「土」に就て
漱石
「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫
限に打ち
遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず
獨特である。其
獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の
獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に
加速度の興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の
下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から
射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓
所々」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
[#改丁]
一
烈しい
西風が
目に
見えぬ
大きな
塊をごうつと
打ちつけては
又ごうつと
打ちつけて
皆痩こけた
落葉木の
林を一
日苛め
通した。
木の
枝は
時々ひう/\と
悲痛の
響を
立てゝ
泣いた。
短い
冬の
日はもう
落ちかけて
黄色な
光を
放射しつゝ
目叩いた。さうして
西風はどうかするとぱつたり
止んで
終つたかと
思ふ
程靜かになつた。
泥を
拗切つて
投げたやうな
雲が
不規則に
林の
上に
凝然とひつゝいて
居て
空はまだ
騷がしいことを
示して
居る。それで
時々は
思ひ
出したやうに
木の
枝がざわ/″\と
鳴る。
世間が
俄に
心ぼそくなつた。
お
品は
復た
天秤を
卸した。お
品は
竹の
短い
天秤の
先へ
木の
枝で
拵へた
小さな
鍵の
手をぶらさげてそれで
手桶の
柄を
引つ
懸けて
居た。お
品は
百姓の
隙間には
村から
豆腐を
仕入れて
出ては二三ヶ
村を
歩いて
來るのが
例である。
手桶で
持ち
出すだけのことだから
資本も
要ない
代には
儲も
薄いのであるが、それでも
百姓ばかりして
居るよりも
日毎に
目に
見えた
小遣錢が
取れるのでもう
暫くさうして
居た。
手桶一提の
豆腐ではいつもの
處をぐるりと
廻れば
屹度なくなつた。
還りには
豆腐の
壞れで
幾らか
白くなつた
水を
棄てゝ
天秤は
輕くなるのである。お
品は
何時でも
日のあるうちに
夜なべに
繩に
綯ふ
藁へ
水を
掛けて
置いたり、
落葉を
攫つて
見たりそこらこゝらと
手を
動かすことを
止めなかつた。
天性が
丈夫なのでお
品は
仕事を
苦しいと
思つたことはなかつた。
それが
此日は
自分でも
酷く
厭であつたが、
冬至が
來るから
蒟蒻の
仕入をしなくちや
成らないといつて
無理に
出たのであつた。
冬至といふと
俄商人がぞく/\と
出來るので
急いで一
遍歩かないと、
其俄商人に
先を
越されて
畢ふのでお
品はどうしても
凝然としては
居られなかつた。
蒟蒻は
村には
無いので、
仕入をするのには
田圃を
越えたり
林を
通つたりして
遠くへ
行かねばならぬ。それでお
品は
其途中で
商をしようと
思つて
此の
日も
豆腐を
擔いで
出た。
生憎夜から
冴え
切つて
居た
空には
烈しい
西風が
立つて、それに
逆つて
行くお
品は
自分で
酷く
足下のふらつくのを
感じた。ぞく/\と
身體が
冷えた。さうして
豆腐を
出す
度に
水へ
手を
刺込むのが
慄へるやうに
身に
染みた。かさ/\に
乾燥いた
手が
水へつける
度に
赤くなつた。
皹がぴり/\と
痛んだ。
懇意なそここゝでお
品は
落葉を
一燻べ
焚いて
貰つては
手を
翳して
漸と
暖まつた。
蒟蒻を
仕入れて
出た
時はそんなこんなで
暇をとつて
何時になく
遲かつた。お
品は
林を
幾つも
過ぎて
自分の
村へ
急いだが、
疲れもしたけれど
懶いやうな
心持がして
幾度か
路傍へ
荷を
卸しては
休みつゝ
來たのである。
お
品は
手桶の
柄へ
横たへた
竹の
天秤へ
身を
投げ
懸けてどかりと
膝を
折つた。ぐつたり
成つたお
品はそれでなくても
不見目な
姿が
更に
檢束なく
亂れた。
西風の
餘波がお
品の
後から
吹いた。さうして
西風は
後で
括つた
穢い
手拭の
端を
捲つて、
油の
切れた
埃だらけの
赤い
髮の
毛を
扱きあげるやうにして
其垢だらけの
首筋を
剥出にさせて
居る。
夫と
共に
林の
雜木はまだ
持前の
騷ぎを
止めないで、
路傍の
梢がずつと
繞つてお
品の
上からそれを
覗かうとすると、
後からも/\
林の
梢が一
齊に
首を
出す。さうして
暫くしては
又一
齊に
後へぐつと
戻つて
身體を
横に
動搖ながら
笑ひ
私語くやうにざわ/\と
鳴る。
お
品は
身體に
變態を
來したことを
意識すると
共に
恐怖心を
懷きはじめた。三四
日どうもなかつたから
大丈夫だとは
思つて
見ても、
恁う
凝然として
居ると
遠くの
方へ
滅入つて
畢ふ
樣な
心持がして、
不斷から
幾らか
逆上性でもあるのだがさう
思ふと
耳が
鳴るやうで
世間が
却て
靜かに
成つて
畢つたやうに
思はれた。
不圖氣が
付いた
時お
品ははき/\として
天秤を
擔いだ。
林が
竭きて
田圃が
見え
出した。
田圃を
越せば
村で、
自分の
家は
田圃のとりつきである。
青い
煙がすつと
騰つて
居る。お
品は
二人の
子供を
思つて
心が
跳つた。
林の
外れから
田圃へおりる
處は
僅かに五六
間であるが、
勾配の
峻しい
坂でそれが
雨のある
度にそこらの
水を
聚めて
田圃へ
落す
口に
成つて
居るので
自然に
土が
抉られて
深い
窪が
形られて
居る。お
品は
天秤を
斜に
横へ
向けて、
右の
手を
前の
手桶の
柄へ
左の
手を
後の
手桶の
柄へ
掛けて
注意しつゝおりた。それでも
殆んど
手桶一
杯に
成り
相な
蒟蒻の
重量は
少しふらつく
足を
危く
保たしめた。やつと
人の
行き
違ふだけの
狹い
田圃をお
品はそろ/\と
運んで
行く。お
品は
白茶けた
程古く
成つた
股引へそれでも
先の
方だけ
繼ぎ
足した
足袋を
穿いて
居る。
大きな
藁草履は
固めたやうに
霜解の
泥がくつゝいて、それがぼた/\と
足の
運びを
更に
鈍くして
居る。
狹く
連つて
居る
田を
竪に
用水の
堀がある。
二三株比較的大きな
榛の
木の
立つて
居る
處に
僅一枚板の
橋が
斜に
架けてある。お
品は
橋の
袂で
一寸立ち
止つた。さうして
近づいた
自分の
家を
見た。
村落は
臺地に
在るのでお
品の
家の
後は
直に
斜に
田圃へずり
落ち
相な
林である。
楢や
雜木の
間に
短い
竹が
交つて
居る。いゝ
加減大きくなつた
楢の
木は
皆葉が
落ち
盡して
居るので、
其小枝を
透して
凹んだ
棟が
見える。
白い
羽の
鷄が五六
羽、がり/\と
爪で
土を
掻つ
掃いては
嘴でそこを
啄いて
又がり/\と
土を
掻つ
掃いては
餘念もなく
夕方の
飼料を
求めつゝ
田圃から
林へ
還りつゝある。お
品は
非常な
注意を
以て
斜な
橋を
渡つた。
四足目にはもう
田圃の
土に
立つた。
其時は
日は
疾に
沒して
見渡す
限り、
田から
林から
世間は
只黄褐色に
光つてさうしてまだ
明るかつた。お
品は
田圃からあがる
前に
天秤を
卸して
左へ
曲つた。
自分の
家の
林と
田との
間には
人の
足趾だけの
小徑がつけてある。お
品は
其小徑と
林との
境界を
劃つて
居る
牛胡頽子の
側に
立た。
鷄の
爪の
趾が
其處の
新らしい
土を
掻き
散らしてあつた。お
品は
土を
手で
聚めて
草履の
底でそく/\とならした。お
品の
姿が
庭に
見えた
時には
西風は
忘れたやうに
止んで
居て、
庭先の
栗の
木にぶつ
懸けた
大根の
乾びた
葉も
動かなかつた。
白い
鷄はお
品の
足もとへちよろ/\と
駈けて
來て
何か
欲し
相にけろつと
見上た。お
品は
平常のやうに
鷄抔へ
構つては
居られなかつた。お
品は
戸口に
天秤を
卸して
突然
「おつう」と
喚んだ。
「おつかあか」と
直におつぎの
返辭が
威勢よく
聞えた。それと
同時に
竈の
火がひら/\と
赤くお
品の
目に
映つた。
朝から
雨戸は
開けないので
内はうす
闇くなつて
居る。
外の
光を
見て
居たお
品の
目には
直ぐにはおつぎの
姿も
見えなかつたのである。
戸口からではおつぎの
身體は
竈の
火を
掩うて
居た。
返辭すると
共に
身體を
捩つたので
其赤い
火が
見えたのである。
おつぎの
脊に
居た
與吉はお
品の
聲を
聞きつけると
「まん/\ま」と
兩手を
出して
下りようとする。お
品はおつぎが
帶を
解いてる
間に
壁際の
麥藁俵の
側へ
蒟蒻の
手桶を二つ
並べた。
與吉はお
袋の
懷に
抱かれて
碌に
出もしない
乳房を
探つた。お
品は
竈の
前へ
腰を
掛けた。
白い
鷄は
掛梯子の
代に
掛けてある
荒繩でぐる/\
捲にした
竹の
幹へ
各自に
爪を
引つ
掛けて
兩方の
羽を
擴げて
身體の
平均を
保ちながら
慌てたやうに
塒へあがつた。さうして
青い
煙の
中に
凝然として
目を
閉ぢて
居る。
お
品は
家に
歸つて
幾らか
暖まつたがそれでも一
日冷えた
所爲かぞく/\するのが
止まなかつた。さうして
後に
近所で
風呂を
貰つてゆつくり
暖まつたら
心持も
癒るだらうと
思つた。
竈には
小さな
鍋が
懸つて
居る。
汁は
葢を
漂はすやうにしてぐら/\と
煮立つて
居る。
外もいつかとつぷり
闇くなつた。おつぎは
竈の
下から
火のついてる
麁朶を
一つとつて
手ランプを
點けて
上り
框の
柱へ
懸けた。お
品はおつぎが
單衣へ
半纏を
引つ
掛けた
儘であるのを
見た。
平常ならそんなことはないのだが
自分が
酷くぞく/\として
心持が
惡いのでつい
氣になつて
「おつう、そんな
姿で
汝や
寒かねえか」と
聞いた。それから
手拭の
下から
見えるおつぎのあどけない
顏を
凝然と
見た。
「
寒かあんめえな」おつぎは
事もなげにいつた。
與吉は
懷の
中で
頻りにせがんで
居る。お
品は
平常のやうでなく
何も
買つて
來なかつたので、ふと
困つた。
「おつう、そこらに
砂糖はなかつたつけゝえ」お
品はいつた。おつぎは
默つて
草履を
脱棄てゝ
座敷へ
駈けあがつて、
戸棚から
小さな
古い
新聞紙の
袋を
探し
出して、
自分の
手の
平へ
少し
砂糖をつまみ
出して
「そら/\」といひながら、
手を
出して
待つて
居る
與吉へ
遺つた。おつぎは
砂糖の
附いた
自分の
手を
嘗めた。
與吉は
其砂糖をお
袋の
懷へこぼしながら
危な
相につまんでは
口へ
入れる。
砂糖が
竭きた
時與吉は
其べとついた
手をお
袋の
口のあたりへ
出した。お
品は
與吉の
兩手を
攫へて
舐つてやつた。お
品は
鍋の
蓋をとつて
麁朶の
焔を
翳しながら
「こりや
芋か
何でえ」と
聞いた。
「うむ、
少し
芋足して
暖め
返したんだ」
「おまんまは
冷たかねえけ」
「それから
雜炊でも
拵えべと
思つてたのよ」
お
品は
熱い
物なら
身體が
暖まるだらうと
思ひながら、
自分は
酷く
懶いので
何でもおつぎにさせて
居た。おつぎは
粘り
氣のない
麥の
勝つたぽろ/\な
飯を
鍋へ
入れた。お
品は
麁朶を
一燻べ
突つ込んだ。おつぎは
鍋を
卸して
茶釜を
懸けた。ほうつと
白く
蒸氣の
立つ
鍋の
中をお
玉杓子で二三
度掻き
立てゝおつぎは
又葢をした。おつぎは
戸棚から
膳を
出して
上り
框へ
置いた。
柱に
點けてある
手ランプの
光が
屆かぬのでおつぎは
手探りでして
居る。お
品は
左手に
抱いた
與吉の
口へ
箸の
先で
少し
づゝ
含ませながら
雜炊をたべた。お
品は
芋を三つ四つ
箸へ
立てゝ
與吉へ
持たせた。
與吉は
芋を
口へ
持つていつて
直ぐに
熱いというて
泣いた。お
品は
與吉の
頻をふう/\と
吹いてそれから
芋を
自分の
口で
噛んでやつた。お
品の
茶碗は
恁うして
冷えた。おつぎは
冷たくなつた
時鍋のと
換てやつた。お
品は
欲しくもない
雜炊を三
杯までたべた。
幾らか
腹の
中の
暖かくなつたのを
感じた。さうして
漸く
水離れのした
茶釜の
湯を
汲んで
飮んだ。おつぎは
庭先の
井戸端へ
出て
鍋へ一
杯釣瓶の
水をあけた。おつぎが
戻つた
時
「おつう、
今夜でなくつてもえゝや」とお
品はいつた。おつぎは
默つて
俵の
側の
手桶へ
手を
掛けて
「
此へも
水入て
置かなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが
大變だらえゝぞ」
お
品がいひ
切らぬうちにおつぎは
庭へ
出た。
直ぐに
洗つた
鍋と
手桶を
持つて
暗い
庭先からぼんやり
戸口へ
姿を
見せた。
閾へ
一寸手桶を
置いてお
品と
顏を
見合せた。
手桶の
水は
半分で
兩方の
蒟蒻へ
水が
乘つた。
お
品は三
人連で
東隣へ
風呂を
貰ひに
行つた。
東隣といふのは
大きな
一構で
蔚然たる
森に
包まれて
居る。
外は
闇である。
隣の
森の
杉がぞつくりと
冴えた
空へ
突つ
込んで
居る。お
品の
家は
以前から
此の
森の
爲めに
日が
餘程南へ
廻つてからでなければ
庭へ
光の
射すことはなかつた。お
品の
家族は
何處までも
日蔭者であつた。それが
後に
成つてから
方方に
陸地測量部の三
角測量臺が
建てられて
其上に
小さな
旗がひら/\と
閃くやうに
成つてから
其森が
見通しに
障るといふので三四
本丈伐らせられた。
杉の
大木は
西へ
倒したのでづしんとそこらを
恐ろしく
搖がしてお
品の
庭へ
横たはつた。
枝は
挫けて
其先が
庭の
土をさくつた。それでも
隣では
其木の
始末をつける
時にそこらへ
散らばつた
小枝や
其他の
屑物はお
品の
家へ
與へたので
思ひ
掛けない
薪が
出來たのと、も
一つは
幾らでも
東が
隙いたのとで、
隣では
自分の
腕を
斬られたやうだと
惜しんだにも
拘らずお
品の
家では
竊に
悦んだのであつた。それからといふものはどんな
姿にも
日が
朝から
射すやうになつた。それでも
有繋に
森はあたりを
威壓して
夜になると
殊に
聳然として
小さなお
品の
家は
地べたへ
蹂つけられたやうに
見えた。
お
品は
闇の
中へ
消えた。さうして
隣の
戸口に
現はれた。
隣の
雇人は
夜なべの
繩を
綯つて
居た。
板の
間の
端へ
胡坐を
掻いて
足で
抑へた
繩の
端へ
藁を
繼ぎ
足し
/\してちより/\と
額の
上まで
揉み
擧ては
右の
手を
臀へ
廻してくつと
繩を
後へ
扱く。
繩は
其度に
土間へ
落ちる。お
品は
板の
間に
小さくなつて
居た。
軈て
藁が
竭きると
傭人は
各自に
其繩を
足から
手へ
引つ
掛けて
迅速に
數を
計つては
土間から
手繰り
上げながら、
繼がつた
儘一
房づゝに
括つた。やがて
彼等は
板の
間の
藁屑を
土間へ
掃きおろしてそれから
交代に
風呂へ
這入つた。お
品はそれを
見ながら
默つて
待つて
居た。お
品は
此處へ
來ると
恁ういふ
遠慮をしなければならぬので、
少しは
遠くても
風呂は
外へ
貰ひに
行くのであつたが
其晩はどこにも
風呂が
立たなかつた。お
品は二三
軒そつちこつちと
歩いて
見てから
隣の
門を
潜つたのであつた。
傭人は
大釜の
下にぽつぽと
火を
焚いてあたつて
居る。
風呂から
出ても
彼等は
茹つたやうな
赤い
腿を
出して
火の
側へ
寄つた。
「どうだね、
一燻べあたつたらようがせう、
今直に
明くから」と
傭人がいつてくれてもお
品は
臀から
冷えるのを
我慢して
凝然と
辛棒して
居た。
懷で
眠つた
與吉を
騷がすまいとしては
足の
痺れるので
幾度か
身體をもぢ/\
動かした。
漸く
風呂の
明いた
時はお
品は
待遠であつたので
前後の
考もなく
急いで
衣物をとつた。
與吉は
幸ひにぐつたりと
成つてお
袋の
懷から
離れるのも
知らないのでおつぎが
小さな
手で
抱いた。お
品は
段々と
身體が
暖まるに
連れて
始めて
蘇生つたやうに
恍惚とした。いつまでも
沈んで
居たいやうな
心持がした。
與吉が
泣きはせぬかと
心付いた
時碌に
洗ひもしないで
出て
畢つた。それでも
顏がつや/\として
髮の
生際が
拭つても/\
汗ばんだ。さうしてしみ/″\と
快かつた。お
品は
衣物を
引つ
掛けると
直ぐと
與吉を
内懷へ
入れた。お
品の
後へは
下女が
這入つたので、おつぎは
其間待たねばならなかつた。おつぎが
出た
時はお
品の
身體は
冷め
掛けて
居た。お
品は
自分が
後では
いればよかつたのにと
後悔した。
お
品が
自分の
股引と
足袋とをおつぎに
提げさせて
歸つた
時に
月は
竊に
隣の
森の
輪郭をはつきりとさせて
其森の
隙間が
殊に
明るく
光つて
居た。
世間がしみ/″\と
冷えて
居た。お
品は
薄い
垢じみた
蒲團へくるまると、
身體が
又ぞく/\として
膝かしらが
氷つたやうに
成つて
居たのを
知つた。
二
次の
朝お
品はまだ
戸の
隙間から
薄ら
明りの
射したばかりに
眼が
覺めた。
枕を
擡げて
見たが
頭の
心がしく/\と
痛むやうでいつになく
重かつた。
狹い
家の
内に
羽叩く
鷄の
聲がけたゝましく
耳の
底へ
響いた。おつぎはまだすや/\として
眠つて
居る。
戸の
隙間が
瞼を
開いたやうに
明るくなつた
時鷄が
復た
甲走つて
鳴いた。お
品はおつぎを
今朝は
緩くりさせてやらうと
思つて
居た。それでもおつぎは
鷄が
又鳴いた
時むつくり
起きた。いつもと
違つて
餘りひつそりして
居るので
驚いたやうにあたりを
見た。さうしてお
袋がまだ
自分の
傍に
蒲團へくるまつてるのを
見た。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、
俺ら
今朝少し
工合が
惡いから
緩くりすつかんなよ」お
品はいつた。おつぎは
暫くもぢ/\しながら
帶を
締て
大戸を一
枚がら/\と
開けて
目をこすりながら
庭へ
出た。
井戸端の
桶には
芋が
少しばかり
水に
浸してあつて、
其水には
氷がガラス
板位に
閉ぢて
居る。おつぎは
鍋をいつも
磨いて
居る
砥石の
破片で
氷を
叩いて
見た。おつぎは
大戸を
開け
放して
置いたので
朝の
寒さが
侵入したのに
氣がついて
「おつかあ、
寒かなかつたか、
俺ら
知らねえで
居た」いひながら
大戸をがら/\と
閉めた。
闇くなつた
家の
内には
竈の
火のみが
勢ひよく
赤く立つた。おつぎは
「おゝ
冷てえ」といひながら
竈の
口から
捲れて
出る

へ
手を
翳して
「
今朝は
芋の
水氷つたんだよ」とお
袋の
方を
向いていつた。
「うむ、
霜も
降つたやうだな」お
品は
力なくいつた。
戸口を
後にしてお
品は
竈の
火のべろ/\と
燃え
上るのを
見た。
「
何處でも
眞白だよ」おつぎは
竹の
火箸で
落葉を
掻き
立てながらいつた。
「
夜明にひどく
冷々したつけかんな」お
品はいつて
一寸首を
擡げながら
「
俺ら
今朝はたべたかねえかんな、
汝構あねえで
出來たらたべた
方がえゝぞ」お
品はいつた。
又氷つた
飯で
雜炊が
煮られた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは
茶碗をお
袋の
枕元へ
出した。
雜炊の
焦げついたやうな
臭ひがぷんと
鼻を
衝いた
時お
品は
箸を
執つて
見ようかと
思つて
俯伏しになつて
見たが、
直に
壓になつて
畢つた。お
品が
動いたので
懷の
與吉は
泣き
出した。お
品は
俯伏した
儘乳房を
含ませた。さうして
又芋の
串を
拵へて
持たせた。
お
品が
表の
大戸を
開けさせた
時は
日がきら/\と
東隣の
森越しに
庭へ
射し
掛けてきつかりと
日蔭を
限つて
解け
殘つた
霜が
白く
見えて
居た。
庭先の
栗の
木の
枯葉からも、
枝へ
掛けた
大根の
葉からも
霜が
解けて
雫がまだぽたり/\と
垂れて
居る。
庭へ
敷いてある
庭葢の
藁も
只ぐつしりと
濕つて
居る。
冬になると
霜柱が
立つので
庭へはみんな
藁屑だの
蕎麥幹だのが一
杯に
敷かれる。それが
庭葢である。
霜柱が
庭から
先の
桑畑にぐらり/\と
倒れつゝある。
お
品は
蒲團の
中でも
滅切暖かく
成つたことを
感じた。
時々枕を
擡げて
戸口から
外を
見る。さうしては
麥藁俵の
側に
置いた
蒟蒻の
手桶をどうかすると
無意識に
見つめる。
横に
成つて
居る
目からは
東隣の
森の
梢が
妙に
變つて
見えるので
凝然と
見つめては
目が
疲れるやうに
成るので
又蒟蒻の
手桶へ
目を
移したりした。お
品はどうかして
少しでも
蒟蒻を
減らして
置きたいと
思つた。お
品は
其内に
起きられるだらうと
考へつゝ
時々うと/\と
成る。
「
切干でも
切つたもんだかな」おつぎが
庭から
大きな
聲でいつた
時お
品はふと
枕を
擡げた。それでおつぎの
聲は
意味も
解らずに
微かに
耳に
入つた。
暫くたつてからお
品は
庭でおつぎがざあと
水を
汲んでは
又間を
隔てゝざあと
水を
汲んで
居るのを
聞いた。おつぎは
大根を
洗つた。おつぎは
庭葢の
上に
筵を
敷いて
暖かい
日光に
浴しながら
切干を
切りはじめた。
大根を
横に
幾つかに
切つて、
更にそれを
竪に
割つて
短册形に
刻む。おつぎは
飯臺へ
渡した
爼板の
上へとん/\と
庖丁を
落しては
其庖丁で
白く
刻まれた
大根を
飯臺の
中へ
扱き
落す。お
品は
切干を
刻む
音を
聞いた
時先刻のは
大根を
洗つて
居たのだなと
思つた。お
品は二三
日此來もう
切干も
切らなければならないと
自分が
口について
云つて
居たことを
思ひ
出して、おつぎが
能く
機轉を
利かしたと
心で
悦んだ。
庖丁の
音が
雨戸の
外に
近く
聞える。お
品は
身體を
半分蒲團からずり
出して
見たら、
手拭で
髮を
包んで
少し
前屈みになつて
居るおつぎの
後姿が
見えた。
「
大根は
分つたのか」お
品は
聞いた。
「
分つてるよ」おつぎは
庖丁の
手を
止めて
横を
向て
返辭した。お
品は
又蒲團へくるまつた。さうしてまだ
下手な
庖丁の
音を
聞いた。お
品の
懷に
居た
與吉は
退屈してせがみ
出した。おつぎは
夫を
聞いて
「そうら、
※[#「姉」の正字、「女+
のつくり」、24-7]が
處へでも
來て
見ろ」といひながら
忙しくぽつと
一燻べ
落葉を
燃して
衣物を
灸つて
與吉へ
着せた。
「
よきは
利口だから
※[#「姉」の正字、「女+
のつくり」、24-9]が
處に
居るんだぞ」お
品はいつた。おつぎは
自分の
筵の
上へ
抱いて
行つた。おつぎの
手は
落葉の
埃で
汚れて
居た。
再び
庖丁を
持つた
時大根には
指の
趾がついた。おつぎは
其手を
半纏で
拭つた。
與吉は
側で
刻まれた
大根へ
手を
出す。
「
危險よ、さあ
此でも
持つて
居ろ」おつぎは
切り
掛けの
大根をやつた。
與吉は
直にそれを
噛ぢつた。
「
辛くて
仕やうあんめえな
よきは」おつぎは
甘やかすやうにいつた。お
品にはそれが
能く
聞えて
二人がどんなことをして
居るのかゞ
分つた。お
品の
耳には
續いて
「ぽうんとしたか、そらそつちへ
行つちやつた」といふ
聲がしたかと
思ふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふ
聲やそれから
又
「それ
持ち
出すんぢやねえ、
聽かねえと
此で
切つてやんぞ、
赤まんまが
出るぞおゝ
痛え」
抔とおつぎのいふのが
聞えた。
其度に
庖丁の
音が
止む。お
品には
與吉が
惡戯をしたり、おつぎが
痛いといつて
指を
啣へて
見せれば
與吉も
自分の
手を
口へ
當て
居るのが
目に
見えるやうである。お
品はおつぎを
平常から
八釜敷して
居たので
餘所の
子よりも
割合に
動けると
思つて
居るけれど、
與吉と
巫山戯たりして
居るのを
見るとまだ
子供だといふことが
念頭に
浮ぶ。
自分が
勘次と
相知つたのは十六の
秋である。おつぎは
恁うして
大人らしく
成るであらうかと
何時になくそんなことを
思つた。おつぎは十五であつた。
午餐もお
品は
欲しくなかつた。
自分でも
今日は
商に
出られないと
諦めた。
明日に
成つたらばと
思つて
居た。
然しそれは
空頼であつた。お
品は
依然として
枕を
離れられない。
有繋に
不安の
念が
先に
立つた。お
品はつい
近頃行つた
勘次の
事が
頻りに
思ひ
出されて、こつちであれ
程働いて
行つたのに
屹度休みもしないで
錢取をして
居るのだらうと
思ふと、
寒くてもシヤツ
一つになつて、
後には
其シヤツの
端が
拔け
出して
能く
臍が
出ることや、
夜になると
能く
骨がみり/\する
樣だといつたことが
目の
前にあるやうで
何だか
逢ひたくて
堪らぬやうな
心持がするのであつた。
勘次は
利根川の
開鑿工事へ
行つて
居た。
秋の
頃から
土方が
勸誘に
來て
大分甘い
噺をされたので
此の
近村からも五六
人募集に
應じた。
勘次は
工事がどんなことかも
能く
知らなかつたが一
日の
手間が五十
錢以上にもなるといふので、それが
其季節としては
法外な
値段なのに
惚れ
込んで
畢つたのである。
工事の
場所は
霞ヶ
浦に
近い
低地で、
洪水が一
旦岸の
草を
沒すと
湖水は
擴大して
川と
一つに
只白々と
氾濫するのを、
人工で
築かれた
堤防が
僅に
湖水と
川とを
區別するあたりである。
勘次は
自分の
土地と
比較して
茫々たるあたりの
容子に
呑まれた。さうして
工夫等に
權柄にこき
使はれた。
勘次は
愈傭はれて
行くとなつた
時收穫を
急いだ。
冬至が
近づく
頃には
田はいふまでもなく
畑の
芋でも
大根でもそれぞれ
始末しなくてはならぬ。
勘次はお
品が
起きて
竈の
火を
點けるうちには
庭葢へ
籾の
筵を
干したりそれから
獨りで
磨臼を
挽いたりして、それから
大根も
干したり
土へ
活けたりして
闇いから
闇いまで
働いた。それでも
籾が
少しと
畑が
少し
殘つたのをお
品がどうにかするといつたので
出て
行つたのである。
工事の
箇所へは廿
里もあつた。
勘次は
行けば
直に
錢になると
思つたので
漸く一
圓ばかりの
財布を
懷にした。
辨當をうんと
背負つたので
目的地へつくまでは
渡錢の
外には一
錢も
要らなかつた。
勘次は
夜ついて
其次の
日には
疲れた
身體で
仕事に
出た。
彼は
半日でも
無駄な
飯を
喰ふことを
恐れた。
然し
其の
次の
日は
過激な
勞働から
俗に
そら手というて
手の
筋が
痛んだので二三
日仕事に
出られなかつた。それから六七
日たつて
烈しい
西風が
吹いた。
勘次は
薄い
蒲團へくるまつて
日の
中から
冷えてた
足が
暖らなかつた。うと/\と
熟睡することも
出來ないで
輾轉して
長い
夜を
漸く
明した。
其の
次の
日彼は
硬ばつたやうに
感ずる
手を
動かして
冷たいシヤブルの
柄を
執つて
泥にくるまつて
居た。さうして
居る
處へ
村の
近所のものがひよつこり
尋ねて
來たので
彼は
狐にでも
魅まれたやうに
只驚いた。
近所の
者は
大勢が
只泥のやうになつて
動いて
居るのでどれがどうとも
識別がつかないで
困つたといつて、
勘次に
逢うたことを
反覆して
只悦んだ。
途中へ
一晩泊つたといふやうなことをいつて
勘次が
心忙しく
聞く
迄は
理由をいはなかつた。
勘次は
漸くお
品に
頼まれて
來たのだといふことを
知つた。
勘次はお
品が
病氣に
罹つたのだといふのを
聞いて
萬一かといふ
懸念がぎつくり
胸にこたへた。さうして
反覆してどんな
鹽梅だと
聞いた。
噺の
容子ではそれ
程でもないのかと
思つても
見たが、それでも
勘次は
口を
利くにも
唾が
喉からぐつと
突つ
返して
來るやうで
落付かれなかつた。
其の
日の
夜中に
彼等は
立つた。
勘次は
自分も
急ぐし
使を
疲れた
足で
歩かせることも
出來ないので
霞ヶ
浦を
汽船で
土浦の
町へ
出た。
夜は
汽船で
明けたがどうしたのか
途中で
故障が
出來たので
土浦へ
着いたのは
豫定の
時間よりは
遙に
後れて
居た。
土浦の
町で
勘次は
鰯を
一包み
買つて
手拭で
括つてぶらさげた。
土浦から
彼は
疲れた
足を
後に
捨てゝ
自分は
力の
限り
歩いた。それでも
村へはひつた
時は
行き
違ふ
人がぼんやり
分る
位で
自分の
戸口に
立つた
時は
薄暗い
手ランプが
柱に
懸つて
燻ぶつて
居た。
勘次はひつそりとした
家のなかに
直に
蒲團へくるまつて
居るお
品の
姿を
見た。それからお
品の
足を
揣つて
居るおつぎに
目を
移した。
勘次は
大戸をがらりと
開けて
閾を
跨いだ
時何もいはずに
只
「どうしてえ」といふのが
先であつた。お
品は
勘次の
聲を
聞いて
思はず
枕を
動かして
「
勘次さんか」といつて
更に
「
南のおとつゝあは
行き
違にでもならなかつたんべかな」といつた。
「
行逢つたよ。そんだがお
前どんな
鹽梅なんでえ」
「
俺らそれ
程でねえと
思つて
居たが
三四日横に
成つた
切でなあ、それでも
今日等はちつたあえゝやうだから
此分ぢや
直に
吹つ
返すかとも
思つてんのよ」
「そんぢやよかつた、
俺ら
只ぢや
歩いてもよかつたが、
南こと
又歩かせちや
濟まねえから
同志に
土浦まで
汽船で
乘つ
着けたんだが、
南は
草臥れたもんだから
俺ら
先へ
出たんだがな、
南もあの
分ぢや
今夜もなか/\
容易ぢやあんめえよ、それに
汽舩が
又後れつちやつてな」
勘次はいひながら
草鞋をとつた。
手拭の
端へ
括つて
來た
鰯の
包みをかさりとお
品の
枕元へ
投げて、
首へつけて
居た
風呂敷包をどさりと
置いて
勘次は
庭へ
出て
足を
洗つた。
勘次はお
品の
枕元へ
座を
占めた。
「そんなに
惡くなくつちやそれでもよかつた、
俺らどうしたかと
思つてな」
勘次は
改めて
又いつた。
「お
品おまんまは
喰べてか」
勘次はつけ
足した。
「
先刻おつうに
米のお
粥炊いて
貰つてそれでもやつと
掻つ
込んだところだよ」
「それぢやどうした、
途中で
見付けて
來たんだから一
疋やつて
見ねえか」
勘次は
手ランプをお
品の
枕元へ
持つて
來て
鰯の
包を
解いた。
鰯は
手ランプの
光できら/\と
青く
見えた。
「ほんによなあ」お
品は
俯伏しになつて
恁ういつた。
「おつう、
其處へ
火でも
吹つたけて
見ねえか」
勘次はいつた。
「
勘次さんそら
大變だつけな、
俺らそんなにや
要らなかつたな」
「
今だから
何時までも
保つよ、さうしてお
前も
力つけろな」
「
汽船に
乘つて
來たつて
餘つ
程費用も
掛つたんべな」
「さうよ、
二人で六十
錢ばかりだが
此は
俺出したのよ、
南に
出させる
譯にも
行かねえかんな」
「それぢや
稼えだ
錢それだけ
立投にしつちやつたな」
「そんでも
財布にやまあだ
有るよ、
七日ばかり
働えてそれでも二
兩は
殘つたかんな、そんで
又行く
筈で
前借少しして
來たんだ、こつちの
方から
行つてる
連中が
保證してくれてな」
勘次は
誇り
顏にいつた。
「
俺ら
今日見てえだらえゝが、
酷く
行逢ひたくなつてなあ」お
品は
俯伏した
額を
枕につけた。
「どうせ
此處らの
始末もしねえで
行つたんだから、
一遍は
途中で
歸つて
見なくつちや
成らねえのがだから
同じ
事だよ」
勘次はお
品を
覗き
込やうにしていつた。
「それでも
俵にしちや
置いたな」
勘次は
壁際の
麥藁俵を
見ていつた。お
品はまだ
俯伏した
儘である。
「あつちに
居ちや
錢は
要らねえな、
煙草一
服吸ふべえぢやなし、十五
日目が
晦日でそれまでは
勘定なしで
其間は
米でも
薪でもみんな
通帳で
借りて
置く
位なんだから、十五
日目に
成らなくつちや
財布も
膨れねえが、
又百でも
出つこはねえかんな」
勘次は
更に
出先のことをお
品へ
聞かせた。
「
米ばかり
炊えても
毎日一
升づゝは
要る
位だから
骨も
隨分折れんが
出せえすりや二
貫と三
貫は
殘せつから、
歸るまでにや
俺もどうにか
成ると
思つてんのよ、さうすりや
鹽鮭位は
買あことも
出來らな」
「そんぢやよかつた、
土方なんちや
碌な
奴等は
居ねえつていふからどうしたかと
思つてな」お
品は
首を
擡げた。
「そんな
奴等と
交際した
日にや
限はねえが、
隅の
方にちゞまつてりや
何ともゆはねえな」
勘次がついて
居る
間におつぎは
枯粗朶を
折て
火鉢へ
火を
起した。
勘次は
火箸を
渡して
鰯を
三つばかり
乘せた。
鰯の
油がぢり/\と
垂れて
青い
焔が
立つた。
鰯の
臭が
薄い
煙と
共に
室内に
滿ちた。さうして
其臭がお
品の
食慾を
促した。お
品は
俯伏したなりで
煙臭くなつた
鰯を
喰べた。
「どうした
鹽辛かあ
有んめえ」
「
有繋佳味えな」
「
此でもこゝらの
商人は
持つちや
來ねえぞ」
勘次は
一心に
見ながらいつた。
お
品は
二匹へ
手をつけて
箸を
置きながら
懷で
眠つて
居る
與吉を
覗いて
「
起きて
居たら
大騷ぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」
勘次はいつた。
「
澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「
俺も
飯でも
食はうかえ」
勘次は
風呂敷包から
辨當の
殘を
出して
冷たい
儘ぷす/\と
噛つた。
「おうつ、お
茶は
冷めたくなつたつけかな」お
品はいつた。
「
要ねえぞ
仕事に
出りや
毎日かうだ」
勘次は
梅干を
少しづゝ
嘗め
減らした。
辨當が
盡きてから
勘次は
鰯をおつぎへ
挾んでやつた。さうして
自分でも一
口たべた。
「
此りや
佳味えこたあ
佳味えが
餘りあまくつて
俺がにや
胸が
惡くなるやうだな」
勘次は
冷めた
湯を
幾杯か
傾けた。
勘次は
風呂敷から
袋を
出してお
品の
枕元へ
置いて
「
米これだけ
殘つたから
持つて
來たんだ、あつちに
居ればえゝが
幾日でも
明けると
炊かれつちやつても
仕やうねえかんな、そんぢや
此りやおつうげやつて
置くんだ」
勘次は
米の
小さな
袋をおつぎへ
渡した。
「
袋なんぞ
又何だと
思つたよ」お
品は
輕くいつた。
「それでも
薪は
持つて
來る
譯にも
行かねえから
置いて
來つちやつた」
勘次は
自ら
嘲るやうに
目から
口へ
掛けて
冷たい
笑が
動いた。
「お
品、
足でもさすつてやんべぢやねえか」
勘次はお
品の
裾の
方へ
行つた。
「えゝよ
勘次さん、
俺ら
今日は
日のうちから
心持えゝんだから、
先刻もおつうが
揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて
云つた
處だよ、こんぢや
二三日も
過ぎたら
勘次さんは
又行けべえよ」お
品は
快よげにいつた。
「
今夜はひどく
心持えゝんだよ、えゝよ
本當だよ
勘次さん、お
前草臥たんべえな」
更にお
品は
威勢がついていつた。
夜は
深けた。
外の
闇は
氷つたかと
思ふやうに
只しんとした。
蒟蒻の
水にも
紙の
如き
氷が
閉ぢた。
三
次の
朝霜は
白く
庭葢の
藁におりた。
切干の
筵は
三枚ばかり
其庭葢の
上に
敷いた
儘で、
切干には
氷を
粉末にしたやうな
霜が
凝つて
居て、
東の
森の
隙間から
射し
透す
朝日にきら/\と
光つた。
白い
切干は
蒸さずに
干したのであつた。
切干は
雨が
降らねば
埃だらけに
成らうが
芥が
交らうが
晝も
夜も
筵は
敷き
放しである。
勘次は
霜柱の
立てる
小徑を
南へ
行つた。
昨夜遲かつたことやら
何やら
噺をして
暇どつた。
庭先から
續く
小さな
桑畑の
向に
家が
見えるので、
平生それを
勘次の
家でも
唯南とのみいつて
居る。
彼が
薦つくこを
擔いで
歸つて
來た
時は
日向の
霜が
少し
解けて
粘ついて
居た。お
品は
勘次が
一寸の
間居なく
成つたので
酷く
寂しかつた。
此の
朝になつてからもお
品の
容態がいゝので
勘次はほつと
安心した。さうして
斜に
遠くから
射す
冬の
日を
浴びながら
庭葢の
上に
筵を
敷いて
俵を
編みはじめた。
薦つくこは
兩端に
足が
附いて
居る。
丁度荷鞍の
骨のやうな
簡單な
道具である。
其足から
足へ
渡した
棒へ
藁を
一掴みづゝ
當てゝは
八人坊主をあつちへこつちへ
打つ
違ひながら
繩を
締めつゝ
編むのである。
八人坊主といふのは
其繩を
捲いたいはゞ
小さな
錘である、
八つあるので
八人坊主といつて
居る。
小作米を
入れる
藁俵を四五
俵分作らねば
成らぬことが
稼ぎに
出る
時から
彼には
心掛りであつた。すぐつた
藁も
繩も
別に
取つて
置きながら
只忙しくて
放棄つて
出て
行つたのである。
お
品は
毎日閉め
切つて
居た
表の
雨戸を一
枚だけ
開けさせた。からりとした
蒼い
空が
見えて
日が
自分の
居る
蒲團に
近くまで
偃つた。お
品は
此れまでは
明るい
外を
見ようと
思ふには
餘りに
心が
鬱して
居た。お
品は
庭先の
栗の
木から
垂れた
大根が
褐色に
干て
居るのを
見た。おつぎも
勘次の
横へ
筵を
敷いて
又大根を
切つて
居る。
其庖丁のとん/\と
鳴る
間に
忙しく
八人坊主を
動かしてはさらさらと
藁を
扱く
音が
微かに
交つて
聞える。お
品は
二人の
姿を
前にして
酷く
心強く
感じた。
其の
日は
栗の
木に
懸けた
大根の
動かぬ
程穩かな
日であつた。お
品は
此の
分で
行けば
一枚紙を
剥がすやうに
快よくなることゝ
確信した。
勘次は
藁俵を
編み
了へて、さうして
端を
縛つた
小さな
藁の
束を
丸く
開いて、それを
足の
底に
踏んで
踵を
中心に
手と
足とを
筆規のやうにしてぐる/\と
廻りながら
丸い
俵ぼつちを
作つた。
勘次はお
品がどうにか
始末をして
置いた
麥藁俵を
明けて
仕上げた
計りの
藁俵へ
米を
量り
込んだ。
米には
赤い
粒もあつたが
籾が
少し
交つて
居てそれが
目に
立つた。
「
籾が
少し
たかゝつたな」
勘次はふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも
俺ら
唐箕は
強く
立てた
積なんだがなよ、
今年は
赤も
夥多だが
磨臼の
切れ
方もどういふもんだか
惡いんだよ」とお
品は
少し
身を
動かして
分疏するやうにいつた。
「
尤も
此位ぢや
旦那も
大目に
見てくれべえから
心配はあんめえがなよ」
勘次は
直にお
品の
病氣に
心付いて
恁ういつた。
壁際には
藁の
器用な
俵が
規則正しく
積み
換られた。お
品はそれを一
心に
見た。それもお
品を
快よくする
一つであつた。
勘次は
俵の
側な手桶の
蓋をとつて
「
此りや
蒟蒻だな」といつた。
「
俺らそれ
仕入たつきり
起られねえんだよ」お
品は
枕を
手で
動かしていつた。
勘次は
又葢をした。
靜かな
空をぢり/\と
移つて
行く
日が
傾いたかと
思ふと一
散に
落ちはじめた。
冬の
日はもう
短い
頂點に
達して
居るのである。
勘次はまだ
日が
有るからといつて
鍬を
擔いで
麥畑へ
出た。
然し
幾らも
耕さぬうちに
日は
落ちて
俄かに
冷たく
成つた
世間は
暗澹として
來た。お
品は
勘次を
出して
酷く
遣瀬ないやうな
心持になつて、
雨戸を
引せて
闇い
方へ
向て
目を
閉ぢた。
冬至はもう
間が二日しか
無くなつた。
朝の
内に
勘次は
蒟蒻の
葢をとつて
見て
「どうしたもんだかな、
俺でも
擔いて
歩つてんべかな、
恁して
置いたんぢや
仕やうねえかんな」お
品へ
相談して
見た。
「さうよな、それよりか
俺らどつちかつちつたら
大根でも
漬て
貰へてえな、
毎日栗の
木見て
居て
干過ぎやしめえかと
思つて
心配してんだからよ」お
品は
訴へるやうにいつてさうして
更に
「
自分で
丈夫でせえありや
疾くにやつちまつたんだが」と
小聲でいつた。お
品はどうも
勘次を
出すのが
厭であつた。
然し
何だかさう
明白地にもいはれないので
恁ういつたのであつた。
「
勘次さん
鹽見てくんねえか、
俺ら
大丈夫有ると
思つてたつけがなよ、それからこつちの
桶の
糠がえゝんだよ、そつちのがにや
房州砂交つてんだから」お
品はいつた。
「おうい」
勘次はいつて、
「
房州砂でも
何でも
構あめえ、どうで
糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと
凝結つてら」
「
勘次さんそんでも
入えんなよ、
毒だつちんだから、
俺折角別にしてたんだから」お
品は
少し
身を
起し
掛けていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それから
鹽を
改めて
見て
「どうして
此れだけ
使へ
切れるもんけえ」と
勘次はいつた。お
品は
勘次が
梯子を
掛けて
一つ/\に
大根を
外すのも
小糠を
筵へ
量るのも
白い
鹽を
小糠へ
交ぜるのも
滿足氣に
見て
居た。
お
品は
勘次を
外へ
遣るのが
厭なのでさうはいはずに
時々おつぎに
足をさすらせた。さうすると
勘次は
「どうした
幾らか
惡いのか」と
自分も一
心に
蒲團の
裾へ
手を
掛ける。
勘次は
庭から
外へは
出られなかつた。
それでも
冬至が
明日と
迫つた
日に
勘次は
蒟蒻を
持つて
出た。お
品もそれは
止めなかつた。もう
幾人か
歩いた
後なので、
思ふやうには
捌けなかつたがそれでも
勘次はお
品にひかされて、まだ
殘つて
居る
蒟蒻を
擔いで
歸つて
來て
畢つた。
「
蒟蒻はお
品がもんだから、
錢はみんなおめえげ
遣つて
置くべ」
勘次は
銅貨をぢやら/\とお
品の
枕元へ
明けた。お
品は
銅貨を一つ/\
勘定した。さうして
資本を
引いても
幾らかの
剩餘があつたので
「
勘次さん
思ひの
外だつけな、まあだあと
餘程あんべえか」といつた。
「
幾らでもねえな、はあ
此丈ぢや
又出る
程のこつてもあんめえよ」
勘次はいつた。お
品は
自分の
手で
錢を
蒲團の
下へ
入れた。
其の
日お
品は
勘次を
出して
情ないやうな
心持がして
居たのであるが、
思つたよりは
商をして
來て
呉れたので一
日の
不足が
全く
恢復された。さうして
「
菜は
畑へ
置きつ
放しだつけべな」
勘次がいつた
時お
品も
驚いたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、
後れつちやつたつけなあ、
俺ら
忘れてたつけが
大丈夫だんべかなあ」といつた。
「そんぢや
俺ら
今つからでも
曳ける
丈曳くべ」
勘次はおつぎを
連れて
出た。
冬至になるまで
畑の
菜を
打棄つて
置くものは
村には
一人もないのであつた。
勘次は
荷車を
借りて
黄昏までに二
車挽いた。
青菜の
下葉はもうよく/\
黄色に
枯れて
居た。お
品は
二人を
出し
薄暗くなつた
家にぼつさりして
居ても
畑の
收穫を
思案して
寂しい
不足を
感じはしなかつた。
夏季の
忙しいさうして
野菜の
缺乏した
時には
彼等の
唯一の
副食物が
鹽を
噛むやうな
漬物に
限られて
居るので、
大根でも
青菜でも
比較的餘計な
蓄へをすることが
彼等には
重大な
條件の
一つに
成つてるのである。
冬至の
日も
靜かであつた。
此の
頃になつてから
此處ばかりは
忘れたかと
思ふやうに
西風が
止んで
居る。
晝の
一しきりは
冷たい
空氣を
透して
日が
暖かに
射し
掛けた。お
品は
朝から
心持が
晴々して
日が
昇るに
連れて
蒲團へ
起き
直つて
見たが、
身體が
力の
無いながらに
妙に
輕く
成つたことを
感じた。
自分の
蒲團の
側まで
射し
込む
日に
誘ひ
出されたやうに、
雨戸の
閾際まで
出て
與吉を
抱いては
倒して
見たり、
擽つて
見たりして
騷がした。
勘次はおつぎを
相手に
井戸端で
青菜の
始末をして
居る。
根を
切つて
桶で
洗つた
青菜は、
地べたへ
横へた
梯子の
上に一
枚外して
行つて
載せた
其戸板へ
積まれた。
菜が
洗ひ
畢つた
時枯葉の
多いやうなのは
皆釜で
茹でゝ
後の
林の
楢の
幹へ
繩を
渡して
干菜に
掛けた。
自分等の
晝餐の
菜にも
一釜茹でた。お
品は
僅な
日數を
横に
成つて
居たばかりに
目が
衰へたものか
日の
稍眩いのを
感じつゝ
其の
日の
光を
全身に
浴びながら
二人のするのを
見て
居た。さうして
茹菜の
一皿が
幾らか
渇を
覺えた
所爲か
非常に
佳味く
感じた。
青菜の
水が
切れたので
勘次は
桶へ
鹽を
振つては
青菜を
足でぎり/\と
蹂みつけて
又鹽を
振つては
蹂みつける。お
品は
鹽の
加減やら
何やら
先刻から
頻りに
口を
出して
居る。
勘次はお
品のいふ
通りに
運んで
居る。
お
品は
起きて
居ても
別に
疲れもしないのでそつと
草履を
穿いて
後の
戸口から
出て
楢の
木へ
引つ
張つた
干菜を
見た。それから
林を
斜に
田の
端へおりて
又牛胡頽子の
側に
立つて
其處をそつと
踏み
固めた。それから
暫く
周圍を
見て
立つて
居た。お
品は
庭先から
喚ぶ
勘次の
大きな
聲を
聞いた。
竹や
木の
幹に
手を
掛けながら
斜めに
林をのぼつて
後の
戸口から
家へもどつた
時更に
叫んだ
勘次の
聲を
聞くと
共に、
天秤を
擔いだ
儘ぼんやり
立つて
居る
商人の
姿を
庭葢の
上に
見た。
「お
品卵欲しいと」
勘次は
次の
桶の
青菜に
鹽を
振り
掛けながらいつた。
「
幾らか
有つたつけな」お
品は
戸棚の
抽斗から
白い
皮の
卵を廿ばかり
出した。
「おつう、四五日
見ねえで
居たつけが
塒にも
幾らか
有つたつけべ、あがつて
見ねえか」おつぎに
吩附けた。おつぎは
米俵へ
登つて
其上に
低く
釣つた
竹籃の
塒を
覗いた
時、
牝
が一
羽けたゝましく
飛び
出して
後の
楢の
木の
中へ
鳴き
込んだ。
他の
鷄も一しきり
共に
喧しく
鳴いた。おつぎは
手を
延ばしては
卵を一つ/\に
取つて
袂へ
入れた。おつぎは
袂をぶら/\させて
危相に
米俵を
降りた。
其處にも
卵は六つばかりあつた。
商人は
卸した四
角なぼて
笊から
眞鍮の
皿と
鍵が
吊された
秤を
出した。
「
掛は
幾らだね」お
品は
聞いた。
「十一
半さ、
近頃どうも
安くつてな」
商人はいひながら
淺い
目笊へ
卵を
入れて
萠黄の
紐の
たどりを
持つて
秤の
棹を
目八
分にして、さうして
分銅の
絲をぎつと
抑へた
儘銀色の
目を
數へた。
玩具のやうな
小さな
十露盤を
出して
商人は
「
皆掛が四百廿三
匁二
分だからなそれ」
秤の
目をお
品に
見せて
十露盤の
玉を
彈いた。
「
風袋を
引くと四百八
匁二
分か、どうした
幾つだ廿六かな、さうすると
一つが」
商人のいひ
畢らぬうちにお
品は
「
幾らなんでえ、
此の
風袋は」と
聞いた。
「十五
匁だな」
「
大概十
匁ぢやねえけえ」
「そんだら
見さつせえそれ、十五
匁だんべ、
俺がな
他人のがよりや
大けえんだかんな」
商人は
目笊の
目を
掛けて
見せて
「はて、一つ十五
匁七
分づゝだ、
粒は
小せえ
方だな」
商人はゆつくり
十露盤の
玉を
彈いて
「四十六
錢八
厘六
毛三
朱と
成るんだが、
此りや八
厘として
貰つてな」と
商人は
財布から
自分の
手へ
錢を
明けた。
「お
品おめえ
自分でも
喰つたらよかねえけ、
幾つでも
取つて
置けな」
勘次は
鹽だらけにした
手を
止めて
遠くから
呶鳴つた。
「
此の
錢で
外の
物買つて
喰つた
方がえゝから
此れ
丈は
遣るとすべえよ、
折角勘定もしたもんだからよ、
俺ら
大層よくなつたんだから
大丈夫だよ」お
品はいつた。
「そんなこといはねえで
幾つでも
取つて
置けよ、
癒り
際が
氣を
附けねえぢやえかねえもんだから」
勘次は
漬菜の
手を
放して
檐下へ
來た。
手も
足も
茹でたやうに
赤くなつて
居る。
「それぢやちつとも
殘したものかな」お
品は
小さなのを二つ
取つた。
「そんなんぢやねえのとれな」
勘次は
大きなのを
選んで三つとつた。
卵の
皮には
手の
鹽が
少し
附いた。
「そんぢやそれ
掛けてんべ」
商人は
今度は
眞鍮の
皿へ
卵を
乘せて
「こつちなんぞぢや、
後幾らでも
出來らあな」といひながら
たどりを
持つた。
卵が
少し
動くと
秤の
棹がぐら/\と
落付かない。
「
誤魔化しちや
厭だぞ」お
品は
寂しく
笑ひながらいつた。
「どうしておめえ、
此の
秤なんざあ
檢査したばかりだもの一
分でも
此の
通り
跳ねたり
垂れたりして、どうして
飛んだ
噺だ」
商人は
分銅の
手を
抑へて
又目を
讀んだ。
「五十
匁一
分だな、さうすつと
一つ十六
匁七
分づゝだ、
大けえからな」
「
鹽がくつゝいてつから
鹽の
目方もあんぞ」
勘次は
側からいつて
笑つた。
商人は
平然として
居る。
「五
錢五
厘六
毛幾らつていふんだ、さうすつと
先刻のは
幾らの
勘定だつけな」
「四十六
錢八
厘幾らとか
言たつけな」お
品は
直にいつた。
「それぢや
差引四十一
錢三
厘小端か、こつちのおつかさま
自分でも
商してつから
記憶がえゝやな」
商人は
十露盤を
持つて
「どうしたえ、
鹽梅でも
惡いやうだが
風邪でも
引いたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、
少し
惡くつて
仕やうねえのよ」お
品はいつて
「
小端は
幾らになんでえ」と
更に
聞いた。
「
勘定にや
成んねえなどうも、
近頃は
仕やうねえよ
文久錢だの
青錢だのつちうのが
薩張出なくなつちやつてな、それから
何處へ
行つても
恁して
置くんだ」
商人がぼて
笊から
燐寸を
出さうとすると
「
又燐寸ぢやあんめえ」お
品は
微笑した。
「こまけえ
勘定にや
近頃燐寸と
極めて
置くんだが、
何處の
商人もさうのやうだな」
商人は
卵を
笊へ
入れながらいひ
續けた。
「
酷く
安くなつちやつたな、
寒く
成つちや
保存がえゝのに
却て
安いつちうんだから
丸で
反對になつちやつたんだな」
勘次は
青菜を
桶へ
並べつゝいつた。
「
上海がへえつちやぐつと
値が
下つちやつてな、あつちぢやどれ
程安いもんだかよ、
品が
少ねえ
時に
安くなるつちうんだから
商人も
儲からねえ」
天秤を
擔いで
彼は
又更に
「
相場が
下げ
氣味の
時にやうつかりすつと
損物だかんな、なんでも
百姓して
穀積んで
置く
者が一
等だよ、
卵拾ひもなあ、
赤痢でも
流行つて
來てな、
看護婦だの
巡査だの
役場員だのつちう
奴等病人の
口でもひねつてみつしり
喰つてゞも
呉んなくつちや
商人は
駄目だよ」
商人は
行き
掛けて
「また
溜めて
置いておくんなせえ」
今度は
少し
叮寧にいひ
捨てゝ
去つた。
お
品は
錢を
蒲團の
下の
巾着へ
入れた。さうして
棚から
まるめ箱を
卸して三つの
白い
卵を
入れた。
以前は
此の
土地でも
綿が
採れたので、
夜なべには
女が
皆竹
で
絲を
引いた。
綿打弓でびんびんとほかした
綿は
箸のやうな
棒を
心にして
蝋燭位の
大きさにくる/\と
丸める。それが
まるめである。
此の
まるめから
不器用な
百姓の
手が
自在に
絲を
引いた。
此の
頃では
綿がすつかり
採れなくなつたので、
まるめ箱も
煤けた
儘稀に
保存されて
居るのも
絲屑や
布の
切端が
入れてある
位に
過ぎないのである。お
品はそれから
膨れた
巾着の
爲めに
跳ねあげられた
蒲團の
端を
手で
抑へた。それから
又横になつた。
先刻から
疲勞したやうな
心持に
成つて
居たが
横になると
身體が
溶けるやうにぐつたりして
微かに
快よかつた。
其の
晩一
年中の
臟腑の
砂拂だといふ
冬至の
蒟蒻を
皆で
喰べた。お
品は
喰の
日は
明日からでも
起きられるやうに
思つて
居た。さうして
勘次は
仕事の
埓が
明いたので
又利根川へ
行かれることゝ
心に
期して
居た。
四
お
品の
容態は
其の
夜から
激變した。
勘次が
漸く
眠に
落ちた
時お
品は
「
口が
開けなく
成つて
仕やうねえよう」と
情ない
聲でいつた。お
品は
顎が
釘附にされたやうに
成つて、
唾を
飮むにも
喉が
狹められたやうに
感じた。それで
自分にもどうすることも
出來ないのに
驚いた。
勘次も
吃驚して
起きた。
「どうしたんだよ
大層惡いのか、
朝までしつかりしてろよ」と
力をつけて
見たが、
自分でもどうしていゝのか
解らないので
只はら/\しながら
夜を
明した。
勘次は
只お
品が
心配になるので、
近所の
者を
頼んで
取り
敢ず
醫者へ
走らせた。さうして
自分は
枕元へくつゝいて
居た。
彼等は
容易なことで
醫者を
聘ぶのではなかつた。
然し
其最も
恐れを
懷くべき
金錢の
問題が
其心を
抑制するには
勘次は
餘りに
慌てゝ
且驚いて
居た。
醫者は
鬼怒川を
越えて
東に
居る。
勘次は
草臥れやしないかといつてはお
品の
足をさすつた。それでもお
品の
大儀相な
容子が
彼の
臆した
心にびり/\と
響いて、
迚も
午後までは
凝然として
居ることが
出來なくなつた。
近所の
女房が
見に
來て
呉れたのを
幸ひに
自分も
後から
走つて
行つた。
鬼怒川の
渡の
船で
先刻の
使ひと
行違に
成つた。
船から
詞が
交換された。
勘次は
醫者と一
緒に
歸るからさういつてお
品に
安心させて
呉れといつて
醫者の
門を
叩いた。
醫者は
丁度そつちへ
行く
序も
有つたからと
悠長である。
屹度行つては
呉れるにしても
其の
後に
跟いて
行くのでなくては
勘次には
不安で
堪らないのである、さうして
彼はぽつさりと
玄關に
踞つて
待つて
居ることがせめてもの
氣安めであつた。
醫者は
小さな
手鞄を一つ
持つて
古い
帽子をちよつぽり
載いて
出た。
手鞄は
勘次が
大事相に
持つた。
醫者は
特別の
出來事がなければ
俥には
乘らないので、いつも
朴齒の
日和下駄で
短い
體躯をぽく/\と
運んで
行く。それで
車錢だけでも
幾ら
助かるか
知れないといふので
貧乏な
百姓から
能く
聘れて
居るのであつた。
勘次は
途次お
品の
容態を
語つて
醫者の
判斷を
促して
見た。
醫者は一
應見なければ
分らぬといつて
五月蠅い
勘次に
返辭しなかつた。お
品の
病體に
手を
掛けると
醫者は
有繋に
首を
傾けた。それが
破傷風の
徴候であることを
知つて
恐怖心を
懷いた。さうして
自分は
注射器を
持たないからといつて
辭退して
畢つた。
勘次は
又慌てゝ
他の
醫者へ
駈けつけた。
其の
醫者は
鉛筆で
手帖の
端へ
一寸書きつけて、それでは
直に
此を
藥舖で
買つて
來るのだといつた。それから
自分の
家へ
此を
出せば
渡して
呉れるものがあるからと
此も
手帖の
端を
裂いた。
勘次は
又川を
越えて
走つた。
藥舖では
罎へ
入れた
藥を
二包渡して
呉れた。
一罎が七十五
錢づゝだといはれて、
勘次は
懷が
急にげつそりと
減つた
心持がした。
彼は
蜻蛉返りに
歸つて
來た。
醫者の
家からは
注射器を
渡してくれた。
他の
病家を
診て
醫者は
夕刻に
來た。
醫者はお
品の
大腿部を
濕したガーゼで
拭つてぎつと
肉を
抓み
上げて
針をぷつりと
刺した。
暫くして
針を
拔いて
指の
先で
針の
趾を
抑へて
其處へ
絆創膏を
貼つた。それが
凡て
薄闇い
手ランプの
光で
行はれた。
勘次に
手ランプを
近づけさせて
醫者はやつと
注射を
畢つた。
翌日の
午前に
來て
醫者は
復注射をして
大抵此れでよからうといつて
去つた。
然しお
品の
容態は
依然として
恢復の
徴候がないのみでなく
次第に
大儀相に
見えはじめた。お
品は
其の
夕刻から
俄かに
痙攣が
起つた。
身體がびり/\と
撼ぎながら
手も
足も
引き
緊められるやうに
後へ
反つた。
痙攣は
時々發作した。
其度毎に
病人は
見て
居られない
程苦惱する。
顏が
妙に
蹙んで
口が
無理に
横へ
引き
吊られるやうに
見える。
勘次はたつた
一人のおつぎを
相手に
手の
出しやうもなかつた。さうしてしら/\
明けといふと
直に
又醫者へ
駈けつけた。
醫者は
復藥舖へ
行つて
來いといつた。
勘次は
又飛んで
行つた。
然し
其の二
號の
血清は
何處にも
品切であつた。それは
或期間を
經過すれば
効力が
無くなるので
餘計な
仕入もしないのだと
藥舖ではいつた。それに
値段が
不廉ものだからといふのであつた。
勘次はそれでも
幾ら
位するものかと
思つて
聞いたら
一罎が三
圓だといつた。
勘次は
例令品物が
有つた
處で、
自分の
現在の
力では
到底それは
求められなかつたかも
知れぬと
今更のやうに
喫驚して
懷へ
手を
入れて
見た。
醫者は
更に
勘次を
藥舖へ
走らせた。
勘次は
只醫者のいふが
儘に
息せき
切つて
駈けて
歩く
間が、
屹度どうにか
防ぎをつけてくれるだらうとの
恃もあるので
僅に
自分の
心を
慰め
得る
唯一の
機會であつた。
醫者は一
號の
倍量を
注射した。
然しそれは
徒勞であつた。
病人の
發作は
間が
短くなつた。
病人は
其度に
呼吸に
壓迫を
感じた。
近所の
者も三四
人で
苦惱する
枕元に
居て
皆憂愁に
包まれた。お
品は
突然
「
野田へは
知らせてくれめえか」と
聞いた。
勘次も
近所の
者も
卯平へ
知らせることも
忘れて
只苦惱する
病人を
前に
控へて
困つて
居るのみであつた。
「
明日は
屹度來るやうにいつて
遣つたよ」
勘次はお
品の
耳へ
口を
當ていつた。
今更のやうに
近所の
者が
頼まれて
夜通しにも
行くといふことに
成つた。
次の
日の
午餐過に
卯平は
使と
共にのつそりと
其の
長大な
躯幹を
表の
戸口に
運ばせた。
彼は
閾を
跨ぐと
共に、
其時はもう
只痛い/\というて
泣訴して
居る
病人の
聲を
聞いた。
「
何處が
痛いんだ、
少しさすらせて
見つか」
勘次が
聞いても
「
背中が
仕やうがねえんだよ」と
病人はいふのみである。
「お
品さん、おとつゝあ
來たよ、
確乎しろよ」と
近所の
女房がいつた。それを
聞いてお
品は
暫時靜かに
成つた。
「
品どうしたえ、
大儀えのか」
寡言な
卯平は
此だけいつた。
「おとつゝあ
待つてたよ、
俺ら
仕やうねえよ」お
品は
情なさ
相にいつた。
「うむ、
困つたなあ」
卯平は
深い
皺を
蹙めていつた。さうして
後は一
言もいはない。お
品の
病状は
段々險惡に
陷つた。
醫者はモルヒネの
注射をして
僅に
睡眠の
状態を
保たせて
其の
苦痛から
遁れさせようとした。それでも
暫くすると
病人は
復た
意識を
恢復して、びり/\と
身體を
撼はせて、
太い
繩でぐつと
吊されたかと
思ふやうに
後へ
反つて、
其劇烈な
痙攣に
苦しめられた。
「
先生さん、わたしや
此れでもどうしたものでがせうね」お
品は
突然に
聞いた。
醫者は
只口髭を
捻つて
默つて
居た。
「どうでせうね
先生さん」
勘次も
聞いた。
「まあ
大丈夫だらうつて
病人へだけはいつて
居たらいゝでせう」
醫者は
耳語いた。
「お
品、
大丈夫だとよ、
夫から
我慢して
確乎してろとよ」
勘次は
病人の
耳で
呶鳴つた。
「そんでも
俺ら
明日の
日まではとつても
持たねえと
思ふよ。
本當に
俺ら
大儀いゝなあ」お
品は
切な
相にいつた。
齒の
間を
漸くに
洩れる
聲は
悲しい
響を
傳へて
然かも
意識は
明瞭であることを
示した。
醫者は
遂に
極量のモルヒネを
注射して
去つた。
夜になつて
痙攣は
間斷なく
發作した。
熱度は
非常に
昂進した。
液體の一
滴をも
攝取することが
出來ないにも
拘らず、
亂れた
髮の
毛毎に
傳ひて
落るかと
思ふやうに
汗が
玉をなして
垂れた。
蒲團を
濕す
汗の
臭が
鼻を
衝いた。
「
勘次さん
此處に
居てくろうよ」お
品は
苦しい
内にも
只管勘次を
慕つた。
「おうよ、こゝに
居たよ、
何處へも
行やしねえよ」
勘次は
其度に
耳へ
口を
當ていつた。
「
勘次さん」お
品は
又喚んた。
「
怎的したよ」
勘次のいつたのはお
品に
通じなかつたのか
「おとつゝあ、
俺らとつてもなあ」とお
品は
少時間を
措いて、さうして
勘次の
手を
執つた。
「おつう
汝はなあ、
よきもなあ」といつて
又發作の
苦惱に
陷つた。
「
勘次さん、
俺死んだらなあ、
棺桶へ
入れてくろうよ……」
勘次は
聞かうとすると
暫く
間を
隔てて
「
後の
田の
畔になあ、
牛胡頽子のとこでなあ」お
品は
切れ/″\にいつた。
勘次は
略其の
意を
了解した。
お
品はそれから
劇烈な
發作に
遮ぎられてもういはなかつた。
突然
「
風呂敷、/\」
と
理由の
解らぬ
囈語をいつて、
意識は
全く
不明に
成つた。
遂には
異常な
力が
加はつたかと
思ふやうにお
品の
足は
蒲團を
蹴て
身體が
激動した。
枕元に
居た
人々は
各自に
苦しむお
品の
足を
抑へた。
恁うして
人々は
刻々に
死の
運命に
逼られて
行くお
品の
病體を
壓迫した。お
品の
發作が
止んだ
時は
微かな
其の
呼吸も
止つた。
夜は
森として
居た。
雨戸が
微かに
動いて
落葉の
庭を
走るのもさら/\と
聞かれた。お
品の
身體は
足の
方から
冷たくなつた。お
品が
死んだといふことを
意識した
時に
勘次もおつぎもみんな
怺へた
情が一
時に
激發した。さうして
遠慮をする
餘裕を
有たない
彼等は
聲を
放つて
泣いた。
枕元のものは
皆共に
泣いた。
與吉は
獨り
死んだお
品の
側に
熟睡して
居た。
卯平は
取り
取ずお
品の
手を
胸で
合せてやつた。さうして
機の
道具の
一つである
杼を
蒲團へ
乘せた。
猫が
死人を
越えて
渡ると
化けるといつて
杼は
猫の
防禦であつた。
杼を
乘せて
置けば
猫は
渡らないと
信ぜられて
居るのである。
夜は
益深けて
冷え
切つて
居た。
家の
内には一
塊の

も
貯へてはなかつた。
枕元に
居た
近所の
人々は
勘次とおつぎの
泣き
止むまでは
身體を
動かすことも
出來ないで
凝然と
冷たい
手を
懷に
暖めて
居た。おつぎは
漸く
竈へ
落葉を
燻べて
茶を
沸した、みんな
只ぽつさりとして
茶を
啜つた。
「
勘次も
かせえて知らせやがればえゝのに」
卯平がぶすりと
呟く
聲は
低くしかもみんなの
耳の
底に
響いた。
卯平は
其の
日の
未明に
使の
來るまではお
品の
病氣はちつとも
知らずに
居た。
驚いて
來て
見ればもうこんな
始末である。
卯平も
泣いた。
彼は
煙管を
噛んでは
只舌皷を
打つて
唾を
嚥んだ。
勘次は
只泣いて
居た。
彼はお
品の
發病からどれ
程苦心して
其身を
勞したか
知れぬ。お
品の
病氣を
案ずる
外彼の
心には
何もなかつた。
其當時には
卯平に
不平をいはれやうといふやうな
懸念は
寸毫も
頭に
起らなかつたのである。
お
品の
死は
卯平をも
痛く
落膽せしめた。
卯平は七十一の
老爺であつた。
一昨年の
秋から
卯平は
野田の
醤油藏へ
火の
番に
傭はれた。
卯平はお
品が三つの
時に、
死んだお
袋の
處へ
入夫になつたのである。五つの
時から
甘へたのでお
品は
卯平に
懷いて
居た。お
袋の
生きて
居るうちは
卯平もまだ
壯であつたが、お
袋が
亡くなつて
卯平の
皺が
深く
刻まれてからは
以前から
善くなかつた
勘次との
間が
段々隔つて、お
品もそれには
困つた。
到頭村の
紹介業をして
居る
者の
勸めに
任て
卯平がいふ
儘に
奉公に
出したのであつた。
病人の
枕元に
居た
近所の
者は一
杯の
茶を
啜つて
村の
姻戚へ
知らせに
出るものもあつた。それから
葬式のことに
就いて
相談をした。
葬式はほんの
姻戚と
近所とだけで
明日の
内に
濟すといふことに
極めた。
夜があけると
近所の
人々は
寺へ
行つたり
無常道具を
買ひに
行つたり、
他村の
姻戚への
知らせに
行つたりして
家には
近所の
女房が二三
人義理をいひに
來て
居た。
姻戚といつてもお
品の
爲めには
待たなくては
成らぬといふものはないので
勘次はおつぎと
共に
筵を
捲つて、
其處へ
盥を
据ゑてお
品の
死體を
淨めて
遣つた。
劇烈な
病苦の
爲めに
其力ない
死體はげつそりと
酷い
窶れやうをして
居た。
卯平は
只ぽつさりとしてそれを
見て
居た。
死體は
復其の
穢い
夜具へ
横へられた。
盥の
汚れた
微温湯は
簀の
子の
上から
土に
注がれた。さうして
其の
沾れた
簀の
子には
捲くつた
筵が
又敷かれた。
朝から
雨戸は
開け
放たれて
歩けばぎし/\と
鳴る
簀の
子の
上の
筵は
草箒で
掃かれた。さうして
東隣から
借りて
來た
蓙が五六
枚敷かれた。それから
土地の
習慣で
勘次は
淨めてやつたお
品の
死體は一
切を
近所の
手に
任せた。
近所の
女房等は一
反の
晒木綿を
半分切てそれで
形ばかりの
短い
經帷子と
死相を
隱す
頭巾とふんごみとを
縫つてそれを
着せた。ふんごみは
只三
角にして
足袋の
代に
爪先へ
穿かせるのであつた。
脚絆は
切の
儘麻で
足へ
括り
附けた。
此れも
其の
木綿で
縫つた
頭陀袋を
首から
懸けさせて三
途の
川の
渡錢だといふ六
文の
錢を
入れてやつた。
髮は
麻で
結んで
白櫛を

して
遣つた。お
品の
硬着した
身體は
曲げて
立膝にして
棺桶へ
入れられた。
首が
葢に
觸るので
骨の
挫けるまで
抑へつけられてすくみが
掛けられた。すくみといふのは
蹙めた
儘の
形が
保たれるやうに
死體の
下から
荒繩を
廻して
置いて
首筋の
處でぎつしりと
括ることである。
麁末な
松板で
拵へた
出來合の
棺桶はみり/\と
鳴つた。
恁ういふ
無残な
扱はどうしても
他人の
手に
任せられねばならなかつた。
板の
儘ばら/\に
成つて
居る
棺臺は
買つて
來てから
近所の
手で
釘付にされた。
其處には
淺い
箱の
倒にしたものが
出來た。
其の
棺臺の
上には
死體を
入れた
棺桶が
載せられた。
勘次は
其朝未明にそつと
家の
後の
楢の
木の
間を
田の
端へおりて
境木の
牛胡頽子の
傍を
注意して
見た。
唐鍬か
何かで
動かした
土の
跡が
目に
附いた。
勘次は
手にして
行つた
草刈鎌でそく/\と
土をつゝくやうにして
掘つた。さうして
其軟かに
成つた
土を
手で
浚つた。
襤褸の
包が
出た。
彼は
其處に
小さな一
塊肉を
發見したのである。
勘次はそれを
大事に
懷へ
入れた。
惡事の
發覺でも
恐れるやうな
容子で
彼は
周圍を
見廻した。
彼は
更に
古い
油紙で
包んで
片付けて
置いて、お
品の
死體が
棺桶に
入れられた
時彼はそつとお
品の
懷に
抱かせた。お
品の
痩せ
切つた
手が
勘次のする
儘にそれを
確乎と
抱き
締めて、
其の
骨ばかりの
頬が、ぴつたりと
擦りつけられた。
葬式の
日は
赤口といふ
日であつた。
勘次は
近所と
姻戚との
外には一
飯も
出さなかつたがそれでも
村のものは
皆二
錢づゝ
持つて
弔みに
來た。さうしてさつさと
歸つて
行つた。
遠く
離れた
寺からは
住職と
小坊主とが、
褪めた
萠黄の
法被を
着た
供一人連れて
挾箱を
擔がせて
歩いて
來た。
小坊主は
直に
棺桶の
葢をとつて
白い
木綿を
捲くつて
窶れた
頬へ
剃刀を
一寸當てた。
此の
形式的の
顏剃が
濟んでから
葢は
釘で
打ち
附けられた。
荒繩が十
文字に
掛けられた。
晒木綿の
残つた
半反でそれがぐる/\と
捲かれた。
桶には
更に
天葢が
載せられた。
天葢というても
兩端が
蕨のやうに
捲れた
狹い
松板を二
枚十
字に
合せたまでのものに
過ない
簡單なものである。
煤けた
壁には
此れも
古ぼけた
赤い
曼荼羅の
大幅が
飾のやうに
掛けられた。
棺は
僅な
人で
葬られた。それでも
白提灯が
二張翳された。
裂き
竹を
格子の
目に
編んでいゝ
加減の
大きさに
成るとぐるりと四
方を一つに
纏めて
括つた
花籠も二つ
翳された。
孰れも
青竹の
柄が
附けられた。
其の
籠へは
髭のやうに
裂き
竹を
立てゝ
其の
裂き
竹には
赤や
黄や
青や
其の
他の
色紙で
刻んだ
花を
飾つた。
其の
花籠は
又底へ
紙を
敷いて
死んだものゝ
年齡の
數だけ
小錢を
入れて、それを
翳した
人が
時々ざら/\と
振つては
籠の
目から
其の
小錢を
振り
落した。
村の
小供が
爭つてそれを
拾つた。
提灯と
花籠は
先に
立つた。
後からは
村の
念佛衆が
赤い
胴の
太皷を
首へ
懸けてだらりだらりとだらけた
叩きやうをしながら一
同に
聲を
擧て
跟いて
行つた。
柩は
小徑を
避けて
大道を
行つた。
村の
者は
自分の
門からそれを
覗いた。
棺桶は
据りが
惡い
所爲か
途中で
止まずぐらり/\と
動搖した。
勘次はそれでも
羽織袴で
位牌を
持つた。それは
皆借りたので
羽織の
紐には
紙撚がつけてあつた。
墓の
穴は
燒けた
樣な
赤土が四
方へ
堆く
掻き
上げられてあつた。
其處には
從來隙間のない
程穴が
掘られて、
幾多の
人が
埋められたので
手の
骨や
足の
骨がいつものやうに
掘り
出されて
投げられてあつた。
法被を
着た
寺の
供が
棺桶を
卷いた
半反の
白木綿をとつて
挾箱に
入た。
軈て
棺桶は
荒繩でさげて
其の
赤い
土の
底に
踏みつけられた。
麁末な
棺臺は
少し
堆く
成つた
土の
上に
置かれて、
二つの
白張提灯と
二つの
花籠とが
其傍に
立てられた。お
品は
生來土を
踏まない
日はないといつていゝ
位であつた。さうしてそれは
凍てる
冬の
季節を
除いては
大抵は
直接に
足の
底が
土について
居た。お
品は
恁して
冷たい
屍に
成つてからも
其の
足の
底は
棺桶の
板一
枚を
隔てただけで
更に
永久に
土と
相接して
居るのであつた。
小さな
葬式ながら
柩が
出た
後は
旋風が
埃を
吹つ
拂つた
樣にからりとして
居た。
手傳に
來て
居た
女房等はそれでなくても
膳立をする
客が
少くて
暇であつたから
滅切手持がなくなつた。それでも
立ちながら
椀と
箸とを
持つて
口を
動かして
居るものもあつた。
膳部は
極つた
通り
皿も
平も
壺もつけられた。それでも
切昆布と
鹿尾菜と
油揚と
豆腐との
外は
百姓の
手で
作つたものばかりで
料理された。
皿には
細かく
刻んで
鹽で
揉んだ
大根と
人參との
膾がちよつぽりと
乘せられた。さういふ
残物と
冷たく
成つた
豆腐汁とをつゝいても
麥の
交らぬ
飯が
其の
口には
此の
上もない
滋味なので、
女房等は
其の
強健で
且擴大された
胃の
容れる
限りは
口が
之を
貪つて
止まないのである。
彼等は
裏戸の
陰に
聚まつて
雜談に
耽つた。
「どうしたつけまあ、
酷く
棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「
其筈だんべな、
後が
心配で
仕やうねえ
佛はあゝえに
動くんだつちぞおめえ」
「
勘次さんこと
欲しくつて
後へ
残してくのが
辛えんだごつさら」
「そんだがよ、
餘り
欲しがられつと
遂にや
迎に
來て
連れ
行かれつとよ」
「おゝ
厭だ
俺ら」
「
連れてつてくろつちつたつておめえ
等こた
迎に
來るものもあんめえな」
口々に
恁んなことが
遠慮もなく
反覆された。
間が
少時途切れた
時
「お
品さんも
可惜命をなあ」と
一人が
思ひ
出したやうにいつた。
「
本當だ
他人のやらねえこつてもありやしめえし」
他の
女房が
相槌を
打つた。
「
風邪引いたなんてか、
今度の
風邪は
強えから
起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「
死ぬ
者貧乏なんだよ」
「そんだがお
品さんは
自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、
大けえ
聲ぢやゆはんねえが、
五十錢とか
八十錢とか
取つて
他人のがも
行つたんだとよ」
「
八十錢づゝも
取つちやおめえ、
女の
手ぢやたえしたもんだがな、
今度自分で
死んちまあなんて、
行んねえこつたなあ」
「
罪作つた
罰ぢやねえか」
遠慮もなくそれからそれと
移のである。
「そんなことゆつて、
今出た
佛のことをおめえ
等、とつゝかれつから
見ろよ」
他の
一人の
女房がいつた
時噺が
暫時途切れて
靜まつた。
一人の
女房が
皿の
大根を
手で
撮んで
口へ
入れた。
「さうえ
處他人に
見られたらどうしたもんだえ」
側からいはれて
「
見てやあしめえな」と
其女房は
裏戸の
口から
庭の
方を
見た。さうして
「
俺ら
見てえな
婆はどうで
此れから
娶にでも
行くあてがあんぢやなし、
構あねえこたあ
構あねえがな」といつて
笑つた。
一同どつと
笑聲を
發した。
柩を
送つた
人々が離れ/″\に
歸つて
來るまでは
雜談がそれからそれと
止まなかつた。
平日何等の
慰藉を
與へらるゝ
機會をも
有して
居ないで、
然も
聞きたがり、
知りたがり、
噺たがる
彼等は三
人とさへ
聚れば
膨脹した
瓦斯が
袋の
破綻を
求めて
遁げ
去る
如く、
遂には
前後の
分別もなく
其舌を
動かすのである。
偶抽斗から
出した
垢の
附かぬ
半纏を
被て、
髮にはどんな
姿にも
櫛を
入れて、さうして
弔みを
濟すまでは
彼等は
平常にないしほらしい
容子を
保つのである。それは
改まつて
不馴な
義理を
述べねばならぬといふ
懸念が、
僅ながら
彼等の
心を
支配して
居るからである。
然し
土間へおりて、
襷が
掛けられて、
膳や
椀を
洗つたり
拭いたり
其手を
忙しく
動かすやうに
成れば、
彼等の
心はそれに
曳かされて
其の
聞きたがり、
知りたがり、
噺したがる
性情の
自然に
歸るのである。
假令他人の
爲には
悲しい
日でも
其の一
日だけは
自己の
生活から
離れて
若干の
人々と一
緒に
集合することが
彼等には
寧ろ
愉快な一
日でなければならぬ。
間斷なく
消耗して
行く
肉體の
缺損を
補給するために
攝取する
食料は一
椀と
雖も
悉く
自己の
慘憺たる
勞力の一
部を
割いて
居るのである。
然し
他人を
悼む一
日は
其處に
自己のためには
何等の
損失もなくて十
分に
口腹の
慾を
滿足せしめることが
出來る。
他人の
悲哀はどれ
程痛切でもそれは
自己當面の
問題ではない。
如斯にして
彼等の
聚る
處には
常に
笑聲を
絶たないのである。
お
品も
恁ういふ
伴侶の
一人であつた。それが
今日は
其の
笑聲を
後にして
冷たい
土に
歸したのである。
五
お
品は
自分の
手で
自分の
身を
殺したのである。お
品は十九の
暮におつぎを
産んでから
其次の
年にも
亦姙娠した。
其の
時は
彼等は
窮迫の
極度に
達して
居たので
其の
胎兒は
死んだお
袋の
手で七月
目に
墮胎して
畢つた。それはまだ
秋の
暑い
頃であつた。
強健なお
品は四五
日經つと
林の
中で
草刈をして
居た。それでも
無理をした
爲に
其後大煩ひはなかつたが
恢復するまでには
暫くぶら/\して
居た。それからといふものはどういふものかお
品は
姙娠しなかつた。おつぎが十三の
時與吉が
生れた。
此の
時は
勘次もお
品も
腹の
子を
大切にした。
女の
子が十三といふともう
役に
立つので、
與吉を
育てながら
夫婦は十
分に
働くことが
出來た。
與吉が三つに
成つたのでおつぎは
他へ
奉公に
出すことに
夫婦の
間には
決定された。
其の
頃十五の
女の
子では一
年の
給金は
精々十
圓位のものであつた。それでもそれ
丈の
收入の
外に
食料の
減ずることが
貧乏な
世帶には
非常な
影響なのである。それが
稻の
穗首の
垂れる
頃からお
品は
思案の
首を
傾げるやうになつた。
身體の
容子が
變に
成つたことを
心付いたからである。十
年餘も
保たなかつた
腹は
與吉が
止つてから
癖が
附いたものと
見えて
又姙娠したのである。お
品も
勘次もそれには
當惑した。おつぎを
奉公に
出して
畢へば、
二人の
子を
抱いてお
品は
從來のやうに
働くことが
出來ない、
僅な
稼でもそれが
停止されることは
彼等の
生活の
爲には
非常な
打撃でなければならぬ。
其の
内に
稻を
刈つたり、
籾を
干したり
忙しい
收穫の
季節が
來て、
冴えた
空の
下に
夫婦は
毎日埃を
浴びて
居た。
有繋に
罪なやうな
心持もするので
夫婦は
只困つて
其の
日を
過して
居た。それも
夜に
成つて
疲れた
身體を
横にし
甘睡に
陷るまでの
少時間彼等は
互に
決し
難い
思案を
交換するのであつた。
從來も
夫婦の
間は
孰れが
本位であるか
分らぬ
程勘次には
決斷の
力が
缺乏して
居た。
「どうでもおめえの
腹だから
好きにした
方がえゝやな」
勘次は
恁ういふのである。
然しそれは
怎的でもいゝといふ
云ひ
擲りではなくて、
凡てがお
品に
對して
命令をするには
勘次の
心は
餘り
憚つて
居たのである。
「そんでも、
俺がにも
困んべな」お
品は
投げ
掛けるやうにいふのである。
勘次はお
品が
恁うする
積だときつぱりいつて
畢へば
決して
反對をするのではない。といつてお
品は
獨斷で
決行するのには
餘り
大事であつたのである。さうしてそれは
決定される
機會もなくて
夫婦は
依然として
農事に
忙殺されて
居た。
其の
間に
空を
渡る
凩が
俄に
哀しい
音信を
齎した。
欅の
梢は、どうでもう
此れまでだといふやうに
慌しく
其の
赭く
成つた
枯葉を
地上に
投げつけた。
其の
棄て
去られた
輕い
小さな
落葉は、
自分を
引き
止めて
呉れる
蔭を
求めて
轉々と
走つては
干した
藁の
間でも
籾の
筵でも
何處でも
其の
身を
託した。
周圍は
凡てが
只騷がしく
且つ
混雜した。
其の
内に
勘次は
秋から
募集のあつた
開鑿工事へ
人に
任せて
行つたのである。
「
只かうしてぐづ/\して
居ても
仕やうあんめえな」お
品は
其の
時も
勘次の
判斷を
促して
見た。
「
俺もさうゆはれても
困つから、おめえ
好きにしてくろうよ」
勘次は
只恁ういつた。
勘次が
去つてからお
品は
其混雜した
然も
寂しい
世間に
交つて
遣瀬のないやうな
心持がして
到頭罪惡を
決行して
畢つた。お
品の
腹は四
月であつた。
其の
頃の
腹が一
番危險だといはれて
居る
如くお
品はそれが
原因で
斃れたのである。
胎兒は四
月一
杯籠つたので
兩性が
明かに
區別されて
居た。
小さい
股の
間には
飯粒程の
突起があつた。お
品は
有繋に
惜しい
果敢ない
心持がした。
第一に
事の
發覺を
畏れた。それで一
旦は
能く
世間の
女のするやうに
床の
下に
埋めたのをお
品は
更に
田の
端の
牛胡頽子の
側に
襤褸へくるんで
埋めたのである。
お
品は
身體の
恢復するまで
凝然として
蒲團にくるまつて
居れば
或はよかつたかも
知れぬ。十
幾年前には一
切を
死んだお
袋が
處理してくれたのであつたが、
今度は
勘次も
居ないしでお
品は
生計の
心配もしなくては
居られなかつた。
一つにはそれを
世間に
隱蔽しようといふ
念慮から
知らぬ
容子を
粧ふ
爲に
強ひても
其の
身を
動かしたのであつた。
然しながら
其の
身を
殺した
黴菌がどうして
侵入したであつたらうか。お
品は
卵膜を
破る
手術に
他人を
煩はさなかつた。さうして
其
入した
酸漿の
根が
知覺のないまでに
輕微な
創傷を
粘膜に
與へて
其處に
黴菌を
移植したのであつたらうか、それとも
毎日煙の
如く
浴せ
掛けた
埃から
來たのであつたらうか、それを
明らめることは
不可能でなければならぬ。
然し
孰れにしても
病毒は
土が
齎したのでなければならなかつた。
葬式の
次の
日は
又近所の
人が
來た。
勘次は
其の
借りた
羽織と
袴を
着て
村中へ
義理に
廻つた。
土瓶へ
入れた
水を
持つて
墓參りに
行つて、それから
膳椀も
皆返して
近所の
人々も
歸つた
後勘次は
然として
古い
机の
上に
置かれた
白木の
位牌に
對して
堪らなく
寂しい
哀れつぽい
心持になつた。二三
日の
間は
片口や
摺鉢に
入れた
葬式の
時の
残物を
喰べて一
家は
只ばんやりとして
暮した。
雨戸はいつものやうに
引いた
儘で
陰氣であつた。
卯平を
加へて四
人はお
互が
只冷かであつた。
卯平は
其の
薄暗い
家の
中に
只煙草を
吹かしては
大きな
眞鍮の
煙管で
火鉢を
叩いて
居た。
卯平と
勘次とは
其の
間碌に
口も
利なかつた。
勘次は
自分の
身體と
自分の
心とが
別々に
成つたやうな
心持で
自分が
自分をどうする
事も
出來なかつた。それでも
小作米のことは
其の
念頭から
沒し
去ることはなかつた。
貧乏な
小作人の
常として
彼等は
何時でも
恐怖心に
襲はれて
居る。
殊に
其の
地主を
憚ることは
尋常ではない。さうして
自分の
作り
來つた
土地は
死んでも
噛り
附いて
居たい
程それを
惜むのである。
彼等の
最初に
踏んだ
土の
強大な
牽引力は
永久に
彼等を
遠く
放たない。
彼等は
到底其の
土に
苦しみ
通さねばならぬ
運命を
持つて
居るのである。
勘次はお
品の
葬式が
濟むと
直に
新しい
俵へ
入れた
小作米を
地主へ
運んで
行かねば
成らぬとそれが
心を
苦しめて
居た。
然し
其の
時は
其の
新しい
俵の一つは
輪に
成つた
繩から
拔けて、
米は
叩いても
幾らも
出なかつた。
勘次は
次の
年には
殆ど
自分一人の
手で
農事を
勵まなくてはならぬ。
例年のやうに
忙しい
季節に
日傭に
行くことも
出來まいし、それにはお
袋に
捨てられた
二人の
子供も
有ることだし、
今から
穀の
用意もしなくては
成らぬと
思ふと
自分の
身上から一
俵の
米を
減じては
到底立ち
行けぬことを
深く
思案して
彼は
眠らないこともあつた。
然し
他に
方法もないので
彼は
地主へ
哀訴して
小作米の
半分を
次の
秋まで
貸して
貰つた。
地主は
東隣の
舊主人であつたのでそれも
承諾された。
彼は
更に
其の
僅な
米の一
部を
割いて
錢に
換へねばならぬ
程懷が
窮して
居たのである。
勘次はそれから
復た
利根川の
工事へ
行かねばならないと
思つて
居た。それは
彼が
僅の
間に
見た
放浪者の
怖ろしさを
思つて、
假令どうしても
其統領を
欺いて
其の
僅少な
前借の
金を
踏み
倒す
程の
料簡が
起されなかつたのである。
其の
内に
張元から
葉書が
來た。
彼は
只管恐怖した。
然し
二人の
子を
見棄てゝ
行くことが
出來ないので、どうしていゝか
判斷もつかなかつた。さうする
内にお
品の七日も
過ぎた。
彼は
煩悶した。
唯一つ
卯平が
野田へ
行くのを
暫く
猶豫して
貰つて
自分は
其の
間に
少しでも
小遣錢を
稼いで
來たいと
思つた。
然しそれも
直接には
云ひ
出せないので、
例の
桑畑一
枚隔てた
南へ
頼んだ。
數日來彼は
卯平が
其の
大きな
體躯を
火鉢の
側に
据ゑて
煙管を
噛んではむつゝりとして
居るのを
見ると、
何となく
憚つて
成るべく
其の
視線を
避けるやうに
遠ざかつて
居ることを
餘儀なくされるのであつた。
勘次とお
品は
相思の
間柄であつた。
勘次が
東隣の
主人に
傭はれたのは十七の
冬で十九の
暮にお
品の
婿に
成つてからも
依然として
主人の
許に
勤めて
居た。
彼は
其當時お
品の
家へは
隣づかりといふので
能く
出入つた。
一つには
形づくつて
來たお
品の
姿を
見たい
所爲でもあつた。
彼は
秋の
大豆打といふ
日の
晩などには、
唐箕へ
掛けたり
俵に
作つたりする
間に二
升や三
升の
大豆は
竊に
隱して
置いてお
品の
家へ
持つて
行つた。さうして
豆熬を
噛つては
夜更まで
噺をすることもあつた。お
品の
家からは
近所に
風呂の
立たぬ
時は
能く
來た。
忙しい
仕事には
傭はれても
來た。さういふ
間に
彼等の
關係が
成立つたのである。それはお
品が十六の
秋である。それから
足掛三
年經つた。
勘次には
主人の
家が
愉快に
能く
働くことが
出來た。
彼の
體躯は
寧ろ
矮小であるが、
其きりつと
緊つた
筋肉が
段々仕事を
上手にした。
假令どんな
物が
彼等の
間を
隔てようとしても
彼等が
相近づく
機會を
見出したことは
鬱蒼として
遮つて
居る
密樹の
梢を
透してどこからか
日が
地上に
光を
投げて
居るやうなものであつた。
彼等の
心は
唯明るかつたのである。
お
品は十九の
春に
懷胎した。
自分でもそれは
暫く
知らずに
居た。
季節が
段々ぽかついて、
仕事には
單衣でなければならぬ
頃に
成つたので
女同士の
目は
隱しおほせないやうに
成つた。お
袋はお
品をまだ
子供のやうに
思つて
迂濶にそれを
心付かなかつた。
本當にさうだと
思つた
時はお
品は
間もなく
肩で
息するやうに
成つた。さうして
身體がもう
棄てゝ
置けない
場合に
成つたので
兩方の
姻戚の
者でごた/\と
協議が
起つた。
勘次もお
品も
其時互に
相慕ふ
心が
鰾膠の
如く
強かつた。
彼等は
惡戲者に
水をさゝれて
慌てた
機會に
或夜遁げ
出して
畢つた。それは、
此の
儘では
二人は
迚ても
添はされぬ
容子だからどうしても
一つに
成らうといふのならば
何處へか
二人で
身を
隱すのである。さうして
愈となれば
俺がどうにでも
其處は
始末をつけて
遣るから、
何でも
愚圖/\して
居ちや
駄目だとお
品の
心を
教唆つたのであつた。お
品から一
心に
勘次へ
迫つた。
勘次は
其の
頃からお
品のいふなりに
成るのであつた。
二人は
遠くは
行けないので、
隣村の
知合へ
身を
投じた。
兩方の
姻戚が
騷ぎ
出した。
恁ういふ
同志へのこんな
惡戲は
何處でも
能く
反覆されるのであつた。さうして
成功した
惡戲者は
「
仕事は
何でも
牝鷄でなくつちや
甘く
行かねえよ」といつては
陰で
笑ふのである。
「
外聞曝しやがつて」と
卯平は
怒つたがそれが
爲に
事は
容易に
運ばれた。
勘次は
婿に
成つたのである。
簡單な
式が
行はれた。
俄に
媒妁人と
定められたものが
一人で
勘次を
連れて
行つた。
卯平はむつゝりとしてそれを
受けた。
平生行きつけた
家なので
勘次は
極り
惡相に
坐つた。お
品は
不斷衣の
儘襷掛で
大儀相な
體躯を
動かして
居て
勘次の
側へは
坐らなかつた。
媒妁人が
只酒を
飮んで
騷いだ
丈であつた。お
品は
間もなく
女の
子を
産んだ。それがおつぎであつた。
季節は
暮の
押し
詰つた
忙しい
時であつた。お
袋はお
品が
好いて
居るので、
勘次を
不足な
婿と
思つては
居なかつた。
勘次は
其暮も
亦主人へ
身を
任せる
筈で
前借した
給金を、お
品の
家へ
注ぎ
込んだのでお
袋は
却て
悦んで
居た。
卯平は
唯勘次を
蟲が
好なかつた。
自分は
其大きな
體躯でぐい/\と
仕事をしつけたのに
勘次が
小さな
體躯でちよこ/\と
駈け
歩いたり、ただ
吩咐ばかり
聞いて
居るので
自分の
機轉といふものが一
向なかつたりするので
酷く
齒痒く
思つて
居た。
然し
自分は
入夫といふ
關係もあるしそれに
生來の
寡言なので
姻戚の
間の
協議にも
彼は
「どうでもわしはようがすからえゝ
鹽梅に
極めておくんなせえ」とのみいふのであつた。
勘次は
百姓の
尤も
忙しい
其の
頃の五
月に
病氣に
成つた。
彼は
轡へ
附けた
竹竿の
端を
執つて
馬を
馭しながら、
毎日泥だらけになつて
田の
代掻をした。どうかするとそんな
季節に
東南風が
吹いて
慄へる
程冷えることがある。
勘次は
其の
冷えが
障つたのであつたらうか
心持が
惡いというて
田から
戻つて
來るとそれつ
切り
枕も
上らぬやうになつた。
能く
馬の
病氣に
飮ませる
赤玉といふ
藥を
幾粒か
嚥んで
彼は
蒲團へくるまつて
居た。
彼はどうにか
病氣の
凌ぎがつけば
卯平の
側へは
行きたくなかつた。それと
一つには
我慢して
仕事に
出れば
碌には
働けなくても一
日の
勤めを
果したことに
成るけれども、
丸で
休んで
畢へば
其の
日だけの
割當勘定が
給金から
差引かれなければ
成らぬので
彼はそれを
畏れた。
然し
病氣は
馬に
飮ませる
藥の
赤玉では
直には
癒らなかつた。それで
彼はお
品の
厄介に
成る
積で、
次の
朝早く
朋輩の
背に
運ばれた。
卯平は
澁り
切つた
顏で
迎へた。お
品が
蒲團を
敷いて
遣つたので
勘次はそれへごろりと
俯伏しになつて
其の
額を
交叉した
手に
埋めた。
家の
者は
皆田へ
出なければならなかつた。
病人に
構つて
居ることは
仕事が
許さなかつた。お
袋は
出る
時に
表の
大戸も
閉てながら
「
腹減つたら
此處にあんぞ」といつてばたりと
飯臺の
蓋をした。
後で
勘次は
蒲團からずり
出して
見たら、
麥ばかりのぽろ/\した
飯であつた。
其の
時分お
品の
家ではさういふ
食料で
生命を
繋いで
居たのである。
勘次は
奉公にばかり
出て
居たのでそれ
程麁末な
物を
口にしたことはない。それでどうしても
手を
出さうといふ
心が
起らなかつた。
午餐に
家の
者は
田から
戻つて
其の
飯を
喰べた。ちつとはどうだとお
袋に
勸められても
勘次は
唯俯伏に
成つて
居た。
「
此の
野郎こんな
忙しい
時に
轉がり
込みやがつてくたばる
積でもあんべえ」と
卯平は
平生になく
恁んなことをいつた。
勘次は
後で
獨り
泣いた。
彼はお
品がこつそり
蒲團の
下へ
入て
呉れた
煎餅を
噛つたりして二三
日ごろ/\して
居た。
其の
頃は
駄菓子店も
滅多に
無かつたので
此れ
丈のことがお
品には
餘程の
心竭しであつたのである。
勘次はどうも
卯平が
厭で
且つ
怖ろしくつて
仕やうがないので
少し
身體が
恢復しかけると
皆が
田へ
出た
後でそつと
拔けて
村の
中の
姻戚の
處へ
行つて
板藏の二
階へ
隱れて
寢て
居た。
夜になつたらどうして
知つたかお
品はおつぎを
背負つて
鷄を一
羽持つて
來た。
「
勘次さん
惡く
思はねえでくろうよ、
俺惡くする
積はねえが、
仕やうねえからよ」とお
品は
訴へるやうにいふのであつた。お
品は
毎晩のやうに
來て
板藏の
さるを
内から
卸して
泊つて
行つた。それでも
勘次は
卯平の
側が
厭なので
戻らないといふ
積で
他の
村落へ
漂泊した。
復土地へ
歸つて
來ると、
畑に
居ても
田に
居てもお
品が
迫つて
來るので、
彼は
農具を
棄てゝ
遁げることさへあつた。それが
如何したものか
何時の
間にやら
酷く
自分からお
品の
側へ
行きたく
成つて
畢つて、
他人から
却て
揶揄はれるやうに
成つたのである。
勘次は
奉公の
年季を
勤めあげて
歸つたと
成つた
時、
卯平とは
一つ
家で
竈を
別にすることに
成つた。
夫婦と
乳呑兒と三
人の
所帶で
彼等は
卯平から
殼蕎麥が一
斗五
升と
麥が一
斗と、
後にも
先にもたつた
此れ
丈が
分けられた。
正月の
饂飩も
打てなかつた。
有繋にお
袋は
小麥粉を
隱してお
品へ
遣つた。それでも
勘次は
怖ろしい
卯平と
一つ
竈であるよりも
却て
本意であつた。お
袋が
死んでから
老いた
卯平は
勘次と
一つに
成らなければならなかつた。
其時はもう
勘次が
主であつた。さうして
疾に
自分の
住んで
居る
土地までが
自分の
所有ではなかつた。それは
借錢の
極りをつける
爲に
人が
立つて
東隣へ
格外な
値で
持たせたのである。それ
程彼の
家は
窮して
居た。
勘次には
卯平は
畏ろしいよりも
其時では
寧ろ
厭