地虫

小栗虫太郎




一、あか水母くらげ


 大都市は、海にむかって漏泄ろうせつの道をひらいている。その大暗渠あんきょは、社会の穢粕かす疲憊ひはいとを吸いこんでゆく。その汚水は、都市の秘密、腐敗、醜悪を湛えてまんまんと海に吐きだす。ところが、どんな都市でも、その切り口を跨いだあたりに奇異ふしぎな街があるのだ。
 そこは、劃然と区切られた群島のようなもので、どこにも橋の影を落さぬ、水というものがない。影は影に接し、水はくらく、しかも海にちかく干満の度がはげしい。ぐるりは、ギラつく油と工場の塀で、まさに色もなにもないまっ黒な堀水である。
 そんなわけで、もしもはずれの一つに橋がなかったとすれば、その一劃は、腐泥のなかで、孤島のようにうかびあがってしまうのだ。
 都市中の孤島――私は、当然読者諸君が※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるであろう不審の眼を予想して、次のその実在を掲げることにする。
 諸君は、荒川放水路をくだって行った海沿いの一角に、以前から、「洲蘆すあしの居留地」と呼ばれる、出島があるのを御存知であろう。そこは、くいが多く海流が狭められて、漕ぐにも繋ぐにもはなはだ危険な場所である。水は、はげしく奔騰して、石垣に逆巻き、わずか、西よりの一角以外には、船着場所もない。
 それに、じめじめと暮れる西風の日には、塵埃焼却場ごみやきばの煙が、低く地を掃いて匂いの幕のように鎖してしまう。また、島の所々には小沼のような溜りがあって、そこには昔ながらの、蘆の群生が見られるのである。そのそよぎ、群れつどう川鵜かわうの群が、この出島の色に音に荒涼さを語る風物なのであった。
 そこで起る当然の疑問は、都心に近いこの港の口に、なぜ、こうも荒れ寂びれた出島があるかということである。
 けれども、この「洲蘆の出島」は、もともと仏蘭西フランス大使館の鴨猟地なのであった。現在も、以前の猟館には司厨しちゅう長が住んでいて、他には、自転車の六日競争の小屋があるくらいである。
 おまけに、その二、三の棟がまばらに点在していて、もしも秋の日暮に、私たちがこの島を訪うたとして、海風に騒ぐ茫漠たる枯菅かれすげの原を行くとしたら、その風雨に荒れ、繕うこともない石壁の色は、もはやとうていこの世のものとは見えぬであろう。背後のマストも、前にある煙突の林立も、およそ文化といい機械という雑色のなかにあってさえも、この沈鬱の気を和らげるものではない。
 ところが、四十町七丁目側の石崖が崩壊して、折角あった、ただ一つの木橋が役立たなくなってしまった。
 それからはこの島に――といっても、当分のあいだではあるが――埋立地から出る、渡船で聯絡するようになった。そうして、東京という大都市のなかに、見るも黄昏たそがれたような孤島が作られることになったのである。
 さて私は、その出島に起った、世にも凄惨な[#「凄惨な」は底本では「棲惨な」]人間記録を綴ろうとするのであるが、それは、鵜の羽音でも波浪の響でもなく、陰々と、地下にすだく地蟲の声なのであった。
 その夜、洲蘆の出島を、最後の渡船が出たのは、十時過ぎであった。
 この数日来の降り続きで、いまも、心の底に浸みとおるような霧雨が降っている。渡船には、頭巾を冠った巡査が一人だけ乗っていて、寒さに手足をすぼめ、曳船ひきふねの掻き立てるすさまじい泡を眺めていた。
 出島には、もう一点の灯りも見えない。
 多くの船体が、雨脚のなかに重なり合ってぼかされている。
 すると、その巡査が、なにを見たのかいきなりみよしかがみかかった。
「あっ、人間だ※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 見ると泡の薄れた、船脚の底からスウッと影を引いて、淡い、どうやら人容ひとがたらしいものが現われてきた。
 が、すぐにそれが、気の迷いでもあったかのように、ふたたび泡立ちはじめた河面のなかに隠れてしまったのである。すると次の瞬間、巡査の、心も眼も凍らせるような、怖ろしいものが現われてきた。
 激しく湧き立つ真白な泡のなかに、なにか水底からもくもくと吹き出てきたものがあった。その、黒い油のように見えるものは、間もなく泡のなかで、不思議な模様を刻みはじめた。それが扇形おうぎがたに拡がったり、泡が打衝ぶつかって、白い皮膚のようにスウッと滑らかになると、縞に曲線に、乱れ入り組んで、っとするような交錯が起り、また砕け散って、鱗をいたような微塵模様となるうちに、今度は……細長い指のようなものが、っと光って白く……泡の外へ行列うじのように消えてゆくのだった。
 その、のろのろと連なってゆく薄気味悪さには、巡査も思わず顔をそむけた。
 舟は、まだ中流にある。
 ただ一つの街灯の光が、向うの河岸縁かしべりあかく染めているだけだ。
「いまのは、指じゃないかしら……」
 やがて、巡査の眼には、なにものも映らなくなってしまった。ただ聴えるのは、轟々ごうごうと水を捲き返す、推進機スクリューの音だけであった。
 すると、湧いては流れ、解けては結ばれる激流のなかに、ぼうっと光る、白いうねりのようなものが現われた。その光りは、泡の谷を染め、闇空を映す峯を曇らせて、パッパとひらめきながら、八方へとき拡がってゆく。
 人の形というものには、一種云うに云われぬ不思議な力がある。
 どんな闇のなかでも、どこからか、光をとってきて、形を現わすものだ。巡査は曳船に向って、たまらなくなったような叫び声をあげた。
「オーイ、舟を停めろ、水死人だぞ、停めろ、聴えないか、オーイ、停めんかと云うに……」
 しかし、それは風の音、機関エンジンの響に消されて聴えなかった。と、続いてそこには、まさに、見る眼を覆わしめるような、およそ現実の怪奇としては極端かとも思われる――それは、血を与え肉を授けた地獄絵のさまなのであった。
 水は、涯しのない螺旋らせんのように逆巻いて、その、顔もさだかでない、屍体を弄びはじめた。もくもくと湧き出す血が、海藻のような帯を引き、ちらりと緑色に髪の毛のようなものが見えたかと思うと、屍体は、激しいうねりを立てて水底に沈んでゆく。
 すると血の帯に、見るも悽惨な渦が捲き起って、いくつとなく真赤な螺旋のようなものが直立してゆくのだ。
 それは、血の怖れというよりも、むしろっとするような美しさで、ちりちり尾を捲く暗緋あんひの糸のようなものが、下へゆくほど太まり溶け拡がっていて、ちょうどそれは、触手を上向けた紅水母べにくらげのようであった。
 が、やがて眼前には、ひらひら悪夢のなかでうごめく水母の手の代りに、今度は胃も食道も、グイと逆さにしごかれるような感覚が起った。
 それは、底のほうから、もくもくと噴油のような血が湧き出したと見る間に、その層が、水面に高くぐいと盛りあがったように感ぜられると、そこを、うすぎぬのような横波が、サッと掃いた。すると紅の暗さに、一抹いちまつの明るみが差したかのように、血の流れた下から、見るも鮮やかな淡紅とき色をしたものが現われたのである。
 それは、円い、樹肉の断面のようなもので、中央には白い筒のような芯があり、ところどころに、なにか汚ないながらも触りたくなるようなひらひらが動いている。
「アッ、推進機スクリューで、首が截られた……」
 すると船底を、鈍くゴツンゴツンと突きながら遠のいてゆくものがあって、その響きが、靴の底からズウンと浸み渡ったとき、巡査はもう何事も分らなくなってしまった。が、やがて気がつくと、舟はへさきをケリケリと当てながら、対岸の渡船場わたしばに着いたのであった。
「君、あれほど呼んだのに、なぜ聴えんふりをするのだ」
 巡査は桟橋に飛びあがると、曳舟の船員を怒鳴りつけたが、その声も、風に消されて相手には届かなかった。
 湖水のように見える、混凝土たたきの舟待ちには、街灯が一つ長い影を引いている。
 しかし船員は、ともづなを捲きながら、暗い水のうえを覗き込んで、
「ああ旦那、お客様ですぜ。舟も終発なら、この仏様にも返り車がねえときた。ひでえこんだ、こりゃ、推進機スクリューにやられたらしいな」
 ギラつくあぶらのなかで、その全裸まるはだかの屍体が男であると分った。首はなく、推進機スクリューの打ち込んだ、無数の切り傷が全身にわたって印されていた。やがて、肩口に縄をつけて、舟待ちに引きあげた。
 下腹は、わけてもパックと口を開けていて、そこから、淡い藤色をした小腸の端がのぞいている。
 船員は、群れてくる船蟲を、揮発油で防ぎながら、
「ねえ旦那、こりゃ他殺でしょうかねえ。きょう日は、裸で涼むような、時候でもねえんだし……」
「サア、そりゃ、どうとも分らんよ」
 その若い巡査は、雨沫しぶきを浴びて、黙然と腕組みをしている。
「とにかく、検屍をうけなきァならん。君、帰ってせっかく休みたいところを気の毒だが……」
 するとその時、足を小流れのなかに突っこんだまま、っとその様子を見ている男があった。それは、遠くから見たら、幽霊かとも思われるような、影を、流れにちらつく街灯の灯のなかに倒している。
「オーイ船頭、いや船長、ふ、船を出してくれ」
 その、死んだように酔っ払った、外套のない男は、足を流れにとられながら、船員の側に歩み寄って来た。
「出せ、船を出せ」
「冗談じゃないよ、時間切れだぜ。これでも、東京市橋梁課の渡船なんだ。お役所仕事だぜ。ぜにをとる渡しと、ちったァわけがちがうんだ」
「頼む、今夜は洲蘆の出島に、ぜひにもの用があるんだ。ねえ君、判任官閣下、頼むから君、かけ合ってくれ給えな」
 が、間もなくその男の眼は、巡査にも船員にも向けられていなかった。まるで、悲しむような、それでいて、異常な興味をたたえている、えぐるような視線を、船待ちの屍体のうえに注いでいるのだった。
「どうだ判任官閣下、君はこの屍体が、他殺か自殺か判明せんと云ったね。君、この屍体の胃袋を、押してみたらどうだね。ハハハハハそれで分ったら、御褒美に洋行のことをかけ合ってくれ給え」
 巡査の頭巾の蔭には、その四十男を見る不審そうな眼がまたたいている。あか染みた、こわい無精髭が顔中を覆い包んでいるが、鼻筋の正しい、どこか憔悴やつれたような中にも、りんとした気魄きはくほの見えているのだ。
「そうか、それでも足りなきァ、船賃に追い付くまで、もう少し弁じようか。そこで、下腹の傷だがねえ。見給え、それだけが――なに、推進機スクリューでやられたように真直だと。それだから、君はまだまだ講習が足らんというのだ。だいたい人間の、自然の手の運動というやつは、曲線なんだ。対象を見ないでいて――つまり例を引けば、盲人めくらの手の運動だが――けっして、正しい直線を自然に描けるものじゃない。ところがこの屍体には、それが逆の論理になっている。背後から抱えられて、グサリと突き立てられたとき、屍体には、かがむのと、伸びる反射運動とが連続して起るのだ。だからきずの歪みが、その屈伸に符合する。正数プラス負数マイナスに化ける。二段に起る、曲線が直線に是正されてしまうんだ。ハハハハ、分ったかね。それにこいつぁ、創の浅まり方から考えても、明白に左利きだ。ねえ判任官閣下、この屍体の犯人は左利きなんだぜ」
 途端に、巡査の眼からは光りが消え、彼は阿呆のようにぽかんと立ちすくんだ。
 その憔悴したさま、滴のしたたるよもぎのような髪の毛、それをほのめぐって、陰火のような茫々としたものが燃えあがっている。
 この男には、自然としか見えぬものでさえも、め直す不思議な魔力があるのだ。と、巡査には、なにか人間放れのした神秘的なものを見るように、この男が薄気味悪くなってきた。
 すると、その男の顔に、巫山戯ふざけたような笑いの皺が打ちはじめて、
「ハハハハ、まだ合点がいかんのかね。左利き――それが、ギリギリ結着というところだ。早く犯人ほしを挙げて、暮にはたんまりと暖まるさ」
 そう云って、たばこを取り出し、燐寸マッチを摺ったその手を見たとき、巡査は頭から水を浴びせられたような気がした。
 この男が、左利きではないか。
 あかく、燐寸マッチの灯影にちらつく、刻みあげたような陰影――それを、怖れるかのようにまじまじと見詰めながら、巡査の鼓動がドド、ドドっと走りはじめたのである。そうして、細かい雨と冷たい闇とを挟んで、二人の間には息詰るような沈黙が流れていった。
 すると、背後に跫音あしおとがして、ひとりの警部補がヌウっと顔を突き出した。
「君、どこかに首なしが、上がったと云うじゃないか」
 ところが、その警部補は不思議なことにも、男の横顔に、っと視線を据えたまま動かない。その顔には、なかば驚きを交えた、複雑な色が掠めてゆく。そうして、なにやらもそもそと語り合っていたが、やがて船員に、もう一度発船するように命じた。
「有難い、助かった。君は、なるほど話が分るよ。オイ、東京市橋梁課のお役人、ふ、舟を出せ」
 その男は、再びもとの酔いどれ口調に返って、えりを立てながら渡舟わたしのなかに蹌踉よろめき込んだ。巡査は、なにか得体の知れない魔性の霧に包まれたような気がして、しかし、屍体はあるぞとまた現実に戻るのであった。
 水量みずかさの増した、河面をゆるく推進機スクリューが掻きはじめ、この神秘の男を乗せた、船尾灯が遠く雨脚のなかに消えてゆくのだった。
「江藤警部補、これはいったい、どうしたということなんです。貴方あなたは、あの不審な男を渡船わたしに乗せてしまって……」
 その若い巡査は、やっと夢から醒めたように、警部補になじりかかった。しかし江藤警部補は、いきまく部下を、優しくなだめるように見て、
「なるほど、事情を知らん君は、そう思うだろうがね。いまの男を、君は誰だと思う。知っておるじゃろう――つい四、五年まえ、主任検事級で鳴らした左枝さえ八郎という方を……」
「ああ、左枝八郎……」
 しかし巡査にとると、いまの男が左枝八郎であるということは、むしろ無名氏で置くよりも、いっそう不可解なことだった。
「だが、どうにもそれは信じられませんよ。あの変りかたは、いったいなんということです。左枝八郎ともあろう人が、『欧航組』の、組織を木葉微塵こっぱみじんに叩き潰したかたが、なんという……」
「そうだ、あの方がああなるについては、いまの、『欧航組』の大検挙に原因があった。――それでと云うても勤務中だが、君に警察医が来るまで、かいつまんで話してあげよう」
 それから、本庁への報告、水上署への手配が終ると、二人は並んで舟待の腰掛に腰を下した。風がいで、波に隠れていた、渡船わたしの灯がまた現われた。
「その、『欧航組』というやつは、君も知っとるであろうが、以前船員だった連中が企んだ、大仕掛な密輸団だった。おまけに、港々には、春婦宿を経営していたし、大規模な、世界を股にかけた、人肉買売までもやっておった。ところで、その組織を云うと、四人の秘密組合になっておってな。そのなかで、高坂こうさか三伝さんでんというのが、マア首領株で、他にはたしか――それが、三、四、五と順になるような名前じゃったと思うたが――それぞれ船場せんば四郎太、それから矢伏やぶせ五太夫、もう一人は、ちょっと度忘れしたが、そうだった、成戸なりと六松というその四人じゃったと思うたよ。ところが、しまいには、仲間割れをしおってな。なにしろ、その三伝という男が、冷血なことこの上なしという辣腕家らつわんかだったで、自然独裁の形にもなるし、他の三人も、自衛上三伝と対立するようになった。つまりが、勢力争いじゃ。そうして、感情やら、利害の衝突やらがつのりきった結果が、誰も知るとおり三伝の死ということで終ったのだよ。それも、一味が検挙されてから、はじめて分ったことで、三伝は横浜の事務所で、矢伏五太夫のために心臓を狙い撃ちにされた。屍体はそのまま、窓から海に落ちて分らずじまいになってしもうたが、いや三伝の死は、無類この上なしという確実なんじゃ。まさか、射ちはしまいと、軽く考えていたのじゃろう。三伝はせせら笑って、弾莢までも調べさせ、サア射てとばかりに、麗々しく胸をはだけたそうだ」
「なるほど、度胸も相当だし……芝居気たっぷりな奴ですね」
「なにしろ、鬼も怖れるという、仏領カレドニアのアンチモー鉱夫を志願したほどで、それから欧州各地を流れ歩いていたのじゃから、腕も度胸も、三伝だけはまったく群を抜いておったよ。ところが、多寡たかをくくって、よもやと思っていたやつを、矢伏が狙いを定めて、ドカンとやってしもうた。三伝は、あっと叫んで心臓を押えたなり、窓から海中に転げ落ちてしまったのだ。ところが、さて検挙してみると、三伝が保管していた、一味の利得金の所在が分らない。だが、それはまだまだ、手軽な方でな、後でさらけ出された事実というのが、比べもつかんほど奇怪なことじゃった。矢伏に、死刑が執行されてから、ちょっと後の話で、意外にも、保釈中の船場四郎太が拳銃で自殺を遂げてしもうた。
 ――犯人はおれじゃという、遺書を残してな」
 三伝、四郎太、五太夫、六松と、偶然にも三・四・五と揃った「欧航組」の幹部が、ひとりは仲間に殺され、ひとりは死刑になり、もう一人は、遺書に告白を記して自殺を遂げてしまった。
 そうして、残る成戸六松の一人だけが、四年の刑期を豊多摩刑務所で送っているのである。「欧航組」は、こうして壊滅した。けれども、その終焉しゅうえんを、いと朦朧もうろうとさせているのは、一つの殺人に、下手人が二人現われたということである。生憎あいにく、屍体は海中に落ちて、発見されなかったのであるから、三伝が、二つの弾のどっちの方をうけたのか、また、その二つが二つともという場合もあるだろうし、もし屍体があがれば、体位からでも推定できることであるが、いまはその証明が全然不可能になってしまった。が、一方に、また船場の遺書を見ると、その疑問を、やや解き得たかのような気もするのだった。
「そこで、遺書の内容を云うと、たぶんこんなことが書いてあったと思うよ。矢伏の手がふるえ、腕にも安定がない。たぶん弾は、肩を掠めて後方に飛ぶであろうから、自分が彼に代って狙撃をした。それは、ほとんど矢伏の発射と同時であって、居合せたのも、私が狙撃をしたことを知らなかったようである。というんだが、わしはなるほどと思った。要するに、問題は撃ち手の腕にあるのだからな」
 屍体のこもに船蟲がざわざわざわめく音が、この奇怪な話にいっそうの凄気を添えた。しかし、若い巡査は、眼をまぶしそうにまたたいて、
「ですが、居合せたもののなかで、誰かその辺の機微を、知っている者はなかったのでしょうか」
「ところが君、耳というやつはじゃよ。両側で、同時に非常な高い音を出された場合、その人間には、音の見当というのがてんで付かなくなってしまうそうだよ。そのことは、居合せた証人で、抱え淫売婦のお悦という女が証言しておる。それに、船場の女中の話によると、その遺書は、わずか五、六分の間にしたためられたのだし、むろん、筆跡には寸分の相違もないし、そうこうの事で、左枝検事はポンと辞表を投げ出してしもうた」
「自分が起訴をして、死刑になった男が、無罪という……。そりゃ、左枝検事でなくても、たまらないでしょうからね」
「それで、職を退いた後の左枝検事は、自暴自棄という有様で、奥様には去られるし、もともと資産というほどのものもないし、今では、どうして暮しておられるのか、まったく沙汰の限りじゃよ。ああ、憔悴やつれ果て、うらぶれた姿を見たら、誰が、法衣に包まれた昔の検事を思うじゃろうか。だがわしには、そういう気持が、てんで分らんがねえ。自分の起訴が正しかったか正しくなかったかって。ハハハハ、あの御仁ごじんは哲学者じゃよ」
 そう云って警部補は、さも自分には、左枝の辞職がに落ちぬといったような素振りを見せた。しかし、若い巡査には、左枝の苦悶も、呵責かしゃくにひしめくような有様も、しかもそうしていながら、なにかを凝然じっと見詰めているような気がしてならなかった。
「私は左枝検事に、なにかあの方だけが疑問に思っていることがあるのじゃないかと思いますよ。人間の力では、とうてい割り切れない問題を、あの方だけは、御自身でやり遂げようとなさっているのではないでしょうか。それに……」
 と云いかけて、巡査はハッとしたように口をつぐんだ。二人の間には、時代の隔たりがある。まして、上司である警部補にそれを云うということは、今の身分として、はなはだ当を得たことではない。彼は、左枝八郎の姿に、悲劇的なものを感じながら、それから黙々と考えはじめたのである。
 われわれは、常に過失あやまちを犯している。
 しかし、検事の起訴理由には、寸毫すんごうあやまりもないのである。
 船場四郎太が、遺書に告白を残して死んでいったということも、人であり、神でないかぎりは窺うことさえ出来るものではない。まして、矢伏の犯行には、自白を伴っている。いわば、それは確実以上の事実である。それを一瞬の間に、くつがえしてしまうような、怖ろしい力が現われたとき、人は不可抗とだけで、悔いの欠片かけらも残さずケロリと断念あきらめてしまうものである。
 人間は、自分の力の限りというものを知っている。
 けれども、稀に出る、高い稟性ひんせいを持つ人物というものは、よく自分を、人間以上のとんでもない位置に置きたがるものだ。検事の苦悶も、呵責も、実にそこから発しているのではないか。彼はいま、不可抗と闘いながら、路傍を彷徨さまよっている。人が裁くか、神が裁かれるか――それこそ、人間の一番な壮烈な姿であろう。
 と、やがて若い巡査には、ひしと胸を打つ、ひたむきなものが感ぜられてきた。ところが、ちょうどその頃、左枝八郎を送り届けた洲蘆の出島には、陰々と闇にひしめく悲劇の兆しが濃くなっていったのである。

二、定期風に乗る男


 その、出島にある猟館には、仏蘭西フランス大使館の司厨長中村銀次郎が住んでいた。と云うよりも、ただ台帳にある、名のみというのを便宜にして、こっそり彼はまた貸しをしているのだった。そしてそこには、三伝の妻おせいが住んでいて、秘かに営んでいる春婦宿になっていた。
 そのお勢という女は五十に近く、三伝とともに、永らく欧洲各地を放浪した札付きであるが、三伝の変死当時は上海シャンハイにいて、しかも多情、その三伝の死も、暗に糸を引いてお勢が三人を踊らせたのではないかと云われている。
 大戦当時、伯耳義ベルギー独逸ドイツ兵の輪姦をうけた彼女は、脊髄に変化が起って、歩くのにも異様なガニ股である。しかも、歯がないせいか、顔が奇妙な提灯ちょうちんのような伸縮をして、なんとも云えぬ斑点のような浸染しみのようなもので埋まっている。
 それは、駆黴くばいに使った水銀のせいとも云えるが、またこの顔は、永い醜行と悪行との現われのようにも考えられるのだった。
 左枝八郎は、いま枯菅を踏みながらこの猟館へと歩んでゆく。
 しかし読者諸君は、自分が剔抉てっけつし撲滅したこの一団に、なぜいま、左枝が訪れようとするのか疑念を持たれるだろう。けれども左枝八郎とこの一味との間には、とうに、それまでに異様な繋がりが出来ていたのである。
 その、そもそもの始まりというのが、今年になってから最初の雪の夜のことだった。左枝はただ引かれるもののように、洗足せんぞくの五太夫の家を訪れた。
 当時矢伏は、すでに刑死台にのぼっていて、遺族としては早苗さなえという一人娘がいるだけであった。
 その早苗は、どこか神経的な凝視的な影のある娘で、美しくはないが、清麗さにかけては万人に優るものがあった。
「ああ、また家宅捜索でございますの」
 早苗は左枝を見ると、冷やかにそう云ったが、彼女にとって、実に出来ることなら飛び退きたいようなこの男が、どうしたことだろうおしのように口をつぐんでいるのだ。顔には、悲痛の色が漲り、咽喉のどれ合う縄のような筋が張っている。
 時が流れる、彼は唇を開こうとはしない。
 窓をサラサラと粉雪がかすめ、早苗は、この沈黙がやがて薄気味悪くなってきた。
「なんでございますか、もしなんぞ、御用件がおありでしたら」
「実は」
 と云って、左枝は重たそうに口を開いた。額には、はぜた粟粒のような汗がうかんでいる。
「今夜お訪ねをしたわけは、貴女あなたなら僕をお救け下さるだろうと思ったからです」
「な、なにをおっしゃるのです」
 この思わぬ言葉に、早苗は、相手の眼のなかを窺うように、覗き込んだ――ひょっとすると、この男は狂人きちがいになったのじゃないかしら。
「貴女が、僕をどう思っていらっしゃるか……。僕は、貴女のお父さんを起訴して、絞首台に送りました。しかし後で、その事実が、間違っていることが分りました。貴女はお父さんが、理由いわれのない首を絞められたのを御存知でしょう」
「いいえ、そのことについては、私、少しもお怨みはしておりませんの、何事も、運命さだめですわ。それに、父の方だって、私の知らない間に、大変悪いことをして……」
「では、僕が控訴したのをお忘れになったのですね。それがあったばかりに、一審の有期刑が、どうなったと思います? もし僕が、お父さんにそのままの服役を許したとしたら、船場四郎太の告白で、殺人の罪が消えてしまったことになるのです。御覧なさい、この手です。この手が、むざとせっかくの機会を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もぎり取ってしまったのです」
 すると早苗の顔に、サッと血の気が上った。
 いまの一言で、彼女は水を吹きかけられたような気がした。
 けれども、なによりいっこうにせないのは、この男が、憎め憎めと云うようにそそりたてる態度だった。
「貴女が、どこにこの不幸の根があるか――知らぬはずはないと思いますがね。いざ、死なれてみると、貴女は蓄財のないことがお分りになったでしょう。どうしたら、これからやってゆけるのか――それだのに、自分をどん底に突き入れた男の顔を見ていても、つば一つ吐きかけるでもない……」
 そうして女の顔に、憎悪の色がようやくほの見えてきたとき、意外にも、男は張りの弛んだような吐息を洩らすのだった。
 彼は、職を退いてからも、どうしたら、心の亀裂を埋めることが出来るかと考えていた。
 自分はいま、一つの罪を感じて自分の魂を苦しめている。理由いわれのない、良心の呵責かしゃくに悩み疲れている。理由はない、まさに確然と理由はない、それであるのに……。どうして、懲罰とか贖罪しょくざいとかいう意識がさき走ってくるのだろう。
 それが左枝八郎の、どこか頭の隅に棲んでいる、地蟲のようなものだった。いわばそれは、水に姿を映してそれに恋をする、ナルシサスの理想の我であった。そうして彼が、絶えずその強い衝動と闘っているうちに、いつの間にか、自分をしいたげることに異常な興味を覚えてきた。
 卑屈になる、貧乏になる、人に蔑まれる――自分を狂気から救ってくれる道が、ただそれだけのように思われてきた。
「あれからの僕も、そりゃ惨めでしたよ。したい三昧ざんまいな事をして、わずかあった、金になるものもことごとく失いましたし、しまいには、家内の着物までも裸かにして――その時、僕は独りぽっちになってしまったのです」
 それを聴いているうちに、早苗の表情がだんだんに硬くなっていった。彼女は、眼を桟の雪に据えて、っと考えていたが、一度はうるんだ瞼も、やがて涸々からからになった。
 掻き立てられた憎悪に身を切るような思いをこらえても、早苗は、もうこの男を容赦しないぞと心に決めた。
 彼女は、絶望のなかでもそれだけが、はっきりと光明であるのを知った。自分の肉体を投げ出して、この男を堕ち切るまで堕落させるのだ。無頼な、恥も矜持きょうじもうけつけない、腐敗したような性格を作り、しまいには、この男に犯罪までも犯させると――早苗は、父の幻と重ねるようにして、今が、のがしてはならぬ復讐の時機だと考えた。
「でも、そんなことより、貴方には復職のことが大切じゃございませんの。四郎太の遺書が、もしかして偽造とでもなったら、その悪い夢もきっと消えてしまうと思いますわ」
「ああ、あの遺書がですか、だが僕には、遺書よりも、もっと大切なことがあるのです。それは、船場という男ですが、あの人間には、悔悟とか自殺とかいう性格は、微塵もありませんからね」
 左枝の眼が、ほんのりと輝きを帯びてきた。
 それが、まるで二重人格のように、それまでの彼にはけっして見られなかった、一種異様な鋒鋩ほうぼうひらめきなのであった。
 法庭に天降あまくだってくる、神の光のように、人の運命を秤るときのあのおもかげが……。けれども、それは間もなく消えて、左枝の身体には、痙攣けいれんのようなものが起ってきた。
「それに、僕は卑しいでしょう。あれから賭博もしましたしね。ところが今夜は、それ、こんな風に勝ってしまって……。だが僕は、しかし、一文なしです。これから帰るには、貴女に御拝借をしないと……」
 この、例えようもない、しようもない矛盾に、早苗もしばらく眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって男の顔を見詰めていたが、やがて左枝は、取り出した札束にアッという間もなく火をつけた。
 焔が消えると、そのうえをグイと踏みつけて、
「ねえ、どうかお願いです。僕に、帰るだけの金を、貸しちゃいただけませんか。投げて下さい。床に、乞食に投げるように、チャリンと音をさせて下さい」
 そうして、呆気にとられた早苗の手から、二、三枚の銀貨を握ったとき、左枝は突然、あたまに灼熱するようなものを感じた。
 一瞬の間に、苦悶も不安も何処いずこへか飛び去ってしまい、ただみなぎるのは、それまで知らなかった異常な活力だけであった。
 しかも、激しく押し迫る破倫な衝動のために、いきなり彼は、早苗の手を捉えてグイと引き寄せた。ところが、早苗は振りほどこうともせず、まるで、寝た振りをした子供のように抱きすくめられた。唇の端には、無恥な、挑むような、ずるそうなものが、そして、眼には、湿しっけた、暗い水の粒が宿っている。左枝は、いったんは感じた女のふるえが、やがて、消えてグッタリとなったのを知った。
 翌朝左枝は、全身が粉々になったような思いで、起き上がった。同じ布団、同じ掻巻かいまきにくるまって……電燈は消え、窓は雪明りでほんのりと明るかった。
 しかし、不思議な一夜が明けると、一人は憎悪のために、一人は、愛すでもない異常な目的のために離れられなくなった。
 早苗は間もなく、生計のために三伝の妻を訪れて、その、出島にある春婦宿で働くことになった。前検事左枝はそうして、早苗が身を削る、いくばくかの金で養われることになったのである。
 彼女からは、絶えず鞭のように、憎悪と蔑視とが飛んでくる。出島の一味からは、かつて鉄槌てっついを下したその人の末路かとあざけられる。けれども、もしそれが仮りになかった時のことを考えると、おそらく左枝は、あの衝動と闘うために、気が狂ったのではないだろうか。
 左枝はいま、雨沫しぶきを浴び、微かに洩れる猟館の燈を目指して歩んでゆく。と、ちょうどその頃、お悦というねえさん株の一人が、早苗と湯気に煙る窓越しの雨を眺めていた。
「ねえ、この淋しさったら、お話しじゃないじゃないの。橋が落ちて、渡船わたしが出来てからは、なんだか、人別にんべつを見られるようで気が引けるって、客足は落ちるし、こんな雨の日なんかは、三伝さん御全盛の、あの頃を想い出すよ」
 その、坂東お悦という古顔の女は、これまで三伝のもとを一日も離れたことはなかった。たけが低くて、まん丸こくって、太い咽喉がいつもベトリと汗ばんでいる。そのくせ、としの割に皮膚が艶々しく、どこか娼婦というよりも喰物の感じが強い女だった。嘘吐うそつきで、お人好しで、人に瞞されやすく、自分の行為に、善悪の識別というものを持たない。彼女は、恩顧をうけた三伝を裏切って、彼が来たことを他の三人に内通したのであったが、その後は、まるで何事もなかったかのように、お悦はケロリとしているのだった。
「当時『船』と云や、もぐりの遊び場の中で、れっきとしたものだったよ。いまと違って、組が二つほどあってね。『白星組ホワイト・スター・ライン』に『青いリボン組ブルー・リボン・ライン』という、女にだっても、やれ『金の矢ゴールデン・アロウ』とか『銀の翼シルヴァ・ウイング』とか、いちいちそれは穿うがった、船の名前がつけられていたんだよ。それに、お前さんのようなのを小蒸気こじょうきと云ってね。『水精の蕊キヨール・ド・シレーヌ』なんて源氏名げんじながあったものねえ」
「じゃ、そのときねえさんは、なんという名だったの」
「私かえ、私は、『ブーランジェ将軍ジェネラル・ブーランジェ』号さ」
 そう云って、しばらく咽喉の奥でクックと含み笑いをしていたが、お悦は、急に何事か思い出したとみえて、
「どう早苗ちゃん、成戸はまだ帰って来ない。淋しいの、お茶引きだのといったところで、こんな渡世も、もう今夜限りだものねえ。私だって、きょうという日を、どれほど今まで待ち焦がれていたか知れないんだよ。誰が、好きこのんでやってるわけじゃあるまいし、出来るものなら、さっさと足を洗いたいじゃないか」
 それは、ひとりお悦ばかりでなく、その日が来ることは、一味にも再生を意味するのだった。
 と云うのは、大検挙の際、所在不明を伝えられた利得金が戻ってくるのであって、それは三伝が、ある銀行に変名で預け入れてあったのである。それを、一味三人が、とうとう秘し了せてしまったのであって、昨夜成戸六松が、ひさびさで娑婆しゃばの土を踏み、いよいよその金が、四年ぶりで陽の目を見る。
 今夜は、温かい、黄金こがねの雨が降るであろう――お悦の二重顎がぶるるとふるえたが、早苗は、それを聴くと陰気そうな顔で黙ってしまった。
「私はね、分けて貰った金で小商売こあきないでもしたいし、当分は身体の方もいたわろうと思うの。それよりね、そんな事が、いつまで続くとは考えていないさ。第一、私の身体には、稼がないと脂肪がついてくるんだものねえ。オヤ早苗ちゃん、そんな陰気な顔をして、どうしたっていうんだい」
 お悦は、早苗の顔をしげしげと見入っていたが、いきなり吸いかけたたばこをポンと捨てて、
「お止し、いい加減におしなよ。お前さんの執念深さにも、つくづく呆れがきたよ。お前さんが、あの人を堕落させて、そのうえ、罪でも犯させてわらってやろうという魂胆こんたんは、そりゃおとっつぁんのことを考えりゃ、けっして無理とはいわないよ。だけどさ、そんな事になったら、第一、お前さん自身が片なしになってしまうじゃないか。ねえ、少しは自分の胸にも、聴いてみるもんだよ。早苗ちゃん、どう、これが私の邪推かしらん。お前さんは、この頃変ってきちゃいないかい。もうあの人を、憎んでばかりいるんじゃないだろうね」
 云われて、早苗が狼狽の色を隠せなかったほど、お悦は彼女の心の核心を突いたのだった。
 異常な関心を、一人の男に持ちつづけてきたことが、今になってみると、ただ膠着という結果よりほかにないのだった。最初抱いていた、あの熾烈しれつな憎悪も、近頃ではどうやら惹き合うものが現われてきて、早苗は、愛憎並存の異様な心理に悩むようになってきた。
 しかし、お悦の言葉には、強くかぶりを振ったのである。
「なにを云うのかと思っていたら、ねえさんも、案外心理学者ね。だけど、私の気持おんなじよ。たとい、お金を貰ったにしろ、この稼業は当分続けてゆこうと思うの」
「マア、呆れたよ。すると、お前さんのような人間が、ほんとうの淫売婦じごくなんだね。お金を持っていて、どうやら暮してゆけるくせに、それでいて、男を道楽したいというのが、ほんとうのお女郎なんだよ。それじゃ、私から相談があるんだけど……」
 とお悦の唇が、いきなり濡れてきて、眼に肢体に、開けっ放しの淫らがましいものが輝きはじめた。
「それは、ほかでもないんだが、もし、その早苗ちゃんの心が、変っていないんだったら、いいじゃないか、最後の晩だからさ、今夜だけあの人を私に貸してもらえない?」
 早苗はその時、お悦の糸切り歯が怖ろしく思われたほど、彼女は退きならぬ土壇場に立たされてしまった。
 しばらく彼女は、瞳を定めてっと考えていたが、みるみる、顔が縄のように引き緊まってゆく。切迫した、あえぐような、内心でなにかと闘っているような表情をしていたが、やがて、笑いの消えた顔を、だるそうに縦に振った。
「そうかい、済まないねえ。私だって、あの前検事殿には、満更でもなかったんだから。それはそうと、お女将かみさんのとこから、稲野谷いなのやというあの情夫いろ、帰っただろうか」
 その稲野谷という男は、女将おかみお勢の、情夫というよりも男妾のような存在だった。ところが奇怪なことに、誰もその男の顔を、一度も見たものはなかったのである。それに、いつも来るときは、こっそりと裏口から入って来て、帰ってゆく後姿は一、二度見られたけれど、それがどんな顔か、誰も真実確かめたものはなかった。
 しかも、より以上奇怪なことは、その男が来るのは冬だけに限られていて、十一月から二月の末までの、一定の季節があるということである。
 それで、その男が、どこかの定期的な航路通いではないか――この魔窟には、そういう噂も立てられていた。
 しかし読者諸君は、その稲野谷いなのやという一人物によって、はじめて本篇に水勢が加わったことを察せられるであろう。誰も顔を見たものがない、しかも、来るのに不思議な季節がある。
「ああ、あの人なら、先刻さっき九時半頃窓越しにちらっと帰る姿を見たわ。たぶん終発の一つ手前あたりで間に合ったんじゃないかしら、アッねえさん、お女将かみさんが呼んでるわよ」
 それから連れ立って、お女将の部屋に行くと、そこにはお勢と成戸六松が紙のような顔で向き合っていった。
 お女将が、なにか云おうとしても、声は歯音に消されて聴えなかった。
「お悦ちゃん、大変なことになってしまったんだよ。本当に、私たちを信用しておくれね。とても、夢でもなけりゃ、信じられない事が起ってしまって……。実はお前さん、先刻さっき成戸さんに、金を取りに行ってもらうと、銀行じゃ、それを四年前にお渡ししてしまったと云うじゃないか。その渡した日というのが、三伝が死んでからちょうど四日目のことで……それも、受取った当人が……お、お前さん、しっかりしておくれよ……それが、さ、三伝だと云うのさ」
「え、三伝が生きていた……」
 これには、さすが野放図のほうずなお悦も、愕然と色を失った。夢ではないかと身内をまさぐっていたほど、それほど三伝の生存は信じられなかった。心臓を撃たれた――それには今でも、色や幻がはっきりと浮び上がってくる。
 彼の死には、人間の生理が一変してしまわないかぎり、どこにも、疑義の欠片かけらさえ差し挟む余地がないのである。
 七日後に、よみがえった基督キリストがあるというけれど、三伝のそれは……幽霊か、他人の変装か、それとも彼は真実蘇ったのであろうか、と、四人は、三伝の風貌をのあたりに思いうかべるのだった。
 鼻の丸い、卵なりの輪郭をした、どこか病的らしい暗黄色の、それでいて、人を食ったような三伝の顔が、いまは仄かに陰火をめぐらす怖ろしげなものになってゆく。そうして、このへやには、しんしんとひしみゆくような沈黙が続いてゆく。
「あの男なら、俺らに仕返しをやりかねまいぜ。だが、あいつが生きているとは……。とにかく、ここに四人いるからなア――お女将かみに、俺に、お悦に、それから左枝だ」
 雨が小止みになって、どこかの床の下で、地蟲がじいんと鳴いている。それも、成戸のふるえがやまぬ声も、三伝が、秘かに楽しんでいる復讐の前味のように思われた。そこへドアが開いて、泥のように酔った、左枝八郎の姿が現われた。
「ホウ、こりゃなんとしたな。一家眷族けんぞくが、残らず一堂に揃って、鉛色の顔をしておるが」
 左枝の、支える側から流れてゆく、跫音あしおとのみが高く、この一座はあまりにもひっそりとしていた。お勢の、壁虎やもりの背のような怨み深げな顔……、成戸の、打算にけた白々とした眼も……苦々しく、打衝ぶつかり合うが、言葉は出ない。
「それは、三伝がね」
 お悦はいまの話も、どうやら成戸の細工のように考えているらしい。
「あたいは、何が何だかいっこうに分らないんだけど、とにかく成戸さんが、ドロドロだって云うんだからね。莫迦ばかにしてるじゃないの。高坂三伝が、三伝が生きてるんだって。三伝が、死んで四日目に銀行へ現われたんだとさ」
「そうか、ついでに何かと思ったら、お化け話か。三伝が、三伝が現われた、死んだはずの、高坂三伝が、蘇ったときたな」
 異様なリズムを帯びて、唱い廻すような左枝の声が、ふと杜絶えたかと思うと、その、とろんとした物懶ものうそうな眼に、なにやら真剣なものが輝きだしてきた。
(心臓を叩き抜かれた、墓場にいるはずの三伝が蘇ったなんて、なァるほどこのむじなども、利得金をひとりめにしようとして、芝居を仕組んでいるな。だがもし、それがまっこと、真実としたらどうだろうか。三伝が生きて――もしそうだとしたら、たぶんあるにちがいない奸黠かんかつあやのなかに、船場の遺書も自分の苦悶も、みな筋書のようにして織り込まれているのではないだろうか)
 と、いつか彼には、莫迦げたその物語が光明になるのではないかと信じられてきた。しかし、そうして一方に理性がもたがってくると、また、そう考えることが迷信のような気がしてきて、結局彼には何事も信ぜられなくなり、やはり濁った、もとのあの眼に帰ってしまうのであった。
「だが、そんな怪談噺ばなしよりも、僕はいま正真正銘のものを見てきたんだ。それが、ここへ来る終発の渡船だったんだが、ひとりられたらしい男の屍体があってね」
 と云う口の下で、お勢の顔色が紙のように変ってしまった。
「なに、男の屍体だって。左枝さん、まさかお前さんは、冗談を云うんじゃないだろうね」
「それどころか、曳舟の推進機スクリューで、首のなくなった奴を、この眼で見てきたんだ。下腹したっぱらを一文字にやられてね、しかも、ったそいつが、左利きときてるんだ」
「ああ、それじゃ稲野谷……」
 お勢が身悶えをして、絶え入るような叫びをあげた。すると、それを聴いたとき、三人は、ハッと打ち据えられたように、顎をすくめるのであった。
 ああ、なんという符合か、三伝は左利きなのである。
 しかも稲野谷兵助ひょうすけは、ついぞ先刻さっき、終発間近にこの家を去ったわけではないか。
 ここに、なかば信じられ疑われもしていたところの、三伝の生存に、ようやく確信が植え付けられたのである。彼は、この一夜を踏み出しにして、裏切られ、死地に追い込まれた一味に、復仇を遂げようとするのではないか。それは沈黙しじまのなかを、虚空からっと見詰める眼があるような気がして、なにか由々しい怖ろしいものがぞくぞくと身のうえに襲いかかってくるような感じだった。そうしてその一夜は、地蟲の声とともに、夜陰を深めてゆくのである。
 ところが、それから二時間ばかり経った後に、左枝は、灼きつくようなかわきにふと目を醒した。
 さっきのあの室で、椅子に酔い潰れたような気もするが、それから何処へ運ばれたのか、いっこうに覚えがなかった。部屋は薄暗く、水色の覆いが掛っていて、肩に腰に、妙になまめかしい、ぬくもりが触れてくる。
 ハハア、早苗の部屋だな――そう思って、相手のくるぶしに合せて、ぐいと伸びをした時、いつもなら、胸骨の上あたりを撫でる頸筋のおくれ毛が、今夜はずうっと下って、乳辺にあるのに気がついた。
 えたような、髪毛かみのけの匂いがぷうんと鼻を衝く。
 お悦だ――と彼はそうと知ると同時に、なぜ自分が、ここへ運ばれてきたのか、不審に思わないわけにはゆかなかった。
 すると、その時壁一重の向うに、誰やら、コトリコトリと歩き廻るような音が聴えてきた。今夜は客もない、真暗な隣室に――と思うと、われにもなく、三伝という異様な動悸どうきはずんでくる。
 しかし、なおも耳を澄すと、それは隣室ではない。このへやの、しかも間近である。
 そうして、お悦の肩越しに、寝台の床を覗き見ようとしたとき、彼はそこに見た、怖ろしい何ものかに身をすくませたのである。
 お悦の胸には、細い機械錐ドリルのようなものが心臓深めに突き刺されていて、そこから、真紅の泉が滾々こんこんと湧き出してゆくのだった。
 敷布シーツの先を伝わって、雨滴れの合間を縫って……そうしてその時も、地蟲のしわがれたような声を聴いたのである。

三、影法師のえら


 緋の地に、源氏車を染め抜いた床着にくるまって、お悦はまるで眠っているように死んでいた。顔には、少しの苦悶の影もなく、もし、それにちょっとでも触ったら、唇が、またほころびそうである。が、左枝は、腕を組んで、まじまじと考えはじめたのであった。
「床の中で、昇天してしまうなんて、いかにも此奴こいつ、淫売らしい死に方だぞ。だが、この室にいたのは、自分よりほかにない。同じ床、同じ夜着のなかで……いかに酔っていたとはいえ、この女の死を、知らぬと云いつづけられるだろうか」
 寝台のわきには、三稜の立鏡台があり、洗滌器や、壁にはいろいろな酒を入れた、護謨製用具カポー・タングレーがいくつとなく吊してある。窓は、内側からかたく鎖されていて、は押しても引いても開こうとはしない。おまけに、鍵穴には鍵が突っ込まれ放しになっていて、これでは、外から鍵を動かそうとしてもとうてい無駄ではないか。
 ああ、この室は、密室だったのである。このままの状態では、出るも、入るも出来ないはずである。それだのに、何者かが、お悦の心臓を貫いてしまっている。
 自殺ではない。
 この女には、船場と同じように自殺するような性格はない、と、左枝は、知らずに重ねてゆく、莨烟たばこのなかでまったく途方に暮れてしまった。
 事実それは、もし現代いまの世に、妖術というものが実現されたときのような状態であった。頭が重く、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみの辺がけるようにうずいて、左枝には、花瓶の柔皮花の匂いもいっこうに感ぜられなかった。
 が、この惨劇を、他の三人に隠しおおせることはできない。
「僕が殺した、どぶをきれいにした……。こんな淫売の、一人や二人がどうしたってんだ。妙な顔をして疑っているくせに……オイ成戸君、ったのは、この僕なんだよ」
 三人の顔を見て、彼はたまらなくなったように、叫び立てた。六つの眼を――敵意と疑惑に燃えた、その六つの眼を見ているうちに、早苗からは最終の審判を、他の二人からは、報復の色が窺われるのだった。
「そりゃ、分ってるさ。誰も入れないこの室のなかで、お前さんのほかには、殺せるものがないんだからね。ねえ成戸さん、いったい此奴こいつをどうしようかね」
 お勢が、左枝と成戸を等分に見比べながら云うと、
「ですがねえ女将おかみ、此奴がお悦を殺した、理由が分らねえように思うんだ。云わせたら、どうでしょうね。オイ左枝、何もかも、ここで打ち明けてしまったらどうかね」
「吐くとも、腹の底まで吐いてしまうよ。そこで、まずこの機械錐ドリルだがね。君も見るとおり、一えぐりというにしては、少々先が鈍すぎるんだ。こんなもので、お悦の眼を醒まさずに、やり了せられると思うなら、それは君の方から伺いたいものだよ。ハハハハ、いくら鈍いお悦の神経だって、これじゃ、どうやら魔睡が必要になってくるぜ」
 と、たじろぎはじめた成戸六松の顔を、相変らず、左枝は死んだような表情で見詰めている。鈍い、黄味がかった盲人めくら鞏膜しろめのような、しかし、ぼやついたそのもやの奥には、いつでも踏みこらえるような不思議な力がこもっていた。
「だから、白状すると、犯人はこの僕じゃないということになるんだ。僕が、どうしてるもんか。君は、この女を、人世のしらみを――僕がひねり潰したとでも云うのかね」
「いいえ、貴方ですわ」
 早苗のその声は、低いが、しかし異様な張りを帯びていた。
「ここへ連れて来られるとき、貴方あんたは前後不覚だったじゃないの。間違えて……、ほんとうに、ねえさんの可哀想なことったらね。私と感違いして、顔もろくろく見ずに、貴方が殺ってしまったにちがいないわ」
「さ、早苗」
 これにはさすがの左枝も、溢れてくる困惑の色を隠せなくなってしまった。
 いよいよ最後の時が来た。
 この女の胸には、これ以上、めくるページがなくなってしまったわけだ。
「どう、白状したら……、でも、いい醜態ざまじゃないの。自分がさんざん、罪科つみとがもない人たちを、見下みくだしていたんだからね。その台の下へ、いまに御自分が立つんでしょうからねえ」
 その、怨み深げな早苗の顔が、ぐうっと迫ったように思われたとき、彼は意外にも平然たる口のき方をした。
「じゃ早苗、すると君は、僕がこの室を出て、お悦を射殺してからまた入って来たと云うんだね。だが、僕のどこに、そんな銃器があるだろうか。君はお悦が、どうして殺されたかも知らないでいて……」
「なに、銃器」
 この、あまりにも意外な、強弁としか思われぬ言葉に、お勢も成戸もアッと驚きの声を洩らした。
 すると左枝は、右側の羽目にある、よく見ると、色が変っているめ込みを指差した。そこは、よく魔窟にある、「魔鏡」に類したもので、色のよく似た、護謨ゴム板が嵌め込まれてあった。
 けれども、ほこりの様子を見ても、最近に取りはずしたような形跡はないのである。
 彼は、そこにある針先ほどの孔を示して、
「君、少々講義めくがね、これでも、前の商売のことは、いくらか憶えている。それによると、四百メートルの速力で、厚さ五ミリの護謨板を射撃したとき、そこには、わずか帽子ピンほどの孔しか明かなかった。もちろん、距離に比例して穴は大きく、先端さきの鋭鈍いかんにも、関係はあるがね。しかしこの機械錐ドリルでは、針先ほどの孔が当然だと云いたい。どうだ、君か、それとも女将おかみ、君か。まさか、早苗じゃないだろうね。消音機をかけて、角度が分っている、この胸を射抜いたのは……」
 そうしてついに、お悦の死が密室の殺人ではなくなってしまった。
 それが、お勢か、成戸であろうか、早苗であろうか、――それともなると、ふたたび三伝の張る、翼のような影が下りてくるのだった。
 稲野谷が殺され、それから、五時間とは経たぬ間に、今度はお悦がたおされた。ひとりは密通、一人は裏切り――そのわらいが、微かな余韻のようなものを引き、成戸は、たまらなくなったように地蟲のいる床のうえを踏み付けた。
 それで再び、この室は死人と二人だけになってしまった。
「ハハハハ、莫迦め。この機械錐ドリルが発射されて、あんな小さな孔だけですむと思うか。やはりこの室は、蟻も入り込めぬ密室に変りはないのだ」
 そう云って、隠していた小刀ナイフきりを、ポンと床のうえに投げ捨てたが、そうして、彼の詭策が成功したにもかかわらず、またもとの憂鬱な表情に帰ってしまうのだった。
 けれども、高坂三伝が蘇ったということは、これでほぼ確実にされたわけである。彼以外に、彼を除いては、密室を切り破るなどという、離れ業が演じられようか。船場の遺書も自分の運命も――と、左枝は心に、なんとなく曙のようなものを感じてきた。姿のない、地蟲のような三伝に、彼は必死の闘いを挑む決心をしたのである。
 やがて、夜が白々と明けめてきた。
 潮鳴りがして、雨を含んだ重たそうな雲が低く垂れこめ、霧はまだ港を鎖ざしている。しかしその日も、迫る恐怖のうちに、やがて夜となった。
 すると、彼が占めていた空き部屋の扉を、夜更よふけて、こっそりと叩く者があった。
「私、今夜はお詫びに来たの。実際、根も葉もない怨みを、執拗しつこく思い詰めていて、今まで、私、ほんとうに悪かったと思いますわ」
 早苗は真赤に泣きはらした顔を、左枝の胸のなかに埋めた。波形をなした線、柔らかな呼息いき、そうして丸い形と、高まった頂きを見せた固い乳房が、左枝を焦だたしいまでにそそりはじめた。
「私、いままで……。貴方を、なんとかしてしまおうとする時は、そりゃ可愛がってあげたの。また、可愛くって可愛くってたまらないときは、どうしても、表面は憎み足りないような、あんな所作しぐさをしていたの。でも、勘忍してね。私、もうどんな事があっても、一生離れたくないのよ。よう、どうしたの、そんなに黙っていて……」
 左枝は揺すられるままに、しかし、眼を据えてじっと天井の一角を睨んでいた。それは、早苗が気づいたら、うち萎れてしまうような冷やかさだった……。
「だが、それは別として、君に訊きたいんだが、君は昨夜ゆうべ瓦斯ガスストーブの栓につまずいたようだったね。それまでに、栓がどうなっていたか、気づかなかったかね」
いてましたわ、ごくほんの少しね。だけど……」
 左枝はそれを聴くと、早苗の愛撫も忘れて、沈んだように考えはじめた。しかも鼻をひくつかせて、その部屋に漲っている、なにかの香りを嗅ぎ取ろうとした。しかしそれは、早苗にある石竹のような体臭ではなかった。昨夜ゆうべはあの部屋で、いまここにもある、柔皮花の匂いをいっこうに感じなかった。それだのに、この室では、まるで早苗の情熱から逸散してでも行くかのように、涼しげな、清々すがすがしい花粉の香りがする。ああそれが、昨夜ゆうべはなぜ、かおらなかったのであろうか。
「それから、もう一つ訊きたいんだが、君は一度でも、稲野谷の顔を見たことがあったかね」
「いいえ、顔は一度も見ませんでした。ただ一度、今年の正月でしたか、開橋式の花火をみんなが見ているとき、女将おかみさんがいそいそと廊下を通りかかり、その時、帰ってゆくらしい後姿を見ましたの。中背の小肥りな人で、女将さんは、あの方を見られるのを、そりゃ嫌がっていましたわ」
 すると、左枝はいきなり寝台のうえに起き直った。彼は、ぜいぜいとあえぐような呼吸いきをして、瞳は、なにかの希望に燃え輝くようであった。
「分ったよ。早苗、昨夜ゆうべ僕が見た首無しは、ありゃア、稲野谷兵助じゃなかったんだ。この事件とは、まるで関係のない別個の殺人なんだよ。だって考えて見給え。体位から推してみたからって、どうして、背の高い三伝が、低いあの男の腹を抉れるものじゃない。それを今まで、どうして僕が迂闊うかつにも見遁していたのだろう。もともと、一瞥いちべつくらいで特徴が分るものじゃないが、とにかく、首無しが稲野谷兵助じゃないと分った」
 そうして、左枝の顔に、それまでにはなかったところの、悽愴な気魄がうかび上がった。輸贏ゆえいをこの一挙に決しようとするのであろうか、突然立ち上がると同時に廊下へ飛び出した。
 客のない、しかも、死人のいるその夜の廊下は、どこにも、ひしむような、冷たい闇が這い漂っている。
 左枝は、お勢の室の前まで来ると、早苗を振り向いて、
「これで、分ったろうね。今夜はぜひ、女将を問い訊さなきゃア、ならないことがあるのだ」
 しかし、を叩いても返事がなく、やがて階下の炊事場にいるのを発見した。が、お勢は、左枝の視線を見返して、
「だいぶ今夜は、お前さん、気込んでいるらしいが、なんだい、ここでお悦の身体を焼きたいとでも云うのかね」
「君に三伝を出してもらいたいんだ。どこにいる、あの稲野谷兵助は、三伝の別名じゃないか」
「え、なにを云うのさ」
 それには、まったく意外という、その表情は、左枝に全然予期されていたものではなかった。
「お前さん、揶揄からかうのも、いい加減にしてもらいたいもんだよ。せめて、三伝がこの私だと云っておくれよ。知ってのとおり、あれまで上海シャンハイにいたんだからね。顔も知られちゃいないし、せめて私と云うなら、ものの筋が立っているけど、お前さんのように、稲野谷が三伝だなんて云うんじゃ、私がいま、ここにすくんでいるのが、とんだ酔興ってことになるよ」
 左枝は、杜絶とぎれた言葉の間に、相手の顔の動きをっと見詰めていたが、
「今夜だって、そうじゃないか。いつ三伝が来るかと思うと……戸締りなんぞに頼れなくなってしまって……私はここで竦んでいるんだし……成戸は成戸で、今夜はお悦のあの部屋にいるんだしね」
 と、その時、左枝の瞬きがふいに止まったかと思うと、側にある、瓦斯ガスの計量器のうえに視線が落ちた。
 どこかで細目に開いているとみえ、メートルの針がふるえるような微動を続けている。すると、みるみる間に、左枝は紙のように蒼ざめてしまった。
女将おかみ、これで三番目だ。見給え、この指針の動きが、三伝の呼吸いき使いなんだからね」
 その刹那、この地上における、ありとあらゆる物音が停ったように思われた。彼の言葉どおりだと、いま三伝は、この家の何処いずこかにいなければならぬ。早苗は、恐怖にたまらず男の肩に獅噛みついた。
「じゃ、ど、どこにいるって云うのよ。貴方あんたは三伝が、いったいどこにいるって云うのよ」
「たぶん、成戸がいる、お悦の部屋だと思うがね」
 しかしその部屋は、昨夜ゆうべと同じようにかたく尾錠びじょうが下されている。それも、鍵を鍵穴に入れ放したとみえて、合鍵では、尾錠が揺ごうともしない。金具が、仄かな暖もりをたたえ、瓦斯の燃える音が囁きのように聴える。
 そうして、ついに扉が破壊されたのであった。
 ところが、しきいまたいだとき、三人は、そのまま心動を停めたようなおどろきに打たれた。
 そこには、昨夜と寸分も違わぬ状態で、成戸が床のうえに長々と横たわっているのだ。流れ出た血が、焔に映じて玉蟲色に輝いている。ああ、そうしてまた、その時も柔皮花の香りが鼻に触れてこない。
「殺人が行われるとき、その現場に限って、柔皮花が香りを失うとはどうしたことだろう」
 彼は、その花粉の秘密を知ることが、結局、密室の謎を解く鍵ではないかと考えた。
 花粉と密室、詩と機構メカニズム――。
 それが、神ならでは知らぬ久遠くおんの謎のように彼を悩ました。
「女将、すると明日の晩は、僕か君かということになるね。なにも、そんなに顫えることはないだろうよ。七つの海を股にかけたお勢ともあろうものが、このに及んで、なんというざまだ」
 その翌夜は、また誰かの血が、キラキラする陽炎かげろうのようなものを、立てるであろうと思うと、さすがの左枝でさえも、落着かず自制を失ったように見えた。ところが、夜になると、彼は再びお勢の部屋に現われた。
「むろん、これは確証というわけじゃないがね。しかし今夜は、とくと君に相談があるんだよ。僕は、いろいろに考えてみたんだが、どうやら、銀行に現われたのと、この三伝はちがうようじゃないか。ハハハハ、顔色を変えたって、もうどうにもなりゃしないぜ」
 そう云って左枝は、血相の変ったお勢を、あわれむように眺めはじめた。ボウという汽笛、艙水そうすいの流れ、窓にはもやをとおして港の灯が見える。
「最初から僕を悩ましたのは、なぜ兇行の都度に、柔皮花の香りが消えてしまうかということだ。僕はそれが、何かの中和現象じゃないかと考えたのよ。あの室にもっていて、覚られてはならぬ香りがあるのを……。オイ、遁げようたって、その抽斗ひきだしに、何があるか僕にはちゃんと分っているんだ。ねえ女将、それを防ごうとして、君はあのへやに柔皮花を持ち込んだんだ。あの香りは、エーテルと中和するからね。そこで、君の眼に入れたいものがあるんだが……」
 と、衣袋ポケットの中から、小さな小指ほどの壜を取り出した。嗅ぐと、快い眩暈めまいを感じてくる。
「これをあの部屋の、鍵穴の中から見つけたんだが、ねえ女将、君はこんな修行をどこで覚えてきたんだ。君は、鯨蝋をエーテルに混ぜて、この中に詰めて置いたね。そして息抜けを作って、鍵穴の中に隠しておいたのだ。すると、摂氏十度でこれが氷結する。ところが、二十五度になれば沸騰をはじめるんだ。それで、栓がだんだんに持ち上がっていって、尾錠の梃子てこを下から押し上げる。扉は明く、そうして、エーテルの噴気で半魔睡に陥ったやつを、君はらくらくと料理してしまったのだ。どうだい、この事件の、天の配剤というやつは、昨夜ゆうべ君が、炊事場をうろついていたことにあったのだよ。しかし、まだエーテルの魔術は、それだけではなかった」
 お勢の顔には、一抹の血の気もなく、すでに観念しているのか、せせら笑うような影さえ見えた。左枝は、相手の動作を警戒しながら続けてゆく。
「それは、君が途方もない魔術を使って、稲野谷兵助という、仮空の人物を作り上げたことだ。ねえ女将、あのエーテルと鯨蝋との混合物は、時によると舞台や高座でも使われる。それが沸騰する時は、しだいに輪廓の外側から消えてゆくのだからね。だからもし、衝立ついたてにでも人間の形を描いて、気温を高めた場合には、ちょうどそれが、遠ざかってゆく人影のように見えるじゃないか。女将、君の企んだその二役には、微妙なこと、まさに人間わざとも思われない……まるで、はたにある梭糸おさいとのような計画があったね。まず、稲野谷という、仮空の人物を作り上げて、それで、三伝の影を君は覆おうとしたのだ。君はしめし合わせて、まず三伝に、利得金を奪わせておいた。そうしてから、復讐を兼ねて、いずれ追及してくる、一味の者を順ぐりに殺していったのだ。三伝は黒衣くろごで、君は立役者だ。サア、ここで、君に三伝の在所ありかを教えてもらおう。お願いだ、僕は神となるか、それとも、僕という人生を修正するかの境い目にある。お願いだ、三伝は何処にいる。どうして、あの男は死から蘇ったのだ」
 左枝は、額に粟粒のような汗をうかべ、その眼は、お勢の唇をっと捉えていて動かなかった。この一つが、実に最後の、苦闘の末にようやく恵まれた、機会だ。三伝を射ったのは、船場か、矢伏か。どうか矢伏であってくれ――と、これまで抗争を続け、血みどろに揉み合っていたあの力に、いまは、祈らんばかりにすがりはじめたのであった。が、お勢は冷笑を泛べて云った。
「可哀想にねえ。神様になろうというのも、並大抵のことじゃないねえ。ねえ左枝さん、ほんとうにお気の毒だけど、三伝はとうの昔に死んでいるんだよ。あれを射ったのが、矢伏か船場かっていうことも、もし親戚なら、神様にでも聴いてみてもらおうじゃないか。私はね、実は蔭で、三人を操っていたのさ。それで、ったという電報があったので、すぐ、東京の腹心の者に云いつけたのだよ。そりゃ、私のこったもの、似た換玉くらいや、印鑑なんぞに事欠いてたまるもんかね。ホホホホ、私の運の尽きが、お前さんの自滅というわけかね」
 そうして、お勢との勝負には勝ち、ついに人世との戦いには敗れた。彼は、お勢の室を出ると、腕を背後に組んで、黙々と歩きはじめたのである。
 その足どりには、とうていこの世の人にはない、緩慢沈鬱の気がみなぎっていた。神とはなんだ。人とはなんだ。神は登りつめ、人は登りつつある間に……早くも登り得ざるを思うのが、人である。そうしてついに、左枝は闘いを放棄した。
 翌朝、雨上りの最初の微光が、この悲壮な敗戦者の顔に注がれた。ほの白い、たゆとうような曙を前にして、左枝はこの世を去ったのであった。
 ところが、ひる近くになって、早苗が左枝のドアを叩いたのであったが、しかし返事がないので、まだ彼が睡っているのだなと思った。今朝こそ、彼女は心に誓って、左枝と新しい生活に入る決心をしたのであった。
「ああ、きっと眠っているんだわ。それとも、女将おかみさんの部屋かしら……」
 しかしそこには、早苗の心臓を凍らすようなものが横たわっていた。お勢が、恨み深げな眼を、くわっと宙に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、床のうえで冷たく縡切こときれていたのである。
 しかも早苗は、その髪に驚くべきものを発見した。
 と云うのは、それが何あろうか、巧妙なかつらであって、下は半白の、疎らなみじであった。そうして、屍体の手に、一枚の揉みくちゃな紙が握られていたのである。

 左枝君、俺は今朝、お勢でなく、高坂三伝として君に挨拶をしたい。
 俺は、実のところ、殺されてはいなかったのだ。
 あの三人の気配を、前々から察していたので、矢伏の拳銃ピストルには、黒鉛の弾丸を詰めておいた。君も知ってのとおり、黒鉛の弾というやつは、発射しても、飛ばずに粉々に砕けてしまうだけだ。後で洗矢あらいやで掃除をしてしまえば、それには寸毫すんごうの痕跡もとどめないのだ。
 俺はあの時、乾坤一擲けんこんいってきの大賭博を打ったのだよ。
 それから、船場の自殺も、やはり、俺の書いた血みどろな狂言だったのだ。
 俺は、吃驚びっくりする彼に、黒鉛の弾を明かして、どうだ、一番芝居をやろうじゃないか。あの利得金で堪能たんのうするためには、まず船場四郎太を戸籍から抹消する必要がある。そこで、告白の遺書を書かせて、黒鉛の弾を示し、射ったらまず川に転げて落ちて、俺の二のてつを踏めと云ってやった。ところが、その弾を、巧妙に実弾と代えてしまったので、慾で船場四郎太はあの世へ旅立ってしまった。
 それから、俺はお勢に変装して、二の矢、三の矢の復讐を計ることになった。
 オイ左枝君、あの遺書でもって、実を云うと君にも撃ち返してやったのだぞ。俺は、そうして復讐を終った。このまま、人生は終えてしまうことになるが、眼は眼に、耳は耳に、最後の最後の一人の、れ血までもすすりとったわけだ。その、最後の人というのが誰かということは、左枝君、君が一番よく知っているはずだよ。

 実に、悪蟲三伝の、読むだに総毛立つような告白文だった。
 嵐は去った。早苗は、和やかな陽差を満身に浴びながら、マストに揺れる港の旗を眺めていた。
 彼女は、この極悪人の死を知るのみであって、左枝が、彼女の胸を離れ去っていたことは知らなかったのである。





底本:「潜航艇「鷹の城」」現代教養文庫、社会思想社
   1977(昭和52)年12月15日初版第1刷発行
底本の親本:「地中海」ラヂオ科学社
   1938(昭和13)年9月
初出:「新青年」博文館
   1937(昭和12)年2月号
入力:ロクス・ソルス
校正:安里努
2013年1月29日作成
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