のやうに白い白紋綸子の振袖の上に目を覚むるやうな唐織錦の
式が、無事に終つて、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに云ひ知れぬ嬉しさが、勝平の胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかつた。が、日頃傲岸不遜な、人を人とも思はない勝平であるにも拘はらず、話しかけようとする言葉が、一つ/\咽喉にからんでしまつて、小娘か何かのやうに、その四十男の巨きい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢家をあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体
式服を着換へて、今勝平の横に立つてゐる瑠璃子は、前よりもつと美しかつた。
大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵や子爵が殊に多かつた。大抵は、夫人を同伴してゐた。美人の妻を持つてゐるので、有名な小早川伯爵が来たとき、勝平は同伴した伯爵夫人を、自分の新妻と比べて見た。伯爵夫妻が、会釈して去つた時、勝平の顔には、得意な微笑が浮んだ。虎の門第一の美人として、謳はれたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴はれて、その美しい姿を現はしたとき、勝平はまた思はず、自分の新妻と比べて見ずにはゐられなかつた。無論、この令嬢も美しいことは美しかつた。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るやうな澄んだ神々しさはなかつた。
『やつぱり、育ちが育ちだから。』勝平は、口の中で、こんな風に、新しい妻を讃美しながら、日本中で、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、平素に似ない愛嬌を振り蒔いてゐた。
来客の足が、やゝ薄らいだ頃だつた。此の結婚を纏めた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入つて来た。
「やあ! お目出度うございます。お目出度うございます!」
彼は勝平に、ペコ/\と頭を下げてから、その傍の新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今迄は凡ての来客の祝賀を、神妙に受けてゐた瑠璃子は木下の顔を見ると、その高島田に結つた頭を、昂然と高く持したまゝ、一寸は愚か一分も動かさなかつた。勝手が違つて、狼狽する木下に、一瞥も与へずに、彼女は怒れる女王の如き、冷然たる儀容を崩さなかつた。
三
祝宴が開かれたのは、午後七時を廻つてゐた時分だつた。
花嫁と云つたやうな心持は、少しも持たず、戦場にでも出るやうな心で、身体には錦繍を纏つてゐるものの、心には甲冑を装うてゐる瑠璃子ではあつたが、かうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒されると、必死な覚悟をしてゐる彼女にも、恥しさが一杯だつた。列席の人々は、結婚が非常な
が、苦しんでゐるものは、瑠璃子
が、苦しんでゐる者は、外にもあつた。それは今宵の月下氷人を勤めてゐる杉野子爵だつた。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知つてから、どれほど苦しんでゐるか分らなかつた。瑠璃子に対する荘田の求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐であつたことを知つてから、彼はその復讐の手先になつてゐた、自分のあさましさが、しみ/″\と感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考へると、彼は立つても坐つても、ゐられないやうな良心の苛責を受けた。
日比谷大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさへなし得なかつた。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のやうに、悄然とその頭を垂れてゐた。
今宵の祝賀の的であるべき花嫁を初め、親や仲人が、銘々の苦しみに悶えてゐるにも拘はらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだつた。
デザートコースになつてから、貴族院議長のT公爵が立ち上つた。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もつと荘重にして云つた。
「私は、
公爵は、さう云ひながら、そのなみ/\と、つがれた
それと同時に、公爵の音頭で、荘田唐沢両家の万歳が、一斉に三唱された。
丁度その時であつた。その祝辞を受くるべく立ち上らうとした唐沢男爵の顔が、急に蒼ざめたかと思ふと、ヒヨロ/\とその長身の身体が後に二三歩よろめいたまゝ、枯木の倒れるやうに、力なく床の上に崩れ落ちた。
四
唐沢男爵の突然な卒倒は、晴の盛宴を滅茶苦茶にしてしまつた。
給仕人が、必死になつて最後のコーヒを運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立つて来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になつてゐた来客は、潮の引くやうに、一時に流れ出てしまつて、煌々たる電燈の光の流れてゐる大広間には、勝平を初めとし四五人の人々が寂しく取り残された丈だつた。
瑠璃子の父は、
父が、用意された自動車に、やつと恢復した身体を乗せて、今宵からは、最愛の娘と離れて、たゞ一人住むべき家へ帰つて行く後姿を見ると、鉄のやうに冷くつぼんでゐる瑠璃子の心も、底から掻き廻はされるやうな痛みを感ぜずにはゐられなかつた。
瑠璃子は、父の自動車に身体をピツタリと附けながら、小声で云つた。
「お父様暫らく御辛抱して下さいませ。直きにお父様の許へ帰つて行きます。どうぞ、
父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯きながら、
「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵受けた恥を忘れるな。」
父が低く然し、力強くかう呟いた時、自動車は軽く滑り出してゐた。
父を乗せた自動車が、出で去つた後の車寄に附けられた自動車は、荘田がつい此間、
瑠璃子は、夫――それに違ひはなかつた――に招かるゝまゝ、相並んで腰を降した、が、その美しい唇は彫像のそれのやうに、堅く/\結ばれてゐた。
勝平は、何うにかして、瑠璃子と言葉を交へたかつた。彼は、瑠璃子の美しさがしみ/″\と、感ぜられゝば感ぜられる丈、たゞ黙つて、並んでゐることが、
彼は、瑠璃子の顔色を窺ひながら、オヅ/\口を開いた。
「大変沈んでをられるやうぢやが、さう心配せいでもようござんすよ。
勝平は、誰に対しても、使つたことのないやうな、丁寧な訛のある言葉で、哀願するやうな口調でしみ/″\と話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかつた。二人の間に重苦しい沈黙が暫らく続いた。
「実は恥を云はねばならないのだが、今年の春、
勝平は、瑠璃子の心を解かうとして心にもない嘘を云ひながら、大きく頭を下げて見せた。
その刹那に、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思ふと、彼女の容子は、一瞬の裡に変つてゐた。
「そんなに云つて下さると
と、車内の薄暗の裡でもハツキリと判るほど、瑠璃子は勝平の方を向いて、
五
瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、勝平は
「あゝ、さうでがすか。貴女の心持はさうですか、それを知らんもんですから、心配したわい。」
彼は余りのうれしさに、生れ故郷の訛りを、スツカリ丸出しにしながら、身体に似合はない優しい声を出した。
「貴女が心の中から、私のところへ、欣んで来て下さる。こんな嬉しいことはない。貴女のためなら
荘田は、恥しさうに顔を俯してゐる瑠璃子の、薄暗の中でも、くつきりと白い襟足を、貪るやうに見詰めながら、有頂天になつて云つた。
「貴女が来て下されば、俺も今迄の三倍も五倍もの精力で、働きますぞ。うんと金を儲けて、貴女の身体をダイヤモンドで埋めて上げますよ。あはゝゝゝゝゝ。」
荘田は、何うかして、瑠璃子の微笑と歓心とを
十時を過ぎたお濠端の闇を、瑠璃子を乗せた自動車を先頭に、美奈子を乗せた自動車を中に、召使達の乗つた自動車を最後に、三台の自動車は、瞬く裡に、日比谷から三宅坂へ、三宅坂から五番町へと殆ど三分もかゝらなかつた。
瑠璃子が、夫に扶けられて、自動車から宏壮な車寄に、降り立つた時、
瑠璃子が、勝平に従つて、玄関へ上がらうとした時だつた。其処に出迎へてゐる、多数の召使の前に、ヌツとつツ立つてゐる若者が、急に勝平に縋り付くやうにして云つた。
「お父さん! お
勝平は、縋り付かれようとする手を、瑠璃子の手前、きまり悪さうに、払ひ退けながら、
「あゝ分つてゐる、分つてゐる。後で、沢山やるからな。さあ! 此方へおいで。お前の新しいお母様が出来たのだからな。挨拶をするのだよ。」
勝平は、その若者を拉しながら先に立つた。若者は、振向き/\瑠璃子の顔をジロ/\と珍らしさうに見詰めてゐた。
勝平は先きに立つて、自分の居間に通つた。
「美奈子も、茲へおいで。」
彼は、娘を呼び寄せてから、改めて瑠璃子に挨拶させた後、勝平はその見るからに傲岸な顔に、恥しさうな表情を浮べながら、自分の息子を紹介した。
「これが
勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロ/\と見詰めてゐたが、父にさう促されると急に気が付いたやうに、
「お母様ぢやないや。お母様は死んでしまつたよ。お母様は、もつと
「お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になつて下さるのでございますよ。」
「何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。俺に、お嫁を取つて呉れると云つてゐながら、取つて呉れないんだもの。」
彼は、約束した菓子を貰へなかつた子供のやうに、すねて見せた。
瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、勝平が中途から、世間体を憚つて、自分を息子の嫁にと、云ひ出したことを、思ひ出した。金で以て、こんな白痴の妻――否弄び物に、自分をしようとしたのだと思ふと、勝平に対する憎悪が又新しく心の中に蒸返された。
六
勝彦と美奈子とが、彼等自身の部屋へ去つた頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚の床に入るべき時刻は、刻々に迫つてゐた。
勝平は、
「おゝさう/\、
さう云ひながら、彼は自分の背後に据ゑ付けてある小形の金庫から、一束の証書を取り出した。
「貴女のお父様に対する債権の証文は、みんな蒐めた筈です。さあ、これを今貴女に進上しますよ。」
彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないやうに、無造作に、瑠璃子の前に押しやつた。
瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、
「あのマッチは、ございますまいか。」彼女は、突如さう訊いた。
「マッチ?」勝平は、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかつた。
「あのマッチでございますの。」
「あゝマッチ! マッチなら、
「マッチで、何をするのです。」勝平は不安らしく訊ねた。
瑠璃子は、その問を無視したやうに、黙つて椅子から立ち上ると、鉄盤で掩うてあるストーヴの前に先刻三度目に着替へた江戸紫の金紗縮緬の袖を気にしながら、蹲まつた。
「
初めて、
「出るとも、出るとも。
勝平が、さう答へ了らない裡に、瑠璃子の華奢な白い手の中に
瑠璃子は、その火影に白い顔をほてらせて、暫らく立つてゐたが、ふと身体を飜すと、卓の上にあつた証書を、軽く無造作に、薪をでも投ぐるやうに、漸く燃え盛りかけた火の中に投じてしまつた。
呆気に取られてゐる勝平を、嫣然と振り向きながら、瑠璃子は云つた。
「水に流すと云ふことがございますね。
「あゝさう/\、火に焼く、さうだ、後へ何も残さないと云ふことだな。そりや結構だ。今までの事は、スツカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合つて行く。
さう云ひながら、勝平は瑠璃子に最初の接吻をでも与へようとするやうに、その眸を異常に、輝かしながら、彼女の傍へ近よつて来た。
さう云ふ相手の気勢を見ると、瑠璃子は何気ないやうに、元の椅子に帰りながら、端然たる様子に帰つてしまつた。
その時に、
「
女中は、
絶体絶命の時が迫つて来たのだ。
「ぢや、瑠璃さん!
勝平が、卑しい肉に飢ゑた獣のやうに笑つたとき、
が、彼女の態度は少しも乱れなかつた。
「あの、一寸電話をかけたいと思ひますの。父のその後の容体が気になりますから。」
それは、此の場合突然ではあるが、尤もな希望だつた。
七
「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」
と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。
「いゝえ!
「自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。」
と、云ひながら、勝平は瑠璃子の背後を指し示した。
いかにも、今迄気が付かなかつたが、其処の小さい
瑠璃子は、
「あのう。番町の二八九一番!」
瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くやうに言つた。
「番町の二八九一番!」
さう繰り返しながら、送話器を持つてゐる瑠璃子の白い手は、かすかに/\顫へてゐた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待つてゐた。やつと相手が出たやうだつた。
「あゝ唐沢ですか。
相手の言葉に聞き入るやうに、彼女は受話器にぢつと、耳を押し付けた。
「さう。あなたの方から、電話を掛けるところだつたの。それは、丁度よかつたのね。それでお父様の御容体は。」
さう云ひ捨てると、彼女は又ぢつと聞き入つた。
「さう!……それで……入沢さんが、入らしつたの!……それで、なるほど……」
彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白い
「えい! 重体! 今夜中が……もつと、ハツキリと言つて下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰つて来てはいけないつて! でもお医者は何と仰しやるの? えい! 呼んだ方がいゝつて!
彼女は、もうスツカリ取り
「
勝平は、遉に色を変へながら、瑠璃子の傍に、近づいた。
「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまつたやうでございますの。妾かうしてはをられませんわ。ねえ! 一寸帰つて来ましてもようございませう。お願ひでございますわ。ねえ貴方!」
瑠璃子は、涙に濡れた頬に、淋しい哀願の微笑を湛へた。
「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代へられない。直ぐ自動車で行つて、しつかり介抱して上げるのだ。」
「さう言つて下さると、
さう云ひながら、瑠璃子は勝平に近づいて、肥つた胸に、その美しい顔を埋めるやうな容子をした。勝平は、心の底から感激してしまつた。
「ゆつくりと行つておいで、向うへ行つたら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。」
「直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申してゐるさうでございますから。」
「うむよし/\。ぢや、よく介抱して上げるのだよ。出来る
自動車の用意は、直ぐ整つた。
「容体がよろしかつたら、今晩中に帰つて参りますわ。悪かつたら、明日になりましても御免あそばしませ。」
瑠璃子は、自動車の窓から、親しさうに勝平を見返つた。
「もう遅いから、今宵は帰つて来なくつてもいゝよ。明日は、
勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切つてしまつてゐた。
「さう。それは有難うございますわ。」
彼女は、爽かな声を残しながら、戸外の闇に滑り入つた。が、自動車が英国大使館前の桜並樹の樹下闇を縫うてゐる時だつた。彼女の
護りの騎士
一
名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考へてゐたやうに、生易しいことではなかつた。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とを
結婚後暫らくは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田の家に帰つて行かなかつた。勝平は毎日のやうに、瑠璃子を訪れた。日に依つては、午前午後の二回に、此の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかつた。
彼は訪問の度毎に、瑠璃子の歓心を買ふために、高価な贈物を用意することを、忘れなかつた。
それが、ある時は
が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止まることは、許されなかつた。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかつた。敵を避けてゐることが、勝気な彼女に心苦しかつた。もつと、身体を危険に晒して勇ましく戦はなければならぬと思つた。形式的にでも、結婚した以上、形の上
久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、勝平は訳もなく笑ひ崩れながら、
「あはゝゝゝゝ。そんなに、
勝平の言葉を聴くと、今迄捗々しい返事もしなかつた瑠璃子は、甦へつたやうに、快活な調子で云つた。
「おほゝゝ、ほんたうに、娘にして下さるの、
さう云ひながら、彼女はこぼるゝやうな嬌羞を、そのしなやかな身体一面に湛へた。
「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人の好い本当の父親のやうに肯いて見た。
「ほゝゝゝ。それは嬉しうございますわ、本当に、
さう云ひながら、瑠璃子は嫣然と笑つた。勝平は、妖術にでもかゝつたやうに、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めてゐた。瑠璃子は相手を人とも思はないやうに傍若無人だつた。
「ねえ! お父様!
さう云ひながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるやうに、寄せかけながら、その白い手を、勝平の膝の上に置いて
瑠璃子の処女の如く慎しく娼婦の如く大胆な媚態に、心を奪はれてしまつた勝平は、自分の答が
「あゝいゝとも、いゝとも。」
二
勝平は心の裡で思つた。どうせ籠の中に入れた鳥である。その中には、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡ての女性は、何時の間にか、掴み潰されてゐるのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん/\分つて来るだらう。
勝平はさうした余裕のある心持で、瑠璃子の請を容れた。
が、それが勝平の違算であつたことが、直ぐ判つた。十日経ち二十日経つ裡に、瑠璃子の美しさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香が勝平の旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはゐなかつた。
その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴つた。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば/\帰つて来て、愛妻の白い美しい襟足から、そのほつそりとした撫肩を伝うて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せてゐるふくよかな、両膝を、貪るやうに見詰めてゐた。彼は、かうして妻と並んでゐると、身も心も溶けてしまふやうな陶酔を感じた。さうした陶酔の醒め際に、彼の烈しい情火が、ムラ/\と彼の身体全体を、嵐のやうに包むのだつた。
瑠璃子は、勝平のさうした悩みなどを、少しも気が付かないやうに、
「おい瑠璃さん。もう、お父様ごつこも大抵にしてよさうぢやないか、
勝平は、その夜、自動車での帰途、冗談のやうに、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。
「まあ!
さう云ふ言葉と容子とには、溢れるやうな媚びがあつた。さうした言葉を、聴いてゐると、勝平は、タヂ/\となつてしまつて、一言でも逆ふことは出来なかつた。
が、その夜、勝平は自分一人寝室に入つてからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかつた。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のやうに、艶めかしい媚態を作つて、何時までも何時までも、浮んでゐた。鼻には、彼女の肉体の持つてゐる芳香が、ほのぼのと何時までも、漂つてゐた。耳には、さうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかつた。
彼は、さうした妄想を去つて、何うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまつた。おしまひには、見上げて居る天井に、幾つも/\妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送つた。
『彼女は、たゞ恥かしがつてゐるのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、
彼は、さう思ひ出すと、一刻も自分の寝台にぢつと、身体を落ち着けてゐることが出来なかつた。子供らしい処女らしい恥らひを、その儘に受け入れてゐた自分が、あまりにお人好しのやうに思はれ始めた。
彼は、フラ/\として、寝台を離れて、夜更けの廊下へ出た。
三
廊下へ出て見ると、家人達はみんな寝静まつてゐた。まだ十月の半ではあつたが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひや/\と、流れてゐた。が、烈しい情火に狂つてゐる勝平の身体には、夜の冷たさも感じられなかつた。彼は、自分の家の中を、盗人のやうに、忍びやかに、夢遊病者のやうに覚束なく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。
彼女の部屋は、階下に在つた。廊下の燈火は、大抵消されてゐたが、階段に取り付けられてゐる電燈が、階上にも階下にも、ほのかな光を送つてゐた。
勝平は、彼女に与へた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかつた。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと云ふ事より、外には何もない。彼女の信頼を得るやうに、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一の方法だと勝平は心の中で思つてゐた。それだのに、彼女に一旦与へた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、さうした心苦しさも、勝平の身体全体に、今潮のやうに漲つて来る烈しい慾望を、何うすることも出来なかつた。
階段を下りて、左へ行くと応接室があつた。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与へた部屋があつた。
瑠璃子の部屋に近づくに従つて、勝平の心にも烈しい動揺があつた。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知らうとする刹那のやうな、烈しい興奮だつた。彼は、さうした興奮を抑へて、ぢつと瑠璃子の部屋へ忍び寄らうとした。
丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アツ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づかうとしたその
が、相手は勝平の近づくのを知つてゐる筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかつた。
『
彼は、握りしめた拳を、顫はしながら、必死になつて、一歩々々
「誰だ!」と、叱した時、相手は勝平の顔を見て、ニヤリと笑つた。それは紛れもなく勝彦だつたのである。
自分の子の卑しい笑ひ顔を見たときに、剛愎な勝平も、グンと鉄槌で殴られたやうに思つた。言ひ現し方もないやうな不快な、あさましいと云つた感じが、彼の胸の裡に一杯になつた。自分の子があさましかつた。が、あさましいのは、自分の子
「お前! 何をしてゐるのだ!
勝平は、低くうめくやうに訊いた。が、それは勝彦に訊いてゐるのではなく、自分自身に訊いてゐるやうにも思はれた。
勝彦は、離れの日本間の方で寝てゐる筈なのだ。が、それがもう夜の二時過であるのに、瑠璃子の部屋の前に立つてゐる。それは、勝平に取つては、堪へられないほど、不快なあさましい想像の種だつた。
「何をしてゐるのだ! こんな処で。こんなに遅く。」何時もは、馬鹿な息子に対し可なり寛大である父であつたが、今宵に限つては、彼は息子に対して可なり烈しい憎悪を感じたのである。
「何をしてゐたのだ! おい!」
勝平は、鋭い眼で勝彦を睨みながら、その肩の所を、グイと小突いた。
四
「
父が、必死になつて責め付けてゐるのにも拘らず、勝彦はたゞニヤリ/\と、たわいもなく笑ひ続けた。薄気味のわるいとりとめもなき子の笑ひが、丁度自分の恥しい行為を、
彼は、瑠璃子やまた、直ぐ次ぎの
「おい! こんなに遅く、
さう云ひながら、勝平は再び子の肩を突いた。父にさう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤めて、口ごもりながら云つた。
「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をさう呼び
「姉さん! 姉さんの所へ!」
勝平は、さう云ひながらも、自分自身地の中へ、入つてしまひたいやうな、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、
「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があつて来たのだ。こんなに夜遅く。」
勝平は、心の中の不愉快さを、ぢつと抑へながら、訊く所まで、訊き質さずにはゐられなかつた。
「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」
勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるやうに云つた。
「顔を見たい!」
勝平は、さう口では云つたものの、眼が眩むやうに思つた。他人は、誰も居合はさない場所ではあつたが、自分の顔を、両手で掩ひ隠したいとさへ思つた。
彼は、もう此の上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかつた。が、今にして、息子のかうした心を、刈り取つて置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思つた。彼は不快と恥しさとを制しながら云つた。
「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」
さう云ひながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして云つた。
「だつて、お姉さまは、来てもかまはない! と云つたよ。」勝平は、頭からグワンと殴られたやうに思つた。
「来てもかまはない! 何時、そんな事を云つた? 何時そんなことを云つた?」
勝平は、思はず
「何時つて、何時でも云つてゐる。部屋の前になら、何時まで立つてゐてもいゝつて、番兵になつて呉れるのならいゝつて!」
「ぢや、お前は今夜だけぢやないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」
さう云ひながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬を懐かずにはゐられなかつた。
それと同時に、瑠璃子に対しても、
「そんな事を姉さんが云つた! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」
彼は、息子を押し退けながら、その背後の
その途端に、ガタリと
純白の
「お父様! 何と云ふことでございます。何も云はないで、お休みなさいませ。お願ひでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」
美奈子の心からの叫びに、打たれたやうに、勝平は黙つてしまつた。
勝彦は、相変らず、ニヤリ/\と妹の顔を見て笑つてゐた。
丁度此の時、
五
自分の寝室へ帰つて来てからも、勝平は悶々として、眠られぬ一夜を過してしまつた。恋する者の心が、競争者の出現に依つて、焦り出すやうに、勝平の心も、今迄の落着、冷静、剛愎の凡てを無くしてしまつた。競争者、それが何と云ふ堪らない競争者であらう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻つて争つてゐる。親が女の許へ忍ぶと子が先廻りをしてゐる。それは、勝平のやうな金の外には、物質の外には、何物をも認めないやうな堕落した人格者に取つても堪らないほどあさましいことだつた。
もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知つてゐれば、罵り恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤も、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何うかは疑問であつた。)が、勝彦は盲目的な本能と烈しい慾望の外は、何も持つてゐない男である。相手が父の妻であらうが、何であらうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた
その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があつた。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思つたとき、その事を冗談のやうに勝彦に、云ひ聴かせたことがある。何事をも、直ぐ忘れてしまふ勝彦ではあつたが、事柄が事柄であつた丈に、その愚な頭の何処かにこびり付かせてゐるかも知れない。さう考へると、勝平の頭は、
『さうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追ひやらう。何とか
興奮と煩悶とに
眼が覚めた時、それはもう九時を廻つてゐた。朗かな十月の朝であつた。青い紗の窓掛を透した明るい日の光が、室中に快い明るさを湛へた。
朝の爽かな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れてゐた。尨大な身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履を突つかけて、朝の快い空気に吸ひ付けられたやうに、
それを見たとき、勝平は煮えたぎつてゐる湯を、飲まされたやうな、凄じい気持になつてゐた。ニヤリ/\と悦に入つてゐるらしいわが子の顔が、アリ/\と目に見えるやうに思つた。彼は、
が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グツと胸に堪へて来た。
さう思ふと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かつたのだ。云はゞ降伏した敵将の娘を、妻にしてゐるやうなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵してゐるかも知れない。
が、さう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかつた。それと同時に、眼前の
六
勝平が、
それは、
彼は苦々しげに、二人に向つてでも吐くやうに、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色を
勝平は、抑へ切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗つてしまふと、苦り切つた顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰つて来なかつた。
「奥さんは何うしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド/\してゐる十五六の小間使を、噛み付けるやうに叱り飛した。
「お庭でございます。」
「庭から、早く帰つて来るやうに云つて来るのだ。俺が起きてゐるぢやないか。」
「ハイ。」小さい小間使は、勝平の凄じい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行つた。
瑠璃子が、入つて来れば、此の押へ切れない
二三分も経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思ふと、瑠璃子は少女のやうにいそいそと快活に、馳け込んで来た。
「まあ! お早う! もう起きていらしつたの。
さう云ひながら、瑠璃子は右の手に折り持つてゐた、真紅の大輪のダリヤを、
勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思ひながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向ふと、彼は我にもあらず、凡ての言葉が咽喉のところに、からんでしまふやうに思つた。
「
昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知つてゐるのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、勝平に話しかけた。
勝平は、心の裡に、わだかまつてゐる気持を、瑠璃子に向つて、洩すべき
彼は、瑠璃子には、一言も答へないで、そのいら/\しい気持を示すやうに、
勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めてゐないやうに、平然と、その美しい微笑を続けながら、
「
彼女は、プリ/\してゐる勝平に、尚小娘か何かのやうに、甘えかゝつた。
「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」
勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使つた。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すやうに云つた。
「あら、さう。それでは、勝彦さんに一緒に行つていたゞくわ。……いゝでせう。」
七
勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、勝平の巨きい顔は、
相手のさうした表情を少しも眼中に置かないやうに、瑠璃子は無邪気にしつこく云つた。
「勝彦さんに、連れて行つていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。
「それなら、美奈子と一緒に行らつしやい。」
勝平は、怒つた牡牛のやうにプリ/\しながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめることが出来なかつた。
「美奈子さん。だつて、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰つて来ないのですもの。それから支度をしてゐては、遅くなつてしまひますわ。」
瑠璃子は、大きい駄々つ子のやうな表情を見せながら、その癖顔
「何うして勝彦さんに一緒に行つていたゞいては、いけませんの。」
勝平の顔色は、咄嗟に変つた。その

「勝彦! 勝彦勝彦と、
勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまゝ、ぢつと聴いてゐた瑠璃子は、眉一つさへ動かさなかつた。勝平の言葉が終ると、彼女は駭いたやうに、眼を丸くしながら、
「まあ! あんなことを。そんな邪推してゐらつしやるの。
爽かな五月の流が、蒼い野を走るやうに、瑠璃子は雄弁だつた。黙つて聴いてゐた勝平の顔は、
余りに脆き
一
勝平は、冗談かそれとも真面目かは分らないが、人を馬鹿にしてゐるやうに、からかつてゐるやうに、勝彦を賞める瑠璃子の言葉を聞いてゐると、思はずカツとなつてしまつて、手に持つてゐる茶碗や箸を、彼女に
が、勝平は心の中で思つた。此の儘にして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなつて行くに違ひない。そして自分を苦しめるのに違ひない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、何うしても二人を引き離して置く必要がある。勝平は、咄嗟にさう考へた。
「あはゝゝゝゝ。」彼は突然取つて付けたやうに笑ひ出した。「まあいゝ!
勝平は、嫉妬と憤怒とを心の底へと、押し込みながら、何気ないやうに笑つた。
「何うも、有難う。やつと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかつたやうに微笑した。
その時に、勝平は急に思ひ付いたやうに云つた。
「さう/\。
「葉山へ!」と云つたまゝ、
「さうです! 葉山です。彼処に、林子爵が持つてゐた別荘を、此春譲つて貰つたのだが、此夏美奈子が避暑に行つた
勝平は、落着いた口調で言つた。葉山へ行くことは、何の意味もないやうに云つた。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでゐる勝平のよからぬ意志を、明かに読み取ることが出来た。葉山で二人
「結構でございますわ、
彼女は、その清麗な面に、少しの曇も見せないで、爽かに答へた。
「あゝ行つて呉れるのか。それは有難い。」
勝平は、心から嬉しさうにさう云つた。葉山へさへ、伴つて行けば、当分勝彦と引き離すことが出来る上に、其処では召使を除いた外は、瑠璃子と二人切りの生活である。殊に、鍵のかかり得るやうな西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまへば、高が一個の少女である。普通の処女がどんなに嫌ひ抜いてゐても、結婚してしまへば、男の腕に縋り付くやうに、彼女も一旦その肉体を征服してしまへば、余りに脆き一個の女性であるかも知れない。勝平はさう思つた。
「それなら丁度ようございますわ。三越へ行つて、
彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないやうに、
二
愛し合つた夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈だけれども、瑠璃子の場合は、さうではなかつた。勝平と二人
さうした不安な期待に、心を擾されながらも、彼女はいろ/\と、別荘生活に必要な準備を整へた。彼女は、当座の着替や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口の短剣を入れることを忘れなかつた。それが、夫と二人
父の男爵が、瑠璃子の烈しい執拗な希望に、到頭動かされて、不承々々に結婚の承諾を与へて、最愛の娘を、憎み賤しんでゐた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口の短劒を手渡した。
「これは、お前のお母様が家へ来るときに持つて来た守り刀なのだ。昔の女は、常に
父の言葉は簡単だつた。が、意味は深かつた。彼女はその
瑠璃子が暫らく東京を離れると云ふことが分ると、一番に驚いたのは勝彦だつた。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと云つて、父の大きいトランクを引つ
それを見ると、勝平は眉を顰めずにはゐられなかつた。
出立の朝だつた。自分が捨てゝ置かれると云ふことが分ると、勝彦は狂人のやうに暴れ出した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のやうになつてしまふ彼だつた。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も
白痴でありながらも、必死になつてゐる顔色を見ると、瑠璃子は可なり心を動かされた。主人に慕ひ纏はつて来る動物に対するやうないぢらしさを、此の無智な勝彦に対して、懐かずにはゐられなかつた。
「あんなに行きたがつていらつしやるのですもの。連れて行つて上げてはいけないのですか。」
瑠璃子は夫を振返りながら云つた。その微笑が、一寸皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかつた。
「馬鹿な!」
勝平は、苦り切つて、一言に斥けると、自動車の窓から顔を出しながら云つた。
「遠慮をすることはない。グン/\引き離して
勝平は、叱り付けるやうに怒鳴ると、丁度勝彦の身体が、多勢の力で車体から引き離されたのを
動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまひを正しながら、背後に続いてゐる勝彦のあさましい怒号に耳を掩はずにはゐられなかつた。
三
葉山へ移つてから、二三日の間は、麗かな秋日和が続いた。東京では、とても見られないやうな薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うてゐた。海は毎日のやうに静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねりが滑かに起伏してゐた。海の色も、真夏に見るやうな濃藍の色を失つて、それ
十月も終に近い葉山の町は、洗はれたやうに静かだつた。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の
御用邸に近い海岸にある荘田別荘は、裏門を出ると、もう其処の白い砂地には、崩れた波の名残りが、白い泡沫を立ててゐるのだつた。
勝平は、葉山からも毎日のやうに、東京へ通つてゐた。夫の留守の間、瑠璃子は
瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映つてゐた。遥に/\悠々と拡がつてゐる海や、その上を
葉山へ移つてから、三四日の間、勝平は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであらう。人のよい好々爺になり切つて、夕方東京から帰つて来る時には、瑠璃子の心を
葉山へ移つてから、丁度五日目の夕方だつた。其日は、午過ぎから空模様があやしくなつて、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻凄じくなつて来るのだつた。
海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だつた。別荘番の老爺は暗く澱んでゐる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は
夕刻に従つて、風は段々吹き募つて来た。暗く暗く暮れて行く海の
「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」
瑠璃子は、狼狽して、召使に命じると、ピツタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限つて、妙に薄暗く思はれる電燈の下に、小さく縮かまつてゐた。人間同士の争ひでは、非常に強い瑠璃子も、かうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だつた。海岸に立つてゐる、地形の脆弱な家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思はれるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けてゐる波は、今にも此の家を呑みさうに轟々たる響を立てゝゐる。
瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時もは、夫の帰るのを考へると、妙に身体が、引き緊つてムラ/\とした悪感が、胸を衝いて起るのであつたが、今宵に限つては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のやうな腕が何となく頼もしいやうに思へた。逗子の停車場から自動車で、危険な海岸伝ひに帰つて来ることが何となく
「かう荒れてゐると、
その途端に、吹き募つた嵐は、可なり宏壮な建物を打ち揺すつた。鎖で地面へ繋がれてゐる廂が、吹きちぎられるやうにメリ/\と音を立てた。
四
「こんなに荒れると、本当に自動車はお危なうございますわ。一層こんな晩は、
女中も主人の身を案ずるやうにさう云つた。が、瑠璃子は是非にも帰つて貰ひたいと思つた。何時もは、顔を見てゐる丈でも、ともすればムカ/\として来る勝平が、何となく頼もしく力強いやうに感ぜられるのであつた。
日が、トツプリ暮れてしまつた頃から、嵐は
「潮が満ちて来ると、もつと波がひどくなるかも知れねえぞ!」
海の模様を見るために出てゐた、別荘番の
「まさか、此間のやうな大
女中も、それに釣り込まれたやうに、オド/\しながら訊いた。皆の頭に、まだ一月にもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ/\と残つてゐた。それは、東京の深川本所に大
「まさか先度のやうな大暴風雨にはなるまいかと思ふが、時刻も風の
老爺は、心なしか瑠璃子達を脅すやうに、首を傾げた。
夜に入つてから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ/\と聞え出したかと思ふと、それが忽ち盆を覆すやうな大雨となつてしまつた、天地を洗ひ流すやうな雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安に充たしめた。
恐ろしい風が、グラ/\と家を吹き揺すつたかと思ふ途端に、電燈がふつと消えてしまつた。かうした場合に、燈火の消えるほど、心細いものはない。女中は闇の中から手探りにやつと、
暗い燈火の下に蒐つてゐる瑠璃子と女中達を、もつと脅かすやうに、風は空を狂ひ廻り、波は
風は少しも緩みを見せなかつた。雨を交へてからは、有力な味方でもが加はつたやうに、
グワラ/\と、何処かで物の砕け落ちる音がしたかと思ふと、それに続いて海に面してゐる廂が吹き飛ばされたと見え、ベリ/\と云ふ凄じい音が、家全体を震動した。今迄は、それでも、慎しく態度の落着を失つてゐなかつた瑠璃子もつい度を失つたやうに立ち上つた。
「何うしようかしら、今の裡に避難しなくてもいゝのかしら。」
さう云ふ彼女の顔には、恐怖の影がアリ/\と動いてゐた。人間同士の交渉では、烈女のやうに、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かつた。
女中達も、色を失つてゐた。女中は声を挙げて別荘番の老爺を呼んだけれども、風雨の音に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかつた。
ベリ/\と云ふ廂の飛ぶ音は、尚続いた。その度に、家がグラ/\と今にも吹き飛ばされさうに揺いだ。
丁度、此の時であつた。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥つて、藁にでも縋り付きたいやうに思つてゐる時だつた。悽じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の
「あゝお帰りになつた!」瑠璃子は甦へつたやうに、思はず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠つてゐることを否定することが出来なかつた。
五
風雨の烈しい音にも消されずに、
瑠璃子と女中達二人とは、その燦然と輝く自動車の
微醺を帯びた勝平は、その赤い巨きい顔に、
「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでせうね。お道が。」
瑠璃子のさうした言葉は、平素のやうに形式
「なに、大したことはなかつたよ。それよりもね、
凄じい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑した。自然の脅威を挑ね返してゐるやうな勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思はずにはゐられなかつた。男性の強さが、今始めて感ぜられるやうに思つた。
「
瑠璃子は、まだ不安さうな眼付をしてゐた。
「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨の時だつて、
勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた
が、勝平のさうした言葉を、裏切るやうに、風は刻々吹き募つて行つた。可なり、ピツタリと閉されてゐる雨戸迄が、今にも吹き外されさうに、バタ/\と鳴り響いた。
「さあ! お酒の用意をして下さらんか。かうした晩は、お酒でも飲んで、大に暴風雨と戦はなければならん、はゝゝゝ。」
勝平は、暴風雨の音に、怯えたやうに耳を聳てゝゐる瑠璃子にさう云つた。
酒盃の用意は、整つた。勝平は吹き荒ぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ/\と盃を重ねてゐた。
「
「はゝゝ、瑠璃子さんが、
勝平は機嫌よく哄笑した。
「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしてゐるぢやありませんか。」
瑠璃子は、ついさうした心易い言葉を出すやうな心持ちになつてゐた。
「
瑠璃子の今宵に限つて、温かい態度に、勝平は心から悦に入つてゐるのだつた。
「それも、無理はありません。貴女が内心
余程酒が進んで来たと見え、勝平は管を捲くやうにさう云つた。
六
風は益々吹き荒れ雨は益々降り募つてゐた。が、勝平は戸外のさうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子が
「まあ、簡単に云つて見ると、スツカリ心から貴女に惚れてしまつたのです!
勝平は、さう云つて言葉を切つた。酔つてはゐたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリ/\と動いてゐた。かうした心の告白をするために、
「
変に言葉までが改まつた勝平は、恋人の前に跪いてゐる若い青年か、何かのやうに、激してゐた。彼の巨きい真赤な顔は、何処にも偽りの影がないやうに、真面目に緊張してゐた。彼は大きい眼を
「何うです! 瑠璃子さん! 俺の心を、少しは了解して下さいますか。」
勝平の声は、瑠璃子の心臓を
七
酒の力を借りながら、その本心を告白してゐるらしい勝平の言葉を、聴いてゐると、今までは
あれ丈、傲岸で黄金の万能を、主張してゐた男が、金で買へない物が、世の中に儼として存在してゐることを、潔く認めてゐる。金では、人の心の愛情の
「瑠璃子さん!
勝平は、酒のために、気が狂つたのではないかと思はれるほどに激昂してゐた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたやうに何時の間にか知らず/\、それに動かされてゐた。
「瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、
勝平の眼は、熱のあるやうに輝いてゐた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ/\と動かされて、思はず感激の言葉を口走らうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やつとそれを制した。
『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒さうと云ふ強い決心を忘れたのか。勝平の口先
瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらさう叫んだ。彼女は、ハツと眼が覚めたやうに、居ずまひを正しながら云つた。
「あら、あんな事を仰しやつて? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」
さう云ひながら、彼女は冷たい、然しながら、美しい笑顔を見せた。
嵐を衝いて
一
勝平は、瑠璃子の言葉だけは、打ち解けてゐても、笑顔は氷のやうに冷たいのを見ると、絶望したやうに云つた。
「あゝ
もう先刻から、一升以上も飲み乾してゐる勝平は、濁つた眸を見据ゑながら、威丈高に瑠璃子にのしかゝるやうな態度を見せた。相手が
相手の態度が急変すると、瑠璃子は
「あら、あんな事を
瑠璃子は、相手の
「あゝ、貴女のその笑顔ぢや。それは俺を悩ますと同時に、嘲けり
勝平の態度には、
風も雨も、海岸の此一角に、その全力を蒐めたかのやうに、
「疑心暗鬼と云ふことがございますね。貴君のは、それですよ。
さう云ひながらも、瑠璃子はその美しい冷たい笑ひを絶たなかつた。勝平は、その巨きい身体をのたうつやうにして云つた。
「貴女は、
勝平の眸は燃ゆるやうに輝やいた。
「さうだ!
さう云つたかと思ふと、勝平は
瑠璃子も弾かれたやうに、立ち上つた。
立ち上つた勝平は、フラ/\と
かよわい瑠璃子の顔は、真蒼だつた。
丁度、その時だつた。風に煽られた大雨が一頻り沛然として降り注いで来た。
二
荒るゝまゝに、夜は十二時に近かつた。
台所にゐる筈の女中達は、眠りこけてでもゐるのだらう、話声一つ聞えて来なかつた。ただ吹き
空に風と雨とが、戦つてゐるやうに、地に彼等は戦つてゐるのだつた。瑠璃子は戦ふべき力もなかつた。武器も持つてはゐなかつた。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇させてゐた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかつた。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼は
勝平の今少し前の懺悔や告白が、かうした態度に出るまでの径路であつた――一旦
が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかつた。何時の間にか追ひ詰められたやうに、部屋の一方に、海に面した
其処で、追ひ詰られた牝鹿と獅子とのやうに、二人は暫らくは相対してゐた。
暴風雨は、少しも勢ひを減じてゐなかつた。岸を噛んで殺到する波濤の響が、前よりも、もつと恐ろしく聞えて来た。が、相争つてゐる二人の耳には、波の音も風の音も聞こえては来なかつた。
「何をなさるのです。
勝平が、その堅肥りの巨い手を差し出さうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。
「何をしようと、
勝平は、さう云ひながら、再び
「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振ふうなんて。」
彼女は、汚れた者を叱するやうに、吐き捨てるやうに云つた。彼女の声は、
「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、
勝平は、さう云つたかと思ふと前よりももつと烈しい勢で瑠璃子に迫つた。かうしたあさましい人間の争ひを、讃美するかのやうに、風は空中に凄じい歓声を挙げ続けてゐる。
瑠璃子は、ふとその時
彼女は、最後の手段として、声を振り搾つて女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまつて、台所の方からは、物音も聞えて来なかつた。
瑠璃子が、
「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グツと握り占めてゐた。
「何をするのです。お放しなさい!」
彼女は必死になつて、振りほどかうとした。が、強い把握は、容易に解けさうもなかつた。
「何を! 何をするのです!」
瑠璃子は、死者狂ひになつて突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝつた。
その時だつた。瑠璃子の背後の雨戸と
三
而も、此の風雨の
「貴様は誰だ! 誰だ!」
不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかつた。
肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の音にも紛れず、凄じい音を立てた。身体と身体とが、打ち合ふ音、筋肉と筋肉とが、軋み合ふ音、それは風雨の争ひにも、負けないほどに恐ろしかつた。
其の
「強盗だ! 強盗だ! 早く
戦ひが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かつた。
瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気を
勝平の悲鳴を聴いてゐると、助けてやらねばならぬと思ひながら、一種の小気味よさを感ぜずにはゐられなかつた。自分に獣の如く迫つて来た彼が、突然の侵入者に依つて、脆くも取つて伏せられてゐる。さう思ふと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく/\とこみ上げて来る。
格闘は
「瑠璃子! 瑠璃子! 早く、早く。」
援けを呼ぶ勝平の声は、だん/\苦しさうに喘いで来た。
瑠璃子の心の裡に、もつと勝平を苦しませてやれ、かうした不意の出来事に依つて、もつと彼を懲してやれと云ふ、勝平に対する憎悪の心持と、平生の憎悪は兎に角、不時の災難に苦しんでゐる相手を、援けてやらうと云ふ人間的な心持とが、相争つた。
其裡に、ゼイ/\と息も絶えさうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。
「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」
勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまつた。さうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫が湧かずには居なかつた。彼女は、始めて我に返つたやうに、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。
「
瑠璃子の声も、スツカリ上ずツてしまつてゐた。が、さう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也の事が閃いた。彼は、勝平を射たうとして誤つて、美奈子を傷つけた為、危く罪人とならうとしたのを、勝平に対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は
強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃を為すだらうか。もし、あれが直也だつたら、
さう思ふと、瑠璃子は
が、瑠璃子の声に騒ぎ立つた女中は、声を振り搾つて
四
叫び立てる女中達の声に、別荘番の
瑠璃子は、勝平と相搏つてゐる相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思ふと、此の一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思ふ心配で、心が怪しく擾れた。それかと云つて、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇ふやうな口は利けなかつた。台所に顫へてゐる女中を後に残しながら、
座敷は、風雨で滅茶苦茶になつてゐた。室の中に渦巻く風のために、
老人は、カンテラの光を翳しながら、
「旦那! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、先づ大声で怒鳴つた。
が、勝平はそれに対して、何とも答へなかつた。たゞ勝平が発してゐるらしい低いうめき声が聞える
「旦那! 旦那! しつかりなさい!」
さう云ひながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央に、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しさうにうめいてゐるのだつた。
「旦那! 旦那! しつかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何うしただ!」
喜太郎は、勝平の耳許で勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息病みか何かのやうに咽喉のところで、低くうめく
「旦那! 怪我をしたか。何処だ! 何処だ!」
老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、勝平の身体を撫で廻した。が、何処にも傷らしい傷はなかつた。が、それにも拘はらず、半眼に開かれてゐる勝平の眼は、白く釣り上がつてゐる。
「あゝ! こりやいけねえ。奥様、こりやいけねえぞ。」
さう云ひながら、老人は勝平の
瑠璃子は、
「もし、貴君! もし貴君! 貴君!」
彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くやうにして叫んだ。が、勝平の身体に残つてゐる生気は、かうしてゐる間にも、だん/\消えて行くやうに思はれた。
おづ/\顫へながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハツキリと少しも取り
「ブランデーの壜を大急ぎで持つておいで。それから、吉川様へ直ぐお出下さるやうに電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤でございますからと。」
女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持つて来た。瑠璃子は、それをコップに酌ぐと、甲斐甲斐しく勝平の口を割つて、口中へ注ぎ入れた。
勝平の蒼ざめてゐた顔が、心持赤く興奮するやうに見えた。彼の釣り上つた眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したやうに見えた。
「旦那! 旦那! 相手は
老人の別荘番は、主人の
勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだらう、口をモグ/\させ初めた。
「何でございますか。何でございますか。」
瑠璃子も、勝平を励ますために、さう叫ばずにはゐられなかつた。
その時に、室の薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ/\と悪魔の嗤ふやうに声高く笑つた。
五
カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ/\と頓狂に笑ひ出す声を聴くと、元気のある度胸の据つた喜太郎迄が、ハツと色を変へた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身を掴み損つてゐた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞつと襲つて来た。
「誰だ! 誰だ!」
喜太郎は
「誰だ! 誰だ! 黙つてゐると、射ち殺すぞ!」
相手が黙つてゐるので、勢ひを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。
暗い片隅に蹲まつてゐる人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、朧ろげながら判つて来た。
「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」
喜太郎は、益々勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでゐた。
相手が、割に落着いてゐるところを見ると、それが強盗でないことは、判つてゐた。が、不意に耳を襲つた頓狂な笑ひ声に依つては、それが
丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依つて、朧気な意識を恢復したらしい勝平は、低くうめくやうに云つた。
「射つな、射つたらいけないぞ!」
それは、一生懸命な必死な言葉だつた。さう云つてしまふと、勝平はまたグタリと死んだやうになつてしまつた。
主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟つたやうに鉄砲を、投げ出すと、ぢり/\と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん/\蹲まつたまゝで、身を
「やあ! 若旦那ぢやねえか!」
喜太郎は、驚駭とも何とも付かない、調子外れの声を出した。
瑠璃子も、その刹那弾かれたやうに立ち上つた。
「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」
喜太郎は、意外なる発見に、狂つたやうに叫び続けた。瑠璃子も思はず、瀕死の勝平の傍を離れると、二人が突つ立ちながら、相対してゐる方へ近づいた。
いかにも、その男は勝彦だつた。何時も見馴れてゐる大島の不断着が、雨でヅブ濡れに濡れてゐる。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光つてゐる。日頃は、
暫らくの間は、瑠璃子も言葉が出なかつた。が、凡ては明かだつた。東京の家に監禁せられてゐた彼は、瑠璃子を慕ふの余り、監禁を破つて、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やつて来たのに違ひなかつた。
「お父様をあんなにしたのは、
瑠璃子は、可なり厳粛な態度でさう訊いた。
勝彦は、黙つて肯いた。
「東京から、一人で来たのですか。」
勝彦は黙つて肯いた。
「汽車に乗つたのですか。」
勝彦は、又黙つて肯いた。
「お父様を、何うしてあんなにしたのです。
瑠璃子に、さう問ひ詰められると、勝彦は顔を
『貴女を救ふために。』と答へ得たのであるが。
六
瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ/\と笑ひ続けてゐる丈だつた。
老人の喜太郎は、張り詰めてゐた勇気が、急に抜け出してしまつたやうに云つた。
「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとつちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末に了へねえや。奥様! こんな人に
喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるやうに非難しながら、座敷の真中に、生死も判らず横はり続けてゐる勝平の方へ行つた。
が、瑠璃子は喜太郎のやうに心から勝彦を、非難する気には、なれなかつた。口では勝彦を咎めるやうなことを云ひながら、心の中では此の勇敢な救ひ主に、
丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなつた。瑠璃子は思はず、その方に引き付けられた。
彼の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い巨きい四肢は、最後のあり
「水! 水!」
勝平は、苦しさうな呻き声を洩した。
女中が、転がるやうに持つて来た水を、コップのまゝ口へ注がうとしたが、思ひ
水に依つて、
「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」
彼は、さう叫びながら、心臓の
「直ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」
瑠璃子も、オロ/\しながら、さう答へた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだらう。彼は、
「瑠璃子さん、
彼は、身体中に残つた精力を蒐めながら、やつと切々に云つた。つい一時間前の告白を疑つた瑠璃子にも、男子のかうした瀕死の言葉は疑へなかつた。瑠璃子の冷たく閉ぢた心臓にも、それが針のやうに刺し貫いた。
「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けさうだ!」
勝平は、心臓を両手で抱くやうにしながら、畳の上を、二三回転げ廻つた。
「美奈子! 美奈子はゐないか!」
彼は、突如苦しさうに、半身を起しながら、座敷中を見廻した。併し美奈子が其処にゐる訳はなかつた。二三秒間身体を支へ得た丈で、またどうと後へ倒れた。
「美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」
瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、さう云つた。
「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女は、
彼は、さう云ひながら、再び身体を起さうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであらう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみを
「あゝ苦しい! 切ない!」
勝平は最後の苦痛に入つたやうに、何物かを掴まうとして、二三度虚空を掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平は、瑠璃子の白い腕に触れるとそれを
七
勝平の最後の息が絶えようとしてゐる時に、医師がやつて来た。レインコートの下へまで、激しい雨が浸み入つたと見え、洋服の所々から、雫がタラ/\と落ちてゐた。
「車で来ようと思つたのですが、家を二間ばかり離れると、直ぐ吹き倒されさうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ廻つたやうですから、もう大丈夫です。まさか、先度のやうなことはありませんでせう。」
医師は、
「お電話ぢや十分判りませんでしたが、
医師は、横はつてゐる勝平の
瑠璃子は、
「いゝえ! 女中が
さう云つたものの、後は続け得なかつた。医師は直ぐその場の事情を呑み込んだやうに、勝平の身体に手をやつて、
「何処もお
「はい!
「御心配はありません。何処か打ち所が悪くつて気絶をなさつたのです。」
医師は事もなげにさう云ひながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒、医師はぢつと耳を傾けてゐた。それと同時に、彼の眸に、勝平の蒼ざめて行く顔色が映つたのだらう。彼は、急に狼狽したやうに前言を打ち消した。
「あゝこりやいけない!」
さう云ひながら、彼は手早く聴診器を、鞄の中から、引きずり出しながら、勝平の肥り切つた胸の中の心臓を、探るやうに、幾度も/\
「あゝこりやいけない!」
彼は再び絶望したやうな声を出した。
「いけませんでございませうか。」
さう訊いた瑠璃子の声にも、深い
「こりやいけない! 心臓麻痺らしいです。何時か診察したときにも、よく御注意して置いた筈ですが、可なり酷い脂肪心だから、よく御注意なさらないと、直ぐ心臓麻痺を起し易いと、幾度も云つた筈ですが。喧嘩だとか格闘だとか、興奮するやうなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」
医師は、いかにも、自分の与へた注意が守られなかつたのが、遺憾に堪へないやうに、耳は聴診器に
「心臓の周囲に、脂肪が溜ると、非常に心臓が弱くなつてしまふのです。火事の時などに、駈け出した
さう云はれると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるやうに感じた。
「もう駄目だとは思ひますが、諦めのために、カンフル注射をやつて見ませう。」
医師は、手早くその用意をしてしまふと、今肉体を去らうとして、たゆたうてゐる魂を、呼び返すために、巧みに注射針を操つて、一筒のカンフルを体内に注いだ。
医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸を試みた。が、勝平の身体は、刻一刻、人間特有の温みと生気とを失ひつゝあつた。その巨きい顔に、死相がアリ/\と刻まれてゐた。
「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」
医師は、死に対する人間の無力を現すやうに、悄然と最後の宣告を下した。
八
戦は終つた。不意に突然に意外に、敵は今彼女の眼前に、何の力もなく何の意地もなく土塊の如くに横はつてゐる。
彼女は見事に勝つた。勝つたのに違ひなかつた。傲岸な、金の力に依つて、人間の道を
が、勝平の死顔をぢつと見詰めてゐる時に、彼女の心に湧いて来たものは、勝の欣びではなくしてむしろ勝の悲しみだつた。勝利の悲哀だつた。
否! 否! 瑠璃子自身の良心が、それを否定してゐる。愈々、死が迫つて来た時の勝平の心は、彼の一生の凡ての罪悪を償ひ得るほどに、美しく輝いて居たではないか。
彼は、自分の
それよりも、もつと瑠璃子の心を穿つたものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だつた。格闘の相手が――従つて彼の死の原因が――勝彦であることを知りながらも、此の愚なる子の行末を、苦しき臨終の刹那に気遣つてゐる。彼の人間らしい心は、その死床に於て、燦然として輝いたではないか。
彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依つて、彼に悶々の悩みを
悪魔だと思つて刺し殺したものは、意外にも人間の相を現してゐる。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路に於て、刺し殺した結果に於て、悪魔に近いものになつてゐる。
自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐のないものだつた。恋人を捨てゝ、処女としての誇を捨てゝ、世の悪評を買ひながら、全力を尽くして、戦つた戦ひは、戦ひ
負けた勝平は、負けながら、その死床に人間として救はれてゐる。が、見事に勝つた瑠璃子は、救はれなかつた。
自分の一生を賭してかゝつた仕事が、空虚な幻影であることが、分つた時ほど、人間の心が弛緩し堕落することはない。
彼女の心は、その時以来別人のやうに荒んだ。
その上に、もつと悪いことには、名ばかりの妻として、
彼女は、荒んだ心と、処女としての新鮮さと、未亡人としての妖味とを兼ね備へた美しさと、その美を飾るあらゆる自由とを以て、何時となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀の如く、その双翼を拡げてゐた。
怪頭醜貌の女怪ゴルゴンは、見る人をして悉く石に化せしめたと
黒髪皎歯清麗真珠の如く、艶容人魚の如き瑠璃子は、その聡明なる機智と、その奔放自由なる所作とを以て、彼女を見、彼女に近づくものを、果して何物に化せしめるであらうか。
魅惑
一
奇禍のために死んだ青年の手記を見た後も、美しき瑠璃子夫人は、尚信一郎の心に、一つの謎として止まつてゐた。手記に依れば、青年を飜弄し、彼をして、形は奇禍であるが、心持の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるやうにも思はれた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨みが籠つてゐる筈の、時計の持主であることを否定してゐた。
信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中の裡へ、突き放されたやうに思つた。血腥い青木淳の死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしてゐる。その霧の中に、チラチラと時折、瞥見するものは、半面紫色になつた青年の死顔と、艶然たる微笑を含んだ夫人と
青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、――青年の怨みを籠めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されてゐる。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、此の謎を
が、その謎を解くべき、唯一の手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡つてゐる。たゞ、それの受取のやうに、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉の入場券が、信一郎の紙入に、何の不思議もなく残つてゐる
が、此の何の奇もない入場券と、『是非お出下さいませ。その節お目にかゝりますから。』と云ふ夫人の言葉とが、今の場合夫人に近づく、従つて夫人の謎を説くべき唯一の心細い頼りない手がかりだつた。夫人と信一郎とを結び付けてゐる細い/\蜘蛛の糸のやうな、
音楽会の期日は、六月の最後の日曜だつた。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇する心持もあつた。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈してゐるが、本当は一度言葉を交へた瑠璃子夫人の美貌に惹き付けられてゐるのではないか。彼の心の裡で、
昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替をすることが、必要だつた。
「一寸散歩に。」と云つてブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかつた。
「一寸音楽会に行つて来るよ。着物を出しておくれ。」
さうした言葉が、何うしても気軽に出なかつた。それは、何でもない言葉だつた。が、信一郎に取つては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だつた。
「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」
さうした言葉
彼は、ぼんやり縁側に立つてゐるかと思ふと、また、何かを思ひ出したやうに二階へ上つた。が、机の前に坐つても、少しも落着かなかつた。彼は、思ひ切つて妻に云ふ積りで、再び階下へ降りて来た。
が、
「あら!
無邪気な妻は夫の図星を指してしまつた。指さゝれてしまふと、信一郎は却つて落着いた。
「うつかり忘れてゐたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送つて行かなければならないのだつた!」
彼は、咄嗟に今日出発する筈の専務のことを思ひ出したのだ。
「何時の汽車? これから行つても、間に合ふのでございますか?」
静子は一寸心配さうに云つた。
「間に合ふかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」
さう云ひながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻つたばかりだつた。
「ぢや、早くお支度なさいまし。」
信一郎は、最初の冷たい言葉を云ふ代りに、最初の嘘を云つてしまつた。その方が、ズツと悪いことだが。
二
その日の音楽会は、露西亜のピアニスト若きセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161-上-6]ッチ兄妹の独奏会だつた。
去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、
信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立つた時、会場はザツと一杯だつた。が、人数は三百人にも足らなかつただらう。七円と云ふ高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限してゐた。極楽鳥のやうに着飾つた夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでゐた。その中に諸所瀟洒なモオニングを着て、楽譜を手に持つてゐる、音楽研究の若殿様と云つたやうな紳士が、二三人宛交じつてゐた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、直ぐ油に交じつた水のやうな寂しさを感じた。かうした華やかな
信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎へられて壇上に現はれた、スラヴ美人の典型と云つてもいゝやうな、碧い眸と、白い雪のやうな頬とを持つた美しい娘だつた。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応へると、水色のスカートを飜しながら、快活にピアノに向つて腰を降した。と、思ふと、その白い蝋のやうな繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛か何かのやうに、鍵盤の上を、駈け廻り始めた。曲は、
その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走つてゐた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々
妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。
丁度その途端、信一郎の肩を軽く
「よくいらつしやいましたのね。先刻からお探ししてゐましたのよ。」
信一郎の言ふべきことを、向うで言ひながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処に
「あまりお見えにならないものですから、いらつしやらないのかと思つてゐましたのよ。」
信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向うは親しく馴々しく、友達か何かのやうに言葉をかけた。
「先日は、
信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。
「いゝえ!
彼女は、
丁度、その時に兄のニコライ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162-下-3]ッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立たうとはしなかつた。
「
彼女は、信一郎に云ふともなく
三
丁度その時、兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162-下-8]ッチの
信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。
彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「
彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐる
信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくつきりと通つた襟足を、そつと見詰めずにはゐられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずにはゐられなかつた。
曲が、終りかけると、彼女は
快い緊張から夢のやうに醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。
「妹の方が、技巧は
「僕も同感です。」信一郎も、心からさう答へた。
「
彼女は、二度目に会つたばかりの信一郎に、少しの気兼もないやうに、話した。
「好きです。高等学校にゐたときは、音楽会の会員だつたのです。」
「ピアノお
「簡単なバラッドや、マーチ位は
「ピアノお持ちですか。」
「いゝえ。」
「ぢや、
彼女は、薄気味の悪いほど、馴々しかつた。その時に、壇上には、妹のアンナが立つてゐた。
「バラキレフの『イスラメイ』を
さう云ひながら、彼女は立ち上つた。
「みんなが、
「はあ! 結構です。」
信一郎は、何かの命令をでも、受けたやうに答へた。
「それでは後ほど。」
彼女は、軽く会釈すると、静まり返つてゐる聴衆の間の通路を、
彼女が、席に着かうとしたとき彼女の席の周囲にゐた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰つて来たのを、女王でもが、帰還したやうに、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれてゐるのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはゐられなかつたのである。
四
それから、演奏が終つてしまふまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行つた魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のやうな時間を過してしまつた。
最後の演奏が終つて、華やかな拍手と共に、皆が立ち上つたとき、信一郎は夢から、さめたやうに席を立ち上つた。
彼は、自分から
美しい女性の流れが、暫らくは階段を滑つてゐた。が、待つても、待つても夫人の姿は見えなかつた。
彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん/\
彼は『一緒にお茶を飲まう。』と云ふことが、たゞ一寸した、夫人のお世辞であつたのではないかと思つた。それを金科玉条のやうに、一生懸命に守つて、待ちつゞけてゐた自分が、少し馬鹿らしくなつた。夫人は、
信一郎は、うつとりとして、名画の美人画をでも見るやうに、暫らくは見詰めてゐた。
それと同じやうに、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達な
瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立つてゐる信一郎には、一瞥も与へないで、アンナを玄関まで送つて行つた。
其処で、後から来た兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、165-上-4]ッチを待ち合はすと、兄妹が自動車に乗つてしまふ迄、主催者の貴婦人達と一緒に見送つてゐた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。
兄妹を乗せた自動車が、去つてしまふと、彼女は、初めて信一郎を見付けたやうに、いそいそと彼の傍へやつて来た。
「まあ! 待つてゐて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」
彼女は、さう云ひながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやつぱり
「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでゐますと、遅くなつてしまひますわ。如何でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございませう。」
「はあ! それで結構です。」
信一郎は、従順な
「
「信濃町です。」
「それぢや、院線で御帰りになるのですか。」
「市電でも、院線でも
「それぢや、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでせう。
彼女は、それが何でもないことのやうに、微笑しながら云つた。
五
わづか二度しか逢つてゐない、而も確かな紹介もなく妙な事情から、
「いゝえ恐れ入ります。電車で帰つた方が勝手ですから。」
「あら、そんなに改まつて遠慮して下さると困りますわ。
「でも御迷惑ぢやございませんか。」
信一郎は、もう可なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではかう云つて見た。
「あら、御冗談でございませう。御迷惑なのは、
夫人の言葉は、銘刀のやうに鮮かな冴を持つてゐた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧せられたやうに、モヂ/\してゐる間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立つて、声高く自動車を呼んだ。
暮れなやむ初夏の宵の
「さあ!
信一郎の確な承諾をも聴かないのにも拘はらず、夫人はそれに
さう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛交つたやうな心持で、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲してゐたのにも拘はらず、乗ることが何となく不安だつた。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すやうに不安だつた。
「あら、何をそんなに遠慮していらつしやるの。ぢや、
さう云ふと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、
「さあ! 早くお乗りなさいませ。」
彼女は振り顧つて、微笑と共に信一郎を
相手が、さうまで何物にも囚はれないやうに、奔放に振舞つてゐるのに、男でありながら、こだはり通しにこだはつてゐることが、信一郎自身にも、厭になつた。彼は、思ひ切つて、
信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。
夫人は駭いたやうに、それを制した。
「あら、そんなことをなさつちや、困りますわ。まあ、殿方にも似合はない、何と云ふ遠慮深い方でせう。さあ
信一郎を、
給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るやうに、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。
給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のやうに、恍惚としてゐた。
六
つい知り合つたばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たつた二度目に会つたときに、もう既に自動車に、同乗すると云ふことが、信一郎には、宛ら美しい夢のやうな、二十世紀の
試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、
然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の
丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと――と言つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが――会話の
「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変
「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」
「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」
信一郎は心でもさう思つた。
「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した
「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ
信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。
「外交官の夫人! ほゝゝ、
さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き
瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。
信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。
「
信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。
「あのう――好きでございますの。」
さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。
「大好きでございますの。」
夫人は、再び強く肯定した。
七
「
信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。
「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」
「はい、近代のものとか、
信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。
「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」
「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひではありませんわ。」
「メリメは、どんなものがお好きです。」
「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」
「あの
「好きでございますよ。」
言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。
「
夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、
信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い/\
が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさと頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、
が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。
が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻の静子に依つて充されなかつた欲求が、わづか三四分の同乗に依つて、十分に充たされたやうに思つた。
さう思つたとき、その貴い三四分間は、過ぎてゐた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走つてゐた。
「いやどうも、大変有難うございました。」
信一郎は、さう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。
その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思ひ出したやうに云つた。
「
八
「貴君! 今晩お
と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。
「
信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。
「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」
「いゝえ! 別に。」
信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。
「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の
夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。
信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。
さうした夫人と、今宵一夜を十分に、語ることが出来ると云ふことは、彼にとつてどれほどな、幸福と欣びを意味してゐるか分らなかつた。
彼は、直ぐ同行を承諾しようと思つた。が、その時に妻の静子の面影が、チラツと頭を掠め去つた。新橋へ、人を見送りに行つたと云ふ以上、二時間もすれば帰つて来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了へて、ボンヤリと待ちあぐんでゐる妻の
「如何でございます。そんなにお考へなくつても、手軽に
夫人は躊躇してゐる信一郎の心に、拍車を加へるやうに、やゝ高飛車にさう云つた。信一郎の顔をぢつと見詰めてゐる夫人の
「さうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だつてある。飽き/\するほど幾夜だつてある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がさう幾度もあるだらうか。こんな
さう心の中で思ふと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのやうに、フハ/\となつてしまつた。彼は思ひ切つて云つた。
「もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。」
「あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。」
夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるやうに声高く云つた。
自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐやうに、馳けり始めた。
電車道の、
車が、小川町の角を、急に曲つたとき、夫人は思ひ出したやうに、とぼけたやうに訊いた。
「失礼ですが、奥様おありになつて?」
「はい。」
「御心配なさらない! 黙つて
「いゝえ。決して。」
信一郎は、言葉
九
帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処にはどんな人々がゐるかも知れない群衆の中へ、かうした美しい、それ
が、信一郎のさうした心遣ひを、救けるやうに、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、
夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやつと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉しかつた。
夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めてゐたが、ふと信一郎の方を振り返ると、
「本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。」
「いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。」
「
「同感です。全く同感です。」
信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。
「親や夫に臣従しないで、もつと自分本位の生活を送つてもいゝと思ひますの。古い感情や道徳に囚はれないで、もつと解放された生活を送つてもいゝと思ひますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が
夫人は、周囲の静けさを擾さないやうに、出来る
「でも、
夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩んだやうに、フラ/\としてしまつた。美しい妖精に魅せられた少年のやうに、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然と黙つてゐた。
夫人は、ひらりと身を
「でも、
夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられてゐた。信一郎は、うつとりとした心持で、
客間の女王
一
帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取つては、夢とも
夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香が、彼の感覚を爛し、彼の魂を溶かしたと云つてもよかつた。
彼は、其夜、半蔵門迄、夫人と同乗して、其処で新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくつきりと白い顔を、のぞかしながら、
「それでは、此次の日曜に
彼の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のやうな言葉が、一つ/\記憶の裡に甦がへつて来た。『自分を理解して呉れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きぢやありませんの』と云つたやうな馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。
自分が、生れて始めて会つたと思ふほどの美しい女性から、唯一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。
彼の頭の裡には、もう半面紫色になつた青木淳の顔もなかつた。謎の
たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻き消されさうになつてゐた。十二時近く帰つて来た夫を、妻は何時ものやうに無邪気に、何の疑念もないやうに、いそいそと出迎へた。さうした
その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いてゐることが多かつた。
「あら、何をそんなにぼんやりしていらつしやいますの、今度の日曜は何日? と云つてお尋ねしてゐるのに、たゞ『うむ! うむ!』云つていらつしやるのですもの。何をそんなに考へていらつしやるの?」
静子は、夫がボンヤリしてゐるのが、可笑しいと云ひながら、給仕をする手を止めて、笑ひこけたりした。夫が、他の女性のことを考へて、ボンヤリしてゐるのを、可笑しいと云つて無邪気に笑ひこける妻のいぢらしさが、分らない信一郎ではなかつたが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ひ去ることが出来なかつた。
到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取つては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでゐるやうに、夫人がやつぱりその日曜を待ち望んでゐて呉れることを信じて疑はなかつた。
夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が云つた。もしそれがさうなつたら、何うしたらよいだらう。あの自由奔放な夫人は、
「それが、さうなつたつて、別に差支はないのよ。」
夫のない夫人はそれで差支がないかも知れない。が、自分は
信一郎は、さうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。
夫人を訪ねるのも、二度目であつた。が、妻を欺くのも二度目であつた。
「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合はして、多摩川へ行く筈なのだよ。」
帽子を持つて送つて出た静子に、彼は何気なくさう云つた。
二
電車に乗つてからも、妻を欺いたと云ふ心持が、可なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分を[#「自分を」はママ]尋ねて行くのを、ぢつと待つてゐて呉れるのだと思ふと、電車の速力さへ
夫人と会つてからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮んで来た。文芸や思想の話に就ても、今日はもつと、自分の考へも話して見よう。自分の平生の造詣を、十分披瀝して見よう。信一郎はさう考へながら、夫人のそれに対する溌剌たる
お濠の
十日ほど前には、可なりビク/\と潜つた
楓を植ゑ込んである馬車廻しの中に、たゞ一本の
「本当にお暇なとき、何時でもいらしつて下さい。誰も気の置ける人はゐませんのよ。
この前、来たときと同じやうに、小さい軽い靴音が、それに応じた。
「あのう、奥様にお目にかゝりたいのですが。」
信一郎が、さう言ふと少年は待つてゐたと云はんばかりに、
「失礼でございますが、渥美さまとおつしやいますか。」
信一郎は軽く肯いた。
「渥美さまなら、直ぐ何うかお通り下さいませ。」
少年は、慇懃に
「何うか
敷き詰めてある青い絨毯の上を、少年の後から歩む信一郎の心は、可なり激しく興奮した。自分の名前を、ちやんと玄関番へ伝へてある夫人の心遣ひが、嬉しかつた。一夜夫人と語り明したことさへ生涯に二度と得がたい幸福であると思つてゐた。それが、一夜限りの空しい夢と消えないで、実生活の上に、ちやんとした根を下して来たことが、信一郎には此上なく嬉しかつた。彼は絨毯の上を、しつかりと歩んでゐた
長い廊下を、十間ばかり来たとき、少年は立ち止まつて、其処の
「
信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子に身体を埋ませるやうに掛けながら、自分を待つてゐるのを想像した。
彼は、興奮の余り、かすかに顫へさうな手を
彼は、不意に頭から、水をかけられたやうに、ゾツとして立ち
三
彼がハツと立ち竦んだ時には、もう半身は客間の中に入つてゐた。
凡てが、意外だつた。瑠璃子夫人の華奢なスラリとした、身体の代りに、其処に十人に近い男性が色々な椅子に、いろいろな姿勢で以つて陣取つてゐた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のやうに、客間の中央に、女王のやうな美しさと威厳とを以て、大きい、彼女の身体を
楽しい予想が、滅茶々々になつてしまつた信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思つた。が、彼が一足踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に蒐まつてゐた。
「あゝ、お前もやつて来たのだな。」と、云つたやうな表情が、薄笑ひと共に、彼等の顔の上に浮んでゐた。信一郎は、さうした表情に依つて可なり傷けられた。
瑠璃子夫人は、
「あ、よくいらつしやいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻からお待ちしてゐました。」
さう云ひながら、彼女は部屋の中を見廻して、空椅子を見付けると、その空椅子の直ぐ傍にゐた学生に、
「あゝ阿部さん一寸その椅子を!」と、云つた。
するとその学生は、命令をでも受けたやうに、
「はい!」と、云つて気軽に立ち上ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるまゝに、夫人の腕椅子の直ぐ傍へ持つて来た。
「さあ! お掛けなさいませ。」
さう云つて、夫人は信一郎を
信一郎が椅子に着かうとすると夫人は一寸押し止めるやうにしながら云つた。
「さう/\。一寸御紹介して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱へ出ていらつしやる。それから、茲にいらつしやる方は、――さう右の端から順番に起立していたゞくのですね、さあ小山さん!」
と彼女は傍若無人と云つてもよいやうに、一番縁側の近くに坐つてゐる、若いモーニングを着た紳士を
「外務省に出ていらつしやる小山男爵。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。其の次の方が、帝大の文科の三宅さん、作家志望でいらつしやる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらつしやる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存じ? 近代劇協会にゐたことのある方ですわ。其の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらつしやる。
夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上る男性を、出席簿でも調べるやうに、淀みなく紹介した。
信一郎は、可なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快だつた。自分一人を友達として選ぶと云つた夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒と嫉妬との入り交じつたやうな激昂で、眼が
コロネーションに結つた黒髪は、夫人の長身にピツタリと似合つてゐた。黒地に目も醒めるやうな白い棒縞のお召が、夫人の若々しさを一層引立てゝゐた。白地の
信一郎の失望も憤怒も、夫人の
四
「渥美さん! 今大変な議論が始まつてゐるのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だらうと云ふ問題なのでございますよ。貴君の御説も伺はして下さいませな。」
夫人は、信一郎を会話の圏内に入れるやうに、取り做して呉れた。が、初めて顔を合はす未知の人々を相手にして、直ぐおいそれ! と文学談などをやる気にはなれなかつた。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、
「だつて奥さん! 独歩には、いゝ芽があるかも知れません。が、然しあの人は先駆者だと思ふのです。本当に完成した作家ではないと思ふのです。」
信一郎が、何も云ひ出さないのを見ると、三宅と云ふ文科の学生が、可なり熱心な口調でさう云つた。先刻から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じてゐるらしかつた。
「それに、独歩のやうな作品は、外国の自然派の作家には
モーニングを着た小山男爵は、自分の見識に対する夫人の賞讃を期待してゐるやうに、自信に充ちて云つた。
「でも
夫人は、多くの男性の中から、信一郎
「さうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏してゐるやうに思ふのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思ふのです。」
「尾崎紅葉!」小山男爵は、『クスツ』と冷笑するやうな口調で云つた。
「『金色夜叉』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」
文科の学生の三宅が、その冷笑を説明するやうに、吐出すやうに云つた。
瑠璃子夫人は、三宅の思ひ切つた断定を嘉納するやうに、ニツと微笑を洩した。信一郎は初めて、口を入れて、直ぐ
「『金色夜叉』を通俗小説だと云ふのですか。」
彼の口調は、詰問になつてゐた。
「無論、それは読む者の趣味の程度に依ることだが、僕には全然通俗小説だと思はれるのです。」
若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語つた。
「それは、
信一郎は、思ひの外に、スラ/\と出て来る自分の雄弁に興奮してゐた。
「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」
彼は、きつぱりと断定するやうに云つた。
「それもさうですわね。」
瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したやうに、しみ/″\さう云つた。信一郎は俄に勇敢になつて来た。
五
瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分りさうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵との二人が、躍気になつた。
殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で云つた。
「時代が経てば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説は何時が来たつて、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、何時が来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的な
三宅の語り終るのを待ち兼ねたやうに、小山男爵は、横から口を入れた。
「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれてゐると云ふことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」
二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いてゐると、信一郎もつい、ムカ/\となつてしまつた。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、
「それは
さう云ひながら、信一郎は何処か貴族的な傲慢さが、
「そんな暴論はありませんよ。広く読まれてゐるのが、通俗小説の証拠ですつて、そんな暴論はないと思ひますね。さう云ふ議論をすれば、
信一郎は、可なり熱狂して喋つた。法科に籍を置いてゐたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さへなければ、欣んで文科をやつた筈の信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持つてゐた。
信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとつくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快さうに黙つてしまつた。
三宅は、云ひ込められた口惜しさを、何うかして晴さうと、駁論の筋道を考へてゐるらしく口の辺りをモグ/\させてゐた。
「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらつしやる。
瑠璃子夫人は、心から感心したやうに、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。
信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のやうに、晴れがましい揚々たる気持になつてゐた。
「然し……」と、三宅と云ふ青年が、必死になつて駁論を初めようとした時だつた。
廊下に面した
六
「
夫人は、
「僕です。」
外の人は明晰な、美しい声でさう答へた。
「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」
夫人は、さう云ひながら、いそ/\と椅子を離れた。信一郎が、入つて来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かした
夫人が、手づから
「暫く御無沙汰致しました。」
「ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。」
「いや、何処へも行きやしません。」
「それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、
夫人は、三宅と云ふ学生を顧みた。
「やあ!」
「やあ!」
三宅とその男とは顔を見合して挨拶した。
「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。
三宅は、後輩が先輩に迎合するやうな、口の利き方をした。
「さあ! 秋山さん!
さう云ひながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換へた。
「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺ひたいのよ。ねえ! 三宅さん!」
信一郎に、説き
「さあ、是非秋山さんの御意見を伺ひたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと云ふ問題が、起つてゐるのですがね、
三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするやうに云つた。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するやうに信一郎に云つた。
「此の方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派の新進作家の。」
秋山正雄、さう云はれて見れば、最初見覚えがあると思つたのは、間違つてゐなかつたのだ。信一郎が一高の一年に入つた時、その頃三年であつた秋山氏は文科の秀才として、何時も校友会雑誌に、詩や評論を書いてゐた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ/\と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するやうな盛名を馳せてゐる。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと云はれてゐる人だつた。
信一郎は、自分が有頂天になつて、喋べつた文学論が、かうした人に依つて、批判される結果になつたかと思ふと、可なりイヤな羞しい気がした。有頂天になつてゐた彼の心持は忽ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依つては、此の教養の深い文学者――しかも先輩に当つてゐる――と、文学論を戦はせなければならぬかと思ふと、彼は思はず冷汗が背中に湧いて来るのを感じた。
信一郎の心が、不快な動揺に悩まされてゐるのを
「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎に角皆様の御意見を承はらうぢやありませんか。」
さう云ひながら、秋山氏は額に掩ひかかる長髪を、二三度続けざまに後へ掻き上げた。
七
「大分いろ/\な御意見が出たのですがね。
三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝へてゐる語調の中には、『此の素人が』と云つた語気が、ありありと動いてゐた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥したが、吸ひさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、
瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どつと笑つた。
「紅葉山人の絢爛さも、きイちやん、みイちやん的読者を欣ばせる
秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるやうな才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたやうな、おひやらかしてしまふやうな態度に出ることは、信一郎も
「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」
秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するやうに云つた。
瑠璃子夫人は、『おや。』と云つたやうな軽い叫びを挙げながら云つた。
「三宅さんも、
三宅は、赤面したやうに、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドツと笑つた。
秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、
「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」
一座は、秋山氏の皮肉を、又ドツと笑つた。その笑が静まるのを待ち兼ねて、三宅が云つた。
「今僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが云はれるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考へなければならない。文学史的に見なけばならない。かう仰しやるのです。」
「文学史的に見る。それは卓見だ。」秋山氏は、ニヤ/\と冷笑とも微笑とも付かぬ笑ひを浮べながら云つた。
「だが、紅葉山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いてゐるのなら、『金色夜叉』が通俗小説であつても、一向差支ないが、紅葉山人と同時代に生きてゐて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいてゐる人が外にあるのですからね。
「さう云ふ観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いてゐるぢやありませんか。何も、紅葉一人
「いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいてゐる作家がありますよ。」
「そんな作家が、本当にありますか。」
信一郎も可なり激した。
「ありますとも。」
秋山氏は、水の如く冷たく云ひ放つた。
汝妖婦よ
一
「誰です。一体その人は。」
信一郎は、可なり急き込んで訊いた。
が、秋山氏は落着いたまゝ、冷然として云つた。
「然し、かう云ふ問題は、銘々の主観の問題です。僕が、此の人がかうだと云つても、
秋山氏は、それに少しの疑問もないやうに、ハツキリと云ひ切つた。
瑠璃子夫人は、それを聴くと、躍り上るやうにして欣んだ。
「一葉!
「御尤もです。勝気で意地つ張なところが
秋山氏は、夫人を揶揄するやうに云つた。
「まさか。」
と、夫人は打ち消したが、其の比較が、彼女の心持に媚び得たことは明かだつた。
「一葉! さう/\あれは天才だ、夭折した天才だ! 一葉に比べると、紅葉なんか才気のある凡人に過ぎませんよ。」
小山男爵は、信一郎に云ひ伏せられた
「さうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハツキリと分りますね。渥美さんの御意見ぢや、『金色夜叉』よりも六七年も早く書かれた『たけくらべ』の方が、もつと早く通俗小説になつて居る筈だが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説ぢやありませんね。決してありませんね。」
三宅も、信一郎の方を意地悪く見ながら、さう云つた。
其処にゐた多くの人々も、銘々に口を出した。
「『たけくらべ』! ありや明治文学第一の傑作ですね。」
「ありや、僕も昔読んだことがある。ありや
「あゝさう/\、吉原の附近が、光景になつてゐる小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがゐたぢやありませんか。」
「女主人公が、それを
「信如とか何とか云ふ坊さんの子が、下駄の緒を切らして困つてゐると、美登利が、紅入友禅か何かの
代議士の富田氏までが、そんなことを云ひ出した。かうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すやうに云つた。
「兎に角、明治の作家の
秋山氏は、如何にも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然とさう云ひ放つた。
信一郎は、もう先刻からぢり/\と湧いて来る不愉快さのために、一刻もぢつとしてはゐられないやうな心持だつた。凡てが不愉快だつた。凡てが、癪に触つた。樫の棒をでも持つて、一座の人間を片ツ端から、殴り付けてやりたいやうにいら/\してゐた。
さうした信一郎の心持を、知つてか知らずにか、夫人は何気ないやうに微笑しながら、
「渥美さん! しつかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いやうでございますね。」
二
信一郎が、フラ/\と立ち上るのを見ると、皆は彼が大に論じ始めるのかと思つてゐた。が、今彼の心には、樋口一葉も尾崎紅葉もなかつた。たゞ、瑠璃子夫人に対する――夫人の移り易きこと浮草の如き不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂つてゐたのだつた。
彼は一刻も早く此席を脱したかつた。彼は其処に蒐まつてゐる男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずにはゐられなかつた。
「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」
彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分らなかつた。
彼は、吃りながら、さう云つてしまふと、泳ぐやうな手付で、並んだ椅子の間を分けながら
真蒼な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送つた。
信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかつた。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄した。夫人の艶美な微笑も蜜のやうな言葉も、今は空の空なることを知つた。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持つてゐることを知つた。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知つた。彼女は、目的があつて、男性を翻弄してゐるのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄してゐることを知つた。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅してゐることを知つた。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して
『汝妖婦よ!』
信一郎は、心の中で、さう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。
彼は突き破るやうな勢ひで、玄関の扉に手をかけた。
が、その刹那であつた。
信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐやうに、
「渥美さん! 渥美さん! 一寸お待ち下さい。」と、云ふ夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪ふ
「何うなすつたのです。本当にびつくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息をはずませながら云つた。
心配さうに見張つた黒い美しい眸、象牙彫のやうに気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬、かうした神々しい

「
三
『ほんの少し待つてゐて下さらない?』と、云ふ夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦よ!』と、心の中で叫んでゐた信一郎の決心も、またグラ/\と揺がうとした。
が、彼は揺がうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グツと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜のやうな言葉に乗ぜられて、散々な目にあつたではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしてゐるのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与ふるものは、幻滅と侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思へ! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかつたのか。男性の威厳を思へ! 夫人の言葉をスツパリと突き放してしまへ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、さう叫ぶ声があつた。
信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る
「でも、奥さん! 私、このまゝお暇いたした方がいゝやうに思ふのです。あゝした立派な方が蒐まつてゐる客間には、私のやうな者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」
信一郎は、可なりキツパリと断りながら、急いで
「まあ!
信一郎は、さう云ひながら、何事もないやうに、笑つてゐる夫人の美しさに、ある凄味をさへ感じた。夫人の
「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思ひます。又改めて伺ひたいと思ひますから。」
信一郎は、可なり強くなつて、キツパリと云つた。
夫人も、
「あらさう。何うしてもお帰りになるのぢや仕方がありませんわ。やつぱり、
夫人は、淡々として、さう云ひ切ると、グルリと身体を廻らして、客間の方へ歩き出した。
夫人から引き止められてゐる内は、それを振切つて行く勇気があつた。が、かうあつさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋しかつた。
夫人と別れてしまふことに依つて、異常な絢爛な人生の悦楽を、味ふ機会が、永久に失はれてしまふやうにも思はれた。自分の人生に、明けかゝつた
が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しをらしい花の美しさが、今彼の心の裡によみがへつた。
淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立つた車寄を
四
信一郎が、駭いて立ち竦んだのも、無理ではなかつた。玄関から門への道に添ふ植込の間から、透けて見える、キチンと整つた庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合つてゐる二人の男を見たのである。
二人の男を見たことに、不思議はなかつた。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与へた。
彼の方へ面を向けて、腰を下してゐる学生姿の男を見た時に、彼は思はず『アツ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙の
が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたものの直ぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。
然し、彼が最初の駭きから、やつと恢復した時、今度は第二の駭きが彼を待つてゐた。青年と相対して語つてゐる男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けてゐる。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のやうに閃いたものは、村上海軍大尉といふ名前であつた。青年が、遺して行つた手記の中に出て来る村上海軍大尉と云ふ名前だつた。
青木淳が、烈しい忿恨を以て、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ/\と甦つて来た。
『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、何 んなであつたらう。若 し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違 ない。』
信一郎は、青木淳の弟と語つてゐる軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の
『汝妖婦よ!』
彼は心の
が、信一郎の心を、もつと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと云ふことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ/\とかゝりさうになつてゐることだつた。いや恐らくかゝつてゐるのかも知れない。いや、兄と同じやうに、もう
さう考へて来ると、信一郎は、烈々と輝いてゐる七月の太陽の下に、尚
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた[#「血を分けた」は底本では「血を分けて」]兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。
『汝妖婦よ!』彼は、心の
信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、
五
新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。
瑠璃子夫人こそ、
青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度が、空恐しいやうに思ひ返された。『
『が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤 と恨 との為にわな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈 の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思ふ。……さうだ、一層 死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ、自分の真実の血で、彼女の偽 の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、恥 しめてやるのだ。』
青木淳の遺して逝つた手記の言葉が、太陽の光に晒されたやうに、何の疑点もなくハツキリと解つて来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。
『汝妖婦よ!』
信一郎は、十分な確信を以て、心の中でさう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の
さうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまつたのである。
『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』
信一郎の心に、さう叫ぶ声が起つた。『それで彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取つて返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の
信一郎の心の中の或る者が、さう叫び続けた。が、心の
『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思ふのか。お前は、今の今迄危く夫人に翻弄されかけてゐたではないか。夫人の張る網から、やつと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変へて駈付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまふのだ。』
かうした硬軟二様の心持の争ひの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近く帰つてゐた。停留場からは、一町とはなかつた。
電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止つてゐるのに気が付いた。
六
信一郎の興奮してゐた眸には、最初その自動車が、漠然と映つてゐる
が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まつてゐた。今日の自動車も、やつぱり何時もの自動車ではないかと、信一郎は最初思つてゐた。が、近づくに従つて、何時もとは、可なり停車の位置が違つてゐるのに気が付いた。何うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかつた。
が、段々家に近づくに従つて、恐ろしい事実が、漸く分つて来た。何だか見たことのある車台だと云ふ気がしたのも、無理ではなかつた。それは、紛れもなくあの青色大型の、
夫人が、訪ねて来たのだ! さう思つたときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。
出先で、妖怪に逢ひ
信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真中に立ち竦んだまゝ、何うしてよいか分らなかつた。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変つて行つた。
それにしても、夫人は何の恨みがあつて、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであらう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾さうとするのであらうか。今は夫人の美しさに、怖れてゐるときではない。戦へ! 戦つて、彼女の僅に残つてゐるかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! さうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦つてやる時だ! さう思ひながら、信一郎は必死の勇を振つて、敵の城の中へでも飛び込むやうな勢で、自分の家へ飛び込んだのである。
七
玄関先に立つてゐる、もしくは客間に上り込んでゐる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突つかゝつて行く覚悟の
見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下してゐるのが先づ眼に入つた。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るやうに、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかつた。手早く眼をやつた玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨てゝはなかつた。信一郎は、少しは救はれたやうに、ホツとしながら、玄関へ入らうとした。
運転手は素早く彼の姿を見付けた。
「いやあ。お帰りなさいまし。
彼は、馴れ/\しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だつた。が、運転手は信一郎を、もつと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。
「奥さん! やつぱり、お帰りになりましたよ。何処へもお廻りにならないで、直ぐお帰りになるだらうと思つてゐたのです。」
運転手は、いかにも自分の予想が当つたやうに、得意らしく云つた。運転手が、さう云ふのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに判つた。
「御主人はお帰りになりましたか。」
運転手は、最初さう訊ねたに違ひない。
「いゝえ、まだ帰りません。」
妻は、自身
「それぢや、お帰りになるのをお待ちしてゐませう。」
運転手は、さう云つたに違ひない。
「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだらうと思ひます。」
何も知らない、信一郎を信じ切つてゐる妻は、さう答へたに違ひない。それに対して、この無遠慮な運転手はかう言ひ切つたに違ひない。
「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今私の宅からお帰りになつたのですから、
初めて会つた他人から、夫の背信を教へられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙つたに違ひない。さう思ふと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒を感ぜずにはゐられなかつた。
信一郎は、可なり激しい、叱責するやうな調子で運転手に云つた。
「一体何の用事があるのです?」
運転手は、ニヤ/\気味悪く笑ひながら、
「宅の奥様のお手紙を持つて参つたのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承はつて来い! お
運転手は、待つてゐることを、云ひ訳するやうに云つた。
手紙を持つて来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽した。妻に、
「手紙! 手紙なら、早く出したまへ!」
信一郎は、低く可なり狼狽した調子でさう云つた。
運転手が、何か云はうとする時に、夫の帰りを知つた妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しさうに笑ひながら、
「お手紙なら、
面罵
一
妻から、荘田夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるやうに熱くなつた。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののやうに、
が、静子の顔は、
信一郎は、妻の神々しい迄に、慎しやかな容子を見ると、却つて心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切つてゐる妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心の中で懺悔した。
妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのやうに、厭はしく感ぜられた。もし、人が見てゐなかつたら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、さうすることは却つて彼女に疑惑を起させる
手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂が、信一郎の鼻を魅するやうに襲つた。が、もうそんなことに依つて、魅惑せらるゝ信一郎ではなかつた。
彼は敵からの手紙を見るやうに警戒と憎悪とで、あわたゞしく貪るやうに読んだ。
『先刻 は貴君 を試したのよ。妾 の客間へ、妾 と戯恋 しに来る多くの男性と貴君が、違つてゐるか何 うかを試したのですわ。妾 は戯恋 することには倦き/\しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしてゐるやうな真似をする。擬似恋愛 ! 妾 は、それに倦き/\しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先丈 で、恋をしてゐるやうな真似をする。恋をしてゐるやうな所作丈 をする。恋をしてゐるやうな姿勢丈 を取る。妾 は、妾 の周囲に蒐まつてゐる、さうした戯恋者のお相手をすることには、本当に倦き/\しましたのよ。妾 は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞ふ方が欲しいのよ。凡ての動作を手先丈でなく心の底から、行ふ方 が欲しいのよ。
貴君 が忿然として座を立たれたとき、妾 が止めるのも、肯かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿 を見たとき、この方 こそ、何事をも真剣になさる方 だと思ひましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思ひましたの。妾 が長い間、探 ねあぐんでゐた本当の男性だと思ひましたの。
信一郎様!
貴方 は妾 の試 に、立派に及第遊ばしたのよ。
今度は、妾 が試される番ですわ、妾 は進んで貴方 に試されたいと思ひますの。妾 が、貴方 のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直ぐ此の自動車でいらしつて下さい!
信一郎様!
今度は、
瑠璃子』
手紙の文句を読んでゐる
夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないやうに、思はれた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛や追従や甘言や、戯恋に倦き/\してゐるのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めてゐるかも知れない。さう思つてゐると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るやうな頬が、信一郎の眼前に髣髴した。
が、次ぎの瞬間には青木淳の紫色の死顔や、今
二
手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従つて、夫人に対する
『時計を返して呉れ。』
と絶叫した青年の面影が、又
信一郎の心が、かうした義憤的な興奮で、充された時だつた。妻の静子は、――神の如く何事をも疑はない静子は、信一郎を促すやうに云つた。
「急な御用でしたら、直ぐいらしつては、如何でございます。」
妻のさうした純な、少しの疑惑をも、
信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い
「ぢや直ぐ引返すことにせう。早くやつてお呉れ!」
彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫へるのを感じた。
「畏まりました、七分もかゝりません。」
さう云ひながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗つた。
「ぢや、静子、行つて来るからね。ホンの一寸だ! 直ぐ帰つて来るからね。」
信一郎は、小声で云ひ訳のやうに云ひながら、妻の顔を、なるべく見ないやうに、車中の人となつた。
が、ガソリンが爆発を始めて、将に動き出さうとする時だつた。信一郎は、
「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だつたと思ふが、ノートが入つてる。それを持つて来ておくれ!」
「はい。」と云つて気軽に、立ち上つた妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持つて降りて来た。
『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でさう叫んだ。
三
五番町までは、一瞬の間だつた。
かうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷ふ暇さへなかつた。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日
もう再びは潜るまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅に緩めながら進み入つた。もう再びは、足を踏むまいと思つた車寄せの石段を、彼は再び昇つた。が、先刻は夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒とで、心を狂はせながら。
取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代りに、十七ばかりの少女だつた。
「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」
信一郎は、それに会釈する
少女は先刻の
「あの、お部屋の方にお通し申すやうに仰しやつてゐましたから。」
信一郎が一寸躊躇するのを見ると、少女は振り返つてさう言つた。
階段を昇り切つた取つ付きの部屋が、夫人の居間だつた。少女は軽く
「あら! いらつしやらないのかしら。それではどうか、お入りになつて、お待ち下さいませ。
さう云つて、少女は
信一郎は、おそる/\その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な洗煉された趣味が、隅から隅まで、行き渡つてゐた。敷詰めてある薄桃色の絨毯にも、水色の窓掩ひにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、
信一郎は、部屋の装飾に、現はれてゐる夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう/\としてゐる反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くやうな危険を、感ぜずにはゐられなかつた。
が、かうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑はす魅力の一つなのだ。信一郎は、さう云ふ風に考へ直しながら、青色の羽蒲団の敷いてある籐椅子に、腰をおろしてゐた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いてゐるのが見えた。
夫人は、なか/\姿を見せなかつた。小間使が氷の入つた
彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直してゐた。その裡に、ふと三尺とは離れてゐない
(Shinichiro)
彼は、自分の名前が書かれてゐるのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭きは十倍した。
(Shinichiro, my love !)
『信一郎、
而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも/\走り書きされてゐるのだつた。
四
『信一郎、
信一郎の頭は、この短い文句でスツカリ掻き
彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るやうに、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、さう云ふ考への後から、又別な考へが浮んで来た。あの悧口な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やつぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違ひない。信一郎の心の中の男性に共通な
夫人に対する信一郎の敵意がもう
「御免下さいまし。」
銀鈴に触れるやうな爽かな声と共に、夫人は静かに
湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのやうに艶々しく輝いてゐた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスツキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出してゐた。
わづか四五尺の間隔で、ぢつとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝつたやうな、陶酔を感ずるのを、
「まあ! 本当によくいらつしやいましたこと。
信一郎が、彼女の入つて来たのを見て、立ち上らうとするのを、制しながら、信一郎と向きあつて小さい卓を隔てながら、腰を下した。
信一郎は、ともすれば
「
「見ました。」
信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しつかりと云ひ放つた。
「何うお考へ遊ばして?」
夫人は、追窮するやうに、美しく笑ひながら訊いた。信一郎は、可なりハツキリした口調で云つた。
「
「あれでお分りにならないの。あれで、十分分つて下すつてもいゝと思ひますの。
夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力を以て云つた。
「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」
信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向つてハツキリと断言した。
五
その刹那、夫人