名君忠之

夢野久作




       一

 この話の中に活躍する延寿国資えんじゅくにすけと、金剛兵衛盛高こんごうへえもりたかの二銘刀は東京の愛剣家、杉山其日庵氏の秘蔵となって現存している。従ってこの話は、黒田藩に起った事実を脚色したものであるが、しかし人名、町名と時代は差障さしさわりがあるから仮作にしておいた。あしからず諒恕りょうじょして頂きたい。

不埒ふらちな奴……すぐに与九郎の家禄を取上げて追放せい。薩州の家来になれと言うて国境からたたき放せ。よいか。申付けたぞ」
 数本の桜の大樹が、美事に返咲きしている奥庭の広縁に、筑前藩主、黒田忠之ただゆき丹前たんぜん、庭下駄のまま腰を掛けていた。同じ縁側の遥か下手に平伏している大目付役、尾藤内記びとうないき胡麻塩ごましお頭を睨み付けていた。側女そばめを連れて散歩に出かけるところらしかった。
 かみしも姿の尾藤内記は、素長すながい顔を真青にしたまま忠之の眼の色を仰ぎ見た。そうして前よりも一層低く頭を板張りに近付けた。
「ハハッ。御意ぎょいには御座りまするが……御言葉を返すは、恐れ多うは御座りまするが、何卒なにとぞ、格別の御憐憫をもちましてお眼こぼしの程……薩藩への聞こえも如何いかがかと存じますれば……」
「……ナニッ……何と言う……」
 忠之の両のこぶし黄八丈きはちじょうの膝の上でピリピリとおののいた。庭先に立並んでいた側女たちがハッと顔を見合わせた。忠之が癇癖を起すと、アトで両の拳を自分で開き得ないで、女共に指を揉み柔らげさせて開かせる。それ程に烈しい癇癖が今起りかけている事を察したからであった。
「タ……タワケ奴がッ。島津が何とした。他藩の武士を断りもなく恩寵して、晴れがましく褒美ほうびなんどと……余を踏み付けに致したも同然じゃ。仕儀によっては与九郎奴を、肥後、薩摩の境い目まで引っ立てて討ち放せ。その趣意を捨札すてふだにして、あすこに晒首さらしくびにして参れ。他藩主の恩賞なんどを無作むさと懐中に入れるような奴は謀反、裏切者と同然の奴じゃ。天亀、天正の昔も今と同じ事じゃ。わかったか」
「ハハ。一々御尤ごもっとも……」
「肥後殿もしゅうははかろうまい。薩藩とは犬と猿同然の仲じゃけにの……即刻に取計とりはからえ……」
「ハハ。追放……追放致しまする。追放……あり難き仕合わせ……」
「ウム。塙代ばんだい与九郎奴は切腹も許さぬぞ。万一切腹しおったらその方の落度ぞ。不埒な奴じゃ。黒田武士の名折れじゃ。屹度きっと申付けて向後こうごの見せしめにせい。心得たか。……立てッ……」
 戦国武士の血を多分にけ継いでいる忠之は、芥屋けや石の沓脱台くつぬぎに庭下駄を踏み鳴らして癇をたかぶらせた。成行によっては薩州と一出入り仕兼ねまじき決心が、その切れ上ったまなじりに見えた。お庭に立並んでいた寵妾おひでの方を初め五六人の腰元が固唾かたずをのんで立ちすくんだ。
 とたんに御本丸から吹きおろす大体ねおろしに、返咲きの桜が真白く、お庭一面に散乱した。言い知れぬ殺気が四隣あたりに満ち満ちた。
 この上は取做とりなせば取做すほど語気が烈しくなる主君の気象を知り抜いている大目付役、尾藤内記は、慌しくスルスルと退いた。すぐにも下城しそうな足取りで、おつぼねを出たが、しかし、お局外の長廊下を大書院へ近づくうちに次第次第に歩度がゆるんで、うなだれて、両腕を組んだ。思案に暮れるていでシオシオとお屏風のまで来た。
「何事で御座った。大目付殿……」
 お納戸頭なんどがしらふち金右衛門という老人が待兼ねておったように大屏風の蔭から立現たちあらわれた。
「おお。御老人……」
 と内記は助船たすけぶねに出会うたように顔を上げた。ホッと溜息をした。
「よいところへ……ちょっとこちらへ御足労を……少々内談が御座る。折入ってな……」
「内談とは……」
「御老体のお知恵が拝借したい」
「これは改まった……御貴殿の御分別は城内一と……ハハ……追従ついしょうでは御座らぬ。それに上越うえこす知恵なぞはトテモ拙者に……ハハ……」
「仰せられな。コレコレ坊主、茶を持て……」
 二人は宿直とのいの間の畳廊下へ向い合った。百舌鳥もずの声がやかましい程城内に交錯している。
 お坊主が二人して座布団と煎茶を捧げ持って来た。淵老人が扇を膝に突いた。
「して何事で御座る」
 尾藤内記は又腕を組んだ。
「余の儀でも御座らぬ。御承知の塙代与九郎昌秋まさあきのう」
「ハハ……あの薩州拝みの……」
「シッ……その事じゃ。あの増長者奴のぼせめが、一昨年の夏、あの宗像むなかた大島の島司とうしになっているうちに、朝鮮通いの薩州藩の難船を助けて、船つくろいをさせた上に、病人どもを手厚う介抱して帰らせたという……な……」
左様左様さようさよう。その船は実をいうと禁断のオロシャ通いで、表向きに世話すると八釜やかましいげなが……」
「ソレじゃ。そこでその謝礼とあって今年の春の事、薩州から内密に大島の塙代の家へ船を廻して、莫大もない金銀と、延寿国資の銘刀と、薩摩焼御紋入りのギヤマンのお茶器なんどいう大層な物を、御使者の手から直々じきじきに塙代与九郎へ賜わったという話な……御存じじゃろうが」
「存じませいでか。与九郎はこれが大自慢でチト性根が狂うとるという話も存じておりまする。つまりその薩州小判で、蓮池の自宅の奥に数寄すきらいた茶室を造って、お八代に七代とかいう姉妹の遊女を知行所の娘といつわって、めかけにして引籠もり、菖蒲しょうぶのお節句にも病気と称して殿の御機嫌を伺わなんだ。馬術の門弟もちりぢりになって散々の体裁ていたらくじゃ。のみならず出会う人ごとに、薩州は大藩じゃ。違うたもんじゃ違うたもんじゃとギヤマン茶碗や、延寿の刀や、姉妹の妾を見せびらかして吹聴致しているので皆、顔を背向そむけている。あのような奴は藩の恥辱じゃから討って棄てようか……なぞと、部屋住みの若い者の中にはイキリ立つ者も在るげで御座るが、何にせいかの与九郎はモウ白髪頭ではあるが、一刀流の自信の者じゃで、皆二の足を踏んでいる……というモッパラの評判で御座るてや」
「フーム。よう御存じじゃのう。塙代がソレ程のタワケ者とは知らなんだ。遊女を妾にしている事や、家中の若い者の腹構えがそれ程とは夢にも……」
「アハハハ。左様さような立入った詮議は大目付殿のお耳にはかえって這入らぬものじゃでのう。……して今日のお召はその事で……」
「まったくその事で御座る。番座限ここまでのお話で御座るが……」
「心得ました。八幡口外はつかまつらぬ」
かたじけのう御座る。おおかたお側のはしたどもの噂からお耳に入ったことと思うが、殿の仰せには、薩藩から余に一言の会釈もせいで、黒田藩士に直々じきじきの恩賞沙汰は、この忠之を眼中に置かぬ島津の無礼じゃ。又、塙代奴が余の許しも受けいで、無作むさと他藩の恩賞を受けるとは不埒千万。不得心ふとくしんこの上もない奴じゃ。棄ておいては当藩の示しにならぬ。家禄を召上げて追放せい。切腹も許さぬ……という厳しい御沙汰じゃが……」
「それは殿のお言葉が、恐れながら順当で御座ろう。とやかく申しても当、上様は御名君のう。天晴あっぱれな御意……申分御座らぬ……」
 尾藤内記は唖然となった。長い顔を一層長くした。玄翁げんのうで打っても潰れそうにない淵老人の頑固づらを凝視した。

       二

「……これは如何いかがなこと……御老人までがその連れでは拙者、立つ瀬が御座らぬ。塙代与九郎の家は三百五十石、馬廻うままわりの小禄とは申せ、先代与五兵衛尉よごへいのじょうが、禁裡馬術の名誉以来、当藩馬術の指南番として、太刀折紙たちおりがみの礼を許されている大組格おおくみかくの名家じゃ。取潰すとあれば親類縁者が一騒動起すであろう」
「イヤ。大騒動を起させるがう御座ろう。かえって見せしめになりましょうぞ」
「いかなこと。殿の御意もそこで御座る」
「さればこそ。結構な御意……我君は御名君。老人、胸がスウーッと致した。早々与九郎を追放されませい」
「ささ。それが左様さよう手軽には参らぬ。与九郎奴の追放は薩藩への面当つらあてにも相成るでな」
「イヨイヨ面白いでは御座らぬか。この頃のように泰平が続いては自然お納戸の算盤そろばんが立ち兼ねて参りまする。ドサクサ紛れに今二三十万石、どこからか切取らねばこのお城の馬糧かいばに足らぬ。手柄があっても加増も出来ぬとあれば、当藩士の意気組は腐るばっかり。武芸出精しゅっせいの張合が御座らぬ。主君の御癇癖もたかまるばっかり……取潰し結構。弓矢出入り尚更なおさら結構……塙代与九郎を槍玉に挙げて、薩州のオロシャ交易をあばき立てたなら、関ヶ原以来睨まれている島津の百万石じゃ。九州一円が引っくり返るような騒動になろうやら知れぬ。そうなったら島津の取潰し役は差詰め肥後で、肥後の後詰は筑前じゃ。主君とのの御本心もそこに存する事必定じゃ。どっちに転んでも損は無い。……この老人の算盤は、文禄、慶長の生残りでな。チィット手荒いかも知れぬが……ハッハッ……」
 尾藤内記は苦り切って差しうつむいた。独り言のように溜息まじりにつぶやいた。
「それが左様参れば面白いがのう。ここに一つ、面白うない事が御座るて……」
「フーム。塙代与九郎奴は大目付殿の御縁辺えんへんでも御座りまするかの……言葉が過ぎたら御免下されいじゃが」
「イヤイヤ。縁辺なら尚更厳しゅう取計らわねばならぬ役目柄じゃが」
「赤面の至り……では何か公辺の仔細でも……」
「……それじゃ……それそれ。ずお耳を貸されい。の……これは又してもお納戸金をせびるのでは御座らぬが、この頃の手前役柄の入費が尋常でない事は、最早もはやお察しで御座ろうの……」
「察しませぬでか。不審千万に存じておりまする」
「御不審御尤も……実は江戸からチラチラと隠密が入込んでおりまする」
「ゲエッ……早や来ておりまするか」
「シイッ……黒封印(極秘密)で御座るぞ。……主君とのの御気象が、大公儀へは余程、大袈裟に聞こえていると見えてのう。この程、大阪乞食の傀儡師くぐつまわしや江戸のヨカヨカ飴屋、越後方言より蚊帳かちょう売りなぞに変化へんげして、大公儀の隠密が入込みおる。城内の様子を探りおる……という目明し共の取沙汰じゃ。コチラも抜からず足を付けて見張らせている。イザとなれば一人洩らさず大濠おおほり溺殺ふしづけにする手配りを致しているがのう……油断も隙もならぬ。名君、勇君とあれば、御連枝ごれんしでも構わず取潰すが、三代以後の大公儀の目安(方針)らしい。尤も島津は太閤様以来栄螺さざえの蓋を固めて、指一本指させぬ天険に隠れておるけに、徳川も諦めておろう。……されば九州で危いのはまず黒田と細川(熊本)であろう……と備後びんご殿(栗山)も美作みまさか殿(黒田)も吾儕われらに仰せ聞けられたでのう。そのような折柄に、左様な申立てで塙代奴を取潰いて、薩州と事を構えたならば却って手火事を焼き出そうやら知れぬ。どのように間違うた尾鰭おひれが付いて、どのような片手落の御沙汰が大公儀から下ろうやら知れぬ。それが主君とのの御癇癖に触れる。大公儀の御沙汰に当藩が承服せぬとなったら、そこがそのまま大公儀の付け目じゃ。越前宰相殿、駿河大納言殿の先例も近いこと。千丈の堤もあり一穴いっけつから……他所事よそごとでは御座らぬわい。拙者の苦労は、その一つで御座る」
「フーム。いかにものう」
 と淵老人も流石さすがに腕を組んで考え込んだ。青菜に塩をかけたようになって嘆息した。
「成る程のう。そこまでは気付かなんだ。……しかし主君とのはその辺に、お気が付かせられておりまするかのう」
「御存じないかも知れぬが、申上げても同じ事じゃろう」
「ホホオ。それは又、何故なにゆえに……」
「余が家来を余が処置するに、何の不思議がある。……黒田忠之を、生命惜しさに首を縮めている他所よその亀の子大名と一列とばし了簡りょうけん違いすな……。そのような立ち入ったとがめ立てするならば、明国、韓国、島津に対する九州の押え大名は、こちらから御免をこうむる。龍造寺、大友の末路を学ぶとも、天下のせいを引受けて一戦してみようと仰せられる事は必定じゃ。大体、主君とのの御不満の底にはソレがわだかまっておるでのう。その武勇の御望みが、御一代押え通せるか、通せぬかが当藩の運命のわかれ道……」
「言語道断……そのような事になっては一大事じゃ。ハテ。何としたもので御座ろう」
「さればこそ、先程よりお尋ね申すのじゃ。よいお知恵は御座らぬか」
「御座らぬ」
 と淵老人はアッサリ頭を振った。
「お気に入りの倉八くらはち殿(十太夫)に御取りなしを御願いするほかにはのう」
 内記は片目を閉じてニヤリ笑い出しながら、頭をゆるやかに左右に振った。老人もニヤリと冷笑して頭を掻いた。倉八十太夫も、お秀の方も、殿の御気に逆らうような事は絶対にし得ない事を知っている二人は、今更のように眼を白くしてうなずき合った。
 かすかな溜息が二人の顔を暗くした。城内の百舌もずの声がひとしきり八釜やかましくなった。
「五十五万石の中にこれ以上の知恵の出るところは無いからのう」
「吾々如きがお納戸役ではのう」
「今の塙代与九郎は隠居で御座ったの」
 と尾藤内記は突然に話題を改めた。
「さようさよう。とおり町の西村家から養子に参って只今隠居しておりまするが、伜の与十郎夫婦は、いずれも早世致して、只今は取って十三か四に相成る孫の与一が家督致しておりまする。采配は申す迄もなく祖父の与九郎が握っておりましょうが、孫の与一も小柄では御座るがナカナカの発明で、四書五経の素読そどくが八歳の時に相済み、大坪流の馬術、揚真流の居合なんど、免許同然の美事なもの……祖父の与九郎が大自慢という取沙汰で御座りまする」
「ウーム。惜しい事で御座るのう。その与九郎の里方、西村家の者で、与九郎の不行跡をいさめる者は居りませぬかのう」
「西村家は大組千二百石で御座るが、一家揃うての好人物でのう。手はよく書くので評判じゃが」
「ハハハ。武士に文字は要らぬもので御座るのう。このような場合……」
「その事で御座る。しかし与九郎が不行跡を改めましたならば、助ける御工夫が御座りまするかの。大目付殿に……」
「さよう。与九郎が妾どもをい出して、見違えるほど謹しんだならば、今一度、御前体ごぜんてい取做とりなよすがになるかも知れぬが……しかし殿の御景色おけしきがこう早急ではのう」
「さればで御座るのう……御役目の御難儀、お察し申しまするわい」
「申上げます。アノ申上げます」
 とお茶坊主が慌しく二人の前に手を突いた。眼をマン丸くして青くなっていた。
「殿様よりの御諚ごじょうで御座ります。尾藤様は最早もはや、御退出になりましたか見て参れとの御諚で……」
 二人は苦い顔を見合わせた。
「ウム。よく申し聞けた。いずれ褒美取らするぞ。心利いた奴じゃ」
 と言ううちに尾藤内記はソソクサと立上った。
「アノ……何と申上げましょうか」
「ウム。先刻退出したと申上げてくれい」
「かしこまりました」
 お坊主がバタバタと走って大書院の奥へ消えた。
「……まずこの通りで御座る。殿の御性急には困り入る。すぐに処分をしに行かねば、お気に入らぬでのう」
「大目付殿ジカに与九郎へ申渡されますか」
「イヤ。とりあえず里方西村家へこの事を申入れていさめさせる。諫めを用いぬ時には追放と達したならば、如何な与九郎もと縮みで御座ろう。万事はその上で申聞ける所存じゃ。……手ぬるいとお叱りを受けるかも知れぬが、所詮、覚悟の前で御座る。ハハハ」
「大目付殿の御慈悲……家中の者も感佩かんぱい仕るで御座ろう。その御心中がわからぬ与九郎でも御座るまいが……」
 淵老人は眼をしばたたいた。
「イヤ。太平の御代みよとは申せ、お互いも油断なりませぬでの。つまるところは、お家安泰のためじゃ」
 尾藤内記はヤット覚悟を定めたらしく、如何にも器量人らしい一言を残して颯爽さっそうと大玄関に出た。
「大目付殿……お立ちイイ……」
「コレッ……ひそかにッ……」
 と尾藤内記は狼狽してお茶坊主を睨み付けた。お徒歩侍かちざむらい、目明し、草履取ぞうりとり、槍持、御用箱なんどがバラバラと走って来て式台に平伏した。

       三

「アッハッハッハッ。面白い面白い」
 酒気を帯びた塙代与九郎昌秋は二十畳の座敷のマン中で、傍若無人の哄笑を爆発さした。通町の大西村と呼ばれた千二百石取の本座敷で、大目付の内達によって催された塙代家一統の一族評定の席上である。
「ハハア。素行を改めねば追放という御沙汰か。薩藩の恩賞を貰うたが、お上の気に入らぬか。面白い……出て行こう。……黒田の殿様は如水公以来、気の狭い血統じゃ。名誉の武士は居付かぬ慣わしじゃ。又兵衛基次の先例もある。出て行こう。三百や五百の知行に未練はないわい。アッハッハッハッハッ……」
 真赤になって怒号し続ける与九郎昌秋の額には、青い筋が竜のように盛上って、白い両鬢りょうびんに走り込んでいた。左手には薩州から拝領の延寿国資の大刀……右手には最愛の孫、与一昌純まさずみの手首をシッカリと握って、居丈高の片膝を立てていた。
 並居る西村、塙代両家の縁家の面々は皆、顔色を失っていた。これ程の放言を黙って聞き流した事が万に一つも主君忠之公のお耳に達したならば、どのように恐ろしいお咎めが来る事かと思うと、生きた空もない思いをしているらしく見えた。
「面白い。一言申残しておくが、吾儕われらいたずらに女色に溺れる腐れ武士ではないぞ。馬術の名誉のために、大島の馬牧うままきを預ったものじゃ。薩州から良い種馬を仕入れたいばかりに、島津家と直々じきじき交際つきあいをしたものじゃ。大名の島津と、黒田の家来格の者が対等の交際をするならば黒田藩の名誉でこそあれ。ハッハッ、それ程の器量の武士さむらいが又と二人当藩におるかおらぬか。それを賞めでもする事か、咎め立てするとは心外千万な主君じゃ。しかもそのお咎めを諫めもせずに、オメオメと承って来る大目付も大目付じゃ。当藩に武辺の心懸の者はらんと見える。見離されても名残りはないと云うておこうか。御一統の御小言は昌秋お受け出来ませぬわい。ハッハッハッハッ……」
「……………」
「塙代家の禁裡馬術の名誉は薩藩にも聞こえている筈じゃ。身共と孫の扶持に事は欠くまい。薩州は大藩じゃからのう。三百石や五百石では恩にも着せまいてや。ハッハッハッ。大坪本流の馬術も当藩には残らぬ事になろうが、ハッハッハッ。コレ与一……薩州へ行こうのう。薩州は馬の本場じゃ。見事な馬ばかりじゃからのう。乗りに行こうて……のう。自宅うち鹿毛かげと青にその方の好きなあの金覆輪きんぷくりんの鞍置いて飛ばすれば、続く追っ手は当藩にはらぬ筈じゃ。明後日の今頃は三太郎峠を越えておろうぞ……サ……行こう……立たぬか……コレ与一……立てと言うに……」
 六尺豊かの与九郎に引っ立てられながら、孫の与一は立とうともしなかった。紋付の袖を顔に当ててシクシクとシャクリ上げていた。
「……ヤア……そちは泣いておるな。ハハ。福岡を去るのが、それ程に名残り惜しいか。フフ。小供じゃのう。四書五経の素読は済んでも武士の意気地は解らぬと見える。ハハ」
「……………」
「……コレ……祖父の命令いいつけじゃ。立たぬか。伯父様や伯母様方に御暇おいとま乞いをせぬか。今生こんじょうのお別れをせぬか。万一このもつれによって、黒田と島津の手切れにも相成れば弓矢の間にお眼にかかるかも知れぬと、今のうちに御挨拶をしておかぬか、ハッハッハッ。立て立て……。サッ……立ていッ……」
 大力の昌秋に引っ立てられて、与一はバッタリと横倒しになりながら片手を突いた。恨めしげに祖父の顔を見上げたが、唇をキッと噛むと、ムックリと起き直って、手強く祖父の手を振りほどいた。と立上ってバラバラとお縁側から庭先へ飛び降りた。肩上の付いた紋服、小倉の馬乗袴うまのりばかま、小さな白足袋が、山茶花さざんかの植込みの間に消え込んだ。
「コレッ。与一どこへ行く」
 と祖父の昌秋が、縁側に走り出た時、与一はもう、足袋跣足はだしのまま西村家裏手のうまやへ駈け込んでいた。
「ヤレ坊様ぼんさま……あぶない……」
 と抱き止めにかかる厩仲間ちゅうげんを、
「エイッ……」
 とと当て、十三四とは思えぬこぶしの冴えに水月みずおちを詰められて、屈強の仲間がウムムと尻餅を突いた。その隙に藁庖丁の上に懸けて在る手綱を外して、馬塞棒ませぼうの下を潜って、驚く赤馬をドウドウと制しながら、眼にも止まらぬ早業でくつわを噛ませた。馬塞棒ませぼうを取払って、裸馬へヒラリと飛乗ると、頭を下げながら手綱みじかにドウドウドウドウと厩を出た。裏庭から横露地を玄関前へタッタッタッと乗出して、往来へ出るや否や左へ一曲り、
「ハヨ――ッ」
 と言う子供声、高やかに、早や蹄の音も聞こえなくなってしまった。

       四

 お城の南、追廻おいまわし門、汐見やぐらを包む大森林と、深い、広い蓮堀を隔てた馬場先、蓮池、六本松、大体山の一帯は青い空の下に向い合ってはぜかえで、紅葉の色を競っていた。
 その蓮池の山蔭やまかげ。塙代与九郎宅の奥庭、落葉らくようを一パイに沈めた泉水に近く、樫と赤松に囲まれた離れ座敷は、広島風の能古萱葺のこかやぶき網代あじろの杉天井、真竹まだけ瓦の四方縁、茶室好みの水口を揃えて、青銅の釣燈籠、高取焼大手水鉢の配りなぞ、数寄者を驚かすった一構え……如何にも三百五十石の馬廻うままわり格には過ぎた風情ふぜいであった。
 その西側の細骨障子には黄色い夕陽が長閑のどかに、一パイにあたっていた。ピッタリと閉切しめきったその障子の内側の黒檀縁こくたんぶちの炉のそばに、花鳥模様の長崎毛氈もうせんを敷いて、二人の若い女が、白い、ふくよかな両脚を長々と投出しながら、ギヤマンの切子鉢に盛上げた無花果いちじくしゃぶっていた。二人とも御守殿風の長笄ながこうがいを横すじかいにくずし傾けて、緋緞子ひどんす揃いの長襦袢の襟元を乳の下まで白々とはだけたダラシなさ。最前から欠伸あくびを繰返し繰返し不承不承に口を動かしている風情であった。ほの暗い奥の十畳の座敷には、昨夜ゆうべのままの夜具が乱れ重なって、その向うの開き放した四尺えんには、行燈、茶器、杯盤などが狼藉と押し出されている。
わたし……何やら胸騒ぎがする」
 と年上のお八代が、気弱らしく起直って、露わな乳の下へを当てた。二十二三であろうか。ボッチャリした下あごに襟化粧が残って、唇が爛れたようにあかい。
「きょうはぬくいけになあ」
 妹の七代は仰向あおむけに長くなったまま振向いた。十八九であろうか。キリキリとした目鼻立ち、肉付きである。
「いいえ。今がた早馬の音が涼松すずまつの方から聞こえたけに……」
「どこかの若殿の責め馬で御座んしょ」
「いいえ。あたしゃ、きょうのお出ましが気にかかってならぬ」
「ホホ。姉さんとした事が。考えたとてどうなろうか。……おおかた妾たちを追い出せというような、親戚がたの寄合いでがな御座んしょう……ホホ……」
「ほんにお前は気の強い人……」
「……妾たちの知った事じゃ御座んせぬもの。それじゃけに事が八釜やかましゅうなれば、わたし達を連れて薩州へ退いて見せると、大殿は言い御座ったけになあ」
「あれは真実ほんとな事じゃろうかなあ、七代さん」
「大殿の御気象ならヨウわかっとります。云うた事は後へ退かっしゃれんけになあ」
稚殿ちいどのも連れて行かっしゃろうなあ。その時は……なあ……」
「オホホ。姉さんていうたら何につけにつけ稚殿ちいどのの事ばっかり……」
「笑いなんな。あたし達の行末が、どうなる事かと思うとなあ。タッタ一度でえけに、あげな可愛い若殿をばシッカリと抱いて寝てみたいと思うわいな。そう思うとわたしゃ胸騒ぎがするわいな」
「ホホホホホホホ。姉さんのいやらしさ。まあだ十四ではないかな。与一よっちゃまは……」
「いいえ。色恋ではないわいな。わたしゃシンカラ与一よっちゃんが可愛いとしゅうて可愛いとしゅうて……」
「オホホホホ。可笑おかしい可笑しい。ハハハハ……」
「ようと笑いなさい。色恋かも知れん。年寄のおりばっかりしとると若い人が恋しゅうなる。子供でもよい。なあ七代さん。ホホホ……」
「ホホホホ。ハハハハ。アハハハハハハハ」
 二人の女が他愛もなく笑い転げている真正面の細骨障子に、音もなく小さな人影がした。脇差をひっさげた与一の前髪姿であった。
「まあ。与一よっちゃま。噂をすれば影……」
 と七代が頬をパッとそめて起き上りながら、障子を引き明けた。そこにはびんも前髪もバラバラに乱した与一昌純が、袴の股立ももだちを取って突立っていた。塙代家の家宝、銀ごしらえ、金剛兵衛盛高こんごうへえもりたか、一尺四寸の小刀をひっさげて、泥足袋のまま茫然と眼を据えていた。
「アレ。与一よっちゃま。どうなされました」
 とお八代がしどけない姿のまま走り寄ったが、その間髪をれず……
「小母様……御免ッ……」
 と叫ぶ与一の声と共に、眩しい西日の中で白い冷たい虹がひるがえった。はだかったマン丸いお八代の右肩へ、抜討ちにズッカリと斬り込んだ。血飛沫ちしぶきが障子一面に飛んで、白い乳のたまがトロトロと紅い網に包まれた。
「ア――ッ」
 とお八代がはらわたの底から出る断末魔の声を引いた。そのまま、
「……与一よっちゃまアッ……」
 と抱き付こうとする胸元を、一歩退しりぞいた与一がズップリと一刺し。
「……ヨ……よっちゃまアアアア……」
 と虫の息になったお八代はバッタリと横たおしになった。
 七代はしかし声も立てなかった。身を翻えして夜具の大波を打つ座敷へ走り込んだ。高枕とくくり枕を次から次と与一に投げ付けた。枕元の懐紙を投げた。床の間の青磁の香炉をタタキ付けた。ギヤマンの茶器を銀盆ごと投げ出した。九谷の燗瓶を振り上げた。皿、鉢、盃洗はいせん猫足ねこあし膳などを手当り次第に打ち付けた。
 与一は右に左にかわして血刀を突き付けた。
与一よっちゃま。堪忍……かんにんして……わたしゃ知らん。知らん。何にも知らん。姉さんが悪い姉さんが悪い」
「畜生ッ……外道ッ……」
 と与一は呼吸をはずませた。
「逃がすものか……」
「アレエッ。誰か出会うてッ。与一よっちゃまが乱心……ランシイ――ンン……」
「おのれッ……云うかッ……おのれッ……」
 東の縁側から逃げ出した七代の乱れたもとどりに、飛鳥のごとく掴みかかった与一は、そのまま飛石とびいしの上をヒョロヒョロと引きられて行った。金剛兵衛こんごうへえを持直すもなく泉水の側まで来た。脱げかかった帯と長襦袢に足元を絡まれた七代はバッタリと低い石橋の上に突っ伏した。その後髪を左手に捲き付けた与一は、必死と突伏し縮める白い頸筋をグイグイと引起しざま、
「……エイッ……エイッ……」
 と片手なぐに斬り放しにかかった。七代は両手を泉水に突込んだまま一太刀ごときたない死に声を絞った。

       五

 与一は二つの女首を泉水に突込んで洗った。長襦袢の袖に包んで左右に抱えた。真紅まっかな足袋はだしのまま離れ座敷を出ると、植込みの間に腰を抜かしている若党勇八を尻目に見ながら、やはり足袋跣のまま、悠々と玄関脇の仏間へ上って来て、低い位牌壇の左右に二つの首級くびを押し並べた。赤い袖の頬冠りをした女首が、さながらに奇妙な大輪の花を供えたように見えた。
 与一はそこで汚れた足袋を脱いで植込みの中へ投げた。それから台所の雑巾を取って来て、縁側から仏間へ続く血と泥の足跡をぬぐきよめた。水棚へ行って仕舞桶しまいおけで顔や両手をよく洗って、乾いた布巾ふきんで拭い上げた。それから水をシタタカに飲んで玄関の方へ行きかけたが又、思い出したように仏間へ引返して線香を何本も何本も上げた。
 血の異臭と、線香の芳香かおりが暗い部屋の中に息苦しい程みちみちた。その中に座り込んだ与一は仔細らしく両手を合わせた。
「開けい、開けい……誰もらぬか……」
 表戸を烈しくたたく音がすると、与一はキッと身を起した。仏壇の折れ障子をピッタリと閉めて、一散に玄関に走り出た。有り合う竹の皮の草履を突かけて出ると、式台の脇柱に繋いだ西村家の赤馬が前掻きするのを、ドウドウと声をかけながら表門のかんぬきを外した。外には紋服の与九郎昌秋が太刀たちひっさげて汗を拭いていた。
「おお与一か。昼日中ひるひなかから門をてて……慌てるな与一……ヤヤッ、何か斬ったナ……」
 と眼を丸くして見上げ見下ろす祖父の手首を与一は両手で無手むずと掴んだ。
「何事じゃ……どうしたのじゃ……」
 とき込んで尋ねる昌秋を、与一は玄関から一直線に仏間に案内した。仏壇の障子をさっと左右に開いて二つの首級を指しながら、キッと祖父の顔を仰ぎ見た。
「ウ――ムッ。これはッ……」
 ギリギリと眼を釣り上げた昌秋は左手にひっさげた延寿国資えんじゅくにすけの大刀をガラリと畳の上に取落した。仏壇の前にドッカリと安座あんざを掻いて、両手を前に突いた。肩で呼吸をしながら与一をかえりみた。
「……わ……われが斬ったか……与一……」
 与一はその片脇にベッタリと座りながら無造作に一つうなずいた。唇を切れる程噛んだまま昌秋の顔を凝視した。
 昌秋の顔が真白くなった。忽ちパッとあかくなった。そうして又見る見る真青になった。
「お祖父じい様……お腹を召しませ」
 与一は小さな手を血だらけの馬乗袴の上に突っ張った。
「……さてはおのれッ……」
 昌秋の血相が火のように一変した。坐ったまま延寿国資の大刀を引寄せて、悪鬼のように全身をわななかせた。
 与一はパッと一尺ばかりすべ退しりぞいた。居合腰のまま金剛兵衛の鯉口を切った。キッパリと言い放った。
「与一の主君は……忠之様で御座りまするぞッ」
「……ナ……ナ……何とッ……」
「主君にむく者は与一の敵……親兄弟とても……お祖父じい様とても許しませぬぞッ……」
「おのれッ……小賢こざかしい文句……誰が教えたッ……」
「おとと様と……おかか様……そう仰言おっしゃって……私の頭を撫で……亡くなられました……」
 与一がオロオロ声になった。両眼が涙で一パイになった。ガラリと金剛兵衛を投げ出して昌秋の右腕に取りすがった。
「……与一を……お斬りなされませ。お斬り下さいませ。そうして……薩摩の国へ、お出でなされませ。のう……お祖父じい様……」
「……ウムッ……ウムッ……」
 昌秋の唇が枯葉のようにわなないた。涙が両頬の皺をパラパラと伝い落ちた。太刀たちの柄に手をかけたまま、大盤石に挟まれたように身をもだえた。
「ええッ。手を離せッ……このこの手を……」
「……ハイ……」
 と与一は素直に手を離して退しりぞいた。斬られる覚悟らしく両手を突いて、うなだれた。
「……その上……その上……お祖父じい様は御養子……モトは西村家のお方ゆえ、御一存でこの家を、お潰しになってはなりませぬ。この家の御先祖様に対して、なりませぬ。……潰すならば与一が潰しまする。……与一は真実まっことこの家の血を引いたお祖母ばあ様の孫……」
「ウーム。その文句もととかか様が言い聞かせたか」
 延寿国資を静かにかたわらに差し置いた昌秋は、涙を払って坐り直した。平常のように眼を細くして孫の姿を惚れ惚れと見上げ見下ろした。与一は突伏したまま頭を強く左右に振った。
「与一が幼稚おさな時に人から聞いておりまする。左様さよう思うて、きょうも小母様を斬りました。この家の名折れと承わりましたゆえ」
「ウムッ。出来でかいたッ」
 と昌秋は膝を打った。両眼からホウリ落ちる涙を払い払い、暫くの間、黒い天井を仰いでいたが、そのうちにフト思い付いたように、仏壇の前にニジリ寄って線香を一本上げた。うやうやしく礼拝を遂げた。威儀を正して双肌もろはだくつろげた。
「与一ッ」
「エッ……」
「介錯せいッ」
「ハッ……お祖父じい様……待ってッ。与一を斬ってッ……」
「未練なッ……退けッ……」
 右肘で弾ね退けられた与一は、襖の付根までコロコロと転がった。その間に昌秋は、袖に捲いた金剛兵衛をキリキリと左に引きまわして片手を突いた。あえぎかかる息の下から仏壇を仰いだ。
「塙代家、代々の御尊霊。お見届け賜わりましょう。たとい私故に当家は断絶致しましょうとも……かほどの孫を……孫を持ちました……私の手柄に免じて……お許しを……御許し賜わりまするよう……」
 与一は襖の付根に丸くなったまま泣き沈んでいた。
「与一ッ……」
「ハイ……ハイ……」
「介錯せい。介錯……」
「……………」
「未練な。泣くかッ」
「ハイ……ハイ……」
「祖父の白髪首級しらがくびを、大目付に突き付けい。女どもの首と一所に……」
「……ハッ……」
「それでも許さねば……大目付を一太刀怨め……斬って……斬って斬死にせい……ブ……武士の意気地じゃ……早よう……早ようせい」
「……ハ……ハイ……」

       六

 忠之は上機嫌であった。
「ホホオ……その十四になる小伜がのう……」
 大目付尾藤内記は紋服のまま、お茶室の片隅に平伏した。
「御意に御座りまする。祖父の昌秋と二人の側女そばめの首級を三個、つなぎ合わせて、裸馬の首へ投げ懸けて、先刻手前役宅へ駈け込みまして、祖父の罪をお許し下されいと申入れまして御座りまする」
「……まあ……何という勇ましい……いじらしい……」
 と炉の前で濃茶の手前を見せていたお秀の方が、感嘆の余りであろう。耳まで真赤に染めて眼をしばたたいた。忠之も嘆息した。
「フーム。途方もない小僧が居れば居るものじゃのう。昔話にも無いわい。それでその方は家名継続を許したか」
「ハハ。ともかくも御前にまいってとりなしてつかわす故、控えおれと申し聞けまして、そのまま出仕致しましたが」
「……たわけ奴がッ……」
 と忠之は突然に大喝した。お秀の方は茶碗を取落しそうになった。
「……何で……何でそのような気休めを申した。その方の言葉に安堵した小伜が……許されたと思うて安心したその与一とやらが、その方の留守中に切腹したら何とするかッ。切腹しかねまじい奴ではないか、それ程の魂性ならば……馬鹿奴がッ……何故なぜ同道して引添うて来ぬか、ここまで……」
「ハハッ。御意の程を計りかねまして、次の間に控えさせておりまするが……」
「何と……次の間に控えさせておると申すか」
「御意に御座りまする」
「それならば何故早く左様さよう言わぬか。大たわけ奴が。ここへ通せ……ここへ……」
「ハハッ。何卒なにとぞ……御憐愍をもちまして、与一ことお許しの儀を……」
「エエわからぬ奴じゃ。余が手討にばしすると思うかッ。それ程の奴を……褒美をくれるのじゃ。手ずから褒美を遣りたいのじゃ。わからぬか愚か者奴がッ……おお……それから納戸の者を呼べ……納戸頭を呼べ……すぐにいれと申せ」
 長廊下が一しきりバタバタしたと思うと、お納戸頭の淵老人と尾藤内記の間に挟まるようにして与一昌純が這入って来た。髪を改めてチャンとした紋服袴を着けていた。
 お秀の方の背後に居並ぶ側女の間に微かなサザメキが起った。
「……まあ……可愛らしい……まあ……」
 与一は悪びれもせずに忠之の真ン前に進み寄って両手を突いた。尾藤内記と淵老人が背後からその両袖を控えた。
「お眼通りであるぞ」
「イヤイヤ。固うするな。手離いて遣れ」
「ハハッ。不敵の者の孫で御座りまするによって、万一御無礼でも致しましては……」
「イヤイヤ。要らざる遠慮じゃ。余に刃向う程の小伜なればイヨイヨ面白い。コレ小僧。与一とやら。顔を見せい。余が忠之じゃ。つらを見せい」
 与一は顔を上げると小さな唇をジッと噛んだ。上眼づかいに忠之を睨み上げた。
「ホホハハハ。なかなかの面魂じゃ。近頃流行はやりの腰抜けづらとは違うわい。ヨイじゃ、ヨイ児じゃ。近う参いれ。モソッと寄りゃれ。小粒ながら黒田武士の亀鑑てほんじゃ。ハハハ……」
「サア、近うお寄りや」
 お秀の方が取做とりなし顔に声をかけたが、与一はジロリと横目で睨んだまま動かなかった。のみならず頬の色を見る見る白くして、まなじりをキリキリと釣り上げた。言い知れぬ不満を隠しているかのように……女の差出口さしでぐちが気に入らぬかのように……。
 一座がシインとなった。しかし忠之は上機嫌らしく淵老人に問うた。
「どこか近い処に、よい知行所は無いかのう」
「ハッ。新知しんちに御座りまするが」
「ウム。塙代は三百五十石とか聞いたのう。今二百石ばかり加増して取らせい」
「ハハッ。有難き仕合わせ……」
 大目付と淵老人が平伏したに連れて、お秀の方と側女そばめまでが一斉に頭を下げた。与一に対する満腔の同情がそうさせたのであろう。
「二村、天山の二カ村が表高百五十石に御座りまするが、内実は二百石に上りまする」
「ほかに表高二百石の処は無いか」
「ほかには寸地も……」
「ウム。無いとあらば致し方もない。二村、天山は良い鷹場じゃ。与一を連れて鶴を懸けに行こうぞ。きょうから奥小姓にして取らせい」
 側女たちが眼を光らせて肩を押し合った。嬉しい……という風に……。
「硯箱を持て……墨付を取らする」
 お秀の方が捧ぐる奉書に忠之は手ずから筆を走らせた。
「コレ与一……昌純と云うたのう。墨付を遣わすぞ」
かたじけのう御座りまする」
 与一は何やら一存ありげに肩を怒らしておし戴いた。同時に一同が又頭を下げた。
 忠之は与一の顔をシゲシゲと見た。与一も忠之の顔をマジマジと見上げた。
「フフム。まだ足らぬげじゃのう。つらふくらしおるわい。知行なぞ好もしゅうないかの。子供じゃけにのう。ハッハッ……コレ小僧。モソッと褒美を遣りたいがのう。この忠之は貧乏でのう……。ウムウム。よいものを取らする。その紙と筆を持て……」
 淵老人はハッとしたらしく顔色を変えて忠之を仰いだ。この上に知行を分けられては、お納戸の遣繰やりくりが付かなくなるからである。そう思ってハラハラしいしい皆と一所に一心に忠之の筆の動きを見上げているうちに、奉書の紙の上に忠之自慢の三匹の絵が出来上った。
「コレ与一。余が絵を描いて取らする。ハハ。上手じゃろうがの……その上のさんを読んでみい」
 押し戴いた紙を膝の上に伸ばした与一は、ハッキリした声で走書はしりがきの讃を読んだ。
「もののの心の駒は忠の鞭……忠の鞭……孝の手綱ぞ……行くも帰るも……」
「おお……よく読んだ。よく読んだ。その忠の一字をその方に与える。余のいみなじゃ。今日より塙代与一忠純と名乗れい」
 一座の者が皆ため息をした。これ程の御機嫌、これ程の名誉は先代以来無い事であった。
 しかし与一は眉一つ動かさなかった。その膝の上のお墨付と、その上に重ねた絵を両手で押えて、ジッと見詰めているうちに、涙を一しずくポタリと紙の中央まんなかに落した。……と思ううちに又一しずく……しまいには止め度もなくバラバラとしたたり落ちて、薄墨の馬の絵が見る見る散りニジンで行った。
「コレコレ。勿体ない。お墨付の上に……」
 と尾藤内記が慌てて取上げようとした。
「サアサア。有難くおいとま申上げい」
 と淵老人が催促したが、忠之が手をあげて制した。
「ああ……棄ておけ棄ておけ。苦しゅうない。……コレコレ小僧。見苦しいぞ……何を泣くのじゃ。まだ何ぞ欲しいのか……」
「お祖父じい様……」
 と与一が蚊の泣くような声を洩らした。
「ナニ。お祖父様が欲しい」
 与一は簡単にうなずいた。
「アハハハハハハハハハ……」
「オホホホホホホホホ……」
 という笑い声が、おつぼねじゅうに流れ漂うた。
「アハハハ。たわけた事を申す。そちの祖父は腹切って失せたではないか。……のう。そちが詰腹切らせたではないか」
「お祖父様にこの絵が……」
「ナニ。祖父にこの絵を見せたいと云うか」
 肩を震わしてうなずいた与一は、ワッとばかりに絵の上に泣き伏した。
「コリャコリャ、勿体ない。御直筆の上に……」
 と淵老人が与一を引起しかかった。
「棄ておけッ」
 と忠之が突然に叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)した。何事がお気に障ったか……と思う間もなく、厚くかさねた座布団の上から臂を伸ばした忠之は、与一の襟元を無手と引掴ひきつかんだ。力任せにズルズルと引寄せて膝の上に抱え上げた。白綸子りんずの両袖の間にシッカリと抱締めて、たまらなく頬ずりをした。
「……与一ッ。許せ……余が浅慮であったぞや……あったら武士を死なしたわい。許いてくれい、許いてくれい。これから祖父の代りに身共に抱かれてくれい。のう。のう……」
 与一は忠之の首に縋り付いたまま思い切り声を放って泣いた。
「お祖父じい様、お祖父じい様。お祖父じい様ア……お祖父じい様ァ……お祖父じい様えのう……」
 クシャクシャになったお墨付と馬の絵が、スルスルとお庭先へ吹き散って行った。しかし誰も拾いに行かなかった。





底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年9月9日公開
2006年3月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について