雪と花火余言

東京景物詩改題に就て

北原白秋




 東京景物詩は大正二年七月の版である。今回その第参版を上梓するに当り、書肆の乞ふがまゝに、新に当時の詩一章十二篇を増補して、「雪と花火」と改題改幀したのである。
 茲に収められた七章八十余篇の詩は、明治四十二年の二月(邪宗門出版当時)より大正二年の四月(朱欒廃刊迄)に至る、概ね四ヶ年間の制作であつて、恰度私の青春の花期に当つてゐる。その間に私は『邪宗門』『思ひ出』『桐の花』等の詩歌集を出し、また雑誌『スバル』に外部より声援し、又木下杢太郎、長田秀雄両君と都会趣味と異国情趣を基調とした雑誌『屋上庭園』を二冊発刊し、其後単独でも雑誌『朱欒』を一年有半続刊した。而して私の周囲の華やかさはまた格別であつた。石井柏亭、山本鼎、高村光太郎、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸君と、初めて“PAN”の盛宴を両国河畔に開いて以来、Younger generation の火の手はわかい感傷的な私達を愈狂気にした。私達は日となく夜となく置酒し、感激し、相皷舞しながら、又競つて詩作し、論議した。“PAN”の盛時を稍過ぎて私の『思ひ出』が出た。『思ひ出』は全く私の出世作であつた。之が為めに私はあらゆる世の賞讃と羨望とを受けた。光栄限りなき『思ひ出会』が開催され、主催者上田敏博士から涙を流して崇拝的讃辞を献げられた時に、哀な私は全く顛倒して、感謝の言葉すらもよう見つけ得ずにたゞ泣いた。かうして私は一躍して芸苑の寵児となつた。それから一年経たずの内に私は苦しい恋に堕ち、咒はれて、一時はこの世のどん底に迄恋人と墜落して行つた。幸に罪人たる汚名も着ず、事なく許されたけれども、その事実は因習的な世上の譏笑と指弾とを受くるに充分であつた。驕奢な詩人の生活から急転直下して、哀れな敗徳者として、私は同じ芸苑の仲間からも無理解な排擠を受けた。身にあまる以前の光栄が却て禍して人の痴嫉を受けたのである。私は忍べるだけは忍んだ、然し私自身も自然と周囲から離れて行つた。
 而して一旦別れ別れになつた私の最愛の女性が、その後曩の牢舎のくるしみから肺病といふ恐ろしい不治の病に罹つて、自暴自棄に身も霊も破りはてたのを見つけ出した時、私は飛んで行つて彼を救ひ出した。而して友に別れ、都門を離れ、地位も名聞も雑誌『朱欒』をも投げすてゝ、一つには彼女の病ひを療してやりたいため、一つには新らしい生活の道程に上るべく、彼女と私の一家とを挙げて、はるばると海をわたり、相州は三崎の浜辺に一時の住居を移したのである。
 恰度このわたましの夜、あれほど全盛を極めた饗宴、“PAN”も愈寂しい最後の杯を飲み干したさうである。私も全くひとりになつた。その時の寂しさ。私は涙を流して『東京景物詩』の巻末に左の数言を連ねてゐる。
『東京、東京、その名の何すれば、しかく哀しく美くしきや。われら今高華なる都会の喧騒より逃れて漸く田園の風光に就く、やさしき粗野と原始的単純はわが前にあり、新生来らむとす。顧みて今復東京のために更に哀別の涙をそゝぐ。』
 それから愈私の長い流離の旅がはじまつたのである。
          *
 更に作品に就き詳述して置く事も、私の芸術愛好者若くは後世の白秋研究家に取り全く無意義な事では無いやうに思はれる。
 大正二年七月、牛込神楽坂時代、『邪宗門』の印刷が完成した。その原稿編輯後、出版前の作が二三ある。これが『東京夜曲』中に収められた『公園の薄暮』『鶯の歌』『夜の官能』等である。之等の詩は邪宗門の最近作と同傾向のものであつて、却てその第一章『魔睡』中に入る可きものである。
 其後本郷動坂へ移つてより、私の詩風は一転して、かの『S組合の白痴』中の『雑草園』『瞰望』の如きものとなつた。種々雑多の感覚を交錯させて、悩ましい綜合の中から、ひと色のある気分を出し度いと思つたのである。これ等は『屋上庭園』の第一号に小詩『露台』と共に発表された。この傾向はその時代から牛込新小川町時代迄続いた。乃ち『心の周囲』七篇その他が之を証する。
 なほ之と相似て、稍単純性を帯びて来たものに、『葱畑』『父なし児と黒猫』等がある。
 なほ又、この当時、右の二傾向と全然違つた詩が一篇生れてゐる。それが『おかる勘平』である。無論別種のものではあるけれども、同じく官能的であるといふ事に於て似て居り、而も官能万歳を極度まで亢騰さした処に、忘るべからざる記録を作つてゐる。而してこの『おかる勘平』が同年の暮、日比谷の松本楼で開かれた“PAN”大会席上に於て、私自身に依て朗読せられ、その翌年同詩所載の『屋上庭園』第二号が風俗壊乱としてその筋より発売頒布を禁ぜられたといふ事実が、之をして愈意義あらしめ、私達をして益亢奮せしめたものである。それが為めに本集蒐録に際しては、この詩の眼目ともいふべき大胆な、極めて性慾的な一行が削られてある。この一行を除いては全く仏作つて霊入れずの感がある。私は今も之を深く遺憾とする。
 今後に来る牛込新小川町時代(自明治四十三年二月至同年八月)は愈“PAN”の盛時に当り、我他皆狂騰して饗宴し制作した。ストルム、ウント、ドランクの時代である。“PAN”の友人達は殆ど毎日毎夜のやうに、私の宅に集つた。さうして酒に涵つた。而して熱狂する、と私の『空に真赤な』の唄が慣例のやうに一同から合唱された。私達はまたよく袂を連ねて東京市街を漫歩した。華々しくて放恣なさういふ日が続いたあと、折々急に私は独になりたくなつて、小石川の植物園に日が暮れる迄隠れに行つたりした。
 今から思つても、この時代ほど制作慾の爆発を来した事は私自身にも珍らしい。而かも種々雑多の詩風が一時に芽を出し、前後相交錯して、転々して遂に俗謡の新体を創るに到つた。今、その当時の作品を類別すれば、
第一、以前よりひき続いた官能の象徴詩。
「雨の日ぐらし」「雪ふる夜のこころもち」等
第二、第一より転化して、更に清新な印象詩となりたるもの。
「青い髯」「物理学校裏」「畜生」等
第三、第二より象徴の気分を除いた、清新体の景物詩。
「五月」「六月」「銀座花壇」「新聞紙」等
第四、第三と同じ匂を有し、瀟洒なる歌、及小論。
「桐の花」の主要部分、「桐の花とカステラ」「植物園手記」等
第五、東京に江戸の情調を加味したる印象風の景物詩。
「雪の日」「雨あがり」「鬼百合」等
第六、同じく抒情的景物詩。
「花火」「水盤」「心中」「放埒」「紫陽花」等
第七、新俗謡体の小唄。
「片恋」「かるい背広」「春の鳥」等
第八、新俗謡体より出でたる印象風の景物詩。
“CHONKINA”
第九、第七第八より生れたる抒情小曲集『思ひ出』の俗謡調。
「金の入日に繻子の黒」等
その他、『隣人』のごとき全く如上と別種のもの、或は『八月のすすりなき』の如き純抒情詩。
 以上の如く、複雑して殆ど統一がない。
 然し、ここに特筆大書して置きたいのはわが詩風に一大革命を惹き起した『片恋』の一篇である。

あかしやの金と赤とがちるぞえな、
かはたれの秋の光にちるぞえな、
片恋の薄着のねるのわがうれひ、
曳舟の水のほとりをゆくころを、
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。

 私の後来の新俗謡詩は凡てこの一篇に萠芽して、広く且つ複雑に進展して行つたのである。
『思ひ出』出版の契約が書肆と締結されたのもこの時である。『思ひ出』の詩はその旧作『おもひで』『断章』の二章を除き、殆ど、この以後約一ヶ年間の所作である事も知つてゐて貰ひたい。因に云ひ添へて置きたい事は、厳密にこれ迄の私の歩いた道を振りかへれば、三つに別ける事ができる。第一は『邪宗門』の全部より本集中の同系の象徴風の詩、等に至る。第二は『桐の花とカステラ』式の詩と同型の桐の花の歌、第三は本集の新俗謡体の詩と『思ひ出』の殆ど全部等である。
 却説、次の青山原宿時代(自四十三年九月到四十四年一月)は二三の俗謡詩の外、主として『思ひ出』の創作に耽つたものである。
 次に私は家を畳んで木挽町の二葉館へ移つた。この時代(自四十四年二月到四十四年十月)に愈私の俗謡体は発達して行つた、『薄あかり』『夜ふる雪』『柳の左和利』等がそれである。
 その四月は『思ひ出』の序文が出来た。さうして凡てが完成されて、その集は五月に出版され、間もなく私は筋肉炎の為めに蠣殻町の岩佐病院に入院して大手術を受けた。病後九月『思ひ出会』の招待を受け、十月には相州小田原へ療養のため転地した。その頃はあまり作はない。『桐の花』の中に入れた僅の歌と、本集の『秋』その他位である。
 雑誌『朱欒』を発刊したのはそれから帰京しての事である。飯田河岸の金原館時代(自四十四年十月至十二月)は之である。この時の作が『槍持』『忠弥』その他種々凡て前に続いて俗謡調を主としてゐる。
 その後に築地の新富座裏時代(自四十四年十二月至四十五年一月)が来る。『銀座の雨』『蕨』『キヤベツ畑の雨』その他の詩がある。
 次に母と妹の上京を機会に、弟と四人浅草聖天町(自四十五年二月至同年四月)に移る。この時は殆ど制作が無い。私はかの一女性との苦しい恋の為めに狂気の如くなつてゐたのである。
 次で京橋の越前堀(自四十五年至大正二年四月)に移つた。六月に私は三木露風君と共に『朱欒』の特別号として詩集勿忘草を出した。その集に載せたのが『銀座の雨』の後半『黄色い春』『汽車はゆくゆく』『芥子の葉』等の詩である。之等の詩の上つ調子な事は、如何に恋に浮かれてゐたとは云へ、今見ても耻かしいと思ふ。七月に私の恋愛事件が破綻して、私は急転直下して涙の人となつた。翌年の春に至るまで、私は憔悴し、沈淪し、神経は狂ひ、心は荒れに荒れすさんだ。私は独になり、私の前後四方は真つ暗になつた。私は幾度か海を渡つて旅をした。苦しかつた。今思へば涙が垂れる。かの悲しい『桐の花』の哀傷篇はその時出来たのである。而して寂しい冬の間に『桐の花』の編輯がつと完成し、初めて市に出るやうになつた。
 私はたゞ泣いて歌つた。

死なむとすればいよいよに
いのち恋しくなりにけり。
身を野晒になしはてて、
まことの涙いまぞ知る。

人妻ゆゑにひとのみち
汚しはてたるわれなれば
とめてとまらぬ煩悶の
罪のやみぢにふみまよふ。

この野晒の一篇がその時の私の生活の全部である。この詩は必ずこの集の増補に入る可きものでありながら、曩に『白金の独楽』に収めて了つてある。それで今改めて、ここに転載して置く。
 尚、今回増補した『緑の種子』中の三四篇は同じ頃のもので、その他はいろいろの時代の残りものである。
 その間に愈国から季の弟や従弟や続いて家を失つた父や従妹が上京して更に生活が苦しくなり、五月のはじめ、終に前陳の如く、家をあげて三崎へ渡つた。
『雪と花火』の前身東京景物詩はその後数ヶ月を経て、やつと上梓の余栄に浴したものだ。本来は『思ひ出』よりも先きに世に出づ可き筈のものであつたのである。
 ああ、東京、東京、その名を呼ぶさへ私は涙が流れる。三崎から小笠原へ、小笠原からまた東京の麻布へ、東京から、また葛飾の茄子や胡瓜の畑の中へ、かくして一年二年三年四年、私は流離して留まるところを知らない。而して私の身辺も二人から一人になり、また新らしい外の二人の生活が開けて来た。江戸川の水のほとりに佇む時、蓮田の向うに幽かに煙があがるのは東京ではないか、東京の空はここから眺めても夜は明るい。私はまた何時東京へ帰ることやら。
大正五年七月
南葛飾紫烟草舎にて
白秋識





底本:「白秋全集 3」岩波書店
   1985(昭和60)年5月7日発行
底本の親本:「雪と花火」東雲堂書店
   1916(大正5)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「至」と「到」の混在は、底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:フクポー
2017年1月12日作成
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