知己の第一人

長塚節




 私が伊藤君に會つたのは、丁度明治三十三年の四月の一日でした。子規先生の根岸庵短歌會の席上でした。三月の下旬に始めて根岸庵を訪問して四月の一日に伊藤君に會つたのでした。が其の時は別段談話を交換することも無かつた。それから二三日經つて私が伊藤君を訪問しました。折よく居まして種々話をしましたが、其の時私の言つた事を非常に喜んでくれた事が今でも明かに耳に殘つて居ります。根岸の多くの同人中私の訪ねたのは伊藤君が始めでした。それから今日に至るまで、上京する度に殆ど一度は伊藤君を訪ねない事は無かつた。最初の多くの同人中で終始變らずに交際を續けてゐたものは伊藤君と私位のものだらうと思ひます。
 これは餘程後になつて考へたことで、この事は伊藤君へ手紙で言つてやつたこともあるのですが、一體伊藤君と私とは、よく考へて見ると殆ど總てが正反對である。第一體が違ふ。一方は肥つた強い偉大な體格であるが、私は非常に小さく痩せてゐて弱い。此の事に就いては子規先生在世中笑はれた事もある。それは或時先生の枕頭で柿本人麿の話が出た。其の時伊藤君は、人麿といふ人は、あの悠容として迫らない作風を見るとどうしても肥つた人に違ひないと言ふ。私はその説とは反對で、その響きの如何にも悲壯なのを見ると、どうしても痩せた人だと思はれると言つたことがありました。さういふやうな事で、子規先生は非常に笑はれて、その事を直きに「病牀六尺」だかに書かれたことがありました。
 それから其作篇を見ても伊藤君のものは全體に男性的であるが、私のは何だか女性的であるやうに自分でも思つてゐます。殊に近年のものになると歌は勿論其の他の小説のやうなものでも寫生文のやうなものでも、私は餘り敬服して居らなかつた。それといふのは、一つは、伊藤君の仕事が如何にも、粗雜であつたからである。以前は私は文章といふことは一向書くことも知らない。子規先生沒後何年かの間は唯歌ばかり作つて居つた。だから、子規先生の在世中から相應に文章を書いてゐた伊藤君の歌以外の方面は殆ど心を傾けなかつた有樣であつた。それがいつの間にか、歌の方はお留守になつて、書けば單に文章といふことになつて了つたのです。さうなつて見ると、私は非常に文章を作る事に骨を折つて見たい。して十分骨折つて見ないと自分のものを讀んでくれる多くの人々に對して濟まないやうな氣もするし、又さうしなければ自分の氣が進まない。さういふ事から、放膽な伊藤君のやり方が何だかいつも氣になつてゐた。ですから近年はさういふ方面で餘程伊藤君とは離れて居つたのです。
 一體が伊藤君は自信力の非常に強い人で、他人が何と言つたところで容易にそれを容れるやうな人でない。先づ非常な頑固な人と言つて好い。極端にいへば固陋な所の非常に多かつた人のやうにも思はれる。又た其の立論が總て知識の上から來てゐるのでなく、全く自分の頭から出たものが多かつたから、學問のある人から見ると途方も無い間違ひがあつたゞらうと思はれる。手近かな話が、術語の如きものでも自分だけで分かつてゐるやうな飛んでも無いものを使用してる場合が非常に多かつた。それにも拘らず、同じく知識の無い吾々の眼から見ると、強い動かせないやうな一種の力が籠つてゐたやうに見える。何と言つたところで、自分でさうと思つた所を、伊藤君の總てはそつくり其のまゝ現はして居る。最近にアララギ誌上に掲げた「歌俳句の叫び」といふものゝ論旨に就いては私なども双手を擧げて賛同の意を表する。
 私が伊藤君に會つた最後は、六月二十七日ホトトギスの催能に招待されて上京した時でしたが、其の時も私は伊藤君に、君の叫びについては、論旨には聊かも反對の意見を持たないが、其の書き方が如何にも粗雜だ。部分々々を讀んでゐると十分に分かつてゐるけれども、全體として見ると、此の長い議論から何が頭に殘つたかと顧みて一寸分かりにくいやうな感じを抱いた。もう一段、書く時分に頭の中で練つて、さうして明瞭に讀者に分かるやうに心がけたら好からうと言ふやうな事を言ひました。伊藤君は、さうはいかんといふやうな事で、以前の如く大に反駁するといふやうなことはありませんでした。伊藤君の作品の殆どすべてには其粗雜といふ分子が含まれて居る。ずつと以前から私は伊藤君には石炭の燃滓もえかすが多いといふやうなことを言つてゐたのでした。
 十餘年以來の交際ですから、多少は其の間に感情の行違ひもあつたけれども、始終變らずに通つて來たと言ふには、何かそこに私達を結び付けて置いたものがあると思はれるのです。お互に頑固なところもあらうし、偏狹な所もあらうし、餘りに多くの人に求めて交際をしない所も似てゐるのでせう。學問知識の無い所も同樣であらう。だからお互に知識の上からで無く、實際の上から、自分に何かを受入れようといふ態度から自然にさうなるのであらう。さういふ點も一致してゐたでせう。自分の事であるから、どうも好くは分からないけれども、さういふ點もお互の間を固く結び付けて置いた一の原因だらうと思ひます。伊藤君が[#「伊藤君が」は底本では「伊藤居が」]死んでから、東京の常に伊藤君と接觸して居つた人々から聞いて見るのに、伊藤君は私の方から無沙汰をしてゐると、大分消息を待遠しがつてゐた樣子です。生前屡※(二の字点、1-2-22)私に向つても、君を認めて居るのは何と言つても僕が一番だ。だから矢張り君も上京する度に僕の顏を見なければ氣が濟まないで來るのだ、といふやうな事を言つてゐました。私に對して實際に於いて知己の一人でありました。(談話)
(大正二年八月十日發行、ホトトギス 第十六卷第六號所載)





底本:「長塚節全集 第五巻」春陽堂書店
   1978(昭和53)年11月30日発行
初出:「ホトトギス 第十六卷第六號」
   1913(大正2)年8月10日発行
入力:林 幸雄
校正:岡村和彦
2016年3月4日作成
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