目次
前編
中編
後編
続金色夜叉
続続金色夜叉
新続金色夜叉
[#改丁]
前編
第一章
未だ宵ながら松立てる門は一様に
鎖籠めて、
真直に長く東より西に
横はれる
大道は掃きたるやうに物の影を
留めず、いと
寂くも
往来の絶えたるに、例ならず
繁き
車輪の
輾は、
或は
忙かりし、
或は飲過ぎし年賀の
帰来なるべく、
疎に寄する
獅子太鼓の
遠響は、はや今日に尽きぬる
三箇日を惜むが如く、その
哀切に
小き
膓は
断れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と
誌されたる日記を
涜して、この
黄昏より
凩は
戦出でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の
宥むる者無きより、
憤をも増したるやうに
飾竹を
吹靡けつつ、
乾びたる葉を
粗なげに鳴して、
吼えては
走行き、狂ひては引返し、
揉みに揉んで
独り散々に騒げり。
微曇りし空はこれが為に
眠を
覚されたる
気色にて、
銀梨子地の如く無数の星を
顕して、鋭く
沍えたる光は
寒気を
発つかと
想はしむるまでに、その
薄明に
曝さるる夜の
街は
殆ど氷らんとすなり。
人この
裏に立ちて
寥々冥々たる四望の間に、
争か
那の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、
九重の天、
八際の地、始めて
混沌の
境を
出でたりといへども、万物
未だ
尽く
化生せず、風は
試に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、
唯濫に

く
横はれるに過ぎざる
哉。日の
中は
宛然沸くが如く楽み、
謳ひ、
酔ひ、
戯れ、
歓び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は
儚くも夏果てし
孑孑の形を
歛めて、
今将何処に
如何にして在るかを疑はざらんとするも
難からずや。
多時静なりし
後、
遙に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃
忽ち一点の
燈火は見え
初めしが、
揺々と町の
尽頭を
横截りて
失せぬ。再び寒き風は
寂き星月夜を
擅に吹くのみなりけり。
唯有る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、
廂間の下水口より
噴出づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き
微温の四方に
溢るるとともに、
垢臭き悪気の
盛に
迸るに
遭へる綱引の車あり。勢ひで
角より曲り来にければ、避くべき
遑無くてその中を
駈抜けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は
語絶えて、車は
驀直に走れり、紳士は
二重外套の
袖を
犇と
掻合せて、
獺の
衿皮の内に耳より深く
面を
埋めたり。灰色の毛皮の敷物の
端を車の後に垂れて、
横縞の
華麗なる
浮波織の
蔽膝して、
提灯の
徽章はTの花文字を
二個組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の
尽頭を北に折れ、
稍広き
街に
出でしを、
僅に走りて又西に
入り、その南側の
半程に
箕輪と
記したる
軒燈を掲げて、
竹を飾れる
門構の内に
挽入れたり。玄関の障子に
燈影の
映しながら、
格子は
鎖固めたるを、車夫は
打叩きて、
「頼む、頼む」
奥の
方なる
響動の
劇きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて
訪ひつつ、格子戸を
連打にすれば、やがて
急足の音立てて人は
出で
来ぬ。
円髷に結ひたる四十ばかりの
小く
痩せて色白き女の、
茶微塵の糸織の
小袖に黒の
奉書紬の紋付の羽織着たるは、この家の
内儀なるべし。彼の
忙しげに格子を
啓るを待ちて、紳士は優然と内に
入らんとせしが、土間の一面に
充満たる
履物の
杖を立つべき地さへあらざるに
遅へるを、彼は
虚さず
勤篤に
下立ちて、この敬ふべき
賓の為に
辛くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし
駒下駄のみは
独り障子の内に取入れられたり。
(一)の二
箕輪の奥は十畳の客間と八畳の中の
間とを打抜きて、広間の
十個処に
真鍮の
燭台を据ゑ、五十
目掛の
蝋燭は沖の
漁火の如く燃えたるに、
間毎の天井に
白銅鍍の空気ラムプを
点したれば、
四辺は真昼より
明に、人顔も
眩きまでに
耀き
遍れり。三十人に余んぬる若き
男女は
二分に輪作りて、今を
盛と
歌留多遊を
為るなりけり。蝋燭の
焔と炭火の熱と
多人数の
熱蒸と混じたる一種の
温気は
殆ど凝りて動かざる一間の内を、
莨の
煙と
燈火の油煙とは
更に
縺れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の
面は皆赤うなりて、
白粉の
薄剥げたるあり、髪の
解れたるあり、
衣の
乱次く
着頽れたるあり。女は
粧ひ飾りたれば、取乱したるが
特に著るく見ゆるなり。男はシャツの
腋の裂けたるも知らで
胴衣ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば
四まで紙にて
結ひたるもあり。さしも息苦き
温気も、
咽ばさるる
煙の渦も、皆狂して知らざる如く、
寧ろ喜びて
罵り
喚く声、
笑頽るる声、
捩合ひ、
踏破く
犇き、一斉に揚ぐる
響動など、絶間無き騒動の
中に
狼藉として
戯れ遊ぶ
為体は
三綱五常も
糸瓜の皮と地に
塗れて、
唯これ
修羅道を
打覆したるばかりなり。
海上風波の難に
遭へる時、
若干の油を取りて航路に
澆げば、
浪は
奇くも
忽ち
鎮りて、船は九死を
出づべしとよ。今この
如何とも
為べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる
女王あり。
猛びに猛ぶ男たちの心もその人の前には
和ぎて、
終に崇拝せざるはあらず。女たちは皆
猜みつつも
畏を
懐けり。中の間なる
団欒の
柱側に座を占めて、
重げに
戴ける
夜会結に
淡紫のリボン
飾して、
小豆鼠の
縮緬の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を

りて、
躬は
淑かに
引繕へる娘あり。
粧飾より
相貌まで
水際立ちて、
凡ならず
媚を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は
普く知られぬ。娘も
数多居たり。
醜きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の
戸惑せるかと
覚きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。
服装は宮より
数等立派なるは
数多あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の
愛娘とて、最も
不器量を
極めて
遺憾なしと見えたるが、最も
綺羅を飾りて、その
起肩に
紋御召の
三枚襲を
被ぎて、帯は
紫根の
七糸に
百合の
折枝を
縒金の
盛上にしたる、人々これが為に目も
眩れ、心も消えて
眉を
皺めぬ。この外
種々色々の
絢爛なる中に
立交らひては、宮の
装は
纔に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは
如何なる
美き
染色をも奪ひて、彼の整へる
面は如何なる
麗き織物よりも
文章ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを
蔽ふ
能はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
袋棚と障子との
片隅に
手炉を囲みて、
蜜柑を
剥きつつ
語ふ男の
一個は、彼の横顔を
恍惚と
遙に見入りたりしが、
遂に
思堪へざらんやうに
呻き
出せり。
「
好い、好い、全く好い!
馬士にも
衣裳と
謂ふけれど、
美いのは衣裳には及ばんね。物それ
自らが美いのだもの、着物などはどうでも
可い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら
猶結構だ!」
この強き
合槌撃つは、美術学校の学生なり。
綱曳にて
駈着けし紳士は
姑く休息の後内儀に導かれて
入来りつ。その
後には、今まで居間に潜みたりし
主の
箕輪亮輔も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを
先途と
激き勝負の最中なれば、彼等の
来れるに心着きしは
稀なりけれど、片隅に物語れる二人は
逸早く目を
側めて紳士の
風采を
視たり。
広間の
燈影は入口に立てる
三人の姿を
鮮かに照せり。色白の
小き内儀の口は
疳の為に
引歪みて、その夫の
額際より
赭禿げたる
頭顱は
滑かに光れり。妻は
尋常より小きに、夫は
勝れたる
大兵肥満にて、彼の常に
心遣ありげの
面色なるに引替へて、生きながら
布袋を見る如き福相したり。
紳士は
年歯二十六七なるべく、
長高く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに
頬の
辺には
薄紅を帯びて、額厚く、口大きく、
腮は左右に
蔓りて、面積の広き顔は
稍正方形を
成せり。
緩く波打てる髪を左の
小鬢より一文字に
撫付けて、少しは油を塗りたり。
濃からぬ
口髭を
生して、
小からぬ鼻に
金縁の
目鏡を
挾み、
五紋の
黒塩瀬の羽織に
華紋織の
小袖を
裾長に
着做したるが、六寸の
七糸帯に
金鏈子を垂れつつ、
大様に
面を挙げて座中を

したる
容は、
実に光を
発つらんやうに
四辺を払ひて見えぬ。この
団欒の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも
美々しく
装ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
例の二人の
一個はさも憎さげに
呟けり。
「
可厭な奴!」
唾吐くやうに言ひて学生はわざと
面を
背けつ。
「お
俊や、
一寸」と内儀は
群集の中よりその娘を手招きぬ。
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、
慌忙く起ちて
来れるが、顔好くはあらねど
愛嬌深く、いと善く父に
肖たり。高島田に
結ひて、
肉色縮緬の羽織に
撮みたるほどの肩揚したり。顔を
赧めつつ紳士の前に
跪きて、
慇懃に
頭を
低れば、彼は
纔に小腰を
屈めしのみ。
「どうぞ
此方へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに
頷けり。母は
歪める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び
頭を
低げぬ。紳士は
笑を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
主の勧むる
傍より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を
案内して、客間の床柱の前なる
火鉢在る
方に
伴れぬ。妻は
其処まで
介添に附きたり。二人は
家内の紳士を
遇ふことの
極めて
鄭重なるを
訝りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も
見脱さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、
団欒の間を過ぎたりしが、
無名指に輝ける物の
凡ならず強き光は
燈火に
照添ひて、
殆ど
正く見る
能はざるまでに
眼を射られたるに
呆れ惑へり。天上の最も
明なる星は
我手に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の
未だ
曾て見ざりし
大さの
金剛石を飾れる
黄金の指環を
穿めたるなり。
お俊は
骨牌の席に
復ると

く、
密に隣の娘の
膝を
衝きて口早に

きぬ。彼は
忙々く顔を
擡げて紳士の
方を見たりしが、その人よりはその指に
耀く物の異常なるに
駭かされたる
体にて、
「まあ、あの指環は!
一寸、
金剛石?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は
漫に
身毛の
弥立つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」

の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この
幾歳か
念懸くれども
未だ容易に許されざる娘の胸は、
忽ち或事を思ひ浮べて
攻皷の如く
轟けり。彼は
惘然として殆ど我を失へる
間に、電光の如く隣より
伸来れる
猿臂は鼻の
前なる一枚の
骨牌を
引攫へば、
「あら、
貴女どうしたのよ」
お俊は
苛立ちて彼の
横膝を続けさまに
拊きぬ。
「
可くつてよ、可くつてよ、
以来もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を
覚して、及ばざる
身の
分を
諦めたりけれども、一旦
金剛石の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも
目覚かりける
手腕の程も見る見る
漸く
四途乱になりて、彼は
敢無くもこの時よりお俊の為に頼み
難き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「
金剛石!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石

」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石

」
「
可感い金剛石」
「
可恐い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬く
間に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を
謳へり。
彼は人々の
更互におのれの
方を
眺むるを見て、その手に形好く
葉巻を持たせて、
右手を
袖口に差入れ、少し
懈げに床柱に
靠れて、目鏡の下より下界を
見遍すらんやうに
目配してゐたり。
かかる目印ある人の名は
誰しも問はであるべきにあらず、
洩れしはお俊の口よりなるべし。彼は
富山唯継とて、一代
分限ながら
下谷区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の
中にも富山
重平の名は
見出さるべし。
宮の名の男の
方に
持囃さるる如く、富山と知れたる彼の名は
直に女の口々に
誦ぜられぬ。あはれ
一度はこの紳士と組みて、世に
愛たき宝石に
咫尺するの栄を得ばや、と彼等の
心々に
冀はざるは
希なりき。人
若し彼に咫尺するの栄を得ば、
啻にその目の
類無く
楽さるるのみならで、その鼻までも
菫花の多く

ぐべからざる
異香に
薫ぜらるるの
幸を受くべきなり。
男たちは
自から
荒められて、女の
挙りて
金剛石に
心牽さるる
気色なるを、
或は
妬く、或は浅ましく、多少の興を
冷さざるはあらざりけり。
独り宮のみは騒げる
体も無くて、その
清き
眼色はさしもの金剛石と光を争はんやうに、
用意深く、
心様も
幽く振舞へるを、崇拝者は益々
懽びて、我等の慕ひ参らする
効はあるよ、
偏にこの君を奉じて
孤忠を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き
面の皮を
引剥かん、と
手薬煉引いて待ちかけたり。されば宮と富山との
勢はあたかも
日月を
並懸けたるやうなり。宮は
誰と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も
懸念するところなりけるが、
鬮の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の
三人とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし
人数はこの時合併して
一の
大なる
団欒に成されたるなり。しかも富山と宮とは
隣合に坐りければ、夜と昼との
一時に来にけんやうに皆
狼狽騒ぎて、
忽ちその隣に自ら社会党と
称ふる一組を
出せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。
則ち彼等は
専ら腕力を用ゐて或組の果報と
安寧とを妨害せんと為るなり。又その
前面には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を
狼藉組と称し、右翼を
蹂躙隊と称するも、実は金剛石の鼻柱を
挫かんと
大童になれるに
外ならざるなり。果せる
哉、
件の組はこの勝負に
蓬き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに
鼻白み、美き人は顔を
赧めて、座にも
堪ふべからざるばかりの
面皮を
欠されたり。この一番にて紳士の姿は
不知見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には
掌の玉を失へる
心地したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に
怖をなして、
密に
主の居間に逃帰れるなりけり。
鬘を
被たるやうに
梳りたりし彼の髪は
棕櫚箒の如く乱れて、
環の
隻
げたる羽織の
紐は、
手長猿の月を
捉へんとする
状して
揺曳と
垂れり。主は見るよりさも
慌てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
彼はやにはに
煙管を捨てて、
忽にすべからざらんやうに
急遽と身を起せり。
「ああ、
酷い目に
遭つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても
立切れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり
撲れた」
手の甲の血を
吮ひつつ富山は不快なる
面色して
設の席に着きぬ。
予て用意したれば、
海老茶の
紋縮緬の

の
傍に
七宝焼の
小判形の
大手炉を置きて、
蒔絵の
吸物膳をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して
婢を呼び、
大急に銚子と料理とを
誂へて、
「それはどうも飛でもない事を。
外に
何処もお
怪我はございませんでしたか」
「そんなに有られて
耐るものかね」
為う事無さに主も
苦笑せり。
「
唯今絆創膏を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。
故々御招申しまして
甚だ恐入りました。もう
彼地へは御出陣にならんが
宜うございます。何もございませんがここで
何卒御寛り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
物は言はで
打笑める富山の
腮は
愈展れり。早くもその意を得てや
破顔せる
主の目は、
薄の
切疵の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では
御意に召したのが、へえ?」
富山は
益笑を
湛へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「
何故な」
「何故も無いものでございます。
十目の見るところぢやございませんか」
富山は
頷きつつ、
「さうだらうね」
「あれは
宜うございませう」
「
一寸好いね」
「まづその
御意でお熱いところをお
一盞。
不満家の
貴方が一寸好いと
有仰る位では、
余程尤物と思はなければなりません。全く
寡うございます」
倉皇入来れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、
此方にお
在あそばしたのでございますか」
彼は先の程より台所に
詰きりて、
中入の食物の
指図などしてゐたるなりき。
「
酷く負けて
迯げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
例の
歪める口を
窄めて内儀は
空々しく笑ひしが、
忽ち彼の羽織の
紐の
偏断れたるを
見尤めて、
環の失せたりと知るより、
慌て驚きて起たんとせり、
如何にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、
宜い」
「宜いではございません。
純金では大変でございます」
「なあに、
可いと言ふのに」と聞きも
訖らで彼は広間の
方へ
出でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、
大した事はございませんです」
「それはさうだらう。
然し
凡そどんなものかね」
「
旧は農商務省に勤めてをりましたが、
唯今では地所や
家作などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、
鴫沢隆三と申して、
直隣町に居りまするが、
極手堅く
小体に
遣つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
我は
顔に
頤を
掻撫づれば、例の
金剛石は
燦然と光れり。
「それでも可いさ。然し
嫁れやうか、
嗣子ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや
窮るぢやないか」
「
私は
悉い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
程無く内儀は環を
捜得て
帰来にけるが、
誰が
悪戯とも知らで
耳掻の如く
引展されたり。主は彼に向ひて宮の
家内の様子を
訊ねけるに、知れる
一遍は語りけれど、娘は
猶能く知るらんを、
後に招きて聴くべしとて、夫婦は
頻に
觴を
侑めけり。
富山唯継の今宵ここに
来りしは、年賀にあらず、
骨牌遊にあらず、娘の多く
聚れるを機として、
嫁選せんとてなり。彼は
一昨年の冬
英吉利より帰朝するや否や、八方に
手分して嫁を求めけれども、器量
望の
太甚しければ、二十余件の縁談皆意に
称はで、今日が日までもなほその事に
齷齪して
已まざるなり。当時取急ぎて普請せし
芝の新宅は、
未だ人の住着かざるに、はや日に
黒み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を
鳩めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。
第二章
骨牌の会は十二時に

びて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に
人数の三分の一強を失ひけれども、
猶飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼
若疾く
還りたらんには、
恐く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
彼に心を寄せし
輩は皆彼が
夜深の
帰途の程を
気遣ひて、我
願くは
何処までも送らんと、
絶か
念ひに念ひけれど、彼等の
深切は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。
金剛石に
亜いでは彼の挙動の
目指れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の
外は人目を
牽くべき点も無く、彼は多く語らず、又は
躁がず、始終
慎くしてゐたり。終までこの
両個の
同伴なりとは露顕せざりき。さあらんには
余所々々しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて
門を
出づるを見て、始めて失望せしもの
寡からず。
宮は
鳩羽鼠の
頭巾を
被りて、
濃浅黄地に白く
中形模様ある毛織のシォールを
絡ひ、学生は焦茶の
外套を着たるが、身を
窄めて吹来る
凩を
遣過しつつ、遅れし宮の
辿着くを待ちて言出せり。
「
宮さん、あの
金剛石の指環を
穿めてゐた奴はどうだい、
可厭に気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど
衆があの人を目の
敵にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで
酷い目に
遭されてよ」
「うむ、
彼奴が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も
横腹を二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると
反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は
可厭だわ」
「
芬々と香水の
匂がして、
金剛石の金の指環を穿めて、殿様然たる
服装をして、
好いに
違無いさ」
学生は
嘲むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は
鬮だから
為方が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
宮はシォールを
揺上げて鼻の
半まで
掩隠しつ。
「ああ寒い!」
男は肩を
峙てて
直と彼に寄添へり。宮は
猶黙して歩めり。
「ああ寒い

」
宮はなほ答へず。
「ああ寒い※
[#感嘆符三つ、23-5]」
彼はこの時始めて男の
方を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて
耐らんからその中へ
一処に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「
可笑い、可厭だわ」
男は
逸早く彼の押へしシォールの
片端を奪ひて、その
中に身を
容れたり。
宮は歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら
貫一さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、
前面から人が来てよ」
かかる
戯を
作して
憚らず、女も為すままに
信せて
咎めざる彼等の
関繋は
抑も
如何。事情ありて十年来鴫沢に
寄寓せるこの
間貫一は、
此年の夏大学に
入るを待ちて、宮が
妻せらるべき人なり。
第三章
間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、
怙る所無くて養はるるなり。母は彼の
幼かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は
哀嘆の中に父を葬るとともに、
己が前途の望をさへ葬らざる
可からざる不幸に
遭へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに
苦き
痩世帯なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに
先ちて
食ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては
葬すべき急、
猶これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ
幼き者の
如何にしてこれ等の急を
救得しか。
固より貫一が力の
能ふべきにあらず、鴫沢隆三の身
一個に
引承けて万端の世話せしに
因るなり。
孤児の父は隆三の恩人にて、彼は
聊かその旧徳に報ゆるが為に、
啻にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に
心着けては貫一の月謝をさへ
間支弁したり。かくて貧き父を
亡ひし
孤児は富める
後見を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き
生時を
以て
慊らず思ひければ、とかくはその忘形見を
天晴人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
亡き人常に言ひけるは、
苟くも侍の家に生れながら、何の
面目ありて我子貫一をも人に
侮らすべきや。彼は学士となして、願くは再び
四民の
上に立たしめん。貫一は不断にこの
言を
以て
警められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を
以て
喞たれしなり。彼は
言ふ
遑だに無くて
暴に
歿りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として
陰に
疎まるる如き
憂目に
遭ふにはあらざりき。
憖ひ
継子などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ
幾許か
幸は多からんよ、と知る人は
噂し合へり。隆三夫婦は
実に彼を恩人の忘形見として
疎ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、
漸くその心は
出で
来て、彼の高等中学校に
入りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
貫一は篤学のみならず、性質も
直に、
行も
正かりければ、この人物を以つて学士の冠を
戴かんには、誠に
獲易からざる婿なるべし、と夫婦は
私に喜びたり。この
身代を譲られたりとて、
他姓を
冒して
得謂はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の
屑しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる
懽を
懐きて、
益学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる
半には過ぎざらん。彼は自らその
色好を知ればなり。世間の女の
誰か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに
過るに在り。
謂ふ可くんば、宮は
己が美しさの
幾何値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして
纔に
箇程の資産を
嗣ぎ、類多き学士
風情を夫に有たんは、決して彼が
所望の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の
微賤より
出でし
例寡からざるを見たり。又は富人の醜き妻を
厭ひて、美き
妾に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて
富貴を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの
若干を見たりしに、その
容の
己に
如かざるものの多きを
見出せり。
剰へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ
一件最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の
歳に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる
独逸人は彼の愛らしき
袂に
艶書を投入れぬ。これ
素より
仇なる恋にはあらで、
女夫の
契を望みしなり。
殆ど同時に、院長の
某は年四十を
踰えたるに、先年その妻を
喪ひしをもて再び彼を
娶らんとて、
密に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の
小き胸は破れんとするばかり
轟けり。
半は
曾て覚えざる
可羞の為に、半は
遽に
大なる
希望の宿りたるが為に。彼はここに始めて
己の美しさの
寡くとも奏任以上の地位ある名流をその
夫に
値ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、
牆を隣れる
男子部の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若かのプロフェッサアに添はんか、
或は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を
嗣ぐの比にはあらざらんをと、一旦
抱ける
希望は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の
己を
見出して、玉の
輿を
舁せて迎に
来るべき天縁の、必ず
廻到らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を
嫌へるにはあらず、彼と添はばさすがに
楽からんとは
念へるなり。
如此く
決定にそれとは無けれど又有りとし見ゆる
箒木の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。
第四章
漆の如き
闇の
中に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より
向島の
八百松に新年会ありとて
未だ
還らざるなり。
宮は奥より手ラムプを持ちて
入来にけるが、机の上なる書燈を
点し
了れる時、
婢は台十能に火を盛りたるを
持来れり。宮はこれを
火鉢に移して、
「さうして奥のお
鉄瓶も持つて来ておくれ。ああ、もう
彼方は
御寝になるのだから」
久く
人気の絶えたりし一間の
寒は、今
俄に人の温き肉を得たるを喜びて、
直ちに
咬まんとするが如く
膚に
薄れり。宮は
慌忙く火鉢に取付きつつ、目を挙げて
書棚に飾れる時計を見たり。
夜の
闇く静なるに、
燈の光の
独り美き顔を照したる、限無く
艶なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の
梢に月のうつろへるが如く、
背後の壁に映れる黒き影さへ
香滴るるやうなり。
金剛石と光を争ひし目は
惜気も無く

りて時計の
秒を刻むを
打目戍れり。火に
翳せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある
紫縮緬の
半襟に
韜まれたる彼の胸を想へ。その胸の
中に彼は今
如何なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の
帰来を
待佗ぶるなりけり。
一時又
寒の
太甚きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の
対面なる貫一が

の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
若やと聞着けし車の音は
漸く
近きて、
益轟きて、
竟に
我門に
停りぬ。宮は
疑無しと思ひて起たんとする時、客はいと
酔ひたる声して物言へり。貫一は
生下戸なれば
嘗て
酔ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に
垂んとす。
門の戸
引啓けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず
唯慌ててラムプを持ちて
出でぬ。台所より
婢も、
出合へり。
足の
踏所も
覚束無げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに
打傾き、ハンカチイフに
裹みたる折を左に
挈げて、
山車人形のやうに
揺々と立てるは貫一なり。
面は今にも破れぬべく
紅に熱して、舌の
乾くに
堪へかねて
連に
空唾を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ
御土産です。
還つてこれを細君に
遣る。何ぞ
仁なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて
了つた」
「あら、
貫一さん、こんな所に
寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
仰様に倒れたる貫一の
脚を
掻抱きて、宮は
辛くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を
牽いてくれなければ僕には歩けませんよ」
宮は
婢に
燈を
把らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は
踉きつつ肩に
縋りて
遂に放さざりければ、宮はその身一つさへ
危きに、やうやう
扶けて書斎に
入りぬ。

の上に
舁下されし貫一は
頽るる
体を机に支へて、
打仰ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、
金縷の
衣を惜むなかれ。君に勧む、
須く少年の時を惜むべし。花有り折るに
堪へなば
直に折る
須し。花無きを待つて
空く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、
宮さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。
苦いでせう」
「
然矣、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに
就いては
大いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「
可厭よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断
嫌ひの癖に
何故そんなに飲んだの。誰に
飲されたの。
端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、
酷いわね、こんなに
酔して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、
宮さん。
謝、
多謝!
若それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く
握緊めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して
喋る男ぢやない。それがどうして知れたのか、
衆が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から
祝盃だ祝盃だと、十も二十も一度に
猪口を差されたのだ。祝盃などを受ける
覚は無いと言つて、手を
引籠めてゐたけれど、なかなか
衆聴かないぢやないか」
宮は
窃に
笑を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、
仮初にもああ云ふ美人と
一所に居て寝食を
倶にすると云ふのが既に
可羨い。そこを祝すのだ。次には、君も
男児なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に
奪られるやうな事があつたら、
独り間貫一
一個人の恥辱ばかりではない、我々
朋友全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、
延いて高等中学の
名折にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を
一にして
結の神に
祷つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら
却つて神罰が有ると、
弄謔とは知れてゐるけれど、
言草が面白かつたから、
片端から引受けて
呷々遣付けた。
宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分
宜く願ひます」
「
可厭よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、
弥よ僕の男が立たない
義だ」
「もう
極つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃
翁さんや
姨さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は
決して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの
了簡はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや
余りだわ」
貫一は
酔を支へかねて宮が
膝を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き
頬に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又
寐ちや……貫一さん、貫一さん」
寔に愛の
潔き
哉、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる
希望は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に
鍾めて、富も貴きも、
乃至有ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に
溶されて、彼は
唯妙に
香き
甘露の夢に
酔ひて前後をも知らざるなりけり。
諸の
可忌き
妄想はこの夜の如く
眼を閉ぢて、この
一間に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この
明なる
燈火の光の如きものありて、
特に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。
第五章
或日
箕輪の内儀は思も懸けず
訪来りぬ。その娘のお俊と宮とは学校
朋輩にて常に
往来したりけれども、
未だ
家と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に
識らで過ぎたりしに、今は二人の
往来も
漸く
踈くなりけるに及びて、
俄にその母の
来れるは、
如何なる
故にか、と宮も
両親も
怪き事に
念へり。
凡そ三時間の後彼は
帰行きぬ。
先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に
思懸けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの
珍き
客来のありしを知らず、宮もまた
敢て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は
少く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは
為ざりき。この間に
両親は
幾度と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る
因もあらねど、
片時もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを
見出さんは
難き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の
遽に光を失ひたるやうにて、
振舞など
別けて力無く、笑ふさへいと
打湿りたるを。
宮が居間と
謂ふまでにはあらねど、彼の
箪笥手道具
等置きたる小座敷あり。ここには
火燵の炉を切りて、用無き人の来ては
迭に
冬籠する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。
倦めば
琴をも
弾くなり。彼が
手玩と見ゆる
狗子柳のはや根を
弛み、
真の打傾きたるが、
鮟鱇切の水に
埃を浮べて小机の
傍に在り。庭に向へる
肱懸窓の
明きに
敷紙を
披げて、宮は
膝の上に
紅絹の
引解を載せたれど、針は持たで、
懶げに火燵に
靠れたり。
彼は
少く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に
入りて、深く物思ふなりけり。
両親は
仔細を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の
為すままに
委せたり。
この日貫一は授業
始の式のみにて早く
帰来にけるが、
下座敷には
誰も見えで、
火燵の間に宮の
咳く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に
窺寄りぬ。
襖の
僅に
啓きたる
隙より
差覗けば、宮は火燵に
倚りて
硝子障子を
眺めては
俯目になり、又胸痛きやうに仰ぎては
太息吐きて、
忽ち物の音を聞澄すが如く、美き目を
瞠るは、何をか
思凝すなるべし。人の
窺ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の
苦悶をその
状に
顕して
憚らざるなり。
貫一は
異みつつも息を潜めて、
猶彼の
為んやうを見んとしたり。宮は
少時ありて火燵に入りけるが、
遂に
櫓に
打俯しぬ。
柱に身を倚せて、
斜に内を窺ひつつ貫一は
眉を
顰めて
思惑へり。
彼は
如何なる事ありてさばかり案じ
煩ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その
故のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の
面も
自ら
俯きぬ。問はずして知るべきにあらずと
思定めて、再び内を
差覗きけるに、宮は猶打俯してゐたり。
何時か落ちけむ、
蒔絵の
櫛の
零れたるも知らで。
人の
気勢に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその
傍に在り。彼は
慌てて
思頽るる
気色を
蔽はんとしたるが如し。
「ああ、
吃驚した。
何時御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。
些も知らなかつた」
宮はおのれの顔の
頻に眺めらるるを
眩ゆがりて、
「何をそんなに
視るの、
可厭、私は」
されども彼は猶目を放たず、宮はわざと
打背きて、
裁片畳の内を
撈せり。
「
宮さん、お前さんどうしたの。ええ、
何処か
不快のかい」
「何ともないのよ。
何故?」
かく言ひつつ
益急に
撈せり。貫一は帽を
冠りたるまま火燵に
片肱掛けて、
斜に彼の顔を
見遣りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、
直に
疑深いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、
惘然考へたり、
太息を
吐いたりして
鬱いでゐるものか。僕は
先之から
唐紙の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて
聞したつて可いぢやないか」
宮は言ふところを知らず、
纔に膝の上なる
紅絹を
手弄るのみ。
「病気なのかい」
彼は
僅に
頭を
掉りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
宮は唯胸の
中を
車輪などの
廻るやうに覚ゆるのみにて、誠にも
詐にも
言を
出すべき
術を知らざりき。彼は犯せる罪の
終に
秘む
能はざるを悟れる如き
恐怖の為に
心慄けるなり。
如何に答へんとさへ惑へるに、
傍には貫一の益
詰らんと待つよと思へば、身は
搾らるるやうに
迫来る息の
隙を、得も
謂はれず
冷かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
貫一の
声音は
漸く
苛立ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて
不覚に
言出せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
呆れたる貫一は
瞬もせで耳を
傾けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、
何時死んで
了ふか解らないのね。かうしてゐれば、
可楽な事もある
代に
辛い事や、悲い事や、
苦い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。
不図さう
思出したら、毎日そんな事ばかり考へて、
可厭な
心地になつて、自分でもどうか
為たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
目を閉ぢて
聴ゐし貫一は
徐に

を開くとともに
眉を
顰めて、
「それは病気だ!」
宮は
打萎れて
頭を垂れぬ。
「
然し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
異く沈みたるその声の寂しさを、
如何に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の
所為だ、脳でも
不良のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。
固より世の中と云ふものはさう面白い
義のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、
衆が
皆そんな
了簡を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて
了ふ。
儚いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で
切ては
楽を求めやうとして、
究竟我々が働いてゐるのだ。考へて
鬱いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を
幾分か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か
楽が無ければならない。
一事かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。
宮さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く
偸に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
彼は
笑を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
宮の
肩頭を
捉りて貫一は
此方に引向けんとすれば、
為すままに彼は
緩く身を
廻したれど、顔のみは
可羞く
背けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
肩に懸けたる手をば放さで
連に
揺るるを、宮は
銕の
槌もて
撃懲さるるやうに覚えて、安き心もあらず。
冷なる汗は又
一時流出でぬ。
「これは
怪しからん!」
宮は
危みつつ彼の顔色を
候ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その
面は
和ぎて一点の怒気だにあらず、
寧ろ
唇頭には笑を包めるなり。
「僕などは
一件大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で
耐らんの。一日が
経つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を
拵へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。
若しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と
生死を
倶にするのだ。
宮さん、
可羨いだらう」
宮は
忽ち全身の血の氷れるばかりの寒さに
堪へかねて
打顫ひしが、この心の中を
覚られじと思へば、弱る力を励して、
「
可羨いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「
何卒」
「ええ
悉皆遣つて
了へ!」
彼は
外套の
衣兜より一袋のボンボンを
取出して
火燵の上に置けば、
余力に袋の口は
弛みて、紅白の玉は
珊々と
乱出でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。
第六章
その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて
一瓶の
水薬を与へられぬ。貫一は
信に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。
懊悩として
憂に
堪へざらんやうなる彼の
容体に
幾許の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて
相剋する苦痛は、
益募りて
止ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。
怪むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを
懼れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、
面を合すれば
冷汗も出づべき
恐怖を生ずるなり。彼の
情有る
言を聞けば、身をも
斫らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き
心根を見ることを恐れたり。宮が心地
勝れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその
平生に一層を加へたれば、彼は死を
覓むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその
堪ふべからざる限に至りぬ。
遂に彼はこの
苦を両親に訴へしにやあらん、
一日母と娘とは
遽に身支度して、
忙々く車に乗りて出でぬ。彼等は
小からぬ
一個の
旅鞄を携へたり。
大風の
凪ぎたる
迹に
孤屋の立てるが如く、
侘しげに留守せる
主の隆三は
独り碁盤に向ひて
碁経を
披きゐたり。
齢はなほ六十に遠けれど、
頭は
夥き
白髪にて、長く生ひたる
髯なども六分は白く、
容は
痩せたれど
未だ老の
衰も見えず、
眉目温厚にして
頗る
古井波無きの風あり。
やがて
帰来にける貫一は二人の在らざるを怪みて
主に
訊ねぬ。彼は
徐に長き髯を
撫でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも
昨日医者が湯治が良いと言うて
切に勧めたらしいのだ。いや、もう急の
思着で、
脚下から鳥の
起つやうな騒をして、十二時三十分の
車で。ああ、
独で寂いところ、まあ茶でも
淹れやう」
貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、
私もそんな
塩梅で」
「
然し、湯治は良いでございませう。
幾日ほど
逗留のお
心算で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、
些の着のままで出掛けたのだが、なあに
直に飽きて
了うて、四五日も居られるものか、
出養生より
内養生の方が楽だ。何か
旨い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
貫一は
着更へんとて書斎に還りぬ。宮の
遺したる筆の
蹟などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず
便あらんと
思飜せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて
帰来れるは、心の
痩するばかり美き
俤に
饑ゑて帰来れるなり。彼は
空く饑ゑたる心を
抱きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。
幾許急いで出掛けたつて、何とか
一言ぐらゐ
言遺いて
行きさうなものぢやないか。
一寸其処へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、
始に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、
明日行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの
離別には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が
濃であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。
豈にあの人が愛してをらんとは考へられん。又
万々そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから
所謂『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその
所為か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ
傾向は
有つてゐたけれど、今のやうに
太甚くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや
猶更でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、
殆ど……殆どではない、全くだ、全く
溺れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が
篤くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分
酷い話だ。これが互に愛してゐる
間の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を
為れると実に憎い。
小説的かも知れんけれど、
八犬伝の
浜路だ、
信乃が
明朝は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで
夜更に
逢ひに来る、あの
情合でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、
其処の娘と
許嫁……似てゐる、似てゐる。
然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を
揉して、余り憎いな、そでない
為方だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて
遣らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも
可哀さうだ。
自分は又神経質に過るから、
思過を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が
思過であるか、あの人が
情が薄いのかは
一件の疑問だ。
時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、
多少か自分を
侮つてゐるのではあるまいか。自分は
此家の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで
自ら
主と家来と云ふやうな考が始終有つて、……
否、それもあの人に
能く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと
太く
慍られるのだ、一番それを慍るよ。
勿論そんな様子の
些少でも見えた事は無い。自分の
僻見に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、
若もあの人の心にそんな根性が爪の
垢ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の
俘とはなつても、
未だ奴隷になる気は無い。
或はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて
焦死に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに
措くものか。
それは自分の
僻見で、あの人に限つてはそんな心は
微塵も無いのだ。その点は自分も
能く知つてゐる。けれども情が
濃でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を
打壊すほどに熱しないのか。
或は熱し
能はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
彼は
意に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ
曾て解釈し得ざるなりけり。今日はや
如何に解釈せんとすらん。
(六)の二
翌日果して熱海より
便はありけれど、
僅に一枚の
端書をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の
手蹟なり。貫一は
読了ると
斉しく
片々に引裂きて捨ててけり。宮の在らば
如何にとも言解くなるべし。彼の
親く
言解かば、如何に
打腹立ちたりとも貫一の心の
釈けざることはあらじ。宮の前には常に彼は
慍をも、恨をも、
憂をも忘るるなり。今は
可懐き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に
遭ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の
慍は野火の飽くこと知らで
燎くやうなり。
この
夕隆三は彼に食後の茶を
薦めぬ。一人
佗しければ
留めて
物語はんとてなるべし。されども貫一の
屈托顔して絶えず思の
非ぬ
方に
馳する
気色なるを、
「お前どうぞ
為なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。
劇く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう
宜いのでございます」
「それぢや茶は
可くまい」
「
頂戴します」
かかる浅ましき
慍を人に移さんは、
甚だ
謂無き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて
憖ひ心を傷めんより、人に対して
姑く
憂を忘るるに
如かじと思ひければ、彼は努めて
寛がんとしたれども、
動もすれば心は
空になりて、
主の
語を
聞逸さむとす。
今日
文の来て
細々と優き事など
書聯ねたらば、
如何に我は
嬉からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに
易へて、その
楽は深かるべきを。さては
出行きし恨も忘られて、
二夜三夜は
遠かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
彼はその身の
卒に
出行きしを、
如何に
本意無く我の思ふらんかは
能く知るべきに。それを知らば
一筆書きて、など我を慰めんとは
為ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を
可憐しと思へる人の
何故にさは
為ざるにやあらん。かくまでに
情篤からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は
忽ちその事を忘るべき
吾に
復れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
笑ふにもあらず、
顰むにもあらず、
稍自ら
嘲むに似たる隆三の顔は、
燈火に照されて、常には見ざる
異き相を
顕せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
彼は長き
髯を
忙く
揉みては、又
頤の
辺より
徐に
撫下して、
先打出さん
語を案じたり。
「お前の一身上の事に
就いてだがの」
纔にかく言ひしのみにて、彼は又
遅ひぬ、その
髯は
虻に苦しむ馬の尾のやうに
揮はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
貫一は
遽に敬はるる心地して
自と
膝を正せり。
「で、
私もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の
御父様に対して
恩返も出来たやうな訳、就いてはお前も
益勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも
為せて、指折の人物に
為たいと考へてゐるくらゐ、
未だ未だこれから
両肌を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
これを
聞ける貫一は
鉄繩をもて
縛められたるやうに、身の重きに
堪へず、心の
転た
苦きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその
中に在りてその中に在ることを忘れんと為る
平生を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。
愚父がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は
措きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと
念つてをります。愚父の
亡りましたあの時に、
此方で引取つて
戴かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど
幸なものは
恐く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる
己を見て、その着たる
衣を見て、その坐れる

を見て、やがて美き宮と共にこの家の
主となるべきその身を思ひて、
漫に涙を催せり。
実に七千円の
粧奩を随へて、百万金も
購ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば
私も張合がある。就いては改めてお前に
頼があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに
憚らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる
言を
出す時は、多く
能はざる事を
強ふる
例なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に
遣らうかと思つて」
見るに
堪へざる貫一の
驚愕をば、せめて乱さんと彼は
慌忙く
語を次ぎぬ。
「これに就いては私も
種々と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて
了うての、お前はも
少しの事だから大学を卒業して、四五年も
欧羅巴へ留学して、
全然仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
汝の命を与へよと
逼らるる事あらば、その時の人の思は
如何なるべき!
可恐きまでに色を失へる貫一は
空く隆三の
面を
打目戍るのみ。彼は
太く
困じたる
体にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更
変換を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
待てども貫一の
言を
出さざれば、
主は
寡からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで
我家とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。
大した事は無いがこの家は
全然お前に譲るのだ、お前は
矢張私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
約束をした宮をの、
余所へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、
其処はお前が
能く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、
天晴の人物に成るのが第一の
希望であらう。その志を
遂げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、
然しこれは
理窟で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に
頼が有ると言うたのはこの事だ。
従来もお前を世話した、
後来も益世話をせうからなう、
其処に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
貫一は
戦く
唇を
咬緊めつつ、
故ら
緩舒に
出せる
声音は、
怪くも常に変れり。
「それぢや
翁様の御都合で、どうしても
宮さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、
断つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな
貪着は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、
理に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、
詰るべき事、
罵るべき、言破るべき事、
辱むべき事の数々は
沸くが如く
充満ちたれど、彼は神にも
勝れる恩人なり。理非を問はずその
言には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を
咬みても、
敢て言はじと覚悟せるなり。
彼は又思へり。恩人は恩を
枷に
如此く
逼れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は
如何なる
斧を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が
情は我が思ふままに
濃ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心
也と、彼は
可憐き宮を思ひて、その父に対する
慍を
和げんと
勉めたり。
我は常に宮が
情の
濃ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、
盤根錯節に
遇はずんば。
「嫁に遣ると
有仰るのは、
何方へ
御遣しになるのですか」
「それは
未だ
確とは
極らんがの、
下谷に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
それぞ箕輪の
骨牌会に三百円の
金剛石を

かせし男にあらずやと、貫一は
陰に
嘲笑へり。されど又余りにその人の意外なるに
駭きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、
苟くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの
誰かは恋ひざらん。
独り怪しとも怪きは隆三の
意なる
哉。
我十年の約は
軽々く破るべきにあらず、
猶謂無きは、一人娘を
出して
嫁せしめんとするなり。
戯るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は
寧ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより
邇かるべしと信じたりき。
彼は競争者の
金剛石なるを聞きて、
一度は
汚され、
辱められたらんやうにも
怒を
作せしかど、既に勝負は
分明にして、我は手を
束ねてこの弱敵の自ら
僵るるを
看んと思へば、心
稍落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
この一言に隆三の
面は熱くなりぬ。
「これに就いては
私も大きに考へたのだ、
何に
為ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、
然し、お前の
後来に
就いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは
若しと云ふもので、ここに
可頼い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても
可愧からん
家格だ。気の毒な思をしてお前との約束を
変易するのも、私たちが一人娘を
他へ遣つて了ふのも、
究竟は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
それに、富山からは
切つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も
一家のつもりで、決して鴫沢家を
疎には
為まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
決して慾ではないが、
良い親類を持つと云ふものは、人で
謂へば
取も
直さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は
一家の友達だ。
お前がこれから世の中に出るにしても、
大相な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、
誰の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、
私も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
私の
了簡はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて
年効も無く事を好んで、
何為に若いものの
不為になれと思ふものかな。お前も
能く
其処を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら
直に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も
一番奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも
少しのところを辛抱して、いつその事
博士になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに
説完せたる
面色して、
寛に
髯を
撫でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、
漸くその心事の火を
覩るより
明なるを得たり。彼が千言万語の舌を
弄して
倦まざるは、
畢竟利の一字を
掩はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も
穢れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、
或は穢れたる念を起し、或は穢れたる
行を
為すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ
豈穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の
独り
汚に
染みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き
孤子を養へる志は、これを証して
余あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は
酷くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に
唯一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は
可憐き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて
脅すとも得て屈すべからず。宮が愛か、
某の
帝の
冠を飾れると聞く世界
無双の
大金剛石をもて
購はんとすとも、
争でか動し得べき。我と彼との愛こそ
淤泥の
中に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを
抱きて、この世の
渾て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し
可恨しとは思ひつつも、
枉げてさあらぬ
体に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は
宮さんも知つてゐるのですか」
「
薄々は知つてゐる」
「では
未だ
宮さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、
一寸聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。
御父様や
御母様の
宜いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、
漸く得心がいつたのだ」
断じて
詐なるべしと思ひながらも、貫一の胸は
跳りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。
私の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。
悉い事は
何れ又
寛緩話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く
種々考へて置くが
可いの」
「はい」
第七章
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日
漸く一月の
半を過ぎぬるに、
梅林の花は二千本の
梢に咲乱れて、日に
映へる光は
玲瓏として人の
面を照し、
路を
埋むる
幾斗の
清香は
凝りて
掬ぶに
堪へたり。梅の
外には
一木無く、
処々の乱石の低く
横はるのみにて、地は
坦に
氈を
鋪きたるやうの
芝生の園の
中を、玉の砕けて
迸り、
練の裂けて
飜る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は
麗に
霽れたる空を
攅してその
頂に
方りて
懶げに
懸れる雲は
眠るに似たり。
習との風もあらぬに花は
頻に散りぬ。散る時に
軽く舞ふを
鶯は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて
入来りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の
牀几を据ゑたる
木の
下を指して
緩く歩めり。彼の病は
未だ快からぬにや、
薄仮粧したる顔色も散りたる
葩のやうに衰へて、足の
運も
怠げに、
動すれば
頭の
低るるを、
思出しては努めて梢を
眺むるなりけり。彼の常として
物案すれば必ず
唇を
咬むなり。彼は今
頻に唇を咬みたりしが、
「
御母さん、どうしませうねえ」
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に
転りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。
初発にお前が
適きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも
貫一さんの事が気になつて。
御父さんはもう貫一さんに話を
為すつたらうか、ねえ
御母さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから
若し
適くのなら、もう
逢はずに
直と行つて
了ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
声は低くなりて、美き目は
湿へり。彼は忘れざるべし、その涙を
拭へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から
適きたいとお言ひなのだえ。さう
何時までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日
経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも
確然極めなくては
可けないよ。お前が
可厭なものを無理にお
出といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「
可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ
度に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は
強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お
父さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が
彼方へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の
仕合と云ふものだから、
其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは
思切が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり
遇はずに行くなんて、それはお前
却つて善くないから、
矢張逢つて、
丁と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で
往来をしなければならないのだもの。
いづれ今日か
明日には
御音信があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
宮は
牀几に
倚りて、
半は聴き、半は思ひつつ、
膝に散来る
葩を拾ひては、おのれの唇に代へて
連に
咬砕きぬ。
鶯の声の絶間を流の音は
咽びて止まず。
宮は何心無く
面を
挙るとともに
稍隔てたる
木の
間隠に男の
漫行する姿を認めたり。彼は
忽ち
眼を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに
遮る
隙を縫ひつつ、
姑くその影を
逐ひたりしが、
遂に
誰をや
見出しけん。
慌忙く母親に

けり。彼は急に牀几を離れて
五六歩進行きしが、
彼方よりも見付けて、
逸早く呼びぬ。
「
其処に
御出でしたか」
その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと
斉く、恐れたる
風情にて牀几の
端に
竦りつ。
「はい、
唯今し
方参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
母はかく
挨拶しつつ彼を迎へて立てり。宮は
其方を見向きもやらで、彼の
急足に
近く音を聞けり。
母子の前に
顕れたる若き紳士は、その
誰なるやを説かずもあらなん。
目覚く
大なる
金剛石の指環を輝かせるよ。
柄には緑色の
玉を
獅子頭に
彫みて、
象牙の如く
瑩潤に白き
杖を携へたるが、その
尾をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、
此処だといふのを聞いて
追懸けて来た訳です。熱いぢやないですか」
宮はやうやう
面を向けて、さて
淑に起ちて、
恭く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも
倨り
高るを忘れざりき。その張りたる
腮と、への字に結べる
薄唇と、
尤異き
金縁の
目鏡とは彼が尊大の風に
尠からざる光彩を添ふるや
疑無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。
真に
今日はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
母は牀几を払へば、宮は
路を開きて
傍に
佇めり。
「
貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ
此方の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分
忙い
体、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、
翌の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも
一所にお立ちなさらんか」
彼は宮の顔を
偸視つ。宮は物言はん
気色もなくて又母の答へぬ。
「はい、
難有う存じます」
「それとも
未だ
御在ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の
難は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な
田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから
寛緩遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
宮は
笑を含みて言はざるを、母は
傍より、
「これはもう遊ぶ事なら
嫌はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは
以後盛にお
遊びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも
西京でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は
御嫌ですか、ははあ。船が平気だと、
支那から
亜米利加の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや
遊山に
行いたところで知れたもの。どんなに
贅沢を為たからと云つて」
「
御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお
出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは
全で
為方が無い! こんな若い
野梅、
薪のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も
凄い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。
御馳走を為ますよ。お宮さんは何が
所好ですか、ええ、一番所好なものは?」
彼は
陰に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして
可羞しげに
打笑めり。
「で、
何日御帰でありますか。
明朝一所に
御発足にはなりませんか。
此地にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、
難有うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日
内には
音信がございます
筈で、その
音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
唯継は例の
倨りて天を
睨むやうに
打仰ぎて、杖の
獅子頭を
撫廻しつつ、
少時思案する
体なりしが、やをら
白羽二重のハンカチイフを
取出して、片手に
一揮揮るよと見れば
鼻を
拭へり。
菫花の
香を
咽ばさるるばかりに
薫じ
遍りぬ。
宮も母もその鋭き
匂に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に
沿いて、
田圃の方を。私
未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分
跡程が有るから、
貴方は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が
不良のだから散歩は
極めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。
難有うございます。お前お供をお
為かい」
宮の
遅ふを見て、唯継は
故に座を
起てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう
因循してゐては
可けない」
つと寄りて
軽く宮の肩を
拊ちぬ。宮は
忽ち
面を
紅めて、
如何にとも
為ん
術を知らざらんやうに
立惑ひてゐたり。母の前をも
憚らぬ男の
馴々しさを、憎しとにはあらねど、
己の
仂なきやうに
慙づるなりけり。
得も
謂はれぬその
仇無さの身に
浸遍るに
堪へざる思は、
漫に唯継の目の
中に
顕れて
異き
独笑となりぬ。この
仇無き

しらしき、美き娘の
柔き手を携へて、人無き野道の
長閑なるを
語ひつつ行かば、
如何ばかり楽からんよと、彼ははや心も
空になりて、
「さあ、行つて見ませう。
御母さんから
御許が出たから可いではありませんか、ねえ、
貴方、
宜いでありませう」
母は宮の
猶羞づるを見て、
「お前お
出かい、どうお
為だえ」
「貴方、お出かいなどと
有仰つちや可けません。お出なさいと命令を
為すつて下さい」
宮も母も思はず笑へり。唯継も
後れじと笑へり。
又人の
入来る
気勢なるを宮は心着きて
窺ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに
忙く踏立つる足音なりき。
「ではお
前お供をおしな」
「さあ、行きませう。
直其処まででありますよ」
宮は
小き声して、
「
御母さんも一処に
御出なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
母親を伴ひては大いに風流ならず、
頗る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには
却つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には
切つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が
可厭だつたら
直に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に
騙されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
この時
忙しげに聞えし靴音ははや
止みたり。人は
出去りしにあらで、七八間
彼方なる木蔭に足を
停めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、
此方の
三人は
誰も知らず。
彳める人は高等中学の制服の上に焦茶の
外套を着て、肩には古りたる象皮の学校
鞄を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。その
驟なると近きとに驚きて、
三人は始めて音する
方を
見遣りつ。
花の散りかかる中を
進来つつ学生は帽を取りて、
「
姨さん、参りましたよ」
母子は
動顛して
殆ど
人心地を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず
呆れ果てたる目をば
空く

りて、
少時は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより
忽ち消えてこの土と
成了らんことの、せめて
心易さを思ひつつ、その
淡白き
唇を
啖裂かんとすばかりに
咬みて咬みて
止まざりき。
想ふに彼等の
驚愕と
恐怖とはその殺せし人の計らずも今生きて
来れるに会へるが如きものならん。気も
不覚なれば母は
譫語のやうに
言出せり。
「おや、お
出なの」
宮は
些少なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと
冀へる如く、
木蔭に身を
側めて、
打過む
呼吸を人に聞かれじとハンカチイフに口元を
掩ひて、見るは
苦けれども、見ざるも
辛き貫一の顔を、
俯したる
額越に
窺ひては、又唯継の
気色をも
気遣へり。
唯継は彼等の心々にさばかりの
大波瀾ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の
食客の
来れるよと、例の
金剛石の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ
腮を張れり。
貫一は
今回の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ
犇と言はん、今は
姑く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう
鎮めて、
苦き
笑顔を作りてゐたり。
「
宮さんの病気はどうでございます」
宮は
耐りかねて
窃にハンカチイフを
咬緊めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日
内には帰らうと思つてね。お前さん
能く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と
明日明後日と
休課になつたものですから」
「おや、さうかい」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、
過ちて野中の
古井に落ちたる人の、沈みも果てず、
上りも
得為ず、命の綱と
危くも
取縋りたる草の根を、
鼠の
来りて
噛むに
遭ふと云へる
比喩に
最能く似たり。
如何に為べきかと
或は
懼れ、或は惑ひたりしが、
終にその
免るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、
甚だ勝手がましうございますが、私
等はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、
明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に
因りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は
罷めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お
出下さいよ。
宜いですか、お宮さん、それでは後にきつとお
出なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
彼は行かんとして、更に宮の
傍近く
寄来て、
「
貴方、きつと
後にお
出なさいよ、ええ」
貫一は
瞬も
為で
視てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ
為かねつ。娘気の
可羞にかくあるとのみ思へる唯継は、
益寄添ひつつ、
舌怠きまでに
語を
和げて、
「
宜いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
貫一の
眼は燃ゆるが如き色を
作して、宮の横顔を
睨着けたり。彼は
懼れて
傍目をも
転らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて
独り心を
慄かせしが、
猶唯継の
如何なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には
幾許の
幸なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも
容れず、唯

くまでも

き宮に心を
遺して行けり。
その
後影を
透すばかりに
目戍れる貫一は我を忘れて
姑く
佇めり。
両個はその心を測りかねて、
言も
出でず、息をさへ凝して、
空く早瀬の音の
聒きを聴くのみなりけり。
やがて
此方を向きたる貫一は、
尋常ならず激して血の色を失へる
面上に、多からんとすれども
能はずと見ゆる
微少の
笑を漏して、
「
宮さん、今の
奴はこの間の
骨牌に来てゐた
金剛石だね」
宮は
俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる
為して、折しも
啼ける
鶯の
木の
間を
窺へり。貫一はこの
体を見て更に
嗤笑ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に
気障な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの
面は!」
「貫一さん」母は
卒に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん
翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の
悪口などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお
草臥だらうから、お湯にでも入つて、さうして
未だ
御午餐前なのでせう」
「いえ、
車の中で
鮨を食べました」
三人は
倶に
歩始めぬ。貫一は
外套の肩を払はれて、
後を
捻向けば宮と
面を合せたり。
「
其処に花が
粘いてゐたから取つたのよ」
「それは
難有う※
[#感嘆符三つ、64-13]」
第八章
打霞みたる空ながら、月の色の
匂滴るるやうにして、
微白き海は
縹渺として限を知らず、
譬へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も
眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を
逍遙せるは貫一と宮となりけり。
「僕は
唯胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
五歩六歩行きし後宮はやうやう言出でつ。
「
堪忍して下さい」
「何も今更
謝ることは無いよ。一体今度の事は
翁さん
姨さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば
可いのだから」
「…………」
「
此地へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな
了簡のあるべき
筈は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の
間で、知れきつた話だ。
昨夜翁さんから
悉く話があつて、その上に頼むといふ
御言だ」
差含む涙に彼の声は
顫ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の
体は
火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして
遣るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の
孤児でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は
蹈留りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、
気遣しげにその顔を
差覗きぬ。
「堪忍して下さいよ、
皆私が……どうぞ堪忍して下さい」
貫一の手に
縋りて、
忽ちその肩に
面を
推当つると見れば、彼も
泣音を
洩すなりけり。波は
漾々として遠く
烟り、月は
朧に一湾の
真砂を照して、空も
汀も
淡白き中に、立尽せる二人の姿は墨の
滴りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には
翁さんが僕を説いて、お前さんの方は
姨さんが説得しやうと云ふので、無理に
此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、
唯々と言つて聞いてゐたけれど、
宮さんは
幾多でも剛情を張つて
差支無いのだ。どうあつても
可厭だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて
了ふのだ。僕が
傍に居ると
智慧を付けて邪魔を
為ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる
計だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は
昨夜は
夜一夜寐はしない、そんな事は
万々有るまいけれど、
種々言はれる為に
可厭と言はれない義理になつて、
若や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、
家は学校へ出る
積で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して
何処に在る

僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで
知……知……知らなかつた」
宮は
可悲と
可懼に襲はれて
少く声さへ立てて泣きぬ。
憤を
抑ふる貫一の呼吸は
漸く乱れたり。
「
宮さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず
慄けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「
余り邪推が過ぎるわ、余り
酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に
挂けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは
為んよ。
お前が得心せんものなら、
此地へ来るに就いて僕に
一言も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を
寄来すが可いぢやないか。
出抜いて家を出るばかりか、何の
便も為んところを見れば、始から富山と出会ふ
手筈になつてゐたのだ。
或は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は
奸婦だよ。
姦通したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、
余りだわ、余りだわ」
彼は正体も無く
泣頽れつつ、寄らんとするを貫一は
突退けて、
「
操を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「
何時私が操を破つて?」
「
幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの
妻が操を破る
傍に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ
歴とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、
余所の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が
何処に在る?」
「さう言はれて
了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。
私等が
此地に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその
唇に
釘打たれたるやうに再び
言は
出でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず
過を悔い、罪を
詫びて、その身は
未か命までも
己の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、
心陰に望みたりしならん。
如何にぞや、彼は露ばかりもさせる
気色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の
心変を、貫一はなかなか
信しからず覚ゆるまでに
呆れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて
最愛みし人は
芥の如く我を
悪めるよ。恨は彼の骨に徹し、
憤は彼の胸を
劈きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を
啖ひて、この
熱膓を
冷さんとも思へり。
忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に
得堪へずして尻居に
僵れたり。
宮は見るより驚く
遑もあらず、
諸共に砂に
塗れて
掻抱けば、閉ぢたる
眼より
乱落つる涙に浸れる灰色の
頬を、月の光は悲しげに
彷徨ひて、迫れる息は
凄く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の
背後より
取縋り、
抱緊め、
撼動して、
戦く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと
懇に
拭ひたり。
「
吁、
宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は
何処でこの月を見るのだか!
再来年の今月今夜……十年
後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は
挫ぐばかりに貫一に取着きて、
物狂う
咽入りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお
肚の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、
余り
言難い事ばかりだから、口へは出さないけれど、
唯一言いひたいのは、私は
貴方の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に
帰くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も
少し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、
狼狽へてくだらんことを言ふな。食ふに
窮つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に
帰くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は
其処の一人娘ぢやないか、さうして婿まで
極つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に
帰かなければならんのだ。天下にこれくらゐ
理の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に
帰くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に
帰かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの
二件の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は
要らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは
余りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が
財があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
翁さん
姨さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする
方は
幾許もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに
打壊して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も
適つて見る気は有るのかい」
貫一の
眼はその全身の力を
聚めて、思悩める宮が顔を鋭く
打目戍れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて
太息したり。
「
宜い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと
打按じつつも、彼は乱るる胸を
寛うせんが為に、
強ひて目を放ちて海の
方を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は
傍に在らずして、六七間
後なる
波打際に
面を
掩ひて泣けるなり。
可悩しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、
々たる海の
端の白く
頽れて波と打寄せたる、
艶に
哀を尽せる
風情に、貫一は
憤をも恨をも忘れて、
少時は画を
看る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は
頭を
低れて足の向ふままに
汀の
方へ進行きしが、泣く泣く
歩来れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は
些も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、
財なのだね。
如何に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に
愛相は尽きないかい。
好い出世をして、さぞ
栄耀も出来て、お前はそれで可からうけれど、
財に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と
謂はうか、
口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を
刺殺して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを
怺へてお前を人に
奪れるのを手出しも
為ずに見てゐる僕の
心地は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ
他はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の
居候でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の
男妾になつた
覚は無いよ、宮さん、お前は貫一を
玩弄物にしたのだね。
平生お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の
意で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の
楽も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは
比較にはならない。
彼方は屈指の財産家、僕は
固より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して
財で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を
有つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、
寧ろ害になり
易い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
然し
財といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に
勝れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分
甚い事も為るのだ。それを考へれば、お前が
偶然気の変つたのも、
或は無理も無いのだらう。からして僕はそれは
咎めない、
但もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと
謂ふことを。
雀が米を食ふのは
僅か
十粒か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に
餒い思を為せるやうな、そんな
意気地の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は
雫する涙を払ひて、
「お前が富山へ
嫁く、それは立派な生活をして、
栄耀も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ
招れて行く人もあれば、自分の
妻子を車に載せて、それを自分が
挽いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ
嫁けば、家内も多ければ
人出入も、
劇しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を
傷めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を
楽に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く
費へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に
頼るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の
財が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人
外に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな
真似をして、妻は
些の床の置物にされて、
謂はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、
苦ばかりで
楽は無いと謂つて可い。お前の
嫁く唯継だつて、
固より
所望でお前を
迎ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、
財が有るから好きな真似も出来る、
他の
楽に気が移つて、
直にお前の恋は
冷されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の
心地を考へて御覧、あの富山の財産がその
苦を
拯ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで
楽かい、満足かい。
僕が人にお前を
奪られる無念は
謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、
心変をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり
可哀さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に
惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは
過つてゐる、それは実に
過つてゐる、愛情の無い結婚は
究竟自他の後悔だよ。今夜この場のお前の
分別一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が
不便だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を
為直してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを
可羨いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を
可愛くは思はんのかい」
彼は
危きを
拯はんとする如く
犇と宮に取着きて
匂滴るる
頸元に
沸ゆる涙を
濺ぎつつ、
蘆の枯葉の風に
揉るるやうに身を
顫せり。宮も離れじと
抱緊めて
諸共に顫ひつつ、貫一が
臂を
咬みて
咽泣に泣けり。
「
嗚呼、私はどうしたら可からう! 若し私が
彼方へ
嫁つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや
断然お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、
膓の腐つた女!
姦婦
」
その声とともに貫一は
脚を挙げて宮の弱腰をはたと

たり。地響して
横様に
転びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も
得為ず
弱々と
僵れたるを、なほ憎さげに
見遣りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男
一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて
了ふのだ。学問も何ももう
廃だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を
啖つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の
面を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた
翁さん
姨さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、
仔細あつて貫一はこのまま長の
御暇を致しますから、随分お達者で
御機嫌よろしう……
宮さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、
若し貫一はどうしたとお
訊ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から
行方知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに
蹶起きて、立たんと為れば脚の
痛に
脆くも倒れて
効無きを、
漸く
這寄りて貫一の脚に
縋付き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。
貴方これから
何……
何処へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が
衣の
披けて
雪可羞く
露せる
膝頭は、
夥く血に染みて顫ふなりき。
「や、
怪我をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が
有ればここで聞かう」
「ここぢや私は
可厭よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると
蹴飛すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を
極めて
振断れば、宮は無残に
伏転びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を
急行きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の
傷に
幾度か
仆れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は
言遺した事がある」
遂に倒れし宮は再び
起つべき力も失せて、唯声を
頼に彼の名を呼ぶのみ。
漸く
朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は
身悶して
猶呼続けつ。やがてその黒き影の岡の
頂に立てるは、
此方を
目戍れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も
遙に来りぬ。
「
宮さん!」
「あ、あ、あ、
貫一さん!」
首を延べて

せども、目を

りて眺むれども、声せし
後は黒き影の
掻消す如く
失せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び
恋き貫一の名を呼びたりき。
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中編
第一章
新橋停車場の大時計は四時を
過ること二分
余、東海道行の列車は既に客車の
扉を
鎖して、機関車に
烟を
噴せつつ、三十
余輛を
聯ねて
蜿蜒として
横はりたるが、
真承の秋の日影に
夕栄して、窓々の
硝子は燃えんとすばかりに
耀けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと
喚くを
余所に、
大蹈歩の
寛々たる老
欧羅巴人は
麦酒樽を
窃みたるやうに腹
突出して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の
絵日傘の
柄に
橙色のリボンを飾りたるを
小脇にせると
推並び、おのれが乗物の顔して急ぐ
気色も無く
過る後より、
蚤取眼になりて遅れじと
所体頽して
駈来る女房の、
嵩高なる風呂敷包を
抱くが上に、
四歳ほどの子を背負ひたるが、
何処の扉も鎖したるに
狼狽ふるを、車掌に
強曳れて
漸く
安堵せる
間も無く、
青洟垂せる女の子を率ゐて、五十
余の
老夫のこれも
戸惑して
往きつ
復りつせし
揚句、駅夫に
曳れて室内に押入れられ、
如何なる罪やあらげなく
閉てらるる扉に
袂を
介まれて、もしもしと
救を呼ぶなど、
未だ都を離れざるにはや旅の
哀を見るべし。
五人一隊の若き紳士等は中等室の
片隅に
円居して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる
扮装にて、紋付の
袷羽織を着たるもあれば、
精縷の背広なるもあり、
袴着けたるが一人、
大島紬の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし
餞別の
瓶、
凾などを
網棚の上に片附けて、その手を
摩払ひつつ窓より首を
出して、
停車場の
方をば、求むるものありげに
望見たりしが、やがて
藍の如き
晩霽の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、
甘糟」
黒餅に
立沢瀉の
黒紬の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を
洩せり。甘糟と呼れたるは、
茶柳条の
仙台平の袴を着けたる、この中にて
独り
頬鬚の
厳きを
蓄ふる紳士なり。
甘糟の答ふるに
先ちて、背広の
風早は若きに似合はぬ
皺嗄声を
振搾りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の
痒きに
堪へんことを僕は
丁と
洞察してをるのだ」
「これは
憚様です」
大島紬の紳士は
黏着いたるやうに
靠れたりし身を
遽に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。
佐分利と甘糟は
夙て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間
遊仙窟を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに
気焔を吐く
意なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと
謂ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……
怪しからん
事たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に
想遣らるるね。ええ、肩書を
辱めん限は遣るも
可からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
この老実の
言を
作すは、今は
四年の昔
間貫一が
兄事せし同窓の
荒尾譲介なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に
挙げられ、踰えて一年の
今日愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その
齢と深慮と誠実との
故を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の
言納じや。
願くは君達も
宜く自重してくれたまへ」
面白く
発りし一座も
忽ち
白けて、
頻に
燻らす
巻莨の煙の、
急駛せる車の
逆風に
扇らるるが、飛雲の如く窓を
逸れて
六郷川を
掠むあるのみ。
佐分利は
幾数回頷きて、
「いやさう言れると
慄然とするよ、実は
嚮停車場で例の『
美人クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で
蜥蜴啖ふかと思ふね、
毎見ても美いには驚嘆する。
全で
淑女の
扮装だ。
就中今日は
冶してをつたが、
何処か
旨い口でもあると見える。
那奴に
搾られちや
克はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。
夙て御高名は聞及んでゐる」
と
大島紬の
猶続けんとするを
遮りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を
吃つたのも、
其奴が債権者の
重なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。
黄金の腕環なんぞ
篏めてゐると云ふぢやないか。
酷い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら
係つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、
木乃伊にならんやうに
褌を
緊めて掛るが可いぜ」
「
誰か
其奴には
尻押が有るのだらう。亭主が有るのか、
或は
情夫か、何か有るのだらう」
皺嗄声は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の
閲歴があるのさ、
情夫ぢやない、亭主がある、
此奴が君、我々の一世紀
前に鳴した
高利貸で、
赤樫権三郎と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的
物と来てゐるのだ」
「成程!
積極と消極と相触れたので
爪に火が

る訳だな」
大島紬が得意の
浪に、深沈なる荒尾も
已むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を
弄ぶのが道楽で、
此奴の為に
汚された者は随分意外の
辺にも在るさうな。そこで今の『
美人クリイム』、これもその手に
罹つたので、
原は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、
老猾この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを
俘にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり
仲働に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ
辞りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年
老猾は六十ばかりの
禿顱の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな
爨妾然たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
固唾を
嚥みたりし荒尾は思ふところありげに
打頷きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
甘糟はその
面を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
佐分利の話を進むる折から、
車は
遽に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお
膝繰だ」
佐「荒尾、あの
葡萄酒を抜かんか、
喉が
渇いた。これからが佳境に
入るのだからね」
甘「
中銭があるのは
酷い」
佐「
蒲田、君は好い
莨を
吃つてゐるぢやないか、一本
頂戴」
甘「いや、図に乗ること。僕は
手廻の物を片附けやう」
佐「甘糟、
児を持つてゐるか」
甘「そら、お
出だ。持参いたしてをりまする
仕合で」
佐分利は
居長高になりて、
「
些と
点けてくれ」
葡萄酒の
紅を
啜り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は
徐に
語を継ぐ、
「
所謂一朶の
梨花海棠を圧してからに、娘の満枝は自由にされて
了つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は
荐つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍
形気の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると
禿の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、
阿父さん、どうか承知して下さいは、親父
益す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も
愛相を
尽して、
唯一人の娘を阿父さん彼自身より
十歳ばかりも
老漢の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の
寵を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて
生家の方へ
貢ぐと思の外、
極の
給の外は
塵葉一本
饋らん。これが又禿の
御意に入つたところで、女め
熟ら
高利の
塩梅を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この
身代我物と考へて見ると、一人の親父よりは
金銭の方が大事、といふ不敵な
了簡が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
荒尾は
可忌しげに
呟きて、
稍不快の色を
動せり。
「そこで、
敏捷な女には違無い、自然と
高利の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、
何処へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年
辺から禿は中気が出て
未だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで
盛に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に
薄縁を
一板敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――
然し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が
独で腕を
揮つて益す盛に
遣つてゐる。これ
則ち『
美人クリイム』の名ある
所以さ。
年紀かい、二十五だと聞いたが、さう、
漸う二三とよりは見えんね。あれで
可愛い細い声をして
物柔に、
口数が
寡くつて巧い
言をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、
書替だの、手形に願ふのと、急所を
衝く
手際の
婉曲に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を
痿すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど
痿されたが、柔能く剛を制すで、
高利貸には美人が妙!
那彼に一国を預ければ
輙ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
風早は最も興を覚えたる
気色にて、
「では、今はその
禿顱は
中風で
寐たきりなのだね、
一昨年から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、
壮な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
佐分利は
頭を
抑へて
後様に
靠れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に
堕ちて、今はしも連帯一判、
取交ぜ
五口の債務六百四十何円の
呵責に
膏を
取るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、
後に又二百円、
無疵なるは風早と荒尾とのみ。

車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば
笑しげに傍聴したりし横浜
商人体の乗客は、
幸に
無聊を慰められしを謝すらんやうに、
懇に
一揖してここに下車せり。
暫く話の絶えける
間に荒尾は何をか打案ずる
体にて、その目を
空く見据ゑつつ
漫語のやうに
言出でたり。
「その後
誰も
間の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と
皺嗄声は
問反せり。
「おお、誰やらぢやつたね、
高利貸の
才取とか、
手代とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には
高利貸の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
我が意を得つと
謂はんやうに荒尾は
頷きて、
猶も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級
先ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「
高利貸と云ふのはどうも
妄ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
彼は忍びやかに
太息を
泄せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの
峭然と
外眥の
昂つた所が
目標さ」
蒲「さうして
髪の
癖毛の具合がな、
愛嬌が有つたぢやないか。デスクの上に
頬杖を
抂いて、かう下向になつて
何時でも
真面目に講義を聴いてゐたところは、
何処かアルフレッド大王に
肖てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は
毎も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に
一盃を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終
憶ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ
弟よりも間の居らなくなつたのを悲む」
愁然として彼は
頭を
俛れぬ。大島紬は受けたる
盃を
把りながら、更に佐分利が持てる
猪口を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に
一番間の健康を祝さう」
荒尾の喜は
実に
溢るるばかりなりき。
「おお、それは
辱ない」
盈々と酒を
容れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると
斉く
戞と
相撃てば、
紅の
雫の漏るが如く流るるを、互に引くより早く
一息に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を
揺して、
「蒲田は如才ないね。
面は
醜いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ
言れて見ると
誰でも
些と憎くないからね」
甘「
遉は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
言を改めて荒尾は
言出せり。
「どうも僕は不思議でならんが、
停車場で間を見たよ。間に違無いのじや」
唯の
今陰ながらその健康を
祷りし蒲田は拍子を抜して彼の
面を
眺めたり。
「ふう、それは不思議。
他は気が着かなんだかい」
「始は待合所の
入口の所で
些と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず
長椅子を起つと、もう見えなくなつた。それから
有間して又
偶然見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて
歩場へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、
傍の柱に僕を見て黒い帽を
揮つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜! と
或は急に、或は
緩く叫ぶ声の窓の
外面を
飛過るとともに、響は雑然として起り、
迸り
出づる、
群集は
玩具箱を
覆したる如く、場内の
彼方より
轟く
鐸の
音はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
☆昨七日イ便の葉書にて(飯田町局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或はベルクリイムの傍訓有度との言を貽られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖に理詰ならむよりは、出まかせの可笑き響あらむこそ可かめれとバイスクリイムとも思着きしなり。意は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗しさを嫌ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者の思僻めてん字は添へたるなり。陋しげなるびじクリイムの響の中には嘲弄の意も籠らむとてなり。なほ高諭を請ふ(三〇・九・八附読売新聞より)
第二章
柵の柱の
下に在りて帽を
揮りたりしは、荒尾が
言の如く、四年の
生死を
詳悉にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に
自の影を
晦し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の
概略を伺ふことを怠らざりき、こ
回その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、
余所ながら
暇乞もし、二つには栄誉の
錦を飾れる姿をも見んと思ひて、
群集に紛れてここには
来りしなりけり。
何の
故に間は四年の
音信を絶ち、又何の故にさしも
懐に忘れざる旧友と相見て
別を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は
自ら解釈せらるべし。
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは
独り間貫一のみにあらず、そこもとに
聚ひし
老若貴賤の
男女は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、
虞ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は
一なり。数分時の混雑の後車の
出づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く
久う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の
漸く
踵を
旋せし時には、
推重るまでに
柵際に
聚ひし
衆は
殆ど散果てて、駅夫の三四人が
箒を執りて場内を掃除せるのみ。
貫一は
差含るる涙を払ひて、独り
後れたるを驚きけん、
遽に急ぎて、
蓬莱橋口より
出でんと、あだかも石段際に寄るところを、
誰とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
慌てて彼の見向く途端に、
「
些と」と戸口より半身を示して、
黄金の腕環の
気爽に
耀ける手なる絹ハンカチイフに
唇辺を
掩いて束髪の婦人の小腰を
屈むるに会へり。
艶なる
面に得も
謂はれず愛らしき
笑をさへ浮べたり。
「や、
赤樫さん!」
婦人の
笑もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として
眉だに動かさず。
「
好い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、
些と
此方へ」
婦人は内に入れば、貫一も渋々
跟いて入るに、
長椅子に
掛れば、止む無くその
側に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の
小車梅の件なのでございますがね」
彼は
黒樗文絹の帯の間を
捜りて金側時計を
取出し、手早く収めつつ、
「
貴方どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、
何方へかお供を致しませう」
紫紺
塩瀬に
消金の
口金打ちたる
手鞄を取直して、婦人はやをら
起上りつ。迷惑は貫一が
面に
顕れたり。
「
何方へ?」
「
何方でも、私には解りませんですから
貴方のお
宜い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を
仰有らずに、私は何方でも
宜いのでございます」
荒布革の横長なる
手鞄を膝の上に
掻抱きつつ貫一の思案せるは、その宜き
方を択ぶにあらで、
倶に行くをば
躊躇せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の
出会頭に、
入来る者ありて、その
足尖を
挫げよと踏付けられぬ。驚き見れば
長高き老紳士の目尻も
異く、満枝の
色香に惑ひて、これは失敬、意外の
麁相をせるなりけり。彼は
猶懲りずまにこの
目覚き
美形の同伴をさへ
暫く
目送せり。
二人は
停車場を出でて、指す
方も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に
極めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを
暁れども、
勉めて
吾意に従はしめんと
念へば、さばかりの
無遇をも甘んじて、
「それでは、貴方、
鰻
は
上りますか」
「鰻

? 遣りますよ」
「
鶏肉と何方が
宜うございます」
「何方でも」
「余り
御挨拶ですね」
「
何為ですか」
この時貫一は始めて満枝の
面に
眼を移せり。
百の
媚を含みて

へし彼の
眸は、
未だ言はずして既にその言はんとせる
半をば
語尽したるべし。彼の
為人を知りて畜生と
疎める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを
露して
片笑みつつ、
「まあ、
何為でも宜うございますから、それでは
鶏肉に致しませうか」
「それも
可いでせう」
三十間堀に出でて、二町ばかり来たる
角を西に折れて、
唯有る露地口に清らなる
門構して、
光沢消硝子の
軒燈籠に鳥と
標したる
方に、人目にはさぞ
解あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ
辺に六畳の隠座敷の
板道伝に離れたる一間に案内されしも
宜なり。
懼れたるにもあらず、
困じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん
気色にて貫一の
容さへ
可慎しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは
思懸けざる
為体を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は
逸早く満枝が好きに計ひて、
少頃は
言無き二人が中に置れたる
莨盆は子細らしう一

の
百和香を
燻らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を
有仰らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「
嘘を
有仰いまし」
かくても貫一は
膝を
崩さで、
巻莨入を
取出せしが、
生憎一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は
先じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
麻蝦夷の
御主殿持とともに
薦むる筒の
端より
焼金の吸口は
仄に
耀けり。歯は
黄金、帯留は
黄金、指環は
黄金、腕環は
黄金、時計は
黄金、今又
煙管は
黄金にあらずや。
黄金なる
哉、
金、
金! 知る
可し、その心も
金! と貫一は
独り
可笑しさに
堪へざりき。
「いや、私は日本莨は一向
可かんので」
言ひも
訖らぬ顔を満枝は
熟と
視て、
「
決して
穢いのでは御坐いませんけれど、つい
心着きませんでした」
懐紙を
出してわざとらしくその吸口を
捩拭へば、貫一も
少く
慌てて、
「
決してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお
吐きなさるなら、もう少し
物覚を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日
鰐淵さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「
瓢箪のやうな
恰好のお煙管で、さうして
羅宇の
本に
些と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は
頓に
塞がざりき。満枝は
仇無げに口を
掩ひて笑へり。この罰として貫一は
直に三服の吸付莨を
強ひられぬ。
とかくする
間に
盃盤は
陳ねられたれど、満枝も貫一も三
盃を過し得ぬ
下戸なり。女は清めし
猪口を
出して、
「貴方、お
一盞」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは
麦酒に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に
侑めて酌せんとこそあるべきに、
甚い哉、彼の手を
束ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお
一盞お受け下さいましな」
貫一は止む無くその
一盞を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に
小車梅の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
彼は
忽ち
眉を
攅めて、
「いやそんなに」
「それでは私が
戴きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の
外に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ
難い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、
憚様ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ
意なのでございますもの」
その
媚ある目の
辺は
漸く花桜の色に染みて、心楽しげに
稍身を
寛に取成したる
風情は、
実に
匂など
零れぬべく、熱しとて紺の
絹精縷の
被風を脱げば、羽織は無くて、
粲然としたる紋御召の
袷に
黒樗文絹の
全帯、
華麗に
紅の入りたる友禅の
帯揚して、
鬢の
後れの
被る
耳際を
掻上ぐる左の手首には、
早蕨を
二筋寄せて
蝶の宿れる
形したる例の腕環の
爽に
晃き
遍りぬ。常に
可忌しと思へる物をかく
明々地に見せつけられたる貫一は、
得堪ふまじく
苦りたる
眉状して
密に目を

しつ。彼は女の貴族的に
装へるに反して、
黒紬の紋付の羽織に
藍千筋の
秩父銘撰の袷着て、
白縮緬の
兵児帯も
新からず。
彼を
識れりし者は定めて
見咎むべし、彼の
面影は
尠からず変りぬ。愛らしかりしところは皆
失せて、
四年に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、
自ら暗き陰を成してその
面を
蔽へり。
撓むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる
顔色の表に動けども、
嘗て宮を見しやうの優き光は再びその
眼に輝かずなりぬ。見ることの
冷に、言ふことの
謹めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に
狎るるを
憚れば、
自もまた
苟も親みを求めざるほどに、同業者は
誰も誰も偏人として彼を
遠けぬ。
焉んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを
怪むなりけり。
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて
盃を重ぬる
体を
打目戍れり。
「もう
一盞戴きませうか」
笑を
漾ふる
眸は
微醺に彩られて、更に別様の
媚を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「
貴方が止せと
仰有るなら私は止します」
「
敢て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
答無かりければ、満枝は
手酌してその
半を傾けしが、見る見る頬の麗く
紅になれるを、彼は手もて
掩ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
貫一は聞かざる
為して莨を
燻らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
満枝は
嘲むが如く
微笑みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に
障へては困りますの。
然し、
御酒の上で申すのではございませんから、どうぞそのお
意で、
宜うございますか」
「
撞着してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに
有仰らずに、
高が女の申すことでございますから」
こは
事難うなりぬべし。
克はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を
拱きつつ
俯目になりて、
力めて
関らざらんやうに
持成すを、満枝は
擦寄りて、
「これお
一盞で後は
決してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
貫一は
些の
言も
出さでその
猪口を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「
易い願ですな」と、あはや
出でんとせし
唇を結びて、貫一は
纔に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に
未だお長くゐらつしやるお
意なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「
勿論です」
「さうして、まづ
何頃彼方と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
満枝は
忽ち声を
斂めて、物思はしげに
差俯き、莨盆の
縁をば
弄べるやうに
煙管もて
刻を打ちてゐたり。折しも電燈の光の
遽に
晦むに驚きて顔を
挙れば、又
旧の如く
一間は
明うなりぬ。彼は煙管を捨てて
猶暫し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては
甚だ失礼なのでございますけれど、何時まで
彼方にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が
宜いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……
烏滸がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
意外に打れたる貫一は
箸を
扣へて女の顔を
屹と
視たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は
口籠りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも
赤樫に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「
全然解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
可恨しげに満枝は
言を絶ちて、
横膝に莨を
拈りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
貫一が
飯桶を引寄せんとするを、はたと
抑へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは
憚様です」
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、
茶椀をそれに伏せて、
彼方の
壁際に
推遣りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて
克はんですから
赦して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お
餒いところを御飯を上げませんでは、さぞお
辛うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、
此方で思つてゐることが
全で
先方へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか
夐に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、
有仰ることの主意が
能く解らんのですもの」
「
何故お
了解になりませんの」
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた
詰るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も
彼処を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が
空いて来ました」
「それとも貴方
外にお約束でも遊ばした御方がお
在なさるのでございますか」
彼
終に
鋒鋩を
露し
来れるよと思へば、貫一は
猶解せざる
体を
作して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く
言もあらざるに、満枝は図を
外されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお
在なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
貫一も今は
屹と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お
了解になりまして

」
嬉しと心を言へらんやうの
気色にて、彼の
猪口に
余せし酒を
一息に
飲乾して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
発に乗せられて貫一は思はず
受ると
斉く
盈々注れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が
歓喜!
「その盃は清めてございませんよ」
一々底意ありて
忽諸にすべからざる女の言を、彼はいと
可煩くて
持余せるなり。
「お
了解になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
僅にかく言ひ放ちて貫一は
厳かに沈黙しつ。満枝もさすがに
酔を
冷して、彼の
気色を
候ひたりしに、例の
言寡なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな
可耻い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は
緩かに
頷けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは
能々の事でございますから、それに対するだけの理由を
有仰つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「
御尤です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して
裹まず自分の
考量をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、
衆とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生
妻といふ者は
決して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を
罷めて、この商売を始めたのは、
放蕩で
遣損つたのでもなければ、
敢て
食窮めた訳でも有りませんので。書生が
可厭さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ
外に
幾多も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、
白日盗を
為すと
謂はうか、病人の
喉口を
干すと
謂はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを
択むものですか」
聴居る満枝は
益す
酔を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が
今日始めて知つたのではない、知つて身を
堕したのは、私は当時
敵手を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念
極る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を
頼にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影を避けんとしたる彼の目の中に
遽に
耀けるは、なほ
新なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に
頼少い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、
原はと云へば、
金銭からです。
仮初にも
一匹の男子たる者が、
金銭の為に
見易へられたかと思へば、その無念といふものは、私は
一……一生忘れられんです。
軽薄でなければ
詐、詐でなければ利慾、
愛相の尽きた世の中です。それほど
可厭な世の中なら、
何為一思に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が
障になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな
復讐などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは
屹と
霽さなければ
措かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、
全で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の
甚い、
殆ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を
暴してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、
金銭ゆゑに売られもすれば、
辱められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを
楽に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の
望も持たんのです。又考へて見ると、
憖ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が
夐か
頼になりますよ。頼にならんのは人の心です!
先かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと
有仰る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
彼は仰ぎて
高笑しつつも、その
面は痛く激したり。
満枝は、彼の
言の決して
譌ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、
実にさるべき
所見を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが
故に、心狭くもこの面白き世に偏屈の
扉を閉ぢて、
詐と軽薄と利欲との外なる楽あるを
暁らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は
輙く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が
嫌で、
総ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して
惚れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお
了解になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
今は取付く島も無くて、満枝は
暫し
惘然としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
打萎れつつ満枝は
飯を盛りて
出せり。
「これは恐入ります」
彼は
啖ふこと
傍に人無き
若し。満枝の
面は
薄紅になほ
酔は有りながら、
酔へる
体も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
かく会釈して貫一は
三盃目を
易へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を
啣みて
遽に
応ふる
能はず、唯目を
挙げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう
多時胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお
謝絶を受けては、私実に
面目無くて……
余り
悔うございますわ」
慌忙くハンカチイフを取りて、片手に
恨泣の目元を
掩へり。
「面目無くて私、この座が
起れません。間さん、お察し下さいまし」
貫一は
冷々に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は
総ての人間が嫌なのですから、どうぞ
悪からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして
小車梅の件に就いてのお話は?」
泣赤めたる目を
拭ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも
宜うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう
思召して下さい。で、お
可厭ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ
何日までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと
優い
言をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか
有仰りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は
決して忘れません。これなら宜いでせう」
満枝は物をも言はずつと起ちしが、
飜然と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに
力籠りて、その
太股を
絶か
撮れば、貫一は不意の痛に
覆らんとするを支へつつ
横様に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して
婢を呼ぶなりけり。
第三章
赤坂氷川の
辺に写真の
御前と言へば知らぬ者無く、
実にこの殿の
出づるに写真機械を車に積みて
随へざることあらざれば、
自ら人目を

れず、かかる
異名は呼るるにぞありける。
子細を明めずしては、「
将棊の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき
器を
抱きながら、五年を
独逸に薫染せし学者風を喜び、世事を
抛ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を
肆にすれども、なほ
歳の入るものを計るに
正に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる
田鶴見良春その人なり。
氷川なる邸内には、
唐破風造の昔を
摸せる
館と相並びて、帰朝後起せし三層の
煉瓦造の
異きまで目慣れぬ式なるは、この殿の
数寄にて、独逸に名ある古城の
面影を
偲びてここに
象れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに
充てて、
万足らざる無き
閑日月をば、書に
耽り、画に
楽み、彫刻を愛し、音楽に
嘯き、近き頃よりは
専ら写真に遊びて、
齢三十四に

べども
頑として
未だ
娶らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に
飄然として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、
自らなる七万石の品格は、
面白う
眉秀でて、鼻高く、
眼爽に、
形の
清に
揚れるは、
皎として
玉樹の風前に臨めるとも
謂ふべくや、
御代々御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
かかれば良縁の
空からざること、
蝶を
捉へんとする
蜘蛛の糸より
繁しといへども、
反顧だに
為ずして、例の飄然忍びては
酔の紛れの
逸早き
風流に慰み、内には無妻主義を主張して、人の
諌などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と
相愛して、末の契も堅く、月下の
小舟に比翼の
櫂を
操り、スプレイの流を
指して、この水の
終に
涸るる日はあらんとも、我が恋の

の消ゆる時あらせじ、と互の
誓詞に
詐はあらざりけるを、帰りて母君に
請ふことありしに、いと
太う驚かれて、こは
由々しき家の大事ぞや。
夷狄は□□よりも
賤むべきに、
畏くも我が田鶴見の家をばなでう
禽獣の
檻と為すべき。あな、
可疎しの
吾子が心やと、涙と共に
掻口説きて、
悲び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も
所為無くて、心苦う思ひつつも、
猶行末をこそ頼めと文の
便を
度々に慰めて、
彼方も在るにあられぬ
三年の月日を、
憂きは死ななんと
味気なく過せしに、
一昨年の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、
存へかねし身の
苦悩を、
御神の
恵に助けられて、導かれし天国の
杳として
原ぬべからざるを、いとど
可懐しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念
益す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、
唯懐を
亡き人に寄せて、形見こそ
仇ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、
彼女が十九の春の色を
苦に
手写して、
嘗て
貽りしものなりけり。
殿はこの失望の極
放肆遊惰の
裏に
聊か
懐を
遣り、一具の写真機に千金を
擲ちて、これに嬉戯すること
少児の如く、身をも家をも
外にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に
畔柳元衛ありて、その人
迂ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を
戴ける田鶴見家も、
幸に
些の
破綻を生ずる無きを得てけり。
彼は貨殖の一端として
密に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、
乃至一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを
以て、高利貸の大口を引受くる
輩のここに
便らんとせざるはあらず。されども
慧き畔柳は事の密なるを策の上と
為して
叨に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵
直行の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の
那辺にか
金穴あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
鰐淵の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の
後楯ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は
謂ふにも足らぬ
足軽頭に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の
後出でて小役人を勤め、転じて商社に
事へ、一時
或は地所家屋の売買を周旋し、
万年青を手掛け、
米屋町に
出入し、
何れにしても
世渡の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、
竟には警部にまで取立てられしを、中ごろにして
金これ
権と感ずるところありて、奉職中
蓄得たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の
未だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、
或は欺き、或は
嚇し、或は
賺し、或は
虐げ、
纔に法網を
潜り得て
辛くも
繩附たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし
比、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、
虎に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は
殆ど数万に上るとぞ聞えし。
畔柳はこの手より
穫るる利の
半は、これを
御殿の金庫に致し、半はこれを
懐にして、鰐淵もこれに
因りて利し、
金は
一にしてその利を三にせる家令が
六臂の
働は、主公が不生産的なるを補ひて
猶余ありとも
謂ふべくや。
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が
捨鉢の身を寄せて、
牛頭馬頭の手代と頼まれ、五番町なるその家に
四年の
今日まで
寄寓せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に
遇はれ、手代となり、顧問となりて、
主の重宝大方ならざれば、
四年の
久きに
弥れども主は彼を
出すことを喜ばず、彼もまた家を
構ふる必要無ければ、
敢て留るを
厭ふにもあらで、手代を勤むる
傍若干の我が小額をも運転して、
自ら営む
便もあれば、今
憖ひにここを出でて
痩臂を張らんよりは、
然るべき時節の到来を待つには
如かじと分別せるなり。彼は
啻に手代として
能く働き、顧問として能く
慮るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の
齢を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、
己を
衒はず、
他を
貶めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に
難有き若者なり、と鰐淵は
寧ろ
心陰に彼を
畏れたり。
主は彼の
為人を知りし
後、
如此き人の
如何にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は
己の履歴を
詐りて、如何なる失望の極身をこれに
墜せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に
顕れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて
穿鑿もせられで、やがては、
暖簾を分けて
屹としたる
後見は為てくれんと、鰐淵は常に
疎ならず彼が身を
念ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお
峯は四十六なり。夫は心
猛く、人の
憂を見ること、犬の
嚏の如く、
唯貪りて

くを知らざるに引易へて、
気立優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は
有てるなり。彼も貫一の偏屈なれども
律義に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては
猶更にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
いと
幸ありける貫一が身の上
哉。彼は世を恨むる
余その執念の
駆るままに、人の生ける肉を
啖ひ、以つて
聊か逆境に
暴されたりし
枯膓を
癒さんが為に、三悪道に捨身の大願を
発起せる心中には、百の
呵責も、千の
苦艱も
固より
期したるを、なかなかかかる
寛なる信用と、かかる
温き
憐愍とを
被らんは、
羝羊の
乳を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる
哉、彼はこの喜を
如何に喜びけるか。今は呵責をも
苦艱をも
敢て
悪まざるべき覚悟の貫一は、この信用の
終には慾の為に
剥がれ、この
憐愍も利の為に
吝まるる時の目前なるべきを固く信じたり。
(三)の二
毒は毒を以て制せらる。
鰐淵が債務者中に高利借の名にしおふ
某党の有志家某あり。彼は三年来
生殺の関係にて、元利五百余円の
責を負ひながら、
奸智を
弄し、雄弁を
揮ひ、大胆不敵に
構へて出没自在の
計を
出し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに
係りては、
逆捩を
吃ひて
血反吐を
噴されし者
尠からざるを、鰐淵は
弥よ憎しと思へど、彼に対しては
銕桿も折れぬべきに持余しつるを、
克はぬまでも
棄措くは
口惜ければ、せめては
令見の為にも折々
釘を刺して、再び
那奴の
翅を
展べしめざらんに
如かずと、
昨日は貫一の
曠らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
彼は散々に
飜弄せられけるを、劣らじと
罵りて、前後四時間ばかりその座を起ちも
遣らで
壮に言争ひしが、病者に等き青二才と
侮りし貫一の、
陰忍強く立向ひて屈する
気色あらざるより、有合ふ
仕込杖を抜放し、おのれ
還らずば生けては還さじと、二尺
余の白刃を
危く突付けて
脅せしを、その
鼻頭に
待ひて
愈よ動かざりける
折柄、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて
帰来にけるが、これが為に彼の感じ
易き神経は
甚く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の
転た
勝れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に
引籠れるなりけり。かかることありし翌日は
夥く脳の
憊るるとともに、心乱れ動きて、その
憤りし
後を憤り、悲みし後を悲まざれば
已まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。
故に彼は折に触れつつその
体の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは
漸く慣れてけれど、彼の心は
決してこの悪を
作すに慣れざりき。
唯能く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、
爾来終天の失望と恨との
一日も忘るる
能はざるが為に、その
苦悶の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の
堪ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、
或は人の加ふる侮辱に
堪へずして、神経の過度に
亢奮せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる
微恙を得ることあり。
朗に秋の気澄みて、空の色、雲の
布置匂はしう、
金色の日影は豊に快晴を飾れる
南受の縁障子を
隙して、
爽なる
肌寒の
蓐に
長高く
痩せたる貫一は
横はれり。
蒼く
濁れる
頬の肉よ、

へる横顔の
輪廓よ、曇の懸れる
眉の下に物思はしき
眼色の凝りて動かざりしが、やがて
崩るるやうに
頬杖を倒して、
枕嚢に重き
頭を落すとともに寝返りつつ
掻巻引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず
投遣りて仰向になりぬ。折しも
誰ならん、
階子を
昇来る音す。貫一は凝然として目を
塞ぎゐたり。
紙門を
啓けて
入来れるは
主の妻なり。貫一の
慌てて起上るを、そのままにと制して、机の
傍に坐りつ。
「紅茶を
淹れましたからお上んなさい。少しばかり
栗を
茹でましたから」
手籃に入れたる栗と盆なる茶器とを
枕頭に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々
御馳走様でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
彼は会釈して
珈琲茶碗を取上げしが、
「
旦那は
何時頃お
出懸になりました」
「今朝は
毎より早くね、
氷川へ行くと云つて」
言ふも
可疎しげに聞えけれど、さして貫一は
意も留めず、
「はあ、
畔柳さんですか」
「それがどうだか知れないの」
お峯は
苦笑しつ。
明なる障子の
日脚はその
面の
小皺の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、
櫛の歯通りて、
一髪を乱さず
円髷に結ひて顔の色は赤き
方なれど、いと好く
磨きて
清に
滑なり。鼻の
辺に
薄痘痕ありて、口を
引窄むる癖あり。歯性悪ければとて常に
涅めたるが、かかるをや
烏羽玉とも
謂ふべく
殆ど
耀くばかりに
麗し。
茶柳条のフラネルの
単衣に
朝寒の羽織着たるが、御召
縮緬の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「
何為ですか」
お峯は羽織の
紐を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを
遅へる
風情なるを、
強ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は
籃なる栗を取りて
剥きゐたり。彼は
姑く打案ぜし後、
「あの
赤樫の
別品さんね、あの人は悪い
噂が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては
食物に為るとか云ふ……」
貫一は覚えず首を傾けたり。
曩の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。
那奴男を引掛けなくても
金銭には
窮らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから
可けない。お前さんなんぞも
べいろしや組の方ですよ。
金銭が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、
此方へお貸しなさい」
「これは
憚様です」
お峯はその言はんとするところを言はんとには、
墨々と手を
束ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの
便あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを
択みて、その
頂よりナイフを加へつ。
「
些と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは
堅人だから可いけれど、本当にあんな者に
係合ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを
遣ると云ふのは評判ですよ。
金窪さん、
鷲爪さん、それから
芥原さん、
皆その話をしてゐましたよ」
「
或はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて
家内の人も
同じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
お峯がナイフを執れる手は
漸く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
お峯は又一つ取りて
剥き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの
運は
愈よ
等閑なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、
此処きりの話ですからね」
「承知しました」
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、
屹とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は
自から
潜りぬ。
「どうも私はこの間から
異いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の
夫があの別品さんに
係合を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は
揺笑して、
「そんな馬鹿な事が、
貴方……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる
女房の私が……それはもう間違無しよ!」
貫一は
熟と思ひ入りて、
「旦那はお
幾歳でしたな」
「五十一、もう
爺ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの

」
息巻くお峯の前に彼は
面を
俯して言はず、静に
思廻らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで
言を継がざりしが、さて
徐に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、
妾も
楽も可うございます。これが芸者だとか、
囲者だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、
赤樫さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ!
凡の
代物ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、
心火なら可いけれど、なかなか心火どころの
洒落た
沙汰ぢやありはしません。あんな者に
係合つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の
夫もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも
異いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく
冶れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで
仕立下し
渾成で、その奇麗事と
謂つたら、
何が
日にも氷川へ行くのにあんなに

した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと
歯痒くて心
苛つなるべし。
「はあ、事実とすれば
弥よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は
悋気で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、
敵手が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が
腑には落ちざるなりけり。
「さうして、それは
何頃からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「
然し、
何にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も
篤り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか
其処を突止めたいのだけれど、私の
体ぢや
戸外の様子が
全然解らないのですものね」
「
御尤」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお
在でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る
哉、紅茶と栗と、と貫一はその
余に安く売られたるが
独り
可笑かりき。
「いえ、一向
差支ございません。どういふ事ですか」
「さう?
余りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は
耀くばかりに
懽びぬ。
「御遠慮無く
有仰つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が
然諾の
爽なるに
遇ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に
可愧く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、
若し行つたのなら、
何頃行つて何頃帰つたか、なあに、
十に
九まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて
寝衣帯を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今
俥を呼びに
遣るから」
かく言捨ててお峯は
忙く
階子を
下行けり。
迹に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ
煩ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に
成損つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と
端無く思ひ浮べては
漫に
独り
打笑れつ。
第四章
貫一は
直に
俥を
飛して氷川なる
畔柳のもとに
赴けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より
出入すべく、
館の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを
木槿垣に取廻して、
昔形気の内に
幽しげに
造成したる二階建なり。
構の
可慎う目立たぬに
引易へて、
木口の
撰択の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の
主もこの家に公然の
出入を
憚る身なれば、玄関
側なる
格子口より
訪るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の
履物は在らず。はや帰りしか、
来ざりしか、
或は
未だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が
言にも符号すれども、
直にこれを以て疑を
容るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる
主の妻の声して、
連に
婢の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら
出で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお
出でした」
眼のみいと大くて、
病勝に
痩衰へたる五体は
燈心の如く、見るだに
惨々しながら、声の
明にして張ある、
何処より
出づる
音ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と
謂へるその人なり。年は
五十路ばかりにて
頭の
霜繁く夫よりは姉なりとぞ。
貫一は屋敷風の
恭き礼を
作して、
「はい、
今日は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど
此方様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お
出はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に
懸りたいと申してをりましたところ。
唯今御殿へ出てをりますので、
些と呼びに遣りませうから、
暫くお上んなすつて」
言はるるままに客間に通りて、
端近う控ふれば、彼は
井の
端なりし
婢を呼立てて、
速々主の
方へ走らせつ。
莨盆を
出し、番茶を
出せしのみにて、
納戸に入りける妻は再び
出で
来らず。この間は貫一は
如何にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の
息促き
還来にける
気勢せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今
些と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか
彼方へお出なすつて。
直其処ですよ。婢に案内を為せます。あの
豊や!」
暇乞して戸口を出づれば、勝手元の垣の
側に
二十歳かと見ゆる
物馴顔の婢の
待てりしが、
後さまに
帯
ひつつ
道知辺す。垣に沿ひて曲れば、玉川
砂礫を敷きたる
径ありて、
出外るれば子爵家の
構内にて、
三棟並べる
塗籠の
背後に、
桐の木高く
植列ねたる
下道の清く掃いたるを
行窮れば、
板塀繞らせる
下屋造の煙突より
忙しげなる
煙立昇りて、折しも
御前籠舁入るるは通用門なり。貫一もこれを
入りて、
余所ながら
過来し
厨に、酒の
香、物煮る
匂頻りて、奥よりは絶えず人の通ふ
乱響したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき
一間に導かれぬ。
(四)の二
畔柳元衛の娘
静緒は
館の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の
執持に召れて、
高髷、
変裏に
粧を改め、お
傍不去に
麁略あらせじと
冊くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、
先づ西洋館の三階に案内すとて、
迂廻階子の
半を
昇行く
後姿に、その客の
如何に貴婦人なるかを
窺ふべし。
鬘ならではと見ゆるまでに
結做したる
円髷の漆の如きに、
珊瑚の
六分玉の
後挿を点じたれば、更に
白襟の
冷
物の
類ふべき無く、
貴族鼠の
高縮緬の
五紋なる
単衣を
曳きて、帯は
海松色地に
装束切摸の
色紙散の
七糸を高く負ひたり。
淡紅色紋絽の
長襦袢の
裾は
上履の
歩に
緩く
匂零して、
絹足袋の雪に
嫋々なる
山茶花の開く心地す。
この
麗き
容をば見返り勝に静緒は
壁側に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の
俯きて
昇れるに、
櫛の
蒔絵のいと
能く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み
失ねて、
凄き響の中にあなや
僵れんと
為たり。
幸に
怪我は無かりけれど、彼はなかなか
己の怪我などより
貴客を
駭かせし
狼藉をば、得も忍ばれず満面に
慚ぢて、
「どうも飛んだ
麁相を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に
何処もお
傷めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ
吃驚遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
こ
度は
薄氷を
蹈む
想して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「
些とお待ちなさい」
進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は
慌て驚きて、
「あれ、
恐入ります」
「
可うございますよ。さあ、
熟として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
争ひ得ずして
竟に貴婦人の手を
労せし彼の心は、
溢るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の
薫あらんやうにも覚ゆるなり。彼は
女四書の
内訓に出でたりとて
屡ば父に聴さるる「
五綵服を
盛にするも、以つて身の
華と為すに足らず、
貞順道に
率へば、
乃ち以つて婦徳を進むべし」の
本文に
合ひて、かくてこそ始めて色に
矜らず、その徳に
爽かずとも謂ふべきなれ。
愛でたき人にも
遇へるかなと
絶に思入りぬ。
三階に着くより静緒は
西北の窓に寄り行きて、
効々しく緑色の
帷を絞り
硝子戸を
繰揚げて、
「どうぞ
此方へお
出あそばしまして。ここが一番
見晴が
宜いのでございます」
「まあ、
好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相
木犀が
匂ひますね、お
邸内に在りますの?」
貴婦人はこの
秋霽の
朗に
濶くして心往くばかりなるに、夢など見るらん
面色して
佇めり。窓を争ひて
射入る日影は
斜にその姿を照して、
襟留なる真珠は
焚ゆる如く輝きぬ。
塵をだに
容さず澄みに澄みたる添景の
中に立てる彼の
容華は清く
鮮に
見勝りて、
玉壺に白き花を
挿したらん
風情あり。静緒は女ながらも
見惚れて、
不束に
眺入りつ。
その目の
爽にして
滴るばかり
情の
籠れる、その
眉の思へるままに
画き成せる如き、その口元の
莟ながら
香に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、
肌理濃に光をさへ帯びたる、色の
透るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて
瑩沢に、
頭も重げに
束ねられたれど、
髪際の
少く打乱れたると、立てる
容こそ風にも
堪ふまじく
繊弱なれど、
面の
痩の過ぎたる為に、
自ら
愁う
底寂きと、
頸の細きが折れやしぬべく
可傷きとなり。
されどかく
揃ひて好き
容量は
未だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、
蹈外せし
麁忽ははや忘れて、見据うる
流盻はその物を奪はんと
覘ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる
貌ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の
傍には見劣せらるること
夥かり。彼は
己の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて
止まざりき。
実にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで
穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか
愧づべき。
婦の徳をさへ
虧かでこの
嬋娟に生れ得て、しかもこの富めるに
遇へる、天の
恵と世の
幸とを
併せ
享けて、残る
方無き果報のかくも
痛き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、
二者は

はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その
幸は男にも過ぎぬべしなど、若き女は
物羨の念強けれど、
妬しとは及び難くて、静緒は心に
畏るるなるべし。
彼は貴婦人の
貌に
耽りて、その
待にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の
仏蘭西より持ち帰られし名器なるを、
漸く
取出して
薦めたり。形は
一握の中に隠るるばかりなれど、
能く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の
玉もて造られ、
僅に
黄金細工の金具を施したるのみ。
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、
措くを忘らるるまでに
愛でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に
眺尽されて、彼はこの
鏡の
凡ならず精巧なるに驚ける
状なり。
「
那処に遠く
些の
小楊枝ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、
浅黄に赤い
柳条の模様まで
昭然見えて、さうして
旗竿の
頭に
鳶が
宿つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも
多度御座いませんさうで、
招魂社のお祭の時などは、
狼煙の人形が
能く見えるのでございます。私はこれを見まする
度にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ
宜うございませう。
余り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、
彼方此方の音が一所に成つて
粉雑になつて
了ひませう」
かく言ひて
斉く笑へり。静緒は
客遇に慣れたれば、
可羞しげに見えながらも話を求むるには
拙からざりき。
「私は始めてこれを見せて
戴きました折、殿様に
全然騙されましたのでございます。鼻の
前に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら
直にその眼鏡を耳に
推付けて見ろ、早くさへ耳に
推付ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
淀無く
語出づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は
笑ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も
御在でゐらつしやいましたが、
皆為つて御覧遊ばしました」
貴婦人は
怺へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります
速水と申す者は
余り急ぎましたので、耳の
此処を
酷く
打ちまして、血を出したのでございます」
彼の
歓べるを見るより静緒は椅子を
持来りて
薦めし後、さて語り続くるやう。
「それで
誰にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお
真面目なお顔で、わざと御考へあそばして、
仏蘭西に居た時には
能く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の
悪作劇を親く
睹たらんにも劣らざりき。
「殿様はお
面白い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお
勝れ遊ばしませんので、お
険いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、
卒に
空目遣して物の思はしげに、例の
底寂う
打湿りて見えぬ。
やや有りて彼は
徐に立ち上りけるが、こ
回は更に
邇きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。
彼方此方に差向くる筒の
当所も無かりければ、
偶ま
唐楪葉のいと近きが
鏡面に
入り
来て一面に
蔓りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、
自から得忘れぬ面影に
肖たるところあり。
貴婦人は差し向けたる手を
緊と据ゑて、目を
拭ふ間も
忙く、なほ心を留めて望みけるに、
枝葉の
遮りてとかくに思ふままならず。
漸くその顔の
明に見ゆる
隙を求めけるが、別に
相対へる人ありて、髪は黒けれども
真額の
瑩々禿げたるは、先に
挨拶に
出でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、
眉濃く、
外眦の
昂れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に
肖たりとは
未や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の
鏡持てる手は
兢々と
打顫ひぬ。
行く水に
数画くよりも
儚き恋しさと
可懐しさとの朝夕に、なほ夜昼の
別も無く、絶えぬ思はその外ならざりし
四年の久きを、熱海の月は
朧なりしかど、
一期の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又
何日は必ずと
念懸けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は
毫も昔に
渝らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、
如何なる
労をやさまでは積みけん、
齢よりは
面瘁して、
異うも物々しき
分別顔に老いにけるよ。
幸薄く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く
湧出でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の
鮮に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は
堪へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを
暁りて
失したりと思ひたれど、
所為無くハンカチイフを
緊く目に
掩てたり。静緒の
驚駭は謂ふばかり無く、
「あれ、
如何が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が
不良ものですから、
余り物を
瞶めてをると、どうかすると
眩暈がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお
頭をお
摩り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に
直に
癒ります。
憚ですがお
冷を一つ下さいましな」
静緒は
驀地に行かんとす。
「あの、
貴方、誰にも
有仰らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が
嗽をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、
畏りました」
彼の
階子を下り行くと
斉く貴婦人は再び
鏡を取りて、
葉越の面影を望みしが、一目見るより
漸含む涙に曇らされて、
忽ち
文色も分かずなりぬ。彼は
静無く椅子に
崩折れて、
縦まに泣乱したり。
(四)の三
この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる
唯継と
倶に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど
酌交す
間を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の
孰も日本写真会々員たるに
因れり。
自ら宮の
除物になりて二人の興に
入れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその
意を
獲んと
力めけるより、子爵も好みて
交るべき人とも思はざれど、勢ひ
疎じ
難くして、今は会員中善く
識れるものの
最たるなり。
爾来富山は
益す傾慕して
措かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の
鑒定を乞ふを名として、
曩に
芝西久保なる居宅に請じて
疎ならず
饗す事ありければ、その
返とて今日は夫婦を
招待せるなり。
会員等は富山が
頻に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は
彼為にするところあらんなど言ひて
陋み合へりけれど、その実
敢て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が
交るところは、その地位に
於て、その名声に於て、その家柄に於て、
或はその資産に於て、
孰の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。
実に彼は美き友を
有てるなり。さりとて彼は
未だ
曾てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも
強に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく
勉めて
交は求むるならん。
故に彼はその名簿の中に
一箇の
憂を
同うすべき友をだに
見出さざるを知れり。
抑も友とは
楽を共にせんが為の友にして、
若し憂を同うせんとには、別に
金銭ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは
固よりこの理に外ならず、
寔に彼の択べる友は皆美けれども、
尽くこれ酒肉の
兄弟たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも
然りと
為すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を

めて、
陋みても
猶余ある高利貸の手代に片思の涙を
灑ぐにあらずや。
宮は
傍に人無しと思へば、限知られぬ涙に
掻昏れて、熱海の浜に
打俯したりし
悲歎の足らざるをここに
続がんとすなるべし。
階下より
仄に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと
頭を支へつつ
室の
中央なる
卓子の
周囲を歩みゐたり。やがて静緒の
持来りし水に
漱ぎ、
懐中薬など服して後、心地
復りぬとて又窓に
倚りて
外方を眺めたりしが、
「ちよいと、
那処に、それ、男の方の話をしてお
在の所も御殿の続きなのですか」
「
何方でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お
邸内でございます。これから
直に見えまする、あの、倉の左手に高い
樅の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から
直とお宅の方へ
行かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では
些とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に
穢うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
宮はここを去らんとして又
葉越の面影を
窺へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、
那処にお
父様とお話をしてゐらつしやるのは
何地の方ですか」
彼の親達は常に
出入せる
鰐淵の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを
告るなり。
「
他は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの
売買を致してをります者の手代で、
間とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
宮は聞えよがしに
独語ちて、その
違へるを
訝るやうに
擬しつつ又
其方を
打目戍れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
この物語に
因りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は
如何にとも逢ふべき
便はあらんと、
獲難き宝を獲たるにも
勝れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは
何日をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を
仇に、
余所ながら見て別れんは
本意無からずや。
若し彼の
眼に
睨まれんとも、互の
面を合せて、
言は
交さずとも
切ては相見て相知らばやと、
四年を恋に
饑ゑたる彼の心は
熬るる如く動きぬ。
さすがに彼の
気遣へるは、事の
危きに過ぎたるなり。附添さへある
賓の身にして、
賤きものに
遇はるる手代
風情と、しかもその
邸内の
径に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は
抑や
幾許り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この
面に
唾吐るるも
厭はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、
逢瀬は今日の
一日に限らぬものを、事の
破を目に見て愚に
躁るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき
機ならず、
辛くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を
賺して、
邸内を一周せんと、西洋館の
後より通用門の
側に出でて、
外塀際なる
礫道を行けば、静緒は
斜に見ゆる父が詰所の
軒端を
指して、
「
那処が唯今の客の参つてをります所でございます」
実に
唐楪葉は高く立ちて、折しく一羽の小鳥
来鳴けり。宮が胸は
異うつと
塞りぬ。
楼を下りてここに来たるは
僅少の
間なれば、よもかの人は
未だ帰らざるべし、若しここに出で
来らば
如何にすべきなど、さすがに
可恐きやうにも覚えて、
歩は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には
入らで、さて行くほどに裏門の
傍に到りぬ。
遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を
挙れども
何処を眺むるにもあらず、
俯き勝に物思はしき
風情なるを、静緒は怪くも
気遣くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、
未だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお
宜うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「
家の中よりは
戸外の方が未だ可いので、もう
些と歩いてゐる中には
復りますよ。ああ、
此方がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な!
木槿が
盛ですこと。白ばかりも
淡白して
好いぢやありませんか」
畔柳の
住居を限として、それより
前は道あれども、
賓の足を
容るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる
疎垣の
此方に、
樫の実の
夥く
零れて、
片側に下水を流せる
細路を鶏の遊び、犬の
睡れるなど見るも
悒きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに
恐懼は
忽ちその心を襲へり。
この一筋道を行くなれば、もしかの人の
出来るに会はば、
遁れんやうはあらで
明々地に
面を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを
如何にせん。
仮令此方にては知らぬ顔してあるべきも、
争でかの人の見付けて驚かざらん。
固より恨を負へる我が身なれば、
言など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその
驚駭は如何ならん。
仇に
遇へるその
憤懣は如何ならん。必ずかの人の
凄う激せるを見ば、静緒は
幾許我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると
斉く身内は熱して
冷き汗を
出し、足は地に吸るるかとばかり
竦みて、宮はこれを想ふにだに
堪へざるなりけり。
脇道もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、
遣る方も無く惑へる宮が
面色の
穏からぬを
見尤めて、静緒は
窃に目を
側めたり。彼はいとどその目を
懼るるなるべし。今は心も
漫に足を
疾むれば、土蔵の
角も間近になりて
其処をだに無事に過ぎなば、と
切に急がるる折しも、人の影は
突としてその角より
顕れつ。宮は
眩きぬ。
これより帰りてともかくもお峯が前は
好きやうに
言譌へ、さて篤と実否を
糺せし上にて
私に
為んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を
稍目深に
引側め、通学に
馴されし
疾足を駆りて、
塗籠の角より
斜に桐の並木の
間を出でて、
礫道の端を歩み
来れり。
四辺に
往来のあるにあらねば、二人の姿は
忽ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは
疾く知られけれど、
顔打背けたる貴婦人の
眩く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと
纔に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに
近けば、貫一は静緒に向ひて
慇懃に礼するを、宮は
傍に
能ふ限は身を
窄めて
密に
流盻を凝したり。その
面の色は惨として夕顔の花に宵月の
映へる如く、その
冷なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。
脚は
打顫ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく
轟くを、
覚られじとすれば
猶打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に
沁むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする
際に、ふと
目鞘の走りて、館の
賓なる貴婦人を一
瞥せり。
端無くも
相互の
面は合へり。宮なるよ!
姦婦なるよ! 銅臭の
肉蒲団なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと
睨めて動かざる
眼には見る見る涙を
湛へて、唯
一攫にもせまほしく肉の
躍るを
推怺へつつ、
窃に
歯咬をなしたり。
可懐しさと
可恐しさと
可耻しさとを取集めたる宮が胸の内は何に
喩へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば
抱付きても思ふままに
苛まれんをと、心のみは
憧れながら身を
如何とも
為難ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を
籠むるより外はあらず。
貫一はつと踏出して始の如く
足疾に過行けり。宮は
附人に面を
背けて、
唇を
咬みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも
弁へねど、
推すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、
賓の顔色のさしも常ならず変りて
可悩しげなるを、問出でんも
可や
否やを
料りかねて、唯
可慎う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお
出あそばして、お休み遊ばしましては
如何でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、
真蒼でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは
彼方へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると
可けませんから、お庭を
一周しまして、その内には気分が
復りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変
貴方のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を
有仰います」
貴婦人はその
無名指より
繍眼児の
押競を
片截にせる
黄金の指環を抜取りて、
懐紙に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお
証に」
静緒は驚き
怖れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「
可うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、
阿父様にも
阿母様にも誰にも
有仰らないやうに、ねえ」
受けじと為るを
手籠に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の
麁朶橋近く寄る時、書院の静なるに夫の
高笑するが聞えぬ。
宮はこの散歩の間に
勉めて気を
平げ、色を
歛めて、ともかくも人目を

れんと計れるなり。されどもこは酒を
窃みて酔はざらんと欲するに
同かるべし。
彼は先に
遭ひし事の胸に
鏤られたらんやうに忘るる
能はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に
萠出でて、募りに募らんとする心の
乱は、
堪ふるに
難き
痛苦を
齎して、一歩は一歩より、胸の
逼ること急に、身内の血は
尽くその
心頭に注ぎて余さず
熬らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は
打寛ぎて
意任せの我が家に独り居たらんぞ
可き。人に接して
強ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな
可煩しと、例の
劇く
唇を
咬みて止まず。
築山陰の
野路を写せる
径を行けば、
蹈処無く地を
這ふ
葛の乱れ
生ひて、
草藤、
金線草、
紫茉莉の色々、
茅萱、
穂薄の
露滋く、泉水の末を引きて
々水を
卑きに落せる
汀なる
胡麻竹の
一叢茂れるに
隠顕して
苔蒸す石組の小高きに
四阿の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は
艱しげに憩へり。
彼は静緒の
柱際に立ちて控ふるを、
「貴方もお
草臥でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
その色の
前にも劣らず
蒼白めたるのみならで、下唇の何に
傷きてや、
少く血の流れたるに、彼は
太く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。
如何あそばしました」
ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに
柘榴の
花弁の如く附きたるに、貴婦人は
懐鏡取出して、
咬むことの過ぎし
故ぞと知りぬ。
実に顔の色は
躬も
凄しと見るまでに変れるを、庭の内をば
幾周して我はこの色を隠さんと
為らんと、彼は
心陰に
己を
嘲るなりき。
忽ち女の声して築山の
彼方より、
「静緒さん、静緒さん!」
彼は走り行き、手を鳴して
応へけるが、やがて
木隠に
語ふ
気勢して、返り来ると
斉く
賓の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、
直に
彼方へお
出あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
道を転じて静緒は
雲帯橋の在る
方へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや
所狭きまで
盃盤を
陳ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
此方の姿を見るより子爵は縁先に出でて
麾きつつ、
「そこをお渡りになつて、
此方に
燈籠がございませう、あの
傍へ
些とお出で下さいませんか。一枚
像して戴きたい」
写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に
下立ちて、早くもカメラの
覆を
引被ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
いでや、事の
様を見んとて、
慢々と
出来れるは富山唯継なり。片手には
葉巻の
半燻りしを
撮み、
片臂を五紋の
単羽織の
袖の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの
笑を浮べつつ、
「ああ、おまへ
其処に居らんければ可かんよ、
何為歩いて来るのかね」
子爵の
慌てたる顔はこの時
毛繻子の覆の内よりついと
顕れたり。
「可けない!
那処に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を
蒙る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、
貴方は巧い
言をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、
彼方へ。静緒、お前奥さんを
那処へお連れ申して」
唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして
御支度をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の
傍へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も
羞含むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で
遣つてをるのに、あれで可いのさ。
姿勢は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ
倚掛つて
頬杖でも

いて、空を
眺めてゐる
状なども可いよ。ねえ、
如何でせう」
「結構。結構」と子爵は
頷けり。
心は進まねど強ひて
否むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
かく
呟きつつ庭下駄を
引掛け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に
倚しめ、頬杖を

しめ、空を眺めよと教へて、
袂の
皺めるを
展べ、
裾の
縺を引直し、さて好しと、
少く
退きて姿勢を見るとともに、彼はその
面の
可悩げに
太くも色を変へたるを発見して、
直に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は?
何処か
不快のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、
私が訳を言つてお
謝絶をするから」
「いいえ、
宜うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に
可厭な色だ」
彼は
眷々として去る
能はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「
如何ですか」
唯継は
慌忙く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
鏡面に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は
種板を
挿入るれば、唯継は心得てその
邇を避けたり。
空を眺むる宮が目の
中には
焚ゆらんやうに一種の表情力
充満ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある
衣は
唐松の
翠の
下蔭に
章を成して、秋高き清遠の空はその後に
舗き、
四脚の雪見燈籠を
小楯に裾の
辺は
寒咲躑躅の
茂に隠れて、近きに二羽の
鵞の
汀に

るなど、
寧ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や
鏡面を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は
忽ち
頽れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて
岸破と伏しぬ。
第五章
遊佐良橘は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、
頗る謹直を
以て聞えしに、
却りて、日本周航会社に出勤せる
今日、三百円の高利の為に
艱さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは
外を張らざるべからざる為の
遣繰なるべしと言ひ、或ものは
隠遊の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは
謂ふべからざる事情の下に連帯の
印を
仮せしが、
形の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を
受ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士
蒲田鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士
風早庫之助とあるのみ。
凡そ高利の術たるや、
渇者に水を売るなり。渇の
甚く
堪へ難き者に至りては、決してその肉を
割きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその
値玉漿を盛るに異る無し。
故に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の
癒るに及びては、玉漿なりとして喜び
吃せしものは、
素と下水の
上澄に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に
搾りその活肉に割きて以て返さざるべからず。
噫、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを
借るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを
以て、高利は
借るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に
罹れる
哉と、彼は人の為ながら常にこの
憂を解く
能はざりき。
近きに
郷友会の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし
帰さを彼等は
三人打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に
御馳走と云つては無いけれど、
松茸の
極新いのと、製造元から
貰つた
黒麦酒が有るからね、
鶏でも買つて、
寛り話さうぢやないか」
遊佐が
弄れる半月形の
熏豚の
罐詰も、この
設にとて
途に求めしなり。
蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう
泊が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と
対に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。
然し、どうもその長足の
ちやうは
てう(貂)足らず、
続ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は
全然フロックが
止つた?
ははははは、それはお
目出度いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは
明に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
風早は例の
皺嗄声して
大笑を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、
竪杖をして二寸三分クロオスを
裂かなければ可けません」
蒲「三たび
臂を折つて良医となるさ。あれから僕は
竪杖の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の
後曳の
手際も知らんで」
これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間
那処の
主翁がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分
失る……」
蒲「
穿得て妙だ」
風「チョオクの多少は
業の巧拙には関せんよ。遊佐が
無闇に
杖を
取易へるのだつて、決して
見とも好くはない」
蒲田は手もて
遽に制しつ。
「もう、それで可い。
他の非を挙げるやうな者に
業の出来た
例が無い。悲い
哉君達の球も蒲田に八十で
底止だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは
幾箇で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける
哉だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
語も
訖らざるに彼は
傍腹に不意の
肱突を
吃ひぬ。
「あ、
痛! さう強く
撞くから毎々球が
滾げ出すのだ。風早の球は
暴いから
癇癪玉と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に
柔いから
蒟蒻玉。それで、二人の撞くところは
電公と
蚊帳が
捫択してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、
多度も行かんが、
天狗の風早に二十遣るのさ」
二人は劣らじと
諍ひし末、
直に一番の勝負をいざいざと
手薬煉引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で
寛り出来るさ。帰つて風呂にでも
入つて、それから
徐々始めやうよ」
往来繁き町を湯屋の角より
入れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も
雑りながら閑静に、
家並整へる中程に
店蔵の
質店と軒ラムプの並びて、
格子木戸の内を庭がかりにしたる
門に
楪葉の立てるぞ遊佐が
居住なる。
彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は
出で
来りて、伴へる客あるを見て
稍打惑へる
気色なりしが、
遽に
笑を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に
尤められて、彼はいよいよ
困じたるなり。
「
唯今些と
塞つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
勝手を知れる客なれば
々と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「
鰐淵から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、
些とお会ひなすつて、早く
還してお
了ひなさいましな」
「
松茸はどうした」
妻はこの
暢気なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の
黒麦酒な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。
私は
那奴が居ると思ふと
不快な心持で」
遊佐も差当りて当惑の
眉を
顰めつ。二階にては例の
玉戯の
争なるべし、さも気楽に
高笑するを妻はいと心憎く。
少間ありて遊佐は二階に昇り
来れり。
蒲「
浴に一つ行かうよ。
手拭を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
実に言ふが如く彼は
心穏かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に
高利貸が来てをるのだよ」
蒲「
那物が来たのか」
遊「先から座敷で
帰来を待つてをつたのだ。困つたね!」
彼は立ちながら
頭を抑へて
緩く柱に
倚れり。
蒲「何とか言つて
逐返して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。
陰忍した皮肉な奴でね、
那奴に
捉つたら
耐らん」
蒲「二三円も
叩き付けて遣るさ」
遊「もうそれも
度々なのでね、
他は書替を
為せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を
揮つて」
「これは外の談判と違つて唯
金銭づくなのだから、
素手で飛込むのぢや弁の
奮ひやうが無いよ。それで
忽諸すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の
助太刀を為るから」
いと
難しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、
萎れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして
拯つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから
可かない。ああ云ふ風だから
益す
脚下を見られて好い事を為れるのだ。高が
金銭の
貸借だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは
懼れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが
高利を
貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、
安利や無利息なんぞを借りるから見れば、
夐に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども
金銭に
窮らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは
為まいし、名誉に於て
傷くところは少しも無い」
「恐入りました、
高利を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、
高利を借りるなどは、紳士たるもののいとも
慚づべき
行と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、
未だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも
能はざるなりだらう。
宋の時代であつたかね、何か乱が
興つた。すると上奏に及んだものがある、これは
師を動かさるるまでもない、
一人の将を
河上へ
遣して、賊の
方に向つて
孝経を読せられた事ならば、賊は
自から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは
真面目で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、
天引四割と
吃つて一月
隔に血を
吮れる。そんな無法な目に
遭ひながら、
未だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら
高利は貸しません、彼等は銭勘定の出来る
毛族さ」
得意の快弁流るる如く、彼は息をも
継せず
説来りぬ。
「
濡れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ
未だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな

だ。それは
勿論借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、
一物にして一物ならずだよ。武士の
魂と
商人根性とは元
是一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を
容さんことは、武士の魂と
敢て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、
商人にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も
高利などを借りん内は武士の魂よ、既に
対高利となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。
究竟は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が
高利を借りて、栄と為るに足れりと
謂ふに至つては……」
蒲田は恐縮せる
状を
作して、
「それは少し白馬は馬に
非ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、
一匕深く探る
蛟鰐の
淵と出掛けやうか」
「
空拳を
奈んだらう」
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は
独り
臥つ起きつ安否の
気遣れて苦き
無聊に堪へざる折から、
主の妻は
漸く茶を持ち来りぬ。
「どうも
甚だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
彼はその美き顔を少く
赧めて、
「はい、あの居間へお
出で、
紙門越に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお
可恥くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「
私はもう
彼奴が参りますと、
惣毛竪つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは
可厭に陰気な
々した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
急足に
階子を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
と
上端に坐れる妻の
背後を
過るとて
絶かその足を
蹈付けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
骨身に
沁みて痛かりけるを妻は赤くなりて
推怺へつつ、さり気無く
挨拶せるを、風早は見かねたりけん、
「
不相変麁相かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい
慌てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「
落付れる訳のものではないよ。下に来てゐる
高利貸と云ふのは、
誰だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で
君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の
面を蹈んだ」
「でも
仕合と皮の厚いところで」
「
怪しからん!」
妻の足の
痛は
忽ち下腹に
転りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た

」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、
空く
眼を

りしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
別して
呆れたるは
主の妻なり。彼は
鈍ましからず胸の
跳るを覚えぬ。同じ思は二人が
面にも
顕るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは
御朋友なのでございますか」
蒲田は
忙しげに
頷きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「
夙て学校を
罷めてから
高利貸を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、
極温和い男で、
高利貸などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は
虚だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も
虚と想ふのです」
「
本にさうでございますね」
少き前に起ちて行きし風早は
疑を
霽して帰り
来れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の
面影があるだらう」
「エッセクスを
逐払はれた時の面影だ。然し
彼奴が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで
因業な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
主の妻はその美き顔を
皺めたるなり。
蒲「随分
酷うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば
遽に取りて飲干し、
「然し間であるのが
幸だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう
阿漕なことは言ひもすまい。
次手に何とか話を着けて、
元金だけか何かに負けさして遣らうよ。
那奴なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで
喧嘩に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も
些と
気凛とするが可い、帯の下へ時計の
垂下つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、
主の妻は
傍より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは
憚様です。
些と身支度に婦人の
心添を受けるところは
堀部安兵衛といふ役だ。然し芝居でも、
人数が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な!
間如きに」
「急に強くなつたから
可笑い。さあ。用意は
好いよ」
「
此方も
可い」
二人は膝を正して
屹と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても
敵討の
門出だ。互に交す
茶盃か」
第六章
座敷には
窘める遊佐と
沈着きたる貫一と相対して、
莨盆の火の消えんとすれど呼ばず、彼の
傍に
茶托の上に伏せたる
茶碗は、
嘗て肺病患者と知らで
出せしを恐れて
除物にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
遊佐は
憤を忍べる
声音にて、
「それは出来んよ。
勿論朋友は
幾多も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、
何ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
貫一の声は重きを
曳くが如く底強く沈みたり。
「
敢て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは
私の方が立ちません。
何方とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、
固より
貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、
些の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の
誼として、
何方でも承諾なさりさうなものですがな。
究竟名義だけあれば
宜いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、
決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ
廉が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで
一先句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「
何方でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に
関るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論
差押です」
遊佐は
強ひて微笑を含みけれど、胸には
犇と
応へて、はや八分の
怯気付きたるなり。彼は
悶えて
捩断るばかりにその
髭を
拈り拈りて止まず。
「三百円やそこらの
端金で
貴方の御名誉を
傷けて、後来御出世の
妨碍にもなるやうな事を為るのは、私の方でも
決して
可好くはないのです。けれども、
此方の請求を
容れて下さらなければ
已むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、
元金の上に借用当時から
今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円
強、それと
合して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が
費つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を
書される!
余り馬鹿々々しくて話にならん。
此方の身にも成つて少しは
斟酌するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
空嘯きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
遊佐は
陰に
切歯をなしてその横顔を
睨付けたり。
彼も

れ難き義理に迫りて連帯の
印捺きしより、不測の
禍は起りてかかる憂き目を見るよと、
太く
己に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を
懸くることもやと、断じて貫一の請求を
容れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに
谷るとともに貫一もこの場は
一寸も去らじと構へたれば、遊佐は
羂に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき
謂無き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、
飜りて一点の人情無き
賤奴の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず
暴れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の
二十日にお払ひ下さるべきのを、
未だにお
渡が無いのですから、
何日でも御催促は出来るのです」
遊佐は
拳を握りて
顫ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで
空く帰るその日当及び
俥代として下すつたから戴きました。ですから、
若しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の
内金でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、
無駄足を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても
宜い訳なのです。まあ、過去つた事は
措きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「
今日はその事で上つたのではないのですから、
今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと
仰有るのですな」
「出来ん!」
「で、
金も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が
面を
熟と
候へり。その
冷に鋭き
眼の光は
異く彼を襲ひて、
坐に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は
忽ち吾に
復れるやうに覚えて、身の
危きに
処るを省みたり。一時を快くする暴言も
竟に
曳れ
者の
小唄に過ぎざるを
暁りて、
手持無沙汰に
鳴を鎮めつ。
「では、
何ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず
和ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「
聢と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら
宜うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を
有仰るところは少しも有りはしません、その代り
何分か
今日お
遣し下さい」
かく言ひつつ
手鞄を開きて、約束手形の用紙を
取出せり。
「銭は有りはせんよ」
「
僅少で
宜いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ
金円は有りはせん」
「それぢや、どうも」
彼は
遽に
躊躇して、手形用紙を惜めるやうに
拈るなりけり。<