うづしほ

A DESCENT INTO THE MAELSTROM

エドガア・アルラン・ポオ Edgar Allan Poe

森林太郎訳




 二人で丁度一番高い岩山のいたゞきまで登つた。老人は数分間は余り草臥くたびれて物を云ふことが出来なかつた。
 とう/\かう云ひ出した。
「まだ余り古い事ではございません。わたくしは不断倅共の中の一番若い奴を連れて、この道を通つて、平気でこの岩端いははたまで出たものです。だからあなたの御案内をしてまゐつたつて、こんなに草臥れる筈ではないのです。それが大約おほよそ三年前に妙な目に逢つたのでございますよ。多分どんな人間でもわたくしより前にあんな目に逢つたものはございますまい。よしやそんな人があつたとしても、それが生き残つてゐはしませんから、人に話して聞かすことはございますまい。そのときわたくしは六時間の間、今死ぬか今死ぬかと思つて気を痛めましたので、体も元気も台なしになつてしまひました。あなたはわたくしを大変年を取つてゐる男だとお思ひなさいますでございませうね。所が、実際さうではございませんよ。わたくしの髪の毛は黒い光沢つやのある毛であつたのが、たつた一日に白髪になつてしまつたのでございます。その時手足も弱くなり神経も駄目になつてしまひました。今では少し骨を折れば、手足が顫えたり、ふいと物の影なんぞを見て肝を潰したりする程、わたくしの神経は駄目になつてゐるのでございます。この小さい岩端から下の方を見下ろしますと、わたくしは眩暈めまひがしさうになるのでございます。はたから御覧になつては、それほど神経を悪くしてゐるやうには見えますまいが。」
 その小さい岩端といつた所に、その男は別に心配らしい様子もなく、ずつと端の所へ寄つて横になつて休んでゐる。体の重い方の半分が重点を岩端を外れて外に落してゐる。つる/\滑りさうな岩のへりに両肘を突いてゐるので、その男の体は落ちないでゐるのである。
 その小さい岩端といふのは、嶮しい、鉛直に立つてゐる岩である。その岩は黒く光る柘榴石ざくろせきである。それが底の方に幾つともなくむらがつてゐる岩の群を抜いて、大約一万五千フイイト乃至一万六千呎位真直に立つてゐるのである。僕なんぞは誰がなんと云つても、その縁から一二尺位な所まで体を覗けることは出来ないのである。連の男の危ない所にゐるのが気になつて、自分までが危なく思はれるので、僕は土の上に腹這ひになつて、そこに生えてゐる灌木を掴んでゐた。下を見下すどころではない。上を向いて空を見るのも厭である。どうも暴風あらしが吹いて来てこの山の根の方を崩してしまひはすまいかと思はれてならない。僕はさういふ想像を抑制することをつとめてゐるのに、又してもその想像が起つてならない。自分で自分の理性に訴へて、自分で自分の勇気を鼓舞して、そこに坐つて遠方を見ることが出来るやうになるまでには余程時間が掛かつた。
 僕を連れて来た男がかう云つた。
「なんでも危ないといふやうな心持を無くしておしまひなさらなくてはいけません。わたくしの只今申したやうに、不思議な目に逢つた場所を、あなたが成るたけ好く一目にお見渡しなさることが出来るやうにと思ひまして、わたくしはこゝへあなたを御案内して参つたのでございます。あなたの現場を一目に見渡していらつしやる前で、わたくしはあなたにくはしいお話を致さうと思つて、こゝへ御案内いたしたのでございます。」
 この男は廻り遠い物の言ひやうをする男である。暫くしてこんな風に話し続けた。
「あなたとわたくしとは只今諾威ノルエイ国境くにざかひにゐるのでございます。北緯六十八度でございます。県の名はノルドランドと申します。郡はロフオツデンと申しまして陰気な土地でございます。あなたとわたくしとの登つてゐるいたゞきはヘルセツゲンといふ山の巓でございます。雲隠山くもがくれやまといふ仇名が付いてゐます。ちよつと伸び上がつて御覧なさいまし。若し眩暈めまひがなさいますやうなら、そこの草にしつかりつかまつて伸び上がつて御覧なさいまし。それで宜しうございます。このき下の所には、帯のやうな靄が掛かつてゐますが、その靄の向うを御覧になると海が広く見えてゐるのでございます。」
 僕は恐々おそる/\頭を上げて見た。広々とした大洋が向うの下の方に見える。その水はインクのやうに黒い色をしてゐる。僕は直ぐにヌビアの地学者の書いたものにあるマレ・テネブラルムを思ひ出した。「闇の海」を思ひ出した。人間が想像をどんなに逞くしてもこれより恐ろしい、これより慰藉のないパノラマを想像することは、出来ない。右を見ても左を見ても、目の力の届く限り恐ろしい陰気な、上から下へかぶさるやうな岩の列が立つてゐる。丁度人間世界の境の石でゞもあるやうに、境の塁壁でゞもあるやうに、その岩の列が立つてゐる。その岩組の陰気な性質が、激しく打ち寄せる波で、一層気味悪く見える。その波は昔から永遠に吠えて、どなつて、白い、怪物めいた波頭を立たせてゐるのである。
 丁度僕とその男との坐つてゐる岩端に向き合つて、五マイルか六哩位の沖に、小さい黒ずんだ島がある。打ち寄せる波頭の泡が八方からそれを取巻いてゐる。その波頭の白いので、黒ずんだ島が一際ひときは明かに見えてゐる。それから二哩ばかりをかの方へ寄つて、その島より小さい島がある。石の多い、恐ろしい不毛の地と見える。黒い岩の群が絶え絶えにその周囲に立つてゐる。
 遠い分の島から岸までの間の大洋の様子は、まるで尋常の海ではない。丁度眺めてゐる最ちゆうに海の方から陸の方へ向けて随分強い風が吹いてゐた。この風が強いので、島よりずつと先の沖を通つてゐる小舟が、帆を巻いて走つてをるのに、その船体が始終まるで水面から下へ隠れてゐるのが見えたのである。それなのに島から手前には尋常の海と違つて、ふくらんだ波の起伏が見えないのである。そこにもこゝにも、どつちとも向きを定めずに、水が短く、念に、怒つたやうに迸り上がつてゐるばかりである。中にはまるで風にさからつて動いてゐる所もある。泡は余り立たない。只岩のある近所だけに白い波頭が見えてゐる。
 その男がかう云つた。
「あの遠い分の島をこの国のものはウルグと申します。近い分の島をモスコエと申します。それから一哩程先に北に寄つてゐるアンバアレン群島があります。こちらの側にあるのがイスレエゼン、ホトホルム、ケイルドヘルム、スアルヱン、ブツクホルムでございます。それからモスコエとウルグとの間の所にあたつてオツテルホルム、フリイメン、サンドフレエゼン、ストツクホルムがございます。まあこんな風な名が一々付いてゐるのでございます。一体なんだつてあんな岩に一々名を付けたのだらうと考へて見ましても、どうもなぜだか分かりません。そら何か聞えますでございませう。それに水の様子が変つて来ましたのにお気が付きませんですか。」
 僕がその男とこのヘルセツゲンの巓へ、ロフオツデンの内側を登つて来てから、大約十分位も経つてゐるだらうか。登つて来る時には、海なんぞは少しも見えなくて、この巓に出ると、忽然こつぜん限りもなく広い海が目の前に横たはつてゐたのである。連の男が最後のことばを言つた時、僕にも気が付いた。なんだか鈍い、次第に強くなつて来る物音が聞えるのである。譬へて見ればアメリカのプレリイの広野で、ビユツフアロ牛の群がうめいたり、うなつたりするやうな物音である。
 その物音と同時に僕はこんな事に気が付いた。航海者が「跳る波」といふやうな波が今まで見えてゐたのに、忽然そこの水が激烈な潮流に変化して、非常な速度を以て西に向いて流れてゐるのである。見てゐるうちに、その速度が気味の悪いやうに加はつて、はげしくなる。一刹那一刹那に、その偉大な激動が加はつて来る。五分間も経つたかと思ふと、岸からウルグ島までの海が抑へられない憤怒ふんどの勢ひを以て、鞭打ち起された。中にもモスコエ島と岸との間の激動が最も甚しい。こゝでは恐ろしい広い間の水の床が、生創なまきずを拵へたり、瘢痕はんこんを結んだりして、数千条の互に怒つて切り合ふ溝のやうになるかと思ふと、忽然痙攣状に砕けてしまふ。がう/\鳴る。沸き立つ。ざわつく。渦巻く。無数の大きい渦巻になつて、普通は瀑布の外には見られないやうな水勢を以て、東へ流れて行くのである。
 又数分間すると、景色が全く一変した。水面は概して穏になつた。そして渦巻が一つ/\消えてしまつた。それに反して今までちつとも泡立つてゐなかつた所が、大きい帯のやうに泡立つて来た。この帯のやうなものが次第に八方に広がつて、食つ付き合つて、一旦消えてしまつた渦巻のやうな回旋状の運動を為始しはじめた。今までの渦巻より大きい渦巻を作らうとしてゐるらしい。
 忽然と云つても、そんな詞ではこの急激な有様を形容しにくい程、極端に急激に、水面がはつきりと際立つてゐる、大きい渦巻になつた。その直径が大約一哩以上もあるだらう。渦巻の縁の所は幅の広い帯のやうな、白く光る波頭になつてゐる。その癖その波頭の白い泡の一滴も、恐ろしい漏斗じやうごの中へ落ち込みはしない。漏斗の中は、目の届く限り、平らな、光る、墨のやうに黒い水の塀になつてゐる。それが水平面と四十五度の角度を形づくつてゐる。その塀のやうな水が、目の舞ふほどの速度で、気の狂つたやうにぐる/\めぐつてゐる。そして暴風あらしの音の劇しい中へ、この渦巻が自分の恐ろしい声を交ぜて、叫び吠えるのである。あのナイアガラの大瀑布が、死に迫る煩悶の声を天に届くやうに立てゝゐるのよりも、一層恐ろしい声をするのである。
 山全体も底から震えてゐる。岩も一つ/\震えてゐる。僕はぴつたり地面に腹這つて、顔が土に着くやうにしてゐて、神経の興奮が劇しい余りに、両手に草を握つてゐた。
 やう/\のことで僕は連の男に云つた。
「これが話に聞いたマルストロオムの大渦巻でなければ、外にマルストロオムといふものはあるまい。これがさうなのだらうね。」
 連の男が答へた。
「よその国の人のさういふのがこれでございますよ。わたくし共諾威人ノルエイじんは、あのモスコエ島の名を取つてモスコエストロオムと申します。」
 僕はこの渦巻の事を書いたものを見たことがあるが、実際目で見るのと、物に書いてあるのとは全く違ふ。ヨナス・ラムスの書いたものが、どれよりも綿密らしいが、その記事なんぞを読んだつて、この実際の状況に似寄つた想像は、とても浮かばない。その偉大な一面から見ても、又その恐るべき一面から見ても、さうである。又この未曾有みそうなもの、唯一なものが、覿面にそれを見てゐる人の心を、どんなに動かし狂はすかといふことも、とても想像せられまい。一体ヨナス・ラムスはどの地点からどんな時刻にこの渦巻を観察したのか知らない。兎に角決して暴風の最ちゆうにこのヘルセツゲンの山の巓から見たのではあるまい。併しあの記事の中に二三記憶して置いても好い事がある。とても実況に比べて見ては、お話にならないほど薄弱な文句ではあるが。
 その文句はかうである。
「ロフオツデンとモスコエとの中間は、水の深さ三十五ノツトより四十ノツトに至る。然るにウルグ島の方面に向ひては、その深さ次第に減じて、如何なる船舶もこの間を航すること難し。若し強ひてこの間を航するときは、その船舶は、如何なる平穏なる天候の日にても、巌石に触れて砕くる危険あるべし。満潮のときはロフオツデンとモスコエとの間の潮流非常なる速度を有す。又落潮の時はその響強烈にして、最も恐るべき、最も大なる瀑布の声といへども、これに及ばざるならん。その響は数里のほかに聞ゆ。渦巻は広く、水底は深くして、若し船舶その内に入るときは、必然の勢ひを以て渦巻の中心に陥り、巌石に触れて砕け滅ぶるならん。而して水勢衰ふる後に至りて、その船舶の砕片は始めて海面に投げ出ださるゝならん。斯くの如き海面の凪ぎは、潮の漲落の間に、天候平穏なる日に於いてこれを見る。その時間大約十五分間ばかりなるべし。この時間を経過して後、初めの如き水の激動再び起る。若し潮流最も劇しく、暴風あらしの力これを助長するときは、諾威国の哩数にて、渦巻の縁をること、一哩の点に船舶を進むるだに、甚だ危険なるべし。船舶の大小に拘はらず、戒心してこの潮流を避けざりしが為めに、不幸にしてその盤渦はんくわちゆうに巻き込まれて水底に引き入れられし証例少なからず。又鯨魚げいぎよのこの潮流に近づきて巻き込まれしことあり。そのとき鯨魚の潮流に反抗して逃れ去らんと欲し、叫び吠ゆる声は文字の得て形容する所にあらざりき。或るときはロフオツデンよりモスコエへ泳ぎ渡らんとしたる熊、この盤渦ちゆうに巻き入れられしことあり。その熊の叫ぶ声は岸まで明かに聞えたりといふ。松栢しようはく、その他の針葉樹、その内に巻き込まるゝときは、くだけ折れ、断片となりて浮び出づ。その断片は刷毛の如くにそゝけ立ちたるを見る。案ずるにこれこの所の海底鋸歯きよしの如き巌石より成れるが故に、その巌石の上をあちこち押し遣られし木片は、此の如くそゝけ立つならん。潮流は海潮の漲落に従ひて変ず。而してその一漲一落必ず六時間を費やす。千六百四十五年のセクサゲジマ日曜日の朝は潮流の猛烈なりしこと常に倍し、海岸の人家の壁より、石材脱け落ちたりといふ。」
 この本に水の深さの事が言つてあるが、著者はどうして渦巻の直き近所で、水の深さなんぞを測つたものと考へて、あんな事を書いたのだか分からない。三十五ノツトから四十ノツトまでの間といふのも、ロフオツデンの岸に近い所か、又は、モスコエの岸に近い処か、どちらかの海峡の一部分の深さに過ぎないのだらう。マルストロオムの中心の深さは、こんな尺度よりは余程深くなくてはならない。かういふのに別に証拠はいらない筈である。ヘルセツゲンの山の巓から渦巻の漏斗じやうごの底を、横に見下ろしたゞけでそれ丈の事は知れるのである。
 僕はヘルセツゲンの山の巓から、この吠えてゐるフレゲトン、あの古い言ひ伝へにある火の流れのやうなこの潮流を見下ろしたとき、覚えず愚直なヨナス・ラムス先生が、さも信用し難い事を書くらしい筆附きで、鯨や熊の話を書いた心持の、無邪気さ加減を想像して、笑ふまいと思つても、笑はずにはゐられないやうな心持がしたのである。僕の見た所では、仮令たとひ最も大きい戦闘艦でも、この恐ろしい引力の範囲内に這入つた以上は、丁度一片の鳥の羽が暴風あらしに吹きまくられるやうに、少しの抗抵をもすることなしに底へ引き入れられてしまつて、人も鼠も命を落さなくてはならないといふことが、知れ切つてゐるのである。
 この現象を説明しようと試みた人は色々ある。僕は嘗てその二三を読んで見て、成程さうもあらうかと思つたことがある。併し実際を見たときは、そんな説明が、どうも役に立たないやうに思つた。或る人はこんな風に説明してゐる。このマルストロオムの渦巻も、又フエルロエ群島の間にある、これより小さい三つの渦巻も、次のやうな原因で出来るのだといふのである。
かくの如き旋渦せんくわを生ずる所以ゆゑんならず。稜立かどだちたる巌壁の間に押し込まれたる水は、潮の漲落に際して屈折せられ、瀑布の如き勢ひをなして急下す。その波濤の相触るゝによりて、この渦巻は生ずるなり。潮は上ぼること愈々高ければ、その下だるや愈々深し。これ渦巻の漏斗状を成す所以なり。此の如き旋渦を成す水の、驚くべき吸引力を有するは、器に水を盛りて、小さき旋渦を生ぜしめて試験するときは、明白なり。」
 右の文章はエンサイクロペヂア・ブリタンニカに出てゐる。又キルヘルその他の学者は、マルストロオムの中心に穴があつて、その穴は全地球を貫いてゐて、反対の側の穴は、どこか遠い世界の部分にあいてゐるだらうといふのである。或る学者はその穴がボスニア湾だとはつきり云つてゐる。
 これは少し子供らしい想像であるが、実況を見たとき僕には却てこの想像が尤もらしく思はれた。僕は連の男にこの考を話して見た所が、意外にもその男はかう云つた。成程諾威では一般にさういふ説が行なはれてゐるが、自分はそんなことは信じないと云つたのである。それから最初の渦巻の出来る原因といふことに就いては、その男はまるで分からないと云つた。これには僕も同意する。紙の上で読んで見たときはもつともらしく思はれたが、この水底の雷霆らいていを聞きながら考へて見ると、そんな理窟は馬鹿らしくなつてしまふのである。
 連の男が云つた。
「渦巻の実況はこれで十分御覧になつたのでございませう。どうぞこの岩に付いて廻つて来て下さいまし。少し風のあたらない所がございます。そこなら、水の音も余程弱くなつて聞えて来ます。そこでわたくしが自分の経歴談をお聞かせ申したいのでございます。それをお聴きになつたなら、このモスコエストロオムのことを、わたくしが多少心得てゐる筈だといふわけが、あなたにもお分かりになるでございませう。」
 僕はその男の連れて行く所へ付いて行つて、しやがんだ。その男がこんな風に話し出した。
「わたくしと二人のきやうだいとで、前方まへかた大約七十噸ばかりの二本ほばしらの船を持つてゐました。その船に乗つて、わたくし共はモスコエを越して、向うのウルグ附近の島と島との間で、漁猟を致してゐました。一体波の激しく岩に打ち付ける所では漁の多いことがあるもので、只そんな所へ漕ぎ出す勇気さへあれば、人の収め得ない利益をも収め得ることが出来るものでございます。兎に角ロフオツデン沿岸の漁民は沢山ありますが、只今申した島々の間で、極まつて漁をするものは、わたくし共三人きやうだいの外にはございませんでした。普通の漁場れふばは、わたくし共の行く所よりずつと南に寄つた沖合なのでございます。そこまで行けば、いつでも危険を冒さずに、漁をすることが出来るので、誰でもまづその方へ出掛けるのでございます。併しわたくし共の行く岩の間で取れるうをは、種類が沖合より余程多くて、魚の数もやはり多いのでございます。どうか致すと、沖に行く臆病な人が一週間も掛かつて取るだけの魚を、わたくし共は一日に取つて帰りました。つまりわたくし共は山気やまぎのある為事しごとをしてゐたのでございますね。胆力を資本にして、性命を賭してやつてゐたといふわけでございますね。」
「大抵わたくし共は、こゝから五哩ほど上の入海のやうな所に船を留めてゐまして、天気の好いときに、潮の鎮まつてゐる十五分間を利用して、モスコエストロオムの海峡を、ずつと上の方で渡つてしまつて、オツテルホルムかサンドフレエゼンの近所の、波のひどくない所に行つて、錨を卸すのでございました。そこで海の又静になるのを待つて直ぐに錨を上げて、こちらへ帰つて参るのでございました。」
「併しこの往復を致しまするには、行くときも帰るときも、たしかに風が好いと見込んで致したのでございます。わたくし共の見込みは大抵外れたことはなかつたのでございます。六年ほどの間に一度ばかりは向うで錨を下ろしたまゝで一夜ひとよを明して漁をしたことがございました。それはこの辺で珍らしい凪ぎに出逢つたからでございます。それかと思ふと、一度は大約一週間ばかり、厭でも向うに泊つてゐなくてはならなかつたこともございます。そのときは、も少しで餓死する所でございました。それは向うへ着くや否や暴風あらしになりまして、なんと思つても海峡を渡つてこちらへ帰ることが出来なかつたのでございます。その帰つたときも、随分危なうございました。渦巻の影響がひどいので、錨を卸して置くわけに行かなくなりまして、も少しでどんなに骨を折つても沖の方へ押し流されてしまひさうでございました。為合しあはせな事には、丁度モスコエストロオムの潮流と反対した潮流に這入りました。さういふ潮流は暴風のときに、所々しよ/\に出来ますが、今日あるかと思へば明日なくなるといふ、頼みにならない潮流なのでございます。それに乗つて、わたくし共は幸にフリイメンのうちの、風のあたらない海岸へ、船を寄せることが出来たのでございます。」
「こんな風にお話を申しましても、わたくし共の出逢つた難儀の二十分の一をもお話しするわけには参りません。わたくし共の漁場の群島の間では、天気の好い時でも、安心してはゐられなかつたのでございます。併し或るときは、風の止んでゐる時間の計算を、一分ばかり誤つた為めに、動悸がのどの下までしたやうなことがありましても、兎に角わたくし共はモスコエストロオムの渦巻にだけは巻かれずに済んでゐたのでございます。どうか致すと、船を出す前に思つたより風が足りなくて、船が潮流に反抗することが出来にくゝなつて、船脚が次第に遅くなつて来るやうなときもございました。わたくし共の一番の兄は十八になる倅を持つてをります。わたくしも丈夫な息子を二人持つてをります。そこでそんな風に船脚が遅くなつたときは、あれを連れて来てゐたら、一しよに漕がせて、船脚を早めることも出来たのだらうにと思ひ思ひ致しました。そればかりではございません。向うに着いて漁を致すにも、子供が一しよに行つてゐれば、どんなに都合が好いか知れないのでございます。併しわたくし共は、自分達こそその漁場へ出掛けましたが、一度も子供等を連れて参つたことはございません。なぜと申しまするのに、兎に角その漁場に行くのは、一遍でも危険でないといふときはなかつたからでございます。」
「わたくしの只今お話を致さうと存じますることがあつてから、もう二三日で丁度三年目になるのでございます。千八百何十何年七月十日の事でございました。この所の漁民にあの日を覚えてゐないものはございますまい。開闢以来例しのない暴風あらしのあつた日でございますからね。その癖その日は午前一ぱい、それから午後に掛けても、始終穏かな西南の風が吹いてゐたのでございます。空は晴れて、日は照つてゐました。どんなに年功のある漁師でも、あの暴風ばかりは、始まつて来るまで知ることが出来なかつたのでございます。」
「わたくし共三人きやうだいは午後二時頃、いつもの漁場の群島の間に着きまして、船一ぱい魚を取りました。きやうだい達もわたくしも、どうもこんなに魚の取れることは今まで一度もなかつたと、不思議に思つてゐました。それからわたくしの時計で丁度七時に、錨を上げて帰らうと致しました。わたくし共の計算では、海峡の一番悪い所を八時に通る筈でございました。八時が一番海の静なときだと予測してゐたのでございます。」
「丁度好い風を受けて船を出してから、暫くの間は都合好く漕いで参ることが出来ました。危険な事があらうなんぞとは、夢にも思はなかつたのでございます。そんな事のありさうな徴候は一つもなかつたのでございます。」
「突然、妙な風が、ヘルセツゲンの上を越して、吹き卸して参りました。そんな風が吹くといふことは、それまで永年の間一度もなかつたのでございます。そこで、なぜといふことなしに、わたくしは少し不安に思ひ出しましたのでございます。わたくし共は風に向つて、漕いでゐましたが、どうも此様子では渦巻の影響を受けてゐる処を漕ぎ抜けるわけには行かなからうといふやうな心持がいたしました。わたくしは跡へ引き返す相談をしようと思つて、ふいと背後うしろを振り返つて見ますと、背後の方の空が、一面に赤銅のやうな色の雲で包まれてゐるのに気が付きました。その雲が非常な速度ではびこつて来るのでございます。」
「それと同時に、さつき変だと思つた、向うから吹く風が、ぱつたり無くなつてしまひました。まるでちりつぱ一つ動かないやうな凪ぎになつてしまひました。わたくし共はなんといふ思案も付かずに、船を漕いでをりました。この時間は短いので、思案を定めるだけの余裕はなかつたのでございます。一分とは立たない内に、ひどい暴風あらしになりました。二分とは立たない内に、空は一面に雲に覆はれてしまひました。その雲と波頭のしぶきとで、船の中は真暗になつて、きやうだい三人が顔を見交すことも出来ないやうになつたのでございます。」
「暴風なんぞといふものを、詞で形容しようといふことは、所詮出来ますまい。なんでも諾威ノルエイに今生きてゐるだけの漁師の内の、一番の年寄を連れて来て聞いて見ても、あの時のやうな暴風に逢つたものはないだらうと存じます。わたくし共は暴風の起つて来るとき、早速帆綱を解いてしまひました。併し初めの一吹の風で、二本の檣は鋸で引き切つたやうに折れてしまひました。大きい分の檣には、一番末の弟が、用心の為めに、綱で自分の体を縛り付けてゐたのでございますが、その弟は檣と一しよに飛んで行つてしまひました。」
「わたくし共の乗つてゐた船は、おほよそ海に乗り出す船といふ船の中で、一番軽い船であつたのだらうと思ひます。併しその船にはデツクが一面に張つてありまして、只一箇所舳の所に落し戸のやうにした所があつたばかりでございます。その戸を、海峡を越すとき、例の『跳る波』に出食はすと、締めるやうに致してゐたのでございます。このデツクがあつたので、わたくし共の船は直ぐに沈むといふことだけを免かれたのでございます。なぜと申しまするのに、暫くの間は、船体がまるで水を潜つてゐましたから、デツクが張り詰めてなかつたら、沈まずにはゐられなかつたわけなのでございます。その時わたくしの兄が助かつたのは、どうして助かつたのだか、わたくしには分かりません。わたくし自身は、前柱の帆を解き放すと一しよに、ぴつたり腹這つて、足を舳の狭い走板はしりいたにしつかりふんばつて、手では前柱の根に打つてあるくわんを一しよう懸命に握つてゐました。かうやつたのは只本能の働きでやつたのでございますが、考へて見る余裕があつたとしても、さうするより外にしやうはなかつたのでございます。勿論余り驚いたので、考へて見た上にどうするといふやうな余裕はなかつたのでございます。」
「さつきも申しました通り、数秒時間、わたくし共はまるで波を被つてをりました。わたくしは息をめて鐶に噛り付いてゐました。そこで、も少しで窒息しさうになりましたので、わたくしは手を放さずに膝を衝いて起き上がつて見ました。それでやつと頭だけが水の外に出ました。丁度そのとき船がごつくりと海面に押し出されるやうに浮きました。譬へて見れば、水に漬けられた狗が頭を水から出すやうな工合でございました。わたくしは気の遠くなつたのを出来るだけ取り直して、どうしたが好いといふ思案を極めようと思ひました。そのときわたくしの臂を握つたものがあります。それは兄きでございました。わたくしは、もうとつくの昔兄きは船から跳ね出されたものだと思つてゐましたから、この刹那にひどく嬉しく思ひました。併しその嬉しいと思つたのは、ほんの一刹那だけで、忽然わたくしの喜びは非常な恐怖に変じてしまひました。それは兄きがわたくしの耳に口を寄せて、只一言ひとこと『モスコエストロオム』と申したからでございます。」
「どんな人間だつて、わたくしのそのとき感じたやうな心持を、詞で言ひ現はすことは出来ますまい。丁度ひどい熱の発作のやうに、わたくしは頭のてつぺんから足の爪先まで、顫え上がりました。兄きがその一ごんで、何をわたくしに申したのだといふことが、わたくしには直ぐに分かつたからでございます。兄きの云つた一言は、風がわたくし共の船を押し流して、船が渦巻の方へ向いてゐるのだといふことでございます。」
「先刻もわたくしは申しましたが、モスコエの海峡を越すときには、わたくし共はいつでも渦巻よりずつと上の方を通るやうに致してをりました。仮令たとひどんな海の穏かなときでも、渦巻に近寄らないやうにといふ用心だけは、少しも怠つたことはございません。それに今は恐ろしい暴風に吹かれて、舟が渦巻の方へ押し流されてゐるのでございます。その刹那にわたくしは思ひました。兎に角時間が一番渦巻の静な時にあたつてゐるのだから、多少希望がないでもないと思ひました。併しさう思つてしまふと、その考の馬鹿気てゐることを悟らずにはゐられませんでした。もう希望なんぞといふ夢を見てはゐられない筈なのでございます。仮令乗つてゐるこの船が、大砲の九十門も備へてゐる軍艦であつたにしろ、これが砕けずに済む筈はないのでございます。」
「その内に暴風の最初の勢ひが少し挫けて来たやうに思はれました。それとも船が真直ぐに前に押し流されるので、風の勢ひを前ほど感じないやうになつたのかも知れません。兎に角今まで風の勢ひで平らに押し付けられて、泡立つてゐた海は、山のやうに高くふくらんで来ました。空の摸様も変にかはつて来ました。見えてゐる限りの空の周囲まはりが、どの方角もぐるりと墨のやうに真黒になつてゐまして、丁度わたくし共の頭の上の所に、まんまるに穴があいてゐます。その穴の所は、これまでつひぞ見たことのない、明るい、光沢つやのある藍色になつてゐまして、その又真中の所に、満月が明るく照つてゐるのでございます。その月の光で、わたくし共の身の周囲は何もかもはつきりと見えてゐます。併しその月の見せてくれる光景が、まあ、どんなものだつたと思召します。」
「わたくしは一二度兄きにものを申さうと存じました。併しどういふわけか、物音が非常に強くなつてゐまして、一しよう懸命兄きの耳に口を寄せてどなつて見ても、一言ひとことも向うへは聞えないのでございます。忽然兄きは頭をつて、死人のやうな顔色になりました。そして右の手の示指ひとさしゆびてゝわたくしに見せるのです。それが『気を付けろ』といふのだらうとわたくしには思はれたのでございます。」
「初めにはどう思つて兄きがさうしたか分からなかつたのでございます。そのうちなんとも云はれない、恐ろしい考が浮んで参りました。わたくしは隠しから時計を出して見ました。止まつてゐます。月明りに透かしてその針の止まつてゐる所を見て、わたくしは涙をばら/\とこぼして、その時計を海に投げ込んでしまひました。時計は七時に止まつてゐました。わたくし共は海の静な時を無駄に過してしまつて、渦巻は今真盛りになつてゐる時なのでございます。」
「一体船といふものは、細工が好く出来てゐて、道具が揃つてゐて、積荷が重過ぎるやうなことがなくて順風で走るときは、それに乗つてゐると波が船の下を後へ潜り抜けて行くやうに、思はれるものでございます。海に馴れない人が見ると、よくそれを不思議がるものでございます。船頭はさういふ風に船の行くとき、それを波に『乗る』と申します。これまではわたくし共はその波に乗つて参りました。所が、忽ち背後うしろから恐ろしい大きな波が来ました。船を持ち上げました。次第に高く/\持ち上げて、天までも持つて行かれるかと思ふやうでございました。波といふものが、こんなに高く立つことがあるといふことは、わたくし共も、そのときまで知らなかつたのでございます。さて登り詰めたかと思ふと、急に船が滑るやうな沈んで行くやうな運動を為始しはじめました。丁度夢で高い山から落ちる時のやうに、わたくしは眩暈めまひが致して胸が悪くなつて来ました。併し波の絶頂から下り掛かつた時に、わたくしはその辺の様子を一目に見渡すことが出来ました。一目に見たばかりではございますが、見るだけのことは十分見ました。一秒時間にわたくしは自分達の此時の境遇をすつかり見て取つたのでございます。モスコエストロオムの渦巻は大約四分の一哩ほど前に見えてゐました。その渦巻がいつも見るのとはまるで違つてゐて、言つて見れば、そのときの渦巻と今日の渦巻との比例は、今日の渦巻と水車の輪に水を引く為めに掘つた水溜との比例位なものでございます。若し船の居所を知らずに、これからどうなるかといふことを思はずに、あれを見ましたなら、その目に見えてゐるものが何物だか、分からなかつたかも知れません。所が、それが分かつてゐたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目をつぶりました。目を瞑つたといふよりは、※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたがひとりでに痙攣を起して閉ぢたといつた方が好いのでございます。」
「それから二分間も立つたかと思ひますと、波が軽くなつて船の周囲がしぶきで包まれてしまひました。そのとき船が急に取柁とりかぢの方へ半分ほど廻つて、いなづまのやうに早く、今までと変つた方角へ走り出しました。そのとき今までのどう/″\と鳴つてゐた水の音を打ち消すほど強く、しゆつしゆつといふやうな音が致しました。譬て見れば、蒸気の螺旋口ねぢぐちを千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すやうな音なのでございます。わたくし共は渦巻を取り巻いてゐる波頭の帯の所に乗り掛かつたのでございます。そのときの考では次の一刹那には、今恐ろしい速度で走つてゐますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸ひ込まれてしまふのだらうと思つたのでございます。そのときの船の走り加減といふものは妙でございました。まるで気泡の浮いてゐるのかなにかのやうに、船の底と水とが触れてゐないかと思ふやうに、飛ぶやうに走つてゐるのでございます。船の面柁おもかぢの方の背後うしろに、今まで船の浮んでゐた、別な海の世界が、高くなつて欹立そばだつてゐるのでございます。その別な海の世界は、取柁の所と水平線との中間に立つてゐる、恐ろしい、きざ/\のある壁のやうに見えるのでございます。」
「こんな事を申すと、可笑をかしいやうでございますが、わたくし共はもう渦巻の※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとに這入り掛かつてゐますので、今まで渦巻の方へ向いて、船の走つてゐたときよりは、腹が据わつて、落付いて来たのでございます。もう助からないと諦めてしまひましたので、今までどうならうかどうならうかと思つた恐怖の念がなくなつたのでございますね。どうも絶望の極度に達しますと、神経といふものにも、もうこれより強く刺戟せられることは出来ないといふ程度があるものと見えまして、却て落着も出て参るのでございますね。」
「かう申すと、法螺を吹くやうでございますが、全く本当の事でございます。わたくしはこんなことを考へました。かうして死ぬるのは実に強気がうぎな死にやうだと存じました。神のお定め下すつた、こんな運命に出逢つてゐて、自分一人の身の上の小利害なんぞを考へるのは、余り馬漉らしいことだと存じました。わたくしはなんでもさう思つたとき恥かしくなつて、顔を赧くしたかと存じます。」
「暫く致してわたくしは、一体この渦巻がどんなものだか知りたいと思ふ好奇心を起したのでございます。わたくしは自分の命を犠牲にして、この渦巻の深さを捜つて見たいと思ふ希望を、はつきり感じたのでございます。そこで、自分は今恐ろしい秘密を見る事が出来るのだが、それを帰つて行つて、岸の上に住んでゐる友達に話して聞かせることの出来ないのが、如何にも遺憾だと思ひました。今死ぬのだらうといふ人間の考としては、こんな考は無論不似合で可笑しいには違ひございません。跡で思つて見れば、渦巻の入口で、何遍も船がくる/\廻つたので、少し気が変になつてゐたかも知れません。」
「それにわたくしが気を落ち着けた原因が、今一つあるのでございます。これ迄うるさかつた風といふものが、今になつてはちつとも船に当らないのでございます。風はこゝまでは参りません。なぜといふにあなたも先刻御覧になつたやうに、渦巻の縁の波頭の帯は、あたりまへの海面よりは余程低いのでございます。あたりまへの海は高い、真黒な山の背の様に、背後うしろに立つてゐるのでございます。あなた方のやうに、海でひどい暴風あらしなんぞに逢つたことのないお方は、風があたつて波のしぶきを被せられるので、どの位気が狂ふものだといふことを、御存じないだらうと存じます。波のしぶきに包まれて物を見ることも、物を聞くことも出来なくなりますと、半分窒息し掛かるやうな心持になりまして、何を考へようにも、何をしようにも、気力が無くなつてしまふものでございます。さういふうるさい心持が、このときあらかた無くなつてしまつたのでございますね。譬へて見ますると、今迄牢屋に入れて置いて、どういふ処分になるか知れなかつた罪人に、愈々死刑を宣告してしまふと、役人も多少その人を楽な目に逢はせてやるやうにしますが、まあ、あんなものでございますね。」
「わたくし共は波頭の帯の所を何遍廻つたか知りません。なんでも一時間位は走つてゐました。滑るやうにといふよりは、飛ぶやうにといひたい位な走り方でございました。そして段々渦巻の中の方へ寄つて来まして、次第に恐ろしい内側の縁の所に近寄るのでございます。」
「この間わたくしは檣の根に打つてある鐶を掴んで放さずにゐました。兄きはデツクの艫の方にゐまして、舵の台に縛り付けた、小さい水樽のからになつてゐたのに、噛り付いてゐたのでございます。その水樽は、船が最初に暴風に打つ附かつたとき、船の中の物がみな浚つて行かれたのに、たつた一つ残つてゐたのでございますね。」
「そこで渦巻の内側の縁に近寄つて来ましたとき、兄きはその樽から手を放してしまつて、行きなり来てわたくしの掴んでゐる鐶を掴むのです。それが二人で掴んでゐられる程大い鐶ではないのでございます。兄きは死にもの狂ひになつて、その鐶を自分で取らうとして、それに掴まつてゐるわたくしの手を放させるやうにするのでございます。兄きがこんなことをしましたとき程、わたくしは悲しい心持をしたことはございません。無論兄きは恐ろしさに気が狂つてたことだとは知つてゐましたが、それでもわたくしはひどく悲しく思ひました。」
「併しわたくしはその鐶を兄きと争ふやうな気は少しも持つてゐなかつたのでございます。わたくしはそのとき、もうどこにつかまつてゐても同じことだと思つてゐたのでございます。そこで鐶を兄きに掴ませてしまつて、わたくしはデツクの艫の方へ這つて行つて樽につかまりました。そんな風に兄きと入り代るのは存外容易やさしうございました。勿論船は、渦巻が大きく湧き立つてゐる為めに、大きく揺れてはゐましたが、兎に角船は竜骨の方向に、頗る滑らかにすべつて行くのでございますから。」
「わたくしが、つと樽につかまつたと思ひますと、船は突然真逆様に渦巻の底の方へ引き入れられて行くやうに思はれました。わたくしは短い祈祷の詞を唱へまして、いよ/\これがおしまひだなと思ひました。」
「船が沈んで行くとき、わたくしはひどく気分が悪くなりましたので、無意識に今までより強く樽にしがみ付いて、目をねむつてゐました。数秒間の間は、今死ぬるか今死ぬるかと待つてゐて、目を開かずにゐました。所が、どうしても体が水に漬かつて窒息するやうな様子が見えて来ませんのでございます。幾秒も幾秒も立ちます。わたくしは依然として生きてゐるのでございます。落ちて行くといふ感じが無くなつて船の運動が、さつき波頭の帯の所を走つてゐたときと同じやうになつたらしく感じました。只違つてゐるのは、今度は今までよりも縦の方向が勝つて走るのでございます。わたくしはたんを据ゑて目を開いて周囲まはりの様子を見ました。」
「その時の恐ろしかつた事、気味の悪かつた事、それから感嘆した事は、わたくしは生涯忘れることが出来ません。船は不思議な力で抑留せられたやうに、沈んで行かうとする半途で、恐ろしく大きい、限りなく深い漏斗の内面の中間に引つ掛かつてゐるのでございます。若しこの漏斗の壁が目の廻るほどの速度で、動いてゐなかつたら、この漏斗の壁は、磨き立つた黒檀の板で張つてあるかとも思はれさうな位平らなものでございます。その平らな壁面が気味の悪い、目映い光を反射してをります。それはさつきお話し申した空のまんまるい雲の穴から、満月の光が、黄金こがねふるふやうにさして来て、真黒な壁を、上から下へ、一番下の底の所まで照してゐるからでございます。」
「初めはわたくしは気が変になつてゐて、くはしく周囲の様子を観察することが出来なかつたのでございます。初めは只気味の悪い偉大な全体の印象が意識に登つた丈であつたのでございます。其内に少し気が落ち着いて来ましたので、わたくしは見るともなしに渦巻の底の方を覗いて見ました。丁度船が漏斗の壁に引つ掛かつてゐる工合が、底の方を覗いて見るに、なんの障礙しやうがいもないやうな向になつてゐたのでございます。船は竜骨の向に平らに走つてゐます。と申しますのは、船のデツクと水面とは并行してゐるのでございます。併し水面は下へ向いて四十五度以上の斜な角度を作つてゐます。そこで船は殆ど鉛直な位置に保たれて走つてゐるのでございます。その癖そんな工合に走つてゐる船の中で、わたくしが手と足とで釣合を取つてゐますのは、平面の上にゐるのと大した相違はないのでございます。多分廻転してゐる速度が非常に大きいからでございませう。」
「月は漏斗の底の様子を自分の光で好く照らして見ようとでも思ふらしく、さし込んでゐますが、どうもわたくしにはその底の所がはつきり見えませんのでございます。なぜかと申しますると、漏斗の底の所には霧が立つてゐて、それが何もかも包んでゐるのでございます。その霧の上に実に美しい虹が見えてをります。回教徒ふい/\けうとの信ずる所に寄りますると、この世からあの世へ行く唯一の道は、狭い、揺らめく橋だといふことでございますが、丁度その橋のやうに美しい虹が霧の上に横はつてゐるのでございます。この霧このしぶきは疑もなく、恐ろしい水の壁面が漏斗の底で衝突するので出来るのでございませう。併しその霧の中から、天に向かつて立ち昇る恐ろしい叫声は、どうして出来るのか、わたくしにも分かりませんのでございました。」
「最初に波頭の帯の所から、一息に沈んで行つたときは斜な壁の大分の幅を下りたのでございますが、それからはその最初の割には船が底の方へ下だつて行かないのでございます。船は竪に下だつて行くよりは寧ろ横に輪をかいてゐます。それも平等な運動ではなくて、目まぐろしい衝突をしながら横に走るのでございます。或るときは百尺ばかりも進みます。又或るときは渦巻の全体を一週します。そんな風に、ゆる/\とではございますが、次第々々に底の方へ近寄つて行くことだけは、はつきり知れてゐるのでございます。」
「わたくしはこの流れてゐる黒檀の壁の広い沙漠の上で、周囲を見廻しましたとき、この渦巻に吸ひ寄せられて動いてゐるものが、わたくし共の船ばかりでないのに気が付きました。船よりかみの方にもしもの方にも壊れた船の板片やら、山から切り出した林木やら、生木の幹やら、その外色々な小さい物、家財、壊れた箱、桶、板なんぞが走つてゐます。そのときのわたくしが最初に恐ろしがつてゐたのと違つて、不思議な好奇心に駆られてゐたといふことは、さつきもお話し申した通りでございます。どうもその好奇心が漏斗の底へ吸ひ込まれる刹那が近づけば近づくほど、増長して来るやうでございました。そこで船と一しよに走つてゐる色々な品物を細かに注意して観察し始めました。そしてその品物が底のしぶきの中に落ち込むに、早いのもあり、又遅いのもあるといふところに気を着けて、その後れ先立つ有様を面白く思つて見てゐました。これも多分気が狂つてゐたからでございませう。ふいと気が付いて見れば、わたくしは心の中でこんな事を思つてゐたのでございますね。『きつとあの樅の木が、この次ぎに、あの恐ろしい底に巻き込まれて見えなくなつてしまふのだな』なんぞと思つてゐたのでございますね。それが間違がつて、樅の木より先に、和蘭オランダの商船の壊れたのが沈んでしまつたり何かするのでございます。」
「そんな風な工合に、色々予測をして見て、それが狂ふので、わたくしはとう/\或る事実を発見しました。つまり予測の誤りを修正して行つて、その事実に到達したのでございますね。その事実が分かると、わたくしの手足がぶる/″\と顫えて、心の臓がもう一遍劇しく波立つたのでございます。」
「この感動は今までより恐ろしい事を発見したからではございません。さうではなくつて、意外にも又一縷の希望が萌して来たからでございます。その希望は、わたくしの古くから持つてゐた記憶と、今目の前に見てゐる事とを思ひ合せた結果で、出て来たのでございます。その記憶といふのは、ロフオツデンの岸には、一旦モスコエストロオムの渦巻に巻き込まれて、又浮いて来た色々な品物が流れ寄ることがあつたのでございます。大抵その品物が珍らしく揉み潰され、磨り荒されてゐるのでございます。丁度刷毛のやうにけばだつてゐるのが多かつたのでございます。普通はさうであるのに、品物によつては、まるでいたんでゐないのもあつたのを思ひ出しました。そこでわたくしはかう考へました。これは揉み潰されるやうな分が、本当に渦巻の底へ巻き込まれたので、満足でゐるものは遅く渦巻に巻き込まれたか、又は外に理由があつて、まだ途ちゆうを走つてゐて、底まで行かないうちに、満潮にしろ干潮にしろ、海の様子が変つて来て、渦巻が止んでしまつて、巻き込まれずに済んだのではあるまいかと思つたのでございます。どちらにしても、早く本当の渦巻の底へ巻き込まれずに、そのまゝ浮いて来る品物もあるらしいといふことに気が付いたのでございます。」
「その外、わたくしは三つの重大な観察を致しました。第一は、なんでも物体が大きければ大きいだけ早く沈むといふことなのでございます。第二は二個の物体が同一の容積を持つてをりますと、球の形をしてゐるものが、他の形をしてゐるものよりも早く沈むといふことなんでございます。第三は同一の容積を持つてゐる二個の物体のうちで、その一個が円筒状をなしてゐますと、それが外の形をしてゐるものよりも沈みやうが遅いといふことなのでございます。わたくしは命が助かつた後に、わたくしの郡の学校の先生で、老人のお方がありましたのに、この事を話して見ました。わたくしが只今『球』だの『円筒』だのと申しますのは、そのとき先生に聞いた詞なのでございます。その先生が、わたくしの観察の結果を聞いて、なる程それは水に浮かんでゐる物体の渦巻に巻き込まれる難易の法則にかなつてゐるといふことを説明してくれましたが、また就中なかんづく円筒が外の形よりも巻き込まれにくいものだといふことを説明してくれましたが、その理由はもう忘れてしまひました。」
「そこでわたくしがさういふ観察をしまして、その観察の正しいことを自覚して、それを利用しようと致しますまでには、今一つの経験の助けを得たのでございます。それは漏斗の中を廻つて行くとき、船が桶や檣や帆掛棹ほかけざをの傍を通り抜けたことがございました。そんな品物が、あとから見れば、初めわたくしの船がその傍を通つた時と、余り変らない位置を保つてゐるといふことに気が付いたのでございます。」
「そこで現在の場合に処するにはどうしたが好いかといふことを考へるのは、頗る容易でございました。わたくしは今まで噛り付いてゐた水樽の繩を解いて、樽を船から放して、わたくしの体をその繩で水樽に縛り付けて、自分が樽と一しよに海へ飛び込んでしまはうと決心したのでございます。そこでその心持を兄きに知らせてやらうと思ひまして、近所に浮いてゐる桶なんぞに指ざしをして精一ぱい兄きの注意を惹き起さうと致しました。もう大抵分かつた筈だと思ひますのに、兄きはどうしたのだか首を振つて、わたくしに同意しない様子で、やはり一しよう懸命に檣の根の鐶に噛り付いてゐます。力づくで兄きにその鐶を放させようといふことは所詮不可能でございます。その上最早少しも猶予すべき場合ではないと思ひました。そこでわたくしは無論霊の上の苦戦を致した上で、兄きは兄きの運命に任せることゝ致しまして体を繩で樽に縛り付けまして、急いで海に飛び込みました。」
「その結果は全く予期した通りでございました。御覧のとほりわたくしはこんな風にあなたに自分で自分のことをお話し申すのでございます。あなたはわたくしがそのとき危難を免かれたといふことをお疑ひはなさらないのでございませう。そしてその免かれた方法も、もうこれでくはしく説明致したのでございますから、わたくしはこのお話を早く切り上げようと存じます。」
「わたくしが船から飛び込んでから、一時間ばかりも立つた時でございませう。さつきまでわたくしの乗つてゐた船は、遙か下の方で、忽然三度か四度か荒々しい廻転を致しまして、真逆様に混沌たるしぶきの中へ沈んで行つてしまひました。さてわたくしの体を縛り付けてゐる樽は、まだ海に飛び込んだときの壁面の高さと、漏斗の底との、丁度真中ほどにをりますとき、忽然渦巻の様子に大変動を来たしたのでございます。恐ろしい大漏斗の壁面が一分時間毎にその険しさを減じて来ます。渦巻の水の速度が次第々々に緩くなつて参ります。底の方に見えてゐたしぶきや虹が消えてしまひます。渦巻の底がゆる/\高まつて参ります。空は晴れて参ります。風は凪いで参ります。満月は輝きながら西に沈んで参ります。わたくしはロフオツデンの岸の見える所で、モスコエストロオムの渦巻の消え去つた跡の処より大分上手の方で、大洋の水面に浮き上がつてまゐりました。もうこの海峡の潮の鎮まるときになつたのでございます。併し海面は、暴風あらしの名残で、まだ小家位の浪が立つてゐるのでございます。わたくしは海峡の中の溝のやうな潮流に巻き込まれて、数分間の後に、岸辺に打ち寄せられました。漁師仲間がいつも船を寄せる所なのでございます。」
「わたくしは一つの船に助け上げられました。そのときはがつかり致して、もうなくなつた危険の記念に対して、限りのない恐怖を抱いてゐました。わたくしを船に救ひ上げた人達は、昔からの知り合で、毎日顔を見合つてゐる中であつたのに、その人達はわたくしの誰だといふことを認めることが出来ませんでした。丁度あの世から帰つて来た旅人に出逢つたやうな風でございました。その筈でございます。一日前まで墨のやうに黒かつたわたくしの髪が只今御覧なさるやうに真白になつてゐたのでございます。顔の表情もそのときまるで変つたのださうでございます。わたくしはその人達にこの経験談を致して聞かせました。併し誰も信じてくれるものはございませんでした。その経験談を只今あなたにも致したのでございます。多分あなたはロフオツデンの疑深い漁師とは違つて、幾分かわたくしの詞を信じて下さるだらうと存じます。」





底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「文藝倶楽部 一六ノ一一」
   1910(明治43)年8月1日
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2009年1月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について