1
その第二十番てがらです。
事の端を発しましたのは、ずっと間をおいて十一月下旬。奇態なもので、寒くなると決まってこがらしが吹く。寒いときに吹く風なんだから、こがらしが吹いたとてなんの不思議もないようなものなんだが、江戸のこがらしとなると奇妙に冷たくて、これがまた名物です。こやつが軒下をカラカラと吹き通るようになると、奇態なものできっと火事がある。寒くて火をよけい使うようになるんだから、火事が起きたとてべつに不思議はないようなもんなんだが、江戸の火事となると奇妙によく燃えて、これがまた名物です。それからいま一つこの季節に名物なのは将軍家のお
そこで、このときも二十六日に、
おなりの順序が決まると、第一に忙しいのは、むろんのことに沿道沿道の警固に当たる面々ですが、それにつづいて多忙をきわめるのは、吉祥寺裏のお鷹べやで、お鷹のご用を承っている
かくて、当日吉祥寺裏のお鷹べやから伴っていった
「これよ、伊豆」
「はっ」
「あちらの畑で、百姓どもが珍奇な
「恐れ入ってござります。あれなる品は槍でござりませぬ。
「なに、あれが鍬と申すか。ほほうのう。予はよい学問いたしたぞ」
できるものなら
「帰館じゃ! 予はもう帰館いたすぞ。供ぞろいせい!」
「ちぇッ。なんでえ! なんでえ!」
お中止になったそのお
「なんでえ! なんでえ! だからおいら、てんとうさまとさいころばかりは、わがまますぎて気に入らねえんだ。せっかく寒い中を夜中起きして、きょうばかりはおいらもお将軍さまになったつもりでいようと楽しみにしていたのに、なにも今が今になって義理も人情もわきまえねえまねしなくったっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! 雪までなにも降らせなくたっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! あっしのいうことは、理屈が通っちゃおりませんかい!」
「
「え?」
「あのお姿がわからぬか! 頭が高いッ。控えろッ」
鳴りだそうとした出鼻を、やにわに頭が高いとしかりつけられたので、なにごとならんかとちぢこまりながら、おそるおそる伺うと、頭の高かったのも道理、こちらへ急ぎ足でお近づきになってきたのは、だれならぬ名宰相
「ちこう! ちこう!」
しかも、あわただしげに目顔で名人をお招きなさったものでしたから、すわ大事
「ちぇッ」
特別に勇ましく鳴らすと、いうことがまた伝六流でした。
「うまくやっていやがらあ。犬になるなら大所の犬にとね。安くてまず小判、少し風もようがよろしくばご
2
しかるに、うらやましいにも憎いにも、その辰がどうしたことか容易に八丁堀へ帰らないのです。お屋敷へいって、小石川へ回って、ご命令どおり弓をお届けしたにしても、じゅうぶんお昼までには組屋敷へ帰るだろうと思われたのが、八ツになっても七ツになっても、いたずらにしんしんと粉雪が舞うばかりで、いっこうに小さいのが姿を見せなかったものでしたから、物議をかもさずにいられるわけはない!
「ちくしょうめ。やけにまた降りやがるな。雪は豊年の
「…………」
「ちぇッ。せめて相手になとなっておくんなさいよ、この雲行きじゃ、辰の野郎め、ご印籠どころじゃござんせんぜ。雪中を大きにご苦労だった。ついでにいま一度屋敷へ回って、腰元どもでも相手にゆるゆるちそうをとっていけ、とでもいうようなことになって、やつめ、やにさがっているにちげえござんせんぜ。豆州さまのお腰元となると、またやけに絶品ぞろいなんだからな。くやしいな」
鳴っているさいちゅう、不審です。どうしたことか、伝六のまげのもとどりの元結いが、ぷつりひとりでにはぜて飛びました。
「よッ。気味がわりい! けさ結ったばかりなのに、なんとしたものでしょうね!」
いうかいわないかのとき、ぶきみともぶきみ、そこの床の間の刀かけにかけてあった名人愛用の一刀が、するりと
「ただの一度縁起をかついだことのねえおれだが、――急に年が寄ったかな。ちっと帰りが長引きすぎるようだ。ひとっ走り様子見にいってきなよ」
促して、伝六を走らせようとしているところへ、雪の表の道をこちらに、トウトウ、トウトウとひづめの響きも高く駆け迫ってきたのは、まさしく早馬の音でした。
「…………?」
はてな、というように聞き耳立てたとき――
「ご在宅かッ。右門どのはご在宅かッ」
あわただしく言い叫んだ声がありました。
「殿が――伊豆守様が火急のお召しじゃ! お出会いくだされよッ。そうそうこれへお出会いくだされよッ!」
語韻の乱れ、呼吸のはずみ、容易ならぬ珍事でもが突発したらしいけはいでしたので、聞くや名人は、一足飛び――。
「なにごとにござります?」
「これじゃ! これじゃ!」
年若い近侍が、手渡す間ももどかしいように差し出したのは、次のごとき一通の密書でした。
「――いかなることあるとも他言いたすべからず。大事出来 、一刻を急ぎ候 あいだ、馬にて参るべし。 豆州」
かつてないお差し紙です。一刻を急ぎ候あいだ馬にて参るべしとは、将軍家のお身のうえにでも変事があったか、それとも伊豆守ご自身にかかわる大事か、いずれにしても容易ならざる急達でしたので、物に動じない名人のことばもおのずから震えました。「どちらに! 殿は、どちらでござります?」
「お下屋敷じゃ!」
「馬は?」
「これじゃ! てまえのこの
「心得ました!」
代わってひらりとうちまたがると、
「伝六。つづけよッ」
降りまさる雪の夕暮れ道を八条流の手綱さばきもあざやかに、
はせつけたのは、ちょうど暮れ六ツ。パッと馬を捨てて地上に降り立ったとき――、
「おう! 参ったか!」
ご門わきの茂みの中から、雪ずきんもされずに、降りしきる粉雪を全身に浴びたままで、待ちきれなかったもののようにつとお姿を見せたのは、だれでもない伊豆守ご自身でした。その一事だけでもがよくよく事件の重大事であるのを物語っているうえに、密事の漏れるのをはばかってか、側近の者をすらも従えず、ただご一人でお待ちうけしたので、名人の声はいよいよ震えました。
「よほどの大事と拝せられまするが、なにごとにござります?」
「一見いたさばあいわかる。こちらに参れ」
みずから先にたって、ちょうどそのとき、息せき切りながらはせつけた伝六ともども、名人主従を導いていかれたところは、いぶかしいことに屋敷のすみの一郭のお長屋でした。しかも、そのいちばんはずれの小さな一軒の前へ行くと、
「
「はっ。じゅうぶんに見張っておりましたゆえ、だいじょうぶにござります」
「なぞはこの二つの
取りのけて雪あかりをたよりながら見ながめるや同時に、名人も伝六も、伊豆守の面前であるのを忘れたほどに、声をそろえておもわずあッと叫びました。また、なぜにこれが
「これはいってえ、こ、これはいってえ、ど、どうしたんだッ。辰ッ。た、辰公! もうおめえは、も、もうおめえは息がねえのか! 息はねえのかッ……いってくれッ。な、なんとかいってくれッ。辰ッ……辰公……! 息はねえのかッ。もう息はねえのかッ……」
控えろ! お人前をわきまえろ――! 伊豆守のお面前であるのをはばかって、いつもならそういってたしなめるのが普通でしたが、今度ばかりは名人右門も、伝六に愁嘆させたままでした。また、そうあるべきが当然です。配下の辰が難に会っていたとは、わけても配下思いの名人に、同じ嘆きの募ったのも当然なのです。――それに勢いを得たもののごとく、泣き上戸、おこり上戸の伝六は、おいおいと、手放しにやりながらつづけました。
「息はねえ! もう息はねえ! なんてまあ情けねえことになったでしょうね! なんとかしておくんなさい……。はええところ、なんとかしておくんなせえまし……ね! だんな! ね! だんな! 後生です……後生です!」
その涙に誘われて、名人の秀麗な面にも、滝のようにしずくが流れ伝わりました。しかし、――泣いている場合ではない! いたずらに嘆き悲しんでいる場合ではないのです。急いで両ほおをぬぐうと、ことばを改めて伊豆守にきき尋ねました。
「かわいそうに、どうしてまた、このようなことになりましたのでござります」
「それがいっこうにわからぬゆえ、なにはともかくと、急いでそのほうを呼び招いたのじゃ。じつは、そちたちも知ってのとおり、この屋敷から小石川のほうへ弓を届けるよう命じたのに、これなる辰がいつまで待ってもお矢場に持参せぬゆえ、ようやくご用を済まし、不審に思いながら、ほんのいましがた帰ってまいったところ、このような仕儀になっていたのじゃ」
「お耳に達しましたのは、いつのことにござります」
「帰邸いたすとすぐさまじゃ」
「たれがお知らせ申し上げたのでござります」
「あの者じゃ――ほら、聞こえるであろう。あれが知らせた当人じゃ」
いわれたそのことばとともに、そのとき、ぴたりと障子をしめきった暗い家の中から、急に情が迫りでもしたかのごとく、よよと忍び音に泣き忍ぶ人の声が漏れました。
「女でござりまするな。何者にござりまする」
「こちらに倒れている古橋
最初に発見した者がその娘とするなら、いうまでもなくまず尋問してみるべきが事の第一です。名人はちゅうちょなく座敷へ押し上がりました。
それとともに、暗かったへやの中には、けはいを知った娘の手によって、あわただしく
むろんのことに、押し入った以上、すぐにも尋問が始められるだろうと思われたのに、しかし、いつものあの十八番です。見るような、見ないような目で、じろじろと小娘をながめていましたが、やがてずばり右門流でした。
「そなた、きょう寺参りに行きましたな!」
「えッ――」
というように、ぎょッとなったのを押えてずばり――。
「身にお線香がしみついているは、たしかにその証拠じゃ――。のう、このとおり、どのようなことでも見通すことのできるわしゆえ、隠してはなりませぬぞ。見れば、家人とてはそなたおひとりのようじゃが、墓参りに行ったはお母ごか」
「あい……そうでござります」
「きょうがご命日か」
「あい。月は違いますなれど、二十六日がみまかりました日でござりますゆえ、父にるすを頼みまして、朝ほど浅草の
「お父上とあれなる辰がふたりして切り結んでいたと申されるか」
「いえ、違います。違います。父はおはぎが大の好物でござりましたゆえ、
「そのときはもうこと切れてでござったか。それとも、まだ息がござりましたか」
「こと切れてでござりましたが、まだふたりとも、からだにぬくもりがござりましたゆえ、いっしょうけんめい介抱いたしましたなれど、あの深手でどうなりましょう、そのうちにも冷たくなってしまいましたゆえ、さっそくどなたかにお知らせいたしましてと存じましたなれど、あいにくきょうは、お長屋のかたがたみなご非番で、どこぞに他出なされて、どなたもおいでがござりませなんだゆえ、どういたしましょうと考えまどうているうちに、なまじ騒ぎたてて、お家のお名にでもかかわるようなことになりましてはとようやく心を定め、目だたぬようにと、そのまま手もつけず菰をかむせ、悲しいのをこらえましてお待ちいたしましておりましたところへ、お殿さまご帰館のようにござりましたゆえ、こっそりとお目通りを願い、委細をお耳に達したのでござります」
陳述なかなかあっぱれ。騒ぎたててお家の名にかかわってはと、むくろに手もつけず、そのまま長い時刻の間秘密を守っていたとは、少女、容姿ふぜいのごとく、その心がけ見上げた賢女です。宰相伊豆守また賢女であるのを折り紙つけるようにいうのでした。
「いちいちみな聞いてのとおり、わしに述べたのもそのとおりじゃ。応急の処置もまた、小娘に似合わずあっぱれであったのでな、わしもことのほかかわいく思い、
いわれるまでもない! おのが配下の辰九郎が、――宰相伊豆守の推挙によって配下となったその辰が、推挙をしてくれた伊豆守のご家臣と、かようないぶかしき刃傷の相討ちを遂げているとは、まさに容易ならぬ事件です。ただ一つ恨むらくは、発見したという朝の五ツから、この
その顔の青さ!
その決意の強さ!
ぶきみにぼうっとあかりさす短檠を片手にかざして、降りしきる雪の庭にたたずみ立った名人右門の姿は、さっそうというよりむしろ
伝六とてもまたしかり! 百鳴り 千鳴り、万鳴りのあいきょう者も、おのが弟分にかかわりある事件とあっては、鳴る太鼓も日ごろのように朗らかな音が出ないものか、それきり音止めをやって、かたずをのみながらじっと見守りました。
名人は静かに歩みよると、まず見ながめたのは、ふたりの肩口の傷です。それから、両名が握りしめている
「よッ!――」
力のこもったよッという叫びが漏れました。
「なんぞあったか!」
「…………」
「なんぞ、調べのついたことがあるか!」
「はっ。ござります! たしかにござります!」
「なんじゃ! なんじゃ!」
せき込んで問いつめた伊豆守のおことばを、
「少々お待ちくだされませ」
制しながら向き返ると、静かに尋ねました。
「あれなるお娘ごは、なんという名にござります」
「小梅というのじゃが、あれになんぞ不審があるか」
「いえ、そうではござりませぬ。ちと尋ねたいことがござりますので――、のう! 小梅どの! 小梅どの!」
さし招くと、念を押しました。
「そなた、これなる二つの
「あい。ととさまと、そちらのおかたと、お口のところへは手を触れましたが、そのままどこにもさわりませぬ」
「そういたしますると――」
「なんじゃ!」
「お驚きあそばしますな。ちょっと見は、これなる両名が、刃傷に及んだ結果、共に手傷を負うて落命いたしたように思われまするが、断じて相討ち遂げたものではござりませぬぞ」
「なに! 相討ちでないとな! なぜじゃ! なぜじゃ!」
「第一の証拠はふたりの肩傷でござりますゆえ、ようごろうじませ。相討ち遂げてこのように向き合うたまま倒れているならば、互いに前傷こそあるべきが当然。しかるに、両名の傷は申し合わせていずれも背をうしろから
「ふうんのう――しかし」
「いえ、断じて眼の狂いござりませぬ。第二の証拠は両名の太刀でござりますゆえ、比べてようごろうじなさりませ。両人が互いに相手を仕止めて落命したならば、二本とも太刀には血のあぶらが浮いているべきはずなのに、辰の得物にはそれが見えても、専介どのが所持の一刀にはなんの曇りも見えないではござりませぬか」
名人右門の明知によって、がせん事件はここにいくつかの不審がわき上がりました。死体は行儀よく顔と顔とをつき合わするようにして並びながら倒れているのに、受けているふたりの傷は向こう傷でなく、うしろからやられたうしろ袈裟とは、いかにも奇怪至極です。しかも、辰の刀には人を切った血の曇りがあるのに、相手の専介の一刀にそれがないとは、いよいよもって不審千万!――
「しからば――」
「なんでござります」
「専介を討ったは辰に相違ないが、辰を切ったはほかに下手人があると申すか」
「いえ、おめがね違いでござります」
当然の帰結として、伊豆守の下した推断を名人は軽く押えると、ずばりと言い放ちました。
「専介どのを討ったのは辰でござりませぬぞ」
「なにッ。辰でもないとな! たれじゃ! たれじゃ! しからば、ふたりとも他の下手人の手にかかったと申すか」
「はい。右門の見るところをもってすれば、まさしくそれに相違ござりませぬ。その証拠は、両名が握りしめている
引くと同時に、その手から所持の太刀がするすると抜けました。抜けたとすれば、いうまでもない――辰の手にしていたいっさいは、あとから握らせた証拠です。切っておいて、殺しておいて、むりやりあとから握らせたに相違ないのです。しかも、ふたりの受けている致命傷が、同型のうしろ袈裟とすれば、同一人が専介、辰の両人を切って捨てておいて、おのが犯行をくらますために、切った太刀を辰の手に握らせたうえ、さも両名が相討ち遂げて倒れたごとく見せかけて、いずれへか逐電したに相違ないのです。その推断に誤りなくんば、当然のごとくつづいて起きる疑問は次の一事でした。
なぜまた弓を取りに来た辰がこんな災禍に会ったか! どうして専介といっしょに、かような巻き添えくって、むざんな横死を遂げるにいたったか?――それです。なぞと不審は、その一事です。
だが、名人の明知は、真に快刀乱麻を断つがごときすばらしさでした。
「なわがない! 辰がはだ身離さず所持いたしている投げなわが、腰にも懐中にも見当たらない! 察するに、弓を取りにここまで参り、何者か専介どのにいどみかかっている敵を見つけ、すけだちに飛び出したところをやられたに相違ないゆえ、伝六ッ、雪をかいてこのあたりを捜してみろ!」
伝六もとより必死! けんめいに、辰の周囲の雪をかき分けたその下から、果然出てきたのは、日ごろ手なれのその投げなわの端です。たぐり寄せつつ雪の下から引き抜くと、先がない! 推断どおり、まんなかごろからプツリと一刀両断に断ち切られているのです。通りかかって専介と敵とが争っている現場でも見かけ、一度はきっとみごとに相手をからめ押えたのに、敵はよほど腕がさえてでもいたとみえて、プツリと投げなわを断ち切り、しかもその一刀で辰をも切りすて、かく相討ちのごとき形をよそおっておいてから、すばやく逐電したに相違ないのです。
「ふふうむ! さすがそちじゃな……」
名宰相の口からは、いまさらのように感嘆の声がほころびました。
しかし、名人にとってはこれからが明知の奮いどころです。
しからば、何者が専介と辰のかたきであるか?
なんのために[#「なんのために」は底本では「なんために」]、専介がいどまれるにいたったか?
いどんだ敵は、切った敵は、どこの者か?
鋭くその目を光らして、専介の
「よッ。これなる古橋専介どのは、絵のおたしなみがござりまするな!」
「そのとおりじゃ! そのとおりじゃ! 雅号を孔堂と申して、わが家中では名を売ったものじゃが、どうしてまたそれがわかった!」
「指に染まっている絵の具がその証拠にござりまするが、では、絵をもってご仕官のおかたにござりましたか」
「いや、わしが目をかけて使うていた
「なんでござりまする! 隠密でござりますとな! 近ごろでどこぞにご内命をうけて、内偵に参られたことござりましたか」
「大ありじゃ。何をかくそう!
「えッ――」
名人右門はおもわず驚きの声をあげました。
「ふうん、そうでござりましたか! いったい、専介どのは何を探ってまいったのでござります」
「壱岐守が、ご公儀の許しもうけずに、せんだって中高松の居城に手入れをいたせし由、密告せし者があったゆえ、専介めが絵心あるをさいわい、隠密に放って城中の絵図面とらせたところ、ご禁制の防備やぐらを三カ所にも造営せし旨判明したゆえ、生駒家は名だたるご名門じゃが、涙をふるって処罰したのじゃわ」
「それでござりまするな!」
「なに! では、古橋専介をねらいに参ったのは、生駒の浪人どもででもあったと申すか!」
「まず十中八、九、それでござりましょう。ご公儀や御前さまに刃向こうことはなりませぬゆえ、せめても恨みのはしにと、筋違いの古橋どのをねらったに相違ござりますまい。いずれにしても、かような
取りあげて
「わかったか!」
「たぶん――」
「なんじゃ!」
「この
「なに! 千柿の鍔とな」
伊豆守の驚かれたのも当然――当時千柿名人の千柿の鍔といえば、知る人ぞ知る、知らぬ者は聞いておどろく得がたい鍔だったからです。住まいは目と鼻の先浅草
「伝六ッ」
「できました!」
いつのまにか
「暫時拝借させていただきとうござります!」
「おう! いかほどなりとも!――吉報、楽しみに待ちうけているぞ!」
宰相伊豆守のおことばをうしろに残して、手がかりとなるべきそれなる千柿鍔の一刀をかかえ持ちながら、ごめんとばかり駕籠の人となると、主従ふたりは、今なお降りしきる雪を冒して、千柿老人の住まいなる浅草へ! 聖天町へ!
3
行きついたとき、初更のちょうど五ツ――
「ここだッ。ここだッ。ここが千柿老人の住まいでこぜえます! 今度ばかりゃ、いかなどじの伝六でもへまをするこっちゃねえから、あっしに洗わしておくんなせえまし! 石にかじりついても辰のかたきを討って成仏させてやらなくちゃ、兄分がいがねえんだから、伝六に男をたてさせておくんなせえまし!」
手がかりの一刀を名人の手から奪い取って、矢玉のようにおどりこむと、そこの細工場でこつこつと刻んでいた千柿老人に
「こ、こ、これに覚えはねえか!」
「…………?」
「急ぐんだッ、パチクリしていねえで、はええところいってくれッ。この鍔は、どこのどいつに頼まれて彫ったか覚えはねえか」
「控えさっしゃい」
「控えろとは何がなんだッ。右門のだんなと、伝六親方がお越しなすったんだッ。とくと性根をすえて返事しろッ」
「どなたであろうと、まずあいさつをさっしゃい!」
「ちげえねえ! ちげえねえ! おいらふたりの名めえを聞いても恐れ入らねえところは、さすがに名人かたぎだな! わるかった! わるかった! じゃ、改めて、こんばんはだ。この鍔に覚えはねえか!」
「なくてどういたしましょう! まさしく、こいつはてまえが、大小そろえ六年かかって刻みました第八作めの品でございますよ」
「そうか! ありがてえ! 注文先はどこのどいつだ!」
「
「なにッ。ああ、たまらねえな! だんな! だんな! 眼だッ、眼だッ、眼のとおりだッ――あっしゃ、あっしゃもう、うれしくって声が、ものがいえねえんです! 代わって、代わって洗っておくんなせえまし……! うんにゃ、まて! まて! やっぱりあっしが洗いましょう! 辰が喜ぶにちげえねえから、あっしが洗いましょう!――とっさん! 生駒のご家来の名はなんていう野郎なんだッ」
「
「身分もたけえ野郎か!」
「野郎なぞとおっしゃっちゃあいすまぬほどのおかたでごぜえます。
「つらに覚えはねえか!」
「さよう……?」
「覚えはねえか! なんぞ人相書きで目にたつようなところ、覚えちゃいねえか!」
「ござります。四十くらいの中肉
「ありがてえ! ありがてえ! ああ、ありがてえな!――だんな! だんな! お聞きのとおりでごぜえます。これだけの手がかりがありゃ、ぞうさござんすまいから、はええところなんとかしてくだせえまし! どけえ逃げやがったか、はええところ眼をつけておくんなせえまし!」
「よしッ。泣くな! 泣くな!」
じっとうち考えていましたが、ひらりと駕籠にうち乗ると、
「お
いかなる秘策やある?――ふたたび
行きついたときは――天下の執権松平伊豆守様がお手ずからもったいないことです。恩顧の
「御前!」
「おお! 首尾はどうじゃ!」
「もとより――」
「上首尾じゃと申すか!」
「はっ。下手人はやはり生駒家がお取りつぶしになるまで
「では、新しゅう浪人となった者じゃな!」
「御意にござります。生駒家お取りつぶしとともに、浪人となったはずにござります。それゆえ――」
「なんじゃ! 余になんぞ力を貸せと申すか」
「はっ。てまえ一人にてぜひにも捜せとのご
「わかった! わかった! 力を貸す段ではないが、余に何をせよというのじゃ」
「下手人はこのごろ新しく浪人になった者でござりましょうとも、浪人とことが決まりますれば、御前の、あの――あとはご賢察願わしゅう存じます」
「おお! そうか! しかとわかった! いうな! いうな! あとをいってはならぬ! その者はどのような人相いたしているやつじゃ」
「四十年配の中肉中背で、左手の小指が一本ないやつじゃそうにござります」
「それだけわかっていればけっこうじゃ。――みなの者も人相書きのことを聞いたであろうな」
宰相伊豆守は、かたわらに居流れていた近侍の面々を顧みると、
「わからば、
不思議な命令です。早馬を八頭近くも用意させて、いずこへ飛ばせようというのか! 浪人者と決まりますれば、御前の、あの――あとはご賢察願わしゅう存じます、といった御前のあの、というその「あの」なる「あの」はなんであるか?――よしわかった。いうな、いうな、あとをいってはならぬ、といったその「あと」なる「あと」は、いかなるなぞであるか?――。いつもながら、捕物名人と、名宰相とのやりとりは、まこと玄々妙々の腹芸ですが[#「ですが」は底本では「ですか」]、しかし、ありようしだいを打ち割ってみれば、不思議でもない、不審でもない、名人のいったその、御前のあのなる「あの」は、伊豆守の浪人取り締まり政策を利用しようというのでした。ご存じのごとく、松平信綱という人は、ほとんどその半生を浪人の弾圧取り締まりに費やした秘密政治家の大巨頭です。なかんずく、この事件の前後における時代は、浪人のほうも極度に
命ぜられた采女以下の近侍も、もとよりそれなる浪人網は熟知してのこと、たちまちそこへ引き出した馬は、いずれも
「おう、いずれも用意ができたな。よいか、四人は街道口隠し屯所へ。あとの四人は市中の一町目付けへ、いま右門が申した人相書きの浪人を目あてに、ぬかりなく動静探ってまいれよ。念までもあるまいが、隠し屯所へ出入りいたすときは、人に見とがめられぬよう、じゅうぶんに注意いたすがよいぞ」
「はっ」
とばかりに八美少年は、馬上ゆたかに雪の道を、八方に散っていきました。――ときに二更近くの五ツ下がり。
4
残った名人主従は、辰の霊前にじっと端座したままでした。つねならば千鳴り万鳴りの伝六が鳴らずにいるはずはないが、
思い出してはぽろり……。
ぽろりとやってはまたぽろり……。
大きな手でそれをふいてはまたぽろり……。
伝六だけに、ひとしお哀れです。
名人はもとより黙々として、これもじわり、じわりと、隠し涙を散らしました。
そのかたわらに、古橋専介のひとり娘の小梅がしとやかに並んですわって、名人右門と一対の
宰相伊豆守も、高貴のおん身のおいといもなく、しんしんと降りまさり、しんしんとふけまさる雪の夜を冒して、お静かにそこに端座されたままでした。
かくて
それからまた四半刻。
深夜の九ツが、上野のお山からわびしく鳴り伝わりました。
と――タッ、タッ、タッ、というひづめの音です。満座、いろめきたって待ち構えているところへ――
「帰りましてござります!」
第一着の姿を見せたのは、たれならぬ
「おお! どうじゃ! どうじゃ!」
「わかりましてござりまするぞ! 手がかりがつきましてござりますぞ!」
「なに! ついたとな! そちが参ったはいずれじゃった!」
「
「そうか! 申せ! 申せ! はよう申せ! どんな手がかりじゃ!」
「つい先ほど暮れ六ツ少してまえじゃったそうにござりまするが、日の暮れどきのどさくさまぎれに乗じ、眼の配り、肩、腰、どう見ても、ひとくせありげな武家と思われるやつが、中間ふうにやつし、中仙道目ざして、早足に通り抜けようといたしましたゆえ、不審をうって調べましたら、左小指がないばかりか、中間ふぜいに不似合いな千柿鍔の小わきざしを所持いたしておりましたゆえ、今もなお隠し屯所に止めおいているとのことでござりまするぞ!」
「なに! さようか! まさしくそやつじゃ! 右門! どうじゃ! 違うか!」
「いえ、それに相違ござりませぬ! 千柿鍔の小わきざしを所持いたしておるというがなによりの証拠、先ほど千柿老人が、大小二つの鍔をこしらえたと申しておりましたゆえ、たしかにそやつが権藤四郎五郎左衛門めでござりましょう! では、お駕籠三丁お貸しくださりませ!――さ! 伝六ッ」
「…………」
「いかがいたした! なぜ立たぬ! なぜ立たぬ! いかがいたした!」
「うれしすぎて、うれしすぎて、はや腰が抜けちまやがったんでごぜえます! ひとつ、どやしておくんなせえまし!」
「かたきのありかを聞いたばかりで、今から腰抜かすやつがあるかッ。相手は三品流の達人じゃ! しっかりいたせ!――そらどうじゃ! いま一つたたいてつかわそうか!」
「いえ、た、た、立ちましたッ。ちくしょうめ! 腰が立ったからにゃ、さあ、もうかんべんしねえぞッ。――辰ッ、これ辰よ! よく聞いていろよ! おめえの、お、おめえのかたきは、兄貴が、この伝、伝六がきっと討ってやるぞ! わかったか! これ辰ッ、わかったかッ。わかりゃ、いってくるぞッ。小梅さん、さ! あんたもいっしょだ! たすきをかけて! はち巻きをして! そうそう! おしたくができりゃ、この駕籠にお乗んなせえ!」
乗ったところを、三丁のお屋敷駕籠は、板橋目ざしていっさん走り――。
お目をかけた古橋専介、ならびに辰九郎の両人を討ったばかりか、天下公儀のご処断に筋違いのさか恨みをするとは、捨ておきがたい浪人者と、お怒りなさったとみえて、宰相伊豆守も、雪ずきんに面を包み白馬にうちまたがって、小姓の采女一騎をうしろに従えながら、お
駆けつけた時は九ツ下がり。
目ざした隠し屯所は、一見ただの町家のごとくに見られましたが、しかし一歩その中へはいれば設備はいたれりつくせりで、土蔵と見せかけて、その実
「ふうむ、あやつか。思いのほかの豪胆者とみゆるな」
唯一の証拠にと、携え持ってきたあの千柿鍔の一刀をこわきにしながら、名人はゆうぜんとはいっていくと、
「起きろ!」
パッとそのまくらをけって、ずばりといいました。
「長え名のお客仁! おひざもとで味なまねしやがったなッ」
「えッ――」
「驚くにゃまだはええや、
「そうか! きさまが右門とかいう小わっぱか! それならば」
ゆうゆうと帯をしめながら、長い名の四郎五郎左衛門、さすがにおちついたものです。
「千柿鍔に眼をつけたとあらば、じたばたすまい。いかにも古橋専介を討ったはこのおれじゃ。こざかしいあの
「
「おもしろい! 権藤四郎五郎左衛門の三品流知らぬとはおもしろい! いかにも相手になろう! 来いッ」
パッとさがって、小わきざしに手をかけたを、名人右門は
「せくな。せくな」
押えて先へたちながら、雪の表へいざない出すと、なおよく敵をも愛す、感激したいくらいな計らいでした。
「晴れの勝負に、そなたもその短いわきざしでは不自由でござろう。使い納めに、こちらをお持ちめされよ」
手にしていた千柿鍔の長刀を四郎五郎左衛門に投げて渡すと、
「さ! 伝六ッ。おまえはこれを使え!」
みずからの腰の細身の
「小梅さんは、こちらをお使いなさいまし」
短い腰の小刀をも、父のあだ討つ小梅に手渡しながら、本人はまったくの無腰。しかも、ゆうぜんとしていうのでした。
「さ! 両名とも、かかれッ」
声に、伝六、小梅が必死に構えましたが、腕が違うのです。三品流の達人とは、いかさまそのとおり。
「このようななまくら腕で、かたき討ちが片腹痛いわッ。きのどくながら、返り討ちだぞッ」
あざ笑いながら四郎五郎左衛門が、まず伝六から先にといわぬばかりにいどみかかってきたのを、
「見そこなうなッ。右門がすけだちしているんだッ」
ずばりというや、おどり込みざまに無敵無双の草香流です。パッときき腕とって、ねじ上げながら、体をひねると岩石おとし! あおがえるのように雪の上へ、四郎五郎左衛門が長々とのめったところを――左から小梅が一刀! 右から伝六がひとたち!
「おう! みごとであるぞ! 両人ともみごとであるぞ!」
降りしきる雪の中に、おしのび姿で馬上から見守っていられた宰相伊豆守の口から、期せずしておほめのことばがあがりました。
がっくりうなだれて、気も遠くなったように伝六が、ややしばしぼうぜんとしていましたが、ようよう目のかすみがとれたものか、
「わッ。切れましたか! 切れましたか! あっしが切ったんですか! 切ったんですか? 辰ッ、辰ッ。
たったひとりで、というところにひときわ力を入れて叫ぶと、わッと雪の上に泣き伏しました。喜びに耐えられないもののように泣き伏しました。――父のかたきを討った小梅も共に同様、よよと雪に伏しました。
名人もまた同様、しずかにこうべをたれると、そっと目がしらを押しぬぐいました。
その三人の姿の上へ、そして四郎五郎左衛門のむくろの上へ、そしてお感慨深げに、黙念と馬上から見守っていられる宰相伊豆守のおしのび姿の上へ、馬首を並べてご警固申し上げている美小姓釆女の前髪姿の上へ、深夜の雪がおやみなく、しんしんと降りそそぎました。