旗本退屈男 第二話

続旗本退屈男

佐々木味津三




       一

 ――その第二話です。
 前話でその面目の片鱗をあらましお話ししておいた通り、なにしろもう退屈男の退屈振りは、殆んど最早今では江戸御免の形でしたから、あの美男小姓霧島京弥奪取事件が、愛妹菊路の望み通り造作なく成功してからというもの、その後も主水之介が毎日日(ひ)にちを、どんなに生欠伸(なまあくび)ばかり連発させて退屈していたか、改まって今更説明する必要がない位のものでしたが、しかし、およそ世の中の物事というものは兎角こんな風に皮肉ばかりが多いものとみえて、兄のすこぶる退屈しているのに引替え、これはまたすこぶる退屈しなくなり出した者は、主水之介にいとしい思い人の京弥を新吉原から土産に持って来て貰った妹の菊路でした。
 また人間、菊路でなくとも好きぬいた思い人をあんな工合に意気な兄から土産に貰って、しかも一つ家の屋の棟下に寝起きするようになれたとしたら、誰にしたとてこの世の春がことごとく退屈でなくなるのは当然な事ですが、不都合なことには、またその当事者同士である菊路と京弥なる者が、両々いずれも二十(はたち)前と言う水の出端(でばな)でしたから、その甘やかなること全く言語道断沙汰の限りで、現にこの第二話の端を発した当日なぞもそうでした。
「な、京弥さま。あのう……お分りになりましたでござりましょう?」
「は。分ってでござります。のち程参りますから、お先にどうぞ」
 そこの廊下先でばったり出会うと、何がどう分ったものか、目と目で物を言わせながら、二人してしきりに分り合っていた様子でしたが、間もなく前後して吸われるように、姿を消していってしまったところは、庭の向うのこんもり木立ちが繁り合った植込みの中でした。
 けれども、江戸名物の元禄退屈男は、一向それを知らぬげに、奥の一間へ陣取って、ためつすかしつ眺めながら、しきりにすいすいと大業物(おおわざもの)へ油を引いていたのも、世は腹の立つ程泰平と言いながら、さすが直参お旗本のよき手嗜(てだしな)みです。しかもそれが新刀は新刀でしたが、どうやら平安城流(へいあんじょうりゅう)を引いたらしい大変(おおのた)れ物で、荒沸(あらに)え、匂い、乱れの工合、先ず近江守か、相模守あたりの作刀らしい業物でしたから、時刻は今短檠(たんけい)に灯が這入ったばかりの夕景とは言い条、いわゆるこれが良剣よく人をして殺意を起こさしむと言う、あの剣相の誘惑だったに違いない。――ほのめく短檠の灯りの下で、手入れを終った刀身をじいっと見詰めているうちに、じり、じりと誘惑をうけたものか、ぶるッと一つ身をふるわして、呟くごとくに吐き出しました。
「血を吸わしてやりとうなったな――」
 だが、そのとき、殺気を和(なご)めるようにぽっかりと光芒(こうぼう)爽(さや)けく昇天したものは、このわたりの水の深川本所屋敷町には情景ふさわしい、十六夜(いざよい)の春月でした。
「退屈男のわしにはつがもねえ月じゃ。では、まだ少し早いが、ひと廻り曲輪(くるわ)廻りをやって来るか」
 のっそりと立ち上がって、今、血に巡り会わしてやりたいと言ったばかりの業物を、音もなくすいと腰にしたとき――、
「お兄様! お兄様!」
 遂(と)げても遂げても遂げ足りぬ恋をでも遂げに行ったらしかった妹菊路が、京弥と一緒に慌ただしくこちらへ駈け走って来たかと見えると、突然訴えるごとくに言うのでした。
「いぶかしいお方が血まみれとなりまして、あの塀外から屋敷うちへ飛び込んでござります。いかが取り計いましょうか」
「なに? 血まみれとな? お武家か町人か、風体(ふうてい)はどんなじゃ」
「遊び人風のまだ若い方でござります」
 言っている庭先へ、よろめきながら本人が姿を見せると、いかさま全身数カ所に何かの打撲傷(だぼくしょう)らしい疵をうけて、血まみれ姿に喘ぎ喘ぎ退屈男の顔を見眺めていましたが、それあるゆえにある時は剣客をも縮み上がらす威嚇となり、それゆえにある時はまた、たわれ女(め)に悩ましい欲情を唆(そそ)り湧かしめるあの凄艶無比(そうえんむひ)な三日月形の疵痕を、白く広い額に発見するや、やにわと言いました。
「もっけもねえところへ飛び込んでめえりました。早乙女の御前様のお屋敷じゃござんせんか。お願げえでごぜえやす。ほんの暫くの間(ま)でよろしゅうごぜえますから、あっしの身柄を御匿(おかく)まい下せえまし。お願げえでごぜえます。お願げえでごぜえます」
「なに、そちの身柄を予に匿まえとな!?」
「へえい。どう人違いしやがったか、何の罪科(つみとが)もねえのに、御番所の木ッ葉役人共めが、この通りあっしを今追いかけ廻しておりやすんで、御願げえでごぜえやす。ほんのそこらの隅でよろしゅうごぜえますから、暫くの間御匿まい下せえまし」
「ほほう、町役人共が追いかけおると申すか。だが、匿まうとならばこの後の迷惑も考えずばなるまい、仔細はどんなことからじゃ」
「そ、そんな悠長な事を、今、この危急な場合に申しあげちゃいられませぬ。な、ほら、あの通りどたばたと、足音がきこえやすから、後生でごぜえます。御前のお袖の蔭へかくれさせて下せえまし」
「いや、匿まうにしたとて、そう急(せ)くには及ばぬ。無役ながらも千二百石を賜わる天下お直参のわが屋敷じゃ、踏ん[#ママ]込んで参るにしても、それ相当の筋道が要るによって、まだ大事ない。かいつまんで事の仔細を申せ」
「それが今も申し上げた通り、仔細もへちまもねえんですよ。御前の前(めえ)で素(す)のろけらしくなりやすが、ちっとばかり粋筋(いきすじ)な情婦(いろ)がごぜえやしてね、ぜひに顔を見てえとこんなことを吐かしがりやしたので、ちょっくら堪能させておいて帰(けえ)ろうとしたら、何よどう人(ひと)間(ま)違げえしやがったか、身には何も覚えがねえのに、役人共が張ってやがって、やにわに十手棒がらみで御用だッと吐かしゃがッたので、逃げつ追われつ、夢中であそこの塀をのりこえてめえりやしたが、もっけもねえ。それが御前のお屋敷だったと、只これだけの仔細でごぜえます」
「でも、そち、そのふところにドスを呑んでいるようじゃが、何に使った品じゃ」
「えッ――なるほど、こ、こりゃ、その、何でごぜえます。情婦の奴が、こんな物を知合の古道具屋が持ち込んで来たが、女には不用の品だから何かの用にと、無理矢理持たして帰(けえ)しやしたのを、ついそのままにしていただけのことなんでごぜえますから、後生でごぜえます。もう御勘弁なすって、どこかそこらの隅へ拾い込んで下せえまし」
「ちとそれだけの言いわけでは、そちの風体と言い、面構(つらがま)えと言い、主水之介あまりぞっとしないが、窮鳥(きゅうちょう)ふところに入らば猟師も何とやらじゃ。では、いかにも匿まってつかわそうぞ。安心せい」
 だからどこか部屋のうちにでも匿うのかと思うと、そうではないので、ここら辺が江戸名物旗本退屈男の面目躍如たるところですが、安心いたせと言ったにも拘らず、風体怪しきそれなる血まみれ男を、ちゃんとそこの庭先へすて置いたままでしたから、その時御用提灯をかざしながら、どやどやと押し入って来た町役人共の目に当然のごとく発見されて、すぐさま罵り下知する声があがりました。
「こんなところへ逃げ込みやがって、手数をかけさせる太い奴じゃ。うけい! うけい! 神妙にお縄をうけいッ」
 きくや、退屈男の蒼白秀爽な面(おもて)に、ほんのり微笑が浮いたかと見えましたが、一緒にピリピリと腹の底に迄も響くかのごとくに言い放たれたものは、小気味よげなあの威嚇の白(せりふ)です。
「あきめくら共めがッ、この眉間の三日月形が分らぬかッ」
「………?![#「?!」は横一列]」
「よよッ」
「………!」
「分ったら行けッ」
「早乙女の御前とは知らず、お庭先をお騒がせ仕って恐れ入ってござります。なれ共、それなる下郎はちと不審の廉(かど)あって召捕らねばならぬ者、役儀に免じてお下げ渡し願われますれば仕合せにござります」
「では、行けと申すに行かぬつもりかツ[#ママ]」
「はは、申しおくれましてござりまするが、拙者は北町奉行所配下の同心、杉浦権之兵衛と申しまする端役者(はやくもの)、役儀に免じて手前の手柄におさせ願われますれば、身の冥加(みょうが)にござります」
「ならば行けッ。無役なりとも天下お直参の旗本じゃ。上将軍よりのお手判(てはん)お差紙(さしがみ)でもを持参ならば格別、さもなくばたとい奉行本人が参ったとて、指一本指さるる主水之介[#「主水之介」は底本では「主水介」と誤植]ではない。ましてやその方ごとき不浄端(は)役人に予が身寄りの者引き立てらるる節はないわッ。行けッ、下がれッ」
「えッ。では、それなる下郎、御前の御身寄りじゃと申さるるのでござりまするか!」
「言うが迄もない事じゃ。当屋敷の内におらば即ち躬(み)が家臣も同然、下がれッ、行けッ」
 口惜しがって地団駄踏んでいましたが、鳶の巣山初陣が自慢の大久保彦左以来、天下の大老老中とても滅多な事では指を触れることの出来ない、直参旗本の威厳が物を言うのでしたから、まことに止むをえないことでした。
「………!」
「………!」
 いずれも歯を喰いしばりつつ、無言の口惜しさを残して、屋敷の外へ御用提灯が遠のいていったので、風体怪しき血まみれ男が、ぺこぺこ礼を言ってそのまま疾風のごとく闇に消えようとしたのを、
「まてッ。そちにはまだ大事な用があるわ」
 鋭く主水之介が呼び止めながら、のそりのそりと庭先へ降りて行くと、ぎょッとなったようにして立ち止まっている件(くだん)の男の側に歩み寄ったかと見えましたが、ここら辺もまた退屈男の常人(じょうじん)でない一面でした。
「町役人とてもこれをこの分ではさしおくまい。わしとても亦その方をこの分で野に放つのは、いささか気懸りゆえ、また会うかも知れぬ時迄の目印しに、これをつけておいてつかわそうよ」
 言うか言わぬかのうちに、およそ冴えにも冴えまさった武道手練の妙技です。しゅッと一閃(せん)、細身の銀蛇(ぎんだ)が月光のもとに閃めき返るや一緒で、すでにもう怪しの男の頤先(あごさき)に、ぐいと短く抉(えぐ)った刀疵が、たらたら生血(なまち)を噴きつつきざまれていたので、
「痛えッ、疑ぐり深けえ殿様だな」
 不意を衝かれて男が言い叫んでいましたが、主水之介が言ったごとく、どうも少し気にかかる奴でした。言いつつむささびのように身を翻えすと、もう姿が闇の中に吸い込まれていったあとでした。

       二

 かくしてその三日目です。
 花の雲、鐘は上野か浅草かのその花はもう大方散りそめかけていましたが、それだけに今ぞ元禄の江戸の春は、暑からず寒からず、まこと独り者の世に退屈した男が、朝寝の快を貪るには又とない好季節でしたから、お午近く迄充分に夢を結んで、長々と大きく伸びをしていると、襖の向うで言う声がありました。
「お目醒めでござりましたか」
「京弥か」
「はッ」
「菊に用なら、ここには見えぬぞ」
「何かと言えばそのように、お冷やかしばかりおっしゃいまして、――お目醒めにござりますれば、殿様にちと申し上ぐべき事がござりまして参じましたが、ここをあけてもよろしゅうござりまするか」
「なに、殿様とな? 兄と言えばよいのに、他人がましゅう申して憎い奴じゃな。よいよい、何用じゃ」
「実は今朝ほど、御門内にいぶかしい笹折りが一包み投げ入れてでござりましたゆえ、早速一見いたしましたところ、品物は大きな生鯛でござりましたが、何やら殿様宛の手紙のような一事が結びつけてござりますゆえ、この通り持参してござります」
「……? ほほう、いかさま大きな鯛じゃな。手紙とやらは開けてみるも面倒じゃ、そち代って読んでみい」
「大事ござりませぬか」
「構わぬ、構わぬ」
「………?」
「いかが致した。首をひねっているようじゃが、なんぞいぶかしい事でも書いてあるか」
「文字がいかにも奇態な金釘流にござりますゆえ、読み切れないのでござります――いえ、ようよう分りました――ごぜん、せんやは、たいそうもねえ御やっかいをかけまして、ありがとうごぜえやした。じきじき、お礼ごん上に伺うが定(じょう)でごぜえやすが、さすればまたおっかねえものが、あごのところへ飛んで来るかも存じませぬゆえ、ほんのお礼のしるしに、ちょっくらこれを投げこんでおきやした。お口に合わねえ品かも存じませぬが、性(しょう)はたしかの生の鯛、気は心でごぜえやすから、よろしくお召し上がり下せえまし――と、このように書き認めてござります」
「ほほうそうか。贈り主は前夜のあの怪しい血まみれの男じゃな。それにしてはちと義理固すぎるようじゃが、どれどれ、鯛をもっとこちらへ。よこしてみせい」
 何気なく近よせて、何気なく打ちのぞいていましたが、じろりと一瞥(べつ)するや、まさにその途端です。
「はて、いぶかしい。魚が口から黒血を吐きおるぞッ」
「えッ、黒血でござりますとな!?」
「みい! 尾鰭(おひれ)も眼も生々と致して、いかさま鮮魚らしゅう見ゆるが、奇怪なことに、この通り口からどす黒い血を吐き垂らしておるわ。それに贈り主がちと気がかりじゃ。まてまて、何ぞ工夫をしてつかわそう――」
 言いつつ何やら考えていましたが、のっそり立ち上がって庭先へ呼び招いたのは下僕でした。
「こりゃ、七平、七平!」
「へえい――御用でござりましたか」
「その辺の原っぱにでも参らば、どこぞに、野良犬かどら猫がいるであろう。御馳走してつかわす品があるゆえ、早速曳(ひ)いて参れ」
 すぐに走り出していった様子でしたが、程経て下僕が、一匹の見るからに剽悍(ひょうかん)無比などら猫を曳いて帰ったので、退屈男は手ずからそれなる不審の鯛をとりあげると、笹折ごとに投げ与えました。飢えたるところへ、好物の生魚がやにわと降って来たので、何条野良猫に躊躇(ちゅうちょ)があろう! 野蛮な唸り声を発しつつ、がぶりと勇壮に噛みつくと、見る見るうちに目の下一尺もあろうと思われる品を平らげてしまいました。
 然るにいささかこれが奇態です。黒血を吐き垂らしている工合といい、贈り主の気にかかる男であった点といい、もしや何ぞ不届きな仕組みでもありはしないかと思われたればこそ試食もさせたのに、予想を裏切って野良猫は、ぺろぺろとおいしそうに頂戴してしまうと、至って堪能した顔つきをしながら、一向に平然として立ち去ろうとしたので、はて疑ぐりすぎたかなと思いながら、いぶかしんで見詰めていると、だが――その二瞬とたたない途端です。五足六足行きすぎたかと思われましたが、果然、野良猫が足をとられて、ころりとそこに打ち倒れると、いとも不気味な呻き声をあげながら、断末魔の苦悶を現して、たらたらと黒血を吐き垂らし出しましたので、ぎょッとしたのは京弥でした。
「よよッ、何としたのでござりましょう! やっぱり毒でも仕掛けてあったようにござりましたな」
「左様。まさしく鴆毒(ちんどく)じゃ」
「えッ。では、あの怪しい男め、お殿様のお命を縮め奉ろうとしたのでござりましょうか」
「然り――」
「不届きな! あれ程の大恩をうけましたのに、恩を仇で返すとは、また何としたのでござりましょう。何がゆえに、かような大それた真似をしたのでござりましょう」
「察するにあの夜、頤(あご)の下に疵をつけておいて帰したゆえ、その目印しを知っているわしを生かしておくのが、何かと邪魔に思えたからであろうよ。それだけにあ奴(やつ)、存外の大悪党かも知れぬぞ」
 言いつつ、これはまたどうやら退屈払いが出来そうになったかなと言わぬばかりで、にんめりと微笑していましたが、突然京弥に命じました。
「御苦労じゃが、駕籠の用意をさせてくれぬか」
「不意に白昼、駕籠なぞお召し遊ばしまして、どこへ御出ましにござります」
「知れたこと、北町奉行所じゃ」
「では、あの、前夜あの者奴(め)をお庇(かば)い遊ばしたことを、お詫び[#「お詫び」は底本では「お詑び」と誤植]に参るのでござりまするか」
「詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]に行くのではない。早乙女主水之介と知って匿まえと申しおったゆえ、直参旗本の意気地を立つるために、あの夜はあのように庇うてつかわしたが、それゆえに天下の重罪人を存ぜぬ事とは言い条、野放しにさせたとあっては、これまた旗本の面目のためほってはおけぬ。どのような不審の廉(かど)ある奴か、奉行所の役人共に聞き訊ねた上で、事と次第によらばこの主水之介が料(りょう)ってつかわすのじゃ」
「分りました。では、お邪魔にござりましょうが、手前もお供にお連れ下さりませ」
「ほほう、そちも参ると申すか。でも、菊が何と申すか、それを聞いた上でなくばわしは知らぬぞ」
「またしてもご冗談ばっかり――それは、それ、これはこれでござりますゆえ、お連れなされて下さりませ。実はあまり家(や)のうちばかりに引き籠ってでござりますゆえ、近頃腕が鳴ってならぬのでござります」
「わしの退屈病(やまい)にかぶれかかって参ったな。ではよいよい、気ままにいたせ」
 雀躍(じゃくやく)として京弥が供揃いの用意を整えて参りましたので、退屈男は直ちに駕籠を呉服橋の北町御番所めざして打たせることになりました。

       三

 しかし、駕籠が門を出ると同時です。そこの築地(ついじ)を向うにはずれた藪だたみのところに、見るから風体(ふうてい)の汚ないいち人の非人が、午下(ひるさが)りの陽光を浴びて、うつらうつらとその時迄居眠りをつづけていましたが、足音をきくとやにわにむくりと起き上がりながら、胡乱(うろん)なまなざしであとになりつ、先になりつ、駕籠を尾行(つけ)出しましたので、時が時でしたから京弥がいぶかしんでいると、青竹杖をつきつつ、よろよろと近づいて来て、いきなり垂れの中の主水之介に呼びかけました。
「御大身の御方とお見受け申しまして、御合力(ごごうりょく)をいたします。この通り起居(たちい)も不自由な非人めにござりますゆえ、思召しの程お恵みなされて下さりませ」
「汚ない! 寄るなッ、寄るなッ」
 慌てて京弥が制しましたが、非人は屈せずあとを追いかけながら、駕籠側に近よって来ると、再びうるさく呼びかけました。
「汚ない者なればこそ、合力いたすのでござります。そのように御無態(ごむたい)なことを申しませずに、いか程でもよろしゅうござりますゆえ、お恵み下さりませ」
「寄るなと言うたら寄るなッ」
 しかしその刹那(せつな)でした。
「何を吐かしやがるんだッ。ほしいものは金じゃねえ、主水之介の命なんだッ。要らぬ邪魔立てすると、うぬの命もないぞッ」
 突如、非人が意外な罵声(ばせい)をあげると、やにわに懐中からかくしもった種ガ島の短銃を取り出して、駕籠の中をめざしつつ右手(めて)に擬(ぎ)したかと見えましたが、あっと思う間に轟然と打ち放しました。
「馬、馬鹿者ッ、何を致すかッ」
 身には揚心流小太刀の奥義(おうぎ)があっても、何しろ対手の武器は飛び道具でしたから、叫びつつも京弥がたじろいでいるとき、再びぱッときな臭い煙硝(えんしょう)の匂いが散るや一緒で、第二発目が轟然とまた駕籠中目ざしながら放たれました。
 と同時に、何たる不覚であったか、江戸名物退屈男ともあろう者が、思いのほかの不覚さで、脆くも急所をやられでもしたかの如く、ううむ、と言う呻き声を駕籠の中からあげましたので、ぎょッとなったのは言う迄もなく京弥です。
「殿様! 殿様!」
 安否を気づかって駈けよろうとしましたが、と見てそのとき――、
「ざまアみやがれッ。命さえ貰って了えばもう用はないわッ」
 棄て白(せりふ)を残しつつ、不逞の非人が、逸早く逃げ延びようとしかけたので、事は先ず対手を捕えるが急! 京弥のふと心づいたのは手裏剣(しゅりけん)の一手です。
「卑怯者めがッ、待てッ」
 呼びかけるとその右手に擬したるは小柄(こづか)。
「命知らずめッ。うぬも見舞ってほしいか」
 振り返ると非人がまた右手に種ガ島を擬しました。
 一個は大和(やまと)ながらの床しい手裏剣! 他は南蛮渡来(なんばんとらい)の妖(あや)しき種ガ島――茲に緩急(かんきゅう)、二様の飛び道具同士が、はしなくも命を的に優劣雌雄を決することに立到りましたが、勿論、これは贅言(ぜいげん)を費す迄もなく、その武器の優劣と言う点から言えば、手裏剣よりも短銃に七分の利がある筈でした。けれども、いざその雌雄を争う段となれば、事はおよそ命中率の問題です。命中率の問題とならば言う迄もなく武器を使用するものの手練と技が結果を左右する筈なので、いかさま怪しの非人には、七分の利ある種ガ島があるにはあったが、それと同様に、否、むしろそれ以上に京弥にはまた、技の冴えと手練の敏捷さがありました。
 さればこそ、一つはヒュウと唸りを発して、他は轟然と音を発して、両者殆んど同時に各々の敵を目がけながら放たれましたが、まことに多幸! 千年鍛錬の大和ながらなる武道の技の冴えは、遂に俄か渡来の俄か武器に勝って、危うく弾が京弥の耳脇をうしろにそれていった途端、揚心流奥義の生んだ手裏剣が狙い過(あやま)たずブッツリと怪しい非人の太股につきささりましたので、何条いたたまるべき! ――痛手にこらえかねて、身をよろめかしたとき、ひらひらと京弥の小姓袴が、艶(えん)に美しく翻えったと見えましたが、ばっと対手のふところに飛び入ると、刹那に施されたものは遠気当(とおきあ)て身の秘術でした。
「ざまをみろッ、卑怯者ッ」
 ばたりとそこへ非人をのけぞらしておくと、何はともかく主水之介の安否が気がかりでしたから、取り急いで駕籠側へ駈けかえると、何とこはそもいかに! ――悠然と垂れを排しつつ、微笑しいしい姿を見せた者は余人ならぬ退屈男です。しかも、至って事もなげに言うのでした。
「これはどうも、いやはや、ずんと面白いわい。段々と退屈でのうなりおったな」
「では、あの、お怪我をなさったのではござりませなんだか!」
「南蛮の妖器(ようき)ぐらいに、江戸御免の退屈男が、みすみす命失ってなるものかッ。この通り至極息災じゃ」
「でも、ううむと言う、お苦しそうな呻き声があったではござりませぬか!」
「そこじゃそこじゃ。人と人の争いは武器でもない。技ばかりでもない。智恵ぞよ、智恵ぞよ。この主水之介の命など狙う身の程知らずだけあって、愚かな奴めが、わしの兵術にかかったのさ。早くも胡散(うさん)な奴と知ったゆえ、二度目に駕籠脇へ近よろうとした前、篠崎竹雲斎(しのぎきちくうんさい)先生(せんせい)お直伝(じきでん)の兵法をちょっと小出しに致して、ぴたり駕籠の天井に吸いついていたのじゃよ」
「ま! さすがはお殿様にござります。京弥ほとほと感服仕りました」
「いや、そちの手並も、弱年ながらなかなか天晴れじゃ。これでは妹菊めの参るのも無理がないわい。――では、どのような奴か人相一見いたそうか」
 言うと、泡を吹かんばかりに悶絶したままでいる非人の側へ騒がずに歩みよったかと見えましたが、ぱッと片足をあげると、活代(かつがわ)りに、相手の脾腹(ひばら)のあたりを強く蹴返しました。一緒に呼吸をふきかえして、きょときょとあたりを見廻していた非人の面(おもて)をじろりと見眺めていましたが、おどろいたもののごとく言いました。
「よッ。姿かたちこそ非人に扮(つく)っているが、まさしくそなたは前夜のあの町方役人じゃな」
 まことに、意外から奇怪へ、奇怪から意外へ、つづきもつづいた出来事ばかりと言うべきでしたが、気がつくと同時にぎょッと非人のおどろいたのも亦当然なことです。
「しまったッ。さてはまんまと計られたかッ。もうこうなりゃ、よも生かしては帰すまい。いかにもあの晩、うぬに邪魔をされた北町御番所の杉浦権之兵衛じゃ。さ! 生かすなと殺すなと勝手にせい!」
「まてまて、物事はそうむやみと急(せ)いてはならぬ。なる程、あの夜ちと邪魔立てしたが、それにしても身共の命迄狙うとは何としたことじゃ」
「知れたこと。うぬが要らぬ旗本風を吹かしゃがって、庇うべき筋合のねえ奴を庇やがったために、折角網にかけた大事な星を取り逃がしたお咎めを蒙って、親代々の御番所の職を首にされたゆえ、その腹いせをしにやって来たんだッ」
「なに、お役御免になったとな? それ迄響きが大きゅうなろうとは知らなかった。そうときかばいささかお気の毒じゃ。この通り詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]を申そうぞ。許せ、許せ。では何じゃな、あの怪しの奴は余程の重罪人じゃったな」
「へへえ、では何でござりまするか」
 きくや、杉浦権之兵衛が、少し意外そうな面持(おももち)で、いぶかしそうに退屈男の顔を見上げていましたが、いく分怒りが鎮まりでもしたかのごとく、がらりと言葉の調子迄も変えてきき訊ねました。
「では、何でござりまするか、御前はあ奴(やつ)が何者であるともご存じなくてお庇いなさったのでござりまするか」
「無論じゃ。無論じゃ。存じていたら身共とて滅多に庇い立ては出来なかったやも知れぬよ」
「そうでござりましたか。実は御前があ奴の身の上を御承知の上で、尻押しなさったのじゃろうと邪推致しましたゆえ、ついカッとなりまして、あの翌る日職を奪われました時から、こうしてお出ましの折をつけ狙っていたのでござりまするが、そうと分らば手前の腹の虫も大分癒(い)えてござります。何をかくそう、あ奴めは、百化け十吉と仇名のお尋ね者にござりまするよ」
「奇態な名前のようじゃが、変装でもが巧みな奴か」
「はっ。時とすると女になったり、ある時はまた盲目になったり、自由自在に姿形を化け変えるが巧みな奴ゆえ、そのような仇名があるのでござります。それゆえ、これ迄も屡々町役人の目を掠(かす)めておりましたが、ようようと手前が眼(がん)をつけましたゆえ、あの夜手柄にしようと追うて参ったところでござりました」
「ほほうそうか。いや、許せ、許せ。一体そのように化けおって何を致すのじゃ」
「奇態に女を蕩(とろ)かす術(すべ)を心得おりまして、みめよき婦女子と見ると、いつのまにかこれをたらしこみ、散々に己れが弄んだ上で沢山な手下と連絡をとり、不届至極にも長崎の異人奴(いじんめ)に売りおる奴でござります」
「なに!? 不埓(ふらち)な奴よ喃(のう)。――それきかばもう、この主水之介が棄ておけずなったわ。ようしッ、身共が今日よりそちの力となってつかわそうぞ」
「そ、それはまた不意に何とした仔細にござります! よし、お怪我はなかったにしても、一度は御前に不届な種ガ島を向けたわたくし、このままお手討になりましょうとも、お力添えとは少しく異な御諚(ごじょう)ではござりませぬか」
「一つは公憤、二つにはそちをそのような不幸に陥入れた罪滅ぼしからじゃ。それにあ奴め、この主水之介を毒殺しようと致しおったぞ」
「何でござります! そ、それはまた、どうした仔細からにござります」
「そちから今、十吉めの素性をきいて、ようようはっきり納得いたしたが、実は身共も奴めが少し不審と存じたゆえ、あの夜逃がしてつかわす砌(みぎり)、もしや重罪人であってはならぬと、のちのち迄の見覚えに、奴めの頤(あご)に目印の疵をつけておいたのじゃ。それゆえ、どのように百化け致しおっても、身共がこの世に生きてこの目を光らしておる限りは、頤の疵が目印になって正体を見現わさるるゆえ、それが怖うてこの主水之介を亡きものに致そうとしたのであろうよ」
「そうでござりましたか。御前に迄もそのような大それた真似をするとは呆れた奴でござります。では、お力添え下さりますか」
「いかにも腕貸ししてつかわそう! 番所の方も亦、復職出来るよう骨折ってつかわすゆえ、安心せい」
 千鈞(きん)の重味を示しながら断乎と言い放って、何かやや暫し打ち考えていましたが、不意に言葉を改めると、猪突に杉浦権之兵衛へ命じました。
「では善は急げじゃ。在職中の配下手先なぞもあろうゆえ、その者共を出来るだけ大勢使って、旗本退屈男の早乙女主水之介は、今朝よそから到来の鯛を食して、敢(あえ)なく毒殺された、とこのように江戸中へ触れ歩かせい」
「奇態な御諚でござりまするが、それはまた何の為でござります」
「知れたこと。さすれば身共が死んだことと思うて、百化け十吉めが安心いたして、また江戸の市中に出没いたし、魔の手を伸ばすに相違ないゆえ、そこを目にかかり次第引ッ捕えるのじゃ」
「いかさまよい工夫にござります。では、すぐさま手配をいたしまして、のち程またお屋敷の方へ参じますゆえ、お待ち下されませ」
 先刻京弥から見舞われた太股の疵の痛みを物ともしないで、欣舞(きんぷ)しながら非人姿の杉浦権之兵衛が立去りましたので、主水之介もまた直ちに駕籠を屋敷へ引き返させました。

       四

 やがてのことにしっとりと花曇りの日は暮れて、ひたひたと押し迫って来たものは、一刻千金と折紙のつけられているあの春の宵です。その宵の六ツ半頃――。
「御前……」
 先程の非人姿だった杉浦権之兵衛が、いつのまにか小ざっぱりとした姿に変りながら、甲斐々々しく復命に立ちかえって来たので、退屈男も様子いかにときき尋ねました。
「大分早いようじゃな。江戸一円に触れさせるとあらば、容易な手数ではなさそうじゃが、いかがいたした」
「いえもう、こういう事ならば手前がお手のものでござります。若い奴等を十人ばかりもかき集めましてな、第一に先ず御前には縁の深い、曲輪五丁街へ触れさせなくてはと存じまして、早速お言いつけ通り口から口ヘ広めさせましたところ、御名前の御広大なのにはいささか手前も驚きましてござりまするよ――江戸名物旗本退屈男何者かに毒殺さる、とこのようにすぐともう瓦版(かわらばん)に起しましてな、町から町へ呼び売りして歩いたげにござりまするぞ。それから、第二にはなるべく人の寄る場所がよかろうと存じましたのでな。目貫(めぬき)々々の湯屋床屋へ参って、巧みに評判させましてござります」
「いや左様か。商売道に依って賢しじゃ、まだちと薬が利くのは早いかも知れぬが、でもこうしていたとて退屈ゆえ、ではそろそろ江戸見物に出かけるか」
 言いつつ、何かもう前から計画が立ってでもいたかのごとく微笑していましたが、不意に大きく呼びました。
「こりゃ京弥、それから菊!」
 雛の一対のごとき二人が、なぜとはなくもうぼッと頬に紅(べに)を染めながら、相前後してそこに現れるのをみると、退屈男は猪突に愛妹へ言いました。
「のう菊、お前にちと叱られるかも知れぬが、京弥に少々用があるゆえ、この兄が二三日借用致すぞ」
「ま! 何かと言えばそのような御冗談ばっかりおっしゃいまして、あまりお冷やかしなさりましたら、いっそもうわたしは知りませぬ」
「なぞと陰にこもったことを申して、その実少し妬いているようじゃが、煮て喰いも焼いて喰いもせぬゆえ、大丈夫じゃ。では、借用するぞ」
 愛撫のこもった冗談口を叩いていましたが、やにわと京弥に言いました。
「今朝ほど、腕が鳴ってならぬとか申していたゆえ、望みにまかせて、腕ならしさせてつかわそうぞ。早速菊路にも手伝うて貰うて、女装して参れ」
「でも、あの、わたくしの腕が鳴ると申しましたのは、女子(おなご)なぞになりたいからではござりませぬ」
「おろかよ喃(のう)。百化け十吉をおびきよせる囮(おとり)になるのじゃ。そちの姿顔なら女子に化けても水際立って美しい筈じゃ。どこでいつ十吉に見染められるかは存ぜぬが、この退屈男が毒殺されたと噂をきかば、今宵になりとみめよき婦女子を浚(さら)いに出かけるは必定ゆえ、海老で鯛を釣ってやるのよ」
「そうでござりましたか。よく分ってでござります。ではお菊どの、御造作ながら御手伝い下さりませ」
 打揃いながら別室へ退(しりぞ)いていったかと思われましたが、程経てそこに再び立ち現れた京弥の女装姿は、まこと、女子にしても満点と言った折紙すらもが今は愚かな位です。大振袖に胸高な帯をしめて、見るから水々しげな薄萠黄色のお高僧頭巾にすっぽりと面(おもて)を包み、肩のあたりの丸々とした肉付き、腰のあたりのふくよかな曲線、はてはそこに乳房もかくされているのではないかと、怪しまれる程な艶に悩ましい女装でしたから、命じた主水之介までがやや暫し見惚れた位でしたが、やがて自身は勿論のこと、杉浦権之兵衛にも命じて、深々と覆面させると、細身の太刀をおとし差しに、お馴染の意気な素足に雪駄ばきで、京弥、権之兵衛両名を引き具しながら、悠々と長割下水を立ちいでましたのは、宵の五ツ少し手前な刻限でした。
 今の時間ならば丁度七時半前後といった時分ですから、御意はよし、春はよし、恰もそぞろ歩きの人の出盛り時で、しかし、退屈男以下三名の目ざしたところは、川を向うに渡っての日本橋から京橋への大通りでした。無論のことにそれと言うのは、囮の京弥をなるべく人の目に立たせるためで、人が京弥のすばらしい女装姿に見惚れて通ったならば、いつかそのあでやか振りが伝わって、百化け十吉の耳にも這入り、或は直接また目にもかけ、うまうま海老で鯛を釣る事が出来るだろうと思ったからでした。
 さればこそ退屈男は、屋敷を出てから女装の京弥とは二三丁もわざと距離をおいて、どこで十吉がかいま見た時でも、あく迄京弥がひとり歩きであるかのごとくに見せかけるべく、権之兵衛とふたり離れ離れにあとを追いました。
 道は先ず両国橋から人形町へぬけ、あれを小伝馬町から本石町に廻り、さらにまた日本橋へ下って、それから京橋、尾張町と人出の多そうなところを辿りながら、ずっと更に南迄のして、芝神明前迄いったときがかれこれもう四ツ前――即ち今の時刻にして丁度九時半頃です。
 しかし、折角の囮もその夜はいささか徒労でした。通りすがりに京弥を見かけながら、「ちえッ。ぞっとするような別嬪(べっぴん)じゃねえかよ。男一匹と生れたからにゃ、たったひと晩でいいから、あんなのとなに[#「なに」に傍点]してみていな」
「そうよな。お嬢さんにしちゃひとり歩きのところが、存外とこりゃ乙な筋合いかも知れねえぞ」
 なぞと声高にしつつ、行きすぎたいくたりかのざれ男共はありましたが、肝腎の百化け十吉らしい者に出会わなかったことは、いかにも残念と言うべきでした。
 然るにその翌あさでした。
「御前! 実に太い奴ではござりませぬか。朝程御番所から元の手下が来ての知らせによりますと、御眼力通り御前の毒殺されたという噂に安心してからか、たしかに百化け十吉らしい奴がゆうべ牛込の藁店(わらだな)に現れまして、そこの足袋屋小町と言われておりました若い娘を、巧みに浚(さら)っていったという訴えがあったげにござりまするぞ」
 不幸こちらの囮網にこそはかからなかったが、まさしく十吉とおぼしき者の出没した事を権之兵衛が報告いたしましたので、退屈男の目を光らしたのは言うまでもなく、その夜同じ頃が訪れると、再びまた京弥を女装させつつ、長割下水の屋敷を立ちいでました。しかも、その出かけていった道筋が、前夜と全く同様の町々でしたから、ちょっとばかり奇態に思われましたが、しかしここが実はやはり退屈男の凡夫でない証拠なのです。夜毎々々に道筋町筋を取り替えて釣りに出かけるよりも、根気よく焦らずに同じ方面をさ迷っていたら、いつかは必ず百化け十吉の目に止まる時があるだろうと考えたからでした。
 だのに、何とも腹の立つ事には、第二夜も囮は結局徒労でした。第三夜も第四夜もまた空しい努力に帰しました。そうして根気よく第六夜目に、同じく京弥を囮に仕立て、人形町から小伝馬町への俗に目なし小路と称した、一丁目も二丁目もない小屋敷つづきの、やや物寂しい一廓へさしかかったのが丁度五ツ頃――
 と――はしなくもその四ツ辻を向うへ通り過ぎようとした、七八人の供揃いいかめしい一挺の駕籠が、退屈男の目を射ぬきました。駕籠そのものは、高々二三万石位の小大名らしい化粧駕籠というだけの事でしたから、一向に何も不審なところはなかったが、強く退屈男の注意を惹いたのは、その供揃いの者達のいぶかしい足どりです。どことなく板につかない節が見えたので、慧眼そのもののような鋭い囁きが、すぐと権之兵衛のところに飛んでいきました。
「兵衛、兵衛。どうやら少し匂いがして参ったぞ。あの供の奴等の腰つきをみい!」
「何ぞ奇態な品でも、ぶら下げておりまするか」
「品が下がっているのではない、あの腰つきなのじゃ。根っからの侍共なら、あのように大小を重たげにさしてはいぬわ。打ち見たところいずれも大小に引きずられているような様子――ちとこれは百化けの匂いが致して参ったぞ」
 囁きながら歩度を伸ばして、ぴたり塀ぎわに身を寄せたとき、それとも気づかないで怪しの供が、丁度そこへ行きかかった京弥の女装姿を見かけて、ふと、列を割りながら近づいたようでしたが、まもなく呼びかけた声がきかれました。
「これ、もし、そこのお嬢さま」
「あい――」
 京弥が造り声色(こわいろ)をしながら、したたるばかりのしなをみせつつ艶(えん)に答えたのをきくと、供侍が提灯をさしつけてきき尋ねました。
「目なし小路へ参るのでござりまするが、どこでござりましょうな」
 ――途端! それが常套手段の一つでもあるとみえて、近づいた供侍の合図と共に、ぐるぐると他の七八名が、案の定浚(さら)いとるべく京弥の身辺を取り巻きましたので、こちらの二人が等しく目を瞠(みは)ったとき――だが、この薄萠黄色お高僧頭巾の艶なる女が、もはや説明の要もない位に少しばかり手強(てごわ)い京弥です。六日前から、そうあるべき事を待ちあぐんでいた矢先でしたから、ひらひらと緋色(ひいろ)の裾端(すそはし)を空(くう)に散らすと、ぱたり、ぱたりと得意の揚心流当て身で、先ずその両三名をのけぞらしました。
 それと見て、手間かかってはと思ったに違いない。――駕籠の垂れを排してそこに姿を見せたものは、それも百化け中のうちにある変装の一つと見えて、巧みにつくった大名姿の十吉です。
「面倒な!」
 と言うように猿臂(えんぴ)[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」と誤植]を伸ばして、京弥の背に手を廻そうとしたのを、体を沈めて素早く腰車にかけると、もんどり打たして笑止なる化け大名をとって投げました。
 しかし、十吉とてもなかなかにさるもの、投げ出されたかと見るまに、くるり一つ廻って立ち直ると、おそろしく言葉の汚ない大名もあればあるもので、憤りながら叫びました。
「太てえ奴だッ。この女、男だぞ。俺のお株を奪やがって、何か仔細あるに違げえねえ。そらッ、野郎共、のしちまえッ」
 正体を見破られたと知ったので、権之兵衛が叫びながら駈け出しました。
「百化け十吉! もう逃がさぬぞッ」
 ばたばたと走りよったものでしたから、ぎょッとなったのは言わずと知れた十吉でした。
「そうかッ。木ッ葉役人の化け手先だったかッ。うぬらに捕まる百化けのお兄さんかい。へえい、さようなら。おとといおいでよ――」
 配下のものに女装の京弥をさえぎらしておいて、ひたひた逃げのびようとしたので、何条権之兵衛の許すべき、韋駄天(いだてん)にそのあとを追っかけました。
 とみて、ようやく退屈男も塀かげから姿を見せると、小走りにそのあとを追って参りましたが、こはそも不思議! 今、そこの小暗い蔭に、ちらり十吉の大名姿が吸いこまれたかと思ったあいだに、どうしたことか切支丹(きりしたん)伴天連(ばてれん)の妖術ででもあるかのごとく、すうとその姿が見えなくなったので、丁度そこへ配下の者をのけぞらしておいて、逸早く走りつけた京弥共々、等しく三人があっけにとられているとき、不意にそこの小屋敷のくぐり門が、ぎいと開かれると、ひょっこりいち人の旅僧が黒い影を地に曳きながら立ち現れました。
「馬鹿者。やったな」
 素早く認めて、退屈男がずかずかと歩みよったかと見えましたが、ぬうっとその前に立塞(たちふさ)がると、むしろ気味のわるい太い声で呼びかけました。
「こりゃ、そこの御坊!」
 ふりかえったのをその途端――
「十吉ッ、化け方がまずいぞッ」
 言いざま片手でそのあじろ笠を押え、残る片手でおのが黒覆面をばらりはぎとると、折からさしのぼった月光の下にさッとあの凄艶きわまりない面をさらしながら、威嚇するように言いました。
「この顔をみい! そちが一番怖い長割下水の旗本退屈男じゃ」
「げえッ」
 おどろいたもののごとく身をすりぬけようとしたのを、押えてぐいと対手の頤(あご)を引きよせながらさしのぞくと――見えました。確かに月の光りでありありと見届けられたものは、あの目印の頤の疵です。
「額の疵と、頤の疵と、珍しい対面じゃの。もう文句はあるまい。じたばたせずと、権之兵衛に手柄をさせてつかわせい」
 けれども、十吉は必死でした。渾身の勇を奮って、その手をすりぬけながら、やにわとまた逃げのびようとしたので、大きくひと足退屈男の身体があとを追ったかと見えた刹那――
「馬鹿者ッ、行くつもりかッ」
 裂帛(れっぱく)の叱声が夜の道に散ったと同時で、ぎらりと銀蛇(ぎんだ)が閃いたかと思われましたが、まことに胸のすく殺陣でした。すでに化け僧の五体は、つう! と長い血糸をひきながら、そこにのけぞっていたところでした。
「おッ。少し手が伸びすぎたか」
 呟きながら青白い月光の隈明(くまあか)りで、細身の刀身にしみじみと、見入っていましたが、そこへ権之兵衛が駈け走って参りましたので、にんめり微笑すると、詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]かのごとくに言いました。
「許せ、許せ。生かしたままでそちの手柄にさせるつもりじゃったが、これが血を吸いたがってのう。つい手が伸びてしまったのじゃ」
 そして、京弥をかえり見ながら、揶揄(やゆ)して言いました。
「もう十日程、そちを女にして眺めたいが、さぞかし菊めが待ち焦れておろうゆえ、かえしてやるか喃(のう)――」



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
   1997(平成9)年1月20日新装第8刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:皆森もなみ
ファイル作成:野口英司
2000年6月28日公開
2001年10月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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