竹の里人〔一〕

長塚節




○先生と自分との間柄は漸く三十三年からのことで極めてあつけないことであつた。それも自分がいつも京住まひで三日あげずに先生のもとへ往復が出來るならば格別であるが何をいふにも交通の不便な土地なので、割合に近い所であり乍ら思ふやうには訪問することも出來なかつた。併し年に四五回位は上京して時には一ヶ月も滯在したこともあつて、勿論その間といふものは殆んど隔日位に詰め掛けて、隨分と小言もいはれたことであるから、思ひながらも遂に一目も見られなかつたといふ僻遠の人々から云つて見れば、自分はいくら幸であつたか知れない。先生から聞いたことはいつでも珍らしく思つて居たのだから、その時々のことを日記のやうなものにして置きたいと思つたことは再三のことであつたが一度も實行したことがない。これは自分が性來の懶惰なるに因るのであるが、一つは頭の惡い爲めでもあつた。厭だと思ふと迚ても仕事が出來ない。精力といふものは殆んど持つて居らぬかと怪まれる計りであるが、そこが今になつて考へて見ると遺憾極まることであるが、なに一つ記して置かなかつた理由なのである。それに先生を訪問すると日中行つても、晩方行つても必ず夜更けまで居る。自分のいつも居たのは根岸からいへば上野の山の向うで不忍の池のほとりであつたから、先生を訪問するものゝ中では先づ一番近い所であつたが、歸つてくると淋しい通りは益々淋しくなつて、家の者はもうぐつすり寢込んだといふ時分であつた。左千夫君などは内へ着くと三時が鳴つたなどといふ事があつたやうに聞いたが、敢て珍らしいことでもなかつた。そんな鹽梅で先生を訪問すればいつでも夜更になる。これは自分に取つては非常に無理なことで、一晩夜更しをすれば二三日位は頭がぼんやりしてはし/\仕ない。それがまた隔日に行きたいといふのだから、到底日記を認めるなどといふことの成就すべきものではなかつた。それのみならず上京中はなんでも無駄に日を過すまいといふ考なので、根岸へ行かなければ本所へ行くとかどこへ行くとかで薩張り落着かない。左千夫君と話を始めるとこれも長くなつて果てしがない。泊り込んでは夜更しである。明れば連れ立つて根岸へ行くといふので考へて見ればおかしなことであつた。いつであつたか左千夫君も先生の言はれることは一寸した事柄でも深く玩味すべきものである、もうこのさきいくらも存命でない先生のことであるから、今のうちに注意して一々筆記して置かなければならないといふやうなことを云れたやうであつたが、後に立ち消えになつたやうである。それから先生の柩の傍で通夜をした折いろ/\雜談があつたが、その時の虚子君の話にもいつも來る度にその日のことを書いて置かうと思つては、歸ると疲れて仕舞つて果さなかつたと云はれたが、さうして見ると自分ばかりが出來ないのでは無くつて、後ではいづれも遺憾に思つて居るのは同一であらうと思ふ。こんな鹽梅であるから、先生に就いてなにか書かうにもなんだか有るやうで無いやうで、急には思ひ浮ばないのである。然し成る可くは秩序を追うてしたいので、時にはこの前にこんなことがあつたと云つたやうなことで喰ひ違ふこともあらうが、注意はする積りである。それに自分のは先生を批評するなどといふ大層なことをするのではなく、先生と自分との間柄のことを述べるだけなのである。それだから先生といふことよりも自分のことが主になつて仕舞ふやうな場合も無いとは限らない。それから自分以外のことでも、先生の許で見聞したことは記憶より喚起される限りは述べることにする。
○自分は曩にいつたやうに先生に見えたのはこの間のやうであるが、先生の名を知つたり、又は先生の議論を見たりして景慕のあまりに、是非共逢つて話も聞いて見たいといふ念慮のあつたのは、もう久しいものであつた。こんなことがある。
幕府が瓦壤の時分に江戸で役向を勤めて居た人で、僕の村の名主と知合であつたとかで、後にその名主をたよつて僕の村へ永住することになつた岡本といふのがある。その人はとうに死んで跡目の代である。確には記憶も無いが十四五位の頃であつたらう。その時のことは今でも知つて居る。父と共に村の中を散歩した時のことである。茶の木の花がやゝだらけて菊がもうよつぽど摘まれた頃である。枯芒のなかを歩いた時に父からかういふ話を聞いたのである。父はその岡本といふ人から聞いたのだといふことであつた。岡本の伯父位になる人で東京に發句を作る人がある。その知合とかに大學生があるが非常な發句熱心で、古人の發句の八萬句とかを八萬遍繰返して讀んだとかで、今では恐ろしい豪らいものに成つた相だといふやうなことで非常に驚ろいて話された。その頃は自分は發句などといふものは素よりのこと、頭が一切空虚なので格別に感じやう筈もなかつたが、只豪い人もあるものだな位に、豪いと話されたのでさう思つたのであつた。その後もそのことは念頭から離れて居つたが、去年あたり不圖思ひ付いて聞いて見るとそれが全く先生のことであつたのだ。後にこの話をした岡本は自分が家を離れて居るうちに肺病になつて死んでしまつて、その子といふのがこれも肺病で去年の夏死んだ。丁度自分と同年齡であつた。自分が見舞に行つた時に、曩のことを思ひ出して尋ねて見たところが先生のことは知つて居つて、縁者の老人が宗匠でその宗匠が先生にも遇つたことがあるのだといふことをいはれた。兎に角これが先生に就いて知つた一番はじめのことであつたのである。
○二十八年九年とこの二夏は鹽原へ保養に行つたのである。自分はその頃から頭が惡くて仕方がないのでなんとか治療の方法も無いものかと思案の末人の勸めで行つたのである。二夏行つたのであるからしかとも覺えないがたしかにあとの夏であつたやうに記憶して居る。鹽の湯といふ狹苦しい谿谷に六十日も滯在した。喧ましい鹿の股川を隔てゝ鼻を突き合ふやうな雜木山に向つて耐屈でしやうも無かつた。かういふ所の習慣で相宿の客とは別懇に成り易いものなので自分もいろ/\の人と交際をした。大抵は入り替り立ち替りで暫くも止まることは無いが下野の矢板の在から來た人が長逗留をした。この人と格別に往來をしたが、この人が「日本」を見て居た。自分はその時分國民や讀賣が好きでいくらか文學の趣味を解した積りの自分は文學新聞はこれ計りだなどと獨極めをして他のものには目もかさうとしなかつた。ところがその人の云ふに近頃俳句の議論が「日本」に出て居るがなか/\六かしいものであるというて見せられた。成程六かしいものだと思つて見は見たが解しやう筈はない。然し一つ面白いと思つたのが今に記憶して居るが、それは「名月や裏門からも人の來る」といふ句の「も」の字が惡い理窟であるといふのであつた。然しその時は論じた人が誰だか一向注意もしなかつた。さうして「日本」を見たのも三日か四日に過ぎなかつた。この俳句の問答をかいたのは先生であつたといふことを知つたのはずつと後である。自分が先生の議論を見たのはこれがはじめてであつた。
○それからこれも其の夏のことであるが鹽原から歸つて、近く發刊せられた「世界の日本」と云ふ雜誌を見た。世界の名士の肖像などが載せられてあるのを酷く面白く思つた。これに「我が俳句」といふ一篇が出て居た。自分は先づ一わたり讀んで見たが、ひどく六かしくつて薩張解らないやうに感じたが何だか面白い所のあるやうに思つた。さうして主意がどうかうといふことよりも「我が俳句」と云ふ一篇があつただけは忘れ去ることは出來なかつた。その後さきにいつた岡本がまだ存生中で或日なにかのことで自分の家へ來たことがあつたがその時にどういふことであつたか「我が俳句」の話が出てそれを岡本に見せたところが此の獺祭書屋主人といふのは俳人子規の別號である、子規といふのは肺病でどうだとかいふことを語つた。岡本といふ男もこれだけのことは伯父かが一寸知つて居たのでそのわけから知つたのらしい。素より俳句もなにも解つたのではない。さう聞いて見ると同じ一册のうちにも子規といふ名で俳句が出て居るのに心付いた。それで「侍の野梅折りけりおとしざし」といふ句のあつたことは今になつても忘れない。それから自分は見向きもしない位であつたが自分の家では久しく「日本」をとつて居たので、この時分から少しづゝ注目するやうになる。先生の句がいつも目に付くやうになつた。これが先づ先生の名を知つたはじめなのである。而しこの頃は俳句を見たつて解るのではなし馬鹿々々しいつまらないことを拵へたものだなどゝ思ふやうな句もあつたが捨てるのも惜しくつて切りぬいて置いた。さうしては只見て居た。こんな鹽梅で或は他に原因がなくつてさうしていくらか早く趣味を得たならば俳人の仲間入をしたかも知れない。さうするとも少しはやく先生に見えたかも知れない。だが自分は俳句の趣味が解らなかつたのと、それから他に原因といふのはいくらかこの時に歌の方の頭に成つて居たために俳句を作る心持にならずにしまつたのである。その後いくらか俳句を面白く感じて來た時に先生の「歌よみに與ふる書」が出たのでもう十分にこの方に引き付けられてとう/\歌で教を受けるやうになつた。これからのことはまたこの次に書くことにする。
(明治三十六年十二月二十三日發行、馬醉木 第七號所載)





底本:「長塚節全集 第五巻」春陽堂書店
   1978(昭和53)年11月30日発行
底本の親本「長塚節全集 第六巻」春陽堂
   1927(昭和2)年
初出:「馬醉木 第七號」
   1903(明治36)年12月23日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「云れた」と「云はれた」、「豪らい」と「豪い」、「薩張り」と「薩張」の混在は底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:高瀬竜一
2016年6月10日作成
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