紙幣

小熊秀雄




紙幣よ、
貴様のためにこの私の詩人が
歌ふのを光栄と思へ、
だが貴様はいふだらう、
――何を生意気な貧乏詩人め、
  イノシシとは一体
  十円札か百円札か知つてゐるか
さういはれてみると一寸胴忘れした
然しそんなことが何の恥辱だらう、
紙幣の図柄をゆつくり
見て居る暇もない程に
貴様はいつも私の右から入つて左へ抜ける
まるで駈足だ。
もし私がブルジョアならば、
お前にもつと親切だらう、
図柄もとつくり見ようし、
一枚一枚アイロンをかけて皺をのばさう、
お前は時代の寵児
お前は向ふところ敵なしだ、
札束で頬ぺたを殴られると
いかに謹厳なる将軍も
莞爾と笑ふ
そして将軍らしく胸を張つて
おもむろに鬚をひねつて
札に向つて言ふ
――うむ、うむ、御苦労じやつたのう、
何が御苦労だ、
凱旋兵か、帰還兵か、斥候かを
迎へるやうに気嫌がよい、
出て行つたものは帰つてくるのが、
当然だといふ態度だ、
あゝ、だが私の詩人のところから
とびだした紙幣の斥候兵は
ただの一度だつて帰つてきたためしがない、
将軍が札束を前にして
やにさがつてゐる間に
戦況は刻々と変化し逆転してゐる、
夫人はデパートの電話をかける
すると自動車が玄関に現はれ
中から飛び出したものは
価格一千円の銀狐だ
夫人は狐を首に巻いて
姿見に立つてみると
狐の顔はにこやかに笑つてゐるやうに見える、
だが事実は反対なのだ、
狐の表情は笑つてゐるのではない、
夫人は狐の硝子製の一見生きたやうに
見える死んでゐる眼を怖れなかつた、
だが狐は夫人の胸元を
爪をもつて蹴りあげながら
――うらめしい
  うらめしい
  鉄砲がうらめしい、
猟師は[#「猟師は」はママ]妻の毛皮の襟巻のために
イノシシの図案のついた札を数へて渡した、
一匹の生きた豚が
紙のイノシシを払つて
一匹の死んだ狐を買つた
紙幣は獣類の世界では
このやうに有効に使はれ
真実の貧しい人間の世界には
てんで廻つてこないのだ、
生きた人間よ、貧しい友よ、
紙幣が紙だといふことを
もつととつくり考へて見る必要があらう、
一枚の紙へはノミノスクネやイノシシが刷られ
一枚の紙は彼女が売娼窟で
貞操を売つた後を*ふのだ――、
一枚のイノシシは優に十人の
娘の貞操を買ふことができる、
一枚のイノシシは優に一人の
人間を醜悪化したり罪人化したり、
君が若し無智で貪慾な夫婦の家の
天窓から一枚の百円札を投りこみ
ぢつと物影から観察してみ給へ、
老婆は一枚の札を手にして
部屋中を駈け廻るだらう、
枕の下に紙幣を敷いて寝たかと思ふと
むつくりと飛び起きる、
――首と一緒に札を盗まれる、
ママは強盗が怖いのだ、
天井裏へ入れてみたり出してみたり、
茶筒に入れれば聟にみつかり、
針箱に入れれば嫁にみつかる、
チャブ台の裏側へ
糊で貼りつければはがれなくなり
水張りすれば乾いてをちる、
いつそ天井に張つて
その下へ寝床を敷いて仰向いて寝ずの番
十二時を廻ればうとうと
三時をすぎれば眠くなく
目をつぶればねむつた証拠、
目をひらいてゐて
心が眠る工夫はないか、
どこの小穴から泥棒が
覗いてゐぬともかぎらない、
二日三晩婆さんはカッと大きな眼を
みひらいて天井をみたきり眠らない
嫁が不思議に思つて婆さんの顔をのぞいた、
――まあ、まあ、どうしたのです
  上まぶたと、下まぶたとに
  マッチの棒で
  突つかい棒をしたりしてお婆さん、
――いや、何、構はんで下され
  としをとると
  眼にも杖がいりますぢや
と婆さんはごまかした、
この紙幣をかくす工夫もばれたから次の工夫
進退極まつた窮余の一策
まずこれならば大丈夫、
札を細くくるくる巻いて肛門へ!
札も身のうちになれば眠るだらう、
夜中にお婆さんは夢うつつに
カワヤに入つてハッと思つた、
――さあ、大変じや、
  皆んなきてくれや札を落した、
  夜があけたら
  早う、おわい屋を呼んでこい
金銭に就いての醜悪さは
まあ、ざつとかいてもこんなもの
突つこんで描写してゐたら、
謹厳な読者に顔をそむかせよう、
手押車に紙幣束を
うづ高く積んだのを
ゴロゴロと銀行の窓口から
大金庫の中へはこぶ
運ぶ男はよぼよぼの老人で
この男は五十年来この単調な
仕事を繰り返してきた、
五十年来依然として小使で、
五十年来依然として忠実だ
お爺さんは銀行に勤めてゐるといふことに
なんの優越感ももつてゐないのに
近所合壁の住人共がうらやましがつてゐる
――とんでもないこと、
  銀行に勤めてゐても
  何ひとつ良いことはないだ、
  まあ、良いことと言つたら
  月々貰ふ給料の札を
  折目のつかない新しいのを
  貰ふ位のものでさあ、――
近所のものが紙幣の中に
埋もつて生活してゐる老小使の幸福を
うらやむと彼は決つて斯う答へるのだ、
爺にとつては銀行の中は
五十年来不思議な世界に見えてきた、
――明日は旦那さまが
  銀行に御座らつしやるのだ、
爺はかう呟やきながら
みあげるやうに高い銀行の大円柱の下を
くるくる舞ひをしながら
床や大理石の汚れを汗みどろで拭いてゐる、
旦那さまとは老小使爺の旦那さまであり、
銀行員全部の旦那さまであり、
私の詩人の旦那さまであり、
あるひは読者諸君の旦那さまでもあるらしい、
すべての労働の与へ手であり、
数万人の売娼婦の養ひ手であり、
紙幣の図案の中から
ぬけだしてきたやうな恰幅のよい、
つまりイノシシの進化した形の
人であるらしい
将軍や政治家も
一目をいてゐるこの人のために
大衆の旦那さまと呼ぶことは
決して誤つてゐないだらう、
爺が明日銀行にやつてくる
重役よりももつと偉いこの人のために
如何に熱誠をもつて汚れた
石の階段を力をこめて
拭いたかを読者は想像してほしい、
退けの時間がきた
銀行の玄関の蛇腹はいつたん降りた、
だが今日は銀行員は帰られない、
再び鉄の蛇腹はガラガラ
音たてて巻き上つた、
夕暮の街には一斉に灯はともり
ネオンサインの五彩の色も輝きを増すころ、
時ならぬ銀行のどよめきと
シャンデリアの明るさに
通行人は何事が起つたかと
銀行の前に集つてくる、
――また五・一五の二の舞でも始まつたんですか、
――共産党の銀行ギャングでも
どうもさうでもないらしい
――全員集まれ、
カン高い声がすると銀行員達は
ぞろぞろと列をつくつて奥から出てくる、
大玄関に学生のやうに
ずらりと整列する、
――今日は彼女と活動の約束をしてゐたのに
――勤務以外のこんなことは嫌だね
とぶつぶつ銀行員達は不平をいつてゐる
重役が現れてきて
自動車運転手に向つていふ
――つまり、
  旦那さまは
  かういふ風な形に
  此処で車を
  おつけになることを
  お好みになつてゐます
  諸君、それから運転手
  ぼんやりしてゐるな判つたかッ、
そこで予行演習が始まる、
自動車は重役をのせて半町程走り、
銀行の前に引返してくる、
重役は旦那さまのつもり
その車は、旦那の自家用の車のつもり、
運転手は重役の引いた舗石の上の
白いチョークの処にピタリ車を停める、
重役は車を悠然と降りて胸を張る、
階段を上りきつたところで
左右をじろりと見まはす、
育ちが良いから実に鷹揚たるものだ
銀行員は一斉に
ペコリとおじぎをする、
――よろしい、
  明日は、その要領で
  手ぬかりなく
  予行演習をはり
銀行員はぞろぞろと奥に入る、
爺はボンヤリと不思議な
出来事のやうにみてゐる
重役はひとりつぶやく
――万事が手順よく行つてゐる、と
彼のいふやうに手順よいだらう、
いつもこの予行演習のやうに運べば
だが手順は幾つもあるだらう、
ひとつの予行演習は銀行の玄関で――、
ひとつの予行演習は満洲の野で――、
ひとつの予行演習は工場の前で――、
さうだ、全くすべてが手順よく行つてゐるだらう。
紙幣は積み重ねられ
片つ端からポンポンと
鉄の機械をもつて丸く打ち抜かれ
爺は汗みどろで、
この札束を車に積んで
銀行の裏庭に運びだす
一陣の風がドッとふいてきて
その一枚をひらひらと舞ひあげ
遠くの舗道に落ちたのを
拾つたものがあつたとしても
丸く打ち抜かれたこれらの札は
何の使ひものにもならないだらう、
古札焼却の儀式が始まる
重役、課長もその場にたち合ふ
山のやうに積まれた札へ
火をつける役は爺の役
節くれだつた爺の指がマッチを擦るとき
何時ものことながら人々の目はきまつて
最初の小さな焔に目をやる、
火は拡大され札は音をたて
果てはタンバリンのやうに
乱調子に歌ひ出す
黒いけむりは何か得態の知れない
格好をしながら物の形をして高く立ちあがる、
私の詩人がその場に居合はせながら
私はハムレットのやうに
ひとさし指をもつて空に流れてゆく
紙幣のけむりを指さしながら
芝居がかりで大見得をきる
――あの煙はラクダのやうに見えるだらう、
  鯨のやうに見えるだらう、
  おゝ、ななめに銃を背負つた
  血まみれの兵士はよろめいてゆく、
煙は去つて一抹もない、
後にのこつたものは灰だけだ、
爺は灰を掻いて裏庭にある
大きなゴミ箱の中へ灰をザアとあけて
パタンと蓋をしめて去る、
灰はまつ白い人間となつて
ゴミ箱から躍りだし
――なんといふひどい事をしやがるんだ
とぶつぶつ不平をいふ
いや、をそらく灰が人間になるなどといふことは順序ではない、
人間が灰だらけになつて
ゴミ箱の中から現れただけの話だ、
彼は灰だらけの顔で周囲をみ廻し
底光りの眼をぎよろつかせ
男はげらげらと何時迄も時間を無視して、
停めどなく笑ひ出す、
残飯用のヅダ袋へこの灰を
せつせと詰めこみ始めた、
ふらふらとした足つきで
夜の街を何処かへ向つて歩るきだした、
彼は札の灰を
提灯と小格子と、三味線との色街へ
着流しの旦那さん達の待合の勝手口へ――、
ゴミ箱の中のルンペン大将は現れた、
彼はのつそりと無遠慮に
灰の入つた首にかけた袋を突出す、
美しい女が五十銭玉を彼に渡すと
彼は灰をひとつまみ女に包んで渡す
彼は次ぎから次ぎへと
家なみに灰を売りあるき
灰を売つてしまつたころは
新しい伴天を着て
新しいガマ口をもつてゐた、
待合の女は灰と塩とをまぜあはしたものを、
玄関の敷石の上に三角形に積みあげて、
神棚から火うち石をもつてきて、
――カチン、カチン
  今日こそ、妾の旦ツク現れよ
と許りに火うち石を情熱をもつてうつ、
線香花火のやうな火を出しながら
札を焼いた縁起灰の
千客万来に信頼し
敬虔な態度で祈り
彼女は招き猫のやうな奇怪な手つきをする、
灰を売つた男は間もなく
新しい伴天をどこかにやつてしまふ、
もとの木阿弥となつて
材料を仕入れに再び銀行の
ゴミ箱の中にやつてきたが、
ついに頭から灰は降つてこなかつた
重役はその頃おごそかに爺に言つた、
――灰は銀行の外に出してはいかん
  どうも近頃灰を売るものがあるんぢや、
一切は旦那さまのものであり、
紙幣を灰にしてさへも
彼等は乞食の所有になることを拒む。





底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版・第1刷発行
底本の親本:「先駆」
   1930(昭和5)年9月
初出:「先駆」
   1930(昭和5)年9月
※「猟師」は底本の解題では、「「小熊秀雄全詩集」(思潮社版)では「将軍」となっています」とあります。
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1999年6月18日公開
2014年8月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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