国民性と文学

綱島梁川




 今日の文学、就中なかんづく小説に対する世間の要求の主なるものをぐれば、現社会に密接して時事時潮を描けるといふものの一にして、国民性を描写して国民的性情の満足を与へよといふもの其の二なり。前者はしばらく、後者の要求に対しては吾人ごじんすこぶる惑ふ。すなはち問うてはく、国民性とは何ぞや、国民的性情の満足とは何ぞや、そも/\又の要求に是認せらるべき点ありとせば、そは果して如何程いかほどの意味にて是認せらるべきかと。
 漫然国民性を描けといふ、しかも其の意義其の根拠をたづね来たれば頗るばくたるものあり。れを解して、
 一、国民性の一部の影を描けとの義とすべきか、
 二、国民性の全部の影を描けとの義とすべきか、
 三、国民の美処もしくは美なる特質を描けとの義とすべきか、
 所謂いはゆる国民性を描けとの要求にして以上の三解の外にでずとせば、是等これらは果して如何なる意義を有するぞ。吾人をして少しく之れを※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)けんかくする所あらしめよ。
 試みに第一解に従はば如何いかん。之れを描写せよと要求するまでもなく此の意味においての国民性は皆多少描きつゝありと言はざるべからざるにあらずや。描いて尽くさざる所あるは、(なほ後に説くがごとき他の一面の理由もあれど)、其の主観的なるが為め、もしくは其の抒情的なるが為めにあらずや。けだいやしくも我が国土に脚をたくするものにして誰れかく国民性の圏外に逸出するものあらんや。彼等は意識を役せずして皆国民性の一部を描くべきものにあらずや。如何ばかり主観的なる作家といふとも、作家自身にして籍を一国に有する限りは其詩材もしくは主題の何たるにかゝはらず、其の作の気脉きみやくは多少国民性に触れざらんと欲するもべからざるにはあらざるか。作家にして日本国民たる限りは一種のコスモポリタンを取り、又は一外人をえらびて其の詩材となすとも、全く国民性の形跡を脱却し得ざるは之れをゲーテが『イフイゲニア』の例に徴するも明かなるにあらずや。否シエークスピアの客観的なるだに尚且つ全く当代の英国民性を脱却し得ざりしにあらずや。されば此の意味にては、柳浪も、鏡花も、天外も、多少厚薄の度こそ異なれ、皆国民性を描きつゝありといふを事実とすべきにあらずや。吾人は国民性の一膜を被らざるの作家、したがうて又さる意味の文学あることを信ずるあたはず。要するに此の意味にての国民性を言ふはほとんど無意義なり、重語なり。吾人はむしろ円満なる客観詩を得んと欲するの余りに、一時一処の国民性を擺脱はいだつせよと要求するの(其の要求の当否は別論として)之れを描けと要求するの殆ど無意味なるまさりて新意味あるを認めずばあらざるなりしからば
 第二解に従はば如何。国民性の一部の影を描けといふの空語たるは論なけれど、其の全部の影を描けと言ふの意となさば、おのづから一種の根拠あるに似たり。主観的なる今の作家に向つて国民性全躰の影を描破せよと言ふ、吾人は必しもこの要求を非とせず、※(二の字点、1-2-22)たゞ今の作物に国民性全躰の影の現れざるを見て作家自身にのみ其の罪を嫁すべきか、或は(特別なる時勢の結果として)国民性全分の影其のものの頗る模糊もことしてらへがたきものあるにも因せざるか、(後に論じたるが如く)し後者に一面の理ありとせば、みだりに此の境域を明らめずして国民性全分の影を描けと要求するの果して当を得たりといふを得べきか。然らば、更に
 第三解に従ふとせんか。疑ふらくは国民性を唱ふる一派の正意は此の点にはあらざるか。其の意に以為おもへらく、国民性すなはち国民の美質を描かざる小説は国民的性情を満足せしめざる小説なり、随うてまた国民とすなきの文学なりと(『太陽』第七号「文芸界」「小説革新の時機」参照)。これに問ふべきは、何がゆゑに小説は国民の美質をのみ描かざるべからざるかといふ事なり。国民の短処、醜処は(吾人はこれなしと断ずるの理由を認むるあたはず)何故に以て詩材と為すべからざるか。いやしくも美の約束にそむかざる限りは美醜長短皆以て詩中の内容となすを得べきにあらざるか。弁ずるものははく、詩材は必しも国民の美質に限れりとは言はず、唯※(二の字点、1-2-22)しかするにあらざれば以て国民的性情を満足せしむる、能はざるが故のみと、されど吾人はなほ問ふことを得べし、論者は如何なる見地より、国民の美質をのみ描きたる作にあらざれば以て国民の性情を満足せしむる能はずと断じ得るぞと。国民の醜処短処を描きたる作は何故に国民的性情を満足せしむる能はざるか。国民の醜処短処また是れ国民性の一部にはあらざるか。同じく国民性を描きながら、一は其の美所なるが故に国民的性情に満足を与へ、一は其の醜所なるが故に之れに満足を与へずといふの理由は如何に之れを解すべき。国民自身にして其の「我」にび、一種の実情をさしはさんで之れに対すれば知らず、苟も美術として之れを賞翫しやうぐわんするにあたり、其の美処を描きたると醜処を描きたるとを問ふの必要あるか。むしろ美醜両面を併写へいしやせる真個の「我」を描写したる底の作物にこそ甚深じんしんの満足を感ずべきにはあらざるか。仮りに歩を譲りて国民の美質を描きたる作にあらずば以て国民的性情を満足せしむるあたはずとせんも、文学には尚人としての通情に訴ふる一面(かりに抽象して言へば)あるを見る。かるが故にこゝに一コスモポリタンあるひは一外人を主題とせる一作物ありて其は主題の自然の結果として所謂いはゆる国民性に触れたるところ著明ならず(全く之れに触れずとは言ふ能はず)随うて仮りに国民としての意識の満足を此に見るを得ずとせんも、くだんの作にして或不易なる人生の消息を描きたるの側ありとせば、吾人は之れに一種幽奥なる性情の満足を感ぜざるべきか。されどくの如き作は到底国民としての意識を満足せしむる能はざるが故に国民と為すなきの文学なりと言はんか、ふところ国民は普通の新聞的読者の一団を指せるの語か、言ひ換ふれば、一種の実感もしくは卑俗なる好尚を以て文学に対する国民の意なるか、然らざれば国民としての意識を満足せしむる能はずの語得て解すべきにあらずや。思ふに詩歌に性情の満足をいふの意は唯だ作中に現れたる詩的正義ポエチカルジヤスチスに対する満足に関してのみ言ひ得らるべき事にはあらざるか、詩的正義だにあらば、必ずしも ideal hero を主人公とするの要なきにはあらざるか。吾人は国民性の美処をのみ描けといふ論拠に対して疑ひなきを得ざるなり。
 更に惑ふ、謂ふところ国民性とは何ぞやと。言ひ換ふれば、我が国民に普遍なる特質(而してかる特質は要求するまでもなく作家が日本人なる限り、其の描写の方面を異にせるにかゝはらず、之れに触れざる作家なかるべき所以ゆゑん普遍といふ語にも著くまた上文既に論じたる所にも著し)とは果して如何なるものなるかと。論者或は之れに答ふるに左の特質を以てせん曰はく、
 日本国民は快活楽天の国民なり、
 日本国民は尚武任侠の国民なり、
 日本国民は最も国家の運命を懸念するの国民なり、
 日本国民は最も道義的情緒に富める国民なり、
 日本国民は忠孝義勇を人道の大本となす国民なり、
 日本国民は家系の継紹を重ずる国民なり、云々
と。し、此に列挙せる特質は果して日本国民の普遍なる特質なりと言ふを得べきか。論者は快活楽天を以て国民の特質となす、されどひとり日本国民が先天的特質なりと言ふを得べきか、古希臘いにしへギリシヤ国民の如きも、また此の質を有し、且つ一層あきらかに此の特質を有せりしにはあらざるか。此には仮りに之れを問ふの要なしとして、更に疑ふべきは、日本国民は果して真に快活楽天なる国民なるかといふこと是れなり。一面この特性あるを許すとせんも、他面悲哀厭世の特質を看過するを得べきか。祇園精舎ぎをんしやうじやの鐘の音に人生の無常を観ぜし当年の鎌倉武士、足利あしかゞ時代の国民は如何いかさまにか之れを解すべき。『平家物語』もしくは『方丈記』等は以て日本国民の産物となすべからざるか。吾人は疑ひなきを得ざる也。然らば尚武任侠は如何。吾人は此にも前と同様なる疑ひを提起し得べし、すなは尚武任侠しやうぶにんけふはひとり日本国民の特質なりといふを得べきかと。かの欧州中古に於ける義侠勇武の武士気質は全く之れと性質を異にせりと言ふを得べきか。義侠といひ尚武といふが如きは日本国民固有の特性といはんよりも、むしろ封建制度其のものに必随し来たる一種の現象と言ふの当たれるにはあらざるか、更に国家の運命を懸念けねんするを以て日本国民の特質なりと言はんか、国家の運命を懸念するものひとり日本国民にのみ限れるの事なるか、之れを以て日本国民の特質となすは余りに漠たるの感なきを得るか、道義的情緒に富めりといふを以て之れに答へんか、これた特に標して日本国民の特質なりと言ふほどに具象的ならざるを如何せん。終りに忠孝といひ、家系の継紹といふ、此の二事は以て日本国民の特質を代表せしめ得べきが如し。中にも忠君の徳の如きは万国に其のたぐひを見ざる国民の美質なりと言ふを得べし。(孝徳の発達はむしろ著るしく支那に見ることを得べけれど)さはれ忠孝や、家系の継紹や、是等これらは果して日本国民の不易しくは先天的特質なりと言ふを得べきか、少なくとも英国民性を Positivistic といひ実際的といふほどの意味にて之れを日本国民の特質なりと言ひ得べきか。是等は寧ろなかばは歴史的、進化的結果なりと言ふを得べからざるか。かりに是等の疑ひを排斥する十分の根拠ありとするも、所謂忠孝、所謂任侠、所謂家系の継紹は、半は過去の理想もしくは特質にはあらざるか。然らば論者が国民性を描けといふ意を解して、
 過去の国民性もしくは理想を描けとの意となさば如何。此の一解は以て前の三解を補ふには足らざるか。されど吾人は疑ふ、何がゆえに過去の国民性もしくは理想を今の作家に要求する必要あるかと、過去の理想を描きたる作を見んと欲せば、馬琴に帰れ、春水に帰れ、種彦に帰れ、もしくは又た巣林子さうりんし、西鶴の作に帰れ。之れを以て今の作家に擬するは屋上屋を架するの愚を演ずるものにはあらざるか。今の作家をして中古派ローマンチツク、スクール覆轍ふくてつましめんと欲するものにあらざるか。よしや忠孝もしくは義侠を以て国民の特質なりとするも、吾人の見んと欲する所は過去の所謂いはゆる忠孝にあらずして今日の忠孝にあらざるか。過去の所謂家系問題にあらずして、今日の家系問題にはあらざるか。換言すれば、吾人は明治二十六世紀(ママ)の風潮の為に若干か化醇モヂフアイせられたる忠孝及び家系問題を見んことを欲するにあらざるか。れ忠孝といひ義侠といふ、其の形式的方面は古今不易なりとするも、其の意義内容は不断に変遷し不断に発展す。所謂道徳的理想の不断の発達は之れを希臘ギリシヤの四大徳の例に徴するも明かなるにあらずや。さすれば吾人の今日の作家に要求する国民的特質なるものはくだんの発達し化醇せられたる特質にはあらざるか。而してかる特質(理想)は今やはなはだしき化醇の途次にありていまだ劃然たる定質を鋳成するに至らざるにはあらざるか、言ひ換ふれば今日の社会は未だ一定せる国民的新特色を有せずといふを事実とすべきにはあらざるか。試みに思へ、所謂忠孝、所謂家系の継紹等の過去的理想は、いたところに新思潮と矛盾し衝突しつゝあるにあらずや。此等の理想は今や其の意義の上に多大なる変化をけつつあるにあらずや。もし之れを事実とせば、一派論者の要求は当を得たりと言ふを得べきか。換言すれば未だ定着したる理想を有せざる今の社会及び文壇に向つて、みだり方今の国民的特質を描けと言ふ、其の結果は小細工を以て糊塗せる過去の理想若しくは浅薄なる現時の俗人的理想を描写せしむるにとゞまるの悔なきを得るか。或は浪六もしくは弦斎一流の小説家が今日に歓迎せらるゝの因を其が国民的特質を描けるの点に帰するものあり、されど浪六なみろく、弦斎の作を読みて国民的性情の満足を感ずるの徒は浅薄なる俗人的理想をよろこぶの徒か、然らざれば過去の理想に満足するの徒にはあらざるか。何となれば其の作中に現れたる理想は馬琴、京伝の描きたる理想、言ひ換ふれば多くは過去の理想を再現したるに過ぎざれば也、(弦斎の作にはなほ読者をく他の一面あれど)。而してくの如き理想を以て果して今の我が国民に普遍なる特質なりと言ふを得べきか。けだし我が社会は今や新旧過渡の期に際して挙世の趨向すうかうに迷はんとす。此の時にあたり、幾多主観的作家の擾々ぜう/\たるを見て一国民的詩人もしくは一客観的詩人を見るあたはざる、蓋しまた自然の数にはあらざるか。是等幾多の主観的、抒情的小詩人を葬り去つて後、始めて綜合的客観詩人のおもむろに荘厳なる美術的伽藍がらんを築き来たらんとするにはあらざるか。
 或ははく、所謂国民性の描写を言ふものの真意は今の写実的小説に慊らざる所あるが為なりと。以為おもへらく、写実小説は文学独立論を意味し、文学独立論は国民的性情の蔑視べつしを意味す、これ今の小説の国民に悦ばれざる所以ゆゑんなりと。さもあれ吾人は何故に写実小説が其の必然性として国民性の蔑視を意味するかを解する能はず。写実小説豈特あにひとり国民性の埒外らちぐわいに逸するものならんや。もし之れを解して、今の写実小説に今一層国民性の美所を描けとの意となさんか、(今の写実小説が果して国民性の醜所をのみ描けるやはしばらく問はざるも)則ち今一層理想的作風を取れとの意となさんか、此の要求の当否はかくも、所謂理想的なるもののみ何故に国民性を描くと称せられ、其の醜処弱処を描けるもののみ何故に非国民的と称せらるゝかの理由明ならざるにあらずや。吾人は今の写実小説を以て国民性を描かざるものと思惟しゐする能はず、(かく言ふは無意義なり)随うて此の理由によりて今の写実小説を排する所以を解する能はざる也。
 或はまた国民性を言ふものの意は所謂勧懲主義教訓主義の再興にありとも解せられざるにあらず、則ち功利的見地に立ちて今の文学を律せんとするものとも解せられざるべきか。功利と文学との関係は正当には如何に解すべきかは此に論ぜずとするも、単なる勧懲主義、単なる教訓主義は以て文学の真意義をおほひ得べしとするか。もし蔽ひ得べしとせば其の哲学的根拠は如何、吾人は之れをたゝかざるを得ざる也。
 然らば、今の文壇に国民性を描くの要を唱ふるものの真意義は果して那辺なへんにか之れを求むべき。もし之れに是認せらるべき点ありとせば果して何の点ぞ。
第一、今の作家が自家の小主観に埋頭して一歩を此の境外に転ずる能はざるが如き観あるに対して国民性を描けと言ふか、真意は則ち作家に向つて客観的なれといふにあり、主観を拡大せよといふにあり。此の意を持して国民性を説く、(此の点につきてはみだりに作家のみ責むべき理由なしとするも)意やし、言の不妥なるを如何いかん
第二、今の作家がいたづらに人生の暗処、弱処、悲惨事をのみ描きて時に詩的正義の大道をだに逸し去らんとするの観あるに対して、国民性を描けといふか、真意は更に人生の美所、高所、光明の側(光明といふ意義の厳には如何に解すべきかは姑く別にして)をも描きて詩的正義を点ぜよと言ふにあり。此にも根本の要求点は作家の同情を広大せよ、一層客観的なれといふにあり。意や可し、言の不妥なるを如何。
第三、今の作家が自家の狭隘けふあいなる観察に材を※(「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91)ひろひとりて、其の内容の余りに吾人の実生活と風馬牛なるの観あるに対して一層吾人の関心せる興味多き実世間現思潮に接近せよといふか、言ひ換ふれば今一層現在の国民的生活に触着せよといふか、(所謂現思潮の何物たるかは一疑点たれど)所謂国民性を唱ふるものの意此の点に於ても是認せらるべきに似たり。されど其の言や妥当なりと言ふべからず。
 以上三個の主なる理由によりて所謂国民性を描けとの真意義を蔽ひ得べきに似たり。吾人は此の意を持して必しもくだんの要求を排せざるべし。されど何が故に此くの如き模糊もこ[#「模糊」は底本では「糢糊」]たる一語を提して此の要求を標せんとはするぞ。何ぞむしろ其の語を直接にして、作家の主観を拡大せよと言はざる其の同情を国家大にせよと言はざる実生活に接近せよと言はざる。(此の要求の果して如何ばかり今の作家に対して効果あるべきか否かは問はず)要求の真意や可し、されど吾人は国民性を描けとの一語にみする能はず、何となればそはほとん無意義に類すれば也
(明治三十一年五月)





底本:「現代日本文學大系 96 文芸評論集」筑摩書房
   1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:丹羽倫子
1999年1月19日公開
2006年1月5日修正
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