何んでも無い
臼杵利平
小生は先般、丸の内
姫草ユリ子が自殺したのです。
あの名前の通りに可憐な、
その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の
しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。
本日の午後一時頃の事でした。
重態の
軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。
「サアどうぞ」とジャコビアン張の
「私が臼杵です」
しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を
そこで私は滑稽にも……サテは
私は
「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
と即答をしましたが、その
相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い
白い封筒の中味はありふれた
「白鷹先生
臼杵先生
妾 は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅 先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
白鷹先生 臼杵先生
お二人様の妾に賜 わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞 ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実 が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐 がありましょう。
さようなら。
白鷹先生 臼杵先生
可哀そうなユリ子は死んで行きます。
どうぞ御安心下さいませ。
昭和八年十二月三日臼杵先生
白鷹先生 臼杵先生
お二人様の妾に
妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の
さようなら。
白鷹先生 臼杵先生
可哀そうなユリ子は死んで行きます。
どうぞ御安心下さいませ。
姫草ユリ子 」
この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として
「ヘエ。
「そうです」
相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。
「モウ死骸は片付けられましたか」
「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」
「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」
「さようです」
「何で自殺したんですか」
「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。
ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。
曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち
「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット
「
「いや。ジフテリ程度の注射なら
「成る程……」
「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」
「付添人も何もいなかったのですか」
「本人が
「いかにも……」
「キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この
「検屍はお受けになりましたか」
「いいえ」
「どうしてですか。医師法
相手は静かに私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。
「検屍を受けたらこのお手紙の内容が表沙汰になる
「成る程。ありがとう。してみると
「あれ程の
「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を
「……ええ……さような事実の
「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」
「いいえ。
「アハハ。そんなら貴下も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に
相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。
「
「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに
「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いもない死人の遺志を
「呼んでもいいですね」
「……是非……すぐに願います」
私は卓上電話器を取り上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に
「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院の臼杵です。先般は姫草の件につきましていろいろどうも……ところで早速ですが……お忙しいところまことにすみませんが、直ぐに
曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。したがって彼氏が、彼女とどんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の
しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に
何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号
「妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている
と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ
その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の
それにしても
以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中には彼女に関する貴下の御記憶と重複しているところもありましょう。または貴下の御人格を冒涜するような章句もありましょう。なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法に
姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前日の夕方であった。見事な、しかし心持地味なお
「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」
診察室の装飾に就いて家具屋と
「新聞の広告を見て来たのですか」
「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参りました」
「ハハア。お国はどちらですか」
「青森県のH市です」
「御両親ともそこにおられるのですか」
「ハイ。H市の旧家でございます」
「御両親の御職業は……」
「造酒屋を致しております」
「ほお。それじゃ失礼ですが、お
「ええ。それ程でもございませんけど……妾が東京に出る事に就きましても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかったんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてたまらなかったもんですから……」
「それじゃ今では御両親と音信を絶っておられるんですか」
「いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の
「学校は何処をお出になったの」
「青森の県立女学校を出ておりますの」
「看護婦の仕事に御経験がありますか」
「ハイ。学校を出ますと直ぐに
「そこを出て来た事情は……」
「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」
「いやな事ってドンな事ですか」
「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」
「ふうむ。貴女の身元保証人は……」
「あの。
「どうして兄さんに頼まないんですか」
「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」
「お名前は……」
「姫草ユリ子と申しますの」
「姫草ユリ子……おいくつ……」
「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」
これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを
笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。
けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を
「ねえお姉様。あの
「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も
と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。
そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の
彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が
私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。
こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われてから一週間と経たぬうちに俄然として見違えるような美少女となって、病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして
しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれくらいの事では済まなかった。
彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻科のお仕込みもさる事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させられて、
彼女が私の病院に来てから間もなく私がある中年紳士の
しかし彼女が開業医なるものの患者に対して
私は開業当時から、誰もするように仕事の時間割をきめていた。午前十時から午後一時まで、午後三時から六時迄を診察治療の時間ときめて、六時以後は直ぐに近くの
彼女は麻酔の
そればかりではない。
彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。この点では私の家族たちも唯一言「エライ」と評するよりほかに批評の言葉を発見し得ないくらい、彼女の手腕に敬服していた。
老人は老人のように、小児は小児のように、男は男のように、女は女のようにと言ってみれば何でもない事ではあるが、そうしたあらゆる種類の患者の病状を一々親切に聞いて遣って、院長たる私を信頼させて、安心して診察、手術を受けさせて、気楽に入院させて、時としてはその家庭の内情までも聞いて遣って、同情し、励まし、慰めつつ、無事に退院させて遣る……その手際と言ったら到底、吾々凡俗の及ぶところではない。神経質な、根性のヒネクレタ老人や、ヤンチャな過敏な子供までも、モウ一から十まで姫草さん姫草さんと持ち切りで、ほかの二名の看護婦はあれどもなきが如き状態であった。アタジケない話ではあるが、患者が退院する時なぞは、院長の私のところへ謝礼をするよりも先ず姫草さんに……という傾向になってしまったもので、子供なんぞは泣いて帰らないという。ヒメちゃんと一緒に病院にいるんだと言って聞かない。そのほかの患者でも、退院して後に彼女宛に寄越す礼状の長いこと長いこと。受付兼会計係をしている姉が「十二銭も貼るほど手紙に書く事が、どうしてあるのだろう」と
さらに驚くべき事実は(実は当然の帰結かも知れないが)彼女のお蔭で私の患者がメキメキと激増した事であった。この点、私の開業は非常に恵まれていたと同時に、彼女……姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユリ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。
私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思わなかったが最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、姉や妻と寄々相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして
彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わなかった。
一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の
「先生。
「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」
と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた事はなかったろう。
彼女の郷里からと言って五升の清酒と一
「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」
と思わず口を
もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、
「タッタ二十円しか遣らないのになあ」
とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。
ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が
彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。
お恥かしい話ではあるが開業
々「オイオイ。小さい
と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。
「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」
「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」
「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」
「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」
「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時なんかは、患者が笑うと頭が動いて、トテモ危険なんですけど、白鷹先生の手術はステキに早いもんですから、患者が痛いなんて感ずる間もなく、笑い続けておりましたわ。そんなところまで臼杵先生のなさり方とソックリでしたわ」
なぞとユリ子は、あとで言訳らしく説明するのであったが、こうした最大級の真に迫ったオベッカが私のプライドを満足させた事は言う迄もない。もちろんこれは彼女が、彼女の実家の裕福な事を証明して、彼女の暗い、醜い前身を隠そう。同時に彼女の
「ホオ。それじゃ白鷹先生は今でもK大におられるのかい。チットモ知らなかった」
彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。
「ええ、ええ。手術にかけたらトテモお上手っていう評判ですわ。妾、こちらへ参りますまで先生にドレくらい可愛がられたかわかりません。奥様からも、それはそれは真実の娘のようにして頂きましてね。今にキット良い処へ
私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬意を表すべく両手を
「なあんだ。白鷹先生なら僕の大先輩だよ。九大にいる時分に御指導を受けたんだから、もしかすると僕の事を御存じかも知れない。いい事を聞いた。そのうちに是非一度、お眼にかかりたいもんだが……」
「ええ、ええ。そりゃあ
「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」
「下六番町の十二番地。奥さんはトテモ上品でお綺麗な、九条武子様みたいな方ですわ。久美子さんと仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんですよ。仲がよくってね……」
「アハハハ。何でもいいから、そのうちに……きょうでもいいから一度、君から電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」
「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」
「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」
そう言って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。
彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い
「……でも妾……看護婦
「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同士じゃないか。白鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」
「ええ。そりゃあ今だって、そうですけど……」
「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて
彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいような笑い顔をニッコリとして見せながら、
「ええ。妾でよければ……いつでも
「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」
それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い応対であった。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉しそうに……あたかも白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのようにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。
その後ろ姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが、何ぞ計らん。この時すでに私は彼女に一杯
彼女の言う白鷹先生というのは、彼女の識っている白鷹先生とは性質の違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた……私と同様な気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はずみな事を彼女に頼んだ次第であった。
ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を
私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼女が電話口から診察室に飛んで来た。
「先生。先生。白鷹先生からお電話です」
大勢の患者を診察していた私は驚いて振り返った。
「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」
「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございません。ですから妾、昨日お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙しい時間もチャンとそう言って置きましたのに……今頃お掛けになるなんて……」
と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を
電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に
「ヤア。臼杵君か。暫く。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良過ぎるもんだから看護婦長から憎まれてね。とんでもない
と言ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が立っていて、可愛らしく小首を
「まあ。
と心配らしく眼を光らしているのであった。
「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」
「……でしょうね。そりゃあ面白い方よ」
それから電話の内容を話して聞かせると、如何にも安心したらしく、さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。
「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大好き……」
なぞと感激に満ち満ちた、軽い
ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、
「ほんとに仕様のない。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」
「どうしたんだい。独りでプンプンして……」
「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と
「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が
「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」
「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」
「……だって」
と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に
事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の
その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。
「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」
「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」
「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」
「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」
「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」
「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」
「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」
「この間お約束なすったんじゃございません」
「イイヤ。約束なんかした
「まあ。そんならいいんですけど……」
「どうしたんだい」
「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」
「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」
「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」
「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」
「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる
「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」
「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」
こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、
「この間はすまなかった。いつも間が悪くて君に会う機会がない。きょうは歌舞伎座の切符が二枚手に入ったから一緒に見に行かないか。午後一時の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っているカフェーかレストランがあるだろう」
という話だったが、
ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女はまたも大変な失策を演じた。もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も
私の日記を翻して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬へかけた数日のうちで、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった事を神様以外の何人が察し得たであろう……。
その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に出勤すると、玄関の
「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今お
「そりゃあ、いけないねえ。何時頃なんだい」
「今朝、九時頃って言うお話ですの……」
「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、そんなに早く知らせたんだろう」
「だって先生。この間のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お約束なすったでしょう」
「ウン。あの手紙を見たのかい」
「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明治節ですから……」
「ふうん。僕は知らなかったよ」
「あら。この間、案内状が来てたじゃございません」
「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」
「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするから東京市外の病院の方々も参加を申し込んで頂きたいって書いてありましたわ。あの案内状どこへ行ったんでしょう」
「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」
「たしか十円と思いましたが……」
「
「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字で添書がして在りましたわ」
「ふうん。行ってみるかな」
「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引き受けたんだから今度こそは
「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい
「まあ先生。今から直ぐに……?」
「うん。直ぐにでもいいが……」
「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」
「フーム。どうしてわかるんだい。
「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに
「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」
「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから……そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の
と付根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。
「……見ろ。これからソンナ
と
しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。
「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」
「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」
「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」
「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」
「ありがとうございます。では行って参ります」
「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」
彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の
いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い
「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」
「……フウン……ドウ変なんだい」
「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」
「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」
「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと
「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお
ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。
だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の
「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」
「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」
「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」
「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」
「オホホ。もっとすごい感じよ」
「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」
「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」
「名探偵だね。どうして会えるんだい」
「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」
「やはり丸の内倶楽部さ」
「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」
「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」
「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」
「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」
「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」
「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草ユリ子の創作した影人形だって言うんだね」
「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの
「驚いた。どうしてわかるんだい」
「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と
「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」
「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……」
「怪談怪談。
「冷やかしちゃ嫌。真剣の話よ。つまり
「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。キット成功する」
「まあ。あたし真剣に言ってんのよ。
「そう言うお前の方がヨッポド気味が悪いや」
「憎らしい。知らない」
「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの
「……あたし……それは、みんなあの
「ウップ。怪しい結論だね。恐ろしく無駄骨の折れる虚栄じゃないか」
「ええ。それがね。あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの
「それが第一おかしいじゃないか。第一、そんなにまでしてこちらの信用を博する必要が何処に在るんだい。看護婦としての手腕はチャント認められているんだし、
「ええ。そりゃあ解ってるわ。たとえドンナ
「そりゃあ庚戌会がその頃にあるからさ」
「でも……やっぱりおかしいわ。それがキット会えないお話じゃないの……オホホ……」
「だから言ってるじゃないか。廻り合わせが悪いんだって……」
「だからさ。それが変だって言ってるんじゃないの。廻り合わせが悪すぎて何だか神秘的じゃないの」
「止せ止せ。下らない。お前と議論すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。神秘も糞もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶をくれ……」
私は黙って夕食の箸を置いて新調のフロックと着換えた。誰しも疑わない姫草ユリ子の正体をここまで疑って来た妻のアタマを
「とにかく今夜は是非とも白鷹君に会ってみよう。石を起し瓦をめくってもか。ハハハ。エライ事に相成っちゃったナ……」
桜木町から二円を奮発した私が、内幸町の丸の内倶楽部へタクシーを乗り付けたのが午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々
倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、
「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」
という返事であった。
私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。
私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、
どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕のほども窺われる。こんな事なら鹿爪らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった……と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると
「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」
といううちに給仕は右手の
扉の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の
扉が閉じられると間もなくレコードの
「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」
「ああ、愉快だなあ……素敵だなあ、今夜は……」
「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るベしだ。素敵だ、素敵だ……ウン素敵だよ」
「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなくちゃ出来ない芸当だぜ」
「……白鷹君バンザアイ……」
と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が
「ヘヘッ……手品が来やがった」
「何だあ。手品だあ。何処でやってんだ」
「それ。そこに立ってるじゃないか」
「何だあ。貴様が手品屋か。
私は急に不愉快になって逃げ出したくなった。相手の不謹慎が癪に障ったのじゃない。コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように
「オイ。出来たかい、フィアンセが……」
「ウン。二、三人出来ちゃった」
「二、三人……嘘つきやがれ」
「このミス・プリントを見ろ」
「イヨオオ。おごれ、おごれ」
「まだまだ、明日になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがアホイワンセになるかも知れねえ」
「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴がいるかんな。タキシの中で解消するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」
「始めやがった。モウ
「ハアアア……アアア……何のかんのと言うてはみてもオ……抱いてみなけりゃあエエ……アハハ。何とか言わねえか……」
「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消の一幕。この儀お眼に止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは控えさせられまあす」
「いよオオ――オオ(拍手)どうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」
私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開いたので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同じくらいに固くなった一人の紳士が入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッキを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に持って、左の掌に載せた[#「載せた」は底本では「戴せた」]名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に立ち止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。
酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして相手の紳士と、私の顔を見比べ始めた。
私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。
だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも
私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些なからず
「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとうございました」
と笑いかけながら一、二歩近寄った。言い知れぬ懐かしさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。
ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で
「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」
こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を
こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、
私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと
「ところで……奥さんの御病気は
「……エ……」
この時の白鷹氏の
「
「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
「ええッ。いつ頃ですか」
「……今朝の……九時頃……」
ドット言う
私は極度の
そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。
「おかしいですね。妻は……久美子は今朝から教会の会報を書くのだと言って何処へも行きません。無事に
「ヘエッ……嘘なんですか。それじゃ……」
「……嘘? ……僕は……僕はまだ、何も言いませんが君に……初めてお眼にかかったんですが……」
またドッと起る爆笑……。
「……姫草ユリ子の奴……畜生……」
白鷹氏は突然に眼を
「……姫草……姫草ユリ子がまた……何か、やりましたか」
「……エッ……」
私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。
「……また、何か……と仰言るんですか先生。先生は前からあの女……ユリ子を御存じなのですか」
私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。
その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を駆け上って来る音がした。
「横浜の臼杵先生がお出でになりますか」
「僕だ、僕だ……」
私はホッとしながら振り向いた。
「お電話です。民友会本部から……」
「民友会本部……何と言う人だ」
「どなたかわかりませんが、横浜からお出でになった代議士の方が、本部で卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願いたいと……」
「待ってくれ……相手の声は男か女か……」
「御婦人の声で……お若い……」
給仕は何かしらニヤニヤと笑った。
「……馬鹿な……名前も言わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そうして名刺を持った人に迎えに来いと言え」
これは私のテレ隠しの大見得と、同席の諸君に解せられたに違いないと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではなかった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに今朝ほどの白鷹婦人に関する彼女の報道を思い出したのであった。
彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何に狼狽し、心配するかを、何処かで実地に見て知っていたに違いない。だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマな手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶対絶命[#「絶対絶命」はママ]の一所懸命な気持から、
私は一生涯のうちにこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事はない。
私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと
けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクッションの上にドッカリと腰を
……俺はなぜアンナに
……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実 だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事かを知り、白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っているはずなのに……。
そう考えて来るうちに、私の頭の中にまたもかの丸の内倶楽部の私はまたも彼女を信用する気になって来た。私は彼女がコンナにまで深刻な、根気強い
……そうだ。白鷹氏は故意 と、あんなに冷厳な態度を執 って後輩の田舎者である俺を欺弄 いでおられるかも知れない。アトで大いに笑おうと言う心算 なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界 のチャキチャキの連中と交際し、連絡 を付けるのは地方開業医の名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於て優越な立場にいる白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯 をしておられるのかも知れない。
……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。
……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そう言った悪戯が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、自分に引き較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユリ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響していた事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付けて気を落ち着けて置かねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安がコミ上げて来て、トテも……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。
桜木町駅に着いたのは何時頃であったろうか。そこから程近い紅葉坂の自宅まで、何かしら胸を騒がせながら、雨上りの道を急いで行くと、突然に
「……臼杵センセ……」
と呼び掛ける悲し気な声が聞こえて来たので、私はちょうど予期していたかのようにギクンとして立ち佇まった。それは疑いもないユリ子の声であった。
ユリ子は今日の午後、外出した時の通りの姿で、黒い男持の
彼女は、その洋傘を拡げて、人目を忍ぶようにして私に寄り添った。そうして
「先生。庚戌会へお出でになりまして……?……」
「ウン。行ったよ」
「白鷹先生とお会いになりまして……?……」
「……ウン……会ったよ」
「白鷹先生お喜びになりまして……」
「いいや。とてもブッキラ棒だったよ。変な人だね。あの先生は……」
私は幾分、皮肉な語気でそう言ったつもりであったが、彼女はもうトックに私のこうした言葉を予期していたかのように、私の顔をチラリと見るなり、淋しそうな微笑を横頬に浮かめて見せながら
「ええ。キットそうだろうと思いましたわ。けれども先生……白鷹先生はホントウはアンナ方じゃないのですよ」
「フーン。やっぱり快闊な男なのかい」
「ええ。とっても面白いキサクな方……」
「おかしいね。……じゃ……どうして僕に対してアンナ失敬な態度を執ったんだろう」
「先生……あたしその事に就いて先生とお話したいために、きょう昼間からズットここに立って、先生のお帰りを待っておりましたのですよ。でも……お帰りが電車か自動車かわからなかったもんですからね」
そう言ううちに彼女は二、三度、派手な
私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるものを、ここに包まず書き止めて置く。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を
私は光と騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対して熱心に耳を傾けて行ったのであった。
白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵した。そうして宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、ある一線を超えようとするのであった。
しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。
彼女の念願は看護婦としての相当の地位と教養とを作り上げた上で、女医としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業する……そうして
然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であった。世の常の婦人ならばかような場合に、主人の罪は不問に付して、当の相手の
ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、
「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかすると白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになるかも知れない。そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もない
……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を
……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにならなかった
……あたし……
彼女は路傍の砂利積に
気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二、三人、妙な眼付で振り返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであろう。
私はヤットの思いで彼女をなだめ
直ぐ横の石段を上って、露地の突き当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分近く進んでいたにしても彼女との立ち話がずいぶん長かった事を思い出して、私は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家の中の気はいを察して、吾れ知らずホ――ッと胸を
ところがその安心は要するに私の一時の
心持ち昂奮気味で、慌しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私の顔を見るや否や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、
「白鷹先生にお会いになって……」
と左右から詰問するのであった。
「ウン会ったよ」
「姫草さんとは……」
「今、そこまで話して来た」
姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮かんでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を
「姫草さんとドンナお話をなすったの」
「ウム。まあお前達から話してみろ」
「貴方から話して御覧なさいよ」
「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」
「だって貴方……」
「茶の間へ行こう。
それから熱い番茶を飲みながら二人の女の話を聞いているうちに何と……今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。
私の留守中に、病気で寝ておられるはずの白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐに下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時にこの上もなく
相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。
勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な
すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の
そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの
しかし以前からメソジストの
ところが、それが彼女に取っては
しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を
白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ
しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を
私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生まれ
その時にまたも新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長い深いタメ息を一つ吐きながらコンナ奇妙な事を言い出した。
「ねえ貴方。姫草って言う
この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んでしまっている恐るべき魔力に気が付いたので、思わずホッと溜息を
私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の
自慢の船長
「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせて貰わにゃならん」
「何も告白する事はないよ。今の話の外には……」
「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係もないチュウのじゃな」
「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」
「わかった、わかった。それでわかったよ」
宇東三五郎は突然マドロスパイプを差し上げて叫んだ。
「わかった、わかった。赤たん赤たん」
「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」
「赤チュウタラ赤たん。
「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし
「いかんいかん。それが
「ウ――ム。それはそう思えん事もないが、しかし僕の眼には、ソンナ気ぶりも見えないぜ」
「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見えるくらいの奴なら、モウとっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」
「フ――ム。そんなもんかなあ」
「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」
「エッ。特高課長……」
「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと
「何処だい特高課長は……遠いのかい」
「知らんかアンタ」
「知らんよ」
「知らんて、君の
「エッ。隣家……」
「うん。田宮ちゅう家がそうじゃ。
「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」
「その何草とか言う小娘は、君の家よりもその隣家が目標で、君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」
「成る程なあ。その田宮ちゅう男なら二、三度門口で挨拶した事がある。
「ウン。それだ、それだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで……チョット待て、支局から電話をかけて置こう」
話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。
私は何となく胸を轟かしながら宇東と一緒にタキシーに飛び乗った。
田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。
長脇差の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある田宮氏は、
「赤じゃないかな」
それを聞いた時、私はまたもドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る恐る尋ねた。
「赤としたらどうしたらいいでしょうか」
田宮氏は冷然と眼を光らせた。
「引っ
「……エッ……引っ括る……どうして……」
「明朝……イヤ……今朝ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わせますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」
「そ……それはどうも困ります」
と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。
「実はそこのところをお願いに参りましたので、臼杵君も開業
々「アハハ。いかにも
「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の
「結構です。しかし近頃の赤はナカナカ敏感ですから、よほど御用心なさらないと……」
「大丈夫と思います。今夜、ここへ伺った事は誰も知りませんし……それに
「成る程ね。それじゃソンナ都合に……」
「承知しました。どうも遅くまで……」
そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を
それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が
しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。
姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。
姉と妻と私は、その一日中、今更のように
「あれは赤ではありませんよ」
「ヘエ……」
と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。
「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家
「ヘエ。全然赤じゃないんですね」
「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」
「そうするとあの女は、つまり何ですか」
「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」
「ヘエー。ほんとうですか」
「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して
「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を
「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に
鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない
「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」
「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」
「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」
「何が余計な事だ。
「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」
二人はそれから威勢よく
ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り
「もうしません、もうしません、もうしません」
と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。
それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、
「すみません、すみません」
と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク
ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。
わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。
スッカリ
しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。
私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット
呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を
「ハイ。姫草さんの
これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。
「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、
「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」
「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」
さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。
「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」
「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。
イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。
「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」
「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」
「その時にあの女を連れて行かれましたか」
「行くもんですか。一人で行ったのです」
「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」
「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」
「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して
「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を
「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」
「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」
「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」
「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」
「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという
「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」
「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」
「一人で行くはずはないですがね」
「むろんですとも……呆れた奴だ」
「どうも
「怪しからんです……実は今朝、
「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」
「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」
「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」
「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」
「
「それともモット
「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」
「アハハハハ。イヤ。
「さようなら……」
そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、
彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした
「……まああ……呆れた
そんな事をペラペラ
「その若い衆で思い出したんですけどね。あの
彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。
それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか
一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は
それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、
「喋舌ったら承知しないよ」
と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟 いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家 のお蕎麦 屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……
と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと
私はかの姫草が、その
彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……
彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。
彼女ほどの
白鷹兄足下
姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。
宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を
また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。
貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。
小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。
ただそれだけです。
この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。
A・
彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした
さようなら。
彼女のために祈って下さい。
殺人リレー
第一の手紙
山下智恵子様 みもとに
ミナト・バスにて
お手紙ありがとうよ。
女車掌になりたいって言う
百姓の生活はつまらない。
青空や雲を見てタメ息なんかしてはいけない。東京の方へ行く赤、青、白の筋の付いた汽車を見送ってボンヤリなんかしていたら、なおさらいけない。汗でも涙でも、うつむいて土の中に落して行かなければ、百姓仲間の裏切者みたいに両親や兄弟から
ほんとうだわね。同情しますわ。
ですけども女車掌になんか成っちゃ駄目よ。ほかの仕事はあたし知りませんけど、女車掌だけはホントウにダメなのよ。お百姓なんかよりもモットモットつまらない、そうしてモットモット恐ろしい、イヤな仕事なのよ。
女車掌の運命なんてものは、往来に散らかっている紙キレよりもモットモット安っぽいものなのよ。女車掌になってみると、すぐにわかるわ。
早い話が、お百姓の娘でいると、お婿さんは純真な村の青年の中から御両親が選んで下さるでしょ。都合よく行くと好きな人とも一緒になれるでしょう。
ですけど女車掌になると、そんな幸福を最初からアキラメていなければならないのです。会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。何とかカントかナンクセを付けて追い出されてしまうのです。私みたいに身よりタヨリのない
そうして、そればっかりじゃないのよ。
あたし御存じの通り親も兄弟もない孤児ですから、女給にでも交換手にでも何でもなれるんでしたけど、女運転手が勇カンでスタイルがいいと思って、そのお稽古のつもりで女車掌になったんですけど……望み通りに運転手になって、お金を儲けたって、それから先は何の目的もないんですからねえ。孝行をする親も、可愛がる弟もないんですからねえ。つまんないわ。毎日毎日、何の
ごめんなさいね。貴女のおためを思えばこそホントの事を言うんですから、怒らないで頂戴ね。そればっかしじゃないのよ。
モットモット恐ろしい事があるのよ。
この先に入れといた月川
この手紙は妾の大事な手紙です。恐ろしい殺人事件の秘密のショウコになるかも知れない手紙ですから、このまんま貴女に上げるわけに行かないのです。そのわけもお読みになればわかるわ。
月川ツヤ子さんは妾の小学校の同級生なの。お父さんと一緒に浜松のベンキョウ・バス会社で、あたしと同じに女車掌をつとめている人よ。今年十九。
月川ツヤ子さんの手紙[#「月川ツヤ子さんの手紙」の両側に傍線]
友成トミ子さん
ごぶさたしました。お変りありませんか。
トツゼン変な事を書いてすみませんけど、私このごろある人に殺されそうな気がするのです。
このごろ私のいる勉強乗合自動車会社に、
その人が来てから三か月目に、私をお嫁にくれって、私のお父さんに申し込みました。二週間ばかり前の事です。
会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。新高さんなら前から嫌いじゃなかったんですからね。
ごめんなさいね。あなたに御相談しないで承知してしまったこと。
でも妾、最初ビックリしましたわ。どうして新高さんが、妾のような女を貰う気になったのだろうと思いましてね。
新高という人はシンカラ無口の人らしいのです。待合室に来ても、ほかの運転手のように女車掌に甘ったるい事を言ったり、妙な眼付きをした事なんか一度もないのです。並んで腰かけている私たちを見向きもしないで、スパリスパリ煙草ばかり吹かしているのです。
そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番
そうかと思うとまた運転台で、バットを吸い吸いモノスゴイ速力を出しながら、ステキに朗らかな澄み切った声で、
エーエ。二度とオー惚れエーまいイ運転手のオ――畜生めエ――
敷き逃げエ――したア――ままア――知らぬウ――顔オ――
なんて歌って、満員のお客をゲラゲラ笑わしたりするのです。その癖、遊びに行った話はチットモ聞きません。いつもお金をポケットの中でジャラジャラ言わせているのですよ。ですから会社の重役さんがスッカリ信用してしまったらしいのです。
私も男らしい固い人と思い込んで、何もかも言うなりになってしまったんです。そうして正式に結婚式を挙げるばかりになっていたのです。
そうしたらね。きょう東京の青バスにいる妾の親友の松浦ミネ子さんからダシヌケにお手紙が来たのです。それがトテモびっくりする事だったのです。
「貴女の会社に新高竜夫って言う運転手が来たらダンゼン御用心なさい。
新高竜夫って言う人は東京中の運転手の中でも一番男ぶりのいい、一番恐ろしい評判の悪い人です。
新高って言う人は青バスにいるうちに幾人も幾人も女車掌を引っかけて内縁を結んで、その人に
それでもこの頃になって、警視庁の眼が、だんだん強く新高さんの近まわりに光り出したので、新高さんはコッソリ青バスをやめて、何処かへ行ってしまったのです。
どこか田舎のバスへ落ちて行ったろうって言う噂ですから、貴女の会社へ来るような事でもあったらゼッタイに御用心なさい。
よけいな事かも知れませんけど、心配ですから、ちょっとお知らせします」
と言ったような意味の事が鉛筆で走り書きにしてある。そんな手紙が来たのです。
妾ビックリしてしまいましたわ。
ですけども私、馬鹿正直なもんですから、この手紙をお父さんに見せないで、イキナリ新高さんに見せて遣ったのです。だって私モウ新高さんと関係が出来てしまったんですから、そうするのが当り前じゃないでしょうか。
新高さんは青い顔をしてその手紙を読んでしまいました。そうしてクシャクシャに丸めて、火鉢に投げ込んで焼いてしまいました。
「馬鹿だな……お前は……コンナ事を人にシャベッたら承知しないぞ」
と言って舌なめずりをしながら、ジロリと私を睨んだ新高さんの顔付きの恐ろしかったこと。顔の肉の下から骸骨がムキ出しに、ギョロッと出て来たかと思ったくらいスゴかったわよ。芝居でも活動でもアンナ怖いスゴい顔は見た事なかったわ。
私はその時にシンカラふるえ上がってしまって、ミネ子さんのお手紙に書いてある事がウソか本当か尋ねる事が出来なくなりました。そうして新高さんの顔を見て涙をポロポロ流していたら、新高さんはニッコリ笑って私の肩をタタキました。
「アハハ。お前を殺そうてんじゃないよ。コンナ噂の手紙なんかホントにする奴があるもんか。馬鹿だな。お前は……」
と優しく背中を撫でてくれたのです。その時に妾は何だか新高さんに殺されそうな感じがしてならなかったのですよ。でも新高さんなら殺されてもいいような気もちになったもんですから、そのまんま黙っているのです。
この事はお父さんにも誰にも言わないつもりですけど、トミ子さんにだけ書いときますわ。
ね。私の事を忘れないでね。
私と新高さんとで楽しい家庭を持っても笑わないでね。心から祝福してね。さよなら。
浜松勉強バスにて ツヤ子より
これがツヤ子さんから来た最後の手紙だったのよ。
ね。智恵子さん。この手紙を書いたツヤ子さんは、それから一週間も立たないうちに死んじゃったのよ。そうして博多でお葬式があったのよ。
ツヤ子さんの遺骨を持ってお帰りになったお父さんのお話を聞いたら、ツヤ子さんはバス代用の新フォードに新高さんと一緒に乗って行くうちに、お客が満員になったので左側のステップに立っていなすったんですって。そうしたら暗闇の中で向うから来たトラックがライトを消さなかったので、新高さんのハンドルが急に左に寄り過ぎて、ツヤ子さんの身体が電柱にブツカッたって言うのよ。左の肩と、腕と、アバラの骨がグザグザになっていたんですってさあ。
ドオオンて大きな音がしたって言う
怖いわねえ。妾黄色いバラの花をドッサリ仏様に上げたわ。
デモこの話を聞いた時に妾もうツクヅク女車掌がイヤになってしまったのよ。
わたしの言っている意味がおわかりになって?
女車掌というものがドンナに嫌らしい、淋しい、恐ろしい、ツマラナイ運命を持っているものかおわかりになって?
サヨナラ。お身体をお大切にね。
第二の手紙
智恵子さん。大変よ。
この前のお手紙に書いた新高運転手が来たのよ。妾たちのいるミナト・バス会社へ就職して来たの。そうして妾にプロポーズしたのよ。今度は私が殺される番よ。
でも心配しないで頂戴。妾シッカリしているんですから。ナカナカ殺されやしないから……。
新高運転手は東京の青バスが思わしくないから、勝手に暇を貰ってこっちへ来たって言うのよ。もうウソを言っているのよ。
でもツヤ子さんを殺した新高運転手に違いないのよ。ナポレオンみたいな男らしい冷めたい顔をして黙りこくってセッセと働いているの。古いチューブと針金でフェンダーを作るのがトテモ上手よ。そうかと思うと上等のバナナを妾たちに配ったり、チューブを切り抜いた魚だのお馬だのをお客さんの赤チャンに遣ったりしてトテモ気マグレなのよ。みんな新高さん新高さんってチヤホヤしているんですけど、妾ソレと気が付いた時にゾッとしちゃったわ。
それからツヤ子さんの
そうしたらね、妾がソンナ眼で見ているのを新高さんは何かしら感ちがいしたらしいの。博多発十一時の折尾行きの最終発を待合室で待っているうちに、お客が一人もいないので、いいチャンスと思ったのでしょう。新高さんは黄色いバラの花を一本持って入って来て、妾の手に握らせたの。妾ギクンとしちゃったわ。だってバラの花は死んだツヤ子さんの一番好きな花だったんですもの。
妾が何かしら胸が一パイになりながら、ありがとうって言ったら、
「トミチャン。今夜、折尾の僕の下宿に来ないか」
ってダシヌケに言うじゃないの。つめたい真面目な顔をしてね。女を口説くような眼付きじゃなかったわ。英雄的な男らしい眼付きだったわ。
その眼付きを見たトタンに妾は決心しちゃったわ。喜び勇んで、
「ええ。行ってもいい」
って言っちゃったわ。でもずいぶん息苦しかったわ。
智恵子さん、ビックリしちゃ嫌よ。妾スッカリ新高さんが好きになっちゃったのよ。これこそホントに生命がけの恋よ。そうして、それと一緒にドウかしてツヤ子さんの仇敵を取って遣りたくなったのよ。新高さんを取っちめて、ヒイヒイあやまらせた揚句に、自殺させるかドウカしたら、どんなにか愉快だろうと思ってしまったのよ。
コンナ風に文句に書いてみると、妾の言う事はムジュンしているでしょう。けれどもその時の気もちは、チットモムジュンしていなかったのよ。あの時ぐらい妾の胸が大きな希望で一パイになった事はなかったのよ。行く末に何の希望もないカラッポの妾の胸が、大きな、生き生きした幸福で一パイになったように思ったわ。
妾は文字通りに喜び勇んで、新高さんの下宿に行ったの。そうして一から十まで新高さんの言うなりになって遣ったの。ちっとも恐ろしくなかったわ。新高さんもモウすっかり
ソウ……妾、無茶かも知れないわ。でも無茶でもいいわ。今に見ていらっしゃい。妾の冒険が成功するか、しないか。
そう思う時、妾の胸がドキドキするもので一パイになってしまうのよ。妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。
誰が何と言ったって妾は、この冒険に向ってマイ進するわ。
サヨナラ
第三の手紙
智恵子さん。
女なんて弱いものね。
妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。この前のお手紙に書いたような冒険心が、いつの間にか弱って来たらしいの。
新高さんも毎日毎日妾を可愛がるのが楽しみになって来たらしいの。世帯の事だの、まだ生まれもしない赤ん坊の事ばかり妾に話すの……妾はソンナ時に黙っているんですけど、これから先ドレぐらい続くかわからない長い長い新高さんとの同棲生活のコースが、希望も何もない灰色にズーッと続いているのが見えて来たの。昔の通りの平凡なトミ子の心に……それがただ人妻となっただけのトミ子の心に帰りそうになって来たの。妾が大切に大切に隠していたツヤ子さんの手紙を焼いてしまおうかと思った事が何度あるかわからないの。
新高さんを殺す気なんか爪の垢ほどもなくなっちゃったのよ。智恵子さんに笑われても仕方がないわ。
いったいこれはどうした事なんでしょう。妾の一生はこのまんまで平々ボンボンのままおしまいになるのでしょうか。新高さんと一緒になった最初の時のアノ
妾はコンナつもりで結婚したはずじゃなかったのよ。妾はこのまんまパンクしたタイヤみたいになって、何処までも何処までも転がって行かなければならないのでしょうか。
店の先にブラ下がっている派手なメリンスのキレが眼に付いて眼に付いて仕様がなくなったのよ。赤ん坊の着物にはドンナのがいいかと思ってね。
どうぞどうぞ笑って頂戴。人生なんてコンナものかも知れないわ。
第四の手紙
大変な事が起ったのよ。智恵子さん。あたし、
あたし近いうちに殺されそうなの。
新高さんが妾のバスケットの中からツヤ子さんの手紙を発見したらしいのよ。新高さんはソンナ事をオクビにも出さないんですけどね。何だか心の底にヨソヨソしい処が出来て来たようなの。そのクセ妾を可愛がる事は前よりもズット強くなったから変じゃないの。おれ達は幸福だ、幸福だってこの頃、急に言い出したからおかしいじゃないの。何かわけがあると思わずにはいられないのよ。まだ一緒になってから一週間も経たないのにさあ。
そればっかりじゃないの。きのうコンナ事があったの。夜の九時の折尾行きに乗って行く途中の事なのよ。
妾たちのミナト・バスでもバス代りに一九三二年型のシボレーのオープンを使っているの。そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、
夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。
そうしたら多々羅の村中の狭い処で、向うからバスが来たと思うと、急にスピードをかけた新高さんが、ハンドルをものすごくグーッと左に取って、道傍の電柱にスレスレに走り抜けて行ったの。万一妾がモトの通り前の左側のステップに立っていたらキット払い落されてぐたぐたにタタキ付けられたに違いないのよ。
妾ゾオッとしちゃったわ。ツヤ子さんの手紙を見られた事が、その時にハッキリとわかったのよ。わかり過ぎて髪の毛一本一本が逆立ちしたくらいだったわ。
そうしたら新高さんはまた、間もなく松崎の広い下り坂で、鉄砲玉のようなスピードになった時、向うから来た自転車を除けるふりをしいしいギューッと左に取って、車体の左側を、あぶなく松の樹にコスリ付けながら飛ばして行ったの。その時に妾はまたハッキリと新高さんが妾を殺そうとしている事を感じたのよ。
けれども、ちっとも手応えがない上に、妾がウンともスンとも言わないもんですから、新高さんは不思議に思ったらしいの。
「オーイ。トミちゃん」
と呼ぶじゃないの。
「ハアイ」
て妾、後部から出来るだけ朗らかな声で返事して遣ったら直ぐに、
「……馬鹿ア……前へ来ないかア……汽車を見てくれい。十時一分の上りが来る頃だあ」
て言い言いスピードを落したの。妾はモウ一度朗らかに、
「ハアイ」
って返事しいしい前の踏切に馳け出して、
「汽車オーライ」
って両手を上げたの。あそこは家の蔭から急に鉄道踏切に乗り上げるばっかりじゃない。午後八時過は踏切番がいないので、慣れないトラックが二、三度引っかけられた事のあるトテモあぶない処なのよ。新高さんはチャント汽車の時間表を知っていて、御自慢のナルダンの腕時計[#「ナルダンの腕時計」はママ]を見い見い運転して来て、大丈夫と思ったら、妾が「オーライ」と車の中から言っただけで一気に突き抜ける処なのよ。それにこの時に限って御念入りにスピードを落して妾を呼ぶんですから妾、おかしくなっちゃったわ。
香椎でお客が三人降りたので、妾はビッショリ濡れたまままた、運転台に新高さんと並んで坐ったのよ。けども新高さんは別に何も言わなかったわ。ただ、
「寒かったろう」
とタッタ一言、低い声で言った切りステキなスピードを出して、香椎から一時間足らずのうちに折尾に着いたの。そうして二人してボデーを洗う間、一言も言わないまんまで家へ帰って、やはり黙りこくって二人でお酒を飲む間じゅう、睨み合いみたいになっていたの。新高さんは、いつも無口なんですけど、この時ばっかりは特別に、何ともカンとも言えない変な工合だったのよ。
そうしたら新高さんがイヨイヨ寝る段になったら、お酒がまわったせいもあるでしょう。ダシヌケにいろんな冗談を言い出したの。それは無口の新高さんに全く似合わない冗談だったの。下は
けれども、それがまた、今朝になってみたら、何もかも空っぽになったような気がするの。人間の気持って妙なものね。こうして一日、仕事を休まして貰って、まだ降っている嵐模様の雨越しに、向家の屋根のペンペン草だの、ずっと向うに並んで揺れているポプラの並木だの、下り列車から吹き散って行く黒い烟だのを見ていると、それがみんな妾の運命みたいに思われて来て、考えても考えても考え切れない、淋しい淋しい気持になって来るの。
すぐ眼の下のトタンの屋根をバタバタとたたいて行く雨の音を聞いていると、ツイ眼の中に熱い涙が一パイ溜まって、死ぬほどつまらない、張合いのない気持になってしまうの。こんな情ない、悲しい妾の気持は智恵子さんに訴えるほかないわ。何とかしなければならないと思いながら、どうにもならないじゃないの。
妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。ツヤ子さんのアノ恐ろしい手紙を焼きたいばっかりに今日一日休まして貰ったようなもんよ。
何もかも運命よ。
運命にまかせるよりほかに仕方がないわ。神様なんてこの世にないんですから。
智恵子さん。ミジメなトミ子のために泣いてちょうだい。
第五の手紙
智恵子さんありがとうよ。
妾がコンスイしているうちに、お見舞に来て下すったんですってね。綺麗な花を
あたし、あれから一週間というもの何も知らなかったのよ。高い熱のためにウンウン言っていたんですって。頭のマン中の骨が割れて、それが悪くなりかけて出た熱なんですって。七針とか縫ったのをまたほどいて、洗い直したんですって。
どうして助かったんだか妾にもハッキリわからないのよ。でもこの頃になって、一人で起きたり坐ったり出来るようになったら、すこしずつ思い出して来たようよ。
何でもこの前に貴女にお手紙書いてから間もなくの事よ。いつもの通り新高さんと妾のバッテリでシボレーに乗って、博多から折尾へ行く途中十時半チョット前と思う頃、香椎の踏切にかかったの。ヒドイ吹き降りで一人もお客のない晩だったわ。二百二十日か二十一日の晩でしたからね。
踏切にかかる少し前で、左側の松と百姓家の間から上り列車の長い長いアカリがグングン走って来るのが見えたんですけど、妾は平気で、
「……汽車アオーラアーイ」
って長く引っぱって叫んだようよ。
なぜソンナに恐ろしい
その列車は熊本とか鹿児島とかから出た臨時列車で、満州に行く団体の人を一パイに乗せていたんですって。ちょうど博多発、上り十時一分の終列車が通り過ぎたばかりの処でしたから、十一時の下り列車ばかりを用心していた新高さんは、妾の言う事を本当にしたんでしょう。思い切りスピードを出して踏切を突切って国道沿いに右手へ急カーブを切ろうとしたの。そのテイルのデッキに列車のライフ・ガードが引っかかって、逆トンボ返りにハネ飛ばされて、タイヤを上にして
新高さんは、厚い硝子の破片が脇腹の中へ刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の加古川さんて言う人が馳け付けて来て、
「シマッタ。ヤラレタ……ツヤ子の怨みだ……畜生……ツヤ子だ、ツヤ子だ、ツヤ子だ」
って言った切りコトキレたって言う話よ。その後部車掌の加古川さんがワザワザ妾を見舞いに来て話して下すったの。
そのお話を聞いた時に、妾は思わずニッコリ笑っちゃったわ。
そう思うと妾は、涙がアトカラアトカラ流れて困っちゃったわ。何も知らない加古川さんと看護婦さんが、スッカリ同情しちゃってね。いろいろ慰めて下すったんですけど何もなりゃしないわ。妾は神様に感謝して喜んで泣いているのに、悲しんではいけない、身体に
その車掌さんと看護婦さんの話を聞くと、妾はメチャメチャになったボデーの下に伏せられて、顔をシッカリと両手で隠して、手足をマン丸く縮めていたので、みんな感心したって言う話よ。キット衝突する前から、そうしていたのでしょう。
昨日臨床訊問て言うのがあったのよ。警察だの裁判所の人らしいイカツイ顔をした人が五、六人妾の寝台の廻りを取り巻いていろんな事を質問するの。ずいぶん怖かったわ。
妾が大きな声でストップって言ったけど新高さんが構わずに踏切を突切ったって言ったら、皆うなずいていたわ。新高さんのイツモの運転ぶりを知っていたのでしょう。香椎の踏切には自動信号機が是非とも必要だなんて話合っていたわ。
新高さんと内縁関係があるという話だが、ホントウかって
「夫婦心中じゃないか」
って言ったの。そうして白い歯をむき出して笑ったから妾ギョットしちゃったわ。でも妾、頑固に頭を振ったもんだから、間もなくみんな帰って行ったわよ。
刑事なんて案外アタマのいいものね。その刑事の顔を思い出してもドキンとするわ。
妾、神様に感謝しているのよ。ヤケクソの妾が一緒に死ぬつもりでオーライって言ったのに、新高だけ殺して、妾だけ助けて下すったんですもの。
あたし頭の怪我がなおったらまた、ミナト・バスへ出て女車掌をつとめるわ。そうして今度こそ一生止めないわ。そうして女運転手になるわ。日本一の女運転手に……。妾これは神様の命令だと思っているの。
結婚なんか一生しないわ。妾は
新高さんの事がその時の新聞に大きく出ていたわ。「恐るべき色魔の殺人リレー」って言う標題でね。死んだ新高運転手は、東京の青バスを出てから後ズットお尋ね者になっていた女殺しの嫌疑者だった事が、死んだアトからわかったんですって。そうして新高は東京でも一度トラックと正面衝突をして、コチラの女の助手が即死したのに、自分だけ不思議に助かった事があるが、その時の説明のし方がよかったお蔭で無事に放免された経験の持ち主である。だから今度もホントウは内縁関係の女車掌と一緒に自動車を汽車に
アレみんなウソよ。新聞社と警察の作り事よ。妾に同情し過ぎているのよ。会社でも大層、妾の身の上に同情しているそうよ。おかしいわね。
でも妾、平気よ。世の中ってソンナもんよ。神様の裁判だけが正しいのよ。
ですから、あたし智恵子さんだけにホントの事をお知らせするわ。
これから後ドンナ事があっても女車掌なんかになっちゃ駄目よ。
妾みたいな女になっちゃダメよ。
第六の手紙
智恵子さん。貴女に最後のお手紙を上げますわ。
あたしこのお手紙を出した後で、何処かへ行って自殺しますの。死骸は誰にも見せないようにしたいのですから、どうぞ探さないで下さい。
すみませんけど新高さんと妾の写真も、着物も、貯金の帳面も、印形も、世帯道具や何やかやも、みんな一
どうぞ貧しい人達に分けて上げて下さい。
小学校に寄付して下すってもいいわ。小さなオルガンぐらい買うだけあるでしょう。
あの色の黒い骸骨みたいな刑事さんの言葉はやっぱりホントウだったのです。今やっとわかりました。
妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。
そうして、それがその通りになったのです。
ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。
そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。
そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。それがこの頃になって、新高さんの事を思い出すタンビに心臓の下の方でビクリビクリと躍り出すのです。この児が生まれたら妾どうしましょう。
妾は、妾と一緒に
妾は夫殺しの吾児殺しです。
貴女にだけ白状して死にますわ。許して下さい。ミジメなトミ子の一生涯のお願いです。
女車掌なんかになってはいけません。――さよなら――
火星の女
県立高女の怪事
ミス黒焦事件
噂は噂を生んで迷宮へ
本日記事解禁[#「本日記事解禁」は罫囲み]
去る三月二十六日午前二時ごろ、市内大通六丁目、県立高等女学校内、運動場の一隅に在る物置の
他殺放火の疑い十分
但、例の放火魔では無いらし
右事件は依然として当局の調査続行中のため、今も尚、一切を秘密に付せられているが、事件発生直後本社の探聞し得たる処によれば、現場、県立高女の物置
焼失した物置は
以前の作法教室
校長は引責謹慎中
目下その筋で取調中の事ゆえ、差出た事は言われぬが、自分としてはコンナ不思議な事はないと思う。同廃屋は校内に在るが、午後六時以後は宿直の職員と小使の老夫婦以外には校門の出入を厳重に禁止している。これは自分が特に注意している処であるが、何者が侵入して来てあのような事を仕出かしたものであろう。自分や学校に怨 みを抱くような者の心当りもない。むろん学校関係の者とも思われぬので実に心外千万な奇怪事と言うよりほかはない。万事は当局の調査によって判明する事と思うが、とにもかくにもかような怪事件が校内に於て発生した以上、校内の取締に就いて何処かに遺漏 が在 ったものと考えなければならぬ。その責任は当然自分に在るのだからかように謹慎しているのだ。云々 。
森栖校長失踪
消え失せた遺書と不可
思議な女文字の手紙
去る三月二十六日、県立高女校内に発生したミス黒焦事件以来、謹慎の意を表して三番町の下宿に引籠っていた名校長、森栖礼造氏は、新生徒入学式の前日なる昨一日夕方頃より突然に失踪 した事が、校務打合せのため同下宿を訪問した同校女教諭虎間トラ子女史によって発見された。既報の如く森栖校長はミス黒焦事件以来痛く神経を悩ましていたものの如く三番町の下宿に引籠り、鬚 蓬々 として顔色憔悴 していたが、事件発生後一週間目に当る去る三十一日夜、何処 よりか一通の女文字の手紙が同氏宛配達されて以来、何故 か精神に異状を来たしたものらしく、同下宿の女将 渡部スミ子の許に来り、無言のまま涙を流して頻 りに叩頭し、又は二階より往来へ向け放尿しつつ大笑するなど、些 しも落着かず、夜半に大声を揚げて怒号し、彼奴 だ。彼奴だ。黒焦は彼奴だ。火星だ火星だ。悪魔だ悪魔だ。などと取止めもなき事を口走り、女将スミ子を驚かした由 で、その翌日の三月一日は疲労のためか終日臥床 して一食も摂 らず。同夜十時頃、前記虎間トラ子教諭が訪問した際も、依然として就床しいるものと思い、女将スミ子が起しに行きたるに夜具の中は藻抜 の空 となり、枕元に破封されたる長文の女文字の手紙と並べて虎間女史に宛てたる遺書が置かれたるを発見したるより大騒ぎとなり、県当局、警察当局、同校職員総動員の下に同校長の行方捜索を開始したが、今朝に到るまで同校長の所在は不明で、ただ目下、同校内玄関前に建設の予定にて、東都彫塑、朝倉星雲氏の手にて製作中と伝えられおりし同校長の頌徳寿像 の、塵埃 と青錆とに包まれたる青銅胸像が、白布に包まれたるまま同下宿、森栖氏専用の押入中より転がり出で、人々を驚かしたのみである。因 に、同校長の枕頭に在った二通の手紙はその後、混雑に紛れて何人にか持去られたるものの如く、女将スミ子、及、虎間女教諭もその行方を知らず。二人とも内容を関知せざる由にて、前記銅像の件と共に森栖氏の失踪に絡 まる不可思議の出来事として、関係者の注意を惹 いている。のみならず前記森栖氏の口走りたる言葉より推 して、右二通の手紙は或はミス黒焦事件の秘密を暴露する有力なる参考材料なりしやも計り難く、これを衆人注視の中に持去りたる神変不思議の人物こそ、ミス黒焦事件の有力なる嫌疑者に非ずやとの疑い、関係者間に漸次 高まりつつ在り。万事は森栖校長の行方と共に判明すべしとて、その方の捜索に全力を挙げている模様である。尚同校長を見知りおる駅員の言に依れば、同校長らしき鬚蓬々たる無帽の人物、大阪までの切符を買いて終列車に乗込みたる形跡ありとの事にて、その方面にも手配が行われている由。
県立高女メチャメチャ
森栖校長発狂!
虎間女教諭縊死!
川村書記大金拐帯!
黒焦事件の余波か?
【大阪電話】 昨報失踪したる県立高等女学校長森栖礼造氏は失踪後、大阪に向いたる形跡ある旨、本紙の逸早 く報道したる処なるが果然、同校長は昨三日早朝、大阪市北区中之島付近の往来に泥塗れの乱れたるフロック姿を現わし、出会う人毎に「火星の女は知りませんか」「ミス黒焦が来てはおりませんか」「甘川歌枝は何処におりますか」「何もかも皆嘘です」「事実無根の中傷です中傷です」なぞと、あらぬ事のみ口走りおりたるを一先ず中之島署に保護し、当市警察に照会し来たるを以て、開校間際の多忙を極めおりし教頭、小早川 教諭は、十一時の列車にて取りあえず大阪に急行した。然 るに同教諭出発後、教頭次席、山口教諭指揮の下に引続き開校準備に忙殺されいるうち、同校職員便所に於て、同校古参女教諭、虎間トラ子(四十二)が縊死 しおる事が、掃除に行きし小使に発見されて、一同を狼狽 させおるうち、同じく開校準備のため出勤しおりし同校書記にして、森栖校長と共に三十年来、同校の名物となりおりし傴僂 男、川村英明 (五十一)が同様に、いつの間にか姿を消している事が、出張の警官により気付かれたので、念のため取調べてみると、意外にも同校の金庫中に保管して在った森栖校長の銅像建設費五千余円、及、校友会費八百二十円の通帳が紛失しおり、預金先、勧業銀行に問合わせたる処、正午近き頃、川村書記が同銀行に来り、右預金の殆 ど全額を引出し、愴惶 たる態度で立去りたる旨判明、なお市外十軒屋に居住しおりし同人妻ハル(四十七)も家財を遺棄し、旅装を整え、相携 えて行方を晦 ましたる形跡ある旨、次から次に判明したるより、騒ぎは一層輪に輪をかけて大きくなり、同校全職員の訊問、取調が開始され、同校の授業開始は当分困難と認めらるる状態に立到った。因に縊死した虎間女教諭と、逃亡した川村書記とは平生より、森栖校長を神の如く崇拝しており、二人とも同校長の行方を最も真剣に気にかけていた由であるから、この際、最も喜んで安心すべきであるのに、同校長の行方判明と聞くや否や、互いにかかる矛盾したる行動に出でたことは、重ね重ねの奇怪事と言うべく、何等か裏面に重大なる秘密の伏在せるを想像し得べき理由がある。なお発狂せる森栖校長が大阪にて口走りたる甘川歌枝という女性は、同校の今年度卒業生にして、運動競技の名手であったが、かねてより「火星さん」という綽名 あり。卒業後間もなく大阪の某新聞社に就職しおりたるものにて、森栖校長は発狂後、同女の行方を尋ねつつ同地方に行きたるものらしく、従ってミス黒焦事件と甘川歌枝とは、何等か密接の関係あるやも計り難く、目下当局に於ても慎重に調査中である。
森栖校長の帽子
十字架上に
持主不明の花簪と共に市内
天主教会にて発見さる
前廂に残る疑問の歯型
県立高等女学校は既報の如く、去る三月二十六日の怪火以来、ミス黒焦、校長の失踪、同発狂、虎間女教諭の縊死 、川村書記の大金拐帯 等の怪事件を連続的に惹起し、まだ怪火の正体さえ判明せざるうちに、同校と県、警察当局とを未曾有 の昏迷の渦巻に巻込んでいるが、更に又、最近に前記森栖校長の信仰措 かざりし天主教会内にて、意想外の怪事件を派生し、関係者一同を層、一層の昏迷に陥 れている。今 五日午前十時頃、市内海岸通二丁目四十一番地四角、天主教会にては日曜日の事とて、平常の如く信者の参集を待ち、祈祷会を開催すべく、礼拝堂正面の祭壇の扉を開きたるに、正面、祭壇の中央に安置されたる銀の十字架上に、見慣れぬ黒の山高帽と、赤き小米桜に銀のビラビラを垂らしたる花簪 が引っかけ在るを発見し、大いに驚きて取卸し検査したるに、該山高帽子の内側の署名により、同教会の篤信者、森栖校長の所持品なる事判明。尚、花簪の所有者は目下の処不明なるも、その儘、山高帽子と共に付近派出所を経て警察署に届出たので、警察にては緊張しおりし折柄とて棄置難しとなし、時を移さず同教会に出張し、参集者の出入を禁じて、厳重なる調査を遂げたるに、同教会、礼拝堂の内部に怪しむべき点一※[#小書き平仮名か、129-5]所もなく、同日、同礼拝堂に一番最初に(九時頃)入来りたる信者某女も、最初より祭壇の扉に接近したる者を認めなかったと言うので、手を空しくして引上げた。然るに右山高帽を警察署に持帰り、詳細に亙 りて調査したるに、前廂 にシッカリと噛締めたる門歯と犬歯の痕跡あり。しかも、それは極めて強健なる少年の歯型なる事が、専門家の意見により確定したので、又も新しいセンセーションを巻起すこととなった。すなわち推定されたる教会侵入の怪少年が、果して県立高女校の怪火事件以後の、各種の奇怪事と連鎖的な関係を持っているものとすれば、虎間女教諭の縊死、川村傴僂 書記の逃亡以来、右二人を前記各種事件の黒幕的人物に非ずやと疑いおりし人々も、ここに於て推定の根拠を失いたる訳にて、そのいずれが真なるやを考察するは全然不可能なるものの如く、関係当事者一同は又もや五里霧中に放り出された状態に陥っている。
意外! 黒焦犯人は
県視学の令嬢?
母と共に行方を晦ます
父視学官は引責覚悟
昨報、市内海岸通、天主教会内の帽子花簪 事件以来、警察当局にては既報ミス黒焦事件に対する有力なる探査のヒントを得たるらしく、当時、最初に同教会内に入来りたる某女こと、殿宮 アイ子(十九)という少女を同教会内別室に伴い、厳重なる取調を行いたる模様なるが、右取調続行の都合上、同午後三時頃、前記アイ子に一応帰宅を許したるに、同女は大胆にも厳重なる監視の目を潜 りつつ、重病に臥 しおりたる母親を伴い、一通の遺書ようのものを同女の父、殿宮愛四郎氏宛に残して、何処 へか姿を晦 ましてしまった。この重大なる失態に就いて、警察当局は何故 か口を緘 して一言も洩らさず、且、捜索の手配をした模様もないのは返す返すも奇怪千万の事と言うべきであるが、人も知る如く、同女の父、殿宮愛四郎氏は本県の視学官にして、現中央政界の大御所とも言うべき大勲位、公爵、殿宮忠純 老元帥の嫡孫に当っているが、意外の悲劇に直面して悲歎に暮れつつも、該遺書内容の重大性に鑑 み、家門の名誉のため、引責辞職の決心せる旨、往訪の記者に語った。
森栖校長失踪
消え失せた遺書と不可
思議な女文字の手紙
去る三月二十六日、県立高女校内に発生したミス黒焦事件以来、謹慎の意を表して三番町の下宿に引籠っていた名校長、森栖礼造氏は、新生徒入学式の前日なる昨一日夕方頃より突然に
県立高女メチャメチャ
森栖校長発狂!
虎間女教諭縊死!
川村書記大金拐帯!
黒焦事件の余波か?
【大阪電話】 昨報失踪したる県立高等女学校長森栖礼造氏は失踪後、大阪に向いたる形跡ある旨、本紙の
森栖校長の帽子
十字架上に
持主不明の花簪と共に市内
天主教会にて発見さる
前廂に残る疑問の歯型
県立高等女学校は既報の如く、去る三月二十六日の怪火以来、ミス黒焦、校長の失踪、同発狂、虎間女教諭の
意外! 黒焦犯人は
県視学の令嬢?
母と共に行方を晦ます
父視学官は引責覚悟
昨報、市内海岸通、天主教会内の帽子
「何とも申訳ありません。しかし娘が殺人放火なぞ言う大それた罪を犯し得ようとは、どうしても思われません。火星の女こと甘川歌枝と、娘のアイ子が県立高女在校中、無二の親友であったと言うようなお話も、只今初めて承 わった位の事です。むろん二人の間に恋の遺恨なぞ言うような忌 まわしい事実があったかどうか、思い当る節 もありませんので唯、驚いているばかりです。その筋の注意もある事ですし、娘の将来の幸福のためにもかような事はなるべく世間に発表したくありませんから、どうぞここまでのお話のお積りで御聴取を願います。……何故 に母だけを同伴して家出しましたか、そのような原因も目下のところ不明です。今日まで何等の秘密も風波もなく暮して来ました妻子に、突然に、思いがけなく棄てられた私は、ただ途方に暮れるばかりです。妻のトメも娘のアイ子も相当の貯えを持っている筈ですから、当分の生活には困らないでしょう。何処へ参りましたか心当りは全く御座いません。むろん私は引責致したい考えでおりますが、しかし、これとても正式に公表される迄は、やはりこの談話と一緒に御内聞に願います。云々」
尚令嬢アイ子の遺書の内容は左の通りである。
お父様。永々お世話様になりました。お母様とアイ子は、お父様にこの上の御迷惑をおかけ申したく御座いませんために、そうしてこの上にお母様を悲しませて、御病気を重く致したく御座いませんために、今日限りお暇 を致します。つつしんで今日迄の御恩を御礼申します。
母校の出来事の全部は、わたくしの到らなかった責任で御座います。焼死された方は甘川歌枝さんで、自殺に相違御座いません事を私が保証致します。わたくしが今すこし早く甘川歌枝さんの自殺の決心に気付いておりましたならば、今度のような事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの花簪 を十字架にかけました者が、わたくしに相違御座いません事は、その理由と一緒に、警官の方に白状致して置きました。なお警官の方は、お父様の事について思いがけない事をいろいろとお尋ねになりましたが、何も存じませんから、お答えせずに置きました。警官の方は自殺されました甘川歌枝さんの投書によって、お父様の裏面の御生活を詳しく御存じの様子ですから、御参考のために申し添えて置きます。
しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお癒 りになるまで安静に御介抱申し上げたいばっかりに家出致したので御座いますから、この上ともにわたくし共の行方を決して御探し下さいませんように……。なお、わたくしが、かような奇怪な行動をとりました理由も、申すまでもなく決して御探 りになりませんように、幾重にもお願い致します。その方がお父様にも私にも幸福と思いますから……。
何卒 お身体 をお大切に……。
尚令嬢アイ子の遺書の内容は左の通りである。
お父様。永々お世話様になりました。お母様とアイ子は、お父様にこの上の御迷惑をおかけ申したく御座いませんために、そうしてこの上にお母様を悲しませて、御病気を重く致したく御座いませんために、今日限りお
母校の出来事の全部は、わたくしの到らなかった責任で御座います。焼死された方は甘川歌枝さんで、自殺に相違御座いません事を私が保証致します。わたくしが今すこし早く甘川歌枝さんの自殺の決心に気付いておりましたならば、今度のような事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの
しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお
アイ子
父上様