金色夜叉

尾崎紅葉




   目次

前編
中編
後編
続金色夜叉
続続金色夜叉
新続金色夜叉
[#改丁]

  前編


     第一章

 だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠さしこめて、真直ますぐに長く東より西によこたはれる大道だいどうは掃きたるやうに物の影をとどめず、いとさびしくも往来ゆききの絶えたるに、例ならずしげ車輪くるまきしりは、あるひせはしかりし、あるひは飲過ぎし年賀の帰来かへりなるべく、まばらに寄する獅子太鼓ししだいこ遠響とほひびきは、はや今日に尽きぬる三箇日さんがにちを惜むが如く、その哀切あはれさちひさはらわたたたれぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴としるされたる日記をけがして、この黄昏たそがれよりこがらし戦出そよぎいでぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声のなだむる者無きより、いかりをも増したるやうに飾竹かざりだけ吹靡ふきなびけつつ、からびたる葉をはしたなげに鳴して、えては走行はしりゆき、狂ひては引返し、みに揉んでひとり散々に騒げり。微曇ほのぐもりし空はこれが為にねむりさまされたる気色けしきにて、銀梨子地ぎんなしぢの如く無数の星をあらはして、鋭くえたる光は寒気かんきはなつかとおもはしむるまでに、その薄明うすあかりさらさるる夜のちまたほとんど氷らんとすなり。
 人このうちに立ちて寥々冥々りようりようめいめいたる四望の間に、いかでの世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重きゆうちようの天、八際はつさいの地、始めて混沌こんとんさかひでたりといへども、万物いまことごと化生かせいせず、風はこころみに吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫ただみだり※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)ひろよこたはれるに過ぎざるかな。日のうち宛然さながら沸くが如く楽み、うたひ、ひ、たはむれ、よろこび、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等ははかなくも夏果てし孑孑ぼうふりの形ををさめて、今将いまはた何処いづく如何いかにして在るかを疑はざらんとするもかたからずや。多時しばらく静なりしのちはるかに拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃たちまち一点の燈火ともしびは見えめしが、揺々ゆらゆらと町の尽頭はづれ横截よこぎりてせぬ。再び寒き風はさびしき星月夜をほしいままに吹くのみなりけり。唯有とある小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間ひあはひの下水口より噴出ふきいづる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温ぬくもりの四方にあふるるとともに、垢臭あかくさき悪気のさかんほとばしるにへる綱引の車あり。勢ひでかどより曲り来にければ、避くべき遑無いとまなくてその中を駈抜かけぬけたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後はことば絶えて、車は驀直ましぐらに走れり、紳士は二重外套にじゆうがいとうそでひし掻合かきあはせて、かはうそ衿皮えりかはの内に耳より深くおもてうづめたり。灰色の毛皮の敷物のはしを車の後に垂れて、横縞よこじま華麗はなやかなる浮波織ふはおり蔽膝ひざかけして、提灯ちようちん徽章しるしはTの花文字を二個ふたつ組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭はづれを北に折れ、やや広きとほりでしを、わづかに走りて又西にり、その南側の半程なかほど箕輪みのわしるしたる軒燈のきラムプを掲げて、※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)そぎだけを飾れる門構もんがまへの内に挽入ひきいれたり。玄関の障子に燈影ひかげしながら、格子こうし鎖固さしかためたるを、車夫は打叩うちたたきて、
「頼む、頼む」
 奥のかたなる響動どよみはげしきに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せておとなひつつ、格子戸を連打つづけうちにすれば、やがて急足いそぎあしの音立てて人はぬ。
 円髷まるわげに結ひたる四十ばかりのちひさせて色白き女の、茶微塵ちやみじんの糸織の小袖こそでに黒の奉書紬ほうしよつむぎの紋付の羽織着たるは、この家の内儀ないぎなるべし。彼のせはしげに格子をあくるを待ちて、紳士は優然と内にらんとせしが、土間の一面に充満みちみちたる履物はきものつゑを立つべき地さへあらざるにためらへるを、彼はすかさず勤篤まめやか下立おりたちて、この敬ふべきまらうどの為にからくも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄こまげたのみはひとり障子の内に取入れられたり。

     (一)の二

 箕輪みのわの奥は十畳の客間と八畳の中のとを打抜きて、広間の十個処じつかしよ真鍮しんちゆう燭台しよくだいを据ゑ、五十目掛めかけ蝋燭ろうそくは沖の漁火いさりびの如く燃えたるに、間毎まごとの天井に白銅鍍ニッケルめつきの空気ラムプをともしたれば、四辺あたりは真昼よりあきらかに、人顔もまばゆきまでに耀かがやわたれり。三十人に余んぬる若き男女なんによ二分ふたわかれに輪作りて、今をさかり歌留多遊かるたあそびるなりけり。蝋燭のほのほと炭火の熱と多人数たにんず熱蒸いきれと混じたる一種の温気うんきほとんど凝りて動かざる一間の内を、たばこけふり燈火ともしびの油煙とはたがひもつれて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々のおもては皆赤うなりて、白粉おしろい薄剥うすはげたるあり、髪のほつれたるあり、きぬ乱次しどな着頽きくづれたるあり。女はよそほひ飾りたれば、取乱したるがことに著るく見ゆるなり。男はシャツのわきの裂けたるも知らで胴衣ちよつきばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をばよつまで紙にてひたるもあり。さしも息苦き温気うんきも、むせばさるるけふりの渦も、皆狂して知らざる如く、むしろ喜びてののしわめく声、笑頽わらひくづるる声、捩合ねぢあひ、踏破ふみしだひしめき、一斉に揚ぐる響動どよみなど、絶間無き騒動のうち狼藉ろうぜきとしてたはむれ遊ぶ為体ていたらく三綱五常さんこうごじよう糸瓜へちまの皮と地にまびれて、ただこれ修羅道しゆらどう打覆ぶつくりかへしたるばかりなり。
 海上風波の難にへる時、若干そくばくの油を取りて航路にそそげば、なみくしくもたちましづまりて、船は九死をづべしとよ。今この如何いかにともべからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王によおうあり。たけびに猛ぶ男たちの心もその人の前にはやはらぎて、つひに崇拝せざるはあらず。女たちは皆そねみつつもおそれいだけり。中の間なる団欒まどゐ柱側はしらわきに座を占めて、おもげにいただける夜会結やかいむすび淡紫うすむらさきのリボンかざりして、小豆鼠あづきねずみ縮緬ちりめんの羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて、みづからしとやかに引繕ひきつくろへる娘あり。粧飾つくりより相貌かほだちまで水際立みづぎはたちて、ただならずこびを含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名はあまねく知られぬ。娘も数多あまた居たり。みにくきは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑とまどひせるかとおぼしきもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装みなりは宮より数等すとう立派なるは数多あまたあり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘まなむすめとて、最も不器量ふきりようきはめて遺憾いかんなしと見えたるが、最も綺羅きらを飾りて、その起肩いかりがた紋御召もんおめし三枚襲さんまいがさねかつぎて、帯は紫根しこん七糸しちん百合ゆり折枝をりえだ縒金よりきん盛上もりあげにしたる、人々これが為に目もれ、心も消えてまゆしわめぬ。この外種々さまざま色々の絢爛きらびやかなる中に立交たちまじらひては、宮のよそほひわづかに暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何いかなるうつくし染色そめいろをも奪ひて、彼の整へるおもては如何なるうるはしき織物よりも文章あやありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きをおほあたはざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚ふくろだなと障子との片隅かたすみ手炉てあぶりを囲みて、蜜柑みかんきつつかたらふ男の一個ひとりは、彼の横顔を恍惚ほれぼれはるかに見入りたりしが、つひ思堪おもひたへざらんやうにうめいだせり。
い、好い、全く好い! 馬士まごにも衣裳いしようふけれど、うつくしいのは衣裳には及ばんね。物それみづからが美いのだもの、着物などはどうでもい、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体ならなほ結構だ!」
 この強き合槌あひづち撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳つなひきにて駈着かけつけし紳士はしばらく休息の後内儀に導かれて入来いりきたりつ。そのうしろには、今まで居間に潜みたりしあるじ箕輪亮輔みのわりようすけも附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途せんどはげしき勝負の最中なれば、彼等のきたれるに心着きしはまれなりけれど、片隅に物語れる二人は逸早いちはやく目をそばめて紳士の風采ふうさいたり。
 広間の燈影ひかげは入口に立てる三人みたりの姿をあざやかに照せり。色白のちひさき内儀の口はかんの為に引歪ひきゆがみて、その夫の額際ひたひぎはより赭禿あかはげたる頭顱つむりなめらかに光れり。妻は尋常ひとなみより小きに、夫はすぐれたる大兵だいひよう肥満にて、彼の常に心遣こころづかひありげの面色おももちなるに引替へて、生きながら布袋ほていを見る如き福相したり。
 紳士は年歯としのころ二十六七なるべく、長高たけたかく、好き程に肥えて、色は玉のやうなるにほほあたりには薄紅うすくれなゐを帯びて、額厚く、口大きく、あぎとは左右にはびこりて、面積の広き顔はやや正方形をせり。ゆるく波打てる髪を左の小鬢こびんより一文字に撫付なでつけて、少しは油を塗りたり。からぬ口髭くちひげはやして、ちひさからぬ鼻に金縁きんぶち目鏡めがねはさみ、五紋いつつもん黒塩瀬くろしほぜの羽織に華紋織かもんおり小袖こそで裾長すそなが着做きなしたるが、六寸の七糸帯しちんおび金鏈子きんぐさりを垂れつつ、大様おほやうおもてを挙げて座中を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはしたるかたちは、に光をはなつらんやうに四辺あたりを払ひて見えぬ。この団欒まどゐの中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々びびしくよそほひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
 例の二人の一個ひとりはさも憎さげにつぶやけり。
可厭いやな奴!」
 つば吐くやうに言ひて学生はわざとおもてそむけつ。
「おしゆんや、一寸ちよいと」と内儀は群集くんじゆの中よりその娘を手招きぬ。
 お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙あわただしく起ちてきたれるが、顔好くはあらねど愛嬌あいきよう深く、いと善く父にたり。高島田にひて、肉色縮緬にくいろちりめんの羽織につまみたるほどの肩揚したり。顔をあかめつつ紳士の前にひざまづきて、慇懃いんぎんかしらさぐれば、彼はわづかに小腰をかがめしのみ。
「どうぞ此方こちらへ」
 娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうにうなづけり。母はゆがめる口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
 お俊は再びかしらげぬ。紳士はゑみを含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
 あるじの勧むるそばより、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内あないして、客間の床柱の前なる火鉢ひばち在るかたれぬ。妻は其処そこまで介添かいぞへに附きたり。二人は家内かないの紳士をあつかふことのきはめて鄭重ていちようなるをいぶかりて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱みのがさざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒まどゐの間を過ぎたりしが、無名指むめいしに輝ける物のただならず強き光は燈火ともしび照添てりそひて、ほとんただしく見るあたはざるまでにまなこを射られたるにあきれ惑へり。天上の最もあきらかなる星は我手わがてに在りと言はまほしげに、紳士は彼等のいまかつて見ざりしおほきさの金剛石ダイアモンドを飾れる黄金きんの指環を穿めたるなり。
 お俊は骨牌かるたの席にかへると※(「にんべん+牟」、第3水準1-14-22)ひとしく、ひそかに隣の娘のひざきて口早に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやきぬ。彼は忙々いそがはしく顔をもたげて紳士のかたを見たりしが、その人よりはその指に耀かがやく物の異常なるにおどろかされたるていにて、
「まあ、あの指環は! 一寸ちよいと金剛石ダイアモンド?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
 お俊の説明を聞きて彼はそぞろ身毛みのけ弥立よだつを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
 ※(「魚+單」、第3水準1-94-52)ごまめの目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳いくとせ念懸ねんがくれどもいまだ容易に許されざる娘の胸は、たちまち或事を思ひ浮べて攻皷せめつづみの如くとどろけり。彼は惘然ぼうぜんとして殆ど我を失へるに、電光の如く隣より伸来のびきたれる猿臂えんぴは鼻のさきなる一枚の骨牌かるた引攫ひきさらへば、
「あら、貴女あなたどうしたのよ」
 お俊は苛立いらだちて彼の横膝よこひざを続けさまにはたきぬ。
くつてよ、可くつてよ、以来これからもう可くつてよ」
 彼は始めて空想の夢をさまして、及ばざるぶんあきらめたりけれども、一旦金剛石ダイアモンドの強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚めざましかりける手腕てなみの程も見る見るやうや四途乱しどろになりて、彼は敢無あへなくもこの時よりお俊の為に頼みがたなき味方となれり。
 かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
金剛石ダイアモンド!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石※(疑問符二つ、1-8-76)
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石※(疑問符二つ、1-8-76)
可感すばらしい金剛石」
可恐おそろしい光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
 またたひまに三十余人は相呼び相応じて紳士の富をうたへり。
 彼は人々の更互かたみがはりにおのれのかたながむるを見て、その手に形好く葉巻シガアを持たせて、右手めて袖口そでぐちに差入れ、少したゆげに床柱にもたれて、目鏡の下より下界を見遍みわたすらんやうに目配めくばりしてゐたり。
 かかる目印ある人の名はたれしも問はであるべきにあらず、れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継とみやまただつぐとて、一代分限ぶげんながら下谷したや区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員のうちにも富山重平じゆうへいの名は見出みいださるべし。
 宮の名の男のかた持囃もてはやさるる如く、富山と知れたる彼の名はただちに女の口々にずんぜられぬ。あはれ一度ひとたびはこの紳士と組みて、世にめでたき宝石に咫尺しせきするの栄を得ばや、と彼等の心々こころごころこひねがはざるはまれなりき。人し彼に咫尺するの栄を得ば、ただにその目の類無たぐひなたのしまさるるのみならで、その鼻までも菫花ヴァイオレットの多く※(「鼻+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)ぐべからざる異香いきようくんぜらるるのさいはひを受くべきなり。
 男たちはおのづからすさめられて、女のこぞりて金剛石ダイアモンド心牽こころひかさるる気色けしきなるを、あるひねたく、或は浅ましく、多少の興をさまさざるはあらざりけり。ひとり宮のみは騒げるていも無くて、そのすずし眼色まなざしはさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深たしなみふかく、心様こころざまゆかしく振舞へるを、崇拝者は益々よろこびて、我等の慕ひ参らするかひはあるよ、ひとへにこの君を奉じて孤忠こちゆうを全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎きつらの皮を引剥ひきむかん、と手薬煉てぐすね引いて待ちかけたり。されば宮と富山とのいきほひはあたかも日月じつげつ並懸ならべかけたるやうなり。宮はたれと組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念けねんするところなりけるが、くじの結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人みたりとともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数にんずはこの時合併していつおほいなる団欒まどゐに成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合となりあひに坐りければ、夜と昼との一時いちじに来にけんやうに皆狼狽うろたへ騒ぎて、たちまちその隣に自ら社会党ととなふる一組をいだせり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。すなはち彼等はもつぱら腕力を用ゐて或組の果報と安寧あんねいとを妨害せんと為るなり。又その前面むかひには一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組ろうぜきぐみと称し、右翼を蹂躙隊じゆうりんたいと称するも、実は金剛石の鼻柱をくじかんと大童おほわらはになれるにほかならざるなり。果せるかなくだんの組はこの勝負にきたなき大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白はなしろみ、美き人は顔をあかめて、座にもふべからざるばかりの面皮めんぴかかされたり。この一番にて紳士の姿は不知いつか見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中にはたなぞこの玉を失へる心地ここちしたるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯におそれをなして、ひそかあるじの居間に逃帰れるなりけり。
 かつらたるやうにくしけづりたりし彼の髪は棕櫚箒しゆろぼうきの如く乱れて、かんかたかた※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)げたる羽織のひもは、手長猿てながざるの月をとらへんとするかたちして揺曳ぶらぶらさがれり。主は見るよりさもあわてたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
 彼はやにはに煙管きせるを捨てて、ゆるがせにすべからざらんやうに急遽とつかはと身を起せり。
「ああ、ひどい目につた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切たちきれないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかりぶたれた」
 手の甲の血をひつつ富山は不快なる面色おももちしてまうけの席に着きぬ。かねて用意したれば、海老茶えびちや紋縮緬もんちりめん※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねかたはら七宝焼しちほうやき小判形こばんがた大手炉おほてあぶりを置きて、蒔絵まきゑ吸物膳すひものぜんをさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴してをんなを呼び、大急おほいそぎに銚子と料理とをあつらへて、
「それはどうも飛でもない事を。ほか何処どこもお怪我けがはございませんでしたか」
「そんなに有られてたまるものかね」
 う事無さに主も苦笑にがわらひせり。
唯今ただいま絆創膏ばんそうこうを差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々わざわざ御招おまねき申しましてはなはだ恐入りました。もう彼地あつちへは御出陣にならんがよろしうございます。何もございませんがここで何卒どうぞ御寛ごゆるり」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
 物は言はで打笑うちゑめる富山のあぎといよいよひろがれり。早くもその意を得てや破顔はがんせるあるじの目は、すすき切疵きりきずの如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意ぎよいに召したのが、へえ?」
 富山はますますゑみただへたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
何故なぜな」
「何故も無いものでございます。十目じゆうもくの見るところぢやございませんか」
 富山はうなづきつつ、
「さうだらうね」
「あれはよろしうございませう」
一寸ちよいと好いね」
「まづその御意おつもりでお熱いところをお一盞ひとつ不満家むづかしや貴方あなたが一寸好いと有仰おつしやる位では、余程よつぽど尤物まれものと思はなければなりません。全くすくなうございます」
 倉皇あたふた入来いりきたれる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方こちらにおいであそばしたのでございますか」
 彼は先の程より台所につめきりて、中入なかいりの食物の指図さしづなどしてゐたるなりき。
ひどく負けてげて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
 例のゆがめる口をすぼめて内儀は空々そらぞらしく笑ひしが、たちまち彼の羽織のひもかたかたちぎれたるを見尤みとがめて、かんの失せたりと知るより、あわて驚きて起たんとせり、如何いかにとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、よろしい」
「宜いではございません。純金きんでは大変でございます」
「なあに、いと言ふのに」と聞きもをはらで彼は広間のかたでて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、たいした事はございませんです」
「それはさうだらう。しかおよそどんなものかね」
もとは農商務省に勤めてをりましたが、唯今ただいまでは地所や家作かさくなどで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三しぎさわりゆうぞうと申して、ぢき隣町となりちように居りまするが、ごく手堅く小体こていつてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
 われがほおとがひ掻撫かいなづれば、例の金剛石ダイアモンド燦然きらりと光れり。
「それでも可いさ。然しれやうか、嗣子あととりぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢやこまるぢやないか」
わたくしくはしい事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
 程無く内儀は環を捜得さがしえ帰来かへりきにけるが、悪戯いたづらとも知らで耳掻みみかきの如く引展ひきのばされたり。主は彼に向ひて宮の家内かないの様子をたづねけるに、知れる一遍ひととほりは語りけれど、娘は猶能なほよく知るらんを、のちに招きて聴くべしとて、夫婦はしきりさかづきすすめけり。
 富山唯継の今宵ここにきたりしは、年賀にあらず、骨牌遊かるたあそびにあらず、娘の多くあつまれるを機として、嫁選よめえらみせんとてなり。彼は一昨年をととしの冬英吉利イギリスより帰朝するや否や、八方に手分てわけして嫁を求めけれども、器量のぞみ太甚はなはだしければ、二十余件の縁談皆意にかなはで、今日が日までもなほその事に齷齪あくさくしてまざるなり。当時取急ぎて普請せししばの新宅は、いまだ人の住着かざるに、はや日にくろみ、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額をあつめては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。

     第二章

 骨牌かるたの会は十二時に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およびて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数にんずの三分の一強を失ひけれども、なほ飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼もしかへりたらんには、おそらく踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
 彼に心を寄せしやからは皆彼が夜深よふけ帰途かへりの程を気遣きづかひて、我ねがはくは何処いづくまでも送らんと、したたおもひに念ひけれど、彼等の深切しんせつは無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石ダイアモンドいでは彼の挙動の目指めざされしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事のほかは人目をくべき点も無く、彼は多く語らず、又はさわがず、始終つつましくしてゐたり。終までこの両個ふたり同伴つれなりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々よそよそしさに過ぎたればなり。彼等の打連れてかどづるを見て、始めて失望せしものすくなからず。
 宮は鳩羽鼠はとばねずみ頭巾ずきんかぶりて、濃浅黄地こいあさぎぢに白く中形ちゆうがた模様ある毛織のシォールをまとひ、学生は焦茶の外套オバコオトを着たるが、身をすぼめて吹来るこがらし遣過やりすごしつつ、遅れし宮の辿着たどりつくを待ちて言出せり。
みいさん、あの金剛石ダイアモンドの指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭いやに気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれどみんながあの人を目のかたきにして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私までひどい目にあはされてよ」
「うむ、彼奴あいつが高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹よこつぱらを二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐へどが出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭いやだわ」
芬々ぷんぷんと香水のにほひがして、金剛石ダイアモンドの金の指環を穿めて、殿様然たる服装なりをして、いに違無ちがひないさ」
 学生はあざむが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組はくじだから為方しかたが無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
 宮はシォールを揺上ゆりあげて鼻のなかばまで掩隠おほひかくしつ。
「ああ寒い!」
 男は肩をそばだててひたと彼に寄添へり。宮はなほ黙して歩めり。
「ああ寒い※(感嘆符二つ、1-8-75)
 宮はなほ答へず。
「ああ寒い※[#感嘆符三つ、23-5]
 彼はこの時始めて男のかたを見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くてたまらんからその中へ一処いつしよに入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
可笑をかしい、可厭だわ」
 男は逸早いちはやく彼の押へしシォールの片端かたはしを奪ひて、そのうちに身をれたり。みやは歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一かんいつさん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面むかふから人が来てよ」
 かかるたはむれしてはばからず、女も為すままにまかせてとがめざる彼等の関繋かんけいそもそ如何いかに。事情ありて十年来鴫沢に寄寓きぐうせるこの間貫一はざまかんいちは、此年ことしの夏大学にるを待ちて、宮がめあはせらるべき人なり。

     第三章

 間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、る所無くて養はるるなり。母は彼のいとけなかりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆なげきの中に父を葬るとともに、おのれが前途の望をさへ葬らざるからざる不幸にへり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりにくるし痩世帯やせじよたいなりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶにさきだちてくらふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちてははうむりすべき急、なほこれに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬをさなき者の如何いかにしてこれ等の急を救得すくひえしか。もとより貫一が力のあたふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個ひとつ引承ひきうけて万端の世話せしにるなり。孤児みなしごの父は隆三の恩人にて、彼はいささかその旧徳に報ゆるが為に、ただにその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着こころづけては貫一の月謝をさへまま支弁したり。かくて貧き父をうしなひし孤児みなしごは富める後見うしろみを得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時せいじもつあきたらず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴あつぱれ人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
 き人常に言ひけるは、いやしくも侍の家に生れながら、何の面目めんぼくありて我子貫一をも人にあなどらすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民しみんかみに立たしめん。貫一は不断にこのことばいましめられ、隆三は会ふ毎にまたこの言をかこたれしなり。彼はものいいとまだに無くてにはか歿みまかりけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
 されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者としてひそかうとまるる如き憂目うきめふにはあらざりき。なまじ継子ままこなどに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許いかばかりさいはひは多からんよ、と知る人はうはさし合へり。隆三夫婦はに彼を恩人の忘形見としておろそかならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、やうやくその心はて、彼の高等中学校にりし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
 貫一は篤学のみならず、性質もすぐに、おこなひただしかりければ、この人物を以つて学士の冠をいただかんには、誠に獲易えやすからざる婿なるべし、と夫婦はひそかに喜びたり。この身代しんだいを譲られたりとて、他姓たせいをかして得謂えいはれぬ屈辱を忍ばんは、彼のいさぎよしと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したるよろこびいだきて、ますます学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へるなかばには過ぎざらん。彼は自らその色好いろよきを知ればなり。世間の女のたれか自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るにすぐるに在り。ふ可くんば、宮はおのれが美しさの幾何いかばかり値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てしてわづか箇程かほどの資産をぎ、類多き学士風情ふぜいを夫に有たんは、決して彼が所望のぞみの絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤びせんよりでしためしすくなからざるを見たり。又は富人の醜き妻をいとひて、美きめかけに親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴ふうきを得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干そくばくを見たりしに、そのかたちおのれかざるものの多きを見出みいだせり。あまつさへ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件ひとつ最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七のとしに起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸ドイツ人は彼の愛らしきたもと艶書えんしよを投入れぬ。これもとよりあだなる恋にはあらで、女夫めをとちぎりを望みしなり。ほとんど同時に、院長のなにがしは年四十をえたるに、先年その妻をうしなひしをもて再び彼をめとらんとて、ひそかに一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
 この時彼のちひさき胸は破れんとするばかりとどろけり。なかばかつて覚えざる可羞はづかしさの為に、半はにはかおほいなる希望のぞみの宿りたるが為に。彼はここに始めておのれの美しさのすくなくとも奏任以上の地位ある名流をそのつまあたひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、かきを隣れる男子部だんじぶの諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
 もしかのプロフェッサアに添はんか、あるひは四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後をぐの比にはあらざらんをと、一旦いだける希望のぞみは年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人のおのれ見出みいだして、玉の輿こしかかせて迎にきたるべき天縁の、必ず廻到めぐりいたらんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼をきらへるにはあらず、彼と添はばさすがにたのしからんとはおもへるなり。如此かくのごと決定さだかにそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木ははきぎの好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

     第四章

 漆の如きやみうちに貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島むこうじま八百松やおまつに新年会ありとていまかへらざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来いりきにけるが、机の上なる書燈をともをはれる時、をんなは台十能に火を盛りたるを持来もちきたれり。宮はこれを火鉢ひばちに移して、
「さうして奥のお鉄瓶てつも持つて来ておくれ。ああ、もう彼方あちら御寝おやすみになるのだから」
 ひさし人気ひとけの絶えたりし一間のさむさは、今にはかに人の温き肉を得たるを喜びて、ただちにまんとするが如くはだへせまれり。宮は慌忙あわただしく火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚しよだなに飾れる時計を見たり。
 夜のくらく静なるに、ともしの光のひとり美き顔を照したる、限無くえんなり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花のこずゑに月のうつろへるが如く、背後うしろの壁に映れる黒き影さへ香滴にほひこぼるるやうなり。
 金剛石ダイアモンドと光を争ひし目は惜気をしげも無く※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて時計のセコンドを刻むを打目戍うちまもれり。火にかざせる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬むらさきちりめん半襟はんえりつつまれたる彼の胸を想へ。その胸のうちに彼は今如何いかなる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来かへり待佗まちわぶるなりけり。
 一時ひとしきりさむさ太甚はなはだしきを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面むかふなる貫一が※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねの上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 もしやと聞着けし車の音はやうやちかづきて、ますますとどろきて、つひ我門わがかどとどまりぬ。宮は疑無うたがひなしと思ひて起たんとする時、客はいとひたる声して物言へり。貫一は生下戸きげこなればかつひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時になんなんとす。
 かどの戸引啓ひきあけて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ただあわててラムプを持ちてでぬ。台所よりをんなも、出合いであへり。
 足の踏所ふみど覚束無おぼつかなげに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾うちかたむき、ハンカチイフにつつみたる折を左にげて、山車だし人形のやうに揺々ゆらゆらと立てるは貫一なり。おもては今にも破れぬべくくれなゐに熱して、舌のかわくにへかねてしきり空唾からつばを吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産おみやげです。かへつてこれを細君におくる。何ぞじんなるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つてしまつた」
「あら、貫一かんいつさん、こんな所にちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様のけさまに倒れたる貫一のあし掻抱かきいだきて、宮はからくもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手をいてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮はをんなともしらせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼はよろめきつつ肩にすがりてつひに放さざりければ、宮はその身一つさへあやふきに、やうやうたすけて書斎にりぬ。
 ※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねの上に舁下かきおろされし貫一はくづるるたいを机に支へて、打仰うちあふぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷きんるころもを惜むなかれ。君に勧む、すべからく少年の時を惜むべし。花有り折るにへなばただちに折るし。花無きを待つてむなしく枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、みいさん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。くるしいでせう」
然矣しかり、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるにいてはおほいに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
可厭いやよ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断きらひの癖に何故なぜそんなに飲んだの。誰にのまされたの。端山はやまさんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、ひどいわね、こんなによはして。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、みいさん。しや多謝たしや! もしそれが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊にぎりしめつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決してしやべる男ぢやない。それがどうして知れたのか、みんなが知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃しゆくはいだ祝盃だと、十も二十も一度に猪口ちよくを差されたのだ。祝盃などを受けるおぼえは無いと言つて、手を引籠ひつこめてゐたけれど、なかなかみんな聴かないぢやないか」
 宮はひそかゑみを帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初かりそめにもああ云ふ美人と一所いつしよに居て寝食をともにすると云ふのが既に可羨うらやましい。そこを祝すのだ。次には、君も男児をとこなら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人にられるやうな事があつたら、ひとり間貫一いつ個人の恥辱ばかりではない、我々朋友ほうゆう全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、いて高等中学の名折なをれにもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心をいつにしてむすぶの神にいのつた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたらかへつて神罰が有ると、弄謔からかひとは知れてゐるけれど、言草いひぐさが面白かつたから、片端かたつぱしから引受けて呷々ぐひぐひ遣付やつつけた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分よろしく願ひます」
可厭いやよ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、いよいよ僕の男が立たないわけだ」
「もうきまつてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃をぢさんやをばさんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事はして無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡りようけんはどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢやあんまりだわ」
 貫一はゑひを支へかねて宮がひざを枕に倒れぬ。宮は彼が火の如きほほに、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又ちや……貫一さん、貫一さん」
 まことに愛のいさぎよかな、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望のぞみは跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔にあつめて、富も貴きも、乃至ないしあらゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為にとろかされて、彼は唯妙ただたへかうばし甘露かんろの夢にひて前後をも知らざるなりけり。
 もろもろ可忌いまはし妄想もうぞうはこの夜の如くまなこを閉ぢて、この一間ひとまに彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又このあきらかなる燈火ともしびの光の如きものありて、ことに彼等をのみ照すやうに感ずるなり。

     第五章

 或日箕輪みのわの内儀は思も懸けず訪来とひきたりぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩ほうばいにて常に往来ゆききしたりけれども、いまうちと家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互にらで過ぎたりしに、今は二人の往来おうらいやうやうとくなりけるに及びて、にはかにその母のきたれるは、如何いかなるゆゑにか、と宮も両親ふたおやあやしき事におもへり。
 およそ三時間の後彼は帰行かへりゆきぬ。
 先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸おもひがけざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこのめづらし客来きやくらいのありしを知らず、宮もまたあへて告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮はすこしく食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとはざりき。この間に両親ふたおや幾度いくたびと無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
 彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知るよしもあらねど、片時へんじもその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出みいださんはかたき事にあらず。さも無かりし人の顔の色のにはかに光を失ひたるやうにて、振舞ふるまひなどけて力無く、笑ふさへいと打湿うちしめりたるを。
 宮が居間とふまでにはあらねど、彼の箪笥たんす手道具など置きたる小座敷あり。ここには火燵こたつの炉を切りて、用無き人の来てはかたみ冬籠ふゆごもりする所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。めばことをもくなり。彼が手玩てすさみと見ゆる狗子柳いのこやなぎのはや根をゆるみ、しんの打傾きたるが、鮟鱇切あんこうぎりの水にほこりを浮べて小机のかたへに在り。庭に向へる肱懸窓ひぢかけまどあかるきに敷紙しきがみひろげて、宮はひざの上に紅絹もみ引解ひきときを載せたれど、針は持たで、ものうげに火燵にもたれたり。
 彼はすこしく食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間にりて、深く物思ふなりけり。両親ふたおや仔細しさいを知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼のすままにまかせたり。
 この日貫一は授業はじめの式のみにて早く帰来かへりきにけるが、した座敷にはたれも見えで、火燵こたつの間に宮のしはぶく声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄うかがひよりぬ。ふすまわづかきたるひまより差覗さしのぞけば、宮は火燵にりて硝子ガラス障子をながめては俯目ふしめになり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐ためいきつきて、たちまち物の音を聞澄すが如く、美き目をみはるは、何をか思凝おもひこらすなるべし。人のうかがふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶くもんをそのかたちあらはしてはばからざるなり。
 貫一はあやしみつつも息を潜めて、なほ彼のんやうを見んとしたり。宮は少時しばしありて火燵に入りけるが、つひやぐら打俯うちふしぬ。
 柱に身を倚せて、ななめに内を窺ひつつ貫一はまゆひそめて思惑おもひまどへり。
 彼は如何いかなる事ありてさばかり案じわづらふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。そのゆゑのあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
 かく又案じ煩へる彼のおもておのづかうつむきぬ。問はずして知るべきにあらずと思定おもひさだめて、再び内を差覗さしのぞきけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時いつか落ちけむ、蒔絵まきゑくしこぼれたるも知らで。
 人の気勢けはひに驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にそのかたはらに在り。彼はあわてて思頽おもひくづをるる気色けしきおほはんとしたるが如し。
「ああ、吃驚びつくらした。何時いつ御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。ちつとも知らなかつた」
 宮はおのれの顔のしきりに眺めらるるをまばゆがりて、
「何をそんなにるの、可厭いや、私は」
 されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背うちそむきて、裁片畳きれたたふの内をかきさがせり。
みいさん、お前さんどうしたの。ええ、何処どこ不快わるいのかい」
「何ともないのよ。何故なぜ?」
 かく言ひつつますます急にかきさがせり。貫一は帽をかぶりたるまま火燵に片肱掛かたひぢかけて、ななめに彼の顔を見遣みやりつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、ぢき疑深うたぐりぶかいの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然ぼんやり考へたり、太息ためいきいたりしてふさいでゐるものか。僕は先之さつきから唐紙からかみの外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つてきかしたつて可いぢやないか」
 宮は言ふところを知らず、わづかに膝の上なる紅絹もみ手弄てまさぐるのみ。
「病気なのかい」
 彼はわづかかしらりぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
 彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
 宮は唯胸のうち車輪くるまなどのめぐるやうに覚ゆるのみにて、誠にもいつはりにもことばいだすべきすべを知らざりき。彼は犯せる罪のつひつつあたはざるを悟れる如き恐怖おそれの為に心慄こころをののけるなり。如何いかに答へんとさへ惑へるに、かたはらには貫一の益なじらんと待つよと思へば、身はしぼらるるやうに迫来せまりくる息のひまを、得もはれずひややかなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
 貫一の声音こわねやうや苛立いらだちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚そぞろ言出いひいだせり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
 あきれたる貫一はまたたきもせで耳をかたぶけぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時いつ死んでしまふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽たのしみな事もあるかはりつらい事や、悲い事や、くるしい事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図ふつとさう思出おもひだしたら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭いや心地こころもちになつて、自分でもどうかたのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢてききゐし貫一はしづか※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたを開くとともにまゆひそめて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎うちしをれてかしらを垂れぬ。
しかし心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 あやしく沈みたるその声の寂しさを、如何いかに貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為せゐだ、脳でも不良わるいのだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。もとより世の中と云ふものはさう面白いわけのものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、みんなみんなそんな了簡りようけんを起して御覧な、世界中御寺ばかりになつてしまふ。はかないのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中でせめてはたのしみを求めやうとして、究竟つまり我々が働いてゐるのだ。考へてふさいだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分いくらか面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何かたのしみが無ければならない。一事ひとつかうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。みいさんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如くひそかに男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼はゑみを含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭かたさきりて貫一は此方こなたに引向けんとすれば、すままに彼はゆるく身をめぐらしたれど、顔のみは可羞はぢがましそむけてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さでしきりゆすらるるを、宮はくろがねつちもて撃懲うちこらさるるやうに覚えて、安き心もあらず。ひややかなる汗は又一時ひとしきり流出ながれいでぬ。
「これはしからん!」
 宮はあやぶみつつ彼の顔色をうかがひぬ。常の如く戯るるなるべし。そのおもてやはらぎて一点の怒気だにあらず、むし唇頭くちもとには笑を包めるなり。
「僕などは一件ひとつ大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快でたまらんの。一日がつて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽をこしらへたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死しようしともにするのだ。みいさん、可羨うらやましいだらう」
 宮はたちまち全身の血の氷れるばかりの寒さにへかねて打顫うちふるひしが、この心の中をさとられじと思へば、弱る力を励して、
可羨うらやましいわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
何卒どうぞ
「ええ悉皆みんなつてしまへ!」
 彼は外套オバコオト衣兜かくしより一袋のボンボンを取出とりいだして火燵こたつの上に置けば、余力はずみに袋の口はゆるみて、紅白の玉は珊々さらさら乱出みだれいでぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

     第六章

 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶いちびん水薬すいやくを与へられぬ。貫一はまことに胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩おうのうとしてうきへざらんやうなる彼の容体ようたい幾許いくばくの変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋あひこくする苦痛は、ますます募りてやまざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。あやしむべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることをおそれぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、おもてを合すれば冷汗ひやあせも出づべき恐怖おそれを生ずるなり。彼の情有なさけあことばを聞けば、身をもらるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根こころねを見ることを恐れたり。宮が心地すぐれずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生へいぜいに一層を加へたれば、彼は死をもとむれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとそのふべからざる限に至りぬ。
 つひに彼はこのくるしみを両親に訴へしにやあらん、一日あるひ母と娘とはにはかに身支度して、忙々いそがはしく車に乗りて出でぬ。彼等はちひさからぬ一個ひとつ旅鞄たびかばんを携へたり。
 大風おほかぜぎたるあと孤屋ひとつやの立てるが如く、わびしげに留守せるあるじの隆三はひとり碁盤に向ひて碁経きけいひらきゐたり。よはひはなほ六十に遠けれど、かしらおびただし白髪しらがにて、長く生ひたるひげなども六分は白く、かたちせたれどいまだ老のおとろへも見えず、眉目温厚びもくおんこうにしてすこぶ古井こせい波無きの風あり。
 やがて帰来かへりきにける貫一は二人の在らざるを怪みてあるじたづねぬ。彼はしづかに長き髯をでて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日きのふ医者が湯治が良いと言うてしきりに勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着おもひつきで、脚下あしもとから鳥のつやうな騒をして、十二時三十分の※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやで。ああ、ひとりで寂いところ、まあ茶でもれやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、わしもそんな塩梅あんばいで」
しかし、湯治は良いでございませう。幾日いくかほど逗留とうりゆうのお心算つもりで?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、ほんの着のままで出掛けたのだが、なあにぢきに飽きてしまうて、四五日も居られるものか、養生よりうち養生の方が楽だ。何かうまい物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
 貫一は着更きかへんとて書斎に還りぬ。宮ののこしたる筆のあとなどあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便たよりあらんと思飜おもひかへせしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来かへりきたれるは、心のするばかり美きおもかげゑて帰来れるなり。彼はむなしく饑ゑたる心をいだきて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許いくら急いで出掛けたつて、何とか一言ひとことぐらゐ言遺いひおいてきさうなものぢやないか。一寸ちよつと其処そこへ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、はじめに話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日あした行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別わかれには顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
 女と云ふ者は一体男よりは情がこまやかであるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。まさかにあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々ばんばんそんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
 元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂いはゆる『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為せゐか知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向かたむきつてゐたけれど、今のやうに太甚はなはだしくはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更なほさらでなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
 それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、ほとんど……殆どではない、全くだ、全くおぼれてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
 これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情があつくなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分ひどい話だ。これが互に愛してゐるなかの仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事をれると実に憎い。
 小説的かも知れんけれど、八犬伝はつけんでん浜路はまじだ、信乃しの明朝あしたは立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更よふけひに来る、あの情合じやうあひでなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処そこの娘と許嫁いひなづけ……似てゐる、似てゐる。
 然し内の浜路は困る、信乃にばかり気をもまして、余り憎いな、そでない為方しかただ。これから手紙を書いて思ふさま言つてらうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀かあいさうだ。
 自分は又神経質に過るから、思過おもひすごしを為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過おもひすごしであるか、あの人がじようが薄いのかは一件ひとつの疑問だ。
 時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少いくらか自分をあなどつてゐるのではあるまいか。自分は此家ここの厄介者、あの人は家附の娘だ。そこでおのづかしゆうと家来と云ふやうな考が始終有つて、……いや、それもあの人にく言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すとひどおこられるのだ、一番それを慍るよ。勿論もちろんそんな様子の些少すこしでも見えた事は無い。自分の僻見ひがみに過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、もしもあの人の心にそんな根性が爪のあかほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情のとりことはなつても、だ奴隷になる気は無い。あるひはこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死こがれじにに死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずにくものか。
 それは自分の僻見ひがみで、あの人に限つてはそんな心は微塵みじんも無いのだ。その点は自分もく知つてゐる。けれども情がこまやかでないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊うちこはすほどに熱しないのか。あるひは熱しあたはざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
 彼はこころに満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だかつて解釈し得ざるなりけり。今日はや如何いかに解釈せんとすらん。

     (六)の二

 翌日果して熱海より便たよりはありけれど、わづかに一枚の端書はがきをもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟しゆせきなり。貫一は読了よみをはるとひとしく片々きれきれに引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何いかにとも言解くなるべし。彼のしたし言解いひとかば、如何に打腹立うちはらだちたりとも貫一の心のけざることはあらじ。宮の前には常に彼はいかりをも、恨をも、うれひをも忘るるなり。今は可懐なつかしき顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平にひて、しかも言解く者のあらざれば、彼のいかりは野火の飽くこと知らでくやうなり。
 このゆふべ隆三は彼に食後の茶をすすめぬ。一人わびしければとどめて物語ものがたらはんとてなるべし。されども貫一の屈托顔くつたくがほして絶えず思のあらかたする気色けしきなるを、
「お前どうぞなすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。ひどく痛みでもするかな」
「いえ、なに、もうよろしいのでございます」
「それぢや茶はくまい」
頂戴ちようだいします」
 かかる浅ましきいかりを人に移さんは、はなは謂無いはれなき事なり、と自ら制して、書斎に帰りてなまじひ心を傷めんより、人に対してしばらうさを忘るるにかじと思ひければ、彼は努めてくつろがんとしたれども、ややもすれば心はそらになりて、あるじことば聞逸ききそらさむとす。
 今日ふみの来て細々こまごまと優き事など書聯かきつらねたらば、如何いかに我はうれしからん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るにへて、そのたのしみは深かるべきを。さては出行いでゆきし恨も忘られて、二夜三夜ふたよみよとほざかりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身のにはか出行いでゆきしを、如何いか本意無ほいなく我の思ふらんかはく知るべきに。それを知らば一筆ひとふで書きて、など我を慰めんとはざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐いとしと思へる人の何故なにゆゑにさはざるにやあらん。かくまでに情篤なさけあつからぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼はたちまちその事を忘るべきわれかへれり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、ひそむにもあらず、やや自らあざむに似たる隆三の顔は、燈火ともしびに照されて、常には見ざるあやしき相をあらはせるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長きひげせはしみては、又おとがひあたりよりしづか撫下なでおろして、まづ打出うちいださんことばを案じたり。
「お前の一身上の事にいてだがの」
 わづかにかく言ひしのみにて、彼は又ためらひぬ、そのひげあぶに苦しむ馬の尾のやうにふるはれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一はにはかに敬はるる心地しておのづひざを正せり。
「で、わしもまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様おとつさんに対して恩返おんがへしも出来たやうな訳、就いてはお前もますます勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つもせて、指折の人物にたいと考へてゐるくらゐ、だ未だこれから両肌りようはだを脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これをける貫一は鉄繩てつじようをもていましめられたるやうに、身の重きにへず、心のうたくるしきを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はそのうちに在りてその中に在ることを忘れんと為る平生へいぜいを省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父おやぢがどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事はきまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいとおもつてをります。愚父のなくなりましたあの時に、此方こちらで引取つていただかなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほどさいはひなものはおそらく無いでございませう」
 彼は十五の少年の驚くまでに大人びたるおのれを見て、その着たるきぬを見て、その坐れる※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねを見て、やがて美き宮と共にこの家のぬしとなるべきその身を思ひて、そぞろに涙を催せり。に七千円の粧奩そうれんを随へて、百万金もあがなふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれればわしも張合がある。就いては改めてお前にたのみがあるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
 彼はかく潔く答ふるにはばからざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかることばいだす時は、多くあたはざる事をふるためしなればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁にらうかと思つて」
 見るにへざる貫一の驚愕おどろきをば、せめて乱さんと彼は慌忙あわただしことばを次ぎぬ。
「これに就いては私も種々いろいろと考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つてしまうての、お前はもすこしの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴エウロッパへ留学して、全然すつかり仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
 なんぢの命を与へよとせまらるる事あらば、その時の人の思は如何いかなるべき! 可恐おそろしきまでに色を失へる貫一はむなしく隆三のおもて打目戍うちまもるのみ。彼はいたこうじたるていにて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換へんがへを為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一のことばいださざれば、あるじすくなからず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家うちとお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。たいした事は無いがこの家は全然そつくりお前に譲るのだ、お前は矢張やはり私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所よそへ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処そこはお前がく承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴あつぱれの人物に成るのが第一の希望のぞみであらう。その志をげさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、しかしこれは理窟りくつで、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前にたのみが有ると言うたのはこの事だ。
 従来これまでもお前を世話した、後来これからも益世話をせうからなう、其処そこに免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一はをののくちびる咬緊くひしめつつ、ことさ緩舒ゆるやかいだせる声音こわねは、あやしくも常に変れり。
「それぢや翁様をぢさんの御都合で、どうしてもみいさんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着とんちやくは無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、ことわりに似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、なじるべき事、ののしるべき、言破るべき事、はぢしむべき事の数々はくが如く充満みちみちたれど、彼は神にもまされる恩人なり。理非を問はずそのことばには逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌をみても、あへて言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩をかせ如此かくのごとせまれども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何いかなるをのを以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮がなさけは我が思ふままにこまやかならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心なりと、彼は可憐いとしき宮を思ひて、その父に対するいかりやはらげんとつとめたり。
 我は常に宮がなさけこまやかならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節ばんこんさくせつはずんば。
「嫁に遣ると有仰おつしやるのは、何方どちら御遣おつかはしになるのですか」
「それはしかとはきまらんがの、下谷したやに富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会かるたかいに三百円の金剛石ダイアモンド※(「火+玄」、第3水準1-87-39)ひけらかせし男にあらずやと、貫一はひそか嘲笑あざわらへり。されど又余りにその人の意外なるにおどろきて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、いやしくも吾が宮の如く美きを、目あり心あるもののたれかは恋ひざらん。ひとり怪しとも怪きは隆三のこころなるかなわが十年の約は軽々かろがろしく破るべきにあらず、なほ謂無いはれなきは、一人娘をいだしてせしめんとするなり。たはむるるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一はむしろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんよりちかかるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石ダイアモンドなるを聞きて、一度ひとたびけがされ、はづかしめられたらんやうにもいかりせしかど、既に勝負は分明ぶんめいにして、我は手をつかねてこの弱敵の自らたふるるをんと思へば、心やや落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
 この一言に隆三のおもては熱くなりぬ。
「これに就いてはわしも大きに考へたのだ、なにろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、しかし、お前の後来こうらいいても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちはわかしと云ふもので、ここに可頼たのもしい親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧はづかしからん家格いへがらだ。気の毒な思をしてお前との約束を変易へんがへするのも、私たちが一人娘をよそへ遣つて了ふのも、究竟つまりは銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
 それに、富山からはつての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家いつけのつもりで、決して鴫沢家をおろそかにはまい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
 決して慾ではないが、い親類を持つと云ふものは、人でへばとりなほさず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家いつかの友達だ。
 お前がこれから世の中に出るにしても、大相たいそうな便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、たれの為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、わしも決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
 私の了簡りようけんはかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効としがひも無く事を好んで、何為なにしに若いものの不為ふためになれと思ふものかな。お前も其処そこを考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したらすぐに洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番ひとつ奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私ももすこしのところを辛抱して、いつその事博士はかせになつて喜ばしてくれんか」
 彼はさも思ひのままに説完ときおほせたる面色おももちして、ゆたかひげでてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、やうやくその心事の火をるよりあきらかなるを得たり。彼が千言万語の舌をろうしてまざるは、畢竟ひつきよう利の一字をおほはんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我もけがれたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、あるひは穢れたる念を起し、或は穢れたるおこなひすことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これあに穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人のひとけがれみざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子みなしごを養へる志は、これを証してあまりあるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人はむごくも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世にただ一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐いとしき宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもておびやかすとも得て屈すべからず。宮が愛か、なにがしみかどかむりを飾れると聞く世界無双ぶそう大金剛石だいこんごうせきをもてあがなはんとすとも、いかでか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥おでいうちに輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるをいだきて、この世のすべて穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨うらめしとは思ひつつも、げてさあらぬていに聴きゐたるなりけり。
「それで、この話はみいさんも知つてゐるのですか」
薄々うすうすは知つてゐる」
「ではみいさんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸ちよつと聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様おとつさん御母様おつかさんよろしいやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、やうやく得心がいつたのだ」
 断じていつはりなるべしと思ひながらも、貫一の胸はをどりぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。わしの今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。くはしい事はいづれ又寛緩ゆつくり話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々いろいろ考へて置くがいの」
「はい」

     第七章

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日やうやく一月のなかばを過ぎぬるに、梅林ばいりんの花は二千本のこずゑに咲乱れて、日にうつろへる光は玲瓏れいろうとして人のおもてを照し、みちうづむる幾斗いくと清香せいこうりてむすぶにへたり。梅のほかには一木いちぼく無く、処々ところどころの乱石の低くよこたはるのみにて、地はたひらかせんきたるやうの芝生しばふの園のうちを、玉の砕けてほとばしり、ねりぎぬの裂けてひるがへる如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑はうららかれたる空をしてそのいただきあたりてものうげにかかれる雲はねむるに似たり。そよとの風もあらぬに花はしきりに散りぬ。散る時にかろく舞ふをうぐひすは争ひて歌へり。
 宮は母親と連立ちて入来いりきたりぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几しようぎを据ゑたるもとを指してゆるく歩めり。彼の病はいまだ快からぬにや、薄仮粧うすげしやうしたる顔色も散りたるはなびらのやうに衰へて、足のはこびたゆげに、ともすればかしらるるを、思出おもひいだしては努めて梢をながむるなりけり。彼の常として物案ものあんじすれば必ずくちびるむなり。彼は今しきりに唇を咬みたりしが、
御母おつかさん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘にうつりぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発はじめにお前がきたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一かんいつさんの事が気になつて。御父おとつさんはもう貫一さんに話をすつたらうか、ねえ御母おつかさん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だからくのなら、もうはずにずつと行つてしまひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿うるほへり。彼は忘れざるべし、その涙をぬぐへるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分からきたいとお言ひなのだえ。さう何時いつまでも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然しつかりめなくてはけないよ。お前が可厭いやなものを無理においでといふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふたびに、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼はひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「おとつさんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方あちらへ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合しあはせと云ふものだから、其処そこを考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切おもひきりが好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなりはずに行くなんて、それはお前かへつて善くないから、矢張やつぱり逢つて、ちやんと話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来ゆきかよひをしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日あしたには御音信おたよりがあつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几しようぎりて、なかばは聴き、半は思ひつつ、ひざに散来るはなびらを拾ひては、おのれの唇に代へてしきり咬砕かみくだきぬ。うぐひすの声の絶間を流の音はむせびて止まず。
 宮は何心無くおもてあぐるとともにやや隔てたる間隠まがくれに男の漫行そぞろあるきする姿を認めたり。彼はたちままなこを着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くにさへぎひまを縫ひつつ、しばらくその影をひたりしが、つひたれをや見出みいだしけん。慌忙あわただしく母親に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやけり。彼は急に牀几を離れて五六歩いつあしむあし進行すすみゆきしが、彼方あなたよりも見付けて、逸早いちはやく呼びぬ。
其処そこ御出おいででしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くとひとしく、恐れたる風情ふぜいにて牀几のはしすくまりつ。
「はい、唯今ただいまがた参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶あいさつしつつ彼を迎へて立てり。宮は其方そなたを見向きもやらで、彼の急足いそぎあしちかづく音を聞けり。
 母子おやこの前にあらはれたる若き紳士は、そのたれなるやを説かずもあらなん。目覚めざましおほいなる金剛石ダイアモンドの指環を輝かせるよ。にぎりには緑色のぎよく獅子頭ししがしらきざみて、象牙ぞうげの如く瑩潤つややかに白きつゑを携へたるが、そのさきをもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処ここだといふのを聞いて追懸おつかけて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやうおもてを向けて、さてしとやかに起ちて、うやうやしく礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでもおごたかぶるを忘れざりき。その張りたるあぎとと、への字に結べる薄唇うすくちびると、尤異けやけ金縁きんぶち目鏡めがねとは彼が尊大の風にすくなからざる光彩を添ふるやうたがひ無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。ほん今日こんにちはお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮はみちを開きてかたはらたたずめり。
貴方あなたがたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方こちらの塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分せはしからだ、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、あすの朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所いつしよにお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視ぬすみみつ。宮は物言はん気色けしきもなくて又母の答へぬ。
「はい、難有ありがたう存じます」
「それとも御在おいでですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何のわけは無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家ゐなかやを造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩ゆつくり遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮はゑみを含みて言はざるを、母はかたはらより、
「これはもう遊ぶ事ならきらひはございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後これからさかんにおあすびなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京さいきようでも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌おきらひですか、ははあ。船が平気だと、支那しなから亜米利加アメリカの方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山ゆさんあるいたところで知れたもの。どんなに贅沢ぜいたくを為たからと云つて」
御帰おかへりになつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下いでください、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などはまる為方しかたが無い! こんな若い野梅のうめまきのやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林もすさましい。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走ごちそうを為ますよ。お宮さんは何が所好すきですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼はひそかに宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞はづかしげに打笑うちゑめり。
「で、何日いつ御帰でありますか。明朝あした一所に御発足おたちにはなりませんか。此地こつちにさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有ありがたうございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日うちには音信たよりがございますはずで、その音信たよりを待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例のおごりて天をにらむやうに打仰うちあふぎて、杖の獅子頭ししがしら撫廻なでまはしつつ、少時しばらく思案するていなりしが、やをら白羽二重しろはぶたへのハンカチイフを取出とりいだして、片手に一揮ひとふりるよと見ればはなぬぐへり。菫花ヴァイオレットかをりむせばさるるばかりにくんわたりぬ。
 宮も母もその鋭きにほひに驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿いて、田圃たんぼの方を。私だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程みちが有るから、貴方あなたは御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良わるいのだから散歩はきはめて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有ありがたうございます。お前お供をおかい」
 宮のためらふを見て、唯継はことさらに座をてり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循いんじゆんしてゐてはけない」
 つと寄りてかろく宮の肩をちぬ。宮はたちまおもてあかめて、如何いかにともすべを知らざらんやうに立惑たちまどひてゐたり。母の前をもはばからぬ男の馴々なれなれしさを、憎しとにはあらねど、おのれはしたなきやうにづるなりけり。
 得もはれぬその仇無あどなさの身に浸遍しみわたるにへざる思は、そぞろに唯継の目のうちあらはれてあやし独笑ひとりゑみとなりぬ。この仇無あどな※(「女+兌」、第4水準2-5-59)いとしらしき、美き娘のやはらかき手を携へて、人無き野道の長閑のどかなるをかたらひつつ行かば、如何いかばかり楽からんよと、彼ははや心もそらになりて、
「さあ、行つて見ませう。御母おつかさんから御許おゆるしが出たから可いではありませんか、ねえ、貴方あなたよろしいでありませう」
 母は宮の猶羞なほはづるを見て、
「お前おいでかい、どうおだえ」
「貴方、お出かいなどと有仰おつしやつちや可けません。お出なさいと命令をすつて下さい」
 宮も母も思はず笑へり。唯継もおくれじと笑へり。
 又人の入来いりく気勢けはひなるを宮は心着きてうかがひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげにせはしく踏立つる足音なりき。
「ではおまいお供をおしな」
「さあ、行きませう。ぢき其処そこまででありますよ」
 宮はちひさき声して、
御母おつかさんも一処に御出おいでなさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
 母親を伴ひては大いに風流ならず、すこぶる妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんにはかへつて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方にはつてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭いやだつたらすぐに帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私にだまされたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
 この時せはしげに聞えし靴音ははやみたり。人は出去いでさりしにあらで、七八間彼方あなたなる木蔭に足をとどめて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方こなた三人みたりたれも知らず。たたずめる人は高等中学の制服の上に焦茶の外套オバコオトを着て、肩には古りたる象皮の学校かばんを掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
 再び靴音は高く響きぬ。そのにはかなると近きとに驚きて、三人みたりは始めて音するかた見遣みやりつ。
 花の散りかかる中を進来すすみきつつ学生は帽を取りて、
をばさん、参りましたよ」
 母子おやこ動顛どうてんしてほとん人心地ひとごこちを失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらずあきれ果てたる目をばむなし※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて、少時しばしは石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんよりたちまち消えてこの土と成了なりをはらんことの、せめて心易こころやすさを思ひつつ、その淡白うすじろくちびる啖裂くひさかんとすばかりにみて咬みてまざりき。
 想ふに彼等の驚愕おどろき恐怖おそれとはその殺せし人の計らずも今生きてきたれるに会へるが如きものならん。気も不覚そぞろなれば母は譫語うはごとのやうに言出いひいだせり。
「おや、おいでなの」
 宮は些少わづかなりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにとねがへる如く、木蔭こかげに身をそばめて、打過うちはず呼吸いきを人に聞かれじとハンカチイフに口元をおほひて、見るはくるしけれども、見ざるもつらき貫一の顔を、したる額越ひたひごしうかがひては、又唯継の気色けしきをも気遣きづかへり。
 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾だいはらんありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客しよくかくきたれるよと、例の金剛石ダイアモンドの手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐあぎとを張れり。
 貫一は今回こたびの事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞひしと言はん、今はしばらく色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやうしづめて、くるし笑顔ゑがほを作りてゐたり。
みいさんの病気はどうでございます」
 宮はたまりかねてひそかにハンカチイフを咬緊かみしめたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日うちには帰らうと思つてね。お前さんく来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日あす明後日あさつて休課やすみになつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、あやまちて野中の古井ふるゐに落ちたる人の、沈みも果てず、あがりも得為えせず、命の綱とあやふくも取縋とりすがりたる草の根を、ねずみきたりてむにふと云へる比喩たとへ最能いとよく似たり。如何いかに為べきかとあるひおそれ、或は惑ひたりしが、つひにそのまぬがるまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、はなはだ勝手がましうございますが、私どもはこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝あすは御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様にりましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩はめます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下いでくださいよ。よろしいですか、お宮さん、それでは後にきつとおいでなさいよ。誠に今日は残念でありますな」
 彼は行かんとして、更に宮のそば近く寄来よりきて、
貴方あなた、きつとのちにおいでなさいよ、ええ」
 貫一はまばたきてゐたり。宮は窮して彼に会釈さへかねつ。娘気の可羞はづかしさにかくあるとのみ思へる唯継は、ますます寄添ひつつ、舌怠したたるきまでにことばやはらげて、
よろしいですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
 貫一のまなこは燃ゆるが如き色をして、宮の横顔を睨着ねめつけたり。彼はおそれて傍目わきめをもらざりけれど、必ずさあるべきを想ひてひとり心ををののかせしが、なほ唯継の如何いかなることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許いかばかりさいはひなりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをもれず、唯※(「厭/食」、第4水準2-92-73)くまでも※(「女+兌」、第4水準2-5-59)いとしき宮に心をのこして行けり。
 その後影うしろかげとほすばかりに目戍まもれる貫一は我を忘れてしばらたたずめり。両個ふたりはその心を測りかねて、ことばでず、息をさへ凝して、むなしく早瀬の音のかしましきを聴くのみなりけり。
 やがて此方こなたを向きたる貫一は、尋常ただならず激して血の色を失へる面上おもてに、多からんとすれどもあたはずと見ゆる微少わづかゑみを漏して、
みいさん、今のやつはこの間の骨牌かるたに来てゐた金剛石ダイアモンドだね」
 宮はうつむきて唇を咬みぬ。母は聞かざるまねして、折しもけるうぐひすうかがへり。貫一はこのていを見て更に嗤笑あざわらひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障きざな奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきのつらは!」
「貫一さん」母はにはかに呼びかけたり。
「はい」
「お前さんをぢさんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口あつこうなどを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥くたびれだらうから、お湯にでも入つて、さうして御午餐おひる前なのでせう」
「いえ、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやの中ですしを食べました」
 三人みたりとも歩始あゆみはじめぬ。貫一は外套オバコオトの肩を払はれて、うしろ捻向ねぢむけば宮とおもてを合せたり。
其処そこに花がいてゐたから取つたのよ」
「それは難有ありがたう※[#感嘆符三つ、64-13]

     第八章

 打霞うちかすみたる空ながら、月の色の匂滴にほひこぼるるやうにして、微白ほのじろき海は縹渺ひようびようとして限を知らず、たとへば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音もねむげに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙しようようせるは貫一と宮となりけり。
「僕はただ胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩いつあしむあし行きし後宮はやうやう言出でつ。
堪忍かんにんして下さい」
「何も今更あやまることは無いよ。一体今度の事はをぢさんをばさんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けばいのだから」
「…………」
此地こつちへ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡りようけんのあるべきはずは無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦のなかで、知れきつた話だ。
 昨夜ゆふべ翁さんからくはしく話があつて、その上に頼むといふ御言おことばだ」
 差含さしぐむ涙に彼の声はふるひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕のからだ火水ひみづの中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さしてるとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児みなしごでも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留ふみとどまりて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣きづかはしげにその顔を差覗さしのぞきぬ。
「堪忍して下さいよ、みんな私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手にすがりて、たちまちその肩におもて推当おしあつると見れば、彼も泣音なくねもらすなりけり。波は漾々ようようとして遠くけむり、月はおぼろに一湾の真砂まさごを照して、空もみぎは淡白うすじろき中に、立尽せる二人の姿は墨のしたたりたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方にはをぢさんが僕を説いて、お前さんの方はをばさんが説得しやうと云ふので、無理に此処ここへ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々はいはいと言つて聞いてゐたけれど、みいさんは幾多いくらでも剛情を張つて差支さしつかへ無いのだ。どうあつても可厭いやだとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れてしまふのだ。僕がそばに居ると智慧ちゑを付けて邪魔をると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させるはかりごとだなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜ゆふべ夜一夜よつぴてはしない、そんな事は万々ばんばん有るまいけれど、種々いろいろ言はれる為に可厭いやと言はれない義理になつて、もしや承諾するやうな事があつては大変だと思つて、うちは学校へ出るつもりで、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処どこに在る※(感嘆符二つ、1-8-75) 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで……知……知らなかつた」
 宮は可悲かなしさ可懼おそろしさに襲はれてすこしく声さへ立てて泣きぬ。
 いかりおさふる貫一の呼吸はやうやく乱れたり。
みいさん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えずをののけり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
あんまり邪推が過ぎるわ、余りひどいわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目にけて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りはんよ。
 お前が得心せんものなら、此地ここへ来るに就いて僕に一言いちごんも言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来よこすが可いぢやないか。出抜だしぬいて家を出るばかりか、何の便たよりも為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈てはずになつてゐたのだ。あるひは一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦かんぷだよ。姦通かんつうしたも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、あんまりだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽なきくづれつつ、寄らんとするを貫一は突退つきのけて、
みさをを破れば奸婦ぢやあるまいか」
何時いつ私が操を破つて?」
幾許いくら大馬鹿者の貫一でも、おのれのさいが操を破るそばに付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふれきとした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所よその男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処どこに在る?」
「さう言はれてしまふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等わたしたち此地こつちに来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はそのくちびるくぎ打たれたるやうに再びことばでざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ずあやまちを悔い、罪をびて、その身はおろか命までもおのれの欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰こころひそかに望みたりしならん。如何いかにぞや、彼は露ばかりもさせる気色けしきは無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変こころがはりを、貫一はなかなかまことしからず覚ゆるまでにあきれたり。
 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛いとをしみし人はあくたの如く我をにくめるよ。恨は彼の骨に徹し、いかりは彼の胸をつんざきて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉をくらひて、この熱膓ねつちようさまさんとも思へり。たちまち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪えたへずして尻居にたふれたり。
 宮は見るより驚くいとまもあらず、諸共もろともに砂にまびれて掻抱かきいだけば、閉ぢたるまなこより乱落はふりおつる涙に浸れる灰色のほほを、月の光は悲しげに彷徨さまよひて、迫れる息はすさましく波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後うしろより取縋とりすがり、抱緊いだきしめ、撼動ゆりうごかして、をののく声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいとねんごろぬぐひたり。
ああみいさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年さらいねんの今月今夜……十年のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮はひしぐばかりに貫一に取着きて、物狂ものぐるはし咽入むせびいりぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はおなかの中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、あんま言難いひにくい事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言たつたひとこといひたいのは、私は貴方あなたの事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁にくかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、もすこし辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽うろたへてくだらんことを言ふな。食ふにこまつて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁にくのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処そこの一人娘ぢやないか、さうして婿まできまつてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁にかなければならんのだ。天下にこれくらゐわけの解らん話が有らうか。どう考へても、嫁にくべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁にかうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件ふたつの外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮はらない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それはあんまりだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山がかねがあるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 をぢさんをばさんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にするほう幾許いくらもある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊ぶちこはして了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前もつて見る気は有るのかい」
 貫一のまなこはその全身の力をあつめて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍うちまもれり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息ためいきしたり。
よろしい、もう宜い。お前の心は能く解つた」
 今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按うちあんじつつも、彼は乱るる胸をゆるうせんが為に、ひて目を放ちて海のかたを眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮はかたはらに在らずして、六七間あとなる波打際なみうちぎはおもておほひて泣けるなり。
 可悩なやましげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)びようびようたる海のはしの白くくづれて波と打寄せたる、えんあはれを尽せる風情ふぜいに、貫一はいかりをも恨をも忘れて、少時しばしは画をる如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
 彼はかしられて足の向ふままにみぎはかたへ進行きしが、泣く泣く歩来あゆみきたれる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前はちつとも泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
 ほとんど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、かねなのだね。如何いかに何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相あいそうは尽きないかい。
 い出世をして、さぞ栄耀えようも出来て、お前はそれで可からうけれど、かねに見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念とはうか、口惜くちをしいと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺さしころして――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それをこらへてお前を人にとられるのを手出しもずに見てゐる僕の心地こころもちは、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければひとはどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候ゐさふらふでも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾をとこめかけになつたおぼえは無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物なぐさみものにしたのだね。平生へいぜいお前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物のつもりで、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何のたのしみも無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較くらべものにはならない。彼方あつちは屈指の財産家、僕はもとより一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決してかねで買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
 おのれの身に換へてお前を思つてゐる程の愛情をつてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、むしろ害になりやすい、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
 然しかねといふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人にすぐれた立派な立派な男子さへ、財の為には随分ひどい事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然ふつと気の変つたのも、あるひは無理も無いのだらう。からして僕はそれはとがめない、ただもう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかとふことを。
 すずめが米を食ふのはわづ十粒とつぶか二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前にひもじい思を為せるやうな、そんな意気地いくぢの無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
 貫一はしづくする涙を払ひて、
「お前が富山へく、それは立派な生活をして、栄耀えようも出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へよばれて行く人もあれば、自分の妻子つまこを車に載せて、それを自分がいて花見に出掛ける車夫もある。富山へけば、家内も多ければ人出入ひとでいりも、はげしし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気をいためながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何をたのしみに生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白くつかへるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人にるで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万のかねが有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人おもてに三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似まねをして、妻はほんの床の置物にされて、はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、くるしみばかりでたのしみは無いと謂つて可い。お前のく唯継だつて、もとより所望のぞみでお前をもらふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、かねが有るから好きな真似も出来る、ほかたのしみに気が移つて、ぢきにお前の恋はさまされて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地こころもちを考へて御覧、あの富山の財産がそのくるしみすくふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれでたのしみかい、満足かい。
 僕が人にお前をられる無念はふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変こころがはりをした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀かあいさうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
 僕に飽きて富山にれてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それはあやまつてゐる、それは実にあやまつてゐる、愛情の無い結婚は究竟つまり自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別ふんべつ一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便ふびんだと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直しなおしてくれないか。
 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨うらやましいとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛かはゆくは思はんのかい」
 彼はあやふきをすくはんとする如くひしと宮に取着きて匂滴にほひこぼるる頸元えりもとゆる涙をそそぎつつ、あしの枯葉の風にもまるるやうに身をふるはせり。宮も離れじと抱緊いだきしめて諸共もろともに顫ひつつ、貫一がひぢみて咽泣むせびなきに泣けり。
嗚呼ああ、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方あつちつたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
 木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然いよいよお前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、はらわたの腐つた女! 姦婦かんぷ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 その声とともに貫一はあしを挙げて宮の弱腰をはたと※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)たり。地響して横様よこさままろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為えせ弱々よわよわたふれたるを、なほ憎さげに見遣みやりつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹いつぴきはな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つてしまふのだ。学問も何ももうやめだ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉をくらつて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一のつらを好く見て置かないかい。長々の御恩に預つたをぢさんをばさんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細しさいあつて貫一はこのまま長の御暇おいとまを致しますから、随分お達者で御機嫌ごきげんよろしう……みいさん、お前から好くさう言つておくれ、よ、し貫一はどうしたとおたづねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方ゆくへ知れずになつて了つたと……」
 宮はやにはに蹶起はねおきて、立たんと為れば脚のいたみもろくも倒れて効無かひなきを、やうや這寄はひよりて貫一の脚に縋付すがりつき、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方あなたこれから……何処どこへ行くのよ」
 貫一はさすがに驚けり、宮がきぬはだけてゆき可羞はづかしあらはせる膝頭ひざがしらは、おびただしく血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我けがをしたか」
 寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話がればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭いやよ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛けとばすぞ」
「蹴られても可いわ」
 貫一は力をきはめて振断ふりちぎれば、宮は無残に伏転ふしまろびぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行いそぎゆきたり。宮は見るより必死と起上りて、脚のいたみ幾度いくたびたふれんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺いひのこした事がある」
 つひに倒れし宮は再びつべき力も失せて、唯声をたのみに彼の名を呼ぶのみ。やうやおぼろになれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶みもだえしてなほ呼続けつ。やがてその黒き影の岡のいただきに立てるは、此方こなた目戍まもれるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声もはるかに来りぬ。
みいさん!」
「あ、あ、あ、貫一かんいつさん!」
 首を延べて※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはせども、目を※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりて眺むれども、声せしのちは黒き影の掻消かきけす如くせて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
 宮は再びこひしき貫一の名を呼びたりき。
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  中編


     第一章

 新橋停車場しんばしステエションの大時計は四時をすぐること二分、東海道行の列車は既に客車のとびらして、機関車にけふりふかせつつ、三十余輛よりようつらねて蜿蜒えんえんとしてよこたはりたるが、真承まうけの秋の日影に夕栄ゆふばえして、窓々の硝子ガラスは燃えんとすばかりに耀かがやけり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くとわめくを余所よそに、大蹈歩だいとうほ寛々かんかんたる老欧羅巴エウロッパ人は麦酒樽ビイルだるぬすみたるやうに腹突出つきいだして、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘ゑひがさオレンジ色のリボンを飾りたるを小脇こわきにせると推並おしならび、おのれが乗物の顔して急ぐ気色けしきも無くすぐる後より、蚤取眼のみとりまなこになりて遅れじと所体頽しよたいくづして駈来かけくる女房の、嵩高かさだかなる風呂敷包をいだくが上に、四歳よつほどの子を背負ひたるが、何処どこの扉も鎖したるに狼狽うろたふるを、車掌に強曳しよぴかれてやうや安堵あんどせるも無く、青洟垂あをばなたらせる女の子を率ゐて、五十あまり老夫おやぢのこれも戸惑とまどひしてきつもどりつせし揚句あげく、駅夫にひかれて室内に押入れられ、如何いかなる罪やあらげなくてらるる扉にたもとはさまれて、もしもしとすくひを呼ぶなど、いまだ都を離れざるにはや旅のあはれを見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅かたすみ円居まどゐして、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装いでたちにて、紋付の袷羽織あはせはおりを着たるもあれば、精縷セルの背広なるもあり、はかま着けたるが一人、大島紬おほしまつむぎの長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別せんべつびんはこなどを網棚あみだなの上に片附けて、その手を摩払すりはらひつつ窓より首をいだして、停車場ステエションかたをば、求むるものありげに望見のぞみみたりしが、やがてあゐの如き晩霽ばんせいの空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟あまかす
 黒餅こくもち立沢瀉たちおもだか黒紬くろつむぎの羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑をもらせり。甘糟と呼れたるは、茶柳条ちやじま仙台平せんだいひらの袴を着けたる、この中にてひと頬鬚ほほひげいかめしきをたくはふる紳士なり。
 甘糟の答ふるにさきだちて、背広の風早かざはやは若きに似合はぬ皺嗄声しわがれごゑ振搾ふりしぼりて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟のかゆきにへんことを僕はちやん洞察どうさつしてをるのだ」
「これは憚様はばかりさまです」
 大島紬の紳士は黏着へばりついたるやうにもたれたりし身をにはかに起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利さぶりと甘糟はかねて横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟ゆうせんくつを見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔きえんを吐くつもりなのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたとふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……しからんこつたぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣おもひやらるるね。ええ、肩書をはづかしめん限は遣るもからうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
 この老実のげんすは、今は四年よとせの昔間貫一はざまかんいち兄事けいじせし同窓の荒尾譲介あらおじようすけなりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補にげられ、踰えて一年の今日こんにち愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。そのよはひと深慮と誠実とのゆゑを以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納いひをさめじや。ねがはくは君達もよろしく自重してくれたまへ」
 面白くはやりし一座もたちましらけて、しきりくゆらす巻莨まきたばこの煙の、急駛きゆうしせる車の逆風むかひかぜあふらるるが、飛雲の如く窓をのがれて六郷川ろくごうがわかすむあるのみ。
 佐分利は幾数回あまたたびうなづきて、
「いやさう言れると慄然ぞつとするよ、実はさつき停車場ステエションで例の『美人びじクリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖とかげくらふかと思ふね、いつ見ても美いには驚嘆する。まる淑女レディ扮装いでたちだ。就中なかんづく今日はめかしてをつたが、何処どこうまい口でもあると見える。那奴あいつしぼられちやかなはん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。かねて御高名は聞及んでゐる」
 と大島紬おほしまつむぎなほ続けんとするをさへぎりて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学をつたのも、其奴そいつが債権者のおもなる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金きんの腕環なんぞめてゐると云ふぢやないか。ひどい奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながらかかつたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊ミイラにならんやうにふんどしめて掛るが可いぜ」
たれ其奴そいつには尻押しりおしが有るのだらう。亭主が有るのか、あるひ情夫いろか、何か有るのだらう」
 皺嗄声しわがれごゑは卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴ライフがあるのさ、情夫いろぢやない、亭主がある、此奴こいつが君、我々の一世紀ぜんに鳴した高利貸アイスで、赤樫権三郎あかがしごんざぶろうと云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的※(「女+徭のつくり」、第4水準2-5-69)いんぶつと来てゐるのだ」
「成程! 積極しやくきよくと消極と相触れたのでつめに火が※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)ともる訳だな」
 大島紬が得意の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)まぜかへしに、深沈なる荒尾もむを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女をもてあそぶのが道楽で、此奴こいつの為にけがされた者は随分意外のへんにも在るさうな。そこで今の『美人びじクリイム』、これもその手にかかつたので、もとは貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾おやぢこの娘を見ると食指大いに動いた訳で、これをとりこにしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働なかばたらきに貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひことわりかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾おやぢは六十ばかりの禿顱はげあたまの事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然たきざはりぜんたる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾かたづみたりし荒尾は思ふところありげに打頷うちうなづきて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はそのおもてを振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやにはかに速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰ひざくりだ」
佐「荒尾、あの葡萄酒ぶどうしゆを抜かんか、のどかわいた。これからが佳境にるのだからね」
甘「中銭なかせんがあるのはひどい」
佐「蒲田かまだ、君は好いたばこつてゐるぢやないか、一本頂戴ちようだい
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻てまはりの物を片附けやう」
佐「甘糟、※(「火+卒」、第3水準1-87-47)マッチを持つてゐるか」
甘「そら、おいでだ。持参いたしてをりまする仕合しあはせで」
 佐分利は居長高ゐたけだかになりて、
ちよつけてくれ」
 葡萄酒のくれなゐすすり、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利はおもむろことばを継ぐ、
所謂いはゆる一朶いちだ梨花海棠りかかいどうを圧してからに、娘の満枝は自由にされてしまつた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座はしきつて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気かたぎの親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿はげの方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父おとつさん、どうか承知して下さいは、親父ますます意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相あいそつかして、ただ一人の娘を阿父さん彼自身より十歳とをばかりも老漢おやぢの高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿のちようを得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家さとの方へみつぐと思の外、きめものの外は塵葉ちりつぱ一本らん。これが又禿の御意ぎよいに入つたところで、女めつらつ高利アイス塩梅あんばいを見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代しんだい我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭かねの方が大事、といふ不敵な了簡りようけんが出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌いまはしげにつぶやきて、やや不快の色をうごかせり。
「そこで、敏捷びんしような女には違無い、自然と高利アイスの呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処どこへでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年あたりから禿は中気が出ていまだに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つでさかんに商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁うすべり一板いちまい敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――しかし事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女がひとりで腕をふるつて益す盛につてゐる。これすなはち『美人びじクリイム』の名ある所以ゆゑんさ。
 年紀としかい、二十五だと聞いたが、さう、やうやう二三とよりは見えんね。あれで可愛かはゆい細い声をして物柔ものやはらかに、口数くちかずすくなくつて巧いことをいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替かきかへだの、手形に願ふのと、急所を手際てぎは婉曲えんきよくに巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心をなやすかと思ふばかりだ。僕も三度ほどなやされたが、柔能く剛を制すで、高利貸アイスには美人が妙! 那彼あいつに一国を預ければすなはちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色けしきにて、
「では、今はその禿顱はげ中風ちゆうふうたきりなのだね、一昨年をととしから? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、さかんな女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利はかしらおさへて後様うしろさまもたれつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑にちて、今はしも連帯一判、取交とりま五口いつくちの債務六百四十何円の呵責かしやくあぶらとらるる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、に又二百円、無疵むきずなるは風早と荒尾とのみ。
 ※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をばゑましげに傍聴したりし横浜商人体しようにんていの乗客は、さいはひ無聊ぶりようを慰められしを謝すらんやうに、ねんごろ一揖いつゆうしてここに下車せり。しばらく話の絶えけるひまに荒尾は何をか打案ずるていにて、その目をむなしく見据ゑつつ漫語そぞろごとのやうに言出いひいでたり。
「その後たれはざまの事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声しわかれごゑ問反とひかへせり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸アイス才取さいとりとか、手代てだいとかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸アイスの才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つとはんやうに荒尾はうなづきて、なほも思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級さきだちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸アイスと云ふのはどうもうそぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息ためいきもらせり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然ぴん外眥めじりあがつた所が目標めじるしさ」
蒲「さうしてあたま癖毛くせつけの具合がな、愛嬌あいきようが有つたぢやないか。デスクの上に頬杖ほほづゑいて、かう下向になつて何時いつでも真面目まじめに講義を聴いてゐたところは、何処どこかアルフレッド大王にてゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君はいつも妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃いつぱいを献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終おもひ出すだらうな」
「僕は実際死んだおととよりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼はかしられぬ。大島紬は受けたるさかづきりながら、更に佐分利が持てる猪口ちよくを借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番ひとつ間の健康を祝さう」
 荒尾の喜はあふるるばかりなりき。
「おお、それはかたじけない」
 盈々なみなみと酒をれたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるるとひとしかつ相撃あひうてば、くれなゐしづくの漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息ひといきに飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝をうごかして、
「蒲田は如才ないね。つらまづいがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああいはれて見るとたれでもちよつと憎くないからね」
甘「さすがは交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 ことばを改めて荒尾は言出いひいだせり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場ステエションで間を見たよ。間に違無いのじや」
 ただいま陰ながらその健康をいのりし蒲田は拍子を抜して彼のおもてながめたり。
「ふう、それは不思議。むかふは気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口いりくちの所でちよつと顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子ソオフワアを起つと、もう見えなくなつた。それから有間しばらくして又偶然ふつと見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場プラットフォームへ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、そばの柱に僕を見て黒い帽をつとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! とあるひは急に、或はゆるく叫ぶ声の窓の外面そとも飛過とびすぐるとともに、響は雑然として起り、ほとばしづる、群集くんじゆ玩具箱おもちやばこかへしたる如く、場内の彼方かなたよりとどろベルはこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。

昨七日さくなぬかイ便の葉書にて(飯田町いいだまち局消印)美人クリイムの語にフエアクリイムあるひはベルクリイムの傍訓有度ぼうくんありたくとのげんおくられし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、いささか弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語はなまじひに理詰ならむよりは、出まかせの可笑をかしき響あらむこそかめれとバイスクリイムとも思着おもひつきしなり。こころは美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗くだくだしさをきらひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者きようごうしや思僻おもひひがめては添へたるなり。いやしげなるびじクリイムの響のうちには嘲弄とうろうこころこもらむとてなり。なほ高諭こうゆふ(三〇・九・八附読売新聞より)

     第二章

 さくの柱のもとに在りて帽をりたりしは、荒尾がことばの如く、四年の生死しようし詳悉つまびらかにせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前にみづからの影をくらまし、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略あらましを伺ふことを怠らざりき、こたびその参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所よそながら暇乞いとまごひもし、二つには栄誉のにしきを飾れる姿をも見んと思ひて、群集くんじゆに紛れてここにはきたりしなりけり。
 なにゆゑに間は四年の音信おとづれを絶ち、又何の故にさしもおもひに忘れざる旧友と相見てべつを為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問はおのづから解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしはひとり間貫一のみにあらず、そこもとにつどひし老若貴賤ろうにやくきせん男女なんによは皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、きづかふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的はいつなり。数分時の混雑の後車のづるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如くひさしう立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼のやうやきびすめぐらせし時には、推重おしかさなるまでに柵際さくぎはつどひしひとほとんど散果てて、駅夫の三四人がはうきを執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含さしぐまるる涙を払ひて、独りおくれたるを驚きけん、にはかに急ぎて、蓬莱橋口ほうらいばしぐちよりでんと、あだかも石段際に寄るところを、たれとも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 あわてて彼の見向く途端に、
ちよつと」と戸口より半身を示して、黄金きんの腕環の気爽けざやか耀かがやける手なる絹ハンカチイフに唇辺くちもとおほいて束髪の婦人の小腰をかがむるに会へり。えんなるおもてに得もはれず愛らしきゑみをさへ浮べたり。
「や、赤樫あかがしさん!」
 婦人のゑみもて迎ふるには似ず、貫一は冷然としてまゆだに動かさず。
い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、ちよつ此方こちへ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々いて入るに、長椅子ソオフワアかくれば、止む無くそのそばに座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅おぐるめの件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹くろちよろけんの帯の間をさぐりて金側時計を取出とりいだし、手早く収めつつ、
貴方あなたどうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方どちらへかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬しほぜ消金けしきん口金くちがね打ちたる手鞄てかばんを取直して、婦人はやをら起上たちあがりつ。迷惑は貫一がおもてあらはれたり。
何方どちらへ?」
何方どちらでも、私には解りませんですから貴方あなたのおよろしい所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有おつしやらずに、私は何方でもよろしいのでございます」
 荒布革あらめがはの横長なる手鞄てかばんを膝の上に掻抱かきいだきつつ貫一の思案せるは、その宜きかたを択ぶにあらで、ともに行くをば躊躇ちゆうちよせるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭であひがしらに、入来いりくる者ありて、その足尖つまさきひしげよと踏付けられぬ。驚き見れば長高たけたかき老紳士の目尻もあやしく、満枝の色香いろかに惑ひて、これは失敬、意外の麁相そそうをせるなりけり。彼は猶懲なほこりずまにこの目覚めざまし美形びけいの同伴をさへしばら目送もくそうせり。
 二人は停車場ステエションを出でて、指すかたも無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減にめやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるをさとれども、つとめて吾意わがいに従はしめんとおもへば、さばかりの無遇ぶあしらひをも甘んじて、
「それでは、貴方、※(「魚+麗」、第4水準2-93-94)うなぎあがりますか」
「鰻※(「魚+麗」、第4水準2-93-94)? 遣りますよ」
鶏肉とりと何方がよろしうございます」
「何方でも」
「余り御挨拶ごあいさつですね」
何為なぜですか」
 この時貫一は始めて満枝のおもてまなこを移せり。ももこびを含みて※(「目+是」、第4水準2-82-10)みむかへし彼のまなじりは、いまだ言はずして既にその言はんとせるなかばをば語尽かたりつくしたるべし。彼の為人ひととなりを知りて畜生とうとめる貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とをあらはして片笑かたゑみつつ、
「まあ、何為なぜでも宜うございますから、それでは鶏肉とりに致しませうか」
「それもいでせう」
 三十間堀さんじつけんぼりに出でて、二町ばかり来たるかどを西に折れて、有る露地口に清らなる門構かどがまへして、光沢消硝子つやけしガラス軒燈籠のきとうろうに鳥としるしたるかたに、人目にはさぞわけあるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬあたりに六畳の隠座敷の板道伝わたりづたひに離れたる一間に案内されしもうべなり。
 おそれたるにもあらず、こうじたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色けしきにて貫一のかたちさへ可慎つつましげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸おもひかけざる為体ていたらくを、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早いちはやく満枝が好きに計ひて、少頃しばしことば無き二人が中に置れたる莨盆たばこぼんは子細らしう一※(「火+主」、第3水準1-87-40)ちゆう百和香ひやつかこうくゆらせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰おつしやらずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
うそ有仰おつしやいまし」
 かくても貫一はひざくづさで、巻莨入まきたばこいれ取出とりいだせしが、生憎あやにく一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝はさきんじて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷あさえぞ御主殿持ごしゆでんもちとともにすすむる筒のはしより焼金やききんの吸口はほのか耀かがやけり。歯は黄金きん、帯留は黄金きん、指環は黄金きん、腕環は黄金きん、時計は黄金きん、今又煙管きせる黄金きんにあらずや。黄金きんなるかなきんきん! 知るし、その心もきん! と貫一はひと可笑をかしさにへざりき。
「いや、私は日本莨は一向かんので」
 言ひもをはらぬ顔を満枝はじつて、
してきたないのでは御坐いませんけれど、つい心着こころつきませんでした」
 懐紙ふところがみいだしてわざとらしくその吸口を捩拭ねぢぬぐへば、貫一もすこしあわてて、
してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をおきなさるなら、もう少し物覚ものおぼえを善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵わにぶちさんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
瓢箪ひようたんのやうな恰好かつこうのお煙管で、さうして羅宇らうもとちよつと紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口はとみふさがざりき。満枝は仇無あどなげに口をおほひて笑へり。この罰として貫一はただちに三服の吸付莨をひられぬ。
 とかくする盃盤はいばんつらねられたれど、満枝も貫一も三ばいを過し得ぬ下戸げこなり。女は清めし猪口ちよくいだして、
「貴方、お一盞ひとつ
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒ビールに致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他にすすめて酌せんとこそあるべきに、はなはだしい哉、彼の手をつかねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞ひとつお受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞ひとつを受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅おぐるめの件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼はたちままゆあつめて、
「いやそんなに」
「それでは私がいただきませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件のほかに未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げにくい事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様はばかりさまですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふつもりなのでございますもの」
 そのこびある目のほとりやうやく花桜の色に染みて、心楽しげにやや身をゆるやかに取成したる風情ふぜいは、にほひなどこぼれぬべく、熱しとて紺の絹精縷きぬセル被風ひふを脱げば、羽織は無くて、粲然ぱつとしたる紋御召のあはせ黒樗文絹くろちよろけん全帯まるおび華麗はなやかべにの入りたる友禅の帯揚おびあげして、びんおくれのかか耳際みみぎは掻上かきあぐる左の手首には、早蕨さわらび二筋ふたすぢ寄せてちようの宿れるかたしたる例の腕環のさはやかきらめわたりぬ。常に可忌いまはしと思へる物をかく明々地あからさまに見せつけられたる貫一は、得堪えたふまじくにがりたる眉状まゆつきしてひそかに目を※(「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93)そらしつ。彼は女の貴族的によそほへるに反して、黒紬くろつむぎの紋付の羽織に藍千筋あゐせんすぢ秩父銘撰ちちぶめいせんの袷着て、白縮緬しろちりめん兵児帯へこおびあたらしからず。
 彼をれりし者は定めて見咎みとがむべし、彼の面影おもかげすくなからず変りぬ。愛らしかりしところは皆せて、四年よとせに余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、おのづから暗き陰を成してそのおもておほへり。たゆむとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色がんしよくの表に動けども、かつて宮を見しやうの優き光は再びそのまなこに輝かずなりぬ。見ることのひややかに、言ふことのつつしめるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為にるるをはばかれば、みづからもまたいやしくも親みを求めざるほどに、同業者はたれも誰も偏人として彼をとほざけぬ。いづくんぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかをあやしむなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じてさかづきを重ぬるてい打目戍うちまもれり。
「もう一盞ひとつ戴きませうか」
 ゑみただふるまなじり微醺びくんに彩られて、更に別様のこびを加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
貴方あなたが止せと仰有おつしやるなら私は止します」
あへて止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌てじやくしてそのなかばを傾けしが、見る見る頬の麗くくれなゐになれるを、彼は手もておほひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざるまねして莨をくゆらしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝はあざけらむが如く微笑ほほゑみて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気にへては困りますの。しかし、御酒ごしゆの上で申すのではございませんから、どうぞそのおつもりで、よろしうございますか」
撞着どうちやくしてゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰おつしやらずに、たかが女の申すことでございますから」
 こは事難ことむづかしうなりぬべし。かなはぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手をこまぬきつつ俯目ふしめになりて、つとめてかかはらざらんやうに持成もてなすを、満枝は擦寄すりよりて、
「これお一盞ひとつで後はしてお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一はことばいださでその猪口ちよくを受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
やすい願ですな」と、あはやでんとせしくちびるを結びて、貫一はわづかに苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方にだお長くゐらつしやるおつもりなのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
勿論もちろんです」
「さうして、まづ何頃いつごろ彼方あちらと別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝はたちまち声ををさめて、物思はしげに差俯さしうつむき、莨盆のふちをばもてあそべるやうに煙管きせるもてきざみを打ちてゐたり。折しも電燈の光のにはかくらむに驚きて顔をあぐれば、又もとの如く一間ひとまあかるうなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫なほしばし打案じたりしが、
「こんな事を申上げてははなはだ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方あちらにゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方がよろしいでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸をこがましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一ははしひかへて女の顔をたり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠くちごもりたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫あかがしに居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
全然さつぱり解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨うらめしげに満枝はことばを絶ちて、横膝よこひざに莨をひねりゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶めしつぎを引寄せんとするを、はたとおさへて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様はばかりさまです」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀ちやわんをそれに伏せて、彼方あなた壁際かべぎは推遣おしやりたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くてかなはんですからゆるして下さい。腹が空いてゐるのですから」
「おひもじいところを御飯を上げませんでは、さぞおつらうございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方こちらで思つてゐることがまる先方さきへ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりかはるかに辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰おつしやることの主意がく解らんのですもの」
何故なぜ了解わかりになりませんの」
 責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまたなじるが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処あすこを出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹がいて来ました」
「それとも貴方ほかにお約束でも遊ばした御方がおあんなさるのでございますか」
 彼つひ鋒鋩ほうぼうあらはきたれるよと思へば、貫一はなほ解せざるていして、
「妙な事を聞きますね」
 と苦笑せしのみにて続くことばもあらざるに、満枝は図をはづされて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がおあんなさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
 貫一も今はきつと胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解わかりになりまして※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 嬉しと心を言へらんやうの気色けしきにて、彼の猪口ちよくあませし酒を一息ひといき飲乾のみほして、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
 はずみに乗せられて貫一は思はずうくるとひとし盈々なみなみそそがれて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜よろこび
「その盃は清めてございませんよ」
 一々底意ありて忽諸ゆるがせにすべからざる女の言を、彼はいと可煩わづらはしくて持余もてあませるなり。
「お了解わかりになりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
 わづかにかく言ひ放ちて貫一はおごそかに沈黙しつ。満枝もさすがにゑひさまして、彼の気色けしきうかがひたりしに、例の言寡ことばすくななる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻はづかしい事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
 貫一はゆるやかにうなづけり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々よくよくの事でございますから、それに対するだけの理由を有仰おつしやつて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
御尤ごもつともです。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対してつつまず自分の考量かんがへをお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、ひととは大きに考量が違つてをります。
 第一、私は一生さいといふ者はして持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問をめて、この商売を始めたのは、放蕩ほうとう遣損やりそこなつたのでもなければ、あへ食窮くひつめた訳でも有りませんので。書生が可厭いやさに商売を遣らうと云ふのなら、未だほか幾多いくらも好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日はくじつとうすとはうか、病人の喉口のどくちすとはうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などをえらむものですか」
 聴居る満枝はますまゑひを冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日こんにち始めて知つたのではない、知つて身をおとしたのは、私は当時敵手さきを殺して自分も死にたかつたくらゐ無念きはまる失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人をたのみにしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
 火影ひかげを避けんとしたる彼の目の中ににはか耀かがやけるは、なほあらたなる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少たのみすくない世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、もとはと云へば、金銭かねからです。仮初かりそめにも一匹いつぴきの男子たる者が、金銭かねの為に見易みかへられたかと思へば、その無念といふものは、私は……一生忘れられんです。
 軽薄でなければいつはり、詐でなければ利慾、愛相あいその尽きた世の中です。それほど可厭いやな世の中なら、何為なぜ一思ひとおもひに死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念がさはりになつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐ふくしゆうなどは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけはきつはらさなければかん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、まるで発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻のはなはだしい、ほとんど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情をあらしてゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭かねゆゑに売られもすれば、はづかしめられもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれをたのしみに義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何ののぞみも持たんのです。又考へて見ると、なまじひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方がはるたのみになりますよ。頼にならんのは人の心です!
 まづかう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰おつしやる資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
 彼は仰ぎて高笑たかわらひしつつも、そのおもては痛く激したり。
 満枝は、彼のことばの決していつはりならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、にさるべき所見かんがへを懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるがゆゑに、心狭くもこの面白き世に偏屈のとびらを閉ぢて、いつはりと軽薄と利欲との外なる楽あるをさとらざるならん。やがて我そを教へんと、満枝はたやすく望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中がきらひで、すべての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別してれたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解わかりになりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝はしば惘然ぼうぜんとしてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎うちしをれつつ満枝はめしを盛りていだせり。
「これは恐入ります」
 彼はくらふことかたはらに人無きごとし。満枝のおもて薄紅うすくれなゐになほゑひは有りながら、へるていも無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目さんばいめへつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯をふくみてにはかこたふるあたはず、唯目をげて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時しばらく胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶ことわりを受けては、私実に面目めんぼく無くて……あんまくやしうございますわ」
 慌忙あわただしくハンカチイフを取りて、片手に恨泣うらみなきの目元をおほへり。
「面目無くて私、この座がたたれません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々ひややかに見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私はすべての人間が嫌なのですから、どうぞあしからず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅おぐるめの件に就いてのお話は?」
 泣赤なきあかめたる目をぬぐひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでもよろしうございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召おぼしめして下さい。で、お可厭いやならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日いつまでもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつとやさしことばをお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰おつしやりやうが有りさうなものではございませんか」
「御志はして忘れません。これなら宜いでせう」
 満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然ひらりと貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠ちからこもりて、その太股ふとももしたたつめれば、貫一は不意の痛にくつがへらんとするを支へつつ横様よこさまに振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴してをんなを呼ぶなりけり。

     第三章

 赤坂氷川あかさかひかわほとりに写真の御前ごぜんと言へば知らぬ者無く、にこの殿のづるに写真機械を車に積みてしたがへざることあらざれば、おのづから人目を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれず、かかる異名いみようは呼るるにぞありける。子細しさいを明めずしては、「将棊しようぎの殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべきうつはいだきながら、五年を独逸ドイツに薫染せし学者風を喜び、世事をなげうちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量をほしいままにすれども、なほとしの入るものを計るにまさに出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春たづみよしはるその人なり。
 氷川なる邸内には、唐破風造からはふづくりの昔をうつせるたちと相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造れんがづくりあやしきまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄すきにて、独逸に名ある古城の面影おもかげしのびてここにかたどれるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とにてて、万足よろづたらざる無き閑日月かんじつげつをば、書にふけり、画にたのしみ、彫刻を愛し、音楽にうそぶき、近き頃よりはもつぱら写真に遊びて、よはひ三十四に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およべどもがんとしていまめとらず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然ひようぜんとして、絶えて貴族的容儀を修めざれど、おのづからなる七万石の品格は、面白おもてしろ眉秀まゆひいでて、鼻高く、眼爽まなこさはやかに、かたちきよらあがれるは、こうとして玉樹ぎよくじゆの風前に臨めるともふべくや、御代々ごだいだい御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁のむなしからざること、ちようとらへんとする蜘蛛くもの糸よりしげしといへども、反顧かへりみだにずして、例の飄然忍びてはゑひの紛れの逸早いつはや風流みやびに慰み、内には無妻主義を主張して、人のいさめなどふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛あひあいして、末の契も堅く、月下の小舟をぶねに比翼のかひあやつり、スプレイの流をゆびさして、この水のつひるる日はあらんとも、我が恋の※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほの消ゆる時あらせじ、と互の誓詞せいしいつはりはあらざりけるを、帰りて母君にふことありしに、いといたう驚かれて、こは由々ゆゆしき家の大事ぞや。夷狄いてきは□□よりもいやしむべきに、かしこくも我が田鶴見の家をばなでう禽獣きんじゆうおりと為すべき。あな、可疎うとましの吾子あこが心やと、涙と共に掻口説かきくどきて、かなしび歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無せんなくて、心苦う思ひつつも、なほ行末をこそ頼めと文の便たより度々たびたびに慰めて、彼方あなたも在るにあられぬ三年みとせの月日を、きは死ななんと味気あぢきなく過せしに、一昨年をととしの秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、ながらへかねし身の苦悩くるしみを、御神みかみめぐみに助けられて、導かれし天国のようとしてたづぬべからざるを、いとど可懐なつかしの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念ますます深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐ただおもひき人に寄せて、形見こそあだならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女かのをんなが十九の春の色をねんごろ手写しゆしやして、かつおくりしものなりけり。
 殿はこの失望の極放肆ほうし遊惰のうちいささおもひり、一具の写真機に千金をなげうちて、これに嬉戯すること少児しようにの如く、身をも家をもほかにして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛くろやなぎもとえありて、その人ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿をいただける田鶴見家も、さいはひ破綻はたんを生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端としてひそかに高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至ないし一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるをて、高利貸の大口を引受くるはいのここに便たよらんとせざるはあらず。されどもさかしき畔柳は事の密なるを策の上としてみだりに利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行ただゆきの一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺いづれにか金穴きんけつあるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵わにぶちの名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯うしろだてありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄はふにも足らぬ足軽頭あしがるがしらに過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩ののちでて小役人を勤め、転じて商社につかへ、一時あるひは地所家屋の売買を周旋し、万年青おもとを手掛け、米屋町こめやまち出入しゆつにゆうし、いづれにしても世渡よわたりの茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、つひには警部にまで取立てられしを、中ごろにしてきんこれけんと感ずるところありて、奉職中蓄得たくはへえたりし三百余円を元に高利貸を始め、世間のいまだこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、あるは欺き、或はおどし、或はすかし、或はしひたげ、わづかに法網をくぐり得てからくも繩附なはつきたらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せしころ、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、とらに翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額はほとんど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手よりとりいるる利のなかばは、これを御殿ごてんの金庫に致し、半はこれをふところにして、鰐淵もこれにりて利し、きんいつにしてその利を三にせる家令が六臂ろつぴはたらきは、主公が不生産的なるを補ひてなほ余ありともふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢すてばちの身を寄せて、牛頭馬頭ごずめずの手代と頼まれ、五番町なるその家に四年よとせ今日こんにちまで寄寓きぐうせるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分にあつかはれ、手代となり、顧問となりて、あるじの重宝大方ならざれば、四年よとせひさしきにわたれども主は彼をいだすことを喜ばず、彼もまた家をかまふる必要無ければ、あへて留るをいとふにもあらで、手代を勤むるかたはら若干そくばくの我が小額をも運転して、おのづから営む便たよりもあれば、今なまじひにここを出でて痩臂やせひぢを張らんよりは、しかるべき時節の到来を待つにはかじと分別せるなり。彼はただに手代としてく働き、顧問として能くおもんぱかるのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼のよはひを以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、おのれてらはず、ひとおとしめず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有ありがたき若者なり、と鰐淵はむし心陰こころひそかに彼をおそれたり。
 あるじは彼の為人ひととなりを知りしのち如此かくのごとき人の如何いかにして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一はおのれの履歴をいつはりて、如何なる失望の極身をこれにおとせしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後にあらはれにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿せんさくもせられで、やがては、暖簾のれんを分けてきつとしたる後見うしろみは為てくれんと、鰐淵は常におろそかならず彼が身をおもひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるおみねは四十六なり。夫は心たけく、人のうれひを見ること、犬のくさめの如く、唯貪ただむさぼりて※(「厭/食」、第4水準2-92-73)くを知らざるに引易へて、気立きだて優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心はてるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義りちぎに、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更なほさらにあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いとさちありける貫一が身の上かな。彼は世を恨むるあまりその執念のるままに、人の生ける肉をくらひ、以つていささか逆境にさらされたりし枯膓こちよういやさんが為に、三悪道に捨身の大願を発起ほつきせる心中には、百の呵責かしやくも、千の苦艱くげんもとよりしたるを、なかなかかかるゆたかなる信用と、かかるあたたか憐愍れんみんとをかうむらんは、羝羊ていようを得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なるかな、彼はこの喜を如何いかに喜びけるか。今は呵責をも苦艱くげんをもあへにくまざるべき覚悟の貫一は、この信用のつひには慾の為にがれ、この憐愍れんみんも利の為にをしまるる時の目前なるべきを固く信じたり。

     (三)の二

 毒は毒を以て制せらる。鰐淵わにぶちが債務者中に高利借の名にしおふぼう党の有志家某あり。彼は三年来生殺なまごろしの関係にて、元利五百余円のせめを負ひながら、奸智かんちろうし、雄弁をふるひ、大胆不敵にかまへて出没自在のはかりごといだし、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれにかかりては、逆捩さかねぢひて血反吐ちへどはかされし者すくなからざるを、鰐淵はいよいよ憎しと思へど、彼に対しては銕桿かなてこも折れぬべきに持余しつるを、かなはぬまでも棄措すておくは口惜くちをしければ、せめては令見みせしめの為にも折々くぎを刺して、再び那奴しやつはがいべしめざらんにかずと、昨日きのふは貫一のぬからず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄ほんろうせられけるを、劣らじとののしりて、前後四時間ばかりその座を起ちもらでさかんに言争ひしが、病者に等き青二才とあなどりし貫一の、陰忍しんねり強く立向ひて屈する気色けしきあらざるより、有合ふ仕込杖しこみつゑを抜放し、おのれかへらずば生けては還さじと、二尺あまりの白刃をあやふく突付けておびやかせしを、その鼻頭はなさきあしらひていよいよ動かざりける折柄をりから、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来かへりきにけるが、これが為に彼の感じやすき神経ははなはだしく激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地のうたすぐれねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠ひきこもれるなりけり。かかることありし翌日はおびただしく脳のつかるるとともに、心乱れ動きて、そのいかりしのちを憤り、悲みし後を悲まざればまず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。ゆゑに彼は折に触れつつそのたいの弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりはやうやく慣れてけれど、彼の心はしてこの悪をすに慣れざりき。唯能ただよく忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来じらい終天の失望と恨との一日いちじつも忘るるあたはざるが為に、その苦悶くもんの余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外のふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、あるは人の加ふる侮辱にへずして、神経の過度に亢奮こうふんせらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙びようを得ることあり。
 ほがらかに秋の気澄みて、空の色、雲の布置ただずまひにほはしう、金色きんしよくの日影は豊に快晴を飾れる南受みなみうけの縁障子をすかして、さはやかなる肌寒はださむとこ長高たけたかせたる貫一はよこたはれり。あをにごれるほほの肉よ、※(「骨+堯」、第4水準2-93-14)さらばへる横顔の輪廓りんかくよ、曇の懸れるまゆの下に物思はしき眼色めざしの凝りて動かざりしが、やがてくづるるやうに頬杖ほほづゑを倒して、枕嚢くくりまくらに重きかしらを落すとともに寝返りつつ掻巻かいまき引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣なげやりて仰向になりぬ。折しもたれならん、階子はしご昇来のぼりくる音す。貫一は凝然として目をふたぎゐたり。紙門ふすまけて入来いりきたれるはあるじの妻なり。貫一のあわてて起上るを、そのままにと制して、机のかたはらに坐りつ。
「紅茶をれましたからお上んなさい。少しばかりくりでましたから」
 手籃てかごに入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭まくらもとに置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様ごちそうさまでございます」
「冷めない内にお上んなさい」
 彼は会釈して珈琲茶碗カフヒイちやわんを取上げしが、
旦那だんな何時いつ頃お出懸でかけになりました」
「今朝はいつもより早くね、氷川ひかわへ行くと云つて」
 言ふも可疎うとましげに聞えけれど、さして貫一はこころも留めず、
「はあ、畔柳くろやなぎさんですか」
「それがどうだか知れないの」
 お峯は苦笑にがわらひしつ。あきらかなる障子の日脚ひざしはそのおもて小皺こじわの読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、くしの歯通りて、一髪いつぱつを乱さず円髷まるわげに結ひて顔の色は赤きかたなれど、いと好くみがきてきよらなめらかなり。鼻のあたり薄痘痕うすいもありて、口を引窄ひきすぼむる癖あり。歯性悪ければとて常にくろめたるが、かかるをや烏羽玉ぬばたまともふべくほとん耀かがやくばかりにうるはし。茶柳条ちやじまのフラネルの単衣ひとへ朝寒あささむの羽織着たるが、御召縮緬ちりめんの染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
何為なぜですか」
 お峯は羽織のひもを解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかをためらへる風情ふぜいなるを、ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一はかごなる栗を取りてきゐたり。彼はしばらく打案ぜし後、
「あの赤樫あかがし別品べつぴんさんね、あの人は悪いうはさが有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物くひものに為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。さきの夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴あいつ男を引掛けなくても金銭かねにはこまらんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だからけない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭かねが有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方こつちへお貸しなさい」
「これは憚様はばかりさまです」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々まじまじと手をつかねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便たよりあるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるをえらみて、そのいただきよりナイフを加へつ。
ちよいと見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人かたじんだから可いけれど、本当にあんな者に係合かかりあひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれをると云ふのは評判ですよ。金窪かなくぼさん、鷲爪わしづめさん、それから芥原あくたはらさん、みんなその話をしてゐましたよ」
あるひはそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内うちの人もおんなじのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手はやうやく鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りてき始めけるが、心進まざらんやうにナイフのはこびいよい等閑なほざりなりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処ここきりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声はおのづからひそまりぬ。
「どうも私はこの間からをかしいわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内のひとがあの別品さんに係合かかりあひを付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑ゆすりわらひして、
「そんな馬鹿な事が、貴方あなた……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房にようぼの私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一はじつと思ひ入りて、
「旦那はお幾歳いくつでしたな」
「五十一、もうぢぢいですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの※(感嘆符二つ、1-8-75)
 息巻くお峯の前に彼はおもてして言はず、静に思廻おもひめぐらすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまでことばを継がざりしが、さておもむろに、
「それはもう男の働とか云ふのだから、めかけたのしみも可うございます。これが芸者だとか、囲者かこひものだとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫あかがしさんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! ただ代物しろものぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火ちんちんなら可いけれど、なかなか心火どころの洒落しやれ沙汰さたぢやありはしません。あんな者に係合かかりあつてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内のひともあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうもをかしいの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となくしやれてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下したておろ渾成づくめで、その奇麗事とつたら、いつにも氷川へ行くのにあんなに※(「靜」の「爭」に代えて「見」、第3水準1-93-75)めかした事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
 貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒はがゆくて心いらつなるべし。
「はあ、事実とすればいよいよ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気りんきで言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手あひてが悪いからねえ」
 思ひ直せども貫一がには落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃いつごろからの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
しかし、にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私もとつくり言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処そこを突止めたいのだけれど、私のからだぢや戸外おもての様子が全然さつぱり解らないのですものね」
御尤ごもつとも
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝ておいででないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
 行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有るかな、紅茶と栗と、と貫一はそのあまりに安く売られたるがひと可笑をかしかりき。
「いえ、一向差支さしつかへございません。どういふ事ですか」
「さう? あんまりお気の毒ね」
 彼の赤き顔の色は耀かがやくばかりによろこびぬ。
「御遠慮無く有仰おつしやつて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
 お峯は彼が然諾ぜんだくさはやかなるにひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧はづかしく覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、し行つたのなら、何頃いつごろ行つて何頃帰つたか、なあに、とをここのつまではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
 彼は起ちて寝衣帯ねまきおびを解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今くるまを呼びにるから」
 かく言捨ててお峯はせはし階子はしご下行おりゆけり。
 あとに貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じわづらひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損なりそこなつて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
 と端無はしなく思ひ浮べてはそぞろひと打笑うちゑまれつ。

     第四章

 貫一はただちくるまとばして氷川なる畔柳くろやなぎのもとにおもむけり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入しゆつにゆうすべく、やかたの側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣もくげがきに取廻して、昔形気むかしかたぎの内にゆかしげに造成つくりなしたる二階建なり。かまへ可慎つつましう目立たぬに引易ひきかへて、木口きぐち撰択せんたくの至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
 貫一も彼のあるじもこの家に公然の出入でいりはばかる身なれば、玄関わきなる格子口こうしぐちよりおとづるるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物はきものは在らず。はや帰りしか、ざりしか、あるひいまだ見えざるにや、とにもかくにもお峯がことばにも符号すれども、ただちにこれを以て疑をるべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたるあるじの妻の声して、しきりをんなの名を呼びたりしに、答へざりければやがて自らで来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへおいででした」
 まなこのみいと大くて、病勝やまひがち痩衰やせおとろへたる五体は燈心とうしみの如く、見るだに惨々いたいたしながら、声のあきらかにして張ある、何処いづこよりづるならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物とへるその人なり。年は五十路いそぢばかりにてかしら霜繁しもしげく夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風のうやうやしき礼をして、
「はい、今日こんにちは急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方こちら様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、おいではありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目にかかりたいと申してをりましたところ。唯今ただいま御殿へ出てをりますので、ちよつと呼びに遣りませうから、しばらくお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近はしちかう控ふれば、彼ははたなりしをんなを呼立てて、速々そくそくあるじかたへ走らせつ。莨盆たばこぼんいだし、番茶をいだせしのみにて、納戸なんどに入りける妻は再びきたらず。この間は貫一は如何いかにこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促いきせ還来かへりきにける気勢けはひせしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今ちよつと手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方あちらへお出なすつて。ぢき其処そこですよ。婢に案内を為せます。あのとよや!」
 暇乞いとまごひして戸口を出づれば、勝手元の垣のきは二十歳はたちかと見ゆる物馴顔ものなれがほの婢のてりしが、うしろさまに※(「(尸+巾)+又」、第4水準2-3-62)おびかひつくろひつつ道知辺みちしるべす。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫ざりを敷きたるこみちありて、出外ではづるれば子爵家の構内かまへうちにて、三棟みむね並べる塗籠ぬりごめ背後うしろに、きりの木高く植列うゑつらねたる下道したみちの清く掃いたるを行窮ゆきつむれば、板塀繞いたべいめぐらせる下屋造げやつくりの煙突よりせはしげなるけふり立昇りて、折しも御前籠ごぜんかご舁入かきいるるは通用門なり。貫一もこれをりて、余所よそながら過来すぎこくりやに、酒の、物煮る匂頻にほひしきりて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響ひしめきしたる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間ひとまに導かれぬ。

     (四)の二

 畔柳元衛くろやなぎもとえの娘静緒しずおやかたの腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持とりもちに召れて、高髷たかわげ変裏かはりうらよそひを改め、お傍不去そばさらず麁略そりやくあらせじとかしづくなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子まはりばしごなかば昇行のぼりゆ後姿うしろすがたに、その客の如何いかに貴婦人なるかをうかがふべし。かつらならではと見ゆるまでに結做ゆひなしたる円髷まるわげの漆の如きに、珊瑚さんご六分玉ろくぶだま後挿うしろざしを点じたれば、更に白襟しろえり※(「豐+盍」、第4水準2-88-94)れいえん物のたぐふべき無く、貴族鼠きぞくねずみ※(「糸+芻」、第4水準2-84-49)高縮緬しぼたかちりめん五紋いつつもんなる単衣ひとへきて、帯は海松みる色地に装束しようぞく切摸きれうつし色紙散しきしちらし七糸しちんを高く負ひたり。淡紅色ときいろ紋絽もんろ長襦袢ながじゆばんすそ上履うはぐつあゆみゆる匂零にほひこぼして、絹足袋きぬたびの雪に嫋々たわわなる山茶花さざんかの開く心地す。
 このうるはしかたちをば見返り勝に静緒は壁側かべぎはに寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼のうつむきてのぼれるに、くし蒔絵まきゑのいとく見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏みそこねて、すさまじき響の中にあなやたふれんとたり。さいはひ怪我けがは無かりけれど、彼はなかなかおのれの怪我などより貴客きかくおどろかせし狼藉ろうぜきをば、得も忍ばれず満面にぢて、
「どうも飛んだ麁相そそうを致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処どこもおいためなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚びつくり遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こたび薄氷はくひようおもひして一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
ちよつとお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒はあわて驚きて、
「あれ、恐入おそれいります」
うございますよ。さあ、じつとして」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずしてつひに貴婦人の手をわづらはせし彼の心は、あふるるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花のかをりあらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書じよししよ内訓ないくんに出でたりとてしばしば父に聴さるる「五綵服ごさいふくさかんにするも、以つて身のと為すに足らず、貞順道ていじゆんみちしたがへば、すなはち以つて婦徳を進むべし」の本文ほんもんかなひて、かくてこそ始めて色にほこらず、その徳にそむかずとも謂ふべきなれ。でたき人にもへるかなとしたたかに思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北にしきたの窓に寄り行きて、効々かひがひしく緑色のとばりを絞り硝子戸ガラスど繰揚くりあげて、
「どうぞ此方こちらへおいであそばしまして。ここが一番見晴みはらしよろしいのでございます」
「まあ、い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀もくせいにほひますね、お邸内やしきうちに在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽しゆうせいほがらかひろくして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色おももちしてたたずめり。窓を争ひて射入さしいる日影はななめにその姿を照して、襟留えりどめなる真珠はゆる如く輝きぬ。ちりをだにゆるさず澄みに澄みたる添景のうちに立てる彼の容華かほばせは清くあざやか見勝みまさりて、玉壺ぎよくこに白き花をしたらん風情ふぜいあり。静緒は女ながらも見惚みとれて、不束ふつつか眺入ながめいりつ。
 その目のさはやかにしてしたたるばかりなさけこもれる、そのまゆの思へるままにえがき成せる如き、その口元のつぼみながらに立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃きめこまやかに光をさへ帯びたる、色のとほるばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢つややかに、かしらも重げにつかねられたれど、髪際はへぎはすこしく打乱れたると、立てるかたちこそ風にもふまじく繊弱なよやかなれど、おもてやせの過ぎたる為に、おのづかうれはし底寂そこさびしきと、えりの細きが折れやしぬべく可傷いたはしきとなり。
 されどかくそろひて好き容量きりよういまだ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外ふみはづせし麁忽そこつははや忘れて、見据うる流盻ながしめはその物を奪はんとねらふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるるかたちありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人のかたはらには見劣せらるることおびただしかり。彼はおのれの間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひてまざりき。にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をかづべき。をんなの徳をさへかでこの嬋娟あでやかに生れ得て、しかもこの富めるにへる、天のめぐみと世のさちとをあはけて、残るかた無き果報のかくもいみじき人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者ふたつ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、そのさいはひは男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨ものうらやみの念強けれど、ねたしとは及び難くて、静緒は心におそるるなるべし。
 彼は貴婦人のかたちふけりて、その※(「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1-86-31)もてなしにとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西フランスより持ち帰られし名器なるを、やうや取出とりいだしてすすめたり。形は一握いちあくの中に隠るるばかりなれど、く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色のぎよくもて造られ、わづか黄金きん細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、くを忘らるるまでにでられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽ながめつくされて、彼はこのグラスただならず精巧なるに驚けるさまなり。
那処あすこに遠くほん小楊枝こようじほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄あさぎに赤い柳条しまの模様まで昭然はつきり見えて、さうして旗竿はたさをさきとび宿とまつてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度たんと御座いませんさうで、招魂社しようこんしやのお祭の時などは、狼煙のろしの人形がく見えるのでございます。私はこれを見まするたびにさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞよろしうございませう。あんまり近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方あちこちの音が一所に成つて粉雑ごちやごちやになつてしまひませう」
 かく言ひてひとしく笑へり。静緒は客遇きやくあしらひに慣れたれば、可羞はづかしげに見えながらも話を求むるにはつたなからざりき。
「私は始めてこれを見せていただきました折、殿様に全然すつかりだまされましたのでございます。鼻のさきに見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたらすぐにその眼鏡を耳に推付おつつけて見ろ、早くさへ耳に推付おつつければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無よどみな語出かたりいづる静緒の顔を見入りつつ貴婦人はましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在おいででゐらつしやいましたが、皆為みんななすつて御覧遊ばしました」
 貴婦人はこらへかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水はやみと申す者はあんまり急ぎましたので、耳の此処ここひどちまして、血を出したのでございます」
 彼のよろこべるを見るより静緒は椅子を持来もちきたりてすすめし後、さて語り続くるやう。
「それでたれにも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目まじめなお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西フランスに居た時にはく聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇あくさげきを親くたらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白おもしろい方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がおすぐれ遊ばしませんので、おむづかしいお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、にはか空目遣そらめづかひして物の思はしげに、例の底寂そこさびし打湿うちしめりて見えぬ。
 やや有りて彼はしづかに立ち上りけるが、こたびは更にちかきを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方あなたこなたに差向くる筒の当所あてども無かりければ、たまた唐楪葉からゆづりはのいと近きが鏡面レンズて一面にはびこりぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、おのづから得忘れぬ面影にたるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手をしかと据ゑて、目をぬぐふ間もせはしく、なほ心を留めて望みけるに、枝葉えだはさへぎりてとかくに思ふままならず。やうやくその顔のあきらかに見ゆるひまを求めけるが、別に相対さしむかへる人ありて、髪は黒けれども真額まつかう瑩々てらてら禿げたるは、先に挨拶あいさつでし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃まゆこく、外眦まなじりあがれる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影にたりとはおろかや、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人のグラス持てる手は兢々わなわな打顫うちふるひぬ。
 行く水に数画かずかくよりもはかなき恋しさと可懐なつかしさとの朝夕に、なほ夜昼のわかちも無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年よとせの久きを、熱海の月はおぼろなりしかど、一期いちごの涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日いつかは必ずと念懸おもひかけつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心はつゆも昔にかはらねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何いかなるわづらひをやさまでは積みけん、よはひよりは面瘁おもやつれして、あやしうも物々しき分別顔ふんべつかほに老いにけるよ。幸薄さいはひうすく暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出わきいでて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔のあざやかに映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今はへ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるをさとりてしなしたりと思ひたれど、所為無せんなくハンカチイフをきびしく目にてたり。静緒の驚駭おどろきは謂ふばかり無く、
「あれ、如何いかが遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良わるいものですから、あんまり物をみつめてをると、どうかすると眩暈めまひがして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しおぐしをおさすり申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今にぢきなほります。はばかりですがおひやを一つ下さいましな」
 静緒は驀地ましぐらに行かんとす。
「あの、貴方あなた、誰にも有仰おつしやらずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私がうがひをすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、かしこまりました」
 彼の階子はしごを下り行くとひとしく貴婦人は再びグラスを取りて、葉越はごしの面影を望みしが、一目見るより漸含さしぐむ涙に曇らされて、たちま文色あいろも分かずなりぬ。彼は静無しどなく椅子に崩折くづをれて、ほしいままに泣乱したり。

     (四)の三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継ただつぐともに田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交くみかはを、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等のいづれも日本写真会々員たるにれり。おのづから宮の除物のけものになりて二人の興にれるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらそのこころんとつとめけるより、子爵も好みてまじはるべき人とも思はざれど、勢ひうとんがたくして、今は会員中善くれるもののさいたるなり。爾来じらい富山はますます傾慕してかず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定かんていを乞ふを名として、さき芝西久保しばにしのくぼなる居宅に請じておろそかならずもてなす事ありければ、そのかへしとて今日は夫婦を招待しようだいせるなり。
 会員等は富山がしきりに子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為かれためにするところあらんなど言ひていやしみ合へりけれど、その実あへて為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山がまじはるところは、その地位において、その名声に於て、その家柄に於て、あるひはその資産に於て、いづれの一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。に彼は美き友をてるなり。さりとて彼はいまかつてその友を利用せし事などあらざれば、こたびもあながちに有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かくつとめてまじはりは求むるならん。ゆゑに彼はその名簿の中に一箇いつかうれひおなじうすべき友をだに見出みいださざるを知れり。そもそも友とはたのしみを共にせんが為の友にして、し憂を同うせんとには、別に金銭マネイありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶはもとよりこの理に外ならず、まことに彼の択べる友は皆美けれども、ことごとくこれ酒肉の兄弟けいていたるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるもしかりとすの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を※(「目+毛」、第3水準1-88-78)かすめて、いやしみてもなほ余ある高利貸の手代に片思の涙をそそぐにあらずや。
 宮はかたはらに人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏かきくれて、熱海の浜に打俯うちふしたりし悲歎なげきの足らざるをここにがんとすなるべし。階下したよりほのかに足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざとかしらを支へつつしつ中央まなかなる卓子テエブル周囲めぐりを歩みゐたり。やがて静緒の持来もちきたりし水にくちそそぎ、懐中薬かいちゆうくすりなど服して後、心地をさまりぬとて又窓にりて外方とのがたを眺めたりしが、
「ちよいと、那処あすこに、それ、男の方の話をしておいでの所も御殿の続きなのですか」
何方どちらでございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内やしきうちでございます。これからぢきに見えまする、あの、倉の左手に高いもみの木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下からずつとお宅の方へかれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。ではちつとお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠にきたなうございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又葉越はごしの面影をうかがへり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処あすこにお父様とつさまとお話をしてゐらつしやるのは何地どちらの方ですか」
 彼の親達は常に出入でいりせる鰐淵わにぶちの高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りをつぐるなり。
あれは番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買うりかひを致してをります者の手代で、はざまとか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語ひとりごちて、そのたがへるをいぶかるやうにもてなしつつ又其方そなた打目戍うちまもれり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語にりて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何いかにとも逢ふべき便たよりはあらんと、獲難えがたき宝を獲たるにもまされる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日いつをも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇をあだに、余所よそながら見て別れんは本意無ほいなからずや。し彼のまなこにらまれんとも、互のおもてを合せて、ことばかはさずともせめては相見て相知らばやと、四年よとせを恋にゑたる彼の心はいらるる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣きづかへるは、事のあやふきに過ぎたるなり。附添さへあるまらうどの身にして、いやしきものにあつかはるる手代風情ふぜいと、しかもその邸内やしきうちこみちに相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦はそも幾許いかばかり恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、このおもて唾吐つばはかるるもいとはじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬あふせは今日の一日ひとひに限らぬものを、事のやぶれを目に見て愚にはやまるべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべきをりならず、つらくとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒をすかして、邸内やしきうちを一周せんと、西洋館のうしろより通用門のわきに出でて、外塀際そとべいぎはなる礫道ざりみちを行けば、静緒はななめに見ゆる父が詰所の軒端のきばして、
那処あすこが唯今の客の参つてをります所でございます」
 唐楪葉からゆづりはは高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴きなけり。宮が胸はあやしうつとふたがりぬ。
 たかどのを下りてここに来たるは僅少わづかひまなれば、よもかの人はいまだ帰らざるべし、若しここに出できたらば如何いかにすべきなど、さすがに可恐おそろしきやうにも覚えて、あゆみは運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳にはらで、さて行くほどに裏門のかたはらに到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目をあぐれども何処いづこを眺むるにもあらず、うつむき勝に物思はしき風情ふぜいなるを、静緒は怪くも気遣きづかはしくて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、だ何だか胸が少し悪いので」
「それはおよろしうございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
うちの中よりは戸外おもての方が未だ可いので、もうと歩いてゐる中にはをさまりますよ。ああ、此方こちらがお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿もくげさかりですこと。白ばかりも淡白さつぱりしていぢやありませんか」
 畔柳の住居すまひを限として、それよりさきは道あれども、まらうどの足をるべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣まだらがき此方こなたに、かしの実のおびただしこぼれて、片側かたわきに下水を流せる細路ほそみちを鶏の遊び、犬のねむれるなど見るもいぶせきに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼おそれたちまちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来いできたるに会はば、のがれんやうはあらで明々地あからさまおもてを合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何いかにせん。仮令たとひ此方こなたにては知らぬ顔してあるべきも、いかでかの人の見付けて驚かざらん。もとより恨を負へる我が身なれば、ことばなど懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭おどろきは如何ならん。あだへるその憤懣いきどほりは如何ならん。必ずかの人のすさまじう激せるを見ば、静緒は幾許いかばかり我を怪むらん。かく思ひ浮ぶるとひとしく身内は熱してつめたき汗をいだし、足は地に吸るるかとばかりすくみて、宮はこれを想ふにだにへざるなりけり。脇道わきみちもあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、る方も無く惑へる宮が面色おももちやすからぬを見尤みとがめて、静緒はひそかに目をそばめたり。彼はいとどその目をおそるるなるべし。今は心もそぞろに足をはやむれば、土蔵のかども間近になりて其処そこをだに無事に過ぎなば、としきりに急がるる折しも、人の影はとつとしてその角よりあらはれつ。宮はめくるめきぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前はきやうに言譌いひこしらへ、さて篤と実否をただせし上にてひそかんやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽をやや目深まぶか引側ひきそばめ、通学にならされし疾足はやあしを駆りて、塗籠ぬりこめの角よりななめに桐の並木のあひを出でて、礫道ざりみちの端を歩みきたれり。
 四辺あたり往来ゆききのあるにあらねば、二人の姿はたちまち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとはく知られけれど、顔打背かほうちそむけたる貴婦人のまばゆく着飾りたるは、子爵家の客なるべしとわづかに察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりにちかづけば、貫一は静緒に向ひて慇懃いんぎんに礼するを、宮はかたはらあたふ限は身をすぼめてひそか流盻ながしめを凝したり。そのおもての色は惨として夕顔の花に宵月のうつろへる如く、そのひややかなるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。あし打顫うちふるひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべくとどろくを、さとられじとすればなほ打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目にむばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとするきはに、ふと目鞘めざやの走りて、館のまらうどなる貴婦人を一べつせり。端無はしなくも相互たがひおもては合へり。宮なるよ! 姦婦かんぷなるよ! 銅臭の肉蒲団にくぶとんなるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたとめて動かざるまなこには見る見る涙をたたへて、唯一攫ひとつかみにもせまほしく肉のをどるを推怺おしこらへつつ、ひそか歯咬はがみをなしたり。可懐なつかしさと可恐おそろしさと可耻はづかしさとを取集めたる宮が胸の内は何にたとへんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付いだきつきても思ふままにさいなまれんをと、心のみはあこがれながら身を如何いかにとも為難しがたければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思をむるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾あしばやに過行けり。宮は附人つきひとに面をそむけて、くちびるみつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事ともわきまへねど、すいすべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、まらうどの顔色のさしも常ならず変りて可悩なやましげなるを、問出でんもよしあしやをはかりかねて、唯可慎つつましう引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へおいであそばして、お休み遊ばしましては如何いかがでございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼まつさをでゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方あちらへ参つて、又皆さんに御心配を懸けるとけませんから、お庭を一周ひとまはりしまして、その内には気分がなほりますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方あなたのお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰おつしやいます」
 貴婦人はその無名指むめいしより繍眼児めじろ押競おしくら片截かたきりにせる黄金きんの指環を抜取りて、懐紙ふところかみに包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のおしるしに」
 静緒は驚きおそれたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様おとつさまにも阿母様おつかさまにも誰にも有仰おつしやらないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠てごめに取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋そたばし近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑たかわらひするが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間につとめて気をたひらげ、色ををさめて、ともかくも人目を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれんと計れるなり。されどもこは酒をぬすみて酔はざらんと欲するにおなじかるべし。
 彼は先にひし事の胸にられたらんやうに忘るるあたはざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出もえいでて、募りに募らんとする心のみだれは、ふるにかた痛苦くるしみもたらして、一歩は一歩より、胸のせまること急に、身内の血はことごとくその心頭しんとうに注ぎて余さずらるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛うちくつろぎて意任こころまかせの我が家に独り居たらんぞき。人に接してひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩わづらはしと、例のはげしくちびるみて止まず。
 築山陰つきやまかげ野路のぢを写せるこみちを行けば、蹈処無ふみどころなく地をくずの乱れひて、草藤くさふぢ金線草みづひき紫茉莉おしろいの色々、茅萱かや穂薄ほすすき露滋つゆしげく、泉水の末を引きて※(「鄰」の「おおざと」に代えて「巛」、第4水準2-83-91)ちよろちよろみづひくきに落せるみぎはなる胡麻竹ごまたけ一叢ひとむら茂れるに隠顕みえかくれして苔蒸こけむす石組の小高きに四阿あづまやの立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人はなやましげに憩へり。
 彼は静緒の柱際はしらぎはに立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥くたびれでせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色のさきにも劣らず蒼白あをざめたるのみならで、下唇の何にきずつきてや、すこしく血の流れたるに、彼はいたく驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何いかがあそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴ざくろ花弁はなびらの如く附きたるに、貴婦人は懐鏡ふところかがみ取出とりいだして、むことの過ぎしゆゑぞと知りぬ。に顔の色はみづからすごしと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周いくめぐりして我はこの色を隠さんとらんと、彼は心陰こころひそかおのれあざけるなりき。
 たちまち女の声して築山の彼方あなたより、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴してこたへけるが、やがて木隠こがくれかたら気勢けはひして、返り来るとひとしまらうどの前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、すぐ彼方あちらへおいであそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋うんたいきようの在るかたへ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭ところせまきまで盃盤はいばんつらねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方こなたの姿を見るより子爵は縁先に出でてさしまねきつつ、
「そこをお渡りになつて、此方こちら燈籠とうろうがございませう、あのそばちよつとお出で下さいませんか。一枚とらして戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立おりたちて、早くもカメラのおほひ引被ひきかつぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事のようを見んとて、慢々ゆらゆら出来いできたれるは富山唯継なり。片手には葉巻シガアなかばくゆりしをつまみ、片臂かたひぢを五紋の単羽織ひとへはおりそでの内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうのゑみを浮べつつ、
「ああ、おまへ其処そこに居らんければ可かんよ、何為なぜ歩いて来るのかね」
 子爵のあわてたる顔はこの時毛繻子けじゆすの覆の内よりついとあらはれたり。
「可けない! 那処あすこに居て下さらなければ可けませんな。何、御免をかうむる? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方あなたは巧いことをお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方あちらへ。静緒、お前奥さんを那処あすこへお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度ごしたくをなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠のそばへ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含はにかむことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内でつてをるのに、あれで可いのさ。姿勢かたちは私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛よつかかつて頬杖ほほづゑでも※(「てへん+主」、第3水準1-84-73)いて、空をながめてゐるかたちなども可いよ。ねえ、如何いかがでせう」
「結構。結構」と子爵はうなづけり。
 心は進まねど強ひていなむべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かくつぶやきつつ庭下駄を引掛ひきかけ、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠によらしめ、頬杖を※(「てへん+主」、第3水準1-84-73)つかしめ、空を眺めよと教へて、たもとしわめるをべ、すそもつれを引直し、さて好しと、すこし退きて姿勢を見るとともに、彼はそのおもて可悩なやましげにいたくも色を変へたるを発見して、ただちに寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処どこ不快わるいのか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、わしが訳を言つてお謝絶ことわりをするから」
「いいえ、よろしうございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭いやな色だ」
 彼は眷々けんけんとして去るあたはざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
如何いかがですか」
 唯継は慌忙あわただしく身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面レンズに照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板たねいた挿入さしいるれば、唯継は心得てそのちかきを避けたり。
 空を眺むる宮が目のうちにはゆらんやうに一種の表情力充満みちみちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色あるきぬ唐松からまつみどり下蔭したかげあやを成して、秋高き清遠の空はその後にき、四脚よつあしの雪見燈籠を小楯こだてに裾のあたり寒咲躑躅かんざきつつじしげみに隠れて、近きに二羽のみぎは※(「求/食」、第4水準2-92-54)あさるなど、むしろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面レンズを開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖はたちまくづれて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破がばと伏しぬ。

     第五章

 遊佐良橘ゆさりようきつは郷里に在りし日も、出京の遊学中も、すこぶる謹直をて聞えしに、かへりて、日本周航会社に出勤せる今日こんにち、三百円の高利の為になやまさるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものはおもてを張らざるべからざる為の遣繰やりくりなるべしと言ひ、或ものは隠遊かくれあそびの風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこはふべからざる事情の下に連帯のいんせしが、かたの如く腐れ込みて、義理の余毒の苦をうくると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田かまだ鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助かざはやくらのすけとあるのみ。
 およそ高利の術たるや、渇者かつしやに水を売るなり。渇のはなはだしへ難き者に至りては、決してその肉をきてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もそのあたひ玉漿ぎよくしようを盛るに異る無し。ゆゑに前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇のいゆるに及びては、玉漿なりとして喜びきつせしものは、と下水の上澄うはずみに過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血にしぼりその活肉に割きて以て返さざるべからず。ああ、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これをるは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここをて、高利はるべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍にかかれるかなと、彼は人の為ながら常にこのうれひを解くあたはざりき。
 近きに郷友会きようゆうかいの秋季大会あらんとて、今日委員会のありしかへるさを彼等は三人みたり打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走ごちそうと云つては無いけれど、松茸まつだけ極新ごくあたらしいのと、製造元からもらつた黒麦酒くろビイルが有るからね、とりでも買つて、ゆつくり話さうぢやないか」
 遊佐がまさぐれる半月形の熏豚ハム罐詰かんづめも、このまうけにとてみちに求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さうとまりが知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早とたいに成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。しかし、どうもその長足のちやうてう(貂)足らず、ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然すつかりフロックがとまつた? ははははは、それはお目出度めでたいやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのはあきらかに一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声しわかれごゑして大笑たいしようを発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖たてキュウをして二寸三分クロオスをやぶかなければ可けません」
蒲「三たびひぢを折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖たてキュウの極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳あとびき手際てぎはも知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処あすこ主翁おやぢがさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分なくなる……」
蒲「穿得うがちえて妙だ」
風「チョオクの多少はわざの巧拙には関せんよ。遊佐が無闇むやみキュウ取易とりかへるのだつて、決してとも好くはない」
 蒲田は手もてにはかに制しつ。
「もう、それで可い。ひとの非を挙げるやうな者にわざの出来たためしが無い。悲いかな君達の球も蒲田に八十で底止とまりだね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇いくつで来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られけるかなだ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 ことばをはらざるに彼は傍腹ひばらに不意の肱突ひぢつきくらひぬ。
「あ、いた! さう強くくから毎々球がころげ出すのだ。風早の球はあらいから癇癪玉かんしやくだまと謂ふのだし、遊佐のは馬鹿にやはらかいから蒟蒻玉こんにやくだま。それで、二人の撞くところは電公かみなり蚊帳かや捫択もんちやくしてゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度たんとも行かんが、天狗てんぐの風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじとあらがひし末、ただちに一番の勝負をいざいざと手薬煉てぐすね引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後でゆつくり出来るさ。帰つて風呂にでもつて、それから徐々そろそろ始めやうよ」
 往来繁ゆききしげき町を湯屋の角よりれば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店もまじりながら閑静に、家並やなみ整へる中程に店蔵みせぐら質店しちやと軒ラムプの並びて、格子木戸こうしきどの内を庭がかりにしたるかど楪葉ゆづりはの立てるぞ遊佐が居住すまひなる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻はきたりて、伴へる客あるを見てやや打惑へる気色けしきなりしが、にはかゑみを含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫にとがめられて、彼はいよいよこうじたるなり。
唯今ただいまちよいふさがつてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば※(「にんべん+從」、第4水準2-1-81)づかづかと長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
鰐淵わにぶちから参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、ちよいとお会ひなすつて、早くかへしておしまひなさいましな」
松茸まつだけはどうした」
 妻はこの暢気のんきなる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒くろビイルな……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。わたし那奴あいつが居ると思ふと不快いやな心持で」
 遊佐も差当りて当惑のまゆひそめつ。二階にては例の玉戯ビリアアドあらそひなるべし、さも気楽に高笑たかわらひするを妻はいと心憎く。
 少間しばしありて遊佐は二階に昇りきたれり。
蒲「に一つ行かうよ。手拭てぬぐひを貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 に言ふが如く彼は心穏こころおだやかならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸アイスが来てをるのだよ」
蒲「那物えてものが来たのか」
遊「先から座敷で帰来かへりを待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながらかしらを抑へてゆるく柱にれり。
蒲「何とか言つて逐返おつかへして了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍ひねくねした皮肉な奴でね、那奴あいつつかまつたらたまらん」
蒲「二三円もたたき付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々たびたびなのでね、むかふは書替をせやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁をふるつて」
「これは外の談判と違つて唯金銭かねづくなのだから、素手すでで飛込むのぢや弁のふるひやうが無いよ。それで忽諸まごまごすると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀すけだちを為るから」
 いとむづかしと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、しをれてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかしてすくつて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いからかない。ああ云ふ風だからますま脚下あしもとを見られて好い事を為れるのだ。高が金銭かね貸借かしかりだ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものはおそれるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利アイス貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利あんりや無利息なんぞを借りるから見れば、はるかに以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭かねこまらんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひはまいし、名誉に於てきずつくところは少しも無い」
「恐入りました、高利アイスを借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利アイスを借りるなどは、紳士たるもののいともづべきおこなひと為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、いまだ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするもあたはざるなりだらう。そうの時代であつたかね、何か乱がおこつた。すると上奏に及んだものがある、これはいくさを動かさるるまでもない、一人いちにんの将を河上かじようつかはして、賊のかたに向つて孝経こうきようを読せられた事ならば、賊はおのづから消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目まじめで孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割てんびきしわりつて一月おきに血をすはれる。そんな無法な目にひながら、いまだ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利アイスは貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族けだものさ」
 得意の快弁流るる如く、彼は息をもつがせず説来とききたりぬ。
れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほいまだ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな※(「りっしんべん+蜈のつくり」、第3水準1-84-50)あやまりだ。それは勿論もちろん借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物いちぶつにして一物ならずだよ。武士のたましひ商人あきんど根性とは元これ一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳をゆるさんことは、武士の魂とあへて異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人あきんどにあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利アイスなどを借りん内は武士の魂よ、既に対高利たいアイスとなつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟つまりは敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利アイスを借りて、栄と為るに足れりとふに至つては……」
 蒲田は恐縮せるさまして、
「それは少し白馬は馬にあらずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕いつぴ深く探る蛟鰐こうがくえんと出掛けやうか」
空拳くうけんいかんだらう」
 一笑して蒲田は二階を下りけり。風早はひとつ起きつ安否の気遣きづかはれて苦き無聊ぶりように堪へざる折から、あるじの妻はやうやく茶を持ち来りぬ。
「どうもはなはだ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
 彼はその美き顔を少くあかめて、
「はい、あの居間へおいでで、紙門越ふすまごしに様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥はづかしくてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
わたくしはもう彼奴あいつが参りますと、惣毛竪そうけだつて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭いやに陰気な※(「韋+仞のつくり」、第4水準2-92-11)ねちねちした、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
 急足いそぎあし階子はしごを鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
 と上端あがりはなに坐れる妻の背後うしろすぐるとてしたたかその足を蹈付ふんづけたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
 骨身にみて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺おしこらへつつ、さり気無く挨拶あいさつせるを、風早は見かねたりけん、
不相変あひかはらず麁相そそつかしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。ついあわてたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
落付おちつかれる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸アイスと云ふのは、たれだと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕のつらを蹈んだ」
「でも仕合しあはせと皮の厚いところで」
しからん!」
 妻の足のいたみたちまち下腹にうつりて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
 敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「さう! 驚いたらう」
 彼は長き鼻息を出して、むなしまなこ※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはりしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
 別してあきれたるはあるじの妻なり。彼はおぞましからず胸のをどるを覚えぬ。同じ思は二人がおもてにもあらはるるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友ごほうゆうなのでございますか」
 蒲田はせはしげにうなづきて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
かねて学校をめてから高利貸アイスを遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和ごくおとなしい男で、高利貸アイスなどの出来る気ぢやないのですから、そんな事はうそだらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰もうそと想ふのです」
ほんにさうでございますね」
 すこしき前に起ちて行きし風早はうたがひはらして帰りきたれり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影おもかげがあるだらう」
「エッセクスを逐払おつぱらはれた時の面影だ。然し彼奴あいつが高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業いんごうな事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
 あるじの妻はその美き顔をしわめたるなり。
蒲「随分ひどうございますか」
妻「酷うございますわ」
 こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をばにはかに取りて飲干し、
「然し間であるのがさいはひだ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕あこぎなことは言ひもすまい。次手ついでに何とか話を着けて、元金もときんだけか何かに負けさして遣らうよ。那奴あいつなら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩けんかに行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分もちつ気凛きりつとするが可い、帯の下へ時計の垂下ぶらさがつてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、あるじの妻はかたはらより、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様はばかりさまです。ちよつと身支度に婦人の心添こころぞへを受けるところは堀部安兵衛ほりべやすべえといふ役だ。然し芝居でも、人数にんずが多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! はざま如きに」
「急に強くなつたから可笑をかしい。さあ。用意はいよ」
此方こつちい」
 二人は膝を正してと差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討かたきうち門出かどでだ。互に交す茶盃ちやさかづきか」

     第六章

 座敷にはくるしめる遊佐と沈着おちつきたる貫一と相対して、莨盆たばこぼんの火の消えんとすれど呼ばず、彼のかたはら茶托ちやたくの上に伏せたる茶碗ちやわんは、かつて肺病患者と知らでいだせしを恐れて除物のけものにしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐はいきどほりを忍べる声音こわねにて、
「それは出来んよ。勿論もちろん朋友ほうゆう幾多いくらも有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、なんぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きをくが如く底強く沈みたり。
あへて困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それではわたくしの方が立ちません。何方どちらとも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、もとより貴方あなたがお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、ほんの名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友のよしみとして、何方どなたでも承諾なさりさうなものですがな。究竟つまり名義だけあればよろしいので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つかどが付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先ひとまづ句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。
何方どなたでも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉にかかはるやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押さしおさへです」
 遊佐はひて微笑を含みけれど、胸にはひしこたへて、はや八分の怯気おじけ付きたるなり。彼はもだえて捩断ねぢきるばかりにそのひげひねり拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金はしたがね貴方あなたの御名誉をきずつけて、後来御出世の妨碍さまたげにもなるやうな事を為るのは、私の方でもして可好このましくはないのです。けれども、此方こちらの請求をれて下さらなければむを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金もときんの上に借用当時から今日こんにちまでの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円なにがし、それとがつして五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分がつかつたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書をかかされる! あんまり馬鹿々々しくて話にならん。此方こつちの身にも成つて少しは斟酌しんしやくするが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
 空嘯そらうそぶきて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
 遊佐はひそか切歯はがみをなしてその横顔を睨付ねめつけたり。
 彼も※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれ難き義理に迫りて連帯の印捺いんつきしより、不測のわざはひは起りてかかる憂き目を見るよと、いたおのれに懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑をくることもやと、断じて貫一の請求をれざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここにきはまるとともに貫一もこの場は一寸いつすんも去らじと構へたれば、遊佐はわなに係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無いはれなき責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、ひるがへりて一点の人情無き賤奴せんどの虐待を憤る胸の内は、前後も覚えずれ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日はつかにお払ひ下さるべきのを、いまだにおわたしが無いのですから、何日いつでも御催促は出来るのです」
 遊佐はこぶしを握りてふるひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこでむなしく帰るその日当及び俥代くるまだいとして下すつたから戴きました。ですから、しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金うちきんでなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足むだあしを踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つてもよろしい訳なのです。まあ、過去つた事はきまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
今日こんにちはその事で上つたのではないのですから、今日こんにちの始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有おつしやるのですな」
「出来ん!」
「で、きんも下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐がおもてうかがへり。そのひややかに鋭きまなこの光はあやしく彼を襲ひて、そぞろに熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐はたちまち吾にかへれるやうに覚えて、身のあやふきにるを省みたり。一時を快くする暴言もつひひかもの小唄こうたに過ぎざるをさとりて、手持無沙汰てもちぶさたなりを鎮めつ。
「では、いつごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らずやはらぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
しかと相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それならよろしうございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰おつしやるところは少しも有りはしません、その代り何分なんぶん今日こんにちつかはし下さい」
 かく言ひつつ手鞄てかばんを開きて、約束手形の用紙を取出とりいだせり。
「銭は有りはせんよ」
僅少わづかよろしいので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円かねは有りはせん」
「それぢや、どうも」
 彼はにはか躊躇ちゆうちよして、手形用紙を惜めるやうにひねるなりけり。<