シャリアピン

小熊秀雄





わたしはシャリアピンさまに
永年仕へてゐる蚤
ともに韃靼の古都カザンに生れ
ともに暮して当年六十四歳、
夏はシャリアピンのカラーの下の涼しいところに
冬は暖い頭髪の中に
平素は主として鳩尾みづおちのあたりに住んでゐる、
早耳、早足は小生の特長
御主人シャリアピンが御承知なくとも
わたしはすべてを知つてゐる、
ソビヱットのこと、
旦那の若い頃からの友達ゴリキイ旦那の最近の便りも
せつせと走り廻つたり、聴き廻つたりして、
世の中のだんだん変つてゆくのを
知ることは私の楽しみだ。


旦那の歌はもう聴きあきた、
汚らはしい金持の拍手と
無理をし算段をして入場料を払ひ
旦那の芸術を聴きにくる人々の
割れるやうな拍手が、ホールに響くのも毎度のことだ
だが大きな働いてゐる手の持主
労働者の拍手をついぞ聞いたこともない、
なにせ入場料が、二円、四円、六円ではね、


かう見えても、わしは蚤の仲間のコンミニストなのだよ、
だから御主人シャリアピンの批判もできるのさ、
まあ笑はないで下さい。
  蚤のコンミニスト
  さらば、我が蚤に
  心ゆくまで
  悪態を言はしてみよ、
  蚤の悪態、ハハハハハ
  蚤―、ハハハハハ
  ハハハハハ、蚤のコンミニスト
いかがで御座る、
見やう聴き真似で御主人の
メフィストの蚤の歌に
そのまゝそつくりの巧みさがあるでせう。
日本でもこれを歌ひました
桟敷から誰かゞロシア語でママ鳴つた、
「メフィストの蚤の歌を謳つて下さい」
するとシャリアピンは舞台から
「いま、音楽会が始まつたばかり
 そんなにあわてなさいますな――」
と愛嬌を振りまいて又々拍手拍手であつた。


御主人はちと認識不足だよ、
あわてなさいますなと言つたところで
日本人といふ国民性は
世界の中でも最も
あわてる人種だといふことを御存知ないのだ、
ヤポンスキイ(日本人)は感情的な人間が多いが、
深い感情ではない、
いつも「追ひつめられた決意」で動く国民だ、
そしておそろしく単純だ、
――ソビヱット即スターリン
――文学即ゴーリキイ
――プーシキン即オネーギン
――シャリアピン即蚤の歌さ、
物事を端し折つて
理解することにかけては天才さ、
「其他の条件」といふことを
無視する才能に恵まれてゐる。


わしの旦那シャリアピンは
なるほど声楽王にちがひない
第一に声量の大きな点
だが声量に驚ろくこともない
驚ろくものは「井戸の蛙」だ
外国にはあの程度の声量は珍らしくない、
シャリアピン的声量は
日本のそこらにもザラに転がつてゐる、
閲兵式へ、練兵場へ行つてごらん、
戸山ケ原へ行つてごらん、
「気をつけ―」「頭を右ィ」
なんて響き渡る、帝国主義の号令の声だ、
その声はホールの中ではなく
野天で高いのだ、老いたる伍長の職業的に高い声だらう、


可哀さうに旦那も歌ひましたよ、
クロチキンの詩ダルゴミジスキーの曲
劇詩「老いたる伍長」を旦那は感慨ぶかさうに歌つた、
旦那のいつもの癖、ピアノの蓋を手でさすつたり、
撫でたり、指で拍子をとつたりして
大きな胴体の中の風の袋を
全く良い音にしぼりあげて出した。
  足を揃へ、オイ銃を下すな
  俺はパイプをもつてゐる
  最後の別れだ、
  送つてくれ
  俺は君等の親父だよ、
  頭も此の通り白髪だよ、
  これが軍隊の生活だ、
  足を揃へて―オイチ、ニ、
  気をつけ、右へならへ
  オイチ、ニ、オイチ、ニ、
(劇詩「老いたる伍長」の歌詞から)
破れるやうな拍手の中に
老いたる伍長シャリアピン
「芸術のために」オイチ、ニ、オイチ、ニ、
と労働者の聴衆ではなく
所謂上流の席上ヲプシチエストヴオの歌ひ手として、
オイチニ、オイチニ、と歌うたふ、
「ロシアに偉大なる芸術あり」
といふ宣伝旅行の役割を
旦那が果してゐるだらうか、残念ながら、
「ロシアに頑固なる芸術家あり」
といふことを吹聴してあるくやうなものだ


頑固な見本がも一つある
それはソビヱットの生理学者六十余歳の
バブロフ教授だ、
一九一五年の或る朝
助手が二十分程遅刻して研究室にやつてきた、
彼の顔はまつ青で、心も落着いてゐない、
「なぜ遅れてきたのか」
すると若い研究生は答へた。
「先生、街は、革命の市街戦でした、
 やつとこゝまで弾丸の下をくぐつて―」
すると教授は不機嫌な顔をした
「革命は革命だ、研究は、研究だ、
 なんの関係もない、遅刻することはよろしくない、
 さあすぐ研究にかゝり給へ―」


多くの学者達が、革命勃発といつしよに、国外に走つた
バブロフ教授は
「ロシアはわしの永遠の祖国じや
 政体はなんに変らうが、
 わしは一歩もロシアを去らんわい」
と頑固に饑餓の中で研究をつづけてゐた
間もなく「バブロフを救へ」の声が起こつた
これは愛すべき頑固の一種だ、
シャリアピンも新しいロシアに一時踏み止まつて
新共和国のために貢献したが、
欧米巡業に出たきり
その儘亡命芸術家の群に投じて
どうしても帰国しない、
これはいかなる頑固の性質に、加へていゝだらうか、
バブロフ教授は、その貴重な研究の成果を
新しいコンミニスト、科学者へ伝へてゐる、


シャリアピンは世界のブルジョア芸術家や聴衆を
その声量の大きさで驚ろかすばかり
各国の中流上流の生活者の
客間に話題をのこして
転々として歌ひ去つてゆく、
シャリアピンはしきりに叫ぶ、
声は私の芸術そのものではない―、
魂の奥にあるものを表現する手段です―、
私の芸術は声ではない―、声ではない―と、
シャリアピンの声は
演奏室の中の声といふよりも、
これは吹きさらしの共同農場の
穀物置場で
若いロシアの青年を前にして歌つたら
どんなに彼にぴつたりするだらう。

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ストラウィンスキイは
演奏室を最悪の敵とした
これは聴衆の想像力の働きを
制限する憎むべきものだ、
演奏室は音楽を、或る種の鎮静剤として
一般民衆の間に虚偽を創造する
と彼ははげしく演奏室に反逆してゐる。
資本主義国の演奏室では
曲目選定の自由は制限されてゐる、
歌ふことの出来るものは
自己階級に忠実な歌ばかり、反逆的なものはゆるさない、
入場料金に依る聴衆の階級層は制限される、
あゝ、なんて料金の高さで
無産者を木戸口から
追ひ帰へしてゐるだらう、

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人間の意志を行動化し
それに拍車を加へるのが
新しい芸術の目的であるのに
あゝ、なんて資本主義国の音楽演奏室では
音楽はアヘンの役目を果すのだらう、
シャリアピンは各国の阿片室から、阿片室を巡業する
自然の声に到達した、人間の声の所有者
シャリアピンは、その歌ふ所と時とを失つてゐる、
少女が舞台の上に花を置いて去る
するとわが偉大なる芸術家シャリアピンは
舞台に犬のやうに腹這いになつて花に接吻する、
ゴリキイに就いて話をすることは
政治のことを語らなければならなくなるからと
ゴリキイのことをシャリアピンは語らない、
「私は一生をたゞ、ミューズの神に捧げてゐるのですから―」
シャリアピンは、人間を語ることは
政治を語ることだといふことを知つてゐるのだ、
ゴリキイを語ることはソビヱットを語ることになる、
さてシャリアピンを語ることは、何を語ることになるだらう。
ゴリキイは明瞭だ、
シャリアピンはどんな政治的
背景をもつてゐるだらう。

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彼、彼は、亡命者だ、
祖国がない、純「スラブ」的な声
これこそ唯一の彼にとつていとしいものだ、
老いが、愛しい声をすりへらしてゆく、
ブルジョア国の政治的庇護も
彼の肉体の衰へは支へることができない、
音声の力学的効果を
とらへることに就いての天才だ、
あゝ、だが歌ふ彼の肉体の
生理的な組織は頽廃期に這入つてゐるのだ、
このことだけは、この歌ひ手の肉体の
個々の細胞に関すること柄だ、
彼の肉体ではいま
生きる細胞と―
死する細胞と―の激しい葛藤に速度を加へてゐる

13


シャリアピンは己れの滅びる細胞を
意志に還元して
それを伝へる対象をもつてゐない、
ゴルキーの滅びる細胞は、
バブロフの滅びる細胞は
ソビヱットの若い世代の
若い人々へ伝達される
そこでは不滅の細胞と化す、

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カスタルスキイは
農民のための新しい音楽の創設に一生を捧げて
七十歳の高齢で、若いコンソモールの群に、
とりかこまれて死んでゐる、
ショスタコーウィッチ(一九〇六年生)は
十五歳で作曲を発表し批評家を驚ろかした、
十八の時シインホニイを書き
二五歳を出でずに新しい祖国のイデオロギーを立派に作曲した
「静かなるドン」の編曲者
ゲオルギイ・リムスキイ、コルサコフはどうしてゐるだらう、
コーヴリは、ロバチェーフは、クラアセフは、
兵士のための合唱曲やマーチの作り手は
都会の労働者と農民のための
これらの作曲者はどうしてゐるだらう、
作曲者は、歌ひ手は、ロシアには
雲のやうに沢山ゐるのだ、
これらの人々は現実的な愛国者だ、
だが祖国を失つたシャリアピンは
追想的な愛国者だ。

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芸術の純潔性を
守らなければならないために
ソビヱットを去つたシャリアピンの、人間的弱さを、
それは言ひかへれば彼の芸術は脆かつたことだ、
芸術の純潔といひ、強さといふのは、
新しい試練に堪へ得るものだ、
大きな孤独よ、
祖国を去つた瞬間、シャリアピンは
集団的な政治的な協力者を失つた、
彼はブルジョア国の中で
全く個人主義的な力で
自己の芸術を固守していかなければならない立場になつた、
大きな寂寥よ、

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東京駅頭で、ウラーの声に彼は迎へられた、
帝政時代の三色旗を手にした
白系露人の群に、
この三色旗はいまでは玩具に属してゐて
現実にはそんな旗の国は
とつくに滅びてしまつてゐるのに、
こゝにも馬鹿気きつた頑固の夢を
抱いてゐる人々がそれをしきりに振つてゐる

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表面的な日本人の顔色の黄色さと
カラコロと鳴る下駄の音と
ホールの中の一色の拍手と
これらの日本の現象的な拍手の中に
わがシャリアピンは見事に歌ひあげたのだ、
日本の音楽理論家たちは
シャリアピンは最も正しい発声上の、
横隔膜側腹呼吸に拠つて歌つてゐるとか、
「発声学的零点の保持」
つまり音域の高低にも
喉頭の位置を上下させないといふ
理想的な型を示してゐるとか、
さまざまな批評で賑やかだ、
技術ではない、声の高さではない
わたしの心を、心を―
と一方ではシャリアピンは叫んでゐる

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富士山の山姿の
現象的ななだらかさのやうに―、
日本の楽壇も現象的にはなごやかなものだ、
だがこゝのジャンルでも
詩や、劇や、小説のジャンルと等しく
底では、地軸では、海底では
はげしく争ひ鳴つてゐるのだ、
日本の楽壇でもショスタコーウィッチの
音楽理論を排撃する一派と
支持する一派とが喧嘩をして
支持派は団体を脱退して
新しいグループを作つたり
進歩的な争ひは展開してゐる
舞台裏でシャリアピンと握手した松田文相は
それからものの一週間も
経たない間に頓死してゐる、
日本の現実も相当忙がしい、
ホールの上から眺めた日本
自動車で通りすぎた日本とは
またちがつた激しい日本があることを知らない、
シャリアピンは拍手の中に歌ひすぎてゆく

19


わたしは少しばかり
御主人シャリアピンの
悪態を言ひすぎたやうだ、
蚤の立場を忘れてあまりに
人間的になつたやうだ、
だがわたしは真実を語ることに
臆病でないことは
血を吸ふことに遠慮しないことと
同じだから仕方がない
まもなくわが主人シャリアピンの肉体が、
しだいに冷えてくるだらう、
その日、私は新しい肉体の所有主に移転するだらう、
だがもう亡命者と道連れになることは懲々だ。





底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版・第1刷発行
底本の親本:「詩人」
   1936(昭和11)年3月
初出:「詩人」
   1936(昭和11)年3月
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1999年6月18日公開
2014年8月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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