竜宮から来た孤児
前作「天母峯」で活躍した折竹孫七の名を、読者諸君はお忘れではないと思う。
アメリカ自然科学博物館の
「おい、海を話せよ、君も、
とまず私は困らせてやれとばかりに、折竹にこう訊いたのである。
というのは、海に魔境ありということは未だに聴いてないからだ。絶海の孤島、といえばやはり土が要る。たいていは、大陸の中央か大峻険の奥。密林、氷河、
大西洋を、メキシコ湾流がめぐるちょうどまっ唯中、北緯二十度から三十度辺にかけておそろしい藻の海がある。
これは、紀元前カルタゴの航海者ハノンが発見したのが始め。帆船のころは、無風と環流のためそこを出られなくなり、舵器には
では、海に魔境は絶対ないと云えるのか

「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うなよ。今どき、
全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば三つほどあるという。ゆけぬ魔海――それはいったい何処のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつけぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫しないわけには往かない。
「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある」
「ほう、まだ
「それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使う。

土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外なものがある。この“

そこは、赤道無風帯のなかでいちばん湿熱がひどいという、いわゆる「
周縁は、海水が土堤のように盛りあがっている。ことに、地球自転の速力のはげしい赤道に面した側は、まさに海面をぬくこと数メートルの高さ。さながら、大

この、オウストラリア大陸を発見し損なったそそっかしいスペイン人が、“

「なるほど」
と、もう私は一、二尺のりだすような亢奮。しかし、いまの説明のなかに判じられないようなものがある。
「その、島々というのはどういう意味だね。“

「そうだ、大小合して七、八つはあるらしい。その何百、何十万年かはしらぬが隔絶した島のなかを、君は一番覗きこみたいとは思わないかね」
と、なにやら仄めかし気にニッと笑った折竹の眼は、たしかに私を驚死せしめる態の大奇談の前触。そしてまず、“
「ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のように考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が“

「ふうむ、太平洋漏水孔か……」
「そうだ、案外渦の成因はそんなところかもしらんよ。ところで、なぜ『
一九一二年に、当時の独逸ニューギニア会社の探険隊が、『
こいつは、目方も軽いし抵抗も少ない。ふわふわ渦にのってゆくうちに、どれかの島へゆけるだろう。と、マアその考えもそこまでは良いんだがね。考えると、それでは行きっきりになってしまう。渦が逆流でもしないかぎり……永遠の竜宮ゆきだよ」
「………」
私は、さっきから折竹が頻繁につかう、竜宮という言葉が気になって堪らない。こいつ、何かどえらいものをきっと隠しているなと、問おうとしたのを折竹が遮って、
「それから、もう一つ『

ところで、そのニューギニア会社の探険のとき、実験がおこなわれた。それは、
「想像もつかんよ、地球の熱極というのがあれば、『太平洋漏水孔』のことだろう」
「ふむ、ところでだ。ここに、
「分ったよ」
私はメモを置いて、落胆したように彼をみた。
「なるほど、人間の生理状態が一変しないかぎり、『太平洋漏水孔』へはゆけないと云うことが、分った。だが、そんな工合で人間がゆけなくてだね、そこに奇談もなにもないものは、聴いても仕様がないよ」
すると、折竹がいきなり童顔をひき締めて、オイと、一喝するように呶鳴った。
「おいおい、話というものはしまいまで聴くもんだ。僕が、何百、何十万年秘められていたかもしれぬ『太平洋漏水孔』の大驚異――それを話そうと思う矢先、早まりやがって……」
「そ、そうか」
「それみろ。とにかく『
「なんと云うんだ! そして、どこの国のものだ」
「日本人だ。しかも、頑是ない五歳ばかりの男の子だ」
私は、ちょっと、暫くのあいだ物もいえなかった。読者諸君も、その五歳という文字を誤植ではないかと疑うだろう。しかし、五歳はあくまでも五歳。そこに、この「
「
それが、第一次大戦勃発直後の大正三年の秋――。日本海軍が赤道以北の独領諸島を掃蕩しつくしたけれど、まだドイツ東洋艦隊が南太平洋にいるという頃。はやくも、新占領区域を中心に商戦の火蓋をきった、向うみずな一商会があった。それが、折竹の義兄が経営する海南社。のちの恒信社、南洋貿易などの先駆となったものだ。
独艦が出没する南太平洋を縫い、ともかく小帆船ながら新領諸島と、濠洲間の聯絡を絶やさなかったのは偉い。その、水凪丸の二回目の航海、ブリック型、補助機関附きの五百噸ばかりの帆船。それが、雑貨燐鉱などをはち切ればかりに積んで、いま北東貿易風にのり赤道を越えようとしている。
若人のあこがれ、海のロマンチシズムは帆船生活にある。順風に、十度ほど傾いではしる総帆の疾走。波音と、ブロックの軋めきのほかは何もない南海の夜。仰げば、右に左に弧をえがく
「驚いたですよ、船長」
と折竹もさすがに音をあげた。
「この、補助機関の震動がするあいだは地獄というわけですね。まったく、この蒸し暑さときたら死んじまいたいくらいだ。眼がぽっと霞んで来るし、なにも考えられなくなる。だが、あれ

「あれかね、あれは有名な『
その時、船首の辺でけたたましい叫びが起った。一人の水夫が、
「おうい、変なものが見えるぞう。右舷八点だ……鳥が、籠みてえなものを引いてゆくが……見えたかよう」
まもなく、その二羽の鰹鳥が射止められた。引きあげられたのは葡萄蔓の籠で、なかを覗いた男がアッといって飛び退いた。裸体の、愛らしい五つばかりの男の子が、
と、しばらく全員は酔ったような眼で、暑さも忘れ、じっとその子をながめている。と間もなく、その子の背に手紙が結いつけられてあるのが、見つかった。船長が手にとったが、すぐ折竹にわたし、
「君、ドイツ語のようだね」
「そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父となって暮すこと一月。いま『
やがて、その子は手当をされ船室で寝かされた。折竹は、いつまでも醒めない悪夢のあとのような気持、フラフラわれともなく
斜めの海、海の傾斜。とうてい、夢にも思えなかったものが、現実として、眼のまえにある。そこには、幾重にも海水が盛りあがり、まっ蒼に筋だっている。その大漏斗をまく渦紋のあいだには、暗礁がたてるまっ白な飛沫。しかし、それはただ眼先だけのことで、はや四、五
折竹は、それをキューネの絶叫のように聞きながら、魔海からの通信を読みはじめたのである。
*
手紙の主フリードリッヒ・キューネは、
そのキューネが、この五月に破天荒な旅を思いたち、独領ニューギニアのフインシャハから四千キロもはなれた、かの「宝島」の著者スチーヴンスンの終焉地、
土人の“
「なんだろう。国の兵隊がいず、変なやつがいるが……」
と、見るともなくふと壁へ眼をやると、そこに、土民への布告が張ってある。かれは、みるみる間にまっ蒼になった。留守中、大戦が勃発しこの独領ニューギニアは、いま濠洲艦隊司令官の支配下にあるのが、わかった。ことに、その布告の終りの数行をみたとき、彼はわれを忘れてかっと逆上したのである。
――濠洲軍は、なんじ等に善政を約束する。思えば、永年苛酷なるドイツ植民政策に虐げられた汝らは、ドイツ軍守備隊長フオン・エッセンに対しても、われ等と協力し復讐をわすれなかった。彼らが、家族、敗兵らとともに密林中に逃げこんだとき、汝らはわが言にしたがい間諜をだし、たくみに彼らを導いて殱滅させたではないか。
但し、隊長夫妻ならびにその一子、以下白人戦死体の首の拾得は禁ずる。
但し、隊長夫妻ならびにその一子、以下白人戦死体の首の拾得は禁ずる。
フインシャハ守備陸戦隊長ベレスフォード
キューネは、眼がくらくらして倒れそうになった。ことに、彼と仲よしだった隊長の、子ウイリーの死を思うとかっと燃えあがる憤怒。鬼畜、頑是ない五歳の子まで殺さんでもいいだろう。おそらくそれは、平素恨みを抱く土人の仕業だろうが、なにより嗾かけたのはベレスフォードではないか。
と、わずか四月の間にかわった世の中となり、いまは身を寄せるところもない今浦島となったキューネは……それから先々もかんがえず怖ろしさも感ぜずに、ただフラフラと放心したように歩みはじめた。
(殺すぞ。鬼のようなベレスフォードのやつ、からならず
いま、キューネの胸のなかには、それだけの事しかない。すると、月のない夜がもっけの倖いとなり、ふらふら
(ようし)彼はぐびっと唾をのんだ。
眼には眼、歯には歯だ。ベレスフォードに、男の子がいるとは……天運とはこのこと。と、ただ復讐一図に後先もかんがえず、やがて、ちいさな寝台から抱えあげたその子を、毛布にくるんでそっと持ちだしたのである。まもなく、夜風をはらんだ
しかし、キューネは、くらい海上にでるとさすがに亢奮も醒めた。いま、父母の懐ろから拉しこられたにも拘わらず、ベレスフォードの子はかるい寝息をたてている。この、無心神のような子になんの罪がある

どれどれ、すぐ坊やのお家に帰してやるよ――と、もともとキューネは子供好きだけに、毛布をあげてそっと顔を見ようとした。
夜が明けかかり、星影がしだいに消えてゆく。当て途なく流れてゆくこの
「ちがう、こりゃ、ベレスフォードの子じゃない」
とさけんだ。
白人ではない。五歳ばかりの、黒い髪に琥珀色の肌。くりくり肥った愛らしい二重

「オヤッ」
というようなまん丸い眼をして、しばらくちがった周囲に呆気にとられていたその子は、やがて、しくっしくっと泣きじゃくりを始め、
「オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないんだね」
「そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、坊やはどこの子だね」
「お父ちゃんは、日本人でジョリジョリ屋だい」
「ジョリジョリ

「シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまったんだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それも、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇佐美ハチロウっていうんだよ」
五歳で、この蛮地へきて孤独の身となるだけに、なかなか、ませてもいるし利発でもある。それから聴くと、父の死後はベレスフォードの家へきて、そこの、ジャッキーちゃんの遊び相手になっているというのだ。してみると、ゆうべジャッキーが壁際に寝ていたのを、キューネが見損なったわけなのである。しかし、ともかくこの子は帰さなければならない。
「オジチャン、オチッコが出たいよ」
きゅうに、ハチロウが尻をもじもじしはじめた。
「だけど、ジャッキーちゃんは海へオシッコすると、オチンチンを撞木鮫にとられるというよ」
と、その時どうしたことか、ハチロウの腰をおさえてオシッコをさせている、キューネの手がいきなり震えはじめてきた。遠空に、色付きはじめた中央山脈を縫いながら、するするのぼってゆく
天地間、いま一人のこの身の置きどころもなくなった彼は、ハチロウの処置という重荷が加わったのだ。多分、明ければハチロウの失踪に気がつくだろう。そして、この島の内外がきびしく調べられるだろう。所詮自分は、ハチロウを帰そうとしてこの辺に迂路ついてはいられない。では、これからどこへ行こうか。
周囲はことごとく英仏領諸島。蘭領も米領も、所詮ドイツ人にとっては安全の地ではない。いまこの地上に一寸の土地もなくなった。キューネはただ悶えるのみであった。そこへ、突然ハチロウがこんなことを云いだしたのだ。
「オジチャンの、このお舟はどこへゆくんだね。坊やのお国の、日本へゆくの?」
「行ってもいいよ」
と、彼は眼先がきゅうに開けたような気がし、
「だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃないのかね」
「うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るんだもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッキーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたいのお国の日本なら虐められないだろうね」
こんな、頑是ない子が郷愁をおぼえる哀れさ。それは、やはりキューネも同じことである。オジチャンも、どれほどドイツへ帰りたいか知れないよと、口には云わないがいきなりハチロウを抱きしめ頬ずりをしながら滂沱と涙をながした。
「ゆこう坊や。坊やのお国の日本へゆこうよ」
そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであったが……それには、まず行きようもないと云う秘境が必要だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、“
両側は、いわゆる
ほとんど哺乳類のいないこのニューギニアは、ただ毒虫と爬虫だけの世界だ。やがて、
そのあいだの密林行。繁茂に覆われた陽の目をみない土は、ずぶずぶと沢地のようにもぐる。羊歯は樹木となり巨蘭は棘をだし、蔦や、毒々しい肥葉や小蛇ほどの巻鬚が、からみ合い密生を作っているのだ。その間に、人の頭ほどもある大昼顔が咲き鸚鵡や、
そこは、幅約半マイルほどの、おそろしい死の沼だ。水面は、みるも厭らしいくらい黄色をした、鉱物質の
「坊やは、ウンチがでないかね」
「また、オジチャン、
人糞を、このんで食う
すると、時々とおい対岸で、パタリパタリと音がする。その、なんだか聴きようによっては人間の舌打ちのように聴える音が、万物死に絶えた沼面をわたってくるのだ。と同時にそれに交って、小鳥のさけぶキーッという声がする。やがて、キューネがポンと手をうって、
「分った。ニューギニアの奥地には食肉植物の、『うつぼかずら』のひじょうに巨きなものがあるという話だったが……。そうだ、一番それを使って、この沼をわたってやろう」
やがて、ほそい藤蔓のさきに小鳥をつけて飛ばしているうちに、キーッという叫び声とともに、ぐっと手応えがした。たしかに、「うつぼかずら」の大瓶花が小鳥をくわええたにちがいない。とそれをキューネが力まかせに引くと、一茎の攀縁一アール(百平方米)にもおよぶと云う、「
「坊や、ここが当分、私たちのお宿になるんだよ」
「日本かね、オジチャン」
「いや、日本へゆく道になるのさ。坊やが、ここで幾つも幾つもおネンネしていると、そのうちにお迎いの船がくるよ」
そして、キューネの気もハチロウの気も落着いた。みれば、果物も豊富、魚介も充分。ここから、時機がくるまで伸々と過せると、キューネもほっとしたのであった。
しかし、そうして何事もなかったのもたった一日だけ……。翌朝、果実を見つけに茂みのなかへ入ってゆくと、ふいに、眼のまえに薄赤いものが現われた。
「あっ、何だ。サア、坊や、はやくオンブしな」
前方でも、ザクザクと草を踏む音がする。やがて、ベゴニアの藪のなかへ蹲んだその生物を、キューネがぐいと引きだしたのである。とたんに、彼はアッと叫び、思わず離すまいと双手に力をこめた。それが、人間も人間、うら若い娘だった。
「
とその娘が絶え入るような喘ぎをする。
「君、そう怯えなくたって、何もしやしないよ。だが、どうして君一人が、この

娘が、キューネに安心するまでには長時間かかった。もし愛らしいハチロウがこの白人のそばにいなければ、おそらくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘は、名を“
「私は、ながらくサモアの国王をやっている“
ですけど、どうしてタマセの王系がそんなに邪魔なんでしょう。父はいま、
この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが啜り泣きながらいうように、サモアへ帰れば殺されるだろうし、といって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだという。まして、この“
「私、まだここには一年しかいませんけど、時々、おそろしい高潮が襲ってくるのです。その時は、木へのぼって、ぶるぶる顫えていなければなりません。そしてその潮は、ここの
そうして間もなく、この“
「オジチャン、これで坊やたちは、日本へいくんだね」
ハチロウは、外洋へでると大悦びだったが、そんなことを聴くと、キューネは鼻の奥がじいんと滲みるような思い、自分はドイツ、ナエーアはサモアへ……。いずれも帰心矢のごとしと云いながら、帰れない身だ。よくよく、おなじ運命のものがめぐり合わせたもんだと、ますますこんなことから結ばれてゆく三人。
「なんだか、
とビスマルク諸島の北端を出てから三日目の午、ナエーアが、しばらく手をかざしながら水平線を見ていたが、そういった。
「どうして、分るね」
「ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪がちかい証拠だというんです。じきに、
それまでキューネは、ただ
かれは、軽便天測具を置くとナエーアの手をにぎった。はじめて土人娘のカンの正しさを知ったのだ。
「私たちが、もしこの舟のうえに一生いるようになったら……」
ナエーアがある夜キューネにこんなことを云いだした。星影をちりばめたまっ暗な水、頭上の
「そうだねえ。僕らは、こんなようじゃ当分海上にいるだろうからね」
事実この三人は、見る島、ゆく島の人たちによって残酷に追われていた。キューネのだれにも分るドイツ訛りと、戦争が終ったか終ったかと聴くような怪しい男には、どの島民も
しかし、この扁舟のなかの二人の男女には、たがいに木石でない以上、何事かなければならない。ナエーアは、十二とはいえ早熟な南国ではもう大人であり結婚期である。二人はだんだん、自然の慾求に打ち克てなくなってきたのである。
「私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。あなたの、
「僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね」
キューネは、ふかく海気を吸ってナエーアを見まいとする。しかしその眼は、もう間もなくくるだろう、甘酔に血ばしっている。そこへ、かるい欠伸をして、ハチロウが眼をさました。
「オジチャン、もう日本へ来たのかい」
「まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね」
「じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ちゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね」
そんなことが、ますます二人を近附けてゆくのだ。すると翌朝、サゴ椰子がこんもりと茂った島に着いた。そこは、誰もいない無人島であるが、植物は、野生のヴァラをはじめすこぶる豊富だ。三人は、ホッと重荷を下したような気になった。
「マア、なんて、いいところだろう」
ナエーアが、踊るような足取りで、水際を飛んであるいている。珊瑚虫が、紺碧の海水のなかで百花の触手をひらいている。そのあいだを、三尺もあるようなナマコがのたくり、
「僕はこの島を、
それから二人は、なかにハチロウを挾んで森のなかへ入っていった。すると、野生のヴァニラの茂みのなかに埋もれて、いまはボロボロになっている十字架が一つある。ああ、白人の墓だ――と、キューネは、びっくりして駈けよった。風雨にさらされてまっ黒になったその十字架には、からくも次のような墓碑銘が読めるのだ。
――R・Kという女。一八八二年にこの島にて死す。夫に死なれ生計の道も尽き、土人の妻となりしがため、名を記さず。
墓碑には、簡単にそうあったのだ。しかし、みるみるキューネの面が暗くなってゆく。白人の女が暮しようもなくなって土人の妻となった……それを恥じて、死後も名を記さない。それだのに、いま俺とナエーアはどうなってゆこうとしている

と急に、嫌悪の情がむらむらっと起ってきた。キューネにも、やはりどこかにある白人の優越感が……このたった一度でナエーアの顔を、見るも厭なようになってしまったのだ。彼は、幾度も詰まりながら、ナエーアに嘘をついた。
「ナエーア、やはりここも不可ない島なんだ。疫病がある。それで、ここの島には誰も住むものがないと云うんだ」
「あァあァせっかく見付けたのに、不可ないんでしょうか」
ナエーアはキューネの気持を知らず、がっかりして云った。そしてまた、独木舟の漂流がはじまったのだ。
キューネはそれ以来、見ちがえるような人間になった。ハチロウには、以前とかわらぬ親しさを見せるが、ナエーアにはほとんど物をいわない。そして、水また水の絶海の旅が続いた。
朝は、うすら青くすがすがしい海水が、昼には、ニスを流したような毒々しい藍色になる。そして夕には、水平線を焼く火焔の大噴射。そういう、まい日まい日繰りかえされる同じような風物に、だんだんキューネに募ってくるのはおそろしい虚無。すると、ちょうどその夜あたりから、それまで吹いていた南東貿易風が弱まってきた。
「どうしたんですの。この頃は星も見ないんですね」
とハラハラしたような声でナエーアがいう。
「見ても、見なくても同じことだからね。どうせ、どこへ流れつこうが、末は分っているよ」
それから、数日間はくもって、暗黒の夜が続いた。風は絶え、
とある夜、風もないのに急に波だってきた。
「どうしたんでしょう。風もないのに、こんなに荒れてきましたわ」
ナエーアは、帆を下してハチロウの上にかけた。
波は、低く窪みひろがり泡だって、押しよせてくる。しかし、空には突風もない。ただ水面には触れずとおく上空をゆくのか、ごうっという颶風のような音がする。ところが、空が白々となってきた暁がた近いころに、キューネがけたたましい叫び声をあげた。
「ああ、なんというところへ来たんだ。ナエーア、こりゃ大変な渦だよ。ああ、
「だから、だから、云わないこっちゃないんですわ」
ナエーアはただハチロウを抱きながら、オロオロ声でいうだけであった。
こうして三人は、ついに「太平洋漏水孔」へ引きこまれた。海が皺だっておそろしい旋回をしながら、ぐるぐるながい螺旋をえがいたのち、大漏斗の底へ落ちこむ。水は、紫檀を溶かしたような色で二十度ほど傾むき、いま水平線はとおく頭上にかかっている。その、はじめてみた濃藍の水壁は、ごうごうと唸る渦心の哮りよりも怖ろしい。
もうこれまでと、キューネはじっと観念した。いま、朝焼けをうけ血紅のように染まっているこの魔海の光景は、ただ熱気を思ってさえ焔の海のようだ。頭は茫っとなり動悸ははやく、おそらくこの舟が渦心に落ちこむまでに、三人は熱気のため死んでしまうだろう。しかしキューネは、疾い呼吸を感じながらも、じっと渦をにらんでいる。
人間には、どうなっても最後まで生きようという意識がある。それがこの時に、キューネを刺戟してきたのだ。
「どうだろう、この海はこんなことではないのか。それは、渦はもとより求心性のものだが……きっとそれにつれ、うえの空気のうごきは遠心性を帯びるだろう。つまり、くるくる中心に巻きこむ渦の方向とは反対に、うえの湿熱空気は外側へと巻いてゆく。だから、多分この湿熱帯は輪のような形でぐるりに近いところだけを巻いているのではないか。きっと、そこを突きぬけて中心に近づけば、案外この船は緩和圏へ出るのではないか。そうだ、この『
と、ここでキューネが狂ったのではなかろうか。いきなり帆綱をもってナエーアに躍りかかった。そして、ナエーアとハチロウを胴の間に縛りつけると、二人の鼻へ粉末のようなものを詰めてゆく。それから、自分を今度は帆柱に縛りつけ、やはりさっきの粉を鼻へ詰めこむのである。やがて、死の瀬を流れてゆく渦中の
水面下の島
それでは、キューネは熱気のため気狂いになったのか

「渦が、逆廻りし出しましたわ。ああ、私たちはここを出られるんですのね」
とナエーアの声にハチロウが続き、
「オジチャン、涼しくなってきたよ。もう、じきに日本へいけるね」
しかし、渦は依然としておなじ方向へ巻いている。空気は、湿潤高熱、湯気のようである。けれど二人は、この熱気のために気が
キューネが、この湿熱環に堪えるため、窮通の策をほどこした。それが、もしも成功すれば起死回生を得る。
「うまく往ってくれ。ただハチロウのため、俺はそう祈る」
キューネが、しだいに朦朧となる頭のなかで叫んでいた。
「おれは、この湿熱環をいかに凌ぐか、考えたのだ。しかしそれには、毒をもって毒を制すよりほかにない。この摂氏四十五度もある大高温のなかにいれば、まずなにより先に気が可怪しくなってくる。
しかしその前に、こっちから進んで人工の狂気をつくったら、どうだ。一時、この高温を感じないように気を可怪しくさせ……そのまま湿熱環を過ぎて緩和圏に出たとき……ハッと眼醒めるようにしたら……」
それが、いま三人が嗅いでいる“
それから、渦中をゆくことなん時間後のことだろう。ふと、外界が朦朧と見えてきたと思うと、頬にあたる熱気の感じがちがう。オヤッ、と、キューネがふと横をむくと、舟は、大岩礁に桁先をはさんで停っている。
島だ――と彼は歓喜の声をあげた。
*
折竹は、そこまで話してふと口を休めた。そして、隣室から手紙のようなものを持ってきて、
「これからは、キューネの手紙を見たほうがいいだろう。簡単だが、僕の話よりも切々と胸をうつよ」
という。
*
その島は、周囲八マイルもあるだろうか。ながらく外海と絶縁していたため、ひじょうに珍らしい生物がいる。その一つが、“
ほかには
だが
まさに、これこそ死の海の景である。そこへ、赤子の手のような前世界の羊歯や、まるでサボテンみたいに見える蘇鉄の類が群生し、そのあいだを、血のような蝙蝠が飛び、鳴き亀が這うといったら、まず地球前史の風物というよりも化物の世界だろう。
こうして、地上に数百万年もとり残された島のなかへ、私たちはポツリと置かれたのだ。今では、ここを出たいとか人里が恋しいとか、そんな事はなにも思わなくなっている。
温度は、ここでもやはり高い。外辺のいわゆる湿熱環ほどではないが、多分摂氏四十度ぐらいはあろう。そのため、私たちはだんだん
実際、今のところは死なないと云うだけだ。脳力、が暑さのため減退してゆくと云うことは、なにより、お利口さんのハチロウをみれば分る。今では、日本のことも何もいわなくなったし、第一、こう云っている私がそうではないか。あれほど、自己批判の眼をむけて触れようともしなかったナエーアと、いまは動物の雌雄のようになっている。
一切が、もう忘却の彼方にあるのだ。
ところで、此処へ来て私は不思議な人間になった。おそらく私は、この地上における新生物かもしれない。というのは、いつも身体を倒して斜めに歩いているからだ。ちょうど、水平とは四十五度の角度で、私は斜めにかたむきながら歩いている。またそれが、この「太平洋漏水孔」の島での普通の歩きかたなのだ。では、一体なぜだろうか。
それは、この「太平洋漏水孔」では水平というものが、大漏斗の斜面しかないからだ。それに、いつもおなじ方向からひじょうな強風が吹いている。そのため、全島の樹木がなかば傾いて……その薙がれた角度が大漏斗の斜面と、ちょうど直角をなしているのだ。だから、そのあいだへ直立している私は、てっきり、なかば傾きながら歩いているとしか思えない。まったく、錯覚とはいえ自然天地の法則が、ここではものの見事に覆えされている。
これも、私がまったく
海面は、黒くたかく頭上にそびえ、風と飛沫と囂音で一分の休息もない。そのなかで、私たちはだんだんに退化して、いまに鳴き亀とおなじようになるだろう。
ところが、きょう夜にかけて大颶風がやってきた。そのあと、朦気が吹き払われ清涼の気をおぼえると、今まで忘れていたこと、感じなかったこと、また、私が是非しなければならぬことが、まるで堰切った激流のように迸しってくる。私は寸時でも、脳力を恢復したことを悦ばねばならない。
それは、私が
私は、今夜ハチロウを外海へ出そうというのだ。それには、渡り鳥である鰹鳥を利用する。さらに“
愛は、ハチロウをきっと守るにちがいない。そして神も、私の天使ハチロウに倖いするだろう。
水面下の島にて
キューネ
*
私は、読みおわってからも亢奮がさめず、なんだか此処も、斜めに倒れながら歩いている感じがするという、「
「オイ、しっかりしろ」
と怒鳴った。私は、頭の靄がようやく霽れたように、
「そのハチロウという子は助かったわけだね。で、今は?」
「あいつかね。あいつは、時々いま重慶へ飛んでゆくよ。そして、爆薬のはいったおそろしいウンコを置いてゆく。まったく、ニューギニアといい『