金色夜叉

尾崎紅葉




前編




第一章


 だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠さしこめて、真直ますぐに長く東より西によこたはれる大道だいどうは掃きたるやうに物の影をとどめず、いとさびしくも往来ゆききの絶えたるに、例ならずしげ車輪くるまきしりは、あるひせはしかりし、あるひは飲過ぎし年賀の帰来かへりなるべく、まばらに寄する獅子太鼓ししだいこ遠響とほひびきは、はや今日に尽きぬる三箇日さんがにちを惜むが如く、その哀切あはれさちひさはらわたたたれぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴としるされたる日記をけがして、この黄昏たそがれよりこがらし戦出そよぎいでぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声のなだむる者無きより、いかりをも増したるやうに飾竹かざりだけ吹靡ふきなびけつつ、からびたる葉をはしたなげに鳴して、えては走行はしりゆき、狂ひては引返し、みに揉んでひとり散々に騒げり。微曇ほのぐもりし空はこれが為にねむりさまされたる気色けしきにて、銀梨子地ぎんなしぢの如く無数の星をあらはして、鋭くえたる光は寒気かんきはなつかとおもはしむるまでに、その薄明うすあかりさらさるる夜のちまたほとんど氷らんとすなり。
 人このうちに立ちて寥々冥々りようりようめいめいたる四望の間に、いかでの世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重きゆうちようの天、八際はつさいの地、始めて混沌こんとんさかひでたりといへども、万物いまことごと化生かせいせず、風はこころみに吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫ただみだり※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)ひろよこたはれるに過ぎざるかな。日のうち宛然さながら沸くが如く楽み、うたひ、ひ、たはむれ、よろこび、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等ははかなくも夏果てし孑孑ぼうふりの形ををさめて、今将いまはた何処いづく如何いかにして在るかを疑はざらんとするもかたからずや。多時しばらく静なりしのちはるかに拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃たちまち一点の燈火ともしびは見えめしが、揺々ゆらゆらと町の尽頭はづれ横截よこぎりてせぬ。再び寒き風はさびしき星月夜をほしいままに吹くのみなりけり。唯有とある小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間ひあはひの下水口より噴出ふきいづる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温ぬくもりの四方にあふるるとともに、垢臭あかくさき悪気のさかんほとばしるにへる綱引の車あり。勢ひでかどより曲り来にければ、避くべき遑無いとまなくてその中を駈抜かけぬけたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後はことば絶えて、車は驀直ましぐらに走れり、紳士は二重外套にじゆうがいとうそでひし掻合かきあはせて、かはうそ衿皮えりかはの内に耳より深くおもてうづめたり。灰色の毛皮の敷物のはしを車の後に垂れて、横縞よこじま華麗はなやかなる浮波織ふはおり蔽膝ひざかけして、提灯ちようちん徽章しるしはTの花文字を二個ふたつ組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭はづれを北に折れ、やや広きとほりでしを、わづかに走りて又西にり、その南側の半程なかほど箕輪みのわしるしたる軒燈のきラムプを掲げて、※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)そぎだけを飾れる門構もんがまへの内に挽入ひきいれたり。玄関の障子に燈影ひかげしながら、格子こうし鎖固さしかためたるを、車夫は打叩うちたたきて、
「頼む、頼む」
 奥のかたなる響動どよみはげしきに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せておとなひつつ、格子戸を連打つづけうちにすれば、やがて急足いそぎあしの音立てて人はぬ。
 円髷まるわげに結ひたる四十ばかりのちひさせて色白き女の、茶微塵ちやみじんの糸織の小袖こそでに黒の奉書紬ほうしよつむぎの紋付の羽織着たるは、この家の内儀ないぎなるべし。彼のせはしげに格子をあくるを待ちて、紳士は優然と内にらんとせしが、土間の一面に充満みちみちたる履物はきものつゑを立つべき地さへあらざるにためらへるを、彼はすかさず勤篤まめやか下立おりたちて、この敬ふべきまらうどの為にからくも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄こまげたのみはひとり障子の内に取入れられたり。

(一)の二


 箕輪みのわの奥は十畳の客間と八畳の中のとを打抜きて、広間の十個処じつかしよ真鍮しんちゆう燭台しよくだいを据ゑ、五十目掛めかけ蝋燭ろうそくは沖の漁火いさりびの如く燃えたるに、間毎まごとの天井に白銅鍍ニッケルめつきの空気ラムプをともしたれば、四辺あたりは真昼よりあきらかに、人顔もまばゆきまでに耀かがやわたれり。三十人に余んぬる若き男女なんによ二分ふたわかれに輪作りて、今をさかり歌留多遊かるたあそびるなりけり。蝋燭のほのほと炭火の熱と多人数たにんず熱蒸いきれと混じたる一種の温気うんきほとんど凝りて動かざる一間の内を、たばこけふり燈火ともしびの油煙とはたがひもつれて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々のおもては皆赤うなりて、白粉おしろい薄剥うすはげたるあり、髪のほつれたるあり、きぬ乱次しどな着頽きくづれたるあり。女はよそほひ飾りたれば、取乱したるがことに著るく見ゆるなり。男はシャツのわきの裂けたるも知らで胴衣ちよつきばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をばよつまで紙にてひたるもあり。さしも息苦き温気うんきも、むせばさるるけふりの渦も、皆狂して知らざる如く、むしろ喜びてののしわめく声、笑頽わらひくづるる声、捩合ねぢあひ、踏破ふみしだひしめき、一斉に揚ぐる響動どよみなど、絶間無き騒動のうち狼藉ろうぜきとしてたはむれ遊ぶ為体ていたらく三綱五常さんこうごじよう糸瓜へちまの皮と地にまびれて、ただこれ修羅道しゆらどう打覆ぶつくりかへしたるばかりなり。
 海上風波の難にへる時、若干そくばくの油を取りて航路にそそげば、なみくしくもたちましづまりて、船は九死をづべしとよ。今この如何いかにともべからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王によおうあり。たけびに猛ぶ男たちの心もその人の前にはやはらぎて、つひに崇拝せざるはあらず。女たちは皆そねみつつもおそれいだけり。中の間なる団欒まどゐ柱側はしらわきに座を占めて、おもげにいただける夜会結やかいむすび淡紫うすむらさきのリボンかざりして、小豆鼠あづきねずみ縮緬ちりめんの羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて、みづからしとやかに引繕ひきつくろへる娘あり。粧飾つくりより相貌かほだちまで水際立みづぎはたちて、ただならずこびを含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名はあまねく知られぬ。娘も数多あまた居たり。みにくきは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑とまどひせるかとおぼしきもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装みなりは宮より数等すとう立派なるは数多あまたあり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘まなむすめとて、最も不器量ふきりようきはめて遺憾いかんなしと見えたるが、最も綺羅きらを飾りて、その起肩いかりがた紋御召もんおめし三枚襲さんまいがさねかつぎて、帯は紫根しこん七糸しちん百合ゆり折枝をりえだ縒金よりきん盛上もりあげにしたる、人々これが為に目もれ、心も消えてまゆしわめぬ。この外種々さまざま色々の絢爛きらびやかなる中に立交たちまじらひては、宮のよそほひわづかに暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何いかなるうつくし染色そめいろをも奪ひて、彼の整へるおもては如何なるうるはしき織物よりも文章あやありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きをおほあたはざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚ふくろだなと障子との片隅かたすみ手炉てあぶりを囲みて、蜜柑みかんきつつかたらふ男の一個ひとりは、彼の横顔を恍惚ほれぼれはるかに見入りたりしが、つひ思堪おもひたへざらんやうにうめいだせり。
い、好い、全く好い! 馬士まごにも衣裳いしようふけれど、うつくしいのは衣裳には及ばんね。物それみづからが美いのだもの、着物などはどうでもい、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体ならなほ結構だ!」
 この強き合槌あひづち撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳つなひきにて駈着かけつけし紳士はしばらく休息の後内儀に導かれて入来いりきたりつ。そのうしろには、今まで居間に潜みたりしあるじ箕輪亮輔みのわりようすけも附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途せんどはげしき勝負の最中なれば、彼等のきたれるに心着きしはまれなりけれど、片隅に物語れる二人は逸早いちはやく目をそばめて紳士の風采ふうさいたり。
 広間の燈影ひかげは入口に立てる三人みたりの姿をあざやかに照せり。色白のちひさき内儀の口はかんの為に引歪ひきゆがみて、その夫の額際ひたひぎはより赭禿あかはげたる頭顱つむりなめらかに光れり。妻は尋常ひとなみより小きに、夫はすぐれたる大兵だいひよう肥満にて、彼の常に心遣こころづかひありげの面色おももちなるに引替へて、生きながら布袋ほていを見る如き福相したり。
 紳士は年歯としのころ二十六七なるべく、長高たけたかく、好き程に肥えて、色は玉のやうなるにほほあたりには薄紅うすくれなゐを帯びて、額厚く、口大きく、あぎとは左右にはびこりて、面積の広き顔はやや正方形をせり。ゆるく波打てる髪を左の小鬢こびんより一文字に撫付なでつけて、少しは油を塗りたり。からぬ口髭くちひげはやして、ちひさからぬ鼻に金縁きんぶち目鏡めがねはさみ、五紋いつつもん黒塩瀬くろしほぜの羽織に華紋織かもんおり小袖こそで裾長すそなが着做きなしたるが、六寸の七糸帯しちんおび金鏈子きんぐさりを垂れつつ、大様おほやうおもてを挙げて座中を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはしたるかたちは、に光をはなつらんやうに四辺あたりを払ひて見えぬ。この団欒まどゐの中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々びびしくよそほひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
 例の二人の一個ひとりはさも憎さげにつぶやけり。
可厭いやな奴!」
 つば吐くやうに言ひて学生はわざとおもてそむけつ。
「おしゆんや、一寸ちよいと」と内儀は群集くんじゆの中よりその娘を手招きぬ。
 お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙あわただしく起ちてきたれるが、顔好くはあらねど愛嬌あいきよう深く、いと善く父にたり。高島田にひて、肉色縮緬にくいろちりめんの羽織につまみたるほどの肩揚したり。顔をあかめつつ紳士の前にひざまづきて、慇懃いんぎんかしらさぐれば、彼はわづかに小腰をかがめしのみ。
「どうぞ此方こちらへ」
 娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうにうなづけり。母はゆがめる口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
 お俊は再びかしらげぬ。紳士はゑみを含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
 あるじの勧むるそばより、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内あないして、客間の床柱の前なる火鉢ひばち在るかたれぬ。妻は其処そこまで介添かいぞへに附きたり。二人は家内かないの紳士をあつかふことのきはめて鄭重ていちようなるをいぶかりて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱みのがさざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒まどゐの間を過ぎたりしが、無名指むめいしに輝ける物のただならず強き光は燈火ともしび照添てりそひて、ほとんただしく見るあたはざるまでにまなこを射られたるにあきれ惑へり。天上の最もあきらかなる星は我手わがてに在りと言はまほしげに、紳士は彼等のいまかつて見ざりしおほきさの金剛石ダイアモンドを飾れる黄金きんの指環を穿めたるなり。
 お俊は骨牌かるたの席にかへると※(「にんべん+牟」、第3水準1-14-22)ひとしく、ひそかに隣の娘のひざきて口早に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやきぬ。彼は忙々いそがはしく顔をもたげて紳士のかたを見たりしが、その人よりはその指に耀かがやく物の異常なるにおどろかされたるていにて、
「まあ、あの指環は! 一寸ちよいと金剛石ダイアモンド?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
 お俊の説明を聞きて彼はそぞろ身毛みのけ弥立よだつを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
 ※(「魚+單」、第3水準1-94-52)ごまめの目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳いくとせ念懸ねんがくれどもいまだ容易に許されざる娘の胸は、たちまち或事を思ひ浮べて攻皷せめつづみの如くとどろけり。彼は惘然ぼうぜんとして殆ど我を失へるに、電光の如く隣より伸来のびきたれる猿臂えんぴは鼻のさきなる一枚の骨牌かるた引攫ひきさらへば、
「あら、貴女あなたどうしたのよ」
 お俊は苛立いらだちて彼の横膝よこひざを続けさまにはたきぬ。
くつてよ、可くつてよ、以来これからもう可くつてよ」
 彼は始めて空想の夢をさまして、及ばざるぶんあきらめたりけれども、一旦金剛石ダイアモンドの強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚めざましかりける手腕てなみの程も見る見るやうや四途乱しどろになりて、彼は敢無あへなくもこの時よりお俊の為に頼みがたなき味方となれり。
 かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
金剛石ダイアモンド!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石※(疑問符二つ、1-8-76)
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石※(疑問符二つ、1-8-76)
可感すばらしい金剛石」
可恐おそろしい光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
 またたひまに三十余人は相呼び相応じて紳士の富をうたへり。
 彼は人々の更互かたみがはりにおのれのかたながむるを見て、その手に形好く葉巻シガアを持たせて、右手めて袖口そでぐちに差入れ、少したゆげに床柱にもたれて、目鏡の下より下界を見遍みわたすらんやうに目配めくばりしてゐたり。
 かかる目印ある人の名はたれしも問はであるべきにあらず、れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継とみやまただつぐとて、一代分限ぶげんながら下谷したや区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員のうちにも富山重平じゆうへいの名は見出みいださるべし。
 宮の名の男のかた持囃もてはやさるる如く、富山と知れたる彼の名はただちに女の口々にずんぜられぬ。あはれ一度ひとたびはこの紳士と組みて、世にめでたき宝石に咫尺しせきするの栄を得ばや、と彼等の心々こころごころこひねがはざるはまれなりき。人し彼に咫尺するの栄を得ば、ただにその目の類無たぐひなたのしまさるるのみならで、その鼻までも菫花ヴァイオレットの多く※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)ぐべからざる異香いきようくんぜらるるのさいはひを受くべきなり。
 男たちはおのづからすさめられて、女のこぞりて金剛石ダイアモンド心牽こころひかさるる気色けしきなるを、あるひねたく、或は浅ましく、多少の興をさまさざるはあらざりけり。ひとり宮のみは騒げるていも無くて、そのすずし眼色まなざしはさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深たしなみふかく、心様こころざまゆかしく振舞へるを、崇拝者は益々よろこびて、我等の慕ひ参らするかひはあるよ、ひとへにこの君を奉じて孤忠こちゆうを全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎きつらの皮を引剥ひきむかん、と手薬煉てぐすね引いて待ちかけたり。されば宮と富山とのいきほひはあたかも日月じつげつ並懸ならべかけたるやうなり。宮はたれと組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念けねんするところなりけるが、くじの結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人みたりとともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数にんずはこの時合併していつおほいなる団欒まどゐに成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合となりあひに坐りければ、夜と昼との一時いちじに来にけんやうに皆狼狽うろたへ騒ぎて、たちまちその隣に自ら社会党ととなふる一組をいだせり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。すなはち彼等はもつぱら腕力を用ゐて或組の果報と安寧あんねいとを妨害せんと為るなり。又その前面むかひには一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組ろうぜきぐみと称し、右翼を蹂躙隊じゆうりんたいと称するも、実は金剛石の鼻柱をくじかんと大童おほわらはになれるにほかならざるなり。果せるかなくだんの組はこの勝負にきたなき大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白はなしろみ、美き人は顔をあかめて、座にもふべからざるばかりの面皮めんぴかかされたり。この一番にて紳士の姿は不知いつか見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中にはたなぞこの玉を失へる心地ここちしたるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯におそれをなして、ひそかあるじの居間に逃帰れるなりけり。
 かつらたるやうにくしけづりたりし彼の髪は棕櫚箒しゆろぼうきの如く乱れて、かんかたかた※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)げたる羽織のひもは、手長猿てながざるの月をとらへんとするかたちして揺曳ぶらぶらさがれり。主は見るよりさもあわてたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
 彼はやにはに煙管きせるを捨てて、ゆるがせにすべからざらんやうに急遽とつかはと身を起せり。
「ああ、ひどい目につた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切たちきれないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかりぶたれた」
 手の甲の血をひつつ富山は不快なる面色おももちしてまうけの席に着きぬ。かねて用意したれば、海老茶えびちや紋縮緬もんちりめん※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねかたはら七宝焼しちほうやき小判形こばんがた大手炉おほてあぶりを置きて、蒔絵まきゑ吸物膳すひものぜんをさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴してをんなを呼び、大急おほいそぎに銚子と料理とをあつらへて、
「それはどうも飛でもない事を。ほか何処どこもお怪我けがはございませんでしたか」
「そんなに有られてたまるものかね」
 う事無さに主も苦笑にがわらひせり。
唯今ただいま絆創膏ばんそうこうを差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々わざわざ御招おまねき申しましてはなはだ恐入りました。もう彼地あつちへは御出陣にならんがよろしうございます。何もございませんがここで何卒どうぞ御寛ごゆるり」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
 物は言はで打笑うちゑめる富山のあぎといよいよひろがれり。早くもその意を得てや破顔はがんせるあるじの目は、すすき切疵きりきずの如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意ぎよいに召したのが、へえ?」
 富山はますますゑみただへたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
何故なぜな」
「何故も無いものでございます。十目じゆうもくの見るところぢやございませんか」
 富山はうなづきつつ、
「さうだらうね」
「あれはよろしうございませう」
一寸ちよいと好いね」
「まづその御意おつもりでお熱いところをお一盞ひとつ不満家むづかしや貴方あなたが一寸好いと有仰おつしやる位では、余程よつぽど尤物まれものと思はなければなりません。全くすくなうございます」
 倉皇あたふた入来いりきたれる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方こちらにおいであそばしたのでございますか」
 彼は先の程より台所につめきりて、中入なかいりの食物の指図さしづなどしてゐたるなりき。
ひどく負けてげて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
 例のゆがめる口をすぼめて内儀は空々そらぞらしく笑ひしが、たちまち彼の羽織のひもかたかたちぎれたるを見尤みとがめて、かんの失せたりと知るより、あわて驚きて起たんとせり、如何いかにとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、よろしい」
「宜いではございません。純金きんでは大変でございます」
「なあに、いと言ふのに」と聞きもをはらで彼は広間のかたでて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、たいした事はございませんです」
「それはさうだらう。しかおよそどんなものかね」
もとは農商務省に勤めてをりましたが、唯今ただいまでは地所や家作かさくなどで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三しぎさわりゆうぞうと申して、ぢき隣町となりちように居りまするが、ごく手堅く小体こていつてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
 われがほおとがひ掻撫かいなづれば、例の金剛石ダイアモンド燦然きらりと光れり。
「それでも可いさ。然しれやうか、嗣子あととりぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢやこまるぢやないか」
わたくしくはしい事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
 程無く内儀は環を捜得さがしえ帰来かへりきにけるが、悪戯いたづらとも知らで耳掻みみかきの如く引展ひきのばされたり。主は彼に向ひて宮の家内かないの様子をたづねけるに、知れる一遍ひととほりは語りけれど、娘は猶能なほよく知るらんを、のちに招きて聴くべしとて、夫婦はしきりさかづきすすめけり。
 富山唯継の今宵ここにきたりしは、年賀にあらず、骨牌遊かるたあそびにあらず、娘の多くあつまれるを機として、嫁選よめえらみせんとてなり。彼は一昨年をととしの冬英吉利イギリスより帰朝するや否や、八方に手分てわけして嫁を求めけれども、器量のぞみ太甚はなはだしければ、二十余件の縁談皆意にかなはで、今日が日までもなほその事に齷齪あくさくしてまざるなり。当時取急ぎて普請せししばの新宅は、いまだ人の住着かざるに、はや日にくろみ、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額をあつめては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。

第二章


 骨牌かるたの会は十二時に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数にんずの三分の一強を失ひけれども、なほ飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼もしかへりたらんには、おそらく踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
 彼に心を寄せしやからは皆彼が夜深よふけ帰途かへりの程を気遣きづかひて、我ねがはくは何処いづくまでも送らんと、したたおもひに念ひけれど、彼等の深切しんせつは無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石ダイアモンドいでは彼の挙動の目指めざされしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事のほかは人目をくべき点も無く、彼は多く語らず、又はさわがず、始終つつましくしてゐたり。終までこの両個ふたり同伴つれなりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々よそよそしさに過ぎたればなり。彼等の打連れてかどづるを見て、始めて失望せしものすくなからず。
 宮は鳩羽鼠はとばねずみ頭巾ずきんかぶりて、濃浅黄地こいあさぎぢに白く中形ちゆうがた模様ある毛織のシォールをまとひ、学生は焦茶の外套オバコオトを着たるが、身をすぼめて吹来るこがらし遣過やりすごしつつ、遅れし宮の辿着たどりつくを待ちて言出せり。
みいさん、あの金剛石ダイアモンドの指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭いやに気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれどみんながあの人を目のかたきにして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私までひどい目にあはされてよ」
「うむ、彼奴あいつが高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹よこつぱらを二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐へどが出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭いやだわ」
芬々ぷんぷんと香水のにほひがして、金剛石ダイアモンドの金の指環を穿めて、殿様然たる服装なりをして、いに違無ちがひないさ」
 学生はあざむが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組はくじだから為方しかたが無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
 宮はシォールを揺上ゆりあげて鼻のなかばまで掩隠おほひかくしつ。
「ああ寒い!」
 男は肩をそばだててひたと彼に寄添へり。宮はなほ黙して歩めり。
「ああ寒い※(感嘆符二つ、1-8-75)
 宮はなほ答へず。
「ああ寒い※[#感嘆符三つ、23-5]
 彼はこの時始めて男のかたを見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くてたまらんからその中へ一処いつしよに入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
可笑をかしい、可厭だわ」
 男は逸早いちはやく彼の押へしシォールの片端かたはしを奪ひて、そのうちに身をれたり。みやは歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一かんいつさん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面むかふから人が来てよ」
 かかるたはむれしてはばからず、女も為すままにまかせてとがめざる彼等の関繋かんけいそもそ如何いかに。事情ありて十年来鴫沢に寄寓きぐうせるこの間貫一はざまかんいちは、此年ことしの夏大学にるを待ちて、宮がめあはせらるべき人なり。

第三章


 間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、る所無くて養はるるなり。母は彼のいとけなかりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆なげきの中に父を葬るとともに、おのれが前途の望をさへ葬らざるからざる不幸にへり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりにくるし痩世帯やせじよたいなりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶにさきだちてくらふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちてははうむりすべき急、なほこれに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬをさなき者の如何いかにしてこれ等の急を救得すくひえしか。もとより貫一が力のあたふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個ひとつ引承ひきうけて万端の世話せしにるなり。孤児みなしごの父は隆三の恩人にて、彼はいささかその旧徳に報ゆるが為に、ただにその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着こころづけては貫一の月謝をさへまま支弁したり。かくて貧き父をうしなひし孤児みなしごは富める後見うしろみを得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時せいじもつあきたらず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴あつぱれ人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
 き人常に言ひけるは、いやしくも侍の家に生れながら、何の面目めんぼくありて我子貫一をも人にあなどらすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民しみんかみに立たしめん。貫一は不断にこのことばいましめられ、隆三は会ふ毎にまたこの言をかこたれしなり。彼はものいいとまだに無くてにはか歿みまかりけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
 されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者としてひそかうとまるる如き憂目うきめふにはあらざりき。なまじ継子ままこなどに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許いかばかりさいはひは多からんよ、と知る人はうはさし合へり。隆三夫婦はに彼を恩人の忘形見としておろそかならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、やうやくその心はて、彼の高等中学校にりし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
 貫一は篤学のみならず、性質もすぐに、おこなひただしかりければ、この人物を以つて学士の冠をいただかんには、誠に獲易えやすからざる婿なるべし、と夫婦はひそかに喜びたり。この身代しんだいを譲られたりとて、他姓たせいをかして得謂えいはれぬ屈辱を忍ばんは、彼のいさぎよしと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したるよろこびいだきて、ますます学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へるなかばには過ぎざらん。彼は自らその色好いろよきを知ればなり。世間の女のたれか自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るにすぐるに在り。ふ可くんば、宮はおのれが美しさの幾何いかばかり値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てしてわづか箇程かほどの資産をぎ、類多き学士風情ふぜいを夫に有たんは、決して彼が所望のぞみの絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤びせんよりでしためしすくなからざるを見たり。又は富人の醜き妻をいとひて、美きめかけに親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴ふうきを得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干そくばくを見たりしに、そのかたちおのれかざるものの多きを見出みいだせり。あまつさへ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件ひとつ最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七のとしに起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸ドイツ人は彼の愛らしきたもと艶書えんしよを投入れぬ。これもとよりあだなる恋にはあらで、女夫めをとちぎりを望みしなり。ほとんど同時に、院長のなにがしは年四十をえたるに、先年その妻をうしなひしをもて再び彼をめとらんとて、ひそかに一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
 この時彼のちひさき胸は破れんとするばかりとどろけり。なかばかつて覚えざる可羞はづかしさの為に、半はにはかおほいなる希望のぞみの宿りたるが為に。彼はここに始めておのれの美しさのすくなくとも奏任以上の地位ある名流をそのつまあたひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、かきを隣れる男子部だんじぶの諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
 もしかのプロフェッサアに添はんか、あるひは四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後をぐの比にはあらざらんをと、一旦いだける希望のぞみは年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人のおのれ見出みいだして、玉の輿こしかかせて迎にきたるべき天縁の、必ず廻到めぐりいたらんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼をきらへるにはあらず、彼と添はばさすがにたのしからんとはおもへるなり。如此かくのごと決定さだかにそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木ははきぎの好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

第四章


 漆の如きやみうちに貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島むこうじま八百松やおまつに新年会ありとていまかへらざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来いりきにけるが、机の上なる書燈をともをはれる時、をんなは台十能に火を盛りたるを持来もちきたれり。宮はこれを火鉢ひばちに移して、
「さうして奥のお鉄瓶てつも持つて来ておくれ。ああ、もう彼方あちら御寝おやすみになるのだから」
 ひさし人気ひとけの絶えたりし一間のさむさは、今にはかに人の温き肉を得たるを喜びて、ただちにまんとするが如くはだへせまれり。宮は慌忙あわただしく火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚しよだなに飾れる時計を見たり。
 夜のくらく静なるに、ともしの光のひとり美き顔を照したる、限無くえんなり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花のこずゑに月のうつろへるが如く、背後うしろの壁に映れる黒き影さへ香滴にほひこぼるるやうなり。
 金剛石ダイアモンドと光を争ひし目は惜気をしげも無く※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて時計のセコンドを刻むを打目戍うちまもれり。火にかざせる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬むらさきちりめん半襟はんえりつつまれたる彼の胸を想へ。その胸のうちに彼は今如何いかなる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来かへり待佗まちわぶるなりけり。
 一時ひとしきりさむさ太甚はなはだしきを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面むかふなる貫一が※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねの上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 もしやと聞着けし車の音はやうやちかづきて、ますますとどろきて、つひ我門わがかどとどまりぬ。宮は疑無うたがひなしと思ひて起たんとする時、客はいとひたる声して物言へり。貫一は生下戸きげこなればかつひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時になんなんとす。
 かどの戸引啓ひきあけて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ただあわててラムプを持ちてでぬ。台所よりをんなも、出合いであへり。
 足の踏所ふみど覚束無おぼつかなげに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾うちかたむき、ハンカチイフにつつみたる折を左にげて、山車だし人形のやうに揺々ゆらゆらと立てるは貫一なり。おもては今にも破れぬべくくれなゐに熱して、舌のかわくにへかねてしきり空唾からつばを吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産おみやげです。かへつてこれを細君におくる。何ぞじんなるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つてしまつた」
「あら、貫一かんいつさん、こんな所にちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様のけさまに倒れたる貫一のあし掻抱かきいだきて、宮はからくもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手をいてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮はをんなともしらせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼はよろめきつつ肩にすがりてつひに放さざりければ、宮はその身一つさへあやふきに、やうやうたすけて書斎にりぬ。
 ※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねの上に舁下かきおろされし貫一はくづるるたいを机に支へて、打仰うちあふぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷きんるころもを惜むなかれ。君に勧む、すべからく少年の時を惜むべし。花有り折るにへなばただちに折るし。花無きを待つてむなしく枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、みいさん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。くるしいでせう」
然矣しかり、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるにいてはおほいに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
可厭いやよ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断きらひの癖に何故なぜそんなに飲んだの。誰にのまされたの。端山はやまさんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、ひどいわね、こんなによはして。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、みいさん。しや多謝たしや! もしそれが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊にぎりしめつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決してしやべる男ぢやない。それがどうして知れたのか、みんなが知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃しゆくはいだ祝盃だと、十も二十も一度に猪口ちよくを差されたのだ。祝盃などを受けるおぼえは無いと言つて、手を引籠ひつこめてゐたけれど、なかなかみんな聴かないぢやないか」
 宮はひそかゑみを帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初かりそめにもああ云ふ美人と一所いつしよに居て寝食をともにすると云ふのが既に可羨うらやましい。そこを祝すのだ。次には、君も男児をとこなら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人にられるやうな事があつたら、ひとり間貫一いつ個人の恥辱ばかりではない、我々朋友ほうゆう全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、いて高等中学の名折なをれにもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心をいつにしてむすぶの神にいのつた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたらかへつて神罰が有ると、弄謔からかひとは知れてゐるけれど、言草いひぐさが面白かつたから、片端かたつぱしから引受けて呷々ぐひぐひ遣付やつつけた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分よろしく願ひます」
可厭いやよ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、いよいよ僕の男が立たないわけだ」
「もうきまつてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃をぢさんやをばさんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事はして無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡りようけんはどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢやあんまりだわ」
 貫一はゑひを支へかねて宮がひざを枕に倒れぬ。宮は彼が火の如きほほに、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又ちや……貫一さん、貫一さん」
 まことに愛のいさぎよかな、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望のぞみは跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔にあつめて、富も貴きも、乃至ないしあらゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為にとろかされて、彼は唯妙ただたへかうばし甘露かんろの夢にひて前後をも知らざるなりけり。
 もろもろ可忌いまはし妄想もうぞうはこの夜の如くまなこを閉ぢて、この一間ひとまに彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又このあきらかなる燈火ともしびの光の如きものありて、ことに彼等をのみ照すやうに感ずるなり。

第五章


 或日箕輪みのわの内儀は思も懸けず訪来とひきたりぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩ほうばいにて常に往来ゆききしたりけれども、いまうちと家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互にらで過ぎたりしに、今は二人の往来おうらいやうやうとくなりけるに及びて、にはかにその母のきたれるは、如何いかなるゆゑにか、と宮も両親ふたおやあやしき事におもへり。
 およそ三時間の後彼は帰行かへりゆきぬ。
 先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸おもひがけざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこのめづらし客来きやくらいのありしを知らず、宮もまたあへて告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮はすこしく食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとはざりき。この間に両親ふたおや幾度いくたびと無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
 彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知るよしもあらねど、片時へんじもその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出みいださんはかたき事にあらず。さも無かりし人の顔の色のにはかに光を失ひたるやうにて、振舞ふるまひなどけて力無く、笑ふさへいと打湿うちしめりたるを。
 宮が居間とふまでにはあらねど、彼の箪笥たんす手道具など置きたる小座敷あり。ここには火燵こたつの炉を切りて、用無き人の来てはかたみ冬籠ふゆごもりする所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。めばことをもくなり。彼が手玩てすさみと見ゆる狗子柳いのこやなぎのはや根をゆるみ、しんの打傾きたるが、鮟鱇切あんこうぎりの水にほこりを浮べて小机のかたへに在り。庭に向へる肱懸窓ひぢかけまどあかるきに敷紙しきがみひろげて、宮はひざの上に紅絹もみ引解ひきときを載せたれど、針は持たで、ものうげに火燵にもたれたり。
 彼はすこしく食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間にりて、深く物思ふなりけり。両親ふたおや仔細しさいを知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼のすままにまかせたり。
 この日貫一は授業はじめの式のみにて早く帰来かへりきにけるが、した座敷にはたれも見えで、火燵こたつの間に宮のしはぶく声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄うかがひよりぬ。ふすまわづかきたるひまより差覗さしのぞけば、宮は火燵にりて硝子ガラス障子をながめては俯目ふしめになり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐ためいきつきて、たちまち物の音を聞澄すが如く、美き目をみはるは、何をか思凝おもひこらすなるべし。人のうかがふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶くもんをそのかたちあらはしてはばからざるなり。
 貫一はあやしみつつも息を潜めて、なほ彼のんやうを見んとしたり。宮は少時しばしありて火燵に入りけるが、つひやぐら打俯うちふしぬ。
 柱に身を倚せて、ななめに内を窺ひつつ貫一はまゆひそめて思惑おもひまどへり。
 彼は如何いかなる事ありてさばかり案じわづらふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。そのゆゑのあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
 かく又案じ煩へる彼のおもておのづかうつむきぬ。問はずして知るべきにあらずと思定おもひさだめて、再び内を差覗さしのぞきけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時いつか落ちけむ、蒔絵まきゑくしこぼれたるも知らで。
 人の気勢けはひに驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にそのかたはらに在り。彼はあわてて思頽おもひくづをるる気色けしきおほはんとしたるが如し。
「ああ、吃驚びつくらした。何時いつ御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。ちつとも知らなかつた」
 宮はおのれの顔のしきりに眺めらるるをまばゆがりて、
「何をそんなにるの、可厭いや、私は」
 されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背うちそむきて、裁片畳きれたたふの内をかきさがせり。
みいさん、お前さんどうしたの。ええ、何処どこ不快わるいのかい」
「何ともないのよ。何故なぜ?」
 かく言ひつつますます急にかきさがせり。貫一は帽をかぶりたるまま火燵に片肱掛かたひぢかけて、ななめに彼の顔を見遣みやりつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、ぢき疑深うたぐりぶかいの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然ぼんやり考へたり、太息ためいきいたりしてふさいでゐるものか。僕は先之さつきから唐紙からかみの外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つてきかしたつて可いぢやないか」
 宮は言ふところを知らず、わづかに膝の上なる紅絹もみ手弄てまさぐるのみ。
「病気なのかい」
 彼はわづかかしらりぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
 彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
 宮は唯胸のうち車輪くるまなどのめぐるやうに覚ゆるのみにて、誠にもいつはりにもことばいだすべきすべを知らざりき。彼は犯せる罪のつひつつあたはざるを悟れる如き恐怖おそれの為に心慄こころをののけるなり。如何いかに答へんとさへ惑へるに、かたはらには貫一の益なじらんと待つよと思へば、身はしぼらるるやうに迫来せまりくる息のひまを、得もはれずひややかなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
 貫一の声音こわねやうや苛立いらだちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚そぞろ言出いひいだせり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
 あきれたる貫一はまたたきもせで耳をかたぶけぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時いつ死んでしまふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽たのしみな事もあるかはりつらい事や、悲い事や、くるしい事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図ふつとさう思出おもひだしたら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭いや心地こころもちになつて、自分でもどうかたのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢてききゐし貫一はしづか※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたを開くとともにまゆひそめて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎うちしをれてかしらを垂れぬ。
しかし心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 あやしく沈みたるその声の寂しさを、如何いかに貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為せゐだ、脳でも不良わるいのだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。もとより世の中と云ふものはさう面白いわけのものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、みんなみんなそんな了簡りようけんを起して御覧な、世界中御寺ばかりになつてしまふ。はかないのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中でせめてはたのしみを求めやうとして、究竟つまり我々が働いてゐるのだ。考へてふさいだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分いくらか面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何かたのしみが無ければならない。一事ひとつかうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。みいさんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如くひそかに男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼はゑみを含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭かたさきりて貫一は此方こなたに引向けんとすれば、すままに彼はゆるく身をめぐらしたれど、顔のみは可羞はぢがましそむけてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さでしきりゆすらるるを、宮はくろがねつちもて撃懲うちこらさるるやうに覚えて、安き心もあらず。ひややかなる汗は又一時ひとしきり流出ながれいでぬ。
「これはしからん!」
 宮はあやぶみつつ彼の顔色をうかがひぬ。常の如く戯るるなるべし。そのおもてやはらぎて一点の怒気だにあらず、むし唇頭くちもとには笑を包めるなり。
「僕などは一件ひとつ大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快でたまらんの。一日がつて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽をこしらへたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死しようしともにするのだ。みいさん、可羨うらやましいだらう」
 宮はたちまち全身の血の氷れるばかりの寒さにへかねて打顫うちふるひしが、この心の中をさとられじと思へば、弱る力を励して、
可羨うらやましいわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
何卒どうぞ
「ええ悉皆みんなつてしまへ!」
 彼は外套オバコオト衣兜かくしより一袋のボンボンを取出とりいだして火燵こたつの上に置けば、余力はずみに袋の口はゆるみて、紅白の玉は珊々さらさら乱出みだれいでぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

第六章


 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶いちびん水薬すいやくを与へられぬ。貫一はまことに胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩おうのうとしてうきへざらんやうなる彼の容体ようたい幾許いくばくの変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋あひこくする苦痛は、ますます募りてやまざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。あやしむべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることをおそれぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、おもてを合すれば冷汗ひやあせも出づべき恐怖おそれを生ずるなり。彼の情有なさけあことばを聞けば、身をもらるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根こころねを見ることを恐れたり。宮が心地すぐれずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生へいぜいに一層を加へたれば、彼は死をもとむれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとそのふべからざる限に至りぬ。
 つひに彼はこのくるしみを両親に訴へしにやあらん、一日あるひ母と娘とはにはかに身支度して、忙々いそがはしく車に乗りて出でぬ。彼等はちひさからぬ一個ひとつ旅鞄たびかばんを携へたり。
 大風おほかぜぎたるあと孤屋ひとつやの立てるが如く、わびしげに留守せるあるじの隆三はひとり碁盤に向ひて碁経きけいひらきゐたり。よはひはなほ六十に遠けれど、かしらおびただし白髪しらがにて、長く生ひたるひげなども六分は白く、かたちせたれどいまだ老のおとろへも見えず、眉目温厚びもくおんこうにしてすこぶ古井こせい波無きの風あり。
 やがて帰来かへりきにける貫一は二人の在らざるを怪みてあるじたづねぬ。彼はしづかに長き髯をでて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日きのふ医者が湯治が良いと言うてしきりに勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着おもひつきで、脚下あしもとから鳥のつやうな騒をして、十二時三十分の※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやで。ああ、ひとりで寂いところ、まあ茶でもれやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、わしもそんな塩梅あんばいで」
しかし、湯治は良いでございませう。幾日いくかほど逗留とうりゆうのお心算つもりで?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、ほんの着のままで出掛けたのだが、なあにぢきに飽きてしまうて、四五日も居られるものか、養生よりうち養生の方が楽だ。何かうまい物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
 貫一は着更きかへんとて書斎に還りぬ。宮ののこしたる筆のあとなどあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便たよりあらんと思飜おもひかへせしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来かへりきたれるは、心のするばかり美きおもかげゑて帰来れるなり。彼はむなしく饑ゑたる心をいだきて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許いくら急いで出掛けたつて、何とか一言ひとことぐらゐ言遺いひおいてきさうなものぢやないか。一寸ちよつと其処そこへ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、はじめに話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日あした行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別わかれには顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
 女と云ふ者は一体男よりは情がこまやかであるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。まさかにあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々ばんばんそんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
 元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂いはゆる『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為せゐか知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向かたむきつてゐたけれど、今のやうに太甚はなはだしくはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更なほさらでなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
 それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、ほとんど……殆どではない、全くだ、全くおぼれてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
 これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情があつくなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分ひどい話だ。これが互に愛してゐるなかの仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事をれると実に憎い。
 小説的かも知れんけれど、八犬伝はつけんでん浜路はまじだ、信乃しの明朝あしたは立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更よふけひに来る、あの情合じやうあひでなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処そこの娘と許嫁いひなづけ……似てゐる、似てゐる。
 然し内の浜路は困る、信乃にばかり気をもまして、余り憎いな、そでない為方しかただ。これから手紙を書いて思ふさま言つてらうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀かあいさうだ。
 自分は又神経質に過るから、思過おもひすごしを為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過おもひすごしであるか、あの人がじようが薄いのかは一件ひとつの疑問だ。
 時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少いくらか自分をあなどつてゐるのではあるまいか。自分は此家ここの厄介者、あの人は家附の娘だ。そこでおのづかしゆうと家来と云ふやうな考が始終有つて、……いや、それもあの人にく言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すとひどおこられるのだ、一番それを慍るよ。勿論もちろんそんな様子の些少すこしでも見えた事は無い。自分の僻見ひがみに過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、もしもあの人の心にそんな根性が爪のあかほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情のとりことはなつても、だ奴隷になる気は無い。あるひはこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死こがれじにに死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずにくものか。
 それは自分の僻見ひがみで、あの人に限つてはそんな心は微塵みじんも無いのだ。その点は自分もく知つてゐる。けれども情がこまやかでないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊うちこはすほどに熱しないのか。あるひは熱しあたはざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
 彼はこころに満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だかつて解釈し得ざるなりけり。今日はや如何いかに解釈せんとすらん。

(六)の二


 翌日果して熱海より便たよりはありけれど、わづかに一枚の端書はがきをもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟しゆせきなり。貫一は読了よみをはるとひとしく片々きれきれに引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何いかにとも言解くなるべし。彼のしたし言解いひとかば、如何に打腹立うちはらだちたりとも貫一の心のけざることはあらじ。宮の前には常に彼はいかりをも、恨をも、うれひをも忘るるなり。今は可懐なつかしき顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平にひて、しかも言解く者のあらざれば、彼のいかりは野火の飽くこと知らでくやうなり。
 このゆふべ隆三は彼に食後の茶をすすめぬ。一人わびしければとどめて物語ものがたらはんとてなるべし。されども貫一の屈托顔くつたくがほして絶えず思のあらかたする気色けしきなるを、
「お前どうぞなすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。ひどく痛みでもするかな」
「いえ、なに、もうよろしいのでございます」
「それぢや茶はくまい」
頂戴ちようだいします」
 かかる浅ましきいかりを人に移さんは、はなは謂無いはれなき事なり、と自ら制して、書斎に帰りてなまじひ心を傷めんより、人に対してしばらうさを忘るるにかじと思ひければ、彼は努めてくつろがんとしたれども、ややもすれば心はそらになりて、あるじことば聞逸ききそらさむとす。
 今日ふみの来て細々こまごまと優き事など書聯かきつらねたらば、如何いかに我はうれしからん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るにへて、そのたのしみは深かるべきを。さては出行いでゆきし恨も忘られて、二夜三夜ふたよみよとほざかりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身のにはか出行いでゆきしを、如何いか本意無ほいなく我の思ふらんかはく知るべきに。それを知らば一筆ひとふで書きて、など我を慰めんとはざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐いとしと思へる人の何故なにゆゑにさはざるにやあらん。かくまでに情篤なさけあつからぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼はたちまちその事を忘るべきわれかへれり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、ひそむにもあらず、やや自らあざむに似たる隆三の顔は、燈火ともしびに照されて、常には見ざるあやしき相をあらはせるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長きひげせはしみては、又おとがひあたりよりしづか撫下なでおろして、まづ打出うちいださんことばを案じたり。
「お前の一身上の事にいてだがの」
 わづかにかく言ひしのみにて、彼は又ためらひぬ、そのひげあぶに苦しむ馬の尾のやうにふるはれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一はにはかに敬はるる心地しておのづひざを正せり。
「で、わしもまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様おとつさんに対して恩返おんがへしも出来たやうな訳、就いてはお前もますます勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つもせて、指折の人物にたいと考へてゐるくらゐ、だ未だこれから両肌りようはだを脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これをける貫一は鉄繩てつじようをもていましめられたるやうに、身の重きにへず、心のうたくるしきを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はそのうちに在りてその中に在ることを忘れんと為る平生へいぜいを省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父おやぢがどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事はきまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいとおもつてをります。愚父のなくなりましたあの時に、此方こちらで引取つていただかなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほどさいはひなものはおそらく無いでございませう」
 彼は十五の少年の驚くまでに大人びたるおのれを見て、その着たるきぬを見て、その坐れる※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねを見て、やがて美き宮と共にこの家のぬしとなるべきその身を思ひて、そぞろに涙を催せり。に七千円の粧奩そうれんを随へて、百万金もあがなふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれればわしも張合がある。就いては改めてお前にたのみがあるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
 彼はかく潔く答ふるにはばからざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかることばいだす時は、多くあたはざる事をふるためしなればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁にらうかと思つて」
 見るにへざる貫一の驚愕おどろきをば、せめて乱さんと彼は慌忙あわただしことばを次ぎぬ。
「これに就いては私も種々いろいろと考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つてしまうての、お前はもすこしの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴エウロッパへ留学して、全然すつかり仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
 なんぢの命を与へよとせまらるる事あらば、その時の人の思は如何いかなるべき! 可恐おそろしきまでに色を失へる貫一はむなしく隆三のおもて打目戍うちまもるのみ。彼はいたこうじたるていにて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換へんがへを為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一のことばいださざれば、あるじすくなからず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家うちとお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。たいした事は無いがこの家は全然そつくりお前に譲るのだ、お前は矢張やはり私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所よそへ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処そこはお前がく承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴あつぱれの人物に成るのが第一の希望のぞみであらう。その志をげさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、しかしこれは理窟りくつで、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前にたのみが有ると言うたのはこの事だ。
 従来これまでもお前を世話した、後来これからも益世話をせうからなう、其処そこに免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一はをののくちびる咬緊くひしめつつ、ことさ緩舒ゆるやかいだせる声音こわねは、あやしくも常に変れり。
「それぢや翁様をぢさんの御都合で、どうしてもみいさんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着とんちやくは無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、ことわりに似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、なじるべき事、ののしるべき、言破るべき事、はぢしむべき事の数々はくが如く充満みちみちたれど、彼は神にもまされる恩人なり。理非を問はずそのことばには逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌をみても、あへて言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩をかせ如此かくのごとせまれども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何いかなるをのを以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮がなさけは我が思ふままにこまやかならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心なりと、彼は可憐いとしき宮を思ひて、その父に対するいかりやはらげんとつとめたり。
 我は常に宮がなさけこまやかならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節ばんこんさくせつはずんば。
「嫁に遣ると有仰おつしやるのは、何方どちら御遣おつかはしになるのですか」
「それはしかとはきまらんがの、下谷したやに富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会かるたかいに三百円の金剛石ダイアモンド※(「火+玄」、第3水準1-87-39)ひけらかせし男にあらずやと、貫一はひそか嘲笑あざわらへり。されど又余りにその人の意外なるにおどろきて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、いやしくも吾が宮の如く美きを、目あり心あるもののたれかは恋ひざらん。ひとり怪しとも怪きは隆三のこころなるかなわが十年の約は軽々かろがろしく破るべきにあらず、なほ謂無いはれなきは、一人娘をいだしてせしめんとするなり。たはむるるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一はむしろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんよりちかかるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石ダイアモンドなるを聞きて、一度ひとたびけがされ、はづかしめられたらんやうにもいかりせしかど、既に勝負は分明ぶんめいにして、我は手をつかねてこの弱敵の自らたふるるをんと思へば、心やや落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
 この一言に隆三のおもては熱くなりぬ。
「これに就いてはわしも大きに考へたのだ、なにろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、しかし、お前の後来こうらいいても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちはわかしと云ふもので、ここに可頼たのもしい親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧はづかしからん家格いへがらだ。気の毒な思をしてお前との約束を変易へんがへするのも、私たちが一人娘をよそへ遣つて了ふのも、究竟つまりは銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
 それに、富山からはつての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家いつけのつもりで、決して鴫沢家をおろそかにはまい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
 決して慾ではないが、い親類を持つと云ふものは、人でへばとりなほさず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家いつかの友達だ。
 お前がこれから世の中に出るにしても、大相たいそうな便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、たれの為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、わしも決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
 私の了簡りようけんはかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効としがひも無く事を好んで、何為なにしに若いものの不為ふためになれと思ふものかな。お前も其処そこを考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したらすぐに洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番ひとつ奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私ももすこしのところを辛抱して、いつその事博士はかせになつて喜ばしてくれんか」
 彼はさも思ひのままに説完ときおほせたる面色おももちして、ゆたかひげでてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、やうやくその心事の火をるよりあきらかなるを得たり。彼が千言万語の舌をろうしてまざるは、畢竟ひつきよう利の一字をおほはんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我もけがれたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、あるひは穢れたる念を起し、或は穢れたるおこなひすことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これあに穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人のひとけがれみざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子みなしごを養へる志は、これを証してあまりあるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人はむごくも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世にただ一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐いとしき宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもておびやかすとも得て屈すべからず。宮が愛か、なにがしみかどかむりを飾れると聞く世界無双ぶそう大金剛石だいこんごうせきをもてあがなはんとすとも、いかでか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥おでいうちに輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるをいだきて、この世のすべて穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨うらめしとは思ひつつも、げてさあらぬていに聴きゐたるなりけり。
「それで、この話はみいさんも知つてゐるのですか」
薄々うすうすは知つてゐる」
「ではみいさんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸ちよつと聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様おとつさん御母様おつかさんよろしいやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、やうやく得心がいつたのだ」
 断じていつはりなるべしと思ひながらも、貫一の胸はをどりぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。わしの今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。くはしい事はいづれ又寛緩ゆつくり話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々いろいろ考へて置くがいの」
「はい」

第七章


 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日やうやく一月のなかばを過ぎぬるに、梅林ばいりんの花は二千本のこずゑに咲乱れて、日にうつろへる光は玲瓏れいろうとして人のおもてを照し、みちうづむる幾斗いくと清香せいこうりてむすぶにへたり。梅のほかには一木いちぼく無く、処々ところどころの乱石の低くよこたはるのみにて、地はたひらかせんきたるやうの芝生しばふの園のうちを、玉の砕けてほとばしり、ねりぎぬの裂けてひるがへる如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑はうららかれたる空をしてそのいただきあたりてものうげにかかれる雲はねむるに似たり。そよとの風もあらぬに花はしきりに散りぬ。散る時にかろく舞ふをうぐひすは争ひて歌へり。
 宮は母親と連立ちて入来いりきたりぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几しようぎを据ゑたるもとを指してゆるく歩めり。彼の病はいまだ快からぬにや、薄仮粧うすげしやうしたる顔色も散りたるはなびらのやうに衰へて、足のはこびたゆげに、ともすればかしらるるを、思出おもひいだしては努めて梢をながむるなりけり。彼の常として物案ものあんじすれば必ずくちびるむなり。彼は今しきりに唇を咬みたりしが、
御母おつかさん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘にうつりぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発はじめにお前がきたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一かんいつさんの事が気になつて。御父おとつさんはもう貫一さんに話をすつたらうか、ねえ御母おつかさん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だからくのなら、もうはずにずつと行つてしまひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿うるほへり。彼は忘れざるべし、その涙をぬぐへるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分からきたいとお言ひなのだえ。さう何時いつまでも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然しつかりめなくてはけないよ。お前が可厭いやなものを無理においでといふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふたびに、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼はひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「おとつさんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方あちらへ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合しあはせと云ふものだから、其処そこを考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切おもひきりが好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなりはずに行くなんて、それはお前かへつて善くないから、矢張やつぱり逢つて、ちやんと話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来ゆきかよひをしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日あしたには御音信おたよりがあつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几しようぎりて、なかばは聴き、半は思ひつつ、ひざに散来るはなびらを拾ひては、おのれの唇に代へてしきり咬砕かみくだきぬ。うぐひすの声の絶間を流の音はむせびて止まず。
 宮は何心無くおもてあぐるとともにやや隔てたる間隠まがくれに男の漫行そぞろあるきする姿を認めたり。彼はたちままなこを着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くにさへぎひまを縫ひつつ、しばらくその影をひたりしが、つひたれをや見出みいだしけん。慌忙あわただしく母親に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやけり。彼は急に牀几を離れて五六歩いつあしむあし進行すすみゆきしが、彼方あなたよりも見付けて、逸早いちはやく呼びぬ。
其処そこ御出おいででしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くとひとしく、恐れたる風情ふぜいにて牀几のはしすくまりつ。
「はい、唯今ただいまがた参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶あいさつしつつ彼を迎へて立てり。宮は其方そなたを見向きもやらで、彼の急足いそぎあしちかづく音を聞けり。
 母子おやこの前にあらはれたる若き紳士は、そのたれなるやを説かずもあらなん。目覚めざましおほいなる金剛石ダイアモンドの指環を輝かせるよ。にぎりには緑色のぎよく獅子頭ししがしらきざみて、象牙ぞうげの如く瑩潤つややかに白きつゑを携へたるが、そのさきをもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処ここだといふのを聞いて追懸おつかけて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやうおもてを向けて、さてしとやかに起ちて、うやうやしく礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでもおごたかぶるを忘れざりき。その張りたるあぎとと、への字に結べる薄唇うすくちびると、尤異けやけ金縁きんぶち目鏡めがねとは彼が尊大の風にすくなからざる光彩を添ふるやうたがひ無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。ほん今日こんにちはお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮はみちを開きてかたはらたたずめり。
貴方あなたがたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方こちらの塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分せはしからだ、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、あすの朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所いつしよにお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視ぬすみみつ。宮は物言はん気色けしきもなくて又母の答へぬ。
「はい、難有ありがたう存じます」
「それとも御在おいでですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何のわけは無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家ゐなかやを造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩ゆつくり遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮はゑみを含みて言はざるを、母はかたはらより、
「これはもう遊ぶ事ならきらひはございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後これからさかんにおあすびなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京さいきようでも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌おきらひですか、ははあ。船が平気だと、支那しなから亜米利加アメリカの方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山ゆさんあるいたところで知れたもの。どんなに贅沢ぜいたくを為たからと云つて」
御帰おかへりになつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下いでください、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などはまる為方しかたが無い! こんな若い野梅のうめまきのやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林もすさましい。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走ごちそうを為ますよ。お宮さんは何が所好すきですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼はひそかに宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞はづかしげに打笑うちゑめり。
「で、何日いつ御帰でありますか。明朝あした一所に御発足おたちにはなりませんか。此地こつちにさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有ありがたうございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日うちには音信たよりがございますはずで、その音信たよりを待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例のおごりて天をにらむやうに打仰うちあふぎて、杖の獅子頭ししがしら撫廻なでまはしつつ、少時しばらく思案するていなりしが、やをら白羽二重しろはぶたへのハンカチイフを取出とりいだして、片手に一揮ひとふりるよと見ればはなぬぐへり。菫花ヴァイオレットかをりむせばさるるばかりにくんわたりぬ。
 宮も母もその鋭きにほひに驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿いて、田圃たんぼの方を。私だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程みちが有るから、貴方あなたは御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良わるいのだから散歩はきはめて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有ありがたうございます。お前お供をおかい」
 宮のためらふを見て、唯継はことさらに座をてり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循いんじゆんしてゐてはけない」
 つと寄りてかろく宮の肩をちぬ。宮はたちまおもてあかめて、如何いかにともすべを知らざらんやうに立惑たちまどひてゐたり。母の前をもはばからぬ男の馴々なれなれしさを、憎しとにはあらねど、おのれはしたなきやうにづるなりけり。
 得もはれぬその仇無あどなさの身に浸遍しみわたるにへざる思は、そぞろに唯継の目のうちあらはれてあやし独笑ひとりゑみとなりぬ。この仇無あどな※(「女+兌」、第4水準2-5-59)いとしらしき、美き娘のやはらかき手を携へて、人無き野道の長閑のどかなるをかたらひつつ行かば、如何いかばかり楽からんよと、彼ははや心もそらになりて、
「さあ、行つて見ませう。御母おつかさんから御許おゆるしが出たから可いではありませんか、ねえ、貴方あなたよろしいでありませう」
 母は宮の猶羞なほはづるを見て、
「お前おいでかい、どうおだえ」
「貴方、お出かいなどと有仰おつしやつちや可けません。お出なさいと命令をすつて下さい」
 宮も母も思はず笑へり。唯継もおくれじと笑へり。
 又人の入来いりく気勢けはひなるを宮は心着きてうかがひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげにせはしく踏立つる足音なりき。
「ではおまいお供をおしな」
「さあ、行きませう。ぢき其処そこまででありますよ」
 宮はちひさき声して、
御母おつかさんも一処に御出おいでなさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
 母親を伴ひては大いに風流ならず、すこぶる妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんにはかへつて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方にはつてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭いやだつたらすぐに帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私にだまされたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
 この時せはしげに聞えし靴音ははやみたり。人は出去いでさりしにあらで、七八間彼方あなたなる木蔭に足をとどめて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方こなた三人みたりたれも知らず。たたずめる人は高等中学の制服の上に焦茶の外套オバコオトを着て、肩には古りたる象皮の学校かばんを掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
 再び靴音は高く響きぬ。そのにはかなると近きとに驚きて、三人みたりは始めて音するかた見遣みやりつ。
 花の散りかかる中を進来すすみきつつ学生は帽を取りて、
をばさん、参りましたよ」
 母子おやこ動顛どうてんしてほとん人心地ひとごこちを失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらずあきれ果てたる目をばむなし※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて、少時しばしは石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんよりたちまち消えてこの土と成了なりをはらんことの、せめて心易こころやすさを思ひつつ、その淡白うすじろくちびる啖裂くひさかんとすばかりにみて咬みてまざりき。
 想ふに彼等の驚愕おどろき恐怖おそれとはその殺せし人の計らずも今生きてきたれるに会へるが如きものならん。気も不覚そぞろなれば母は譫語うはごとのやうに言出いひいだせり。
「おや、おいでなの」
 宮は些少わづかなりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにとねがへる如く、木蔭こかげに身をそばめて、打過うちはず呼吸いきを人に聞かれじとハンカチイフに口元をおほひて、見るはくるしけれども、見ざるもつらき貫一の顔を、したる額越ひたひごしうかがひては、又唯継の気色けしきをも気遣きづかへり。
 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾だいはらんありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客しよくかくきたれるよと、例の金剛石ダイアモンドの手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐあぎとを張れり。
 貫一は今回こたびの事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞひしと言はん、今はしばらく色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやうしづめて、くるし笑顔ゑがほを作りてゐたり。
みいさんの病気はどうでございます」
 宮はたまりかねてひそかにハンカチイフを咬緊かみしめたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日うちには帰らうと思つてね。お前さんく来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日あす明後日あさつて休課やすみになつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、あやまちて野中の古井ふるゐに落ちたる人の、沈みも果てず、あがりも得為えせず、命の綱とあやふくも取縋とりすがりたる草の根を、ねずみきたりてむにふと云へる比喩たとへ最能いとよく似たり。如何いかに為べきかとあるひおそれ、或は惑ひたりしが、つひにそのまぬがるまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、はなはだ勝手がましうございますが、私どもはこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝あすは御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様にりましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩はめます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下いでくださいよ。よろしいですか、お宮さん、それでは後にきつとおいでなさいよ。誠に今日は残念でありますな」
 彼は行かんとして、更に宮のそば近く寄来よりきて、
貴方あなた、きつとのちにおいでなさいよ、ええ」
 貫一はまばたきてゐたり。宮は窮して彼に会釈さへかねつ。娘気の可羞はづかしさにかくあるとのみ思へる唯継は、ますます寄添ひつつ、舌怠したたるきまでにことばやはらげて、
よろしいですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
 貫一のまなこは燃ゆるが如き色をして、宮の横顔を睨着ねめつけたり。彼はおそれて傍目わきめをもらざりけれど、必ずさあるべきを想ひてひとり心ををののかせしが、なほ唯継の如何いかなることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許いかばかりさいはひなりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをもれず、唯※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)くまでも※(「女+兌」、第4水準2-5-59)いとしき宮に心をのこして行けり。
 その後影うしろかげとほすばかりに目戍まもれる貫一は我を忘れてしばらたたずめり。両個ふたりはその心を測りかねて、ことばでず、息をさへ凝して、むなしく早瀬の音のかしましきを聴くのみなりけり。
 やがて此方こなたを向きたる貫一は、尋常ただならず激して血の色を失へる面上おもてに、多からんとすれどもあたはずと見ゆる微少わづかゑみを漏して、
みいさん、今のやつはこの間の骨牌かるたに来てゐた金剛石ダイアモンドだね」
 宮はうつむきて唇を咬みぬ。母は聞かざるまねして、折しもけるうぐひすうかがへり。貫一はこのていを見て更に嗤笑あざわらひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障きざな奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきのつらは!」
「貫一さん」母はにはかに呼びかけたり。
「はい」
「お前さんをぢさんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口あつこうなどを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥くたびれだらうから、お湯にでも入つて、さうして御午餐おひる前なのでせう」
「いえ、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやの中ですしを食べました」
 三人みたりとも歩始あゆみはじめぬ。貫一は外套オバコオトの肩を払はれて、うしろ捻向ねぢむけば宮とおもてを合せたり。
其処そこに花がいてゐたから取つたのよ」
「それは難有ありがたう※[#感嘆符三つ、64-13]

第八章


 打霞うちかすみたる空ながら、月の色の匂滴にほひこぼるるやうにして、微白ほのじろき海は縹渺ひようびようとして限を知らず、たとへば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音もねむげに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙しようようせるは貫一と宮となりけり。
「僕はただ胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩いつあしむあし行きし後宮はやうやう言出でつ。
堪忍かんにんして下さい」
「何も今更あやまることは無いよ。一体今度の事はをぢさんをばさんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けばいのだから」
「…………」
此地こつちへ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡りようけんのあるべきはずは無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦のなかで、知れきつた話だ。
 昨夜ゆふべ翁さんからくはしく話があつて、その上に頼むといふ御言おことばだ」
 差含さしぐむ涙に彼の声はふるひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕のからだ火水ひみづの中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さしてるとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児みなしごでも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留ふみとどまりて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣きづかはしげにその顔を差覗さしのぞきぬ。
「堪忍して下さいよ、みんな私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手にすがりて、たちまちその肩におもて推当おしあつると見れば、彼も泣音なくねもらすなりけり。波は漾々ようようとして遠くけむり、月はおぼろに一湾の真砂まさごを照して、空もみぎは淡白うすじろき中に、立尽せる二人の姿は墨のしたたりたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方にはをぢさんが僕を説いて、お前さんの方はをばさんが説得しやうと云ふので、無理に此処ここへ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々はいはいと言つて聞いてゐたけれど、みいさんは幾多いくらでも剛情を張つて差支さしつかへ無いのだ。どうあつても可厭いやだとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れてしまふのだ。僕がそばに居ると智慧ちゑを付けて邪魔をると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させるはかりごとだなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜ゆふべ夜一夜よつぴてはしない、そんな事は万々ばんばん有るまいけれど、種々いろいろ言はれる為に可厭いやと言はれない義理になつて、もしや承諾するやうな事があつては大変だと思つて、うちは学校へ出るつもりで、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処どこに在る※(感嘆符二つ、1-8-75) 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで……知……知らなかつた」
 宮は可悲かなしさ可懼おそろしさに襲はれてすこしく声さへ立てて泣きぬ。
 いかりおさふる貫一の呼吸はやうやく乱れたり。
みいさん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えずをののけり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
あんまり邪推が過ぎるわ、余りひどいわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目にけて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りはんよ。
 お前が得心せんものなら、此地ここへ来るに就いて僕に一言いちごんも言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来よこすが可いぢやないか。出抜だしぬいて家を出るばかりか、何の便たよりも為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈てはずになつてゐたのだ。あるひは一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦かんぷだよ。姦通かんつうしたも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、あんまりだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽なきくづれつつ、寄らんとするを貫一は突退つきのけて、
みさをを破れば奸婦ぢやあるまいか」
何時いつ私が操を破つて?」
幾許いくら大馬鹿者の貫一でも、おのれのさいが操を破るそばに付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふれきとした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所よその男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処どこに在る?」
「さう言はれてしまふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等わたしたち此地こつちに来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はそのくちびるくぎ打たれたるやうに再びことばでざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ずあやまちを悔い、罪をびて、その身はおろか命までもおのれの欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰こころひそかに望みたりしならん。如何いかにぞや、彼は露ばかりもさせる気色けしきは無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変こころがはりを、貫一はなかなかまことしからず覚ゆるまでにあきれたり。
 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛いとをしみし人はあくたの如く我をにくめるよ。恨は彼の骨に徹し、いかりは彼の胸をつんざきて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉をくらひて、この熱膓ねつちようさまさんとも思へり。たちまち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪えたへずして尻居にたふれたり。
 宮は見るより驚くいとまもあらず、諸共もろともに砂にまびれて掻抱かきいだけば、閉ぢたるまなこより乱落はふりおつる涙に浸れる灰色のほほを、月の光は悲しげに彷徨さまよひて、迫れる息はすさましく波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後うしろより取縋とりすがり、抱緊いだきしめ、撼動ゆりうごかして、をののく声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいとねんごろぬぐひたり。
ああみいさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年さらいねんの今月今夜……十年のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮はひしぐばかりに貫一に取着きて、物狂ものぐるはし咽入むせびいりぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はおなかの中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、あんま言難いひにくい事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言たつたひとこといひたいのは、私は貴方あなたの事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁にくかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、もすこし辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽うろたへてくだらんことを言ふな。食ふにこまつて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁にくのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処そこの一人娘ぢやないか、さうして婿まできまつてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁にかなければならんのだ。天下にこれくらゐわけの解らん話が有らうか。どう考へても、嫁にくべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁にかうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件ふたつの外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮はらない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それはあんまりだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山がかねがあるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 をぢさんをばさんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にするほう幾許いくらもある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊ぶちこはして了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前もつて見る気は有るのかい」
 貫一のまなこはその全身の力をあつめて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍うちまもれり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息ためいきしたり。
よろしい、もう宜い。お前の心は能く解つた」
 今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按うちあんじつつも、彼は乱るる胸をゆるうせんが為に、ひて目を放ちて海のかたを眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮はかたはらに在らずして、六七間あとなる波打際なみうちぎはおもておほひて泣けるなり。
 可悩なやましげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)びようびようたる海のはしの白くくづれて波と打寄せたる、えんあはれを尽せる風情ふぜいに、貫一はいかりをも恨をも忘れて、少時しばしは画をる如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
 彼はかしられて足の向ふままにみぎはかたへ進行きしが、泣く泣く歩来あゆみきたれる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前はちつとも泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
 ほとんど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、かねなのだね。如何いかに何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相あいそうは尽きないかい。
 い出世をして、さぞ栄耀えようも出来て、お前はそれで可からうけれど、かねに見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念とはうか、口惜くちをしいと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺さしころして――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それをこらへてお前を人にとられるのを手出しもずに見てゐる僕の心地こころもちは、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければひとはどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候ゐさふらふでも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾をとこめかけになつたおぼえは無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物なぐさみものにしたのだね。平生へいぜいお前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物のつもりで、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何のたのしみも無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較くらべものにはならない。彼方あつちは屈指の財産家、僕はもとより一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決してかねで買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
 おのれの身に換へてお前を思つてゐる程の愛情をつてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、むしろ害になりやすい、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
 然しかねといふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人にすぐれた立派な立派な男子さへ、財の為には随分ひどい事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然ふつと気の変つたのも、あるひは無理も無いのだらう。からして僕はそれはとがめない、ただもう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかとふことを。
 すずめが米を食ふのはわづ十粒とつぶか二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前にひもじい思を為せるやうな、そんな意気地いくぢの無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
 貫一はしづくする涙を払ひて、
「お前が富山へく、それは立派な生活をして、栄耀えようも出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へよばれて行く人もあれば、自分の妻子つまこを車に載せて、それを自分がいて花見に出掛ける車夫もある。富山へけば、家内も多ければ人出入ひとでいりも、はげしし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気をいためながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何をたのしみに生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白くつかへるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人にるで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万のかねが有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人おもてに三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似まねをして、妻はほんの床の置物にされて、はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、くるしみばかりでたのしみは無いと謂つて可い。お前のく唯継だつて、もとより所望のぞみでお前をもらふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、かねが有るから好きな真似も出来る、ほかたのしみに気が移つて、ぢきにお前の恋はさまされて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地こころもちを考へて御覧、あの富山の財産がそのくるしみすくふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれでたのしみかい、満足かい。
 僕が人にお前をられる無念はふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変こころがはりをした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀かあいさうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
 僕に飽きて富山にれてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それはあやまつてゐる、それは実にあやまつてゐる、愛情の無い結婚は究竟つまり自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別ふんべつ一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便ふびんだと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直しなおしてくれないか。
 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨うらやましいとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛かはゆくは思はんのかい」
 彼はあやふきをすくはんとする如くひしと宮に取着きて匂滴にほひこぼるる頸元えりもとゆる涙をそそぎつつ、あしの枯葉の風にもまるるやうに身をふるはせり。宮も離れじと抱緊いだきしめて諸共もろともに顫ひつつ、貫一がひぢみて咽泣むせびなきに泣けり。
嗚呼ああ、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方あつちつたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
 木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然いよいよお前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、はらわたの腐つた女! 姦婦かんぷ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 その声とともに貫一はあしを挙げて宮の弱腰をはたと※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)たり。地響して横様よこさままろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為えせ弱々よわよわたふれたるを、なほ憎さげに見遣みやりつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹いつぴきはな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つてしまふのだ。学問も何ももうやめだ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉をくらつて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一のつらを好く見て置かないかい。長々の御恩に預つたをぢさんをばさんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細しさいあつて貫一はこのまま長の御暇おいとまを致しますから、随分お達者で御機嫌ごきげんよろしう……みいさん、お前から好くさう言つておくれ、よ、し貫一はどうしたとおたづねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方ゆくへ知れずになつて了つたと……」
 宮はやにはに蹶起はねおきて、立たんと為れば脚のいたみもろくも倒れて効無かひなきを、やうや這寄はひよりて貫一の脚に縋付すがりつき、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方あなたこれから……何処どこへ行くのよ」
 貫一はさすがに驚けり、宮がきぬはだけてゆき可羞はづかしあらはせる膝頭ひざがしらは、おびただしく血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我けがをしたか」
 寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話がればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭いやよ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛けとばすぞ」
「蹴られても可いわ」
 貫一は力をきはめて振断ふりちぎれば、宮は無残に伏転ふしまろびぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行いそぎゆきたり。宮は見るより必死と起上りて、脚のいたみ幾度いくたびたふれんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺いひのこした事がある」
 つひに倒れし宮は再びつべき力も失せて、唯声をたのみに彼の名を呼ぶのみ。やうやおぼろになれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶みもだえしてなほ呼続けつ。やがてその黒き影の岡のいただきに立てるは、此方こなた目戍まもれるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声もはるかに来りぬ。
みいさん!」
「あ、あ、あ、貫一かんいつさん!」
 首を延べて※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはせども、目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて眺むれども、声せしのちは黒き影の掻消かきけす如くせて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
 宮は再びこひしき貫一の名を呼びたりき。
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中編




第一章


 新橋停車場しんばしステエションの大時計は四時をすぐること二分、東海道行の列車は既に客車のとびらして、機関車にけふりふかせつつ、三十余輛よりようつらねて蜿蜒えんえんとしてよこたはりたるが、真承まうけの秋の日影に夕栄ゆふばえして、窓々の硝子ガラスは燃えんとすばかりに耀かがやけり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くとわめくを余所よそに、大蹈歩だいとうほ寛々かんかんたる老欧羅巴エウロッパ人は麦酒樽ビイルだるぬすみたるやうに腹突出つきいだして、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘ゑひがさオレンジ色のリボンを飾りたるを小脇こわきにせると推並おしならび、おのれが乗物の顔して急ぐ気色けしきも無くすぐる後より、蚤取眼のみとりまなこになりて遅れじと所体頽しよたいくづして駈来かけくる女房の、嵩高かさだかなる風呂敷包をいだくが上に、四歳よつほどの子を背負ひたるが、何処どこの扉も鎖したるに狼狽うろたふるを、車掌に強曳しよぴかれてやうや安堵あんどせるも無く、青洟垂あをばなたらせる女の子を率ゐて、五十あまり老夫おやぢのこれも戸惑とまどひしてきつもどりつせし揚句あげく、駅夫にひかれて室内に押入れられ、如何いかなる罪やあらげなくてらるる扉にたもとはさまれて、もしもしとすくひを呼ぶなど、いまだ都を離れざるにはや旅のあはれを見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅かたすみ円居まどゐして、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装いでたちにて、紋付の袷羽織あはせはおりを着たるもあれば、精縷セルの背広なるもあり、はかま着けたるが一人、大島紬おほしまつむぎの長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別せんべつびんはこなどを網棚あみだなの上に片附けて、その手を摩払すりはらひつつ窓より首をいだして、停車場ステエションかたをば、求むるものありげに望見のぞみみたりしが、やがてあゐの如き晩霽ばんせいの空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟あまかす
 黒餅こくもち立沢瀉たちおもだか黒紬くろつむぎの羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑をもらせり。甘糟と呼れたるは、茶柳条ちやじま仙台平せんだいひらの袴を着けたる、この中にてひと頬鬚ほほひげいかめしきをたくはふる紳士なり。
 甘糟の答ふるにさきだちて、背広の風早かざはやは若きに似合はぬ皺嗄声しわがれごゑ振搾ふりしぼりて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟のかゆきにへんことを僕はちやん洞察どうさつしてをるのだ」
「これは憚様はばかりさまです」
 大島紬の紳士は黏着へばりついたるやうにもたれたりし身をにはかに起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利さぶりと甘糟はかねて横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟ゆうせんくつを見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔きえんを吐くつもりなのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたとふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……しからんこつたぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣おもひやらるるね。ええ、肩書をはづかしめん限は遣るもからうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
 この老実のげんすは、今は四年よとせの昔間貫一はざまかんいち兄事けいじせし同窓の荒尾譲介あらおじようすけなりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補にげられ、踰えて一年の今日こんにち愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。そのよはひと深慮と誠実とのゆゑを以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納いひをさめじや。ねがはくは君達もよろしく自重してくれたまへ」
 面白くはやりし一座もたちましらけて、しきりくゆらす巻莨まきたばこの煙の、急駛きゆうしせる車の逆風むかひかぜあふらるるが、飛雲の如く窓をのがれて六郷川ろくごうがわかすむあるのみ。
 佐分利は幾数回あまたたびうなづきて、
「いやさう言れると慄然ぞつとするよ、実はさつき停車場ステエションで例の『美人びじクリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖とかげくらふかと思ふね、いつ見ても美いには驚嘆する。まる淑女レディ扮装いでたちだ。就中なかんづく今日はめかしてをつたが、何処どこうまい口でもあると見える。那奴あいつしぼられちやかなはん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。かねて御高名は聞及んでゐる」
 と大島紬おほしまつむぎなほ続けんとするをさへぎりて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学をつたのも、其奴そいつが債権者のおもなる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金きんの腕環なんぞめてゐると云ふぢやないか。ひどい奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながらかかつたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊ミイラにならんやうにふんどしめて掛るが可いぜ」
たれ其奴そいつには尻押しりおしが有るのだらう。亭主が有るのか、あるひ情夫いろか、何か有るのだらう」
 皺嗄声しわがれごゑは卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴ライフがあるのさ、情夫いろぢやない、亭主がある、此奴こいつが君、我々の一世紀ぜんに鳴した高利貸アイスで、赤樫権三郎あかがしごんざぶろうと云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的※(「女+搖のつくり」、第4水準2-5-69)いんぶつと来てゐるのだ」
「成程! 積極しやくきよくと消極と相触れたのでつめに火が※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)ともる訳だな」
 大島紬が得意の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)まぜかへしに、深沈なる荒尾もむを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女をもてあそぶのが道楽で、此奴こいつの為にけがされた者は随分意外のへんにも在るさうな。そこで今の『美人びじクリイム』、これもその手にかかつたので、もとは貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾おやぢこの娘を見ると食指大いに動いた訳で、これをとりこにしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働なかばたらきに貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひことわりかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾おやぢは六十ばかりの禿顱はげあたまの事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然たきざはりぜんたる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾かたづみたりし荒尾は思ふところありげに打頷うちうなづきて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はそのおもてを振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやにはかに速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰ひざくりだ」
佐「荒尾、あの葡萄酒ぶどうしゆを抜かんか、のどかわいた。これからが佳境にるのだからね」
甘「中銭なかせんがあるのはひどい」
佐「蒲田かまだ、君は好いたばこつてゐるぢやないか、一本頂戴ちようだい
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻てまはりの物を片附けやう」
佐「甘糟、※(「火+卒」、第3水準1-87-47)マッチを持つてゐるか」
甘「そら、おいでだ。持参いたしてをりまする仕合しあはせで」
 佐分利は居長高ゐたけだかになりて、
ちよつけてくれ」
 葡萄酒のくれなゐすすり、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利はおもむろことばを継ぐ、
所謂いはゆる一朶いちだ梨花海棠りかかいどうを圧してからに、娘の満枝は自由にされてしまつた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座はしきつて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気かたぎの親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿はげの方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父おとつさん、どうか承知して下さいは、親父ますます意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相あいそつかして、ただ一人の娘を阿父さん彼自身より十歳とをばかりも老漢おやぢの高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿のちようを得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家さとの方へみつぐと思の外、きめものの外は塵葉ちりつぱ一本らん。これが又禿の御意ぎよいに入つたところで、女めつらつ高利アイス塩梅あんばいを見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代しんだい我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭かねの方が大事、といふ不敵な了簡りようけんが出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌いまはしげにつぶやきて、やや不快の色をうごかせり。
「そこで、敏捷びんしような女には違無い、自然と高利アイスの呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処どこへでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年あたりから禿は中気が出ていまだに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つでさかんに商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁うすべり一板いちまい敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――しかし事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女がひとりで腕をふるつて益す盛につてゐる。これすなはち『美人びじクリイム』の名ある所以ゆゑんさ。
 年紀としかい、二十五だと聞いたが、さう、やうやう二三とよりは見えんね。あれで可愛かはゆい細い声をして物柔ものやはらかに、口数くちかずすくなくつて巧いことをいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替かきかへだの、手形に願ふのと、急所を手際てぎは婉曲えんきよくに巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心をなやすかと思ふばかりだ。僕も三度ほどなやされたが、柔能く剛を制すで、高利貸アイスには美人が妙! 那彼あいつに一国を預ければすなはちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色けしきにて、
「では、今はその禿顱はげ中風ちゆうふうたきりなのだね、一昨年をととしから? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、さかんな女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利はかしらおさへて後様うしろさまもたれつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑にちて、今はしも連帯一判、取交とりま五口いつくちの債務六百四十何円の呵責かしやくあぶらとらるる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、に又二百円、無疵むきずなるは風早と荒尾とのみ。
 ※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をばゑましげに傍聴したりし横浜商人体しようにんていの乗客は、さいはひ無聊ぶりようを慰められしを謝すらんやうに、ねんごろ一揖いつゆうしてここに下車せり。しばらく話の絶えけるひまに荒尾は何をか打案ずるていにて、その目をむなしく見据ゑつつ漫語そぞろごとのやうに言出いひいでたり。
「その後たれはざまの事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声しわかれごゑ問反とひかへせり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸アイス才取さいとりとか、手代てだいとかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸アイスの才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つとはんやうに荒尾はうなづきて、なほも思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級さきだちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸アイスと云ふのはどうもうそぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息ためいきもらせり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然ぴん外眥めじりあがつた所が目標めじるしさ」
蒲「さうしてあたま癖毛くせつけの具合がな、愛嬌あいきようが有つたぢやないか。デスクの上に頬杖ほほづゑいて、かう下向になつて何時いつでも真面目まじめに講義を聴いてゐたところは、何処どこかアルフレッド大王にてゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君はいつも妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃いつぱいを献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終おもひ出すだらうな」
「僕は実際死んだおととよりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼はかしられぬ。大島紬は受けたるさかづきりながら、更に佐分利が持てる猪口ちよくを借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番ひとつ間の健康を祝さう」
 荒尾の喜はあふるるばかりなりき。
「おお、それはかたじけない」
 盈々なみなみと酒をれたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるるとひとしかつ相撃あひうてば、くれなゐしづくの漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息ひといきに飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝をうごかして、
「蒲田は如才ないね。つらまづいがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああいはれて見るとたれでもちよつと憎くないからね」
甘「さすがは交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 ことばを改めて荒尾は言出いひいだせり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場ステエションで間を見たよ。間に違無いのじや」
 ただいま陰ながらその健康をいのりし蒲田は拍子を抜して彼のおもてながめたり。
「ふう、それは不思議。むかふは気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口いりくちの所でちよつと顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子ソオフワアを起つと、もう見えなくなつた。それから有間しばらくして又偶然ふつと見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場プラットフォームへ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、そばの柱に僕を見て黒い帽をつとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! とあるひは急に、或はゆるく叫ぶ声の窓の外面そとも飛過とびすぐるとともに、響は雑然として起り、ほとばしづる、群集くんじゆ玩具箱おもちやばこかへしたる如く、場内の彼方かなたよりとどろベルはこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。

昨七日さくなぬかイ便の葉書にて(飯田町いいだまち局消印)美人クリイムの語にフエアクリイムあるひはベルクリイムの傍訓有度ぼうくんありたくとのげんおくられし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、いささか弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語はなまじひに理詰ならむよりは、出まかせの可笑をかしき響あらむこそかめれとバイスクリイムとも思着おもひつきしなり。こころは美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗くだくだしさをきらひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者きようごうしや思僻おもひひがめては添へたるなり。いやしげなるびじクリイムの響のうちには嘲弄とうろうこころこもらむとてなり。なほ高諭こうゆふ(三〇・九・八附読売新聞より)

第二章


 さくの柱のもとに在りて帽をりたりしは、荒尾がことばの如く、四年の生死しようし詳悉つまびらかにせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前にみづからの影をくらまし、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略あらましを伺ふことを怠らざりき、こたびその参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所よそながら暇乞いとまごひもし、二つには栄誉のにしきを飾れる姿をも見んと思ひて、群集くんじゆに紛れてここにはきたりしなりけり。
 なにゆゑに間は四年の音信おとづれを絶ち、又何の故にさしもおもひに忘れざる旧友と相見てべつを為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問はおのづから解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしはひとり間貫一のみにあらず、そこもとにつどひし老若貴賤ろうにやくきせん男女なんによは皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、きづかふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的はいつなり。数分時の混雑の後車のづるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如くひさしう立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼のやうやきびすめぐらせし時には、推重おしかさなるまでに柵際さくぎはつどひしひとほとんど散果てて、駅夫の三四人がはうきを執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含さしぐまるる涙を払ひて、独りおくれたるを驚きけん、にはかに急ぎて、蓬莱橋口ほうらいばしぐちよりでんと、あだかも石段際に寄るところを、たれとも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 あわてて彼の見向く途端に、
ちよつと」と戸口より半身を示して、黄金きんの腕環の気爽けざやか耀かがやける手なる絹ハンカチイフに唇辺くちもとおほいて束髪の婦人の小腰をかがむるに会へり。えんなるおもてに得もはれず愛らしきゑみをさへ浮べたり。
「や、赤樫あかがしさん!」
 婦人のゑみもて迎ふるには似ず、貫一は冷然としてまゆだに動かさず。
い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、ちよつ此方こちへ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々いて入るに、長椅子ソオフワアかくれば、止む無くそのそばに座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅おぐるめの件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹くろちよろけんの帯の間をさぐりて金側時計を取出とりいだし、手早く収めつつ、
貴方あなたどうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方どちらへかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬しほぜ消金けしきん口金くちがね打ちたる手鞄てかばんを取直して、婦人はやをら起上たちあがりつ。迷惑は貫一がおもてあらはれたり。
何方どちらへ?」
何方どちらでも、私には解りませんですから貴方あなたのおよろしい所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有おつしやらずに、私は何方でもよろしいのでございます」
 荒布革あらめがはの横長なる手鞄てかばんを膝の上に掻抱かきいだきつつ貫一の思案せるは、その宜きかたを択ぶにあらで、ともに行くをば躊躇ちゆうちよせるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭であひがしらに、入来いりくる者ありて、その足尖つまさきひしげよと踏付けられぬ。驚き見れば長高たけたかき老紳士の目尻もあやしく、満枝の色香いろかに惑ひて、これは失敬、意外の麁相そそうをせるなりけり。彼は猶懲なほこりずまにこの目覚めざまし美形びけいの同伴をさへしばら目送もくそうせり。
 二人は停車場ステエションを出でて、指すかたも無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減にめやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるをさとれども、つとめて吾意わがいに従はしめんとおもへば、さばかりの無遇ぶあしらひをも甘んじて、
「それでは、貴方、※(「魚+麗」、第4水準2-93-94)うなぎあがりますか」
「鰻※(「魚+麗」、第4水準2-93-94)? 遣りますよ」
鶏肉とりと何方がよろしうございます」
「何方でも」
「余り御挨拶ごあいさつですね」
何為なぜですか」
 この時貫一は始めて満枝のおもてまなこを移せり。ももこびを含みて※(「目+是」、第4水準2-82-10)みむかへし彼のまなじりは、いまだ言はずして既にその言はんとせるなかばをば語尽かたりつくしたるべし。彼の為人ひととなりを知りて畜生とうとめる貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とをあらはして片笑かたゑみつつ、
「まあ、何為なぜでも宜うございますから、それでは鶏肉とりに致しませうか」
「それもいでせう」
 三十間堀さんじつけんぼりに出でて、二町ばかり来たるかどを西に折れて、有る露地口に清らなる門構かどがまへして、光沢消硝子つやけしガラス軒燈籠のきとうろうに鳥としるしたるかたに、人目にはさぞわけあるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬあたりに六畳の隠座敷の板道伝わたりづたひに離れたる一間に案内されしもうべなり。
 おそれたるにもあらず、こうじたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色けしきにて貫一のかたちさへ可慎つつましげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸おもひかけざる為体ていたらくを、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早いちはやく満枝が好きに計ひて、少頃しばしことば無き二人が中に置れたる莨盆たばこぼんは子細らしう一※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)ちゆう百和香ひやつかこうくゆらせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰おつしやらずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
うそ有仰おつしやいまし」
 かくても貫一はひざくづさで、巻莨入まきたばこいれ取出とりいだせしが、生憎あやにく一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝はさきんじて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷あさえぞ御主殿持ごしゆでんもちとともにすすむる筒のはしより焼金やききんの吸口はほのか耀かがやけり。歯は黄金きん、帯留は黄金きん、指環は黄金きん、腕環は黄金きん、時計は黄金きん、今又煙管きせる黄金きんにあらずや。黄金きんなるかなきんきん! 知るし、その心もきん! と貫一はひと可笑をかしさにへざりき。
「いや、私は日本莨は一向かんので」
 言ひもをはらぬ顔を満枝はじつて、
してきたないのでは御坐いませんけれど、つい心着こころつきませんでした」
 懐紙ふところがみいだしてわざとらしくその吸口を捩拭ねぢぬぐへば、貫一もすこしあわてて、
してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をおきなさるなら、もう少し物覚ものおぼえを善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵わにぶちさんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
瓢箪ひようたんのやうな恰好かつこうのお煙管で、さうして羅宇らうもとちよつと紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口はとみふさがざりき。満枝は仇無あどなげに口をおほひて笑へり。この罰として貫一はただちに三服の吸付莨をひられぬ。
 とかくする盃盤はいばんつらねられたれど、満枝も貫一も三ばいを過し得ぬ下戸げこなり。女は清めし猪口ちよくいだして、
「貴方、お一盞ひとつ
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒ビールに致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他にすすめて酌せんとこそあるべきに、はなはだしい哉、彼の手をつかねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞ひとつお受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞ひとつを受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅おぐるめの件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼はたちままゆあつめて、
「いやそんなに」
「それでは私がいただきませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件のほかに未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げにくい事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様はばかりさまですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふつもりなのでございますもの」
 そのこびある目のほとりやうやく花桜の色に染みて、心楽しげにやや身をゆるやかに取成したる風情ふぜいは、にほひなどこぼれぬべく、熱しとて紺の絹精縷きぬセル被風ひふを脱げば、羽織は無くて、粲然ぱつとしたる紋御召のあはせ黒樗文絹くろちよろけん全帯まるおび華麗はなやかべにの入りたる友禅の帯揚おびあげして、びんおくれのかか耳際みみぎは掻上かきあぐる左の手首には、早蕨さわらび二筋ふたすぢ寄せてちようの宿れるかたしたる例の腕環のさはやかきらめわたりぬ。常に可忌いまはしと思へる物をかく明々地あからさまに見せつけられたる貫一は、得堪えたふまじくにがりたる眉状まゆつきしてひそかに目を※(「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93)そらしつ。彼は女の貴族的によそほへるに反して、黒紬くろつむぎの紋付の羽織に藍千筋あゐせんすぢ秩父銘撰ちちぶめいせんの袷着て、白縮緬しろちりめん兵児帯へこおびあたらしからず。
 彼をれりし者は定めて見咎みとがむべし、彼の面影おもかげすくなからず変りぬ。愛らしかりしところは皆せて、四年よとせに余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、おのづから暗き陰を成してそのおもておほへり。たゆむとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色がんしよくの表に動けども、かつて宮を見しやうの優き光は再びそのまなこに輝かずなりぬ。見ることのひややかに、言ふことのつつしめるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為にるるをはばかれば、みづからもまたいやしくも親みを求めざるほどに、同業者はたれも誰も偏人として彼をとほざけぬ。いづくんぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかをあやしむなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じてさかづきを重ぬるてい打目戍うちまもれり。
「もう一盞ひとつ戴きませうか」
 ゑみただふるまなじり微醺びくんに彩られて、更に別様のこびを加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
貴方あなたが止せと仰有おつしやるなら私は止します」
あへて止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌てじやくしてそのなかばを傾けしが、見る見る頬の麗くくれなゐになれるを、彼は手もておほひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざるまねして莨をくゆらしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝はあざけらむが如く微笑ほほゑみて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気にへては困りますの。しかし、御酒ごしゆの上で申すのではございませんから、どうぞそのおつもりで、よろしうございますか」
撞着どうちやくしてゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰おつしやらずに、たかが女の申すことでございますから」
 こは事難ことむづかしうなりぬべし。かなはぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手をこまぬきつつ俯目ふしめになりて、つとめてかかはらざらんやうに持成もてなすを、満枝は擦寄すりよりて、
「これお一盞ひとつで後はしてお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一はことばいださでその猪口ちよくを受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
やすい願ですな」と、あはやでんとせしくちびるを結びて、貫一はわづかに苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方にだお長くゐらつしやるおつもりなのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
勿論もちろんです」
「さうして、まづ何頃いつごろ彼方あちらと別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝はたちまち声ををさめて、物思はしげに差俯さしうつむき、莨盆のふちをばもてあそべるやうに煙管きせるもてきざみを打ちてゐたり。折しも電燈の光のにはかくらむに驚きて顔をあぐれば、又もとの如く一間ひとまあかるうなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫なほしばし打案じたりしが、
「こんな事を申上げてははなはだ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方あちらにゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方がよろしいでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸をこがましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一ははしひかへて女の顔をたり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠くちごもりたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫あかがしに居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
全然さつぱり解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨うらめしげに満枝はことばを絶ちて、横膝よこひざに莨をひねりゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶めしつぎを引寄せんとするを、はたとおさへて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様はばかりさまです」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀ちやわんをそれに伏せて、彼方あなた壁際かべぎは推遣おしやりたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くてかなはんですからゆるして下さい。腹が空いてゐるのですから」
「おひもじいところを御飯を上げませんでは、さぞおつらうございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方こちらで思つてゐることがまる先方さきへ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりかはるかに辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰おつしやることの主意がく解らんのですもの」
何故なぜ了解わかりになりませんの」
 責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまたなじるが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処あすこを出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹がいて来ました」
「それとも貴方ほかにお約束でも遊ばした御方がおあんなさるのでございますか」
 彼つひ鋒鋩ほうぼうあらはきたれるよと思へば、貫一はなほ解せざるていして、
「妙な事を聞きますね」
 と苦笑せしのみにて続くことばもあらざるに、満枝は図をはづされて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がおあんなさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
 貫一も今はきつと胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解わかりになりまして※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 嬉しと心を言へらんやうの気色けしきにて、彼の猪口ちよくあませし酒を一息ひといき飲乾のみほして、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
 はずみに乗せられて貫一は思はずうくるとひとし盈々なみなみそそがれて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜よろこび
「その盃は清めてございませんよ」
 一々底意ありて忽諸ゆるがせにすべからざる女の言を、彼はいと可煩わづらはしくて持余もてあませるなり。
「お了解わかりになりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
 わづかにかく言ひ放ちて貫一はおごそかに沈黙しつ。満枝もさすがにゑひさまして、彼の気色けしきうかがひたりしに、例の言寡ことばすくななる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻はづかしい事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
 貫一はゆるやかにうなづけり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々よくよくの事でございますから、それに対するだけの理由を有仰おつしやつて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
御尤ごもつともです。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対してつつまず自分の考量かんがへをお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、ひととは大きに考量が違つてをります。
 第一、私は一生さいといふ者はして持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問をめて、この商売を始めたのは、放蕩ほうとう遣損やりそこなつたのでもなければ、あへ食窮くひつめた訳でも有りませんので。書生が可厭いやさに商売を遣らうと云ふのなら、未だほか幾多いくらも好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日はくじつとうすとはうか、病人の喉口のどくちすとはうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などをえらむものですか」
 聴居る満枝はますまゑひを冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日こんにち始めて知つたのではない、知つて身をおとしたのは、私は当時敵手さきを殺して自分も死にたかつたくらゐ無念きはまる失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人をたのみにしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
 火影ひかげを避けんとしたる彼の目の中ににはか耀かがやけるは、なほあらたなる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少たのみすくない世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、もとはと云へば、金銭かねからです。仮初かりそめにも一匹いつぴきの男子たる者が、金銭かねの為に見易みかへられたかと思へば、その無念といふものは、私は……一生忘れられんです。
 軽薄でなければいつはり、詐でなければ利慾、愛相あいその尽きた世の中です。それほど可厭いやな世の中なら、何為なぜ一思ひとおもひに死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念がさはりになつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐ふくしゆうなどは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけはきつはらさなければかん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、まるで発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻のはなはだしい、ほとんど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情をあらしてゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭かねゆゑに売られもすれば、はづかしめられもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれをたのしみに義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何ののぞみも持たんのです。又考へて見ると、なまじひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方がはるたのみになりますよ。頼にならんのは人の心です!
 まづかう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰おつしやる資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
 彼は仰ぎて高笑たかわらひしつつも、そのおもては痛く激したり。
 満枝は、彼のことばの決していつはりならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、にさるべき所見かんがへを懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるがゆゑに、心狭くもこの面白き世に偏屈のとびらを閉ぢて、いつはりと軽薄と利欲との外なる楽あるをさとらざるならん。やがて我そを教へんと、満枝はたやすく望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中がきらひで、すべての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別してれたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解わかりになりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝はしば惘然ぼうぜんとしてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎うちしをれつつ満枝はめしを盛りていだせり。
「これは恐入ります」
 彼はくらふことかたはらに人無きごとし。満枝のおもて薄紅うすくれなゐになほゑひは有りながら、へるていも無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目さんばいめへつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯をふくみてにはかこたふるあたはず、唯目をげて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時しばらく胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶ことわりを受けては、私実に面目めんぼく無くて……あんまくやしうございますわ」
 慌忙あわただしくハンカチイフを取りて、片手に恨泣うらみなきの目元をおほへり。
「面目無くて私、この座がたたれません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々ひややかに見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私はすべての人間が嫌なのですから、どうぞあしからず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅おぐるめの件に就いてのお話は?」
 泣赤なきあかめたる目をぬぐひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでもよろしうございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召おぼしめして下さい。で、お可厭いやならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日いつまでもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつとやさしことばをお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰おつしやりやうが有りさうなものではございませんか」
「御志はして忘れません。これなら宜いでせう」
 満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然ひらりと貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠ちからこもりて、その太股ふとももしたたつめれば、貫一は不意の痛にくつがへらんとするを支へつつ横様よこさまに振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴してをんなを呼ぶなりけり。

第三章


 赤坂氷川あかさかひかわほとりに写真の御前ごぜんと言へば知らぬ者無く、にこの殿のづるに写真機械を車に積みてしたがへざることあらざれば、おのづから人目を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれず、かかる異名いみようは呼るるにぞありける。子細しさいを明めずしては、「将棊しようぎの殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべきうつはいだきながら、五年を独逸ドイツに薫染せし学者風を喜び、世事をなげうちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量をほしいままにすれども、なほとしの入るものを計るにまさに出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春たづみよしはるその人なり。
 氷川なる邸内には、唐破風造からはふづくりの昔をうつせるたちと相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造れんがづくりあやしきまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄すきにて、独逸に名ある古城の面影おもかげしのびてここにかたどれるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とにてて、万足よろづたらざる無き閑日月かんじつげつをば、書にふけり、画にたのしみ、彫刻を愛し、音楽にうそぶき、近き頃よりはもつぱら写真に遊びて、よはひ三十四に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およべどもがんとしていまめとらず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然ひようぜんとして、絶えて貴族的容儀を修めざれど、おのづからなる七万石の品格は、面白おもてしろ眉秀まゆひいでて、鼻高く、眼爽まなこさはやかに、かたちきよらあがれるは、こうとして玉樹ぎよくじゆの風前に臨めるともふべくや、御代々ごだいだい御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁のむなしからざること、ちようとらへんとする蜘蛛くもの糸よりしげしといへども、反顧かへりみだにずして、例の飄然忍びてはゑひの紛れの逸早いつはや風流みやびに慰み、内には無妻主義を主張して、人のいさめなどふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛あひあいして、末の契も堅く、月下の小舟をぶねに比翼のかひあやつり、スプレイの流をゆびさして、この水のつひるる日はあらんとも、我が恋の※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほの消ゆる時あらせじ、と互の誓詞せいしいつはりはあらざりけるを、帰りて母君にふことありしに、いといたう驚かれて、こは由々ゆゆしき家の大事ぞや。夷狄いてきは□□[#「□□」は2倍の長方形]よりもいやしむべきに、かしこくも我が田鶴見の家をばなでう禽獣きんじゆうおりと為すべき。あな、可疎うとましの吾子あこが心やと、涙と共に掻口説かきくどきて、かなしび歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無せんなくて、心苦う思ひつつも、なほ行末をこそ頼めと文の便たより度々たびたびに慰めて、彼方あなたも在るにあられぬ三年みとせの月日を、きは死ななんと味気あぢきなく過せしに、一昨年をととしの秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、ながらへかねし身の苦悩くるしみを、御神みかみめぐみに助けられて、導かれし天国のようとしてたづぬべからざるを、いとど可懐なつかしの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念ますます深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐ただおもひき人に寄せて、形見こそあだならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女かのをんなが十九の春の色をねんごろ手写しゆしやして、かつおくりしものなりけり。
 殿はこの失望の極放肆ほうし遊惰のうちいささおもひり、一具の写真機に千金をなげうちて、これに嬉戯すること少児しようにの如く、身をも家をもほかにして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛くろやなぎもとえありて、その人ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿をいただける田鶴見家も、さいはひ破綻はたんを生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端としてひそかに高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至ないし一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるをて、高利貸の大口を引受くるはいのここに便たよらんとせざるはあらず。されどもさかしき畔柳は事の密なるを策の上としてみだりに利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行ただゆきの一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺いづれにか金穴きんけつあるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵わにぶちの名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯うしろだてありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄はふにも足らぬ足軽頭あしがるがしらに過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩ののちでて小役人を勤め、転じて商社につかへ、一時あるひは地所家屋の売買を周旋し、万年青おもとを手掛け、米屋町こめやまち出入しゆつにゆうし、いづれにしても世渡よわたりの茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、つひには警部にまで取立てられしを、中ごろにしてきんこれけんと感ずるところありて、奉職中蓄得たくはへえたりし三百余円を元に高利貸を始め、世間のいまだこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、あるは欺き、或はおどし、或はすかし、或はしひたげ、わづかに法網をくぐり得てからくも繩附なはつきたらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せしころ、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、とらに翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額はほとんど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手よりとりいるる利のなかばは、これを御殿ごてんの金庫に致し、半はこれをふところにして、鰐淵もこれにりて利し、きんいつにしてその利を三にせる家令が六臂ろつぴはたらきは、主公が不生産的なるを補ひてなほ余ありともふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢すてばちの身を寄せて、牛頭馬頭ごずめずの手代と頼まれ、五番町なるその家に四年よとせ今日こんにちまで寄寓きぐうせるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分にあつかはれ、手代となり、顧問となりて、あるじの重宝大方ならざれば、四年よとせひさしきにわたれども主は彼をいだすことを喜ばず、彼もまた家をかまふる必要無ければ、あへて留るをいとふにもあらで、手代を勤むるかたはら若干そくばくの我が小額をも運転して、おのづから営む便たよりもあれば、今なまじひにここを出でて痩臂やせひぢを張らんよりは、しかるべき時節の到来を待つにはかじと分別せるなり。彼はただに手代としてく働き、顧問として能くおもんぱかるのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼のよはひを以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、おのれてらはず、ひとおとしめず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有ありがたき若者なり、と鰐淵はむし心陰こころひそかに彼をおそれたり。
 あるじは彼の為人ひととなりを知りしのち如此かくのごとき人の如何いかにして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一はおのれの履歴をいつはりて、如何なる失望の極身をこれにおとせしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後にあらはれにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿せんさくもせられで、やがては、暖簾のれんを分けてきつとしたる後見うしろみは為てくれんと、鰐淵は常におろそかならず彼が身をおもひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるおみねは四十六なり。夫は心たけく、人のうれひを見ること、犬のくさめの如く、唯貪ただむさぼりて※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)くを知らざるに引易へて、気立きだて優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心はてるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義りちぎに、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更なほさらにあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いとさちありける貫一が身の上かな。彼は世を恨むるあまりその執念のるままに、人の生ける肉をくらひ、以つていささか逆境にさらされたりし枯膓こちよういやさんが為に、三悪道に捨身の大願を発起ほつきせる心中には、百の呵責かしやくも、千の苦艱くげんもとよりしたるを、なかなかかかるゆたかなる信用と、かかるあたたか憐愍れんみんとをかうむらんは、羝羊ていようを得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なるかな、彼はこの喜を如何いかに喜びけるか。今は呵責をも苦艱くげんをもあへにくまざるべき覚悟の貫一は、この信用のつひには慾の為にがれ、この憐愍れんみんも利の為にをしまるる時の目前なるべきを固く信じたり。

(三)の二


 毒は毒を以て制せらる。鰐淵わにぶちが債務者中に高利借の名にしおふぼう党の有志家某あり。彼は三年来生殺なまごろしの関係にて、元利五百余円のせめを負ひながら、奸智かんちろうし、雄弁をふるひ、大胆不敵にかまへて出没自在のはかりごといだし、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれにかかりては、逆捩さかねぢひて血反吐ちへどはかされし者すくなからざるを、鰐淵はいよいよ憎しと思へど、彼に対しては銕桿かなてこも折れぬべきに持余しつるを、かなはぬまでも棄措すておくは口惜くちをしければ、せめては令見みせしめの為にも折々くぎを刺して、再び那奴しやつはがいべしめざらんにかずと、昨日きのふは貫一のぬからず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄ほんろうせられけるを、劣らじとののしりて、前後四時間ばかりその座を起ちもらでさかんに言争ひしが、病者に等き青二才とあなどりし貫一の、陰忍しんねり強く立向ひて屈する気色けしきあらざるより、有合ふ仕込杖しこみつゑを抜放し、おのれかへらずば生けては還さじと、二尺あまりの白刃をあやふく突付けておびやかせしを、その鼻頭はなさきあしらひていよいよ動かざりける折柄をりから、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来かへりきにけるが、これが為に彼の感じやすき神経ははなはだしく激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地のうたすぐれねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠ひきこもれるなりけり。かかることありし翌日はおびただしく脳のつかるるとともに、心乱れ動きて、そのいかりしのちを憤り、悲みし後を悲まざればまず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。ゆゑに彼は折に触れつつそのたいの弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりはやうやく慣れてけれど、彼の心はしてこの悪をすに慣れざりき。唯能ただよく忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来じらい終天の失望と恨との一日いちじつも忘るるあたはざるが為に、その苦悶くもんの余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外のふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、あるは人の加ふる侮辱にへずして、神経の過度に亢奮こうふんせらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙びようを得ることあり。
 ほがらかに秋の気澄みて、空の色、雲の布置ただずまひにほはしう、金色きんしよくの日影は豊に快晴を飾れる南受みなみうけの縁障子をすかして、さはやかなる肌寒はださむとこ長高たけたかせたる貫一はよこたはれり。あをにごれるほほの肉よ、※(「骨+堯」、第4水準2-93-14)さらばへる横顔の輪廓りんかくよ、曇の懸れるまゆの下に物思はしき眼色めざしの凝りて動かざりしが、やがてくづるるやうに頬杖ほほづゑを倒して、枕嚢くくりまくらに重きかしらを落すとともに寝返りつつ掻巻かいまき引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣なげやりて仰向になりぬ。折しもたれならん、階子はしご昇来のぼりくる音す。貫一は凝然として目をふたぎゐたり。紙門ふすまけて入来いりきたれるはあるじの妻なり。貫一のあわてて起上るを、そのままにと制して、机のかたはらに坐りつ。
「紅茶をれましたからお上んなさい。少しばかりくりでましたから」
 手籃てかごに入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭まくらもとに置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様ごちそうさまでございます」
「冷めない内にお上んなさい」
 彼は会釈して珈琲茶碗カフヒイちやわんを取上げしが、
旦那だんな何時いつ頃お出懸でかけになりました」
「今朝はいつもより早くね、氷川ひかわへ行くと云つて」
 言ふも可疎うとましげに聞えけれど、さして貫一はこころも留めず、
「はあ、畔柳くろやなぎさんですか」
「それがどうだか知れないの」
 お峯は苦笑にがわらひしつ。あきらかなる障子の日脚ひざしはそのおもて小皺こじわの読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、くしの歯通りて、一髪いつぱつを乱さず円髷まるわげに結ひて顔の色は赤きかたなれど、いと好くみがきてきよらなめらかなり。鼻のあたり薄痘痕うすいもありて、口を引窄ひきすぼむる癖あり。歯性悪ければとて常にくろめたるが、かかるをや烏羽玉ぬばたまともふべくほとん耀かがやくばかりにうるはし。茶柳条ちやじまのフラネルの単衣ひとへ朝寒あささむの羽織着たるが、御召縮緬ちりめんの染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
何為なぜですか」
 お峯は羽織のひもを解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかをためらへる風情ふぜいなるを、ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一はかごなる栗を取りてきゐたり。彼はしばらく打案ぜし後、
「あの赤樫あかがし別品べつぴんさんね、あの人は悪いうはさが有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物くひものに為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。さきの夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴あいつ男を引掛けなくても金銭かねにはこまらんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だからけない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭かねが有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方こつちへお貸しなさい」
「これは憚様はばかりさまです」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々まじまじと手をつかねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便たよりあるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるをえらみて、そのいただきよりナイフを加へつ。
ちよいと見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人かたじんだから可いけれど、本当にあんな者に係合かかりあひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれをると云ふのは評判ですよ。金窪かなくぼさん、鷲爪わしづめさん、それから芥原あくたはらさん、みんなその話をしてゐましたよ」
あるひはそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内うちの人もおんなじのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手はやうやく鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りてき始めけるが、心進まざらんやうにナイフのはこびいよい等閑なほざりなりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処ここきりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声はおのづからひそまりぬ。
「どうも私はこの間からをかしいわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内のひとがあの別品さんに係合かかりあひを付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑ゆすりわらひして、
「そんな馬鹿な事が、貴方あなた……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房にようぼの私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一はじつと思ひ入りて、
「旦那はお幾歳いくつでしたな」
「五十一、もうぢぢいですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの※(感嘆符二つ、1-8-75)
 息巻くお峯の前に彼はおもてして言はず、静に思廻おもひめぐらすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまでことばを継がざりしが、さておもむろに、
「それはもう男の働とか云ふのだから、めかけたのしみも可うございます。これが芸者だとか、囲者かこひものだとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫あかがしさんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! ただ代物しろものぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火ちんちんなら可いけれど、なかなか心火どころの洒落しやれ沙汰さたぢやありはしません。あんな者に係合かかりあつてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内のひともあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうもをかしいの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となくしやれてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下したておろ渾成づくめで、その奇麗事とつたら、いつにも氷川へ行くのにあんなに※(「靜のへん+見」、第3水準1-93-75)めかした事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
 貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒はがゆくて心いらつなるべし。
「はあ、事実とすればいよいよ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気りんきで言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手あひてが悪いからねえ」
 思ひ直せども貫一がには落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃いつごろからの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
しかし、にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私もとつくり言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処そこを突止めたいのだけれど、私のからだぢや戸外おもての様子が全然さつぱり解らないのですものね」
御尤ごもつとも
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝ておいででないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
 行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有るかな、紅茶と栗と、と貫一はそのあまりに安く売られたるがひと可笑をかしかりき。
「いえ、一向差支さしつかへございません。どういふ事ですか」
「さう? あんまりお気の毒ね」
 彼の赤き顔の色は耀かがやくばかりによろこびぬ。
「御遠慮無く有仰おつしやつて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
 お峯は彼が然諾ぜんだくさはやかなるにひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧はづかしく覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、し行つたのなら、何頃いつごろ行つて何頃帰つたか、なあに、とをここのつまではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
 彼は起ちて寝衣帯ねまきおびを解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今くるまを呼びにるから」
 かく言捨ててお峯はせはし階子はしご下行おりゆけり。
 あとに貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じわづらひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損なりそこなつて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
 と端無はしなく思ひ浮べてはそぞろひと打笑うちゑまれつ。

第四章


 貫一はただちくるまとばして氷川なる畔柳くろやなぎのもとにおもむけり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入しゆつにゆうすべく、やかたの側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣もくげがきに取廻して、昔形気むかしかたぎの内にゆかしげに造成つくりなしたる二階建なり。かまへ可慎つつましう目立たぬに引易ひきかへて、木口きぐち撰択せんたくの至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
 貫一も彼のあるじもこの家に公然の出入でいりはばかる身なれば、玄関わきなる格子口こうしぐちよりおとづるるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物はきものは在らず。はや帰りしか、ざりしか、あるひいまだ見えざるにや、とにもかくにもお峯がことばにも符号すれども、ただちにこれを以て疑をるべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたるあるじの妻の声して、しきりをんなの名を呼びたりしに、答へざりければやがて自らで来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへおいででした」
 まなこのみいと大くて、病勝やまひがち痩衰やせおとろへたる五体は燈心とうしみの如く、見るだに惨々いたいたしながら、声のあきらかにして張ある、何処いづこよりづるならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物とへるその人なり。年は五十路いそぢばかりにてかしら霜繁しもしげく夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風のうやうやしき礼をして、
「はい、今日こんにちは急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方こちら様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、おいではありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目にかかりたいと申してをりましたところ。唯今ただいま御殿へ出てをりますので、ちよつと呼びに遣りませうから、しばらくお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近はしちかう控ふれば、彼ははたなりしをんなを呼立てて、速々そくそくあるじかたへ走らせつ。莨盆たばこぼんいだし、番茶をいだせしのみにて、納戸なんどに入りける妻は再びきたらず。この間は貫一は如何いかにこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促いきせ還来かへりきにける気勢けはひせしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今ちよつと手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方あちらへお出なすつて。ぢき其処そこですよ。婢に案内を為せます。あのとよや!」
 暇乞いとまごひして戸口を出づれば、勝手元の垣のきは二十歳はたちかと見ゆる物馴顔ものなれがほの婢のてりしが、うしろさまに※(「刷のへん+又」、第4水準2-3-62)おびかひつくろひつつ道知辺みちしるべす。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫ざりを敷きたるこみちありて、出外ではづるれば子爵家の構内かまへうちにて、三棟みむね並べる塗籠ぬりごめ背後うしろに、きりの木高く植列うゑつらねたる下道したみちの清く掃いたるを行窮ゆきつむれば、板塀繞いたべいめぐらせる下屋造げやつくりの煙突よりせはしげなるけふり立昇りて、折しも御前籠ごぜんかご舁入かきいるるは通用門なり。貫一もこれをりて、余所よそながら過来すぎこくりやに、酒の、物煮る匂頻にほひしきりて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響ひしめきしたる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間ひとまに導かれぬ。

(四)の二


 畔柳元衛くろやなぎもとえの娘静緒しずおやかたの腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持とりもちに召れて、高髷たかわげ変裏かはりうらよそひを改め、お傍不去そばさらず麁略そりやくあらせじとかしづくなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子まはりばしごなかば昇行のぼりゆ後姿うしろすがたに、その客の如何いかに貴婦人なるかをうかがふべし。かつらならではと見ゆるまでに結做ゆひなしたる円髷まるわげの漆の如きに、珊瑚さんご六分玉ろくぶだま後挿うしろざしを点じたれば、更に白襟しろえり※(「艷のへん+盍」、第4水準2-88-94)れいえん物のたぐふべき無く、貴族鼠きぞくねずみ※(「糸+芻」、第4水準2-84-49)高縮緬しぼたかちりめん五紋いつつもんなる単衣ひとへきて、帯は海松みる色地に装束しようぞく切摸きれうつし色紙散しきしちらし七糸しちんを高く負ひたり。淡紅色ときいろ紋絽もんろ長襦袢ながじゆばんすそ上履うはぐつあゆみゆる匂零にほひこぼして、絹足袋きぬたびの雪に嫋々たわわなる山茶花さざんかの開く心地す。
 このうるはしかたちをば見返り勝に静緒は壁側かべぎはに寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼のうつむきてのぼれるに、くし蒔絵まきゑのいとく見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏みそこねて、すさまじき響の中にあなやたふれんとたり。さいはひ怪我けがは無かりけれど、彼はなかなかおのれの怪我などより貴客きかくおどろかせし狼藉ろうぜきをば、得も忍ばれず満面にぢて、
「どうも飛んだ麁相そそうを致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処どこもおいためなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚びつくり遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こたび薄氷はくひようおもひして一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
ちよつとお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒はあわて驚きて、
「あれ、恐入おそれいります」
うございますよ。さあ、じつとして」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずしてつひに貴婦人の手をわづらはせし彼の心は、あふるるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花のかをりあらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書じよししよ内訓ないくんに出でたりとてしばしば父に聴さるる「五綵服ごさいふくさかんにするも、以つて身のと為すに足らず、貞順道ていじゆんみちしたがへば、すなはち以つて婦徳を進むべし」の本文ほんもんかなひて、かくてこそ始めて色にほこらず、その徳にそむかずとも謂ふべきなれ。でたき人にもへるかなとしたたかに思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北にしきたの窓に寄り行きて、効々かひがひしく緑色のとばりを絞り硝子戸ガラスど繰揚くりあげて、
「どうぞ此方こちらへおいであそばしまして。ここが一番見晴みはらしよろしいのでございます」
「まあ、い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀もくせいにほひますね、お邸内やしきうちに在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽しゆうせいほがらかひろくして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色おももちしてたたずめり。窓を争ひて射入さしいる日影はななめにその姿を照して、襟留えりどめなる真珠はゆる如く輝きぬ。ちりをだにゆるさず澄みに澄みたる添景のうちに立てる彼の容華かほばせは清くあざやか見勝みまさりて、玉壺ぎよくこに白き花をしたらん風情ふぜいあり。静緒は女ながらも見惚みとれて、不束ふつつか眺入ながめいりつ。
 その目のさはやかにしてしたたるばかりなさけこもれる、そのまゆの思へるままにえがき成せる如き、その口元のつぼみながらに立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃きめこまやかに光をさへ帯びたる、色のとほるばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢つややかに、かしらも重げにつかねられたれど、髪際はへぎはすこしく打乱れたると、立てるかたちこそ風にもふまじく繊弱なよやかなれど、おもてやせの過ぎたる為に、おのづかうれはし底寂そこさびしきと、えりの細きが折れやしぬべく可傷いたはしきとなり。
 されどかくそろひて好き容量きりよういまだ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外ふみはづせし麁忽そこつははや忘れて、見据うる流盻ながしめはその物を奪はんとねらふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるるかたちありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人のかたはらには見劣せらるることおびただしかり。彼はおのれの間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひてまざりき。にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をかづべき。をんなの徳をさへかでこの嬋娟あでやかに生れ得て、しかもこの富めるにへる、天のめぐみと世のさちとをあはけて、残るかた無き果報のかくもいみじき人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者ふたつ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、そのさいはひは男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨ものうらやみの念強けれど、ねたしとは及び難くて、静緒は心におそるるなるべし。
 彼は貴婦人のかたちふけりて、その※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)もてなしにとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西フランスより持ち帰られし名器なるを、やうや取出とりいだしてすすめたり。形は一握いちあくの中に隠るるばかりなれど、く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色のぎよくもて造られ、わづか黄金きん細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、くを忘らるるまでにでられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽ながめつくされて、彼はこのグラスただならず精巧なるに驚けるさまなり。
那処あすこに遠くほん小楊枝こようじほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄あさぎに赤い柳条しまの模様まで昭然はつきり見えて、さうして旗竿はたさをさきとび宿とまつてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度たんと御座いませんさうで、招魂社しようこんしやのお祭の時などは、狼煙のろしの人形がく見えるのでございます。私はこれを見まするたびにさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞよろしうございませう。あんまり近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方あちこちの音が一所に成つて粉雑ごちやごちやになつてしまひませう」
 かく言ひてひとしく笑へり。静緒は客遇きやくあしらひに慣れたれば、可羞はづかしげに見えながらも話を求むるにはつたなからざりき。
「私は始めてこれを見せていただきました折、殿様に全然すつかりだまされましたのでございます。鼻のさきに見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたらすぐにその眼鏡を耳に推付おつつけて見ろ、早くさへ耳に推付おつつければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無よどみな語出かたりいづる静緒の顔を見入りつつ貴婦人はましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在おいででゐらつしやいましたが、皆為みんななすつて御覧遊ばしました」
 貴婦人はこらへかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水はやみと申す者はあんまり急ぎましたので、耳の此処ここひどちまして、血を出したのでございます」
 彼のよろこべるを見るより静緒は椅子を持来もちきたりてすすめし後、さて語り続くるやう。
「それでたれにも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目まじめなお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西フランスに居た時にはく聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇あくさげきを親くたらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白おもしろい方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がおすぐれ遊ばしませんので、おむづかしいお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、にはか空目遣そらめづかひして物の思はしげに、例の底寂そこさびし打湿うちしめりて見えぬ。
 やや有りて彼はしづかに立ち上りけるが、こたびは更にちかきを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方あなたこなたに差向くる筒の当所あてども無かりければ、たまた唐楪葉からゆづりはのいと近きが鏡面レンズて一面にはびこりぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、おのづから得忘れぬ面影にたるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手をしかと据ゑて、目をぬぐふ間もせはしく、なほ心を留めて望みけるに、枝葉えだはさへぎりてとかくに思ふままならず。やうやくその顔のあきらかに見ゆるひまを求めけるが、別に相対さしむかへる人ありて、髪は黒けれども真額まつかう瑩々てらてら禿げたるは、先に挨拶あいさつでし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃まゆこく、外眦まなじりあがれる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影にたりとはおろかや、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人のグラス持てる手は兢々わなわな打顫うちふるひぬ。
 行く水に数画かずかくよりもはかなき恋しさと可懐なつかしさとの朝夕に、なほ夜昼のわかちも無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年よとせの久きを、熱海の月はおぼろなりしかど、一期いちごの涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日いつかは必ずと念懸おもひかけつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心はつゆも昔にかはらねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何いかなるわづらひをやさまでは積みけん、よはひよりは面瘁おもやつれして、あやしうも物々しき分別顔ふんべつかほに老いにけるよ。幸薄さいはひうすく暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出わきいでて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔のあざやかに映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今はへ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるをさとりてしなしたりと思ひたれど、所為無せんなくハンカチイフをきびしく目にてたり。静緒の驚駭おどろきは謂ふばかり無く、
「あれ、如何いかが遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良わるいものですから、あんまり物をみつめてをると、どうかすると眩暈めまひがして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しおぐしをおさすり申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今にぢきなほります。はばかりですがおひやを一つ下さいましな」
 静緒は驀地ましぐらに行かんとす。
「あの、貴方あなた、誰にも有仰おつしやらずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私がうがひをすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、かしこまりました」
 彼の階子はしごを下り行くとひとしく貴婦人は再びグラスを取りて、葉越はごしの面影を望みしが、一目見るより漸含さしぐむ涙に曇らされて、たちま文色あいろも分かずなりぬ。彼は静無しどなく椅子に崩折くづをれて、ほしいままに泣乱したり。

(四)の三


 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継ただつぐともに田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交くみかはを、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等のいづれも日本写真会々員たるにれり。おのづから宮の除物のけものになりて二人の興にれるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらそのこころんとつとめけるより、子爵も好みてまじはるべき人とも思はざれど、勢ひうとんがたくして、今は会員中善くれるもののさいたるなり。爾来じらい富山はますます傾慕してかず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定かんていを乞ふを名として、さき芝西久保しばにしのくぼなる居宅に請じておろそかならずもてなす事ありければ、そのかへしとて今日は夫婦を招待しようだいせるなり。
 会員等は富山がしきりに子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為かれためにするところあらんなど言ひていやしみ合へりけれど、その実あへて為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山がまじはるところは、その地位において、その名声に於て、その家柄に於て、あるひはその資産に於て、いづれの一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。に彼は美き友をてるなり。さりとて彼はいまかつてその友を利用せし事などあらざれば、こたびもあながちに有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かくつとめてまじはりは求むるならん。ゆゑに彼はその名簿の中に一箇いつかうれひおなじうすべき友をだに見出みいださざるを知れり。そもそも友とはたのしみを共にせんが為の友にして、し憂を同うせんとには、別に金銭マネイありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶはもとよりこの理に外ならず、まことに彼の択べる友は皆美けれども、ことごとくこれ酒肉の兄弟けいていたるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるもしかりとすの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を※(「目+毛」、第3水準1-88-78)かすめて、いやしみてもなほ余ある高利貸の手代に片思の涙をそそぐにあらずや。
 宮はかたはらに人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏かきくれて、熱海の浜に打俯うちふしたりし悲歎なげきの足らざるをここにがんとすなるべし。階下したよりほのかに足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざとかしらを支へつつしつ中央まなかなる卓子テエブル周囲めぐりを歩みゐたり。やがて静緒の持来もちきたりし水にくちそそぎ、懐中薬かいちゆうくすりなど服して後、心地をさまりぬとて又窓にりて外方とのがたを眺めたりしが、
「ちよいと、那処あすこに、それ、男の方の話をしておいでの所も御殿の続きなのですか」
何方どちらでございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内やしきうちでございます。これからぢきに見えまする、あの、倉の左手に高いもみの木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下からずつとお宅の方へかれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。ではちつとお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠にきたなうございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又葉越はごしの面影をうかがへり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処あすこにお父様とつさまとお話をしてゐらつしやるのは何地どちらの方ですか」
 彼の親達は常に出入でいりせる鰐淵わにぶちの高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りをつぐるなり。
あれは番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買うりかひを致してをります者の手代で、はざまとか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語ひとりごちて、そのたがへるをいぶかるやうにもてなしつつ又其方そなた打目戍うちまもれり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語にりて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何いかにとも逢ふべき便たよりはあらんと、獲難えがたき宝を獲たるにもまされる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日いつをも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇をあだに、余所よそながら見て別れんは本意無ほいなからずや。し彼のまなこにらまれんとも、互のおもてを合せて、ことばかはさずともせめては相見て相知らばやと、四年よとせを恋にゑたる彼の心はいらるる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣きづかへるは、事のあやふきに過ぎたるなり。附添さへあるまらうどの身にして、いやしきものにあつかはるる手代風情ふぜいと、しかもその邸内やしきうちこみちに相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦はそも幾許いかばかり恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、このおもて唾吐つばはかるるもいとはじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬あふせは今日の一日ひとひに限らぬものを、事のやぶれを目に見て愚にはやまるべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべきをりならず、つらくとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒をすかして、邸内やしきうちを一周せんと、西洋館のうしろより通用門のわきに出でて、外塀際そとべいぎはなる礫道ざりみちを行けば、静緒はななめに見ゆる父が詰所の軒端のきばして、
那処あすこが唯今の客の参つてをります所でございます」
 唐楪葉からゆづりはは高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴きなけり。宮が胸はあやしうつとふたがりぬ。
 たかどのを下りてここに来たるは僅少わづかひまなれば、よもかの人はいまだ帰らざるべし、若しここに出できたらば如何いかにすべきなど、さすがに可恐おそろしきやうにも覚えて、あゆみは運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳にはらで、さて行くほどに裏門のかたはらに到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目をあぐれども何処いづこを眺むるにもあらず、うつむき勝に物思はしき風情ふぜいなるを、静緒は怪くも気遣きづかはしくて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、だ何だか胸が少し悪いので」
「それはおよろしうございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
うちの中よりは戸外おもての方が未だ可いので、もうと歩いてゐる中にはをさまりますよ。ああ、此方こちらがお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿もくげさかりですこと。白ばかりも淡白さつぱりしていぢやありませんか」
 畔柳の住居すまひを限として、それよりさきは道あれども、まらうどの足をるべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣まだらがき此方こなたに、かしの実のおびただしこぼれて、片側かたわきに下水を流せる細路ほそみちを鶏の遊び、犬のねむれるなど見るもいぶせきに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼おそれたちまちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来いできたるに会はば、のがれんやうはあらで明々地あからさまおもてを合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何いかにせん。仮令たとひ此方こなたにては知らぬ顔してあるべきも、いかでかの人の見付けて驚かざらん。もとより恨を負へる我が身なれば、ことばなど懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭おどろきは如何ならん。あだへるその憤懣いきどほりは如何ならん。必ずかの人のすさまじう激せるを見ば、静緒は幾許いかばかり我を怪むらん。かく思ひ浮ぶるとひとしく身内は熱してつめたき汗をいだし、足は地に吸るるかとばかりすくみて、宮はこれを想ふにだにへざるなりけり。脇道わきみちもあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、る方も無く惑へる宮が面色おももちやすからぬを見尤みとがめて、静緒はひそかに目をそばめたり。彼はいとどその目をおそるるなるべし。今は心もそぞろに足をはやむれば、土蔵のかども間近になりて其処そこをだに無事に過ぎなば、としきりに急がるる折しも、人の影はとつとしてその角よりあらはれつ。宮はめくるめきぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前はきやうに言譌いひこしらへ、さて篤と実否をただせし上にてひそかんやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽をやや目深まぶか引側ひきそばめ、通学にならされし疾足はやあしを駆りて、塗籠ぬりこめの角よりななめに桐の並木のあひを出でて、礫道ざりみちの端を歩みきたれり。
 四辺あたり往来ゆききのあるにあらねば、二人の姿はたちまち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとはく知られけれど、顔打背かほうちそむけたる貴婦人のまばゆく着飾りたるは、子爵家の客なるべしとわづかに察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりにちかづけば、貫一は静緒に向ひて慇懃いんぎんに礼するを、宮はかたはらあたふ限は身をすぼめてひそか流盻ながしめを凝したり。そのおもての色は惨として夕顔の花に宵月のうつろへる如く、そのひややかなるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。あし打顫うちふるひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべくとどろくを、さとられじとすればなほ打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目にむばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとするきはに、ふと目鞘めざやの走りて、館のまらうどなる貴婦人を一べつせり。端無はしなくも相互たがひおもては合へり。宮なるよ! 姦婦かんぷなるよ! 銅臭の肉蒲団にくぶとんなるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたとめて動かざるまなこには見る見る涙をたたへて、唯一攫ひとつかみにもせまほしく肉のをどるを推怺おしこらへつつ、ひそか歯咬はがみをなしたり。可懐なつかしさと可恐おそろしさと可耻はづかしさとを取集めたる宮が胸の内は何にたとへんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付いだきつきても思ふままにさいなまれんをと、心のみはあこがれながら身を如何いかにとも為難しがたければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思をむるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾あしばやに過行けり。宮は附人つきひとに面をそむけて、くちびるみつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事ともわきまへねど、すいすべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、まらうどの顔色のさしも常ならず変りて可悩なやましげなるを、問出でんもよしあしやをはかりかねて、唯可慎つつましう引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へおいであそばして、お休み遊ばしましては如何いかがでございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼まつさをでゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方あちらへ参つて、又皆さんに御心配を懸けるとけませんから、お庭を一周ひとまはりしまして、その内には気分がなほりますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方あなたのお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰おつしやいます」
 貴婦人はその無名指むめいしより繍眼児めじろ押競おしくら片截かたきりにせる黄金きんの指環を抜取りて、懐紙ふところかみに包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のおしるしに」
 静緒は驚きおそれたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様おとつさまにも阿母様おつかさまにも誰にも有仰おつしやらないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠てごめに取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋そたばし近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑たかわらひするが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間につとめて気をたひらげ、色ををさめて、ともかくも人目を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれんと計れるなり。されどもこは酒をぬすみて酔はざらんと欲するにおなじかるべし。
 彼は先にひし事の胸にられたらんやうに忘るるあたはざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出もえいでて、募りに募らんとする心のみだれは、ふるにかた痛苦くるしみもたらして、一歩は一歩より、胸のせまること急に、身内の血はことごとくその心頭しんとうに注ぎて余さずらるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛うちくつろぎて意任こころまかせの我が家に独り居たらんぞき。人に接してひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩わづらはしと、例のはげしくちびるみて止まず。
 築山陰つきやまかげ野路のぢを写せるこみちを行けば、蹈処無ふみどころなく地をくずの乱れひて、草藤くさふぢ金線草みづひき紫茉莉おしろいの色々、茅萱かや穂薄ほすすき露滋つゆしげく、泉水の末を引きて※(「鄰のへん+巛」、第4水準2-83-91)ちよろちよろみづひくきに落せるみぎはなる胡麻竹ごまたけ一叢ひとむら茂れるに隠顕みえかくれして苔蒸こけむす石組の小高きに四阿あづまやの立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人はなやましげに憩へり。
 彼は静緒の柱際はしらぎはに立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥くたびれでせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色のさきにも劣らず蒼白あをざめたるのみならで、下唇の何にきずつきてや、すこしく血の流れたるに、彼はいたく驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何いかがあそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴ざくろ花弁はなびらの如く附きたるに、貴婦人は懐鏡ふところかがみ取出とりいだして、むことの過ぎしゆゑぞと知りぬ。に顔の色はみづからすごしと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周いくめぐりして我はこの色を隠さんとらんと、彼は心陰こころひそかおのれあざけるなりき。
 たちまち女の声して築山の彼方あなたより、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴してこたへけるが、やがて木隠こがくれかたら気勢けはひして、返り来るとひとしまらうどの前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、すぐ彼方あちらへおいであそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋うんたいきようの在るかたへ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭ところせまきまで盃盤はいばんつらねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方こなたの姿を見るより子爵は縁先に出でてさしまねきつつ、
「そこをお渡りになつて、此方こちら燈籠とうろうがございませう、あのそばちよつとお出で下さいませんか。一枚とらして戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立おりたちて、早くもカメラのおほひ引被ひきかつぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事のようを見んとて、慢々ゆらゆら出来いできたれるは富山唯継なり。片手には葉巻シガアなかばくゆりしをつまみ、片臂かたひぢを五紋の単羽織ひとへはおりそでの内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうのゑみを浮べつつ、
「ああ、おまへ其処そこに居らんければ可かんよ、何為なぜ歩いて来るのかね」
 子爵のあわてたる顔はこの時毛繻子けじゆすの覆の内よりついとあらはれたり。
「可けない! 那処あすこに居て下さらなければ可けませんな。何、御免をかうむる? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方あなたは巧いことをお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方あちらへ。静緒、お前奥さんを那処あすこへお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度ごしたくをなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠のそばへ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含はにかむことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内でつてをるのに、あれで可いのさ。姿勢かたちは私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛よつかかつて頬杖ほほづゑでも※(「てへん+(麈−鹿)」、第3水準1-84-73)いて、空をながめてゐるかたちなども可いよ。ねえ、如何いかがでせう」
「結構。結構」と子爵はうなづけり。
 心は進まねど強ひていなむべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かくつぶやきつつ庭下駄を引掛ひきかけ、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠によらしめ、頬杖を※(「てへん+(麈−鹿)」、第3水準1-84-73)つかしめ、空を眺めよと教へて、たもとしわめるをべ、すそもつれを引直し、さて好しと、すこし退きて姿勢を見るとともに、彼はそのおもて可悩なやましげにいたくも色を変へたるを発見して、ただちに寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処どこ不快わるいのか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、わしが訳を言つてお謝絶ことわりをするから」
「いいえ、よろしうございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭いやな色だ」
 彼は眷々けんけんとして去るあたはざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
如何いかがですか」
 唯継は慌忙あわただしく身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面レンズに照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板たねいた挿入さしいるれば、唯継は心得てそのちかきを避けたり。
 空を眺むる宮が目のうちにはゆらんやうに一種の表情力充満みちみちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色あるきぬ唐松からまつみどり下蔭したかげあやを成して、秋高き清遠の空はその後にき、四脚よつあしの雪見燈籠を小楯こだてに裾のあたり寒咲躑躅かんざきつつじしげみに隠れて、近きに二羽のみぎは※(「求/(餮−殄)」、第4水準2-92-54)あさるなど、むしろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面レンズを開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖はたちまくづれて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破がばと伏しぬ。

第五章


 遊佐良橘ゆさりようきつは郷里に在りし日も、出京の遊学中も、すこぶる謹直をて聞えしに、かへりて、日本周航会社に出勤せる今日こんにち、三百円の高利の為になやまさるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものはおもてを張らざるべからざる為の遣繰やりくりなるべしと言ひ、或ものは隠遊かくれあそびの風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこはふべからざる事情の下に連帯のいんせしが、かたの如く腐れ込みて、義理の余毒の苦をうくると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田かまだ鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助かざはやくらのすけとあるのみ。
 およそ高利の術たるや、渇者かつしやに水を売るなり。渇のはなはだしへ難き者に至りては、決してその肉をきてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もそのあたひ玉漿ぎよくしようを盛るに異る無し。ゆゑに前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇のいゆるに及びては、玉漿なりとして喜びきつせしものは、と下水の上澄うはずみに過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血にしぼりその活肉に割きて以て返さざるべからず。ああ、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これをるは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここをて、高利はるべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍にかかれるかなと、彼は人の為ながら常にこのうれひを解くあたはざりき。
 近きに郷友会きようゆうかいの秋季大会あらんとて、今日委員会のありしかへるさを彼等は三人みたり打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走ごちそうと云つては無いけれど、松茸まつだけ極新ごくあたらしいのと、製造元からもらつた黒麦酒くろビイルが有るからね、とりでも買つて、ゆつくり話さうぢやないか」
 遊佐がまさぐれる半月形の熏豚ハム罐詰かんづめも、このまうけにとてみちに求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さうとまりが知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早とたいに成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。しかし、どうもその長足のちやうてう(貂)足らず、ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然すつかりフロックがとまつた? ははははは、それはお目出度めでたいやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのはあきらかに一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声しわかれごゑして大笑たいしようを発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖たてキュウをして二寸三分クロオスをやぶかなければ可けません」
蒲「三たびひぢを折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖たてキュウの極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳あとびき手際てぎはも知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処あすこ主翁おやぢがさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分なくなる……」
蒲「穿得うがちえて妙だ」
風「チョオクの多少はわざの巧拙には関せんよ。遊佐が無闇むやみキュウ取易とりかへるのだつて、決してとも好くはない」
 蒲田は手もてにはかに制しつ。
「もう、それで可い。ひとの非を挙げるやうな者にわざの出来たためしが無い。悲いかな君達の球も蒲田に八十で底止とまりだね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇いくつで来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られけるかなだ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 ことばをはらざるに彼は傍腹ひばらに不意の肱突ひぢつきくらひぬ。
「あ、いた! さう強くくから毎々球がころげ出すのだ。風早の球はあらいから癇癪玉かんしやくだまと謂ふのだし、遊佐のは馬鹿にやはらかいから蒟蒻玉こんにやくだま。それで、二人の撞くところは電公かみなり蚊帳かや捫択もんちやくしてゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度たんとも行かんが、天狗てんぐの風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじとあらがひし末、ただちに一番の勝負をいざいざと手薬煉てぐすね引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後でゆつくり出来るさ。帰つて風呂にでもつて、それから徐々そろそろ始めやうよ」
 往来繁ゆききしげき町を湯屋の角よりれば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店もまじりながら閑静に、家並やなみ整へる中程に店蔵みせぐら質店しちやと軒ラムプの並びて、格子木戸こうしきどの内を庭がかりにしたるかど楪葉ゆづりはの立てるぞ遊佐が居住すまひなる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻はきたりて、伴へる客あるを見てやや打惑へる気色けしきなりしが、にはかゑみを含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫にとがめられて、彼はいよいよこうじたるなり。
唯今ただいまちよいふさがつてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば※(「にんべん+從」、第4水準2-1-81)づかづかと長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
鰐淵わにぶちから参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、ちよいとお会ひなすつて、早くかへしておしまひなさいましな」
松茸まつだけはどうした」
 妻はこの暢気のんきなる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒くろビイルな……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。わたし那奴あいつが居ると思ふと不快いやな心持で」
 遊佐も差当りて当惑のまゆひそめつ。二階にては例の玉戯ビリアアドあらそひなるべし、さも気楽に高笑たかわらひするを妻はいと心憎く。
 少間しばしありて遊佐は二階に昇りきたれり。
蒲「に一つ行かうよ。手拭てぬぐひを貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 に言ふが如く彼は心穏こころおだやかならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸アイスが来てをるのだよ」
蒲「那物えてものが来たのか」
遊「先から座敷で帰来かへりを待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながらかしらを抑へてゆるく柱にれり。
蒲「何とか言つて逐返おつかへして了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍ひねくねした皮肉な奴でね、那奴あいつつかまつたらたまらん」
蒲「二三円もたたき付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々たびたびなのでね、むかふは書替をせやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁をふるつて」
「これは外の談判と違つて唯金銭かねづくなのだから、素手すでで飛込むのぢや弁のふるひやうが無いよ。それで忽諸まごまごすると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀すけだちを為るから」
 いとむづかしと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、しをれてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかしてすくつて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いからかない。ああ云ふ風だからますま脚下あしもとを見られて好い事を為れるのだ。高が金銭かね貸借かしかりだ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものはおそれるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利アイス貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利あんりや無利息なんぞを借りるから見れば、はるかに以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭かねこまらんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひはまいし、名誉に於てきずつくところは少しも無い」
「恐入りました、高利アイスを借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利アイスを借りるなどは、紳士たるもののいともづべきおこなひと為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、いまだ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするもあたはざるなりだらう。そうの時代であつたかね、何か乱がおこつた。すると上奏に及んだものがある、これはいくさを動かさるるまでもない、一人いちにんの将を河上かじようつかはして、賊のかたに向つて孝経こうきようを読せられた事ならば、賊はおのづから消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目まじめで孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割てんびきしわりつて一月おきに血をすはれる。そんな無法な目にひながら、いまだ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利アイスは貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族けだものさ」
 得意の快弁流るる如く、彼は息をもつがせず説来とききたりぬ。
れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほいまだ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな※(「りっしんべん+蜈のつくり」、第3水準1-84-50)あやまりだ。それは勿論もちろん借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物いちぶつにして一物ならずだよ。武士のたましひ商人あきんど根性とは元これ一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳をゆるさんことは、武士の魂とあへて異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人あきんどにあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利アイスなどを借りん内は武士の魂よ、既に対高利たいアイスとなつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟つまりは敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利アイスを借りて、栄と為るに足れりとふに至つては……」
 蒲田は恐縮せるさまして、
「それは少し白馬は馬にあらずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕いつぴ深く探る蛟鰐こうがくえんと出掛けやうか」
空拳くうけんいかんだらう」
 一笑して蒲田は二階を下りけり。風早はひとつ起きつ安否の気遣きづかはれて苦き無聊ぶりように堪へざる折から、あるじの妻はやうやく茶を持ち来りぬ。
「どうもはなはだ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
 彼はその美き顔を少くあかめて、
「はい、あの居間へおいでで、紙門越ふすまごしに様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥はづかしくてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
わたくしはもう彼奴あいつが参りますと、惣毛竪そうけだつて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭いやに陰気な※(「韋+仞のつくり」、第4水準2-92-11)ねちねちした、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
 急足いそぎあし階子はしごを鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
 と上端あがりはなに坐れる妻の背後うしろすぐるとてしたたかその足を蹈付ふんづけたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
 骨身にみて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺おしこらへつつ、さり気無く挨拶あいさつせるを、風早は見かねたりけん、
不相変あひかはらず麁相そそつかしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。ついあわてたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
落付おちつかれる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸アイスと云ふのは、たれだと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕のつらを蹈んだ」
「でも仕合しあはせと皮の厚いところで」
しからん!」
 妻の足のいたみたちまち下腹にうつりて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
 敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「さう! 驚いたらう」
 彼は長き鼻息を出して、むなしまなこ※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
 別してあきれたるはあるじの妻なり。彼はおぞましからず胸のをどるを覚えぬ。同じ思は二人がおもてにもあらはるるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友ごほうゆうなのでございますか」
 蒲田はせはしげにうなづきて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
かねて学校をめてから高利貸アイスを遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和ごくおとなしい男で、高利貸アイスなどの出来る気ぢやないのですから、そんな事はうそだらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰もうそと想ふのです」
ほんにさうでございますね」
 すこしき前に起ちて行きし風早はうたがひはらして帰りきたれり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影おもかげがあるだらう」
「エッセクスを逐払おつぱらはれた時の面影だ。然し彼奴あいつが高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業いんごうな事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
 あるじの妻はその美き顔をしわめたるなり。
蒲「随分ひどうございますか」
妻「酷うございますわ」
 こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をばにはかに取りて飲干し、
「然し間であるのがさいはひだ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕あこぎなことは言ひもすまい。次手ついでに何とか話を着けて、元金もときんだけか何かに負けさして遣らうよ。那奴あいつなら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩けんかに行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分もちつ気凛きりつとするが可い、帯の下へ時計の垂下ぶらさがつてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、あるじの妻はかたはらより、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様はばかりさまです。ちよつと身支度に婦人の心添こころぞへを受けるところは堀部安兵衛ほりべやすべえといふ役だ。然し芝居でも、人数にんずが多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! はざま如きに」
「急に強くなつたから可笑をかしい。さあ。用意はいよ」
此方こつちい」
 二人は膝を正してと差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討かたきうち門出かどでだ。互に交す茶盃ちやさかづきか」

第六章


 座敷にはくるしめる遊佐と沈着おちつきたる貫一と相対して、莨盆たばこぼんの火の消えんとすれど呼ばず、彼のかたはら茶托ちやたくの上に伏せたる茶碗ちやわんは、かつて肺病患者と知らでいだせしを恐れて除物のけものにしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐はいきどほりを忍べる声音こわねにて、
「それは出来んよ。勿論もちろん朋友ほうゆう幾多いくらも有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きをくが如く底強く沈みたり。
あへて困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それではわたくしの方が立ちません。何方どちらとも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、もとより貴方あなたがお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、ほんの名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友のよしみとして、何方どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟つまり名義だけあればよろしいので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つかどが付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先ひとまづ句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。
何方どなたでも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉にかかはるやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押さしおさへです」
 遊佐はひて微笑を含みけれど、胸にはひしこたへて、はや八分の怯気おじけ付きたるなり。彼はもだえて捩断ねぢきるばかりにそのひげひねり拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金はしたがね貴方あなたの御名誉をきずつけて、後来御出世の妨碍さまたげにもなるやうな事を為るのは、私の方でもして可好このましくはないのです。けれども、此方こちらの請求をれて下さらなければむを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金もときんの上に借用当時から今日こんにちまでの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円なにがし、それとがつして五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分がつかつたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書をかかされる! あんまり馬鹿々々しくて話にならん。此方こつちの身にも成つて少しは斟酌しんしやくするが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
 空嘯そらうそぶきて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
 遊佐はひそか切歯はがみをなしてその横顔を睨付ねめつけたり。
 彼も※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれ難き義理に迫りて連帯の印捺いんつきしより、不測のわざはひは起りてかかる憂き目を見るよと、いたおのれに懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑をくることもやと、断じて貫一の請求をれざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここにきはまるとともに貫一もこの場は一寸いつすんも去らじと構へたれば、遊佐はわなに係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無いはれなき責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、ひるがへりて一点の人情無き賤奴せんどの虐待を憤る胸の内は、前後も覚えずれ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日はつかにお払ひ下さるべきのを、いまだにおわたしが無いのですから、何日いつでも御催促は出来るのです」
 遊佐はこぶしを握りてふるひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこでむなしく帰るその日当及び俥代くるまだいとして下すつたから戴きました。ですから、しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金うちきんでなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足むだあしを踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つてもよろしい訳なのです。まあ、過去つた事はきまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
今日こんにちはその事で上つたのではないのですから、今日こんにちの始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有おつしやるのですな」
「出来ん!」
「で、きんも下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐がおもてうかがへり。そのひややかに鋭きまなこの光はあやしく彼を襲ひて、そぞろに熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐はたちまち吾にかへれるやうに覚えて、身のあやふきにるを省みたり。一時を快くする暴言もつひひかもの小唄こうたに過ぎざるをさとりて、手持無沙汰てもちぶさたなりを鎮めつ。
「では、いつごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らずやはらぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
しかと相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それならよろしうございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰おつしやるところは少しも有りはしません、その代り何分なんぶん今日こんにちつかはし下さい」
 かく言ひつつ手鞄てかばんを開きて、約束手形の用紙を取出とりいだせり。
「銭は有りはせんよ」
僅少わづかよろしいので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円かねは有りはせん」
「それぢや、どうも」
 彼はにはか躊躇ちゆうちよして、手形用紙を惜めるやうにひねるなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
 折から紙門ふすまを開きけるをと貫一の※(「目+是」、第4水準2-82-10)みむかふる目前めさきに、二人の紳士は徐々しづしづ入来いりきたりぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等のおのおの心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼はすこしく座をゆるぎてかたちを改めたり。紳士は上下かみしもに分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼をせり。
蒲「どうもさきから見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
 貫一は愕然がくぜんとして二人のおもてを眺めたりしが、たちまち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出おもひいだせるなり。
「これはおめづらしい。何方どなたかと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――まうかりませう」
 貫一は打笑うちゑみて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
 彼のいささかづる色無きを見て、二人は心陰こころひそかあきれぬ。あなどりし風早もかくてはくみやすからず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、しかし思切つた事を始めましたね。君の性質でくこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来るわざぢやありませんな」
 これ実に真人間にあらざる人のことばなり。二人はこの破廉耻はれんち老面皮ろうめんぴを憎しと思へり。
蒲「ひどいね、それぢや君は真人間でないやうだ」
わたしのやうな者がなまじひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校をめるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧やはり真人間で居てもらひたいね」
 風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名うきなやかましかつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
 貫一は知らざるまねしてゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
 よしその旧友の前に人間のおもてあかめざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨うらやましい」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印ごいんを願ひます」
 彼は矢立やたての筆をきて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああちよつと、その手形はどう云ふのですね」
 貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤ごもつとも、そこで少しお話を為たい」
 蒲田はしばらく助太刀の口をつぐみて、皺嗄声しわがれごゑ如何いかに弁ずるかを聴かんと、吃余すひさしの葉巻を火入ひいれして、威長高ゐたけだかに腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別のあつかひをして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友のたのみと思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
 彼も答へず、これも少時しばしは言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
究竟つまり君の方に損の掛らん限はけてもらひたいのだ。知つての通り、元金もとこの借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処そこく解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難にかかつたので、如何いかにも気の毒な次第。ところで、はからずも貸主が君と云ふので、轍鮒てつぷの水を得たるおもひで我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友のはざまとして、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。かねて話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林とおばやし従来これまで三回に二百七十円の利を払つてる。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金もときんだけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
 貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文もつかはずにくうに出るのだから随分つらい話、君の方はだ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さくらべを為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前たちまへにはなつてゐる、此方こつちは三百九十円の全損まるぞんだから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
まるでお話にならない」
 秋の日はみじかしとはんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼のおもてを注視せし風早と蒲田とのまなこは、更に相合うていかれるを、再び彼方あなたに差向けて、いとどきびし打目戍うちまもれり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印ごいんを願ひませう。日限にちげんは十六日、よろしうございますか」
 この傍若無人の振舞に蒲田のこらへかねたる気色けしきなるを、風早は目授めまぜして、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでもほうが付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所いつしよに沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈にかかる大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何いかにとも手の着けやうが無い。対手あいてが君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難をすくふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然まるまる損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
わたくしは鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日こんにちはまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
 遊佐はそのひとりに計ひかねて覚束おぼつかなげにうなづくのみ。言はで忍びたりし蒲田のいかりはこの時くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口をくして頼んでゐるのぢやないか、銭貰ぜにもらひかどに立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然しかるべ挨拶あいさつを為たまへ」
「お話がお話だから可然しかるべき御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、はざま! 貴様の頭脳あたまは銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然しかるべき挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だからたしなめと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人ぬすつとの兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらばあかい顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑ぶべつしたこの有様を、荒尾譲介あらおじようすけに見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実のおととを殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つてふさいでゐたぞ。その一言いちごんに対しても少しは良心のねむりを覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日はおとなしく帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方あなたがたがそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かうすつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方のかたはそれで一先ひとまづ附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、よろしい」
「ではさうなすつて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦じつかねんぷは」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑せせらわらひしつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日うちとくと話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰おつしやるで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だほかへ廻るで急ぎますから、お話は後日ゆつくり伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方あなた御承諾なすつて置きながら今になつて遅々ぐづぐづなすつては困ります」
蒲「疫病神やくびようがみ戸惑とまどひしたやうに手形々々とうるさい奴だ。おれが始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事はく知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんなはずは無い」
 貫一は彼等の騒ぐを尻目にけて、
「九十円が元金もときん、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利アイス定法じようほうです」
 音もせざれど遊佐が胆はつぶれぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
 蒲田は物をも言はずくだんの手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、なほも引裂き引裂き、引捩ひきねぢりて間が目先に投遣なげやりたり。彼は騒げる色も無く、
「何をなさるのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
 彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰こころひそかおそれして、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
 蒲田は※(「にんべん+乞」、第3水準1-14-8)きつひざすすめて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
 彼の鬼臉こはもてなるをいとをさなしとかろしめたるやうに、間はわざと色をやはらげて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方あなたも折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。わたくし如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副あひそはんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業をさい」
 蒲田がかひなは電光の如くをどりて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴もろつかみ無図むずりたり。
「間、貴様は……」
 捩向ねぢむけたる彼のおもて打目戍うちまもりて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子をかぶつて煖炉ストオブの前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼ああおとなしい間を、と力抜ちからぬけがして了ふ。貴様これが人情だぞ」
 たかへる小鳥の如く身動みうごき得為えせで押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然あはれと見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃のはざまと思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人のよしみを思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金でおのづから別問題……」
 彼は忽ち吭迫のどつまりて言ふを得ず、蒲田はやや強くめたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸いきが止るぞ」
 貫一は苦しさにへで振釈ふりほどかんと※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もがけども、嘉納流かのうりゆうの覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すにまかせたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、あらくするなよ」
 蒲田は哄然こうぜんとして大笑たいしようせり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝すいこでんにある図だらう。おもふに、およそ国利をまもり、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜へちまの皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直のあらそひそもそたれの手で公明正大に遺憾無いかんなく決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、いはたたかひ!」
風「もうゆるしてやれ、大分だいぶ苦しさうだ」
蒲「強国にしてはづかしめられたためしを聞かん、ゆゑに僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余りひどい目に遭せると、僕の方へむくつて来るから、もうしてくれたまへな」
 ひとことばに手はゆるめたれど、蒲田はいまだ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
のどを緊められても出すは変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこのつらを五百円の紙幣束さつたばでおたたきなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
 油断せる貫一が左の高頬たかほを平手打にしたたくらはすれば、と両手に痛をおさへて、少時しばしは顔も得挙えあげざりき。蒲田はやうやう座にかえりて、
「急には此奴こいつ帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずるとう」
「さあ、それもからう」
 独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢやうまくないね。さうして形が付かなければ、何時いつまでだつて帰りはせんよ。酒が仕舞しまひになつてこればかりのこられたらなほ困る」
よろしい、帰去かへりには僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
 と彼は横手をちて不意にさけ[#「口+斗」、U+544C、170-16]べば、
「ええ、吃驚びつくりする、何だ」
憶出おもひだした。間の許婚いひなづけはお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日こんにちぢや大きに日済ひなしなどを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事をしちや可かんよ。けれども高利貸アイスなどは、これでかへつて女子をんなにはやさしいとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利をむさぼ所以ゆゑんの者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀えようがして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺さんたんと努めるところは、何ぞ非常の目的があつてかねこしらへるやうだがな、たとへば、軍用金をあつめるとか、お家の宝を質請しちうけするとか。単におのれの慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多おほくのガリガリ亡者もうじやは論外として、間貫一においては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つてそんするのだらう」
 秋の日はたちま黄昏たそがれて、やや早けれどともしを入るるとともに、用意の酒肴さけさかなは順をひて運びいだされぬ。
「おつと、麦酒ビイルかい、頂戴ちようだいなべは風早の方へ、煮方はよろしくお頼み申しますよ。うう、好い松茸まつだけだ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白ましろで、庖丁ほうちようきしむやうでなくては。今年は不作はづれだね、せてゐて、虫が多い、あの雨がさはつたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯かねが欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃いつぱい飲んで、今日は機嫌きげん好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
わたくしは酒は不可いかんのです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
 差付けらるるを推除おしのくるはずみに、コップはもろくも蒲田の手をすべれば、莨盆たばこぼん火入ひいれあたりて発矢はつしと割れたり。
「何を為る!」
 貫一も今はこらへかねて、
「どうしたと!」
 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板むないたつかれて、一耐ひとたまりもせず仰様のけさま打僵うちこけたり。蒲田はこのひまに彼の手鞄てかばんを奪ひて、中なる書類を手信てまかせ掴出つかみだせば、狂気の如く駈寄かけよる貫一、
「身分にさはるぞ!」と組み付くを、利腕捉ききうでとつて、
「黙れ!」と捩伏ねぢふせ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴そいつを取つて了ひ給へ」
 これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事のあまりに暴なるをこころよしと為ざるなりき。貫一はおどろきて、撥返はねかへさんと右に左に身を揉むを、蹈跨ふんまたがりて捩揚ねぢあげ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「このに及んで! 躊躇ちゆうちよするところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
 手を出しかねたる二人を睨廻ねめまはして、蒲田はなかなか下に貫一のもだゆるにも劣らず、ひとごうにやして、効無かひな地鞴ぢただらを踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、くない、善くない」
いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼんやりしてゐるのだ」
 彼はほとほとをののきて、むしろ蒲田が腕立うでだての紳士にあるまじきをいさめんとも思へるなり。腰弱き彼等のくみするに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山にりながら手をむなしうする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上ねぢあぐれば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええやかましい。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕がひとりで遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
 かく言捨てて蒲田は片手しておのれの帯を解かんとすれば、時計のひも生憎あやにくからまるを、あせりに躁りて引放さんとす。
風「ひとりでどうするのだよ」
 彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴こいつ蹈縛ふんじばつて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余りおだやかでないから、それだけは思ひとまり給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴こいつの言ふ事が!」
 間はくるしき声をしぼりて、
「きつと話を付けるから、この手をゆるしてくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方こつちの要求をれるか」
間「容れる」
 いつはりとは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫ちからくじけて、つひに貫一を放ちてけり。
 身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚かきあつめ、かばんを拾ひてその中に捩込ねぢこみ、さて慌忙あわただしく座にかへりて、
「それでは今日こんにちはこれでおいとまをします」
 蒲田が思切りたる無法にこの長居はあやふしと見たれば、心に恨は含みながら、おもてにはかなはじと閉口して、重ねて難題のでざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱げすあつかひに呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求をれん内は、今度は此方こつちかへさんぞ」
 膝推向ひざおしむけて迫寄つめよ気色けしきは、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、さつきから散々の目にあはされて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座ちようざをいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
 たちまち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑あざわらひして、
「間、貴様は犬のくそかたきを取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今これからいつでも蒲田が現れて取挫とりひしいで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢやかたきは取らない」
いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処そこまで送らう」
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出おくりいだせり。あるじの妻は縁側よりきたりぬ。
「まあ、貴方あなた、お蔭様で難有ありがたう存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。ちよつ壮士そうし芝居といふところを」
「大相よろしい幕でございましたこと。お酌を致しませう」
 くだんの騒動にて四辺あたり狼藉ろうぜきたるを、彼は効々かひかひしく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来いりくるを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛ごゆるり召上つて下さいまし」
 妻の喜はあふるるばかりなるに引易ひきかへて、遊佐は青息あをいき※(「口+句」、第3水準1-14-90)きて思案にれたり。
「弱つた! 君がああして取緊とつちめてくれたのは可いが、この返報に那奴あいつどんな事を為るか知れん。明日あしたあたり突然どん差押さしおさへなどをくはせられたらたまらんな」
「余り蒲田が手酷てひどい事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々はらはらしてゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前あとさきを考へて遣つてくれなくては他迷惑はためいわくだらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
 蒲田はたもとの中をかいさぐりて、揉皺もめしわみたる二通の書類を取出とりいだしつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
 何ならんとあるじの妻も鼻の下を延べてうかがへり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
 彼は先づその一通を取りて披見ひらきみるに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
 二人は蒲田が案外の物持てるにおどろかされて、おのおの息をこらして※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはれるまなこを動さず。蒲田も無言のうちに他の一通を取りてひらけば、妻はいよいよちかづきて差覗さしのぞきつ。四箇よつ頭顱かしらはラムプの周辺めぐりに寄る池のこひの如くひしあつまれり。
「これは三百円の証書だな」
 一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻のさきなる遊佐良橘の名をもしるしたり、蒲田は弾機仕掛ばねじかけのやうにをどり上りて、
「占めた! これだこれだ」
 驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手はしやもはちの中にすつぱと落入り、乗出す膝頭ひざがしら銚子ちようし薙倒なぎたふして、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、きん活動はたらきを失へるやうにて幾度いくたびとらへ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻はたちま胸塞むねふたがりて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝のむところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ※(感嘆符二つ、1-8-75) 難有ありがたい※[#感嘆符三つ、177-14]
 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼とむつの目をて子細にこれを点検して、その夢ならざるをあきらめたり。
「君はどうしたのだ」
 風早のおもてはかつあきれ、かつ喜び、かつをそるるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒ビイルまんを引きし蒲田は「血は大刀にしたたりてぬぐふにいとまあらざる」意気をげて、
「何とすごからう。奴を捩伏ねぢふせてゐる中にあし掻寄かきよせてたもとへ忍ばせたのだ――早業はやわざさね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝きようげべつでんさ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治たいじる材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれがねらかたきの証書ならんとは、全く天の善にくみするところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方こつちへ取つて了へば、三百円はめるのかね」
蒲「大蹈おほふめ! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無さしつかへない。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本せいほんさへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動じたばたしたつて『河童かつぱの皿に水のかわいた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然まるまる蹈むのもさすがに不便ふびんとの思召おぼしめしを以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使がよろし樽爼そんそかんに折衝して、遊佐家を泰山たいざんの安きに置いて見せる。嗚呼ああ、実に近来の一大快事だ!」
 人々のあきるるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴おしいただき推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方あなた音頭おんどをお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
 小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事にらち開けんといふに励されて、さては一生の怨敵おんてき退散のいはひと、おのおのそぞろすすむ膝をあつめて、長夜ちようやの宴を催さんとぞひしめいたる。

第七章


 茫々ぼうぼうたる世間に放れて、はやく骨肉の親むべき無く、いはんや愛情のあたたむるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然かいぜんとしてよこたはる石の如きものなるべし。彼が鴫沢しぎさわの家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、やはらかき手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等のたのしみをも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命としてあきたらず、母の一部分となし、いもとの一部分となし、あるひは父の、兄の一部分ともして宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒まどひに値せしなり、ゆゑに彼の恋は青年を楽む一場いちじようの風流のうるはしき夢に似たるたぐひならで、質はそのぶんに勝てるものなりけり。彼の宮にけるはすべての人の妻となすべき以上を妻として、むしろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、みづからはその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時いちじに花を着くる心地して、さきの枯野に夕暮れし石も今た水にぬくみ、かすみひて、長閑のどかなる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよこまやかになりまされる時、人の最も憎める競争者の為に、しかもたやすく宮を奪はれし貫一が心は如何いかなりけん。身をも心をも打委うちまかせていつはることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如くおのれそむきて、むなしく他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何いかなりけん。彼はここに於いてさきに半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥せいりようを感ずるのみにてとどまらず、失望を添へ、恨をかさねて、かの塊然たる野末のずゑの石は、霜置く上にこがらしの吹誘ひて、皮肉を穿うがきたる人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みてまざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、そのかつて与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をもあはせて取去られしなり。
 彼はあるひはその恨をなげうつべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦ひとたびいたくその心をきずつけられたるかの痛苦は、永くその心の存在とともに存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自らふる痛苦は、く彼の痛苦と相剋あひこくして、そのかんいささおもひを遣るべき余地をぬすみ得るに慣れて、彼はやうやく忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵けいてきひ、悪徒にかかりて、或はもてあそばれ、或は欺かれ、或はおびやかされいきほひ毒を以つて制し、暴を以つてふるのむを得ざるより、いつはその道の習に薫染して、彼はますまおそれずむさぼるに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼をむちうつやうに募ることありて、心も消々きえきえに悩まさるる毎に、※(「齒+昔」、第4水準2-94-84)あくさく利をふ力も失せて、彼はなかなか死の安きをおもはざるにあらず。唯その一旦にしてやすく、又今のむなしき死ををはらんをば、いと効為かひなしと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度ひとたびさきの失望と恨とをはらし得て、胸裡きようりの涼きこと、氷を砕いて明鏡をぐが如く為ざらん、そのゆふべぞ我はまさに死ぬべきとひそかに慰むるなりき。
 貫一はいつはかの痛苦を忘るる手段として、いつはその妄執もうしゆうを散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利をむさぼれるなり。知らず彼がそのゆふべにしてめいせんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐ふくしゆうの小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今すこしく事の大きく男らしくあらんをば企図きとせるなり。然れども、痛苦のはげしく、懐旧の恨にへざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如くかこちぬ。
※(「口+矣」、第4水準2-3-94)ああ、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方がはるかましだ。死んでさへ了へば万慮むなしくこの苦艱くげんは無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのはやすいが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。かねが有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今おれたくはへたかねは、高が一人の女の宮に換へる価はあるとふだらう。俺には無い! 第一かねなどを持つてゐるやうな気持さへんぢやないか。失望した身にはその望を取復とりかへすほどの宝は無いのだ。※(「口+矣」、第4水準2-3-94)ああ、その宝は到底取復されん。宮が今罪をびて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身までけがされた宮は、決してもとの宮ではなければ、もうはざまの宝ではない。間の宝は五年ぜんの宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返すこひしいのは宮だ。かうしてゐるも宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、ああ、鴫沢の宮! 五年ぜんの宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮はられんのだ! 思へばかねもつまらん。すくないながらも今のかねが熱海へ追つて行つた時のかばんの中に在つたなら……ええ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 かしらも打割るるやうに覚えて、この以上を想ふあたはざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見たずみの底に逍遙しようようせし富山が妻との姿は、双々そうそう貫一が身辺を彷徨ほうこうして去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、さざること仇敵きゆうてきの如く、債務をせまりて酷をきはむるなり。退しりぞいてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、たちまち勢に駆られて断行するをはばからざるなり。かくして彼の心にかかつらふ事あれば、おのづから念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、もとより彼はせいを知らずして邪を為し、を喜ばずしてを為すものにあらざれば、おのれげてこれを行ふ心苦しさはしてぢ、仰ぎておそれ、天地の間に身を置くところは、わづかにそのるる空間だに猶濶なほひろきを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、はるかに忍ぶの易く、たいのまたゆたかなるをさへ感ずるなりけり。
 一向ひたぶるしんを労し、思を費して、日夜これをのぶるにいとまあらぬ貫一は、肉痩にくやせ、骨立ち、色疲れて、宛然さながら死水しすいなどのやうに沈鬱しをはんぬ。そのあつめたるまゆむなしこらせる目とは、体力のやうやく衰ふるに反して、精神のいよいよ興奮するとともに、思のますましげく、益す乱るるを、従ひてり、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、つひ如何いかばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤つややかなりし髪は、後脳のあたり若干そくばくの白きをまじへて、額に催せししわの一筋長くよこたはれるぞ、その心のせばまれるひだならざるべき、いはんや彼のおもておほへる蔭はますます暗きにあらずや。
 ああ、彼はその初一念をげて、外面げめんに、内心に、今は全くこの世からなる魔道につるを得たりけるなり。貪欲界どんよくかいの雲はりて歩々ほほに厚くまもり、離恨天りこんてんの雨は随所ただちそそぐ、一飛いつぴ一躍出でては人の肉をくらひ、半生半死りては我とはらわたつんざく。る所は陰風常にめぐりて白日を見ず、行けども行けども無明むみよう長夜ちようや今に到るまで一千四百六十日、へども可懐なつかしき友のおもてを知らず、まじはれどもかつなさけみつより甘きを知らず、花咲けども春日はるびうららかなるを知らず、楽来たのしみきたれども打背うちそむきてよろこぶを知らず、道あれどもむを知らず、善あれどもくみするを知らず、さいはひあれども招くを知らず、恵あれどもくるを知らず、むなしく利欲にふけりて志をうしなひ、ひとへに迷執にもてあそばれて思をつからす、ああ、彼はつひに何をか成さんとすらん。間貫一の名はやうやく同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目しよくもくせざるはあらずなりぬ。
 かのふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸くしきりなる厳談酷促げんだんこくそくおのづから此処ここ彼処かしこに債務者のうらみを買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るものすくなからず、同業者といへども時としては彼のあまりに用捨無きをとがむるさへありけり。ひとり鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒をいださざるを誇れるなり。彼はおのれ今日こんにちあるを致せし辛抱と苦労とは、いま如此かくのごとくにして足るものならずとて、しばしばその例を挙げては貫一を※(「口+恚」、第4水準2-4-26)そそのかし、飽くまで彼の意を強うせんとつとめき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然のことわりにて、おのれすところはすべての同業者の為すところにて、己一人おのれいちにんの残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此かくのごとく残刻ならざるべからずとおもへるなり。ゆゑに彼は決して己の所業のみひとうらみを買ふべきにあらずと信じたり。
 に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼のからうじてそのなかばを想ひ得る残刻と、つひに学ぶあたはざる譎詐きつさとを左右にして、始めて今日こんにちの富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐きつさとをほしいままにして、なほ天におそれず、人にはばからざる不敵の傲骨ごうこつあるにあらず。彼はひそかいましめて多く夜でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財ををしまず、唯これ身の無事を祈るに汲々きゆうきゆうとして、自ら安ずるはかりごとをなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、まさにこの信心の致すところと仕へ奉る御神おんかみ冥護みようごかたじけなみてかざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐きつさとに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とにきよならず、身は人と生れて人がましく行ひ、いつかつて犯せる事のあらざりしに、天はかへりて己を罰し人は却りて己をいつはり、終生の失望と遺恨とはみだり断膓だんちようをのふるひて、死苦のかざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、おそるべき無しとるならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところはみづからの心のみなりけり。

第八章


 用談果つるをちて貫一の魚膠無にべな暇乞いとまごひするを、満枝はしばしと留置とどめおきて、用有りげに奥の間にぞりたる。そのことばの如く暫し待てどもざれば、又巻莨まきたばこ取出とりいだしけるに、手炉てあぶりの炭はおほかみふんのやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座たんざに毛糸の敷物したる石笠いしがさのラムプの※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほを仮りて、貫一はう事無しにけふりを吹きつつ、この赤樫あかがしの客間を夜目ながら※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまはしつ。
 袋棚ふくろだななる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬しつぽうやきまがひ一輪挿いちりんざし蝋石ろうせきの飾玉を水色縮緬みづいろちりめん三重みつがさねしとねに載せて、床柱なる水牛の角の懸花入かけはないれは松にはやぶさの勧工場蒔絵まきゑ金々きんきんとして、花を見ず。鋳物いものの香炉の悪古わるふるびにくすませたると、羽二重はぶたへ細工の花筐はなかたみとを床に飾りて、雨中うちゆうの富士をば引攪旋ひきかきまはしたるやうに落墨して、金泥精描の騰竜のぼりりゆう目貫めぬきを打つたるかとばかり雲間くもま耀かがやける横物よこものの一幅。かしらめぐらせば、※(「木+眉」、第3水準1-85-86)びかん黄海こうかい大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷のすみには二鉢ふたばちの菊を据ゑたり。
 やや有りて出来いできたれる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸えりかけたる小袖こそで納戸なんど小紋の縮緬の羽織着て、七糸しつちん黒繻子くろじゆすとの昼夜帯して、華美はでなるシオウルを携へ、髪など撫付なでつけしとおぼしく、おもても見違ふやうに軽くよそほひて、
「大変失礼を致しました。ちよつわたくし其処そこまで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
 無礼なりとは思ひけれど、口説れしよしみに貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
 満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
 聴き飽きたりとはんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方あなた何方どちらまでおいでなのですか」
わたくし大横町おおよこちようまで」
 二人は打連れて四谷左門町よつやさもんちようなる赤樫の家をでぬ。伝馬町通てんまちようどおりは両側の店にともしつらねて、だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒のはなはだしければ、往来ゆききまれに、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくてもよろしいぢやございませんか。それではお話がとどきませんわ」
 彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄すりよりて歩めり。
「これぢやわたくしが歩きにくいです」
「貴方お寒うございませう。私おかばんを持ちませう」
「いいや、どういたして」
貴方あなた恐入りますが、もう少し御緩ごゆつくりお歩きなすつて下さいましな、私呼吸いきが切れて……」
 む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重きおもるシォウルを揺上ゆりあげて、
とうから是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後ちよつともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当にたまにはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而せんだつてのやうな事は再び申上げませんから。といらしつて下さいましな」
「は、難有ありがたう」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
御機嫌伺ごきげんうかがひの」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、こひしい時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、おことわりをします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵わにぶちさんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
 見れば伝馬町てんまちよう三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝をかんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈ずして立住たちどまりつ。
「それぢや私はここで失礼します」
 その不意にでて貫一のくらき横町にるを、
「あれ、貴方あなた其方そちらからいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんなさびしい道をおいでなさらなくても、此方こつちの方が順ではございませんか」
 満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方こつちが余程近いのですから」
幾多いくらも違ひは致しませんのに、にぎやかな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附みつけの所までお送り申しますから」
「貴方に送つていただいたつて為やうが無い。夜がけますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転ためごかし有仰おつしやらなくてもよろしうございます」
 かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識しらずしらず其方そなたに歩ませられし満枝は、やにはに立竦たちすくみて声を揚げつ。
「ああ! 間さんちよつと」
「どうしました」
路悪みちわるへ入つてしまつて、履物はきものが取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へおでなさらんが可いのに」
 彼は渋々寄りきたれり。
憚様はばかりさまですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
 シォウルの外にたすけを求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめきつつ泥濘ぬかるみを出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうと貫一にもたれたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方あなた所為せゐでございますよ」
「馬鹿なことを」
 彼はこの時たすけし手を放たんとせしに、釘付くぎつけなどにしたらんやうにけども振れども得離れざるを、怪しと女のおもてうかがへるなり。満枝は打背うちそむけたる顔のなかばをシオウルのはしに包みて、握れる手をばいよいよ固くめたり。
「さあ、もう放して下さい」
 ますます緊めてそでの中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
 女は一語ひとことも言はず、面も背けたるままに、その手はますます放たで男の行くかたに歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、うしろから人が来る」
よろしうございますよ」
 独語ひとりごつやうに言ひて、満枝はいよいよ寄添ひつ。貫一はこらへかねて力任せにうんと曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、いた! そんなひどい事をなさらなくても、其処そこの角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
 とあららかに引払ひつぱらひて、寄らんとするひまもあらせず摩脱すりぬくるより足をはやめて津守坂つのかみざか驀直ましぐらに下りたり。
 やうやう昇れる利鎌とかまの月は乱雲らんうんりて、※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるけこずゑいただきしばらく掛れり。一抹いちまつやみを透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割かたわれとは、ものうく寝覚めたるやうに覚束おぼつかなき形をあらはしぬ。坂上なる巡査派出所のともしむなし血紅けつこうの光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿もつひに見えず。

(八)の二


 片側町かたかはまちなる坂町さかまち軒並のきなみとざして、何処いづこ隙洩すきも火影ひかげも見えず、旧砲兵営の外柵がいさく生茂おひしげ群松むらまつ颯々さつさつの響をして、その下道したみち小暗をぐらき空に五位鷺ごいさぎ魂切たまきる声消えて、夜色愁ふるが如く、まさに十一時になんなんとす。
 たちまち兵営の門前にあたりて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者くせものに囲れたるなり。一人いちにんは黒の中折帽のつば目深まぶか引下ひきおろし、鼠色ねずみいろの毛糸の衿巻えりまきに半面をつつみ、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿したばき高々と※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)しりからげして、黒足袋くろたびに木裏の雪踏せつたき、六分強ろくぶづよなる色木いろきの弓のをれつゑにしたり。他は盲縞めくらじま股引ももひき腹掛はらがけに、唐桟とうざん半纏はんてん着て、茶ヅックの深靴ふかぐつ穿うがち、衿巻の頬冠ほほかぶり鳥撃帽子とりうちぼうしを頂きて、六角に削成けずりなしたる檳榔子びんろうじの逞きステッキを引抱ひんだき、いづれも身材みのたけ貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼わかものどもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手にささへて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手あひてにならう。物取ならばかねはくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
 答は無くて揮下ふりおろしたる弓の折は貫一が高頬たかほほ発矢はつしと打つ。めくるめきつつもにげ行くを、猛然と追迫おひせまれる檳榔子は、くだんの杖もて片手突に肩のあたりえいと突いたり。踏みこたへんとせし貫一は水道工事の鉄道レイルつまづきてたふるるを、得たりと附入つけいる曲者は、あまりはやりて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方あなた反跳はずみを打ちて投飛されぬ。入替いりかはりて一番手の弓の折は貫一のそびら袈裟掛けさがけに打据ゑければ、起きも得せで、崩折くづをるるを、畳みかけんとするひまに、手元に脱捨ぬぎすてたりし駒下駄こまげたを取るより早く、彼のおもてを望みて投げたるが、ちようあたりてひるむその時、貫一は蹶起はねおきて三歩ばかりも※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれしを打転うちこけし檳榔子をどかかりて、拝打をがみうちおろせる杖は小鬢こびんかすり、肩をすべりて、かばん持つ手をちぎれんとすばかりにちけるを、からくも忍びてつと退きながら身構みがまへしが、目潰吃めつぶしくらひし一番手のいかりして奮進しきたるを見るより今はあやふしと鞄の中なる小刀こがたなかいさぐりつつ馳出はせいづるを、たやすく肉薄せる二人がしもとは雨の如く、所嫌ところきらはぬ滅多打めつたうちに、彼は敢無あへなくも昏倒こんとうせるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴こいつおれの鼻面はなづらへ下駄を打着けよつた、ああ、いた
 衿巻掻除かきのけて彼のでたる鼻はあけに染みて、西洋蕃椒たうがらしえたるに異らず。
檳「おお、大変なはなぢですぜ」
 貫一は息も絶々ながらしかと鞄を掻抱かきいだき、右の逆手さかてに小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉ろうぜきに及ばばんやう有りと、油断を計りてわざと為す無きていよそほひ、直呻ひたうめきにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
 かくて曲者は間近の横町にりぬ。からうじておもてげ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通いたみに、精神やうやく乱れて、しばしば前後を覚えざらんとす。
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後編




第一章


 翌々日の諸新聞は坂町さかまちに於ける高利貸アイス遭難の一件を報道せり。うちはざま貫一を誤りて鰐淵直行わにぶちただゆきるもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等をらざる読者は湯屋の喧嘩けんかも同じく、三ノ面記事の常套じようとうとして看過みすごすべく、何のいとまかその敵手あひて誰々たれたれなるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰のかずなるまで※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)うちのめされざりしを本意無ほいなく思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣よりせるわざならんとは、諸新聞のしるせる如く、人も皆思ふところなりけり。
 直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心をあはせて貫一の災難をかなしみ、何程のつひえをもをしまず手宛てあての限を加へて、少小すこしきずをものこさざらんと祈るなりき。
 股肱ここうたのみ、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打やみうちのやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見みせしめの為に、彼が入院中を目覚めざましくも厚くまかなひて、再び手出しもならざらんやう、かげながら卑怯者ひきようものの息の根をめんと、気もくるはしく力をつくせり。
 彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にもきたるべきを思過おもひすごして、しさるべからんには如何いかにかべき、この悲しさ、この口惜くちをしさ、この心細さにてはまじと思ふに就けて、空可恐そらおそろしく胸の打騒ぐをとどめ得ず。奉公大事ゆゑにうらみを結びて、憂き目にひし貫一は、夫のわざはひを転じて身のあだとせし可憫あはれさを、日頃の手柄に増して浸々しみじみ難有ありがたく、かれをおもひ、これを思ひて、したたかに心弱くのみ成行くほどに、裏にづること、おそるること、やましきことなどの常におさへたるが、たちま涌立わきたち、跳出をどりいでて、その身を責むる痛苦にへざるなりき。
 年久くかはるる老猫ろうみようおよ子狗こいぬほどなるが、棄てたる雪のかたまりのやうに長火鉢ながひばち猫板ねこいたの上にうづくまりて、前足の隻落かたしおとして爪頭つまさきの灰にうづもるるをも知らず、※(「鼾のへん+句」、第4水準2-94-72)いびきをさへきて熟睡うまいしたり。妻はその夜の騒擾とりこみ、次の日の気労きづかれに、血の道を悩める心地ここちにて、※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)うつらうつらとなりては驚かされつつありける耳元に、格子こうしベルとどろきければ、はや夫の帰来かへりかと疑ひも果てぬに、紙門ふすまを開きてあらはせる姿は、年紀としのころ二十六七と見えて、身材たけは高からず、色ややあを痩顔やせがほむづかしげに口髭逞くちひげたくましく、髪のひ乱れたるに深々ふかふかと紺ネルトンの二重外套にじゆうまわしえりを立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁べつこうぶちの眼鏡をはさみて、かどある眼色まなざしは見る物毎に恨あるが如し。
 妻は思設けぬ面色おももちの中に喜をたたへて、
「まあ直道ただみちかい、好くおいでだね」
 片隅かたすみ外套がいとうを脱捨つれば、彼は黒綾くろあやのモオニングのあたらしからぬに、濃納戸地こいなんどじ黒縞くろじま穿袴ズボンゆたかなるを着けて、きよらならぬ護謨ゴムのカラ、カフ、鼠色ねずみいろ紋繻子もんじゆす頸飾えりかざりしたり。妻は得々いそいそ起ちて、その外套を柱の折釘をりくぎに懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父おとつさんの様子はどんな? 今朝新聞を見るとおどろいて飛んで来たのです。容体ようだいはどうです」
 彼は時儀をぶるに※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およばずしてせはしげにかく問出とひいでぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうもなさりはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我おほけがなすつて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれははざまさ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭いやだね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然ちやんとさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之さつき病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来かへりだらう。まあ寛々ゆつくりしておいでな」
 かくと聞ける直道はあまりの不意に拍子抜して、喜びも得為えせ唖然あぜんたるのみ。
「ああ、さうですか、間がられたのですか」
「ああ、間が可哀かあいさうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
「どんなです、新聞には余程ひどいやうに出てゐましたが」
「新聞に在る通だけれど、不具かたはになるやうな事も無いさうだが、全然すつかりくなるには三月みつきぐらゐはどんな事をしてもかかるといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父おとつさんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛てあては十分にしてあるのだから、決して気遣きづかひは無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少しくだけたとかで、手が緩縦ぶらぶらになつてしまつたの、その外紫色のあざだの、蚯蚓腫めめずばれだの、打切ぶつきれたり、擦毀すりこはしたやうな負傷きずは、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部あたまぶたれたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つておいでださうだけれど、今のところではそんな塩梅あんばいも無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込かつぎこんだ時は半死半生で、ほんの虫の息が通つてゐるばかり、わたしは一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
「間が闇打やみうちにされた事を」
「いづれ敵手あひて貸金かしきんの事から遺趣を持つて、その悔しまぎれに無法な真似まねをしたのだらうつて、大相腹を立てておいでなのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人おとなしい人だから、つまらない喧嘩けんかなぞを為る気遣きづかひはなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更なほさら気の毒で、何ともひやうが無い」
「間は若いから、それでも助るのです、阿父おとつさんであつたら命は有りませんよ、阿母おつかさん」
「まあ可厭いやなことをお言ひでないな!」
 浸々しみじみ思入りたりし直道はしづかにそのうらめしき目を挙げて、
「阿母さん、阿父さんはだこの家業をおめなさる様子は無いのですかね」
 母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……わたしにはく解らないね……」
「もう今に応報むくいは阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目につたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来これまでも随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんはちつともお聴きではないぢやないか。とてもひとの言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目をつぶつておいでよ、よ」
わたしだつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目をつぶつてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけはなくなしてしまひたいとつくづく思ふのです。ああ、こんな事ならだ親子で乞食をした方がはるかに可い」
 彼は涙を浮べてうつむきぬ。母はその身もともに責めらるる想して、あるひ可慚はづかしく、或は可忌いまはしく、このくるしき位置に在るにへかねつつ、言解かんすべさへ無けれど、とにもかくにも言はでむべき折ならねば、からうじて打出うちいだしつ。
「それはもうお前の言ふのはもつともだけれど、お前と阿父おとつさんとはまる気合きあひが違ふのだから、万事考量かんがへが別々で、お前の言ふ事は阿父さんのはらには入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知とふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応におかねも出来たのだから、かう云ふ家業はめて、楽隠居になつて、お前に嫁をもらつて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなにおこられるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然うつかりした事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀かあいさうではあり、さうかと云つて何方どつちをどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
 さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、なまじひ言合つてお互に心持を悪くするのがおちだから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便たよりだか知れやしないのだから、究竟つまりはお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父おとつさんの方にも其処そこには了簡りようけんがあつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
 それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふとかへつて善くないから、今日はそつとしていておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
 に母は自ら言へりし如く、板挾いたばさみの難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道をさとすなりき。彼は涙の催すにへずして、鼻目鏡はなめがねを取捨てて目を推拭おしぬぐひつつ猶むせびゐたりしが、
阿母おつかさんにさう言れるから、私は不断はこらへてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目につたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
 母はその一念におびやかされけんやうにてそぞろ寒きを覚えたり。洟打去はなうちかみて直道はことばを継ぎぬ。
「然しわたしの仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんなけがれた家業を為るのを見てゐるのが可厭いやだ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何いかにも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つておいででせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処いつしよに居たらさぞ好からうとは……」
「それは、私はなほの事です。こんな内に居るのは可厭いやだ、別居してひとりで遣る、と我儘わがままを言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのはたれのお陰かと謂へば、みんな親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父おとつさんを踏付にしたやうなおこなひを為るのは、阿母おつかさん能々よくよくの事だと思つて下さい。私は親にさからふのぢやない、阿父さんと一処に居るのをきらふのぢやないが、私は金貸などと云ふいやしい家業が大嫌だいきらひなのです。人をなやめておのれこやす――浅ましい家業です!」
 身をふるはして彼は涙に掻昏かきくれたり。母は居久いたたまらぬまでに惑へるなり。
「親をすごすほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目めんぼくも無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐにひもじい思はきつとせませんから、破屋あばらやでも可いから親子三人一所に暮して、人に後指をさされず、罪も作らず、うらみも受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中はかねが有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をしてこしらへたかね、そんなかねが何のたのみになるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上しんじようは一代持たずに滅びます。因果の報うためしは恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業はめるに越した事はありません。ああ、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
 積悪の応報覿面てきめんの末をうれひてかざる直道が心のまなこは、無残にもうらみやいばつんざかれて、路上に横死おうしの恥をさらせる父が死顔の、犬に※(「足へん+搨のつくり」、第4水準2-89-44)られ、泥にまみれて、古蓆ふるむしろの陰にまくらせるを、怪くも歴々まざまざと見て、恐くは我が至誠のかがみは父が未然を宛然さながら映しいだしてあやまらざるにあらざるかと、事の目前まのあたりの真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつとほとばし哭声なきごゑは、咬緊くひしむる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方にれたる折しも、かどくるまとどまりて、格子のベルの鳴るは夫の帰来かへりか、次手ついで悪しと胸をとどろかして、直道の肩を揺りうごかしつつ、声を潜めて口早に、
「直道、阿父さんのお帰来かへりだから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方あつちへ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
 はや足音は次の間にきたりぬ。母はあわてて出迎にてば、一足遅れに紙門ふすまは外より開れてあるじ直行の高く幅たきからだ岸然のつそりとお峯の肩越かたごしあらはれぬ。

(一)の二


「おお、直道か珍いの。何時いつ来たのか」
 かく言ひつつ彼は艶々つやつやあからみたる鉢割はちわれの広き額の陰に小く点せる金壺眼かねつぼまなこ心快こころよげに※(「目+登」、第3水準1-88-91)みひらきて、妻が例の如く外套がいとうぬがするままに立てり。お峯は直道がことばかどあらんことをおもひはかりて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少しさつきでした。貴君あなたは大相お早かつたぢやありませんか、丁度ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合しあはせと想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
 黒一楽くろいちらく三紋みつもん付けたる綿入羽織わたいればおり衣紋えもんを直して、彼は機嫌きげん好く火鉢ひばちそばに歩み寄る時、直道はやうやおもてげて礼をせり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
 梭櫚しゆろの毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭くちひげ掻拈かいひねりて、太短ふとみじかなるまゆひそむれば、聞ゐる妻ははつとばかり、やいばを踏める心地も為めり。直道はと振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高ゐたけだかになりけるが、父のおもてを見し目を伏せて、さてしづかに口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、阿父おとつさんが、大怪我をなすつたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
 白髪しらがまじへたる茶褐色ちやかつしよくの髪のかしらに置余るばかりなるをでて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。おれならそんな場合に出会うたて、唯々おめおめうたれちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手あひてにしてくれるが」
 直道の隣に居たる母はひそかに彼のコオトのすそを引きて、ことばを返させじと心づくるなり。これが為に彼は少しくためらひぬ。
ほんにお前どうした、顔色かほつきが良うないが」
「さうですか。余り貴方あなたの事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々たびたび言ふ事ですが、もう金貸はめて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのはみつともない。今朝貴方あなたが半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、わたしはどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうにせなかつたのをつくづく後悔したのです。さいはひに貴方は無事であつた、から猶更なほさら今日は私の意見を用ゐてもらはなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐おそろしいから廃めると謂ふのぢやありません、ただしい事で争つておとす命ならば、して辞することは無いけれど、金銭づくの事でうらみを受けて、それゆゑに無法な目にふのは、如何いかにも恥曝はぢさらしではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具かたはにもれなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
 こんな家業をんでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾つまはぢきをされて、無理なかねこしらへんければならんのですか。何でそんなに金がるのですか。誰にしても自身に足りる以外のかねは、子孫にのこさうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子ひとりつこ、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日こんにち無用の財をたくはへる為に、人の怨を受けたり、世にそしられたり、さうして現在の親子がかたきのやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んでなすつてゐるのではないでせう。
 私のやうなものでも可愛かはいいと思つて下さるなら、財産をのこして下さるかはりに私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
 父が前にかしられて、たやすげぬ彼のおもては熱き涙におほはるるなりき。
 も動ずる色無き直行はかへつて微笑を帯びて、ことばをさへやはらげつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのはうれしいけど、お前のはそれは杞憂きゆうと謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳あたまで実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世のそしりのと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くはそねみ、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとればあはれまるるじや。何家業に限らず、かねこしらへる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。かねの有る奴で評判のえものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやからおのづから心持も違うて、かねなどをさうたつといものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、えか。実業家の精神は唯財ただかねじや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人のほしがる財じや、何ぞえところが無くてはならんぢやらう。何処どこえのか、何でそんなにえのかは学者には解らん。
 お前は自身に供給するに足るほどのかねがあつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量かんがへじやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それでえと満足して了うてからに手を退くやうな了簡りようけんであつたら、国はたちまほろぶるじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中こくちゆう若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
 俺にそんなにかねこしらへてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうもん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟つまり財を拵へるがきはめて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのをえ加減にい、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
 お前はうこの家業を不正ぢやの、けがらはしいのと言ふけど、財をまうくるに君子の道を行うてゆく商売が何処どこに在るか。我々が高利の金を貸す、如何いかにも高利じや、何為なぜ高利か、えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いといつはつて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何でけがらはしいか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急をすくはにやおかれんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るがすなはち営業のたましひなんじや。
 かねといふものは誰でも愛して、皆獲やうとおもうとる、獲たら離すまいととる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、すべての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲かねまうけする者は皆不正な事をしとるんじや」
 いたくもこの弁論に感じたる彼の妻は、しばしば直道の顔を偸視ぬすみみて、あはれ彼が理窟りくつもこれが為にくじけて、気遣きづかひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひてひそかよろこべり。
 直道はおごそかかしらりて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。わたしは決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入つけいつて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! たとへば間が災難につた。あれは先は二人で、しかも不意打をくはしたのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返いしゆがへしの為方とお思ひなさるか。卑劣きはまる奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
 彼は声をげてせまれり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声をしづめて、
「どうですか」
勿論もちろん
「勿論? 勿論ですとも! 何奴なにやつか知らんけれど、実にきたない根性、けちな奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、たとひその手段は如何いかにあらうとも」
 父は騒がず、ゑみを含みて赤きひげまさぐりたり。
「卑劣と言れやうが、きたないと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺つかみころしても遣りたいほどくやしいのは此方こつちばかり。
 阿父おとつさんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方あなたがお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
 又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なることばをもて夫はこれに答へんとすらん、我はこのことわり覿面てきめん当然なるに口を開かんやうも無きにと、心あわてつつ夫の気色をひそかうかがひたり。彼は自若として、かへつてその子の善く論ずるを心にづらんやうの面色おももちにて、うたた微笑をろうするのみ。されども妻はく知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いてしばしばするを。彼は今それかあらぬかを疑へるなり。
 あをやつれたる直道が顔は可忌いまはしくも白き色に変じ、声は甲高かんだかに細りて、ひざに置ける手頭てさきしきりに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来これまで度々たびたび言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父おとつさんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つておいでは無からうけれど、考出かんがへだすと勉強するのも何も可厭いやになつて、ああ、いつそ山の中へでも引籠ひつこんで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎みいやしんで、附合ふのもはぢにしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれをきかされる心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつてつひにはれられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方こつちに大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺みちばた餓死かつゑじにするのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間からうとまれてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
 まなこは痛恨の涙をわかして、彼は覚えず父のおもてにらみたり。直行は例のうそぶけり。
 直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまでことばめず。
「今度の事を見ても、如何いかに間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方あなたの手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、にくみはどんなであるか言ふに忍びない」
 父はたちまさへぎりて、
「善し、解つた。う解つた」
「では私のことばを用ゐて下さるか」
「まあえ。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。しかし、なんぢは爾たり、吾は吾たりじや」
 直道はこらへかねてひしこぶしを握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点はあだには思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更なほさらえらい目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
 はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりやかたじけないが、ま、当分俺のからだは俺にまかして置いてくれ」
 彼はしづかに立上りて、
ちよつとこれからて来にやならん処があるで、ゆつくりして行くがえ」
 忽忙そそくさ二重外套にじゆうまわし打被うちかつぎてづる後より、帽子を持ちておくれる妻はひそかに出先を問へるなり。彼は大いなる鼻をしわめて、
「俺が居ると面倒ぢやから、ちよつと出て来る。えやうに言うての、かへしてくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方あなたわたしだつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
くはありません、私は困りますよ」
 お峯は足摩あしずりして迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
 さすがに争ひかねてお峯の渋々たたずめるを、見も返らで夫は驀地まつしぐらかどを出でぬ。母は直道の勢におそれて先にも増してさぞやさいなまるるならんと想へば、とらの尾をもむらんやうに覚えつつ帰り来にけり。見れば、直道は手をこまぬき、かしられて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食ひるだが、お前何をお上りだ」
 彼は身転みじろぎざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束おぼつかなげに顔をげて、
阿母おつかさん!」
 その術無じゆつなき声は謂知いひしらず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭まくらもとに居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
 あやしくもにはか名残なごりをしまれて、今は得もはなたじと心牽こころひかるるなり。
「もうお中食ひるだから、久しぶりで御膳ごぜんを食べて……」
「御膳ものどへは通りませんから……」

第二章


 主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩めるほか、身辺に事あらざるいとまに乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
 一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日をえらびて富山の家に輿入こしいれしたりき。その場より貫一の失踪しつそうせしは、鴫沢一家しぎさわいつけの為に物化もつけ邪魔払じやまばらひたりしには疑無うたがひなかりけれど、家内かないこぞりてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠をめて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺よるべあらぬ貫一が身の安否をおもひはかりてあたはざりしなり。
 気強くは別れにけれど、やがて帰りんと頼めし心待も、つひあだなるをさとりし後、さりとも今一度は仮初かりそめにも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬あふせは有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方ゆくへは知られずして、その身の家をづべき日はうしほの如く迫れるに、遣方やるかたも無くそぞろ惑ひては、常におぞましう思ひ下せる卜者ぼくしやにも問ひて、後には廻合めぐりあふべきも、今はなかなかふみ便たよりもあらじと教へられしを、筆持つはまめなる人なれば、長き長き怨言うらみなどは告来つげこさんと、それのみはたなごころを指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者のことばは不幸にもあやまたで、宮は彼の怨言うらみをだに聞くを得ざりしなり。
 とにもかくにも今一目見ずば動かじと始におもひ、それは※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはずなりてより、せめて一筆ひとふで便たより聞かずばと更に念ひしに、事は心とすべたがひて、さしも願はぬ一事いちじのみは玉を転ずらんやうに何等のさはりも無く捗取はかどりて、彼がむなしく貫一の便たよりを望みし一日にも似ず、三月三日はたちまかしらの上にをどきたれるなりき。彼はつひに心を許し肌身はだみを許せし初恋はつごひなげうちて、絶痛絶苦の悶々もんもんうちに一生最もたのしかるべき大礼を挙げをはんぬ。
 宮は実に貫一に別れてより、始めておのれ如何いかばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
 彼のでて帰らざる恋しさにへかねたるゆふべ、宮はその机にりて思ひ、そのきぬ人香ひとかぎてもだえ、その写真に頬摩ほほずりしてあくがれ、彼おのれれて、ここに優き便たよりをだにきかせなば、親をも家をも振捨てて、ただちに彼にはしるべきものをと念へり。結納ゆいのうかはされし日も宮は富山唯継をつまと定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己はつひにその家にくべき身たるを忘れざりしなり。
 ほとほと自らそのいとぐちもとむるあたはざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、あやまちを改め、みさをを守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。まことに彼の胸にたのめる覚悟とてはあらざりき。恋びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、ひて今更いなまんとするにもあらず、彼方かなたこひしきを思ひ、こなたの富めるををしみ、自ら決するところ無く、為すところ無くしてむなしまよひもてあそばれつつ、終に移すべからざる三月三日のきたるに会へるなり。
 この日よ、このゆふべよ、けて床盃とこさかづきのその※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびても、あやしむべし、宮は決して富山唯継をつまと定めたる心は起らざるにぞありける、ただこの人をつまと定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自らおもへり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継にまかすなり。ゆゑに身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かくおもへる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身にまぬかあたはざる約束なるべきを信じて、むしろ深く怪むにもあらざりき。如此かくのごとくにして宮は唯継の妻となりぬ。
 花聟君はなむこぎみは彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力をげたり。宮はその身の上の日毎輝きまさるままに、いよいよ意中の人とわたくしすべき陰無くなりゆくを見て、いよいよ楽まざる心は、つまの愛を承くるにものうくて、ただ機械の如くつかふるに過ぎざりしも、唯継は彼のものいふ花の姿、温き玉のかたち一向ひたぶるよろこぶ余に、ひややかにむなしうつはいだくに異らざる妻を擁して、ほとんど憎むべきまでに得意のおとがひづるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻はみごもりて、翌年の春美き男子なんしを挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、そのゆる日をたで、初子うひごはいと弱くて肺炎の為に歿みまかりにけり。
 子を生みし後も宮が色香はつゆうつろはずして、おのづか可悩なやまし風情ふぜいそはりたるに、つまが愛護の念はますます深く、ちようは人目の見苦みぐるしきばかりいよいくははるのみ。彼はその妻の常にたのしまざるゆゑつゆさとらず、始より唯その色を見て、打沈うちしづみたる生得うまれ独合点ひとりがてんして多く問はざるなりけり。
 かくいとしまれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有ありがたき人のなさけそむきて、ここにとつぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せしあやまち如何いかにすべきと、みづからそのゆるし難きをぢて、悲むこと太甚はなはだしかりしが、に親の所憎にくしみにやへざりけん。その子のせし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年ふたとせのち三年みとせの後、四年よとせの後まであやしくも宮はこの誓を全うせり。
 次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るにくるしめるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たるかひも思出もあらで、むなし籠鳥ろうちようの雲を望める身には、それのみの願なりしゆたかなる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、かへりてこの四年よとせが間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方ゆくへ知れざりし人の姿を田鶴見たずみの邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰おとさたをも聞かざりしなり。生家さとなる鴫沢しぎさわにては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無よしなき事を告ぐるが如きおろかなる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便たよりは絶れたりしなり。
 計らずもその夢寐むびに忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計いかばかりなりけんよ。ゑたる者のむさぼくらふらんやうに、彼はその一目にして四年よとせの求むるところを求めんとしたり。※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)かず、※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へてまん、と深くも念じたり。
 五番町なる鰐淵わにぶちといふかたに住める由は、静緒しずおより聞きつれど、むざとはふみも通はせ難く、道は遠からねど、ひとり出でて彷徨さまよふべき身にもあらぬなど、かなはぬ事のみなるにくるしかりけれど、安否をかざりし幾年いくとせの思にくらぶれば、はやふくろの物をさぐるに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然つれづれを憂きに堪へざるあまり、我心をのこかた無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、だかくもはかなき身の上と切なき胸の内とをひとり自らうつたへんとてなり。

(二)の二


 宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るるあたはざるなり。更に見よ。歳々としどし廻来めぐりくる一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸にやきがねして、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年のちの今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処どこかでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
 おほへども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかをこころみしに、かつてその人の余所よそに泣けるしるしもあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共もろともに今は我をも思はでや、さては何処いづこ如何いかにしてなど、更に打歎うちなげかるるなりき。
 例のその日はたびめぐりて今日しもきたりぬ。晴れたりし空は午後より曇りてすこし吹出ふきいでたる風のいと寒く、ただならずゆる日なり。宮はいつよりも心煩こころわづらはしきこの日なれば、かの筆採りて書続けんとたりしが、あまりに思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
 ますます寒威の募るに堪へざりければ、にはか煖炉だんろを調ぜしめて、彼は西洋間にうつりぬ。ことごと窓帷カアテンを引きたる十畳の寸隙すんげきもあらずつつまれて、火気のやうやく春を蒸すところに、宮はたいゆたか友禅縮緬ゆうぜんちりめん長襦袢ながじゆばんつま蹈披ふみひらきて、紋緞子もんどんす張の楽椅子らくいすりて、心の影の其処そこに映るをながむらんやうに、その美き目をば唯白くたひらなる天井に注ぎたり。
 夫の留守にはこの家のあるじとして、彼はつかふべき舅姑きゆうこいただかず、気兼すべき小姑こじうとかかへず、足手絡あしてまとひの幼きもだ有らずして、一箇ひとり仲働なかばたらき両箇ふたり下婢かひとに万般よろづわづらはしきをまかせ、一日何のすべき事も無くて、づるに車あり、ぜんには肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆よろこばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂はまさおのれのこの身の上なるかな、と宮は不覚そぞろ胸に浮べたるなり。
 嗟乎ああ、おのれもこの身の上を願ひに願ひしあまりに、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上にきはめしたのしみも、五年いつとせの昔なりける今日の日にきはめしかなしみふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息ためいきしたり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人とともに同じきたのしみけんと願ひしに外ならざるを。し身のたのしみと心のたのしみとを併享あはせうくべき幸無さちなくて、必ずその一つをえらぶべきものならば、いづれを取るべきかを知ることのおそかりしを、遣方やるかたも無く悔ゆるなりけり。
 この寒き日をこのあたたかしつに、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何いかに、と思到れる時、宮はほとんど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜くちをしさをもだえては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面そともを何心無く打見遣うちみやれば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいとはげしく動きて、宮は降頻ふりしきる雪に或言あることばを聴くが如くたたずめり。折から唯継は還来かへりきたりぬ。静にけたるドアの響はしたたかに物思へる宮の耳にはらざりき。氷の如く冷徹ひえわたりたる手をわりなくふところに差入れらるるに驚き、咄嗟あなやと見向かんとすれば、後よりしかかかへられたれど、夫の常にたしなめる香水のかをりは隠るべくもあらず。
「おや、お帰来かへりでございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
 宮は楽椅子を夫に勧めて、みづから煖炉ストオブたきぎ※(「火+俊のつくり」、第4水準2-79-79)べたり。今の今まで貫一が事を思窮おもひつめたりし心には、夫なる唯継にかくつかふるも、なかなか道ならぬやうにていさぎよからず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、こずゑに宿れる雪、庭にく雪、見ゆる限の白妙しらたへは、我身に積める人のうらみたけかとも思ふに、かくてあることのやましさ、切なさは、あぶらしぼらるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、そのあしを八文字に踏展ふみはだけ、やうやく煖まれるおとがひ突反つきそらして、
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋よせなべで飲むんだね。寄鍋を取つてもらはう、寄鍋が好い。それから珈琲カフヒイを一つこしらへてくれ、コニャックをと余計に入れて」
 宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、る物を取寄せてここで拵へなさい」
 彼の電鈴でんれいを鳴して、火のそばに寄来るとひとしく、唯継はその手を取りて小脇こわきはさみつ。宮はよろこべる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何をふさいでゐるのかね」
 引寄せられし宮はほとほとたふれんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻もるばかりにその顔を差覗さしのぞきて余念も無く見入りつつ、
「顔の色がはなはだ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然はつきりしてくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合じようあひが薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
 たちまドアくと見れば、仲働なかばたらきの命ぜし物を持来もちきたれるなり。人目をはばからずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はそのそば退かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬふりしつつ、器具とボトルとをテエブルに置きて、ぢき退まかでぬ。かく執念しゆうねく愛せらるるを、宮はなかなかくも浅ましくも思ふなりけり。
 雪は風を添へて掻乱かきみだし掻乱し降頻ふりしきりつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜のやうやきたれるが最辱いとかたじけなき唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、おれにはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠ひつこんでをるのがよろしくないよ。この頃はちよつとも出掛けんぢやないか。さう因循いんじゆんしてをるから、ますます陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴としばの奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為なぜ近頃は奥さんはちよつともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然まるつきり影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞しまひ込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しはひとにも見せておんなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積ふくづみが当選したらう。俺もおほいにあづかつて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第すみしだい別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中れんじゆうを招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行であるかれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識がいけれど、然し、近頃のやうにこもつてばかりるのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年はんとしばかりつてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地あちこち出たぢやないかね。
 善し、珈琲カフヒイ出来たか。うう熱い、うまい。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋はまだか。うむ、彼方あつちに支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢ながひばち相対さしむかひに限るんさ。
 可いかね、福積の招待しようだいには吃驚びつくりさせるほどうつくしくして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速こしらへやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装なりで、りゆうとして推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装なりにかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍ねぼけたのばかりは恐れるね。何為なぜあの被風ひふを着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
 明後日あさつては日曜だ、何処どこかへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原かしわばらの奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふたびやかましく催促するんでかなはんよ。明日あしたは用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんとまづいて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日あさつて写しに行かう。ずつと若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
 善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
 夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげにしばらく窓の外面そともうかがひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何をくだらんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」

第三章


 宮は既に富むとゆたかなるとに※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)きぬ。そもそも彼がこの家にとつぎしは、惑深まどひふかき娘気の一図に、栄耀えいよう栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、ほとんど無用の物のやうにかろしめたりき。今やその願足りて、しかもつひ※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)きたる彼はいよい※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつはらるる愛情のわづらはしきにへずして、むしろ影を追ふよりもはかなき昔の恋を思ひて、ひそかに楽むのあぢはひあるを覚ゆるなり。
 かくなりてより彼はおのづから唯継の面前をいとひて、寂く垂籠たれこめては、随意に物思ふをよろこびたりしが、図らずも田鶴見たずみ邸内やしきうちに貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度ひとたびは絶えし恋ながら、なほ冥々めいめいに行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままのかたちなるを、今もそのひとりを守りて、時の到るを待つらんやうに思做おもひなさるるなりけり。
 その時は果して到るべきものなるか。宮はみづからの心の底をたたきて、答を得るにはばみつつも、さすがに又おのれにも知れざる秘密の潜める心地ここちして、一面には覚束おぼつかなくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
 便すなはち宮の夫の愛を受くるを難堪たへがたく苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面レンズの前に悶絶もんぜつせし日よりにて、その恋しさに取迫とりつめては、いでや、この富めるに※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)き、ゆたかなるにめる家を棄つべきか、棄てよとならばためらはじと思へるも屡々しばしばなりき。唯敢ただあへてこれをざるは、ひそかに望はけながらも、行くべきかたうらみを解かざるをおそるるゆゑのみ。
 もとより宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自らおもへらく、吾夫わがをつとこそ当時恋と富とのあたひを知らざりし己を欺き、むなしく輝ける富を示して、るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をもひとせて、彼は己をあやまりしをば、全く夫の罪とせり。
 この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事のしのばるるにけてうたた悪人の夫を厭ふことはなはだしかり。無辜むこの唯継はかかる今宵のたのしみさづくるこの美き妻を拝するばかりに、有程あるほどの誠を捧げて、みつよりも甘きことばの数々を※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやきて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいとく響きたる。
 その雪は明方になりてみぬ。乾坤けんこんの白きに漂ひて華麗はなやかに差出でたる日影は、みなぎるばかりに暖き光をきて終日ひねもす輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来ゆきき妨碍さまたげもあらず、処々ところどころ泥濘ぬかるみは打続く快晴のそらさらされて、刻々にかわき行くなり。
 この雪の為に外出そとでを封ぜられし人は、この日和ひよりとこの道とを見て、皆こらへかねて昨日きのふより出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置のよろしからぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折つづらをりある捏返こねかへせし汁粉しるこの海の、差掛りて難儀をきはむるとは知らず、見渡す町通まちとほり乾々干からからほしかたまれるにそそのかされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来ゆききの常よりしきりなる午前十一時といふ頃、かがみ勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣ころも掛けたる車輪を可悩なやましげにまろばして、黒綾くろあや吾妻あづまコオト着て、鉄色縮緬てついろちりめん頭巾づきんえりに巻きたる五十路いそぢに近きいやしからぬ婦人を載せたるが、南のかたより芝飯倉通しばいいぐらとおりに来かかりぬ。
 唯有とある横町を西に切れて、なにがしの神社の石の玉垣たまがきに沿ひて、だらだらとのぼる道狭く、しげき木立に南をふさがれて、残れる雪の夥多おびただしきが泥交どろまじりに踏散されたるを、くだんの車は曳々えいえい挽上ひきあげて、取着とつき土塀どべい由々ゆゆしく構へて、かどには電燈を掲げたるかたにぞりける。
 こは富山唯継が住居すまひにて、その女客は宮が母なり。あるじとくに会社に出勤せし後にて、例刻にきたれる髪結の今方帰行かへりゆきて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重もんはぶたへ肉色鹿子にくいろがのこを掛けたる大円髷おほまるわげより水はるばかりに、玉の如きのどを白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気かぜけなどにや、しきり打咳うちしはぶきつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。そのゆゑとも覚えずあまりしる面羸おもやつれは、唯一目に母が心をおどろかせり。
 ひまある身なれば、宮は月々生家さとなる両親を見舞ひ、母も同じほどひ音づるるをば、此上無こよなき隠居の保養と為るなり。まことに女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎におほいなる手柄をも成したらんやうに吾がれるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合しあはせ薄くて、有様ありようは気の毒なる人達かな、とそぞろに己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山のかどを入るは、まさに人の母たる成功の凱旋門がいせんもんすぐる心地もすなるべし。
 可懐なつかしきと、嬉きと、なほ今一つとにて、母は得々いそいそと奥に導れぬ。久く垂籠たれこめて友欲き宮は、すくひを得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或はひそかに貫一の報をもたらせるにはあらずやなど、げても念じつつ、せめてはうれひに閉ぢたる胸をしばらくもゆるうせんとするなり。
 母は語るべき事の日頃蓄へたる数々をきて、先づ宮が血色の気遣きづかはしく衰へたる故をなじりぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己のやつれたるをおそれつつも、
「さう? でも、何処どこも悪い所なんぞ有りはしません。あんまり体をいごかさないから、その所為せゐかも知れません。けれども、この頃は時々気がふさいで鬱いでたまらない事があるの。あれは血の道とふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者にてもらふ方が可いよ、放つてくから畢竟ひつきよう持病にもなるのさ」
 宮は唯うなづきぬ。
 母は不図思起してや、さも慌忙あわただしげに、
「後が出来たのぢやないかい」
 宮は打笑うちゑみつ。されども例の可羞はづかしとにはあらで傍痛かたはらいたき余を微見ほのみせしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日いつまでも沙汰さたが無くちや困るぢやないか。本当にだそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねておいでだか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父おとつさんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、おこりきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭いやに落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前はせんの内は子供が所好すきだつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
 宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのがせんだよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、てもらふのも変だし……けれどもね、阿母おつかさん、私はとうから言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持がくないの。その所為せゐで自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
 母のその目は※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはり、そのひざすすみ、その胸はつぶれたり。
「どうしたのさ!」
 宮はうつむきたりし顔を寂しげに起して、
わたしね、去年の秋、貫一かんいつさんに逢つてね……」
「さうかい!」
 己だに聞くをはばかる秘密の如く、母はそのこたふる声をも潜めて、まして四辺あたりには油断もあらぬ気勢けはひなり。
何処どこで」
「内の方へも全然まるきり爾来あれからの様子は知れないの?」
「ああ」
ちつとも?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
 かくわづかに応ふるのみにて、母は自らわかせる万感の渦のうちに陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父おとつさんは内証で知つておいでぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
 宮はその梗概あらましを語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場をのがれ得てし始末をつまびらかにするをちて、始めて重荷を下したるやうに※(「口+孛」、第4水準2-3-90)と息をきぬ。に彼は熱海の梅園にて膩汗あぶらあせしぼられし次手ついで悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍ふびんとも、いぢらしとも、今更に親心をいたむるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙しようげあるひきたるべきを案じて、母はなかなか心穏こころおだやかならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采なりをして、何だか大変やつれて、私もきまりが悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄みすぼらしい様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵わにぶちとかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処そこに居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処いつしよに居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
 彼は襦袢じゆばんそではし※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶた※(「沙/手」、第4水準2-13-11)りて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
 母の顔色もあやしき寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出おもひださない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭いやな夢なんぞを度々たびたび見るの。阿父おとつさんや、阿母おつかさんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話しにくいやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終しよつちゆう苦になる所為せゐで気をいためるから体にもさはるのぢやないかと、さう想ふのです」
 思凝おもひこらせるやうに母は或方を見据ゑつつ、ことばは無くてうなづきゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧やつぱり鴫沢しぎさわの跡は貫一さんにとらして下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方ゆきがたが知れなかつたから為方がないけれど、聞合せればぢきに分るのだから、それをはふつていちや此方こつちが悪いから、阿父さんにでも会つてもらつて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通これまでどほりに内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家うちの跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟のさかづきをして、何処までも生家さとの兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
 宮がこのことばは決して内に自ら欺き、又敢て外にひとを欺くにはあらざりき。影ともはかなへだての関の遠き恋人として余所よそに朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんとこひねがへるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんもくお言ひのさ、如何いかに何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古ほごにしたと云ふので、としの若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上もちつとは考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこどこちつと考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵つらあてがましい仕打振をするつてが有るものかね。
 それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでもひとりで勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初かりそめにも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望のぞみなら洋行もせやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなにばちも当りはしまいと思ふのさ。さうしておまけに、阿父さんから十分に訳を言つて、頭をげないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方こつちには少しも無理は無いはずだのに、貫一があんまり身の程を知らなすぎるよ。
 それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返おんがへしなら、行処ゆきどこの無いからだを十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
 全く、お前、貫一の為方しかたは増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛かはゆくはないのだからね、今更此方こつちから捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
 その不見識とやらをきらふよりは、別に嫌ふべく、おそるべく、いましむべき事あらずや、と母はひそかおもひはかれるなり。
阿父おとつさんや阿母おつかさんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労がなくなるのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
 かく言出でし宮が胸は、ここにことごとくその罪を懺悔ざんげしたらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、かへつて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為せゐで体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実にたまらない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何とつたら可いのだらう――私があんなに不仕合ふしあはせな身分にしてしまつたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐おそろしいやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。ほかには何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなにうれしからうと、そんな事ばかり考へてはふさいでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当さしあたり阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
 されども母は投首なげくびして、
「私の考量かんがへぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は※(「馮/几」、第4水準2-3-20)あてにはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
 涙含なみだぐみつつ宮が焦心せきごころになれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
 我にもあらでほとばしる泣声を、つと袖におさへても、宮は急来せきくる涙をとどめかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑をかしな人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡りようけんがあるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父おとつさんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母おつかさんは私の心を知らないのだから、頼効たのみがひが無い、とふのよ」
多度たんとお言ひな」
「言ふわ」
 真顔作れる母は火鉢ひばちふちとん煙管きせるはたけば、他行持よそゆきもちしばらからされてゆるみし雁首がんくびはほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。

第四章


 頭部に受けし貫一が挫傷ざしようは、あやふくも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体したい数個所すかしよの傷部とともに、その免るべからざる若干そくばくの疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復こうふくの歩をひて、可艱なやましげにも自ら起居たちゐたすけ得る身となりければ、一日一夜をす事も無く、ベッドの上に静養をつとめざるべからざる病院の無聊ぶりようをば、ほとんど生きながら葬られたらんやうにこうじつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
 主治医も、助手も、看護婦も、附添婆つきそひばばも、受附も、小使も、乃至ないし患者の幾人も、皆目をそばめて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁しげしげやまひを訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入しゆつにゆうするなれば、うはさおのづから院内にひろまりて、博士のぼうさへつひそそのかされて、垣間見かいまみの歩をここにげられしとぞ伝へはべる。始の程は何者の美形びけいとも得知れざりしを、医員の中に例のくるしめられしがありて、名著なうて美人びじクリイムともらせしより、いとど人の耳を驚かし、目をよろこばす種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
 さりとは彼のさとるべき由無けれど、何のかどもあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふをおもてにして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さはへ、こはなさけ掛※かけわな[#「(箆−竹−比)/民」、233-15]と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人ひととなりにくみて、そのかたちの美きを見ず、その思切おもひせつなるを汲まんともせざるに、なほかつぬしある身のあやまりて仇名あだなもや立たばなど気遣きづかはるるに就けて、貫一は彼の入来いりくるに会へば、冷き汗の湧出わきいづるとともに、創所きずしよにはかうづき立ちて、唯異ただあやしくもおのれなる者の全くしびらさるるに似たるを、吾ながら心弱しととがむれどもかひ無かりけり。に彼は日頃このわづらひを逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上によこたはれれば、宛然さながら爼板まないたに上れるうをの如く、むなしく他の為すにまかするのみなる仕合しあはせを、※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)かきむしらんとばかりにもだゆるなり。
 かかるくるし枕頭まくらもとに彼は又驚くべき事実を見出みいだしつつ、ひるがへつて己を顧れば、測らざる累の既におよべる迷惑は、その藁蒲団わらぶとんの内にはりの包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分さんぶわづらひて、内にかへつて七分しちぶを憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念けねんせしが、果して鰐淵わにぶちは彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をもほぼすいし得たるなり。
 例のわづらしき人は今日もつ、しかもあだならずこころめたりとおぼしき見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付よせつけじとやうに彼方あなたを向きて、覚めながら目をふさぎていと静にしたり。附添婆つきそひばばの折から出行いでゆきしをうかがひて、満枝は椅子をにじり寄せつつ、
はざまさん、間さん。貴方あなた、貴方」
 と枕のはしを指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方あなたへ廻り行きて、彼の寐顔ねがほ差覗さしのぞきつ。
「間さん」
 猶答へざりけるを、軽く肩のあたりうごかせば、貫一はさるをも知らざるまねはしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐なつかしげに差寄りたるかたちを改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
わたくし貴方にちよつとお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだゐらしつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
 彼のへだて無く身近にるるを可忌うとましと思へば、貫一はわざと寐返ねがへりて、椅子を置きたるかたに向直り、
「どうぞ此方こちらへ」
 この心をさとれる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでにあつかはれながら、なほこの人を慕はではまぬ我身かと、かひ無くも余に軽くもてあそばるるを可愧はづかしうてたたずみたり。されども貫一はすぐに席を移さざる満枝の為に、再びことばを費さんともざりけり。
 気嵩きがさなる彼は胸に余して、聞えよがしに、
※(「口+矣」、第4水準2-3-94)ああ、貴方には軽蔑けいべつされてゐる事を知りながら、何為なぜわたくし腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
 満枝は彼の枕をとらへてふるひしが、貫一の寂然せきぜんとしてまなこを閉ぢたるにますますいらだちて、
あんまひどうございますよ。間さん、何とか有仰おつしやつて下さいましな」
 彼は堪へざらんやうににがりたる口元を引歪ひきゆがめて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有ありがた迷惑で……」
「何と有仰おつしやいます!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……※(感嘆符二つ、1-8-75)
 満枝はまゆげて詰寄せたり。貫一は仰ぎてまなこふたぎぬ。
 もとより彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相のおのれに対しては更にはなはだしきを加ふるをも善く知れり。満枝が手管てくだは、今そのおもてあらはせるやうにして内にこらへかねたるにはあらず、かくしてその人といさかふも、また※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはざる恋の内にいささか楽む道なるを思へるなり。涙微紅ほのあかめたる※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶた耀かがやきて、いつか宿せるあかつきはなびらに露の津々しとどなる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。わたくしも貴方に度々たびたび来て戴くのははなはだ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶うつとしがつて、如何いかに何でもそんなになさるものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなにこまつてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭いやなことを有仰おつしやつたのです。私ちつともかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
 聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答うけこたへだにざるなり。
「実はとうからお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭いやな事を自分の口から吹聴らしく、かへつて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵さんのかれこれ有仰おつしやるのは今に始つた事ではないので、もう私実にこまつてをるのでございます。始終好い加減なことを申してはげてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁しげしげいらつしやるので、度々たびたびお目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰おつしやつて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申してしまひました」
「え!」と貫一は繃帯ほうたいしたる頭をもたげて、彼の有為顔したりがほゆるし難く打目戍うちまもれり。満枝はさすがあやまちを悔いたる風情ふぜいにて、やをら左のたもとひざ掻載かきのせ、牡丹ぼたんつぼみの如くそろへる紅絹裏もみうらふりまさぐりつつ、彼のとがめおそるる目遣めづかひしてゐたり。
「実にしからん! ※(「言+荒」の「亡」に代えて「氓のへん」、第4水準2-88-68)ばかなことを有仰おつしやつたものです」
 しをるる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
 彼をかつせしいかりに任せて、なかば起したりしたいを投倒せば、腰部ようぶ創所きずしよを強くてて、得堪えたへずうめき苦むを、不意なりければ満枝はことまどひて、
「どう遊ばして? 何処どこぞお痛みですか」
 手早く夜着よぎを揚げんとすれば、払退はらひのけて、
「もうお還り下さい」
 言放ちて貫一は例のそびらを差向けて、にはか打鎮うちしづまりゐたり。
わたくし還りません! 貴方がさう酷く有仰おつしやれば、以上還りません。いつまでも居られるからだではないのでございますから、おとなしく還るやうにして還して下さいまし」
 いとはしたなくて立てる満枝はドアくに驚かされぬ。入来いりきたれるは、附添婆つきそひばばか、あらず。看護婦か、あらず。国手ドクトルの回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
 胡麻塩羅紗ごましほらしやの地厚なる二重外套にじゆうまわしまとへる魁肥かいひの老紳士は悠然ゆうぜんとして入来いりきたりしが、内の光景ありさまを見るとひとしく胸悪き色はつとそのおもてでぬ。満枝は心にすこあわてたれど、さしもあらはさで、しとやかに小腰をかがめて、
「おや、おいであそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
 同く慇懃いんぎんに会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼かなつぼまなこは光をたくましう女の横顔を瞥見べつけんせり。静にしたる貫一は発作パロキシマきたれる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行ただゆきを迎ふれば、
「どうぢやな。え方がお見舞に来てをつて下さるで、えの」
 打付うちつけに過ぎしことばを二人ともに快からず思へば、とみいらへは無くて、その場のしらけたるを、さこそとはんやうに直行のひとり笑ふなりき。如何いかに答ふべきか。如何に言釈いひとくべきか、如何に処すべきかを思煩おもひわづらへる貫一はむづかしげなる顔をやや内向けたるに、今はなかなか悪怯わるびれもせで満枝は椅子の前なる手炉てあぶりに寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又おせはしいところを度々お見舞下されては痛入いたみいります。それにこれの病気も最早うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来おで下さるのは何分お断り申しまする」
 言黒いひくろめたる邪魔立を満枝は面憎つらにくがりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手ついでがありますのでございますから、その御心配には及びません」
 直行のまなこは再び輝けり。貫一はなまじひに彼をくるしめじと、かたはらよりことばを添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、かへつてわたくしは迷惑致すのですから、どうか貴方から可然しかるべく御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、わたくし差控へませう」
 満枝は色をして直行を打見遣うちみやりつつ、そのおもて引廻ひきめぐらして、やがてあらかた目戍まもりたり。
「いや、いや、な、して、そんな訳ぢや……」
あんまりな御挨拶で! 女だと思召おぼしめして有仰おつしやるのかは存じませんが、それまでのお指図さしづは受けませんでよろしうございます」
「いや、そんなに悪う取られてははなはだ困る、畢竟ひつきよう貴方あんたの為を思ひますじやにつて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何でわたくし不為ふためになるのでございませう」
「それにお心着こころづきが無い?」
 その能く用ゐる微笑をろうして、直行はたくみに温顔を作れるなり。
 満枝はやや急立せきたちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子をなごが度々出入でいりしたら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひやすい、えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様あかがしさんと云ふ者のある貴方のからだきずが付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
 陰にはおのれ自ら更にはなはだしき不為をひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑をかし、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有ありがたう存じます。私はとにかく、間さんはこれからおうつくしい御妻君をお持ち遊ばす大事のおからだでゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今これからつつしみますでございます」
「これはえらい失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方とうそにもかれこれいはるるんぢやから、どんなにもうれしいぢやらう、わしのやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりやまいにな」
 貫一は苦々しさに聞かざるまねしてゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君がゐらつしやるのですから、余り頻繁しげしげ上りますと……」
 後は得言はで打笑める目元のこび、ハンカチイフを口蔽くちおほひにしたる羞含はぢがましさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心しておいでかな。わしは赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰おつしやつて下さいまし。わたくし此方こなたへ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方あなたから御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんはかへつて私の伺ふのを懊悩うるさ思召おぼしめしてゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障めざはりか知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなになさらなくてもよろしいではございませんか。
 然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、たくへおいでになつた御帰途おかへりみちにこの御怪我おけがなんでございませう。それに、だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂つのかみざかへおいでなさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、そのみちでこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでおよろこびが無いのでございませう」
 彼はいとつらしとやうに、うらめしとやうに、さては悲しとやうにも直行をるなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、ひそか金壺眼かなつぼまなこの一角をとろかしつつ眺入ながめいるにぞありける。
「さやうかな。如何いかさま、それで善う解りましたじや。えらい御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又わしからも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなにおもうて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうかしりぞくるやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨ててけんで。年寄と云ふ者は、これでとかくきらはるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
 赤髭あかひげひねり拈りて、直行は女の気色けしき偸視ぬすみみつ。
「さやうでございます。お年寄は勿論もちろん結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧くちやかましくてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難きむづかしうもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? えらう嫌うたもんですな」
もつとも年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方こつちから好きましても、さきで嫌はれましては、何のかひもございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方あんたのやうな方が此方こつちから好いたと言うたら、どんな者でも可厭いや言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰おつしやつて! 如何いかがでございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
 椅子も傾くばかりに身をそらして、彼はわざとらしく揺上ゆりあげ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
如何いかがですか、さう云ふ事は」
 たれからす雌雄しゆうを知らんとやうに、貫一は冷然としてうそぶけり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らうはずはございませんわ。ほほほほほほほほ」
 そのわざとらしさは彼にもゆづらじとばかり、満枝は笑ひはやせり。
 直行がまなこは誰を見るとしも無くてひと耀かがやけり。
「それでは私もうおいとまを致します」
「ほう、もう、お帰去かへりかな。わしもはや行かん成らんで、其所そこまで御一処に」
「いえ、私ちよつと、あの、西黒門町にしくろもんちようへ寄りますでございますから、はなはだ失礼でございますが……」
「まあ、よろしい。其処そこまで」
「いえ、本当に今日こんにちは……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座あさひざの株式一件な、あれがついまとまりさうぢやで、この際お打合うちあはせをして置かんと、『琴吹ことぶき』の収債とりたてが面白うない。お目に掛つたのがさいはひぢやから、ちよつとそのお話を」
「では、明日みようにちにでも又、今日はと急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
 しばらおし問答の末彼はつひに満枝をらつし去れり。あとに貫一は悪夢の覚めたる如くしきり太息ためいき※(「口+句」、第3水準1-14-90)いたりしが、やがてん方無げにまくらに就きてよりは、見るべき物もあらぬかたに、果無はてしなく目を奪れゐたり。

第五章


 檜葉ひばもみなどの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯うららかなる日影のみぞゆたか置余おきあまして、そこらの梅の点々ぼちぼちと咲初めたるも、おのづから怠り勝に風情ふぜい作らずと見ゆれど、春の色香いろかでたるはあはれむべく、打霞うちかすめる空に来馴きなるるひよのいとどしく鳴頻なきしきりて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々せきせきたるに、たまたま響くは患者の廊下をゆるう行くなり。
 枕の上の徒然つれづれは、この時人を圧してほとんど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一はからうじて夢を結びゐたり。彼はに夢ならでは有得べからざるあやしき夢にもてあそばれて、みづからも夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほねむりの中にとらはれしを、端無はしなく人の呼ぶにおどろかされて、やうやものうき枕をそばだてつ。
 愕然がくぜんとして彼はひとみこらせり。ベッドのかたはらに立てるは、その怪き夢の中にあらはれて、終始相離あひはなれざりし主人公その人ならずや。打返し打返しれども訪来とひきたれる満枝にまぎれあらざりき。とはへ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢のうちなるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺あたり可輝かがやかしく、五六歳いつつむつばかりもわかやぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路むそぢに余れる夫有つまもてる身とたれかは想ふべき。
 髪を台湾銀杏たいわんいちようといふに結びて、かざりとてはわざと本甲蒔絵ほんこうまきゑくしのみをしたり。黒縮緬くろちりめんの羽織に夢想裏むそううら光琳風こうりんふうの春の野を色入いろいりに染めて、納戸縞なんどじまの御召の下に濃小豆こいあづき更紗縮緬さらさちりめん紫根七糸しこんしちん楽器尽がつきつくしの昼夜帯して、半襟はんえりは色糸のぬひある肉色なるが、えりの白きをにほはすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛きらきらうるさし。今日はことして来にけるを、得堪えたへず心のとがむらん風情ふぜいにてたたずめる姿すがた限無かぎりななまめきて見ゆ。
「おやすみのところを飛んだ失礼を致しました。わたくしあがはずではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、ちよつと伺ひましたのでございますから、今日こんにちのところはどうか御堪忍ごかんにんあそばして」
 彼のゆるしを得んまでは席に着くをだにはばかる如く、満枝はただよはしげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆるいかりおさふるとともに貫一のことばは絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたらよろしいのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰おつしやらずに……」
「失礼します。今日こんにちは腰の傷部きずが又痛みますので」
「おや、それは、おきついことはおあんなさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽にゐらしつて」
 貫一は無雑作に郡内縞ぐんないじま掻巻かいまき引被ひきかけてしけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤まめやかかしづきて、やがておのれも始めて椅子にれり。
貴方あなたの前でこんな事は私申上げにくいのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰おつしやるので、湯島ゆしまの天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭いやらしい事をもうもう執濃しつこく有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事をうたぐつて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効としがひの無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召おぼしめしてゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者にたはむれるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、んだ八当やつあたりで貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、あしからず……。
 今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこはよろしいやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とかちよつとでも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜きらひぬいておいであそばすわたくしのやうな者と訳でもあるやうに有仰おつしやられるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とおあきらめ遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私はなほ因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果とふのでございませうね」
 金煙管きんぎせるたばこひと杳眇ほのぼのくゆるを手にせるまま、満枝ははかなさの遣方無やるかたなげにしをれゐたり。さるをも見向かず、いらへず、がんとして石の如くよこたはれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、せめてさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思がとほつたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日いつぞや私がこんなに思つてゐることを何日いつまでもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何いかがなのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、きはめて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼のおもてしたたか怨視うらみみまたたきず、その時人声してドアしづかきぬ。
 案内せる附添のばばは戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑こころまどひせらるるていにて、彼にさへ可慎つつましう小声に言付けつつ名刺を渡せり。
 満枝は如何なる人かとちらと見るに、白髪交しらがまじりのひげは長く胸のあたりに垂れて、篤実の面貌痩おもざしやせたれどもいやしからず、たけは高しとにあらねど、もとより※(「月+溲のつくり」、第4水準2-85-45)ゆたかにもあらざりし肉のおのづかよはひおとろへに削れたれば、冬枯の峰にけるやうにそびえても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽おくゆかしくて、誰とも知らねどさすがにおろそかならず覚えて、彼は早くもこのまらうどの席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三しぎさわりゆうぞうしるしたり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕おどろきに駆れて、たちまち身をひるがへして其方そなたを見向かんとせしが、ほとんど同時に又枕して、つひに動かず。狂ひ出でんずる息をきびしく閉ぢて、もゆるばかりにいかれるまなこは放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思をつつめる一点の涙は不覚にまろでぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
此方こちらへお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、けがらはしと投返せば床の上に落ちぬ。彼はひて目をふさぎ、身のふるふをば吾と吾手に抱窘だきすくめて、恨は忘れずともいかりは忍ぶべしと、むちうたんやうにも己を制すれば、髪は逆竪さかだうごめきて、頭脳のうち沸騰わきのぼる血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫みだれさすなり。彼はこれと争ひてなほも抑へぬ。面色はやうやく変じて灰の如し。婆はおそれたる目色めざしを客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、ことわつて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰おつしやつてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

(五)の二


 婆は鴫沢しぎさわの前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様うしろさまつかねたるままに受取らで、ひておもてやはらぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分だいぶ久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それではよろしい。わしぢかにお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 と思案せる鴫沢の椅子あるかたに進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席をすすめぬ。
「貫一さん、わしだよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室のすみに婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、あるひは指図もし、又自ら持来もちきたりて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方あなたを向きて答へず。仔細しさいこそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝はよそに見つつもあはれ可笑をかしかりき。
「貫一さんや、わしだ。とうにも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然さつぱり知れんので。一昨日おとつひふと聞出したから不取敢とりあへずかうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我おほけがださうではないか」
 なほも答のあらざるを腹立はらだたしくは思へど、満枝の居るをさいはひに、
てをりますですかな」
「はい、如何いかがでございますか」
 彼はこの長者のくるしめるをよそに見かねて、貫一が枕に近く差寄りてうかがへば、涙の顔をしとね擦付すりつけて、急上せきあげ急上げ肩息かたいきしてゐたり。何事とも覚えずおどろかされしを、色にも見せず、怪まるるをもことばいださず、ちとの心着さへあらぬやうにもてなして、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向らん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼はおもてを伏せて又言はず、満枝は早くもその意をすいして、また多くは問はず席にかへりて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰おつしやるのでございます」
 長きひげ推揉おしもみつつ鴫沢は為方無せんかたなさに苦笑にがわらひして、
「人違とは如何いかなことでも! 五年や七年会はんでもわしだそれほど老耄ろうもうはせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、ちよつとでも会うて貰ひませう」
 挨拶あいさつ如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来これまで為方しかた、又今日のこの始末は、ちと妥当おだやかならんではあるまいか。とにかく鴫沢のをぢに対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にもすこしく言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方こちらでは既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、けつして身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方そちらの身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切ろうばしんせつ。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日こんにちも五年前も同じ考量かんがへで居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日こんにちまでも誤解されてゐるのはいよいよ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。およ此方こちら了簡りようけんを誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為にはかつて、さうしてわづか行違ゆきちがひから恨まれる、恩にせうとて謀つたではないが、恨まれやうとはたれにしても思はん。で、ああしてむつましう一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふつもりであつたものを、僅の行違から音信不通いんしんふつうなかになつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、わしも誠に寐覚ねざめが悪からうと謂ふもの、実にをばとも言暮してゐるのだ。私の方では何処どこまでも旧通もとどほりになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡がけんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたらぢきに訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へまゐつて、のう、そもそもお前さんを引取つてから今日こんにちまでの来歴を在様陳ありようのべて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、とちやんとお分疏ことわりを言うて、そして私は私の一分いちぶんを立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便たよりんのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
 私は考へる、たとへばこの鴫沢のをぢの為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何いかにも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当おだやかに事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処そこだ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様いかさま手落があつたで、そのわびも言はうし、又昔も今も此方こちらには心持に異変かはりは無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日こんにちは何も言はずに清う会うてくれ」
 かつて聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝はあやしき興を覚えて耳を傾けぬ。
 我強がづよくも貫一のなほものいはんとはせざるに、やうやこらへかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客のことばを尽せるにもことわり聞えて、無下むげうちも棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語をいださず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂いはれはあらんと推測おしはからるれば、一も二も無く満枝は恋人にくみしてこの場の急をすくはんと思へるなり。
 枕頭まくらもとうかがひつつ危む如く眉をあつめて、鴫沢のいまだ言出でざる時、
わたくし看病に参つてをります者でございますが、何方様どなたさまでゐらつしやいますか存じませんが、この一両日いちりようにち病人は熱の気味で始終昏々うとうといたして、時々譫語うはごとのやうな事を申して、泣いたり、おこつたり致すのでございますが、……」
 頭を捻向ねぢむけて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時ことさらに解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱もぢきれまするさうでございますから、又改めておいでを願ひたう存じます。今日こんにちは私御名刺をいただいて置きまして、お軽快こころよくなり次第私からくはしくお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方しかたもございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日こんにちは又如何いかが致したのでございますか、昨日とはまるで反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇むやみなことを申されるよりは始末がよろしいでございます」
 かくても始末は善しと謂ふかと、をぢ打蹙うちひそむべきをひてへたるやうのゑみもらせば、満枝はその言了いひをはせしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶をすすめて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所もしるしてあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵わにぶちさんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁をもらうたと聞きましたが、如何いかがいたしましたな」
 彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
 容儀かたち人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲きらきらしう装飾よそほひかざれる様は色を売るたぐひにやと疑はれざるにはあらねど、言辞ものごし行儀の端々はしはしおのづからさにもあらざる、畢竟ひつきようこれ何者と、鴫沢は容易にその一斑いつぱんをもすいし得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆いつはりならんとは想ひぬ。ただしき筋の知辺しるべにはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根しようねも腐れ、身持もくづれたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁をつなぐべきものにあらず。如此かくのごとやから出入でいりせしむる鴫沢の家は、つひに不慮のわざはひを招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中にはかおそれを生じて、さては彼の恨深くことばれざるをさいはひに、今日こんにち一先ひとまづ立還たちかへりて、ほ一層の探索と一番の熟考とをげて後、きたくは再び来らんもおそからず、と失望のうち別に幾分の得るところあるをひそかに喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、わたくしは」と紫根塩瀬しこんしほぜの手提のうちより小形の名刺を取出だして、
はなはだ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝あかがしみつえさまと有仰おつしやいますか」
 この女の素性にける彼の疑はますます暗くなりぬ。夫有つまもてる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無にげなし、まして裏面うらに横文字を入れたるは、猶可慎なほつつましからず。応対のしとやかにして人馴ひとなれたる、服装みなりなどの当世風に貴族的なる、あるひ欧羅巴ヨウロッパ的女子職業に自営せる人などならずや。但しそのあまり色美いろよきが、又さるきはには相応ふさはしからずも覚えて、こはつひに一題のうるはしなぞを彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇ぶあしらひいきどほるをも忘れて、このなぞの為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来いりきたれば、ベッドの上に貫一の居丈高ゐたけだかに起直りて、痩尽やせすがれたるこぶしを握りつつ、咄々とつとつ、言はで忍びし無念に堪へずして、ひと疾視しつしひとみこらすに会へり。

第六章


 数日前すじつぜんより鰐淵わにぶちが家は燈点あかしともる頃を期して、何処いづこより来るとも知らぬ一人の老女ろうによとはるるが例となりぬ。その人はよはひ六十路むそぢ余にかたふきて、顔はしわみたれど膚清はだへきよく、切髪きりがみかたちなどなかなかよしありげにて、風俗も見苦からず、ただ異様なるは茶微塵ちやみじん御召縮緬おめしちりめん被風ひふをも着ながら、更紗さらさの小風呂敷包に油紙の上掛うはがけしたるを矢筈やはずに負ひて、薄穢うすきたな護謨底ゴムぞこの運動靴をいたり。
 所用は折入つてあるじに会ひたしとなり。生憎あいにくにも来るたび他出中なりけれど、本意無ほいなげにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯はやうやく怪しと思初おもひそめぬ。
 彼のあだかも三日続けてきたれる日、その挙動の常ならず、ことには眼色凄まなざしすごく、はばかりも無く人を目戍まもりては、時ならぬにひと打笑うちゑむ顔の坐寒すずろさむきまでに可恐おそろしきは、狂人なるべし、しかも夜にるをうかがひ、時をもたがへずおとなひ来るなど、我家にたたりすにはあらずや、とお峯はにはかおそれいだきて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはやかへり来にけるなり。
「どうも貴方あなた、あれは気違ですよ。それでも品のいことは、ちよいとまあ旗本か何かの隠居さんとつたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、せた面長おもながな、こはい顔なんですね。戸外おもてへ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。いつでもきまつて、『頼みます、はい頼みます』とかうしとやかに、ゆつくり二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然ぞつとして、ああ可厭いやだ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。あかしともるには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難むづかしげにまゆを寄せ、くちびるを引結びて、
「何者か知らんて、一向心当こころあたりと謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られてはたまりませんから、貴方本当に来ましたら、とつくり説諭して、もう来ないやうになすつて下さいよ」
「そりや受合へん。さきが気違ぢやもの」
「気違だからわたしも気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
幾多いくら頼まれたてて、気違ぢやもの、おれも為やうは無い」
 頼めるつまのさしも思はで頼無たのみなことばに、お峯は力落してかつはすくなからず心あわつるなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡してりませう」
 直行は打笑うちわらへり。
「まあ、そんなに騒がんともえ」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違のえものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
 知らず、その老女ろうによは何者、狂か、あらざるか、合力ごうりよくか、物売か、はたあるじ知人しりびとか、正体のあらはるべき時はかかるうちにも一分時毎にちかづくなりき。
 終日ひねもす灰色に打曇りて、薄日をだにをしみてもらさざりし空はやうやく暮れんとして、弥増いやます寒さはけしからず人にせまれば、幾分のしのぎにもと家々の戸は例よりも早くさされて、なほ稍明ややあかくその色厚氷あつこほりを懸けたる如き西の空より、隠々いんいんとして寂き余光の遠くきたれるが、にはかに去るに忍びざらんやうに彷徨さまよへるちまた此処彼処ここかしこに、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白きほのほを放てり。
 一陣の風は砂をきて起りぬ。怪しの老女ろうによはこの風に吹出ふきいだされたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪さかだちて、披払はたはたひるがへ裾袂すそたもとなびかされつつただよはしげに行きつ留りつ、町の南側を辿たどり辿りて、鰐淵が住へる横町にりぬ。銃槍じゆうそう忍返しのびがへしを打ちたる石塀いしべいあふれて一本ひともとの梅の咲誇れるを、ななめに軒ラムプの照せるがそのかどなり。
 彼はほとんど我家に帰りきたれると見ゆる態度にて、※(「にんべん+從」、第4水準2-1-81)つかつかと寄りて戸をけんとしたれど、啓かざりければ、かのしとやかゆるしと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
 風は※(「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8)ひようひようと鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯はすくみて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
 に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立こなべだてせる火鉢ひばちかど猪口ちよくき、あかして来よとをんなに命じて、玄関に出でけるが、づ戸の内より、
「はい何方どなたですな」
旦那だんなはお宅でございませうか」
「居りますが、何方どなたで」
 答はあらで、つぶやくか、※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやくか、小声ながらしきりに物言ふが聞ゆるのみ。
何方どなたですか、お名前は何と有仰おつしやるな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花はなはやつぱりこの梅がよろしからうと存じます。さあ、どうぞ此方こちらへお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
 けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩うちたたきてはげし案内あないす。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにてはふとも立去るまじきに、一度ひとたびは会うてとにもかくにもんと、心ならずも戸を開けば、聞きしにたがはぬ老女ろうによ入来いりきたれり。
「鰐淵はわしじやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
 つと乗出のりいだしてそのおもてひとみを据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれてたちまち寒くをののけるなり。つくづくと見入るまなこを放つと共に、老女は皺手しわでに顔をおほひて潜々さめざめ泣出なきいだせり。あきれ果てたる直行は金壺眼かなつぼまなここらしてその泣くを眺むる外はあらざりけり。
 彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、わしに用と云ふのは?」
 朽木のおのづかくづれ行くらんやうにも打萎うちしをれて見えし老女は、猛然もうねんとして振仰ぎ、血声をしぼりて、
「この大騙おほかたりめ!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之まさゆきのやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国かいのくにの住人武田大膳太夫たけだだいぜんだゆう信玄入道しんげんにゆうどう田夫野人でんぷやじんの為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井かしわいすうちやんがお嫁に来てくれれば、わたしの仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てるやぶは有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見みずのあの雅之、うも能うもおのれはだましたな! さあ、さあさかたきを討つから立合ひなさい」
 直行は舌を吐きて独語ひとりごちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
 見る見る老女のいかりは激して、形相ぎようそう漸くおどろおどろしく、物怪もののけなどの※(「馮/几」、第4水準2-3-20)いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯のまばらなるをきばの如くあらはして、一念のれるまなじりは直行のほかを見ず、
歿なくなられた良人つれあひから懇々くれぐれも頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子ひとりつこ、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方このほうを女とあなどつてさやうな不埒ふらちを致したか。長刀なぎなたの一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
 彼はたちまちさも心地快ここちよげに笑へり。
「さうあらうとも、ゆるします。内にはすうちやんが今日をはれと着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致きりようと云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、よみかき針仕事はりしごと、そんなことは言つてゐるところではない。くびを長くして待つておいでだのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物はきものはここに在るよ。なあに、おまへ私はね、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやで行くから訳は無いとも」
 かく言ふ間もせはしげに我が靴を脱ぎて、其処そこに直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結なかゆひを釈きて、直行が前に上掛うはがけの油紙をひろげたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。ぢきに落ちるから、早く落してお了ひなさい」
 さすがに持扱もてあつかひて直行の途方に暮れたるを、老女は目をほそめて、何処いづこより出づらんやとばかり世にもあやしき声をはなちてゆるく笑ひぬ。彼は謂知いひしらぬ凄気せいきに打れて、覚えず肩をそびやかせり。
 懲役と言ひ、雅之と言ふにりて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之あくらまさゆきは、私書偽造罪をつて彼の被告としてこの十数日ぜん、罰金十円、重禁錮じゆうきんこ一箇年に処せられしなり。にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
 爾思しかおもへりしのみにて直行はその他になほも思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼のはかりて陥れたるなり。
 彼等の用ゐる悪手段のうちに、人のるを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合はなしあひの上は貸さんととなへていざなひ、しかる後、ただし証書のていを成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然しかるべき親族知己しるべなどの名義を私用して、在合ふ印章をさしめ、もとより懇意上の内約なればそのいつはりなるをとがめず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、いつ焦眉しようびの急に迫り、いつは期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息こそくして、この術中には陥るなりけり。
 期に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて還さざらんか、彼はたちま爪牙そうがあらはし、陰に告訴の意を示してこれをおびやかし、散々に不当の利をむさぼりて、その肉尽き、骨枯るるの後、※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)く無き慾は、更にくだんの連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰おもてざたにせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここにおいたれか恐慌し、狼狽ろうばいし、悩乱し、号泣し、死力をつくして七所借ななとこがり調達ちようだつを計らざらん。この時魔の如き力はのんどやくしてその背を※(「てへん+府」、第4水準2-13-22)つ、人の死と生とはすべて彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
 雅之もこのわな[#「(箆−竹−比)/民」、265-5]かかりて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻はたんに及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為はつひに第二百十条の問ふところとなりぬ。
 法律は鉄腕の如く雅之をらつし去りて、あまつさへつゑに離れ、涙によろぼふ老母をば道のかたはら※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)けかへして顧ざりけり。ああ、母は幾許いかばかりこの子に思をけたりけるよ。親につかへて、此上無こよなう優かりしを、柏井かしわいすずとて美き娘をも見立てて、この秋にはめあはすべかりしを、又この歳暮くれにはかた有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆みぬ、彼は人のよはひせざる国法の罪人となりをはれり。耻辱ちじよく、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
 無益むやくことばを用ゐんより、唯手柔ただてやはらかつまみ出すにかじと、直行は少しもさからはずして、
「ああよろしいが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんからおもてへ行かう。さあ一処に来た」
 狂女は苦々しげにかしらりて、
「お前さんの云ふことは皆うそだ。その手で雅之をだましたのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着だまくらかして、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札いつさつをこの通り入れたぢやないか、これでも※(「白/(白+白)」、第3水準1-88-65)しらじらしい顔をしてゐるのか」
 打披うちひろげたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香うつりがにや、胸悪き一種の腥気せいきありておびただしく鼻をちぬ。直行はなほも逆はでむ無くおもてそむけたるを、狂女は目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりつつ雀躍こをどりして、
「おおおお、あれあれ! これはうれしい、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
 地には落さじとやうにあわ※(「りっしんべん+草」、第4水準2-12-63)ふためき、油紙もて承けんとる、その利腕ききうでをやにはにとらへて直行は格子こうしの外へ※(「てへん+雙」、第4水準2-13-63)おしださんと為たり。彼はおされながら格子にすがりて差理無理しやりむり争ひ、
「ええ、おのれはひとをこのがけから突落す気だな。この老婦としより騙討だましうちに為るのだな」
 わめきつつ身を捻返ねぢかへして、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷ふみすべらして尻居に倒るれば、彼ははやし立てて笑ふなり。たちまち起上りし直行は彼の衿上えりがみ掻掴かいつかみて、力まかせに外方とのかた突遣つきやり、手早く雨戸を引かんとせしに、きしみて動かざるひまに又駈戻かけもどりて、狂女はそのすさましき顔を戸口にあらはせり。余りの可恐おそろしさに直行は吾を忘れてその顔をはたとち、ひるむところを得たりととざせば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊くつどろぼう大騙おほかたり! 首を寄来よこせ」
 直行はたたずみて様子をうかがひゐたり。抜足差足ぬきあしさしあし忍びきたれる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
 夫は戸の外をゆびさしてなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴ゴムぐつと油紙との遺散おちちれるを見付けて、由無よしなき質を取りけるよとおもわづらへる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
 と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫どうぶるひして、長くここにとどまるに堪へず、夫を勧めて奥にりにけり。
 戸叩く音はのちたゆまず響きたりしが、直行の裏口より出でてうかがひける時は、風吹荒ふきすさかどの梅の飛雪ひせつの如く乱点して、燈火のほのかに照す処その影は見えざるなりき。
 次の日も例刻になれば狂女は又ひ来れり。あるじは不在なりとて、をんなをして彼ののこせし二品ふたしなを返さしめけるに、前夜のれに暴れし気色けしきはなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
 お峯はその翌日も必ずきたるべきをおそれて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試にをんないだして不在のよしを言はしめしに、こたびはぢきに立去らで、
「それぢやお帰来かへりまでここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
 彼は戸口かどぐちうづくまりて動かず。婢は様々に言作いひこしらへてすかしけれど、一声も耳にはらざらんやうに、石仏いしぼとけの如く応ぜざるなり。彼はむ無くこれを奥へ告げぬ。直行もすべあらねば棄措すておきたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
 お峯は心苦こころぐるしがりて、この上は唯警察の手を借らんなどさわぐを、直行は人をわづらはすべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払おひはらふべき手立てだてのありやと責むるに、害をすにもあらねば、宿無犬やどなしいぬの寝たると想ひてこころかくるなとのみ。こころくまじき如きをことさらに夫には学ばじ、と彼は腹立はらだたしく思へり。この一事いちじのみにあらず、お峯は常に夫の共にはかると謂ふこと無くて、女童をんなわらべあなどれるやうに取合はぬ風あるを、口惜くちをしくも可恨うらめしくも、又或時は心細さの便無たよりなき余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明しんめい冥護みようごらんと、八百万やほよろづの神といふ神は差別無しやべつなく敬神せるが中にも、ここに数年ぜんより新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体とあがめたるは、その光紫の一大明星みようじようにて、御名おんな大御明尊おおみあかりのみことと申す。天地渾沌てんちこんとんとして日月じつげついまだ成らざりし先高天原たかまがはらに出現ましませしにりて、天上天下万物のつかさと仰ぎ、もろもろの足らざるを補ひ、すべて欠けたるをまつたうせしめんの大御誓おほみちかひをもて国土百姓をやすらけく恵ませ給ふとなり。彼はつとに起信して、この尊をば一身一家いつけ守護神まもりがみと敬ひ奉り、事と有れば祈念をこらしてひとへに頼み聞ゆるにぞありける。
 この夜は別して身をきよめ、御燈みあかしの数をささげて、災難即滅、怨敵退散おんてきたいさんの祈願をめたりしが、翌日あくるひ点燈頃ひともしごろともなれば、又来にけり。夫は出でていまだ帰らざれば、今日ののしさわぎて、内に躍入をどりいることもやあらば如何いかにせんと、前後のわかれ知らぬばかりに動顛どうてんして、取次には婢をいだり、みづから神棚かみだなの前に駈着かけつけ、顫声ふるひごゑ打揚うちあげ、丹精をぬきんでて祝詞のりとりゐたり。狂女は不在と聞きてあへて争はず、昨日きのふの如く、ここにて帰来かへりを待たんとて、おなじき処に同き形してうづくまれり。婢は格子をし固めて内にりけるが、しばらくは音も為ざりしに、にはかに物語る如き、あるひののしる如き声のしきりに聞ゆるよりあるじの知らで帰来かへりきて、とらへられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗さしのぞけば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここのあるじに欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃あとさきぶぞろひに泣いつ怒りつ訴ふるなり。

第七章


 子のかたきなる直行が首をんとして夕々ゆふべゆふべに狂女の訪ひ来ること八日に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およべり。浅ましとは思へど、ひて去らしむべきにあらず、又門口かどぐちに居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措すておかるるなりき。直行が言へりし如く、畢竟ひつきよう彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たるとはなはえらばざるべけれど、縮緬ちりめん被風ひふ着たる人の形の黄昏たそがるる門の薄寒きにつくばひて、灰色の剪髪きりがみ掻乱かきみだし、妖星ようせいの光にも似たるまなこ睨反ねめそらして、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見ればいかり、おのれの胸のやうにそこひも知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてそのかなしみと恨とを訴へ、なまぐさき油紙をひねりては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、つひにはこの家にたたりすべき望をくるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄をつんざき、いはほを砕くのためし、ましてや家をめつし、人をみなごろしにすなど、ちりを吹くよりもやすかるべきに、可恐おそろしや事無くてあれかしと、お峯はひと謂知いひしらず心をいたむるなり。
 夫はして雅之の私書偽造をおのれの陥れしたくみなりとは彼に告げざれば、悪はまさしく狂女の子に在りて、此方こなたに恨を受くべき筋は無く、おのづからかかる事も出来いでくるは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒かしだふれの損耗あるを思へば、所詮しよせんたふし、仆さるるはあきなひの習と、お峯はおのづかこころを強うして、この老女ろうによくるひを発せしを、夫のせるわざとはつゆも思ひよするにあらざりき。さはへ、人の親の切なるなさけを思へば、にさぞと肝にこたふる節無ふしなきにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、あやしわざはひにもふなればと唯思過ただおもひすごされては窮無きはまりな恐怖おそれの募るのみ。
 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時しばらくかどに居て動かざるは、その妄執もうしゆう念力ねんりきめて夫婦をのろふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地はたとへん方無く悩されぬ。されば狂女のかどに在る間は、大御明尊おおみあかしのみこと御前おんまへ打頻うちしき祝詞のりとを唱ふるにあらざればしのあたはず。かかるうちにも心にちとゆるみあれば、煌々こうこう耀かがやわたれる御燈みあかしかげにはかくらみ行きて、天尊てんそん御像みかたちおぼろ消失きえうせなんと吾目わがめに見ゆるは、納受のうじゆの恵にれ、擁護おうごの綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念をめ、けむりを立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。やりは降りても必ずべし、と震摺おぢおそれながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何いかにしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返さえかへりたるこの日の寒気ははりもてはだへに霜をうらんやうに覚えしめぬ。外には烈風はげしきかぜいかさけびて、樹を鳴し、いへうごかし、砂をき、こいしを飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるるほこりおほはれて、一天くらく乱れ、日色につしよくに濁りて、こと物可恐ものおそろしき夕暮の気勢けはひなり。
 鰐淵がかどともし硝子ガラスを二面まで吹落されて、火は消え、ラムプはくつがへりたり。内の燈火あかしは常よりあざやかあるじが晩酌の喫台ちやぶだいを照し、火鉢ひばちけたるなべの物は沸々ふつふつくんじて、はや一銚子ひとちようしへたるに、いまだ狂女の音容おとづれはあらず。お峯はなかば危みつつも幾分の安堵あんどの思をもてあそび喜ぶ風情ふぜいにて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もういつもきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されてしまひませうから。ああ、ほんに天尊様の御利益ごりやくがあつたのだ」
 夫が差せる猪口ちよくを受けて、
「おあひをしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時にいただくとおいしいものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方あなた。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然いよいよ今晩は来ないときまりましたね。ぢや、戸締とじまりして了ひませうか、ほんに今晩のやうな気の霽々せいせいした、しんの底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿いのちちぢめたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒ごしゆもおいしいものですね。なあにあの婆さんが唯怖ただこはいのぢやありませんよ。それは気味きびは悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無くすごくてたまらないのです。あれが来ると、悚然ぞつと、惣毛竪そうけだつてからだすくむのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着とつつかれでもするやうな気がして、あの、それ、く夢で可恐おそろしい奴なんぞに追懸おつかけられると、げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
 銚子をへてをんな持来もちきたれば、
きんや、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅あんばいでございます」
「お前には後でお菓子を御褒美ごほうびに出すからね。貴方あなた、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭いやなことを有仰おつしやいまし」
 吹来ふききたり、吹去る風は大浪おほなみの寄せては返す如く絶間無くとどろきて、そのはげしきは柱などをひちひちと鳴揺なりゆるがし、物打倒すひしめき、引断ひきちぎる音、圧折へしおる響は此処彼処ここかしこに聞えて、唯居るさへにきもひやされぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶てつびんの湯気は雲をくことしきりなれど、更に背面を圧するさむさ鉄板てつぱんなどや負はさるるかと、飲めども多くひ成さざるに、直行は後をきてまず、お峯も心祝こころいはひの数を過して、その地顔のあかきをば仮漆布ニスしきたるやうに照り耀かがやかして陶然たり。
 狂女は果してざりけり。よろこへるお峯も唯へる夫も、褒美もらひし婢も、十時近きころほひには皆寐鎮ねしづまりぬ。
 風はなほよこしまに吹募りて、高きこずゑははきの掃くが如くたわめられ、まばらに散れる星の数はつひ吹下ふきおろされぬべく、層々れるさむさほとんど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色はますまくらく、益すすさまじからんとす。たちまちこの黒暗々をつんざきて、鰐淵が裏木戸のあたり一道いちどうの光は揚りぬ。低くおこりて物にさへぎられたれば、何の火ともわきまへ難くて、その迸発ほとばしりあかけむれる中に、母家もやと土蔵との影はおぼろあらはるるともなく奪はれて、またたくばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又うつろふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時しばしあかりを保ちたりしが、風のわづかの絶間をぬすみて、閃々ひらひら納屋なやの板戸を伝ひ、始めてのぼれるほのほ炳然へいぜんとして四辺あたりを照せり。塀際へいぎはに添ひて人のかたち動くと見えしが、なほ暗くて了然さだかならず。
 数息すそくの間にして火の手は縦横にはびこりつつ、納屋の内に乱入れば、噴出ふきいづる黒烟くろけふりの渦はあるひくづれ、或は畳みて、その外を※(「韋+慍のつくり」、第3水準1-93-83)ひきつつむとともに、見えわたりし家も土蔵もうづたか※(「黯のへん+甚」、第4水準2-94-61)あんたんの底に没して、闇は焔に破られ、焔はけふり揉立もみたてられ、けむりは更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢のおびただしければ、猶ほ所狭ところせみなぎりて、文目あやめも分かず攪乱かきみだれたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然さだかならざりし形はこの時あきらかに輝かされぬ。宵にべかりし狂女のたたずめるなり。をどり狂ふ烟の下に自若として、おもてただれんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。に彼は火の如何いかえ、如何にくや、とおごそかるが如くまなじりを裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟とほのほとの相雑あひまじはり、相争あひあらそひ、相勢あひきほひて、力の限を互にふるふをば、いみじくもたりとや、そぞろゑみもらせる顔色がんしよくはこの世にたぐふべきものありとも知らず。
 風の暴頻あれしき響動どよみに紛れて、寝耳にこれを聞着ききつくる者も無かりければ、誰一人いでさわがざる間に、火は烈々めらめら下屋げやきて、くりやの燃立つ底より一声叫喚きようかんせるはたれ、狂女は※(「口+喜」、第3水準1-15-18)ききとして高く笑ひぬ。

(七)の二


 人々出合ひて打騒うちさわころほひには、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々よりほのほいだし、はや如何いかにとも為んやうあらざるなり。さしもの強風ごうふうなりしかど、消防つとめたりしにりて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて鎮火するを得たり。雑踏のうちより怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りもやらざりしがとらはれしなり。
 火元と認定せらるる鰐淵方わにぶちかた塵一筋ちりひとすぢだに持出もちいださずして、あはれむべき一片の焦土をのこしたるのみ。家族の消息はただちに警察の訊問じんもんするところとなりぬ。をんなは命辛々からがら迯了にげおほせけれども、目覚むるとひとし頭面まくらもとは一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨よびすてにして走りでければ、あるじたちは如何いかになりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、あやまちなど有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
 熱灰ねつかいの下より一体のかばねなかば焦爛こげただれたるが見出みいだされぬ。目も当てられず、浅ましういぶせき限を尽したれど、あるじの妻とたやすく弁ぜらるべき面影おもかげ焚残やけのこれり。さてはとそのちかくを隈無くまな掻起かきおこしけれど、他に見当るものは無くて、倉前とおぼしあたりより始めて焦壊こげくづれたる人骨を掘出ほりいだせり。ひて遁惑にげまどひしゆゑか、むさぼりて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦あるじふうふはこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜のけふりとなりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外にもとむべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔ちようえんたんえんの紛糾する処に、ひとり無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道ただみちは旅行中にていまかへらず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着かけつけたり。彼は三日の後には退院すべき手筈てはずなりければ、今は全くえて務を執るをも妨げざれど、事のきはめて不慮なると、急激なると、瑣小さしようならざるとに心惑こころまどひのみせられて、病後の身をてこれに当らんはいとくるしかりけるを、尽瘁じんすいして万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙えあげざりし病人の今かくすこやかに起きて、常に来ては親く慰められし人のかたくなにも強かりしを、むなし燼余じんよの断骨に相見あひみて、弔ふことばだにあらざらんとは、貫一のにはかにそのまことをば真としあたはざるところなりき。人は皆死ぬべきものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族をめての一人も余さず、家倉と共に焚尽やきつくされて一夜の中にはかなくなりをはれるに会ひては、おのれが懐裡ふところの物の故無ゆゑなく消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何いかに成りなんをもはかられざるをと、無常の愁はしきりはらわたむなりけり。
 住むべき家の痕跡あとかたも無く焼失せたりとふだに、見果てぬ夢の如し、ましてあはせて頼めしあるじ夫婦をうしなへるをや、音容おんようまぼろしを去らずして、ほとほと幽明のさかひを弁ぜず、あまつさへ久く病院の乾燥せる生活にこうじて、この家をおもふこと切なりければ、追慕の情はきはまりて迷執し、めては得るところもありやと、夜のおそきに貫一はいちなる立退所たちのきじよを出でて、つゑたすけられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。
 連日風立ち、寒かりしに、この夜はにはかゆるみて、おぼろの月の色もあたたかに、曇るともなく打霞うちかすめる町筋は静に眠れり。燻臭いぶりくさき悪気は四辺あたり充満みちみちて、踏荒されし道は水に※(「執/水」、第3水準1-87-3)しとり、もえがらうづもれ、焼杭やけくひ焼瓦やけがはらなど所狭く積重ねたる空地くうちを、火元とて板囲いたがこひ得為えせず、それとも分かぬ焼原の狼藉ろうぜきとして、鰐淵が家居いへゐは全く形を失へるなり。黒焦に削れたるみきのみ短く残れる一列ひとつらの立木のかたはらに、つちくれうづたかく盛りたるは土蔵の名残なごりと踏み行けば、灰燼の熱気はいまだ冷めずして、ほのかおもてつ。貫一は前杖まへづゑ※(「てへん+(麈−鹿)」、第3水準1-84-73)いて悵然ちようぜんとしてたたずめり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨をおこせし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉のきれの棄てられたるやうにあかける満地の瓦を照して、目にるものは皆伏し、四望の空く寥々りようりようたるに、黒く点せる人の影を、彼はおのづか物凄ものすごく顧らるるなりき。
 立尽せる貫一が胸には、在りし家居のさまの明かに映じて、あかく光れるお峯が顔も、にがき口付せるあるじおもても眼に浮びて、歴々まざまざ相対さしむかへる心地もするに、しばらくはその境におのれを忘れたりしが、やがてしづかに仰ぎ、徐にして、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭おしぬぐひつ。彼はうたた人生の凄涼せいりようを感じて禁ずるあたはざりき。いやしくもその親める者の半にして離れそむかざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨をのこし、或はこの奪はれしかなしみひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者はき、※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)けいぜんとして吾独われひとり在り。在るが故によろこぶべきか、きが故にいたむべきか、在る者は積憂の中にき、亡き者は非命のもとたふる。そもそもこのかつとこの死とはいづれあはれみ、孰をかなしまん。
 吾が煩悶はんもんの活を見るに、彼等が惨憺さんたんの死と相同あひおなじからざるなし、但殊ただことにするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありていささか吾が活のくるしきをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死のいたましきを弔ふに足らんか。吾がちようは断たれ、吾が心はやぶれたり、彼等が肉はただれ、彼等が骨は砕けたり。活きて爾苦しかくるしめる身をも、なほさすがにたましひぬべく打駭うちおどろかしつる彼等が死状しにざまなるよ。産を失ひ、家を失ひ、なほも身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへどもいまかつ如此かくのごとき虐刑のはづかしめを受けず、犬畜生の末までも箇様かようごうさらさざるに、天か、めいか、あるは応報か、しかれどもひとり吾が直行をもて世間に善をさざる者とすなかれ。人情は暗中にやいばふるひ、世路せいろは到る処に陥穽かんせいを設け、陰に陽に悪を行ひ、不善をさざるはなし。し吾が直行の行ふところをもてとがむべしと為さば、誰か有りてとがめられざらん、しかもなほはなはだしきを為して天も憎まず、命もうすんぜず、応報もこれをさくるもの有るを見るにあらずや。彼等の惨死さんしはづかしむるなかれ、たまたま奇禍を免れ得ざりしのみ。
 かくおもへる貫一は生前しようぜん誼深よしみふかかりし夫婦の死を歎きて、この永きわかれ遣方やるかたも無く悲み惜むなりき。さて何時いつまでかここに在らんと、主の遺骨をいだせしあたりを拝し、又妻のかばねよこたはりし処を拝して、心佗こころわびしく立去らんとしたりしに、彼は怪くもにはかに胸の内の掻乱かきみだるる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路やみぢの奥に打棄てられたるを悲く、あはれなほ少時しばし留らずやと、いとめて乞ひすがると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土にいこへり。
 に彼も家の内に居て、遺骸なきがらの前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人のそばにも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらんおもひして、立てたる杖に重きかしらを支へて、夫婦が地下にもたらせし念々を冥捜めいそうしたり。やがて彼は何の得るところや有りけん、しげき涙は滂沱はらはらほほを伝ひてこぼれぬ。
 夜陰にとどろく車ありて、一散にとばきたりけるが、焼場やけばきはとどまりて、ひらり下立おりたちし人は、ただちに鰐淵が跡の前に尋ね行きてあゆみとどめたり。
 焼瓦やけがはら踏破ふみしだかるる音におもてもたげたる貫一は、くだんの人影の近く進来すすみくるをば、誰ならんと認むるひまも無く、
「間さんですか」
「おお、貴方あなたは! お帰来かへりでしたか」
 その人は待ちに待たれし直道なり。貫一はいそがはしく出迎へぬ。向ひて立てる両箇ふたり月明つきあかりおもてを見合ひけるが、おのおの口吃くちきつしてにはかに言ふ能はざるなりき。
「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」
「はい。このたびは留守中と云ひ、別してお世話になりました」
わたくしは事の起りました晩はだ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつてやうや駈着かけつけたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽ろうばいされる方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多のこりおほい事を致しました」
 直道はふさぎしまなこたゆげに開きて、
「何もかも皆焼けましたらうな」
「唯一品ひとしな、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」
「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」
かねも少しは在りませうが、帳簿、証書の類がおもでございます」
「貸金に関した?」
「さやうで」
「ええ、それが焼きたかつたのに!」
 口惜くちをしとの色はしたたかそのおもてのぼれり。貫一は彼が意見の父と相容あひいれずして、年来としごろ別居せる内情をつまびらかに知れば、めてその喜ぶべきをも、かへつてかくうれひゆゑさとれるなり。
「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無さしつかへないのです。むしろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿なくなつたのも、わたくしであれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞみんなが喜んでゐるだらうと思ふと、唯親をなくなしたのが情無なさけないばかりではないのですよ」
 されどもせきへず流るるは恩愛の涙なり。彼をはばかりし父と彼をおそれし母とは、決して共に子として彼をいつくしむを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛をかうむりき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、そのきかれざりし恨より、親としてつかへざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。
 生暖なまあたたかき風は急にきたりてその外套がいとうの翼を吹捲ふきまくりぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無はしなく彼は憶起おもひおこして、さばかりはありのすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙いつしを与ふる者ぞ、我は今へいせられし測量地より帰来かへりきたれるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へてはるかはるかに隔つる世の人となりぬ。
 炎々たる猛火のうちに、その父と母とはくるしもだえてたすけを呼びけんは幾許いかばかりぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽あいえつ渾身こんしんをして涙に化しをはらしめんとするなり。
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方あなた一箇ひとりのお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日こんにちまで御両親をお持ちになつてゐられたのは、わたくしなどの身から見ると何よりお可羨うらやましいので、この世の中に親子の情愛ぐらゐいつはりの無いものは決して御座いませんな、私は十五のとしから孤児みなしごになりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊みくびられます。余り見縊られたのが自棄やけもとで、つひに私も真人間に成損なりそこなつて了つたやうな訳で。もとよりおのれの至らん罪ではありますけれど、そもそも親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合ふしあはせで、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳いくつになつたから親に別れて可いと理窟りくつはありませんけれど、いささか慰むるに足ると、まあ、思召おぼしめさなければなりません」
 貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如きためしはあらず、彼の物言はずとよりは、この人のにくとほざけたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくばつて殺さんとも念ずるなりければ、今彼がことば端々はしはしに人がましき響あるを聞きて、いとあやしと思へり。
「それでは、貴方真人間に成損なりそこなつたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
勿論もちろんでございます」
 直道はうつむきて言はざりき。
「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐ふてくされた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」
 彼はなほうつむき、なほ言はずして、うなづくのみ。
 夜はいたけにければ、さらでだに音をてる寂静しづかさはここに澄徹すみわたりて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙ふみにじる靴の下に、瓦のもろるるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物はこぼたれたる中に一箇ひとりは立ち、一箇ひとりいこひて、ことばあらぬ姿のわびしげなるに照すとも無き月影の隠々と映添さしそひたる、既に彷彿ほうふつとしてかなしみの図を描成ゑがきなせり。
 かくてしばらく有りし後、直道は卒然ことばいだせり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
 その声音こわね可愁うれはしき底にはなさけこもれりと聞えぬ。貫一はほぼ彼の意をさとれり。
「はい、難有ありがたうございます」
「どうですか」
「折角のおことばではございますが、わたくしはどうぞこのままにおき下さいまし」
「それは何為なぜですか」
「今更真人間にかへる必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶あいさつをして下さいな」
「いや、お気にさはりましたらおゆるし下さいまし。貴方とは従来これまで浸々しみじみお話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々おうはさを伺つて、く貴方を存じてをります。極潔ごくきよいお方なので、精神的にきずついたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、ただしい、すぐなお耳へはらんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、ねぢけた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流ききながしに願ひます」
「ああ、善く解りました」
「真人間になつてくれんかと有仰おつしやつて下すつたのが、私は非常にうれしいのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、つらいのでございます。そんな思をしつつ何為なぜしてゐるか! いは言難いひがたしで、精神的にひどきずつけられた反動と、思召おぼしめして下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒やけざけでもくらつて、からだこはして、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒はかず、腹を切る勇気は無し、究竟つまりは意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」
 彼のきよしと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見ほのめかしたる述懐の為にやや動されぬ。
「お話を聞いて見ると、貴方が今日こんにちの境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、くはしきかして下さいませんか」
「極な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事はひとには語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟つまり或事に就いて或者に欺かれたのでございます」
「はあ、それではお話はそれできませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決してづべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は不如いつそ父の前で死んで見せて、最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄ててはかん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾いかんで。一時に両親ふたおやに別れて、死目にもはず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうの無い……およそ人の子としてこれより上のかなしみが有らうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、いよいよ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難はのがれたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた事は今更為方が無いから、父のかはりに是非貴方に改心してもらひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念もれる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。
 成程、お話の様子では、こんな家業に身をおとされたのも、むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのはめて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上のよろこびは有りません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非をあらためて下さい」
 聴ゐる貫一は露のあしたの草の如く仰ぎず。語りをはれども猶仰ぎ視ず、如何いかにと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。
 たちま一閃いつせんの光ありて焼跡を貫く道のほとりを照しけるが、そのともしび此方こなたに向ひてちかづくは、巡査の見尤みとがめて寄来よりくるなり。両箇ふたりは一様に※(「目+是」、第4水準2-82-10)みむかへて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無くまなく彼等をさらしぬ。巡査は如何いかに驚きけんよ、かれもこれもおのおの惨としてあをおもてに涙垂れたり――しかもここは人の泣くべき処なるか、時はまさに午前二時半。
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続金色夜叉




与紅葉山人書


学海居士

紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。

第一章


 時をぜになりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前いちにんまへ睡量ねぶりだかおよそ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄おしつまりたる歳末の市中は物情恟々きようきようとして、世界絶滅の期のつひに宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさるさの気立けたたましく、肩相摩けんあひましてはきずつき、轂相撃こくあひうちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々こころごころに今をかぎりあわて騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月をあだに送りて、一秒のちりの積める弐千余円の大金を何処いづくにか振落し、後悔のしりに立ちて今更に血眼ちまなこ※(「目+登」、第3水準1-88-91)みひらき、草を分け、瓦をおこしても、その行方ゆくへを尋ねんと為るにあらざるなし。かかるひまにも常はただ一毛に値する一秒の壱銭乃至ないし拾銭にも暴騰せる貴々重々ききちようちようの時は、速射砲を連発つるべうちにするが如く飛過とびすぐるにぞ、彼等の恐慌は更に意言こころことばも及ばざるなる。
 その平生へいぜい怠無おこたりなかりし天は、又今日に何の変易へんえきもあらず、悠々ゆうゆうとしてあをく、昭々としてひろく、浩々こうこうとして静に、しかも確然としてそのおほふべきを覆ひ、終日ひねもす北の風をおろし、夕付ゆふづく日の影を耀かがやかして、師走しはすちりおもてに高く澄めり。見遍みわたせば両行の門飾かどかざりは一様に枝葉の末広く寿山じゆざんみどりかはし、十町じつちよう軒端のきばに続く注連繩しめなはは、福海ふくかいかすみ揺曳ようえいして、繁華を添ふる春待つ景色は、うたり行くとしこんおどろかす。
 かの人々の弐千余円を失ひて馳違はせちがふ中を、梅提げて通るはが子、猟銃かたげ行くは誰が子、と車をおなじうするは誰が子、啣楊枝くはへようじして好ききぬ着たるは誰が子、あるひは二頭だちの馬車をる者、結納ゆひのうの品々つらする者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋ずずつなぎにして勧工場かんこうばる者、彼等はおのおの若干そこばくの得たるところ有りて、如此かくのごとく自ら足れりとるにかあらん。これ等のすこしく失へる者は喜び、彼等の多く失へるはいは憂ひ、又まれには全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪あくそくとして、てるはけじ、虧けるは盈たんと、いづれかその求むるところに急ならざるはあらず。人の世はみつあしたより花の昼、月のゆふべにもそのおもひほかはあらざれど、勇怯ゆうきようは死地にりて始てあきらかなる年の関を、物の数ともざらんほどを目にも見よとや、空臑からすねゑひを踏み、鉄鞭てつべんき、一巻のブックをふところにして、嘉平治平かへいじひらはかま焼海苔やきのりつづれる如きを穿うがち、フラネルの浴衣ゆかたの洗ひ※(「日+麗」、第4水準2-14-21)ざらして垢染あかぞめにしたるに、文目あやめも分かぬ木綿縞もめんじま布子ぬのこかさねて、ジォンソン帽の瓦色かはらいろに化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗しまらしや二重外套にじゆうまわしいつの冬が不用をや譲られけん、尋常なみなみよりは寸のつまりたるを、身材みのたけの人より豊なるにまとひたれば、例の袴は風にや吹断ふきちぎれんとあやふくもひらめきつつ、その人はよはひ三十六七と見えて、※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)かたちやせたりとにはあらねど、寒樹の夕空にりて孤なる風情ふぜいひとり負ふ気無げなうるはしくも富める髭髯ひげは、下にはあたりまで※(「參+毛」、第3水準1-86-45)さんさんと垂れて、左右にひねりたるは八字のつるを巻きて耳の根にも※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびぬ。打見うちみれば面目めんもくさはやかに、稍傲ややおごれる色有れどさかしくはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺のべ辿たどるらんやうに、西筋の横町をこの大路にきたらんとす。
ひようむなししづかにして高楼にのぼり、酒を買ひ、れんを巻き、月をむかへてひ、酔中すいちゆうけんを払へばひかりつきを射る」
 彼はふしをかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色るりいろ夕栄ゆふばえて、にはかまさ※(「風にょう+拔のつくり」、第4水準2-92-33)こがらしの目口にみて磨錻とぎはりを打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘ふといきふいて、右に一歩左に一歩と※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめきつつ、
往々おうおう悲歌ひかしてひと流涕りゆうていす、君山くんざん※(「戔+りっとう」、第3水準1-14-63)さんきやくして湘水しようすい平に桂樹けいじゆ※(「石+欠」、第4水準2-82-33)しやくきやくして月さらあきらかならんを、丈夫じようふ志有こころざしありて……」
 とうたづる時、一隊の近衛騎兵このえきへい南頭みなみがしらに馬をはやめて、真一文字まいちもんじに行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭てつべんてて、舞立つ砂煙すなけむりの中にさきがけの花をよそほへる健児の参差しんさとして推行おしゆ後影うしろかげをば、さかんなるかないはまほしげに看送みおくりて、
われ四方しほうに遊びてこころを得ず、陽狂ようきようして薬を施す成都の
 とそぞろにその詩のはじめをば小声こごゑほがらかに吟じゐたり。さては往来ゆききいとまなき目も皆ひかれて、この節季の修羅場しゆらばひとり天下てんかくらへるは、何者の暢気のんきか、自棄やけか、豪傑か、さとりか、酔生児のんだくれか、とあやしき姿を見てすぐる有れば、おもてを識らんとうかがふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼はいたへればすべて知らず、町の殷賑にぎはひながりて、何方いづれを指して行かんとも心定らずしばらく立てるなりけり。
 さばかり人にあやしまるれど、彼は今日のみこの町に姿をあらはしたるにあらず、折々散歩すらんやうに出来いでくることあれど、箇様かようの酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査もめづらしと思へるなり。
 やがて彼は鉄鞭てつべん曳鳴ひきならして大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、いぬゐかたより狭き坂道の開きたるかどに来にける途端とたんに、風を帯びて馳下はせくだりたるくるまは、生憎あいにく其方そなた※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめける酔客すいかく※(「月+賺のつくり」、第4水準2-85-43)よわごしあたり一衝撞ひとあてあてたりければ、彼は郤含はずみを打つて二間も彼方そなた撥飛はねとばさるるとひとしく、大地に横面擦よこづらすつてたふれたり。不思議にも無難に踏留ふみとどまりし車夫は、この麁忽そこつに気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのままかぢを回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾くろあや吾妻あづまコオト着て、素鼠縮緬すねずみちりめん頭巾被づきんかぶれる婦人は樺色無地かばいろむじ絹臘虎きぬらつこ膝掛ひざかけ推除おしのけて、めよ、返せともだゆるを、なほ聴かで曳々えいえいき行くうしろより、
「待て、こら!」とかつする声に、行く人の始て事有りとさとれるも多く、はや車夫の不情をとがむることばも聞ゆるに、たまりかねたる夫人はしひ其処そこに下車して返りきたりぬ。
 例の物見高き町中なりければ、このせはしきはをも忘れて、寄来よりく人数にんずありの甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土につくばへる周辺めぐりを擁し、一面には婦人の左右にひて、目に物見んと揉立もみたてたり。婦人はみちを来つつ被物かぶりものを取りぬ。紋羽二重もんはぶたへ小豆鹿子あづきかのこ手絡てがらしたる円髷まるわげに、鼈甲脚べつこうあし金七宝きんしつぽうの玉の後簪うしろざしななめに、高蒔絵たかまきゑ政子櫛まさこぐしかざして、よそほひちりをもおそれぬべき人のひ知らず思惑おもひまどへるを、可痛いたはしのあらしへぬ花のかんばせや、と群集くんじゆおのづから声ををさめて肝にこたふるなりき。
 いと更におもてつつまほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞はづかしさと切なさとは幾許いかばかりなりけん、打赧うちあかめたる顔はき所あらぬやうに、人堵ひとがきの内を急足いそぎあし辿たどりたり。帽子も鉄鞭てつべんも、ふところにせしブックも、薩摩下駄さつまげたかたしも投散されたる中に、酔客すいかくは半ば身をもたげて血を流せる右の高頬たかほを平手におほひつつ寄来よりくる婦人を打見遣うちみやりつ。彼はその前にわるびれず会釈して、
「どうも取んだ麁相そそうを致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目をちましたか、まあどうも……」
「いやたいした事は無いのです」
「さやうでございますか。何処どこぞお痛め遊ばしましたでございませう」
 腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣きづかへるなり。
 車夫は数次あまたたびこしかがめて主人の後方うしろより進出すすみいでけるが、
「どうも、旦那だんな、誠に申訳もございません、どうか、まあひらに御勘弁を願ひます」
 まなこ其方そなたに転じたる酔客はいかれるとしもなけれど声粛こゑおごそかに、
「貴様は善くないぞ。麁相そそうを為たと思うたら何為なぜ車をめん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥をかかする」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
 くるまの主の身をくだしてことばを添ふれば、彼も打頷うちうなづきて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
 やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従のよろこび引易ひきかへて、見物の飽気無あつけなさは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、あまりに落着の蛇尾だび振はざるを悔みて、はや忙々いそがはしきびすかへすも多かりけれど、又見栄みばえあるこの場の模様に名残なごりを惜みつつ去りへぬもありけり。
 車夫は起ち悩める酔客をたすけて、履物はきものを拾ひ、むちを拾ひて宛行あてがへば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、ねんごろ外套がいとうはかまの泥を払はしめぬ。ゆるされし罪は消えぬべきも、歴々まざまざ挫傷すりきずのそのおもてに残れるを見れば、やましきに堪へぬ心は、なほすべき事あるををしみてわたくしせるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷いたましとながめたりしに、その眼色まなざしやうやく鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びてはまもりつつ便無びんなげにたたずみけるに、いでや長居は無益むやくとばかり、彼は蹌踉よろよろ踏出ふみいだせり。
 婦人はとにもかくにも遣過やりすごせしが、又何とか思直おもひなほしけん、にはかに追行きて呼止めたり。かしら捻向ねぢむけたる酔客は※(「目+毛」、第3水準1-88-78)くもれるまなこと見据ゑて、われひとかといぶかしさにことばいださず。
「もしお人違ひとちがひでございましたら御免あそばしまして。貴方あなたは、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身をかへして、ちようと立てたる鉄鞭にり、こはこれ白日の夢か、空華くうげの形か、正体見んと為れど、酔眼のむなしく張るのみにて、ますまれざるはうたがひなり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、わたくし荒尾です」
「あのはざま貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
わたくし鴫沢しぎさわの宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰おつしやる……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
 奇遇に驚かされたる彼のゑひとみなかばは消えて、せめて昔のおもかげを認むるや、とその人を打眺うちながむるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
 宮はよろこび勇みてひしと寄りぬ。
 今はうつくしくるまの主ならず、路傍の酔客ならず名宣合なのりあへるかれとこれとの思は如何いかに。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りていとしかりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞はらからにも得べからざるしたしみて、ひざをもまじへ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇をかぞへざりしなり。よしさりとも、ひとたび同胞はらから睦合むつみあへりし身の、弊衣へいいひるがへして道にひ、流車を駆りて富におごれる高下こうげ差別しやべつおのづかしゆ有りてせるに似たる如此かくのごときを、彼等は更に更にゆめみざりしなり。そのかぞへざりし奇遇とゆめみざりし差別しやべつとは、咄々とつとつ、相携へて二人の身上しんじようせまれるなり。女気をんなぎもろき涙ははや宮の目に湿うるほひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
貴方あなたも変りましたな!」
 さしも見えざりしおもての傷の可恐おそろしきまでにますます血をいだすに、宮は持たりしハンカチイフを与へてぬぐはしめつつ、心も心ならず様子をうかがひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
 彼は何やらん吩咐いひつけて車夫を遣りぬ。
ぢきこの近くに懇意の医者が居りますから、其処そこまでいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、おあぶなうございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でおいであそばしまし」
「いんや、よろしい、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
 宮は胸先むなさきやいばとほるやうにおぼゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやないはずです」
 生きたる心地もせずして宮のをののけるかたはらに、車夫は見苦みぐるしからぬ一台の辻車つじぐるまを伴ひきたれり。やうやおもてあぐれば、いつ又寄りしとも知らぬ人立ひとたちを、可忌いまはしくも巡査の怪みてちかづくなり。

第二章


 鬚深ひげふか横面よこづら貼薬はりくすりしたる荒尾譲介あらおじようすけは既にあを酔醒ゑひさめて、煌々こうこうたる空気ラムプの前に※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだもあらぬはかまひざ丈六じようろくに組みて、接待莨せつたいたばこの葉巻をくゆしつつ意気おごそかに、打萎うちしをれたる宮と熊の敷皮をななめに差向ひたり。こはこれ、彼のれるとひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははやいとぐちを解きしなるべし。
はざまが影を隠す時、僕にのこした手紙が有る、それでくはしい様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕もふるへて腹が立つた。すぐ貴方あなたに会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹のゆるほど※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)うちのめして、一生結婚の成らんやう立派な不具かたはにしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間がことばを尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕のことばれやう道理が無い。又間をきらうた以上は、貴方は富山への売物じや。ひとの売物にきずを附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢もたてたまらん胸を※(「沙/手」、第4水準2-13-11)さすつてしまうたんです」
 宮が顔を推当おしあてたる片袖かたそではしより、しきりまゆひそむが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつたはざまさへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方をうらむばかりではあきたらん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生しちしようまで怨む、きつと怨む!」
 つひに宮が得堪えたへぬ泣音なくねれぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子いつぷじよしに棄てられたが為に志をくじいて、命をなげうつたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何いかに不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てたゆゑに、彼が今日こんにちの有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女のみさをを破つたのみでない。あはせて夫を刺殺さしころしたも……」
 宮は慄然りつぜんとして振仰ぎしが、荒尾の鋭きまなじりは貫一がうらみうつりたりやと、その見る前に身の措所無おきどころな打竦うちすくみたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟かいごされたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日こんにちに及んでの悔悟はすでおそい。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水はくつがへつた。盆は破れてしまうたんじや。かう成つた上は最早もはや神の力もおよぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自らせる罪のむくいで、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
 宮はうつむきてよよと泣くのみ。
 ああ、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、いかで争で吾が罪をゆるすべき。ああ、吾が罪はつひゆるされず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
 宮は胸潰むねつぶれて、涙の中に人心地ひとここちをも失はんとすなり。
 おのれ、利を見て愛無かりし匹婦ひつぷ、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがにじようは動くなりき。宮は際無はてしなく顔を得挙えあげずゐたり。
「然し、好う悔悟をなすつた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟につて自ら容されたんじや」
 由無よしな慰藉なぐさめは聞かじとやうに宮はしながらかしらりて更に泣入りぬ。
みづからにても容されたのは、たれにも容されんのにはまさつてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうとふもの。僕はだ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日こんにちの貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者のはざまの胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうしていづれが多くあはれむべきであるかと謂へば、間の無念はそもそもどんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
 かうして今日こんにち図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、かたじけないと思うた事も幾度いくたびか知れん、その媛友レディフレンドに何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐なつかしう思ひました」
 宮は泣音なくねほとばしらんとするを咬緊くひしめて、濡浸ぬれひたれるそで犇々ひしひしおもて擦付すりつけたり。
「けれど又、円髷まるわげに結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、して可愛かはゆうはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有るといはるる、善し、あの様に間をいつはつた貴方じや、又僕を幾何どれほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)うちのめしてくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕はひそかに喜んで聴いたのです。今日こんにちの貴方はやはり僕のフレンドの宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍のきずを附けにやかへさんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。
 で、間に取成してくれい、わびを言うてくれい、とのおたのみぢやけれど、それは僕はん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
 かうして親友のかたきに逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭いやことばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好ごきげんよう、これでおいとまします」
 会釈して荒尾の身を起さんとする時、
しばらく、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙ふりあげて、重きまぶたの露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑をなすつては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはりわたくしゆるさんと有仰おつしやるので御座いますか」
「さうです」
 せはしげに荒尾は片膝かたひざ立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今ただいまぢきに御飯が参りますですから」
「や、めしなら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍かんにんなすつて下さいまし」
 火鉢ひばちふちに片手をかざして、何をか打案ずるさまなる目を※(「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93)そらしつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入ききいれはあるまいと私はあきらめましたから、貫一かんいつさんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
 咄嗟とつさに荒尾の視線は転じて、猶語続かたりつづくる宮がおもてかすりぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何いかにも悪かつた事を思ふ存分あやまりたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。もとより容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
 宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましてもいので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
 感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、たちまちその長きひげを振りてうなづけり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好ういはれた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継ただつぐと云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
 して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方あなたは富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効はなくなつて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
 無慙むざんくちびるみて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
わたくしはもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、とうから棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如いつそさうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考むかんがへな、訳の解らん人に僕はくみすることは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡りようけんぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓ふらちです! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕はむしろ富山を不憫ふびんに思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸をあはれまんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、いよいよ憎むべきは貴方じや」
 四途乱しどろ湿うるほへる宮の目はゆらんやうに耀かがやけり。
「さう有仰おつしやつたら、私はどうして悔悟したらよろしいので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召おぼしめしておをしへなすつて下さいまし」
「僕には誨へられんで、貴方がまあう考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々ぶらぶらまるわづらつてをるやうな気分で、ああもうこんななら、いつそ死んでしまはう、とつくづくさうは思ひながら、たつたもう一目、一目で可うございますから貫一かんいつさんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それではあんまりでございますわ」
 ひとりに余る心細さに、宮は男のたもとを執りて泣きぬ。理切ことわりせめて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞むねふさがれて、にもと覚ゆる宮が衰容やつれすがたまなここらしゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召してたのみに成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、おをしへなすつて下さいまし」
 涙にれてそのことばは能くも聞えず、階子下はしごしたの物音は膳運ぜんはこづるなるべし。
 果して人の入来いりきて、夕餉ゆふげまうけすとて少時しばしまぎらされし後、二人はふべからざるわびしき無言の中に相対あひたいするのみなりしを、荒尾は始て高くしはぶきつ。
「貴方の言るる事はう解つてをる、決して無理とは思はんです。如何いかにも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量かんがへとどまるので……いや、いや、そりやいはれん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、いはんや誨ふべき事ではない、だ僕一箇の了簡としてはらの中に思うたまでの事、究竟つまり荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能なほよう考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出みいだしたら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住すまひ? 居住は、まあ言はん方が可い、あまなれば宿も定めずじや。言うても差支さしつかへは無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何いかにも、こんななりをしてをるので、貴方は吃驚びつくりなすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
 酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事はまれです。かたじけない、折角の御忠告ぢやから今後はよろしい、気を着くるです。
 力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
 間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事もすこぶる有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日あす訪ねてくれい? さうはかん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世うきよ可厭いやか、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日こんにちの有様では生効いきがひの無い方じやけれど、このままでむなしく死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論ましですさ。何故なにゆゑ命が惜いのか、考へて見るとすこぶわからなくなる」
 語りつつ彼は食ををはりぬ。
嗚呼ああ、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
 宮は差含さしぐむ涙をすすれり。尽きせぬかなしみを何時までか見んとやうに荒尾はにはかに身支度して、
「こりや然しかへつてお世話になりました。それぢや宮さん、おいとま
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
 はや彼は起てるなり。宮はその前にふさがりて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
 始てをしふるが如く言放ちて荒尾のかきのけ行かんとするを、彼は猶もすがりて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
 驚破すはや、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りもらぬ宮が姿は、さびしくも壁に向ひて動かざりけり。

第三章


 門々かどかどの松は除かれて七八日ななやうかも過ぎぬれど、なほ正月機嫌きげんの失せぬ富山唯継は、今日も明日あすもと行処ゆきどころを求めては、夜を※(「日/咎」、第3水準1-85-32)に継ぎて打廻うちめぐるなりけり。宮はいささかもこれもとがめず、出づるもるも唯彼のすに任せて、あだかも旅館のあるじらんやうに、かたばかりの送迎を怠らざるとふのみ。
 この夫に対する仕向しむけは両三年来の平生へいぜいを貫きて、彼の性質とも病身のゆゑとも許さるるまでに目慣めならされて又彼方あなたよりも咎められざるなり。それと共に唯継のおこなひ曩日さきのひとはやうやく変りて、出遊であそびふけらんとするかたむきしを、浅瀬あさせなみも無く近き頃よりにはか深陥ふかはまりしてうかるると知れたるを、宮はなほしもきて咎めず。ひと如何いかにともよ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易こころやすさをぬすみて、あやし女夫めをとの契をつなぐにぞありける。
 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終のうきやつれたる宮は決してうつくしき色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛はくべきにあらざりき。そもそもここにとつぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りてはただに愛無きにとどまらずして、ひそかいとひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でてうさはらすにいそがはしきにあらずや。されども彼の忘れずねぐらに帰りきたるは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了みをはれば、何ばかりのたのしみのあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉ストオブかたはらをらしむるなり。彼の凍えてでざること無し。づれば幸ひにその金力にりて勢を得、こびを買ひて、一時の慾をほしいままにし、其処そこには楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮がむなし色香いろかおぼれて、内にはかかる美きものを手活ていけの花とながめ、外には到るところに当世の※(「鬲+栩のつくり」、第3水準1-90-34)はぶしを鳴して推廻おしまはすが、此上無こよなう紳士の願足れりと心得たるなり。
 いで、その妻は見るもいとはしき夫のそばに在る苦を片時も軽くせんとて、彼のしげ外出そとで見赦みゆるして、十度とたび一度ひとたびも色をさざるを風引かぜひかぬやうに召しませ猪牙ちよきとやらの難有ありがたき賢女の志ともいただき喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑なほざりならずおもひにけり。さるはひとり夫のみならず、本家の両親をはじめ親属知辺しるべに至るまで一般に彼の病身をあはれみて、おとなしき嫁よとそやさぬはあらず。に彼はなにがしの妻のやうに出行であるかず、くれがしの夫人マダムのやうに気儘きままならず、又は誰々たれだれの如く華美はでを好まず、強請事ねだりごとせず、しかもそれ等の人々より才もかたち立勝たちまさりて在りながら、常に内に居て夫につかふるよりほかざるが、最怜いとをしと見ゆるなるべし。宮がつつめる秘密は知る者もあらず、みづからも絶えてあやしまるべき穂をあらはさざりければ、その夫につかへて捗々はかばかしからぬいつはりも偽とは為られず、かへりて人にあはれまるるなんど、その身には量無はかりなさいはひくる心の内に、ひと遣方無やるかたなく苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
 十