小熊秀雄全集−15−

小説

小熊秀雄




●小説総目次

土の中の馬賊の歌
味瓜畑
塩を撒く
殴る
裸婦
憂鬱な家
泥鰌
雨中記
諷刺短篇七種
 盗む男の才能に関する話
 暗黒中のインテリゲンチャ虫の趨光性に就いて
 深海に於ける蛸の神経衰弱症状
 芸妓聯隊の敵前渡河
 村会の議題『旦那の湯加減並に蝋燭製造の件』
 一婦人の籐椅子との正式結婚を認めるや否や
 『飛つチョ』の名人に就いて
監房ホテル
 遙か彼方を眺むれば
 思索的な路の歌
 下駄は携帯すべからず
 カーテン
 掏摸と彫像
 小為替
犬はなぜ尻尾を振るか
犬は何故片足あげて小便するか
犬と女中 ――犬と謎々のうち――
社会寓話集
 日本的とは何か―の行衛
 果樹園のアナウンサー
 百歳老人の話
 魚の座談会
 国際紙風船倶楽部
 若い獅子の自由主義
 奇妙な政治劇団
帽子の法令
娘の人事相談
徴発
二人の従軍記者
押しやられる流浪人の話
無題(一人の上京学生……)
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土の中の馬賊の歌

 私はこゝにひとつの思想を盛つた食餌を捧げるそれは悪いことかもしらないまた善いことかもしらない、たゞ私が信じてゐるだけのことである。

 人々が寝静まつた真夜中にどこからともなく土の中から唄が聞えてくる、がや/″\と大勢で話あつたり合唱したりそれは静かな賑やかな土の中の世界から洩れてくる陽気で華やかな馬賊の歌であつた。
 歌は調子のよい賑やかなものであるが街の人々はふしぎにこの陽気な唄を地べたに聞くと悲しくなつて了ふのであつた。
『小父さん、草の根がガチャガチャ鳴らしてゐるやうな響きがするよ』
 小さな裸の児供は土から生へてゐる一本の草にそつと耳を当て地の底の唄ひ声に聞きほれた。
『もちつと、そちらに行つて聞いてごらんなさい。
 この辺の底のやうにも思はれますが』
『いや、そつちではない、この辺でござりませう』
『おや歯と歯が触れあふやうな音がした、こんどは太い濁つた男のいちだんと高い声が聞えます』
 街の人々はあつちこつちの地面に耳をあてゝその唄を聴いたしかしたゞ街の地の底で聞えるといふだけで、どのへんで唄つてゐるのかわからなかつた。
 土の中の馬賊の唄、この街の人々の伝説はかうなのです。
 馬に乗つた馬賊の大将が従卒もつれずたつた一人で広々としママ野原を散歩した。
 その夜はそれは美しく丸い月が出てゐた。
 馬賊の大将は馬上でよい気分になつて月をながめながら、口笛をふいたり小声で歌をうたつたりしてだんだんと馬を進めてゐた。
 手綱もだらりとさがつたきりになつてゐたので、この馬賊を乗せた白い馬も、のんきで風流な主人を乗せて、あちこちと自分の思つたところを、青草を喰べながら散歩することができた。
 ふと馬賊が気がついてみますと自分は山塞からだいぶ離れた草つ原にきてゐた。
 そして其処は切りたつた崖になつて眼下に街の赤い燈火あかりがちらほらと見えてゐた。
『こんな月をみることは馬鹿らしい遊びだ、そんな風流な気持は俺達の世界には、塵つぱかりも不要な心だ』
 急に馬賊の大将の風流の気持は風のやうにけし飛んでしまつた、いま街の灯をながめると急にもとの狼のやうな馬賊の気持ちになつてしまつた。
 なにもかも憎らしくなつた殊に一番高いところに一番輝いてあらゆる地上の物をみくだしてゐるお月さまの、少しの角もないまんまるい横柄な顔が憎らしくなつた、そして少しの間でもこのお月さまに惚々としてこんなところまで散歩してきたことが馬鹿らしくなつた、馬賊は馬上で二三発空のお月さまに続けさまに鉄砲を撃ちこんでから嵐のやうにすばやく街にむかつて馳け出した。

 街の人々は、いつもの馬賊の集団が襲つてきたと思ひ、あわてゝ戸を閉ぢ地下室の中に隠れて呼吸をこらしてゐた。
 馬賊の大将は、いつもであれば沢山の家来を指揮して襲つてくるのが、その日はただ一人であるのであまり深入りをして失敗をしてはいけないと考へた。
 でも大胆な馬賊はいちばん街づれにちかい家を二三十軒も襲つて大きな三つの皮袋に、お金や貴金属類を集めこれを馬の鞍の両側にと自分の腰にしつかりと結びつけた。
 一番後に押いつた家は、りつぱな酒場であつたが、家人は逃げてしまつて家の中はがらんとしてゐた、酒場の窓から青いお月さまの光りが室にいつぱい射しこんでゐた。
 そして棚の上のさまざまの形ちの青や赤の酒瓶が眼についた、ぷんぷんとお美味い酒の匂ひを嗅ぐと馬賊の大将はたまらなくなつて鼻をくんくん鳴らした。
『あの月をながめて酒をのんだらお美味いしいからな』
 馬賊の大将はさつきさんざんお月さまを憎んだことも鉄砲をうちこんだことも忘れてしまつた。
 白い馬を酒場の窓際にたゝせてをいてから酒の瓶をもちだしてちびりちびりと飲みだした馬を窓際につないでをいたのは、もし街の兵隊が捕まへにきたなら、ひらりと得意の馬術で窓から馬の背にとびのつて雲を霞と逃げ失せるつもりであつたのです。
 それから暫らくして馬賊の大将がたつた一人で酒場にはいりこんだといふ知らせに、それ捕まへて了へと、二三十人もどつと酒場に押しよせてきた。
 馬賊の大将は得意の馬術で逃げだすどころか、もうへべれけに酔つぱらつてしまひ、それはたあいもなく兵隊にしばられてしまつた。
 そして首をちよん切られて、その首は原つぱの獄門にさらされた。

 一方山塞の手下達はなにほど待つてゐても、大将が山に帰つて来ないので大騒ぎとなつた、それまで手下達は手分けをして一探しにでかけた。
 一人の若い馬賊の手下がそつと街に忍びこんだ、丁度街端づれの広つぱにある刑場の獄門の下をなにごころなく通ると。
『おい/\』
と、上から呼びとめるものがある。
 獄門の横木の上には探しあぐんだ大将の首は酒のよいきげんで手下を呼びとめた。
 二日酔ひでれりつ(ろれつ)の廻らない舌で大将の首は。
『やい、やい、いま頃何をうろ/\歩き廻つてゐるのだ』
と、手下をどなりつけた、それで手下は大将が行方不明になつたので山では皆心配をして手分けをして探してゐたのだと答へた。
『これは親分、とんだ高いところに納まつて、だいぶ上機嫌でございますな』
『えへへへへ』
と、馬賊の手下は大将の上機嫌の首を見あげて、いかにも酒が飲みたさうにお追従笑ひをした。
『山に帰つてみなにさう言へ、なあたまにはこの俺さまを見習へつてな、人間らしい気分になつて一杯やりながら月でも眺める殊勝な心にもなつて見ろつてよ、人殺しの不風流者奴が、あはゝゝ』
 大将の首は、たいへんな元気で手下を叱り飛ばした。
 その翌日あくるひ大将の首のすぐ隣りに新しいひとつの首が載つかつた。
『親分、お許しがでたもんで、まつさきに月見のお仲間いりに参つたやうな次第でえへへへ』
 新しい首はまつ赤に酔つぱらつて、とろんこの眼をしながら大将の首に言つた、それは前日の馬賊の手下の首であつた。
『うむ、よく来た、まあ考へて見れよ、この俺もよく/\考へてみたさ、妙に世の中が小癪にさはつて憎らしくつて、物盗り人殺し渡世をこれまでやつてきたものゝ、一人でも人間の数をへらしたい、一銭でも多く世の中から金をへらしたいといふ心からの俺の仕事もけつくはみなくだらない仕事に終つてしまふ、酒でも飲んで、月でも眺めて、歌でも唄つてゐりやつみがない人間さまよアハヽ』
『親分、共鳴々々いくらしやちほこ立つて手足をばた/″\やつたところで、人間は土の上で虫でさ、動かない塵ひとつ、髪の毛が風にふかれてゐるのと、けつくはをんなじでサ』
と、言葉をついで手下は。
『そこで親分、街の酒場で鱈腹酒をのんでから、さあ俺は馬賊だ斬るなり殺すなり勝手にしろ、と大あぐらを組んだところが、すこぶるかん単でさ、冷たいものがすうと首筋を撫でたと思つたら、首と胴とが泣き別れで獄門の上で寒風に晒されるといふわけですからな。だが小便がでないんでなか/\酔ひが醒めないといふ。
 洒落がでるといふ次第ですな』

 それから大将の首と手下の首とは陽気に流行歌はやりうたの合唱をはじめた。
 その翌日あくるひまた新しい首が殖えたその翌日またひとつ首が殖えた、そしてものゝ十日も経たぬうちに五六十の首が獄門の横木の上にずらりとならんでしまつた。
 それがみな馬賊の手下共の首であつた。
『さあ、みんな揃つたか、さあ陽気に始めた/\』
と、大将の首は一同の首を見渡して歌の音頭をとつた。
 それから賑やかな合唱が始まつた。
 街の人々は獄門の酔つぱらつた首が毎夜のように合唱を始めて寝つかれないので、なんとかして貰はなければ困ると刑場の兵士に苦情を持ちこんだ。
 それに兵士も獄門にあまり沢山首がならんで、もうひとつの首のせ場所もなくなつてしまつたので、或日馬賊の首をひとまとめにして街端づれの広い草地に、大きな深い穴を掘つて、その墓穴の中に埋めてしまつた。
 上から土をかけられてしまつたのでそれからのち月をながめることはできなかつたが、それでも陽気に馬賊の首は歌をうたひ続けてゐた
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味瓜畑


    (一)

 お寺の境内の踊り場で男はさんざんに踊つた、疲れてへと/\になるほどに、呼吸がぜいぜいと鳴りだすほどに手を振つたり足を振つたりした。
 その夜は月夜であつたので、踊りの輪をとりまく見物人もなかなか踊り見物を止して帰らうとしなかつたので、踊り子たちも調子づいて安心をして踊つてゐた。
 一本の枯れた松の木がぎら/″\白く光つて立つてゐて、その木にもたれかゝつた一人の若い娘さんの、夜眼にも白い細りとした首筋がことのほか踊つてゐる男の眼をひいた。
 そこで男は手拭ひをかむつた自分の顔をなんべんも傾けてその娘さんの顔をのぞきこんで見たのであつたがどんな瞳をしてゐるか松の木の枝が邪魔になつて判らなかつた、しかし娘さんは顔色の白い乳のふくれた女であることだけが男にはつきり判つた。
 男は待遠しい思ひで踊りの輪をだんだんとこの娘さんの立つてゐた松の木にちかづけて、娘さんの前を通すぎるとき、松の木にそつと三角形に指を揃へた娘さんの細い掌のどこかに自分の指をふれてみた。
 なんべんとなくそんなことをやつてゐるうちに、とうとうその娘さんの注意を男はひくことが出来たし、その上この娘さんがけつして松の木に住んでゐる毛虫と同じやうに男を怖ろしがつてゐないこと、かへつて自分の手をふれることを嬉しく思つてそつと掌を動かしたことなどを知つたので男は非常に面白がつた。
 娘さんは赤い前垂をしめてゐて十七歳ぐらいであつた、そして羽織の上からその前垂の紐を強くしつかりと締てゐるといふことが、いかにも厳格な家庭に育つた一人娘で、こんな淫らな盆踊りなどを見物にこられないのを、勝手仕事のひまを盗んで駈けてきたといふ、しんなりと曲がつた風情をして樹にもたれてゐた。
 ことに男にとつて嬉しかつたのは娘さんの着物がすべすべとした絹物であつたことゝ、まだ肩揚げが羽織についてゐたといふことであつた。

    (二)

 男は娘さんの肩揚げを発見すると急になんといふこともなく元気づいて、それから二度踊つてから思ひきつて娘さんの肩のところに強く自分の肩をうちつけてみた。
 娘さんはきらりとの中の犬のやうに白眼を光らしたきりで、たいして男を怖ろしがる風も見えなかつたので安心をして、こんどは踊りの輪をすらりと魚のやうにけて娘さんの立つてゐる膝のところの暗さにふいにしやがんで平気な顔をしておどりの輪を見返した、それからそつと下から空を仰ぐやうに、娘さんのあごをしげしげと見物した。
 男はしやがんでゐる自分の足をながめて、けつして毛脛は男として恥べきものではない、と男の仲の善い或友人が言つた言葉をふと思ひ出して、ひとりでににや/\と笑みが連続的にこみあげてきたので、てれ隠しに頬冠の手拭ひをかむり直して鼻だけ出した。
 見あげてゐる娘さんが、いかにも完全無欠な、りつぱな肉体に見える、その足もとに、しよんぼりとやすんでゐる自分の姿がいかにも、みぢめに思はれたので、男はぐつとさかんに眼球をみはつたり動かしたりして秋空の一角に、きら/\と光つてゐるいくつかの星を見あげた、しかし豆絞りの頬冠をしてゐるといふことが、いちばん気がゝりになつて悲しくなつたが、さりとてその頬を風に晒すといふことが気恥かしく思はれたのでじつと何かを鉄砲で射撃をするときのやうに、眼を片つ方だけぐつとひきしめて、びく/″\頬をけいれんさした。
 男はたいへん慌てだした、いつまでもこんな状態でしやがんでゐることができないこともわかつてゐるし、また手拭ひをぱらりと木の葉のやうに、とり除いてその頬を娘さんに見せて了ふか、手拭ひをかむつたまゝで、この娘さんの手を思ひきつて眼をつむつてぐつと一思ひに握つて了はうか、ふたつにひとつより他に分別がなかつたからであつた。

    (三)

 そのうちに娘さんがすらりと撫で肩である割に肥えた肩をもつてゐるといふことが男の眼をたいへんしげきしたので、よりかゝるやうに胸を動かした、はずみに乗つて力いつぱい娘さんの厚ぼつたい肩を手で押しつけてしまつてからはつママ思つた。
 しかしそのとき踊りの太鼓がいちだんと高く『とんとん』と鳴りひびき、娘さんも平気な顔をして月をながめてゐたので、男はほつと吐息をして、それから娘さんの丸い腕に添つて動かして、とうとう無事に手を握つてしまつた。

 男と女とがならんで草原を散歩した。
 男は河岸に来たときに、水面の月の反射を怖れて頬かむりの顔を水からそむけたが、女はいたつて平気に、水の反射と月光を正面からうけてぎら/″\と頬を動かしながら、でも自分から足を暗がりの方にさつさと向けて河沿ひに歩きつゞけた。
 男が河岸の斜面を歩く、せきこんだ落ちこむやうな感情に上気していまゝでたんねんに用意深く考へ
『でもわたしが若しあなたを嫌ひであつたら……どうして』
 娘さんは小さな低い声で男の頭のてつぺんでかう言つた。
 乳房のところを頭でぐんぐん動かしてゐるうちに、きつと娘さんがだまり込んでしまふときが来ることを知つてゐたので、横着に額を機械のやうに動かしてゐた男であつたが、でも娘さんの言葉が気がかりになり初めたので、念のために、娘さんの胸から不意に二三歩とびすさつて、片手を内ふところに荒つぽく襟のあたりにいれてふところの中で大きな拳骨をつくつて見た、眼は白眼ばかりにしてゐなければならないので、暫らくの間は胸苦しい呼吸いきがして娘さんがどんな顔をしてゐるのかさつぱりわからなかつた。
『刃物でおどかしたつて、駄目よ嫌ひなものは、どこまでも嫌よ』
 あゝなんといふすばらしい肩揚げだらうと男は落胆をしながら、つく/″\と娘さんの肩揚げをながめしぶ/″\とふところから手を出して、てれ隠しに引つぱり出した皮製の万年筆いれを月にかざして見せた。

    (四)

 娘さんと男とは、声を揃へて黒い土の上で一度に笑つた。
『むかふに見える橋の処に行くまでにわたしが、あなたを好きになれたらね』
 娘さんは鼻で斜めに遠望される橋をゆびさした。
 の中の橋が遠くに見えて、橋の下のあたりにごう/″\、といふ水の流れる響きが聞えた、その橋までに七本の電信柱がつゞいて立つてゐて、そして一本おきに殆どどの電柱にも笠がなんにもなかつたり、笠があつても欠けてゐたりした電燈が、上のところにぴか/\と光つてゐた。
 笠のいたんであるのは、みな河原遊びの子供が石を投げつけたのであらう、そして明りの点つてゐる電柱のつぎ/\の電柱は、ぼんやりと照らしだされて背の高い幽霊のやうにたつてゐた。
 男はいろ/\の身振や、言葉使ひや、を殊更に注意をして歩きだした、こゝろもち男よりも足早に先にたつて歩いてゐる娘さんの肩のあたりの柔らかい曲線を見てゐると、それが様々の姿態をつくりだして、しまひには見てゐる男の眼がぐら/″\と日射病のやうに、黄色い眩惑にをちこんでしまつたやうに思はれた。
 娘さんの手や足や首や胴体これらの白いすべ/\とした肉体が離ればなれになり、着てゐる着物やら羽織やら、前垂やら、前垂の白い紐やら、半襟足袋、そして頭髪のゴムの櫛などまでが、いつぺんに散りぢりに離れて、これらの分れ分れの個体が非常な早さと勢ひこんでくる/\と回転をはじめ、これが青や赤や黄の美事に配色された唐草模様のやうになつてしまつたのかとさへ思はれた。
 ふいに躍りかゝつて、この唐草模様をそこの暗闇にねぢ倒してその上に馬乗りになつて了ひたい逆上した血が頭の上の方にぐん/″\とのぼり、ことに太くなつた血脈が両足の爪先から胸のあたりに弓のつるを鳴らしたときのやうに、強く大きく鳴りだした。
『あゝ、大変なことになりかゝつてきた、女はだん/″\と河原におりてゆく、女の足を夜風に冷やしたり、河の水のちかくを歩かせては、いまゝでの苦心がみなふいになつて了ふ、あの女の両足をこの辺の乾いた土の道路にひつ張りあげなければ駄目だ』
 男はかう考へたので女の肩に自分の肩をならべて、それで河風をさいぎつて、堤の上の乾いた土の道路の上に女を歩かせようと、すくなからずいら/\と努力しながら、肩を櫓皿のやうにぐり/″\と女の肩に動かした。
『娘さんよ、河のあまり近くに行つては危険ですよ、河原の石がころ/\してゐますからね、こつちへいらつしやいな、柔らかい地面を選んで坐りませうよ』
 と男が熱心に呼びかけると女はちよつとふり返つたなりで、ぐん/″\と男の先にたつて足早にあるくのが男を激しくいら/\させた、男は追ひすがるやうに女の丸い肩に両手をかけて、地べたにむかつて静かに押へつけたので女は白い二本の足をきちんと揃へて草の上に坐つてしまつた。

    (五)

 足を女の足のしろさとならべてつま先のところをじつと男がみつめてゐると幾分地面が傾斜になつてゐることに気がついた、そして背中にすく/\と暗の中に新鮮な青い樹木のやうなかたちが大きな掌をひろげて男をどんと突いたので、危くがつくりと前のめりに娘さんの膝の上に頭を落してしまふところであつた。
 それと殆ど同時に後のくらがりに『ぽきり』とすばらしい大きな響きがして、娘さんの白い腕が男の眼にいつぱいはまりこんで、長く伸びた太い白い線が重々しいまん丸い何かの物体ママ男の膝の上に落ちてきたので、男はぎよつと気味悪く思ひながら、じつと自分の膝の上のその丸い品を見極めようとした。
 じつと遠くどこか未来のやうなところから娘さんの笑ふ声が聞えたと思ふうちに、こんどは耳のすぐ傍でれるやうな大きな鉄線をたゝきつけるふるへた娘さんの笑ひが起つた。
『おあがりなさいな、こんな大きな味瓜が鈴のやうになつてます、後に手が届きますよ』
 娘さんはかう云つて続けさまにぽきん/\と味瓜の蔓を折る音をまぢかにさせた。
 ふり返つてみると、くらやみの中にことさらに黒味を帯びた、ちやうど谷間の深淵のよどみをたてかけたやうな深みが、じつとみつめてゐると見とをしができるやうに思はれて、そしてまた壁のやうな不透明な幾つにも切断されて盛りあげられた影がふたりの背後にならんでゐた。
 最初はその黒い影が、だん/″\と不安な冷たいものと変つてきてしまいには黒味に一点の白をさしその白が無数に殖へだし散らばつて見事に銀色のマリのやうにふくれだし、果てはあつちにもこつちにも、はつきりとした線をもつてまんまるい味瓜が描きだされた。
『味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜は冷たい冷たい』
 男はなにかの歌でもうたふやうな調子で女の手から小さな二つの味瓜をひつたくつた、そしてたくさんの御追従笑ひをした。
『ね、なぜ喰べてはいけないのかしら、こんなに沢山あるのにね、盗んだのだから、口にいれるのがあなたは怖ろしい気がしてゐるのでせう、臆病ね』
『女が南瓜や味瓜をたべるのはよくないのです、血が荒れるといふ話ですよ、ざくざくになつてしまうんでせう』
『血が荒れたつてざく/″\になつても喰べて見たい、こんなに美味しさうにふくれてゐるんですもの、わたしなんかとつくに荒れてしまつてゝよ、かまふものですか』
『そんなことはありません、娘さんちよつとお手を拝見しませう』
 からだをゆすぶつてゐる、娘さんの手を男はそつと握つた、自分の掌の上に娘さんの重たい掌をのせてみると、どつしりとした厚ぽつたく動かない魚のやうに、またいかにも金目のなにかの貴金属でものせてゐるやうにも思はれた。

    (六)

『味瓜は後から悠つくりとおあがりなさい、私もいつしよに喰べます、後からですよ、ふたりで仲善く、こんなに冷たいものをあなたに今喰べらせる位でしたら、私は最初からあなたと散歩なんかしません』
 男はぷんとふくれて、切ない言葉を女の白い顔にふきかけると女はいかにも火のやうな呼吸いきをかけられたかのやうに、ちよつと顔をそむけた。
 街にはこの娘さんと同じやうな娘さんがきれいに彩色された着物をきて歩いてゐる、ことに夏の夜のむし暑い頃になれば、こゝの河原や公園地の池の畔を、とかげの花嫁のやうにぞろぞろと散歩をしてゐる、こゝにゐるものもその一匹であつて、どこかの遠い背よりもたかい草原の中にも、きつと同じやうな幾組もの動物が死んだやうに動かないでゐるだらう、もつとも哀しいひとりぼつちの娘さんよ、(一字欠字)が散歩をするといふことは、その情熱を風に冷やすためにすることです、水々しい果実のやうな白い二本の脚は、性慾の凝結してゐるかのやうに、はちきれるほど肥えてゐる毒々しくあぶらこい。
 彼女達がしづと坐つてゐたり横になつてゐたり、立ちどまつてゐたりすると、彼女自身の猛烈な性慾の醗酵でトマトのやうに溶けてしまふ、川岸を歩いたりボートに乗りたがつたり、林檎や味瓜などの冷たいものを喰べることも彼女達の心臓に氷袋をあてゝやるやうなものだ、男はこんないろいろのことを想ひながら、いつこくも早くこんな冷たい川風の吹く崖の近くや、味瓜畑から娘さんをおびきだして、土室のやうな黄色く重くるしいどこかの土手の窪みか、柔らかい青草の林の中に連れこまなければならないとあせりだした。
『お止しなさいよ、退いて下さいつたら、だまつて味瓜をおあがんなさい、温和しく』
 娘さんは男の手をはらひのけたので、男は猫のやうに眼をつむつて両手を前にさしだした。
『娘さん、私を悪者と憎んで下さい、わたしはあなたを誘惑したのです、どうか今度は想ひきつてあなたの白い歯で私の舌を噛みきつて殺して下さい』
『さうぢやなくつてよ、わたしを誘惑したのはあなたぢやない、こゝに味瓜畑のあることは、わたしちやんと知つてゐたんですもの』
『そんな事を云はないで下さい、わたしは寂しくなる、どんなに此処まであなたを連れてくるのに苦心をしたかを、あなたは察してくださらない』
『こゝの畠は妾の部屋の窓からよく見えますの』
『やつぱりわたしは悪者に違ひない、あなたは弱々しい娘さんですものそしてあなたも素直に、わたしに、こんな処へ誘惑されて、口惜しいつて、女らしく処女らしい身振をしてさめざめと泣いて下さいよ』

    (七)

 男はなんべんも女の顔を覗き込むやうにして、こゝろから恥いつたといふ表情をした、だが事実はこの男がもつとも、これまでに誇らしげに、そつと秘めておいた自分のそれは華やかな童貞をいま無造作に捨てるといふことについてそれは神経質に相手の娘さんの微細な動作にまで、真剣な注意の眼を働かせた。
 廻つてゐる火のやうな春が、これまでの季節に横たはつてゐたのであるが、男はじつと腰に両手を支へて、如何にも沈勇な歩調で、悠つくりと貞操な英雄のやうに通りすぎてきたことが奇跡的にも思はれた。
『あゝ、こんな夏になつてから、私は一人の娘さんを見つけました、あなたそれは貴女あなたなのですよ、肩揚のある、私の相手にふさはしい娘さんそうでせうね』
 娘さんは寂しさうな顔の半面を月の光りに照らしながら、まだ未練さうにどこかの味瓜に白眼をつかつてゐる様子であつた。
 どこからともなく、不意に男の胸に小さな、熱した風のやうなものが、そつとさはつてすぎた。
 いつたん男はぐる/″\と周囲を念入りに見廻してから、じつと後の青くねむつてゐる地べたを這ひ廻つてゐる味瓜の黒い影を見つめた。
 すると味瓜畑の両端が真白い娘さんの右と左の手をひろげたように、そして黒い影がだん/″\と青く燃えだし、白い手はしだいに前かゞみに男を抱きしめるやうに思はれた。
 男はハッとした、ひろげられた味瓜畑は、その娘さんの白い両手はいつの間にか男の茶色にたくましい指と変り、だん/″\と娘さんをそこの夜露のいつぱいしめつた草原に夢のやうにしめつけてゐた。

 はれやかな季節に生れでた児供のやうに、男と女は草原から軽快に立ちあがつた、でも男は女の気持をはかりかねて、どんなに心づかひをしたか知れなかつた。
『明日も、ゐらつしやらない? 味瓜を盗みにさ、をどりがすんだら妾毎晩来てよ』
『あゝ、来てもいゝな』
『でもわたし、明日からもうあなたとは遊ばないわ』
『あゝ、遊んで貰はなくてもよいよ、あすからはどんなに沢山味瓜を喰べたつてめやしないから』
 男は無造作にかう言つたが、どきんと激しく胸をつかれたやうな思ひがした、自分自身が少しも女に対してざんげをしなければならない、醜い過去を持つてゐないことを心強く思つた。
『僕だつてさうだよ、明日からあなたは処女ぢやないんだらう、だから、これまでよりも瞳に太陽がキラ/\としみるんだ』
『名前もなにも聞かないで、あなたは別れようとするんでせう』
『それは卑怯でもなんでもないよ、だから明日の晩もこゝに味瓜を喰べにきたらいゝんだと言つてるのだよ』
 男は急に幸福を感じた。

    (八)

 一人の処女と一人の童貞とを、石ころを投げ捨るやうに、畑の茂みの中にほうり投てきたといふことに、どんなに娘さんが浮気であつたとしても、をそらくは明日の朝までは、男の魂のなかにとけこんでゐる、男の独占の喜ばしい感激がいつぱい湧いてきた。
 あそこの味瓜畑の泥にまみれた二つのもぎとられた味瓜が、だん/″\と夜更の露に洗清められてゐるやうな情景が、ふつと眼に映つた。が次の瞬間童貞を捨たといふ荒ら/\しい悔恨が頭をもたげてきたので彼はげら/″\と笑らひながら不意に女を突き離した。
『娘さん、驚いちやいけないんだよ、さ驚いちや駄目だよ僕はね、だが私はあなたに謝まつてはゐない』
『ねえ、どうしたつて言ふの』
『私がどんな悪魔の正体をうちあけても吃驚びつくりしてはいやだよ』
『言つちまつたらいゝわ』
 女はちよつと好奇心の眼を光らした。
『娘さんよ、貴女は私を童貞だと思つてをいでゞすか』
 男はしやべりながら、飛んでもないことを言ひ出す自分の悪魔的な感情に、ひとりでに微笑がしみじみと湧いて来た、なんといふ素晴らしい自分であらうかと思つた、この娘さんをあくまでも征服し背後の梢の頂上てつぺんに烏のやうに、とまつてゐて、自由自在にこの娘さんの、初心うぶな感情を操つてゐたならば、どんなに愉快に安眠ができるかと言ふことを想像をし続けた。
 盆踊りのたつた一夜の友人、明日の朝は永久に離ればなれになつて了ふ二人、対手の名も処も知らぬままに袂別をしようとするふたり、そして淫な野合の対手たとへ彼女が清浄であつたとしても男としては自らの分身を、未知であるこの歩いて居る娘さんに、無造作に奪ひ去られるといふ不安が急にこみあげてきた。
『あなたが童貞でなくつても、なんでもないわ、男なんてみな信用ををけないのが当り前のことなんでせう』
『そりや、その点では女よりも男の方が自由でせう、だが私はもつと、もつと怖ろしい出来事なんです、しやべつたらきつと驚くことなんですよ』
『さあ、言つて御覧なさいよ』
 男は草のしげみに片足を踏み入れた。
『僕は猛烈な梅毒患者なんですよ』
 かう言つて眼をぎろ/″\光らして男は女の上唇のけいれんするのを今かいまかと待つてゐた、だが彼女は平気な顔をしながら空に頬を晒しながら歩きつゞけた。
『まあ、そんなことぢや、わたしも梅毒患者よ、だからお似合ね』
 女は少しも男の言葉に不安を感じないと言つた笑ひを含んだ蓮つ葉なものゝ言ひ方をしながら、せつせと歩きつゞけた。
 男は目算ががらりとはづれたので意外に思つた。男にしてみれば対手の女に、別れ際に梅毒の暗示を投げかけて、兎のやうに横路にそれて女と別れて了はふといふ計画であつたのが、案外な女のゆつたりとした態度に、かへつて逆捻さかねぢを食つたやうな、抜きさしのならない破目に陥つてしまつたので、こんどはなにかしら女に引ずられてゐるやうな気持で女の足音のとほりに歩かなければならなくなつた。

    (九)

『さよなら』
 先にたつて歩いてゐた娘さんはふり返つて不意にかう優しく言ひくらがりの中にめがけて、とんとんと二三歩前にのめつた。
 その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。
 しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつきの味瓜畑を見をろすことのできると言つた、娘さんの家にとう/\着いたのだなと、思つたので顔もあげずにあきらめて、うつむいて歩いた。
『さよなら』
 また娘さんは三間さきでかう言つた。娘さんの履物のひびきが小刻みになつたのでいらいらしだしたが、男はさいぜんの『梅毒患者の暗示』の失敗にむしやくしやしてゐたので、強情にして顔をあげなかつた。
 それよりも男の驚いたのは黒い影にゆきあたつたと思ふうちに、いままでの暗がりとはうつて変つた、まつかな光線が頭上や胸に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つてきた。
 ちやうど火焔の中に落こんだやうな周囲の赤さであつたので男は思はず顔をあげると、娘さんはその真赤な空気のなかに、なにかの水虫のやうな、すいすいと伸びた足取で、細長くなつて消えてしまつた。
 頭上の黒い丸太の門柱に赤い瓦斯燈がひかり、ほとんど門柱いつぱいと思はれる背の高い看板が流れてゐるかのやうに赤い光線の中に、とくべつ白く浮いてゐた。
 男は胸を締つけられた、両方に突立つてゐる門柱と門柱とに挾まれたのではないかと思はれるほど咽喉に圧迫をかんじ、ひとりでに涙が湧いてきた、うすぼんやりとした夜の路を、両足がちぐはぐにならうが、手拭が風に吹きとばされようが、娘さんに呼びかけられようが、いまは男の夢中な気持にはさらに感じない、新しい大きな世界から、古ぼけてせまくるしい小路に迷ひこみ、飛びこむやうな感情で眼にいつぱい涙を浮かべて走つた。
 のなかにどうどうといふ冷たいものゝ気配が静かな風鳴りとこんがらがつて遠くに聞こえた。
 男はその響きのするところまで駈けようとするのであつたが、いくらも走らないうちに呼吸いきがきれぎれになつてしまつた。

    (十)

 男は体操でもしてゐるかのやうに両手をかつきりとした角度に腰を押へつけ、くるりくるりと絶えず舞つてゐるかのやうに、足もとの石ころや、木の根につまづいて体を躍らしながら、冷たいものゝ方に向つて走つた。
 瀬の早いながれにかけられてゐる橋の上に男は立ち止まつてはぢめて後を振かへつて見た。
 娘さんのはひつて行つた黒い大きな洋館の壁にボッとあかるく四角な光りの窓ができあがつた、娘さんがきつといま室の電燈をともしたのであらう。
 髪の毛がはつきり三本ほどカーテンに映つたかのやうに思はれたがたちまち窓はまつくらになつた。
『娘さんよ、今更わたしは、私の童貞をとり戻して欲しいとは泣きごとは言ひたくはないけれども、せめて私があなたに捧げた真実だけをくみとつて下さいよ。
 その真実だけを、りつぱに着飾つた青春をね、あのとき梅毒患者だといつたことを信じないでくださいませ』
 橋板の上にたつて男はしみじみと空虚を感じた。
『ええ、どうにでもなつてしまへ畜生、肩揚のあるかたり娘、畑の中であのとき何を出しやがつた、袂のなかから脱脂綿なんか出しやがつて』
 黒い四角な遠くの洋館に、眼をみはりながら男はなんべんも橋のてすりを慈しむやうに、手で撫でながら高い声の独語を繰返した、
『ね、娘さん私はなんとも思つちやゐませんから、どうかあの時の私を信じて下さい。どうぞどうぞ梅毒を患らつてゐたなどとは、こけおどかしで、出鱈目であつたといふことを、まさかに娘さんがあの赤い瓦斯燈のともつた、駆黴院のお客さんであるとは想像もしなかつたのですから』
 ふたゝび男は誰もゐない橋の上で遠くの娘さんに哀願をしたがふつと『△△駆黴院』の三等病室のまつ白い壁の中にねむつてゐる娘さんの顔を眼に浮べた。
 そしてその枕元にはきちんと丁寧に折畳まれた、肩揚のある大柄の羽織が見えたので、泣き笑ひに似た狂暴なうめきがよみがへつた。
『どうしようとするのだ、淫売奴首を縊る真似をして見せろとぬかすのだらう、そんな真似はたやすいんだよ、流行り歌もうたへないといふのか、そんなことも容易たやすいんだ』
 男は顔をまつ赤に上気させた。それは全身の力を下腹に集中させたからである、それから殆ど臍のあたりまで勢ひよく着物をめくりあげたので、猿股をはいてゐない素つ裸の股にひや/\とした河風がふいた。
 それから両足をできるだけ大きくひろげ、精いつぱい腹に力をこめた。
『騙娘の黴菌を水に流してしまふんだ』
 そよそよと河風は股をくぐる彼はそこでけんめいになつて、神様にでもお祈りでもしてゐるかのやうに白眼をして、高い橋の上から小便をした。
 いくつにも切断された小便の水面に落る賑やかなひびきをききながら、しわがれた呼吸いきづまつた咽喉を振り振り
『とてとて……とてと』
とやつとの思ひで喇叭節をこれだけ歌つた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塩を撒く


    (一)

 彼は木製玩具の様に、何事も考へずに帰途に着いた。
 地面は光つてゐて、馬糞が転げて凍みついてゐた。
 いくつか街角をまがり、広い道路に出たり、狭い道路に出たりしてゐるうちに、彼の下宿豊明館の黒い低い塀が見えた。
 彼は不意にぎくりと咽喉を割かれたやうに感じた。
 ――ちえつ、俺の部屋の置物の位置が、少しでも動かされてゐたら承知が出来ないぞ。
 彼は山犬のやうな感情がこみあげてきて、部屋の方にむかつてワン/\と吠え、また後悔をした。
 彼の親友である水島と或る女とが恋仲となつた。
 二人の恋仲は、まるで綱引のやうな態度で、長い間かゝつても少しの進展もしなかつた、声援をしたり、野次つたり見物したりしてゐた彼は、まつたく退屈をしてしまつたのだ。
 ――そんな馬鹿な恋愛があるかい学生同志ぢやあるまいし、三十をすぎた、不良老年の癖に。
 水島が彼にむかつて、彼女とは現在でも、肉的な交際がないと誇りらしい表情で、打開けたとき、彼はとびに不意に頭骸骨を空にさらはれたかのやうな、気抜けな有様で、穴のあくほど水島の顔を、暫らくは凝然じつと見てゐた。
 ――でも君、女は若いんだし可哀さうだからな、それに家庭的な事情が僕達の前に横たはつてゐる大きな難関なんだ、もし僕が女と関係をした後で、二人が結婚まで進まなかつたらどうだらう、
 ――女を疵物にしては、良心に恥ぢるといふ意味だね。
 ――さうだよ、それに違ないよ、女の籍は絶対に抜けないらしいんだ僕の婿入りそんなことは僕の方の家庭の事情でできないことだしな。
 水島は、ほつと吐息をついた、第三者の立場にある彼は、水島の恋愛事件に対しては、彼が横合から水島の女を奪はうとしない限り永久に第三者の立場にあつた、だから彼は、勝手なことを考へ、勝手な助言を水島にした。彼はもう見物にあきがきたのであつた。
 ――水島の女に、ちよつとちよつかいをかけてやらうかしら、あの女の手は美しい、そつと俺の手をのつけても、邪慳に振りはらふやうなことはしないだらう。
 退屈さに彼はこんなことを考へたりした、横合から割込んだらう、水島はきつと友達甲斐がないことをいきどほり、狼のやうな血走つた眼となり、長い間の交友関係も粉砕され、牙を鳴らして襲ひかゝつて来るであらう。
 かうした策戦がまた案外効を奏して、お互に相離れまいと、この乱暴な侵入者を必死と拒み、女や水島の情熱はよみがへり、二人の恋愛は、その最後の土地まで、馬車を疾走させるのでないか、などと彼は友人の遅々とした遊びごとにいら/\と気を揉んでゐた。

    (二)

 水島が毎日のやうに、彼の下宿に訪ねてきては、嘆息をした。
 その姿は耕作もせず、ぼんやり鍬に頬杖をしてゐる農夫のやうなものであつた。
 ――収穫をどんなに夢想しても駄目だよ、君は鍬を動かしてゐないぢやないか。
 事実水島の態度は『雲の上の花園』をさまよふ園丁のやうなものであつた。
 夢を見続けて、実行といふことを侮蔑してゐた。
 ――恋愛といふものは、君等のやうに、長い間楽しめるものぢやないんだ、時日を要するといふことが既にもう失敗だね。それに女などといふものは、非常に敏感ですぐ冷静になりたがるものだ。だから何より女を絶えず興奮させてをくといふことが大切なことだ。
 と――彼は煽動した。
 水島も、内心あまりに遊びすぎたことを後悔した。そして結局女から何物をも得てゐないことを考へ、寂しがつた。殊に女をすつかり訓練してしまつたことが、既に救ひのないことだと観念した。
 ――随分愉快に楽しんだよ、このまゝ二人が別れたところで、僕としては充分に遊び尽したから悔ひはないよ。
 水島は眼を伏せてこんなこともいつた、然し舞台の上の俳優がふつと消えてしまつたのも、気づかずに、広い劇場の座席にたつた一人坐つてゐるやうな、馬鹿げた観客にはなりたくなかつたので、彼はせつせと水島をけしかけた。
 或る日、水島は朗かな顔をして下宿を訪ねてきた。
 その顔は何事かに感謝をしてゐるかのやうに。
 話題は、涯かな遠くの方から出発して、水島自身の恋愛事件に到達した。
 水島は前夜、活動常設館に女を誘つて出かけたといふ、二人は活動写真館の三階に陣取つた、この三階は屋根裏で、天井が低く暗かつたので、人眼をはゞかる二人にとつて屈強な坐席であつた。
 ――男は、女の膝を枕にして、仰向きに寝て足を長く伸ばした。(丁度酔つてゞもゐるやうに)
 暗い中では映像が、青い影をいりみだして明滅した。
 ちやつぷりんが高い屋根から舗道の上に墜落したが、ゴムまりのやうに跳ねあがり、折柄通かゝつた貨物自動車の屋根に顛落し、何処といふあてもなく運び去られた。
 観客はどつと声をあげて笑つた。女といふものは、笑ふときでも、泣くときでも、怒るときでも、体を大きくゆすぶるものである。

    (三)

 水島の恋人は、皆といつしよに声をあげて、笑ひ、大げさに体をゆすぶり、いかにもお可笑くてたまらないといつた風に、体を前に屈めて、素早く、膝の上の水島の顔に接吻をしてしまつたのであつた。
 そして続けさまに、続けさまに速射砲のやうに、ちやつぷりんが尻餅をついたといつては笑ひ、電車にはねとばされたといつては笑ひ、その度毎に彼女は水島に接吻の雨を降らした、喜劇は短かつた次には長い/\悲劇物が映写された。
 彼女はしく/\と泣きながら、そして今度は沈着いて悠つくり水島に長い/\接吻を与へることができた。

 水島と彼女との恋愛は、活動常設館での出来事以来、活気づいてきた。そして素晴らしい奇蹟が、すぐ眼の前に待ちもうけてゐるかのやうに、水島の眼はちかちかと忙しく光り、また隠れてゐた天才的なものが、いつぺんに顕はれてきたかのやうに、彼は調子づいた奇術師に等しい活動館での接吻がなによりそれを物語つてゐた。
 そして悪い友人は、それに油をそゝいだ。
 水島と女との奇蹟のために、彼は下宿の自分の六畳間を提供したのであつた。
 もつとも親愛なる友人の恋の成功のために――。
 彼は昼、会社の事務机にもたれて、二人の恋人の深刻な遊びが、自分の下宿の六畳間で行はれてゐるであらうことを想像した。
 ――水島、煮へきらないぞ、君の愚にもない人道主義を蹴飛ばしてしまへ、戦闘的であれだ。と彼が水島の背をぽんとたゝいたとき水島はにこ/\笑ひながら、ちらりと決意を見せた。
 其日、彼は会社の仕事の忙しさに追はれ、二人の恋の祝福のために自分の部屋をかしたことなどを、からりと忘れてしまつてゐたが、彼が小路をまがつて、下宿の黒い塀を発見したとき、ふつと思ひ出したのであつた。
 彼はあわてゝ靴を投るやうに脱いで、玄関にかけあがつた。
 ――お帰んなさい。
 遠くの方から、下宿の妻君の声が聞えた。
 ――水島がやつて来たかい。
 ――参りましたよ。例のとね。
 下宿の妻君は、意味ありげに笑ひながら、水島の恋人の、姿態をたくみに真似た道化た格好をし、仰山に手をひろげて、廊下に半身を現した。
 ――ちえつ。
 彼は舌打をした、何処かに隠れてゐた敵意に似たものが、ふつと舞あがつたのである。
 そして自分の部屋の前に立ち、その襖をあけようか、開けまいかと、長い間思案をした。
 部屋を思ひ切つてあけて見た、しかし何の異状もなかつた。
 室の中には、非常に寒い空気が充満してゐたきりで、彼が会社に出掛けた朝のまんまになつてゐた。
 机の上には、一日ぢゆうの埃が灰のやうに白くつもつてゐて、水島と彼女とが、きつと花弁のやうに寄りそつて坐つてゐたことであらう、あたりの位置にも何事も起つた様子がなかつた。しかし彼は焦々として室中を見廻し
 ――眼に見えない、いりみだれた指紋で、室中めちやめちやにしてしまつた。
 彼はかうぶつ/″\いつて部屋を出た、そして泥棒猫のやうに、がさ/″\下宿の戸棚を探してゐたがやがて一握りの塩を掴んでき、先づ一番神聖でなければならない机の上に、そして天井に壁に、四方八方に撒いた。
 お可笑さがこみあげてきたが、彼はどうしても笑ふことができないので苦しんだ。
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殴る


    (一)

 俺はつくづくと考へる。世の中の奴らは、もちろん嘘で固まつてゐるといふ事実だ。
 情なくなるから、あんまり他人ひとさまのことはいふまい。手近なところで、俺の信じてゐる彼女の態度はどうだ、だんだん世間なみに嘘をおぼえこみ、なんにもないところから、鶏を飛び出させたりする手品師のやうな真似を始めだした。
 ――真個ほんとうにお可笑な方ね、お金が無くなれば、乞食のやうな惨めな気もちになつてしまふのね。
 彼女の観察は当つてゐた、しかし俺は決して不自然なことゝは思つてゐない。
 俺は社会主義運動を始めるのだとその抱負を語つても、彼女はてんで対手にしてくれない。
 ――貴方なんて、生まれつきのブルジョア思想よ、どうしてそんな荒つぽい運動が出来るものですか。
 副食物のこと、室内装飾のこと友人との交際のこと等色々のことに、贅沢三昧をいふことに彼女は腹を立てゝゐた。
 俺が無産階級の幸福のために、その第一線にたつて、彼らとゝもに、黒パンとか、またロシアのフセワロード、イワノフの『ポーラヤアラビア』の作中に現れてくる人々のやうに、煮込みの中に白樺の皮を交ぜたものや、馬の糞の中の燕麦の粒をひろつて食べたり、人間の肉や、鼠の肉などを、喰はなければならないやうな、食物的な試練に直面した場合にも、到底堪へることが出来ない男であると考へてゐるらしい。
 ――馬鹿野郎、真のプロレタリアは俺のやうに、金銭に敏感でなければならないんだ。
 彼女はだまつてしまつた。
 最近では、まつたく観念をしたものと見える、俺が金がはいると王者か騎士のやうに、街の酒場といふ酒場や、淫売屋の梯子飲みをして廻り、また財布の中に一銭の金も無くなると、乞食か墓穴掘のやうな、陰鬱な、気難かしい顔をして、ストーブの傍に立膝をしてゐる俺の姿を、彼女はひとめ見たゞけでぞつとするらしい。しかし彼女は蛇のやうにとぐろを巻いて罵つてゐる俺の仏頂面を見ることをすつかり最近では馴れつこになつてしまつた。
 或る日、彼女が我々無産階級に到底ありうべからざる陰謀を企てゝゐたのを、偶然の機会から発見した。
 彼女は、三日もつゞけさまに、朝の味噌汁にキャベツを使つて俺を苦しめたのである。
 それは何かの復讐であつたかも知れない。
 彼女は百姓の育ちであつたので青菜類をこのんだし、俺は海浜に育つたので魚類が好きであつた。
 魚であれば多少腐つてゐてもよろこんだ。
 それに彼女は、片意地な自我を毎朝三日もつゞけて、その椀の中にまざまざと青いものを漂はして俺を脅迫したのが、たいへん癪にさはつた。
 俺は激しく怒つて、男性的な一撃を彼女に喰らはした。
 膳の上には革命がひらかれた。茶椀を投げつけた。茶椀は半円を描いて室中を走り廻つた。
 女はかうした場合何時も無抵抗主義をとつた、寒い猫のやうに、自分の膝の中に頭を突込んで丸くなつた。
 その惨めなさまが、尚更俺の憤怒の火に油をそゝいだ。

    (二)

 なに事についても彼女は大袈裟であつた彼女が鼻水を垂らして泣いてゐるのだけでも、もう沢山であるのに、それに涎まで加へてせいゝつぱい色気のない顔をして賑やかに泣きだした。
 ――殴るのも習慣になるもんですよ。
 彼女は真から迷惑さうに、俺の機嫌のよい時に、顔色を窺ひ[#「窺ひ」は底本では「窮ひ」]/\かういふのであつた。
 女といふものは、何程聡明であつても、何処かに愚鈍な半面をもつてゐるものである。
 ときにはこの愚鈍が『女らしさ』やら『情緒』やらに掩ひ隠されてゐる場合が多いが、それは彼女達が着飾つて路を歩いてゐるときの場合だけであつて、彼女達が家庭にはいると、愚鈍のまゝに、いたるところで醜く暴露されるのである。
 その時『ぽかり』と俺は一撃を彼女の頭上に――飛ばすのであるすると女はこの問題を直ぐに氷解してしまふ。
 噛んで含めるやうに、色々の方面から、解いてきかしても、どうしても理解しない場合、これは彼女達ばかりとはいへまい、男達の場合にも
『不意に襲ふもの』があれば、いつぺんに何もかも判つてしまふものらしい。
 ――不意に襲ふもの。
 俺自身も、その問題も判然としないものに悩み苦しんでゐる。
 しかし俺はすつかり安心をしてゐるのだ、俺の顔が、実に美しく蒼ざめた時、背後から『不意に襲ふもの』のある瞬間に、俺はすべてを解くことができるであらうと信じてゐるからである。

 俺は神様に感謝するといふことが、生れつき大嫌ひな人間だが、たつたひとつだけ、時折祈祷をしてやつて罰が当るまいと思はれることがある。
 それは彼女が健康だといふことであつた。
 皮膚は馬の皮のやうに、丈夫に出来てゐて、殴つても、蹴つても決して傷がつくといふことがなかつた。ところがこの詐欺師奴が、この健康をさへ、誤魔化さうとしたことがあつた。
 俺は真個ほんとうは健康な女が嫌ひであつた。そのひとつの理由として健康な女に限つて色が黒いといふことも挙げることができる。
 市街の一隅には、大日本赤十字病院といふ、海のやうに青い層をなした巨大な建物があつた。
 夏になるとこの病院の中庭には青や黄や赤の松葉牡丹がそれは美しく咲いた。
 そこにこそ俺の恋人にふさはしい、手の痩た女や、眼の大きい女達が数十人生活をしてゐた、硝子張の露台の中を恋人達は、水族館の魚のやうにひら/\静かに泳いでゐた。ばく/″\くちを動かした。
 彼女達は、鶏卵たまごの黄味を吸はうとするかのやうに、太陽を吸はうと与へられた日課をしてゐた。
 世間の人達は、彼女達を肺病患みと呼んで恐れてゐた。
 健康な人々の中に許り閉ぢこもつてゐるといふことは危険なことだ、彼等はその健康をもつて、ぐん/″\不合理をも、押倒し、引倒し、藪原の材木を曳く壮健な馬のやうに、人生を突き進む、これに反して、可憐で繊細な病人達は、絶えず人生の姿に脅へた。
 高い壁にゆきあたると彼等はじつとその前に坐つてゐて、何時までも待つてゐた。
 扉のしぜんに開かれるまで、退屈な人々は何事かを考へてゐなければならなかつた。

    (三)

 俺の馬のやうな彼女も、俺の処に転がり込んで来た当時は、細い首をして、青く透いてみえる顔をしてゐた。
 ――体の何処かに、疾患を持つてゐる方は、豚や牛のやうに、健康な人たちとはちがつた鋭敏な感覚と、叡智とをもつてゐるものですね。
『俺は今考へると腹が立つ程当時彼女に丁寧にものをいつてゐたのであつた』
 すると女はごほん/″\と咳をした。そして胸の辺をおさへ情趣に富んだ表情をした。
 ところが彼女の病気は、美しくなるどころか、日増しに悪化し、次第に顔が狐のやうに尖り、皮膚の色沢もなくなり額のところの毛が脱けてきた。
 或る日、飛んでもないことをいひ出した。
 ――貴方。わたしお寿司にサイダアをかけて喰べて見たいの。
 それ以来彼女の舌は天才的になり、味覚は敏感となつた。
 俺はフランスの美食家、プリヤサブアランのことをおもひだした。それは彼女もフランスの美食家にけをとらない、珍奇な喰べ物を探しだしたからであつた。
『鶉の油で、はうれん草を揚げたもの』や『極く新鮮なカキのあとに喰べるものは、串で焼いた腎臓と、トリュッフを附けたフォア、グラと、それからチーズとバタとを溶いた香料と桜酒で味をつけた』などゝ注文をいひだし兼ねなかつたが、幸彼女は飢ゑたやうにがつがつと歯を鳴らして、夏蜜柑に砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
 俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
 それから間もなく欺されてゐることを知つた。
 肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
 精一杯な我儘を始めた。
 殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
 当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
 ――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
 事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
 女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
 女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
 この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
 胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
 俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
 重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
 しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。

    (四)

 腹の中の子供に、聖書を読んできかしたり、ベートーベンの交響楽を弾いてやつたりする、馬鹿気た教育法がある。
 これを胎教とかいふさうだ。
 神様の存在をも信じられないやうな俺が、どうしてこんな電信柱に説教をする様な愚にもつかない実験を信じることができ様か。
 それまではてんで鼻汁はなもひつかけなかつた、この教育法を、その頃から妙に真理の様にも考へさせられだした。
 ――ずいぶん、おまんまを喰ふぢやないか、
 彼女は楽隊にはやし立てられてゐるかの様に、調子に乗つて何杯も何杯も、お替りをして喰べた。
 ――でも赤ん坊と二人分喰べるんですもの。
 と嬉しさうに答へた。
 成程、彼女と胎児とは、同じ血脈に結びつけられ、同じ呼吸に生きてゐるものに相違ない、彼女が怒れば腹の子も怒り、悲しめば胎児もともに、悲しむものであるらしい。
 そこで俺は彼女を、興奮させる様なことのない様に心掛た。台所の雑巾がけをしたり、水汲みをしたり惨めな下僕となつた。
 決して彼女の機嫌を伺つたり、血を吐くと脅喝されたので、それを怖れたからではない、やがて出産するであらう『我等の仲間』のために敬意を表したのである。
 或る日、まつ青な顔になつて彼女は室中を歩き
 ――亀の子たはし、の様な刺の生へた球が、お腹の中を駈廻る、きつと子宮外妊娠に違ひないと思ふわ。
 と泣わめいた。
 しかしこれは嘘の皮であつた。何ごとかの前兆であつたのだ。
 その後数十日経ち彼女は『我等の仲間』を、ろく/\陣痛もせず馬よりも容易に分娩したのであつた。
 いまでは全く健康体となつた、皮膚は頑丈で、反撥力に富み何程殴つても傷つくことがない、赤児もすく/\と生長した。
 健康が恢復するとともに彼女は日増に嘘をいひだした。
 しかも彼女は、プロレタリア精神の欠けた、もつとも恥づべき大それた陰謀を企てゝゐた。
『料理と色彩』『料理と立体感』『料理と感覚』等の料理の絵画的方面を主題とした争ひ、のあつた日の出来ごとであつた。
 またキャベツの味噌汁を三日続けて喰はしたことに端を発し、二人は獣のやうに罵り合つた。
 俺は不意に彼女を襲つた。
 彼女はなきそしてすべてを理解した。
 ――食物の調理などを、そんなに単純に考へてゐるのか、我々の生活に重大なものを、よく考へて御覧、同じ大根でもこんな無態な切様があるか、豚だつてもつと食物に敏感さはあるよ。
 ――貴様はふたこと目には、金を掛ればといふが、金をかけて美味いものをつくりあげるのは誰でも出来るんだ。栄養価値の問題ぢやない、美の問題だ。
 彼女は実際口に入れることが出来るものは、何でも嚥み下すことが出来るもの位に単純に考へてゐるらしかつた、だまつてゐれば革帯でも切つてお汁の実に入れ兼ねない女であつた。
 そこで俺は味覚心理学を、約三十分間程も長講し、飯を炊くことの下手な女は愚鈍な女であるといふ結論で小言を結んだ。

    (五)

 彼女は恭しくひれ伏して謹聴した。俺はその場の不快な、焦々とした空気を一刻も早く脱れようとしたのであつた。
 ――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金をだせ。
 二人の生活には十日も以前から一銭の小遣ひ金もなくなつてゐた。で俺はその無理難題であることをちやんと知つてゐた。
 ――そんなことを仰言つても、四五日もお風呂に行かれないことを貴方も知つてゐる癖に。
 ――風呂位、一年行かなくても死ぬものか、文句をいふな、ぐづぐづして見ろ。
 勝ち誇つてゐたので、畳かけて惨忍な言葉を、頭上から浴びせかけ、またもや拳骨を喰らはしたのである。
 ところが俺が予期してゐないのに、すつくと立ちあがり、彼女は勝手元から踏み台を持ちだし、その踏み台を、石版刷りの西洋名画の額のある高い壁の下に据た。
 彼女は泣ながら、そしてごそごそいはしながら、額の後の手探りを始めた。
 ――なにを探してゐるんだ、汚いぢやないか。
 ぱつと埃が舞ひ上つた、彼女は隠してをいた品物を発見した。
 堅く丸いもので、白木綿で包まれたものだ、中からは新聞紙包みが出て来た。
 なんといふ念入りなことであらう、その新聞の中には、青い活動写真の広告紙があり、その紙の中から最後に、塵紙で包んだ五十銭銀貨が一枚飛びだした。
 ――貯金するなんて、汚い根性をだしたら承知しないぞ。
 俺は一喝して、五十銭玉を彼女の手からひつたくると、ぱつと戸外に出た。
 街には夕暮の沈んだ空気が漂つてゐた。俺は洋食店に飛び込んで大コップ五杯のビールを飲み充分に酔ふことができた。
 ――たとい五十銭銀貨一枚にしろ我々階級にとつて、貯蓄するとは大きな、陰謀でなくてなんであらう。
 ――私有財産を認めず。
 ――彼女は詐欺師、しかし偉いぞ俺は全く泥酔したり悪罵したりまた無性にうれしがつたりした。
 その後ある日、
 電燈の笠を拭いてをかなかつたことから俺は再び暴力をふるつた。
 ――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金、をだせ。
 すると彼女は、めそめそ泣ながら、押入れの上の段に泥棒犬のやうによつ這ひになつて入り込んだ。
 押入の天井板は、移転して来た当時、電燈の取り付けにきた電燈屋が、天井板をはづしつ放しにして帰つたが、この暗い所に手を突込んでゐたが、そこから小さな五十銭銀貨一枚を包んだ紙包を取りだした。
 まるでお伽話しではないか。
 その隠し場所の思ひつきのすぐれてゐることには、俺も彼女に敬意を表した。
 粉おしろいの粉の中に隠されてあつたり、無造作に紙に包んで糸巻き代用にしてゐたりしたので、彼女の留守に家中を探したことがあつたが容易に発見されなかつた。
 以前にも増て殴ることに興味を覚えだした。
 ――しかし自重しなければならないぞ、一撃が五十銭を生むのだ。
 俺は殴ることを自重した、しかし彼女の貯へは長くつゞかなかつた。其後彼女は泣くばかりで遂に立ちあがらなかつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
裸婦


    (一)

 或る雪の日の午後。
 街の角でばつたり、お麗さんらしい背をした女とすれちがつた。
 女は鼠色の角巻を目深に、すつと敏捷に身をかはしたので、その顔は見えなかつた。
 ――彼女だ、たしかにあの女にちがひない。
 私は断定した、同時にぎくりと何物かに胸をつかれた。
 彼女は雪路を千鳥に縫つて、小走りに姿を消してしまつた。
 ――あの女の素裸を見たことがあるのだ、勿論一物も纒はない、ほんとうの素裸さ。
 私は彼女の通り過ぎた後を振りかへつて、いひしれぬ優越感を覚えたのであつた。
 女達は実際美しい。
 着飾つた彼女達が、街をいりみだれて、配合のよい色彩の衣服をひるがへして往来してゐる姿は、まつたく天国だ。
 黒い雲がすつと走り、急に曇天となり、空の一角がピカリとひらめいたと思ふまに、何かゞくづれるやうな大音響がして、雲の中から大きな青い手が。
 爪の長い手が、ふいに現れ電光のやうに下界に流れた。
 そして手は、一時に彼女達の衣服を空に舞あげたとしたら、彼女達はどんなに狼狽することだらう。
 もぐらもちがお日様に眼を射られた時のやうに、あわてゝ下水溝の中へ悲鳴をあげて裸を隠すだらう。
 しかしそんな心配は不要だ。
 女達といふものは、実に油断のないものである。色情狂が電信柱の蔭から、彼女をおそつたとしても、彼女達は膝をすぼめて、べたりと地面にすわつてしまふだけの用意はいつでもできてゐるものである。
 ――彼女達は何故裸体をおそれるか。
 この問題は、色気のついた女達の口からは到底満足な答を得られない。
 そこで中には、質の悪い大人達が、この種類の質問を発して、子供達の口からたづねださうとする。これはよくあることだ。
 教育上よろしくないことだ。
 私の幼年時代、ある大人が
 ――××ちやんは、誰から生れたんだい、お母さんからだらう、お母さんの何処から産まれたの。
 私の顔を覗きこんだ、なんといふ卑怯な質問といふものだ。
 しかし私は、桃太郎が桃から生れたので
 ――坊も桃から生れたんだろ。
 とは答へなかつた。
 ――母ちやんの臍から産まれたんだ。
 小さい私は一言にかう答へて突放した。
 大人達は、私の口から満足な答を得られなかつたので、不服さうな顔をした。
 私はその当時、そんな問題に何の興味もなかつたのであつた。
 その問題よりも、
 ――どうしたらコマが長く廻つてゐることができるだらう。
 ――戦争ごつこの策戦。
 ――隠れん坊の誰も気づかない隠れ場所。
 かうしたことで小さな頭の中がいつぱいになつてゐた。
 私の答弁は、確に不満であつたらしい、しかし、子供達の答として上できとほめてやらねばなるまい。
 それに子供達は、妹や弟が生れる時にかぎつて、必ず追ひ出すやうに遊びにやられる。遊びからかへつて見ると、母親は、沢山積みかさねた布団の上に、鉢巻をしておきあがつてゐて、赤ん坊がやかましく綿にくるまつてないてゐた。
 だから、何処から生れるとたづねる方が無理であつたのだ、

    (二)

 彼女達が、何故に裸を怖れるかといふことを、知りたいものがあつたなら子供達に質ねた方がいゝ、子供達はきつと真実に近いことをしやべるであらう。
 ところが女達が裸を怖れなくなつたらどうだらう、けつして愉快なことではない。
 或る日、私は裸を怖れないものに脅かされた。
 私は朝湯の陽炎かげろふのやうに立ちあがる湯気の中に、うつとりした気持で、ごし/″\手足を洗つてゐた。
 高い天井の彩色硝子に、たちのぼる湯気が凝つて、その玉が行列をつくつてゐた。
 玉はひとつづゝ間隔をゝき、ぽたり、/\落てきた。
 その落てくる冷たさを、額やら背やらでうけた。
 女湯は寂として、たつた一人の女が、ぴちや、/\、板の上を歩き廻る気配がした。
 私は足音に耳を傾けてゐた。すると不意に男湯の潜り戸があき、男湯に体の純白な女が、獣よりも身軽に躍り込んで来た。
『あつ』と驚いて、仰向いた私の体の上に、彼女の裸体が掩ひかぶさつてきた。
 ――しまつた。牛の化物に殺られた。
 瞬間、私はごつくりと、唾を嚥みこんで手近なところにあつた石鹸箱に手を掛けた。投つけようと思つたのであつた。
 ところが女は私を押倒したのではなく、飛越えて湯槽の向ふに行つたのだ。
 ――爺さん、流しませうか、こつち背中向けなされ。
 湯気の中から、ざら/″\とした触感の女の声がした。
 ――垢も無いやろ、ざつとでいゝぞえ。
 湯気の中の今度は男の低い声だ。
 男湯に、はいり込んできた女はまさしく牛の化物であつた。
 斑点のある生物いきものであつた。
 実に痩こけた老婆であつたが、その皮膚は瀬戸物のやうに、真白に光沢があつた。
 俗にシラコといふ不気味な皮膚をしてゐた。
 二人の痩た老人夫婦は、おたがいの膚に触れあつて、たがひの背中を流し合つてゐる様子が、いまにも崩れ折れさうな枯れ木が、押あつてゐるやうであつた。
 婆さんは臆面もなく素裸であちこち歩き廻つた。
 ――ちよつと、御免なされや。
 かういつて、婆さんは俺の背中に、その人間離れをした白い皮膚のもゝを触れたりして、平気で湯を汲んだのであつた。
 歳をとると、羞恥心などは遠くに置き忘れてしまふのだ、私はしんみり考へながら慌てゝ湯槽に飛込んだ。
 老人の裸体ほど醜怪なものはない、下腹の皮が、唇のやうに垂れ下がつて、歩く度にぶら/″\と揺れた。
 それにくらべて、お麗さんの体はどんなであつたらう。
 モデル台の上にたつてはにかんだ彼女は。
 皮膚は張切つてゐて、筋肉はどこもこゝも今にも叫びさうに身構へてゐたのであつた。
 小さな街の画家連は急に裸婦を描きたくなつたのだ。
 冬は青いものがみんな雪の下に隠れてしまふので、情熱家達はその憂鬱な感情の捨場に苦るしんだ。
 ――研究会を開かう、モデル女をみつけようぢやないか。
 気の早い日本画家の蘭沢は、すぐ飛び出て、そして何処からかお麗さんを発見できた。

    (三)

 私達はアトリヱを探し求めた。
 何よりも光線の充分に室内に射しこむ家、そして彼女の肉体を、自由な距離から描くことの出来るやうな、大きな部屋を探し廻つた。
 そして室内は余り大きくなかつたが、明るい一室を、或る風呂屋の二階にみつけた。
 芸術家などゝいふものは、降神術の中の人物のやうなものだ、そのやることが人間離れがしてゐて動作に特色がある。
 一人の素裸の女を、数人の男達が取囲んで狂人眼きちがいめをして彼女の肉体の各部分を、細大洩らさず絵に描きあげようなどゝいふ計画は、この画家仲間を離れては到底思ひももうけぬ欲望であるのだ。
 彼女の体を描くさまは烏が餌を突きまはすやうな現実的なものだらう。
 室は好都合にも総硝子になつてゐた。その硝子に紙張りをして芸術家以外の出歯亀が、外から覗かれないやうにした。
 室には二箇所に、ストーブを据つけ、煙筒も燃えてしまふほど石炭をしつきりなしにはうり込んだ。
 室の一隅に桃色のカーテンを長く垂れて彼女がその中で衣服を脱いで現れてくるやうに設備をした。
 お麗さんは素人娘であつた。
 彼女は処女であると、蘭沢を始め、仲間は力説した。
 画家達は、彼女がまだ着物を脱ぎもしないうちから、もうすでに感激し興奮してゐた。
 ――芸術のために、我々の芸術のために彼女が裸体になつてくれるのだ。
 なんといふ彼女は大きな理解をもつてゐるのだらう。
 新らしい油絵具も買つてきた。
 新らしく画布も張つた。
 すべての準備はとゝのつた。画家達は、お麗さんの麗しい姿を、感謝の心で迎へるばかりとなつた。
 第一日目の日。
 彼女が最初のモデル台に立つ日。
 私の仲間が九人、研究室のストーブを破れる程に、石炭を燻べて室を温め、画架を林のやうに立て彼女の出来しゆつらいを待つてゐた。
 彼女はなか/\研究室に姿を見せなかつた。
 ――女は怖気がついたのさ。
 私がかういふと、仲間の一人は打消した。
 ――私は信じよう、お麗さんは芸術の理解者なんだ、待ちぼうけを喰はすやうなことはないよ。
 すると又一人がその尾について
 ――大丈夫来て呉れるよ。わざわざこの室まで借りて準備をすつかりしたことを知つてゐるんだし、あれほど堅い約束もあるから。
 しかし約束の時間から三十分も経つたが彼女の姿が見えなかつた。
 ――それ見ろ、お麗さん逃亡さ。
 私は冷やゝかに一同を嘲笑した。
 仲間は、不安な気持でがや/″\と話しながら彼女を待つてゐた。
 ――おい諸君。お麗さんは風呂に入つてゐたよ。
 頓狂を声をあげて、蘭沢が飛込んできた。
 仲間は小さな歓声をあげた。
 私はぎくりとした。彼女がそれほどに、芸術を愛してゐるとは信じてゐなかつたのに幸彼女が現れたからであつた。
 私はしかしお麗さんがモデル台に立つまではどうしても信ずることができなかつた。

    (四)

 お麗さんは私達を一時間もまたした。
 蘭沢が女湯を覗きに行つてみると、お麗さんが姿見の前で両肌をぬいで白粉をぬつてゐたといふ。
 ――困つたことが出来たよ。念入りに厚く塗つてゐるんではないか。モデルが白粉をぬるなんて、肉体の美感をだいなしにしてしまふ、お麗さんがきたら、この次から白粉をつけないやうに注意してくれ給へな、
 蘭沢は困つたといふ顔つきをした。
 間もなく女は現れた。
 ――遅くなつてすみませんでした。
 彼女は優しかつた。彼女の顔は果して美しく化粧されてゐた。
 私の思つてゐたやうに、彼女は果して裸体になることを怖れた。
 ――着物を着たまゝで、写生して下さいな。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――ぢや半身だけね、腰から上だけ脱ぎませう。わたしこんなことはじめてなんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――では思ひ切つてね、すつかり脱いでしまいませう、最初は後を向かして下さいな、わたし恥づかしいんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 彼女はカーテンの蔭で衣服をぬいだ。
 ――それストーブをどん/″\燃やせ。
 蘭沢は、大きな声で誰かに命令した、女が素つ裸で姿態しなをつくるのはなか/\難かしいものらしい、お麗さんは滑稽な感じに全身をくねらしてモデル台の上に現れた。
 第一日目は、彼女は裸体となつたが、私達にくるりと尻をむけて後向に立つた。
 私達は、ばり/″\絵筆の音をさせながらお麗さんを描いた。
 私達は何故に、彼女の尻を懸命に描かなければならないか、それは芸術のためであつた。
 彼女自身も何故に、自分の尻を男達に描いて貰はなければならないか、それも芸術のためであつた。
『芸術のために』『芸術のために』『芸術のために』この小さな室は、芸術のために暑苦しくストーブは燃えた。
 第二日目
 彼女はこゝろもち体を横に向けた、彼女が体中に厚く白粉をぬつてきたので人々は抗議した。
 第三日目
 彼女はポーズをより大胆に私達の方にむけることが出来た。
 第四日目
 彼女は三日目よりも、より前方に裸体を向けることができた。
 第五日目
 彼女はまつたく私達の前方に向くことができた。
 反対に男達は、彼女の尻に愛着を感じてゐるかのやうに、彼女の前に廻ることを恐れだし、彼女の背後に、背後にと画架を移動さした。
 私と『アーキペンコ』といふ綽名のある秋辺といふ男とだけが、お麗さんの前方を怖れなかつた。彼等は写実主義の画家であつたし私と秋辺とは未来派の画家であつたからだ。

    (五)

 私と秋辺とが、なぜに彼女の真実なものをこはがらなかつたか。
 私と秋辺とは、未来派の宣言書第九項
『吾れら、世界唯一の衛生なる戦争を、軍国主義を、無政府党の破壊的行動を、人を殺す所のうるはしき観念を、しかして婦人の軽蔑を讃美せんとす』
 といふ未来派の主将マリネッツイの『婦人軽蔑』を信じ、これを彼女に適用したのである。
 どうして私や秋辺が、女たちのもつとも軽蔑すべき箇所をおそれる理由があるだらう。
 私をいつか銭湯でおびやかしたシラコの婆さんの様に、私たちの一団のためにまつたくお麗さんも羞恥をうばはれてしまつた。
 女たちが裸をおそれる理由は、お麗さんが全身に濃く白粉をぬつてきてまで、現実的なものを最後まで偽り、掩ひかくさうとする虚栄的な目的にほかならない。
 私と秋辺とは、彼女の前方に、存分に彼女の羞恥をうばひそして最後に馬鹿々々しくなつてきた。
 そしてお麗さんの背後を描き出したころ、始めて羞恥を放り出した男たちが、をそる/\彼女の前方に廻つて描き出した。
 ――秋辺すばらしいものを発見した、婦人にこんな美事にかくれた意志があることを発見したよ。
 ――うむ鋼鉄艦の意志だ。
 秋辺も同感した、不意に女の背中を平手で、ぴしやり、ぴしやりたゝきつけて秋辺は感激しお麗さんを驚かしたのであつた。
 婦人の首筋から背中にかけての感じは、非常にすぐれたものであつた、腕と腕との間隔は広大で、ゆたかな線が盛りあがつてゐた。
 其後私は女たちの最も美しい箇所を、鋼鉄艦の意志をあらはした広い背であることを信じるやうになつた。

    (六)

 研究所は一ヶ月程つゞいた。それきりお麗さんはばつたり来なくなつた。
 それはお麗さんに、画家たちがモデル代を支払はなかつたからであつた。
 研究所は閉鎖しなければならなかつた。その後蘭沢の口から、私の『最後まで疑問にしてゐたこと』お麗さんが少しも裸体をおそれなかつた理由を聞きだすことができた。
 私は最初からの思惑通り彼女が芸術の理解者ではなくて、お麗さんの家は非常に貧困で、彼女が芸術のためにの口実に、両親や、姉妹のために米代をかせぐべくモデルとなつたことが判つた。
 勿論親たちが彼女の裸になつてゐることは知らなかつた。
 研究生がさつぱりあつまらず、それになにかにと経費を意外につかつてゐたので僅か三十円の金であつたがとうとう彼女へは支払へなかつた。
 蘭沢を始め人々は、彼女の裸を散々絵筆で突つき廻した揚句金を払はないなどゝいふ行為をこの上もなく罪悪と感じた。
 ――神よ我々を罰し地獄におとし給へ。
 仲間はかく内心にさけび、そして悲壮な顔をした。
 しかし私と秋辺とは彼女の羞恥心をうばつたことを、彼女への大きな報酬と信じてゐた。
 そして私は、そのお麗さんを描いたもの、その一枚の裸婦の画題を『未来派万歳』と命名したのであつた。
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憂鬱な家
     この一篇をマルキストに捧ぐ


    (一)

 屋根の上の物音、禿鷹のやうに横着で、陰気な眼をした、あんまり飛び廻つて羽の擦りきれた鴉の群であつた。
 こ奴等は、私の家の上で絶えず仲間同志争つた。
 私はジット室の中に閉ぢこもつて、この屋根の上を駈け廻る物音を聞いた。不吉な鳥達が、黒いあしうらで跳ね廻つてゐることを知ると、私はたいへん不快な気持にとらはれた。
 そして今度は戸口の物音である。
 近所に住んでゐるらしい病気の犬こ奴の姿も私には気に喰はない。
 何時も腰を、ズルズル曳きづつて歩く、ちよつと見ては、坐つてゐるのか、立つてゐるのか判らない犬であつた、
 この犬が戸口に体を一生懸命にこすりつけて、枯れ草のやうな音をたてるのであつた。
 逃げてゆくその斑犬まだらいぬの後姿を見ると、まるで赤ん坊のやうにすつかり毛がぬけてしまつてゐる。
 頸や肢は哀れに痩てゐるが、腹だけは何つも大きく瓶のやうにふくらんでゐた。
 私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、毛のぬけた犬位なものであつた。
 海のやうに展けた雪原には何日も何日も吹雪が続いた、殊にこの吹雪のやんだ翌日の静けさは、実に惨忍に静まり返つた。
 私の会社に出勤した後の、このぽつちりと雪の中に建つた私の家の中には、どんなに妻は退屈に留守をしてゐるか。
 彼女は、室中に縦横に麻繩を張り廻し、凡太郎のむつきを掛け、どんどんと石炭をストーブにくべて、この黒、白、黄、の斑点のあるしめつた旗を乾かしたり、室中をぐるりぐるり子供を背負つて、どうどう廻りをしたり、また流し元でたつた二つよりない飯茶碗を湯の中でコリ/\コリ/\いはせながら何つまでも撫廻してゐることであらう。
 凡太郎は部屋の真中にほうりなげられ、円を描いてくる/\廻りながら、手近なものを、なんでも口に頬ばる、畳の間から藁屑を摘み出して頬張つたり、乾からびた飯粒、石炭の小さい塊やら、新聞紙の切つ端や、蝋燭の屑、など片つ端から口にいれた、そして嚥み下されるものは嚥み、嚥みこめないものは吐き出てゐたが、看視人である母親は、鈍感であるので多くの場合知らなかつた。
 たまに母親はこれを発見するが落付いたものであつた。
 ――凡太郎、なんだい、今口へ入たものは、まあ驚いた、これは炭滓ぢやないの、なんといふ判らない児だらうね、お前は、口に入れることの出来るものは、なんでも喰べられるとでも思つてるのかい。
 母親は、まだ歩き出すことも出来ないやうな凡太郎に向つて、威猛高になつてかう叫ぶのであつた。
 その頃から凡太郎は、しきりに赤い唇を動かして
 ――あ、あ、あ、あ、あ、
 と意味の通じない、小さな叫びをあげるやうになりだした。
 ――凡太郎は、そろそろ、ものをいひ出すのでは、ないでせうか。
 かういつて母親は、すつかり嬉しがつてゐるのであつた。

    (二)

 私も、凡太郎の『最初の言葉』といふことに、非常に重大な興味と注意とを感じた。
 なにかしら凡太郎が、第一に叫びだす言葉によつて、凡太郎の運命の決まつてしまふやうな、その吉凶を占ふ父親の態度でそれを期待した。
 ――凡太郎の奴。突然新約全書の一章でも、ベラ/″\しやべりだしたら、俺はどんなに吃驚するだらう。
 すると凡太郎の相場は決まつてしまふ。
 親不孝の凡太郎
 父親が、ゲジ/″\よりも、大嫌ひな赤い帽子を冠つて、楽隊附で神様を売歩く西洋坊主。
 救世軍の士官に相場はきまるのだ。
 ――凡太郎。神様のお先棒にだけはなつて呉れるなよ。
 すると急に私の赤ん坊時代。清浄でなければならない第一の言葉が、最初に吐きだされた片言が、なにかしら『泥棒』とか『淫売婦』とか『ごろつき』とか『掏摸』とかいつた風な、世の中でいちばん忌み嫌はれてゐる言葉からでも、始たやうにも考へられ、私はそれを凡太郎に怖れて
『花』『太陽』『蝶々』『お星さま』などと、世の中で精々美しい品々を選んで覚えこませようと努力した。
 しかし凡太郎が最初に覚えこんだ言葉はなんであつたか。
 それは意外にも、私の郊外の家の二つの訪問者であつたのだ。
 ――かあ、かあ、かあ、かあ
 屋根の上の烏の鳴き声と、それから数日して
 ――わん、わん、わん、わん
 玄関口で、皮膚を鳴らす毛の脱けた病気の犬の鳴き声であつたのだ。
 私は落胆した。
 ――凡太郎に合図をしてゐるやうですね、嫌らしい烏。
 妻は天井を仰いだ。いまにも屋根を剥いて持つてゆきさうに荒々しく屋根を渡り歩き烏どもは鳴きたてた。すると妻のいつたやうにいかにも凡太郎はその尾について
 ――かあ、かあ、かあ、かあ
 とやり出すのである。そして不吉な烏と、病気の犬との真似をものゝ十日もつゞけたのであつた。
『唖ではないだらうか』こんな不安を抱き始た。然しそれからまもなく凡太郎は、またもや奇妙な叫びをあげはじめた。
 ――まふ、まふ、まふ、まふ。
 最初はその意味がどうしても私達には判断が出来なかつた。
 ――貴方判りましたよ。凡太郎は牛の真似をしてゐるらしんです。
 妻は、或る日凡太郎を抱きあげながら窓際に立つて戸外をながめてゐたが、突然かういつた。
 私の家の近くに牧場があつた。そしてその牧柵が、私達の家の窓の下までも伸びてつゞいてゐた。

    (三)

 牛達はこれまでは、寒い気候なので、牧舎の中で飼はれてゐたが近頃になつて、晴た天気がつゞくので、牛達は雪の上に散歩にだされた。そして嬉し気に毎日
 ――もう、もう、もう、もう。と鳴いてゐた。
 凡太郎はその牛の鳴き声を覚えこんだものらしい。
 何時も片眼をつむつて考へことをしてゐる、底意地の悪さうな牛の鳴き声を凡太郎が覚えこんだことを知ると、私の理想主義が谷底に転げ落たやうな失望を感じた。
『花』『お日さま』『星』『蝶々』などといふ、麗しいものを覚えこまずに病気のごろつき犬や、不吉な鴉や尻に汚らしい糞を皿のやうに、くつゝけて済ました顔をしてゐる牛共の言葉を覚えこむとは何事だらう。
 ――しかし考へて見れば、無理もないことだらう。
 と私は思ひ返したのであつた。
 教へ込ませようとした『花』などは、冬の真中にゐて、到底子供の眼になど触れることが出来ないものであつた。
『太陽』は雪雲の中に、姿を隠してゐて、少しも顔を見せず、地を照してゐる明りは、太陽の光りではなかつた、雲の明りと雪の反射であつたし。
『蝶々』などの、ひら/\陽炎かげろふの上を舞ふ春の季節には、まだ五ヶ月も経たなければならなかつたし。
 すべてがみな憂鬱な冬の姿の中の、静物のやうに、自分自身がもつてゐる光りで、僅かに自分の周囲の小さな部分を明るくして、生きていかなければならない、惨忍な季節であつたのだ。
 どうして幼い凡太郎が。
 生れてから、まだ一度も春にめぐり合つたことのない凡太郎が。『花』や『蝶々』や『星』の美しさを知る道理があるだらう。
 私の家の、唯一の訪問者である犬、鴉、牛、などの言葉を真似たことが、当然であつたのだ。
 ――色々の真似をするところを見ると、唖でもないやうですね。
 ――うむ。
 と私は妻に、うなづいて心の中で、
 ――今度は、きつと人間の言葉を覚えこむだらう。
 ことを期待してゐたのであつた。
 静かな日が何日も続いた。
 濃霧は、私達の家のめぐりを、とり囲んだ。
 この霧のたちこめた日は、私の感情をさま/″\に変へた。
 美しい夕方の薄い霧は、遠くの方を、幻のやうに見せて、なにか蜜のやうに、甘いものでもあるかのやうに、私をよろこばした。私は凡太郎を抱いて家の前に出て充分に凡太郎の小さい口に吸ひこました。
 すると凡太郎は、しまいには、しきりにくさめをするのであつた。
 怖ろしいのは夜更の濃い霧であつた、重い濡れた幕のやうに、小さな家の上に掩ひかぶさるやうな恐怖を感じた。
 その重いものは、はねのけてもはねのけても、匍つて来て屋根の上に白い獣のやうな腹を載つけた。
 硝子窓から、霧の戸外を覗いて見ると、一寸先も見えない。
 不意に霧の中に隠れてゐる何者かゞ、私達の家にむかつて、弾丸を撃ち込みはしないかといふ、不安に脅かされる日もあつた。
 私の家を訪ねるものは、獣や鴉の他に毎土曜日の、顔の黒ん坊のやうな、煙筒掃除人と、郵便配達の声位なものであつた。
 或る日、不意に二人のマルクスが私の家を訪ねて来た。

    (四)

 郊外になど住んでゐると、色々な物売が、女子供とみれば甘くみて、押つけがましく、恐喝らしく玄関先に品物を拡げ、買つてやらなければ何時までも立去らうとしないことが多い。
 殊に私を憤怒させるものは、神仏の押売をする人達であつた。
 性来神や仏といふものを嫌つてゐる私は、この神仏押売人の撃退策を、平素から妻に教へこんでゐた。
 ――わたしのところには神棚もお仏壇もありませんので、お札を頂戴してお粗末になつてはかへつて勿体ないと思ひますので。
 私はかう台詞を妻に教へこんであるのだ。
『天照皇太神宮』や『稲荷大明神』や『イヱスキリスト』などのお札売はチ※[#小書き片仮名ヱ、428-6]ッと忌ま/\しさうに舌打をして帰つてしまふのであつた。
 二人のマルクス(私達夫婦はこの二人の青年をマルクスと呼んでゐた)
 二人の青年が、私の家の玄関口を訪れたとき、妻は例の台詞でこのマルクスのお札売を追払つてしまはうとしたのであつたが、二人のマルクスは、一足飛に室の中に襲ひかゝつて来て、盛んにしやべり立たのであつた。
 一人のマルクスは瘠せこけてゐた。いま一人は肥えてゐた。
 肥えた方のマルクスの懐が妊婦のやうにふくらんでゐた。
 肥えたマルクスは、懐中からそのふくれたものを取出て
 ――ぢやらん、ぢやらん、ぢやらん。
 それはタンバリンであつたのだ。
 しきりに鈴を鳴らし始ると、いま一人は古ぼけた皮の鞄の中からポスターを取出て、私の室中にその毒々しい極彩色の絵や統計の描かれたものをべた/″\貼はじめた。
 ――なんといふ遠慮のない人達でせうね。
 さすがに妻は驚いた様子であつた。
 彼等が帰ると、私も議論に疲れそして彼等のいつてゐることが、いかにも真理のやうに考へられて、瞬間興奮を感じた。
 しかし彼等が、霰に頭を打たれて、暗いなかに立去つてしまふと何もかも馬鹿らしくなつてしまふのであつた。すべてが冷静に、憂鬱なもとの姿に還つてしまふ。
 その翌日も、その翌日も、二人のマルクスは私の家をつゞけさまに襲つた。
 そして火のように熱心な態度で私を説き伏せようとしたのであつた。
 鴉、犬、牛、そして二人のマルクス。
 私の静寂な家を訪ねるものはこれだけであつた。
 凡太郎は、いつの間にか二人のマルクスにすつかり馴れてしまひ、抱かれて笑顔をみせたり、ついにマルクスの膝の上に小便をひつかけたりした。
 ――我々の聖なる父、マルクスは。
 彼等は賑かに聖なる父の名を呼つゞけた。
 凡太郎は円い眼をして、この若い来客の、議論の口元の動くのをじつと凝視してゐた。
 足を踏み鳴らし、そして又もや霰に、頭を打たれながら、二人の客は、暗い中を帰つた。
 マルクス主義が、我々夫婦の実生活にどんな役割を演じようとするのか、それは我々家庭にとつて『摺鉢』や『大根おろし』よりも不用な物。愚にもつかない信仰であるのだ。
 私は不意に形容の出来ない笑ひがこみあげてきた、次に滑稽な不安が頭をもたげた。
 凡太郎の次の言葉。突然凡太郎が『マルクス』などゝ叫びだしたなら、私達夫婦はどんなに吃驚するであらう。といふことであつた。
 その時には、私は観念し、凡太郎を蜜柑箱に入て、河に流してやるばかりだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
泥鰌


    (一)

 夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜かぼちや畑であつた。
 その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。
 春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。
 数年前まで、ごみ捨場であつたその辺は、見渡すほど広い空地になつてゐて、その黒い腐つた、土塊は肥料いらずであつた。
 セルロイドの玩具や、硫酸の入つてゐた大きな壺や、ゴム長靴や肺病患者の敷用ひてゐたであらうと思はれる、さうたいして傷んでもゐない、茶色の覆ひ布の藁布団などに、老人夫婦は十日間程も熱心に鍬をいれてゐた。
 鍬が塵埃の中の瀬戸物にふれると、それは爽かな響をたてた。
 老人達の仕事を、書斎でじつと無心に眺めてゐる、私の感情をその瀬戸物にふれる音は、殊に朗かなものにした。
 種ををろしてから、三月と経たないうちに、老人夫婦は、私の書斎からの、展望をまつたく、縁[#「縁」は「緑」の誤植か]色の葉で、さいぎり、奪つた。
 夏の地球は、暖房装置の上にあるかのやうであつた、老人の播いた南瓜の種も、みごとに緑色の葉をしげらし、この執拗な植物は、赤味がゝつた黄色の花をひらいた。
 その花を、たくましい腕のやうな蔓がひつさげて、あちこち気儘にはひ廻り、そして私達の住居を囲み、私達夫婦の『繊細な暮し』を脅かしはじめた。
 この南瓜畑に、取囲まれながら私達は、結婚後三年の夏を迎へた。

 妻は、シンガーミシンを踏むことが巧であつた、青丸あをまるには、いつもあたらしい布地に、美しい色糸でさ/″\ま[#「さ/″\ま」は「さま/″\」の誤植か]な図案の胸飾をした、涎掛を、つくつてゐる。
 妻の愚鈍さに、二年程前からつく/″\愛憎を尽かしてゐるのであつたが、このミシンの巧さが、妻にとつては唯一の取柄といつたものであつた。
 ――ミシンを踏む彼女。
 その時こそ、何時よりもまして聡明な場合の彼女であつた。
 ――おい、自分の指を感心に、縫はないな。
 調子のよい響をたてゝ、ミシン台にゐる妻にかういふと、
 ――それほどに、馬鹿ぢやないわ
 とチラリと軽くふり返つた。
 だがこの聡明な仕事も、南瓜の花の真盛りのころから、ばつたりと止してしまつた。
 炎天が幾日も、幾日もつゞいたその後に、今度は雨が幾日も、幾日もつゞくのであつた。
 すると妻は、急に私にむかつて口小言をいひはじめた。
 ――ほころびがあつたら、早くいつて下すつたら、いゝぢやありませんか、出掛にばかりいはないでね。
 ――男が、どこが破れてゐるの、ほころびてゐるのと、いち/\注意してゐられないよ。そんな仕事が女の仕事ぢやないか。
 妻は私の手から、着物をひつたくつて、その布地を歪ませながら針を運ばせ、不平さうな顔をするのであつた。
 ――まあ、こんな下駄の減らしやうて、ありませんわ、上手に減らすもんですよ。もつと平均にね、坂になつてるぢやありませんか。
 玄関口に女は下駄を揃へながらかういふ。
 私は内心、いま/\しく感じ、
 ――下駄を減らす男は純情さ。履物を気にして歩いてゐる男に、ろくな男がありはしないよ。
 私はベッと地に唾をして外出するのであつた。

    (二)

 何処の家庭でも、夫婦喧嘩の材料といつたものは、さう眼あたらしいものが次々と、湧いてくるものでもないやうに、二人にとつてもその種は尽きた。
 その種の尽きた時、どうしても争はねば、気が済まない場合には果ては食物の嗜好のことが、唯一の争ひの題材となつた。
 ――俺は酢の物は大嫌ひだと、あれ程いつもいつてゐるではないか。
 ――でも。
 ――何がでもだ。調味料として、我々の家庭には、酢は絶対に使つてはいかんよ。
 私はホテルの支配人のやうに、肩をいからして、この料理人にむかつて命令をしたのであつた。妻は一瞬その眼をほがらかにして、
 ――でも酢の物を喰べると、骨が柔かになるといひますわ、
 と答へるのであつた。そして妻は、支那人の曲芸をやる者は、酢を飲んでゐること、平素酸性の多い食物をとつてゐると、たしかに身体が柔かになり、したがつて女の容姿すがたがよくなること。婦人は身嗜みとして、平常から食物の上にもこの位の細心な注意が要すること。などゝ急に雄弁になつて、彼女一流の理屈を述べたてた。
 ――蛇のやうに、醜悪な姿態しなをつくつて、街を歩いてゐる女をよく見かけるが、あれなどは酢を飲みすぎた女だな。
 私は思はず苦笑して、妻の顔を見あげたのであつた。

 晩飯には、彼女は、ないことに変つた調理で私の舌を喜ばした。
 それは牛肉に胡椒を振かけたものであつたが、脂肪がすつかりぬけてしまつてゐて、サラ/\とした、淡白な味のものであつた。
 精一杯に、その肉の料理をほめそやすと、彼女は、得意さうにその調理法を語るのであつた。
 ――いかにも、お前らしい、ふざけた料理法ぢやないか。
 私は、呆れ果てゝ、その皿の上にのつた肉の数片を眺め見た。
 肉を何時間となく気永に脂肪のぬけきるまで、煮沸したものだといふ。
 精分の多い煮汁はみな捨てゝしまひ、肉の煮出し殻を皿に盛つたものだ、かうした些細な食膳の変化にも感激するほどに、妻の献立表は、毎日のやうに単調を極めてゐたのであつた。
 食後、私は何かしら彼女と青丸との心を浮き立たせなければ、申訳のないやうな気持になつた。
 晩酌の酔ひも手伝つて、私は着物をぬぎ捨て、猿股ひとつになつて、青丸の前に、ワンワンと犬のほえる真似をして、座敷中を四ツんばいになつて駈廻つた。
 ――さあ、今度は狼だ。
 うなり声をたて、坐つてゐる青丸の頭上を、幾度も跳躍した。
 青丸は上機嫌で、声を立てゝ可愛らしく笑つた。
 妻はたいして愉快でもないらしく、折々青丸に調子を合せて、苦笑するにすぎなかつた。
 ――今度はロシア舞踊だ、ニジンスキイもはだしの旋律舞踊だ。
 青丸にむかつて、かういつて踊りだしたが、小さい青丸は私の舞踊のよさは到底理解出来ないので、私は実は彼女にむかつての公開であつたのだ。
 踊りながら、猿股のひもを引くと、猿股は波を辷る漁船かなにかのやうに、冷たい触感でおち、まつたくの素裸となつた。腹部のあたりに、白々とした寒い風がまとはりついた。
 三年前の彼女であれば、男の素裸を見て、驚死したかも知れないが、現在の彼女にとつては、大してその気持を引きたゝせることでもなかつた。
 妻はにこりともしなかつたので、私は羞恥に似たものを感じ、大いそぎで、猿股をはき、浴衣ゆかたを着てその物静かな舞踊をよした。

    (三)

 二人の生活には、弾力のないゴムのやうな、救ひのない一条の脈がつらぬかれてゐるやうに思はれた。
 女もまた、救ひのない脈を、内心深く感じ、これを怖れてゐるらしく、青丸のよだれかけに赤三角に黒い縁取りの衣匠を、念入りに縫ひ取つたものを作つてやつたり思ひがけない、かはつた美しい草花を、私の汚れた机の上の、花瓶に、不意に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してをいたり、電燈の球をふいて(彼女が球をふくなどゝいふことは、実に稀であつた)急に室内を明かるくしたりして二人の感情を朗らかに、更新させようとする、色々の苦心も、まざ/″\と感じられた。
 だが私は、外出から帰り、青丸の新調のよだれ掛けをほめる前に
 ――青丸の額の、禿あがり具合まで、俺にそつくりぢやないか。
 と、まずしひて、不機嫌に憂鬱な眼となつてから、青丸のよだれ掛けを賞めた。
 あやしい老人の精気の凝つた、南瓜畑は、日中の晴天のもとに、その翼のやうに、重い大きな葉をひろげた。
 ――若さの奪略のために、植た南瓜畑だ。
 と、この茂みのどこかで私にむかつて語つてゐるやうな、幻想にも陥つた。
 ――少し神経衰弱の気味ではないだらうか。
 私は心にかうつぶやき、白地の浴衣に着替へ、することもなしに机の前に、気むつかしい気持ちで坐つた、青丸と妻とを、その前にすゑて、理由のないことを、長々としやべりたてゝも見たい惨忍な気持ちになつた。

 家根やねに巣をつくつてゐた、雀の子が、ある朝、天井裏に迷ひおち、チイ/\悲鳴をあげて、天井板をあるき廻つた、私はその逃げ場をつくつてやるために、天井板を一枚はづしてをいたが、雀の子は明かるみを発見して、果してそこからパッと室内にまひをりた。
 ――すつかり、障子をしめきらなければ逃げてしまふぞ。
 ――茶箪笥のかげに入りましたね、こつちの方に顔を出しましたよ。
 この出来事のために、私達は騒ぎ立て、バタ/″\逃げまはる雀の子を室中をひ廻し、妻もまた近頃にない、朗かに晴れた顔をした。
 捕へた雀の子の足に、もみの布をゆはひつけて放してやつたが翌朝歯を磨いてゐた妻が、不意に頓狂な声をたてた。
 窓際の柵の上に、前日捕へた雀の子が、もみの布を、ぶら/″\さげてとまりしきりにあちこち見まはしてゐたからだ。
 ――あんなものを、足に着けてゐては窮屈だらうな。
 私もかういつて妻と声を合せその雀の様子がおかしいといつて笑つた。不意に私達の暮しの背後から、又は横合からでも、思ひがけない処から思ひがけない物が、飛び出してくると、必ず私達の生活がはれ々と、あかるくなるに違ひないことを私は確信した。私はこれを私達の『奇蹟』と名づけた。
 ぼんやりと、その奇蹟を待ちうける気持ちは、私達夫婦にとつては、ずいぶん久しいものであつた。だがその霧のやうな捕へどころのないものは、大股に、また小きざみに、私達の知らぬ間に住まゐの傍を通りすぎてゐるかのやうに思はれた。

    (四)

 隣家の妻君が朝飯の最中純白な西洋皿に、体裁よくならべた泥鰌の蒲焼を盛つたものを手にして裏口に現れた。
 ――奥様、今朝は面白うございましたよ。
 かういつて、隣家の妻君はその皿を意味ありげに差し出すのであつた。
 ――まあ、おいしさうな、これは御馳走さまです、始終いろ/\戴いてばかりをりまして。今朝なにか御座いましたのですか。
 ――それが騒ぎなんですよ。前の溝に泥鰌が押寄せてきましてね。近所ではザルをもちだしたりして。
 と隣家の妻君は語るのであつた。
 その朝にかぎつて日頃早起きの私達は寝坊をしたのであつた。
 そういはれゝば、私は夢うつゝの中に、人々の立ち騒ぐのを聴いた。チャブ/\と水を歩き廻る気配や、女の声や、子供のはしやぐ声を玄関先にきいた。然し二人の床を離れた頃には、これらの物音は消えて、ひつそりとした朝であつた。私の住居の前一間と隔てずに幅三尺程の流れがあつた。小川といふよりもいつも濁つてゐたので溝といつた方が適当と思はれた。この流れは水田の排水口につながれてゐるので、この溝は水がから/\に涸れたりいつぺんに増水して溢れたりした。前夜の豪雨に田の水があふれ一気に田の中の泥鰌をさらつてこの溝に押出してきたものらしい。隣家では、一家族総出で米揚げ笊を持ちだして二升位もとつたといふことであつた。
 隣家からの泥鰌の蒲焼を食卓のまん中に置いた。
 その香気のあるおいしさうな匂は私の鼻をかんばしく衝いた。
 ――お前は、ないことに今朝は寝坊をしたね。
 私の妻に対する言葉は表面穏かであつたが思ひがけない幸福をとり逃がしたやうな、腹の何処かに滑稽な悲しみに似たものがこみあげてくるのであつた。
 ――わたしも、今朝なにか騒がしいと思ひましたよ。
 ――思ひついたら起きて見たらよかつたぢやないか。
 青丸はしきりに、小さな手で食卓の上にはい上がらうと努力してゐたが急にむせびだして顔を火のやうに赤くしだし、喰べてゐた飯をテーブルいつぱいに噴きだし激しく続けさまに咳をしだした。
 いかにもその咳が苦しさうであつた。妻は慌てゝ強く青丸の背を平手で打つた。青丸は眼を赤く充血さして、ゼイ/″\と壊れた笛のやうに、のどをいはしながら、鶏のやうにのどをながく伸していつまでも咳をし続けた。
 ――貴郎あなた、青ちやんは、百日咳に取りつかれたんぢやなくつて。どうもさうらしいわ。
 妻は心配さうに青丸の様子を窺ひながら私にかう問ふのであつた。
 ――そんなことはお医者ぢやないから知るもんか。
 私はかう邪険に突離してをいて泥鰌の蒲焼のひとつを口にほうりこんだ。妙に乾燥した風味と、そして泥鰌の背の軽い骨とを歯に感じた。しかしその香気は風に散つてしまつたかのやうに何の味もないものとなつてゐた。
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雨中記


 電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。
 男同ママの相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。
 彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩ママな傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのしと歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。
 二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
 私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
 路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流されたのだらう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばつてゐたが。
 その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもつた羽のやうに舗石にへばりついてゐた。
 もし塵芥めいたものを、洗ひ流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であらう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のやうにも見えたからである。
 私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴つて見た。するとこの青味がかつた濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのやうに、カッと口を開いて、赤い舌をさへ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
 私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であつた。
 秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向つてなんの持ち物もなく、行軍かなにかのやうに一生懸命になつて歩るいてゐる、砂塵がバラバラ頬を散弾のやうに打つ、私は何度も立ち止まつて休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があつたのだ。
 私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢つたやうに驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであつた。
 その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩ふほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあつた、いままた都会の舗石道で、同じやうなビラで靴を噛まれたのであつた。
 憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はかう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲つてきて、彼と洋傘の柄を握り合つてゐるといふことがとても堪へられない事に思はれだした。
 私はじつと頭上の傘に雨の降つてゐるのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合つてゐることに気がついた。
 二人は柄を押し合ひ、へし合ひしてゐるのであつた、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがひに譲歩し合ひ、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしてゐることを考へなければならなかつた。
 その仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。
 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。
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諷刺短篇七種


  盗む男の才能に関する話

 痩せて背の高い男が、夜の縁日を歩るいてゐた、賑やかな人通りの群から、最も眼の穏やかな人間を選むとすれば彼だらう。眠つてゐるとも見える彼の眼は、糸を引いたやうにしか開かれてゐない。
 彼は群集にまぢつて、縁日の玩具にながめ入つてゐた、其処の金盥の水の上には、三艘のブリキ製の舟が、小蝋燭をもやすことで、物理的に走り廻つてゐた。
 彼は玩具を眺めながら、悲しさうな表情をした、実はこの玩具の考案は、この男がしたのであつた。
 彼は二度目の、窃盗、文書偽造の刑期を勤め上げる間に、刑務所の中での退屈な時間をこの玩具の考案に費したのであつた。出獄した彼はこの考案を金にしようとしたが、思ふやうにいかず、前科者の故で職もなく、再び生活に窮した彼は、癇癪を起し、彼にとつて最後的な生活方法である忍びの術に還つたのであつた。
 三犯目の年貢を収めて、彼はつい昨日刑務所を出た許りであつた、彼の刑期中に誰の手からともなく、彼の考案とそつくりのブリキの舟が縁日に売り出されてゐるのを、彼はいま発見したのである。
 盥の中の三艘の舟は忙がしさうに走り、折々船端を打ちつけ合つて、盥の岸に停つた、夜店の玩具売りの男は、一刻も安息をゆるさないといつたふうに、指で邪険に舟を岸から突き離した。
 彼もまた突き離されたやうに、夜店の人の群から離れて歩きだした。
 今度も刑期中に彼は三種の考案をしてきた、一つは『自動食器洗ひ』で他は『地引網の浮子うきの改良』と『魔法の折紙』と彼が名づけたものであつた。魔法の折紙とは、一つの基本的な折方から出発して、様々の形に三十七種まで麒麟やら、扇やら、機関車などに変化するもので、彼は獄中で差入れの塵紙を根気よく折り返して考案したのだ、発売したら子供達が喜びさうなものであつた。『自動食器洗ひ』は、ハンドルを廻すことで、沸騰した湯のいつぱいな円筒の中で食器は洗はれて飛び出す、すべての家庭婦人、殊に炊事の為に、荒蕪地のやうに荒れ、ヒビ割れた手をもつてゐる女中達が、彼の発明品が世に出ることで救はれることを、彼自身信じてゐた、然し彼は之等の有益無益の発明考案を、商品化することが出来なかつた。
 社会は――刑期が満ちて当人の罰が終つて仕舞へば、全然もう放うたらかして仕舞ふ、即ち、当人に対してその最高の義務の生じようといふその瞬間に、全然彼を見捨てて仕舞ふとオスカア・ワイルドが受刑者を哀れんだ言葉があるが、彼も一歩刑務所を出るや否や、社会の義務は彼を離れた。
 途端に彼の住所へ顔見知りの刑事が『おゝ居るか――』と訪れてきた、彼は更に新らしく監視されるといふ義務を負はなければならなかつた。
 彼はいま懐中から手帳を取出して、歩きながら書いてある事柄を調べ始めた、手帳には『お召羽織二十歳位花模様』『男帯綴織風のもの』『三十五六歳向ショール茶色』『上等ウヰスキイ三本贈答用』などと書かれてあつた。
 彼はこれらの品物を、デパートの各階から選択して盗むのである、彼の出獄を歓迎するものは、彼の盗品を喜んで引受け金に代へて呉れる怪しい家だけであつた。
 彼は発明品への投資者を求めながら、己れの才能に反する万引や窃盗をして歩るくのであつた。

  暗黒中のインテリゲンチャ虫の趨光性に就いて

 暗黒中の『下等動物の趨光性学説に就いて』といふ興味ある林泉太郎博士の研究発表の講演は終つた。
 人々は講堂から控室へ通ずる細長い廊下へでた。廊下はさして暗いとはいへないが、しかし三時間もの長い講演の疲れと、学的興味で人々の頭はいつぱいになつてゐたし、また講演の性質上、廊下の暗さが人々を運命的な感傷にとらへたのであつた。
 当日の講演が如何に感動的であつたかといふことは、聴講の学者達がうす暗い廊下を満足に前進することができない程、興奮してゐることでもわかるのであつた。
 吉本博士は、たえず人さし指で廊下の壁にふれ、頭を垂れて、非常にゆつくり歩き、そしてじつと立止つて思索にふけつてゐる時間の方が長かつた。潮博士はふかく腕を組み、軽く靴を鳴らして、三歩前進しては、体をくるりと一廻転するのであつた。
 人々がみな去つてしまひ、がらんとした講堂の中に、野村長命博士が腑抜けのやうに、前方の黒板に、講演者がチョークで書きのこして去つた、直線や、電光形や、渦巻きやの白線を凝然とみつめてゐた。博士の洋服のやせた膝の上に、ぽとりと小さな滴が落ちた。滴りは博士のめくれた唇の端から粘液となつてだらしなく膝の上に落ちたものだ。しかし決してヨダレと速断することは出来ない、なぜといつて両眼から液体が二条の帯のやうに頬を光つて下り、鼻下の薄い髯の中にいつたん収容されてから、口に流れ込んでゐることを発見出来たから、膝の上に落ちた液体は涙でなく、又鼻水でなく、よだれでもなく、これらの三つのものが化合したものといへるだらう。
 野村博士は泣いた、それは無理もない、林泉太郎博士の今回の研究発表によつて、野村博士の従来の暗黒中の幼虫の光線に対する反応が、光度、感受性、内的傾向の三つよりなるとする三大原則は脆くも打破られたのであつた。
 野村博士は腰掛けを立ちあがつて黒板に近づき、講演者の描いた図式を、消したり、かき加へたり始めた。
 これまで実験に供してゐた下等動物は、梅毛虫、ヨトウムシ、モンクロシャチホコ等であつたが林泉太郎博士は新らたにインテリゲンチャ虫といふ新種を発見したのであつた。暗黒の箱の中に、これ等の下等動物を入れて、きまつた時間だけ這ひまはらす、之等の下等動物の行動は、箱の底に敷かれた科学的な媒紙に虫の歩いた足跡がそのまゝ白く記録される、暗黒中の梅毛虫は、ただぐるぐると円を描いてゐた。ある虫はイナヅマ型に光りを求めて足跡を媒紙の上に残してゐた。そして梅毛虫より、はるかに感受性の鈍な愚かしいヨトウムシ、こ奴は、平素地下又は植物の茎の中に潜入してゐるのだが、より下等なこの動物が、意外にもいかにも自信ありげに直線的にすすんでゐるのだ。
 暗黒中に今度は光線を一ヶ所、又は二ヶ所あるひは交互に点滅させてから、その光りを求める行動を実験するのだ。
 博士は黒板に倚りかかり、長い吐息をしてからほそぼそと呟いた。
『ところでどうぢや、わしの負けぢや、インテリゲンチャ虫は、光の中に開放されても光刺戟によつてかへつて行動が抑圧されて、同じ処をぐるぐるまひぢや、わしは敏感な知識人だ、だがどうぢや、わしの学説はぐるぐる舞をやつてゐる、光、希望、直線、暗黒、宿命、ぐるぐるまひ、あゝわしの人生はまさに後者ぢや』敗北者野村博士は突然激しく、白墨を持つた手を痙攣させた、何か博士の体に異状が起つたにちがひない、博士は遠くに、夢のやうに笑声をきいた、片足の膝頭は弾丸のやうな音をたてゝ床板にうちつけられ、博士のからだは脆く崩れた。

  深海に於ける蛸の神経衰弱症状

 有名な潜水鉄球に依る探海家であり、且つ医師であるロバトスン博士は、八百米の深海に助手と共に降りて行つた。
 前面硝子を通して、一尾の奇怪な軟体動物を発見した、博士は早速助手に命じて、鉄球内から照光器の光りを、この動物にむけ、照らし出させ、しきりにこの深海動物の動作を視察したのであつた。
 この動物は、一個の頭と四本の足とをもつてゐて、何か枕様の物体に、その頭をのせ呻吟してゐる風であつたが、博士はこの動物が蛸であるといふ見極めをつけるのに、かなり長い時間をかけなければならなかつた。
『博士、蛸にしては肢が四本よりありませんが――』
『××助手、彼奴には立派に八本の足があつたのさ、よく注意してごらん、ほら根元から千切れた痕が四ヶ所あるだらう』
『ぢやあ、何かに喰ひ千切られたわけですか』
『さうだよ、鱶か何か鋭利な歯をもつたものにねつまり深海に於ける階級闘争に負けたのだよ』
『ほう、そして何故あゝ身悶へして転んで許りゐるのでせう』
『つまり頭が大きすぎるのだよ、頭が自由主義だが、足の行動が伴はないといふわけさハハハハ』
『博士、アンコーの群が泳いできましたよ』
『み給へ、あいつらは蛸のやうな頭は持たないが、そのかはり自分の身の巡りを照らす発光器をもつて群集行動をしてあるける悧巧ものだ、ところで助手君はこの蛸の職業を知つてゐるかね』
『職業といひますと、深海に於ける蛸の社会的地位ですか、たとへば官吏であるか、商人であるかといつた――』
『さうだ、彼は私の観察では、小説家だと思ふね、ほらよく注意して、彼の足の一本に、特別大きなイボのあるのをみつけ給へ、つまり彼は平素これにペンのやうなものをはさんで、ものを書いてゐた職業にあつたのだ、つまりペンダコと認めたいね』
 そのとき海底に異常な出来事がおきた、博士は衝動的に、手をもつて助手を制し、それから蛸を驚ろかせないために、照光器の光りをうすくし、潜水鉄球の位置を移動し、蛸に接近し、じつと二人は眼を凝らすのであつた。
 蛸はそのとき何やら小さな棒状のものを、海底から拾つては、傍のおそろしく大きな学名マクロシスケス・ピリフヱラといはれてゐる海藻、一つの根で六百六十尺にも達するものその茎の一部へ蛸はしきりに、小さな棒を拾つては、忙がしさうに押してゐるのであつた。
『あッ、博士、彼は印刷活字でしきりに押してゐます、どうしてこんな処に活字の字母など』
 博士は微笑した。
『あわてることはないよ、彼は海の自由主義者である、しかし問題はどうしてかういふ深海に活字があるかといふ疑問だ、おそらく何処かの都市で事変でもあつて、新聞社の活字が大量に河に投げ込まれたのだらう、それが海流の関係でここまできた、彼がいまこゝで拾ひ集めて何か記録してゐるのだらう』
 博士と助手は固唾をのんで、傷ついた蛸がせはしげに海藻の茎に押してゐる文字を読みとらうとした、そこには斯う印刷されてあつた。
『あワレな自由しゆ義者の神経スイジャクをおたスけ下さい』

  芸妓聯隊の敵前渡河

 燈ともし頃、大森の料亭『資本』に、三人組の定連がやつて来た。
 読者諸君でもし料亭の名が『資本しほん』など、をかしいとお思ひになつたとすれば、それは諸君が野暮天であり、少くとも粋な御仁でない、玄関で下駄をぬぐのを中止して、もう一度表門へ引返し、軒燈の文字を見あげて欲しい、そこには『すけもと』と書かれてある筈だ、傍の門柱には、この家の主人の名が『資本主義すけもとぬしよし』とあることが判るであらう。
 着流し一人、洋服二人の、定連三人組の素性に就いては、今から三年前、この人々が始めて遊びに来た頃にさかのぼらなければならぬ。
『ちよいと、旦那、あなた○○さんでせう』と十六歳の半玉雛太ひなたに看破されてしまつた。
『うへつ、当つちよる、烱眼ぢやわい、どうして判つたか、言つて見い』
 と着流しの客は、素直に兜をぬいだ、半玉は誇らしさうに白眼づかひの微笑をもらした、無邪気な半玉は、○○の膝の上で、右手で客の首を抱へ込み、コンパクトの鏡を、客の鼻先に突きつけるのであつた。
『ほら、旦那のこゝに、白い条が額にあるでせう、皆さんも御覧よ、これが露満国境なの、髪の毛のある方は森でロシヤだわ、顔の方は満洲国でせう、耳の方が蒙古でせう』
 雛太は客の額を、可愛い指でつゝきまはした。
『もうよいよい、白状する、いかにもわしは露満国境から帰つてきた許りぢやでな、帽子の日焼がまだとれんで、すぐ○○と判りをるわいハハハハ―』
 客と芸妓達は笑ふのであつた。
『然らば小生の職業を当ててみい―』とその時一人の洋服の客はいふ。
『あら、旦那は、ブルジョアでせう』
『ブルヂョアはよかつたね、露骨な奴だなあ、いかにもさうだよ』
 雛太はチラと姉芸妓に眼をやつてから
『姉さんが教へてくれたのよ、洋服のチョッキの釦が掛らない位、肥へていらつしやるお客はブルヂョアだつてさ―』
 なるほど客はチョッキの下釦が三つもはずれてゐるのであつた。
『いかにも、わしは肥へてゐるでのう、近頃の女の子は眼が利くわい』
 製鋼会社社長氏と、今一人の官吏氏とは、太つ腹に哄笑した。
『芸者諸君、さう喰つて許りをらんで、何か余興をやらんか、陸軍記念日の兵卒達の余興より、おぬし等は本職だから、うまいぢやらう、槍さびがいゝぞ』
 と客は芸妓達に所望するのであつた、爾来この三人組は『資本』にやつてきた。
 来る度に、着流しの客の額の日焼の跡ははつきりし、他の客のチョッキの釦は、かゝらなくなつたやうだ。
『おい、芸妓ども、列べッ、敵前渡河ぢや』
 芸妓達はならび、三味線を掻き鳴らし、黄色い声で歌ひ出した。
『浅い河なら―膝までめくる』
 選ばれた踊り子雛太は、しぶしぶ立つて舞つた、兵士が敵前の河を渡るしぐさをするのであつた。
 歌の文句は浅い河から、だんだんと水の深いところに進んで行つた。
 歌につれて雛太はお座敷着の裾を両手でつまみ、それをめくり上げながら次第に白い脛を現していつた。
『勇敢にせんか、敵前ぢやぞ』
 水は膝頭よりだんだん深くなつていつた、途端に雛太は白い脛を飜しぺたりと坐り、わつと泣き出した。
『旦那、あなたが、浅い河を踊りなさいよ』
 半玉は手にしたハンカチを客の顔に投げつけた、客はムット怒つた顔で怒鳴つた。
『馬鹿ッ、上官に反抗するか、上官は敵前渡河は馬に乗つてやるもんぢや―』

  村会の議題『旦那の湯加減並に蝋燭製造の件』

 電燈も、飯米も、肥料も、種子もない。抽象的な言ひ方をすれば、百姓だけがゐる村へ、都会から××政党の農村視察の旦那が訪ねて来た。
 柔らかい、白い手の平を愛嬌よく振りながら、旦那の姿が、村へ入る峠へ現れた。村長、村会議員、青年団、処女会、子供、飼犬、等、村の土臭いもので、足をもつてゐる、すべてのものが出迎へた。もし旦那の所属してゐる政党と、村との関係とを説得することが出来たら、熊蜂や、蚯蚓や、山雀も出迎へに引出しただらう。村長の気持を打ちあければ、畑の物や、山の木の葉をさへ、旦那のいらつしやる方角へ、一枚一枚、葉を向けたいほどに敬意を払つてゐた。
 村長の家に旦那が旅装を解いた頃、村民は二手に分かれた、一組は村の背後の山へのぼつて行つた。村の附近の山は、全くの禿山であつたので、三つも谷を越えて、一同は山奥へ薪木をとりに行くのであつた。
 もう一組は、急斜面のふかい谷底へ、各自が桶を手にして水汲みに降りて行つた。
 二組はなかなか村へ帰つて来なかつたが、間もなく百姓の群は戻つてきた、百姓達はガヤガヤと大騒ぎをしながら、村の原始的な共同風呂である大釜へ、新鮮な水をたつぷりと入れ、乾いた薪木を燃やした。
 釜の底へ、直接体が触れぬやうに、小格子の丸い敷板があつて、それを旦那は重い体で沈ませ、肩までひたるのであつたが、湯は旦那の体の容積だけ、ザブリとこぼれた。
 百姓は、あわてゝ手桶をもつて村の谷底へ大騒ぎをしながら、水汲みに降りた。
 旦那は村で五衛門風呂と言はれてゐる大釜へひたり、後頭を釜の縁にかけ、両眼をつむり『ふん、ふん』と鼻の先を鳴らしながら、一人一人から村の状勢をきいてゐた。
 間もなく旦那は恍惚状態に陥つた、全く身動きをしない、ただ『熱い―』と一言いはれる、百姓達は驚いて、傍の桶の水を、ザアと釜にあけた、そして次の用意のために、水汲隊は谷底へいそいだ。
 旦那は今度は『ぬるい―』とただ一言感想を述べた、百姓達は驚ろき、釜の下の火を掻きたて、薪を加へ、薪とり隊は山奥へ木をとりにでかけた。
『旦那に粗相のないやうに、するだよ』かういひながら村長は折々風呂小屋を覗きに来た、そして湯気の中に陶然と眠つてゐる客人を見て、満足さうに引返へしていつた。
 旦那は懶さうに、『ぬるい―』と云ひ、癇癖さうに『あつい―』といふだけで、百姓達は、水を加へ、火を焚くことを繰り返へし、果ては混乱状態で、薪木隊と水汲隊とは、山と谷とを騒ぎまはつた、その混乱は遂に村会まで開かした、議題は『旦那の湯加減の件』『蝋燭製造の件』であつた、湯加減の件は議論が沸騰し、殴り合つた、旦那の熱い、ぬるいの一言だけで、村中の人が動員されるのは嫌だといふのだ、『蝋燭製造の件』は満場一致可決した、そしてすぐ製造にとりかゝつた、旦那が身動きする毎に、あふれる湯を樋に依つて、一方の大桶に導いた、間もなく桶にはビンツケ油か、バタのやうな旦那の脂肪が沈澱した、それは真甲鯨の脂肪を精製して造つた鯨油蝋燭よりもつと立派なものであつた、村会では燈火のない村民の各戸へそれを一本宛配給した。
 次いで村会は開かれた、議題は『旦那を風呂から上げる件』であつた、今度は若い無産派議員の意見で、水汲隊を解散、之を焚木隊に編入、一切釜に水を加へず、さかんに火を焚きつけることに可決した、それを実行に移した、旦那はいつぺんに釜から飛び上り、裸の儘で片足の足の裏を両手で掴み、ふうふう、ふきながら、片足で村中をとび廻つた。

  一婦人の籐椅子との正式結婚を認めるや否や

 ある婦人が、某青年と恋愛に陥つた、当時青年は失業中であつて、何等の経済的な力が無かつたために、婦人はその青年との結婚後の生活に不安を抱き、この事に関して、之を或る親しい一小説家の処に、相談のために彼の下宿を訪れたのであつた。
 婦人は下宿の小説家の部屋に、足を一歩踏み入れるや否や、其処に金文字の洋書、小説評論集の類と、立派な籐椅子、机を発見し、殆んど本能的反射的に斯う言つてしまつた。
『突然ですけれど、妾、あなたと結婚をしたいの、それで今日御相談にあがつたのだわ』
 部屋の中の状態では、彼女の恋人より、この小説家がはるかに経済力があることを感じたからであり、殊に立派な籐椅子が魅惑的であつた。
 かくして彼女の結婚の最初の予定は変更されたのである。
 翌日から彼女は籐椅子と机とを占領し、夫たる小説家は、チャブ台をもつて執筆机にかへた、意外な事には夫の小説は少しも売れない、その書く小説も余りに純文学的であり、性格もまたこれにふさはしく全く非生産的であることが判り、彼女は激しく幻滅を感じ、従つて夫婦喧嘩の絶え間がなく、金文字の蔵書も、電燈代、瓦斯代にかはり、机も売り払ひ残るところの最後のものが籐椅子一つとなつた時、彼女は離婚を小説家に求めた。
『貴方のやうな、才能なしと一緒に生活してゐても、着物一枚買へやしないわ』
『さうか、別れるのは異議は無いがね、夫婦の愛といふものは、さう簡単に別れていゝものかね――』
『夫婦の愛――、可笑いわ、最初から貴方を愛してなんか居なかつたの』
『ぢや、なぜ結婚したのかね』
『貴方が、もつと経済力があると思つたからよ、お部屋が立派だつたし、本もあつたし、籐椅子なんかおいたりしてね』
『ぢや何んだな、籐椅子と結婚したわけだな』
『さうよ、ついふらふらとね、まさに籐椅子と結婚したんだわ、貴女は籐椅子より機能はたらきが無いぢやないの』
『よし、判つた、ぢや籐椅子を呉れてやる、出てゆけ』
『出て行くわよ、立派に女だつて一人で働いて生活してゆけてよ、妾、籐椅子と結婚するわよ』
 区役所婚姻係であるところの本官は――かゝる理由に基くところの、この婦人の籐椅子との正式結婚の届出に接したのであります。
 婦人の意識的なる産児制限は、婦人から母性を喪失せしめ、生活力無き夫との生活は、性生活を営まぬところの、籐椅子との生活と何等変るところなし、とするこの婦人の考へ方は、将来に於ける婦人の結婚に対する、絶望と不安を招来し、真鍮製の大根オロシとの結婚、木製バイオリンとの結婚、石油コンロ、洋服箪笥との結婚等の傾向を示すだらうこと明らかであつて、本官は経済的逼迫が刺戟するところの、あやまれる婦人の唯物思想への転心を憂へるものでありまして、これら無機物との婚姻を、正当として届出を受理するや否や、籐椅子に公民権を与へることの可否に就いて、上司の賢明なる指示を望むものであります。

  『飛つチョ』の名人に就いて

 汽車は崖の間を過ぎ、トンネルを潜り、広い平野を突切らうとして走つてゐた。客車には一団の土工夫の群が乗つてゐた、彼等は東京と函館とで募集されたものだ、彼等は言ひ合はしたやうに髯を蓄へてゐた、彼等の髯は濃く、毛も太い、型も様々で威厳を競ひ合ひ、談笑の間にも、指をもつてそれぞれ個性的なヒネリ方をした。
 彼等にとつて髯は余程重要なものに違ひない、車の中程に腰かけてゐる若い東京から来た男一人だけが無髯であるといふ意味で、この男を他の者よりも惨めに、弱々しく見せた。
 汽車は北海道の奥地へ、奥地へと走つてゐたが、間もなく轟々と水響のする小さなS駅に着いた。
 土工夫の一行は、この小駅に降り、せまい構内を出るとすぐ足下にある谷に懸つてゐる鉄索の釣橋を列をなして渡り、樹林の中に分けて入つた。一行は吉本組××地区飯場で、水力電気の土工工事に働くのであつた。
 若い無髯の土工夫は、飯場に着いてから、三日目に逃げ出さうと企てゝゐた、彼の逃走を感づいてゐたのは、モッコの相手である『げん』といふ男であつた。
 源はまるで弾丸を繋ぎ合したやうな、美事な褐色の体をし、彼の太い八字髯は、大将級の髯の威厳を示し、部屋を圧倒してゐた。
 土工達の争ひが、互に顔を突出しての啀み合に際して、彼等は手を出すに先だつて、まづ髯をもつてセリ合ふ、髯の優劣や誇張的なヒネリ方で勝負のつくものはつけ、つかぬものは、体力で打ち合つて血を流し勝負をつけた。
『おい、若いの、今度部屋に来るときは、俺のやうな立派な髯をはやして来いよ――』
 と源はモッコの引繩を、ヒョイとしやくりあげて、先棒担ぎの若い無髯の土工の力の負担を少くしてやるのであつた。
 四日目の日没頃、この無髯の若い土工夫は逃げだした、二里程逃げて追手に捕まつた。彼はその時隠し持つてゐた猫イラズを、追手の眼の前で嚥み、更に御丁寧にも、釣橋の上から身を躍らして、真逆様に谷の激流に身を投げこんだ。
 一方そのドサクサに『源』が『飛つチョ』した、『とびつチョ』とはいなごのことで、土工夫仲間では脱走の事をさう呼んでゐる、この蝗のやうにみごとに部屋を跳躍してしまつた、さうした出来事は山間の一飯場の出来事として、それを秘密にするとか、しないとかいふ事柄に関係なしに、完全に秘密を保たれた、何故といへば彼等にはさうした出来事は、日常茶飯事に属してゐたから。
 それから幾日目かに、意外にも二人の土工夫は小樽の市街でばつたり行き合つた。
 源は若い男の幽霊ではあるまいかと驚ろいた、若い土工夫は確に猫イラズを嚥みはした、然し彼は次いで渓流の過の中で、鱈腹水をのんだのであつた、そのために却つて腸のなかを洗滌したことになり、岸に流れついて助かつたのだといふ、源はふんと首を傾しげ成程と合点した。
『俺は何処の土工部屋にも、ものの一ヶ月とは働いて居ない、前金踏倒し、飛つチョの名人さ』
 源はかういつて、これから周旋屋へ行き、別な土工部屋へ売られて行くのだといふことであつた、逃走五度さうして舞ひ戻つて来れば、周旋屋から逃走奨励の金時計を褒美に貰へるのさ、と彼は得意になつて八字髯をひねるのであつた。
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監房ホテル


  遙か彼方を眺むれば

 彼は監房での人気者であつた。手を膝の上にのせて頭蓋骨を外して手で捧げてゐる恰好で茫として坐つてゐた。係官に名前を呼ばれて立ち上るときはふだんは茫としてゐるのに似ず機敏で本能的な早さがあつた。
 彼は栃木県の或る町で空腹に襲はれた。彼は盗るものを物色した、彼の執拗な視線の先方に紙芝居屋の自転車が一台、原つぱのまん中に立てゝあるのをみつけた。紙芝居屋は子供を集めに何処かに行つたのだらう、彼は紙芝居の箱の抽き出しから、一円二十銭の金を鷲掴みにした。
 金が入ると彼は身内に勇気が蘇り、曇り日の街を非常な速度で走り抜けた。街端れの屋台にとびこんで、一杯十銭の安ウイスキーを十杯煽つた残りの二十銭で丸パンを買つて、ひよろ/\とした足どりで其処を出た。
 紙袋の中からパンを一つとりだして、アングリと噛みつき鼻声で笑ひ出した。彼の心は幸福なのである。
 宅地を横切る時、意外な敵が現れた。酔つた視線の中の敵とは、彼の足の脹脛ふくらはぎを目がけて土埃りをあげ、頸毛をふくらませて突進してくる一羽の牝鶏であつた。彼はいつぺんに悲しくなり、同時に非常に驚ろいた。全く大胆さを失つて、『あゝ牝鶏が一体どうしよう』と叫び飛び上り、後を見ずに逃げだした。心の中では、牝鶏に追れてゐるといふ自分が何か忍び難いものに感じられた。
 ゆるやかに水が流れてゐる幅の広い河の岸に辿りつき、ボツボツと大粒の雨が水面に斑点となつておちるのを、一つ一つ眺め浅瀬を対岸に渡つた。
 古損木こそんぼくになりかけの一本の見上げるやうな高い樫の大木の下までくると彼は猿のやうによぢのぼり始めた。樹の頂上に近い手頃な枝にまたがつて、さて牝鶏めはと下を見おろしたが、牝鶏の影も形も見えなかつた。
『牝鶏でも、巡査でもやつて来い』彼は叫んで強く胸を打ち、遠方に視線をとばすと、意外にも彼の希望通りのものがやつてきた。豆粒程にも小さい黒い点が、腰のあたりで、にぶく白く光ることで剣を吊してゐることがはつきり判る。然も一人や二人ではなく七人の警官が遠くから走つて来るのを発見した。彼は少しも驚かず懐中から紙袋を出してパンにムチャクチャに噛りついた。その時雨は土砂降りとなつて、樹の上の彼は頭から雨を浴び、腹の中まで雨を流しこみながら、腰を枝に押しつけ、片足を前の枝にかけ、右手を帽子の庇の格好に、遠くに向つてかざしながら大声で怒鳴つた、彼の声は渋い良い声であつた。
『牝鶏でも巡査でもやつて来い』かういつてから、頬を伝ふ雨が口に入るのを、こくり、こくりのみこみながら、
『雲か霞か、遙か彼方を眺むれば――絶景かな、絶景かな、春宵一刻千金だア、ちいセイ/\、この五右衛門の眼からみれば価万両、てもよき眺めぢやなアー』と石川五右衛門が、南禅寺の山門から春の日うかうかと屋根に上つて京都を眺めて叫んだ、『楼門五三の桐』の歌舞伎のセリフを一くさり叫んだ。大木の幹の周りを警官がとりまくまで、彼は陶然として豪雨の中で見得をきつてゐた。監房ホテルの中で係官の註文によつて、お人好しの彼は大真面目で再演するのであつた。監房では彼のことを『遙か彼方』或ひは『雲か霞か』といふ綽名で呼んでゐた。

  思索的な路の歌

 彼の家の方角に通ずる路は坦坦としたアスファルトの軍用道路で、彼はこの道が好きであつた。勝手なことを想像して歩るく楽しみから『思索的な路』と彼は名づけた。深夜の路ををりをりバスがヘッドライトの光りで路上を撫で廻し、運転手が空バスを悪戯半分操縦して通るほど人通りが稀であつた。
 彼はその夜も文学の会に出て、したたか酔つて夜更の路を帰つてきた、『司会者は、頭がいゝぞ――。』と彼は呟いた、会費僅か六十銭で酒が出て、とにかく板のやうではあつたが肉の揚げたものが一皿ついた。会では二人に一本の割にビールが出たので、女客や、飲まない客の分までのめた。酒好き党は、結局禁酒党の会費の分にまで割込んだかたちで一本乃至一本半の酒がのめた。
『おゝなんていゝ風だ』と彼は路を千鳥に縫ひ歩るきながら、三本目の電柱毎に立止つては、立つたまゝ冷たい柱に額を押しつけ、そこで二分間づゝ居眠りをして、前にすゝむのであつた。
 ふと見ると広い道路の真中どころに、馬の二倍ほどある黒い動物がじつと彼のやつて来るのを待ち構へてゐた。彼は恐怖しながら接近した、黒いものの形は動物の黒い影絵シルエットで影から三米離れたところに怪物の本体がゐた。
『なんてちつぽけな奴だい―』
 彼は怪物を軽蔑した、手の平にのつかりさうな一匹の小犬がクンクンと泣きながら立つてゐた。電燈の光りの加減で倍加されて影が道路に映つてゐるのであつた。
『やい、小犬奴が、わが王者の御通行をはばむとは―さては我に害心ありと見えたり』
 足を踏張り芝居がかりで、彼は小犬の鼻先へ親指を突き出し『怪物消えてなくなれッ』ととりとめもないことを呪ひ出した。
 小犬はだんだんと拳ほどの大きさから鶏卵の大きさに縮まり、ピンポン玉ほどになり、つひに姿を消した。彼は胸をそらし、陽気になつて大きな声で歌をうたひだした。
 不意に道路脇の暗がりから、若い警官が現れてきて呼びとめた。
『ちよつと待ち給へ、君はいま何の歌をうたつてゐたかね―』
 彼はいま歌つてゐた許りの歌を忘れてゐた。若い警官は改まつてたづねた。
『君は現在の政府に不満をもつてゐないかね』
 不意のメンタルテストに狼狽した彼は、かうした場合その場で率直に答へることが却つて有利だと思つたので
『今から約二年前は、政府に不満を抱いてをりましたが、今は全く感謝そのものでありまして―』
『よろしい、ところで一寸本署まで来てくれ給へ』
 彼は思想課調べ室へ呼び出された。
『おゝ、××君、君は革命歌をうたつたさうだね』
 彼はなんて冤罪だ―と心に怒つた。絶対に歌つた覚えはないのだ。思索的な路で、どうして非思索的な革命歌なぞを歌ふといふことがあらう。
 何心なく係官の机の上の紙きれをみた、彼を連れて来た若い巡査の書いた報告書がのつてゐた。
『×月×日午前一時頃××道路に於て警戒中泥酔せる男が放歌高声にて「彼等は常に我等の行動を監視し」と不穏なる歌を歌ひつゝ通行せるを連行せり』云々
 と書かれてあつた。彼に記憶が蘇つてきた、さうだ、ステンカラージンの歌をうたつた筈であつた。

ドンコサックの群に湧きにしそし
『我等』は飢ゆとも『彼等』は楽し
それをもあなどる妃の笑顔
それを見てステンカラージン醒めしは『悲し』

 義賊ステンカラージンは仲間の規約を無視してペルシャ王妃を救つた上二人は恋の悦楽に酔ふ、部下のドンコサックがこれを怒りステンカラージンは反省して、妃を海に投ずる筋の民謡を歌つたのであつた。
 闇の中で警戒してゐた若い巡査は、歌の中から、『我等』と『彼等』とを拾ひ、『悲し』といふ歌の言葉を『監視』と解釈し、三つ結びつけて名調子に『彼等は我等の行動を常に監視し』と即興的に纒めあげたものにちがひなかつた。
『ひとつ君、その歌を見本に歌つてみい―』
『はつ、よろしう御座います』
 彼は取調べ室で体を左右にゆすぶり、指でタクトをとり『ステンカラージンの歌』を陽気にうたつた。
『この歌はレコードにもあります、革命歌などと大それた、神かけて嘘は―』歌ひ終ると平謝りにあやまるのであつた。
『まあ、どつちでもいゝ、当分此処へ泊つてゆくんだね』と係官はいふのであつた。

  下駄は携帯すべからず

 失業者珍太は二条の白く光つて続いてゐる鉄道線路伝ひに三十里歩るいてきた。
『東京へ着いたらしいな』と彼は半信半疑な儘で呟いた。大踏切りにやつてきた、彼の前に広い街路が展かれた。
『御苦労さまでした―』彼は自分に向つて、他人に言はれるやうな言葉をつかつた。珍太にとつては自分も他人も区別が判らない程にいまは空腹と疲労で精神が混乱してゐた。線路脇や、線路の枕木の上を歩るいて、彼が此処までやつてくる途中で何回となく線路工夫に叱り飛ばされたことだらう。彼は馬鹿叮嚀に工夫に向つてお低頭じぎをし、工夫の職業とその監督権に顔をたてゝやるために線路を離れて柔順に丘から降りた。工夫の姿が見えなくなると以前のやうに線路の上にのぼつて歩るいてきた。
 珍太は引ずるやうに長着物を着て、チビた下駄を履いてゐた。それに彼にふさはしくないやうな綿入れの下着を着てゐた。この女物の綿入れは途中で畑の中に立つてゐた案山子かかしを物色して、案山子のなかで一番富裕らしく着込んだ奴から、綿入れを強奪して、それを着込んだのである。
 手頃な木の枝を拾つてステッキ代りに、体を支へて歩るいた。極度の疲労で痩せた両足は痲痺状態になり前のめりに前進し、奇怪なことには、ステッキが足より先に疲れたやうに思へたので、珍太はステッキを手にもつ苦痛から、これを投げ捨てた。失業者達が線路伝ひに彼と同じやうに東京に向つて歩るいてゆくのであつたが、彼はきまつて後から来た旅行者に追ひ抜かれた。彼はぼんやりした声で、
『兄弟、東京に着いたら、何処か植字工の口があつたらみつけておいてくれろ―』
 と親しさうに話かけた、珍太は誰彼の見境なく、自分の名も言はずに、東京に向ふものに就職口を頼むことで、何かしら気が楽になつた。彼等は珍太にかういはれると、いかにも就職の世話の自信有りげに頷いて通りすぎた。
 プツリと音がして珍太の右の下駄の鼻緒が切れた。彼は綿入れの下着の襟の一部を裂いて下駄の鼻緒をすげた。三里程やつてくると、今度は左の下駄が沈黙のまゝ、意地悪さうにずるずると横緒がぬけてきた、すると彼はその場にじつくりと腰を下ろしてすげにかかつた。
 東京へ入る街道へ差しかゝつた時今度は右の下駄が横緒が両方一度にプツリときれてしまつた。彼は暫らく下駄を引ずつて歩るいてゐたが、鼻緒の切れた下駄を履いて歩るくことが、およそ馬鹿々々しいことに思へたので、下駄をぬいでこれを懐中にしまひこんだ。
 片足は下駄、片足は跣足のまゝ街道を歩るいた。
『一寸待て、何処から来たか』街道口の交番で、珍太は立番の警官に呼び止められた。彼はくどくどと自分の失業の境遇を述べた、警官はただ一語『下駄を履いて歩るけ―』と命令的にいつた。
 柔順に彼はまた懐中から片方の下駄を出して足の先に突かけて交番の前を通りすぎたが、どう考へても鼻緒の切れた下駄を履いてあるく気持になれなかつたので、また懐中にしまひこんで片足を跣足で歩るき出した、すると今度は左の下駄も鼻緒が切れたので、これも懐中にしまひ今は全くの跣足となつてしまつた。
 まもなく東京に入つて街の交番の前で彼は以前と同じやうに警官に呼び止められた。弁解も徒労であつた、彼はそのまゝ本署に連行され監房ホテルに泊らせられたのだ。もう彼是二十日間は泊つてゐるだらう、彼はどうしてホテルに自分が泊らせられてゐるか理由をみいだすのに困つたが、係官はその理由をはつきりと知つてゐた、即ち『下駄は携帯すべからず履いて歩るくべきものなり』といふことであつた。

  カーテン

 夜とは昼が汚れて真黒になつたものだ。泥棒の体を暗黒中に隠すに都合がいゝ。然しまた夜は彼等の敵が、眼の前に立つてゐるといふ危険がそれに伴ふ。掻攫ひ尾島伝吉は、夜は稼ぎにゆかない、夜は怖い、どういふ風の吹きまはしか、珍しく彼は夜の稼ぎに出掛けた。
 そこはお邸街であつた。塀を乗り越えて邸へ忍び込まうとし、塀に手をかけると、塀ではなくて建物の壁であつた。裏口から忍びこまうとして木戸にさはると、裏口ではなく玄関に面した木戸であつた。伝吉にとつては大いに昼間の掻攫ひと調子が違つた。
 彼は次第に大胆になつた。暗闇を恐怖し、昼の明るさを恐れない、いつもの調子に戻つたことを、彼自身で気がつかなかつたのだ、掻攫でなく、大盗になつた自信で、一番明るい煌煌と電燈のついた邸に向つた垣根を身軽に乗りこえて、芝生に立つた。みると大きな応接間の細長い窓が『お前が忍びこむには丁度いゝ窓の高さだよ』と彼を手招いてゐるかのやうだ。窓下にすり寄り、両開きの窓を開き、垂れてゐるカーテンに両手で掴まり、のびあがり部屋の内部を覗いた。室内は彼を落胆させるに充分であつた。見掛けは立派な応接室の内部がガランとして貧乏人の住居を想像させた、盗るものといつては一つもない。彼はしばらく考へてゐた。彼の考へは間違つてゐた、実は室内は贅沢に整理された空虚さであつて、大きな金縁きんぶちに何やら青い色が詰めこまれた洋画や、書棚、安楽椅子など、何れも高価でないものはなかつた。
 彼にとつてこの種の調度品は、かさと重みがありすぎた。彼は結局書棚の上の銀色の装飾的な花瓶を失敬することにきめ、窓から室内に辷り込まうと努力したが、窓は案外の高さで、徒らに彼はカーテンを手で引つぱるだけであつた。彼を不意に驚ろかしたのは、突然何やら重いものが首と胸とを抱きかゝへたことで、彼は驚ろいて尻餅をついた。よくみると彼があまり激しく引張つたので、金具の鐶が千切れてカーテンが、彼の首に落ちてきて、女がショールをかけたやうに首のまはりに引かゝつた。彼は張り切つてゐた力が抜け、何もかもが嫌になつた。カーテンをショールのやうに首にかけたままで、ふらふらと夢遊病者のやうに邸内を出た。彼がその邸をものの数歩も出たと思ふと路は商店街に通じてゐて彼を明るい灯のもとに押し出してゐた。
 夜の明るい人通りの中に立つて、すべての恐怖は去り、つくづくと彼は自分の首にかけてゐるカーテンなるものを見た。絨毯のやうに重い、赤と黄と黒との混ぜ織りで、黄は金色に見え、赤は朱に見え、芝居の緞帳よりも、もつと美しい立派なカーテンであることが判つた。
 このカーテンを腰に捲くと横綱の意匠廻しに見え、斜め肩にかけると立派な僧正に見え、胸にもつてくると飾りのついた軍服にもみえるやうな性質をもつたカーテンだ。彼はそれを首にかけて歩るき続けたが、巡査講習所から昨日出た許りの新参の警官でも彼の胸を飾つてゐるものに、異様を感じないものはあるまい。彼は間もなく捕へられた。調書の上では彼はカーテンを盗んだことになつてゐるが
『俺はけつしてカーテンなど盗んだ覚えはない、カーテンの奴が、俺の首へひつかゝつてきただけだ―』と彼は心の中で調書を強く否定しつゞけた。

  掏摸と彫像

『世間ではよく、トンとぶつかられたと思つた途端に、電光石火に財布を掏られたなどといつてゐますが、嘘ですよ、いくら職業しやうばいでも、さうはいきませんよ』と彼は得意で掏摸にも充分な研究的態度が必要なこと、生ママしい職業ではないことを力説するのであつた。
 この掏摸も監房ホテルに入つて来たところをみると、何か彼がいふ研究的態度に欠けたところが、彼自身にあつたに相違ない、それは大いにあつた、××デパートの何階の何番売場の何処の棚にある大島絣は、場違ひものであつて、本場の大島絣は何階の何処そこにあると、このデパートは彼にとつて自分の家のやうに品物の置場所をよく知つてゐた。
 或る日六階に上つて行つた、××県産品陳列会が特別に催されて、反物、陶器、貴金属類がならべられてゐた、掏らうといふ気持もなく、ぼんやりと売場の間を歩るいてゐると、其処に彼をたいへん怒らしたものがある。
『こいつのつらは、何といふ傲慢そのものだ』
 彼はその品をみるとムラムラと反抗心が湧いてきた。それは一見純金に見え、実はメッキに違ひない高さ一尺程のナポレオンの全身像であつた。胸を張り、上眼勝に遠くを睥睨し、強く地の上に長剣を立てゝゐる容子は天地自然や人間の運命を一人で背負つてゐるやうな不遜さがあつた。その彫りの硬さが良い出来ではなかつたが、その彫りの硬さや拙さが却つて人間の意志を忖度しない、たゞ立つてゐればいゝだけの置物の境遇にふさはしい、頑固さを表現してゐた。彼は妙にこの彫像に腹が立つたので、慾得を超えて、本能的にそれを奪らうと心にきめた。
 計画的な最初の手を彼はそつと彫像に触れたが『これはいけない』と直感した。
 彼と横斜めの位置に一人の男が立つてゐて、確にデパートの監視員にまちがひなく、然もじつと彼の挙動に注意してゐた、彼はその日は帰つた。
 一晩中彼の頭の中の策戦本部は活動してゐた。翌日彼は売場にやつてきた、意外なことだ、前日にはなかつたのに、立像の台に三本の針金がかけられてゐて、堅く陳列台にとりつけられてゐた。
『ははあ、俺がねらつてゐるのを感づいたな―』
『よろしい、こつちだつて手はあるさ―』
 彼はぷいと子供のやうに不機嫌になつてその日は帰つた。
 翌る日、彼はデパートの地階金物売場で、小さな道具を一つ盗んで、二重マントの下に隠して、六階にあがつて行つた。
 彼はマントの中から、盗んできた針金切断用のペンチを出して、立像の台の針金を一本だけ切つて、その日は帰つた。翌日も一本、翌る日も一本切つた。彼はどうして一度に三本の針金を切らないのだらう、仕事は毫末も急ぐ必要はなしと彼は考へたからで、三日かゝつて切つたことは、針金さへ彫像の台についてゐれば、その一部が切断されてゐても安心してゐるといふ、間抜けな監視者に油断させるためでもあつた。また殆んどママ人監視の中のこの針金切断の仕事は、瞬間的である必要があつたし、遂あせつて二本、三本を切つて立像の前で時間をかけて失敗をすることを極度に怖れたのであつた。
 四日目最後の決行に出かけた。そして至つて容易に台の上のナポレオン立像は、彼の二重マントの袖の下に隠された。
『やい、ナポレオンの立像奴、貴様の運命は、俺の手の中にあるんだ、家へ帰つて俺は貴様を鋳潰してやらうわい』
 金の立像を抱へて昇降機エレベーターにのつたが、その下降につれて陶然と掏摸といふ職業的な恍惚感にひたつた。六階から下りて、四階で沢山のお客がエレベーターに鮨詰めに入つてきたが、不幸な事に彼の二重マントが込み合ふ客の体に揉みあげられて、マントの袖がめくりあがり、其処から燦然として立像が現れた。人々の視線が、ハッとそれに注がれたとき、彼は心に『失敗しまつた』と叫んで素早く立像を持つてゐた手を離してしまつた。
『掏摸だ――』と叫んだ者が一隅にゐて、その男の腕が乗客の肩の上から、彼の襟首にのびてきた。彼はその男が前日自分を見詰めてゐた監視人であることを知つて慄然となつた。乗客は混乱に陥り、エレベーターの底を、ナポレオンの立像はゴロゴロと音をたてゝ走りまはり、人々の足がそれに触れると、人々は恐怖の叫びをあげて踏みつけながら、他人の足の間へ、この不快な迷惑な盗品を移さうとした。掏摸と監視人との格闘と乗客の苦しさうな叫びをのせて、エレベーター・ガールの気転は、監視人が完全に掏摸を捕へてからでなければドアを開けることをしなかつた。
『癪にさはりましたよ、でもわしはナポレオンの立像をうんとふんでやりましたよ』と彼は監房で退屈なとき同宿の人々に失敗談を語るのであつた。

  小為替

 工場地域の窪みに沼のやうに水が溜つてゐた。そこの沼の蘆の繁みに一人の少年が隠れてゐた。彼は自分の隠れてゐる場所から見えてゐる車輪工場の寄宿所の窓の灯が暗くなるのを待ちくたびれてゐるのであつた。
 寄宿所の灯は暗くなつた。少年は雀躍りして、小脇に抱へてゐた新聞包みを地べたにおろし、中のものを出した。謄写版刷のビラ数百枚で、それにはかう書かれてあつた。
『労働者諸君、欺されるな、ファッショ組合××会のダラ幹をボイコットしろ、君等自身の争議委員を選べ―』
 少年は悪戯児いたづらつこらしく、このビラを眺めてにやりにやりと笑ひながら、忍び足で、めざす建物に接近して行つた。
 建物の窓に近づいて中を覗くと、小さな電燈がともつてゐた。寄宿所の内部に約二百人の労働者が、乱雑ながらも、数列に布団を列べて眠つてゐた。壁には争議のスローガンや、組合本部からの激励文、ファッショがかつた文字を書いた張紙などが、壁に所狭いまでに張られてあつた。
 少年は暫らく人々の寝息をうかがつてゐたが、大胆にひらりと窓を乗り越えて内部に忍びこんだ。爪先であるきながら『静かに―静かに―』と自分に自分で言ひながら労働者の枕許に一枚一枚ビラを配つた。
 彼は配り終ると、窓を乗り越えて、戸外に出て、ほつと吐息をついた。
『あいつらは、明日の朝、驚ろくだらう、そしてダラ幹共は叫ぶだらう―反対派が忍びこみやがつた、みんなビラをよこせ、ビラを読むなア』
 少年は愉快さうに口笛をふきながら歩るきだした。
失敗しまつた、紛失なくしちまつたア』と不意に叫んだ、次の瞬間に、それはビラと一緒に労働者の枕許に配つてしまつたに違ひないと確信した。
 今朝郷里の阿母おふくろから少年の処に『五円』小為替がついた。阿母おふくろが郷里の繩工場で手を冷めたくして稼いで送つてくれた金だ。それがいま懐中にない少年は走り出した。彼は工場の窓を乗りこえると、人々の寝息を窺ひながら、叮嚀に自分が配つたビラを一枚一枚ふつてみて、おふくろの小為替がビラに密着くつついてゐないかどうかを調べだした。
 一つの布団でふいに男が顔をあげて、きつと少年をにらみつけて
『誰だつ―貴様は―』
 と低い声でいつた、失敗つたと思つたが、少年は
『誰でもない―静かにしろ、おれは共産党だ』その男はくるりと布団をかぶつて、底の方へゴソゴソと芋虫のやうにもぐつてしまつた。
 ビラを調べてゆくうちに、ふと小為替はシャツのポケットに入れてあつたことを思ひ出した。果してポケットに入れてあつたので、彼はそのとき危険な場所を去りだした、少年はあわてゝ寝てゐる男の頭をいやといふ程足で踏みつけた、男の叫びと部屋中の混乱を背後にきいて、窓から戸外にむかつて暗がりの中に飛び下りると、少年の飛び下りた尻が爆弾の炸裂するやうな大きな音をたてた。それは少年が飛び下りた窓の下が鶏小屋のトタン屋根で、彼はそれを踏み抜き、ギャア、ギャアといふ鶏の狼狽する声と、争議の籠城組との騒ぎの叫びとで、深夜のこの工場地域に住む人々をみんな起き出させてしまつたことを知つた。
 暗黒の中を少年は、ひた走りに仄明るい夜空をめがけて走りだした。走り乍ら少年は可笑しくてたまらなかつた。『共産党だ―』と出鱈目を言つてやつたら、ゴソゴソと布団の中に恐縮して頭をひつこめた男のことを思ひ出したのである。少年はふと手にビラが数十枚残つてゐることに気がつき『こいつもついでに張つちまはう』と呟き、そして暗がりの手にふれたところの壁に一枚を張つた。どうやらその塀は長くつづいてゐるらしいので、少年は嬉しくなつて、どんどんと急スピードで次々と塀に張つて行つた。本能的な快楽がこの少年を捉へて無我夢中でビラを張つて行つた。壁は何処までもつづいてゐたがこの永遠につづく壁への闘ひを楽しむやうに少年は張つていつた。最後の一枚を張り終つたとき、手元のぼんやりした明るさで、そのビラを張つたところが壁の尽きたところで、しかも彼が張つたところは壁ではなくて、大きな木の看板であることを知つた。彼が張つたビラの板に浮き上つてゐる文字を読みくだして、少年は呆きれてしまつた。永遠につづく塀、その塀つづきのところにかかつてゐる板には『××警察署』と書かれてあつた。そして少年の背後には一人の背の高い警官が立つてゐて、怪訝さうに、警察の門柱にビラを張つてゐる少年の手元と顔とを見較べてゐるのであつた。
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犬はなぜ尻尾を振るか


 東洋電機製作株式会社の社長蛭吉三郎氏は信念の人であつた、たいへん直感的人物で物事の要領を捕へるといふ点では、社員も頭を下げぬわけにはいかなかつた、例へば社長は事務机の前に三人の社員を呼んで、それぞれ事務上のことを、三人同時に報告させ、自分は眼を細くしながら、そはそはと聞いてゐるとも、聞いてゐないとも判らない焦躁状態で、机の上の書類を両手でがさがさと掻きまはした、それでゐて三人の事務員の報告を一度にちやんと聞いてゐるといふ才能があつた。
『××君、××会社へやる品物の見積りはあれぢや、いかんぢやないか――』
 さう叱つておいて次の社員に向つて、
『さうか、よろしい、ぢや君すぐ電話をかけて先方を呼び出して――』
 三番目の社員には、『困るね、君もうすこし研究してそれから報告をするやうにしてくれ給へ――』といふ調子であつた。
 人の話に依れば蛭氏の私宅には、電話が便所の中にまであるさうだ、彼は左手で受話器をはづし耳にもつて行き、右手を別な方面に動かしながら、ふと厠の中で思ひ出した用件に就いて、間髪をいれずに相手を臭いところに呼び出すといふ活動的なエネルギー主義者であつた。
 ある夜、蛭氏は少量の酒で、したたか酔つた、顔をつめたい風にさらし、珍らしく悠長な気持で自宅へ帰りつつあつた、そのとき蛭氏は自分が歩いて行く数歩先に、一匹の母犬らしい腹の皮のたるんだ、骨組みの大きな犬が、どこかへ向つて忙がしさうに行くのを発見した。
『おい、どこへ行く、忙がしさうに――』
 と蛭氏は犬に呼びかけた、しかし犬は答へない、犬の黙答に対して、蛭氏は敏感にそして直感的に、
『鼻の向いた方に幸福があるにちがひないぢやないか――』
 と犬が自分に答へたことを感じた、蛭氏はこの種の反抗的態度を好まなかつたから、非常に憤慨した、握りに金の飾りのあるステッキの先でトンと地べたを突いて犬に向つて叫んだ。
『君、はつきりと言ひ給へ、むぐむぐ口の中で言つてもわからんぢやないか、報告といふものは、もつと明瞭に、事務的に言はんと困るぢやないか――』
 そのとき犬はハッと立ち止つた、犬は体をゆすぶり、尻尾を大きく激しくふつた、犬が人間に対する追従の度合をはかるバロメーターであるかのやうに、尻尾は車輪のやうに蛭氏の前で、大きくまた小さく廻転した。
『よろしい、帰つてよろしい、また明日あす――』と蛭氏は手短かに犬に向つて言つたが、その時、蛭氏は非常に内心感動したのだ、彼は洋服のポケットから慌てゝ手帳をとりだし、暗がりの中で乱暴に鉛筆を走らして、手帳にかう書きつけた。
『犬はなぜ尻尾をふるか? 疑問解決す、明朝より全社員尻尾をつけて出社の事――』
 弾性のある針金を芯にして、これに真綿をぐるぐるまき、天鵞絨ビロウドの袋をかぶせてできた、男社員は黒、婦人社員は赤、の尻尾は配られた、これを男社員は洋服のズボンにつける、丁度肉体では、原始時代人間が猿であつたといふ痕跡がかすかに残つてゐるあたり、尾※(「低」の「にんべん」に代えて「骨」、第3水準1-94-21)骨の箇所に尻尾を装置させて出社させたが、家を出るとき男社員は、さすがに尻尾をふつて街を通ることに人間的恥辱をかんじた、そこで尻尾の先端に糸をつけて、上着の下でそれを首のあたりに吊つて、街で尻尾が現れる事を極度に怖れて出勤しなければならなかつた。
 女社員は尻尾をスカートの上に装置するのだが、女達もスカートを二枚重ねてはいてくることで、尻尾は二枚のスカートの間に隠すことを考へだした、混みあふ電車の中で、つい糸が切れて上着の中から尻尾が飛び出す危険があつたが、さうしたラッシュ・アワーの場合には男社員も婦人社員も、尻を両手又は片手で押へて電車に乗り込むといふ気苦労がともなつた。
 蛭社長は社員と話しながら、じつと社員の尻尾を観察することを忘れなかつた、尻尾がなかつたとき社員の感情の動きのわからなかつた欠陥は除去され、尻尾をつけたことで社員の感情の伝達がすぐ尻尾に現れたため、社長は社員達がそれぞれ個性的なふり方で尻尾をふるのを眺め大いに満悦した、大ふり、小ふり、さまざまな尻尾の振り方に依つて、社員の勤怠や、成績に関するメモをとることもできた、社員達にとつて然しさまざまなうるさい出来事が起き出した。
『あいつ、××課長奴、社長の前であの尻尾のふり方をみたまへ、振るわ、振るわ、大車輪ぢやないか、あんなに振らんでもネ』
『出納部の××君を見給へ、社長の前のあの醜態をさ、おや感極まつて尻尾を股の間に捲きこんでしまつたよ――』
 といふ噂をしあふのであつた。
 蛭社長は尻尾の装置をもつて、事務能率上の画期的創案なりとして非常な自慢であつた、或る日蛭氏は社長室から何心なく、会社の屋上に眼をやつた、丁度昼休みの時間で、沢山の社員が明るい日光を浴びて街をみおろしながら嬉々としてゐるのであつた。
 そのとき社長は、一人の婦人社員が猛烈に尻尾をふつてゐるのを発見した、傍に一人の男社員がゐて、それに答へるやうに、しきりに大振りをしてゐるのであつた、気がつくと屋上の男女の社員は、どれもみな猛烈に尻尾を振り合つてゐるのであつた。
『おゝ、わしは判らなくなつてきたぞ、人間はなぜ、あんなに尻尾をふるか――といふことぢや、新しい謎が出現したわい、然しぢや、問題は、問題の始まりに引戻して考へてみるといふことが、最も聡明なことぢや――』
 蛭氏はその日は鬱々としてそのこと許りを考へてゐた、仕事もさつぱり手につかなかつた、なんて人間の本能なんてものが、正直に尻尾に伝はるもんだらう、醜態なことだ、しかし尻尾を装置させたのは、このわしぢや、いや人間に尻尾のないのが最大の幸福かも知れない――と蛭社長は自問自答しながら帰途についた、こゝろはいつかの犬に逢ひたいといふ考へが大部分を占めてゐた、意外なことには、前日の同じところで、犬とばつたりと逢つた、犬は例によつて鼻の向いた方に幸福があるかのやうに、忙がしさうに歩いてゐた、蛭社長は声をつまらし、しやがれ声でせはしく犬を呼びとめた、
『君――犬はなぜ尻尾をふるか――』
 すると犬はうるささうに、ちらりと人間をふり向いたが、かう答へた。
『尻尾が犬をふれないからさ――』
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犬は何故片足あげて小便するか


 東邦宗徒連鎖聯盟会議が開かれた、席上高齢者で且つ人格者をもつて自他共にゆるされてゐる宮川権左ヱ門氏の提案『犬は何故片足をもちあげて小便をするか、これが防止の案』は当日の会議で議題として最も宗教家の議論の中心点となり甲論乙駁賑やかであつた。
 問題提出の動機といふのは、主として宗教の威厳に関する問題であつた、問題は数年前開かれた第二十三回の会議の折にさかのぼらなければならない、神官新道氏が自宅の塀に通行人があまりしばしば立小便をする、殊に白昼は勿論のことだが、夜更けになどやられると丁度塀に接近したところに寝室があつたために、通行人がそこで用を達する尿の響は、眠つてゐるこの宗教家の脳の襞に直接用をたされたやうな堪へ難い不快感と屈辱を感じた、彼は一策を考へだし、宗教家らしく人間の尊厳に訴へてこれを防がうとした、半紙に墨黒々と『このところ、犬の他小便すべからず―』と書いて塀に張り出してをいた。
 効果は良いやうであつた。この神官の家が明るい街が急に切れたところの淡暗い路地にあつたために通行人はその角まで膀胱に力をいれてきて横にかけこんで、いつぺんに膀胱をゆるめるといふ状況にあつた。然しこの貼紙以来、通行人達は人間的な尊厳と万物の霊長であるといふ自覚を失ふまいとして、また犬でありたくない気持からこの貼紙を読むと神官の塀を避けたのであつた。
 然し問題は却つてそのために紛糾してしまつた、といふことは、通行人達は彼の塀は避けたが、ものの三間とも歩るかずに、その神官の隣りの家の玄関脇の塀には何の貼紙のないことを発見したからそこで用を足してしまふのであつた。
 悪いことには、神官の隣家といふのはこの界隈でも喧まし屋で有名な仏教家の古河氏の家の塀であつたために、古河氏は隣家の貼紙が却つて自分の家の不浄化に拍車をかけた形になつたことを非常に憤つた。
『実に怪しからん、あの貼紙の文句は何事だ、成程彼奴の貼紙によつて冷静なる人間は小便はせんぢやらう、しかしわしは好かん、犬の他小便すべからずとはその文句自体が人間を全体的に犬と同じ観方でみてゐるといふことを証明しちよる、よろしいわしは人間ぢやない、わしは犬ぢや、わしが小便をしてきてやらうわい――』
 みるからに頑固さうな仏教徒は茶褐色の顔を脂肪でぎらぎら光らせながら、隣家の神官新道氏の塀の貼紙をぬらすほど高いところから堂々と用を足して引揚げてきた、悪いことにはそれをまた新道氏が見てゐたのであつた。
 仏教徒は引揚げてくると、早速半紙に赤インキで鳥居の図を描き、その鳥居の図の中に『小便無用』と書き自分の塀に貼り出した。
 これは『犬の他』の貼紙と同じやうに利き目があつたが、『べらぼうめ、こんな絵をかいて脅かさうたつてびくともしやしねいんだ、』と泥酔漢などはろれつのまはらない舌でわめき立て、却つて反抗的に用を足したし、また犬はかういふ問題には何の関係もなく、平然として塀を汚すのであつた、問題は更に進展した、仏教徒の書いた鳥居の図に関して
『鳥居を描くとは何事だ、われわれは彼奴が我々の奉する神の神格を故意に汚しとると思ふのだ実に怪しからん、全宗教界の問題として宗派院に訴訟する』
 と神官はかんかんに怒つた、この係争は続いた、問題はそして今回の東邦宗徒連鎖聯盟会議にも持ち出されたが当日の決議としては
 人間的立場からみて、人間を対照としての貼紙『犬の他小便すべからず―』はすこぶる人間自身に対して穏当でない、鳥居を描くこと勿論よろしくない、この二種の貼紙は両家に於ても撤回すること、尚最近これを真似て一般がこの種の貼紙を貼つてゐるのを多く見かけるから、これは宗教婦人会で会が総出で都市の隅々をかけまはつて剥とるため奉仕週間を作ること。
 もう一つの問題は通行人の膀胱の緊張を調節し緩和するためには、この都市にはあまり共同便所が少ない、この共同便所の少ないことは人間の居宅に近く放尿するといふ結果になるから至急政府に向つて共同便所増設の請願猛運動を起すことに決議された。
『それと同時に諸君、犬の共同便所も敷設することを政府に請願すべきと思ふのであります――』
『議長それは反対であります、国家にはそれほどの経費はないと思ふのであります』
『議長へ申し上げます、我輩はこの問題は犬がなぜ片足をあげて小便をするかといふ問題の解決が一切を解くと思ふのであります(拍手)つまり――もし犬が片足をあげないで用を足すことができれば、塀には毫末も引かゝらず直に汚物は地に吸収されるのであります、これに対して何か諸君に良い案が有りませんか、ありませんか、ありませんでしたら私が案を申します、我々宗教家は街の犬が小便を催しさうな、気配を知つたならば、そのために用意されたところの腰掛けに車を附したものを人間が引いて行つて、犬の前に運びます、犬はその上に腰をかけて用を足すでありませう、つまり西洋風な一種の便器ですな』
 そのとき議長は机の上をカンと拳でうつてから案の提出者に質問した。
『たいへんよろしい案のやうですが、しかし問題がこんがらかつたやうであります、あなたの最初の問題を解く鍵、犬はなぜ片足をあげて小便をするかといふことを御説明願ひます』
『議長先をお聞き下さい、私は熟慮の上で犬のためにこの案を持ち出しました、我々が車付き西洋腰掛け便器を運ぶ理由はつまり何故犬は片足をあげて小便をするかといふことでつまり両足一ぺんにもちあげられないからであります』。
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犬と女中
  ――犬と謎々のうち――


 心理学者吉植吉三郎博士の家庭では女中を解雇した、この女中といふのは、博士夫人が良い女中がゐなくて困ると、出入りの植木屋の顔をみるたびに[#「たびに」は底本では「たびた」]ママをこぼすので、植木屋が自分の郷里の新潟から呼びよせたものであつた。女中が解雇されてから三日目に植木屋がやつてきた、夫人に向つて
『わたしもあの娘だけはお邸に勤まると思ひましたので、それに田舎とは申しましても、とにかく土地の補習学校も出てをりますし、さうまるつきりの愚か者とも思ひませんでしたので』
 と植木屋はもみ手のやり場にこまつた、しきりに尻をもぢもぢして恐縮するのであつた。夫人は植木屋に気の毒さうな表情をした、
『実はね、あの娘は、新聞を読むのも、主人の気に入りませんでしたの――』
『ほう、新聞を読むので、御暇でございましたか、すると何かお仕事の最中にでも、終始よむのでございましたか――』
『いゝえ、仕事はまじめでしたの、なにせ主人が新聞を拝見する前に、あの娘が新聞をみるといふ悪い癖がありましてね』
『――成程』
 植木屋は、さつぱり理由がわからなかつたが、女中の解雇の理由にもいろいろあるものだと心に感心した。
 吉植博士は、寝床の中で、二種の新聞にずつと眼を一わたり通してからでなければ、起床しないといふ習慣であつたが、博士は新潟からきた女中が、朝早く起きて、玄関の鍵を外しに出たとき、玄関先に突立つて、新聞をひらいて、ざつとそれを読み、それからもとのやうに折畳んで、主人の枕元にもつてくることがわかつた、そのことが博士の自尊心をたいへん傷つけたのであつた。
 大速力をもつてまはる新聞輪転機、それに噛まれる巻取紙には、片つ端から文字が転写されながら、白い河のやうに流れだす、一切の機械的な操作で刷られる、その処女的な新鮮な、軽い油の匂ひと紙の匂ひをプンと匂はす、それを寝床の中で嗅ぐといふ博士の毎朝の楽しみは、新潟から女中がきてからぶちこはされてしまつた。
 購読料を払つた主人の権限を、購読料も払はない使用人ふぜいが先ず犯す――、
『実にたまらん、それに折目はめちや、めちやだ、近頃のわしに紙や活字の魅力的な匂ひは、みなあの女中奴に横領されてしまつた、実に不快そのものぢや――』
 博士の不満に夫人は女中に向つて
『ネイヤ、お前も新聞も満足にない田舎にゐたので、さぞ新聞を読みたいでせうが、新聞は御主人の学問のことでとつてゐるのです、だから、わたしも遠慮して、なるべく読まないやうにしてゐるほどなのですよ――』
 といふのであつた。丁度その時、博士は外出から帰つてきた、夫人はそれをしほに、女中に向つて、話を一層大袈裟にもつてゆかうとした、
『ねい、貴方、いまもネイヤに新聞のことを話してゐたのですが――』
 博士は、夫人には答へずに、いかにも苦々しい表情をして、でも鷹揚らしく、
『うむ、新聞のことか、いや大した問題ぢやないさ――』
 とうそぶくのであつた。
 その時、女中はいかにも言い難さうに体の向きを博士の方にかへながら、おづおづとしやべるのであつた。
『旦那さま、ではわたしの見る新聞を、別にとつていただきたうございます、お代はお給料の中から、引いていただきまして――』
 博士の顔色はみるみる変りだした。『何といふことだ、わしより先に読むなといふと、今度は自分で購読するといふ、――然も女中はたしか月五円やつてゐる筈だ、そのうちから払ふとは、いや大胆な話だ――』とこゝろに呟やいた。夫人は
『お前が別に新聞をとるの、まあ、それも悪くはないわね、でもそれでは角が立つといふことになるわ、お前も東京に出てきてみれば、いろいろ学問もしたいでせう、しかしねネイヤ、学問といふものは、べつに新聞からばかりとはかぎりませんよ、利巧になるといふことは、何も新聞を読まなくてもなれることですよ、御覧なさい、うちの犬のプーリを、教へもしなくても、両脚を使つて、上手に玄関や、勝手の戸をあけるぢやありませんか――』
 その言葉に今度は女中が、自分と犬と比較されたことで、何か胸のあたりがムカムカとして、気が済まなくなつて、嘔吐気さへもよほしてきた。
『でも奥様、プーリはほんとうに困ります、お台所の戸をあけましても、ただの一度だつて閉めたことは御座いませんの、そのおかげで空巣にわたしの下駄を盗まれました』
 女中は俄然、ママ弁になつてゆくのであつた、でも彼女の眼頭がしだいに熱くなるのであつた、彼女が顔をあげたとき、彼女はメソメソと泣いてゐた。
『ええ、奥様、旦那さま、(かういつて呼吸をのみこんでから)わたしはプーリより馬鹿でございます――』かういつて、主人夫婦に何か飛びかゝるやうな格好をした。
『ぢや、旦那さま、なぜプーリは、なぜ犬は新聞を読まないので御座いますか――』
 犬は読まない、しかし自分は読めるといふ立場を強調しようとして、こんな珍妙な問を発したのであつた。
 博士はぐつと詰つた、そして額に眉をけはしくよせた。
『何、犬が新聞を――、わしはまだ、それは研究しとらなかつたよ、アハハハ』
 博士は哄笑した、夫人も博士に声を合せて笑ふのであつた、最初、新聞のことは大した問題ではないと空うそぶいた博士は、いまはこの犬が何故新聞を読まないのかと、愚問を発して主人に反抗する女中を追ひ払はなければ気がすまなくなつた。
 女中は帰国した、夫人が毎朝新聞を博士の枕元まで運んできたから、新聞に就いては何事も起らなかつた筈であつた、こゝに不思議なことが起つた、といふのは、博士はたつたいま夫人の運んできた新聞の折つたまゝのものを寝床に仰向いて眺めてゐた、すると新聞の折が崩れてゐるのだ、そんな日が幾日もつづきだした、何者か、毎朝自分の見るのに先だつて新聞を開いてみるのだらう、悪魔のやうな女中の奴はゐないのだ、するとあいつに変つて新しい悪魔が忍びこんだのか、――博士は或る朝、またも折目の崩れた新聞を夫人から受けとつた、寝床に仰向いたまゝ、博士は何か秘密を探るやうに、新聞を開いた、とたんに怖ろしく大きなクシャミがつづけさまに出て、同時にまるで槍をもつて不意に突かれたやうな痛みを、両眼にかんじ、半こはれの機関銃を発射したやうに、クシャミは続けさまに出て、博士は両眼の痛みをしつかりと両手で押へ、クシャミをしながら、部屋中を狂ひまはるやうに駈けあるいた、夫人が襖をひらいて驚ろいて其場にやつてきた、夫人は博士を抱へるやうにして台所に連れてきて、水道の水で眼を洗滌し、ハンケチで幾度も鼻をかんでやることで、眼と鼻の苦痛は漸くにして去つた。
 博士の不機嫌な顔を見ると、その顔は夫人が結婚以来始めてみかけるやうな異状な不機嫌な顔をしてゐた、博士は無言のまゝで再び自分の寝床に引帰して行つたが、寝具の傍に投げとばされてある新聞を、怖ろしいもののやうに、再びそつと開いてみてゐたが、その時博士の表情は異常な驚ろきで痙攣し、殆んど口がきけないものの興奮にとらはれたのであつた。
『あゝ、プーリが、プーリが――』
 博士はかう叫ぶと新聞を鷲掴みにして夫人の部屋にやつてきた、博士は再度『あゝ、プーリが、プーリが』と繰り返し、無言のまゝ『静かにしろ、興奮するな――』といつた意味を示すために、両手で夫人を制しながら、眼は其処に坐れと命ずるのであつた、博士はまるで爆発物でも扱ふやうに、畳の上の新聞を開き、そこを博士の太い人さし指で強く指して『夫人にそこを見れ』と注意するのであつた。
 みると開かれた新聞には、おびたゞしい動物の脱毛が散らばつてゐた、夫人の直感は、すぐそれが老犬のプーリのものであることが容易にわかつた、いまこの脱毛が主人の鼻を襲つてクシャミをさせ、眼玉を襲つて涙を出させるやうな強激な事件をひき起こしただけに、夫人の神経も最極度に鋭敏なものになつてゐたのだらう、解雇した女中が博士に喰つてかゝつた反駁の一言がさつと電光のやうに頭をかすめて通つた。
『ぢや、旦那さま、プーリが、犬が何故新聞を読まないので御座いますか――』
 といつた女中の声、そのとき博士は
『何、犬が新聞を、わしはまだそれは研究しとらんよアハハハ――』
 と哄笑した声を思ひ出した『あゝ、プーリが新聞を読んでゐる――』と夫人はその場にぺたりと腰をつき、まるで悲しみにちかい驚ろきの表情で、手で強く顔を発作的に押しつけ始めた、博士は部屋の中を、あちこちと同じやうに往復をしてゐたが、まもなく夫妻は時が経つといつしよに、幾分気持がをちついてきた、
『プーリが毎朝新聞を読んでゐるといふことは、到底信ずることができない、何のためにそれをするのか、女中が新聞を読むまだそれはわかる、犬が読む、それは判らん、奴等はどういふ文化的な欲望からそれをやるのだろうわしはそれを確かめなければ――』
 と博士は言つた、
 博士は翌朝、まだ暗いうちに、寝室からさつと這ひ出した、玄関には犬のプーリがゐる、親戚から貰つてきたもので、もう彼是十歳にはなるだらう、プーリの、犬小屋は、最初庭にをいてあつたが、彼は歳をとるとともに寒がりになつた、それに用心のためとで玄関の中に犬小屋をいれるやうにしたのであつた、博士はそつと玄関に向つて忍びあるきながら、猫が眼鏡をかけて新聞を読んでゐる図のことを思ひだした
『老犬だから、或はあいつも化けるころかも知れん――』
 博士は玄関のタタキを見下ろすために、障子の傍に接近し、人さし指を口でしやぶつて、その指先をぬらした、その指で障子紙を押してそこに穴をつくり、じつとそこから玄関のタタキを眺きをろした。
 非常に待ち遠しい長い時間であつた、まもなく新聞配達が、玄関の戸のすきまから新聞を差入れる、カサ/\といふ音がしたと思ふと、殆んどその紙の音と同時に、犬小屋の中で寝藁の騒ぐやうな音がした、プーリがごそごそと小屋の中から現れた、博士は呼吸を凝らしながら、プーリの動作を見逃すまいとして、穴からのぞいてゐた。
 犬は高慢さうな顔を高くあげて、周囲をひとわたり眺めまはした、それから片足で新聞を軽く押へ、片足でちよい、ちよいとさはることで、新聞の小さな畳みは、わけもなく大きく拡げられた。
 次は、犬にとつても困難な仕事らしかつた、犬は第一面の広告欄をちらりと一瞥したきりで、その第一面の紙の端に口を近よせ、まるで長いことまるで接吻をしてゐるやうな姿でゐた、するとぱらりと大きく頁が開かれるのであつた。
 犬は強く空気を口で吸ふことで、一頁一頁開くことをやつてゐるのだ、――と博士は観察を下した、プーリは第三面の政治欄は、殊に熱中的に熟読してゐた、何かの仕事を読んで感動したときだらう、片足をもちあげて頭をぼりぼりと引掻いた、すると頭から脱気ママが新聞の上にばらばらと落ちるのであつた。
 犬は大部分をこの政治欄を読むことに費やした、三面記事のトップを、軽蔑的に、ちらりとみるかと思ふと、下段の黒枠つきの死亡広告を読むときは、犬は一層フフン、フフンと軽蔑的に鼻を鳴らすのであつた、ラジオ欄、娯楽欄は黙殺、家庭欄は興味があるらしく、料理に関する記事は熱心に貪るやうに読んで、こゝでは感極まるといつた声でクンクンと鼻を鳴らすのであつた、博士が後に調べて判つたのであつたが、その日の新聞の料理献立表を彼は愛読してゐたらしく、そこには『豚肉シチュー煮、白菜ごま酢』の取合せ献立と『牛肉ソーテ』の料理法がのつてゐた、
『肉を五切に切りわけ、塩、胡椒をふり、フライパンにバタをとかし、強火でその肉を焼く』云々と書かれてゐたから、プーリはそこのところを読んで、鼻を咽喉とをたまらなくなつてクンクン鳴らしたものと思はれる。新聞面のうちで全然顧みない欄があつた、それは四面の就職欄であつた。
 博士は障子の穴から強い視線をプーリの動作に注いだ、犬は一通り新聞を読み終ると、もとのやうにそれを畳みだした、実に上手に畳むのであつた。博士は咳やいた、
『「犬はなぜ新聞を読まないのか――」といふ、女中の質問に、わしは答へることができなかつた、アハハと笑つただけであつた、ところでプーリは文字を解してゐるので、しかしすべての犬が文字を解してゐるとは信じられない、いやいや或は人間の知らない処で、すべての犬共が新聞を読み、時局を論じてゐるのではないだらうか――』
 そのとき新聞を畳み終つたプーリは、新聞をその場にをき、犬小屋に再びもぐりこむために立ちあがつた、博士はもうたまらなくなつて犬にむかつて質問を発しないわけにはいかなくなつた、博士の学者的良心が眼を覚ましたのだらう、
『すべての犬はなぜ新聞を読まないのか――』
 と叫んだ、プーリは穏やかな表情をして、じつと博士の覗き穴をみつめてゐたが、その顔は、曾つて博士がプーリの表情の種類を知つてゐる限りでは、全くたゞの一度も見かけなかつたところの尊厳で、厳粛にみちた顔であつた、そしてプーリは低い声で何事かを答へた。
 この聴きとりにくい声を聴かうとして博士は焦らだつた、
『先生――、犬はなぜ新聞を読みませんか――』
 と博士はプーリに向つて、再び質問を発した、途端に博士はすべての精神も肉体も財産も肉親もあらゆる所有を失つたやうな寂寥に襲はれて、『先生』とはなんといふこと葉だ、しかもそれは犬が博士に向かつて言つたのではなくて、博士が畜生である犬に向かつて言つた言葉であつた、博士は学問的主従関係の上でも、先輩にむかつて、いまだかつて××さんとは呼んでも、『先生』といふ敬称で呼んだことは、ただの一度もなかつたのであつた、犬に向つて先生――といふ言葉が無意識に飛び出してしまつたのだ、博士に『犬はなぜ新聞を読まないか――』と女中風情に研究の主題を与へられながら、それにはすぐ答へられなかつた上に、いままた犬畜生を先生と呼んで自己を卑しくしてしまつた、学問の権威を失墜させた、『あゝ』(四字不明)[#「(四字不明)」は本文中の注記]から思ふと、ススリ泣きに似た感情が博士を捉へたのであつた、博士はこゝを千どとさながら畜生の学徒にむかつて人間の学徒が戦ひをいどむかのやうに、戦士のやうな努力を、犬に対する質問のために払はうとしてゐた、すべての犬が果してプーリのやうに文字を解してゐるとは限らないといふ、犬が文字を読むことを否定しようとして、博士は覗き穴から叫んだ。
『先生、犬はなぜ新聞を読まないか――』
 と博士は覗き穴から再度プーリに質問を発した、そのとき犬は明瞭な声で、
『文字を知らないからさ――』
 とぶつきらぼうに答へた、このとき博士はとつぜんどこかに隠れてゐた人間の優越感と、権威とが目ざめたのであつた、博士はガラリと玄関の障子を引あけると同時に割れ鍋を叩くやうな大きな声で犬にむかつて吐鳴つた、
『この化犬め、出てうせろ――』
 するとプーリはみるも惨めに尻尾をくるりと尻の間に挾みこんだと思ふと、前肢で玄関の戸を開いて、出て行かうとしたが鍵がかゝつてゐて開かなかつた、博士は玄関の土間へ裸足のまゝとびをりて、ガチャガチャいはして鍵をはずして、戸を荒々しく開けひろげると、プーリは博士の股の間をするりとくぐりぬけてあわてゝ戸外にとびだした、さうして博士の家では、新聞を読まうとした女中と、新聞を読んでゐた犬とを解雇した、
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社会寓話集


  日本的とは何か―の行衛

 小さな島に沢山の猿が棲んでゐた、こゝの猿達は『退屈』といふことを知らない、なぜなら彼等は話題を失つても、叫ぶことを忘れないからだ、彼等はキャッ、キャッと叫んで一日中島の中をかけまはつてゐた、ところが猿達を沈黙させる大事件が起つた。
 或る日、大暴風雨が島を襲つた、草は倒れ、岩石は飛び、樹木は空に舞ひ上り、猿達の住居と遊び場は全く奪はれた。
 島には三本の樹より残らなかつた、一本の樹は風のために枝を裸にされて、たつた二本の枝より残らなかつたし、二番目の樹には二本の枝きり、三番目の樹には六本の枝、つまり、二、二、六計十本の枝より猿達のとびまはる枝がなくなつた、猿達はその暴風雨のことを、枝の数で呼んで、二、二六事件と言つてゐた。
 この事件があつて以来、猿達の叫び声は、恐怖のために身ぶるひし、一倍元気のよい大猿も低い声で叫ぶやうになり、わけて常日頃元気のない猿などは、沈黙してヒイヒイと泣くやうな声より出すことができなかつた。
 ところが突然一匹の猿が大声をあげて叫びだした。
『諸君、我々はあの位の暴風雨によつて沈黙してゐるべき時ではない、大いに叫び、大いに遊ぶ時である、我々は、我々の住んでゐる島がどんな島であるか、はつきりと知らねばならない―』
 そしてこの猿の音頭取りで新しい遊戯が始まつた。
 三本の樹を枝から枝へ、とび移る遊戯であつた、樹は波の打ちよせる崖際に生へてゐて、樹の根元は絶えず洗はれ、樹はいまにも倒れさうに傾いてゐた。
 遊戯といふのは、猿達は第一の木に飛び移るとき―『日本』と叫び、そこから次の木に飛び移るときには『的とは―』と叫んだ、そこから第三の樹に移るときには『何か―』と叫んだ、そして猿達はいり乱れて、『日本』『的とは』『何か―』と口々に叫びながら枝から枝へとび移つた。
 しまひには遊戯が混乱して、『的とは』『日本』『何か―』となつたり『何か、的とは、日本』と前後したり、めちやくちやな遊びになつた。
『諸君、落着きたまへ』と哲学的な猿が一同を見廻した、この状態では何時までたつても『日本的とは何か―』といふ疑問は解決できないから、一本づつの樹で、ひとつづつの問題を解かうではないかと提案した。
 つまり第一の枝に飛び移るときに『日本とは何か―』と叫んでしまふことであつた。次の樹では『的とは―何か』と叫ぶのであつた、が、三番目の樹に移つたとき『何かとは、何か―』と叫ばなければならなくなつたので、問題が一層わけがわからなくなつてしまつた。
 すると樹の下の波打際で、大笑ひをするものがあつた、猿達がこの笑ふものの正体をみると、それは波の音であつた。
 猿達は怒りながら質ねた。
『笑つたのはお前か、お前は何者だ―』
 すると
『僕は波だ、スペインの海岸からたつたいま君達の日本の岸へついた波だ』
 つゞいて次の波が言つた。
『僕は支那の海岸から、日本の岸へ着いた波だ―』
 つづいて浦塩から着いた波や、アメリカから着いた波達が答へた、この国際的な波の笑ひは次第に高くなつていつた。

  果樹園のアナウンサー

 果樹園に大きな望楼が立つてゐた、この望楼は、果樹園の所有者が建てたもので、この国でいちばん声のきれいな、声の高い男が選ばれて、沢山の給料をもらつて、雨の日も風の日も、この望楼の上に立つてゐた。
 このおしやべり男は大きな声で叫んだ。
『こちらは果樹園の望楼でございます、只今北風が次第に強く海の方から吹いてまいります、みなさん木が倒れぬやう御注意下さい―』
『こちらは望楼でございます、たいへん果実に虫がつくやうでございます、リンゴには紙袋をおかけ下さい―』
 時には
『××さんの柿が熟れました、只今三個落ちました、これは本年最初の熟柿でございます』
 などと大きな声で叫ぶのであつた。
 このお喋り男は雇はれるとき、主人との約束で、自分のことはしやべつてはいけない事、果樹園の主人が伝へてよいと許したこと以外にはしやべれない事になつてゐた、彼は自分のことは唖のやうに黙つてゐなければならなかつた。
 或る時、大海嘯つなみが突然やつてきた、果樹園の人々は狼狽して果樹園の背後の山へ避難したが、望楼の男だけは、最後まで望楼に踏み止まつてお喋しつづけた。
『みなさん、御安心下さい、只今水は二米減りました、××方面では三米、××方面では四米減りました、××さんの李の木が五本倒れました、被害は思つたより僅少であります、間もなく水が引くと思ひます』
『御避難の方へ申しあげます、××方面はもう大丈夫ですから随意お帰り下さい―』
 間もなく洪水は収まり、人々は果樹園に帰つてきた、人々はこのお喋り男の、英雄的な勇敢な行為と、果樹園への奉仕ぶりに感動して、勇士だと褒めた。
 ところが人々はこのお喋り男の真個ほんとうのことを知らなかつたのであつた、この男は勇士どころか一番の臆病者で、最初果樹園に水が襲つてきたとき、男は真先に望楼を駈け下りて、逃げださうとした、そこへ果樹園の主人がやつてきてこの臆病者を、望楼の柱に繩でしばりつけてから、主人は手にした鞭でぴしぴしと男の尻を引つぱたき、強制的に果樹園の安全なことをお喋りさせたのであつた。
 水が引いてから主人はお喋り男の尻を撫でてやつて『いや御苦労々々』といつて褒美の金一封を渡した上、新聞に勇士らしくかきたてさせたのであつた。
 果樹園の人々は後で事情を知つてから、この望楼男のお喋りすることを少しも信じなくなつた、なぜといふに男の傍にはいつも果樹園の主人がついてゐて、鞭で尻をうつて、果樹園の都合の良いことだけをお喋りさせてゐるといふことが判つたからであつた。

  百歳老人の話

 ある村に、何時の頃から生きてゐるのか判らないほど歳をとつた老人が住んでゐた。
 村の人々は、この老人を『百歳老人』と呼んでゐた、村随一の物識りで、村に何か面倒な事が起きると、村の人々はこの老人の住んでゐる村端れの家まで『如何したものでございませうか―』ときゝに行つた。
 ごたごたがどうしてもまとまらない時は、村長が老人を迎へに行つた、老人は長い竹の杖をついて出て来た。
 この竹の杖の節はくりぬかれて、中には薄荷水が詰めてあつた。
 老人は村の歴史をよく知つてゐて、村の騒擾ごたごたを捌く智恵を沢山もつてゐたが、年齢が年齢なので、ときどき胴忘れをすることも多かつた、そんな時老人は手にした竹の杖でトントンと地を突いてから、杖の中の薄荷水を、手の平の上におとして、それを額の上に塗つた、すると薄荷水はピリリと額と眼にしみて、この刺激で記憶がよみがへつてきた。
 ある時、村に騒動が起きた、それは村の鶏に羽虫が湧き、羽虫は鶏小屋から、鶏小屋へひろがつて行つた、村長は驚ろいて、百歳老人を迎へに行つた。
『はあ、御老体、大変なことになりまして、羽虫のついた鶏は、ひとまとめにして他の鶏と分けてありますが、なにぶん沢山の数なもので御座いまして始末に困つてをります、これは鶏小屋へ返へしたものでございませうか、ひと思ひに殺して喰べてしまつたものでございませうか』
 すると老人は
『わしが、ひとつ考へてみよう―』
 さういつて一間にとぢこもつて考へこんだ。
 だが鶏の羽虫のことを考へるよりも、年齢のせいで、老人は眠くてたまらないので、コクリ、コクリと居眠りを始めた、老人はあわてゝ杖をとりあげたが、あまり大急ぎで家を出てきたので、杖に薄荷水をつめて来るのを忘れてゐたので、これを額に塗つて、眠気をさますことも、村の歴史のことも、鶏の羽虫の駆除の良い名案も思ひ出すことができなかつた。
 何時まで経つても老人が、いゝ智恵を貸してくれないので、村長はこのまゝでゐては、羽虫が村中の鶏に伝染してしまふので、取敢へず一番羽虫の沢山ついてゐる鶏二十数羽を殺してしまつた。
 そして残りの鶏をもとの鶏小舎に帰して老人のところに行つた。
『いかゞで御座いませう、御老体いゝ智恵がございませうか―』
 ときいてみた、しかし老人はじつと考へこんでゐて答へない、あまり答へないので、眠つてゐるのかと思つて、ゆり動かしてみると老人は死んでゐた。
 それからこの村では、薄荷水を額につけなければいゝ智恵がうかばないやうな年寄からはものをきかないことにした、鶏に羽虫がついたときなどは、どん/″\と殺してしまふことに決めたということである。

  魚の座談会

 鎌倉の海で『蛸』を中心として、魚類精神を論ずる座談会といふのが開かれた、司会者は、とらへどころのないのつぺりとした理論を吐くことで定評のあるクラゲ氏で、論理を翻すことで有名なヒラメ氏、墨を吐くことで相手をごまかす常習者イカ氏、毒をもつてゐることを自慢にしてゐるが喰はないものにとつては少しも恐ろしくないフグ氏等、十五匹が蛸を中心として『魚類精神』を論じあつた。
 大体この催しは、この鎌倉のグループで発行してゐる雑誌『魚類界』の座談会記事をつくるのが目的で開かれたもので、魚達は勝手気儘にどれだけ泡をふいてしやべつても構はない性質のものであつた。
 この会での蛸氏の位置といふものは、なかなかデリケートなもので、一見議論はさかんなやうで、他の魚達が蛸氏の議論に喰つてかかつてゐるやうに見えるが、実は誰も蛸氏の議論を頭から押へるといふ力のあるものがなく、多くの出席者は、蛸氏の脚の一本づつをとらへて、その脚の先を捻る程度のもので、そのことで却つて蛸氏の位置が支へられ、また押へる方も蛸氏に捲きついて貰ふといふ安全さを利用した。
 蛸氏もまた心得たもので、如何なる場合にも絶えず論敵の肩に手をかけることを忘れず、一匹の子分が脚を離れても、必ず他の一匹を捉へてをくといふ蛸氏の腹黒さは徹底したものであつたが、それを知つてゐてか知らないのか、とにかくこのグループは表面甚だ仲の良いものであつた。
 座談会が終ると、一同に酒が出た。
『座談会も終つたからいゝが、実際こんなことは書いてもらつてはこまるがね―』
 などと身をふるはすことで深刻さうな電気ナマヅ氏が話を切りだすと、それはそれは面白い魚達の内輪話が始まり、さて酒が廻つてくると、話に拍車をかけて女の話やら、猥談やらそれはそれは賑やかになつた。
 次いで魚達のエゴイズムが酒によつて発揮されてくると、あちこちで悪口の言ひ合ひが始まり、怪しげなダンスが始まり、席は益々乱れてきた。
 蛸氏はグイグイと麦酒をあほり、傲然たる態度を示してゐたが、突然席の向ひ側に坐つて飲んでゐたカツオ氏の顔へ、蛸氏は手にしたコップの麦酒をかけた、カツオ氏はグッと癪に触つたが、酒の上のこととして勘弁し、鰭をもつて顔にかゝつた麦酒を拭つた、すると又もや蛸氏はコップの麦酒をカツオ氏の顔へかけた。
 度々のことにさすがの温厚なカツオ氏も、非常に腹をたて、さてその復讐の方法としてカツオ氏は、食卓の上の醤油の容器いれものをパッと蛸氏の顔にかけ、次にその傍の砂糖の容器をなげつけ、つゞいて酢の入つた容器を投げつけたので、蛸氏は醤油と砂糖と酢とをあびて、はからずも蛸の三杯酢ができてしまつた。

  国際紙風船倶楽部

 世界各国の紙風船の愛好家の集りに、国際パン倶楽部といふのがあつた、倶楽部では四年目毎に、各国順番で総会を開らくことになつてゐた。
 その日は各国からパン倶楽部の代表が集つて、紙風船を手でパンと叩きつぶしてその音を審査するのであつた、このクラブが何故国際性があるかといふと、世界各国の紙風船代表が、それぞれ紙風船の中に、自分の国の空気を封じこみ、その風船の口を目張りしたものを持寄り、会場でそれを叩きつぶして、風船が裂ける音響に依つて、各国の『自由の精神』の性質を知るといふ点であつた。
 第×回国際パンクラブ総会が開かれた、フランスからやつてきたクラブ員は、紙風船を手にして壇上に立つた。
『諸君、この風船の中に、私が入れて持つて参りました、フランスの風船の破れる音響について、或ひは諸君はその音響の余りに低いことに不満を覚えるでせう、然しながらこの風船の中の『自由の精神』はヒューマニズムと申しまして、決して音響が低いが故に、価値低いものではありません、将にその反対であります―』
 フランス代表は、かう弁解がましく一席述べてから、彼は掌の上の風船を力いつぱい叩いた。
 ところが風船は柔らかい生き物のやうに、グニャグニャしてつぶれない、彼は焦燥して床に風船を投げ、足で強くこれを踏みつけると、やつとボンと低い音がして風船はつぶれた。
 次にドイツのパンクラブ代表が、毛だらけの腕をめくつて、手の上にのせた風船を、力まかせに勢ひこめて叩いた、すると恐ろしい大音響を発した、ドイツ代表は得意満面
『斯くのごとく、わがドイツの風船は、自由の精神の声高いのであります』
 と周囲を見廻した。
 するとフランスの風船代表が承知をしません、
『議長、ドイツのクラブの風船の音は、真に自由の叫びではないと考へます、何故ならば、つまり風船の内容物である空気の叫びではなくして、風船の紙の裂ける音の高さであります…』
 ドイツのクラブ員は『違ふ、違ふ―』と怒鳴りだし、イタリーの代表もそれに加担し、果ては、ドイツとフランスとが取つ組合ひを始め議場は混乱に陥つた。
 議長の慰撫と、再審査の結果、フランスの代表に対しては、手で叩きつぶすべき風船を、足まで使つて踏みつぶしたといふ点で無効となり、ドイツの代表に対しては、ドイツの風船の音は、リベラリズムとしての空気の音ではなく、ファシズムとしての紙の音であると認められてケリがついた。
 日本からも、日本パンクラブ代表として、老詩人×氏が出席してゐた、彼は果してどんな音響を立てゝ、日本の風船を叩きつぶしたであらうか、日本代表はまもなく日本へ帰つてきた、そこで×氏の報告を兼ねた歓迎会が開らかれた。
 出発の時の馬鹿騒ぎに較べて、×氏の帰朝歓迎会は出席者も少なく見るからに淋しい集りであつた、席上意地の悪い批評家△△氏が卓上演説のとき、クラブ代表×氏にむかつて
『噂に依りますと、パンクラブ日本代表は、余り御老体であつたため、風船を叩きつぶす気力もなく、会場で醜態を尽した揚句、やつとの思ひで叩きつぶしたといふことですが―』
 と無遠慮に質問するのであつた。
 すると日本代表×氏は、やをら席を立つて、洋服の上着のポケットから、折り畳んだ風船をとりだし、それを一同に示しながら
『只今の御質問に対してお答へいたします、みなさん、私は会場で風船を叩きつぶすどころか、このやうに風船を折り畳んだまゝ持ち帰つた有様です、それは何故かと申しますと、日本にはこの紙風船にいれて国際的に持ち出すやうな『自由の精神』があつたでせうか、ありませんでした、だから私は風船にいれずに出席いたしたのであります―』
 と答へた。
 すると意地の悪い批評家はグッと詰つてしまつたが、席の一隅から議論がいつぺんにもちあがつた、若い批評家は立つて斯ういつた
『果して代表のいはれるやうに、我国に風船にいれるほどの一握りの自由の精神もないでせうか、もし代表があくまで無いとおつしやるなら、私は即座にあなたの手にしてゐる風船にそれを吹きこんでお目にかけませう、然しです、その風船はとうてい御老体が、遙々お持ちになることができない程、重いものでありませう―』といつて笑つた。

  若い獅子の自由主義

 森の中では、七匹の獣が選ばれて、森の政治向のことを支配してゐた、ところが選ばれた山犬閣下は自分の牙を磨くことにばかり熱中して、毎日のやうに歯医者通ひをしてゐたし、狼閣下はお洒落で、爪を磨くために、美容院でマニキュアばかりやつてゐる状態であつたから、さつぱり森の政治はうまくいかず、とうとう森中の獣達が怒つてしまつた。
 そこで七匹の獣閣下は辞任して、新らたに七匹が選ばれた、然しこれまで森では自分の身を飾つたり、自分の腹を肥やすことにばかり熱中してゐるといふ、身勝手な獣ばかりが選ばれるので、森の獣達が今度選ばれた七匹も信用しなくなつてゐた。
 七匹の獣達は自分達の信用を恢復させるために、そこで若い獅子を加へて、それを自分達の頭にした、この若い獅子はこれまで選ばれた獣達よりも、ずつと家柄が良かつたばかりでなく、たいへん自由主義者で、おつとりした性格で、もの判りが良いといふ評判がもつぱらなので、随つて森の獣達の人気も悪くはなかつた。
 或るとき一匹の穴熊が、森の政治向のことに関して、森の奥に若い獅子の住居を訪ねた、その時の穴熊の印象では、若い獅子は少しも自分の家柄を自慢したり、高ぶるといふ様子を見せない許りでなく、若い獅子手づから穴熊にコーヒーをすゝめたり、穴熊が煙草を吸はうとすると、獅子が自分のライターから、シュッと音をさせて火を擦り出して、穴熊の煙草に火をつけてくれる有様であつた。
『実に偉いもんだ、平民的だ、わしは感激したよ、若い獅子があれほど自由主義者だとは想像もしなかつたね、然かもわしが用件を済まして帰らうとすると、閣下手づからわしの汚い外套を持つてきて、わしに着せてくれたときには、恐縮といはうか、感激といはうか、実に感動したね―』
 と穴熊はすつかり昂奮して、獅子の自由主義を森中ふれまはつた。
 ところが、その穴熊がそれからかなり経つてから、若い獅子の家を再び訪ねたが、今度は前とは少しばかり様子が変つてゐて、獅子は何か不機嫌な様子であつた。
 穴熊は煙草をとりだして、もぢもぢしてゐた、それは獅子に煙草の火をつけて貰ふといふ光栄に浴したいからであつた。
 すると獅子は安楽椅子に横になつたまゝで
『穴熊君、わしが煙草に火をつけてやらう』
 と言つたので、穴熊は飛びあがるほど心の中で嬉しがつた、しかし獅子は椅子から立ちあがらうともしないで、あごで先方をしやくつてから『向ふの棚にライターがあるから、君こゝへ持つて来給へ―』と命令的に言つた。
 帰り際には『君、外套を着せてやらう、外套をこゝへ持つて来給へ―』といつた。
 穴熊は自分の外套を恭々しく獅子の傍まで持つて行くと、獅子は寝そべつたまゝで、いかにも面倒臭さうに穴熊に着せた。
 穴熊は森の小道を帰つてくると、ぱつたりと狐に逢つた、狐は皮肉さうに質ねた。
『穴熊君、やはり君の汚れた外套を、獅子の自由主義は親切に着せてくれたかね』
『いやこんどは調子が変だつたよ、着せてやるから、自分で持つて来いといつたんだ』
『殿様の自由主義なんてそんなもんだよ、機嫌や、風向きの悪いときには、用心し給へ、まあ自分の外套はなるべく自分で着るやうにした方がいゝね』といつた。

  奇妙な政治劇団

 政治劇を専門にやる劇団があつた、この劇団は芝居の上手な俳優達が集つてゐた。演技も真に迫つてゐて観客から見ては、舞台の上の俳優達が何処までが真個ほんとうに涙を流し、どこまでが空涙かわからぬほどであつた。
 ところで俳優同ママは、無類に仲が悪くて、舞台裏で絶えず喧嘩をしてゐる許りでなく、舞台の上にまで喧嘩をもちだし、芝居の演技最中憎いと思ふ相手役の足を、思ひ切り踏みつけるのがあるかと思ふと、力いつぱい本気で殴つたりした、然しさすがに名優揃ひなので、芝居の筋書だけはこはさなかつた。
 一方見物人は妙に俳優達の芝居が真に迫つてゐるので、感心をして見てゐるのであつた。
 俳優同志の仲違ひは、だんだん猛烈になつてきて、ついには道具方にまでそれが移り、道具方もそれぞれ二派に別れて、啀み合ひを始めた、道具方は背景を造つたり、打ちつけたりする金槌といふ武器をそれぞれ腰にさしてゐるため、劇団の騒動は荒つぽくなり、道具方が芝居の最中に、のこのこと舞台の上に出て行つて、芝居をやつてゐる憎いと思ふ俳優の頭を、金槌でぽかりと殴つたので、この政治劇団は一興業で二三人は死ぬといふ有様であつた。
 一方見物人はなにごとも舞台の上の芝居と許り思つてゐるので、舞台の上でそんな事件が起きても一向平気なもので、後からそれが本当に俳優が殴り殺されたのだと知つて驚ろいたほどだ。
 然し見物人もこの劇団のごたごたもたびたび重なると馴れてしまひ、少しも驚ろかなくなつてしまつた。
 或るとき俳優が出演中に、反対派の道具方が背景を打ちつけてをかず、わざと重い背景を倒した、背景の山は倒れてその下敷となつて一度に六人の俳優が圧し潰され、大変な騒ぎとなつて舞台裏まで丸見えとなつたが、見物人は平気な許りでなく『まあ、役者がゐる間は、芝居が続くだらうし、役者がゐなくなつたら劇団は潰れるだらう―』といつて見てゐるほど平気で、政治劇団の人々が次第に興奮してゆくのと反対に、見物人の方は益々冷静になつてゆき、見物人も殖えて却つて芝居が繁昌を始めたが、劇団側にしてみれば、俳優は少なくなるし、主役のなり手がなくなつて益々苦境に陥つた。
 次の興業にも、他の都市から嫌がる俳優を連れてきて主役に据ゑて舞台に立たした、今度の主役もまた背景に押しつぶされなければいゝがと俳優達が心配しだした、さりとて殺伐であつても劇団に道具方がゐなくては、芝居にならないので道具方を追払ふわけにもいかず困つてしまつた。
 なかにはいつそ道具方が腰にさしてゐる武器の金槌を取りあげ丸腰にしたら安心だといふ意見も飛びだしたが、道具方から金槌を取りあげたら、背景である国際都市も、背景である茫漠とした山野も、打ちつけることができなければ、背景なしでは芝居にもならないのでそれもできず、どうしたらいゝかと研究中だといふことで、奇妙な劇団もあつたものです。
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帽子の法令


     (上)

 米つきバッタの国では、お低頭をすることだけが、住民達の日常生活でした、毎年秋がくると、昆虫達の運命がかはるのでした、草の露の甘かつた味も、秋になるとしぶいにがいものになりました、少しの痛みもなく、とつぜん足が関節から離れて、地面にころがり落ちました、秋は彼等にとつて、とにかく毎年の例からいつて、ロクなことがなかつたのです。
 バッタたちは、しかし自分たちの運命を、すこしも考へてみようともしないのです、路であふと、おたがひに頭をさげること――それが彼等のたのしみの全部であつたからです。
 米をつくやうな格好で、たがひに幾度も頭をさげ合ふ、その動作の間に、意味もない常識的な挨拶の言葉をはさむのでした。
「秋になりましたわね――」
 と一匹のバッタが頭をさげました、彼のいふやうに、そのとき周囲は秋になつてゐたのです、山を見ると、自然が木々の葉を、よくも念入りに、一枚一枚丁寧に紅く染めあげたものだと感心させました。
 秋の景色に、夏の気配がのこされてゐないといふ意味で、その季節の変り方が、あんまり完全すぎて愚かしいくらゐで、夏の名残がすこしはあつてもいゝのに、と思はせました。
 季節の変り方は冷酷でした、しかしバッタたちは、それを感じようとはせず、ただペコリとお低頭をして口先で
「秋になりましたわね――」
 といふ、すると他の一匹が答へて
「ほんとうに秋になりましたわね――」
 と頭を下げました、二匹にとつて、秋がきたことを納得するまでには
「まつたく涼しくなりましたわね――」
「お涼しくて結構でございますわ――」
「気候がおよろしくなりまして」
「ほんとうに、しのぎ良くなりまして――」
 といふやうな性質の言葉を二匹が交し、二百回ほども頭を下げ、はじめて二匹はほんとうに秋になつたのだと思ひこみました。
 一方のバッタは、いかにも新しい言葉をみつけだしたかのやうに
「やがて冬でございますわね――」
 といふと、他の一匹はあわてたやうに
「ほんとうでございますわ、寒くなつていやでございますわ――」
 といひました。
 二匹の女バッタは街角で、ながいあひだ、お低頭をし、冬がきて霜が降り、自分たちの運命が、木の葉と同じやうに散つてしまふことに、たがひがフッと気がつくまでには、それからまた百回ほどもおじぎをしました。悲しい運命に気がつくと、二匹は身ぶるひして買物の包を小脇に抱へなほし、大急ぎで両側のくさむらの中に、横つ飛びにとびこみました、ガサガサと葉の音をたて、どこかに行つてしまひました。
 いつのころからか、バッタの国に、よその土地から流れこんできたバッタの裁縫師がありました、彼はそこで小さな店をひらき「帽子」といふ頭にかぶるものを、発明して売り出しました、世間では彼のことを帽子屋と呼んでゐました、帽子といふものは不思議なもので、それを忘れてきたものは
「かう帽子を忘れてきては、おれの頭もよくないにちがひない――」
 と自分の頭の悪さに考へ及ぶといふ性質をもつてゐました、そこでバッタたちは帽子を忘れまい、忘れまい、と努力しました。なかには帽子を拾はうとして、電車に礫かれた男がありました、世間ではかう言ひました。
「実に馬鹿な男だ、あいつは始め帽子を追ひかけてゐた、そのうちに帽子ではなく、頭を無くしたのだと考へ違ひをしたものらしい、でなければ、たかが帽子一箇を拾ふことで、大切な真個うの頭を無くすることはあるまい――」

     (下)

 おじぎ好きのバッタたちは、最初は帽子をかぶつたまゝで、頭を下げて、挨拶をしました、すると帽子は頭から離れて地面に転げ落ちました、かぶつたまゝでお低頭をすると、帽子といふものは頭から離れて、転げるものだといふことが、のみこめるまでには、三十年もかゝりました。
 帽子がころげ落ちては、おじぎができないので、頭から帽子をぬいで、かるく会釈して、ふたたびかぶるといふ方法でも、けつして相手を軽蔑したことにならぬといふ習慣をつくりだしたのでした。
 それから十年ほどたつて、今度は帽子をとらずに、ただそれに軽く指をかけただけで、挨拶をしたことになるといふ習慣にかはりました、しかしお低頭好きの連中は反対しました、ことに老人たちははつきりと口に出して
「いまの若い連中は、おじぎをすることを忘れてしまつて、まことに嘆かはしい時代になつたものだ――」
「ことに怪しからんのは、神社やお寺の前に行つても帽子をぬがんことぢや――」
 と言ひました。
 女達が男と同じやうに、帽子をかぶり始めてからは、一層非難が起きました、女たちは今ではお低頭をしないばかりか、頭に帽子をくくりつけて、風にふき飛ばされないやうな仕組みにつくりかへました。かぶつたまゝで、なにもかにもすましてしまふやうになつたのです。
 お低頭をすることが少くなつたので、バッタの国の政府では、それを非常に気にしはじめ、殊にママ寄りのお役人たちは、「帽子に関する法令」を新しくつくらうと言ひだしました。
 小学生、女学生、中学生、大学生や、一般国民に、新しい時代の正しいお低頭の仕方を、法律できめようといふのでした、学生や一般の市民がどんな風に帽子をぬいだり、かぶつたりするかを調べるために、帽子調査委員会といふのがつくられました。
 女学生たちにも帽子をぬいでお低頭をしなければいけない――といふきつい法令を言ひ渡したのです、お役人たちは古い法律はそのまゝにしておいても、いつも新しい法律をつくりだして、つぎつぎと世の中に示さなければ、なんだか不安でたまらなかつたのでした。
 それに法律でもつくつて、何かしら自分の机の上の書類を、ガサガサと引つかきまはしてゐなければ、死ぬほど退屈でならなかつたのでした。お役人たちは帽子調査委員会の仕事でその退屈を救はれました。
 しかしそのうちお役人たちは、何となく自分自身の帽子のことが気になり始め、そつと自分のかぶつてゐる帽子に手をふれてみました、帽子はたしかに彼の頭の上にのつてゐたのです、そこで安心をして、机の前の腰掛に腰をおろしました。
「あゝ疲れた、こないだから帽子の法律のことで、わしの頭の中はいつぱいであつたよ」
 彼はほんとうに帽子のことで、頭の中がいつぱいであつたことが、苦しくてならなかつたかのやうに軽く頭を左右にふりました。
「あゝ帽子、国民の帽子、そして我々官吏の帽子だ、帽子、帽子だ、国民と帽子の関係は、こんどの法律で完全に結ばれたわい――」
 そのとき電気にうたれたやうに頭の芯がしびれたやうに感じました、お役人はそつと頭に手をやつて帽子をぬいで、机の傍にそれをおきました、すると帽子のことでそれまで頭の中がいつぱいであつたのが、こんどは頭自身のことが急に気にかゝりました、そこでお役人は、事務机の上にのつてゐた、鉄製の分鎮をとりあげて、それで頭をたたいてみました、するとどうしたことでせう、いつのまにかお役人の頭は無くなつてゐて分鎮はいたづらに空をうちました。
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娘の人事相談


 北海道、鎌倉、逗子、といふ順序で旅行に出かけて、私は三ヶ月ほど東京を留守にしてゐました、東京に帰つてきた私の眼に、久しぶりの東京は、華美で享楽的なものに映じました、
 省線S駅で下車した私は、ほつと吐息をし、手にした小型旅行鞄を持ちかへたとき背後から名を呼ぶ女の声がしました、其処に背の高い女が立つてゐて、私はすぐには彼女を思ひ出せず、眼をぱちぱちやつてゐました。
 遠い記憶が、引き出されたやうに
『あゝ、お医者の妹だ――』
 と呟やいたのです。
 三ヶ月間に、何といふ彼女の変り方の激しさでせう、私の知つてゐた彼女は、眼の前に立つてゐる彼女とはちがつてゐたのです、何といふメイキャップの方法かしりません、生れつきの眉を、毛抜きでぬきとり、その上に人工的に眉墨を引くやり方です、女優デイトリッヒ型とでもいふべきでせう、眉の先端が消えるやうに細く、その眉も引き方では優しく見えねばならないのに、事実は反対でした、眉と鼻との関係はちやうど英字のYのやうで、優しいどころか、『悪どさ極まれり―』といつた眉の引き方であつたのです。
 以前に知つてゐた彼女も、またさうした種類の眉を引く女で、靴下も蛇の鱗のやうな光沢のあるものをはき、洋服の柄も、原色的な、大きな格子縞でした、いま私の前に立つてゐる彼女は、全く変つてしまつて、純日本的な和服姿なのです、脂肪質な女から、脂つ気をぬいた感じを受けました。
 彼女の年齢はいつか彼女自身から、聞いてゐたので確か二十五歳です、彼女の名前はそれを聞く機会がなく、必要もなかつたので、知らず彼女を『お医者の妹』と呼んでゐたのでした。
『しばらくで御座いましたわね、旅行にいらしてゐたのですの―』
 と彼女はいひました、私はうなづきました。
 彼女は顔中愛嬌をたたへ、私に接近しながらいふのです、
『お差支へがなかつたら、お茶でも、つきあつて下さいません?』
 男といふものは、女との交際の機会をいつもねらつてばかりゐるものではないのです、さればといつて機会を決してのがすものでもないのです、私も即座に
『構ひませんよ、―』
 と答へてしまつたのです、腹の中では早く家に帰つて汽車の疲れを治したかつたのです、三ヶ月の地方旅行で、すつかり地方人らしい気持になつてゐたのです、私はそのとき都会人には、お茶をのみ、音楽をきいて、疲労を治す方法のあることを、ふつと思ひだしました。家に帰つて寝てしまふのも休息ではあるが、お茶でものんで、久しぶりに都会の娘としやべるのも休息だと考へたのです。
 彼女とS街の街燈の灯の下を歩るきました、
 見れば見るほど彼女は変化してゐるのです、例へば悪魔が神に変つたやうにです、以前の彼女は『悪い奴』でした、私は男だから男の立場に立つて身びいきにさういひたいのです。
 なぜなら彼女の濃い口紅をひいた唇は、飯のかはりに男を常食してゐるかのやうに毒々しかつたからです、しかし今の彼女は何事に対しても神のやうに静かに祈つてゐるやうです。
 或る洋菓子店で、二三度口をきいた程度の私にむかつて祈るやうな何かしら哀願的な態度をみせてゐるのです
『以前とわたし感じが変つてゐませんの』
『大いに変つてゐますね、何かしらぼんやりとしたやうな様子ですね―』
 と私は答へました、ほんとうは『気の抜けたやうな感じ』とその時言ひたかつたが、さうは、言へなかつたのです。
 以前の彼女は炭酸の利いた清涼飲料水のやうに、肉体も心も、沸騰してゐました、声はかん高く天井に跳ねかへり、足はちつともじつとしてゐませんでした、それがいまはすつかり気のぬけたサイダーのやうに、ぼんやりとだらしのない甘味だけがのこつたやうな姿でした。
『以前のわたしは人生のことなんか何にもわからなかつたんですのよ、―』
 と彼女はおかしい程、過去に対しては回顧的になつてゐるのです、
 一軒の喫茶店に彼女と入りました、私は特に何事も話しをする興味もないので、だまつてゐました。
 それでも済むまいと思つたので、彼女の兄がいまどうしてゐるかと質ねました。彼女は兄は旅行にでゝ東京にゐないと答へて、何やら兄の行先や、兄の事情にふれることが喜ばない風でした。
 私は彼女のその兄であるといふ男と、洋菓子店で偶然に知り合つたのです、或る日私は若い友人とその店のテーブルを囲んで、熱心に話しこんでゐました、話が『自然科学』にふれたとき、一隅から私に声をかけた男があつたのです。
『失礼ですが、貴方のいまのお話しは間違つてはをりませんでせうか―』
 とその男は話しかけるのです、見ると全く見も知らぬ年頃三十歳位の、小綺麗な服装をした、嫌味のない好青年でした。
 ぴつちりと身についた洋服を着て、髪は髪油で光り、勤め人風に刈りこまれ、鼻の下には官吏らしい短かい髭と、薄い唇とがありました、彼は落着いた声で私に話しかけるのです、彼が表面の落着きに反して、興奮してゐることは、彼の手にもつた細味のステッキがぶるぶると小刻みにふるへてゐるのでわかりました。
 青年の傍には、背の高い服装も化粧もママ艦飾の若い女が坐つてゐました、青年と女とは顔型の上からも性格の上でも全く似たところがなかつたので、この二人が兄妹だとはそのとき思はなかつたのです。
 私は見も知らない男から、突然非常に論争的な態度で話し掛けられたことは、決して良い気持ではありませんでした、しかし私は『これは面白い―』と好戦的なものが、ムラムラとわいてきました。
『ひとつ気のすむまで、何処の馬の骨ともわからぬこの男と議論をしてやれ―』
 と思ひましたので
『私が何か間違つてゐるやうな、貴方のお話しですが、それはどういふ理由からでせうか―』
 すると彼はつとめて冷静にしやべらうとして、嫌らしい程の特別に丁寧な言葉を選んで、話しかけてくるのでした。
『ははあ、あいつは英国流の紳士だな―』
 と直感しました、そこで私も英国流の紳士か、十九世紀のロシヤの貴族のやうな、胸糞の悪くなるやうな形式的な、くすぐつたいほどの言葉を選んで話しかけてやれと思つたのです、たとへば
『君、明日僕の処に遊びに来給へよ―』
 と率直に言つてのけるところを
『ちよつとお伺ひいたしますが、あなたの御都合がおよろしかつたら、お差支へがございませんでしたら、私の宅までお越し下さいませんでせうか、もしおいで下さるやうでしたら私の一家にとりまして、これ以上の光栄はございません―』
 といふ風な、極度に引きのばした言ひ方で、この見も知らぬ議論好きの男をからかつてやれと、ある残酷な気持になつたのです、
『貴方といふ方は、私はすこしも存じませんので、貴方はどのやうなお仕事をしておいででせうか、一応承つてをきたいのです―』
 すると彼は
『私は医者です―』
 と無愛さうにいふのです
『どこか病院にでもお勤めで―』
『いゝえ、私は臨床医ではありません、なんと説明致しませうか、一言でいへば私は社会学的立場に立つてゐる医者です、ある肺病研究所に勤めてをります―』
 といふのです、彼は普通のお医者とはちがふのでした、検温器を病人の脇の下にはさんだり、胸をたたいたりはしないのです、日本国中にどれだけの肺病患者がゐて、それがどんな数字的な割合で、殖えたり、へつたりするか、それを調査研究する医者であつたわけです。
 この医者は、最初をそろしく馬鹿丁寧に私の議論を反駁始めました、私はそれに輪をかけて馬鹿丁寧に答へたり、切り返したりしましたので、彼は焦々始めました。ついにかういふ言葉を議論の中に挾みました、
『失礼ですが、あなたはもつと自然科学に就いて、お調べになる必要があります―』
 と私にいふのです、『お調べになる―』とはこゝでは明らかに『勉強しろ―』といふ意味なのです、この辺から二人の議論はだんだん丁寧さを失ひ始め、感情的になり始めました。
 私は議論の最中に、ちらちらと彼の男の傍の女に眼をやりました、彼女は薄笑ひをしながら、はつきりと中立的立場をその表情に現はしてゐましたが、却つてさうした態度の中には何か不自然な憎らしいものがありました。
 二人はとうとう激論になりました、洋菓子店を見渡すと、最初興味深さうに二人の話をきいてゐた三人組の私立大学生が、議論の激しさにあきれて店をとびだしてそこに居なくなつてゐた程です。
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徴発


 ○新聞記者が夜、兵士の宿舎にやつてきて、彼は『おい徴発だ――』と叫んだ、すると兵士はわれ先にと飛び起きて新聞記者に尾いてくる、一同はある一軒の支那の豪商の家にやつてきた、門が幾重にもある、その家には下僕が三十人もゐた、そして震へてゐた。
 づかづかと奥まで土足で押しあがつてみると奥室に一人の老爺をそらくは七十位だらうが、端座して立派な仏壇の前で祈つてゐたが、この新聞記者は、多少彫刻をやつてゐたので、まつさきに老爺が念じてゐた仏像がなみなみならぬ作であることを見てとつて、通訳を通じてまずこの仏像(恐らくは高価であらうところの)を譲つてくれといつた。
 すると老爺はこの仏像は先祖代々の宝であるし尊像であるからゆずれぬといつた、然しその時は既に新聞記者の手は仏像にかゝつてゐた、すると老人はそれを手で押へてこんな品は信心家にとつては値打はあるが、君達のやうに戦争をしてあるく人間にとつては一顧の値打もないものだといつた、記者は『いやそんなことはない、自分の国は仏教国であるから、仏像の値打のあること位はわかつてゐる―』といひながら仏像を奪ひとるやうにして、手早くふところの財布をひらいて、十円銀貨三個をぱら/\と床の上に投げた、
 すると柔和なものいひのかの老人は烈火のやうに怒り、わしの仏像は決して金には変へられることはない、もし君が真個ほんとうの仏教の信心家であるのなら、その品はあなたにあげやう、――といつた、そして静かにものに包んで手渡した新聞記者は赤面したそしてその包みを抱へて引きあげていつたが、理由のわからない悔恨がひしひしとわいてきた。
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二人の従軍記者


 ある地方新聞の戦地特派記者二人は仲が良かつた、甲は平素は軍部関係出入り記者であつて、殺伐な智識的な低い男であつて、然し半面に無邪気なお人好しであけつぴろげた性格であつたため、事変と共に任地にでかけたところ、軍部との関係も良くニュースもまた色々の便宜から、新しいものを刻々と送つてゐた、
 乙は社にゐた当時も下つ葉記者で不遇であつたが性格も鈍重で記事も鮮やかなとりぶりではなかつたが、多少の支那語ができるので彼は選ばれてでかけたのであつた、果せるかな彼の記事は古く、甲記者に比すべくもない、それに彼は臆病で只の一度も前線にでかけたことがない、
 二人は平素は仲が善かつたが、戦地へ行くと、妙な雰囲気が二人をへだたした。
 それは軍人とのふれ合ひも肌が合はないのであつた、
 やがて事変も終り二人国に帰ることになつた、甲記者は国への土産には何が良いかいろいろと智慧をしぼつた、そして結局支那兵の青龍刀をもつてかへることにしたが、彼は一本よりどうせのことと五本もちかへることにして、それを奥地から重い思ひをして担いできた、そして戦利品として当局との諒解の下にそれをまんまと国へもちかへつた、
 新聞社の編輯局へ同時に着いた甲乙両記者に甲記者がどしりと机の上に投げ出したものは青龍刀五本であつた、
 甲記者の英雄的な哄笑がひゞいた、ところで乙記者はオーバーの内ぽけつとから一枚の皿と小さな壺とをとりだしてそれを卓上にのせた皿は紫がゝり、壺は朱の色と驚ろくほど美しいものであつた、
 乙記者は語りだした、彼は戦地で兵士の一群と行動を共にした、兵士は支那××の博物館に突入して行つた、そして銃の尻で陳列品のケースを叩きこはして廻つた。
 この混乱の最中に、彼はそのケースの中から二つの品をとりだしてポケットに入れた、それからそれを背中に背負ふやうにして、長い/\時間このこはれものを大切にしてきた、帰途朝鮮の博物館に寄つて、自分のもつてきた品と同じやうな品が列べられてゐたので自分の品の時代考証をした、その品はをそろしく古く、貴重な品であつた、
 こゝまで語つてきて、彼はところでその時価は壺が一万二千円、皿が八千円のもので、いまにもすぐに金になるのだと説明した、
 人々はあつと驚ろいた、そしてその壺とその傍の血のにじんだ青龍刀とを見くらべてゐた、ブキヨーな乙記者は突然とびあがるやうにして机の上の壺と皿とを鷲掴みにしてそれをオーバの下に押しかくした、それは怖らくさつかくであつたかもしれない、或は事実として現はれるのであつたかも知れない、甲記者がいまにも青龍刀を手にして自分の大切にこゝまでもつてきた皿と壺を粉みじんに叩きこはしさうな幻想にとらはれたからだ、――そして乙記者はいつた、『ところで僕は今日限り社を廃めさしてもらひます』
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押しやられる流浪人の話


 満洲に冬が来た、流浪の満洲人は奥地から都市に辿りついた、彼は夏の間兵士であつたのか、空腹と饑餓が襲つて、彼は極度に衰弱してゐたために歩行困難の状態であつた、
 彼が一都市についたときは今にも倒れさうであつた、一軒の家の前に立つた、その家は骨とう店であつた、彼はじつと店内をながめてゐた、心は空腹のために虚ろになつてゐた、すると中から店主が現はれて、叱、叱、と叫んだ、
 流浪人はこの叱り声の意味を理解したかのやうに柔順にその店の前を立去つて、その家の次の商館の店に立つた、彼は食を求めてゐるのではなかつた、既に食を求める力もなく、いま一椀の飯を与へられても彼は喰べる気力はないだらう、彼は立つてゐる力を次第に失ひ始めたために、じつと肉体の動揺を避けるために、立つてゐるだけであつた、
 だが、その家からまたもや主人が出てきた、そして手でその男を静かに押して自分の家と隣家との境目まで、さうした状態で流浪人を押しやつた。
 流浪人はしづかに歩るいてゐたが、いまにもぶつ倒れさうになつた、商館の主人は、男を隣家まで押してゆくとさつさと家に帰つた、
 流浪人はまたもや次の家の前にじつと突立つてゐた、その家役所勤めの人の住んだ家であつた、その家の主人が出て来て、前と同じやうに、男を押して少しでも早く自分の家の前をこの不幸な男を去るやうに邪剣に扱つた。
 男は三軒目の家を去つたところが、その街の殆んどはづれであつた、男はその場に突然膝をついたそこは幾分窪みになつて、寒い風を避けるかのやうであつた、彼はその場に倒れ、眼をつぶつた、すると一人の男がその場を通りすぎた、この男もなにやら虚洞な眼をして、じつとこの行き倒れを見てゐたが、のろくさとした動作で流浪人の体に手をかけ、その体から衣服をはぎだして、見るとその男は殆んど上着は破れてゐて、彼は流浪人から着衣をはぎとるとそれを歩きながら着た、流浪人は裸体のまゝ、寒い雪の上に倒されてゐて、彼は少しも体を動かさない、でも眼は案外生々として、まだ生きてゐることを証明した、男は去つた、そして流浪人はそこで死んだ、冬の間この死体の上には雪がつもることをしたが、強い風はすぐ積つた雪をふりはらつて、カチカチとした裸体をむき出しにしてゐた、通行人は稀にそこを通つた、然しその死体をチラと見たきり少しも心に動揺を起さなかつた、野犬がその死体に近よつた、しかし鉄よりも硬ばつた死体を鼻でさはつたきり、絶望的に去つた、
 そして春がまた死体の硬ばつた凍へがしだいにとけてきた、死からほぐれてゆく生命といふものがあるとすれば、冬の間凍つた肉体が春になつて漸次溶けて行き、彼の霊のない肉体が新しいフショク物として地面の中にしだいに溶け沁み行つてゆくその過程のやうでもあつた。
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無題


 一人の上京学生がゐた彼はA炭礦所有主の息子であつたA炭礦では炭礦夫達の生活の合理化のために共同炊事や、共同購買組合風のものを設けてゐると、二人の左翼学生にむかつて自分の父親の政策の自由主義的なことを誇りながら語つた。
 左翼学生は質ねた、そこで礦夫達の娯楽設備の方はどうなつてゐるね、すると彼は答へた、娯楽は当礦には設備されてゐない、そこから約二里出たところのB街にはあらゆる娯楽機関があるので、そこへ終業後出かけてゆくといふ、そこで左翼学生はではその間の路はバスででも行くのかね、といふすると答へて、バスではない××電鉄(新設された)の電車が八分をきに通つてゐる、××電鉄では炭礦夫達の娯楽と、B街の繁栄のためその電車賃を殆んど実費にしてゐる、そこで左翼学生は、然し、その電車の利用者は多いかどうかと質ねる、
 炭礦所有者の息子は答へて、電車賃は実費にして電車も利用され易いやうに、一ヶ月分のB街行の電車賃××を月給から天引にしてあるといふそこで左翼学生は唖然として、そのやり方は美事だといふ、僕等のいふ娯楽といふのは(文化性)を加味されたもの以外にない、炭礦夫が労働強化の慰安費をまきちらすために設備された、B街の淫売窟や、呑屋や、いつまできいても頭のよくならない浪花節小屋へ彼等の足を運ばすために、××電鉄は電車賃を実費にしてあるのはその政策の腹黒さだ、もし一ヶ月分の電車賃を天引きされた礦夫がそれを完全に使はず山に引こもつてゐたら、この乗らない電車に支払ふ金は丸もうけぢやないか、然も淫売屋へ落ちる金は炭礦主の懐へまた逆戻りだと左翼学生らしい率直さで炭礦主の息子を反駁する、すると炭礦主の息子急に立ちあがつて、そんな議論はよさうとジャズをかけ、そして一同にダンスを誘つて、その話はウヤムラにされてしまふ。





底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2006年3月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について