さようなら

田中英光




「グッドバイ」「オォルボァル」「アヂュウ」「アウフビタゼエヘン」「ツァイチェン」「アロハ」等々――。
 右はすべて外国語の「さようなら」だが、その何れにも(また逢う日まで)とか(神が汝の為にあれ)との祈りや願いを同時に意味し、日本の「さようなら」のもつ諦観的な語感とは比較にならぬほど人間臭いし明るくもある。「さようなら」とは、さようならなくてはならぬ故、お別れしますというだけの、敗北的な無常観に貫ぬかれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、いままでの日本人らしい袂別べいべつな言葉だ。
「人生足別離」とは唐詩選の一句。それを井伏さんが、「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し、太宰さんが絶筆、「グッドバイ」の解題に、この原句と訳を引用し、(誠に人間、相見る束の間の喜びは短かく、薄く、別離の傷心のみ長く深い、人間は常に惜別の情にのみ生きているといっても過言ではあるまい)といった意味を述べていたと思うが、「さようなら」の空しく白々しい語感には、惜別の二字が意味するだけのヒュウマニテも感じられぬ。
(武士道とは死ぬことと見つけたり)生死、何れかを選ぶ境に立ったら死ぬのが正しいと教えられてきた日本人。都の衛生課の腕章をつけたひとの手からは、毒薬でも安心して呑み十数人が一瞬にして殺される日本人。(御跡したいて我はゆくなり)南方の蛮人でさえいまは軽蔑している殉死の悪習を、つい最近、明治の末期まで、否、太平洋戦争中にも美徳と信じていた日本人。赤穂浪士。乃木大将。軍国の処女妻。瓦砕を玉砕と錯覚した今度の戦いの無数の犠牲者。或いは桜田烈士、中岡艮一こんいち、甘粕大尉、五・一五や二・二六事件の所謂いわゆる、志士たち。えて彼らに有島武郎、芥川、太宰さん等をつけ加えても好い。即わち自殺者と暗殺者が神の如く敬愛される、愚かな日本民族の持つ唯一の別離の言葉として、「さようなら」の浅薄なニヒリズムはいかにもふさわしい。
(死をみること帰するが如し)ヨセヤイ。暗殺は勿論もちろん、自殺でさえも人間に対する罪悪なんだ。人間は自分の愛する周囲の人たちや、未来の人類に信頼と責任感を持ち、生命を大切にしなければならぬ。現在、第三次大戦の幻影に脅やかされ、敗戦国との劣等感からヤケ糞になっているとしても、未だに自分たちを信頼してくれる同胞の女子供の無垢な笑顔をみるがいい。人間はどこから来て、どこに行ってしまうのか、現在の知識ではまるで分らないが、しかし子供たちが更に新しい生命を生んでゆく、人間の生活力の逞しい流れだけは掌で触れ、肉眼で眺め得る確かさで信じられる筈だ。その未知な人類の未来を信じ、彼らの築く黄金境の礎石を作るべく、どんなに辛く恥かしく厭らしくても、生きて努力するのがぼくたちの義務と責任である。或いは無償の行為に似た美徳でもある。決してあっさり、この世に、「さようなら」を告げてはいけない。
 僅かに残っている僕の理性は、メチャクチャなぼくの生活感情に、こうした忠告をしてくれるのだが、現在、ぼくは自分とその周囲を見渡してウンザリし、正直な話、「皆さん、それでは左様なら」と例の春婦とルンペンを愛し、しかも革命に協力したといわれるソ聯初期の詩人マヤコフスキイみたいに遺書を残し、冷たい拳銃の口を自分のこめかみに押しつけたい欲望にもかられる。
 いまの日本では未だに、軍国時代の無意味な死に方が憧憬されている。三千の将兵が蠅捕紙上の蠅みたいに、戦艦大和にへばりついたまま水底に沈んで死んだ愚かしい悲劇が、偉大な叙事詩の如く感動的に無批判に書かれたものが、数十万の人たちに愛読されている。文明と人道に対する悪辣な犯罪者として処刑された、東条以下の戦犯の愛読作家であり、いわば彼らの基礎哲学の代弁者の作家、吉川英治が依然として百万の愛読者をもっている。一本の剣で数十人のライバルを倒す為、一生、惨憺たる修行をした宮本武蔵という前近代人が、原子力時代といわれる今日でもなお、ぼくたち同胞の英雄として読まれ慕われているという事実は、日本人の近代文明に対する劣等感、嫉妬、軽蔑、敵愾心てきがいしん等々から生れた遣切れぬ奇蹟であろうか。そうした同胞のムチモウマイに乗じ更にそれを煽りたて、同胞をある一国の奴隷に売ろうとしている売弁政治家たちにジャアナリスト。
(日本敗れたり)このニュウス映画で未だ特攻機の出現に拍手を送るほど、自分たちの戦争で受けた傷に無意識な日本人は、それだけに第三次大戦で一儲けの悪逆な妄想を抱いたり、政府の一長官の神経衰弱による自殺から、国鉄の線路上に悪童が石を置くイタズラまで、全て共産党の暴力と宣伝されると、それを鵜のみにするほど理性がなかったり、踊る宗教、ヒロポン、アドルム、肉体文学、パンパン、男娼エトセトラに、目かくしされた蠅が本能的触覚で一直線にウンコにとびつくみたいな必然さで熱中する。而しそうした遣切れぬほどの無知で不潔で図々しいぼくたちの間にも、未来のある子供たちや真面目な勤労者、誠実な民主政治家が同時に沢山、生きている事実も無視することはできぬ。
 処で、ぼくは自分が、時代に傷つけられ、遣切れぬほど無知で不潔で図々しい日本人たちのひとりになってしまったと実感する故、生理的厭悪感えんおかんでそうした事実に目をふさぎ、生命の尊厳さや愛する人たちへの責任感をしきりに忠告する自分の理性も無視し、一刻も早く、この人生に「さようなら」を告げたい。
「さようなら」神よ常に別れる汝の傍にあれでもなければ、また逢う日までなぞという甘美な願いも含まれていない虚無的な別離を意味する日本語。ぼくはそんな空しく白々しい別れの言葉だけが生れ残ってきた処に、この上なく日本の歴史と社会の貧しい哀しさを思うのである。
 ぼくは自分から、「さようなら」をいう前に、この三十七歳迄に向うから先に、「さようなら」された多くの肉親や友人のことを想いだしてみよう。ぼくは大正二年、東京赤坂で生れたが、爾来じらい、既に胸の悪かった亡父が渋谷、三浦三崎、鎌倉材木座、姥ヶ谷と転々、居を移したのに従い、十歳頃まで一個所に安住した思い出はない。それに現在では六尺二十貫の大男、アドルム中毒と種々の妄想症の他、別に病気はないが、幼年時は百日咳、ジフテリヤ、チフス、赤痢、おまけに狂犬にさえ噛まれた経験さえあるほど多災多病で、時々めまいがして卒倒したり、二六時中、生命の危険に直面させられていた。
 だから死に対し普通の幼児はただ無関心のように感じられるが、ぼくの場合は白昼にでも死を想えばうなされるほどの興味や憎悪があった。そんなぼくに、最初に、「さようなら」した肉親は同居していた母方の祖母で、六十そこそこの病死だったと思うが、恐ろしく厭な記憶は自然に忘却できる人間心理の本能から、ぼくは祖母の死因も死顔もなに一つ覚えていない。祖母は享楽好きの土佐女として、五十過ぎても薄化粧したり三味線をひいたり、友人を集め、謡いにこったり花札を戦かわせたりするのを好み、孫のぼくたちを煩さがるような女だったので、彼女の死は少しもぼくを淋しがらせなかった。ぼくは丁度、十歳だった。厳粛な顔の大人たちと共に、祖母の死床の枕頭に坐らせられ、見違えるほど小さく萎びた彼女の顔の上の白布が除かれ、父から始め、彼女の動かない紫色の唇に、ひとりひとりが水に濡らした新しい筆の穂先をおしつけるのを眺めていて、嘔気がするほど気持が悪く、急いでその場から逃げだすと奥の子供部屋で、愛読していた講談本にとりついたのを覚えている。
 続いて翌年、ぼくは例の大正十二年の震災に逢った。ぼくの家は半潰で済んだが、近所には全潰、赤ちゃんを抱いたまま、ぼくの友人の母親が圧死するなぞ、おびただしい死者が出て、大揺れの済んだ後、長兄は近くの男たちとその死体発掘作業に従い、ぼくより健康で利発な三ツ上の姉なぞ、その模様を見物にでかけたりしていたが、ぼくは裏の広場に敷かれた戸板に腹這い、未だに現実の世界の鳴動するのを感じながらも、ひとりでまた博文館の長篇講談に読み耽っていた。弱虫のぼくは醜く、恐ろしい死者に対決する勇気がなく、講談本の英雄豪傑の世界に逃げこむことで、震災という現実の恐怖を忘れたかったのだ。それは現在「宮本武蔵」を愛読し、敗戦の苦痛やインフレの恐怖なぞ忘れようとしているある種の日本民衆の心理に共通したものがあるのかも知れぬ。
 だが未だに大地の揺れる最中に、「岩見重太郎」の千人斬りなぞ読んでいた少年のぼくは、その時、現実とロマンスの世界のあまりの開きに、というより生理的に一大ショックを受けた直後だったからだろうか、眩暈めまいをおこし、続いて酸っぱい胃液を口や鼻から一杯に嘔いた。二、三日して、父が故郷の土佐から孝行する積りで連れてきたばかりの、中風の老祖父が、震災の衝撃の為か自然に死んだし、彼の看護人として、故郷の村から連れてこられた十五歳のお栄ちゃんという娘まで、震災後流行したチフスに感染し、苦しみもがいて死んでいった。ぼくは一度、震災の前に、この垂死の老祖父を笑わせる積りで、手捕りにしたヤンマ蜻蛉とんぼを、彼のいかつい土色の鼻の頭にとまらせた処、全身不随の老農夫は冷たい瞳に怒りだけを示し、縺れる舌で「ほたえな」(ふざけるなとの方言)とぼくを叱りつけ、蜻蛉は彼の鼻先にしたたか噛みついて逃げ去るし、少年のぼくは恐れと狂的に笑いたい欲望に引き裂かれる苦痛を感じた思い出があったので、その老祖父が、「さようなら」してくれたのに、むしろホッとした。無論、その死顔も忘れている。お栄ちゃんは長兄が付添い、避病院の一室で死に、その葬式は祖父と一緒に盛大に営なまれたが、ぼくは自分と同年輩のこの少女の死に、触れたくもない恐怖があり、彼女の記憶もきれいに抹殺されている。
 二年経ち、中学一年の春、五十三歳の父が結核性腹膜炎で、アッという間に死んだ。癇癪持で酒乱の父に兄や姉は叱られた怖い思い出ばかり残っているようだが、末ッ子のぼくは父からめられるみたいに愛された記憶が強い。まだぼくが小学校に上ったばかりの頃、母が同郷の作家崩れの青年に脅迫され、一週間ほど家出した厭らしい出来事があった。この間の父の、ぼくへの愛情はいま思い出しても狂的爆発的だった。毎日、役所の帰りには実物大の子馬の玩具とか電気機関車のような高価な土産をぼくの望むまま買ってきてくれる、一度は、一生にたった一遍の出来事だったが、父はぼくを連れ、日本橋の三越にいったものだ。普通でさえ腸が弱く、それだけ食いしん坊のぼくが、甘え放題に暴飲暴食させて貰ったから堪らない。ぼくは漱石みたいに髭を生した怖い顔の父に肩車で乗っていて、したたか父に黄金の臭い雨を浴せかけた。父は怒らず、そんなぼくを便所に連れてゆき、お尻をきれいにしてくれたが、ぼくはその時、父の瞳が潤んでいたのを見逃がさず、流石さすがになんとも遣切れぬ気持だった。
 その他にも生々しい動物的な愛情を浴せられた思い出のある父だったが、そんな父だけに彼の死、父のぼくに対する「さようなら」にぼくは背中を向け、つとめて答えまいとしたものだ。父が病院で死に、翌日、霊柩車で遺骸が帰ってきた時、ぼくは父の死顔をみるのが恐ろしく、兄や姉の制止もきかず、ひとりで父の建てた茶室や東家の処々にある裏山に逃げ上っていた。山の頂きに父の回向院から貰ってきた、安政元年歿、釈清妙童女とされた七歳の幼女の無縁仏の石地蔵があり、毎夜かすかに泣き声が聞えるとのわが家の伝説の纒わっている風雨にさらされた割に眼鼻立ちのハッキリした地蔵が立っていたが、ぼくはその頭を撫で、泣こうと努力し少しも泣けなかった。悲哀よりも恐怖が強かったのだ。
 中学の卒業直前、ぼくは井上という友人に突然「さようなら」された。井上は、後家になった母が、藤沢の町に小さい雑貨屋を営んでいたひとり息子で、内気な平凡な性質。五年になる迄は学業もスポオツもこれといって頭角をぬくものがなく、すべて中等の出来だったのが、五年に進級して間もなく、数学に抜群の成績を示し、先生やぼくたちを驚嘆させた。ぼくの中学はスパルタ教育で天下に名高く、毎週土曜の午後、全校をあげ数マイルのマラソン競走をさせられる行事があり、そうした多人数との競走や、息の苦しい数マイルのマラソンは思っただけでも先に参ってしまうぼくは、大抵、落伍者や見学者の常連のひとりで、その時も、校内に立ち、ぼんやりみんなの走り帰るのを待っていると、いつもの優勝者、剣道二段で陸上競技部の主将をしている伊沢の代りに、小身痩躯の井上が、予想を裏切り、学校の記録を破るスピィディな余裕綽々しゃくしゃくの走り方で先頭に立ち、帰ってきた。白いランニングの胸を張り、軽快に白足袋しろたびを走らせ、熱いものでも吹くような工夫された規則的な息使い。
 ぼくは奇蹟でも眺めたように苦しいほど驚いたが、それから一カ月しない中に、二、三日、休んでいた井上が死んだと先生から聞かされ、一層、苦しい驚愕を感じた。井上が死の直前、そのように学業スポオツに頭角を現わしたのが、彼から突然、「さようなら」されてみるとひどく空しい詰らぬことのように思われたのである。
 続いて大学時代。ぼくは川合という文学の友達から肺病で、「さようなら」され、池田という同じ非合法運動の友人には、ぼくたちの恥かしい転向の際、剃刀で彼自ら右手首の動脈を切り温湯につけるという、暴力的方法で、「さようなら」された。順序からいえば池田のほうが先で、学部一年の時だった。池田は良心的なコミニストだったが、ぼくのように大男で、同じように臆病な欠点があった。大男の為ひと一倍、他人の視線を感じキョトキョトするのが、ぼくたちの非合法運動――といっても週に一度、読書会をやり、その席上アカハタを配り金を集め、出席している党のひとにその金を渡す程度――を大袈裟に自覚していたので、余計ひどくなっていたのだ。彼はただ新宿に映画を見た時、眼つきが怪しいとの理由で、駅頭に張っていた特高に掴まった。ポケットに築地の切符の切端しが残っていたので、豚箱に入れられ、ワセダの下宿先を捜査されると、始末してなかったアカハタが一部出てきた。
 その為、彼は淀橋、戸塚と二つの警察を二十九日間宛のタライ廻しを食い、毎日のように拷問されたが、自分のルウズさから友人に迷惑をかけまいと、歯を食いしばり、知らぬ存ぜぬで頑張り続け、義兄の弁護士の奔走で、約二カ月目に釈放されたが、その日すぐ学校に出てきて、ぼくたち仲間と、微笑と涙の握手、談笑を交していながら、その夜、下宿の一室で前述のようにして自殺したのだ。ぼくは相不変、死体をみるのが厭で苦しかったが、この時は他の友人たちの手前、わざと嫌いな蛇を掴んでみせるような気持で、彼の死体の置かれた部屋に駆けつけていった。池田は一番苦痛のない死に方を選び、大量の睡眠剤を飲んだ上、金盥かなだらいに温湯を入れ、そこに動脈を切った手首を入れたものらしい。全身の血がしぼり出されたように、血は金盥を越え畳一面に染みていた。その代り白蝋のように血の気のない彼の死顔は放心した如くのどかにみえた。だがぼくは彼の死魚のような瞳の奥に、死への焦燥と恐怖を認め、やはり死体へのどうにもならぬ嫌悪があった。その遺書には睡眠剤が利いてきてからのものらしく、シドロモドロに乱れていてこんな意味のことが書いてあった。
(科学を信ずれば世界が平和な共産主義聯邦になる必然性があるのと同じ確かさで、いつか太陽も冷却し地球も亡び、人類も死に絶えると信ぜられる。結局、滅亡する運命の人類の為、ユウトピアを作ろうと犠牲になることは無意味である。即ち生きること自体が無意味と思われるから自分は死ぬ)
 ぼくは女のひとの愛情の楽しさ苦しさも知らずに、二十二歳の若さで死んだ池田をバカ野郎とも可哀想とも思ったが、彼のつきつめた誠実さに、自分の放恣ほうしな生き方が邪魔されるのが厭で、彼の自殺もできるだけ忘れるよう努力した。ぼくは池田や自分の政治的な理想にあっさり、「さようなら」を告げ、自分の生きる目的を文学の世界に見出そうとしたのだ。例えば夕方、子供たちが、「さようなら」と叫びあい、後をもみずに自分たちの家庭に帰り、そこで今迄の遊び仲間のことなど、夢にも思わず、晩御飯や兄弟喧嘩や漫画の本に熱中できる単純さで、ぼくはその時、政治や昔の同志に向い簡単に自我的な「さようなら」をいえたのである。
 処で川合という胸を病んでいた新しい文学の友人は、はじめから近く自分の死ぬのを予感していた。彼はルパイヤットの詩人が、(ぼくたちは人形で、人形使いは自然。それは比喩でない現実だよ。この席で一くさり演技がすめば、ひとりずつ無の手箱に入れられるだけさ)と歌ったような無常観に安住しながら、自然を少女を文学を、彼岸のものとして美しく眺めていた。川合は既に自分を亡霊扱いにしていたので、ぼくたちも彼を別の世界のひとのように遠くからいたわって、つきあう他はなかった。川合はぼくたちに黙って、何度となく血を吐き、死期が迫るとこっそり田舎に帰って死んでしまった。ぼくはそんな彼に最後まで、「さようなら」を云えず、彼もぼくたちに、「さようなら」をいわず、永遠に別れることとなった。それ故、ぼくは十五年後の今でも、ふッと川合が生きていて、そのスラリとした長身に青白い童顔を微笑させ、ぼくの前に出てきて、「死んでしまった癖に、生きている世界を散歩してみるのも愉しいもんだよ。空の蒼さ。木の葉の青さ。花の紅さ。ピチピチした少女。ただ急がしそうな中年の勤め人。みんな生きているのには意味があるんだ。生きているというだけで死者の眼からは全て美しく見えるんだよ」と卒直な感想を語りそうな錯覚がする。
 大学を出てやっと就職したかと思えば、昭和十二年、日本軍閥の中国に仕向ける侵略戦争はとめどがなくなり、ぼくも補充兵として召集を受け、半年足らず原隊で人殺しの教育を受けてから北支の前線に引張りだされた。その頃から日本人は肉親、友人、愛人とやたらに「さようなら」を云い合うようになったのだ。日本人の戦争道徳は(生きて帰ると思うなよ)である。出征の際、(また逢う日まで)を祈る別離の言葉なぞとんでもない。どうしても、(左様なる運命だからお別れします)の「さようなら」がいちばんふさわしい。その上、女のひとだと、「さようなら」に「御免下さい」をつけ加える。(そうした運命になったのをお許し下さい)と強権に対し更に卑屈に詫びているのである。まるで奴隷の言葉と呆れるより他はない。
 ぼくたちはそうした奴隷の言葉に送られた、奴隷の軍隊としての惨虐性を中国において遺憾なく発揮した。「グッドバイ」の意味する如く、神を傍らに持たず、中国語の、さよなら「再見ツァイチェン」の意味する、愛する人たちとの再会の希望もない軍隊は、相手の人間をいたずらに傷つけ殺し軽蔑し憎悪することで、自分たちの高貴な人間性も不知不識に失なっていた。ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。
 ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名あだなの大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした、中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)
 ぼくは共産八路軍と交戦し、勇敢な十四、五の少年の中国兵を捕えたことがある。精悍せいかんな風貌をした紅顔の美少年。交戦中の捕虜は荷厄介として全て殺してしまうぼくたちも、彼の若い美しさを惜しみ、荷物を持たせる雑役に使うことにした。しかし彼は飽迄も日本軍への敵意を棄てず、ぼくたちが黄河河畔の絶壁の上を喘ぐように行軍していた際、突然、荷物を棄てると、その絶壁から投身自殺した。数千年の風雨に刻まれた高さ三千丈もある大地壁。顔を覗かせただけでも、下から吹きあげる冷たい烈風、底に無表情に横たわる水のない沼土までの遠さなぞに竦み上がる崖上から、十四、五の少年中国兵が鳥のような叫声をあげ、鳥のように舞い降りたのだ。幅僅か二間あまりの癖に眼くらむほど深い地隙には、絶えず底から烈風の湧く強い空気の抵抗があったから、少年の肉体は風に吹かれる落葉のように揺れながら落ち黒い点となり、眼下の褐色の沼土に吸いこまれていった。ぼくは彼のそうした死に方に、人間に飼われるのを拒否して自殺する若鷹に似た壮烈さを感じ、その黒い一点となった少年の後姿に心の中で、ただ「さようなら」を叫んだ。(そうなる運命なのだ。少年よ、仕方がない。では左様なら、御免なさい)
 その前後、ぼくはこうした許しを含んだ、「さようなら」との別離の言葉を多くの中国人や自分の戦友たちにさえ告げた。ぼくは幾度か一線で対峙たいじした中国兵に、上官の気を損ねまいと、正確な射撃を送り、四人まで殺し、十人ばかりの人々を傷つけたが、その戦闘後、自分の殺した生温かい中国の青年の死体の顔を、自分の軍靴で不思議そうに蹴起しながら、いつも、「さようなら」とだけは心中に呟くことができた。(ぼくの手がその青年を殺したのではなく、戦争という運命が、その青年を打ち倒した)との諦感からである。例えば惜別の言葉として、「オォルボァル」とか、「ボンボワィァジュ」といえるフランス人たちは、戦争を天災に似た不可避の運命と信ぜず、ナチ占領下も不屈の抵抗運動を続けられたのだが、愛する人々との別れにも、「さようなら」としかいえぬ哀れな日本民族は、軍閥の独裁革命に対し、なんの抵抗もなし得なかった。
 本来ならそうした抗戦運動の指導者になる筈の知識人たちが、日本の場合は隠遁的ポオズだったり反って軍閥の走狗そうくとなった例が圧倒的に多い。その為、ぼくたち日本の知識階級の未成年はお先真暗な虚無と絶望と諦めにおとし入れられていた。彼らの中にも狂信的な愛国主義者になり切ったものがいたが、そんな青年たちでさえ、助かる程度の戦傷を受けた際は勇ましく、「天皇陛下万歳」を叫び、瀕死の重傷の場合は弱々しく、「お母さん。さようなら」とだけ呟くのを眺め、ぼくには奇妙な笑いと怒りを同時に感ずる苦しさがあった。
 前述の岡田という初年兵。彼の父は京都の美術商で、ニュウヨウクにも支店があり、彼は独りだけの男の子として愛せられ、父に連れられアメリカに遊びにいった思い出もあり、京大のラグビイ選手として抜群の体力や明晢めいせきな頭脳にも恵まれていたのが、前線の惨忍な厳しい雰囲気になじめず、見ている間に痩せおとろえ精神まで異常に衰弱していった。ぼくは終始、自分の後輩のような親愛感で行軍の時も岡田と並んで歩き、学生時代の楽しい追憶を、ヤキモチ焼きの髭ッ面の分隊長から、「煩さいぞッ」と呶鳴どなられるほど声高に語り止めなかったのが、段々、人を殺したり殺されたりの血腥ちなまぐさい禁欲耐忍の日々が続く中、岡田がぼくに返事さえ云い渋るほど無口になってゆくのに気づいた。
 そんな岡田はある朝、前の野営地に自分の飯盒はんごうをおき忘れ、分隊長に両ビンタを食い、その昼、みんなの食事をぼんやり眺めさせられるような刑罰を受けた。翌朝、岡田はまた防毒面に雑嚢ざつのうをなくしているのを分隊長に発見され、銃床で思いっきり尻ぺたをこづかれ、六尺豊かの大男が鼠のようにキュウキュウ泣いていた。二十貫近くの肉体が見る間に骨と皮だけになり、張切っていた特号の軍服もダブダブボロボロ、紅顔豊頬ほうきょう、みずみずしかった切長の黒瞳も、毛をむしられたシャモみたいな肌になり顴骨かんこつがとびだし、乾いた瞳に絶えず脅えた表情がよみとられた。ぼくは自分自身さえ昼夜を分たぬ戦闘行軍に、食欲と睡眠の快楽だけに支えられ、やっと生きている時だったから、そのような岡田の急激な衰弱振りに同情するよりも、動物的な優越感や軽蔑、憎悪の本能感情が強かった。次の朝、更に岡田は故意でもあるかのように鉄兜と巻脚絆をどこかに棄てていた。
 髭ッ面の分隊長は、「気合いを入れてやる」とそんな瞳の吊上った岡田を素裸にし、古参上等兵とふたりで、掌や足の甲、両肩、下ッ腹を紫色に腫れ上るほど革バンドで叩き撲ってから、近くの冷たい泥沼に追いこんだ。今は歯だけが馬みたいに大きく白い岡田が、紫色の歯茎をむきだし、全身を震わせ、それでも金玉だけ大切そうに両手で押え「御免なさい。許して下さい」と喚きながら厭々、水に両肩を沈めるのを、ぼくたち兵隊は弱者への憎悪から反って面白がって見物していたのだ。岡田はその日の行軍の途中、いつの間にか帯革ごと剣や弾盒も棄て、兵隊の魂、陛下の銃と事毎に強調される小銃さえなくしていた。そんな岡田が分隊の最後尾をよろめき、辛うじて歩いている様子は、兵隊というより完全な乞食みたいにみえ、更に狐憑きつねつきじみたその顔の表情は誰がみても狂人、被害妄想的抑鬱症患者としか思えなかった。岡田は片端から兵器を棄てることで全身で戦争を拒絶したのであろう。理由なく放火殺人傷害強盗強姦を行なう戦争こそ、常人の神経に堪えられぬ狂的行動であり、それを拒否して気の狂った岡田とそれに堪え或いはそれを喜び、それを拒絶した岡田に惨忍なリンチを加える分隊長たち、更にそれを面白がって眺めていくぼくたちの中、誰が真の狂気であろうか。ぼくは戦争という狂気に堪えられなかった岡田の神経に、今ではむしろ健康なものを感じるのだ。
 処で自分の功績だけを気にする分隊長は、岡田が剣も銃も棄て、乞食みたいな格好でヒョロヒョロと歩いているのをみると、そんな兵隊を上官にみられたら、叱りつけられた上、点数も薄くなると、カッと上気した様子で、忽まち走り戻り、銃を逆手に持ち直し、「このド阿呆が。くたばれッ」と岡田の左耳から頬にかけ、力一杯、横なぐりした。岡田は口と鼻を血だらけにし、キリキリ舞いで、道路の真中の泥濘ぬかるみに大の字に倒れた。「お母さん、さようなら」岡田は虫の鳴くようにそう呟き、そのままピクリとも動かなくなる。赤紫に膨脹した左耳に毒々しい銀蠅が群がってたかりだした。ぼくたちはそのまま岡田の死体を見棄て、行軍を続ける。その時、ぼくたちは後衛中隊の最後尾の分隊だったから、岡田の死体は中国人たちが埋めてくれぬ限り、道端で腐り、野良犬やからすうじなどに食われていったことであろう。ぼくは暫く行ってから振返り、岡田の死体が仰向けに倒れているのを確かめ、心の中で岡田の霊にあっさり、「さようなら」をいった。
 約二カ月の野戦生活の間に、ぼくはこのように非情な「さようなら」を幾多の戦友たちに告げてきたものだが、帰還して、軍需工場に勤め太平洋戦争となり、それが日本の敗色濃く、しきりに東京空襲が行なわれるようになると、ぼくは銃後にいても多くの周囲の同胞に、このように非情な、「さようなら」を告げる機会が多くなった。その人たちの中には例えば、自分の工場の女子寮が爆弾の直撃を受け、三浦三崎から勤労動員で来たばかりの、三十人もの無垢な娘たちが、同期に入社したぼくの友人の童貞の舎監と共に即死したようなむごたらしい思い出もある。而しこうした際にも、止むを得ぬ運命主義者になっていたぼくは、(それを彼らの宿命とのみ感じ)、極めてあっさり、「さようなら」とだけ云ってきたものだ。当時ぼくたちは、毎日のように死者を眺め、更に前線の友人たちの玉砕をきかされていたので、自分たちにも明日知れぬ命との実感があり、その場合、ぼくは所有した時から既にその存在を重荷とし、いたずらに苦労ばかりさせてきた自分の妻子の、ぼくを失った後の運命を思うのがいちばんの苦痛だった。だがぼくは、(妻子には彼ら夫々の、自分と違った運命がある。その運命に任せておこう)と単純に信じ、自分は工場の一社員寮の舎監となり、妻子を伊豆の田舎に疎開させた際、やはり彼らにも心中であっさり、「さようなら」を告げておいたのである。
 その時のぼくの運命主義、一度、妻子に告げた、「さようなら」の別離感が、敗戦後すでに四年経った現在のぼくの心中に未だ尾を曳いていて、最近、ぼくは自分の家庭を解体させるような愚行を演じた際にも、それがある程度、ぼくの心理を左右したものである。誇張していえば、あの戦争でぼくは余りにも度々、親しい人たちに冷たい「さようなら」をしてしまったので、別離の悲哀に無感覚になったばかりか、緊張病の狂人が自分の糞尿を愛惜するような倒錯心理に似て、自分にいちばん苦痛を与える別離の悲しさを、苦しい故に反って愛するようになったともいえるのだ。
 これ迄、ぼくは肉親や男の友人たちとの、「さようなら」ばかり述べてきたが、ここで最も遣切れぬ異性たちと、「さようなら」を告げてきた苦しい思い出を語ることにしよう。小説の本質が恋愛の叙事詩にあるとの定説をぼくは疑えない。幼児から多病で現実の世界に臆病だったぼくは、生きる楽しさを読書とその空想によってのみ知り、英雄豪傑忍術使の講談本に倦きた頃、所謂円本流行時代が始まったので、明治以降の日本近代小説や世界の古典名作とされるものにも親しみ、いつの間にか、生きることは恋すること。男は永遠の女性によってのみ救われる。一生に一度、真剣に愛し愛される恋人を得たいと秘かな烈しい望みを抱くようになった。
 けれども敗戦前まで、ぼくは始めには政治意識が強すぎ、政治から脱落後は自意識が烈しすぎて、本当に心と肉体の一致するような恋の経験を持てなかった。ぼくは昭和十一年、二十四歳で早まった結婚をする前後、恋人とも呼べる三人の女性を友達に持っていた。ひとりは会社のタイピストだったが、彼女は誇りの高い有閑令嬢で、専門学校を出ている自分の学識をひけらかし、背の高い文学青年のぼくが好きで堪らぬ癖に、なんとかぼくのほうから求愛させようと、小鼻をヒリヒリさせ、種々そうした機会を作るのが、ぼくには小癪に障ってならず、彼女の誇りを傷つける快感の為にも、彼女を棄て、小学出の無知な下宿屋の娘だった平凡な女を妻に選んでしまった。ぼくの結婚後、この小柄なタイピストは自棄になったようで、二、三の大学生に肉体を許したのち、ふいと満州国の騎兵大尉とかに嫁ぐ為、会社を止め大陸に渡っていったが、ぼくは彼女のエゴチズムに満ちた小鼻を張り、眼を光らせた表情に男性本能としての嫌悪まで感じていたので、(男友達の場合はお互いの自我を意識してぶつけまいとするのでそんな嫌悪はないが)そうした彼女との「さようなら」には反って開放感が伴っていた。
 もうひとりの女友達は酒場の女給で、今でも高名な画家の夫が同じく高名な女流画家と恋し合った為、棄てられた妻であり、脊椎カリエスの七つの弱い男の子を抱え、その酒場の二階に寝泊まりしている惨めさだったが、ぼくはそのひとを妻にした娘より遙かに好きだった。子猫みたいにイタズラっぽく精力的なその顔は一面の雀斑そばかすで、化粧も棒紅が唇の外にはみだすほどグイとひく乱暴さだったが、外見ひ弱そうな肉体が裸になると撓やかで逞ましいのも好きだったし、常に濡れているようなまつげの長い黒瞳に情熱が溢れているのにも惹かれていた。それに一度、共産主義を棄てた自分を罪人のように恥かしがっていたぼくは、そのひとが棄てられた妻という傷を持っていて、その傷を正直に痛そうに見せ、ぼくに撫ぜて貰いたがっている風情にも、哀しく懐かしい共感が持てた。そのひとは娼婦と母性の本能を合せて持っているという点で、ぼくには憧がれの女性のように思われたのだ。ぼくはそのひととピクニックに出かける電車の席で無造作に足を組んだら、靴下を穿いていないのがバレ、前のタイピストならそれに顔をしかめ、妻にした娘なら見て見ないふりをするのに決まっているのが、そのひとは忽まち無邪気に大笑いし、次の停車場でぼくの手を引張るようにして降り、近くの洋品店で、濃紺のソックスを買い、その場で子供にするように穿かせてくれた思い出も、イヤになるほど懐かしい。
 ぼくはそのひとが娼婦じみた悪趣味の厚化粧をして、大きな花束を買い、バスの衆人環視の中で、その花束に顔をつっこみ、「まあ好い匂い」と童女のような泣き声をあげたのも忘れられぬ。ぼくは当時、女性の生理のどうにもならぬ不潔さにそろそろ気づいていたので、そのひとがひたむきに花を愛する心理のあやも直感的に分る気がし、美しく思われるまでに哀しかった。更にそのひとと晴れた日、白いアカシアの花々が川岸に匂う青い川上に、白いボオトを浮べ、ぼくが力漕して汗になったので、何気なく上半身、裸体になったら、差向いのそのひとがパッと顔に紅を散らし、身悶えして、「厭よ、恥かしいわ、早く襯衣シャツを着て頂戴」と乱暴に、ぼくの裸の胸をつきまくったのも忘れられぬ。
 処で当時の、否、現在でも、ぼくは幼児に対するとできるだけ彼を傷つけまいとし、偽善的にさえなる。要するにぼくは人類の未来に漠然とした信仰を持っているので、幼児をぼくの汚れた手で傷つけてしまうのが恐ろしい。幼児はぼくにとりタブウみたいな存在に思われるのだ。その時もぼくはそのひとを妻としたいほど好きだったが、そのひとに脊椎カリエスの七つの男の子があるのが、そんなぼくの愛情を躊躇させた。その間に、前の夫がそのひとの勤め先を探しだし、母子で帰って欲しいと手を差出していると、ぼくはそのひとから相談されて子供の為にはどうしても本当の父親が必要だと思い、愛情の最高表現は片想い、自己犠牲になると反射的に考え、気の進まぬらしいそのひとに、ぼくは口を酸っぱくして、(子供の為に我慢しなさい、貞婦は二夫に見えず)なぞ古臭い封建的道徳まで説き、ムリヤリ、そのひとと子供を前の夫のもとに返してしまった。
 そのひとに喫茶店の一隅で、「さようなら」をいうのにぼくはたいへんな勇気を必要とした。ぼくは最後まで云うまいと思っていた「実はあなたさえ好ければ、お子さんがあっても結婚したかった」という内心の秘密をうろたえて告白し、そのひとに手放しで泣かれ、「なぜ、それをもっと早く云ってくれなかったの」と身悶えされ、ぼくは尚更、「さようなら」が云い難くなった。而し結局、自分を犠牲にすればそのひとたちの家族が幸福になると確信できた、二十四歳のぼくの単純な虚栄、或いは偽善的な人間信頼から、ぼくはそのひとに近くの駅頭で、「さようなら」をいった。その人は別離の哀しさに興奮し、汽車の切符をとんでもない処にしまって忘れたり、トランクの蓋を何度も開けたりしめたりして、中の品物をこぼしたりした揚句、汽車がついたので泣き顔で何度もぼくのほうを振返りながら、子供の手をひき、プラットフォムを走っていった。その人が子猫の憂い顔で最後にぼくに云った言葉は、やはり、「では御免なさいね。さようなら」なのだ。
 それから三月も経たぬ中に、ぼくはそのひとのいた酒場に飲みにゆき、そのひとの旧朋輩の女給から、(そのひとが子供と帰っても、夫の画家は依然として前の女流画家と親密にしていて、家庭は地獄みたいだったこと。その為、脊椎カリエスの男の子は帰宅して一月ほどした或る朝、縁側から庭石に落ちて死んだこと。そうしたショックからそのひとも、奔馬性肺結核とかで十日足らずの入院中に死んだ)ときかされ、呆然としてもう一度そのひとに心の中で、「さようなら」をいった。そのひとは最後に、「御免なさい」とぼくに謝まる言葉を習慣として無意識に残したが、本当に謝まる必要があったのは、男性としてのエゴチズム、単純な虚栄なぞから、そのひとが好きだった癖に自分の腕に止めようとしなかったぼくのほうだと実感したのである。
 当時のぼくは未だにコミニズムの理想を信じながらも、文学的にはドストエフスキイ、シュストフが流行し、社会的に軍部独裁、戦争激化の時代相に、自分の生の行動哲学として、ヒュウマニズムと日本の封建倫理や浅薄なニヒリズムがゴタ混ぜに身についている奇怪さだった。ぼくは戦死する前に女性の愛情を知りたく、恋愛、結婚にアセる気持でいながら、一方では平気で戦争未亡人を残そうとする自分の我儘わがままな気持を軽蔑していた。ぼくは有閑令嬢のタイピストの女性的な我の強さを嫌った癖に、自分の好きなひとをただ不幸に死なせた自分の男性としての我の強さには平然として堪えられたのだ。胸の底には永遠の女性に憧がれる懸命な祈りまであったのが、気持の表面では、なにどんな女も似たり寄ったりで、結婚はくじびきみたいなもの、どうせ空しく亡びる自分の青春なら、いちばん貧しい娘に与えてやれと気短かに考え、当時、下宿していた家の平凡な娘と野合のようにして一緒になってしまった。
 その娘は幼くして父を失い、親類の家を転々として育てられ、とに角、小学校を出ると素人下宿の母のもとに帰り、家事を手伝いながら一銀行の女給仕となり、それ迄に勤続約十年、事務員に昇格し算盤そろばんの名手として銀行内に名高い、というような前半生から、ぼくは彼女が苦労しぬいてきた娘として、ぼくを献身的に優しく、ぼくの知識才能も盲目的に敬愛してくれるだろうなぞ、都合の好いことばかり夢想し、両方の肉親の反対も押切り、形だけでも正しい神前結婚をしたのだが、一緒になって一月も経たぬ中、ぼくは自分のおめでたい空想が全て裏切られたのを知った。
 貧しくしいたげられてきた娘が、高等教育を受けた、未来のある青年に愛され正式な結婚をしたことに、救われた如き感謝があり、献身的盲目的にその青年を愛するというのは、やはり通俗小説の嘘で、現実的には貧しく無知な女はそれだけ世の中から傷つけられ歪みっぽく疑い易い野良猫じみた性質になっていて、ぼくはそんな妻の復讐心ふくしゅうしんに自分の才能を無心に誇っては噛みつかれ、不用意に彼女を救ったとほのめかしただけでも爪をたてられ、一日として彼女を妻にしたことに悔いのなかった生活はなかった。そこに戦争、出征が続いたので殺伐とした軍隊の雰囲気から、ぼくのほうにそんな妻でも稀に逢ったり、慰問品を送られると天使のように優しい錯覚があり、妻のほうにも、出征軍人の妻との無知な悲しみと誇りがあり、ふたりの家庭の破綻はたんが一時、防がれたばかりか、出征や疎開の前後に子供が四人まで生まれる結果となったが、さて敗戦になり、平和な日を迎えると、十年前になら恐らくふたりだけの別離で済んだ家庭の悲劇が、戦いの嵐に目かくしされ、十年いきのばされたお蔭で、四人の子供たちという堪えがたい犠牲者を伴なう大破局に発展してしまった。
 敗戦と同時にぼくは会社をくびになったが、宿望の文学生活だけにうちこめると気負いたった気持だったのに、苦労しぬいてきた女として妻は貧乏と冒険を憎悪し、ぼくのペン一本の生活力を危ぶみ、しきりに再び就職を勧め、ぼくの気持に水を差した。そんな時、ぼくは戦争時代に自分の救いとして信じていた(自分と妻子の宿命は別々)との運命感がよみがえり、親しい人々から無感覚になるほど多くの「さようなら」された追憶から、ぼくは滑稽にも、あの西行法師みたいな戦乱の世の強い無常観に支えられ、子供を縁から蹴落し、出家遁世してこの世を漂泊したい望みにかれるのだったが、それは半年ほど経ち、ぼくが共産党に入り、N市の地区委員会事務所の常任を引受け、妻子と別々の独身生活をすることで、その望みの一端が果されることとなった。
 そして約一年。ぼくは自分の妻子や同胞、人間に対する愛情が、戦争の血に汚されてきた為か、ともすれば不信から憎悪に変ずるのをどうしようもなく、再び裏切り者、罪人の意識のほうが快ろよい倒錯心理で、党から離れ、暫く落着き場所のないまま、妻子のもとに返っていた。だがぼくは、戦争中、この妻子たちに、「さようなら」を告げた記憶が生々しいし、妻に永遠の女性をみることに絶望したので、機会さえあれば、妻子とは別に自分の運命を開拓し、孤独な幸福を掴みたい思いに駆られている。丁度その頃、ぼくは上京して或る夜、リエという不幸な女と親密になった。
 リエは戦争未亡人のひとりだが、しゅうとめ、小姑の意地の悪い婚家から、主人戦死の公報のくる前にとびだしたので、実家からも義絶された状態になり、焼け跡の防空壕に女ひとり暮らしのパンパンだったのだが、純情な旧敵国の一青年に、彼女の愛情のひたむきなのを愛され、四畳半に六畳、台所に湯殿までついたバラックを建てて貰い、そこで約一年、幸福な愛の巣を営んでいたのが、近くの日本人のヤキモチからその筋に密告され、リエと相愛の青年は強制的に本国に帰され、リエはダンサアや女給で生活しながら、再び次第にその心や身体を汚している時だった。
 ぼくはそんなリエに初恋のひととも云える、例の高名な画家の夫に棄てられた女の面影を偲んだ。リエも母性愛に娼婦の愛情を合せて持っているぼくの好きなタイプの女だった。リエも自分の男や時代に傷つけられた傷痕を隠さずにみせ、それをぼくに愛撫されたいと願う。それはぼくの男としての自尊心を満足させるのと同時にぼくの罪人意識のいたわりにもなるのだった。リエはそのひとと違い、化粧や愛情の表現のカン処を知った巧みな女だったが、小柄なエネルギッシュな肉体や、成熟した女の生理に童女の信頼を兼ねている処が、そのひとに似ていた。更にそのひとに対しては、夫や子供があるのと、ぼくの若い潔癖さから、肉体の快楽を慎んでいたが、リエの場合は、中年男の肉欲に対する強い信仰があり、それから結ばれてゆき、お互いが自分たちの肉体の適応性に飽満した上で、心も結ばれていったので、ぼくはその汚された女のリエに、生れてはじめて、心と身肉の一致した恋をしたと思う。
 妻子と違い、いつ「さようなら」するか分らぬ女と思うと、ぼくは余計にリエに惹かれ、子供たち四人の未来を案じ、二六時中クラクラする不安を感じながらも、その不安の強い割合いでリエを抱擁する快感が強く、ぼくはズルズルベッタリに足かけ三年、妻子のもとには生活費を送るだけで、リエと同棲してしまった。リエのぼくに対する爆発的献身的な愛情の裏側には、汚された女としての彼女の病的に強い自己愛が潜んでいるのもみせつけられて遣切れない気持にもなる。社会の批判、子供たちの未来、リエや妻の幸福を考え、できるだけ早くリエに、「さようなら」しようと思えば思うほど、ぼくはリエの肉体が不憫ふびんで彼女に緊縛される。眠られぬ夜の苦しさが続き、ぼくはやがてアドルムという強力催眠剤の中毒患者にもなる。
 やがて、ぼくの目上の肉親たちが集まり、妻子、リエも入っての親族会議。リエとの別れを強制され、妻子も東京に出てくる。ぼくは理性的にそれを承知したが、感性的には汚された女としてぼくの肉親たちにさえ軽蔑され、ぼくと別れると世界中でひとりぼっちになる、リエの不幸な孤独にあっさり、「さようなら」をいう気にならぬ。「また逢う日まで」との惜別の言葉が、この動乱の日本で許されるなら――。だがぼくと別れ、女ひとりになったリエが、この世の阿鼻叫喚に忽まちまきこまれ、影も姿も消えうせる恐ろしさにぼくは堪えられぬ。別離と忘却はぼくたち人間に共通した宿命なのだが、それだけにぼくは戦争中のあっさりした、数々の「さようなら」が厭で、どこ迄も、「さようなら」をいわずリエと別れなかった。よそ眼には退廃不潔にみえようとも、ぼくにはそんなリエとの別離の予感に、生命を燃焼させるほどの愛欲生活がギリシャの牧童の恋物語を想わせるほど美しくひたむきなものと思われた。ぼくはリエと死ぬ迄、一緒にいたかった。だが、それでいて、ぼくは自分の不幸な四人の子供たちに、とっても「さようなら」をいえる勇気もない。
 二つの愛するものの間で引裂かれる苦悩。アドルム中毒。リエも子供たちもふり棄てる為の放浪。ぼくはこの為、精神病院にさえ入った。リエの生命を自分のものとしたい不逞なメチャクチャな願いから、アドルムと酒に酔い、一日、兇器をとりリエの下腹さえ刺した。リエの目にみえぬ心の傷や身体の汚れさえ、できれば拭いさりたいといたわり大切にしてきたぼくが、どうして現実にリエの玉の肌を傷つける愚行を演じたものか。神聖冒涜の近代人の病的な倒錯心理かもしれぬ。春婦の肉体を神聖と思いこんだのも既に倒錯心理とすれば、二重、三重のぼくの偏執や倒錯。
 この為、ぼくも警察に約二週間、精神病院に約二カ月ほど入れられる。リエはその間、外科病院に入院し、辛うじて生命を取りとめた。ぼくは兇行時の意識喪失状態に刑法の責任なしと認められ、不起訴になり、リエより約一月早く、精神病院から出られた。その間、ぼくの家庭は完全に解体。妻は派出婦。長男はぼくの姉のもとに、次男と長女はぼくの長兄の家に、三男は妻の姉夫婦に預けられるという惨憺さ。
 処でぼくはそうした妻子に、まだ「さようなら」もいえなければ、自分で傷つけた生活能力を奪ったリエに尚更と「さようなら」もいえない、反ってそれほど愛し憎んだリエに、一生、連れそう義務を感ずる。それで妻と別れ、リエと結婚し、次男と長女をひきとる具体的計画もたて、既に、自分の移動証明をリエのもとに移し、まず七つの長女をリエとの同棲生活に連れてきた。ぼくはそこで、妻と他のふたりの子に、あっさり冷たく「さようなら」をいう積りだった。そしてリエとは義務として死ぬまで一緒にいる積り、「さようなら」をいつまでもいうまいとする。
 すると奇怪なことに、ぼくは始めて妻が自分の為に、その女の一生を台なしにしたと悔まれ、自分の手もとから放すふたりの子供が哀れになり、小鼻を膨らましたリエが七ツの長女に平気で、「お母さん」と呼ばせている無神経さ、ぼくに傷つけられた下腹部からその肉体がまだ恢復せぬのをみせつける如くノロノロ動き、細い首筋をつきだしゆっくり平板な顔を廻してみせる動作、一生、彼女の面倒をみる道徳的責任があるとその毎に、ぼくに迫る彼女の自己愛、そうした一切のものに堪えられなくなったのだ。詰り、ぼくはリエにいつか「さようなら」せねばならぬとの実感があった頃は、どうしてもリエに、「さようなら」できなかったのが、反って彼女と、「さようなら」できぬ道徳的義務感みたいなものを自覚するようになると、急いで彼女から、「さようなら」したくなったのだ。
 それでぼくはいま、七ツの長女と共に、リエのもとから、「さようなら」してすでに半月ばかりになる。昔、リエと別れる道徳的義務感に追われ放浪していた時は、せめてもう一度、リエに逢いたい願いに身をやかれる思いだったのが、いまリエを見棄ててはならぬとの義務感に追われ、七ツの長女と転々放浪している際は、極めて冷たくあっさり、リエに「さようなら」を告げたい。かつて肉親、友人、戦友、中国人たちの惨めな死体に急いで眼をそむけ、決して神の救い、再会の願いなぞ欲せぬ冷淡な、「さようなら」をいってきたように、いまのぼくはリエにも「さようなら」とだけ云い、二度と逢いたくない。かつて親しい人たちの死体をできるだけ早く忘れようと努力し、それに成功した如く、現在のぼくはリエの思い出も忘れてしまいたい。だが彼女に、「さようなら」するのは、肉親友人たちとの場合より、呆れるほど苦しく、長い努力を必要とすることだった。
「さようなら」(左様ならなくてはならぬ運命である故、お別れします)との哀しい日本語。こうしてぼくは三十七歳の今日まで、幾度か何人かの親しい人たちに、「さようなら」してたのが、そろそろ、ぼく自身、この世に、「さようなら」する順番となったようだ。その方法は必ずしも自殺、出家遁世の形を採らなくてもよい。否、意識的に「さようなら」しなくても、いまのぼくは嘗ての川合がそうだったように、生きながら死んでいるみたいな実感がある。西行、宗祇、芭蕉というより、むしろ彼らの小亜流たちが無常の強さ哀しさ孤独さに支えられ、生きた屍として一生を漂泊した、それが全て全国行脚とか草庵生活ばかりでなく、外見まじめな勤番侍とか逆に、旗本の二男坊の無頼な生活の中にも見出されるのを思う。例えば勝海舟の父、夢酔軒勝太郎左衛門小吉の回想録の美しさも死者の眼で生の世界を眺めている哀しさがあるからだ。
 思えばぼくはいつの間にか死んでいる。多病で現実世界の恐怖を避け、ロマンの世界に逃げた幼時からだろうか。それとも、科学、人類の未来、最大多数の幸福を信じた共産主義の運動から再三、脱落した恥かしさからだろうか、戦争を止めさせる努力をなに一つしなかったばかりか、中国の侵略にかりだされ、進んで快感にかられ中国兵を殺し、良民をいじめ、戦友たちを見殺しにしてきた当時にであろうか。肉親たちの別離さえ厭がり認めようとせず、亡父にさえ未だ「さようなら」を告げていないほど厳粛な死の世界を無視してきた為、ぼくは反対に生者の権利も知らぬものだろうか。或いは自己愛の強烈なばかりに妻子も愛人も惜別の予感がなくては、愛し続けられぬぼくのエゴチズムによるものだろうか。
 とに角、ぼくの精神の中でいつの間にか、なにか崩れ毀れている。生者に必須な平衡とか統一の観念が失われている。ぼくは改めてこの世に、「さようなら」をいう積りだったのに、云い出そうとして既に、自分が知らぬ間に、最早、「さようなら」を告げているのに気づいたのだ。なんという苦しさ、或いはバカバカしさだろうか。「さようなら」(そうなるべき運命でした)。
 イヤダ。せめて、(また逢う日まで)との祈りの含まれた日本語が別離の言葉になって欲しい。日本でも方言としては、「またごんせ」とか大切にとかいった意味の別れの言葉が多いようだ。しかし代表的な別離をいう日本語が、「さようなら」だけに限られていることは、日本の死者のひとりとして遣切れぬ思いで抗議したい。「さようなら」と白々しく片づけられては浮ばれぬ。
 どんな死者でも自分の愛する人たちにいつか逢えないかと、ひそかな願いをもち、墓の片隅に眠っている筈だ。マレエ語では別離の挨拶に、出てゆくひとが、「スラマトテンガル」(この地にとまることに幸福あれ)といい、送るひとは「スラマトジャラン」(旅ゆく人に幸福あれ)との言葉を送るとかきいた、日本でも万葉時代にはこうした素朴な別離の言葉があったのだろう。(さきありませ)との一句を相聞、覊旅きりょの歌の処々にみうけた気がするし、「われは妹想う、別れきぬれば」の感慨に、ぼくは単純卒直な惜別の哀愁を感ずる。
 それに比べ、「さようなら」は冷たすぎる。別離の日本語としてこれを廃止し、新しい言葉を発明しよう。ぼくはそんな目的で、この小説を書きだしたのではない。「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。まだ、当分「さようなら」の一語は日本人に使われ続けるだろう。それだけの内的必然がある。その遣切れぬ哀しさに、ぼくは自分の親しい人たちに「さようなら」してきた追憶を絡ませて、みたかったのだ。ぼく自身が矛盾、前後撞着、相反感情をバラバラに抱き得る、例の生者には不可解な分裂症患者に似た者のひとりの実感は自明の理、殊更、特筆大書する必要はなかったのである。
 他の精神病は全て、常人の異常さを量的に多く持っているだけだが、分裂病は質的に違い、普通人に理解もできぬので、この患者を一病理学者は、「すでに生きた屍」と批評している。分裂症ははじめ世の中や他人に無関心になり、自分だけを愛する。それも自分の性器を愛し、次に自分の不潔な排泄物を熱愛する。糞尿さえも外に棄てぬようにし、一度だしたものは宝物みたいに包んで大切に保存する。唾でさえ口中に腐り悪臭が発しても吐きだすまいとする。こうしたフロイドのいう黄金崇拝を伴なう小児、動物的生存状態に続いて、植物的生活がやってくる。樹木の枝がひとに曲げられると、そのまま曲がりっぱなしになる如く、この患者も、ひとから腕を曲げられると決して自分で伸ばそうとしない。この病気は現在でも病源が判らず不治とされている。患者は一進一退の後、こうして植物の如く生きながら次第に、頭の先から立ち枯れてゆくのだ。
 ぼくは自分の死者との実感から、この病者に惹きつけられる愛情と反撥する憎悪を同時に感ずる。彼らこそ、その病気に自然に移行しながら、いつの間にか人生に、「さようなら」していて、病人となってからは、いつ死んでも同じなのだ。彼らは精神病院の一室で誰の邪魔もせず、邪魔にもされず、呼吸して食事し眠って起き、その中ひとに知られずふいと死ぬ。ぼくはそんな彼らを堪らぬと嫌いながらも、既に死んでいる点で共感し憧がれてもいるのだ。彼らでさえ、現実にはっきり、「さようなら」をいうのを拒否しているのが小気味よくもあるのだ。自分では不合理、非論理と思うが、ぼくは自分を使者と信じながらも、実は未だ生の世界に「さようなら」をいいたくない。ぼくは今でもふいと耳に、ボレロの如き明るく野蛮な生命のリズムが鳴り響き、晴れて澄んだ初秋の午後、アカシアの花が白く咲き芳しく匂う河岸、青い川面に白いボオトを浮べ、自分の心や身体を吸いよせ、飽和した満足感で揺り動かし、忘我の陶酔に導いてくれる、そのひとを前にし、軽くオオルを動かしている幻想のよみがえる時がある。例の神を涜した為、未来永劫えいごうにわたり幽霊船の船長として憩いの許されぬ“さまよえる和蘭人フライング・ダッジマン”でさえ、女性の無償の愛が得られれば許されるという中世紀伝説があるのだ。だから中世紀敗戦日本の安っぽい、勝手に死者を気取ったぼくが未だに、こうした伝説に憑かれ、またの日、もう一度、そうした日があり得ることを秘かに信じ、その時に自分の復活があると、待望するのも可笑しくないだろう。
(ではその日まで、さようなら。ぼくはどこかに必ず生きています。どんなに生きるということが、辛く遣切れぬ至難な事業であろうとも――。)
(一九四九年一一月)





底本:「別れのとき アンソロジー 人間の情景7」文春文庫、文藝春秋
   1993(平成5)年3月10日第1刷
底本の親本:「現代短篇名作選2」講談社文庫、講談社
   1979(昭和54)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:寺澤昌子
校正:伊藤時也
2000年3月16日公開
2011年6月20日修正
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