漱石
「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫
限に打ち
遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず
獨特である。其
獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の
獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に
加速度の興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の
下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から
射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓
所々」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
[#改丁]
烈しい
西風が
目に
見えぬ
大きな
塊をごうつと
打ちつけては
又ごうつと
打ちつけて
皆痩こけた
落葉木の
林を一
日苛め
通した。
木の
枝は
時々ひう/\と
悲痛の
響を
立てゝ
泣いた。
短い
冬の
日はもう
落ちかけて
黄色な
光を
放射しつゝ
目叩いた。さうして
西風はどうかするとぱつたり
止んで
終つたかと
思ふ
程靜かになつた。
泥を
拗切つて
投げたやうな
雲が
不規則に
林の
上に
凝然とひつゝいて
居て
空はまだ
騷がしいことを
示して
居る。それで
時々は
思ひ
出したやうに
木の
枝がざわ/″\と
鳴る。
世間が
俄に
心ぼそくなつた。
お
品は
復た
天秤を
卸した。お
品は
竹の
短い
天秤の
先へ
木の
枝で
拵へた
小さな
鍵の
手をぶらさげてそれで
手桶の
柄を
引つ
懸けて
居た。お
品は
百姓の
隙間には
村から
豆腐を
仕入れて
出ては二三ヶ
村を
歩いて
來るのが
例である。
手桶で
持ち
出すだけのことだから
資本も
要ない
代には
儲も
薄いのであるが、それでも
百姓ばかりして
居るよりも
日毎に
目に
見えた
小遣錢が
取れるのでもう
暫くさうして
居た。
手桶一提の
豆腐ではいつもの
處をぐるりと
廻れば
屹度なくなつた。
還りには
豆腐の
壞れで
幾らか
白くなつた
水を
棄てゝ
天秤は
輕くなるのである。お
品は
何時でも
日のあるうちに
夜なべに
繩に
綯ふ
藁へ
水を
掛けて
置いたり、
落葉を
攫つて
見たりそこらこゝらと
手を
動かすことを
止めなかつた。
天性が
丈夫なのでお
品は
仕事を
苦しいと
思つたことはなかつた。
それが
此日は
自分でも
酷く
厭であつたが、
冬至が
來るから
蒟蒻の
仕入をしなくちや
成らないといつて
無理に
出たのであつた。
冬至といふと
俄商人がぞく/\と
出來るので
急いで一
遍歩かないと、
其俄商人に
先を
越されて
畢ふのでお
品はどうしても
凝然としては
居られなかつた。
蒟蒻は
村には
無いので、
仕入をするのには
田圃を
越えたり
林を
通つたりして
遠くへ
行かねばならぬ。それでお
品は
其途中で
商をしようと
思つて
此の
日も
豆腐を
擔いで
出た。
生憎夜から
冴え
切つて
居た
空には
烈しい
西風が
立つて、それに
逆つて
行くお
品は
自分で
酷く
足下のふらつくのを
感じた。ぞく/\と
身體が
冷えた。さうして
豆腐を
出す
度に
水へ
手を
刺込むのが
慄へるやうに
身に
染みた。かさ/\に
乾燥いた
手が
水へつける
度に
赤くなつた。
皹がぴり/\と
痛んだ。
懇意なそここゝでお
品は
落葉を
一燻べ
焚いて
貰つては
手を
翳して
漸と
暖まつた。
蒟蒻を
仕入れて
出た
時はそんなこんなで
暇をとつて
何時になく
遲かつた。お
品は
林を
幾つも
過ぎて
自分の
村へ
急いだが、
疲れもしたけれど
懶いやうな
心持がして
幾度か
路傍へ
荷を
卸しては
休みつゝ
來たのである。
お
品は
手桶の
柄へ
横たへた
竹の
天秤へ
身を
投げ
懸けてどかりと
膝を
折つた。ぐつたり
成つたお
品はそれでなくても
不見目な
姿が
更に
檢束なく
亂れた。
西風の
餘波がお
品の
後から
吹いた。さうして
西風は
後で
括つた
穢い
手拭の
端を
捲つて、
油の
切れた
埃だらけの
赤い
髮の
毛を
扱きあげるやうにして
其垢だらけの
首筋を
剥出にさせて
居る。
夫と
共に
林の
雜木はまだ
持前の
騷ぎを
止めないで、
路傍の
梢がずつと
繞つてお
品の
上からそれを
覗かうとすると、
後からも/\
林の
梢が一
齊に
首を
出す。さうして
暫くしては
又一
齊に
後へぐつと
戻つて
身體を
横に
動搖ながら
笑ひ
私語くやうにざわ/\と
鳴る。
お
品は
身體に
變態を
來したことを
意識すると
共に
恐怖心を
懷きはじめた。三四
日どうもなかつたから
大丈夫だとは
思つて
見ても、
恁う
凝然として
居ると
遠くの
方へ
滅入つて
畢ふ
樣な
心持がして、
不斷から
幾らか
逆上性でもあるのだがさう
思ふと
耳が
鳴るやうで
世間が
却て
靜かに
成つて
畢つたやうに
思はれた。
不圖氣が
付いた
時お
品ははき/\として
天秤を
擔いだ。
林が
竭きて
田圃が
見え
出した。
田圃を
越せば
村で、
自分の
家は
田圃のとりつきである。
青い
煙がすつと
騰つて
居る。お
品は
二人の
子供を
思つて
心が
跳つた。
林の
外れから
田圃へおりる
處は
僅かに五六
間であるが、
勾配の
峻しい
坂でそれが
雨のある
度にそこらの
水を
聚めて
田圃へ
落す
口に
成つて
居るので
自然に
土が
抉られて
深い
窪が
形られて
居る。お
品は
天秤を
斜に
横へ
向けて、
右の
手を
前の
手桶の
柄へ
左の
手を
後の
手桶の
柄へ
掛けて
注意しつゝおりた。それでも
殆んど
手桶一
杯に
成り
相な
蒟蒻の
重量は
少しふらつく
足を
危く
保たしめた。やつと
人の
行き
違ふだけの
狹い
田圃をお
品はそろ/\と
運んで
行く。お
品は
白茶けた
程古く
成つた
股引へそれでも
先の
方だけ
繼ぎ
足した
足袋を
穿いて
居る。
大きな
藁草履は
固めたやうに
霜解の
泥がくつゝいて、それがぼた/\と
足の
運びを
更に
鈍くして
居る。
狹く
連つて
居る
田を
竪に
用水の
堀がある。
二三株比較的大きな
榛の
木の
立つて
居る
處に
僅一枚板の
橋が
斜に
架けてある。お
品は
橋の
袂で
一寸立ち
止つた。さうして
近づいた
自分の
家を
見た。
村落は
臺地に
在るのでお
品の
家の
後は
直に
斜に
田圃へずり
落ち
相な
林である。
楢や
雜木の
間に
短い
竹が
交つて
居る。いゝ
加減大きくなつた
楢の
木は
皆葉が
落ち
盡して
居るので、
其小枝を
透して
凹んだ
棟が
見える。
白い
羽の
鷄が五六
羽、がり/\と
爪で
土を
掻つ
掃いては
嘴でそこを
啄いて
又がり/\と
土を
掻つ
掃いては
餘念もなく
夕方の
飼料を
求めつゝ
田圃から
林へ
還りつゝある。お
品は
非常な
注意を
以て
斜な
橋を
渡つた。
四足目にはもう
田圃の
土に
立つた。
其時は
日は
疾に
沒して
見渡す
限り、
田から
林から
世間は
只黄褐色に
光つてさうしてまだ
明るかつた。お
品は
田圃からあがる
前に
天秤を
卸して
左へ
曲つた。
自分の
家の
林と
田との
間には
人の
足趾だけの
小徑がつけてある。お
品は
其小徑と
林との
境界を
劃つて
居る
牛胡頽子の
側に
立た。
鷄の
爪の
趾が
其處の
新らしい
土を
掻き
散らしてあつた。お
品は
土を
手で
聚めて
草履の
底でそく/\とならした。お
品の
姿が
庭に
見えた
時には
西風は
忘れたやうに
止んで
居て、
庭先の
栗の
木にぶつ
懸けた
大根の
乾びた
葉も
動かなかつた。
白い
鷄はお
品の
足もとへちよろ/\と
駈けて
來て
何か
欲し
相にけろつと
見上た。お
品は
平常のやうに
鷄抔へ
構つては
居られなかつた。お
品は
戸口に
天秤を
卸して
突然
「おつう」と
喚んだ。
「おつかあか」と
直におつぎの
返辭が
威勢よく
聞えた。それと
同時に
竈の
火がひら/\と
赤くお
品の
目に
映つた。
朝から
雨戸は
開けないので
内はうす
闇くなつて
居る。
外の
光を
見て
居たお
品の
目には
直ぐにはおつぎの
姿も
見えなかつたのである。
戸口からではおつぎの
身體は
竈の
火を
掩うて
居た。
返辭すると
共に
身體を
捩つたので
其赤い
火が
見えたのである。
おつぎの
脊に
居た
與吉はお
品の
聲を
聞きつけると
「まん/\ま」と
兩手を
出して
下りようとする。お
品はおつぎが
帶を
解いてる
間に
壁際の
麥藁俵の
側へ
蒟蒻の
手桶を二つ
並べた。
與吉はお
袋の
懷に
抱かれて
碌に
出もしない
乳房を
探つた。お
品は
竈の
前へ
腰を
掛けた。
白い
鷄は
掛梯子の
代に
掛けてある
荒繩でぐる/\
捲にした
竹の
幹へ
各自に
爪を
引つ
掛けて
兩方の
羽を
擴げて
身體の
平均を
保ちながら
慌てたやうに
塒へあがつた。さうして
青い
煙の
中に
凝然として
目を
閉ぢて
居る。
お
品は
家に
歸つて
幾らか
暖まつたがそれでも一
日冷えた
所爲かぞく/\するのが
止まなかつた。さうして
後に
近所で
風呂を
貰つてゆつくり
暖まつたら
心持も
癒るだらうと
思つた。
竈には
小さな
鍋が
懸つて
居る。
汁は
葢を
漂はすやうにしてぐら/\と
煮立つて
居る。
外もいつかとつぷり
闇くなつた。おつぎは
竈の
下から
火のついてる
麁朶を
一つとつて
手ランプを
點けて
上り
框の
柱へ
懸けた。お
品はおつぎが
單衣へ
半纏を
引つ
掛けた
儘であるのを
見た。
平常ならそんなことはないのだが
自分が
酷くぞく/\として
心持が
惡いのでつい
氣になつて
「おつう、そんな
姿で
汝や
寒かねえか」と
聞いた。それから
手拭の
下から
見えるおつぎのあどけない
顏を
凝然と
見た。
「
寒かあんめえな」おつぎは
事もなげにいつた。
與吉は
懷の
中で
頻りにせがんで
居る。お
品は
平常のやうでなく
何も
買つて
來なかつたので、ふと
困つた。
「おつう、そこらに
砂糖はなかつたつけゝえ」お
品はいつた。おつぎは
默つて
草履を
脱棄てゝ
座敷へ
駈けあがつて、
戸棚から
小さな
古い
新聞紙の
袋を
探し
出して、
自分の
手の
平へ
少し
砂糖をつまみ
出して
「そら/\」といひながら、
手を
出して
待つて
居る
與吉へ
遺つた。おつぎは
砂糖の
附いた
自分の
手を
嘗めた。
與吉は
其砂糖をお
袋の
懷へこぼしながら
危な
相につまんでは
口へ
入れる。
砂糖が
竭きた
時與吉は
其べとついた
手をお
袋の
口のあたりへ
出した。お
品は
與吉の
兩手を
攫へて
舐つてやつた。お
品は
鍋の
蓋をとつて
麁朶の
焔を
翳しながら
「こりや
芋か
何でえ」と
聞いた。
「うむ、
少し
芋足して
暖め
返したんだ」
「おまんまは
冷たかねえけ」
「それから
雜炊でも
拵えべと
思つてたのよ」
お
品は
熱い
物なら
身體が
暖まるだらうと
思ひながら、
自分は
酷く
懶いので
何でもおつぎにさせて
居た。おつぎは
粘り
氣のない
麥の
勝つたぽろ/\な
飯を
鍋へ
入れた。お
品は
麁朶を
一燻[#ルビの「いとく」はママ]べ
突つ込んだ。おつぎは
鍋を
卸して
茶釜を
懸けた。ほうつと
白く
蒸氣の
立つ
鍋の
中をお
玉杓子で二三
度掻き
立てゝおつぎは
又葢をした。おつぎは
戸棚から
膳を
出して
上り
框へ
置いた。
柱に
點けてある
手ランプの
光が
屆かぬのでおつぎは
手探りでして
居る。お
品は
左手に
抱いた
與吉の
口へ
箸の
先で
少し
づゝ
含ませながら
雜炊をたべた。お
品は
芋を三つ四つ
箸へ
立てゝ
與吉へ
持たせた。
與吉は
芋を
口へ
持つていつて
直ぐに
熱いというて
泣いた。お
品は
與吉の
頻をふう/\と
吹いてそれから
芋を
自分の
口で
噛んでやつた。お
品の
茶碗は
恁うして
冷えた。おつぎは
冷たくなつた
時鍋のと
換てやつた。お
品は
欲しくもない
雜炊を三
杯までたべた。
幾らか
腹の
中の
暖かくなつたのを
感じた。さうして
漸く
水離れのした
茶釜の
湯を
汲んで
飮んだ。おつぎは
庭先の
井戸端へ
出て
鍋へ一
杯釣瓶の
水をあけた。おつぎが
戻つた
時
「おつう、
今夜でなくつてもえゝや」とお
品はいつた。おつぎは
默つて
俵の
側の
手桶へ
手を
掛けて
「
此へも
水入て
置かなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが
大變だらえゝぞ」
お
品がいひ
切らぬうちにおつぎは
庭へ
出た。
直ぐに
洗つた
鍋と
手桶を
持つて
暗い
庭先からぼんやり
戸口へ
姿を
見せた。
閾へ
一寸手桶を
置いてお
品と
顏を
見合せた。
手桶の
水は
半分で
兩方の
蒟蒻へ
水が
乘つた。
お
品は三
人連で
東隣へ
風呂を
貰ひに
行つた。
東隣といふのは
大きな
一構で
蔚然たる
森に
包まれて
居る。
外は
闇である。
隣の
森の
杉がぞつくりと
冴えた
空へ
突つ
込んで
居る。お
品の
家は
以前から
此の
森の
爲めに
日が
餘程南へ
廻つてからでなければ
庭へ
光の
射すことはなかつた。お
品の
家族は
何處までも
日蔭者であつた。それが
後に
成つてから
方方に
陸地測量部の三
角測量臺が
建てられて
其上に
小さな
旗がひら/\と
閃くやうに
成つてから
其森が
見通しに
障るといふので三四
本丈伐らせられた。
杉の
大木は
西へ
倒したのでづしんとそこらを
恐ろしく
搖がしてお
品の
庭へ
横たはつた。
枝は
挫けて
其先が
庭の
土をさくつた。それでも
隣では
其木の
始末をつける
時にそこらへ
散らばつた
小枝や
其他の
屑物はお
品の
家へ
與へたので
思ひ
掛けない
薪が
出來たのと、も
一つは
幾らでも
東が
隙いたのとで、
隣では
自分の
腕を
斬られたやうだと
惜しんだにも
拘らずお
品の
家では
竊に
悦んだのであつた。それからといふものはどんな
姿にも
日が
朝から
射すやうになつた。それでも
有繋に
森はあたりを
威壓して
夜になると
殊に
聳然として
小さなお
品の
家は
地べたへ
蹂つけられたやうに
見えた。
お
品は
闇の
中へ
消えた。さうして
隣の
戸口に
現はれた。
隣の
雇人は
夜なべの
繩を
綯つて
居た。
板の
間の
端へ
胡坐を
掻いて
足で
抑へた
繩の
端へ
藁を
繼ぎ
足し
/\してちより/\と
額の
上まで
揉み
擧ては
右の
手を
臀へ
廻してくつと
繩を
後へ
扱く。
繩は
其度に
土間へ
落ちる。お
品は
板の
間に
小さくなつて
居た。
軈て
藁が
竭きると
傭人は
各自に
其繩を
足から
手へ
引つ
掛けて
迅速に
數を
計つては
土間から
手繰り
上げながら、
繼がつた
儘一
房づゝに
括つた。やがて
彼等は
板の
間の
藁屑を
土間へ
掃きおろしてそれから
交代に
風呂へ
這入つた。お
品はそれを
見ながら
默つて
待つて
居た。お
品は
此處へ
來ると
恁ういふ
遠慮をしなければならぬので、
少しは
遠くても
風呂は
外へ
貰ひに
行くのであつたが
其晩はどこにも
風呂が
立たなかつた。お
品は二三
軒そつちこつちと
歩いて
見てから
隣の
門を
潜つたのであつた。
傭人は
大釜の
下にぽつぽと
火を
焚いてあたつて
居る。
風呂から
出ても
彼等は
茹つたやうな
赤い
腿を
出して
火の
側へ
寄つた。
「どうだね、
一燻べあたつたらようがせう、
今直に
明くから」と
傭人がいつてくれてもお
品は
臀から
冷えるのを
我慢して
凝然と
辛棒して
居た。
懷で
眠つた
與吉を
騷がすまいとしては
足の
痺れるので
幾度か
身體をもぢ/\
動かした。
漸く
風呂の
明いた
時はお
品は
待遠であつたので
前後の
考もなく
急いで
衣物をとつた。
與吉は
幸ひにぐつたりと
成つてお
袋の
懷から
離れるのも
知らないのでおつぎが
小さな
手で
抱いた。お
品は
段々と
身體が
暖まるに
連れて
始めて
蘇生つたやうに
恍惚とした。いつまでも
沈んで
居たいやうな
心持がした。
與吉が
泣きはせぬかと
心付いた
時碌に
洗ひもしないで
出て
畢つた。それでも
顏がつや/\として
髮の
生際が
拭つても/\
汗ばんだ。さうしてしみ/″\と
快かつた。お
品は
衣物を
引つ
掛けると
直ぐと
與吉を
内懷へ
入れた。お
品の
後へは
下女が
這入つたので、おつぎは
其間待たねばならなかつた。おつぎが
出た
時はお
品の
身體は
冷め
掛けて
居た。お
品は
自分が
後では
いればよかつたのにと
後悔した。
お
品が
自分の
股引と
足袋とをおつぎに
提げさせて
歸つた
時に
月は
竊に
隣の
森の
輪郭をはつきりとさせて
其森の
隙間が
殊に
明るく
光つて
居た。
世間がしみ/″\と
冷えて
居た。お
品は
薄い
垢じみた
蒲團へくるまると、
身體が
又ぞく/\として
膝かしらが
氷つたやうに
成つて
居たのを
知つた。
次の
朝お
品はまだ
戸の
隙間から
薄ら
明りの
射したばかりに
眼が
覺めた。
枕を
擡げて
見たが
頭の
心がしく/\と
痛むやうでいつになく
重かつた。
狹い
家の
内に
羽叩く
鷄の
聲がけたゝましく
耳の
底へ
響いた。おつぎはまだすや/\として
眠つて
居る。
戸の
隙間が
瞼を
開いたやうに
明るくなつた
時鷄が
復た
甲走つて
鳴いた。お
品はおつぎを
今朝は
緩くりさせてやらうと
思つて
居た。それでもおつぎは
鷄が
又鳴いた
時むつくり
起きた。いつもと
違つて
餘りひつそりして
居るので
驚いたやうにあたりを
見た。さうしてお
袋がまだ
自分の
傍に
蒲團へくるまつてるのを
見た。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、
俺ら
今朝少し
工合が
惡いから
緩くりすつかんなよ」お
品はいつた。おつぎは
暫くもぢ/\しながら
帶を
締て
大戸を一
枚がら/\と
開けて
目をこすりながら
庭へ
出た。
井戸端の
桶には
芋が
少しばかり
水に
浸してあつて、
其水には
氷がガラス
板位に
閉ぢて
居る。おつぎは
鍋をいつも
磨いて
居る
砥石の
破片で
氷を
叩いて
見た。おつぎは
大戸を
開け
放して
置いたので
朝の
寒さが
侵入したのに
氣がついて
「おつかあ、
寒かなかつたか、
俺ら
知らねえで
居た」いひながら
大戸をがら/\と
閉めた。
闇くなつた
家の
内には
竈の
火のみが
勢ひよく
赤く立つた。おつぎは
「おゝ
冷てえ」といひながら
竈の
口から
捲れて
出る

へ
手を
翳して
「
今朝は
芋の
水氷つたんだよ」とお
袋の
方を
向いていつた。
「うむ、
霜も
降つたやうだな」お
品は
力なくいつた。
戸口を
後にしてお
品は
竈の
火のべろ/\と
燃え
上るのを
見た。
「
何處でも
眞白だよ」おつぎは
竹の
火箸で
落葉を
掻き
立てながらいつた。
「
夜明にひどく
冷々したつけかんな」お
品はいつて
一寸首を
擡げながら
「
俺ら
今朝はたべたかねえかんな、
汝構あねえで
出來たらたべた
方がえゝぞ」お
品はいつた。
又氷つた
飯で
雜炊が
煮られた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは
茶碗をお
袋の
枕元へ
出した。
雜炊の
焦げついたやうな
臭ひがぷんと
鼻を
衝いた
時お
品は
箸を
執つて
見ようかと
思つて
俯伏しになつて
見たが、
直に
壓になつて
畢つた。お
品が
動いたので
懷の
與吉は
泣き
出した。お
品は
俯伏した
儘乳房を
含ませた。さうして
又芋の
串を
拵へて
持たせた。
お
品が
表の
大戸を
開けさせた
時は
日がきら/\と
東隣の
森越しに
庭へ
射し
掛けてきつかりと
日蔭を
限つて
解け
殘つた
霜が
白く
見えて
居た。
庭先の
栗の
木の
枯葉からも、
枝へ
掛けた
大根の
葉からも
霜が
解けて
雫がまだぽたり/\と
垂れて
居る。
庭へ
敷いてある
庭葢の
藁も
只ぐつしりと
濕つて
居る。
冬になると
霜柱が
立つので
庭へはみんな
藁屑だの
蕎麥幹だのが一
杯に
敷かれる。それが
庭葢である。
霜柱が
庭から
先の
桑畑にぐらり/\と
倒れつゝある。
お
品は
蒲團の
中でも
滅切暖かく
成つたことを
感じた。
時々枕を
擡げて
戸口から
外を
見る。さうしては
麥藁俵の
側に
置いた
蒟蒻の
手桶をどうかすると
無意識に
見つめる。
横に
成つて
居る
目からは
東隣の
森の
梢が
妙に
變つて
見えるので
凝然と
見つめては
目が
疲れるやうに
成るので
又蒟蒻の
手桶へ
目を
移したりした。お
品はどうかして
少しでも
蒟蒻を
減らして
置きたいと
思つた。お
品は
其内に
起きられるだらうと
考へつゝ
時々うと/\と
成る。
「
切干でも
切つたもんだかな」おつぎが
庭から
大きな
聲でいつた
時お
品はふと
枕を
擡げた。それでおつぎの
聲は
意味も
解らずに
微かに
耳に
入つた。
暫くたつてからお
品は
庭でおつぎがざあと
水を
汲んでは
又間を
隔てゝざあと
水を
汲んで
居るのを
聞いた。おつぎは
大根を
洗つた。おつぎは
庭葢の
上に
筵を
敷いて
暖かい
日光に
浴しながら
切干を
切りはじめた。
大根を
横に
幾つかに
切つて、
更にそれを
竪に
割つて
短册形に
刻む。おつぎは
飯臺へ
渡した
爼板の
上へとん/\と
庖丁を
落しては
其庖丁で
白く
刻まれた
大根を
飯臺の
中へ
扱き
落す。お
品は
切干を
刻む
音を
聞いた
時先刻のは
大根を
洗つて
居たのだなと
思つた。お
品は二三
日此來もう
切干も
切らなければならないと
自分が
口について
云つて
居たことを
思ひ
出して、おつぎが
能く
機轉を
利かしたと
心で
悦んだ。
庖丁の
音が
雨戸の
外に
近く
聞える。お
品は
身體を
半分蒲團からずり
出して
見たら、
手拭で
髮を
包んで
少し
前屈みになつて
居るおつぎの
後姿が
見えた。
「
大根は
分つたのか」お
品は
聞いた。
「
分つてるよ」おつぎは
庖丁の
手を
止めて
横を
向て
返辭した。お
品は
又蒲團へくるまつた。さうしてまだ
下手な
庖丁の
音を
聞いた。お
品の
懷に
居た
與吉は
退屈してせがみ
出した。おつぎは
夫を
聞いて
「そうら、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-7]が
處へでも
來て
見ろ」といひながら
忙しくぽつと
一燻べ
落葉を
燃して
衣物を
灸つて
與吉へ
着せた。
「
よきは
利口だから
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-9]が
處に
居るんだぞ」お
品はいつた。おつぎは
自分の
筵の
上へ
抱いて
行つた。おつぎの
手は
落葉の
埃で
汚れて
居た。
再び
庖丁を
持つた
時大根には
指の
趾がついた。おつぎは
其手を
半纏で
拭つた。
與吉は
側で
刻まれた
大根へ
手を
出す。
「
危險よ、さあ
此でも
持つて
居ろ」おつぎは
切り
掛けの
大根をやつた。
與吉は
直にそれを
噛ぢつた。
「
辛くて
仕やうあんめえな
よきは」おつぎは
甘やかすやうにいつた。お
品にはそれが
能く
聞えて
二人がどんなことをして
居るのかゞ
分つた。お
品の
耳には
續いて
「ぽうんとしたか、そらそつちへ
行つちやつた」といふ
聲がしたかと
思ふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふ
聲やそれから
又
「それ
持ち
出すんぢやねえ、
聽かねえと
此で
切つてやんぞ、
赤まんまが
出るぞおゝ
痛え」
抔とおつぎのいふのが
聞えた。
其度に
庖丁の
音が
止む。お
品には
與吉が
惡戯をしたり、おつぎが
痛いといつて
指を
啣へて
見せれば
與吉も
自分の
手を
口へ
當て
居るのが
目に
見えるやうである。お
品はおつぎを
平常から
八釜敷して
居たので
餘所の
子よりも
割合に
動けると
思つて
居るけれど、
與吉と
巫山戯たりして
居るのを
見るとまだ
子供だといふことが
念頭に
浮ぶ。
自分が
勘次と
相知つたのは十六の
秋である。おつぎは
恁うして
大人らしく
成るであらうかと
何時になくそんなことを
思つた。おつぎは十五であつた。
午餐もお
品は
欲しくなかつた。
自分でも
今日は
商に
出られないと
諦めた。
明日に
成つたらばと
思つて
居た。
然しそれは
空頼であつた。お
品は
依然として
枕を
離れられない。
有繋に
不安の
念が
先に
立つた。お
品はつい
近頃行つた
勘次の
事が
頻りに
思ひ
出されて、こつちであれ
程働いて
行つたのに
屹度休みもしないで
錢取をして
居るのだらうと
思ふと、
寒くてもシヤツ
一つになつて、
後には
其シヤツの
端が
拔け
出して
能く
臍が
出ることや、
夜になると
能く
骨がみり/\する
樣だといつたことが
目の
前にあるやうで
何だか
逢ひたくて
堪らぬやうな
心持がするのであつた。
勘次は
利根川の
開鑿工事へ
行つて
居た。
秋の
頃から
土方が
勸誘に
來て
大分甘い
噺をされたので
此の
近村からも五六
人募集に
應じた。
勘次は
工事がどんなことかも
能く
知らなかつたが一
日の
手間が五十
錢以上にもなるといふので、それが
其季節としては
法外な
値段なのに
惚れ
込んで
畢つたのである。
工事の
場所は
霞ヶ
浦に
近い
低地で、
洪水が一
旦岸の
草を
沒すと
湖水は
擴大して
川と
一つに
只白々と
氾濫するのを、
人工で
築かれた
堤防が
僅に
湖水と
川とを
區別するあたりである。
勘次は
自分の
土地と
比較して
茫々たるあたりの
容子に
呑まれた。さうして
工夫等に
權柄にこき
使はれた。
勘次は
愈傭はれて
行くとなつた
時收穫を
急いだ。
冬至が
近づく
頃には
田はいふまでもなく
畑の
芋でも
大根でもそれぞれ
始末しなくてはならぬ。
勘次はお
品が
起きて
竈の
火を
點けるうちには
庭葢へ
籾の
筵を
干したりそれから
獨りで
磨臼を
挽いたりして、それから
大根も
干したり
土へ
活けたりして
闇いから
闇いまで
働いた。それでも
籾が
少しと
畑が
少し
殘つたのをお
品がどうにかするといつたので
出て
行つたのである。
工事の
箇所へは廿
里もあつた。
勘次は
行けば
直に
錢になると
思つたので
漸く一
圓ばかりの
財布を
懷にした。
辨當をうんと
背負つたので
目的地へつくまでは
渡錢の
外には一
錢も
要らなかつた。
勘次は
夜ついて
其次の
日には
疲れた
身體で
仕事に
出た。
彼は
半日でも
無駄な
飯を
喰ふことを
恐れた。
然し
其の
次の
日は
過激な
勞働から
俗に
そら手というて
手の
筋が
痛んだので二三
日仕事に
出られなかつた。それから六七
日たつて
烈しい
西風が
吹いた。
勘次は
薄い
蒲團へくるまつて
日の
中から
冷えてた
足が
暖らなかつた。うと/\と
熟睡することも
出來ないで
輾轉して
長い
夜を
漸く
明した。
其の
次の
日彼は
硬ばつたやうに
感ずる
手を
動かして
冷たいシヤブルの
柄を
執つて
泥にくるまつて
居た。さうして
居る
處へ
村の
近所のものがひよつこり
尋ねて
來たので
彼は
狐にでも
魅まれたやうに
只驚いた。
近所の
者は
大勢が
只泥のやうになつて
動いて
居るのでどれがどうとも
識別がつかないで
困つたといつて、
勘次に
逢うたことを
反覆して
只悦んだ。
途中へ
一晩泊つたといふやうなことをいつて
勘次が
心忙しく
聞く
迄は
理由をいはなかつた。
勘次は
漸くお
品に
頼まれて
來たのだといふことを
知つた。
勘次はお
品が
病氣に
罹つたのだといふのを
聞いて
萬一かといふ
懸念がぎつくり
胸にこたへた。さうして
反覆してどんな
鹽梅だと
聞いた。
噺の
容子ではそれ
程でもないのかと
思つても
見たが、それでも
勘次は
口を
利くにも
唾が
喉からぐつと
突つ
返して
來るやうで
落付かれなかつた。
其の
日の
夜中に
彼等は
立つた。
勘次は
自分も
急ぐし
使を
疲れた
足で
歩かせることも
出來ないので
霞ヶ
浦を
汽船で
土浦の
町へ
出た。
夜は
汽船で
明けたがどうしたのか
途中で
故障が
出來たので
土浦へ
着いたのは
豫定の
時間よりは
遙に
後れて
居た。
土浦の
町で
勘次は
鰯を
一包み
買つて
手拭で
括つてぶらさげた。
土浦から
彼は
疲れた
足を
後に
捨てゝ
自分は
力の
限り
歩いた。それでも
村へはひつた
時は
行き
違ふ
人がぼんやり
分る
位で
自分の
戸口に
立つた
時は
薄暗い
手ランプが
柱に
懸つて
燻ぶつて
居た。
勘次はひつそりとした
家のなかに
直に
蒲團へくるまつて
居るお
品の
姿を
見た。それからお
品の
足を
揣つて
居るおつぎに
目を
移した。
勘次は
大戸をがらりと
開けて
閾を
跨いだ
時何もいはずに
只
「どうしてえ」といふのが
先であつた。お
品は
勘次の
聲を
聞いて
思はず
枕を
動かして
「
勘次さんか」といつて
更に
「
南のおとつゝあは
行き
違にでもならなかつたんべかな」といつた。
「
行逢つたよ。そんだがお
前どんな
鹽梅なんでえ」
「
俺らそれ
程でねえと
思つて
居たが
三四日横に
成つた
切でなあ、それでも
今日等はちつたあえゝやうだから
此分ぢや
直に
吹つ
返すかとも
思つてんのよ」
「そんぢやよかつた、
俺ら
只ぢや
歩いてもよかつたが、
南こと
又歩かせちや
濟まねえから
同志に
土浦まで
汽船で
乘つ
着けたんだが、
南は
草臥れたもんだから
俺ら
先へ
出たんだがな、
南もあの
分ぢや
今夜もなか/\
容易ぢやあんめえよ、それに
汽舩が
又後れつちやつてな」
勘次はいひながら
草鞋をとつた。
手拭の
端へ
括つて
來た
鰯の
包みをかさりとお
品の
枕元へ
投げて、
首へつけて
居た
風呂敷包をどさりと
置いて
勘次は
庭へ
出て
足を
洗つた。
勘次はお
品の
枕元へ
座を
占めた。
「そんなに
惡くなくつちやそれでもよかつた、
俺らどうしたかと
思つてな」
勘次は
改めて
又いつた。
「お
品おまんまは
喰べてか」
勘次はつけ
足した。
「
先刻おつうに
米のお
粥炊いて
貰つてそれでもやつと
掻つ
込んだところだよ」
「それぢやどうした、
途中で
見付けて
來たんだから一
疋やつて
見ねえか」
勘次は
手ランプをお
品の
枕元へ
持つて
來て
鰯の
包を
解いた。
鰯は
手ランプの
光できら/\と
青く
見えた。
「ほんによなあ」お
品は
俯伏しになつて
恁ういつた。
「おつう、
其處へ
火でも
吹つたけて
見ねえか」
勘次はいつた。
「
勘次さんそら
大變だつけな、
俺らそんなにや
要らなかつたな」
「
今だから
何時までも
保つよ、さうしてお
前も
力つけろな」
「
汽船に
乘つて
來たつて
餘つ
程費用も
掛つたんべな」
「さうよ、
二人で六十
錢ばかりだが
此は
俺出したのよ、
南に
出させる
譯にも
行かねえかんな」
「それぢや
稼えだ
錢それだけ
立投にしつちやつたな」
「そんでも
財布にやまあだ
有るよ、
七日ばかり
働えてそれでも二
兩は
殘つたかんな、そんで
又行く
筈で
前借少しして
來たんだ、こつちの
方から
行つてる
連中が
保證してくれてな」
勘次は
誇り
顏にいつた。
「
俺ら
今日見てえだらえゝが、
酷く
行逢ひたくなつてなあ」お
品は
俯伏した
額を
枕につけた。
「どうせ
此處らの
始末もしねえで
行つたんだから、
一遍は
途中で
歸つて
見なくつちや
成らねえのがだから
同じ
事だよ」
勘次はお
品を
覗き
込やうにしていつた。
「それでも
俵にしちや
置いたな」
勘次は
壁際の
麥藁俵を
見ていつた。お
品はまだ
俯伏した
儘である。
「あつちに
居ちや
錢は
要らねえな、
煙草一
服吸ふべえぢやなし、十五
日目が
晦日でそれまでは
勘定なしで
其間は
米でも
薪でもみんな
通帳で
借りて
置く
位なんだから、十五
日目に
成らなくつちや
財布も
膨れねえが、
又百でも
出つこはねえかんな」
勘次は
更に
出先のことをお
品へ
聞かせた。
「
米ばかり
炊えても
毎日一
升づゝは
要る
位だから
骨も
隨分折れんが
出せえすりや二
貫と三
貫は
殘せつから、
歸るまでにや
俺もどうにか
成ると
思つてんのよ、さうすりや
鹽鮭位は
買あことも
出來らな」
「そんぢやよかつた、
土方なんちや
碌な
奴等は
居ねえつていふからどうしたかと
思つてな」お
品は
首を
擡げた。
「そんな
奴等と
交際した
日にや
限はねえが、
隅の
方にちゞまつてりや
何ともゆはねえな」
勘次がついて
居る
間におつぎは
枯粗朶を
折て
火鉢へ
火を
起した。
勘次は
火箸を
渡して
鰯を
三つばかり
乘せた。
鰯の
油がぢり/\と
垂れて
青い
焔が
立つた。
鰯の
臭が
薄い
煙と
共に
室内に
滿ちた。さうして
其臭がお
品の
食慾を
促した。お
品は
俯伏したなりで
煙臭くなつた
鰯を
喰べた。
「どうした
鹽辛かあ
有んめえ」
「
有繋佳味えな」
「
此でもこゝらの
商人は
持つちや
來ねえぞ」
勘次は
一心に
見ながらいつた。
お
品は
二匹へ
手をつけて
箸を
置きながら
懷で
眠つて
居る
與吉を
覗いて
「
起きて
居たら
大騷ぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」
勘次はいつた。
「
澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「
俺も
飯でも
食はうかえ」
勘次は
風呂敷包から
辨當の
殘を
出して
冷たい
儘ぷす/\と
噛つた。
「おうつ、お
茶は
冷めたくなつたつけかな」お
品はいつた。
「
要ねえぞ
仕事に
出りや
毎日かうだ」
勘次は
梅干を
少しづゝ
嘗め
減らした。
辨當が
盡きてから
勘次は
鰯をおつぎへ
挾んでやつた。さうして
自分でも一
口たべた。
「
此りや
佳味えこたあ
佳味えが
餘りあまくつて
俺がにや
胸が
惡くなるやうだな」
勘次は
冷めた
湯を
幾杯か
傾けた。
勘次は
風呂敷から
袋を
出してお
品の
枕元へ
置いて
「
米これだけ
殘つたから
持つて
來たんだ、あつちに
居ればえゝが
幾日でも
明けると
炊かれつちやつても
仕やうねえかんな、そんぢや
此りやおつうげやつて
置くんだ」
勘次は
米の
小さな
袋をおつぎへ
渡した。
「
袋なんぞ
又何だと
思つたよ」お
品は
輕くいつた。
「それでも
薪は
持つて
來る
譯にも
行かねえから
置いて
來つちやつた」
勘次は
自ら
嘲るやうに
目から
口へ
掛けて
冷たい
笑が
動いた。
「お
品、
足でもさすつてやんべぢやねえか」
勘次はお
品の
裾の
方へ
行つた。
「えゝよ
勘次さん、
俺ら
今日は
日のうちから
心持えゝんだから、
先刻もおつうが
揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて
云つた
處だよ、こんぢや
二三日も
過ぎたら
勘次さんは
又行けべえよ」お
品は
快よげにいつた。
「
今夜はひどく
心持えゝんだよ、えゝよ
本當だよ
勘次さん、お
前草臥たんべえな」
更にお
品は
威勢がついていつた。
夜は
深けた。
外の
闇は
氷つたかと
思ふやうに
只しんとした。
蒟蒻の
水にも
紙の
如き
氷が
閉ぢた。
次の
朝霜は
白く
庭葢の
藁におりた。
切干の
筵は
三枚ばかり
其庭葢の
上に
敷いた
儘で、
切干には
氷を
粉末にしたやうな
霜が
凝つて
居て、
東の
森の
隙間から
射し
透す
朝日にきら/\と
光つた。
白い
切干は
蒸さずに
干したのであつた。
切干は
雨が
降らねば
埃だらけに
成らうが
芥が
交らうが
晝も
夜も
筵は
敷き
放しである。
勘次は
霜柱の
立てる
小徑を
南へ
行つた。
昨夜遲かつたことやら
何やら
噺をして
暇どつた。
庭先から
續く
小さな
桑畑の
向に
家が
見えるので、
平生それを
勘次の
家でも
唯南とのみいつて
居る。
彼が
薦つくこ
[#「薦つくこ」に傍点]を
擔いで
歸つて
來た
時は
日向の
霜が
少し
解けて
粘ついて
居た。お
品は
勘次が
一寸の
間居なく
成つたので
酷く
寂しかつた。
此の
朝になつてからもお
品の
容態がいゝので
勘次はほつと
安心した。さうして
斜に
遠くから
射す
冬の
日を
浴びながら
庭葢の
上に
筵を
敷いて
俵を
編みはじめた。
薦つくこは
兩端に
足が
附いて
居る。
丁度荷鞍の
骨のやうな
簡單な
道具である。
其足から
足へ
渡した
棒へ
藁を
一掴みづゝ
當てゝは
八人坊主をあつちへこつちへ
打つ
違ひながら
繩を
締めつゝ
編むのである。
八人坊主といふのは
其繩を
捲いたいはゞ
小さな
錘である、
八つあるので
八人坊主といつて
居る。
小作米を
入れる
藁俵を四五
俵分作らねば
成らぬことが
稼ぎに
出る
時から
彼には
心掛りであつた。すぐつた
藁も
繩も
別に
取つて
置きながら
只忙しくて
放棄つて
出て
行つたのである。
お
品は
毎日閉め
切つて
居た
表の
雨戸を一
枚だけ
開けさせた。からりとした
蒼い
空が
見えて
日が
自分の
居る
蒲團に
近くまで
偃つた。お
品は
此れまでは
明るい
外を
見ようと
思ふには
餘りに
心が
鬱して
居た。お
品は
庭先の
栗の
木から
垂れた
大根が
褐色に
干て
居るのを
見た。おつぎも
勘次の
横へ
筵を
敷いて
又大根を
切つて
居る。
其庖丁のとん/\と
鳴る
間に
忙しく
八人坊主を
動かしてはさらさらと
藁を
扱く
音が
微かに
交つて
聞える。お
品は
二人の
姿を
前にして
酷く
心強く
感じた。
其の
日は
栗の
木に
懸けた
大根の
動かぬ
程穩かな
日であつた。お
品は
此の
分で
行けば
一枚紙を
剥がすやうに
快よくなることゝ
確信した。
勘次は
藁俵を
編み
了へて、さうして
端を
縛つた
小さな
藁の
束を
丸く
開いて、それを
足の
底に
踏んで
踵を
中心に
手と
足とを
筆規のやうにしてぐる/\と
廻りながら
丸い
俵ぼつちを
作つた。
勘次はお
品がどうにか
始末をして
置いた
麥藁俵を
明けて
仕上げた
計りの
藁俵へ
米を
量り
込んだ。
米には
赤い
粒もあつたが
籾が
少し
交つて
居てそれが
目に
立つた。
「
籾が
少し
たかゝつたな」
勘次はふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも
俺ら
唐箕は
強く
立てた
積なんだがなよ、
今年は
赤も
夥多だが
磨臼の
切れ
方もどういふもんだか
惡いんだよ」とお
品は
少し
身を
動かして
分疏するやうにいつた。
「
尤も
此位ぢや
旦那も
大目に
見てくれべえから
心配はあんめえがなよ」
勘次は
直にお
品の
病氣に
心付いて
恁ういつた。
壁際には
藁の
器用な
俵が
規則正しく
積み
換られた。お
品はそれを一
心に
見た。それもお
品を
快よくする
一つであつた。
勘次は
俵の
側な手桶の
蓋をとつて
「
此りや
蒟蒻だな」といつた。
「
俺らそれ
仕入たつきり
起られねえんだよ」お
品は
枕を
手で
動かしていつた。
勘次は
又葢をした。
靜かな
空をぢり/\と
移つて
行く
日が
傾いたかと
思ふと一
散に
落ちはじめた。
冬の
日はもう
短い
頂點に
達して
居るのである。
勘次はまだ
日が
有るからといつて
鍬を
擔いで
麥畑へ
出た。
然し
幾らも
耕さぬうちに
日は
落ちて
俄かに
冷たく
成つた
世間は
暗澹として
來た。お
品は
勘次を
出して
酷く
遣瀬ないやうな
心持になつて、
雨戸を
引せて
闇い
方へ
向て
目を
閉ぢた。
冬至はもう
間が二日しか
無くなつた。
朝の
内に
勘次は
蒟蒻の
葢をとつて
見て
「どうしたもんだかな、
俺でも
擔いて
歩つてんべかな、
恁して
置いたんぢや
仕やうねえかんな」お
品へ
相談して
見た。
「さうよな、それよりか
俺らどつちかつちつたら
大根でも
漬て
貰へてえな、
毎日栗の
木見て
居て
干過ぎやしめえかと
思つて
心配してんだからよ」お
品は
訴へるやうにいつてさうして
更に
「
自分で
丈夫でせえありや
疾くにやつちまつたんだが」と
小聲でいつた。お
品はどうも
勘次を
出すのが
厭であつた。
然し
何だかさう
明白地にもいはれないので
恁ういつたのであつた。
「
勘次さん
鹽見てくんねえか、
俺ら
大丈夫有ると
思つてたつけがなよ、それからこつちの
桶の
糠がえゝんだよ、そつちのがにや
房州砂交つてんだから」お
品はいつた。
「おうい」
勘次はいつて、
「
房州砂でも
何でも
構あめえ、どうで
糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと
凝結つてら」
「
勘次さんそんでも
入えんなよ、
毒だつちんだから、
俺折角別にしてたんだから」お
品は
少し
身を
起し
掛けていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それから
鹽を
改めて
見て
「どうして
此れだけ
使へ
切れるもんけえ」と
勘次はいつた。お
品は
勘次が
梯子を
掛けて
一つ/\に
大根を
外すのも
小糠を
筵へ
量るのも
白い
鹽を
小糠へ
交ぜるのも
滿足氣に
見て
居た。
お
品は
勘次を
外へ
遣るのが
厭なのでさうはいはずに
時々おつぎに
足をさすらせた。さうすると
勘次は
「どうした
幾らか
惡いのか」と
自分も一
心に
蒲團の
裾へ
手を
掛ける。
勘次は
庭から
外へは
出られなかつた。
それでも
冬至が
明日と
迫つた
日に
勘次は
蒟蒻を
持つて
出た。お
品もそれは
止めなかつた。もう
幾人か
歩いた
後なので、
思ふやうには
捌けなかつたがそれでも
勘次はお
品にひかされて、まだ
殘つて
居る
蒟蒻を
擔いで
歸つて
來て
畢つた。
「
蒟蒻はお
品がもんだから、
錢はみんなおめえげ
遣つて
置くべ」
勘次は
銅貨をぢやら/\とお
品の
枕元へ
明けた。お
品は
銅貨を一つ/\
勘定した。さうして
資本を
引いても
幾らかの
剩餘があつたので
「
勘次さん
思ひの
外だつけな、まあだあと
餘程あんべえか」といつた。
「
幾らでもねえな、はあ
此丈ぢや
又出る
程のこつてもあんめえよ」
勘次はいつた。お
品は
自分の
手で
錢を
蒲團の
下へ
入れた。
其の
日お
品は
勘次を
出して
情ないやうな
心持がして
居たのであるが、
思つたよりは
商をして
來て
呉れたので一
日の
不足が
全く
恢復された。さうして
「
菜は
畑へ
置きつ
放しだつけべな」
勘次がいつた
時お
品も
驚いたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、
後れつちやつたつけなあ、
俺ら
忘れてたつけが
大丈夫だんべかなあ」といつた。
「そんぢや
俺ら
今つからでも
曳ける
丈曳くべ」
勘次はおつぎを
連れて
出た。
冬至になるまで
畑の
菜を
打棄つて
置くものは
村には
一人もないのであつた。
勘次は
荷車を
借りて
黄昏までに二
車挽いた。
青菜の
下葉はもうよく/\
黄色に
枯れて
居た。お
品は
二人を
出し
薄暗くなつた
家にぼつさりして
居ても
畑の
收穫を
思案して
寂しい
不足を
感じはしなかつた。
夏季の
忙しいさうして
野菜の
缺乏した
時には
彼等の
唯一の
副食物が
鹽を
噛むやうな
漬物に
限られて
居るので、
大根でも
青菜でも
比較的餘計な
蓄へをすることが
彼等には
重大な
條件の
一つに
成つてるのである。
冬至の
日も
靜かであつた。
此の
頃になつてから
此處ばかりは
忘れたかと
思ふやうに
西風が
止んで
居る。
晝の
一しきりは
冷たい
空氣を
透して
日が
暖かに
射し
掛けた。お
品は
朝から
心持が
晴々して
日が
昇るに
連れて
蒲團へ
起き
直つて
見たが、
身體が
力の
無いながらに
妙に
輕く
成つたことを
感じた。
自分の
蒲團の
側まで
射し
込む
日に
誘ひ
出されたやうに、
雨戸の
閾際まで
出て
與吉を
抱いては
倒して
見たり、
擽つて
見たりして
騷がした。
勘次はおつぎを
相手に
井戸端で
青菜の
始末をして
居る。
根を
切つて
桶で
洗つた
青菜は、
地べたへ
横へた
梯子の
上に一
枚外して
行つて
載せた
其戸板へ
積まれた。
菜が
洗ひ
畢つた
時枯葉の
多いやうなのは
皆釜で
茹でゝ
後の
林の
楢の
幹へ
繩を
渡して
干菜に
掛けた。
自分等の
晝餐の
菜にも
一釜茹でた。お
品は
僅な
日數を
横に
成つて
居たばかりに
目が
衰へたものか
日の
稍眩いのを
感じつゝ
其の
日の
光を
全身に
浴びながら
二人のするのを
見て
居た。さうして
茹菜の
一皿が
幾らか
渇を
覺えた
所爲か
非常に
佳味く
感じた。
青菜の
水が
切れたので
勘次は
桶へ
鹽を
振つては
青菜を
足でぎり/\と
蹂みつけて
又鹽を
振つては
蹂みつける。お
品は
鹽の
加減やら
何やら
先刻から
頻りに
口を
出して
居る。
勘次はお
品のいふ
通りに
運んで
居る。
お
品は
起きて
居ても
別に
疲れもしないのでそつと
草履を
穿いて
後の
戸口から
出て
楢の
木へ
引つ
張つた
干菜を
見た。それから
林を
斜に
田の
端へおりて
又牛胡頽子の
側に
立つて
其處をそつと
踏み
固めた。それから
暫く
周圍を
見て
立つて
居た。お
品は
庭先から
喚ぶ
勘次の
大きな
聲を
聞いた。
竹や
木の
幹に
手を
掛けながら
斜めに
林をのぼつて
後の
戸口から
家へもどつた
時更に
叫んだ
勘次の
聲を
聞くと
共に、
天秤を
擔いだ
儘ぼんやり
立つて
居る
商人の
姿を
庭葢の
上に
見た。
「お
品卵欲しいと」
勘次は
次の
桶の
青菜に
鹽を
振り
掛けながらいつた。
「
幾らか
有つたつけな」お
品は
戸棚の
抽斗から
白い
皮の
卵を廿ばかり
出した。
「おつう、四五日
見ねえで
居たつけが
塒にも
幾らか
有つたつけべ、あがつて
見ねえか」おつぎに
吩附けた。おつぎは
米俵へ
登つて
其上に
低く
釣つた
竹籃の
塒を
覗いた
時、
牝
が一
羽けたゝましく
飛び
出して
後の
楢の
木の
中へ
鳴き
込んだ。
他の
鷄も一しきり
共に
喧しく
鳴いた。おつぎは
手を
延ばしては
卵を一つ/\に
取つて
袂へ
入れた。おつぎは
袂をぶら/\させて
危相に
米俵を
降りた。
其處にも
卵は六つばかりあつた。
商人は
卸した四
角なぼて
笊から
眞鍮の
皿と
鍵が
吊された
秤を
出した。
「
掛は
幾らだね」お
品は
聞いた。
「十一
半さ、
近頃どうも
安くつてな」
商人はいひながら
淺い
目笊へ
卵を
入れて
萠黄の
紐の
たどりを
持つて
秤の
棹を
目八
分にして、さうして
分銅の
絲をぎつと
抑へた
儘銀色の
目を
數へた。
玩具のやうな
小さな
十露盤を
出して
商人は
「
皆掛が四百廿三
匁二
分だからなそれ」
秤の
目をお
品に
見せて
十露盤の
玉を
彈いた。
「
風袋を
引くと四百八
匁二
分か、どうした
幾つだ廿六かな、さうすると
一つが」
商人のいひ
畢らぬうちにお
品は
「
幾らなんでえ、
此の
風袋は」と
聞いた。
「十五
匁だな」
「
大概十
匁ぢやねえけえ」
「そんだら
見さつせえそれ、十五
匁だんべ、
俺がな
他人のがよりや
大けえんだかんな」
商人は
目笊の
目を
掛けて
見せて
「はて、一つ十五
匁七
分づゝだ、
粒は
小せえ
方だな」
商人はゆつくり
十露盤の
玉を
彈いて
「四十六
錢八
厘六
毛三
朱と
成るんだが、
此りや八
厘として
貰つてな」と
商人は
財布から
自分の
手へ
錢を
明けた。
「お
品おめえ
自分でも
喰つたらよかねえけ、
幾つでも
取つて
置けな」
勘次は
鹽だらけにした
手を
止めて
遠くから
呶鳴つた。
「
此の
錢で
外の
物買つて
喰つた
方がえゝから
此れ
丈は
遣るとすべえよ、
折角勘定もしたもんだからよ、
俺ら
大層よくなつたんだから
大丈夫だよ」お
品はいつた。
「そんなこといはねえで
幾つでも
取つて
置けよ、
癒り
際が
氣を
附けねえぢやえかねえもんだから」
勘次は
漬菜の
手を
放して
檐下へ
來た。
手も
足も
茹でたやうに
赤くなつて
居る。
「それぢやちつとも
殘したものかな」お
品は
小さなのを二つ
取つた。
「そんなんぢやねえのとれな」
勘次は
大きなのを
選んで三つとつた。
卵の
皮には
手の
鹽が
少し
附いた。
「そんぢやそれ
掛けてんべ」
商人は
今度は
眞鍮の
皿へ
卵を
乘せて
「こつちなんぞぢや、
後幾らでも
出來らあな」といひながら
たどりを
持つた。
卵が
少し
動くと
秤の
棹がぐら/\と
落付かない。
「
誤魔化しちや
厭だぞ」お
品は
寂しく
笑ひながらいつた。
「どうしておめえ、
此の
秤なんざあ
檢査したばかりだもの一
分でも
此の
通り
跳ねたり
垂れたりして、どうして
飛んだ
噺だ」
商人は
分銅の
手を
抑へて
又目を
讀んだ。
「五十
匁一
分だな、さうすつと
一つ十六
匁七
分づゝだ、
大けえからな」
「
鹽がくつゝいてつから
鹽の
目方もあんぞ」
勘次は
側からいつて
笑つた。
商人は
平然として
居る。
「五
錢五
厘六
毛幾らつていふんだ、さうすつと
先刻のは
幾らの
勘定だつけな」
「四十六
錢八
厘幾らとか
言たつけな」お
品は
直にいつた。
「それぢや
差引四十一
錢三
厘小端か、こつちのおつかさま
自分でも
商してつから
記憶がえゝやな」
商人は
十露盤を
持つて
「どうしたえ、
鹽梅でも
惡いやうだが
風邪でも
引いたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、
少し
惡くつて
仕やうねえのよ」お
品はいつて
「
小端は
幾らになんでえ」と
更に
聞いた。
「
勘定にや
成んねえなどうも、
近頃は
仕やうねえよ
文久錢だの
青錢だのつちうのが
薩張出なくなつちやつてな、それから
何處へ
行つても
恁して
置くんだ」
商人がぼて
笊から
燐寸を
出さうとすると
「
又燐寸ぢやあんめえ」お
品は
微笑した。
「こまけえ
勘定にや
近頃燐寸と
極めて
置くんだが、
何處の
商人もさうのやうだな」
商人は
卵を
笊へ
入れながらいひ
續けた。
「
酷く
安くなつちやつたな、
寒く
成つちや
保存がえゝのに
却て
安いつちうんだから
丸で
反對になつちやつたんだな」
勘次は
青菜を
桶へ
並べつゝいつた。
「
上海がへえつちやぐつと
値が
下つちやつてな、あつちぢやどれ
程安いもんだかよ、
品が
少ねえ
時に
安くなるつちうんだから
商人も
儲からねえ」
天秤を
擔いで
彼は
又更に
「
相場が
下げ
氣味の
時にやうつかりすつと
損物だかんな、なんでも
百姓して
穀積んで
置く
者が一
等だよ、
卵拾ひもなあ、
赤痢でも
流行つて
來てな、
看護婦だの
巡査だの
役場員だのつちう
奴等病人の
口でもひねつてみつしり
喰つてゞも
呉んなくつちや
商人は
駄目だよ」
商人は
行き
掛けて
「また
溜めて
置いておくんなせえ」
今度は
少し
叮寧にいひ
捨てゝ
去つた。
お
品は
錢を
蒲團の
下の
巾着へ
入れた。さうして
棚から
まるめ箱を
卸して三つの
白い
卵を
入れた。
以前は
此の
土地でも
綿が
採れたので、
夜なべには
女が
皆竹
で
絲を
引いた。
綿打弓でびんびんとほかした
綿は
箸のやうな
棒を
心にして
蝋燭位の
大きさにくる/\と
丸める。それが
まるめである。
此の
まるめから
不器用な
百姓の
手が
自在に
絲を
引いた。
此の
頃では
綿がすつかり
採れなくなつたので、
まるめ箱も
煤けた
儘稀に
保存されて
居るのも
絲屑や
布の
切端が
入れてある
位に
過ぎないのである。お
品はそれから
膨れた
巾着の
爲めに
跳ねあげられた
蒲團の
端を
手で
抑へた。それから
又横になつた。
先刻から
疲勞したやうな
心持に
成つて
居たが
横になると
身體が
溶けるやうにぐつたりして
微かに
快よかつた。
其の
晩一
年中の
臟腑の
砂拂だといふ
冬至の
蒟蒻を
皆で
喰べた。お
品は
喰の
日は
明日からでも
起きられるやうに
思つて
居た。さうして
勘次は
仕事の
埓が
明いたので
又利根川へ
行かれることゝ
心に
期して
居た。
お
品の
容態は
其の
夜から
激變した。
勘次が
漸く
眠に
落ちた
時お
品は
「
口が
開けなく
成つて
仕やうねえよう」と
情ない
聲でいつた。お
品は
顎が
釘附にされたやうに
成つて、
唾を
飮むにも
喉が
狹められたやうに
感じた。それで
自分にもどうすることも
出來ないのに
驚いた。
勘次も
吃驚して
起きた。
「どうしたんだよ
大層惡いのか、
朝までしつかりしてろよ」と
力をつけて
見たが、
自分でもどうしていゝのか
解らないので
只はら/\しながら
夜を
明した。
勘次は
只お
品が
心配になるので、
近所の
者を
頼んで
取り
敢ず
醫者へ
走らせた。さうして
自分は
枕元へくつゝいて
居た。
彼等は
容易なことで
醫者を
聘ぶのではなかつた。
然し
其最も
恐れを
懷くべき
金錢の
問題が
其心を
抑制するには
勘次は
餘りに
慌てゝ
且驚いて
居た。
醫者は
鬼怒川を
越えて
東に
居る。
勘次は
草臥れやしないかといつてはお
品の
足をさすつた。それでもお
品の
大儀相な
容子が
彼の
臆した
心にびり/\と
響いて、
迚も
午後までは
凝然として
居ることが
出來なくなつた。
近所の
女房が
見に
來て
呉れたのを
幸ひに
自分も
後から
走つて
行つた。
鬼怒川の
渡の
船で
先刻の
使ひと
行違に
成つた。
船から
詞が
交換された。
勘次は
醫者と一
緒に
歸るからさういつてお
品に
安心させて
呉れといつて
醫者の
門を
叩いた。
醫者は
丁度そつちへ
行く
序も
有つたからと
悠長である。
屹度行つては
呉れるにしても
其の
後に
跟いて
行くのでなくては
勘次には
不安で
堪らないのである、さうして
彼はぽつさりと
玄關に
踞つて
待つて
居ることがせめてもの
氣安めであつた。
醫者は
小さな
手鞄を一つ
持つて
古い
帽子をちよつぽり
載いて
出た。
手鞄は
勘次が
大事相に
持つた。
醫者は
特別の
出來事がなければ
俥には
乘らないので、いつも
朴齒の
日和下駄で
短い
體躯をぽく/\と
運んで
行く。それで
車錢だけでも
幾ら
助かるか
知れないといふので
貧乏な
百姓から
能く
聘れて
居るのであつた。
勘次は
途次お
品の
容態を
語つて
醫者の
判斷を
促して
見た。
醫者は一
應見なければ
分らぬといつて
五月蠅い
勘次に
返辭しなかつた。お
品の
病體に
手を
掛けると
醫者は
有繋に
首を
傾けた。それが
破傷風の
徴候であることを
知つて
恐怖心を
懷いた。さうして
自分は
注射器を
持たないからといつて
辭退して
畢つた。
勘次は
又慌てゝ
他の
醫者へ
駈けつけた。
其の
醫者は
鉛筆で
手帖の
端へ
一寸書きつけて、それでは
直に
此を
藥舖で
買つて
來るのだといつた。それから
自分の
家へ
此を
出せば
渡して
呉れるものがあるからと
此も
手帖の
端を
裂いた。
勘次は
又川を
越えて
走つた。
藥舖では
罎へ
入れた
藥を
二包渡して
呉れた。
一罎が七十五
錢づゝだといはれて、
勘次は
懷が
急にげつそりと
減つた
心持がした。
彼は
蜻蛉返りに
歸つて
來た。
醫者の
家からは
注射器を
渡してくれた。
他の
病家を
診て
醫者は
夕刻に
來た。
醫者はお
品の
大腿部を
濕したガーゼで
拭つてぎつと
肉を
抓み
上げて
針をぷつりと
刺した。
暫くして
針を
拔いて
指の
先で
針の
趾を
抑へて
其處へ
絆創膏を
貼つた。それが
凡て
薄闇い
手ランプの
光で
行はれた。
勘次に
手ランプを
近づけさせて
醫者はやつと
注射を
畢つた。
翌日の
午前に
來て
醫者は
復注射をして
大抵此れでよからうといつて
去つた。
然しお
品の
容態は
依然として
恢復の
徴候がないのみでなく
次第に
大儀相に
見えはじめた。お
品は
其の
夕刻から
俄かに
痙攣が
起つた。
身體がびり/\と
撼ぎながら
手も
足も
引き
緊められるやうに
後へ
反つた。
痙攣は
時々發作した。
其度毎に
病人は
見て
居られない
程苦惱する。
顏が
妙に
蹙んで
口が
無理に
横へ
引き
吊られるやうに
見える。
勘次はたつた
一人のおつぎを
相手に
手の
出しやうもなかつた。さうしてしら/\
明けといふと
直に
又醫者へ
駈けつけた。
醫者は
復藥舖へ
行つて
來いといつた。
勘次は
又飛んで
行つた。
然し
其の二
號の
血清は
何處にも
品切であつた。それは
或期間を
經過すれば
効力が
無くなるので
餘計な
仕入もしないのだと
藥舖ではいつた。それに
値段が
不廉ものだからといふのであつた。
勘次はそれでも
幾ら
位するものかと
思つて
聞いたら
一罎が三
圓だといつた。
勘次は
例令品物が
有つた
處で、
自分の
現在の
力では
到底それは
求められなかつたかも
知れぬと
今更のやうに
喫驚して
懷へ
手を
入れて
見た。
醫者は
更に
勘次を
藥舖へ
走らせた。
勘次は
只醫者のいふが
儘に
息せき
切つて
駈けて
歩く
間が、
屹度どうにか
防ぎをつけてくれるだらうとの
恃もあるので
僅に
自分の
心を
慰め
得る
唯一の
機會であつた。
醫者は一
號の
倍量を
注射した。
然しそれは
徒勞であつた。
病人の
發作は
間が
短くなつた。
病人は
其度に
呼吸に
壓迫を
感じた。
近所の
者も三四
人で
苦惱する
枕元に
居て
皆憂愁に
包まれた。お
品は
突然
「
野田へは
知らせてくれめえか」と
聞いた。
勘次も
近所の
者も
卯平へ
知らせることも
忘れて
只苦惱する
病人を
前に
控へて
困つて
居るのみであつた。
「
明日は
屹度來るやうにいつて
遣つたよ」
勘次はお
品の
耳へ
口を
當ていつた。
今更のやうに
近所の
者が
頼まれて
夜通しにも
行くといふことに
成つた。
次の
日の
午餐過に
卯平は
使と
共にのつそりと
其の
長大な
躯幹を
表の
戸口に
運ばせた。
彼は
閾を
跨ぐと
共に、
其時はもう
只痛い/\というて
泣訴して
居る
病人の
聲を
聞いた。
「
何處が
痛いんだ、
少しさすらせて
見つか」
勘次が
聞いても
「
背中が
仕やうがねえんだよ」と
病人はいふのみである。
「お
品さん、おとつゝあ
來たよ、
確乎しろよ」と
近所の
女房がいつた。それを
聞いてお
品は
暫時靜かに
成つた。
「
品どうしたえ、
大儀えのか」
寡言な
卯平は
此だけいつた。
「おとつゝあ
待つてたよ、
俺ら
仕やうねえよ」お
品は
情なさ
相にいつた。
「うむ、
困つたなあ」
卯平は
深い
皺を
蹙めていつた。さうして
後は一
言もいはない。お
品の
病状は
段々險惡に
陷つた。
醫者はモルヒネの
注射をして
僅に
睡眠の
状態を
保たせて
其の
苦痛から
遁れさせようとした。それでも
暫くすると
病人は
復た
意識を
恢復して、びり/\と
身體を
撼はせて、
太い
繩でぐつと
吊されたかと
思ふやうに
後へ
反つて、
其劇烈な
痙攣に
苦しめられた。
「
先生さん、わたしや
此れでもどうしたものでがせうね」お
品は
突然に
聞いた。
醫者は
只口髭を
捻つて
默つて
居た。
「どうでせうね
先生さん」
勘次も
聞いた。
「まあ
大丈夫だらうつて
病人へだけはいつて
居たらいゝでせう」
醫者は
耳語いた。
「お
品、
大丈夫だとよ、
夫から
我慢して
確乎してろとよ」
勘次は
病人の
耳で
呶鳴つた。
「そんでも
俺ら
明日の
日まではとつても
持たねえと
思ふよ。
本當に
俺ら
大儀いゝなあ」お
品は
切な
相にいつた。
齒の
間を
漸くに
洩れる
聲は
悲しい
響を
傳へて
然かも
意識は
明瞭であることを
示した。
醫者は
遂に
極量のモルヒネを
注射して
去つた。
夜になつて
痙攣は
間斷なく
發作した。
熱度は
非常に
昂進した。
液體の一
滴をも
攝取することが
出來ないにも
拘らず、
亂れた
髮の
毛毎に
傳ひて
落るかと
思ふやうに
汗が
玉をなして
垂れた。
蒲團を
濕す
汗の
臭が
鼻を
衝いた。
「
勘次さん
此處に
居てくろうよ」お
品は
苦しい
内にも
只管勘次を
慕つた。
「おうよ、こゝに
居たよ、
何處へも
行やしねえよ」
勘次は
其度に
耳へ
口を
當ていつた。
「
勘次さん」お
品は
又喚んた。
「
怎的したよ」
勘次のいつたのはお
品に
通じなかつたのか
「おとつゝあ、
俺らとつてもなあ」とお
品は
少時間を
措いて、さうして
勘次の
手を
執つた。
「おつう
汝はなあ、
よきもなあ」といつて
又發作の
苦惱に
陷つた。
「
勘次さん、
俺死んだらなあ、
棺桶へ
入れてくろうよ……」
勘次は
聞かうとすると
暫く
間を
隔てて
「
後の
田の
畔になあ、
牛胡頽子のとこでなあ」お
品は
切れ/″\にいつた。
勘次は
略其の
意を
了解した。
お
品はそれから
劇烈な
發作に
遮ぎられてもういはなかつた。
突然
「
風呂敷、/\」
と
理由の
解らぬ
囈語をいつて、
意識は
全く
不明に
成つた。
遂には
異常な
力が
加はつたかと
思ふやうにお
品の
足は
蒲團を
蹴て
身體が
激動した。
枕元に
居た
人々は
各自に
苦しむお
品の
足を
抑へた。
恁うして
人々は
刻々に
死の
運命に
逼られて
行くお
品の
病體を
壓迫した。お
品の
發作が
止んだ
時は
微かな
其の
呼吸も
止つた。
夜は
森として
居た。
雨戸が
微かに
動いて
落葉の
庭を
走るのもさら/\と
聞かれた。お
品の
身體は
足の
方から
冷たくなつた。お
品が
死んだといふことを
意識した
時に
勘次もおつぎもみんな
怺へた
情が一
時に
激發した。さうして
遠慮をする
餘裕を
有たない
彼等は
聲を
放つて
泣いた。
枕元のものは
皆共に
泣いた。
與吉は
獨り
死んだお
品の
側に
熟睡して
居た。
卯平は
取り
取ずお
品の
手を
胸で
合せてやつた。さうして
機の
道具の
一つである
杼を
蒲團へ
乘せた。
猫が
死人を
越えて
渡ると
化けるといつて
杼は
猫の
防禦であつた。
杼を
乘せて
置けば
猫は
渡らないと
信ぜられて
居るのである。
夜は
益深けて
冷え
切つて
居た。
家の
内には一
塊の

も
貯へてはなかつた。
枕元に
居た
近所の
人々は
勘次とおつぎの
泣き
止むまでは
身體を
動かすことも
出來ないで
凝然と
冷たい
手を
懷に
暖めて
居た。おつぎは
漸く
竈へ
落葉を
燻べて
茶を
沸した、みんな
只ぽつさりとして
茶を
啜つた。
「
勘次も
かせえて知らせやがればえゝのに」
卯平がぶすりと
呟く
聲は
低くしかもみんなの
耳の
底に
響いた。
卯平は
其の
日の
未明に
使の
來るまではお
品の
病氣はちつとも
知らずに
居た。
驚いて
來て
見ればもうこんな
始末である。
卯平も
泣いた。
彼は
煙管を
噛んでは
只舌皷を
打つて
唾を
嚥んだ。
勘次は
只泣いて
居た。
彼はお
品の
發病からどれ
程苦心して
其身を
勞したか
知れぬ。お
品の
病氣を
案ずる
外彼の
心には
何もなかつた。
其當時には
卯平に
不平をいはれやうといふやうな
懸念は
寸毫も
頭に
起らなかつたのである。
お
品の
死は
卯平をも
痛く
落膽せしめた。
卯平は七十一の
老爺であつた。
一昨年の
秋から
卯平は
野田の
醤油藏へ
火の
番に
傭はれた。
卯平はお
品が三つの
時に、
死んだお
袋の
處へ
入夫になつたのである。五つの
時から
甘へたのでお
品は
卯平に
懷いて
居た。お
袋の
生きて
居るうちは
卯平もまだ
壯であつたが、お
袋が
亡くなつて
卯平の
皺が
深く
刻まれてからは
以前から
善くなかつた
勘次との
間が
段々隔つて、お
品もそれには
困つた。
到頭村の
紹介業をして
居る
者の
勸めに
任て
卯平がいふ
儘に
奉公に
出したのであつた。
病人の
枕元に
居た
近所の
者は一
杯の
茶を
啜つて
村の
姻戚へ
知らせに
出るものもあつた。それから
葬式のことに
就いて
相談をした。
葬式はほんの
姻戚と
近所とだけで
明日の
内に
濟すといふことに
極めた。
夜があけると
近所の
人々は
寺へ
行つたり
無常道具を
買ひに
行つたり、
他村の
姻戚への
知らせに
行つたりして
家には
近所の
女房が二三
人義理をいひに
來て
居た。
姻戚といつてもお
品の
爲めには
待たなくては
成らぬといふものはないので
勘次はおつぎと
共に
筵を
捲つて、
其處へ
盥を
据ゑてお
品の
死體を
淨めて
遣つた。
劇烈な
病苦の
爲めに
其力ない
死體はげつそりと
酷い
窶れやうをして
居た。
卯平は
只ぽつさりとしてそれを
見て
居た。
死體は
復其の
穢い
夜具へ
横へられた。
盥の
汚れた
微温湯は
簀の
子の
上から
土に
注がれた。さうして
其の
沾れた
簀の
子には
捲くつた
筵が
又敷かれた。
朝から
雨戸は
開け
放たれて
歩けばぎし/\と
鳴る
簀の
子の
上の
筵は
草箒で
掃かれた。さうして
東隣から
借りて
來た
蓙が五六
枚敷かれた。それから
土地の
習慣で
勘次は
淨めてやつたお
品の
死體は一
切を
近所の
手に
任せた。
近所の
女房等は一
反の
晒木綿を
半分切てそれで
形ばかりの
短い
經帷子と
死相を
隱す
頭巾とふんごみとを
縫つてそれを
着せた。ふんごみは
只三
角にして
足袋の
代に
爪先へ
穿かせるのであつた。
脚絆は
切の
儘麻で
足へ
括り
附けた。
此れも
其の
木綿で
縫つた
頭陀袋を
首から
懸けさせて三
途の
川の
渡錢だといふ六
文の
錢を
入れてやつた。
髮は
麻で
結んで
白櫛を

して
遣つた。お
品の
硬着した
身體は
曲げて
立膝にして
棺桶へ
入れられた。
首が
葢に
觸るので
骨の
挫けるまで
抑へつけられてすくみが
掛けられた。すくみといふのは
蹙めた
儘の
形が
保たれるやうに
死體の
下から
荒繩を
廻して
置いて
首筋の
處でぎつしりと
括ることである。
麁末な
松板で
拵へた
出來合の
棺桶はみり/\と
鳴つた。
恁ういふ
無残な
扱はどうしても
他人の
手に
任せられねばならなかつた。
板の
儘ばら/\に
成つて
居る
棺臺は
買つて
來てから
近所の
手で
釘付にされた。
其處には
淺い
箱の
倒にしたものが
出來た。
其の
棺臺の
上には
死體を
入れた
棺桶が
載せられた。
勘次は
其朝未明にそつと
家の
後の
楢の
木の
間を
田の
端へおりて
境木の
牛胡頽子の
傍を
注意して
見た。
唐鍬か
何かで
動かした
土の
跡が
目に
附いた。
勘次は
手にして
行つた
草刈鎌でそく/\と
土をつゝくやうにして
掘つた。さうして
其軟かに
成つた
土を
手で
浚つた。
襤褸の
包が
出た。
彼は
其處に
小さな一
塊肉を
發見したのである。
勘次はそれを
大事に
懷へ
入れた。
惡事の
發覺でも
恐れるやうな
容子で
彼は
周圍を
見廻した。
彼は
更に
古い
油紙で
包んで
片付けて
置いて、お
品の
死體が
棺桶に
入れられた
時彼はそつとお
品の
懷に
抱かせた。お
品の
痩せ
切つた
手が
勘次のする
儘にそれを
確乎と
抱き
締めて、
其の
骨ばかりの
頬が、ぴつたりと
擦りつけられた。
葬式の
日は
赤口といふ
日であつた。
勘次は
近所と
姻戚との
外には一
飯も
出さなかつたがそれでも
村のものは
皆二
錢づゝ
持つて
弔みに
來た。さうしてさつさと
歸つて
行つた。
遠く
離れた
寺からは
住職と
小坊主とが、
褪めた
萠黄の
法被を
着た
供一人連れて
挾箱を
擔がせて
歩いて
來た。
小坊主は
直に
棺桶の
葢をとつて
白い
木綿を
捲くつて
窶れた
頬へ
剃刀を
一寸當てた。
此の
形式的の
顏剃が
濟んでから
葢は
釘で
打ち
附けられた。
荒繩が十
文字に
掛けられた。
晒木綿の
残つた
半反でそれがぐる/\と
捲かれた。
桶には
更に
天葢が
載せられた。
天葢というても
兩端が
蕨のやうに
捲れた
狹い
松板を二
枚十
字に
合せたまでのものに
過ない
簡單なものである。
煤けた
壁には
此れも
古ぼけた
赤い
曼荼羅の
大幅が
飾のやうに
掛けられた。
棺は
僅な
人で
葬られた。それでも
白提灯が
二張翳された。
裂き
竹を
格子の
目に
編んでいゝ
加減の
大きさに
成るとぐるりと四
方を一つに
纏めて
括つた
花籠も二つ
翳された。
孰れも
青竹の
柄が
附けられた。
其の
籠へは
髭のやうに
裂き
竹を
立てゝ
其の
裂き
竹には
赤や
黄や
青や
其の
他の
色紙で
刻んだ
花を
飾つた。
其の
花籠は
又底へ
紙を
敷いて
死んだものゝ
年齡の
數だけ
小錢を
入れて、それを
翳した
人が
時々ざら/\と
振つては
籠の
目から
其の
小錢を
振り
落した。
村の
小供が
爭つてそれを
拾つた。
提灯と
花籠は
先に
立つた。
後からは
村の
念佛衆が
赤い
胴の
太皷を
首へ
懸けてだらりだらりとだらけた
叩きやうをしながら一
同に
聲を
擧て
跟いて
行つた。
柩は
小徑を
避けて
大道を
行つた。
村の
者は
自分の
門からそれを
覗いた。
棺桶は
据りが
惡い
所爲か
途中で
止まずぐらり/\と
動搖した。
勘次はそれでも
羽織袴で
位牌を
持つた。それは
皆借りたので
羽織の
紐には
紙撚がつけてあつた。
墓の
穴は
燒けた
樣な
赤土が四
方へ
堆く
掻き
上げられてあつた。
其處には
從來隙間のない
程穴が
掘られて、
幾多の
人が
埋められたので
手の
骨や
足の
骨がいつものやうに
掘り
出されて
投げられてあつた。
法被を
着た
寺の
供が
棺桶を
卷いた
半反の
白木綿をとつて
挾箱に
入た。
軈て
棺桶は
荒繩でさげて
其の
赤い
土の
底に
踏みつけられた。
麁末な
棺臺は
少し
堆く
成つた
土の
上に
置かれて、
二つの
白張提灯と
二つの
花籠とが
其傍に
立てられた。お
品は
生來土を
踏まない
日はないといつていゝ
位であつた。さうしてそれは
凍てる
冬の
季節を
除いては
大抵は
直接に
足の
底が
土について
居た。お
品は
恁して
冷たい
屍に
成つてからも
其の
足の
底は
棺桶の
板一
枚を
隔てただけで
更に
永久に
土と
相接して
居るのであつた。
小さな
葬式ながら
柩が
出た
後は
旋風が
埃を
吹つ
拂つた
樣にからりとして
居た。
手傳に
來て
居た
女房等はそれでなくても
膳立をする
客が
少くて
暇であつたから
滅切手持がなくなつた。それでも
立ちながら
椀と
箸とを
持つて
口を
動かして
居るものもあつた。
膳部は
極つた
通り
皿も
平も
壺もつけられた。それでも
切昆布と
鹿尾菜と
油揚と
豆腐との
外は
百姓の
手で
作つたものばかりで
料理された。
皿には
細かく
刻んで
鹽で
揉んだ
大根と
人參との
膾がちよつぽりと
乘せられた。さういふ
残物と
冷たく
成つた
豆腐汁とをつゝいても
麥の
交らぬ
飯が
其の
口には
此の
上もない
滋味なので、
女房等は
其の
強健で
且擴大された
胃の
容れる
限りは
口が
之を
貪つて
止まないのである。
彼等は
裏戸の
陰に
聚まつて
雜談に
耽つた。
「どうしたつけまあ、
酷く
棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「
其筈だんべな、
後が
心配で
仕やうねえ
佛はあゝえに
動くんだつちぞおめえ」
「
勘次さんこと
欲しくつて
後へ
残してくのが
辛えんだごつさら」
「そんだがよ、
餘り
欲しがられつと
遂にや
迎に
來て
連れ
行かれつとよ」
「おゝ
厭だ
俺ら」
「
連れてつてくろつちつたつておめえ
等こた
迎に
來るものもあんめえな」
口々に
恁んなことが
遠慮もなく
反覆された。
間が
少時途切れた
時
「お
品さんも
可惜命をなあ」と
一人が
思ひ
出したやうにいつた。
「
本當だ
他人のやらねえこつてもありやしめえし」
他の
女房が
相槌を
打つた。
「
風邪引いたなんてか、
今度の
風邪は
強えから
起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「
死ぬ
者貧乏なんだよ」
「そんだがお
品さんは
自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、
大けえ
聲ぢやゆはんねえが、
五十錢とか
八十錢とか
取つて
他人のがも
行つたんだとよ」
「
八十錢づゝも
取つちやおめえ、
女の
手ぢやたえしたもんだがな、
今度自分で
死んちまあなんて、
行んねえこつたなあ」
「
罪作つた
罰ぢやねえか」
遠慮もなくそれからそれと
移のである。
「そんなことゆつて、
今出た
佛のことをおめえ
等、とつゝかれつから
見ろよ」
他の
一人の
女房がいつた
時噺が
暫時途切れて
靜まつた。
一人の
女房が
皿の
大根を
手で
撮んで
口へ
入れた。
「さうえ
處他人に
見られたらどうしたもんだえ」
側からいはれて
「
見てやあしめえな」と
其女房は
裏戸の
口から
庭の
方を
見た。さうして
「
俺ら
見てえな
婆はどうで
此れから
娶にでも
行くあてがあんぢやなし、
構あねえこたあ
構あねえがな」といつて
笑つた。
一同どつと
笑聲を
發した。
柩を
送つた
人々が離れ/″\に
歸つて
來るまでは
雜談がそれからそれと
止まなかつた。
平日何等の
慰藉を
與へらるゝ
機會をも
有して
居ないで、
然も
聞きたがり、
知りたがり、
噺たがる
彼等は三
人とさへ
聚れば
膨脹した
瓦斯が
袋の
破綻を
求めて
遁げ
去る
如く、
遂には
前後の
分別もなく
其舌を
動かすのである。
偶抽斗から
出した
垢の
附かぬ
半纏を
被て、
髮にはどんな
姿にも
櫛を
入れて、さうして
弔みを
濟すまでは
彼等は
平常にないしほらしい
容子を
保つのである。それは
改まつて
不馴な
義理を
述べねばならぬといふ
懸念が、
僅ながら
彼等の
心を
支配して
居るからである。
然し
土間へおりて、
襷が
掛けられて、
膳や
椀を
洗つたり
拭いたり
其手を
忙しく
動かすやうに
成れば、
彼等の
心はそれに
曳かされて
其の
聞きたがり、
知りたがり、
噺したがる
性情の
自然に
歸るのである。
假令他人の
爲には
悲しい
日でも
其の一
日だけは
自己の
生活から
離れて
若干の
人々と一
緒に
集合することが
彼等には
寧ろ
愉快な一
日でなければならぬ。
間斷なく
消耗して
行く
肉體の
缺損を
補給するために
攝取する
食料は一
椀と
雖も
悉く
自己の
慘憺たる
勞力の一
部を
割いて
居るのである。
然し
他人を
悼む一
日は
其處に
自己のためには
何等の
損失もなくて十
分に
口腹の
慾を
滿足せしめることが
出來る。
他人の
悲哀はどれ
程痛切でもそれは
自己當面の
問題ではない。
如斯にして
彼等の
聚る
處には
常に
笑聲を
絶たないのである。
お
品も
恁ういふ
伴侶の
一人であつた。それが
今日は
其の
笑聲を
後にして
冷たい
土に
歸したのである。
お
品は
自分の
手で
自分の
身を
殺したのである。お
品は十九の
暮におつぎを
産んでから
其次の
年にも
亦姙娠した。
其の
時は
彼等は
窮迫の
極度に
達して
居たので
其の
胎兒は
死んだお
袋の
手で七月
目に
墮胎して
畢つた。それはまだ
秋の
暑い
頃であつた。
強健なお
品は四五
日經つと
林の
中で
草刈をして
居た。それでも
無理をした
爲に
其後大煩ひはなかつたが
恢復するまでには
暫くぶら/\して
居た。それからといふものはどういふものかお
品は
姙娠しなかつた。おつぎが十三の
時與吉が
生れた。
此の
時は
勘次もお
品も
腹の
子を
大切にした。
女の
子が十三といふともう
役に
立つので、
與吉を
育てながら
夫婦は十
分に
働くことが
出來た。
與吉が三つに
成つたのでおつぎは
他へ
奉公に
出すことに
夫婦の
間には
決定された。
其の
頃十五の
女の
子では一
年の
給金は
精々十
圓位のものであつた。それでもそれ
丈の
收入の
外に
食料の
減ずることが
貧乏な
世帶には
非常な
影響なのである。それが
稻の
穗首の
垂れる
頃からお
品は
思案の
首を
傾げるやうになつた。
身體の
容子が
變に
成つたことを
心付いたからである。十
年餘も
保たなかつた
腹は
與吉が
止つてから
癖が
附いたものと
見えて
又姙娠したのである。お
品も
勘次もそれには
當惑した。おつぎを
奉公に
出して
畢へば、
二人の
子を
抱いてお
品は
從來のやうに
働くことが
出來ない、
僅な
稼でもそれが
停止されることは
彼等の
生活の
爲には
非常な
打撃でなければならぬ。
其の
内に
稻を
刈つたり、
籾を
干したり
忙しい
收穫の
季節が
來て、
冴えた
空の
下に
夫婦は
毎日埃を
浴びて
居た。
有繋に
罪なやうな
心持もするので
夫婦は
只困つて
其の
日を
過して
居た。それも
夜に
成つて
疲れた
身體を
横にし
甘睡に
陷るまでの
少時間彼等は
互に
決し
難い
思案を
交換するのであつた。
從來も
夫婦の
間は
孰れが
本位であるか
分らぬ
程勘次には
決斷の
力が
缺乏して
居た。
「どうでもおめえの
腹だから
好きにした
方がえゝやな」
勘次は
恁ういふのである。
然しそれは
怎的でもいゝといふ
云ひ
擲りではなくて、
凡てがお
品に
對して
命令をするには
勘次の
心は
餘り
憚つて
居たのである。
「そんでも、
俺がにも
困んべな」お
品は
投げ
掛けるやうにいふのである。
勘次はお
品が
恁うする
積だときつぱりいつて
畢へば
決して
反對をするのではない。といつてお
品は
獨斷で
決行するのには
餘り
大事であつたのである。さうしてそれは
決定される
機會もなくて
夫婦は
依然として
農事に
忙殺されて
居た。
其の
間に
空を
渡る
凩が
俄に
哀しい
音信を
齎した。
欅の
梢は、どうでもう
此れまでだといふやうに
慌しく
其の
赭く
成つた
枯葉を
地上に
投げつけた。
其の
棄て
去られた
輕い
小さな
落葉は、
自分を
引き
止めて
呉れる
蔭を
求めて
轉々と
走つては
干した
藁の
間でも
籾の
筵でも
何處でも
其の
身を
託した。
周圍は
凡てが
只騷がしく
且つ
混雜した。
其の
内に
勘次は
秋から
募集のあつた
開鑿工事へ
人に
任せて
行つたのである。
「
只かうしてぐづ/\して
居ても
仕やうあんめえな」お
品は
其の
時も
勘次の
判斷を
促して
見た。
「
俺もさうゆはれても
困つから、おめえ
好きにしてくろうよ」
勘次は
只恁ういつた。
勘次が
去つてからお
品は
其混雜した
然も
寂しい
世間に
交つて
遣瀬のないやうな
心持がして
到頭罪惡を
決行して
畢つた。お
品の
腹は四
月であつた。
其の
頃の
腹が一
番危險だといはれて
居る
如くお
品はそれが
原因で
斃れたのである。
胎兒は四
月一
杯籠つたので
兩性が
明かに
區別されて
居た。
小さい
股の
間には
飯粒程の
突起があつた。お
品は
有繋に
惜しい
果敢ない
心持がした。
第一に
事の
發覺を
畏れた。それで一
旦は
能く
世間の
女のするやうに
床の
下に
埋めたのをお
品は
更に
田の
端の
牛胡頽子の
側に
襤褸へくるんで
埋めたのである。
お
品は
身體の
恢復するまで
凝然として
蒲團にくるまつて
居れば
或はよかつたかも
知れぬ。十
幾年前には一
切を
死んだお
袋が
處理してくれたのであつたが、
今度は
勘次も
居ないしでお
品は
生計の
心配もしなくては
居られなかつた。
一つにはそれを
世間に
隱蔽しようといふ
念慮から
知らぬ
容子を
粧ふ
爲に
強ひても
其の
身を
動かしたのであつた。
然しながら
其の
身を
殺した
黴菌がどうして
侵入したであつたらうか。お
品は
卵膜を
破る
手術に
他人を
煩はさなかつた。さうして
其
入した
酸漿の
根が
知覺のないまでに
輕微な
創傷を
粘膜に
與へて
其處に
黴菌を
移植したのであつたらうか、それとも
毎日煙の
如く
浴せ
掛けた
埃から
來たのであつたらうか、それを
明らめることは
不可能でなければならぬ。
然し
孰れにしても
病毒は
土が
齎したのでなければならなかつた。
葬式の
次の
日は
又近所の
人が
來た。
勘次は
其の
借りた
羽織と
袴を
着て
村中へ
義理に
廻つた。
土瓶へ
入れた
水を
持つて
墓參りに
行つて、それから
膳椀も
皆返して
近所の
人々も
歸つた
後勘次は
然として
古い
机の
上に
置かれた
白木の
位牌に
對して
堪らなく
寂しい
哀れつぽい
心持になつた。二三
日の
間は
片口や
摺鉢に
入れた
葬式の
時の
残物を
喰べて一
家は
只ばんやりとして
暮した。
雨戸はいつものやうに
引いた
儘で
陰氣であつた。
卯平を
加へて四
人はお
互が
只冷かであつた。
卯平は
其の
薄暗い
家の
中に
只煙草を
吹かしては
大きな
眞鍮の
煙管で
火鉢を
叩いて
居た。
卯平と
勘次とは
其の
間碌に
口も
利なかつた。
勘次は
自分の
身體と
自分の
心とが
別々に
成つたやうな
心持で
自分が
自分をどうする
事も
出來なかつた。それでも
小作米のことは
其の
念頭から
沒し
去ることはなかつた。
貧乏な
小作人の
常として
彼等は
何時でも
恐怖心に
襲はれて
居る。
殊に
其の
地主を
憚ることは
尋常ではない。さうして
自分の
作り
來つた
土地は
死んでも
噛り
附いて
居たい
程それを
惜むのである。
彼等の
最初に
踏んだ
土の
強大な
牽引力は
永久に
彼等を
遠く
放たない。
彼等は
到底其の
土に
苦しみ
通さねばならぬ
運命を
持つて
居るのである。
勘次はお
品の
葬式が
濟むと
直に
新しい
俵へ
入れた
小作米を
地主へ
運んで
行かねば
成らぬとそれが
心を
苦しめて
居た。
然し
其の
時は
其の
新しい
俵の一つは
輪に
成つた
繩から
拔けて、
米は
叩いても
幾らも
出なかつた。
勘次は
次の
年には
殆ど
自分一人の
手で
農事を
勵まなくてはならぬ。
例年のやうに
忙しい
季節に
日傭に
行くことも
出來まいし、それにはお
袋に
捨てられた
二人の
子供も
有ることだし、
今から
穀の
用意もしなくては
成らぬと
思ふと
自分の
身上から一
俵の
米を
減じては
到底立ち
行けぬことを
深く
思案して
彼は
眠らないこともあつた。
然し
他に
方法もないので
彼は
地主へ
哀訴して
小作米の
半分を
次の
秋まで
貸して
貰つた。
地主は
東隣の
舊主人であつたのでそれも
承諾された。
彼は
更に
其の
僅な
米の一
部を
割いて
錢に
換へねばならぬ
程懷が
窮して
居たのである。
勘次はそれから
復た
利根川の
工事へ
行かねばならないと
思つて
居た。それは
彼が
僅の
間に
見た
放浪者の
怖ろしさを
思つて、
假令どうしても
其統領を
欺いて
其の
僅少な
前借の
金を
踏み
倒す
程の
料簡が
起されなかつたのである。
其の
内に
張元から
葉書が
來た。
彼は
只管恐怖した。
然し
二人の
子を
見棄てゝ
行くことが
出來ないので、どうしていゝか
判斷もつかなかつた。さうする
内にお
品の七日も
過ぎた。
彼は
煩悶した。
唯一つ
卯平が
野田へ
行くのを
暫く
猶豫して
貰つて
自分は
其の
間に
少しでも
小遣錢を
稼いで
來たいと
思つた。
然しそれも
直接には
云ひ
出せないので、
例の
桑畑一
枚隔てた
南へ
頼んだ。
數日來彼は
卯平が
其の
大きな
體躯を
火鉢の
側に
据ゑて
煙管を
噛んではむつゝりとして
居るのを
見ると、
何となく
憚つて
成るべく
其の
視線を
避けるやうに
遠ざかつて
居ることを
餘儀なくされるのであつた。
勘次とお
品は
相思の
間柄であつた。
勘次が
東隣の
主人に
傭はれたのは十七の
冬で十九の
暮にお
品の
婿に
成つてからも
依然として
主人の
許に
勤めて
居た。
彼は
其當時お
品の
家へは
隣づかりといふので
能く
出入つた。
一つには
形づくつて
來たお
品の
姿を
見たい
所爲でもあつた。
彼は
秋の
大豆打といふ
日の
晩などには、
唐箕へ
掛けたり
俵に
作つたりする
間に二
升や三
升の
大豆は
竊に
隱して
置いてお
品の
家へ
持つて
行つた。さうして
豆熬を
噛つては
夜更まで
噺をすることもあつた。お
品の
家からは
近所に
風呂の
立たぬ
時は
能く
來た。
忙しい
仕事には
傭はれても
來た。さういふ
間に
彼等の
關係が
成立つたのである。それはお
品が十六の
秋である。それから
足掛三
年經つた。
勘次には
主人の
家が
愉快に
能く
働くことが
出來た。
彼の
體躯は
寧ろ
矮小であるが、
其きりつと
緊つた
筋肉が
段々仕事を
上手にした。
假令どんな
物が
彼等の
間を
隔てようとしても
彼等が
相近づく
機會を
見出したことは
鬱蒼として
遮つて
居る
密樹の
梢を
透してどこからか
日が
地上に
光を
投げて
居るやうなものであつた。
彼等の
心は
唯明るかつたのである。
お
品は十九の
春に
懷胎した。
自分でもそれは
暫く
知らずに
居た。
季節が
段々ぽかついて、
仕事には
單衣でなければならぬ
頃に
成つたので
女同士の
目は
隱しおほせないやうに
成つた。お
袋はお
品をまだ
子供のやうに
思つて
迂濶にそれを
心付かなかつた。
本當にさうだと
思つた
時はお
品は
間もなく
肩で
息するやうに
成つた。さうして
身體がもう
棄てゝ
置けない
場合に
成つたので
兩方の
姻戚の
者でごた/\と
協議が
起つた。
勘次もお
品も
其時互に
相慕ふ
心が
鰾膠の
如く
強かつた。
彼等は
惡戲者に
水をさゝれて
慌てた
機會に
或夜遁げ
出して
畢つた。それは、
此の
儘では
二人は
迚ても
添はされぬ
容子だからどうしても
一つに
成らうといふのならば
何處へか
二人で
身を
隱すのである。さうして
愈となれば
俺がどうにでも
其處は
始末をつけて
遣るから、
何でも
愚圖/\して
居ちや
駄目だとお
品の
心を
教唆つたのであつた。お
品から一
心に
勘次へ
迫つた。
勘次は
其の
頃からお
品のいふなりに
成るのであつた。
二人は
遠くは
行けないので、
隣村の
知合へ
身を
投じた。
兩方の
姻戚が
騷ぎ
出した。
恁ういふ
同志へのこんな
惡戲は
何處でも
能く
反覆されるのであつた。さうして
成功した
惡戲者は
「
仕事は
何でも
牝鷄でなくつちや
甘く
行かねえよ」といつては
陰で
笑ふのである。
「
外聞曝しやがつて」と
卯平は
怒つたがそれが
爲に
事は
容易に
運ばれた。
勘次は
婿に
成つたのである。
簡單な
式が
行はれた。
俄に
媒妁人と
定められたものが
一人で
勘次を
連れて
行つた。
卯平はむつゝりとしてそれを
受けた。
平生行きつけた
家なので
勘次は
極り
惡相に
坐つた。お
品は
不斷衣の
儘襷掛で
大儀相な
體躯を
動かして
居て
勘次の
側へは
坐らなかつた。
媒妁人が
只酒を
飮んで
騷いだ
丈であつた。お
品は
間もなく
女の
子を
産んだ。それがおつぎであつた。
季節は
暮の
押し
詰つた
忙しい
時であつた。お
袋はお
品が
好いて
居るので、
勘次を
不足な
婿と
思つては
居なかつた。
勘次は
其暮も
亦主人へ
身を
任せる
筈で
前借した
給金を、お
品の
家へ
注ぎ
込んだのでお
袋は
却て
悦んで
居た。
卯平は
唯勘次を
蟲が
好なかつた。
自分は
其大きな
體躯でぐい/\と
仕事をしつけたのに
勘次が
小さな
體躯でちよこ/\と
駈け
歩いたり、ただ
吩咐ばかり
聞いて
居るので
自分の
機轉といふものが一
向なかつたりするので
酷く
齒痒く
思つて
居た。
然し
自分は
入夫といふ
關係もあるしそれに
生來の
寡言なので
姻戚の
間の
協議にも
彼は
「どうでもわしはようがすからえゝ
鹽梅に
極めておくんなせえ」とのみいふのであつた。
勘次は
百姓の
尤も
忙しい
其の
頃の五
月に
病氣に
成つた。
彼は
轡へ
附けた
竹竿の
端を
執つて
馬を
馭しながら、
毎日泥だらけになつて
田の
代掻をした。どうかするとそんな
季節に
東南風が
吹いて
慄へる
程冷えることがある。
勘次は
其の
冷えが
障つたのであつたらうか
心持が
惡いというて
田から
戻つて
來るとそれつ
切り
枕も
上らぬやうになつた。
能く
馬の
病氣に
飮ませる
赤玉といふ
藥を
幾粒か
嚥んで
彼は
蒲團へくるまつて
居た。
彼はどうにか
病氣の
凌ぎがつけば
卯平の
側へは
行きたくなかつた。それと
一つには
我慢して
仕事に
出れば
碌には
働けなくても一
日の
勤めを
果したことに
成るけれども、
丸で
休んで
畢へば
其の
日だけの
割當勘定が
給金から
差引かれなければ
成らぬので
彼はそれを
畏れた。
然し
病氣は
馬に
飮ませる
藥の
赤玉では
直には
癒らなかつた。それで
彼はお
品の
厄介に
成る
積で、
次の
朝早く
朋輩の
背に
運ばれた。
卯平は
澁り
切つた
顏で
迎へた。お
品が
蒲團を
敷いて
遣つたので
勘次はそれへごろりと
俯伏しになつて
其の
額を
交叉した
手に
埋めた。
家の
者は
皆田へ
出なければならなかつた。
病人に
構つて
居ることは
仕事が
許さなかつた。お
袋は
出る
時に
表の
大戸も
閉てながら
「
腹減つたら
此處にあんぞ」といつてばたりと
飯臺の
蓋をした。
後で
勘次は
蒲團からずり
出して
見たら、
麥ばかりのぽろ/\した
飯であつた。
其の
時分お
品の
家ではさういふ
食料で
生命を
繋いで
居たのである。
勘次は
奉公にばかり
出て
居たのでそれ
程麁末な
物を
口にしたことはない。それでどうしても
手を
出さうといふ
心が
起らなかつた。
午餐に
家の
者は
田から
戻つて
其の
飯を
喰べた。ちつとはどうだとお
袋に
勸められても
勘次は
唯俯伏に
成つて
居た。
「
此の
野郎こんな
忙しい
時に
轉がり
込みやがつてくたばる
積でもあんべえ」と
卯平は
平生になく
恁んなことをいつた。
勘次は
後で
獨り
泣いた。
彼はお
品がこつそり
蒲團の
下へ
入て
呉れた
煎餅を
噛つたりして二三
日ごろ/\して
居た。
其の
頃は
駄菓子店も
滅多に
無かつたので
此れ
丈のことがお
品には
餘程の
心竭しであつたのである。
勘次はどうも
卯平が
厭で
且つ
怖ろしくつて
仕やうがないので
少し
身體が
恢復しかけると
皆が
田へ
出た
後でそつと
拔けて
村の
中の
姻戚の
處へ
行つて
板藏の二
階へ
隱れて
寢て
居た。
夜になつたらどうして
知つたかお
品はおつぎを
背負つて
鷄を一
羽持つて
來た。
「
勘次さん
惡く
思はねえでくろうよ、
俺惡くする
積はねえが、
仕やうねえからよ」とお
品は
訴へるやうにいふのであつた。お
品は
毎晩のやうに
來て
板藏の
さるを
内から
卸して
泊つて
行つた。それでも
勘次は
卯平の
側が
厭なので
戻らないといふ
積で
他の
村落へ
漂泊した。
復土地へ
歸つて
來ると、
畑に
居ても
田に
居てもお
品が
迫つて
來るので、
彼は
農具を
棄てゝ
遁げることさへあつた。それが
如何したものか
何時の
間にやら
酷く
自分からお
品の
側へ
行きたく
成つて
畢つて、
他人から
却て
揶揄はれるやうに
成つたのである。
勘次は
奉公の
年季を
勤めあげて
歸つたと
成つた
時、
卯平とは
一つ
家で
竈を
別にすることに
成つた。
夫婦と
乳呑兒と三
人の
所帶で
彼等は
卯平から
殼蕎麥が一
斗五
升と
麥が一
斗と、
後にも
先にもたつた
此れ
丈が
分けられた。
正月の
饂飩も
打てなかつた。
有繋にお
袋は
小麥粉を
隱してお
品へ
遣つた。それでも
勘次は
怖ろしい
卯平と
一つ
竈であるよりも
却て
本意であつた。お
袋が
死んでから
老いた
卯平は
勘次と
一つに
成らなければならなかつた。
其時はもう
勘次が
主であつた。さうして
疾に
自分の
住んで
居る
土地までが
自分の
所有ではなかつた。それは
借錢の
極りをつける
爲に
人が
立つて
東隣へ
格外な
値で
持たせたのである。それ
程彼の
家は
窮して
居た。
勘次には
卯平は
畏ろしいよりも
其時では
寧ろ
厭な
老爺に
成つて
居た。
二人は
滅多に
口も
利かぬ。それを
見て
居なければ
成らぬお
品の
苦心は
容易なものではなかつたのである。
勘次に
頼まれて
南の
亭主が
話をした
時に
卯平はどうしたものかと
案じた
程でもなく「
子奴等が
困るといへばどうでも
仕ざらによ、
仕ねえでどうするもんか」と
煙管を
手に
持つて
其の
癖の
舌皷を
打ちながらいつた。
南に
居て
案じながら
挨拶を
待つて
居た
勘次は
勢ひづいて
「そんぢや、おとつゝあ
俺行つ
來つから」といつた。
此の
時ばかりは
穩かな
挨拶が
交換された。
勘次が
居なく
成つてから
卯平はむつゝりした
顏に
微笑を
浮かべては
與吉を
抱いて
泣かれることもあつた。
與吉は
夜俄に
泣き
出して
止まぬことがある。お
品が
死ぬまで
被て
居た
蒲團の
中におつぎは
與吉を
抱いてくるまるのであつた。
與吉が
夜泣きをする
時卯平は
枕元の
燐寸をすつて
煙草へ
火を
移しては
燃えさしを
手ランプへ
點けて
「おつかあが
見えんだかも
知んねえ、さうら
明るく
成つた。
汝りや
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、69-12]に
抱かさつてんだ。
可怖ことあるもんか」
卯平は
重い
調子でいふのである。
與吉は
壁の
何處ともなく
見ては
火の
附いたやうに
身を
慄はして
泣いて
犇とおつぎへ
抱きつく。おつぎは
與吉を
膝へ
抱いて
泣き
止むまでは
兩手で
掩うて
居る。それが
泣き
出したら
毎夜のやうなのでおつぎは、
玉砂糖を
蒲團の
下へ
入れて
置いて
泣く
時には
甞めさせた。それでも
泣き
募つた
時は
口へ
入れた
砂糖を
吐き
出しては
愈烈しく
泣くのである。おつぎは
焦れて
邪險に
與吉をゆさぶることもあつた。それで
與吉は
遂には
砂糖を
口にしながらすや/\と
眠る。
卯平は
與吉が
靜かに
成るまでは
横に
成つた
儘おつぎの
方を
向いて
薄闇い
手ランプに
其の
目を
光らせて
居る。
與吉はおつぎに
抱かれる
時いつも
能くおつぎの
乳房を
弄るのであつた。
五月蠅がつて
邪險に
叱つて
見ても
與吉は
甘えて
笑つて
居る。それでも
泣く
時にお
品のしたやうに
懷を
開けて
乳房を
含ませて
見ても
其の
小さな
乳房は
間違つても
吸はなかつた。
砂糖を
附けて
見ても
欺けなかつた。おつぎは
與吉が
腹を
減らして
泣く
時には
米を
水に
浸して
置いて
摺鉢ですつて、それをくつ/\と
煮て
砂糖を
入て
嘗めさせた。
與吉は
一箸嘗めては
舌鼓を
打つて
其小さな
白い
齒を
出して、
頭を
後へひつゝける
程身を
反らしておつぎの
顏を
凝然と
見ては
甘えた
聲を
立て
笑ふのである。
與吉はそれが
欲くなれば
小さな
手で
煤けた
棚を
指した。
其處には
彼の
好む
砂糖の
小さな
袋が
載せてあるのであつた。
おつぎは
勘次が
吩咐けて
行つた
通り
桶へ
入れてある
米と
麥との
交ぜたのを
飯に
炊いて、
芋と
大根の
汁を
拵へる
外どうといふ
仕事もなかつた。
其の
間には
與吉を
背負つて
林の
中を
歩いて
竹の
竿で
作つた
鍵の
手で
枯枝を
採つては
麁朶を
束ねるのが
務であつた。おつぎは
麥藁で
田螺のやうな
形に
捻れた
籠を
作つてそれを
與吉へ
持たせた。
卯平はぶらりと
出て
行つては
歸りには
駄菓子を
少し
袂へ
入れて
來る。さうして
卯平は
菓子を
持つた
右の
手を
左の
袖口から
出して
與吉へ
見せる、
與吉はふら/\と
漸く
歩いて
行つては、
衝き
當り
相に
卯平へ
捉つて
袂を
探す。さうすると
菓子を
持つた
手が
更に
卯平の
左の
袂から
出る。
與吉は
危な
相に
卯平の
身體を
傳ひつゝ
左へ
廻つて
行く。さうすると
卯平の
手が
與吉の
頭の
上に
乘つて
菓子が
頭へ
落される。
與吉が
頭へ
手をやる
時に
菓子は
足下へぽたりと
落ちる。
與吉は
慌てゝ
菓子を
拾つては
聲を
立てゝ
笑ふのである。
菓子は
何時までも
減らないやうに
砂糖で
固めた
黒い
鐵砲玉が
能く
與へられた。
頭から
落ちてころ/\と
鐵砲玉が
遠く
轉がつて
行くのを、
倒れながら
逐ひ
掛けて
行く
與吉を
見て
卯平のむつゝりとした
顏が
溶けるのである。
與吉は
躓いて
倒れても
其時は
決して
泣くことがない。
鐵砲玉は
麥藁の
籠へも
入れられた。
與吉はそれを
大事相に
持つては時
ゝ覗きながら、おつぎが
炊事の
間を
大人しくして
坐つて
居るのであつた。
春は
空からさうして
土から
微に
動く。
毎日のやうに
西から
埃を
捲いて
來る
疾風がどうかするとはたと
止つて、
空際にはふわ/\とした
綿のやうな
白い
雲がほつかりと
暖かい
日光を
浴びようとして
僅に
立ち
騰つたといふやうに、
動きもしないで
凝然として
居ることがある。
水に
近い
濕つた
土が
暖かい
日光を
思ふ一
杯に
吸うて
其勢ひづいた
土の
微かな
刺戟を
根に
感ぜしめるので、
田圃の
榛の
木の
地味な
蕾は
目に
立たぬ
間に
少しづゝ
延びてひら/\と
動き
易くなる。
其の
刺戟から
蛙はまだ
蟄居の
状態に
在りながら、
稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と
鳴き
出すことがある。
空から
射す
日の
光はそろ/\と
熱度を
増して、
土はそれを
幾らでも
吸うて
止まぬ。
土は
凡てを
段々と
刺戟して
堀の
邊には
蘆やとだしばや
其の
他の
草が
空と
相映じてすつきりと
其の
首を
擡げる。
軟かさに
滿たされた
空氣を
更に
鈍くするやうに、
榛の
木の
花はひら/\と
止まず
動きながら
煤のやうな
花粉を
撒き
散らして
居る。
蛙は
假死の
状態から
離れて
軟かな
草の
上に
手を
突いては、
驚いたやうな
容子をして
空を
仰いで
見る。さうして
彼等は
慌てたやうに
聲を
放つて
其長い
睡眠から
復活したことを
空に
向つて
告げる。それで
遠く
聞く
時は
彼等の
騷がしい
聲は
只空にのみ
響いて
快げである。
彼等は
更に
春の
到つたことを一
切の
生物に
向つて
促す。
草や
木が
心づいて
其の
活力を
存分に
發揮するのを
見ないうちは
鳴くことを
止めまいと
努める。
田圃の
榛の
木は
疾に
花を
捨てゝ
自分が
先に
嫩葉の
姿に
成つて
見せる。
黄色味を
含んだ
嫩葉が
爽かで
且つ
朗かな
朝日を
浴びて
快い
光を
保ちながら
蒼い
空の
下に、まだ
猶豫うて
居る
周圍の
林を
見る。
岬のやうな
形に
偃うて
居る
水田を
抱へて
周圍の
林は
漸く
其の
本性のまに/\
勝手に
白つぽいのや
赤つぽいのや、
黄色つぽいのや
種々に
茂つて、それが
氣が
付いた
時に
急いで
一つの
深い
緑に
成るのである。
雜木林の
其處ら
此處らに
散在して
居る
開墾地の
麥もすつと
首を
出して、
蠶豆の
花も
可憐な
黒い
瞳を
聚めて
羞かし
相に
葉の
間からこつそりと四
方を
覗く。
雜木林の
間には
又芒の
硬直な
葉が
空を
刺さうとして
立つ。
其麥や
芒の
下に
居を
求める
雲雀が
時々空を
占めて
春が
深けたと
喚びかける。さうすると
其同族の
聲のみが
空間を
支配して
居可き
筈だと
思つて
居る
蛙は、
其囀る
聲を
壓し
去らうとして
互の
身體を
飛び
越え飛び越え
鳴き
立てるので
小勢な
雲雀はすつとおりて
麥や
芒の
根に
潜んで
畢ふ。さうしては
蛙の
鳴かぬ
日中にのみ、
之を
仰げば
眩ゆさに
堪へぬやうに
其の
身を
遙に
煌めく
日の
光の
中に
沒して
其小さな
咽の
拗切れるまでは
劇しく
鳴らさうとするのである。
蛙は
愈益鳴き
矜つて
樫の
木のやうな
大きな
常緑木の
古葉をも一
時にからりと
落させねば
止まないとする。
此の
時凡ての
樹木やそれから
冬季の
間にはぐつたりと
地に
附いて
居た
凡ての
雜草が
爪立して
只空へ/\と
暖かな
光を
求めて
止まぬ。
土がそれを
凝然と
曳きとめて
放さない。それで一
切の
草木は
土と
直角の
度を
保つて
居る、
冬季の
間は
土と
平行することを
好んで
居た
人も
鐵の
針が
磁石に
吸はれる
如く
土に
直立して
各自に
手に
農具を
執る。
紺の
股引を
藁で
括つて
皆田を
耕し
始める。
水が
欲しいと
人が
思ふ
時蛙は一
齊に
裂けるかと
思ふ
程喉の
袋を
膨脹させて
身を
撼がしながら
殊更に
鳴き
立てる。
白い
絲のやうな
雨は
水が
田に
滿つるまでは
注いで
又注ぐ。
鳴くべき
時に
鳴く
爲にのみ
生れて
來た
蛙は
苅株を
引つ
返し/\
働いて
居る
人々の
周圍から
足下から
逼つて
敏捷に
其の
手を
動かせ/\と
促して
止まぬ。
蛙がぴつたりと
聲を
呑む
時には
日中の
暖かさに
人もぐつたりと
成つて
田圃の
短い
草にごろりと
横に
成る。
更に
蛙はひつそりと
靜かな
夜になると
如何に
自分の
聲が
遠く
且遙に
響くかを
矜るものゝ
如く
力を
極めて
鳴く。
雨戸を
閉づる
時蛙の
聲は
滅切遠く
隔つてそれがぐつたりと
疲れた
耳を
擽つて
百姓の
凡てを
安らかな
眠りに
誘ふのである。
熟睡することによつて
百姓は
皆短い
時間に
肉體の
消耗を
恢復する。
彼等が
雨戸の
隙間から
射す
夜明の
白い
光に
驚いて
蒲團を
蹴つて
外に
出ると、
今更のやうに
耳に
迫る
蛙の
聲に
其の
覺醒を
促されて、
井戸端の
冷たい
水に
全く
朝の
元氣を
喚び
返すのである。
草木は
遠く
遙に
響けと
鳴く
其の
聲に
撼られつゝ
夜の
間に
生長する。
櫟や
楢や
其他の
雜木は
蛙が
鳴けば
鳴く
程さうしてそれが
鳴き
止む
季節までは
幾らでも
繁茂することを
繼續しようとする。
其處には
毛蟲や
其の
他の
淺猿しい
損害が
或は
有るにしても、しと/\と
屡梢を
打つ
雨が
空の
蒼さを
移したかと
思ふやうに
力強い
深い
緑が
地上を
掩うて
爽かな
冷しい
陰を
作るのである。
鬼怒川の
西岸一
部の
地にも
恁うして
春は
來り
且推移した。
憂ひあるものも
無いものも
等しく
耒※[#「耒+秬のつくり」、U+801F、74-15]を
執つて
各其の
處に
就いた。
勘次も
其の
一人である。
勘次は
春の
間にお
品の四十九
日も
過した。
白木の
位牌に
心ばかりの
手向をしただけで一
錢でも
彼は
冗費を
怖れた。
彼が
再び
利根川の
工事へ
行つた
時は
冬は
漸く
險惡な
空を
彼等の
頭上に
表はした。
霙や
雪や
雨が
時として
彼等の
勞働に
怖るべき
障害を
與へて
彼等を一
日其寒い
部屋に
閉ぢ
込めた。一
日の
工賃は
非常な
節約をしても
次の
日に
仕事に
出なければ一
錢も
自分の
手には
残らなくなる。それは
食料と
薪との
不廉な
供給を
仰がねばならぬからである。
勘次はお
品の
發病から
葬式までには
彼にしては
過大な
費用を
要した。それでも
葬具や
其の
他の
雜費には二
錢づつでも
村の
凡てが
持つて
來た
香奠と、お
品の
蒲團の
下に
入てあつた
蓄とでどうにかすることが
出來た。それでも
醫者への
謝儀や
其の
他で
彼自身の
懷中はげつそりと
減つて
畢つた。さうして
小作米を
賣つた
苦しい
懷からそれでも
彼は
自分の
居ない
間の
手當に五十
錢を
託して
行つた。それも
卯平へ
直接ではなくて
南へ
頼んで
卯平へ
渡して
貰つた。
勘次が
行つてから
其の
錢を
出された
時卯平は
「さう
疑ぐるならわしは
預かりますめえ」といつて
拒絶した。
「まあ
其
ことゆはねえで
折角のことに、
勘次さんも
惡い
料簡でしたんでもなかんべえから」と
宥めても
到頭卯平は
聽かなかつた。
勘次はどうにか
稼ぎ
出して
歸りたいと
思つて一
生懸命になつたがそれは
僅に
生命を
繋ぎ
得たに
過ないのであつた。
近所の
村落から
行つたものは
凌ぎ
切れないで
夜遁して
畢つたものもあつた。それでも
勘次は
僅に
持つて
出た
財布の
錢を
減らさなかつたといふ
丈のことに
繋ぎ
止めた。
「おとつゝあ
居て
呉れたなあ」と
媚びるやうにいつて
自分の
家の
閾を
跨いだ
時は
足に
知覺のない
程に
彼は
草臥れて
夜は
闇くなつて
居た。
有繋に
二人の
子は
悦んで
與吉は
勘次の
手に
縋つた。
卯平がしたやうに
鐵砲玉が
勘次の
手から
出ることゝ
思つたらしかつた。
勘次は
苦しい
懷から
何も
買つては
來なかつた。
彼は
什
にしても
無邪氣な
子の
爲に
小さな
菓子の
一袋も
持つて
來なかつたことを
心に
悔いた。
「まんま」というて
小さな
與吉は
勘次に
求めた。
「そんぢや
爺が
砂糖でも
嘗めろ」とおつぎは
與吉を
抱て
棚の
袋をとつた。
寡言な
卯平は
一寸見向いたきりで
歸つたかともいはない。
勘次が
草臥れた
容子をして
居るのが
態とらしいやうに
見えるので
卯平は
苦い
顏をして、
火の
消えた
煙管をぎつと
噛みしめては
思ひ
出したやうに
雁首を
火鉢へ
叩き
付けた。
吸穀がひつゝいてるので
彼は
力一
杯に
叩きつけた。
勘次にはそれが
當てつけにでもされるやうに
心に
響いた。
「おつぎみんなでも
嘗めさせろ、さうして
汝も
嘗めつちめえ、おとつゝあ
稼えで
來たから
汝等も
此れからよかんべえ」
卯平はいつた。
勘次は
漸く
歸つた
其の
箭先にかういふことで
自分の
家でも
酷く
落付かない、こそつぱくて
成らない
心持がするので
彼は
足も
洗はずに
近所へ
義理も
足すからといつて
出て
行つた。
「
明日だつてえゝのに」
卯平は
後で
呟いた。
彼はぶすり/\と
口は
利くのであつたがそれでも
先刻からのやうにひねくれ
曲つたことは
此れまではいつたことはなかつた。
彼は
死んだお
品のことを
思つて
二人の
子が
憐れになつて
勘次の
居ない
間の
面倒を
見る
氣に
成つた。
彼は
僅な
菓子の
袋から
小さな
與吉に
慕はれて
見ると
有繋に
憎い
心持も
起らなかつた。
其の
間彼は
何にも
不足に
思つては
居なかつた。それを
勘次が
歸つて
見ると
性來好きでない
勘次へ
忽ちに
二人の
子は
靡いて
畢つた。
彼は
此までの
心竭しを
勘次に
奪はれたやうで、ふつと
不快な
感じを
起したのである。それもどんな
姿にも
勘次が
義理を
述ればそれでもまだよかつたが、
勘次は
妙に
身が
ひけてそれが
喉まで
出ても
抑へつけられたやうで
聲に
發することが
出來なかつたのである。
懷のさむしい
勘次はさうして
身がひけるのを
卯平には
却て
餘所/\しくされるやうな
感じを
與へた。
勘次は
卯平にも
子供にも
濟ぬやうな
氣がしたので
近所へ
義理を
足すというて
出て
菓子の
一袋を
懷へ
入れて
來た。
其の
時與吉はもう
眠つて
居た。
卯平は
變なことをすると
思つて
見て
居た。さうして
又更に
自分が
酷く
隔てられるやうに
思つた。
彼は五十
錢の
錢のことを
思ひ
出して
忌々敷なつた。
「
勘次等懷はよかつぺ」
卯平はぶつゝりと
聞いた。
「おとつゝあ、
俺らえゝ
所なもんぢやねえ、やつとのことで
逃げるやうにして
來たんだ、あんな
所へなんざあ
決して
行くもんぢやねえ、とつても
駄目なこつた、
俺も
懲りつちやつたよ」
勘次は
慌てゝいつた。
彼は
逢ふ
人毎に
必ずよからう/\といはれるのを
非常に
怖れて
居た。
「うむ、さうかなあ」
卯平は
氣のないやうにいつた。
「どうで
俺ら
餘計者だ、
居やしねえからえゝや、
幾ら
持てたつて
構やしねえ」
彼は
更に
獨語いた。
勘次は
蒼くなつた。
卯平は
勘次が
屹度錢を
隱して
居るのだと
思つたのである。
彼はそんなこんなが
不快に
堪へないので
次の
日野田へ
立つて
畢つた。
野田で
卯平の
役目といへば
夜になつて
大きな
藏々の
間を
拍子木叩いて
歩く
丈で
老人の
體にもそれは
格別の
辛抱ではなかつた。
晝は
午睡が
許されてあるので
其の
時間を
割いて
器用な
彼には
内職の
小遣取も
少しは
出來た。
好きな
煙草とコツプ
酒に
渇することはなかつた。
暑い
時にはさつぱりした
浴衣を
引つ
掛けて
居ることも
出來た。
其處は
彼には
住み
辛い
處でもなかつた。
只凍ての
酷い
冬の
夜などには
以前からの
持病である
疝氣でどうかすると
腰がきや/\と
痛むこともあつたが、
其の
時丈は
勘次とまづくなければお
品の
側でおとつゝあといはれて
居たい
心持もするのであつた。
生來子を
持つたことのない
彼はお
品一人が
手頼であつた。お
品に
死なれて
彼は
全く
孤立した。さうして
老後は
到底勘次の
手に
託さねばならぬことに
成つて
畢つたのである。それでも
不見目な
貧相な
勘次は
依然として
彼には
蟲が
好かなかつた。
彼は
野田へ
行けば
比較的に
不自由のない
生活がして
行かれるので
汝等が
厄介には
成らねえでも
俺はまだ
立て
行かれると、
恁うして
哀愁に
掩はれた
心の一
方には
老人の
僻みと
愚癡とが
起つたのであつた。
卯平は
心に
涙を
呑んだ。
勘次は
悄然として
居た。
與吉が
泣く
度に
彼は
困つた。さうして
毎日お
品のことを
思ひ
出しては、
天秤で
手桶を
擔いだ
姿が
庭にも
戸口にも
時としては
座敷にも
見えることがあつた。
側に
居るやうな
氣がして
思はず
顧みることもあるのであつた。
彼はお
品を
思ひ
出すと
與吉を
抱いては「なあ、おつかあは
居ねえんだぞ、おつかあが
乳房欲しがんねえんだぞ」と
始終いつて
聞かせた。お
品が
居ないと
殊更にいふのはそれは一つには
彼自身の
斷念の
爲でもあつたのである。
お
品は
豆腐を
擔いで
居る
時は
能く
麥酒の
明罎を
手桶へ
括つて
行つた。それで
歸りの
手桶が
輕くなつた
時は
勘次の
好きな
酒がこぼ/\と
罎の
中で
鳴つて
居た。お
品は
酒店へ
豆腐を
置いては
其錢だけ
酒を
入れて
貰ふので
豆腐の
儲けだけ
廉い
酒を
買つて
勘次を
悦ばせるのであつた。それはお
品の
死ぬ
年のことだけである。お
品は
漸く
商を
覺えたといつて
居たのはまだ
其の
夏の
頃からである。
初めは
極りが
惡くて
他人の
閾を
跨ぐのを
逡巡して
居た。
其の
位だから
變な
赤い
顏もして
餘計に
不愛想にも
見えるのであつたが、
後には
相應に
時候の
挨拶もいへるやうに
成つたとお
品は
能く
勘次へ
語つたのである。
勘次は
追憶に
堪へなくなつてはお
品の
墓塋に
泣いた。
彼は
紙が
雨に
溶けてだらりとこけた
白張提灯を
恨めし
相に
見るのであつた。
勘次は
悄れた
首を
擡げて三
人の
口を
糊するために
日傭に
出た。
彼は
能く
隣の
主人に
使つて
貰つた。
米は
屹度彼が
搗かせられた。
上手な
彼は
減らさないでさうして
白く
搗いた。
彼は
時としては
主人のうつかりして
居る
間に
藏から
餘計な
米を
量り
出して、そつと
隱して
置いて
夜自分の
家に
持つて
來ることがあつた。それも
僅か二
升か三
升に
過ぎない。
其の
位では
主人の
注意を
惹くには
足らなかつた。さうして
其の
米は
窮迫した
彼の
厨を
少時濕すのである。
或る
時彼れは
復た
主人の
米をそつと
掠めて
股引へ
入れて
目につかぬやうに
薪の
積んだ
間へ
押し
込んで
置いた。
傭人がそれを
發見して
竊に
主人の
内儀さんに
告げた。
内儀さんは
僅かなことだから
棄てゝ
置いて
遣れといつたが
然し
傭人は一つには
惡戯から
米を
明けて
其の
代に一
杯に
土を
入れて
置いた。
勘次は
發覺したことを
怖れ
且つ
恥ぢて
次の
日には
來なかつた。それから
數日間は
主人の
家に
姿を
見せなかつた。
内儀さんは
傭人の
惡戯を
聞いて
寧ろ
憐になつて
又こちらから
仕事を
吩咐けてやつた。
更に
袋へ
米と
挽割麥とを
交ぜたのを
入れて、それから
此れは
傭人にも
炊いてやれないのだからお
前がよければ
持つて
行つて
秋にでもなつたら
糯粟の
少しも
返せと二三
斗入つた
粳粟の
俵とを一つに
遣つた。
勘次は
主人の
爲に一
所懸命働いた。
其の
以前からも
彼は
只隣の
主人から
見棄てられないやうと
心には
思つて
居るのであつた。
然し
非常な
勞働は
傭人の
仲間には
忌まれた。それは
傭人も
彼に
倣つて
自分も
其の
勞力を
偸むことが
出來ないからである。
さうする
内に
世間は
復春が
移つて
雨が
忙しく
田畑へ
水を
供給した。
勘次は
自分の
後の
田へ
出て
刈株を
引つ
返しては
耕した。おつぎも
萬能を
持つて
勘次の
後に
跟いた。
勘次はお
品の
手が
減つた
丈はおつぎを
使つてどうにか
從來作つた
土地は
始末をつけようと
思つた。
殊に
田は
直後なので
什
にしても
手放すまいとした。一
且地主へ
還して
畢つたら
再び
自分が
欲しくなつても
容易に
手に
入れることが
出來ないのを
怖れたからである。
今におつぎを一
人前に
仕込んで
見ると
勘次は
心に
思つて
居る。
勘次は
萬能をぶつりと
打ち
込んではぐつと
大きな
土の
塊を
引返す。おつぎは
漸く
小さな
塊を
起す。
勘次の
手は
速かに
運動してずん/\と
先へ
進む。おつぎは
段々後れて
小さな
塊を
淺く
起して
進んで
行く。さうすると
「そんなに
可怖びつくりやんぢやねえかうすんだ」
勘次は
遲緩し
相におつぎの
萬能をとつて
打ち
込んで
見せる。
「そんでもおとつゝあ、
俺がにやさういにや
出來ねえんだもの」
「そんな
料簡だから
汝等駄目だ、
本當にやつて
見る
積でやつて
見ろ」
おつぎは
勘次に
後れつゝ
手の
力の
及ぶ
限り
働いた。
與吉は
田圃の
堀の
邊に
筵を
敷いて
其處に
置いてある。
「えんとして
居ろ、
動くんぢやねえぞ
動くとぽかあんと
堀の
中さ
落こちつかんな、そうら
蛙ぽかあんと
落こつた。
動くなあ、
此處に
棒あつた、そうら
此でも
持つてろ、
泣くんぢやねえぞ、
姉は
此の
田ン
中に
居んだかんな、
泣くとおとつゝあにあつぷつて
怒られつかんな」おつぎは
頬を
擦りつけて
能くいひ
含めた。
與吉は
土だらけの
短い
棒で
岸の
土を
叩いて
居る。さうして
時々後を
向いては
姉の
姿を
見て
安心して
棒でぴた/\と
叩いて
居る。
棒の
先が
水を
打つので
與吉は
悦んだ。それも
少時の
間に
飽いた。おつぎは
與吉がまた
見た
時には
田の
向の
端に
行つて
居た。
「
姉よう」と
與吉は
喚んだ。おつぎは
返辭しなかつた。
與吉は
又喚んだ。さうして
泣き
出した。おつぎは
立つて
行かうとすると
「
構あねえで
置け、
耕つてあつちへ
行つてからにしろ」
勘次は
性急に
嚴しくおつぎを
止めた。おつぎは
仕方なく
泣くのも
構はずに
耕した。
勘次は
先へ/\と
耕して
堀の
側まで
來た。
「
泣くな、
今姉が
後から
來らあ」
勘次はかういつて、
與吉に一
瞥を
與へたのみで一
心に
其の
手を
動かして
居る。
與吉はおつぎが
漸く
近づいた
時一しきり
又泣いた。
「
よきはどうしたんだ」おつぎは
岸へ
上つて
泥だらけの
足で
草の
上に
膝を
突た。
與吉は
笑交りに
泣いて
兩手を
出して
抱かれようとする。
「
姉は
泥だらけで
仕やうあんめえな、
汚れてもえゝのか
よきは」いひながらおつぎは
與吉を
抱いた。
「どうした、
蛙奴居ねえか、
此の
棒でばた/″\と
叩いてやれ、さうしたら
痛えようつて
蛙奴が
泣くべえな、
泣くな
蛙だよう、
よきは
泣かねえようつてなあ」おつぎは
與吉を
抱いた
儘勘次の
方を
見て
「おとつゝあ、あつちへ
行つちやつた、
姉も
行かなくつちやなんねえ、おとつゝあに
怒られつかんな、
又えんとして
居ろ」おつぎはそつと
與吉を
筵へ
卸した。
「かせえてやれ、
何してんだ、えゝ
加減にしろ」
勘次は
後を
向いて
呶鳴つた。
「それ
見ろな
怒られつから、そら
此處にえゝものが
有つた」おつぎは
田圃にある
鼠麹草の
花を

つて
筵へ
載て
遣つた。さうして
又危いやうにそうつと
田へおりた。
與吉は
只鼠麹草の
花を
弄つて
居た。
堀は
雨の
後の
水を
聚めてさら/\と
岸を
浸して
行く。
青く
茂つて
傾いて
居る
川楊の
枝が一つ
水について、
流れ
去る
力に
輕く
動かされて
居る。
水は
僅に
觸れて
居る
其枝の
爲に
下流へ
放射線状を
描いて
居る。
蘆のやうで
然も
極めて
細い
可憐なとだしばがびり/\と
撼がされながら
岸の
水に
立つて
居る。お
玉杓子が
水の
勢ひに
怺へられぬやうにしては、
俄に
水に
浸されて
銀のやうに
光つて
居る
岸の
草の
中に
隱れやうとする。さうしては
又凡ての
幼いものゝ
特有で
凝然として
居られなくて
可憐な
尾をひら/\と
動かしながら、
力に
餘る
水の
勢にぐつと
持ち
去られつゝ
泳いで
居る。
與吉は
鼠麹草の
花を
水へ
投げた。
花が
上流に
向いて
落ちると、ぐるりと
下流へ
押し
向けられてずんずんと
運ばれて
行く。
岸の
草の
中に
居た
蛙は
剽輕に
其花へ
飛び
付いて、それからぐつと
後の
足で
水を
掻いて
向の
岸へ
着いてふわりと
浮いた
儘大きな
目を

つてこちらを
見る。
鼠麹草の
花が
皆投げ
竭されて
與吉は
又おつぎを
喚んだ。
「おうい」とおつぎの
情を
含んだ
聲が
遠くからいつた。おつぎの
返辭を
聞いては
與吉は
口癖のやうに
姉よと
喚ぶ。
其度毎におつぎは
忙しい
手を
動かしながらそれに
應ずるのである。
正午にはまだ
間があるうちに
午餐の
支度を
急いでおつぎは
田圃から
茶を
沸しにのぼる。
與吉は
悦んでおつぎの
背に
噛りついた。
勘次は
後で
獨り
耕した。
青い
煙が
楢の
木から
立つて
軈て
「
沸いたぞう」とおつぎの
聲で
喚ばれるまでは
勘次は
忙しい
其の
手を
止めなかつた。
午餐過からおつぎは
縫針へ
絲を
透して
竿へ
附けて
與吉に
持たせた。
與吉は
外の
子供のするやうに
其の
針を
擧げて
見ては
又水へ
投げて
大人しくして
居る。
暫く
時間が
經つと
又姉ようと
喚ぶ。おつぎは
堀の
近くへ
耕して
來た
時に
見ると
與吉の
竿は
絲がとれて
居た。おつぎは
岸へ
上つた。
「どうしたんでえ、
よきは」おつぎは
見ると
針が
向の
岸から
出た
低い
川楊の
枝に
纏つて
絲の
端が
水について
下流へ
向いて
居る。おつぎは二
町ばかり
上流の
板橋を
渡つて
行つて、
漸くのことで
枝を
曲げて
其針をとつた。さうして
又與吉の
棒へ
附けてやつた。
「はあ
引つ
懸けんぢやねえぞ
大變だかんな」おつぎは
極めて
輕く
叱つて
又田へおりた。
勘次は
又呶鳴つた。
「そんでも
よきは
絲切つちまつたんだもの」
おつぎは
危ぶむやうにして
控へ
目に
聲を
立てゝいつた。おつぎは
默つて
其の
手を
動かして
居る。
與吉は
返辭がなくても
懷かし
相に
姉ようと
數次喚び
掛けた。おつぎの
姿が
遠くなれば
筵へ
口のつく
程屈んで
聲を
限りに
喚んだ。
其の
晩勘次は
二人を
連れて
近所へ
風呂を
貰ひに
行つた。おつぎは
其處へ
聚つた
近所の
女房に
自分の
手を
見せて
「
俺らこんなに
肉刺出つちやつたんだよ」と
呟いた。
「ほんによな、
痛かつぺえなそりや、そんでもおつかあが
居ねえから
働かなくつちやなんねえな」
女房は
慰めるやうにいつた。
「おつかあのねえものは
厭だな」おつぎはいつて
勘次を
見ると
直に
首を
俛た。
勘次は
側で
凝然とそれを
聞いて
居た。
「おつう
等だつて
今に
善えこともあらな、そんだがおつかゞ
無くつちや
衣物欲しくつても
此ばかりは
仕やうがねえのよな」
女房はいつた。
勘次は
其
ことは
云はずに
居て
呉れゝばいゝのにと
思ひながら
六か
敷い
顏をして
默つて
居た。
「
此の
肉刺は
とがめめえか」おつぎは
手の
平の
處々に
出た
肉刺を
見て
心配相にいつた。
「
何でとがめるもんか」
勘次は
抑制した
或物が
激發したやうに
直に
打消した。
勘次は
家に
戻ると
飯臺の
底にくつゝいて
居る
飯の
中から
米粒ばかり
拾ひ
出してそれを
煙草の
吸殼と
煉合せた。さうして
針の
先でおつぎの
湯から
出たばかりで
軟かく
成つた
手の
肉刺をついて
汁液を
出して
其處へそれを
貼つて
遣つた。
「しく/\すんな」おつぎは
貼つた
箇所を
見ていつた。
「
液汁出したばかりにやちつた
痛えとも、その
代すぐ
癒つから」
勘次はおつぎを
凝然と
見てそれからもう
鼾をかいて
居る
與吉を
見た。
「
肉刺なんぞ
出たらば
出たつておとつゝあげいふもんだ、
他人のげなんぞ
見せたりなにつかするもんぢやねえ、
汝等なんにも
知らねえから
仕やうねえ、
田耕え
始まりにやおとつゝあ
等見てえな
手だつてかうえに
出んだか
見ろ。それ
痛えの
我慢しい/\
行りせえすりや
固まつちあんだ」
勘次は
自分の
手をおつぎへ
示した。
「おつかゞ
無くなつて
困んな
汝ばかしぢやねえんだから」
勘次は
暫く
間を
置てぽつさりとしていつた。
「
身上の
爲だから
汝も
我慢するもんだ、
見ろ
汝等處ぢやねえ、
武州の
方へなんぞ
遣られて
泣き
拔いてるものせえあら」と
彼は
又辛うじていつた。
大人しく
默つて
居たおつぎは
「
武州ツちやどつちの
方だんべ」
寧ろあどけなく
聞いた。
「あつちの
方よ、
汝が
足ぢや一日にや
歩けねえ
處だ」
勘次は
雨戸の
方を
向いて
西南を
示した。
「
遠いんだな、
其處へ
行つたらどうすんだんべ」
「
機織するものもあれば
百姓するものもあんのよ」
「
機教れぢやよかんべな」
「
何でえゝことあるもんか、
家へなんざあ
滅多に
來られやしねえんだぞ、そんで
朝から
晩迄みつしら
使あれて、それ
處ぢやねえ
病氣に
成つたつて
餘程でなくつちや
葉書もよこさせやしねえ」
「そんぢや、さうえ
處へ
行つちやひでえな、
逃げて
來ることも
出來ねえんだんべか」
「
直ぐ
捉めえられつちあからそんなに
遁げられつかえ」
「
巡査に
捉まんだんべか」
「さうなもんか、
巡査でなくつたつて
遁げ
出せば
直ぐ
捉めえるやうに
人が
番してんのよ、なあ、そんでもなくつちや
遠くの
者ばかり
頼んで
置くんだもの
仕やうあるもんか」
「そんでも
厭だつちつたらどうすんだんべ」
「
厭だなんていつた
位ひでえとも
立金しなくつちやなんねえから」
「どういにすんだんべそら」
「そらなあ、
幾ら
勤めたつて
途中で
厭だからなんて
出つちめえば、
借りた
丈の
給金はみんな
取つくる
返えされんのよ、なあ、それから
泣き/\も
居なくつちやなんねえのよ」
「そんぢや
俺らさうえ
處へ
行かねえでよかつたつけな」おつぎは
熱心にいつた。
「そんだから
汝等こた
遣りやしねえ。
汝こと
奉公にやれば
其の
錢で
俺ら
借金も
無くなるし、
よきことだつて
輕業師げでも
出しつちめえばそれこそ
樂になつちあんだが、おつかゞ
無くつちや
辛えつて
後で
泣かれんの
厭だから
俺ら
土噛つてもそんな
料簡は
出さねんだ」
「おとつゝあ、
奉公すれば
借金なくなんだんべか」
「おつかせえ
居れば
汝ことも
奉公に
出して、おとつゝあ
等もえゝ
錢捉めえんだが、おつかゞ
無くなつておとつゝあだつて
困つてんだ、それから
汝だつて
奉公に
行つた
積で
辛抱するもんだ、なあ、
俺ら
汝等げみじめ
見せてえこたあ
有りやしねんだから」
勘次はしみ/″\と
反覆した。
勘次はおつぎに
身體不相應な
仕事をさせて
居ることを
知つて
居る。それで
自分が
朝は
屹度先へ
起きて
竈の
下へ
火を
點ける。
其の
時疲れた
少女はまだぐつたりと
正體もなく
枕からこけて
居る。
白い
蒸氣が
釜の
蓋から
勢ひよく
洩れてやがて
火が
引かれてからおつぎは
起される。
帯を
締た
儘横になつたおつぎは
容易に
開かない
目をこすつて
井戸端へ
行く。
蓬々と
解けた
髮へ
櫛を
入れて
冷たい
水へ
手を
入れた
時おつぎは
漸く
蘇生つたやうになる。それでも
目はまだ
赤くて
態度がふら/\と
懶相である。
「さあ、
飯出來たぞ」
勘次は
釜から
茶碗へ
飯を
移す。さうして
自分で
農具を
執つておつぎへ
持たせてそれからさつさと
連れ
出すのである。
籾種がぽつちりと
水を
突き
上げて
萌え
出すと
漸く
強くなつた
日光に
緑深くなつた
嫩葉がぐつたりとする。
軟かな
風が
凉しく
吹いて
松の
花粉が
埃のやうに
濕つた
土を
掩うて、
小麥の
穗にもびつしりと
黴のやうな
花が
附いた。
百姓は
皆自分の
手足に
不足を
感ずる
程忙しくなる。
勘次は一
意只仕事の
手後れになるのを
怖れた。
草臥れても
疲れても
彼は
毎日未明に
起きて
夜まで
其の
手足を
動かして
止まぬ。おつぎも
其の
後に
跟いて
草臥れた
身體を
引きずられた。
晩餐の
支度に
與吉を
負うて
先へ
歸るのがおつぎにはせめてもの
骨休めであつた。
勘次は
麥の
間へ
大豆を
蒔いた。
畦間へ
淺く
堀のやうな
凹みを
拵へてそこへぽろ/\と
種を
落して
行く。
勘次はぐい/\と
畦間を
掘つて
行く。
後からおつぎが
種を
落した。おつぎのまだ
短い
身體は
麥の
出揃つた
白い
穗から
僅に
其の
被つた
手拭と
肩とが
表はれて
居る。
與吉は
道の
側の
薦の
上に
大人しくして
居る。おつぎの
白い
手拭が
段々麥の
穗に
隱れると
與吉は
姉ようと
喚ぶ。おつぎはおういと
返辭をする。おつぎの
聲が
聞えると
與吉は
凝然として
居る。
勘次は
畦間を
作りあげてそれから
自分も
忙しく
大豆を
落し
初めた。
勘次は
間懶つこいおつぎの
手もとを
見て
其の
畝をひよつと
覗いた。
種と
種との
間隔が
不平均で四
粒も五
粒も一つに
落ちてる
處があつた。
「
此のざまはどうしたんだ、こんなこつて
生計が
出來つか」と
呶鳴りながら
彼は
突然おつぎを
擲つた。おつぎは
麥の
幹と
共に
倒れた。おつぎは
倒れた
儘しく/\と
泣いた。
「
大概解り
相なもんぢやねえか、こんなざまぢや
種ばかし
要つて
仕やうありやしねえ」
勘次は
後を
呟いた。
隣の
畑に
此も
大豆を
蒔いて
居た
百姓は
駈けて
來た。
「
勘次さんどうしたもんだいまあ、
其
荒つぺえことして」と
勘次を
抑へた。
「おつぎ
泣かねえでさあ
起きて
仕事しろ、おとつゝあげは
俺謝罪つてやつかんなあ、
與吉が
泣てら、さあ
行つて
見さつせ」
百姓は
更におつぎを
賺した。
與吉はおつぎの
姿が
見えないので
頻りに
喚んだ。それでもおつぎの
聲は
聞えないので
火の
點いたやうに
泣き
出したのである。おつぎは
啜り
泣きしながら
與吉を
抱いた。
「お
袋もねえのにおめえいゝ
加減にしろよ、
可哀想ぢやねえか、そんなことしておめえ
幾つだと
思ふんだ、さう
自分の
氣のやうに
出來るもんぢやねえ、
佛の
障にも
成んべぢやねえか」
隣畑の
百姓はいつた。
勘次は
默つて
畢つて
何ともいはなかつた。
與吉はおつぎに
抱かれたので、おつぎの目がまだ
濕うて
居るうちに
泣き
止だ。
勘次は
其の
日の
夕方おつぎが
晩餐の
支度に
立つた
時自分も
一つに
家へ
戻つた。
彼は
膝がしらで
四つ
偃に
歩きながら
座敷へあがつて
財布を
懷へ
捩ぢ
込んでふいと
出た。
彼は
風呂敷包を
持つて
歸つた。
彼が
戸口に
立つた
時は
家の
内は
眞闇で
一寸は
物の
見分もつかなかつた。
草臥れ
切つた
身體で
彼は
其夜も
二人を
連れて、
自分の
所有ではない
其茂つた
小さな
桑畑を
越えて
南の
風呂へ
行つた。
其處にはいつものやうに
風呂を
貰ひに
女房等が
聚つて
居た。
「
能くなあ、おつうは
よきこと
面倒見んな、
女の
子は
斯うだからいゝのさな、
直ぐ
役に
立つかんな」
女房の
一人がいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、
今夜ひどく
威勢惡いな」
他の
女房がいつた。
「
先刻俺に
打つとばされたかんでもあんべえ」
勘次は
苦笑しながらいつた。
「
何でだつぺなまあ、おめえそんなに
仕ねえで
面倒見てやらつせえよ、
此れがおめえ
女つ
子でもなくつて
見さつせえ、こんな
小えの
抱えて
仕やうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでも
無くつちや
育たなかつたかも
知んねえぞ、それこそ
因果見なくつちやなんねえや、なあおつう」
女房等はいつた。
「
俺がとこちつともこら
離んねえんだよ
仕やうねえやうだよ
本當に」おつぎはもう
段々手に
餘つて
來た
與吉を
膝にしていつた。
「
今ぢや、まるつきしおつかのやうな
氣がしてんだな、
屹度」
女房らはまた
與吉を
見ていつた。
勘次は
側で
只目を
屡叩いた。
家へ
戻つてから
勘次は
「おつう、
手ランプ
持つて
來て
見せえ、
汝げ
見せるものあんだから」
おつぎは
出る
時に
吹消たブリキの
手ランプを
點けて、まだ
容子がはき/\としなかつた。
勘次は
先刻の
風呂敷包を
解いた。
小さく
疊んだ
辨慶縞の
單衣が
出た。
「
汝げ
此遣んべと
思つて
持つて
來たんだ。
此んでもなよ、おつかゞ
地絲で
織つたんだぞ、
今ぢや
絲なんぞ
引くものなあねえが、おつか
等毎晩のやうに
引いたもんだ、
紺もなあ
能うく
染まつてつから
丈夫だぞ、おつかは
幾らも
引つ
掛ねえつちやつたから、まあだまるつきり
新しいやうだ
見ろ、どうした
手ランプまつとこつちへ
出して
見せえまあ」
勘次は
單衣を
少し
開いて
鼻へ
當て
臭を
嗅いで
見た。
「ちつたあ
黴臭くなつたやうだが、そんでも
此位ぢや
一日干せば
臭えな
直つから」
勘次は
分疏でもするやうにいつた。
おつぎは
左手に
持ち
換た
手ランプを
翳して
單衣を
弄つては
浴後のつやゝかな
顏に
微笑を
含んだ。
勘次はおつぎの
顏ばかり
見て
居た。さうして
其の
機嫌が
恢復しかけたのを
見て
「どうした、それでも
汝りや
氣につたか、おつかゞ
物はみんな
汝がもんだかんな、
俺ら
汝ツ
等がだとなりや
幾ら
困つたつて、はあ
決して
質になんざ
置かねえから、
大事にして
汝能うく
藏つて
置いたえ」と
彼は
滿足らしく
見えた。おつぎは
手ランプを
置いて
勘次がしたやうに
鼻へ
當てゝ
臭を
嗅いで
見たり、
左の
手だけを
袖へ
透して
見たりした。
「
俺がにや
此んぢや
引きじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれから
手で
釣るして
見たりした。
「
藏つて
置いて、
俺らいまつと
大く
成つてから
着べかな」
「どうでも
汝がもんだから
汝が
好きにしろな」
勘次はおつぎの
手が
動くに
從つて
目を
移した。
手ランプのぼうと
立つ
油煙がほぐれた
髮へ
靡き
掛るのも
知らずにおつぎはそつちこつちへ
單衣を
弄つて
居た。
「
汝うつかりして、そうれ
燃えつちまあぞ」
勘次は
油煙が
復た
傾いた
時慌てゝおつぎの
髮へ
手を
當てゝいつた。
勘次の
田畑は
晩秋の
收穫がみじめなものであつた。それは
氣候が
惡いのでもなく、
又土地が
惡いのでもない。
耕耘の
時期を
逸して
居るのと、
肥料の
缺乏とで
幾ら
焦慮つても
到底滿足な
結果が
得られないのである。
貧乏な
百姓はいつでも
土にくつゝいて
食料を
獲ることにばかり
腐心して
居るにも
拘はらず、
其の
作物が
俵になれば
既に
大部分は
彼等の
所有ではない。
其の
所有であり
得るのは
作物が
根を
以て
田や
畑の
土に
立つて
居る
間のみである。
小作料を
拂つて
畢へば
既に
手をつけられた
短い
冬季を
凌ぐ
丈けのことがともすれば
漸くのことである。
彼等は
自分で
田畑が
忙しい
時にも
其の
日に
追れる
食料を
求る
爲に
比較的收入のいゝ
日傭に
行く。
百姓といへば
什
に
愚昧でも
凡ての
作物を
耕作する
季節を
知らないことはない。
村落の
端から
端まで
皆同一の
仕事に
屈託して
居るのだから
其の
季節を
假令自分が
忘れたとしても
全く
忘れ
去ることの
出來るものではない。
然しもう
季節だと
知つて
見ても
其の
日/\の
食料を
求める
爲めに
勞力を
割くのと、
肥料の
工夫がつかなかつたりするのとで
作物の
生育からいへば
三日を
爭ふやうな
時でも
思ひながら
手が
出ないのである。
以前のやうに
天然の
肥料を
獲ることが
今では
出來なくなつて
畢つた。
何處の
林でも
落葉を
掻くことや
青草を
刈ることが
皆錢に
餘裕のあるものゝ
手に
歸して
畢つた。それと
共に
林は
封鎖されたやうな
姿に
成つて
居る。
冬毎に
熊手の
爪の
及ぶ
限り
掻いて
行くので、
草も
隨つて
短くなつて
腰を
沒するやうな
處は
滅多にない。
其の
草も
更に
土から
刈つて
行くので
次第に
土が
痩せて
行く。だから
空手では
何處へ
行つても
竊取せざる
限は
存分に
軟かな
草を
刈ることは
出來ない。
貧乏な
百姓は
落葉でも
青草でも、
他人の
熊手や
鎌を
入れ
去つた
後に
求める。さうして
瘠せて
行く
土を
更に
骨まで
噛むやうなことをして
居るのである。一
般には
落葉や
青草の
缺乏を
感ずると
共に
便利な
各種の
人造肥料が
供給される。
然しそれも
依然として
金錢に
幾らでも
餘裕のある
人にのみ
便利なのであつて、
貧乏な
百姓には
牛や
馬が
馬塞棒で
遮られたやうな
形でなければならぬ。さうかといつて
其れ
等の
肥料なしには
到底一
般に
定められてある
小作料を
支拂ふ
丈の
收穫は
得られないので
慘憺たる
工夫が
彼等の
心を
往來する。さうして
又食料を
求める
爲に
勞力を
他に
割くことによつて、
作物の
畦間を
耕すことも
雜草を
除くことも一
切が
手後れに
成る。
季節が
暑くなれば
雨があつて三
日も
見ないうちには
雜草は
驚くべき
迅速な
發育を
遂げる。それが
著しく
作物の
勢力を
阻害する。それだけ
收穫の
減少を
來さねばならぬ
筈である。
要するに
勤勉な
彼等は
成熟の
以前に
於て
既に
青々たる
作物の
活力を
殺いで
食つて
居るのである。
收穫の
季節が
全く
終りを
告げると
彼等は
草木の
凋落と
共に
萎靡して
畢はねばならぬ。
草木の
眠りに
落ち
去る
少くとも五六十
日の
間は、
彼等は
稀に
冬懇というて
麥の
畦間を
耕すことや
林の
間に
落葉や
薪を
求めることがあるに
過ぎぬ。
自分の
食料に
換る
丈の
錢を
獲ることが
其の
期間の
仕事に
於ては
見出されないのである。
蛇や
蛙や
其の
他の
蟲類が
假死の
状態に
在る
間に
彼等は
目前に
逼つて
居る
未來の
苦しみを
招く
爲に、
過去の
苦しかつた
記念である
其の
缺乏した
米や
麥を
日毎に
消耗して
行くのである。
彼等は
手に
内職を
持つて
居らぬ。
自分の
使用すべき
爲にのみは
筵も
草履も
畚も
草鞋も
其の
他のものも
藁で
作ることを
知つて
居れども、
大抵は
刈り
後れになつた
藁では
立派な
製作は
得られないのである。それであるのに
彼等は
肥料の
缺乏を
訴へつゝ
其の
藁屑や
粟幹や
其の
他のものが
庭に
散らばつて
居ても
容易にそれを
始末しようとしない。
他人の
注意を
受けてもそれでも
改めることをしない。
彼等は
苦しい
時に
苦しむことより
外に
何にも
知ることがないのである。
勘次も
彼等の
仲間である。
然しながら
彼は
境遇の
異常な
刺戟から
寸時も
其の
身を
安住せしむる
餘裕を
有たなかつた。
彼も
他の
貧乏な
百姓のするやうに
冬の
季節になれば
薪を
採つて
壁に
積んで
置くことをした。
彼は
近來に
成つてから
隣の
主人が
林を
改良する
爲に
雜木林を一
旦開墾して
畑にするといふことに
成つたので
其の一
部を
擔當した。
彼は
小さな
身體である。
然し
彼は
重量ある
唐鍬を
振り
翳して一
鍬毎にぶつりと
土をとつては
後へそつと
投げつゝ
進む。
彼は
其開墾の
仕事が
上手で
且つ
好きである。
其のきりつと
緊つた
身體は
小さいにしてもそれが
各部の
平均を
保つて
唐鍬を
執るときには
彼と
唐鍬とは
唯一
體である。
唐鍬の
廣い
刄先が
木の
根に
切り
込む
時には
彼の
身體も
一つにぐざりと
其の
根を
切つて
透るかと
思ふやうである。
土を
切り
起すことの
上手なのは
彼の
天性である。それで
彼は
遠く
利根川の
工事へも
行つたのであつた。
彼は
自分の
伎倆を
恃んで
居る。
彼は
以前からも
少しづつ
開墾の
仕事をした。
其の
賃錢によつて
其の
土地を
深くも
淺くも
速くも
遲くも
仕上げることを
知つて
居た。
竹林を
開墾した
時彼は
根の
閉ぢた
儘一
坪の
大きさを
只四つの
塊に
掘り
起したことがある。それでも
其の
頃まではさういふ
仕事が
幾らも
無かつたので、
其の
賃錢は
仕事を
始める
時其の
研ぎ
減らした
唐鍬の
刄先を
打たせる
鍛冶の
手間と、
異常な
勞働の
爲に
費す
其の
食料を
除いては
幾らもなかつたのである。
彼は
主人の
開墾地が
春一
杯の
仕事には十
分であることを
悦んだ。
錢の
外に
彼は
米と
麥との
報酬を
受けることにした。おつぎは
別に
仕事といつてはなかつたが
彼はおつぎを
一人では
家に
置かなかつた。
與吉を
連れておつぎは
開墾地へ
行つて
居た。
勘次が
其の
鍛錬した
筋力を
奮つて
居る
間におつぎはそこらの
林から
雀枝を
採つて
小さな
麁朶を
作つて
居る。
小さな
枝は
土地では
雀枝といはれて
居る。
枯た
雀枝を
採ることは
何處の
林でも
持主が
八釜敷いはなかつた。
勘次は
雨でも
降らねば
毎日必ず
唐鍬を
擔いで
出た。
或日彼は
木の
株へ
唐鍬を
強く
打込んでぐつとこじ
扛げようとした
時鍛へのいゝ
刃と
白橿の
柄とは
強かつたのでどうもなかつたが、
鐵の
楔で
柄の
先を
締めた
其の
唐鍬の四
角な
穴の
處が
俄に
緩んだ。
其處はひつといはれて
居る。ひつに
大きな
罅が
入つたのである。
柄がやがてがた/\に
動いた。
「えゝ、
箆棒、
一日の
手間鍛冶屋へ
打つ
込んちあなくつちやなんねえ」
彼は
呟いた。
次の
朝彼は
未明に
鍛冶へ
走つた。
「わし
行つて
來あんすから、
此等こと
見てゝおくんなせえ」おつぎと
與吉とを
南の
女房へ
頼んだ。
「
他へは
行くんぢやねえぞ、えゝか、よきは
泣かさねえやうにしてんだぞ」
彼はおつぎへもいつて
出た。おつぎは
其
注意を
人前でされることがもう
耻かしく
厭な
心持がするやうに
成て
居た。
勘次は
鬼怒川の
渡を
越えて
土手を
傳ひて、
柄のない
唐鍬を
持つて
行つた。
鍛冶は
其の
時仕事が
支へて
居たが、それでも
恁ういふ
職業に
缺くべからざる
道具といふと
何處でもさういふ
例の
速に
拵へてくれた。
「
隨分荒えことしたと
見えつけな、
俺らも
近頃になつて
此の
位えな
唐鍬滅多打つたこたあねえよ、」
鍛冶は
赤く
熱した
其の
唐鍬を
暫く
槌で
叩いて、それから
土中へ
据ゑた
桶の
泥を
溶いたやうな
水へぢうと
浸して、
更に
又小さな
槌でちん/\と
叩いて
「こんだこさ
大丈夫だ、
先にやどうして
罅なんぞいつたけかよ」
鍛冶は
汗の
額を
勘次に
向けて
「
柄が
折つちよれねえうちは
動きつこねえから」といつて
又
「
身體の
割にしちや
圖無えな」と
鍛冶は
微笑した。
鐵の
臭のする
唐鍬を
提げて
勘次は
復土手を
走つた。
其の
日も
西風が
枯木の
林から
麥畑からさうして
鬼怒川を
渡つて
吹いた。
鬼怒川の
水は
白い
波が
立つて、
遠くからはそれが
粟を
生じた
肌のやうに
只こそばゆく
見えた。
西風は
川に
吹き
落ちる
時西岸の
篠をざわ/\と
撼がす。
更に
東岸の
土手を
傳うて
吹き
上げる
時、
土手の
短い
枯芝の
葉を
一葉づゝ
烈しく
靡けた。
其の
枯芝の
間にどうしたものか
氣まぐれな
蒲公英の
黄色な
頭がぽつ/\と
見える。どうかすると
土手は
靜かで
暖かなことがあるので、
遂騙されて
蒲公英がまだ
遠い
春を
遲緩しげに
首を
出して
見ては、また
寒く
成つたのに
驚いて
蹙まつたやうな
姿である。
勘次は
唐鍬を
持つて
復た
自分の
活力を
恢復し
得たやうに、それから
又一
日仕事を
怠れば
身内がみり/\して
何だか
知らぬが
其の
仕事に
催促されて
成らぬやうな
心持がした。
鬼怒川の
水は
落ちて
此方の
土手から
連つて
居る
大きな
洲が
其の
流れを
西岸の
篠の
下まで
蹙めて
居る。
廣く
且遠い
洲には
只西風が
僅に
乾いた
砂をさら/\と
掃くやうにして
吹いて
居る。それで
白く
乾燥した
洲は
只からりと
清潔に
見える。さういふ
間にどうしたものか
此れも
氣まぐれな
人が、
遠くは
其の
砂から
生えたやうに
見えてちらほらと
散らばつて
少しづゝ
動いて
居る。
勘次は
土手からおりて
見た。
動いて
居る
人々は
萬能で
其の
砂を
掘つて
居るのであつた。
西風が
乾かしてはさらさらと
掃いて
居ても
洲には
猶幾らか
波の
趾がついて
居る。
其砂の
中からは
短い
木片が
出る。二三
寸から五六
寸位な
稀には一
尺位なものも
掘り
起される。
皆研ぎ
減したやうな
木片のみである。
人々は
冷たく
成つた
手を
口へ
當てゝ
白い
暖かい
息を
吹つ
掛けながら一
心に
先へ
先へと
掘り
起しつゝ
行く。
「どうするんだね」
勘次は
一人の
側へ
立つて
聞いた。ひよつと
首を
擡げたのは
婆さんであつた。
婆さんは
腰をのして
強い
西風によろける
足を
踏しめて
「
此れ
干して
置いて
燃すのさ」と
穢い
白髮と
手拭とを
吹かれながら
目を
蹙めていつた。
「どうしても
斯う
成つちやべろ/\
燃えて
飽氣なかんべえね」
勘次は
聞いた。
「
赤え
灰に
成つてな、
火も
弱えのさ、そんでも
麁朶買あよりやえゝかんな、
松麁朶だちつたつてこつちの
方へ
來ちや
生で卅五
把だの
何だのつて、ちつちえ
癖にな、
俺らやうな
婆でも十
把位は
背負へんだもの、
近頃ぢや
燃す
物が一
番不自由で
仕やうねえのさな」
婆さんはいつた。
「
松麁朶で卅五
把ぢや
相場はさうでもねえが、
商人がまるき
直すんだから
小さくもなる
筈だな」
勘次は
首を
傾けていつた。
「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん
何處だね」
萬能を
杖にして
婆さんはいつた。
「
俺ら
川向さ」
「そんぢや
燃す
木は
有つ
處だね」
婆さんは
更に
勘次の
唐鍬を
見て
「たいした
唐鍬だが
餘つ
程すんだつぺな」
「さうさ
今打たせちや
三十掛は
屹度だな」
「
三十掛ツちや
幾らするごつさら、
目方もしつかり
掛んべな」
「
一貫目もねえがな」
勘次は
自慢らしく
婆さんへ
唐鍬を
持たせた。
「おういや、
俺らがにや
引つたゝねえやうだ、おめえさん
自分で
使あのけまあ、
何したごつさらよ
此んな
道具なあ」
「
毎日木根つ
子起してたんだが、
唐鍬のひつ
痛つちやつたから
直し
來た
處さ」
「そんぢやおめえさん
燃す
物にや
不自由なしでえゝな」
婆さんは
羨まし
相にいつた。さうして
小さな
木片を
入る
爲に
持て
來た
麻の
穢い
袋を
草刈籠から
出した。
僅に
鬼怒川の
水を
隔てゝ
西は
林が
連つて
居る。
村落も
田も
畑も
其の
林に
包まれて
居る。
東は
只低い
水田と
畑とで
村落が
其の
間に
點在して
居る。
其處に
家を
圍んで
僅かな
木立が
有るばかりである。
隨つて
薪の
缺乏から
豆幹や
藁のやうなものも
皆燃料として
保存されて
居ることは
勘次も
能く
知つて
居た。
然し
其の
薪の
缺乏から
自然にかういふ
砂の
中に
洪水が
齎した
木片の
埋まつて
居るのを
知つて
之を
求めて
居るのだといふことは
彼は
始めて
見て
始めて
知つた。
彼は
滅多に
川を
越えて
出ることはなかつたのである。
勘次は
自分の
壁際には
薪が一
杯に
積まれてある。
其上に
開墾の
仕事に
携はつて
何といつても
薪は
段々殖えて
行くばかりである。
更に
其の
開墾に
第一の
要件である
道具が
今は
完全して
自分の
手に
提げられてある。
彼は
恁ういふ
辛苦をしてまでも
些少な
木片を
求めて
居る
人々の
前に
矜を
感じた。
彼は
自分の
境遇が
什
であるかは
思はなかつた。
又恁ういふ
人々の
憐れなことも
想ひやる
暇がなかつた。さうして
彼は
自分の
技倆が
愉快になつた。
彼は
再び
土手から
見おろした。
萬能を
持つて
居るのは
皆女で十三四の
子も
交つて
居るのであつた。
人々の
掘り
起した
趾は
畑の
土を
蚯蚓が
擡げたやうな
形に、
濕つた
砂のうね/\と
連つて
居るのが
彼の
目に
映つた。
彼は
家に
歸ると
共に
唐鍬の
柄を
付た。
鉈の
刀背で
鐵の
楔を
打ち
込んでさうして
柄を
執つて
動かして
見た。
次の
朝からもう
勘次の
姿は
林に
見出された。
主人から
與へられた
穀物は
彼の一
家を
暖めた。
彼は
近來にない
心の
餘裕を
感じた。
然しさういふ
僅な
彼に
幸ひした
事柄でも
幾らか
他人の
嫉妬を
招いた。
他の
百姓にも
悶躁いて
居る
者は
幾らもある。さういふ
伴侶の
間には
僅に五
圓の
金錢でもそれは
懷に
入つたとなれば
直に
世間の
目に
立つ。
彼等は
幾らづゝでも
自分の
爲になることを
見出さうといふことの
外に、
目を
峙てゝ
周圍に
注意して
居るのである。
彼等は
他人が
自分と
同等以下に
苦んで
居ると
思つて
居る
間は
相互に
苦んで
居ることに一
種の
安心を
感ずるのである。
然し
其の
一人でも
懷のいゝのが
目につけば
自分は
後へ
捨てられたやうな
酷く
切ないやうな
妙な
心持になつて、そこに
嫉妬の
念が
起るのである。それだから
彼等は
他の
蹉跌を
見ると
其僻んだ
心の
中に
竊に
痛快を
感ぜざるを
得ないのである。
勘次の
家には
薪が
山のやうに
積まれてある。それが
彼等の
伴侶の
注目を
惹いた。それとはなしに
數次彼の
主人に
告げられた。
開墾地で
木を
焚いた
其灰をも
家に
運んだといふことまで
主人の
耳に
入つた。
勘次は
開墾の
手間賃を
比較的餘計に
與へられる
代りには
櫟の
根は一つも
運ばない
筈であつた。
彼等の
伴侶はさういふことをも
知つて
居た。
晝餐の
後や
手の
冷たく
成つた
時などには
彼はそこらの
木を
聚めて
燃やす。
木の
根が
燻ぶつていつでも
青い
煙が
少しづゝ
立つて
居る。
彼は
其煙に
段々遠ざかりつゝ
唐鍬を
打ち
込んで
居る。
毎日火は
別な
處で
焚かれた。
彼は
屹度其の
灰を
掻つ
掃いで
去つたのである。
然し
壁際に
積んだ
木の
根はそこには
不正なものが
交つて
居るにしても、
大部分は
彼の
非常な
勞苦から
獲たものである。
彼は
林の
持主に
請うて
掘つたのである。それでも
餘りに
人の
口が
八釜敷ので
主人は
只幾分でも
將來の
警めをしようと
思つた。
其の
以前から
勘次は
秋になれば
掛稻を
盜むとかいふ
蔭口を
利かれて
巡査の
手帖にも
載つて
居るのだといふやうなことがいはれて
居たのであつた。
主人はそれでも
竊に
人を
以て
木の
根を
運んだかどうかといふことを
聞かせて
見た。
彼が
心づいて
謝罪するならばそれなりにして
遣らうと
思つたからである。
彼は
主人の
心を
知る
由はなかつた。
「
何處でも
見た
方がようがす、わしは
決して
運んだ
覺えなんざねえから」
彼は
恐ろしい
權幕できつぱり
斷つた。
主人は
村の
駐在所の
巡査へ
耳打ちをした。
巡査は
或日ぶらつと
勘次の
家へ
行つた。
其の
日は
朝から
雨なので
勘次は
仕事にも
出られず、
火鉢へ
少しづゝ
木の
根を
燻べてあたつて
居た。
「
雨で
困つたな、
勘次は
大分勉強する
相だな」
巡査は
帶劍の
鞘を
掴んでいつた。
「へえ」
勘次は
急に
膝を
立て
直した。
表の
戸口へひよつこり
現れた
巡査の、
外套の
頭巾を
深く
被つて
居る
顏が
勘次には
只恐ろしく
見えた。さうして
其の
聲が
刺を
含んで
響いた。
巡査はぶらりと
家の
横手へ
行つて
壁際の
木の
根を
見た。
勘次は
巡査の
後から
跟いて
行つた。
「
大分有るな、
此れは
又わしの
來るまで
動かしちやならないからな」
巡査はいつた。
勘次は
蒼くなつた。
「
此らわしが
貰つて
掘つたんでがすから
何處と
何處つて
穴つ
子までちやんと
分つてんでがすから」
彼は
慌てゝいつた。
「そんなことはどうでもいゝんだ、
動かすなといつたら
動かさなけりやいゝんだ」
巡査は
呼吸で
霧のやうに
少し
霑れた
口髭を
撚りながら
「
櫟の
根が
大分あるやうだな」といひ
棄てゝ
去つた。
勘次は
雨に
打たれつゝ
喪心したやうに
庭に
立つて
居る。
戸口の
蔭に
隱れて
聞いて
居たおつぎは
巡査の
去つた
後漸く
姿を
表はした。
「おとつゝあ」と
小聲で
喚んだ。
「そんだから
俺ら
持つて
來んなつてゆつたのに」
更に
小聲でおつぎはいつた。
「おとつゝあ、どうしたもんだべな」おつぎは
聞いた。
「
俺ら
旦那に
見放されちや、
迚も
助かれめえ」
勘次は
漸く
此れだけいつた。
「おとつゝあ、それぢや
旦那げ
謝罪つたらどうしたもんだんべ」
「そんなことゆつたつて、
聽くか
聽かねえか
分るもんか」
「
南のおとつゝあげでも
頼んで
見たらどうしたもんだんべ」
「
汝等頼まなくつたつてえゝから」
「そんぢやおとつゝあ、
櫟の
根つ
子せえなけりやえゝんだんべか」
「そんだつて
汝は
駐在所に
見られつちやつたもの
仕やうあるもんか」
勘次はそれでも
他に
分別もないので
仕方なしに
桑畑を
越て
南へ
詑を
頼みに
行つた。
彼は
古い
菅笠を
一寸頭へ
翳して
首を
蹙めて
行つた。
主人の
挨拶は
兎に
角明日のことにするからといつた
丈だといふ
返辭である。
勘次はげつそりとして
家へ
歸ると
蒲團を
被つて
畢つた。おつぎは
自分も
毎日行つて
居たので
開墾地から
運んだ
櫟の
根は
皆知つて
居る。おつぎは
其の
櫟の
根を
獨りで
竊に
引き
出した。さうして
黄昏時におつぎはそれを
草刈籠へ
入れて
後の
竹藪の
中の
古井戸へ
投げ
落した。
古井戸は
暗くして
且深い。おつぎは
冷たい
雨に
沾れてさうして
少し
縮れた
髮が
亂れてくつたりと
頬に
附いて
足には
朽ちた
竹の
葉がくつゝいて
居る。
「おとつゝあ」おつぎは
勘次を
喚び
起した。
「
俺ら
櫟根つ
子うつちやつたぞ」おつぎは
更に
聲を
殺していつた。
勘次はひよつこり
起きて
何もいはずにおつぎの
顏を
凝然と
見つめた。
暗い
家の
中には
漸く
手ランプが
點された。
勘次もおつぎも
唯其の
目が
光つて
見えた。
次の
日巡査は
隣の
傭人を
連れて
來て
壁際の
木の
根を
檢べさせたが
櫟の
根は
案外に
少かつた。それでもおつぎの
手では
棄て
切れなかつたのである。
「
此りや
櫟がもつと
有つた
筈ぢやないか
勘次はどうかしやしないか」
巡査は
恁ういつてあたりを
見たが
勘次の
小さな
建物の
何處にもそれは
發見されなかつた。さういつても
實際に
巡査の
目には
櫟と
他の
雜木とを
明瞭に
識別し
得なかつたのである。
「
勘次、それぢや
此れを
持つて
跟いて
來るんだ」
巡査はいつた。
勘次は
顫へた。
「
草刈籠でも
何でもいゝ、
此れを
入れて
後から
跟いて」
「へえ、
何處まで
持つて
行くんでがせう」
勘次は
逡巡して
居る。
「
何處までゝもいゝんだ」
巡査は
呶鳴つてぴしやりと
横手で
勘次の
頬を
叩いた。
勘次は
草刈籠を
脊負つて
巡査の
後に
跟いて
主人の
家の
裏庭へ
導かれた。
巡査が
縁側の
坐蒲團へ
腰を
掛けた
時勘次は
籠を
脊負つた
儘首を
俛れて
立つた。それは
餘りに
見え
透いた
仕事なので
有繋に
分別盛の
主人は
出なかつた。
内儀さんが
出た。
勘次は
益萎れた。
「
勘次、お
前まあそれを
置いて
此處へ
掛けて
見たらどうだね」
内儀さんはいつた。
勘次はそれでも
只立つて
居る。
「
品物は
此だけなんでしたらうか」
内儀さんは
巡査に
聞いた。
「
此の
位のものらしいやうでしたな、
案外少かつたんですな」
巡査は
手帖を
反覆しながらいつた。
「さうでございますか」
内儀さんは
巡査に
會釋してさうして
「どうしたね
勘次、
恁うして
連れて
來られてもいゝ
心持はすまいね」といつた。
藁草履を
穿いた
勘次の
爪先に
涙がぽつりと
落ちた。
「こんなことでお
前世間が
騷がしくて
仕やうがないのでね、
私の
處でも
本當に
困つて
畢ふんだよ」
内儀さんは
巡査を
一寸見てさうして
「
此れから
屹度やらないなら
今日の
處だけは
大目に
見て
戴いて
警察へ
連れて
行かれないやうに
伺つて
見てあげるがね、どうしたもんだね」と
勘次へいつた。
「
何卒はあ、
決してやりませんから、へえお
内儀さんどうぞ」
勘次は
草刈籠を
脊負うて
前屈になつた
身體を
幾度か
屈めていつた。
涙が
又ぼろ/\と
衣の
裾から
跳ねてほつ/\と
庭の
土に
點じた。
「
如何なもんでござんせうね
此れは」
内儀さんは
微笑を
含んで
巡査に
向つていつた。
「さうですなあ」
巡査は
首を
傾けていつて
更に
帶劍の
鞘を
膝へとつて
「どうだ
勘次、
以來愼めるか、
此の
次にこんなことが
有つたら
枯枝一つでも
赦さないからな、
今日はまあ
此れで
歸れ、
其の
櫟の
根は
此處へ
置いて
行くんだぞ」
勘次は
草刈籠を
卸さうとした。
「そんなもの
此の
庭へ
置けといふんぢやないんだ、
置く
處は
知つてるんだろう、
解らない
奴だな、それうつかりしないで
足下を
氣をつけるんだ」
巡査は
叱つた。
勘次はそつと
土を
踏んで
庭を
出た。
門の
外にはおつぎが
與吉を
連れて
歔欷して
居る。
與吉はおつぎの
泣くのを
見て
自分も
聲を
放つ。おつぎは
聲の
洩れぬやうに
袂でそれを
掩うて
居る。
「よき
泣かねえで
歸えれ」
勘次は
與吉の
手を
執つた。三
人は
默つて
歩いた。
傭人等は
笑つて
勘次の
容子を
見て
居た。
「おとつゝあ、どうしたつけ」おつぎは
家に
歸ると
共に
聞いた。
「そんでもまあ
大丈夫になつた、
櫟根つ
子なくつて
助かつた」
勘次はげつそりと
力なくいつた。
「
俺ら
昨日は
重たくつて
酷かつたつけぞ、
其の
所爲か
今日は
肩痛えや」おつぎは
悦ばしげにいつた。
「
俺こゝで
居なくなつちや
汝等も
大變だつけな」
勘次は
間を
暫く
措いてぽさ/\としていつた。
此の
事があつてからも
勘次の
姿は
直に
唐鍬持つて
林の
中に
見出された。
五六
日經つて
勘次は
針立と
針箱とを
買つて
來た。
「おつう、
汝も
此れからお
針にいけつかんな、そら
此れ
持つて
行ぐんだ、おつかゞ
持つてた
古いのなんざあ
外聞惡くつて
厭だなんていふから、
此んでもおとつゝあ
等酷え
錢で
買つて
來たんだぞ、それから
善えだの
惡いだのつて
膨れたり
何つかすんぢやねえぞ、なあ」
勘次は
又
「よき
汝はおとつゝあが
側に
居るんだぞ、えゝか、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、109-8]は
此から
汝が
衣物拵えんでお
針に
行くんだかんな、
聽かねえと
酷えぞ」と
與吉を
抱いて
能くいひ
含めた。
おつぎはそれから
村内へ
近所の
娘と
共に
通つた。おつぎは
與吉の
小さな
單衣を
仕上げた
時其の
風呂敷包を
抱へていそ/\と
歸つて
來た。おつぎは
針持つやうに
成つてからはき/\として
俄にませて
來たやうに
見えた。おつぎはもう十六である。
辛苦の
間に
在る
丈に
去年からでは
何れ
程大人びて
勘次の
助に
成るか
知れない。
殊に
秋の
頃に
成つてからは
滅切機轉も
利くやうになつて、
死んだお
品に
似て
來たと
他人にはいはれるのであるが、
毎日一つに
居る
自分にもさういへば
身體の
恰好までどうやらさう
見えて
來たと
勘次も
心で
思つた。おつぎは
今が
遊びたい
盛りに
這入つたのであるが、
勘次からは
一日でも
唯一人で
放されたことがない。
村の
休日には
近所の
女房に
連れられて
出て
見ることもあるが、
屹度與吉がくつゝいて
居るのと、
自分は
炊事の
間を
缺かすことが
出來ないのとで
晝餐でも
晩餐でも
他人より
早く
歸つて
來なければならない。
「
俺らいつそもの
日なんざ
無え
方がえゝ、さうでせえなけりや
出てえた
思はねえから」おつぎは
熟呟くことがあつた。
「どうにか
俺らだつて
成つから」おつぎの
呟くのを
聞いて
勘次は
有繋に
心が
切なくなる。それで
云ひやうが
無くては
恁うぶすりと
云つて
畢ふのであつた。
與吉は
四つに
成つた。
惡戯も
知つて
來てそれ
丈おつぎの
手は
省かれた。それでも
與吉の
衣物はおつぎの
手には
始末が
出來ないので、
近所の
女房へ
頼んではどうにかして
貰つた。お
品が
生きて
居ればそんな
心配はまだ十六のおつぎがするのではない。おつぎは
更に
自分の
衣物に
困つた。
短くなるばかりではなく
綻びにさへおつぎは
當惑するのである。
「お
針出來なくつちや
仕樣ねえなあ」おつぎは
何時でも
嘆息するのであつた。
「お
針にでも
何でも
遣れる
時にや
遣つから、
奉公にでも
行つて
見ろ、
幾つに
成つたつて
碌なこと
出來るもんか、十六
位ぢや
貧乏人はまあだ
行けねえたつて
仕やうがあるもんか、さう
汝見てえに
痩虱たかつたやうにしつきりなし
云ふもんぢやねえ」
「おとつゝあはそんだつて
奉公にでも
行つてるものげは
家で
拵えてやんだんべな」
「そんだつてなんだつて
遣れつ
時でなくつちや
遣れねえから」
十六ではまだ
針を
持たなくつてもいゝといふのはそれは
無理ではない。
然し
勘次の
家でおつぎの一
向針を
知らぬことは
不便であつた。
勘次もそれを
知らないのではないが、
今の
處自分には
其の
餘裕がないのでおつぎがさういふ
度に
彼の
心は
堪へず
苦しむので
態と
邪慳にいつて
畢ふのであつた。
其の
冬になつてからもおつぎは十六だといふ
内に
直十七になつて
畢ふと
呟いたのであつた。
「
春にでもなつたらやれつかも
知んねえから」と
勘次は
其の
度にいつて
居た。おつぎは
到底當にはならぬと
心に
斷念めて
居たのであつた。それだけおつぎの
滿足は
深かつた。
或晩どうして
記憶を
復活させたかおつぎはふいといつた。
「
井戸へ
落した
櫟根つ
子は
梯子掛けても
取れめえか」
「
何故そんなこといふんだ」
勘次は
驚いて
目を

つた。
「そんでも
可惜もんだからよ」
「
汝自分で
梯子掛けて
這入んのか」
「
俺ら
可怖から
厭だがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、
又拘引れたらどうする、そん
時は
汝でも
行くのか」
勘次は
恁ういつて
苦笑した。
其晩は
其れつ
切り
二人の
間に
噺はなかつた。
與吉が
五つの
春に
成つた。ずん/\と
生長して
行く
彼の
身體はおつぎの
手に
重量が
過ぎて
居る。しがみ
附いて
居た
筍の
皮が
自然に
其の
幹から
離れるやうに、
與吉は
段々おつぎの
手から
除かれるやうに
成つた。それでも
筍の
皮が
竹の
幹に
纏つては
横たはつて
居るやうに、
與吉がおつぎを
懷しがることに
變りはなかつた。
與吉は
近所の
子供と
能く
田圃へ
出た。
暖かい
日には
彼は
單衣に
換て、
袂を
後でぎつと
縛つたり
尻をぐるつと
端折つたりして
貰ふ
間も
待遠で
跳ねて
居る。
「
堀の
側へは
行ぐんぢやねえぞ、
衣物汚すと
聽かねえぞ」おつぎがいふのを
耳へも
入れないで
小笊を
手にして
走つて
行く。
田圃の
榛の
木はだらけた
花が
落ちて
嫩葉にはまだ
少し
暇があるので
手持なさ
相に
立つて
居る
季節である。
田は
僅に
濕ひを
含んで
足の
底に
暖味を
感ずる。
耕す
人はまだ
下り
立たぬ。
白つぽく
乾いた
刈株の
間には
注意して
見れば
處々に
極めて
小さな
穴がある。
子供等は
其の
穴を
探して
歩くのである。
彼等は
小さな
手を
粘る
土に
込んでは
兩手の
力を
籠めて
引つ
返す。
其處には
鰌がちよろ/\と
跳返りつゝ
其身を
慌しく
動かして
居る。さうすると
彼等は
孰も
聲を
立てゝ
騷ぎながら、
其の
小さな
泥だらけの
手で
捉へようとしては
遁げられつゝ
漸くのことで
笊へ
入れる。
鰌は
其のこそつぱい
笊の
中で
暫く
其の
身を
動かしては
落付く。
他の
鰌が
又入れられる
時先刻の
鰌が一つに
騷いでは
落付く。
彼等は
斯うして
其小さな
穴を
求めて
田から
田へ
移つて
歩く。
土地ではそれを
目掘りというて
居る。
與吉には
幾ら
泥になつても
鰌は
捕れなかつた。
仲間の
大きな
子はそれでも一
匹位づつ
與吉の
笊にも
入れて
遣るのであつた。それで
彼は
後れながらも
他の
子供に
跟いて
歩かずには
居られなかつたのである。
堀には
動かない
水が
空を
映して
湛へて
居る
處がある。さうかと
思へば
或は
水は一
滴もなくて
泥の
上を
筋のやうに
流れた
砂の
趾がちら/\と
春の
日を
僅に
反射して
居る
處がある。
子供等は
疎らな
枯蘆の
邊からおりて
其處にも
目掘りを
試みる。
大きな
子供は
大事な
笊をそつと
持ておりる。
小さな
子供は
堀へおりながら
笊を
傾けて
鰌を
滾すことがある。
大きな
子供はそれつといつて
惡戯に
其を
捕うとする。
子供等は
順次に
皆それに
傚はうとする。さうすると
小さな
小供は
唯火の
點いたやうに
泣く。それと
同時に
鰌が
小さな
子供の
笊に
返されて
子供は
其鰌を
覗くと
共に
其の
泣く
聲がはたと
止つて
畢ふのである。
堀の
粘ついた
泥はうつかりすると
小さな
足を
吸ひ
附けて
放さない。さうするとみんなが
遁げるやうに
岸へ
上つて
指を
出して
其の
先を
屈曲させながら
騷ぐ。
小さな
子供は
笊を
手にした
儘目には
手も
當ずに
聲を
放つて
泣く。
與吉は
恁うして
能く
泣かされた。
彼には
寸毫も
父兄の
力が
被つて
居ない。
頑是ない
子供の
間にも
家族の
力は
非常な
勢ひを
示して
居る。
其家族が一
般から
輕侮の
眼を
以て
見られて
居るやうに、
子供の
間にも
亦小さい
與吉は
侮られて
居た。それでも
與吉は
歸りには
小笊の
底に
鰌があるので
悦んで
居た。
泣いた
當座は
萎れても
彼は
直に
機嫌が
出て、
其僅な
獲物の
笊を
誇つておつぎの
側に
來る
時は
何時もの
甘えた
與吉である。
彼は
何處へでもべたりと
坐るので
臀を
丸出しに

げてやつても
衣物は
泥だらけにした。それで
叱られても
泥の
乾いた
其臀を
叩かれても、おつぎにされるのは
彼にはちつとも
怖ろしくなかつた。
彼は
小言は
耳へも
入れないで「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、114-8]よう
見ろよう」と
小笊を
枉げてはちよこ/\と
跳ねるやうにして
小刻みに
足を
動かしながらおつぎの
譽める
詞を
促して
止まない。
彼は
餘りに
悦んで
騷いでひよつとすると
危い
手もとで
鰌を
庭へ
落す
事がある。
鰌は
乾いた
庭の
土にまぶれて
苦しさうに
動く。
與吉が
抑へようとする
時鷄がひよつと
來て
嘴で
啄いて
駈けて
行つて
畢ふ。
他の
鷄がそれを
追ひ
掛ける。
與吉はさうすると
又一しきり
泣くのである。
「
汝あんまりうつかりしてつかんだわ」おつぎは
笑ひながら、
立つてる
與吉の
頭を
抱いてそれから
手水盥へ
水を
汲んで
鰌を
入れて
遣る。
與吉は
水へ
手を
入れては
鰌の
騷ぐのを
見て
直に
聲を
立てて
笑ふ。おつぎはさうして
置いて
泥だらけの
手足を
洗つてやる。
與吉は
時々鰌を
持つて
來た。おつぎは
衣物の
泥になるのを
叱りながらそれでも
威勢よく
田圃へ
出してやつた。
其の
度に
他の
子供等の
後から
「
泣かさねえでよきことも
連れでつてくろうな」といふおつぎの
聲が
追ひ
掛けるのであつた。
僅な
鰌は
味噌汁へ
入れて
箸で
骨を
扱いて
與吉へやつた。
自分では
骨と
頭とを
暫く
口へ
含んでそれから
捨てた。
田がそろ/\と
耕されるやうに
成た。
子供等は
又一つ/\の
塊に
耕された
田を
渡つて、
其塊の
上を
辷りながら
越えながら、
極めて
小さい
慈姑のやうなゑぐの
根をとつた。それは
土地では
訛つてゑごと
喚ばれて
居る。そこらの
田にはゑぐが
多いので
秋の
頃に
成ると
茂つた
稻の
陰に
小さな
白い
花が
咲く。
與吉も
他の
子供のするやうに
小笊を
持て
出た。
鰌とは
違つて
此れは
彼の
手にも
僅づゝは
採ることが
出來た。
少しづゝ
採ては
毎日のやうに
蓄へた。おつぎは
茶を
沸す
度にそれを
灰の
中へ
投げ
込んで
燒いてやる。
火を
弄ることが
危いので
與吉は
獨りで
竈へ
手をつけることは
禁ぜられて
居る。
灰の
中へ
入れたばかりで
與吉は
「よう/\」といつておつぎに
迫る。
與吉は
燒ける
間が
遲緩しいのである。
「そんなに
燒けめえな、そんぢや
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、115-14]は
構あねえぞ」とおつぎはゑぐを
掻き
出して
遣る。
與吉は
口へ
入れてもまだがり/\で
且苦いので
吐き
出して
畢ふ。
「そうら
見ろ、
大けえ
姿していふこと
聽かねえから」おつぎは
怒つたやうな
容子をして
見せる。
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、116-2]よ、よう」と
與吉は
又強請む。
其の
時はもう
皮に
皴が
寄つて
燒けたゑぐが
與吉の
手に
載せられる。
「
汝熱えぞ」とおつぎがいへば
與吉は
手を
引いてゑぐは
土間へ
落ちる。それを
又手に
載せてやると
與吉はおつぎがするやうにふう/\と
灰を
吹く。
與吉は
後も
後もとおつぎにせがんで、
勘次に
呶鳴られては
止めるのである。
蓄へられたゑぐが
小笊に一
杯に
成つた
時おつぎは
小笊を
手に
持つて
「よきげ
此煮てやつぺか、
砂糖でも
入たら
佳味かつぺな」
獨語のやうにいつた。
「
煮てくろうよう」
與吉はそれを
聞いて
又せがんでおつぎへ
飛びついて、
被つて
居る
手拭を
引つ
張つた。おつぎは
「おゝ
痛えまあ」と
顏を
蹙めて
引かれる
儘に
首を
傾けていつた。
亂れた
髮の
三筋四筋が
手拭と
共に
強く
引かれたのである。
「
其
もの
鹽でゞも
茹てやれ」
勘次は
俄に
呶鳴つた。
「
砂糖だなんて、
默つてれば
知らねえでるもの、
泣かれたらどうすんだ、
砂糖だの
醤油だのつてそんなことしたつ
位なんぼ
損だか
知れやしねえ、おとつゝあ
等そんな
錢なんざ
一錢だつて
持つてねえから、
鹽だつて
容易なもんぢやねえや、そんな
餘計なもの
何になるもんぢやねえ」
勘次は
反覆して
叱つた。
與吉はおつぎの
陰へ
廻つて
抱きついた。
「どうしたもんだんべまあ、ぢつき
怒んだから」おつぎは
小言を
聞いて
呟いた。
「そんだつて、おとつゝあ
等そんな
處ぢやねえから」
勘次はがつかり
聲を
落していつた。さうして
沈默した。
おつぎもお
品が
死んでから
苦しい
生活の
間に二たび
春を
迎へた。おつぎは
餘儀なくされつゝ
生活の
壓迫に
對する
抵抗力を
促進した。
餘所の
女の
子のやうに
長閑な
春は
知られないでおつぎは
生理上にも
著るしい
變化を
遂げた。お
品が
死んだ
時はおつぎはまだ
落葉を
燻べるとては
竹の
火箸の
先を
直ぐに
燃やして
畢ふ
程下手な
子であつた。それが
横にも
竪にも
大きくなつて、
肌膚もつやゝかに
見えて
髮も
長くなつた。おつぎの
家の
後の
崖のやうに
成つた
處からは
村のものが
能く
黄色な
粘土を
採つた。
髮が
黏るやうになるとおつぎは
其の
粘土をこすりつけて、
肌ぬぎになつた
儘黄色く
染まつた
頭を
井戸の
側で
洗ふのである。さうして
其のふつさりとした
髮は二
度梳く
處は三
度梳くやうに
成つた。おつぎは
又髮へつける
胡麻の
油を
元結で
縛つた
小さな
罎へ
入れて
大事に
藏つて
置くのである。
短い
期間ではあるが
針持つやうになつてからは
赤い
襷も
絎けた。
半纏も
洗濯した。どうにか
自分の
手で
仕上げた
身丈に
足りる
衣物を
着ておつぎは
俄に
大人びたやうに
成つた。
田や
畑に
出る
時にはまだ
糊のぬけない
半纏へ
赤い
襷を
肩から
掛けて
勘次の
後に
跟いて
行く。おつぎは
仕事にかゝる
時には
其の
半纏はとつて
木の
枝へ
懸ける。おつぎの
姿は
漸く
村の
注目に
値した。
春の
野を
飾つて
黄色な
布を
掩うたやうな
菜の
花も、
春らしい
雨がちら/\と
降つて
霜に
燒けたやうな
葉が
滅切と
青みを
加へて
來た
頃は
其開いた
葉の
心部には
只僅な
突起を
見出す。
然しそこには
蕾が
明かに
形を
成して
居るのである。
空からは
暖かい
日光が
招いて
土からは
長い
手がずん/\とさし
扛げては
更に
長くさし
扛げるので
其の
派手な
花が
麥や
小麥の
穗にも
沒却されることなく
廣い
野を
占めるのである。おつぎも
其の
心部に
見える
蕾であつた。
然し
其蕾はさし
扛げられないのみではなく
壓へる
手の
強い
力が
加へられてある。
勘次は
寸時もおつぎを
自分の
側から
放すまいとして
居る。
隨つて
空の
日光が
招くやうに
女の
心を
促すべき
村の
青年との
間にはおつぎは
何の
關係も
繋がれなかつた。おつぎが十七といふ
年齡を
聞いて
孰れも
今更のやうに
其の
注意を
惹起したのである。
冬の
季節に
埃を
捲いて
來る
西風は
先づ
何處よりもおつぎの
家の
雨戸を
今日も
來たぞと
叩く。それは
村の
西端に
在るからである。
位置がさういふ
逐ひやられたやうな
形に
成つて
居る
上に、
生活の
状態から
自然に
或程度までは
注意の
目から
逸れて
日陰に
居ると
等しいものがあつたのである。
勘次の
監督の
手は
蕾の
成長を
止める
冷かな
空氣で、さうして
之を
覗ふものを
防遏する
堅固な
牆壁である。
然し
春の
季節を
地上の
草木が
知つた時、どれ
程白く
霜が
結んでも
草木の
活力は
動いて
止まぬ
如く、おつぎの
心は
外部から
加へる
監督の
手を
以て
奪ひ
去ることは
出來ない。
おつぎは
勘次の
後へ
跟いて
畑へ
往來する
途上で
紺の
仕事衣に
身を
堅めた
村の
青年に
逢ふ
時には
有繋に
心は
惹かされた。
肩にした
鍬の
柄へおつぎは
兩手を
掛けて
居る。
其握つた
手に
頬を
持たせるやうにして、おつぎは
幾らか
首を
傾けつゝ
手拭の
下から
黒い
瞳で
青年を
見るのであつた。
勘次は
後から
跟いて
來るおつぎの
態度まで
知ることは
出來なかつた。おつぎは
數次さうして
村の
青年を
見た。
然し一
語も
交換する
機會を
有たなかつた。おつぎはどうといふこともなく
寧ろ
殆ど
無意識に
行き
交ふ
青年を
見るのであつたが、
手拭の
下に
光る
暖かい
二つの
瞳には
情を
含んで
居ることが
青年等の
目にも
微妙に
感應した。
恁うしておつぎもいつか
口の
端に
上つたのである。それでも
到底青年がおつぎと
相接するのは
勘次の
監督の
下に
白晝往來で一
瞥して
行き
違ふ
其瞬間に
限られて
居た。それ
故一
般の
子女のやうではなくおつぎの
心にも
男に
對する
恐怖の
幕を
無理に
引拂はれる
機會が
嘗て
一度も
與へられなかつた。おつぎは
往來を
行くとては
手拭の
被りやうにも
心を
配る
只の
女である。それが
家に
歸れば
直に
苦しい
所帶の
人に
成らねばならぬ。そこにおつぎの
心は
別人の
如く
異常に
引き
緊められるのであつた。
復爽かな
初夏が
來て
百姓は
忙しくなつた。おつぎは
死んだお
品が
地機に
掛けたのだといふ
辨慶縞の
單衣を
着て
出るやうに
成つた。
針を
持つやうに
成つた
時おつぎは
此も
自分の
手で
仕上たのであつた。
夫は
傍で
見て
居ては
危な
相な
手もとで
幾度か
針の
運びやうを
間違つて
解いたこともあつたが、
遂には
身體にしつくり
合ふやうに
成つて
居た。
死んだお
品はおつぎが
生れたばかりに
直に
竈を
別にして、
不見目な
生計をしたので
當時は
晴の
衣物であつた
其の
單衣に
身を
包んで
見る
機會もなく
空しく
藏つた
儘になつて
居たのである。それに
其の
頃は
紺が
七日からも
經たねば
沸ないやうな
藍瓶で
染られたので、
今の
普通の
反物のやうな
水で
落ちないかと
思へば
日に
褪めるといふのではなく、
勘次がいつたやうに
洗濯しても
却て
冴えるやうなので、それに
地質もしつかりと
丈夫なものであつた。おつぎが
洗ひ
曝しの
袷を
棄てゝ
辨慶縞の
單衣で
出るやうに
成つてからは
一際人の
注目を
惹いた。
例の
赤い
襷が
後で
交叉して
袖を
短く
扱あげる。
其扱きあげられた
肩は
衣物の
皴で
少し
張つて
身體を
確乎とさせて
見せる。
現れた
腕には
紺の
手刺が
穿たれてある。
漸く
暑い
日を
厭うておつぎは
白い
菅笠を
戴いた。
白い
菅笠は
雨に
曝されゝばそれで
破れて
畢ふので、
夏のはじめには
屹度何處でも
新しいのに
換られるのである。おつぎは
勘次に
引かれて
麥の
畦間を
耕した。
鍬を
入れるのが
手後れになつた
麥は
穗が
白く
出て
居る。
時々立つて
鍬に
附いた
土を
足の
底で
扱きおろすおつぎの
姿がさや/\と
微かな
響を
立てゝ
動く
白い
穗の
上に
見える。
餘所を
一寸見る
度に
大きな
菅笠がぐるりと
動く。
菅笠は
日を
避けるのみではなく
女の
爲には
風情ある
飾である。
髮には
白い
手拭を
被つて
笠の
竹骨が
其の
髮を
抑へる
時に
其處には
小さな
比較的厚い
蒲團が
置かれてある。さういふ
間隔を
保つて
菅笠は
前屈みに
高く
据ゑられるのである。
女等は
皆少時の
休憩時間にも
汗を
拭ふには
笠をとつて
地上に
置く。
一つには
紐の
汚れるのを
厭うて
屹度倒にして
裏を
見せるのである。さうして
厚い
笠蒲團の
赤い
切が
丸く
白い
笠の
中央に
黒い
絎紐と
調和を
保つのである。おつぎの
笠蒲團は
赤や
黄や
青の
小さな
切を
聚めて
縫つたのであつた。
然しおつぎの
帶だけは
古かつた。
餘所の
女の
子は
大抵は
綺麗な
赤い
帶を
締めて、ぐるりと

げた
衣物の
裾は
帶の
結び
目の
下へ
入れて
只管に
後姿を
氣にするのである。
一杯に
青く
茂つた
桑畑抔に
白い
大きな
菅笠と
赤い
帶との
後姿が、
殊には
空から
投げる
強い
日光に
反映して
其の
赤い
帶が
燃えるやうに
見えたり、
菅笠が
更に
大きく
白く
光つたりする
時には
有繋に
人の
目を
惹かねばならぬ。
彼等の
姿は
斯くして
遠く
隔てゝ
見るべきものであるが
然しながら
其の
近づいた
時でも、
跳ねあげられた
笠の
後には
兩頬へ
垂れてさうして
其の
黒い
絎紐で
締められた
手拭の
隙間から
少し
亂れた
髮が
覗いて
居て
其處にも一
種の
風情が
發見されねばならぬ。
雨を
含んだ
雲が
時々遮るとはいへ、
暑い
日のもとに
黄熟した
麥が
刈られた
時畑はからりと
成つて
境木に
植られてある
卯木のびつしりと
附いた
白い
花が
其處にも
此處にも
目に
立つて、
俄に
濶々としたことを
感ずると
共に
支へるものが
無くなる
丈目に
入る
女の
姿が
殖えるのである。
彼等は
少時の
休憩にも
必ず
刈り
倒した
麥を
臀に
敷いて
其の
白い
卯木の
下に
僅でも
日を
避ける。
到底彼等の
白い
菅笠と
赤い
帶とは
廣い
野を
飾る
大輪の
花でなければならぬ。
其の
一つの
要件がおつぎには
缺けて
居た。
暑い
氣候は
百姓の
凡てを
其狹苦い
住居から
遠く
野に
誘うて、
相互に
其青春のつやゝかな
俤に
憧憬しめるのに、さうして
刺の
生えた
野茨さへ
白い
衣を
飾つて
快よいひた/\と
抱き
合ては
互に
首肯きながら
竭きない
思を
私語いて
居るのに、おつぎは
嘗て
青年との
間に一
語を
交へることさへ
其權能を
抑へられて
居た。
孰れにしてもおつぎの
心には
有繋に
微かな
不足を
感ずるのであつた。
勘次は
洗ひ
曝しの
襦袢を
褌一つの
裸へ
引つ
掛て、
船頭が
被るやうな
藺草の
編笠へ
麻の
紐を
附けて
居る。
勘次に
導かれておつぎは
仕事が
著るしく
上手になつた。おつぎが
畑へ
往來する
時は
村の
女房等は
能くいつた。
「
何ちう、おつかさまに
似て
來たこつたかな、
歩きつきまでそつくりだ」
「
雀斑がぽち/\してつ
處までなあ」お
品には
目と
鼻のあたりに
雀斑が
少しあつたのである。おつぎにも
其れがその
儘で
嫣然とする
時にはそれが
却て
科をつくらせた。
「
勘次さん
譯のねえもんだな、まあだ
此間だと
思つてたのにな、
嫁にやつてもえゝ
位ぢやねえけえ、お
品さんもおめえ
此位の
時ぢやなかつたつけかよ」
女房等は
又揶揄半分に
恁ういふこともいつた。おつぎは
勘次がさういはれる
時何時も
赤い
顏をして
餘所を
向いて
畢ふのである。
勘次はお
品のことをいはれる
度に、おつぎの
身體をさう
思つては
熟々と
見る
度に、お
品の
記憶が
喚返されて一
種の
堪へ
難い
刺戟を
感ぜざるを
得ない。それと
同時に
女房が
欲しいといふ
切ない
念慮を
湧かすのである。
遠慮の
無い
女房等にお
品の
噺をされるのは
徒らに
哀愁を
催すに
過ぎないのであるが、
又一
方には
噺をして
見て
貰ひたいやうな
心持もしてならぬことがあつた。
「
勘次さんどうしたい、えゝ
鹽梅のが
有んだが
後持つてもよかねえかえ」と
彼に
女房を
周旋しようといふ
者はお
品が
死んでから
間もなく
幾らもあつた。
勘次は
只お
品にのみ
焦れて
居たのであるが、
段々日數が
經つて
不自由を
感ずると
共に
耳を
聳てゝさういふ
噺を
聞くやうに
成つた。
然し
其
噺をして
聞かせる
人々は
勘次の
酷い
貧乏なのと、
二人の
子が
有るのとで
到底後妻は
居つかれないといふ
見越が
先に
立つて、
心底から
周旋を
仕ようといふのではない。
唯暇を
惜しがる
勘次が
何處へでも
鍬や
鎌を
棄てゝ
釣込まれるので
遂惡戯にじらして
見るのである。
殊におつぎが
大きくなればなる
程、
其の
働きが
目に
立てば
立つ
程後妻には
居憎い
處だと
人は
思つた。
貧乏世帶へ
後妻にでもならうといふものには
實際碌な
者は
無いといふのが一
般の
斷案であつた。
他人は
只彼の
心を
苛立たせた。さうして
彼の
尋常外れた
態度が、
却て
惡戯好きの
心を
挑發するのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次は
小聲で
唄うて
行くのがどうかすると
人の
耳にも
響くやうに
成つた。
其の
頃は
勘次の
庭の
栗の
梢も、それへ
繁殖して
残酷に
葉を
喰ひ
荒す
栗毛蟲のやうな
毒々しい
花が
漸く
白く
成つて、
何處の
村落にもふつさりとした
青葉の
梢から
栗の
木が
比較的に
多いことを
示して
其の
白い
花が
目についた。
村落を
埋めて
居る
梢からふわ/\と
蒸氣が
立ち
騰らうといふ
形に
栗の
花は一
杯である。
空は
降らないながらに
低い
雲が
蟠つて、
時々目に
鮮かで
且黒ずんだ
青葉の
上にかつと
黄色な
明るい
光を
投げる。
何處となく
濕つぽく
頭を
抑へるやうに
重苦しい
感じがする。
悉く
畑へ
走つた
村落の
内には
稀にさういふ
青葉の
間に
鯉幟がばさ/\と
飜つてはぐたりと
成つて、それが
朝から
永い
日を一
日、さうして
其の
家族が
日は
沒したにしても
何時になくまだ
明るい
内に
浴みをして
女までが
裂いた
菖蒲を
髮に
卷いて、
忙しい
日と
日の
間をそれでも
晴衣の
姿になる
端午の
日の
來るのを
懶げに
待つて
居る。さういふ
青葉の
村落から
村落を
女の
飴屋が
太皷を
叩いて
歩いた。
明屋ばかりの
村落を
雨が
降らねば
女は
端から
端と
唄うて
歩く。
勘次が
唄うたのは
其の
女の
唄である。
女は
聲を
高く
唄うては
又聲を
低くして
其の
句を
反覆する。
其の
唄ふ
處は
毎日唯此の一
句に
限られて
居た。
女は
年増で
一人の
子を
負うて
居る。
鬼怒川を
徃復する
高瀬船の
船頭が
被る
編笠を
戴いて、
洗ひ
曝しの
單衣を
裾は
左の
小褄をとつて
帶へ
挾んだ
丈で、
飴は
箱へ
入れて
肩から
掛けてある。
暮い
日は
笠の
編目を
透して
女の
顏に
細い
強い
線を
描く。
女の
顏は
窶れて
居た。
子は
概ね
眠つて
居た。
耳もとで
鳴る
太皷の
喧しい
音とお
袋の
唄ふ
聲とがいつとはなしに
誘つたのであつたかも
知れぬ。
首は
寧ろ
倒に
垂れて
額がいつでも
暑い
日に
照られて
汗ばんで
居た。
百姓は
皆此の
見窄しい
女を
顧みなかつた。
村落から
村落へ
野を
渡る
時女の
姿は
人目を
惹くべき
要點が一つも
備はつて
居なかつた。
然しいつの
間にか
人が
遠くより
見るやうに
成つた。
行き
違ふ
女房等は
額に
照られて
眠つて
居る
子を
見て
痛々敷と
思ふのであつた。
女は
唄はなくても
太皷の
音が
村落の
子を
遠くから
誘ふのに
氣の
乘らぬ
唄ひやうをして
只其の一
句を
反覆のである。
女は
背中の
子が
眠つて
居るのを
悦んで
其の
子が
什
姿であるかは
心付かない。
只小さな
銅貨を
持つて
走つて
來る
村落の
子を
待ちつゝ
誘ひつゝ
歩くのである。
女は
何處から
出てどう
行くといふことも
忙しく
只田畑に
勞働して
居る
百姓の
間には
知られなかつた。
毎日さうして
歩いて
居た
女が
知りたがり
聞きたがる
女房等の
間に、
各自に
口喧しい
陰占を
逞しくされると
間もなく、
或日村外れの
青葉の
中へ
太皷の
音と
唄の
聲とが
遠く
微かに
沒し
去つた
切り、
軈て
梅雨が
夥しく
且つ
毒々しい
其の
栗の
花の
腐るまではと
降り
出したので
其の
女の
穢げな
窶れた
姿は
再び
見られなかつた。
勘次は
耳の
底に
響いた
其の
句を
獨り
感に
堪へたやうに
唄うては
行くのである。
彼は
自分の
聲が
高いと
思つた
時他人に
聞かれることを
恥づるやうに
突然あたりを
見ることがあつた。
曲り
角でひよつと
逢ふ
時それが
口輕な
女房であれば二三
歩行り
過しては
「どうしたえ、
勘次さん
彼女げ
焦れたんぢやあんめえ、
尤も
年頃は
持つゝけだから
連つ
子の
一人位は
我慢も
出來らあな、そんだがあれつ
切り
來なくなつちやつて
困つたな」と
遠慮もなく
揶揄うては、
少し
隔たると
態と
聲を
立てゝ
其の
句を
唄つたりする。さうすると
勘次は
家に
歸るまで一
句も
唄はない。
然し
彼は
暫くそれを
唄ふことを
止めなかつた。
彼は
只女房が
欲い/\とのみ
思つた。
勘次は
依然として
苦しい
生活の
外に一
歩も
遁れ
去ることが
出來ないで
居る。お
品が
死んだ
時理由をいうて
借りた
小作米の
滯りもまだ一
粒も
返してない。
大暑の
日が
井戸の
水まで
減らして
炒りつける
頃はそれまでに
幾度か
勘次の
穀桶は
空に
成るのである。
彼は一
般の
百姓がすることは
仕なくては
成らないので、
殊には
副食物として
必要なので
茄子や
南瓜や
胡瓜やさういふ
物も
一通りは
作つた。
彼は
村外れの
櫟林の
側に
居たので
自分の
家の
近くにはさういふ
物を
作る
畑が一
枚もなかつた。それでも
胡瓜だけは
垣根の
内側へ一
列に
植ゑて
後の
林に
交つた
短い
竹を
伐つて
手に
立てた。
竹の
立つてる
林は
彼の
所有ではないけれど、
彼は
恁うして
必要の
度毎に
強ひては
隱さない
盜みを
敢てするのである。
南瓜も
庭の
隅へ
粟幹で
圍うた
厠の
側へ
植ゑた。それから
庭の
栗の
木へも
絡ませた。
茄子だけは
遠い
畑の
麥の
畦間へ
植ゑた。
彼は
甘藷の
外には
到底さういふ
凡ての
苗を
仕立てることが
出來ないので、
又立派な
苗を
買ひに
行く
丈の
餘裕もないので、
容子から
見れば
近村ではあるが
何處とも
確乎とは
知れない
天秤商人からそれを
求めた。
天秤商人の
持つて
來るのは
大抵屑ばかりである。それでも
勘次は
廉いのを
悦んだ。
彼は
其の
僅な
錢を
幾度か
勘定して
渡した。
麥が
刈られて
其の
束が
兩端を
切つ
殺いだ
竹の
棒へ
透して
畑の
外へ
擔ぎ
出された
時、
趾には
陸稻や
大豆がひよろ/\と
青ばんだ
畑に
勘次の
茄子は
短い
畝が五
畝ばかりになつて
立つて
居た。
下葉は
黄色くなつて
居たがそれでも
麥が
暫く
日を
掩うたので
皆根づいて
生長しかけて
居た。
假令痩せさせないまでも
肥して
行くことをしない
畑の
土に
茄子は
干稻びてそれで
處々に
一つ
宛花を
持つて
居た。
勘次は
朝のまだ
凉しい、
葉に
濕りのある
間に
竈の
灰を
持つて
行つて
其の
葉に
掛けて
遣る
丈の
手數は
竭したのである。それで
幾らでも
活溌に
運動する
瓜葉蟲は
防がれた。それは
羽が
赤いので
赤蠅と
土地ではいつて
居る。
木の
灰では
油蟲の
湧くのはどうも
出來なかつた。それから
又根切蟲が
残酷に
堅い
莖を
根もとからぷきりと
噛み
倒して
植た
數の
減るにも
拘らず、
彼は
遠く
畑に
出て
土に
潜伏して
居る
其憎むべき
害蟲を
探し
出して
其丈夫な
體をひしぎ
潰して
遣る
丈の
餘裕を
身體にも
心にも
持つて
居ない。
垣根の
胡瓜は
季節の
南が
吹いて、
朝の
靄がしつとりと
乾いた
庭の
土を
濕しておりると
何を
僻んでか
葉の
陰に
下る
瓜が、
萎んだ
花のとれぬうちに
尻が
曲つて
忽ちに
蔓も
葉もがら/\に
枯て
畢つたのであつた。
只南瓜だけは
其の
特有の
大きな
葉をずん/\と
擴げて
蔓の
先が
忽ちに
厠の
低い
廂から
垂れた。
殊に
栗の
木に
絡んだのは
白晝の
忘れる
程長い
間雨戸は
閉ぢた
儘で、
假令油蝉が
炒りつけるやうに
其處らの
木毎にしがみ
附いて
聲を
限りに
鳴いたにした
處で、
凡てが
暑さに
疲れたやうで
寧ろ
極めて
閑寂な
庭を
覗いては、
葉の
陰ながら
段々に
日に
燒けつゝ
太りつゝ
臀の
臍を
剥き
出してどつしりと
枝から
垂れ
下つた。それが
僅に
庭に
威勢をつけて
居る。
一
般にさうではあるが
殊に
勘次の
手に
作られた
蔬菜は
凡て
其の
成熟が
後れた。それで
其の
蔬菜が
庖丁にかゝる
間は
口にこそつぱい
干菜や
切干やそれも
缺乏を
告げれば、
此れでも
彼等の
果敢ない
貯蓄心を
最も
發揮した
菜や
大根の
鹽辛い
漬物の
桶にのみ
其の
副食物を
求めるのである。
彼等は
勞働から
來る
空腹を
意識する
時は
一寸も
動くことの
出來ない
程俄に
疲勞を
感ずることさへある。
什
麁末な
物でも
彼等の
口には
問題ではない。
彼等は
味ふのではなくて
要するに
咽喉の
孔を
埋めるのである。
冷水を
注いで
其のぼろ/\な
麥飯を
掻き
込む
時彼等の
一人でも
咀嚼するものはない。
彼等は
只多量に
嚥下することによつて
其の
精力を
恢復し
滿足するのである。
牛や
馬でも
地上に
軟かな
草の
繁茂する
季節が
來れば
自然に
乾草や
藁を
厭ふやうになる。それが
貧しい
生活の
人人のみは
恁うして
甘んじて
居ることを
餘儀なくされつゝあるのである。
然し
孰れも
發汗に
伴うて
渇した
口に
爽かな
蔬菜の
味を
欲しないものはない。
貧苦に
惱んでさうして
其の
蔬菜の
缺乏を
感じて
居るものは
勘次のみではない。さういふ
伴侶の
殊に
女は
人目の
少い
黄昏の
小徑につやゝかな
青物を
見ると
遂した
料簡からそれを
拗切つて
前垂に
隱して
來ることがある。
畑の
作主が
其損失以外にそれを
惜む
心から
蔭で
勢ひ
激しく
怒らうともそれは
顧みる
暇を
有たない。
勘次の
痩せた
茄子畑もさうして
襲はれた。
其の
莖を
痛めても
構はぬ
拗切りやうを
見て
失望と
憤懣の
情とを
自然に
經驗せざるを
得なかつた。
然しながら
彼はつく/″\と
忌々敷い
其心持に
熟して
居ながら
自分も
亦他の
虚に
乘ずることを
敢てするのであつた。
一つにはどうで
他人にも
盜られるのだからといふ
自暴自棄の
理窟が
心のうちに
捏造されるのである。
一つには
良心の
苛責を
餘所にしてさうして
又それが
何處までも
發見せられないものであるならば
他人の
物を
盜ることは
口腹の
慾を
滿足せしむるには
容易で
且輕便な
手段でなければならぬ
筈である。
恁ういふ
理由で
比較的餘裕のある
百姓よりも
貧乏な
百姓は十
分早く
然かも
數次其の
新鮮な
蔬菜を
味ふのである。
偶市場に
遠く
馬の
脊で
運ぶ
者は
其の
成熟の
期を
早めたつやゝかな
數が
幾ら
有つても
自分の
口には
入れない。
少しづゝでも
他の
必要品を
求める
爲に
錢に
換へようとするのである。
季節が
熟さねば
收穫の
多量を
望むことが
出來ないので、
彼等が
食料として
畑へ
手をつけるのは
凡てが
存分の
生育を
遂げた
後でなければならぬ。
其處が
相互に
盜むものをして
乘ぜしめる
機會である。
與吉は
能く
貧乏な
伴侶の
子が
佳味相に
青物を
噛つて
居るのを
見ておつぎに
強請むことがあつた。
勘次の
家ではどうかすると
朝に
成つて
大きな
南瓜が
土間に
轉がつて
居ることがある。それで
庭の
南瓜は
一つも
減つて
居ない。
「こらどうしたんでえおとつゝあ」
與吉は
悦んで
危な
相に
抱いては
聞く。
「
弄んぢやねえ」
勘次は
只恐ろしい
目をして
叱るやうに
抑へる。
勘次はまだ
肌の
白く
且薄赤味を
帶びた
人形の
手足のやうな
甘藷を
飯へ
炊き
込むことがあつた。
「
佳味えな」とおつぎがいつた
時
「
〆粕で
作つからよ」
勘次はいつた。
「
旦那ぢや、
〆粕許り
使あんだつぺか」おつぎは
自分の
知らぬ
不廉な
肥料のことに
就いて
聞いた。
勘次は
氣がついて
「
甘藷喰たなんていふんぢやねえぞ」
與吉を
警めた。
勘次は
彼の
大豆畑の
近くに
隣の
主人の
甘藷畑とそれから
其の
途中に
南瓜畑があつたので、
他の
畑のものよりも
自然にそれを
盜つた。
少しづつ
盜つた。
南瓜は
晝間見て
置いて
夜になるとそつと
蔓を
曳いて
所在を
探すのである。
甘藷は
土を
掻つ
掃いて
探し
掘りにするのは
心が
忙し
過ぎるのでぐつと
引き
拔く。
彼は
日中甘藷畑の
側を
過ぎては
自分の
荒した
趾を
見て
心に
酷いとは
思ふのであるがそれを
埋て
置くには
心が
咎めた。
恁ういふ
伴侶は
千菜荒しといふ
名稱の
下に
喚ばれた。
與吉は
獨で
村を
遊んで
歩いた。
秋が
深けて
甘藷が
蒸されるやうに
成つた。
與吉は
能くさういふ
處へ
行つては
欲し
相な
顏をして
默つて
見て
居るので
何處でも
熱い
甘藷が
與へられるのであつた。
或時彼は
「
俺らあ
家で
甘藷くつたなんてゆはねえんだ」
甘藷を
手に
持つて
怖づ/\いつた。
彼は
只嬉しかつたのである。
「
何故ゆはねえんだ」
與へた
人は
聞いた。
「
何故でもだ」
「そんぢやえゝ、
其甘藷取つ
返しつちまあから」と
驚かされて
「そんでも
俺家のおとつゝあ
甘藷喰つたなんてゆふんぢやねえぞつて
云つたんだ」
與吉は
媚びるやうな
容子でいつた。
「よきら
家の
甘藷うめえか」
「
旦那のがはうめえつて
云つたんだ」
「おとつゝあ
云たのか
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、131-15]云たのか」
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、132-1]ぢやねえ、おとつゝあだ」
「おとつゝあは
家で
甘藷くつて
旦那のがうめえつちつたのか」
「さうなんだわ」
無心な
與吉は
誘ひ
出されるまゝにいつて
畢つた。
然し
相互に
畑を
荒しては、
痩せた
骨身を
噛り
合うて
居るやうな
彼等の
間にこんなことが
無ければ
殊更に
勘次ばかりが
注目されるのではなかつたのである。
秋も
朝は
冷かに
成つた。
稻の
穗は
北が
吹けば
南へ
向いたり、
南が
吹けば
北へ
向いたりして
其の
重相な
首を
止まず
動かしてはさら/\と
寂しく
笑ひはじめた。
強い
秋の
雨が一
夜ざあ/\と
降つた。
次の
日には
空は
些の
微粒物も
止めないといつたやうに
凄い
程晴れて、
山も
滅切り
近く
成つて
居た。しつとりと
落付いた
空氣を
透して、
日光が
妙に
肌膚へ
揉み
込むやうに
暖かで
且つ
暑かつた。
春のやうな
日に
騙されて
雲雀は、そつけない三
稜形の
種が
膨れつゝまだ一
杯に
白い
蕎麥畑やそれから
陸稻畑の
上に
囀つた。それでも
幾らか
羽の
運動が
鈍く
成つて
居るのか
春のやうではなく
低く
徘徊うて
皺嗄れた
喉を
鳴らして
居る。
周圍の
臺地からは
土瓶の
蓋をとつて
釣瓶をごつと
傾けたやうに
雨水が一
杯に
田に
聚つて
稻の
穗首が
少し
浸つた。
田圃も
堀も
一つに
成つた
水は
土瓶の
口から
吐き
出すやうに
徐に
低い
田へと
落る。
村落の
子供等は「三
平ぴいつく/\」と
雲雀の
鳴聲を
眞似しながら、
小笊を
持つたり
叉手を
持つたりしてぢやぶ/\と
快よい
田圃の
水を
渉つて
歩いた。
其處には
又此れも
春のやうな
日に
騙されて、
疾から
鳴かなく
成つて
居た
蛙がふわりと
浮いてはこそつぱい
稻の
穗に
捉りながらげら/\と
鳴いた。一
杯に
塞がつて
居る
稻の
穗の
下をそろ/\と
偃ひながら
水が
低く
成つた
時秋の
日は
落ち
掛けた。さうして
什
時でも
其の
本能を
衝動る
機會があれば
鳴くのだといつて
待つて
居る
其の
蛙もひつそりとした。
大雨の
後の
畑へは
百姓は
大抵控へ
目にして
出なかつた。
勘次は
黄昏近くなつてから
獨で
草刈籠を
背負つて
出た。
彼は
何時もの
道へは
出ないで
後の
田圃から
林へ、それから
遠く
迂廻して
畑地へ
出た。
日はまだほんのりと
明るかつたので
勘次はそつちこつちと
空な
草刈籠を
背負つた
儘歩いた。
彼は
其れでも
良心の
苛責に
對して
編笠で
其の
顏を
隔てた。
日がとつぷりと
暮れた
時彼は
道端へ
草刈籠を
卸した。
其處には
畑の
周圍に
一畝づつに
作つた
蜀黍が
丈高く
突つ
立つて
居る。
草刈籠がすつと
地上にこける
時蜀黍の
大な
葉へ
觸れてがさりと
鳴つた。
更に
其葉は
何處にも
感じない
微風に
動搖して
自分のみが
怖たやうに
騷いで
居る。
穗は
何を
騷ぐのかと
訝るやうに
少し
俯目に
見おろして
居る。
勘次は
菜切庖丁を
取出して、
其高い
蜀黍の
幹をぐつと
曲ては
穗首に
近く
斜に
伐つた。
穗は
勘次の
手に
止つて
幹は
急に
跳ね
返つた。さうして
戰慄した。
勘次は
重く
成つた
草刈籠を
背負つて
今度は
野らの
道を
一散に
自分の
家へ
歸つた。
次の
朝勘次は
軒端へ
横に
竹を
渡して、ゆつさりとする
其の
穗を
縛つて
打つ
違ひに
掛けた。
南へ
低くなつた
日が
其れを
覗くやうに
射し
掛けた。
其の
日は
孰れもいひ
合せたやうに
畑へ
出た。一
日照つたので
畑は
大抵ぱさ/\に
乾いて
居る。
蜀黍の
穗を
伐りに
出た
村の
一人は
自分の
畑がぞつくりと
荒されて
居るのを
發見して
驚いた。
彼は
畑へ
來たなり
穗は一
本も
伐らないで
其の
儘駐在所へ
驅けつけた。
巡査はそれでも
直ぐに
官服を
着て
被害者と一
緒に
現場へ
來て
見て
伐られた
穗の
數を
改めて
手帖へ
止めた。
被害者が
駐在所へ
驅けつける
間に、
畑の
遠くに
離れ/″\に
散らばつて
居る
百姓等は
悉く
其れを
知つた。
被害者は
途次大聲を
出して
呶鳴つて
行つたからである。なんでも
昨夜遲く
野らから
歸るものが
有つたといふがそれぢや
其れに
相違ないだらうといふことが
傳へられた。
勘次も
畑へ
出て
居て
騷ぎに
成りはじめたのを
知つた。
彼は
直に
飛んで
歸つて
悉く
蜀黍の
穗を
外して、そつと
近くの
林へ
隱して
筵を二
枚ばかり
掩うた。
「
癖になつから、みつしら
懲りらかした
方がえゝ、
俺方は
畑が
五月蠅くつて
本當に
仕やうねえ」
「
見せしめに
行つ
時にや、こつぴどく
行んなくつちやえかねえよ」
「
村落の
内ようく
見せえすりや
直に
分らな、
蜀黍なんぞ
何處へ
隱せるもんぢやねえ」
抔と
近い
畑同士は
呶鳴り
合つた。
其の
聲は
被害者の
耳にも
這入つてむか/\と
激した
其の
心に
勢ひを
附けた。
「
數が
分つたらもう
後へ
手を
附けてもえゝ」
巡査は
畑を
去つた。
「わしも
行つて
見あんせう、
自分の
畑のがは
一目見りや
分りあんすから」
恁ういつて
被害者は
蜀黍の
穗を二三
本持つて
村落へ
戻つた。
巡査は
其處ら
此處らと二三
軒見て
歩いて
勘次の
庭へ
立つた。それは
勘次は二三の
者と
共に
巡査の
注意人物であつたからである。
然し
彼の
貧しい
建物の
何處にも
隱匿される
餘地を
發見することが
出來なかつた。
其の
時は
勘次が
餘所へ
運んだ
後なのである。
巡査は
檐に
渡した
竹の
棒を
見て
「
此りやどうするんだい」と
聞いた。
被害者は
先刻から
雨垂の
水で
土の
窪んだあたりを
見て
居たが
「はてな」と
首を
傾けて
「
蜀黍粒落つてあんすぞ、さうすつと
此處へ
引つ
懸けたの
又何處へか
持つてつちやつたな」
被害者はいつた。
巡査は
首肯いた。
「
此の
粒でがすから、わしがに
相違ありあんせん、
彼等がな
此んなに
出來つこねえんですから、それ
證據にや
屹度自分の
畑のがな
一つ
穗でも
伐つちやねえから
見さつせ、わしが
此んでも
〆粕入えて
作つたんでがすから」
被害者は
熱心にいつた。
勘次は
其時不安な
態度でぽつさりと
自分の
庭に
立つた。
彼は
既に
巡査の
檐下に
立つてるのを
見て
悚然とした。
「
勘次、
此の
竹はどうしたんだな」
巡査は
横目に
勘次を
見ていつた。
「わし
此らあ、
蜀黍伐つて
引つ
懸けべと
思つたんでがす」
「うむ、
此の
粒の
零れたのはどうしたんだ、
蜀黍なんだらう
此れは」
「へえ、なに、わしが
一攫み
引つ
扱いて
來て
見たの
打棄つたんでがした」
勘次は
恁ういつて
蒼く
成つた。
巡査は
更に
被害者に
勘次の
畑を
案内させた。
悄然として
後に
跟いて
來る
勘次を
要はないからと
巡査は
邪慳に
叱つて
逐ひやつた。
勘次の
畑の
蜀黍は
被害者がいつたやうに、
情ないやうな
見窄らしい
穗がさらりと
立つてそれでも
其の
恐怖心に
驅られたといふやうに
特有な一
種の
騷がしい
響を
立てつゝあつた。
穗は
一つも
伐つてはなかつた。
「
此れだからわし
云つたんでがす、ねえそれ、
此の
粒でがすかんね」
被害者は
威勢が
出た。
「
稻つ
束擔ぐんだつて、わし
等口へ
出しちや
云はねえが、ちやんと
知つてんでがすから、さう
云つちや
何だが
其
ことするもなあ、
極つたやうなもんですかんね」
被害者は
更に
手柄でもしたやうにいつた。
「もう
解つたから、それぢや
自分の
仕事をするがいい、
後にわしが
申報書を
拵へて
來て
遣るから、それへ
印形を
捺せばそれで
手續は
濟むんだからな」
巡査はさういつてさうして
被害者が
「そんぢや、わし
蜀黍隱して
置く
處見出あんすから、
屹度有んに
極つてんだから」といふ
聲を
後にして
畑の
小徑をうねりつゝ
行つた。
「
今度こさあ、
捕縛つちや
一杯に
引つ
喰らあんだんべ」
畑同士は
痛快に
感じつゝ
口々に
恁ういふことをいつた。
「おつう
俺らとつても
今度駄目だよ」
勘次は
果敢ない
自分の
心持を
唯一の
家族であるおつぎの
身體へ
投げ
掛けるやうに
萎れ
切つていつた。
勘次は
衷心から
恐怖したのである。
其れ
程ならば
何故彼は
蜀黍の
穗を
伐ることを
敢てしたのであつたらうか。
彼は
此れまでも
畑の
物を
盜つたのは一
度や二
度ではない。
其れは
些少であつたが
彼は
盜りたくなつた
時機會さへあれば
何時でも
盜りつゝあつたのである。
彼は
身を
殺さうとまで
其の
薄弱な
意思が
少しのことにも
彼を
苦しめる
時、
彼を
衝動つて
盜性がむか/\と
首を
擡げつゝあつたのである。
勘次はもう
仕事をする
處ではない。
彼は
到底寸時も
其の
家に
堪へられなく
成つて、
隣の
彼の
主人に
縋らうとした。
其の
閾を
越すことが
彼にはどれ
程辛かつたか
知れぬ。
主人は
不在であつた。
「お
内儀さん、わしも
又間違しあんしてどうも
此れお
内儀さん
處へは
閾が
高くつて
何でがすが、わし
居なくでも
成つちや
子奴等仕やうがあせんから、
助かれるもんならわしもはあ……」と
彼はぐつたり
首を
俛れた。
主人の
内儀さんは
勘次が
蜀黍を
伐つたことはもう
知つて
居た。まだ
癖が
止まないかと一
度は
腹を
立ても
見たり
惘れもしたりしたが、
然し
何處といつて
庇護つてくれるものが
無いので
恁うして
來るのだと、
目前に
其萎れた
姿を
見ると
有繋に
憐に
成つて
叱る
處ではなかつた。それではどうか
心配して
見てやらうといはれて
勘次は
顏が
蘇生つたやうに
成つた。
彼は
何でも
主人が
盡力して
呉れゝば
成就すると
思つて
居るのである。それでも
自分の
家には
居られないので、どうか
隱してくれと
彼は
土藏へ
入れて
貰つた。
勘次は
其處でも
不安に
堪へないので
其處に
暫く
使はずに
藏つてある四
尺桶へこつそりと
潜つて
居た。
巡査は
午後に
申報書の
印を
取りに
來て
勘次の
家へ
行つて
見た。
勘次は
何處へ
行つたと
巡査に
聞かれておつぎは
只知らないといつた。さうして
巡査の
後姿が
垣根を
出た
時竊に
泣いた。
被害者は
到頭隱匿した
箇處を
發見して
巡査を
導いた。
雜木林の
繁茂した
間の、もう
硬く
成つた
草の
中へ
蜀黍の
穗は
縛つた
儘どさりと
置いてあつたのである。
其處にはもうそつけなくなつた
女郎花の
莖がけろりと
立つて、
枝まで
折られた
栗が
低いながらに
梢の
方にだけは
僅に
笑んで
居る。
其の
小さな
芝栗が
偶然落ちてさへ
驚いて
騷ぐだらうと
思ふやうに
薄弱な
蟋蟀がそつちこつちで
微かに
鳴いて
居る。
一寸他人の
目には
觸れぬ
場所であつた。
穗を
掩うた
其の
筵が
勘次の
所業であることを
的確に
證據立てゝ
居た。
主人の
内儀さんは一
應被害者へ
噺をつけて
見た。
被害者の
家族は
律義者で
皆激し
切つて
居る。七十ばかりに
成る
被害者の
老人が
殊に
頑固に
主張した。
「
泥棒なんぞする
奴あ、わし
大嫌でがすから、わし
等畑の
茄子引ん

つたんだつてちやんと
知つちや
居んでがすから、いや
全くでがす、お
内儀さん
處の
甘藷も
盜りあんしたとも、ぐうづら
蔓引つこ
拔いて
打棄つて、いや
本當でがす、わしや
嘘なんざあいふな
嫌でがすから、
其れ
處ぢやがあせんお
内儀さん、
夜伐つて
來て、
朝つぱらに
成つたらはあ
引つ
懸けたに
相違ねえつちんでがすから、なにわしも
筵打つ
掛けた
處見あんした、
筵で
分るから
駄目でがす、いや
全く
酷え
野郎でがすどうも」
内儀さんは
其れは
豫期して
居た。
「そりやさうさね、
此の
前も
私の
處で
救つて
遣つたのにそれに
復たかうなんだから、まあ
病氣さね
此も、
困つたもんだが
然しあれを
懲役に
遣つて
見た
處で
子供等が
泣くばかりだからね、それにまあ
本當いへば
一つ
村落に
斯うして
居るんだから
先が
困り
切つてる
内に
勘辨して
遣つたと
成ると一
生先は
身がひけて
居る
道理だがそれが一
杯の
罪にでも
落して
見ると、
先では
帳消しにでも
成つたやうな
積で
居まいものでもなし、さうすると
敵一人拵へて
置くやうなものだしね、
他人に
叩かれたのでは
眠れるが、
叩いたのでは
眠れないとさへいふんだから、
何でも
後腹の
病めない
方が
善いやうだがどうだね」
「そんでもお
内儀さん、わしや
卯平ことみじめ
見せてんのが
他人のこつても
忌々敷んでさ、わしや
血氣の
頃から
卯平たあ
棒組で
仕事もしたんでがすが、
卯平はあんでもあれが
嚊等育つ
時分の
事なんぞ
思つちや
疎末にや
成んねえんでがすかんね、それお
内儀さん
卯平は
幾つに
成りあんすね、わし
等だらなあに、あゝた
野郎なんざあ
槍でゝも
何でも
突つ
刺しつちあんでがすがね」
老人は
憤慨に
堪へぬやうに
固めた
拳を
膝がしらへ
當てゝいつた。
「
尤もさねそりや、それだが
腹の
立つ
時分は
憎い
奴だと
思つても
後悔する
時が
無いとも
いひないしね、
少しのことで二
代も三
代も
仲直りが
出來ないやうな
實例が
幾らも
世間には
有るもんだからね」
内儀さんは
反覆していつた。
然し
容易に
彼等の
心は
落居ない。
暫く
噺は
途切て
居た。
「
遠くの
方へ
遣つたなんていつたつけがおりせは
又孫が
出來た
相だね、
今度のは
男だつてそれでも
善かつたねえ」
内儀さんは
側に
居た
老母へ
向いて
突然恁ういひ
掛けた。さうして
内儀さんは
冷たく
成つて
居た
茶碗を
手にした。
其れを
見て
被害者の
女房は
土間へ
駈けおりて
竈の
口へ
火を
點けてふう/\と
火吹竹を
吹いた。
「はあいさうでござりますよ、お
内儀さんの
厄介に
成りあんしたつけが、あれも
今ぢや
大層えゝ
鹽梅でがしてない、
四人目漸とそんでも
男でがすよ、お
内儀さんに
云あれた
時にやわし
等もはあ
澁れえて
居たんでがしたが、
身上もあん
時かんぢやよくなるしね、
兄弟中で
今ぢやりせが一
番だつて
云つてつ
處なのせ、お
内儀さんあれなら
大丈夫だからつて
云て
呉れあんしたつけが
婿も
心底が
善くつてね、
爺婆げつて、わし
等げ
斯うた
物遣しあんしたよ」
老母は
待ち
構へてゞも
居たやうに
小風呂敷の
包を
解いて
手織のやうに
見える
疎末な
反物を
出して
手柄相に
見せた。
内儀さんは
仕方ないといふ
容子で
反物へ
手を
掛けて
「それでも
孫抱きには
行つたかね」
「ほんに、わしや
今日らお
内儀さん
處さ
行くべと
思つて
居たら、
何ちこつたか
恁んな
騷ぎではあ
行くも
出來ねえで、わしや
昨日歸つて
來た
處なのせえ、お
内儀さん」
老母は
幾らでも
勢ひづいて
饒舌らうとする。
熱い
茶が
漸く
内儀さんの
前に
汲まれた。
被害者は
老父と
座敷の
隅で
先刻からこそ/\と
噺をして
居る。さうして
更に
老母を
喚んだ。
「うむ、さうだともよ」といふ
老母の
聲がすると
皆坐に
直つて
「それぢや、お
内儀さん、
先刻のがなお
内儀さんえゝやうに
行つて
見ておくんなせえ」
被害者はいつた。
「わしや、
一剋者だからお
内儀さん
惡く
思はねえでおくんなせえ」
老父もいつた。
「どうぞねえお
内儀さん」
老母もいつた。
内儀さんはそれから
又暫く
雜談をして
皆で
笑つて
歸つた。
腹に
在るだけのことをいはして
畢へば
彼等はそれだけ
心が
晴々として
勢が
段々鈍つて
來るので、
其間は
機嫌もとつて
見て、さうして
極り
切つた
理窟も
反覆して
聞かせて
居るうちにはころりと
落ちて
畢ふといふ
其の
呼吸を
内儀さんは
能く
知つて
居るのである。
其の
夜おつぎは
内儀さんに
喚ばれて
隣へ
泊つた。
内儀さんはおつぎと
與吉を
只二人其の
家に
置くには
忍びなかつたのである。
夜になつてから
勘次は
土藏から
出されて
傭人の
側に一
夜を
明した。
彼は
未明に
復土藏へ
隱れた。
内儀さんは
傭人の
口を
堅く
警めて
外へ
洩れないやうと
苦心をした。
其の
日も
巡査は
勘次の
家のあたりを
徘徊したがそれでも
其の
東隣の
門を
叩いて
穿鑿するまでには
至らなかつた。
内儀さんは
什
にしても
救つて
遣りたいと
思ひ
出したら
其處に
障害が
起れば
却てそれを
破らうと
種々に
工夫も
凝して
見るのであつた。それで
被害者の
方の
噺も
極つたのだから
此の
上は
警察の
手加減に
俟つより
外に
道は
無いのであるが、
不在であつた
主人は
其の
日も
歸らない。
勘次は
只管に
主人の
力に
倚つてのみ
救はれるものと
念じて
居る。
内儀さんも
主人を
待ちあぐんで
居る。さうして
復夜が
來た。
内儀さんはもう
凝然としては
居られない。それでおつぎを
連れて、
提灯を
點けて
竊に
土藏の二
階へ
昇つた。
「おとつゝあ」おつぎは
聲を
殺しながら
力を
入れていつた。
勘次は
返辭がない。おつぎは
更に
幾度か
喚んでそれからお
内儀さんが
喚んだ
時汚れた
身體を
桶の
中から
現はした。
「
旦那がまだ
歸らないのでね、
警察の
方の
噺が
出來ないで
困つて
居るんだが、どうだねお
前警察へ
出ても
盜らないといひ
切れるかね、さうすりや
私が
始末をして
遣るがね」
内儀さんはいつて
聞かせた。
「へえ」
勘次は
只首を
俛れて
居る。
「どうだね」
内儀さんは
反覆した。
「わしがにや、とつても
持ち
切れあんせん」
勘次は
萎れて
顫へて
居る。
「おとつゝあは
何ちんだんべな」おつぎは
齒痒相にいつて一
聲更に
「おとつゝあ」と
力を
入れて
「
盜らねえつて
云へよ、おとつゝあ」
おつぎは
熱心に
勘次を
見た。
「そんでも
俺、あすこへ
出ちや、とつても
白状しねえ
譯にや
行かねえよ」
「そんな
料簡でなく
私は
自分のが
伐つたんですつていへば、そんでいゝやうに
始末してやるだから」
内儀さんが
力を
附けて
見ても
勘次は
只首を
俛れて
居る。
「さう
云へせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」おつぎは
落膽したやうにいつた。
内儀さんとおつぎは
恁うして
熟睡した
身體を
直立せしめやうと
苦心する
程の
徒な
力を
盡したのであつた。
傭人もすつかり
眠りに
落ちたと
思ふ
頃内儀さんとおつぎとの
黒い
姿が
竊に
裏の
竹藪に
動いた。
落ちて
居る
竹の
枝が
足の
下にぽち/\と
折れて
鳴つた。
乾の
方の
垣根の
側へ
來た
時に
内儀さんは、
垣根の
土に
附いた
處を
力任せにぼり/\と
破つた。おつぎも
兩手を
掛けて
破つた。
幾年となしに
隙間を
生ずれば
小笹を
繼ぎ
足し/\しつゝあつた
竹の
垣根は、
土の
處がどす/\に
朽ちて
居るので
直に
大きな
穴が
明いた。おつぎは
其處から
潜つて
出た。
突然ぱた/\とけたゝましい
羽音が
直頭の
上で
騷いだ。
竹の
梢に
泊つて
居た
鳩が
俄に
驚いて
遠く
逃げたのである。
「さむしかないかい」
内儀さんは
垣根越しに
聞いた。
「
大丈夫ですよ、お
内儀さん」おつぎは
少し
歩き
掛けていつた。
「おやもうそつちの
方へ
行つたのかい、それぢや
彼處を
叩くんだよ」
内儀さんはいつて
分れた。おつぎは
直に
自分の
裏戸口に
立つた。そつと
開けて
這入つて
見ると、
自分の
家ながらおつぎはひやりとした。
塒の
鷄は
闇い
中で
凝然として
居ながらくゝうと
細い
長い
妙な
聲を
出した。
鼠が二三
匹がた/\と
騷いで、
何かで
壓へつけられたかと
思ふやうにちう/\と
苦しげな
聲を
立て
鳴いた。おつぎは
手探りに
壁際の
草刈鎌を
執つた。
又そつと
戸を
閉てゝ
出る
時頸筋の
髮の
毛をこそつぱい
手で
一攫みにされるやうに
感じた。おつぎは
外の
壁際の
草刈籠を
脊負つた。どうした
機會であつたか
此も
壁際に
立て
掛けた
竹箒が
倒れて
柄がかちつと
草刈籠を
打つた。おつぎはひよつと
顧みた。
夜は
闇である。
凄く
冴えた
空へぞつくりと
立つた
隣の
森の
梢にくつゝいて
天の
川が
低く
西へ
傾きつゝ
流れて
居る。
暫くしておつぎは
自分等の
手で
作つた
蜀黍の
側に
立つた。
痩せた
蜀黍は
眠つたかと
思ふやうにしつとりとして
居ては、
軈てざわ/\と
鳴つた。おつぎは
草刈鎌でざくり/\と
其の
穗を
伐つた。さうしてぎつと
押し
込んで
重く
成つた
草刈籠を
脊負つた。
其處らの
畑には
土が
眼を
開いたやうに
處々ぽつり/\と
秋蕎麥の
花が
白く
見えて
居る。おつぎは
足速に
臺地の
畑から
蜀黍の
葉のざわつく
小徑を
低地の
畑へおりて
漸くのことで
鬼怒川の
土手へ
出た。おつぎは
四つ
偃に
成つて
芝に
捉りながら
登つた。
其の
時おつぎの
心には
斜に
土手の
中腹へつけられた
小徑を
見出して
居る
程の
餘裕がなかつたのである。
土手の
内側は
水際から
篠が一
杯に
繁茂して
夜目にはそれがごつしやりと
自分を
壓して
見える。
篠の
間から
水がしら/\と
見えて、
篠の
根を
洗つて
行く
水の
響がちろ/\と
耳に
近く
聞える。おつぎは
汀へおりようと
思つて
篠を
分けて
見ると
其處は
崖に
成つて
居て
爪先から
落ちた
小さな
土の
塊がぽち/\と
水に
鳴つた。おつぎは
更に
篠を
分けておりようとすると、
其處も
崖で
目の
前にひよつこりと
高瀬船の
帆柱が
闇を
衝いて
立て
居る。
水に
近くこそ/\と
人の
噺聲が
聞える。
黄昏に
漸く
其處へ
繋つた
高瀬船が、
其處らで
食料を
求め
歩いて
遲く
晩餐を
濟してまだ
眠らずに
居たのであつたらう。それは
高瀬船の
船頭夫婦が、
足りても
足りなくても
自分の
家族の
唯一の
住居である
其の
舳に
造られた
箱のやうな
狹いせえじの
中で
噺して
居る
聲であつた。
乳呑兒の
泣く
聲も
交つて
聞えた。おつぎは
後へ
退去つた。おつぎは
殆んど
無意識に
土手を
南へ
走つた。
處々誰かゞ
道芝の
葉を
縛り
合せて
置いたので、おつぎは
幾度かそれへ
爪先を
引つ
掛けて
蹶いた。
土手の
篠は
段々に
疎らに
成つて
水が一
杯に
見えて
來た。
鬼怒川の
水は
土手より
遙に
低く
闇の
底にしら/\と
薄く
光つて
居る。
夜の
手は
對岸の
松林の
陰翳を
其の
水に
投げて、
川幅は
僅に
半分に
蹙められて
見える。
蟋蟀は
其處らあたり一
杯に
鳴きしきつて、
其の
聚つた
聲は
空にまで
響かうとしては
沈みつゝ/\、それがゆつたりと
大きな
波動の
如く
自然に
抑揚を
成しつゝある。おつぎは
到頭渡船場まで
來た。おつぎはそれから
水際へおりようとすると
水を
渡つて
靜かに
然も
近く
人の
聲がして、
時々しやぶつといふ
響が
水に
起る。
不審に
思つて
躊躇して
居ると
突然目の
前に
對岸の
松林の
陰翳から
白く
光つて
居る
水の
上へ
舳が
出て
船が
現はれた。
渡し
船が
深夜に
人を
乘せたのでしやぶつといふ
響は
舟棹が
水を
掻つ
切る
度に
鳴つたのである。おつぎは
又土手へ
戻つて
大きな
川柳の
傍に
身を
避けた。二三
語を
交換して
人は
去つたやうである。
船頭は
闇い
小屋の
戸をがらつと
開けて
又がらつと
閉ぢた。おつぎは
暫く
待つて
居てそれからそく/\と
船を
繋いだあたりへ
下りた。おつぎは
直ぐ
側でかさ/\と
何かが
動くのを
聞くと
共に、ゐい/\と
豚らしい
鳴聲のするのを
聞いた。
「
行くのかあ」とまだ
眠らなかつた
船頭は
突然特有の
大聲で
呶鳴つた。おつぎは
驚いて
又一
散に
土手を
走つた。
船頭はがらつと
戸を
開けて、
人の
走つたやうな
響きが
明かに
耳に
感じたので、
遙に
闇い
土手を
透して
見てぶつ/\いひながら
彼は
更に
豚小屋に
近づいて
燐寸をさつと
擦つて
見て「
油斷なんねえ」と
呟いて
又戸を
閉ぢた。
彼は
内職に
飼つた
豚が
近頃子を
生んだので
他人が
覘はせぬかと
懸念しつゝあつたのである。おつぎは
何處でも
構はぬと
土手の
篠を
分けて
一つ/\に
蜀黍の
穗を
力の
限り
水に
投じた。おつぎは
空な
草刈籠を
脊負つて
急いで
歸つた。
おつぎがこと/\と
叩いた
時内儀さんは
直に
戸を
開けて
「どうしたい、
大變遲かつたね」と
聞いた。
「お
内儀さんいふ
通にしあんしたよ」
「
其の
蜀黍は
何處へ
遣つたい」
「わたしやどうしてえゝか
知んねえから
川へ
持つて
行つて
打棄りあんした」
「さうかい、
能く
行つて
來たね、まあ
上りな」
内儀さんはランプを
自分の
頭の
上に
上げて
凝然と
首を
低くしておつぎの
容子を
見た。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、
其の
衣物は」
「
本當にまあ」おつぎは
始めて
心付いたやうで
「
先刻土手さ
行く
時、
堀つ
子ん
處へ
辷つたんですが、
其ん
時かうえに
汚したんでせうよ」とおつぎは
泥に
成つた
腰のあたりへ
手を
當てた。
「お
内儀さん、わたしや
飛んだことを
仕あんした」おつぎは
又いつた。
「どうしたんだえ」
「わたしや、
鎌何處へ
遣つちやつたか
分んなく
仕つちやつたんでさ」
「
今夜持つてつたのかえ」
「さうなんでさ、わたしや
蜀黍打棄つ
時まで
有つと
思つてたら
見えねえんでさ、
私等家のおとつつあは
道具つちと
酷く
怒んですから」
「
草刈鎌の一
挺や二
挺お
前どうするもんぢやない、あつちへ
廻つて
足でも
洗つてさあ」
内儀さんの
口もとには
微かな
笑ひが
浮んだ。
次の
日に
漸く
主人は
歸つた。
巡査へ
噺をして
見たが
其の
時はもう
被害者からの
申報書が
分署へ
提出されてあつたので
更に
分署長へ
懇請して
見た。さうして
被害者から
事實が
相違したといふ
意味の
取消を
出せばそれで
善いといふことにまで
運びがついた。
微罪といふので
其筋の
手加減が
出來たのである。
内儀さんは
復た
被害者の
家へ
行つて
其れ
丈の
筋道を
聞かせたが、どうしても
今度はうんといはない。
「どうもわし
等分署へなんぞ
出んな、なんぼにも
厭でがすかんね、
屹度怒られんでがすからはあ」とのみいふのである。
「さうだがね、
此處まで
噺がついて
居るんだから
此方でそれだけのことは
仕て
呉れなくつちや
此れまでのことが
水の
泡なんだからね」と
道理を
聞かせても
「
盜らつた
上に
恁うして
暇潰して、おまけに
分署へ
出て
怒られたり
何つかすんぢや、こんな
詰んねえこたあ
滅多ありあんせんかんね、それに
書付だつてどうしてえゝんだか
分んねえし」
彼は
只嚴めしく
見える
警察官が
恐ろしくてどうしても
足が
進まないのである。
「そりや
書付なんぞは、
旦那が
書いて
遣るから
心配にや
成らないがね」
内儀さんは
漸く
近所の
者を
一人跟いてくやうにして
遣るといふことにしたので
被害者も
思ひ
切つて
出ることに
成つた。
彼等が
歸つた
時は
反對に
威勢がよかつた。
「どうしたつけね」
聞かれて
「
髭のかう
生えた
部長さんだつていふ
可怖え
人でがしたがね、
盜まつたなんて
屆けしてゝさうして
警察へ
餘計な
手間掛けて
不埓な
奴だなんて
呶鳴らつた
時にやどうすべかと
思つて、そんぢや
其の
書付持つて
歸りますべつて
云ふべかと
思ひあんしたつけ、さうしたら
暫く
書付見てたつけが
此は
誰れが
書いたつて
聞くから、わし
等方の
旦那でがすつて
云つたら、さうかそんぢやよし/\
歸れなんていふもんだからほつと
息つきあんした、
瘧落ちたやうでさあはあ、そんだからわし
等なんぼにもあゝい
處へは
出んな
厭で」
彼は
少時間を
措いて
「そんだが、
旦那はたいしたもんでがすね、
旦那書いたんだつて
云つたらなあ」と
彼は
更に
跟いて
行つた
近所の
者を
顧みていつた。
事件は
如此にして一
見妙な
然も
最も
普通な
方法を
踏んで
終局が
告げられた。
被害者の
損害に
對する
賠償は
僅であるとはいひながら一
時主人の
手から
出てそれが
被害者に
渡された。
「わしも
此れからは
決して
他人の
物は
塵つ
葉一
本でも
盜りませんからどうぞ」
と
勘次は
有繋に
泣いた。
彼はまだお
品が
死んだ
年の
小作米の
滯りも
拂つてはないし、
加之卯平から
譲られた
借財の
残りもちつとも
極りがついて
無いのに
又今度の
間違から
僅ながら
新な
負擔が
加はつたのである。
彼が
懸命の
勞働は
舊に
倍して
著るしく
人の
目に
立つた。
或日主人の
内儀さんは
偶然とした
機會があつて
勘次に
噺をした。
「あれでなか/\おつぎにも
驚いたもんだね」
内儀さんはいつた。
「はあどうか
仕あんしたんべか、お
内儀さん」
勘次は
怪訝な
容子をして
且辛い
厭なことでもいひ
出されるかと
案ずるやうに
怖づ/\いつた。
「どうしたつていふんぢやないが、
此の
間の
晩のことを
知つてるかね」
「
何でがせうね、お
内儀さん」
「
夜中にあの
蜀黍伐らせたことだがね、
實はあの
時はね、
警察の
方が
間に
合はなければお
前に
盜らないと
何處までもいはして
置いて、さうして
旦那が
歸つてからのことと
思つたもんだから、それにやお
前が
白状して
畢つても
困るし、
自分の
畑がそつくりして
居ても
不味いからね、それも
今に
成つちや
何もそんなこと
仕なくつても
善かつたやうなものだが、
其の
時は
私もどうかしてと
思つてね、それだがおつぎが
度胸のあるのぢや
私も
喫驚したよ」
内儀さんはいつた。
「へえわしもおつうに
聞きあんした、
鎌一
挺見えねえもんだからどうしたつちつたら、お
内儀さんいふから
伐つたんだなんて、そんでも
鎌は
笹ん
中に
有りあんしたつけや」
「さうかい、どんな
鎌だかおつぎは
心配して
居たからね」
「なあにはあ、
減つちやつた
鎌だから
惜しかあねえんですがね」
「おつぎのことはそんなことでは
無闇に
怒らないやうにしなよ、
面倒見てね」
「それからわしもお
内儀さん、
恁うして
獨で
辛抱してんでがすが、わし
等嚊も
死ぬ
時にや
子奴等こたあ
心配したんでがすかんね、
夫からわしもおつうが
行きてえつちもんだからお
針にも
遣りあんすしね、
襷なんぞも
欲い/\つちもんだからわし
等見てえな
貧乏人にや
餘計なもんぢやありあんすが
赤えの
買つて
遣つたんでがさ、
此さうだことしてお
内儀さん
處へも
小作の
借も
持つて
來ねえで
濟まねえんですが、
嚊が
單衣物も
質に
入えてたの
出して
遣つたんでがすがね、
畑へなんぞ
出んのにや
餘り
過ぎ
物なんだが、それ一
枚切りだからわしも
構あねえで
見てんのせ、そんだがお
内儀さん
奇態に
汚しあんせんかんね」
勘次は
最後の一
語に
力を
入れていつた。
「さうだよ、さうして
遣れば
勵みが
違ふからね」
内儀さんはいつて
又
「おつぎも
能く
働けるやうに
成つたね、それだが
此の
間のやうな
處を
見ると
死んだお
品が
乘り
移つたかと
思ふやうさね」
「わしもはあ、あれがこたあ
魂消てつことあんでがすがね」
「さういつちや
何だがお
品も
隨分お
前ぢや
意地燒いて
苦勞したことも
有るからね」
「へえ、わしやはあ
可怖くつて
仕やうねえんですから、わし
出らんねえ
處へは
嚊ばかり
出え/\
仕たんでがすから」
「さうだつけねえ」
内儀さんは
微笑して
「おつぎは
心持までお
袋の
方だね、お
前の
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、153-2]だがおつたはあゝいふ
性質なのに一つ
腹から
出ても
違ふもんだね」
「わし
等※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、153-4]はお
内儀さん、
碌でなしですかんね」
彼は
恥ぢてさうして
自分を
庇護ふやうに
其の
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、153-4]といふのを
卑下して
僻んだやうな
苦笑を
敢てした。
「おつたは
今何處に
居るね」
「
下の
方に
居あんすがね、わしは
往來なしでさ、
同胞だたあ
思はねえからつてわし
斷つたんでがすから、わし
等嚊死んだ
時だつて
來もしねえんですかんね、お
内儀さんさうえ
者あ
有りあんすめえね」
「さうだつけかね」
「わしや、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、153-11]にや
到頭小作に
持つてくべと
思つてたの一
俵ぺてんに
掛けられたことあんですから、
自分のが
始末すれば
直返すからつて
持つて
行つてそれつ
切りなんでさ、わし
等嚊生きてる
頃なもんだから、
嚊とろつぴ
催促に
行き/\したんだが、
無くつちや
遣らんねえからつて
喧嘩吹つ
掛るつちんだから
嚊も
忌々敷がつて
居たが
先が
不法なんだから
駄目でさね、それ
處ぢやねえ、
盲目に
成つた
自分の
餓鬼の
錢せえ
騙して
叩くんだから」
「
盲目といふのはどうしたんだねそれは」
「
野田へ
醤油屋奉公に
行つてゝ
餘り
飯食ひ
過ぎたの
原因で
眼へ
出たなんていふんですが、
廿位で
潰れつちやつたんでさ、さうしたらそれ
打棄つて
夜遁げ
見てえせまるで、
自分の
村落にだつて
居らんなく
成つたんでがすから」
「さういふことがねえ、
能く
出來たもんだね、
自分の
本當の
子をねえまあ、おつたは
酷いといふことは
聞いちや
居たがねえ」
内儀さんは
驚いた
容子でいつた。
「そんだがお
内儀さん
其盲目奇態で、
麥搗でも
米搗でも
畑耕でも
何でも
百姓仕事は
行んでさ、
薄ら
明りにや
見えんだなんていふんだがそんでも
奇態なのせどうも、そんで
極く
堅てえもんだから
他人にも
面倒見られて
其の
位だから
錢も
持つてんでさ、さうしたら
何處で
聞いたか
來て
騙して
連れてつてね、えゝわしら
等※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、154-10]せお
内儀さん」
彼は
目を
峙てた。
「
盲目も
有繋お
袋だから
畸形に
成つちや
他人の
處なんぞよりやえゝと
思つたんでがせうね、さうしたらお
内儀さん
盲目が
錢叩いつちやつたら
又打棄つて、
聞いて
見ちや
酷でえ
噺なのせ
本當に、そん
時にや
盲目もわしが
處へ
泣きついて
來て、わしもはあ、
二十先にも
成つて
幾らなんだつて
騙さつるなんて
盲目ことも
忌々敷やうでがしたが、わしも
其ん
時や
嚊に
死なれた
當座なもんだからさう
薄情なことも
出來ねえと
思つて、そんでも一
晩泊めて、わしも
困つちや
居たが
穀もちつたあ
遣つたのせ、わしやお
内儀さん
嚊おつ
殺してからつちものは
乞食げだつて
手攫みで
物出したこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ
斷つて
置くんでがすから、わしやお
内儀さん
其れ
丈は
心掛てんでがすよ」
勘次は
内儀さんの
心裡に
伏在して
居る
何物かを
求めるやうな
態度でいつた。
「さうだともさね、さういふ
心掛で
居さへすりや
決して
間違はないからね」
内儀さんはいつて
更に
以前からの
噺に
幾らか
釣り
込まれて
居るやうで
「そりやさうと
其盲目はどうしたね」
「
村落に
居あんさ、
何處つちつたつて
行き
場所はねえんですから、なあに
獨りでせえありや
却つて
懷はえゝんでがすから」
「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、
彦次はどうしたんだね、
私もおつたのことは
暫く
前に
見たつ
切だが」
「お
内儀さん、
夫婦揃つてなくつちや
行れるもんぢやありあんせんぞ、
親爺だつてお
内儀さん
自分の
女つ
子女郎に
賣つて百五十
兩とかだつていひあんしたつけがそれ
歸りに
軍鷄喧嘩へ
引つ
掛つて、七十
兩も
奪られて
來たつちんでがすから
噺にや
成んねえですよ、そつからわしや
※等夫婦[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、155-13]のこたあ
大嫌なんでさあ」
「
本當とは
思へないやうなことだね」
「お
内儀さん
本當ですともね、わしあ
嘘なんざ
お内儀げいひあんせんから」
「そりや
本當にや
相違ないだらうがね」
「そんだがお
内儀さん、
其女つ
子も
直遁げて
來つちめえあんしたね、
今ぢや
何とか
云つて
厭だら
構あねえ
相でがすね」
「
私もそんなことは
知らないが、
新聞で
騷ぎはあつたやうだつけね」
内儀さんは
何處かさういふ
噺には
氣が
乘ぬやうで
「おつたも
見た
處ぢや
體裁がよくてね」
「さうなんでさ、うまいもんだからわしも
到頭米一
俵損させられちやつて」
勘次はそれをいふ
度に
惜し
相な
容子が
見えるのである。
「さういつちやお
前の
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、156-10]のこと
惡くばかりいふやうだが、
舅が
鬼怒川へ
落ちて
死んだなんて
大騷ぎしたことが
有つたつけねえ」
「さうでさ、
餘つ
程に
成りあんすがね、ありや
鬼怒川へ
蚤叩くつて
行つてそれつ
切りに
成つちやつたのせ」
「
彦次は
實子なんだね」
「えゝ、
暫く
目が
不自由で
別に
小さく
作つて
隱居してたんですが、
蚤は
居た
容子なんでがすね、一
度なんざあ
畑の
側で
叩えたら
其處ら
通つた
人みんなぞよ/\
偃ひ
上られて
酷でえ
目に
逢つたちんですから、そんで
其處らで
叩えちや
仕やうねえからなんて
云はれたんでがせうね、それから
何でも
蓙持つて
鬼怒川さ
行く
積に
成つたんでがすね、
鬼怒川までは
有繋餘つ
程ありあんさね、
足もとが
本當ぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、
本當に
飽氣ねえ
噺で、それお
内儀さんわし
等※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、157-5]は
他人が
死骸見付けて
大騷ぎして
知らせに
來たら、
直はあ
死人の
衣物から
始末して
掛つたつちんですから」
「
自分で
取つて
畢ふ
積なんだね」
「
兄弟等げ
分けてなんざあ
遣んねえ
積なんでさね」
「
衣物だつて
幾らも
無いんだらうがね、それにまあどうして
川へなんて
其
遠くへ
蓙ばかり
持つてね、
行くうちにや
居た
蚤もみんな
飛んで
了ふだらうがね、まあさういのも
運り
合せだね」
「はあ
耄碌してたんでがすから、
餘まり
耄碌しちや
厭がられあんすかんね」
「
厭がられるつてお
前そんなものぢやないよ、
舅だもの、
婿だの
娘だのといふものは
餘計氣をつけなくちや
成らないものなんだね」
内儀さんは
窘める
樣にいつた。
「そりやさうですがね、お
内儀さん」
勘次は
何だが
隱事でも
發かれたやうに
慌てゝいつてさうして
苦笑した。
「おつたは
本當に
舅は
善くしなかつた
相だな、
自分等の
方の

へは
砂糖を
入れても
舅の
方へは
砂糖を
入れなかつたなんて
暫く
前に
聞いたつけが」
内儀さんは
獨で
低聲にいつた。
「どうでがしたかねそれは」
勘次は
先刻の
容子とは
違つて、
俄に
庇護ひでもするやうな
態度でいつた。
「そんなに
仕なくつたつて
幾らも
生きやしない
老人のことをな」
内儀さんは
熟と
復いつた。
勘次は
餘計に
萎れた。
「
勘次も
錢は
自分の
手から
湧すやうにして
辛抱してりや
辛いことばかり
無いから、
何でも
人間は
子供次第だよ、
後で
厄介に
成らなくちや
成らないんだから
子供の
面倒は
見ないな
間違だよ」
内儀さんは
勵すやうにさうしてしんみりといつた。
暫く
噺が
途切れた
時勘次は
突然
「お
内儀さん
變なこと
聞くやうでがすが
帶にする
布片はどの
位有つたらえゝもんでがせうね」と
聞いた。
「おつぎにでも
締めさせるのかい」
「へえ、
今のが
古くつて
厭だなんて
強請れんで、
何時でもわし
怒んでがすが、お
内儀さん
處へも
不義理ばかりしてそんな
處ぢやねえつて
云つて
聞かせても、みんな
赤えの
締めてるもんだから
欲しくつて
仕やうねえんでさ」
「さうだね、
帶はまあ一
丈つていふんだが、
其處らの
子の
締めるのは
什
ものだかさね」
「わしらおつうはそれ四
尺もあればえゝつちんですがね、それだからわしお
内儀さんにでも
聞かねえぢや
分んねえと
思つて」
「さうさ
成程、
外へ
出る
處だけ
有れば
善いんだから、それにや四
尺もあつたら
澤山だね、
斯うこつちばかり
附ければね」
内儀さんは
自分の
帶へ
手を
當てゝ
見ていつた。
「それお
内儀さん、
兩方へ
附けんだつて
恁ういに
縛つて
中へたぐめた
端つ
子が
赤くなくつちや
見つともねえつてね、そんな
處どうでもよかんべと
思ふんだが、
尤も
其處は一
尺でえゝなんて
云んでさ」
「
成程ね、
私等今までさういふことにや
氣が
附かなかつたが、
結び
目も
仕事するんだから
其
に
大きくなくつたつて
構はないし、四
尺五
寸もあれば
丸で
新しいやうに
見えるんだね」
「そんでお
内儀さん、どの
位したもんでがせうね
錢は、たんと
出んぢやはあ
仕やうねえが」
勘次は
危むやうにいつた。
「
幾らもしないね、
其れ
丈ぢや」
「そんでも
大凡まあどの
位したもんでがせうね」
勘次は
又反覆して
促した。
「
唐縮緬も
近頃ぢや
廉くなつたから一
尺十二三
錢位のものかね、
上等で十四五
錢しかしないだらうね」
「さうでがすか、わしやまた
大變出んだとばかし
思つてあんした」
「それも
反物に
成つてるのを
切らしてさうだよ、それからもつと
廉くも
出來るのさ、
村の
店なんぞぢや
錢ばかりとつて
虱が
潜り
相なのでね」
内儀さんは
微笑した。
「さういふ
短いのは
端布片で
買ふに
限るのさ、
幾らにもつかないもんだよ、
私が
近頃出る
序もあるから
買つて
來て
遣つても
善いよ」
「さうですか、そんぢやお
内儀さんどうかさうしておくんなせえ、お
内儀さんに
見て
貰えせえすりや
大丈夫でがすから、なあに
赤くせえありや
什
んでも
構あねえんでがすがね」
「一
日お
前が
日傭に
來さへすりやそれ
丈は
出て
畢ふから、
欲しいといふものなら
拵へて
遣るが
善いよ、そりや
欲しい
筈さおつぎも
明ければ十八に
成るんだつけね」
内儀さんは
同情していつた。
「わしに
怒らつるもんだから
蔭でぐず/\
云つて
困んでさ」
勘次は
更に
「そんぢやまあ
善かつた、わし
等そんなこたあちつとも
分んねえから、
夫からはあお
内儀さんに
聞いてんべと
思つてたのせ」といつて
何處となくそわ/\と
悦ばしさを
禁じ
得ないものゝ
如くである。
「
女の
子は
此れで
飾だから
他人にも
見られるからね」
内儀さんは
懇にいつた。
「わし
等自分ぢや
什
襤褸だつて
構あねえが
此れで
女つ
子にやねえ、わしもこんでお
内儀さんに
聞く
迄にや
心配しあんしたよ」
勘次は
僅な
帶のことが
大きな
事件の
解決でも
與へられたやうに
心の
底から
勢ひづいて
内儀さんの
前に
感謝した。
勘次は
極めて
狹い
周圍を
有して
居る。
然し
彼の
痩せた
小さな
體躯は、
其の
狹い
周圍と
反撥して
居るやうな
關係が
自然に
成立つて
居る。
彼は
決して
他人と
爭鬪を
惹き
起した
例もなく、
寧ろ
極めて
平穩な
態度を
保つて
居る。
唯彼等のやうな
貧しい
生活の
者は
相互に
猜忌と
嫉妬との
目を
峙てゝ
居る。
勘次は
異常な
勞働によつて
報酬を
得ようとする一
方に一
錢と
雖も
容易に
其の
懷を
減じまいとのみ
心懸けて
居る。
彼等のやうな
低い
階級の
間でも
相互の
交誼を
少しでも
破らないやうにするのには、
其處には
必ず
其に
對して
金錢の
若干が
犧牲に
供されねばならぬ。
絶對に
其犧牲を
惜むものは
他の
憎惡を
買ふに
至らないまでも、
相互の
間は
疎略にならねばならぬ。
然し
其
ことは
勘次を
苦めて
其のさもしい
心の
或物を
挽囘させる
力を
有して
居ないのみでなく、
殆んど
何の
響をも
彼の
心に
傳ふるものではない。
彼は
只其の
日/\の
生活が
自分の
心に
幾らでも
餘裕を
與へて
呉れればとのみ
焦慮つて
居るのである。
彼の
心を
滿足せしめる
程度は、
譬へば
目前に
在る
低い
竹の
垣根を
破壤して一
歩足を
其域内に
趾つけるだけのことに
過ぎないのである。
然も
竹の
垣根は
朽ちて
居る。
朽ちた
低い
竹の
垣根は
其の
強い
手の
筋力を
以て
破壤するに
何の
造作もない
筈であるが、
手の
先端を
觸れしめることさへ
出來ないで
居るのである。
彼は
長い
時間氷雪の
間を
渉つた
後、一
杯の
冷たい
釣瓶の
水を
注ぐことによつて
快よい
暖氣を
其の
赤く
成つた
足に
感ずる
樣に、
僅少な
或物が
彼の
顏面の
僻んだ
筋を
伸るに十
分であるのに、
彼は
其の
冷水の一
杯をさへ
空しく
求めつゝあつたのである。
自然に
形られて
居る
階級の
相違を
有して
居る
者又は
長い
間彼の
生活の
内情を
知悉して
居る
者からは
彼は
同情の
眼を
以て
視られて
居るけれども、こせ/\とした
其の
態度と、
狐疑して
居るやうな
其容貌とは
其處に
敢て
憎惡すべき
何物も
存在して
居ないにしても
到底彼等の
伴侶の
凡てと
融和さるべき
所以のものではない。
彼は
彼等の
伴侶に
在つては、
幾度かいひふらされて
居る
如く
水に
落した
菜種油の一
滴である。
水が
動く
時油は
隨つて
動かねば
成らぬ。
水が
傾く
時油は
亦傾かねば
成らぬ。
併し
水が
平靜の
度を
保つ
時油は
更に
怖れたやうに一
所に
凝集する。
兩者の
間には
何等其の
性質を
變化せしむべき
作用の
起るでもなく、
其れは
水が
油を
疎外するのか、
油が
水を
反撥するのか
遂に
溶け
合ふ
機會が
無いのである。
之を
攪亂する
他の
力が
加へられねば
兩者は
唯平靜である。
村落の
空氣が
平靜である
如く、
勘次と
他の
凡てとの
間も
極めて
平靜でそれで
相容ないのである。
勘次は
其の
菜種油のやうに
櫟林と
相接しつゝ
村落の
西端に
僻在して
親子三
人が
只凝結したやうな
状態を
保つて
落付て
居るのである。
偶然に
起つた
彼の
破廉耻な
行爲が
俄に
村落の
耳目を
聳動しても、
兎にも
角にも一
家を
處理して
行かねばならぬ
凡ての
者は、
彼等に
共通な
聞きたがり
知りたがる
性情に
驅られつゝも、
寧ろ
地味で
移氣な
心が
際限もなく
一つを
逐ふには
年齡が
餘に
彼等を
冷靜な
方向に
傾かしめて
居る。それでなくても
其の
知りたがり
聞きたがる
性情を
刺戟すべきことは
些細であるとはいひながら
相尋で
彼等の
耳に
聞えるので
勘次のみが
問題では
無くなるのである。
然しながら
若い
衆と
稱する
青年の一
部は
勘次の
家に
不斷の
注目を
怠らない。
其れはおつぎの
姿を
忘れ
去ることが
出來ないからである。
苟且にも
血液の
循環が
彼等の
肉體に
停止されない
限りは、一
旦心に
映つた
女の
容姿を
各自の
胸から
消滅させることは
不可能でなければならぬ。
然し
彼等は一
方に
有して
居る
矛盾した
羞耻の
念に
制せられて
燃えるやうな
心情から
竊に
果敢ない
目の
光を
主として
夜に
向つて
注ぐのである。
夜は
彼等の
世界である。
熟練な
漁師は
大洋の
波に
任せて
舷から
繩に
繼いだ
壺を
沈める。
其の
繩を
探つて
沈めた
赤い
土燒の
壺が
再び
舷に
引きつけられる
時、
其處には
凝然として
蛸が
足の
疣を
以て
内側に
吸ひついて
居る。
恁うして
漁師は
烱眼を
以て
獲物を
過たぬ
道を
波の
間に
窮めて
居るのである。
僅な
村落の
内で
毎日凡ての
目に
熟して
居る
女の
所在を
覘ふことは、
蛸壺を
沈めるやうな
其
寧ろあてどもないものではない。
木の
葉が
陰翳を
落として
呉れぬ
冬の
夜には
覘うて
歩く
彼等は
自分の
羞耻心を
頭から
褞袍で
被うて
居る。
短い
夜の
頃でも、
朝の
眠たさが
覿面に
自分を
窘めるにも
拘はらずうそ/\と
歩いて
見ねば
臭い
古ぼけた
蚊帳の
中に
諦めて
其身を
横たへることが
出來ないのである。
彼等が
女の
所在を
覘ふのは
極めて
容易なものの
樣ではありながら
蛸壺が
少しの
妨げもなく
沈められる
樣ではなく、
父母の
目が
闇の
夜にさへ
光を
放つて
女を
彼等から
遮斷しようとして
居る。
彼等はそれで
目の
光の
及ぶ
範圍内には
自分の
身を
表はさないで
目的を
遂げようと
苦心する。
譬て
見れば
彼等は
狹いとはいひながら
跳ては
越せぬ
堀を
隔てゝ、
然かも
繁茂した
野茨や
川楊に
身を
沒しつゝ
女の
軟かい
手を
執らうとするのである。
其れは
到底相觸れることさへ
不可能である。
焦燥つて
堀を
飛び
越えようとしては
野茨の
刺に
肌膚を
傷けたり、
泥に
衣物を
汚したり
苦い
失敗の
味を
嘗めねばならぬ。
其れ
故彼等は
隱約の
間に
巧妙な
手段を
施さうとして
其處に
工夫が
凝されるのである。
既に
漁師の
手に
生命を
握られて
居る
蛸は
力を
極めて
壺の
内側に
緊着すれば
什
強い
手の
力が
袋のやうな
其の
頭を
持つて
曳かうとも、
蛇が
身體の一
部を
穴に
入したやうに
拗切るまでも
離れない。
刄物を
以て
突つ
刺しても
同一である。
蛸壺の
底には
必ず
小さな
穴が
穿たれてある。
臀からふつと
息を
吹つ
掛けると
蛸は
驚いてすると
壺から
逃げる。それでも
猶旦騙されぬ
時は
小さな
穴から
熱湯をぽつちりと
臀に
注げば
蛸は
必ず
慌てゝ
漁師の
前に
跳り
出す。
熱い一
滴によつて
容易に
蛸は
騙されるのである。
假令監視の
目から

れて
女に
接近したとしても、
打ち
込んだ
女の
情が
強ければ
蛸壺の
蛸が
騙される
樣にころりと
落す
工夫のつくまでは
男は
忍耐と
寧ろ
危險とを
併せて
凌がねば
成らぬ。さうして
纔に
相接した
兩性が
心から
相曳く
時相互に
他の
凡てに
對して
恐怖の
念を
懷きはじめるのである。
空が
夕日の
消え
行く
光を
西の
底深く
鎖して
畢つて、
薄い
宵が
地を
低く
掩うて
夜が
到つた
時女は
井戸端で
愉快に
唄ひながら一
種の
調子を
持つた
手の
動かし
樣をして
米を
研ぐ。
女は
研桶と
唄との二つの
聲が
錯綜しつゝある
間にも
木陰に
佇む
男のけはひを
悟る
程耳の
神經が
興奮して
居る。
其れが
凉しい
夏の
夜で
女が
男を
待つ
時には
毎日汗に
汚れ
易いさうして
其の
飾りでなければ
成らぬ
手拭の
洗濯に
暇どるのである。
庭の
木陰に
身を
避けてしんみりと
互の
胸を
反覆す
時繁茂した

や
栗の
木は
彼等が
唯一の
味方で
月夜でさへ
深い
陰翳が
安全に
彼等を
包む。
空に
冴えた
月は
放棄してある
手水盥を
覗いては
冷かに
笑うて
居る。
彼等が
餘りに
暇どつて
居れば
月はこつそりと
首を
傾けて
木の
葉の
間から
覗いて
見る。
其れでも
猶彼等が
屈託して
居れば、
彼等を
庇護して
居る
木が

の
木であれば
梢からまだ
青い
實を
投げて、
其の
瞬間驚き
易い
彼等が
欺かれて、
彼等の
伴侶の
惡戯であるかを
疑うては
慌てゝ
周圍を
見る
時、
繁茂した
大きな
葉が
凉しい
風にさや/\と
微笑する。
彼等はかうして
家の
内から
聲を
立てゝ
劇しく
呼ばれるまでは
怖れ/\も
際限のない
噺に
耽るのである。
彼等がさういふ
苦辛の
間に
次の
日の
身體の
疲れを
犧牲にしてまでも
僅な
時間を
相對して
居ながら
互の
顏も
見ることが
出來ないで
低く
殺した
聲にのみ
滿足する
外に、
彼等は
林の
中に
放たれた
時想ひ
想はぬ
凡てが
只管に
甘い
味を
貪るのである。
林は
彼等の
天地である。
落葉を
掻くとて
熊手を
入れる
時彼等は
相伴うて
自在に


ふことが
默託されてある。
然し
熊手の
爪が
速かに
木陰の
土に
趾つける
其の
運動さへ一
度は一
度と
短い
日を
刻んで
行く
樣な
冬の
季節は
餘りに
冷たく
彼等の
心を
引き
緊めて
居る。
到る
處畑の
玉蜀黍が
葉の
間からもさ/\と
赤い
毛を
吹いて、
其の
大きな
葉がざわ/\と
人の
心を
騷がす
樣に
成ると、
男女の
群が
霖雨の
後の
繁茂した
林の
下草に
研ぎすました
草刈鎌の
刄を
入れる。
初は
朝まだきに
馬の
秣の一
籠を
刈るに
過ないけれど、
燬くやうな
日のもとに
畑も
漸く
極がついて
村落の
凡てが
皆草刈に
心を
注ぐ
樣に
成れば、
若い
同志が
相誘うては
遠く
林の
小徑を
分て
行く。さうして
自分の
天地に
其羽を一
杯に
擴げる。
何處を
見ても
只深い
緑に
鎖された
林の
中に
彼等は
唄ふ
聲に
依つて
互の
所在を
知つたり
知らせたりする。
彼等のしをらしい
者はそれでも
午前の
幾時間を
懸命に
働いて
父なるものゝ
小言を
聞かぬまでに
厩の
傍に
草を
積んでは、
午後の
幾時間を
勝手に
費さうとする。一
度でもしめやかに
語り
合うた
兩性が
邂逅へば
彼等は一
切を
忘れて、それでも
有繋に
人目をのみは
厭うて
小徑から一
歩木の
間に
身を
避ける。
繁茂した
青草が
側行く
人にも
知られぬ
樣に
屈んだ
彼等を
幾らでも
掩ひ
隱す。
彼等は
極つた
何の
噺も
持つて
居ないのに
快よく
冷たい
土に
坐つて、
遂には
手にした
鎌の
刄先で
少しづゝ
土をほじくりつゝ
女は
白い
手拭の
端を
微動させては
俯伏しなから
微笑しながら
際限もなく
其處に
凝然として
居ようとする。
熬りつける
樣な
油蝉の
聲が
彼等の
心を
撼がしては
鼻のつまつたやうなみん/\
蝉の
聲が
其の
心を
溶かさうとする。
藪蚊が
彼等の
日に
燒けた
赤い
足へ
針を
刺して、
臀がたはら
胡頽子の
樣に
血を
吸うて
膨れても、
彼等はちくりと
刺戟を
與へられた
時に
慌てゝはたと
叩くのみで
蚊が
逃げようとも
知らぬ
顏である。
暑い
日が
草いきれで
汗びつしりに
成つて
居る
彼等の
身體に
時刻が
過ぎたと
枝の
間から
強い
光を
投掛けて
促す
迄は、
稀には
痺れた
足を
投出して
聞きも
聞かせもしなくて
善い
噺を
反覆してのみ
居るのである。
彼等は
恁うして
時間を
空しく
費しては
遠く
近く
蜩の
聲が一
齊に
忙しく
各自の
耳を
騷がして、
大きな
紗で
掩うたかと
思ふ
樣に
薄い
陰翳が
世間を
包むと
彼等は
慌てゝ
皆家路に
就く。どうかして
餘りに
後れると
空な
草刈籠を
倒に
脊負つて、
歩けばざわ/\と
鳴る
樣に、
大きな
籠の
目へ
楢や
雜木の
枝を

して
黄昏の
庭に
身を
運んで
刈積んだ
青草に
近く
籠を
卸す。
父なるものは
蚊柱の
立てる
厩の
側でぶる/\と
鬣を
撼がしながら、ぱさり/\と
尾で
臀の
邊を
叩いて
居る
馬に
秣を
與へて
居る。
母なるものは
青い
烟に
滿た
竈の
前に
立つては
裾りつゝ、
燈火を
點ける
餘裕もなく
我が
子をぶつ/\と
待つて
居る。
恁うして
忙しさに
楢や
雜木の
枝で
欺いた
手段が
發見されないのである。うしろめたい
女は
默つて
何よりも
先づ
空な
手桶を
持つて
井戸端へ
驅けて
行つてはざあと
水を
汲んでそれから
汁の
身でも
切れてなければ
慌しくとん/\と
庖丁の
響を
立てゝ、
少しづゝでも
母なるものゝ
小言から
遁れようとする。
狹い
庭の
垣根に
黄色な
蝶が
幾つも
止つて
頻りに
羽を
動かして
居るやうに一つ/\にひらり/\と
開いては
夜目にもほつかりと
匂うて
居る
月見草は
自分等の
夜が
來たと、
駈け
歩いて
居る
女に
對して
懷し
相に
目を

るのである。
彼等の
或者は
更に
夜の
眠りに
就く
前に
戸口に
近く
蚊帳の
裾にくるまつては
竊に
雨戸の
外に
訪るゝ
男を
待たうとさへするのである。
男は
雨戸を
開けて
忍ぶ
時月が
冴え
居てさへ
躊躇せぬ。
彼はそれでも
疊[#ルビの「た々み」はママ]の
上に
射し
込む
光を
厭うて
廂に
近く
筵を
吊る。
歪んだ
戸がぎし/\と
鳴るのにそれが
彼等の
西瓜や
瓜の
畑を
襲ふ
頃であれば
道端の
草村から
轡蟲を
捕つて
行つて
雨戸の
隙間から
放つ。
轡蟲は
闇いなかへ
放たれゝば、
直に
聲を
揃へて
鳴く。
土地で
其れが一
般にがしや/\といふ
名稱を
與へられて
居るだけ
喧しく
只がしや/\と
鳴く。がしや/\が
鳴き
出せば
彼等は
安んじて
雨戸をこじるのである。それから
又箱を
轉したやうな、
隔ての
障子さへ
無い
小さな
家で
女が
男を
導くとて、
如何しても
父母の
枕元を
過ぎねば
成らぬ
時は、
踏めばぎし/\と
鳴る
床板に
二人の
足音を
憚つて
女は
闇に
男を
脊負ふのである。
其處には
假令重量が
加へられても、それは
巧に
疲れて
眠い
父母の
耳を
欺くのである。
一
般の
子女の
境涯は
如此にして
稀には
痛く
叱られることもあつて
其時のみは
萎れても
明日は
忽ち
以前に
還つて
其性情の
儘に
進んで
顧みぬ。おつぎは
其
伴侶と一
日でも一つに
其身を
放たれたことがないのである。
勘次が
什
に
八釜敷おつぎを
抑へてもおつぎがそれで
制せられても、
勘次は
村の
若者がおつぎに
想を
懸けることに
掣肘を
加へる
些の
力をも
有して
居らぬ。
凡ての
村落の
若者が
女を
覘はうとする
時は
隨分執念く
其れは
丁度、
追へば
忽ちに
遁げる
鷄がどうかして
狹く
戸口を
開いてある
穀倉に
好む
餌料を
見出して
這入らうとする
時に
其の
狹い
戸口が
身を
入るゝに
足りなければ
徒らに
首を

し
込んでは
足掻いて/\さうして
他へ
行つて
畢ふ。
其れが一
度で
斷念すれば
其れ
迄であるけれど、
二度三度戸口に
立つて
足掻き
始めれば、
去つては
來り、
去つては
來り、
首筋の
皮が
擦り
剥けて
戸口に
夥か
血の
趾を
印しても
執念く
餌料を
求めて
止まぬやうな
形でなければならぬ。
各自の
心におつぎを
何れ
程深く
思はうともそれは
各自が
有する
權能に
屬して
居る。
然しながらおつぎへ
加へようとする
其手を
極端に
防遏しようとすることも
勘次が
有する
權能である。
相互に
其の
權能を
越えて
他の
領域を
冒す
時其處には
必ず
葛藤が
伴はれる
筈でなければ
成らぬ。
若者は
相聚まれば
皆不平の
情を
語り
合うて、
勝手に
勘次を
邪魔なこそつぱい
者にして
居た。
其癖彼等は
皆互に
自分獨りのみがおつぎを
獲ようとして
及ばぬ
手を
延ばして
居るのである。
萬一
目的が
遂げられたことが
有つたとしても
其れは
只一
人に
限られて
居て、
爾餘の
幾人は
空しく
然も
極めて
輕い
不快と
嫉妬とから
口々に
其一
人に
向つて
厭味をいうて
止まねば
成らぬ。
然しながら
遂に
其一
人が
彼等の
間に
發見されなかつた。
彼等の
怨恨が
凡て
勘次の一
身に
聚つた。それでも
淡白な
彼等の
怨恨は三
人以上が
聚つて
口を
開けば
必ず
笑聲を
絶たぬ
程のものであつた。
怨恨といふよりも
焦燥つたさであつた。おつぎの
身體には
恁うして
事件を
惹き
起すべき
機會が
與へられなかつた。それでも
只一人おつぎと
手を
執つて
語ることにまで
近づき
得たものがあつた。
勘次はどれ
程嚴重にしてもおつぎが
厠に
通ふ
時間をさへ
狹い
庭の
夜の
中へ
放つことを
拒むことは
出來なかつた。
執念深い一
人が
偶然さういふ
機會を
發見した。
彼は、まだ
羞恥と
恐怖とが
全身を
支配して
居るおつぎを
捕へて
只凝然と
動かさないまでには
幾度か
手を
換て
苦心した。
勘次が
戸の
内から
呼んでも
厠の
側で
返辭をするおつぎの
聲は
最初の
間は
疑念を
懷かせるまでには
至らなかつた。
其れでも
彼等が
心に
深く
互の
情を
刻むまで
猜忌の
目を

つて
居る
勘次を
欺きおほせることは
出來なかつた。
或晩勘次はがらつと
戸を
開けて
出た。
劇しく
開けた
戸が
稍朽ち
掛けた
閾の
溝を
外れようとしてぎつしりと
固着した。
彼は
苛立つて
戸を
叩いて
溝に
復すと
其の
儘飛び
出した。
彼は
直自分に
近く
手拭被つたおつぎの
姿が
徐ろに
動いて
來るのを
見た。
其と
同時に
竊に
落ち
行く
草履の
音が
勘次の
耳に
響いた。
彼は
其を
耳に
感ずる
瞬間右の
手が
壁際の
木の
根に
掛つて、
木の
根は
彼の
力一
杯に
木陰の
闇に
投ぜられた。
木の
根はどさりと
遠く
落ちて
庭の
土をさくつて
餘勢が
幾度かもんどりを
打つた。
勘次は
續いて
擲つた。
曲者は
既に
遁げ
落ちたけれど
彼の
不意の
襲撃に
慌てゝ
節くれ
立つた

の
根に
蹶いて
倒れた。
彼は
次の
日足を
引ずらねば
歩けぬ
程足首の
關節に
疼痛を
感じたのであつた。
勘次はぽつさりと
立つて
居るおつぎを
突きのめす
樣に
戸口に
送つてがらりと
戸を
閉ぢて
掛金を
掛けた。
其夜はまだ
各が一つ
加はつた
年齡の
數程の
熬豆を
噛つて
鬼をやらうた
夜から、
幾らも
隔たらないので、
鹽鰮の
頭と
共に
戸口に

した
柊の
葉も
一向に
乾いた
容子の
見えない
程のことであつた。おつぎは
十八というても
其の
年齡に
達したといふばかりで、
恁んな
場合を
巧に
繕らふといふ
料簡さへ
苟且にも
持つて
居ない
程一
面に
於ては
濁のない
可憐な
少女であつた。おつぎは
萎れて
只ぽつさりと
立つて
居る。
勘次の
目は
薄闇い
手ランプに
光つた。
「おつう」と一
聲呶鳴つて
情の
激した
勘次は
咄嗟に
次の
語が
出せなかつた。
「
何してけつかつたんだ」
勘次はおつぎを
睨みつけた。おつぎは
俯向いて
默つて
居る。
「さあ
云つて
見ろ、
嘘云つたつて
知つてつゝお」
勘次は
猶も
激しく
訊ねた。
「
汝りや
何時でも
何ちつた、おとつゝあげは
決して
心配掛けねえからつて
云つたんぢやねえか、そんでも
汝りや
心配掛けねえのか、
掛けねえつちんだら
云つて
見ろ」
彼は
忌々敷相に
且つ
刄を
以て
心部を
突き
通される
苦しさを
忍んだかと
思ふやうな
容子でわく/\する
胸から
聲を
絞つていつた。
彼は
暫く
間を
措いては
又、
噛んで/\
噛締めても
噛み
切れぬ
或物に
對するやうな
焦燥つたさと、
期待して
居た
或物を
俄に
奪ひ
去られた
樣な
絶望とが
混淆し
紛糾した
自暴自棄の
態度を
以ておつぎを
責めた。
彼の
擧動は
殆ど
發作的であつた。おつぎの
聲を
殺して
泣く
聲は
隙間だらけな
戸の
外に
絶え/″\に
漏れた。
從來とてもおつぎは
假令異性を
慕ふ
性情が
漸く
發達して
來たとはいひながら、
竊に
其手を
執られた
時は、
後では
寧ろ
悔いるまでも
羞恥と
恐怖とそれから
勘次を
憚ることから
由つて
來る
抑制の
念とが
慌てゝ
其の
手を
振り

らせるのであつた。
其れが
段々厭でない
誘惑の
手に
乘つて
甘い
味を
僅に
感ずる
程度まで
近づいた
刹那一
切が
破壞し
去られたのである。おつぎは
以前に
還つて
恐怖の
手に
深く
其の
身を
沒却せねばならなく
成つた。
深い
罪惡を
包藏して
居ない
其の
夜の
事件はそれで
濟んだ。
勘次は
依然おつぎには
只一つしか
無い
大樹の
陰であつた。
然し
勘次自身には
如何な
種類の
物でも
現在彼の
心に
與へ
得る
滿足の
程度は、
失うたお
品を
追憶することから
享ける
哀愁の十
分の一にも
及ばない。
彼は
最早それ
以上彼の
心裏に
残存して
居る
或る
物をまで
奪ひ
去られることには
堪へないのである。
彼は
僅に三
人の
家族が
油の
如く
水に
彈かれても
疎外されても
只凝結して
居ることにのみ、
假令慰藉されないまでも
不安を
感ずることなしに
其の
日/\と
刻んで
暮して
行くことが
出來るのである。
彼は一
度でもおつぎが
自分を
離れたことを
發見し
或は
意識しては一
種の
嫉妬を
感ぜずには
居られなかつた。
彼はさうして
悲痛の
感に
責め
訶まれた。
村落の
若者は
彼の
爲には
仇敵である。それと
同時に
若者の
爲には
彼は
蝮蛇の
毒牙の
如きものでなければ
成らぬ。
其れでありながら
些の
威嚴も
勢力もない
彼は
凡ての
若者から
彼を
苛立たしめる
惡戯を
以て
報いられた。
青草の
中に
身を
沒して
居る
毒蛇に
直接手を
觸れようとするものは一
人もないけれど、
遠くから
土塊を
擲つたり、
棒の
先でつゝいたり
徒らに
怒る
牙を
振はせることは
彼等の
好んでする
處であつた。
勘次の
削つたやうな
痩せた
顏が
何時でも
僻んでさうして
怒り
易いのを
彼等は
嘲笑の
眼を
以て
遠くから
覗くのである。
彼等は
夜垣根の
側に
立つて
指を
口に
啣へてぴゆう/\と
劇しく
鳴らして
見たり、
戸口に
近く
竊に
下駄の
齒の
趾を
附けて
置いたり、
勘次が
眠に
落ちようとする
頃假聲を
使つておつぎを
喚んだりした。
勘次は
其の
度に
心が
苛立つたけれど、
霧でも
捉む
樣な、
誰の
所爲とも
判明しない
惡戯をどうすることも
出來なかつた。
然し
表面に
現れた
影響の
無い
惡戯は
永く
持續しなかつた。
春は
冬に
遠くして
又冬と
相隣して
居る。
季節の
變化を
反覆しつゝ
月日は
容赦なく
推移した。
冬は
低く
地を
偃うて
沈んだ。
舊暦の
暮が
近く
成つて
婚姻の
多く
行はれる
季節が
來た。
町の
建具師の
店先に
据ゑられた
簟笥や
長持から
疎末な
金具が
光るのを
見るやうに
成つた。おつぎが
通うた
針の
師匠の
家でも
嫁が
極つた。
其の
當日に
成ると
針子は
孰れも
藏つて
置いた
半纏へ
赤い
襷を
掛けて、
其處らの
掃除やら、
芋や
大根を
洗ふことやら
朝から
大騷ぎをして
笑ひながら
手傳をした。おつぎも
行つて
皆と一
緒に
働いた。おつぎは
赤絲大名の
半纏で
萌黄の
襷を
掛けて
居た。
針子等は
毎年春が
漸く
暖かく
成つて
百姓の
仕事が
忙しくなると
又の
冬まで
暇をとるとて一
日皆で
鍬を
持つて
畑の
仕事の
手傳に
行く。
廣くもない
畑へ
残らずが一
度に
鍬を
入れるので
各が
互に
邪魔に
成りつゝ
人數の
半は
始終鍬の
柄を
杖に
突いては
立つて
遠くへ
目を
配りつゝ
笑ひさゞめく。
彼等の
白い
手拭が
聚つて
遙に
人の
目を
惹く
外師匠の
家に
格別の
利益もなく
彼等自分等のみが一
日を
樂く
暮し
得るのである。
其れだから
彼等は
婚姻の
當日にも
仕事の
割合にしては
餘りに
多人數に
過ぎるので、
一つ
仕事に
集つては
屈託ない
容子をして
饒舌るのであつた。
「どうえ
嫁樣だんべな」
「
善え
女だんべえな」
「
早く
來ればえゝな、
俺ら
見てえな」
彼等はさういふことをすら
口々に
反覆しつゝ
密々と
耳語いた。
「
白粉附けて
來んだな」一
番年の
少い
子がいつた。
「どうしたもんだえ、
白粉附けんだんべかとまあ」
年嵩が
笑つた。
「
水白粉持つて
來んだか
知んねえぞ」
「
只の
水見てえな
白粉も
有んだつて
云つけぞ」
彼等はさういふ
罪のない
穿鑿からそれから
「
俺らお
給仕に
出なくつちや
成んねえか
知んねえが、
耻かしくつて
厭だな」
「
嫁樣まつと
耻かしかつぺな」
「そんだが
俺ら
嫁樣の
衣物どういんだか
見てえもんだな」
半分は
望むやうな
半分は
氣遺ふやうな
互の
心を
語るのであつた。
夜に
成つて
板の
間の
娘等が
座敷の
方へ
引かれた
頃勝手口に
村落の
若者が五六
人立つた。
彼等は
婚姻の
夜には
屹度極つた
例の
饂飩を
貰ひに
來たのである。
晝の
間に
用意された
饂飩が
彼等に
與へられた。
彼等の
手には
饂飩の
大きな
笊と二
升樽とそれから
醤油の
容器である
麥酒罎とが
提げられた。
垣根の
外へ
出た
時彼等は
假聲を
出してどつと
囃し
立てゝ
又囃した。
彼等は
途次も
騷ぐことを
止めないで
到頭村落の
念佛寮へ
引とつた。
其處には
此も
褞袍を
被つた
彼等の
伴侶が
圍爐裏へ
麁朶を
燻べて
暖まりながら
待つて
居た。
念佛衆の
使つて
居る
鍋や
土瓶や
茶碗が
只ごた/\と
投げ
出されてあつた。
臺つきの
手ランプは
近所から
借りて
來たのであつた。
麁朶の
焔が
手ランプに
光を
添へて
居た。
婚姻の
席上では
酒の
後には
長く
繼がる
樣といふ
縁起を
祝うて、
一つには
膳部の
簡單なのとで
饂飩を
饗すのである。
蕎麥は
短く
切れるとて
何處でも
厭うた。どんな
婚姻でもそれを
若い
衆が
貰ひに
行く。
貧乏な
所帶であれば
彼等は
幾ら
少量でも
不足をいはぬ。
然し
多少の
財産を
有して
居ると
彼等が
認めて
居る
家でそれを
惜めば
彼等は
不平を
訴へて
止まぬ。どうかすると
闇い
木陰に
潜伏して
居て
嫁の
車が
近づいた
時突然、
其の
車を
顛覆させてやれといふやうな
威嚇的の
暴言をすら
吐くことがある。
然し
從來其
ことは
滅多になく、
別段に
認むべき
弊害が
伴ふのでもないのであつた。それで
普通どの
家でも
彼等が
滿足を
買ひ
得る
分量を
前以て
用意して
居るのである。
彼等はさういふ
夜に
褞袍を
被つて
他人の
裏戸口に
立たねば
成らぬ
必要な
條件を
一つも
有つて
居ない。
只彼等の
凡ては
藁を
打つて
繩を
綯ふべき
夜の
務めを
捨て
公然一
所に
集合する
機會を
見出すことを
求めて
居る。
集合することが
直に
彼等に
娯樂を
與へるからである。
兩性が
然も
他人の
手を
藉りて
一つに
成る
婚姻の
事實を
聯想することから
彼等の
心が
微妙に
刺戟される。
彼等の
凡ては
悉く
異性を
知り
又知らんとして
居る。
彼等は
他人の
目を
偸むのには
幾多の
支障、それは
其の
爲に
相慕ふ
念慮が
寧ろ
却て
熾に
且つ
永續することすら
有りながら、
當事者たる
彼等には
五月繩い
其の
支障をこつそりと
拂ひ
退けねば
成らぬ
焦燥つたい
感が
止まないのに、
周圍の
凡てが
杯を
擧げてくれる
其の
夜の
當人同士を
念頭に
浮べる
時彼等は
淡い
嫉妬を
沸かさねば
成らぬ。それで
彼等の
心には
喰つてやれ、
飮んでやれ、さうして
遣らねば
腹が
癒えぬといふ
觀念が
期せずして
一致するのである。
笊で
運んだ
饂飩が
多人數の
彼等に
到底十
分の
滿足を
與へ
得るものではない。
然し
彼等は
其
ことに
頓着を
持たぬ。
酒が
煤けた
土瓶で
沸かされた。
彼等は
各自に
茶碗へ
注いでぐいと
飮んだ。
其處には
燗の
加減も
何も
無かつた。
各自の
喉がそれを
要求するのではなくて一
種の
因襲が
彼等にそれを
強ひるのである。
彼等はじり/\と
喉が
焦げる
樣に
感じても
苦い
顏を
蹙めつゝ
飮んで
見る
者さへある。
比較的少量な
酒が
注ぐ
度に
手にする
度に
筵の
上に
滾れても
彼等は
惜まない。
彼等はそれから
茶碗も
箸もべたりと
筵の
上へ
置いて、
單純に
水へ
醤油を
注した
液汁に
浸して
騷々敷饂飩を
啜つた。
彼等は
平生でもさうであるのに
酒の
爲に
幾分でも
興奮して
居るので、
各自の
口から
更に
聞くに
堪へぬ
雜言が
吐き
出された。
不作法な
言辭に
麻痺して
居る
彼等はどうしたら
相互に
感動を
與へ
得るかと
苦心しつゝあつたかと
思ふ
樣な
卑猥な一
句が
唐突に
或一
人の
口から
出ると
他の一
人が
又それに
應じた。
彼等の
間には
異分子を
交へて
居らぬ。
彼等は
時によつては
怖れて
控目にしつゝ
身體が
萎縮んだやうに
成つて
居る
程物に
臆する
習慣がある。
然し
恁うして
儕輩のみが
聚まれば
殆んど
別人である。
饂飩が
竭きて
茶碗が
亂雜に
投げ
出された
時夜の
遲いことに
無頓着な
彼等はそれから
暫く
止めどもなく
雜談に
耽つた。
彼等は
遂に
自分の
村落に
野合の
夫婦が
幾組あるかといふことをさへ
數へ
出した。そつちからもこつらからも
其れが
數へられた。
左手の
指が二
度曲げて二
度起されても
盡せなかつた。
勿論畢には
配偶の
缺けたものまで
僂指された。
其れ
等の
夫婦の
間に
生れた
者も
幾人か
彼等の
間に
介在して
居た。
有繋に
其の
幾人は
自分の
父母が
喚ばれるので
苦い
笑を
噛んで
控へて
居る。さうすると
他の
者はそれを
興あることにがや/\と
囃し
立てた。
噺が
少しだれた
時
「
勘次さん
等見てえなゝ、ありや
勘定にやへえんねえもんだんべか」と
呶鳴つたものがあつた。
此の
唐突な
發言で
暫く
靜止して
居た
彼等は
俄に
威勢が
出て
拍手した。
「
勘次さんに
聞いて
見ろ」といふ
聲が
隅の
方から
出た。
「
其
こと
云つたつ
位、
打ん
擲らつら
篦棒臭え」
打ち
消す
聲が
聞えた。
「そんぢや、おつぎに
聞いて
見ろ」
「
足でも
打折られんなえ」
「
薪雜棒ふられてか」
笑聲が
雜然として
寮の
内は一
層騷がしく
成つた。
「
今日らも
見ろ、
角の
店で
自棄酒飮んで
怒つてたつけぞ」
一人が
自慢らしく
新な
事實を
提供した。
「どうしてよ」一
同が
耳を
峙てた。
「おつぎことお
針つ
子等と一
緒に
手傳に
遣つたの
知つてべな」
「
知つてらなそら」
「そんでよ、
手傳に
遣つてゝも、はあ、
日暮に
成つたら、あつかもつかして
凝然としちや
居らんねえんだ、そんで
愚圖/\
云つてんの
面白えから
俺ら
聞いてたな、
丁度えゝ
鹽梅に
俺草履買ひに
行つて
出つかせてな」
「
毎日暮ぢやねえけ
徳利おつ
立てゝんな」
「さうなんだ、
近頃唐鍬使え
骨折つからつて
仕事畢つちや一
合位引つ
掛けて
直ぐ
行つちやあんだつちけが、それ
今日は
早くから
來てたんだつちきや、
店のおとつゝあに
聞いたな
俺ら」
噺手は
自分が
先づ
興に
入つた
樣に
又いつた。
「
俺ら
今日うめえ
處聞いつちやつたな」
「
何だつて
云つけ」
「
酷でえ
阿魔だ、
夕飯も
何も
仕やうありやしねえなんてな、
獨りでぐうづ/″\
云つてな、そんで
與吉こと
何遍も
迎に
遣つてな、さうすつとあの
與吉の
野郎また、
今直に
饂飩饗つてよこすとう、なんてのたくり/\
歸つて
來んだ、さうすつと
又駄目だ
汝りや
復た
行つて
來う、
直に
來うつて
云ふんだぞなんて
怒つた
見てえになあ、
俺ら
可笑しくつて
仕樣無かつたつけぞ」
噺手は
左右を
向きつゝいつた。
皆復た
拍子して
囃し
立てた。
「そんぢや
直ぐよこしたつぺ」
「うむ、
途中で
行逢つたんだんべ、
直ぐ
來たつきや」
「あつちだつて
其の
位知つてらな」
「おつぎは
店へよつたつけか」
二人が一
度にいつた。
「
寄んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ
喚ばつたんだ、たいした
聲してな、そんでもおつうは
行つちまあのよ、さうしたら
又、おつうなんて
呶鳴つてな、
勘定すんのにも
慌くつて
錢落つことしたり
何かして
後から
駈けてつたんだ、五
合も
飮んだつぺつちけな、
可怖え
目つきしつちやつてな、そんだがおつぎは
聽かねえぞなか/\、つツ/\と
行つちやつてな」
噺手は
暫時口を
鎖した。
「
今日は
若え
衆等行くと
思つてはあ、
夜まで
置けねえんだな」
「
極つてらあな」
「そんだつて
箆棒、
若え
衆等だつてさうだことばかりするものぢやねえ、
詰んねえ」
憤慨してかういふものも
「
外聞惡いも
何にも
知んねえんだな」
嘲笑の
意味ではあるが
何處となく
沈んで
又斯ういふ
者も
有つた。
「おつぎはそんだが
頭髮てか/\
光らかせた
處ら
善く
成つちやつたつけぞ」
俄に
思ひ
出した
樣に
先刻の
噺手がいつた。
「そんで、おとつゝあ
餘計仕やう
無くなつちやつたんだんべえ」
臀へ
釘を

して
臺に
乘つて
居る
手ランプの
油煙がそつちへこつちへ
靡く
光の
下に
茶碗を
箸で
叩きながら
又わあつと
騷ぎ
出した。
勘次は
今開墾の
仕事の
爲に
春までには
主人の
手から三四十
圓の
金を
與へられる
樣にまで
成つた。
大部分は
借財の
舊い
穴へ
埋めても
彼は
懷に
窮屈を
感じない
程度に
進んだ。一
圓の
錢が
絶えず
財布に
在り
得るならば
彼等は
嘆く
處は
無いのである。
彼は
只主人に
倚つて
居さへすれば
善いと
思つて
居る。
恁ういふ
遠慮のない
蔭口を
利かれるまでには
苦しい
間の三四
年を
過して
來たのである。
彼の
生活はほつかりと
夜明の
光を
見たのであつた。おつぎは
此時廿の
聲を
聞いて
居たのである。
初秋の
風が
吊放しの
蚊帳の
裾をさら/\と
吹いて、
疾から
玉蜀黍が
竈の
灰の
中でぱり/\と
威勢よく
燃える
麥藁の
火に
燒かれて、
其の
殼がそつちにもこつちにも
捨てられる。
畑の
仕事が
暫時極りがついて
百姓の
家には
盆が
來た。
其の
日も
晝過迄仕事をして
居た
勘次はそれでも
慌しく
庭へ
箒を
入れて
目に
立つ
草は
鎌の
刄先で
掻つ
切つた。
戸も
障子もない
煤け
切つた
佛壇はおつぎを
使つて
佛器や
其他の
掃除をして、
賽の
目に
刻んだ
茄子を
盛つた
芋の
葉と、
寂しいみそ
萩の
短い
小さな
花束とを
供へた。みそ
萩の
側には
茶碗へ一
杯に
水が
沒まれた。
夕方近く
成つてから三
人は
雨戸を
締て、
火のない
提灯を
持つて
田圃を
越えて
墓地へ
行つた。お
品の
塔婆の
前にそれから
其處ら一
杯の
卵塔の
前に
線香を
少しづゝ
手向けて、
火を
點けてほつかりと
赤く
成つた
提灯を
提げて
戻つた。
冥途から
來た
佛が
其の
火に
宿つたしるしだといつて
必ず
提灯が
墓地から
點けられるのである。おつぎは
勘次の
懷が
幾らか
暖かに
成つたので、
廉物ではあるが
中形の
浴衣地も
拵へて
貰つた。おつぎはもう十九の
秋であつた。おつぎは
其の
浴衣地を
着てお
品の
墓へ
行つたのである。
髮は
晝の
内に
近所の
娘同士が
汗染みた
襦袢一つの
姿で
互に
結ひ
合うたのである。おつぎは
浴衣地へ
赤い
帶を
締めた。
勘次は
紺の
筒袖の
單衣で
日に
燒た
足が
短い
裾から
出て
居た。おつぎの
裝ひは
側では
疎末であつても、
處々ちらり/\と
白い
穗先が
覗いて
大抵はまだ
冴え/″\として
只一
枚の
青疊を
敷いた
樣な
田圃の
間をくつきりと
際立つて
目に
立つのであつた。三
人が
田甫を
往復してから
暫く
經つて
村落の
内からは
何處の
家からも
提灯持て
田甫の
道を
老人と
子供とがぞろ/″\
通つた。
勘次は
提灯の
火を
佛壇の
燈明皿へ
移した。
煤け
切つた
佛壇の
菜種油の
明りは
遠い
國からでも
光つて
來るやうにぽつちりと
微かに
見えた。お
袋のよりも
先づ
白木の
儘のお
品の
位牌に
心からの
線香の
煙が
靡いた。
勘次もおつぎもみそ
萩の
小さな
花束の
先を
茶碗の
水に
浸して
其の
水をはらりと
芋の
葉へ
盛つた
茄子へ
振り
掛けた。
勘次は
雨戸を一
杯に
開けた。おつぎは
浴衣をとつて
襦袢一つに
成つて、
笊に
水を
切つて
置いた
糯米を
竈で
蒸し
始めた。
勘次は
裸で
臼や
杵を
洗うて
檐端に
据ゑた。
彼等はさういふ
仕事があるので
墓へ
行くにも
人よりも
先立つて
非常に
急いだのであつたが、それでも
米が
蒸せるまでには
家の
内は
薄闇く
成つて
居た。
日のまだ
落ちない
内から
庭を
覗いて
居た
月が
白く、
軈てそれが
稍黄色味を
帶びて
來て
庭の
茂つた
柿の
木や
栗の
木にほつかりと
陰翳を
投げた。おつぎが
忙しくどさりと
臼へ
落した
ふかしからぼうつと
白い
蒸氣が
立つた。
其の
蒸氣の
中に
月が一
瞬間目を
蹙めて
直につやゝかな
姿に
成つた。おつぎは
熱い
ふかしを
蒸籠から
杓子で
臼へ
扱き
落しながら
側に
立つて
居る
與吉へ
少し
遣つた。
程よく
蒸した
其ふかしを
與吉は
甘相にたべた。おつぎも
指に
附いたのを
前齒で
噛むやうにして
口へ
入れた。
蒸氣の
立つ
臼を
勘次は
暫く
杵の
先で
捏ねた。
杵の
先が
粘つて
離れなく
成る。おつぎは
米研桶へ
水を
汲んでそれへ
浮べた
杓子で
杵の
先を
扱落して
臼の
中を
丸い
形に
直す。さうすると
勘次は
力を
極めて
臼の
中央を
打つ。それが
幾度も
反覆された。
庭の
木立の
陰翳が
濃く
成つて
月の
光はきら/\と
臼から
反射した。
蒸暑い
中にも
凡てが
水の
樣な
月の
光を
浴びて
凉しい
微風が
土に
觸れて
渡つた。おつぎは
臼から
餅を
拗切つて
茗荷の
葉に
乘せて
一つ/\
膳へ
並べた。
少し
丸みを
缺いた十三
日の
月が
白く
其の一つ/\の
茗荷の
葉の
上に
光つた。
冷水を
打つた
樣な

の
葉がゆら/\と
動いて
後の
林の
竹の
梢もさら/\と
鳴つた。
それでも
忙しいおつぎは
汗を
流しながら
先づ
茗荷の
餅を
佛壇に
供へた。それから
別に
拗切つた
餅が
豆粉と
共に
手ランプの
下に
置かれた。
與吉は
直に
座敷へ
坐つて
待つた。
晩餐が
畢ると
踊子を
誘ふ
太鼓の
音が
漸く
沈み
掛けた
夜氣を
騷がして
聞え
始めた。
檐に
立つた
蚊柱が
崩れて
軈て
座敷を
襲うた。
勘次は
麥藁を
一捉み
軒端へ
投げて、
刈つた
青草をそれへ
打つ
掛けて、
燐寸の
火を
點けてさうして
抑へつけた。ぷす/\と
燻る
煙が
蚊を
遠く
散亂せしめる。ぽつと
焔が
立つて
燃えあがれば
水を
打つた。
彼等は
目鼻にしみる
青い
煙の
中に
裸體の
儘凝然として
居る。
煙が
餘所へ
逸れゝば
箕で
煽つて
家の
内へ
向はせた。おつぎは
勝手の
始末をしてそれから
井戸端で、だら/\と
垂れる
汗を
水で
拭つた。
手拭を
浸す
度に
小さな
手水盥の
水に
月が
全く
其の
影を
失つて
暫くすると
手水盥の
周圍から
聚る
樣に
段々と
月の
形が
纏まつて
見えて
來る。
踊子を
誘ふ
太鼓の
音が
自分の
村落のは
直垣根の
外の
樣に、
遠い
村落のは
繁茂して
居る
林の
彼方に
空に
響いて
聞える。それが
井戸端に
立つて
居るおつぎの
心を
誘導つた。
同年輩の
子は
皆踊に
行くのである。おつぎには
幾分それが
羨ましくぼうつとして
太鼓に
聞き
惚れて
居た。
軟かな
月の
光におつぎの
肌膚は
白く
見えて
居た。おつぎは
耳に
響く
太鼓の
音を
聞きながら、まだ
縺れぬ
髮を
少し
首を
傾けつゝ
兩方の
拇指の
股で
代り
代りに
髱を
輕く
後へ
扱いた。おつぎは
汗を
拭つてさつぱりとした
身體へ
復た
浴衣を
着た。
「おとつゝあ、あの
太鼓は
何處だんべ」おつぎは
帶の
端を
氣にして
後へ
手を
廻しながら
聞いた。
「どれ、あの
遠くのがゝ、
分るもんか
何處だか」
勘次は
燃えた
處だけがつくりと
減つた
蚊燻しの
青草に
目を
注ぎながら
氣乘のしない
樣にいつた。
「
俺ら
方へはまあだ、
他村から
來る
頃ぢやあんめえな」
「おとつゝあ
等がにや
分るもんかよ、そんなこと」
「そんでも、
他村から
來んだつて
云つけぞ、
支度して
來んだつて
俺ら
今日頭髮結つてゝ
聞いたんだぞ」
「さうえ
者な、さうえ
者よ」
「
俺ら
行つてんべ、よきも
行つて
見ろなあ、
姉と一
緒に」おつぎは
獨語した。
「
汝ツ
等ことばかし
遣れつかえ」
勘次は
突然呶鳴つた。
「そんでも、
南のおつかさん
行きたけりや
連れてくつちつたんだぞ」
「
箆棒、そんなことされつかえ、
踊なんざあ
後幾日だつてあらあ、
今夜らつから
行かねえつたつてえゝから、
他人に
云はれつとはあ、
其れに
乘つてあふり/\
出たがんだから」
勘次は一
概に
叱りつけた。おつぎは
締め
掛けた
帶を
解いて
傍へ
投げ
棄てた。
次の
日の
晩餐には
例年の
如く
饂飩が
打たれた。
小麥粉を
少し
鹽を
入れた
水で
捏ねて、それを
玉にして、
筵の
間へ
入れて
足で
蹂んで、
棒へ
卷いては
薄く
延ばして、
更に
幾つかに
疊んでそく/\と
庖丁で
斷つた。
饂飩の
切り
端は
皆一寸一
箇所を
撮んで三
角形に
拵へて
膳へ
並べて
佛壇へ
供へた。
其の
切り
端は
其の
翌朝各自が
自分の
田畑をぐるりと
廻つては
菽や
稻の
穗や
其の
他の
作物を
佛へ
供へるのであるが、
佛も
其の
朝野廻りに
出るのだといふので
其佛の
笠に
供へるのだといふのである。
踊子を
誘ふ
太鼓の
音は
夜を
待ち
兼ねて
鳴り
出した。
勘次は
其の
夜蚊燻しの
支度もしないで
紺の
單衣へぐる/\と
無造作に三
尺帶を
卷いて、
雨戸をがら/\と
閉て
始めた。さうして
「おつう
支度して
見ろ、
俺連れてんから」
勘次は
性急におつぎを
促し
立てた。
大戸の
鍵を
外から
掛けて三
人が
庭に
立つた
時月は
雲翳を
遠ざかつて
靜かに

の
木の
上に
懸つて
居た。
毎年極つた
踊の
場所は
村の
社の
大きな
樅の
木陰である。
勘次等三
人が
行つた
時は
踊子はもう
大分集つて
居た。
一足森に
入れば
劇しく
叩く
太鼓の
音が、その
急いで
遠くへ
響き
去るのを
周圍から
遮り
止めようとして
錯雜して
茂つて
居る
幹や
小枝に
打當つて
紛糾つて
居るやうに、
森一杯に
鳴り
響いて
上へ/\と
恐ろしく
人々の
心を
誘導つた。
男女が
入り
交つて
太鼓を
中央に
輪を
描いて
居る。それが一
定の
間隔を
措いては一
同が
袋の
口の
紐を
引いた
樣に
輪が
蹙まつて、ぱらり/\と
手拍子をとつて、
復以前のやうに
擴がる。さうしては
其の
踊の
手を
反覆しつゝ
徐ろに
太鼓の
周圍を
廻る。
女は
袖を
長く
見せる
爲に
手拭を
折つて
兩方の
袂の
先へ
縫つけて、それから
扱帶を
襷にして
結んだ
長い
端を
後へだらりと
垂れて
居る。
扱帶は
踊の
手を
描く
度毎に
袂と
共にゆらり/\と
搖れる。
男は
少し
亂暴に
女の
身體にこすりつきながら
踊る。
女は
五月繩い
時には
一時踊の
手を
止めて
對手を
叱つたり
叩いたり、
然も
其特性のつゝましさを
保つて
拍子を
合せ
乍ら
多勢の
間に
揉まれつゝ
同一
線を
反覆しつゝ
踊る。
漸次に
人勢が
殖えて
大きな
輪の
内側に
更に
小な
輪が
描かれた。
太鼓が
倦怠れば
「
太鼓が
疎かぢや
踊もおろかだ」と
口々に
促し
促し
交互に
唄の
聲を
張り
揚げて
踊る。
太鼓の
手は
疲れゝば
更に
人が
交代して
撥も
折れよと
鳴らす。
踊子は
皆一
杯に
裝飾した
笠を
戴いて
居る。
裝飾といつても
夜目に
鮮やかな
樣に、
饅頭や
其の
他の
物を
包む
白い
へぎ皮を
夥しく
括り
附けて
置くのである。
其れが
月光を
遮つて
居る
樅の
木陰に
著るしく
目に
立つて、
身を
動かす
度に一
齊にがさがさと
鳴りながら
波の
如く
動いて
彼等の
風姿を
添へて
居る。
彼等が
幾夜も
踊つて
不用に
歸した
時には、それが
彼等の
歩いた
路の
傍に
埃に
塗れながら
到る
處に
抛棄せられて
散亂して
居るのを
見るのである。
其の
踊の
周圍には
漸く
村落の
見物が
聚つた。
混雜して
群集と
少し
離れて
村落の
俄商人が
筵を
敷いて
駄菓子や
梨や
甜瓜や
西瓜を
並べて
居る。
油煙がぼうつと
騰るカンテラの
光がさういふ
凡てを
凉しく
見せて
居る。
殊に
斷ち
割つた
西瓜の
赤い
切は
小さな
店の
第一の
飾りである。
踊子の
渇した
喉には
自分等が
立てる
埃の
掛るのも
頓着なく
只管それを
佳味く
感ずるのである。それが
少女であれば
少くとも三四
人が
群れて
飾られた
花笠深く
顏が
掩はれて
居るのにそれでも
猶且知られることを
恥らうて
漸く
手の
及ぶ
程度にカンテラの
光の
範圍から
遠ざからうとしつゝ
西瓜の一
片づつを
求める。
俄商人はカンテラの
光明と
木陰の
薄い
闇との
間に
立つた
其の
姿が
明瞭と
見極め
難いので、
頻りに
目を
蹙めつゝ
求められる
儘に
筵の
端に
立つて
西瓜を
出して
遣る。
踊子は
其れを
手にして
慌しく
木陰に
隱れる。
其處には
必ず
各の
口から
發する
笑聲が
聞かれるのである。カンテラの
光の
爲に
却て
眼界を
狹められた
商人は
木陰の
闇から
見れば
滑稽な
程絶えず
其の
眼を
蹙めつゝ
外の
闇を
透して
騷がしい
群集を
見て
居る。
勘次は
與吉の
求める
儘に
西瓜の一
片を
與へて
自分は
商人の
狹い
筵の
端へ
腰を
卸した。おつぎは
暫く
店の
側に
立つて
居たが、
明るい
光を
厭うて
軈て
樅の
木の
下に
與吉と
共に
身を
避けた。
勘次は
俄に
眼を
聳かすやうにして
木陰の
闇を
見た。
彼は
其處におつぎの
浴衣姿が
凝然として
居るのを
見て
筵から
離れることは
仕なかつた。
「おつぎさん
能く
來たつけな」
列を
離れた
踊子が
汗の
胸を
少し
開いて、
袂で
頻りに
煽ぎながら
樅の
木の
側に
立つていひ
掛けた。
「おゝ
暑いやまあ、
咽つ
返る
樣だ」と、
袂の
端で
汗を
拭きながら
「おつぎさん、
踊んねえか」と
他の
一人がいつた。
「
俺ら
厭だよ、おとつゝあ
居つから」おつぎは
小聲でいつた。
誘うた
踊子は
目を
蹙めて
居る
勘次の
容子を
見て
自分が
睨みつけられて
居る
樣に
感じたので、
他へ
孤鼠々々と
身を
避けた。
女同士の
眼には
姿を
變じた
踊子が
皆一
見して
了解されるのであつた。
踊を
見ながら
輪の
周圍に
立つて
居る
村落の
女等は
手と
手を
突き
合うて
勘次の
容子を
見てはくすくすと
竊に
冷笑を
浴せ
掛けるのであつた。カンテラの
光は
樅の
木陰の
何處からでも
明瞭と
勘次の
容子を
目に
立たせる
樣にぼう/\と
油煙を
立てながら、
周圍の
眼と
首肯き
合うて
赤い
舌をべろべろと
吐きつゝゆらめいた
おつぎの
姿が五六
人立つた
中に
見えなく
成つた
時勘次は
商人の
筵を
立つてすつと
樅の
木の
側へ
行つた。おつぎは一二
歩位置を
變へた
丈であつたので、
彼は
直におつぎの
白い
姿と
相接して
立つた。
女同士は
勘次の
姿を
見て
少し
身を
避けた。五六
本屹立した
樅の
木は
引つ
扱いた
樣な
梢が
相倚つて、
先刻から
明かるい
光を
厭ふ
踊子を
掩うて一
杯に
陰翳を
投げて
居たのであるが、
凝然とした
靜かな
月が
幾らか
首を
傾けたと
思つたら
樅の
梢の
間から
少し
覗いて、
踊子が
形づくつて
居る
輪の一
端をかつと
明かるくした。
彼等の
戴いて
居る
裝飾が
其光に
觸れゝば
悉く
目を
射るやうにはつきりと
白く
見え
出した。
殆んど
疲勞といふことを
感じないであらうかと
怪しまれる
彼等は
益々興に
乘じて
少し
亂雜に
成り
掛けた。
白いシヤツの
上に
浴衣を
肩まで
捲くつて、
臀を

げて
草鞋を
穿た
幾人が
列から
離れたと
思つたら、
其處らに
立つて
見物して
居る
女等に
向つて
海嘯の
如く
襲うた。
女同士はわあと
只笑ひ
聲を
發して
各自に
對手を
突いたり
叩いたりして
亂れつゝ
騷いだ。
突然一人がおつぎの
髮へひよつと
手を
掛けた。
「
此らまあ、どうしたもんだ」おつぎが
驚いて
叫んだ
時、
對手はおつぎの
櫛を
奪つて
混雜した
群集の
中へ
身を
沒した。おつぎは
髮へ
惡戯されたことを
嫌つて
思はず
手を
當て
見て
櫛の
無くなつたのを
知つた。
「
他人の
櫛まあ」おつぎは
其れを
追はうとして
覺えず
足を
蹂み
出すと、一
歩運んだ
勘次の
手がむづとおつぎの
首筋を
捉へた。
彼は
同時におつぎの
小鬢を
横に
打つた。おつぎが
慌てゝ
後を
向かうとする
時、
復び
劇しく
打つた
手がおつぎの
鼻に
當つた。おつぎは
兩手で
鼻を
抑へて
縮まつた。
女同士は
樅の
木陰に
身を
峙めて
手の
出し
樣もなかつた。
一つには
平生からおつぎに
對する
勘次の
態度を
知つて
居て
其處に一
種の
恐怖を
感じて
居たからでもあつた。
「どうして
汝りや、
櫛なんぞ
取らつたんだ」
勘次はからびた
喉から
絞り
出す
樣な
聲で
詰問した。
「こうれ、
此阿魔奴、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」
勘次は
屈んだ
儘のおつぎをぐいと
突いた。おつぎは
轉がり
相にして
漸く
土へ
手を
突いた。
「
何爲んだな、おとつゝあ」おつぎは
慌てゝ
顏を
捩ぢ
向けて
少し
泣き
聲で
寧ろ
鋭くいつた。
「
何爲んだとう、づう/\しい
阿魔だ、
櫛何故して
取らつたんだか
云つて
見ろつちんだ、
此んでも
分んねえのか、
云つて
見ろよ」
勘次は
暫く
間を
措いて、
又かつと
忌々敷なつたやうに
「
云つて
見ろつちのに、
云つて
見ろよ」と
反覆しておつぎを
責めた。
「どうしてつちつたつて、
俺らがにや
分んねえよ」おつぎは
恨めし
相に
然しながら
周圍に
憚る
樣にして
小聲でいつた。
袂は
顏を
掩うた
儘である。
「
分んねえとう、
何にも
知らねえ
者で
他人の
櫛なんぞ
取つか」
勘次は
苦しい
息を
吐くやうにして
「そんだら
汝りや」と
齒でぎつと
噛み
殺した
樣な
聲でいつた。
暫時凝然と
見て
居た
彼はおつぎを
蹴つた。おつぎは
前へのめつた。
然しおつぎは
泣かなかつた。「おゝ
痛てえまあ」
群集の
中から
假聲でいつた。
踊の
列は
先刻から
崩れて
堵の
如く
勘次とおつぎの
周圍に
集まつたのである。おつぎは
此聲を
聞くと
共に
亂れ
掛けた
衣物の
合せ
目を
繕うた。
「
櫛とつたな
此處に
居たよう」と
此れも
喉の
底からかすれて
出るやうな
聲が
群集の
中から
發せられた。
「
持つてたら、やつちめえ」
「
厭だよう、おとつゝあに
打ん
擲られつから、おとつゝあ
勘辨してくろよう」と
歔欷くやうな
假聲が
更に
聞えた。
惘然として
見て
居た
凡てがどよめいた。
「おとつゝあ
明り
點けべえかあ」と
群集の
後から
呶鳴ると
共に
凡てが
復たどつと
笑つた。
おつぎはむつくり
起きてさつさと
行き
掛けた。
「
汝何處さ
行くんだ。こうれ」
勘次は
引つ
捉まうとしたがおつぎは
身を
捩つてさつさと
行く。
勘次は
慌てゝ
草履の
爪先が
蹶きつゝおつぎの
後に
跟いた。
「おつう」
彼は
心もとなげに
喚んだ。
與吉はどうした
理由とも
分らないので
先刻から
只泣いて
居た。
太鼓が
止んで
踊は
全く
亂れて
畢つた。それでなくても
彼等は一しきり
踊れば
田圃を
越えて
三々五々と
男は
女を
伴うて、
畑の
小徑から
林を
過ぎて
村落から
村落へと
太鼓の
音を
尋ねて
行くのである。
勘次の
後から
彼等はぞろ/\と
跟いて
行つた。
或者は
足速に
駈け
拔けては
「
燒餅燒くとて
手を
燒いてえ、
其の
手でお
釋迦の
團子捏ねたあ」と
當てつけに
唄うてずん/\
行つて
畢ふ。
後の
群集はそれに
應じて
指を
啣へてぴう/\と
鳴らしながら
勘次の
心を
苛立たせた。
勘次は
何れ
程それが
激した
心に
忌々敷くても
其れを
窘めて
叱つて
遣る
何の
手がかりも
有つて
居らぬ。三
人は
只默つて
歩いた。
社の
森の
外は
白い
月夜である。
勘次が
村落外れの
家に
歸つた
時は
踊子は
皆自分の
嚮ふ
處に
赴いて三
人のみが
靜に
深け
行く
庭にぽつさりと
立つたのであつた。
各所の
太鼓の
音が
興味は
却て
此れからだといふ
樣に
沈んだ
夜を
透して一
直線に
響いて
來る。
唄の
聲は
遠く
近く
聞える。
夜は
全く
踊るものゝ
領域に
歸した。
彼等は
玉蜀黍の
葉がざわ/\と
妙に
心を
騷がせて、
花粉の
臭ひが
更に
心の
或物を
衝動る
畑の
間を
行くとては、
踊つて
唄うて
渇した
喉に
其處に
瓜が
作つてあるのを
知れば
竊に
瓜や
西瓜を
盗んで
路傍の
草の
中に
打ち
割つた
皮を
投げ
棄てゝ
行くのである。
彼等の
間に
惡戯の
好きな五六
人が
夜が
深けてからそつと
勘次の
庭へ
立つて
見た。
其の
時は
只自分等の
陰翳が
稍長く
庭の
土に
映じて、
月は
隙間だらけの
古ぼけた
雨戸をほのかに
白く
見せて
居た。
周圍は
泣き
止んだ
後のやうに
餘りに
寂しかつた。五六
人は
只ぽつさりと
歸つて
畢つた。
おつぎは
次の
朝櫛を
探しに
出た。
同じ
年輩の
間には
誰の
惡戯であるかが
其の
場で
凡ての
耳に
知れ
渡つて
居た。
「
櫛なんざ
持つてゐねえぞはあ、それよりやあ、
歸つて

の
木のざく
股でも
見た
方がえゝと」
朋輩の
一人がおつぎへいつた。おつぎは
自分の
庭の
木の
幹が二
股に
成つた
處に
櫛がそつと
載せてあるのを
發見した。
櫛は
鼈甲模擬のゴムの
櫛であつた。
齒が二
枚ばかり
缺けて
居た。おつぎは
損所を
凝然と
見て
直に
髮へ

した。
櫛の
事件は
其れつ
切で
畢つた。
勘次は
何かにつけてはおつう/\と
懷かしげに
喚んで一
家は
人の
目に
立つ
程極めて
睦ましかつた。
然しかういふ
事件は
村落の
凡ての
口を
久しく
防ぐことは
出來なかつた。
殊に
女房等の
間には
「
勘次さんもどうしたつちんだんべ、
俺ら
可怖えやうだつけぞ」
「
本當によ、
丸つきり
狂氣のやうだものなあ」といふ
驚異の
聲が
到る
處に
反覆された。
「
唯たあ
思へねえよ、
勘次さんもあゝいに
仕ねえでもよかんべと
思ふのになあ」
嘆聲を
發しては
各自の
心に
伏在して
居る
或物を
口には
明白地に
云ふことを
憚る
樣に
眼と
眼を
見合せて
互に
笑うては
僅に
「
厭だ/\」といふ
底に一
種の
意味を
含んだ一
語を
投げ
棄てゝ
別れるのである。
殊には
村落の
若者の
間へは
寸毫も
遠慮の
無い
想像に
伴ふ
陰口を
逞しくせしめる
好箇の
材料を
提供したのであつた。
夏が
循環した。
暑い
日の
刺戟が
驚くべき
活動力を
百姓の
手足に
與へる。
百姓は
馬や
荷車を
駈つて
刈り
倒した
麥をせつせと
運ぶ。
永い
日は
僅な
日數の
内に
目に
渺々たる
畑をからりとさせて、
暫くすると
天候は
極りない
變化の
手を一
杯に
擴げて、
黄色に
熟する
梅の
小枝を
苦めて
居る
蟲も
滅亡して
畢ふ
程の
霖雨が
惘れもしないで
降り
續く。さうすると
麥を
刈つた
跟の
菽や
陸穗が
渇した
口へ
冷たい
水を
獲た
樣に
勢づいて、四五
日の
内に
青い
葉を
以て
畑の
土が
寸隙もなく
掩はれる。
雨は
蹂み
固めてある
百姓の
庭の
土にも
※菜[#「くさかんむり/(火+旱)」、U+850A、195-5]や
石龍
の
黄色い
小粒な
花を
持たせて、
棟にさへ
長い
短い
草を
生ぜしめる。
自然の
意志は
只管に
地上の
到る
處に
軟かな
青い
葉を
以て
掩ひ
隱さうとのみ
力を
注いで
居るのである。
其の
意志に
逆らうて
猶豫うて
居るのは
百姓の
手で
丁寧に
捏ねられた
水田のみである。
夏が
漸く
深けると
自然は
其の
心を
焦燥らせて、
霖雨が
低い
田に
水を
滿たしめて、
堀にも
茂つた
草を
沒して
岸を
越えしめる。
稻草を
以て
田の
空地を
埋めることが一
日でも
速かなればそれだけ
餘計な
報酬を
晩秋の
收穫に
於て
與へるからと
教へて
自然は
百姓の
體力の
及ぶ
限り
活動せしめる。さうすると
百姓は
田のやうにどろ/\と
往來の
土をも
捏ねて
馬と
共に
泥に
塗れながら
田植にのみ
屈託する。
彼等は
雨を
藁の
蓑に
避けて
左手に
持つた
苗を
少しづつ
取つて
後退りに
深い
泥から
股引の
足を
引き
拔き
引き
拔き
植ゑ
退く。
恁うして
宏濶な
水田は、一
日泥に
浸つた
儘でも
愉快相に
唄ふ
聲がそつちからもこつちからも
響くと
共に、
段々に
淺い
緑が
掩うて、
多忙で
且活溌な
夏の
自然は
先に
植ゑられた
田から
漸次に
深い
緑を
染めて
行く。
田が
凡て
植ゑ
畢つた
時には
畦畔にも
短い
草が
生えて
居て
土の
黒い
部分が
何處にも
見えなく
成る。
自然は
始めて
自己の
滿足を
得た
樣にからりと
快よい
空を
拭うて
暑い
日の
光を
投げ
掛ける。
青田の
畦畔には
處々に
萱草が
開いて、
田の
草を
掻くとては
村落の
少女が
赤い
帶を
暑い
日に
燃やさない
日でも、
萎んでは
開いて
朱杯の
如く
點々と
耕地を
彩るのである。
百姓は
忙しい
田植が
畢れば
何處の
家でも
秋の
收穫を
待つ
準備が
全く
施されたので、
各自の
勞を
劬ふ
爲に
相當な
饗應が
行はれるのである。
其が
早苗振である。
勘次とおつぎは
南の
早苗振の
日に
傭はれて
行つて
居た。
勘次の
家から
南へ
行く
小徑を
挾んだ
桑畑は
刈取つてから
草の
生えた
位に
枝が
立ち
始めて
居た。
桑の
間には
馬鈴薯が
茂つて
花を
持つて
居た。
南の
家では
少しばかり
養蠶をしたので
百姓の
仕事が
凡て
手後れに
成つたのであつた。
村落の
大抵が
田植を
畢り
掛けたので
慌てゝ
大勢の
手を
傭うた。
其の
日は
晴れて
心持がよかつたのと、一
同が
非常な
奮發をしたのとで
仕事は
日の
高い
内に
濟んだ。
南の
女房は
仕事の
見極めがついたのでおつぎを
連れて、
其晩の
惣菜の
用意をする
爲に一
足先へ
田から
歸つた。
女房は
忙しい
思ひをしながら
麥を
熬つて
香煎も
篩つて
置いた。
田植の
同勢は
股引穿いた
儘泥の
足をずつと
堀の
水に
立てゝ、
股引の
紺地がはつきりと
成るまで
兩手でごし/\と
扱いた。
溶けた
泥が
煙の
如く
水を
濁らしてずん/\と
流される。さうしてから
其の
股引を
脱いでざぶ/\と
洗ふ
者も
有つた。
彼等が
歸つて
家の
内は
急にがや/\と
賑かに
成つた。
裏戸口の

の
木の
下に
据ゑられた
風呂には
牛が
舌を
出して
鼻を
舐めづつて
居る
樣な
焔が
煙と
共にべろ/\と
立つて
燻りつゝ
燃えて
居る。
傭はれて
來た
女房等の
一人が
蓋をとつてがら/\と
掻き
廻して、それから
復た
火吹竹でふう/\と
吹いた。
焔の
赤い
舌がべろ/\と
長く
立つた。
再び
蓋をとつた
時には
掃除の
足らぬ
風呂桶のなかには
前夜の
垢が一
杯に
浮いて
居た。
其
ことには
關はずに
田植の
同勢はずん/\と
這入つた。
彼等は
殆んど
只手拭でぼちや/\と
身體をこすつて
出た。
足の
爪先に
詰まつた
泥を
落すことさへ
仕なかつた。
「
燻つてえのそつちへおん
出さなくつちや
仕やうねえや」
風呂から
出た
儘拭ひもせぬ
足に
下駄を
穿いて
裸の
臀を
他人に
向けて
立つた一
人が
後を
顧みていつた。
「なあに
管あねえ」
後から
目を
蹙めながら
一人が
首筋まで
沈んだ。それから
風呂桶へ
腰を
掛けてごし/\と
洗ひながら
「
此りや
燻つてえ」と
復沈んだ
儘ごし/\と
垢を
落して
居たが
「あゝ
善え
處だ、よう、おつぎ、
少と
此處まで
來てくんねえか」といつた。
彼は
百姓の
間には
馬を
曳いて
歩く
村落の
博勞であつた。
「どうしたもんだんべ、
兼さん
等自分で
這入んのに
燻つたけりや、おん
出してからへえつたら
善かんべなあ、それに
怎的したもんだ
一同居て、
水汲みに
來たものなんぞ
使あねえたつてよかんべなあ」おつぎは
輕く
窘める
樣にいつて二つの
手桶をそつと
置いて、
燻つて
居る
薪を
出して
遣つた。
「おつぎに
掻ん
出して
貰あんでなくつちや
厭だつちから
俺ら
管あねえんだな、そんでなけりや
幾らでも
出して
遣らざらによ」
側から
直にいつた。
「
燻つてえの
無く
成つたら
酷く
晴々してへえつてる
樣ぢやなくなつた。
俺ら
莫迦な
目に
逢つちやつたえ」
兼博勞はがぶりと
風呂の
音をさせて
立ながらいつた。
「どうしたもんだ、
他人のこと
使つて
小憎らしいこと、そんなこと
云ふとおつけて
遣つから」おつぎは
燻つた
薪を
兼博勞の
近くへ
出した。
兼博勞は
慌てゝ
「
謝罪つた/\」とずつと
身を
引いた。おつぎが
手桶の
側へ
戻つたら
「ああ、おつぎ/\
少と
待つてゝくろえ、
俺れえゝ
物出すから」
兼博勞は
口速に
喚び
掛けた。
「おゝ
厭なこつた、
要らねえよ」おつぎは
少し
身を
屈めて
手桶の
柄を
攫んで
其の
儘身を
延すと
手桶の
底が三
寸ばかり
地を
離れた。
「えゝ、
此れ
出すべつちのに」
兼博勞は
後から
投げた。それは
梢から
風呂の
中へ
落ちた
蔕のない
青い

であつた。

は
手桶の
水へぽたりと
落ちて、
水のとばちりが
少しおつぎの
足へ
掛つた。
「
憎らしいことまあ、
惡戯ばかし
仕て」おつぎは
嫣然として
後を
見た。
「
後見せえすりやそんでえゝんだ」と
風呂の
側に
居た
一人がいつた。
「
俺ら
其の
雀班見せえすりや
氣が
濟んでんだよ」
兼博勞は
後に
跟いていつた。
「
何程すれつからしなんだんべ
兼さんは、
他人のこと
本當に」とおつぎは
手桶を
置いて
水に
泛んだ
青い

を
兼博勞へ
投げた。
「
兼さんすつかり
惚られつちやつた」と
風呂桶の
傍からいつた。おつぎは
顏を
赧くして
慌しく
手桶を
持つて
遁げた。一
杯に
汲んだ
手桶の
水が
少し
波立つて
滾れた。
風呂桶の
傍では四十五十に
成る
百姓も
居て
一同が
愉快相にどよめいた。おつぎが
手桶を
持つた
時勘次は
裏戸の
垣根口にひよつこりと
出た。
彼は
衣物を
換へに
桑畑の
小徑を
越えて
自分の
家へ
行つたのであつた。
彼は
風呂の
側の
騷ぎをちらと
耳にしてそれからおつぎの
後姿を
目にしたので
怪訝な
容子をして
庭にはひつて
來た。一
同は
打合せた
樣に
默して
畢つた。
落ち
掛けた
日が
少時竹藪を
透して
濕つた
土に
射し
掛けて、それから
井戸を
圍んだ
井桁に

んで
陰氣に
茂つた
山梔子の
花を
際立つて
白くした。
暫くして
青い
煙の
滿ちた
家の
内には
心も
切らぬランプが
釣るされて、
板の
間には一
同ぞろつと
胡坐を
掻いて
丸い
坐が
形づくられた。
此も
傭はれて
來た
若い
女房等は
竈の
前に
立つて
内の
女房とおつぎとに
手を
藉して
居た。
徳利が三四
本膳の
前に
運ばれた。
「お
蔭でどうも
捗行きあんした。どうぞゆつくり
行つておくんなせえ」
亭主は
改まつて
挨拶した。
「はい」と一
同が
時儀をした。
各自の
膳の
隅へ一つ
宛渡された
茶呑茶碗へ
酒が
注がれようとした
時
「あれ
待つてゝくんねえか」と
内の
女房が
慌てゝいつた。
「おとつゝあん、お
竈樣忘れたつけべな」
女房は
竈から
飯の
釜を
卸して
布巾を
手にした
儘いつた。
「さうだつけな、ほんに」
亭主はいきなり一
本の
徳利を
手にして
土間へおりた。
竈の
上の
煤けた
小さな
神棚へは
田から
提げて
來た一
把の
苗が
載せてあつた。
彼は
其苗束へ
徳利から
少し
酒を
注いだ。
「
酒そつちの
方へたんと
掛けねえで
貰れえてえな」
兼博勞はけろりとした
容子をして
戯談をいつた。
「
酒飮む
者な、さうだに
惜しいもんだんべか」おつぎはこつそりいつた。
「そんだつて
酒つちや
人の
口さ
入える
樣に
出來てんだから、それ
證據にや
俺らが
口さ
入えりやすぐ
利くから
見ろえ」
兼博勞はいつた。
亭主は
又苗束へ
香煎を
少し
振り
掛けた。それは
稻の
花に
模擬つたので、
稻の
花が一
杯に
開く
樣との
縁起であつた。
兼博勞は
其れを
見て
急に
土間へ
下りて
行つた。
「どうれ、おめえ
等饂飩粉少と
持つて
來て
見せえ、一ツ
爪尻でえゝんだ、おゝえ
持つて
來うな、おつぎでもえゝや、よう」と
兼博勞は
促した。
「どうしたもんだ、
大威張して」おつぎは
呟きながら
内の
女房に
聞いて
小麥粉を一
捉み
出して
遣つた。
「さうら
此れ
掛けて、
此れが
晩稻の
花だ」
兼博勞は
手にした
小麥粉を
悉く
掛けて
畢つた。
苗束は
少し
白く
成つた。
「
何處にもさういに
掛けるもな
有んめえな」
女房の
一人が
見て
居ていつた。
「
俺ら
晩稻作んだから、
役場の
奴等作つちやなんねえなんちつたつて、
俺ら
見てえな、うつかりすつと
乳ツ
岸までへえるやうな
深ん
坊の
冷えつ
處ぢやどうしたつて
晩稻でなくつちや
穫れるもんぢやねえな、それから
俺れ
役場で
役人が
講釋すつから
深ん
坊ぢや
斯うだつち
噺したら、はつきり
惡りいたあ
云はねえんだから、
夫から
俺れ
糞攫んで
見ねえ
奴ぢや
駄目だつちんだ」
彼は
笑ひながら
獨り
饒舌つた。
「
根性捩れてつからだあ、
晩稻は
作んなつちのに」
女房の
一人が
又いつた。
「
俺れか、いやどうも
捩れてんにもなんにも」
兼博勞はいつて
「そうれ
見ろえ、
稻へ
白え
花が
咲えたぞ、
白坊主の
花だこりや」
彼は
手に
附いた
粉を
能く
叩いた。
「
厭だよ、
白坊主ツち
稻はあんめえな」
女房が
又いつた。
「そんでも
俺ら
勘次さんに
聞いたぞ」
彼は
少し
首をすくめながら
聲を
低めていつた。
袂で
口を
抑へて
女房等は
笑を
殺した。
兼博勞は
態と
笑を
嚥んで
再び
板の
間に
胡坐を
掻いた。
勘次は
小さな
時分から
侮られて
能く
泣かされた。
彼は
恐ろしい
泣蟲であつた。
彼は
何時の
間にか
燗鍋といふ
綽名を
附けられた。
彼は
心に
幾ら
其れを
嫌つたか
知れない。卅
越えて四十に
成つても
彼は
鍋といふのが
酷く
厭であつた。
村落ではそれを
知らぬ
者はない。
或時惡戯好な
兼博勞が
勘次の
刈て
居る
稻を、
此は
何だえと
聞いた。
態と
聞いたのであつた。
其れは
鍋割れとも、それから
芒が
白いので
白芒とも
云ふのであつたが
勘次は
「
此は
白坊主」とそつけなくいつた。
彼は
鍋といふのが
厭でさういつたのである。
兼博勞はうまく
或物を
攫へた
樣に
得意に
成つて
村落中へ
響かせた。
口の
惡い
百姓等は
勘次がおつぎを
連れて
田へ
出て
居るのを
見て
「
白坊主等夫婦して
耕つてら」
抔と
放言することすらあるのであつた。
茶碗には一
杯づつ
酒が
注がれた。一
同はしをらしく
茶碗を
口に
當てた。
「
恁んな
物でよけりや、
夥多やつておくんなせえ、まあだ
後にも
有りやんすから」
内の
女房は
鹽で
煮たかと
思ふ
樣な
白つぽい
馬鈴薯の
大きな
皿を
膳へ
乘せて
二處へ
置いた。
忽ち一
杯を
干して
獻酬が
始まつた。
注がれるものは
茶碗の
手を
擧げて
相手が
持てる
徳利の
口へ
手を
掛けて
酒の
滾れるのを
防いだ。
酒が
始まつてから
皆が
妙に
鹿爪らしく
居ずまひを
改めた。
「さあ、
何卒ずん/\
干しておくんなせえね」
亭主は
促した。
「はい」
挨拶が
又口々に
出た。
此の
頃では
不廉な
酒は
容易に
席上へは
運ばれなく
成つて
居たので
隨つて
他人の
買つたのでも
皆控へ
目にする
樣に
成つて
居た。
南では
養蠶の
結果が
好かつたのと
少しばかり
餘つた
桑が
意外な
相場で
飛んだのとで、一
圓ばかりの
酒を
奮發したのであつた。
其の
晩の
料理に
使ふ
醤油が
要るので
兩方を
兼ねて
亭主は
晝餐休みの
時刻に
天秤擔いで
鬼怒川を
渡つた。
村落の
店では
買はずに
直接酒藏へ
行つたので
酒は
白鳥徳利の
肩まで
屆いて
居た。
各自の
平生渇して
居る
口には
酒は
非常に
佳味く
感ずると
共に、
其の
痲痺する
力に
對する
抵抗力が
衰へて
居るので
徳利が一
本づつ
倒されて
次の
徳利に
手が
掛つたと
思ふ
頃板の
間では一
同のたしなみが
亂れて
威勢が
出た。
「おめえ、さういに
自分の
處えばかし
置かねえで
干せな」と
弱い
者の
處へ
杯を
聚めて
困るのを
見ようとさへする
樣に
成つた。
勘次は
獨り
側なる
徳利を
引きつけて
幾抔か
傾けて
他人よりも
先に
小鬢の
筋が
膨れて
居た。
「
俺ら、
鉋の
持たねえ
大工だ、
鑿一
方つちんだから」といつて
勘次は
相手もないのに
態とらしい
笑ひやうをして
女房等の
居る
方を
見た。
彼は
俛れ
相に
成る
首を
起して
數々見ることを
反覆した。おつぎは
後の
方へ
隱れて
居た。
勘次は
箸を一
本持つて
危險い
物にでも
觸るやうに
平椀の
馬鈴薯を
其先へ
刺しては一
杯に
口を
開いて
頬張つた。
平椀には
牛蒡と
馬鈴薯とが
堆く
盛られて
油揚が一
枚載せてある。
「
箆棒に
大かく
成つたつけな、
此の
馬鈴薯はなあ」
一人がいつた。
「
此んでも
桑の
間さ
作つたんだが、
思ひの
外だつけのさ」
亭主は
自慢らしくそれでも
態と
聲を
落していつた。
「
桑の
間でかう
出來つかな、そりやさうと
何處さ
作つたんでえまあ」
「
裏の
垣根外さ、
土はかたで
赤つぽうろくだが、
掃溜みつしら
掘つ
込んで
置いた
處だから、
其れが
出たと
見えんのさ、
思ひの
外土地は
嫌あねえもんだよ、
此んなもんでも
作つちや
桑にや
惡かんべが」
「
大丈夫だとも、
馬鈴薯が
大かく
成る
樣ぢや
其肥料は
桑も
吸ふから、いや
桑の
根つ
子の
遠くへ
踏ん
出すんぢや
魂消たもんだから、
目も
有りもしねえのに
肥料の
方へ
眞直にずうつと
來つかんな」
「
此れでどの
位殖えるものだと
思つたら一ツ
株で一
升位づゝも
起せるよ」
亭主がいへば
「うむ、さうかな、さうすつと
割の
善えもんだな」
各自にさういつて
居ると
「
能く
牛蒡は
保たせたつけな」といふものがあつた。
「なあに、
踏ん
固める
處へ
活けてせえ
置けば
大丈夫なものさ、
俺ら
家や
田植迄は
有るやうに
庭へ
埋めて
置くのよ」
亭主は
自分も
椀の
牛蒡を
挾んでいつた。
「さうだが、
俺ら
家なんぞぢや、それまでにや
無く
成つちまあから一
度でもさういに
活けて
置いたことあねえな」と
一人がいへば
「
俺らなんざ、
腹さ
藏つて
置くから
盜られつこなしだ」
兼博勞は
口を
出した。
「
牛蒡もうつかりして
繩で
縛つて
活けちや、
其處から
腐れがへえつて
酷えもんだな、
藁は
餘つ
程嫌えだと
見えんのさな」
勘次は
横合からいつた。
「どうしたかよ」
疑ひの
聲が
發せられた。
「どうしたかなもんぢやねえ、
俺ら
家で
行つたこと
有んだもの」
彼は
相手に
壓せられた
樣に
聲を
低めて
「なあおつう、さうだな」と
身體を
横に
向けていつた。
板の
間と
土間との
界に
立つて
居る
柱の
陰にランプの
光から
身を
避けるやうにして一
座の
獻酬を
見て
居た
女房等の
手が
俄におつぎの
臀をつゝいて
「おつうとそれ、
返辭するもんだ」
小聲でいつて
微に
笑つた。
勘次は
怪訝な
容子をして
柱の
陰を
凝然と
見て
目を
蹙めた。
「おつぎは
居るよおめえ、さういに
見ねえでも」
柱の
陰からいつて
私語いた。
勘次は
板の
間の
端に
近く
居たのであるが
膳を
越えて
身體をぐつと
前へ
延ばしては
徳利を
動かして
空に
成つたのは
女房等へ
渡して
何處となしに
心を
配る
樣にそわ/\として
居る。
「はてな、
懷え
入えた
筈だつけが」と
兼博勞は
懷から
周圍を
探して
側へ
落ちた
小さな
紙包を
手にして
「こうれ、うめえ
物見ろえまあ」といつて
開けて
見ると一
寸ばかりの
蟷螂が
斧を
擡げてちよろちよろと
歩き
出した。
「へゝえ、
此ん
畜生奴こんでも
怒つてらあ」
兼博勞はちよいと
蟷螂をつゝいて
見て
獨り
興がつて
笑つた。
「どうしたもんだんべ
大けえ
姿して」と
女房は
皆笑つた。
「あれ
俺ら
知つてら」おつぎの
傍に
居た
與吉は
兼博勞の
側へ
行つて
「
鴉のきんたまから
出んだぞこら」といつた。
「
汝ツ
等知りもしねえで」
勘次は
與吉を
甘やかす
樣にしていつた。
「そんだつて
俺ら
見た、
笹つ
葉の
枝にくつゝいてた
處から
出たんだ」
與吉は
蟷螂を
弄りながらいつた。
「
勘次さん
駄目だよ、
學校へ
遣つちや
半年たあ
云はんねえから、
下手んすつと
今の
子奴等にや
遣り
込められつちやからおとつゝあ
此れ
知つてつかなんちあれたつて、
困らなどうもなあ」
側からいつたので
勘次は
有繋に
嫣然とした。
白鳥徳利の
口が
底よりも
低く
成つた
時一
座の
間には
馬の
噺が
出た。
馬といふ
奴はあの
身體で
酒の二
杯も
口へ
入てやると
忽ちにどろんとして
駻馬でも
靜に
成る、
博勞は
以前はさうして
惡い
馬を
嵌め
込んだものである。
現在でもそんなことで
油斷は
成らぬ、
村落が
貧乏したから
荷車ばかり
殖えて
馬が
減つて
畢つたが
荷車の
檢査に
行つて
見て
驚いた
抔といふことや、
朝鮮牛が
大分輸入されたが
狗ころの
樣な
身體で
割合に
不廉いからどうしたものだか
抔といふことが
際限もなくがや/\と
大聲で
呶鳴り
合うた。
「
博勞なんちい
奴等は
泥棒根性無くつちや
出來ね
商賣だな、
嘘らつぽう
打んぬいて、
兼等汝りや、
俺れことせえおつ
嵌める
積しやがつて」
兼博勞の
向側から
戯談らしい
調子でいふと
「
箆棒、おつ
嵌めんなもんぢやねえ、それ
厭だら
錢出せよ
錢、なあ、
錢出さねえ
積すんのが
泥棒より
太えんだな、
西のおとつゝあ
等躊躇逡巡だから、かたで」
「そんだから
見ろえ、
博勞で
藏建てた
奴あ
有りやしねえ、
罰たかつてつから」
「どうした、そんだが
此間の
白は
善かつたんべ、
彼れさ
打てな、あゝ
西のおとつゝあ、
白ぢや
徴發はさんねえぞ」
「えゝから、それよりか、そんなに
不廉えこと
云はねえで、なあ、
米一
俵打つべえぢやねえか」
「
徒勞だよそんぢや、あんでも六錢の
横薦乘つけて
曳いて
來たんだぞ、
血統證まで
有んぞ、あゝ、
彼の
手はねえぞ」
「
何んでえ
汝がまた、
牡馬と
牝馬だけの
血統證だんべ、そんなもの
何に
成るもんぢやねえ、
俺れ
知らねえと
思つて、
俺ら
白河の
市で
聞いてらあ」
「
博勞うまく
練れねえ
樣だな、ようしそんぢや
俺れ一つ
打つてやんべ」
二人が
戯談交りに
劇しく
惡口を
云つて
居るとふと
側から
凭ういつた。
「そんぢや、それ
干せな、
兼さんもそれ」
彼は
二人の
茶碗を
自分の
手で
交換させて、それを
兩方へ
渡して
酒を
注いだ。
「どうだえ、
博勞うまく
打てたんべ、どつちも
依怙贔負なしつち
處だ」
相手は
得意に
成つて
云つた。
「こつちのおとつゝあ、
幾つだつけな、
少つと
白く
成つたな」
突然一人が
呶鳴つた。
「さうよな」
亭主は
頭髮に
手を
當てゝいつた
時
「おめえ、
俺ら
家のおとつゝあもどうしてか
酷く
白く
成つたんだが、
斯んで
年齡はさういにとつちや
居ねえんだぞ」
其處へ
小さな
子を
抱いて
坐つた
内の
女房が
微笑しながらいつた。
「
俺れと
同年齡だよ」
獨りぼつちに
成つて
居た
勘次は
横から
口を
挾んだ。
「どうだかよ」
「なあに、どうだかなもんぢやねえ」
勘次は
口を
角のやうにしていつた。
「
本當にさうなんだよおめえ」
女房は
側からいつた。
「そんぢや
勘次さんおめえ
幾つでえ」
相手は
乘地になつて
聞いた。
「さうよ、
俺らこつちのおとつゝあと
同年齡だつけな」
彼は
自身の
創意ではなくて
何處かで
聞いた
記憶を
其の
儘反覆してさうして
戯談を
敢てした。
「えゝ
箆棒な」と
相手はいつて
畢つた。
内の
女房は
兩方の
頭髮を
熟と
見て
「そんだが
勘次さんは
本當に
若けえな。
俺ら
家のおとつゝあ
等たあ、たえした
違えだな」といつた。
「
勘次さん
等まあだ十七だな」
兼博勞は
直に
後を
跟いていつた。
女房等は
復た
竊に
袂で
口を
掩うた。
兼博勞が
顧みた
時女房等は
割つた
燭奴の
先を
突つ
掛けては
香煎を
口へ
含んで
面倒に
嘗めて
居たのであつた。
「
香煎嘗めんのにや、
笑つちやいかねえつちけぞ、おめえ
等」
兼博勞はいつた。
先刻から
笑ふ
癖のついてた
女房等は一
時にぷつと
吹出して
粉が
其處らに
散つた。
乾燥して
居る
粉の
爲に
咽せて
女房等は
頻りに
咳をした。
彼等は
驅けおりて
手桶の
水をがぶりと
飮んで
漸く
胸を
落附けた。
「おゝ、
酷え
目に
逢つた。
粉鼻の
方さへえつて
鼻つん/\して
仕やうありやしねえや、
本當に
兼さんは
人が
惡りいや、なんぼ
憎らしいか
知れやしねえ、
其處らに
薪雜棒でも
有れば
打つ
飛ばして
遣りてえ
樣だ」
涙の
目を
拭つて
恨めしげに
女房等は
云ふのであつた。
「そんだから
俺れ、
笑つちやえかねえつて
云つたんだな、それ
聽かねえから」
兼博勞は
態と
平然として
云つた、
恁うしてがみ/\いふ
聲が
錯雜つた
時
「
博勞さん一つやつゝけつかな」
兼博勞は一
聲殊に
大きく
呶鳴つたと
思つたら
茶碗の
酒を一
口にぐつと
干して
兩手に
茶碗を
伏せて、
板の
間にぱか/\ぱか/\と
蹄に
傚うて
拍子取つた
響を
立てながら
「
三春から
白河の
方へこんでも
横薦乘つけたの
繋いで
曳いて
來つ
處らえゝかんな、
能く
聞いて
見せえ、
此の
手にや
行かねえぞ」
彼は
其の
自慢の
下から
「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」
と
馬への
掛聲を
尤もらしくした。
茶碗の
拍子に
連れて一
同はぴつたり
靜かに
成つた。
「はあえゝえゝえゝ」とぼうと
太い
聲で
唄ひ
出して
「
枯芝あえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、
止るうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや
氣があゝゝゝゝえ、え、はあ
知れえゝぬうよおうゝゝ」と
彼は
眼を
瞑つて
少し
上向に
首を
傾けて一
杯の
聲を
絞つて
極めて
悠長にさうして
句の
續きを
「えゝ
傍にえゝ、
菜種えのおゝゝゝゝえ、えゝ
花があえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」と
唄ひ
畢つた
時顏が
殊更に
赤く
成つて
汗が
吊るしランプに
光つて
見えた。
彼は
手でぐるりと
拭つた。
「
箆棒に
迂遠つけえ
唄だな、
此の
夜の
短けえのに
眠つたく
成つちやあな」
側から
惡口を
吐いた。
「えゝから
西のおとつゝあ、
耳糞ほじくつて
聞いてろえ」
兼博勞はいつて
「はあえゝえゝ、えゝ
朝のうゝゝえゝえ、はあ
出掛えにいゝゝゝゝえ」と
又唄ひ
出した。
「
朝の
出掛にどの
山見ても
雲の
掛らぬ
山はない」と
唄つて
茶碗を
動かしては
「ぱか/\ぱか/\となあ
斯う、廿三
坂越えて
引く
處だぜ、
畜生あばさけんなえ」と
彼は
更に
「ひゝいん」と
馬の
啼き
聲をしてそれから
「廿三
坂か、
白河のこつちだ、
畢の
坂が
箆棒に
長くつてな」といつて
又
「はあえゝえゝえゝ」と
左も
氣の
乘つたらしく
「
奧の
博勞さん
何處で
夜が
明けた、廿三
坂七つ
目で」と
愉快な
聲で
唄つた。
「
夜引すつ
時にや
人間も
眠つたく
成りや
馬も
眠つたく
成つてな、
石坂だから
畜生等がくたり/\はあ、なんぼにも
歩かねえな、そん
時にや、おうい一つどうだね
遣つゝけちやあと
許でなあ、
博勞等ぞろ/\
繼つて
來んだから、
峯の
方でも
谷底の
方でも一
度に
大變だあ、さうすつと
駒つ
子奴等ひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と
斯う
運びが
違つて
來らな、
皆おつかげばかし
喰つ
附いてたの
引つ
放して
來んだから
足が
不揃ひだなどうしても、それに
坂が
急だつちと
倒旋毛おつ
立てる
樣だから
畜生なんぼにも
足が
出ねえな、
其奴へ
合せて
唄あんだからゆつくり
行んなくつちやなんねえな」
兼博勞は
帶を
解いて
裸に
成つて
衣物を
後へ
投た。
帶は
一重で
左の
腰骨の
處でだらりと
結んであつた。
兩方の
端が
赤い
切で
縁をとつてある。
粗い
棒縞の
染拔でそれは
馬の
飾りの
鉢卷に
用ひる
布片であつた。
「
此處らの
馬だつて
見ろえ、
博勞節門ツ
先でやつたつ
位厩ん
中で
畜生身體ゆさぶつて
大騷ぎだな」
彼は
獨りで
酒席を
賑した。
彼はさうして
土のやうな
汗と
埃とで
染まつた
手拭で
首筋から
身體一
杯に
拭つた。それから
「おゝ
痒い」とぴしやり
手で
蚊を
叩いた。
彼の
唄に
連て
各自が
更に
唄つた。
皆箸で
茶碗を
叩いて
拍子を
合せた。さういふ
騷ぎに
成つてから
酒は
減らなかつた。
勘次は
獨りで
唄ふこともなく
絶えず
何物かを
探すやうな
目で
土間のあたりをきよろ/\と
見て
居たが
「おつう」と
唐突に
喚んだ。
彼は
勢ひよく
喚んで
見て
自分で
拍子拔した
樣にして
居たが
「
此れさ
馬鈴薯でもくんねえか」と
椀をづうつと
出した。
「どうしたもんだおとつゝあは、お
平の
盛換えするもな
有んめえな、
馬鈴薯は
前に
幾らでも
有んのに」おつぎは
更に
窘めるやうに
「おとつゝあは
酩酊つたつてそんなに
顛倒なけりやよかつぺなあ」と
獨り
呟いた。
「
云つて
見たのよ」
勘次は
態と
笑つて
椀を
膳へ
置いた。
「おつか
樣等もこつちへ
來うな、
一杯やれな」
彼は
更に
板の
間の
隅の
方に
居る
女房等にいつた。
「ほんに
仲間入したらよかつぺ」
内の
女房もいつた。
若い
女房等は
仲間には
成らなかつた。さうして
唯笑つて
居た。
唄ひ
騷ぐ
聲に
凡てが
心を
奪られて
居ると
「
汝りや
梅噛つたんべ、
學校の
先生げ
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、213-12]訴けてやつから、
腹痛くつたつて
我慢してるもんだ」
おつぎは
眠い
眼をこすりながらしく/\
泣いて
居る
與吉を
横にして
背中を
叩いては
撫りながらいつた。
「どうしたんだあ、
腹痛えのか
毒消しでも
呑ませて
見つか、
俺らもはあ、
梅だの
李だの
成熟ちやびや/\すんだよ、
出て
行んだから
云つたつて
聽かねえしなあ」
内の
女房はすや/\と
眠つた
膝の
子の
蚊を
追ひながらいつた。
「
汝れ
梅なんぞ
噛じつて、おとつゝあ
腹抉り
拔いてやつから
待つてろ」
勘次は
疾から
澁つて
居た
舌でいつた。
「そんなこと
云はねえつたつて
泣いてんのに
何だつぺな、おとつゝあ」おつぎは
勘次を
叱つた。
勘次は
口を
嵌んで
箸の
先へ
馬鈴薯を
刺した。
與吉は
瞼が
弛んでいつか
輕い
鼾を
掻いた。
「さあ、お
飯だえ」
唄も
騷ぎも
止んで一
同の
口から
俄に
催促が
出た。
女房等は
皆で
給仕をした。
内の
女房は
「おつぎも
身體みつしりして
來たなあ、
女も
廿と
成つちや
役に
立つなあ」とおつぎを
見ていつた。
勘次は
茶碗から
少し
飯粒を
零しては
危險い
手つきで
箸を
持つた
儘指の
先で
抓んで
口へ
持つて
行つた。
「おとつゝあ、さういに
零しちや
駄目だな」おつぎは
勘次の
茶碗へ
手を
添へた。
「
勘次さん」と
内の
女房は
喚び
掛けた。
勘次が
目を
蹙めて
見た
時
「
勘次さん、はあおつぎこたあ
出しても
善かねえけえ」
女房はいつた。
「
嫁になんざ
出せねえよ、
今ん
處俺れ
困つから」
勘次はそつけなくいつた。
「
不自由な
處ありや
出して、
自分でも
引つ
込むのよ」
兼博勞は
遠慮なくいつた。
「
俺らそんな
噺や
聽かねえ、
貰ひたけりや
幾らでも
有らあ」
勘次は
斥けた。
「そんだつておめえ、そつちこつち
口掛けて
置かねえぢや、
直年齡ばかしとらせつちやつて
仕やうねえぞ、
俺らも
一人出したがおめえ
容易ぢやねえよ、さうだかうだ
云はれねえ
内だぞおめえ」
女房はいつた。
「えゝよ卅まで
獨りぢや
置かねえから
此れげはいまに
聟とんだから」
勘次は
喧嘩でもする
樣な
容子で
硬ばつた
舌でいつた。
女房は
默つて
口の
邊に
冷かな
笑を
含んで
膝をそつと
動かしてぐつすり
眠りこけた
自分の
子を
見た。
「どうしたえ、
儘よ/\でもやんねえか
勘次さん。まゝにならぬとお
鉢を
投げりや
其處らあたりは
飯だらけだあ、
過多に
六かしいこと
云ふなえ」
兼博勞は
米の
飯を
掻つ
込みながらいつた。
腹を一
杯に
膨らませた一
座は
「どうも
御馳走樣でがした」と
義理を
述べて
土間の
下駄をがら/\
掻き
探つてがや/\
騷ぎながら
歸り
掛けた。
「おつう、よきこと
起せ」
勘次はさういつて
自分も
一つに
蹣跚けながら
立つた。おつぎは
與吉の
身體を
劇しく
動かしたが
熟睡して
畢つたので
容易に
目を
開かなかつた。
與吉は
草履を
穿くにもおつぎの
心を
苛立たせた。
「おつう」と
劇しく
喚ぶ
勘次の
聲が
裏の
垣根の
外から
聞えた。さうすると
又
「
何してけつかんだ」と
勘次は
裏戸口から一
同を
驚かして
呶鳴つた。
「
勘次さん
與吉こと
起してた
處なんだよ」
内の
女房は
分疏してやつた。
「
汝りや
何時でもさうだ、ぐづ/\してやがつて」
勘次は
猶も
憤つていつた。
「
待つてれば
善えんだなおとつゝあ、
洗ひまでも
仕ねえのにどうしたもんだ」
酒席の
趾を
見ておつぎは
呟いた。
「
管あねえで
歸れよ、おとつゝあ
酩酊つてんだから」
女房はおつぎの
意を
汲んでやつた。
後では
亂雜に
散らかした
道具の
始末をしながら
女房等はいつた。
「
勘次さんが
心持も
分んねえな」
「
幾ら
嚊の
嫉妬燒くもんでも、あゝえもなあねえな」
「あゝえのが
何かの
生れ
變りつちんでも
有んべな、
可怖えやうだよ
本當にな」
「
近頃それに
何ぢやねえけえ、あら
程欲しがつたのに
後妻貰あべえたあ、
云はねえんぢやねえけえ」
孰れの
心にも
口にはいはなくて
了解されて
居る
或物を
少しづつ
現さうとして
有繋に
躊躇する
樣にして
噺合うた。
勘次等三
人が
出て
垣根の
外へ
行つたと
思ふ
頃、
椀を
拭いて
居た
一人が
慌だしく
立つて
外へ
出た。
暫くして
歸つて
來るといきなり
「どうしたものだおめえは、
他人の
後なんぞ
尾行けて
行つて、
罪だから
見ろよ」
一人がいつた。
「さうぢやねえよ、
有撃おめえ、
他人のこと
俺だつて」
分疏した。
「そんぢや
何に
行つたんだ」
「
小便垂つたく
成つたからよ」
軈て
抑へ
切れぬ
笑ひが
顏に
浮かんで
「そんだから
過多に
飮むなつちんだ、なんておつぎに
怒られ/\
行んけわ」といつた。
「そうれおめえ、
罪だよ」
遠慮もなく
皆どつと
笑つた。
夜は
深けて
居た。きろ/\きろ/\と
風船玉を
擦り
合せる
樣な
蛙の
聲が
錯雜して
聞えて
居た。
霜が
竊に
地を
掩うた。
晩秋の
冴えた
空氣は
地上の
凡てを
乾燥せしめる。
思ひの
儘に
枝葉を
擴げた
獨活の
實へ
目白の
聚つて
鳴くのが
愉快らしくもあれど、
何となく
忙しげであつて、それも
少時の
間に
何處でも
草木の
葉が
硬ばつたり
傷ついたりして一
切が
只がさ/\と
混雜して
畢つた。さういふ
處へ
季節の
冬は
厭でも
行き
渡らねばならないのであるがそれでも
暖かい
日があつたり、
冷たい
日があつたりして
冬は
只管躊躇しつゝ
地上に
沈まうとした。さうして
霜を一
度偃はせて
見た。
凡ての
草木は
更に
慌てた。
地味な
常磐木を
除いた
外に
皆次の
春の
用意の
出來るまでは
凄い
姿に
成つてまでも
凝然としがみついて
居る。
冬は
復た
霜を
偃はせて
見た。
恐ろしく
潔癖な
霜は
其の
見窄らしい
草木の
葉を
地上に
躪りつけた。
人間の
手を
藉りたものは
田でも
畑でも
人間の
手を
藉りて
到處をからりとさせる。
其の
時畑には
刷毛の
先でかすつた
樣に
麥や
小麥で
仄に
青味を
保つて
居る。それから
冬は
又百姓をして
寂しい
外から
專ら
内に
力を
致させる。
百姓等は
忙しく
藁で
俵を
編んで
米を
入れて
春以來の
報酬を
目前に
積んで
娯ぶのである。
彼等の
間には
恁ういふ
時に、さうして
冬が
本當にまだ
彼等の
上に
泣いて
見せない
内に
相前後して
何處の
村落にも「まち」が
來るのである。
其れは
村落毎に
建てられてある
社の
祭のことである。
貧乏な
勘次の
村落でも
以前からの
慣例で
村落に
相應した
方法を
以て
祭が
行はれた。
當日は
白い
狩衣の
神官が
獨で
氏子の
總代といふのが四五
人、
極りの
惡相な
容子で
後へ
跟て
馬場先を
進んで
行つた。一
人は
農具の
箕を
持つて
居る。
總代等はそれでも
羽織袴の
姿であるが
一人でも
滿足に
袴の
紐を
結んだのはない。
更に
其の
後から
鏡を
拔いた四
斗樽を
馬の
荷繩に
括つて
太い
棒で
擔いで
跟いた。四
斗樽には
濁つたやうな
甘酒がだぶ/\と
動いて
居る。
神官の
白い
指貫の
袴には
泥の
跳ねた
趾も
見えて
隨分汚れて
居た。
神官は
埃だらけな
板の
間へ
漸く
蓙を
敷いた
狹い
拜殿へ
坐つて
榊の
小さな
枝をいぢつて、それから
卓の
供物を
恰好よくして
居る
間に
總代等は
箕へ
入れて
行つた
注連繩を
樅の
木から
樅の
木へ
引つ
張つて
末社の
飾をした。
村落の
者は
段々に
器量相當な
晴衣を
着て
神社の
前に
聚つた。
目に
立つのは
猶且女の
子で、
疎末な
手織木綿であつてもメリンスの
帶と
前垂とが
彼等を十
分に
粧うて
居る。
十位の
子でもそれから
廿に
成るものでも
皆前垂を
掛けて
居る。
前垂がなければ
彼等の
姿は
索寞として
畢はねば
成らぬ。
彼等は
足に
合はぬ
不恰好な
皺の
寄つた
白い
足袋を
穿いて
居る。
遠國の
山から
切り
出すのだといふ
模擬の
重い
臺へゴム
製の
表を
打つた
下駄を
突つ
掛けて
居るものもある。
彼等は
其の
年齡に
應じて三
人五
人と
互に
手を
曳きながら
垣根の
側や
辻の
角に
立つて
居ては
思ひ
出した
時に
其處ら
此處らと
移つて
歩くのである。
彼等は
只朋輩と
共に
立つて
居ることより
外に「まち」というても
別に
目的もなければ
娯樂もないのである。
其れで
彼等は
少しでも
異つた
出來事を
見逃すことを
敢てしないのである。
神官は
小さな
筑波蜜柑だの
駄菓子だの
鯣だのを
少しばかりづつ
供へた
卓の
前に
坐つて
祝詞を
上げた。
其れは
大きな
厚い
紙へ
書いたので、それを
更に
紙へ
包んだのであつた。
包紙は
幾度か
懷へ
出し
入れしたと
見えて
痛く
擦れて
汚れて
居る。
祝詞は
極めて
短文であつた。
神官はそれを
極めて
悠長に
聲を
張り
上げて
讀んだがそれでも
幾らも
時間が
要らなかつた。
それが一
枚あれば
何處の
神社へ
行つても
役に
立てゝ
居るものと
見えて
短い
文中に
讀上ぐべき
神社の
名は
書いてなくて
何郡何村何神社といふ
文字で
埋めてある。
神官は
其處に
讀み
至ると
當日の
神社を
只口の
先でいふのである。
有繋に
彼は
間違ふことなしに
讀み
退けた。
神官が
卓の
横手へ
座を
換て
一寸笏で
指圖をすると
氏子の
總代等が
順次に
榊の
小枝の
玉串を
持つて
卓の
前に
出て
其の
玉串を
捧げて
拍手した。
彼等は
只怖づ/\して
拍手も
鳴らなかつた。
立ちながら
袴の
裾を
踏んで
蹌踉けては
驚いた
容子をして
周圍を
見るのもあつた。
恁ういふ
作法をも
見物の
凡ては
左も
熱心らしい
態度で
拜殿に
迫つて
見て
居た。
おつぎも
與吉の
手を
執つて
群集に
交つて
立つて
居た。
勘次も
其處に
在つたのであるが
然し
彼はずつと
後の
樅の
木陰にぽつさりとして
居たのであつた。
簡單乍ら一
日の
式が
畢つた
時四
斗樽の
甘酒が
柄杓で
汲出して
周圍に
立つて
居る
人々に
與へられた。
主として
子供等が
先を
爭うて
其大きな
茶碗を
換へた。
彼等は
寧ろ
自分の
家で
造つたものゝ
方が
佳味いにも
拘らず
大勢と
共に
騷ぐのが
愉快なので、
水許りのやうな
甘酒を
幾杯も
傾けるのである。
當日からでは
數日前に
當番の
者が
村落中を
歩いて二
合づゝでも三
合づゝでも
白米を
貰つて、
夜になれば
當番の
者等は
集つた
白米で
晩餐の
飯を十
分に
焚いて
其他は
悉く
甘酒に
造り
込む。
甘酒は
時間が
短いのと
麹が
少いのとで
熱い
湯で
造り
込むのが
例である。それだから
忽ちに
甘く
成るけれども
亦忽ちに
酸味を
帶びて
來る。
彼等は
當日の
前夜に
口見だといつて
近隣の
者等が
寄つてたかつて、
鍋で
幾杯となく
沸しては
飮むので
夥か
減らして
畢つて、それへ一
杯に
水を
注して
置くのである。
子供等の
間に
交つて
與吉も
互の
身體を
掻き
分ける
樣にして
飮んだ。
村落の
者が
飮んでる
後から
木陰に
佇んで
居た
乞食がぞろ/\と
來て
曲物の
小鉢を
出して
要求した。
「よき、それえゝ
加減にするもんだよ
汝りや」おつぎはまだ
茶碗を
放さない
與吉の
手を
曳いた。
「
待つてろ
汝ツ
等、さうだにさはり
出ねえで、
小穢え」
「
此奴等、
汝ツ
等げ
呉れはぐつたこた
有りやしねえ、それにさうだに
騷ぎやがつて、
五月繩え
奴等だ
待つてるもんだ」
「そうれお
前等注えで
遣んのにそんな
小鉢なんぞ
桶の
上さ
突出させちや
畢へねえな、それだらだら
垂ツらあ、
柄杓そつちへおん
出して
行るもんだ」
下駄を
穿いて
立つた
氏子の
總代等が
乞食を
叱つたり
當番に
注意したりした。
神官等が
石の
華表を
出て
行つた
後は
暫くして
人も
散つて、
華表の
傍には
大きな
文字を
表はした
白木綿の
幟旗が
高く
突つ
立つてばさ/\と
鳴つて
居た。
散亂した
人々は
其の
癖の
其處にぼつゝり
此處にぼつゝりと
固まつて
立つてるのであつた。
暫くして
短い
日が
傾いた。
社の
森を
包んで
時雨の
雲が
東の
空一
杯に
擴がつた。
濃厚な
鼠色の
雲は
凄く
人に
迫つて
來るやうで、
然もくつきりと
森を
浮かした。かつと
横に
射し
掛る
日の
光が
其の
凄い
雲の
色を
稍和げて
天鵞絨のやうな
滑かな
感じを
與へた。
更にくすんだ
赭い
欅の
梢にも
微妙な
色彩を
發揮せしめて、
殊に
其の
間に
交つた
槭の
大樹は
此も
冴えない
梢に
日は
全力を
傾注して
驚くべき
莊嚴で
且つ
鮮麗な
光を
放射せしめた。
時雨の
雲に
映ずる
槭の
梢は
確然と
浮き
上つて
居ながら
天鵞絨の
地に
深く
浸み
込んで
居る
樣にも
見えた。
其の
前に
空を
支へて
立つた二
條の
白い
柱は
幟旗であつた。
幟旗は
止まずばた/\と
飜つた。
更に
俄にごつと
立つた
風に
森の
梢の
葉は
散亂して
鮮かな
光を
保ちながら
空中に
閃いた。
數分時の
後世間は
忽ちに
暗澹たる
光に
包まれて
時雨がざあと
來た。
村落の
何處にも
晴衣の
姿を
見なく
成つた。おつぎは
與吉を
連れて
疾くに
歸つて
居たのであつた。
夜に
成つて
雨が
歇んだ。
村落の
者は
段々に
瞽女の
泊つた
小店の
近くへ
集まつて
戸口に
近く
立つた。
戸は
悉く
開放つて
障子も
外してある。
瞽女は
各自に
晩餐を
求めて
去つた
後であつた。
瞽女は
村落から
村落の「まち」を
渡つて
歩いて
毎年泊めて
貰ふ
宿に
就てそれから
村落中を
戸毎に
唄うて
歩く
間に、
處々で
一人分づゝの
晩餐の
馳走を
承諾して
貰つて
置く。それで
彼等は
夜の
時刻が
來ると、
目明の
手曳がだんだんと
其の
家々に
配つて
歩く。さうしては
復た
手曳がそれを
集めて
打ち
連れて
歸つて
來る。
目の
不自由な
彼等は
漸くのことで
自分の
求める
家に
就いても
板の
間の
端などにぽつさりとして
膳の
運ばれるのを
待つて
居るので一
同の
腹が
滿たされて
再び
杖に
縋るまでには
面倒な
時間を
要するのである。
小店の
座敷には
瞽女の
大きな
荷物と
袋へ
入れた
三味線とが
置いてあつて
淋しく
見えて
居た。
只一人の
巫女が
彼等に
特有の
態度を
保つて
正座を
張つて、
其の
何時でも
放さない
荷物を
前へ
置いてしやんと
坐つて
居るのであつた。
表には
村落の
者が
漸く
殖えて
土間から
座敷へ
上る
者もあつた。
彼等は
理由もなしに
只騷ぎはじめた。
彼等は
沼邊の
葦のやうに
集れば
互に
只ざわ/\と
騷ぐのである。
巫女はかなりの
婆さんであつたので、
白粉つけた
瞽女等に
向つて
揶揄ふ
樣な
言辭は
彼等の
間には
發せられなかつた。
「どうしたえ、
口寄一つやつて
見ねえかえ」
大勢の
中から
切り
出したものがあつた。
葦の
葉末が
微風にも
靡けられる
樣に
此一
語の
爲に
皆ぞよ/\と
復騷いだ。
群集の
中にはおつぎも
交つて
居た。
若い
衆等は
先刻からそれに
注目して
居たが
「どうした、
彼奴等こと
寄せてんべぢやねえか」
「おつぎこと
出してんべぢやねえか」
彼等はひそ/\と
竊に
喋し
合せた。
「
寄せてんべえと」
群集の
後の
方から
呶鳴つた。
「そんぢや
此方へ
出さつせえな」
店の
女房はいつた。
群集は一
時に
威勢がついて
巫女の
膝近くまでぎつしりと
座敷を
塞いだ。
勘次もおつぎも
座敷に
窮屈な
居ずまひをして
居た。
店の
女房は
少し
剥げた
塗盆へ
水を一
杯に
汲んだ
飯茶碗を
載せて
「ちつとおめえ
等退つてくんねえか」といひながら
人々の
間を
足探りに
歩いて
巫女の
婆さんの
前へ
置いた。
「そんぢや
誰だんべ、
寄せんな」
女房は
立つた
儘一
同を
見廻して
嫣然としていつた。それでも
暫くは
凡てが
口を
緘んで
居た。
巫女の
婆さんは
箱を
包んだ
荷物を
其儘自分の
膝へ
引きつけて
待つて
居る。
「
俺れやんべ、そんぢや」
若い
衆の
一人が
婆さんの
前へ
出て
「
俺ら
生口寄せて
見てえんだが、
幾らだんべ
一口は」
「五
錢づゝでさ」
巫女の
婆さんは
落付いていつた。
「
此ら
只默つてゝえゝんだつけかな」といふと
「えゝんだよそんで、
自分の
思つてたの
出て
來んだから」
「かんぜん
撚拵えて
水掻ん
廻せば、えゝんだよ」
側から
巫女の
婆さんのいふのも
待たずに
口を
出した。
「三
度でえゝんだつけかな」
婆さんの
前へ
坐つた
一人は
後の
方を
向いていつて
彼は
不器用な
紙捻を
拵へて
其の
先を
茶碗の
水へ
浸して三
度丁寧に
掻き
廻して
其の
儘紙捻を
水に
浸して
置いた。
「
見ろよ、
近頃薩張來てくんねえが、
俺れこと
厭にでも
成つたんぢやねえかなんて
出つから」と
店の
女房は
戯談を
交へた。
巫女は
暫く
手を
合せて
口の
中で
何か
念じて
居たが
風呂敷包の
儘箱へ
兩肘を
突いて
段々に
諸國の
神々の
名を
喚んで、一
座に
聚めるといふ
意味を
熟練したいひ
方で
調子をとつていつた。がや/\と
騷いで
居た
家の
内外は
共にひつそりと
成つた。
「
行々子土用へ
入えつた
見てえに、ぴつたりしつちやつたな」と
呶鳴つたものがあつた。
漸く
靜まつた
群集は
少時どよめいた。
然し
直に
復た
靜まつた。
「
白紙手頼り
水手頼り、
紙捻手頼りにい……」と
巫女の
婆さんの
聲は
前齒が
少し
缺けて
居る
爲に
句切が
稍不明であるがそれでも
澁滯することなくずん/\と
句を
逐うて
行つた。
斜に
茶碗の
水に
立つた
紙捻がだん/\に
水を
吸うて
點頭いた
樣にくたりと
成つた。
「どうせよ一つにや
成れぬ
身を、
別れたいとは
思へども……」と一
同の
耳に
響いた
時「
出た/\」と
靜まつて
居た
群集の
中から
聲が
發せられた。
巫女の
婆さんは
突て
居る
肘を
少し
動かして
乘地に
成つた。
「
俺れが
我が
身というたとて、
自由自儘に
成るならば、
今日の
巫女も
要るまいにい……」
婆さんは
同じやうな
句を
反覆した。
「
出た
處でまつと
饒舌らせろえ」と
一人が
更に
紙捻を
持つて
水を
掻き
廻した。
「かんぜん
捻くた/\して
云ふこと
聽かねえや」いひながら
彼は
手を
止めた。
「
俺れがよ
心はこうなれど、
怒るまえぞえ
見棄てまえ、
互に
顏も
合せたら、
言辭も
掛けてくだされよう……」
巫女は
時々調子を
張り
上げていつた。
「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ
泣くぞ」
群集の
後から
呶鳴つた。
群集は
少時復たどよめいたが一
句でも
巫女のいふことを
聞き
外すまいとして
靜まつた。
巫女の
婆さんの
姿勢が
箱を
離れて
以前に
復した
時抑壓されたやうに
成つて
居た
凡てが
俄にがや/\と
騷ぎ
出した。
彼等は
絶えず
勘次とおつぎとに
對して
冷笑を
浴せ
拂けてゐるのであつたが、
然しそれを
知らぬ
二人は
只凝然として
居た。
凡てが
騷ぐ
間に
在つてさうして
居る
二人の
容子は
態とらしく
見えるまで
際立つて
居た。
巫女の
唱へたことだけでは
惡戯な
若い
衆の
意志も
知らない
二人には
自分等がいはれて
居ることゝは
心づく
筈がなかつたのである。
群集の
後の
方からの
俄な
騷ぎが
内側に
及んだ。
晩餐を
濟まして
瞽女が
手を
曳き
連れて
來た
處なのである。それを
若い
衆が
揶揄半分に
道を
開いてやらうとしては
遣るまいとして
騷いだのであつた。
瞽女は
危險相にして
漸く
座敷へ
上つた
時
「
目も
見えねえのにさうだに
押廻すなえ」
瞽女の
後に
跟いて
座敷の
端まで
割込んで
來た
近所の
爺さんさんがいつた。
若い
衆等は
只
「ほうい/\」と
假聲で
囃した。
爺さんは
勘次が
側に
居たのを
見つけて
「なあ、
勘次さん、こんで
若えものゝ
處がえゝかんな」といひ
掛けた。
外では
再び
囃し
立てゝ
騷いだ。
白い
手拭を
髷の
後が
少し
現はれた
瞽女被りにして
居る
瞽女が
殖えたので
座敷は
俄に
生たやうに
成つた。
瞽女は
一つに
固まつて
成るべくランプの
明るい
光を
避けようとして
居る。
其の
態度を
心憎く
思ふ
若い
衆が
「
俺ら
其の
手拭被つてこつち
向いてる
姐樣こと
寄せて
見てえもんだな」
立ち
塞がつた
陰から
瞽女の
一人へ
揶揄つていつたものがある。
「
何んちいか
寄せて
見せえ」
先刻の
爺さんはいつた。
彼の
顏には
痘痕を
深く
印して
居る。
「どうした
寄せて
見んのか、そんだら
俺れかんぜん
捻拵えてやつかれえ」
爺さんが
更にいつた
時返辭がなかつた。
「えゝ、
情ねえ
奴等だな」
爺さんは
捻り
掛た
紙を
棄てた。
店先の
駄菓子を
入れた
店臺をがた/\と
動かす
者があつた。
「
菓子なんぞまた
盜つちや
畢へねえぞ、うむ、そつちの
方の
酒樽ん
處にも
立つてゝ
飮み
口でも
引つこ
拔かねえで
貰あべえぞ、みんな」と
痘痕の
爺さんは
獨り
乘地に
成つていふのであつた。
「さうぢやねえんだよ、
店臺自分で
歩き
出し
始まつたから
俺れ
抑めえた
處なんだよ」
「えゝからガラスでもおつ
缺かねえやうにしろえ、
此方のおつかさまに
怒られつから」
「そんでも
店臺は四つ
足へ
何か
穿いてら、
土鍋に
片口に
皿だ、どれも/\
能く
打つ
缺けてらあ」
「
何處らか
歩いて
來たと
見えて
足埃だらけだと」二三
人の
聲で
戯談を
返した。
家の
内外のむつとした
空氣が
益ざわついた。
店臺へは
暑い
頃には
蟻の
襲ふのを
厭うて四つの
足へ
皿や
丼の
類を
穿かせて
始終水を
湛へて
置くことを
怠らないのであつた。
「どうれ、
誰も
寄せねえけりや
俺れでも
寄せてんべかえ」
後の
方から
一人進んで
來たものがあつた。
「
只ぢや
駄目だぞ」
痘痕の
爺さんは
直ぐに
要らぬことをいつた。
「そんぢや
困つたなあ、おめえどうした
婆さまこと
死口でも
寄せて
見ねえか」
「
俺ら
厭だよ、
待つてつから
早く
來てくろなんて
云はれた
日にや
縁起でもねえから」
爺さんは
爪で
頭を
掻いた。
「
酷くおめえ
近頃ぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ
婆でも
焦れてる
所爲ぢやあんめえ、
頭髮まで
拔た
樣だな」
剽輕な
相手は
爺さんの
頭へ
手を
掛てゆさ/\と
動かした。
乘地に
成つて
居た
爺さんは
少し
白い
膜を
以て
掩はれた
樣な
眼を

つて
稍辟易した。
「
大豆打にかつ
轉がつた
見てえに
面中穴だらけにしてなあ」
剽輕な
相手は
益惡口を
逞しくした。
群衆は
一聲の
畢る
毎に
笑ひどよめいた。
「
篦棒、さうだ
軟けえ
面で
風吹く
處歩けるもんぢやねえ」
爺さんはむきに
成つていつた。
「どうした
赤え
手拭被らせらつたんべえ」
「
俺らさうだ
手拭なんざあ
被つたこたねえよ」
「そんでも
疱瘡神は
赤え
手拭好きだつちげな」
「そんだつて
俺ら
被んねえよ」
痘痕の
爺さんはすつかり
悄れて
畢つた。
群集は
皆腹を
抱へた。
「どうれ、
俺ら
歸つて
牛蒡でも
拵えべえ、
明日天秤棒檐いで
出る
支障にならあ」
剽輕な
相手は
思ひ
出したやうにいつた。
「どうせ、おめえ
等やうに
紺屋の
弟子見てえな
手足の
者な
牛蒡でも
檐いで
歩くのにや
丁度よかんべ」
復讎でも
仕得たやうな
容子で
爺さんはいつた。
「
資本の二
兩二
分位でこんで
餓鬼奴等までにや四五
人も
命繋いで
行くのにや
赤え
手拭でも
被つてる
樣な
放心した
料簡ぢや
居らんねえかんな」
彼は
復た
爺さんの
頭へ
手を
掛けていつてついと
行つて
畢つた。
後では
波が
巖に
打ちつける
樣に
暫らく
騷いだ。
若い
女は
皆十
分笑つて、
又痘痕の
爺さんを
熟々と
見ては
思ひ
出して
袂で
口を
掩うた。
到頭極り
惡相にして
爺さんも
去つて
畢つた。
「
此の
箱ん
中にや
何だね
入えつてんなあ、
人形坊だつて
本當かね」
前の
方に
居た
若い
衆が
巫女の
荷物へ
手を
掛ていつた。
「なあに
今ぢや
幣束だとよ」と
他の
者がいつた。
「
此ら
見せらんねえんでさ、
此れ
見られつと
何程寄せて
見ても
當んなくなつちやつてね、
自分で
居ねえ
間に
見らつても
屹度知れんでさ」
婆さんは
風呂敷を
捲り
掛た
若い
衆の
手をそつと
拂つていつた。さうすると
「
見せらんねえよ、
其れが
種だから」
呶鳴つたものがあつた。
さういふ
騷ぎをして
居る
間に
幾度かもぢ/\と
身體を
動かして
居た
勘次は
思ひ
切つて
婆さんの
前へ
進んだ。
「わしげ一つ
寄せて
見ておくんなせえ、
死口でがさ」
「そんぢや
笹つ
葉折つちよつて
來ておくんなせえ」
巫女の
婆さんはいつた。
「
此方で
折つちよつて
遣んべ」と
勘次が
立ち
掛た
時後の
方で
呶鳴つた。
暫くして
小さな
竹の
葉が
手から
手へ
傳へられて
茶碗の
水の
中に
置かれた。一
同は
再び
靜まつた。
勘次は
竹の
葉を
以て
茶碗の
水を三
度掻き
廻してそつと
手を
放した。ランプの
光に
竹の
葉は
水から
出た
部分は
青く、
水に
沒した
部分は
水銀のやうに
白く
光つた。
巫女の
婆さんは
先刻と
同じく
箱へ
肱を
突いて
「
能く
喚び
出してくれたぞよう……」と
極つたやうな
句を
反覆しつゝまだ十
分の
意味を
成さないのに
勘次は
整然と
坐つた
膝へ
兩手を
棒のやうに
突いてぐつたりと
頭を
俛れた。おつぎもしをらしく
俯向いた。
島田に
結うたおつぎの
頭髮が
明かるいランプに
光つた。おつぎは
特に
勘次に
許されて
未明に
鬼怒川の
渡を
越えて
朋輩同志と
共に
髮結の
許へ
行つたのであつた。
髷には
油が
能く
乘つて
居て
上手掛けた
金房が
少しざらりとして
動搖いた。
巫女が
漸次に
句を
逐うて
行くうちに
「
姿隱れて
出て
見れば、
何知るまいと
思だろが、
俺れは
其の
身の
處へは、
日日毎日ついてるぞ、
雨は
降らねど
箕に
成り、
笠に
成りてよ……」と
巫女の
聲は
前齒の
少し
缺けたにも
拘らず、一つには一
同がひつそりとして
咳拂をもせぬ
故であらうが
極めて
明瞭に
聞きとられた。
「一
度ならず、二
度三
度、
不思議打たせて
知らせたに……」
婆さんの
聲が
次で
響いた。
勘次もおつぎも
只凝然として
居るのみである。
「
俺れが
達者で
居るならば……」といふ
句が
讀まれたと
思ふと
軈て
「
呉れるよ
程の
心なら、ほんに
苦勞でも
大儀でも、
蕾の
花を
散らさずに、どうか
咲かせてくだされよう……」
熟練した
聲の
調子が、さうでなくても
興味を
持つて
居る一
同の
耳にしみじみと
響いた。
「
鴉の
鳴かない
日はあれど、
草葉の
陰で……」
婆さんが
自分の
聲に
乘つて
來た
時勘次はぼろ/\と
涙を
零した。おつぎもそつと
涙を
拭つた。
「ほんの
假座のことなれば、
此れにて
俺れは
歸るぞよう……」それから
又
「
鴉の
鳴きがそでなくもう……」と
反覆しつゝ
巫女の
婆さんの
聲は
輕く
引いてそつと
拔いたやうに
止んだ。
「
俺れ
濟まねえ」
勘次はぽつさりといつて
又涙を
横に
拭つた。
「
本當に
出たんだよ、
可怖えやうだな」
其處に
居た
若い
女房はしみ/″\といつた。それから
續いて
他の二三
人が
身の
上やら
生口やらを
寄せた。さうして
座敷の
隅に
居た
瞽女が
代つて
三味線の
袋をすつと
扱きおろした
時巫女は
荷物の
箱を
脊負つて
自分の
泊つた
宿へ
歸つて
行つた。
三味線の
撥が一
度絃に
觸れるとしんみりとした
座敷が
急に
勢ひづいてランプの
光が
俄に
明るいやうに
成つた。
勘次はそれを
聞くに
堪へないで、
彼は
其の
夜に
限つて
自分で
與吉の
手を
曳いて
自分の
家へと
闇の
中へ
身を
沒した。
若い
衆は三
人の
後姿を
見て
「
蛬ぢやねえが、
口鳴らさねえぢや
居らんねえな」といつた。
「そんだが、
今夜はしみ/″\
泣いたんぢやねえけ、あんでもお
品さんこた
何程惜しいか
知んねえのがだかんな」
「
今だつて
其噺すつと
幾らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、
先刻見てえに
泣いてんのに
惡口なんぞいふな
罪だよなあ」と
若い
女房等はそれでもしんみりといつた。
其の
夜から
暫くの
間勘次は
以前とは
異つておつぎを
獨り
放して
出すことが
有る
樣に
成つた。さうかと
思つて
居る
内に
村落中が
復た
勘次のおつぎに
對する
態度の
全く
以前に
還つたことを
認めずには
居られなくなつた。
村落の
目は
勢ひ
嫉妬と
猜忌とそれから
新に
起つた
事件に
對するやうな
興味とを
以て
勘次の
上に
注がれねばならなかつた。
勘次は
殆んど
事毎に
冷笑の
眼を
以て
見られて
居るのであつたが
然しそれが
厭な
感情を
彼に
與へるよりも、
彼は
彼の
懷に
幾分の
餘裕を
生じて
來たことが
凡ての
不滿を
償うて
猶餘あることであつた。お
品がまだ
生きて
居る
頃隣の
主人の
内儀さんに
向つて
「お
内儀さん
等何にも
心配なんざ
無くつて
晴々として
居んでござんせうね」お
品はつく/″\といつたことがある。
「
何故そんなこといふんだい」
内儀さんは
怪しんで
聞いたら
「そんでもお
内儀さん
等喰べる
心配なんざちつともねえんだから、わたしやさうだと
思つてせえ」お
品はいつた。
内儀さんは
成程さういふ
心持で
居るのかと、それから
種々と
身分相應な
苦勞の
止まぬことを
噺て
聞かせると
「さうでござんせうかねお
内儀さん、わたし
等また
明けても
暮れても
無え
足んねえの
心配ばかしゝてんだから、さういことねえ
人は
心配なんちやねえんだとばかし
思つてたんでござんすよ、ねえ
本當に」お
品は
感に
堪へたやうにいつたのであつた。お
品がそれ
程苦勞した
米穀の
問題が
其の
死後四五
年間の
惨憺たる
境遇から
漸く
解決が
告げられようとしたのである。
彼は
毎年冬からまだ
草木の
萌え
出さぬ
春までの
内に
彼等にしては
驚くべき
巨額の四五十
圓を
贏ち
得るのであつた。
其れは
古い
創痍の
穴に
投ぜられるにしても
彼は
土間の
鷄の
塒の
下に三
人が
安心して
居るだけの
食料を
求めて
置くことが
出來る
樣に
成つた。おつぎは
二十の
聲を
聞いて
與吉は
學校へ
出る
樣に
成つた。
彼は
絶えず
或物を
探すやうな
然も
隱蔽した
心裏の
或物を
知られまいといふやうな、
不見目な
容貌を
村落の
内に
曝す
必要が
漸く
減じて
來た。
彼は
段々彼等の
伴侶に
向つて
以前の
如くこせ/\と
徒らに
遠慮した
態度がなくなつた。
彼は
村落の
凡てに
向つて
拂つた
恐怖の
念を
悉く
東隣の
家族にのみ
捧げて
畢つた。
其の
間彼と
卯平とは
只一
回逢つたのみである。
卯平はお
品が三
年目の
盆にふいと
來てふいと
立つたのである。
卯平は八十に
近く
成つて
居ながら
恐ろしい
岩疊な
身體が
髮は
白く
且少く
成つたが
肌膚には
潤澤があつた。
卯平は
夜は
火の
番をしても
暑い
日には
庭の
草
をしたり、
他の
藏々への
使ひに
行つたり、
幾分の
忙しさを
感じても、
使ひに
行けば
屹度茶菓子を
包まれたり、
手拭を
貰つたり、それから
主人からは
給料以外の
賞與があつたりするので
少し
堅固にすれば、
懷には
小錢を
蓄へて
置くことも
出來るのであつたが
彼は
能くコツプ
酒を
傾けたので
彼の
懷は
決して
餘裕を
存しては
居なかつた。
野田は
郷里からは
比較的近いので
醤油藏が
段々發達して
行くに
連れて
傭はれて
行く
壯丁が
殖えて
來た。
郷里では
傭人の
給料が
暴騰して
來た
程どの
村落からも
壯丁が
行つた。
其れが
頻りに
交代されるので、
卯平は一
度しか
郷里の
土を
踏まなくても
種々の
變化を
耳にした。
彼は一
番おつぎのことが
念頭に
浮ぶ。十七の
秋に
見たおつぎの
姿がお
品に
能くも
似て
居たことを
思ひ
出しては、
他人の
噂も
聞いて
見て
時々は
逢つても
見たい
心持がした。
然しお
品が
死んだ
時野田への
立ち
際がよくなかつたことを
彼自身の
心にも
悔ゆる
處があつたので
強ひて
厭な
勘次へ
挨拶をして
一時なりとも
肩身を
狹くせねばならないのを
厭うて
遂憶劫に
成るのであつた。
年齡を
積むに
從つて
短く
感ずる
月日がさういふ
間に
循環して、くすんで
見えることの
多い
江戸川の
水を
往復する
通運丸の
牛が
吼えるやうな
汽笛も
身に
沁みて、
冬の
寒さが
酷くなると
以前からの
癖で
腰に
疼痛を
感ずることがあつた。
藏の
傭人の
爲に
抱へてある
醫者に
見て
貰つても、
老病だから
藥を
飮んで
見た
處で、さう
效驗が
見えるのではないがそれでも、
飮みたけりや
飮むが
善いといふのみで
別段身に
沁みていつてくれるのでもない。
卯平は
幾ら
飮んでも
自分の
懷が
痛まないのだからと
思つて
見ても
醫者のいふ
通りどうもはき/\としないので
晝間は
成るべく
蒲團にくるまる
樣にして
居た。
卯平は
年末の
出代の
季節になれば
其の
持病を
苦にして、
奉公もどうしたものかと
悲觀することもあるが、
我慢をすれば
凌げるので
遂居据りに
成つて
居るうちに
何時でも
春の
季節に
還つて、
郊外に
際涯もなく
植られた
桃の
花が一
杯に
赤くなると
其の
木陰の
麥が
青く
地を
掩うて、
江戸川の
水を
溯る
高瀬船の
白帆も
暖く
見えて、
大きな
藏々の
建物が
空しく
成る
程一
切の
傭人が
桃畑に一
日の
愉快を
竭すやうになれば
病氣もけそりと
忘れるのが
例であつた。
清潔好な
彼は
命令されるまでもなく、
庭にぽつちりでも
草が
見えれば

らずには
居られない。
狹苦しいにしてもきちんとした
傭人部屋の
周圍の
土に
箒目を
入れて
水でも
打つて
見たり、
其處らで
作る
朝顏の
苗を
貰つてどんな
姿にも
鉢へ
植て
見たりして
居ると
奉公が
辛くも
思はないのであつた。それも二三
年の
間で
普通の
人間ならばもう
到底役にも
立たぬ
年齡に
達して
居るので、
假令彼の
境遇が
安佚を
許さない
爲に
恁うして
精神的に
健康が
保たれて
居るのだとしても、
彼の
老躯は
日毎に
空腹から
來る
疲勞を
醫する
爲に
食料を
攝取する
僅な
滿足が
其の
度毎に
目先の
知れてる
彼を
拉して
其の
行く
可き
處に
導いて
居るのである。
復た
冬が
來た
時、
彼は
今までの
腰の
痛みと
違つた一
種の
疾患を
生じたやうに
感じた。
醫者は
依然僂痲質斯なのだといつて、
寒い
夜に
火の
番をして
歩くのは
絶對に
惡いといふのであつた。それでも
彼は
我慢の
出來るだけ
務めた。
出代の
季節が
來た
時彼はまた
頻りに
惑うたが、どうも
其處を
立つて
畢ふのが
惜しい
心持もするし、
逡巡して
復た
居据りになつた。
郷里から
來たものに
聞いて
彼は
勘次が
次第に
順境に
赴きつゝあることを
知つた。
彼は
心が
復た
動搖して
脆く
成つた
心が
酷く
哀つぽく
情なくなつた。
然し
長い
間機嫌を
損ね
合うた
勘次の
許へ
歸るのには
彼は
空手ではならぬといふことを
深く
念とした。
彼は
夫からといふもの
成るべくコツプ
酒も
節制して
懷を
暖めようとした。
從來彼が
遠く
奉公に
出て
居て
幾らでも
慰藉の
途を
發見して
居たのは
割合に
暖かな
懷を
殆んど
費しつゝあつたからである。それで
彼は
今さう
氣がついて
見ても
身體の
養生をしなくてはならぬといふことが一
方に
有るのでそれが
思ふ
程にはいかなかつた。さういふ
心配が
又春も
暖かに
成つて
病氣を
忘れると
歸ることも
其の
儘に
消滅して
畢ふのである。
然しどう
我慢をして
見ても
後幾年も
勤まらないといふことを
周圍の
人も
見て
居るのである。
殊に
永い
間野田へ
身上を
持つて
近所の
藏の
親方をして
居るのが
郷里の
近くから
出たので
自然知合であつたが、それが
卯平に
引退を
勸めた。
彼は
故郷へ
幾年目かで
行く
序もあるし、
幸ひ
勘次のことは
村落に
居る
内に
知つて
居たから
相談をして
來てやらうといつた。
卯平は
近頃滅切窪んだ
茶色の
眼を
蹙めるやうにしながら
微かな
笑を
浮べた。
親方が
勘次へ
噺をした
時
「わしや、なあに、
家のもんだから
面倒見ねえた
云はねえね」
勘次は
油の
乘らぬ
態度でいつた。
「
勘次さん
近頃工合がえゝといふ
噺だが」
親方も
義理一
遍のやうにいふと
「
工合えゝつちこともねえが、
此んでも
命懸けで
働えてんだから、
他人のがにや
大けえ
錢になるやうにも
見えべが、
俺らにこんで
爺樣が
代の
借金拔けねえで
居んだからそれせえなけりや
泣かねえでも
畢へんだよ、そんだがそれでばかり
動き
取れねえな」
「そんぢや、
其の
時にや
勘次さんも
善い
理由だね」
「そりやさうだが」
勘次は
何處となく
拍子を
變へていつた。
「
勘次さん
等それでも
穀類はなか/\
有る
容子だね」
突込んで
聞くと
「
其の
位なくつちや
仕やうねえもの、
俺ら
此處へ
來た
當座にや
病氣ん
時でもからつき
挽割麥ばかしの
飯なんぞおん
出されて、
俺ら
隨分辛え
目に
逢つたんだよ、こんでさうえこた、
忘らんねえもんだかんな」
勘次は
到頭要領を
得ない
返辭をするのみであつた。
藏の
親方は
勘次がどういふ
料簡であるといふことは
卯平へはいはなかつた。
假令どうした
處で
勘次の
許へ
歸らねばならぬことに
極つて
居るのだから、それには
戸板へ
乘せてやる
樣な
病氣の
起るまで
奉公させて
置くよりも、
丈夫なうちに
暇を
取らせて
還して
畢へば、
或は
勘次との
間も
思つた
程のこともないだらうと、
程よいことに
卯平へ
噺した。
卯平は
固より
親方から
家の
容子やおつぎの
成人したことや、
隣近所のことも
逐一
聞かされた。
卯平は
窪んだ
茶色の
眼に
暖かな
光を
湛へた。
卯平は
短い
時間であつたが
氣がついてから
心掛けたので
財布には
幾らかの
蓄へもあつた。
僅な
衣物であるがそれでも
煤けたやうに
褪めた
風呂敷に
大きな
包が二つ
出來た。一つの
不用の
分は
運河から
鬼怒川へ
通ふ
高瀬船へ
頼んで
自分の
村落の
河岸へ
揚げて
貰ふことにして、
彼は
煙草の一
服をも
忘れない
樣に
身につけた。
彼は
股引に
草鞋を
穿いて
其の
大風呂敷を
脊負つて
立つた。
麥酒の
明罎二
本へ一
杯の
醤油を
莎草繩で
括つて
提げた。それから
彼は
又煎餅を一
袋買つた。
醤油と
米とが
善いので
佳味い
煎餅であつた。
彼は三つの
時に
別れて五つの
秋に
一寸見た
與吉がもう八つか九つに
成つて
居ると
恁う
數へて
見て
土産が
買ひたく
成つたのである。
煎餅の
袋は
毎日使つて
居た
手拭で
括つて
荷締めの
紐へ
縛りつけた。
彼は
冬になつてまた
起りかけた
僂痲質斯を
恐れて
極めてそろ/\と
歩を
運んだ。
利根川を
渡つてからは
枯木の
林は
索寞として
連續しつゝ
彼を
呑んだ。
彼は
處々へのつそりと
腰を
卸して
好きな
煙草をふかした。
荷物を
路傍へ
卸す
時彼は
屹度縛りつけた
手拭の
包へ
手を
掛けて
新聞紙の
袋のがさ/\と
鳴るのを
聞いて
安心した。
枯木の
林は
立ち
騰る
煙草の
煙が
根の
切れた
儘すつと
急いで
枝に
絡んで
消散するのも
隱さずに
空洞として
居る。
卯平が
凝然として
居ると
萵雀が
忍び/\に
乾いた
落葉を
踏んで
彼の
近くまで
來てはすいと
枝へ
飛んだ。
彼は
周圍には一
切心を
惹かされることもなく
袂の
燐寸へ
火を
點けては
又燐寸を
袂へ
入て、さうしてからげつそりと
落ちた
兩頬の
肉が
更にぴつちりと
齒齦に
吸ついて
畢ふまで
徐りと
煙草を
吸うて、
煙管をすつと
拔いてから
又齒齦へ
空氣を
吸うて
煙と一つに
飮んで
畢つたかと
思ふやうにごくりと
唾を
嚥んで、それから
煙を
吐き
出すのである。
彼は
周圍が
寂しいとも
何とも
思はなかつた。
然し
彼自身は
見るから
枯燥して
憐れげであつた。
彼は
少しきや/\と
痛む
腰を
延して
荷物を
脊負つて
立つた。
捨てた
燐寸の
燃えさしが
道端の
枯草に
火を
點けて
愚弄するやうな
火がべろ/\と
擴がつても、
見向かうともせぬ
程彼は
懶げである。
野田からは十
里に
足らぬ
平地の
道を
鬼怒川に
沿うた
自分の
村落まで
來るのに、
冬の
短い
日が
雜木林の
梢に
彼を
待たなかつた。
彼は
自分の
家に
着いた
時は
醤油を
提げた
手が
痛い
程冷えて
居た。
彼は
漸のことで
戸口に
立つた。
勘次を
喚ばうとして
見たら
内はひつそりと
闇い。
戸口に
手を
當てゝ
見たら
鍵が
掛てあつた。
「
居たかえ」それでも
卯平は
呶鳴つて
見たが
返辭がない。
卯平は
口の
内で
呟いて
裏戸口へ
廻つて
見たら
其處は
内から
掛金が
掛つて
居る。
彼はそれでも
煙管を
出して
戸の
隙間から
掛金をぐつと
突いたら
栓を

てなかつたので
直に
外れた。
彼は
闇い
閾を
跨いで
袂の
燐寸をすつと
點けた。
幾年居なくても
勝手を
知つて
居るので
彼は
柱へ
懸てある
手ランプを
點けて、
取り
敢ず
手足を
暖める
爲に
麁朶をぽち/\と
折つて
火鉢へ
燻べた。
煤けた
藥罐を五
徳へ
掛てそれから
彼は
草鞋をとつた。
乾いた
道を
歩いて
來たので
幾らも
汚れない
足の
底を二三
度づゝ
手でこすつて
座敷へ
上つた。
勘次は
南の
風呂へ
行つて
居た。
彼は
晝は
寸暇をも
惜んで
勞働をするので一つには
其れが
夜なべの
仕事を
勵み
得ない
程の
疲勞を
覺えしめて
居るのでもあるが、
少し
懷が
窮屈でなくなつてからは
長い
夜の
休憇時間には
滅多に
繩を
綯ふこともなく
風呂に
行つては
能く
噺をしながら
出殼の
茶を
啜つた。
其夜與吉は
南の
女房から
薄荷の
入つた
駄菓子を二つばかり
貰つた。
裏の
垣根から
桑畑を
越えて
歩きながら
與吉は
菓子を
舐つた。
「どれ、
俺げもちつと
出て
見ねえか」おつぎは
與吉の
手から
少し
缺いて
自分の
口へ
入れた。
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、241-12]は
大かくおつ
缺えちや
厭だぞう」
與吉は
懸念していふと
「おゝ
薄荷だこら、
口ん
中すう/\すら、おとつゝあげも
遣つて
見ろ」おつぎは
又た
菓子へ
手を
掛けようとすると
「えゝから、よきげ
嘗めさせろ」
勘次はおつぎを
制した。三
人は
他人の
目が
開いてない
闇夜の
小徑を
恁うして
自分の
庭へ
戻つた。
「どうしたんだんべ、おとつゝあ」おつぎは
戸の
隙間から
射す
明りを
見て
俄に
立ち
止つていつた。
勘次は
竦んだやうに
成つて
默つた。おつぎは
戸の
隙間から
覗いて
「
爺見てえだな、おとつゝあ」と
小聲で
告げた。それから
勘次も
覗いて、
鍵を
外して
這入つた。
與吉は
見識らぬ
爺さんが
居るので
羞かんでおつぎの
後へ
隱れた。
「
爺だ」とおつぎは
叫んで
卯平の
側へ
寄つた。
「
爺は
今日來たのか」おつぎの
挨拶に
續いて
「おとつゝあ
遲かつたな」
勘次もいつた。
「
出だすのもそんなに
早かなかつたつけが、
暫く
歩きつけねえ
所爲かなんぼにも
足が
出ねえで、かういに
遲くなる
積もなかつたつけが」
卯平は
重い
口でいつた。
「
餘つ
程待つてゝか
爺は」おつぎは
麁朶を
折り
足しながらいつた。
「
火吹つたけたばかりよ」
卯平は
其の
窪んだ
茶色の
眼を
蹙めるるやうにして
「おつうも
大かくなつたな、
途中でなんぞ
行逢つちや
分んねえな、そんだが
汝りや
有繋俺れこた
忘れなかつたつけな」
「
忘れめえな
爺は」おつぎは
卯平に
對してこそつぱい一
皮が
間を
隔てゝ
居るやうな
感じがして
居ながら、
其の
癖の
甘えた
樣な
舌でいつてちう/\と
鳴り
出した
藥罐へ
手を
掛けた。
卯平はおつぎの
挨拶を
今更の
如くしみ/″\と
嬉しく
感じた。
卯平はお
品が
死んで三
年目の
盆に
來た
時不器用な
容子の
彼がどうして
思ひついたかおつぎへ
花簪を一つ
買つて
來た。十七のおつぎがどれ
程それを
喜んだか
知れなかつた。おつぎは
決してそれを
忘れなかつた。
「
爺げお
茶入えべえ」おつぎは
立つて
茶碗を
洗つた。
卯平は
濃霧に
塞がれた
森の
中へ
踏込むやうな一
種の
不安を
感じつゝ
來たのであつたが、
彼はおつぎの
仕打に
心が
晴々した。
卯平は、まだ
菓子を
舐りながら
隱れるやうにして
居る
與吉を
見て
「
俺れこと
忘れたんべ
此ら、
大かく
成つたと
思つて
來たつけが
本當に
分んねえ
程大かく
成つたな」
寡言な
卯平が
此の
夜は
種々に
饒舌つた。
「
此んでも
學校へ
行くんだもの」おつぎは
茶を
入れながらいつた。
「さうら」と
卯平は
荷物へ
縛りつけた
煎餅の
包を
與吉へ
投げ
出してやつた。
「おつう、
手拭解えて
見ねえか、
野田でも一
番うめえんだから」
卯平はいつたがおつぎの
手が
暇どれるので
自分で
手拭を
解いて
勘次の
前へ
出して、
彼は
更に一
枚をとつて
與吉へ
遣つた。
「よき、それ
貰あもんだ。
爺呉れるつちのに」おつぎは
茶碗を
卯平と
勘次との
前へ
据ゑつゝいつた。
「こつちへ
上つて
貰あもんだ」
勘次もいつた。
土間に
立つて
居た
與吉はそつと
草履を
脱いで
危險相に
手を
出して
取た。さうして
直ぐに
偸むやうに
噛んだ。
「
遠くの
方のがんだぞ、
汝うまかんべ」おつぎは
自分も一
枚を
噛り
乍らいつた。
「うまかねえやそんなに」
與吉はおつぎの
袂へ
隱れるやうにしていつた。
甘味の
強い
菓子を
噛んだ
口に、さうして
醤油の
味を
區別するまで
發達した
舌を
持たない
與吉は
卯平が
遠く
齎したと
聞かせられた
程には
感じなかつたのである。
「
其
こといふもんぢやねえ、そんだら
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、244-8]げよこしつちめえ」おつぎは
小さな
聲でいつて
尻目に
掛けた。
與吉はさういひ
乍ら
手にした
丈はぽり/\と
噛んだ。
乾燥した
響が三
人の
口に
鳴つた。
卯平は
幾杯も
只茶を
啜つた。
壯健だといつても
彼は
齒がげつそりと
落ちて
軟かな
物でなければ
噛めなくなつて
居た。
卯平は
又おつぎへ
醤油の
罎を
出して
「
俺れ
持つて
來ればなんぼでも
譯ねえんだが
荷物があるもんだから、
此れつ
切しか
持つちや
來ねえつちやつた、
此んでも
俺ら
藏ぢや
此上はねえんだ、
炊事は
汝すんだんべから、
汝そつちへ
藏つて
置けな」
「
大變だつけな
爺、
荷物あんのになあ、
此れだけぢや
暫らくあんべよ」おつぎは
罎を
柱の
傍へ
置いた。
「
荷物はさうでもねえが、
身體利かねえでな、どうも」
卯平は
煙管を
噛んだ。
「
爺はどうしたつぺ、お
飯たべたんべか」おつぎは
敢ていひ
掛けるといふ
態度でもなく
勘次に
向つていつた。
「おらどつちでもえゝや」
卯平は
少し
遠慮を
交へていつた。
「どつちでもえゝつて
腹減つちやしやうあんめえな」おつぎは
茶碗と
箸とを
棚から
卸した。
「
菜つ
葉の
漬たなどうしたんべ」おつぎは
顧みて
聞いた。
「
俺ら
要らねえや、
齒悪くなつちやつて
噛まんねえから」
「そんぢや
細かく
刻んだらどうしたんべ」おつぎはとん/\と
庖丁を
使つた。
「お
汁まあ、ちつとも
身なんざねえや、よき
汝みんな
芋すくつちやつたな」
おつぎは
鍋葢をとつていつた。
「お
汁も
何も
要らねえから一
杯掻つ
込んべ」
卯平は
遲緩し
相にいつた。
「そんぢや
此醤油掛けてんべな」おつぎは
卯平の
前に
膳を
据ゑて
罎の
醤油を
菜漬へ
掛けた。
「それ、
底の
方へ
廻つて
零れらな」
勘次は
先刻から、
怒つたやうな
羞かんだやうな、
何だか
落付の
惡い
手持のない
顏をして、
却て
自分をば
凝然と
見もせぬ
卯平の
目から
外れるやうに、
餘所を
見ては
又ちらと
卯平を
見つゝあつたが
此時おつぎの
手許へ
嘴を
容れた。
其の
時醤油がごつと
出て
菜漬が
漂ふばかりに
成つた。
「そうれ
見ろ」
勘次はそつけなくいつた。おつぎが
罎を
再び
柱の
傍へ
置くと、
「まだ
其處で
引つくるけえしちや
大變だぞ、
戸棚へでも
入えて
置け」
勘次は
復た
注意した。
卯平は
藥罐の
湯を
注いで三
杯を
喫した。
僅に
醤油の
味のみが
數年來の
彼の
舌に
好味たるを
失はなかつたが、
挽割麥の
勝つた
粗剛い
飯は
齒齦が
到底それを
咀嚼し
能はぬのでこそつぱい
儘に
嚥み
下した。おつぎが
膳を
引かうとすると
「
其の
醤油は
打棄らねえで
大事にして
置け」
勘次は
小皿の
數滴を
惜んだ。
「
其
こと
云はねえつたつて
打棄るもなあんめえな」おつぎは
干渉に
過ぎた
勘次の
注意が
厭だと
思ふよりも、
偶逢つた
卯平の
側でいはれるのが
極りが
惡いので
喉の
底で
呟いた。
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、246-11]今一
枚くんねえか」
與吉は
流し
元に
手を
動かして
居るおつぎへ
極めて
小さな
聲で
請求した。
「
汝りや、そつから
佳味かねえなんていふもんぢやねえ、
直ぐ
欲しくなる
癖に」おつぎはこつそり
叱つた。
「そうら
汝げ
買つて
來たんだ、
欲しけりや
幾らでも
持つてけ」
卯平は
不器用ないひ
方をしながら
煎餅をとつて
遣つた。
與吉はそれでも
窪んだ
目を
蹙めて
居る
卯平がまだこそつぱくて
指の
先で
下唇を
口の
中へ
押し
込むやうにしながら
額越しに
卯平を
見た。
次の
朝與吉はまだ
皆の
膳の
据ゑられぬうちから
學校へ
行くとては
騷いだ。
村落の
生徒等は
登校の
早いことを
教師から
只一
言でも
褒められて
見たいので、
慌てなくても
善いのに
汁も
煮立たぬうちから
強請むのである。
與吉は
此れで
毎朝おつぎから
五月蝿がられて
居た。
與吉は
風呂敷包を
脊負つておつぎに
辨當を
包んで
貰ひながら
「
煎餅くんねえか」と
要求した。
「まださうだこと、そんだから
汝げは
見せらんねえつちんだ、
爺に
怒られつから
見ろ」おつぎは
叱つて
顧みなかつた。
勘次は
其の
時外の
壁際に
積んだ
木の
根をぱかり/\と
割つて
居た。
卯平は一
日歩いた
草臥が
酷く
出たやうでもあるし、
又自分の
村落へ
歸つたので
心が
悠長とした
樣でもあるし、それに
此の
數年來は
火の
番の
癖で
朝はゆつくりとして
居るのが
例であつたので、
彼は
其の
時蒲團の
中に
凝然と
目を
開いておつぎの
働いて
居るのを
見て
居たが
「
欲しいつちんだら
出して
遣れえ」
彼はいつた。おつぎは
戸棚から
煎餅を一
枚出して
與吉へ
渡した。
與吉はすつと
奪ふ
樣にして
取つた。
「しらばつくれて」おつぎは
斜に
脊負つた
書藉の
上から
與吉をぱたと
叩いた。
與吉は
霜の
白く
掩た
庭を
小さな
下駄でから/\と
鳴らしながら
遁げるやうに
駈けて
行つた。
卯平は
窪んだ
目を
蹙めて一
種の
暖かな
表情を
示して
與吉の
後姿を
見た。
勘次は
割つた
薪を
草刈籠へ
入れて
竈の
前へ
置いて
朝餉の
膳に
向つて、一
碗を
盛つた。おつぎは
氣がついた
樣に
「
爺こと
起すべか」といつて
勘次が
返辭せぬ
内に
「
爺、お
飯出來たよ」
卯平を
喚んだ。
「
先やつてくろえ」
卯平はさういつて
暫く
經つてから
蒲團を
出て
井戸端へ
行つた。
卯平は
幾年目かで
冷たい
水で
顏を
洗つた。
彼は
近來にない
晨起きをしたので、
霜の
白い
庭に
立つて
硬ばつた
足の
爪先が
痛くなる
程冷たいのを
感じた。
火鉢の
側へ
坐つても
煙草の
火もないので
彼は
自分で
竈の
下の
燃えさしを
灰の
儘とつた。おつぎは
勘次が
煙草を
吸はないので
一寸煙草の
火をとることにまでは
心附かなかつた。
野田では
始終かん/\と
堅炭を
熾して
湯は
幾らでも
沸つて
夜でも
室内に
火氣の
去ることはないのである。
卯平は
後れて
箸を
執つたが、
飯は
暖かいといふ
迄で
大釜で
炊いた
樣に
程よい
軟かさを
保つては
居ないし、
汁も
其の
舌に
酷くこそつぱく
且不味かつた。
彼は
味噌には
分量を
増す
爲に
醤油粕が
掻き
交ぜてあることを
知つた。
勘次は
鍬を
執つて
立つた。
彼は
毎日唐鍬を
持つて
出て
居るのであつたが
此の
日はおつぎを
連れて
麥畑の
冬墾に
出るのであつた。
卯平は
獨で
然と
残された。
丈夫な
建物に
箒を
入れて
清潔に
住んで
來た
彼は
天井もない
屋根裏から
煤が
垂れてさうして
雨戸を
開けてない
薄闇い
家の
内に
凝然としては
妙に
心が
滅入つた。
毎日朝から
尻切襦袢一つで
熱湯の
桶を
右の
手で
肩に
支へては
駈け
歩く
威勢の
善い
壯丁の
間に
交つて
唄の
聲を
聞て
居たのに、一つには
草臥も
出た
爲でもあるが
僅一
日の
隔で
彼は
俄に
年齡をとつた
程げつそりと
窶れたやうな
心持に
成つた。
皆の
夜具は
只壁際に
端を
捲くつた
儘で
突きつけてある。
卯平は
其處を
凝然と
見た。
箱枕の
括りは
紙で
包んでないばかりでなく、
切地の
縞目も
分らぬ
程汚なく
脂肪に
染つて
居る。
土間の
壁際に
吊つた
竹籃の
塒には
鷄の
糞が一
杯に
溜つたと
見えて
異臭が
鼻を
衝いた。
卯平は
天性が
清潔好であつたが、
百姓の
生活をして、それに
非常な
貧乏から
什
にしても
穢ない
物の
間に
起臥せねばならぬので
彼も
野田へ
行くまではそれをも
別段苦にはしなかつたのであるが、
假令幾年でも
清潔な
住ひをした
彼は
天性を
助長して一
種の
習慣を
養つた。
彼が
家に
歸つたのはお
品が
死んだ
時でも、それから三
年目の
盆の
時でも
家は
空洞と
清潔に
成つて
居てそれほど
汚穢い
感じは
與へられなかつた。
彼は
今熾な
暑い
日を
仰いだ
目を
放つて
俄に
物陰を
探さうとするものゝやうに
酷く
勝手が
違つたのである。
彼は
暫く
好な
煙草に
屈託して
居たが
漸く
日が
暖く
成り
掛けたので、
稀に
生存して
居る
往年の
朋輩や
近所への
義理かた/″\
顏を
出す
積で
外へ
出た。
勘次とおつぎとが
晝餐に
歸つて
來た
時に
卯平は
居なかつた。
彼は
夜に
成つてのつそりと
戸口に
立つた。
勘次が
庭へ
出ようとして
大戸をがらりと
開けた
時卯平と
衝突り
相に
成つた。
勘次は
足もとにずる/\と
横はつた
蛇を
見つけた
刹那の
如く
悚然として
退去つた。
卯平は
缺けた
齒齦で
煙管を
横に
噛んでは
脣をぎつと
締めると
口が
芒で
裂いた
樣に
見えた。
老衰してから
餘計にのつそりした
卯平の
身體は、それでも
以前のがつしりした
骨格が
聳えて
側に
居る
勘次を
異樣に
壓した。
卯平は五六
日の
間毎日唯ぶら/\と
出ては
黄昏近くかそれでなければ
夜に
成つて
歸つた。
勘次は
毎日唐鍬持つて
林へ
出た。おつぎは
半纏を
引掛けて
針の
師匠へ
通つた。おつぎはもう
幾年といふ
永い
間のことではあるが、それでも
極つた
月日を
繼續して
針仕事を
勵む
餘裕がなく
漸く
手についたかと
思ふと
途中を
切つたり
止めたりするので
思ふ
樣な
上達はなかつた。おつぎは
暇を
偸んでは一
生懸命で
針を
執つた。
卯平がのつそりとして
箸を
持つのは
毎朝こせ/\と
忙しい
勘次が
草鞋を
穿て
出ようとする
時である。おつぎは
卯平の
爲に
火鉢へ

を
活けてやつたり、お
鉢を
側へ
供へたりするので
幾らか
時間が
後れる。さうすると
勘次は
擔いだ
唐鍬をどさりと
置いたり、
閾を
出たり
這入つたり、
唯忸怩として
居ては、
口に
出せない
或物を
包むやうな
恐ろしい
權幕でおつぎを
見る、
勘次はそれでも
慊らないでおつぎの
姿が
戸口を
出るまでは
庭に
立つて
居ることもある。
勘次は
毎朝出て
行く
方面が
異つて
居るにも
拘らず、
同時に
立つて
行くのを
見なければ
心が
濟まないのであつた。
毎朝さうするので
「おとつゝあは
行けな、
爺こと
見てやんなくつちや
成んめえな」おつぎは
竊に
勘次を
窘めていふことがある。
勘次は
恐ろしい
權幕で
凝然と
立つた
儘おつぎを
睨んでさうして
卯平をちらと一
瞥しては、
卯平の
目を
憚る
樣にしてさつさと
唐鍬を
擔いで
出て
行く。
卯平は
自分の
爲におつぎが
遲く
成る
時には
「
俺ら
自分でやつから
汝りや
構あねえで
行けよ」おつぎを
促し
立てた。
卯平は
當座の
内は
其處ら
此處らへ
行つては
自分からは
求めないでも、
暫く
遭はなかつた
間柄で、
短い
日の
落ちるのも
知らずに
噺をしては
百姓相當な
不味い
馳走に
成るのであつたが、
段々互に
珍らしくなくなつてからは
彼は
餘り
外へも
出ないで
然として
好きな
煙草にのみ
屈託した。
彼は
晝飯といふと
殊に
冷たい
粗剛い
飯を
厭うて
箸を
執るのが
辛いやうでもあつた。
其れで
彼は
時々村落の
店へ
行つて
豆腐の一
丁位に
腹を
塞げた。
皿の
豆腐を
隅から
箸で
拗切つて
見ては
餘りに
冷いので、
腰の
痛みを
思ひ
出して
小さな
鍋を
借りて
暖めた。さうしては
遂一
杯の
酒が
欲くなつて
其處でむつゝりと
時間を
潰した。
豆腐は
彼の
齒齦に
最も
適當した
食料であつた。
卯平は
身體が
惡く
成つてから
僅の
間でも
覺悟をしたので
幾らでも
財布には
蓄へが
出來て
居た。
彼は
何程節約しても
遂にじり/\と
減て
行くのみである
財布に
縋つて、
芒で
裂いた
樣に
閉ぢた
其の
口に
何でも
噛み
殺して
居るのだといふ
容子をして
其日々々と
刻んで
過した。
彼は一
日凝然として
冷たい
火鉢の
前に
胡坐を
掻いて
居ることもあつた
與吉は
學校から
歸つてひつそりとした
家に
只卯平がむつゝりとして
居るのを
見ると
威勢よく
駈けて
來たのも
悄げて
風呂敷包の
書籍をばたりと
座敷へ
投げて
庭へ
出て
畢ふ。
卯平は
「よき、
待つてろ、そら」と
財布から
面倒に五
厘の
銅貨を
拾ひ
出して
投てやる。
與吉は
戸の
陰に
居ては
忸怩して
容易に
取らないで
然も
欲し
相に
筵の
上の
銅貨を
見る。
卯平はさうすると
又のつそりと
懶げに
身體を
戸口まで
動かして
與吉の
手に
渡してやる。
與吉は一
散に
駈けて
菓子を
求めに
行く。
卯平の
窪んだ
茶色の
眼が
後で
獨蹙んだやうに
成るのである。
卯平が
村落の
店に
懶い
身體を
据ゑて
煙草を
吹かして
居る
處へ
與吉は
行合せることがあつても
遠くの
方から
卯平を
見て
居て、
近づきもしないが
去らうともしないで
居る。
卯平は
屹度ガラス
戸を
立て
店臺から
自分で
菓子をとつてやる。それでも
與吉は
菓子を
噛ぢりながら
側へは
寄らうともしなかつた。
「
與吉らたえしたもんだな、
始終もらつてな」
店の
女房がいふのを
聞くのは
與吉よりも
寧ろ
卯平が
心に
滿足を
感ずるのであつた。
然し
與吉は
恁うして
段々卯平に
近づいて
學校から
歸つたといつては
「
爺」といつて
戸口に
立つやうに
成つた。
遂には
彼は
「
爺くんねえか」と
上り
框に
胸を
持たせて、ばた/\と
下駄で
土間を
叩きながら
卯平に
錢を
請ふやうに
成つた。それでも
彼は
錢とは
明白地にはいはない。
「
汝りや、
何くろつちんでえ」むつゝりした
卯平が
態とかう
聞くと
「
呉んねえか、
買あんだから」
與吉は
又ぼんやりと
然も
熱心に
要求する。
其態度を
卯平は
只快よく
思ふのであつた。
與吉が
懷くまでには
日數が
經つた。
卯平は
勘次との
間は
豫期して
居た
如く
冷がではあつたが、
丁度落付かない
藁屑を
足で
掻つ
拂いては
鷄が
到頭其の
巣を
作るやうに、
彼は
互にこそつぱい
勘次の
側に
幾分づゝでも
身も
心も
落付ねばならなく
餘儀なくされた。さうして
彼は
自分の
定まつた
家其の
物は
假令どうであらうとも、
心の一
部には
遠慮から
離れた
餘裕が
生じて
來て
彼は
僅に五六
日と
思ふ
内に卅
日以上を
經過して
畢つたのであつた。
其の
間彼は
只の一
度でも
軟かな
飯を
快よく
嚥み
下したことがない、
勞働者の
多く
貪らねばならぬ
強健なる
胃は
到底軟な
物に
堪へ
得る
處ではない。
齒に
硬く
感ずる
物でなければ
食事から
食事までの
間を
保ち
能はぬ
程忽ちに
空腹を
感じて
畢ふからである。
隨つて
孰れの
家庭に
在つても
老者と
壯者との
間には
此の
點の
調和が
難事である。
然し
卯平は
老衰の
身を
漸くのことで
投げ
掛けた
心の
底に
蟠つた
遠慮と
性來の
寡言とで、
自分から
要求することは
寸毫もなかつた。
彼は
只空腹を
凌ぐ
爲に
日毎に
不味い
口を
強ひて
動かしつゝあるのである。
疎惡な
食料は
少時からおつぎの
目にも
口にも
熟して
居るので、
其處には
何の
心も
附かなかつた。
不味相な
容子をして
箸を
執るのは
卯平が
凡ての
場合を
通じての
状態なので、おつぎの
目には
格別の
注意を
起さしむべき
動機が
一つも
捉へられなかつた。
恁うしておつぎは
卯平に
向つて
彼が
幾分づゝでも
餘計に
滿足し
得る
程度にまで
心を
竭すことが、
善意を
以てしても
寧ろ
冷淡であるが
如く
見えねばならなかつた。
然し
卯平は
決して
衷心からおつぎを
憎まなかつた。
卯平は
時々外へ
出ては
豆腐を
喫して
自分の
膳の
箸を
執らぬことはあるのであつたが、それでも
勘次は三
人のみが
家族であつた
時よりも
穀物の
減少する
量が
殖えて
來たことを
忽ちに
目に
止めた。
何れ
程大きな
身體でも
卯平は八十に
近い
老衰者である。
一日の
食料がどれ
程要るかそれは
知れたものである。それでも
勘次は
從來よりも
餘計に
費やさねばならぬ
穀物に
就いて
彼の
淺猿しい
心が
到底騷がされねばならなかつた。
勘次は
卯平の
居ぬ
時にはそれとはなく
獨りぶつ/\と
呟くことがあつた。
與吉はそれを
聞いて
居た。
彼は、
火鉢の
前に
凝然として
居ては
座敷へ
上る
鷄をしい/\と
逐ひつつむつゝりとして
居る
卯平に
小さな
銅貨を
貰つては、それを
口へ
入れたり
座敷へ
落したりしながら
卯平へ
種々なことを
饒舌つて
聞かせた。
「
爺」と
喚び
掛けて
彼は
或る
日斯ういつた。
「
爺來てから
米しつかり
減つてしやうねえつて
云つたぞう」
「うむ」
卯平は
口に
銜へた
煙管を
徐ろに
手に
取つて
「おとつゝあでもあんべ」
卯平はげつそりといつた。
「おとつゝあ、
何遍も
云つたんだわ」
卯平は
又煙管を
噛んで
手が
少し
顫へた。
「
云はざらに」と
卯平は
凝然と
目を
蹙めつゝ
少し
壤れた
壁の一
方を
睨めつゝいつた。
霜解の
庭を
掻き
立てゝ
居た
鷄がくるりと
指を
捲いては
足を
擧げて
驚いた
樣に
周圍を
見て、
又足を
踏みつけ/\のつそり
歩いて
戸口の
閾へ
暫く
乘つてずつと
延ばした
首を
少し
傾けて
卯平を
見てついと
座敷へ
立つた。
卯平はいきなり
煙管を
叩きつけた。
鷄は
慌てゝ
座敷の
筵へ
泥を
落して
閾の
外に
脚を
突き
出した
儘暫く
轉がつて
居たが、
遂には
蹌跟け/\
鳴き
騷ぎつゝ
遠く
遁た。
白い
毛が
拔けて
其處ら
中に
夥しく
散亂した。
煙管は
鷄から
更に
強く
戸口の
閾を
打つて
庭の
土に
止つた。
「
爺とつてやんべか」
暫くして
與吉は
卯平の
顏を
覗くやうにしていつた。
「よこせ」
卯平は
暫く
經つてからむつゝりとして
舌を
鳴らしながらいつた。
「さあ」
與吉の
出した
煙管を
卯平は
拭きもせずに
口へ
銜へた。
暫くしてから
卯平は
苦い
顏をしてぢより/\とこそつぱい
口の
泥をぴよつと
吐き
出してそれから
口を
衣物でこすつた。
彼は
又煙草を
吸ひつけようとしては
羅宇に
罅が
入つたのを
知つた。
彼はくた/\に
成つた
紙を
袂から
探り
出してそれを
睡で
濡らして
極めて
面倒にぐる/\と
其の
罅を
捲いた。
卯平はそれからふいと
出て
夜まで
歸らなかつた。
勘次は
鷄の
拔毛を
見て
鼬が
出たのではないかといふ
懸念を
懷いて
其處ら
中を
隈なく
見た。
鷄は
他の
鷄が
悉く
塒に
就いても
歸らなかつた。
鼬は一
羽殺せば
必ず
復他を
襲ふので
勘次は
少からず
其の
心を
騷がしたのであつた。
「
爺打つとばしたんだわ」
與吉は
勘次へいつた。
「どうしてだ」
勘次は
驚いた
眼を

つて
慌てゝ
聞いた。
「
座敷へ
上つたら
煙管打つゝけたんだ。そんで
俺れ
煙管とつてやつたんだ」
勘次は
餌料を
撒いて
鷄を
聚めて
見た。一
旦塒に
就いた
鷄が
餌料を
見てはみんな
籃からばさ/\と
飛びおりてこツこツと
鳴きながら
爪で
掻つ
拂き/\
爭うて
啄いた。
勘次は
遂に
鷄の
數の
不足して
居ることを
確めざるを
得なかつた。
卯平は
例の
如く
豆腐でコツプ
酒を
傾けて
來て
晩餐を
欲しなかつた。
彼の
皺深く
刻んだ
頬にほんのりと
赤味を
帶びて
居た。
彼は
火鉢の
前に
胡坐を
掻いた
儘一
言もいはない。おつぎが
甘えた
舌でいつても
返辭もしなかつた。
勘次も
卯平の
側を
退去つて
只恐ろしく
僻んだ
容子をして
居た。おつぎも
遂にいはなかつた。
與吉は
只ぐつすりと
眠つて
居た。
驚怖の
餘り
物陰に
凝然と
潜伏して
居た
鷄は
次の
朝漸く
他の
鷄の
群に
交つて
歩いたけれど
幾らかまだ
跛足曳いて
居た。
勘次は
態と
卯平へ
見せつける
樣に
其の
夜塒に
就いた
時其の
鷄を
籠に
伏せて、
戸口の
庭葢の
上に三
日も四
日も
置いたのであつた。
卯平は
捲きつけた
紙へ
煙脂の
浸みた
煙管をぢう/\と
鳴らしながら
難かしい
顏が
暫く
解けなかつた。
卯平は
清潔好なのでむつゝりとしながら
獨で
居る
時には
草箒で
土間の
軒の
下を
掃いては
鷄が
足の
爪で
掻き
亂した
庭葢の
周圍をも
掃きつけて
置いた。
彼は
座敷の
内も
掃除をして
毎朝蒲團を
整然と
始末する
樣に
寡言な
口からおつぎに
吩咐けた。
清潔に
成ることは
勘次も
惡いことには
思はなかつたが、
幾らもない
家財道具へ
少しでも
手を
掛けられるのが
懷でも
探られる
樣に
勘次には
何となく
不安の
念が
起されるのであつた。
勘次の
目には
卯平が
能く
村落の
店に
行くのは
贅澤な
老人である
樣に
僻んで
見える
廉もあつた。
只さうして
居る
間に
舊暦の
年末が
近づいて
何處の
家でも
小麥や
蕎麥の
粉を
挽いた。
卯平は
時々は
東隣の
門をも
潜つた。
主人夫婦は
丈夫だといつても
窶れた
卯平を
見ると
憐れになつて
「
身體はどうしたえ」と
能く
聞いた。
「えゝ、
今分ぢや、さうだに
惡りいつちこともねえが」と
卯平はいつも
煮え
切らぬいひ
方をして、
其れを
聞かれることを
有繋に
心の
内に
悦んで
窪んだ
目を
蹙める
樣にした。
「それでも
勘次は
能くするかえ」
内儀さんが
聞けば
「ありや、はあ、
以前つからあゝゆんだから」
卯平はぶすりといふのである。
「おつぎはどうだえ」
「ありやあそれ、
勘次たあ
違あから、
何ちつても
有繋赤ん
坊ん
時つからのがだから」
「
節挽はたんとした
容子かえそれでも」
「えゝ、おつうこと
連れてつて、
南で
挽くなあ
挽いたやうだが、
桶さ
入えた
儘で
蓋したつ
切藏つて
置くから、わしやどのつ
位あるもんだか
見もしねえが」
「
勘次は
軟かい
物でも
少しは
拵えてくれるかね」
「えゝ、
毎日同士にたべちや
居んだがなあに
齒せえ
丈夫なら
粗剛つたつて
管やしねえが」
「それぢや
蕎麥粉でも
少し
遣らうかね
蕎麥掻でも
拵へてたべた
方が
善いよ、
蕎麥に
打つちや
冷えるが
蕎麥掻は
暖まるといふからね」
内儀さんは
木綿で
作つた
袋へ
蕎麥粉を二
升ばかり
入れて
「
勘次も
泣きだから、それでも
今に
生計もだん/\
善くなんだらうから、さうすりや
惡くばかりもすまいよ、どうも
昔から
合性が
惡いんだからね、まあ
年齡とつたら
仕方がないから
我慢して
居るんだよ、
餘り
酷けりや
他人が
共々見ちや
居ないから、それだが
勘次も
有繋それ
程でもないんだらうしね」
内儀さんは
慰めていつた。
卯平は
蕎麥粉を
大事にして、
勘次が
開墾に
出た
後で
藥罐の
湯を
沸しては
蕎麥掻を
拵へてたべた。
其の
頃は
彼の
提げて
來た二
罎の
醤油はもう
無くなつて
居た。
彼は
其の
減つて
行くのを
更に
惜いとは
思はなかつたが、
然し
彼は
自分が
居る
内は
容易に
罎の
分量が
減らないのに、一
日餘處へ
行つて
居た
日は
滅切と
少くなつて
居るのを
或時ふと
發見して
少し
不快に
且變に
思ひつゝあつた。
繩で
括つた
別の
罎の
底の
方に
醤油が
少しあつた。
卯平はそれでも
其れを
見つけて
漸く
蕎麥掻の
味を
補つた。
罎の
底になつた
醤油は一
番の
醤油粕で
造り
込んだ
安物で、
鹽の
辛い
味が
舌を
刺戟するばかりでなく、
苦味さへ
加はつて
居る。
彼等は
平生さういふ
醤油でも
滅多に
用ゐないので
多量に
求める
時でも十
錢を
越えないのである。
以前の
卯平であればさういふ
味が
普通で
且佳味く
感ずる
筈なのであるが、
數年來佳味い
醤油を
惜氣もなく
使用して
來た
口には
恐ろしい
不味さを
感ぜずには
居られなかつた。それでも
蕎麥掻は
身體が
暖まる
樣で
快かつた。
彼はたべた
後の
茶碗へ
沸つた
湯を
注いで
箸で
茶碗の
内側を
落して
其の
儘棚へ
置いた。さうしては
彼は
毎日の
仕事のやうに
外へ
出た。
勘次は一
日の
仕事を
畢へて
歸つて
來ては
目敏く
卯平の
茶碗を
見て
不審に
思つて
桶の
蓋をとつて
見た。
遂に
彼は
卯平の
袋を
發見した。
「おつう、
汝此の
蕎麥つ
粉出して
遣つたのか」
勘次はおつぎに
聞いた。
「
俺ら
出すめえな」おつぎは
何も
解せぬ
容子でいつた。
「
蕎麥ツ
掻なんぞにしたつて
詰りやしねえ、
碌に
有りもしねえ
粉だ」
彼は
呟いた。それから
彼は
又
「
此れも、はあ、
有りやしねえ」
醤油の
罎を
透して
其から
振つて
見ていつた。
「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」おつぎは
打ち
消した。
「えゝから、
此れつ
切ぢやきかねえのがんだから」
勘次はおつぎを
呶鳴りつけた。
彼は
更に
袋の
蕎麥粉を
桶へ
明けて
畢つて
猶ぶつ/\して
居た。
手ランプが
薄闇く
點された
時卯平はのつそり
歸つて
來た。
彼は
膳に
向はうともしないが
火鉢の
前にどさりと
坐つた
儘、
例の
蟠りの
有相な
容子をしては
右手の
人さし
指を
掛けてぎつと
握つた
煙管を
横に
噛んで
居た。
「おつう、
汝まつと
此處さ
火とつてくんねえか」
卯平はそれだけいつて
依然として
火もない
煙管を
噛んだ。おつぎは
麁朶を
折つて
藥罐の
下を
燃やしてやつた。
藥罐が
鳴り
出した
時卯平は
懶さ
相な
身體をゆつさりと
起して
其處らを
頻りに
探しはじめた。
「
何でえ
爺」おつぎは
直に
聞いた。
「うむ、
袋よ」
卯平は
極めて
簡單にいつた。
「
此れだんべ
爺、
蕎麥つ
粉へえつてたのな、
俺らどうしたんだか
知んねえから
桶ん
中さ
明けて
置いたつきや、そんぢや
爺がんだつけなあそら、どうして
袋さなんぞ
入えてたんでえ
爺は」おつぎは
事もなげにいつた。
「
蕎麥ツ
掻でもしたらよかつぺつてお
内儀さん
出したつけのよ」
卯平は
舊の
位置に
坐つていつた。
「さうかあ、そんぢや
惡かつたつけな
爺そんぢや
俺れ
今入えてやつかんなよ」おつぎは
勘次が
寢る
壁際の
桶から
先刻のよりは
遙かに
多量を
袋へ
入れてやつた。さうしておつぎは
勘次を
尻目で
見た。
卯平は
復た
蕎麥掻を
拵へた。
「
俺れ
注いでやつべか
爺」
火鉢の
側に
居た
與吉は
藥罐へ
手を
掛けた。
卯平は
與吉のするが
儘に
任せた。
卯平は
比較的悠長に
茶碗を
箸で
掻き
交ぜた。
「
出來たかあ」
與吉は
卯平の
腕へ
小さな
手を
掛けて
覗く
樣にしていつた。
「よき、
何でえ
汝りや、お
飯くつたばかしで」おつぎは
與吉を
叱つた。
「
汝も
喰へ」
卯平は
蕎麥掻を
分けてやつた。
彼はさうして
更に
後の一
杯を
喫して
其茶碗へ
湯を
汲んで
飮んだ。
藥罐は
輕くなつた。
勘次は
冷たい
手を
火にも
翳さないで
殊更に
遠く
卯平の
側を
離れて
蹙めた
酷い
顏に
恐怖の
相を
表はして
唯凝然と
默つて
居た。
冷たい三
人は
夜の
温度のしん/\と
降下しつゝあるのを
感じた。
卯平は
久振で
故郷に
歳を
迎へた。
彼等の
家の
門松は
只短い
松の
枝と
竹の
枝とを
小さな
杙に
縛り
付けて
垣根の
入口に
立てたのみである。
神棚へは
藁で
太く
綯つた
蝦の
形を
横に
飾つて
其處にも
松の
短い
枝をつけた。
藁の
蝦は
卯平が
造つた。
彼はむつゝりとしながらも
軟かに
藁を
打つて
熱心に
手を
動かした。それで
歳男の
役で
飾は
勘次にさせた。
煤け
切つた
棚に
新しい
藁の
蝦が
活々として
見えた。
三ヶ
日は
與吉も
穢い
衣物を
棄てゝ、おつぎも
近所で
髮を
結うて
炊事の
時でも
餘所行の
半纏に
襷を
掛けて
働いた。
勘次は三ヶ
日さへ
全然安佚を
貪つては
居なかつた。
彼は
唐鍬を
擔いで
必ず
開墾地へ
出たのである。
彼は
次第に
懷の
工合が
善く
成り
掛けたので、
今では
其の
勢ひづいた
唐鍬の一
打は一
打と
自分の
蓄へを
積んで
行く
理由なので、
彼は
餘念もなく
極めて
愉快に
仕事に
從つて
居るやうに
成つたのである。
歳の
首といふので
有繋に
彼の
家でも
相當に
餅や
饂飩や
蕎麥が
其の
日/\の
例に
依て
供へられた。
軟かな
餅が
卯平の
齒齦には一
番適當して
居た。
殊に
陸稻の
餅は
足が
弱いので、
少し
煮れば
直ぐくた/\に
溶けようとする。
卯平には
却てそれが
善いので、
彼はさうして
呉れるおつぎを
何處までも
嬉しく
思つた。
彼は
只一つでも
善いから
始終汁の
中で
必ずくつ/\と
煮て
欲しかつた。
然しそれは
一同で
祝ふ
時のみで、それさへ
卯平が
只獨ゆつくりと
味ふには
焙烙に
乘せる
分量が
餘りに
足らなかつた。
餅は四
角に
庖丁を
入れると
直ぐに
勘次は
自分の
枕元の
桶へ
藏つて
無斷にはおつぎにさへ
出すことを
許容さないのであつた。
勘次は
假令什
ことがあつても
面り
卯平に
向つて一
言でも
呟いたことがないのみでなく、
只管或物を
隱蔽しようとするやうな
恐怖の
状態を
現して
居ながら、
陰では
爪の
垢程のことを
目に
止て
獨でぶつ/\として
居た。
勘次は
只一
度おつぎが
自分の
留守に
卯平の
爲に
其の
餅の
僅を
燒いてやつたのをすら
發見しておつぎを
叱つた。
「そんだつておとつゝあは、よき
欲しいつちから
出して
俺れと
燒いたんだあ、
食へたくなつちやしやうあんめえな」おつぎは
甘えた
舌で
言辭は
荒く
勘次を
窘めた。
勘次は
其の
以上を
越して
再びおつぎを
叱ることは
能くしなかつた。
僅な
餅はさういふことで
幾らも
減らないのに
時間が
經つて、
寒冷な
空氣の
爲に
陸稻の
特色を
現して
切口から
忽ちに
罅割れになつて
堅く
乾燥した。だん/\
燒いて
膨れても
外側は
齒齦を
痛める
程硬ばつて
來た。
卯平は
其の一つさへ
滿足に
嚥み
下さうとするには
寧ろ
粗剛いぼろ/\な
飯よりも
容易でなかつた。さうなつてからは
勘次は
竭きるまで
能く
燒いた。
卯平はむつゝりとして
額に
深く
刻んだ
大きな
皺を
六ヶ
敷相に
動かしては
堅い
餅を
舐つた。
卯平の
膳には
冷たく
成つた
餅が
屹度残された。
腹を
減らして
學校から
歸つて
來る
與吉が
何時でもそれを
噛るのであつた。
勘次は
又蕎麥を
打つたことがあつた。
彼は
黄蜀葵の
粉を
繼ぎにして
打つた。
彼は
又おつぎへ
注意をして
能くは
茹でさせなかつた。
手桶の
冷たい
水で
曝した
蕎麥は
杉箸のやうに
太いのに、
黄蜀葵の
特色の
硬さと
滑らかさとで
椀から
跳り
出し
相に
成るのであつた。
黄蜀葵は
能く
畑の
周圍に
作られて
短い
莖には
暑い
日に
大きな
黄色い
花を
開く。
其の
根を
乾燥して
粉にして
入れゝば
蕎麥の
分量が
滅切殖えるといふので、
滿腹する
程度に
於ては
只管食料の
少量なることのみを
望んで
居る
勘次は
毎年作つて
屹度それを
用ひつゝあつた。
卯平の
齒齦には
蕎麥が
辷つて
噛めなかつた。
「
爺がにや
佳味かあんめえ、おとつゝあはまつと
丁寧に
打てばえゝのに
疎忽敷から」おつぎはどうかすると
椀から
落ち
相になる
蕎麥を
啜りながら
卯平の
手もとを
見ていつた。
「どうせ
俺らあ、
佳味えつたつてさうだに
減る
程でも
食ふべぢやなし、
管やしねえが」
卯平は
皮肉らしい
口調でいつた。
勘次は
只默つてむしや/\と
不味相に
噛んだ。
恁うして
居る
間に
春の
彼岸が
來て
日南の
垣根には
耳菜草や
其他の
雜草が
勢よく
出だして
桑畑の
畦間には
冬を
越した
薺が
線香の
樣な
薹を
擡げて、
其の
先に
粉米に
似た
花を
聚めた。そつけない
杉の
木までが
何處から
枝であるやら
明瞭とは
區別もつかぬ
樣な
然も
燒けたかと
思ふ
程赤く
成つて
居る
葉先にざらりと
蕾が
附いてこつそりと
咲いて
畢つた。
淋しい
内にも
春らしい
空氣が
凡ての
物を
撼かした。
日はまだ
南を
低く
渡りながら
暖かい
光を
投げる。
偶夜の
雨が
歇んでふうわりと
軟かな
空が
蒼く
割れて
稍昇つた
其暖かな
日が
斜に
射し
掛けると、
枯れた
桑畑から、
青い
麥畑から、
凡てから
濕つた
布を
火に
翳したやうに
凝つた
水蒸氣が
見渡す
限り
白くほか/\と
立ち
騰つて
低く一
帶に
地を
掩ふことがあつた。
卯平は
村落に
歸つてから
往年の
伴侶の
間へ
再び
加つて
念佛衆の一
人になつた。
家に
在つては
孫の
守をしたりしてどうしても
獨離れた
樣に
成つて
居る
各自が
暢氣にさうして
放埓なことを
云ひ
合うて
騷ぐので
念佛寮は
只愉快な
場所であつた。
彼岸へ
掛けては
殊に
毎日愉快であつた。
何處の
家からもそれ
相應に
佛へというて
供へる
馳走に
飽いて
卯平は
始めて
滿足した
口を
拭ふことが
出來たのであつた。
卯平は
段々時候が
暖かく
成るに
連れて
身體ものんびりとして
案じて
居た
病氣の
惱みも
少しづつ
薄らいだ。
彼は
手もとの
凡てが
不自由だらけな
生活に
還つて
來たとはいふものゝ
衰へた
身體を
自分から
毎夜苛める
樣に
引き
立てゝ
居る
奉公の
務めをして
居た
當時と
比べて、
寧ろ
相反した
放縱な
日頃が
自然に
精神にも
肉體にも
急激な
休養を
與へたので
彼は
自分ながら一
時はげつそりと
衰へた
樣にも
思はれて、
懶さに
堪へぬ
樣に
成つたがそれでも
其の
休養の
爲に
幾らづゝでも
持病の
苦しみを
減じたので、さういふ
理由を
知らない
彼は、
此の
分では二三
年はまだ
野田に
居た
方が
増しであつたと
後悔の
念が
湧くこともあつた。
季節は
雨に
濕つた
土へ
稀にかつと
暑い
日の
光が
投げられて、
日歸りの
空が
強健な
百姓の
肌膚にさへぞく/\と
空氣の
冷かさを
感ぜしめて、
更にじめ/\と
霧のやうな
雨が
斜に
降り
掛けては
軟かに
首を
擡げはじめた
麥の
穗の
芒に
微細な
水球を
宿して
白い
穗先を
更に
白くして
世間が
只濕つぽく
成つたかと
思ふと、
又かつと
日の
光が
射して、
空洞と
明るく
成つて
畑にはしどろに
倒れ
掛た
豌豆の
花も
心よげに
首を
擡げて
微笑する。さうすると
畑を
包む
遠い
近い
林には
嫩葉の
隙間から
少い
日の
光がまた
軟かなさうして
稍深い
草の
上にぽつり/\と
明るく
覗き
込で、
松の
木からはみんみん
蝉の
樣な
松蝉の
聲が
擽つたい
程人の
鼓膜に
輕く
響いて
凡ての
心を
衝動する。
卯平も
他の
百姓に
誘はれたやうに
只其身を
凝然とさせてのみは
居られなかつた。
他人に
倍して
忙しい
勘次がだん/\に
減りつゝある
俵の
内容を
苦にして
酷い
目をしつゝ
戸口を
出入するのを
卯平は
見るのが
厭で
且辛かつた。それで
彼は
其處ら
此處らと
他人の
仕事を
求めて
歩いたのであつた。
卯平は
見るから
不器用な
容子をして
居て、
恐ろしく
手先の
業の
器用な
性來であつた。それで
彼は
仕事に
出ると
成つてからは
方々へ
傭はれて
能く
俵を
編んだ。
麥俵もそれから
堆肥を
入れて
運ぶ
肥俵も
編んだ。ゆつくりと
然も
暇なく
手を
動かしては
時々好な
煙草を
吸うて
少し
口を
開いた
儘煙管の
吸口をこけた
頬に
當て
深い
考へにでも
惱んだ
樣に
只凝然として
居る。
煙は
口から
少しづゝ
漏れて
鼻を
傳ひて
騰る。
彼は
煙が
騰る
度に
窪んだ
黄色な
目を
蹙めるやうにして、
心づいた
樣に
吸殼を
手の
平に
吹くのである。
彼はかうして
極めて
悠長に
手を
動かす
樣でありながら、それでも
傭はれた
先で
其の
日の
扶持はして
貰ふので、
相應な
錢を
獲つゝあるのであつた。
卯平は
夏になれば
何處でも
忙しい
麥扱や
陸稻の
草取に
傭はれた。
彼は
自分の
村落を
離れて五
日も六
日も
泊つて
居て
歸らぬことがある。
卯平には
先から
先と
歩いて
居ることが
却て
幸ひであつた。
彼は
鬼怒川の
高瀬船の
船頭の
衣物かと
思ふ
樣な
能くも/\
繼ぎだらけな、それも
自分の
手で
膳つて
清潔に
洗ひ
曝した
仕事衣を
裾長に
着て、
手拭を
被つて
暑い
庭に
小麥を
叩いて
居るのを
其處此處に
見ることがある。
横に
轉がした
臼を
前に
据ゑて
小麥を
攫んでは
穗先を
其の
臼の
腹に
叩きつけると
種がぼろ/\と
向へ
落ちる。のつそりとして
悠長な
卯平は
壯時に
熟して
居た
仕事の
呼吸で
大きな
手が
肩から
打ち
下す
時、まだ
相當に
捗どるのであつた。
彼は
恁うしてぐる/\と
傭はれて
歩きながら
綺麗な
花が
咲いて
居るのを
見ると
種を
貰つたり
根分けをして
貰つたりして
庭先の
栗の
木の
側や
井戸端に
近く
植ゑた。
彼は
忙しい
仕事が
畢になつた
時即ち
稻刈から
稻扱からさうして
籾すりも
濟んで
彼が
得意の
俵編みもなくなつて、
世間がげつそりと
寂しく
沈んだ
時に
彼は
急に
勘次と
別な
住まひが
仕たくなつた。
彼は
少しばかり
餘してあつた
蓄へから
蝕でも
何でも
柱になる
木やら
粟幹やらを
求めて、
家の
横手へ
小さな二
間四
方位な
掘立小屋を
建てる
計畫をした。
彼は
寒い
西風を
厭うて
殆ど
勘次の
家と
相接して
東脇へ
建ようとした。
勘次は
固より
自分の
懷が
目に
見えて
減るのでもなし、それに
就ては
決して
陰で
呟くことはなかつた。
簡單な
普請には
大工が
少し
鑿を
使つた
丈で
其他は
近所の
人々が
手傳つたので
仕事は
只一
日で
畢つた。
長い
嵩張つた
粟幹で
手薄く
葺いた
屋根は
此れも
職人の
手を
借らなかつた。
必要な
繩は
卯平が
丈夫に
綯つて
置いた。それから
壁を
塗るのには
間を
措いて二三
日かゝつた。
勘次も
有繋に
勞力を
惜まなかつた。
彼は
粟幹が
葺き
上げられた
次ぎの
日から二三
日近所の
馬を
借りて
田の
傍の
畑から
土を
運搬けた。
畑には
其の
時麥が
青く
生えて
居たが、それでも
持主は
畑が
減るだけ
田の
面積が
増す
理由なのと、
土の
分量も
格別の
事でないのとで
切り
取ることを
否まなかつた。
庭へ
卸した
土にはちらり/\と
青い
麥の
軟かな
葉が
交つて
居た。
勘次は
夕方に
成つて
馬を
返しながら、一
日の
餌料としておつぎに
煮させた
麥を
笊へ
入れて、それから
刻んだ
藁も
添へてやつた。
勘次は
其の
序に
餘計な
藁を
切つた。
土は
畢の
日の
夕方に
周圍に
土手のやうな
輪を
拵へて
其處に
水を
打つてはぐちや/\と
足で
溲ねながら
刻んだ
藁を
撒いては
踏み
込んでさうして一
晩置いた。さういふ
間に
卯平は
鉈で
篠を
幾つかに
裂いて
柱と
柱との
間へ
壁の
下地に
細かな
格子目を
編んで
居た。
篠は
東隣の
主人から
請うて
苦竹に
交つたのを
後の
林から
伐つたのである。
次の
日土は
能く
水を
引いて
居て
程よく
溲ねられた。
勘次はおつぎに
其の
泥を
盥へ
運ばせて
置いて
不器用な
手もとで
塗つた。
卯平は
猶も
篠で
編み
残した
箇所を
拵へて
居た。
塗りたての
壁は
狹苦しい
小屋の
内側を
濕つぽく
且闇くした。
壁の
土の
段々に
乾くのが
待遠で
卯平は
毎日床の
上の
筵に
坐つて
火を
焚た。
彼は
近頃に
成つてから
毎日の
樣に
林を
歩いては
麁朶を
脊負つて
來て
折つては
焚き
折つては
焚きして
居た。
壁を
塗る
時格子目から
内側へ
捲くれ
出た
泥の一つ/\がだん/\に
白つぽく
乾いて
明るく
成つた
時勘次は
又内側から
塗つて
捲れて
出た一つ/\を一
帶に
隱した。
卯平は
掘立小屋を
建てるとなつたら
勘次が
此れ
迄になく
油が
乘つた
樣に
威勢よく
仕事をしてくれるのを
何となく
嬉しく
思つて
見たが、
夫でも
仕事をしながらしみ/″\
口を
利くのでもなければ、
毎日膳を
竝べると
屹度僻んだやうな
顏をされるので、
卯平は一
日も
速く
別に
成つて
見たい
心から
更に
塗つた
壁の
爲に
再び
闇くなつた
小屋の
明るく
成るのが
遲緩しさに
堪へぬのであつた。
卯平は
狹いながらにどうにか
土間も
拵へて
其處へは
自在鍵を
一つ
吊して
蔓のある
鐵瓶を
懸たり
小鍋を
掛けたりすることが
出來る
樣にした。
彼は
勘次から
幾らかづゝの
米や
麥を
分けさせて
別居した
當座は
自分の
手で
煮焚をした。それが
却て
氣藥でさうして
少しづゝは
彼の
舌に
佳味く
感ずる
程度の
物を
求めて
來ることが
出來た。
然しさうして
居ても
寒さが
非常に
嚴しい
時は
彼は
只狹苦しい
小屋の
中に
麁朶を
少しづつ
折り
燻べるよりも
比較的廣い
竈の
前で
横に
轉がした
大籠からがさ/\と
木の
葉を
掻き
出してぼう/\と
焔を
立てゝ
暖まりたい
心持がするのであつた。それで
彼は
勘次の
留守には
竈の
前で
悠長に
木の
葉を
焚いて
顏や
手足の
皮の
燒けた
樣に
赤くなるまであたつた。
勘次は
時々持ち
込んだ
麁朶や
木の
葉が
理由もなく
減つて
居ることを
知つて
不快な
感を
懷いてはこつそりと
呟きつゝおつぎに
當るのであつた。
卯平は
暫く
隱居に
落付いてからは一
錢づゝでも
懷を
拵らへねばならぬといふ
決心から
促されて、
毎日煙管を
横に
銜へては
悠長ではあるが、
然も
間斷なく
繩をちより/\と
綯つたり、それから
草鞋を
作つたりした。
彼は
原料の
藁を
勘次に
要求せずに五
錢か十
錢位づゝ
懷錢を
出して
能く
選つた
藁を
其處此處で
買つて、
穗先の
處を
持ては
肩から
打つ
掛けてがさ/\と
背負つて
來るのである。
藁の
小さな
極つた
束が一
把は
大抵一
錢づゝであつた。
其の一
把の
藁が
繩にすれば二
房半位で、
草鞋にすれば五
足は
仕上るのであつた。それで
彼の一
日の
仕事は
繩ならば二十
房の
大束が一
把、
草鞋ならば五
足といふ
處なので、一
房の
繩が七
錢五
毛で一
足の
草鞋が一
錢五
厘といふ
相場だからどつちにしても一
日熱心に
手を
動かせば
彼は六七
錢の
儲を
獲るのである。
卯平が
求める
副食物は一
日僅に二
錢もあれば十
分なので
彼は
毎日藁を
使つて
居れば四五
錢づつの
剰餘を
得る
理由ではあるが、
品物を
商ひに
出る
日を
別にしても
氣が
乘らないといつては
朝からごろりと
轉がつて
居ることもあるので
平均して
見ると一
日が
幾らにも
成らないのであつた。
然し
其れ
丈でさへ
卯平は
始終財布の
錢の
出入するのを
心丈夫に
思ふのであつた。
勘次はむつゝりとした
卯平の
戸口を
覗いたこともないが、
卯平が
直に
來ても
來なくても
飯の
出來た
時に
喚びに
行くのはおつぎであつた。
卯平は
熱心に
藁仕事をする
時は
自分で
炊事をするのは
時間が
酷く
惜しくも
成つたり、
面倒にも
成つたり、
唯獨のみで
然として
居ると
情なくもなつたりするので、
平生は
再び
一同と一
緒に
箸を
執ることにしたのである。
彼はおつぎがはき/\と
一言でもいうて
呉れる
毎に
其の
僻まうとする
心がどれ
程和げられるか
知れないのである。
彼は
草鞋を
作るとて四
筋の
竪繩に
軟かな
藁をうね/\と
透しては
其の
繩の
間に
指を
入れてぎつと
前へ
引き
緊める
微かな
運動の
間にも
彼は
勘次に
對して
口にも
擧動にも
出せぬ
忌々敷さが
心の
底に
勃々と
首を
擡げ
始めることもあるのであつたが、おつぎの
言辭はいつでも
其の
火を
消し
止める一
杯の
水なのであつた。おつぎはどうかすると
目の
邊に
在る
雀斑が一
種の
嬌態を
作つて
甘えたやうな
口の
利方をするのであつた。
おつぎは
勘次の
居ない
時は
牝鷄が
消魂しく
鳴いて
出れば
直ぐに
塒を
覗いて
暖かい
卵の
一つを
採つて
卯平の
筵へ
轉がしてやることもあつた。おつぎは
勘次の
敏捷な
目を
欺くには
此だけの
深い
注意を
拂はなければならなかつた。それも
稀なことで
數は
必ず
一つに
限られて
居た。
然し
卯平は
其の
僅少な
厚意に
對して
窪んだ
茶色の
眼を
蹙める
樣にして、
洗ひもせぬ
殼の
兩端に
小さな
穴を
穿つて
啜るのであつた。
彼はおつぎの
意中を
能く
解して
居るので
其の
吸殼は
決して
目につく
處へは
棄てないで
細かに
押し
揉んで
外へ
出る
序に
他人の
垣根の
中などへ
放棄つた。それからも一つ
僻まうとする
彼の
心を
爽かにするのは
與吉であつた。
疾から
甘え
切つて
居る
與吉は
卯平の
戸口に
立ち
塞がつては
錢を
請うた。
狹い
戸口は
與吉の
小さな
身體でさへ
卯平の
藁をいぢつて
居る
手もとを
薄闇くした。
卯平は
藁屑と一つに
投出してある
胴亂から五
厘の
銅貨を
出してやるのが
例であるが、
與吉は
自分で
錢を
出さうとして
胴亂の
大きな
金具が
容易に
開かないので
怒つて
投げ
出して
見たり、
卯平へ
縋つたりした。
卯平は
態と
與吉に
倒されて
轉がることもあつた。
勘次は
與吉が
卯平から
錢を
貰ふことを
知つてから
只さへ
滅多にくれたことのない
彼は
決して一
度も
與へることがなかつた。
卯平はそれを
知つてさへ
與吉に
要求されることが
却て
彼の
爲にはどれ
程の
慰藉であるか
知れないのであつた。
卯平は
悲慘な
隱居に
移るまでには
野田から
持つて
來た
少し
許りの
蓄へは
幾らも
財布に
残つては
居なかつた。
彼は
俄に
思ひ
出した
樣に一
日熱心に
仕事に
屈託して
見たり、
又勘次に
對する
自棄から
酒も
飮んで
見たりした。
酒といつても
知れた
分量であるが、それでも
藁一筋づつを
刻んで
行く
仕事の
儲にのみ
手頼る
彼の
懷を
悲しくした。
卯平は
其
果敢ない
仕事でも、
彼の
身體が
滯りなく
又勘次との
間が
融和されて
居るならば
彼は
好きなコツプ
酒の一
杯を
傾ける
序に、
酒を
壜に
買て
勘次に
與へることさへ
不自由を
感じもしなければ、
惜しむこともないのであつた。
勘次も
疲勞した
日の
夕方には
唐鍬を
村落の
店の
軒下へ
卸して一
杯を
傾けて
來るのであるが、
嘗て
自分の
家に
運んだこともなければ
臭い
息を
吐く
間は
卯平へ
顏を
合せたこともなかつた。
卯平は
腰の
疼痛に
惱まされて、
餘計にかさ/\と
乾びて
硬ばつて
居る
手を
動かし
難くなると
彼は一
塊の

もない
火鉢を
枕元に
置いて
凝然と
蒲團を
被つた
儘である。
彼はさうでなくても
嘗てはき/\と
口を
利いたこともなく、
殊更勘次に
對しては
皺びた
顏の
筋肉を
更に
蹙めて
居るので、
恁うして
凝然として
居ることをも
勘次は
僂麻質斯が
惱まして
居るのだとは
知らないで、
寧ろ
老人に
通有な
倦怠に
伴ふ
睡眠を
貪つて
居るのだらう
位に
見るのであつた。
枕元の
火鉢は
戸口からでは
彼の
薄い
白髮の
頭を
掩うて
居た。
彼はさうかと
思ふと
起きて一
心に
草鞋を
作ることがある。
彼の
仕事は
老衰して
面倒な
樣であるが、
其の
天性の
器用は
失はれなかつた。
彼は五
足づつを
一つに
束ねた
草鞋とそれから
繩が
一荷物に
成ると
大風呂敷で
脊負つて
出た。それは
大抵暖かな
日に
限られて
居るのであつたが、
其時は
彼の
大きな
躯幹はきりゝと
帶を
締めて、
股引の
上に
高く
尻を
端折つてまだ
頼母しげにがつしりとして
見えるのであつた。
卯平は
斯うして
仕事をして
見たり
寐て
見たり、それから
自分で
小鍋立をするかと
思へば
家族三
人と
共に
膳へ
向つたり、
側から
見て
居る
勘次には
氣が
知れぬ
爺さんであつた。
卯平は
時々鹽鮭の
一切を
古新聞紙の
端へ
包んで
來ては
火鉢へ
鐵の
火箸を
渡して、
少し
燻る
麁朶の
火に
燒いた。
彼は
危險い
手もとで
間違つて
落しては
灰にくるまつても
口でふう/\と
吹いて
手でばた/\と
叩くのみで
洗ふこともしなかつた。じり/\と
白く
火箸へ
燒け
附いた
鹽が
長く
火箸に
臭氣を
止めた。
勘次は
小屋で
卯平が
鹽鮭を
燒く
臭を
嗅いでは一
種の
刺戟を
感ずると
共に
卯平を
嫉むやうな
不快の
念がどうかすると
遂起つた。それだが
卯平は
又獨でむつゝりと
蒲團にくるまつて
居る
時は
父子三
人の
噺が
能く
聞えた。
彼は
自分が一
緒に
居る
時は
互に
隔てが
有相で
居て、
自分が
離れると
俄に
陸まじ
相に
笑語くものゝ
樣に
彼は
久しい
前から
思つて
居た。
其を
聞くと
彼は一
種の
嫉妬を
伴うた
厭な
心持に
成つて、
蒲團を
深く
被つて
見ても
何となく
耳について、おつぎの
一寸甘えた
樣な
聲や
與吉の
無遠慮な
無邪氣な
聲を
聞くと一
方には
又彼等の
家族と一つに
成りたいやうな
心持も
起るし、
彼は
凝然と
眼を
閉ぢて
居るので
頭の
中が
餘計に
紛糾かつて、
種々な
状態が
明瞭と
目先にちらついてしみ/″\と
悲しい
樣に
成つて
見たりして
猶更に
僂麻質斯の
疼痛がぢり/\と
自分の
身體を
引緊めて
畢ふ
樣にも
感ぜられた。
彼はさういふ
時おつぎでも
與吉でも
「
爺よう」と
喚んでくれゝばふいと
懶い
首を
擡げて
明るい
白晝の
光を
見ることによつて
何とも
知れぬ
嬉しさに
涙が一
杯に
漲ることもあるのであつた。
おつぎは
八釜敷勘次に
使はれて
晝の
間は
寸暇もなかつた。
夜がひつそりとする
頃はおつぎは
能く
卯平の
小屋へ
來て
惱んで
居る
腰を
揉んでやつた。おつぎは
卯平を
勦るには
幾ら
勘次が
八釜敷ても一々
斷りをいうては
出なかつた。
勘次はおつぎが
暫時でも
居なくなると
假令卯平の
側に
居るとは
知つても
「おつう」と
例のやうに
激しく
呶鳴つて
見るのである。
「
此處に
居たよ、そんなに
喚ばらなくつたつてえゝから、
何だかおとつゝあは」おつぎの
勘次を
叱る
聲は
軟かでさうして
明瞭に
勘次の
耳に
響いた。
勘次は
手ランプの
光に
只目が
酷く
光るのみで一
言もなく
屏息して
畢ふのである。
彼は
又暫くして
大戸をがらりと
勢ひよく
開けて
出ては
又少し
隙間を
残して
大戸を
引いて
丁度内へ
還つたと
見せて、
殆んど
壁に
接した
卯平の
戸口に
近く
立つて
見るのである。
手ランプも
點けぬ
卯平の
狹い
小屋の
空氣は
黒く
悄然として
死んだ
樣である。
勘次は
拔き
足して
戻つては
出來るだけ
靜に
戸を
閉ぢる。
非常に
不平な
相形をして
居ても
勘次はおつぎが
歸ると
直に
機嫌が
直つて
「
汝りやそんなに
夜更しするもんぢやねえ」と
勦はるやうな
窘めるやうな
調子ていつて
見るのである。さうすると、
「
明日の
障りにでも
成りやしめえし
管あこたあんめえな、おとつゝあは」といつておつぎは
勘次を
壓しつけて
畢ふのである。
卯平はおつぎが
看病に
來る
時は
大抵
「
汝りやえゝよ」といふのが
例である。
彼は
勘次に
遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを
懸念するのであつた。それでも
卯平は
心竊におつぎを
待ちつゝあつた。
彼が
惱まされた
僂麻質斯は
病氣の
性質として
彼の
頑丈な
身體から
其の
生命を
奪ひ
去るまでに
力を
逞しくすることはなく、
起つたり
和いだりして
彼が
歸つてから二
度目の
冬も
一日々々と
短い
日を
刻んで
行つた。
狹苦しい
掘立小屋は
彼が
當初に
思ひ
込んだ
程彼の
爲に
幸な
處ではなかつた。
「おゝ
暑え/\、なんち
暑えこつたかな」おつたは
前駒の
下駄を
引き
擦つて
「おや/\まあ
能く
斯うなあ、
何處にも
草だら
一つなくつて、
見ても
晴々とする
樣だ」と
態とらしい
樣にいつて
庭に
立つた。さうしてから
「たんと
穫れべえなこんぢや、
幹ばかしでもたえした
出來だな」といつて
勘次に
近く
歩を
運んだ。
勘次は
庭先の
栗の
木の
陰へ
二つの
臼を
横に
轉がしておつぎと
二人で
夏蕎麥を
打つて
居た。
夏蕎麥は
小麥でも
打つ
樣に
一つ
攫んでは
肩から
背負ふやうにして
臼の
腹へ
叩きつけると三
稜形の
種子がまだ
少し
青い
葉と
共に
落ちて
殆ど
直射する
日光を
遮つて
居る
栗の
木の
陰から
遠ざかつて
遙に
先の
方まで
轉がつて
行く。
小麥と
違つて
濕つぽい
夏蕎麥は
幹がくた/\として
幾度も
叩きつけねばなか/\
落ちない。それでも
種子は
不規則な
成熟をして
居るので、まだ
青いのはどうしてもしがみ
附いて
居る。
二人は
藁で
縛つた
大きな
束を
解いては
粘つた
物でも
引き
剥す
樣に
攫み
取つて
熱心に
忙しく
臼の
腹へ
叩きつけた。
庭は
卯平が
始終草を

つて
掃除してあるのに、
蕎麥を
打つ
前に一
旦丁寧に
箒が
渡つたので
見るから
清潔に
成つて
居たのである。
勘次は
暑いので
紺の
襦袢も
腰のあたりへだらりとこかして、
焦たやうな
肌膚をさらけ
出して
居る。
彼は
更に
栗の
木の
茂つた
葉の
間から
針の
先で
突くやうにぽちり/\と
洩れて
射す
光を
避けて
例もの
如く
藺草の
編笠を
被つて、
麻の
紐を
顎でぎつと
結んである。
毎日必ず
汗でぐつしりと
濕るので、
其の
強靱な
纎維の
力が
脆く
成つて、
秋の
冷たい
季節までにはどうしても
中途で一
度は
換へねばならぬと
勘次が
自慢して
居る
紐は
埃が
加はつて
汚れて
居た。
勘次はおつたの
姿をちらりと
垣根の
入口に
見た
時不快な
目を
蹙めて
知らぬ
容子を
粧ひながら
只管蕎麥の
幹に
力を
注いだのであつた。おつたは
稍褐色に
腿めた
毛繻子の
洋傘を
肩に
打つ
掛けた
儘其處らに
零れた
蕎麥の
種子を
蹂まぬ
樣に
注意しつゝ
勘次の
横手へ
立ち
止つた。おつたは
幾年か
以前の
仕立と
見える
滅多にない
大形の
鳴海絞りの
浴衣を
片肌脱にして
左の
袖口がだらりと
膝の
下まで
垂れて
居る。
裾は
片隅を
端折つて
外から
帶へ
挾んだ。
勘次は
何處までも
知らぬ
容子を
保つことは
出來なかつた。
彼はおつたの
態とらしい
聲も
聞かず、
又近く
立つた
其の
姿を
眼に
映さない
譯には
行かなかつた。
彼は
蕎麥を
攫むのを
止めておつたの
方を
向いた。
彼は
蹙めて
居た
顏に
少し
極りの
惡相な一
種の
表情を
浮べた。
「
何でえ
※等[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、277-15]」
勘次は
無意識にさういつた。
彼の
胸のあたりに
湧き
出る
汗は、
僅に
曲折をなしつゝ
幾筋かの
流るゝ
途を
作つて
居る。
其處には
蕎麥の
幹から
知られぬ
程づつ
立つ
埃が
付いて
濕つて
居る。ぢり/\と
汗腺から
搾れ
出る
汗が
其の
趾つけられた
流れの
途を
絶たないで
其處だけ
蕎麥の
埃を
洗ひ
去つて
居る。
彼はおつたの
前に
其の
暑相な
身を
向けた。
「どうしたつちこともねえがなよ、
俺らこつちの
方通つたもんだから
一寸踏ん
掛つて
見た
處さ」おつたは
何か
理由の
有相な
口吻で
輕くいつた。
「
俺ら
暫くこつちへも
來なかつたつけが、
此らおつぎぢやあんめえか、
大層えゝ
娘に
成つちやつたなあ、
尤もはあ
恁うい
手合はちつと
見ねえでちや
分んなく
成んな
直だかんな、
其の
割にしちや
俺ら
見てえなもな
年齡はとんねえものさな」おつたは
立つた
儘獨語の
樣に、さうして
少し
張合のない
樣に、
何か
噺の
端緒でも
求めたいといふ
容子で
栗の
木の
梢からだらりと
垂てる
南瓜の
臀を
見上げながらいつた。
おつぎは
此の
時菅笠の
端へ
一寸手を
掛けておつたへ
腰を
屈めた。おつぎは
白い
襦袢の
襟を
覗かせて、
單衣の
胸をきちんと
合せて、さうして
襷と
手刺とで
身を
堅めて、
暑いのにも
拘らず
女の
節制を
失はなかつた。おつぎは
蕎麥の
手を
放して
小走りに
驅けて
行つた。
菅笠をとつてだらりと
被つた
手拭を
外した
時少し
亂れた
髮がぐつしやりと
汗に
濡れてげつそりと
衰へたものゝ
樣に
覺えた。おつたは
開いた
儘の
洋傘を
栗の
木の
側へ
仰向に
置いて
默つて
井戸端へ
行つて
手水盥に一
杯の
水を
汲んだ。
「
冷たくつて
本當に
晴々とえゝ
水ぢやねえか、
俺ら
方の
井戸見てえに
柄杓で
汲み
出すやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」おつたは
復た
獨語をいつた。
勘次は
側を
去つたおつたを
棄てゝ、
然も
氣の
乘らぬ
樣に
又蕎麥を
臼へ
打ちつけ
始めた。おつたは
汗沁みた
手拭を
頻りにごし/\と
揉み
出して
首筋のあたりから一
帶に
幾度となく
拭つて
手水盥の
水を
換へた。
暫くして
家の
廂からは
青い
煙が
偃つてだん/\に
薄い
煙が
後から/\と
暑い
日に
消散した。
「おとつゝあ、お
茶沸いたぞ」おつぎは
戸口へ
出て
小聲で
勘次へ
告げた。
「うむ」
勘次は
喉の
底でいつて
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、279-9]、お
茶沸いたとう」
彼は
又ぶすりといつて
蕎麥の
手を
止めなかつた。
「お
茶おあがんなせえね」おつぎは
勘次の
尾に
跟いて
少し
聲高にいつた。おつたはぎりつと
絞つた
手拭を
開いてばた/\と
叩いた。
井戸端にぼつさりと
茂りながら
日中の
暑さにぐつたりと
葉が
萎れて
居る
鳳仙花の、やつと
縋つて
居る
花が
手拭の
端に
觸れてぼろつと
落ちた。
側には
長大な
向日葵が
寧ろ
毒々しい
程一
杯に
開いて
周圍に
誇つて
居る。
草夾竹桃の
花がもさ/\と
茂つた
儘向日葵の
側に
列をなして
居る
「
能くまあかういに
作つたつけな、
俺らもはあ、
好きは
好きだが
自分ぢやそつちだこつちだで
作れねえもんだ、
此れまあ
朝つぱら
凉しい
内に
見たらどら
程えゝこつたかよ」おつたは
濕つた
手拭を
幾つかに
折つて
手に
攫んだ
儘、
栗の
木の
側に
置いた
洋傘を
窄めてゆつくりと
家へ
這入つた。おつぎは
茶を
沸す
火の
爲に
汗が
更に
湧いたのを
手拭でふいて、それから
亂れた
髮に
櫛を
入て
更に
丁寧に
手拭を
被つてさうしておつたを
喚んだのであつた。おつたは
何處か
落付かぬ
容子で
洋傘も
外の
壁際に
立て
掛て
閾を
跨いだ。
「お
暑うござんすねどうも」おつぎは
襷をとつて
時儀を
述べながらおつたへ
茶を
侑めた。三
人は
暫く
沈默して
居た。
東隣の
庭からは
大勢が
揃つて
連枷で
麥を
打つて
居る
響が、
森を
透して
夫からどろり/\と
地を
搖つて
聞えた。
自分等が
立てる
響に
誘はれて
騷ぐ
彼等の
極つた
囃の
聲が「ほうい/\」と
一人の
口からさうして
段々と
各自の
口から一
齊に
迸つて
愉快相に
聞えた。三
人の
耳は
同じく
誘はれた
樣に一
種の
調子を
持つた
隣の
庭の
響に
耳を
傾けつゝ
沈默の
時間を
繼續した。おつたは
茶柱の
立つた
茶碗の
中を
見てそれから
一寸嫣然として
見たり、
庭の
方を
見たりして
居た。おつたが
庭を
見ると
勘次は
幾年も
遭はなかつた
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、280-13]の
容子を
有繋にしみ/″\と
見るのであつた。おつたは五十を
幾つも
越えて
居る。
小柄な
少しくり/\と
丸みを
持つた
顏は、
年齡程には
見えないにしても
漸く
深い
皺が
刻んで
居るのに、
髮は
恐ろしくつや/\として
居る。おつたは
髮を
染めて
居た。
然し
藥の
力は
肌膚を
透して
其の
下にまで
及ぼすことは
出來なかつた。
髮は
染めてから
暫く
經つたと
見えて一
帶に
肌膚についた
僅の
部分が
髮の
凡てをそつくり
突き
扛げた
樣に
仄かに
白く
見えて
居た。
勘次は
只響を
立てながら
容易に
冷めぬ
熱い
茶碗を
啜つた。おつぎも
幾年か
逢はぬ
伯母の
人なづこい
樣で
理由の
分らぬ
樣な
容子を
偸み
視た。
「
夏蕎麥でもとれんなかうい
鹽梅ぢや
粒も
大え
樣だな」おつたは
庭を
見た
儘復た
第一に
目に
觸れる
蕎麥に
就ていつた。
此方へ
向いて
居る
二つの
臼の
腹が、まだ
先の
軟かな
夏蕎麥の
莖で
薄青く
染まつたのが
見えて
居る。
「
馬鹿に
降つてばかし
居た
所爲か
幹ばかし
延びつちやつて、そんだがとれねえ
方でもあんめえが、
夏蕎麥とれる
樣ぢや
世柄よくねえつちから、
恁んなもなどうでもえゝやうなもんだが」
勘次のいひ
方はこそつぱかつた。
庭の
油蝉が
暑くなれば
暑くなる
程酷くぢり/\と
熬りつけるのみで、
閑寂な
村落の
端に
偶遭うた
※弟[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、281-11]はかうして
只餘所々々しく
相對した。
「
本當に
俺ら
先刻からさう
思つてんだが
立派な
花ぢやねえかな」おつたは
庭先の
草花に
復た
噺を
繼いだ。
「うむ、そんだが
碌に
有りもしねえ
肥料ばかし
使あれて」
「おめえ
植ゑたんぢやねえのか」
「なあに
爺樣そつちこつちから
持つて
來て
植ゑたてたのよ、
去年はそんでも
其處らへ
玉蜀黍位作れたつけが、
此れ、
邪魔だとも
云はんねえしなあ」
「
俺ら
暫く
來ねえから
知らなかつたつけが、そんでも
野田から
引つこんでか」
「うむ、はあ二
年に
成らえ」
「
餘つ
程の
年齡だつぺが
丈夫けえそんでも」
「
丈夫なこたあ、
魂消る
程丈夫だが
何でも
自分の
好きなら
働く
容子で、
其處らほうつき
歩いちや
小遣錢位はとつてんだな
鹽梅しきが」
「そんぢや
忙しい
時にやちつたあ
手傳つて
貰へてよかんべな」
「なんだら一つ
手傳あなんちや
有りやしめえし、それからはあ、
此方も
頼んもしねえが」
「
尤もさういへば
壯の
頃でも
俺らあ
知つてからは
仕事は
上手で
行ると
出しちやみつしら
行る
樣だつけが、
好きぢやねえ
鹽梅だつけのさな」
「
其れ
處ぢやねえや、
俺らと一
緒に
居んのせえ
厭なんだんべが、
別々に
成つちやつたな、つまんねえ、
餘計な
錢なんぞ
遣つて、
俺らだつて
大えこと
手間打つこんだな、なあに
俺ら
爺樣せえちつと
其積で
行つて
呉れせえすりや、
幾らでも
面倒見るつちつてんだが、
如何いふ
料簡のもんだか
俺らがにや
分んねえが」
「そんぢや、
此の
側な
小屋ぢやあんめえ、
俺ら
先刻見た
時や
肥料小屋だとばかし
思つてたな、
本當にかうだ
處へ
醉狂な
噺よな、なんでも
世を
渡しちや
誰でも
同じこと
相續人の
氣味惡くしねえ
樣にやんなくつちや
畢へねえよ、そんだがそれも
性分でなあ、
他からぢやしやうねえものよ」
「
俺らだつてこんで
一人殖えちや
殖えた
丈に
麥米の
心配からして
掛んなくつちやなんねえんだから、
其の
積で
居てくんなくつちや、
此んで
心持ぢや
餘り
面白かねえかんな、
毎日苦蟲喰つ
潰したやうな
面つきばかしされたんぢや
厭んなつちまあぞ、
本當に」
「そりやさうにも
何にもよ、
他人でせえこんで
軟けえ
言辭でも
掛けられつと、
後ぢや
欲しく
成るやうな
物でも
出す
料簡にもなるもんだかんなあ」おつたは
斯ういひながら
先刻から

の
塒の
下に
在る二
俵の
俵へ
目を
注いで
居た。
「そんだがおめえもたえした
働きだと
見えんな、かうえに
俵までちやんとして、
大概な
百姓ぢやおめえ
此手にや
行かねえぞ、
俺ら
世辭いふわけぢやねえが」
勘次は
漸く
噺に
吊り
込まれた
樣に
此の
時微笑を
洩らして
「
俺らも
今んなつてからぢやこれ、
噺するやうなもんだが
一しきりや
泣いたかんな
本當に、こんでも
此の
位にすんにやゝつとこせえだぞ」といつた。
「おつぎも
働け
相だな、きり/\としてなあ、
先刻俺ら
蕎麥打つてんの
見てゝも
心持えゝ
樣だつけよ、
仕事はなんでも
身拵えのえゝもんでなくつちやなあ、
此れもおめえが
仕込の
所爲だんべが」おつたはさういつて
又
「そりやさうとおつかさまに
其儘だなあ」と
側に
居たおつぎに
目を
移した。おつぎはそれを
聞くと
共に
身を
避ける
樣に
手桶を
持つて
庭へ
出た。
「
俺らもこんで
嚊に
死なれた
當座にや
此れも
役に
立たねえから
泣きぬいたよ」
勘次は
俄にしんみりとしていつた。おつたはお
品のことが
勘次の
口から
出た
時微かに
苦笑して
「ほんに、
俺ら
彼ん
時にや
來ねえつちやつたつけが、
遠くの
方へ
行つてたもんだから、おめえにやはあ
惡く
思はれべえたあ
思つてたのよ」おつたは
漸くのことで
然も
表面は
事もなげにいつて
畢つた。
「
俺ら
先刻から
見てんだが
道具は
能く
大事にすつと
見えて
鎌なんぞでも
光つてつことなあ、それに
能くかう
三日月姿に
減らせたもんだな、
研ぎ
方も
餘つ
程氣をつけなくつちやかうは
出來ねえな、
道具も
斯うすりや
何時までゝも
使へて
廉えものさな」おつたは
少し
慌てた
樣に
然も
成るべく
落附かうと
勉めつゝ
噺を
外した。
「
唐鍬もたえしたもんぢやねえかな」おつたは
態と
唐鍬の
側に
立つた。
「うむ、そんでも
俺らが
見てえなゝ、
滅多持つてるもなねえかんな」
「どうすんでえこんな
大えの、
引つ
立てるばかしでも
大變なやうぢやねえけ」
「そんだつて
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、285-2]は
此れ
見ろな」
勘次は
掌をおつたの
前へ
出した。
百姓にしては
比較的小さな
手は
腫れたかと
思ふ
程ぽつりと
膨れて、どれ
程樫の
柄を
攫んでも
決して
肉刺を
生ずべき
手でないことを
明かに
示して
居る。
「
此んだから
知らねえもな
俺れ
手懷してつと、
如何したんでえなんて
聞くから
俺らかういに
腫つちやつて
痛くつてしやうねえんだなんて、そろうつと
出して
見せつと、
成る
程こりや
痛かんべえなんて
魂消らあな、
唐鍬なんざ
錢出しせえすりや
幾らでも
有んが、
此の
手つ
平はねえぞ、二
年三
年唐鍬持つたんぢや
恁うは
成んねえかんな、
俺らがな
唐鍬の
柄さすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで
毎年四五
反歩位は
打開墾すんだから」
勘次は
蹙めた
顏の
筋がゆるんだ
樣になつておつたの
前に
誇つた。
「
旦那の
山林開墾しちやうめえのよ、
場所によつちや
陸稻も
作れるし、
俺らこんでも三四
反歩づつは
作つてんだが、
今年はえゝ
鹽梅な
降りだから
大丈夫だたあ
思つてんのよ、どうえもんだか
以前は
陸稻つちとはあ、とれねえ
樣なもんだつけがな」
「
其
に
作つちや
大層なもんぢやねえかな」おつたは
驚いたやうにいつた。
「
陸稻も
地が
珍らしい
内は
出來るもんだわ、
穗の
出た
割にや
分は
拔けねえが、そんでも
開墾したばかしにや
草は
出ねえから
手間が
要らねえしな、それに
肥料つちやなんぼもしねえんだから、
尤も三
年も
作つちや
其の
手にや
行かねえが、
其ん
時や
以前の
山林になんだから
可怖えこともなんにもねえのよ」
「
餘つ
程とれべえな、三四
反歩も
作つちやなあ」
「こんで
穗の
出際に
雨でもえゝ
鹽梅なら、
反で四
俵なんざどうしてもとれべと
思つてんのよ」
「
陸稻とも
云はんねえもんだな、
以前と
違つて
今の
時世ぢやさうだからこんで
場所によつちや、
百姓にもたえした
起き
轉びがあるのよなあ、
俺ら
方見てえに
洪水で
持つてかれてばかし
居つ
處も
有んのに
山林んなかで
米とれるなんて」
「さうよ、
此處らは
洪水の
心配はさうだにしねえでもえゝ
處だかんな」
勘次は
從來其の
間がどうであつたにしても
偶然逢つたおつたに
對してだん/\
噺して
居るうちには
同じ
乳房に
縋つた
骨肉の
關係が
彼の
淺猿しい
心の
底を
披瀝いてそれを
陰蔽するのには
餘りに
彼を
放心とさせたのであつた。
「おつう、
彼の
薤でも
出して
見せえ、
土用前に
採つて
直ぐ
漬たんだから、はあよかんべえ」
勘次は
快よくおつぎに
命じた。おつぎは
古い
醤油樽から
白漬の
薤を
片口へ
出しておつたの
側へ
侑めた。
勘次は一つ
撮んでかり/\と
噛つた。
少し
丸みがかつた
頬に
絶ず
微笑を
含んで
勘次のいふことを
聞いて
居たおつたは
何か
更にいはうとして
一寸躊躇しつゝある
容子が
見えた。
勘次もおつぎもそれは
知らなかつた。おつたは一
杯に
注いである
茶碗へ
又茶を
注がうとして
俄に
止めた。おつたは
茶碗をぐつと
嚥み
干した。
「こんで
同胞のえゝ
噺聞くな
惡かねえもんだよ、
有繋自分ばかしよくつて
他の
同胞にや
管あねえつちいものもねえかんな」といつて
庭の
便所へ
立つてそれから
再び
上り
框に
腰を
卸した。
「
俺らおめえにちつと
相談に
乘つて
貰えてえと
思ふこと
有つて
來たんだつけがなよ」おつたは
態と
改まつた
容子でなくいひ
掛けた。
「
何だんべ」
勘次はふつと
彼の
平生に
還らうとして
例の
不安らしい
目を

つておつたを
見た。
「なあにたえしたこつちやねえが、
盲目の
野郎げ
嫁世話されるもんだからどうしたもんだんべかと
思つてよ」
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、287-11]貰へたけりや
他人にや
管あこたあ
有んめえな」
勘次はおつたがゆつくりといふのが
畢らぬのにそつけなくいつた。
「さう
云つちめえばさうだがなよ、そんだつて
同胞に
一噺もねえなんて
後で
文句云はれても、
默つてちやおめえ
口が
開けめえな、そんだから
俺らおめえげ
耳打して
置くべと
思つたんだな」
「
俺ら
何も
不服いふ
席はねえな」
勘次は
少し
安心したらしく、
恁う
輕くいひ
退けた。
「そんだらえゝがなよ、
彼れもはあ廿七に
成んだから
俺らもこんでまあ
心配はしてたんだが、
自分でもそれ
無え
足んねえの
心配が
絶えねえもんだから、
思つちや
居ても
手が
出ねえのよ、
自分の
餓鬼のことおめえ
全然どうなつても
管あねえたあ
思へねえよこんで」
勘次は
足の
先で
土間の
土を
擦りながら
默つておつたのいふのを
聞いた。
「
彼もそれ
中途で
盲目に
成つたんだから、それまでに
働いて
身體は
成熟てるしおめえも
知つてる
通りあんで
居て
仕事も
出來るしするもんだから、
難有えことに
不具でも
嫁世話すべつちいものもあるやうな
譯さなあ、
何でも
人間は
働き
次第だよ、おめえだつて
働くんでばかり
他人にや
好く
云はれてべえぢやねえけえ、そんで
俺れも
其の
女は
見たが、
女はそれ
惡りいがな、そんだつて
盲目だもの
目鼻立見べえぢやなし、
心底せえよけりやえゝと
思つてな」おつたは
頻りに
勘次の
衷心からの
同意を
得ようとした。
「そりやよかんべなそんぢや」
勘次は
只簡單にさういつた。
「そんで
娵持たせるにしても
折角こつちに
居て
働いてんだから
俺ら
自分の
處へは
連れて
行く
譯にや
行かねえと
思つてな
何ちつてもそれ、
知てつ
處でなくつちや
盲目だから
面倒見てくれるつち
人もあんめえしなあ、それから
俺ら
其處んとこも
心配して
居たんだが、
丁度此村落にえゝ
鹽梅貸してもえゝつち
家有るつちもんだから、
序だと
思つて
見て
來たが、
此處からぢやあつちの
方のそれ
知つてべえ
仕切つて
貸すつちんだから、
俺ら
其處さ
入れてえと
思つて、おそこそ
聞いて
見たんだが
借りんのにや
保證人無くつちや
駄目だつちから、
近くぢやあるしおめえに
保證に
立つて
貰えてえと
思つてな」
「
厭だよ
俺らそんなこと」
勘次は
慌てたやうにいつた。
「そんぢや
仕やうねえな、どうしてだんべなまた、
折角彼が
身も
堅まんだからさうして
呉れゝばえゝんだがな」おつたはがつかり
投げ
掛けた
態度でいつた。
「
箆棒、
家賃でも
滯つた
日にや、
俺れ
辨償はなくつちや
成りやすめえし、それこさあ
俺らが
身上なんざ
潰れても
間にやえやしねえ、
厭だにもなんにも」
「そんなこと
云つたつておめえ、
彼だつて
獨でゝも
居んぢやなし
持つもの
持つて
働くのに三十
錢や五十
錢の
家賃の
拂へねえことも
有んめえな、それも
何ならおめえ
一月でも
二月でも
見試して、そん
時見込なけりや
身拔しても
管えやしねえな」
「そんでも
厭だよ、
俺らさうい
噺ぢや
聞きたくもねえ」
勘次は
素氣なくいつてすいと
庭へ
立つて
復た
夏蕎麥へ
手を
掛けた。
「
酷く
忙しいこつたな」おつたは
口を
引き
締めて
勘次の
後姿を
見た。
「
忙しいとも
田の
草もまあだ
掻きやしねえんだ、
土用になつてからだつて
幾らも
照りやしめえし、
降つてばかし
居つから
見ろうあれ、
隣の
旦那等だつて
今頃麥打つてる
騷ぎだあ、
百姓は
此の
頃の
時節に
餘計な
暇なんざねえから」
勘次は
呟くやうにいつた。
隣の
庭では
先刻よりも
更に
勢がついた
樣に
連枷の
響が
囃の
聲を
伴ひつゝ
森を
洩れて
聞えた。
「うむ、たえした
挨拶だな、
俺らまた
※弟[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、290-4]つちやさうえもんぢやあんめえと
思つてたんだつけな」おつたは
少し
勃然とした
容子を
見せた。
「
※等[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、290-6]が
云ふこと
聽いたつ
位どんなことされつか
分んねえから」
勘次は
自棄に
蕎麥の
幹を
打ちつけ/\しつゝいつた。
彼は
而して
一目もおつたを
見なかつた。
「
什
ことするつて
俺ら
泥棒はしねえぞ、
勘次」
其の
切れた
目尻に一
種の
凄味を
持つておつたが
立つた
時、
卯平はのつそりと
戸口に
大きな
躯幹を
運ばせた。
卯平はおつたを
見て
例の
如く
窪んだ
茶色の
目を
蹙める
樣にした。
「おやこつちのおとつゝあん、
暫くでがしたねどうも、
御機嫌よろしがすね」おつたはそら/″\しい
程打つて
變つた
調子でいつた。
「まあこつちへでも
來さつせえね」
卯平は
隱居へおつたを
導いた。
「
俺らいま
外から
歸つて
來たばかしだが、
何でがすね」
卯平はぶすりと
聞いた。
「ほんにはあ、
他人にや
聞かせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ
盲目の
野郎が
一人あんだが、これ三十
近くにもなるものをねえ、
只打棄つても
置けねえから
嫁とらせべと
思つて、えゝ
鹽梅のがそれ
口掛つたもんだから
勘次げも一
噺すべと
思つて
來た
處なのさ、わしもこんで
義理は
缺くの
厭だかんね」
「さうしたら
此の
村落にえゝ
鹽梅の
家あるもんだから
借りて
身上持たせべと
思つて
保證に
立つてくろつちつた
處がたえした
挨拶なのさ、三十
錢か五十
錢の
家賃をねえ、
不便だんべぢやねえかねえ
不具の
甥つ
子のことをねえ、
保證に
立つた
位身上潰れるつち
挨拶なのさ、ねえこれ、
年齡とつちやこつちのおとつゝあん
先も
短けえのに
心底のえゝものでなくつちや、
萬一の
時が
心配だからねえ、
後の
者の
厄介に
成りてえつちな
皆おんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ
娵つちのが
心底のえゝ
女だつちんだからわしも
欲しいのさ
本當の
噺がねえ、さう
云つちや
我慾の
樣だがおんなじもんなら
軟けえ
言辭でも
掛けてくれる
嫁でなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」おつたは
狹い
戸口に
立つた
儘洋傘の
先で
土へ
穴を
穿ちながら
勘次の
方をぢろつと
見つゝいきり
立つていつた。
「そりや、はあ、さうだが」
只此だけいつて
寡言な
卯平は
自分の
意を
得たといふ
樣に
始終窪んだ
目を
蹙めて
手からは
煙管を
放さなかつた。
勘次は
庭から
偸むやうに
視ては
卯平がおつたへ
威勢をつけて
居るやうに
思つた。
彼は
解いて
打つて
更に
藁で
括つた
蕎麥の
束をどさりと
遠くへ
擲つた。
葉が
更にぐつたりと
萎れた
鳳仙花の
枝がすかりと
裂て
先が
地についた。
「
※等[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、292-2]、
大層なこと
云つたつて、
老人の
面倒見たゝ
云へめえ」
勘次はぶつ/\と
獨語した。おつたの
耳にも
微かにそれが
聞えた。おつたは
屹と
見た。
「おとつゝあ
默つてるもんだ」おつぎは
輕く
勘次を
制して
「お
晝餐だぞはあ」とおつぎは
更に
勘次へ
注意した。
「そんぢやこつちのおとつゝあん、お
八釜敷がした、わしや
歸りませうはあ、一
刻も
居ちや
邪魔でがせうから、こつちのおとつゝあんも
邪魔に
成んねえ
方がようがすよねえ」おつたは
洋傘を
開いて
「
岡目でも
知れまさあねえ、
假令どうでも
俵まで
持つてられて、
辨償つて
見た
處で三十
錢か五十
錢のことだんべぢやねえか、
出來るも
出來ねえもあるもんぢやねえ」とおつたは
忌々敷さに
其の
口を
止めなかつた。
「お
晝餐はどうでがすね」おつぎはそれでも
怖づ/\おつたへいつた。
「
俺ら、はあ
要らねえともね」おつたは
蕎麥の
種子の一
杯に
散らけた
庭を
遠慮もなく一
直線に
不駄の
跡をつけた。
「
勘次等、
親子仲よくつてよかんべ、
世間の
聞えも
立派だあ、
親身のもなあ、お
蔭で
肩身が
廣くつてえゝや」おつたは
庭の
出口から
一寸顧みていつた。さうしてさつさと
行つて
畢つた。
隣の
庭の
麥打の
連中は、
靜かになつたこちらの
庭を
嘲るやうに
騷いでは
又騷ぐのが
聞えた。
勘次は
只力を
極めて
蕎麥の
幹を
打つて
遂に一
言も
吐かなかつた。おつぎは
垣根の
上に
浮んだおつたの
洋傘が
見えなくなるまで
暫くぽつさりとして
庭に
立た。
卯平は
煙管を
噛んだ
儘凝然として
默つて
居た。
卯平は
暫くして
鳳仙花の
折れたのを
見つけて
井戸端へ
立つた。
彼はいきなり
蕎麥幹の
束を
大きな
足で
蹴つた。
彼は
更に
短い
竹の
棒を
持つて
行つてきつと
力を
極めて
地に
突き
透した。
垂れた
鳳仙花の
枝は
竹の
杖に
縛りつけようとして
手を
觸れたらぽろりと
莖から
離れて
畢つた。
卯平は
忌々敷相に
打棄つた。
卯平がのつそりと
大きな
躯幹を
立てた
傍に
向日葵は
悉く
日に
背いて
昂然として
立つて
居る。
向日葵は
蕾が
非常に
膨れて
黄色に
成つてから
卯平が
植ゑたのであつた。
其の
時はもう
蕾はどうしても
日のいふこと
聽いて
動かないので、
暑いさうして
乾燥の
烈しい
日がそれを
憎んで
硬い
下葉をがさ/\に
枯らした。それでも
強い
莖はすつと
立つて、
大抵はがつかりと
暑さに
打たれて
居る
草木の
間に
誇つたやうに
見えた。
其の一
杯に
開いた
皿の
樣な
花が
庭先からいつでも
冷かな三
人を
嘲るものゝやうに
見えるのであつた。
竹の
棒はぎつと
突き
透した
儘いつまでも
空しく
鳳仙花の
傍に
立つて
居た。
秋だ。
孰れの
梢も
繁茂する
力が
其の
極度に
達して
其處に
凋落の
俤が
微かに
浮んだ。
毎日透徹した
空をぢり/\と
軋りながら
高熱を
放射しつゝあつた
日も
餘りに
長い
晝の
時間に
倦まうとして、
空からさうして
地上の
凡てが
漸く
變調を
呈した。
心もとなげな
雲が
簇々と
南から
駈け
走つて、
其度毎に
驟雨をざあと
斜に
注ぐ。
雨は
畑の
乾いた
土にまぶれて、
軈て
飛沫を
作物の
下葉に
蹴つて、
更に
濁水が
白い
泡を
乘せつゝ
低きを
求めて
去つた。それも
僅に
桑の
木へ
絡んだ
晝顏の
花に一
杯の
量を
注いでは
慌てゝ
疾驅しつゝからりと
熱した
空が
拭はれることも
有るのであるが、
驟雨は
後から
後からと
驅つて
來るので
曉の
白まぬうちから
麥を
搗いて
庭一
杯に
筵を
干た
百姓をどうかすると
五月蠅く
苛めた。
土地でいふ
其の
降つ
掛けは一
日で
止まねば三
日とか五
日とか
必ず
奇數の
日で
畢つた。
降つ
掛けが
來てから
瓜畑は
悉く
蔓も
葉も
俄にがら/\に
枯れて
悲慘に
成つて
畢つた。
極めてそつと
然も
騷がし
相に
動く
雲が
高く
低く
反對の
方向に
交叉しつゝあるのを
見ると
共に、
枯燥しかけた
草木の
葉が
相觸れ
相打つてはだん/\と
破れつゝざわ/\と
悲しげな
響を
立てゝ
鳴つた。
凄い
程冴えた
夜の
空は
忙しげな
雲が
月を
呑んで
直に
後へ
吐き
出し/\
走つた。
月は
反對に
遁げつゝ
走つた。
秋風だ。
櫟や
楢や
雜木や
凡てが
節制を
失つて
悉く
裏葉も
肌膚も
隱す
隙がなくざあつと
吹かれて
只騷いだ。
夜は
寂しさに
凡ての
梢が
相耳語きつゝ
餘計に
騷いだ。まだ
暑い
空氣を
冷たくしつゝ
豪雨が
更に
幾日か
草木の
葉を
苛めては
降つて/\
又降つた。
例年の
如き
季節の
洪水が
残酷に
河川の
沿岸を
舐つた。
洪水の
去つた
後は、
丁度過激な
精神の
疲勞から
俄に
老衰した
者の
如く、
半死の
状態を
呈した
草木は
皆白髮に
變じて
其の
力ない
葉先を
秋風に
吹き
靡かされた。
鬼怒川の
土手に
繁茂した
篠の
根に
纏はつて
居る
短い
鴨跖草も
葉から
莖から
泥に
塗れて
居ながら
尚生命を
保ちつゝ
日毎に
憐れげな
花をつけた。

が
滅入る
樣に
其の
蔭に
鳴いた。
空を
遙に
飛んだ
椋鳥の
群が
幾つかに
分れて、
地上に
低く
騷いでは
梢を
求めてぎい/\と
鳴きつゝ
落付かなかつた。
到る
處荒れた
藪の
端や
土手の
瘠せた
篠の
梢に
乘り
掛つて、
之を
噛めば
齒がこぼれるといはれて
居る
毒な
仙人草が
其の
手を
幾らでも
延して
思ひ
切つて
蟠つた
蔓が
白い
花を一
杯につけて、さうして
活々としたものは
自分のみであることを
誇るものゝ
如く、
秋風に
吹かれつゝ
白い
布の
樣にふは/\と
動いた。
勘次の
村落は
臺地であるのと
鬼怒川の
土手が
篠の
密生した
根の
力を
以て
僅ながら
崩壤する
土を
引き
止めたので
損害が
輕く
濟んだ。それでも
幾日か
降り
續いた
雨が
水を
蓄へて
低い
畑は
暫く
乾くことがなかつた。
田も
其の
水の
爲に
浸つた
箇所が
少くなかつた。
勘次は
日となく
夜となく
田畑を
歩いて
只管心を
惱ましたが、
漸く
自分の
田畑の
作物が
僅な
損害に
畢つたことを
慥めた
時は
彼は
激甚な
被害地の
状况を
傳聞して
自分の
寧ろ
幸であつたことを
竊に
悦んだ。
彼が
大豆を
引いて
庭に
運んだ
頃はまだ
暑い
日が
落付いて
毬の
割れ
始めた
栗の
木の
梢から
庭をぢり/\と
照して
居た。
根が
幾日もぐつしりと
水に
浸つてた
大豆は
黄色味の
勝つた
褐色の
莢も
幹も
泥で
汚れた
樣に
黒ずんで
居た。
大豆を
引いたのはそれでも
稀な
晴天であつたので「いひ
返し」に
來る
筈に
成つて
居た
南の
女房を
頼んだ。
彼等は
相互の
便宜上手間の
交換をするのであるが、
彼等はそれを「いひどり」というて
居る。それで
其の
借りた
手間を
返すのがいひがへしである。
大豆は
庭に
運ぶと
共に
一攫みにしては
根を
上にして
先を
丸く
開いて
互の
幹が
支柱に
成るやうにして
庭一
杯に
立てゝ
干した。
煙草を一
服吸ふだけの
時間に、
成熟しきつた
大豆は
漸くぱち/\と
輕い
快い
響を
立てつゝ
爆ぜ
始めた。
大豆は
悉く
庭の
土に
倒された。三
人は
連枷を
執つて
端からだん/\と
幹を
打つた。おつぎと
南の
女房とは
相竝んで
勘次に
對して
交互に
打ち
卸す
連枷がどさり/\と
庭の
土を
打つと
硬ばつた
大豆の
幹はしやりゝ/\と
乾燥した
輕い
響を
交へてくすんだ
穢い
莢が
白く
割れて
薄青いつやゝかな
豆の
粒が
威勢よく
跳ね
出してみんな
幹の
下に
潜り
込んで
畢ふ。三
人が一
遍大豆の
幹を
踏んで
渡つたら
幹がぐつと
落付いた。
おつぎは
晝餐の
支度の
茶を
沸した。三
人は
食事の
後の
口を
鳴らしながら
戸口に
出てそれから
栗の
木の
陰に
暫く
蹲まつた
儘憩うて
居た。
「おや/\まあ、こつちの
方はえゝこつたなあ、
大豆でもかうだにとれて」おつたは
小柄な
身體を
割合に
大股に
運んで
妙な
足拍手を
取りつゝ
這入つて
來た。
勘次はちらと
見て
栗の
木の
幹を
後にした
儘俯向いて
畢つた。おつたは
更に
介意ないやうな
態度でずつと
戸口へ
行つて、
斜に
肩へ
掛けた
風呂敷包をおろした。
「おゝ
重たかつた」と
少し
汗ばんだ
額を
手拭でふきながら
洋傘を
仰向に
戸口へ
置いて、
洋傘の
中へ
其の
風呂敷包を
置いた。
南の
女房はおつたを
見て
立つた。
「おやまあ、
暫らくでがしたね」とおつたは、
先に
世辭をいうた。
「さういへばまあ、あつちの
方は
酷え
洪水だつち
噺だつけがどうでござんしたね」
女房は
手拭をとつていつた。
「
噺の
外でがさどうも、
彼此れはあ、
小卅日にも
成んべが、まあだかたでどつちから
手つけてえゝか
分んねえんでがさどうもはあ、わし
等方見てえに
洪水ばかし
出たんぢや、
居んのも
厭んなつちまあやうなのせ
本當に、さう
云つてもこつちの
方はようがすね」おつたは
相手を
見つけて
力を
得たやうにいつた。
「
此んでもまさか、
此の
村落だつて
隨分かぶつた
處も
有んだから
全然なんともねえつちこともねえがねえ」
南の
女房は
聲を
低くしていつた。
「そんでも
此處らぢや
居る
處にや
支障ねえんだからなんちつても
諦めはようがさね、わし
等方なんぞぢや、
土手へ
筵圍ひしてやつとこせ
凌いだものなんぼ
有つたかせ、
土手に
居ても
雨せえなけりやえゝが、
降られちや
酷えつち
噺でがしたよ、そんでもまあわし
等、
家に
居られんな
居られたんだからまあ
同じにもようがしたのせ、そんでも
床の
上へ四
斗樽かう
倒にして
置えてね、
其上へ
板渡してやつとまあ
居通しあんしたがね、
煮燒すんのもやつとこせで、
隣近所は
有つたつて
往つたり
來たりすんぢやなし、
何程心細えか
分んねえもんですよ、
尤もこれ、
死ぬ
者せえあんだから
斯うして
居られんな
難有え
樣なもんぢやあるが、そんでも四
斗樽の
太え
箍ん
處むぐつた
時や、
夜横に
成つて
見たつて
直耳の
側でさら/\つとかう
水が
動いてんだから、
放心眠つたらそつくり
持つてかれつかどうだか
分んねえと
思つてね、ぼつちりともはあ
云はんねえで
居たのせえ、
それから
板の
端ん
處からそろつと
手出して
見つと
宵の
口にやさうでもねえのがひやつと
手の
先が
直ぐ
水へ
觸つた
時にや
悚然とする
樣でがしたよ、それからはあ
船は
枕元へ
繋いでたんだが、
本當に
枕元なのせえ、みんなして
凝つて
狹えつたつて
窮屈だつてやつと
居る
丈なんだから、
天井へは
頭打つゝかり
相で
生命でも
何でも
蹙めらつる
樣なおもひでさ、そんでもまあ
到頭遁げもしねえで
居らつたんだから、
家でも
持つてかれたものからぢや
運がえゝのせえ、まあ
晝間はなんちつても
方々見えてえゝが、
夜がなんぼにも
小凄くつてねえ」おつたは
自分の
怖ろしかつた
經驗を
聞いてくれるのを
悦ぶやうに
語り
續けるのであつた。
「そんでまあ、それもえゝが
蛙だの
蛇だのが
來てね、
蛙はなんだが
蛇がなんぼにも
厭ではあ、
棒で
引つ
掛けて
遠くの
方へ
打ん
投げて
見ても、
執念深えつちのか
又ぞよ/\
泳いで
來て、それも
夜がねえ
萬一のことが
有つちやと
思ふもんだから
明り
點けてたんだが
其の
所爲か
餘計に
來る
樣で、
薄つ
闇え
明りだからぢつき
側へ
來てからでなくつちや
分んねえし、
首擡げてんの
見ちや
本當に
厭でねえ」おつたは
幾らいつても
竭きない
當時を
髣髴せしめようとする
容子でいつた。
栗の
木の
陰に
居た
勘次はだん/\と
幾らづゝでも
洪水の
噺に
興味を
感じても
來たし、それから
假令どうでも
尋ねて
來た
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、299-10]に
挨拶もせぬのは
他人の
手前が
許容さないので
漸く
立つて
「
※等[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、299-11]も
隨分ひでえ
目に
遭たんだな」
彼はいひながら
家の
内へおつたを
導いた。
大豆の
埃を
厭うて
雨戸は
閉め
切つてあつたので、
大戸を一
杯に
開けても
内は
少し
闇く
且暑かつた。おつぎは
先頃の
樣に
直に
竈を
焚いて
柄杓で二三
杯の
水を
茶釜へ
注した。
「なんちつても、かうえ
豆とれるなんておめえ
等方はえゝのよなあ、
俺ら
方ぢや
土手の
近くで
手の
有るもなあ、
田の
畦豆引つこ
拔えて
土手の
中ツ
腹へ
干しちや
見た
樣だが、まあだなんちつても
莢が
本當に
膨れねえんだから、ほんの
豆の
形したつち
位なもんだべな、そりやさうと
此の
豆はえゝ
豆だな、
甘相でなあ」おつたは
閾を
跨いで
手先の
豆を
少し
攫んで
見ていつた。それからおつたは
洋傘と一つに
置いた
先刻の
風呂敷包を
持ち
込んでさうして
又臀を
据ゑた。
「
水ん
中に
居ちや
仕事するにも
仕事はなしさなあ、それからみんな
棒の
先へ
鈎くつゝけて
魚釣りしたのよ、
庭で
幾らでも
鮒釣れるつちんだから
知らねえものが
見ちや
酷く
困んねえ
奴等だと
思ふ
位なもんだんべのさ」おつたは一
杯の
茶を
啜つて
喉を
濕した。おつぎも
南の
女房も
眼を
据ゑて
默つて
聞いて
居た。
勘次は
六ヶ
敷顏をして
居ながらも
熱心に
聞いた。
「
後が
酷くつてな、
縁の
下でも
何でも
泥が一
杯で、そえつあゝ
掻ん
出せばえゝんだが
床板が
白つ
黴に
成つちやつて
此れがまだなか/\
干ねえから
疊なんざ
何時敷つ
込めるもんだか
分んねえのさ、そんでまた
田でも
畑でも
引つ
被つた
處は
水干てから
腐つてるもんだから
其の
臭えことが
又噺にやなんねえや、
俺ら
作物ばかし
困んだと
思つたら、
畑の
桐の
木でも
樫の
木でも
今ん
成つてからぼろ/\
葉々が
落こつちやつて
可怖えもんだよ」おつたはいひながら
風呂敷を
解いた。やまと
煮と
書いた
牛肉の
鑵詰が三
本と
菓子でもあるかと
思ふ
小さな
紙包の
堅めた
食鹽の四つ五つとが
出た。
「
此れなあ、そんでも
難有えことに、
水浸に
成つた
家さは
役場から
一軒毎に
下げ
渡しになつたんだよ、
俺らまたこつちの
家なんぞぢやどうえ
鹽梅だと
思つて
暫く
外へも
出たことねえもんだから
出ても
見てえし、かうえ
物自分でばかし
口開けつちやあのも
何だと
思つて
持て
來て
見たのよ、
俺ら
一つ
手つけて
見たが
何程えゝ
味のもんだか
知んねえや」おつたは
空になつたかなり
大きな
風呂敷を
幾つかに
折つた。
「おゝえや、たえしたもんだね、
此れ
鹽だんべけまあ、
見てえたつて
見らつるもんぢやねえよ、かうえ
物あねえ、
能くまあ
持つて
來て
勘次さん
此ら
大變だ」
南の
女房は
食鹽の一
箇を
手にして
見ながら
羨ましげにいつた。おつぎも
珍らし
相にして
南の
女房の
手を
覗いた。
勘次も
白い
食鹽を
爪の
先で
少しとつて
口へ
入た。
「
鹽辛えやまさか」
彼は
嫣然とし
乍ら
「おつう、
此れ
藏つて
置け、そんぢや」
といつて
更に
「
※等[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、301-11]も
酷かんべ
野らは」と
彼はおつたの
染めつゝあつた
髮が、
交つた
白髮をほんのりと
見せるまでに
藥の
褪めて
穢なく
成つたのを
見つゝいつた。
「
米でも
何でも
一粒もとれやしねえのよ」おつたはぽさりとした
樣にいつた。
「
汁の
身なんざそんでも、どうにか
出來んのか」
「どうしてよおめえ、
青えもな
土手の
草ばかしだつて
云つてる
位だもの、
今日が
今日困つてんだな」
「そんぢや、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、302-2]げ
茄子か
南瓜でもやんべかなあ」
勘次は
同情が
小し
動いたやうにいつた。
「おやそんぢや
俺ら
家でも
葱の
少しもあげあんせう」
南の
女房はいつて
桑畑の
小徑を
小走りに
駈けて
行つた。
「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに
持てやしめえし、
米でも
少しやつたらよかんべな、どうせ
少し
經つと
陸稻刈れんだもの」おつぎは
口を
添へた。
「うむさうだなあ」と
勘次は
南京米の
袋へ
米を五
升ばかり、もう
痩せて
居る
俵から
量り
出した。
「
挽割麥もやつたらよかんべな」おつぎは
又いつた。
「
此れさ
交ぜてえゝけ」
勘次はおつたを
顧みていつた。
「うむ、一
緒にしてくろ」とおつたは
軟かにいつた。
勘次は
二つを
等半に
交ぜてそれから
又大きな
南瓜を
三つばかり
土間へ
竝べた。
「そんぢや
大層厄介掛けて
濟まねえな、そんぢや
俺ら
米ばかし
脊負つてつて
明日でも
又南瓜はとりに
來るとすべえよ、そんぢや
此ら、
米大變だから
俺れが
風呂敷ぢやちつと
小つちえんだが
大かえの
有れば
貸してくんねえか」おつたはおつぎへいひ
掛けた。
「
俺ら
家にやねえが、
爺がな
有つたつけな、おとつゝあ」さういつておつぎは
小走りに
卯平の
小屋へ
行つた。
先刻まで
見えなかつた
卯平が
何處から
歸つて
來たかむつゝりとして
獨で
煙管を
噛で
居た。
「
爺居たんだな、
俺居ねえけりや
默つて
借りてくべと
思つたんだつけが、
明日まで
伯母さん
大かえ
風呂敷要るつちから
貸してくんねえか、
米脊負つて
行くんだから」おつぎは
突然にいつた。
「うむ」と
卯平は
不器用に
風呂敷を
出してさうしておつぎの
後からおつたの
側へのつそりと
來て
立つた。
「
此れまあ、
勘次等にも
濟まねえつちつてつ
處さ、わし
等も
洪水でねえ」おつたは
風呂敷で
南京米の
袋をきりつと
包んだ。
「そんぢや
此の
南瓜も
俺れ
貰つてえゝんだな、
馬鹿に
大けえ
南瓜ぢやねえかな、
明日まで
置いてくろうな」おつたは
始終笑顏を
作つて
居る
處へ
南の
女房は
葱を
一束藁でくるんだのを
抱へて
來た。
「どうも
濟みませんねこら」おつたは
勘次を
見て
「どうしたもんだ、たえした
葱ぢやねえか、
本當に
濟まねえな、そんぢや
此れも
明日までとつて
置いてくろうな」と
更に
又臀を
据ゑて一
杯の
茶を
啜つた。
「おやツ、
此の
栗は
笑んでんだなはあ」
庭先の
栗の
梢に
始めて
目をつけた
樣におつたはいつた。
「
此間からなんでさ、ちつとばかしだが
落ちたの
有りあんさ」おつぎは
小笊の
底の
粒栗を
出して
「あつちになけりや
持つてつたらようござんせう、
大豆もこれ
打つた
處なら
持つてくとえゝんでがしたがね」おつぎは
快くいつた。
「さうだな、そんぢや
貰つて
行くかな」おつたは
手拭の
兩端へ
栗を
括つた。
「こつちのおとつゝあん、
此れわし
役場から
下つたの
持つて
來て
見たんだが一つ
分けて
貰つたらようがせう、
滅多ねえ
味のもんだから」おつぎが
先刻藏ふことを
勘次に
促されてもおつたの
手前を
憚つた
樣にして
其の
儘にして
置いた
牛肉の
鑵詰の一つをおつたは
卯平へやつた。
卯平は
窪んだ
目を
蹙めるやうにした。
勘次は
放心した
自分の
懷の
物を
奪はれた
程の
驚愕と
不快との
目を
以て
卯平とおつたとを
見た。おつたは
重相な
風呂敷包をうんと
脊負つて
胸の
結び
目へ
兩手を
掛けて
包の
据りを
好くする
爲に二三
度搖つた。
「そんぢや
明日またお
目にかゝりあんせう」おつたは一
同へ
挨拶して
「
此りやよかつた、
本當にまあ」
聞えよがしに
獨語しながらおつたは
庭から
垣根を
出た。
勘次は
自分の
側に
牛鑵を
手にして
立つた
卯平を
改めて
更に
不快な
目を
以て
凝視しながら、
彼の
心の
裡には
惜しかつたといふ
念慮が
何といふことはなしに
只ふいと
湧いたのであつた。
「
袋は
明日持つて
來てくんなくつちや
畢へねえぞ」と
勘次はおつたの
後から
追ひ
掛けるやうにしていつた。
おつたは
垣根に
添うて
後の
林の
側から
田圃へ
出た。
道端の
竹の
梢には
何處までも
偃うて一
杯に
乘り
掛らねば
止むまいとする
毒なせんにん
草がくつきりと
白く
誇つて
居る。
小さな
身體でありながら
少し
鋭い
嘴を
持つたばかりに、
果敢ない
雀や
頬白の
前にのみ
威力を
逞しくする
鵙が
小さな
勝利者の
聲を
放つてきい/\と
際どく
何處かの
木の
天邊で
鳴いて
居た。
其の
夜勘次の
家には
突然一
同を
驚愕せしめた
事件が
起つた。それは
事もなく
濟んでさうして
餘りに
滑稽な
分子を
交へて
居た。
與吉は
其の
日の
夕方、
紙へ
包んだ
食鹽を
一つ
盜んだ。
彼は
從來見たことのない
綺麗な
菓子を
發見したと
思つて
心が
躍つた。それでも
彼は
其の
半分を
割つていきなり
嚥み
下した。
彼は
喉がぢり/\と
焦げつく
程非常な
苦惱を
感じた。
勘次もおつぎも
只慌てた。
勘次は
其の
原因を
知つて
「
汝りや
馬鹿だな
本當に、
何ち
馬鹿だんべなあ」と
叱つて
見るだけであつた。
勘次が
餘りに
叱るので
「そんなに
怒つたつて
癒るめえな、おとつゝあは」と
遂にはおつぎが
勘次を
叱つた。
與吉は
只苦しんで
胸を
掻き

る
樣にしつゝ
顛がつて
泣いた。
卯平は
騷ぎを
聞いてのつそりと
來た。
「
水飮ませて
見ろ」
彼は
慌てるといふことを
知らぬものゝ
如く一
言いつた。おつぎは
直に
柄杓で
水を
汲んだ。
與吉は
幾らでも
柄に
縋つて
飮んだ。
「
納豆くつたつて
死なねえ
内に
水飮ませりや
何ともねんだもの、
水飮ませりやそんなに
騷ぐにやあたらねえ」
卯平はいつて
自分でも
又飮ませた。
與吉の
枕元に三
人は
徹宵眠らなかつた。
恐ろしく
多量の
水を
飮んだ
與吉は
遂にすや/\と
眠つた。さうして
翌朝けそ/\と
癒つて
驅け
出したのであつた。
次の
日おつたは
復來た。おつたは
自分が
無意識に
種を
蒔いた
昨夜の
騷ぎを
知つてる
筈がないので、
昨日の
如く
威勢がよかつた。
勘次は
睡眠の
不足から
更に
餘計に
不快の
目を
蹙めた。
自分の
風呂敷へ
軒の
下に
竝べてある三つの
南瓜を
包まうとしておつたは
「
俺れが
南瓜は
此れだつけかな」と
不審相にいつた。
「それだんべな」
勘次は
漸くこれだけいつた。
淺猿しい
彼はおつたへやつた
南瓜を
換へて
置いたのであつた。
「どうしたつけ、
昨日の
豆はそんでもたんと
收穫れた
割合だつけが」おつたが
謎のやうにいつても
勘次は
更にはき/\といはなかつた。おつたも
不快な
容子をしながら
南瓜と
葱とを
脊負つて
別に
口を
利くでもなく、
只卯平と
二言三言いつてもうどうでも
好いといふ
態度で
出て
行つた。
勘次はつく/″\と
中間の
痛く
痩せて
括れた
俵を
見た。
財貨によつて
物質的の
滿足を
自分の
暖かな
懷に
感じた
時凡ては
此れを
失ふまいとする
恐怖から
絶えず
其心を
騷がせつゝあるやうに、
無盡藏な
自然の
懷から
財貨が
百姓の
手に
必ず一
度與へられる
秋の
季節に
成れば、
其の
財貨を
保つた
田や
畑の
穗先が
之を
嫉む一
部の
自然現象に
對して
常に
戰慄しつゝ
且泣いた。二百十
日から廿
日の
間に
渡つての
暴風は
懸念した
程のことはなく、
只秋の
空は六かし
相に
低く
成つて
棒のやうな
雲へ
煙の
樣な
雲がぽつり/\と
纏つて
居る
日が
續いて二三
日晝から
夜へ
掛けてぼか/\と
暖かい
空つ
風が
思ひ
切り
吹いた。
小松や
櫟の
林に
交つて、
之に
觸れゝば
人の
肌膚に
血を
見せる
程の
硬い
意地の
惡い
葉を
持つた
芒までが、さうしなければ
目にも
立たないのに
態々と
薄赤い
軟かな
穗先を
高くさし
扛げて、
他一
倍に
騷いだ。
暫くして
秋は
眩い
程冴えた
空を
見せた。
畑には
晝が
餘計に
明るい
程黄褐色に
成熟した
陸稻が一
杯に
首肯いた。
蕎麥は
爽かで
且つ
細く
強い
秋雨がしと/\と
洗つて
秋風がそれを
乾かした。
洗つては
乾し/\
屡それが
反覆されてだん/\に
薄青く、さうして
闇の
夜をさへ
明くする
程純白に
曝された。
臺地の
畑は
黄白相交つて
地勢の
儘になだらかに
起伏して
鬼怒川の
土手に
近く
向方へ
低くこけて
居る。さういふ
畑の
周圍に
立て
居る
蜀黍は
強い
莖がすつくりと
穗を
支て、それが
疎らな
垣根のやうに
連つて
畑から
畑を
繼いでは
幾十
度の
屈折をなしつゝ
段々に
短くなつて
此れも
鬼怒川の
土手に
近く
竭きる。
土手の
篠の
高さに
見える
蜀黍は
南風を
受けて、さし
扛げた
手の
如き
形をなしては
先から
先へと
動いて、
其の
手が
溯る
白帆を
靜かに
上流へ
押し
進めて
居る。さうしては
又其の
疎らな
垣根は
長い
短いによつて
遠くの
林の
梢や
冴えた
山々の
頂を
撫でゝ
居る。
爽かな
秋は
斯くしてからりと
展開した。
然し
勘次の
作つた
陸稻はかういふ
畑ではなく、
梢の
荒んだ
雜木林の
間のみであつた。
彼の
開墾地へは
周圍に
隱れる
場所が
有る
所爲か、
村落の
何處にも
俄に
其聲を
聞かなくなつた
雀が
群をなして
日毎に
襲うた。
彼はそれでも
根よく
白い
瓦斯絲を
縱横に
畑の
上に
引つ
張つてひら/\と
燭奴を
吊つて
威して
見た。それでも
狡獪な
雀の
爲に
籾のまだ
堅まらないで
甘い
液汁の
如き
状態をなして
居る
内から
小さな
嘴で
噛んで
夥かに
籾殼が
滾された。
彼は
空つ
風が
障つたとは
思つて
居ても、
長い
幹を
刈り
倒した
時はそれでも
熱心で
且愉快であつたが、
然し
乾燥して
米にした
時には
彼は
夏の
頃の
豫想と
非常な
相違であることを
確めて
落膽せざるを
得なかつた。
彼の
淺猿しい
心が
僅な
米や
麥を
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、308-10]なるものゝおつたに
騙して
取られたかと
思ひ
出しては
暫くの
間忌々敷さに
堪へなかつた。
彼は
勢ひ
何かに
當り
散らさうとするのにおつぎと
與吉とに
對しては
餘りに
深い
親しみを
有つて
居た。
斯うして
彼の
卯平に
對する
憎惡の
念が
彼の
心へ
錐を
穿つて
更に
釘を
以て
確然と
打ちつけられたのであつた。
勘次が
走つて
鬼怒川の
岸に
立つた
時は
霧が一
杯に
降りて、
水は
彼の
足許から二三
間先が
見えるのみであつた。
岸には
船が
繋いでなかつた。
彼は
焦慮つて
例するやうに
大聲出して
對岸へ
行つた
筈の
船を
喚んだ。「おうえ」と
應ずる
聲が
水を
渉つて
強く
然かも
近く
聞えた。
勘次は
其の
聲に
壓せられて
默つた。
直ぐに
舳が
薄く
霧の
中から
見えた。
勘次は
殆んど
咽ぶやうな
霧に
包まれて
船に
立つた。
處々さら/\と
微かに
響を
傳ひて
船の
底が
支へられようとする。
初秋の
洪水以來河の
中央には
大きな
洲が
堆積されたので、
船は
其の
周圍を
偃うて
遠く
彎曲を
描かねば
成らぬ。
勘次は
目を
掩はれたやうで
心細い
霧の
中に、
其
ことで
著しく
延長された
水路を
辿つて
居ながら、
悠然として
鈍い
棹の
立てやうをするのに
心を
焦慮らせて
「どうしたんべ、
入つちや
越せめえか」
船頭の
方を
向いて
彼はいつた。
「ぶく/\やりたけりや
入つた
方がえゝや」
船頭はそつけなくいつて
徐ろに
棹を
立てる。
船底が
觸つて
立つて
居る
身體がぐらりと
後へ
倒れ
相に
成つた。
勘次は
船頭が
態と
自分を
突きのめしたものゝやうに
感じて
酷く
手頼ない
心持がした。
彼は
凝然と
屈んで
船頭の
操る
儘に
任せた。
中央の
大きな
洲から
續く
淺瀬に
支へられて
船は
例の
處へは
着けられなく
成つて
居る。
只一人の
乘客である
勘次は
船頭の
勝手な
處へおろされたやうに
思つた。
河楊が
痩せて、
赤い
實を
隱した
枸杞の
枝がぽつさりと
垂れて、
大きな
蓼の
葉が
黄色くなつて
居る
岸へ
船はがさりと
舳を
突つ
込んだのである。それでも
其處にはもう
幾度か
船がつけられたと
見えて
足趾らしいのが
階段のやうに
形づけられてある。
勘次は
河楊の
枝に
手を
掛けて
他人の
足趾を
踏んだ。
枝や
葉がざら/\と
彼の
蓙に
觸れて
鳴つた。
彼は
三足目に
岸に
立つた。
岸は
畑で、
洪水が
齎した
灰に
似てる
泥が一
杯に
乾いて
大きな
龜裂を
生じて
居る。
周圍の
蜀黍が
穗を
伐られた
儘、
少し
遠くはぼんやりとして
此れも
霧の
中に
悄然と
立つて
居る。
勘次が
顧つた
時、
彼を
打棄つた
船は
沈んだ
霧に
隔てられて
見えなかつた。
彼は
蜀黍の
幹に
添うて
足趾に
從つて
遙に
土手の
往來へ
出た。
霧が一
遍に
晴れた。
彼は
何かに
騙された
後のやうに
空洞とした
周圍をぐるりと
見廻さない
譯にはいかなかつた。
彼は
沿岸の
洪水後の
變化に
驚愕の
目を

つた。
偶然彼は
俄に
透明に
成つた
空氣の
中から
驅つて
來て
網膜の
底にひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ
目についたものがある。それは
遠い
上流に
繋つて
居る
小さな
船であつた。
其處には
數本の
竹竿が
立てられてあるのも
同時に
彼の
目に
入つた。
彼は
直ぐにそれが
鮭捕船であることを
知つた。
漁夫は
鮭が
深夜に
網に
懸るのを
待ちつゝ、
假令連夜に
渡つてそれが
空しからうともぽつちりとさへ
眠ることなく、
又獲物が
鋭く
水を
切つて
進んで
來るのを
彼等の
敏捷な
目が
闇夜にも
必ず
逸することなく、
接近した一
刹那彼等は
水中に
躍つて
機敏に
網を
以て
獲物を
卷くのである。
彼等は
夜が
明けると
銀の
如く
光つて
居る
獲物が一
尾でも
船に
在ればそれを
青竹の
葉に
包んで
威勢よく
擔いで
出る。さもなければ
怜悧な
鮭が
澱みに
隱れて
動かぬ
白晝の
間のみぐつたりと
疲れた
身體に
僅に一
睡を
偸むに
過ぎないので、
朝の
明るく
白い
水にさへ
凝然と
其の
目を
放たないのである。
孰れにしても
小さな
船は
今冷たい
朝の
靜けさを
保て
居るのである。
只遙に
隔つた
村落の
木立の
梢から
騰る
炊煙が
冴えた
冷たい
空に
吸ひこまれて
居るのみで、
其の
小さな
船が
中心點をなして
勘次の
目には一つも
動く
物を
見なかつた。
彼は
暫く
又凝然として
上流の
小船を
見て
居た。
彼は
氣がついた
時土手を一
散に
北へ
急いだ。
土手は
軈て
水田に
添うてうね/\と
遠く
走つて
居る。
土手の
道幅が
狹くなつた。それは
刈られてぐつしやりと
濕つて
居る
稻が
土手の
芝の
上一
杯に
干されてあつたからである。
稻はぼつ/\と
簇つて
居る
野茨の
株を
除いて
悉く
擴げられてある。
野茨の
葉はもう
落ちて
畢つて、
小さな
枝の
先には
赤いつやゝかな
實が一つづゝ
翳されて
居る。
草刈の
鎌を
遁れて
確乎と
其株の
根に
縋つた
嫁菜の
花が
刺立つた
枝に
倚り
掛りながらしつとりと
朝の
濕ひを
帶て
居る。
濡れた
稻の
臭が
勘次の
鼻を
衝いた。
螽がぱら/\と
足の
響に
連れて
稻を
渉つて
遁た。
彼は
其干された
稻の
穗先を
攫んで
籾の
幾粒かを
手に
扱いて
見た。
彼は
更に
其籾粒を
齒で
噛んで
見た。
彼は
夫から
又一
散に
走つた。
彼は
少しの
間に
酷く
暇どつたやうに
感じた。
足には
脚絆と
草鞋とを
穿て
背には
蓙を
負うて
居る。
蓙は
終えず
彼の
背後にがさ/\と
鳴つて
其の
耳を
騷がした。
彼は
遂に
土手から
折れて
東へ/\と
走つた。
村落がぽつり/\と
木立を
形つて
居る
外には一
帶に
只連續して
居る
水田を
貫いて
道は
遙に
遠く、ひつゝいたやうな
臺地の
林を
望んで一
直線である。
彼は
嘗て
其處を
歩いたことはあつた。
然し
彼の
知つてるのは
幾屈曲をなして
居た
當時である。
彼は
何時の
間にか
極端に
人工的の
整理を
施された
耕地に
驚愕の
目を

つた。
彼は
溝渠の
井然として
居るのに
見惚れて
畢つた。
日は
漸く
朝を
離れて
空に
居据つた。
凡ての
物が
明るい
光を
添へた。
然しながら
周圍の
何處にも
活々した
緑は
絶えて
目に
映らなかつた。まだ
幾らも
刈られてない
田は、
黄褐色の
明るい
光を
反射して、
處々の
畑に
仕る
桑も、
霜に
逢ふまではと
梢の
小さな
軟かな
葉の四五
枚が
潤ひを
有つて
居るのみである。ぽつ/\と
簇つた
村落の
木立の
孰れも
悉く
赭いくすんだ
葉を
以て
掩はれて
居る。さうして
低く
相接して
居る
木立との
間に
截然と
強い
線を
描いて
空は
憎い
程冴て
居る。さうだ。
凡ての
植物が
有つて
居る
緑素は
悉皆空が
持つて
居るのだ。
春になると
空はそれを
雨に
溶解して
撒いてやるのだ。それだから
濕うた
枝はどれでも
青く
彩られねばならぬ
筈である。それだから
幾度百姓の
手が
耕さうとも
其の
土を
乾燥して
濡らさぬ
工夫を
立ない
限りは、
思はぬ
處にぽつり/\と
草の
葉が
青く
出て、
雨が
降れば
降る
程何處でも一
杯に
其の
草の
葉が
濃く
成つて
行かねばならぬ
筈である。それを
晩秋の
空が
悉皆持ち
去るので
滅切と
冴える
反對に
草木は
凡てが
乾燥したりくすんだりして
畢ふのに
相違ないのである。
明るい
日は
全く
晝に
成つた。
處々の
島のやうな
畑の
縁から
田へ
偃ひ
掛つて
居る
料理菊の
黄な
花が
就中一
番強く
日光を
反射して
近いよりは
遠い
程快よく
鮮かに
見えて
居る。
勘次は
始終手拭を
以て
捲いた
右手の
肘を
抱へるやうにして
伏目に
歩いた。
道に
添うて
狹い
堀の
淺い
水に
彼の
目が
放たれた。がら/\に
荒んだ
狼把草やゑぐがぽつ/\と
水に
浸つて
居る。
蒼い
空は
淺い
水の
底から
遙かに
深く
遠く
光つた。さうして
何處からか
迷ひ
出して
落付く
場所を
見出し
兼ねて
困つて
居るやうな
白い
雲が
映つて、
勘次が
走れば
走る
程先へ/\と
移つた。
勘次はそれを
凝視めて
行くと
何だか
頭腦がぐら/\するやうに
感ぜられた。
彼は
昨夜は
眠らなかつた。
彼の
自分獨で
噛み
殺して
居ねばならぬ
忌々敷さが
頭腦を
刺戟した。
彼は
只管肘の
瘡痍の
實際よりも
幾倍遙に
重く
他人には
見せたい一
種の
解らぬ
心持を
有つて
居た。
寸暇をも
惜んだ
彼の
心は
從來になく、
自分の
損失を
顧みる
餘裕を
有たぬ
程惑亂し
溷濁して
居た。
白晝の
日は
横頬に
暑い
程に
射し
掛けたが
周圍は
依然冷たかつた。
堀の
淺い
水には
此れも
冷たげに
凝然と
身を
沈めた
蛙が
默つて
彼を
見て
居た。
遠い
田圃を
彼は
前後に
只一人の
行人であつた。
遙にぽつり/\と
見える
稻刈の
百姓は
然とした
彼の
目から
隱れようとする
樣に
悉皆ずつと
低く
身を
屈めて
居る。
明るい
光に
滿ちた
田圃を
其の
惑亂し
溷濁した
心を
懷いて
寂しく
歩數を
積んで
行く
彼は、
玻璃器の
水を
日に
翳して
發見した一
點の
塵芥であつた。
勘次は
田圃が
竭きた
時村落を
過ぎて
臺地へ
出た。
村落の
垣根には
稻を
掛けて
居る
人々があつた。
道行く
人を
見たがる
癖の
彼等は
皆忙しげな
勘次を
見た。
勘次は
他人が
自分を
見ることを
知つた
時肘を
復た
叮嚀に
抱いた。
臺地には
林の
間に
陰氣な
畑が
開墾されてあつた。
彼は
開墾地の
土質と
作物とを
非常な
注意で
見た。
又村落があつて
廣い
畑が
展開した。
畑は
陸稻を
刈つた
儘の
處が
幾らもあつた。
彼は
陸稻の
刈株を
叮嚀に
草鞋の
先で
蹂んで
見た。
百姓がちらほらと
動いて
麥を
蒔くべき
土が
清潔に
耕されつゝある。
畑の
黒い
土は
彼等の
技巧を
發揮して
叮嚀に
耕されゝば
日がまだそれを
乾さない
内は
只清潔で
快よい
感じを
見る
人の
心に
與へるのである。
さういふ
村落を
包んで
其處にも
雜木林が一
帶に
赭くなつて
居る。
他に
先立つて
際どく
燃えるやうになつた
白膠木の
葉が
黒い
土と
遠く
相映じて
居る。
勘次は
自分の
麥を
蒔くべき
畑の
用意がまだ十
分でないことを
思つた。
彼は
前年寒さが
急に
襲うた
時、
種蒔く
日が
僅に
二日の
相違で
後れた
麥の
意外に
收穫の
減少した
苦い
經驗を
忘れ
去ることが
出來なかつた。
彼は
標準として
教へられた
其の
日を
外すことなく
麥は
蒔かねばならぬものと
覺悟をして
居るのである。それと
共に一
日でも
斯うして
時間を
空費する
自分の
瘡痍に
就いて
彼は
深く
悲しんだ。
然しそれで
居ながら
彼は
悲痛から
來る
憤懣の
情が、
只其瘡痍を
何人にも
實際以上に
重く
見せもし
見られもしたい
果敢ない
念慮を
湧かしむることより
外に
何物をも
有たなかつた。
彼は
殆んど
絶對に
同情と
慰藉とに
渇して
居たのである。
畑の
黒い
土にはぽつ/\と
大根の
葉が
繁つて
居る。
周圍に
冴えた
青い
物は
大根の
葉のみである。
大根の
葉は、一
旦地上の
緑を
奪うて
透徹した
空が
其の
濃厚な
緑を
沈澱させて
地上に
置いた
結晶體でなければならぬ。
晩秋の
氣は
只管に
沈まうとのみして
居る。
生殖作用を
畢つた
凡ての
作物の
穗先は
悉皆もう
俛首れて
居る。
蟲の
聲も
地に
沁み
入らうとして
居る。
獨り
爽かな
緑を
與へられた
大根の
葉も、
幾ら
成長しても
強く
引き
締める
晩秋の
氣を
受けて
地にひつゝくやうにして
漸と
斜に
廣がるのみで、
毫でも
高く
立ち
昇ることを
許容されて
居らぬ。
恁うして
畑の
土は
只冷たく
凍るのを
待つて
居るのである。
勘次は
漸く
整骨醫の
門に
達した。
整骨醫の
家はがら
竹の
垣根に
珊瑚樹の
大木が
掩ひかぶさつて
陰氣に
見えて
居た。
戸板を三
角形に
合せて
駕籠のやうに
拵へたのが
垣根の
内に
置かれてあつた。
誰か
重い
怪我人が
運ばれたのだと
勘次は
直ぐに
悟つてさうして
何だか
悚然とした。
彼は
業々しい
自分の
扮裝に
恥ぢて
躊躇しつゝ
案内を
請うた。ぽつさりとして
玄關に
待つて
居るのは
悉皆怪我人ばかりである。
首から
白い
布片を
吊つて
此れも
白く
繃帶した
手を
持たせたものもあつた。
其處に
蒼い
顏をしてぐつたりと
横はつて
居るものもあつた。
勘次は
怪我人の
後に
隱れるやうにして
自分の
番になるのを
待ちながら
周邊が
何となく
藥臭くて
恐ろしいやうな
感じに
囚はれた。
醫者は
一人の
患部を
軟かに
柔んでやつて
居たが
勘次をちらと
見た。
勘次は
何だか
睨まれたやうに
感じた。
醫者は
爼板のやうな
板の
上に
黄褐色な
粉藥を
少し
出して、
白い
糊と
煉り
合せて、
罎の
酒のやうな
液體でそれを
緩めてそれから
長い
鋏で
白紙を
刻んで、
眞鍮の
箆で
其藥を
紙へ
塗抹つて
患部へ
貼つてやつた。
怪我人等は
只凝然として
醫者の
熟練した
手もとを
凝視した。
勘次は
他人の
後から
爪立をした。二三
人小さな
療治が
濟んで十二三の
男の
子が
仕事衣の
儘な二十四五の
百姓に
負はれて
醫者の
前に
据ゑられた。
醫者は
縁側の
明るみへ
座蒲團を
敷いて
出た。
怪我人は
醫者の
前へ
出ると
恐怖に
襲はれたやうに
俄に
鳴咽した。
醫者は
横に
膨れた
大な
身體でゆつたりと
胡坐をかいた
儘怪我人の
左の
手を
捲つて
見た。
怪我人の
上膊が
挫折してぶらりと
垂れて
居た。
醫者は
怪我人の
患部に
手を
觸れて
見て
「お
前そつち
持つて」と
簡單に
顎で
百姓へ
指圖した。
百姓は
怖づ/\
怪我人の
後へ
廻つて
蒼い
顏をして
抱いた。
「えゝか、ぎつと
抱いてるんだぞ」
醫者は
足を
怪我人の
腹部に
當てゝ
兩手に
挫折した
手を
持つて
曳かうとした。
怪我人は
恐ろしさにわつと
聲を
放つて
泣いた。
醫者は
手を
止めた。
「お
前兄貴だな、そんぢやえゝ、
徒勞だ」と
抱いた
手を
放たしめた。
百姓は
骨肉の
勦りが
泣き
號ぶ
子をぎつと
力を
籠めて
曳かせない。そんな
思ひきつた
手段に
加はることは
出來ないのであつた。
百姓は
泣けば
泣く
程手を
緩めた。
醫者はそれで
徒勞だといつた。
百姓は
只蒼い
顏をしてぼつとして
居るのみであつた。
醫者は
更に
家族に
命じて
近所の
壯者を
喚びにやつた。
「
木から
落つたな」
醫者は
百姓に
聞いた。
「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか
分んねえから
畑耕つてた
儘衣物も
着ねえで
斯うして
負つて
來たんだが」と
百姓はいつて、それから
「わし

の
木さ
登んな
見てたんだつけが、
落つたから
驅けてつて
見たら、
目引つゝけつちやつて、そんでも
暫く
經つたら
泣き
出したんでわし
抱き
起して
手へ
觸つたら、
痛てえ/\つちから
捲つて
見たら、
斯うぶらんと
成つたつ
切でわしもはあ、
魂消つちやつて」
百姓は
只管に
慌てゝいつた。
「
本當に
此處へ
來て
居ちや
毎日のやうに
木から
落つたつち
怪我人が
來んだよまあ、
椎の
木から
落つたの
栗の
木から
落つたのつて、
子供の
怪我は
大概さうなんだから、
男つ
子持つちや
心配さねえ、そんだがこれ、
怪我つちや
過だから、わし
等も
下駄穿きながらひよえつと
轉がつた
丈で
手つ
首折れたんだなんて」と
側に
居た
婆さんがいつた。
「わし
等がも
毎日のやうに

の
木さ
登つてゝ
木登りは
上手なんだから、それも
雨でも
降つたばかしならつる/\して
足引つ
掛んねえもんだが
雨は
降んねえし、そんなこたねえ
筈なんだが、
攫つてた
枝ん
處に
蛇居たとかつて
慌くつておりべと
思つたつちんだから、いつでもはあ
枝なんざがさがさやつて
天邊の
方で
呶鳴つたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが
酷く
變な
音だと
思つて
見る
内にや
落んな
早えゝもんで、
困つたこと
出來たのせ」
百姓は
乘地になつていひ
續けた。
勘次は
恐怖の
目を

つて
耳を
傾けた。
「

の
木さ
蛇があがるやうぢや
雨でもまた
降らなけりやえゝが、
百姓にや
大事な
處なんだからまあ、ちつと
續けさせてえもんだが」
側から
又一人の
怪我人が
口を
添へた。
勘次は
又其の
噺を
聞きながら
定まりない
天候の
變化を
案じた。
軈て
近所の
壯者が
來て
以前の
如く
怪我人を
懷いた。
醫者は
先刻のやうにして
怪我人の
恐怖した
顏を
見ながら
口を
締めてぎつと
其の
手を
曳いた。
怪我人の
手はぼぎつと
恐ろしい
音を
立た。
怪我人は
只泣き
號んだ。
「よし/\
癒つちやつた」
醫者は
手を
放つて、
太い
軟らか
相な
指の
腹で
暫く
揉むやうにしてそれから
藥を
塗つた
紙を一
杯に
貼つて
燭奴のやうな
薄い
木の
板を
當てゝぐるりと
繃帶を
施した。
「どのつ
位で
癒つたもんでござんせうね、
先生さん」
百姓は
懸念らしく
聞いた。
「さう
直ぐにや
癒らねえな」
醫者は
無愛想にいつた。
百姓は
依然として
蒼い
顏をしながら
怪我人を
脊負つて
歸つて
行つた。それから二三
人の
療治が
濟んで
勘次の
番に
成つた。
「
此りや
大層大事にしてあるな」
醫者は
穢い
手拭をとつて
勘次の
肘を
見た。
鐵の
火箸で
打つた
趾が
指の
如くほのかに
膨れて
居た。
「どうしたんだえ
此ら、
夫婦喧嘩でもしたか」
醫者は
毎日百姓を
相手にして
碎けて
交際ふ
習慣がついて
居るので、どつしりと
大きな
身體からかういふ
戯談も
出るのであつた。
「なあにわしやはあ、
嚊に
死なれてから七八
年にもなんでがすから」
勘次は
少し
苦笑していつた。
「さうか、そんぢや
誰に
打たれたえ、まあだ
壯だからそんでも
何處へか
拵えたかえ」
輕微な
瘡痍を
餘りに
大袈裟に
包んだ
勘次の
容子を
心から
冷笑することを
禁じなかつた
醫者はかう
揶揄ひながら
口髭を
捻つた。
「
先生さん
戯談いつて、なあにわしや
爺樣に
打たれたんでさ」
勘次は
只管に
醫者の
前に
追求の
壓迫から
遁れようとするやうにいつた。
醫者はそれからはもう
默つて
藥を
貼つて
形ばかりの
繃帶をした。
「
先生さん、わしやまあだ
來なくつちやなりあんすめえか」
勘次は
懸念らしい
目を
以て
聞いた。
「
此の
藥をやるから、
自分で
貼つた
方がえゝ、
此れで
癒るから」と
醫者は
一袋の
藥を
與へた。
勘次は一
度整骨醫の
門を
潜つてからは、
世間には
這
に
怪我人の
數が
有るものだらうかと
絶えず
驚愕と
恐怖との
念に
壓せられて
居たが、
珊瑚樹の
繁茂した
木蔭から
竹の
垣根を
往來へ
出た
時彼は
身も
心も
俄に
輕くなつたことを
感じた。
彼は
小さな
怪我人から
聯想して
此れも
毎日庭の
木を
覘つて
居る
與吉を
憂へ
出した。
彼は
脚力の
及ぶ
限り
歸途を
急いだ。
彼は
行く/\
午前に
見て
暫く
忘れて
居た
百姓の
活動を
再び
目前に
見せ
付られて
隱れて
居た
憤懣の
情が
復た
勃々と
首を
擡げた。
彼は
自分の
瘡痍が
輕く
醫者から
宣告された
時は
何となく
安心されたのであつたが、
然し
又漸次道程を
運びつゝ
種々な
雜念が
湧くに
連れて、
失望と
不滿足を
心に
懷きはじめた。
彼は
家に
歸つた
後瘡痍を
重く
見せ
掛けようとするのには
醫者の
診斷が
寸毫も
彼に
味方して
居なかつたからである。
彼の
家に
歸つたのは
日が
西に
連つた
雜木林の
上に
傾かうとした
頃であつた。
彼は
只其儘に
自分の
怪我と
其事實とを
掩うて
置くのが
残り
惜い
心持がした。それで
彼は
其の
足で
直に
南の
家へ
行つた。
脚絆と
草鞋とで
身を
堅めた
勘次の
容子を
不審に
思つた
南の
亭主へ
勘次は
突然訴へるやうにいつた。
「
俺ら、
爺樣に
鐵火箸で
打つ
飛ばさつて、
骨接へ
行つて
來た
處だが、
忙し
處酷え
目に
逢つちやつた」
勘次はそれでも
口が
澁つて
思ふ
樣にいへなかつた。
南の
亭主は
態々來て
噺をされては
棄てゝ
顧みぬことも
出來なかつた。
「どうしたつちんでえまあ、
勘次さん」
幾らか
態とらしく
驚いたやうに
聞いた。
「
昨日の
日暮に
俺れ
野らから
歸つて
來たら
爺樣
げ
餌料撒えてやつてつから
見たら、
米交ぜて
置いた
食稻の
方掻ん
出して
撤いてんぢやねえけ、
夫から
俺らもそれ
遣つたんぢや
畢ねつちつたな、

げやんなそつちに
別にして
有んだから
撒いてやんだらそつちのがにして
呉ろつちつたのよ、

げなんざ
勿體ねえな、さうしたらいきなり
鐵火箸で
俺れこと
打つ
飛ばして、
汝りや
俺げ
食はせんのせえ
惜いつ
位だから

げやつてせえ
其
こと
云へやがんだんべなんて、

ら
放心してたもんだから
逃げ
間にやあねえで、
此れかうえに
怪我しつちやつたな、
今蒔物の
忙しい
處へ
打つ
込んで、
何處までも
癒んねえやうでもしやうねえから
朝つ
稼ぎに
骨接へ
行つたんだが、
遠いのにそれに
行つて
見つと
怪我人が
來て
居てちよつくらぢやねえもんだから、
隨分急えだ
積だつけがこんなに
遲くなつちやつて、
何ちつても
日は
短くなつたかんな、さう
云つても
怪我人ちや
有るもんだな、」
勘次は
漸くさうして
仔細に
事の
顛末を
打ち
明けた。
「そんだが
怪我は
大變なこたねえのか」
南の
亭主はそれも
義理だといふやうに
聞いた。
「うむ」と
勘次はいひ
淀んだ。
南の
亭主は
其の
理由を
覺ることは
出來ないのみでなく、
其のいひ
澱んだことを
不審に
思ふ
心さへ
起さぬ
程放心と
聞いて
居た。
「そんで
爺樣はどうしたつちんでえ」
南の
亭主はそれから
先を
聞いた。
「
俺ら
朝つぱら
出掛つちやつてまあだ
行逢えもしねえから、どうするつちんだか
分んねえが、どうせ
甘え
面付もしちや
居らんめえな、
此んで
怪我なんぞさせてえゝ
心持ぢやあんめえな、さうぢやねえけ」
勘次はだん/\
勢ひがついていつた。
「そんぢや
噺はどうゆ
姿にもして
置かなくつちやしやうあんめえな、
俺れまあ
噺はして
見つから、どつちがどうのかうのつちつたつて
仕やうねえし、まさかおめえ
手越したな
爺樣だつちつたつて、
親のこと
謝罪れつちことも
云はんねえから
何氣なしのことにして
押つゝけべぢやねえか、なあ」
南の
亭主はさういつて
卯平の
狹い
戸口に
立つて
居た。
「こつちのおとつゝあん、わしも
此れ
變な
噺だが
勘次さんに
頼まれたやうな
形でまあ
來たんだがね、
昨日の
日暮とかにそれ、そつちこつち
仕たつちことだつけが、
勘次さんもそんなに
惡りい
心持で
云つたんでもねえ
鹽梅だし、まあ
手ついて
謝罪らせんの
何だのつちことでなく、
此ら
其の
場限りとして
仲善くやつて
貰えてえんだがどうしたもんだんべね、
腹立たせんなこら
惡りいかも
知んねえが、
親子と
成つてゝ
此れ、ちつとのことで
後で
考へて
見ちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」
仲裁者は
軟かにさうして
然も
厭といはれぬやうに
打ち
解けて
突つ
込んだ。
「なあに
俺らあどうもかうもねえんだが、
彼の
野郎奴はあ、
何ぢやねえ、
俺れこと
邪魔なんだから、
俺らあ
俺れだと
思つてつから
管やしねえが、
俺れげ
食はせる
物惜しくつて
仕やうねえんだから、
俺れ
家の
物一粒でも
減らさねえやうに
外に
行つてりやえゝんだんべが、
俺れえそれから、
俺れことさうだに
厭なんだら
自分で
何處さでもけつかつた
方がえゝ、
厭だら
後から
來た
者出ろつち
氣なんだから」
卯平は
銜へた
煙管を
少し
顫へる
手に
持つて
途切れながら
漸く
此れだけいつた。
「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、
先刻もいふ
通り
腹も
立つべえが
親子となつて
見りや
此れ、えゝことも
有るもんだからなあ、さう
云はねえでそれ、わしげ
任せて
不承しさつせえね」
南の
亭主は
只反覆していつた。
「
斯うだこた
此れ、
默つてりや
隣近所でも
分んねえもんだが
勘次等えゝ
暫く
味噌せえ
無くして
置くんだから、
一杓子も
有りやしねえんだ。
去年の
暮にや
味噌搗くつちんで
俺ら
働えた
錢で
鹽迄買つたんだな、
俺れも
硬え
物な
噛めねえから
味噌なくつちや
仕やうねえな、
俺ら
壯の
頃つから
味噌は
好きで
味噌なくつちやなんぼにも
身體に
力つかねえで
困り/\したんだから、
麥麹は
鹽まで
切つて
有んだから
豆せえ
煮りや
直なのに、それ
今んなつたつて
搗くべぢやなし、なんでも
俺れ
死ねばえゝ
位にして
待つてんだんべが、
此れ、
味噌なんざ
搗いたからつてさう
直ぐに
手つけらつるもんぢやなし、
俺ら
明日が
日にも
死ぬかどうだか
分りやしねえが、そんでも
自分の
見てつ
處で
搗きせえすりや
明日死ぬにしたつて
心持やえゝから」
卯平は
獨り
呟くやうにしてそれから
「あん
時搗せえすりや
今頃ら
食へば
食へんのに」と
彼は
其癖の
舌を
鳴らした。
「
俺れ
小忌々敷から
打つ
飛ばしてやつたに」
卯平は
暫く
措いて
又少し
聲に
力を
入れていつた。
「さうかね、
俺らそんなこた
知らなかつたつけが、さうえこた
幾ら
懇意だ
近所だつちつたつて
一々他人の
飯臺まで
蓋とつちや
見られねえから
俺らも
知らねえでたな、そんぢやそらまあ、
味噌でも
何でもさうえ
理由ぢやこつちのおとつゝあん
好きなやうに
搗かせることにしてな、
大豆はそれとつたしすつから
行る
積にせえなりや
譯ねえ
噺だな、さうしてこつちのおとつゝあん
胸撫でさつせえ、
俺れ
惡りいこた
云はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや
誰よりも
子奴等可哀想だから、それに
同じもんぢや
東の
旦那等が
耳へは
入れたくねえから、さうしさつせえよなあ」
南の
亭主はさういつて
心では
段々に
臀ごみするのであつた。
卯平は
再び
煙管を
口にして
沈默した。
南の
亭主は
勘次を
卯平の
狹い
戸口に
導いた。
勘次は
平常ならば
自分の
心から
決して
形式的な
和睦を
希望しなかつた
筈である。
彼は
反目して
居るだけならば
久しく
馴れて
居た。
然し
彼は
從來嘗てなかつた
卯平の
行爲に
始めて
恐怖心を
懷いたのであつた。
「そんぢやねえおとつゝあん、お
互に
斯う
根に
持たねえことにしてね、
勘次さんおめえも
忙しくつて
手つけねえでたかも
知んねえが、
麹も
鹽まで
切つて
有るつちんだから、
後は
豆
るだけのことだし、
味噌は
搗くことにしてな、
斯うえゝ
鹽梅にしてくれさつせえね、
先刻もいふ
通りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」
南の
亭主は
二人を
見較べるやうにしていつた。
勘次は
卯平の
前へ
出ては
只首を
俛れた。
卯平は
凝然と
横を
向いて
勘次をちらりとも
見なかつた。
彼は
從來とは
容子が
幾分違つて
居た。
彼は
其の
癖の
舌を
鳴らして
居たが
「
畜生奴」と
只一言いつた。さうして
又暫く
間を
措いて
「
畜生つちはれんの
口惜しけりや、
口惜しいちつて
見た
方がえゝ、
原因はつちへば
己奴が
手出しすんのが
惡りいんだから」と
低く
然も
鋭く
彼は
呟いて、
芒で
裂いたやうに
口をぎつと
閉ぢて
畢つた。
勘次は
刈られた
草の
如く
悄然とした。
「こつちのおとつゝあん、そんぢや
仕やうねえよ、
先刻も
俺れそつから
不承してくろうつて
堅しく
云つたんだつけな、そんぢや
俺れも
困つから
其處はお
互にかう
物は
云はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」と
南の
亭主は一
旦橋渡しをすれば
後は
再びどうならうともそれは
又其の
時だといふ
心から
其處は
加い
加減に
繕うて
遁るやうに
歸つた。
彼はどちらからも
依頼された
仲裁人ではなかつた。
彼等は
漸次家族の
間の
殊に
夫婦の
爭ひに
深入して
却て
雙方から
恨まれるやうな
損な
立場に
嵌つた
經驗があるので、
壞れた
茶碗をそつと
合せるだけの
手數で
巧に
身を
引く
方法と
機會とを
知つて
居た。
黄昏が
彼に
其の
機會を
與へた。
勘次は
彼の
輕微な
瘡痍を
假令表面だけでも
好いから
思ひ
切つて
重く
見てさうして
彼に
同情の
言葉を
惜まないものを
求めたが、
彼には
些少でも
其顛末を
聞いてくれべきものは
醫者と
南の
亭主とより
外はなかつた。
然し
餘りに
能く
瘡痍其物の
性質を
識別した
醫者は、
彼に
其果敢ない
心を
訴へる
餘裕を
與へずに
彼を
頭から
壓る
樣に
揶揄うた。
彼は
其處に
何物をも
得ないで
遁るやうに
珊瑚樹の
木蔭を
出た。
南の
亭主も
殊更に
彼に
同情して
慰藉の
言辭を
惜まぬ
程其心が
動かされなかつたのみでなく、
彼は
寧ろ
仲裁者の
地位に
立たねば
成らぬことに
幾分の
迷惑を
感じた。
勘次は
決して
仲裁を
依頼しなかつた。
彼は
只自分の
調子に
乘つて
噺をしてくれることに
滿足を
求めようとしたのみであつた。
然しそれは
悉く
徒勞であつた。
勘次は
羞恥と
恐怖と
憤懣との
情を
沸したが
夫でも
薄弱な
彼は、それを
僻んだ
目に
表現して
逢ふ
人毎に
同情してくれと
強ふるが
如く
見えるのみであつた。
百姓の
凡ては
彼の
心を
推測する
程鋭敏な
目を
有つて
居なかつた。
彼は
自棄に
態と
繃帶の
手を
抱いて
數日間ぶら/\と
遊んで
居た。
忙しい
麥蒔の
季節が
迫つて
百姓は
悉く
畑へ
出て
居るので
晝間は
彼の
相手になるものがなかつたのみでなく、
今に
働かずには
居られぬからと
陰で
冷笑を
浴びせて
居るのであつた。
此の
季節を
空しく
費すことが一
日でも
非常な
損失であるといふ
見易い
利害の
打算から
彼は
到頭打ち
負されて
復一
所懸命に
勞働に
從事した。
彼はもう
卯平と
一言も
口を
利かなくなつた。
寡言なむつゝりとした
卯平は
固より
勘次を
顧みようともしなかつた。おつぎはそれを
心に
苦しんで
見たがそれは
到底及ばぬことであつた。
村落の
内には
卯平との
衝突がぱつと
又傳播された。
然しそれは
分別ある
壯年の
間にのみ
解釋し
記憶された。
其の
事件の
内容は
勘次のおつぎに
對する
行爲を
猜忌と
嫉妬との
目を
以て
臆測を
逞しくするやうに
興味を
彼等に
與へなかつた。
誰も
自分から
彼等の
間に
嘴を
容れようとはしない。
遠い
以前から
紛糾けて
來た
互の
感情に
根ざした
事件がどんな
些少なことであらうとも、
決して
快よく
解決される
筈でないことを
知つて
居る
人々は
幾ら
愚でも
自ら
好んで
其の
難局に
當らうとはしないのであつた。
拂曉の
光はまだ
行き
渡らぬ。
薄い
蒲團にくるまつて
居る
百姓等の
肌膚には
寒冷の
氣がしみ/″\と
透つて、
睡眠に
落ちて
居ながら、
凡てが
顎を
掩ふまでは
無意識に
蒲團の
端を
引いてもぢ/\と
動く
頃であつた。かん/\と
凍つて
鳴る
鉦の
音が
沈んだ
村落の
空氣に
響き
渡つた。
希望と
娯樂とに
唆かされて
待つて
居た
老人等は
悉皆、
其の
左の
手に
提げて
撞木で
叩いて
居る
鉦の
響を
後れるな
急げ/\と
耳に
聞いた。
老人は
何處の
家からも一
齊に
念佛寮を
指して
集つた。
彼等は
孰れも、まだぐつすりと
眠つて
居る
家族の
者には
竊と
支度をして、
動けぬ
程褞袍を
襲ねて
節制なく
紐を
締めて、
表の
戸を
開けるとひやりとする
曉近い
外氣に
白い
息を
吹きながら、
大きな
塊が
轉がつて
行くやうに
其の
姿を
運んだ。
彼等は
外の
壁際から
麁朶の一
把を
持つて
行く
者も
有つた。
舊暦の二
月の
半に
成ると
例年の
如く
念佛の
集りが
有るのである。
彼等はそれが
日輪に
對する
報謝を
意味して
居るのでお
天念佛というて
居る。
彼等の
口からさうして
村落の一
般から
訛つて「おで
念佛」と
喚ばれた。
先驅の
光が
各自の
顏を
微明るくして
日が
地平線上に
其の
輪郭の一
端を
現はさうとする
時間を
誤らずに
彼等は
揃つて
念佛を
唱へる
筈なので、まだ
凡てが
夜の
眠から
離れぬ
内に
皆悉口を
嗽いで
待つて
居ねばならぬのである。
念佛衆の
内には
選ばれて
法願と
喚ばれて
居る
二人ばかりの
爺さんが、
難かしくもない
萬事の
世話をした。
法願は
凍り
相な
手に
鉦を
提げてちらほらと
大な
塊のやうな
姿が
動いて
來るまでは
力の
限り
辻に
立つてかん/\と
叩くのである。
念佛寮の
雨戸は
空洞と
開け
放たれて、
殊更に
身に
沁む
寒さに
圍爐裏には
麁朶の
火が
焔を
立てた。
蔓のある
煤けた
鐵瓶が
自在鍵から
低く
垂れて
焔を
臀で
抑へた。ぐるりと
圍んだ
老人の
不恰好な
姿を
火は
明瞭と
見せた。
軈て二
番
が
遠く
近く
鳴いて
時間が
來た。
法願は
閾の
側に
太鼓を
据ゑて、
其の
後へ
段々と一
同が
坐つて一
齊に
聲を
合せた。
横に
据ゑた
太鼓を
兩手に
持つた二
本の
撥が
兩方から
交互に
打つて
悠長な
鈍い
響を
立てた。
撥に
合せる一
同の
聲は
皺びて
痩せた
喉から
出る
濁つた
聲であつた。
雜然たる
其の
聲が
波の
如く
沈んで
復た
起つた。
太鼓の
撥は
強く
打ち
輕く
打ち、
更に
赤く
塗つた
胴をそつと
打つて、さうして
又だらり/\と
強く
輕く
打つことを
反覆した。
念佛が
畢るまでには
段々と
遠い
近い
木立の
輪郭がくつきりとして
青い
蜜柑の
皮が
日に
當つた
部分から
少しづゝ
彩られて
行くやうに
東の
空が
薄く
黄色に
染つて
段々にそれが
濃く
成つて、さうして
寒冷なうちにもほつかりと
暖味を
持つたやうに
明るく
成つた。
念佛の
濁つた
聲も
明るく
響いた。
地上を
掩うた
霜が
滅切と
白く
見えて
寮の
庭に
立てられた
天棚の
粧飾の
赤や
青の
紙が
明瞭として
來た。
中心に一
本の
青竹が
立てられて
其の
先端は
青と
赤と
黄との
襲ねた
色紙で
包んである。
其の
周圍には
此れも四
本の
青竹が
立てられてそれには
繩が
張つてある。
繩には
注連のやうに
刻んだ
其の
赤や
青や
黄の
紙が一
杯にひら/\と
吊られてある。
彼等は
昨日の
内に一
切の
粧飾をして

の
鳴くのを
待つたのである。
其天棚は
以前は
立派な
木の
柱を
丁度小さな
家の
棟上げでもしたやうな
形に
組まれたのであつた。
現今ではそれが
無く
成つたといふのは、一
度此の
地を
襲うた
暴風の
爲に、
厚い
草葺の
念佛寮はごつしやりと
潰された。
其の
時は
幾多の
民家が
猶且非常な
慘害を
蒙つて、
村落の
凡ては
自分の
凌ぎが
漸とのことであつたので、
殆んど
無用である
寮の
再建を
顧みるものはなかつた。さういふ
間に
他人の
林に
鉈を
入れねば
薪が
獲られぬ
貧乏な
百姓等がこそ/\と
寮の
木材を
引いた。
漸とのことで
現今の
寮が
以前の
幾分の一の
大きさに
再建されるまでには
其の
棚も
無残な
鋸の
齒に
掛つて
居たのである。それでも、
老人等は
念佛の
復活したことに十
分の
感謝と
滿足とを
有つた。
彼等はそこに
老後に
於ける
無上の
娯樂と
慰藉とを
發見しつゝあるのである。
太鼓が
撥と
共にぽつさりと
置かれて
悉皆窮屈な
圍爐裏の
邊に
聚つた。
寮の
内も
明るく
成つて
立ち
騰る
焔の
光が
稍消されて
來た。
近所の
百姓の
雨戸を
開ける
音が
性急にがたぴしと
聞えた。
庭へおりた

が
欠伸でもするやうに
身體を
反らしながら、
放心して
居てまだ
鳴き
足らなかつたといふ
容子をして
喉の
痛い
程鳴くのが
聞えた。
何處の
家にも
青い
煙が
廂を
偃うて
騰つた。
老人等は
一先自分の
家に
歸つた。
卯平も
隣の
森の
陰翳が一
杯に
掩うて
居る
狹い
庭に
立つた
時は、
勘次はおつぎを
連れて
開墾地へ
出た
後であつた。
卯平は
庭に
立つた
儘、
空虚になつてさうして
雨戸が
閉してある
勘次の
家を
凝然と
見た。
家は
窶れて
居る。
然しながら
假令どうでも
噺聲が
聞えて
青い
煙が
立つて
居れば、
僅でも
血が
循環つて
居るものゝやうに
活きて
見えるのであるが、
靜寂と
人氣のなくなつた
時は
頽廢しつゝある
其建物の
何處にも
生命が
保たれて
居るとは
見られぬ
程悲しげであつた。
卯平が
薄闇い
庭の
霜に
下駄の
趾をつけて
出てから
間もなく
勘次は
褥を
蹴つて
竈に
火を
點た。それからおつぎが
朝餐の
膳を
据ゑる
迄には
勘次はきりゝと
仕事衣に
換て
寒さに
少し
顫へて
居た。おつぎも
箸を
執る
時は
股引の
端を
藁で
括つて
置いた。
勘次は
開墾の
土地が
年々遠くへ
進んで
行つて、
現在では
例年の
面積では
廣過て
居たことを
心づいたので、
彼は
少しの
油斷も
出來なくなつた。
彼は
毎日のやうにおつぎを
連て、
唐鍬で
切り
起した
土の
塊を
萬能の
背で
叩いては
解して
平坦にならさせつゝあつたのである。
卯平は
先づ
勘次の
戸口に
近づいた。
表の
大戸には
錠がおろしてあつた。
鍵は
固より
勘次の
腰を
離れないことを
知つて
卯平は
手も
掛けて
見なかつた。
彼は
又裏戸の
口へ
行つて
見たが、
掛金には
栓を

したと
見えて
動かなかつた。
卯平はそれから
懷手をした
儘其の
癖の
舌を
鳴らしながら
悠長に
自分の
狹い
戸口に
立つた。
内は
只陰氣で
出る
時に
端を
捲つた
夜具も
冷たく
成つて
居た。
彼は
漸く
火鉢に
麁朶を
燻た。
彼は
側に
重箱と
小鍋とが
置かれてあるのを
見た。
蓋をとつたら
重箱には
飯があつた。
蓋の
裏には
少し
濕ひを
持つて
居た。
其の
朝おつぎは
知らずに
喚んだのであつたが、
卯平は
居なかつた。それでおつぎは
出る
時飯と
汁とを
卯平の
小屋へ
置いて
行つたのである。
卯平は
兎に
角おつぎに
喚ばれて
毎朝暖かい
飯と
熱い
汁とに
腹を
拵へつゝあつたのである。
彼は
其の
朝は
褞袍を
着ても
夜のまだ
明けない
内からの
騷ぎなので
身體が
冷えて
居た。
夫で
彼は
家に
歸つたならば
汁はどうでも、
飯臺の
中はまだ十
分に
暖氣を
保つて
居るだらうといふ
希望を
懷いて、
戸の
開かないことにまでは
思ひ
至らなかつた。
重箱はもう
冷えて
畢つた。
彼は
仕方なしに
小鍋を
火鉢へ
掛けた。
彼は
微かに
白い
水蒸氣が
鍋から
立ち
始めた
時お
玉杓子で
掻き
立てゝ
吸つて
見たが
猶且冷たかつた。
彼は
復た
火鉢へ
麁朶を
足して
重箱の
飯を
鍋へ
入れた。
火鉢の
割合には
大きな
鍋に
頬が
觸るばかりにしてふう/\と
火を
吹いた。
鍋のぐず/\と
濁つた
聲を
立てゝ
居る
間彼は
皺びた
大きな
手を
火に
翳しながら
目を
蹙めて
居た。
彼は
凝然と
遠くへ
自分の
心を
放つたやうにぽうつとして
居ては
復思ひ
出したやうに
麁朶をぽち/\と
折つて
燻べた。
彼は
例年になく
身體の
窶れが
見えた。かさ/\と
乾燥した
肌膚が一
般の
老衰者に
通有な
哀れさを
見せて
居るばかりでなく、
其大きな
身體は
肉が
落てげつそりと
肩がこけた。
彼は
身體の
窶れを
自分でも
知つた。
彼は
此一
年の
間に
持病の
僂麻質斯が
執念く
骨の
何處かを
蝕みつゝあるやうに
感じた。
暑い
季節になれば
必ず
其の
勢ひを
潜めた
持病が
彼を
忘れて
去らなかつた。
鍋の
中は
少しぷんと
焦つく
臭がした。
彼はお
玉杓子で
掻き
立てた。
鍋の
底は
手を
動かす
毎にぢり/\と
鳴つた。
彼は
僅に
熱い
雜炊が
食道を
通過して
胃に
落ちつく
時ほかりと
感じた。さうして
箸を
措いた
後漸く
身體に
快よい
暖氣の
加はつたことを
知つた。
少量の
水を
注だ
鐵瓶の
沸くのを
彼は
復凝然として
待つた。
彼は
先刻からどうかすると
手もとを
探るやうにして
煙草入を
膝にした。
煙草入は
虚空であつた。
彼は
自分の
體力が
滅切と
減て
仕事をするのに
手が
利かなくなつて、
小遣錢の
不足を
感じた
時、
自棄に
成つた
心から
斷然其噛む
程好な
煙草を
廢さうとした。
彼は
悲慘な
自分を
自分が
苛めてやるやうな
心持を一
方には
有つた。一
方には
又無智な
彼等の
伴侶が
能くするやうに
彼は
持病の
平癒を
佛に
祈つたのでもあつた。それが
明日からといふ
日に
彼は
其残つた
煙草を
殆ど一
日喫ひ
續けた。
煙草入の
叺を
倒にして
爪先でぱた/\と
彈いて
少しの
粉でさへ
餘さなかつた。
其後手についた
癖が
何かにつけては
煙管を
掴ませるので、
止めたことを
彼は
心に
悔いることもあつた。
然し
彼は
又直に
佛に
對しての
誓約を
破ることに
非常な
恐怖を
懷いた。
彼はどうしても
斷念せねばならぬ
心の
苦しみを
紛らす
爲に
蕗の
葉や
桑の
葉を
干して
煙管の
火皿につめて
見たが、どれでも
煙草のやうにしつとりとした一
種の
潤ひが
火の
足を
引止めるやうな
力はなくて一
度吸へば
直に
灰になつて、
煙脂で
塞がらうとして
居る
羅宇の
空隙を
透して
煙が
口に
滿ちる
時はつんとした
厭な
刺戟を
鼻に
感ずるのであつた。
葡萄の
葉を
他人に
勸められて
見たが、
此れも
到底彼の
嗜好を
欺くことは
出來なかつた。
彼は
煙管を
手にすることが
慾念を
忘れ
得る
方法でないことを
知つて、
彼は
丁度他人に
對する
或憤懣の
情から
當てつけに
自分の
愛兒を
夥かに
打ち
据ゑる
者のやうに
羅宇を
踏み
潰した。
然しそれを
誰も
見ては
居なかつた。それでも
彼は
空虚な
煙草入を
放すに
忍びない
心持がした。
彼は
僅な
小遣錢を
入れて
始終腰につけた。
此れも
空虚に
成つてはくた/\として
力のない
革の
筒には
潰れた
儘の
煙管を

して
居た。
彼は
暫くさうして
居たがどうかしては
忘れて
癖づけられた
手先が
不用な
煙草入を
探らせるのであつた。
日は
漸く
庭の
霜を
溶して
射し
掛けた。
彼は
不快な
朝を
目に
蹙めた
復たぽつさりと
念佛寮へ
窶れた
身を
運んだ。
彼は
田圃の
側へおりて
小徑を
行つた。
道筋には
處々離れ
離れな
家の
隙間に
小さな
麥畑があつた。
麥畑の
畝は
大抵東西に
形づけられてあつた。
遠くから
南へ
廻らうとして
居る
日は
思ひの
外に
暖かい
光で一
帶に
霜を
溶かしたので、
何處でも
水を
打つたやうな
濕ひを
持つて
居た。
然し
薄い
日の
光は
畑の
畝が
形づくつて
居る
長い
小山の
頂點を
越えて
幾らも
其の
力を
及ぼさなかつた。どの
畝でも
其陰は
依然として
白かつた。
卯平は
田圃に
從いて
北側の
道を
歩いたので
彼の
目には
悉く
夜明の
如き
白い
冷たい
霜を
以て
掩はれて
居る
畑のみが
映つた。
午後から
村落のどの
家からも
風呂敷包の
飯つぎや
重箱が
寮へ
運ばれた。
老人等は
皆夫を
埃だらけな
佛壇の
前に
供へた。
穢い
風呂敷包が
小山の
如く
積まれた
時念佛の
太鼓が
復鳴つた。それから
庭に
聚つた
子供等の
前に
其の
飯つぎや
重箱の
供物が
分與された。
念佛衆はそれから
更に
酒を
飮んで
各自に
重箱や
飯つぎを
箸でつゝいて
近頃にない
口腹の
慾を
充たしめた。
獨卯平は
杯を
手にしなかつた。
彼は
他の
老人に
先立つて
自分の
家の
重箱を
持つてぽさ/\と
歸つた。
大抵の
家では
米の
菱餅を
出すのが
常例であるが
勘次にはさういふ
暇がないのでおつぎは
僅に
小豆飯を
炊て
重箱を
持て
行つたのであつた。
凡ての
老人が
殆ど
狂するばかりに
騷ぐ
二日の
其一
日が
卯平には
不快でさうして
無意味に
費された。
彼は
夜になつてから
「
爺、
今朝のお
飯冷たく
成つたつけべ
俺ら
忘れて
喚ばりに
行つたのがよ、さうしたら
爺は
疾に
居ねえのがんだもの、そんでも
先刻はがや/\一
杯居るやうだつけがあつちぢや
甘え
物あつて
爺等とつ
返しとつたんべなあ」とおつぎが
少し
甘えたやうにいつたことを
彼は
有繋に
憎いと
思つては
聞かなかつた。
念佛は
次の
日も
同一に
反覆された。
午後になつて
村落のどの
家からも
復た
風呂敷包が
運ばれた。
子供等は
學校から
歸つて
風呂數包を
脊負つたのも、
乳呑兒を
帶で
括つたのも
大抵は
寮の
庭へ
集つた。
「さあそんぢや
又、みんな
上れ」と
婆さん
等がいふと
閾際に
迫つて
待つて
居た
子供等は
爭うて
席をとつた。
彼等は
今日も
狹い
寮の
内側にぎつしりと
膝を
窄めて
坐つた。四五
人の
婆さん
等は
佛壇の
前に
積まれてあつた
風呂敷包を
解きながらひそ/″\と
耳語いた。
「
此りや
何だと
思つたら、
鮨だよ」と
一人の
婆さんがいへば
「そんぢや、そつちへ
別にして
置けよおめえ」
「そんぢやこつちのがも
別にして
置くべよ、なあ」
婆さん
等は
頗る
慌てたやうに
手もと
忙しく三つ四つの
風呂敷包をそつと
佛壇へ
隱した。さうして
居る
内に
他の
婆さん
等は
「みんな、おとなしく
仕なくつちや、
呉んねえぞ」
「さうだに
洟垂らしてるものげはやんねえことにすべえ」
口々に
揶揄つた。
子供等は一
齊に
洟を
啜つてさうして
衣物で
横に
拭つた。
白い
紙が一
枚づつ
子供等の
前に
擴げられた。
「
子奴等こと
云つて、
手洟なんぞかんだ
手ぢや
引かねえで
呉ろえ、おめえ
等も
勿體ねえから」
婆さん
等が
飯つぎを
左の
手に
抱へて
立つた
時、かう
圍爐裏の
側から
呶鳴つた。
彼は
小柄な
爺さんで
一寸婆さん
等を
顧みて
微笑しながらいつたのである。
彼は
喉へ二
重にした
珠數を
卷いて
居た。
彼の
聲は
恐ろしく
大きかつた。
婆さん
等は
「はい/\、そんぢや
手でも
洗ひますべよ」といつたり
「
俺らおめえ、
手洟はかまねえよ」といつたりがら/\と
騷ぎながら、
笑ひ
私語きつゝ、
濡れた
手を
前掛で
拭いて
再び
飯つぎを
抱へた。
婆さん
等は
箸の
先で
少しづつ、
飯つぎの
物を
突つ
掛けて
其の
擴げられた
紙へ
置きつゝ、
端からぐるりと
廻つて
行く。
紙は
子供等の
數の
外にも
敷かれてあつた。それは
空虚になつた
飯つぎを
返す
時に
其の
中へ
入れてやる
爲であつた。
飯つぎには
大抵菱餅と
小豆飯とが
入れられてあつた。
小豆飯はどれも/\
米が
能く
搗けてないのでくすんでさうして
腹の
裂けた
小豆が
粉を
吐いて
餘計に
粘氣のないぼろ/\な
飯になつて
居た。それでも
飯つぎの
異る
毎に
小豆飯の
赤さが
幾らかづつ
變つて
居た。
子供等は
變つた
小豆飯が
一箸々々と
殖えて
行くのが
嬉しくて、
外へ
轉がつたのは
慌てゝ
手でとつて
紙へ
載せた。
小豆飯は
昨日に
異つたことはなかつたが、
菱餅は
昨日のやうに
米のではなくてどれでも
粟ばかりであつた。
子供等は
大小異つた
粟の
菱餅が一つは一つと
紙の
上に
分量を
増して
積まれるのを
樂しげにして、
自分の
紙から
兩方の
隣の
紙から
遠くの
方から、それから一つ/\に
屈んで
箸を
動かして
居る
婆さん
等の
忙しい
手もとに
目を
奪られるのであつた。
婆さん
等はそは/\としつゝ
狹いので
互に
衝突つては
騷ぎながら、
自分の
家に
居る
時のやうな
節制が
少しも
保たれて
居なかつた。
「さあ、
汝つ
等此れつきりだ」
婆さん
等が
空虚になつた
最後の
飯つぎの
底を
叩いて
腰を
伸ばした
時、
子供等は
危な
相な
手で
漸く
紙を
包んで、がた/\と
先を
爭うて
立つた。
下駄を
遠くへ
跳ね
飛ばされたり、
轉つたり、
紙包の
餅を
落したりして
泣く
聲が
相交つた。
彼等は
庭へおりてから
徐ろに
其の
紙を
開いて
小豆飯を
手で
抓んで
喫べた。
紙にくつゝいた
小豆飯を
彼等は
齒で
噛るやうにしてとつた。
破れた
紙を
棄てゝ
菱餅を
懷へ
入れるものもあつた。
庭にはそつちにもこつちにも
棄てられた
紙が
白く
亂れて
散らばつて
居た。
老人等は
圍爐裏に
絶えず
薪を
燻べながら
酒を
沸し
始めた。
村落のどの
家からか
今日も
念佛衆へというて
供へられた二
升樽を
圍爐裏の
側へ
引きつけて、
臀の
煤けた
土瓶へごぼ/\と
注いで
自在鍵へ
掛けた。
外が
餘りに
寒いからといふので
念佛が
濟んでから
誰かゞ
雨戸を二三
枚引いたので
寮の
内は
薄闇くなつて
居た。
佛壇の
前には
婆さんが三四
人でひそ/″\と
額を
鳩めて
居る。
「
此の
婆奴等、そつちの
方で
偸嘴してねえで、
佳味え
物有つたら
此方へ
持つて
來う」
先刻の
首へ
珠數を
卷いた
小柄な
爺さんが
呶鳴つた。
「
盜んだつち
譯ぢやねえが、
蓋とつて
見た
處なんだよ」さういつて
婆さん
等は
風呂敷の
四隅を
掴んで
圍爐裏の
側へ
持つて
來た。
飯つぎには
干瓢を
帶にした
稻荷鮨が
少し
白い
腹を
見せてそつくりと
積まれてあつた。
鮨は
少し
減つて
居た。
「
獨でせしめちやえかねえから」
爺さんは
戲談らしくいつた。
「
獨ぢやあんめえな、かうやつて三
人も
四人も
居たんだものなあ」
「さうだとも、
此の
位俺らげよこしたつて
本當にすりやえゝんだよ、なあ、
俺らなんざ
上つた
酒だつてさうだに
飮むべぢやなし」
婆さん
等は
抗辯するやうにいつた。
悉皆が
一つ/\と
鮨を
撮んだ。
「そりやさうと、
酒どうしたえ」
小柄な
爺さんはひよつと
自在鍵の
儘土瓶を
手もとへ
引つけて、
底へ
手を
當てゝ
見た。
「
放心してゝ
此ら
立ツちやあ
處だつけ」と
急いで
土瓶を
外して
「
俺らさうだ
鮨なんざ
自分ぢや
一つでも
欲しかねえんだから、さうだ
物で
滿腹くしたつ
位酒からツき
甘くなくしつちやあから、」
爺さんは
土瓶を
疊の
上へ
置いていつた。
悉皆がずらりと
座を
作つた。
茶呑茶碗が
一つ/\に
置かれて、
何處からか
供へられた
芋や
牛蒡や
人參や
其の
他の
野菜の
煮〆が
重箱の
儘置かれた。
其處には
膳も
臺も
何もなかつた。
土瓶の
酒が
徳利へ
移されて
土瓶は
再び
自在鍵へ
吊された。二
度目の
酒が
茶碗へ
注がれた
時
「
此ら
駄目だ、
焦臭くしツちやつた、
酒沸すのにや
畢へねえどうも
氣をつけなくつちや、
酒と
茶はちつとでも
臭味移らさんだから」
小柄な
爺さんは
茶碗を
口へ
當てゝ
左も
憤慨に
堪へぬものゝやうにいつた。
「なあに、
土瓶だつて二
度目のが
少しに
仕ねえで、
先刻のがより
餘計なツ
位注ぎせえすりや
大丈夫なんだが、それさうでねえと
周圍がそれ
焦びつから」と
側から
直ぐに
口が
出た。
「そんぢや、
今度澤山入えびやな、
俺ら
碌に
飮んもしねえで、
怒られちやつまんねえな」
土瓶を
手にした
婆さんは
笑ひながらいつた。
「
本當にすりや、一
遍毎に
土瓶の
中水でゆすがなくつちや
駄目なんだがな」
「そつから、はあ、
鐵瓶の
中さ
徳利おしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
「
折角甘え
酒臺なしにして
可惜物だな、
此らこんで
餘程えゝ
酒だぞ」
抔といふ
聲が
雜然として
聞えた。
「
鐵瓶ぢや
徳利一
本づつしかへえんねえから
面倒臭かんべと
思つてよ」と
婆さんはいひながら、一
旦沸つた
鐵瓶を
懸けた。
樽が
空虚になつて
悉皆飮む
者は
銘酊つてがや/\と
只騷いだ。
卯平は
圍爐裏の
側を
離れずにむつゝりとして
杯をとらぬ
婆さん
等と
火にあたりながら、
煙管を
持たぬ
所在なさに
麁朶の
先を
折つて
其癖の
舌を
鳴らしつゝ
齒齦をつゝいて
居た。
彼は
悉皆が
騷いで
居る
間に
自分の
腹に
足りるだけの
鮨や
惚菜やらを
箸に
挾んで
杯へは
手を
觸れようとしなかつた。
老人等は
自分の
騷ぐ
方にばかり
心を
奪はれて
卯平のことはそつちのけにした
儘であつた。
卯平はそれでも
種々な
百姓料理の
鹽辛い
重箱へ
箸をつけて
近頃になく
快よかつた。
彼は
腹に一
杯になる
迄には、
缺けた
齒齦で
噛んで
嚥下して、
更に
次の
箸が
口まで
來る
其の
悠長な
手の
運動が
待遠で
口腔の
粘膜からは
自然に
薄い
水のやうな
唾液の
湧いて
出るのを
抑へることが
出來ない
程であつた。
威勢よく
成つた
老人等は
赤い
胴の
太鼓を
首筋から
胸へ
吊つて、だらり/\と
叩いて
先に
立つと
足もと
手もと
節制なくなつた
凡てが
後から/\と、
殊に
婆さん
等は
騷ぎながら
跟て
出る。
軒端から
青竹の
棚に
添うて
敷いてある
筵を
渡つて
徐に
廻る。
彼等はそれをお
山廻りといふのである。
相互に
踉蹌けながら
踊とも
何ともつかぬ
剽輕な
手足の
動かしやうをして、
蓄へて
置いた一
年中の
笑を一
時に
吐き
出したかと
思ふ
程の
聲を
放つて
止めどもなくどよめいた。
遂には
列が
亂れて
互に
衝突しては
足を
踏んだり
踏まれたりして、
一人が
倒れゝば
後から/\と
折重つて
一しきり
同じ
處に
止まつてはがや/\と
騷いだ。
彼等は
殆ど
冷却しようとしつゝある
肉體の
孰れの
部分かに
失はれんとしてほつちりと
其俤を
止めて
居た
青春の
血液の一
滴が
俄に
沸いて
彼等の
全體を
支配し
且活動せしめたかと
思ふやうに、
枯燥しつゝある
彼等の
顏にはどれでも
華やかな
紅を
潮して
居る。
彼等は
全く
節制を
失つて
居る。
彼等は
平生家族に
交つて、
其老衰の
身がどうしても
自然に
壯者の
間に
疎外されつゝ、
各自は
寧ろ
無意識でありながら
然も
鬱屈して
懶い
月日を
過しつゝある
時に、
例年の
定めである
念佛の
日はさういふ
凡てを
放つ
自由境である。
彼等は
其處に
些の
遠慮をも
有つて
居らぬ。
彼等は
冬季の
間を
長い
夜の
眠りに
飽きつゝ
寒さに
苛められて
居た
苦しさを、もう
空の
何處にか
其の
勢ひを
潜めて
躊躇して
居る
筈の
春に
先立つて一
度に
取返さうとするものゝ
如く
騷いで/\
又騷ぐのである。
酒が
其處に
火を
點じた。
庭の四
本の
青竹に
長つた
繩の
赤や
青や
黄の
刻んだ
注連がひら/\と
動きながら
老人等と
一つに
私語くやうに
見えた。
日は
陽氣な
庭へ一
杯に
暖かな
光を
投た。
庭には
子供等や
村落の
者がぞろつと
立て
此騷ぎを
笑つて
見て
居た。
其邊には
難かし
相なものは
一つも
見られなかつた。
彼等を
包んだ
軟かな
空氣が
春の
徴候でなければならなかつた。
然しながら
卯平は
只獨り
其群に
加はらなかつた。
老人等の
勢ひがごつと
庭に
移つた
時寮の
内は
其の
騷ぎの
聲が一
杯に
襲ひ
來て
喧しいにも
拘らず
寂しかつた。
圍爐裏の
火も
灰が
白く
掩うて
滅切と
衰へた。
卯平は
凝然と
腕を
拱いた
儘眼を
蹙めて
燃え
退いた
薪をすら
突き
出さうとしなかつた。
彼には
庭の
節制のない
騷ぎの
聲が
其の
耳を
支配するよりも
遠く
且遙な
闇に
何物をか
搜さうとしつゝあるやうに
只惘然として
居るのであつた。
與吉は
紙包みの
小豆飯を
盡して
暫らく
庭の
騷ぎを
見て
居たが
寮の
内に
然として
居る
卯平を
見出して
圍爐裏に
近く
迫つた。
「
爺くんねえか」と
彼は
又何時ものやうに
卯平に
甘えた。
卯平は
其聲を
聞いても
暫く
蹙んだ
儘で
居た。
立春の
日を
過ぎてから、
却て
黄昏の
果敢ない
薄い
光の
空に
吹き
落ちる
筈の
西風が
何を
憤つてか
吹いて/\
吹き
捲つて、
夜に
渡つても
幾日か
止まぬ
程な
稀有な
現象に
伴うて、
鬼怒川の
淺瀬が
氷に
閉されて、
軈て
氷の
塊が
流れたといふ
噂が
立つたことがあつた。
卯平はそれと
共に
其の
乾燥した
肌膚が
餘計に
荒れて
寒冷の
氣が
骨に
徹したかと
思ふと
俄に
手の
自由を
失つて
來たやうに
自覺した。
彼は
繩を
綯ふにも
草鞋を
作るにも、
其が
或凝塊が
凡ての
筋肉の
作用を
阻害して
居るやうで
各部に
疼痛をさへ
感ずるのであつた。
器用な
彼の
手先が
彼自身の
物ではなくなつた。
彼は
與吉が
狹い
戸口に
立つ
毎に
心から
迎へる
以前の
卯平ではなくなつて
居た。それでも
彼は
與吉を
愛して
居た。
「
明日にしろ」と
彼は
簡單に
拒絶してさうしてそれつきりいはないことが
有るやうになつた。
與吉は
屡さういはれて
悄然として
居るのを、
卯平は
凝視めて
餘計に
目を
蹙めつゝあるのであつた。さういふことが
幾度か
幾日か
反覆された
後卯平は
與吉へ一
錢の
銅貨を
與へた。
從來に
倍して
居るのと
殆ど
復拒絶されるのではないかといふ
懸念を
懷きつゝある
與吉は
何時でも
其に
非常な
滿足を
表はした。
其容子を
見る
卯平は
勢ひ
心が
動かされた。
自分の
老衰者であることを
知つた
時諦めのない
凡ては、
動もすれば
互に
餘命の
幾何もない
果敢なさを
語り
合うて、それが
戲談いうて
笑語く
時にさへ
絶えず
反覆されて、
各自が
痛切に
感ずる
程度の
相違はあるにしても、
死の
問題に
苦しめられて
居るのは
事實である。
卯平の
心にも
同じく
死の
觀念が
止まず
往來した。
彼は
其手先の
自由を
失うた
時自棄の
心から
彼の
風呂敷包を
解いた。
野田に
居た
頃主人や
又は
主人の
用での
出先から
貰つた
幾筋の
手拭を
繼ぎ
合せて
拵へた
浴衣を
出した。
清潔好な
彼には
派手な
手拭の
模樣が
當時矜の
一つであつた。
彼はもう
自分の
心を
苛めてやるやうな
心持で
目欲しい
物を
漸次に
質入した。
彼は
眼前に
氷が
閉ぢては
毎日暖い
日の
光に
溶解されるのを
見て
居た。
彼にはそれが
只さういふ
現象としてのみ
眼に
映つた。
彼は
自由を
失うた
其手先が
暖い
春の
日が
積つて
漸次に
和らげられるであらうといふ
微かな
希望をさへ
起さぬ
程身も
心も
僻んでさうして
苦しんだ。
彼の
風呂敷包から
獲つゝあつた
金錢は
些少のものであつたが、それは
時として
彼の
硬ばつた
舌に
適した
食料の
或物を
求める
外に一
部分は
與吉の
小さな
手に
落されるのであつた。
果敢ない
煙草入の
叺の
中を
懸念するやうに
彼は
數次覗いた。
陰鬱な
狹い
小屋の
中で
覗く
叺の
底は
闇かつた。
僅かに
交つた
小さな
白い
銀貨が
見る
度に
彼の
心に
幾らかの
光を
與へた。
彼が
什
に
惜んでも
叺の
中の
減つて
行くのを
防ぐことは
出來ない。
然も
寡言な
彼は
徒らに
自分獨が
噛みしめて、
絶えず
只憔悴しつゝ
沈鬱の
状態を
持續した。
彼は
其状態を
保つて
念佛寮の
圍爐裏にどつかと
懶い
身體を
据ゑて
居た。
庭の
騷ぎは
止んで
疾風の
襲うた
如く
寮の
内は
復雜然として
卯平を
圍んだ
沈鬱な
空氣を
攪亂した。
軈て
老人等が
互の
懷錢を
出し
合うた二
升樽が
運ばれて
酒が
又沸された。
酒の
座は
圍爐裏に
近く
形られた。
其の
時まだ
與吉は
去らなかつた。
卯平は
默つて五
厘の
銅貨を
投げた。
側に
居た
一人の
老人がそれを
拾はうとして
見せると
與吉は
兩方の
手を
掛てそれから
身を
以て
俺うた。
彼はそれを
堅く
掴んで
「
爺、いま
一つくんねえか」と
更に
強請んだ。
彼は五
厘の
銅貨を
大事にした。
然し
彼は
暫く一
錢の
銅貨に
訓れて
居たので
心に
僅な
不足を
感じたのであつた。
卯平は
口を
緘んで
居る。
「
汝りや、さうだこと
云ふんぢやねえ、
先刻あゝだに
何か
貰つて
要るもんか、まつと
欲しいなんちへば
俺れ
腹掻裂えて
小豆飯掻出してやつから、
汝りや
口ばかし
動かしてつから
見ろうそれ、
鴉に
灸据ゑらツてら」と
先刻の
首へ
數珠を
卷いた
爺さんががみ/\といつた。
與吉は
羞んだやうにして五
厘の
銅貨で
脣をこすりながら
立つて
居た。
彼の
口の
兩端には
鴉の
灸といはれて
居る
瘡が
出來て
泥でもくつゝけたやうになつて
居た。
「
汝りや
錢欲しけりやおとつゝあに
貰へ」
爺さんは
又呶鳴つた。
「そんだつて
駄目だあ、おとつゝあ
等呉れやしめえし」
與吉は
漸といつた。
「おとつゝあ
聾だから
聞えねんだ、おとつゝあ
呉ろうつと
俺れ
見てえに
呶鳴つて
見ろ、そんでなけれ
耳引張てやれ」
「そんだつて
厭だあ
俺ら、おとつゝあに
打つ
飛ばされつから」
「えゝから
行けはあ、
汝等見てえな
餓鬼奴等ごや/\
來ちや
五月蠅くつて
仕やうねえから」
與吉は
悄々と
立つた。
「さうら」と
卯平は
後から五
厘の
銅貨を
庭へ
投げてやつた。
さうして
居る
間に二
度目の
酒に
與らぬ
婆さん
等は
表の
雨戸を
更に二三
枚引て
餘計に
薄闇く
成つた
佛壇の
前に
凝集つた。
何時の
間にか
念佛衆以外の
村落の
女房も
加はつて十
人ばかりに
成つた。
彼等は
外からの
人目を
雨戸に
避けて
其の
唯一の
娯樂とされてある
寶引をしようといふのであつた。
疊には八
本の
紺の
寶引絲がざらりと
投げ
出された。
彼等はそれを
絲と
喚んで
居るけれども、
機を
織つて
切り
放した
最後の
絲の
端を
繩のやうに
綯つた
綱である。
婆さん
等は
圓い
座を
作つて
銘々の
前へ二
錢づつの
錢を
置いた。
親に
成つた
一人が八
本の
綱の
本を
掴んで一
度ぎつと
指へ
絡んでばらりと
投げ
出すと、
悉皆が
一つづゝ
掴んで
此れも
其の
端を
指へぎりつと
絡んで一
度に
引くと七
本の
綱が
空しくすつとこける。
只一
本の
綱の
臀には
彼等のいふ「どツぺ」が
附いて
居てそれがどさりと
疊を
打つて
一人の
手もとへ
引かれる。どつぺは一
厘錢を三
寸ばかりの
厚さに
穴を
透してぎつと
括つた
錘である。一
厘錢は
黄銅の
地色がぴか/\と
光るまで
摩擦されてあつた。どつぺを
引いたのが
更に
親になつて一
度毎にどつぺは
解いて
他の
綱へつける。さうすると
婆さん
等は
思案しつゝ
然も
速かに
綱の
一つを
抓んでは
放したり
又抓んだり
極めて
忙しげに
其の
手を
動かす。
彼等は
丁度
を
引くやうに
屹度一つは
當る
筈のどつぺを
悉皆が
心あてに
掴んで
引くのである。一
度毎に
失望と
滿足とが
悉皆の
顏にそれからそれと
移つて
行く。
綱をぎつと
束ねて
引かせる
手もとや、
一つづゝに
思案しながら
然も
掴んだら
威勢よくすいと
引く
手もとは
彼等が
硬ばつた
手でありながら
熟練してさうして
敏捷に
運動する。
綱の
周圍から
悉皆の
形づくつて
居る
輪が
縮まるやうにして、
一つ
掴んでは
又其の
輪が
擴がるやうにしつゝ
引く
容子は
大勢が
一つの
紐を
打つて
居るやうな
形にも
見えた。
彼等は
忙しく
手を
動かして
居ると
共に
聲を
殺してひそ/\と
然かも
力を
入れて
笑語いた。
彼等は
戸外の
聞えを
憚らぬならば
興味に
乘じて
放膽に
騷ぐ
筈でなければならぬ。
各自の
前に
在る
錢はどつぺを
引き
當てた
者の
手に
一つづゝ
引き
去られて
誰の
前にも
全くなくなつた
時又更に
置かれるのである。
彼等はそれに
熱中して
全く
他を
忘れて
居る。
寶引にも
酒にも
加はらぬ
老人等は
棚の
周圍を
廻つてからは
歸つたものも
有つて
寮には
幾らか
人數も
減つて
居たが、
圍爐裏の
邊は
醉が
加はつて
寶引の
群に
行かぬ
婆さん
等は
酒の
好きな
孰れも
威勢のいゝものばかりであつた。
「なあおめえ、こんで
俺らも
若けえ
時にや
面白えのがんだよなあ」と
爺さんの
肩へ
靠れ
掛るものもあつた。
「
篦棒、
以前のことなんぞ、
外聞惡りい、
俺らなんざこんで
隨分無鐵砲なこたあしたが、こんで
女にや
煎れねえつちやつたから」と
首に
珠數を
卷いた
爺さんが
側でそれを
見て
居て
呶鳴つた。
「おめえ、
怒んなくつてもえゝやな、
酒の
座敷ぢや
其つ
位なこた
仕方あんめえな」と
叱られた
婆さんは
右の
手を
上から
左の
手の
平へ
打ちつけて、
大聲を
立てゝ
笑ひながら
「どうしたんでえまあ一
杯やらつせえね」と
婆さんは
更に
卯平へ
茶碗を
突きつけた。
卯平は一
杯をも
口へ
銜まぬのに
先刻から
只凝然として、
騷ぎを
聞くでもなく
聞かぬでもない
容子をして
胡坐をかいて
居た。二
度目の
酒は
幾らか
腹に
餘計であつた
老人等はもう
卯平を
見遁しては
置かなかつたのである。
「
俺ら
暫くやんねえから」
卯平はそつけなくいつて
其の
癖の
舌を
鳴らした。
「
何でまた
飮まねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた
威勢つけて
見るもんだ、そうれ」と
先刻からの
爺さんは
茶碗を
突きつけた。
卯平は
復た
舌を
鳴らして、
唾をぐつと
嚥んだ。
「
俺らはあ、
暫くやんねえから、
煙草は
身體の
工合惡りいから
斷つたんだから
何だが、
酒は
此れ
錢は
稼げねえし、ちつとでも
飮めば
又飮みたくなつから
廢めつちやつたな、
酒もはあ
以前た
違つて一
杯幾らつちんだから
錢くんのむやうで」
彼はぶすりとして
然も
力のない
聲を
投げ
掛けるやうにしていつた。
「さうだこと
云あねえで、そら
來たつとかう
手つんだすもんだ、
倦怠くつて
仕やうねえ
此等がな」
先刻の
爺さんは
又一
杯をぐつと
干して
呶鳴つた。
「さうだよ、
飮まつせえよおめえ、めでゝえ
酒だから、
威勢つければおめえ
身體の
工合だつてちつと
位なら
癒つちやあよ」
婆さん
等は
又侑めた。
「
此の
人も
勘次どんにや
善くさんねえごつさら、
困つたもんさな、そんだつておめえさうえもな
仕やうねえから、さうえにくよくよしねえ
方がえゝよ」
他の
婆さんもいつた。
「
身體の
工合惡りいなんて、さうだ
料簡だから
卯平等仕やうねえ、
此等ようまづだなんて、ようまづなんち
病氣は
腹の
蟲から
出んだから、なあに
譯あねえだよ、
蛇でかう
扱きおろすんだ、えゝか、
俺れこすつてやつから、いや
本當だよ
俺らがなんざあ」
小柄な
爺さんは
非常な
勢ひでいつた。
首の
珠數は
彼の
聲が
喉を
膨脹させるので
其度毎に
少しづゝ
動いた。
「
俺ら
蛇は
嫌えだから」
卯平は
苦し
相にいつた。
「
蛇嫌えだと、さうだ
大え
姿してあばさけたこといふなえ、
俺らなんざ
蛇でも
毛蟲でも
可怖えなんちやねえだから、かうえゝか、
斯うだぞ」といひながら
爺さんは
後向に
立つて、十
分に
酩酊つた
足を
大股に
踏んで、
肌を
脱いだ
兩方の
手をぎつと
握つて、
手拭で
背中を
擦るやうな
形をして
見せた。
「
俺らようまづぢや八九
年も
惱んだんだが、
蛇でこすればえゝつちから、
此ら
甘えこと
聞たと
思つてな、
大え
青大將ぶらんと

の
木からぶらさがつたから
竹竿で
掻き
落すべと
思つたら、
俺ら
家の
婆奴等構あななんて
云つけが、えゝから
汝等默つて
見てろ、なんてそれから
俺ぐうつと
頭ふん
掴めえて、
斯う
俺れ
背中こすつたな、
大え
青大將だから
畜生縮つて
屈曲した
時や
引つ
掛つて
仲々動かねえだ、それからうゝんと
引き
伸しちやこすつたな、さうしたら
斯う
塊ごりつ/\とこけんの
知れたつけな、さうしたらなあにけろりよ」
彼は一
同へ
向けた
背中へ
手を
廻して
「
此處らんとこに
塊有たのがだが、それつきり
何處さか
行つちやつたな、それから
俺れはあ、ようまづなんざ
譯あねえつちつてんだ」
彼の
手先が
脊椎に
近く
觸れた。
「おゝえやまあ、
大え
灸の
痕ぢやねえけえ」と
一人の
婆さんが
驚いていつた。
「
俺らがな
此んで三百
挺一
遍に
火點けたんだから、
俺らがむしやらなこと
大好のがんだから、いや
本當だよ、
俺ら
恁んで
腹疫病くつゝいた
時だつて
到頭寢ねえつちやつたかんな、
今ぢや
教つてつから
餓鬼奴等まで
赤れえ
病だなんて
知つてんが、
俺ら
壯の
頃あ
何でも
疫病と
覺えてたのがんだから、なあ
卯平、
此ツ
等もそん
時やつたから
知つてらな、
俺ら
一日に十六
度手水場へ
行つたの一
等だつけが、なあに
病氣なんぞにや
負けらツるもんかつちんだから、
其ん
時にや
村落中かたではあ、みんなごろ/\してんで
俺ればかり
藥箱持つて
醫者の
送迎えしたな、
隣近所一軒毎役にや
立たねえだから、いや
本當だよ、
俺ら十五
日下痢つて
癒つたが
俺ら
強かつたかんな、いや
強えとも
全く、なあにツちんで
俺れ
毎日酒ぴん
飮んだな、
酒飮んぢや
惡いなんて
醫者なんちや
駄目だなかたで、
檳榔樹とか
何とかだなんてちつとばかしづゝ、
削つた
藥なんぞ
倦怠くつて
仕やうねえから、
當藥煎じ
出して
氣日俺れ
片口で五
杯づゝも
飮んだな、五
合位へえつけべが、
俺ら
呼吸つかずだ、なあに
呼吸ついちや
苦くつて
仕やうねえだよ」と
彼は
穢い
手拭で
顏の
汗を一
度ふいた。
彼は七十を
越えても
髮はまだ
幾らも
白くなかつた。
彼は
石の
塊を
投げ
出したやうな
堅い
身體に
力を
入れて
獨り
威勢づいた。
「
俺らそれから五
百匁位な
軍鷄雜種一
羽引つ
縊つて一
遍に
食つちまつたな、さうしたら
熱出た」
彼は
俄に
聲を
低くしたが、
更に
以前に
還つて
「
熱は
出たがそれで
俺れぐつと
身體にや
力つけつちやつたな、
其の
所爲だな十五
日で
癒つたな、そんだから
俺ら
直ぐに
麥の八
斗はずん/\
搗けたな、
俺らこんで
體格はちつちえが
強かつたな、
俺らがな
無垢に
強えのがだから、いや
本當だよ、
卯平等も
仕事ぢや
強かつたが、そりや
強えとも、そんだが
此ら
根性やくざだから、
疫病くつゝいて
太儀くつて
仕やうねえなんて、それから
俺れ、
確乎しろツちへばどうも
下痢つちや
力拔けて
仕やうねえ、うん/\なんて
唸つて、そんだがあん
時にや
嚊は
可哀相なことしたな
世間の
奴等卯平は
嚊に
崇れべえなんちから
心配すんなつて
俺れ
云つたんだな、そんだが
此ら
根性ねえから、
俺ら
心配するもな
大嫌だ、それ、
心配しねえで一
杯引つ
掛けろつちんだ」
爺さんは
幾らでも
乘地になつてまくしかけた。
「さうだよおめえ、
酒の
座敷でむつゝりしてるもな
有るもんぢやねえ」
「
婆さまの
手だつておめえ
酒ぢや
酩酊あからやつて
見さつせえよ」
婆さん
等は
側から
交互に
杯を
侑めた。
彼等は
情なげな
卯平を
慰めようとするよりも、
獨むつゝりとして
居る
彼を
伴侶に
引つ
込まうといふのと、
變つて
居る
彼の
容子に
對して
揶揄つても
見たいからとであつた。
「
俺ら
錢出しもしねえで、
他人の
酒なんぞ」
卯平は
口が
粘つて
舌が
硬ばつたやうにいつた。
「おめえ
管あもんぢやねえな、
其
こと」
婆さん
等は
又いつた。
「
酒代足んなけりや、こつちの
方に
寺錢出來てるよおめえ
等」
寶引の
仲間がこちらを
顧みていつた。
「
要らねえともそんな
錢なんざ、
俺ら
博奕なんざ
何でも
嫌えだから」
小柄な
爺さんは
直に
呶鳴つた。
「
俺らはあ
錢も
有りもしねえで」
卯平は
他人の
騷ぎに
釣り
込まれようとするよりも、
自分の
心裏の
或物を
漸とのこと
吐き
出さうとするやうに
呟いた。
「
又さうだこつたから
仕やうねえ、
勘次等懷工合えゝつちんだから、
要らば
何でも、
汝れよこせつと
斯ういふんだ。
管あねえから
奪取つてやれ、
俺らだらさうだ、いや
本當だとも、
聟なんぞに
威張られてるなんちこと
有るもんか、
卯平等根性薄弱だから
仕やうねえ」
小柄な
爺さんは
髮を一
杯に
汗で
濕した。
「
威張らツる
理由ぢやねえが、
俺ら
俺れでやんべと
思つてんだから」
卯平は
自分を
庇護するやうにいつた。
「
聟なんぞ、
承知するもんぢやねえ、あゝだ
泥棒野郎、
俺ら
嫌えだ、
畑でも
田でも
油斷なんねえから」
「そんだが、
今ぢや
懷ちつたえゝ
所爲か
盜るな
盜んねえよ」
「なあに
俺れ、
蜀黍伐つた
時にや
勘辨しめえと
思つたんだつけがお
内儀さんに
來らツたから
我慢したんだ、
俺れ
卯平だら
槍で
突つ
刺してやんだ、いや
俺れにや
本當に
行られつとも、
俺ら
家族の
奴等げなんざぐづ/\は
云あせねえだ、
俺ら
家ぢや
元日にや
闇えに
起きて、
蓑着て、
圍爐裏端で
芋燒えてくふ
縁起なんだが、
俺ら
家の
奴等外聞惡いから
厭だなんて
吐かしやがつから、
俺れ、
何だとう
汝ツ
等、
厭だつちんだら
厭だつて
今一
遍云つて
見ろ、
俺れ
目玉の
黒え
内やさうはえがねえぞつちんだから、いや
本當に
俺ら
聽かねえだから」
彼は
髮が
餘計に
濕ひを
増して
悉皆の
耳の
底に
徹る
程呶鳴つて
見せた。
「おめえ
見てえにさうは
行かねえよ、
他人は」
卯平はぽさりといつた。
「
本當におめえ
見てえなもなねえよ、
若けえ
時から
毎晩酩酊つちや
後夜が
鷄でも
構あねえ
馬曳て
歸つちや
戸の
割れる
程叩いて、さうしちや
馬の
裾湯沸えてねえつて
云つちや
家族の
者こと
追ひ
出してなあ、
百姓はおめえ
夜中まで
眠んねえで
待つちや
居らんねえな、そんだがおめえも
相續人善く
出來て
仕合だよなあ」
側に
居て
先刻から
聞いて
居た
婆さんの
一人がいつた。
其の
服裝は
他の
老人等とは
異つて
居た。
「
俺れにや
打ち
出されつとも、
此んで
俺ら
力は
強かつたかんな、
仕事ぢや
卯平も
強かつたが、かうだ
大え
體格して
相撲ぢや
俺れにやかたでぺた/\だ。
俺らやあつち
内にや
打ん
投げつちやあだから、あゝ、
俺ら
腕ばかしぢやねえ、そらつ
位だから
齒も
強えだよ、
俺ら
麥打ん
時唐箕立てゝちや
半夏桃貰つたの、ひよえつと
口さ
入えたつきり、
核までがり/\
噛つちやつたな、
奇態だよそんだが
桃噛つてつと
鼻ん
中さ
埃へえんねえかんな、
俺れが
齒ぢや
誰れでも
魂消んだから
眞鍮の
煙管なんざ、
銜えてぎり/\つとかう
手ツ
平でぶん
廻すとぽろうつと
噛み
切れちやあのがんだから、そんだから
今でも、かうれ、
此の
通りだ」
爺さんはぎり/\と
齒を
噛み
合せて
見せた。
「
俺らそれから、
喧嘩ぢや
負けたこたねえだよ、
野郎何だつち
内にや
打つ
張るか、
掻つ
轉すかだな、ごろり
轉がつた
處爪先と
踵持つてかうぐる/\
引ん
廻すとどうだ
大え
野郎でも
起きらんねえだよ、から
笑止しくつて
仕やうねえな、えゝか、
斯う、かうやんだよ、あゝ、
俺ら
本當に
強えのがんだよ、それ
卯平等駄目だな
後の
方にばかし
隱れてゝからつき」と
爺さんは
少し
座を
退つて
兩手を
以て
喧嘩の
相手を
苛めるやうな
容子をして
見せた。
「そんだが
俺れ
旦那に
云あれてから、
家族の
奴等ことも
怒んねえはあ、
俺れうめえ
處見られつちやつたな、いや
云あれちや
勿體ながす、
本當に
勿體ねえだよ、お
婆さん」
爺さんは
首を
俛て
滅切靜かになつていつた。さうして
彼は
茶碗の
酒をだら/\と
零しながらに
一口に
嚥んだ。
此の
時外から
女房が
一人忙しく
來た。
女房は
佛壇の
前へ
行つて
「
駐在所來たよ」
悉皆の
中へ
首を
突き
入れるやうにして
竊と
語つた。
悉皆は
頻りに
輸※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、U+81DD、354-14]にのみ
心を
奪はれて
居た。
彼等の
顏はにこ/\としたり
又は
暫くどつぺを
掴まぬものは
難かしくなつた
目を
蹙めたり
口をむぐ/\と
動かしたりして
自分は一
向それを
知らないのであつた。
彼等の
各自が
持つて
居る
種々な
隱れた
性情が
薄闇い
室の
内にこつそりと
思ひ
切つて
表現されて
居た。
女房の
言辭は
悉皆の
顏を
唯驚愕の
表情を
以て
掩はしめた。一
度に
女房を
見た
彼等には
其の
時まで
私語き
合うた
俤がちつともなかつた。
彼等は
慌てゝ
寶引絲も
懷へ
隱して
知らぬ
容子を
粧うて
圍爐裏の
側へ
集つた。
「こつちの
方酷く
威勢えゝから
俺らも
仲間入させてもらえてもんだ」
寶引の
婆さん
等はいつた。
「
此の
婆等寄れば
觸れば
博奕なんぞする
氣にばかし
成つて」
爺さんは
依然として
惡口を
止めなかつた。
「かうだ
婆等だつてさうだに
荷厄介にしねえでくろよ、こんで
俺ら
家ぢやまあだ
俺れなくつちや
闇だよおめえ、
嫁があの
仕掛だもの」
婆さんは
更に
「
俺らあ
仲間も
寺錢で
後買あから、
獨でむつゝりしてねえで
一つやらつせえね」と
卯平へ
杯を
侑めた。一
同の
威勢が
漸次に
卯平の
心を
惹き
立てゝ
到頭彼の
大きな
手に
茶碗を
執らせた。
婆さん
等の
袂が
觸れて
輕く
成つてた
徳利が
倒された。
婆さん
等は
慌てゝ
手拭でふかうとした。
小柄な
爺さんは
突然疊へ
口をつけてすう/\と
呼吸もつかずに
酒を
啜つてそれから
強い
咳をして、ざら/\に
成つた
口の
埃を
手拭でこすつた。
「
婆等勿體ねえことすつから
仕やうねえ、いや
勿體ねえとも
米の
油だからこんで、それ
證據にや
酒飮んだ
明日ぢや
面洗あ
時つる/\すつ
處奇態だな、
何でも
人間は
油吹き
出すやうだら
身體は
大丈夫だから、
卯平そうれ一
杯飮め」
爺さんは
又口を
手拭でこすりつゝいつた。
「
畜生だからあゝだ
野郎は、
畜生とおんなじだから」
爺さんは
小さな
頭の
濕ひを
又すつと
手拭でふいた。
「
其
におめえ、
畜生だなんて、
手もとも
見もしねえで」と
先刻の
服裝の
好い
婆さんが
窘めるやうにいつた。
「いやツ、お
婆さん、
手もと
見ねえつたつてさうに
極つてんだから、いや
本當だよ。
俺ら
嘘いふな
嫌えだから、そんだがあの
阿魔もづう/\しい
阿魔だ、
此間なんざおつかこた
思ひ
出さねえかつちつたら、
思ひ
出さねえなんて
吐かしやがつて」
爺さんは
又乘地に
成つた。
「ありやあそれ、
俺れがにやえゝんだよ、
隨分辛え
目に
逢つたから、お
袋こと
思あねえこたねえが、
悉皆揶揄え/\したからそんでさうだこといふやうん
成つたんだな、
有繋あれだつて
困つちや
居んだから、
何ちつたつてあれにや
罪あねえよ」
最後の一
句をすつと
低くいつて
彼は
漸く
茶碗の
底を
干した。
「
勘次も
辛かつたんべが、
俺らも
品に
死なつた
時にや
泣えたよ、あれこた
三つの
時ツから
育ツたんだから」
卯平は
又情なげな
舌がもう
硬ばつて
畢つた。
「ほんにおめえもお
品さんに
死ならつたのが
不運だつけのさな、そんだがおめえ
長命したゞけええんだよ」
婆さん
等は
口々に
慰めつゝいつた。
「
手足も
利かなくなつちやつて
錢はとれずはあ、
野田で
拵えた
單衣物もなくしつちやつたな、どうせ
此れ、
來年の
夏まで
生きてられつか
何うだか
分りやすめえし、
管あねえな」
卯平は
口獨りで
呟やくやうにぶすりといつた。
彼は
殆んど
其の
舌が
味を
感ぜぬであらうと
思ふやうに
只茶碗の
酒を
傾けるのみであつた。
「そんだが
娘も
年頃來てんのに
遣るとかとるとかしねえぢや
可哀相だよなあ」
婆さん
等の
口はそれからそれと
竭きなかつた。
酒に
勢ひつけられた
婆さん
等は
何かの
穿鑿をせねば
氣が
濟まないのであつた。
「どうするこつたか
自分の
子供でもありやすめえし、
俺らがにや
分んねえな」
卯平は
何處までも
乾たいひやうである。
「そんだがよ、
噺してやつとえゝんだな、
出すと
極りや
幾らでも
口は
有らな」
「
徒勞だよおめえ、
誰がいふことだつて
聽く
苦勞はねえんだから」
婆さん
等は
互に
勝手なことをがや/\と
語り
續けた。
「そんぢや
隣の
旦那にでもようく
噺してもらつたら
聽くかも
知んねえぞ、それより
外あねえぞおめえ」
婆さんの
一人が
卯平に
向つていつた。
「さうすりやはあ、お
互にえゝ
鹽梅で
疵もつかねえんだから、
俺れもさうは
思つちや
居んだが、
此れ、いふのもをかしなもんで」
卯平の
頬には
稍紅を
潮して
彼は
婆さんにいはれたことが
嬉し
相に
見えるのであつた。
「なあに、さうだもかうだも
有るもんか、えゝから、さうだ
奴等打つ
飛ばしてやれ」
暫く
默つて
居た
先刻の
爺さんは
小柄な
身體を
堅めて
又呶鳴つた。
「うむ、なあに
俺れもそれから
去年の
秋は
火箸で
打つ
飛ばしてやつたな」
卯平は
斯ういつて
彼にしては
著るしく
元氣を
恢復して
居た。
「さうだとも、
錢でも
何でも
呉んなけりや、よこせつちばえゝんだ、
錢ねえなんちへば
米でも
麥でも
奪取つてやれ」
爺さんは
周圍へ
唾を
飛ばした。
「それでも
俺れ
打つ
飛ばしてから
質の
流れだなんち
味噌一
樽買つたな、
麩味噌で
佳味かねえが
今ぢやそんでもお
汁は
吸へるこた
吸へんのよ」
卯平は
自分の
手柄でも
語るやうないひ
方であつた。
「
食料措しがるなんち
業つくばりもねえもんぢやねえか、
本當に
罰つたかりだから、
俺らだら
生かしちや
置かねえ、いや
全くだよ、
親のげ
食あせんの
惜いなんち
野郎は
突つ
刺したつて
申し
開き
立つとも、
俺らだら
立派に
立てゝ
見せらな、
卯平確乎しろ、
俺らだら
勘次等位なゝ
又うんち
目に
逢あせらな、いや
本當に
俺れに
掛つちや
酷えかんなこんで」
爺さんは
激しくさうして
例の
自慢をいひ
續けた。
「さうだこと
云つたつておめえ、
以前から
他人のこと
切つたこともねえ
癖に」
側から
服裝の
好い
婆さんが
貶していつた。
「そんだが、
此の
年齡になつて
懲役に
行ぐな
厭よ
俺れも」
爺さんはずつと
垂れた
頭を
手で
抑へて
笑ひこけた。
婆さん
等もどつと
哄笑いた。
「
勘次等、そん
時から
俺れた
口も
利かねえや」
卯平は
他人には
頓着なしにかういつて
其の
舌を
鳴らして
唾を
嚥んだ。
「
口利かねえ、そんだら
口兩方へふん
裂えてやれ、さあ
利くか
利かねえかと
斯うだ」
小柄な
爺さんは
自分の
口を
兩手の
指でぐつと
擴げていつた、
圍爐裏の
邊は
暫く
騷ぎが
止まなかつた。
卯平の
心も
假令一
時的でも
周圍の
刺戟から
幾分の
力を
添られて
或勢ひを
恢復したのであつた。
「
確乎しろえ、えゝから」
小柄な
爺さんは
別れる
時復呶鳴つた。
卯平の
足もとは
稍力づいて
見えて
居た。
卯平は
念佛寮から
歸つて
來た
時どかりと
火鉢の
前に
坐つた。
彼は
勢ひづけられて
居た。
勘次は
例の
如く
遠ざかつた。
「おつう、
米と
挽割麥出せ」
卯平は
座に
就くと
突然かういつた。
「
夥多出せ」
間を
措いて
又いつた。
「
何すんでえ、
爺は」おつぎはそれを
輕く
受て
斯ういつた。
卯平は
目を
蹙めた。
彼は
闇夜にずんずんと
運んだ
足が
急に
窪みを
踏んでがくりと
調子が
狂つたやうな
容子であつた。
「
明日、
要れば
出してやんびやな、
爺等どうせ
夜なんぞ
要りやすめえしなあ」おつぎは
又賺すやうにいつた。
卯平はもう
反覆していはなかつた。
彼は
只其癖の
舌を
鳴らしてごくりと
唾を
嚥むのみであつた。
次の
朝に
成つて
酒氣が
悉く
彼の
身體から
發散し
盡したら
彼は
平生の
卯平であつた。
卯平は
決して
惡人ではなかつた。
彼は
性來嚴疊で
大きな
身體であつたけれど、
其の
蹙めたやうな
目には
不斷に
何處か
軟かな
光を
有つて
居るやうで、
思ひ
切つてせねば
成らぬ
事件に
出逢うても二
度や三
度は
逡巡するのがどうかといへば
彼の
癖の一つであつた。ぶすりと
膠ない
容子でも
表面に
現れたよりも
暖かで、
女に
脆い
處さへあるのであつた。
彼が
盛年の
頃に
他人の
目についたのは、
自分自身の
仕事には
餘り
精を
出さないやうに
見えることであつた。
大概のことでは一
向に
騷がぬやうな
彼の
容子が
外からではさうらしくも
見えるのであつた。も一つは
服裝を
決して
崩さぬことであつた。
彼は
他人に
傭はれて
居ながら、
草刈にでも
出る
時は
手拭と
紺の
單衣と三
尺帶とを
風呂敷に
包んで
馬の
荷鞍に
括つた。
其頃は
草というては
悉皆薙倒して
麁朶でも
縛るやうに
中央を
束ねて
馬に
積むのであつた。
雜木林の
間に
馬を
繋いだ
儘で
彼は
衣物を
改めてあてどもなくぶらつくのが
好きであつた。それでも
彼の
強健な
鍛練された
腕は
定められた一
人分の
仕事を
果すのは
日が
稍傾いてからでも
強ち
難事ではないのであつた。
此の二つの
外には
別段此れというて
數へる
程他人の
記憶にも
残つて
居なかつた。それでも
彼の
大きな
躰躯と
性來の
器用とは
主人をして
比較的餘計な
給料を
惜ませなかつた。
彼は
其の
奉公して
獲た
給料を
自分の
身に
費して
其の
頃では
餘所目には
疑はれる
年頃の卅
近くまで
獨身の
生活を
繼續した。
其間に
彼は
黴毒を
病んだ。一
時はぶら/\と
懶相な
蒼い
顏もして
居たが、
病氣は
暫くして
忘れたやうに
其の
強健な
身體の
何處にか
潜伏して
畢つた。
彼は
勿論それを
癒つたことゝ
思つて
居た。
其の
内に
彼は
娶をとつて
小さな
世帶を
持つて
稼ぐことになつた。
娶は
間もなく
懷姙したが
胎兒は
死んでさうして
腐敗して
出た。
自分も
他人も
瘡ツ
子だといつた。二三
人生れたがどれも
發育しなかつた。それでも
幼兒の
死ぬのは
瘡ツ
子だからといふのみで
病毒の
慘害を
知る
筈もなく
隨つて
怖れる
筈もなかつた。お
品の
母は
非常な
貧乏な
寡婦で、
足が
立つか
立たぬのお
品を
懷にして
悲慘な
生活をして
居た。それを
卯平は
心から
哀憐の
情を
以て
見て
居た。お
品の
母は
百姓としては
格別の
働きを
有たなかつたから、
寡婦として
獨立して
行くには
非常な
困難でなければ
成らぬだけ
身體の
何處にか
軟かな
容子があつて、
清潔好な
卯平の
心を
惹いた。
何處か
人懷こい
處があつて
只管に
他人の
同情に
渇して
居たお
品の
母の
何物をか
求めるやうな
態度が
漸く
二人を
近づけた。
其の
頃彼の
女房は
長い
間病氣に
惱まされて
居た。
病氣は
遂に
恢復しなかつた。
女房は
或年復た
姙娠して
臨月が
近くなつたら、どうしたものか
數日の
中に
腹部が
膨脹して一
夜の
内にもそれがずん/\と
目に
見える。
女房は
横臥することも
其の
苦痛に
堪へないで、
積んだ
蒲團に
倚り
掛つて
僅に
切ない
呼吸をついて
居た。
胎兒を
泛かしめた
水が
餘計に
溜つたのである。
其の
頃は
醫者の
手でさへそれをどうすることも
出來なかつた。
加之彼は
醫者を
聘ぶことが
億劫で、
大事な
生命といふことを
考へることさへ
心に
暇を
持たなかつた。
僥倖にも
卵膜を
膨脹させた
液體が
自分から
逃げ
去る
途を
求めて
其の
包圍を
破つた。
數升の
液體が
迸つて、
驚いて
横へた
身を
蒲團の
上に
浮かさうとした。それと
共に
安住の
場所を
失うた
胎兒は
自然に
母體を
離れて
出ねばならなかつた。
胎兒は
勿論死んでさうして
手を
出した。
其の
時女房は
非常に
疲憊して
居たが、
我慢をするからといつたばかりに
卯平はぐつと
力を
入れて
引き
出した。
彼の
惡意を
有たぬ
手が
斯の
如く
残酷に
働かされたのは、
夫婦の
間には
僅でも
他人の
手を
藉ることに
金錢上の
恐怖を
懷かしめられたからであつた。
女房はそれでも
死なゝかつた。
然し
殆んど
想像されなかつた
疼痛が
滿身に
沁み
渡つた。
軈て
非常な
發熱が
伴つた。それからといふものは三
年も
臥つた
儘で
季節が
暖かに
成れば
稀には
蒲團からずり
出して
僅に
杖に
縋つては
軟かな
春の
日をさへ
刺戟に
堪へぬやうに
眩しがつて
居た。
お
品の
母との
關係が
餘計な
告口から
女房の
耳に
入つた。
其の
頃暑さに
向いて
居た
所爲でもあつたが
女房はそれを
苦にし
始めてからがつかりと
窶れたやうに
見えた。
女房が
死んだ
時は
卯平は
枕元に
居なかつた。
村落には
赤痢が
發生した。
豫防の
注意も
何もない
彼等は
互に
葬儀に
喚び
合うて
少しの
懸念もなしに
飮食をしたので
病氣は
非常な
勢ひで
蔓延したのであつた。
卯平も
患者の一
人でさうしてお
品の
家に
惱んで
居た。お
品の
母の
懇切な
介抱から
彼は
救はれた。
彼はどうしても
瀕死の
女房の
傍に
病躯を
運ぶことが
出來なかつた。
其の
窶れた
目の
憂へるのを
彼は
見るに
忍びなかつたからである。
彼のさういふ
意志は
長い
月日の
病苦に
嘖まれて
僻んだ
女房の
心に
通ずる
理由がなかつた。さうして
女房は
激烈な
神經痛を
訴へつゝ
死んだ。
卯平は
有繋に
泣いた。
葬式は
姻戚と
近所とで
營んだが、
卯平も
漸と
杖に
縋つて
行つた。
其の
秋の
盆には
赤痢の
騷ぎも
沈んで
新しい
佛の
數が
殖えて
居た。
墓地には
掘り
上げた
赤い
土の
小さな
塚が
幾つも
疎末な
棺臺を
載せて
居た。
大抵は
赤痢に
罹つて
漸く
身體に
力がついたばかりの
人々が
例年の
如く
草刈鎌を
持つて六
日の
日の
夕刻に
墓薙というて
出た。
墓の
邊は
生るに
任せた
草が
刈拂はれて
見るから
清潔に
成つた。
中央に
青竹の
線香立が
杙のやうに
立てられて、
石碑の
前には
一つづゝ
青竹の
簀の
子のやうな
小さな
棚が
作られた。
卯平も
墓薙の
群に
加はつた。
彼のまだ
力ない
手に
持つた
鎌の
刄先が
女房の
棺臺の
下を
覗いてからりと
渡つた
時彼は
悚然として
手を
引いた。
蛇が
身體の
後半を
彼の
足もとに
現して
白い
腹を
見せた。
鎌の
刄先が
蛇を
切つたのである。
蛇は
暫く
凝然として
居て
極めて
徐ろに
棺臺の
下に
隱れた。
卯平の
顏は
黄昏の
光に
蒼かつた。
彼はそれから
他出することも
稀になつた。
恢復しかけた
病後の
疲勞が
夜は
粘るやうな
汗を
分泌させた。それから八
日目に
村落の
者が
佛を
迎へに
提灯持つて
行つた
時は
刈り
拂はれた
草が
暑いといつても
秋らしくなつた
日に
其の
生殖作用を
急がうとして
聳然と
首を
擡げて
居た。
村落の
人々は
好奇心に
驅られて
怖づ/\も
棺臺をそつと
揚げて
見た。
蛇は
依然としてだらりと
横たはつた
儘であつた。
人々は

つた
目を
見合せた。
村落の
者が
去つた
後には
小さな
青竹の
線香立からそこらの
石碑の
前からぢり/\と
身を
燒いて
行く
火に
苦んで
悶えるやうに
煙はうねりながら
立ち
騰つて
寂寥たる
黄昏の
光の
中に
彷徨うた。それから
又四
日目に
佛を
送つて
村落の
者は
黄昏の
墓地に
落ち
合うた。
蛇は
猶且棺臺の
陰を
去らなかつた。
蛇は
自由に
匍匐ふには
餘りに
瘡痍が
大きかつた。
反り
返つた
唇のやうに
膨れた
肉は
埃に
塗れて
黒く
變じて
居た。
棺臺を
透かして
人が
之を
覗へば
恐怖を
懷いて
少しづゝのたくるのであつた。
女房が
出たのだといつて
村落の
者は
減らず
口を
叩いた。
暫くしてお
品の
母の
耳へも
蛇の
噂が
傳はつた。それからといふものお
品の
母は一
夜でも
卯平を
自分の
家から
放さない。
三つに
成つて
居たお
品が
卯平を
慕うて
確乎と
其の
家に
引き
留めたのはそれから
間もないことである。
蛇の
噺は
何時の
間にか
消滅した。それは
悉皆が
互に
心に
記憶を
反覆して
快よしとする
程彼等を
憎んでは
居なかつたからである。
其後長い
歳月を
經てお
品の
母が
死んだ
時以前の
噺を
見たり
聞いたりして
居た
者の
間にのみ
僅に
記憶が
喚び
返された。お
品の
母は
腰に
病氣を
持つて
居た。
卯平は
自分の
手から
作つた
罪といふものは
殆んど
見られなかつた。
唯彼は
盛年の
頃は
他の
傭人等と
共に
能く
猫を
殺して
喫べてた。
尤も
其頃は
猫でも
犬でも
飼主を
離れて

を
狙ふのが
彷徨いた。
彼等は
罠を
掛けてそれを
待つた。
然し
大抵の
家々では

でさへ
家の
内では
煮るのを
許容さないので、
後の
庭へ
竹で三
本の
脚を
作つてそれへ
鍋蔓を
掛けた
程であつたから、
猫を
殺すことが
恐ろしい
罪惡のやうに
見られたのであつた。
猫は
辛い
鹽鮭を
與へれば
腰が
利かない
病氣に
罹ると一
般にいはれて
居るので
卯平が
腰を
惱んで
居るのを
稀には
猫の
祟だと
戯談にいふものもあつた。それでもさういふ
噂は
擴がらなかつた。
彼は
憎惡と
嫉妬とを
村落の
誰からも
買はなかつた。
憎惡も
嫉妬もない
其處に
故意と
惡評を
生み
出す
程百姓は
邪心を
有つて
居なかつた。
村落の
西端に
僻在して
居る
彼には
興味を
以て
見させる
一つの
條件も
具へて
居なかつた。
只むつゝりとして
他人に
訴へることも
求めることもない
彼は一
切村落との
交渉がなかつた。
彼の一
身の
有無は
少しも
村落の
爲には
輕重する
處がなかつた。
初冬の
梢に
慌しく
渡つてそれから
暫く
騷いだ
儘其の
後は
礑と
忘れて
居て
稀に
思ひ
出したやうに
枯木の
枝を
泣かせた
西風が、
雜木林の
梢に
白く
連つて
居る
西の
遠い
山々の
彼方に
横臥て
居たのが
俄に
自分の
威力を
逞しくすべき
冬の
季節が
自分を
棄てゝ
去つたのに
氣がついて、
吹くだけ
吹かねば
止められない
其の
特性を
發揮して
毎日其の
特有な
力が
輕鬆な
土を
空に
捲いた。
其の
日も
拂曉から
空が
餘りにからりとして
鈍い
軟かな
光を
有たなかつた。
毎日吹き
捲くる
疾風が
其の
遠い
西山の
氷雪を
含んで
微細に
地上を
掩うて
撒布したかと
思ふやうに
霜が
白く
凝つて
居た。
勘次は
平生の
如くおつぎを
連れて
開墾地へ
出た。おつぎは
半纏を
後へふはりと
掛けた
儘手も
通さないで、
肩へは
襷を
斜に
掛けて
萬能を
擔いで
居た。
白い
手拭とそれから
手拭の
外に
少し
覗いた
後れ
毛の
歩く
度にふら/\と
動くのもしみ/″\と
冷た
相であつた。
草木及び
地上の
霜に
瞬きしながら
横にさうして
斜に
射し
掛ける
日に
遠い
西の
山々の
雪が
一頻光つた。
凡てを
通じて
褐色の
光で
包まれた。
其の
遠く
連つた
山々の
頂巓にはぽつり/\と
大小の
簇雲が
凝つた
儘に
掻き
亂されて
暫く
動かなかつた。
遂にはそれが一つに
成つて
山々の
所在を
暗まして、
其の
末端が
油煙の
如く
空に
向つて
消散しつゝあるやうに
見え
始めた。
其處には
毎日必ず
喧
な
跫音が
人の
鼓膜を
騷がしつゝある
其の
巨人の
群集が、
其の
目からは
悲慘な
地上の
凡てを
苛めて
爪先に
蹴飛ばさうとして、
山々の
彼方から
出立したのだ。
其の
驚くべき
迅速な
脚が
空間を一
直線に、さうして
僅な
障害物であるべき
梢の
凡てを
壓しつけ
壓しつけ
林を
越えて
疾驅して
來るのは
今もう
直である。
竹を
伐つて
束ねたやうに
寸隙もなく
簇がつて
居る
其の
爪先に
蹴られては
怖えに
怖えた
草木は
皆聲を
放つて
泣くのである。さうしてもう
泣かねば
成らぬ
時間が
迫つて
居る。
勘次は
霜白い
自分の
庭を
往來へ
出ると
無器用な
櫟の
林が
彼の
行くべき
方に
從つて
道に
沿うて
連つて
居る。
彼の
破れて、
毎日打ちつける
疾風の
爲めに
傾むけられた
笹の
垣根には、
狹い
往來を
越えて
櫟の
落葉が
熊手で
掻いたやうに
聚つて
且つ
連つて
居る。
凡そ
櫟の
木程頑健な
木は
他に
有るまい。
乾燥した
冬枯の
草や
落葉に
煙草の
吸殼が
誤つて
火を
點じて、それが
熾に
林を
燒き
拂うても
澁の
強い、
表面が
山葵おろしのやうな
櫟の
皮は、
黒い
火傷を
幹一
杯に
止めても、
他の
針葉樹に
見るやうではなく、
春の
雨が
數次軟かに
濕せば
遂にはこそつぱい
皮の
何處からか
白つぽい
芽を
吹いて、
粗剛な
厚い
皮の
圍みから
遁れて
爽快な
呼吸を
仕始めたことを
悦ぶやうにずん/\と
伸長して、
遂には
伐つても/\、
猶且ずん/\と
骨立つて
幹が
更に
形づくられる
程旺盛な
活力を
恢復するのである。
彼等はさういふ
特性を
有つて
居ながら
了解し
難い
程臆病である。
黄色な
光が
快よく
鮮かに
滿ちて
居る
晩秋の
水のやうな
淡い
霜が
竊におりる
以前から
其の
葉は
悉くくる/\と
其の
周圍が
捲れ
始めて、
他の
雜木は
其の
葉をからりと
落して
其の
梢よりも
遙に
低く
垂れて
居る
西の
空の
明るい
入日を
透して
見せるやうに
疎に
成るのに、
確乎としがみついて
離れない。
彼等は
漸く
樹相を
形づくると
共に
鋸の
齒が
残酷に
渡つて
少しでも
餘裕を
與へられないのである。それで
彼等の
間には
自然に
只恐怖する
性質のみが
助長されたのであるかも
知れない。それだから
既に
薪に
伐るべき
時期を
過して、
大木の
相を
具へて
團栗が
其の
淺い
皿に
載せられるやうに
成れば、
枯葉は
潔く
散り
敷いてからりと
爽かに
樹相を
見せるのである。
丁度それは
子孫の
繁殖と
自己の
防禦との
必要を
全く
忘れさせられた
梨の
接木が、
大きな
刺を
幹にも
枝にも
持たなく
成つたやうに、
恐怖が
彼等を
去つたのである。
然しながら
林の
櫟は
幾ら
遠く
根を
伸して
迅速な
生長を
遂げようとしても、
冷かな
秋が
冬を
地上に
導くのである。
彼等は
其の
冬の
季節に
於て
生命を
保つて
行くのには
凡ての
機能を
停止して
引き
緊らねば
成らぬ。それでなければ
彼等は
氷雪の
爲に
枯死せねばならぬ。
其季節に
彼等の
最後の
運命である
薪や
炭に
伐られるやうに一
番適當した
組織に
變化することを
餘儀なくされるのである。
彼等はそれから
其の
貴重な
呼吸器であつた
枯葉を一
枚でも
枝から
放すまいとし
又離れまいとして
居る。
生育の
機能が
停止されると
共に
粘着力を
失ふべき
筈の
葉柄が
確乎と
保たれてある。そこで
乾燥した
枯葉は
少しのことにさへ
相倚つてさや/\と
互に
恐怖を
耳語くのである。
然し
樹木が
吸收して
獲た
物質の一
部を
地及び
空氣に
還元せしめようとして
凡ての
葉を
梢から
奪つて、
到る
處空濶で
且簡單にすることを
好む
冬の
目には、
櫟の
枯葉は
錯雜し、
溷濁して
見えねばならぬ。それで
巨人を
載せた
西風が
其爪先にそれを
蹴飛ばさうとしても、
恐ろしく
執念深い
枯葉は
泣いてさうして
其の
力を
保たうとする。
偶力が
足りないで
吹き
散らされたのは、さういふ
時に
非常に
便利なやうに
捲いてあるので、どんな
陰でも
其の
身を
託する
場所を
求めてころ/\と
轉がつて
行つては、
自分の
伴侶が一つに
相倚り
相抱いて
微風にさへ
絶えず
響を
立てゝ
戰慄しつゝあるのである。
勘次は
斯ういふ
櫟の
木を
植ゑて
林を
造るべき
土地の
開墾をする
爲にもう
幾年といふ
間雇はれて
其の
力を
竭した。
彼は
漸く
林相を
形づくつて
來た
櫟林に
沿うて
田圃を
越えて
走つた。
田圃の
鴫が
何に
驚いたかきゝと
鳴いて、
刈株を
掠めるやうにして
慌てゝ
飛で
行た。さうして
後は
白く
閉した
氷が
時々ぴり/\と
鳴てしやり/\と
壞れるのみで
只靜かであつた。
田圃を
透して
林の
間から
見える
其遠い
山々の
雲は
稍薄くなつて
空を
濁して
居た。
軈て
雜木林の
枝頭が
少し
動いたと
思つたらごうつといふ
響が
勘次の
耳に
鳴つた。
巨人の
脚が
逼つたのである。
彼はむつと
思はず
呼吸が
切迫した。
毎日吹き
渡る
西風は
乾燥しつゝある
凡ての
物を
更に
乾燥させねば
止まない。
雨が
稀にしんみりと
降つても
西風は
朝から一
日青い
常緑木の
葉をも
泥の
中へ
拗切つて
撒布らす
程吹き
募れば、それだけで
土はもう
殆んど
乾かされるのである。
土が
保有すべき
水分がそれ
程蒸發し
盡しても
其の
吹き
渡る
間は
西風は
決して
空に一
滴の
雨さへ
催させぬ。それでも
有繋に
深く
水を
藏して
居る
土は
垢の
如き
表皮のみを
掻き
拂つて
行く
疾風の
爲には
容易に
其の
力を
失はないで、
夜が
更ければ
幾らでも
空氣中に
保たれた
水分を
微細に
結晶させて一
杯に
白く
引きつける。
土が
徹宵さういふ
作用を
營んだばかりに、
日は
拂曉の
空から
横にさうして
斜に
其の
霜を
解かして、
西風は
直にそれを
乾かして
残酷に
表土の
埃を
空中に
吹き
捲くる。
其の
力が
烈しい
程拂曉の
霜が
白く、
其れが
白い
程亂れて
飛ぶ
鴉の
如き
簇雲を
遠い
西山の
頂巓に
伴うて
疾風は
驅るのである。
兩方が
疲憊して
勢を
消耗する
季節の
變化を
見るまでは
其の
爭ひは
止むことがない。
其の
日も
埃が
天を
焦して
立つた。
其の
埃は
黄褐色で
霧の
如く
地上の
凡てを
掩ひ
且つ
包んだ。
雜木林は一
齊に
斜に
傾かうとして
梢は
彎曲を
描いた。
樹木は
皆互に
泣いて
囁きながら、
幾らか
日の
明るさをも
妨げて
居る
其の
濃霧から
遁れようとするやうに
間斷なく
騷いだ。
霧は
悲慘な
凡ての
物を
互に
知らせまいとして
吹き
立ち/\
數十
間の
距離に
於ては
其の
物體の
形状をも
明かに
示さない。
雜木林の
樹木は
開墾地の
周圍にも
混亂した。
然し
勘次が
目を
放つて
居るのは
足の
爪先二三
尺の、
今唐鍬を
以て
伐去つて
遙に
後へ
引いてそつと
棄てた
趾の一
點である。
埃は
土に
幾らでも
濕ひを
持つた
彼の
足もとからは
立たなかつた。おつぎは
勘次が
起した
塊を一つ/\に
萬能の
脊で
叩いてさらりと
解して
平にならして
居る。
輕鬆な
土から
凝集つて
居た
塊は
解せば
直に
吹き
拂はれた。おつぎは
當面に
埃を
受けるのには
遠く
吹きつける
土砂が
頬を
走つて
不快であつた。
手拭の
端を
捲くつて
沿びせる
埃の
爲に
髮の
毛の
荒れるのを
酷く
嫌つた。それでも
其手もとは
疎略ではなかつた。
勘次は
矢立の
如き
硬直な
身體を
伸長し
屈曲させて一
歩/\と
運んだ。
彼は
周圍に
無數な
樹木の
泣いて
囁くのを
耳に
入れなかつた。
加之彼は
自分の
耳朶に
鳴るさへ
心づかぬ
程懸命に
唐鍬を
打つた。
彼は
滿身に
汗して
居た。
卯平は
暇を
惜しがる
勘次が
唐鍬を
執て
出た
時朝餉の
後の
口を
五月蠅く
鳴らしながら
火鉢の
前にどつかりと
坐つて
居た。
破れた
草葺の
家をゆさぶつて
西風がごうつと
打ちつけて
來た
時には
火鉢の

はまだ
白く
灰の
皮を
被つて
暖かゝつた。
天井もない
屋根裏から
煤が
微かにさら/\と
散つて、
時々ぽつりと
凝集つた
儘に
落ちた。
喬木が
遮り
立つて
其の
梢に
蒼い
空を
見せて
居る
庭へすら
疾風の
驚くべき
周到な
手が
袋の
口を
解いて
倒にしたやうに
埃が
滿ちてさら/\と
沈んだ。一
日さうして
止め
處もなく
駈つて
行く
巨人の
爪先には
此の
平坦な
田や
畑や
山林の
間に
介在して
居る
各村落の
茅屋は
悉く
落葉を
擡げて
出た
茸のやうな
小さな
悲慘な
物でなければならなかつた。
各自の
直上を
中心點にして
空に
弧を
描いた
其の
輪郭外の
横にそれから
斜に
見える
廣く
且つ
遠い
空は
黄褐色な
霧の
如き
埃の
爲に
只
に
燒かれたやうである。
卯平は
自分の
小屋に
身を
窄めた。
暫く
彼の
火鉢から
立つて、
狹い
壁から
壁に
衡突つて
彷徨ひ
出た
薄い
煙が
疾風の
爲に
直ぐにごうつと
蹴散らされて
畢つた。
狹い
小屋の
内はそれから
復た
沈んだ。
卯平は
少し
開いた
戸口から
其の
小さく
蹙めた
目で
外を
見た。
狹い
庭の
先に
紙捻を
植ゑたやうな
桑畑の
乾燥しきつた
輕鬆な
土が
黄褐色な
霧の
中へ
吹つ
立つて
行くのが
見える。さうして
南の
家は
極めてぼんやりとして
其の
形態が
現はれて
又隱れた。
栗の
木の
側に
木の
枝を
杙に
打つて
拵へた
鍵の
手へ
引つ
掛けた
桔槹が、ごうつと
吹く
毎にぐらり/\と
動いて
釣瓶が
外れ
相にしては
外れまいとして
爭うて
騷いで
居る。
卯平は
彼ぼんやりした
心が
其處へ
繋がれたやうに
釣瓶を
凝視した。
彼は
暫くしてから
庭に
立つた。
彼は
其癖の
舌を
鳴らしながら
釣瓶へ
手を
掛けた。
釣瓶の
底には
僅に
保たれた
水に
埃が
浸されて
沈んで
居た。
外側は
青い
苔の
儘に
乾燥して
居た。
彼は
鍵の
手の
杙を
兩手に
持つて
其大きな
身體の
重量を
加へて
竪に
壓へて
見た。
小さな
杙は
毎日水の
爲に
軟かにされて
居る
土へぐつと
深くはひつた。
鍵の
手は
深く
釣瓶の
内側を
覗いて
居たので
先刻よりも
確乎と
釣瓶を
引き
止めた。
彼はそれから
狹い
戸口をぴたりと
閉して
枯燥した
手足を
穢い
蒲團に
包んでごろりと
横に
成つた。
午餐に
勘次が
戻つて、
復口中の
粗剛い
飯粒を
噛みながら
走つた
後へ
與吉は
鼻緒の
緩んだ
下駄をから/\と
引きずつて
學校から
歸つて
來た。
足袋も
穿かぬ
足の
甲が
鮫の
皮のやうにばり/\と
皹だらけに
成つて
居る。
彼はまだ
冷め
切らぬ
茶釜の
湯を
汲んで
頻りに
飯を
掻込んだ。
粘膜のやうに
赤く
濕ひを
持つた二つの
道筋を
傳ひて
冷たく
垂れた
洟を
彼は
啜りながら、
箸を
横に
持ち
換へて
汁椀の
鹽辛い
干納豆を
抓んで
口へ
入れたり
茶碗の
中へ
撒いたりして
幾杯かの
飯を
盛つた。
飯粒は
茶碗から
彼の
胸を
傳ひて
土間へぼろ/\と
落ちた。
彼は
土間に
立つた
儘喫べて
居た。
彼は
飯粒の
少し
底に
残つた
茶碗を
膳の
上に
轉がしてばたりと
飯臺の
蓋をした。
卯平は
横臥した
儘でおつぎが
喚んだ
時に
來なかつた。おつぎが
再び
聲を
掛けて
開墾地へ
出てからも
彼は
暫く
懶い
身體を
蒲團から
起さなかつた。
彼がふと
思ひ
出したやうに
狹い
戸口を
開けて
明るい
外の
埃に
目を
蹙めて
出て
行つた
時與吉は
慌しく
飯臺の
蓋をした
處であつた。
「
汝りや、
今日はどうしてさうえに
早えんでえ」
卯平は
太い
低い
聲で
聞いた。
「あゝ」と
與吉は
脣を
反らして
洟を
啜りながら
「
先生そんでも、
明日は
日曜だから
此れつ
切で
歸つてもえゝつちつたんだ」
「
午餐くつたか」
卯平はのつそりと
飯臺の
側に
近づいた。
「
汝りや、
爺が
膳さかうだに
滾して」と
彼は
先刻よりも
低い
聲で
「おとつゝあに
見らつたら
怒られつから」
斯ういつて
又
「
汝ツ
等おとつゝあは
怒りつ
坊だから」と
沈んで
呟くやうにいつた。
彼は
膳の
上に
散つて
居る
飯粒を一つ/\に
撮んで、それから
干納豆は
此れも一つ/\に
汁椀の
中へ
入れた。
汁椀は
手に
取つて、
椀の
腹を
左の
手に
輕く
打ちつけるやうにして
納豆を
平にした。おつぎは
午餐から
開墾地へ
出る
時、
菜にする
干納豆を
汁椀へ
入て
彼の
爲に
膳を
据ゑて
行つたのである。
與吉は
遠慮もなく
其の
膳に
向つたのである。
卯平は
飯臺の
蓋を
開けて
見たが
暖味がないので
彼は
躊躇した。
茶釜の
蓋をとつて
見たが、
蓋の
裏からはだら/\と
滴りが
垂れて
僅かに
水蒸氣が
立つた。
茶釜は
冷めて
居たのである。それ
程に
空腹を
感ぜぬ
彼は
箸を
執るのが
厭になつた。
彼は
身體が
非常に
冷えて
居ることを
知つた。それに
右の
手が
肩のあたりで
硬ばつたやうで
動かしやうによつてはきや/\と
疼痛を
覺えた。
彼は
病氣が
其處に
聚つたのではないかと
思つた。それが
睡眠中の
身體の
置きやうで一
時の
變調を
來したのだかどうだか
分らないにも
拘はらず、
彼は
唯病氣故だと
極めて
畢つた。
極めたといふよりも
彼の
果敢ない
僻んだ
心にはさう
判斷するより
外何もなかつたのである。
彼の
心は
只管自分を
悲慘な
方面に
解釋して
居ればそれで
濟んで
居るのであつた。
彼の
窶れた
身體から
其の
手が
酷く
自由を
失つたやうに
感ぜられた。
手は
輕く
痺れたやうになつて
居た。
彼は
冷えた
身體に
暖氣を
欲して、
茶釜を
掛けた
竈の
前に
懶い
身體を
据ゑて
蹲裾つた。
彼は
更らに
熱い
茶の一
杯が
飮みたかつたのである。
彼は
竈の
底にしつとりと
落ちついた
灰に
接近して
手を
翳して
見た。まだ
軟かに
白い
灰は
微に
暖かゝつた。
彼はそれから
大籠の
落葉を
攫み
出して
茶釜の
下に
突込んだ。
與吉も
側から
小さな
手で
攫んで
投げた。
卯平の
足もとには
灰を
掩うて
落葉が
散亂した。
落葉は
卯平の
衣物にも
止つた。
卯平は
竹の
火箸の
光で
落葉を
少し
透すやうにして
灰を
掻き
立てゝ
見ても
火はもうぽつちりともなかつたのである。
彼はそれから
燐寸を
深して
見たが
何處にも
見出されなかつた。
彼は
自分の
燐寸を
探しに
狹い
戸口へ
與吉をやらうとした。
與吉は
甘えて
否んだ。
彼はどうしても
懶い
身體を
運ばねばならなかつた。
卯平の
手もとは
餘程狂つて
居た。
彼はすつと
燐寸を
擦つたが
其の
火は
手が
落葉に
達するまでには
微かな
煙を
立てゝ
消えた。
燐寸はさうして五六
本棄てられた。
與吉は
其の
不自由な
手から
燐寸を
奪ふやうにして
火を
點けて
見た。
卯平は
與吉のする
儘にして、
丸太の
端を
切り
放した
腰掛に
身體を
据ゑて
其の
窶れた
軟かな
目を
蹙めて
居た。
慌てた
與吉の
手は
其の
軸木の
先から
徒らに
毛のやうな
煙を
立てるのみであつた。
彼は
焦躁れて
卯平の
足もとの
灰へ
燐寸の
箱を
投げた。
箱はからりと
鳴つた。
箱の
底はもう
見えて
居たのである。
卯平は
目を
蹙めた
儘燐寸をとつて
復すつと
擦つて、ゆつくりと
軸木を
倒にして
其の
白い
軸木を
包んで
燃え
昇らうとする
小さな
火を
枯燥した
大きな
手で
包んで、
大事相に
覗いた。それが
復二三
度反覆された。
手の
内側がぼんやりとしてそれから
段々に
明るく
成つて
火は
漸く
保たれた。
茶釜の
底に
觸れるばかりに
突込まれた
落葉には
斯うして
火が
點けられた。
落葉には
灰際から
其の
外側を
傳ひて
火がべろ/\と
渡つた。
卯平は
不自由な
手の
火箸で
落葉を
透した。
火は
迅速に
其の
生命を
恢復した。
彼等の
爲に
平生殆んど
半以上を
無駄に
使はれて
居る
焔が
竈の
口から
捲れて
立つた。
然し
其の
餘計に
洩れて
出る
焔が
彼の
自由を
失うて
凍らうとして
居る
手を
暖めた。
彼は
横に
轉がした
大籠からかさ/\と
掻き
出しては
燃え
易い
落葉を
間斷なく
足した。
與吉は
卯平の
側から
斜に
手を
出して
居た。
卯平は
與吉の
小さな
足の
甲へそつと
手を
觸れて
見た。
手も
足も
孰もざら/\とこそつぱかつた。
與吉は
斜に
身を
置くのが
少し
窮屈であつたのと、
叱言がなければ
唯惡戲をして
見たいのとで
側な
竈の
口へ
別に
自分で
落葉の
火を
點けた。
針金のやうな
火をちらりと
持つた
落葉の
一ひら/\が
煙と
共に
輕く
騰つた。
落葉は
直ぐに
白い
灰に
化つて
更に
幾つかに
分れて
與吉の
頭髮から
卯平の
白髮に
散つた。
煙の
中には
其の
白い
灰が
後から/\と
立て
落ちた。
與吉はいつも
彼等の
伴侶と
共に
路傍の
枯芝に
火を
點じて、それが
黒い
趾を
残してめろめろと
燃え
擴がるのを
見るのが
愉快でならなかつた。
彼は
又火が
野茨の
株に
燃え
移つて、
其處に
茂つた
茅萱を
燒いて
焔が一
條の
柱を
立てると、
喜悦と
驚愕との
錯雜した
聲を
放つて
痛快に
叫びながら、
遂には
其處に
恐怖が
加はれば
棒で
叩いたり
土塊を
擲つたり、
又は
自分等の
衣物をとつてぱさり/\と
叩いたりして
其火を
消すことに
力めるのであつた。
迅速で
且壯快な
變化を
目前に
見せる
火が
彼等の
惡戲好な
心をどれ
程誘導つたか
知れない。
彼は
落葉を
攫んでは
竈の
口に
投じてぼうぼうと
燃えあがる
焔に
手を
翳した。
茶釜がちう/\と
少し
響を
立てゝ
鳴り
出した
時卯平は
乾びたやうに
感じて
居た
喉を
濕さうとして
懶い
臀を
少し
起して
膳の
上の
茶碗へ
手を
伸した。
自由を
缺いて
居た
手が、
爪先で
持つた
茶碗をころりと
落させた。
茶碗の
底に
冷たく
成つて
居た
少しの
水が
土間へぽつちりと
落ちてはねた。
飯粒が
共に
散らばつた。
彼は
又悠長に
茶碗をとつて
汚れた
部分を
手でこすつて、
更に
茶釜の
熱湯を
注いで
足もとの
灰へ
傾けた。
蓋をとつたのでほう/\と
威勢よく
立つて
居る
水蒸氣がちら/\と
白く
立つて
落ちる
灰を
吸うた。
彼は
漸くにして
柄杓の
手を
放つて
再び
茶釜の
蓋をした
時俄にぼうつと
立つた
焔の
聲を
聞いた。
彼が
思はず
後を
見た
時與吉の
驚愕から
發せられた
泣き
聲が
耳を
打つた。
熾な
火の
柱が
近く
目を
掩うて
立つて
居た。
彼は
又直に
激しい
熱度を
顏一
杯に
感じた。
火はどうした
機會か
横に
轉がした
大籠の
落葉に
移つて
居たのである。
與吉は
初め
野外の
惡戲に
用ゐた
手段を
以て
其の
火を
叩いて
消さうとし
又掻き
出さうとした。
乾燥した
落葉は
迅速に
火を
誘導して
彼の
横頬を
舐つて、
彼は
思はず
聲を
放つたのである。
卯平は
慌てて
再び
茶碗を
落した。
彼は
突然與吉を
傍に
掻き
退けた。
彼はさうして
無意識に
火に
成つた
落葉を
掻き
出さうとして、
自由を
失うた
手の
鈍い
運動が
其の
火を
消すに
何の
功果もなかつた。
彼は
焔の
儘に
輕い
落葉の
籠を
庭へ
投げればよかつたのである。
疾風は
必ず
其の
落葉を
散亂せしめて、
火は
遠く
燃えながら
走るにしても、
片々たる
落葉は
廣い
區域に
悉く
其の
俤をも
止めないで
消滅して
畢はねば
成らぬのであつた。
然しながら
慌てた
卯平の
手は
此の
如き
簡單で
且最良である
方法を
執る
暇がなかつた。
火は
復怒つて
彼の
頬を
舐り
彼の
手を
燒いた。
彼の
目は
昏んだ。一
時に
激した
落葉の
火はそれが
久しく
持續されなくても
老衰した
卯平の
心を
奪ふには
餘りあつた。
卯平の
視力が
再び
恢復した
時には
火は
既に
天井の
梁に
積んだ
藁束の、
亂れて
覗いて
居る
穗先を
傳ひて
昇つた。
火は
乾燥した
藁束の
周圍を
舐つて、
更に
其焔が
薄闇い
家の
内から
遁れようとして
屋根裏を
偃うた。それが
迅速な
火の
力の
瞬間の
活動であつた。
舐つた
火は
更に
此れを
噛んでずた/\に
崩壞した
藁束は
其の
火を
保つた
儘既に
其の
勢ひを
沈めた
落葉の
上にばら/\と
亂れ
落て
其處に
復た
火勢が
恢復された。
惘然として
自失して
居た
卯平は
藁の
火を
浴びた。
彼は
慌てゝ
戸口へ
遁げ
出した
時火は
既に
赤い
天井を
造つて
居た。
煙は四
方から
檐を
傳ひてむく/\と
奔つて
居た。
蛇の
舌の
如くべろ/\と
焔が
吐き
出された。
吹き
募つて
居る
疾風は
直ぐに
其赤い
舌を
吹き
拗切らうとした。
後から/\と
勢力を
加へて
吐き
出す
煙や
焔は
穗の
如く
壓し
靡かされた。
火は
瞬間に
處々落ち
窪んで
窶れた
屋根を
全く
包んで
畢つた。
卯平は
數分時の
前に
豫期しなかつた
此の
變事を
意識した
時殆んど
喪心して
庭に
倒れた。
土塊の
如く
動かぬ
彼の
身體からは
憐に
微かな
煙が
立つて
地を
偃うて
消えた。
藁の
火を
沿びた
時其の
火が
襤褸な
彼の
衣物を
焦したのである。
然し
其の
火は
灸の
如き
跡をぽつ/\と
止めたのみで
衣物の
心部は
深く
噛まなかつた。
埃は
彼を
越えて
走つた。
與吉は
火傷の
疼痛を
訴へて
獨悲しく
泣いた。
疾風は
其の
威力を
遮つて
包んだ
焔を
掻き
退けようとして
其餘力が
屋根の
葺草を
吹き
捲つた。
火は
直に
其の
空隙に
噛み
入つて
益其處に
力を
逞しくした。
聳然と
空に
奔騰しようとする
焔を
横に
壓しつけ/\
疾風は
遂に
塊の
如き
火の
子を
攫んで
投げた。
其の
礫はゆらり/\とのみ
動いて
居る
東隣の
森の
木がふはりと
受けて
遮斷した。
只一
部、三
角測量臺の
見通しに
障る
爲に
切り
拂はれた
空隙がそれを
導いた。
火の
子は
東隣の
主人の
屋根の一
角にどさりと
止つた。
勘次の
家を
包んだ
火は
屋根裏の
煤竹を一
時に
爆破させて
小銃の
如き
響を
立てた。
其の
響は
近所の
耳を
驚かした。
其の
人々が
驅けつけた
時は
棟はどさりと
落ちて、
疾風の
力を
凌いで
空中遙に
焔を
揚げた。
其の
時は
既に
東隣の
主人の
家を
火がべろ/\と
甞めつゝあつたのである。
村落の
者が
萬能や
鳶口を
持つて
集まつた
時は
火は
凄まじい
勢ひを
持つて
居た。それでも
大きな
建物を
燒盡するには
時間を
要した。
其の
間に
村落の
者は
手當り
次第に
家財を
持つて
其れを
安全の
地位に
移した。
其の
點に
於て
白晝の
動作は
敏活で
且つ
容易であつた。
家財道具が
門の
外に
運ばれた
時火勢は
既に
凡ての
物の
近づくことを
許容さなかつた。
家を
圍んで
東にも
杉の
喬木が
立つて
居た。
森の
梢の
上に
遙に
立ち
騰らうとして
次第に
其の
勢ひを
加へる
焔を、
疾風はぐるりと
包んだ
喬木の
梢からごうつと
壓しつけ
壓しつけ
吹き
落ちた。
焔は
斜にさうして
傾きつゝ、
群集の
耳には
疾風の
響を
奪つて
轟々と
鳴り
續いた。
吹き
落す
疾風に
抵抗して
其の
力を
逞しくしようとする
焔は
深く
木材の
心部にまで
確乎と
爪を
引つ
掛けた。さうして
其の
焔は
近く
聳えた
杉の
梢から
枝へ
掛けて
爪先で
引つ
掻いた。
其の
度に
杉は
針葉樹の
特色を
現して
樹脂多い
葉がばり/\と
凄じく
鳴つて
燒けた。
屋根裏の
竹が
爆破した。
消防の
群集は
殆んど
皮膚を
燒かれるやうな
熱さを
怖れて
段々遠ざかつた。
小さな
喞筒は
其熾な
焔の
前に
只一
條の
細い
短い
彎曲した
白い
線を
描くのみで
何の
功果も
見えなかつた。
他の
村落の
人々が
聞き
傳へて
田圃や
林を
越えて、
其の
間に
各自の
體力を
消耗しつゝ
驅けつけるまでには
大きな
棟は
熱火を四
方に
煽つて
落ちた。
疾風の
力が
此れを
壓しつけて、
周圍の
喬木の
梢が
他と
隔てゝ
白晝の
力が
其の
光を
奪はうとして
居るので、
空に
立つて
見えるのは
遠いやうで
且つ
近いやうで一
種の
凄慘な
氣を
含んだ
煙である。それでも
喬木の
梢の
上に
火は
壓迫に
苦んで
居るやうに
稀に
立ち
騰つては
又壓つけられた。
徒勞である
喞筒へ
群集は
水を
汲むのに
近所の
有ゆる
井戸は
皆釣瓶が
屆かなくなつた。
群集は
唯囂々として
混亂した
響の
中に
騷擾を
極めた。
火の
力は
此の
如くにして
周圍の
村落をも一つに
吸收した。
然しながら、
其の
群集は
勘次の
庭を
顧みようとはしなかつた。
黄褐色の
霧を
以て四
圍を
塞がれつゝ
只管に
其の
唐鍬を
打つて
居た
勘次は
田圃を
渡つて
林を
越えて
遠く
行つて
居た。
彼は
此の
凶事を
知る
理由がなかつた。
開墾地に
近い
小徑を
走つて
行く
人の
慌しい
容子を
見咎めて
彼は
始めて
其火を
知つた。それが
東隣の
主人の
家に
起つたことを
聞かされて
彼はおつぎを
促して
立つた。
彼は
疾驅しようとして、
其の
確乎と
身を
据ゑた
位置から一
歩を
踏み
出した
時、じやりつと
其爪先を
打つて
財布が
落ちた。
彼が
顧みた
時財布は二三
歩後に
發見された。
彼は
簡單な三
尺帶を
解いて、ぎりつと
其處に
大きな
塊のやうな
結び
目を
作つて
其の
財布を
包んだ。
彼は
殆ど
其の
脚力の
及ぶ
限り
走つた。
彼はおつぎが
後に
續かぬことを
顧慮する
暇もなかつた。
彼は
其の
主人を
懷つたのである。
勘次は
後の
田圃へ
出た
時霧の
如き
埃を
隔てゝ
主人の
家の
森から
騰る
熾な
煙を
見て
今更の
如く
恐怖した。
彼は
又ふと
自分の
後の
林に
少し
見えて
居た
自分の
家の
棟が
見えないのに
其心を
騷がせた。
毫も
其の
力を
落さぬ
疾風は
雜木に
交つた
竹の
梢を
低くさうして
更に
低く
吹靡けて
居れど
棟はどうしても
見えなかつた。
彼は
又煙が
絲の
如く
然も
凄じく
自分の
林の
邊から
立ては
壓しつけられるのを
見た。
彼が
自分の
庭に
立つた
時は、
古い
煤だらけの
疎末な
建築は
燒盡して
主要の
木材が
僅に
焔を
吐いて
立つて
居る。
火は
尚ほ
執念く
木材の
心部を
噛んで
居る。
何物をも
吹き
拂はねば
止むまいとする
疾風は、
赤い

を
包む
白い
灰を
寸時の
猶豫をも
與へないで
吹き
捲つた。
心部を
噛まれつゝある
木材は
赤い
齒を
喰ひしばつたやうな
無數の
罅が
火と
煙とを
吐いて
居た。
勘次は
殆んど
惘然として
此の
急激な
變化を
見た。
彼は
足もとが
踉蹌る
程疾風の
手に
突かれた。
彼は
庭に
立つて
泣いて
居る
與吉を
見た。
與吉の
横頬に
印した
火傷が
彼の
惑亂した
心を
騷がせた。
勘次は
又其の
側に
目を
瞑つて
後向に
成つて
居る
卯平を
見た。
卯平は
何時の
間に
誰がさうしたのか
筵の
上に
横たへられてあつた。
彼は
少い
白髮を
薙ぎ
拂つて
燒いた
火傷のあたりを
手で
掩うて
居た。
「
汝りやどうしたんだ」
勘次は
忙しく
聞いた。
「
木の
葉へ
火くつゝえたんだ」
與吉は
咽び
入りながらいつた。
「
汝でも
惡戲したんぢやねえか」
勘次は
遲緩しげに
烈しく
追求した。
「
俺ら
爺と
火あたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」さういつて
與吉は
俄に
聲を
放つて
泣いた。
彼は
何の
爲にさう
悲しくなつたのか
寧ろ
頑是ない
彼自身には
分らなかつた。
彼は
只涙がこみあげて
止め
處もなく
悲しくさうしてしみ/″\と
泣き
續けた。
勘次はそれを
聞いた
瞬間肩の
唐鍬を
轉がしてぶつりと
土を
打つた。
唐鍬の
刄先は
卯平の
頭に
近く
筵の一
端を
掠つて
深く
土に
立つた。
彼はそれから
燒盡して一
杯の

になつた
自分の
家に
近く
駈け
寄つた。
彼は
火の
恐ろしい
熱度を
感じて
少時躊躇して
立つた。
後の
林の
稍俛首れた
竹の
外側がぐるりと
燒かれて
變色して
居たのが
彼の
目に
映じた。それと
共に
彼は
隣の
森の
中の
群集の
囂々と
騷ぐのを
耳にして
自分が
今何の
爲に
疾走して
來たかを
心づいた。
然し
彼はもう
其の
群集の
間に
交つて
主人の
災厄に
赴く
心は
起らなかつた。
彼は
其の
群集の
聲を
聞いて、
自ら
意識しない
壓迫を
感じた。
彼は
酷く
自分の
哀つぽい
悲慘な
姿を
泣きたくなつた。
彼は
疾走した
後の
異常な
疲勞を
感じた。
彼は
自分の
燒趾を
掻き
立てようとするのに
鳶口も
萬能も
皆其火の
中に
包まれて
畢つて
居た。
彼は
空手であつた。
唐鍬を
執つて
彼は
再び
熱い
火の
側に
立つた。
熱さに
堪へぬ
火の
側を
彼は
飛び
退つて
又立つた。
彼は
其の
刃先の
鈍く
成るのを
思ふ
暇もなく
唐鍬で、また
立つて
居る
木材を
引つ
掛けて
倒さうとした。
おつぎは
後れて
漸く
垣根の
入口に
立つた。おつぎはもう
自分の
家が
無いことを
知つた。
貧窮な
生活の
間から
數年來漸く
蓄へた
衣類の
數點が
既に
其の一
片をも
止めないことを
知つてさうして
心に
悲しんだ。
汗がびつしりと
髮の
生際を
浸して
疲憊した
身體をおつぎは
少時惘然と
庭に
立てた。
おつぎはそれから
又泣いて
居る
與吉と
死骸の
如く
横はつて
居る
卯平とを
見た。おつぎは
萬能を
置いて
與吉の
火傷した
頭部をそつと
抱いた。
與吉は
復涙がこみあげて
咽びながらしみ/″\と
悲しげに
泣いた。
其の
聲は
聞くものを
只泣きたくさせた。
疲れたおつぎの
目にはふつと
涙が
泛んだ。おつぎは
又手で
抑へた
卯平の
頭部に
疑ひの
目を
注いで、二
人の
悲しむべき
記念におもひ
至つた。おつぎは
其の
原因を
追求して
聞かうとはしなかつた。おつぎはしみ/″\と
與吉を
心に
勦つて
更に、「
爺」と
卯平の
蓆に
近づいてそつと
膝をついた。
平生のおつぎは
勘次との
間を
繋がうとする
苦心からの
甘えた
言辭が
卯平の
心に
投ずるのであつた。
現在おつぎの
心裏には
何の
理窟もなかつた。
只しみ/″\と
悲しい
痛はしい
心からの
言辭が
自然に
其の
口から
出るのであつた。おつぎは
未だ
燃えてる
火を
忘れたやうに
卯平を
越えて
覗いた。
卯平はおつぎの
聲が
耳に
入つたので
後を
向かうとして
僅に
目を
開いた。
地を
掠つて
走りつゝある
埃が
彼の
頬を
打つて
彼の
横たへた
身體を
越えた。
彼は
直に
以前の
如く
目を
閉ぢた。
「
爺も
火傷したのか」おつぎは
靜にいつて
卯平の
手をそつと
退けて
左の
横頬に
印した
火傷を
見た。
「
痛てえか、そんでもたえしたこともねえから
心配すんなよ」おつぎは
火に
薙ぎ
拂はれた
穢い
卯平の
白髮へそつと
手を
當た。
卯平はおつぎのする
儘に
任せて
少し
口を
動かすやうであつたが、
又ごつと
吹きつける
疾風に
妨げられた。おつぎは
隣の
庭の
騷擾を
聞いた。
然も
其種々な
叫びの
錯雜して
聞える
聲が
自分の
心部から
或物を
引つ
攫んで
行くやうで、
自然にそれへ
耳を
澄すと
何だか
遣る
瀬のないやうな
果敢なさを
感じて
涙が
落ちた。
涙は
卯平の
白髮に
滴つた。おつぎが
心づいた
時勘次は
徒らにさうして
發作的に
汗を
垂らして
動いて
居るのを
見た。おつぎの
心も
屹として
未だ
燃えつゝある
火に
移つた。おつぎは
俄に
自分の
萬能を
執つて
勘次の
手に
攫ませた。
勘次は
始めて
心づいて、
熱した
唐鍬を
冷さうとして
井戸端へ
走つた。
鍵の
手を
離れた
釣瓶は
高く
空中に
浮んでゆつくりと
大きく
動いて
居た。
彼は
流し
尻にずぶりと
唐鍬を
投じて
又萬能を
執つた。
一
日吹いた
疾風が
礑と
其の
力を
落したら、
日が
西の
空の
土手のやうな
雲の
端に
近く
据つて
漸次に
沒却しつゝ
瞬いた。
其の一
瞬時強烈な
光が
横に
東の
森の
喬木を
錆た
橙色に
染めて、
更に
其の
光は
隙間を
遠くずつと
手を
伸した。
冷たく
且薄闇く
成るに
從つて
燒趾の
火が
周圍を
明るくした。
隣の
火はほんのりと
空をぼかした。
隣の
庭には
自分の
村落から
他の
村落から
手桶や
飯臺へ
入れた
握り
飯が
數多く
運ばれた。
消防に
力を
竭した
群集は
白い
握飯を
貪つた。
群集は
更に
時分を
見計らつてはぐら/\と
柱を
突き
倒さうとした。
丈夫な
柱はまだ
火勢があたりを
遠ざけて
確乎と
立つて
居た。
他の
村落の
人々は
漸次に
歸り
去つた。
自村の
人々は
交代に
残つて
熾な
火の
番をした。
歸り
行く
人々が
其の
序に
勘次の
庭に
挨拶に
立つたのみで、
南の
家から
笊へ
入れた
握飯が
來た
丈であつた。
彼はそれでも
其の
爲に
空腹を
遁れた。
隣の
主人からは
暫くして
其の
集つた
握り
飯の
手桶を二つ三つ
持たせてよこした。
夜に
成つてから
近所の
者の
手で
卯平は
念佛寮へ
運ばれた。
勘次は
卯平を
乘せた
荷車を
曳いた。
彼はそれから
隣の
主人へ
挨拶に
出たが、
自分の
喉の
底で
物をいうて
逃げるやうに
歸つた。
彼は
其の
夜は三
人が
凍つた
空を
戴いて
燒趾の
火氣を
手頼りに
明かした。
卯平を
横へた
筵は
誰も
取りには
來なかつた。
筵は三
人に
席を
與へた。
勘次は
失火に
就いて
與吉から
要領を
得なかつた。
然しながら
彼の
悲憤に
堪へぬ
心が
嘖まうとするには
與吉の
泣いて
止まぬ
火傷がそれを
抑へつけた。
勘次は
疲れた。
夜が
深けるに
隨つて
霜は三
人の
周圍に
密接して
凝らうとしつゝ
火の
力をすら
壓しつけた。
彼等は
冷めて
行く
火に
段々と
筵を
近づけた。
勘次もおつぎも
薄い
仕事衣にしん/\と
凍る
霜の
冷たさと、ぢり/\と
焦すやうな
火の
熱さとを
同時に
感じた。
與吉は
火傷へ
夜の
冷たさが
沁みた。さうかといつて
火に
當らうとするのには
猶且火傷の
疼痛を
加へるだけであつた。
彼は
思出したやうに
泣いては
又泣いた。
遂には
泣き
疲れてしく/\と
只聲を
呑んだ。それが
却て
勘次とおつぎの
心を
掻き
亂した。
疲れた
二人はうと/\としながら
到頭眠ることが
出來なかつた。
燒趾に
横はつた
梁や
柱からまだ
微かな
煙を
立てつゝ
次の
日は
明けた。
勘次はおつぎを
相手に
灰燼を
掻き
集めることに一
日を
費した。
手桶の
冷たい
握飯が
手頼ない三
人の
口を
糊した。
勘次は
炭のやうに
成つた
痩せた
柱や
梁を
垣根の
側に
積んだ。
彼は
其の
新しい
手桶へ
水を
汲んでまだ
火の
有り
相な
梁や
柱へばしやりと
其の
水を
掛けた。
彼は
灰を
掻き
集めて
處々圓錘形の
小山を
作つた。
彼は
灰燼の
中から
鍋や
釜や
鐵瓶や
其の
他の
器物をだん/\と
萬能の
先から
掻き
出した。
鐵製の
器物は
其の
形を
保つて
居ても
悉皆幾年も
使はずに
捨てあつたものゝやうに
變つて
居た。
彼はそれをそつと
大事に
傍へ
聚めた。
茶碗や
皿や
凡ての
陶磁器は
熱火に
割ねて
畢つて一つでも
役に
立つものはなかつた。
勘次は
赤く
燒けた
土を
草鞋の
底で
段々に
掻つ
拂かうとした
時、
黒く
焦げたやうな
或物が
草鞋の
先に
掛つた。
燒けて
變色した
銅貨の
少し
凝つたやうになつたのが
足に
觸れてぞろりと
離れた。
彼は
周圍にひよつと
目を
放つた。
彼の
目に
入るものは
此も一
心に
灰の
始末をして
居るおつぎの
外にはなかつた。
彼は
銅貨を
竊と
竹の
林の
側へ
持つて
行つた。
彼はぎりつと
縛つた三
尺帶を
解いて、
財布を
括つた
結び
目に
齒を
掛けて
漸く
其財布を
取り
出した。
燒けた
銅貨を
彼は
財布へ
投げ
込んで
復たぎりつと
腰へ
括つた。
彼はさうして
再びきよろ/\と
周圍を
見た。
勘次は
幾つかの
小山を
形づくつた
灰へ
藁や
粟幹でしつかと
蓋をした。
彼はそれを
田や
畑へ
持ち
出さうとしたので、
雨に
打たせぬ
工夫である。
其の
藁や
粟幹は
近所の
手から
與へられた。
彼は
住居を
失つた
第二
日目に
始めて
近隣の
交誼を
知つた。
南の
女房は
古い
藥鑵と
茶碗とを
持つて
來てくれた。
勘次は
平生何とも
思はなかつた
此れ
等の
器物にしみ/″\と
便利を
感じた。
彼は
藥鑵のまだ
熱い
湯を
茶碗に
注いで
彼等の
身を
落ちつける
唯一
枚の
筵の
端に
憩うた。
俄に
空洞とした
燒趾を
限つて
立つて
居る
後の
林の
竹は
外側がぐるりと
枯れて、
焦げた
枝が
青い
枝を
掩うて
幹は
火の
近かつた
部分は
油を
吹いてきら/\と
滑かに
變つて
居た。
東隣の
主人の
庭には
此の
日も
村落の
者が
大勢集まつて
大きな
燒趾の
始末に
忙殺された。それで
其人々は
勘次の
庭に
手を
藉さうとはしなかつた。
彼等は
隣の
主人に
對して
平素に
報いようとするよりも
將來を
怖れて
居る。
彼等は
皆齊しく
靜かに
落ついた
白晝の
庭に
立ことが
其の
家族の
目に
觸れ
易いことを
知つて
居るのである。
勘次は
疲れた
身體を
其の
日も
餘念なく
使役した。
其の
夜は三
人が
空を
戴いて
狹い
筵に
明すのには、
僅でも
其身體を
暖める
火は
消滅して
居たのである。三
人は
其夜南の
家に
導かれた。
勘次もおつぎも
汗と
灰と
埃とに
汚れた
身體を
風呂に
洗ひ
落した。
快よかつた
其風呂が
氣盡しな
他人の
家に
彼等をぐつすりと
熟睡させて二
日間の
疲勞を
忘れさせようとした。
與吉の
横頬は
皮膚が
僅に
水疱を
生じて
膨れて
居た。
彼は
其の
日の
機嫌が
惡かつた。
南の
女房は
其の
水疱に
頭髮へつける
胡麻の
油を
塗つてやつた。
勘次は
燒木杙を
地に
建てゝ
彼に
第一の
要件たる
假の
住居を
造つた。
近所から
聚めた
粟幹の
僅少な
材料が
葺草であつた。それは
漸と
雨の
洩るか
洩らないだけの
薄い
葺方であつた。
固より
壁を
塗る
暇はない。そこらこゝらの
林の
間に
刈り
残された
萱や
篠を
刈つて
來て、
乏しい
藁と
交ぜて
垣根でも
結ふやうにそれを
内外から
裂いた
竹を
當てゝぎつと
締めた。
彼は
南の
家から
借りた
鋸で
大小の
燒木杙を
挽切つた。
遂に
彼は
後から
燒けた
竹を
伐つて
來て
簀の
子のやうに
横へて
低い
床を
造つた。
竹を
伐つた
鉈も
彼の
所有ではなかつた。
彼の
熱火に
燒かれて
獨で
冷めた
鉈も
鎌も
凡ての
刄物はもう
役には
立たなかつた。
彼の
手に
完全に
保たれたものは
彼が
自分の
手を
恃んで
居る
唐鍬のみである。
彼は
此の
壁もない
小屋を
造る
爲に二
日ばかりの
間は
毫も
他を
顧みる
暇がなかつた
程心が
忙しかつた。
彼の
悲慘な
狹い
小屋には
藥鑵と
茶碗とそれから
火事の
夕方に
隣の
主人がよこした
新しい
手桶とのみで、
夜の
身を
横へるのに一
枚の
蒲團もなかつた。
砥石を
掛けて
磨かねば
使用に
堪へぬ
鍋や
釜は
彼の
更に
狹い
土間に
徒らに
場所を
塞げて
居た。
其の
土間にはまだ
簡單な
圍爐裏さへなくて、
彼は
火を
焚くのに三
本脚の
竹を
立てゝそれへ
藥鑵を
掛けた。
おつぎは
只勘次の
仕事を
幇けて
居た。
然し
其の
間にも
念佛寮へ
運ばれた
卯平を
忘れては
居なかつた。おつぎは
火事の
次の
日に
勘次へは
默つて
念佛寮を
覗いて
見た。おつぎは
卯平へ
目に
見えた
心盡をするのに
何の
方法も
見出し
得なかつた。おつぎの
懷には一
錢もないのである。おつぎは
手桶の
底の
凍つた
握飯を
燒趾の
炭に
火を
起して
狐色に
燒いてそれを二つ三つ
前垂にくるんで
行つて
見た。おつぎはこつそりと
覗くやうにして
見た。
卯平は
誰がさうしてくれたか
唯一人で
蒲團にゆつくりとくるまつて
居た。
枕元には
小さな
鍋と
膳とが
置かれて、
膳には
茶碗が
伏せてある。
汁椀は
此れも
小皿を
掩うて
伏せてある。
卯平は
窶れた
蒼い
顏をこちらへ
向けて
居た。
彼は
眠つて
居た。おつぎはすや/\と
聞える
呼吸に
凝然と
耳を
澄した。おつぎはそれから
枕元の
鍋蓋をとつて
見た。
鍋の
底には
白いどろりとした
米の
粥があつた。
汁椀をとつて
見たら
小皿には
醤が
少し
乘せてあつた。
卯平は
冷めた
白粥へまだ
一口も
箸をつけた
容子がない。おつぎは
燒いた
握飯を一つ
枕元にそつと
置いて
遁げるやうに
歸つて
來た。
老人の
敏い
目が
到頭開かなかつた。
卯平は
疲れた
心が
靜まつて
漸く
熟睡した
處なのであつた。
掘立小屋が
出來てから
勘次はそれでも
近所で
鍋や
釜や
其の
他の
日用品を
少しは
貰つたり
借りたりして
使つた。おつぎは
其の
間一
心に
燒けた
鍋釜を
砥石でこすつた。
竹の
床へ
數く
筵が三四
枚、
此も
近所で
古いのを一
枚位づつ
呉れた。さうしてから
漸く
蒲團が
運ばれた。それは
彼がぎつしりと
腰に
括つた
財布の
力であつた。
米や
麥や
味噌がそれでどうにか
工夫が
出來た。
彼は
斯うして
命を
繼ぐ
方法が
漸と
立つた。二三
日過ぎて
與吉の
火傷は
水疱が
破れて
死んだ
皮膚の
下が
少し
糜爛し
掛けた。
勘次は
心から
漸く
其の
瘡痍を
勦つた。
彼は
平生になくそれを
放任つて
置けば
生涯の
畸形に
成りはしないかといふ
憂をすら
懷いた。さうして
彼は
鬼怒川を
越えて
醫者の
許に
與吉を
連れて
走つた。
醫者は
微笑を
含んだ
儘白いどろりとした
藥を
陶製の
板の
上で
練つて、それをこつてりとガーゼに
塗つて、
火傷を
掩うてべたりと
貼てぐる/\と
白い
繃帶を
施した。
手先の
火傷は
横頬のやうな
疼痛も
瘡痍もなかつたが
醫者は
其處にもざつと
繃帶をした。
與吉は
目ばかり
出して
大袈裟な
姿に
成つて
歸つて
來た。
與吉は
繃帶をしてから
疼痛もとれた。
繃帶は
又直接他の
物との
摩擦を
防いで、
彼に
快よく
村落の
内を
彷徨はせた。
繃帶が
乾いて
居れば五六
日は
棄てゝ
置いても
好いが、
液汁が
浸み
出すやうならば
明日にも
直に
來るやうにと
醫者はいつたのであるが、
液汁は
幸ひにぱつちりと
點を
打つたのみで
別段擴がりもしなかつた。
おつぎは
燒趾の
始末の
忙しい
間にも
時々卯平を
見た。
然し
卯平を
慰めるに一
錢の
蓄へもないおつぎは
猶且何の
方法も
手段も
見出し
得なかつたのである。
おつぎは
勘次が
漸くにして
求めた
僅な
米を
竊と
前垂に
隱して
持つて
行つた。
米には
挽割麥が
交つて
居る。おつぎは
決して
卯平を
滿足させ
得ることとは
思はなかつたが、
彼が
喫べて
見ようといへば
粥にでも
炊いてやらうと
思つたのである。
然しおつぎが
恥ぢつゝそれでも
餘儀なく
隱して
持つて
行つた
米の
必要はなかつた。
念佛の
伴侶が
交互に
少しづゝの
食料を
持つて
來てくれるのを
卯平は
屹度餘して
居た。
「
爺、そんでもちつた
鹽梅よくなつたやうだが、
痛かねえけえ」おつぎは
毎度のやうに
反覆して
聞いた。
言辭は
軟かでさうして
潤んで
居た。
卯平の
火傷へも
油が
塗られてあつた。
水疱はいつか
破れて
糜爛した
患部を、
油は
見るから
厭はしく
且つ
穢くして
居た。
死んだ
細胞の
下から
鮮かに
赤く
見え
始めた
肉芽は
外部の
刺戟に
對して
少しの
抵抗力も
持つて
居ない
細胞の
集りである。
朝夕の
冷たさすら
其の
過敏な
神經を
刺戟した。
卯平は
何時でも
右の
横頬を
上にして
居る
外はなかつた。
「さうだにかゝんなくつても
癒んべなあ」おつぎは、
油が
穢くした
火傷を
凝然と
見て
居ると
自然に
目が
蹙められて、
寧ろ
自分の
瘡痍の
經過でも
聞くやうに
卯平の
枕へ
口をつけていつた。
「うむ」と
卯平の
低く
響く
聲が
決して
其の
言辭のやうな
簡單な
意味のものではなかつた。
「そんでもどうにか
家も
拵えたから、
爺ことも
連れてくべよなあ」おつぎの
聲は
漸次に
潤んで
低くなつた。
卯平はそれでもおつぎの
聲を
聞くと
目を
瞑つた
儘、
殆ど
明瞭とは
見られぬやうな
微かな
笑ひが
泛ぶのであつた。
「どうえの
建てゝえ」
卯平は
有繋に
聞きたかつた。
「どうえのつて
爺は、
燒けた
柱掘立てたのよ、そんだから
壁も
塗んねえのよ」
「そんぢや、
藁か
萱でおツ
塞えたんでもあんびや」
「うむ、さうだあ、そんだから
觸つとがさ/\すんだよ」
斯ういつておつぎの
聲は
少し
明瞭として
來た。おつぎは
羞を
含んだ
容子を
作つた。
卯平は
悲慘な
燒小屋を
思ふと、
自分が
與吉と
共に
失錯つたことが
自分を
苦めて
酷く
辛かつた。
彼は
俄に
目を
蹙めた。
「
痛えのか」おつぎは
目敏くそれを
見て
心もとなげにいつた。おつぎは
窶れて
沈んだ
卯平の
側に
居ると、
遂自分も
沈んで
畢つて
只凝然と
悚んだやうに
成つて
居るより
外はなかつた。それでもおつぎは
長い
時間をさうして
空しく
費すことは
許容されなかつた。
「
又來つかんな」とおつぎは
沈んだ
聲でいつて
出て
行くのを、
後で
卯平の
眥からは
涙が
少し
洩れて、
其の
小さな
玉が
暫く
窶れた
皺に
引掛つてさうしてほろりと
枕に
落ちるのであつた。
勘次は一
度も
念佛寮を
顧みなかつた。五六
日過ぎて
與吉は
復た
醫者へ
連れられた。
醫者は
穢く
成つた
繃帶を
解いてどろりとした
白い
藥を
復た
陶製の
板で
練つて
貼つた。
先頃のよりも
濃くして
貼つたからもう
此れで
遠い
道程を
態々來なくても
此れを
時々貼つてやれば
自然に
乾いて
畢ふだらうと、
其の
白い
藥とそれからガーゼとを
袋へ
入れてくれた。
與吉は
俄に
勢ひづいた。
彼は
時々卯平の
側へも
行つた。
卯平は
横臥した
目に
與吉の
繃帶を
見て
其の
心を
痛めた。
或日與吉が
行つた
時、
先頃念佛の
時に
卯平へ
酒を
侑めた
小柄な
爺さんが
枕元に
居た。
「おめえ、さうだに
力落すなよ、
此らつ
位な
火傷なんぞどうするもんぢやねえ、
俺れ
癒してやつから、どうした
彼ん
時からぢや
痛かあんめえ、
彼の
禁厭で
火しめしせえすりや
奇態だから」さういつて
爺さんは
佛壇の
隅に
置いた
燈明皿を
出して
其の
油を
火傷へ
塗つた。
卯平は
其の
爲る
儘に
任せて
動かなかつた。
「
力落しちや
駄目だから、
俺らなんざこんな
處ぢやねえ、こつちな
腕、
馬に
咬つた
時にや、
自分で
見ちやえかねえつて
云はつたつけが、そんでも
俺れ
自分で
手拭の
端斯う
齒で
咥えてぎいゝつと
縛つて、さうして
俺ら
馬曳いて
來たな、
汗は
豆粒位なのぼろ/\
垂れつけがそんでも
到頭我慢しつちやつた、
何でも
力落しせえしなけりや
癒んな
直だから、
年寄つちや
癒りが
面倒だの
何だのつてそんなこたあねえから」
爺さんは
只管卯平の
元氣を
引立てようとした。
「
俺らそんだが、さうえ
怪我しても
馬は
憎かねえのよ、
馬に
煎れんのが
癖でひゝんと
騷いだ
處俺れ
手横さ
出して
抑えたもんだから
畜生見界もなく
噛ツたんだからなあ」と
彼は
酒を
飮んでは
居なかつたので
聲は
低かつたが、それでも
漸々に
勢ひを
加へて
居た。
「
俺ら
白え
藥貼つたんだぞ」
與吉は
先刻から
油を
塗つた
卯平の
瘡痍に
目を
注いで
居てかう
突然にいつた。
「なあに、さうだ
物なんざ
貼んねえツたつて
汝ツ
等がよりやこつちの
方が
早く
癒つから」
小柄な
爺さんは
暫く
手もとへ
置いた
油の
皿を
再び
佛壇の
隅へ
藏つた。
「そんでも
俺れこたはあ、
來なくつても
癒つからえゝつて
藥よこしたんだぞ」
與吉は
少し
間を
隔てゝ
怖づ/\いつた。
「
癒るもんかえ、
汝等が」
小柄な
爺さんは
揶揄ふやうにして
呶鳴つた。
「
癒らあえ、そんだつて
痛かねえ
俺ツ
等」
與吉は
驚いたやうにいつた。
「
其の
白え
藥だツちのよこしたのか」
卯平は
微かな
聲で
聞いた。
「さうなんだわ」
「
汝りや、それ
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、394-15]にでも
貼つてもらあのか」
「
俺ら
貼んねえ」
「そんぢや
藥はどうしたんでえ、
汝りやあ」
「おとつゝあ
持つてんだから
俺ら
知んねえ」
與吉は
上り
框に
胸を
持たせて
下駄の
爪先で
土間の
土を
叩きながら
卯平と
斯うして
數語を
交換した
時
「えゝからそんな
藥なんぞのこと
構えたてんなえ、
此れで
癒つから」と
小柄な
爺さんは
傍から
打ち
消した。
「
乞食野郎奴、
汝ツ
等が
親爺は
見やがれ、
汝こた
醫者さ
連れてく
錢持つてけつかつて、
此處さは一
度でも
來やがんねえ
畜生だから、
見ろう。
其のツ
位だから
罰當つて
丸燒に
成つちやあんだ」と
爺さんは
更に
獨憤つた
語勢を
以ていつた。
「おとつゝあは
爺に
燒かつたツちツてんだあ」
與吉は
勢ひに
壓せられて
羞むやうにしながら
漸といつた。
「
汝等親爺奴云つたのか」
爺さんは
更に
「
汝りや
何ちつたそんで」と
呶鳴つた。
與吉は
悄れて
暫く
沈默した。
「
俺ら
火あたつてたら
木の
葉さくつゝえたんだつて
云つたんだあ」
「さう
云はつても
仕方ねえよ」
與吉のいひ
畢らぬ
内に
卯平は
言辭を
挾んだ。
「
箆棒、つん
燃したくつて、つん
燃すもの
有るもんか」
爺さんは
少し
激して
「
過失だもの
後で
何ちつたつて
仕やうあるもんぢやねえ」と
獨で
力んだ。
「そんでも
氣の
毒で
來らんめえつて
云つたあ」
與吉はぽさりといつた。
稍大きく
成つた
彼は
呶鳴る
爺さんの
前に
恐怖を
懷いたが
又壓へられることに
微かな
反抗力を
持つて
居た。
「
爺こと
來らんめえつて
云つたのか、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、396-5]も
云つたのかあ」
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、396-6]は
云はねえ、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、396-6]爺が
處さ
行ぐつちとおとつゝあ
怒んだ、さうしたら
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、396-6]に
怒らつたんだあ」
與吉は
自分の
心に
少しの
隔てをも
有して
居らぬ
卯平の
前に
知つてることを
矜るやうにいつた。
「
汝こた
怒んねえのか」
小柄な
爺さんは
與吉の
隱さぬ
言辭に
少し
力んだ
勢ひが
拔けたやうになつて
斯ういつた。
「
俺れこた
怒んねえ、
俺ら
怒つたつ
位遁げつちやあから」
與吉のいふのを
聞いて
爺さんの
憤りは
和げられた。
卯平は
蒼い
顏をして
凝然と
瞑つた
目を
蹙めて
聞いて
居た。
圍爐裏には
麁朶の一
枝も
燻べてなかつた。三
人は
暫くぽさりとした。
「
爺くんねえか」
與吉は
危むやうにいつた。
「
汝りや
何欲しいつちんだ」
小柄な
爺さんは
底力の
有る
聲を
低くしていつた。
「
俺ら
一錢もねえから」と
卯平はこそつぱい
或物が
喉へ
支へたやうにごつくりと
唾を
嚥んだ。
彼の
目の
皺が
餘計にぎつと
緊つた。
「
俺らまあだ、ちつた
有つたんだつけが、
煙草入と
同志に
燒えつちやつたから」
彼はぽさりと
投げ
出していつた。
「
煙草入は
燒けたつて
錢だら
灰掻掃けば
有る
筈だ、
外に
盜る
奴ざ
有りやすめえし」
小柄な
爺さんの
目は
光つた。
「なあに
分んねえよ、おつう
等毎日來てゝも
其の
噺やねえんだから、
俺らどうせ
癒つか
何だか
分りやすめえし、
要らねえな」
「なあに、
俺れ
聞いて
見なくつちやなんねえ、
出すも
出さねえも
有るもんか」
小柄な
爺さんは
呟いて
「
行けはあ、
汝りや
大けえ
姿して、
呉ろうの
何だのつて」と
與吉を
呶鳴りつけた。
與吉は
悄々と
出て
行つた。
卯平は
少し
目を
開いて
與吉の
後姿を
見た。
涙が
止めどもなく
出た。
彼はそれを
拭はうともしなかつた。
其の
夜温度が
著るしく
下降した。
季節は
彼岸も
過ぎて四
月に
入つて
居るのであるが、
寒さは
地に
凝りついたやうに
離れなかつた。
夜半に
卯平はのつそりと
起きて
圍爐裏に
麁朶を
燻べた。ちろちろと
鐵瓶の
尻から
燃えのぼる
火は
周圍の
闇に
包まれながら
窶れた
卯平の
顏にほの
明るい
光を
添へた。
彼は
勢ひない
焔の
前に
目を
瞑つた
儘只沈鬱の
状態を
保つた。
彼は
殆んど
動かぬやうにして
棄てゝ
置けばすつと
深く
沈んで
畢つたやうに
冷めて
行く
火へぽちり/\と
麁朶を
足して
居た。
彼は
暫く
自失したやうにして
居て
麁朶の
火が
周圍の
闇に
壓しつけられようとして
僅に
其の
勢ひを
保つた
時彼はすつと
立ち
上つた。
彼の
糜爛した
横頬はもう
火の
氓びようとして
居る
薄明りにぼんやりとした。
火はげつそりと
落ちて
彼の
姿が
消え
入らうとした。
彼は
戸を
開けて
踉蹌けながら
出た。
寒い
風が
冷たい
刄を
浴びせた。
卯平は
悚然とした。
勘次等三
人は
其の
夜も
凝集つて
薄い
蒲團にくるまつた。
勘次は
足に
非常な
冷たさを
感じて、うと/\として
居た
眠から
醒めた。
手足を
伸せば
括りつけた
萱や
篠の
葉に
觸れてかさ/\と
鳴る
程狹い
室内を、
寒さは
束ねた
松葉の
先でつゝくやうに
徹宵其隙間を
狙つて
止まなかつた。
勘次は
目が
冴えて
畢つた。
彼は
北に
枕して
居た。
後の
林が
性急に
騷いでは
又靜まつてさうしてざわ/\と
鳴つた。
北風が
立つたのだ。
低い
粟幹の
屋根から
其括りつけた
萱や
篠の
葉には
冴えた
耳に
漸と
聞とれるやうなさら/\と
微かに
何かを
打ちつけるやうな
響が
止まない。
漸次に
其の
響を
消滅して、
隙間を
求めて
侵入する
寒さの
度が
加はつた。
何處かで
凍てた
土へ
響くやうな

の
聲が
疳走つて
聞えると
夜は
檐の
隙間から
明るくなつた。
勘次はおつぎを
起した。
彼は
夜が
明ければ
蒲團に
堅くなつて
居るよりも
火にあたつた
方が
遙によかつた。
彼は
明けるのを
待遠にして
居た。おつぎは
外へ
出ようとした。
外は
意外に
積り
掛けた
雪が
白かつた。
更に
積りつゝある
大粒な
雪が
北から
斜に
空間を
掻亂して
飛んで
居る。おつぎは
少時立ち
悚んだ。
大粒な
雪を
投げつゝ
吹き
落ちる
北風がごつと
寒さを
煽つた。
勘次は
狹い
土間に
掻き
集めてあつた
落葉や
麁朶に
火を
點けた。
烟は
低い
檐を
偃つて、ぐる/\と
空間が
廻轉するやうに
見えつゝ
飛び
散る
忙しい
雪の
爲に
遁げ
行く
道を
妨げられたやうに
低く
彷徨うて
行く。おつぎは
外側に
置いた
手桶を
執つた。
北風の
吹きつける
雪は
一つの
手桶を
半分白くして
居た。おつぎは
低い
檐の
下を一
歩踏み
出したら、
北風は
待つて
居たといふやうに、
其の
亂れた
髮の
毛を
吹き
捲つて、
大粒な
雪が
爭つて
首筋へ
群り
落て
瞬間に
消えた。さうして
又衣物の
上に
輕く
軟かに
止つた。おつぎは
釣瓶の
竹竿が
北から
打つける
雪の
爲に
竪に
一條の
白い
線を
描きつゝあるのを
見た。ちら/\と
目を
昏すやうな
雪の
中に
樹木は
悉皆純白な
柱を
立て、
釣瓶の
縁は
白い
丸い
輪を
描いて
居る。おつぎは
竹竿へ
手を
掛けると
輕い
軟かな
雪はさらりと
轉けて
落ちた。おつぎは一
杯を
汲んでひよつと
顧つた
時後の
竹の
林が
強い
北風に
首筋を
壓しつけては
雪を
攫んでぱあつと
投げつけられながら
力の
限は
爭はうとして
苦悶いて
居るのを
見た。おつぎは
見るなと
吹きつける
北風を
當面に
受けて
呼吸がむつとつまるやうに
感じてふと
横手を
向いた。
少し
離れた

の
木の
下におつぎは
吸ひつけられたやうに
疑ひの
目を

つた。おつぎは
釣瓶を
放して
少し

の
木の
下に
近づいた。
「おとつゝあ」とおつぎは
底の
粘る
草履を
捨てゝ
激しく
呼んで
驅け
込んだ。
「
大變だよ、おとつゝあ」と
今度は
少し
聲を
殺すやうにして
勘次を
促した。
勘次は
怪訝な
鋭い
目を
以ておつぎを
見た。
「よう、おとつゝあ」おつぎの
節制を
失つた
慌しさが
勘次を
庭に
走らせた。
勘次は
戰慄した。

の
木の
下には
冷たい
卯平が
横たはつて
居たのである。
其大きな
體躯は
少し

の
木に
倚り
掛りながら、
胸から
脚部へ
斑に
雪を
浴びて
居た。
荒繩が
彼の
手を
轉けて
横に
體躯を
超えて
居た。
「
爺」とおつぎは
其の
耳に
口を
當てゝ
呶鳴つた。
冷たい
卯平はぐつたりと
俛首れた
儘である。
少し
傾げた
彼の
横頬に
糜爛した
火傷が
勘次を
悚然とさせた。
勘次は
夜荷車で
運んだ
後卯平を
見るのは
始めてゞあつた
「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」おつぎは
勘次を
叱つて、
卯平の
身體を
起しながら
白く
掛つた
雪を
手で
拂つた。
勘次は
怖づ/\
手を
藉した。
卯平の
力ない
身體は
漸く
二人の
手で
運ばれた。
勘次は
簀の
子の
上の
筵に
横へて、
喪心したやうに
惘然として
立つた。
彼は
復た
卯平の
糜爛した
火傷を
見た。
彼は
何を
思つたか
忙しく
雪を
蹴立てゝ、
桑畑の
間を
過ぎて
南の
家に
走つた。一
旦開けて
又そつと
閉した
表の
戸口から
突然に
「
起きめえか」と
彼は
激しく
呶鳴つた。
彼は
褞袍を
着て
竈の
前に
火を
焚いて
居る
女房を
見た。
「
何でえ」と
亭主の
驚いていふ
聲が
近く
聞えた。
勘次も
驚いて
上り
框の
蒲團から
首を
擡げた
亭主を
見た。
「
大變なこと
出來たよ、
俺ら
家の」と
勘次はこそつぱい
喉から
漸くそれだけを
吐き
出した。
「
來てくんねえか」と
彼は
簡單にさういつて、
思ひ
出したやうに
又雪を
蹴つて
走つた。
慌てた
彼は
閾も
跨なかつた。
南の
家の
亭主は
勘次の
容子を
見て
尋常でないことを
知つた。
然しながら
彼は
極めて
不判明な
事件に
赴くには、
直に
起る
多少の
懸念が
吹き
捲る
雪に
逆つて、
蓑も
笠も
持たずに
走つて
行く
程慌てさせる
譯には
行かなかつた。
彼は
土間に
轉がつた
下駄を
探した。
非常な
勢ひで
積らうとする
雪は、
庭から
庭を
繼ぐ
桑畑の
間に
下駄の
運びを
鈍くした。
彼が
勘次の
小屋を
覗いた
時は
低く
且狹い
入口を
自分の
身體が
塞いで
内を
薄闇くした。
外の
白い
雪を
見た
彼の
目が
暫く
昏んだ。
彼は
只勘次が
與吉を
叱る
聲を
耳の
傍で
聞いた。
勘次が
歸つた
時卯平は
横へた
儘であつた。
淺く
掛つて
居た
雪が
溶けて
卯平の
褞袍が
少し
濡れて
居た。
彼は
復た
糜爛した
火傷を
見ると
共に、
卯平の
懷へ
手を
入れて
居るおつぎを
見た。
「おとつゝあ、
暖えんだよ」おつぎはいつて
又
「
呼吸つえてんだよ」
他を
憚るものゝやうに
低く
聲を
殺していつた。
勘次は
勢ひづいた。
彼は
突然與吉を
起した。
蒲團を
捲つて
與吉の
腕を
引いた。
與吉は
例にない
苛酷な
扱ひに
驚いてまだ
眠い
目を

つた。
「
急えて、それ、
衣物」と
勘次は
只おろ/\して
居る
與吉を
叱りつけた。
「そんぢやまあよかつた。
何しても
蒲團へ
寢かせた
方がえゝな、
暖まりせえすりや
段々よくなつぺから」
南の
亭主は
數分時の
前から
二人を
衷心より
狼狽せしめた
事件の
簡單な
説明を
聞いた
時いつた。
「
衣物濡れたやうだな、
脱せたらよかつぺ、それに
酷く
汚れつちやつたな」
亭主はいつて
捲つた
蒲團へ
手を
當て
見た。
「
此ら
暖くつてえゝ
鹽梅だ、
冷させちやえかねえ」
彼は
掛蒲團をとつぷり
蓋した。
「さうだな
衣物は
焙る
間仕やうねえなそんぢや
褞袍でも
俺ら
家から
持つて
來つとえゝな、
此の
蒲團だけぢや
暖まれめえこら」
彼は
少し
權威を
有つた
態度でいつた。
狹い
小屋の
焚火は
消えて
居た。
怪訝な
容子をして
遠ざかつて
居た
與吉が
落葉を
足して
暫く
燻ぶらした。
「
汝また、それ、おつう
見てやれ」
勘次は
與吉に
注意の
言葉を
殘して
驅け
出して
行つた。
「
蒲團も
持てらば
持つて
來た
方がえゝな」
南の
亭主の
聲は
段々に
大粒に
成つて
飛んで
居る
雪の
亂れの
中に
消え
行く
勘次の
後から
追ひ
掛けた。
勘次は
二人を
加へて
勢ひづけられた
手を
敏活に
動かして、まだ
暖まつて
居る
蒲團へそつと
卯平を
横へた。
卯平の
冷たい
身體には、
落葉の
火でおつぎが
焙つた
褞袍と
夫から
餘計な
蒲團とが
蔽はれた。
卯平の
微かな
呼吸が
段々と
恢復して
來る。
勘次はどん/\と
落葉や
麁朶を
焚いた。
彼は
其の
時雪の
林に
燃料を
探すことの
困難なことを
顧慮する
遑さへ
有たなかつたのである。
午後になつて
此の
例年にない
雪も
歇んだ。
空が
左もがつかりしたやうにぼんやりした。おつぎが
騷いだ
心も
靜まつて
又水を
汲みに
出た
時、
釣瓶の
底は
重く
成つて
抑へた
鍵の
手から
外れようとして
居た。
後の
竹の
林はべつたりと
俛首れた。
冬のやうにさら/\と
潔い
落やうはしないで、
濕ひを
持つた
雪は
竹の
梢をぎつと
攫んで
放すまいとして
居る。
竹は
苦しい
呼吸をするやうに
小さな
枝が
一つづゝぴらり/\と
動いて
其の
壓迫から
遁れようと
力めつゝある。
北から
見れば
白い
柱であつた
樹木の
幹も
悉皆以前の
姿に
成らうとしてずん/\と
雪を
轉がした。
庭から
先の
桑畑は
唯一
杯に
白い。
地上數寸の
深さに
雪は
積つて
居た。
桑畑の
端の
方に
薹に
立つた
菜種の
少し
黄色く
膨れた
蕾は
聳然と
其雪から
伸び
上つて
居る。
其處らには
枯れた
蓬もぽつり/\と
白い
褥に
上體を
擡げた。
頬白か
何かゞ
菜種の
花や
枯蓬の
陰の
淺い
雪に
短い
臑を
立てゝ
見たいのか
桑の
枝をしなやかに
蹴つて
活溌に
飛びおりた。さうして
又枝に
移つた。
後の
田圃では、
水こけの
惡い
田には
降つてる
内から
雪は
溶けつゝあつたので、
畦畔が
殊更に
白い
線を
描いて
目に
立た。
其處にも
堀の
邊の
赤い
實の
錆びた
野茨の
枝に
堅に
成つたり
横に
成つたりして、ずん/\と
消え
行く
雪を
悦ぶやうに
頬白がちよん/\と
渡つた。
夕方には
田圃の
白い
線も
途切れ/\に
成つた。
何處の
梢も
白い
物を
止めないで
疲れたやうに
濡て
居た。
雪は
悉く
土に
落ついて
畢つた。
其落ついた
雪を
突き
扛げて
何處の
屋根でも
白い
大きな
塊のやうに
見えた。
枯木の
間には
殊更それが
明瞭と
目に
立つた。
黄昏の
煙が
蒼く
割れた
空へ
吸はれて
靜かな
日は
暮れた。
卯平はすや/\と
呼吸を
恢復した
儘で
口は
利かない。ぴしや/\と
飛沫の
泥を
蹴りつゝ
粟幹の
檐からも
雪の
解けて
滴る
勢ひのいゝ
雨垂が
止まないで
夜に
成つた。
其の
夜南の
女房は
蒲團を二
枚肩に
掛けて
持つて
來た。
一つには
義理が
濟まぬといふので
卯平の
容子を
見に
來たのである。
其れは二
度目であつた。
手ランプもない
闇い
小屋の
内に
暫く
語つて
女房が
去つた
後、
與吉は
卯平の
裾へ
潜らせた。おつぎは
其の一
枚の
蒲團を
掛けて
卯平に
添うて
身を
横たへた。
勘次は
土間へ
筵を
敷いて
他の一
枚の
蒲團を
被つてくる/\と
身を
屈めた。
彼は
足を
伸ばした
儘上體を
擡げて一
度闇い
床の
上を
見た。ぴしや/\と
落ちる
涓滴が
暫く
彼の
耳の
底を
打つた。
次の
日は
朝からきら/\と
照つた。
暖かい
日光は
勘次の
土間まで
偃つた。
地上は
凡て
軟かな
熱度を
以て
蒸された。
物陰に一
夜保つてゆつくりした
雪が
慌てゝ
溶けた。
土がしつとりとして
落ちつけられた。
卯平は
目を
開いた。
彼は
不審相にあたりを
見た。
執念く
土にひつゝいて
居た
冬が、
蒸されるやうな
暖かさに
居たゝまらなく
成つて
倉皇と
遁げ
去つた
後へ一
遍に
來た
春の
光の
中に
彼は
意識を
恢復した。
彼は
寒さが
骨に
徹する
其の
夜のことを
明瞭に
頭に
泛べて
判斷するのには
氣候の
變化が
餘りに
急激であつた。
彼は
其の
間人事不省の
幾時間を
經過した。
彼は
與吉の
無意識な
告口から
酷く
悲しく
果敢なくなつて
後で
獨で
泣いた。
憤怒の
情を
燃すのには
彼は
餘に
彼れて
居た。
然し
自分でも
其の
時、
自分の
身に
變事の
起らうとすることは
毫も
豫期して
居なかつた。
彼は
圍爐裏の
側で、
夜の
寧ろ
冷い
火にあたりながらふと
氣が
變つてついと
庭へ
出た。
彼は
何かゞ
足に
纏つたのを
知つた。
手に
取つて
見たらそれは
荒繩であつた。
彼はそれからどうしたのか
明瞭に
描いて
見ようとするには
頭腦が
餘りにぼんやりと
疲れて
居た。
彼は
勘次の
庭に
立つた。
彼は
荒繩が
手に
在つたことを
心づいた
時、

の
木の
低い
枝にそれを
引掛けようとして
投げた。
彼の
不自由な
手は
暗夜に
其の
目的を
遂げさせなかつた。
彼は
幾度投げても
徒勞であつた。
身を
切るやうな
北風が
田圃を
渡つて、それを
隔てようとする
後の
林をごうつと
壓へては
吹き
落ちて、
彼の
手の
運動を
全く
鈍くして
畢つた。
軈て
後の
林の
梢から
斜に
雪が
吹きおろして
來た。
卯平は
少時躊躇して

の
木の
根に
其の
疲れた
身を
倚せた。
暫くして
彼は
雪が
冷たく
自分の
懷に
溶て
不愉快に
流れるのを
知つた。
彼はそれから
身體が
固まるやうに
思ひながら、
疎い
白髮の
梳られるのをも、
微に
感覺を
有した。

の
聲が
耳に
遠く
聞えて
消滅するのを
知つた。
彼は
遂にうと/\と
成つて
畢つた。
更に
數十
分間其の
儘に
忘られて
居たならば
彼は
其の
時自分が
欲したやうに
冷たい
骸から
蘇生らなかつたかも
知れなかつた。
勘次の
冴えた
目が
隙間から
射す
白い
雪の
光に
欺かれておつぎを
水汲みに
出した。さうして
卯平は
救はれたのである。
「
爺どうした、
心持惡かねえか、はあ」とおつぎは
卯平が
周圍を
見た
時耳へ
口を
當てゝいつた。
「
動かねえでろ
爺、
喰べてえ
物でもねえか」おつぎは
復た
軟かにいつた。
卯平は
只點頭いた。
「おとつゝあ、そんでもちつた
確乎してか」
勘次は
其の
尾に
跟いて
聞いた。ほつと
息をついたやうな
容子は
勘次の
衷心からの
悦びであつた。
「おとつゝあ、
火傷は
痛えけまあだ」
勘次は
直に
後の
言辭を
續けた。
「
枕はおつゝけらんねえな」
卯平は
軟かな
目を
蹙めるやうにした。
勘次はふいと
駈け
出して
暫く
經つて
歸つて
來た
時には
手に
白い
曝木綿の
古新聞紙の
切端に
包んだのを
持つて
居た。
彼はそれを四つに
裂いて、
醫者がしたやうに
白い
練藥を
腿の
上でガーゼへ
塗つて、
卯平の
横頬へ
貼つた
曝木綿でぐる/\と
卷いた。
彼は
與吉にさへ
白い
藥を
惜しんで
醫者から
貰つた
儘藏つて
置いたのであつた。
卯平は
凝然として
勘次の
爲る
儘に
任せた。
不器用な
少し
動けば
轉け
相な
繃帶であつたが
夫でも
勘次の
目には
心丈夫であつた。
彼は
自分の
恐怖を
誘うた
瘡痍が
白い
快よい
布を
以て
掩ひ
隱されたのと、
自分の
爲べき
仕事を
果し
得たやうに
感ぜられるのとで
心が
俄に
輕くすが/\しくなつた。
卯平もどうなることか
確とは
分らぬながら
心の
内では
悦んだ。
勘次は
又何處へか
出た。
彼は
只心がそは/\として
容易くは
落つかなかつた。
軟かな
春の
光は
情を
含んだ
目を
瞬きしながら
彼の
狹い
小屋をこまやかに
萱や
篠の
隙間から
覗いて
卯平の
裾にも
偃つた。
卯平は
暫く
目を
瞑つた
儘で
居たが
復たぱつちりと
目を
開いた。
側にはおつぎが
坐つて
居た。
「おつう」と
卯平は
低い
聲で
喚んだ。
「
何でえ」おつぎは
又耳へ
口を
當てた。
卯平は
右の
手を
出して
蒲團の
上へ
伸して
「
熱ぼつてえから一
枚とつてくんねえか」
力ない
縋るやうな
聲でいつた。
「
本當に
暖く
成つたんだよなあ
日輪まで
酷く
眩ぽくなつたやうなんだよ」おつぎは
例の
少し
甘えるやうな
口吻で一
枚の
掛蒲團をとつた。
「
此の
蒲團は
板ツ
端見てえなんだよなあ、
此れとつた
方が
爺は
輕く
成つてよかつぺなほんに、さう
云つても
暖くなるつちやえゝもんだよ、
俺ら
作日等見てえぢやどうすべと
思つたつきや」おつぎは
掛蒲團を
四つにして
卯平の
裾へ
置いた。
「
彼岸過ぎて
斯うだことつちや
俺ら
覺えてからだつで
滅多にやねえこつたから
此れから
暖く
成るばかしだな、
麥も
一日毎に
腰引つ
立たな」
卯平は
稍快よげにいつた。
「
俺ら
家の
麥は
今ん
處ぢや
村落でも
惡かねえんだぞ、
俺らそんだが
先の
頃ら
畑耕あな
厭だつけな
本當に、おとつゝあにや
深く
耕へ、
深く
耕あねえぢや
肥料したつて
役にや
立たねえからなんて
怒られてなあ」
「うむ、
畑や
深くなくつちや
收穫んねえものよそら、
俺らあ
壯の
頃にや
此間のやうに
淺く
耕あもんだた
思あねえのがんだから、
現在ぢやはあ、
悉皆利口んなつてつから
俺らがにや
分んねえが」
「
深く
耕つちや
逆旋毛立てる
見てえで
行りつけねえぢやなんぼ
大儀えかよなあ、そんだが
俺ら
今ぢや、
汝の
方が
俺れより
深えつ
位だなんておとつゝあにや
云はれんのよ」
「
大儀えにもよそら、そんでも
汝りや
能くやんな、
以前は
女に三
年作らせちや
畑は
出來なくなるつちつた
位だ」
「そつから
俺ら
幾らも
耕えねえんだよ
此の
頃らそんでもさうだに
大儀えた
思はなくなつたがな
俺らも」おつぎがいふのを
卯平は
又軟かに
目を
蹙めるやうにして
聞きながら、
輕く
成つた
掛蒲團を
足の
先で
裾の
方へこかして
少し
身動きをした。おつぎは
其の
時ちらと
出した
卯平の
手を
始めて
氣がついたやうに
「
爺は
手も
痛くしてんだつけな、そんぢや
先刻藥貼つて
貰あとこだつけな」おつぎは
卯平の
手先を
手にして
見た。
「こつちはそれ
程だひどかねえやそんでもなあ」おつぎは
安心したやうにそつと
手を
放した。
勘次は
忙しげな
容子をして
歸つた。
彼は
蒲團を二三
枚疊んだ
儘帶で
脊負つて
來た。
「どうしてえおとつゝあ、
昨夜はそんでも
寒かなかつたつけゝえ」
彼は
荷物を
卯平の
裾の
方へ
卸して
胸で
結んだ
帶を
解きながらいつた。
「
熱ぼつてえつて
今蒲團一
枚とつた
處なんだよ」おつぎは
横合からいつた。
「うむ、さうだ、
此の
蒲團は
返さなくつちやなんねえから」
勘次は
獨語して
「どうしたおとつゝあ、
藥貼つてちつたよかねえけ」
彼は
復白い
曝木綿を
見ていつた。
「うむ、
枕おつゝかるやうに
成つたからえゝこたえゝに」
卯平のいふのを
聞て
勘次は
幾らか
矜を
以て
又白い
木綿を
見た。
「おとつゝあ、
喫べてえ
物でもねえけえ、
俺ら
明日川向さ
行つて
來べと
思ふんだ」
勘次はまだ
幾らか
心に
蟠りがあるといふよりも、こそつぱい
處が
取れ
切らないやうで
然も
力めて
機嫌をとるやうな
容子であつた。
「うむ」と
卯平はいつて
唾をぐつと
嚥んだ。
「
格別はあ、
喫べてえつち
物もねえが」
彼の
目には
又改めて
軟かな
光を
有つた。
「そんぢやおとつゝあ
水飴でも
買つて
來てやつたらよかつぺな、
與吉げ
隱して
置けば
何でも
有んめえな」おつぎは
更に
卯平を
顧みて
「なあ
爺、
其の
方がよかつぺ」といひ
掛けた。
卯平は
其の
蹙めるやうな
目で
微かに
點頭いた。
「おとつゝあ、どうせ
茶漬茶碗も
要つから
茶碗買つてそれさ
水飴入えて
繩で
縛つて
來う、さうすつとえゝや」
「さうでも
何でもすびやな」
「それに、
明日行つたら
又藥貰つて
來う、
爺が
手さも
貼つてやんなくつちや
仕やうねえぞ」
「
俺ら
云はんねえでも
藥は
氣ついてたのよ」
勘次はおつぎのいふのを
迎へて
聞いた。
彼の三
尺帶には
其の
時もぎつと
括つた
塊があつた。
其財布の
僅な
蓄へは
此數日間にどれ
程彼を
救つたか
知れなかつた。
彼はまだ
幾らかの
日用品を
求める
餘力を
有して
居た。
彼は
開墾の
賃錢を
手にすることが
出來ればといふ
望みが十
分にあつた。
只彼は
目下其の
幾部分でも
要求することが、
自分の
火が
燒いた
其の
主人の
家に
對して
迚も
口にするだけの
勇氣が
起されなかつたのである。
勘次は
午餐過になつて
復た
外に
出た。
紛糾かつた
心を
持つて
彼は
少し
俛首れつつ
歩いた。
暖かな
光は
畑の
土の
處々さらりと
乾かし
始めた。
殊更がつかりしたやうにしをたれた
櫟の
枯葉もからからに
成つた。
凡ての
樹木は
勢づいて
居た。
村落の
處々にはまだ
少し
舌を
出し
掛けたやうな
白い
辛夷が、
俄にぽつと
開いて
蒼い
空にほか/\と
泛んで
竹の
梢を
拔け
出して
居た。
只蒿雀は
冬も
春も
辨へぬやうに、
暖かい
日南から
隱氣な
竹の
林を
求めて
低い
小枝を
渡つて
下手な
鳴きやうをして、さうして
猶且日南へ
出て
土をぴよん/\と
跳ねた。
凡ての
心は
暖かな
光の
中に
融けて
畢はねばならなかつた。
勘次は
依然として
俛首れた
儘遂に
隣の
主人の
門を
潜つた。
燒趾は
礎を
止めて
清潔に
掻き
拂はれてあつた。
中央の
大きかつた
建物を
失つて
庭は
喬木に
圍まれて
居る。
赭く
燒けた
杉の
木を
控へてからりとした
庭は、
赤土の
斷崖の
底に
沈んだやうに
見える。
蒼い
空を
限つて
立つた
喬木の
梢が
更に
高く
感ぜられた。
勘次は
怕ろしい
異常な
感じに
壓せられた。
隣の
主人の
家族は
長屋門の一
部に
疊を
敷いて
假の
住居を
形づくつて
居た。
主人夫婦は
勘次の
目からは
有繋に
災厄の
後の
亂れた
容子が
少しも
發見されなかつた。
主人夫婦の
曇らぬ
顏が
只管恐怖に
囚へられた
勘次の
首を
擡げしめた。
殊に
内儀さんの
迎へて
聞く
態度が、
彼のいひたかつた
幾部分を
漸くに
打ち
明けしめた。
「お
内儀さん、こら
運の
惡い
者な
仕やうありあんせんね」
彼は
憐れに
聲を
投げ
掛けた。
彼の
災厄の
後にしみ/″\と
斯ういふことを
聞いてくれる
者は
内儀さんの
外にはまだなかつたのである。
「そんだが
此れお
内儀さん
等家からなんぞ
見た
日にや
爪の
垢だからわし
等なんざ
辛えも
悲しいもねえ
噺なんだが」
彼は
自分の
不運を
訴へるのに、
自分一
身のことより
外は
何物も
其の
心に
往來しては
居なかつた。
彼はふと
自分の
火が
燒いたことを
思つた
時、
酷く
自分のことのみをいつて
畢つたのが
濟まないやうな
心持がしてならなかつた。
「まあ
惜しいといへば
紙一
枚でも
何だが、これ、
家は
直ぐにも
建てれば
建つんだが、
樹が
惜しいことをしたつて
云つてるのさ、それだが
此れもそんなことを
云つたつて
仕方がないがね」
内儀さんは
聳然と
立ては
居るが
到底枯死すべき
運命を
持つて
居る
喬木の
數本を
端近に
見上ていつた。
遠く
落ち
掛けた
日が
劃然と
其の
梢に
光つた。
勘次の
顏は
蒼くなつてぐつたりと
頭を
垂れた。
彼は
暫く
沈默を
保つた。
「どうしたね、
私も
氣のつかないことをして
居たが、お
前も
丸燒で
仕やうあるまいが
少しは
錢でも
持つて
行くかね」
内儀さんは
勘次の
心を
推察したやうにいつた。
「へえ」
勘次の
首は
更に
俛れた。
彼の
目は
潤んだ。
「わしもはあ、そんならなんぼ
助るかも
知れあんせんが、お
内儀さん
處ささう
云つて
來る
譯にも
行がねえで」と
勘次は
亂れた
頭髮へ
手を
當てゝ
媚びるやうな
容子をしていつた。
「それだがお
前にやる
位ならどうにか
成るから
心配しなくつても
好いよ」
「わしも
此れ、
罰當つたんでがせう、さう
思ふより
外有りあんせんから」
勘次は
暫く
間を
措いて
「わしも
嚊こと
因果見せて
罪作つたの
惡りいんでがせう」
彼の
聲は
沈んだ。
「お
内儀さん、わしどんな
形にか
家も
建てなくつちやなんねえから、そん
時や
家族の
極りもつけべと
思つてんですが、お
内儀さん
又わしこと
面倒見ておくんなせえ、わし
等野郎も
其内はあ
大く
成つて
來つから
學校もあとちつとにして
百姓みつしら
仕込むべと
思つてんでがすがね」
「さうかえ」
内儀さんは
慰めるやうにいつた。
「お
内儀さん
親不孝だなんちな、
親が
警察へでも
願つて
出なけりや
巡査ばかしぢやどうすることも
出來ねえもんでござんせうかね」
勘次は
先刻からの
噺の
内にも
何だか
後から
物に
襲はれるやうな
容子が
止まなかつたが
遂に
斯ういつた。
「さうさね、
巡査だつて
無闇にどうかするといふこともないんだらうと
思ふやうだがね」
内儀さんは
意外な
面持でいつた。
「
此れからはあ、わしも
爺樣こと
面倒見べと
思ふんでがすがね、
今ツからでもお
内儀さん
間合ねえこたありあんすめえね」
「さうだよ、
老人なんていふものは
少しの
加減なんだから、まあ
心配させないやうにした
方が
好いよ、さういつちや
何だが
後幾らも
生きるんぢやなしねえ」
「へえさうでがすよ、
昨日等ツからちつと
柔え
言辭掛けつとうるしがつて
居んですから、それからわし
野郎げ
貰つて
來た
火傷の
藥も
貼つてやつたんでさ、
藥足んなく
成つちやつたから
醫者樣さ
行つて
來べと
思つたつけが、
今日は
午後で
居めえと
思ふから
明日にすべと
思つて
止めたのせ、
明日行つたら
水飴でも
買つて
來てやれなんておつうも
云ふもんでがすからね」
「
火傷したなんて
聞いたつけがそれでも
家へ
連れて
來てかね」
「へえ」
勘次は
其の
佛曉のことをどうしてか
内儀さんがまだ
知らぬらしいのでほつと
息をついたが
又自分から
恥ぢて、
簡單に
瞹昧に
斯ういつた。
「お
内儀さん、こうちつとでもよくねえ
錢へえつちや
末始終はどうしてもえゝこたありあんすめえね」
勘次は
更にまた
酷く
懸念らしい
容子をして
突然に
聞いた。
「さうさねえ」
内儀さんは
勘次の
心持が
明瞭とは
分らないので
氣の
乘らぬやうにいつた。
「そんだがお
内儀さんさうえ
錢は
自分のげ
役に
立てせえしなけりやどうしても
違えあんすべえね」
勘次は
内儀さんに
分つても
分らなくても、そんなことを
考へる
餘裕がなかつた。
彼は
只自分の
心配だけを
底から
蓋から
打ち
傾けて
畢はねば
堪へられなかつたのである。
「さうだが、それもどういふ
筋の
錢だか
分らないがそりや
使つちやいかないんだらうさね」
「そんぢやお
内儀さん
他人の
錢なくしたのなんぞ
發見けても
知らねえ
容子なんぞして、
後で
遣んな
盜つた
見てえで
變な
時や、
何でかで
落ことした
丈の
物でもやればそれでも
違えあんすべね」
勘次は
少し
自分のいふことの
内容を
打ち
明けるやうにいつた。
「
默つて
居ればそれつ
切なんだが」
彼は
獨喉の
底でいつた。
「そりやそんなことしないで
發見けた
物なら
其儘返すのが
本當だよ」
内儀さんは
聲は
低かつたがきつぱりいつた。
勘次の
惑うた
心の
底にはそれがびりゝと
強く
響いた。
「そんぢやお
内儀さんそれ
返して
又其の
外にも
何とかしたら
冥利の
惡りいやうなことも
有りあんすめえな」
彼は
情なげな
目で
内儀さんをちらりと
見ていつた。
「そんなこた
仕なくつたつて
何もよかりさうなもんだね」
内儀さんは
勘次の
餘りに
懸念らしい
容子に
疾から
心づいたことがあつた。
内儀さんは
暫く
聞かなかつた
彼の
盜癖に
思ひ
至つた。
然し
彼が
自分から
甚だしく
悔いつゝあるらしいのを
心に
確めて
強ひては
追求しようといふ
念慮も
起し
得なかつた。
勘次は
只不便に
見えた。
内儀さんはふと
思ひ
出して
少しばかりの
銀貨を
勘次の
側へ
竝べて
「そりやさうと、お
前も
家族の
極りをつける
積だつていふんだが、まあどうする
積なんだね」と
靜に
聞いた。
「さうでござんすね」
勘次はぐつたりと
俛首れて
言辭の
尻が
聞きとれぬ
程であつた。
深い
憂が
顏面の
皺に
強く
刻んだ。
「わしも
此れ……」と
彼は
微かにいつたのみで
沈默を
續けた。
彼は
内儀さんの
前にどうしても
述なければならないことに
其心が
惑亂した。
彼はぽうつとして
目が
昏まうとした。
遠く
喚ぶやうで
然も
近い
聲の
爲に
彼が
我に
返つた
時
「それぢやお
前、まあ
此錢を
藏つたらどうだね」と
内儀さんが
促したのであつた。
衷心から
困つたやうな
彼に
向つて
内儀さんはもう
追求する
力を
有なかつた。
「
誠にどうもお
内儀さん」
彼は
財布を
帶から
解いて
出した
時酷く
減つて
畢つたやうに
感じて、
其の
財布を
外から
一寸見て
首を
傾けた。
彼は
又財布の
底の
錢を
攫み
出して
見た。
燒趾の
灰から
出て
青銅のやうに
變つた
銅貨はぽつ/\と
燒けた
皮を
殘して
鮮かな
地質が
剥けて
居た。
彼はそれを
目に
近づけて
暫く
凝然と
見入つた。
彼は
心づいた
時俄に
怖れたやうに
内儀さんを
顧つてじやらりと
其の
錢を
財布の
底へ
落した。(完)