小熊秀雄全集−19−

美術論・画論

小熊秀雄




●目次
1.モヂリアニ論
2.松林桂月論(一)
3.松林桂月論(二)
4.堅山南風論
5.郷倉千靱論
6.伊東深水論
7.奥村土牛論
8.上村松園論
9.大智勝観論
10.小倉遊亀論
11.菊池契月論
12.金島桂華論
13.徳岡神泉論
14.石崎光瑤論
15.山口華楊論
16.小杉放庵論
17.福田平八郎論
18.川村曼舟論
19.児玉希望論
20.大森桃太郎氏の芸術
21.秋田義氏の芸術を評す
22.美術協会の絵画展を評す
23.広瀬操吉氏の芸術
24.旭ビル楼上の白楊画会評
25.洋画壇時評
26.洋画壇時評 三つの展覧会
27.洋画壇時評 旺玄社展を観て
28.洋画壇時評 独立展を評す
29.商業資本と日本画家の良心 三越日本画展を観て
30.小熊秀雄個展
31.超現実派洋画に就て ヱコルド東京絵画展の感想
32.二科展所感 坂本繁二郎小論
33.熊谷守一氏芸術談 青木繁との交遊など
34.独立展を評す
35.春陽会と国展 ルオーの描写力の事など
36.革新の日本画展
37.二科展を評す
38.文展日本画展望
39.日本画壇 新鋭作家集
40.新日本画の名コンビ 福田と吉岡
41.日本画の将来
42.橋本明治氏に与へる公開状 問題の『三人の女』が会期中に加筆されてゐることに就て
43.大観とユトリロ
44.時局と日本画――横山大観の場合
45.問題の日本画家
46.子供漫画論
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モヂリアニ論

 薄幸の画家、アメデオ・モヂリアニに就いて、私の心理的なものに、彼の芸術の最初の決定的なものを与へたのは、日本劇場で仏蘭西洋画壇の大家の諸作の展覧に、モヂリアニの横臥した裸婦を見た時からである。
 こゝではスーチンの作品も私を感動させたし、またルオーに就いては、ある種の失望を感じられた。スーチンやルオーに就いての感想は次の機会に述べることにしよう。画家といふものは案外臆病な性質があるものらしい。セザンヌやマチスやピカソの絵の前には画家達の人集りがいつもある。だが少し異色ある作家の絵の前には、殆んど寄り附かうとしない。そして遠くからおづおづと感心してゐるものだ。
 この福島展の場合でもさうだつた。画家はモヂリアニの絵の前には何時もガランとしてゐたし、甚しかつたのはスーチンの絵などは殆んど観てゐるものが無かつた。画家達は激しい作品からの衝撃を無意識的に避けようとするのであらう。だからここでは同じ芸術にたずさはる同志に対する観賞の態度は口では玄人を自称するとしても、単なる描かざる一観衆と同じ心理状態になる。またさうなるべきだ。美術上の玄人と素人の限界をいつまでも固執し、主張する人を私は折々見かけるが、その境界を固執するその人の観念の世界には救ひ難いものがある。モヂリアニの絵は、アンリー・ルッソーと同様に『アマツールとしての良さ』に規定づけようとする評者が少なくない。口には言はないが、心の中ではさう思つてゐる所謂自称玄人画家が少くないのである。子供と大人の限界や、素人と玄人の限界や、昼と夜との境界や、大家と無名作家の継目を具体的に説明できる人は幸福なるかなである。絵画が思索的過程に入つてくると、すぐそれを『文学的要素』として排し、絵は『造型美術であるから』などと、何時も反復的にこの言葉を持ち出し、その言葉に拠つて玄人を主張する画家には、到底モヂリアニの良さは永久に理解されないだらう。
 外見的に絵の幼稚さを見て、素人画家と断定し、たまたまその画家のすばらしい画人的なデッサンをみて、その画家を見直すといふ場合が、画家の世界には少くない。
 モヂリアニ程、絵画といふものの一般性や普遍性を良く心得てゐる画家はない。この普遍性こそ『画を描かない人』に絵画の美しさを伝へようとする積極的な態度、芸術家の大衆に対する親切な表現である。
 そしてこれらの普遍性一般性に依拠して尚ほ且つモヂリアニがアカデミーに反逆的であつたといふ困難な努力やその価値を、汲みとらなければいけない。
 福島展での私のモヂリアニに対する感動の性質は奇怪なことには、彼のもつてゐる画に現はれた詩では決してなかつた。それは技術的方面に対する感動であつた。
 画面から発散する異様な魅力は、感情的なものであつただけ、素朴に我々の感情に訴へてくる。
 ジョルジュ・ミシ※[#小書き片仮名ヱ、12-上-10]ルの『もんぱるの』は、モヂリアニをモデルにしたものと言はれてゐるが、この小説の中でモヂリアニはズボロスキイに対して斯ういふことを言つてゐる。
『うむ、よし、俺がやつてみたいと思つてゐることを、まだ君に話さなかつたね。硝子かと思はれるやうな色なんだ。それを画に塗ると、瀬戸物のやうに見えるんだがね。七宝を描いてみてそれから肌を描いて見ようと思つてゐるんだ。解るかね、ズボロ、どんな、どんな絵描きだつて、俺が今、肌を、チチアンの描いた肌より美しい肌を描くために、使つて見ようと思つて、マチヱールに到達した者は一人もないんだ――』
 と、いつてゐる。
 私はこの文章と一致するものをモヂリアニの描法から感ずる。ルノアールの描法は一種の硝子的な透明感があるが、それは筆触のうるささで相殺される。モヂリアニの場合は、ルノアール的なタッチの煩雑さがない。しかも七宝的な絢爛とした美しさは、洋画の材料としての油絵具を完全に生かしきつたといふ美しさである。主としてこの華麗さは、彼が光りに対する理解の深さから来てゐる。光りが単に物象からの反射としてみる場合は、安易にハイライトを描ききつて、物質に対する光りの効果を外光派的に生かすことができよう。だが、モヂリアニの絵具の扱ひ方は、もつと決定的な、的確な意図の下になされてゐる。
 つまり、光りの物質への肉化を行つてゐる。『硝子かと思はれるやうな』肉体の美しさは、彼の一筆毎のタッチに光りの消化と吸収を行つてゐることである。光線は彼にとつては物質に対する後からの従属物ではない。現実的なイデー、光り及び生命の肉化のために彼は僅かなマッスの中に、驚くべき光りの諧調の仕事を為し遂げてゐる。だが、人々は彼の苦心を看過してゐる。ただ、全体的なママ能さにのみ撃たれて彼の神経のリズミカルな複雑さを見逃してゐる。透明色の無限の重ね出をしてゐるゴオギャンに比して、その意味では彼は確かにゴッホ的なところがある。
 発光の法則や、色彩の原素的な表現をモヂリアニ程生かし切つてゐる画家は少ない。ゴッホはその点で色彩の世界では原素的といふよりも、中間色の世界の開拓をしてゐる。
 ただ、その色彩の原素性は、彼がフランス的であるといふ意味でシャガアル風な民俗的などうにも割り切れない人間的な色彩上の原素性、原始性ではない。遙るかに近代的な、洗練さが色彩の上に働いてゐる。
 ユダヤ系の作家の色彩の悪どさは観る者をして、その色彩から受ける感じは、能動性である。ロシヤの作家の赤は、観る者を絵を離れて行動性に駈り立てるものがあるが、モヂリアニの赤は人間の心理をママ能的に沈静させるものがある。
 モヂリアニは絵のテーマの上に現れてゐるのを見ても判るやうに、彼は小市民性の完全な表現である、欧洲戦乱からうけた彼の心理的な衝撃は、インテリゲンチャ的な焦燥性を色感の激情の世界でじつと堪へ忍んでゐるといふ絵である。モヂリアニの絵画製作の世界を見給へ。まつたく彼は狂へるものであり、肉体的にも自滅の過程を通つて行つた。だが、一度彼の絵を見給へ、全く、これらの生活の激情性は現れてゐない。そこには、センチメントと哀愁の表現がある。
 モヂリアニが絵画以前に彫刻をやつたといふ意味でよく彼の絵には彫刻的な立体の効果があるとか、影響があるとかいふ人もあるが、私の理解では、彼の絵からは何等彫刻的な効果といふものを感ずることができない。むしろ私は逆なものを感ずる。彼の彫刻は絵画的でさへある。彼の絵画の世界では立体からの解放があり、人体の最も普遍的な外劃的な線を描くことに決して臆病ではない。その点が、彼がリアリストであることを語つてゐるものである。しかも、この外劃的な線への追求は、丹念に神経的な筆触をもつて埋めてゆく、絵の具の剥ぎ取りの効果や、色の重ねの効果といふよりも、彼の態度は画布の一端から逐次的に仕上げてゆく、といふやり方の画家に属す。今人物の鼻の頭を描いてゐたかと思ふと、次の筆は足の指を描くといふ描き方ではない。彼の絵が純情であるといふ感じは、仕事のしかたに何等偶然性をねらふことをしない彼の素朴な態度による。丹念に顔を仕上げてから首に移るといつた彼の仕事ぶりの過程には、真からの画家らしい仕事に対する酔ひがあり、陶酔がある。部分の追求がいつの間にか、全体的な立派なまとまりをつけてしまつたといつた絵である。よく自称リアリスト達は、『真に写実的に描くには客観的に描け――』と叫んでゐるのを私は知つてゐる。客観的に描け描けといふ一点張りの主張こそ、徹底した主観論者であるといへよう。帝展派の画家の行き詰まりと、最も進歩的でなければならない筈のプロレタリア・リアリズム画家の行き詰まりの状態に相似点のあることは、この種の客観主義者が多いからである。これでは生きママ人間が絵筆をもつ必要がない。写真機のシャッターを切つた方が遙るかにましである。
 この種のあやまつた客観主義者に対しては、君はそれでは、客観の高さに尾いてくるほど、主観の高さの持ち合せがあるかと、質問をしたい位である。モヂリアニは一見頗る主観的な画家のやうに見えるし、また事実彼の仕事ぶりは主観的な強さが勝つてゐたであらう。だが、彼の出来上つた絵を見給へ彼の絵は何と冷静な、科学性の豊富な絵であらう。
 モヂリアニの生活行動の奇矯から察すれば、彼は逆立ちをして絵を描いてゐなければならない筈であるのに、なんと彼はすべての人々に、絵の玄人にも、素人にも、判り易い、尋常な形に於いて表現してゐることであらう。彼の絵から受ける感じをもつて通俗性と呼んではいけない。それは『大衆性』と呼ぶべきである。
 そしてモヂリアニの作品に対して見る者をして感心させ、『モヂリアニの絵は、ただ何となく良い』とか、或ひは『何となく好きだ』と言はしてゐる。『ただ何となく――』といふ褒め方はモヂリアニの作品に最もピッタリとした褒め方であり、芸術の褒め方で、これ以上に最上の褒め方はないのである。モヂリアニの作品が見る者に、感性の世界を与へた証拠として、かゝる単純で的確な、無条件的に『ただ何となく――』といふ言葉が人々の口から吐かれる。感性に訴へる画家は、往々にアマチュアとして画家仲間から異端と敬遠とをもつて迎へられるが、この種の優れた画家は、画壇では孤立であつても、彼は直接一般人と結びつくことを知つてゐるし、また、大衆はこの種の画家の芸術的真実をよく理解する。
 モヂリアニの芸術の一面性の一つとして数へられるものには『肖像画』が多いといふことである、何故彼は好んで人物を描いたか、横向きでは彼の出世作と言はれてゐる『ヴィオロセールを弾く男』があるが、其の他の大部分は正面向きである。彼は全く横向きを好まないのである。この彼のポーズの選択の仕方はとりもなほさず、彼の芸術探究の真正面向きを語るものである、ひたむきな現実の追究の態度の真正面向きである。
 そしてこの人物の正面向きが、彼の絵に厳粛さと端麗さとを与へ、長い首の描きかた、そこに載つかつてゐる顔はさまざまな顔である。『玄関の子供』の少年の人生苦の顔、『マダム・ヱビュテルヌ』の清浄で性慾的な顔、それは人物の右頬から顎に至る線で完全に表現されてゐる。その頬の肉線はカッチリと充実して皮膚の下にうごめいてゐる。顔と首の表現の誇張感はモヂリアニ一流の人物の手を交叉させることに依つて、完全に画面を調和させてゐる『シュミーズの女』の表情の淫蕩性、『若き娘』の疲れたる愛慾の闘士といつた表情、この絵の胸のあたりのタッチの狂熱性は極度にモヂリアニの熱情を知ることができる。たまたま、このタッチの狂熱性が沈潜して内部的な情熱となつて『裸婦』に現れるとき、豊淳な性や、重厚な性に悩む女を描く。殊にをどろくことはモヂリアニの描く肉体(物質)と光りとの接触、光りの交換である。
 こゝでは彼の企てた『硝子のやうな透明感』また、東洋の七宝のやうな光りのけんらんたるアラベスクを現出してゐる。光りと物質との区分の機械論者の多いアカデミーな画家達にとつては、油絵具といふ一物質に就いて『思索』したことなどは恐らくあるまい。アカデミーの画家は油絵具の処理の仕方は成程経験者で苦心的である。つまり、描く順序の練達者である。だが、一度『現実の順序が違つたものに』などぶつかると、これらのアカデミックな画法の順序は何の用にもならない。したがつてこれらの古典画家、或ひは若い古典画作り達は、成るべく平穏な非発展的な、順序のよい、己れの描きやすい方法に添つた対象をのみ選んで描く。モヂリアニの物質としての『油絵具』に対する大きな思索は並々ならぬ深いものがある。
 その点をあまり人々は考へてゐないらしい、美といふものは、物質の中に他の超物質的根元が肉化することによる物質の変容であるといふ――定義をいま仮りに正しいとすれば、モヂリアニの調色の方法は『物質』(絵具)に他の『超物質的根元』いまこれを『光り』や『色彩』と見よう。これの混然たる肉化の苦心がとられてゐる。素描家としてのゴッホには、驚くにたりない。然し、色彩家としてのゴッホには驚嘆して良い。それと同様に我々はモヂリアニの小市民的哀愁や、彼のもつ詩味などに共鳴を感ずるよりも、色彩に対する科学的処理の方法を学ばねばならない。彼の作品から感動をうけるもの、それは油絵具といふ物質的制約と物質的基礎に立つてそれを殆んど完全に近い程にも感性的に、物質の変容(美術的表現)を行つたといふ点にある。
 私の考へでは、モヂリアニに対する一般の理解は単に彼の奇矯にのみ興味をひかれてゐるし、彼に対する理解は浅いと思はれる。真個ほんとうの意味での彼の理解では、絵の主題の上では社会的意義の分析に立脚することと、彼の制作の専門的な理解の意味に於いては、彼の制作法の科学的な分析に入つてもよい時代ではないかと思ふ。日本画の材料と、洋画の材料とのそれぞれのもつ特質や、制約に対して何の思索的方法を探らずに、心理的にはごつちやにして仕事をしてゐる日本人が少くないのを私はモヂリアニの油絵具の美しさを前にして特に痛感するものである。
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松林桂月論(一)

 日本橋『三越』で開かれた松林桂月氏の小品展は桂月氏の平素抱懐してゐるところの、日本画の新しい写実的方向の開拓といふ点で、桂月氏の努力に敬意を払つていゝものがあるだらう、我々は洋画といふものを度外れた支持の仕方をする必要もないと同様に、日本画即ち古い絵画形式――といふ風な概念からも遠ざかる必要がある。洋画対日本画の問題は非常に難かしいのだ、それと日本画は日本画の内部に於て、幾多の矛盾と、反撥との問題を抱含してゐるから、それぞれの制作上の制約性を、肯定してかゝらなければ、一言半句も批判めいたことを言へないのである。敢て桂月氏を老大家とすれば、最近問題になつてゐる福田豊四郎氏や吉岡堅二氏は少壮気鋭の作家と言ふことができよう、深尾須磨子氏が福田、吉岡両氏の帝展作を、日本画の新しい傾向として驚嘆的に賞めてゐたが、事実福田氏や吉岡氏は洋画界のシュールリアリストやアブストラクトにも劣らぬやうな仕事を、然も日本画の世界でやつてゐるのである、そしてこの二人の作品に対する理解は観者の近代的な観賞上の拠点から同感できる、ところで桂月氏のやうな、南画的な封建性を潜りながら、何かしら新しい仕事を企てゝゐる人の作品から、如何にして進歩的部分を発見したらいゝだらうかといふ問題が、新しく観る者の態度として要求されてくる。
 日本画の私有を企てる資産家や、売買本位の画商の観賞態度とは反撥して、我々は我々の観賞の方法をもたなければならない、吉岡氏とか福田氏の日本画の新しい方向と関雪とか桂月とかの新しい方向とは、必ず何時も両端のものとして、同時的に問題にしなければならないだらう、殊に新しい批評の難かしさは、後者に多くかゝつてゐるやうである。
 桂月氏の小品展から受ける感じは、日本画の技法馳駆の曲者の展覧会といふ感がした、同じ曲者でも横山大観氏の水墨などをみると所謂その『曲者性』がヱゴイストらしい、観る者がどのやうに見ても結構といつた、投げやりの無責任さを発見する、桂月氏の場合には、筆者以外に外部世界として観賞者が存在するといふことなどは、一向お構ひなしに、押しの一手でゆくといふ大観式の曲者性とは全く違つた読者に対する誠実さがある、この誠実さや、見てゐて好感を与へる点は、桂月氏の作家態度、描く自然物に対する接触の方法が与へたものである。
 作者の曲者性を発見するとすれば桂月氏は何にもかにも『細かく描いてゐさいすれば間違ひはない――』と考へてゐる点であらう。『雛鵞』では鳥の量感を巧みに出してゐる以外に、動いてゐる細かなふるへと、鳥の毛の柔らかさとこの場合、量と運動と質感との三つの絵画上の重要なものゝ、巧みな結合を果してゐる、これに反して『長門城』を仔細にみると、水は描写が細かい割に、稚拙であり、言ひかへれば無神経な描き方であり、静的に固定的であり、何の水らしい伸びもない筆者の観念の硬化状態で描いてゐる、水の描写はその方法を徹底させてゐる、ところで水をとりまくところの樹木を線の交錯的な方法で、動揺的に描いてゐるといふ、一つの矛盾を発見するだらう、この矛盾とは、俗に水は流れ去るものであるといふ意味で、樹木や山よりも動揺を与へて描くといふことが普通であるが、その方法を採らず水を静的に描いて、それをとり囲む樹木をそれよりも確かに動的に描いてゐる、この桂月氏の矛盾の方法は、『長門城』の画面を不思議なことにはその方法のために、『水』が却つて激しく動き流れてゐるといふ効果をもたらしてゐる。
 早く飛んでゐる飛行機を映画化すたママめに、飛行機を固定さしてをいて、背後の雲を早く移動させるといふ映画のトリックを想ひ出したらいゝ、自然の真を衝くためには、嘘をつくことをゆるされるといふ場合はさうした場合を言ふのであらう、そこにも桂月氏の曲者的なところがある。『海物』では二種類の珍妙な魚を描いてゐるが、魚の肉の痩せた部分と、肥えて充実した部分の、一種の段落ともいはれるべきものが、表面の魚の皮を透して描かれて、この質感の出し方は非凡なものがあつた、たゞ魚の頭部のボカシ、偶然性に甘えすぎた日本画のやり方の特長的な紙面への絵の具のニジミ方が過度で失敗してゐる、紙に筆を触れて、そこに予期しない滲みを出すといふ偶然性を、あまりに日本画家は頼りすぎはしないか、作画上に偶然性が入つてくるといふことは拒否はできないが、この偶然性を必然的なものに転換し、置き替へるといふところに、作画上の正統と、作家の実力とがある、洋画家の場合もこの偶然性が最近殊に著しく作画方法として入つてきたやうである、一枚の白い紙に出鱈目に絵の具を滴らし、その上に他の一枚の紙をのせて掌で押し、それをはぎとつてそこに現れた予期しない形態画を指して、デカルコマニーと名づけて楽しんでゐる洋画家もある、絵の具の滲みは、勿論紙質や、訓練に依つて、日本画家の場合は偶然的と許り言へないものがあらうが、方法の出発点として正しくないばかりか、単純に『味』を訴へるには効果的であるが、その方法が偶然的であるだけ、その味も具体的でなく、効果の時間的永続性がない。
『黄沙白草』は斜面の山の前方に描かれた樹木の墨色の良さは、洋画家の使ふコンテの色彩に似た溌剌性がある『菜根』は俗臭ぷんぷんたるもので、こゝでは全く新しい制作の良心が少しも加へられてゐるのを発見できない、『木瓜』の樹や、『鳩』の樹は自然物としての樹の枝ぶりが、あまりに日本画風な約束に触れすぎてゐる、その枝ぶりの描き方にどれだけ深淵な古来の日本画描法の理論をひきだしてきたとしても、現実的にはすでに近代人の感覚は、このきまりきつた枝ぶりをきつぱりと否定し去るだらう、木の形態の選び方に日本画としての規定があることは認めるが、それに反撥して、我々の気づかなかつた形の新しい発見を画家の努力的な紹介をしてほしいものだ。上にのびた枝が下にをりて、また上にあがつているといふ形の観方は、なるほど自然の方則ではあらうが、自然の法則を、絵画の法則として最初に取り入れた人は偉いが、いつまでも方法として固着させてをくことゝ闘はれていゝ筈である。
『鯰』は場中で出色のもので、鯰のヌラリと尾を静かにうごかして泳いでゐる描写は、この作者の特長的な細密描写の迫真性とはちがつた、線条の効果とは違つた、色彩と面のかけ合せの効果を示してゐた、『鯰』といふ奇形的な魚の個性に執着せず、自然にのびやかに観察してゐる点却つて観る者の自由な観賞に委ねて効果的である、前進してゐる鯰の鼻ツラの辺りに、水の衝突をかすかに描いてゐるのが、静中動ありの雰囲気がでゝゐる墨色の美しさは、新しいママ能といふよりも、桂月といふ人の年功を経たママ能として、また別種の新しさがある、この新しさは個展画中の淡彩物の、色彩にまたそれを発見することができる、墨一色から墨色の段階を発見することは、感覚的に可能であつても、いざそれを具体的、科学的に分解するといふことは容易ではない、淡彩では青とか赤とか黄とか色が分類されて現れてゐるために画家のもつてゐる感覚的分類もそこから容易に発見できる可能性をもつてゐる。
 桂月氏の淡彩のロマンチックな感じは決して、ナマなものではない、墨の写実性を超克した、そこを踏み越えてきた青の洗練された美、赤の洗練された美といつたものがある、それがロマンチックな色であるといふ意味で、非現実的であるのではなく、墨色の果せない立場を淡彩で果してゐるといふ意味で決して甘くはない、何時か雪舟の山岳画を見たことがあつたが、黒一色で描いた写実主義の精力的意慾的な態度は頭の下がるものがあつた、ところでこの黒一色の絵の極めて端の方にだけ雪舟は色を用ひてあつた、何故彼は黒一色で描き終ることをしないで、青とか赤とかをちよつと許り加へたかといふことを私は考へてみたが、墨許りで描いてゐるといふ生活の中に、墨で果せないものが最後に残されるのではないか、黒一色の追究といふものは、黒の世界といふ制約と、観念上ではその絶対化の過程を辿らなければならない、黒だけで幾千種の或は赤だけで幾万種の多数な、赤の段階をその画家が発見したとしても、他の色彩をひよいと使つてみるといふ本能が働くといふ時もあるだらう、雪舟が黒に少量の他の色を加へなければならなかつたといふことに、彼の人間的な本能と、敢てそれを実行してしまふ人間味と、同時に色彩の観念上の絶対化は必ず破れ去るものであるといふことを私はその時痛感したが、極彩色の日本画に対立的に、黒一色の日本画家といふ風に対立を絶対化さず[#「さず」はママ]、南画家であつても自由に色彩の分類的である意義を正しく理解して、自由に色を使つていゝのではないか、淡彩ではなく、時には極彩色の個所もあつてもいゝのではないかと思ふ。桂月氏の色彩が黒の他に他の色彩の魅力を黒同様にもつことができたといふ観者の立場からさういふのである。桂月氏の描写の執着的な態度には、現実を顕微鏡的に細かく見てゐるといふたくましさがあるが、一面細密描写即写実性であるといふ不自由な考へ方が解放されたところがある、細密描写が写真的描写に堕してゐるのが現在の日本画である、それを避けて新しい方向と写実主義を日本画に於いて確立するには、絵の部分に於ての細密描写が、その細かければ、細かい程綜合的な大きな量と面とを産み出さなければならないだらうといふ個所に問題の解決点がある、桂月氏は細密描写の追求に於てその意味で問題の作家と言へるだらう。
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松林桂月論(二)

 世間ではよく『伝統』といふものの値打や、美しさを云々する。それが国家であれば、その発生の古さを、芸術であればその伝来の長さを、価値の高いものとされる。日本画の場合は後者である。しかしその値打の問はれ方といふものを吟味してみるときかなりアイマイなものが多いのではないか、日本画は、殊に南画形式のものは、その形式の古さを、現代の中に復活してくる力量を示せば、示すほどに賞讃されるのである。或は言ふかもしれない、南画形式といふものは、そんな形式の古さを引つぱつてくるものではない。現代を、そのまゝ生かすべく、現代的手法がいると、しかしそれは理窟といふものである。その理窟をいふ前に、あなたはそれでは、昔からある伝統的手段をどれだけ現代の中で応用してゐるか――、自信をもつて言へるかと反問してみたい、多くの南画家や、広い意味での日本画家は『古いものを生かしてゐる――』といふことを、それほどにも自信をもつて言ひきれないであらう。
 一口に伝統的なもの――は立派だとはいふが、その古めかしさを現代の中に、停めるといふことそれだけで大変な事業なのである。しかも一層困難なことは、その事業は、その事業に携る生きた人間とともに存在するといふことである。日本画の伝統は、成程古いかもしれない、しかしこの伝統の良さを伝へる生きた手段としては、生きた人間が行ふより他に方法がない。その人間がたかだか五十年乃至六十年の寿命よりもつてゐない、伝統のよさ、立派さ、美しさを証明するには、これを伝へた書物や、作品が証明する場合があるが、さういふ証明の仕方は問題とはならない。最近松林桂月氏はある新聞の素人芸術、紙上講座で『南画の話』をしてゐて、いろいろと簡単に南画の初学を解いてゐたが、その最後にもしなほ研究して山水花鳥にまで進み度い人は、有名な書『芥子園画伝』でも参考するがよい――といはれてゐる。桂月氏のいひ方は、古いいゝ手本があるから参考にせよといつた軽い意味の言ひ方であらう。
 しかし専門的な言ひ方をすれば、伝統のうまみを知るには、一冊の『芥子園画伝』よりも、一人の生きた松林桂月氏の方がはるかに研究対象となり得るといふことができるのである。日本画壇では、他人の作品の批評に忙がしく、また画集からの摂取で忙がしく、現在生きて活動してゐる『画集』を正統に視るといふことをしないやうだ。こゝに松林桂月といふ生きた画集があり、大観といふ生きた画集がある古径といふ生きた画集がある。日本画といふものが充分値打のあるもので、後世に伝へなければならない性質のものであるとすれば、その伝承の過程に死んだ画集を問題にするよりも、生きて現在活動してゐる画集をもつて問題にしなければいけないやうだ。大観や古径や、桂月や、其他の伝統的な仕事を固守してゐる作家に対し、一口にそれを古いといふことは簡単である。しかし後進者たちは、この人々の古さを認めてゐるといふことで、自分達が新しいなどと考へてゐたら大変な間違ひが起るといふことである。荒木十畝氏が或るところへこんな文章を書いてゐた――『若い画家などに、自分の進歩の早さを自慢する向きもあるが、その程度の進歩通達は、我々も同年の時既に成し遂げた事であつて、駈足でいへば私などは競技場を六十周もしてゐるのに、その半分の三十周位で、やれ老人は足が遅いのなど高言するのは慎む可きではないか、それより息ぎれしないやうに、日々力を蓄へて、落伍せざらんやうに戒心するを要する――』と若い天才主義の画家に苦言を呈してゐた。いちばん恐ろしいことは、若い連中が、その生理的な、肉体的な若さをもつて、自己の芸術の若さ、進歩性、新らしさと解してゐることが多いことである。これは一つの若い作家の共通的な起し易い錯誤といふことができる。
 松林桂月氏の画業になど対して、若い画家中批評家は、一口でこれを古いとか伝統的だとか評してこれに反撥することは自由であるが、日本画そのものが、既に伝統的なものであるといふことは、既定の事実なので、この既定事実を承認しただけで、これをもつて批評である――と考へ違ひはできないのである。この既定事実の上に立脚して、そこから何かを抽き出すといふことが、絵画上の出発なのである。
 若い批評家や作家が、日本画の封建性伝統性を否定することが強くて、肯定する力をソロバンに入れない場合の、所謂、先輩、大家の仕事に対する、無理解は、早晩十畝氏ではないが、マラソン競争の三十周位から、ボツボツと落伍を始めるのであらう。
 私が画壇の先輩に対する後進者の態度といふものを、ここで問題にしてゐる理由は、先づもつてその態度を設定してからでなければ、松林桂月氏の作品に対する評価は慎むべきであるからだと思ふからである。何故なら横山大観の画壇的地位を、ことごとく彼の政治的手腕に帰するといふことが滑稽であるのと同じやうなものである。大観の作品には少しは見所のあるものもあらうからである。しかもその少しばかりの見所のある作品で奇怪なことには、画壇の大御所的地位を保つてゐるといふことが更に不審といへるだらう。それでは少し許り良い作家ではなく、大いに実力的な作家であるのかもしれない。その間の事情が不明瞭のまゝで、大観の地位は保たれてゐるのである。しかも人々は何等大観の本質を解析しようとしない。さうした事情と同じやうに、松林桂月氏の画壇的位置も、その作品の地位は、その作品の本質を語られないで、保たれてゐるといふ感がまことに深い、桂月氏がいつか九品庵の展観に出品した『田家雪』といふ作品を、或る批評家がかう書いてゐた『この雪に爺や何処より帰り来たらん、漁の具合はどうだ。孫も子も夕餉の膳にはと待ち居る如し――』この批評は考へてみれば滑稽な批評なのである。日本画壇の批評は大体に於いて、この程度でも済むのであるし、通用するのである。絵を見て引き出された批評語が『この雪に爺や何処より帰り来らん――』的程度より一歩も出てゐない現状では、これでは作品批評といふよりも感想といはれていゝ、感想としてもかなりに低俗な見方に属してゐる。しかし私はこの批評を頭から笑ひはしない、大体南画形式の日本画は観る者をして『この雪に爺や何処より帰り来らん』的な東洋的センチメンタルに捉へるものが少くないから、桂月氏の『田家雪』といふ作品が、観者をこの種の感傷にとらへたからとして、それが誤りであるとはいはない。大観氏にはこの種の性質の感傷で、観者を捉へるといふ効果がしばしば用ひられる。ぽつかりと竹林の上に浮んだ月が、思はずホロリとさせる場合もある。桂月氏の場合にも、たしかに『田家雪』はホロリとさせる画である。しかし桂月氏の作品を問題にする場合は、『この雪に爺や何処より帰り来らん――』的な作品よりも、もつと冷酷な非感傷的な作品に優れたものが少くないのである。『竹林高士』といつた古淡無慾な主人公を、竹林の下に静坐させるといつた、東洋的雰囲気は、一見無感情にみえながら、東洋独特の悲劇的なテイマなのである。桂月氏が老爺を雪の中をトボトボと歩かしたり、竹林の下に瞑想的な人物を坐らした作品は少くない。しかもこれらは何れも観るものをホロリとさせる効果をあげてゐる。桂月氏の人間観は、従つて『秋景山水』のやうな自然の中にポツリと立つてゐる。或はトボトボと歩るいてゐる人間の様子をもつてよく覗ひ知ることができる。しかしこの人物を描いて観るものを南画風にホロリとさせる桂月氏をもつて、或は氏の人間観の一斑を窺ひ知ることができるとしても、それを以て全部とは即断できない、それよりも点景人物によつて人間観を知り、その他の残されたもので自然観を知らなければならない。何といつても桂月氏の作家的特質は、その描ママとした人物によりも、その人物の背後の自然にある。殊にその自然描写も多くの作家が整理をもつて、その方法としてゐるのに、桂月氏は錯雑たる自然を描き切つてしまふといふところに、氏の他の作家の真似のできない特長をもつてゐるのである。
 錯雑たる自然といふ意味は、ありのまゝの自然といふ意味である。そのありの儘の意味と、桂月氏の場合は、他の作家と少しく態度が異つてゐる。桂月氏の問題となるところは、その作品の材料の扱ひ方と、それに併ふところの手法の二点にある。材料の選び方は、全く野放図な状態で、まるで行き当りばつたりに庭の一部や、自然を描いてゐるかの感をさへ与へる。桂月氏の画風は、ちよつと見にはいかにも技術的な技巧的なそれに思はれるが、事実はこれに反して、桂月氏位自然を描くことに、人工的な方法を極度に避けてゐる作家は珍らしいのである。桂月氏の手法は人工的ではないとは言はない、しかし芸術は手法上の人工性を全く避けるといふことは不可能だといつても言ひすぎではあるまい、しかしこの方法が造りものであつてもそれは手段であつて、目的の前には消滅する性質のものだといふことができるであらう。
 満洲国への献上画『月苦沙寒』といつた作品は、その手法も構図も、多分に整理されたもので、その意味で技巧的な作品であり、また従つて作品の佳さもはつきりとわかる作である。しかしこの種の作品ではなく、私のいふ『錯雑たる自然』を描くことの妙手であるといふ意味は、桂月氏がその材料を、殆ど雑草園か廃墟からでも求めてきたのではないかと思はれる場合の作品で、もつともよくこの作者の自然観、人柄、実力、そしてそこには一人の人物も描かれてゐないが、人間観をさへ発見できるのである。私はこれらの作品を非感傷的な桂月氏の作品と呼んでゐるが奉讃展の『潭上余春』とか『春郊』とか『秋晴』などがそれである。殊に後者二点には、手法が人工的であるに拘はらず芸術態度が写実的であるといふ意味で、作者の人間的ママ力がよく現はれた作といふことができる。
 敢て私が桂月氏は廃園や雑草園の一隅を描くといつたのは、さういふ場所を描いてゐるといふ意味でいつたのではない。さういつた意味は、廃園や、雑草園などは、草木に対して、自然の雨露、風雪の加はり方が、もつとも自然な放任されたものであつて、桂月氏の作品のこの種のものは、さうした在りの儘の自然を描いてゐるといつた意味で廃園、雑草園的だといつただけである。同氏のこれらの特長的な作品をみると、松の枝へからみついた細い一本の蔓草があるとすれば、その蔓草は実に丹念に、気の済むほどに捲きついてゐるのである。小さな自然物の生命の向ひ方、動き方は、その蔓草の先端の行方を辿つてゆけば判る。作者桂月氏は、松の枝の屈折の仕方に人工的なものを加へない、描写の上では加へてゐるが、対象の事実を歪曲しない、これらの松の枝は、くねくねといろいろの角度に曲つてゐる。この松の木の運命を語るものは、この幹の形にもあるが細い枝のその曲り方と、行方にも関係がある。桂月氏の粘着力はさうした場合に最もよく発揮されてゐる。そこでは桂月氏の写実力よりも、写実的態度が問題になる。小さな赤い南天のたつた一粒の実が語る、この自然物の運命といふものは、なかなかに興味の深いものがある。桂月氏の作品をみる楽しみは第三者は、さうしたところに求めなければいけないやうに思ふ。また画壇の後進者も、その点を認めなければいけないと思ふ。桂月を論ずる場合には、桂月の写実精神を論じなければならない。写実を除外して桂月の値打は存在しないのである。
 桂月氏の作品のうちの『この雪に爺や何処より帰り来らん――』といつたホロリとさせる作品は、古い南画フママンの共通的なホロリとさせるところなのであつて、決して新しい時代に承認させる何ものもない。老年輩者が俗によく言ふ人情に脆くなるといふ意味は、さうした意味の感傷性がそれである。その感傷性は老い先の短かい人間が、感情の余燼としてやつとの思ひで取り戻すことができた、感情の小さな興奮なのである。日本画家のうちでもつとも現在活動的な作家には、年輩を超越して、この種の老年の感傷に捉へられてゐるものは全くない、沢山の日本画家が現はれて、その大部分が没落してゆくのは、人間の感傷性を作品に加へて或る期間はそれでも済むが、永い期間には、その感傷性そのものに敗北してゆくのである。松林桂月氏の作品の個別的には、その感傷に敗北してゐる作品と、それを克服してゐる作品とがあるが全体的には桂月氏の作品的な温情は、その写実態度の冷酷な中に、隠されてゐるやうな作品で優れたものが多い、人物にかはるに鳥類をもつてきた場合に却つて低い感傷は消えて、高い感情が画面に溢れてゐるのである。
 これらの作品から受けとられるものは、松林桂月氏は非常に人情家だといふことがよくわかるのである。竹、蘭のやうな長い葉、曲りくねつた松の枝、名もない雑草、木の実、蔓草、これらの自然物は、到底絵にもならないやうな状態で、混み入つた生活をしてゐる連中なのである。蔓草が竹にからみついてゐると、竹は松の木の枝と枝との間に体を押し入れて、その先端をふるはしてゐる。そこの隣りには木の実があつて枝は竹にもたれてゐるといつた、これらの自然の生活者達は、風露の中を生きぬいてきた、弱さ強さを露骨に示した始末にをへない、手のつけられないやうな混み入つた連中なのである。もし桂月氏に作家的愛情がなかつたなら、これらの樹木、雑草、鳥類たちはそのあまりに互に錯雑として生活してゐるといふ意味で、画題としては決して画家に喜ばれる連中ではないであらう、もつと見た儘で絵になつてゐる自然そのものが画家の労力を節約してくれたやうな、整理された画題の自然物は他にいくらもあるのである。画家がたゞそれを写生さへすれば、画面も整理されてすつきりするやうなものもあるのである。然るに松林桂月氏の場合は、その写実精神と氏の技術的密度の高さの一致を、決して楽な画材に求めずして、とかく黙殺され、顧みられもしないやうな、自然の一隅にある雑草をさへ、或は小さな樹の枝などの運命の姿を見極めないでは済まないといつた態度にすすめてゐることは敬服せざるを得ないのである。もしこの写実態度を自然物ではなく人間社会に当てはめた場合には、描写の細かさは、人情の機微の細かさに当てはまる、私が桂月氏が人情家であるとかないとか断定的に言ひ得たのも、氏のさうした作品の手法上の態度に現はれたところから言つたものである。自然観察の粗暴な作家が多い折柄に私は松林桂月氏の綿密な写実精神と自然対象に対する作家的愛情といつたものを支持したいと思ふ。
『花宵花影』(紐育万国博出品)のやうな作品では、我々は時代的に世代的に、これ以上の日本画の伝統と写実的手法の継承者といふものを、松林氏以外に他にもとめることが不可能だと思はせた作品であつた。殊にその作品が対外的な意味をもつてゐるだけに、松林氏をその出品者の一人に求めたといふことは適当な選であつたと思はれる。紐育博の出品顔触に対しては、その作品は当時問題にしようとせず、人選を兎角の問題にしたやうであつたが、あゝした海外に送るといふ特殊的事情の下にあつては、余程の人選の慎重さは勿論であるが、さりとて僅かな海外出品者をもつて、我国画壇の全部を語らせようと慾張るときに無理が出来るのである。松林桂月氏の『春宵花影』は題材的にも桜花を扱つて適当であつた。然も桜の花を過度にロマンチックに外国人に画いて見せる作家はザラに居る筈である。桂月氏の作品はその態度の厳格さと、題材そのものがもつてゐる情趣とが、ほどよく調和的で外国人に見せるには、うつてつけの作柄であつたやうである。外国人といふのは始末に終へない現実主義者の代名詞のやうなものである。東洋的神韻といつたものは、東洋的抽象的表現をもつてしては絶対に彼等に伝へることは不可能なものなのである。本質を玉堂の『鵜飼』や関雪の『霜猿』や大観の『夕月』の余韻の多い作品は外人の理解の範疇の外に出る。桂月の『春宵花影』や古径の『雪』のやうな写実的手段でなければ西洋人の悟性中心的な考への中に侵入することは不可能だと思ふ。しかも桂月氏はその桜の花を決して明るく描かなかつた許りか、陰気にさへも描いてゐたことは、東洋の詩と夢の国としての『日本』の現実的な是正として成功作だといはなければなるまい。更にこれに『蔬菜図』のやうなものを添へたら一層外人の理解を早めることができよう。この乱雑に置かれた蔬菜は、その配置の自然な状態の中で、よく個々の物質性と個々の性格とがよく生かされた作である。日本に沢山のテクニックをもつた日本画家がゐる。しかし西洋人の嗜好品であるアスパラガスを写生して送つて、西洋人の食慾を唆るやうに描ける作家が幾人ゐるかちよつと疑問だ。若い連中はこれを芸術的に描くだらう。しかし決して外人の食慾をそゝるやうな作ができず、却つて桂月氏のやうな年輩作家がその実感を巧みに出すであらうと思ふ。これは皮肉な例ではない、作画の上の真の実力の発揮は長い年期を重ねた強い洞察力をもつた眼が必要なやうである。松林桂月氏の作品の実力はさうした意味の自然洞察の逞ましさから生れたものである。
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堅山南風論

     自然洞察の徹底

 堅山南風論の書き出しは、堅山氏の人格論から入つてゆくのが至当なやうである、また世間でもさういふ論じ方をしてゐる、しかし世間で散見する堅山南風論が南風の人柄を賞めるといふことをやつてゐる間に、もう頁を喰つてしまつて、肝心の南風の絵の本質に触れないでしまふといふ場合が非常に多い。都合の良いことには、筆者は堅山氏と逢つてゐない、したがつて『対座して氏の話題に耳を傾けてゐると何とも言ひ知れぬ人間の温かさに包まれる――』といつたやうな批評はできない。筆者は斯ういふ意見を平素もつてゐる、芸術家で人間味のないものはゐない、少し位人が悪くても、良い芸術品を産む人に頭を下げる、人が良くて仕事をしない芸術家があまりに多すぎる、堅山南風氏は『人が良くて芸術が良い』問題はそこにある、人柄と芸術とが一致してゐるといふことは確かに完全なことにちがひない、一度氏に面接した人は、きまつて氏を尊敬し讃めそやす、人との間に垣を設けない氏の人柄に好感を持つ、ある美術通が、日本画壇の好人物三点を述べて、堅山南風氏は、三本の指に折られるうちの一人だと言つてゐた。
 一に荒木十畝氏、この人はヒネクレ屋ではない、しかし相手の出方次第で、どのやうにでも曲つてでる、しかし根が実に人柄が良い人である、次には池上秀畝氏少し軽忽なところがあるが人が良い、それから堅山南風氏で、堅山氏は『純粋に人が良い』と日本画壇好人物三羽烏だとその人は言つてゐた、南風氏が『人との間に垣を設けない――』といふことは特に驚ろくべきことではないので、氏にとつては対人関係に於いて『武装する時代』はすでにすぎたのである。しかし南風氏がその製作にあたつて、『自然と彼』との関係に於いて、この男ほど垣を設ける作家はゐないのである。
 その絵をみればわかるやうに、第一にその構図の上でも、徹底した構図主義者であるといふこと、しかもその徹底ぶりが完璧的であるために、ちよつと見[#「ちよつと見」は底本では「ちつよつと見」]には作意もなく自然に出来てゐる、描けてゐるやうに見えること、その実作者自身の心境は、世間でいふやうほどにも、単純でも素朴でもないといふことである。
 彼は描く自然に対して、人間的な厳格さをもつてたち向ふ、この種の作家は、自然の美しさに極度にヤキモチを焼く作家に属してゐる、そのヤキモチの焼き加減は、死んだ速水御舟ほどにもひどくないが何かしら『人間的表現』を求めないではをられないといふ点では良く似てゐる。
 南風氏の絵からは、ナイーブなものを受けとるといふよりも、ある『辛辣なもの』をうけとることが多い、南風氏は人柄が良いにちがひない、しかし絵そのものは実に『人が悪い』絵である、どういふ風に人が悪い絵を書いてゐるか、これをいちいち解くには、南風氏の神経の密度から論じていかなければならない、それでは大変だ、そこでそれを短かく要約して言つて見よう。
 南風氏の絵の人の悪さは『日本画の伝統をぢりぢりと少しづつ破つてゆく、その方法の人の悪さ』である。川端龍子や、近藤浩一路のやうに、短腹タンパラの気の短かいやり方で、日本画の伝統や封建性を打ち破らうとは、南風氏はけつしてしてゐない。
 南風氏は、評判作『朔風』の飛んでゐる鴨の群のその先頭を飛んでゐる一羽の鴨のやうに、ただ着実に『羽を動かす』だけである、しかもこの真先にとんでゐる鴨は、しぜんな羽の動かし方で、飛翔力の強い、余裕のたつぷりあるすすみ方であつて、それにつづく鴨は後れてゐる鳥ほど、前の鳥を追ひ抜かうとして焦燥してゐる、南風氏作『朔風』は単なる屏風絵ではすみさうもない、日本画壇のセリ合ひを諷刺したやうな絵である。
 堅山南風氏の弟子であつたM氏が、南風氏より先に美術院の同人になつた、つまり昨日の弟子が今日は先生の絵を審査する立場になつた、封建性の強い徒弟制度的な日本画壇で、どうしてかういふ現象が起きたか、人に言はせれば、美術院の幹部はときどきさういふヒステリー的なやり方をするのださうだ――物の順序を欠いて、お先に先生より偉くなつたM氏は、したがつて仁義の上に於いても順序を欠いてゐた、南風氏のところに訪ねてきたM氏は、立つたまゝ足指で座布団をひきよせて、座つた、弟子M氏の昨日に変る横柄な態度を、南風氏はじつと無言のまゝ眺めてゐたといふことである。この話はいかにも傍で見てゐたやうに筆者に話した人がある、当時の南風氏の苦衷を手にとるやうにその人は! 語るのである。
『いまに見てゐれ!』と忍耐そのものの南風氏の表情まで真似てその人は筆者に語るのである、それはおそらくゴシップであらう、しかしゴシップであらうが、真実であらうがどちらでも構はぬ、如何にも実在しさうな話である、南風氏はその後それかあらぬか、画境の上で、また押しと飛躍では、他の追従をゆるさぬ世界を示しだした、まもなく南風氏は同人となつた、そしてM氏は、東京に居たたまらないものがあつて京都に去つたといふことである。丁度南風氏の『朔風』に描かれてゐる波の上をとぶ鴨の群の、トップを切る鴨のやうに、南風氏の飛翔力は着実となつたのである、弟子と先生との同人の小ぜり争ひといつた小局的なものが南風氏の画業の目標でなかつたことはたしかだ、氏の作『残照』の鵜のやうな超然主義もまた堅山南風氏の生活態度の、側面的な強味となつてゐるのである、勝負を目先にをかず、長い時間の間で決めてゆかうといふ態度である。
 堅山南風氏の『残照』と郷倉千靱氏の『山の夜』とは良い対照である、南風氏の自然に対する向ひ方といふのは、自然を素直にうけいれ、特に自然と妥協をすることさへも恐れないが、結局は自然を自分の膝の下に組み据へてしまはなければ気が済まないといふやり方である。
 郷倉千靱氏の場合は、自然に反逆する、自然を物をもつて掻き乱すといふ積極性が終始する。最初の動機から自然に勝たうとする、勝つこともあるだらう、だが千靱は最悪の場合でも自然と人間とは五分五分の勝負、引き分けであつても、負けたくないといふ強情さがある。
 南風氏を一言にして言へば、自然に対する人間の勝ち方を『目的のために手段を選ばない――』といふ方法をとつてゐるのである、両者の画境の相違を、最も良く示す証拠は、画面の空白のあけ方を見ればはつきりとする、千靱氏は画面の白い部分(描かれてゐない部分)をできるだけ少くしようと努める、自然の空白の存在することをゆるさないのである、それに反して南風氏は、空白だらけの絵を描くことが彼の特長となつてゐる。
 画面の空白とは、物理的に言つても、哲学的に言つてもそれは『空間』と呼ばれるものである、空間に時間があることを証明するには、そこに一本の枝にせよ、一尾の魚にせよ、一つの波にせよ、何かしら時間の実在することを知らせるやうなものを描かなければならない、しかし南風氏の絵のやうに空白が多く描くものの面積が少ないことは、それだけ空間によつて、時間が押しつめられ圧迫されることになる。
 つまり画面に空が多いといふことは、非常に困難な事業であるわけだ、南風氏の画面の処理の仕方はそれこそ彼の人柄のやうにも、自然に対しては謙遜で、最も消極的な態度でもつて、最も積極的な答を出さうといふのである。
 試みに彼の絵を注意して見給へ、ボンヤリと抜けたやうな感じの空間の多い絵でも、そこに描かれてゐるものが、極度に神経を緊密にした、細心そのものに丹念に描かれてゐることを発見するだらう。全体を把へるには細部の描写を完全に果すといふ以外に方法がない、南風氏はそれをちやんと心得てゐるのである。ボッと抜けたやうに見えてゐて、その絵の部分のママ描写によつて、充分に絵に締りをつけてゐるのである、龍子の絵はその気魄に於いては、雄大なものをもつてゐるが、その画家の心の動き方の順序といふものを吟味してみると、内側から外側へ拡げてゆくといふ『外延的』なやり方である、したがつて落漠感があるが、結局は絵に締りを欠く、南風氏の絵はその逆の心理状態を辿る、外側から内側に締めてゆくといふ『内延的』な描き方をとつてゐる、しかも南風氏の奇妙なところは、画面の『平面』といふことを良く心得てゐることである、画面に強ひて立体感をつけようとしないで、平面のなかで巧みに立体感や、絵の深みをつくりあげる才能は彼独特なものがある。
 しかしこゝまで平面芸術にコクをもたせるやうになるまでには、南風氏のこれまでの技術的苦労は並々ではなかつたであらう、昭和十年の上野松坂屋で開かれた第三回美術院同人展出品の『残月』は凄愴の気が満ちた力作であり、それは南風雌伏期の冷徹な思索時代のものであらう、それと傾向を同系列にをかれるもの『残照』をみても判かるやうに、その樹木の枝のなんと一とひねりも二ひねりもひねりまくつた描き方であらう、決してクセのない画家とは言へないのである。しかしその猛烈な癖を、平静な状態で観者に見せるといふ力量が、南風氏の力なのである。
『残月』といふようなクセの多い絵から最近の尚美堂展の『冬暖』といふやうなまことにクセの抜けた平和そのものの絵を描くやうになつた路莇はなかなか興味ぶかいものがある『冬暖』はいはゆる気のをけない描き方をした『小品』ものではあるが、作意が複雑なことと問題をもつてゐるといふ点では大作ものよりも、かうした小品ものに多くの作家研究の興味がつながれる。
 冬の温もりの中に、二羽の鴨が凝然とうづくまつてゐる絵であるが、一羽は顔をむきだしにして、一羽は羽の間に顔を突込んでゐる、そしてこの二羽の鴨は決して暖かさうには描かれてはゐない、周囲の状態も荒涼としてゐて、だから『冬暖』と画題をつけられてゐても、自然としての冬の温もりとは解釈できないのである。
 一言にして言へば、この『冬暖』なる絵はなにもかにも寒々と描かれてゐるのである、それでゐて何処かに『冬暖』と作者が画題を附した、その理由と覚しいものが、何かしら『暖かいもの』が感じられるのである。それは何処から来てゐるか、それは自然観照の態度で、描く対象を突放したやり方が却つて成功をさせてゐるのである、二羽の鴨には生きた血が通つてゐて、じつと冬の中で静止してゐるところは、鴨の体内的な温かさをさへ観るものに想像させるといふ、南風氏一流の感覚的な方法が生かされてゐるのである。
 往々にして南風氏の批評は、その表面的な批評で終る場合が多い、作者の洞察点にまで批評家が触れてやつて批評をする以外に親切な批評はないはずである、したがつて彼の作品に対して世上区々としてまとまつてゐない、帰するところは南風氏の人柄が良いといふところに落ちる、或る人は南風氏の三徳として『決して人に逆らはない』『道に逆らはない』『人に先んじない』と数へあげてゐる。
 しかし果して南風氏をさうした表面的な観察だけで済ましてをいていゝであらうか、人にさからはないといふことは、必ずしも美徳にはならない、南風氏は南風氏一流のさからひ方がある、その方法は彼だけのもので他人の察知できないものである、道にさからはないといふ訳は、いかにも彼が中庸主義者、合理主義者、功利主義者のやうに思はせがちであるが、彼が他人や芸術の路にさからはないといふことは、さういふ打算から出たものでもないやうだ。
 或る人は彼を『悟り』きつた男のやうにいふ。しかも彼の描いてゐる絵をみればわかるやうに、悟りどころか、彼位芸術上で悟りに徹した男は珍らしい、然も彼は自己の限界といふものをよく心得てゐる、その限界内で自己の完成を果たさうといふ慾望のまことに高いものがある。彼の仕事が『自然に』見え彼の人柄が『悟り』に感じられるのがその点である。彼は自己完成のやり方では、自分の描く絵と一緒に発展してゆかうといふやり方である。
 人格を超越して、絵の上でだけ人格的な絵を描かうとする画家も少くない、彼の場合は人間的苦悩を画の製作の間でやりとげてしまふ、それが果たし終へない間は絵が停滞することも尚怖れないといふ現実的な粘りがある。
 絵の上でゴマカシといふものをやらない、さういふ誠実さが、南風氏のかはれるところであらう、彼は花鳥の名手と呼ばれ、また『魚楽図』『魚類十種』『鱗光潜む』などのすぐれた作があるところから魚の名手ともいはれてゐる、いままた波をよく描き、波の名手ともいはれさうだ、美人を描きだしたら美人画の名手にもなれさうである、しかしそれは画題に依つて一人の作家をきめつけてはしまへないものがある、南風氏は定めし、これまで描いたことのないものを新しく描いても、この描写の態度の『誠実さ』の故に、それを美事に描ききつてしまふだらう。ゴマカシのない製作態度に依るときは、如何なる題材もまた完璧化されるだらう、昭和十一年第一回帝国美術院の出品『ぼら網』は、重厚な厚塗りの立体と、群青を生かした新興作家、前衛作家にも劣らぬ色彩的に豊富な好評作であつたが、こゝでは色彩論を次の機会に譲つて、そこに描かれたものの、作者南風氏の自然観照の緻密さと、その解決の仕方を述べよう。
『ぼら網』の中に追ひつめられた魚達の混乱を描いたものだが、魚が驚愕の果ての混乱の状景といふものには、秩序のないのが普通とされてゐる、しかし南風氏は魚たちを混乱させてはゐるが、この全体的な混乱を、いくつもの小さな部分に分けて、混乱させてゐる、ちよつと見には大きな混乱にみえるが、仔細にみると、小さな部分の魚達は少しも驚ろいてゐない、小さな列をつくりながら整然と逃げ廻つてゐる、堅山南風氏が自然観照の細部に対しての洞察力の透徹を最もよく語るものであらう。
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郷倉千靱論

 郷倉千靱氏の現在の作家的位置が、日本画壇のどのやうな位置を占めてゐるだらうか、そのことに就いて、分析したり観察したりしてみることは、様々の問題を提出する、こゝでいふ画壇的地位といふのは、画壇での政治的政策的地位のことをいふのではない、画が拙くても、なかなか政治的位置を築きあげることの巧みな人もある、こゝではその種の位置ではない、批評家の批評は、結局に於いてその作家の作品に出発して、その作品に終れば批評の目的は達せられる、党派とか、政略とかいふ作品以外の色々の附属物を気にかけて、それで批評眼を曇らすことは批評家の不幸に停まらず、作家にとつても不幸と言はなければならないだらう。
 郷倉氏の日本画壇での位置は、氏がこれまで反世俗的な方法を、作画上に加へることに依つて築きあげてきた、案外に滋味な位置と解されるべきであらう。氏はその小品、竹とか鳥獣とかの、日常的な作品にさへも、何等かの新しい試み、反世俗的な方法を加へなければ気が済まない性質である、院同人展への出品『寒竹に小禽』に対して、ある批評家が斯ういつた『近代的感覚をもつた作家である、直線的な鋭敏性を示してゐる――』竹といふ画題は、おそらく日本画始まつて以来の画題的古さをもつてゐるものにちがひない。
 竹はあらゆる画人が、あらゆる角度から、その姿態に於いても、殆んど描き尽したといつても良いほどに、手法の変化の余地のないほどにも描かれてきたに違ひない、その竹に郷倉氏が近代的感覚とか、直線的鋭敏性をもつて描いたとはどういふことを指していふのか、この批評家も、こゝまでは言ふ、だが例によつての印象批評で、具体的批評を行つてゐない。
 竹などといふ古くからある画題に取組んで新しい仕事をするといふことは、新しい画題に新しい仕事をするよりも、幾層倍も困難が伴ふのである、郷倉氏はその作品の小さなものに案外な問題作が少なくない、『寒竹に小禽』とか、一哉堂展の『恵春』の試みとか、第十三回日本美術院『筍』とか、昭和四年の『寒空』といつた画壇で、さう喧ましく言はない作品に、却つてピカリと光つた作家の前進性や、郷倉氏の片鱗を発見することが多い、小品物には、展観制作の大物とはちがつて、気らないもの、作家の日常の勉強ぶりがよく現はれるからである。郷倉千靱氏の作風位、動揺極まりない作風は少ない、一作毎に加へられてゐる新しい試みは、時には露骨なほどに、その新しい計画を誇張してゐる作品さへ見受けられるのである、世俗的には作風の動揺といふことは、其作家の地位の動揺といふことと同意語であつて郷倉氏の場合は、それに反して作風の動揺を引つ提げて、こゝまでひた押しに押し切つてきたのである、それはむしろ奇蹟的な感じさへ与へる、作者が自分の画風といふものを変へずそれに安定感を与へるといふことは、世俗的には得策なことである、それを敢てせず一作毎に飛躍を求め、必然的に現れてくる作風の変化を怖れないといふ態度は、作家の勇気と呼ばれていゝ性質のものだ。同時に郷倉氏自身が自己の実力といふものを確信して仕事をすゝめてきたからでもあらう、作風の動揺の底に失はぬところの『実力』が郷倉氏の現在を、社会的保証の中にをくやうになつたと解すべきであらう。
 作風を変化させるといふ勉強の方法を求めるといふことは、実力のないものにとつては最も危険なやり方である。西洋ではピカソがカメレオンと悪口を言はれた程、画風を変へてきたが、彼が今日の位置を保つてゐるのは、彼の本質的な実力が、最後的勝利を得たからである、郷倉氏の作風の変化は、ピカソ的変貌の仕方とは勿論ちがふが、日本画家としては珍らしく、作風上の飛躍を、大胆に試みる作家である、しかしこの変貌時代は漸次去つて、十二年の院展『麓の雪』十三年の院展『山の夜』には、作者の心理的安定を、その作品から感ずることができる、郷倉氏は『山の夜』あたりを一転機として、実力発揮の時代に入つたものとみて誤りがなからう、言ひかへればこれまでの郷倉氏は、その自己の実力の出しをしみをしてきた作家といふことも出来るのである、我々の作家にのぞむものは、その野心作である、実力発揮といふことの本質的な言ひ方は、さうした野心作に作家が入つてから用ひられるべきものだらう。
 郷倉氏は、画風の上ではいかにも感情的、感性的な仕事をしてゐるやうに、我々の眼に映ずる、しかし実はその反対のものが、氏の認識手段として多くはたらいてゐるのである、つまり知性的なもの、悟性的なもの、が制作にあたつて重要な働きをしてゐる、郷倉氏が仕事の上で、奔放性を発揮しようとしても、悟性がこれを強く押へてきた、近来それが人柄の上にも、年輩の上にも、成熟期に入つた感がする、今後は何の懸念もなく、感性も悟性もその赴くまゝに自由に発揮し、制作するといふ自由が氏の最近に訪れたやうである。
『山の夜』は問題作であるのに拘はらず、案外世間では慌たゞしく、この作品を見遁したといふ感がある、批評家が、一つの予見性を認めるとすれば、氏の『山の夜』から引きだされる将来の仕事は充分予見できるのである。『麓の雪』を金井紫雲氏が評して『此の雪の描写は、象徴的気分はないにしても、手法の上に一の創作的技巧を見ることができる――』といつてゐた、日本画の世界では、象徴的気分とか象徴的方法とかいふものを、これまで創作的技巧と呼んでゐたのではなかつたらうか――、こゝで金井紫雲氏は、郷倉氏の絵を評して、『象徴的気分』と『創作的技巧』といふものをはつきりと区別して論じてゐるし、郷倉氏の『麓の雪』に象徴的気分がなくて、そのかはりに一つの創作技巧をみいだしたといつてゐるのである、金井氏の評は、たしかに郷倉氏に対して、一応当つたことを言つてゐる、しかしまた象徴的気分に対して未練がましいものを評者から感ずるし、郷倉氏の所謂一つの創作技術なるものの正体を解かず、舌足らずの感がある。
 郷倉氏の作品に対する世間的評価の仕方には、何かしら『舌足らず』のものがあるが、実はこれは郷倉氏個人の作品批評だけの問題にとどまらない、日本画の上で何かしら新しい前衛的な試みをしてゐる作家に対しての、世間的評価は、何れもみなこの『舌足らず』そのものを証明してゐる、金井氏のいふやうに郷倉氏は、その作風の上で、たしかに象徴的気分のない『創作的技巧』を示したことは事実である、そして次の仕事『山の夜』では、それが発展した作品として、一層象徴的気分を排除し、創作的技巧を発揮したのである。それは『現実主義者をして郷倉氏――』がその創作上で面目躍如を始めたからである。
 現実主義者は、象徴的気分を喜ぶはずがない、日本画壇には写実主義者や、象徴主義者はまことに多いが、郷倉氏のやうなタイプの現実主義者は至つて少ないのである。
 ただこゝに一つの問題が残る、それは現実主義者が作画上で、象徴的方法を用ひてはいけないか、あるひは用ひることが不可能であるかといふ問題である、こゝではつきりと言へることは、象徴的方法を完全に自己のものとして使ひこなすことのできるのは、現実主義だけであるといふことである。始めつからの象徴主義者は、象徴的方法を用ひることができない。
 しかも郷倉氏は現実主義者でありながら、象徴的な画を描いてきてゐるといふことは興味ふかいものがある、金井紫雲氏の言ふやうに『象徴的気分』はいけないのであつて、作画上で象徴的解決にもつてゆくことは一向差支へないのである、気分では方法が生れないのである、郷倉氏の作画方法は、あくまでリアリズムであつて、そこから引き出された答が象徴主義者なのである、氏がシンボリズムの様々の試みをしてゐることは過去の仕事ぶりをみてもわかる。
 第八回日本美術院『地上の春』は林の中の樹木の群が歓喜の状態で描かれてゐる。硬い目に描かれてゐる木の枝に、配するに柔らかい花と、木の芽があり、地上の湿潤のいい春の気配を感じさせる作である、この描法の硬さは単純な企てから出発した硬さではない、強い写実力として、その後の行き方の基本的なものを示してゐる、当時の画家たちがどんな仕事をしてゐたかといふことを回顧することも無意味ではあるまい、当時は小林古径の『罌粟』や、藤井達吉の『山芍薬』のリリシズム、速水御舟の『菊』殊に速水の『渓泉二図』の豪放のうちに強い写実味を加へた作や橋本静水の『秋』はけんらんたる絵巻を展開し何れの作家もすぐれた写実的風潮を、その作画の基本的なものとしてゐたのである。
 郷倉氏はこれらの写実的風潮の中を潜つてきた人である、したがつて作風の上でもその変化は、独特の抵抗力をもつてゐる、計画的な画面の硬さや、陰影の明確さは、何れもその後の象徴的方法の前奏曲的なもので、下仕事として現はれたものと思はれる。第十二回の『筍』や『童児相撲』などはその極端な現はれであつた、その間に特長的な仕事として第十回に『草辺二題』がある、この絵は『蜂の巣』と『小鳥の水浴び』とを描いたもので、その細密描写は、一見写実的方法には見えるがさうではなく、一種の象徴的手段であると見ることが正しいであらう。
 洋画家アンリー・ルッソーが徹底的写実を追求して行つて、却つて象徴的手段に行き着いたのと、郷倉氏の『草辺二題』はその軌を一にするものがある。郷倉氏のこれまでの作品の流れをみると、氏は硬軟両様の方法で、一つの対照的方法を産みださうとして、両側から攻めてきてゐるのだといふ感がふかい、ただこゝに一つ危険が伴つてゐた、それは郷倉氏の作風の中の、一種の『童画的』な方法である、むしろ童画的精神と呼ぶべきものがチラチラと作品の傾向の中に挟まつてきた、氏の童子もの、鳥獣もので特別な姿態に跳躍させてゐる、俗にいふ童話的雰囲気のものがそれである、これらのものは飄逸性に於て面白いが、この種の童話的解釈は、画家そのものの現実からの逸脱であつて、もつとも危険な現象である、観る者またその童画的な作から、いつまでも時間的に現実性を味得することができない、批評家たちは『村童は素朴なユーモラスな気分ある趣き深いもの――』などと氏のものを批評してゐる、郷倉氏の童話的作品に対して支持的態度を見せてゐるがこれは批評家のお世辞以外のなにものでもない。
 しかし最近では氏のこの童話性の危険は、漸次去つてゐるやうである、『山の秋』ことに『山の夜』に至つては、そこに跳躍する小動物は、既に往年の童話的小動物ではない、それは山の夜に生活するもの――としてあるふてぶてしい存在にさへ、写実的に描きあげられてゐるのである。『山の夜』は現実的な作品であつても、決して世間でいふほど神秘的な作品童画的な作品ではないのである、また郷倉氏の独特の抒情味といふものも、世間では認めてゐるが、抒情性は小品ものでは承認されても、氏の大作ものに対しては、むしろ抒情味の少ない、冷酷な位な悟性の透徹した作品をみせてほしいといふ欲望をもつ、評者金井紫雲氏は、郷倉氏の手法上の一の創作的技巧――とは認めたが、その正体を語らなかつたが、私は郷倉氏のこの創作的技巧を指して、新しい象徴的手法であると、はつきりと規定することができる、何故ならば作家の用ひる芸術的な方法は、必然的な手段ばかりでなく、時には偶然的な方法さへ認めなければならない立場にたたされる、それといふのも、対象の真を描くためには、芸術家は『目的のためには手段を選ばない――』態度であるべきだからである。
 郷倉氏が気分の上の象徴主義者ではなく、むしろ気分の上では完全なリアリストであつて、ただ手段の上で象徴的方法をとるといふことであつたならば郷倉氏の傾向としてむしろ喜ぶべきことだと考へる、日本画が将来に発展するか、滅亡するかは、日本画の従来の特質である象徴性に、新しい時代的解釈を加へることができるかどうかの如何に懸つてゐる、南画の危機は、その内容の危機でもあるが、むしろ南画そのものの『象徴的方法』の危機に当面してゐるやうに、日本絵画伝統の深さは、一本の竹、一本の松、を描くにも、作者が少しも現実的な思索をしなくても、形だけは描けるといふ前もつて約束された描法上の諸形式があまりに数多くありすぎる、つまり筆を下ろした初から、抽象的、象徴的方法ができてゐる、思索をしなくとも、ただ描法を選みさへすればいゝといふことは、現代の日本画の半面の幸福と、半面の不幸とを物語るものであらう。
 郷倉氏がそこに何等かの新しい創造方法を産み出すことを計画してゐるとすれば、強い写実的雰囲気を出すための手段としての、象徴的方法それでなければならない、しかもその象徴的方法とは方法以外のなにものでもなくて、方法以上に一歩もでるものではない、観る者に象徴的雰囲気を与へては、その目的に反する、郷倉氏は最近その創作方法上の一つの解決の鍵を発見したかのやうである、『山の秋』『麓の雪』『山の夜』等を一転機として、氏の仕事が『主題芸術』に入つたといふことこれである、凡俗の画家は、一生涯構図をつくることで終る、作家が最大の力量を発揮できる世界は、この構図主義から開放され、『主題芸術』の世界に入ることである。このテーマ芸術とは、画面の構成を意味あり気にしたり、物語りめいた画をつくることとは違ふ、むしろもつと単純なものだ、それは画面に時間的空間的な系列を具体的に示すといふ事業のことである、画面の叙述性、叙事性が生かされたものが主題芸術なのである。それは必ずしも社会的政治的テーマとは限らぬ、それは山の夜の静動の世界でも、雪に埋没された鳥の生活でも構はぬ、画面に時間的展開が無限の叙述をもつて表現されてゐれば、立派なテーマ芸術と言へる、郷倉氏はその強烈な空想性、想像性を現実的拠点、現実的基礎から引き出すといふ方法をわきまへてゐる作家である、そこには悟性の強い時代的な活動があり、さうした客観性が新しい創作方法を産み出し、新しい主題芸術に突入することを可能とするのであらう(日本画の象徴性及び主体芸術に就いては、折をみて評論の機会を得たい――筆者)
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伊東深水論

 伊東深水氏の生ひ立ちとか、少年時代の家庭的な並々ならぬ苦労とか、或は氏を立身伝中の人として語るといふことに、この人位材料に不足しない人はゐない、しかしこゝでは伊東氏の苦労話をすることをやめよう、何故なら、もし少年時代の不遇や不幸がすぐれた作家になることができるといふのであれば、まづ絵の勉強をする前に、苦労を先にするだらうからである。環境が人間をつくるといふことはあるには違ひないが、その環境なるものは何も固定的なものではないから、重要なのは、物語りめいた、伝記的な回顧録の中からは、今日の伊東深水氏を語るといふ手懸りは既に失つたといつても過言ではあるまい。ただこゝに伊東氏の少年時代の生活を形容する言葉として、「凄惨そのものの苦労をした――」といふ形容だけで足りると思はれる。ただこゝで最初に語らなければならないことは何故に伊東氏が人物画、もつと言ひ方を変へれば「風俗画」を自分の作風に選んだかといふことに関してである、何故氏が山水、花鳥の画家として登場しなかつたかといふことである。日本画壇には考へてみれば風俗画家と呼ばれる画家が至つて少ないのはどういふ原因であらうか、武者絵作者を、風俗画家の範疇に加へるといふことはこの場合差控へたい、歴史画家は厳密な意味では、風俗画家ではないのである。過去のものを考証によつて仕上げるといふこの歴史画家の作画上の方法には、生きた現在的な現実の証明の仕方は加はつてはゐない。その場合、それを描いてゐる人間が、現在の人間であつてもそれは問題とはならない。真個ほんとうの意味の風俗画家と呼ばれるべきものは、生きた歴史の証明の仕方を、もつとも身近な現実から出発して企てることであらう、伊東氏が風俗画家を何故に志望したかといふことは、その理由を本人の口から聞いてはゐないが、その理由は判然としてゐる、一人の作家が、いまこゝに山水花鳥と人物との何れを自分の将来の仕事に選んだらいゝかといふ場合に当面した時を想像して見たら判る、非常に人間的な人が、その人間的なる故に、花鳥や山水に愛着を感じて、その方面にすゝむといふ場合もあるだらう。しかしこの場合に、問題をなるべく素朴に、簡単に考へて見れば、人間、人物の好きな人は草花より人間の方を選むのである、
 花鳥山水と人物とを較べてみると、残念ながら人間の方がどうやら花鳥山水よりも社会的な存在であるらしい、伊東深水氏が幼少から所謂人間苦労をしてきたといふ事実やその出身地が東京市深川区西森下町に生粋の江戸児として生れたといふことに思ひ到れば、江戸、東京と称されるところが如何に人間なるものの巣に等しい都市であるかといふことと照らし合して、人間の中に生まれ、人間の中に育つたものが、まづ第一に人間理解に於いて、魅惑的であるかといふことは肯けるであらう、同時に伊東氏の経歴がそれを示すやうに、氏はあまりに人間のために苦労をしてきたのである。地方生活者が行李を背負つて、東京に画業勉強にやつてきた場合には、彼が過去の生活地域の、人間が少なく、山水花鳥の多い自然の美しさを、例へ東京に永らく住んでゐても想像の魅惑は遂に消し難いものにちがひない相当の大家も自邸に無数の鳥籠を吊し、多種類の鳥獣を飼つて、日常的にこれらの鳥獣達の生活の姿態を観察し、素描し、制作化さなければ[#「さなければ」はママ]ならない、といふことは不幸なことである。しかし無数の鳥を飼ひ、生態を観察する機縁に恵まれてゐるのはまだ良いとして、第四流の山水、花鳥画家は鳥を飼ふこともできず師匠の屋敷で、鳥を写生させて貰つてゐるのである。在来の花鳥画の模写からも、彼が生来の自然人であれば、生きたやうに描くことも可能であらう、伊東深水氏がその美人画に於いてあたかも髪結の梳手のそれよりも綿密に、髪の線の配列を心得てゐるのも、氏は生来の都会人であり、江戸つ児であつたからその日常的な人間への接近への、より多くの機会を捉へ得るものでなければ不可能な業であらう、昭和九年の作「秋」では鏡台に向つた丸髷の女が、櫛で髪を掻きあげながら坐つてゐる図であるが、その絵から「秋」といふ主題を探しだして[#「探しだして」は底本では「深しだして」]みると、女の羽織の模様が紅葉を散らした模様であるといふ以外に特別に「秋」を想はせる何物もない、しかし何かしら「秋」を観者にぼんやりと感じさせるものが他にある。仔細に注意してみると女の敷いてゐる座布団の厚味に、作者がそつと人知れず工夫をこらしたものを発見することができる、座布団の厚味は春のものでも夏のものでもなく、将に秋のものである。冬を控へた秋の冷えを、そのふつくらとした座布団の厚味で表現してゐる、俳句に季題が重要視される理由は、あの十七文字の短かい形式の中にも「季」と称する自然現象を差し加へなければ、人間と自然との関係に於いて袂別するからである、人間と自然との関係の密着に依つて始めて世界観といふものがその作者に確立される、伊東氏はその人物画に於いても、俳人の季を尊重するやうに、季節を説明しない不用意な着物の重ね方は、その描くところの女に決してさせない、女の敷いてゐる座布団にも季を加へ女の襟元や裾さばきにちらりと見せてゐる着物の枚数を数へただけでも、彼女が秋の女か冬の女か、秋と冬との間にある女かわかる位である。日常性に於いて、その現象の移り変りを敏感に捉へるといふことこそ、風俗作家の重要な立場といふべきだらう。風俗画や、人物画家の難かしさは、画のテクニックの上の難かしさの以外に、その人物の背後関係、つまり生活環境を洞察し、これらの背後的なものの中に、人物を浮彫にしなければならない、ただ人物を描くといふだけで済まないものがある、伊東深水氏の作品はその人物の生活環境の出し方に於いて、観るものの気のつかないやうな方法で、そつと巧みにやつてのける、人物の身の周りにある、何んでもなささうな一備品を描いてあることによつて実際には大きな効果を生んでゐるものである、さうした用意を絵の中に仕組むことに意識的であり、工夫を凝る作家に、洋画壇には藤田嗣治氏があり、日本画壇には伊東深水氏がある。藤田嗣治氏の作品の風俗画的な作品には人物を書くといふ以外にその周りのもの転がつてゐる籠とか、皿とか、或は人物の着物の模様とかに、その地方色や、風俗をはつきりと捉へたものを選んでゐる、さながらこれらの静物的なものを先に描き、その中に人物を後から加へさへすれば、絵ができあがつた上に、風俗画としての人物の生活環境を生々しく描きだしてゐる、伊東深水氏の場合は、洋画家藤田氏のやうに露骨な方法ではない。いかにも日本画家らしく、そつと気取られないやうに工夫してゐる、女の敷いた座布団の厚味で人物の生活や秋といふ季節を語らしたり、昭和九年の作に「細雨」といふのがある、女が二階の手すりに腰をかけてゐる図である、細雨と名づけられるほどのものであれば、眼にも見えないほどの細微なものであるべきで、言葉を変へて言へば、描きやうのないほど細かいものだ、少くとも線と称されるものでは細雨は描くことができない、細雨とか糠雨とかいはれるものは、線よりも点にちかい表現を求めることが至当であり、もし線をもつて表現しようとする場合は、その線の長短に拘はらず、極度に細い線を必要とされる、その極めて細い線といふのはその極度に細いが故に、点に接近する、細い線を観て、その線が部分的に切断されてゐるやうに見えて始めて、細かな雨を描くといふ目的に達することができる。いま伊東深水氏の「細雨」の表現をみれば勿論さうした表現の、用意に欠けてゐることはないが、もう一つの用意をそこに発見する、それは線や点で雨を描いただけで果されない効果といふものを他に求めてゐる。この点は伊東深水氏の作画上の独特な方法である、「細雨」の中の女の服装は淡色と濃色との大柄な矢絣ともいふべき柄で、そこにははつきりとした濃い矢の模様が十本描かれてゐる、その矢のうち上に向つて描かれた矢が二本、残りの八本の矢は下に向つて放された矢、つまり二本が天上に向かひ、八本が地上に向けられた矢模様である。矢の方向といふのは運動の方向なのであつて、細雨が天から地上にふるといふ方向と一致させてゐるところに、細雨の表現への外劃的な助け太刀があるのである、上下に飛びちがふ矢の方向を模様化してその巧みな数の配分によつて、「細雨」といふものの運動の方向を決定づけるといふやりかた、その他にもう一つ、女の傍の手すりには、タオル風な手拭様なものが拡げられてかけられてゐるが、それが細雨などといふ微細な物質を、吸収するにもつとも適当なものとして置かれてある、その手拭風のものは細雨のしつとりとした湿りをこゝで吸収される物質として細雨の実感の一部を表現するに重要な役目を果してゐる、部分が全体を決定するのである、作家の技術にはその細部に重要なテクニックが隠されてゐる、作家はその細部のテクニックを強調するのではなく、それを全体的な効果の中に解消するやうにする、然し或は斯ういふ人もあるかもしれない、「さうしたテクニックは伊東深水氏だけがやつてゐるのではない、日本画家の大家はみんなその位の工夫がある――」と、それも確かに一理はあるが、こゝで問題にしてゐるのは、永い間の習練に依つて巧まずして、さうした技術を会得してゐる人もあるのである、しかし、伊東氏の場合はそれとはちがふ、無計画的なものではない、意識してその方法を用ひてゐるといふところに問題があるのである。
 昭和九年帝国美術院第十五回展に出品した「鏡獅子」は名人六代目菊五郎の鏡獅子の舞踊を伊東氏が観て、名優の至芸からヒントを得て製作されたものであるが、この「鏡獅子」製作談を伊東氏がかういつてゐる「背景の黒い隈なども、畢竟霊獣の妖気に引かれて行く運動の状態を示さうが為なのです。そして全体に画の向つて右の側面に明るい感じを出したのは、妖気から逃れようとする女性を、一層効果的にするためには、必然にとるべき方法だつたのでせう」と云つてゐる。この作者の言でもわかるやうに、隈のつけ方は全く計画的であり意識的である。作中人物である腰元弥生の心理状態を、開放するために明るい感じを出したといふ計画性は、それはもの言はぬ作中人物に対する伊東氏の愛情であると同時に、その絵を観る観者そのものを、画面効果上の圧迫感から開放するといふ観る者に対する愛情でもある。画面の圧迫感が、芸術的効果である――などと考へこんで、妙に重つ苦しい絵を描いて、それで製作の目的足れりとしてゐる芸術家などは、芸術家としては下の下であらう、圧迫感とか強調感とかいふものは、一つの手段として尊重されるべきで、それが目的の全部ではない、伊東氏が「鏡獅子」に於いて妖獣のもつ圧迫感を黒い隈によつて表現し、その圧迫感に捉へられてゐる、可憐な女性を明るいボカシによつて開放してゐるといふことは、単にこれは作画技術上の問題にとどまらず、芸術家のヒューマニティの問題として取りあげられてよい、芸術は苦悩の表現であり、それの解決であるといふ伊東氏の人間性を、隈と明るさとの関係に於いて認めないわけにはいかない。
「鏡獅子」の表現に就いて、その創作談の中で、是非問題としなければならない、芸術の表現法に就いての氏の有益な数語がある、それは「鏡獅子」でもさうであるが、形態の誇張に関する、伊東深水氏の考へ方の正統性である。
 日本画の表現は古来ずいぶん思ひきつて突飛なものがある。この表現方法のみをみると、いかにも表現の奔放自由を作者が認めてゐるかのやうに受けとれる、伊東深水氏は鏡獅子の作中の女の獅子頭をもつた右手を思ひきりあげて描いてゐることに就いて「女の右手があんな頭上に挙る筈がないのですが、あゝしなければ、鬼気にひかれまいとしてゐる女の気持ちが出せないものでした」と言ひ、更にかう続けてゐる「裾としてもさうですが、然かさやうに翔るわけもないのにあれ程にしたのは、」「要するに静止した画面に、リズミカルな動感を盛らうが為めの手段に外ならないのです――」といつてゐる、伊東氏のこの最後の言葉こそ、けだし至言といふべきだらう、伊東氏は日本画の本質、ことに表現の自由奔放が絶対的なものでなく、ただ静的芸術としての日本画に於いては、その表現の自由性の可能がなければ、静的なものに極度に動的な表現を与へることができないものだ――といふことを言つてゐるのである。ただ徒に奇矯をてらつて袖や裾を翔がへさしたものではなく、静的なものを動的なものに転換するには、さうした形態がどうしても必要だといふことを指摘してゐるのである。
 これは日本画の本質的な問題であつて、表現の自由にも一つの制約を必要とされるといふ考へ方の正しさがある、そのことが同時に少しの表現の自由をうばふことにはならない、むしろさうしたところに新しい日本画の表現の問題の解決点があるであらう。
 伊東氏の所謂美人画は、その美しいといふ現象的な理由だけで、作者伊東氏をロマンチストと解することはできない、伊東氏が立派なリアリストだといふ証拠に氏の美人画の方法の一つに触れてみよう。伊東氏の美人画は全く美しく甘くそしてロマンではある、それは事実である。しかしそれは作中から美人だけを抽き抜いた場合のことである。しかし画面全体の方法の上では、この作中美人を決して甘やかしてゐない。例へば伊東氏は好んで紅葉と美人とを組み合はせるが、注意してみると、紅葉の形の直線的な鋭いものを、美人の肉体のどこかにかならず接触さして描いてゐるといふことである。紅葉でない場合にも美人の曲線のまとまりに向つて、何かしら直線的なものを、邪険なほど、冷酷なほどに、描きこましてゐる、その点が伊東氏が単なるロマンチストでなく、リアリストである証拠である、美人の曲線的甘さをより徹底させるには、紅葉のやうなトゲトゲとした直線の集りを、接触させるといふことは、最も効果的な方法であらう。
 また伊東氏は、よく時代と風俗画との限界を意識してゐる、伊東氏はジャナリズムが自己を規定したところの「深水好みの美人画」といふものに作者自身が反撥してゐるのである、一個の画面から美人だけを観る者が抽出することに不満足なのである、これまで氏の作品からは人物が論じられたが、その人物を効果づけてゐるところの背後的な自然物、樹木花鳥といふものの出来栄に就いては誰も論ずることをしなかつた、人物に小さく窓の中から顔を出させて大部分自然物であるところの樹と雪を描いた昭和三年の作「雪の夜」は当時傑作といはれたが、昭和四年「秋晴れ」昭和六年「露」「朧」昭和七年「雪の宵」昭和八年「吹雪」などの人物の背後の自然描写の実力を見をとすことができない。殊に昭和八年の「梅雨」の前景の樹木の表現力の大胆不敵な企図は最も実力を発揮されてゐる、伊東氏の将来の仕事は一つにこの自然物と人物との接触と、その強烈な調和、綜合によつて事業が果されるものだといふべきであらう。
 画壇生活の長さの故に伊東深水氏は世間的には新鮮さを失つてゐるのである、しかし伊東氏の作品と人間とは、画壇生活の長さとは今では何の関係もない、伊東深水氏は大家にちがひないが、百二十歳ではないのである。伊東氏は四十歳をちよつと出た許りなのである、氏の実力を云々し、将来への期待を抱く人があつたなら、深水氏の年齢的な若さを問題にし、そのことに関心をとどめるべきだと思ふ。また伊東深水氏の画業の上では真個うの意味の野心はこれまでではなく今後に於て果たされるであらう。
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奥村土牛論


 俗にそれを世間では七不思議などと呼んでゐるが「美術界」にも七つ位は不思議なことがありさうである、第一に美術批評家なる存在もその不思議の一つであらう、それは世の美術雑誌は、批評家にろくな原稿料を仕払つてゐないし、それ許りではなくタダ書かしてゐる向が多い、それだのに批評家は餓死もしないで立派に生きてゐるといふことなども不思議の一つであらう。生活の資どころか、生命の資を原稿の正統な報酬で得られなくても、文章の上や対人関係で一人前に絵書きを脅迫する腕があれば立派に喰つて行ける他人に知らない穴があるやうである。第二の不思議は、百貨店の展覧会、作者御本人が知らないのに、出品されてゐたり、個展が開かれてゐたり、第三には、第四にはとその美術界の不思議を数へたてゝくれば、七不思議にとどまらないやうでもある、しかしこの不思議に就いて論じて行くにはこの欄がその場所ではない、機会を見てこれらの不思議に対して、はつきりとした文章を書いてみたいものである。
 何故、日本の美術界に批評の厳正が失はれるかといふ不思議を解くことなども、時節柄、急を要することであらう、閑話休題。
 ただ私は美術界の七不思議の一つに、一人の人物を加へたいのである、それは奥村土牛氏である。何故に奥村土牛氏が画壇的存在として不思議の一つであるか、人間の保証もついてゐて、絵の定評もあり絵の値段もなかなかいゝ、所謂世間には好評嘖々たる立場にある土牛氏に、何の不審な個所があるだらうかと、或は疑ひを抱く人もあるかも知れない。
 さういふ人に対して、私がかう質問して見たとする。
「奥村土牛の作品をどう思ひますか」
「実に彼の作品はいゝ、神品だ、実にうまい」と相手は答へる、そこで私は更に質問を押しすゝめて、
「何故に神品か」とたづねてみる、すると相手はさういふ質問の追求を軽蔑したやうに、確信的に
「いや、とにかくうまいもんだよ」
 と答へるのである、奥村土牛はたしかにこのやうに目下世間的に好評なのである、しかし、土牛の作品は何故良いかといふ具体的内容に触れた言葉を、いまだ曾つて聞いたことがない、然も土牛の作品に対する美術雑誌の批評を調べて、この人物論を書くのに少しは参考を得たいと思つて、いろいろ読んでみたが、その批評家たちの批評は、言ひ合したやうに「とにかく土牛の作品は神品だ――」式の批評であつて、土牛の本質に触れる力が批評家にないのか、或はなるべく本質に触れることを逃げ廻りながら、上手に賞める言葉を考へ出さうとして苦しんでゐるかのやうに見受けられる、したがつて世上流布の土牛論は一つも参考資料にはならなかつたのである、それ許りではない、これらの土牛批評と私の批評とは、ことごとに意見の対立的なものがある。
 ある美術批評家は、土牛の色感に対して、実に新鮮で若々しく青年的だといふ批評をしてゐるところで私の土牛の色感に対する考へは、その批評家の考へとは、まるで反対な意見をもつてゐる、土牛の色感は青年的どころか、老人的なのである、人生を幾つかの段階に分けて、その竹の節のやうなつぎ目つぎ目に、感情の躍進があると仮定すれば、土牛の最近の色彩の、一見、青年的にみえる色彩は、その人生の節の一つである。「初老的」な感情の躍進が、色彩に反映したものと観察を下すのである。
 世間には七十歳になつて、緋色の袖無しを着るといふこともあるのである、土牛の色にあざやかな赤が使はれてゐたからといつて、それをもつて直ちに「若い」などといふ軽忽な批評は下されないのである。さういふ批評家は闘牛師が赤いマントをふりさへすれば、飛びついてゆく牛のやうな、ムチャクチャな単純な頭をもつた批評家といふべきだらう。
 少くとも赤の種類といふものを考へないわけにはいかない、またもつと突込んで、その画家が使用した色彩の性質と、画家そのものの肉体的生理的状態と、よく照らし合はして、そこから一つの批評語を抽き出さなければならないと思ふ。奥村土牛氏はたしかに、現在第一人者的人気を呼んでゐることは確かだが、この人気を呼ぶやうになつたこれまでの作品的な根拠といふものも、一応立証されなければならないし、また現在の作品が、この人気を持ちこたへて、永続的であるかどうかといふことも吟味してみなければならない。
 作家は味方をもつてゐれば、敵ももつてゐるものであるが、土牛氏に関しては、非常に氏は製作に遅筆であつて、なかなか出来上りがおそい、絵の催促に十回通はされたとか、二十回通はされたとかいふ、恨み言を聞いた以外に、土牛は恨まれる何ものももつてゐないやうである。敵はもつてゐないやうである、だがこゝに或る人が私に向つて不思議な土牛評をしたので、思はず私がハッとしたのである。
 それは斯ういつたのである奥村土牛が急に現在の位置を占め、頭角を顕はしたことに対して「土牛は画商の情けで大家になつたのだ」といつた言葉である。私は個人的にも、また批評家的立場からも、この一言は聞き捨てのならない言葉なのである。
 一方では土牛の絵に対して「そのお仕事に就いては腹の芸であり、取材から言つても、構成から言つても純粋に絵画的です、千古に通ずる高貴な精神は、やがて昭和の名画として、後世に真理の様に輝くでせう」(森白甫氏の土牛評)と言つてゐるかと思ふと、一方では「奥村土牛の画壇的擡頭は画商の情けである――」といふ批評がある、この間には何か矛盾があるやうである、森白甫氏の評のやうに、土牛氏の絵が千古に通ずる高貴な精神の現れた作品であるといふのが真当ほんとうだとすれば、その作品の良さは決して今に始まつたことではなかつたであらう、世間でも、また画家仲間でも「奥村土牛はもとから絵がうまかつた」といつてゐる人も多い、もとからうまかつた土牛氏がどうして、現在まで画壇の表面に現はれなかつたのか? 五十の声がかゝつて始めて問題にされるといふことは、この作家を不遇と呼んでいゝか、幸運と呼んでいゝか、或る人は土牛氏はその仕事の精進から見ても、現在の人気は当然酬ひられたものだといひ、或る人はいや土牛は現在は胴上げをされてゐるので、酬はれ方が四五年早かつた、彼は酬はれ方が遅ければ、遅いほど良い仕事をする性質の作家だと評してゐる、もう一つの評者は、奥村土牛の画壇的登場は今が一番の汐時であつて、今をはずしては他日にはないといふ見方をしてゐる人もある。
 最後の評者の意見と関連したものでは「画商の情けによつて、こゝらで大家にしておかう――」といふ雰囲気が、彼を一躍市場価値あるものにしたといふ評がもつとも問題なのである。
 この批評は一見作家に対して侮辱的な感じを与へるが、決してさう許りにはとることができない、これまで土牛の仕事が優れてゐながら、その作家の性格、ママき、運命観さうしたものが理由となつて、その価値の正統な評価がかくされてゐたとすれば、それは画家仲間の互助精神が欠けてゐたのだと言はれてもしかたがないであらう。
 なぜ仲間が、土牛をすぐれた作家だと強調することをしなかつたのか、そして奥村土牛といふ作家に院展に「孤猿」といふ性質の作品を描かせておいて平然としてゐたかといふことに疑をもつ、当然世に押しださなければならない作家は、画商の手を藉りるまでもなく、作家同志の協力と愛情に依つて行はれるべきであらう。
 画商の情け云々といふ言葉は、私に言はせれば、作家同志が土牛の作品的価値の認め方があまりにをそく、画商の方がしびれをきらして先に土牛を世に送り出した感がある――と観察を下されてもやむを得ないだらう、いま土牛は「神品」であると評され第一人者であると評されても、本人の土牛が果してどれほどそのことを嬉しがつてゐるかといふことは問題である、私の接した限りではあまり本人は嬉しさうな顔もしてゐないのである。
 私の理解する限りでは、奥村土牛はこゝで以前にもまして、しぶい顔をしなければならないと思ふしまた前よりもまして遅筆にならなければいけないやうである。依頼画の出来上りは、精々をそい方がいゝ、世間では土牛は遅筆の標本のやうに言はれてゐる、しかし私の観察では、土牛は相当筆が速いと思はれる、画を依頼し、その出来上つたのを手渡すことが遅かつたからといつて、直ちにその作家を遅筆だなどとは言へないのである。
 氏と対座してゐるときの印象では、言葉を忘れた病人、「失語症」の人のやうに、沈黙の行をやる、土牛といふ雅号にふさはしく鈍重で動作ものろく、こちらで物を言はなければ千年も黙つてゐさうである。土牛に面会に行つた人は、話のつぎ穂がなくてまづそれで参つてしまふ、極端に慇懃であるといつてもいゝ、或る人が「土牛は卑怯な位、ものを言はない――」といつてゐたが、全くさうした感もないではない。
 しかし誰かが土牛の玄関先に立つたとき、二階から降りてくる土牛の動作を観察したものがあるだらうか、二階から降りてくる、また二階へあがつてゆく土牛の動作は、全く動物的だと思はれるほど、すばらしく敏捷そのものなのである。階段を二三段いつぺんに駈け上り、駈けをりる感じである。
 作品をみても、さうした敏捷さ、激情性はよく表現されてゐる、一口に言へば奥村土牛は作家的にも人間的にも、非常に激しい人なのである。第二十四回日本美術院出品の「仔馬」はその抒情性に於いて隠されてゐる作者の人間的な優しさを露はしたものである、しかし奥村氏の人柄の優しさは、その人との対座に於いては感ずることができるが、作品の上ではそれとは反対の極限を画風の上で示す、土牛氏の芸術観は厳格であり、苛烈なものがそれである。人柄としては慈母的優しみをもち、作品的には厳父的いかめしさを示してゐる、院十九回試作展「朝顔」も二十三回試作展「野辺」では、描かれた枝葉の尖端はあくまで鋭どく針のやうにとがり、剃刀のやうに薄く描写されてゐた、その描写の態度の鋭どさは同時に画面の緊張感に於いては成功してゐたが平面化されすぎた憾みがあつた、しかし土牛はその精神的な追究を、空間的に置き替へていつた、土牛の真骨頂は、その辺りから発揮されてきたと見ていゝ、日本美術院第二十五回展の「鵜」あたりは転換後の良い特長が現はれたとみることができる、殊に最近の作では青丘会新作展覧会「八瀬所見」は土牛自身の感懐を語る、代表作と見ることができるだらう、土牛には一種特別の客観描写の力量があり、その部分が他の作家の追従のできないところである。
 私はそれを「土牛の突離し」と自分で名づけて呼んでゐるが、描く対象を少しも甘やかさず、ちよつとでもアイマイだと思はれる手法は用ひられてゐない、たとへば彼は一つの空間に木の枝を描くとしても、彼の対象に対する主観的、客観的態度の分け方のはつきりしてゐる点、空間の分割の仕方、の冷酷だと思はれるほどの突ぱね方は、その点では画壇でも第一人者だといふことができよう、しかし芸術とはその認識の方法の優れてゐることだけで仕事の全部を終つたわけではない、もつと綜合的な完璧を目標としなければならない、土牛の認識の方法は他の作家が真似ができないとしても、また土牛の欠けてゐるものを他の作家が完成してゐることも多いのである、遠いところの枝はあくまで遠く、接近したものは、あくまで近くといふ突離しは土牛のやうな思索力の強い作家でなければ、それを現実的な実感的な形では表現できないのである。
 画商の情けで土牛が大家になつたといふやうなこと――もそれもいゝであらう。しかし土牛がこゝまでやつて来るのに、その頑張りをしつづけてきたといふことは、画商が彼のためにかはつて頑張つてくれたわけでもなからう、その土牛の頑張とは、その態度の謙譲であることでもわかるやうに、また謙譲とは忍耐の代名詞でもあるのである。「喜は謙遜な人々にとつては旅が極りなく、財宝が無限であることを知ることにある」とはラスキンの言葉であるが土牛の生活は、絵を描くことだけの楽しみに、どうやら極限されてゐるやうである、彼の謙遜もその意味に於いて、絵の旅の極りなく無限の財宝を、自己のものとした喜びの態度と見られるだらう。
 土牛はその気質の上からいつても運命的な作家であつたといふ意味からも画壇の七不思議の一つであつたことは確かである、印象批評が彼を「名人芸だ」とか「神品」だとか言つて、何事も語らなかつたから、一層不思議さはふかまつた。少しも彼を具体的に知らうと人々は努力しないのである、土牛の忍耐その作風、たとえば「八瀬所見」に現れた矛盾、線がをそろしく老人臭くて、色が若いといふ表現などはどうしたことか、この矛盾の美が、観た者の感覚を倒錯させながら、感心させてしまふ、その手法はいつたいどこから来たのであらうか、土牛を論ずるとき、いつたい土牛といふ作家は誰の門下であつたらうかと熟考する必要がないかどうか、線が老人臭く、色が若々しいといふのは、師匠梶田半古の流れを汲んだものとして、土牛自身にとつては不自然なことではないのである、梶田の傾向は老人の傾向なのである、土牛の性格的頑張りも、土牛の画風的突離しも、芸術的の高さも、梶田半古伝来の素質といつても過言ではない。梶田門下には不屈な精神と、強い自己断定がなければ、筆をすゝめないものがある。画商が彼を大家にしたとは画商の自惚であらう、例の松田改組の大混乱の渦中に、奥村土牛はボンヤリと立つてゐたのである。周囲は騒ぎ、その混沌は物理的に言つても、物質の衝突の只中では却つて動かないものに、中芯が集るものである。
 大臣二代に亙る画壇騒動は、何等かの型でその渦中にある人々を犠牲にした、暗闇から牛を曳きだしたやうではなく、暗さが去つたところに、土牛といふ作家が立つてゐただけである、洪水が去つた後の河泉の底に水が去つたことに依つて、大きな石があつたことがわかつただけである。或ひは世間で言はれる言葉に「石が浮んで木の葉が沈む」といふ皮肉な現象がこゝに現はれたと言つてもよからう。
 奥村土牛はその石であり、周囲の喧騒のもみ合ひの中で、超然としてゐたことが、却つてこの作家を社会的表面に浮かびだすといふ結果にさせたと言ふことができるだらう。こゝに一人の超党派的人物がゐたことを、画壇ジャナリズムは発見したのである。土牛が超党的であつたことが、彼を担ぎあげるにもつとも適当な理由となつたのである。どの派にもみせず偏しないといふ超然主義は、その画風の上にもはつきり現はれてゐるが、その人柄の上にも、態度の上にも現はれてゐる。しかもその表面的な温和の底には、梶田半古仕込みの峻厳なものが隠されてゐる。彼は自分で胴上げをされてゐるといふことを自覚してゐるが、その胴上げをされることを拒まない。しかし胴上げをされてゐる方よりも、胴上げをする方がやがて疲れてしまふことを、賢明な土牛は知らない筈はないのである。
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上村松園論


 いまここに上村松園氏の作品に対して、筆をすゝめてゆかうとする場合に、批評者は一つの心の用意を必要とする。何故なら、松園女史の世にも美しく麗はしい作品に対して、いつたい何をしやべらうとするのであるか、まづその点からも、上村松園氏の作品は、「批評なし――」で結構存在するのである、他からとやかく言はれなくても、作品の値打の保証されてゐる今日、いまこゝで何をか言はんや――なのである、批評家の心の用意とは、そこの点を言つたものである。批評を必要としない作品に対して、それを敢て行はうとするときは、心の用意が必要ではあるまいか、松園氏の作品に対しては、然し展観ごとに諸々で批評もされてゐるし、いまではその批評も画一的なもので、常識的なものである。一般の批評家の松園論が、常識的なお座成りなものに堕してゐるといふこともまた然し理由がないことではない。
 これらの批評家達は、松園氏の作品をなまじつか批評をしようとするからそこに常識的な答へより出て来ないのである。もしその批評家が、単に「批評」といつた作品の値打を評する程度のところに止めておかないで、「批評に塩を利かした方法」といふものを採つたなら、少しは松園氏の作品の本質に触れることができようといふものである。風景とかその他の題材的な作家の作品であれば、一応一般的な批評方法もあてはめることができる。しかし、人物画家殊に上村松園氏のやうな美人画家に対しては、風景並の一般的批評は当てはまらない。こゝでは風景画家を、人物画家より下位において言つてゐるのではない。こゝでいつてゐるのは、人物画には人物画としての批評的方法が必要だといふ意味なのである。しかも世間には武者絵作者も加へて、人物画だけを純粋に画材として取扱つてゐる作家は少ないし、その中でもまた、美人画ばかり描いてゐるといふ作家は少ない。画家の中でもこの美人画家は特殊的位置を占めてゐると同じやうに、批評をするといふ場合にも、批評に特殊的方法を必要とする。しかも上村松園氏の場合には現代美人を描かずして、過去の美人を描いてゐるといふ。題材上の時間的距離は一層批評方法の困難さを伴ふのである。描いてゐる画家そのものは、生きた現代の人間であつて、その描くところのものは、現代から離れた享保時代の美人であつたとしたならば、批評家なるもの、多少の戸まどひをしないわけにはいくまい。殊に作品の持ち味といふものは作者とは離れて持ち味のはつきり表現されるものがあるが、それとは別に作者によく内容を聞かされて、始めて納得のゆくものもある。説明されてみて、一層その持ち味を理解されるものもある。それといふのも一つは直接に絵画から受ける感得、後者は少しでも作者の内部的心理を第三者が辿つて始めて画面からの感得を濃くするといふ場合である。いま上村松園氏の作品の持ち味を理解するには、何れを採つたらよいであらうか。
 絵だけを見て、そこから受けとられるものだけを受けとつてゐてよいか、それとももつと作者のその作品を描いた意図の説明を求めた方がより作品観賞上で有効であるか、そのどつちであらうか、現在の上村松園氏の仕事の状態からみるときは、松園氏の作品の持ち味は、その画面に現はれたゞけ――の感得だけで決して観賞者として不親切ではない。むしろもし作者に向つて、最近の作品の一つを捉へて、その作意や計画を尋ねたとしたならば、松園氏自身が困惑してしまふであらうと思ふ。
 松園氏の作品に対して、批評家が心の用意が必要だといふ意味は、松園氏が自分自身で描いてゐて、説明に困惑する状態の中から、作者にも尋ねることなしにして孤立し、独立した批評をうちたてなければならないからである。つまり単に批評程度の考へでは、松園氏の作品論はできない。批評に塩を利かした方法を採らなければいけないといふ理由が成り立つ、塩とはピリゝとした方法のことをいふのである。
 或る批評家のやうに松園氏をきめてゆくのであれば世話がない曰く「いはゞ浮世絵の行き方を京都の上品な趣味で翻訳したといつた」作品が上村松園氏の作品なのださうである。この批評によれば、もし上村松園氏が大阪に住んでゐたとすれば、現在のやうな作品はできなかつたわけになる。大阪の趣味がどんな趣味であるか知らない。或は東京の趣味はどんなであるか、浮世絵を改作し、翻訳してゆくのに、京都趣味をもつてしたといふことは、いつたいどういふことであるか、この批評はいかにも一応もつともさうな松園批評なのである。しかしそれでは「京都の趣味」とは如何なものかといふ質問を発した場合には、まづ京都の趣味なるものを語れといつた場合には、さう京都の趣味なるものを軽率には語れまいと思ふ。そのことは大阪趣味とか、東京趣味とかいふことにも当てはまる。身の廻りの置きものとか着てゐる着物の好みとかいふものは、どこそこ趣味といふことも言へるかもしれない。しかし芸術上の方法に、その土地の趣味を翻訳の方法にするなどゝいふことは、絶対に不可能なのである。この批評家の言葉は、一般向きの素人評であり、かなりお座成りなものがあるのである。
 もし松園氏の作品がこの人の言ふやうに浮世絵の行き方を京都の上品な趣味で翻訳したのが事実だとすれば、上村松園といふ画家は単なる一地方画家といふことにならう。松園氏に限らず、もし京都在住の作家に向つて同じことを言つた場合には、京都在住作家の不満を買ふにちがひない。その作家の住む環境は、その画風の上に影響のあることは認めることができる。しかしその画風の本質まで、環境第一主義の作家であればその作家は大粒の作家とはいへない。小粒の作家といふべきだらう。もつと超地方的な一般的真実に接近するといふ態度は、彼が如何に地方的雰囲気を身につけてゐる作家である場合にも採るべき態度である。
 多少余談に亘るが筆者が福田豊四郎氏と語つたとき、氏は東北出身で、題材も初めの頃が郷里のものを多く扱つてゐたゝめに、世間では自分を、地方作家といふ貼り紙をつけて困つた。それで世間のさういふ概念をひつくり返すのには、自分は五年もそれ以上もかゝつて苦心したといつてゐたが、その場合の福田氏の苦衷はよく判るのである。画題を中央よりも地方により求めるといふだけで、心ない世間ではその作家に作品の価値でなく、題材の出所から、地方的作家と勝手にきめて、中央的、一般的規準にのせようとしないのである。東京が画壇の中央であるとすれば、松園氏の京都趣味は地方的趣味なわけである。しかし誰も東京が画壇の中央だなどゝ愚かしいことを言ふものは一人も居ない筈だ。芸術の伝波性は、その画家が画面に交錯させる。心理の火花のやうに、そのやうに、素早いものである。京都と地方の趣味が、松園氏の作品を押しすゝめる中軸になどなつてゐるといふことは認められない。然も松園氏の最近の傾向としては、さうした地方性や、趣味性は全く影をひそめたといつてもいゝ、然も浮世絵の行き方などゝいふものとは、はるかに遠いところにある。何故ならもしその画風が松園氏の場合、浮世絵に甚だ酷似してゐたとしても、それを指していつまでも「浮世絵の行き方」などゝ言はれるべきではない。浮世絵といふ画風は、その当時の社会的内容が産出したところの抜き差しならない画風と呼ぶことができよう。浮世絵は、その最も画風の流行した当時を境として滅んでいつたのである。浮世絵は「人生」を指して「浮世」と呼ばれる頃の時代風俗画の方法なのである。厳格な意味に言つて浮世絵が滅んでしまつてゐるのに、浮世絵の方法を採用するといふことは不可能なのである。
 上村松園氏の作風を浮世絵の方法だといふ批評はその批評家の頭の中に浮世絵といふものが、余りに概念として多くもつてゐすぎるからである。松園氏は言はゞ美人画の辿る方法上の路筋を来てゐるだけにすぎない。然も松園氏の画風と、浮世絵との関係を問題にするのであつたなら、それよりも先に、松園氏の初期の仕事を一応調べてみる必要があらう。「孟母断機の図」(二十四歳頃の作)にしても、これはまた浮世絵的傾向とは、およそ縁遠い厳格な手法なのである。「人形つかひ」にしても「花ざかり」にしてもそこには浮世絵の傾向の片鱗も認められない。殊に初期の作品に於いては、その作品のどれをとつてみても、みな主題をはつきりと掴まへた作品なのである。主題を捉へるといふことは、斯ういふ状態の絵を描かうする目的のはつきりしたもの、つまりその作品での主題とは、単に絵を描きたいといふ本能にのみ立つた主題ではなく、社会的主題なのである。上村松園氏の初期の作品には、この社会的主題を明確に把へた作品が多く、その何れもが優秀作なのである。「人形つかひ」にしても、「花ざかり」にしても、その画面に漂ふ雰囲気といふものは、過去の日本の生々しい雰囲気なのである。これらの作品は、今では単なる歴史画としてみても価値あるものなのである。「人形つかひ」では、現代の娘とは似ても似つかぬ内気な娘が、そつと覗きこんでゐるし「花ざかり」では婚期の円熟した娘であらうが、尚母親の後にしがみついて、美しい羞恥を示してゐる、さういふ情景や、情趣は現代では全く見ることが不可能である。
 街頭の靴磨きに、足を差出して靴を磨かせる現代娘気質とはおよそ遠い世界の娘達の出来事を、松園氏の画をみることに依つて、我々はそれを再現して感ずることができる。然も松園氏の狂ひのない描法は、当時の雰囲気を、現在に於ても、狂ひなく伝達する、芸術の妙味とか、芸術の価値とか、芸術の永遠性とか言はれるのは、そのことを指して言はれるのである。作品が、出来た時と、それを第三者が見た時と、その時、時間、空間を超越して、その描かれた当時の現実の生きた証明がその作品で為されたときに、その作品の芸術品として優れたものであることを示すのである。
 上村松園氏の作品は、現代作品から過去に逆行すればするほど、その作品の主題は明瞭であるし、優秀作が多い。そして浮世絵的方法なども比較的新しいことに気づくであらうし、またそれが単に一口に浮世絵的方法などゝいへないものがあることに気づくであらう。良い例証としては、「待月」などゝいふ作品がそれであるこの作品は、後向立姿の婦人が月の出を待つてゐる図であるが、この作画の方法は大胆極まるもので画面の上から下まで、建物の柱を通じ人物の体を縱に両分してゐる構図なのである。この方法だけからみても、この作品は、浮世絵的情趣などを覗つたものでは決してなく、全く絵画芸術の、洋画家がよく言葉として用ひたがる、「造形的」な意図から行はれた方法であることがわかる。人物を柱で縱に両断してしまつてから、更にそれをまとめるといふ方法などは、完全に情緒主義者のやる方法ではない。造形的な、絵画の方法上の苦心を盛らうとする計画に他ならない。浮世絵は、婦人の裾をチラ/\とみせるといふ意味で「あぶな絵」と呼ばれた時代から、松園氏の作品の人物の裾が拡がつてゐたからといつて、それを「あぶな絵」の翻訳されたものだなどゝはいふことはできない。松園氏はその浮世絵の形式に執着する以上に、あまりに「画家気質の人」であつたといふべきであらう、松園氏の仕事を二大別して、初期の写実的な方法のものには、テーマが明瞭で、そのテーマも然も社会的な意味をふかく含ましたものが多く、次の期間には、その画風が、美人画であるといふ理由だけで、松園氏は浮世絵的な方法と接近していつた。しかもテーマを作画方法に加へずに絵をまとめあげようとするときには必然的にその方法だけが、作者の考へ方の大部分を占める。柱をもつて人物を切るといつた絵画上の苦心の傾向に漸次移動していつた。何を描かう、どういふものを描かうといふ組み立てなしでも、形態上の美は組み立てられる。
 完全に造形的立場に立つたとき、松園氏の作品は社会的テーマからは孤立してしまつたそこにはたゞ線の運びの苦心、画面の空白の効果、小雨をサラッと降らすとか、桜の花びらを三片ほど地面にちらばすとか、襟足を極度に美しく描くとか、主題の上では凝ることをしないで、作画方法の上で凝るといふ方法に変つてきたのである。したがつて過去の絵は、その作品は絵画的であるとゝもに、歴史画、風俗画としても存在するが最近の松園氏の作品は、全く絵画的意図から出発して、絵画的方法に帰した仕事といふべきであらう。松園氏の作品の線の動き、連絡、切断等に注意してみるときは、殆んど不可能と思はれる場所で、甲と乙の線が結びつけられてゐるものもある、しかもそれは少しも不自然ではなく、造形的な完璧さをもつて結びつけられてゐる。しかしその方法が写実的方法でなく、超写実、錯覚的な方法での調和が行はれてゐることに気附くであらう。松園氏自身の絵画方法の発達がその点にまで到達してゐるのである。
 つまり普通の画家ではとても行へないやうな方法、線の錯覚的調和といふべきものも、こゝでは完成されてゐるのである。
 吾人は、松園氏自身もさうであらうが、松園氏の過去の作品の良さの魅力にひきずられるものがまことに多い。
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大智勝観論


 大智勝観氏の画業に対して、いまこゝに殊更に声を大にして叫ばなければならない理由といふものはない――、然しながら、その半面に『声を小さく落として』語るといふ理由は一層ないのである。更にもう一つの理由が残つてゐる。それは大智勝観といふ作家を『全く黙殺する――』といふ理由である。この三つ目の理由をもつて、大智氏の従来の仕事が看過されてきたといふことが少くないのである。私は批評家的見地からも、世間の第三の理由とは闘ふ必要があるやうに思ふ。最も冷静な意味で、大智勝観氏の画業の正統な立場を擁護したいといふ本能に馳られるのである。世間的には大智勝観氏を院展に於ける最大の人格者であり、解脱者であると評されてゐるが、こゝでも絵の評価の規準がみつからなければ『人柄の良さ』に押しつけてしまふ日本の美術批評家のヅルサと無能力とがある。作画上の『人格的方法』とか『解脱的手法』などといふものは無いので、これらの人格、解脱などといふ形容は、作家の生活態度の上にだけ適用できるもので、それ以外には適用ができない。さういふ人柄の方法だけで、大智勝観氏はこれまで祭りあげられ、体の良い黙殺をうけてきたといつても誤りではあるまい。大智勝観氏の作家的実力を証明されるものといつては、氏の作品そのものと、日本美術院の同人に推薦されたといふこと、この二つだけであらう。
 さういふ意味で、この作家くらゐ実力で『押してきた』作家は珍らしい。いや『押してきた』といふ形容が、まだ強烈にすぎるやうで、もつと穏やかな存在としての『押してきた』といふ形容にかはる言葉をみつける必要がある。しかし大智氏の場合、みつかるまいと思ふ、何故なら画壇的位地がながく続くといふことの中には、現在の日本の画壇の現状では、画の出来不出来を度外視した、政治的工作といふものが、相当に有効な場合が多いからである。大智氏の場合の押し方の性質は、かゝる世俗的意味のものではない。従つて『押してきた』といふ言葉にとつて代るべき世俗的言葉はみつからないのである。またかゝる言葉はこの作者には適用できない。
 世間で大智勝観氏の『解脱者』だと評してゐることには、たしかに一面の当つた批評ではある。しかしこゝで日本画の解脱性といふものを考へてみれば何も不思議ではないのである。『解脱』といふ言葉を人柄に押しつけずに、ちよつと許り批評家が、頭を使ふことを億劫がらずに作品にふりあててみるときは、大智氏の作品の本質問題にふれることができよう。いまこゝに三人の作家を取り合してみよう。酒井三良氏と、磯部草丘氏と、大智勝観氏と、そして私がこの三人を列べたといふことは、出鱈目に選んだのでも、悪戯心から組み合したのでもない。それは大智氏が他の二人に較べて『解脱』といふ古めかしい形容にふさはしい作家であるかどうかを調べてみたいので、さうしたのである。
 酒井三良氏の作品の問題点は、彼の画にはあの形式には、珍らしい強い物質性が出てゐるといふ点である。形をもつて空間を攻めるといふやり方は、その描き残された空白の部分に、強い物質性が顕れる。酒井三良氏の持ち味は従つて解脱しない佳さにある。磯部草丘氏もまた線描をもつて画面を圧倒してしまふといふ逞ましさがあつて、これまた解脱しない佳さである。そして大智勝観氏はどうか、この作家も他の二人と同様に、解脱しない佳さがある――芸術家が解脱などをしたら大変なことになるだらう。何故なら解脱は死だからである。そして非解脱は俗物化なのである。大智氏の作品は、酒井氏、磯部氏のもつ近代的要素にも、優れてゐても、決して劣るとも思へない。大智勝観氏の作品は一言にして言へば『新しい』のである。解脱的死の作家でもなければ非解脱的俗物作家でもない、むしろこの両端の中間を辿る作家である、その意味でも酒井氏、磯部氏も同様であると言へる。
 ただ大智氏が他の二人に較べて違ふところは、色に対する執着が、ずつと少いといふこと、水墨を最上のものとするといふ精神的立場がある。酒井、磯部氏の絵には色気がある。大智氏の場合は、墨一色の世界に境地がある、しかし大智氏がそのために彩色画を軽蔑してゐるといふのではない、事実彩色もしてゐるのである。青や紫を使つてゐても、大智氏の場合には、その色彩を墨色と同様の扱ひをする、墨以外の色を、墨の扱ひのできる作家といふのは、日本の画壇にはさう沢山はゐないのである。だがこゝで誤解を避けなければならない、それでは大智勝観氏は『黒』の作家であるが、私はこれまでの文章で、ただの一度も大智氏ママ『黒』の作家などとは言つてはゐないので、その点を曲解されては困るのである、『墨』の作家だとは言つてゐるが『黒』の作家だとは言つた覚えがない、それでは『墨』は『黒』ではないのか――さういふ疑問も起るであらう。
 そこで私はさうした疑問をもつ人に斯う答へよう『まさに墨は黒にちがひない、しかし墨は色ではない――』と、私のいふことは何と屁理窟に聞えないだらうか。しかし大智勝観氏は私と同じ意見をもつてゐるといふことを此処で伝へたいのである。
 大智氏は黒は色の部分に編入されるが、墨は色の世界から除外して欲しいといふ意見をもつてゐる。こゝで通俗的な例をあげると、小学生の八色とか十二色とかの水彩絵具の中には『黒』はあるが『墨』とはなつてゐない。こゝまで述べてくると、どうやら墨と黒とが別なものだといふことを薄々理解してもらへるだらう、しかしその事は格別に私の発見でもなんでもない。そのことを理解してゐる人にとつては私の意見などは平凡な説にちがひない。しかし私はこゝで墨の論を説くのが目的ではなく、一人の作家が全く『墨』の精神を拠点として仕事をしてゐるといふこと、その作家とは大智勝観氏であるといふこと、この兎角に黙殺的な待遇をうけてゐる作家の作品の本質が墨にあるといふことを、ここで強調する機会を得たといふこと、つまり私は一つの墨の理論の発見をしたのではなく、墨の精神の保持者の発見といふ点で、それは一つの発見に違ひないと信じてゐる。この墨の精神とは目下ずるずるべつたりに前進してゐる日本画壇の方向に対して、一つの、『日本的本質』の問題の提出といふことになると思はれる。
 墨が色でないといふ考へ方に、もう一つを加へて、大智氏は『金』を取りあげてゐる。墨と金は、色彩の分布の範囲を超えて存在する。精神的なそれであり、その強烈で物質的なことは、他の色と名附けられてゐるものと、全く異つた作用をするといふのである。墨や金泥は全く孤立した効果をもつてゐる。赤とか紫とか其他の原色、中間色は他の色彩との関係でどのやうにも、自分をゆづる、一つの可変性をもつてゐる。それなのに墨や金泥はこれらの色彩のやうに他の色との関係での普遍的な連帯責任をもつことをしない、この二色はさながら人間なら自我の強い、それのやうに、時には排他的な特質をさへ示す。なかなか他と妥協をしたがらない、しかしそれだけに墨や金泥を巧みに使ふときは、『効果を超越した効果』を獲ることができる。
 大智氏は曰く『墨と色とは結局同一なものですがそこへ到る境地は難かしい。色ばかりやつてゐる人が墨絵をやつても駄目でせう。その反対に墨さへ技術的に叩きこんでおけば、色彩画は楽です――』といつてゐる。大智勝観氏は墨の以外に近来彩色画も描く。興味のふかいのはこれらの彩色ものの、色の本質である。私は氏の彩色ものから驚ろくほどの、『紅』にはまだぶつからない。しかし清麗そのものの『青緑』には、殊に小品ものでは接してゐる。大智勝観氏は精神的拠所を『墨』において、色彩的には『青の作家』といふことができるだらう。
 大智氏は『墨を運しては五色具はる』といふ境地をもつてゐると共に、それを逆に彩色の場合には、『色の運しては墨色具はる』といふ絵が少くない。彩色ものでも何となく墨の味がでてゐる。墨で叩きあげてきた人の色彩の持ち味である。墨でもなく色でもない持ち味といふものがあるとすれば、その感覚的世界は、有韻、無韻の境地をゆくものであらう。大智氏の色彩は、その意味から独特な境地であり、それこそ却つて『色気』のたつぷりとした彩色的作品といふことができるだらう。その色気たつぷりな水々しさ、色の世界にあらはれた気の若さに於いて甘味な持ち味に於いては、日本画壇稀に見るところである。明治十五年生れ当年五十八歳とは思へない若さをもつてゐる。然も大智勝観氏は、仕事の上に年毎に若々しさを加へてきてゐることは、注目すべきである。日本画の老大家のうちには、老いて益々旺んな作家も少くない。しかし私のいふ大智勝観氏の若さの性質は、少しくその性質を異にしてゐる。それは純粋化の過程を年毎に示してゐるといふ意味で、大智氏はいよいよ今後に於いて『甘美』な持味を顕はしてゆくだらうと思はれる。
 整理と、簡略化の方法は年来のこの作家の精進の姿であつた。現象的な表現力をのみ窺つて、画面上の効果のみを目的として、制作をすゝめてゐる作家は少くない。さうした意味では時々刻々に出来のよい作品も描いてゐる。しかしその方法は創作方法の瞬間的解決ができてゐても、全体的な一貫した、絵画の本質問題は解かれてはゐない。大智氏の画風の滋味な行き方の中には、一貫した系統的な仕事のすゝめ方がある。前述のやうに、その画面の『整理の方法』『簡略化の方法』は、年とともに完璧に近づいてゐるやうだ。世間ではそのことを問題にしない。作者の激しい方法上の意図のあるところを見遁してしまふのである。嘗て『島四国の一日』に於いて得意な連作物で、線描の持ち味の多角的な面を見せてゐる。この作品の中には、大智勝観氏のあらゆる性格的なものから制作上の方法から、一切のものが含まれてゐる。この作品は大智氏自身にとつても全く研究的な態度で制作をすすめられたものに違ひないが、作家研究の立場からみても、この『島四国の一日』は大智氏のこれまでの作の中では、多くの問題をもつた作である。対象の把握の方法の種々層を、六種の画面に於いて、六通りに描いてゐるといふ意味からも、其後の大智勝観氏の画風のすすみ方の研究の上からも、この作は興味がふかい。現在の画風は、そこから抽き出された何等かの形式なのである。大智氏の作品には表面的には何等その激しさは認められず、温和そのものの表現ではあるが、追求の方法の激しいこと、一例を挙げれば、大智勝観氏は直線と曲線との相剋に永い間悩んできた人である。したがつてその両者の独立、溶合、更に直線でも曲線でもない或る物、さうしたものの発見の方法は、かなりに激しいやり方をしてゐるのである。
 第十六回美術院試作展に大智氏の出品した『春秋』といふ作に、或る批評家は『春秋』の松が余りに弱々しい、優美と云へばさうも思へるが力が欲しい――と評してゐたが、この種の批評はこれまで大智氏はずゐぶんされてきた。作者の立場からすればこれらの批評は全く作者とは見当外れの立場に立つものであらう。何故なら私の見るところで、その松の木の弱々しさ、優美さこそ、この作家のねらひどころであらうと思はれるからである。作者が計画企図するところが画面にうまく表現されると、批評家がその点が悪いとか、不満だとかいふ。それほど奇怪なことはない。我国の美術批評界には実にさうした批評が多い。一言でいへば、さうしたことを指して『無理解』といふのである。しかも大智氏の松の描方は単純な弱さではないのである。殊に大智氏の線の種類のうちで『縱直線』は一種特別な解釈が加へられてゐて、この松のやうに、上にのびた直線を使つた対象物は、微細な震動的な直線としての持味がある。『力が欲しい』といつた大智氏に対する注文こそ滑稽である。大智氏は南画のことをかう語つてゐる『南画といふのは柔らかい自然主義です』と、この言葉こそ正確な南画理論と一致する言葉であらう。問題点は『柔らかい』といふことにある。何という柔らかくない硬化した南画形式の自然主義的な作品が、世上に多いことであらう。
 大智氏は稀に見る柔らかい作家なのである。だから一部の人々にとつては、その柔軟さが何か作品の欠点であるかのやうに見させてゐる。そしてもつと『力が欲しい』といふ。我国の日本画壇では『迫力』をもつて、芸術的な力量だといふ風に思ひ違ひをしてゐる。近頃どうやら、龍を描く作家が少くなつた許りの日本画壇では、それでも手を替へ、品を替へて、仁王さまとか、鷹とか、精々出来が悪くても構へがいゝといふだけで、得をするモデルを選んで描かうとする気分がまだ絶えてゐない。雛鳥を描くよりは、二羽の鶏に喧嘩をさせて『闘鶏』とでも題して展観に出した方が得らしい。よしこの二羽の鶏がおそろしく下手に描かれてゐても、画面に現はれた限りで、どつちの鶏かが、どつちの鶏よりいくぶん強くは描かれてゐるに違ひない。この二羽の鶏が丁度毛変りの季節にぶつかつてゐて、闘つたのではなく、身ぶるひしただけで、羽毛があたりに飛散つただけでも、脱羽を散らしてあるだけで、観者に闘ふ鶏だと思ひこましてしまふのである、画材上の迫力とは『雪隠の構へ』のことをいふのであらう。大智氏の作品は、さうした硬さや迫力を窺つたものではない。殆んど横線と思はれる線の使用が少く、作品に依つては殆んど斜線ばかりで仕上げてあるほどに肩のとれた、撫で肩の作品が多い。踏ん張りだけを迫力だと考へてゐる現画壇にとつては、大智氏の作品はヒューマニズムの濃い行き方として、当然形態上の柔らかさ、弱さが一つの方法であり、武器であるといふことにまで考へが及ばないらしい。
 南画形式は人間が出来なければ、形式を使ひこなすといふことが殆んど不可能である。南画の形式のさまざまの変革は対象の真を描かうとしての必然的な形式として生れたものであるが、他にはこの南画形式の種類の多さは『画工の習気を避けようとして』いろいろと変革を生みだしたのだと言はれてゐる。大体に日本画のやうに、技術を尊重しなければ大成しがたい芸術は、従つて形式勉強の長さが、その独創性を育くむ場合よりも習気に溺れてしまふといふ危険性の場合が多い、そして画家の惰性、習慣性を救ふために、新しい形式を持ちだした。しかしそのことで現在の南画の状態をみてもわかるやうに、南画は救済されたであらうか、南画はその形式主義の故に、没落の道筋をたどり、その救ひの方法としてもつてきたものがこれまた形式主義的方法以外のものではなかつたために時代性を喪ひ、下降線を示してゐるのである。大智氏のいふごとく、南画はその人間ができなければ、この形式の自由な馳駆といふものは不可能であらう。
 習気に堕した南画形式の作家は多いが、この南画形式を、完璧な形式として、自由に扱ふ作家はまことに少い。
 大智氏の見解では、形式はそのまゝであつても構はない、ただその使ひ方一つにある。新しい形式を編み出す必要があるかどうかわからない――といつてゐる。この大智氏の言葉を単純に丸呑みにはできない。もしこれを丸呑みにして、古い形式がうんざりするほど画壇に復活してきたら、たまらないからである。古い形式の復活よりも、下手でも新しい形式の発見は有益である。ただ大智氏のやうな言ひ方は、極めて少数の人だけがその真実を理解し得る言葉であり、これは大智氏の創作態度に現はれた『捨身』の態度として解すべきであらう。
 しかも大智氏は新しい形式をさへ事実編み出してゐるのである。読者諸君は大智勝観氏の作品の構図に注意していただきたい、とともにその画中の山岳或は家屋に殆んど三角形にちかい、或は全く三角形に描かれたもののあることを発見されるであらう。この三角形の表現は、非常に独創的なもので、五十八歳の作家のものとは思へない、新しい方法の獲得なのである。その意味から若い画家も顔色なしのものがある。私が大智氏が日本画に於ける直線と曲線との対立に悩んでゐて、一つの解決点にすゝんでゐると指摘したが、その現はし方はさまざまあるが、なかでも具体的には、三角形の形態への到達を問題にすることができる。直線といひ曲線といひこの二つのものの、一元的な結合、この二つのものの親和状態といふものが、どういふ方法によつて出来るであらうか、それは二つのものに共通な第三のもの、第三の方法を選ぶより方法がない、直線と曲線とを作画の上で一致させるには曲線を、或は直線を、どつちか、どつちかへ漸近的に接近させるより方法がない。三角形はさうした両者の漸近的な方法として一つの到達点なのである。大智氏がそれを意図してやつてゐるか、やつてゐないかは此の場合問題ではない。問題なのは、さうした究極点に進んでゐる氏の仕事が一切を証明してゐるだけである。いまこゝに若しフランスの最も正しい意味での進歩的な美術団体が『貴国に於ける、現代の最も日本的意味で進歩的な日本画家の作品を紹介されたし』といつてきたと仮定した場合には、私は何のためらひもなく、大智勝観氏の作品を推すであらう、意外なことにこゝに五十八歳のモダニズム作家を発見して、外国人は日本画の近代的要素の存在することを、強く肯定するであらう。

 大智氏の絵を、世間ではその仕事を『老人仕事』といふ風に、投げやりにみてゐるらしい。でなければ敬意を表して黙殺してゐるだけである。第六回院展の『秦准の夕』では、ある批評家にこの作は漫然たる浪漫的気分の胚胎したものだといふ風にも評された。当時鏑木清方氏は『異常か平明か』といふ題で、当時の院展の評判の悪さに関して、院同人の多数は趣味に淫し、色彩に戯むれ、形式に堕したと指摘してゐる。そして創作方法を異常に求めるか、平明に求めるかと出題してゐる。時は流れ、現在に到り、異常派の作家はまことに多いが、何と平明派の作家で寿命のつづいてゐる作家が少いことであらう。大智勝観氏は、その昔からその浪漫的要素を非難され、迫力のとぼしさを残念がられ、その作風の平明なる故に、とかくに見遁され勝である。若し隠然たる勢力といふものが、画家の政治的工作にあるのでなくて、作品の本質にあるものだとすれば、大智氏の画壇的生命力は、その作品の顕れざるところの力量にあると思ふ。
『手に筆硯を親しむの余、時有りて遊戯三昧し、歳月遙永にして頗る幽微を探る、妙悟は多言に在らず善学は還り規矩に従ふ』と王維が述べたが、大智氏の仕事ぶりは歳月遙永であり、四十にしてではなく六十にして不惑であらう。然し沈黙勝の人柄は、却つて妙悟を得、しかも案外の勉強家である点、規矩に従ふといふ方法は、益々その作品の新鮮度を増す理由であらう。
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小倉遊亀論


 画壇でも、文壇でもさうであるが、女流作家は、男の作家に較べて、いくつかの特ママをもつといはれてゐる。『女なるが故に?』といふ点のつけられ方の甘さなどもその特点の一つであらうか、この特点は必ずしもその女流作家のための都合のよい特点とはかぎらないこともある。逆に女なるが故に、男子に劣らぬ努力を払つてゐても、その評価に於いて黙殺的な場合も、また少なからずある、考へても見よ、女性作家に甘い点をつけるものは、男達であつて、決して同じ女同志ではないといふことに注意をする必要があらう。
 女同志の批判は決して甘くないばかりか、場合によつては嫉視的なトゲをさへ加へてゐることがあるので、結局女なるが故にといふ甘い点をつけるものは、男許りであるといふことに到達する。わが小倉遊亀氏は幸なことには、さうした女流作家の特点といふものに決して恵まれてゐる作家だとはいへないやうだ。彼女は特に男達から甘い点をつけられることもなく、彼女自身も、またその女の特点を、善用も悪用もしなかつたやうである。
 それを証拠だてるものとしては、作家に雌伏時代といふものがあるとすれば、彼女の雌伏時代は決して短かい期間ではなかつたことを想つてみたらいゝ、小倉氏がそれでは優れた作品を描かなかつたのであらうか、否、決してさうではない。それは氏の仕事のすべての状態が、氏の作品を理解する条件に恵まれてゐなかつただけのことである。
 この辺で筆者が小倉遊亀論をやるといふことは、甚だもつて興味の深い時期にぶつかつたといふことができよう。しかも現在小倉論をやるといふことは非常に困難な状態に際会してゐる。それは頭ママなしに批評したり、賞めてをくことに間違なくていふ批評をするのであつたら、さうした困難さが伴はないのである。さうした場合ではなく、小倉氏の現在を一つの転換期としてみるといふ場合には、勢ひその批評もデリケートにならざるを得ないではないか――、小倉遊亀氏が何故に評判の作家であるかといふことに就いては、各人各様の見方があるであらう、しかしその各種の批評を貫ぬいて、小倉氏自身の実力的なものが如何なるものであるかといふ吟味は案外に行はれてゐない。
 しかし最近に於いては、これまで女なるが故にも甘やかされてゐなかつた小倉氏が、こゝへ来て、女なるが故に――甘やかされるといふ現象がボツボツと見えてきたといふことは、注目すべき珍現象であらう。『遊亀氏の作品には何ともいへない品のよいデリカシーがある。そしてそれは到底男の作家では及び得ないやうなものだ――』といつた批評も見えてゐる。小倉氏の作品には全くデリカシーがありそれが気品を伴つてゐる。しかしこの批評家のやうに、男の作家では及び得ないやうなものだ――などといふ批評は、矢張り『女なるが故に――』甘やかされた批評の一種と見るべきであらう。芸術的な創作物は、あくまでその評価を具体的な状態で解明していかなければならないものであつて、男であるからとか、女であるからとかいふ『性別』の問題を表面にとりあげるといふ法はないのである。女性作家にとつては、その種の女なるが故にといふ批評の内容的なものを想ひ、抗議的であつていゝ位である。また批評家としても、男の作家では出来ないやうな仕事を小倉女史が為し遂げたといふ批評の仕方は、女の作家を軽蔑したことにも、男の作家を卑屈にみたことにもなるのである。芸術作品に対するお世辞の使ひ方も、性別を加へたお世辞であれば、鼻もちのならない卑しいものに堕することも少くないであらう。
 小倉遊亀氏の人気の基本的な線は、決して最近の現象ばかりをもつてそれを論じられない。しかもその最近の仕事をもつて小倉氏の評価を決定的なものに考へることは、小倉氏、またそれを評する者、何れにとつても危険この上ないことである。
『浴女』『浴後』が彼女を画壇上に浮彫りにしたといふことは事実である。
『溝上遊亀といふ画家がゐましたね、いま評判の『浴女』といふ画を描いた小倉遊亀といふ人とは、どういふ関係があるのですか――』と訊ねられるといふことも考へられる。それをもつ筆ママ者が画壇事情に通じない人に訊ねられたとしたら、何とか答へないわけにはいかない。溝上を、小倉に名前を変へたといふ画の話以外の人事関係などを語らなければならないなどといふことは、全くもつて世話が焼けるし、面倒臭い話でもある。
 小倉氏の作品に就いて、語ることは好ましいことではあるが、人事を論ずることは避けたいのである。しかし改名の件に就いて他人が理由を質ねたとき、それに対してその理由を芸術論的に答へる方法がないかどうかといふことを工夫してみると、その方法があるのである。それには『溝上遊亀といふ人と、小倉遊亀といふ人とは同一人です、溝上時代には草花の類を描いてゐましたが、今度小倉と改名してから人物画を主として描いてゐるやうです――』と答へよう。溝上時代にも人物画を描かなかつたといふことではなく描いてもゐるし、その画中の人物たちは大味ではないが、それぞれ何かしら特長的な味を出したものを発表してゐる。
 こゝで溝上時代を草花時代といふ風に、劃然と分けたことは、溝上時代から小倉時代に到達した遊亀女史の画壇的な系列の中で是非共、溝上時代の草花時代に批評的留意が行はれなければ、小倉遊亀論は成立しないといふことを、特に筆者が強調したいばかりに、さうしたのである。
 小倉遊亀氏の草花を描いた作に対する批評は、とかく『つゝましやかな小品である――』といつた批評が多いやうだが、その批評は常識論といふことができる。最近の人物も悪くはない。この最近の人物画は、とにかく『観る者の心をそそる』種類の絵が多い。しかし小倉遊亀氏の作風殊に絵画上の技術問題を解く鍵は、小品でつつましやかで、さりげなく描いた、草花果実の類に、多くの問題が隠れてゐるといふことができよう。
 殊に草花の場合に、簇生的な花を描くことに特異な手腕を示してゐる。構図的には、花束のやうに中心をまとめ、色彩上の陰影を加へることには特殊な技術をもつてゐるのである。氏の作品を明朗主義に批評した人があつたがそれは確かにその感を与へる、然しその明朗主義は、最近の人物画に於いて殊にさうした状態をみせてゐるのであつて、草花、果実の類には、さういつた種類の明朗主義は認められない。そこでは小倉氏の写実家であるといふ全貌を、発見することができるのである。二十一回の院展の『花』二題も好評のやうであつた。しかしその作品を小品扱ひにして、決して女史の本質的技術の点に作品を通じて論ずる者はまた少ないのである。『浴女』や『浴後』は一言でいへば一般観衆にとつて取つ付き易い絵なのである。殊に『浴女』の場合は、批評をする人間が、小倉氏の絵の批評ではなく、あの絵がつくりだす温泉的な雰囲気にひたるのには、全くもつて都合がいゝその批評家は、ゆらゆらと立ち昇る湯気の中で、ほんとうに温泉にでもひたつたやうな気持になることができる。そのことは小倉氏の絵がうまかつたからである。しかし小倉氏の絵がうまいといふことと、批評家がその絵をみて、ほんとうの温泉に入つたやうな気分になるといふことは別なのであらう。批評家は絵の実感に溶けこんでわるいといふのではないが、描かれた湯の絵と、真個ほんとうの湯との現実性を区分する力を全く失つてしまふといふことは小倉遊亀ファンとしてはいゝが、批評家としては匂ばしくないことなのである。一番関心をもつことができるのは、小倉氏の絵画上の技術問題なのであらう。この技術の様態を解かなければならないのである。然も小倉氏の技術の状態を解くもつとも本質的な画題のものは、むしろ人物よりも、草花果実にありと見る意見と、草花よりも、人物にありとするといふ意見は一応対立しても構はない。
 それでは草花を配した人物、さうした氏の作品は完璧であるかどうか、しかし草花と人物との技術的一致といふものはまだ現はれてゐないやうだ。立派に草花を描くテクニックをもちながら、それを人物に添へてはゐないのである。
 由来画壇にせよ、他の芸術壇にせよ。ジャアナリズムに乗ずるといふことに就いては、単純な理由でこれを見ることはできない。
 小倉遊亀氏が『浴女』を描いて発表したことに就いて、何か世間では得たりかしこしとそれを名作として賞讃したやうな傾きもある。作家の敏感がそれを招くやうにつとめて得られたのか、或はさうした計画が全くないのに世間で突然騒ぎ出したのか、その間の事情も解いてみる必要があらう。小倉氏の浴女に対して、当時色々の批評が下されたが、そのうちで横川毅一郎氏の『浴女』評が最も当つてゐたやうである。氏は曰く『会場主義と芸術主義との全き調和の中に作家の芸術的意図が豊かに遂げられてゐた――』といふことは、図星しを指したものであらう。更に氏は『浴女』と同様に前田青邨氏の『大同石仏』が共に、同じやうな効果を挙げてゐるといつてゐる前田氏の作品に触れることは次に譲らう。
 小倉氏の『浴女』は横川氏の評の如く、全くあれ以上に会場主義と芸術主義との全く調和を遂げることが不可能だと思はれるほどに、その意味での完璧性を見せた作品であらう。ジャアナリズムがそれを見落す筈がないのである。小倉氏は『静思』などといふ作品もあつて、婦人が端然と坐つて、右の手を机の上におき、左り手を袖の下にをいた作品があるが、かういふ形態のもつ計画的な良さは、一般に理解されることがなくして通りすぎたのである。いま端然と坐つてゐる女が、衣服を脱いで湯船にひたるとき、横川氏の批評ではその作品は『観者の感覚や情緒を揺り動かし、多くの人々にはこの作品の前で甘美な優れた音楽を聴いた時に、経験する高度な感情の喚起を経験したに違ひない――』といはせ小倉氏を指して『近代的な明朗主義』であると断じてゐるのである。
 こゝに小倉遊亀氏の古くからの観賞者がゐたとして、彼は女史の草花の写実的な描き方の中に、『高度な感情の喚起』を感じてゐたとせよ。またさうした草花ものを、小倉遊亀氏の実際的な真個うの仕事と観察し、そこにまた彼女の実力も潜伏してゐたと感じてゐたところが、突然、草花が『浴女』の上では裸となり、『浴後』ではちよつと許りつゝましく肌ぬぎになるといふ、テーマの作品を見せられたとしたら、その観賞者は『浴女』『浴後』から『高度な感情の喚起』を呼び起すどころか、冷水を浴びせられたやうに、驚ろくに違ひない。
 然も作風的にも、かなりに正統的なリアリストの描く『花』類を見せてくれて、しかも日本画家があまり手がけたがらない、西洋草花類をも、美しく描ききつてゐる。花の抒情詩人としての小倉氏は、姓名もかはつた許りか画題上の相貌を変へて立ち窺はれたといふことは、相当に驚異的な変り方であらう。『浴女』に於ける浴槽の中の湯のゆたりゆたりと揺曳する状態の描写は、たしかに彼女の写実家として神経をうちこんだ描き方であつた。そのために観賞者は、絵をみてゐるよりも、湯に入つた気分にさへ捉はれたのである。
 湯槽の中の湯の揺曳を線をもつて現はすには、不正な線、つまり歪めた線を有効に配列しなければならないのであるが、湯や水の揺曳、或は湖水の面や河水の面の揺曳といふものは、これまで日本画家はかなりの数色々の形式で取扱つてきてゐるのである。その効果の出し方は、特にその作家が高い意図計画をもつて描かない限り、水の底や、水面をゆらゆらさせるといふやり方は、甚だ通俗的なやり方でさへあり、通俗的な割りに効果を挙げることに成功する方法なのである。
 しかし小倉遊亀氏は何といふ賢こい作家であらう。その後の『浴後』に於いては、前の『浴女』と全くちがつた作画態度をみせてゐる。しかし世間は正直なのである。『浴後』は『浴女』との連作であらうといつた簡単な批評で押しつけようとしたのであるが連作故に批評を避けることはあるまい。また少くとも温泉気分の嫌ひな批評家があると仮定すれば、『浴後』の方の人物達は、着物をもう着てしまつてゐるし、作者である遊亀氏自身その作品で、湯船の上気を拭ひ去つた、冷静さで描いてゐるために、むしろ『浴後』の方に多くの問題を保留してゐると言ふ意味合から、『浴後』により好感をもつであらうと思ふ。
 小倉女史を賢こいといつた意味は、極端に言へば彼女の技術は『詐術的状態』といつてもいゝほどに隠れたテクニックをもつてゐる画家なのである。こゝに批評家がゐて、小倉氏の草花の描写に非常にこの作家の本質と美をみいだして、それを支持しても既に小倉氏は草花画家として今度の画生活を進めようなどとは思つてはゐないだらう。人物をあれほどに効果的に描き得れば、本人もまたそれにも増して世間も、彼女を人物画家として祭り上げようとするにちがひない。
『浴後』のタイル張りの正確な図式的な配列、それによつて、曾つて『浴女』の湯の中の揺曳で効果をあげたと等しい効果を、そつと誰にも知らさぬやうに効果づけてゐる手腕は末怖ろしいものがある。ただ一言小倉女史に苦言を呈し得ることは芸術的効果は、なるべくその通俗的意図から離れて、それでゐて高い一般性を与へる効果を選ぶべきであるといふ一言だけである。
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菊池契月論


 作家的な人気といふものを、確固とした、不動なものとするといふことは、非常に難かしいことに違ひない。それはその画家が、若いころ所謂世にいふところの出世作を発表してから、それからながい間の創作発表によつても、その実力的位置が少くも変らない、変らないばかりか、年毎に佳作を世に出して、世評が高まつてゆくことは、その影にその画家の人知れぬ血の滲むやうな努力が隠れて居るであらう、ところで年毎に鰻上りに、仕事が良くなつてゆくといふことは、ひとつの驚異であるが、それほど眼だつた上達がなくても、人気といふものを、或る一定の基準にぴたりと押へつけて、膝の下にでもこの気儘に暴れまはる『人気』といふ怪獣を押へつけてをくといふ力も、これまた一つの作家の力なのである。人気の上り下りに、いちいち心臓をどきどきさせてゐては、それは小娘の心臓といふものであらう、世にはこの種の小娘の心臓である画家が少くない、人気がちよつと下り気味になると、中にはその下降線をすぐれた絵を描いて発表して、停めるといふのではない、一種の政治的な手当てをやるのである。なかには酷いのは美術記者に金をつかますなどといふやりかたもある、この種の手当ては、ほんの当座の手当であつて、決してその作家の心理の状態を平衡な平安な状態にをくことのできない、膏薬張り的な人気調節法なのである。
 いま菊池契月といふ作家の人気の状態といふものを診断してみる、ある人は斯うその性格と仕事ぶりを評してゐる『契月は才気煥発ではないが――』と、その作品をみると、その穏和な、無理のない仕事ぶりは、この人柄、つまり性格としても才気煥発でもなければ、仕事、つまり制作手段に於いても才気煥発でもないと――思はれる。しかし菊池契月氏を指して、才気煥発でないなどといつた人の顔をみたいのである。また思はず微笑も湧くのである。
 決してその人の言つた言葉が誤りだといふのではない。契月は才気は煥発してゐない、しかし翻つてその人は契月の絵を系統的に見たかといふことと、その作品の本質を吟味したかといふこと芸術上の才気とはどんなものかもつと皮肉な言ひ方をすれば菊池契月氏の作品は才気が煥発しないで描ける絵であるかどうかといふことになつてくる。それはその人と私との『才気煥発』なるものの解釈見解の相違なのである。しかしその才気煥発か、否かといふことを吟味するには、契月を俎上にあげることはいちばん適当なやうである。菊池契月氏こそ真個ほんとうの意味での、才気煥発と呼ばれるべきものではないかと、私は考へられるのだ。瞬間的な燃焼力で華美な仕事をのこした人も多い。しかし永い画壇生活の中にあつて、自己の仕事を貫徹するといふ方法の樹てかたをきめながらその制約の中で、仕事を押さへ、押さへ進めてくるといふことも、これまた非常な『人間の力』を必要とする。それは人間といふものの感情といふものは、物理的形容に置き換へてみると甚だ『圧力的』なもので、悟性の容積の中では、とかく爆発したがるものである。それを自己の定めた一定量の容れ物の中にいつも充満させながら、この容れ物の中のものを過不足なくしてをくといふこともこれまた一つの技術なのであらう。
 菊池契月氏は、さうした意味の強い自己制御があると見るべきだらう。しかもこの自己制御は、それを自己に於いてうけとるといふ、人間的謙遜さがある。その意味は一口でいへば『他人に当り散らさない――』といふ態度である。読者諸君は思ひ当るであらうが、画の制作が順調にすすまないと武者苦者腹で、強引に画面を強調して、それで観衆の感情に押しつけてしまふ態の絵は、展覧会になどはなかなか多いのだ。かうした絵を作者が『他人に当り散らした絵』と私は呼んでゐるのである。我々には何の悪いこともないのに、まるで『これでも感心せんのか――』と叱りつけてゐるやうな押しつけがましい絵がまことに多いのである。さう私が説明してくれば菊池契月氏の画が、ただの一度も諸君を叱りつけたやうなのがあつたかどうか、何時も素朴な状態に於いて、眺めさせるといふ絵が多いのではなかつたか。従つてその世評はまた別だ。だから小説家宇野浩二氏が『麦拒』を評して『実によく書けてゐるといふ。といふ以外に言ひやうのない作品である――』と正直に告白させるやうなものである。宇野氏は契月は二十年一日のやうに。『朱唇』『夕至』等の作品に現はれる女たちの顔と殆んど同じ顔をした女が『麦拒』の場合でもママをふるつてゐるといつてゐる。
 その宇野氏の批評は当つてゐるにちがひない。契月といふ作家は、二十年も三十年も、さまざまな化け方を知つてゐる一匹の化物を飼つてゐるにちがひない。それは人物の顔はいつも同じでそして着てゐるものが変つてゐるだけといふことは、さういふことになるのではないか、この化け物は『朱唇』では処女らしく手を膝の上に揃へてアドケなく化け、『麦拒』ではモンペ姿で働く農婦に化けてゐる。しかしこの化けかたをもつと仔細に吟味してみよう。それは契月氏が芸術を解する狐狸の類を飼つてゐて、それに意匠を替へてさまざまな画題として飛びまはさせてゐるわけではあるまい。何故ならこの作家位これまで、その仕事の上で尻尾を出したことのない作家は珍らしいからである。大家と世間で認められてゐる人の中でも、ときどき思はぬ尻尾を出すことがある。しかし[#「しかし」は底本では「ひかし」]契月氏の場合は、尻尾を出さぬばかりか、その片鱗さへみせないのである。そこで化けかたの点で、もつと驚ろくべき作品がある。それは婦人の肖像の表情の相似性どころではない。『鹿』であらう。この作品では全く動物の顔ではない。動物にこれほど人間的な感情をうちこんで、そして人間的表情に接近させた作品は誰も描いてゐないのである。『鹿』はみればみるほど人間的な表情であり、その作品をみるときは、人物画ばかりではなく、動物画に於いてもあくまで契月の『化け方』がその表情にあるといふことが発見される。そのことは菊池契月氏が化物を飼つて、それを画壇に放すといふことではなく、菊池契月氏その人が化け物だといふことは結論づけられる。それは鹿を描いて、その表情に人間的なものを打ちこむといふこと、古い形容でいふ『対象に乗り移る――』といふことは、飼育してゐる化物位ではやれる仕事ではない。描く人その人が化けるよりは仕方があるまい。契月氏描くところの武者絵の表情を、較べてみたらいい。何といふ契月氏自身の顔によく似てゐることか、つまり契月氏は武者絵に於いては、自画像を描いてゐるのである。
 そして婦人画に於いては、彼は『永遠の女性』を探し出さうとしてゐるにちがひない。契月氏の武者絵の人物の顔が、作者自身の顔に似てゐて、美人画に於いては、ある共通的な美しさを当てはめてゐるといふことは、然もそのことで決して絵がマンネリズムにも陥らず、作品が決して類型的に堕さしめないといふところに、契月氏の隠れた実力があるのであり、人に知れない謙遜な勉強の仕方もあるのである。
 才能といふものを、出し惜しみや、小出しにするといふケチな方法でなく長い画壇生活の間大切に保つといふことは少しはその才能の用ひ方に工夫といふものも要するではないだらうか。すぐれた才能のひらめきを示しながら、その才能を無惨に短かい期間にすりへらす作家もある大家と呼ばれる人でも、その才能を危かしい状態で、磨滅させてゐる人もある。契月氏はよく自己の才能といふものを知つてゐて、その才能の機能にもさまざまの種類があり、自分はかういふ才能のはたらきの仕方をさせることが、自己の立場だといふ自覚がある。今世間の一部では契月の武者絵は、何となく弱い感じだといふ批評もある。
 成程さういはれてみれば『清水』でも『八幡太郎』にしても、なにかしら弱々しい武者を描いてゐる。その弱さの感じから言へば、鎧を着てゐたり、弓をもつてゐたりしてゐても、まるで非戦闘員のやうな弱々しい。むしろ女性的な武者を描いてゐる。だから毛脛だらけの雲助のやうな美術記者や、美術批評家などには気に入る筈がない。しかし契月の武者の『薄弱さ』こそ批評の中心的なのである。
 何も契月が弱々しい武者より描けないわけはない筈だ。また過去には『垓下別離』のやうな髯ツラの武人も描いてゐる。武者絵の場合その人物の手が、たつたいま血を洗ひ落してきたといつた描き方許りを指して、武者絵の定石的なものだといふ解釈の仕方のなかには、少しも画論的意味は成り立たないのである。契月はその大体ならば、血で洗れた手を描くことを常識的な手法といはれてゐるものを、『交歓』に於いて、互に武人同志、握らせてゐるのである。この『交歓』といふ武者絵ほど、武者絵の解釈に新生面をひらいたものはちよつとあるまい、武人といふものは、今も昔も戦争をすることをもつて職業としてゐることは変りはないであらう。しかしこの人達は、のべつまくなしに戦争をしたり、殺し合ひをしてゐるわけでもあるまい。菊池契月氏の顔の中には、戦争をしてゐる武人よりも、戦争をしてゐない武人の方が、より多く占めてゐるやうである。もつと強い言ひ方をすれば彼は戦争をしない武人が好きにちがひない。また我々の日本の過去の歴史のある期間には、たしかに戦争をしない武人の時代も存在したのである。彼は武人画で画中の人物を、時に戦はさうとする本能が働くことがあるにちがひないが、彼のもつてゐる精神的なものがそれをさせない。そこで戦ひの後の武人が、その疲れを清水で医し、交歓しまた鎧の修繕をやつてゐる武人の絵にしてしまふのである。『ゆふべ』とか『南波照間』といつた傾向の作には、造形的な意図がはつきりみえてゐるため、半分の人間性と、半分の絵画性とがあつて、絵の出来は完璧であるに拘はらず、綜合的な感動をみるものに与へない。言ひかへれば、絵かきの絵らしさといふものが、ひとつの夾雑物として邪魔をする。しかし美人画や武者絵の場合は、かなり線の簡略化の方法も洗練の度のすぎたものが、あるに拘はらず、自然に無理がなくうつたへるものが多いのである。契月は『平穏の作者』であつて、決して見るものの心を過度に刺戟することをしない。それは人柄が絵を穏やかにしてゐるのではない。むしろその反対なものがある。作画上ではかなりに強烈なヱゴイストなのである。その自我の強さが、作品を穏和に制約する力量を示し。また力量を貯蓄し、決して作品の、芸術的基準を下げないといふ力量を示してゐるのである。なにか穏やかな平安な作品に対しては、作者の人柄がさうであるからだ――といつた批評をみかける。作品を直ちに人格に結びつけて、具合よく作品論を避けて人格に結びつけてしまふといふことは、現下の美術評論壇には、まことに多いのである。しかしそのことが決して作者に対して礼のある批評家の態度だとはいへないのである。契月論は決して人格論であつてはいけないのである。道義的状態、或は人格的状態に於いては、芸術家は論なく、道義は正しく、人格は高潔であつて当り前のことなのである。すでにそのことは作品以前のことである。つまり作品が現はれない前に於いて、既に人格的にさうなければならない筈のものである。
 作品がすぐれてゐると評し、それはこの作者の人格が生んだものである――といふ評に至つては、後の人格のせいにすることはオマケにもならない。蛇足にすぎない作品の質は、既に作者の人格がその決定権をもつてゐると思つてよろしい良い作品ができてゐるのは、良い人柄がそれをさせたと考へてよい。技術がどうの、出来がどうのと論ずる場合はまた別な観点に立たなければならない。出来上つた作者に対しては、その作者の新しい方向に対しての、過程的なものとして批評する。その場合にも、この一応完成された作者の画風上の本質はあくまで認めた上での、俗にいふところの『注文』を批評家は為せばそれで足りる。もう一つの場合、新進的な、或は画学生的な作者に対しては、批評家はその指導的位置を文章の上で果すべきだらう。今我々は菊池契月氏といふ、既に出来上つた作家に対して、いかなる注文をなしたらいゝか、作品年表をみてもわかるやうに、この作家は、(旧姓細野契月)時代から、如何に活動的な作家であつたかといふことに思ひ到るときは、それは驚嘆に値する。活動的な作家なのである。然もその活動ぶりは華々しいそれといふより、かなりに粘液的なそれである。その持続力のながさ、テンポの平調さで、他の作家に比類をみないほどの着実な歩調なのである。図柄そのものは、人格論で片附けるにはもつてこいの、穏和な作品をかきつづけてきてゐる。しかし武者絵に於いては、その作風の軟弱さ、その柔弱さが目につくほどの、近来個性的作風となつてきてゐる。それに対して作者は抗していかなければならないだらう。作者の芸術的良心の性質は、あの弱々しい武士の鎧の下に隠されてゐる。契月氏の強いヒューマニズムにあり、吾人はそれを支持する必要があらう。
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金島桂華論



 厳密な意味に言つて、作家の作品だけの本質を論ずることは、一応まとまりがつき易い、しかしその作家の「人気」の本質を論ずるといふことは、なかなか難事業である。批評の場合、その作家に依つてさうした困難とぶつつかる場合がある。奥村土牛氏とか徳岡神泉氏とか、いまこゝに論じようとする金島桂華氏などは、何れもその「人気」の本質に就いての難かしさを具備した作家だといふことができよう。奥村土牛氏の作品が、八千円しようが一万円しようがそのことは少しも驚ろくに足りない。しかしさればといつてこの思ひ切つた価値の良さが、全く問題にならないといふ意味ではない。もし人気が土牛氏の作品をそれほどに価格的に高めてゐるとすればその人気の問題も解明してをく必要があらう。それと同じやうに金島桂華氏の作品が六千円したといふ噂も、これまたこゝでは多少その人気の良さと価格とを接触させて論じてをくことも無意味ではないであらう。何故さうした人気と価格とを生じたか、「何、それはそれほどの金を出して買ふ人間がゐるといふことだけだ――」といつてしまへばそれまでの話である。
 しかし世の中はさうも単純でもないやうである。世間では、土牛にせよ、桂華にせよ、その価格維持の一理由の中に、寡作であるからだともいはれてゐるが、殊に土牛の場合は、寡作な上に、絵の出来がなかなかおそいといふ理由も数へられてゐる。しかし、土牛の場合には現在ではその理由は当つてゐない。曾つてはさういふ時代もあつたに違ひない。しかし画家の描く作品を、経済的機構の中の、一つの商品と観察して考へてみた場合に、全くの寡作主義者で市価が上り、人気が上つた作者があつたためしがない。あつたとしてもそれは特殊の場合であらう。商品としての作品はその市価をある動きのない状態にをくといふことだけでも、ある数量が必要とされるだらう。つまり同一作家の作品でも、庫から出したり引つこめたり絶えずしてをくだけの数が描かれてゐなければ、市価も人気も出るものではないだらう。奥村土牛氏の場合にも、展観の出品遅参組の随一ではあるが、とにかくかなり作品を間に合せてゐるし、遅筆寡作とはいへない。むしろ現在のところその製作スピードは緩急よろしきを得てゐる。
 そして金島桂華氏の場合はどうか、氏の場合には土牛氏以上に商品的数量を産出する力はもつてゐるし、また金島氏の過去の仕事の系統をみても、さうした実力をもつてゐる。それを作家の芸術的立場に立つて批判すれば製作能力の旺盛なものがあるのである。しかし土牛、桂華、神泉といつた作家が沢山展観物も所謂単なる商品的なものも産出してゐるに拘はらず、現象的にはさうは見えない。世間的には寡作者のやうに見える。その点に一つの問題点も隠れてゐる。
 こないだ開かれた土牛、桂華二人展ほど、私の興味をひいたものがない、誰がどうしてこの二人を組み合したのか、それはあまりにぴつたりとした組み合せであり、また皮肉な組み合せのやうな感想も湧いたのである。土牛はその年来の画業に近来いよいよ滋味を加へてきてゐるが、一言で言へば、土牛は嫌々絵を描いてゐるのである、一個の柿を描くときその外劃線を引くときの心理的気倦るさ、これまで土牛は注文に応じて、何個の柿を描いてきたかは知らないが、果実店の三軒やそこらは開業できるほど、柿や其他の果実類の数量を描いてきたであらう。そしていまこゝへ来てたつた数個の果実を描いて八千円もの市価を産むところまで、職業的にもあきるほどに果実を突つき描いてきたであらう。そして柿を描くのにも。矢のやうな催促の中で、嫌々引いた幾本から線の交錯によつて、絵がやつとの思ひで注文者に間に合つたり、合はなかつたりする。しかし画業の難かしさまた真個ほんとうの意味での妙味は、実はさうした嫌々に線を引くところまできて始めて、仕事の出発があるともいへよう。
 土牛はその線を嫌々引けば引くほど、その線が光彩あるものとして、また深い人間的味がその線に滲み出るのである。ところで桂華の場合はどうか。彼は土牛、桂華二人展でもよく対照されるやうに桂華の絵はその土牛とはちがつて娑婆気の加はつてゐるところに彼の作品の良さといふより問題点が展開されてゐる。土牛は嫌々だが、桂華はまだ仕事を楽しんでゐるし、ここに試みの多くをその作品に加へてゐる。桂華ほどの画壇的な地歩にあるものが、いまさらむき出しに技法上の試みを加へる必要があらうか、彼はいまでは画学生ではない。しかし、彼の心の中には画学生的な正直な部分がある。こないだの土牛、桂華二人展は、老画生土牛と、画学生桂華とのおそろしくくそ真面目な展覧会なのである。たゞこゝで問題なのは、この二人にはある共通的な通俗性があることである。この通俗的な部分が市価を招く、そしてこの二人のもつとも通俗的でない良心的な部分が市価を引き下ろさない――といふことになつてゐる。通俗的な部分は世俗的な智慧の働き場所であり、非通俗的な部分つまり芸術的な部分は反世俗的な智慧の働き場所である。そこでこの二人の智慧は非常に良く働き世俗的にも、非世俗的にも、完成されたものをもつた作家達である。この二人に特別な人気がある理由は、期してか期せずしてかこの二人がふたつの智慧に恵まれてゐるからである。
 土牛や桂華の描くものは、神品といはれて殆んど無条件的に佳さを認められてゐる。この二人の場合の「人気」はその作品の中に含まれてゐる通俗性であり、「神品」なる理由は作品の芸術性にある。そして世間では往々にして土牛にせよ、桂華にせよ、これらの作者の二つの智慧の一面、半面だけを見て感想を述べてゐる場合が多い。絵に理解の浅い一般人は、その作品の通俗性の部分に感じ入り、そして専門家の画家は、その通俗性を発見せずに裏側から、芸術性をのみ認めて、これらの作家の仕事を肯定してゐる。
 そしてその何れの批評の仕方も正しくない。土牛や桂華の作品を見る場合には、画面に現はれてゐる、この作家たちの二つの智慧を綜合的に見る必要がある。通俗人をも感心させ、芸術人をも感心させるといふことに就いてもうすこし考へてみる必要がある、それでは土牛や桂華が、自分自身でその「通俗性」を計画し、意図してゐるかどうかといふことになると、私は否と答へたい。この二人が「通俗性」を出すことを、絶えず心の中に計画して、これまで来るといふことは不可能事だからである。またこの二人がさうした意味の通俗人であつたなら、現在の人気の維持はでき得ない。とつくに没落してゐる筈である。
 この二人は何れも、通俗性を出さうとするどころか、ひたむきな一生懸命なところがある。敢て土牛を老画生とし、桂華を画学生としたのはさうした画業精励のひたむきさを評して言つたのである。そしてこの二人は懸命になればなるほど画に通俗性がでゝくるのである。これは何もこの二人の罪ではないのであつて、この二人の辿つてゐる芸術の方法上から来たものといふべきである。
 土牛と桂華とを組み合して、斯うして論じてゐるのは、この二人は最も対立的な立場にある人に拘はらず、画風といひ、方法といひ、この対蹠的な状態であるのに帰するところが同一なものがある。同一の悩みを、異つた方法で悩んでゐるといふ。良い見本のやうなものである土牛が何故製作の方法上の帰結として「通俗性」に立たせるか、それは土牛の絵の「単純化」の方法が辿る路筋なのである。土牛は形式を益々単純にしていつて、そこに内容的深さを盛らうとしてゐる。この形式の単純化が企てられるとき、観賞者にとつては、彼に益々判り易い絵をみせられるといふことになる。形式の単純化が横拡がりに、観賞者数を殖やしてゆく、はては土牛の絵は判り易いといふ意味で、猫も杓子も、何かしら一感想を述べる自由を与へられる。観賞者としては、そんな楽しいことはないのである。自分のもつてゐる批評が正しい、不正はこゝでは問題ではない。批評ができ、感想が述べられるといふことが、見るものにとつてはこれ以上の楽しみはないのである。三尺以上に接近したら引つぱたくぞ――といつた、近寄りがたい、もたせつぷりたつぷりの作品がまことに多いとき、土牛の単純化の作品は「奥様――土牛さんの柿を拝見してきましたが、たいへんよく熟れてをりましたよ――」と女中が感想を述べる自由も保有されてゐるのである。
 桂華の場合はどうか、それは土牛とは反対にその作品の方法は、写実的意図を辿るところの通俗的なもの――単純化は、具体化と同一であり、また写実的方法は、一つの具体的方法なのである。俗に「絵が親切に描けてゐる――」といはれるのは、「具体的な説明」を作者が施すことに熱心なことが、観賞者に向つての親切さといふことになるのである。桂華の絵画勉強は、その写実的意図を何時の場合にも失はぬため、その制作の方法が何時も具体的で、一般に判り易い。さうした方法上の具体的形式が、こゝでもまた横拡がりに多数の観賞者を収容する。さうした一般性、通俗性は、これを理論嫌ひな日本画壇ではこれを理論化さず[#「理論化さず」はママ]、世間でいひ古されてゐる。一般性、通俗性といつた風にあつさり片づけたいであらうが、さうはいかない。土牛や桂華の作品がもつ、一般性や通俗性とは、全く理論的なものであり、また理論化されなければならないものである。芸術の究極目的は、作者が作画上でヱゴイストになることではない。むしろ自己の高度な芸術品をも、なほ世俗的な一般的な、通俗的な人々の、批評にも充分我慢のできる、つまり広範囲の批評に堪へ得るといふところにある。
 殊に桂華の場合は、その画の傾向や、これまでの足取りといふものを調べてみればすぐわかるが、現在の写実主義者は、その昔はどういふ傾向の絵を描いてゐたかといふことを考へてみたらいゝ、いま桂華の写実的方法が伴ふところの「通俗性」が取り上げられてゐるが、桂華のその昔の作品はおよそ「通俗性」とは縁遠い画風のもちぬしであつたのである。
 現在に於いては桂華は象徴主義者であつたのである。そして現在写実主義者になつたといふことは、この間にこの作者の人知れぬ悩みがあつたであらう。彼はまだ現在完全な写実主義者になりきつてゐない。自分のもつてゐる写実的方法での弱点を、象徴的方法で補足してゐる。或る人は桂華の作風を「新自然主義」と呼んだがそれも一理がある。「新古典主義」でもよからう、しかし「新」といふ冠詞の附し方は桂華の場合適当でないだらう。「新」などを附さない、単なる「写実主義者」だと評した方が桂華の現在の現実的計画に対して適当な言ひ方だと思はれる。
「春の雨」といふ作品が桂華にある。鶴に柳の雨といふ図柄で、この作品をある人が斯う評してゐた。「見る人の悉くが感じたことは、あの羽虫を捜す頸のうねりが、写生としては如何にもさもありなんとは見受けられるが、所謂鶴首としての概念とされてる、すつきりした感じを砕くと、見る目に憾みを残さした事だ――」と批評されてゐる。この絵は成程鶴の首の曲げ方にぎこちないものがある。しかしこの批評家は「写生としては如何にもさもありなんが――」と前置きして、鶴首としての概念としてのスッキリとしたところがないと桂華を批難してゐる。桂華の写実的態度を一応認めながら、それでゐてその絵が鶴の首のこれまでの概念とは遠いからよくないといふこれはどういふことになるだらう。桂華も鶴の首位すつきりと曲げて描けない画家でもないであらう。この作者には「鳴九皐」や「独鶴逐浪」のやうな作品もある。鶴の首をすつきり曲げる技術にはこと欠かない筈である。しかしひとたび桂華が対象の真実的写意をありのまゝに描写するとき世間の一部ではそれを批難する。
 土牛、桂華二人展のときも、ある批評家が土牛の神品性を直ちに唱へたが、桂華の作品は常識的で新味工夫を欠くと批評した。これなども桂華にして見れば意外とし、また桂華論としては、批評する方がはるかに常識的であらう。
 桂華の写生態度を認めながら、「所謂鶴首としての概念」とは遠いと批評した人と好一対の常識批評なのである。何故なら批評家といふものは、実は作者との共同的な事業として、それこそ過去の概念と闘はなければならないのである。鶴の首の曲げ方がすつきりしてゐなかつたことが「過去の鶴首の概念」とは一致しなかつたかも知れないが、桂華の現実的な写生精神とは一致してゐたのである。そこに問題点がある。この批評家は桂華の味方ではなくて、過去の鶴首の概念の味方であつたわけである。
 作者がその写生精神に立脚して種々の試み工夫をするといふことは、古い概念をうちこはして新しい自己の世界を樹立するといふ目的から為されてゐる場合が多い。さうしたとき批評家の軽忽な評言は作者の味方ではなくて過去の味方になるといふことで、作者に苦痛を与へることになる。例へ短かい評言であつても、その評言が当つてゐれば当つてゐるほど、また当らなければ当らぬほどに、作者の精神に各種の心理的な反映があるものである。土牛はシンボリズムを解さない彼はそのかはりに単純化といふ抽象的方法を知つてゐる。桂華はシンボリストであり、またそれに未練がたつぷりある。絵を支へ、骨を通ずるにはその方法に依ることが彼には楽なのである。しかし一方に写実への慾望が高いために、彼は二つの間にあつて動揺し悩むのである。何かで桂華が文章を書いてゐたが、それに曰く「去る十四日から脚気だと医者に云はれ、ずつと臥床して居ります。神経痛には温泉がいゝと云ひ、脚気にはよくないと云はれ、迷つてゐます――」とあつた。両方に利く温泉といふものはなかなかないものである。丁度桂華の象徴的方法と写実的方法とがぴつたりと結合するやうな方法がなかなか発見できないやうなものである。
 然し兎も角も現代京都画壇いな日本の画壇の人気ある作家としての桂華氏には、風筆の企及し得ない芸術を持つて居ると云はねばなるまい。
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徳岡神泉論


 これまでの徳岡神泉氏は、画壇的には不遇な作家といふことになつてゐる。もつと早くから有名になつてゐてもいゝ作家であるとか、或は画壇的にはもつと派手な扱ひをうけてもいゝとか、色々と世間評がある。一言で言ひ尽せば、徳岡神泉氏は、もつと画壇的に恵まれてもいゝ作家であるといふ定評がある。これでなかなか神泉フママンも多いのである。ところが神泉フワンは、この神泉といふ作家が、これらのフワン達をヂリヂリさせるといふ特長をもつてゐる。いまこゝに川端龍子フワンがゐたとしたら、フワンたるものは、龍子の仕事の颯爽ぶりに、内心快適なものを味ふであらう。才気煥発、運筆自在、縦横馳駆の川端龍子氏の画の過程は、そのフワンたるものの心を躍らすに足る充分なものがある。それに反して徳岡神泉氏のフワンになつたものは、神泉氏の仕事ぶりの着実さとそして折々その停滞状態とそれから膠着現象とに辛抱をしなければならないのである。
 大正十五年の第七回で特選となつた「蓮池」はその画風ののつそりとしたそれのやうに、新進としての徳岡神泉氏の出発ぶりは、甚だのつそりとしたものであつた。以来徳岡氏の画の歩行ぶりは、のつそりとしてゐる。然しそれをもつて野暮臭いとは、決して誤つても言へないのである。非常に感の利いたこの「感」をもつと別な文字に当てはめると「癇」の利いた作品なのである。画壇に恵まれないといふ世評は、いまになつては滑稽なお世辞になつてゐるが、たしかにさういふ一時代もあつた。しかし徳岡氏自身画壇から何かを恵まれようといふ考へは毛頭もつたことがないらしい。これまでは全く作品中心主義できたといふことができよう。徳岡氏の画材が蓮とか鯉とか、牡丹とか、菖蒲とかに、とかく固定的であつて、それは現在に至るもさうではあるが、或る神泉フワンの一批評が、内心そのことを非常に気にかけてゐたらしくどういふハズミか徳岡氏が「狸」を描いたとき、その人がかう感想を述べてゐる。『徳岡神泉氏の「狸」は非常に神泉らしさが盛り上つたものであつた。此味でなら静物としての毛皮を描ても定めし佳作を得るであらう――』と、これは決してこゝで落し話を語つてゐるのではない。また作り話でもない。さる一流の堂々たる美術雑誌にさう批評されてゐたのである。私はこの神泉批評を読んだとき、思はず微苦笑を洩した。この批評家は決して神泉氏に対して皮肉な意味で言つてゐるのではない。大真面目に神泉氏の鯉、蓮の題材から狸への飛躍を祝福し、更に毛皮への躍進を求めてゐるのである。もし、本当に徳岡氏が毛皮を描いたらどんなことになるであらう。その批評家は、きつとかう激賞するにちがひない。『徳岡神泉氏の「毛皮」の作は近来稀な出来栄えでその画材も、従来に一新気軸を与へたものである。毛皮の眼の玉は、あたかも生けるが如くランランと輝いてゐる――』と、毛皮は毛皮らしく、毛皮の顔にはめられた硝子製の眼玉は、その硝子らしさに描くところが神泉氏の絵の行き方である。硝子らしさに描いた眼の玉を「生きるが如く」と批評するところが、フワンのフワンたるところであり、賞めつ放しの一般的批評の底でありフワンの味噌なのである。こゝでお可笑な例証を挙げてしまつたが、神泉フワンは、作家が題材的にも大いに今後飛躍して、毛皮まで描いてほしいといふ欲望をもつてゐるといふことをこゝでちよつと伝へておきたい。しかし神泉といふ作家がさうした神泉フワンの求め方に応ずるかどうか、それは多大に疑問なものがある。
 それはフワンの期待の毛皮を生けるが如く描くのではなくて、神泉といふ作家は毛皮を死んだやうに描きたい――といふ欲望をもつた作家であり、その即物象主義といふか、対象の物質性への喰ひ下りの態度は、日本画壇でもかなり強烈な態度をもつた作家なのである。ただ絵の出来上りの静謐さが作者のさうした内部的な欲求を温和に隠してゐるために、その激情性は見えない。作者の客観的態度、つまり作者が外部から自己の慾望へ加へるところの圧力の強さといつた方がわかり易い。自制力の強さの点では神泉といふ作者は珍らしい。そしてさうした圧力が作品の自由性を決して損ねないといふ手段をもつてゐる点、これまた神泉といふ作者は、画壇でも珍らしい。作画上の方法を身につけてゐる作家といふことができよう。
 自制力を加へることに拠つて、次第に動きがとれなくなつてゆく作家もあり、又反対に自制力を加へることによつて、自己を拡大してゆく作家もある。また第三の種類の作家に、全く自制力などといふことを考慮に入れず、自己のあるがまゝに振舞つてゆかうとするものもある。殊に神泉の場合の第二の自己抑制の方法は甚だ自己を知るものと言へるだらう。作家が現実からの衝撃のうけ方の敏感なものは、通俗的な形容でいへば、『あまり神経質な作家は――』その神経質なために却つて芸術が完成されずに、作品も人も斃れてしまふといふ場合が少くない。神泉を指して「感」といふよりも「癇」だと形容したのはそれである。俗にいふ「癇癖」の強い作家の一人に私は神泉氏を加へたい。次いで「癇癖」組を二三挙げてみよう。小杉放庵氏なども加へたい。横山大観氏などその癇癖の大なるものだ。そして神泉、放庵、大観にしてみても、精神上の癇癖の高いことと反比例して、作品的にはまことに、温和な境地を開拓してゐるのである。これらの作家がもし心のまゝに絵を描いたならば、絵がまとまらないばかりでなく、絵絹を引き裂くのと一緒に、自分の肉体をも一緒に引裂いてしまふであらう。しかしこれらの作家は、自己抑制の手段を、まづその画風の上で打樹ててゐるといふ賢明さがあるから、その破綻を自己の手によつて繕ふことができるのである。自己破綻の救済といふことを、絵で描くといふことによつて果たされるといふことは、簡単明瞭に、それは良い作品が残るといふことになるのである。神泉の制作態度のネバリ方は、かなり個人主義的なものであるに拘はらずその出来た作品が決して個人主義的ではなくて、いろいろと画壇に問題を提出してゐるといふことは、そこに神泉の仕事のしぶりの面白さがあるのである。
『誰のために描いてゐるか――』といふ質問をすべての画家に発してみたいものである。そして徳岡神泉氏へも一質問を試みたらどうであるか、画商のためにか、或は日本美術の世界的発展の為めと大きく出るか、或は妻子の幸福のためといふ子孫永続の立場にたつか、金が欲しいためにか、世間的栄誉を目指してか、行きがゝり上描いてゐるか、あの男に負けるのが忌々しいからと、小さな個人的勝敗心理からか、かう数へあげればきりがない。神泉氏に対して、『貴方は誰のために描いてゐますか――』といふ質問を発した場合に、彼は何事も答へないであらう。そして黙々と牡丹や蓮ばかり描いてすごすだらう。たまたま一党派の主脳者となつたために、後進、部下のためにも、勉強ぶりをみせなければならない立場に立ち到つてゐる画家も世間にはある。そしてその主脳者は、相当に自分の実力以上に無理な仕事をして主脳的位置に立つてゐる。さういふ状態はあまりにも惨めなものがある。徳岡氏はさういふ政治的計画は絵の上には加へられてゐないやうだ。画壇の一党派を引具したところで、広い世間からみたら、単なる画家の一団体にすぎない。それが絵の仕事を放りなげて、政治的工作をしたところで、高が知れてゐるのである。もし徳岡神泉氏が、さうした画壇政治的野心があるものと、こゝに仮定したならば、『それはお止しなさい』と止めたいところであるし、さうした政治的工作よりも、蓮や菖蒲の一枚の葉の真実を描くことの、如何に仕事が大きいかといふことを、神泉氏のために奨めたいのである。世間では神泉氏に対して一種の大器晩成主義とみてゐる、その出来上つた作品は賞める。それに『将来有望』と附加しなければ気が済まないやうな型だ、何かしら次に出て来なければならない筈だといふ批評的立前から、ものを言つてゐるのである、『神泉氏は恐らく昨今に於ては、一つの転機に立つてゐるのではないかと思はれる』といつた批評がこれまで幾度となく繰り返されてきた。観賞家や批評家といふものはまことに気が短かい。観賞家の気の短かいことはわかるが、批評家はほんとうは作家よりも、気が永い位でなければ嘘なのである。少し許り同じ題材がつづいて描かれると、それを行詰りと見るなどは、神泉氏の場合に当てはめても当らないこと甚しい。神泉氏が狸を描くと、すぐ毛皮を描いてくれと注文するやうなものだ。少し仕事の渋さが連続すると、転機だ転機だと言はれるのである。神泉氏はさうした意味の、騒がれる人徳をもつてゐる。批評の内ではかういふ大胆不敵な評もある。『時には作者自らを動きのとれぬ苦悶の境地に縛りつける。しかし所詮真の芸術が一つの業苦であるならば悩みのまゝに押し切るより外に術はない――』と神泉氏に向つて言つてのける。しかもそれが女流批評家の言葉であつて、かういふ批評を戴いては神泉氏たるもの、左様貴女のおつしやる通りですと肯定せざるを得ないであらう。かういふお嬢さん批評家にかゝつては作家も適はないであらう。この批評家は、神泉氏が何か病気にかゝつてゐるかのやうに錯覚を起してゐるのである。何故なら彼女は、芸術といふものを病気と同じものに考へてゐるらしいからで『所詮真の芸術が一つの業苦であるならば』などといふ形容は、これは『一つの業苦』ではなく『一つの病苦』といふ書き誤りであらう。さうだとすれば、つぎの彼女の言葉『悩みのまゝに押し切るより外に術はない』といふ言葉が意味を為すからである。
 彼女批評家は、まるで同じ年輩の女友達の帽子を批評するのと同じ調子で、日本画家達を批評してゐるのである。単純無類の美術批評壇の現状なのである。神泉氏がその堅実な手法とは、一見相違するやうな形の変つた、形の崩れた試みをすると、一批評家はすぐかういふのである。『氏はフォービズムの洗礼を受けてゐると見なければならない――』と、フォービズムなどといふ言葉は、洋画壇では通用はするものの、日本画の傾向に対しては、どのやうな角度からも適用できない言葉なのである。日本画は少くとも洋画とはその育ちに於いて違ふといふことを無視して、野獣派だとか立体派だとか、印象派だとかいふ洋画傾向の上の言葉を、いとも簡単に押しつける批評家の太さは驚ろくべきものがある。
 神泉氏が何時フォービズムの洗礼を受けたか知らないが、かうした洋画批評を押しつけることの好きな批評家に対して、私も洋画批評風にかう言つて『徳岡神泉氏は、君のいふフォービズムの影響からは卒業してゐる。昨年文展の「菖蒲」を見給へ、セザンヌの境地に到つてゐる――』と、ひやかしてやりたい。また或る批評家は正直にかう告白してゐる『神泉が色調でセピア風なものを好む心理がわからない、また日本画壇ではその点珍らしい作家だ――』と、他の画家が、青だ赤だ藍だと騒いでゐるときに、神泉は茶つぽい色を好んで使用する気が知れないといふのである。それはもつともな疑問でなければならない。しかし飜つて考へてみるときは、至つてこの問題の謎は容易に解ける。茶とか黒とかは現実主義者が好んで使用する色なのである。殊に「茶」といはれ、また「セピア風」と呼ばれる色調「自然主義的な色調」なのである、こゝでいふ自然主義とは××主義とか××流派とか呼ばれる意味での「自然主義的」といふ意味ではない。こゝで誤解を避けるために言ひ方を変へてみれば「自然科学的」といつた方がわかり易く、また当つてゐるであらう、神泉の色調がたまたま彼が現実主義者であつたために、「自然科学」的な色調を選んだといふことは、至つて自然な選び方だと言へるだらう。茶にせよ、青にせよ、神泉の色の選択、色の重ね方は、自然への復帰といふ第一の方法が採用されて後、表現といふものにとりかゝるのである。表面的には絵が冷酷で、神経質で、冷たい形をとりながら、観るものをして、神泉の絵からは何か滲みだしてくるもの、何か温かいもの何か、何かといろいろの感動を与へられるのは、実は神泉氏がさうした制作過程をとり、さうした効果を作品の段階の中に附与してあるからなのである。
 神泉氏に対する一般的期待は、作者自身の期待ではなくて、どうやら世間自身の気休めらしい、神泉氏が今後少しも飛躍らしい飛躍をしないと仮定することが、世間自身が想像することさへ辛いのである。動きのとれない絵を描いてゐる不思議な画家神泉氏の持ち味といふものを少しも理解しようとせずに、何かしら神泉氏に求めて許りゐるのである。或る人は神泉氏を指して、新傾向の指導的立場にある人であると評したが、一応当つてはゐるが正確には指導的な「人」ではない指導的な「絵」を描いてゐる人である。また人に依つては神泉氏が一作毎に人の意表に出ようとしてゐる――と評されてゐるがこれも当つてゐない、それらのものを全然考慮の外に置いて、神泉氏は何時の場合にも問題作を描いてゐるだけなのである。昔の「蓮池」とか「後苑雨後」といつた作風は、すでに神泉氏の運命をその画風の上で規定し、決めてゐたのである。蓮とか菖蒲とか、牡丹とかを、好んで題材にしてゐるといふことは、これは唯一の勉強の方法として、好都合なものであるからにすぎない。人一倍「空間」といふものの探求を好んでゐるこの作者は、これらの題材で良き探求をしてゐるのである。そして画面に加へる「熱量」がその画面を迫力あるものにしてゐるのである。「絵画に於ける空間は其の色調よりも画題によりて寧ろ指示されるものである」といふ言葉はラスキンの言葉であるがこれは作家の制作事情をよく理解した言葉だと思はれる。昨年文展「菖蒲」の空間的に成功してゐたのは、画題の選択の上で、先づ成功してゐたといふことと結びつけることが必要である。しかしこの「菖蒲」に対する一般的感心の仕方の特長は、菖蒲の水に反映した部分なのである。しかし問題の本質は反対の処にある。水から上に出てゐる部分の描写の仕方が問題であつたのである。しかし世間は甘く、そして世間といふものは事物の映像をより愛する。水に映さしたり、少し許り神泉氏が水墨的な滲みを利かしたりするとワイワイ言ふ。しかし神泉の真の作家的歩みの興味ある点は、その足取りがおそろしくスローモウションなところであり、能芸術のやうな動きなのである。それは静かな動作形のなかに最大の熱量を加へるといふやり方なのである。神泉の作品は緩やかさの極致に於て、磨かれ、また情感的なのである。
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石崎光瑤論


 石崎光瑤氏の画的経歴くらゐ、複雑微妙なものはまたとあるまい。こゝで注意して欲しいといふのは私は「画壇経歴」とは言つてゐないので「画的経歴」と言つてゐるといふことである。ながい作家の画生活のうちで、画壇的な動き、またその起き伏しの点では、ずゐぶん複雑な画家も多からう、敵もつくるが、また味方もつくる。そして画壇的位置の進退駈引に精魂をうちこみつゝも、画作をつゞけるといふ画家もあらう。さうした経歴者は、その個人の動きが政治的だといふ意味で、「画壇経歴」といま仮に呼んでおく。
 石崎光瑤氏の場合は、さうした経歴とはちがつたものをもつてゐる。石崎氏はその画風が独特であるかのやうに、その心理的な内部生活も、独特なものがあらうと、観察を下して、それが言ひすぎであらうか、さうは思はないのである。石崎氏の画のあの華麗さは、如何なる心理構成によつて出来あがるものであるかといふことを考へてみるとき、美しさは単化された純粋度をもつて見る人をうつが、作者そのものは決して単純ではない。しかも私は石崎氏の作品の形式が作者に与へるところの、厳粛な苦悩といふものを、充分察することができるのであり、また察することが、至当であると考へる。
 この論を書くに際して、自分は石崎氏の作品をすこし計り見てをけばよかつたのであつたかも知れない。それでも批評の的確が不可能とはいへない、ところが、幸か不幸か、石崎氏の過去の作品をかなりに数多く見たり、経歴を調べたりしてしまつたのである。そしてそのために世にも華麗な画家のために、いくぶん陰気な評論を書かざるを得ない立場になつた。しかし私はそのことを喜んでゐるのである。石崎光瑤といふ画家は、決して華美な、派手な画家ではない――といふこと、これはこゝで語る結論なのである。
 石崎氏の過去の作品「熱国妍春」を始めとして、諸製作全体からうける感じは甚だ鈍重なのである。決して明朗でない許りか、圧迫感をもつてゐるのである。曾つて評判作「野鶴」に就いて、色々の人が批評をしてゐるうちに、この作品の真鶴の組み立ての苦心や、「羽色の調子がよく、重なり合つた後ろに親羽根の調子など自然である」(西村五雲)など、鶴の羽の裏あたりの明暗など成功したものといふ定評があつた[#「。」がないのはママ]だが西村五雲は唯バックが装飾的に行く上から止むを得ないかも知れないと思つたが、どうも少しどうかと思つた、と言つてゐる。殊に平福百穂は「三段にも四段にも塗つた群青の水と茶色の草原ですが、そこに何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつてゐる。この人達の批評の中で、私の興味をひくのは作品の出来不出来の批評をしてゐるに違ひないが、心づかずして石崎光瑤の本質を語るものがあるからである。「そして何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつた平福百穂氏の言葉が光瑤氏の本質論を代表してゐるのである。読者は石崎光瑤氏の作品全体を通じて、どの作品にも秘められたところの不安感が漂つてゐるといふことである。殊に初期の作品にはそれが多い。この不安感、焦燥感は、不用意に見るときは、感じないで見過ごしてしまふ程度のものである。しかし作品は少しく吟味してゆくときは、それを発見するであらう。露骨ではないが、ある種の焦立ちを感じさせるものなのである。たゞその不安感はその色彩の上には現はれてゐないで、多く構成の上に現はれてゐる。その不安感は美麗な甘美な色調の中に溶解されて、一種異常な感覚美と化して観者にうつたへてゐるのであり、その意味から、初期の作品に漂ふ雰囲気には形容しがたい妖性なものを感じさせる。それは光瑤氏は時代の子としての、近代感覚的な現はれであらう。光瑤氏はその作品の感覚的世界に於いては、近代の所謂、新しい日本画家も、その新しさの点では光瑤氏から学ばなければならない多くのものがあるであらう。新しい日本画家が、もし光瑤氏の作品に批判的であるとすれば、それは光瑤氏の精神的部分ではなく、其の形式の点であらう。ある人は光瑤氏の作風の装飾的な部分が、気に喰はないであらう。するとまた一方では「闘鶏」の批評で斎田素州は「装飾化したいつもの得意な作柄であるが、今迄の例から云ふと画面の単純化されたもの程成功してゐる」といふ。光瑤氏の作品の装飾的単純化を支持してゐる人もある。「闘鶏」評で「唐黍の葉がやゝ多過ぎ出方にもわざとらしさがあつて気掛りになる」(斎田素州)や「野鶴」評で、「石崎光瑤氏の「野鶴」は昨年の鶉程に若沖の影響を明らさまに示してゐないのはいゝ、只猫柳の花などは、少しうるさ過ぎはしないかと思ふ」(石井柏亭)といつた二種類の分裂的批評が、絶えず石崎氏には、これまで加へられてきてゐるのである。石崎氏が写意を主とした部分に、うるさがられて、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ」といはれ、表現の単純化、とそれに伴ふ芸術的誇張に対しては、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ、其出方にもわざとらしさがあつて気掛りとなる」と評されてゐる。徹底的写意と、抽象的表現、この石崎氏の二つの方法は何時も、一つの画面の中で、二組の対立した観賞者があつて、一方は装飾化を嫌つて写実的手段をより認め一方は装飾単化された作風を認めてゐるのである。
 石崎光瑤氏は、その画壇的出発点から、数奇な運命を辿つてゐるといへるであらう。その画風の微妙な推移をみるときはそれは将に数奇な運命といつてもいゝであらう。光瑤氏が「熱国妍春」を、印度土産として、出品したときは、その画面に加へた圧力の圧倒的なものは、人々に驚異の眼をみはらし、この一作が殆んど決定的に石崎氏の力量を証明したものとなつた。殊にその精力的態度と、極度の絢爛美は他の追従をゆるさぬものがあつた。この作発表の三四年後には帝展審査員任命をもつて遇されてゐる。こゝに、一つのヱピソードを語れば、氏は其後帝展審査員としての不首尾なものがあつたといふ、その理由はかうだ。その失策といはれるものは、唯審査会場で、あまり露骨に大胆に自己の意見を述べたためだといはれてゐる。それが先輩や仲間の不快を買つたことになつたのだといふ。今ではさうした話も笑ひ流せる一※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話であるが、それが事実であつたとすれば、当時の光瑤氏の面目躍如たるものがある。またさうした理由が審査員不首尾の理由だとすれば、その理由は、若き時代の光瑤氏の満々たる闘志の現はれとして、むしろほゝゑましいものがある。
 しかし世間ははるかに冷酷であり、そのほゝゑましい※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話もまた、画壇政治の中にあつては深刻な様相を呈してくる、「燦雨」とか「雪」といつたそれにつゞく作品が、「熱国妍春」のやうな感動を与へなかつたといふ理由の下に、何か光瑤の仕事が落ちたといふ印象を与へたのである。それは確かに「熱国妍春」のやうな執着力は、其後のこれらの作品には見られないかも知れないが、しかし「燦雨」にせよ、「雪」にせよ、決して執着が去つてはゐない。むしろ「熱国妍春」の主題の変つてゐることゝいふ助け船なしに、別な意味の執着が加へられてゐる作品と見るべきだらう。
「雪」ではいまにも※[#「口+堂」、85-上-11]と音してずり落ちさうな雪質を巧みに描き出されてゐる。余寒の中に、羽虫をとつてゐる雉の、この鳥類の精神的位置といふものも、よく捉へられてゐる。作品はそのまとまりに於いて完全であるが、技法の上からみれば、雪の散らし方などは、大胆を極めたものがある。其他の作品に於いても、その技術や制作精神は、情趣は使駆するが情趣に溺れないといふ態度が、石崎氏には多分に見受けられたのである。いまにも崩れ落ちさうな雪を、描いてゐて、その雪が崩れ落ちるといふ瀬戸際まで描いてゆくといふ、その追求的な態度が「雪」には良く現はれてゐるのである。「熱国妍春」では南国植物の葉脈の徹底的細密描写があり、それは見るものをして驚嘆させるほど、根をつめた仕事ぶりなのである。しかし「雪」に於いて、雪がズリ落ちる瀬戸際まで描くといふ根のつめやうは、一般はとかく見落し勝なのである。私が前に述べた作品に漂ふ不安感や、焦燥感は、さうした創作的態度から滲み出たものであり、或は作者自身は、それを目的として描いてゐないだけに、本人が気づかないこと柄であるかも知れないのである。「奔湍」に於いては泡立つ浪の面白さや、水にのり出した木の枝の面白さ、などにはほんとうの面白さがなく、むしろこゝでは散らした紅葉に、細かい人生的な運命的な作者の考察を発見することができるのである。
 この奔湍に押しながされる、無数の葉の在り場所が、まことに面白く自然の運命を語つてゐる。一枚の葉は岩の上に、押しあげられてゐる。ある葉は飛沫の中に飜弄されてゐる。ある葉はたゞ押し流される許りだ、これらの葉の描き個所によつて、これらの葉がそれぞれの宿命を語つてゐる面白さは人生の奔湍に押しながされる人間の運命と照り合せて興味が湧く、そしてそこには二羽の雉が飛んでゐる。光瑤の描く雉に就いても、かういふ特殊の状態がある。古来雉は幾多の画家によつて描かれてきた。その羽毛の美麗で、羽毛の線の整然とした配列はその鳥でなければ、得られないものである。しかしその華麗さに於いて描いた人は多いが、光瑤氏はその華麗さに加ふるに動態美と、緊張感に於いて独特な雉を描いてゐるのである。「奔湍」の中に描かれた雉は、その羽を極点的に拡げてゐる。これ以上羽に力をいれることが不可能だと思はれるほどに、充分な羽の拡がりに描ききつてゐる。もしこれ以上に、この雉が羽に力をいれたなら、その肉体がばら/\に分解飛散してしまふであらうと思はれるほどに、作者の緊張はこの対象物にうちこまれてゐる。「春律」の雉に於いては、その緊張感を、画面全体の韻律に解消してゐるが、「奔湍」では全く、力学的な構成の頂点に達した雉を描いてゐるのである。そしてそこにはさうした技術的計画が、新しい感覚美を、画面にもたらしてゐるのである。「野鶴」に於いても「装飾風のやり方では止むを得ないが――」といふその「止むを得ない」部分は実は作者の意図があると見ていゝだらう。鶴の群の背景をなす部分にこそ、作者光瑤氏の強烈なロマンチストな部分を窺ひ知ることができるのである。春の野花の数々はその美しさを競ひ、星空を地上に引きをろしたやうな極度の美しさが展開されてゐる。そこには装飾的だといはれる何物をも感ずることができない。たゞそれをみる人が、この美しさを現実とみるか、それを一口に「非現実」といひきつてしまふか、それ/″\見方によつて、鶴を認めて、背景を否定し、またその反対の背景にこそ光瑤の精神的な理想境が語られてゐるもので、鶴は単に絵画的形態としての借り物にすぎないといふ論も出てくるのである。人々は光瑤の作品のなかの「非現実」を認めない。しかし非現実の部分に感動してゐながら、それを認めないといつた風な、否定の仕方なのである。そしてもし光瑤が全くの写実主義者になりきつたと仮定したら、その人々は眼もふりむけないだらう。そしていふだらう「昔はもつと美しい色であつたがと」光瑤は勿論、これらの人々のいふことをきいて軽忽に写実主義者になることはあるまい。抽象的方法、象徴的方法は高度の写実的方法であることははつきりしてゐる。その方法が適確である場合には、その形態がどんなに突飛であつても、写実的実感を見る者に与へるし、ねらひがはずれたときは、装飾的な嫌悪を感じさせるのである。「春律」はその意味の後者に属し、私にとつては興味が薄い。「春律」は何等光瑤の画風転換作でもなんでもない。近来の作品は写意が強く、不安感や、焦燥感も全く拭ひ払はれた、静謐なものが多く見受けられる。しかし光瑤の脂肪はまだこのやうにして、脱けてはいけないやうに思はれる。
 もつと強烈な光瑤の理想的美の境地を、作品で顕現してほしいのである。
 美しいものは何時もまつさきに感動した者が、まつさきに嫉妬するのである。光瑤はこゝで驚ろくべき美しさを表現して、多くの人々に最大の嫉妬をされなければならないであらうし、また人間の為し得る美しさの究極点を示し得る人は光瑤氏のやうな人ををいてあるまいと思ふ。また我々はさうした極点の美を示されることを待望してゐるのである。
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山口華楊論


 この作家の人気は、或る特殊な雰囲気を、この作家がもつてゐるといふ理由に基づいてゐるやうだ。言はゞ、人気の二種類陽気な人気と、陰気な人気とがあるとすれば、山口華楊はその後者に属するといふことができよう。それが芸術の仕事であればこそこの陰気な人気などといふことも認容されるのであらう。それが映画女優などであれば、人気は陽気なものといふ一方的なものに止まるであらう。山口華楊にせよ、徳岡神泉にせよ、奥村土牛にせよ、金島桂華にせよ、この人々はみな陰気な人気をもつた人といふことができよう。これに対して陽気な人気をもつた作家といふのを選んでみれば、川端龍子を筆頭にあげることができ、次々と何人でもある。世評も何となく派手で解放性があるのである。しかし陰気な方の人気者たちは、何時の場合も、観賞者を全部的に納得させないでをいて、その人気をひきずつてゆくといふ力がある。だから何時まで経つても、なかなか人気を喪失しない作家といふものが居たとしたら、観賞家や、批評家はそのことに疑問をもち懐疑し、そしてその作家の本質を再吟味する必要があらう。
 山口華楊はその人気の陰性であると共に、何時まで経つても人気を喪失しないといふ、その事実に対して、人々は山口華楊といふ作家の、再認識をするべきであらう。またその再認識に良き時期がきてゐるともいへるのである。これまで華楊はどういふ世間的扱ひをうけてきたであらうか、それに就いて、最も適当な華楊評の一断片があるので、それをとりあげてみよう。春虹会第四回展に華楊は「日向」と題して猫を描いて出品した。それに対しての某氏の批評に「流石此作は又一歩華楊らしいよさを進められてゐるのが目立つ(猫の形の強ひて言へば、稍やわざとらしい誇張が気になる様な気もするが、強ひて言はねば気の利いた掴み方であるとも見え)云々」と言つてゐる。このやうな華楊の作品批評は華楊に対する世間的見方の、最も露骨に出たものとして、特長的である。しかも特長的であると同時に、これ以上、通俗的な常識的な批評はこれまた珍らしい。しかしこの華楊批評には、一応の真実があるのである。一人の批評家が、一人の作家の作品の批評に、直面し立ち向つて、「強ひて言へば」とか「強ひて言はねば」とかいふ、前置つきで批評するといふことが、どういふことであらうか。批評をされる作家の側から言つても変な気がするであらう。何故なら、強ひて言へば作品が悪く、強ひて言はねば作品が気が利いてゐて良い――などといふ批評はどうしても奥歯に物の挾まつた、蛇の生殺しのやうな批評だからである。
 そしてこの「強ひて言へば――」とか「強ひて言はねば――」とかいふ、批評の仕方は、華楊の「猫」の批評だけに止まらない。その方法を当てはめてみれば、すべての華楊の作品に当てはめられるやうである。然し、この「強ひて言ふ、言はぬ――」の批評方法を、他の作家にふり向けてみたとすれば、それでも通用をしないわけではない、しかしさういふ、批評をされた場合人に依つて憤慨する人もずいぶんあらうと思ふ。どうやらこの強ひて言ふ、言はぬの批評は、山口華楊にもつとも適当したもののやうに思はれるのである。某氏のこの評に真実があるといつたのは、さういふ意味なのである。この強ひて批評するといふ、批評家側から言つたところの御招待批評は、ひとつには華楊の人気の顕はれとみていゝ、是非、強ひて悪くも強ひて良くも言はして貰ひたいといふ、人気がこゝにあるとみていゝのである。この言ひ方は黙殺主義でも、また世間的なお座成り主義の批評とはまた違ふ、華楊の「一般的人気」は、強ひて言へば悪く言はれ、強ひて言はねば良く言はれるのである。私はこれに対して「一般的人気」といふところにカッコを附けたことに注意があつてほしい。華楊の一般的人気はこの強ひての両端をもつてゐる。しかし華楊の「本質的人気」は、実はこの二つの両端の間を埋めたところに存在するのである。通俗的人気は強ひての両端で結構なのである。しかし華楊自身の実力発揮の精神的仕事は、かゝる両端の通俗性を認めることはなくて、この両端を軽くあしらひながら、その本質的仕事を押しすゝめてゆくことであらう。
 華楊といへば、一口に動物画家といふ観念がとびこんでくる。そしてその佳作「猿」とか「鹿」とかを想ひ出してくる。それと同時にこの動物画の描き手にふさはしい、素朴な、朴訥な、田舎めいた、野趣に富んだ、動きのにぶい、社交下手な、土壌臭い、内省的な華楊といふ作家の人柄といふものを、あの作品の限りで想ひ出されて来るであらう。今挙げた性格の形容の中で、当つてゐるものもあればまた当つてゐないものもあらう。しかし「猿」「鹿」的華楊へ、一つの別な観察を加へてみたらどんなものであらう。いま挙げた性格の殆んど反対のものを考へるわけにはいかないであらうか、華楊といふ人物は、猿、鹿的な動物画家の自然味とは、およそ反対な、むしろ都会的な作家であるといつたらどうであらうか、華楊といふ作家の朴訥味には実は興味が少ないのである。むしろ私は才気煥発な華楊といふ作家の、その精神的動きの方に遙かに興味をもつてゐるのである。華楊は、猿や鹿を描いたことは確かである。
 しかし同時に「洋犬図」のやうな作品もあるといふことを忘れてはならない、彼がその犬の図に於いて、材料を秋田犬のやうな日本犬を選ばないで、グレイファンドのやうなハイカラな犬を描いたといふことも、なかなか興味があるのである。
 華楊の作とは、斯うした田舎臭いものと、都会臭いものとの他に、もう一つ問題にしていゝ立場のものがある。
 それは既に過去の仕事に属してゐるかしれない。しかしこの第三の種類のものによつて、華楊の第三の立場を知る必要があるから、それを見遁すわけにはいかない。それは「畑」のやうな種類のものであり、「葉桜」のやうな種類のものである。この種の作品は全く、「猿」や「鹿」とは違つた、画面に少しも空間を残しておくことを避けたところの徹底的な綿密描写である。華楊の精神の打ちこみ加減を知るには前述の「葉桜」や「畑」などは最も早わかりなのである。「鹿」や「猿」のやうな簡略描写の佳さとはちがつた迫力をこれらの作品に発見できる。この二作だけをとりあげても、華楊には過去に於いて充分に描きこんだ時代があつたといふことを観賞者は忘れてはならない。小品物に現はれた、或は動物画に現はれた華楊は、決して華楊の本質ではない。昭和三年の「猿」は評判作であつた。猿を描いて成功したものには、関雪とこの華楊のものがあるといはれたほどであつた。この猿の親子は如何にも野趣に富んだものであつて、すぐに尻に手をやつて掻いたり、叫び出したりする態の猿であつた。関雪の猿と較べると、全くちがふものがある。関雪の猿の顔はまるでインテリゲンチャのやうに聡明な顔をしてゐる、磨きのかゝつた顔をした猿が描かれてゐる。華楊の猿は決してさうした近代的聡明な猿ではなく、何かの拍子に奇声を発して、歯を剥きだすといつた行儀の悪い猿なのである。さうした野の猿や、可憐な鹿を描いたことに依つて彼は世間的には動物画家のレッテルが附けられてゐるのである。しかしこゝで華楊はその描くところの猿を、関雪風に、磨きのかゝつたインテリゲンチャのやうな猿を描くことができないかどうか、さうしたことの不可能なほどに、作者華楊自身が野趣的であるかどうか、前にも「洋犬画」の個所で述べてあるやうに、華楊は結構ハイカラな猿も描くことができるのである。では何故に彼はさうした風に描かないか、そのことは作者自身の考へ方であつて、第三者の我々の立ち入つてとやかくいふべきではない。ただこゝに「白雉図」があり、「素秋」があるといふことを発見して、華楊の人知れぬ勉強ぶりをこれらの作品から求めることができ、華楊再認識の手懸りともなるのである。「葉桜」や「畑」の徹底的写実の方法とは別に、そこには開拓された別な境地を「白雉図」や「素秋」から発見することができる。この作品は「白雉図」に於いては、平面的であるが、素秋に於いては、全く立体的、空間的なのである。其の点に於いて、華楊の人気は、その作品が凡庸のやうにみえて、ピリッとした何かゞあるといふ実力的なものの、連続的な人気なのである。中村大三郎氏は華楊を評して、この作家には二つの勝れた点があるといつてゐる。その第一は「描かれる動機が純粋であつて、自然に対する感激の素直な流露がある」といふことと第二の点として「他の一つは技巧のたくみさである」といつてゐるこの評は当つてゐると思はれる。殊に後の部分、「技巧のたくみさ」を中村大三郎氏が挙げたことは、さすがは専門家の見方なのである。世間では多くは華楊氏の第一の「純粋」「自然」「流露」さうした点を特長として、華楊の佳さを認める。しかし第二の技巧の点はとかく見遁がされ勝である。ことに華楊の場合の技巧は、所謂技巧としての露出がないために、一層そのことは、技巧の問題としての取り上げが困難なのである。「素秋」に於いて、その作品から不思議な感銘をうける。それはこの作家はどうしてこのやうに的確に空間を描き出し、距離を描き出し、形態の面白さを描き出すことができたかといふ点である。しかしそれは直ぐに解決をすることができる。山口華楊といふ作家は、いつたい誰の門に居たかといふことを考へてみたらわかる。彼の師が西村五雲であつたといふことを想ひついたらいゝ、華楊といふ作家は、五雲の画風を如何に摂取したかといふことを考へてみたらいゝ、俗に親に似ない鬼つ子といふ言葉がある。華楊はその作品、作風の一寸と見では五雲の形式とは似てゐない。鬼つ子である。五雲の作は、ずつと躍動的であるし、それこそ才気煥発である。自然の変化を極度に追求した点がある。華楊は五雲に師事しながら、五雲のこれらの方法とは全く違ふ、似てゐない。然し私は前の稿で、華楊もまた才気煥発だと述べてゐる。その理由を明らかにしよう。華楊は五雲門のうちでも、最も五雲の方法を摂取した一人ではないかと思ふ、それは画風としては、師のものを継いでゐない。それはあくまで華楊のものである。しかし方法、手段の点では五雲の方法が、まことにこなれて取り入れられてゐると思はれる。描かれてゐる部分と、描かれてゐない部分との画面上での抱合、この巧みさは五雲独特なものがある。華楊もその点実に五雲的な巧みさなのである。線の発展の追究的なところも、五雲の態度とそつくりなのである。トコトンまで一本の線の流れるところ、描かれてゆくところの究極的まで押してゆくといふやり方は、五雲の方法であつた。五雲はそれを写実的方法といふ重厚な方法として、線の行き先きを見とどけるといふ方法をとつたのではない。五雲は五雲の抽象的な手段としてそれを行つた。従つて五雲は思ひもかけぬ図柄を我々の眼の前に提供し、次の作品が予測できないやうな変幻の妙を示した。五雲の絵の派手で、そして優れてゐるのはその理由に基づく。華楊の場合は、師の五雲の芸術上の抽象化を避けて、その五雲の方法を写実的方法といふ限界の中で行つたといふ相違があるのである。そのことは華楊もまた時代の子であり、若い世代の心理の洗練を、その現実主義としてうけてゐるのである。着実な手段を選び、煥発する才気をじつと抑制する力はこれまた作家の実力の一部といふことができよう。一本の線を描かうとするその線の辿る路に、相触れて拡がり、またはせばまつてゆく空間の変化、この描かれた部分と、描かれない部分、線の実在と、非線の非実在この調和抱合、その追求態度さうしたものは、華楊にとつては、唯一の芸術的手段であり、これはまた態度として失つてはならないものであらう。その点こそ、五雲の本質の正しい意味での継承といふことができるであらうし、五雲もまた良きその本質の継承者を山口華楊といふ作家によつて得たことになるであらう。
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小杉放庵論


 小杉放庵氏の仕事も、最近では俗に言ふところの「呼吸ぬき」をしてゐるかのやうに思へる、ながい緊張感の間、あひだの休息といふ怠惰の伴つたそれではない。彼は不断に張り切つてはゐるが、それでゐて彼流の呼吸ぬきといふものもあらうといふものである。私のいふのはさういふ意味での呼吸ぬきといつてゐるのである。軍隊の方の用語に、「小休止」といふのがある。行軍の間のほんのちよつとした休息を指さしていふ。この僅かの休息の時間に、兵隊達はそれぞれその最も有効な休息の方法を採る。或る兵士は水を嚥むことに一生懸命になつてゐれば、或る兵士はいきなり靴を脱いで、足を休めてゐる。或る兵士は、いきなり仰向けに寝転がつたと思ふと、もう高いびきである。
 兵士がそれぞれ独特の休息法を採るやうに、芸術の戦士としての小杉放庵もまた、時には小休止する。現在がその期間であるかのやうな印象をうける。ただ興味のふかいことは、小杉放庵の呼吸ぬきは、「本朝道釈」のやうな作品を生み、この呼吸ぬき作品がなかなか風味が良いのである。
 横山大観にはこの呼吸ぬきで妙味ある作品を描くことはできない。大観は仕事の感情を盛り上げてゆく、今度の陸海軍への報国的制作、海と山とに因んだ二十点などは、さうした感情状態でできあがつた作品である。放庵には感情を盛りあげてゆくといふ時代は、既に終つたかのやうに思へる。感情を盛りあげて制作してゆくが、その頂点において横に逸脱するといふことができる。ただこの逸脱が単なる逸脱に終らないといふことは、その制作を不断に反覆してゆくといふ、非常な精力的な仕事ぶりが値打があるのである、もし放庵にして作品が少なかつた場合には、彼の仕事は作品が多いといふ場合よりも値打が附くであらうか、それは問題なのである。放庵の場合は作品が多いことが、彼の価値の一部といふことができよう。彼は小休止するときも、筆を停めない、そして「本朝道釈」のやうな、呼吸ぬきの、肩の凝らない、それでゐて内容的には非常に凝つた作品を見せてもらふことができる。然も数多く、そのことは観賞者の一つの幸福といはねばならない。「本朝道釈」の中の一人物に芋銭を加へてゐるのなどは、如何にも放庵の理解の面白さがでゝゐる。私が日本画家であつたら、「新本朝道釈」を描いて、芋銭の次に放庵を描くであらう。放庵そのものも確かにさうした人物の一人に加へても差支へはなからうし、またさうした人物と共通した「人生の味」を体験してゐるといへよう、芋銭の作品もこれはまた人生を呼吸ぬき、肩ぬき、肩透かし、うつちやりの連続で生き抜いたといふ感を抱かせる。彼の作品の妙味や値打は、その作品一つ一つに就いても言ふことができるがその作品の数多いといふ事も値打である。放庵は芋銭のやうにはいかないだらう。芋銭は自分の尻の穴まで解放した。野放図な人生の渡り方をした。画きなぐつたやうな作品が多いが、このなぐり画きに生命感が横溢してゐるから妙である。作品の数が多く、その数の多いといふことが少しもその作家の価値を下げないといふ境地に、何等かの形で到達してゐたわけである。しみつたれに一枚の絵に筆を加へて、そして出来上つた作品が大したものでもないといふ場合のことを考へていゝ、精神力も肉体力もしきりに出し惜しみをしてゐる日本画家が多い折柄芋銭のやうな人生度胸があつて始めて「人間としての画家」といへるのであるまいか、興味ふかいのは今後の小杉放庵そのものの「人間味の出し方」である。「人間放庵」といふ形容はよく耳にするところである。しかし何が故の人間放庵であるかといふことを説かない、放庵といふ一人物は、それが如何なる形に於いて人間的であるかといふことを、我々はお世辞抜きにして考へてみたいのである。
 その日常生活に於いて放庵は、まことに人間的であるのか、或は画風の上に人間味があらはれてゐるのか、その何れであるかといふことを分明にしてゐない。芋銭が人間的であるといふことに就いて、彼の日常生活の逸話風なものや、ゴシップ風なものはよく聞くことである、しかしそれは浅い興味をひいても、深い興味をひくことはない。その日常生活に問題があるのではない。芋銭の作品そのものに問題があるのである。いま放庵を論じ放庵の人間味を論ずる場合には私は日常生活を少しも知らないから、そこから放庵人間論の材料を求めるわけにはいかない。矢張り過去、現在の放庵の作品から、それを求める以外に方法はない、私は放庵の人間味を求めるとき、いま一人の人物を想ひ出さずにはをかない。それは小杉未醒といふ人物である。この人物の油絵は「杣」といふ作品にせよ「水郷」といふ作品にせよ、百パーセントに人間らしさが現はれてゐるのである。テーマを杣夫とか漁師とかに取材するといふ庶民性は、作家の態度として非常に正しい高いものであり、その写実主義的方法は現在に於いても立派に通用する方法であり、また見渡したところ、未醒ほどの写実力をもつた作家は現在の洋画壇には見当らないと思へるほどである。洋画壇でも何々主義、何々派といふ流派的な変遷があつてその意味では、未醒はこれらの新しがり屋共と現在まで行を共にすることは不可能であらう。然し庶民間テーマに基いた写実主義で、もし未醒が現在まで押し切つてゐたとしたら、洋画壇に在つての一権威として存在するであらう。一つの実体から、二つの影像が浮き出したやうに、小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が現はれたのであるか、或は小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が生れだしてきたのであるか、そしてその途端に小杉未醒といふ人物が消滅してしまつたのであるか、或は現在に於いても未醒と放庵といふ二人の人物が存在するのであるか、私はそのことを興味ふかく考へてみたいのである。
 洋画を追求した未醒は、日本画に転じて放庵と改名した。これは二人の人物ではなくて、一人の人物のことである。曾つては未醒と呼んだこともあるといつた。一般的な理解はそれは一般的な理解で納得する人にだけまかしてをけばいゝのである。私は未醒の洋画から放庵の日本画への移行といふものを、もつと追求して考へてみたいのである。もしこんなことができるのであつたら、小杉未醒といふ洋画家にいままで洋画を追求させてこさせたかつたし、また小杉放庵といふ日本画家にも、日本画の追求をつづけてこさせたかつたといふ、殆んど不可能な慾張りな希望をもつてゐるのである。その希望は殆んど夢想的なもので、また夢幻的な不可能な希ひである。しかし幸ひにして、後者としての日本画家放庵は、生きつづけてきてゐるし、仕事を連続的にしてきてゐるのである、しかし一方未醒はその実体が時に距たれて、影うすく、また全く存在してゐないのである。
 洋画を自個の芸術の手段とすることに、不満を感じて日本画に転じたものであらうかといふ疑ひは、洋画家から日本画に転じた作家には、無理なく考へられることなのである。しかし放庵の場合はそれを感じない、つまり洋画の芸術手段が嫌になつて、日本画へ転じた人とはどうしても感じられない。その点が評者としての私の疑問点なのである。何故放庵が洋画を不満としなかつたかといふことを言へるかは、現在の日本画の仕事ぶりを見ればはつきりとする。放庵位、仕事を楽しみ、悦楽の境地においてゐる日本画家がゐるであらうか、芋銭はその楽しみ、悦楽を果して一生を終つた人であるが、放庵に於いても、仕事を楽しむといふ境地は、芋銭と等しいものがある。芋銭は自己の理想境を、絵を描くといふことの中に没頭する、強い理想主義者としての現実的な迫真力の強さをもつてゐた。放庵は曾つて未醒時代の写実的追求によつて、その理想境を一応追求したのであつたに違ひない。何故ならその描いてゐるところの洋画は何れも強い現実的な描写を以て杣夫とか漁師とかいふ人間的環境を驚ろくべき的確さをもつて描いてゐるからである。洋画に於ける理想はそこで一応果たされた。それは現実的写実的物質的手段の徹底的追求によつて完成されたからである。
 彼未醒が洋画家として第二次的な芸術的悩みに陥るとすれば、それは手段、方法に対する悩みでなく画題に対する新しい悩みが登場して来なければならなかつたのである。然しこの未醒の第二次的な悩みが襲来したとき、未醒は、その「題材の喪失」といふ一事件にぶつかつたのであらう。道筋は当然さうあるべきだ、杣夫や、農夫や漁師から、突然極度に美しい鳥類や、松の木や、蔬菜類などを描かうといふ精神的移行は、洋画といふ現実的な材料と袂別の始まりであつたのである。生活に痛んだ漁師の人間らしい顔を描き、その漁師の悠つたりとした心の寛容さを描くのに用ひた油絵具は、こゝでは、斯うした材料を描かないといふ心の規則によつてまたこの「題材の喪失」によつて捨て去られたのである。そして全く日本画題材へ精神が傾注したときに日本画材料を手にした放庵といふ生れ替りが立つてゐたとみるべきであらう。
 未醒、放庵の転移の瞬間に就いては、かなりに強烈な意図の下に行はれたやうに思へる、いまこゝに放庵の人間味を論じ、論じ尽し得ない人々があるといふことは、それは放庵の心内の状態の吟味と彼の日本画の仕事の性質の検討が不足だからだと思はれるのである。
「胡馬」といふ作品がある。この作品は人間味のある作品であらうか、この作品は非常に作者の心理の複雑なものをこの作から感得できるのである。読者はこの「胡馬」の描かれた状態に注意をされて欲しい。殊にこの馬の前脚に何か不思議な感得をすることがないであらうか、私はこんな幻想的な批評をこの場合ゆるして貰ひたい。それは小杉放庵といふ作者は、小杉未醒といふ作者をこの「胡馬」の前脚の処に封じ込んでしまつたのだと考へる、私はそれほどに、この馬の前脚に人間が立つてゐるやうな、擬人的なものを感じられるのである。この作品は、決して張り子の馬のやうな現実遊離の馬ではない。しかし歌舞伎の縫ひぐるみの馬のやうに、確か前脚には、一人の人間が縫ひこまれてあるやうに思へてならない。しかもそれは放庵は未醒をこゝに封じこんだといふ幻術的な異様な感覚をそこからうけとる。馬の頭部は何事かを思索してゐる。それが何であるかはわからない、再びこゝで問題をすゝめて、それでは日本画家としての放庵の人間味はこの「胡馬」的なものに求めたらいゝであらうか、それは全く見当が違ふのである。それは花鳥を極度に美しく描いた作品にそれを求めなければならないのである。その現実離れのした美しさは、その現実離脱の距離の長いほどに、放庵の人間的慾望は果たされてゐるといふことに、観るものは気附かなければならない。放庵は未醒時代から、今に至るも私は理想主義者であると思ふ。芋銭が神仙境を描いたといふことは、さうしたことを好んで描いたといふことはどういふ理由に基づくであらうか。それは芋銭が自己の理想の顕現をそこに果たしたことになり、芋銭の人間味はそこに発見されるのである。放庵の人間味は、あの孔雀或はその他の花鳥類の細微の華麗さの中に彼の神仙境があるのである。石上人や樹下の仙人達に、真の放庵の楽しみは、放庵の理想境は、放庵の神仙境があるのではない。実は大根や人参や、アケビやザクロの転がつてゐるところに仙境があるのであつて、彼の人間味があるのである。彼の絵は華美の極点を衝くほどの人間味が、ぐんぐん出て来る筈である。その点既に仕事の境地は石崎光瑤と似てゐる。光瑤の花は見てその気持が悪くなるほどに美しく描かれてある作品ほどにこの作者の恐るべき人間的境地があるのである。放庵または[#「または」はママ]その境地に入つてゐると思はれ、また是非さう方向づけてすゝむべきであらうといふ結論にも達する。何故なら写実的な現実的な追求をするのであつたら、放庵は未醒に還らなければならない。現在の放庵はさうではない。非現実的世界を求めて、未醒と袂別した放庵の絵画上の手段方法は、その非現実な美の頂天に到達して、現実性を見るものに与へなければならない。更にこゝに放庵は「胡馬」の前脚に封じこめた未醒を、魔法を解いて解放してやるといふことも考へられる。同時に私は放庵はあの不思議な紙「放庵麻紙」ともあつさりと袂別して、彼のあらゆる規律と、形式とからの解放と自由とをもつて、真のなまなましい人間放庵の仕事をみせて欲しいやうにも思ふ。放庵麻紙を捨てよ、といふ私の忠告は色々の正統な解釈と、誤解とを生むかも知れない。しかし人々は安心しなければならない。この不思議な紙に捉はれてゐる彼がその紙を捨てたからといつて、彼が第三流の画家になるとは思へないからである。私のこの注文は放庵の脱皮を希望しての一つの利の提言なので、私のこの提言は一つの科学的根拠に立つた考へから出発したものだといふことを信じてゐるものである。
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福田平八郎論


 福田平八郎氏と堂本印象氏の、これまでの画壇的な経歴といふものを比較してみると、そこに対蹠的な興味を湧かすことができる、それは印象氏、平八郎氏の、初期の時代に、そゞろに画業の覇をきそつたことを想ひ起こすことができるからである。そして現在二人はどういふ画壇的位置、画風、を示してゐるかといふことを考へてみよう、帝展が最初に発見した新人は第二回『静夜聞香』中村大三郎氏、第三回『調鞠図』堂本印象氏、同第三回『鯉』福田平八郎氏のそれであつた、この三人は文展時代何回か鑑別されつづけて帝展になつて初めて抜擢されたといふ、同じ特徴をもつてゐたことだ。大正十一年の第四回には、推薦『阿梨母帝』堂本印象氏、推薦『鶴』福田平八郎氏、特選『燈籠のおとど』中村大三郎氏、特選『秋二題』水田硯山氏、といふ選ばれ方である。この印象、平八郎に、いま大三郎を加へて、現在の画業の足跡をそれぞれ顧みるとき、何か肯かれるものがあるのである。この作者達の仕事ぶりの開きはかなりに現在では大きい、そしてその初期の出発に於いてこの三人が、何か特異な距離を既に当時に於いて示してゐたわけである。いま堂本印象氏は寺院壁画其他に全幅の精力を傾注してゐる、そして中村大三郎氏は人物を主体としたテーマ芸術に立脚してゐるのである、そして福田平八郎氏は現在どのやうな仕事をしてゐるであらうか、彼は依然として鯉を描く情熱は衰へてゐないし、これまで彼が手にかけてきた画題雪でも鶴でも、『朝顔』『菊』『茄子』等々と過去の画題を引きずり出してきて、何べんも描く情熱があるのである。この点に、印象、大三郎氏等とは異つて平八郎的立場があるのである。つまり彼は何度でも同じものを蒸し返すことができるのであるし、また彼の足跡はさうした蒸し返し(画題的には)によつて現在に到つてゐるのである。
 印象氏の仏画的な画業は、画業であると共に、事業でもある、それは絵画の果し得る一つの宗教的任務を、印象氏は果しつゝあるので、さういふ意味では印象氏は非常に社会的な、また政治性を加味した動きをしてゐるわけである。印象氏は最も公衆術を描いてゐるといふ意味で、社会的意義をもつてゐるわけである。
 こゝで平八郎氏の仕事ぶりを、堂本印象氏の仕事ぶりと較べてみるときは、全くその性質を異にしてゐる、世間的評価の印象、平八郎の相違点もまたその仕事の態度の相違点に拠つて決定されてゐるといふことができるだらう。こゝでは評価をこの二人のどちらが絵がうまいかといふ意味での問ひ方をしてゐるのではなく、この二人の仕事の違ひ方を問題にしてゐるのである、福田平八郎氏の仕事の系統は、その鶴とか、鯉、鮎、牡丹、といふ風に画題の選択に於いて、全く造形的分野のもの以外に出てゐないのである、テーマ芸術へ行かずに、絵画的造形性に執着してきたといふことが、何よりも福田平八郎氏の特徴であり、またこの点に立つて福田氏を論じて行かなければ、この人の仕事を理解するといふ鍵は発見できないのである。風景も、人物も、また仏画、武者絵もまた決して絵画的造形性を失つて成り立つものではない、しかし素朴な意味に於いて、それが仕事の上に於いて完成された場合に決して単なる素朴でないところの造形的なテーマといふものは鯉を一生描きつづけること、茄子や柿の形をせつせと追求してゆくといふところにも尚且つ、物質の探究といふ精神的労作があるのである、福田氏はさういふ意味で造形性への執着探究に於いて、稀にみる厳格な態度をもつてゐる作家といふことができる、福田氏の人気の拠りどころはかうした平凡なテーマのものを、清新な雰囲気に描き得てゐるといふ点にある、しかしてこれらの一般大衆の評価は、清新な雰囲気を感得することだけで満足してゐて、どうしてこの作家が、さうした清新さをもちつづけることができるかといふことなどには触れない、それは無理もないことである。一般観賞者にとどまらない、美術批評家なるもので、福田氏の仕事に対しての正統な批評を誰かしてゐるだらうか、さうした材料を自分は求めたか、つまりは平八郎式だとか、清新だとか、なかには現在我国の日本画壇に於いての唯一のモダニズム作家は福田平八郎氏であるとかいふ、一言でいへばお座なりな、浅薄な批評が多いのである、ただ何となく福田平八郎の絵は佳いのである。福田氏は鯉の研究者としても大したものだといふ、鯉といふ魚類の生物学的研究者であるか、或は観察者としての研究者であるかその点は語らない。ただ鯉を巧みに描くといふ事実が起きて、次いで起つてきた世間の噂なのである、もし作者にして鯉を巧みに描き得なかつたら、鯉の研究者でないわけである。『漣』といふ作品がある、この作品は一言で言へば奇怪な作品なのである。この作品の制作動機、手段方法は、一つの謎としてのこされていゝだらう。この作品だけを見ながら考へるときは福田氏は鯉を描く場合の魚類学の大家であると共に、この『漣』を描くことに於いて物理学的立場からみた波紋の研究者としても、大家のやうに思へるのである。この『漣』は全く科学的な根拠と一致してゐるといふことは、福田氏が科学人であるか、或は観察者としての徹底的態度が、偶然にもこの作品を産み出したのであるか、その何れであるか、その解明も興味ふかいものがある。科学的であればそれは近代的であるわけである、したがつて福田平八郎氏を我国唯一のモダニズム作者であるといふことができる、しかしさうでなく科学的根拠に特に立つて描いてゐるわけでなく、観察を以て方法として、それが偶然科学性と一致したといふ場合は、モダニズム作家と呼ぶわけにはいかないのである、福田平八郎氏と、吉岡堅二氏と何れがモダニズム作家であるかといふことを考へてみたら、こゝでもまた問題が起きるわけママ福田氏の文展二回の『青柿』には作品に怖るべき質的昂揚があるのである、しかも吉岡氏の作品にも、同系列の質的昂揚のある作品が少くないことも注意すべきである。
 科学者の認識と、芸術家の観察とが一致するといふことはあり得るのであつて、それをもつて奇とするにはあたらないが、その芸術家の観察がどのやうな計画性をもつて行はれたかといふことは問題とされねばならない、つまり観察が充分な計画性の下に行はれる場合には、そこに正しい科学的手段といふべきものが生れてくる。
 福田氏の『漣』はあの波紋を、単に直感といふ観察の下に描かれたものであるかどうか、さうではなくもつと充分な科学的な計画の下に描かれたものであるかどうかといふ、この点が作者の所有する制作技術の内容を吟味する唯一の鍵なのである。鏑木清方氏が福田氏の『漣』を当時批評して『ちよつと見ると単純な仕事のやうにも見える群青の波の一つ一つの形態の心づかひ単にそれだけで見て行つても倦きる時がない[#「』」の脱落はママ]、この批評が語るやうに、この波を描いた作者の心の配り、心づかひ、といつたものは、その一線一線に現はれてゐて、それだけをみて行つても倦きないといふことはよくあたつてゐる、前田荻邨氏の波も優れたものであつて、『潮』は特選作である。いかにも生々と波は描かれてゐるが、前田氏の波に対する観察の高度な頂点は感じられるけれども、その観察に科学的認識の導入といふものが感じられない、福田氏の『漣』では、波の線はもつとぶつ切つたやうな、切れ切れの線の配列にすぎないが、実感的には波を感じさせる、高木保之助氏の『早瀬の波』といふ作品があるが、これもすぐれたもので、波に対する新しい解釈が加はつたものであるが、それでも矢張り人間の解釈といふものが、画面にぶらついてゐてぴつたりと波の実感に即しない、福田氏の漣は、その点ではその制作方法を第二段の問題としても、作者が自己の立場を、自然の対象物へ全く身を投じたといふ対象との密着性がある、農学博士の内田清之助氏が昭和八年一月号の『塔影』に花鳥画と鳥類生態写真と題して色々の鳥を語り、写真を掲げてゐるが、その中で波に立つてゐる『シギ』を撮つた写真を掲げ、その写真の漣の部分だけの拡大写真と、福田平八郎氏の作品『漣』とを比較掲載して、内田博士はかう語つてゐる。
『次に出してゐる写真は、此の写真の一部を引延したもので、その次は、御承知の、帝展で評判になつた福田平八郎氏作『漣』です、之で見ても、福田画伯の観察の鋭さには敬服する(中略)よく此の双方を注意して見ますと、漣の一部に統一を破つた、複雑な線の現れてゐる所が見られますが、絵にも写真にもやはり全く同様に現れてゐます、無論漣は物理的現象ですから、いつの場合にも、同じ条件の下には同じやうな線が現れるのに不思議はないと云つて仕舞へばそれ迄ですが、全く別箇の此の絵と写真とで、斯く迄一致してゐることは面白く思はれます――』と述べてゐる。実際の水の動きの写真と描いた絵とがぴつたり一致したといふことは、悪写実の世界から言へば、物と絵との悪どい似方といふものも珍らしくない、しかしこゝでの福田氏の漣と実際の漣との相似点は、悪写実といふ固定した制作方法の上に立つての似方ではなく、むしろその反対の最も非固定的な、自由な形式の上での自然物と創作品との一致を見たのである。
 然も内田博士はさすがに科学者らしく、自然の漣からも福田氏の漣からも、最も重要な一つの事実を指摘することを忘れなかつた。然もこの博士の指摘はとりも直さず画家福田平八郎の本質をはつきりと語つてゐるし、この作者の創作手段解明の鍵ともなるのである、それは博士が『漣の一部に統一を破つた、複雑な線の現はれてゐる所が見られますが、絵にも写真にも、やはり全く、同様に現はれてゐます云々』といふ言葉である。
 自然観察の妙は、実はこの点にかゝつてゐるのである、福田平八郎といふ作家の描くものに、清新さを失はぬ理由は実は、さうした、或る一部に統一を破つて複雑なもの――を、画面に感ずるからである、福田氏の作品は殆んど無構図主義だと思はせるほどに画面のはまり所を考へないやうな大まかな構図のとり方をしてゐる作品が多い、しかし出来上つた絵はぴつたりと画面にはまつてゐて、何ら構図上の欠点といふものが現はれてゐない、それはどういふ訳か、それは観賞者の視覚的焦点を、構図にもつてゆかさず色彩に分割してしまふからである、そして構図は最も効果的には、線の連絡の変化をつける事によつて、画面上を動的なものとしてゐる、福田氏の線と線との連繋は、実は非常な細心な態度で、その連繋を意義づけてゐる、『漣』に於いて観賞者のママ覚をさんざんもち運ばされるやうに、福田氏の作品に含まれた作者の計画性は、生理的効果にまで高めようとする野望が潜まれてゐるのである、数箇の果実をならべたものにせよ、数匹の鯉を配列したものにせよ、その配列には『或る一部に統一を破つた複雑なもの――』を方法として、かならず加へてゐるといふことは少しく注意すればすぐ理解できると思ふ、つまり福田平八郎氏は『線の発展の画家』なのである。
 同時に問題となるのは、その色彩であらう、この福田氏の方法といふのは、色彩の徹底的な突離しと、手元への引寄せともいふべきもので、制作過程にがらりがらりと色を変へてしまふピカソのやり方と一致してゐるのである、ピカソと異る点は、福田氏の色の美は、色彩の平面的変化、色彩の配列的な変化を顧慮してゐる点で、西洋のピカソはその点で立体的に度胸よく色を変へてしまふ。
 福田氏の作品で色彩の濃厚な出来栄へのものには、総じて平面的変化でない、立体的な生々しい物質感がでたものが多く、この質的昂揚に接するとき、若い時代的な画学生は、また一人前の画家も、福田氏の仕事の研究的対象となることを痛感するのである。
 福田氏の最近の作品ではその色彩の淡い物に、色のマンネリズムに陥つたものも少くない、また同時に氏の作品の特徴として、その作品が総じて図様化されたものが多く、この模様のやうな方法が度がすぎた場合は迫力にとぼしく、質感もまた形の制約性の中に閉ぢこめられて、生々しい所謂清新なる色彩はでゝゐない。
 福田氏は一言にしていへば、氏一流の物の発展の原理を自覚してゐることで、色彩に思ひがけない偶然的な変化を与へる手段も心得てゐれば、線の変化連絡によつて、第三者の視覚を自由に操縦するテクニックももつてゐて、本人は理屈といふものを非常に嫌悪してゐるらしいが、福田平八郎氏ほど理屈つぽい絵を描く作家は他に見受けられないといつてもいゝであらう。
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川村曼舟論


 川村曼舟氏を論ずる場合には、氏の最近の仕事だけを観て、かれこれ言ふことは不可能である、殊に一般的には川村曼舟氏の最近の仕事を『硬化状態にあるもの』と観察してゐる向が多いやうである、愉快なことには、この『硬化状態』を本人自身それをちやんと知つてゐることである、時世の動きの中にをかれたこの老大家は、自分の作風がどの程度に硬ばつてゐるかといふことをちやんと知つてゐる、これは筆者が直接本人川村氏の口から聞いたことであるから間違ひはない、同時に氏の口からもう一つの最も示唆に富んだ言葉を聞くことができた、川村曼舟の心内の状態をそこで筆者は知ることができたのである。
 これに就いては後の方で氏が自分の仕事に就いてどういふことを考へまた、将来の方向に就いて何を目標としてゐるかといふことを漸次語つて行かう、その前に川村曼舟のこれまで辿つてきた、画的な足どりに就いて一言しなければならないだらう、この作者は世間で考へる以上に複雑な存在だといふことを先づ第一の問題として提出しておく。
 何故ならばといふに、曼舟氏の風景ばかりといふ、世にも映えない仕事に対して、通俗的評価はあまりにその風景許りを描いてゐるといふことを単純に考へすぎてゐるやうである。しかし実はこの風景許りを描いてゐるといふ難かしさを考へてやらねば作者が可哀さうなのである、赤い色のついた絵や、婦人の脛をちらりと覗かせるといふ美人画は、それだけで通俗的には歩の良い仕事なのである、川村氏のやうに、こつこつと樹木の繁みの重なり合ひを追求したところで、その隠れた苦心はなかなかかつてはくれない、風景を漫筆のやうに描くことをしないこの作家は、自然に対して整然とした規範を設けて、それを正確に描いてゆくといふ『硬さ』はたしかにあるが、そこにまた曼舟氏の画家としての自然観、道徳的立場があるのである、その点に注目しなければならない、自然と人間との関係に於いて、人間はあくまで、自然より優れたものとしての位置を得なければならないのである、構図や運筆に顕はれた作者の自然解釈は、とりもなほさずそのまゝその作者の道徳的種類をはつきりしめしたものである、一本の松の樹をいかに描いてゐるかといふことを、実物を前にして二十人位の日本画家に描かしてみたら面白からう、或るものはこの松の木を至つて簡単に片づけてしまふ、自己の主観の強さ、表現の自由を理由として、無いところに枝も加へ、曲つてもゐない枝を、巧みに歪曲して、美事に日本画をつくりあげてしまふ、また或る者はこの自然の松の木に執着して、心の動きがとれずに、筆をおろすこともできずに何も描かないでしまふだらう、二十人は二十様にその松の樹は描かれよう、しかし誰がいちばん正しく松の木を描いたかといふことは問題になる、主観の強さで、どんどんと木の枝をひんまげて絵をつくることは簡単である、しかし自然の在りの儘の姿は改変されてゐる、むしろこの種の画家は、芸術の自由の名の下に、表現の自由の名の下に、勝手に自然を歪曲するといふ道徳的悪の行為を経験してゐるといふべきだらう、物言はぬ自然物に対する人間の勝手な改変といふことはもし自然物が動物のやうに叫ぶことができたら、どれだけ悲鳴をあげるかわからないのである、風景画にかぎらず、物言はぬものに対する横暴なメスのいれ方をして、そこに自然愛を少しも態度としてもつことのできない画家が少くないのである、写意といひ、写実といふことはこの点に関係があらう、人間の表現は自由ではあるが、それが全く自然を絵に仕立てるために、勝手に自然の形を変へていゝといふことにならないのである、変へていゝところと、変へて悪いところとがある筈だ、それを正しく認識するところにその作者の人生観、自然観、倫理観が存在する、私は何故にそのことを強調するかといふに、川村曼舟氏の仕事の性質を強調したいからである、そこで吾人は、非常に単純な気楽な意味でいつたい風景画家は誰か――といふことを考へてみることがいゝ、さう質問されて諸君はちよつと考へざるを得ないであらう、風景を描いてゐる作者はずいぶん多い、しかしかう改まつて真個ほんとうの風景画家はといはれた場合にはちよつと卒急には答へられないものがあるだらう、そして漸次幾人かの人々の名は挙げることができよう、しかし真先に、川村曼舟氏の名を挙げても、決して誤りではあるまい、むしろ私は川村氏の名を挙げて、その次に来る人の名をちよつと思ひ出せない。
 風景を描いてゐるからといつて直ちに風景画家とは言へないのである、自然の奴僕化した画家もある、自然の幇間タイコモチ化した画家もある、自然に完全にコヅキ廻されてヘトヘトになつてゐる画家もある、その場合の人間は卑しい立場に立つてゐる、それと反対の場合は、自然に妙に反抗的な画家、自然の小股スクヒ、要領よく絵にしてしまふ画家、自然を荒しまはる粗雑な頭をもつた画家、勝手に木を伐つたり、無いところに枝をつけたり、ひんまげたり独断的な野蛮主義者、など、これらは真の風景画家ではない、自然と人間との接触の姿といふものは、まちがひなく画面に証拠だてられる、漫画を描いてゐるやうに自然を描いてゐる風景画家はまことに多いのである、そしてその方が一般的には通りがいゝのである、しかしそれは『通りがいゝ』だけで、我々の精神をそこにとどめてをくやうな印象のふかい絵ではないのである。
 川村曼舟氏の風景画には、人間としての自然への執着のひたむきなものがあり、そこから曼舟氏の作品の道徳的展開がある、曼舟氏は決して自然に敗北しない、さりとて自然を人間的な優位性をもつて、打ち負かしもしてゐない、川村氏の作品は、自然と人間との取つ組み合ひとして、勝負なしの状態にをかれてゐる、その点が川村氏の作品の持ち味としての佳さがある、川村氏の作品を『硬い――』と評する人は単純である、さりとて『柔らかい』と評する人はまた当つてゐない、俗にいふところの川村氏は硬軟両様をゆく人ではなく、『硬軟の境』をゆく人なのである。
 しかしながら川村曼舟氏が、全く最初から硬軟の境をゆく、世界を開拓したとはいへない、硬と軟とを分離したやり方も過去にはある、硬い風景をけふ描いたかと思ふと、軟らかい風景を明日描くといふ硬軟両様の使ひ分けをしてゐた時代もある、それは曼舟氏の初期の時代がそれであつたらう、『夕月』といつた柔軟な境地もあれば、近くは防空聴音器などといふ近代的器械を扱つた『秋空』といつた作品もある、しかし前者は、技術から滲みだした軟らかい情感の世界があつて、初期の仕事としての必然性があるが、後の『秋空』はもつと通俗的な、風景作家としての曼舟氏が、出来心で描いたやうなぴつたりとしないものがある、しかし問題はこの二つの作品にあるのではない、むしろこの二つの軟らかい作品を除外したところの一見硬く見えるところの風景作品に曼舟氏の本領があるのである。
 帝展第六回の『斜陽』といふ作品は氏の素描が直ぐ絵の完成された表皮に浮びあがり生かされてゐるといふ意味で、いかにも軟らかい仕事なのである、しかしこの作品は、他の山水風景に較べて柔軟に自由に描かれてはゐるが、却つて暗中模索的な、懐疑的な作品なのである。
 ある道徳的基準が、曼舟氏の作品に支柱を打ちこんでゐるといつた作品ではない、さうした作品はどのやうに華美に描かれ、自由奔放な出来であつても矢張り川村曼舟氏の持ち物ではない矢張り一見硬いと思はれる、山岳樹木に人知れぬ表現の柔和さを潜めた心意気を我々は発見して曼舟氏の作品の甘味に触れるのである。硬軟両様の使ひ分け、或は柔らかに過ぎたところの自由な表現、さうした時代も『比叡山三題』を契機として巍然として道徳的一線を引くことができるであらう。『比叡山三題』や『笙島』は川村曼舟氏の風景画家としての位置をはつきりと決定したところの作品である、またこれらの作品に附属して、『嶺雲揺曳』(帝展第八回)では更に川村氏の実力に対しての濃密な精神的なプラスをこの作品からも受けとることができる、単なる風景画家から、真の風景画家に入つた境界線を『比叡山三題』にをいたが、その理由の一つには、この作品には、『表現』の問題を解いてゐるからである、この作品に到つて、始めて風景の表現といふことがどんなものかといふことを、作者も知り、我々もまた見せつけられるのである。
 川村曼舟氏の作画態度を、私は京都に行つたときの僅かな会見ですべてを知ることができたが、氏は作画対象としての風景といふものに対してかういふ態度をもつてゐる、氏の言つた意味をこゝで要約的に言へば、自分は風景といふものに対しては、それを特別にどう表現しようとか、どういふ風に捉へようとかする考へはもつてゐない、自分は単なる旅行者として、その瞬間的な自然の姿態の心に映つたまゝの一場面をさへ、完全に描き伝へることができたらそれで満足であるといふことを語つた。
 氏の態度は自然を発見するために、歩るきまはるのではない、歩きまはることに依つて発見したものを、強く記録するのである。さういはれれば曼舟氏の作品に就いて一つの特徴を発見することがある、それは氏の作品を注意してみれば、構図的にも決して余韻をつくつてゐない、自然の一角を断裁してきたやうな厳格な緊張感で絵がまとまつてゐる、絹なり、紙なりの両端に描かれた松の枝がこゝで終つたら惜しいとか、こゝの山の形をこゝで切るのは構図的には惜しいとか、さうした神経は使はれてゐない、作者曼舟氏の印象は、惨酷なほど、冷酷なほどの厳格な態度で、在りのまゝの自然の一断片を示す、それ以外のつけたしの情緒や、余韻はこゝで作者の態度で切り落されてしまふのである、曼舟氏が自ら自分は風景の表現作家ではない、記録作家であるといふ態度もまたわかるのである。
 曼舟氏にしてみれば、自然の正確な位置を伝へることが自分の仕事であつて、一枚の風景を描くとき、有りもしない情緒や余韻をつくつて、自然を歪曲する態度の風景画家の仕事とはおよそ反対の立場にあるのである。
 また川村曼舟氏は、『表現』といふことに就いての別種な意見をもつてゐるのである、『比叡山三題』では単なる写意に立脚したものではなく、所謂『表現』的なものがあり、それがまたこの作品を評判の作品にさせたのであるが、しかし川村氏はおそらく現在では、この作品の表現のあり方といふものに不満を自分で抱いてゐると思はれる、なぜなら私は氏と面接したときの、氏の言葉に、『いつたい表現といふものは、さう手軽に現はれるものではないでせう――』といふ意味のことをいつた、芸術するといふことは表現するといふことに違ひないが、対象の真髄を把握もしないで、急行列車的に、自然歪曲の手段をもつて表現なりとすることも自由であらう、またさうした作家が多いのである、しかし川村曼舟氏は、表現といふものをさう甘くは考へてゐないと述懐した、曼舟氏はもし寿命が恵まれたならば、自分は今後に於て、表現の世界に入つて行かうと思つてゐると語つたが、氏は自分で今までの仕事は芸術表現といふよりも、自然の記録としての表現であるといふことを認め、この仕事を一通り終へなければ、真個うの意味の『表現』には入れないものであるといつてゐるのである、曼舟氏のこの言葉の正しさを我々は認めなければなるまい、三十歳台、四十歳台で、一にも二にも表現、表現と叫んで自然ではなく、奇矯な形態の作品を描いて自己満足し、芸術表現なりとしてゐる人々と、較べるときは、曼舟氏は年齢的にいつても、明治十三年生れであることを思へば、悠々たるものを感じさせる、我々は川村曼舟氏のこの言葉を信頼したい、六十に近く、或は六十歳をすぎて始めて、絵画上の表現に没入するといふ、その計画と態度は、全く気の短かい作家の真似のできない点であらう、もしそれが事実として顕はれた場合は、恐るべき仕事ができる筈である、しかしまた曼舟氏がこれまでの自分の仕事は、自然の記録である、また人間的には謙遜な模写の態度であるべきで、自然の一本の枝を自由にひんまげるといふ権利を得るまでに至るには、さう生易さしいものではない、六十歳位になつてから始めてその権利を辛うじて得られるだらうといつた、自然と人間との関係は非常に愛情的なものである、またさうした言葉を川村曼舟氏が吐き得たといふことも、氏がこれまで厳格な写実主義者として歩んできたから始めてそこに到達できたものであると考へる。
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児玉希望論


 いまこゝに児玉希望氏の擁護論を書くとすれば、児玉氏の世間的な常識性を支持することになるのである、一般的な児玉論といふものは、どれを聴いてみても、非常にデリケートなものだと思はれる、美術雑誌の経営者から、観察された児玉氏――美術評論家から観察された児玉氏――、美術記者から観察された児玉氏――、画家から――、一般観賞者から――それから同じ画家同志から――とこれだけ区分してみても、この作家の批評位、区々としてゐるものはない、このまちまちとした児玉論は、その原因はどこから出てゐるのであらうか。
 一言で示せば、児玉希望ほど、毀誉褒貶の渦中にゐる画家は珍らしいと思はれる。しかもそのまちまちの批評は、児玉氏が決して画家型の作家でなくて対外的にも活動的な作家であるといふ理由で、その批評は少しも統一される機会が与へられないとも言へる。
 彼がもつと引つ込み主義の画家であれば、さういふ批評の千差万別といふものは生じないのである。読者諸君がこゝでそのことを他の画家に当てはめて考へてみればすぐわかるであらう。またさうした引つ込み主義の中で、形式をつくりだし、それに依つて画格をつくりださうとしてゐる画家もまたあるわけである。
 その点で、児玉氏は決して引つ込み主義でもなく、形式主義者、気取り屋ではない。やることに開放性があり、それが他人に、理解と、誤解とを同時に与へるやうな立場に立つ、そしてそこに味方も多ければ、また敵も多い作家といふ立場が生じてくるのである。
 雑誌経営者は、児玉といふ作家は甚だみし易い人でまた無類の正直者だといふと、その雑誌の経営下にある記者は、いやどうして彼位に腹黒い男はないといふ、この意見の違ひといふものは甚だ面白い、真実の彼をいつたいどこに求めたらよいだらうか。彼を擁護することは、彼のもつてゐる通俗性を擁護することになるといふことは、その意味を言ふのである。即ち児玉希望はその描かれた作品の批評価を超越して、賑やかにこの種の通俗的人間批評が巷を横行してゐるといふこと、そのことに引つかゝるのである。
 彼を良しとして擁護することは、彼のこの通俗的なゴシップ的なもの、或は彼自身の画壇的な行動といふものと、すべて全幅的に容認し、擁護する立場に立たなければならないといふことがある。しかし私は批評家としてみるときは決してそのことが難かしいことではなく、態度の上ではつきりと決定されることなのである。
 児玉希望といふ作家はどうですか――といふ質問を画家仲間にでも、美術記者にでも発してみたらいゝ、画家はきつとかういふでせう――さあ、良い作家でせうね、と仮に悪い作家だといふ人がゐたとしても、その悪い理由を明瞭に自分で知つてゐないし、説明するだけの悪い理由を語り得ないから、結局、単純に良いと言つた人と同じ批評を生みだしてしまふ。
 私は児玉希望の評価の仕方は、特別に冷静にならなければならないやうに思ふ。児玉希望の世間的な要因は、その画壇的動きにあるやうだ、彼は画家としてでなく人間として風当りが強い理由は、画壇での政治的工作なのであらう、しかしおかしなことには、画家としての彼の作品の批評は、大体に於いて、公平な批評下にをかれてあるといふ事実がある、これは作品の価値として動かしがたいもので批評をみても何時の作品も、みな賞讃されてゐるのである。批評の中では彼は恵まれてゐて、そして一般的風評は恵まれてゐないといふ奇現象を生じてゐる、しかし、批評の正確さ児玉氏自身の仕事に対する不断な情熱の傾け方といふものは、かうした世間的な悪評をホホキで掃くやうに掃きだすことが多い、しかも児玉氏は、大体に於いて問題作提出作家だから、世間の風評をまとめてをいて、一年のうちに何回か、丁度衛生大掃除のやうに掃きだすのである。児玉氏がさうした問題作を提出したときの批評をみたらいゝ「やつぱりこの人は実力がある」とか「やつぱりこの人はただ者ではないと思はれる」とか「希望もやつぱり大家としての貫禄がある」とか評されてゐる、「やつぱり」とは、希望再認識の枕言葉のやうなものであつて、かういふ「やつぱり」などといふ言葉を頭につけて希望礼讃する人は、それまでは、児玉希望に対しての懐疑派か、否定的な人か、薄弱な意味での支持者かであり、すぐれた問題作を見ては、希望の認識を新たにするといふ立場の人である。画壇的工作が評判を悪くするといふことは、ただだまつて絵だけを描いて居よ――といふことになる、そのことは単純には受けいれることができない、ただ沈黙して絵だけ描いてゐたら、滅びてしまふやうな世界であつたらどうであらうか、児玉希望氏は、その点で叩きあげてきた人であり、人生のコースといふものが大体どんな機構を辿るものであるかといふことを、よく知つてゐるのである、彼が苦労人である理由が、彼が沈黙だけで終らない理由である。その点は伊東深水氏もまた希望氏と同じタイプを歩ゆんでゐるのである、児玉希望といふ男は、智略群を抜いてゐるといふ風に解されてゐたら、それは少しく考へすぎだ、政治的工作といつたところで、たかだか画壇的工作の範囲にとどまる、日本の政治をどうかしようとか、国際的な陰謀を企てるとかいふ大それたことをやるのではないのである、たかだか一美術の団体を運用して画敵と闘ふ範囲にとどまるのである、児玉氏の画壇的動きを指して智略無比などとは言へない、また希望氏はたださうした風に見える開放性な性格をもつてゐる、そのやることはむしろ無邪気な結末をもたらしてゐる、心から画壇が好き、画が好きだといふ印象をうけとる、したがつてそこで動く希望氏の政略性は陰気な形をとるよりも、他人の噂に乗るやうな、あけつぴろげた方法なのである、希望的性格づけを数へあげると、気魂、豪放、熱、などであらう、いかにも彼の作品や、動きは、これらの要素の上に形成されてゐるが、しかしこれらの大まかな方法は、希望の絵の出来を成功させてはゐないので、彼もまた体の巨大な人が、思ひのほかの「細心」な神経をもつてゐるやうに案外神経の細かさをもつてゐる。この細心さは希望の所謂大まかな放逸的な仕事の中で作用してゐるために、彼の作品は鵜の毛をついたほどの油断もないといふ状態をもたらすのである。
 希望は現在、一つの慌ただしさの中にゐるやうである、それはたしかに年齢的な転換期ともいふべきものであらうし、絵画的な転換期ともいふべきものであらう。「飛泉淙々」とか「暮春」とか「雨後」とかは、希望の風景画家の出発としてこれらの作品は堂々たる存在として優れたものであるが、「飛泉淙々」に於ける、調子の美しさ、「雨後」のデリケートな細密描き、「暮春」に於ける空間の巧みな描写、その風景の歩みかたは、粗に見えて密、また密に見えて粗といふ甚だ味のある全体的効果をあげてゐて、その意味では風景画に於いては独自な境地を開拓してゐるといへるであらう、しかし世間では、児玉希望氏の仕事の移り変りに気をうばはれて彼の風景画の佳さには、案外に心をとめてゐないやうである。風景、それから花鳥、そして人物、それから美人画といふ風に最近では新しい方向のものに手をつけてゐて、その動きの躍進的な転変極りない行き方は、観賞者をして希望は一体何作家なのか、何を専攻する作家なのかといふ感想も抱かせる、今更、児玉希望は美人画でもあるまいといふ風評も立つのである。
 然しながら私は希望のこれらの浮気な仕事を決して悪意的にとることができない何故なら、その仕事ぶりをみても、かなりに実験的な作者の態度がうかがはれるからで、作者はきつと後日これらの実験的なものを他の型のものに生かすときがあるだらうと信じるからである。第二に希望氏の年齢が幾歳だかといふことを考へてみたらいゝ、希望や深水の年齢を数へて、その若いことに気づいたならば現在希望や深水がどのやうな実験的な仕事をしようが、風景画家といふレッテルをかなぐりすてゝ美人画を突然に描き始めたところで少しも驚ろくにはあたらない、そこの関係は希望と深水とは反対の現象が現はれてゐる、深水に於いては、その美人画家であることを保留して、現在花鳥、風景の研究に精を出してゐるに対して、希望は風景、花鳥画家であることを保留して人物画美人画の世界を探究してゐるのである。
 しかしこの二人に対しては余分な心配はいらないやうだ、美人画家希望――風景画家深水――とは決して生れかはることはあるまい、結局に於いて従来の仕事を基礎において、そこに綜合的な製作を行ふだけだらう、さうした計画は、画家として正しいやうである。風景画家が、急に美人画を描きだしたら、たしかにお可笑い、しかし風景の中の美人を描くには、美人を描く機会も、画家としてつくらなければならない、我々はさうした観点から、長い眼でさうした計画をみてゐたい、せつかちな画商的評価を、画家の製作態度の変化に与へることは大いに避くべきだと思ふ。
 希望の風景の色感を、或る人は評して汚ないといつたがそれはたしかに一理ある、現在の画壇の色感が奇麗すぎるから、その意味でも汚ない色を希望は使つてゐるかもしれない、しかしさういふ言ひ方をするのであれば、玉堂の色彩はもつと汚ないといはれるべきだらう、希望の風景はむしろ汚ないどころか、色彩は相当に派手な方なのである、ただ色が奇麗だと言はれ、或は汚ないと言はれることに就いて、評者の批評的位置といふことを考へて見る必要がある。全くの美術鑑賞眼をもたない人に、美しい(即ち奇麗な)絵を選ましたらいつぺんに判るだらう。赤や青を美しいとし、茶や灰を汚ないと単純に考へてゐる人もまたすくなくない、画家の現実の色彩的拠点といふものの設定の仕方は、最後に出来上つたその絵の効果の種々雑多な種別を生むのである。
 現実再現の仲介物である絵の具の色感といふものに頼らない、場合によつては、絵の具否定に出る、絵の具の在来の色感にこゝでは、現実にいつでも捻ぢ伏せられて、概念上の美感はむしろ失はれる、玉堂の作品や、希望の風景には、さうした行き方があり、それは一見汚ないやうに見て然らず、現実を語る色彩的手段のより現実的な理由を証明するものが多いのである。
 希望はその風景、花鳥に一応の技術的段階を示してゐるから、本人もそれを自覚してゐるらしい、人物画にすゝむことは良いことである。「荊軻」の試みは、既に試みといふよりも完璧的なものがある、この突然の人物画への方向転換は人々を少なからず驚ろかした、それは希望も人物を描くといふ驚ろきではない、今はやりの言葉で形容すれば実によく「企画」のたてられた絵なのである。構成のよさ、この絵を描くための希望氏の心理的準備期間に、希望氏自身の心理的発展、画境の開拓を思はしめるものがあつた。私はこの「荊軻」をみて、はからずもこゝに児玉希望氏の芸術観、言ひ換へれば人生の見方、ともいふべきものを、その図柄の上で発見し、私を少なからず動かすものがあつた、この絵のテーマとして、暗殺者と被暗殺者との対照は難かしい仕事であるにちがひない。常識的に解すれば殺しに行く方を、顔、表情、其他をするどく描かるべきである、私はふと暗殺者の武器を握つた手に触れたとき、その手がふつくらと肉付きがよく、豊かに描かれてゐるのを発見して、これなるかなと嘆賞した。
 ここに希望氏の対象に対する愛情があるので、殺しに行く人間の手をゆたかに表現したといふことは、単純なこととは見のがすことは出来ない、それは希望氏の心の奥底にひそまれた愛情といふ風に解したい、世俗的な評価の中に、とやかく言はれ、とにかく人気を背負つてゐる希望氏とは別のところに、希望氏の人間的本質が発見されるのである。
 殺しにゆく人間も、殺される側にまはる人間も、希望氏に於ては、その人間的豊かさに於て表現されたことは、如何にも正統な表現といはざるを得ない、吾人は、希望氏のかゝる対象に対する深き愛情が今後の仕事のスケールの大きさと豊饒さと未来性とをもたらすであらうことを信じて疑はない。
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大森桃太郎氏の芸術
   旭ビル半折洋画展を観る

 大森桃太郎氏の作には一昨年の秋いまはすつかり昇天してしまつて影も見せない、旭川美術教会[#「教会」はママ]の特別出品の一人として拝見した、当時の『南の街』の大作から今度の旭ビル楼上の数点に遭遇してあまりに彼が彼のそつと蔵つて置くべき行李の底のボロ切れをひつぱり出してゐたのに吃驚びつくりした、早い話が三十番の『風景』こんな処に彷徨してゐるとは思はなかつたのだ、殊にこの『風景』は言語道断であり『お堀端』には僕のもつとも好感のもつことの出来る大森風の色感を殆ど発見されないのは実に悲しい極みである。
 そこでこれらの芸術に似て非なる『風景』『お堀端』『市街』それからその作意には充分同情はもてるが『カネーション』他三点の草花も思ひきつて捨て以上の数点『原宿風景』をのぞく以外のものを氏の口から『あれはみな旧作を画室の埃の中から引張り出して送つて寄こしたのだよ』と言つて欲しいのである。
 一昨年の旭ビルで見た『南の街』は実に素晴らしかつた南国の狂へる外光が異常に相錯綜した線条にこんぜん多彩な万華鏡を現出し観る者をして音楽的恍惚境に遊歩せしめたものであつた。
 今度の『原宿風景』も傑出してゐる『南の街』に遜色はないしかし今度のは一歩退いてゐても一歩踏みだしてはゐないのが残念だ、それに形態『この場合単なる形』が『南の街』よりぐつと写実への復帰を見てゐる歪んだ屋根は正しくなつたしタッチも歩調を揃へてきてゐるがこの事はどうでも良いのだ、僕に言はせれば現在の三十一番『カネーション』などの大家らしい絵は虫が好かぬ、大森氏の若さの為めにまた若い仲間の一人の助言としてどんなに歩調がしどろでも屋根がひんまがつてゐてもお構ひなしに以前のやうな日射病とテンカン病で一生を終つて下さいと涯かな北国の君の恋人達を代表して僕が躍気でメガホンを鳴らすゆえんである。
 二十八番の『花』や『アネモネ』『カネーション』などに大分共鳴者があるやうだ『市街』なども同様嬉しがられてゐるらしいが真実に大森氏に友愛を感じてゐる者の言ふことではないこの誤れる讃辞こそ岐路に立つ大森氏の首くゝりの足を引張る者である、一昨年の『南の街』及び今度の『原宿風景』の自然に対する純情な感覚の躍如とした境地に精進してゐたなら必ずやモヌメンタールな仕事に到達完成されることを疑はないのである。
 大森氏の『南の街』の画風をして未来派だらうと評した男があるがそれは嘘だ、氏は真正真銘ママの写実家である、歪んだものをさへ見れば未来派だ表現派だといふ愚な言である、氏の筆觴の生動しちよつと粗豪な行き方を見ての誤つた観察であり、近代精神文化の独立した一部門としての未来主義思想は別なものであることを知らないのだ。大森氏の芸術はかゝる「顔を歪めた芸術」とは別個な思慮深い写実主義に立脚してゐるものと断言できるのである。
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秋田義氏の芸術を評す
   旭ビル楼上合同五氏展を観る

 大森氏の作が憑かれた神聖な痙攣であるとすれば秋田氏の従来の態度はあまりに酔ふことを欲しない実に厄介千万な画家であつたのだ『秋田氏の絵は冷た過る』といふ一般の評はまんざらでもなかつたもつと神霊に憑かれた画風に接したい希望は僕一人ではなかつたらうと思ふ、酔ふこと位かんたんな事がない筈だ。最近ザラにある画家連は未完成な前にすつかり酔つてゐる輩が多く周期的な局部痲痺や色慾亢奮に画布は絶えず冷やされたり暖められたり多忙な中にひとり秋田氏がかうした躁狂団隊とは別個な道路をてくてくと歩いてゐた。
 樹木、空、花、いへ、崖、等々あらゆる取材はこの死者を取扱ふ医師のやうなあまりに切れすぎる執刀に泣いてゐたらう、だが最近の進展はどうか一番『南京風景』の豊な詩情に到達し十三番の『蘇洲風景』に進展し更に『南京奏准の妓館』の新しい計画『少女戯曲』の看過出来難い企てに遭遇して奇異の感にうたれるのである。
 これらの作風は冷たいものから実に抒情的感情への飛躍であり進撃であり自らに酔ふことを極端に嫌悪した従来の秋田氏としては破天荒な変りやうと言はれるだらう、氏の視覚の歓喜と波動せる心の影は自然に対して従来のメスの鋭さから現在同情にあふれた瞳に化してゐるのは僕の祝福にたへない傾向だ。ところが尚以上の数点の『変つた絵』を氏の最後を飾るものではないと断言できる。それは画家精進のたんなる序曲であるが終曲ではないからだ『南京奏准の妓館』や、『蘇洲風景』などはある意味の悪趣味に違ひないし『金瓶梅※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画』あたりも骨休みである。矢張りこれらの先走りのものより何程秋田氏の過去の仕事から脱しきれないものであり稀薄な位置にあるものとしても『万里の長城』『西湖』の作風こそその底に永久動かすことのできないものが一派として残つてゐるのではないか。
 この浄化されこれら詩趣に立脚して次の仕事美学上の公理やまた方式などを全く忘れた秋田義を期待するそして『万里長城』などのともすれば黙殺され勝ちなものから現在プログラム外出品の『蘇洲城裏』『長江夕映』『長江遠望』などの仕事を産んだことは実に素晴らしいではないか。
 僕は秋田氏の作品を見るとき何時も不思議にワシリー・カンヂデンスキーの絵を想ひ出すこの違つた画風の二人をどうして結びつけて考へるか僕自身不思議に思ふ、だがその解決はかんたんだ色の感覚と絵画に扱はれる対象の物質的再現よりも絵画自身の要素の精神的価値を主張する個所に相似たところがあるのだ『蘇洲城裏』色感の唐草模様であり魅力あるコンストルクチオンではないかこゝにまた薄気味の悪い点を発見する、それは『長江遠望』だこれは幽微なる幽玄なる異彩に輝いたものでその描かれた律動的集塊こそ秋田氏の怖ろしい仕事の前兆ではないか、最後に一言支那から帰つた秋田は凡になつて『小田原風景』を描く日本の『フジヤマ』も『松の木』も案外くだらない、支那へ帰つて死ぬことだ。
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美術協会の絵画展を評す

   (一)

 第十二回旭川美術協会展覧会は旧山一紙店楼上で催されてゐるが、日本画及び木刻の評は僕の得手ではないから止して、洋画の部に一言する。誰れがその鑑査をしたのであるか知れないが、その配列を一見して採択方針はうなづけるもつともこの選といふものは、その画会を中心としての流れやスタイルを造りあげるといふ場合が、実に多いのである、殊に旭川の美術界がある岐路にあり母体であり発足である現在では、現れた審査の標準といふものに、選者は絶対な責任をもたなければならない、若し今後美術協会風なる、一画風を形づくるやうなことがあつたらずゐぶん可笑しなものだと、選者諸君に一言を呈す。

 で今度の画会を見て感じたのは質の点から純なものが少数で、小手先の巧者揃だといふことだ甚だ失礼な申分だが、同人三君の絵はよくあれで臆面もなく出品されたものだと思ふ、僕はむしろ同人以外の新進の連中に好意を懐く、もつとも同人なる名は、一団体の主要なる人々の代名詞であつて、芸術の優劣を意味し評価するものでないことは無論だが、他人の作品を取捨する選者となつた場合には自ら其処には責任を生じてこなければならない。そこで同人諸君に希望するのは後輩の手前もあり責任上、欺瞞だらけの画布は捨て素晴らしいものの出品を期待してゐるといふ僕のいはなくてもよい憎まれ口をいひたくなるわけだ。

 ▲佐藤熊蔵君 『早春雨後』に肉迫する何物かがある、この筆者が客観的な現在の正確さのままで進めて行つたら、きつと大きな仕事が出来るんだ、写実家として満たされないといふ悩みを発見する『早春雨後』は他の二点に比して、鮮明な態度がいゝ、画は流動をしてゐるし近代人としての叫びがあり僕の助言をしなくても安住する人ではないから自分の道をひとりで開拓してゆける人だ。
 ▲前田清君 この人の態度は決してあいまいではない、やがて現在の境地を脱出すると思はれる、このまま押すすめて、朗かな色調に到達することを期待する。
 ▲西島英夫君 安井氏張の盛あげた一点は明かに邪道と思ふ『陽春の午後』は真面目でそれでなか/\細心なところが喜ばしい、だが惜いことには満足をしてゐる画が多いので沈滞にある有様だ、もつと凝視こそ望ましい。
 ▲小野寺松美君 水彩『花』はよびかけるなつかしみのある画で、考慮の深いすぐれた何物かを握つてゐる人だから勉強次第だと思はれる。

   (二)

 ▲鈴木秦君 三点の中ではなんと言つても『家と曇』だらう他の二点はずつと落ちるこの二点は既に君としては過去の仕事に属すべき性質の画だこの人の画を観て何時も惜く思はれる点は『家と曇』風な暗い憂鬱な調子のものが精神や色彩の病気にかゝつてゐるといふことであるもつと自分の仕事に感激をもたなければ。また健康にならなければいけない。或大きな悩みに直面してゐるこの『家と曇』は捨難いものである、がいま一歩突入つた沈静な喜悦にみちた暗さであつて欲しい。
 ▲田中弥君 『風景』は沈着で魅力に富んでゐてすぐれた画だ林君の画風に似てゐる、好きな絵ではあるが消極的に沈んでしまひさうな不安さがある(これは色彩の上の注意ではない)積極的態度つまり個性の強調を希つてやまない。
 ▲鈴木春路君 君の過去の仕事はもつと真剣であつた『ないぼ風景』はそれよりもずつと落ちると思ふ、この画などは危くごまかしに落ようとする間髪にある、然し過渡期にあるとは言ふことができよう君の為めに純情にたちかへることを希望する。
 ▲林和君 この人の画風や心境は田中君と類似したものである私の望んでゐるものにどちらが速かに発足し到達するか興味ある二人のいゝ取組と態度である、林君また田中君の評が大体あてはまる、だが五番の『風景』は君の為めに残念だ君の個性を泥の中に投げ棄てたといつた悪作だと思ふ。
 ▼(同人)野村石太郎君 さて同人の作になるがこの人の作品をみて感ずるのはかうあつさり片づけられゝば芸術なんて言ふものはなか/\楽しみな道楽だと思ふ『君は何を求めてゐるか』遊戯に始まつて遊戯に終つてゐる『君は何に感激してゐるか』運筆の滑らかさに泥酔してゐる許りだ。
 ▼(同人)関兵衛君 『ポーズ』此女人裸像は模写にしては上手であるしモデルを描いたものとしては拙劣であるし醜い仕事である『玉葱のある静物』この絵に到つては評者は悲鳴をあげる、水彩『見世物風景』を描いた時代の関君は影も形もないといふものだ。
 ▼(同人)高橋北修君 この男には日本画だけかゝして置きたいのだが日本趣味だけではお気に召さぬらしいだが油絵画家の柄では無い(もつとも本人が描くのは勝手のことだが)日本画『月に戯れる童女の図』はチョッピリ賞めたいだが洋画ときては『油に戯れる男の絵』である『校庭午後』この絵覘ねらひ処が無いとは言へないが詩情から養つてかゝらなければ到底完成に達すること遠しである『風景スケッチ』かうした計画で観衆を釣らうとしたところで無理だ観衆はそんなに馬鹿でない、この絵一種の『戯画』である二点とも君の醜悪な心情を遺憾なく曝露したものだ気品ゼロ。
 ▼其他の人の出品もあるが紙面の制限の上から後日にゆずり最後に平沢大嶂氏(東京)の特別出品十点を見せて貰ふ『将雨来』『花』等や『港孤松』『雪の夕』等の日本的な氏の仕事の良し悪は私にはわからないたゞ之等からも『拓けゆく武蔵野』や殊に『花園』に共鳴を感ずる感覚が躍如として一面に重厚で沈静な態度が好きだ『苺』また素朴に朗かに感謝に充ちた絵だ。
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広瀬操吉氏の芸術
   来旭した氏のために一文

 私はいつか本紙に詩集『雲雀』の作者広瀬操吉のことを紹介したことがあつた。二十三日の夕景その操吉が、ひよつこりと東京から私の家へやつてきた。
『近代詩歌』の四月号に彼の詩『鍋焼うどん』といふのがあり宵暗やみの都市に親子の貧しい、うどん売子の熱いアルミニュームの鍋に、彼が渇いた唇をあてゝ『子がしつらへて親がはこぶなり』とせち辛い浮世の味ひを歌つてゐたので私は彼に旭川の鍋焼を喰べに来いと葉書をやつた。
 私は彼に土鍋のうどんを喰べさして見たかつたのだ、だが悲しいことには、最近の旭川の鍋は、土鍋の風味はなく、みなニュームになつてゐる。
 だが鍋はニュームに化しても、旭川特有の『夜半の濃霧』の中にまよひ出て、風土の立ち食ひをさして見たい。
 彼に遭つて親しくその風貌に接して、彼の好んでゐるアンリ・ルッソオと、彼の人格とを結びつけて私は考へて見た。
 のつそりと泥棒よりも静かに、私の玄関口を訪れた、髭もじやの彼の顔こそ私の第一印象は『愚鈍な聡明さ』を思はせ、彼操吉もまたこの熱情の税関吏から、野性といちめんグロテスクな味覚とを収穫したのではあるまいか。
 彼はまた、ブレヱクの幻惑に酔ひ、ゴッホの向日葵と燃焼し、ダビンチを愛敬し、グレコを恋慕し殊に私の愉快に感じたのは、操吉が、狐のやうに尖つた顔で絹扇をばた/\動かし、桃色と幻青あおとの軽羅うすものの女を、好んで描く女画家マリー・ローランサンにほれてゐることだ。
 彼の詩並に絵は、彼の恋人の作のやうに幽幻な妖気にみち/\たものである。
 私は彼の詩風を他人ひとがよく、千家元麿氏の流れをくんだ平明さを追ふものだといふ言葉をきくことがあるが、私はさうは思へない、千家氏からは不用意な素朴さの牽引力を感じるに反して、彼は細心な野性をもつてゐる、この点ではずつと象徴的である。
 その例として彼の絵を見ればすぐに判るだらう。
 大正九年出版の画集には、この象徴風な実感にあふれたもの、百号大の『若きクリスト』『踞まれるカイン』『苦悩者』『地より出る光』其他の作が発表されてゐるが、いづれも魅惑に富むものばかりで、殊にもつとも構想の雄大なもの『若きクリスト』(銅版はその絵であるが)の彼の友詩人中西悟堂氏の説明によれば『絵の中央には鍬をもてる弊衣のキリスト、足下あしもとに獣と鳥とがゐる、鍬は地を耕すことを意味し、獣と鳥とは地上の生物を意味し、しかもこの二種の動物は人間の顔をしてゐて、殊に獣の尻尾には星の燈火が燃えてゐる、絵の下段にはアーチ型に、男性と女性とが腕を伸ばして手を握り合ひ、女性は赤児のクリストを抱き男女の下のは日月星辰と冥府よみの国とがある』かういつた風に豊饒な幻影は尽きることがない、彼れは暫らく滞在して絵を描いていかうといふが、今回は主として風景小前にひたり金銭は度外視の、彼れを真実に愛してくださる人へのみの『油絵頒布画会』をやりたいと思ふ、だが彼れは絵が一枚も売れなくても、彼れの詩情は肥満して帰京するだらう、だが出来ることなら彼れの為めに私は一点でも多く絵を売つてやりたい気がする。(申込み九条十五丁目右八号僕宛)
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旭ビル楼上の白楊画会評

 旭ビル三階で来月一日まで開催の旭師白楊画会を観る何れも新進の気に満ちたもので入場者も相当あつた。
 佐藤熊蔵君『机に倚れる幼女』面白し、さてその珍奇さから眼を転じてその内容的に包含されたものを探し出して見る場合、実質に於ての物足らなさがある。傾向としても現在の処あれまでの飛躍や転換を試みることはちよつと危険であり過去の仕事にもつと執着をもつ必要がある。だが君は努力家であるから、自己の路をぐん/\開拓して行くことゝ思ふ。総じて色彩の飽和に乏しいのが難だが真剣さが何より心強い。
 西島藤夫君『春の川』この画おぼろげながら筆者のその企てを感ずることが出来るが佐藤君程強調された個性が息づいてゐない。だがこの人も真面目さを窺はれて嬉しい『初秋』『牛朱別風景』すぐれてゐる。
 石附省吾君『ダリヤ』熱はあるが色調のこなれてゐないのが残念だ、背景や敷物の描法など幼稚で今少し研究を要する、『百合子さん』の絵はデッサンが狂つてゐるし、稀薄な感じがするが、もう一苦労がほしい。
 浅野駒吉君『旭農場』草と樹木のもつ魅惑がでゝゐて好きだが余り硬化せずに色調などもつと自由な境地にゐて欲しい、『ダリア』の方はこなれてゐない。
 もつと他の諸君の作も批評したいが紙面の都合で次の機会に譲つて貰ふ。真剣なのが何より喜ばしい。希望を述べれば師範の美術部はおたがひに感化され易い傾向があるやうで、もつと各自の画境を勝手な進路でひらくべきだと思ふ、この点では現在の処頗る乱雑な嫌ひがあるが、旭中の画会は各独自的で、この点ではいゝと思ふ。兎に角もつと自由に精進して欲しい佐藤君辺りの影響が各人の種々の形式に侵入されてゐるのは考へ物だ。
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洋画壇時評

    美術批評家に思索力なし

『洋画壇時評』と銘打つての時評であるが、幸ひなことには私は全くの画に就いては素人であるといふことである。日本画の作者達は、美術批評家達を指して『職人』と呼んでゐるさうであるが、それは非常に適当した良い呼び方である。絵かきの中にも看板絵書き、職人的絵書きと呼ばれる、事物の描き方が世俗的な常識的世界を一歩も出ない人々が少くないこれらの職人的画家達の批評家としては、職人的美術批評家の存在はゆるされるだらう。だが一度作家に芸術的独創性が加はつた瞬間には、この職人批評家の批評圏内に一人の独創性ある画家を住まはしてをくことが不可能である、批評家の狭量といふことは、良い作家を『黙殺』といふ手段で殺してをくわけである。自信のある画家はこれらの批評家の黙殺主義と実際の絵の仕事の上で、あるひは文章の上で、気が済むまで反撥してゆくこともまた自己の芸術の主張の一つの仕事である。批評家が自分の作品に四つに組んで汗みどろで自分の作品を批評し理解しようとする気持がその批評家の文章の上に現はれた場合は、たとへ誤つた批評をされたとしても非常に気持が良いものであるが、画壇で横行する通り一ぺんの印象批評や、頭からのやつつけ主義、棍棒批評、マキ雑棒批評などは画家の身になつては到底堪へられないものだと思ふ。日本の批評家は、画壇に限らず、詩壇、文壇でも非常に思考力がなくて、一枚の絵を前にして、その絵が良いにせよ、悪いにせよ、その絵を微細に観察し、その作品の美点、欠点を解く鍵をあくまで発見しようとする努力的な親切さが全くない。作品を前にして、その画に関連したさまざまの思索をその批評する画から引きだす能力のある美術批評家がない、言葉を替へて言つてみれば、ほんとうに心から画が好きで美術批評をしてゐる者がない、更に言ひかへれば嫌々批評をしてゐる、それでは美術家にとつて親切な批評家である筈がない。そこで私のやうに門外漢が、画に就いてズブの素人が画の批評をまでやらうといふ気持にまでならせられる、(それは決して喜ぶべき現象でない)須田国太郎(氏とか様とか殿とかいふ敬語の使ひ方の差異が私にはよく判らないので一切敬語は省略させて貰ふ)がある美術新聞で、里見や広津といつた文壇人の美術批評の方が遙かに画壇人の批評よりも、的確なものがあるといふ意味をのべ、素人批評を歓迎してゐたが、これなども画家の率直な告白であらう。然し素人批評は結局素人批評の域を出るものではない、餅は餅屋といふ古い言葉は必ずしも軽蔑できない。文学、美術とはつきりジャンルが別れてゐる今日、それぞれの専門的批評が是非必要である。絵画にせよ文学にせよ、今日の社会的接触点に於いては、文壇人もまた一応の絵画批評ができるであらう、だがその親切さは多く瞬間的親切さである。一人の画家の絵を真に親切に批評してゆかうとするのであれば、作家の内的生活の道程を一緒に芸術批評も歩るいてゐなければならない。十年前にどういふ傾向の画を彼は描いてゐて、そして今日どういふ傾向を辿つてゐるかといふ、時間的にも一人の画家を客観的に見る親切さがなければ批評家はつとまらない。

    画家のヱゴイズム

 さういふ批評は画壇と共に歩るく専門美術批評家でなければなし得ない。年に一度か二度の展覧会を覗いて、そして文学者が絵画を批評する、そのことは一向差支ないが、若し里見、広津といつた門外漢が、社会的地位で、なにか、これらの人々の批評した美術批評を作品評価の決定的なこと柄のやうに、画家が思ひ違ひをしたとすればそれは画壇の為めにたいへん危険なことである。私はむしろ文壇人の美術批評に画家が何等かの特別な価値を認めるといふ、変態的現象の根元が、画壇自身の中にあると思ふ。つまり『指導的批評家がゐない』といふ事に帰結するだらう。ロクな批評家のゐないといふことが、画家の製作上のヱゴイズムをより極端に助長させ、全く批評家無視となりひいては画壇の混乱を招来してゐるのが現状だと思ふ。

    展覧会至上主義者へ

 展覧会作家に就いて、曾つて藤井浩祐は斯う言つてゐた。彼はこゝでは画家、彫刻家の仕事の『非連続性』を責めて、一年に一度や二度の展覧会出品に、出品する作品にこと欠くやうな者は、平常の不勉強ぶりを覗ひ知ることが出来るといふ意味のことを述べてゐた。この藤井浩祐の言葉は、善意に解釈すべき言葉である。こゝでは藤井は芸術家たるものゝ、製作慾の激しさを要求してゐるのであつて、展覧会を目標としてのみ、青春を朽ちさせてゆく画家の少くない今日、この恐怖すべき現象に対して、画家たるものが相当自己反省して良いであらう。
 私は徒に展覧会軽蔑論者ではない。然し現在の日本の展覧会(主として官設のそれ)が如何なる社会的意義と立場をもつてゐるかといふことに想ひ到る画家は、自分の仕事が可愛いければ可愛い程、この種の展覧会出品の意義に一応の疑ひをもつ必要があらう。
 殊に官設展覧会の存在の理由のアイマイさの一つに展覧会が画家の作品の発表機関であるか、奨励機関であるかといふ二つの認識の中間を漂泊してゐるのが現況である、両者一体の方針にあると主催側は主張するのであらう、事実はこの主催側の主張を裏切り、二つのものゝ矛盾を現してゐる。どちらも徹底してゐない。この奨励と発表とを兼ね備へてゐるといふ公器としての方針に、少くともその立前から自由主義の方針に基かなければ存在理由が成り立たない。審査員たちは続々と持ちこまれる画家の絵を前にして、それを審査しながら如何なる感情を抱いてゐるであらうか、そのことを想像し、憶測することも興味がある。おそらく審査員達は若い後進の画家の画業追求のはげしさに、心内平穏ならざるものが少くないであらう。そして審査の方針として彼はこれらの作品に心理的には脅やかされながら信念的にはこれを勢ひよく排除し跳ねのけるであらう。この心理と信念とを接続するものは何等画家的な批判性をもつてゐないものが少くないだらう、この審査員の心的動揺は強盗の心理と一脈相通ずるものがある。(それは何等過激な形容でない)心でびくびくしながら信念の強さで他人の品物に手をかける強盗はそれだけでも猶多くの不安を感ずる。二つの物では足りない、更に兇器といふものを手にする。
 若し展覧会の審査員で猶審査に必要とするもの強盗の兇器にひつてきするもの『社会的地位』或は『画壇的地位』といつてもよいこの兇器をふりまはし、他人の作品の制作心理にズカ/\踏みこんでくる強盗的審査員が一人でも無かつたら画壇のために幸である。
 かゝる展覧会、審査員を目標として年に一二回の展覧会のために精根を尽くすといふことは、おそらく馬鹿々々しいことの限りである。画家の制作上の連続性といふことは相当尊重されてよい、今年の展覧会から、来年の展覧会までの時間的充実が画家として恥ぢるところがなかつたら何をか言はんやである。

    個展時代の招来

 然し今日の如き全く展覧会が社会的意義を喪失してゐるのに、更に期待を続けてゐる画家があつたとすれば、そのことが既に画家の心理的空白を立証するものである。彼のスケッチブックが真白であると同様に彼の生活もまたまつ白な頁である。画家はまた斯う弁解するであらう、絵かきといふものはさう連続的に絵ができるものではない。思索の時間も女に惚れる時間も、酒をのむ時間も、猥談をする時間もまた意義があり、新しい衝動へ移るには少くとも時間が必要であると、その弁解もよからう。では君は今朝起きて顔を洗つたそして昼となり、夜となつた、そこで君は今日一日から如何に「新しい」と名づけられる創作衝動を画布の上に描くことができたか――いや少し待つてくれ、今日は駄目だつた明日になつたら纒めあげると――一日の生活から曳きだされた新しい制作的衝動を、その一日分さへまとめあげる力のないものがどうして二日、十日とこの心理的荷重をまとめあげることが出来るだらうか、私は疑をもつ。(この私の意見は画家に対して衝動主義の制作を慾求してゐるのではない、具体的には次の機会に述べる)私は画家の多作主義を主唱する発表方法では、小集団主義と、個展主義とに賛成したい。それはあくまで過渡的な方法であるが、然し我々画の観賞者はこれを期待してゐる、また画壇の実力時代の招来のためにもさうした方がよい。個展乱立では助かるまいといふ危惧をもつ人もあるだらうが、それは素通りでも列べられてあれば嫌な画でも見なければならない。個展であれば一度見てコリゴリすれば二度と見に行かない。然し優れた画家の個展を度々見せて貰ふといふことはこの上もなく嬉しい。そこには個展乱立の弊害は、案外解消されるのではあるまいか、妙な機関にしばられて這ひずり廻つてゐる団体、展覧会が何時までも存続するといふことは醜態の極みであるし、油絵の大衆化のためにも是非個展時代がきてほしい。

    白朝会を見る――佐竹徳次郎の絶品『鯉』

 十二月十八日迄日本橋高島屋で催した白朝会、あの位の人数であゝした催しは、非常にフレッシュに絵を見ることができる。
 金沢重治――「雪降り」「雪」は何れも失敗の作であつたが『滑川』は好感をもつことができた。ドラン張りの面と線の交錯が非常に効果をあげて観者を楽しませる。
 金井文彦――この人の作品の色彩上の稀薄性は『静物』などで特長がでゝゐる。然しその稀薄性の効果はあいまいなものである。もつと徹底できないものか。
 九村芳松――半身の方の『コドモ』が良い。子供の頭と腹部とのふくらみを生かして、着衣に包まれた胴体に柔らかみを与へてゐる、子供の肉体の特異性とその観察がゆき届いた作である。
 田辺至――技術家であつて技術をもちあつかひ兼ねてゐるといふ型である。わざと技術を拙劣に書いてかへつて効果がでるといふことは技術に恵まれすぎた画家の罰である。
 大久保作次郎――『蟹』下に敷いた笹とのつてゐる蟹との空間的説明がついてゐない『柘榴』やゝ見られる。
 安宅安五郎――『菊』は定着性ない現実感がかへつて人に迫るものがある、然しこの方向は危険だ。物体のもつ色と、油絵具のもつてゐる色との両者の制約を解決することができずに、二つの色の制約をそのまゝ絵に出してゐるといふ感ありで、この作家は少しあせつてゐる安宅式の鈍重感は捨てがたいものなのに己れの良さを彼は軽蔑してゐる。
 佐竹徳次郎――こゝに来て漸く救はれる感がする。画家達はもう一度佐竹の絵『鯉』(2)を何かの機会に見せて貰つたらよい、少しは教へられるところがあるだらう。真鯉と緋鯉とが二匹悠然と水を泳いでゐる。作家の直感力の的確さで彼は近来私の見た展覧会で最も感動的な作品を書いてくれた。誰もこの佐竹の鯉の傑出的良さに騒がなかつたとしたら、殊によつたら彼は私一人の批評のために描いてくれたのかも知れない。
 水の色の非凡さ、魚の物量感の出し方のすばらしさ、緋鯉の方の尾を全部描かないことが相並んだ二匹の鯉がたがひにしづかに水を推進してゐるやうな視覚的効果を挙げてゐてこの絵はいさゝかも観るものに不安定を与へない許りか、作者のもつ宇宙観の大きさをこの絵を通じて感じられて、この絵はおそらく一九三四年度の洋画壇唯一の収穫であらう。たゞ一語言ひたいことは、この絵そのものはいささかも難がないが、この作品がかなり偶然性があるといふことである。それは他に列べてある同一人の作との比較に依つてそれが判る。『静物』『風景』何れも感心しない。あまりに『鯉』と他の作品と出来の上でムラがあることが私を悲しませた。佐竹の『鯉』は彼の全技術全感能の集中的な努力と見て誤りがないだらう。
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洋画壇時評 三つの展覧会

    新進NOVA展

 ノバ展の一般的な世評を私は度々耳にしたが、大体この展覧会に就いては「余りパッとしない展覧会だ」といふ評判が多かつた。パッとしないとか、問題でないとかいふ、批評はノバ展の場合、他の展覧会の評と同一に考へられないもの、造型展あたりに比べても、成程この展覧会は子供つぽいところが多いし技術の叩きあげにも年季がかゝつてゐないし、作品も不揃であることは、認めないわけにはいかない。然しながら私は日本の最も「若い画家」(年齢といふ意味許りではない)の新進気鋭の意味の発表場所として是非この種の展覧会の一つ位あつても良いと考へてゐる。「発表機関」これは少いより多い方が良い。自由な発表といふことに何も遠慮をする必要がないだらう。要はその作品の質にあるし、この展覧会の方向にあり、作品発表の自由性にある。アンデパンダンを何処かで企てゝゐるといふ話もきいたが、今の処ノバあたりでアンデパンダン的意義を極度に発揮して欲しいと思ふ。
 だが、一寸こゝで皮肉を言はして貰へば、この展覧会にかぎらず画家はあまり、カンバス屋と絵具屋に許り儲けさせるのもどうかと思ふ。私はこの際ノバ展辺りでもむやみに油絵具を画布の上に消費することをやめて、絵具を節約して良い絵を描いて出品して欲しい。絵具節約論をこの際、この展覧会に限らず多くの展覧会の出品者に希望する。
 個人評を二三試みれば、鶴岡政雄の三点「移転」「偶像」「リズム」このうち「移転」は引つこしを書いたものだが私はかうした傾向や「リズム」などから、さつさと作者は移転して欲しい。「移転」は描く対象の常識的理解を一歩もでゝゐない。如何に描写の奇をねらつても、結局覗つてゐる処は一般的なところに落着いてゐる『リズム』は丸、三角、螺線、あらゆるものを横長く組合せたものであるが、その画は右から左に走るリズムであつても、観る者へ何のリズミカルなものを訴へてゐないそれよりも『偶像』の仕事を支持したい。この作家の一番問題となるものは、この人の抱いてゐる色といふものに対する美学的な立場である。あの色をもつてリアリズムの色とするのは賛成できない『美しい色』といふことの素朴な理解に一度立つて、更に真実の美の色を創造してほしい。赤や青を軽蔑する画家は永久に救はれることがないだらう。
 寺田政明 この人はかうしたリアルな傾向で一時代、絵の技術的方面をやつたら、それこそ弊履を捨てるやうに斯うした傾向を捨てゝ、リアルな作風でゆくべきだ。自分の才能が惜しかつたら、リアリズムをとるべきで、画壇では、立派な、良い才能をもちながら『写実』(広義な意味で)を軽蔑してゐるために、その人の良い才能を殺してゐる人が実に多いことは残念である、寺田の絵は描く対象に就いての『感動のしかた』が実に芸術家的である点、材料がプロレタリア的なものである点、しかし『貝殻』『イカ』『ランプ』『馬の骨』とか一つの題材に少し執着しすぎる、執着することは仕事が観念的になつてしまふ前触のやうなものである。大いに一作毎に、負けるか勝つかの丁半賭博的飛躍をやつてほしい。この人の才能はさうした飛躍をやつても間違がない『おたまじやくし』を賞めたい。この絵には見た眼がきれいでも、色の常識的選択に終つてゐる。ただこの絵の動きに野心的なものがあつて好ましい。
 靉光……といふ人の小品『裸婦』『馬』『人物』など何か錦絵風な筆法や『馬』では古来の『絵馬』を思はせる。ただこの人は線の稚拙さといふことに甘えすぎていけない。技術をもつてゐる人であるから、強ひて稚拙に描く必要がない。アンリー・ルッソーの稚拙さは、決して稚拙さを売り物にしてゐない切実さがあつて良いので文字の世界では、ノイリップといふ小説家があつて、ルッソー的素朴さに共通するものがあるが、技法の稚拙といふことは、たとへそれを方便とするとしても良くない児童画をよく画家が参考にしよく子供の技法をとり入れてゐる人があるが、大人のくせに、子供より下手に書く必要が少しもないだらう。靉光の場合のこの稚拙さは、主として作者の心理的なものからきてゐるが、心理的なものつまり世界観の問題としても、かなり意義がある。第一作者は若い人である筈だ、年齢的若さの究極的な発揮、この一本槍で押していつたら、年をとれば完成されるといふことになるのではあるまいか。この作者は心理的世界に於いて老いこみたがるのは良くない。『裸婦』の方がずつと屈托のない自由な作意が見えて良いし、この作家が自己の独特なものをつくりあげようといふ熱意には無条件に賛成である。

    白日会展

 笹岡了一……の真面目な態度は美しい。『二人の裸婦』は画面の裸婦を明るさ、つまり白で締めて効果を出してゐるに反して今一方の裸婦『無題』の方は暗さで画面を締めてゐる。画のやかましい技術の上で見たならば、あるひは前者の明るさで締めたものゝ方が絵らしいかも知れないがこの作家の将来の大きな路は後者にかゝつてゐる。この絵の陰影で締める効果はよくこの作家の哲学的質を生かしてゐる。線や形や構図に観るものに押しつけがましいもの『つまり特対性を』与へてゐない点が、この作家の偉さである。そして我々をこの態度にしたしませる、敷物や裸婦の描法に動的なものがあることは現実の動きと一致して見てゐて効果的である。ただこの作家に不明瞭なものゝ解決を『二人の裸婦』のやうな明瞭さに到達し解決しないで『無題』から一歩前進してほしい。
 永井武夫……白日会の中から近代人は誰れかと選んだら私は永井武夫を指す、この近代性はちよつと他の展覧会にこの人ほどに、健康な近代性をもつた人は珍らしい。実際いふとこの位の近代性はすべての画家がもつてゐるのがあたりまいであるがそれがない。他の人々はあまりに伝統的であり伝統打破に臆病である。永井武夫の事物の把握の明確さ(正確さとは又別の意味である)は非凡なものがある、まとめ上げの美しさもあれほど出来る人は洋画家には少ない(日本画にはずいぶんゐる)作家は仕事を大切にしてほしい、そして主題も大いに野心的になれないものかしらと思ふ。僕が保証する大いに我儘な行き方で自由なテーマを選んでほしい。
 網小島廉……白日賞に『座像』がある。これは会で奨励の意味での賞をこの人にやつたのであれば難がない、だが画そのものとして見る場合には、かなり問題がある。殊にこの座線の描法の誇張は正しい行き方ではない。与へられた画面を画家が使ふことは自由である。だが芸術をする余地といふものは、画面精一杯大きく描くといふことにはならない。馬鹿々々しく大きく女の手足や尻を描くといふことは、現実の誇張と、物の真実の追求とごつちやに考へた考へ方で『座像』はもう一息一廻り大きく描くと、滑稽感に落つこちてしまふだらう。芸術上の誇張あるひは異常なるものに就いては、私は意見を抱いてゐるがこれは次の機会に書かう。絵の線や形の外面的な拡がりや拡大はその描かれた線に極限されると同時に、観るものにその線の制約の中に内容的なもの実質的なものを見ようとする。つまり量は拡大されたが質がないといふことになる。それは画家が描くには熱心であつても、結局現実を逃避してゐるといふ結果に陥つてゐることになる。よく縁日で子供達が買つてゐるものに綿飴といふ白いボッと大きくふくれたのがあるが、あゝして質の充実しない外劃的な大きさのみがある作者にはもつと真面目な行き方を望む。
 伊倉普……はスケールの大きさをとる。しかしスケールの大きさは物事を決してアイマイにするといふ意味であつてはいけない。全体の雰囲気の落漠さと作者の抱いてゐる宇宙観の大きさと一致した場合には、そのボッとした大きさのまゝで切実な高調された実感を与へる筈であるが、そこにはそれが欠けてゐる。それは作者伊倉の仕事の仕方が厳粛であるだけ残念なことである。
 三宅策郎……『火にあたる男』は良い詩をもちながら、彼は描写上の常識性と戦から熱意が欠けてゐることは惜しい。この絵はとりも直さず、在来芸術の保守性への追従を語るものである。この作者はこの絵だけをみて決定的といふことを避けたいもつと実力発揮のできる作者である。
 斎藤正夫……の静物からは芸術的感性の高さを感じた。この人は自己特有の絵全体に流れてゐる人間的なデリケートさを失はぬやうに次の仕事を進めてほしい。
 荻原英一……『貝殻山の崖』は崖の断面の貝殻層を描いたものでテーマは珍らしく面白いが、題がついてゐるから貝殻と見えるものゝ題がなければ貝殻とは見ることが不可能である。花は紅、柳は緑といふ形容の中には、事実の一般性や、普遍性を説明したものがありこの常識的な真理は決して芸術家が馬鹿にしてはいけない。一見して貝殻を見せるといふ最も端初的な処から、更にさまざまな貝殻を描き出す目的が発生し仕事が続けられるまた逆にふかい描写の意図が、誰にも判る一般性へ落着いたとき、始めてその絵の深さや特殊性がかんじられる。牛と馬との区別をつけることを看却しては、永久にその絵から牛と馬との区別をひきだすことができないだらう。荻原の場合もつとリアルに(観る者に親切さを出して)描いてくれたら、もつと涯かに高度に、断層に幾世紀を経た貝殻の存在、曾つて海であつた処が山になつたといふ時間的な不思議な自然の摂理を語る絵ができたであらうと思ふ。近来我々素人がみて、形状の正体のまるつきりわからぬ絵が少くないので、遂こんなことを述べる気になつた。第一画家の中には、批評家や、画家仲間に見せるのを目的に制作してゐる人が少くないが、画家の数は多いといつても知れたものであるし、広く一般大衆へ見せるものであるといふ、絵画家の立場を取るべきで、この親切さは、平凡な絵を描くまいとする苦痛が伴つてほんとうに気持の良い努力ではないかと思ふ。

    春台美術展

 観に行つたとき暗くなりかけてゐたので落着いてみられなかつたので残念であつた。
 武良俊明……『埋葬』は漁師達が死せる漁師を埋めようとする悲哀の情景を描いた大きな作であるがこゝに集まつてゐる漁師達の顔に興味をそゝられた、そして相当に漁師特有の表情を捉へ得てゐる。しかしそれは主として漁師の顔の骨格的なものゝ追求によつて必然的に作家が描き得た特有さであつて、一度これらの漁師的な顔が、一人の人間が死にこれを土に埋めるといふ最大の悲劇を前にして如何なる人間的感情をこの『埋葬』に描き得てゐるかといふことを吟味してみると、まだまだまだ作者の感情は甘い、甘い、といはざるを得ない。
 柳瀬俊雄……『有段者』『黄衣婦人像』などをみると、一応腹の出来た人といふ感じがする。『有段者』では柔道家の立姿である短躯前方を見つめてゐる。この柔道家の意志的な強さといふものは描けてゐるが、僕の考へる理想的有段者といふものは、あゝした人物の硬直と謹厳のみが有段者の全部でないのではないかとおもふ。柔よく剛を制すといふのが有段者(所謂戦ひの名人)の態度ではないかと思ふ。この『有段者』には柔の面が少ない。僕は作者柳瀬俊雄の創作態度にも、柔よく剛を制す――といふ言葉があるといふことを知つて貰ひたいことをのぞめば僕の批評は足りる。
 星野雅弘……『冬日』この作品の良し悪るしを言ふのではないが、冬の日を描くとき彼は冬の日の空気といふものをよく捉へてゐる。具体的に言へば冬日の空気を画家が色として画布の上に移し得た巧みさをとる。しかもその雰囲気とか、空気とかいふものゝ描写に際しては、よく画家はこれらのものは『漠然たるもの』といふ風に理解し、またそのやうにボッとしたものとして描きたがる人が多いが、それが大間違であつて、いかなる難かしい雰囲気にせよ、画面を我々が見たとき、作者の心理的説明を立派につけ、具体的に説明されてゐるものでなければいけないと思ふ。言葉をかへて言へば真白の色から真黒の色に移るまでには、幾多の数かぎりない段階、階程、過程とかいふものがあるわけだ。それを心理的に見ようとせず逃げてはいけないといふ意味である。この冬日にはその努力がなされてゐるので絵は余り好きではないが、良い努力だと考へた。

    片多徳郎遺作展

 春台展での片多徳郎遺作展は僕を感動させた。殊に少女を描いた白い『裸婦』に就いては、私のやうな若輩の批評を絶対にゆるさないものがあるから、一言もいはない。ただ一言多くの画家諸君に進言したいことは、画家といへば助平の代名詞のやうに世間では考へてゐる折柄、婦人に就いてあゝした崇高な理解をもち得る人は何人あるだらうかといふことである。片多徳郎の、白い『裸婦』の前で婦人即性慾を見てゐる多くの助平画家は頭を垂れたらいゝ。それからもう一言、春台展では片多徳郎、丹野次男、平田千秋の三人遺作展をやつてゐるが、それも非常に良いことである。だが一般の画壇にのぞむことは、なるべく才能のある画家は生きてゐる間に団体として好意をみせるのがほんとうで、本人にしても死んで花実が咲くものかであるし、死んでから、急に才能を発見して騒ぎたてる傾向があるから、生きてゐるなら生きてゐる間に良い作家の真実の価値を大衆に示すやうに団体として努力すべきだ。
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洋画壇時評 旺玄社展を観て
   上野山清貢と岩井弥一郎

 岩井弥一郎――最も場内で個性的だといふ意味に於いて、この作者の絵の前に私は吸ひつけられた。同時に私はこの岩井の絵を見て、直感的に斯うさとつた『彼は立派な観念主義者である――』と。観念主義者は美術にかぎらず文学、哲学あらゆる部門にわたつて世界各国にびまんしてゐる。彼を観念主義と見るならば、岩井は一体何国流の観念主義者だらうか、それは将に独逸流の観念主義者である。
 それは彼の『静物』を見れば判る。色々の野菜類が雑然とならべられ、それがおそろしく大きく描かれてゐる。
 岩井の場合にかぎらず、画家が一個のリンゴなりカボチャなりを前にして描き出すとき、そのカボチャの実在的な大きさつまり実物の寸法より、画布の上に一巡り大きく描くといふこと、反対に一巡り実物より小さく描くといふことに対して果してその画家はどれだけの良心が働いてゐるだらうか。芸術的表現とは、実体を拡大するといふ単純な考へに捉はれて仕事をしてゐる美術家が近頃すこぶる多いのである。ティントレットのパラダイスの絵画は五十呎乃至百呎の距離に適はしく出来てゐる。つまり見るに適当の距離を必要とする程の大きさに表現されてゐるわけだ。だがこの絵は而も近づけば近づく程より立派に見える程鋭敏に色彩づけられてあるさうである。
 岩井の絵の物の拡大は離れて見ては物の実感を一応我々に与へてくれる。然し近よつて見ると、如何にも誇張感たつぷりの描写であることが判る。物の形の量に答へるだけ、その質が充実されてゐるかどうかといふことが、岩井の絵の場合問題になるだらう。岩井の絵の物の拡大の方法は、彼が一応写実主義者であるだけ一層描いてゐるものに矛盾が現はれてゐる。誰かがその矛盾を指して岩井の絵は面白いといふのであれば私は何をか言はんやである。岩井の絵には見るものに与へる感じは、厳粛さといふよりも、滑稽感である、殊に『婦人像』などにはその感がふかい。他人は良く岩井弥一郎の絵を指して、彼の絵が素朴であるといひ、ある人はアンリー・ルッソー的だといつてゐたが、私は岩井の絵を他人のいふ程素朴な画風とは見てゐない。むしろ相当神経の行きわたつて抜け目のない描出をしてゐると考へる。岩井の表面的稚気や稚拙さは相当不自然なものがある。むしろ私は岩井の制作態度でうたれるものがあるとしたら、画面全体に流れてゐる重厚さが好きだ。私は彼の色彩にも驚ろかない、それは新しい美学の世界では、すでに岩井の色はクラシックに属するからである。彼が今後いかに時代的な新しい色感をとりいれることができるかどうかは、興味ふかいものがある。好漢をして更に飛躍せしめよである。更に私は岩井の制作態度に就いて彼の写実主義の行詰を痛感させられる、つまりヘーゲル的な究極点にきてゐるやうに思ふ『芸術の目的はイデーと形態との同一性をば眼と想像とに示すことである、それ(芸術)は現実の外観と形態との中に於ける永遠と、神聖と、絶対的真理との発現である』――この言葉はヘーゲルの言葉であるが、なんと岩井弥一郎の画に表現された芸術観と一致したものがあるだらう。
 こゝまでは過去の写実主義者も行きつくことができた。この観念論的方法も、個人的には岩井式に絶対境に到達できた。だが一度この個人的な信念も、絵となつて現はれるとき、社会的批判に堪へなければならない。その瞬間に、作者の信念は観るものに案外もろいものに受けとることができる。岩井はスケールの大きさを覗ひ、重厚さ、素朴さ、粘着力のある仕事つぷりは好ましい。そしてその芸術の闘ひ手としては旺玄社ではドンキホーテ的画家は岩井だといふことができよう、そして殆んど反対の立場で仕事をしてゐるハムレット的画家に上野山清貢がある。

   上野山清貢に就いて

 岩井の神経の太さと上野山清貢の神経の細さを形容しまた時代的意味も加味して、ドン・キホーテとハムレットと形容したが、上野山の場合の神経の細さは、画壇で珍らしい特殊な神経の持主だといふことができる。徹底したカラーリストであるといふ点では、牧野虎雄と好一対であるが、今度の旺玄社の牧野の出してゐる『芍薬』は色彩家としての牧野の特長を生かした画とはいふことができない。最近の牧野の仕事は何か色彩に就いて以前程衝動的美しさを感じてゐないやうだ、『芍薬』の花を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してある壺のその壺の絵画の太い線描などはいかにも牧野が線に対して特別な愛着を示してゐるといつた表現である。そしてその太い線は線描家としての牧野のものでもなければ、色彩家としての牧野のものでもない。つまり線でも色でもない、線でも色でもないものは一体それは何だと誰かゞ反問しさうだ、簡単に言はう、それは『不自然』と称するものである。
 牧野には早晩、彼自身に色と線との分離で苦しまなければならない、宿命がきてゐるやうである。その点で己れを知つてゐるものは上野山清貢である。彼はその点では徹底した色彩家である。これまで極端に混濁した、黒つぽい絵を描いてゐた時代の上野山を私は知つてゐる。そしてその反対に全く明るい華美な色彩の時代の彼をも知つてゐる。彼は色彩の上では、明るさと暗さと、美と醜との間を動揺して来たし内心的な葛藤を彼の絵の仕事を通して知ることができる。そして現在の彼の『魚』の境地では、私は最も彼らしい性格的な調和的な仕事ぶりと、観察してゐる。
 私は上野山清貢の仕事ぶりに就いて、画家仲間の上野山評といふのを厳密な意味で聞いたことがない。上野山の絵は優れてゐるかといふと否といふ、悪いかといふと否といふ、的確な批評をしないのである。そして話をすぐ彼の芸術ではなく、彼の人物評や、行状の方面へその人は話を転じてしまふ。物足りないしまた馬鹿々々しい。上野山に就いて彼の芸術を語るといふ親切さを画家仲間からきかない。もつとも一人の人物の『芸術』を語るといふことは『苦しい仕事』であるしゴシップを語るといふことは、『愉快なこと』であるから、上野山のゴシップ的面を語つて、上野山の芸術が判つたと気が済んでゐることも良からう。だが私の芸術上の潔癖性はそれをさせない。上野山の作品に対しても、良いか悪いか決めてかゝりたい。
 上野山が大臣を描くといふこと、鼠よりも柔和なライオンを描くといふこと、これらの愚劣に属する仕事の攻撃手は多い。だが彼の本質的な仕事『小品』には人々が触れたがママらない。私は特権階級に対して全く非妥協的であつたクルーベと大臣の顔を平然として描く、上野山と比較しようとするのではないが、上野山が大臣の金モールを透して、如何に大臣を人間的肉体的に描かうと努力してもそれは無駄なことゝ思ふ。
 彼の画壇的生活には、大臣を描く社会性と、魚を描く芸術性との不一致があり、この二つの矛盾は近来彼の仕事の上で益々開きができてきた。まもなく彼はどつちかに決めざるを得ないだらう。大臣の顔を鰯やヒラメやカナガシラそつくりに描く生活に入るか、反対に現在の芸術的な小品『魚』の顔を大臣の顔やファシストの顔そつくりに描くようになるか。あるひは全く大臣の顔を描くなどゝいふことをやめてしまつて魚や風景に限つて突つくか、上野山はこの三つの内のどれを選むだらう。私が彼をハムレット的といつたのは、彼の芸術家としての良心性を発見してあるからで、時代的な動揺性を敏感な形で、彼は身につけている。きのふ海の中の人魚や、原始人の母と貝殻の上の子供やを描いた上野山が、今日ライオンに鹿を喰ひ殺さしてゐる、大臣閣下の肖像を描き、魚をならべて描いてゐるといふ、絵の主題の上にも時代的な動揺と矛盾とが現れてゐる。そのことは彼の芸術的良心がないといつてはいけない。そのことが芸術的良心であり、彼の人間的な良心である、ただ彼が描き残してゐるものは、労働者と工場だけである。労働者や工場を彼が描く程、彼の矛盾が拡大すれば、一層興味がふかい。だが残念ながら、彼の良心はそこまで良心的になることができない。彼の良心の限界が自から証明されて来る、その点がハムレット的理由である。
 私は上野山の絵に多分にボオドレイル的なものを見る、『魚』の色感を一口に醜いと決めてはならない。一尾の魚の物質感を、あくまで色彩の諧調で表現していかうといふ色彩家らしい追求の仕方はかなり独自的なものがある。ゴッホの色の理解と全く相反したものが彼にある。夜さへ尚太陽的な昼のゴッホに対して、昼さへ尚月光的な夜や薄暮のやうに描くのは上野山である。彼の魚には光線の直接的な物体への吸収といふものはない。光の中心点といふものはない。だがそのかはりに月光的な、月の反射的な光りの特別な環境をつくりあげてゐる。
 微細な神経のふるへ、往々人が見遁すところの、たゞ一色のものを、彼はその一色を上から或は下から一枚々々はぎとつて、その一色を百色にも千色にも段階的に表現しようと彼は努力する、
 物体の外面的結合としての単色を彼は憎んでゐる。だから彼は色の単一化とたたかひ、複雑化さうとする、上野山の絵の色に人々は特別な不快感を味ふらしい。だがそのことだけで上野山の色は『醜い』と早計に決めてはならない、『美しい色とは何か?』といふ疑問はまだまだ画家や見るものに残されてゐて良いからである。
 帝展系の色の美しさと、独立系の色の美しさとは益々今後対立的なものになつてゆくだらう、そのやうに上野山の美意識としての色彩の性質はかなり美の一般性からは孤立的なものではあるが、一つの特殊性をもつてゐるといふ事ができる。

 旺玄社の作品は総じて審査の上に、個々の作家の個性尊重の立場にある。それは良いことである。
 光風会はすこぶる大作主義でまた一面に労作主義であるがこの光風会の大作、労作は、案外稀薄なものがあり、手堅さの点では旺玄社の画家の方がずつと真剣さがある、ことに光風会の陳列方法ときては、三段掛けで余りに無神経さを暴露してゐる、配列のルーズさは街頭の掛軸売でももつと光風会の陳列よりは神経を使つてゐるだらう。発表の自由は結構であるがあれでは困りものといへるだらう。
 旺玄社評では、上野山、岩井の二作家を二人の問題作家として採りあげたから、こゝでは余り顔ぶれを挙げない。
甲斐仁代――色感も美しいし線も婦人にしては奔放なものがある。然し扱ひ方は決して新しいとはいへない。直感するところは『女の辛さは男の甘さにさへ負ける――』といふ感想が湧いた、もつと判り易くいへば、女は相当手固い突込み方をしてゐても、矢張りどこか男の画家にひけ目なものがあるといふ感である。たゞ甲斐仁代の色感に就いての理解は良い。
橘作次郎――「化粧する女」「鮒」私は後者に好感をもつ。この鮒の調子で作風を統一し、これで押していけないものだらうか、この境地でも相当面白い独創的な仕事の分野が開かれると思ふ。
佐藤文雄――良い幻想性が流れてゐる。たゞ物の明るさと暗さとに就いて不明確な態度がある。作者は影を無視するといふ境地にまで辿りつく勇気をもつてゐない。従つてその影暗い筆触にうるささが眼につく。
加藤保――物の配置の面白さに時代的な感覚があり、いつそシュルリアリスト的方向に進むか新しいリアリズムを追求して行つた方が独創性がでさうに思ふ。
青柳喜兵衛、水彩の千木良富士、陳億旺、牧野醇、梅沢照司、尾崎三郎は色々の意味で批評したいが紙数が尽きたので次の機会にゆずる。
光風会――では前にも述べたやうに配列のゴチャ/\で批評の食指うごかず、脇田利作の「三人」は稚気愛すべき作風で観者に好感を与へるものがある、「三人」では立てる青年の服装の赤さの強調も辛うじて画面に調和してかなり色彩上の冒険をやつてゐるが、良く全体の調子を保ち得た。たゞ陰影の理解や描法が常識的なものがあり画面を硬直させてゐる。
須田剋太――「群物」「カリフラワー」二点色の近代性は光風会の出品者にしてはとび抜けて新しい。構図のとりかたに近代人としての飛躍があり、明快な対象の捉へ方、特殊な水々しい感覚の作品であつた会場を一巡して須田剋太の絵にきて、どうやら社会性や時代性に接した感がした。この作家の良き才能を祝福したい。
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洋画壇時評 独立展を評す

    第一室

 中間冊夫 筆法が濶達でのびのびした作画態度にこの人の将来の仕事への余地を示してゐる。一沫の凄愴味がありそれに絵画的要素と文学的要素と、これ程に調和的なものとした手際は水際立つてゐる。日本の洋画壇でも、もういゝかげんに絵画の世界と文学の世界との結びつけをやつても良いと思ふ。中間冊夫は今後益々この特異性を発揮して欲しい。
 菊地精二 この作家の構成の苦心は買ひたいが「鉄」「機械」「ガラス」といふ三つの物質の描写上の説明が、いづれも混沌として、三つの画題に分けた必然性がない。もつと具体的に三つの物質を見る者に説明し、証明する親切さがあつてよかつた。例へば「ガラス」の描写にしても、ガラスといふ物質は最も重要な他の物質と異なる組織体として、透明であるといふこと、このことは硝子を描く上に無視出来ない筈であるが、彼の「ガラス」の描写には色彩と線との構成的成功があつたが物質の質の説明がなかつた。然し菊地精二の絵の色感は何れも時代性を把握して美しい。

    第二室

 小島善太郎 のマンネリズムには私が批評するまでもなく、マンネリズム批評家に委ねていゝ。
 川口軌外 の四点の出品のうち、「貝殻」だけは沈着いてみることができ、其他の「無題」「花」「鸚鵡と少女」何れも線のうるささと、色彩は美しいといふよりも、通俗的美観を呈してゐた。新時代の美意識といふものの、追求が足りないと思ふ。

    第三室

 中山巍 「蔬菜」「砂丘」「花」の三点の出品は自づからこの作者の三つの方向を示ししかも三つの心理的分散を証明したものがある。私は中山巍を他人のいふ程にリアリストと見るわけにはいかない。辛うじてリアリストであるだけだ。
「砂丘」は作画態度の明快な、そして色感の豊富なものがあり、筆触の簡略化も効果をあげてゐるが、全体的に批評すれば、総べて中山巍の画は概念的なものゝ一歩手前で踏みこたへてゐるといふ態度である。「砂丘」の遠景の三人の人物の周囲の絵の具の盛り上げた意味がないと思ふ。ただ空の色に異様な光りの吸収を為し逐げて[#「逐げて」はママ]美しい。

    第四室

 宮城輝夫 の「猟」(鉄砲)は色彩に時代性があつて良い。独立展の進歩性の一つに私は是非色の時代性(進歩性)も加へたいと思ふ。画家は一応色彩家としての時代的敏感さがなければならない。その点独立の画家は色の性質に就いて無神経すぎる。デパートを一巡しても、もつと涯かに商品の上に色彩と時代との有機的関係が結ばれてゐるのを発見する。その意味でデパートの商品の色彩の方がずつと美しいし進歩的だし新しい。
 曾宮一念 この作家が独立に加はつたといふことは、リベラリストとして正しい態度であらう。また曾宮一念の進歩性といふものも一般が理解してやらねばならない。色の新鮮性を私はかふ。但しその色の新鮮性といふものは、多分に主観的なものであるといふことを観者は忘れてはならない。仕事の上の非妥協的な態度は良いし、仕事に対しての苦しみ方など若い人々は学ぶべき点があるだらう。
 海老原喜之助 「曲馬」馬はちよつと面白い。殊に馬の物量感がでてゐたし不思議な線の歪みの中に立体感を捉へ得てゐる。この人の絵はもつと小品をまとめて個展か何かで見せて欲しい気がする。
 里見勝蔵 所謂里見式の仕事の反覆性が観念の固定を来してゐる。作者としては苦しい境地であらう。自分の才能を信じ切ることのできない良心的なところが、また里見の良さの一つであらう。だが、私の希望するところは、仕事の進め方の方法論だけである。俗に飛躍と名づけられるやり方で大胆に変つた試みをやつて欲しい。(否見せて欲しい)里見の場合一枚の画から、次の一枚の画に移る過程に必然性を看落してゐる。里見は仕事の仕方を、何か決定的なものに考へこんでゐはしないだらうか。その苦しみの切実さと、作品の出来栄とは又別だ。あゝまとまつたものでなく大いに過失をしてほしい。

    第五室

 鈴木亜夫 「撮影」こゝに描かれた人物は一九三五年の人物ではない。取扱の上にすでに社会性が喪失してゐるし、絵を描く本能があゝしたテーマに動くとすれば低徊な趣味といふより他はない。

    第六室

 児島善太郎 残念ながらブルジョア的要素を洗ひ切ることができてゐない。進歩性が少ないといふことは、絵を見るよりも、その絵を収めてゐるガクブチを見ればそれを雄弁に語つてゐる。
 熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる日本的な作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。

    第七室

 この第七室辺りから独立展も少し見応へのある作品がチラホラと列んでゐる。
 松島一郎 「靴屋」「豚屋」「港の人夫」「崖風景」この人には「崖風景」のやうな落着いた仕事をもつと拝見したい。靴屋人夫必ずしも風景より時代性に富むものとは考へられない。松島一郎の場合、テーマに特別の野心があるのが、却つてこの人の才能を殺し才能を半減してゐる。もつとスローモーションで結構だから、描く対象と取り組んだ仕事をしてほしい。

    第八室

 寺田政明 「長崎風景」「海辺静物」この人からは特殊な色感を発見する。それだけ人知れぬ苦心と勉強をしてゐるわけだ。展覧会芸術の色や線の強調一点張の世界の中では斯うした沈着いた仕事ぶりは、通り一ぺんの観客の眼には強く訴へないから損にはちがひないが、結局はこの人のやうに己れの風格で押して行つた方が勝ちを制するだらう。ただ目下のところ色の対置の美を少しねらひすぎてゐる感がある。「海辺風景」の方が良い。この絵からは見る者が一つの恍惚感を味ふことができる。線の発展と、構図と空間性の上では成功してゐる。「長崎風景」は「海辺風景」のやうな飛躍さがないが、ある沈潜した自然な美がある。
 福沢一郎 「水泳家族」「水泳群線」極度にママ異さと、誇張さとを追求した二点である。技術の伏線的で的確な点では独立随一の技術家であらう。
 一枚の絵を描くにこの人位に計画性を完全な形で働かせ得る人はちよつとない。だからこの人は技術と主題と一致した場合恐ろしく良い絵ができなければならない人だ。だが、今度の水泳の二枚はこの人のこれまでの特長である思索的テーマを離れたものであるだけ成功とはいへない。『触手ある風景』は絵かきを驚ろかすことができるが文学者には首をひねらす絵である。

    第九室

 伊藤簾 「雨霽」(熊野川)「静物」 この絵には良く人柄がでゝゐるし、すでに心境的作家に入つた絵である。心境的になるといふことが良いことであるか悪いことであるか性急に決めることができないが、若し心境的といふことが仕事の上の早老であるとすれば問題である。

    第十室

 須田金太郎 「水浴」「少女」この人からは近代人の古典画作りといふ感がした。この感は遺作を列べてゐる三岸好太郎の諸作にも同様のことが言へる。三岸の場合は須田より年齢的に若いだけに一層その感が適用されるだらう。したがつて三岸の「人物」画よりも三岸らしい才能を発揮したものはシュルな貝殻や海へ傾けた近代人としての神経の細かなケイレンの感の美しさがある。
 須田の場合は同じ古典画作りとしても、須田式な現実感があり、能動的な虚無主義者として躍如としてゐる。須田の絵からは一つの寂漠感と現実の否定的とを引きだすことができる。須田の絵の批評の場合は、彼の抱いてゐる世界観で踏みこんでいかない限り批評することができない。須田に色調を斯う変へてくれとか、材料が今どき「水浴」でもあるまいなどと注文したところで注文する方が愚の骨頂であらう。彼の絵には現実の空間に対して特殊な認識がありそれが彼の絵をボッと霞んだ不透明なやうな透明なやうな絵を描かせてゐる。
 だから時には遠くの物を前景のものより明瞭に見るといふ場合が彼の場合多くある。そして視覚的意味に於ける前景無視の彼独特の処理の仕方に対して、私は一つの意見をもつてゐる。彼の激しい対象の追求の方法は私は好きだが本人が意図してゐるかどうか判らぬが意図の究極的なまとめ上げを客観的に観るときには、彼はそのまとめ上げを『光り』をもつて最後を制約してゐるといふことだけははつきりといふことができる。彼を虚無主義者とみ、しかもその能動性をみたのは、彼は如何なる肉体其他の描く物質をも、『光り』をもつて一度は破壊し尽し、再び『光り』として現実のものにまとめあげ形象化してゆくといふやり方である。試みに彼の「少女」を少し注意して見給へ。少女の肉体は全く光りをもつて形づくられてゐるから、――線画上の物質としての光りに就いては研究課題として面白いし、また須田国太郎に就いては言ひたいことが沢山あるが長くなるので次の機会に譲る折を見て須田論を試みたいと思ふ。
 吉原義彦 リアリスト吉原の作画態度や、今度の独立への出品画に就いては、もつと採りあげて問題にしていゝ。殊に若い画家達の間には、リアリズムに就いてかなり関心を深めてその方向に画風を進めてゐる人が少くないだけに、吉原の仕事の進め方の検討は意義がある。絵画上のリアリズム論は茲では措いて、私は『オルガに扮せる原泉子』では、まだまだ手も足もでないリアリズムを感ずる。ブルジョア的写実主義者の作画上の自由性と新しい写実主義者殊に何等か仕事の上に社会性を附与しようと企てゝゐる、画家の作画上の自由性とは、それぞれ制約するものがちがつてゐる。吉原の場合ブルジョア的な自由は欲しないだらう。だが見給へ。ブルジョア的な自由主義画家がいかに勝手にふるまつてゐるかといふことを。その意味に於いて吉原はもつと大いに勝手にふるまつて良い。吉原の絵を見ると建設的要素は多いが、破壊的要素が少ない。然もこれらの要素を吉原は絵の上では個人的立場に解決してゐる。もつとリアリズムの守り手として、旧来の絵画上の諸秩序の打ちこはし手として吉原の創造性を発揮してもらひたいし、若い後進のためにリアリズムの基本的方向を示してやるべきだ。

    第十一室

 田中佐一郎 この人は気迫の弱さにありながら、殊更に強い絵を描かうと努力してゐるといふ感がある。だから自然な素直なあまり無理をしない態度のものとかへつて人柄がでゝ美しいものがある。『牛』などその意味からも好感をもつことができる。
 中村節也 カラーリストらしくふるまつてゐるが事実はカラーリストとしては認め難い。仕事は出鱈目なところが多いが、絵のまとめ上げの点や効果を心得てゐる点では隅に置けない『池鯉』など殊にさうである。

    第十二室

 多賀延夫 『石など』 この絵のやうな画風をどんどんと追求して行つたら独自的な世界へゆくと思ふ。態度も素朴であるし、対象の理解も複雑である。石と鉄片の構成は面白いし、殊に石とか鉄片とかいふ物質に関心をもち、これらの粗雑な物質の表面の凸起面の描写に苦心してゐることは判る。題材は良し、残るところは描き方だけである。
 三岸好太郎 この室には三岸の遺作が列んでゐる。『貝がら』とか『海と射光』とか『海洋を渡る蝶』といつたシュールリアリズムとしての彼の題材のものに矢張り好感がもてる『立てる道化』といつたクラシック張りは三岸でなくても誰でもやれる仕事である。
 クラシックとモダニズムとの矛盾の児と彼を呼ぶことに異議があるまい。もう少し彼を永生きさせてをいたら相当面白い仕事をしてくれたと思ふが、中途半端な仕事で夭折したことは惜しい。彼は好んで蝶を海の上に飛ばせる。それは彼の近代人としての不安感の表現である。
 ダリの頭にヱルンストの尻尾をくつつけて自己の物と主張してゐる風な画家が少くない折柄、三岸のものは人柄がでゝ気が置けなく見れて良い、やうやく少しばかり彼の独創性が加はりかけてきたのに惜しいことをした。私は彼の絵は好きでない。才能が好きである。

    第十三室

 大野五郎 『女と』と『朝』では前者の大野らしい詩のある絵の方を好む。スポーツマン[#「スポーツマン」は底本では「スホースマン」]の朝の充実した感情を描いた『朝』では手堅い仕事ではあるが試みの域を出てゐない。『女と』では構図の上にも、色感でも、どこか伸々とした大野らしいところがあるし、一種の親しみぶかいユーモラスを感じさせる。どんどんと気儘な絵を書いてもらひたい。彼の構へ方は良い。
 浦久保義信 『花と駄馬』では坂路を鉄片や針金らしいものを積んだ馬が喘ぎながら登つてくる。野では花を踏みにじつてゐるといふ絵である。テーマは古い、然し描写の近代性の点では浦久保の仕事は独自的な新しさがある。馬の脚元に花を散らしたものは観る者の感傷性を唆るだけで、テーマの上では甘い。だが前にも述べたやうに、浦久保義信には特殊な色彩への感能があり、線の奔放性と、色彩の激情性を特に私はかひたい。『夜店』が彼の本質的なものだ。『花と駄馬』それに次ぐ、他は動揺の作だ、浦久保の絵あたりを見て始めて新しい『独立展』を見たやうな気がする。福沢一郎にせよ、浦久保義信にせよ、中間冊夫にせよ、また須田国太郎にせよ、絵の上にある共通した突きつめたものがある。それが一つの凄愴感となつて何れも訴へてくる。これらの自己に甘えてゐない作家たちの絵は何時の場合にも周囲を圧倒するものがある。

    附言

 最も新しい方向を辿る洋画グループとしての独立展のその進歩性に就いて現在のやり方は相当問題がある。一応審査員があつて、作品を採り、また沢山の作品を落してゐる以上、会そのものの責任の限界を何時の場合でもはつきりしてをく必要がある。賞の出し方の無方針極まるやり方や、毎回厳選主張を標示しながら、厳選、厳選をいつも会全体でなく、個人にもつてゆくやり方は会を全体的に進歩せしめることが出来ないだらう。出品者達は血の出るやうなせり合ひをたがひにやつてゐるに反して、会員諸君が案外心境的に馴れ合つてゐるのではないだらうか。会員同志でも、もつとせり合ふやうでなくては、活気ある独立展を見ることはできまいし、第一現状の儘では後進が可哀さうだ。
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商業資本と日本画家の良心
   三越日本画展を観て


 日本画と洋画との社会的地位の相違、かなりデリケートな立場にある。しかし洋画の畠は残念ながら商品化の世界に登場するほど未だ大人になつてゐない。洋画が商品化されてゐないといふ理由は、商品的な値打がないといふ問題とまた別個に、日本の長い伝統の中に一般民衆の美術に関する認識へ添はないといふ大きな問題を含んでゐる。だがこゝでは洋画に就いての問題はさし置いて、日本画に就いて述べてみたい。
 殊に旧臘一日から八日まで三越四階西館で催された『三越日本画大展覧会』をみて、その主催が純然たる商業資本の下に行はれ、総ての規模、計画が商業資本に依存されてゐるのをみて一そう此の問題を取り上げる理由もはつきりして来る。
 日本画が芸術的な価値を主張しながら如何なる姿で商業資本と握手する事が今後可能であるかといふことは興味ある問題である。殊に之等のデパートと別個に一応純芸術の発表機関が他に存在してゐる今日、当然二つの間に開きが今後現はれるか、それとも顧客本位のいはゆる売絵の芸術性と無選択に一緒になるかどうかといふ今後現はれる所の現象等は一応検討の必要があるだらう。
 僕の考へる所に依れば商人と職人との関係がどうも起きさうに思へてならない。こゝでは価格の高い、安いは何ら理由にならなくて、下駄職人が新品をデパートに持ちこみそれが委托の形式でウィンドに並び一定の時期が来て売れないものは返品するといふデパートの資本要らずの返品主義とどの様な違ひがあるだらう。今度の展覧会をみたが、堂々たるもので、龍子、関雪、翠雲、大観の錚々たるところを筆頭に大体に於て画壇で社会的地位を代表した画家を並べ、またどういふ縁故関係かおそろしく無名な画家も四、五を添へ先づ見た眼は相当な粒揃ひであつた。作品の出来も僕は小品揃ひではあるが大体に良心的なものが多かつたやうに思ふ。
 商人といふものは専門家でないやうでゐて、それが専門絵画に関する専門的な見方、どれが良いとか、どの画家を選ぶべきかといふ事は他が考へるやうに無鑑識なものではない。それは商人の特質ともいふべきものであつて、より多く儲かる商品をより高く売り得る商品を発見するといふ才能は芸術専門を以て自任してゐる専門家よりもその職業が一そう敏感な働きをもつものである。だから商人の商品価値の眼識をもつて芸術家の芸術価値へ眼鏡を与へる場合、相当な眼識をもつて芸術家の芸術性の殆んどのパーセンテージを知る事が出来るのである。試みに一人の専門に洋傘を製造してゐる職人、或は皮革製品の専門職人と、デパートのその売場専門の係員へと専門商品に就いて討論さしてみたまへ。おそらく専門職人が知らない種々な知識をもつてゐるといふ事を知るだらう。それと同様にこの種の三越日本画展は早晩専門職人以上の美術鑑賞をデパートに与へるやうになる事はハッキリしてゐる。結局画家諸君が自分の作品を持ち込み、展覧会をひらきそれを繰り返す過程にすつかり商人教育が成り立つであらうといふ事は明らかである。
 そこで何故僕は専門画家以上に日本画についての一般眼識が商業資本家に握られるかといふ事を考へてみよう。
 それは解り易く言へば美術品が商品化の世界へ手渡された瞬間に、美術家は下駄製造職人と何ら変らないところの職人性へ立場を置かざるを得なくなるからである。悲しいかな美術家の特殊性といふものはその作り上げるものゝ特殊性である。そして自分の労働の生産品をよくしよう、発展させようとすればする程、その方法として専門化してゆかなければならない。それが勢ひ特殊な労働といふものは特別な画家といふ他と違つた専門的な立場へ自分を置くようになる。
 その労働の専門化、限定性といふものがとりも直さず職人性と呼んでよいものである。たゞ下駄職人と美術家と違ふ点は下駄職人は自分の拵らへるものに一つの美を発見するといふことはあるだらう。だが正義観、道徳観で下駄を作つてゐるやうな馬鹿者はゐないだらう。それは商品の為の商品でありいはゆる職人である。だが画家の場合は、下駄職人と違ふ点は、善と正義観といふ道徳的な意識が余計に加へられてゐるといふ意味に於て下駄職人と一緒に出来ない。
 だがもし下駄同様作品の美のみ追求して正義観や善を作品の世界へ主張する事が出来なくなつた場合は、デパートの一般商品と同じ立場になる。おそろしいのは商品性である。
 デパート展の方針は明らかに善や芸術家の正義感を売る事を考慮に入れてゐない。そこでは良心的な美術鑑賞家を目標にするのではなくて他の商品の顧客者をその儘美術品へ移してゆけば、デパートの目的はそれで充分なのである。そして漸次的に自分の作品が売れて欲しいといふやうな追従心がます/\画家の作品へ濃く現はれざるを得ないではないか。しかもこの商品としての美術品は画商の世界に於てもすでに芸術品を商品的な侮辱の下に扱はれてゐるといふ事はハッキリしてゐるので、いかに手間をかけたかといふ事つまり労働力をだすその時間的な長さも既に商品的な価値の部分へ繰り込まれてゐる。その証拠には某大画伯の水墨の竹、それは非常にあつさり画かれたものではあるが、もう葉が一枚画面の空間に描かれてあればこの絵は百円違つたのだがと画商をして平然と言はしめてゐる。つまり労働の量、葉を一枚多く画いたか否かといふ事が商品的価値の上に大きな作用を生じさせてゐる。そこで心得た画家は弐百円の竹、五百円の竹、千円の竹といふ事の価格的な価値を手間賃に換算して或る時は筆を入れ、或る時は筆をぬき、時にはおそろしく密画を画くことも心得てゐる。これなどは明らかにハッキリとした芸術品の手間賃だと言へるだらう。その場合その絵画の価値といふものは金銭といふ形式などに於て定められてくる。しかも芸術家の人知れない苦心などゝいふものは商人にとつては関心事ではない。特殊な技術性も認められずたゞ商人の頭の考への中には金銭的、数字的思索を発達させるだけである。芸術家の唯一の誇ともいふべき所の絵画への真、善、美なるものは全くその基準を失つてゐる状態である。今回の三越日本画大展覧会の中の絵を例としてみてもハッキリしてゐる。例へば横山大観先生、二尺五寸幅横物『月明』と題するものをみても明瞭である。横山大観が何故いはゆる大観王国を形成するほど勢力があるか。彼の画壇的政治工策の事はおいて、さてあの無数の展覧会の出品の中に人間を離れた一個の芸術品として、総ての他の画家の作品と肩を並べて位置し観賞してみるがよい。大観といふハンディキャップなしに周囲のものと較べてみたらよい。残念ながら『光つてゐる』だがその光り方が一つの問題である。画壇人の中でも大観の作品に何らかの威圧を感じてゐる人もあるだらう。或ひは一顧の価値をも認めないと広言し得る者もあるだらう。さてしからば具体的にその理由を語つてみよと言つた時にはおそらく説明ができないだらう。以上は同業画壇人への言葉である。
 次にかゝる絵の専門家ではなくいはゆる絵の筆法や色彩に良心的な観察などを働かす余地のない、いはゆる単純にみて感動し、単純に誹謗する一般の人々はどうか。こゝで僕はすべての一般人が大観の絵に非常に感動させられてゐるとはつきり言ふ事が出来る。そして何故一般人に大観の絵が何故よいかといふ質問を発した場合に絵かきに問ひを発した場合よりハッキリと『解らない、たゞ何となくよい』と答へるだらう。そこに大衆に支持される理由があり、ここに商品的価値を高めさしてゐる原因もある。大観の『月明』は松の描写が稚拙といふよりも粗雑に類する描き方であつた。それは先を切つたちび筆で描いたやうなボキ/\した枝や葉の描写で何ら松の木のリアリティを捉へたものではない。そしてたゞ影絵のやうな黒い松林の地に月の反射を受けた軟い白い波がひた/\と打ち寄せてゐる。空には白い月が大観一流の暈しで円くかゝつてゐる。松の描写は粗雑である。だが光に対する感度の高さは僅かなスペースに非常な感動をそゝるやうな仕組に描かれてゐる。その描き方のコツの良さは第一に一般人の程度の低い感傷さを生理的に捉へてしまふ。言葉をかへれば大観の普遍性を捉へる歳の劫を経た力量が隠されてゐるのだ。それは長い年月迷ひぬき、苦みぬいた揚句の通俗性への勝利である。そしてこの種の解り易く、野心の内面的であつて表面的でない絵はよく売れるのである。それに較べて例へば小松均先生の『氷見鰤』は二尺五寸横物に殆んど画面一ぱいに逞ましい胴太の鰤を無雑作に転がして描いた絵これなどは画面の位置を考慮するでもなし大衆の感傷性を上手に捉へる色彩を選ぶでもなし、全く非妥協的な描き方のものである。鬼才小松均先生の芸術的な良心はこゝでは商品化の資格を失つてゐるのだ。
 之程にも一つは売れる要素を具へ、一つは売れない要素と芸術とが共同的な仕事をしてゐる事はあまりと言へば皮肉な現象である。制作展で絵が売れないといふ事は恥辱にはならない。だが商業資本家展で絵が売れないといふ事はこの世界でのみの恥辱である。しかもこの二つの矛盾をもつものは同一の作者であり、同一の絵である。商業資本家展の出品に対する考へ方に案外ルーズな見方をしてゐるといふ事は芳しくない。こゝで僕の提案したい事は制作展と商業展との劃然たる分離を心理的にもつて頂きたいといふ事だ。どつちが好い加減であつても必ずその画家は損するであらう。制作展で評判のものを商業展に列べた場合には完全に売れない。その反対に商業展でおそろしく人気のよい作品は制作展では落されてしまふといふやり方を徹底さした方がよい。両者の混同は決してよくない。商業展にはあくまで売れる絵を描くといふ事を徹底させたらよい。その絵には決して芸術的な批評を加へないといふところまで出品者は徹底した方がよい。一方制作展に商業展の販売意識を少しでも持ち込むものがあつたならば片つ端から落したらよい。しかもデパート展などは画稿料を払つたとしてもそれは一部の画家に過ぎないだらうし、多くは委托販売の形式になるのだからあくまでせいぜい売れる絵の出品を企て売つた方がよい。デパート展には制作良心なしといふ所まで徹底し生じつかな芸術良心を働かして無意識の間にこのデパート展の販売政策に絵の本質を売り渡す事がないやうに『デパート展の絵』の劃然たるものを一般出品画家が心構へして過つもデパート展の場内芸術意識のせり合ひなどをやらない様にした方がよい。何故といつてそれは無益であり、お互に不幸であるから。
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小熊秀雄個展


「画観」の高木さんが、私が池袋「コティ」で突然小品個展を開いたので、何か感想を書くようにといふことである、あの個展は、言はゞ「非公開の公開展」ともいふべき性質のもので案内状も出さずほんの知人への公開といふ意味の催しであつた、私は画家でないので詩人としての絵であるがさりとて、会期中あるママ家がつくづく私の絵をみて『貴方は絵画上の造形性といふものをどう考へますか』と質問されたのにはダアとなつた。
 この質問者の眼からみると、私の絵には何か画家がよくいふ『造形的なもの』が欠けてゐたのだらう、そこでさうした質問がでたわけだらう、その造形的なものの臭味をこそ脱けたいばつかりに僕はこれまで絵の上では苦心してきたのである。
 そして私はこの質問者にぶつきら棒に答へた『もし造形性を無視して、僕のやうな絵が描けたらお目にかゝりたいですよ――』と実際に私は本職の洋画家の人よりも、最近では沢山画を書いてゐるのだし、素描もかなりたまつた。いつぺん吐き出してしまひたい心で個展をやつただけであつた。洋画家諸君にとつては私の絵は問題の提出的になつたやうだし、忠実に観てくれた。そして謙遜な画家は素直に、この絵の実感はどうして出したのかと質問してくれたので、私は出来るだけ判り易い言葉で、その実感の出し方についての過程を説明したりした、絵の上では私は、素人も玄人もないと考へる、日本の洋画の発展が遅々としてゐるのは、現在の社会的環境に依ること勿論だが、それよりも各個の画家が同一の作画上の問題を、同一に協力的に解決しようとしないところに、発展が遅れる理由があると思ふ、おたがひに話し合つて技術上の交換などをやつたらいゝのだが、その自由主義がない、ヱゴイズムが何か個性的な画風を確立するかのやうに思ひちがひをして排他的である、それではいけない、僕のやつた画家ではない画家(私は私自身を参考画家と呼んでゐる)何か私の描き方に画家諸君にとつて参考になるやうなところがあつたら自分の喜びだ、油絵は今年になつてから始めたといつていゝ、線の発展だけで狂ひ廻つてゐる洋画家達の群の中で、私は地味ではあるが『質感』の研究をやつてゐる形態上の変化などは今の処面白いことに考へたい、質感が充実した面を描けもしないで、線だけ踊らしても始まらないと思ふからである、デッサンは三百枚程この一年間に描いた、ペン画で小市民の生活をテーマにしたものである、機会をみてこの素描展をやりたいと思つてゐる、それからこゝで画観の谷氏へ注文があるのでそれは日本画家の素描は僕が好きなので、日本画家のデッサンも画観に折々載せて欲しいと思ひます。
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超現実派洋画に就て
   ヱコルド東京絵画展の感想


 東京府美術館で催された独立美術系の若い洋画家たちの、集団『ヱコルド東京展』をみて、私は兼ねてから抱いてゐた超現実派の洋画に関する私の考へ方を一層確信的なものにした、どういふ形で確信的なものにしたかといふと、我国の洋画界には、まだまだシュルレアリズムの正統的な画家はゐないといふ結論であつた。ヱコルド東京といふ団体に果して幾人の超現実派作家がゐるかといふことが問題であつて、殆んど私の眼には写らないのである。
 この団体の人々は、或は自分達はシュルレアリズムの団体ではないと言ふかも知れない、さういふ自覚があつたら幸ひである。
 不幸なことには我国には、あまりに超現実派の立派な絵画が多すぎる、日本画の伝統は将にそれであつて、日本画の中には、実にすぐれたシュルレアリズムの絵画が多い、現在の若い洋画家は、日本画の超現実性は勿論否定もするだらう。そして自分達の求めてゐるシュルは東洋的なものではなくて、ヨーロッパ的なそれだといふだらう。
 私は超現実性なるものの理解が、東洋的なものでなくて、西洋的なものであるといふ画家があつたら、それでは『君の仕事を全く唯物的基礎から出発し直し給へ!』と言ふだらう。唯物的であることが、超現実派の作品を描かせなかつたとしたら、それは真個ほんとうの意味のシュルレアリストではないのである。そして日本の画家にせよ、詩人にせよ、この派の人には残念ながら、東洋的理解にも、西洋的理解にも立つことのできない、宙ぶらりんの、中途半端な存在であるといふことができるだらう。
 日本画の雪舟の水墨のもつリアリテはセザンヌのもつリアリテと比べて何の遜色がないといへる許りか、優つてゐても劣つてはゐないのであるし、現実主義者としての写楽の高さは、単なる観念的な現実主義者ではなく、芸術に於いて言はれてゐるところの『表現力』を併つたところの写実性であるところに写楽の偉さがあるだらう。
 新しい洋画家たちは、北斎や、雪舟や、写楽などをどういふ風に観てゐるだらうか、私の知つてゐる限りの画家では、さう深い理解の上でこれらの日本の過去の作家をみてゐないやうである。日本の伝統的な良さを洋画に新しくとりいれるといへば、富士を描き、鶴や、鯉のぼりを描く努力を払う、それも悪くはないが、富士を描くことが伝統の継承でもない新しい努力でもない、同時にこれを洋画のテーマからとりのぞくことまた一層消極的である。富士とか、鶴とかいふものが日本的、東洋的であることは勿論だが、これらのものが日本的、東洋的だと言はれるやうになるまでの、歴史的な現実を考へてみたらいゝ、富士が日本的なものと言はれるやうになるまでには、相当の理由があるわけだ。それは富士が日本ではなくて、日本的現実の単なる抽象であることに気をつけたらいゝ、従つて富士を描くことを怖れる心理と、描くことの愚かしさと二つあるのであつて、それらは画家の怖れであり、愚かしさであるだけであつて、富士そのものにとつては少しも責任がないのである。たまたま独逸からアーノルド・ファンク博士といふ映画監督がきて、映画『新しき土』の中で富士をファンク博士が、富士を細長くとつたり、真丸く撮つたりしたといつて、或る日本主義者がそんな格好の富士は日本の富士ではない、ファンク博士の歪曲だといつて憤慨したさうであるが、ファンク博士許りではない、これまでにもたとへば地質学者などはとつくに『富士は三角』といふ概念をうちこはした富士の見とり図を描いてゐる筈である。
 ただ画家だけが概念を変革する力をもつてゐずに、それを描くことを避け、無神経に描いてゐるだけである。そして現在に到つただけである、画家がまごまごしてゐる間に、画家以外の科学的な態度で仕事をしてゐる人々がどんどんと抽象的な日本、概念的な日本を覆して真実な日本を表現してゐるわけだ、立派に現実的基礎から出発して、超現実とも呼ばれるものが生れてゐるのを見のがして、『超現実』といふ言葉や他人の主張の尖端にとびついてゐては、ほんとうの意味の超現実の絵画などは書けることがないだらう。
 仏蘭西の新進超現実派の作家サルウァドル・ダリの評論をみても、決して日本のシュルの作家のやうな甘い考へをそこでは述べてはゐない、ダリはセザンヌを観念的唯物主義者とみてゐるといふことは、私も正しいと思ふ、然しながらダリのセザンヌへの反撥のことごとくがダリとあのやうに新しい絵を描かせてゐるのであるし、同時にその反撥が彼の絵の弱点を生んでゐるのである。
 観念的唯物論者としてのセザンヌが果した役割を理解しなくては、決してセザンヌを一歩も越えることができない。より強く否定したかつたなら、より強く肯定してからでなければならない、日本画の伝統を否定したかつたなら、それをよく理解し肯定するといふ仕事が残つてゐる、芸術とは現実への反撥だけで成り立つといふ態度は決してその作家を大きく肥しはしないのである、ダリは幾分さうした反撥の作家でありもしダリが現在のやうな態度をつづけて行くとしたら、ダリの行き詰りは明らかなものであり、ダリ的傾向を追ひ廻してゐる多くの日本の超現実派の作家は、当然ダリと共に没落するだらう。然も作品的にはダリの足元へも寄りつけない拙作を抱へたまゝで没落するだらう。ダリは新しい衣を着た古典主義者にすぎない。ダリの理論的根拠は一応科学的ではあるが、新しい絵だと他人に見せかけることが出来る程度の科学性よりもち合してゐない、いまどきフロイド主義的理解に立つてゐるダリを私はどうしても新しい作家だなどとは思へないのである。
 ダリ自身かういつてゐる『サルウァドル・ダリが、英国のラファヱル前派の明白なシュルレアリズムに眩惑されずにゐるだらうか?』といふ言葉の中には、ラファヱル前派に対する所謂ダリ的主観と合理化があり、こゝでは完全に復古主義者としてのダリを証明してゐるだけである。ダリがラファヱル前派に眩惑することは勝手であるが、セザンヌまたラファヱル前派を忠実に観察してゐなかつたとはどうしていふことができるだらう。ダリはセザンヌを『プラトニックな石工にすぎない』とみてゐるとか、私はダリをまた『プラトニックなシンコ細工屋』と評することができる、形態の変化は芸術家の自由ではあるが、その変化が絶対的観念に於て求められるといふことなどはない、現実の変形の可変性といふことを考へることが、芸術家の良心的態度の一種である。画家がどのやうに林檎の形態を、ひんまげる自由をもつて描かうと、林檎からは苦情は来ないのであるそのことを良いことにして林檎の真実を離れて形態だけを変へるといふ態度は、少くとも自然物に対する芸術家の愛の態度ではない。もし私が林檎と同じ立場にあつて、画家が私を不自然に描いたとしたら私は『私の気持をまるきり描いてくれない不満である!』といつて苦情をいふだけである。
 日本の所謂新しい傾向を追跡してゐる画家が、判らないのは理解がないのだといつて、自分の芸術の主観性をどこまでも押し通すことは勝手である、人間の寿命などといふものは、たかだか五十年か六十年である。毎年、毎年、お祭騒ぎの判らない絵を描いて、その年々だけ、良いとか悪いとか言はれてゐる間にすぐ五十年や六十年は経つてしまふだらう。つまりどんなに大衆と離れて判らない絵を描いてゐても誰もなんとも言ひはしないのである。たゞこの人々の描いた絵が所謂芸術の永遠性をもつことができない。生きてゐる間だけ灯してゐる提灯のやうに、本人が倒れると火も消えてしまふやうな無駄な仕事をつづけることが意味がないといふことを私が忠告してゐるだけである。
『ヱコルド東京』の若いグループの中では、麻生君や、安孫子君は私の好きな画家であり、作品も個性的であるといふ意味で支持したいが、正直なところこの二人の画家にも来年の仕事は保証が出来ないのである。若い年代に良い絵を描くことは、生理的にも当然なことで、三十を過ぎて行き詰つてゐる画家を訪ねて二十代の絵を見せて貰つてみたまへ、かならず二十代にはいゝ絵を描いてゐるにきまつてゐる、それが奇妙に三十をすぎると言ひ合したやうに洋画でも、日本画でも行き詰る人が多い、人間の生活に時間が加はるとその人間の価値がだんだん下落してゆくといふことは、世間一般の生活人には案外に少ない位で、却つて芸術家の場合が多いのだ、年輩になると人間が出来てくるといふことは、世間一般に言はれてゐることで、感情的な仕事に携つてゐない通俗社会人でも、そのことがある。何かしら人柄の穏やかな、好ましい庶民的タイプといふものが、画家ではアンリー・ルッソーの描く人物のやうな人物がある、別に芸術をやるわけではないが人間そのものが芸術品のやうな人物がゐる、ところが年をとるとともにその作品に通俗性が加はつてくるといふことが芸術品に却つて多い、私はそのことが堪へられないことだと考へる。若い年代には何かしら新しさを求めるといふ欲望が動くそのことは賛成だが、描かれたものの真実性は即ち(新しさ)でそれ以外ではない。『真実を描く』といふ一本槍は何々主義などといふ絵画の主張を超えて、独自な新しさを表現することにならう。ヨーロッパ的なものに飛つくこともよいがその前に東洋的なものの過去の遺産の摂取に若い画家こそ大いに勉強していゝのではないかと思ふ。
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二科展所感
   坂本繁二郎小論


島崎鶏二氏――この人の作品に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵性があるとか、文学的であるとかいふ非難を折々耳にするが、その批評は当つてゐない、絵画に於ける文学性などといふ理論は成立しないのである、画家仲間でさういふだけである、その非難の後に密着するものは、曰く造型的な力量が欠けてゐると、――主題が一つの暗示性をともなふと往々文学的であると一口に非難してしまふが、この種の作品に対してさう批評をしないで、科学的な観点からの具体的な評を求めたいものである。画中の人物のアクションが、作画的固定性を超越し、その人物が次の動作に移動するといふ、絵画上の叙述性を示すと、すぐに文学的であるとか※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵的であるとかいつてケナすのは誤りである。『川辺』や『野路』など肉の薄いものではあるが、一種の凄惨なリアリティをもつてゐる『野路』の子供達の表情に痴鈍な美がある。
岡田謙三氏――色彩に対する感覚的な尖鋭さはゼロと言つてもいゝ、色彩の根底に近代的な卑俗性が流れてゐる、色彩はあくまで純粋でなくてはいくまい、福島金一郎氏の作品の色彩と比較したら判るだらう、岡田氏は勉強家だといはれてゐるが、感覚の鈍磨は将来のがれることができまい。
長谷川利行氏――彼は乱作家である、しかし自己主張もこれまでに徹底すれば、少くも憎むことはできまい、何か一種の風格を場中に漂はしてゐた、観念の分裂と痛々しく闘ふ生活的な画家といふところだらう。
棟方寅雄氏――『人々』北方のインテリゲンチャ[#「インテリゲンチャ」は底本では「イテテリゲンチャ」]のやうな青年がならんだ絵だ、この人の作品には何時も強いヒュマニティがあつて好感がもてる、若い世代のリアリストとしては画風の上では古いが、作意の上では新しい。
北川民治氏――『メキシコタスコの祭日』其他で相当楽しませてはくれたが、この画風で日本の現実を描き得たらすばらしい、然しまづそれは不可能に近い、形式といふものは、そこに内容的に盛りあげる現実の種類によつて、最初の形式のまゝで保ちきれないものである、氏は旅行者であるかぎり、メキシコの現実を生々しく描くことが出来た、(それは真個ほんとうのリアリティとしての描法でなく、異国主義的見方としての写実性である)然し日本へ帰つてきた北川氏は、その瞬間から異国主義者を停めねばならない、旅行者を停めたのだ、色調や、画風の一切の組立を新しくしなければならない立場に立つ、外遊してきた先方ですぐれた絵を書いてきて、日本に帰つてきた途端に一切を失つた画家が少くない、環境に沈潜して、客観的視野を失つたためである、この異色のある自由人北川氏に、更に異色のある態度の確保をこそ望みたい。
伊藤継郎氏――描く対象に対する偏愛はかまはない、しかし色調を固執することは誤りである。対象に依つて色彩は必然的に変化してゆくものであるし、それを怖れる必要はない、前回のものにこの種の固執があつて、粗雑な画面の扱があつたが、今回の出品画にはその危険は去つたやうだ、『鳩を配した裸婦』の写実力は明日へのたくましい進発を約束したものがある、仕事は困難になつてゆくだらう。然し洗練された自我を盛りあげるために、画風も自分のものを既に樹立した感じである。
竹谷富士雄氏――特待である、『夏』『海の女』では『夏』に詩味豊かなものがある、突込んである割に、映えないのは作者の心理に停頓があるからだ、色彩の重ねの効果を計画の中で軽蔑しすぎた感がある、近代感覚としても先走つた軽跳なモダニズムを排して、重厚で暗鬱な時代の色調を表現してゐるために、実感的である。
福島金一郎氏――他人は福島氏を目してボナールの画風の追求者であるといつた風に解してゐる、然し私はさうは思はない、既に画風に独特なものが芽生えてゐる、熱帯地方の蝶の翼にみる色彩の純粋さを思はせる美しさがある、その意味では福島氏は観念を美しくカケ合した画風であるし坂本繁二郎氏の場合には、観念を美しく叩き込んだ画風と言はれるだらう。もし福島氏にして強ひて新しさに行かうとせずに、自己のために朽ちるといふ作画態度であつたなら、もつと度胸のよい仕事と、独自性が生れる筈である。
吉原治良氏――『窓』我々を目醒めさせるやうな刺戟的な態度ではないが、却つてさういふ温和な方法の中で、我々を捉へる魅力的なものをもつてゐる、新しがるためにシュールリアリストになつたのではない――といつた真剣味を吉原氏の作品から受け取ることができる。
浪江勘次郎氏――『漁楽』『蒼天』等日本的なテーマを描いてゐるが、その企ては判るが既に仕事が限界的であつて、明日に期待ができない、何故といふに、テーマが日本的であることは大いに賛成だが、テーマを取り上げる前に、テーマに対する抽象的な理解を割切つて、科学的な分析を与へなければ、筆をとつてはならないからである、日本的テーマはそれを描くものが近代日本人であり、それを観る者が近代日本人であるといふ事実を無視しては、徒らに歴史に対する追従者の絵画であるといふ規定を与へられてしまふだらう。
梨本正太郎氏――『潟の見える花畑』この人の絵をとりあげる批評家はおそらく私位なものだらう、この人とは何の面識がないので年齢などはわからないが、その絵から受ける感じは、作者は五歳の赤ん坊でなかつたら、百歳の老人が描いたものにちがひない、他の批評家が問題にしないだらうといふ私の言ひ方は、この人の絵は外見的にはアカデミックな一切の形式を完備してゐるから、軽忽な評者は『古い』と一言で言ひ切つてしまふだらうからである、五歳の小児の感能の世界は人生の薄明期を彷徨する世界であり、百歳の老人の世界は人生の薄暮に住む哀愁が漂ふ、梨本氏の作品はさういつた感覚的な蔭の多い美しさの蓄積されたものである。
石井万亀氏――この作者の前衛性を見究める場合には、作品の線や色に就いての親切な客観的態度を批評者にとつて必要とされる、若いシュールリアリストは、線の整理や型の思ひ切つた飛躍を石井氏に求めてゐるやうであるが、私に言はせればシュールに新しいも古いもないのである、石井氏は若手のシュールに言はせれば古いシュールであるかも知れないが、封建性や伝統性への反逆と格闘をこの派の生命とするならば、私はむしろ古いシュールリアリストに新しい現実の再現をこそ期待するものが多い、石井氏の感覚の画面上での処理は決して消極的ではない、洗練されたものである。
高岡徳太郎氏――『山』色彩は悪いが、全体的に何か魅力的なものがある、色彩の悪さに問題を抱含させてゐるからであらう、美的享楽を画面が我々に与へはしないが、混濁した現実が我々を美に反撥させるとき、往々我々を麻痺させることがあるが、その種の醜がもたらす快感がある。
佐伯米子氏――この人はお家の芸に隠れた感がある、この人の女性的な繊細な線は、曾つては日本の作家の男性的な力に対抗するほどに、デリーケートに活躍した時代があつたが、今はその面影もない、この人には作家意欲の高さはあつても、たくましさがない、画面に喰ひ下る執着の乏しさがある。
熊谷守一氏――『牡丹』は出色の作である、この小品は人間の精神の高さに於いて、こゝでは種として道徳的意味ではなく、自然観察の上の精神的高さに於いて、極限的なものを示してゐる、各人はその究極的な意味に於て美を語り尽さうとするものであるが、熊谷氏の小品『牡丹』では現実の豊饒化が企てられ、『絢爛美』に相当する現実が描かれてゐる、他の二点は既に私の頭の中にある熊谷氏の作品といふ概念のものであつたために『牡丹』のやうな新しい感動を与へなかつた。
野間仁根氏――良い意味での爽快性、悪い意味での職人性は、『夏の淡水魚』の作である、野間氏の懐古展で見た実力はこゝでは見られない。
中村暉氏――彫刻『少年道化』の良心的態度は支持されていゝものがある、作者の感情の美しさが無条件的に作品に現れてゐる、芸術家といふものは結局は精神上の叡智に依つて勝負けが決まるものであるから、中村氏のやうな聡明な行き届いた神経の下につくられた作品は最後的な勝に帰するだらう。
渡辺小五郎氏――『膝をつく女のトルソー』は中村氏と同系列のヒューマニティの作家であつて、塊りをやかましくいふ彫刻界では反対者も多いだらうが、私はかうした繊細な態度を支持したい、彫刻家が土方の一種であるとすれば渡辺氏のやうな脆弱な精神は軽蔑されるだらうが、そのモロさに美しさがある、ガンガンと叩きつけたタッチだけを見せつける作品は嫌である。
河合芳男氏――『女人像』の神経は渡辺氏に較べては太い、然し全く反対の立場にあるものではない、感情の切断面の美しさともいはれるべきものがある、形式美への追従を避けて、もつと圧縮した現実といふべきものを見せてほしかつた、相当に高い技術をもつてゐるのであるから今度は技術を殺すことに依つて迫力がつく筈である。
川崎栄一氏――大作であつたが、肝心の距離感が喪失してゐた、テーマの上では難はなく、意志と恐怖と哀愁とは現代の三つのテーマとも言へるものであるが、川崎氏の群像はその時代的な象徴を語るものであつた。群像としての像のつながり関係も自然なまとめ方である。
長谷川八十氏――一見粗雑なやうに見えてゐて、案外デリケートな落着いた作品である、動的なものは、作者の感情の推移の表現であるが、動的な形態を巧みに固定化し制約して効果をあげてゐる。
渡辺義知氏――の国土を護る式の題材には賛成できない。渡辺氏の指導力が若い作家達にかうした題材の選択の上に模倣者があるとすれば問題である、芸術の題材を政治に結びつける誘惑を若い連中に与へるやうなものであるからである、渡辺氏の場合私は氏の大作は作品でなくてジャアナリズムだと考へてゐる、馬鹿力を出して作品をつくるといふ精力主義が陥るワナは、文学にせよ、美術にせよ、批判精神を失つた芸術家が、大作主義と技術主義に引つかゝる、こゝでは作品の大きさと技術を指示する以外に手はない、渡辺氏の場合にも『小品』に優れたものが多い。小品には人間の暖かさを発見できるからである。

      坂本繁二郎小論

○坂本繁二郎氏の絵画に就いて少し許り長く書いてみる、何時も『馬』許りを描き、毎年同じやうな画風で押し通してゐる坂本氏の作家的な地位に就いては、誰もまだこの画家に対して決定性のある言葉を吐いてゐるのを聞かない、寸感や、小印象や、漠然と『良い』とだけ言つてゐるのは聞いた、前にも述べたやうに題材は『馬』と決つてゐる、画風はあの通りである、それでゐて批評者達は作者が態度を決めてゐるのに、何故批評を決めないのであるか、或は決めることが不可能であるのか、どつちであるのか? こゝに坂本氏の地位の微妙なところがある、こゝに芸術の妙味と、現実の面白さがある、坂本氏の芸術は怖ろしく偏つた芸術であるが、この偏向の芸術を現在何の不思議さも感じさせずに会場の一隅に列べさせてをくやうになるまでには、坂本氏の人間的強さと現実克服の長い間の聖戦がある、いま坂本氏の作品が一つの平衡状態に於いて我々に観させるやうになつたといふことは、言ひかへれば坂本氏の芸術が勝つたことになる。画面の上で何時も平衡状態を打破つて、いかにも年々発展し、飛躍してゐるかのやうに見せかけてゐる画家がいかに多いことか、本質的な変化が作家の心内に訪れるのを待ち切れないで一気に画風を変へるといふやり方で、幾分でも発展的なコースを辿れるのは、若い間のほんの僅かな期間だけである。現実とは如何に峻烈なものであつて、組み伏せるには余りに頑強な相手であるといふことに気がついた者は其処で改めて慎重にシキリをし直すものである、坂本氏の芸術態度はピタリと決つたシキリと緩慢な動きの中に大きな技を発見する、それを仮りに証明するとして、坂本氏の作品を制作年時代順に列べてみたらいゝ列ぶものは馬だけである――然し驚異すべき発見を見出すだらう、ジャン・コクトオが芸術には『先駆者なんか居ない、ただ遅参者だけが居るのだ!』と言つた意味は坂本氏の場合の意味である、天才などとはどれほど思ひがけないものを持つてゐようとも、常に適当な時間に到着するものであつて、その時間が鳴るや否や他の時計は一時的に遅くなる――とはコクトオの考へであるが、私も坂本氏の優れた遅参者としての態度、殊に最近益々その純粋さを益す坂本氏の作品を見て、それを痛感することが多い。
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熊谷守一氏芸術談
   青木繁との交遊など


 過日池袋モデル倶楽部に於て、倶楽部主催の座談会が催されたが当日二科会員熊谷守一氏を招待、氏の永年の作画生活からの傾聴すべき芸術談を聴いた。尚同氏と天才青木繁との交遊回顧談などもあり、かうした機会にノートしてをくことの無意味でないことを痛感したので、この一文をまとめて発表することにした。(小熊生)

 絵といふものは作者が興奮しないときに、よく見るといふことが肝心である、さういふ状態までもつて来なければならぬ。
    ◇
 上手の欠点といふことがある、実に上手に描ききつてゐる、これでもか、これでもかといつた絵である、しかし私はさういふ絵を見せられると『それがどうした!』と言つてやる、上手さばかり追求しても、自づからそこに限界があるからつまらぬ、それよりも鷹揚な美点をもつた絵が良い。
    ◇
 私は描いてゐて『技巧』が入れば、いやに癇癪が起きる、他の人は却つてこれが都合が良く思ふらしいが!
    ◇
 画家と時世に就いては――ずつと絵をやつてくると、住むところと時代や階級で、生れ変つて来なければどうにもならないものがある。もつとも私は自分の絵でも、自分が描いたと思つたら大間違ひだと考へてゐる。
    ◇
 画家は環境を否定することはできない、自分だけといふわけにはいかない。
    ◇
 画はやり易い方法でやつた方が出来が良い、絵になつてから結果がよい。
    ◇
 理想と実際とは逆な場合が多い、ちぐはぐになつていける人は幸せだ。
    ◇
 理詰めで解決しないで、なるべく仕事で解決したらいゝ、理論や理屈の多い人は、さういふことが自分で気持をこはす種になつてゐるのではないか。
    ◇
 大勢で絵をかくことの得な点は、ならんで仕事をしてゐると自分の欠点を他人がやつてくれてゐるのをよく発見することがある。
    ◇
 私は絵を描き始める、丁度五分位経つたとき鼻唄がでてくる、さういつた時が肝心なときである。
    ◇
 技巧に就いて――技巧などは花火のやうなものである、それを出しきつてしまふか、とめるかが問題である、出しきらずに例へ低くても、もうちつと手前で止める、さうしたやり方が出来がよい。
    ◇
 佐伯裕三などは呼吸の切れた作家のお手本である、あれだけ描いて真蒼になつてゐる。
    ◇
 坂本繁二郎は昔から同じことをやつてゐる男であつた、さうかと思ふと坂本とは反対にミヅテンのやうにがらがらと画風を変へてゐる連中も少くないが、結局坂本は個性的な作家である。
    ◇
 絵の仕事は、自分が喜んでゐられるかどうかといふことが大切である。たとへば赤い帽子をかぶつたとする、自分がおかしければ他人もおかしい、そうでなければ平気でかぶり通せるわけだ。
    ◇
 研究所などで研究生が乱暴な絵を描いてゐる、昼がきて弁当のパンかなにかを出してこの連中が喰べてゐるが、そのまづいパンを如何にも大切さうに喰つてゐる、私は思ふせめて自分の描いてゐる絵をパン位に大切に描いてくれたらと思ふ。
    ◇
 古賀春江の絵は好きだが、それは彼が病人であつて、あゝいふ絵をかいたから良いので、もし健康な普通の人があゝいふ絵を描いたらはり倒してやりたい位である。
    ◇
 青木繁といふ男は実に変つた男であつた、青木が田舎から帰るとき、シルクハットを冠つて、燕のやうな格好をした洋服を着て、『やあ、いま来た!』といつた調子で現れたときは、ふきだしてしまつた。はたから見たらその奇行に驚ろくが、青木の気持を知つてゐる者からみたら、やることが奇行でもなんでもよい、自然な無邪気なやり方であつた。友達の留守に、友達の絵の具箱を無断で持ち出して絵を描いてくる、そんなことをよせといふと彼の言ひ草が変つてゐる。
『おれは良い仕事をやるのだ、そのためにはすべてのろくでもない画家は、おれの埋め草になつたらいゝのだ!』彼はこの調子であるから、仲間にも誤解をうけた。下手なお前よりも、自分は後世にのこるやうな仕事をするのだから絵の具は俺に使はせろといふわけである。そんな具合だから、青木は非常に自我が強くて、一度斯うと言ひ出したら後へ引くやうなことがなかつた、それに就いてこんな話がある。
 帝大の通りを本郷三丁目の方から、私と青木と或る夜通つてきた。すると遙か前方に街燈が光つて見えたが、その燈火の後光を見て、私が光りが下に向つて射してゐるといふと、青木は『いやあの光りは上へ向つて射してゐる』と主張した。そこで私はそれは違ふあの光りは下に、つまり街路へ向けて射してゐるのだと主張して譲らず、青木はその反対だと言ひ、どうしても頑張る、果ては私と青木は歩るきながら激論になつた、結局二人はその街燈の傍まで行つて勝ち負けを決めようではないかといふことになつた。
 さて街燈のある柱の下に行つて見ると二人の主張がどつちも真理であることが判つた。それは私は平素歩るくのに下をうつむいてあるく癖がある、それは一つの性格であるだから下を向いて歩るく私にとつては上の方に射してゐる光線は見えない、ところが青木繁といふ男は、大の威張り屋で、路を歩るくにも傲然と天井を向いてあるく方だから上へ射してゐる街燈の光線は見たが、下の方の光りなどは見ないといふわけで、この話などは青木の不屈な性格を語るに適当な話だらうと思ふ。美術学校時代の青木は、学生仲間にあつても、ひとり超然としたものがあつた、先生の黒田が、青木に眼をかけてゐてその素質を認めてゐたが、御本人の青木はそれに反して、黒田など眼中にをかないといふ態度であつた、教室で生徒がモデルをかいてゐるところへ黒田が入つてくる、黒田は生徒の絵を批評をするのであつた、さういふ場合青木は黒田が教室に入つて来ると、途端にぷいと画架の前を立つて、教室のドアをピシャンと音をたてゝ閉めて出て行つてしまふ。さういふやり方のなかには、青木は心の中で、『おれの絵などを黒田がわかるものか、おれの絵を見る資格などを彼がもつてゐるものか!』といつた自信がふくまれてゐたらしい、やり方としてはなかなか皮肉だが、自分の仕事に対する強い執着の前には、先生の批評をさへこばむといふ、芸術家としての可愛らしさがあつた。今ではちよつと絵を描きさへすれば画かきで誰でも通る時代であるが、当時はさうもいかなかつた、今は世の中が組織だつてきてゐるから、画家の性格や、製作態度も昔のやうにはいかないにちがひないが、やはり昔の画家の方が芸術家の生活態度として、いまよりずつと真剣であつたやうに思ふ。青木と私とは画架を前にして、ならんで製作してゐるときなど『おい、ひとつ場所を変へて見ようぢやないか!』などといふことがある、そこで青木は自分の場所を離れて、私の画の前に来る、そして私が青木の描いてゐた画の前に立つ、そこで青木が、私の絵をみながら、先方のモデルと見較べながら[#「見較べながら」は底本では「見較べなから」]『熊谷みろこんな出鱈目の線を引く奴があるか、かういふ風に線は引くんだよ』といひながら、私の絵をどんどんなほしてしまふ、すると私はまた私で青木の絵を『青木、お前の眼は盲か、こんな皮膚の色があるか、斯ういふ風に色といふものはだすんだ!』と私は私流に青木の裸体の色を訂正する、そしてお互の欠点をなほしながら二人は『あはは!』と声を合して笑つたものである。今では百号や百五十号の大作を描く画家は珍らしくもなんともないが、当時そんな大作をするものは少なかつた、突込んで丹念に描いてゐたから二十号大のカンバスでも、今の三百号位のものを描くほどの努力を払つてゐたと言へる。小杉放庵などもまだ若い頃で青木の処へ絵を持ちこんで見せてゐたらしい、彼は当時池の端の芸妓かなんかをかいて得意でゐた、青木は威張つて自信をふりまいたが、その反面に謙遜なものがあつた、我々が見ると決して悪い出来だとは思はないのに、彼自身は自分の絵を、描きかけだからよくない/\と何時も弁解してゐた、描きかけどころか、実に綿密に細かくかいてゐるのであつたし、その絵は非常に優れたものであつた。私はその頃アカデミックな手法でかいてゐたが、青木は私の絵をみて、何時もかう言ひ言ひした。『熊谷、お前は今はそんな絵を描いてゐるが、今に見ろ、きつとおれみたいになるから!』と私の運命が、青木と同じ方向にゆくといふことを、早くから彼は予言的に言つてゐたものであつた。青木といふ男は、その頃は全く彼の理解者が少なくて不遇そのものであつた。よく友人が私にむかつて、『お前は青木とつきあつてゐるのか』と青木と私と交際してゐるといふことを非難めいて言はれたものである、青木も田舎から自信をもつて東京に出てきた。出てきてみると志とちがつて、自分のやることや望むことが、いちいちひつくり返されてゆくので、しまひには性格も変つて、今度は人を人と思はぬほど、威張ることを覚えてしまつたため、それで却つて理解者も少ないし、誤解もされるやうになつた、私が青木を非凡な男だと思つたことの一つに、彼は稽古のときには筆癖があるが、ひとたび製作となると、その筆癖がちよつとも邪魔にならず、かへつてそれを特長として生かしてゐたといふことなどで、肖像画などを頼まれると、その頃肖像画風に、所謂写真のやうにかいたものだ、或るとき青木は殿様に肖像画を依頼されたことがあつたが、その肖像画なるものがちつともその殿様に似てゐない許りか、自分流なかき方で面白、おかしく殿様の顔を表現した。さういふことは当時としては珍らしいことで、殿様を単に肖像画化さないで、自分の理解に立つて、それを諷刺化してしまつたといふことなどは、ちよつとやれることではない、私はそれをみて豪い男だと思つたものである、青木が不遇であつたといふことにもいろいろ理由があらうが、その芸術家としての考へ方や、生活態度といふものは、支那思想からきたものであつたために、その深い作画態度は一般に理解され難かつたものと思はれる。
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独立展を評す


 独立展の作家諸君に対しては私は次の言葉を当てはめることから始めよう、即ち『彼等は教養の不足に苦しむといふよりも、寧ろ教養の混乱に苦しんでゐる、然も教養の混乱に苦しんでゐる事が教養の不足に容易に気がつかママないといふ厄介な状態に陥ち込んでゐる――』
 こゝでは画家としての無教養者の集まりが独立展だといふのではない、ただその持ち合せの画家的教養なるものが現実そのものに先手をうたれたかたちで混乱状態に陥ち入つてゐるといふ意味である。
 役にたたない教養であつても尚且つ絵は描き得るといふ前提の下に、この人々の絵画なるものを、完全に絵画であるといふ立場を私は肯定して、批評して行かうと思ふ、それは厄介な仕事には違ひない、ただその厄介さを買つて出る程に、私といふ一門外漢にも絵を批評するといふ親切さがまだ残つてゐるといふことを認めていたゞきたい。
 私は印象批評といふことが嫌ひである、しかし多くの洋画が、私にとつては印象批評を避けては、全く一言半句も批評することができないほどに、この人々の絵が何が何やら判らないものを描いてゐるとすれば、これらの人々の全く印象的な態度に応へる批評態度として、印象批評をやるより方法がないと思ふ。
 そこで私は一瀉千里的に、これまであまりやりたくなかつた印象批評、直感批評を、この展覧会の人々の作品にやつてみたい、そして勝負をかういふ風に決めたい、即ちかゝる人々の描く、全く現象的な印象的な、わけのわからない仕事も、また何等かの形でその作画過程に、現実的根拠があるのであるから、私の直感批評もまた、私の背後に現実的根拠をもつてゐる、さういふ意味で、この人々が描いた現実的根拠の反映としての、現象としての絵画と、私の印象批評の現実的根拠と、その結果としてどつちが正しいかといふ、勝ち敗けを決めたい、それは誰が決めるのか、それは私が決め、出品者が決められる(或は反対する)といふ以外の一般観衆に決めて貰つた方がいゝ、もつと徹底した言ひ方をすれば、独立展をみにくる観客なるものの、社会的な層が如何なるものであるかといふ吟味から先に決めてかゝらう、若し観客なるものが、役者が役者を観客に招いたやうな結果つまり画家が専門家だけにみせてゐて、大衆が全く見に来てゐなかつたと仮定したらどうなるだらう、私はその意味で、独立展をみに来ない(観客)の意識感情まで代表して、批評したい位に考へてゐる。
 現在の現実の反映はなかなか独立展では見事に完全であるつまり社会的現実の矛盾の反映として、実に立派な絵が多いのである――しかし矛盾の反映即ち芸術の価値――とはどつこい問屋でもさうはおろさないのである。民衆の生活は相当に矛盾そのものであつて、現実は複雑そのものである従つて一般民衆はこれ以上に何も芸術家に、現実以上に(心理的に)矛盾を多くして欲しとは思つてはゐないのであるもう沢山なのである、簡潔とか整理とかいふ言葉に、芸術が現実の人間として、その所有してゐる観念に対して、その観念をもつて簡潔にしてくれ整理してくれと大衆から懇願してゐるのである、心理主義者がもつ当然の陥ち入る穴は、形式主義であり、従つてその態度から生れた、芸術上の不真実は、直接に、善悪の問題と関係がある、つまりあゝした絵が多いことが、現実の歪曲であるとすれば悪である、悪は取りのぞかなければならない、批評家がもしファシストであれば、手に刀をもつて一人づつ斬り殺しにでかけなければならない程切実な問題である、然し批評家の武器は、ほんものの剣ではなくて、言葉である、従つてどのやうに激しくても、被批評者は心理的には殺されることがあつても、肉体的に死ぬやうなことがないから安心できるだらう。
△中山巍氏――画面のポーズがもつてゐるセンチメントが色彩のリアリティを減殺してゐる(さて私が言ふ意味がこの作者に判るかどうか疑問である。)[#底本では「)」が欠如]『ギリシャの追想』この作の所謂追想なるものが、彼自身近代人としてか、或は古典人としてかその立場がさつぱり判らない。
△靉光氏――無説明的な説明を加へようとしても無駄だといふこと、物の『現象』とは何かといふ根拠から出発の仕直しをすべきだ(私はこの作者を真個ほんとうは好きなのだが、この作者の考へ方が甘く感じられてならない)。
△菊地精二氏――色々色彩の分布的な配列的な絵ではあるが案外色彩の段階といふものを知らない作家。
△森有材氏――『ゴール』色と陰との観念的な分解、運動してゐる人間が、いささか空間的に画面的な充実をしてゐる位がとり得『躍動』よろし、この絵はデティルを看過しなかつたことが、全体を躍動的にうごかし得たといふいゝ見本であらう。
△池田金之助氏――草の色彩青はよし、近代的な色彩としての理解がある、横はる裸婦に色の心理沈澱あり。
△妹尾正彦氏――精々お遊びなさいといひたい処である。
△多賀延夫氏――『鉄屑』苦心してゐて物質性がでゝゐない、物質の原素的なものの見極めを一応つけたら、現実的な色が抽象されてくるだらう、作者の態度は賛成だが。
△宮樫寅平氏――迫力をもつと生かせ、現在の色彩でそれで満足してゐる度胸があるかどうか。
△佐川敏子さん――『砂地』は明日のリアリストとしての出発を約束したいがどうか、然し現在は危かしいリアリストと私は診断したい。
△田中行一氏――グロンメール先生から離れたやうに見えるしかし事実は色彩の上でか、線の上でか、結果離れてはゐない『結髪』で自己のものを築きあげたらいゝと思ふ。
△寺田政明氏――今年は画面の整理で行つた『美しき季節』はよろし、デティルにかゝづりあつてゐたために、綜合的な力を欠いた憾みがある。もつと写実家としての方向転換を望む。
△森堯之氏――どうやらシュルリアリズムらしい絵を描く人に映像をもつと現実化したらよかつた、それは出来ない相談ではない。
△海老原喜之助氏――「市」色の単純化の方法の中に、この画家の心理的段階を容易に発見することができる、色に感覚がないのをリアリズムと履き違ひをしてゐるかのやうだ。
△川口軌外氏――色も形も汚ない、ボカシの方法を使つてはいけないといつたら、彼は小児のやうに泣く[#「泣く」は底本では「位く」]だらう、精々単純な技術を、最も有効に使つてゐる。
△中間冊夫氏――男女二人よろし、抱き合つてゐる女二人成功、綜合力があるリアリスト、つまり画面に神経が行きわたつてゐて気持がいゝ。
△菅野圭助氏――色彩よろし、色彩の方向がもつと決つたら形の方向もきめることができる――この注文は謎ではない。[#底本では「。」欠如]
△佐藤英男氏――『丘』作者の意図するところは判るが、重力の法則を無視して、空間に物質を止めようとするやうな空しい努力がある。背景としての空の部分のマチイルを逃げた処にこの作家の弱味がでゝゐる、画面に於ける空間とは、充実せる物質なりである、良い作家だが、追究を最後には逃げる悪い癖がこの作家を伸ばさない。
△大野五郎氏――感傷的な遊でも良いだらう、現実に詩人がゐなかつたら、この程度の詩的なものも認めるだらうが残念である。
△鈴木保徳氏――『島にて』空よろし、他の色甘し、『鶴をうつす人』鶴とそれを写生してゐる人とを描いてゐるが、状態は将に逆だ、鶴にうつされてゐる。
△木村忠氏――『裸婦』よろし、いゝ神経だ、将来の実力発揮のためにいゝ神経を害ねる勿れ。
△土岐流司氏――失題よろし、リアリストとして将来勝てる作家である、自重のこと。
△藤岡一氏――『マンドリン』『花甘藍』と題をつけるのはあまりにシャバ気がある、無題とまで徹底できなかつたら、かうしたコラージュ的な仕事を廃した方がいい。
△清水錬徳氏――気まじめさが足りないが、いゝ画であつた、いゝ加減善心に立ち還つた方が身の為めだらう、あまり画集などに頼らずに自分の個性的な仕事をすること。古い天才主義と別れること。
△井上長三郎氏――『絵画』誰も絵画でないといひもしない先から、何故『絵画』などといふ題をつけたか、それを知つてゐるのは作者自身と斯く批評する私とだけだらう――などといつたら両者結托してゐるやうに誤解し給ふな、大家となると往々題のつけ方が果す役割といふものを知つてゝやることがある、それは良いことではない、この絵の線からピンセットで一本一本不要な線をとつてしまつて、どれだけ必然的な線が残るかといふ仕事を観衆がやつてみたらいゝ、どれだけこの線の走り方、本数に科学的根拠があるかといふことが証明されるだらう、井上氏は一応はリアリストではあるが惜しむらくは科学的ではない。
△清水登之氏――『砂漠』あゝいふ色の黄色な砂漠などは現実にはない、あるものはあゝした色彩の『砂漠』といふ絵が存在するだけだ。
△磯部章三氏――『栄誉』よろし良心態度の前には敵なし。
△斎田武夫氏――『狐』は問題作である、私は主として色彩の触発性の点で、作者の苦心が充分に判る、外光派、印象派の色彩に対する理解が依然と新しさうな面つきをして絵の中に未解決のまゝで引ずりこまれてゐる、画家の多いのに、斎田氏は新しい光りに対する理解を示さうとしてゐることはいゝ、光の触発性に就いての私の意見は次の機会にのべたい。
△水野佳一氏――一応の理屈はもつてゐる、然しその理屈の未来性は決して新時代的なものではない、ケレン性を去れと言ひたい。
△須田国太郎氏――この作家は私は好きであるが、年毎に残念なことには、彼の態度の真面目さの如何に関はらず作者の矛盾ははつきりしてくる、現象主義者の当然陥ちこむ罪に陥ちこみ始めてゐる、観念主義者だけがもてあそぶ手法に二重映像といふものがある。須田氏もまたこゝに行きついた型である。
△浅田欣三氏――『同時的印象』と題して絵はシュルリアリストはこの程度の考へ方や技術をもたなければ問題にはならない、シュルリアリストは少くとも新しい傾向であるといふ意味で聡明でなければならない、その意味で浅田氏は聡明である、この程度の絵になると、私はこの絵だけで二十枚も三十枚も批評をしたくなる、私はこゝで少し理屈を言はして貰へば、浅田氏は印象といふものをどういふ風に理解してゐるかといふことを聞いてみたい、印象とは何か――印象とは人間の諸々の諸感覚のうちの一つの抽象であるといふことははつきりしてゐる、それではかうした抽象的なものに『同時的』とか『同一的』とかいふ命題を与へるといふことは正当であるかどうか、印象そのものの、同時性とは、同時に最も非同時的なものも内容として抱含されてゐなければならないといふこと、他のあらゆるものの差別性を肯定して始めて完全な姿になるといふこと、印象といふ抽象的感覚を二つ複合して辛うじて単一なものを表現するといふ考へ方が隠れてゐたら非常に消極的な画題や意図であると思うへるだらう、浅田氏の描法の一応の正しさは、細密描写の部分も、重要な手法として肯定してゐるといふ点であり、画面の種々の相関関係を見のがすまいとする態度は見受けられたこの人はもつと色々の企てをやつてほしい。
△橋本省吾氏――『コンポジション』はまあ安心をして見られる程度の良さの画。
△中村金作氏――『機械』いゝ色彩であるといふより自己の神経が色彩の上にでゝゐて、形態の上では追従的であつたが、色彩の上では非妥協的であつてゝ[#「あつてゝ」はママ]
△中尾彰氏――モダニスト、よろし、あの張り切り方は、多くの独立型の張り切り方と、形がちがつてゐて面白い。
△里見勝蔵氏――『仏像』を賞めるといつたら意外に思ふだらうが、最も里見氏の本質的なものがはつきり出てゐるといふ意味で『仏像』はいゝ『少女』里見氏の描く女はすでに魅力を喪失し始めた。
△斎藤長三氏――馬車二輪はよろし、白い馬の方が描き切れてゐるといふ結果になつてゐる、馬車の上にのつてゐるものの甘い色彩は感心できる、もつとすべてを渋くしたら、覗つてゐるロマンが却つて出た筈であつた。いゝ作家といへよう。
△新羅笙介氏――コンポジションの驚ろくべき絵の具の盛り上げにも、私は何等驚ろかない科学的な幾何学的な世界にも空想的想像的現実があるといふことを調べて(芸術家らしく)そこを覗つた作品を描いてほしいものである。
△浦久保義信氏――絵の出来不出来を論ずるより、この絵とこの作者の運命的なものがどう変つてゆくか興味がある(これは美術評ではない)さほどに問題作であるといふ意味で宿命的な価値がある。仕事が今年は丹念になつてきたのでいゝ『孔雀』がいゝだらう、テーマはこの作者のものは総じて弱い。
△島居敏氏――ろばに乗る少年の図の素朴性は素朴でない連中の中では値打で[#「で」に「ママ」の表記]ある、芸術と素朴、何にやら島居氏にではなく他の連中の創作画態度の上に素朴といふ問題が残つてゐようではないか。
△佐藤九二男氏――『温泉』大胆な表現をどこまでも追究してゆかうといふ態度は、賛成である。あゝした表現でより効果をあげるかどうか更に自己を賭けてみたらいゝ。
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春陽会と国展
   ルオーの描写力の事など

    二つの会に就て

 展覧会や絵画団体とそこに出品してゐる作家との従属関係位、デリケートなものはない、斯ういふ作家を、こんな団体に所属させてをくことは惜しいと思ふことが随分ある、この作家をもつと進歩的なグループの中に住はせて、他の勉強家達をセリ合はしたら、隠れた才能がぐんぐんと現れさうな気がする時もある、
 恐ろしいのは環境の力である、春陽会にせよ、国展にせよ、こゝの静的な環境はどうにもならないものがある、突然の変化をもつて、新しい仕事をしようと気構へてゐる作家もあるだらう、然しさうした積極性をもたうとすると、ぐつとそれを後に引きつけるものがある筈だ。
 一体それはなんだらう、春陽会といふ一つの団体が身につけてゐる環境であり、脱れることのできない泥沼である。その意味で出品作家達個々の背負つてゐる社会的環境の性質を、かうして具体的に展覧会で見せてくれて貰へるといへる、独立展は観者の眼を痛くするための展覧会であるとすれば、春陽会国展は観者の眼を瞠らす展覧会である、こゝに出品してゐる作家に、私は芸術上の言葉、『平安』『秩序』『完成』『理性』『静観美』といつた性質の言葉が全部当てはまると思ふ、しかしこれらの合法則的な言葉を認めこれが作品に現れてゐるとすれば、これらのものの正反対の、『不安』『無秩序』『未完成』『感情』『動的美』といつた心理的過程を、これらの人々が真剣に通過してきて、これらのまとまつた温和な絵が出来たのかどうかを質問したい。
 描く対象に対する懐疑も、一応認められるが、なるべく混乱しない程度に懐疑するといふ限界内で止めてゐる、そこに春陽会、国展出品者に共通な、作画上の道徳律を発見する、他人の考へを騒がしてはいけないといふ良心性は、腹の底を割つてみれば、他人にも自分を騒がして貰ひたくないといふ報酬を求めてゐるだけである。
 そして私はこの両展覧会が不思議に、沈着いてみせてくれたといふ事に就いて、独立展其他の所謂前衛的展覧会が沈着いてみせてくれなかつたといふことと思ひ合はして、色々な意味で考へさせられた、人間の心理を掻き立てるだけを芸術的アッピールだと考へちがいをしてゐるらしい新しい傾向の画家と、とにかくじつくりと見せてくれた春陽会国展とどつちに感謝したらいゝかといふと、不思議なことに、新しい傾向の絵で胸を騒がして貰つたよりも、アカデミーと称し、クラシックといはれてゐる春陽会、国展の方に感謝してゐるといふ答がでた。
 宣伝、煽動を芸術行動の目的として認めなければならない、左翼的絵画でさへも、尚且つ必要以上に、絵をもつて宣伝、煽動をすることが誤りであらう、一つの条件としてまづ落着いて見せる――然る上に――といふのが正しいのである。
 その意味で、春陽会、国展の絵画の沈着き方が、必ずしも芸術の腰が抜けてゐるとは一口に言ひきれないものがある、要するに『激情的なものの価値の高さ』は時には円満な高さに於ても果たせるといふことが、問題として残つてゐる。
 それこそ高い意味での『完成性』といへるだらう、春陽会、国展は、その意味であくまで写実性に喰ひ下つてゆくといふ態度に、強味と弱味とを同時に備へてゐる、そして如何に今後仕事を進めて行つていゝか、問題は簡単だ、これらの矛盾は『写実性』を離脱したいといふ域内で解決してゆくことである。
 超写実をやりたかつたら、他の団体へ行くべきである、写実との格闘が『新しい芸術』を生むことが不可能などといふ不心得な作家はこの団体にはゐないと思ふが、新しい仕事が出来るかできないかは、写実性への喰ひ下りが徹底してゐるか、ゐないかに依つて決まるし、仕事の面白さはそこにこそある、超写実的な現実逃避の作家はこれから随分でるだらう、然しこの新しがり屋の仕事はものの二年とは続いたためしがないのである。
 さうした意味で春陽会、国展の作家はその手法の写実性が悪いのではなく、観念が古いのだといへよう、それを指導してゆく諸幹部また、新しいリアリズムに対する理解がおそろしく欠けてゐるといふことが、この団体を全般的に硬直化させてゐると思ふ。

    春陽会の評

△高木勇次氏――「切断」倉庫街での鉄材切断を描いてゐるが、物質を切断するといふことに対する鋭敏感は認められるがそのために描写法を鋭敏にしなければならないといふ考へ方が既に古いのである、新しい写実家は、そこのところを描法を感性的にせずに、四つに組んでゆくといふ点にある、テーマも良し、感覚も鋭いが、それだけでは駄目なのである。
△新沼杏一氏――『冬の夜』少女達が手芸をしてゐるらしい絵、ケンランたる色彩といふより、ケンランたる現象、我々の視覚をまどはすために仕組まれた絵。
△二見利次郎氏――『作業』の鈍重感は成功してゐる。
△小穴隆一氏――絵の仕上げの丁寧さ位よりとるべきものなし。
△木村荘八氏――『浅草元日』『幽霊せり出し』等の所謂氏の芝居絵である、幽霊せり出しはテーマは賛成だが、氏にして良くロートレックやドガのやうに、この種の社会を庶民的テーマとして引き下げる力があれば面白いが、芝居道の肯定者らしい態度が妙に美しいものより描けてゐない。
△中山一政氏――なんの感覚としての動きなく、これは器である左様、これは水である左様、といつた現実感が産ました絵。
△山田峯吉氏――『T画伯の像』は出色である若し氏にして天才主義者で、芸術至上主義者でなくてさうした画風を描いてゐる人であつたら充分新しい仕事が出来る人である。
△豊泉恵三氏――『婦人像』バックの色感は美しかつた。
△水谷清氏――『印度童女』滑稽な程立派な自信で描いてゐる。
△鳥海青児氏――『南薩山川港』右手の崖と見える色調に不思議なリアリティを発見する以外、こんなに絵の具を何のために盛上げるのか、所謂絵具の盛上の必然性が全くない、彼も遂にこの団体で朽ちるのかといふ感が深い惜しい作家である。
△石井鶴三氏――『常田獅子無』の屏風構図のとり方が洋画畑の人であるといふ意味で新しい形態がある、但し日本画家側から見たらまた意見が違ふ筈だ。
△若山為三氏――少女読書は線の稀薄性が却つて面白い効果をあげてゐる、いへばもつと線を稀薄にする勇気があれば尚面白し。
△山田義夫氏――意図や仕事のしつぷりが新しいが、残念なことには色彩が古い。
 春陽会に出品者は多い、他を評さないのは見落したのではない、問題を提出してゐないのだ、従つてこゝに評した人必ずしも佳作者ではない、良い意味と、悪い意味とのその何れかの問題の提出者であるといふ意味で評した。

    国画会の評

△長谷川春子氏――『ヴ※[#小書き片仮名ヰ、169-下-15]ナスの誕生』は色彩の神経だけをみるとき異色のある作家であることが判るが、をよそその形態のでたらめさは救ひ難いものがある。
△中村茂好氏――『友人』人物の顔の描法と、人物の服や椅子の描法の矛盾、最後まで描きぬかずも投げ出してゐる力弱さ、素朴な態度の良さはある。
△ブブノ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)氏――この絵は、版画的処理をこの油にまで持ち込んでゐるといふ意味で失敗作だらう、油を盛りあげた実力を拝見したい、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵や版画にはすぐれた面をみせるが油では感心できない。
△宮田重雄氏――玄人芸に非ざれば、即ち素人芸なり、つまり絵画の両極性は一つの常識に帰する、何の変哲もなし。
△山下品蔵氏――『椿咲く村』(二)は大いに問題にしていゝ、ナイフの剥ぎとりの上に、更に描いて効果をあげてゆく業、ナイフ使ひの悪魔共、大いに氏を参考とすべし、この非凡な作家ママ時代は彼を殺すか噫。
△青山義雄氏――画品の良さは青山氏と山下氏とどつちが良いかといふ点では、山下氏をとる、フランス生活のお土産のやうな絵の人気と、氏の実質とは又別だらう、色感も古く、形態、構図をたくましく裁断してゆく度胸もなし、さりとて山下氏式に写実と運命を共にする素直さもなく、ここにも噫がある。『アマリリス』の色の混濁、壺とその下はいゝが、他人は『鹿児島風景』(一)が良いといふが、斯うした現象的な扱ひ方は何等新しい観方ではない、色など殊に『紫』などは東洋的で西洋的でもない。
△内堀勉氏――褒状をもらつてゐる、この新しがりに、褒状をくれる会の方針が判らぬ。
△椿貞雄氏――『黄富士』『赤富士』の無神経さがよい、もし神経を使つてゐるのだと作者が抗弁すると仮定したらではデティルが出てゐないぢやないかと反駁したい、部分的描写を無視して、あれだけ赤さ、黄さを表現する業はさすがである、あわてゝ色をかけた感じである。
△宮坂勝氏――『裸体』まづ見られる、人物の感情が良くでゝゐる、然しバックの調子をもつと落す度胸はない、一応は訴へる力をもつた作家だが、度胸なくて負けてゐる作家。
△別府貫一郎氏――『木曾川』の色の調子は自分のものをあれだけ手離さずに全体をまとめ得れば結構である、自分の個有の色を手離してしまつてゐる作家が更に多い、別府氏はその個性的な色を他人に開け渡してゐない強味がある。
△鈴木清氏――『自像』この絵はこれまで無理をしてまで絵を描かねばならないかと思はれる絵、それは絵の出来不出来ではなく、構図の上でゞある、高い所に鏡を置いて、それに自分を映し、自分が体を捻つて、上を仰いでは一筆描き一筆描きしたやうな絵。
△金井康次郎氏――『窓辺静物』(A)の簡略化は(B)とともに良し、調子は(B)の方向で進んだらよいと思ふ。
△東克巳氏――デッサンの裸体は端麗な線でリアリティをとどめようとしてゐる企てはよく判る。或る程度の成巧を見せてゐる、風景の細密描写の点ではこの人の右に出る人はあるまい、問題は描写の細かさではない、突込み方の態度の細かさで、態度の良心性がなければこの人の真似をしても出来るものではあるまい。
△佐藤哲三氏――『農婦』の色の同一性は問題であらう、現実には、どうしても一色にしてしまへないものがある、彼はそれを一色にする、環境には色などはない、環境をつくつてゐる、個々の具体的な物に色があるだけだ、環境とはこれらの綜合的な色の『答』へだ、この人のデッサンは見てゐて気持がよい、田舎にをくことは惜しい作家である、仕事が社会性がある(甚だ稀薄だが)あまりに社会性のない画家が多い折柄だから、この作家の農村をテーマにしたものを尊重したい気になる。
△武者小路実篤氏――『風景』『静物』何れもうまいものだ、素人だといはれてゐるが、会場を一巡して見落さないところを見るとその個性は玄人を凌いでゐる、作者は恥かしがらないで氏の平凡な人生観を平凡な絵にして行つたらいい。
△梅原龍三郎氏――『霧島』(一)を誰もほめる、そこで私は誰も褒めさうもない(二)を褒めてみる、どつちを褒めても同じだといふ意味で、人々の見落した側に、却つて作者の本質が露はれてゐる場合が多いからだ、画面の上下に物を描き、観る者の視覚を二つに分割させてから、第三にスーと真中に感覚を引つけてゆく手際の良さは、永年この路で苦労した、カラクリ師でなければ出来ない業だ、梅原氏は観る者を時間的デティルの上でピタリと押してゆく術を知つてゐる、それを知つてゐる人でなければ氏に反駁はできない、ただ蔭にまはつてガア/\言ふだけである。
△仰木ゲルトルード氏――『バラとカーネション』はいゝ神経である、然し日本人にはその佳さは理解されないだらう、殊に『ポトレー』の着物の色はヨーロッパ的理解であの色感の西洋的滋さといふものは、東洋人には理解困難なものである、この人の陰影のとりかたの明確性と作者の神経が細かいから少しも不自然でない、『冬の富士』は失敗作だらう。
△藤田太郎氏――『孔雀の見える窓』は、青山義雄ママに優るとも劣らない確かさがある、対象の理解の素直さ、色調の遊びが案外に少ない『金魚鉢』にまあ、まあ良しで『烏賊とほうぼう』は甚だ良ろしくない。
△平塚運一氏――(以下版画である)『日蓮岬』では波の停滞と動揺とを巧みに表現してゐてさすがである、岩の起伏も整つた上に変化があつて良かつた。
△棟方志功氏――『空海領』は戯画といふべきだらう、線の連絡の面白さをかふ。
△川西英氏――『新緑』は佳作。[#底本では「。」が欠如]
△ブブノ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)氏――木版画『神社裏』は神社といふ痲痺的な存在の裏に、庶民的な貧しい人間の小屋があるといふ適確な社会意識がでゝゐて優れてゐた『子を抱いてゐる海女』と海の薄明の下に働く女が子を抱いて歩るいてゐる哀愁感は充分画面に出てゐる。
 この種のものにはこの人は独特な創意性がある。
△恩地孝四郎氏――『海』海女の居ない方の小さな二枚の海は優れてゐる、若しこの調子の油を描き得たら面白さうだと思ふ。
△彫刻では――阿部進六氏の『少女の首』柳原義造氏の『立像』福沢正実氏の『モンノンクル』など私を注意させたきりで、彫刻工芸は私は良く判らないから書かない。

    ルオーに就て

 ルオーの公開数点はだめになつた、或る画家は国展はつまらないが、ルオーがあるから見に行くなどと公言したが大変な不心得だ、ルオーの良さが判つたら国展の良さが判る筈である、国展を真に悪くいふことの出来る人であつたら正確にルオーを悪くいへる筈である、なぜこんな謎のやうなことをいふか、簡潔に言へば、日本の洋画壇を沈滞させてゐるものは、ルオー的な現象主義的な観方が画家全般を掩つてゐるからである、国展的なリアリストは観念の硬さに閉ぢこもつて、ルオーを何か動きのある自由な作家の良さと観察する、一方独立展的な観念の柔らかさとふしだらさから、せめてルオー風に観念を定着させたいものだといふ希望をもつて、ルオーの絵の前に頭を垂れてゐる、ルオーはこれらの非リアリスト達にカンバスの裏表から挾み撃になつた型で騒がれてゐる。
 ルオーの描法を解く鍵は出品のうちの『サンタンバンク』である、こゝではお汁でベタ柔らかな自由性で描いてゐる其他の絵はこれにただ幾度も重ねるといふ時間を掛けただけだ、ただ日本人はそれではルオーのやうに何べんも重ねたらルオーのやうな絵が出来るかといふと保証ができない、何故といふに、日本人はルオーのやうに画面の処理を浅く全面的にまとめることができるが、深く全面的な完成性を追究してゆく力がないから、画面に大きな欠点を作つて、手を入れることに依つて大きく完成させてゆくといふこの時間的繰り返しの、精神的エネルギーがない、なんでも完成、完成である、短距離には強いが、長距離には怪しいのである、ルオーの現象主義的方法が、その方法の誤りであるに拘はらず、あれだけの物質性を出してゐる理由はあの作画方法の偶然性が果す最後的な効果といふものを、ルオー自身ちやんと知つてゐるからである。
 日本にも偶然的なやり方で効果をねらつてゐる画家も少くないが、この偶然的方法の反覆をルオー程に頑張つてやるでもなし、やつたとしてもこれらの偶然性が、一つの必然性に転化した途端の瞬間的な把握力を作者自身がもたないから、だらしなく無駄な偶然性を追ひ廻すだけである。そして結局何も出来上らないのである、ルオーは怖るべき作家でも何でもない、作画方法は見え透いてゐる、もつとも現象的にルオーの画面の上つ面だと見るとすれば、日本の低度の現象主義者は、高度の現象主義者ルオーを理解できないことではあるが。
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革新の日本画展


    新日本画研究会展の評

 酒井亜人氏――『冬丘』絵の仕上げが粗雑なやうだ。筆触が大まかだが、それは日本画としてデテールを欠き、洋画風なマッスを作りあげようとしてゐるが無駄だらう。日本画の強みは細密に打ちこんだ点にあるがそれを逸脱してゐる、山岡良文氏――『煙具』色の近代性を覗つてゐるのは良い、煙草包紙の実物を貼りつけるやり方は甘い、実物を画に貼りつけるといふやり方などは第五流の洋画家に委してをいたらいゝ。『花束』白い牡丹の色の神経は美しい。西垣籌氏――『小供』色彩の混濁を避けようとして、避けきれなかつた、もつと猛烈な追求をやつて単純化に復したらよかつた。この人の作は色彩が一見幼稚さうに見えて決してさうでないところに味がある。岩橋英遠氏――『土』(ニ)非常にママ能的でタケノコの描き方など作者の感覚を美事に出してゐた、素朴なテーマを複雑に描くやり方は、とかく日本画では複雑なテーマを単純化したがる一方的なやり方を脱してゐる。島田良助氏――『夏蔭』度胸のある作家だ、度胸で負けるか、度胸で勝つかは芸術家の運命の決まるところだらう。白の色も特異性がある、木の幹の色、描き方は古い。ツツジ色の甘さは美しい。吉岡堅二氏――『馬』制約性の下で仕事をすゝめてゐる。つまり自己を繋ぐ方法を自分で作つて仕事をしてゐる態度は正しい。その意味で野放図の自由の中に制約性をみつけて仕事をしてゐる福田豊四郎氏と殆んど対蹠的である。『馬』は激情的な仕事である。問題はバックの銀と前に描いたものとの反映の仕方が充分でなかつた。黒と銀との関係より、黒と茶との関係の方が成功してゐたし、生きてゐた。総体的に今回は仕事が硬くなつてゐた。間宮正氏――『春郊』二つの丘の中に引かれた線の方向の苦心が面白い。然し成功とは言へない。船田玉樹氏――明瞭、空白、は好感がもてるが、画面に塊りが欲しかつた。部分的描写を全体的に高めるといふ方法に欠けてゐた。中江正樹氏――『風花』美しい感覚の持ち主である。このまゝ新しい色の発見に進むこと。風に折れまがつた葉と、折れまがらない葉との関係がはつきりしてゐない。風の吹く方向に神経の細かさが不足してゐたためであらう。久保田善太郎氏――『陶房』カマドの上に陶器を描いたのはやり方が突飛な割に少しも不自然ではなかつた。配列は一考の必要がある。柴田安子氏――『馬市帰路』光りの落ちてきかたは興味がある。子供の頬へ当つた光線は的確であつた。画の出来不出来を別にして、作者の思索生活が出てゐるのは観る者をうつ。井関雅夫氏――『風景』洋画的テーマは悪いとは言はないが、こゝまできたら、洋画への追従でなくもつと徹底してほしい。日本画の行くべき路へ。藤田隆治氏――『歯科室』画面に対象の生活がでゝゐるのは実力があることを示してゐるが、手前のものを突込んで、遠方を逸してゐるのはよくない。塗り方の粗雑さは感心できない。田口壮氏――『女』直線と曲線とのよき組み合せ、然し色が商業主義的な傾きがある。つまりポスター其他色刷的実用美術的な弊がある。バックは成功してゐたが。福田豊四郎氏――『華氷』冷めたい氷といふよりも、暖い氷を描いてゐる。それは作家自身の世界観、人生観だから、氷をまた火のやうに描いても一向差支ないことだらう。たゞ氷に閉ぢこめられた花の感覚的位置が明瞭でなかつた。『月と小魚』が好きであつた。泳いでゐる小魚が一尾づゝ己れの影をここでは魚自身の観念体としての影を、ひつぱりながら遊泳してゐる詩味は凡手の到底着想し得ないところであらう、水草をもまた生きたものとして生活させてゐる。ただラセンに曲げて描いた水草は常套的であるし、新味を感じられない。柳文男氏――『水辺』鯉の鈍重感迫力はある。部分的批評すれば、白い部分はあるまゝでいゝとして、魚の周囲を水の中だと思はせる描法が絶対的に必要である。藤田復生氏――『気象台』明析な態度、色の新しさの方向はいゝが、立体感の欠けてゐる点が難、テーマは甚だ立体的だが、描写力が併はなかつたのだと思ふ。島田良助氏――『女像』不思議な神経をもつてゐる作者である。例へば女の坐りの良い腰部や、重さうな肩などに魅惑的な神経があるのがそれである。色彩は総じて良くない。特異な神経は大切にして欲しい。大石哲路氏――『小児』陶器製のやうな小供その覗ひはわかる、物質感がでゝゐる。恩田耕作氏――『葉蔭』青い色や、犬の眼は生きてゐる。犬は細い感じはでゝゐるが痩せた感じがでゝゐない。作者がもしこの種の犬は細いのであつて痩せてはゐないなどと抗弁されたら評者は一言もないが。青木崇美氏――『保護樹』繩でしばられてゐる樹、保護の名目で自由を束縛されてゐる人間も少くないから、この保護樹はさうした人間的なものを感じられる。描きかたでは画面のとりかたはいゝが、地面の工夫が足りない。山崎隆氏――『海水魚』いゝ作家である。魚達の列、四つの魚の集団が四つの生活を水の中で営んでゐる。茶色の岩の上の写実性はすばらしい。この作者がもし大作主義でばかりゆくとしたらよくない。小品もたくさん作ることだ。この人の小品の力量を見たいものである。

 新日本画研究会には、福田豊四郎氏、吉岡堅二氏、小松均氏といふ日本画の新しい方向に対する真面目な探究者が加はつてゐるから、特別に指導理論をふりまはす人がゐなくても、これらの人々の作品が語る論理的なものは決して影響が小さいものではない。この三人は決してこの会の代表的作家といふ意味で言つてゐるのではない。この三人の作画の型は、この研究会内に止まらずに、広く日本画の三つの心理的な型として、福田、吉岡、小松といふ人の作品は重要な意義がある。誰でも作風の上ではとにかく、心理的にはこの三人の型のうちのどれかを通らなければならないからである。
 小松均氏は、日本画につきまとつてゐる封建的な要素、つまり古い亡霊と闘ひながら新しい日本画を描かうとする悩みがある。
 福田豊四郎氏は、日本画の中古の亡霊と闘つて新しい仕事をしようとしてゐる。中古とは、半封建性である。それと闘つてゐる。つまり画壇にブルジョア革命を起さうとしてゐる。
 吉岡堅二氏は、それでは少壮な立場から直ちに新しい仕事にかゝつて――差支ないか。こゝでは伝統のない洋画とはちがふ。
 吉岡氏は意外なことには『新しい亡霊』と闘はなければ新しい仕事ができない立場にある。彼は『日本画』を自覚してゐるからである。新しい日本画を主張する人は多い、そしてこれらの人々は洋画に刺激されて、どんどんと油絵のやうに絵の具を盛り上げるのである。真に日本画の伝統を生かして新しい日本画をつくることの困難さと闘ふためには、ニセものの日本画革新論者や、日本画家と吉岡氏は闘ふ必要があらう。若い日本画家が新しい方向を求めるのはいゝ。然し新しい亡霊につかれてはお終ひである。古い亡霊、中古の亡霊、新しい亡霊、この三つの日本画の亡霊と闘ひつゝ新しい仕事を進めてゆくまた困難なるものがあらう。
 小松氏はその作風でみても判るやうに、『原始共産体』の自由精神を闘つてゐれば、福田氏は『ブルジョア革命』を成しとげようとしてゐる。そして吉岡氏は若い『プロレタリア革命』をやらうとしてゐる。然しこれらの日本画壇での三つの心理的革命は、同時的に行はれ一つとして欠けてはならないし、また三氏の個人的な事業ではなく、広く同志の協力の下に完成される事業だと考へる。

    大日美術院展の評

 北村寿一郎氏――『残響』造船所を扱つたテーマは良いが、あれほど大作をしなければならない必然性があるかどうか、もつと小さな画面にでも、対象を生かすことができよう。コンクリートの壁の質感は巧みにでゝゐた。菅沢幸司氏――『芭蕉』こゝでも大作がある。この作は大日美術院賞だが、迫力がある作風と、カスレタ描き方の魅力がある。菊沢栄一氏――『競馬場所見』『スタート』共に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画なり。石田吉次氏――『端午の河岸』生活的なテーマであるが、テーマの割に生活がでゝゐない。特殊なものがない。岩崎清之助氏――『港Y』革進性はある。沖中陽明氏――『内海の春』悩みなし。吉永叢生氏――『木兎』テーマ古し。結城素明氏――『清湍』日本画の材料で質感の出し方と色重ねの利かしたとの最も良き見本である。常岡文亀氏――『萌芽』甘さと渋さとがとけあつてゐる。是永仲一氏――『竜華寺の庭』怪異をねらつた作。簡略化がうまい。青木大乗氏『焚火』しつかりとしたデッサン、本格なり。然しいつまでも日本画はテーマの上で焚火にもあたつてもゐられまい。藤森青芸氏――『渓間』日本画的雰囲気として申し分なし、渓間にはキヂがゐる風景である。自然科学者の描いたものより芸術的である。そのかはりに自然科学者よりも不真実である。長谷川勇作氏――『つゝじ垣』ユーモラスな好感をもてる作、籠の中の鶏は、すぐれた描き方であつた。この調子で全体をまとめたら新しい日本画の一タイプをつくるだらう。西村雨北氏――『巣』鳥の性格がよく出てゐた、描き方に類型性がないのは気持がよい。長嶺雅男氏――『蘇鉄』部分描写はいゝ。漆畑青果氏――『庭の一隅』何の変哲もなし。高田美一氏――『薫風』藤の紫の色をもつとママ能的に出して欲しかつた。若井善三部[#「部」はママ]氏――『千住風景』絵の具の盛り上げは不賛成。勝木春光氏――『J2LU局』着物の黄と顔との対照が美しい、手が少しく※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵風。若林景光氏――『西港の初夏』この程度の明るさは欲しいが、実業美術的になつてははじまらない。深海石山氏――『雨後のしじま』日本画でなければやれない業である。丸橋進吾氏――『乙女たち』窓外の風景は出鱈目である。小野頴山氏『硫黄採る山』描写力をもつた作家である。硫黄にけぶつた屋根の色がさつぱり出てゐない。
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二科展を評す
   前進性を示す諸作


 何といつても二科展では中堅どころの活躍が目立つ、岡田謙三氏の大作「つどひ」は氏の平素の小品の持ち味は失はれてゐた、この作者は物質感を出す力を全く喪失してゐる。単に画面をデティルと色彩の混沌美で処理してゆく方法はこれ以上前途がないことを自覚して良い筈だ、その点伊藤継郎氏は彼は形態を探る前に、先づ色彩上でリアリティを画風として確立したために、岡田氏より仕事は地味だが一歩前進してゐる、伊藤氏の「鳩を配した裸婦」など凄涼の写実味を帯てゐる、北川民治氏の「メキシコ、タスコの祭日」其他の作品は特に驚かせるほどのものではなかつた。
 その画風が庶民的でも階級的でもなく、単に人間性一般を語る作者であるといふことは、画面の人物のどの顔も類型的であるのをみても判る、多少の異国主義が北川氏に日本画家にしては珍しい作品を描かせてゐるにすぎない。帰朝後の「瀬戸工場」では氏は異国主義をふりまくわけにはいかないから、彼もまた風俗は一日画家に帰りつゝあることを証明してゐる。
 二科が会友に福島金一郎氏を推したのは聡明であつた、この人の作は場中で光彩を放つてゐた、力量からみてもこの人など既に重鎮組の作家であらう、棟方寅雄、吉原治郎、石井万亀(石井氏この人の感覚的な鋭さはその辺りの偽前衛作家のやうな付け焼刃ではない)高岡徳太郎、江崎義郎、古家新(鳩舎)島崎鶏二、竹谷富二雄、梨本正太郎、森繁、松下義晴の諸氏など追求的で野心的な快ろよい制作意図を示してゐた、彫刻は中村暉氏の良きヒューマニティ、河合芳雄氏の作では女の重量感を腰のくびれで堅めた技術的洗練さ、渡辺小五郎氏の美しい線、長谷川八十氏の激しい意慾的な仕事など彫刻は相当粒揃ひであつた、今回の二科は形容してみれば平静にして前進的な佳作揃ひと言つてよい、画壇に於ける二科会の社会的立場を以て、移は単純に保守的地位に見ることをしたくない、前衛的といふ意味では独立展は二科より一歩の長があると言はれてゐる、然し画風の上を検討してみると、二科の洋画家には独立展に較べて始末に負へない日本主義者といふのが案外少ない、彫刻に渡辺義知氏の系統をひいた、国土を護れ式の傾向が若い彫刻家の作風にちらちらしてゐるが、結局渡辺氏の制作意図といふものも、制作上の精力主義からきた現れにすぎなくて必ずしも反自由主義的作風とは断定できないものがある。
 藤田嗣治氏の「千人針」また同様である、この絵からは批判的なものを少しも求めることができないが藤田氏が描く千人針に何の情熱も期待も覗はれない様にこの作の様に現実もまた凡作であるといふ意味で藤田氏の作は写実性がある、藤田氏や野間仁根氏の作品は腹の底からの自由主義者の作風といふものが感じられ、熊谷守一、坂本繁二郎氏等の芸術への絶対的な奉仕者を加へて、若い出品者にとつてこの団体はさう不自由な研究場所ではないのである、その点新興団体としての独立展などは、その新興的なる理由の下にも却て封建的要素が多く、尚自由主義的傾向へ転落する危険性も多分に含まれてゐる。岡田謙三氏、島崎鶏二氏の両作風は二科に於ける両極を示すものとして、画風の上ではなくイデオロギー上の反撥期は当然来るものと見なければならないが、そこまでに至る間に両者のよきヒューマニズムの協力が二科の若い作家達を勉強させるだらう。
 横井礼一氏の「月と星」は二科に擡頭した新しい癌の証明であり、当然かゝる無反省な出品は何らかの型で拒否されていゝものだらう、浪江勘次郎氏の「漁業」「蒼天」は良き日本的作家たらうとして、少しく仕事を焦りすぎた感がある、その方向には充分な同感をもつことができるが、対象の認照?認識の方法には疑問少なくない。
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文展日本画展望


 東洋画の特長である静穏な美も、最近の世相でともすれば[#「ともすれば」は底本では「ともすれは」]、狂気染みた動的な雰囲気に捲き込まれてしまひさうである、混沌美を造るには日本画の絵具は余りに聡明にすぎよう、洋画家のやうに時代と一緒に混乱できないところが日本画家の苦しい立場であり、またそこに自づと新しい開拓の分野もある、文展日本画は更生幾回転の後に我々の眼前に示した、新陣容であり、収穫である、文展の組織の混乱とは別に、画人の態度は自ら別なものがあらう。

△西山英雄――『内海風景』の表現の方法には山と樹木の描き方の矛盾がある、山の図案化を樹木に適用しきれなかつた度胸の無さが目立つ、汚点のやうな雲(或は汚点か)は画面をきれいに処理する勢力が足りない。
△浜田観――『初夏の花』距離感が不足してゐた、絵の具の盛り上げの効果は、ある域に達してゐたが、写実に喰ひ下り方が足りない。
△上村松篁――は、逸性と童話味とを汲む。
△橋本明治――『浄心』は特選であつた、仏像の前の女人は古いテーマとモダニズムとの結びつきを割に成功させてゐる、女の衣服の腰の線の簡略化はうまい、線の動きに奇妙な柔らかな感触を感じさせる作家である。
△福田豊四郎――『樹氷』は線の躍動味がねらひである、鹿の立体を筆触の重ねでこれほど出すといふことは非凡である、難を云へば月の位置が不確定なことゝ、鹿の尻に加へた色が平俗的である、月明りと雪明りとの交錯が美しい。
△吉岡堅二――作者の切迫感をかんじさせる『馬』は、単純化をねらつてゐる、線の錯雑な味が有機化してゐない恨みがあるが、色彩の調和は良かつた。
△久連石雨董――『仔馬』デッサンの不確かな割に、画面をよく生かしてゐる、殊に馬の鼻ヅラの鈍角な線は、よく仔馬を語つてゐる色彩も良い意味の甘さが流れてゐる。
△小川翠村――『追はるゝ山鹿』鹿の形態をよく観察してゐる態度がみえ、三匹の鹿の形の交叉のうまさ、皮膚の実感性、など日本画の質感の出し方として上々である、但し追ふ犬が拙い。
△野口謙次郎――『焼岳』山はよし、たゞ樹の形が殆んど同じ、その類型的なのはよくない。全体的雰囲気に救ひを求めすぎた感あり。
△和高節二――黒の色彩に新味あり、牛の下部へ鶏を配置したのは成功、平和と素朴とが洗練された形式でにじみ出てゐた、女の冠り物と顔の色が少し強すぎて調和を破つてゐる。
△岡田昇――『凪』漁師の母子の生活が良く出てゐた、ただ画面が汚ない感がした、生活的な庶民性を描くこと賛成であるが、画面はあくまで美しく処理することである、海のやゝカサ/\とした潮気を含んだ画面の効果はよく出てゐた。
△不二木阿古――『将棋親旧』白の全体のまとめはうまい、人物中離れて坐つてゐる少女は少し投げ出したといふ形で親切な観方ではない。
△堂本印象――『観世音』現世の苦を語るものとしては少し象徴的すぎる、線は整理されてさすがに形の制約を知つてゐるが、叙述的な絵画の方法をとつたにしては、バラ/\な図案化がある散漫である。
△横山大観――『雲翔る』大観のものといふ先入観を入れなければ批評の出来ないやうな絵である、画庫から何時でも引出して出品できさうな凡作である。
△松元道夫――『花苑』柔らかい花弁のまとめあげ、茎もよく描いてあるが、茎を支へてゐる竹を、茎と同じ質感で描くといふことはない筈。
△竹内栖鳳――『若き家鴨』ユーモラスな家鴨がよく出てゐた、たくまない野放図な投げ出したやうな構図は度胸人である、たゞ金を散らしたのは最大の不調和である、ゴモク飯を思はせる絵である。
△蓮尾辰雄――『罌粟』もう一息といふところ、衣服の質感はよく出てゐたし、背景の花も良い。
△望月春江――桜の実にそゝぐ雨、雨の白さが汚れのやうにみえる、降つてゐるのは雨であらうがそのために実や樹の葉に何の変化のあることも感じられないのが変である。
△吉村忠夫――『麻須良平』日本画的題材を感覚的新しさで塗りつぶしてゐるといふ域を出てゐない。
△木谷千種――『義太夫芸妓』掴み方、色彩の落ちつきは良い、何かぬけぬけとした年増女が感じられて面白い、言ひわけのやうに蝋燭を点したのはおかしい。
△村山三千男――『閑日』不安定な女の腰掛け方、落つこちて来さうな椅子の上の小鳥籠。
△望月定夫――『ふるさとの駅』日本画材料をある程度の新しい方法に処理して成功してゐた、細密描写の場合絵の具を盛り上げてゆくとすれば洋画に敗けることを考へたらいゝ。
△中村岳陵――『砂浜』砂浜の凸凹を線でゆかずに、窪み(面)でかきすぎた恨みがある。空はよいとして水はにぶい、小鳥は古いが、色の小砂の散らしは抒情的で美しい。
△森守明――『青潭』難ない、たゞ鳥ををいたことは意味なし、静寂感の出方が乏しい。
△森本修古――『奥春日』藤の絢爛たる美は良い、春の日の妖しさは出てゐた、たゞ仏ををくことはその理由は別として考へ過ぎである。
△曲子光男――『鵜城』鵜と樹木の形の面白さ、あまりに形の面白さに惚れこみすぎた感あり。
△中塚一杉――『菜園初秋』いりくんだ菜園を混沌もなく描き得てゐる日本画の本領の優れた点はかういふ時に良く現はれるといふべきだらう。
△三原清宏――『南紀の浜』南紀地方色がよく出てゐる、熱つぽい南国の触感がある、植物の厚みや葉の飜転がよく出てゐない恨みがある。
△森戸国次――『猿』猿は必ず虱をとり、木に登るものらしい、さうした平凡な取材に陥つてゐる。
△岩田正己――『富士の聖僧日蓮』この絵を生かしたものは背景の雲である。衝突して舞ひあがる自然現象の美は描かれて、なまじつか日蓮が立つてゐるのが俗物的に見える位である。
△川上拙以――『粧ひ』衣服がよく描けてゐたが、眼は何処を見てゐるとも思はれぬ虚洞の愚。
△野田九浦――『一休禅師』顔より手にかけて動物的な人間味がある手は思索家の爪の長いだれた感じの手である。
△杉山寧――『秋意』馬はねつとりした皮膚の感じがでゝ、背後に適当なムラをつけたのもさすがである。鮮女を描いたのは俗気にすぎる。
△石渡風古――『おしばな』少女の表情、デッサン、主題いづれも良い、髪の上の色のあせた淡さはさらにいゝ、髪の生え際は美しいが、眉と眼の関係は拙い。
△尾竹国観――『常闇』火の消えるのを防ぐ神々は出てゐたが、火の消えるのを恐怖する表情は出てゐなかつた。
△有元一雄――『錦鯉』よく描けてゐたが、光沢がない。
△下川千秋――『いでゆ』湯殿からあがる湯気で画面の描写を節約した感じ、素朴な甘みはある。
△西垣寿一――『新妓』線の堅さもよい、肩幅の広いきよとんとした田舎女も観察的である。
△小早川清――『春琴』日本の室内の気分がよく出てゐる、ぽつとした中の女の感傷、薄鼠と白襟の妖性色、顔への疲労の現はれなどいゝ。
△下村正一――『雪構』うまいんだが材料に偏してゐる、繩木、枝の交錯に酔ひすぎてゐる。
△稲田翠光――『架鷹』かういふ材料は日本の伝統的なものだけ、新味と新解釈が加はらねば意味がない。
△勝田哲――『茶室』女の指の先に朱をさしてゐるが、その割に顔に若さが現はれてゐない。
△遠山唯一――『木馬ひき』谷の上で木を曳く労働婦人を描いた良いテーマ、たゞ危険な仕事に擁る女の悲惨を感じさせる、絵の実感の効果であらう。
△三宅凰白――『雪合戦』洒脱な線で子供の生活をよく出してゐる、デッサンも確かであり、詩情も豊かである。
△寺島紫明――『朝』すぐれた意図がある、一人の女はレースの腰巻を露出して指を組んでゐる、一人は股に手をいれ一人は履物に指をやつてゐる、額に頭痛膏をはつてゐる、愚鈍な救ひ難い女の生活の三態でその個性が各自よく出てゐた。
△田岡春径――『南総宮谷の秋二題』色感及び線の動きの特長も日本画としての優れた点がこの辺にあらう、たゞ淡彩から極彩へ移るときに失敗がある。
△谷角日娑春――『一日一話』母は良く描けてゐたがモダン娘は足の割に顔が小さきに過ぎる、表現化が深慮に過ぎた。
△菊地契月――『麦ふるひ』左に農具の一端を描いたのは味噌である、伸びきつた姿の農婦もよく、落ちてくる麦の色彩の掴へ方も優れ袖のきれめにも肉感的なものがあり、髪の僅かなほつれもさすがに巧い。
△西岡聖鵑――『渦』波の動きをよく捉へてゐる、自然観察の絵はやはり面白い。
△横内大明――『山静』茶と青とに南画家に珍らしい、いゝ感能がある写実に執着してゐる点、墨の色に近代的な理解を加へてゐる点等佳作を産んだものだらう。
△太田天洋――『国防の覚め』余りに説明的すぎて、作者の調査の努力を見せつけられる感あり、題材の計画としては良いが。
△小早川秋声――『軍国の秋』日本画の仕事といふものは斯ういふ処にあるものではない、その通俗性と世俗性は余りに底が知れてゐる。
△藤森青芸――作者が力んでゐる割に出来が良いとも思はれない、色にリアリティがあるが形が一様である。
△保間素堂――『閑隠寮の秋』一人の女が化粧してゐるが、その手の形の小さゝ、お白粉のつきの悪さ、色の剥げた肩など過去の女を思はせる、古い東洋性の没落を代表してゐるやうな女性を描き得てゐる。
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日本画壇 新鋭作家集


    度胸の良さ 加藤栄三氏

 加藤栄三氏のやうな画家に対して、一体この画家は今後作画上でどういふ動きをするかとか、どの程度に伸びるかとか、予言的なことをいふことは殆んど不可能だ、またさういふ批評態度はむづかしい、その理由はかうだが、加藤氏に逢つた感じの人柄と、その書かれた絵とが殆んど反対の立場にあるといふ印象を受けとる、殊に彼のしやべつてゐる話をきいてゐると全く懐疑主義のやうで、絵に対しては良心の塊りといふ感じがする、どこにものんびりした感じがなく、神経質である上に、変な形容だが、神経や心理の「場面変換」がなかなか激しく細かい。彼は言ふ「風景などの動かないものを描いてゐて、近頃は小鳥が好きになつてそれを勉強してゐますが、ちよつと勝手が違ひますね、小鳥はチョコチョコと動いてちつともじつとしてゐない、しまひには、あんまり動きまはるのが憎らしくなつて、こ奴殺してやらうかと思ふことがありますよ――」いふことがすこぶる気が短かい、だから彼の言ひ草だけを丸呑みにすると、今後は神経質な画風にすすみさうである、しかし一昨年の文部大臣賞を獲得の、新潟の海で描いたといふ「薄暮」が示すやうに、作中の牛の悠久たるさま、彼の作品の図太い神経の丸味は、彼の性格のどこから来てゐるかちよつと疑問に思はれるほどだ、日常生活では極度に神経質だが、作画上ではその片鱗さへ示してゐない自然人的素朴さである、そこに彼の作品の特長もあり、今後に対する期待もかゝるといふべきだらう。
 加藤氏は自然観察が如何に難かしいものであるかといふことを、今にも泣き出したいやうな表情をしていふ、小鳥の性格の分類や、小鳥が野に居たときどういふ生活環境をもつてゐたかといふことまでも、知らうとする、彼の慾望はなみなみならず高いものがある、三越の新進作家日本画展に「山桜と瑠璃鳥」の絵を出品したが、その絵は雅味を帯びた瑠璃鳥の柔らかな平和そのものの姿であつた、彼は後から知人の小鳥通が来て「瑠璃鳥には非常に精悍な気性のものがある」と話がでた途端に、彼はシマッタと思ふのである、瑠璃鳥の性格を柔順なものとばかり考へてゐて、もつと突込んだ鳥の性格の観察に見落しのあつたことを、彼はたつた一人で自分の頭を抱いて天地に恥ぢるのである、さうした良心的な態度の良さが彼にはある、また一種の摂取型の作家で、画に対してどんな門外漢の言葉でも、それを充分耳傾けてをつて自分のものに摂取するといつた謙遜さもあるのは良い処だ、大臣賞の作品「薄暮」のやうなふてぶてしいスケールの大きさを、更に質的にも高めて制作発達してゆくところに、他人の真似の出来ない境地がある筈である、好漢惜しむらくは、少しく病弱らしい、体が弱くて仕事が停滞するのは実に辛いと述懐する。

    フロイド好み 橋本明治氏

 橋本氏に対しての一般的な批評をみると「才人才に負けるなかれ――」といふやうである、だが才人は才に負けるといふことはないものである。あれば才に溺れる――といふところだ、小さな才であれば負け、溺れるだらう、然し若し橋本氏にして大才を心掛けてゐる人であるとすればさういふ心配はないやうだ。新時代の日本画の路は、まづ日本画家を多少に拘はらず時代的な心理主義者にしてゐるやうだ、またこの危険を怖れてゐては、勉強の路もひらかれないだらう、橋本氏はさういふ意味で、決して平垣な[#「平垣な」はママ]路を行かうといふ人ではない、彼がフロイドの精神分析的なものに興味がある――といつてゐるのも、その間の事情を語るものがある、昭和四年の帝展初入選「花野」は彼がまだ美校の四年のときの作だ、この頃の作に現はれてゐる、妖しい感覚の独自性に、三つ子の魂百までの諺どほり今に至るも、橋本氏の作風の底を流れてゐる、妖しい画風の面白さである、彼が洋服を着用に及んで銀ブラをするところをみて、他人は彼を当世流のモダニストのやうにみてゐるらしいが、さう速断することもできない、彼は銀座は私の勉強に行くところですといつてゐる、風俗への観察のために出掛けるといふ彼の弁明をこの際正しいとしてをかう。ともあれ彼は野趣を追ふ作家ではなくて、「撞球図」などといふ近代的テーマを描く作家である、しかし公平なところ、橋本氏には昭和十一年文展の「蓮を聴く」とか、「花野」とかいふ、橋本氏の好みとする、心理分析の工夫のかゝつた作品の方がはるかに、絵に独特の香気と、気品とを盛りあげてゐる、他人の真似の出来ない工夫の仕方といふものを橋本氏の作風の中から発見することができる、近代的余韻のある作品と言つた方が、あるひはあたつてゐるだらう、橋本氏がふつと何気なく「小市民的な画材はあまり好きではないのですよ、もつと迫力のある作品を書きたい――」と口を吐いてでた言葉は、をそらく橋本氏の本音であらう、今までの処橋本氏は小市民的なテーマへ逸脱しさうな危険もずいぶんある、さうした危険性を本人がちやんと心得てゐるのだから第三者は安心をしてゐていゝだらう、橋本氏にかぎらない、何か新しい画題を求めようとするとき、日本画家の陥るのはこの「小市民的な画題」である、美しい娘を描くのはいゝが、たゞ彼女が消費階級らしい美しさを表現してゐて、それ以外に何等の美をもつてゐない、さりとて畑の糞尿臭い野趣が画題の最大の健康性でもない、そこで新の気鋭魄をもつ橋本氏のやうな作家の作家良心は先づ画題の選択の上で苦しまざるを得まい、橋本氏は自然の美しさも、また人間の美しさと同等に、特別の妙味ある描写力をもつてゐる人である、そしてその自然描写と近代的人物との調和の仕事が面白いやうに思ふ。

    粘りと感能 奥田元宋氏

 児玉希望塾は七十人からの大世帯の画塾で、尚毎日のやうに塾入りを望む画家の玉子があるといふ、これらの沢山の希望者を断つたり、選択したりするのが大変だといふ話である、奥田元宋氏は言はゞ児玉塾が始めて出来たときの第一番に駈けこんだ一人である、なにぶん弟子はとらないといふ原則をたてゝゐた児玉希望氏の処へ、郷里を飛び出してきた当時十九歳の奥田元宋氏が児玉氏の教へを乞ひ師事九年、奥田元宋氏は当時二十八歳、日本画壇の年齢番附から言へば、奥田氏は、言はゞ若冠である、何もかにもこれからだといふ感じがする。
 愉快なことに奥田氏は、主家である児玉希望氏の処から置手紙をして家出したことがある「文学をやりたくなつた」のであつた。
 だが再び絵の路へ戻つてきた、かうした内部的な苦悶を児玉希望氏はちやんと知つてゐて、「奥田は文学をやるなどと、道草を喰つたといふことは、今日の彼に大きな手助けとなつたのだ――」とよき理解を示してゐる、全く希望氏の言はれるやうに、今後の日本画壇は従来のやうな型ではいかない、文学との接触や、その理解はどうしても日本画家として必要である、文学好きの奥田元宋が、第二回文展で「盲女と花」で特選をとつたことはまた理由のないことではない、洋画壇では二科の島崎鶏二氏、日本画壇では奥田元宋氏はある共通なものがある、この二人は文学の臭味のない、文学的な絵画の出来る人である。
「盲女と花」のあのママ能性と、新しい意味での妖怪味とも言ふべき、心理的雰囲気を画面につくり出し得たといふことは、誰れでも出来る術ではないやうだ、絵画は造型美術であるからといふ理由で、テーマの上で文学と連結することを極度に軽蔑してゐる作家が多い、殊に洋画家にはそれが多いやうである、それは狭量といふものである。世間でよく「文学的な絵だ」といふが、厳密な意味では、そんな言葉がある筈がない。絵画はあくまで絵画で、事実「文学の方法」では一本の線も引けないわけだ、文学的ではない「思索的」だといふことをすぐ「文学的」だといふ風に批難してしまふからよくない、筆者は奥田元宋氏に大いに今後所謂「文学的――」と呼ばれていゝ作品を描いてほしいといふ意味で声援をしたが、仕事ぶりの粘着力と感覚的には感能的なところは、彼の大きな特長であろう、仕事に対する喰ひ下り方はまことに良いのである。一見童顔稚気充満してゐるが、その底には冷笑家らしい皮肉な処もあつて不屈な精神がみなぎつてゐる、彼が若冠にして「日高川」や「盲女と花」などの佳作を産み出したことは、若いが自己に対しての手きびしい厳格さが産みだしたものであつて決して偶然なものではないやうだ。
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新日本画の名コンビ 福田と吉岡
    ――『松』と『馬』に就いて――


 第二回新美術人協会展の福田豊四郎氏の『松』は従来の日本画の様式に対して新しい革命的な手段を加へたといふ意味で相当に問題となつていゝ作品である。この『松』をそれでは如何に問題化するか、といふことは、これまたこの作品を問題としてとりあげる批評者側に対しての一つのメンタルテストのやうなものである。福田の『松』に対しての美術批評の各自の解釈、さうしたものの喰ひ違ひ、或は一致、その批評的現はれこそ、自分は作品以上に興味があるものだと思ふ。
 あるひはこの福田の『松』や吉岡の『馬』を力作、大作といふ風な簡単な印象批評をもつて黙殺的に片づけてしまふか、さうした場合も少くないといふことは考へられる。然しながら、福田があの作品に加へた意図計画といふものは決して単純ではない。またこゝでは吉岡堅二氏の創作態度の本質とも関連して、日本画壇の福田、吉岡といふ名コンビの日本画の、新時代性確立のために払ふ作家としての精神的な内部的苦悶といふものに対して吾人は両氏の努力に対して充分に敬意を払はざるを得ない。
 こゝではこの二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものがある。福田、吉岡はこの二人が年齢的にも若いといふこと、その将来性に対する世間の期待と、次には所謂日本画の新しい方向に対して、この二人は何時の場合でも正統な追求の路筋を辿ることを知つてゐるといふ意味から、揺がない世間的な独自の人気を保持してゐるのである。世間では福田、吉岡の仕事ぶりを何かハデな画壇的動きと観察してゐる向もあるが決してさうではない。事実は之に反して、福田、吉岡の仕事ぶりをみてゐると、陰鬱なほど滋味な内気なものといふことができる。両面をもつた物体に光線をあてるとして、その光りを反射的に作用する面は福田豊四郎氏であり、その光りを吸収的に作用する面は吉岡堅二氏といふことができる性格的な両面でもある。この二人位日本画の運命といふものを自覚して、その運命をともにしようとしてゐる作家は他にゐないのである。さうした自覚に立脚して仕事をしてゐるといふことが、この二人を自己の仕事を過度に前進もさせなければ、特に後退もしないといふ実力を示すのである。殊に吉岡堅二氏の『馬』は在り合せの形式的な美術論の中から批評の尺度を求めてきては、一言も批評ができる性質の作品ではない。見給へ、吉岡の、『馬』に対して世間では何を語り得てゐるか。今年の馬は、去年の馬よりも良いとか悪いとかといつた単純な批評では批評でも何でもない。馬喰的言辞といふべきだ。少くとも吉岡の作品の場合には、この作家の心理的な創作以前の問題に一通りの関心を示してからでなければ、できあがつた作品に対しては一言半句も批評的な言葉を吐けない筈である。吉岡の場合は日本画の新しい形式的確立の手段の立て方が、余りにも内省的だといつてもいゝほどに苦渋な方法を採つてゐる。吉岡の『馬』は、吉岡といふ作家が、描く対象物に対して彼は形態の破壊を目的としてゐるのか、或は形態の構成を目的としてゐるのかわからないほどの状態で描いてゐるのである。彼は破壊しようとしてゐるのか、創造しようとしてゐるのか? どつちであるかといふ疑をもつしかしとにかくそこには一つの作品が生みだされ現出してゐる。その作品の世界は非常に抽象的な不可思議な雰囲気をもつた、吉岡独特な世界を生みだしてゐる。物体を殆んど無視して描いてゐるのかと思へば、さうではなく立派に実在性を捉へてゐる。吉岡はそして物の影とも、光りとも、また量とも面ともつかない一つの新しい実在性を発見してゐる点は、充分問題となつていゝのである。大体吉岡のやうな仕事は、洋画家が、その先進性からいつても先に手をつけなければならないやうな性質の仕事なのである。それを日本画畑の吉岡氏が早くもそこに着眼しその方法の進歩性を採用したといふことは皮肉な現象でもある。これらの吉岡的な創作的苦悶は、一言にして言へば日本画的な或は日本人的な『線』に対する新しい理解が伴ふところの新時代的な苦悶のそれであろう。
 一方福田豊四郎氏の場合はどうか、彼は仕事が吉岡氏よりも大まかな猪突的な冒険を企ててるやうに見受けられる、しかし決してさうではない。日本画の伝統への強い肯定に立脚した上での仕事である。表現の大まかな割に細心の変革を、蓄積的に加へてゆくといふやり方なのである。吉岡の方法は日本画の絵の具の物質性といふものに極度に喰ひ下るといふやりかたで、そこでは画面処理が究極の目的でないのに拘はらず、それに反して福田はあくまで画面処理を心掛ける。彼の『松』をみてもわかるやうに、彼は一本の直線を引くことに対しても、その直線の性質の中に、如何に封建的な要素が含まれてゐるかといふことをさへ吟味しその封建的要素の否定のために、物体を直線の上に描き添へて古い線に新しい要素を与へる。彼は殊に『曲線』といふものの日本的性質、その心理的な救ひ難い習性の表れといふものママ教へをよく理解してゐるから、それに対しての強い反撥を企てるのである。新しい日本画の確立とは、何も特別にテーマの中に、或は色彩の中にのみ変革の方法があるとはかぎらない。彼の場合には一本の線の動きの中からも、古い要素と、新しい要素との分析とを行はうとしてゐるのである。
 事実またさうした綿密な態度であつてこそ新しい日本画の確立は為しとげられる。色だけの美しさをねらつても、そこに引かれた線が古めかしいものであつては何もならない、『松』の表現力は、ひとつにはさうした企ての下に為された、必然的な単純化として到達した新しい画境とみるべきであらう。松に投じられた光りの侵入の解釈の新しさ、樹の幹の下部を急に細く描くことによつて、量感を一気に獲得したやり方の大胆不敵な方法も近来の痛快事である。また吉岡氏の『馬』の色彩の美しさ、その美しさは通り一ぺんの素通り的な見方ではなく、すこし許り画面に向ひあつて凝視的であるときは直ちに私のいふ意味の吉岡の色彩の美しさといふものがどんなものであるかを諸君は理解するであらう。
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日本画の将来


 映画の出現は、小説や劇やその他の芸術ジャンルに甚だしく不安を与へ、そのためにキノドラマといふものが現れたり、詩の方でもシネポヱムなどゝいふ、映画と他の芸術形式との結合を企てたものがでたりした。併しそれは成功したであらうか、またさうした運動が幾分でも、不安を取り除くことができたであらうか、日本画の将来の見透しも、またそれと同様なことが言へる。
 殊に日本画の将来に向つて、幾分でも予言的なことを語る場合には、日本画の現在内包してゐるところのもろもろの不安や日本画の存続問題にまでも触れなければなるまい。
 日本画が滅亡するか、どうかといふ不安を、あたかも映画に対する劇の不安の状態に当てはめて考へることは可能であらう。洋画に対する日本画の立場なども考へやうによつては、決して日本画の将来は楽観的とは言へない、キノドラマの場合、劇の不安を叫んだことも、劇と映画との結合を計画したことも正しかつたであらう、しかしキノドラマ論者は、現在その運動を継続してゐるとは思へない、なかに甚しいのは、さうしたことがあつたかといはんばかりに、口ママ拭つて、空とぼけてゐるのである。
 自分一個人の考へをこゝに差加へれば、当時キノドラマ支持者に対しては自分は斯ういふ考へを抱いてゐた「彼は芝居の味を知らないものゝ不安である――」と、しかも一流と言はれる演劇批評家や劇団人が、これを支持したに至つては唖然とせざるを得なかつた、一つの芸術ジャンルの将来を語り、その存廃に少しでも触れる場合には、少くとも態度としてキノドラマ論者のやうにありたくはない、何故ならキノドラマ論者の所謂「味噌」は、映画の本質、劇の本質、その何れにも不安を抱いたといふ、その中途半端的なところにある。
 いまここに日本画を論じてその将来を語る場合には、自分は日本画の「本質」をあくまで支持するといふ態度を失ひたくはないと思ふ。しかしそのことと、つまり本質を支持するといふことは、日本画が存続するか、廃滅するかといふこととはまた別なのである。
 映画がこれほど盛んにならうが、その発展が正統なもので、本質的なものであればこの映画の隆盛が、他の芸術ジャンルを脅やかしたり、滅ぼしたりするといふことは絶対にない、日本画も洋画も、各自その本質をのばすといふ点では少くも、一方が一方の正しさを滅ぼすといふことは考へられないのである。たゞこの間にあつて芸術的な正統性を、政治的工作に依つて歪曲されるといふことは、世間にはよくあるのである。しかしそのことはこれまた問題が別になる。
 今度の院展や青龍展をみて、それを一口で悪く言つてしまふことは簡単である、多くの洋画家の日本画評はさうである。日本画壇の内部でも、前衛を自称する作家は、現在の日本画を酷評する、しかし日本画と洋画(日本での)とその何れが進歩的であるかと、いふときに、直に日本画よりも洋画であるとは軍配をあげることができない。
 伝来的なものを直に古いと考へ込むことは最も危険なことである、こゝで冗々しく長いほど、わかり易く言へば、日本画家とは何ぞや――であらう『日本画家とは日本人であつて日本に昔からある日本画といふ材料を使つて伝来の方法で、日本の風物、人情を描く画家を言ふ』
 次に日本における洋画家とは『日本人であつて、西洋から移入した材料を使つて、もつとも新しい方法で、日本風物人情を描く画家を言ふ』その画家を何と呼んでゐるか『洋画家』と叫んでゐるのである。
 読者諸君はこゝで何かしら、変な気持に捉はれないであらうか、それは日本人であつて、日本の風物人情を描いてゐるに拘はらず、その描写の方法、絵具材料が西洋から移入されたものであるといふ理由だけで、いつたい何時まで「洋画家」などといふママ日本的な呼び方をつづけるのであらうかといふ疑問が起る。
 油絵画家ならまだ使用の材料の分類から抽き出された呼び名であるから肯定できるが、西洋からの材料を使つてゐるといふだけでいつまでも「洋画家」と呼ぶのはそれは一種の差別待遇であらう。
 然もその呼び方の矛盾やおかしさは、将来益々拡大するであらう、院展を見ても、洋画的な材料、一口で言つて近代的な材料を扱つたものはどちらも出来が悪い、青龍展でも銀座舗道的なモダニスト画家は、日本画材料を扱ひかねてゐる、日本画材料をこなすことができないのである、もつと突込んだ言ひ方をすれば、さうした題材を描くのに日本画材料を使ふ場合には、材料そのものが画家の言ふことをきいてくれないとも言へる日本画の伝来的な絵具材料は、日本の風俗人情に、幾代もの画家が永い間接触して、日本の自然を描くにはこれが適当だと、割り出された材料なのである。

 その答は結論的で固定的ではあるが、その固定的なことが決して封建的な非道学的不理由にはならない、日本の洋画家からやうやく洋画材料で「竹」を描いた作家島崎鶏二氏がたつた一人出たばかりである、しかし竹は昔から日本にあつたし現在もある。
 しかも日本画家の日本画材料を使ふときは、島崎氏が苦心を払ふことよりも幾多の合理的な立場から日本絵具を使つた場合、もつと手軽に竹の本質に接近できるのである、そこに問題が隠されてゐるのである、私はその意味から現在の日本画家の制作上の悩みを、頭から否定的に考へるわけにはいかないのである。[#底本では「。」が欠如]
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橋本明治氏に与へる公開状
問題の『三人の女』が会期中に加筆されてゐることに就て

 橋本明治氏よ――私は公開状といふかういふ形式で文章を書いたのが、こんどが始めてなのです、意志表現の形式としてはあまり完全なものでもないやうです、また貴方としても、突然何の前触れもなしで、私から公開状の形式で呼びかけられるといふことは決して良い気持のものではありますまい、しかし私はいろいろと熟考した結果貴方個人に宛てゝ、この形式で書くことが、もつとも穏当のやうにも、また現在のところこれがさまざまな表現の形式のうちで、最良のもののやうに考へましたので、この公開状を書いてゐるのです、これを公開状形式にしたことに就いては、問題を貴方対私といふ対個人関係から、出発させようとしてゐるからです、公開状といふ公衆性をもたせましたのは、この問題が、決して私信に停まるべき性質のものであつていけないと考へたからです、一つの社会問題として批判を仰ぎたいといふ目的からです、
 この公開状は場合に依つては、問題が思ひがけなく拡大する性質を帯びてゐると思ひます、またその反対に、小熊秀雄と称する詩人で評論家である一私人の単なる妄想として、一笑に附されてしまふかもしれません、私はむしろ後者として、私の一妄想として、問題が縮小され、雲散してしまふことを望みます――但しそれは全くさうした事実がなく、真個ほんとうに私が精神病患者であつた場合の帰結であり解決であります、もし私の見解が正当であり、私が妄想患者でなかつた場合には、問題は社会正義の問題として保留されるでせう、
 一つの事実が、正しいか、不正であるかといふことに就いてその事実の性質が、個人性を帯びたものと、社会性を帯びたものと二種類あるでせう、後者の社会性を帯びたものは、あらゆる場合に於いて、正邪を明瞭にしてをくといふ、人間的義務を生ずるでせう、私はこの公開状発表によつて、まづ人間的義務を果さうとしてゐるのです、つまり『問題の提出』といふ最小限度の義務を果してゐるのです。貴方が私のこの公開状を読んでも、何等人間的な義務を感じにならない場合には、この公開状を黙殺なさることもまた貴方の自由です。
 さて私がこの公開状を書くようになつた事情を語りませう、橋本明治氏よ――貴方は小熊といふ人物を御存知の筈です、それはたつた一度ですが、私は貴方のお宅をお訪ねして、貴方と色々とお話ししましたから、私は貴方の人柄風格も知り、また作品も系統的に調べてもみました、そして貴方の作品の支持者でもあるのです、また将来もさうでせう、さういふ意味からも、こゝでこの公開状を書かないでは気が済まないといふショックも、今回うけたわけです、昭和十四年十月十四日の『日刊美術通信』の記事を見ますと、西山主任との「一問一答」といふ題で、同社の記者と文展日本画主任の西山翠嶂氏との一問一答記事が掲載されてをります。

 発表のため美術記者連盟の控室に姿を見せた西山主任に対して記者達は突込んだ質問を試みたが一問一答は次の通りであつた
 記者――昨年の特選橋本明治、奥田元栄が落選に瀕したといふことだがそれに就いて聞きたい
 西山――橋本君の作品は出来栄え問題でなく研究的態度につき審査員会に是非の論があつたが結局入選した、奥田君のは種々の意見が出て最後まで残つたが採決の結果、票数が足らず落選することになつた――(以上美術通信記事より)

 この記事を読んだとき、貴方の本年度文展作品に就いて、まだ見ない間から私は非常な興味を覚えました、それは美術記者と西山主任との短かい一問一答記事の中に、既に文展審査の二つの暗流を感じますしさうした発表前に問題を惹起した貴方の作品がどんな性質の作品であるか見たかつたからです、それにもう一つの問題は、貴方の作品『三人の女』はその出来栄えは問題にならなかつたが、橋本明治といふ作者の研究的態度が審査員間に是非の問題になつたといふことです、研究的態度ママ審査席上で問題になるといふことは、よくよくのことに違ひない、殊に審査の本質は、その作品出来栄え本位で行くべきで、最悪でないかぎりは作者の研究的態度などを問題にすべきではないからです、貴方の制作上の態度にまで審査員が口を入れるといふことは、個人の自由に対する、審査員の一つの越権行為と見るべきです、しかし私は今にして見る場合には、あなたの研究態度で、審査員が別れて論じたといふことは、最悪の場合であつたことが想像されます。
 私は招待をうけて、文展招待日第一日に出掛けました、そして貴方の作品も拝見しました、そして貴方の作品の前にじつと立つて、この作品『三人の女』の何処に作者の研究態度の論難点があつたのであらうかと、ながいこと調べ始めました、洋画家の私の知人は貴方の『三人の女』はピカソの日本的解釈だと言ひました、それはピカソの作品に子供を差上げた作品もありましたからです、私の見解では『三人の女』は題材的に深い計画のあつたものではなく、日本画界に於ける純然たる新形式の裸婦群像であると見てをります、従つて女の肉体的描写といふテクニックがこの作品の出来栄えを決定する性質の作品でせう、審査当日審査員間で論争のあつたのは、その個所であつたでせう、私は貴方の作品の支持者です、しかし今回の『三人の女』は発表されたものをみて、残念ながら支持できませんでした、何故なら、美術批評家といふ民間審査員として、あの作品は涙をのんで落選させてゐたでせうから、文部当局や、頭の硬い審査員の審査標準としての論点が、もし社会風教上とか、安寧秩序とか、道義的立場からとかいふことで、貴方の作品の入選反対者であるのであつたら、私はそれに与みしません、しかしもし芸術作品の審査といふデモクラシーに立つて見た場合に正統な理由の下に、入選反対をした審査員があつたとしたら、(それが誰であつたか知りませんが)この人に与みするでせう。
 貴方の『三人の女』は入選しました、私はその作品をみて、内心驚ろいたのです、よくこの絵が入選したと――、洋画家は裸婦といふものに対して、それを性慾的にではなく、物質的解釈をするといふ訓練があるのです、日本画家の『三人の女』はそうした訓練を欠いた、過失作の一つと見るべきでせう、ワイセツ感を与へないやうに裸婦を描くといふことは、駈け出しの美術学生でも洋画家の場合には描く精神的技術的訓練があります、それに拘はらず、日本画壇に於いては、すでに相当の画壇的位置を占めてゐる貴方が、それが出来なかつたのです、洋画の裸婦をみつけてゐる私の眼には、貴方の作品は、画面の全体的雰囲気に於いて、春画的、性慾的、ワイセツ感をそこからうけとつたのです、然し私は批評家的立場から、どうして貴方の作品がワイセツ感を与へるかといふ吟味を会場で始めました、そしてそこに最もワイセツ感を強めてゐる『一本の線』を発見しました、それは『三人の女』は子供を差し上げて立つてゐる女と、髪に手をふれてゐる坐つてゐる女とがゐます、この二人は腰を布で掩つてゐます、顔を前に向けて横に寝そべつてゐる女が、全く腰部を何物でも掩つてをりません、この女だけは全くの洋画でいふ裸婦形式なのです、しかしこの寝てゐる婦人の曲げた両足を区分し、接続してゐるともいふべき、右上の股の一本の線の描き方は、婦人の内部的機構を想像するともいふべきあまり匂ばしい線とはいへなかつたのです、審査員の問題点『研究態度』の重点はこゝにあつたのでせうか、
 あの『三人の女』の画面からワイセツ感を得たのは、私たつた一人でせうか、何万といふ観衆が、あの絵から心よい芸術的法悦を受けとつてゐるのに、私一人があの絵からワイセツ感を受けとつてゐるとすれば私が心がママしいからでせう、しかしお可笑なことになつてきたのです。
 私は文展日本画をいつも二度に分けて観にゆくので、今度も第二回目に十一月三日に観に行きました、そして貴方の問題作『三人の女』の前に立つたとき、私は思はずギクリとしました、私は第一回目にみたとき、漠然と画面の全体的雰囲気としてワイセツ感をうけとつて帰つたのではなく、念入りにみて、一本の線が強すぎた――この線の橋本明治的解釈の誤りが、この絵を害ねてゐるのだと具体的な部分に触れ、充分納得して帰つたのです、ところで二度目の(十一月三日)に行つてみると、そこの部分が胡粉で塗りまくられて消されてあるではありませんか、私でなくても唖然としないではをれないでせう、これ以上長々と書く必要もないでせう、詩人といふものは直感を信じきつてゐるものなのです、詩人とは直感とともに生き、またそれとともに滅びていゝものなのです、文展開会第一日に描かれてゐた股の線が、十一月三日には消されてあるといふ、それに対して、文部当局の答弁も、また貴方自身の答弁がもし『そんなことは知らない、会期中に加筆して消した、そんなことは絶対にない――』といはれても、私にとつてはそれを覆す証拠といふものをもちません、私は最初見たときあつたといふ、私自身の直感を信じて、『いや確かに加筆してゐる――』と自己の確信を述べる以外に手段がありません、
 しかし私には満更味方がないとはいへないのです、それはこの公開状の掲載した原稿はをそらく文展開催期間中に発行できるでせう、一本の線があつたか、なかつたか、後から消したかどうかといふことがわかるのは、技術者としての日本画家の諸君あるのみです、第一日招待日に行つた画家で貴方の作品を注意してみた画家があつたら、再度会場に足を運んでみればどつちが正しいか明瞭になる筈です、貴方の作品に手を加へたのは誰でせう、然も会期中に勝手に手を加へていゝものでせうか、審査員の権威といふものはどこにあるのでせう、もし貴方自身が手を加へたとしたら、貴方も長いものに巻かれることを知つてゐますねといひたい、或は貴方も知らないのに、作品に誰かが加筆したものとしたら、日本犯罪史に新しい一頁を加へるところの新犯罪人の出現です、芸術犯とも呼びませうか、それともそれは私の直感の誤りであり、単なる白昼夢であつたとしたらむしろ日本の芸術家のために喜びとします、しかし事実であつた場合には、文展は既に芸術の聖殿ではなく、欺瞞的な手品師の小屋と何等変りがないでせう、問題は『三人の女』の内一人の寝てゐる女の股の線が消えてなくなつてゐるといふことです、単なる一本の線ではありますが、問題は単純ではないでせう、公衆の面前でこの詐術的方法がゆるされるものでせうか、誰がその責任を負ふべきでせう、一切の問題を白紙にかへしても、橋本明治氏よ――貴方は私一人をこのやうな公開状を書かせるほどに、錯誤を与へたことだけは、確かです、数万の観衆、それから文部当局、審査諸君、画家諸君、新聞、美術雑誌記者、美術批評家諸君、それから作者である橋本氏その人、これらの多数の人々が、描かれてあつた線が、いつの間にか、何者かによつて胡粉で塗りこくられ、ぼかされてあつても知らず、たつた一人私がそれを知つてゐたとしたら、こんな快事はまたとありますまい、然しこれは問題の性質上私の所有とすべき快業でもないでせう、私は或はこの公開状のうちで言ひすぎた部分があるかもしれません、しかし私としてはこれ以上穏やかな貴方に対しての言ひ方は知らないのです、最初で言明してをりますやうに、私は私信的な形式で貴方に対して公開状の形でこれを書くことの穏当さと、同時にこの公開状には、貴方から返答を貰はうなどといふ強制的な意味を少しも含ませてゐないといふことを誤解しないでいただきたい、同時にこの文章は単なる社会に対する問題の最初の提出といふ、最小の目的が果せればこれを書いた目的が完了するのです、橋本氏よ、幸ひに君にして私の公開状を誤解なく、君の芸術家として高邁な精神と、あくまで真実と公平との立場から読まれんことを希望したい。(十一月四日)
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大観とユトリロ


 横山大観氏の「海と山に因んだ」二十点の個人展を見た。見た――といふよりも、正しくは見る機会を得た、といふべきだらう。都会生活者は、機会でもなければ、絵の展覧会を見るといふことは至つて少ない。誰それの展覧会を、今開催してゐるから行つて見ようなどといふ場合は、まつたくの有閑人か、招待状を貰つて出かけなければ義理が悪いか、批評家とか、職業的に美術に関係してゐる人とか、展覧会を見るといふ自発性は多忙な都会生活者にとつては全くないといつてもよい。百貨店で展覧会を開くようになつてから、買物の序でに見るといふ大衆が多くなつた。それは非常に良いことに違ひない。私は大観氏の個展をデパートで買物の序でに見て、それから帰宅してから、友人三人に速達を書いて出した。君は出不精だから個展などを見るやうなことも少ないだらうが、いま開いてゐる大観の個展は是非見てをくことをお奨めするといふ文面の葉書を出した。
 大観の「海と山に因んだ個展」は、これを知らずに見遁した人は格別として、開いてゐることを知つてゐて特別の事情もないのに見遁した人があつたとしたら、ちよつと悔恨ものだらうと思ふ。私はここでこの文章を書きたい心といふのは、大観に対する特別な蔑視感をもつてゐる人が少なくないといふことを思つて、一つの正統さをこの人々に求めたい気持なのである。「ああ、大観か」さうした鼻の先で笑ふ人々が少なくない。君はいつたい大観の作品を何枚見てゐるか――、出来の悪いのを選んでみてはゐないかといつてやりたい。案外に見てゐないのである。怖ろしいのは大観そのものの人間的な動きであり、画壇といふ政治的集団の、人為を超えた、力学的な働きが、大観の政治的人物である面だけを社会に訴へて、芸術家としての大観を直接に伝へてゐないといふことだ。私は大観の「海に因んだ作品」をみてゐて、ふつと仏蘭西の画家ユトリロを想ひ起した。大観とユトリロとどんな連絡があるだらう。今から数年ももつと前であつたらう、福島コレクションでみた展覧会で見たユトリロは、その作品の制作方法の精神的段階が、あまりに日本的であつたので、私は吃驚びっくりしたことがある。しつとりとしたやり方なのである。日本の洋画家が、投げつけるやうに油絵をぬつたくる方法とは、まるでちがつてゐた。大観の「海」はユトリロの風景とその方法の上に共通点がたしかにある。ユトリロのその絵といふのは河を隔てて見える三階建程の建物で、コンミニストの本部を描いたものだといふ。大観は一枚二万五千円、二十枚合計五十万円を陸海軍へ献金するための制作であつたが、かうした大観の政治性と、芸術家としての大観の芸術性とを一応分離して考へてみたい。大観を単なる海山の風景画家としてだけ見て行きたい。ユトリロはコンミニストの本部を描いたことを、大観が海山の風景を描き、その売上げを聖戦の資に献じたといふこととをいまここに論じようといふのではない。不思議なことには、ユトリロの油絵の方法と、大観の日本画の方法とがまことに良く似てゐたといふことを、問題として採りあげてみたいと思ふのである。
 この二人の作家は国籍が異なるが、精神的な綿密な、また心理の段階を、手段化、方法化してゐるやり方は二人ともよく似てゐる。日本の洋画家の粗雑な油絵の具の扱ひ方の乱暴極まるものを許り見馴れてゐる私にとつては、ユトリロがおツユたつぷりで、それを根気よく重ねてゐる、柔らかい作品をみて、これこそ真個ほんとうの油絵で、日本の洋画家は油絵を描くどころか、油絵といふ材料を満足に使ひこなせてゐないのだと痛感したものであつた。
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時局と日本画
    ――横山大観の場合


 事変は芸術各部門にそれ/″\の衝撃を与へた、日本画壇においても、そのショックを免れるわけにはいかなかつた、先づ明瞭な現れとして戦時インフレイションのお蔭で、近来珍しく日本画が売れ、その価格も突拍子もない高価な取引が行はれた、然しすべての日本画家がその作品が売れるわけではない、矢張り少数の「選ばれた者」だけで、依然として物質的不遇な作家は多いわけだ、ただ事変下において、日本画もまた完全に商品化の路を辿つたといふことである、従つて制作を刺戟されて、作品が大量に描かれ展覧会も頻りに行はれ、有名無名に拘らず、この制作刺戟の恩恵にだけは浴したわけである、その機会を唯一のものとして、まるで株の売買のやうに、自分の作品を売りに出す一方の作家もある、この種の作家は乱作してゐる、制作刺戟を唯一の勉強時とばかり、良心的な研究作品を発表してゐる作家もある、斯ういふ時期には、また画壇でも政治的工作の多い時であるから、絵もろくに描かずにその方面に心を使つてゐる作家もある。
 最近の日本画壇の一問題としては、横山大観の個展であらう、海と山とに因む二十点の作品は一枚二万五千円宛に、計五十万円に売れ、陸海軍に分割して、寄附した、まことに彩管報国を実践したわけである、この作品展は事変下の制作刺戟をもつとも有効に、芸術的情熱と、政治的意義とを捉へることに、ふりむけて成功したものといふことができるだらう、芸術ヂャーナリズムはこゝへ来て大観号を出して、大観礼讃をするらしい、しかしこれらの美術ヂャーナリズムは多分に追従的であるから大観の正統さを礼讃をするよりも、その五十万円の赤誠を礼讃することに尽きるであらう、二十枚五十万円に売れたといふことは価格的には少しも驚ろくには当らない、画家の作品の金額への換算が、せいぜい一枚二万五千円か三万円だとすれば情けない話である、殊に芸術作品の価値が、金銭価格に換へられない純粋な存在であることを思へば尚更二万五千円は安い売り方だといへる、この金額に驚ろいていゝのは、一文にもならない売れない絵を描いてゐる画家を標準とした場合だけである。
 大観は価格として五十万円の赤誠を示した、美術、文学の世界を通じて、これはまた最高の価格的赤誠の現れである、しかしそのことを軽忽には採りあげられない、美術ヂャーナリズムが軽忽に大観礼讃を行つたらおかしなものである。
 美術家の中でも従軍して上海で死んでゐる人までゐる、この人の赤誠はいつたい金額にして何程に換算していゝだらうか、文学者の中でも不健康をひきずつて戦蹟慰問や第一線慰問をしてゐる人もある、畳の上に坐つて大観が描いた絵が一枚二万円に売れ、戦地の泥土の中にしやがんで描いた従軍画家の絵が十円に売れたといふことに就いて、これは価格の差を論じてはいゝが、赤誠の差はうかつに論じられない、大観もまたその無名従軍画家も、赤誠において純粋であつたといふことは均しいからである。一枚二万五千円で買ふ人が存在するのである、この人はそれを買つたために破産するわけはないのである。
 世の中には芸術の値打を、そのまゝに理解できない人がゐる、それを金銭に換へて始めてわかる人がゐる、「良い絵がないか」と画家のところへやつてこないで「高価な絵がないか――」といつてやつて来る購買者がゐる、百貨店のお客の中でも、一本の帯を買ふにも、値段の最低のところから、漸次高い値段のものに選びすゝめてゆく客と、もう一種類の客は、まづその店の最高の価格のものへ目標をたててそこで選んでゆく客がある、資本主義の世の中では、価格の高いものほど優良なものといふことになつてゐる、夏蜜柑は酸つぱいものをクーといつて嫌ふ人があるとすれば、それは夏蜜柑を一個、五銭か十銭のものより買つたことがないからである、一個十五銭も、十六銭ものいちばん高いものを買へば、夏蜜柑もなかなか甘いものである、ただ芸術哲学などといふ精神的分野に於いてだけ、価格とそのものゝ質とが必ずしも同一ではない、いまこゝに千万円の金額を積んでも、一哲学学生の考へ方を訂正させることが不可能な場合があるのである。
 横山大観の赤誠礼讃はいゝが美術ヂャーナリズムが大観の芸術の正統な理解を同時にしなければ無意味であらうと思ふ、大観の何処が偉いのだらうといふ、大観再認識を行ふ必要がある、五十万円の情熱は容易に理解できよう、しかし大観の芸術の理解はそれほど容易ではあるまい、大観の偉さといふのは、筆者に言はせれば、彼が日本画の伝統と運命を共にしてゆくといふ態度の偉大さだと思ふ、そのことを彼のために理解してやらないのは可哀さうだ、政治的大観、画策的大観、主将的大観さういふ印象を一般人にふかく印象づけられてゐて、作品的大観はこれらの通俗的なものに掩はれてゐる、今度とにかく二十点といふまとまつた作品の展観に接することが出来たといふことは、大観の作品論をするに絶好の機会なわけだ、大観の今回の個展は最初美術ヂャーナリズムはまことに冷淡であつたのである、ところが大観個展をみた一般大衆が、その作品の佳さの正統な騒ぎ方をした。私の知つてゐるかぎりでも一家族揃つて見に行つて感心してきた人もこそあるが、大衆が騒ぎだして美術ヂャーナリズムが慌てゝ追従始ママめたと見ても過言ではない。
 日本画と運命を共にしてゆくといふ作家は横山大観であるが、彼の場合はその伝統的諸形式に対する精神的圧力の加へかた、その形式の新しい手段への換置など、なみなみならぬ苦心が払はれてゐる点を見落すことができないだらう。
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問題の日本画家


    堅山南風小論

○…日本画家のことごとくが、不勉強だといふわけではない、しかし日本画壇のうちで、誰が勉強家だといつて、堅山南風の右に出づるものはあるまい、従つて彼の作品に、多少優等生的なところがある、相当に思ひきつた描き方をやつてのけるが、結局カチンと全体をまとめてしまつて、自ら動きのとれないものにしてゐるのは残念だ
○…彼こそ徹底した技術主義者だらう、だから、細かい部分になど特別な工夫が凝らされてゐて、画学生が南風の絵の前で、うんうんうなりながら彼のテクニックに感心して見入つてゐる会場風景などをよく見かける。画壇での、良心的分子として堅山南風をまづ挙げる必要がある。彼の人柄は誠実とされてゐる、時に誠実と良心とが度がすぎて作品が右顧左眄的なことがある、彼の耳を患つてゐて対談してゐる人も、彼が聞えたのか、聞えなかつたのかさつぱりその誠実の在り場所がわからない、南風の耳の遠いのは時には有効に悪画商を追つ払ふさうだ

    小杉放庵小論

○…もう我々は放庵のやうな人間を見ることができないだらうといふことは、珍しくこの画家は、人格的に日本人的完成ともいふべきものがあるからだ、画は東洋的で人柄が日本的だといへるのであらう。
 現在はあまりに半日本人や、変形日本人が多すぎるとき、彼放庵に逢ふと、やれ/\こゝに「日本人の典型」が残つてゐるといふ安心さへ湧く。
○…放庵は生活人であつて、決して画人とはいへない、だから彼の描く絵には、たゞの一枚として嫌々描いた絵はない「本朝道釈」のやうな絵物語風のものは彼自身描いてゐて一番楽しいに違ひなく、また観賞者もこの種の絵を観てゐると自づと、作者の生活の片鱗に触れる思ひがする、そこには平隠[#「平隠」はママ]と静寂との境地があり、見るものゝ心がそこで休息できるのである。
○…放庵は老いて益※(二の字点、1-2-22)旺んなものでスキーになど出掛けてゆく、しやれたスキー支度の服装で、雪の上に立つてゐる写真を見かけることがあるが、それが少しも俗物的にも変てこにも見えない、何のイヤ味も感じられない、放庵は一言で言へば、丹念に人生を生活する人といへるだらう

    竹内栖鳳小論

○…この老画人がどうして問題をもつてゐるだらうかそれは問題が全くないといふ意味で問題があるといふべき処また画壇での長老、尊老思想のよき対象として色々引つぱり出され上座に据られる処をみるとこの老作家もまた問題作家の資格は十分、長い画生活の業績はきつとこゝに貫禄を産み出してゐる訳だ
○…栖鳳の絵といへば今では批評外で、日本画の典型だと一口に言つてしまへば、まあ/\間違ひのない処だ、一般の大衆も日本画壇がどんな処やらどんな名前の画家がゐるのやら、さつぱりそんなことに無頓着な大衆が多いのだ、君は日本の洋画家の名前を日本画家の名前を知つてゐるだけ云つて見給へと質問したと仮定し給へ、洋画家では藤田嗣治、日本画家では大観、栖鳳これだけより知らんと答へる大衆が案外に多いだらう、知つてゐる理由はオカッパにしてゐるから
○…大観は有名だからそして栖鳳は僕がもつてゐる扇子にこの人の絵が刷つてあるから、さうして栖鳳の絵は真夏の扇子をバタ/\やることに依つて起きる涼しさの有難さと共に扇面の栖鳳の画風はこの人なりに理解される然しこの栖鳳の扇面うちわ的大衆化こそ彼の築きあげた努力なのである

    中村岳陵小論

○…中村岳陵はどちらかといへば気の多い作家である、何んでも一度は手掛けてみなければ気がすまぬといふところがある、制作態度が慎重だからいいやうなものゝテクニック不足の作家なら、すぐボロをだすところだらう、個展なども開いてみればおそろしく絵が概念的だし工夫といふものを放棄してゐて至つて常識的な絵になつてゐる、大作の意表に出るやうなテーマの取扱ひ方などに比べると小品物は味気ない貧寒なものだ。
○…彼は写生に熱心で、その追究が形態の崩れるまで凝視的だが、その形態をまとめる力をうしなつて、時には洋画の抽象派の連中の喜びさうな、ちよつと見てはわからないやうな絵を描くことが間々ある、水を扱つたものにさうしたものが多いやうだ、彼は珍しく岳陵の画風といふものをもつてゐない、すべての連中が早く画風をつくりあげてゐるのに、善意に解して、彼は大器として後年その画風を確立するのであるかもしれない、しかし半面に岳陵は暗中模索をしてゐるのだと解するのが至当だらう。
 彼には彼一流の美しい抒情をもつてゐる、作品「砂浜」の単純な構成と美の中に、すべての将来の秘密がひそんでゐるのだが、彼はそれに気附いてはをるまい

    奥村土牛小論

○…最近の土牛の作品の市価の鰻のぼりはすばらしいもので一にも二にも土牛で持ちきつた期間があつた、この原因を解く者は誰もゐない、土牛はすつかり神殿におしこめられて、急に賑やかに御燈明をあげられてしまつた
○…これほどに土牛の人間と作品を神格化してしまつたのは、それはせつせと提灯を運びこむ画商共の仕業であつたさうで、ところが画商共は、土牛の神様化をやり始めてゐるうちに、いづれも強度の自己催眠にかゝり滑稽にも、土牛の絵の出来悪しの問題は、そつちのけで、土牛の一投足、一挙手にも値打づけるやうになつてしまつた
○…例へば土牛の作品の値段がぐん/\あがる一理由の中には「土牛の遅筆」がある、絵を依頼しても、なか/\出来ないといふことは、困つたやうな顔をしてゐて、実は有り難いのである、自分は土牛の処に四十三回催促に通つたとか、いやわしは五十八回通つた揚句一年のびたとか、さういふ理由も土牛神格化の半面である
○…土牛は下手な画家ではない、しかしそれほど大騒ぎするほどでもあるまい、彼の最近の作品では「入瀬所見」など、色彩の対照の上で、矯激なほどの美しい絵を描いた、彼は腹が立つたやうに、ぽつんぽつんと間ををいてすぐれた作品を発表する

    郷倉千靱小論

○…千靱は最初洋画希望であつた、学校を卒へると、アメリカに渡つたが、こゝで彼は西洋画に対する希望を打破かれた、それは遠く祖国を離れて、初めて日本画といふ立派な形式の独自性と独創性とを海を越えて感得したのであつた
○…それが動機で、日本画をやるやうになつたといふことだ、この話は如何にも必然性がありまた問題を含んでゐよう、だから彼には、日本画の特殊性といふものについて、いつもそれを考へてゐるといふ認識のふかさがある
○…初期は相当脂肪のかゝつた大作をやつた、曾ての日本画に見られなかつた、特別な重厚さと、細叙主義であつたが、当時から彼の自然洞察は高度な精神的観察の下に立つてゐたやうだ
○…作品の例をあげると「小鳥の水浴び」などがそれだ、こゝは深い自然であり、人間の呼吸に驚ろかされない深い静寂な境地である、小鳥は何物にもおそれずにそこで姿態をつくりながら、嬉々として水浴をしてゐる、こゝまでこの創作に接近することができたのは、この作家が呼吸を凝らし、呼吸を止めることができるからだ、所詮この作家は静穏な愛の自然詩人といふことができるだらう

    福田豊四郎小論

○…新美術人協会はまだ第三回目だ、海のものとも山のものとも判らない、しかしこの団体は妙に人気があり、注目されてゐる、その原因那辺にありや――、この団体の主宰者福田と、吉岡堅二との人気がさうさせてゐるのだらうか、それもあるだらう、それよりも、福田と吉岡との制作態度の時代性が問題とならう
○…この二人位時代に対して臆病な作家は珍らしく、その臆病さがまた逆に時代に抗する強靱な作品を生むといふ珍現象をもたらすのである、見渡すところ、日本画壇では福田、吉岡位のろのろした存在はあるまい、他の連中のやうに速歩主義ではない、絵の勉強の仕方もまたちがつてゐる、この二人は時代の変転を見出さなければ、絵の技術を前進させない、こゝに時代と技術の不可欠なものを彼等は知つてゐる
○…多くの画家が、その個人主義的な、自由主義的な態度で今は何のテクニックも残つてゐないのを気がつかないで何か他人の知らない技術をみつけようと躍起になるのとはちがふのである、福田はあれで、小品を描くと彼の人間的モロサを露出させ、大作にみる強い人間としての彼とは全くちがふものをそこにみいだす、それも無理もあるまい、彼は涙もろい東北出身である

    石崎光瑤小論

○…展覧会場になど立つと、よくもかうした愚かしい仕事に熱心になれるものだと、思はずその画家の顔をみたくなることがある、日本画の観方、いまではもうさういふものはない、事実一般の観衆は、色々の角度から、終に断案を下して、絵の前を過ぎ去つてしまふ、さうした恐ろしさの存在することを知らないのは画家ばかりである。
○…さうした恐ろしい観衆を控へてゐるなかで、石崎光瑤の作品の前では、一応その足をとめ、批評を沈黙のまゝですぎるだらう、何故なら、彼の殊に「牡丹」を描いた作品の美しさはどうだ、そしてこの作品には作者の精神の微妙な動き、揺曳があり、魂のささやきがある、人々はその魅力にうたれるのであらう。
○…光瑤は光淋[#「光淋」はママ]派から出発してゐるので、古い時代の象徴派のコースをたどつてきた、しかしこの派につきまとふ形式主義が彼を硬直させてしまつて一時人気がおちたことがある
○…しかし最近の彼の描くものは、いよいよその技術の練磨が眼にみえるしかも、写実性はいよいよ加はり、現実的理解は透徹してきて、美しさの極限をその作品に見ることが多い

    吉岡堅二小論

○…吉岡の日本画壇の中での血みどろの改革事業は、傍からみても気の毒のやうなものである、彼は作品の上で、ヒットをうつ、たしかに新しい世界を開いたといふ自信も、周囲は何か吉岡の仕事に対して「これは新機軸――」程度の讃辞を与へて、ふんはりと薄い布を作品の上にかぶせてしまふやうなものだ
○…後はそれきりで吉岡の新美術人協会での作品はみな立派なものだが、吉岡の良識はおそらく理解されないだらう
○…相棒の福田豊四郎はこの仕事の世間的公認が思つたよりも低かつた場合になどに焦躁する、その点、吉岡の度胸は大きい
○…また粘着力、闘志、さうしたものに充実してゐる、彼が殆んど生れながらに身につけてゐるかと、思はれるほどの対象の近代的理解を手堅く仕事の上に見せて、どんどん世間の風評などを蹴散らしてゆく、吉岡堅二が洋画家であつたらなアと、ふつと繰りごとのやうなことをいつてみる、彼はやつぱり洋画壇で革新的な仕事をやるだらう、彼はこゝでは、日本画壇でよりは幾分理解者が多いだらう

    金島桂華小論

○…俗にいふ「腹ができた作家」は、誰々かといつたら桂華あたりを一人加へておくべきだらう、ところで画家の腹なるものが、甚だその言葉の意味の具体性を欠く、抽象的言葉なのだ。
○…然し若い画学生など、本気でそのことを考へてゐるのがあるから、頗る近代的でない、また世間でも案外問題にしてゐるやうだ、この腹は、仕事や、人格や、教養やが身についてゐるといふ意味で理由はあるが、気取つた態度や、馬鹿々々しい度が過ぎた無口、何をきいても返答をしない、応接室への現はれと引込みの芝居がゝり日本画家にはずいぶん可笑しくなる程多いのだ、桂華の腹は彼の仕事の蓄積がものを言つてゐる腹だ、実際最近の桂華は何も仕事らしい仕事をしてゐない、しかし人気は落ちない、それといふのは過去の仕事がそれを支へてゐるからだ、だから言ひ換へれば人気の波の頂点ではなく、その波のひろがりの末の人気といふべきだ
○…「鳴干九皐」(宮内省御買上)などの過去の作品がある、白鶴三羽を描いたものだが、この作品の緊密感は、塩が利いてゐるといふ形容よりも、ニガリが利いてゐると言つていゝほどぴりつと緊つた作品であつたが、彼がピリッとしたニガリ的なものを喪はぬ間は、人気の落ちるやうなこともあるまい

    横山大観小論

○…大観が画学生時代には彼はことごとに仲間の意表にでて、帽子などヒサシの直径六尺のを冠り、のつしのつしとのし廻つたもの、若いときから大きなことが好きであつた、大観の画壇的動きの大きさは、ちよつと他の画家の真似の出来ないものがあらう。
○…もつとも明治三十一年に当時の東京美術学校々長岡倉覚三氏と日本美術院を創設したり、大観の過去の画業を系列的にみると、なかなか俗にいふ世の中につくし、画壇につくしてゐる、大観に活を入れてもらつて、蘇生した画家がそこいら辺りに居さうな気がするがどうだらう。
○…ところがこの画家位、悪評野に満ちてゐる人は少なからう、絵を依頼して断られた腹いせに悪くいはれることも数多ければ悪評は高いわけだ。
○…しかし大観はそんな場合、美術雑誌や画商のために創作の情熱は決して湧かしてなんかゐない、一枚二万五千円計二十枚五十万円の海と山との絵を描いてゐるのである、陸海軍省へ献納しようといふ大観のひたむきな制作態度を賞めてやつてもいいだらう、さういふことに彼が制作情熱を沸かす、それが大観の特質なんだから――

    福田平八郎小論

○…京都在住の画家には何か格式といふべきものへの執着を、多かれ少なかれもつてゐる。人と逢つても体を崩さないといふところがある、福田平八郎は京都住ひではあるが、その点全く江戸人のやうな鉄火肌のところがあり、開放的でザックバランだ、おしやべりかといへば、どつちかといふと無口の方だが、開口一番するや思つたことをズバズバ言つてのけるといふ性格で彼の描く絵のやうに明確なものがある。
○…福田平八郎の人気を名づけて「好もしき人気」といつたらぴつたりしよう。流布される人気は何時の場合も、好感的なもので、作為のない彼の人柄がさうした好ましさを生むのであらう、この作家の初期の画面は神経をゆきわたらした、ねつとりとした粘液質のものだが、最近作では次第にそれが様式化され図式化されてきてゐて、淡白なものになつてゐる。
○…問題なのは近頃になつてからの仕事だらう、この様式化は彼にとつて一つの手段で、この様式化には問題がない、その様式、図式の中に埋められた色彩に問題があるのだ、他の画家が予期しないやうな、配色、調子、対照、をつくりだしてこゝに異常な美しい色彩を発明する、彼の作品の特異な輝やきといふのは、その色彩の案出された新しさといふべきである

    小倉遊亀小論――小品作家たるべし

○…女流作家のうちでは、彼女位佳き抒情をもつてゐるものはあるまい、彼女はモダニズムを自然に身につけてゐる、西洋草花などを描かしたら、それがよく出てゐて、非常に美しいものだ、洋画の新しがり屋などの真似の出来ない境地がある、花束とか寄り集まつた小さな花などに、念の入つた美観を呈する画壇といふところはやつぱりかうした小品物許り描いてゐてはうだつがあがらぬところらしく彼女も「浴女」「浴後」などの大物を発表してぐんと人気が昂まつた形だ。
○…この二つの作品に対して、美術批評界の絶讃ぶりは、しかしこれも日本画の世界なればこそだ、女性の裸の数を彼女よりずつと沢山見つけてゐる、洋画家に言はせると、浴場の裸婦のデッサンは噴飯もので、あれでも裸婦で通るのだから日本画壇は幸福なものだと噂してゐる、ともあれ彼女は、柿を一つ二つ転がした絵を描きたがらないで、草花を描いたら第一人者だらう、他人の真似の出来ない伸々とした自然な描写がある、大作はまあ人気を保つ手段程度で止めておくべし

    徳岡神泉小論

○…世間では神泉を苦悶の行者のやうに見てゐるが、いやしくも芸術と名のつくものをやつてゐるからには神泉程度の勉強ぶりを行者扱ひするのはおかしい、他の連中が色気が多すぎるので、ちよつとばかり手堅い作品を見せれば、苦悶だとか、業苦だとかいふ、神泉は目立つのだ、神泉はたしかに画壇でも追究派の一人に属して人柄もまた甚だ深刻である
○…神泉は明確な主題の決定がなければ、筆をとらない、だから彼の描くものには、ソツがないし作者の意図がはつきりしてゐる点、彼の絵を見ていて気持がいゝ、彼の絵が問題になる場合には、世間的な取り上げられ方ではなく、絵画の技法上の問題として取り上げられる場合が多く、したがつて若い連中にとつては、神泉の作は研究題目として十分に興味がある
○…しかし神泉研究は往々にして、錯誤を招く、ある者は、神泉は実に新しく時代的で本人もまた時代へ革新的な絵画を目指してゐるのだといつたやうな考へ、それは少しく異なる、徳岡神泉の作品と、吉岡堅二の作品とを較べてみたらよくわかる、神泉の作はおそろしく古典だ、その古典の再現が外見的にはフレッシュに見せてゐるだけで、所詮彼は新しくなることが不可能なのであらう。
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子供漫画論

    一

 絵本漫画の出版業者にむかつて、或る人が質問を発した、『君は自分のところで出版してゐる漫画を、自分の子供に与へるか――』すると出版業者は『いや、なるべく見せないやうにしてゐる』と答へたさうである、自分の子供に与へて弊害の有る所謂『赤本漫画』も、他人の子供には、平気で売りつけるといふ態度が、従来のこの種、子供読物出版業者の、出版態度だといつてよいものと言へよう。
 内務省、及び文部省が手をつけた子供読物浄化運動は、一昨年の夏頃からで、その年の秋は取締りの酷烈なクライマックスに達した、昨年に入つても当局の出版業者に対する、警告、発禁、の連続的処置や、出版前内閲の手厳しさは、業者にとつては全く出版の自由を失ふものであつた。しかし取締当局が、出版業者の出版の自由を、うばつたといふ見解よりも、かういふ言ひ方がいゝ、当局の取締方針が、漸次、確立するにしたがつて、出版業者が逆に出版の『方針』がわからなくなつて、出版能力を減殺していつたと解す方が正しいだらう。
 現在の状態は、子供漫画の場合は、童話、絵本の類よりも、はるかに出版能力が低下してゐる、取締を強化しない以前に発行したものは、内容が悪くて、再版して発行するといふことは不可能な状態にある、当局もまた再版ものを喜ばないのである、出版業者は、従来の既刊物を自発的絶版にしてしまふより仕方がない、或る出版業者の話であるが、この業者は七十種類ほど漫画を刊行してゐたが、現在その大部分を自発的絶版にして、今は手持漫画は数種よりないといふ、市場に商品は、少くなるばかりであるし、新しく出版しようとすれば、当局が児童読物の内容に対して、いろいろの注文をする、その当局の注文を呑み込めない出版屋が多い、したがつて出版も渋滞し勝ちであるが一方、漫画は市場に品不足で、さうした中で、出版しさへすれば羽が生えて飛ぶやうに売れる、需要に応じきれない現在、出版業者は出版はしたいし、出版取締の(以下十字判読不能)至難といふジレンマに陥つてゐる状態だ。
 子供読物取締に就いて、一※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話がある、内務省の一役人が、関西地方の視察旅行をしたとき、ある本屋に入つて、子供にはどんな本が、いちばん売れるか――、と質問した、そのとき本屋が、これですと差出したのが、所謂赤本漫画であつた、その漫画の内容がまた言語に絶した、粗悪なもので、本屋の主人に『これはどの位、売れるものか』と質ねたところが、全国に数十万、捌かれるといふことを聞かされて、役人は驚愕した、これではいかんと浄化取締に着手したといはれてゐる。
 過般の児童読物浄化取締は、児童心理の研究者や、教育者が当局に浄化取締の、動機をつくつて与へたものでなくて、今回の取締の当局自身が、それに着手したといふことが、特徴的なところである、子供漫画がそれほどに俗悪のクライマックスに達してゐるのに、児童心理の研究者や、教育家達は、それまで何をしてゐたかといふことに就いては、この人々が、決して教育に対して不熱心でも、専門的でなかつたわけではあるまい、何故なら『××的教育の批判的云々』とか、『児童心理学から見た××』とか、さかんに教育に関する著書も、むづかしい名前がつけられて発表されてゐたから、いろいろな子供の善導についての研究会や、座談会も盛んに催してゐたやうであるから、しかし、現実にこれらの人々と、子供読物の急速な卑俗化とは何の関係もなかつたのである。理想主義的な教育主張をもつ人々や、これらの著書とは別に、燎原の火のやうな勢ひで、粗悪漫画が子供たちに、広く手渡されてゐる事実は、早晩、社会問題化さないでは、をかない性質のものであつたわけだ、私はこゝで国家の文化政策と、利益を目的にした商人の生活との、協調などといふことが、如何に至難な事業であるかといふことを言ひたい、子供のためになる良い本を出せば、それですべてが解決するのである――しかしこの単純にみえる政策が、事実の効果の上では、たつた一冊の良い本になつて現はれるといふことの、そこまでに到る裏面的事情は、複雑多岐を極めて、たどたどしい性質のものであることを知らねばならない。

    二

 或る子供絵本、漫画の改革の座談会の席上、一教育者が、出版業者にむかつて、かういふことを言つた、『みなさんは儲けること許り考へないで、たまには損をしても良い本を出して下さい』そして教育者と出版業者とが声を合して、和気藹々と哄笑したのである、しかしこゝには二つの性質の哄笑があつたのである、深刻なのは出版業者側の発した笑ひである、いつたい商人が儲けを除外して出版するなどといふことは、全く考へられない、教育者のさうした出版業者に対する求め方は、現実的性質の薄弱なもので、夢想である、商人側が声を揃へて笑ふのも無理がないのである、
 現在、政府の子供読物浄化方針は、出版業者との直接な触れ合ひによつて進められ、すこしづゝ内容が改良されて行つてゐる、さうした場合の、教育関係者は、両者の批判的な実行的な位置になど、全く立つてゐない、これまでも、また現在も、当局の相談役的存在は、その吐くところの意見が、出版業者の実状とは全くかけ離れたところにある、一口に言つて理想論が多い、私はこの種の人々を『座談会用の人間』と呼びたい、一つの問題解決のために、政府当局の招きによつて、改革に参画し、直接その事業に携はる業者を前にして述べる、これら専門家達の改革意見は、その座談的老練なる故で、其の場の雰囲気を柔らかにはするが、ただ一冊の本の内容を実際的に改める力をもつてゐない。これは絵本浄化の場合にかぎるまい、政府と接触する民間団体の中には、単なる『座談会用の人間』がまことに多いやうにも見掛けられる。
 子供読物の浄化座談会では、教育者が実状とは全く遠い現象的な改革意見をのべる、すると座談会に参加してゐる、世間的にも有名な漫画家が『どうも漫画といふものは、教育と背中合せの所がありますね――』などとお座なりな意見をのべて、そこで一同がまた笑ふといふ状態である、大部分の漫画家の文化的水準の低いことはお話にならない、これまでの赤本漫画や、絵本の作画家は、その低俗な意味に於いて、出版業者とよくウマがあつてゐた、現在までに卑俗性を高揚させるには、前述の漫画家の座談会での発言のやうに、『漫画といふものは教育とは背中合せだ――』といふ意見通りにやつてきたのである、浄化がこゝまでに到つても、まだ子供読物は反教育的であつて構はぬなどといふ、無理論な漫画家が現在でも少くない。
 しかも文学者や、科学者や、画家、教育者などは、商人よりは文化人であるといふ意見は、常識的に通用することである、しかし温ま湯のやうな低い文化性などは、商人の現実からの反映の敏感さで、割り出された、現実的行為の前には、往々にこの文化人なるものが、商人にイニシャアチブを握られるといふ現象も起る、従来の漫画家の場合は、それが最も極端に現はれ、一冊の漫画ができ上るためには、漫画家は出版屋から、要求される――といふ形式で、実はさまざまの牽制をうけてきたのである、漫画家が気品のある漫画を描いたときは、それは売れないといふ理由で、卑俗な漫画の形式へ復帰逆戻りさせられたり、画中の人物を乱暴に扱ふ仕組みは歓迎された、画中の主人公が無人島に漂着する、猛獣が現れて、この太郎少年を脚で跳ねとばす、すると少年はきまつて椰子の幹にぶつかると、上から椰子の実が落ちてきて、下の太郎少年の頭にあたり、少年は『テヘッ、いてイ』(痛い)と叫ぶ、このやり口は殆んど常套手段である、
 漫画の教育的意義などは、どこにも発見できない、丸髷の奥様が、乳房を露出して海水浴をしてゐれば、蟹が泡をふいてそれを見物してゐるといふ野卑なものから、『アリャリャ』『アタタタタ』『ウヘッ』『テヘッ』『ヱヘヘヘ』『ヒャア』『アレレ』『ウワッ』『チヱッ[#「ヱ」は小文字]』などの愚劣な感動『止まれ』といふべきところを『トトトト止まれ』といひ『大将』といふべきを『タタタタ大将』と表現し、この赤本漫画を読むことによつて、子供の正しい発言を、吃音児童に養成するやうなものである、ドモリの子供をつくる許りではない、鶏の鳴き声に似た(二字判読不能)雲助的(三字判読不能)追従的かけごえ『ケケケケ』とか『テヘヘ』とか人間の言葉とは思はれない言葉を汎濫させ、チャンバラ漫画では人間の胴体の輪切り、頭部の唐竹割り、黒ん坊を虐殺する人種的偏見場面、血シブキの飛散、博徒長脇差、他人の部屋に忍んでゆく破廉恥漢、忍術、空中飛行、等悪材料は枚挙にいとまがない、当局が浄化に手をつけた頃は、その粗悪な頂天で恐怖状態を示してゐたのである、

    三

 これらの粗悪漫画の数量や、配布範囲が広いといふことを、監督官庁が気づかなかつたといふ一理由はある、それはこの種の粗悪絵本や漫画は、内容の吟味された高級子供出版物とは、全くちがつたところに、出版業者の取引配布網があつたといふことである、価格もまた五銭、十銭二十銭程度のもので、長篇漫画で六七十銭級といふ、現在は一円近い低廉なことが特長であつた、これらの安漫画は、デパートの書籍部や、文学、哲学などの高級書籍を扱ふ書店には現はれない、赤本の配本網は別なところである、二流、三流どころの本屋、古本屋、玩具店、最も大量消化するのは、夜店商人であつた、本屋もない地方によつては、雑貨店の一隅に、チリ紙の束の隣りに、或は黒砂糖の桶の隣りにならんで売られてゐるといふ具合に、全く庶民的立場にある安価本として扱はれてきた、当局の検閲の眼の下をくぐつて出版されてゐたかどうか、粗悪時代の当時の状態は保証の限りではない、検閲の眼にふれることが少なかつた理由がもう一つある、赤本類は、出版物としてよりも、玩具形式として扱はれてゐたことである、木製の赤い自動車や、ブリキ製の青い船にまじつて、この漫画本は、何かしら赤青を塗りたくつた本、といつた程度の、玩具としての認識より外には、出版業者がもたなかつた、取締強化に際して、赤本出版業者は、児童の出版物といふものは、いかに喧しく取締られるものであるかといふことを、始めて経験し、なかには唖然として策の施しやうを知らなかつたのも出版業者にとつては無理があるまい。
 浄化座談会で、教育家の一人の意見では、粗悪本の影響を避けるためには、子供自身に本を選ママせるからいけないので親が選択して買つてやることがよい――といふ、しかしこれは現に行はれてゐることでもある、子供の教育に熱心な、或は熱心すぎる家庭の母親はさうしてゐる、値段に構はず、高い読物を選んで買つてやつてゐる、座談会に出席した某デパートの書籍部主任はかういふ『手前どもでは、いくらでも高い本が売れますから、高くても、いゝ本をつくつていただきたい――』と、母親が子供のために良書を選むといふこと、高くても良い本と言ふことは、間違つてはゐないであらうが、子供読物浄化運動の主旨と、本質から少しく離れてゐる、殊にデパートの書籍部主任が、いくら高くても売れるからなどといふホめ方は、少数の子供を目標にしたホめ方で、大多数の子供のために、愛情ある言葉ではない、売れさへすればといふ、利益の幅の大きさを、前提とした言葉であつて、ある意味では悪質でさへある。
 母親が選んで本を買つてやるといふ、良家庭は必要であるが、赤本漫画の改革は、かうした家庭の読む本といふより、俗に餓鬼鼻たれ小僧と呼ばれてゐる、広い庶民階級の子供を対象として起きた問題なのである、そこのところの混同はできない、本が安いといふことに問題がたくさん残つてゐる、五銭玉、十銭玉を一個母親に与へられて、本屋に子供自らが走つてゆくといふ性質のもので、さうした実状を無視して、兎角民間の浄化問題は理想論にかたむく。これらの鼻垂小僧の両親は、赤本漫画の有害なことを、知らなかつたのであらうか、充分に感じてゐたに違ひない、何故なら現在の我国の家庭に於ける児童の位置といふものを考へてみたらいゝ、家庭は子供達にとつては、ヱレン・ケイ女史のいふ、それは家庭があつても、無いと同様な『無家庭』の状態にをかれてゐる。
 父親は働きにでかけ、子供達は学校にでかけるが、一日の大部分を学校では家庭から子供たちをうばつてゐる、やうやく家にかへると、母親は家のことで忙がしく、子供たちのことは、かまつてくれない、子供達は親にうるさがられ、幾何かの金を与へられる、子供はそれで鳥モチを買つて、トンボ釣りに出かけるか、紙芝居を見るか、赤本漫画を買ふかする。
 ことに漫画を愛好する子供の狂的な熱心さは、手に負へない悪太郎も、『本を読んでゐる間は』猫のやうに温和しくなる、その有様を、親達は内心恐れながら、子供達のお守りをしてくれる漫画の本に、感謝さへしてゐる、トルストイは、学校といふところは、既に中性的なところで、子供達はそのことを、ちやんと知つてゐる――といつてゐるが、トルストイのいふやうに家庭と社会との中間に、宙ぶらりん的な存在を、学校が果しつゝあるやうな気がする、子供達は教科書の硬さによつて精神状態を硬化することを、漫画といふ課外読物の、弊害的な柔らかさに、喰ひついて、精神を中和させてゐるかのやうである。

    四

 内務省と、出版業者との最初の会合のとき、内務省図書課の方針では、かういふ悪いものが、あるからいけないのだ、といふこの世から漫画を絶滅してしまはうといふ強硬意見をみせた、すでにその卑俗性は頂上に達し、改革の余地なしといふ見解をたてたのであらう、すると席上で、出版業者側が驚いて、漫画の廉価な立場と、無産者の子供のための出版――といふ社会的意義を主張した、そこで内務省もその立場を是認して、それでは内容を改革しろといふことを業者に要求した、現在市場に現はれてゐる商品のいろいろの価格のうちで、五銭、十銭などといふ単価のものは、価格が安いといふ意見だけでなく、社会的意義が大きい、しかし漫画はキャラメルのやうに、舌の上では溶けない、子供達は一冊の本を何度も繰り返してよむばかりでなく、それを持ち出して友人に借すと、一日のうちで幾人かの子供の間を、非常なスピードで回覧される、卑俗を感じながら、親達はそれ以外の、種々の利得をこの赤本から得てゐる、残念なことには全く教育的でないといふ、一事だけが残つてゐる。
 内務省の強硬方針で、もし現在漫画が廃滅されてゐたとしたら、何の問題もない、しかし漫画は子供達を無性によろこばしてゐたといふ事実は、この世から漫画が影を消した後でも、さうした事実のあつたことだけは問題として残るだらう、子供達はそれにかはる他のものに転じてゆくだらう。ソログープの子供を扱つた小説で、牛殺しの父親をもつた小さな姉妹が、母親の留守にそつと庖刀をもち出して『牛殺しごつこ』をやる、姉は父親が牛を殺すやり方そつくりに、妹の首に庖刀を加へるという筋であつたが、子供達はどのやうな恐怖すべき遊びをでも案出する、『自爆自爆』と叫んで二階から飛びおりて怪我した子供があつたとか、ないとかいふ、この子供は新聞記事を読んでゐたに違ひない、子供読物がこの世から姿を消しても、子供自身は決して困らない、この連中は色々な遊びを考へ出す、大人の講談本でも結構読む、子供漫画が廃されないで、存続したといふことは、子供にとつての問題よりも、大人にとつて問題が残されたのである、出版業者はその儲けを継続することができるし、漫画家は執筆によつて命をつなげるし当局は取締りの余地をのこした、教育者、児童心理の研究者達は、今後も相変らず座談会を開くであらう、ただ子供読物の問題は、文部省、内務省の今後の取締方針の如何によつてすべての状態が、いくらでも良い方向に変つてくるに違ひない、その意味では(五字判読不能)
 幼稚園のブランコの綱が切れはしまいかと注意を払つてくれる保母があるとすれば、子供たちにとつて、優しい親切な保母であらう、多くの場合はブランコの綱が切れて子供が墜落してから、幼稚園では綱は取り替へることになつてゐる、政府が、映画とか、読物とか、子供のことに関して、危険の起きる事前にそれを防がうとし、気を揉むやうになつたことは、子供のための良き保母になつてきたといへよう、国立児童出版所のやうなものができてゐない我国の状態では、政府が子供読物の良いものを、率先出版して、見本を示すといふわけにはいかない、従つて個人の資本投資による出版を否定するわけにもいかない、内容が悪いといふ理由で、出版されたものを発売禁止処分にするといふ、所謂断乎たる処置が、政府の政策遂行を容易にするばかりとは限らない、そんなに子供出版物の発行が難かしいのであれば面倒だからと、昨日の子供読物出版屋が、けふはタワシの製造業に、さつさと転業もしかねないのである、『儲からなくても良い本を』などといふ言葉が、いかに非現実的な言葉であるかは、この業者の心理状態に接触した経験のある人はよくわかる筈である、良い本をつくらせることは、取締当局の方策であり、画家、教育者は、ことに政府の良き協同者でなければならない、そして出版屋は儲けるといふ単純な理由でだけ出版する、何故なら儲けさへすれば、どのように優れた立派な子供読物でも出版するからである、現在の出版業者が、自発的な出版良心をもつまでになるには、多少時間がかゝるやうだ、文部省や、内務省の取締り方針が、過渡期であるといふ意味で、方針の動揺といふものもあるため、出版業者の出版方針もまた戸まどひしてゐる、羊が紙を喰つてゐるやうな漫画を書いたところ、紙を喰ふなどとは、国策に反するのではないかと神経質になつた人があるといふ、羊が紙を喰ふのは、羊の習性であつて、国策とは何の関係もない筈である、しかし現在の子供漫画の出版には、その位にも当局や出版者が敏感になつてゐる、国策に反するのは、羊が紙を喰つてゐる絵ではなくて、卑俗な子供出版物を出版して、印刷紙を浪費する、そのことであらう、有害なものは勿論悪いが、無害なものも無意味な出版である、他の大人の娯楽出版物は知らないが、子供出版物はあくまで有益なものでなければならない、しかし子供漫画の卑俗化は、我国の現下の『赤本的現実』の一つの現はれであつて、漫画だけがその責を負ふべきではないからだ。





底本:「新版・小熊秀雄全集第五巻」創樹社
   1991(平成3)年11月30日新版第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:瀬戸茂之
2006年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について