竹の里人〔三〕

長塚節




○一日を隔てた三十日に二回目の訪問をした。先生の姿勢はいつもの通りであつた。その時自分は國元から持つて行つた丹波栗の二升ばかりを出すと、それはどうして保存して置くのかといふやうな問があつた。砂と交へて土中に埋めて置くといふやうなことを話すと、ウムと聞き取れない程にいはれて暫くは默して居られた。自分は丹波栗を先生に進めたといふことで咏んだ二三首の歌を見せ先生は唯々じいつと見詰めて居られたが、その内の一つをこれ丈は別に惡いこともないが、あとのはもつと尻が締らなくてはいかないのですと言はれた。自分は嬉しいやうな恐ろしいやうな氣がして聽いて居つた。夫等の歌といふものは素より自分でも厭惡すべきものであつたのだから、先生に在つては必ず始末に困つた位には思つたのであつたらうが、別に小言もいはれなかつたのである。先生のは後になつても其通りで有つたが、自分等の作つたものを見て貰ふのに其作品が非常に拙劣で隨分叱責されるやうな場合でも、最初はこの時のやうに唯じつと見て居られてそれから極柔かに叱られるのであつた。比較的上作であつた時は直ちに面白いといふ一言で終るのである。拙劣な作であると、物を言はれる迄には必ず少なからず時間がたつやうに感ぜられた。軈て「大鷦鷯おほさゝぎ高津の宮は雨漏るを葺かせぬことを民は喜ぶ」の歌を例に出して、この結句が「民は」と曲折して居るから尻が据つて居るのである、三句までは極めて平凡に言つて有る。四の句に至つて一つの曲折を形作つて居るのを、更に結句にかういつて有るので十分に締りがついて居るのである。これが若し「喜びにけり」といふやうな句で結んであつたら到底物に成らないのである。「大汝少彦名おほなむちすくなびこなの在しけむしづの岩屋は幾代經ぬらむ」の歌であつても、三の句までずうつと一直線に言ひ放つて四の句の「しづの岩屋は」の「は」で曲折を成して次に時間を含んだ句で結んであるから尻が非常によく調つて居るのである。こんなに長い時間を含んで居ながら卒讀した所では夫れが際立つて感じないのは、實に珍らしい歌といつてよいのである。この結句はまた「苔蒸しにけり」といつても落着くのである。夫れから又古今集かにあつた「白金の目拔の太刀をさげ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ」などでもさうである。四の句までもずうつと言ひ下して置いて、結句で「練るは誰が子ぞ」の「練るは」と曲折を付けてあるから据はりがいゝのだ。實朝ので非常に好きな「八大龍王」の歌抔でもさうだが、三の句までは非常にまづいのである「時により過ぐれば民の」なんて實にまづい、殊に「時により」抔といふ句は酷いのであるが、その替り唯でさへ振つて居る「八大龍王雨止め給へ」といふ句がついて居るのだから一層振つて見えるのである。この三の句までの平凡な處が非常に好きなんだ。初は成丈輕くするのだ。さうすれば尻が据はるが、初めに強く言ひ切つて仕舞ふと尻がどうしてもふら/\して仕舞ふのである。修辭學の原則にこんなことがあるのだ。一つの文章なら文章を初から終りまで同じ面白さに讀ませるのには仕舞へ行く程面白くしなければならないといふことなのだが、歌でも仕舞へ行つて十分な力が這入らなければ到底駄目である。それであるから初一句に言ふことは二句位に延して言つて仕舞ふのだ、それで二の句のものは三の句へ、三の句のものは四の句へ、順々に繰り下げて行つて結句で十分に力の這入るやうにするのだ。詠むべき目的物は結句にいふといふのが先づ原則である。繪であると空間的のもので時間といふものがないのだから、目的物は上の方に在つても中の方にあつても下の方に在つても決して差支がない。歌といふものはどうしても尻が据らなければ成らない。成る可くいふ事柄を、次の句へ繰り下げるといふ必要があるので、枕詞が出來た譯なのだ。少くとも枕詞は一方に於てこの必要を充す爲の適當のものなのである。古今集は尻に力があるといふ程には行かないが尻の輕いといふ弊は先づないが、古今集以後に成るともうそれは實にひどいのである。こんな調子のことなどに氣が付いたものは貫之からこの方一人も無いのさ。極めて明瞭に了解せらるゝやうに教へられた。かういふ話のうちに晝も過ぎた。先生は家族のものを呼ばれて線香に火を點ぜしめ、軈てこの線香の燃え切る間に茲の實景を歌に咏めと命ぜられた。自分はこんなことに遭遇したことが無いので少なからず不安心に感じた。已むを得ず筆を持つて出鱈目に書き付けたのが十首ばかりに成つた。此の日は非常によく霽れた暖かな日であつたが、ガラス障子の外は低い杉垣の芽が延びて下へ向いてゐる。薔薇の紅い嫩芽もついと立つてその上には小さな羽虫が群り飛んで居る。庭には柔かな草が萠え出して土はいくらか濕つて居る極爽快な日であつた。今迄耳新しい話をされて夫柄歌を考へつゝ、矢張り歌を考へつゝある先生に向き合つて、互に沈默して居た時の心持は何ともいひない。自分の歌は線香の燃え切らない内に出來て仕舞つたが寧ろ意外であつた。先生は暫くたつて筆を投げ捨てゝ、室内の器物を詠んで見たといひながら紙片を自分に渡した。我が家の長物といふ標題でその後日本へ掲載したのがその時の作である。自分のが餘に亂雜な書き方であつたので讀あげてみた。先生からいろ/\注意があつて、此日は忘るべからざる樂しい日であつたが、自分のこの歌を清書して殘して行つて呉れと云はれたのを氣にも留めなかつたが、後三四日を經て日本に掲載されたのを見て僕は寧ろどうして掲載されたことかと驚いた。この日から一日隔てゝ四月の一日自分は初めて歌會の席上に列した。在京の歌人と知合になつたのもこの時である。
自分は茲に一つ先生を訪問する以前の事に立ち戻つていつて見たい事が有る。これは自分に於ても不思議な程に思つた事なのであるが、それは固より何時の頃の事であつたか慥に記憶もないけれど、唯その事丈が殘つて居るのである。曩にもいふ通り先生に逢つて見たいといふ念慮は一日や二日ではなく絶えず腦髓を刺戟して居たのであるから、詰りそれから來た事には相違ないが、一晩自分は先生を夢みたのである。その夢がまた非常に妙な事であるといふのは、處は街道の村外れといふやうな處で一軒の茶店がある。藁葺の極々粗末な作りやうで右手の戸袋によつて駄菓子のやうなものがガラス箱に入れて置いてある。左手の方が腰を掛けられるやうになつて居てそこの座敷は家族の者の起き臥しをする處である。駄菓子箱の方は土間で向うの壁際に爐があつて鍋や何かゞ自在鍵に掛つて居る。さうして爐に接近した戸を開けると、野が見えるやうになつて居る。この茶店は少しく勾配ある土地、即ちいくらかの坂垂れに成つて居るかと思ふやうで、極めて茫漠たる野が、この茶店のほとりに立つて見ると目に入るのである。そこには一帶に蜀黍が作つてあつて、重た相に傾いて居る穗をば、秋風が搖がしつゝある。自分は嘗て見たことの無い野らの景色である。これ丈ならば夢として不思議に思ふことでも何でもないが、裏戸を開けた壁の外側の圍も無い處に一人の病人が寢臺のやうな物の上に臥せつて居るのである。重症の患者には相違ないが、顏の樣子を見るのに中々さう衰へても見えない寧ろ元氣な病人である。病人も口をきくでもなく、自分も話しをするでも無かつた。そこが夢だけに極めて漠たるものである。暫くするとその病人が立ち上つた。夢は唯これだけで畢つたが、その病人の樣子などはホトヽギスや日本を見て自分が嘗て想像しつゝあつた先生なのである。想像しつゝあつた先生其儘を夢に見るのは當然であるけれど、茶店や蜀黍の作つてある野らや又壁の外側の寢臺はどうしてそんなものを見たのか到底分らない。先生の容貌を明かに見且つ想像し始めたのはこの夢からである。この夢で見ない内は慥にかうであらうといふ相形を描き出すことは出來なかつたが、この夢以來はあり/\と目に浮び來るのであつた。その目に浮び來る所のものが、親しく自分が逢つた先生の容貌に酷似して居たのには、自分は實に驚かずには居られなかつた。こんな事を書いてつまらぬと人はいふかも知れないが、先生の事を憶ふと何時もこの夢の記憶が喚び起されるのである。この事は餘り多く人に話さなかつた。先生にはとう/\この夢の物語をする機會がなくなつて仕舞つた。機會はいくらでも有つたであらうがどうしてか話し出さずに仕舞つた。
(明治三十七年四月五日發行、馬醉木 第十號所載)





底本:「長塚節全集 第五巻」春陽堂書店
   1978(昭和53)年11月30日発行
底本の親本「長塚節全集 第六巻」春陽堂
   1927(昭和2)年
初出:「馬醉木 第十號」
   1904(明治37)年4月5日
※「咏んで」と「詠んで」、「處」と「所」の混在は底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:高瀬竜一
2016年6月10日作成
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