巻頭歌
胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
[#改ページ]
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
私がウスウスと眼を覚ました時、こうした
蜜蜂の
唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。
私はフッと眼を開いた。
かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い
塵埃に
蔽われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光る
硝子球の横腹に、大きな
蠅が一匹とまっていて、死んだように
凝然としている。その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字
型に長くなって寝ているようである。
……おかしいな…………。
私は大の字
型に
凝然としたまま、
瞼を一パイに見開いた。そうして眼の
球だけをグルリグルリと上下左右に廻転さしてみた。
青黒い
混凝土の壁で囲まれた二
間四方ばかりの部屋である。
その三方の壁に、黒い鉄格子と、
鉄網で二重に張り詰めた、大きな縦長い
磨硝子の窓が一つ
宛、都合三つ取付けられている、トテも
要心堅固に構えた部屋の感じである。
窓の無い側の壁の附け根には、やはり
岩乗な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷き
展べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。
……おかしいぞ…………。
私は少し頭を持ち上げて、自分の
身体を見廻わしてみた。
白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々と
肥って突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。
……いよいよおかしい……。
怖わ
怖わ
右手をあげて、自分の顔を
撫でまわしてみた。
……鼻が
尖んがって……眼が落ち
窪んで……
頭髪が
蓬々と乱れて……
顎鬚がモジャモジャと延びて……。
……私はガバと跳ね起きた。
モウ一度、顔を撫でまわしてみた。
そこいらをキョロキョロと見廻わした。
……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。
胸の動悸がみるみる高まった。早鐘を
撞くように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。やがて死ぬかと思うほど
喘ぎ出した。……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。
……こんな不思議なことがあろうか……。
……自分で自分を忘れてしまっている……。
……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一つ、記憶に残っている。……ソレッ切りである……。
……それでいて気は
慥かである。
森閑とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。
……夢ではない……たしかに夢では…………。
私は飛び上った。
……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。そこに映った自分の
容貌を見て、何かの記憶を
喚び起そうとした。……しかし、それは何にもならなかった。磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。
私は身を
飜して寝台の枕元に在る入口の
扉に駈け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている
真鍮の金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。
……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は
愚か、頭文字らしいものすら発見し得なかった。
私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。
こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。
臓腑の底から湧き出して来る
戦慄と共に、我を忘れて大声をあげた。
それは金属性を帯びた、
突拍子もない
甲高い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。
又叫んだ。……けれども
矢張り無駄であった。その声が一しきり
烈しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。
又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、
咽喉の奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。
奥歯がガチガチと音を立てはじめた。
膝頭が自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。
私は、いつの間にか
喘ぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の
中央に棒立ちになったまま喘いでいた。
……ここは監獄か……精神病院か……。
そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、
凩のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。
そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。そうして棒のように
強直した全身に、生汗をビッショリと流したまま
仰向け
様にスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の
混凝土壁を凝視した。
その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。
……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど
嗄れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい
響ばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。
「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」
私は
愕然として縮み上った。思わずモウ一度、
背後を振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声を
滲み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。
「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。
妾です。お兄様の
許嫁だった……
貴方の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」
私は
眼瞼が痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に
混凝土の壁を
白眼み付けた。
それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずには
措かないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い
怨みの声であった。それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。
「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。
妾ですよ。あたしですよ。お兄様の
許嫁だった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」
私はヨロヨロと
背後に
蹌踉いた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。
……何という奇怪な言葉だ。
……壁の向うの少女は私を知っている。私の許嫁だと云っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で云っている。そうして私と壁
一重を隔てた向うの部屋に
閉じ
籠められたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、
死物狂いに努力し続けているらしい。
……キチガイだろうか。
……本気だろうか。
いやいや。キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。
私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な……
悽愴とした……。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。
何故、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」
「……………………」
「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」
「……………………」
「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に
這入らないのですか……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」
そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく
生身の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の
痕跡を想像しながら、なおも一心に眼を
瞠り、奥歯を噛み締めていた。
「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお
便りする方は一人もない可哀想な妹です。一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」
「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。そうして
他人からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」
「……………………」
「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」
私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い
混凝土壁に
縋り付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。……が……又グット
唾液を
嚥んで思い
止まった。
ソロソロと寝台の上から
辷り降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと
後退りをして来た。
……私は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。
その私が、どうして彼女の
夫として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお
蔭で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの
氏素性や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。
万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに
外ならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの
原因にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の
軽率から、他人の妻を
横奪りした事になるではないか。他人の恋人を
冒涜した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し
唾液を
嚥み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は
頭髪を両手で引掴んだ。長く伸びた十本の
爪で、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は
貴方のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は
掌で顔を烈しくコスリまわした。
……違う違う……違います違います。
貴女は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を
噤んだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
私は
拳骨を固めて、耳の
後部の骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、
扉を見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
と思ううちに、全身がゾーッと
粟立って来た。
入口の
扉に走り寄って、鉄かと思われるほど
岩乗な、青塗の板の平面に、全力を挙げて
衝突ってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、
痺れ上るほど
脅やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ
引歪める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ
慄えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから
幽瞑の世界に来て、何かの
責苦を受けているのではあるまいか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の
無間地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに
苛責なまれ初めた絶体絶命の
活地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない
永劫の苛責……。
私は
踵が痛くなるほど強く
地団駄を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た
隣室の物音と、切れ切れに起る
咽び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として
空虚であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に
就いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、
空っぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に
逐いまわされながら、ヤミクモに
藻掻きまわっているばかりの私であった。
そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように
甲走って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう
以前の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。
扉の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。
……コトリ……と音がした。
気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に
身体を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで
項垂れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。
見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
という静かな
雀の声……遠くに
辷って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。
……夜が明けたのだ……。
私はボンヤリとこう思って、両手で眼の
球をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に
剛ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな
欠伸をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
向うの入口の
扉の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の
膳が這入って来るようである。
それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……
吾を忘れて立上った。爪先走りに切戸の
傍に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を
狙いすまして
無手と引っ掴んだ。……と……お膳とトースト
麺麭と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
私はシャ
嗄れた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」
「……………………」
相手は身動き一つしなかった。白い
袖口から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は
狂人でも……何でもない……」
「……アレエ――ッ……」
という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく
藻掻き初めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が
弛んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ
脱け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。
一所懸命に
縋り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを
喰った私は、固い人造石の床の上にドタリと
尻餅を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
すると……又、不思議な事が起った。
今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに
連れて、何とも知れない
可笑しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは
迚もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本
毎にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから
止め
度もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。
……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。
こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙を
嚥んでは
咽せかえって、
身体を
捩じらせ、
捻じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。
……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と識り合いになったのだ。アハハハハハ…………。
……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。
私はこうして
止め
度もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の
球をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、
栓をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。
私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを
塗すくった焼
麺麭を掴んでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお
美味さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと
嚥み込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、
背後に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。
それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、
掌と、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。
……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。
……遠い、高い処で
鴉がカアカアと
啼いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に
甲走った女の声……。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。
……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。それはたしかに自動車の
警笛で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い
音であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の
静寂を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした
髪毛の中に走り込みそうになったところで、急に横に
外れて、大まわりをした。高い高い
唸り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に
沁み入るほどの高い悲鳴を
揚げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと
濃やかになって行く…………。
……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開いて、何やらガサガサと音を立てて這入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。
私の眼の前で、
緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な
籐椅子が一個
据えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を
衝くばかりに突立っているのであった。
それは身長六
尺を超えるかと思われる
巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、
鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は
瀕死の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と
聳えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と
一と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に
罹っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い
額の斜面と、軍艦の
舳先を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の
外套を着て、その間から揺らめく
白金色の逞ましい時計の
鎖の前に、細長い、
蒼白い、毛ムクジャラの指を
揉み合わせつつ、婦人用かと思われる
華奢な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から
孵化った
生物のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、
吾れ知らずその方向に向き直って座り直した。
すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく
身体が縮むような気がして、自ずと
項垂れさせられてしまった。
しかし巨大な紳士は、そんな事を
些しも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、
一とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず
看破られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。
するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて
前屈みになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を
反背けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい
咳嗽を続けた。そうして
稍暫らくしてから、やっと
呼吸が落ち付くと、又、
徐ろに私の方へ向き直って一礼した。
「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」
それは
矢張り身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、
恭しく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又も
咳き入った。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。
┌────────────────────┐
│ │
│ │
│ 九州帝国大学法医学教授 │
│ 若林鏡太郎 │
│ 医学部長 │
│ │
│ │
└────────────────────┘
この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も
唖然となった。眼の前に
咳嗽を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、
「……ここは……九州大学……」
と
独言のように
呟やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。
その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、
微かにビクリビクリと震えた。
或はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお
寝みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは
他事でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は
先刻、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、
如何で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
私は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。
……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。
私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。
私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。
私は二重三重に面喰わせられたまま、
掌の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。
ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、
瞬一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。
二人はこうして、ちょっとの
間、
睨み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、
如何にも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、その
瞼が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、
微かに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……
御尤もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」
と云いさした若林博士は、又も、
咳嗽が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで
正木敬之という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から
行詰ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、
劃時代的の新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく
首肯出来るので御座います。……申すまでもなく
貴方も、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」
「僕が……精神病の治療……」
「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々
御尤千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しましたのが、
外ならぬ貴方で御座いました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに
懸っていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」
若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急に
眩しくなったように思って、眼をパチパチさした。私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。
……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず
項垂れてしまったのであった。
……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。
……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に罹っていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。私はキチガイなのだ。
……鳴呼。私が浅ましい狂人……。
……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、
叮嚀過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それに
連れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも
判然らない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと
火熱って来た。……眼の中が
自然と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに
充されつつ、かなしく
両掌を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。
若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、
唾液を呑み込んだようであった。それから、
恰も、
貴い身分の人に対するように、両手を前に
束ねて、今までよりも一層親切な
響をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。
「御尤もです。重々、御尤もです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」
「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」
「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」
「……僕が……私が……
狂人の解放治療の実験材料……
狂人を解放して治療する……」
若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ
首肯いた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。
「さようさよう。その通りで御座います。その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の
裡に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の
衝動のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」
「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」
と私は思わず
急き込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。
「それは誠に御尤も千万な御不審です。……が……しかしその事に
就ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」
「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」
と私は一層
急き込みながら
口籠った。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。
しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。
「……ま……ま……お待ち下さい。それは
斯様な
仔細で御座います。……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が
虚構になって
終う
虞れがありますので……
詰るところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が
併し……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、
僅々四箇月間の実験を行われました
後、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」
「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」
「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が
嘗て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」
「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」
「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、
或は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」
「……そ……それは……ドンナ事件……」
と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。
しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然として
佇立したままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。
「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」
「……精神科学……応用の犯罪……」
「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい
主題で御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、
斯様申上げましたならば
大凡、御諒解が出来ましょう。……すなわち私が、斯様な
主題に就いて研究を初めました
抑々の動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白
可笑しく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、
歴々と展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」
「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」
若林博士は、いとも荘重にうなずいた。
「さようさよう。貴方は、その学説の真理である事を、身を
以て証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました
暁には、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が
洩れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。
……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら
最早、取返しの附けようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。……と同時に、甚だ
得手勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。
……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学の
中でも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の
外観と申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の
温柔しい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を
繋ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい
従妹と結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の
夜半過ぎに、その青年が、思いもかけぬ
夢中遊行を起しまして、その少女を絞殺してしまいました。そうしてその少女の
屍体を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が
何人であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか
判然らない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて
該事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。
……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この
一途よりほかに方法は無い事に相成りました。それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、
踪跡を
晦ましているので御座います。……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相を
蔽い
晦ましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文の
中の、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事に
就きましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。……
然るに……」
ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い
一瞥を私に与えた。……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。
その
皺だらけに
痙攣った横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる
大袈裟に、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。
すると、そのうちに
咳嗽を収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。
「御免下さい。疲れますので……」
と云ううちに、やおら
背後の
華奢な
籐椅子を振り返って、ソロソロと腰を
卸したのであったが、その
風付きを見ると私は又、思わず眼を
反らさずにはいられなかった。
初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと這入った。そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなに
瘠こけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。
「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外の私にもよくわかるので御座います。貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お
勉めになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので御座います。
……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかに
居ったので御座いましょう。ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い
夢中遊行状態に陥れる事に相成りました。……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと
焦燥りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」
「……自我……忘失症……」
「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて
稀有のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ
記憶の無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っている
間に、
禿頭の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると
白髪の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の
懺悔譚』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の
境界に迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、
以前の精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。……すなわち厳密な意味で申しますと、
吾々の日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くものによって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く
刹那刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。……ですから、申すまでもなく
貴下も、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」
若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を
舐めたようであった。
しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を
固ばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、
矢張り自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖から
滴たり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。
その時に若林博士は、その
仄青い
瞳を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。
「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは
最早、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、
貴下御自身のお名前を思い出させて差上げるために、
斯様にお伺いした次第で御座います」
「……ボ……僕の名前を思い出させる……」
こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。
「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」
私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して
頓狂な声を出した。
「……何というんですか……僕の名前は……」
私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は
恰も器械か何ぞのようにピッタリと口を
噤んだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。
後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の
裡に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。
しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。
すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、
繊細い声を出した。
「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと
仰言れば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
若林博士は
斯様云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に
圧されて、余儀なく
項垂れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が
判然らないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が
喚び起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、
如何で御座いましょうか」
と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。
しかし心の中では
些なからず
躊躇していた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。
……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。
……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。
その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。
徐ろに
背後の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。
その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字
髭をピンと
生やして、白い
詰襟の
上衣に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない
扮装をしていた。四角い黒革の
手提鞄と、薄汚ない
畳椅子を左右の手に
提げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の
中央に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の
鋏や、ブラシを
葢の上に
掴み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから
素跣足のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字
鬚の小男が、白い
布片をパッと私の
周囲に引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。
「この前の通りの
刈方で、およろしいので……」
この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく
去り
気ない口調で答えた。
「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」
「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が
温柔しい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」
「そうそう。その通りに今度も願います」
「かしこまりました」
そう云う
中にモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。
私は眼を閉じて考え初めた。
私の過去はこうして
兎にも
角にもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。
私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、
昨日が昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい
以前に、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。
……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、
真実に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。
私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに
成長くなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなに
夥しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の
空洞をジッと凝視していると、私の
霊魂は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる
微生物のように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の
襟筋を
剃るべくシャボンの泡を
塗り付けたのであった。
私はガックリと
項垂れた。
……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの
詰り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し
演っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。
若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の
周囲に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。
……私はそう考える
中にハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。
それは
二個の丸い
櫛が、私の頭の上に並んで、息も
吐かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、
一寸の
間にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された
亡者みたようになって、グッタリと椅子に
凭たれ込んで底も
涯しもないムズ
痒さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。
前途はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへお
出でなさい」
という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が
這入って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の
周囲の白い
布切は、私の気づかぬうちに理髪師が
取外して、扉の外で威勢よくハタイていた。
その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと
頁を伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と
咳をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
顔一面の髪の毛とフケの中から、
辛じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。
若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。
扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ
宛、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の
凹みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と
鉄網で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと
唸って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて
螺旋をかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の
振子球を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。
私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした
鶏頭が咲き乱れている真白い砂地で、その又
向は左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の
取付きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に
内部に這入った。
その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る
石造の
浴槽から湧出す水蒸気が三方の
硝子窓一面にキラキラと
滴たり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと
丸裸体にして、
浴槽の中に追い込んだ。そうして
良い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の
板片の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい
石鹸とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて
泡沫を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、
有無を云わさず私の両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
と金切声で命令しながら、モウ一度、
浴槽の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、
非道い目に会わされた看護婦が、三人の
中に
交っていて、
復讐を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。
けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を
截ってもらって、
竹柄のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで
身体中を
拭い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、
流石に生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。
「これとお着換なさい」
と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの
襯衣、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ
編上靴なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その
序に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど
仕立卸しと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに
昔馴染でもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の
詰襟の新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には
幾何這入っているかわからないが、
滑らかに膨らんだ小さな
蟇口が
触った。
私は又も狐に
抓まれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、
生憎、
破片らしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い
晒しの
浴衣を取り
除けた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、
巨大な姿見鏡であった。
私は思わず
背後によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の
鬚武者で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、
掌で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと
二十歳かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、
腮の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に
背後から若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は
冠りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい
唾液をグッと
嚥み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと
判明った。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら
酬いられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく
点頭いた。
「……
御尤もです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
私は新らしい編上靴を
穿いた足首と、
膝頭を
固ばらせつつ、若林博士の背後に
跟随いて、
鶏頭の咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな
真鍮の
把手を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくお
寝みになっております」
と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして
内部に這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の
根方に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
私は両手で帽子の
庇をシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと
瞬きをした。
……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
その少女は
艶々した
夥しい
髪毛を、黒い、大きな
花弁のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に
蓬々と乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい
繃帯で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い
睫毛、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった
二重顎まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、
生ぶ
毛で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の
輪廓のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく
淋しい
薔薇色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の
神々しいこと……。
私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、
呼吸も出来ないような気持になって、なおも
瞬一つせずに、
見惚れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の
珠になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、
微かにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……
妾は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の
眥へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした
両鬢の、すきとおるような
生え
際へ消え込んで行くのであった。
しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、
健康な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて
和やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと
背後をふり返った。
私の背後に突立った若林博士は、
最前からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その
蝋石のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと
嘗めて、今までとはまるで違った、
響の無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを
憚るように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……。
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で
囁いた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく
瞬をして見せた。
……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
といわんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、
恰かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお
従妹さんで、あなたと
許嫁の間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声を呑んだ。
額を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にも
稀な美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました
貴方の、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで
斯様にお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように
緩やかに、
且つ荘重であった。
しかし私はもとの通り、狐に
抓まれたように眼を
瞠りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から
御同胞がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが
居られたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと
後退りせずにはおられなかった。若林博士の
頭脳が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、
外から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……
況して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。
けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、眼を
醒しておられる間にも、そんな事を云ったり、
為たりしておられるから
判明るのです。……この髪の奇妙な
結い方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年
前の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、
身体のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。
年齢ごろまでも見違えるくらい成熟された、
優雅やかな若夫人の姿に見えて来るのです。……
尤も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル
巻にしておられるのですが……」
私は
開いた口が
閉がらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを
惘々然と見比べない訳に行かなかった。
「……では……では……兄さんと云ったのは……」
「それは
矢張り貴方の、一千年
前の御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる
情景を、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
と云いさして若林博士もピッタリと口を
噤んだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども
最早、遅かった。
私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度
瞬をした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それに
連れて頬の色が
俄かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
と
魂消るように叫びつつ身を起した。
素跣足のまま寝台から飛び降りて、
裾もあらわに私に
縋り付こうとした。
私は仰天した。無意識の
裡にその手を払い
除けた。思わず二三歩飛び
退いて
睨み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。
……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を
凝視めながら、よろよろと、うしろに
退って寝台の上に両手を
支いた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。
それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に
崩折れ座りつつ、白い患者服の
袖を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ
嗄れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
若林博士は……しかし顔の
筋肉一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を
屈めた。耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして
貴女のお名前も……」
この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの
間、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、貴方とお
許嫁になっておられた、あのお兄さまということだけは
記憶えておいでになるのですね」
少女はうなずいた。そうして前よりも一層
烈しい、高い声で泣き出した。
それは、何も知らずに聞いていても、
真に悲痛を極めた、
腸を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして
折角その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、
素気なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその
嗄れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは
全然違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に
陥れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ
堪まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい
背面姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに
苛責なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう
直きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、
暗涙を拭い拭い立ち
竦んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その
歔欷り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと
吐きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁一重を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿さんであった私」というような奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払い除けられたために、床の上へ崩折れて、腸を絞るほど歎き悲しんでいる……
というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に
唖にでもなったかのように、ピッタリと口を
噤んでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で
胴衣のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、
掌の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
身体の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、
弛めたりしている姿を見ると、
恰もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に
悶えている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
……しかも……私が、何だかこの博士から
小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
何も知らない私を
捉まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って
紹介せたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ
可怪しいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の
身体に合せて仕立てたものではないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの
勿体らしい錯覚に
陥れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの
木阿弥のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、
左掌の上の懐中時計を、やおら
旧のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました
正木敬之先生が、御臨終の当日まで
居られました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢に
絡まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」
若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。
すると若林博士も満足げにうなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」
九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ
塗、二階建の木造洋館であった。
その
中央を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。
その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の
明窓から洩れ込んで来る、
仄青い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。
先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。
背後を振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で
外套を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれに
倣って、
霜降のオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の
痕跡が、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに
蔽われているらしい。
それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツ
宛並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝で
蔽われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も
遮るものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のように
眩しく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。
その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました
斎藤寿八先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、
若くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが
尠くありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されました
後、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な
煖炉まで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規の
届も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで
届書を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を
卑うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。
「なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ
理由なんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく云う
吾輩自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と
一所に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」
と云って大笑されましたので、
流石老練の塚江事務官も
煙に
捲れたまま
引退ったものだそうです」
こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の
度胆を抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの
素破らしさが、こうした何でもない
諧謔の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一
刹那に、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が
大切がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の
辛辣、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として
開いた口が
塞がらなくなるばかりであった。
しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。
「……ところで、
貴方をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは
他事でも御座いませぬ。只今も
階下の七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。……正木先生は
曾て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく
一瀉千里に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」
若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
恰も大人が
小児に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。
私が
先刻から感じていた……何もかも
出鱈目ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
若林博士は
流石に権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の
隙間もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。
……それならば
先刻から見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり
真実に、私の身の上に関係した事だったのか知らん。そうしてあの少女は、やはり私の正当な
従妹で、同時に
許嫁だったのか知らん……。
……もしそうとすれば私は、
否でも
応でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。
……ああ。「自分の過去」を「
狂人病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。
こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず
額にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の
内部を恐る恐る見廻しはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。
部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ
硝子戸棚の行列が
立塞がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二
間ぐらいに見える大
卓子が、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の
羅紗は、やはり薄いホコリを
被ったまま、南側の窓からさし込む光線を
眩しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の
綴込みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に
蔽い
被さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い
達磨の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の
欠伸を続けているのが、何だか
故意と、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。
その赤い
達磨の真正面に
衝き立っている東側の
壁面は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に
跼まれる位の大
暖炉が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、
清々しい朝の光りの中に、
或は
眩しく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な
静寂を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。
事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種の
投やりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に
治癒りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――歯齦の血で描いたお雛様の掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句「竹里館」隷書――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫せしもの)
――大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れの辛らさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、硝子箱入り――(曹洞宗布教師作)
私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を
反向けて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の
綴込で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ
穢れてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から
怪我をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに
赤インキの一頁大の
亜剌比亜数字で、

、

、

、

、

と番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
心がわかっておそろしいのか
その次のページに黒インキのゴジック体で『
ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……この
ドグラ・マグラというのは……」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の
背後からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを
表現した珍奇な、面白い製作の一つです。
当科の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気
呵成に書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容が
亦非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、
色情表現、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと
流石に、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に
横溢しております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を
異にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それは
斯様な訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚に
囚われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に
幽閉められて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
「……ヘエ。先生にはソンナ
記憶が、お在りになるのですか」
若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑の
皺が寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。
「そんな事は絶対に御座いませぬ」
「それじゃ全部が
出鱈目なのですね」
「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」
「ヘエ。妙ですね。そんな事があり得るでしょうか」
「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」
「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」
「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では
追付かない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用が
措けなくなったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」
「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」
「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の
所謂、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。その意味で、
斯様な標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」
「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」
「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」
「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な
謎語を解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、
流石に疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。……といって
斯様な不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、
計らず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧
欧羅巴系統の
訛言葉が、方言として多数に残っているようですから、
或は、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは
切支丹伴天連の使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、
強いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『
堂廻目眩』『
戸惑面喰』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」
「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」
「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に
記述されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。たとえば、
……「精神病院はこの世の活地獄」という事実を痛切に唄いあらわした阿呆陀羅経の文句……
……「世界の人間は一人残らず精神病者」という事実を立証する精神科学者の談話筆記……
……胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文……
……「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない」と喝破した精神病患者の演説記録……
……冗談半分に書いたような遺言書……
……唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像……
……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類……
……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした
幻魔作用の印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へと
逐いかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じ唯一つの
時鐘の音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程
左様にこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」
といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。
しかし私は慌てて押し止めた。
「イヤ。モウ結構です」
と云ううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、
最早私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に……
……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。……こんな話は最早、これっきり忘れてしまうに限る……。
……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の
出外れの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。それは……
――精神病者の発病前後に於ける表情の比較写真――
――同じく発病前後に於ける食物と排泄物の分析比較表――
といったような珍らしい研究に属するものから……
――幻覚錯覚に基く絵画――
――ヒステリー婦人の痙攣、発作が現わす怪姿態、写真各種――
――各種の精神病に於ける患者の扮装、仮装写真、種類別――
なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から、戸棚の横腹まで、一面に、ゴチャゴチャと貼り
交ぜてある光景は、一種特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。又その先に並んだ数層の硝子戸棚の中に陳列して在るものは……
――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)――
――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異状者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、又は黴毒に犯された個所の明瞭なもの)――
――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙筆の幽霊画像――
――磨ぐとその家の主人が発狂するという村正の短刀――
――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片――
――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下に煎じていた金銀瞳の黒猫の頭――
――同じく精神病者が自分で斬り棄てた左手の五指と、それに使用した藁切庖丁――
――寝台から逆様に飛降りて自殺した患者の亀裂した頭蓋骨――
――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形――
――手品を使うと称して、嚥下した真鍮煙管――
――素手で引裂いた錻力板――
――女患者が捻じ曲げた檻房の鉄柵――
……といったようなモノスゴイ品物が、やはり狂人の作った優美な、精巧な編物や、造花や、
刺繍なぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるのであった。
私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしい
覗きまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。
却って、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。
私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大
卓子の片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の
生汗をハンカチで拭いた。そうして急に靴の
踵で半回転をして西の方に背中を向けた。
……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大
卓子越しに、私の真正面まで
辷って来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。
私は前こごみになっていた
身体をグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に
見惚れた。
その図は、西洋の
火焙りか何かの光景らしかった。
三本並んだ太い
生木の柱の中央に、白髪、
白髯の神々しい老人が、高々と
括り付けられている。その右に、
瘠せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに
丸裸体のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。
その
酷たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の
輿に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた
眷族や、臣下らしいものに取巻かれつつも
如何にも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな
掌で小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の
頭巾を冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、
撞木杖を突いて立ち
佇まっているが、如何にも手柄顔に
火刑柱の三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、
粗らな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に
憑かれたものとして、
片端から
焚き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に
居りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼
卜筮者であった
巫女婆です。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が
柳河の
骨董店から買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、
寧ろ徹底した治療法というべきでしょう」
私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが
籠っていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或は
一と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
それは額の
禿げ上った、
胡麻塩髯を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に
湛えている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、
著しく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な
歎息をしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち
俛首れながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人
焚殺の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、
彼の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
と私は
独言のように
呟いた。又も底知れぬ恐怖に
囚われつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。
焚き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
と云いさして私は言葉を
嚥み込んだ。あんまり
非道い云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。
儼然たる事実に相違ないのです。その事実は
追々と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を
樹てられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、
申分なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
私は又も呆然となった。
開いた口が
塞がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に
囚われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、
咽喉の奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の
頸筋に捲き付いて来るような気がしたので……。
すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました
後に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を
照合されましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、
御首肯出来る事と信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」
若林博士は、こう説明しつつ大
卓子の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を
卸すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、
唾液を呑込み呑込みしているばかりであった。
その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、
露わに細長く折れ曲っている間へ、長い
頸部と、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが
旧の通りの大きさで
据わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大
蜘蛛が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を
餌食にすべく、モーニングコートを着て
匐い出して来たような感じに変ってしまったのであった。
私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に
居住居を正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと
塵を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯を
賭して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますに
就ては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、
頗る呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく
他人に貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べて
廻わったりしておられたような事でした。……
尤もこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに
驚目駭心させられているような次第で御座います。いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。
……と申しますのは
斯様な次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。
嘗て、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。
「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく
花柳の
巷に出入したり、賭博に
耽ったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を
弄ぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」
と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を
窺うのに十分で御座いましょう。
……しかし先生が当大学に奉職をされました当初の
中は、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人を
捉まえては、現代の唯物科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにも拘わらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉で御座いました。
「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ
蝋管を取り換えちゃどうです。今の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒に
罹っているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカ癒りませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つ
中には、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を
粉微塵に踏み潰して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功した
暁には、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を
継子扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、
精々長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
といったような事だったと記憶しておりますが、これには
流石の斎藤先生も
呆れておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
……ところが間もなく、
斯様な斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と
相俟って、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、
端を発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
と私は突然に頓狂な声を出した。それ程に
胎児の夢という言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は
矢張りチットモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、
追付けお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が
判然っておりませぬのに、
況して今から二十年も昔に
遡った……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、
予ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼を
瞠らぬ者はないくらいで御座いました。
……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた
独逸語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言
混りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を
愚弄しているかの如く見えましたので、
流石に当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも
八釜し屋を
以て鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文
銓衡の神聖を
穢す者は、この正木という青二才に
外ならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
と
敦圉いているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
……
斯様な事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、
愈々当日となりますと果して各教授とも
略々、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
「……暫く待って頂きたい。席末から甚だ僭越と思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
……第一にこの論文を批難する諸君は、文章が
体を成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
……次にはこの論文の内容であるが、これも
亦、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみ
囚われて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、如何に焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張する者である。
……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万有進化の実況』とも題すべき数億年、
乃至数十億年の長時間に
亘る連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖の、形容を絶する偉観、壮観までも、一
分一
厘違わぬ実感を以て、さながらに描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目を
眩まして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明白に描きあらわすところの、
驚駭と、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、
及、精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。
但、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数も
零である……という事に諸君の御意見は一致しているようである。
……これは一応、
御尤も千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学時代に於て、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。
苟も過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。
……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、
所謂、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如何なる夢を描きあらわしておったか。如何なる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でないといえようか。……
況んや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお
伽話の作者といえようか。科学者でないといえようか。
……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、
及、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も
嶄新な学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ
翹望し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」
……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
……ところで斎藤先生の
斯様な主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生は
忽ちの
中に満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、
該博深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の
銓衡を全部、翌日に廻わして、ラムプを
点けて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、
後に名総長と
謳われました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、
恩賜の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか
行衛不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口を
噤んだ。
恰も何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口を
啓いた。
「正木先生が
何故に、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという
真個の原因に就ては今日まで、
何人も考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑を
容れないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛を
晦まされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児に
魘やかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方が
宜しいと思いますが」
と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に
痙攣らせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が
何人であるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、
扨て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には
斯様な意味の抱負が述べてありましたそうです。
――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした。あの論文の価値が、こんなに
易々と看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽に伝える事は出来ないと思った。
――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、
何人にも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて「どこまでも人を喰った男だ」と云って大笑いをされたという事ですが……。
……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、墺、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、その
中に大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は
宿所を定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄
外道祭文』と題する小冊子を、一般民衆に配布して廻られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナ事が書いてあるのですか」
「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だ曾て発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。
要約めて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の
内幕が曝露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局、その他、各
官衙や学校へ
洽ねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚を
敲いて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に
頒布して
廻わられたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、
陰に
陽に正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えように依っては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず
破毀されて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられなかったようで、唯、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、
斯様な宣伝をされたものと考えられるので御座います」
「それじゃ
矢っ
張り……」
と云いさした私は、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして
唾液を
嚥み込み嚥み込みつぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々の測り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした
突飛な、
大袈裟な行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、
否まれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」
若林博士はコンナ風に云いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度座り直さずにはおられなくなるまで、私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな
咳払いをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……
然るに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の
居室をノックされましたのには、
流石の私もビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ
磊落な態度で、頭を掻き掻きこんなお話をされました。
「イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間
前に
門司駅の改札口で、今まで持っていた
金側時計を
掏摸にして
遣られてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円位のモノだったが惜しい事をしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでその
序に、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格別
芳ばしいものも思い当らないので、そのまま門司の
伊勢源旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それはこっちから紹介してもいいが、役目柄、学部長の若林君の手を経て提出した方がよかろうと云われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。面倒だろうがどうか一つ宜しく頼む」
というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下附される事になりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を
震駭させるであろうと斎藤先生が予言されました『脳髄論』であったのです」
「……脳髄論……」
「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話いたしました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重を極めたもので、意味の取り違えを防ぐために、
独逸語と、
羅甸語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何も無い宿屋の二階で
僅々二三週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と、精力からして既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで
何人も説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截に説明してしまわれたのです。……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先生は、無論、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、
一と通りの審査、考究を終られますと、その翌日の早朝に、現、松原総長を自宅に訪問されまして、
「……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがありますと、この大学の恥辱になると思いますから……」
と暗涙を浮めて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、又も
行衛を
晦まして
終われた折柄ですし、殊に斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現、松原総長は、
急き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて、留任を希望する一方に、この論文を学位論文として、正木先生に学位を授くる事に内定した……という事が、やはり学界の美談として伝えられております。
尤もこの事は、誰かの口から洩れたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
若林博士は、こういった私の質問が耳に這入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間の
皺が一層深くなった。そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息を
吐いたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
と私は
空虚な声を出した。話の模様があんまり
唐突に変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤博士の微笑とを
交る交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、
平生の通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり
筥崎、
網屋町の自宅には帰られませんでした。そうしてその
翌る朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっております。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の
塵芥捨場と、
草原と、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で
酒杯を手にされるのは、学内でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと云ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は
千代町方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで
踏外して海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然掴めないのです……。
……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人の
怨みを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのが唯一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ
判明らないのですか」
「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」
「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の
所謂『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに
呆気ないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意に
出でたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されました
後でないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
私は次から次に落ちかかって来る疑問の
氷塊に、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に
惨酷たらしい『狂人
焚殺』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大
卓子や、その上に
欠伸をし続けている赤い
達磨の灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
私は
一寸の間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは
斯様な
仔細です」
と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく
飄然と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で
捉まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が
取次だのですから、誰一人として総長の
斯様な
遣り方を、異様に思う者はありませんでした。
却って感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、この
間の消息が詳しく
素破抜いてありますが、その時に正木先生は、
見窶らしい
紋付、
袴の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕は
飽く迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
と
悄げ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ
祭文の中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも
矢張り天意と申せば申されましょうが、……しかしいずれに致しましても
斯様に偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違御座いません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
私は又も深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。
或る感銘深い静寂が、
少時の間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日附は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日附ですね」
私がこう云って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリと閉じて、
顋をグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイに
剥き出して私を
睨み付けた。しかも、それが余りに突然であったために、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何にも満足に
堪えないという風に
額を輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目醒めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日附を示しているので御座います。今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」
若林博士はこの時に、又も荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、
屈んだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それは又なぜ……」
「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたのです」
……青天の
霹靂……とでも形容しようか。何とも云いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落付けた時には、
譫言のように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
その声が自分の耳に這入ると私は又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。
そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。
そうすると若林博士も今までになく、
儼然と姿勢を正して私を凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔な声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、
遂に、その刀を打ち折り、その
箭種を
射尽くされたとでも申しましょうか……どうしても自殺されなければならぬ
破目に陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創に
係る
曠古の精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
と云いさして私は
口籠もった。形容の出来ない昂奮に全身が
青褪めたように感じつつ
辛うじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
と若林博士は
儼乎たる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命を
咀われるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された
曠古の大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」
それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
と云ううちに若林博士は、今まで
話片手に眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、
恭しく私の前に押し進めた。
私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように
鄭重な態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容を
検めてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判
罫紙や、新聞の切抜を貼り付けた
羅紗紙の綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、
卓子の上に置き直した。
その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究の
中でも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容を
覗うのに必要な文献としましては、
僅にソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、
容易く、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄
外道祭文』と題しまする
阿呆陀羅経の歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。
……それから次に
羅紗紙の台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、その
中でも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、
辛辣な
諧謔交りに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。……又……その次に『脳髄は物を考える処に
非ず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。
……それからその下の方の日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の
銓衡に一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因も
亦、実にこの一篇の中に胚胎していると申しましょうか……その次に在ります
西洋大判罫紙の走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯を
賭して研究して行かれた痛快な事蹟が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、
曠古の大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、
万華鏡の如く華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」
私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一
頁の標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……
キチガイ地獄外道祭文
――一名、狂人の暗黒時代――
墺国理学博士
独国哲学博士 面黒楼万児 作歌
仏国文学博士
▼ああア――アア――あああ。右や左の
御方様へ。旦那
御新造、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なぞと云うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの
道傍に。まかり
出でたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償だよ。こちらへ寄ったり。押してはいけない。チャカポコチャカポコ……
……サッサ来た来た。来て見てビックリ……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……
▼ア――あ――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。
背丈が五尺と一寸そこらで。年の頃なら三十五六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち込み歯は総入歯で。
痩せた
肋骨が洗濯板なる。着ている
布子が畑の
案山子よ。足に引きずる
草履と見たれば。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸の
泥舟まがいじゃ。乞食まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風に
晒され
天日に焼かれて。きょうもおんなじ
青天井だよ。道のほとりに
鞄を拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞晒す。
曰く因縁、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼ア――あ。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類
眷族、
嬶も
妾ももちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャンだよ。
氏も
素性もスカラカ、チャカポコ。鞄一つが
身上一つじゃ。親は木の股キラクな風の。吹くに任かせた
暢気な身の上。流れ渡った世界の
旅行じゃ。
北京、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角い
伯林、酔うがミュンヘン、歌うが
維納、躍る
巴里や居眠る
倫敦、海を渡れば自由の
亜米利加。女の市場がアノ
紐育じゃ。
桑港の
賭博よ。
市俄古の酒よと。千鳥足まで
米利堅気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの
土産というのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……
▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私の
凹んだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切、お金は要らない。要らぬばかりかその聞き賃には、こんな
書物を一冊上げます。私が只今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買わせる
手段じゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――
祭ア――エ――
文。キチガ――ア――イ――
地イ
獄ウ――……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
一
▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。
娑婆というのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐり
廻って落ち行く先だよ。修羅や畜生、餓鬼道越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。
剣樹地獄や
石斫地獄。
火煩、熱湯、
倒懸地獄と。数をつくした八万地獄じゃ。娑婆で作った因果の
報いで。切られ、砕かれ、
焙られ、煮られ。
阿鼻や叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無限の責め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高い
処から
和尚の談義じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。高い
処から和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の
賽銭集めじゃ。
釈迦も知らない嘘八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と
品事かわって。
鉦を叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの
川竹地獄。義理と
人情のカスガイ地獄。又は犯した悪事のむくいで。御用、
捕ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息も
吐かれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの
閻魔は医学の博士で。学士連中が
牛頭馬頭どころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の
罪科、見分けて
嗅ぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す
清浄玻璃の。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。
滅多矢鱈に追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が
逆立つ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。嘘というなら這入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと云うても皆様方には。まだまだ
合点が行きかねましょうが。物は順序じゃお聞きなされよ。聞いているうち
如何にも、もっとも、そんな事とは知らずにいたわい。成る程そうかと合点が行きます。合点が行ったら八万四千の。身内の毛穴がゾクゾク
粟立つ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さても
斯様な地獄の起りが。
曰く因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。文明開化のお
蔭と御座る。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来と申せば。科学知識の
尊とい
賜物。中に尊といお医者の仕事じゃ。人の病気を
治癒すが役目じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。人の病気を
治癒すが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の
身体の狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャクリが止まるよ。トテも驚く進歩の違いじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違う筈だよ相手が違う。人の
身体は形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も
解剖けば見えます。打診、聴診、
X光線。ピルケ反応、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やら解らぬ病気や。薬ちがいや診察ちがいや。又は手当ての違いで死んでも。あとで
屍体を解剖したなら。どこが悪いと、すぐ
様わかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察出来ない……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。人の心は診察出来ない。たとい如何なる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするやら。どこの心配
切解するやら。
癇の虫見る眼鏡も無ければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上った事かや。
贋のキチガイ
真実のキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞えず姿も見えない。
屁より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。馬鹿に附けよう薬は無いと。昔の
譬えは今でも
真実じゃ。つまるところが精神病は。診察治療が絶対不可能。科学知識で研究出来ない。わけのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃと解かると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂いは。診察、治療が出来ぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。又は
瘋癲、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろげて。意匠
凝らした玄関構えじゃ。
高価い診察、治療の
代だよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をしているものかや。あれは
詐欺師か掴ませものかと。どなたも御不審なさるであろうが。チョット待ったり話は順序じゃ。世にも馬鹿げた内幕話じゃ。診察治療が出来ないお蔭で。お医者がステキに
儲かる話じゃ。これがホンマの
阿呆陀羅経だよ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
二
スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア――ああア。
扨も昔のその又昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の
身体の病気というても。人の心の病気と同様。何が何やら解らぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。
何んぞ
彼んぞの
障りというては。祈祷、
禁厭、
御神水じゃ、お
守札じゃ。
御符なんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ
治療らぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。
服めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べた
揚句が。人の病気は身体の中の。ここが
斯様に狂うが
原因じゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖、生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水も洩らさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを
治療す。科学知識の大光明が。日々に明るく輝やき渡るよ……スカラカ、チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。日々に明るく輝やき渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを
治癒す。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたかと見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。
畏れ敬い礼拝したり。又は生き霊、死霊の
所業と。物を供えて
大切にかけたが。それはまだしも処によっては。こいつに悪魔が
憑いたというので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた
僧侶や
巫女が。見付け次第の指さし次第に。
槍や
刀剣や、投げ縄、弓矢。
棍棒担いだ役人共が。
片っ
端から頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節お
上でなさる。狂犬退治とおんなじ
仕置きじゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこで
斯様に精神病の。
原因が何やら解からぬとこから。出来た迷信邪法を使って。悪い事する奴等が出て来た。しかも余っぽど
怜悧な奴等じゃ。物の
怨みや嫉妬や毛嫌い。又は政敵、商売
讐仇と。道理
外れた憎しみ
猜みで。
彼奴が邪魔じゃと思うた揚句が。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人
輩に。
賄賂使うて引っ
括らせます。
有無を言わさずキチガイ扱い。国の
掟の死刑にさせます。軽いところで牢屋の
住居じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位や名誉や。又は財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの。お家騒動、
内輪の
揉めから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った
実例が。チラリチラリと残っております。ならば今では、どうかと見ますと。おなじ事じゃと云いたいなれども。言えぬどころか、
今少と
非道いよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
三
……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の
御代だよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療が出来ないなんぞと。ウッカリ云うたら言い出し
屁コキじゃ。そういう奴こそキチガイだろうと。
仰言るお方が在るかも知れぬが。そういうお方が私は好きだよ。理智と常識、科学の知識を。いつも忘れぬ立派なお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。物は試しじゃお
閑暇の時分に。ちょっとそこらの精神病院。又は学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中味を調べて御覧よ。サテモ並んだ病気の名前じゃ。丸い洋文字、四角い漢字と。押し合いヘシ合い何百何千。指を折るさえ難儀な位じゃ。さては今では精神病者も。外科や内科の患者と同様。科学知識の光りに照され。底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるのは素人ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。有難がるのは素人ばっかり。憎まれ口をばたたくじゃないが。お
魂消なさるな西洋日本で。天の
際涯から地のドン底まで。調べ抜いたる科学者連中が。寄ってたかって研究しても。カンジンカナメの一番
大切な。オノレが
頭蓋の
空洞の中に。トグロ巻いてる脳味噌ばかりは。ドンナ作用しているものやら。
真実のところが全くわからぬ。それを
嘘言じゃと思うたお方は。古今東西あらゆる学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところで御座るの。知識、経験、昔の記憶を。保存しておく倉庫で御座るの。何が何して何じゃら
彼じゃら。
浪花節なら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事実は一つもわからん……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。確かな事実は一つもわからぬ。わからぬ筈だよ不思議は御座らぬ。
凡そ天下が広いというても。人の脳髄ホントに調べて。腹の立つほど簡単明瞭。奇妙キテレツ珍妙無類な。脳の作用を
見貫いた者なら。問わず語りで
烏滸がましいが。ここに居ります
私ばっかり。……なぞと云うたら皆さん方は。そういうお前の脳味噌だけが。毎日
天日に焼かれたお蔭で。
性が変って
来ものダンベイ。なぞとお笑いなさるか知らぬが。
真実にそうダンベイかも知れぬが。そこが私の道楽仕事じゃ。世界各地の博士や学者を。アッといわせる研究
仕遂げて。二十億万人類社会の。アタマの入れ換えするのが楽しみ。いずれそのうちその論文なら。或る大学から発表されます。それを御覧になったらわかるよ。ほかのあらゆる世界の学者は。脳の研究しかたを知らない。見当違いの思惑ずくめで。多分だろうと思った位の。
真実めかした
当筒砲だよ。一つの道理は説明出来ても。ほかの事実が解釈出来ない。あちらを立てればこちらが立たない。九尺二間に雨戸が二枚じゃ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。九尺二間に雨戸が二枚じゃ。まして
況んや朝から晩まで。
走馬燈籠か百色眼鏡か。猫の眼玉じゃ、七面鳥じゃと。泣いて笑いつクルクルチラチラ。千変万化の秘術をつくす。人の心のその正体が。どんな姿の形のものやら。それがどうして狂うたものやら。酒屋の半七さんではないが。どこにどうして御座ろうものやら。ただの一つも解かっていませぬ。それが証拠は何より眼の前。今の精神病科の書物に。並び並んだ病気の名前じゃ。そんな書物を作った学者が。何が何やらわからぬまんまに。ザッと患者の
表面眺めて。身振り素振りを引当て目当てに。つけもつけたり
素人欺瞞しじゃ。
色気狂いが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。舞踏狂なら踊りを踊るの。放火狂なら
放け
火をするのと。何の科学で調べた事かや。わかり切ったる名前の附け方。医者でなくとも誰でも附けます。
怒り
上戸やアノ泣き上戸。笑い上戸に後引き上戸。
梯子上戸と世間の人が。酔うた姿を見かけの通りに。名前つけるとおんなじ流儀じゃ。これで診察出来るが奇妙じゃ……チャカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。
▼あ――ア。これで診察出来るが奇妙じゃ。サテモ精神病者を受け持つ。博士、学士の医者様たちは。人の心の狂うた処や。又は狂わぬ確かな証拠を。どこで調べて見分けて行くかと。不思議がるのは又素人だよ。そこは商売、心配無用じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の
玄関へ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正気に見えない。かなり
嵩じた連中ばかりじゃ。又は見かけが普通と変らぬ。落付き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントお
上へ手続き済まして。精神病者に相違が御座らぬ。不法監禁お構いなしじゃと。法律ずくめの許可証揃えて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数がかからぬ。家族連中の話の模様や。又は患者の
態度を眺めて。書物拡げて照し合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので。赤い
煉瓦へ
打ち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリと居るかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦の地獄じゃ。「違う違う」と云い訳したとて。それが、そのまま「キの字」の証拠と。今も昔も変らぬ
運命じゃ。放火狂じゃと
診察をつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞ
計らん色情狂だよ。
窃盗狂者の
標本と思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。決してないから気楽なものだよ。テンカラ診察出来ない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。サテモ気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。
扨も気楽な
精神病医者だよ。ならば治療の仕方はどうかと。心配するだけ
野暮天、素人。これも、やっぱり診察同様。
盲目探りの真っ暗闇だよ。すぐに脳天砕かぬところが。開け行く世のお蔭か知らぬが。患者側から云わせて見たなら。どうか解からぬ証拠は眼の前。どこでも構わぬソンジョのそこらの。精神病院
覗いて御覧よ。鉄の格子の牢屋はもちろん。今の
未決監や監獄なぞには。影も見せない道具の数々。鉄の鎖に袖無し
襯衣だよ。
手枷、足枷。
磔刑寝台じゃ。小窓開いた石箱なんぞが。ズラリズラット並んだ
光景。どんな極重悪人とても。五体震わす拷問道具じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。五体震わす拷問道具じゃ。それに引換え入院患者の。心の狂いをホントに
治癒す。薬器械のたぐいというたら。只の一つも見当りませぬ。眠らぬ患者に
麻酔の注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。物を喰わねば栄養物の。注射、
浣腸ぐらいのものです。下手な内科や外科にも劣る。あとは
治癒ればお医者の手柄で。死ねば運じゃと済ましたもんだよ。アハハのエヘヘの平気の
平左じゃ。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ。なれどここらはまだ小手調べじゃ。キチガイ地獄の
三途の川だよ。聞いたばかりで身の毛がザワ付く。八万地獄は愚かな事だよ。阿呆メチャクチャ
出鱈目放題。あらん限りの虐待つづける。この世からなる精神病者の。地獄ゥ――めぐりィ――はァ――サテこれェ――かァ――ら――じゃァ――い……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
四
▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。なんと皆さん
魂消なさるなよ。これは日本の話じゃ御座らぬ。
唐や
天竺あちらの話じゃ。世界各地の精神病医が。こんな無慈悲な心で建てたる。
外観立派な病院地獄は。こんな愚かな亡者の患者で。一つ残らず満員している。それも道理かその第一には。そんな地獄の
寝台の数をば。今の千倍、万倍したとて。人間世界のそこでもここでも。ヒョクリヒョクリとあらわれ飛び出す。精神病者の数には足りない。しかも一旦入院したなら。
治癒る期間が長いはまだしも。一生出られぬ患者もあるので。
否が応でも大入満員。そこでお医者が威張るわ威張るわ。どんな事でも患者に仕向けて。面倒臭いか納める金が。すこし渋るかするその時は。直ぐにドシドシ退院させます。自宅治療のお許し附きで。無事に出て来る患者もあれば。ほかの病気の
診断書付きで。棺に這入って出るのも在るが。後の代りはアトカラアトカラ。押すな押すなの改札口だよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。押すな押すなの改札口だよ。なれどソイツは話が
怪訝しい。奇妙、不思議じゃ一体全体。そんな処へお金を出して。何がためなら入院させるか。なぞと御不審なされるお方は。われと身内に精神病者が。出来た経験持たない方だよ。まずはゆっくりお聞きなされませ。モット驚く話がこれから。チャカラカ、チャカポコ飛び出しまする。私ゃ知らんが木魚が知っとる。……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。わたしゃ知らんが木魚が知っとる。もっと驚く事実があります。しかもどこでも共通平等。精神病院関係者ならば。云わず語りで誰でも知っとる。極秘親展正直正銘。ここを限りの話というたら。ちょっと
辻褄合わぬか知らぬが。チャント合うのが木魚の話じゃ。すべてキチガイ患者を連れて。赤い煉瓦のお
玄関先へ。お辞儀しに来る連中の中でも。親や兄弟、
妻子やなんぞは。どうか
治癒して下さりませと。涙流して溜息ついて。頼み入るのが少くないが。そんな
骨肉の連中の中でも。ホンニ
心から
真情籠めて。
治療すつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり。それも真実わが腹痛めた。息子か娘が患者の場合じゃ。ほかの
骨肉の連中と来たなら。同じ血分けた
父兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ。
殊にお若い妻君なんぞは。
申訳だけ二三日位は。側で溜息
吐くかと思えば。里の方から迎えに来るのを。待っていたようにハイチャイ
極め込む。それもまだまだ最極上だよ。医者に患者を渡すと間もなく。部屋がどこやら
決定りもせぬうち。電話かけにか便所に行くのか。帯の間の鏡を覗いて。鼻のアタマをパタパタやるうち。スラリと姿を消したが別れじゃ。二度と姿を見せないものだよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。二度と姿を見せぬが普通じゃ。ドウセ
治癒らぬ病気と
決定れば。医師に見せるは体裁だけだよ。棄てに来るのが本当の腹だよ。生きて生き甲斐ないこの病気。どうぞよろしく頼みますると。頼む挨拶ウラから聞くと。もしも
治癒れば迷惑千万。なろう事なら殺して欲しいと。云わぬ心がハッキリ見え透く。ここが患者の生死の境いで。医者が大いに儲かるところじゃ。……オットそんなに眼の色かえて。そんな事が……とお
白眼みなさるな。現にこの眼で見て来た事です。但し日本の事では御座らぬ。
唐や
天竺、
西洋の事だよ。耳も無ければ眼玉も持たない。物も云わない木魚の話じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。物を云わない木魚の話じゃ。唐や天竺あちらの話じゃ。男、女の区別を問わない。一度発狂した人間なら。ドンナ平気な顔しておっても。思いがけなく乱暴したり。人を斬ったり
放火をしたり。嫌な気持やオカシナ
所業を。あたり八方ひろげてサラゲル。人の姿の犬畜生だよ。人間扱いするには及ばぬ。ドンナ
手酷い仕置きをするとも。石や
瓦の投げ撃ちしても。罪にゃならない相手も
記憶えぬ。たとい立派に
治癒ったようでも。いつが
何時、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらにいうその上に。あれは
血統じゃ
扨おそろしやの。何の
祟りじゃ
応酬じゃなんどと。
眼指し指さしするのが世間じゃ。そんなサナカに自分の身内に。思いがけない精神病者が。ヒョイと出て来るサア一大事じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。ヒョイと出て来るサア大変だよ。それも上流、金持ち社会で。ものに不自由せぬ
家だったら。座敷牢でも作れば片付く。
治癒る当てどもない病院へ。入れる必要あるまいなんぞと。アッサリ云うのは上流社会の。つらいところを知らない人だよ。すこし世間に知られた一家で。一度キの字を出したら最後じゃ。
万劫末代
血統に
障る。早い話が
忰や娘の。縁があぶなくなるその上に。近所隣りの目下の連中に。あれは
非道なお金の祟りよ。無理な出世の
報いよなんどと。白い眼をされ舌さし出され。うしろ指をば
指さるる
辛らさ。御門構えの
估券にかかわる。そこで情実、
権柄ずくだの。縁故
辿った手数をつくして。赤い煉瓦へコッソリ入れます。もしも満員している時は。もっと届いた手数をつくして。無理な都合を院長に頼む。とかくこの世はお金の沙汰だよ。
況してキチガイ地獄の沙汰だよ。
閻魔面した院長さんでも。すぐに地蔵の笑顔に変って。慈悲の
御手で迎える代りに。ほかの患者を極楽まわしじゃ。金があってもまずこの通りじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。金があってもまずこの通りじゃ。身分家柄、名誉や地位なぞ。あれば在るほど精神病者の。自宅治療はいよいよ困難。赤い煉瓦へ人目を忍んで。封じておかねば安心出来ない。ところが中流社会となったら。きまり切ったる月給年俸。細い収入
生命の綱ぞと。頼む主人や家族の中で。だれか一人が発狂しますと。借家だったら追い立て喰います。座敷牢なぞ思いも寄らない。すこし患者に手数がかかると。貯金、恩給、忽ち煙じゃ。しかもその上介抱人が。主人だったら
出勤が
叶わず。奥さんだったら仕事が出来ない。又は子供が学校に行けば。あれは「キの字」の卵よなんどと。寄って
集って嘲弄されます。云うに云われぬ切なさ
辛らさが。たった一度に皆落ちかかるよ。残る一つの頼みの綱なら。赤い煉瓦の院長様よと。出来ぬ算段して来て見れば。どこへ行っても満員ばかりじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。どこへ行っても満員ばっかり。しかもコイツが一段落ちて。その日暮しのシガナイ稼ぎじゃ。
嬶は内職、娘は
工場。なぞというような一家となったら。
酷さ
悲惨さ話にならない。介抱どころか、お薬どころか。すぐにそのまま一家が揃うて。
顎を天井に吊るさにゃならぬ。いっそ狂うて死んでもくれたら。まだも増しよと
怨んでみても。当の本人キチガイ殿は。死ぬるどころか大飯喰ろうて。
治癒る
当て
途もない顔つきだよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。
治癒る当てどもない顔付きだよ。こんな調子で人間世界に。麦の黒穂か菜種の馬か。花や野菜の狂いと同様。わけもわからず理屈も立てずに。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。数え切れない精神病者を。
無料で引受け入院させるは。広い世間に大学ばっかり。それも寝台が何百あろうか。しかも慈善でするのじゃ御座らぬ。学生教授の研究材料。生きた標本講義の参考に。都合よいのを
選り取り見取りで。アトは要らぬと玄関払いじゃ。ならば私立はどうかと見ますと。これは何しろ商売本位じゃ。みんな金ずく
権柄ずくめの。オエライ患者で超満員だよ……チャカラカ、チャカポコ……
▼あ――ア。エライ患者の大入満員。さても
斯様に持て余されたる。数も知れない狂人たちは。どこでどうして片付けられるか。さても不思議と
審べてみたれば。サアサこれから又聞き事だよ。耳も聞こえず眼玉も見えない。口も動かぬ
片輪の木魚が。見たり聞いたりして来た話が。腹は
空ッポ公平無私だよ。タタキ出します
阿呆陀羅経だよ。地獄めぐりのチョンガレ文句が。ドンと一段、深みへ落ちます。……サアサ寄った寄った話の種だよ。お金は要らない。聞いたら
ビックリ……スカラカ、チャカポコチャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
五
▼スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア――あア――ア。エ――エ。さても皆さん
斯様な次第で。一人のキチガイ患者が出ますと。ほかの病気と
品事かわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。トテモこうして
自宅へは置けない。どうかせねばと思案をしても。どうも仕様が見当りませぬ。とかくするうち無理算段した。金は無くなる、仕事は出来ない。やがて一家が
干乾しは眼の前。さても切なや、悲しや、
辛らや……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。さても切なや、悲しや、辛らや、それも吾身は露いとわねど、お年寄られた親様はじめ。可愛い
吾児の行末までも。生きて甲斐ない一人のために。棄てて介抱するのが道理か。人に迷惑かけないうちに。患者もろとも首でも
縊って。一家揃うて死ぬのが道かや。何の因果で
斯様な
憂き目と泣いて怨めど肝腎カナメの。当の患者はアラレヌ眼付きで。キョロリキョロリとしているばっかり……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。キョロリキョロリとしているばかりじゃ。もとの姿は残っていても。元の心は
藻抜けの殻だよ。人の形をしているだけに。犬や猫より始末が悪いよ。情ないとも何とも
彼とも。なろう事なら代ろうものをと。歎き
悶えた
揚句の果てが。
切羽、詰まった大罪犯す……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……。
▼あ――ア。切羽詰まった大罪犯す。どこか
遠国へ
移転すふりや。知らぬ処の病院さして。入れに行く振り人には見せて。又と帰らぬ野山の涯へ。泣きの涙で患者を棄てます。なれどコイツは
捨児と違うて。拾い育てる仏は居ませぬ。居らぬどころか行く先々では。打たれたたかれ追いこくられます。飢えて
凍えてたおれた処の。木の根、草の根、肥やすか知れない。それを承知で見棄てる鬼をば。キョロリキョロリと探して見まわす。憐れな患者の名残りの姿を。はるか離れた物蔭、木蔭で。両手合わせる千万無量……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは
延喜の昔に。あのや
蝉丸、
逆髪様が。何の因果か二人も揃うて。
盲人と狂女のあられぬ姿じゃ。父の
御門に棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に
逢坂山の。お物語りは
勿体ないが。
斯様な浮世のせつない
慣わし。切羽詰まった秘密の
処分は。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。是非と道理がいえないものだよ。そんな事情で野山の涯に。迷う憐れな患者の中でも。すこし正気の残った者なら。他所の
掃溜あさってみたり。物を貰うて又生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛らさが。
遣瀬ないほど身に
沁み渡る。又は吾身の姿に恥じて。残る家族のためぞと思い。人を諦らめ世を諦らめて。流す涙が乞食の姿じゃ。三日続けば止められないと。聞いた気楽な世界に落ち込む。それがそこらの名物乞食じゃ。又は
野臥り
山窩にまじって。寺の門前。鎮守の森蔭。橋の
袂の
蒲鉾小舎で。
虱取り取り暮しているのを。一人二人と集めてみたなら。
迚も大した
人数になります。しかも左様なミジメな姿は。みんなこうした地獄のあわれを。知らぬ顔する国家や社会が。いっそ死ねよといわないばかりの。冷めたい仕打ちに消え行く数の。千か万かの一人か二人じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。千か万かの一人か二人じゃ。なんと皆さん
如何で御座る。これが普通の病気であったら。達者な者より
大切にされて。医者よ薬よ看護婦さんだよ。
柔い寝床じゃ、良い喰べ物じゃと。あるが上にもお見舞受けます。人間ばかりか犬畜生でも。小鳥、金魚も場合によっては。
後生大切に介抱されます。それに引換え精神病者は。病気の正体わからぬお蔭で。赤い煉瓦か野山の涯か。いずれ
免れぬ地獄の責め苦じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ。なれど皆さんお聞きなされませ。私が今まで木魚をチャカポコ。たたき出したる地獄のお話。病院地獄と野山の地獄は。正直正銘、
金箔付きの。精神病者が落ち行く地獄じゃ。尋常普通のキチガイ地獄じゃ。さてもこれから今
一と
馬力と。親に不孝な馬鹿声張り上げ。弁じ上げます地獄の話は。それにも一つ
噛ませた。スゴイ、ドエライ地獄の話じゃ。罪も
報いも何にも知らない。正気狂わぬ普通の男女が。チャント物事
弁えながらに。不意に手足の自由を奪われ。声も出されぬ無理
往生だよ。無理や無体に引擦り込まれて。タタキ込まれるキチガイ地獄じゃ。しかもよくよく調べてみますと。
唐や
天竺、西洋あたりに。ズラリ並んだ大建築だよ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。とても立派な大建築だよ。磨き立てたる金看板にも。新聞紙上の大広告にも、何々病院何々治療と。四角四面の
能書ばっかり。別に地獄と書いてはないが。警察新聞探偵社なぞが。チャント中味を知り抜き
乍らに。知らぬ顔する不思議な商売。天下御免の扉の内側へ。ウカと片足入れたが最後じゃ。泣けど叫べど狂えど
藻掻けど。二度と出られぬ暗黒世界じゃ。そんな処が在るとも知らずに。二十世紀の文化の世界じゃ。科学知識の万能時代じゃ。法律道徳礼儀の世界と。威張り腐って歩るけたものだよ。
明日は自分が落ちるか知れない。キチガイ地獄のドン底地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
六
▼チャカポコチャカポコ。チャカラカチャカポコ。あ――ア。よもや日本にゃ無いとは思うが。人を殺すにゃ短刀ピストル。
麻酔薬、毒薬、
絹紐、ハンカチ。数を尽くした
瓦落多道具が。あるが中にも文明国では。一と呼ばれるホントウ国だよ。そこの
首都のタマゲタ
市で。わしが見て来た新式手段が。意気で
高尚でハイカラ道具は。昼の日中に公々然と。巡査お医者を立会いさせて。血潮残さず指紋も止めない。ドンナ検事や探偵連中が。不審抱いて調べて見たとて。指もさされぬステキナ手段じゃ。但しお金が少々かかるが。かかる代りに
利益が大きい。とかくこの世はお金が
讐敵じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。とかくこの世はお金が讐敵じゃ。まずは財産相続事件じゃ。政治、外交、軍機の秘密と。何か
素敵な大金儲けで。
彼奴が邪魔じゃと思うた一念。
狙う相手が一人で歩るく。
情婦の
棲家か
賭博の打場か。又は秘密の相談場所だの。ソッと入込む息抜き場所に。近いあたりの道筋突き止め。かねて雇うた精神病医の。慾の深いを同伴させて。ソンジョそこらの巡査に頼む。実は私の親友ですが。すこし精神異状を呈し。家に帰らず淋しい処を。ブラリブラリと歩くが病い。そこでお医者に見せたいなれど。俺は何ともないなぞいうて。
得物振り立て暴れまするで。止むを得ませぬ非常の手段。いつもここらを通るとわかり。取って押えに張り込みまする。そこでお仲間両三人の。お手が拝借願えましょうか。なぞと云ううちお金をいくらか。医師の口添え右から左と。思う通りに手順を運んで。ドンと落せばドンデン返し。狙う相手は
千仞奈落。生きて出られぬキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。出るに出られぬキチガイ地獄じゃ。これがお家の騒動なんかで。狙う相手がまだウラ若い。息子か娘と来ているならば。もっと気取った手段があります。殊に近代思想にカブレた。頭の過敏の連中だったら。ズット手数が省ける訳だよ。すこし皮肉に取扱ったり。又は立場をコミ入らせると。すぐに神経衰弱式だよ。頬が青褪め眼玉がキラキラ。
挙動言語が変って来まする。これをシコタマ掴んだお医者に。
診せてしまえばこっちのものだよ。静養させるは
表面の口実。花の
蕾が開かぬまんまに。あわれ落ち行く
無間の地獄じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ。こんな患者を専門にして。やって行くのがホントウ国でも。音に名高いマッタク博士じゃ。それも初めは普通のお医者で。やっていたのがこの種の患者は。貰う謝礼がステキに大きい。そこでだんだんそちらの専門。今じゃ
大入大繁昌だよ。ナント
吃驚タマゲタ
市に。善美つくした病院構えて。中に並ぶが現代文化の。
粋を揃えた拷問道具に。息も洩らさぬ殺人設備じゃ。一眼見たらば真夏の土用も。零下何度の大寒地獄じゃ。それに引換え表の通りは。光り輝やく玄関構えに。並ぶ自動車その数知れない。しかも富豪や名士の家庭の。秘密握っているのが強味じゃ。
強請次第にお金が取れます。もしもその手が利かない時には。当の本人、秘密の正体。無理に作った正気の患者を。誤診だったと発表するぞよ。すぐに全快退院させるぞ。又は患者の味方となって。そちらの秘密を世間へ
発くぞ。なんぞかんぞと絞った
揚句に。ゆする相手が破産をしたり。こちらの不正が
曝れると見込めば。当の秘密の入院患者に。注射一本、水薬ポッタリ。あとで解剖してみるとても。そんな薬を使わにゃならぬ。ほどに暴れた患者かどうだか。今の医学の力じゃわからぬ。そこがマッタク博士の附け目じゃ。精神病医の手品の
種だよ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。精神病医の手品の種だよ。しかもまだまだ不思議の数々。
流石キチガイ地獄の本場じゃ。ホントウ国でもタマゲタ
市で。マッタク博士が大胆不敵に。そんな商売しておりながら。同じ仲間の地道なお医者に。指を一本指されぬばかりか。文句云われず批難を受けない。政府、警察、新聞記者まで。鳴りを静めて見ているばっかり……スチャラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。鳴りを静めて見ているばかりじゃ。つづく不思議がホントウ国の。機密費用の大
弗箱だよ。そこを洩れ出す巨万のお金が。マッタク博士のポケットの中へ。ソロリソロリと音さえ立てない。それかばかりかマッタク博士の。広い肩幅大きな胸には。並ぶメタルや勲章の数々。それも国家に偉大な功労。捧げた文官武官の連中が。
滅多に貰えぬドエライ奴だよ。
独逸、
仏蘭西、
英吉利、
露西亜。日本なんぞは無かったようだが。それにつけてもマッタク博士が。そんな世界の強国相手に。ドンナ偉大な功労つくせば。コンナ勲章貰えたものかや。これはドウジャと
魂消るばっかり……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
七
▼スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ。あ――ア。さても皆さん退屈様とは。思いますれどここらで止めては。仏作って魂入れずじゃ。破れカブレの
封切序に。並べ上げたる不思議の数々。眼にも止まらず耳にも聞こえぬ。科学文化の地獄の正体。底のドン底のドンドコドンまで。タタキ破って
曝らげて拡ろげて。これはホントにタマゲタ話じゃ。マッタク
凄いよ成る程そうかと。お立会い
衆が
合点の行くまで。ザット御機嫌伺いまする。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。世にも不思議な木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。
聾唖の木魚の阿呆陀羅経だよ。さても
然るにスカラカ、チャカポコ。そもやホントウ民衆国は。表向きでは世界の強国。世界一ならお国の自慢じゃ。自由正義の本場ときまった。民権本位の理想の国じゃと。呼ばれまするが日本と違うて。国の元首に誰でもなれます。お金本位の勢力本位じゃ。忠義という字も言葉も無いから。一から十までお金が物言う。正義、法律、お金で買えます。良心、貞操、むろんの事だよ。自由民権手段を撰ばず。掴んで離さぬ
熊鷹根性の。億万長者の一流どころが。国の利益は自分の利益と。
盤石動かぬ
算盤ずくめで。政治の実権握っているから。いくら政府が交代したとて。億万長者の威光は変らぬ。上は大臣、議員をはじめて。下は巡査や兵隊たちまで。国の繁昌一手に握った。一流どころの億万長者の。お金儲けの番頭手先じゃ。法律正義の仮面を
冠って。弱い正しい人間たちの。自由、道徳、義理人情をば。
片っ
端から踏み付けまわる。そこで
斯様な富豪たちの。非道な栄華を
心から憎しむ。正義の味方の学者や牧師が。言論自由の権利の下に。富豪いじめの演説はじめる。又は書物に書いたりしますと。エライエライと皆
賞め立てます。下層社会の人気が集まる。資本家倒せの
輿論が高まる……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。富豪倒せの輿論が高まる。そこで富豪が
厄鬼となります。そんな主張や輿論を掲げた。雑誌新聞デスクに投げ出し。これをどうしてくれるかなんどと。葉巻片手に政府を責めます。そこで政府は大いに困る。困る筈だよ政府の連中は。そんな富豪の番頭さんなら。御機嫌取らなきゃ立場があぶない。次の選挙の費用が貰えぬ。なれど個人の自由は自由じゃ。国の掟にちっとも触れない。筋道通った立派な人物。正義の味方の学者や牧師を。まさか追立て喰わせもならず。
況して牢屋へ入れたりしたらば。エライ輿論の反対受けます。そこで思案に詰まった揚句が。裏の裏行くキチガイ地獄じゃ。そんな学者や牧師の中でも。首領株だけ眼星をつけて。お手の物なら刑事を使って。狙うているとは
夢露知らずに。タッタ一人で淋しい処を。歩く後から足音忍ばせ。アットいう間に引ずり倒して。精神病者を押えた
形式で。大きな手錠と足錠かけます。顔に当てがう
麻酔薬のハンカチ。蔭に待たせたマッタク博士の。病院自動車眼がけて投込む。あとは皆まで云わずとわかる……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。あとは皆まで云わずとわかるよ。これを感付く文明諸国じゃ。国家個人の区別を問わない。わるい思案に詰まった連中が。こんな便利な手段は無いぞと。われもわれもと
秘密の頼みじゃ。這入る患者は政治家、学者。軍事探偵、大発明家。富豪、名家の跡取り世取り。又は名優スターの類だよ。他人の野心や不正の利得や。又は秘密の計画事業の。邪魔をする程手腕があったか。エライ立場におったが因果じゃ。予審、公判、宣告無しの。無期や有期の徒刑は勿論。電気椅子より手軽い死刑も。註文次第の何やら次第じゃ。ほんにこれこそ地獄の沙汰だよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。ホンニこれこそ地獄の沙汰だよ。そこに落ち行く患者の中には。無論、狂人、
瘋癲病者も。
申訳だけ居るには居るが。中に
交った優れた人物。英雄、豪傑、天才なんどを。白い服着た
鹿爪らしい。キチガイ地獄の
牛頭馬頭どもが。手取り足取りして行くあとから。金や勲章の
山築く上から。ニヤリ見送るマッタク博士じゃ……チャチャラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
八
▼チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ。あ――ア。ナント皆さん紳士や淑女よ。お立ち会い
衆の大勢さまよ。これが私の洋行
土産じゃ。現代文化の
影身に付添う。この世からなる地獄の話じゃ。鳥が
囀り木の葉が茂り。花に
紅葉に極楽浄土の。中にさまよう精神病者じゃ。身寄りたよりに突きはなされて。罪も報いも泣こうに泣かれぬ。キチガイ乞食のあわれな姿じゃ。ここの村里、
彼処の町で。
夜毎日毎に追いまくられては。石や瓦の投げ打ちされては。雨にたたかれ風に
晒され。雪や氷に消え入るばっかり。そんな地獄をこの世に作った。丸い明るい天道様まで。クルリクルリと顔をば
背向けて。俺は知らぬと云うたか云わぬか。ピカリピカリと笑って御座るよ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。ピカリピカリと笑って御座るが。それはまだしも気楽な地獄じゃ。昼夜不断の電燈
瓦斯燈。唯物科学の文化の光りが。明るく光れば光って来るだけ。暗くなるのが精神文化じゃ。金じゃ女じゃ。権利じゃ義務じゃと。手段撰ばぬ悪智慧比べじゃ。道理外れた生存競争。電車自動車ソラ飛行機じゃと。縦横無尽に行き
交い飛び交う。人の運命一寸先だよ。暗に隠るる秘密の扉じゃ。連れて来られた老若男女は。狂気本気の区別を問わない。馬鹿も
怜悧も一列平等。ドンと
蹴込んでピタリと閉じたら。タッタ一呑み文句を云わせぬ。音も
香もなく落ち行く先だよ。
娑婆の道理や人情の光りが。影も
映さない暗黒世界じゃ。鉄筋煉瓦やセメント造りの。科学知識のこの世の地獄じゃ。中に重なるキチガイ地獄の。上に在るのが親切地獄で。次が軽蔑、冷笑地獄じゃ。下は
虐待、暗殺地獄の。底は何やらわからぬ地獄じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。あとは何やらわからぬ地獄の。次に並ぶはモ
一つスゴイよ。これは何でもわかった地獄じゃ。おのれ
彼奴が正気の俺をば。こんな処へ投げ込みおるかと。歯噛み、身もだえ、
地団駄、踏んでも。踏めば踏む程、親切地獄じゃ。それでも
止めねば虐待地獄じゃ。あとは無念の白骨地獄で。化けても出られぬ奈落へ抜けます……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。化けて出られぬ奈落へ抜けるよ。そんな危い地獄の扉が。もしも
本当にそこいら中に。あるとなったらさてどうなるか。お立会い衆は無論の事だよ。政府当局、天下の学者。知識階級の誰かれ問わない。血あり涙のある方々が。知らぬ顔して捨ててはおけまい。古い川柳に座敷の牢屋で。薬飲むにも油断がされぬと。(註に
曰く――座敷牢薬をのむに油断せず――
柳樽――)御座りまするはお江戸の昔じゃ。
況して
況んや近代文化の。科学知識の進歩の中でも。人の脳髄、心の正体。何が何やらわからぬために。精神病学研究し方が。八方
塞がり昔のままだよ。
贋のキチガイ
真実のキチガイ。ハッキリ区別も出来ない癖に。ほかの医学の体裁真似して。治療診察なんどというては。四角四面の病院作って。器械標本、薬に書物と。並べ飾って威張っているなら。こんな地獄が出来るは当然。これを防ぐが目下の急務じゃ。そんな病院見当り次第に。タタキ潰すが何より急務じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
九
▼チャチャラカ、ポコポコ。スカラカ、ポコポコ……
扨も左様なイカサマ病院。キチガイ地獄が出来ないように。防ぐ工夫があるかというたら。タッタ一つの手段があります。しかもなかなか大きな仕事じゃ。どこか気候と景色のよろしい。交通便利な離れた島へ。ザット一千万円かけて。かくいう私が新案工夫の。デッカイ精神病院建てます。そこへ研究試験所つけます。患者を無料で入院させます。地獄なんぞが出来ないように。解放治療というのをやります。これも私の新案工夫じゃ。すなわち正しい精神科学の。正しいキチガイ病気の治療じゃ。薬使わず手術もしませぬ。鉄の鎖や、石箱、鉄箱。
袖無襯衣なぞ一切使わず。ありとあらゆる精神病者を。広い処へ追い放しにして。一番自然な正しい治療を。しようというのが解放治療じゃ。いわば精神病者の
牧場じゃ。キチガイ患者の極楽世界じゃ。奇妙キテレツ珍妙無類の。世界初めの精神病院。むろん誰でも参観随意じゃ。ドンナ素敵な
観物になるかは。
蓋を開けねば私もわからぬ。何から何まで新発明だよ。スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。何から何まで新発明だよ。いずれその
中発表しますが。世界の学者が一人も知らない。キチガイ病気の出て来る原理じゃ。しかも
頗る簡単明瞭。ステキ滅法愉快な学理を。そこで実地の試験にかけます。診察予防が絶対不可能。薬も無ければ手術も出来ない。キチガイ病気の正体調べて。診察治療が出来るとなったら。トテモ評判大したものだよ。世界に人種が数ある中で。日本人種は見上げたものだよ。正義人道
尊ぶ国だよ。精神科学の先進国だと。云わせたいのが私の願いじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。云わせたいのが私の願いじゃ。なれど何しろ一千万の。金というたら大したもんだよ。私が親から引譲られた。
田地田畑、貯金や証文。古い
褌お金に換えても。やっと半分そこらのものだよ。あとは政府のお助け仰いで。それにも一つ皆様方の。清い
尊いお志を。たより
縋りに
遣りたい考え。五厘一銭、
藁一筋でも。
多寡は
厭わぬ願人坊主じゃ。頭たたいて頂きまする……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。アタマたたいて頂戴しまする。なれど、そういう願人坊主が。やはり「キの字」の
片割らしいぞ。眼付き
風付き何やらおかしい。非人乞食に劣らぬ姿で。道のほとりに
鞄を投げ出し。
駄声はり上げ木魚をチャカポコ。昼の
日中に外聞
晒す。しかも文句が常識外れた。世界文化の千万円じゃの。耳に聞こえず眼にさえ見せない。人の心の狂いを直すの。古今独歩の研究なんどと。途方
途轍もない事並べて。寄附を集めるイカサマ坊主じゃ。そんな古手にかかると思うか。要らぬ処で道草喰うたぞ。早く行こうと
仰言るならば。これは
如何さま
尤も千万。道理至極じゃスカラカ、チャカポコ。頭たたいてお詫びをしまする……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。頭たたいてお詫びをしまする。そもやそもそも一体全体。こんなスカラカ、チャカポコ頭が。身の程知らない木魚をたたいて。頼み手も無い金にもならない。要らぬ赤恥、
天日にさらげる。事の起りはキチガイ地獄じゃ。文明社会の裏面に拡がる。無茶と野蛮の底抜け地獄じゃ。筆も言葉も木魚も及ばぬ。むごさ、せつなさ、悲しさ
辛らさを。底の底まで見て来たお蔭で。こちらの頭が少々変テコ。これをこのまま棄ててはおけぬと。思い込んだが因果のはじまり。これを助ける方法手段を。あれよこれよと思案のあげくが。精神病者を無料で預る。デカイ病院建てるが第一。それを建てるにゃ皆様方の。輿論のお力借りねばならぬ。又は一厘一銭たりとも。無駄に使わぬ思案の果だよ。思い付いたる乞食の姿が。お眼に障わったお詫びの印じゃ。今のキチガイ地獄の歌をば。
印刷に起した
斯様な書物を。お立ち会い衆へお
頒ちしまする。お金は要らないお願いしまする。持って帰ってお読みなされて。これはどうやら
真実らしいぞ。寄附をしようかと思うたお方や。
扨は私の一生仕事の。狂人救済事業の中味を。もっと詳しく調べてみたい。又は世界の漫遊みやげの。眼先変ったキチガイ話や。家の
祟りや
血統の
障りや。生霊、死霊の怨みやなんぞが。人の心を狂わせ惑わす。スゴイ因果の因縁話を。聞いてみようかそれとも又は。何か大勢集まる場所で。そんな話をやらせて見たらば。奇抜な余興になるかも知れぬと。
思召したらお手数ながら。ここに挟んだ葉書が一枚。これにお名前お所番地。それとこれなる
頁の終りに。止めましたる宛名を書いて。ぽんとポストにお願いしまする。願うところはこの世の中に。こんな事実があります事を。向う三軒両お隣りや。どなたこなたの噂の種に。語り伝えて下さりませよ。すれば今云うキチガイ地獄や。人類文化の裏面の秘密が。
否が応でも世間へ広まる。悪い事する精神病院。キチガイ地獄を片端なぐりに。タタキ潰せと輿論が高まる……チャカポコチャカポコ……
▼そこで政府も黙っておれない。棄てておけない重大問題。社会事業の急務というので。私が投げ出す財産全部の。五百余万のお金を基本に。精神病者を無料で預かる。国立精神病院建てます。到る処の精神病者の。生産過剰の緩和を初める……チャカポコチャカポコ……
▼人に忘られ世に忘られて。狂い
藻掻いて
生命を終る。あわれな精神病者が助かる……ポコチャカポコチャカ……
▼それかばかりかその病院で。研究し出したキチガイ病気の。治療のし方が世間に広まる。世界各地のキチガイ地獄が。一つ残らず引っくり返って。ありとあらゆる精神病者の。
嬲り殺しが止みますならば。こんな本懐
至極は御座らぬ……ポコポコチャカチャカ……
▼あ――ア。こんな本懐至極は御座らぬ。そこで成る程貴様の仕事は。実に
道理千万至極じゃ。奇特、感心、立派な
了簡。俺が付いてる心配するなよ。ウント踏張り勉強やらかせ。狂人地獄をスカラカ、チャンまで。タタキ潰せよフレ――やフレーと。お賞めなされて下さるならば。私の喜び天井知らずじゃ……チャカチャカポコポコポコポコチャカチャカポコポコ……
十
▼スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん相済みませぬ。御用、お急ぎ、散歩の足をば。変な姿や奇妙な文句で。お引止めして気の毒千万。なれどつらつらおもんみまするに。三千世界を流るる時間が。何万、何億、何兆年とも。知れぬ無限の時間の
中なら。五十、七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。数え切れない
人数の中だよ。今日が只今この
道傍で。お眼にかかるも何かの御縁じゃ。お許しなされて下さりませよ。よしやこのままお別れしても。残る名残りがスカラカチャカポコ。もしもこの
後世間の噂や。雑誌新聞、小説なんぞで。キチガイ話を御覧になったり。又はホンマの精神病者を。通り
縋りに御覧になったら。思い出しても下されませよ。月の光りや太陽の輝やき。星の光りも掻き消すばかりに。
眼眩めくモダーン文化や。又は博愛仁慈の光明。正義道理のサーチライトも。昔ながらに照らさぬ世界じゃ。地獄以上のキチガイ地獄に。音も
香もなく消え行く先だよ。広さ深さも無限の
暗の。底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう
陰火の焔は。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの
阿呆陀羅経だよ。無調法なる木魚に合わせて。チョット御機嫌伺いまする。げどう――さア――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。
――ヘイ。御退屈様――
◆葉書は左記へお出し下さい。
┌────────────────────┐
│ │
│ 九州帝国大学医学部精神病学教授 │
│ 斎藤寿八氏自室気付 │
│ │
│ 面黒楼万児宛 │
│ │
│ ┌───┐ │
│ │ │ │
│ └───┘ │
└────────────────────┘
地球表面は
狂人の一大解放治療場
九州帝国大学
正木敬之氏談
精神病科教室
去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工されて、その附属病院の工事と共に着々進捗しつつある「狂人解放治療場」は、過般来その内容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものである事が判明した。右に就き正木博士は同教授室に於て、往訪の記者に対しかく語った。
世間では今度、吾輩が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、
嶄新奇抜だとかいって騒いでいるようであるが、正直のところを云うと決して吾輩の独創でもなければ、嶄新奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその
賄係りに見立てられ得るのだ。
……といっても吾輩は別に奇矯な言辞を
弄しているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから云うので、何を隠そう吾輩の「精神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると云ってもいいのだ。
それは何故かというと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、指一本でも自分の自由にならぬか、又はどこか足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「
片輪」という名前を附けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりする事にきめている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、又は、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわちキチガイの
烙印を押し付けて差別待遇を与える事にきめているようである。
禽獣、虫ケラ以下の軽蔑、虐待を加えてもいいものと考えているらしく考えられる……が……
然らばその精神病者を侮蔑し、冷笑している
所謂、普通の人間様たちの精神は、果して、何もかも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているであろうか。
吾輩は
敢て云う。公平、
且つ厳正な学問の眼から見ると、決してそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、外から肉眼で見わける事が出来ないだけで、実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の
片輪者ばかりと断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は智慧や情慾が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。
早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。見っともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。又は出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏に
願をかけたり、新聞に広告までして
誓を立てても悪い癖が止められないのは取りも直さず、自分の頭が、自分の自由にならない事を実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直す事の出来ない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。又は泣くまいと思ってもツイ涙が出る。
憤る場合でないと思ってもついムカムカッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神の
偏りを、自分で持ち直す事が出来ないという、アタマの弱点を曝露しているのではないか。
そのほか
凝り
性、
厭き性、ムラ気、お
日和機嫌、
胴忘れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変態心理なぞの数をつくして、出会う人
毎に、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者は無い。頭の働らきの
不叶いなところを持っていない者は無い。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。
その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶いなところを指摘してやると、誰でもヒヤリとして赤面するか、青すじを立てて弁明するか、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことに馬鹿馬鹿しい極みであるが又、人情の止むを得ないところであろう。……しかもその人情の止むを得ないところを、そのままにして
放ったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前の事のように思えて来る。
況んや当世流行の紳士待遇でも与えようものならイヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨ止むを得なくなって来る。そうしてトウトウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に曝露する。軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。それでも反省出来ない、ブレーキの利かなくなったガタガタ自動車みたいな奴が、何々狂と名付けられて、精神病院に担ぎ込まれる事になるのだ。
誤解しては困るが、何もそれが悪いと云うのじゃない。万物の霊長諸氏を侮辱する意味で云ったのでは毛頭ないが、しかし、そんな風に生れ付いたり、習慣付けられたりしている
所謂、紳士淑女連中が、自分のアタマと五十歩百歩の精神病患者を見るとヤタラに軽蔑したり、恐れたりする。自分だけは誰が何と云っても精神病的傾向をミジンも持たない、完全無欠なアタマの持主だと
自惚れ切っているから、ツイ吾輩も冷やかしてみたくなるのだ。……そんな紳士淑女連中からアラユル残酷な差別待遇を受けている、罪も
報いも無い精神病患者を弁護してみたくなるのだ。
すなわち、いずれにしても
斯様に観察して来ると、普通人と狂人の区別がつけられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている者との区別が付けられないのと同じ事になって来るであろう。平ったく云えば赤い煉瓦に這入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイとを一緒にしたものが、所謂、普通人……もしくは紳士淑女という事になるであろう。
もちろんこれは一種の暴言である。実に失礼とも無作法とも、何ともカンとも申上げようのない遺憾千万な云い草ではあるが、事実はどこまでも事実に相違ないのだから仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神病に関する
真個の科学的研究がやって行けないのは
恰も、人間が一個の動物に過ぎないという見地に立脚しなければ、すべての医学の研究が遂げられないのと同じ事なんだから止むを得ない。もし又、万が一にも「俺ばかりはキチガイじゃないんだぞ。絶対に完全無欠な精神を持っている人間なんだぞ」という自信を持っているお方があったら、イツ何時でも吾輩の処へお
出で下さいだ。そのお方は当大学の研究患者として、官費で入院さして上げる。ちょうどその式の患者が、学生の講義に必要なところだからね……。
太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその
禽獣、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集である事を自覚し初めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義とか青い主義とかいう御叮嚀なものを作って「お互いに無茶を止しましょう……変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。
……ナニ……その解放治療場にはドンナ種類の精神病患者を収容するのか……それはまだわからないよ。いずれ吾輩の学説……新しい精神科学の学理実験材料として差支えない患者を選み出して収容する予定にはなっているんだがね……。
……その学説はドンナ学説……吾輩が唱え出した精神科学の内容かね。それあトテモ大変な質問だ、なかなか一朝一夕に説明し切れる訳のものじゃないよ。しかし要するに今日までの精神病の研究法を根本から引っくり返した行き方だという事は断言しておいてもいいね。まず人間の脳髄の作用から研究し直して「脳髄は物を考える処」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。それからその新しい「脳髄の作用」に反映して行く精神の遺伝作用を明らかにする。そこで出来上った精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかり易い最も興味深い、精神病患者の標本ばかりを集めて、吾輩独特の精神的な暗示と刺戟を応用した治療法を試みてみたいと思っているんだがね。ドンナ標本が集まるか……ドンナ騒動が初まるか、吾輩自身にも予断出来ないんだよ。ハハハ……。
但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異状の無い、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。
あの太陽が、一旦、ギラギラと光り出して、地獄と名づくる精神病者の一大解放治療場の全面を
焙りまわし初めたらナカナカ止めない。いい加減なところで醤油でも附けたら……と思ってもソンナ余裕なんか持たないらしく、どこまでもどこまでもピカピカジリジリと焙り廻し続けている。それと同様に一度狂人の研究を初めた吾輩は、それ以外の事が考えられなくなった。往来で小便をし初めたのと同様に、殿様がお通りになろうが、巡査がお見えになろうが、お手討ちも罰金も覚悟の前で、根の切れるまでシャアシャアやり続けている。
だから地上のほかの狂人は
治療るとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけは
慥かに保証出来る。云々。
絶対探偵小説
脳髄は物を考える処に非ず
===正木博士の学位論文内容===
一記者
ナニ。吾輩の学位論文「脳髄論」の内容がナゼ学界に発表されないかッテ……アハハ。馬鹿にするな。物議を起すのを怖がって発表を差控えるような吾輩じゃないよ。実はチョット書き添えたい事があるから、手許に引取っている迄の事さ。
その内容を話せって云うのか。ウン。それあ話せない事はないさ。……しかし話したら直ぐに新聞に書くだろう。実はこの
前に吾輩が話した「地球表面上は狂人の一大解放治療場」云々の記事を、君の新聞に書かれたんで、少々弱らされたよ。自家広告の宣伝記事だというので、ダイブ方々で
八釜しかったらしいんだ。
ナアニ。吾輩は平気さ。何と云われたってビクともするんじゃないが、吾輩がすこし大きな事を云うと、事なかれ主義の総長や、臆病者の学部長が青くなって心配するのが気の毒でね。鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師ばかり居るように誤解されているからね。まして
況んや今度の「脳髄論」の内容と来たら、前の解放治療の話に何層倍輪をかけた物騒なテーマを吹き立てているんだから……。
フン。書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上も久しいもんだが大丈夫かい。ウン……そんなら話そう。ところでドウダイ……葉巻を一本……上等のハバナだ。吾輩の気焔の聞き賃、兼、新聞記事の差止め料だ。チット安いかね。ハハハハハハ。きょうは吾輩
閑散だからね。少々メートルを上げるかも知れないよ。
……時に君は探偵小説を読むかい。ナニ読まない。読まなくちゃいかんね。近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ云えないぜ。ナニ……読み飽きたんだ……ウハハハ。コイツは失敬失敬。さもなくとも君の商売は新聞記者だったっけね。アハハハハ。イヤ失敬失敬。
それじゃここに吾輩が秘蔵している、もっとも
嶄新奇抜な探偵事実談があるが一つ拝聴してみないか。実はどこかの科学雑誌にでも投稿してやろうかと思って、腹案していたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑、微妙さと、解決の痛快皮肉さは恐らく前代未聞だろうと思うがね。むろん他に類例があったら、二度とお眼にかからないという、
頗る非常的プレミヤム付きの……。
ナアニ。
胡魔化すんじゃないよ。今云う吾輩の脳髄論と大関係があるんだ。探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコや
鼬ゴッコをやる。その
間に生まれる色々な錯覚や、幻覚、倒錯観念の魅力でもって、読者のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。
ところがだ。吾輩の探偵小説というのはソンナ有り触れた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかもその絶対的科学探偵小説のドンドンのドンガラガンの種明かしをして、人類二十億の脳髄をアッといわせるトリックそのものが、ソックリそのまま吾輩の「脳髄論」のテーマになっているんだからスゴイだろう。
ナニ。わからない。ハハハハハ。わからない筈だ。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。
ああいいともいいとも。速記に取ったって構わないよ。吾輩が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていてくれさえすればいいのだ。何ならアトで吾輩が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも吾輩の創作として発表する方が都合がよくはないか……。
もっとも前以て断っておくが、この探偵事実談を聞いても、わかるか解からないかは保証の限りでないよ。何しろ脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対、最高度の探偵小説なんだからね。解決が最初から立派についていながら、読者には絶対にわからない。ただ
無暗矢鱈に奇抜突飛な、幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きのゴチャゴチャだけしか感じられない……かも知れないというのが、トップのトップを切った脳髄小説のミソなんだからね。ハハハハハハハ。
ところでだ……まず
劈頭第一に一つの難解を極めた謎々をタタキ付けて、読者のアタマをガアンと一つ面喰らわせてしまうのが、探偵小説の紋切型だろう。しかもその「人間の脳髄」を極度に面喰らわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関する
ソレでなくてはならぬ事が必然的に考えられて来るだろう。
果然と

……一つ
脅かしておくかね。ハハハハハハ。何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界に於ける最大、最高の残虐、
横道を極めた「謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋白質製のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガンいわせ続けている怪物そのものに
外ならないのだ。
人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高い処に鎮座して、人間全身の各器官を
奴僕の如く追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の営養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何の事はない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それ程左様に徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々に外ならないのだ。
ところが、それはそれとしてここに一つ不思議な事があるのだ。
それは
他事でもない、その脳髄と自称する蛋白質の
固形物自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着する事だ。逆にいうとこの脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていない事だ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の
一塊とは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引掻きまわしている。モット手短かにいうと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」とでも形容しようか。従ってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、次第次第にノンセンス化させ、各方面に亘って末梢神経化させ、
頽廃させ、堕落させ、
迷乱化させ、悶絶化させつつ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔中の悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。
むろんこれは吾輩一流の
法螺やヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。
エッ……脳髄は物を考える処だ……と云うのかい。
そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者は勿論のこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロとブルとを押しなべて皆、脳髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全
剃刀も、赤い理論も、毒
瓦斯も何もかも、この一二〇〇
瓦以上、一九〇〇
瓦以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。
成る程、人間の屍体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないように見える。大脳、小脳、延髄、
松果腺なんどと、無量無辺に重なり合っている、奇妙キテレツな恰好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を綜合する細胞の全体が、脳髄を中心にして周到、
緻密、且つ整然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神もしくは、生命意識なるものは、脳髄の中に立て
籠もっているのじゃないかしらんと考えられる。少くとも「脳髄は物を考える処」と考えて差支えないように考えられるのだ。
こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考える処」という事実について今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人も居ない事になっているのだ。現代の
燦然たる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人も居ない位にアタマ万能主義の世の中になってしまっているのだ。
……
然るにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に
白眼んだ一人の青年名探偵、兼、古今未曾有式超特急の脳髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的迷信を一挙に根柢から
覆滅させて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセンスの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、
煌々たる科学の光明下に
曝らけ出し、読者の頭をグワ――ンと一撃……ホームランにまで
戞飛ばさせている……という筋書なんだがドウダイ……読者に受けるか受けないか……。
ナニ。まだわからない……もう
些し聞いてみなければ……。
何だって……空想小説じゃないかって……。
怪しからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコレンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞き給え。そんな甘物じゃない事が、その
中にわかって来るんだよ。いいかい……。
ところでその青年名探偵、兼、脳髄学の大博士は、吾輩が仮りにアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん実在の人物なんだよ。しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにも拘わらず、非常に危険な遺伝的、精神病の発作にかかったので、この大学に入学すると間もなく、この教室の附属病院に収容する事になった。
……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……
虚構だと思うならイツ
何時でも本人に紹介してやるよ。スグこの向うの七号室に居るのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。
ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生れ故郷や、両親の名前は勿論のこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっている事を、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマが
良いだけに、この事が非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブッ通しに、病室の中の人造石の床を歩るき廻って、自分の脳髄の事ばかり考えているらしいのだ。……「わからないわからない。いったい僕の脳髄は今まで何をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とか又は「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか……解らない解らない」……といったような事を口走っては、
蓬々と伸びた自分の頭の毛を掻きまわしたり、
拳固でコツンコツンと後頭部をなぐり付けたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。
ところが、そのうちに、ソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって不思議そうにキョロキョロとそこいらを見廻わし初める。そうして自分の蓬々たる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものを掴み出して、床の上に力一パイ叩きつける真似をする。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を
滔々と、
身振まじりに初めるのであるが、そのうちに自分の演説に感激して、興奮の
絶頂に達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中から掴み出して床の上にタタキ付けた眼に見えない或るものを、片足を揚げて一気に踏み潰す真似をすると同時に、ウーンと眼を
眩わして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三四十時間も前後不覚の状態に陥って、
昏々と眠り続けると、又もや、アンポンタン・ポカン然として
眼球をコスリコスリ起上るのだ。そうして前の通りに「わからないわからない」を繰返しながら部屋の中をグルグルと歩るきまわる。その
中に又も、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタキ付ける。前後左右を見まわして、拳固を振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だか解からないものを床の上で踏み潰しては、ウーンと云って引っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。
……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。
ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来の烈しい、電車の交叉点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたいに大手を拡げて、前後左右の群集を睨みまわす恰好をすると、イキナリ拳固を空中に舞わしながら、金切声を振り絞り初めるのだ。
「……止まれッ……。
……止まれッ……。
電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリマンも職業婦人も、ブルもプロも、
掏摸も、巡査も動いてはいけない。
……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、
飾窓の最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに
話題を発見し、掏摸を警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
……それが危険だと云うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。
……見よ。聞け。驚け。
呆れよ……
……現代二十億の人類は
悉く、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く
頓馬である。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。
そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念の競争場裡に、かくも
夥しい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化を、ゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
とてもケンノンで見ていられないではないか。
……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
人類文化の罵倒だ。
脳髄文明の覆滅だ。
唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。
ポカンは宣言する。
……『物を考える脳髄』は
にんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地
開闢の始め、イーブに智慧の
果を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが『物を考える脳髄』の前身である……と……。
……眼を開け……。
……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。
人間の脳髄は自ら誇称している。
『脳髄は物を考える処である』
『脳髄は科学文明の造物主である』
『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』
……と……。
脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を
奴僕の如く駆使している。最上等の血液と、最高等の営養物を全身から搾取しつつ王者の
傲りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に
沈淪させている。
その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。
吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。
曰く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
『人間を神様以上のものと
自惚れさせた』
これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
『人間を大自然界に反抗させた』
これが、その第二ページであった。
『人類を
禽獣の世界に
逐い返した』
というのがその第三ページであった。
『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた』
というのがその第四ページであった。
『人類を自滅の
斜面へ逐い落した』
それでおしまいであった。
事実は何よりも雄弁である。
医学の歴史を
繙けばわかる……。
人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。
ところがその近代科学の
泰斗ヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、
頗る大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、
灰白色の渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポメニアス氏自身の毛髪
蓬々たる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻きみたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めて御座るのだろう……。
という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。
……ハアテ……この蛋白質の
団塊は、
泪と鼻汁の製造場のようにも見えるし、
所謂、
章魚の
糞に類似した物のようにも思える。人間と名付くる
建築物の屋根裏に在るところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とおんなじような曲線でヌタクッているところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからないわからない……。
といった風に散々に首をひねらせ、苦心惨憺させ、昏迷疲労させた。そうしてトウトウ何が何だか解らなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の内側を、シンシンと痛み出させたのであった。
偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここに於て、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍り上がったのであった。
「……わかったッ……脳髄は物を考える処だッ。その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」
……と……。
そこでその科学者は直ちにメスを
執って、その脳髄を取出した屍体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切り
刻んだ。そうして人体の各器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧げて、一気に往来へ飛び出した。
「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかもわかったぞッ……。
生命の本源を神様の摂理だなぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。
……この脳髄を見よ……。
生命の本源はこの千二百
瓦、
乃至、千九百瓦の蛋白質の
塊まりの中に宿っているのだ。吾々の精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺戟に外ならないのだ。
……すべては脳髄の
思召しなのだ……。
科学の発見した脳髄こそ、現実世界に於ける全知全能の神様なのだ」
……と……。
当時の
基督教の迷信と僧侶の堕落腐敗に飽き果てていた尖端人種は、これを聞くや否や大喝采裡に共鳴した。
吾れも吾れもとヘポメニアス氏の迷説を丸呑みにした。『脳髄は物を考えるところ』という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。
「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用に外ならないんだ。吾々は吾々の頭蓋骨の中に在る蛋白質の化学作用でもって、新しい唯物文化を創造して
行んだぞッ……」
……と……。
かくして物の美事に人間世界から神様を
抹消した『物を考える脳髄』は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造し初めた。
脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を
殖し、産児制限を自由自在にしてやった。
あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
あらゆる光りを工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
そうして自然の
児である人間を
片っ
端から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。
瓦斯と電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて
器械人形と遊戯させた。
そうしてアルコールと、ニコチンと、
阿片と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す
不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存出来ないように、人類を習慣づけてしまった。
……そればかりでない……。
人間世界から『神様』をタタキ出し、次いで『自然』を駆逐し去った『物を考える脳髄』は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を『唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である』という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、
自涜化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを
彷迷わせるようになってしまった。
『物を考える脳髄』は、かくして知らず
識らずの
裡に、人類を滅亡させようとしているのだ。
その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。
これが放任しておかれようか。
そればかりじゃない……。
『物を考える脳髄』は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪を
逞しくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手品にかけて、
木ッ
葉ミジンに飜弄しつくしているのだ。
そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的に
眩ますべく試みているのだ。
……見よ……。
……『脳髄のトリック』に飜弄されつつある『脳髄の悲喜劇』が、いかに夥しく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。『脳髄のノンセンス劇』が如何に真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取せよ。
……
看よ……。
『物を考える脳髄』はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底までも支配し指導しつつある。
……ところがドウダ……。
その『アラユル物を考え得る脳髄』が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、気も遠くなる程ギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ一ツ、カンジン、カナメの『脳髄自身』に関する科学的の研究ばっかりを、疑問の
真暗がりの中にホッタラかしているのはドウシタ事か。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身の事だけをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献が只の一篇も無いのは何という不思議な現象であろう。
のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何という
迂濶さであろう。
……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコ迄も行き届かせている。解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り、細に亘らせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数を
悉くして研究を競わせているではないか。
しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの『
盲目探りの状態』に放置しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞいう研究科目を、世界中のドコの大学にも分科させないで、
所謂、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者の
匙を投げさせてしまっているのは、何という脳髄の
不行届であろう。……『人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか』『幻覚はドウして見えるのか』『早発性痴呆とはドコがドウなった事をいうのか』……といったような、誰でも不思議がる『脳髄』関係の重要問題を、これ程に賢明な人間の脳髄が、
片っ
端から不得要領の
大欠伸の中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法であろう。
占筮者が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。
脳髄に飜弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。
モット手近い、痛切なところでは俗に
所謂『泣き
中気』とか『笑い中気』とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしようが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじ事……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明を脳髄はヤハリ『脳髄が物を考える』式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。だからこの厳命を奉戴した世界中の科学者たちは、こうした中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のために
痺れてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一箇所の神経細胞の活動によって、表現されるよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考える処……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明の仕様がないのだ」としか説明が出来なくなっているではないか。
ところが
生憎な事に、そうした中風患者の脳髄を病理解剖に附した結果を見ると、いつも
豈計らんやの正反対になっている。脳出血でやられているのは、脳髄の全体ではない。僅かに脳髄の中の或る小さな、狭い、一箇所だけに限られている場合が極めて多いのだから皮肉ではないか。泣きも笑いも出来ない脳髄のイタズラ劇にしかなり得ないから悲惨ではないか。
モット皮肉で奇抜な例には
夢中遊行というのがある。この病気は無論アタマ万能宗の科学者達には寄っても附けない不可解病として諦らめられ、敬遠されているのであるが、しかもその上に、そのフラフラの夢中遊行患者は、そんな科学者たちのアタマをイヨイヨ馬鹿にすべく、色々な奇蹟を演出する事があるのだ……たとえばこの種の患者は、その夢中遊行の発作に
罹っている最中に限って、トテモその人間のアタマとは思えない素晴らしい智慧や技巧をあらわして、人間
業では出来そうにないスゴイ仕事をやって
退けたりする。……のみならずその人間が
翌る朝眼を醒ますと、いつの間にやら元の
木阿弥のケロリン漢に立ち帰って、そんな素敵な記憶の数々を、ミジンも脳髄に残していないというような
摩訶不思議をあらわす。そうして『脳髄は物を考える処』とか『感ずる処』とか『記憶する処』とかいう迷信を迷信しているその方面の専門家連中の脳髄の判断力を一つ残さず、絶対、永久のフン詰まり状態にフン詰まらせている。
「トテモ人間の脳髄では考えられない」
なぞと悲鳴を
揚げさせているからモノスゴイではないか。
ヤリキレナイ脳髄の恐怖劇ではないか。
しかも唯物宗の牧師、科学万能教の宣教師をもって自ら任じている科学者のすべては、それでもまだ
懲りないで、脳髄の絶対礼讃を高唱している。
「脳髄の大きさはその持ち主の進化程度をあらわし、その渦紋の
多寡はその文化程度を示している。すなわち人類は、その大きな、発達した脳髄のために存在しているので、その脳髄は又、物を考えるために存在しているのだ。だから脳髄は文化の神、科学世界の造物主、唯物宗の守り本尊である」
とか何とかいう迷説を聖書以上に尊重して、一所懸命に自己の脳髄の権威を擁護しているが、しかも、そんな科学者たちの顕微鏡の下で、脳髄どころか、頭も尻も無い下等動物の連中が、暑い寒いを正確に判断したり、喰い物の
選り好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない鋭敏な天気予報までも、ハッキリと現わして見せるから痛快ではないか。おまけにソンナ下等動物は、口にこそ云わねメイメイに身ぶり素振りで、
「脳髄が無くとも物は考えられますよ」
「私たちは全身が脳髄なのですよ」
「私たちは脳髄の全体をソックリそのまま変形して、手足にしたり、胴体にしたり、又は耳、眼、口、鼻、消化排泄、生殖器官なんどの色々に使い分けているのですよ」
「あなた方は、そんな作用を分業にして、別々の器官に受持たせておられるだけの事ですよ」
「あなた方の手足だってチャント物を考えているのですよ」
「お尻でも見たり聞いたりしているのですよ」
「股を
抓ねれば股だけが痛いのですよ」
「
蚤が喰えばそこだけが
痒いのですよ」
「脳髄は痛くも痒ゆくも何ともないのですよ」
「まだお解りになりませんか」
「アハハハハハハハハ」
「オホホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒ」
と笑い転げているからベラボーではないか。
これが脳髄の諷刺劇でなくて何であろう。
これが脳髄のトリック芝居でなくて何であろう。
それかあらぬか一方には、この唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウ沢山というくらいに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。
唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。又は宝石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車を
脅やかしたりするはまだしも、
大奈翁の幽霊がアメロンゲン城の壁を撫でて、老カイゼルに嘆息して聞かせたり、ツタンカーメン王の
木乃伊が
埃及探検家に
祟ったりする。現に科学的推理の天才的巨人、指紋、足跡、煙草の灰式、唯物的探偵法の創始者シャーロック・ホルムズさえも、晩年に到ってはトウトウこの種の怪現象に引きずり込まれて、心霊学の研究に夢中になったまま息を引取った……のみならず、あの世からイーサーの波動を用いない音波をもって、生き残った妻子に話しかけた……という位である。みんな不思議だ不思議だというが、そんな事実が在り得るとか、在り得ないとか断言し得る者は一人も居ない。あっても
終いには
水掛論になってしまうので、結局、お互いの脳髄を怪しみ合いつつ物別れになる事が、最初から解り切っている。そうして、あーでもない。コウでも駄目だと、あらゆる推理や想像を
捏ねくりまわしたあげく、トウトウ悲鳴をあげ初めて『脳髄が、脳髄の事を考えるとはコレ
如何に』なぞと、場末の寄席みたようなコンニャク問答の鉢合せを繰り返している現状ではないか。
ドウダ諸君……ザットしたところがコンナ調子である。
『人間の脳髄』が何よりも先に研究を遂げておかねばならぬ『人間の脳髄の病理』……精神病学の基礎、中心となるべき重要な諸問題は、御覧の通り『物を考える脳髄』のために、
片っ
端からフン詰まりの状態を現出させられているではないか。地上、一切の精神病学者と、一切の精神病院の診断、治療を、無能、無意義の嘲笑の中に立往生させているではないか。そうして地上、無数の精神病者を、永久、絶対に救われ得ない侮蔑、虐待の世界に放置させているではないか。この世からなるキチガイ地獄を、全地球表面上に現出させているではないか。
これが偉大なる『脳髄のイタズラ劇』でなくて何であろう。『物を考える脳髄』が『物を考える脳髄』に自作自演さした一大恐怖ノンセンス劇のドン詰めでなくて何であろう。
拍手するものは拍手せよ。
喝采するものは喝采せよ。
泣くものは泣け。笑う者は笑え。
吾輩……アンポンタン・ポカンはこの脳髄文化の現状に気が付くと同時に、歯の根が合わなくなったのだ。この恐怖戦慄に価する脳髄社会の光景を、人知れず嘲笑しているポカン自身の脳髄の冷めたさを自覚すると同時に、左右の
膝頭の骨がガタガタと
外れそうになったのだ。この脳髄のトリックをタタキ破って、脳髄に対する汎世界的の唯物科学的迷信をドン底から引っくり返して、かくも残忍、悽愴を極めた大恐怖ノンセンス劇の興行を停止させずにはおられなくなったのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンはここに於て立ち上った。奮然として腕に
綟をかけた。猛然、
畢生の心血を傾注した最高等の探偵術を応用しつつ、無限の時空に亘って捜索の歩を進めた結果、遂にこの脳髄と称する大悪魔の正体……『呪われたる唯物文化の偶像』の正体を徹底的に看破する事が出来たのだ。全人類界の大悪夢……『物を考える脳髄』に関する迷信、妄執を
喚び醒ますべく『絶対無上の大真理』に
逢着する事が出来たのだ。
……しかも……その大真理なるものは、それが余りに簡単で、平凡であり過ぎるために、
却って誰にも気付かれなかった程の驚異的な大真理であった。初めて脳髄が発見されて以来、ベーコン、ロック、ダーウィン、スペンサー、ベルグソンなんどに到るまでのアラユル非凡な脳髄たちが、彼等自身に認識し得なかったところの『脳髄の真活躍』そのものでなければならなかった。地上二十億の生霊を
弄殺しつつある『脳髄の大悪呪文』を焼き棄てる一本の
燐寸棒に外ならなかったのだ。
諸君よ。
欣喜雀躍せよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット、ジダンダ、ステップせよ。
交通巡査も安全地帯も
蹴飛ばしてしまえ。
古来今に亘る脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱歌を歌え。
吾輩……アンポンタン・ポカンは遂に
此の如くにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキ付けて、絶叫する光栄を有するのだ。……
曰く……
……脳髄は物を考える処に非ず……
……と……」
× × ×
アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る、超特急探偵小説だろう。
……ナニイ。まだ解らない……?……。
アハアハアハ。それは脳髄で考える癖がまだ抜け切れないからだよ。「精神は物質也」式の唯物科学的迷信が、まだ頭の隅のドコかにコビリ付いているせいだよ。
聞き給え。吾が青年名探偵アンポンタン・ポカン博士は、タッタ今地上にタタキ付けたばかりの泥ダラケの脳髄を指して、コンナ論証を続けているのだ。
× × ×
「……見よ……聞け……驚け……呆れよ。
この脳髄のトリックの真相を……悪魔以上の悪魔の
横道ぶりを……。
吾々人類は、脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス以来、この『物を考える脳髄』のために飜弄され続けて来たのだ。明けても暮れてもこの脳髄の前に、自分のアタマを
拝脆させられるべく……自分の肉体と、精神の全部を挙げて奉仕させられるべく、錯覚させられ続けて来たのだ。そうして
斯く云うアンポンタン・ポカン自身の頭も、そうした頭の中の一個であったのだ。
……しかし……今やその錯覚は打ち破られなければならぬ時が来たのだ。脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス氏の錯覚が清算されねばならぬ機会が来たのだ。ポカンの足下に横たわるポカンの脳髄と同様に、
泥塗みれになって
終わねばならぬ時機が来たのだ。
……ポカンはこの十字街頭に於て、地上最初の宣言を高唱する。すなわち最尖端の学術……最末期の科学的宗教……アンポンタン・ポカン式『脳髄論』を公表する光栄を有するのだ。
吾輩ポカンは断言する。『物を考える脳髄が、物を考える脳髄の事を考え得ない』という事は『二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない』という物理学上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから『物を考える脳髄』の事を考える『物を考える脳髄』は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した『脳髄の幽霊』に悩まされ続けて来たのである。そうして今や
将に、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれに対して堂々と挑戦したのである。
……物を考える処は脳髄ではない……。
……物を感ずる処も脳髄ではない……。
……脳髄は無神経、無感覚の蛋白質の
固形体に過ぎない……。
……と……。
……これあ
怪しからん。諸君は何が
可笑しくて、そんなに笑い転げるのだ。
……何でソンナに往来を転がりまわるのだ。
何だって交番に這い込むのだ。……電柱に抱き付くのだ。……赤いポストに接吻するのだ。……諸君は精神に異状を
来したのではないか。
……ナニナニ……?????……。
……『脳髄で考えなくてドコで考える』と云うのか……。
……『脳髄で感じなくてどこで感ずるのだ』と云うのか……。
……『吾々の精神意識はどこに在る』……『吾々はドウして生きている』というのか……。
……ナアンダ……。
チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。
……パンツの泥を払え。
……シャッポを冠り直せ。
……クラバアツを正して聞け……。
吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
お尻を
抓ねればお尻が痛いのだ。お腹が
空くとお腹が空くのだ。
頗る簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり
難いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒
毎に、絶対の平等さで、おんなじように
籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒
毎に洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。
赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。
……それでもまだ
合点が行かなければ吾輩、ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳けめぐって、脳髄の正体を突止めて行ったポカンの苦心惨憺の
蹤跡をモウ一度くり返して
辿ってみるがいい。
まず第一に脳髄が如何なる処から、如何なる理由の下に、如何にして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機『推理号』の銀翼の間に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に
翔破しつつ、諸君の眼下に横たわる雄大、荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。
見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、
時を
得顔にノサバリ廻っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。
それから更に、その百万年前の竜の世界、その又以前の鳥の世界、その又ズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、次第に進化の度の低い、小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、遂に六億万年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地を
覆す大噴火、大雷雨、
大海嘯、大地震の
火煙、水けむり、
土煙が、あとからあとから日月を
蔽いながら渦巻きのぼっているこの世界の若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。
そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前に、無量無数に浮游している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るであろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの天変地妖を起しながら、少し
宛少し宛冷却して来るうちに、あとからあとから作り出して来た色々な化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の有機体……
あめ、
の、
みなかぬしの正統、エホバの
愛し
児、日の神の王子ホルスとも
称うべき、地上最初の生命の群れに外ならなかったのだ。
だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した
近所合壁の細胞同志に、お互いの感覚や意識を反射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。
その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ初めたではないか。その霊能でもって見る見るうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分達の共産的霊能を飽くまでも地上に発揮すべく、次第に高等複雑な姿に進化し初めたではないか。そうして……
「
最早、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」
と安心して、
自惚れ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、
獣という風に、それぞれの子孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。
……ところで見たまえ。
コンナに色々と千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い、
海月以下の動物連中は、御覧の通り脳髄とか、神経
粒とかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同志の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。
ところが吾々みたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。細胞同志の
距離間隔もだんだんと遠くなって『あんな処まで俺の
身体かしら』なぞと、
湯槽の中で
趾を動かしてみる位にまで長大な姿になっている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも『脳髄』と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細胞同志の感覚や、意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……俺は俺だぞ……俺はこうして生きているんだぞ……という気持になっているのだ。
吾々の全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や、毛髪の尖端に到るまでも、吾々が感じている意識の内容をソックリそのままの意識内容を、その一粒一粒
毎に、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。
眼の
球ばかりで物を見る事は出来ない。耳ばかりで音は聞えない。その
背後には必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。
同様に脳髄が、脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりする事は不可能である。その
背後には必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を
喪失した活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。
しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活な事というものは、真に驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋がり合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に全身がゾ――ッと
粟立つ……お尻がチクリとするかしないかに『アッ』と飛び上る……という、それ程左様に迅速敏活を極めているのだ。
吾々の全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物を見て、聞いて、
嗅いで、味わっているのだ。脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、
喚めき、叫んでいるのだ。
……嬉しいと食慾が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。
……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。
だから吾々が自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感作用仲介で、タッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……という事が、もはや文句なしにわかるだろう。同時に吾々が今日まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたものだ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなく
点頭かれるだろう。
……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。
……
開いた口が
閉がらぬではないか。
……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして『脳髄が物を考える』という考えを引っくり返して考えると同時に、何の苦もなく氷解して
終うではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。
……それでも、まだわからなければモウ一度、こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観して見給え……。
彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係り、笑い係り、見係り、聞係り、記憶係り、惚れ係りなぞいう、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノ通り夜となく昼となく、浮世を離れた気持になって、全身三十兆の市民の気持を隅から隅まで、反射交感させられているのだ。
……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。
彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナ事を反射交感しているか……なぞいう事は全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろうが戦争が初まろうが、大地震が初まろうが、大火事になろうが、又は、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂が
螫そうが、尻に火が付こうが、頓着している
隙は無いのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交感台、コイル、ダイヤル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。
だから諸君は彼女たちに話しかけてはいけないのだ。彼女たちに物を考えさせてはいけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二重に疲れさしてはいけないのだ。
そうして彼女たちが、ほかの事を考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になればなる程、全身の反射交感機能が敏活、迅速を極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳明晰……シーク……ホガラカという事になって行くのだ。
ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。
吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここに於て明言する事が出来る。
この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマならば、
最早、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最尖端式脳髄学のトップのトップを切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人類文化の死命を掌握する大怪魔『脳髄』の正体をここまで、的確に探偵し、曝露して来た吾輩……かくいうアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろう……と……。
しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人が居るかも知れない。
これだけではまだ十分な説明が出来ないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象に
就て、首をひねっている篤学の士が居るかも知れない。
……
宜しい……大いによろしい。
そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的にアンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の尖端人種でなければならぬ。
……宜しい……大いに宜しい。
そのような人々は済ないがモウ一度シャッポを
冠り直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ給え。そうしてここだここだ……ここに掲示してある『脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』なるものを読んでみたまえ。
ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り僅かに三箇条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。
頗るアッサリしたものである。しかもこの三箇条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの簡単な三箇条が呑み込めさえすれば、諸君はモウ立派な一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面に亘って演出されつつある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、侮辱虐待劇、ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、如何にタワイもないものであるかを何のタワイもなく看破する事が出来るのだ。
◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ル諸般ノ報道ハ、仮令、事実ニ非ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。
……泥棒が這入った夢を見て、大声を揚げて
家中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中に
外ならないのだ。
◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事ト雖モ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止ムベカラズ。
……『
昨夜、君の
蒲団を引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。
ところで右の二箇条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている『
ねぼけ状態』を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、よくある事だし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二箇条と同様すこぶる簡明である。すなわち……
『脳髄の反射交感機能に異状が起った場合には、脳髄の無い下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ』
という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでもいおうか。……しかも
彼の『物を考える脳髄』が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚、精神異状、泣き
中気、笑い中気、夢中遊行、
朦朧状態なぞいうあらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界の科学者の脳髄をドン底まで飜弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものに外ならなかったのである。
曰く、
◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一個所ニ於テ反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。
【附則】 (イ)脳髄局ガ反射交感スル暇ナキ急迫ノ場合……例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジ又ハ飛ビ退ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シイル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異状ノ深度ニ熟睡セル場合……例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モコレニ準ズ。
忘れないうちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
と……いうのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。
すなわち脳髄の中の或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先廻りに使用しながら、何でもカンでも
無暗矢鱈に笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へあらわれる
隙が無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の
蓋を取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。
所謂エロ、グロ、ノンセンスのモノスゴイところを
取交ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも
這入らず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
まず第一に、何よりも憤懣に堪えないのは、現代の所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか云って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力している事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、殆ど想像も及ばないであろう。
論より証拠……事実は眼の前だ。
アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡を
喪って、めいめい勝手な自由行動を
執りはじめる事になる。ソイツが軽い、半自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟を
漕いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪
変化になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に這入れないのだ。
諸君みたような近代人の
中でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈を
灯けてみたくなるのだ。そのほか、ストーブが
欠伸をしたの、卵の黄味が皿の中から
白眼んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン
焼竈が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の
抽出しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行に外ならないのだ。
ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させる
虞れがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。
金箔付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、ソンナ連中を代る代る教壇へ引っぱり出して、そこの主任の正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウドこの吾輩、アンポンタン・ポカンが考えている通りの事を
饒舌っているから面白い。
「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の
森羅万象を同時に照しあらわしている有様は、
蜻蛉の眼玉が大千世界の上下八方を一眼で見渡しているのと同じ事である。……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の全身の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積に外ならないのだ……すなわち、その先祖代々が体験して来た、千万無量の心理的習慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのを
所謂、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダン
非道くなる事がある。たとえば或る一つの事をどこまでも思い詰める癖を遺伝した女が、どうかした拍子に或る一人の男を
見初めたとする……寝ても醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったような事ばかりを繰返し繰返し考え続けて行く事になると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウくたびれて動けなくなる。そこでその一部分で反射交感されていた恋しい意識が、次第次第に遊離して、空想、妄想と
凝り固まった
挙句、執念の蛇式の夢中遊行を初める。夜も昼も
さまのお姿を空中に描きあらわして、その事ばかりを口走らせるようになる。そうなると又、その恋しい係りの交感台の交感嬢がイヨイヨやり切れなくなってヘタバリ込む。恋しい意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる……又は何々狂乱と名付けられて花四天の下に振付けられ、
百載の
後までも大衆の喝釆を浴びる……という順序になる。
もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間を
所謂、
精神病系統の人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、蒐集狂、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程度の相違こそあれ皆、このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合が無きにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の夢中遊行病となるとガラリと趣が違って来る。……無論、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当の本人は普通人とチットモ変らない。否、
寧ろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭が素敵にデリケートで学問が出来過ぎたり、気が弱過ぎて虫も殺せなかったりするような、特別
誂えの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであるが、それでいてその人間が真夜中になると、ムクムクと起上って、キチガイ以上の奇抜滑稽や、残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨモノスゴくて面白い事になるのだ。
すなわちその人間が眼を醒している間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレと違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を醒まさない
所謂、死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。
ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く睡り切れない奴が一つか二つ出来る事になる。しかもその眠り
後れた意識は、背景が黒くなればなる程、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなればなる程ハッキリと眼を醒して、色々な活躍を初める事になるのだ。
たとえば或る人間が、或る感情とか、意志とかの一つだけを、極度に昂奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが欲しいナア』とか……『憎いアンチキショウを殺してやりたい』とか思って昂奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一所に睡っている細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ睡り
後れて眼を醒している。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理智とかいうものと連絡を失った、片チンバの姿のままで起き上って、全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動き出す。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて勝手気儘に呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。欲しいダイヤを失敬したり、憎いアンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないからチットモ記憶していない。あとで眼を醒してもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち帰っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けられても、知らない事は白状出来ないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。
その代り、そうした夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が醒たあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に首肯出来るのであるが、しかし又、この麻酔後の疲労と、夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別が出来にくいものだから、非常に面白い法医学上の研究問題となる事がある。
その好適例として持て来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人が居るかも知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと
二十歳になった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスすると間もなく、可哀相に先祖から遺伝して来た夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を絞殺してしまった。しかもこの青年はそればかりでなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、次第に正気を回復して来たらしく、この頃は自分の
頭髪を掻きまわしたり、耳の上を挙固でコツンコツンとなぐったりしてここがドウかなっているに違いない違いないと云い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を初める事があるが、その演説が又、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受け
売だから痛快で、吾輩も時々参考のために拝聴に行く位だ。この種類の人間の記憶力のスバラシサというものはトテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……何故かというとこの青年は強烈な夢遊病の発作に
罹った結果、過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意力を集中するとなるとドンナ細かい事でも超人的の正確さをもって記憶する事が出来るのだ。しかし平生はこの通り、初めて卵から這い出した生物のように、ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」
正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出してしまった。そうして今日只今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異状振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったからこんな警告を発したのだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。
……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
吾輩アンポンタン・ポカンが一たび『脳髄は物を考える処に非ず』と喝破するや、樹々はその緑を失い、花はその
紅を
消たではないか。一切の唯物文化は根柢から
覆えされ、アラユル精神病学は
悉く机上の空論となってしまったではないか。
……繰返して云う。
人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して唯物文化を創造した。自然の心理から生れた人情、道徳を排斥して個人主義の唯物宗を迷信した。そうしてその唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、
自涜化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。
これは悉く『物を考える脳髄』のイタズラであった。『脳髄の幽霊』を迷信する唯物宗の害毒であった。
けれども今や、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、今や『物を考える脳髄』を否定しなければならぬドタン場に追い詰められて来た。唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立帰らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。
だからそのスローガンの実行の
皮切に、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳髄』を地上にタタキ付けて見せたのだ。
そうしてこの通り踏み潰してしまうのだ。
……エイッ……ウ――ン……」
× × ×
……と……。
アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。
これが吾輩の
所謂、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄を
追かけまわして、物の美事に引っ捕えて、地ビタにタタキ付けて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄
−脳髄」の高次方程式の分解公式なんだ。
だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だの、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。
しかもその上に、モウ一つオマケのお慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この儀お眼止まりましたならばよろしくお
手拍子……。
……ナニイ。眼が
眩って来たア……。
アハハハハハ……それあ眩るだろう。吾輩の気焔を聞かされたら、大抵の奴がフラフラフラと……。
……ナ……なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……
アッハッハッハッ……コイツは大笑いだ。
ワッハッハッハッハッハッハッ。
(文責在記者)
胎児の夢
――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎の全部を代表させる。
――宗教、科学、芸術、その他、無限の広汎に亘るべき考証、引例、及、文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。
人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている。
その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、
乃至、数百億年に亘るであろう恐るべき
長尺の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から初まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、次第次第に人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月に亘る間に、悩まされて来た
驚心、
駭目すべき
天変地妖、又は自然
淘汰、生存競争から受けて来た息も
吐かれぬ災難、迫害、辛苦、
艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、又は、そんな動植物を惨死、絶滅せしめた天変地異の、形容を絶する偉観、壮観が、そのままの実感を以て映写し出される事はいう迄もない。引続いては、その天変地妖の中に、生き残って進化して来た元始人類から、現在の胎児の直接の両親に到るまでの代々の先祖たちが、その深刻、痛烈な生存競争や、種々雑多の欲望に駆られつつ犯して来た、無量無辺の罪業の数々までも、一々、胎児自身の現実の所業として描き現わして来るところの、驚駭と戦慄とを極めた大悪夢でなければならぬ事が、次に述べる通りの「胎生学」と「夢」に関する二つの大きな不可思議現象を解決する事によって、直接、間接に立証されて来るのである。
まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿った時、その一番最初にあらわしている形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、タッタ一つのマン丸い細胞である。
そのマン丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そうしてそのまま密着し合って、やはり一個の生物となっている。
その左右の二個はやがて又、
各々上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうして
矢張り、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄養を
摂りつつ、一個の生物の機能を営んでいる。
かようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数
宛に分裂しては密着し合って、次第次第に大きくなりつつ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化して来た先祖代々の姿を、その進化して来た順序通りに、間違いなく母胎内で繰返して来る。
まず魚の形になる。
次にはその魚の前後の
鰭を四足に変化さして
匐いまわる水陸両棲類の姿にかわる。
次には、その四足を強大にして駈けまわる
獣の形態をあらわす。
そうして遂には、その
尻尾を引っこめて、前足を持上げて手の形にして、後足で直立して歩きまわる人間の形……普通の胎児の姿にまで進化してからオギャアと生まれる……という段取りになるので、そうした順序から、これに要する時間までも、万人が万人、殆ど大差ないのが通例になっている。
これは胎生学上、既にわかり切っている事実で、誰一人、否定し得ない現象であるが、
扨、それならば、あらゆる胎児は
何故に、そのような手数のかかる胎生の順序を母胎内で繰返すのであろうか。何故に、直ぐさま小さな人間の形になって、そのままに大きくなって、生まれて来ないのであろうか。又は、最初のタッタ一粒の細胞が何故に、そんなに万人が万人申合せたように、寸分
違わぬ胎生の順序を繰返して来るのであろうか。すなわち……
「何が胎児をそうさせたか」
という問題になると、誰一人として適当の解釈を下し得るものが居ない。現代の科学書類の隅から隅まで探しまわってもこの解釈だけは発見されない。唯、不思議というよりほかに説明の仕様がない事になっている。
次に、一切の胎児は
斯様にして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いなく母の胎内で繰返して来るのであるが、しかしその経過時間は非常に短かめられているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年かもしくは何千万年がかりで
鰭を手足に、
鱗を毛髪に……といった順序に、少しずつ少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、僅かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰返して、経過して来る事さえある。これは既に一つの説明の出来ない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議な事には、その縮められている時間と、実際の進化に要した時間の割合が、決して
出鱈目の割合になっていないらしい事である。
すなわち人間の胎児は
凡そ十箇月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰返す事になっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合が低ければ低いだけ、その胎生に要する時間が短かくなっているので、進化の度の最も低い……すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞動物は大部分、胎生の時間を全然持たない。そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になって行く……というのが事実上の事実になっているのであるが、これは一体、どうした理由であろうか。進化の度の最も高い人間の胎児は
何故に、最も長い胎生の時間を要するのであろうか。換言すれば、
「何が胎児をそうさせるか」
という問題に就いて適当の解釈を加えようとすると、現代の科学知識では絶対に不可能である事が発見される。やはり唯、不思議というよりほかに説明の仕様がない事になっているのである。
以上は胎児に関する不可思議現象の実例であるが、次に、こうして出来上った人間の「肉体」を、解剖学方面から研究、観察してみると又、同じような不可思議現象が数限りなく現われて来る。
すなわち人間の肉体なるものを表面から観察してみると、その進化の度が高いだけに……換言すればその胎生に念が入っているだけに、他の動物よりも遥かに高尚優美に出来上っている事が、とりあえず
首肯かれるであろう。その柔和な、威厳を含んだ眼鼻立から、綺麗な皮膚、美的に均整した骨格や肉付きまで、如何にも万物の霊長らしく見受けられるのであるが、しかし
一度その肉体の表皮を
剥くって、肉を引き離し、内臓を検査し、脳髄や五官の内容を解剖して細かに観察してみると、その各部分部分の構成は一つ一つに、下等動物から進化して来た吾々の先祖代々、魚、
爬虫、猿等の生活器官の「お譲り」である事が、判明して来る。すなわち一本の歯の形にも、一筋の毛髪の組織にまでも、それをそこまで洗練し、進化させて来た、驚くべき長年月に亘る自然淘汰の大迫害、もしくは生存競争の辛苦艱難の歴史がアリアリと記録されているので、そんな歴史を一々刻明に記念して、その通りに胎児の姿を繰返して進化させて、人間の姿にまで仕上げて来た
あるものの偉大、深刻なる記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々までも、明瞭に刻み付けられているのである。
いう迄もなく
斯様な現象は進化論、遺伝学、又は解剖学等々で如実に証明されている事柄だから、ここには詳細な説明は加えないが、しかし、それは何者が記憶していて、そのような歴史を繰返させたか。
「何が胎児をそうさせたか」
という事に就いては、まだ、何一つ説明が与えられていない。やはり唯、一つの不思議というよりほかに説明出来ない事になっている。
しかも、そればかりではない。
更に今一歩突込んで、人間の精神なるものの内容を観察すると、斯様な事実が、更に一層、深刻痛切に立証されて来る。
すなわち人間の精神も
亦、これを表面から観察すると、他の動物とはトテモ比較出来ない程、段違いの美しさを現わしている。「人間は万物の霊長である」という自覚、もしくは「文化的プライド」と名付くる、
所謂「人間の皮」一枚を以て、自己の精神生活の内容を
蔽い包んで、常識とか、人格とか名付くるお化粧を施して、超然と澄まし返っているのであるが、しかし一旦、その表皮、すなわち人間の皮なるものを一枚剥ぎ取ってみると、その下から現われて来るものは、やはりその人間の遠い遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで鍛い上げられて来た、驚くべき長年月に亘る自然淘汰、生存競争の大迫害に対する警戒心理、もしくは生存競争心理が、その時代時代の動物心理の姿で、ソックリそのままに遺伝されたものばかりである事実が、余りにも露骨に発見されて来るのである。
まず所謂、文化人の表皮……博愛仁慈、正義人道、礼儀作法なぞで粉飾してある人間の皮を一枚
剥くると、その下からは野蛮人、もしくは原始人の生活心理があらわれて来る。
この事実を最もよく立証している者は無邪気な小児である。まだ文化の皮の
被り方を知らない小児は、同じように文化の皮の被り方を知らない古代民族の性格を到るところに発揮して行くので、棒切れを拾うと戦争ゴッコをしたくなるのは、部落と部落、種族と種族の間の戦争行為によって生存競争を続けて来た、所謂、好戦的な原始人の性質の遺伝、すなわち細胞の中に潜在して伝わって来た野蛮人時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似た恰好のものの暗示によって刺戟され、眼醒めさせられたものである。虫ケラを見付けると、何の意味もなしに追い廻してみるのは、動くものを見れば、何でも追いかけてみるという狩猟時代の心理の遺跡を、虫ケラの暗示によって刺戟誘発されたもので、そうして捕え得た虫ケラの手足を

ぎ取り、羽翼を奪い、腹を裂き、火に
焙りなぞして、喜び
戯れるのは、そうした方法に依って獲物や、俘虜を処分し、飜弄し、侮辱して、勝利感、優越感を徹底的に満足させようとした古代民族の残忍性の記憶を、そのままに再現しているものに外ならないのである。又、赤ん坊を暗い処に置くと泣き出すのは、やはり火を持たぬ時代の原始人が、猛獣毒蛇に満ち満ちた暗黒に対する恐怖の復活で、どこへでも大小便を洩らすのが大昔、樹の根や、草の中に寝ていた時代の習慣の再現である事は、現代の進歩した心理学の研究によって説明されている通りである。
次にこの野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度
剥くってみると、その下には畜生……すなわち
禽獣の性格が一パイに横溢している事が発見される。
たとえば同性……すなわち知らない男同志か、女同志が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶をするが、腹の中では妙に眼の
球を白くし合って、ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態をあらわす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を廻して、微細な処から不愉快な点を発見して、お互いに鼻に
皺を寄せ合ったり、歯を剥き出し合ったりする気持をほのめかす。ウッカリすると吠え立てる。噛み付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一である。そのほか自分より弱いものを見付けると、ちょっと
苛めてみたくなる。すこし邪魔になる奴は殺してくれようかと思う。誰も居なければ盗んでやろうか。
他の小便を
嗅でおこうか。自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、吾人は日常生活の到る処に発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「この
獣め」とかいう罵倒詞に当て
嵌る心理のあらわれは皆、これに他ならぬのである。
次に、この禽獣性の下に在る
隔膜を、今一つ切開くと今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。
たとえば、仲間を押し落しても高い処へ
匐い上ろうとする。誰にも見えない処を這い廻って
美味い事をしようとする。うまい事をすると、すぐに安全第一の穴へ潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けるとコッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたり構わぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護しようとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振廻す。
墨汁を吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。又はそこいらの
地物や、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、卑怯な人間のする事は皆、かような虫の本能の丸出しで、
俗諺にいう弱虫、
蛆虫、
米喰虫、泣虫、
血吸虫、
雪隠虫、
屁放虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したものの
あらわれを指した軽蔑詞に外ならない。
次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところに在る、一切の動物心理の核心を切開いてみると、
黴菌、その他の微生物と共通した原生動物の心理があらわれて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、所謂群集心理、流行心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なもののように見えるが、それが多数に集まると、色々な黴菌と同様の恐るべき作用を起す事になる。すなわち光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺戟のハッキリしているもの、なぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、無論判断力もなければ、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく
生命を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに
林檎酸の一滴に集中する精虫の観がある。
人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。
斯様な心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を所謂、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、吾々人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう
浅薄な
自惚れに
蔽い隠されて、全然、注意されていない状態である。
以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。
夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とすこしも違わぬ
森羅万象が見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような
突飛な法則によって、その風物が行きなり放題に千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。
(一)夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄の合ないところが屡々出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目で、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
(二)未だ曾て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
(三)夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。
以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、
何人も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、
何故に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
その一つは人間を胎生させ、
且つ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
言葉を換えて云えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。全宇宙と比較されるほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているものである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分裂、繁殖の状況をその形態や、色彩の変化によって研究する従来の唯物科学式の行き方では到底、細胞の内容、性能の偉大さは解るものでない。それは英雄、偉人の生前の業績を無視して、単にその屍体の外貌を観察し、内部を解剖する事のみによって、その偉大な性格や、性能を確かめようとするのと同様の無理な註文である。……又、時間というものに就ても同様の事がいえる。……中央気象台や、吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されて行く時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯出来る筈である。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。
元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい
粒々で、度の弱い顕微鏡にはかからない位の微粒子である。だからその内容の複雑さや、そのあらわし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても極度に単純な、無力なものであろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち唯物科学で説明され得る範囲の研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出していない。そうしてソレ以上の研究をするのは唯物科学を冒涜するものである。学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。
しかしこれは現代の
所謂、唯物科学的な論法に
囚われて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これ位のものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った量見違いである。生命の神秘、夢の不可思議なぞいう科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「
葭の髄から天井覗く」式の囚われた、唯物論的に不自由、不合理な……モウ一つ換言すれば科学に囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからである事が、ここに於て首肯されなければならぬ。そんな旧式の学問常識や、囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、囚われない態度で、宇宙万有を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合せて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や、化学実験室で観測、計量し得るよりも遥かに偉大、深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められない程の内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によって気付かれなければならぬ。所謂、唯物科学的な研究、考察方法を、
生命の綱と迷信している人々が、如何に否定しようとしても否定出来ない事実に直面しなければならぬ。
その第一に挙げなければならぬのは細胞が、人間を造り上げる能力である。すなわち
生命の
種子として母胎に宿った唯一粒の細胞は、前に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へと
逐うて成長して来る。あそこはああであった。ここはこうであったと思い出し思い出し、魚、
蜥蜴、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には云えないが、なるべく両親の美点や長所を綜合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これは
妾の
児だ。誰にも似ている。彼にも
肖ている。
癇癪の起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところは妾にソックリだ……なぞと極めて細かいところまで微妙に取合せて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ。相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接してこれを理解し、又はこれに共鳴感激して、国家とか社会とかいう大集団を作って共同一致、人類文化を形成して行く。その創造力の深遠広大さはどうであろう。そのような、殆ど全智全能ともいうべき大作用のすべては、帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の
顕現でなければならぬ。換言すれば現代人類の、かくも広大無辺な文化と
雖も、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在に過ぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものに外ならぬのである。
◇備考 斯様に偉大な内容を持つ細胞の大集団が、脳髄の仲介によって、その霊能を唯一つ、即ち各細胞共通、共同の意識下に統一したものが人間である。だからその人間があらわす知識、感情、意志なぞいうものは、細胞一粒一粒のソレよりも遥かに素晴しいものでなければならない筈であるが、事実はその正反対になっているので、世界初まって以来、如何なる賢人、又は偉人と雖も、細胞の偉大な霊能の前には無力同然……太陽の前の星の如く拝跪しなければならない。すなわち人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る細胞の能力の、その又何十兆分の一にも相当しないという奇現象を呈している。これは人間の身体各部に於ける細胞の霊能の統一機関……すなわち脳髄の作用が、まだ十分の進化を遂げていないために、細胞の霊能の全分的な活躍が妨げられているものと考えられる。同時に、地上最初に出現した生命の種子である単細胞が、地上に最初に出現した時の初一念? とその無限の霊能が、その霊能を地上に具体的に反映さすべく種々の過程を経て、最有利、有能な人間にまで進化して来て、まだまだ有利、有能な生物に進化して行きつつある。その過渡期の未完成の生物が現在の人間であるがために、斯様な矛盾、不都合な奇現象があらわれて来るものとも考えられる次第である。しかしこの事は極めて重大な研究事項で、一朝一夕に説き尽し得べき限りでないからここには唯参考として一言しておくに止める。
而して人間の肉体、及び精神と、細胞の霊能との関係が、斯様に明白となった以上「夢」なるものの本質に関する説明も
亦、極めて容易となって来るのである。
すべての細胞はその一個一個が、吾々一個人の生命と同等、もしくはそれ以上の意識内容と、霊能を持っている一個の生命である。だから、すべての細胞は、それが何か仕事をしている限り、その労作に伴うて養分を吸収し、発育し、分裂、増殖し、疲労し、老死し、分解、消滅して行きつつある事は近代医学の証明しているところである。しかもその細胞の一粒一粒自身が、その労作し、発育し、分裂し、増殖し、疲労し、分解し、消滅して行く間に、その仕事に対する苦しみや、楽しみを吾々個人と同等に、否それ以上に意識している……と同時に、そうした楽しみや苦しみに対して、吾々個人が感ずると同等、もしくはそれ以上の聯想、想像、空想等の奇怪、変幻を極めた感想を無辺際に
逞しくして行く事は、
恰も一個の国家が興って亡びて行くまでの間に千万無量の芸術作品を残して行くのと同じ事である。
この事実を端的に立証しているものが、即ち吾々の見る夢である。
そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内の或る一部分の細胞の霊能が、何かの刺戟で眼を覚まして活躍している。その眼覚めている細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを吾々は「夢」と名付けているのである。
たとえば人間が、不消化物を
嚥み込んだまま眠っていると、その間に、胃袋の細胞だけが眼を醒ましてウンウンと労働している。……ああ苦しい。やり切れない。これは一体どうなる事か。どうして俺達ばっかりコンナに
非道い眼に逢わされるのか……なぞと不平満々でいると、その胃袋の細胞の
涯しもない苦しい、不満な気持が、一つの聯想となって脳髄に反映されて行く。すなわちその苦しい思いの主人公が、罪の無いのに刑務所に入れられて、重たい鎖に
繋がれて、自分の力以上の石を
担がせられてウンウン
唸りながら働いているところ………不可抗的な大きな地震で、家の下敷になって、
藻掻きまわって、悲鳴を上げているところなぞ……そのうちにその苦しい消化の仕事が楽になって来るとヤレヤレという気持になる。……そうすると夢の中の気持……脳髄に反映されて行く聯想や空想の内容も楽になって、山の絶頂で日の出を拝んでいるところだの、スキーに乗って素晴しいスロープを一気に
辷り下る気持だのに変る。
或は又、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺戟だけが眠り残っていて、彼女の処へ行きたくてたまらないのに、どうしても行けない
自烈度い気持を、夢として描きあらわす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴されつつ彼の前に
笑み輝いているが、それを手に入れようとすると、色々な邪魔が出て来てなかなか近附けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断崖が見えて来る。その中を祖父が
落ぶれて乞食していた時の気持になったり、
親父が泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。又は猿になって山を越えたり、魚になって海に潜ったりしつつ、千辛万苦してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れる事が出来た……と思うと、最初の
自烈度い気持がなくなるために、その夢もお
終いになって目を醒ます。
そのほか寝小便のお蔭で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお蔭で、溺れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられる。なぞ……
斯様にして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでも構わない。全身が眠っている間に、何等かの刺戟を受けて目を醒ましている細胞は、きっとその刺戟に
相応しい対象を聯想し、空想し、妄想している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持に相応した、又は似通った場面や、光景を、その細胞自身が先祖代々から
稟け伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当り次第に喚び起して、勝手気儘に重ね合せたり、繋ぎ合せたりしつつ、そうした気持を最も深刻、痛切に描きあらわしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、それに相応した感じをあらわす聯想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合せ、埋め合せて行く。人体内に於ける細胞独特の恐怖、不安をあらわすために、
蚯蚓や蛇のようにのたくりまわる台所道具を聯想したり、苦痛をあらわすために、鮮血の
滴る大木や、火焔の中に咲く花を描きあらわしたりする事は、
恰も神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。
これは吾々の眼が醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ千変万化させて行くのであるから、その千変万化が如何に
突飛な、
辻褄の合ないものであろうとも、その
間に何等の矛盾も、不自然も感じない。のみならず現実式の印象よりも
却って自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然の事である。
換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、聯想の群れを、理屈も筋もなしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。
◇備考 欧米各国に於ける各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響、又は突飛な景象物体の組合せ等によって、従来の写実的、もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとする事によって、漸次、夢の表現法と接近しつつある。
夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容に於て感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。すなわち一般の人々が、時計とか、太陽とかに
依って示される時間を、真実の時間と信じているために、如何に大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚を
来し、驚愕し、面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問は
立所に氷解する筈である。
現代医学に依ると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈搏の七十幾つを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十四倍が一日、その又三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年は又、地球が太陽を一周する時間に相当する事になっているので、信用ある会社で出来る時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間という事になっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そんなものではない。その証拠には、その同じ長さの人工の時間を各個人が別々に使ってみると、そこに非常な相違が現われて来るから不思議である。
手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さの相違がある。
尺竹で計った品物の一尺の長さが、万人一様に一尺に見えるような訳には行かないのである。又は水に潜って息を詰めている一分間と、雑談をしている一分間とを比較しても思い半ばに過ぐる事で、前者はたまらない程長く感ずるのに反して、後者は一瞬間ほどにも感じない……というのが偽らざる事実でなければならぬ。
更に今一歩進んでここに死人があるとする。その死人は、その死んだ
後に於ても、その無感覚の感覚によって、時間の流れを感じているとすれば、一秒時間も、一億年も同じ長さに感じている筈である。又そう感ずるのが死後の真実の感覚でなければならぬので、すなわち一秒の
中に一億年が含まれていると同時に、宇宙の寿命の長さと
雖も一秒の
中に感ずる事が出来る訳である。この無限の宇宙を流れている無限の時間の正体は、そんなような極端な錯覚、すなわち無限の真実の
裡に、矢の如く静止し、石の如く疾走しているものに外ならないのである。
真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、又は時計の針の廻転なぞとは全然無関係のままに、ありとあらゆる無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さを以て静止し、同時に流れているもの……という事が、ここに於て理解されるのである。
次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生れかわり死にかわる微生物まであるが、大体に於て、形の小さい者ほど寿命が短かいようである。細胞も亦同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短かいものとの平均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。しかし、それ等の長い、又は短かい色々の細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じ事で、その生れて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが百年であろうが、そんな事には関係しない。生まれて、成長して、生殖し老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれも、これも同じ一生涯の長さに相違ないのである。この道理を知らないで、朝生まれて夕方死ぬ
嬰児の哀れさを、同じく朝生まれて日暮れ方に老死する虫の生命と比較して諦めようとするのは馬鹿馬鹿しく不自然、
且、不合理な話で、
畢竟するところ、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な天然の時間とを混同して考えるところから起る悲喜劇に過ぎない。
一切の自然……一切の生物は、かように無限に伸縮自在な天然の時間を、各自、勝手な長さに占領して、その長さを一生の長さとして呼吸し、生長し、繁殖し、老死している。同様に人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計って如何に短かくとも、その領有している天然の時間は無限でなければならぬ。だからその細胞が、その無限の記憶の内容と、無限の時間とを使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や、百年の間の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すのは何の造作もない事である。支那の古伝説として日本に伝わっている「
邯鄲夢枕物語」に……
盧生が夢の五十年。実は
粟飯一炊の間……とあるのは事実、何の不思議もない事である。
以上述ぶるところによって、タッタ一粒の細胞の霊能が、如何に絶大無限なものであるか、その中でも特に、そのタッタ一粒の「細胞の記憶力」なるものが、如何に深刻、無量なものがあるかという事実の大要が理解されるであろう。人間の精神と肉体とを同時に胎生し、作り上げて行く「細胞の記憶力」の大作用を如実に首肯されると同時に……何が胎児をそうさせたか……という「胎児の夢」の存在に関する疑問の数々も、大部分氷解されたであろうと信ずる。
胎児は母の胎内に在って、外界に対する感覚から完全に絶縁されているために、深い深い睡眠と同様の状態に在る。その間に於て、胎児の全身の細胞は盛んに分裂し、繁殖し、進化して、一斉に「人間へ人間へ」と志しつつ……先祖代々が進化して来た当時の記憶を繰返しつつ、その当時の情景を次から次へと胎児の意識に反映させつつある。しかもその胎児は、前述の通り、母胎によって完全に外界の刺戟から遮断されていると同時に、極めて平静、順調に保育されて行くために、ほかの事は全く考えなくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けば宜しいので、その夢の内容も
亦、極めて順調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気儘な、奔放自在な成人の夢と違っているところである。
これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」という事になる。すべての胎児が母胎内で繰返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、或る共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、即ち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。又その無慮数億、もしくは数十億年に亘るべき「胎児の夢」が、僅に十個月の間に見てしまわれるのも、前述の細胞の霊能を参考すれば、決して怪しむべき事ではないので、進化の程度の低い動物の胎生の時間が、割合に短かいのは、そんな動物の進化の思い出が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何等の進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」を
有たない。祖先そのままの姿で一瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここに於て
容易く首肯される筈である。
◇備考 如上の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、如何に深刻、微妙なものがあるか。そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪廻転生に、如何に深遠微妙な影響を及ぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかという事に就ては、既に数千年以前から、埃及の一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余喘を保っている所謂、宗教なるものは、こうした科学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残骸である。だからこの胎児の夢の存在も、決して新しい学説でない事を特にここに附記しておく。
然らば、その吾々の記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。
これはここまで述べて来た各項に照し合せて考えれば、
最早、充分に推測され得る事と思うが、尚参考のために、筆者自身の推測を説明してみると大要、次のようなものでなければならぬと思う。
人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。
何故かというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎のような
爪牙もなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に
備付けなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に曝露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、遂に今日の如き最高等の動物にまで進化し、
成上って来た。その間には、殆ど他の動物と比較にならない程の生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来た筈で、その艱難辛苦の思い出は実に無量無辺、息も
吐かれぬ位であったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同性の先祖代々の、何億、何千万年に亘る深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とてもその親達がこの世で受けている、短かい、
浅墓な苦労なぞの及ぶところではないであろう。
まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁の或る一点に附着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を
浮游している夢を見初める。その無数とも、無限とも数え切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光りを吸収したり反射したりして、或は七色の虹を放ち、又は金銀色の
光芒を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当ともなく浮游し、旋回し、揺曳しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、その
果敢なさ。その楽しさ。その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起った僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群が見る見る
中に死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動く事が出来ない。その苦しさ、堪まらなさ……こうした苛責が、やっと通り過ぎたと思うと、
忽ち元始の太陽が烈火の如く追い迫り、蒼白い月の光が氷の如く透過する。或は風のために無辺際の虚空に吹き散らされ、又は雨のために
無間の
奈落に打落される。こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず飜弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる
身体になりたい……と身も世もあられず
悶え
戦いているうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。即ち暑さ寒さを
凌ぎ得る皮肌、
鱗、泳ぎ廻る
鰭や
尻尾、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら
申分はない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワ如何に、自分の身体の何千倍もある
章魚入道が、天を
蔽うばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワッ――助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな
海蠍の
鋏が詰め寄って来る。スワ又一大事と身を飜えして逃げようとすると背中から雲かと思われる三葉虫が蔽いかかる。横の方からイソギンチャクが毒槍を
閃めかす。その間を
生命からがら逃出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル。ああ驚いた。情ない事だ。コンナ調子では未だ安心して生きておられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出したりしているが、自分はあんな事までしてこの暗い、重苦しい水の中に辛棒しているのは
厭だ。それよりも早く
陸に上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと
跳廻られる身体になりたい……と一所懸命に祈っているとその御蔭で、小さな三つ眼の
蜥蜴みたようなものになってチョロチョロと
陸の上に
匍い上る事が出来た。
……ヤレ嬉しや。ありがたや……とキョロキョロチョロチョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、
大海嘯が四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸き返って逃込む処もない。焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ねまわっているその息苦しさ。セツナサ……その苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような
歩竜の
趾の下になる。
飛竜[#ルビの「プラテノドン」はママ]の翼に跳ね飛ばされる。
始祖鳥の妖怪然たる
嘴にかけられそうになる。……アアたまらない。やり切れない。一緒に進化して来た連中は、身体中に
刺を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、
甲羅を
被ったり毒を吹いたりしているが、あんな
片輪じみた、卑怯な、
意久地のない真似をしなくとも、もっと正しい、
囚われない、
温柔しい姿のまんまで、この地獄の中に落付いていられる工夫はないか知らんと……石の間に潜んで、息を殺して念じ詰ていると、頭の上の
顱頂孔の処に在る眼玉が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
……サア
占めたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を
翳していると、思いもかけぬ
背後から
蟒蛇が呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大鷲が蹴落しに来る。枝の間を
伝って逃げ
了せたと思うと、今度は
身体中に
蝨がウジャウジャとタカリ初める。
山蛭が吸付きに来る。寝ても醒ても油断が出来ない
中に、やがて天地も
覆る大雷雨、大
颶風、大氷雪が
落かかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬ程、狂いまわらせられる。……ああ……セツナイ。
堪らない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナに
非道い目にばかり遭うのであろう。どうかしてモット
豪い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の
空洞に頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようの事で
尻尾が落ちて、人間の姿になる事が出来た。
……ヤレ嬉しや。有難や。これから
愈々極楽生活が出来るのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお
終いになっていない。人間の姿になると直ぐに又、人間としての悪夢を見初めるのである。
胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほか色々勝手な私利私慾を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。……主君を
弑して城を乗取るところ……忠臣に
詰腹を切らして酒の
肴に眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を
乾し殺して、
仇し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……
嫁女に
濡衣を着せて、首を
縊らせる気持よさ……憎い
継子を井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大勢で
生娘を
苛める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味のよさ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の
美味さ……毒薬実験……裏切行為……
試斬り……弱い者
苛め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。又は自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠し
了せた犯罪や、人に云い得ずに死んだ秘密の数々が、
血塗れの顔や、首無しの胴体や、井戸の中の
髪毛、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、
魘えて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を動かしている。
こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が初まって子宮の外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が這入る。その拍子に今迄の夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までと丸で違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身に
滲み渡る。ビックリして、魘えて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び初める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め初めるのである。
何の記憶もない筈の赤ん坊が、眠っているうちに突然に魘えて泣き出したり、又は何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎児の夢」の名残を見ているのである。生れながらの
片輪であったり、精神の欠陥が在ったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢が、その胎生の時代に在った筈である。又は胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、或は固まり合った毛髪と、歯だけしか残っていないような
所謂、
鬼胎なるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓するか、又は急劇に発展したために、やり切なくなって断絶した残骸でなければならぬ。
――以上――
空前絶後の遺言書
――大正十五年十月十九日夜
――キチガイ博士手記
ヤアヤア。遠からむ者は望遠鏡にて見当をつけい。近くむば寄って顕微鏡で覗いて見よ。
吾こそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士としてその名を得たる正木敬之とは吾が事也。今日しも満天下の常識屋どもの
胆っ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思い
立たるその
序に、古今無類の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラが馬鹿か、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆見参仕るもの……吾と思わむ常識屋は、眉に
唾して
出で会い候え候え……。
……と書き出すには書き出してみたがサテ、一向に張合がない。
……ない筈だ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上教授室の、自分の
卓子の前の、自分の廻転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角瓶を手近に
侍らして、万年筆を
斜に構えながら
西洋大判罫紙の数帖と
睨めっくらをしている。頭の上の電気時計はタッタ今午後の十時をまわったばかり……
横啣えをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何の事はない、糞勉強のヘッポコ教授が、居残りで研究をしている恰好だ。トテモ
明日の今頃には、お
陀仏になっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。
吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。
兎にも
角にも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
併し、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かにしなければならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関聯している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。
そもそもその少女の美しい事といったら
迚も迚も迚も迚もと二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの
上箱、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに
勿体ないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ
別嬪に
肱鉄砲を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から
削られているのだから……。
そんならその少女が死んだためにこの世を
果敢なんで……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが
一寸待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に這入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ
滅法界もない玉の如き美少年と、
偕老同穴の
契を結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを告る事になるのだ……と云ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、
生た美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、
自烈度いものとは知らなかった。しかしそれでも
折角自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、お
負のつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に依て、吾輩が
畢生の研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、
芽出度し芽出度しになる手筈になっているのだ。
どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。
イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でも亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や
獣や、人間の屍体なぞを相手に研究は出来ない。何故かというと鳥や獣は、或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝腎の実験材料になる魂が無い。必ずやピンピン溌溂たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の
主題として選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾とも名付くべき、世にもややこしい
代物と来ているんだから厄介この上もない。
そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は
冒頭から
生命がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の
煽りを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事になって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、
琥珀色の液体を相手に悠々と万年筆を
揮う事にする。
諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている稀代の美少年と、絶世の美少女との変態性慾に関する破天荒の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然発火の裏面のカラクリが、次第次第に手に取る如く判明して来るんだから……。
話はすこし
以前にさかのぼる。
今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考える処に
非ず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は
自惚れと迷信で固まっているものだ」ぐらいの事はウスウス知っていないではなかったが、それにしてもコンナまで
篦棒なものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼等、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段を以て、吾輩の放言をタタキ潰すべく試みた。殊に
肝を潰すべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲを
捻ったりしている教授連中までが、一斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、
狂人学者をタタキ出せ。
然らずむば赤煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というので、机を叩いて総長に迫ったという。
これを聞いた時には
流石に海千山千の吾輩も、尻に帆を上げかけたね。大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、
豈計らんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、
体よくマアマア式に切り抜けたお蔭で、吾輩も今日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えて見れば
阿呆らしい話じゃないか。ドウセ博士とか、大学教授とかになる人物なら、一番上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを恥かしいとも思わないで、今一枚
上わ
手の名誉狂、兼、研究狂である吾輩を捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、如何に片腹痛かったかは、吾輩の親友若林学部長が知っている。
「コンナ
塩梅式では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、心理遺伝なぞいうものは、とても
剣呑で発表出来ないね。普通の人間よりも、精神病者の方が、気が
慥かだという学説なんだからね。ハハハハ……」
「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものはないという事を、大抵の人間は知らずにいるのですからね」
「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと云われると、慌てて
憤り出すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」
なぞと笑い合った位だから……。
だから吾輩は訂正追加のために、手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日只今、そんな著述の原稿を一緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。
ナニ。別に理由は無い。つまらないからサ。
人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ
桁外れの研究に
黒煙を立て続けて来た吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。或は吾輩の精神異状が、こうして静まりかけているのかも知れないが……
呵々……。
……但し……そんな著述の中でも一番
美味しいロースのクラシタどころだけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想い立つであろうキチガイ学者の参考に供する事にした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞に
素ッ
破抜かれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、
惜しい事はちっともない。又、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、既に、二十年前に吾輩が、卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここには只、吾輩大得意の「狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係に
就て略記しておきたいと思う。
これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に
木ッ
葉微塵となって、あとには
空っぽの頭蓋骨だけが、
累々として残る事になる……という訳なんだが……。
……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツとアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。ハハハハ……。
お待ち遠さま……サテ然るにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだ
彼の「狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも狂人の散歩場ぐらいにしか思っていないようである。中には新聞の記事なぞを読んで「ハハア成る程」なぞと
首肯く者が居るかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうしておけば狂人も昂奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」なぞと、知ったか振りを云うくらいの事で、誰一人としてこの実験の正体を看破した者は居ないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも洩した事はないのだから、彼等は唯、何か非常に高遠な実験らしい……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」なぞいう
鹿爪らしい名前は、世を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。
何を隠そうこの「解放治療」の実験は、吾輩が嘗て、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試験に外ならないのだ。
但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖端的な、グロテスクな、怪奇、
毒悪を極めた……ナニ、まだ見た事がないから見せてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
……サアサア
入らっしゃい入らっしゃい。世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュ――ドロドロの科学実験はこれじゃこれじゃ……
見料は大人が十銭、小供なら半額、
盲人は
無料……アッ……そんなに押してはいけない。
狂人連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。
……エヘン……。
ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、正木先生が開設されましたる、狂人解放治療場の「天然色、浮出し、発声映画」と御座います。映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於きまして、眼科の田西博士と、耳鼻科の
金壺教授とが、正木博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキー及ばない……画面と実物とに寸分の相違もないところにお
眼止めあらむ事を希望致します。
まず……開巻第一に九州帝国大学、医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。
御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、
一と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突の
下に見えます見すぼらしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、正木先生の
居られる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほどの四角い平地が、これから御紹介申上げます「狂人の解放治療場」で御座います。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで
蜻蛉か
蠅なんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午前正九時と致しておきましょうか。
この解放治療場を取巻いておりまする赤煉瓦の塀は、高さが一丈五尺。これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有の真白い、石英質の砂で御座いますから、清浄この上もありませぬ。真中に桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この桐の木はズット以前からここに立っておりまして、本館の中庭の風情となっておったもので御座いますが、この解放治療場開設のため周囲を
地均し致しまして以来、
斯様に著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの
凶い前兆と申せば申されぬ事もないようであります。
或はこの桐の木が、斯様な思いがけないところに封じ込られたために精神に異状を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切り
明られた小さな、横長い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。
これが正木博士の所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、
轟然たる一発の
午砲が響き渡りますと、それを合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を聳動させると同時に、正木先生を自殺の決心にまで
逐い詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリと
顕われているので御座いますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。
そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
まず、最初に現わしまするは、西側の
煉瓦塀の横で、
双肌脱ぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この老人は御覧の通り、両手に一挺の
鍬を掴んで
打振ながら、煉瓦塀に並行した長い畑を二
畝半ほど耕しておりますが、しかしその
体躯を見ますと御覧の通り、腕も、
脛も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺も見えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはその
掌で、鍬を握っておりますから、よくは見えませぬが、その鍬の
柄の処々に、黒い
汚染がボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出している血の
痕跡で御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、
撓まず、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。
次にあらわしまするはその横に
突立て、老人の
畠打を見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿着物に白木綿の古
兵児帯を
締て、
頭髪を
蓬々とさしておりますから、多少
老けて見えるかも知れませぬが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに
日陽に出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅い頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その
眼眸と、瞳の光りの清らかなこと……まるで深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、正木博士が始終手にかけておられました、
真狂と、
偽狂の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。
次には今の老人と青年の、遥か
背後の方に
跼まっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪を
括り下げに致しておりますが、老人が作りました畠の
縁に跼みまして、
繊細い手で色んなものを植え付ております。桐の落葉、松の枯枝、
竹片、瓦の破片なぞ……中にはどこで見付たものか、青い草なぞもあります。しかし何しろ相手の畠が、サラサラした白砂の
畝で御座いますから、竹の棒なぞはウッカリすると倒れそうになるのを、御覧の通り色々と世話を焼いて真直に立てております。あんな面倒臭い事をせずとも、グッと砂の中に突込んだら良さそうなもの……と思われる方があるかも知れませぬが、それは失礼ながら素人考えで……この少女は
瓦片や竹の棒なぞを、やはり普通の草花か何かの苗だと信じ切っておりますので、決してそんな乱暴な扱いを致しませぬ。さも大切そうに
根方に砂を被せておりまするところが
ねうちで……しかし、それでも折角、世話してやった竹の棒が二三度も倒れますと……アレ、あの通り
癇癪を起しまして、柔かい草の苗と同じように、竹の棒を何の苦もなく
引千切って棄ててしまいます。あの
繊細い、細い腕から、どうしてあんな恐ろしい、男も及ばぬ
力量が出るかと、怪しまるるばかりで御座いますが、実は人間というものは、どんな優しい御婦人でも、大抵あれ位の力は持ておられますので……ただ……人間は、ほかの動物に比べて上品な、弱いもの……殊に女は……といったような暗示が、先祖代々から積み重なって来た結果、それだけの力を出し得ずにおりますので、それが精神に異状を来すか、地震、火事といったような一大事にぶつかるか致しますと、その暗示が一時的に破れまするために、本来の腕力に立帰りまする事が、現在、只今、この少女によって証拠立られているので御座います。毎度説明が脱線致しまして
申訳ありませぬが、これは正木博士の「心理遺伝」を逆に証明する実例で御座いますから、特に申添えました次第で御座います。
その次にあらわしまするは、破れたモーニング・コートを着た
毬栗頭の小男で、今の老人と、青年と、少女の
一群が居る処とは正反対側の、東側の赤煉瓦塀に向って演説をしているところで御座います。
「……
達摩は面壁九年にして、少林の
熊耳と云われました。故に吾人は九年間面壁して弁論を練り、
糊塗縦横の政界を打破りまして、あらゆる不平等を平面にすべく……
来るべき普選の時代に於て……即ち、その……吾人が……」
と大声をあげるかと思うと、思い出したように右手を高くあげて左右に動かしております。
その背後を一人の奇妙な姿をした女が通って行きます。御覧の通り、まことに下品な、シャクレた顔をした
中年増で、顔一面に塗り
附ております泥は、厚化粧のつもりだそうで御座います。着物の裾も
露わな
素跣足で、ボロボロの丸帯を長々と引ずっておりますが、誰がこしらえてやりましたものか、ボール紙に赤インキを塗った王冠の形の物を、ザンバラの頭の上に載せて、落ちないようにあおのきつつジロリジロリと左右を
睨めまわしながら女王気取りで、行きつ戻りつ致しておりますところはナカナカの奇観で御座います。
その女が前を横切る
度毎に、桐の木の
根方に土下座をして、あまたたび礼拝を捧げておりまする
髯だらけの大男は、長崎の某小学校の校長で御座います。親代々の
耶蘇教信心が、この男に到って最高潮に達しました結果、この病院へ収容されますと、煉瓦や屋根瓦の破片に聖像を彫って、同室の患者たちに拝ませたり致しておりましたが、只今は又、
彼の女王気取の狂女を、マリヤ様の再来と信じまして、随喜、
渇仰の涙を流しているところで御座います。
それから又、あの土下座している髯男の
周囲を跳まわっておりますお
垂髪の少女は、高等女学校の二年生で、元来、内気な、憂鬱な性格で御座いましたが、芸術方面に非常な才能をあらわしておりまするうちに、
所謂、早発性痴呆となったもので御座います。……ところが、その発病と同時に、今までの性格がガラリと一変致しましたもので、ここへ入院致しました当時、正木院長から名前を尋ねられた時にも「
妾は舞踏狂よ……アンナ・パブロワよ」と答えたという病院切っての愛嬌者で、いつも御覧の通り、自作の歌を唄いながら、踊りまわっているので御座います。
「青アオい空オラを見イたら
白イロい雲ウモが高アかく
黒ウロい雲ウモが低イクく
仲アカア良オくウ並アらんで
フウラリフウラリ飛んで行よ
フウララフウララフゥ――ララ……
あたいも一緒に並アラんでエ
フウラリフウラリ歩るいたらア
赤アカい壁アべにぶつかったア
フウララフウララフゥ――ララ……
フウララフウララフゥ――ララ……」
又、こちらの方では四十位の職人風の男が二人、親密そうに肩を組んで、最前の
年増女と直角の方向に、行きつ戻りつしております。もっとも右側の男は東京見物、左側の一人は南極探検の意味で、
斯様に意気が投合して、大旅行を続けているのだそうですから、まことに世話が焼けません。それからこちらの入口の処に座っております肥ったお婆さんは、相当な身分の人らしい事が、その上品な着物の柄で推量出来ますが、しかし御本人は、そんなつもりではないらしく、いつもあのように貧民窟に住んでいるような恰好で、居りもせぬ
虱を一所懸命に取っては潰し、
抓んでは棄てております……かと思うとアレ……あの通り帯を解いて
丸裸体になりまして、大きな音を立てながら着物をハタキ初めますので、そのたんびに演説屋も、二人の職人も、女学生も、心理遺伝の発作を中止して、指さし、眼さし、腹を抱えております。
さて……以上、映写致しましたところの狂人たちの一挙一動を御覧になりました方々の中には、必ずや意外に思われた方が、おありになるに相違ないと存じます。
「……ナアンダイ……これあ。当り前の狂人じゃないか。何もこの解放治療場に限った事はない。どこの精神病院の散歩場に行っても、こんな光景が見られるじゃないか。狂人の解放治療場という位だから、眼もはるかな
広っ
場に、何百か何千かわからぬ狂人の群れが、ウジャウジャして、あらん限りの狂態を演じている光景が見られるのかと思っていたが、これじゃあチットモ張合がない。第一心理遺伝なんて、どこが心理遺伝なのかサッパリ解らないじゃないか」
……と……失望、落胆、軽蔑、冷笑される方がキットお在りになる事と存じますが、まあ、そう急がずにお待ち下さい。実を申しますと正木先生の御研究に
係る、心理遺伝の実験に使う人物はこれだけで沢山なので、この中の二三人の狂態が、如何なる心理遺伝によって演出されつつあるものであるかを、映画に就て簡単に説明致しましただけでも、世界中のありとあらゆる精神異状の原因は残らずおわかりになろうという……申さばこの十人の精神病患者は地上千万無数の狂人の中から選み出された精神異状の代表的チャムピオン……もしくは正木博士の過去二十年間の御研究に係る心理遺伝の原理を、身を以て直接に証明すべく現われた、世界的の標本とも見られるので御座います。
その先頭第一に御紹介致しまするは、最前から赤煉瓦塀の横で畠を打っております、あの
白髪頭の老人で御座います。
この老人は、名前を
鉢巻儀作と申しますが、その五代前の祖先、すなわちこの儀作の曾々祖父に当ります者は、福岡の御城下、
鳥飼村に居りました名高い豪農で、同名
儀十と申す者で御座いました。その儀十という男は、生れ付き左利きで御座いましたが、仲々の体力と精力の持主で、自分一代のうちに鍬一本で、大
身代を作り上げて、御領主黒田の殿様から鉢巻という苗字と、帯刀を許されたという立志伝中の人物だそうで御座います。
ところで又、何が故にそのような奇妙な苗字を頂戴に及んだかと尋ねますると、この鉢巻と申しまするのは元来、この男の若い時分の
綽名で御座いました。つまり汗を拭う時間が惜しいというので、田畠の仕事を致します時には、いつも眉の上の処に、
手拭で
後鉢巻を致しておりましたところから来た綽名だというので御座いますから、如何にその働らき振りが猛烈であったかが、おわかりになるでしょう。夜が明けてから暮れる迄の間に休むのはタッタ一度だけ……福岡、舞鶴城の天守の
櫓で、
午の刻……只今の正午のお太鼓がド――ンと聞えますと、すぐに鍬を放り出して、近くの
堤か
草原の木蔭か
軒下に行って弁当を使う。それから約
半刻……と申しますと只今の一時間で御座いますな。その間、
午睡をしてから、ムックリ眼を醒ましますと又、日が落ちて、手元が見えなくなるまで休まないというのですから豪気なもので……多分この男も一種の偏執性性格といったような素質を持った人間で御座いましたろうか。その赤黒い額に残った白い、横一文字の鉢巻の
痕跡が、息を引き取った
後迄も消えなかった。殿様の前に出た時も同様で御座いましたので、お側に居った慌て者が「コレコレ鉢巻を取れ」と申しましたところから、殿様が大層、興がらせられて、
斯様な苗字を賜わったという、世にも名誉ある鉢巻で御座いました。
ところが、それから物変り星移りまして、その鉢巻儀右衛門から五代目に当るこの儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しい事にその大身代も、どこかへなくしてしまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。そうして斯様に老年に及びまして、眼が霞んで細かい筆毛が扱えないようになりましたために、余儀なく失職する事に相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異状を来しまして、一週間ばかり前に、当大学に連れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったので御座います。
ところが不思議で御座います。正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくの事で御座いました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を初めました。もっとも鉢巻は致しませぬが、御覧の通り最前から一度も汗を拭いませぬ。又、鍬を持っている手附きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の
午砲を聞きますと同時に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の儀十の生れ代りとしか思えませぬ。但し一度寝てしまいますと、疲労が甚しいせいか、あくる朝までブッ通しに
白河夜舟で、晩飯も何も喰いませぬ。おおかた夢の中で、曾々祖父の儀十になって、大身代でも作っているので御座いましょう。
……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。
次に御紹介致しまするは最前から、赤煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男で御座います。これは、あの空中で振り動かしております右の手附と、物を支え持ったような恰好にしている左の手と、それからあの、演説の
中に使っている言葉が、有力な参考になるので御座います。
「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。今日の如く
上塗りの思想が横行し、糊塗縦横の政治が永続しているならば、吾々日本民族の団結は、あの
切藁を交えぬ土塀の如く、外来思想の風雨のために、遠からず土崩瓦解の運命に……」
いかがです。最前からお聞きの通り、この
毬栗のフロック先生の演説の中には、壁という文句や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官職人が、或る時、福岡城の天守
櫓の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を
辷らして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に
漆喰のかけ直しをする時なぞは、殿様が
遠眼鏡で、その離れ
業を御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして
生命を
喪いかけましたのを、いつも奇蹟的に助かって来たので御座いました。
然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする
中に、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。
忽ち足を踏み
辷らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、
粉微塵となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って叫び出す癖がありました。その
都度に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、
真逆様に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。
斯様に普通人の眼から見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした
刹那の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、
豈、
独りこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
御質問は御座いませんか……。
序に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの
衣紋のクリコミ加減でもお解りになります通り、或る
町家の娘で、
芸妓に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく或る若い銀行家に
落籍される事になりました。ところがその銀行家の両親が
昔気質の頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……
妾に
盃指すなんて生意気バイ」と
啖呵を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま
当病室へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の
外とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が
狭過ぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも
上つ
方のお
上
ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の
鍋取公卿……貧乏華族の成り
損ねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない
清河原という苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、
環境の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た
町家風の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。
……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも
御尤も千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は
生命がけの騒ぎをやっているのか……と
仰言るのですね。
……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編輯者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に
取計らっております。……九大の
狂人博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、
割むばかりの拍手を以て、お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの
楽みに致しておった位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは御尤も千万……ところが聞えるから不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに
種仕掛があるかは、眉に
唾をつけて御覧になれば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。
……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、正木
敬之氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。
お
眼止りました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い
胡麻塩頭を光る程短かく刈込んだところから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く
落凹んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼鏡をかけた骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッと
剥き出して笑うところまで、満身これ精力、全身これ
胆、
渾身これ智……。
……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か……。
アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させる事に致します。【説明者消失】
【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】
……エヘン……オホン……。
……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に於て
相見ゆる事を生涯の光栄とし、
且、無上の満足とする者である。
諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に
憧憬れている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、飛行機の飛びつくす
隈々に
儼然とコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会の
所謂常識なるものに飽き
果て、変化溌溂、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢るるばかりの好奇心に輝く
眼を以て、吾輩の
畢生の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、
立所にこれを理解された。一般の精神病者なるものが、如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺
竿頭一歩を進めた質問を発せしめた。
曰く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相
伯仲する……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に就て吾輩は特に、満腔の敬意と、感謝とを表明する次第である。
……何を隠そう。吾輩の所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れないが、しかし、
斯く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、
躄の乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、
大声疾呼して主唱する
所以の第一は、それが
斯様にして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。
……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな
篦棒な話があるものか……と云うんだろう。
……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の
隙間もなく活躍している……眠っている間も夢となって
立現われて、執念深く吾々の心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。
……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、無くて七癖、あって四十八癖という奴は、精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。
憤る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の
偏りを、自分で持ち直す事が出来ない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、取りも直さず心理遺伝のあらわれに
外ならないから困るのだ。
そのほか、
凝り性、
厭き性、ムラ気、お
日和機嫌、
胴忘れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、女たらし、変態心理なぞの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異状的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変なのだ。
この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物や人間から遺伝して来た、色々な動物心理や民衆心理なぞの無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナ事をしたら笑われる」とか「もし見付かったら大変だ」とかいう
所謂人間の皮一枚で包んで、その上から又、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格なぞいう様々なリボンやレッテルで飾り立てて、更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り廻しながら「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「あなたがレデーなら
妾も淑女だわ」「ウヌが人間なら俺様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を濶歩するのが所謂普通人……もしくは文化人に外ならないのだ。
ところが、こうしたアイタイずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、奔放無頼なる心理遺伝の内容を洩らすまいとして、いつも一パイに緊張している。その苦し
紛れに、ソッと少し
宛、息を抜きながら、人前だけを
繕って知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテも我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れる事がある。それが個人では
癇癪、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、姦通その他の背徳行為となり、破れて復旧しないものは精神異状者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、頽廃的風潮となる。こうした心理遺伝の曝露の実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。
吾輩は
敢て断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。普通人と精神病者との区別が付けられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じ事である。即ち地球表面上は古往今来ソックリそのまま「狂人の一大解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中に居る患者たちも、やはり諸君や吾々と同様に「俺はキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。
ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。成る程諸君は立派な常識屋だ。現代文化を代表するに足る紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない……?……ウハッ。こいつは恐れ入った。そこまで常識が発達していちゃ
敵わない。
よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は厚顔無恥、無礼無作法を以て本領とする。御免を
蒙り
序にモット手近いところで人間諸君の赤恥を
突つき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜる事にしよう。
これはドナタでも御経験の事と思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、色々な空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。
ところでこの空想とか、幻覚とかいう奴が、取りも直さず心理遺伝の幽霊に他ならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、
凝帯したために、理智や、常識との連絡を失った色々な心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気儘な夢中遊行を初めたものに相違ないのである。……とりあえず女ならば、障子の蔭で、洗濯物か何かをツヅクリ廻しながら、
来し方、行く末の事を考えまわしているうちに、いつの間にか取止めもない事を考え初める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が、今のうちに財産を残して死んだら、あんな
好い人とコンナ面白い生活が出来るんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風に
嬲り殺しにしたらナアとか……お
義母さんに猫イラズを
服ませたらドンナにか
清々するだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっその事ヴァンパイヤになってやろうか知らん……なぞと……。又、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と
欠伸でもしながら……あの紳士の横ッ
面を
引っ
叩いたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火を
放けて、火の海にして
終ったらドンナに綺麗だろう。あの群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査の
向う
脛をタタキ折ったら……あの金魚屋の金魚を電車通りにブチ
撒けたら……あんなお嬢さんを
妾にしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでもない光景を、その人間の鼻の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、
独りで赤面したりしている。
これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくて
堪まらないままに、ジッと我慢して来た残忍性、争闘性、野獣性、又は変態心理なんどの面々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、吾々の意識の中に立ち現われているので、そんな事はないなぞいうのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異状にまで出世したのを見ると解る。ちょうど小説の濃厚な場面に読み入って、そうした光景を意識の
中に描きながら、思わず
涎を垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊しあらわれている……と同時に、それ以外の意識は殆ど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのする事、なす事が、一々先祖から伝わって来た気持の通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩の学説とピッタリ一致して来る事になるのだ。
今を去る事三千余年。ここを
距る事三千里。
天竺は
仏陀迦耶なる
菩提樹下に於て、過去、現在、未来、
三世の実相を
明らめられて、
無上正等正覚に
入らせられた大聖
釈迦牟尼仏様が「因果応報」と
宣うたのはここの事じゃ。親の因果が子に
報いじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御
文章ではない。投げ
銭も放り銭も
要らぬ。現代科学の
中でも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。
しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、
駭心に
価する事実を提供しているんだよ。
今まで説明して来たところによって既に、アラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、吾々が眠って又、醒めるようなものである。一夜眠ったら
昨日の事なぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、殆ど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。そうすると又、昨日の事を思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうの丁度今時分に、向うを
別嬪が通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。
精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は
明日の自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚の
みごもりの姿になる時間じゃ。
されば男女を問わず人間は、自分の先祖が
嘗て、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、
所謂、
暗示にブツカルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち帰る……しかも、そんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。又、そうした心理の
暗示となるべき場面、品物、天候なぞいうものも、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となく吾々の心理遺伝を刺戟し続けていて、眼の見える限り、耳の聞える限り、一刻一
刹那も休んでいないのだから恐ろしいぞよ。吾々の一生を支配している「
艮の
金神」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にドエライ証拠を出すぞよ……。
アハハハハハ。
大本教のお筆先と間違えてはいけない。吾々が日常に経験している極めて平凡な事実だ。吾々の気持が朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書館にモグリ込んだり……
好いた同志が結婚間際でイヤになったり……
鉄の
草鞋で探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断ったりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量辺の暗示が、引っきりなしに吾々の心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。
……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研究したら、イロンナ面白いイタズラが出来そうには思えないかね。ちょうど物理や化学の実験を見るように他人の精神に対して、思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。
手近い例を
挙ると、人間の犯罪心理というものは、実に
詰らない……又は全然、何の関係もないと思われる暗示のお蔭で、意想外に大きな刺戟を与えられている場合が、非常に多いものである。……たとえば赤インキを附けたペン先をジッと見詰めているうちに何故ともなく横に在る女優の写真の眼玉に、突き刺してみたくなったり……青い空や、白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持になったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの
手入をしてみたくなったり……大風の音を
聞ているうちに、短刀を
懐にして歩いてみたくなったり……よく切れる
剃刀を見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と云った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……応接間に聞えて来る小鳥の
啼き声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。