大力物語

菊池寛




       一

 昔、朝廷ちょうていでは毎年七月に相撲すもう節会せちえもよおされた。日本全国から、代表的な力士をされた。昔の角力すもうは、打つる投げるといったように、ほとんど格闘かくとうに近い乱暴なものであった。武内宿彌たけのうちのすくね当麻たいまのくえはやとの勝負に近いものだ。
 だから、国々から選ばれる力士も、その国で無双むそう強者つわものだったのである。
 ある時、越前えちぜん佐伯氏長さえきのうじながが、その国の選手として相撲の節会に召されることになった。途中近江おうみの国高島郡石橋を通っていると、川の水をんだおけを頭にいただいて帰ってくる女がいた。
 田舎いなかめずらしい色白の美人である。氏長は、心がうごいて馬から降りると、その女が桶をささえている左の手をとった。すると、女はニッコリ笑って、それをいやがりもしないので、いよいよ情を覚えてその手をしっかとにぎると、女は左の手をはずして、右の手で桶をささえると、左の手で氏長の手をわきにはさんだ。氏長はいよいよえつに入って、いっしょに歩いたが、しばらくして手を一度ぬこうとしたが、放さない。
 越前一の強力といわれる氏長が力をこめてこうとしても抜けないのである。氏長は、おめおめとこの女について行く外はなかった。家に着くと、女は水桶をおろしてきて氏長の手をはずして、笑いながら、「どうしてこんな事をなさるのです。あなたは一体どこの方ですか」という、近く寄って見ると、いよいよ美しい。
「いや、自分は越前の者であるが、今度相撲の節会で召されて参るものである」というと、女はうなずいて「それは危いことである。王城の地はひろいからどんな大力の人がいるかもしれない。あなたも、至極の甲斐性かいしょうなしと云うわけではないが、そんな大事の場所へ行ける器量ではない。こうしてお目にかかるのも、御縁ごえんだからもし時間がゆるせば、私の家に三七日逗留とうりゅうしたらどうか。その間に、あなたをきたえて上げましょう」と、いうた。
 三七日とは、三七二十一日である。その位の日数は、余裕よゆうはあったので、氏長はこの家に逗留することにした。

       二

 ところがこの女の鍛錬法たんれんほうというのがはなはだおかしい。その晩から、強飯こわめしをたくさん作ってべさした。女みずからにぎりめしにして喰べさしたが、かたくて初はどうしてもみ割ることが出来なかった。初の七日は、どうしても喰いわることが出来なかった。中の七日は、ようよう喰いわることが出来たが、最後の七日には見事に喰い割ることが出来た。すると、女はさあ都へいらっしゃい、こうなればあなたも相当なことは出来るだろうといって、都へ立たした。この二人が情交をむすんだか、どうかはくわしく書かれていない。この女は、高島の大井子という大力女である。田などもたくさん持って、自分で作っていた。
 ある年、水争いがあって村人達が大井子の田に水をよこさないようにした。すると大井子は夜にまぎれて表のひろさ六、七尺もある大石を、水口によこさまに置いて、水を自分の田に流れむようにした。翌日になると、村人がおどろいたが、その石を動かすには百人ばかりの人足が必要である。その上、そんな多人数を入れたのでは、田が滅茶滅茶めちゃめちゃあらされてしまう。それで、村人が相談して大井子の所へ行って謝った。
 今後は思召おぼしめしかなうべきほど水をお使い下さい。その代りに、どうかあの石だけは、とりのけて頂きますといった。すると、大井子は夜の間にその石を引きのけてしまった。その後、水論はなくなってしまったが、この石は大井子の水口石みなぐちいしといって、後代まで残っていた。この事件で、大井子の大力が初めて知れたのである。
 ところが、近江の国にはもう一人大井子などよりもっと有名な大力の女がいた。それは近江のおかねである。この女のことは江戸時代に芝居しばい所作事しょさごとなどにも出ているし、絵草子にもえがかれている。
 この女は、琵琶湖びわこに沿うたかいづのうらの遊女である。彼女は、ひさしくある法師の妻となっていた。妻とはいっても、遊女で妻もおかしいから、今でいえばめかけである。

       三

 ところが、この法師が浮気者うわきものであったとみえ、近頃ちかごろは同じ遊女仲間の一人に、心をうつして、しげしげ通っているといううわさが、お兼の耳に伝わって来た。お兼は、安からず、思っていた。ある晩、ひさしぶりに法師がやって来た。いっしょに物語りしている間、お兼は何もいわなかった。いよいよとこに入ってから、お兼はその弱腰よわごしを両足でぐっとはさんだ。法師は、初めたわむれだと思って「はなせはなせ」といったが、お兼はいよいよ力をいれたので、法師は真赤になってこらえていたが、やがて蒼白そうはくになってしまった。すると、お兼は「おのれ、法師め、人を馬鹿ばかにして、相手もあろうに同じ遊女仲間の女に手出しをする。少し思い知らしてやるのだ」といって、一しめしめたところ、法師はあわいて気絶した。それで、やっと足をはずしたが、法師はくたくたとなったので、水を吹っかけなどして、やっと蘇生そせいさせた。
 その頃、東国から大番(京都守衛の役)のために上京する武士達が、日高い頃に、かいづにとまった。そして、乗って来た馬どものあしを、湖水で冷していた。すると、その中のかんの強い馬が一頭物に驚いたと見え、口取の男をふり切って、走り出した。
 たくさんの男が、あとを追いかけたがどうにも手におえない。中には、引きづなに取りすがる者もいたがみな引き放されてしまう。ちょうど、そこへお兼が通りかかった。彼女は高いあしだをはいていたが、かたわらをかけ通ろうとする馬の引きづなのはずれを、あしだでむずとふまえた。すると馬がいきおいをそがれてそのまま止まった。人々はそれを見てあれよあれよと目をおどろかした。
 さすがにあしだは砂地に、足首のところまで、まっていた。これ以来、お兼の大力が世間に知られたのである。常に、五、六人位の男が集まっても、私を自由に出来ませんよ、といった。五つの指ごとに、弓を一張ずつはらせたことがある。弓は、二人張三人張などいうから、指一本でもたいした力である。

       四

 昔、美濃国みののくに、小川のいちに力強き女があった。身体からだも人並はずれて大きく百人力といわれていた。仇名あだな美濃狐みのぎつねといった。四代目の先祖が、狐と結婚したとうことであった。狐と大力とは別に関係はないわけだが、狐の兇悪きょうあくな性質を受けたと見え、現在の闇市やみいちの親分のように、商人をいじめては、いろいろな品物をうばいとっていた。ところが、同じ時に尾張国おわりのくに片輪の里に力強き女がいた。この女は、きわめて小柄こがらの女であった。大力の聞え高い元興寺の道場法師の孫に当っていた。この尾張の女が、美濃狐のことを聞いて、一度試してやろうと云うので、はまぐり熊葛くまつづらで作ったねり皮とを船に積んで、小川の市へやって来た。こういう他国者の新顔を、痛めつけることは昔も今も暴力団的顔役の仕事である。美濃狐は、早速尾張の女の船へ行って、蛤を差し押えて、「お前は、一体、どこの者だ。誰にことわってここで商売をするのか」といった。尾張の女は、だまっていたが、四度目に(どこから来たか大きなお世話だ)と、返事した。すると、美濃狐がおこって、尾張の女を打とうと手を出すと、尾張の女はその手をとらえて、熊葛のねり皮で打った。すると、あまりに力が強いので、そのねり皮に肉がくっついて来た。返すがえす打つと、その度に肉がついた。さすがの美濃狐も、を上げて謝った。すると、尾張の女は、以後商人達をなやますなと、いましめてから許してやった。その後美濃狐は、小川の市に来なくなったので、市人いちびと達はみなよろこび合って、平かな交易がつづいた。
 この尾張の女は、そうした大力にも似合わず、その姿形は、ねり糸のようにしなやかであった。そして、その郡の大領(郡長)のおくさんであった。あるとき、主人の郡長のために、あさの布を織って、それを着物に仕立てて着せた。それは現在の上布のようなものでしなやかで、すこぶる品のよい着物であった。ところがこの郡長がそれを着て、国司の庁へ行くと、国司が、それを見て、ほしくなったと見え、「その着物をわしによこせ。お前が着るのにはもったいない」と、云って取り上げたまま返さない。

       五

 郡長が家に帰ると、今朝着せてやった着物を着ていない。妻である尾張の女がそのわけをたずねると国司にまき上げられたと云う。妻は、あなたはあの着物を心からしいと思うかといた。すると、良人おっとは極めて惜しいと思うと答えた。すると、尾張の女は翌日国府へ出かけて行って、国司に面会を求めて返してくれと云った。すると国司は、うるさがって、この女を追い出せと、役人達に云いつけた。多勢の役人が、寄ってたかって連れ出そうとするが、ビクとも動かない。たちまち、役人を振りはらって国司に近づくと、片手で国司を引き倒すと、そのまま引きずって、国府の門外へ連れ出した。国司は、青くなって、「返す返す」と、悲鳴をげた。この女は、呉竹くれたけをねり糸のように、くしゃくしゃにする位強かった。ところがこうした強い女も、封建的ほうけんてきな家庭制度にはかなわない。良人の父母が云うには、国司を手ごめにした女を妻にしていては、お前はこの先、芽の出るわけはない。私達にも、どんなめいわくが、かかるかもしれない、早速離縁りえんすべきだと。それで主人の郡長は、元々意気地なしだったと見え、父母の教に従って、たちまち妻を離縁した。
 尾張の女は仕方なく、故郷へ帰って住んでいた。ある時、故郷を流れている川の南辺へ行って、洗濯せんたくをしていると、折から荷物を積んだ船が通りかかった。船の人々がこの女をからかった。あまり、しつこいので、「女だと思って馬鹿にすると、っぺたをなぐるぞ」と、いった。すると、船の人々は手んでに物を、女に投げつけた。
 すると、女は怒って、川の中へはいると、へさきをぐっと水の中へ押し入れた。荷物が水びたしになった。船の連中は、人をやとって荷物を陸にあげ、水をかいして、荷物を積んで、動き出そうとしてまた、女の悪口をいった。女は再び怒ると、今度はその船に手をかけて、人も荷物ものせたままグングン陸の上へ引きあげ、一町ばかり引きずって行った。船の連中は、青くなって、ひたあやまりにあやまった。女はやっと、機嫌きげんをなおして、また船を川まで、引きずりもどしてやった。

       六

 もう一人の女大力は、相撲人すもうびと、大井光遠の妹である。光遠は、横ぶとりの力強く足早き角力すもうであった。妹は、形有様ありさま尋常じんじょうで美しい女であった。光遠とは、少し離れた家に住んでいた。ある日、村人が光遠の所へけ付けて来て(たいへんです、妹さんが、盗人ぬすびとに人質にとられました)と云った。光遠は、それをきいたが、少しも驚かず(音にきく昔の薩摩さつまの氏家なら妹を質にとられようが)と、すましている。村人は、拍子ひょうしぬけがして、妹の家の方へ引き返して来た。先刻、盗人は村人達に追われて逃げ損い、光遠の妹の家に走り込んで、(この女房を人質に取った。寄り近づく者あらば、この女房をさし殺すぞ)と、村人達に宣言したのである。それでその中の一人が、あわてて兄さんの家へ知らせに行ったのであった。
 兄が相手にしないので、その村人は一体どんな容子ようすかと家の中をのぞいて見た。すると、盗人は光遠の妹を背後から両足でいて、その胸に逆手さかてに持った短刀をさしあてている。光遠の妹は、はずかしいと見えて、そでで顔をかくしているが、だんだん退屈して来たと見え板の間に荒づくりの矢竹が二、三十ちらばってるのをいじっていたが、それを板の間におしつけると一本ずつわらをにじるように、にじりつぶしている。のぞいていた村人が、びっくりしたが、盗人もそれに気が付いたと見え、顔色が急に青ざめたと見ると、たちまち人質を放して逃げ出した。いったん怖気おじけづいただけに、たちまち村人に捕えられてしまった。その男を村人達は、光遠の家へ連れて行って殺しましょうかと云うと、光遠は笑って(もし妹がその男の太刀を持つ手を逆にねじあげたら、その男のかたの骨はたちまちくだけただろう。危い目にっていたのは、妹でなくてその男だったのだ。殺すわけはないではないか)と、云って逃がしてやった。そして、言葉をつづけた。(妹は、わしより二倍は強い。男に生れたら、日本中に相手はないのだが……)と、嘆息たんそくした。

       七

 女大力物語のついでに、男の方も二、三人書いておく。叡山えいざん西塔さいとうに実因僧都そうずという人がいたが、この人が無類の大力であった。ある日、宮中の御加持ごかじに行って、夜更よふけて退出すると、何かの手違いで、供の者が一人もいない。仕方なく衛門のじんを出ようとすると、軽装した男が一人寄って来て(お供がいないのですか。私が負って差しあげましょう)と云う。それはありがたいと、云って負われると、大宮二条のつじまで行って、(ここで降りてくれ)と云う。僧都が(いや、わしの行く先は、ここではない)と、云うと、その男が声を荒らげて(命はしくないのか。そのきぬいで、どこへでも勝手に行け)と、いった。すると、僧都は負われながらあしでその男の腰をぐっとしめつけた。まるで、腰が切れそうである。男は、びっくりして(失礼な事を申しました。お望みのところへ参ります)と、云った。すると、僧都は(うたげの松原へ行って月見をしたい)というと、男はそこまで負って行った。そして、どうぞ降りて下さいといったが、下りようとしない。ゆうゆうと月にうそぶいてから(右近うこんの馬場が恋しくなった。あすこへ行け)と、いうと、男は(そんなには、参れません。もう、御かんべんを)と云うと、僧都はまた脚をぐっとしめつけた。すると男は(参ります。参ります)と悲鳴をあげたので、僧都は脚をゆるめた。男は仕方なく、右近の馬場へ行った。そこで、歌など口ずさんでから、今度は喜辻の馬場へ歩けといった。そして、僧都の宿所まで負われて来たときはもうあかつき近くで、男はへたへたになっていた。僧都は男の背中から下りてから、その男に衣をぬいでやったが、男は地面にうずくまったまま、しばらくの間は起き上れそうにもなかった。
 もう一人もやはり僧侶そうりょで、広沢ひろさわ寛朝僧正かんちょうそうじょうという人である。大僧正になった人で、仏教の方でも有名であり、宇多天皇の皇子の式部卿しきぶきょうの宮の御子みこである。この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和寺にんなじの別当をも兼ねていた。別当というのは、検非違使けびいしの長官をも云うのだが、神社仏寺の事務総長をも云うのである。ある時仁和寺が修理工事を始めていた頃の話である。
 ある夕方、寛朝僧正は、もう工事がどの位進んだか見たくなって、一人で高足駄たかあしだをはき、つえをついて、工事の現場を視察していた。現場には、足場のために、高いやぐらが組んである。その柱をくぐりながら見ていると、烏帽子えぼしを引き垂れて着た男が、つかつかと寄って、僧正の前に立った。見ると半ばかくすようにではあるが、刀をぬいて、それを逆手に持っている。
 僧正、これを見て(何の用ぞ)ときくと、男は片膝かたひざをついて、(自分は御存じないものである。あまりに寒さにえないので、おしになっている衣物を一つ二つたまわりたいのである)と、云ったが、今にも飛びかかりそうである。
 僧正は(それはわけもないことだが、なぜ素直に頼まないのか。そのやり方がしからないではないか)と、いうと、横に立ち廻ったかと思うと、男のしりをハタとった。すると、男はたちまち姿が見えなくなった。僧正はおかしいと思いながら周囲を見たが、どこにもいない。それで、庫裡くりの方へ行って、人を呼んだ。法師達が出て来ると、(今、わしをごうとする者がいたのだが、急に見えなくなった。灯をともしてさがしてくれ)と、云いつけた。十人ばかりの僧が、手に手に灯を持ってさがしまわっていたが、そのうちの一人が上をさして(やあ、あすこにいる)と云うので皆が見上げると、一人の黒い装束しょうぞくをした男が、足場のために作ったやぐらの柱と柱の間に、はさまれて身動きが出来ずに、むくむく動いているのであった。二、三人昇って見るとさすがに、刀だけは持っていたが、ぼんやりした顔をして、目ばかりパチパチさしていた。僧正のところへ連れて来ると、僧正は(老法師とても馬鹿にしてはいけないぞ。また、わるいことは今後やらない方がいい)と云って着ていた衣の綿の厚いのを脱いでその男へ与えた。
 これらの大力物語のいずれも誇張こちょうに違いないが、その誇張が空とぼけていて、ほほえましいものである。この話なども、蹴られて、積んであった材木の上にのっかっていた程度であろうが、それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう。





底本:「おかしい話〈ちくま文学の森5〉」筑摩書房
   1988(昭和63)年4月29日第1刷発行
   1989(平成元)年2月10日第5刷
底本の親本:「筑摩現代文学大系27巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年
初出:「新大阪新聞」
   1947(昭和22)年
入力:内田いつみ
校正:小林繁雄
2009年8月7日作成
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