記憶のまゝ

長塚節




 故人には逸話が多かつた。數年間交際を繼續して居た人々は誰でも他の人には知られない、單に自分との間にのみ起つた或事實の二つや三つは持つて居ないことは無いであらう。それが大抵は語れば一座が皆どつと笑ひこけるやうなことのみに屬して居るらしい。一體故人の生涯は恐ろしい矛盾の生涯であつた。矛盾といふことは人生の常態であるにしても故人のは殊に甚だしいのである。あの何事にも理窟が立つて時としては其弊に墮する程滔々として自己の意見と[#「意見と」はママ]發表し、往々にして對手を感服させるといふよりも寧ろ威壓して畢ふといふ程の力を有して居たにも拘らず、其相貌の何處といふことなしに滑稽な分子を含んで居て、聰明な後進の人々からは何時でも竊に微笑を浴せ掛けられて居たらうと思はれるのである。それが非常に度の強い眼鏡を二つも掛けなければ能く見ることが出來ない程の近視眼から遂に物事に間が拔けて勢ひ滑稽の分子が附纒うたに相違ない。
 日本新聞で第四回目かの短歌の募集があつた時、故人と格堂君と自分と三人が根岸庵に會合して正岡先生の下見をして置いた應募歌の中から先生の入選に成つたものを格堂君が書き拔いて、其一つ/\に就いて各自に異存があれば苦情を持ち出すことにして、牀上の先生も成るべく數の少くなる方がいゝからどん/\減りますよ抔と、唯さへ小さく成つて居た自分を笑ひながら揶揄はれたことである。其頃は自分の製作の善惡などは問題ではなく唯一つでも餘計に選ばれて晴の紙面に印刷されるのを無上の手柄でもした樣に喜んで居た罪のないあどけない然しながら誠實な時代であつた。當時相當の年齡に達して居て、實社會に立つても堂々たる一家の主人であつた故人の如きも全くそれであつた。格堂君が日光山の觀楓をして一時に數十首を日本紙上に飾つた時、矢も楯も堪らなくて結城素明君を唆かして中禪寺の湖水に舟を浮べて恐しい長篇の長歌を作つた。それが日曜附録か何かに結城君の插繪があつて掲載になつた。唯それ丈では何でもないが後年自分が根岸庵で先生の手づから此の反古の中で欲しいものが有つたら選り出して持つて行けといはれた籠の中に知人の手紙類も幾通かあつて、ふと目についたのは故人が彼の中禪寺湖の長篇に就て哀願愁訴した長い手紙であつた。最初餘り先生の氣に入らなかつたものと見えて手紙の文句によると、此の一篇が沒書にならうものならば自分はどうしても格堂に合せる顏がない。だから惡い箇所があればどうか指示して貰ひたい。幾十百回の改竄も決して苦いとは思はないといふ意味のことが熱誠を込めて書いてあつた。先生も此には困つたであつたらう。だから紙面も立派に印刷された時の作者の滿足はどんなであつたらうか。僕の長歌一篇は君の短歌百首に匹敵すると格堂君へ手紙で自慢して遣つたと自分に語つたのは其當時であつたと記憶して居る。格堂君が苦笑したのを自分は見ないけれども其事を思ひ出すと今でも眼の前に在るやうな氣がする。其苦笑にはどういふ意味があつたか此を忖度して明言する事は出來ない。だが當時の同人殊に故人はさういふ熱心な態度で作歌に努力して居た。眞實の努力といふことは故人五十年の生涯を通じて其當時が第一であつたであらう。熱心といふのは一面に於ては功名心の發現であつた。だから自己の製作を發表して貰はうと切望して居る一方に他人の成功に對しては恐ろしい羨望の眼を以て見て居た。日本新聞の附録週報に課題募集が毎號繼續した。短歌も俳句も同題で根岸の先生も衰弱を極めて來た頃なのでなか/\の嚴選であつた。容易なことでは通過しなかつた。隨つてそんな處へ無駄骨折らうと甘んじて取つて掛るものが段々減少して、毎號必ず缺すまいと齒噛みをするものは故人と麓と蕨と自分位なものに成つて畢つた。さういふ時に故人は四回も續いて入選したことがある。其位のことだから一時に二人も三人も名を連ねるやうなことは滅多にあるものぢやない。だから作者としての故人の得意は素晴らしいものである。處がどうした機會か自分は其後六回も續いて入選した。勿論故人は旗色が殊の外惡いのである。さうすると根岸庵の席上で君はもう五度續けて出るのかと聞いた。六回だといふと安からぬ容子である。其頃は大抵自分は故人と一緒に根岸へは行つたものである。其後一人で根岸へ行つた時、先生は段々の噺の後に、君あゝいふことをいふのだからなと單にそれ丈語つた。自分は唯默つて首肯いた。
 だが故人のかういふ功名心もあの強い押へることの出來ない樣な我執を不思議に沒却して居た根岸庵の時代に於ては寧ろ愛すべき美點となつてのみ現はれて居たやうである。生涯決してまだ大家と呼ばれる人々の門に膝を屈したことはないと壯語しつゝあつた故人が心底から服從した根岸の先生に對しては我執を沒却し得たのは當然のことである。然し只美しかつた此の時代は僅に明治卅三年から卅五年の秋まで滿三ヶ年には足らなかつたのである。根岸庵時代の寧ろ愛すべき敬すべき無邪氣な小さな功名心は後に至つては甚だ憂ふべき現象を呈したやうである。其終始附纒つた功名心は實質が餘りに小さかつた。だから聰明な若い者には觀破され易い。さうして默つてこそ居るが冷笑の目を以て見られ易い。名古屋から出た雜誌鵜川の編輯者が故人の原稿を求めた際のこと、印刷が成つてから組入れの場所が惡いとかで、僕の短歌數首は他の人々の手に成つた文章の數頁に相當する。だから餘り虐待しては困るといふ故人の手紙を受取つて惘然としたと語つたことがある。正岡先生沒して二三年に或るか成らぬでもう強ひて人に求めるやうに成つた。自信力の強いのは其長所であつたに相違ないが、見え透いた、餘りに小さな功名心は尠なからず個人として禍する處が有つたであらう。そこが如何にも遺憾の次第である。
 故人は一見したばかりで威壓され相なあの偉大な體格を有して居たと同時に恐ろしい蠻勇を有して居た。敵としたら薄氣味惡い樣な容子をして居た。そして其顏面には何處にも寛容の樣子を發見し得ない。眼を一つ放して見ると小さい。鼻を一つ放して見ると小さい。廣い意味に於て藝術家として此等の條件は一切累することはないが、何處までも一派の牛耳を執つて行かうとするには資格が足らなく成る。古來多衆の上に立つて世と押移つて行く人に智識の秀でゝ居ない者はない。何處までも矛盾して生れ來た故人は一方に學問して來た人の考へ及ばぬ處を平氣で解釋して居る豪い驚くべき長所を有して居ると共に誰にも解ることが解らぬ樣な遲鈍な處がある。偶々學問のある若い者が訪ねて來て色々な噺をすると一々尤な噺だから尤に聞くのも當然だが、直ぐにぐたりと柔かに成つて畢ふ傾がある。根蒂が動搖するから非常に強くて非常に弱くなる。冷靜な眼で傍見すると不安に堪へないことが多い。其處が固陋な分子を有して居たに拘らず何時でも非常に若くて居た所以であるかも知れない。噺はふとしたことから岐路に入つて畢つたが、最初に戻つて根岸庵の席上で募集歌の選のあつた時に玄關は北向で所謂鶯横町の東京には珍らしい程鄙びたよく中村不折畫伯の筆に上つた樹木のすく/\と立ち並んだ下蔭であつたが、ふと反對の庭の南の隅の木戸を開けて小さな風呂敷包を手にした夫人が斜に庭を這入つて來た。南受の縁側から上つて、先生の寢間の六疊に隣した八疊の間の閾に近く庭を後にして坐つた。格堂君は南向に机に倚つて自分も其近くに居たと思つた。故人は二間を界して居る襖際に玄關の方へ向いて居た。病人の先生は自分が知つてからは何時でも北枕で居た。一座は皆夫人の挨拶につれて會釋した。先生の母堂も出て挨拶の交換が有つた。夫人と故人とは僅に相去ること一間に過ぎなかつたのである。暫く經つてから故人は思ひ出した樣に、あゝ何だ僕の……と一寸極りの惡相な容子をした。其日は牛のお産があつたが何だか難産に成り相だといふので其頃は老いても達者であつた母堂が案じて騷いで仕方がないから取敢へず車を馳せて來たのだといふ。故人は僅に一間離れてるか離れない傍に坐つた細君を全く他人と思つて居たらしかつた。だからあの體格として自然に崩れ易い居ずまひを直したり會釋の仕方が殊に丁寧であつた。先生の母堂と夫人とが談話を交換したについて始めて氣がついたらしい。さうして倉皇として其席を辭し去つた。此罪のない間の拔けた事實は各自に自然に起る笑を禁じ得なかつた。然しかういふ喜劇は其性格から來る點もあつたが大部分は極度の近眼が原因であつた。此は其後のことゝばかりで年度の記憶はないが、故人と二人連れ立つて向島の百花園あたりへ行つた時のことである。どつちも歩くのが平氣な同志であつたから本所から押通しに新設の工場の並んだあたりの田甫の道を曵舟通へ横ぎつた。其歸路に餘り遠くはない筈だといつて、田甫の道から少しはひつて服部躬治氏を訪問した。故人はあの太い逞しい腕の力でがらりと表の格子を開ける。暫時にして障子があく。出て來たのは服部氏自身で何か書いて居た處と見えて墨の含んだ筆を手に持つた儘である。故人は首だけを格子戸の内に突込んで、單に伊藤といつた丈で雙方とも何ともいはぬ。服部氏も近眼である。さうして自分が側に見て居ると氏は眼鏡を時々きらりと光らせながら異樣と見た來客を上から下へと見上げ見おろして居た。純粹な田舍漢の自分と連れ立つて歩くのに故人は勿論尻をからげてゐた。自分は服部氏の庭に立つ時分尻をおろしたがそんなことには極端に無頓着な故人はぎつしり尻を捩上げた儘である。一體故人は最初に根岸庵の席上で逢つた當時から自分の眼には爺さんらしく見えて居た。それで居ながら其時の年齡を調べて見ると今の自分と殆んど相違がないのである。服部氏も大きな田舍臭い親爺が不作法に突立つて首だけ出して居るのだから少々意外であつたらしい。凡そ東京に永く生活して居て藝術界にも名を知られて居ながらあの位野暮な容子をした人は少いであらう。兎に角主客が玄關で睨み競べをして居る譯なのだから、見るに見兼ねた自分は、伊藤左千夫君ですといふと安心したと見えて直ぐ上れといふことに成つた。君服部君だぜといふと故人も、はゝあさうかと急に打ち解けることに成つた。主客は其前一度逢つたことがある。築地の水交社に國風家懇親會の催しがあつた。夜に入つて人は段々に散ずる。其時數杯の麥酒に勢をつけた服部氏が坂正臣氏を捕へて萬葉集中の一首に就いてまくしかけ/\大分氣焔を吐いて居た。坂氏は何處までも下手に出て服部氏の説を聽いて居る。自分は奇異の感を懷きながら傍見した。さうして坂氏の悧巧な如才ない態度を見て世を容易に渡るにはあゝでなければ成らぬものかと思つた。坂氏が辭し去つてからストーブを擁して服部氏と故人とは相對した。服部氏は著書を故人に贈る。故人は君新年に成つたらお互に堂々と論戰しようぢやないかと挑む。坂氏の態度とは雲泥の相違である。其特有の蠻勇が首を擡げたのである。十二月の幾日であつたかの其夜は再び服部氏の氣焔を聞くことなしに歸路に就いた。其會で逢ふ前に故人は雜誌上夥夥か服部氏を攻撃しつゝあつたのである。さういふ間柄でありながら玄關で睨み合ふ程互の記憶がなかつたのも近眼の所爲であつた。其日は難かしい噺は勿論出なかつた。さうして恐らく服部氏は故人の意外に好々爺であつたに驚いたであらう。本所へ戻りながら故人は自分に對して、能く君は覺えて居たなと云つた。一度見た人を其家へ訪ねて見れば解るのが當然であるのに故人に於ては難事であつたのだ。だから恐ろしく些細なことにも心底から感服することがある。或時電話をかける必要があつて故人の近所のを借りて貰つた。其際のこと君は能く電話がかけられる僕がやつてはどうしても出ないといつて不思議がつて居る。察する處受話器を耳へ當てた儘只鈴を鳴らして見てそれつ切り再び手をつけて見ないのであらう。忙しい交換手の小さな聲がはつきり耳の底に響く程不馴な故人は鋭敏ではなかつたのである。其位だから何か聞き噛つたことを噺しても直ぐにはあゝ君はなか/\物知だなといふのが常であつた。其時丈はあの我執の強い人に心持よい程一點の邪氣も認められなかつた。それから尚あの悠長な人間が時として恐ろしく狼狽する。其態度は又格別であつた。
 明治卅八年の初夏に自分は房州の清澄山からの歸りに故人を案内して、下總神崎の寺田君を訪問した。本所の家は停車場の直ぐ脇である。汽車の時間も極つたので少し早かつたが晝飯をくつて行かうとそれまでの用意は非常によかつた。さうするとふと臺所へ行つた儘幾ら待つても來ない。一列車後れると成田で空しく數時間待たねば成らぬ。自分は氣が氣でなかつたが仕方がない。其内にあたふたとして出て來て羽織の紐の鐶が容易に篏らないで暇どつてゐる。停車場の東口へついた時列車はごろ/\と動き出して畢つた。それから二人は龜戸まで歩いて暫く待つて汽車に乘つた。果して成田の薄暗い停車場の待合に不愉快な幾時間を過さねば成らなくなつた。見ると交々手を兩方の袂へ入れて何か探して居る容子である。さういふ時はぐつと首を垂れてさも困つたといふ樣に見える。どうしたのかと聞いて見ると眼鏡を忘れて來て畢つたといふ。寺田君へは始めてで其上に自分から兼々噺をした珍襲の畫幅を見に行くのである。さうして眼鏡が二つなければ細かい物を見ても仕方がないのは極り切つたことなのである。それだから只困つてゐる。自分はふとすると不動尊の庭先に希望の眼鏡があると心附いたので走つた。其爲に二三日寺田君の歡待を受けて滿足して歸ることが出來た。然しながら時間の觀念の確ではない人を案内した爲に一日寺田君を待ち暮させて薄暮に漸く辿り着いたのである。斯の如くにして家人を狼狽させることは自分は蛇蝎の如く嫌である。だからもう一緒に道行は難かしいと考へた。
 四五年前のことゝ記憶するが胡桃澤勘内君が松本から上京された際自分も折よく故人の宅で同君及び他の同人諸君と會合が出來た。其時例のそゝくさとする癖の故人は夥か疊に灰を零した。目に喰ひ込んだ灰が容易に除き去られるものではない。鹽を持つて來てそろ/\叩けば皆灰がくるまつて畢ふといふ噺をすると狼狽てゝ臺所へ驅けて行く。鹽を手に攫んで來た時自分は胡桃澤君を顧みて、默つて居ると必ずあの鹽をどさりと疊へ投げ出すがといふと果して其通りである。胡桃澤君は微笑した。其態度が如何にも滑稽である。斯ういふ幾多の事實も普通の他の人が仕たとしたら何でもない筈のが故人がすれば滑稽に成る。兎に角獨自一己の力であれ丈に成つた人であるから門に集つた後進者が幾ら聰明であらうとも感服せなければならぬ點は多かつたに相違ないが、時あつて演出する滑稽な態度には心中竊に輕侮の念を禁じ得なかつたであらう。だが近來接近して居た同人中には、一人でも狡猾な人がない。故人は前にもいつた樣に恐ろしい功名心の強い人なのだから其呼吸を呑込んで居れば籠絡するのに何の苦もない。唯隱約の間に譽めて居れば機嫌のいゝ人であつた。其弱點に乘じて自己を利益したものが舊友の間に發見されるのを遺憾とする。然しながら近來の同人は、(「故人が」、脱?)餘りに自己の固陋な尺度を當て篏めようとするに對して反抗の態度を執ることが有つても皆誠實な人々である。或はさういふ弱點を心附かずに居る者もあるであらう。此は故人の大なる幸であつた。
 あの蠻勇と遲鈍とが眞に痛快極つた事實として表はされた機會がある。或年の夏、それは上野に博覽會があつてそれから愈文展が開催されるといふ頃であつた。北村四海の鐵槌騷ぎがまだ耳に新たであつた。或夜故人と鴎外博士を訪れたら間もなく他に一人の客がはひつて來て上席に据ゑられた。我々に別段噺の有る譯ではない。隨つて多少忙しいと見えた其客が一人で饒舌ることに成つた。何でも博覽會の審査員に成つて居たのが、更に文展の審査員も囑託されるらしいが受けてよいかどうか相談に來たといふ。隨分妙な相談をしに來る人もあるものだと思つて居ると、審査員などに成ると世間から敵にされて馬鹿々々しい。あの北村四海などの石彫でも何處に一つ出來てる處がない。あれで巴里歸りだなどゝ片腹痛いといふ樣なことが幾分職人肌のべらんめえ口調が交りつゝ語られた。自分の進退を相談しようとする程の人の前だから餘程の愼みが有る筈なのに其態度が甚だ高尚な人として許すことの出來ないのに驚いた。藝術家として存在を認められて居る少壯の人々がさうであらうとは自分は嘗て思ひ掛けなかつたからである。取次の女中が閾際に現れた時我々の後からの訪問客は白井雨山といふ彫刻家であることを女中の口から知つた。さうして其客が案内された時自分は遙の末席に下ることを相當なことゝ思つた程敬意を表したのである。圓滑な主人博士はいゝ加減に應對して居る。すると雨山氏と隣して居た故人は思ひ出した樣に、あなたは彫刻をなさるのですかと聞いた。何といつた處で藝術家として相當の年處に達して社會上の地歩をも占め得て居る者には自負心がある。それなのにあなたは彫刻をするかと聞かれた時雨山氏の心中には侮辱を感じたであらう。然しながらさういふ點に遲鈍な對手は北村四海の名は記憶して居れど白井雨山といふ名を忘れない程の人ではない。眞實そんな人が有つたか無かつたか知つたことではないのである。さうして段々噺を聞いて見ると今迄は新聞のいふことばかり信じて居たから北村四海ばかりをいゝ者と思つて居たが大分違ふものである。然しさういふことならば何故あなたは審査員としてあなたの意見を堂々と發表しないのですか、さうすれば世間の誤解もなくなつて我々のやうな素人にも幸である。私が若し審査員であつてそんなことなら決して承知しない。昂然としてかう言ひ放つた。主人博士は伊藤君なら屹度やるといつて洪笑した。其時雨山氏の容子は氣の毒な程であつた。それから雨山氏は中村不折畫伯と懇意だといふことから色々のことを聞かせた。故人は又私も懇意だといつて畫伯の書で飾られた扇を出して見せる。主人博士が其書を譽める。雨山氏は其晩は甚だ不首尾で匆々にして歸つた。變な奴だと思つて見た時にあのくしや/\した顏のあの打つても突いても動かぬ樣な偉大な體格のさも腕力の逞し相なあの人物を凝視し、其いふことの勢のいゝのを聞いては意外な奴が世間には存在して居るものだと思つたであらう。自分の知れる限りに於て此が故人の最も振つた逸話である。
(大正二年十一月十五日發行、アララギ 第六卷第十一號 伊藤左千夫追悼號所載)





底本:「長塚節全集 第五巻」春陽堂書店
   1978(昭和53)年11月30日発行
底本の親本:「長塚節全集 第六卷」春陽堂
   1927(昭和2)年
初出:「アララギ 第六卷第十一號 伊藤左千夫追悼號」
   1913(大正2)年11月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:岡村和彦
2016年3月17日作成
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