渋江抽斎

森鴎外




その一


 三十七年如一瞬さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし学医伝業薄才伸いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ栄枯窮達任天命えいこきゅうたつはてんめいにまかす安楽換銭不患貧あんらくぜににかえひんをうれえず。これは渋江抽斎しぶえちゅうさいの述志の詩である。おもうに天保てんぽう十二年の暮に作ったものであろう。弘前ひろさきの城主津軽順承つがるゆきつぐ定府じょうふの医官で、当時近習詰きんじゅづめになっていた。しかし隠居づきにせられて、おも柳島やなぎしまにあった信順のぶゆきやかたへ出仕することになっていた。父允成ただしげ致仕ちしして、家督相続をしてから十九年、母岩田氏いわたうじぬいうしなってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏おかにしうじとくと長男恒善つねよし、長女いと、二男優善やすよしとが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。やしき神田かんだ弁慶橋べんけいばしにあった。知行ちぎょうは三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことがすきで、わざろうという念がないから、知行よりほかの収入はほとんどなかっただろう。ただ津軽家の秘方ひほう一粒金丹いちりゅうきんたんというものを製して売ることを許されていたので、若干そこばくの利益はあった。
 抽斎はみずから奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随こずいして弘前にって、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草タバコは終生まなかった。遊山ゆさんなどもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入でいりしたが、それも同好の人々と一しょに平土間ひらどまを買って行くことにめていた。この連中を周茂叔連しゅうもしゅくれんとなえたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書をあがなうとかくを養うとの二つの外にでなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢しゅたくを存じている書籍がすくなくなかっただろうが、現に『経籍訪古志けいせきほうこし』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うためにおしまなかったことは想いられる。
 抽斎の家には食客しょっかくが絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、こころざしがあり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
 抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見べっけんすれば、抽斎はその貧に安んじて、自家じか材能さいのうを父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みにるがい。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才のぶもっおだやかけられるはずがない。のぶるというのは反語でなくてはならない。老驥ろうきれきふくすれども、志千里にありという意がこのうちに蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧をうれえずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内にたのむ所のある作者は、身を困苦のうちに屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。

その二


 抽斎はこの詩を作ってから三年ののち弘化こうか元年に躋寿館せいじゅかんの講師になった。躋寿館は明和めいわ二年に多紀玉池たきぎょくち佐久間町さくまちょうの天文台あとに立てた医学校で、寛政かんせい三年に幕府の管轄かんかつに移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓らんけい、孫桂山けいざん、曾孫※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57)りゅうはんが死に、玄孫暁湖ぎょうこの代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていは、分家して館に勤めていたのである。今の制度にくらべて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日しきじつ登城とじょうすることになり、次いで嘉永かえい二年に将軍家慶いえよしに謁見して、いわゆる目見めみえ以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至ってはじめて言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧にっていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持ふち出ることになり、安政あんせい元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これをもって償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎のさい山内氏やまのうちうじ五百いおが、衣類や装飾品を売って費用にてたそうである。五百は徳が亡くなったのちに抽斎のれた四人目のさいである。
 抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折なかむらふせつさんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、このふくを作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。たまたま少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人いちにんとして知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものをはじめとして、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多あまたの著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世におおやけにせられなかった。
 抽斎のあらわした書で、存命中に印行いんこうせられたのは、ただ『護痘要法ごとうようほう』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水いけだけいすいに受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑おかしいほどの『つの海』という長唄ながうたの本があるに過ぎない。ただしこれは当時作者が自家の体面ていめんをいたわって、贔屓ひいきにしている富士田千蔵ふじたせんぞうの名で公にしたのだが、今ははばかるには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋きねやの一派では用いている謡物うたいものの一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
 しからば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園もりきえんと分担して書いたものであるが、これを上梓じょうしすることは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬ようしゅけいがその写本を手に入れ、それを姚子梁ようしりょうが公使徐承祖じょしょうそに見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時さいわいに森がまだ生存していて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
 わたくしはわかい時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆しょしと、ベルリン、パリイの書估しょことの手にってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟しょうりょうし、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んでひそかに殊域同嗜しゅいきどうしの人をたと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本そうざんほんとか元槧本げんざんほんとかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。

その三


 わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。しかるにわかい時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟をさぐった。そこに「武鑑ぶかん」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史をきわむるにくべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年をって発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、こと寛文かんぶん頃より古い類書は、諸侯の事をするに誤謬ごびゅうが多くて、信じがたいので、いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立なりたちを考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によってただすことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これにまさる史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集しゅうしゅうすることに着手した。
 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江うじ蔵書記」という朱印のある本に度々たびたび出逢であって、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、ず知った。
 そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」のうちに数えるかという、「武鑑」のデフィニションをめて掛からなくてはならない。
 それにはわたくしは『足利あしかが武鑑』、『織田おだ武鑑』、『豊臣とよとみ武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従ぐんしょるいじゅう』にあるような分限帳ぶんげんちょうの類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃おんうまじるしぞろえ」、「御紋尽ごもんづくし」、「御屋敷附おんやしきづけ」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑えどかがみ」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
 わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々にちにち変って行く。しかし今知っているかぎりを言えば、馬印揃や紋尽は寛永かんえい中からあったが、当時のものは今そんじていない。その存じているのは後に改板かいはんしたものである。ただ一つここにしばらく問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔ぬまたらいすけさんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏かまだうじの『治代普顕記ちたいふけんき』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。すなわち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写とうしゃを許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
 そんなら今に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたるまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至ないしその類書は何かというと、それは正保しょうほう二年に作った江戸の「屋敷附」である。これはほとんど完全に保存せられた板本はんぽんで、すえに正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、ほしいままに命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿ぼっした細川三斎ほそかわさんさいが三斎老として挙げてあって、またそのやしきを諸邸宅のオリアンタションのために引合ひきあいに出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。

その四


 わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓じょうしせられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。くだって慶安けいあん中の「紋尽もんづくし」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑おかしい事には、外題げだいに慶安としてあるものは、後に寛文かんぶん中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行いんこうしたものである。それから明暦めいれき中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友ばんのぶともの自筆の序がある。伴は文政ぶんせい三年にこの本をて、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑えどかがみ」になると、世間にやや多い。
 これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。しかるにわたくしに先んじて、はやく同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録えどかんずもくろく』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目ぐうもくした本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字のかたわらに四とちゅうしている。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々しょしょ考証をしるすに当って抽斎いわくとしてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江うじ蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
 わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれをたしかめようと思い立った。
 わたくしは友人、就中なかんずく東北地方から出た友人にうごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状をって問い合せた。
 或る日長井金風ながいきんぷうさんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
 そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通すつう届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄げんろくの頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府じょうふであったので、弘前には深くまじわった人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京とうけいにいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽いいだたつみという人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚とのさきかくという人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事にくわしい佐藤弥六さとうやろくさんという老人で、当時大正たいしょう四年に七十四歳になるといってあった。
 わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突とうとつではあったが、飯田さんの西江戸川町にしえどがわちょうやしきった。飯田さんはと宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしはだれの紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんはこころよ引見いんけんして、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江道純どうじゅんっていた。それは飯田さんの親戚しんせきに医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いにくことになっていたからである。道純は本所ほんじょ御台所町おだいどころちょうに住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。

その五


 わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
 切角せっかく道純をっていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞いとまごいをしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとおまち下さい、念のためにさいにきいて見ますから」といった。
 細君さいくんが席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町まついちょう杵屋勝久きねやかつひささんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「おうさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めておいででしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
 二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉しゅうきちというおいがあって、下渋谷しもしぶやに住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
 わたくしはすぐに終吉さんに手紙を出して、何時いつ何処どこへ往ったらわれようかと問うた。返事は直に来た。今風邪ふうじゃで寝ているが、なおったらこっちから往ってもいというのである。手跡しゅせきはまだわかい人らしい。
 わたくしはむなしく終吉さんのやまいえるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫いちとんざきたさなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、このひまに弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚とのさきかくという人を訪ねることにした。
 外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮しょりょうりょうにある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れたかすみせき三年坂上さんねんざかうえにあることを教えられた。常に宮内省には往来ゆききしても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
 諸陵寮の小さい応接所おうせつじょで、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしとよわい相若あいしくという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋けいがいふるきが如きおもいをした。
 初対面の挨拶あいさつが済んで、わたくしは来意をべた。「武鑑」を蒐集している事、「武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。

その六


 外崎とのさきさんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。
 抽斎渋江道純は経史子集けいしししゅうや医籍を渉猟して考証の書をあらわしたばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証のあとを手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』はすなわち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。ただ経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖じょしょうそを得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家こうずかたまたま一顧するに過ぎないから、その目録はわずかに存して人がらずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護ほうごを受けているのを、せめてもの僥倖ぎょうこうとしなくてはならない。
 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書けいしょや諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹がすこぶるわたくしと相似ている。ただその相殊あいことなる所は、古今ときことにして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別しゃべつがある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁ざっぱくなるヂレッタンチスムの境界きょうがいを脱することが出来ない。わたくしは抽斎に忸怩じくじたらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしのたぐいではなかった。はるかにわたくしにまさった済勝せいしょうの具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬いけいすべき人である。
 しかるに奇とすべきは、その人が康衢こうく通逵つうきをばかり歩いていずに、往々こみちって行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧そうざんの経子をもとめたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をももてあそんだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人のそで横町よこちょう溝板どぶいたの上でれ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に※(「日+匿」、第4水準2-14-16)なじみが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
 わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人なんひとなるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※者ぞうきょしゃ[#「去/廾」、U+5F06、24-15]たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』をあらわした渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日こんにち道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行みちゆきを語った。
 外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、たもつという人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子ししであったのですか。今保さんは何処どこに住んでいますか。」
「さあ。だいぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」

その七


 わたくしはすぐに保さんの住所をたずねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状のうちに、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦しではらたんさんに書をって問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館はくぶんかんの発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡そうせきがなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
 ここに至ってわたくしは抽斎の子が二人ふたりと、孫が一人ひとりと現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟をつまびらかにしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政のぶまさに召し抱えられた。抽斎はその数世すせいそんで、文化ぶんか中に生れ、安政あんせい中に歿ぼっした。その徳川家慶いえよしに謁したのは嘉永かえい中の事である。墓誌銘は友人海保漁村かいほぎょそんえらんだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近てぢかにある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在ありかを捜すことと、この抜萃ばっすいを作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
 外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正まえだぶんせい筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話きつめいざつわ』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはそのうちに「道純いみな全善、号抽斎、道純そのあざななり」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしとませたのだそうである。
 これとほとんど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪ふうじゃが急にえぬので、わたくしと会見するにさきだって、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父おじの住所等を報じてくれた。墓は谷中やなか斎場の向いの横町を西へって、北側の感応寺かんのうじにある。そこへけば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞はらからの間におさむという人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家はすこぶる生計の方向をことにしている。そこで早くを失った終吉さんは伯母おばをたよって往来ゆききをしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんのむすめ冬子ふゆこさんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在ありかを知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。ここにおいてわたくしは、外崎さんの捜索をわずらわすまでもなく、保さんの今の牛込うしごめ船河原町ふながわらちょうの住所を知って、すぐにそれを外崎さんに告げた。

その八


 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易たやすく見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓碣銘ぼけつめい」という篆額てんがくも墓誌銘も、皆小島成斎こじませいさいの書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除さんじょしたものだそうである。『喫茗雑話きつめいざつわ』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓ごきゅうせっそうがこの文を『事実文編じじつぶんぺんけんの七十二に収めているのを知った。国書刊行会本をけみするに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志をうとませてあるのにあきたらなかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)たきさいていの命じた名だということが、抽斎と森枳園もりきえんとの作った序に見えており、訪古の字面じめんは、『宋史そうし鄭樵ていしょうの伝に、名山めいざん大川たいせんあそび、奇を捜しいにしえを訪い、書を蔵する家にえば、必ず借留しゃくりゅうし、読み尽してすなわち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏ひらのうじしゅつ」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野うじの生んだむすめというのは、比良野文蔵ひらのぶんぞうむすめ威能いのが、抽斎の二人ににん目のさいになって生んだいとである。勝久さんや終吉さんの亡父おさむはこの文に載せてないのである。
 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申こうしん元文げんぶん五年閏七月十七日」と、向って右のかたわらってある。抽斎の高祖父輔之ほしである。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成ただしげである。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折ようせつした允成のむすめ二人ふたり法諡ほうしが彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑きちゅう明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌こうじゅつ寛政二年四月十三日」とあるのは、允成ただしげはじめの妻田中うじ、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑きちゅう六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏いわたうじぬい、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅こういん三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華どんげ水子すいし、文化八年辛未しんびじゅん二月十四日」とあるのも、ならびに皆允成のむすめである。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌じんじゅつ七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅こういん三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣いりんで、終事院は抽斎が五十歳の時父にさきだって死んだ長男恒善つねよしである。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明てんめい甲辰こうしん二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓ほんこうである。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子じんし八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢とせである。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永あんえい六年丁酉ていゆう五月三日しす、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰りんじゅううたをつくりていわく云々うんぬんとしてあるのは、登勢の生んだ本皓のむすめである。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になるむすめ登勢にむこを取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子ぼうぼうがいしと二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六せいの祖辰勝しんしょうが「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛しんせいが「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏ひらのうじが「※(「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1-84-34)照院妙浄日法大姉」とし、おなじく岡西おかにし氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまったあとに、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華こうげ手向たむけて置いて感応寺を出た。
 いでわたくしは保さんをおうと思っていると、たまたまむすめ杏奴あんぬが病気になった。日々にちにち官衙かんがにはかよったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るためにくべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはそのひまに全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父おじ甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町ふながわらちょうくに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

その九


 気候は寒くても、まだ炉をく季節にらぬので、火ののない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語ってむことを知らなかった。
 今残っている勝久さんと保さんとの姉弟あねおとうと、それから終吉さんの父おさむ、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内やまのうち五百いおの生んだのである。勝久さんは名をくがという。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化こうか四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所ほんじょへ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
 終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。なか三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。さいわいに母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳でうしなったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考せんこう平生へいぜいを聞くことを得たのである。
 抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言ゆいごんによれば、けい海保漁村かいほぎょそんに、医を多紀安琢たきあんたくに、書を小島成斎こじませいさいに学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語らんごを教えるがいといってある。抽斎は友人多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていなどと同じように、すこぶるオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇をう世俗と趨舎すうしゃを同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次いちかわこだんじの芸を「西洋」だといってある。これはめたのではない。しかるにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎あさかごんさいにその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。おもうにその著述というのは『洋外紀略ようがいきりゃく』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、わずかに二歳であった保さんが、父に「武鑑」をもらってもてあそんだということを聞いた。それは出雲寺板いずもじばんの「大名だいみょう武鑑」で、鹵簿ろぼの道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑えどかがみ」と貼札はりふだをして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚さんいつせずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録えどかんずもくろく』の作られた縁起えんぎを知ることを得たのである。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書かじょうがきにしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼たいれいに参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、すぐに保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんからた材料に拠るのである。

その十


 渋江氏の祖先は下野しもつけ大田原おおたわら家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門こざえもん辰勝しんしょうという。大田原政継せいけい政増せいそうの二代に仕えて、正徳しょうとく元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光ちょうこうは家を継いで、大田原政増、清勝せいしょうに仕え、二男勝重しょうちょうは去って肥前ひぜん大村おおむら家に仕え、三男辰盛しんせい奥州おうしゅうの津軽家に仕え、四男勝郷しょうきょうは兵学者となった。大村には勝重のく前に、源頼朝みなもとのよりとも時代から続いている渋江公業こうぎょう後裔こうえいがある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無ゆうむは、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡なすごおり大田原の城主たる宗家そうかではなく、その支封しほうであろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信きよのぶ扶清すけきよ友清ともきよなどの世であったはずである。大田原家はもと一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清びぜんのかみまさきよ主膳高清しゅぜんたかきよに宗家をがせ、千石をいて末家ばつけを立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許てもとに末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を他人たひとといって、後小三郎こさぶろうと改め、また喜六きろくと改めた。道陸どうりく剃髪ていはつしてからの称である。医を今大路いまおおじ侍従道三どうさん玄淵げんえんに学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守えっちゅうのかみ信政のぶまさに召し抱えられて、擬作金ぎさくきん三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永ほうえいと改元せられた年である。師道三は故土佐守信義のぶよしの五女をめとって、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政にしたがって津軽に往き、四年正月二十八日に知行ちぎょう二百石になり、宝永七年には二度目、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿のぶしげの世になっていた。辰盛は享保きょうほう十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守でわのかみ信著のぶあきの家をいだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年をくること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
 辰盛は兄重光の二男輔之ほしを下野から迎え、養子として玄瑳げんさとなえさせ、これに医学を授けた。すなわち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、すぐに三百石をみ、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年のうまれであるから、四十七歳で歿したのである。
 輔之には登勢とせというむすめ一人ひとりしかなかった。そこでやまいすみやかなるとき、信濃しなのの人それがしの子を養ってとなし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣いりんで、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保かんぽう元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春げんしゅんを二世玄瑳げんさと改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人びぼうじんとしてのこされた。
 寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅にゅうぜいしたのは、武蔵国むさしのくにおしの人竹内作左衛門たけのうちさくざえもんの子で、抽斎の祖父本皓ほんこうが即ちこれである。津軽家は越中守信寧のぶやすの世になっていた。宝暦ほうれき九年に登勢が二十九歳でむすめ千代ちよを生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅につなぐべき子で、あまつさえ聡慧そうけいなので、父母はこれを一粒種ひとつぶだねと称して鍾愛しょうあいしていると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図れいとといったが、渋江氏をぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道秀おのどうしゅうもとへ養子にって、別に継嗣けいしを求めた。
 この時根津ねづ茗荷屋みょうがやという旅店りょてんがあった。その主人稲垣清蔵いながきせいぞう鳥羽とば稲垣家の重臣で、きみいさめてむねさかい、のがれて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助せんのすけというのがあって、六歳にして詩賦しふを善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、こころよく許諾した。そこで下野の宗家を仮親かりおやにして、大田原頼母たのも家来用人ようにん八十石渋江官左衛門かんざえもん次男という名義で引き取った。専之助名は允成ただしげあざな子礼しれい定所ていしょと号し、おる所のしつ容安ようあんといった。通称ははじめ玄庵げんあんといったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山しばのりつざん、医術は依田松純よだしょうじゅんの門人で、著述には『容安室文稿ようあんしつぶんこう』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。

その十一


 允成ただしげは才子で美丈夫びじょうふであった。安永七年三月さくに十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君ちょくんであった、二つの年上の出羽守信明のぶあきらに愛せられた。養父本皓ほんこうの五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封しゅうほうと同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎わさぶろう寧親やすちかが支封からって宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵しんじつして、ほとん兄弟けいていの如くに遇せられた。平生へいぜい着丈きだけ四尺のて、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌そうぼうが思い遣られる。
 当時津軽家に静江しずえという女小姓おんなごしょうが勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼みょうりょうにと号した。妙了尼が渋江家に寄寓きぐうしていた頃、可笑おかしい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗ちゃわんの底の余瀝よれきを指にけてねぶるので、自分も舐ったというのである。
 しかし允成は謹厳な人で、女色じょしょくなどは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日にめとったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合よりあい戸田政五郎とだまさごろう家来納戸役なんどやく金七両十二人扶持川崎丈助かわさきじょうすけむすめを迎えたが、これは四年二月にいつというむすめを生んで、逸が三歳で夭折ようせつした翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成のれたしつは、下総国しもうさのくに佐倉さくらの城主堀田ほった相模守さがみのかみ正順まさよりの臣、岩田忠次いわたちゅうじの妹ぬいで、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて須磨すまというむすめを生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居るすい年寄としより佐野さの豊前守ぶぜんのかみ政親まさちか飯田四郎左衛門いいだしろうざえもん良清よしきよに嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これからのちには文化八年じゅん二月十四日にむすめが生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺かんのうじの墓に曇華どんげ水子すいしと刻してあるのがこのむすめ法諡ほうしである。
 允成ただしげは寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並つきなみ講釈の教官を兼ね、経学けいがくと医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄せいろくの外に、寛政十二年から勤料つとめりょう五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。なか二年置いて文化十一年に一粒金丹いちりゅうきんたんを調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月まいげつ百両以上の所得になったのである。
 允成は表向おもてむき侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任をこうむることが厚かったので、人のあえて言わざる事をも言うようになっていて、しばしばいさめてしばしばかれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地えぞちの防備に任じたというかどを以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出おんのりだしがこれである。五年十二月には南部なんぶ家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、じゅ四位に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃けいよくの功も少くなかったらしい。
 允成は文政五年八月さくに、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧はいかい銷遣しょうけんの具とし、歌会には成島司直なるしましちょくなどを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保てんぽう二年六月からは、出羽国亀田かめだの城主岩城いわき伊予守いよのかみ隆喜たかひろに嫁した信順のぶゆきの姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室欽姫附かねひめづきを兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年[#「天保八年」は底本では「天保八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻ぬいは、文政七年七月朔に剃髪して寿松じゅしょうといい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫にさきだつこと八年である。

その十二


 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたとたもつさんがいう。これは母五百いおの話を記憶しているのであろう。父允成ただしげは四十二歳、母ぬいは三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図えどぶんけんおおえずというものをけみするに、和泉橋いずみばし新橋あたらしばしとの間の柳原通やなぎはらどおりの少し南に寄って、西から東へ、おたまいけ松枝町まつえだちょう、弁慶橋、元柳原町もとやなぎはらちょう佐久間町さくまちょう四間町しけんちょう大和町やまとちょう豊島町としまちょうという順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へかたよって行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣ひがしどなりの筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游ふじかわゆうさんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成ただしげは天明六年八月十九日に豊島町どおり横町よこちょう鎌倉かまくら横町家主いえぬし伊右衛門店いえもんたなを借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、きたかた河岸かしに寄った所にある。允成がこのたなを借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、しばら多紀桂山たきけいざんもとに寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月みそかに、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側りょうそくが名を異にしているに過ぎない。おもうに渋江うじは久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側むかいがわの元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
 抽斎は小字おさなな恒吉つねきちといった。故越中守信寧のぶやすの夫人真寿院しんじゅいんがこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、ほとんど日ごとに召し寄せて、そば嬉戯きぎするのを見てたのしんだそうである。美丈夫允成に可憐児かれんじであったものと想われる。
 志摩しまの稲垣氏の家世かせいは今つまびらかにすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌そうぼうの立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次にのち允成になった神童専之助をいだす清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、これ智能ちのうの方面で、この両方面における遺伝的系統をたずぬるに、抽斎の前途は有望であったといってもかろう。
 さてその抽斎が生れて来た境界きょうがいはどうであるか。允成のにわおしえが信頼するに足るものであったことは、言をたぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象せいしょうを観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿れっしゅくを数えて見たい。しかし観察がいたずらひろきに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己たいこである。
 抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵いちのめいあんがある。次は狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいである。医学の師には伊沢蘭軒いさわらんけんがある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水いけだけいすいである。それから抽斎がまじわった年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎あさかごんさい小島成斎こじませいさい岡本况斎おかもときょうさい海保漁村かいほぎょそん、医家には多紀たき本末ほんばつ両家、就中なかんずく※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいてい、伊沢蘭軒の長子榛軒しんけんがいる。それから芸術家および芸術批評家に谷文晁たにぶんちょう長島五郎作ながしまごろさく石塚重兵衛いしづかじゅうべえがいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世にづるを待ち受けていたようなものである。

その十三


 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々のうちには、現にあまねく世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記をさしはさもうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるにあずかって力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
 市野迷庵、名を光彦こうげん、字を俊卿しゅんけいまた子邦しほうといい、初め※(「竹かんむり/員」、第4水準2-83-63)うんそう、後迷庵と号した。その他酔堂すいどう不忍池漁ふにんちぎょ等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説すいどうのせつを作ったのが、『容安室文稿ようあんしつぶんこう』に出ている。通称は三右衛門さんえもんである。六せいの祖重光ちょうこうが伊勢国白子しろこから江戸に出て、神田佐久間町に質店しちみせを開き、屋号を三河屋みかわやといった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀こうきが、香月氏かづきうじめとって迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
 迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本こはんぼん、古抄本をさぐもとめて、そのテクストをけみし、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸みと吉田篁※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)よしだこうとんに発し、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎がそののちけて発展させた。篁※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志ほうこし』となったのである。この人が晩年に『老子ろうし』を好んだので、抽斎も同嗜どうしの人となった。
 狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎、名は望之ぼうしあざな卿雲けいうん※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎はその号である。通称を三右衛門さんえもんという。家は湯島ゆしまにあった。今の一丁目である。※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎の家は津軽の用達ようたしで、津軽屋と称し、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎は津軽家の禄千石をみ、目見諸士めみえしょし末席ばっせきに列せられていた。先祖は参河国みかわのくに苅屋かりやの人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎は狩谷保古ほうこの代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏たかはしこうびん、母は佐藤氏である。安永四年のうまれで、抽斎の母ぬいと同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりはとおわかかったのだろう。抽斎の※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵をうしなって※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎にいたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎も古書を集めたが、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎は古銭をも集めた。漢代かんだい五物ごぶつを蔵して六漢道人ろっかんどうじんと号したので、人が一物いちぶつ足らぬではないかとなじった時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖こせんへきがあったそうである。
 迷庵と※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎とは、年歯ねんしもって論ずれば、彼が兄、これが弟であるが、考証学の学統から見ると、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎が先で、迷庵がのちである。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
 六右衛門の称はすこぶる妙である。しかるに世の人は更に一人ひとりの三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏きたうじ、名は慎言しんげん、字は有和ゆうわ梅園ばいえんまた静廬せいろと号し、る所を四当書屋しとうしょおくと名づけた。その氏の喜多を修してほく慎言とも署した。新橋しんばし金春こんぱる屋敷に住んだ屋根ふきで、屋根屋三右衛門が通称である。もとしばの料理店鈴木すずきせがれ定次郎さだじろうで、屋根屋へは養子に来た。わかい時狂歌を作って網破損針金あみのはそんはりがねといっていたのが、後博渉はくしょうを以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清おやまだともきよの『擁書楼ようしょろう日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎とあわせ論ずるのは、少しく西人せいじんのいわゆる髪をつかんで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。

その十四


 後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬しんてん、通称は辞安じあんという。伊沢うじ宗家そうか筑前国ちくぜんのくに福岡ふくおかの城主黒田家くろだけの臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国びんごのくに福山の城主阿部伊勢守あべいせのかみ正倫まさともの臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷ほんごう真砂町まさごちょうに住んでいた。阿部家は既に備中守びっちゅうのかみ正精まさきよの世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
 阿部家はついで文政九年八月に代替だいがわりとなって、伊予守正寧まさやすほういだから、蘭軒は正寧の世になったのち足掛あしかけ四年阿部家のやかた出入いでいりした。その頃抽斎の四人目の妻五百いおの姉が、正寧のしつ鍋島氏なべしまうじの女小姓を勤めて金吾きんごと呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒はあしなえであったので、館内かんないれんに乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐ほふくして君側くんそくに進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日あるひ正寧がたまたまこの事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前ににんまえあるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
 次は抽斎の痘科とうかの師となるべき人である。池田氏、名はいん[#「大/淵」、U+596B、48-5]あざな河澄かちょう、通称は瑞英ずいえい京水けいすいと号した。
 原来がんらい疱瘡ほうそうを治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手をつかねて傍看ぼうかんした。そこへ承応じょうおう二年に戴曼公たいまんこうが支那から渡って来て、不治の病をし始めた。※(「龍/共」、第3水準1-94-87)廷賢きょうていけんそうとする治法を施したのである。曼公、名はりつ杭州こうしゅう仁和県じんわけんの人で、曼公とはそのあざなである。みん万暦ばんれき二十四年のうまれであるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国すおうのくに岩国いわくにに足を留めていた時、池田嵩山すうざんというものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川きっかわ家の医官で、名を正直せいちょくという。先祖せんそ蒲冠者かばのかんじゃ範頼のりよりから出て、世々よよ出雲いずもにおり、生田いくた氏を称した。正直の数世すせいの祖信重しんちょうが出雲から岩国にうつって、はじめて池田氏にあらためたのである。正直の子が信之しんし、信之の養子が正明せいめいで、皆曼公の遺法を伝えていた。
 然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子独美どくびわずかに九歳であった。正明は法を弟槙本坊詮応まきもとぼうせんおうに伝えて置いてめいした。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国あきのくに厳島いつくしまに遷った。厳島に疱瘡がさかんに流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪にき、西堀江にしほりえ隆平橋りゅうへいばしほとりに住んだ。この時独美は四十四歳であった。
 独美は寛政四年に京都に出て、東洞院ひがしのとういんに住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川家斉いえなりされて、九年に江戸にり、駿河台するがだいに住んだ。この年三月独美は躋寿館せいじゅかんで痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸いがい向島むこうじま小梅村こうめむら嶺松寺れいしょうじに葬られた。
 独美、字は善卿ぜんけい、通称は瑞仙ずいせん錦橋きんきょうまた蟾翁せんおうと号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇がまを夢に見た。それから『抱朴子ほうぼくし』を読んで、その夢を祥瑞しょうずいだと思って、蝦蟇のをかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。

その十五


 池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙みょうせん、寛政二年に歿した寿慶じゅけい、それから嘉永元年まで生存していた芳松院ほうしょういん緑峰りょくほうである。緑峰は菱谷氏ひしたにうじ佐井さい氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
 独美が厳島から大阪にうつった頃しょうがあって、一男二女を生んだ。だんは名を善直ぜんちょくといったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女はちょう智秀ちしゅうおくりなした。寛政二年に歿している。次は知瑞ちずいと諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれをつまびらかにすることが出来ない。
 独美の家は門人の一人が養子になっていで、二世瑞仙と称した。これは上野国こうずけのくに桐生きりゅうの人村岡善左衛門むらおかぜんざえもん常信じょうしんの二男である。名はしんあざな柔行じゅうこう、また直卿ちょくけい霧渓むけいと号した。躋寿館せいじゅかんの講座をもこの人が継承した。
 初め独美は曼公まんこうの遺法を尊重するあまりに、これを一子相伝にとどめ、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人がいさめていうには、一人いちにんく救う所にはかぎりがある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第にえて、歿するまでには五百人をえた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子めいれいしとなったのである。
 独美の初代瑞仙はもと源家げんけの名閥だとはいうが、周防すおうの岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才がってのちを襲った。にわかに見れば、なんのあやしむべき所もない。
 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水けいすいである。
 京水は独美の子であったか、おいであったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙しんの子直温ちょくおんの撰んだ過去帖かこちょうには、独美の弟玄俊げんしゅんの子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家をぐことが出来ないで、自立して町医まちいになり、下谷したや徒士町かちまち門戸もんこを張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、ろうを恐れ、がんを恐れ、らいを恐るるよりも甚だしく、その流行のさかんなるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けたのち、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血えけつだとか、後天こうてん食毒しどくだとかいって、諸家はおのおのその見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻へんぺきの治法をしりぞけた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

その十六


 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水けいすいに及ぶに当って、ここに京水の身上しんしょうに関するうたがいしるして、世の人のおしえを受けたい。
 わたくしは今これを筆にのぼするに至るまでには、文書を捜り寺院をい、また幾多の先輩知友をわずらわして解決を求めた。しかしそれはおおむね皆徒事いたずらごとであった。就中なかんずくうらみとすべきは京水の墓の失踪しっそうした事である。
 最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのはたもつさんである。保さんは幼い時京水の墓にもうでたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川ゆうさんに種々の事を問いにった。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺のかたわらにあるという事があった。
 わたくしは幼い時向島むこうじま小梅村に住んでいた。はじめの家は今須崎町すさきちょうになり、のちの家は今小梅町になっている。そののちの家から土手へくには、いつも常泉寺の裏から水戸邸みとやしきの北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋まくらばしを北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺まつじの庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗にちれんしゅうの事だから、江戸の市人いちびとの墓が多い。知名の学者では、朝川善庵あさかわぜんあん一家いっけの墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
 そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家だんかうじが列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
 わたくしはむなしくかえって、先ず郷人きょうじん宮崎幸麿みやさきさきまろさんを介して、東京とうけいの墓の事にくわしい武田信賢たけだしんけんさんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
 そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓むけいの撰んだ池田行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることをしるしてある。もと嶺松寺には戴曼公たいまんこう表石ひょうせきがあって、瑞仙はそのかたわらに葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
 わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊はいかいして捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望してくびすめぐらしたが、道のついでなので、須崎町弘福寺こうふくじにある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁おくだぼくじゅう師をとぶらって久闊きゅうかつじょした。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にもふたつながらこれを知っていた。
 墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域しんいき内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人ふたりまでたのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へうつす例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家ののちは今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然ぶぜんとした。

その十七


 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方ゆくえは探討したいものである。それに戴曼公たいまんこうの表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へうつされたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねにきたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏独立どくりゅうの表石の事ははじめて聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗おうばく衣鉢いはつを伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元いんげんを黄檗山にせいしにのぼる途中でじゃくしたらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔がはつとうたぐいででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々むきむきへ問い合せて見ようといった。
 わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年のはじめになった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果がしるしてあったが、それはすこぶ覚束おぼつかない口吻こうふんであった。嶺松寺の廃せられた時、その事にあずかった寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井そめい共同墓地であった。独立の表石というものはたれも知らないというのである。
 これでは捜索の前途には、殆どすこしの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴ねんばらしのために、染井へ尋ねにった。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
 墓にまいる人にしきみ綫香せんこうを売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧かしこそうなおかみさんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然せいぜんたる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家のうちには池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、行倒ゆきだおれがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏のく所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払とりはらいになって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁はんばくを試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建ててる人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角せっかく尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合うけあい申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足をれずに引き返した。
 女のことには疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りにおろかであろう。むしろ行政上無縁の墓の取締とりしまりがあるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うにくはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐かいのない事であろう。わたくしはこう考えて家にかえった。

その十八


 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣ぼけつを搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁うえんのものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届けでさせるにとどまるそうである。
 そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地にうつされたというのは、遷したという一紙の届書とどけしょが官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮しょせん今になって戴曼公たいまんこうの表石や池田氏の墓碣の踪迹そうせきを発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
 とかくするうちに、わたくしが池田京水けいすいの墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地反別帳たんべつちょうという帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人のことに従って、人に託して府庁にただしてもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
 この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教をうた人はすこぶる多い。はじめにはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵いちのめいあんが何歳、狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいが何歳、伊沢蘭軒いさわらんけんが何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度そんたくして見たかったのである。
 諸家のうちでも、戸川残花とがわざんかさんはわたくしのために武田信賢たけだしんけんさんに問うたり、南葵なんき文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三くれしゅうぞうさんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦おおつきふみひこさんは如電にょでんさんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好しこうあるがために、踏査の労をさえいとわなかったのであろう。ただうらむらくもわたくしはいたずらにこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのおかげである。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家をうた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年せきねん日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓にもうでた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。おしむらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺のかたわらしるしたのである。ここにおいてかつて親しく嶺松寺ちゅう碑碣ひけつた人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅いんめつの期にせまっていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。

その十九


 弘福寺こうふくじの現住墨汁師は大正五年にってからも、捜索の手をとどめずにいた。そしてとうとう下目黒しもめぐろ海福寺かいふくじ所蔵の池田氏過去帖かこちょうというものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏いくたうじ中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文ばつぶんを読むに、この書は二世瑞仙晋ずいせんしんの子直温ちょくおんあざな子徳しとくが、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰きしんあたって、あらたに歴代の位牌いはいを作り、あわせてこれを纂記さんきして、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
 この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明ぶんみょうに嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻佐井氏さいうじ、二代瑞仙、その二男洪之助こうのすけ、二代瑞仙の兄信一しんいちの五人に過ぎない。しかし既に京水けいすいの墓が同じ寺にあったとすると、徒士町かちまちの池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台するがだいの池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
 この書のする所は、わたくしのために創聞そうぶんに属するものがすこぶる多い。就中なかんずくとすべきは、独美に玄俊げんしゅんという弟があって、それが宇野氏をめとって、二人の間に出来た子が京水だという一事いちじである。この書にれば、独美は一旦いったんてつ京水を養って子として置きながら、それに家をがせず、更に門人村岡晋むらおかしんを養って子とし、それに業を継がせたことになる。
 然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以ゆえんを書して放縦不覊ふきにして人にれられず、ついに多病を以て廃せらるといってあったらしい。
 両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩ほうとうであった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
 しかし京水がのちく自ら樹立して、その文章事業が晋に比してごう遜色そんしょくのないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するにかたくない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要とうかきょよう』二巻、『痘科鍵会通けんかいつう』一巻、『痘科鍵私衡けんしこう』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法ごとうようほう』一巻がある。養父独美がること尋常蕩子とうしの如くにして、これをうことをおしまなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
 かつわたくしは京水の墓誌が何人なにひと撰文せんぶんに係るかを知らない。しかし京水が果して独美のてつであったなら、たとい独美が一時養って子となしたにもせよ、ただちに瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、かくの如くに書したのが、墓誌としてたいを得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者をつまびらかにすることを得ざるのをうらみとする。
 わたくしはひとり撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯いつぼう五月二十二日に生れ、文化十三年丙子へいし九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉ていゆうに四十、寛政四年壬子じんしに五十五、同九年丁巳ていしに六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。よわいするごとに、ほとんど必ずたがっているのは何故なにゆえであろうか。ちなみにいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。

その二十


 しんの撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直ぜんちょくというものを挙げて、「多病不能継業やまいおおくぎょうをつぐあたわず」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四げんの多きに及んである。瑞仙は痘をすることの難きを説いて、「数百之弟子でし無能熟得之者よくじゅくとくせるものなし」といい、晋を賞して、「而汝能継我業しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ」といっている。
 わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水のはじめの名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以てを廃せらるというように書してあったというのと、符節はあわするようだからである。過去帖に従えば、庶子善直とてつ京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかといううたがいが、今にいたるまでいまだ全くわたくしのかいを去らない。特にかの過去帖に遠近の親戚しんせき百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡こんせきをだにとどめずに消滅しているという一事は、この疑を助長するなかだちとなるのである。
 そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水がそしってあるのを見ては、忌憚きたんなきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語をして、一の抑損の句をもけぬのを見ては、簡傲かんごうもまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
 わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、のちにその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった※(「木+夜」、第3水準1-85-76)えきさい、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでそのよわいを算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯ねんしに至っては全く所見がなかったからである。
 過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、あざな信卿しんけいといって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡ほうしして宗経軒そうけいけん京水瑞英居士ずいえいこじという。
 これに由ってれば、京水は天明六年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師のうちでは最年少者であった。
 後に抽斎とまじわる人々の中、抽斎にさきだって生れた学者は、安積艮斎あさかごんさい、小島成斎、岡本况斎きょうさい、海保漁村である。
 安積艮斎は抽斎とのまじわりが深くなかったらしいが、抽斎をして西学せいがくを忌む念をひるがえさしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信しげのぶ、修してしんという。通称は祐助ゆうすけである。奥州郡山こおりやま八幡宮はちまんぐう祠官しかん安藤筑前あんどうちくぜん親重ちかしげの子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正りせい今泉氏いまいずみうじの壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸にはしった。しかしたれにたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧日明にちみょうが見附けて、本所ほんじょ番場町ばんばちょう妙源寺みょうげんじへ連れて帰って、数月すうげつめて置いた。そして世話をして佐藤一斎さとういっさいの家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎はやしじゅっさいの門にった。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延まんえん元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
 小島成斎名は知足ちそくあざな子節しせつ、初め静斎と号した。通称は五一である。※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久ぶんきゅう二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年にははじめて十歳である。父親蔵しんぞうが福山侯阿部あべ備中守正精まさきよに仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。

その二十一


 岡本况斎、名は保孝ほうこう、通称は初め勘右衛門かんえもん、後縫殿助ぬいのすけであった。拙誠堂せつせいどうの別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子じゅんし』、『韓非子かんぴし』、『淮南子えなんじ』等の考証を作り、かたわら国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年のうまれで、抽斎の生れた文化二年にはわずかに九歳になっていたはずである。
 海保漁村、名は元備げんびあざな純卿じゅんけい、また名は紀之きし、字は春農しゅんのうともいった。通称は章之助しょうのすけ伝経廬でんけいろの別号がある。寛政十年に上総国かずさのくに武射郡むさごおり北清水村きたしみずむらに生れた。老年に及んでけい躋寿館せいじゅかんに講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父恭斎きょうさい句読くとうを授けられていたのである。
 即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎がとお、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
 次に医者の年長者には先ず多紀たきの本家、末家ばつけを数える。本家では桂山けいざん、名は元かん、字は廉夫れんふが、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57)りゅうはん、名はいん、字は奕禧えききが十七歳、末家では※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいてい、名は元堅げんけん、字は亦柔えきじゅうが十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57)は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
 このうち抽斎の最も親しくなったのは※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒しんけんもほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安ちょうあん、後一安いちあんと改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
 年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭と、二歳であった榛軒とであったといってもい。
 次は芸術家および芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁たにぶんちょう一人いちにんに過ぎない。文晁、もと文朝に作る、通称は文五郎ぶんごろう薙髪ちはつして文阿弥ぶんあみといった。写山楼しゃざんろう画学斎ががくさい、その他の号は人の皆知る所である。初め狩野かのう派の加藤文麗かとうぶんれいを師とし、後北山寒巌きたやまかんがんに従学して別に機軸をいだした。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人ににん年歯ねんしの懸隔は、おおむね迷庵におけると同じく、抽斎はをも少しく学んだから、この人は抽斎の師のうちに列する方が妥当であったかも知れない。
 わたくしはここに真志屋五郎作ましやごろさく石塚重兵衛いしづかじゅうべえとを数えんがために、芸術批評家のもくを立てた。二人は皆劇通であったから、かくの如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
 抽斎がのち劇を愛するに至ったのは、当時の人のまなこよりれば、一の癖好へきこうであった。どうらくであった。ただに当時においてしかるのみではない。かくの如くに物を観るまなこは、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松ちかまつ竹田たけだの脚本、馬琴ばきん京伝きょうでんの小説が出て、風俗の頽敗たいはいを致したと書いてあるのを見た。
 しかし詩の変体としてこれをれば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本にって演じいだす劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所におもねるのではない。

その二十二


 真志屋五郎作は神田新石町しんこくちょうの菓子商であった。水戸家みとけ賄方まかないかたを勤めた家で、ある時代からゆえあって世禄せいろく三百俵を給せられていた。巷説こうせつには水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布るふせられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采ふうさいかったということを知っているのみである。保さんの母五百いおの話に、五郎作は苦味走にがみばしったい男であったということであった。菓子商、用達ようたしの外、この人は幕府の連歌師れんがしの執筆をも勤めていた。
 五郎作は実家が江間氏えまうじで、一時長島ながしま氏をおかし、真志屋の西村氏をぐに至った。名は秋邦しゅうほうあざな得入とくにゅう空華くうげ月所げっしょ如是縁庵にょぜえんあん等と号した。平生へいぜい用いた華押かおうは邦の字であった。剃髪ていはつして五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73)しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょうと称した。曇※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73)とは好劇家たる五郎作が、おん似通にかよった劇場の緞帳どんちょうと、入宋にゅうそう※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73)ちょうねんの名などとを配合して作った戯号げごうではなかろうか。
 五郎作は劇神仙げきしんせんの号を宝田寿来たからだじゅらいけて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
 宝田寿来、通称は金之助きんのすけ、一に閑雅かんがと号した。『作者たなおろし』という書に、宝田とはもと神田よりでたる名と書いてあるのを見れば、まことうじではなかったであろう。浄瑠璃じょうるりせき』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
 五郎作は歿年から推算するに、明和六年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙ののちいで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成ただしげと親しくまじわっていたが、允成は五郎作にさきだつこと十一年にして歿した。
 五郎作は独り劇をることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎ひこさぶろう贔屓ひいきにして、所作事しょさごとを書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手じょうずであったことは、同情のない喜多村※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)きたむらいんていが、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
 五郎作は奇行はあったが、生得しょうとく酒をたしまず、常に養性ようじょうに意を用いていた。文政十年七月のすえに、おいの家の板のからちて怪我けがをして、当時流行した接骨家元大坂町もとおおさかちょう名倉弥次兵衛なぐらやじべえに診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸げこで、戒行かいぎょうが堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目をまわさずに済んだ。この三つが一つけていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日あまり掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪ていはつしたのちだからいったものと見える。怪我は両臂りょうひじを傷めたので骨にはさわらなかったがいたみが久しくまなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の※(「やまいだれ+(鼾のへん−自)」、第4水準2-81-55)しびれだけは跡にのこった。五十九歳の時の事である。
 五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆ぎりょうの上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙がうりに出たと聞いて、大晦日おおみそか築地つきじの弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙けいし十二枚に細字さいじで書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠ってあきらかに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、なかばは材料をこの簡牘かんどくに取ったものである。宛名あてな※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)ひつどう桑原氏くわばらうじ、名は正瑞せいずいあざな公圭こうけい、通称を古作こさくといった。駿河国島田駅の素封家で、詩および書を善くした。玄孫喜代平きよへいさんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺でんしんじに住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。

その二十三


 わたくしのた五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。ひじを傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山しょくさんらの作に比するに、遜色そんしょくあるを見ない。※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)いんていは五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、かくの如きは決して公論ではない。※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)庭はもと漫罵まんばへきがある。五郎作と同年に歿した喜多静廬きたせいろを評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語のあく解釈を挙げて、口を極めて嘲罵ちょうばしているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子かくべえじしることを好んで、奈何いかなる用事をもさしおいて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
 五郎作はわかい時、山本北山やまもとほくざん奚疑塾けいぎじゅくにいた。大窪天民おおくぼてんみんは同窓であったのでのち※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたるまで親しく交った。上戸じょうごの天民は小さい徳利をかくして持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽おおだるを塾に持って来たことがあるそうである。下戸げこの五郎作は定めてはたから見て笑っていたことであろう。
 五郎作はまた博渉家はくしょうか山崎美成やまざきよししげや、画家の喜多可庵きたかあんと往来していた。中にも抽斎よりわずかに四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、うたがいただすことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎のもとへ持って往って見せた。
 文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷したや長者町ちょうじゃまちで薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋やおやしちのふくさというものを見せに往った。ふくさは数代まえ真志屋ましやへ嫁入したしまという女の遺物である。島の里方さとかた河内屋半兵衛かわちやはんべえといって、真志屋と同じく水戸家の賄方まかないかたを勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門いちざえもんはこの河内屋の地借じかりであった。島が屋敷奉公に出る時、おさななじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬ひぢりめんのふくさに、紅絹裏もみうらを附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿もりかわじゅくのお七の家は天和てんな二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人じょうにん相識そうしきになって、翌年の春家に帰ったのち、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念かたみのふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人ゆうてんしょうにんから受けた名号みょうごうをそれにつつんでいた。五郎作はあらたにふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
 五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年のうまれで、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年をくること六十三であった。

その二十四


 石塚重兵衛の祖先は相模国さがみのくに鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷したや豊住町とよずみちょうに住んだ。よよ粉商こなしょうをしているので、芥子屋からしやと人に呼ばれた。まことの屋号は鎌倉屋である。
 重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子のうすを踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋というこころで、自ら豊芥子ほうかいしと署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭ほうていと号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂しゅうこどうという号がある。
 重兵衛にむすめが二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩ほうとうをして離別せられた。しかし後に浅草あさくさ諏訪町すわちょうの西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
 重兵衛は文久元年に京都へこうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳のわらべであったはずである。
 重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電おおつきにょでんさんが浅草北清島町きたきよじまちょう報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓にもうでて、忌日きにちに墓に来るものは河竹新七かわたけしんしち一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥もくあみの門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
 以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎あさかごんさい、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)たきさいてい、二歳であった伊沢榛軒しんけんがある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
 抽斎がはじめて市野迷庵の門にったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子ていしは五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成ただしげ経芸けいげい文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、すこぶる早く意を用いたのである。想うにのちに師とすべき狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいとは、家庭でも会い、師迷庵のもとでも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆ばくぎゃくの友となった小島成斎も、はやく市野の家で抽斎と同門のよしみを結んだことであろう。抽斎がいつ池田京水けいすいの門をたたいたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれよりのちの事であろう。
 文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親やすちかに謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所ほんじょふたの上屋敷であっただろう。謁見即ち目見めみえは抽斎が弘前の士人として受けた礼遇のはじめで、これから月並つきなみ出仕しゅっしを命ぜられるまでには七年立ち、番入ばんいりを命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
 抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園もりきえんとがまじわりを訂した事である。枳園は後年これを弟子入でしいりと称していた。文化四年十一月うまれの枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
 森枳園、名は立之りっし、字は立夫りつふ、初め伊織いおり、中ごろ養真ようしん、後養竹ようちくと称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は恭忠きょうちゅう、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主阿部あべ伊勢守正倫まさともおなじく備中守正精まさきよの二代に仕えた。そのだん枳園を挙げたのは、北八町堀きたはっちょうぼり竹島町たけしまちょうに住んでいた時である。のち『経籍訪古志』に連署すべき二人ににんは、ここに始て手を握ったのである。ちなみにいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官小野道瑛おのどうえいの子道秀どうしゅうたもとつらねて入門した。

その二十五


 抽斎の家督相続は文政五年八月さくを以て沙汰さたせられた。これよりき四年十月朔に、抽斎は月並つきなみ出仕しゅっし仰附おおせつけられ、五年二月二十八日に、御番ごばん見習みならい表医者おもていしゃ仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番にった。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成ただしげが五十九歳であった。抽斎は相続後ただちに一粒金丹いちりゅうきんたん製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附ひづけを以てせられた。
 抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作そうまだいさくが江戸小塚原こづかはらで刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家のようやく栄え行くのにたいらかならず、寧親やすちかの入国の時、みちに要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿しらさわじゅくまで出向いた。しかるに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事あらわれてとらえられたということである。
 津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟ないとうちそうも『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史にくわしい外崎覚とのさきかくさんは、かつて内藤に書を寄せて、この説のあやまりただそうとした。
 初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信ひでのぶの世にいきおいを失って、南部家の後見うしろみを受けることになり、後元信もとのぶ光信みつのぶ父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信はの渋江辰盛しんせいを召し抱えた信政のぶまさの六世の祖である。津軽家の隆興は南部家にうらみを結ぶはずがない。この雪冤せつえんの文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出すなかだちをしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここにしるして置く。
 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、はじめて妻をめとった。妻は下総国しもうさのくに佐倉の城主堀田ほった相模守正愛まさちか家来大目附おおめつけ百石岩田十大夫いわたじゅうたゆうむすめ百合ゆりとして願済ねがいずみになったが、実は下野しもつけ安蘇郡あそごおり佐野さのの浪人尾島忠助おじまちゅうすけむすめさだである。この人は抽斎の父允成が、子婦よめには貧家に成長して辛酸をめた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦のよわいは抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
 この年に森枳園きえんは、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕ちょうせき好んで俳優の身振みぶり声色こわいろを使う枳園の同窓に、今一人塩田楊庵しおだようあんという奇人があった。もと越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、そう対馬守つしまのかみ義質よしかたの臣塩田氏の女壻じょせいとなった。塩田は散歩するに友をいざなわぬので、友がひそかに跡に附いて行って見ると、竹のつえを指の腹に立てて、本郷追分おいわけへん徘徊はいかいしていたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色つかい軽業師かるわざしも、共に十七歳の諸生であった。
 抽斎の母ぬいは、子婦よめを迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松じゅしょうと称した。
 翌文政八年三月みそかには、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼はんやけになった。この年津軽家には代替だいがわりがあった。寧親が致仕して、大隅守おおすみのかみ信順のぶゆきが封をいだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
 次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢そうほうした年である。先ず六月二十八日に姉須磨すまが二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善つねよしが生れた。
 須磨は前にいったとおり、飯田良清よしきよというもののさいになっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵いながきせいぞうの孫である。清蔵の子が大矢清兵衛おおやせいべえ、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株けにんかぶを買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。
 迷庵の死は抽斎をして狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎の門にったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子光寿こうじゅいだ。

その二十六


 文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介きんじゅいしゃすけを仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日にはつま定が離別せられた。十二月十五日には二人目ににんめの妻同藩留守居役百石比良野文蔵ひらのぶんぞうむすめ威能いのが二十四歳できたり嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
 わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
 抽斎と伊沢氏とのまじわりは、蘭軒の歿したのちも、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子榛軒しんけんが抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟柏軒はくけん、通称磐安ばんあんは文化七年に生れた。うしなった時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、おのれの弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎のむすめたかめとった。その次男がいわお、三男が今の歯科医信平しんぺいさんである。
 抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故なにゆえつまびらかにすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家のむすめなら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
 定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、よよ要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家のじょに懲りて迎えた子婦よめであろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々によろこばれていたらしい。何故そういうかというに、のち威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼こうぎが、後に至るまでかくの如くに久しくかわらずにいたのを見ても、婦壻よめむこの間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
 比良野氏は武士気質かたぎの家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎すけたろう貞彦さだひこは文事と武備とをあわせ有した豪傑の士である。外浜がいひんまた嶺雪れいせつと号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。を善くして、「外浜画巻そとがはまがかん」及「善知鳥うとう画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃村正むらまさ作のとうびて、本所割下水わりげすいから大川端おおかわばたあたりまでの間を彷徨ほうこうして辻斬つじぎりをした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息してまなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうというがんおこした。
 天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女いとが生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、とついでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧まさやすの医官岡西栄玄おかにしえいげんじょ徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来寧親やすちか信順のぶゆき二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からはかね岩城隆喜いわきたかひろしつ、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室欽姫かねひめに伺候することになったからであろう。
 この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島おじましゅつの嫡子恒善つねよし、比良野氏しゅつの長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳をめとるに至ったのは、徳の兄岡西玄亭げんていが抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字もんじまじわりを訂していたからである。
 天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順にしたがって江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸にかえったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月さく二人ににん扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
 抽斎の友森枳園きえんが佐々木氏かつを娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年にを喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。

その二十七


 天保六年うるう七月四日に、抽斎は師狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいを喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男優善やすよしが生れた。後に名をゆたかと改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎ののち懐之かいしあざな少卿しょうけい、通称は三平さんぺいいだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善つねよし、長女いと、次男優善の五人になった。
 同じ年に森枳園きえんの家でも嫡子養真ようしんが生れた。
 天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰きんじゅづめに進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田京水けいすいが五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
 京水には二人の男子なんしがあった。長を瑞長ずいちょうといって、これが家業をいだ。次を全安ぜんあんといって、伊沢家の女壻になった。榛軒のむすめかえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町ゆみちょうに住んだ。
 天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順のぶゆきに謁した。年はじめて十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
 初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越つめこしをすることになった。例にって翌年江戸に帰らずに、二冬ふたふゆを弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、ぶたの子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んでもんった。抽斎が酒を飲み、獣肉を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)くらうようになったのはこの時が始である。
 しかし抽斎は生涯煙草タバコだけはまずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
 抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町かちまちの池田の家で、当主瑞長ずいちょうが父京水の例にならって、春のはじめ発会式ほっかいしきということをした。京水は毎年まいねんこれを催して、門人をつどえたのであった。然るに今年ことし抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日にことなっていて、京水時代の静粛はあとだにとどめなかった。芸者が来てしゃくをしている。森枳園が声色を使っている。抽斎はしばらく黙して一座の光景をていたが、遂にかたちを改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いにじて、すぐに芸者にいとまを遣ったそうである。
 引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家をわれて、祖母、母、妻かつ、生れて三歳のせがれ養真の四人を伴って夜逃よにげをしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑じゅぞうひには「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また滑稽こっけいでもあった。
 枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優のを、観棚かんぽうから望み見てたのしむに過ぎない。枳園は自らその科白かはくを学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って※子つけ[#「木+邦」、U+6886、87-8]を撃った。後にはいわゆる相中あいちゅうあいだに混じて、並大名ならびだいみょうなどにふんし、また注進などの役をも勤めた。
 或日阿部家の女中が宿にさがって芝居をくと、ふと登場している俳優の一人が養竹ようちくさんに似ているのに気が附いた。そう思って、とこう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないとめた。そしてやしきに帰ってから、これを傍輩ほうばいに語った。もとより一の可笑おかしい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
 さてこの奇談が阿部邸の奥表おくおもて伝播でんぱして見ると、上役うわやくはこれをて置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯にもうして禄をうばうということになってしまった。

その二十八


 枳園きえんは俳優にして登場した罪によって、阿部家の禄を失って、ながいとまになった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百いおの姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾きんごと呼ばれ、枳園をもっていたが、事件のおこる三、四年ぜんに暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
 永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生細節さいせつかかわらぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙にのぼすべからざるものもある。救おうとした人も、これらの障礙しょうがいのために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
 枳園は江戸でしばらく浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃よにげをした。恐らくはこの最後の策にづることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目めんぼくがなかったからである。※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4)けっくの道をしんに書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目にわせていたからである。
 枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人いくたりかの門人があって、そのうちに相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この落魄らくたく中のくわしい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川けいせん詩集』、『遊相医話ゆうそういわ』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑じゅぞうひには、浦賀うらが大磯おおいそ大山おおやま日向ひなた津久井つくい県の地名が挙げてある。大山は今の大山まち、日向は今の高部屋たかべや村で、どちらも大磯と同じ中郡なかごおりである。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川かつらがわはこの川の上流である。
 後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本ゆもとに着くと、もうつかい尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩あんまをした。上下かみしも十六文の※(「米+胥」、第4水準2-83-94)しょせんるも、なおむにまさったのである。ただに按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科ないがいにかをろんずるなく或為収生あるいはしゅうせいをなし或為整骨あるいはせいこつをなし至于牛馬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)狗之疾ぎゅうばけいくのしつにいたるまで来乞治者きたりてちをこうものに莫不施術せじゅつせざるはなし」と、自記の文にいってある。収生しゅうせいはとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内なわばりないにも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
 老いたる祖母は浦賀で困厄こんやくの間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己をあわせて四人の口を、かくの如き手段でのりしなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気沮喪そそうすることもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
 枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主なぬしをしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴ふいちょうし、ここに開業のはこびに至ったのである。幾ばくもなくして病家のかずえた。金帛きんはくを以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬さいそおくって庖厨ほうちゅうにぎわした。後には遠方からかごを以て迎えられることもある。馬を以てしょうぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、なか三浦みうら両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
 抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日忌明きあきと書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順のぶゆきしたがって江戸に帰った。三十五歳になった年である。
 この年五月十五日に、津軽家に代替だいがわりがあった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷にうつり、同じよわい順承ゆきつぐ小津軽こつがるからって封をいだ。信順はすこぶる華美を好み、ややもすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致じゅんちし、遂に引退したのだそうである。
 抽斎はこれから隠居信順づきにせられて、平日は柳島のやかたに勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。

その二十九


 天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素を鑑賞することについては、なにくれとなくおしえを乞い、また古器物こきぶつ本艸ほんぞうの参考に供すべき動植物をするために、筆の使方つかいかた顔料がんりょう解方ときかたなどを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国りょうごく万八楼まんはちろうで催したのを名残なごりにして、今年亡人なきひとの数にったのである。跡は文化九年うまれで二十九歳になる文二ぶんじいだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐あさは、もう五年前に夫にさきだって死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
 天保十二年には、岡西氏とく二女じじょよしを生んだが、好は早世した。じゅん正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎はちさぶろうが生れたが、これも夭折ようせつした。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙するはじめにおいて、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)たちまち来り※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)ち去ったむすめ好の名はあらわすことが出来なかった。
 天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
 この年に躋寿館せいじゅかんで書を講じて、陪臣町医まちいに来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始てあらたに講師が任用せられた。はじめ館には都講とこう、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時多紀藍渓たきらんけい時代に百日課ひゃくにちかの制をいて、医学も経学けいがくも科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒にかせたのである。百日課は四年間でんだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎をたしむることとなったのは、この制度あるがためである。
 弘化元年は抽斎のために、一大転機をもたらした。社会においては幕府の直参じきさんになり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
 この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中ろうじゅう土井どい大炊頭おおいのかみ利位としつらを以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城とじょうを命ぜられた。年始、八朔はっさく、五節句、月並つきなみの礼に江戸城にくことになったのである。十一月六日に神田紺屋町こんやちょう鉄物問屋かなものどいや山内忠兵衛妹五百いおが来り嫁した。表向おもてむきは弘前藩目附役百石比良野助太郎妹かざしとして届けられた。十二月十日に幕府から白銀はくぎん五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女いとが幕臣馬場玄玖ばばげんきゅうに嫁した。時に年十六である。
 抽斎の岡西氏徳をめとったのは、その兄玄亭が相貌そうぼうも才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷こうれいをなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだかったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭へんきょうな気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
 最初の妻さだは貧家のむすめの具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父允成ただしげが或時、おれの考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほどいやとは思わなかった。二人ににん目の妻威能いの怜悧れいりで、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。

その三十


 克己を忘れたことのない抽斎は、徳をしかり懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
 さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便たよりがあるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、ほとんど日記のようにくわしく書いたのである。抽斎は初め数行すうこうを読んで、ただちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
 允成は抽斎の徳にしたしまぬのを見て、前途のためにあやぶんでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習てならいをさせる。日記を附けさせる。そしてそれにもとづいて文案を作って、徳に筆をらせ、家内かないの事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
 抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
 二年近い旅から帰って、抽斎はつとめて徳に親んで、父の心をやすんぜようとした。それから二年立って優善やすよしが生れた。
 いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留えんりゅうした。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いてよしが生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
 そして徳の亡くなった跡へ山内氏五百いおが来ることになった。抽斎の身分は徳がき、五百がきたる間に変って、幕府の直参じきさんになった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百はにわかにそのうちに身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかもしその適材であったのは、抽斎のさいわいである。
 五百の父山内忠兵衛は名を豊覚ほうかくといった。神田紺屋町に鉄物問屋かなものどいやを出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁いげたの中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客ぼっかくまじわり、財をててこれが保護者となった。
 忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女やす、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾きんごである。
 五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人のむすめにも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学けいがくなどをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
 忠兵衛がかくの如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守たじまのかみ盛豊もりとよの子、対馬守つしまのかみ一豊かずとよの弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏みつばがしわの紋を附け、名のりにとよの字を用いることになっている。今わたくしの手近てぢかにある系図には、一豊の弟は織田信長おだのぶながに仕えた修理亮しゅりのすけ康豊やすとよと、武田信玄たけだしんげんに仕えた法眼ほうげん日泰にったいとの二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかのすえであるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここににわかさだめることが出来ない。

その三十一


 五百いおは十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉とくがわいえなりが五十四、五歳になった時である。御台所みだいどころ近衛経煕このえけいきの養女茂姫しげひめである。
 五百は姉小路あねこうじという奥女中の部屋子へやこであったという。姉小路というからには、上臈じょうろうであっただろう。しからば長局ながつぼねの南一のかわに、五百はいたはずである。五百らが夕方ゆうかたになると、長い廊下を通って締めにかなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るといううわさがあった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、たれくは見ぬが、男のきものを着ていて、額につのえている。それがつぶてを投げ掛けたり、灰をき掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、たがいに譲り合った。五百はおさなくても胆力があり、武芸の稽古けいこをもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めにった。
 暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬かたほに灰をかぶった。五百には咄嗟とっさあいだに、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇いたずららしく感ぜられたので、五百は飛び附いてつかまえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手をゆるめなかった。そのうちに外の女子おなごたちがせ附けた。
 鬼は降伏して被っていた鬼面おにめんを脱いだ。銀之助ぎんのすけ様ととなえていた若者で、穉くて美作国みまさかのくに西北条郡にしほうじょうごおり津山つやまの城主松平家まつだいらけ壻入むこいりした人であったそうである。
 津山の城主松平越後守斉孝なりたかの次女かちかたもとへ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守みかわのかみ斉民なりたみである。
 斉民は小字おさななを銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重やえかたである。十四年七月二十二日に、御台所みだいどころの養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸にいった。四歳の壻君むこぎみである。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、じゅ四位じょう侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後確堂公かくどうこうと呼ばれたのはこの人で、成島柳北なるしまりゅうほくの碑の篆額てんがくはそのふでである。そうして見ると、この人が鬼になって五百にとらえられたのは、従四位上侍従になってからのちで、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸にやかたはあっても、本丸に寝泊ねとまりして、小字おさななの銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
 五百の本丸をさがったのは何時いつだかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家とうどうけに奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
 五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見めみえをしてまわったそうである。その頃も女中の目見は、きみしんえらばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百がかくの如くに諸家の奥へのぞきに往ったのは、到処いたるところしりぞけられたのではなく、自分が仕うることをがえんぜなかったのだそうである。
 しかし二十余家を経廻へめぐるうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資とよすけの家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
 五百が鍛冶橋内かじばしうちの上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲おんぎょくたしなみためされるのである。試官は老女である。先ず硯箱すずりばこと色紙とを持ち出して、老女が「これに一つおそめを」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津ときわずを一曲語らせられた。これらの事は他家と何のことなることもなかったが、女中がことごと綿服めんぷくであったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介かずさのすけ斉政なりまさむすめである。
 この時老女がふと五百いおの衣類に三葉柏みつばがしわの紋の附いているのを見附けた。

その三十二


 山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
 五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏みつばがしわの紋を附けていると答えた。
 老女はしばらく案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱めしかかえになるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。由緒ゆいしょのあることであろうから、追っておゆるしを願うことも出来ようといった。
 五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖せんそからけて子孫に伝える大切なものである。みだりかくしたりあらためたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬがいといったのである。
 五百が山内家をことわって、次に目見めみえに往ったのが、向柳原むこうやなぎはらの藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家をまわ草臥くたびれた五百は、この家に仕えることにめた。
 五百はすぐに中臈ちゅうろうにせられて、殿様づきさだまり、同時に奥方祐筆ゆうひつを兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡あのごおり津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守いずみのかみ高猷たかゆきである。官位はじゅ四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭とものかみ※(「山/(鬆−髟)」、第3水準1-47-81)たかたけむすめである。
 この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓おんなこしょうに取らるべきであった。それが一躍して中臈をち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草タバコ手水ちょうずなどの用を弁ずるもので、今いう小間使こまづかいである。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、しょうになったと見てもい。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
 五百は呼名は挿頭かざしと附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、かざしの名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸のたしなみのあることを人に知られて、男之助おとこのすけという綽名あだなが附いた。
 藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室さんしつ位に分たれた部屋に住んで、女二人ににんを使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校にくように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百いおなぞには、給料の多寡ははじめより問う所でなかった。
 修行は金を使ってするわざで、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩ほうばい饗応きょうおうし、衣服調度を調ととのえ、下女げじょを使って暮すには、父忠兵衛はとしに四百両を費したそうである。給料は三十両もらっても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
 五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈がしらに進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。

その三十三


 五百いおは藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のためにいとまを取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏さだを妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏威能いの、岡西氏とく相踵あいついで妻としていたのである。
 五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公をめた頃は、忠兵衛はまだむすめを呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。いとまを取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂高猷たかゆき夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供のうちに加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つにさきだって、五百を家にかえらしめたのである。
 五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛しょうまき、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉やすは四年前に阿部家を辞して、横山町よこやまちょう塗物問屋ぬりものどいや長尾宗右衛門ながおそうえもんに嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
 忠兵衛の子がまだ皆いとけなく、栄次郎六歳、安三蔵、五百いお二歳の時、麹町こうじまちの紙問屋山一やまいちの女で松平摂津守せっつのかみ義建ぎけんの屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
 忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人のかみに立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて全家ぜんかこうべを悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
 栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、いで昌平黌しょうへいこうに通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの二人ふたりだけが許多あまたの士人の間にはさまっていた商家の子であった。たとえていって見れば、今の人が華族でなくて学習院にっているようなものである。
 五百いおが藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活にたいらかならずして、吉原通よしわらがよいをしはじめた。相方あいかた山口巴やまぐちともえつかさという女であった。五百が屋敷からさがる二年前に、栄次郎は深入ふかいりをして、とうとう司の身受みうけをするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解きゅうかいのために五百が屋敷から来たので、沙汰罷さたやみになった。
 然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
 栄次郎は妹の力にって勘当を免れ、暫く謹慎して大門をくぐらずにいた。そのひまに司を田舎大尽いなかだいじんが受け出した。栄次郎は鬱症うつしょうになった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れてかせた。この時司の禿かぶろであった娘が、浜照はまてるという名で、来月突出つきだしになることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりもさかんあそびをしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
 この時に当って、まさにくつがえらんとする日野屋の世帯せたいを支持して行こうというものが、あらたに屋敷奉公をてて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業をいでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産をすることをさえ忘れていたのである。

その三十四


 五百いおは父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎をいさめ励まして、風浪にもてあそばれている日野屋という船のかじを取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫おおまごぼうを証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
 忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦いったん忠兵衛の意志にって五百の名に書きえられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
 五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言しんしょうなごんと呼ばれたという一面がある。同じ頃狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいむすめたかに少納言の称があったので、五百はこれにむかえてかく呼ばれたのである。
 五百の師としてつかえた人には、経学に佐藤一斎、筆札ひっさつ生方鼎斎うぶかたていさい、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭まえだなつかげがあるそうである。十一、二歳の時はやく奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈をくとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古けいこ為方しかたであっただろう。
 師匠のうちで最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
 文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治げんじ元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香ふくだはんこう村松町むらまつちょうの家へ年始の礼に往って酒にい、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
 五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院このえよらくいん橘千蔭たちばなのちかげとの筆跡を臨模りんもしたことがあるそうである。予楽院家煕いえひろ元文げんぶん元年にこうじた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭はぎぞのちかげは身分が町奉行与力よりきで、加藤又左衛門またざえもんと称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
 五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。おさない時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏とくが亡くなってからのちの事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎をうたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある二人ふたりが、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年をけみした友人関係を棄てて、にわかに夫婦関係にったのである。当時においては、醒覚せいかくせる二人ににんの間に、かくの如く婚約が整ったということは、たえてなくしてわずかにあるものといって好かろう。
 わたくしは鰥夫おとこやもめになった抽斎のもとへ、五百のとぶらい来た時の緊張したシチュアションを想像する。そしてたもつさんの語った豊芥子ほうかいしの逸事をおもい起して可笑おかしく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の皮包かわつつみを持って来合せた。そして包を開いて抽斎にすしすすめ、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。

その三十五


 五百いおは抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役めつけやくになっていた貞固さだかたは文化九年うまれで、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉威能いのの跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
 文蔵は仮親かりおやになるからは、まことの親と余り違わぬ情誼じょうぎがありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家わがいえに引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草をめさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
 助太郎は武張ぶばった男で、髪を糸鬢いとびんに結い、黒紬くろつむぎの紋附を着ていた。そしてもう藍原氏あいばらうじかなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門うえもんむすめであった時、穴隙けつげきって相見あいまみえたために、二人は親々おやおやの勘当を受けて、裏店うらだなの世帯を持った。しかしどちらも可哀かわいい子であったので、間もなくわびが※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなって助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
 五百が抽斎にとついだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩ゆうとうによってかたぶき掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向しむけて置いた首飾しゅしょく、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物たまわりものをいうのである。当時の女子おなごはこれに反して、おもに親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部をって、夫の急を救うことを得た。またこれにさきだつこと一年に、森枳園きえんが江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々のちのちまでも、衣服を欲するごとに五百に請うので、おかつさんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
 五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善つねよし、長女いと、次男優善やすよしの五人であったが、間もなく純はでて馬場氏のとなった。
 弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事がすくなかった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日うまれの三女とう、同三年十月十九日生れの四男幻香げんこう、同四年十月八日生れの四女くががある。四男は死んで生れたので、幻香水子げんこうすいしはその法諡ほうしである。陸は今の杵屋勝久きねやかつひささんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善つねひさが二十三歳で月並つきなみ出仕を命ぜられた。
 五百いお里方さとかたでは、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方あいかたは前の浜照はまてるであった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させてさいにした。いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督をわずかに二歳になった抽斎の三女とうに相続させ、自分は金座きんざの役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告なのった。
 五百の姉安をめとった長尾宗右衛門は、兄の歿した跡をいでから、終日手杯てさかずきかず、塗物問屋ぬりものどいやの帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安はいさめようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方しかたがなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑しじつがん』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだおけいせんの二人のむすめに、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣きづかって、わざわざ横山町へさとしに往った。宗右衛門は大いにじて、やや産業に意を用いるようになった。

その三十六


 森枳園きえんは大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家にやどることになっていた。枳園の形装ぎょうそうは決してかつて夜逃よにげをした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。たもつさんの記憶している五百いおの話によるに、枳園はお召縮緬めしちりめんきものを着て、海老鞘えびざや脇指わきざしを差し、歩くにつまを取って、剥身絞むきみしぼりふんどしを見せていた。もし人がその七代目団十郎だんじゅうろう贔屓ひいきにするのを知っていて、成田屋なりたやと声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。もっともお召縮緬を着たのは、あなが奢侈しゃしと見るべきではあるまい。一たん一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
 枳園の来てやどる頃に、抽斎のもとにろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈おおあんどうを覆し、畳を油だらけにした。五百はたわむれに絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄からかうものは枳園のみでなく、豊芥子ほうかいしも訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
 枳園はまた当時わずかに二十歳をえた抽斎の長男恒善つねよしの、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々たびたび吉原へ連れてこうとした。しかし恒善はかなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善をうごかそうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ちることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
 枳園がかくの如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主こしゅうもとに帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾くは幕府の直参じきさんにでもなろうと思って、機会をうかがっていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
 にわかに見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのはやすく、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間にせていた。就中なかんずく本草ほんぞうくわしいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻けいちょうを忌む心がすこぶかたかった。多紀一家たきいっけ殊に※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていはややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短をして、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒しんけん、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人服部九十郎はっとりくじゅうろう、勘定奉行小此木伴七おこのぎはんしち大田おおた宇川うがわ等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感にさまたげられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭の同情にうったえて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説きうごかそうと決心した。そしてついにこの手段を以て成功した。
 この期間のすえの一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館せいじゅかんの一事業たる『千金方せんきんほう校刻こうこくを手伝うべき内命をち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。

その三十七


 阿部家への帰参が※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなって、枳園が家族をまとめて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家かしいえのあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什きじゅうを買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へかなくてはならぬ職業なので、衣類も一通ひととおり持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻かつの事を、五百いおがあれでは素裸すはだかといってもいといった位である。五百は髪飾から足袋たび下駄げたまで、一切そろえて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へもらいに来た。或日これで白縮緬の湯具ゆぐを六本ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然てんぜんとして世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多のあく性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
 枳園が医書彫刻取扱手伝てつだいという名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
 当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急びきゅう千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本そうざんぼんであった。これよりき多紀氏は同じ孫思※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)そんしばくの『千金翼方よくほう』三十巻十二冊を校刻した。これはげん成宗せいそう大徳だいとく十一年梅渓ばいけい書院の刊本を以て底本としたものである。いで手にったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫かなざわぶんこの印があって、北条顕時ほうじょうあきときの旧蔵本である。米沢よねざわの城主上杉うえすぎ弾正大弼だんじょうのだいひつ斉憲なりのりがこれを幕府に献じた。こまかに検すれば南宋『乾道淳煕けんどうじゅんき』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目きゅうめんぼくを存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安いさわばんあん黒田くろだ豊前守ぶぜんのかみ直静なおちかの家来堀川舟庵ほりかわしゅうあん、それから多紀楽真院らくしんいん門人森養竹もりようちくである。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』のばつに見えている堀川せいである。舟庵のしゅ黒田直静は上総国久留利くるりの城主で、上屋敷は下谷広小路したやひろこうじにあった。
 任命は若年寄わかどしより大岡主膳正しゅぜんのかみ忠固ただかたの差図を以て、館主多紀安良あんりょうが申し渡し、世話役小島春庵しゅんあん、世話役手伝勝本理庵りあん熊谷くまがい弁庵べんあんが列座した。安良は即ち暁湖ぎょうこである。
 何故なにゆえに枳園が※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていの門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向おもてむきになっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
 この年八月二十九日に、真志屋ましや五郎作ごろさくが八十歳で歿した。抽斎はこの時三世劇神仙げきしんせんになったわけである。
 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城とじょうした。躑躅つつじにおいて、老中ろうじゅう牧野備前守忠雅ただまさ口達こうたつがあった。年来学業出精につき、ついでの節目見めみえ仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭てぜまなために、五百の里方山内の家を渋江邸として届けでたものである。

その三十八


 抽斎の将軍家慶いえよしに謁見したのは、世の異数となす所であった。もとより躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部たけべ内匠頭たくみのかみ政醇まさあつ家来辻元※(「山/松」、第3水準1-47-81)つじもとしゅうあんの如く目見めみえの栄に浴する前例はあったが、抽斎にさきだって伊沢榛軒しんけんが目見をした時には、藩主阿部正弘が老中ろうじゅうになっているので、薦達せんたつの早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年ぜんに共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈さかがみげんじょうがあった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇しゅぐうめて三年前に目見をした松浦まつうら壱岐守いきのかみはかるの臣朝川善庵あさかわぜんあんと並称した。善庵は抽斎の謁見にさきだつこと一月いちげつ、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しくまじわって、渋江の家の発会ほっかいには必ず来る老人株の一人であった。善庵、名はてい、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山かたやまけんざんの子である。兼山の歿したのちつまうじが江戸の町医朝川黙翁もくおうに再嫁した。善庵の姉寿美すみと兄道昌どうしょうとは当時の連子つれこで、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いてやむに至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵にじつを告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育ぶいくの恩に感じてうけがわず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男かくをして片山氏をがしめたが、格は早世した。長男正準せいじゅんでて相田あいだ氏をおかしたので、善庵の跡は次女の壻横山氏しん[#「塵」の「土」に代えて「辰」、U+9E8E、117-6]いだ。
 弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人いちにんもなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、すこぶる重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚きっきょうせしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見をおわって帰って、常の如く通用門をらんとすると、門番がたちまち本門のかたわらに下座した。榛軒はたれを迎えるのかと疑って、四辺しへんかえりみたが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆つめしゅうが平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
 目見はかくの如く世の人に重視せられるならいであったから、この栄をになうものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、ほとんどこれを何のついえてようかと思い惑った。
 目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客ひんかくすうもほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多くかくくべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百いおの兄忠兵衛が来て、三十両の見積みつもりを以て建築に着手した。抽斎は銭穀せんこくの事にうといことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家たいけ若檀那わかだんなあがりで、金をなげうつことにこそ長じていたが、※(「革+斤」、第3水準1-93-77)おしんでこれを使うことを解せなかった。工事いまだなかばならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
 平生へいぜい金銭に無頓着むとんじゃくであった抽斎も、これには頗る当惑して、のこぎりの音つちの響のする中で、顔色がんしょくは次第にあおくなるばかりであった。五百ははじめから兄の指図をあやぶみつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、一代に幾度いくたびというおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
 抽斎は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達ちょうだつせられるものではない。お前は何かあてがあってそういうのか。」
 五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしがおろかでも、当なしには申しませぬ。」

その三十九


 五百いおは女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へった。即ち市野迷庵の跡の家である。の今に至るまで石にられずにある松崎慊堂こうどうの文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡をいだのは松太郎光寿こうじゅで、それが三右衛門さんえもんの称をも継承した。迷庵の弟光忠こうちゅうは別に外神田そとかんだに店を出した。これよりのち内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼はよよ三右衛門を称し、これよよ市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳こうとくの代になっていた。光寿は迷庵の歿後わずかに五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字おさなな徳治郎とくじろうといったが、この時あらためて三右衛門を名告なのった。外神田の店はこの頃まだ迷庵のてつ光長こうちょうの代であった。
 ほどなく光徳の店の手代てだいが来た。五百いお箪笥たんす長持ながもちから二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両をることが出来た。
 三百両は建築のついえを弁ずるにはあまりある金であった。しかし目見めみえに伴う※(「酉+燕」、第3水準1-92-91)贈遺いんえんぞうい一切の費は莫大ばくだいであったので、五百はつい豊芥子ほうかいしに託して、おもなる首飾しゅしょく類を売ってこれにてた。その状まさに行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間にさしはさむことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
 抽斎の目見をした年のうるう四月十五日に、長男恒善つねよしは二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳きしが生れた。当時の家族は主人四十五歳、さい五百いお三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善やすよし十五歳、四女くが三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女いとは馬場氏に嫁し、三女とうは山内氏をぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香げんこうは亡くなっていたのである。
 嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等はすべて旧にるのである。八月かいに、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
 五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子貞固さだかたが目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる独礼どくれいはんに加わったのである。独礼とは式日しきじつに藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これよりしも二人立ににんだち、三人立等となり、遂に馬廻うままわり以下の一統礼に至るのである。
 当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然えんぜんたるコオル・ヂプロマチックをかたちづくっていて、その生活はすこぶる特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
 衣類を黒紋附もんつきに限っていた糸鬢奴いとびんやっこの貞固は、もとより読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇そんそうして、提挈ていけつをそのうちに求めていたことを思えば、留守居中稀有けうの人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡せっかんして抽斎をしょうじた。そしてかたちを改めていった。
「わたくしは今日こんにち父の跡を襲いで、留守居役を仰付おおせつけられました。今までとは違った心掛こころがけがなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立ようだつお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使つかいして君命をはずかしめずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附おもいつきだ。委細承知しました」と抽斎はこころよく諾した。

その四十


 抽斎は有合せの道春点どうしゅんてんの『論語』を取り出させて、まきの七を開いた。そして「子貢問曰しこうといていわく何如斯可謂之土矣いかなるをかこれこれをしというべき」という所から講じ始めた。もとより朱註をば顧みない。すべて古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本りくちょうぼんの如きは、何時なんどきでも毎葉まいよう毎行まいこうの文字の配置に至るまで、くうって思い浮べることが出来たのである。
 貞固さだかたは謹んでいていた。そして抽斎が「子曰しのたまわく噫斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)之人ああとしょうのひと何足算也なんぞかぞうるにたらん」に説きいたったとき、貞固の目はかがやいた。
 講じおわったのち、貞固はしばら瞑目めいもく沈思していたが、しずかって仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日こんにちから一命をして職務のために尽します。」貞固の目には涙がたたえられていた。
 抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百いおに「比良野は実に立派なさむらいだ」といったそうである。その声はふるいを帯びていたと、後に五百が話した。
 留守居になってからの貞固は、毎朝まいちょう日のいずると共に起きた。そして先ずうまやを見廻った。そこには愛馬浜風はまかぜつないであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死しょうしを共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽かんそうして仏壇の前に坐した。そして木魚もくぎょたたいて誦経じゅきょうした。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経がおわって、髪を結わせた。それから朝餉あさげぜんに向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。※(「肴+殳」、第4水準2-78-4)さかなには選嫌えりぎらいをしなかったが、のだへい蒲鉾かまぼこたしんで、かさずに出させた。これは贅沢品ぜいたくひんで、うなぎどんぶりが二百文、天麩羅蕎麦てんぷらそばが三十二文、盛掛もりかけが十六文するとき、一板ひといた二分二朱であった。
 朝餉あさげおわころには、藩邸での刻の大鼓たいこが鳴る。名高い津軽屋敷のやぐら大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家がきかずに、とうとう上屋敷を隅田川すみだがわの東にうつされたのだと、巷説こうせつに言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町おがわまちから本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家しょけの留守居に会う。従者は自らやしなっている若党草履取ぞうりとりの外に、主家しゅうけから附けられるのである。
 留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へく。八百善やおぜん平清ひらせい川長かわちょう青柳あおやぎ等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣はんさな作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。たとえば筵席えんせき觴政しょうせいの如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣とりやりをもしなくてはならなかった。就中なかんずく厳しく守られていたのは新参しんざん故参こさんの序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶あいさつしなくてはならなかった。
 津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百いお覚書おぼえがきるに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子優善やすよしが養子に往った家の名である。これにってれば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常のついえである。吉原に火災があると、貞固は妓楼ぎろう佐野槌さのづちへ、百両に熨斗のしを附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方まゆずみのむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実はふんどし一本買う銭もない。」

その四十一


 ひとしくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固さだかたに遅れて留守居に転じたものがある。平井氏ひらいうじ、名は俊章しゅんしょうあざな伯民はくみん小字おさなな清太郎せいたろう、通称は修理しゅりで、東堂とうどうと号した。文化十一年うまれで貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄せいろく二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
 貞固は好丈夫こうじょうふ威貌いぼうがあった。東堂もまた※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼう人に優れて、しかも温容したしむべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双璧そうへきだと称したそうである。
 当時の留守居役所には、この二人ふたりの下に留守居下役したやく杉浦多吉すぎうらたきち、留守居物書ものかき藤田徳太郎ふじたとくたろうなどがいた。杉浦は後喜左衛門きざえもんといった人で、事務に諳錬あんれんした六十余の老人であった。藤田は維新後にひそむと称した人で、当時まだ青年であった。
 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿をしょくせしめた。藤田は案をして呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様かきざまはどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔はすこぶる不機嫌に見えた。
 原来がんらい平井氏は善書ぜんしょの家である。祖父峩斎がさいはかつて筆札ひっさつ高頤斎こういさいに受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門せんえもん、その子を仙蔵せんぞうという。のち父の称をぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里さわだとうりの門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿をあらためて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといってもい。」こういって案を藤田にかえした。
 藤田は股栗こりつした。一身の恥辱、家族の悲歎が、こうべれている青年の想像に浮かんで、目には涙がいて来た。
 この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末てんまつを知った。
 貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通ひととおりわからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下そっかは気がかないのだ。」
 こういって置いて、貞固はほとんど同じような文句を巻紙まきがみに書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これでいかな。」
 東堂はごうも敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色をやわらげていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合にるが好い。」
 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。おもうに東堂はほか柔にしてうち険、貞固はほか猛にしてうち寛であったと見える。
 わたくしは前に貞固が要職の体面たいめんをいたわるがために窮乏して、古褌ふるふんどしを着けて年を迎えたことをしるした。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所なかいけいしょ大槻如電おおつきにょでんさんに語ったという一の事実があって、これが証につるに足るのである。
 この事はさきの日わたくしが池田京水けいすいの墓と年齢とを文彦さんに問いにった時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故なにゆえに如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いたしちが流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長ずいちょうであったからである。

その四十二


 東堂が質に入れたのは、銅仏一躯いっく六方印ろくほういん一顆いっかとであった。銅仏は印度インドで鋳造した薬師如来やくしにょらいで、戴曼公たいまんこうの遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印ゆういんである。
 質流しちながれになった時、この仏像を池田瑞長が買った。しかるに東堂はのち金が出来たので、瑞長に交渉して、あたいを倍してあがない戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜あいじゃくする縁故があるからである。
 戴曼公は書法を高天※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)こうてんいに授けた。天※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)、名は玄岱げんたいはじめの名は立泰りゅうたいあざな子新ししん、一のあざな斗胆とたん、通称は深見新左衛門ふかみしんざえもんで、帰化明人みんひとえいである。祖父高寿覚こうじゅかくは長崎に来て終った。父大誦たいしょうは訳官になって深見氏を称した。深見は渤海ぼっかいである。高氏は渤海よりでたからこの氏を称したのである。天※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)は書を以て鳴ったもので、浅草寺せんそうじ施無畏せむい※(「匸<扁」、第4水準2-3-48)へんがくの如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)の子が頤斎いさいである。頤斎の弟子ていし峩斎がさいである。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以ゆえんである。
 戴曼公はまた痘科を池田嵩山すうざんに授けた。嵩山の曾孫が錦橋きんきょう、錦橋のてつが京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏のたまたま獲た曼公の遺品を愛重あいちょうしてかなかった所以である。
 この薬師如来は明治のとなってから守田宝丹もりたほうたんが護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
 貞固と東堂とは、共に留守居の物頭ものがしらを兼ねていた。物頭は詳しくは初手しょて足軽頭あしがるがしらといって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼どくれいの格式である。平時は中下なかしも屋敷附近に火災のおこるごとに、火事装束しょうぞくを着けて馬にり、足軽数十人をしたがえて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里ほあしばんりはかつて留守居をののしって、国財をし私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかしたもつさんは少時帆足の文を読むごとに心たいらかなることを得なかったという。それは貞固のひとりを愛していたからである。
 嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子とうこが、痘を病んで死んだ。いで十五日に、五女癸巳きしが感染して死んだ。彼は七歳、これは三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子恒善つねよしが二十六歳で、柳島に隠居していた信順のぶゆき近習きんじゅにせられた。六月十二日に、二子優善やすよしが十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩やじまげんせき末期養子まつごようしになった。この年渋江氏は本所台所町だいどころちょうに移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
 優善は渋江一族の例を破って、わこうして烟草タバコみ、好んで紛華奢靡ふんかしゃびの地に足をれ、とかく市井のいきな事、しゃれた事にかたぶきやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
 本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町こいずみちょうで、屋敷は当時の切絵図きりえずに載せてある。

その四十三


 嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎たぐちぎさぶろうの養女いとめとった。五月十八日に、恒善に勤料つとめりょう三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
 伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人のまじわりすこぶる親しかった。楷書かいしょに片仮名をぜた榛軒の尺牘せきどくには、宛名あてなが抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
 榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大なかまえであった。庭には吉野桜よしのざくらしゅえ、花の頃には親戚しんせき知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒のさい飯田氏しほとむすめかえとが許多あまた女子おなごえきして、客に田楽でんがく豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。としはじめ発会式ほっかいしきも、他家にくらぶれば華やかであった。しほの母はもと京都諏訪すわ神社の禰宜ねぎ飯田氏のじょで、典薬頭てんやくのかみ某の家に仕えているうちに、その嗣子とわたくししてしほを生んだ。しほは落魄らくたくして江戸に来て、木挽町こびきちょうの芸者になり、ちとの財を得て業をめ、新堀しんぼりに住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほはらぬ父の記念かたみ印籠いんろう一つを、母からけ伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませたむすめかえは、一時池田京水の次男全安ぜんあんを迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水のもとに還したそうである。
 榛軒は辺幅へんぷくおさめなかった。渋江の家をうに、踊りつつ玄関からって、居間の戸の外から声を掛けた。自らうなぎあつらえて置いて来て、かゆ所望しょもうすることもあった。そして抽斎に、「どうぞおれに構ってくれるな、己には御新造ごしんぞう合口あいくちだ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食のみくいするを例としたそうである。
 榛軒が歿してから一月いちげつのち、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館せいじゅかんの講師にせられた。森枳園きえんらと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
 この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新をはかって、横山町よこやまちょうの家を漆器店しっきみせのみとし、別に本町ほんちょう二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、けいせんの二女、女中一人いちにん丁稚でっち一人をまわせた。
 嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木みきが生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、くが、水木の六人で、優善やすよしは矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、五百いお三十八歳の時である。
 この年二月二十六日に、堀川舟庵しゅうあんが躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人のうち森枳園が一人残された。
 安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男専六せんろくが生れた。後におさむ名告なのった人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦しふ糸の父田口儀三郎の窮をあわれんで、百両余の金をおくり、糸をば有馬宗智ありまそうちというものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、としに五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝てつだいを仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融えんゆう天皇の天元てんげん五年に、丹波康頼たんばやすよりが撰んだという『医心方いしんほう』である。
 保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔からおごそかに秘せられていた書が、たちまち目前に出て来たさまが、この語で好くあらわされている。「秘玉突然開※(「木+續のつくり」、第4水準2-15-72)ひぎょくとつぜんはこをひらきていづ瑩光明徹点瑕無えいこうめいてつてんかなし金龍山畔波濤起きんりょうさんはんはとうおこり龍口初探是此珠りょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時よろこびを記した詩である。龍口りょうこうといったのは、『医心方』が若年寄わかどしより遠藤但馬守胤統たねのりの手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口たつのくち北角きたかどであった。

その四十四


 日本の古医書は『続群書類従ぞくぐんしょるいじゅう』に収めてある和気広世わけひろよの『薬経太素やくけいたいそ』、丹波康頼たんばのやすよりの『康頼本草やすよりほんぞう』、釈蓮基しゃくれんきの『長生ちょうせい療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁ふかねすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』、丹波雅忠まさただの『医略抄』、宝永中に印行いんこうせられた具平親王ともひらしんのうの『弘決外典抄ぐけつげてんしょう』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書はもと字類に属して、ここに算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、出雲広貞いずもひろさだらのたてまつった『大同類聚方だいどうるいじゅほう』の如きは、散佚さんいつして世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、永観えいかん二年にたてまつられた『医心方』が、ほとんど九百年の後の世にでたのを見て、学者が血をき立たせたのもあやしむに足らない。
『医心方』は禁闕きんけつの秘本であった。それを正親町おおぎまち天皇がいだして典薬頭てんやくのかみ半井なからい通仙院つうせんいん瑞策ずいさくに賜わった。それからはよよ半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政のはじめに、仁和寺にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡がきわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美やまとのかみせいびは献ずることをがえんぜず、その子修理大夫しゅりのだいぶ清雅せいがもまた献ぜず、ついに清雅の子出雲守広明ひろあきに至った。
 半井氏が初めなにことばを以て命を拒んだかは、これをつまびらかにすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月みそか洛東団栗辻らくとうどんぐりつじから起って、全都を灰燼かいじんに化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄によりの品でもいから出せと誅求ちゅうきゅうした。おそらくは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう口上こうじょうを以て『医心方』を出した。外題げだいは同じであるが、筆者区々まちまちになっていて、誤脱多く、はなはだ疑わしき※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)そかんである。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷ろくごう筑前守政殷まさただの手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人こうようにん渡辺三太平わたなべさんたへいを以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統たねのりを以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵かねぐらから渡されるであろう。書籍はとくと取調べ、かつ刻本売下うりさげ代金を以て費用を返納すべき積年賦せきねんぷをも取調べるようにということであった。
 半井なからい広明の呈した本は三十巻三十一冊で、けんの二十五に上下がある。こまかに検するに期待にそむかぬ善本であった。もと『医心方』は巣元方そうげんぼうの『病源候論びょうげんこうろん』をけいとし、隋唐ずいとうの方書百余家をとして作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡いつぼうしたものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良あんりょう法眼ほうげんである。楽真院は※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいてい、安良は暁湖ぎょうこで、ならびに二百俵の奥医師であるが、彼は法印、これは法眼になっていて、当時くらの分家が向柳原むこうやなぎはらの宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』影写程式えいしゃていしきというものが出来た。写生は毎朝辰刻まいちょうたつのこくに登館して、一人一日いちにんいちじつけつを影模する。三頁を模しおわれば、任意に退出することを許す。三頁を模することあたわざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月さくに起って、二十日に終る。日に二頁を模するものはみそかに至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五


 半井なからい本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことをたぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都加茂かもの医家岡本由顕ゆうけんの家から出た『医心方』けんの二十二である。
 正親町おおぎまち天皇の時、じゅ五位じょう岡本保晃ほうこうというものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故なにゆえか原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
 由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光いえみつが半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策のむすめが産後に病んで死にひんした。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻のうちから、一巻をいて贈りはしなかっただろう。おおよそこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
 既にして岡本氏の家衰えて、畑成文はたせいぶんに託してこのまきろうとした。成文は錦小路にしきこうじ中務権少輔なかつかさごんしょうゆう頼易よりおさに勧めて元本を買わしめ、副本はこれをおのれが家にとどめた。錦小路は京都における丹波氏のえいである。
 岡本氏の『医心方』一巻は、かくの如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
 この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職にいてから十カ月ののちである。
 抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百いお三十九歳、くが八歳、水木みき二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善やすよしは二十歳になっていた。二年ぜんから寄寓きぐうしていた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、あだなるよろこびしるさなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男翠暫すいざんが生れたことである。後十一歳にして夭札ようさつした子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺りうごかしてたしめたものは、ひとり地震のみではなかった。
 学問はこれを身に体し、これを事にいて、はじめて用をなすものである。しからざるものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽けんさんして造詣ぞうけいの深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしもただちにこれを事に措こうとはしない。その※(「石+乞」、第4水準2-82-28)こつこつとしてとしけみする間には、心頭しばらく用と無用とを度外に置いている。大いなる功績はかくの如くにして始てち得らるるものである。
 この用無用を問わざる期間は、ただとしを閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世をかさぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然せつぜんとして二をなしている。もし時務の要求がようやく増長しきたって、強いて学者の身にせまったなら、学者がその学問生活をなげうってつこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
 わたくしは安政二年に抽斎がかいを時事にるるに至ったのを見て、かくの如き観をなすのである。

その四十六


 米艦が浦賀うらがったのは、二年ぜんの嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月にふねが再び浦賀に来て、六月に下田しもだを去るまで、江戸の騒擾そうじょうは名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑かっちゅうの準備を令した。動員のそなえのない軍隊の腑甲斐ふがいなさがうかがわれる。新将軍家定いえさだもとにあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
 今年こんねんってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘ぼんしょうを以て大砲小銃を鋳造すべしというみことのりが発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って※(「宀/(さんずい+駸のつくり)」、第4水準2-8-7)やや風潮の化誘かゆうする所となった。それには当時産蓐さんじょくにいた女丈夫じょじょうふ五百いお啓沃けいよくあずかって力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
 津軽順承ゆきつぐは一の進言に接した。これをたてまつったものは用人ようにん加藤清兵衛せいべえ側用人そばようにん兼松伴大夫かねまつはんたゆう、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人のくこれを遵行じゅんこうするものは少い。おおむね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶにいとまあらざるのである。よろしく現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれがてしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑あらためを行い、手入ていれを怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
 この進言が抽斎の意よりで、兼松三郎がこれをけて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩こうはん皆これを知っていた。三郎は石居せききょと号した。その隆準りゅうじゅんなるを以ての故に、抽斎は天狗てんぐと呼んでいた。佐藤一斎、古賀※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)こがとうあんの門人で、学殖儕輩せいはいえ、かつて昌平黌しょうへいこうの舎長となったこともある。当時弘前吏胥りしょ中の識者として聞えていた。
 抽斎は天下多事の日に際会して、ことたまたま政事に及び、武備に及んだが、かくの如きはもとよりその本色ほんしょくではなかった。抽斎の旦暮たんぼ力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明せんめいするにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。これは学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
 抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟しんちょくしていたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』のばつに、緑汀会りょくていかいの事をしるして、三十年前だといってある。緑汀とは多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)たきさいていが本所緑町の別荘である。※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭は毎月まいげつ一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らをここつどえた。諸子は環坐して古本こほんを披閲し、これが論定をなした。会ののちには宴を開いた。さて二州橋上酔にしゅうきょうじょうえいに乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子※(「褒」の「保」に代えて「臾−人」、第4水準2-88-19)ほうろくれ勤め、各部とみに成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
 わたくしはこの年の地震の事を語るにさきだって、台所町の渋江の家に座敷牢ざしきろうがあったということに説き及ぼすのをかなしむ。これは二階の一室いっしつめぐらすに四目格子よつめごうしを以てしたもので、地震の日には工事既におわって、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者をいださざることを得なかったであろう。
 座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男優善やすよしがために設けたものであった。

その四十七


 抽斎が岡西氏とくうませた三人の子のうち、ただ一人ひとり生き残った次男優善は、少時しょうじ放恣ほうし佚楽いつらくのために、すこぶる渋江一家いっかくるしめたものである。優善には塩田良三しおだりょうさんという遊蕩ゆうとう夥伴なかまがあった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹につえを立てて歩いたという楊庵ようあんが、家附いえつきむすめに生せた嫡子である。
 わたくしは前に優善が父兄とたしみを異にして、煙草をんだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴けんてきの量なくして、あらゆる遊戯にふけったのである。
 抽斎が座敷牢を造った時、天保六年うまれの優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、須臾しゅゆも相離るることがなかった。
 或時優善は松川飛蝶まつかわひちょう名告なのって、寄席よせに看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶すいちょうと名告って、共に高座に登った。鳴物入なりものいりで俳優の身振みぶり声色こわいろを使ったのである。しかも優善はいわゆる心打しんうちで、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟をりて墨田川すみだがわ上下じょうかして、影芝居かげしばいを興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那わかだんなである。中にも良三の父は神田松枝町まつえだちょうに開業して、市人に頓才とんさいのある、見立みたての上手な医者と称せられ、その肥胖ひはんのために瞽者こしゃ看錯みあやまらるるおもてをばひろられて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座こうざに顔を※(「日+麗」、第4水準2-14-21)さらすことをはばからなかったのである。
 二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入いでいりし、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚しんせき故旧をしてつぐのわしめ、度重たびかさなって償う道がふさがると、跡をくらましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失踪しっそうの間の事で、その早晩かえきたるをうかがってこのうちに投ぜようとしたのである。
 十月二日は地震の日である。空はくもって雨が降ったりんだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連しゅうもしゅくれんにも逐次に人の交迭こうてつがあって、豊芥子ほうかいしや抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震はの刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動がようやいきおいを増した。寝間ねまにどてらをしていた抽斎は、ね起きて枕元まくらもとの両刀をった。そして表座敷へ出ようとした。
 寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱がうずたかく積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れちた。抽斎はその間にはさまって動くことが出来なくなった。
 五百いおは起きて夫のうしろに続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
 暫くして若党仲間ちゅうげんが来て、夫妻をたすけ出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
 抽斎は衣服を取り繕うひまもなく、せて隠居信順のぶゆきを柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅ていたくが破損したので、後に浜町はまちょうの中屋敷に移った。当主順承ゆきつぐは弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
 抽斎は留守居比良野貞固さだかたに会って、救恤きゅうじゅつの事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、むねくるにいとまあらず、直ちに廩米りんまい二万五千俵を発して、本所の窮民をにぎわすことを令した。勘定奉行平川半治ひらかわはんじはこの議にあずからなかった。平川は後に藩士がことごとく津軽にうつるに及んで、独りながいとまを願って、深川ふかがわ米店こめみせを開いた人である。

その四十八


 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉くかたぶき倒れていた。二階の座敷牢は粉韲ふんせいせられてあとだにとどめなかった。対門たいもんの小姓組番頭ばんがしら土屋つちや佐渡守邦直くになおの屋敷は火を失していた。
 地震はそのんでは起り、起ってはんだ。町筋ごとに損害の程度は相殊あいことなっていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕むきずなものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中やなか天王寺てんのうじの塔は九輪くりんが落ち、浅草寺の塔は九輪がかたぶいた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。おおやけに届けられた変死者が四千三百人であった。
 三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅ていたくのあるものは庭に小屋掛こやがけをして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日のよる吹上ふきあげの庭にある滝見茶屋たきみぢゃやに避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
 幕府の設けた救小屋すくいごやは、幸橋さいわいばし外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
 この年抽斎は五十一歳、五百いおは四十歳になって、子供にはくが水木みき、専六、翠暫すいざんの四人がいた。矢島優善やすよしの事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父のしょう牧は抽斎のもと寄寓きぐうした。
 牧は寛政二年うまれで、はじめ五百の祖母が小間使こまづかいに雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に紙問屋かみどいや山一やまいちの女くみをめとった時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家ふうか懐子ふところごで、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質をけ継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特にかんと称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故せいこにさえ通じていたから、くみがただにこれを制することが難かったばかりでなく、ややもすればこれに制せられようとしたのも、もとよりあやしむに足らない。
 既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、ついで文化十四年に次男某を生むに当って病にかかり、生れた子とともに世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴じゅうちょうになった。その時牧がくみの事を度々たびたび聾者つんぼと呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞きとがめて、のちまでも忘れずにいた。
 五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどくいきどおった。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親のかたきがありますね。いつかいさんと一しょにかたきを討とうではありませんか」といった。そののち五百は折々ほうき塵払ちりはらいを結び附けて、双手そうしゅの如くにし、これに衣服をまとって壁に立て掛け、さてこれをいきおいをなして、「おのれ、母のかたき、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意のす所をさとっていたが、父ははばかってあえて制せず、牧はおそれて咎めることが出来なかった。
 牧は奈何いかにもして五百の感情をやわげようと思って、甘言を以てこれをいざなおうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百におのれを母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、かくの如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
 五百が早く本丸にり、また藤堂家に投じて、始終家にとおざかっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧ととも起臥おきふしすることをこころよからず思って、余所よそへ出て行くことを喜んだためもある。
 こういう関係のある牧が、今寄辺よるべを失って、五百の前にこうべを屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百はうらみに報ゆるに恩を以てして、牧のおいを養うことを許した。

その四十九


 安政三年になって、抽斎は再び藩の政事にくちばしれた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩はすべからく当主順承ゆきつぐと要路の有力者数人とを江戸にとどめ、隠居信順のぶゆき以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて多人数たにんずの江戸づめはその必要を認めないからである。何故なにゆえというに、もと諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣をて、冗費を節することをはかっている。諸侯に土木の手伝てつだいを命ずることをめ、府内を行くに家に窓蓋まどぶたもうくることをとどめたのを見ても、その意向をうかがうに足る。縦令たとい諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早もはやこれを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時にあたって、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘せいちゅうを加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置にでしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とにわかれて、荏苒じんぜん決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士をののしって国猿くにざるといい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。かくの如きは今の多事の時に処する所以ゆえんの道でないというのである。
 この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論がさかんに起った。しかし後にはこれに左袒さたんするものも多くなって、順承が聴納ていのうしようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いにいかった。信順は平素国猿を憎悪することのもっとはなはだしい一人いちにんであった。
 この議に反対したものは、ひとり浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士のほとんど全体は弘前にくことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善しんぜんであった比良野貞固さだかたは、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、きたって論難した。議からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、ことごとく窮北の地にうつそうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎とまじわりを絶つに至った。
 この頃国勝手くにがっての議に同意していた人々のうち、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、かの議を唱えた抽斎らは肩身の狭いおもいをした。継嗣問題とは当主順承ゆきつぐが肥後国熊本の城主細川越中守斉護なりものの子寛五郎のぶごろう承昭つぐてるを養おうとするに起った。順承はむすめ玉姫たまひめを愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端おおかわばた邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子にもらい受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人そばようにん加藤清兵衛、用人兼松伴大夫はんたゆうは帰国のうえ隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上なが蟄居ちっきょを命ぜられた。
 石居せききょ即ち兼松三郎は後に夢醒むせいと題して七古しちこを作った。うちに「又憶世子即世後またおもうせいしそくせいののち継嗣未定物議伝けいしいまださだまらずぶつぎつたう不顧身分有所建みぶんをかえりみずけんずるところあり因冒譴責坐北遷よりてけんせきをおかしてほくせんにざす」の句がある。そのとがめを受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖かんこうたまたまそしられ屈原独清くつげんはひとりきよし、」という語があった。
 この年抽斎の次男矢島優善やすよしは、遂に素行修まらざるがために、表医者おもていしゃへんして小普請こぶしん医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋れんけいして閉門三日さんじつに処せられた。

その五十


 優善の夥伴なかまになっていた塩田良三りょうさんは、父の勘当をこうむって、抽斎の家の食客しょっかくとなった。我子の乱行らんぎょうのためにせめを受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長すんちょうをも※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)みのがさずに、これに保護ほうごを加えて、ほとんどその瑕疵かしを忘れたるが如くであった。年来森枳園きえん扶掖ふえきしているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。もとより抽斎のもとには、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこのむれあらたきたり加わったに過ぎない。
 数月すうげつのちに、抽斎は良三を安積艮斎あさかごんさいの塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松にほんまつにある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌しょうへいこうの教授になっていた。抽斎はの終始濂渓れんけいの学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材りさいたるべきを知って、これを培養することをはかったのであろう。
 抽斎の先妻徳の里方さとかた岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
 栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれとまじわりを訂し、遂にその妹徳をめとるに至ったのである。徳の亡くなったのちも、次男優善がそのしゅつであるので、抽斎一家いっけは岡西氏と常に往来していた。
 栄玄は樸直ぼくちょくな人であったが、往々性癖のために言行の規矩きくゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入ねずみいらずの中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日※(「魚+二点しんにょうの連」、第4水準2-93-72)ぶり一尾を携え来って、抽斎におくり、帰途に再びわんことを約して去った。五百はために酒饌しゅぜんを設けようとしてすこぶる苦心した。それは栄玄がぜんに対して奢侈しゃしを戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海※(「魚+二点しんにょうの連」、第4水準2-93-72)きょうすることを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、いろ悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走ちそうをすることは、わたしのうちではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過よすぎたのであろう。
 もっとも抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子とまを遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下ちゅうかに生せたむすめである。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板のござを敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東かとう獅子吼ししくを恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百にはかって苫を貰い受け、後下総しもうさの農家に嫁せしめた。
 栄玄の子で、父に遅るることわずか四月しげつにして歿した玄亭は、名を徳瑛とくえいあざな魯直ろちょくといった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。むすめは名をはつといった。
 この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生へいぜいの学術上研鑽けんさんの外に最も多くおもいを労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手くにがっての議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ちたなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がそのくらいにあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれをあえてしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。うらむらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いてつことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟きしあきらかにする時期の早きを致すことが出来なかった。

その五十一


 安政四年には抽斎の七男成善しげよしが七月二十六日を以て生れた。小字おさなな三吉さんきち、通称は道陸どうりくである。即ち今のたもつさんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
 成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣えなを乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧しゅくけいであったが、嘉永三、四年の頃癲癇てんかんを病んで、低能の人と化していた。天保六年のうまれであったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方やくほうとして用いんがためであった。
 抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜ひとよを泣き明したのは、昔抽斎の父允成ただしげの茶碗の余瀝よれきねぶったという老尼妙了みょうりょうである。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、つね小児しょうにの世話をしていたが、中にも抽斎の三女とうを愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
 この年さき貶黜へんちつせられた抽斎の次男矢島優善やすよしは、わずか表医者おもていしゃすけを命ぜられて、なかばその位地を回復した。優善の友塩田良三りょうさん安積艮斎あさかごんさいの塾に入れられていたが、或日師の金百両をふところにして長崎にはしった。父楊庵は金を安積氏にかえし、人を九州にって子を連れ戻した。良三はまだのこりの金を持っていたので、迎えに来た男をしたがえて東上するのに、駅々で人におごること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護なりもりの四子寛五郎のぶごろうは、津軽順承ゆきつぐ女壻じょせいにせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情かじょうに通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子きょうし良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿をしのいで、旅中下風かふうに立っている少年のたれなるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時わずかに十七歳であった。
 小野氏ではこの年令図れいとが致仕して、子富穀ふこくが家督した。令図は小字おさなな慶次郎けいじろうという。抽斎の祖父本皓ほんこうの庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国川越かわごえの人某のむすめである。令図はでて同藩の医官二百石小野道秀おのどうしゅう末期まつご養子となり、有尚ゆうしょうと称し、のちまた道瑛どうえいと称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日うまれで、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、だん富穀ふこくといい、じょひでといった。
 富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年のうまれである。十一歳にして、森枳園きえんと共に抽斎の弟子ていしとなった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府じょうふ中の富人ふうじんであった。妹秀は長谷川町はせがわちょうの外科医鴨池道碩かもいけどうせきに嫁した。
 多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家ばつけ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていが六十三歳で歿し、十一月にむこう柳原やなぎはらの本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭が既にいて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭の子安琢あんたくが多紀安琢二百俵、父楽春院らくしゅんいんとして載せてあり、暁湖は旧にって多紀安良あんりょう法眼ほうげん二百俵、父安元あんげんとして載せてある。※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。そのなんの故なるをつまびらかにしない。

その五十二


 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいてい、名は元堅げんけんあざな亦柔えきじゅう、一に三松さんしょうと号す。通称は安叔あんしゅくのち楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山けいざんの次男に生れた。幼時犬をたたかわしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄にかずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。いくばくもなくして節を折って書を読み、精力しゅうえ、識見ひとを驚かした。分家したはじめ本石町ほんこくちょうに住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄ちつろく宗家そうかと同じく二百俵三十人扶持である。
 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌やくじを給するのみでなく、夏は※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)かやおくり、冬は布団ふとんおくった。また三両から五両までの金を、貧窶ひんるの度に従って与えたこともある。
 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭は抽斎の最も親しい友の一人ひとりで、二家にかの往来は頻繁ひんぱんであった。しかし当時法印の位ははなはとうといもので、※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭が渋江の家に来ると、茶は台のありふたのある茶碗にぎ、菓子は高坏たかつきに盛って出した。このうつわは大名と多紀法印とに茶菓ちゃかを呈する時に限って用いたそうである。※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭ののち安琢あんたくいだ。
 暁湖、名は元※(「日+斤」、第3水準1-85-14)、字は兆寿ちょうじゅ、通称は安良あんりょうであった。桂山の孫、※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57)りゅうはんの子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父をうしなって、八月四日に宗家を継承した。暁湖ののちいだのは養子元佶げんきつで、実はすえの弟である。
 安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成善しげよしが藩主津軽順承ゆきつぐに謁した。年はじめて二歳、今のよわいを算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人にいだかれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
 五月十七日には七女さきが生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
 この年には七月から九月に至るまで虎列拉コレラが流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊おんすぐれあそばされず」ということであったが、八日にはたちま薨去こうきょの公報が発せられ、家斉いえなりの孫紀伊宰相慶福よしとみが十三歳で嗣立しりつした。家定の病は虎列拉であったそうである。
 この頃抽斎は五百いおにこういう話をした。「おれは公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様くぼうさまの喪が済み次第仰付おおせつけられるだろうということだ。しかしそれをおうけをするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家しゅうけてて栄達をはかる気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することにめた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己もかねて五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子ろうし』の註をはじめとして、迷庵※(「木+夜」、第3水準1-85-76)えきさいに誓った為事しごとを果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作にほしいままにせしむるに至らなかった。

その五十三


 八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐ばんさんぜんに向った。しかし五百が酒をすすめた時、抽斎は下物げぶつ魚膾さしみはしくださなかった。「なぜあがらないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐おうどがあった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
 多紀安琢あんたくおなじく元佶げんきつ、伊沢柏軒、山田椿庭ちんていらが病牀びょうしょうに侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広ぎょうこう、通称は昌栄しょうえいである。抽斎の父允成ただしげの門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国こうずけのくに高崎の城主松平右京亮うきょうのすけ輝聡てるとしの家来で、本郷弓町ゆみちょうに住んでいた。
 抽斎は時々じじ譫語せんごした。これを聞くに、夢寐むびあいだに『医心方』を校合きょうごうしているものの如くであった。
 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言ゆいごんうちに、兼て嗣子と定めてあった成善しげよしを教育する方法があった。経書けいしょを海保漁村に、筆札ひっさつを小島成斎に、『素問そもん』を多紀安琢に受けしめ、機を蘭語らんごを学ばしめるようにというのである。
 二十八日の夜うしの刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸いがい谷中やなか感応寺に葬られた。
 抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人びぼうじん五百を始として、岡西氏のしゅつ次男矢島優善やすよし二十四歳、四女くが十二歳、六女水木みき六歳、五男専六せんろく五歳、六男翠暫すいざん四歳、七男成善しげよし二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百のしゅつである。
 抽斎の子にして父にさきだって死んだものは、尾島氏のしゅつ長男恒善つねよし、比良野氏の出馬場玄玖げんきゅう妻長女いと、岡西氏の出二女よし、三男八三郎、山内氏の出三女山内とう、四男幻香、五女癸巳きし、七女さきの三子五女である。
 矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。はじめの地位に復したのである。
 五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎にさきだつこと一月いちげつ、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋ぬりものどいやの業はここに廃絶した。跡にのこったのは未亡人安四十四歳、長女けい二十一歳、次女せん十九歳の三人である。五百は台所町のやしき空地くうちに小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏のまつりを奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
 比良野貞固さだかたは抽斎の歿した直後から、しきりに五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年ぜんに抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼じょうぎを忘るることなく、早晩疇昔ちゅうせきしたしみを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室くうしつが多い。どうぞそこへ移って来て、我家わがいえに住む如くに住んでもらいたい。自分はまずしいが、日々にちにちの生計には余裕がある。決して衣食のあたいは申し受けない。そうすれば渋江一家いっけは寡婦孤児として受くべきあなどりを防ぎ、無用のついえを節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。

その五十四


 比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百をらぬのであった。五百は人の廡下ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論もちろんである。夫の存命していた時のように、多くの奴婢ぬひを使い、食客しょっかくくことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者のうちには去らしめようにもいて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百はおのれが人にらんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内にたのむ所があって、あえて自らこのしょうに当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以ゆえんである。
 森枳園きえんはこの年十二月五日に徳川家茂いえもちに謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午ぼご十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日ねんげつじつは家定がこうじてから四月しげつのちである。その枳園自撰の文なるを思えば、すこぶあやしむべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
 この年の虎列拉コレラは江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人ぶんじんでこれに死したものには、岩瀬京山いわせけいざん安藤広重あんどうひろしげ抱一ほういつ門の鈴木必庵すずきひつあん等がある。市河米庵いちかわべいあんも八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚いんせきとは抽斎、宗右衛門の二人ににんうしなって、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
 抽斎のあらわす所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜りゅうしんふ』とがあって、相踵あいついで支那人の手にって刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述にあずかったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。徐承祖じょしょうそが『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじ拙於考証こうしょうにつたなく不甚留意はなはだしくはりゅういせず」といっているのは、我国においてはじめて手を校讐こうしゅうの事にくだした抽斎らに対して、備わるを求むることのはなはだ過ぎたるものではなかろうか。
 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)よしだこうとんが首唱し、狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)えきさいがこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)の傍系には多紀桂山があり、※(「木+夜」、第3水準1-85-76)斎の傍系には市野迷庵、多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいてい、伊沢蘭軒、小島宝素こじまほうそがあり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖ほうちゅう、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通いずみばしどおりに住していた。名は尚質しょうしつ、一学古がくこである。抱沖はその子春沂しゅんきで、百俵寄合よりあい医師から出て父の職をぎ、家は初め下谷したや二長町にちょうまち、後日本橋にほんばし榑正町くれまさちょうにあった。名は尚真しょうしんである。春沂ののち春澳しゅんいく、名は尚絅しょうけいいだ。春澳の子は現に北海道室蘭むろらんにいる杲一こういちさんである。陸実くがみのるが新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたるまでたれもこれをたださずにいる。またこの学統について、長井金風ながいきんぷうさんは篁※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)の前に井上蘭台いのうえらんだいと井上金峨きんがとを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさにわずかに全著を成就するに至ったのである。
 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日けいじつ国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。

その五十五


 抽斎の医学上の著述には、『素問識小そもんしきしょう』、『素問校異』、『霊枢れいすう講義』がある。就中なかんずく『素問』は抽斎の精をつくして研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文せつもん』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾けつきゅうなりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣ぎょくぼうひけつ』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる」の文中、抽斎が正当を連文れんぶんとなしたのを賞してある。抽斎の説には発明きわめて多く、かくの如き類はその一斑いっぱんに過ぎない。
 抽斎遺す所の手沢本しゅたくぼんには、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経なんけい』がある。
 抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田京水けいすいの説を筆受ひつじゅしたもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
 雑著には『晏子あんし春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考たかおこう』がある。『劇神仙話』は長島五郎作のことを録したものである。『高尾考』はおしむらくは完書をなしていない。
※語えいご[#「衛/心」、U+39A3、165-14]』は抽斎が国文を以て学問の法程をして、及門きゅうもんの子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保辛卯しんぼう季秋きしゅう抽斎酔睡すいすい中に※言えいげん[#「衛/心」、U+39A3、165-15]す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色こうしょくの半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴ごうてつしてある。そのもくを挙ぐれば、煩悶異文弁はんもんいぶんべん仏説阿弥陀経碑ぶっせつあみだきょうひ、春秋外伝国語ばつ荘子注疏そうしちゅうそ跋、儀礼跋、八分書孝経はちふんしょこうきょう跋、橘録きつろく跋、沖虚至徳真経釈文ちゅうきょしとくしんきょうしゃくぶん跋、青帰せいき書目蔵書目録跋、活字板左伝さだん跋、宋本校正病源候論跋、元板げんはん再校千金方せんきんほう跋、書医心方後いしんほうののちにしょす知久吉正翁墓碣ちくよしまさおうぼけつ駱駝考らくだこう※(「やまいだれ+(攤−てへん)」、第3水準1-88-63)※(「やまいだれ+奐」、第4水準2-81-62)たんたん、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊らんけんせんせいのれいにつぐの十八篇である。この一冊は表紙に「※[#「衛/心」、U+39A3、166-6]語、抽斎述」の五字が篆文てんぶんで題してあって、首尾すべて抽斎の自筆である。徳富蘇峰とくとみそほうさんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
 抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今すで佚亡いつぼうしたものもある。就中なかんずく日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、※(「褒」の「保」に代えて「臾−人」、第4水準2-88-19)ほうぜんたる大冊数十巻をなしていた。これはかみただちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成ただしげの日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、たもつさんが蔵していた。然るに保さんは東京とうけいから浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛りょうがけに納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護ほうごを加うることを怠った。そしてことごとくこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成のあらわす所の『定所ていしょ雑録』等約三十冊があった。おもうにこの諸冊は既に屏風びょうぶふすま葛籠つづら等の下貼したばりの料となったであろうか。それとも何人なにひとかの手に帰して、何処どこかに埋没しているであろうか。これを捜討そうとうせんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)るまで歎惜してまぬのである。
直舎ちょくしゃ伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号をいたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。かみは宝永元年からしもは天保九年に至る。所々しょしょぜんいわく低書ていしょした註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽しんよう開記』、『御系図ごけいず三通』、『歴年亀鑑きかん』、『孝公行実こうこうぎょうじつ』、『常福寺由緒書ゆいしょがき』、『津梁しんりょう院過去帳抄』、『伝聞でんぶん雑録』、『東藩とうはん名数』、『高岡霊験記たかおかれいげんき』、『諸書案文あんもん』、『藩翰譜はんかんぷ』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
つの海』は抽斎の作った謡物うたいもの長唄ながうたである。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』とともに、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文とじぶみである。
『仮面の由来』、これもまた片々へんぺんたる小冊子である。

その五十六


呂后千夫りょこうせんふ』は抽斎の作った小説である。庚寅かのえとらの元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百いおが来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍すへん読過したそうである。或時それを筑山左衛門ちくさんさえもんというものが借りて往った。筑山は下野国しもつけのくに足利あしかがの名主だということであった。そしてついかえさずにしまった。以上は国文で書いたものである。
 この著述のうち刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『※語えいご[#「衛/心」、U+39A3、168-8]』、富士川游さんの所蔵の『直舎ちょくしゃ伝記抄』およびすで散佚さんいつした諸書を除く外は、皆たもつさんが蔵している。
 抽斎の著述はおおむかくの如きに過ぎない。致仕したのちに、力を述作にほしいままにしようと期していたのに、不幸にして疫癘えきれいのためにめいおとし、かつて内に蓄うる所のものが、遂にほかあらわるるに及ばずしてんだのである。
 わたくしはここに抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地かられば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖こんろんに承認すべきものではない。ここにおいて考証家の末輩まつばいには、破壊を以て校勘の目的となし、ごうもピエテエのあとを存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、もとより人文じんぶん進化の道を蔽塞へいそくすべき陋見ろうけんであるが、考証学者中に往々修養のない人物をだしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養のまったからんことを欲するには、考証をくことは出来ぬと信じている。何故なにゆえというに、修養には六経りくけいを窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証につことがあるというのである。
 抽斎はその『※語えいご[#「衛/心」、U+39A3、169-9]』中にこういっている。「およそ学問の道は、六経りくけいを治め聖人せいじんの道を身に行ふを主とする事は勿論もちろんなり。さてその六経を読みあきらめむとするには必ず其一言いちげん一句をもつまびらかに研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字もんじの音義をつまびらかにすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、づ善本を多く求めて、異同を比讐ひしゅうし、謬誤びゅうごを校正し、其字句を定めてのちに、小学に熟練して、義理始て明了なることをたとへば高きに登るに、ひくきよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕さいさい末業まつぎょうに似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むることあたはず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業たいぎょうに似たれども、其内しゅとする所の書をもっぱら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人にしたがひておしえを受くべき所なり。さてかくの如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
 これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何にって修養していか分からぬことになるというのである。さて抽斎のかくの如き見解は、全く師市野迷庵のおしえに本づいている。

その五十七


 迷庵の考証学が奈何いかなるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子こうし堯舜ぎょうしゅん三代の道を述べて、その流義を立てたまへり。堯舜より以下を取れるは、其事のあきらかに伝はれる所なればなり。されども春秋のころにいたりて、世変り時うつりて、其道一向に用ゐられず。孔子もつては見給へども、遂に行かず。ついかえり、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出せいだして覚ゆるがよし。次に九経きゅうけいをよく読むべし。漢儒の注解はみないにしえより伝受あり。自分の臆説おくせつをまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤ていい朱熹しゅきおのが学を建てしより、近来伊藤源佐いとうげんさ荻生惣右衛門おぎゅうそうえもんなどとふやから、みなおのれの学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇まっくらになりてわからず。余もまたわかかりしよりこの事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令のむねにしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
 要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証にって至るより外ないと信じたのである。もとよりこれは捷径しょうけいではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人いちにんの生涯をついやすかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者はここに従事せずにはいられぬのである。
 然らば学者は考証中に没頭して、修養にいとまがなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
 抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないでいものはない。十三ぎょうといい、九経といい、六経という。ならべ方はどうでも好いが、秦火しんかかれた楽経がくけいは除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々ことごとしくへども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及すぎたるはなおおよばざるがごとし身行しんこうの要とし、無為不言ぶいふげんを心術のおきてとなす。此二書をさへく守ればすむ事なり」というのである。
 抽斎は百尺竿頭ひゃくせきかんとう更に一歩を進めてこういっている。「ただし論語の内には取捨すべき所あり。王充おうじゅうしょ問孔篇もんこうへん及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文それせいけんのふでをくだしぶんをつくるや用意詳審いをもちいてくわしくつまびらかにするも尚未可謂尽得実なおいまだことごとくはじつをうというべからず況倉卒吐言いわんやそうそつのとげん安能皆是いずくんぞよくみなぜならんや」という見識である。
 抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々そうそうとしてかみにあり。人は両間りょうかんに生れて性皆相近し。ならい相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。これ。孔子いわく述而不作のべてつくらず信而好古しんじていにしえをこのむ窃比我於老彭ひそかにわれをろうほうにひす。かく宣給のたもふときは、孔子の意もまた自然に相近し」といったのが即ちこれである。

その五十八


 抽斎は『老子』を尊崇そんそうせんがために、先ずこれをヂスクレヂイにおとしいれた仙術を、道教の畛域しんいき外にうことをはかった。これは早くしん方維甸ほういでん嘉慶板かけいばんの『抱朴子ほうぼくし』に序して弁じた所である。さてこの洗冤せんえんおこなったのちにこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知ひとのおのれをしらざるをうれえず曾子そうし有若無あれどもなきがごとく実若虚じつなれどもきょなるがごとしなどとへる、皆老子の意に近し。かつ自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家ぶっか漠然まくねんに帰すると云ふことあり。くうに体する大乗のおしえなり。自然と云ふより一層あとなきことなり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌こうてい仁義じんぎより初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之いつもってこれをつらぬくは此教を一にして執中しっちゅうに至り初て仏家大乗の一場いちじょうに至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
 抽斎はついに儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはそのうちにも契合点けいごうてんを見出だして、安井息軒やすいそっけんの『弁妄べんもう』などと全く趣をことにした書をあらわしたかも知れない。
 以上は抽斎の手記した文について、その心術身行しんこうってきたる所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百いおが抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日このごろ保さんがわたくしのために筆にのぼせたのである。わたくしは今みだりに潤削を施すことなしに、これをここに収めようと思う。
 抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷ぐていの十六字を口にしていた。の「人心惟危じんしんこれあやうく道心惟微どうしんこれびなり惟精惟一これせいこれいつ允執厥中まことにそのちゆをとる」の文である。かみの三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げたこととなしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言こげん古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一これせいこれいつの解釈は王陽明おうようめいに従うべきだといっていたそうである。
 抽斎は『れい』の「清明在躬せいめいみにあれば志気如神しきしんのごとし」の句と、『素問そもん』の上古天真論じょうこてんしんろんの「※(「りっしんべん+炎」、第3水準1-84-52)虚無てんたんとしてきょむならば真気従之しんきこれにしたがう精神内守せいしんうちにまもれば病安従来やまいいずくんぞしたがいきたらん」の句とをしょうして、修養して心身の康寧こうねいを致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからはたえてなかった。しかし虎列拉コレラの如き細菌の伝染をば奈何いかんともすることを得なかった。
 抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸たくざんかんの「九四爻きゅうしこう」を引いていった。学者は仔細しさいに「憧憧往来しょうしょうとしておうらいすれば朋従爾思ともはなんじのおもいにしたがう」という文をあじわうべきである。即ち「君子素其位而行くんしはそのくらいにそしておこない不願乎其外そのほかをねがわず」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父允成ただしげがおる所のしつ容安室ようあんしつと名づけたのは、これがためである。医にして儒をうらやみ、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天下何思何慮てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからん天下同帰而殊塗てんかきをおなじくしてみちをことにし一致而百慮ちをいつにしてりょをひゃくにす」といい、「日往則月来ひゆけばすなわちつききたり月往則日来つきゆかばすなわちひきたり日月相推而明生焉じつげつあいおしてひかりうまる寒往則暑来かんゆけばすなわちしょきたり暑往則寒来しょゆけばすなわちかんきたり寒暑相推而歳成焉かんしょあいおしてとしなる」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。すべからく自重して時のいたるを待つべきである。
尺蠖之屈せきかくのくっするは以求信也もってのびんことをもとむるなり龍蛇之蟄りょうだのかくるるは以存身也もってみをながらえるなり」とはこれのいいであるといった。五百の兄広瀬栄次郎がすでに町人をめて金座きんざの役人となり、そののち久しくかね吹替ふきかえがないのを見て、また業をあらためようとした時も、抽斎はこのこうを引いてさとした。

その五十九


 抽斎はしばしば地雷復ちらいふく初九爻しょきゅうこうを引いて人を諭した。「不遠復无祗悔とおからずしてかえるくいにいたることなし」の爻である。あやまちを知ってく改むる義で、顔淵がんえんの亜聖たる所以ゆえんここに存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の好処こうしょただにこれのみではない。「回之為人也かいのひととなりや択乎中庸ちゅうようをえらび得一善いちぜんをうれば則拳拳服膺すなわちけんけんふくようして而弗失之矣これをうしなわず」というのがこれである。孔子が子貢しこうにいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝われとなんじと弗如也しかざるなり」といったのも、これがためであるといった。
 抽斎はかつていった。「為政以徳まつりごとをなすにとくをもってすれば譬如北辰たとえばほくしんの居其所そのところにいて而衆星共之しゅうせいのこれにむかうがごとし」というのは、ひとり君道をしかりとなすのみではない。人は皆奈何いかにしたら衆星がおのれむかうだろうかと工夫しなくてはならない。くこれを致すものは即ち「※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4)矩之道けっくのみち」である。韓退之かんたいしは「其責己也重以周そのおのれをせむるやおもくしてもってあまねく其待人也軽以約そのひとをまつやかるくしてもってやくす」といった。人とまじわるには、その長を取って、その短をとがめぬがい。「無求備於一人いちにんにそなわるをもとむるなかれ」といい、「及其使人也器之そのひとをつかうにおよびてやこれをきとす」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「治大国たいこくをおさむるは若烹小鮮しょうせんをにるごとし」という意に帰著きちゃくする。「大道廃有仁義だいどうすたれてじんぎあり」といい、「聖人不死せいじんはしせざれば大盗不止たいとうはやまず」というのも、その反面をゆびさして言ったのである。おれも往事をかえりみれば、ややもすれば※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4)けっくの道においてくる所があった。さい岡西氏とくうとんじたなどもこれがためである。さいわいに父に匡救きょうきゅうせられて悔い改むることを得た。平井東堂ひらいとうどうは学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、おのれは用人たることを得ない。おれはその何故なにゆえなるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性がおのずか※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4)矩の道に※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなっているのであるといった。
 抽斎はまたいった。『孟子もうし』の好処は尽心じんしんの章にある。「君子有三楽くんしさんらくあり而王天下しかもてんかにおうたるは不与存焉あずかりそんぜず父母倶存ふぼともにそんし兄弟無故けいていことなきは一楽也いちらくなり仰不愧於天あおぎててんにはじず俯不※(「りっしんべん+乍」、第3水準1-84-42)於人ふしてひとにはじざるは二楽也にらくなり得天下英才てんかのえいさいをえて而教育之これをきょういくするは三楽也さんらくなり」というのがこれである。『韓非子かんぴし』は主道、揚権ようけん解老かいろう喩老ゆろうの諸篇がいといった。
 これらのことを聞いたのちに、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人たれひともその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎はうち徳義を蓄え、ほか誘惑をしりぞけ、つねおのれの地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たびされてったのを見た。その躋寿館せいじゅかんの講師となった時である。我らは抽斎のまさに再びされて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々しゃくしゃくとして余裕があった。抽斎のかん九四きゅうしを説いたのは虚言ではない。
 抽斎の森枳園きえんにおける、塩田良三りょうさんにおける、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏かんこうなるを見るに足る。抽斎は※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4)矩の道において得る所があったのである。
 抽斎の性行とその由ってきたる所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つあます所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をしてことごとく岐路に立たしめた。勤王にかんか、佐幕に之かんか。時代はその中間においてねずみいろの生をぬすむことをゆるさなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
 この問題は抽斎をして思慮をついやさしむることを要せなかった。何故なにゆえというに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。

その六十


 渋江氏の勤王はその源委げんいつまびらかにしない。しかし抽斎の父允成に至って、師柴野栗山しばのりつざんに啓発せられたことは疑をれない。允成が栗山に従学した年月はあきらかでないが、栗山が五十三歳で幕府のめしに応じて江戸にった天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年ののちである。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月さくに七十二歳で歿したとして推算したものである。
 允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森枳園きえんが刊行した。抽斎はただに家庭において王室を尊崇そんそうする心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
 抽斎の王室における、常に耿々こうこうの心をいだいていた。そしてかつて一たびこれがために身命をあやうくしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、うらむらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
 或日手島良助てじまりょうすけというものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人きにんの窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これをる道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取さきどりすることの出来る無尽講むじんこうを催した。そして親戚故旧を会して金を醵出きょしゅつせしめた。
 無尽講のよる、客がすでに散じたのち、五百は沐浴もくよくしていた。明朝みょうちょう金を貴人のもともたらさんがためである。この金をたてまつる日はあらかじめ手島をして貴人にもうさしめて置いたのである。
 抽斎はたちま剥啄はくたくの声を聞いた。仲間ちゅうげん誰何すいかすると、某貴人の使つかいだといった。抽斎は引見した。来たのは三人のさぶらいである。内密にむねを伝えたいから、人払ひとばらいをしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半にいた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
 抽斎は応ぜなかった。この秘事にあずかっている手島は、貴人のもとにあって職を奉じている。金は手島を介してたてまつることを約してある。おもてらざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故じこを語った。抽斎は信ぜないといった。
 三人はたがい目語もくごして身を起し、刀の※(「木+覇」、第4水準2-15-85)つかに手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らのことを信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使おんつかいを承わってこれを果さずにかえっては面目めんぼくが立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
 抽斎は坐したままでしばらく口をつぐんでいた。三人がいつわりの使だということは既にあきらかである。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、またあたわざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色けしきうかがっていた。
 この時廊下に足音がせずに、障子しょうじがすうっといた。主客はひとしおどろ※(「目+台」、第3水準1-88-79)た。

その六十一


 刀の※(「木+覇」、第4水準2-15-85)つかに手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半のはし近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口をななめ見遣みやった。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百はわずか腰巻こしまき一つ身にけたばかりの裸体であった。口には懐剣をくわえていた。そして閾際しきいぎわに身をかがめて、縁側に置いた小桶こおけ二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気ゆげが立ちのぼっている。縁側えんがわを戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
 五百は小桶を持ったまま、つと一間ひとまに進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣をってさやを払った。そしてとこを背にして立った一人の客をにらんで、「どろぼう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた二人ふたりが先に、※(「木+覇」、第4水準2-15-85)つかに手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
 五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らのせ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々のちのちまで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、じて席をのがれたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首ひしゅ一口いっこうだけは身を放さずに持っていたので、湯殿ゆどのに脱ぎ棄てた衣類のそばから、それを取り上げることは出来たが、衣類を身にまといとまはなかったのである。
 翌朝よくちょう五百は金を貴人のもとに持って往った。手島のことによれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上かりあげになるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏をうて、お手元てもと不如意ふにょいのために、今年こんねんは返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金はすこしばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
 この一条は保さんもこれを語ることを躊躇ちゅうちょし、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心まごころをも、五百の勇気をも、かくまであきらかに見ることの出来る事実を湮滅いんめつせしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方おんかたである。あからさまにその人をさずに、ほぼその事をしるすのは、あるいはさまたげがなかろうか。わたくしはこう思惟しゆいして、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
 抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋ぎらいで、攘夷に耳をかたぶけかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎あさかごんさいの書を読んで悟る所があった。そしてひそかに漢訳の博物窮理の書をけみし、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
 抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認をち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕いっせき医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎はあえげんをその間にさしはさまなかったが、心中これがために憂えもだえたことは、想像するに難からぬのである。

その六十二


 わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月はじめの事で、抽斎は翌八月のすえに歿した。
 これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所ばんしょしらべしょ九段くだん坂下さかした元小姓組番頭格ばんがしらかく竹本主水正もんどのしょう正懋せいぼうの屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校をかねたようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平薩摩守さつまのかみ斉彬なりあきら家来戸塚静海とつかせいかい、松平肥前守斉正なりまさ家来伊東玄朴いとうげんぼく、松平三河守慶倫よしとも家来遠田澄庵とおだちょうあん、松平駿河守勝道かつつね家来青木春岱しゅんたいに奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿けんよで、抽斎の歿した八月二十八日にさきだつこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府はおん医師即ち官医中有志のものは「阿蘭オランダ医術兼学いたし候とも不苦くるしからず候」と令した。翌日また有馬左兵衛佐さひょうえのすけ道純みちずみ家来竹内玄同たけうちげんどう、徳川賢吉けんきち家来伊東貫斎かんさいが奥医師を命ぜられた。この二人ににんもまた蘭法医である。
 抽斎がもし生きながらえていて、幕府のへいを受けることをがえんじたら、これらの蘭法医と肩をくらべて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想をもたらきたった蘭法医との間に、いとうべき葛藤かっとうを生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまたの多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていの手にでたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿ひらのかくけいの『一夕医話』等と趣をことにした、真面目しんめんぼくな漢蘭医法比較研究の端緒がここに開かれたかも知れない。
 抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今のこれるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午あさひるおのおの三椀さんわん、夕二椀半とめていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順のぶゆきが抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、をして盛らしむるときは、過不及かふきゅうを免れぬといって、飯を小さいひつに取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁みそしるも必ず二椀に限っていた。
 菜蔬さいそは最も※(「くさかんむり/服」、第4水準2-86-29)だいこんを好んだ。生で食うときは大根だいこおろしにし、て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油しょうゆなどを掛けなかった。
 浜名納豆はまななっとうは絶やさずに蓄えて置いて食べた。
 魚類ぎょるいでは方頭魚あまだい未醤漬みそづけたしなんだ。畳鰯たたみいわしも喜んで食べた。うなぎは時々食べた。 
 間食はほとんど全く禁じていた。しかしまれあめと上等の煎餅せんべいとを食べることがあった。
 抽斎が少壮時代にごうも酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。そののち安政元年に五十歳になってから、猪口ちょくに三つをえぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれをふところにして家を出た。
 抽斎は決して冷酒れいしゅを飲まなかった。しかるに安政二年に地震にって、ふと冷酒を飲んだ。そのたまたま飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。

その六十三


 鰻をたしんだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼かばやきを入れ、すこしのたれを注ぎ、熱酒ねつしゅたたえてふたおおって置き、少選しばらくしてから飲むのである。抽斎は五百いおめとってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれをうまがって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とにすすめ、また比良野貞固さだかたに飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
 飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問そもん』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文せつもん』である。晩年には毎月まいげつ説文会を催して、小島成斎、森枳園きえん、平井東堂、海保竹逕ちくけい喜多村栲窓きたむらこうそう、栗本鋤雲じょうん等をつどえた。竹逕は名を元起げんき、通称を弁之助べんのすけといった。もと稲村いなむら氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年のうまれで、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛ちょくかんあざな士栗しりつという。通称は安斎あんさいのち父の称安政あんせいいだ。香城こうじょうはその晩年の号である。けい安積艮斎あさかごんさいに受け、医を躋寿館せいじゅかんに学び、父槐園かいえんのちけて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三てつぞう、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛せへえと改め、また瑞見ずいけんといった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
 説文会には島田篁村こうそんも時々列席した。篁村は武蔵国大崎おおさき名主なぬし島田重規ちょうきの子である。名は重礼ちょうれい、字は敬甫けいほ、通称は源六郎げんろくろうといった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政のこうにはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
 抽斎の好んで読んだ小説は、赤本あかほん菎蒻本こんにゃくぼん黄表紙きびょうしるいであった。おもうにその自ら作った『呂后千夫りょこうせんふ』は黄表紙のたいならったものであっただろう。
 抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号をいだというを以て、想見することが出来る。父允成ただしげがしばしば戯場ぎじょう出入しゅつにゅうしたそうであるから、殆ど遺伝といってもかろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見めみえ以上の身分になったからは、今よりのち市中の湯屋にくことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するがよろしいというのであった。渋江の家には浴室のもうけがあったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支さしつかえがなかった。しかし観劇をとどめられるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍してしばらく忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
 抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓ひいきにしていた。家に伝わった俳名三升さんしょう白猿はくえんの外に、夜雨庵やうあん、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町ふきやちょうの芝居茶屋丸屋まるや三右衛門さんえもんの子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
 次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎さわむらそうじゅうろうである。源平げんべえ、源之助、訥升とつしょう、宗十郎、長十郎、高助たかすけ高賀こうがと改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、脱疽だっそのために脚をった三世田之助たのすけの父である。

その六十四


 劇を好む抽斎はまた照葉狂言てりはきょうげんをも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園せいせいえん伊原いはらさんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘きたがわきそうの『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
 照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子とうし四、五人が創意したものである。大抵能楽のあいの狂言を模し、衣裳いしょう素襖すおう上下かみしも熨斗目のしめを用い、科白かはくには歌舞伎かぶき狂言、にわか、踊等のさまをも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場よせばはこれがために雑沓ざっとうした。照葉とは天爾波てにはにわか訛略かりゃくだというのである。
 伊原さんはこの照葉の語原は覚束おぼつかないといっているが、いかにもすなわち信じがたいようである。
 能楽は抽斎のたのしる所で、わかい頃謡曲を学んだこともある。たまたま弘前の人村井宗興そうこうと相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
 俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
 抽斎は鑑賞家として古画をもてあそんだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁たにぶんちょうおしえを受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をもえがいた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家しゅうちんかとして蒐集しゅうしゅうした所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎をったことは、前にいったとおりである。
 抽斎は碁を善くした。しかし局に対することがまれであった。これは自ら※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42)いましめてふけらざらんことを欲したのである。
 抽斎は大名の行列をることを喜んだ。そして家々の鹵簿ろぼを記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自らたのしんだのも、これがためである。この嗜好しこうは喜多静廬せいろの祭礼を看ることを喜んだのとすこぶ相類あいるいしている。
 角兵衛獅子かくべえじしが門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
 庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀はさみって植木の苅込かりこみをした。木の中では御柳ぎょりゅうを好んだ。即ち『爾雅じが』に載せてある※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19)ていである。雨師うし三春柳さんしゅんりゅうなどともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におるしつに近い地にえ替えさせた。おる所を観柳書屋かんりゅうしょおくと名づけた柳字も、楊柳ようりゅうではない、※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19)柳である。これに反して柳原りゅうげん書屋の名は、お玉が池の家が柳原やなぎはらに近かったから命じたのであろう。
 抽斎は晩年に最もかみなりを嫌った。これは二度まで落雷にったからであろう。一度はあらためとった五百と道を行く時の事であった。くもった日の空が二人ふたりの頭上において裂け、そこから一道いちどうの火が地上にくだったと思うと、たちまち耳を貫く音がして、二人は地にたおれた。一度は躋寿館せいじゅかんの講師の詰所つめしょに休んでいる時の事であった。詰所に近いかわやの前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔あさがおに打ち附けて折った。かくの如くに反覆して雷火におびやされたので、抽斎は雷声をにくむに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)かやうちに坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
 抽斎のこの弱点はたまたま森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑ののちに門人青山あおやま道醇どうじゅんらの書した文に、「夏月畏雷震かげつらいしんをおそれ発声之前必先知之はっせいのまえかならずさきにこれをしる」といってある。枳園には今一ついやなものがあった。それは蛞蝓なめくじであった。よる行くのに、道に蛞蝓がいると、闇中あんちゅうにおいてこれを知った。門人のしたがい行くものが、燈火ともしびを以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。

その六十五


 抽斎は平姓へいせいで、小字おさなな恒吉つねきちといった。人と成ったのちの名は全善かねよしあざな道純どうじゅん、また子良しりょうである。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、もとちゅう[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-1]に作った。※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-1]ちゅう[#「てへん+澑のつくり」、U+3A45、192-1]、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本しゅたくぼんには※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-2]斎校正の篆印てんいんほとんど必ずしてある。
 別号には観柳書屋、柳原りゅうげん書屋、三亦堂さんえきどう目耕肘もくこうちゅう書斎、今未是翁こんみぜおう不求甚解ふきゅうじんかい翁等がある。その三世劇神仙げきしんせんと称したことは、既にいったとおりである。
 抽斎はかつて自ら法諡ほうしを撰んだ。容安院ようあんいん不求甚解居士ふきゅうじんかいこじというのである。この字面じめんは妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻五百いおのために撰んだ法諡は妙きわまっている。半千院はんせんいん出藍終葛大姉しゅつらんしゅうかつだいしというのである。半千は五百、出藍は紺屋町こんやちょうに生れたこと、終葛は葛飾郡かつしかごおりで死ぬることである。しかし世事せいじの転変は逆覩げきとすべからざるもので、五百は本所ほんじょで死ぬることを得なかった。
 この二つの法諡はいずれも石にられなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴ぼけつに合葬せられたからである。
 大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰けいこうするものは、その苗裔びょうえいがどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯をしるおわったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これよりしもに書き附けて置こうと思う。
 わたくしはこの記事を作るに許多あまた障礙しょうがいのあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことがようやく多くなるに従って、忌諱ききすべき事に撞着とうちゃくすることもまた漸くしきりなることを免れぬからである。この障礙はかみに抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既にこうべもたげげて来た。これからのちは、これがいよいよ筆端に纏繞てんじょうして、いとうべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿をまっとうするつもりである。
 渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、くが水木みき、専六、翠暫すいざん、嗣子成善しげよしと矢島氏を冒した優善やすよしとが遺っていた。十月さくわずかに二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家いっかの生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
 遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡ふぎょうせきのために、二年ぜんに表医者から小普請医者にへんせられ、一年ぜんに表医者すけに復し、父を喪う年の二月にわずかもとの表医者に復することが出来たのである。
 しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛かいしゅんしたものとは看做みなしにくい所があった。そこで五百いお旦暮たんぼ周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
 残る五人の子のうちで、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読くとうを授け、手跡しゅせきは手をって書かせた。専六は近隣の杉四郎すぎしろうという学究のもとへ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後ごさんご日の暮れかかるまでは、五百は子供の背後うしろに立って手習てならいの世話をしたのである。

その六十六


 邸内にすまわせてある長尾の一家いっけにも、折々多少の風波ふうはが起る。そうすると必ず五百いおが調停にかなくてはならなかった。そのあらそいは五百が商業を再興させようとして勧めるのに、やす躊躇ちゅうちょして決せないために起るのである。宗右衛門そうえもんの長女けいはもう二十一歳になっていて、生得しょうとくやや勝気なので、母をして五百のことに従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
 さてこれが鎮撫ちんぶに当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百のことには宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをばあえてせぬのである。
 宗右衛門がさいの妹の五百を、ただ抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百のきびしい忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それからのちは五百の前にうなじを屈したのである。
 宗右衛門は性質亮直りょうちょくに過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持かんしゃくもちであった。今から十二年ぜんの事である。宗右衛門はまだ七歳のせんに読書を授け、この子が大きくなったならさむらい女房にょうぼうにするといっていた。銓は記性きせいがあって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、たわむれのように煙管キセルで頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、のちには「おっさん、いやだ」といって、手を挙げて打つ真似まねをする。宗右衛門はいかって「親に手向てむかいをするか」といいつつ、銓をこぶしで乱打する。或日こういう場合に、安がめようとすると、宗右衛門はこれをも髪をつかんでき倒して乱打し、「出てけ」と叫んだ。
 安はもと宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾きんごと呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿にさがって堺町さかいちょうの中村座へ芝居をに往った。この時宗右衛門は安を見初みそめて、芝居がはねてから追尾ついびして行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人をって縁談を申し込んだのである。
 こうしたわけでもらわれた安も、拳のもとに崩れた丸髷まるまげを整えるいとまもなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告なのる前の頃で、会津屋あいづやへ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照はまてるがなれの果で何の用にも立たない。そこでたまたま渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉をなだすかして、横山町へ連れて往った。
 会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。さいの出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔えがおをして五百を迎える。五百はしずか詫言わびごとを言う。主人はなかなかかない。しばらく語を交えている間に、主人は次第に饒舌じょうぜつになって、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)万丈こうえんばんじょう当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書ぎしょ孔叢子こうそうし』の孔氏三世妻をいだしたという説が出る。祭仲さいちゅうむすめ雍姫ようきが出る。斎藤太郎左衛門さいとうたろうざえもんむすめが出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。ためしを引いて論ずることなら、こっちにも言分いいぶんがないことはない。そこで五百も論陣を張って、旗鼓きこ相当あいあたった。公父こうふ文伯ぶんはくの母季敬姜きけいきょうを引く。顔之推がんしすいの母を引く。ついに「大雅思斉たいがしせい」の章の「刑干寡妻かさいをただし至干兄弟けいていにいたり以御干家邦もってかほうをぎょす」を引いて、宗右衛門が※(「廱−广」、第4水準2-91-84)ようようの和を破るのを責め、声色せいしょく共に※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげしかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
 長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。

その六十七


 抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島優善やすよしが浜町中屋敷詰の奥通おくどおりにせられた。表医者の名を以て信順のぶゆきかたわらに侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職にいたのは、五百のために心労を増す種であった。
 抽斎の姉須磨すまの生んだ長女のぶの亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成ただしげの実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛おおやせいべえで、清兵衛の子が飯田良清いいだよしきよで、良清のむすめがこの延である。容貌ようぼうの美しい女で、小舟町こぶねちょう鰹節問屋かつおぶしどいや新井屋半七あらいやはんしちというものに嫁していた。良清の長男直之助なおのすけは早世して、跡には養子孫三郎まござぶろうと、延の妹みちとが残った。孫三郎の事は後に見えている。
 抽斎歿後の第二年は万延まんえん元年である。成善しげよしはまだ四歳であったが、はやくも浜町中屋敷の津軽信順のぶゆきに近習として仕えることになった。勿論もちろん時々機嫌を伺いに出るにとどまっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎やがわぶんいちろうというものがあって、おさない成善の世話をしてくれた。
 矢川には本末ほんばつ両家がある。本家は長足流ちょうそくりゅうの馬術を伝えていて、世文内よよぶんないと称した。先代文内の嫡男与四郎よしろうは、当時順承ゆきつぐの側用人になって、父の称をいでいた。妻児玉こだま氏は越前国敦賀つるがの城主酒井さかい右京亮うきょうのすけ※(「田+比」、第3水準1-86-44)ただやすの家来某のむすめであった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛そうべえといい、これ岡野おかのといった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田小十郎こじゅうろうむすめみつをめとった。岡野は順承附の中臈ちゅうろうになった。実はしょうである。
 文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的はやしゆうてきの妻、佐竹永海さたけえいかいの妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏をれた。それの年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を[#「てへん+參」、U+647B、198-15]ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池にちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服をせて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅かいこうした。そして佐竹の数人の芸妓げいぎに囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄いろを好むとやらですね」といった。佐竹は頭をいて苦笑したそうである。
 文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺じょうふくじにあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年うまれの文一郎は十一歳になっていた。
 文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内のもとに引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
 文一郎はすこぶ姿貌しぼうがあって、心みずからこれをたのんでいた。当時吉原よしわら狎妓こうぎの許に足繁あししげく通って、遂に夫婦のちかいをした。或夜文一郎はふとめて、かたわらしている女を見ると、一眼いちがんを大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、はだあわを生じたが、たちまちまた魘夢えんむおびやかされているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだなかばならざるに、女は満臉まんけんこうちょうして、偏盲へんもうのために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。

その六十八


 わたくしは少時の文一郎を伝うるに、ことばを費すことやや多きに至った。これは単に文一郎がおさな成善しげよし扶掖ふえきしたからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後にようやく緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは赤坂台町あかさかだいまちに現存している人ではあるが、おそらくは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つのきた典拠がある。一つは矢川文内の二女おつるさんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男俊平しゅんぺいは宗家をいで、その子蕃平しげへいさんが今浅草向柳原町むこうやなぎはらちょうに住しているそうである。俊平の弟は鈕平ちゅうへい録平ろくへいである。女子は長をえつといい、つぎかんという。鑑は後に名を鶴とあらためた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町おけやまちにいる範一はんいちさんの妻で、その子のすすむさんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
 成善はこの年十月ついたちに海保漁村と小島成斎との門にった。海保の塾は下谷したや練塀小路したやねりべいこうじにあった。いわゆる伝経廬でんけいろである。下谷は卑※ひしつ[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、201-2]の地なるにもかかわらず、庭には梧桐ごとうえてあった。これは漁村がその師大田錦城おおたきんじょうふうを慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館せいじゅかんの講師となっていた。また陸奥国むつのくに八戸はちのへの城主南部なんぶ遠江守とうとうみのかみ信順のぶゆきと越前国鯖江さばえの城主間部まなべ下総守詮勝あきかつとから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子竹逕ちくけいが代講をしていたのである。
 小島成斎は藩主阿部正寧まさやすの世には、たつくちの老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助けんのすけ正教まさのりの世になってから、昌平橋うちの上屋敷にいた。今の神田淡路町あわじちょうである。手習に来る児童の数はすこぶる多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年うまれで十二歳になる伊沢鉄三郎いさわてつさぶろうがいた。柏軒の子で、後に徳安とくあんと称し、維新後にいわおあらためた人である。成斎は手にむちを執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭のさきゆびさし示した。そして児童をましめざらんがためであろうか、諧謔かいぎゃくを交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰おくづめ医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑ほうひを築き起して世におごるが如きじょうをなすは、主家に対してはばかりがあるといって、文字もんじる四、五人の故旧が来て、胥議あいぎして斧鉞ふえつを加えた。その文の事を伝えてまったからず、またまま実にもとるものさえあるのは、この筆削のためである。
 建碑の事がおわってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町かめさわちょうに移った。これは淀川過書船支配よどがわかしょぶねしはい角倉与一すみのくらよいちの別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町いいだまち黐木坂下もちのきざかしたにあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷いなり和合神わごうじんとのほこらがあった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午はつうまの日には参詣人さんけいにんが多く、縁日商人あきうどが二十あまり浮舗やたいみせを門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今相生あいおい小学校になっている地所である。
 これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。

その六十九


 矢島優善をして別に一家いっかをなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年のすえから、中丸昌庵なかまるしょうあんが主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩せいはいに推されていた。文政元年うまれであるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得ちがえから貶黜へんちつを受けた。しかしさいわいあやまちを改めたので、一昨年もとの地位にかえり、昨年は奥通おくどおりをさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自らあらたにすべき時は今である。それには一家を構えて、せめを負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百いおあやぶみつつこの議をれたのである。比良野貞固さだかたは初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、また争わなくなった。
 優善の移った緑町の家は、渾名あだなはと医者と呼ばれた町医佐久間さくま某の故宅である。優善は妻てつを家に迎え取り、下女げじょ一人いちにんを雇って三人暮しになった。
 鉄は優善の養父矢島玄碩げんせきの二女である。玄碩、名を※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)やすしげといった。もと抽斎の優善に命じた名は允善ただよしであったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩のはじめさい某氏には子がなかった。後妻こうさい寿美すみ亀高村喜左衛門かめたかむらきざえもんというものの妹で、仮親かりおや上総国かずさのくに一宮いちのみやの城主加納かのう遠江守久徴ひさあきらの医官原芸庵はらうんあんである。寿美が二女を生んだ。長をかんといい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡にはわずかに六歳の鉄がのこった。
 優善はこの時矢島氏にって末期養子まつごようしとなったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
 中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言をついやし、矢島氏のまつりを絶つに忍びぬというを以て、抽斎の情誼じょうぎうったえた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺したむすめ鉄は重い痘瘡とうそううれえて、瘢痕はんこん満面、人の見るをいとう醜貌であった。
 抽斎は中丸のことうごかされて、美貌の子優善を鉄に与えた。五百いおは情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気にでているので、強いて争うことも出来なかった。
 この事のあった年、五百は二月四日に七歳のとうを失い、十五日に三歳の癸巳きしを失っていた。当時五歳のくがは、小柳町こやなぎちょうの大工の棟梁とうりょう新八がもとに里に遣られていたので、それをび帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
 棠は美しい子で、抽斎のむすめうちではいとと棠との容姿が最も人にめられていた。五百の兄栄次郎は棠の踊をる度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々うんぬんするので、陸は「おあ様のえさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはおばけのような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしをかわりに死なせたかったのだろう」とさえいった。

その七十


 むすめとうが死んでから半年はんねんの間、五百いおは少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭のやみを凝視していることがしばしばあった。これは何故なにゆえともなしに、闇のうちに棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は気遣きづかって、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」といましめた。
 そこへ矢島玄碩の二女、優善やすよしの未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、※(「虫+果」、第4水準2-87-59)※(「羸」の「羊」に代えて「虫」、第4水準2-87-91)からの母は情をめて、※(「日+匿」、第4水準2-14-16)なじみのない人の子をすかしはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつかふところにいる子が棠だと思って、夢現ゆめうつつの境にその体をでていた。たちまち一種の恐怖に襲われて目をくと、痘痕とうこんのまだ新しい、赤く引きった鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えずむせび泣いた。そして意識のあきらかになると共に、「ほんに優善は可哀かわいそうだ」とつぶやくのであった。
 緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし世馴よなれた優善は鉄を子供あつかいにして、ことばをやさしくしてなだめていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。
 これに反して五百の監視のもとを離れた優善は、門をでては昔の放恣ほうしなる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田良三りょうさんとの間にも、定めて聯絡れんらくが附いていたことであろう。この人たちはただに酒家妓楼ぎろう出入いでいりするのみではなく、常に無頼ぶらいの徒と会して袁耽えんたんの技を闘わした。良三の如きは頭を一つべっついにしてどてらを街上かいじょう闊歩かっぽしたことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神がせまり近づいていた。
 渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、もと小家こいえを新しい邸にうつして、そこへ一族をすまわせた。年月ねんげつつまびらかにせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、なかだちするもののあるに任せて、猿若町さるわかちょう三丁目守田座附もりたざつきの茶屋三河屋力蔵みかわやりきぞうに嫁し、次で次女せんも浅草須賀町すがちょうの呉服商桝屋儀兵衛ますやぎへえに嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝ちょうほうがられて、茶屋の帳場にすわることになった。
 抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町にうつって検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄恒善つねよしが見附けて、奪いかえしたことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本をなわつないで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々じじ病臥びょうがすることがあって、その間には書籍の散佚さんいつすることがことに多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中なかんずく枳園きえんとその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善しげよしが海保の塾にった後には、海保竹逕ちくけいしばしば渋江氏に警告して、「大分蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
 抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
 抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎あさかごんさいは、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時のよわいは諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦しゅんぽさんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、ならびに皆これを記していない。しかし文集をけみするに、故郷の安達太郎山あだたらやまに登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子文九郎重允ぶんくろうちょういんが家を嗣いだ。わかい時疥癬かいせんのために衰弱したのを、父が温泉に連れて往ってしたことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。おそらくは『洋外紀略』の「嗚呼ああ話聖東ワシントンは雖生於戎羯じゅうけつにうまるといえども其為人そのひととなりや有足多者たりておおきものあり」云々の一節であっただろう。

その七十一


 抽斎歿後第三年は文久元年である。年のはじめ五百いおは大きい本箱三つを成善しげよしの部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本にわずか三部しかないい版の『十三経註疏ぎょうちゅうそ』だが、おう様がお前のだとおっしゃった。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前のそばに置くよ」といった。
 数日の後に矢島優善やすよしが、活花いけばなの友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
 さて友達という数人が来て、汁粉しるこなどを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
 三月六日に優善は「身持みもち不行跡不埒ふらち」のかどを以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫ごれんびんを以て名跡みょうせき御立被下置おんたてくだされおく」ということになって、養子を入れることを許された。
 優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永うえはらげんえいというものがあって、この上原が町医伊達周禎だてしゅうていを推薦した。
 周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年うまれで四十五歳になっていた。
 周禎の妻をたかといって、すでに四子を生んでいた。長男周碩しゅうせき、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得しょうとく不調法ぶちょうほうにして仕宦しかんに適せぬと称して廃嫡を請い、小田原おだわらに往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
 これよりさき優善が隠居の沙汰さたこうむった時、これがために最も憂えたものは五百で、最もいきどおったものは比良野貞固さだかたである。貞固は優善を面責めんせきして、いかにしてこのはずかしめすすぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾にって勉学したいと答えた。
 貞固は先ず優善が改悛かいしゅんの状を見届けて、しかのちに入塾せしめるといって、優善と妻てつとを自邸に引き取り、二階にすまわせた。
 さて十月になってから、貞固は五百いおを招いて、ともに優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
 この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これはいささかの金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるがいといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡うりわたしのような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善にはかすという渾名あだなをさえ附けていたそうである。
 山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだいくばくもあらぬに梅林松弥うめばやしまつやというものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、のちここに来たもので、維新後名をけつと改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
 比良野氏ではこの年同藩の物頭ものがしら二百石稲葉丹下いなばたんげの次男房之助ふさのすけを迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日うまれで、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸がすきであった。

その七十二


 矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋かなものどいや平野屋のむすめりゅうめとった。
 石塚重兵衛の豊芥子ほうかいしは、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、ほとんど恒例の如くになっていた。五百いおは石塚氏にわたす金をしるす帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字もんじって、広く市井の事に通じ、また劇の沿革をつまびらかにしているのを愛して、きたうごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
 人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言しりうごとめくきらいはあるが、抽斎の蔵書をして散佚さんいつせしめた顛末てんまつを尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分のせめを分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞音曲おんぎょくの書、随筆小説の類である。その他書画骨董こっとうにも、この人の手から商估しょうこの手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙まるやまおうきょ百枚があった。題材はの名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることをはばかる。※(「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13)そうこう頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫もくちょうの人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆わかしゅとで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊さんぼうにはひな人形を遣らぬかわりにこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善しげよし小字おさなな三吉さんきちである。五百は度々清助せいすけという若党を、浅草諏訪町すわちょうの鎌倉屋へ遣って、催促してかえさせようとしたが、豊芥子はことを左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助はもと京都の両替店りょうがえてん銭屋ぜにや息子むすこで、遊蕩ゆうとうのために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなかいので、豊芥子の筆耕にやとわれることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森枳園きえん小野富穀おのふこくと口論をしたという話があって、その年月をつまびらかにせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸やましろがし津藤つとうの家であった。例の如く文人、画師えし、力士、俳優、幇間ほうかん芸妓げいぎ等の大一座で、酒たけなわなるころになった。その中に枳園、富穀、矢島優善やすよし、伊沢徳安とくあんなどが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いにいかって、七代目もどきのたんかを切り、胖大漢はんだいかんの富穀をして色を失って席をのがれしめたそうである。富穀もまた滑稽こっけい趣味においては枳園に劣らぬ人物で、へそ烟草タバコむという隠芸かくしげいを有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、たれも思いけぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩けんかを忘れずにいた。想うに貨殖かしょくに長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着むとんじゃくな枳園とは、その性格に相容あいいれざる所があったであろう。津藤つとう即ち摂津国屋つのくにや藤次郎とうじろうは、名はりん、字は冷和れいわ香以こうい鯉角りかく梅阿弥ばいあみ等と号した。その豪遊をほしいままにして家産を蕩尽とうじんしたのは、世の知る所である。文政五年うまれで、当時四十歳である。
 この年の抽斎が忌日きにちの頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地なかばしうめちの柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅ていたくを移す時も、家財と共にこれを新居にはこび入れて、一年間位鄭重ていちょう保護ほうごしていた。

その七十三


 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版薄葉刷うすようずりの『医方類聚いほうるいじゅ』を献ずることにしていた。書は喜多村栲窓きたむらこうそうの校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次をってたてまつった。成善しげよしは父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じおわった。八月十五日順承ゆきつぐは重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
 成善は二年ぜんから海保竹逕ちくけいに学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主順承ゆきつぐから奨学金二百匹を受けた。おもなる経史けいし素読そどくおわったためである。母五百いおは子女に読書習字を授けて半日をついやすを常としていたが、ごうも成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯よりすきだから、構わなくてもい」といった。成善はまた善く母につかうるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
 この年十月十八日に成善が筆札ひっさつの師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、ついで阿部家のやかたに出仕し、午時ごじ公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中ろうじゅうの職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守正教まさのりが家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の喧擾けんじょうを避け、午後にうて単独におしえを受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は卒中そっちゅうで死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格ようにんかくぬきんでられ、公用人服部はっとり九十郎と名をひとしうしていたが、二人ににん皆同病によって命をおとした。成斎には二子三女があって、長男生輒せいしょうは早世し、次男信之のぶゆきが家を継いだ。通称は俊治しゅんじである。俊治の子は鎰之助いつのすけ、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込こまごめ動坂町どうざかちょうにいる昌吉しょうきちさんである。高足こうそくの一人小此木辰太郎おこのぎたつたろうは、明治九年に工務省やといになり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
 成善がこの頃母五百とともに浅草永住町ながすみちょう覚音寺かくおんじもうでたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所ぼだいしょである。帰途二人ふたり蔵前通くらまえどおりを歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅かいこうした。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い横町よこちょうにある料理屋誰袖たがそでに案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時川長かわちょう青柳あおやぎ大七だいしちなどと並称せられた家である。
 三人の通った座敷の隣に大一座おおいちざの客があるらしかった。しかし声高こえたかく語り合うこともなく、ましてや絃歌げんかの響などは起らなかった。しばらくあってその座敷がにわかに騒がしく、多人数たにんずの足音がして、跡はまたひっそりとした。
 給仕きゅうじに来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは札差ふださし檀那衆だんなしゅ悪作劇いたずらをしておいでなすったところへ、おたつさんが飛び込んでお出なすったのでございます。き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がおにげなさると、お辰さんはそれを持っておかえりなさいました」といった。お辰というのは、のちぬすみをして捕えられた旗本青木弥太郎あおきやたろうしょうである。
 女中の語りおわる時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に闖入ちんにゅうして「手前てまえたちも博奕ばくちの仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、とうを抜いて威嚇した。
「なに、このかたが」と五百は叫んで、懐剣を抜いてった。男ははじめの勢にも似ず、身をひるがえして逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。

その七十四


 矢島優善やすよしは山田の塾にって、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、旗下はたもとの家庭にして、特に矢島の名をして招請するものさえあった。五百も比良野貞固さだかたもこれがためにすこぶる心を安んじた。
 既にしてこの年二月の初午はつうまの日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧をつどえた。優善も来て宴に列し、清元きよもとを語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て苦々にがにがしくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、のちわずらいのこすような事はあるまいと気に掛けずにいた。
 優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田椿庭ちんていが本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百はいぶかしげに答えた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういってまゆしかめた。
 五百は即時に人を諸方にせて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午のに無銭で吉原にき、翌日から田町たまち引手茶屋ひきてぢゃやに潜伏していたのである。
 五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野富穀ふこく二人ふたりを呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だというので、その席につらなった。
 貞固は暫く黙していたが、かたちを改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。玄碩げんせきさんはわたくしの宅で詰腹つめばらを切らせます。小野さんも、おあねえさんも、三坊も御苦労ながらお立会たちあい下さい。」言いおわって貞固はきびしく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称をいで玄碩といっていた。三坊は成善の小字おさなな三吉である。
 富穀ふこく面色めんしょく土の如くになって、一語を発することも得なかった。
 五百いおは貞固のことばを予期していたように、しずかに答えた。「比良野様の御意見は御尤ごもっともと存じます。度々の不始末で、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれとくと考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
 これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席をって帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善やすよしを呼んでおこそかに会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
 翌朝五百は貞固をうて懇談した。大要はこうである。昨日さくじつおおせは尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの行掛ゆきがかりを思えば、優善にこの上どうして罪をあがなわせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅こんぴら起請文きしょうもんを納めさせたい。悔い改めるのぞみのない男であるから、必ず冥々めいめいうちに神罰をこうむるであろうというのである。
 貞固はつくづく聞いて答えた。それはいお思附おもいつきである。この度の事については、命乞いのちごいの仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい死様しにざまをさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。

その七十五


 五百いおは矢島優善やすよしに起請文を書かせた。そしてそれを持ってとらもんの金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が行末ゆくすえの事を祈念して帰った。
 小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居令図れいとが八十歳で歿した。五年ぜんに致仕して富穀ふこくに家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図のたくわえたのが一万両を超えていたそうである。
 伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉水木みきと長唄の「老松おいまつ」を歌った。柴田常庵しばたじょうあんという肥え太った医師は、越中褌えっちゅうふんどし一つを身に着けたばかりで、「棚の達磨だるま」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎じんまくひさごろう小柳平助こやなぎへいすけに負けた話を聞いた。
 やすは柏軒の庶出しょしゅつむすめである。柏軒の正妻狩谷かりやたかの生んだ子は、幼くて死した長男棠助とうすけ、十八、九歳になって麻疹ましんで亡くなった長女しゅう、狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)えきさいの養孫、懐之かいしの養子三右衛門さんえもんに嫁した次女くにの三人だけで、その他の子は皆しょう春のはらである。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女きた、次男いわお、四女やす、五女こと、三男信平しんぺい、四男孫助まごすけである。おやすさんは人と成って後田舎いなかに嫁したが、今は麻布あざぶ鳥居坂町とりいざかちょうの信平さんのもとにいるそうである。
 柴田常庵は幕府医官の一人いちにんであったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって竹柴寿作たけしばじゅさくと称し、五世坂東彦三郎ばんどうひこさぶろうと親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
 陣幕久五郎のまけは当時人の意料いりょうほかに出た出来事である。抽斎は角觝かくていを好まなかった。然るに保さんはおさない時からこれをることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日もかさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語じごした。
虚言うそけ」と、保さんはしっした。取組は前から知っていて、小柳やなぎが陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助のことは事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
 陣幕の事を言ったから、ちなみ小錦こにしきの事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助うおやよすけむすめで、菊、京の二人ふたりの妹があった。この京が岩木川いわきがわの種を宿して生んだのが小錦八十吉やそきちである。
 保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図がとが、あきらかおさない成善の目前に展開せられたのである。

その七十六


 小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場きょうじょうにして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手にむちを執って坐し、筆法をただすに鞭のさきを以てゆびさし示し、その間には諧謔かいぎゃくを交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
 成斎が鉄砲さんを揶揄からかえば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々戯言けげんを吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲」と叫びつつ、鞭をふるって打とうとする。鉄砲は笑ってにげる。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事はほとんど毎日あった。
 然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之たとえば筆法を正すにも「徳安とくあんさん、その点はこうおうちなさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字おさななてて徳安と称していたのである。このあらたな待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をしてたちまち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人おとなしくなって、殆どはにかむように見えた。
 この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書をかえした。それは九月の九日に将軍家茂いえもちが明年二月を以て上洛じょうらくするという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野貞固さだかたはかって、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干むしぼしをすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
 書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森枳園きえんが来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古止点おことてんを施した古写本で、松永久秀まつながひさひでの印記があった。『史記』は朝鮮ばんであった。のち明治二十三年に保さんは島田篁村しまだこうそんうて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲ほそかわじっしゅうさんに借りてけみしていたのである。
 津軽家ではこの年十月十四日に、信順のぶゆきが浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善しげよし枕辺まくらべに侍していた。
 この年十二月二十一日の塙次郎はなわじろう三番町さんばんちょう刺客せきかくやいばに命をおとした。抽斎は常にこの人と岡本况斎きょうさいとに、国典の事をうことにしていたそうである。次郎は温古堂おんこどうと号した。保己一ほきいちだん四谷よつや寺町てらまちに住む忠雄ただおさんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦のぶゆきのために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍おうかの因をなしたのである。遺骸のかたわらに、大逆たいぎゃくのために天罰を加うという捨札すてふだがあった。次郎は文化十一年うまれで、殺された時が四十九歳、抽斎よりわかきこと九年であった。
 この年六月中旬から八月下旬まで麻疹ましんが流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳ぎょりゅうの葉と貝多羅葉ばいたらようとをもらいに来る人がくびすを接した。二樹にじゅの葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人しょにんの望にそむかざらんことを努めた。

その七十七


 抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善しげよしは七歳で、はじめて矢の倉の多紀安琢たきあんたくもとに通って、『素問そもん』の講義を聞いた。
 伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川家茂いえもちしたがって京都に上り、病を得て客死かくししたのである。嗣子鉄三郎の徳安とくあんがお玉が池の伊沢氏の主人となった。
 この年七月二十日に山崎美成やまざきよししげが歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家にか書庫の蔵する所は、たがいだし借すことをおしまなかったらしい。頃日このごろ珍書刊行会が『後昔物語のちはむかしものがたり』を刊したのを見るに、抽斎の奥書おくがきがある。「右喜三二きさじ随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本こうもんどうぞうほんをかり。友人平伯民為予謄写へいはくみんよがためにとうしゃす庚子孟冬こうしもうとう一校。抽斎。」庚子こうしは天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民へいはくみんは平井東堂だそうである。
 美成、字は久卿きゅうけい北峰ほくほう好問堂こうもんどう等の号がある。通称は新兵衛しんべえのち久作と改めた。下谷したや二長町にちょうまちに薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町いいだまち鍋島なべしまというものの邸内にいたそうである。黐木坂下もちのきざかしたに鍋島穎之助えいのすけという五千石の寄合よりあいが住んでいたから、定めてその邸であろう。
 美成の歿した時のよわいを六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々まちまちになっていて、たしかには定めがたい。
 抽斎歿後の第六年は元治げんじ元年である。森枳園が躋寿館せいじゅかんの講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
 第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫すいざんが十一歳で夭札ようさつした。
 比良野貞固さだかたはこの年四月二十七日に妻かなの喪にった。かなは文化十四年のうまれで四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、ほかに声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待ってはじめて保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属はしきりに再びめとらんことを勧めたが、貞固は「五十をえた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
 第八年は慶応二年である。海保漁村が九年ぜんに病にかかり、この年八月その再発にい、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子竹逕ちくけいの門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故なにゆえというに、晩年の漁村が弟子ていしのために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕がことごとくこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄しわがれているのに、竹逕は音吐おんと晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻こうふん態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、ただ伝経廬でんけいろにおけるのみではなかった。竹逕は弊衣へいいて塾をで、漁村に代って躋寿館にき、間部家まなべけに往き、南部家に往いた。いきおいかくの如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路ねりべいこうじの伝経廬は旧にって繁栄した。
 多年渋江氏に寄食していた山内豊覚やまのうちほうかくしょうまきは、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。

その七十八


 抽斎の姉須磨すま飯田良清いいだよしきよに嫁して生んだむすめ二人ふたりの中で、長女のぶ小舟町こぶねちょう新井屋半七あらいやはんしちが妻となって死に、次女みちが残っていた。路は痘瘡とうそうのためにかたちやぶられていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中にすこぶる多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男直之助なおのすけが夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年ぜんの安政三年から、「武鑑」の徒目附かちめつけの部に載せられている。住所は初め湯島ゆしま天沢寺前てんたくじまえとしてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前りんしょういんまえ猿飴さるあめの横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、良政よしまさと称し、後また東京にって、下谷したや車坂町くるまざかちょうで終ったそうである。
 比良野貞固さだかたは妻かなが歿したのち、稲葉氏から来た養子房之助ふさのすけと二人で、鰥暮やもめぐらしをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人なこうど表坊主おもてぼうず大須おおすというもののむすめてるめとれと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜げんき、子は玄悦げんえつで、麹町こうじまち三軒家さんげんやの同じ家に住んでいた。照は玄喜のむすめで、玄悦の妹ではあるまいか。
 貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役したやく杉浦喜左衛門すぎうらきざえもんって、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語げんぎょその挙止さえいかにもしとやかだといった。
 結納ゆいのう取換とりかわされた。婚礼の当日に、五百いおは比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓のもとに対坐していると、新婦のかごは門内にき入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身のたけきわめて小さく、色は黒く鼻は低い。その上口がとがって歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑にがわらをして、「おあねえさん、あれが花よめですぜ」といった。
 新婦が来てからさかずきをするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのをあやしんで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
 暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)ひたいの汗をぬぐいつついった。「実に分疏もうしわけがございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の挨拶あいさつをいたしたのは、かねて申し上げたとおりの美しい女でございました。今日こんにち参ったよめは、その日に菓子鉢か何か持って出て、しきいの内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせたせがれのよめでございますという返答でございます。全くわたくしの粗忽そこつで」といって、杉浦はまた※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)の汗を拭った。

その七十九


 五百いおは杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
 杉浦はかたわらからいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、一言いちごん念を押して置けばよろしかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。
 貞固はこまぬいていた手をほどいていった。「おあねえさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬがい。わたしはこの婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩けんかを始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない」といった。
 貞固はついに照とさかずきをした。照は天保六年うまれで、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固はさいの里方とまじわるに、多く形式の外にでなかったが、照と結婚したのち間もなくその弟玄琢げんたくを愛するようになった。大須おおす玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には八尾板やおばんの『史記』などのような大部のものがあった。
 この年弘前藩では江戸定府じょうふを引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの国勝手くにがっての議が、この時に及んでわずかに行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発するむれにはらなかった。
 抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島優善やすよしは本所緑町の家を引き払って、武蔵国北足立郡きたあだちごおり川口かわぐちに移り住んだ。知人しるひとがあって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、わずかあいだである。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
 比良野貞固の家では、この年後妻こうさい照がりゅうというむすめを生んだ。
 第十年は明治元年である。伏見ふしみ鳥羽とばたたかいを以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力よりょくが、春より秋に至る間にようやく衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜よしのぶが上野寛永寺にったのちに、江戸を引き上げた弘前藩の定府じょうふの幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
 渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚のあたいは二十四文であった。庭に定所ていしょ、抽斎父子の遺愛の木たる※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19)ていりゅうがある。神田の火に逢って、幹の二大枝にだいしわかれているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へうつされて、さいわいしおれなかった木である。また山内豊覚が遺言いげんして五百に贈った石燈籠いしどうろうがある。五百も成善しげよしも、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪もかたんずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを奈何いかんともすることが出来なかった。
 食客は江戸もしくはその界隈かいわいに寄るべき親族を求めて去った。奴婢ぬひは、弘前にしたがくべき若党二人を除く外、ことごといとまを取った。こういう時に、年老いたる男女のいて投ずべき家のないものは、あわれむべきである。山内氏から来た牧は二年ぜんに死んだが、跡にまだ妙了尼みょうりょうにがいた。
 妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になってたれ一人引き取ろうというものがなかった。五百いおは一時当惑した。

その八十


 渋江氏が本所亀沢町の家を立ち退こうとして、最も処置にくるしんだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、すでに八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして知人しるひとのない遠国えんごくに往くのはつらいのである。
 もと妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町としまちょうの古着屋のむすめに生れて、真寿院しんじゅいん女小姓おんなごしょうを勤めた。さていとまを取ってから人に嫁し、夫をうしなって剃髪ていはつした。夫の弟が家をぐに及んで、初め恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これが弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。
 妙了は眼病の治療を請いに抽斎のもとへ来た。前年にきたり嫁した五百いおが、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それからは渋江の家にいて子供の世話をし、中にもとう成善しげよしとを愛した。
 妙了の最も近い親戚は、本所相生町あいおいちょう石灰屋しっくいやをしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外今川橋いまがわばし飴屋あめや石原いしはら釘屋くぎや箱崎はこざきの呉服屋、豊島町の足袋屋たびやなども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。
 幸に妙了の女姪めいが一人富田十兵衛とみたじゅうべえというもののさいになっていて、夫に小母おばの事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国いずのくに韮山にらやまの某寺に寺男てらおとこをしているので、妙了は韮山へ往った。
 四月さくに渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退いて、本所横川よこかわの津軽家の中屋敷にうつった。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
 一行いっこうは戸主成善十二歳、母五百いお五十三歳、くが二十二歳、水木みき十六歳、専六せんろく十五歳、矢島優善やすよし三十四歳の六人と若党二人ににんとである。若党の一人ひとりは岩崎駒五郎こまごろうという弘前のもので、今一人は中条勝次郎ちゅうじょうかつじろうという常陸国ひたちのくに土浦つちうらのものである。
 同行者は矢川文一郎やかわぶんいちろう浅越一家あさごえいっけとである。文一郎は七年ぜんの文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋かなものどいや平野屋のむすめ柳をめとって、男子なんしを一人もうけていたが、弘前ゆきの事がまると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
 浅越一家は主人夫婦とむすめとで、若党一人を連れていた。主人は通称を玄隆げんりゅうといって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆はわかい時不行迹ふぎょうせきのために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期まつご養子としてのちけ、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾にった。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏としたしんでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、むすめふくは当歳である。
 ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれをするに当って、当時の社会が今とことなることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論もちろんであるが、出入でいりの職人商人あきうどもまた情誼じょうぎすこぶる厚かった。渋江の家に出入いでいりする中で、職人には飾屋長八かざりやちょうはちというものがあり、商人には鮓屋久次郎すしやきゅうじろうというものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木ぼぼくきょうしていたが、久次郎は六十六歳のおきなになって生存ながらえていたのである。

その八十一


 飾屋長八は単に渋江氏の出入でいりだというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業をめて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋にすまわせて衣食を給した。それゆえ長八は病がえて業にいたのち、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例にって晩酌の一合を傾けた。そして「あの檀那だんな様がお亡くなりなすって見れば、おれもお供をしてもいな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。
 鮓屋久次郎はもとぼてふり肴屋さかなやであったのを、五百いおの兄栄次郎が贔屓ひいきにして資本を与えて料理店を出させた。幸に鮓久すしきゅう庖丁ほうちょうは評判がかったので、十ばかり年のわかい妻を迎えて、天保六年にせがれ豊吉とよきちをもうけた。享和三年うまれの久次郎は当時三十三歳であった。のち九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも出入でいりすることになって、次第に親しくなっていた。
 渋江氏が弘前にうつる時、久次郎は切に供をしてくことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳のおきなが二百里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、おもに五百を尊崇そんそうする念から出たのである。渋江氏ではゆえなく久次郎のねがいしりぞけることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人河野六郎こうのろくろうの内意をけて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病にかかって死んだ。
 渋江氏の一行は本所二つ目橋のほとりから高瀬舟たかせぶねに乗って、竪川たてかわがせ、中川なかがわより利根川とねがわで、流山ながれやま柴又しばまた等を経て小山おやまいた。江戸をることわずかに二十一里の路に五日をついやした。近衛家このえけに縁故のある津軽家は、西館孤清にしだてこせい斡旋あっせんに依って、既に官軍に加わっていたので、路の行手ゆくての東北地方は、秋田の一藩を除く外、ことごとく敵地である。一行の渋江、矢川やがわ浅越あさごえの三氏の中では、渋江氏は人数にんずも多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子ちのみごを抱いた妻というわずらいを有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
 五百らの乗った五ちょう駕籠かごを矢島優善やすよしが宰領して、若党二人を連れて、石橋いしばし駅に掛かると、仙台藩の哨兵線しょうへいせんに出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつかごさしはさんで、一つ一つ戸を開けさせて誰何すいかする。女の轎は仔細しさいなく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
 出羽でわの山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程のなかばである。常の旅にはここに来ると祝うならいであったが、五百らはわざと旅店を避けて鰻屋うなぎやに宿を求めた。

その八十二


 山形から弘前に往く順路は、小坂峠こざかとうげえて仙台にるのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠いたやとうげを踰えて米沢よねざわることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山かみのやままで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹留えんりゅうした。
 五百らは路用の金がきた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を長持ながもち五十余りの底にかせて舟廻ふなまわしにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来たちとの荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。間道かんどうを進むことに決したので、嵩高かさだかになる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭はもとより路用の不足を補う額にはのぼらなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
 上山を発してからは人烟じんえんまれなる山谷さんこくの間を過ぎた。縄梯子なわばしごすがって断崖だんがい上下しょうかしたこともある。よるの宿は旅人りょじんもちを売って茶を供する休息所のたぐいが多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
 院内峠いんないとうげを踰えて秋田領にった時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主佐竹右京大夫義堯さたけうきょうのたゆうよしたかは、弘前の津軽承昭つぐてると共に官軍がたになっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
 さて矢立峠やたてとうげを踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地ざかいである。そこを少しくだると、碇関いかりがせきという関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、はじめ慇懃いんぎんことばを使うのである。人が雲表うんぴょうそびゆる岩木山いわきやまゆびさして、あれが津軽富士で、あのふもとが弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙をこぼして喜んだそうである。
 弘前にってから、五百らは土手町どてまちの古着商伊勢屋の家に、藩から一人いちにん一日いちじつ一分いちぶ為向しむけを受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経てのちに着いた。下宿屋からちまたづれば、土地の人が江戸子えどこ々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時もとどりを麻糸でい、地織木綿じおりもめんの衣服をた弘前の人々の中へ、江戸そだちの五百らがまじったのだから、物珍らしく思われたのもあやしむに足りない。こと成善しげよしが江戸でもまだ少かった蝙蝠傘かわほりがさを差して出ると、るものがの如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計はらぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちにいじこわされてしまった。
 成善は近習小姓の職があるので、毎日登城とじょうすることになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は経史けいし兼松石居かねまつせききょに学んだ。江戸で海保竹逕かいほちくけいの塾を辞して、弘前で石居の門をたたいたのである。石居は当時既に蟄居ちっきょゆるされていた。医学は江戸で多紀安琢たきあんたくおしえを受けたのち、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に所々しょしょに起って、飛脚が日ごとに情報をもたらした。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、あらたに町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医小山内元洋おさないげんようである。弘前ではこれより先藩学稽古館けいこかんに蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田成卿せいけいの門人佐々木元俊げんしゅんである。元洋もまた杉田門から出た人で、後けんと称して、明治十八年二月十四日に中佐ちゅうさ相当陸軍一等軍医せいを以て広島に終った。今の文学士小山内薫おさないかおるさんと画家岡田三郎助おかださぶろうすけさんの妻八千代やちよさんとは建の遺子である。矢島優善やすよしは弘前にとどまっていて、戦地から後送こうそうせられて来る負傷者を治療した。

その八十三


 渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
 一行が土手町に下宿した後三月さんげつにして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神がたたりすのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのをにくんで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中なかんずく丹後たんごの人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫あんじゅひめで、おのれを虐使した山椒大夫さんしょうたゆうの郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
 暴風雨ののち数日にして、新に江戸からうつった家々に沙汰さたがあった。もし丹後、南部等のうまれのものがまぎっているなら、厳重に取りただして国境の外にえというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指めざされた。中条は常陸ひたち生だといって申しいたが、役人は生国しょうこく不明と認めて、それに立退たちのきさとした。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
 冬になってから渋江氏は富田新町とみたしんまちの家にうつることになった。そして知行ちぎょうは当分の内六分びけを以て給するという達しがあって、実は宿料食料のほか何の給与もなかった。これがのち二年にして秩禄ちつろくに大削減を加えられる発端ほったんであった。二年ぜんから逐次に江戸を引き上げて来た定府じょうふの人たちは、富田新町、新寺町しんてらまち新割町しんわりちょう上白銀町かみしろかねちょうしも白銀町、塩分町しおわけちょう茶畑町ちゃばたちょうの六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町えどこまち、新寺町新割町には大矢場おおやば、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野貞固さだかた、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
 この頃五百は専六が就学じゅがく問題のためにおもいを労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促をたない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史をおさめるのを見て、ごう容喙ようかいせずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の詮議せんぎをする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
 五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町おやかたちょうに住んでいる近習医者小野元秀おのげんしゅうた。

その八十四


 小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎つしまいくじろうの次男で、小字おさなな常吉つねきちといった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜せて医師某のもとに往った。某は家にいたのに、きたり診することをがえんぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のためにおしんで、心にこれを牢記ろうきしていた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、くらうときにははしを投じ、したるときにはち、ただちにいて診したのは、少時のにがき経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳しゅうとくの養子となり、その長女そのに配せられた。
 元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所つめしょ出入いでいりするに、あしたには人に先んじてき、ゆうべには人に後れてかえった。そして公退後には士庶の病人に接して、たえむ色がなかった。
 稽古館教授にして、五十石町ごじっこくまちに私塾を開いていた工藤他山くどうたざんは、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途にかなかった時、元秀がその貧を知って、※(「米+胥」、第4水準2-83-94)しょを受けずしてねんごろに治療した時からのまじわりである。他山の子外崎とのさきさんも元秀をっていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
 元秀の養子完造かんぞうもと山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子芳甫ほうほさんはもと鳴海なるみ氏で、今弘前の北川端町きたかわばたちょうに住んでいる。元秀の実家のすえは弘前の徒町かちまち川端町の対馬※蔵しょうぞう[#「金+蚣のつくり」、U+9206、243-12]さんである。
 専六は元秀の如き良師を得たが、うらむらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人はつねに、円頂えんちょうの専六が筒袖つつそで短袴たんこ穿き、赤毛布あかもうふまとって銃を負い、山野を跋渉ばっしょうするのを見た。これは当時の兵士の服装である。
 専六は兵士の間にまじわりを求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、すこぶるこれを愛好した。
 時に弘前にうつった定府じょうふ中に、山澄吉蔵やまずみきちぞうというものがあった。名を直清なおきよといって、津軽藩が文久三年に江戸にった海軍修行生徒七人のうちで、中小姓を勤めていた。築地つきじ海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は熕隊こうたい司令官にせられた。兵士中を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として洋算ようざんを学んだ。専六もまた藤田ひそむ柏原櫟蔵かしわばられきぞうらと共に山澄の門にって、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講筵こうえんには臨まなくなった。のち山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今攻玉こうぎょく社長しゃちょうをしている。攻玉社は後に近藤真琴こんどうまことの塾に命ぜられた名である。初め麹町こうじまち八丁目の鳥羽とば藩主稲垣対馬守長和ながかずの邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次でしば神明町しんめいちょう商船黌しょうせんこうと、しば新銭座しんせんざの陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。

その八十五


 小野富穀ふこくとその子道悦どうえつとが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日をついやし、三月十八日に弘前にいた。渋江氏の弘前にるにさきだつこと二カ月足らずである。
 矢島優善やすゆきが隠居させられた時、跡をいだ周禎しゅうてい一家いっけも、この年に弘前へうつったが、その江戸を発する時、三男三蔵さんぞうは江戸にとどまった。前に小田原おだわらへ往った長男周碩しゅうせきと、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者奥通おくどおりに進み、その次男で嗣子にせられた周策しゅうさくもまた目見めみえのち表医者を命ぜられた。
 抽斎の姉須磨の夫飯田良清いいだよしきよの養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称したのち、静岡藩に赴いて官吏になった。
 森枳園きえんはこの年七月に東京から福山にうつった。当時の藩主は文久元年に伊予守正教まさのりのちけた阿部あべ主計頭かぞえのかみ正方まさかたであった。
 優善の友塩田良三りょうさんはこの年浦和うらわ県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田椿庭ちんていの塾にったのとほとんど同時に、伊沢柏軒の塾にって、柏軒にその才の雋鋭しゅんえいなるを認められ、せつを折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今仕宦しかんしたのである。
 この年箱館はこだてっている榎本武揚えのもとたけあきを攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子棠軒とうけんはこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町にうた。棠軒は福山藩から一粒金丹いちりゅうきんたんを買うことを託せられていたので、この任を果たすかたわら、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳しんじゅん、通称は春安しゅんあん、池田全安ぜんあんが離別せられたのちに、榛軒のじょかえの壻となったのである。かえは後に名をそのとあらためた。おそのさんは現存者で、市谷いちがや富久町とみひさちょうの伊沢めぐむさんのもとにいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
 抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女くがが矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
 陸が生れた弘化四年には、三女とうがまだ三歳で、母のふところを離れなかったので、陸は生れちるとすぐに、小柳町こやなぎちょうの大工の棟梁とうりょう新八というものの家へ里子さとこられた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、たまたま矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠をおしむ情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対してはすこぶる自ら抑遜よくそんしていなくてはならなかった。
 これに反して抽斎は陸を愛撫あいぶして、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「おれはこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込しこんで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
 陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人いちにんで、陸が手習をする時、手をって書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書がうまく出来たな」といって揶揄からかったことがある。
 陸は小さい時から長歌ながうたすきで、寒夜に裏庭の築山つきやまの上に登って、独り寒声かんごえの修行をした。

その八十六


 抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、ごうも婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田寅之丞とらのじょうに嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調ととのわなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年壬寅じんいんに生れたからの名である。即ち今の飯田たつみさんで、巽の字は明治二年己巳きしに二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談はなこうどが先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんはすでに忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎のへいしりぞくることが出来なくなった。
 文一郎は最初の妻りゅうが江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻をめとったが、いまだいくばくならぬにこれを去った。この女は西村与三郎のむすめ作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人をつかわして請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏ではすなわち動かなかった。陸には旧にって婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情のもとに、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
 文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしそのこいれなかったら、あるいは両家の間に事端じたんを生じはすまいかとおもんぱかった。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼ぎくの犠牲になったようなものである。
 この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹けいせきから見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式をおこなった翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、夜更よふけて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎はあらた馬廻うままわりになった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
 矢島優善やすよしは、陸が文一郎のさいになった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎のもとにいた鉄を迎え入れた。これは行懸ゆきがかりの上から当然の事で、五百ははたから世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言にすかされてはおらぬので、この土手町の住いは優善が身上しんじょうのクリジスを起す場所となった。
 優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、もとより予期すべきであった。しかしただに愛情が生ぜざるのみではなく、二人はたちま讐敵しゅうてきとなった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題をひっさげて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が幾度いくたびとなく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
 このあらそいは週をかさね月を累ねてまなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
 五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎がかたとの間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答おしもんどうの姿になった。
 この往反おうへんの最中に忽ち優善が失踪しっそうした。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善がもんを排せんがために酒色の境にのがれたのだろうと思って、手分てわけをして料理屋と妓楼ぎろうとを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。

その八十七


 比良野貞固さだかたは江戸を引き上げる定府じょぅふの最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月のこう安済丸あんさいまるという新造帆船ほぶねに乗った。しかるに安済丸は海にうかんで間もなく、柁機だきを損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、許多あまたの辛苦をめ、この年五月にようよう東京に帰った。
 さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森にちゃくした。佐藤弥六さとうやろくさんは当時の同乗者の一人いちにんだそうである。
 弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著とうちゃくせぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まするなかだちとなった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書しゅしょが来た。そのうちには安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏はんてんわずか一分銀いちぶぎん一つをあましていたのである。
 弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、船廻ふなまわしにした荷のうちに、刀剣のあったのを三十五ふり質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
 貞固の養子房之助はこの年に手廻てまわりを命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
 抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩禄ちつろくは大削減を加えられ、更に医者の降等こうとうが令せられた。禄高ろくだかは十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来石高こくだかを以て給せられていたものは、そのまま俵と看做みなして同一の削減を行われた。そして士分を上士じょうし、中士、下士にわかって、各班に大少を置いた。二十俵を少下士しょうかし、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
 渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
 然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。もと成善しげよしは医者の子として近習小姓に任ぜられているにはちがいない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令のづるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書けいしょを授けている。これは師たる兼松石居がすで屏居へいきょゆるされて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例をあんずるに、歯科医佐藤春益しゅんえきの子は、単に幼くして家督したために、平士へいしにせられている。いわんや成善は分明ぶんめいに儒職にさえ就いているのである。成善がこの令をおのれに適用せられようと思わなかったのも無理はない。
 しかし成善は念のために大参事西館孤清にしだてこせい、少参事兼大隊長加藤武彦たけひこ二人ににんを見て意見をたたいた。二人皆成善は医としてるべきものでないといった。武彦はさき側用人そばようにん兼用人清兵衛せいべえの子である。何ぞはからん、成善は医者と看做みなされて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍のほかにありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。

その八十八


 何故なにゆえに儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏はよよ儒を兼ねて、命を受けてけいを講じてはいたが、家はもと医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門にっていた。またすでに弘前に来たのちも、医官北岡太淳きたおかたいじゅん手塚元瑞てづかげんずい今春碩いまはるせきらは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村春台しゅんたい三上道春みかみどうしゅん、北岡有格ゆうかく小野圭庵おのけいあんの如きものがある。その他小山内元洋おさないげんようのようにあらたに召し抱えられたものもある。しかし江戸定府じょうふ出身のわかい医者がない。ちと医業の方をも出精しゅっせいしてはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽承昭つぐてるに医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭はたたかい大星場おおほしばに習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭はかたわらに侍した成善をして小野に代らしめた。かくの如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下じょうか皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情がけていたといってもかろう。
 矢島優善やすよしは前年の暮に失踪しっそうして、渋江氏では疑懼ぎくの間に年を送った。この年一月いちげつ二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百いおて、一は成善に宛ててある。ならび訣別けつべつの書で、所々しょしょ涙痕るいこんいんしている。石川は弘前をること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去ったのちに手紙を届けたのである。
 五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病みしはせぬかと気遣きづかって、再び人をやとって捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐おおわに倉立くらだて碇関いかりぜき等をくまなく尋ねた。しかし蹤跡しょうせきたえて知れなかった。
 優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋みなとやいた。湊屋のかみさんは大分年を取った女で、常に優善を「ちょうさん」と呼んでしたしんでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
 湊屋にみなという娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物よびものになっていた。みいちゃんは津藤つとうに縁故があるとかいう河野こうの某を檀那だんなに取っていたが、河野は遂にみいちゃんをめとって、優善が東京に著いた時には、今戸橋いまどばしほとりに芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
 優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀さんやぼりの箱屋になり、おもに今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
 四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店こっとうてん入贅にゅうぜいした。安田の家では主人礼助れいすけが死んで、未亡人びぼうじんまさが寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
 この頃さきに浦和県の官吏となった塩田良三りょうさんが、権大属ごんだいさかんのぼって聴訟係ていしょうがかりをしていたが、優善を県令にすすめた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。

その八十九


 専六は兵士とのまじわりようやく深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこおおせつけらる」という沙汰書さたしょを受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾やまだげんごの養子になった。源吾は天保中津軽信順のぶゆきがいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、むねさかってながいとまになった。しかし他家に仕えようという念もなく、商估しょうこわざをも好まぬので、家の菩提所ぼだいしょなる本所なかごう普賢寺ふけんじの一房に※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)しゅうきょし、日ごとにちまたでて謡を歌って銭をうた。
 この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附もんつきの衣類、上下かみしも等を葛籠つづら一つに収めて持っていた。
 承昭つぐてるはこの年源吾を召しかえして、二十俵を給し、目見めみえ以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのをおもんぱかって、養子を求めた。
 この時源吾の親戚しんせき戸沢惟清とざわいせいというものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百いおに説くに、山田の家世かせいもといやしくなかったのと、東京づとめの身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、のち弟御おとうとごさんが上京することになっても御都合がよろしいでしょう」といった。成善しげよしは等をくだされ禄を減ぜられた後、東京に往って恥をすすごうと思っていたからである。
 戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳をかたぶけた。五百は戸沢のひとりを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は八十吉やそきち信順のぶゆき在世の日の側役そばやくであった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、ちとの学問さえあった。然るに酒をこうぶるときは剛愎ごうふくにして人をしのいだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑ようどとぼしきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
 或時戸沢は公事を以て旅行した。物書ものかき松本甲子蔵まつもときねぞうがこれにしたがっていた。駕籠かごうちに坐した戸沢が、ふとかたわらを歩く松本を見ると、草鞋わらじの緒が足背そくはいを破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行をとどまらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉きょうひに近づいた。戸沢は「ちと内用ないようがあるから遠慮いたせ」といって、供のものをとおざけ、松本に草鞋わらじを脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋をけ、さて轎丁を呼んでいて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをもっていた。戸沢の子米太郎よねたろう、星野の子金蔵きんぞうの二人はかつて保さんのおしえを受けたことがある。
 戸沢の勧誘には、この年弘前にちゃくした比良野貞固さだかたも同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中しゅうちゅうにある間に病歿した。
 矢川文一郎に嫁したくがは、この年長男万吉まんきちを生んだが、万吉は夭折して弘前新寺町しんてらまちの報恩寺なる文内ぶんないが母の墓のかたわらに葬られた。
 抽斎の六女水木みきはこの年馬役村田小吉むらたこきちの子広太郎ひろたろうに嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟きんしつ調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
 小野氏ではこの年富穀ふこくが六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年うまれで、三十五歳になっていた。
 中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
 弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽承昭つぐてる三之内さんのうちうつった。

その九十


 抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善しげよしは母を弘前にのこして、単身東京にくことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等にって不平に堪えなかったからである。二には減禄ののちは旧にって生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩のうたがいを避けんがためである。
 弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩はすでにその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑はますます深くなるのであった。
 成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師兼松石居かねまつせききょはかった。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今はしずかにこれを待つことが出来なくなったのである。
 さて成善は私費を以て往くことをあえてするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。何故なにゆえというに、もし成善が母とともに往こうといったなら、藩は放ち遣ることをゆるさなかったであろう。
 成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格そかくすべきことは、母子皆これを知っていた。つづめて言えば、弘前を去る成善には母をとするに似たうらみがあった。
 藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。そのしゅにおるものは、の勘定奉行をめて米穀商となった平川半治である。当時かくの如く財利のために士籍をのがれようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は五百いおに説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日鉅万きょまんとみを致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田須田町すだちょうの某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以てあがなうことが出来て、即日から月収三百両乃至ないし五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳をさなかったことはもとよりである。
 当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事西館孤清にしだてこせいである。成善は西館をうて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くはい。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することをおしまぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館のもとを辞した。
 成善は家禄をいて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うてゆるされた。それから長持一棹ひとさおの錦絵を書画兼骨董商近竹きんたけに売った。これは浅草蔵前くらまえ兎桂とけい等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文乃至ないし一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、なかばとどめて母におくり、半はこれを旅費と学資とにてた。
 成善が弘前で暇乞いとまごいに廻った家々の中で、最もわかれおしんだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は※(「月+咢」、第3水準1-90-51)さがくかこぶを生じたので、自ら瘤翁りゅうおうと号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束おぼつかないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町しおわけちょうの家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町じんぼうちょうに住んで、琴の師匠をしている平井松野まつのさんがこのとめである。

その九十一


 成善しげよしは藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母五百いお水杯みずさかずきみ交して別れ、駕籠かごに乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時はじめて親子のわかれの悲しさを知って、轎中きょうちゅうで声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
 同行者は松本甲子蔵きねぞうであった。甲子蔵は後に忠章ちゅうしょうと改称した。父を庄兵衛しょうべえといって、もと比良野貞固さだかたの父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直ぼくちょくなのを愛して、津軽家にすすめて足軽あしがるにしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生しせいに任用せられていたのである。
 弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒をんで別れるならいであった。成善を送るものは、句読くとうを授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉はっとりぜんきち菱川太郎ひしかわたろうなどであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人ににん共にすでに世を去った。
 成善は四月七日に東京に着いた。行李こうりを卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬに死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽承昭つぐてるの本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所割下水わりげすいにあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀やげんぼりに住んでいた。安のむすめ二人ふたりのうち、けいは猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、せんは蔵前須賀町の呉服屋桝屋ますや儀兵衛のもとにいた。また専六と成善との兄優善やすよしは、ほど遠からぬ浦和にいた。
 成善の旧師には多紀安琢あんたくが矢の倉におり、海保竹逕ちくけいがお玉が池にいた。維新のはじめに官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、練塀小路ねりべいこうじの湿地にあった、ゆかの低い、畳の腐った家から移り住んだ。ひとり家宅が改まったのみではない。常に弊衣をていた竹逕が、その頃から絹布けんぷるようになった。しかしいくばくもなく、当時の有力者山内豊信とよしげ等のしりぞくる所となって官をめた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門にったが、竹逕は前年に会陰えいん膿瘍のうようを発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『えき』や『毛詩もうし』を講ずるのをいた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養をこうむっていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
 成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町あいおいちょうの共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言いげんして蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語をうるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八せきしんぱちの経営する所である。振八、はじめの名を仁寿じんじゅという。下総国高岡の城主井上いのうえ筑後守正滝まさたきの家来鈴木伯寿はくじゅの子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年ばつねんに尺氏を冒した。田辺太一たなべたいちに啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎にしきちじゅうろう等を師とし、次で英米人に親炙しんしゃし、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。

その九十二


 成善は四月に海保の伝経廬でんけいろり、五月にせきの共立学舎に入ったが、六月から更に大学南校なんこうにも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックのもとを訪うて教を受けた。フルベックはもと和蘭オランダ人で亜米利加アメリカ合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人いちにんである。
 学資は弘前藩から送って来る五人扶持のうち三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場そうばで一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初よりあらたに買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本しゅたくぼんを送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集しゅうしゅうした古刊本等の大部分が海若かいじゃくゆうした。
 八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社調掛しらべがかりを以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎にることを届けて置いたので、同時に「欠席聞届ききとどけ委頼いらい」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日のみことのりを以て廃藩置県の制がかれたので、弘前県が成立していたのである。
 矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津からつ藩士大沢正おおさわせいむすめちょうめとった。嘉永二年うまれで二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤かっとうを経たのちに離別せられていた。
 優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
 成善とともに東京に来た松本甲子蔵きねぞうは、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、のち兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
 当時県吏の権勢はさかんなものであった。成善が東京にった直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕籠かご一挺を宰領させて成善を県のさかいに迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、渡船場とせんばの役人が土下座をした。
 優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋みなとやかかえ芸者をはじめとし、山谷堀で顔をった芸者をもれなく招いた。そして酒たけなわなる時「おれはお前方まえがたの供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫だいじょうふ志を得たという概があったそうである。
 県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事間島冬道まじまふゆみちの催した懇親会では、塩田良三りょうさん野呂松のろま狂言を演じ、優善が莫大小メリヤス襦袢じゅばん袴下はかました夜這よばい真似まねをしたことがある。間島は通称万次郎、尾張おわりの藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮おおみや県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
 この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長こちょうは野菜一車ひとくるまを優善に献じたいといって持って来た。優善は「おれ賄賂わいろは取らぬぞ」といってしりぞけた。
 戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目めんぼくが立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
 戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
 優善はやすい野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
 県令は野村盛秀のむらもりひでであったが、野菜をもらうと同時にこの顛末てんまつを聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といってめたそうである。野村は初め宗七そうしちと称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田ひた県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人おんうたどころよりうどを以て終った。また野村はのち明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門ながとの士参事白根多助しらねたすけが一時県務を摂行せっこうした。

その九十三


 山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父をうしなって、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽承昭つぐてるの命を拝した。「親源吾給禄二十俵無相違被遣そういなくつかわさる」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは成善しげよしが内意をけて願書を呈したためである。
 専六は成善に紹介せられて、先ず海保の伝経廬でんけいろり、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一うめうらせいいちに従学した。
 この年六月七日に成善は名をたもつと改めた。これは母をおもうが故に改めたので、母は五百いお字面じめんならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善やすよしの名をゆたかと改めたのもこの年である。山田専六の名をおさむと改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
 この年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪ざんぱつした。優は何時いつ斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京をること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫のひもを以てもとどりうのが、当時の官吏の頭飾とうしょくで、優が何時までその髻を愛惜あいじゃくしたかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことをもちいぬというかも知れない。しかし明治のはじめに男子が髪を斬ったのは、独逸ドイツ十八世紀のツォップフが前に断たれ、清朝しんちょう辮髪べんぱつのちに断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るにくるしむかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年をしていない。保さんの日記の一条をここに採録する所以ゆえんである。
 この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所割下水わりげすいの家に同居した。
 海保竹逕ちくけいの妻、漁村のむすめがこの年十月二十五日に歿した。
 抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月いちげつに保が山田脩の家から本所横網町よこあみちょうの鈴木きよ方の二階へうつった。鈴木は初め船宿ふなやどであったが、主人が死んでから、未亡人きよが席貸せきがしをすることになった。きよは天保元年うまれで、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信いんしんを断たなかった。これよりさき保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者にはかること数次であった。しかし津軽承昭つぐてるの知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩のみことのりが出て、承昭は東京におることになり、県政もまたすこぶあらたまったので、保はまた当路者にはかった。当路者はまた五百の東京にることを阻止しようとはしなかった。ただ保が一諸生を以て母を養わんとするのがあやしむべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百いおはようよう弘前から東京に来ることになった。
 保が東京に遊学したのちの五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩ぜんに、弘前俎林まないたばやしの山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は浅越玄隆あさごえげんりゅうが五百の委託によって処理した。
 五百が弘前を去る時、村田広太郎のもとから帰った水木みきを伴わなくてはならぬことは勿論もちろんであった。その外くがもまた夫矢川文一郎とともに五百に附いて東京へ往くことになった。
 文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達ようたし商人工藤忠五郎蕃寛くどうちゅうごろうはんかんの次男蕃徳はんとくを養子にして弘前にのこした。蕃寛には二子二女があった。長男可次よしつぐ森甚平もりじんぺいの士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女おれんさんは蕃寛ののちを継いで、現に弘前の下白銀町しもしろかねちょうに矢川写真館を開いている。次女おみきさんは岩川いわかわ友弥ともやさんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子文平ぶんぺいさんがそののちいだ。

その九十四


 五百いおは五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、くがの夫妻ならびに村田氏から帰った水木みきの三人とともに、本所横網町の鈴木方に行李こうりを卸した。弘前からの同行者は武田代次郎たけだだいじろうというものであった。代次郎は勘定奉行武田準左衛門じゅんざえもんの孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽信順のぶゆきしも笠原近江かさはらおうみまつりごとほしいままにした時の事である。
 五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、ゆたかは浦和から母に逢いに来た。
 三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に権少属ごんしょうさかんになって、月給わずかに二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には二人ふたりの食客があった。一人ひとりさい蝶の弟大沢正おおさわせいである。今一人は生母とくの兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の胞衣えなを服用したという癲癇てんかん病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名をあらためて岡寛斎おかかんさいといっていた。優が登庁すると、その使役する給仕きゅうじは故旧中田なかだ某の子敬三郎けいざぶろうである。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本甲子蔵きねぞうがある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田健三けんぞう、かつて渋江氏の若党たりし中条勝次郎かつじろう、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の清浦子きようらしが県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦があずかって力があったとかで、「矢島先生奎吾けいご」と書した尺牘せきどく数通すつうのこっている。一時優の救援にって衣食するもの数十人のおおきに至ったそうである。
 保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人をめられて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかもかくの如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
 しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくてもい。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
 優はなお勧めてまなかった。そこへ一粒金丹いちりゅうきんたんのやや大きい注文が来た。福山、久留米くるめの二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまたすぐに調合に着手した。優は一旦いったん浦和へ帰った。
 八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくてもいから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は水木みきと保とを連れて浦和へ往った。
 これよりさき保は高等師範学校にることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。

その九十五


 保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業をうるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
 然るにここに一つの障礙しょうがいがあった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森枳園きえんに相談した。
 枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通ゆしまきりどおしの借家しゃっかに住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
 枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は店造みせづくりで、店と次のと台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者ばいぼくしゃのようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来ゆききが絶えなかった。枳園はしばしば保を山下やました雁鍋がんなべ駒形こまがた川桝かわますなどに連れて往って、酒をこうむって世をののしった。
 文部省は当時すこぶる多く名流を羅致らちしていた。岡本況斎、榊原琴洲さかきばらきんしゅう、前田元温げんおん等の諸家が皆九等乃至ないし十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
 保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、おれがどうにか話を附けてる」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
 師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
 保の同級には今の末松子すえまつしの外、加治義方かじよしかた古渡資秀ふるわたりすけひでなどがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家のむれに投じ、『絵入自由新聞』に続物つづきものを出したことがある。作者みょう花笠文京はながさぶんきょうである。古渡は風采ふうさいあがらず、挙止迂拙うせつであったので、これとまじわるものはほとんど保一人いちにんのみであった。もと常陸国ひたちくにの農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習ろうしゅうがあったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平くわたこうへいの家の学僕になっていて、それからこの学校にった。よわいは保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次ははるかしもにいた。しかし保はそのひとりの沈著ちんちゃくなのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、しばらくしてめ、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間におもんぜられたが、その年八月十二日に虎列拉コレラを病んで歿した。そののちいだのが尾崎愕堂おざきがくどうさんだそうである。
 この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送りかえした。土曜日に自身で来られぬときは、むかえの車をおこすのであった。
 鈴木の女主人おんなあるじは次第に優にしたしんで、立派な、気さくな檀那だんなだといって褒めた。当時の優は黒い鬚髯しゅぜんを蓄えていた。かつて黒田伯清隆きよたかに謁した時、座に少女があって、やや久しく優の顔を見ていたが、「あの小父おじさんの顔はさかさに附いています」といったそうである。鬢毛びんもうが薄くてひげが濃いので、少女はあごを頭とたのである。優はこの容貌で洋服をけ、時計の金鎖きんぐさり胸前きょうぜんに垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
 或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草見附みつけの所をって来ると、うまそうな茶飯餡掛ちゃめしあんかけを食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。やすいじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子をして言ったのである。

その九十六


 この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野貞固さだかたもその一人ひとりで、或日突然たもつが横網町の下宿に来て、「今いた」といった。貞固は妻てると六歳になるむすめりゅうとを連れて来て、百本ぐいの側につながせた舟の中にのこして置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
 保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをおつれ下さい、追附おっつけ母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保はひそかに心をくるしめた。なぜというに、保は鈴木の女主人おんなあるじに月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへにわかに三人の客を迎えなくてはならなくなった。それがの人ならば、宿料しゅくりょうを取ることも出来よう。貞固はおのれが主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの界隈かいわいではまだ糸鬢奴いとびんやっこのお留守居るすい見識みしっている人が多い。それを横網町の下宿にやどらせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
 保はこれを忍んで数カ月間三人を※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)かんたいした。そして殆ど日々にちにち貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走ちそうした。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
 矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店しちみせを開いたが成功しなかった。浅越は名をりゅうあらためて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸うまれの長女ふくは中沢彦吾なかざわひこきちの弟彦七の妻になり、男子二人ににんうち、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
 五百と一しょに東京に来たくがが、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店さとうみせを開いたのもこの年の事である。長尾のむすめ敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町さるわかちょう引手茶屋ひきてぢゃやは、この年十月に新富町しんとみちょううつった。守田勘弥もりたかんやの守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
 この年六月に海保竹逕ちくけいが歿した。文政七年うまれであるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来また弁之助と称せずして、名の元起げんきを以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村のしょう某氏と竹逕の子女おのおの一人いちにんとである。嗣子繁松しげまつは文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村こうそんを漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
 抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六大区だいく六小区本所相生町あいおいちょう四丁目に※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)しゅうきょした。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木みきがいたばかりであるが、のちには山田脩が来て同居した。脩はこの頃喘息ぜんそくに悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
 五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金のたくわえは殆ど尽きていたので、奈何いかんともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家はここに至ってはじめて借りられたのである。

その九十七


 保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内にうつれということであった。
 しかるに保は入舎を欲せないので、「母病気につき当分のうち通学許可相成度あいなりたく」云々という願書を呈して、旧にって本所から通っていた。母の病気というのは虚言うそではなかった。五百は当時眼病にかかってくるしんでいた。しかし保は単に五百の目疾もくしつの故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
 保は師範学校の授くる所の学術が、自己のおさめんと欲する所のものと相反しているのを見て、ひそかに退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
 学校は米人スコットというものを雇いきたって、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。なまっているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能さいのうがなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があってもかろんぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、おのれが上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」とののしった。
 保は英語をつかい英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなう科目はたえてなかった。またたとい未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎じゅんこたる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
 保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらってもい。またたれかのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
 保はかくの如くに思惟しゆいして、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉じゅんぽうすることをも怠り、早晩退学処分の我頭上とうじょうに落ちきたらんことを期していた。校長諸葛信澄もろくずのぶずみの家にを通ぜない。その家が何ちょうにあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
 入舎の命令をばこの状況のもとに接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分がくだるだろう。そうなったら、再び頂天立地ちょうてんりっちの自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆しょし万巻楼まんがんろうの主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町おおでんまちょう袋屋亀次郎ふくろやかめじろうで、これよりさき保のはじめて訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
 保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島ゆたかと比良野貞固さだかたとが反対した。そのおもなる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、ぬぐうべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
 十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎にった。

その九十八


 矢島ゆたかはこの年八月二十七日に少属しょうさかんのぼったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、芝琴平町しばことひらちょうきたり住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎はのち明治十七年十月十九日に歿した。天保十年うまれであるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌しぼうがあったが、痘を病んでかたちやぶられた。医学館に学び、また抽斎、枳園きえんの門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑ののちに書して、「余少時曾在先生之門よわかいときかつてせんせいのもんにあり能知其為人よくそのひととなりと且学之広博がくのこうはくをしる因窃録先生之言行及字学医学之諸説よりてひそかにせんせいのげんこうおよびじがくいがくのしょせつをろくし別為小冊子べつにしょうさっしとなす」といっている。わたくしはその書の存否をつまびらかにしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安のむすめ梅をめとったが、後これを離別して、陸奥国むつのくに磐城平いわきだいらの城主安藤家の臣後藤氏のじょいつを後妻にれた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎しゅんたろうさんは、今本郷西片町ほんごうにしかたまちに住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男篤次郎とくじろうさんは風間かざま氏を冒して、小石川宮下町こいしかわみやしたちょうに住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
 くがはこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店さとうみせを閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
 次で陸は本所ほんじょ亀沢町かめざわちょうに看板を懸けて杵屋勝久きねやかつひさと称し、長唄ながうたの師匠をすることになった。
 矢島周禎の一族もまたこの年に東京にうつった。周禎は霊岸島れいがんじまに住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所相生町あいおいちょう二つ目橋どおり玩具店おもちゃみせを開いた。周禎はもと眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。
 或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏をい、束脩そくしゅうを納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策はすでに二十九歳、保はわずかに十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校にらしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策はのち生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、いくばくもなく精神病に罹ってめられた。
 緑町の比良野氏では房之助ふさのすけが、実父稲葉一夢斎いなばいちむさいと共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下たんげが老後の名である。貞固さだかたは月に数度浅草黒船町くろふねちょう正覚寺しょうかくじ先塋せんえいもうでて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と昔を談じた。
 抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏苒じんぜんとしてせぬので、矢島周禎の外に安藤某をいて療せしめ、数月すうげつにして治することを得た。
 水木みきはこの年深川佐賀町さがちょうの洋品商兵庫屋藤次郎ひょうごやとうじろうに再嫁した。二十二歳の時である。
 妙了尼はこの年九十四歳を以て韮山にらやまに歿した。
 渋江氏ではこの年感応寺かんのうじにおいて抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島ゆたかくが、水木、比良野貞固さだかた、飯田良政よしまさらが来会した。
 渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高きんだかは、もとより言うに足らぬ小額であった。
 抽斎歿後の第十七年は明治八年である。一月いちげつ二十九日に保は十九歳で師範学校の業をえ、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。
 五百、保の母子が立ったのち、山田脩は亀沢町の陸のもとに移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島ゆたかはこの頃家を畳んで三池みいけに出張していた。

その九十九


 保は母五百を奉じて浜松にいて、初めしばらくのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町しもたれちょう郷宿ごうやど山田屋和三郎わさぶろう方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時やどる家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂にっけいの大木がある。今もなお儼存げんそんしているそうである。
 山田屋の向いに山喜やまきという居酒屋がある。保は山田屋に移ったはじめに、山喜の店に大皿おおざら蒲焼かばやきの盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
贅沢ぜいたくをお言いでない。うなぎはこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。あたいを問えば、一銭に五串いつくしであった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これにって想見することが出来る。
 保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長大江孝文おおえたかぶみの如きも、すこぶる保を冷遇した。しかしやや久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しくおもてやわらげた。大江の母は津軽家の用人栂野求馬とがのもとめの妹であった。のち大江は県令林厚徳はやしこうとくもうして、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
 数月の後、保は高町たかまちの坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋ごうしゅうや速見平吉はやみへいきち離座敷はなれざしきを借りてうつった。この江州屋も今なお存しているそうである。
 矢島優はこの年十月十八日に工部少属しょうさかんめて、新聞記者になり、『さきがけ新聞』、『真砂まさご新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩がともに入社し、『真砂新聞』には森枳園きえんが共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、かたわら新聞社に寄稿したのである。
 抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県にあわせられたのである。しかし保の職はもとの如くであった。
 この年四月に保は五百の還暦の賀延がえんを催して県令以下のいわいを受けた。
 五百の姉長尾氏やすはこの年新富座附しんとみざつきの茶屋三河屋みかわやで歿した。年は六十二であった。この茶屋の株はのち敬の夫力蔵りきぞうが死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
 比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年うまれであるから、六十五歳を以て終ったのである。そののちいだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
 小野富穀ふこくもまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子道悦どうえつが家督相続をした。
 多紀安琢あんたくもまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は※(「王+炎」、第3水準1-88-13)げんえん、号は雲従うんじゅうであった。その後を襲いだのが上総国かずさのくに夷隅郡いすみごおり総元村そうもとむらに現存している次男晴之助せいのすけさんである。
 喜多村栲窓こうそうもまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村おおつかむらに住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身ゆうはんしん不随になり、ここ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたって終った。享年七十三である。
 抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松表早馬町おもてはやうまちょう四十番地に一戸を構え、後またいくばくならずして元城内もとじょうない五十七番地に移った。浜松城はもと井上いのうえ河内守かわちのかみ正直まさなおの城である。明治元年に徳川家があらたにこの地にほうぜられたので、正直は翌年上総国市原郡いちはらごおり鶴舞つるまいうつった。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅ていたくで、大手の左右につらなっていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
 この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
 兼松石居かねまつせききょはこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免こんにちわれめんをしる亦将騎鶴遊またつるにのりてあそばんとす上帝賚殊命じょうていしゅめいをたまう使爾永相休なんじをしてながくあいやすましめんと。」「年浪としなみのたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟でむ。」石居は酒井さかい石見守いわみのかみ忠方ただみちの家来屋代やしろ某のじょめとって、三子二女を生ませた。長子こんあざな止所ししょが家を嗣いだ。号は厚朴軒こうぼくけんである。艮の子成器せいきは陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町いちかわまちに住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

その百


 抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月いちげつ二十五日津軽承昭つぐてるは藩士の伝記を編輯へんしゅうせしめんがために、下沢保躬しもさわやすみをして渋江氏について抽斎の行状をさしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采采択さいたくせられしや否やをつまびらかにしない。
 保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
 山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息ぜんそく気遣きづかっていたが、脩が矢島ゆたかと共に『さきがけ新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲ぼういんの語あるを見て、大いにその健康を害せんをおそれ、急に命じて浜松にきたらしめた。しかし五百は独り脩の身体しんたいのためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをもおもんぱかったのである。
 この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
 抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許ていきょせられた。これは慶応義塾にって英語を学ばんがためである。
 これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業をえて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずしてしたのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞そくぶんし、すこぶ福沢諭吉ふくざわゆきちに傾倒した。明治九年に国学者阿波あわの人某が、福沢のあらわす所の『学問のすゝめ』をはくして、書中の「日本にっぽん※(「くさかんむり/最」、第4水準2-86-82)さいじたる小国である」の句を以て祖国をはずかしむるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書しゅしょして保に謝した。保はこれより福沢にられて、これに適従てきじゅうせんと欲する念がいよいよ切になったのである。
 保は職を辞する前に、山田脩をして居宅をもとめしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町まつもとちょう十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
 五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家にいた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下しっかに侍することを得たが、独り矢島ゆたかのみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用がかりを拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
 くがは母と保との浜松へ往ったのちも、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木みきが同居していた。勝久は水木の夫であった畑中藤次郎はたなかとうじろうを頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
 保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武なかにしつねたけである。
 山田は遠江国とおとうみのくに敷智郡ふちごおり都築つづきの人である。父を喜平といって、畳問屋たたみどいやである。その三男要蔵は元治げんじ元年うまれの青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国度会郡わたらいごおり山田岩淵町いわぶちちょうの人中西用亮ようすけの弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職をめて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾にらんと欲して、共に入京したのである。

その百一


 保は東京にいた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。
 同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科にった。のち山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。
 保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、万来舎ばんらいしゃにおいて福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語りでてこれを善遇した。
 当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
 森枳園きえんはこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長得能良介とくのうりょうすけは初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早くめられんよりは、すくなく給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だといった。局長はこれに従って、特に耆宿きしゅくとして枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵のかぎは枳園が自ら保管していて、自由にこれに出入しゅつにゅうした。寿蔵碑に「日々入局にちにちきょくにいり不知老之将至おいのまさにいたらんとするをしらず殆為金馬門之想云ほとんどきんばもんのおもいをなすという」としてある。
 抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、平賀敏ひらがびんがあり、また同じ青森県人に芹川得一せりかわとくいち工藤儀助くどうぎすけがあった。上等の同学生には犬養毅いぬかいきさんの外、矢田績やだせき安場やすば男爵があり、また同県人に坂井次永さかいじえい神尾金弥かみおきんやがあった。のちの二人は旧会津藩士である。
 万来舎では今の金子かねこ子爵、その他相馬永胤そうまながたね目賀田めがた男爵、鳩山和夫はとやまかずお等が法律を講ずるので、保も聴いた。
 山田脩はこの年電信学校にって、松本町の家から通った。くがの勝久が長唄を人に教うるかたわら、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽ほうがである。この頃水木みきは勝久のもとを去って母の家に来た。
 この年また藤村義苗ふじむらよしたねさんが浜松から来て渋江氏にぐうした。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業をえ、遠江国中泉なかいずみで小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校にってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
 松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
 抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争ってへいせんと欲する所で、その世話をする人はおも小幡篤次郎おばたとくじろうであった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた※(「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70)きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
 この年もまた卒業生の決口はけくちすこぶる多かった。保の如きも第一に『三重みえ日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田茂吉もきちに三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心をかたぶけたために、半途にして交渉を絶った。
 学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵あべたいぞうと会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。

その百二


 保は三河国宝飯郡ほいごおり国府町こふまちいて、長泉寺ちょうせんじの隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずという辞令を受けた。
 保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前によこたわっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に自力の徳教をおしえた。教則は文部省がたやすく認可せぬので、往復数十回をかさね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。罰則は果して必要でなかった。一人いちにん※違者かいいしゃ[#「言+圭」、U+8A7F、295-5]をもいださなかったからである。
 長泉寺の隠居所は次第ににぎわしくなった。初め保は母と水木みきとの二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、寄寓きぐうを請う諸生を、一人ひとりれ、二人容れて、いくばくもあらぬに六人の多きに達した。八田郁太郎はちたいくたろう稲垣親康いながきしんこう、島田寿一じゅいち、大矢尋三郎じんざぶろう菅沼岩蔵すがぬまいわぞう溝部惟幾みぞべいきの人々である。中にも八田は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに淹留えんりゅうした。夏日かじつあわせに袷羽織ばおりてんとして恥じず、また苦熱のたいをも見せない。人皆その長門ながとの人なるを知っているが、かつて自ら年歯ねんしを語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部はのち農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。
 当時保は一人の友を得た。武田氏名は準平じゅんぺいで、保が国府こふの学校に聘せられた時、中に立って斡旋あっせんした阿部泰蔵の兄である。準平は国府こふに住んで医を業としていたが、医家を以てあらわれずに、かえって政客せいかくを以て聞えていた。
 準平はこれよりさき愛知県会の議長となったことがある。某年に県会がおわって、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令国貞廉平くにさだれんぺいの施設にあきたらなかったが、宴たけなわなる時、国貞の前に進んでさかずきを献じ、さて「お※(「肴+殳」、第4水準2-78-4)さかなは」と呼びつつ、国貞にそむいて立ち、かかげてしりあらわしたそうである。
 保は国府こふに来てから、この準平と相識になった。既にして準平が兄弟けいていになろうと勧めた。保はへりくだって父子になる方が適当であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
 この時東京には政党が争いおこった。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝えた。準平と保とは国府こふにあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、ふちに臨んでぎょうらやむの情に堪えない。しかしだいなるものは成るに難く、小なるものは成るにやすい。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の雛形ひながたは進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。

その百三


 抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。一月いちげつ二日に保の友武田準平が刺客せきかくに殺された。準平の家には母と妻とむすめ一人ひとりとがいた。女の壻秀三ひでぞうは東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年にいとまうて帰った。この日家人がしんいたのち、浴室から火が起った。ただ一人暇を取らずにいた女中が驚きめて、けぶりくりやむるを見、引窓ひきまどを開きつつ人を呼んだ。浴室は庖厨ほうちゅうの外に接していたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に行燈あんどうげて厨に出て来た。この時一人の引廻ひきまわしがっぱをた男が暗中よりって、準平に近づいた。準平は行燈をいて奥にった。引廻の男はいて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を蹴脱けはずして庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所のきずを負って、庭のひのきの下にたおれた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してからたきぎかせようといっていたのである。家人は檜がしんをなしたなどといった。引廻の男はたれであったか、また何故なにゆえに準平を殺したか、ついに知ることが出来なかった。
 保は報を得て、せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※[#「にんべん+暴」、U+5124、298-2]がいる。巡査数人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分のうち巡査を二人ふたりだけ附けて上げましょう」というのである。
 保はの小結社の故を以て、刺客が手をうごかしたものとは信ぜなかった。しかししばらくは人のすすめに従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾をめた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
 保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京日々にちにち新聞』の福地桜痴ふくちおうちと論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
 普通選挙論では外山正一とやましょういちが福地に応援して、「毎日記者は盲目めくらへびにおじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を鈔出しょうしゅつし、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という鸚鵡返おうむがえしの報復をした。
 これらの論戦ののち、保は島田三郎、沼間守一ぬましゅいち肥塚龍こえづかりゅうらにられた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
 保は十二月九日学校の休暇を以て東京にった。実は国府こふを去らんとする意があったのである。
 この年矢島ゆたかは札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
 山田おさむはこの年一月いちげつ工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

その百四


 抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京にって、仮に芝田町しばたまち一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷めんひの報に接した。一月十一日には攻玉社こうぎょくしゃの教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾にき、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴こんどうまこと、幹事が藤田ひそむで、生徒中にはのちに海軍少将に至った秀島ひでしま某、海軍大佐に至った笠間直かさまちょく等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎おばたとくじろう、校長が浜野定四郎はまのさだしろうで、教師中に門野幾之進かどのいくのしん鎌田栄吉かまだえいきち等があり、生徒中に池辺吉太郎いけべきちたろう門野重九郎かどのじゅうくろう和田豊治わだとよじ日比翁助ひびおうすけ伊吹雷太いぶきらいた等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保はしば烏森町からすもりちょう一番地に家を借りて、四月五日に国府こふからかえった母と水木みきとを迎えた。
 勝久は相生町あいおいちょうの家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへゆたかが開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠をめさせ、もっぱら家政をつかさどらせた。
 八月中の事であった。保はかくを避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日いっしゅうじつほどの間柳島の帆足謙三ほあしけんぞうというものの家に起臥きがしていた。烏森町の家には水木をのこして母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今ただいま帰りました」と、保はいった。
「おかえりかえ」といって、五百は微笑した。
「おっ様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは今朝けさは生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
 ひるになって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝みずがいを取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくてはしのぎ切れません。これから汐湯しおゆ這入はいって、湖月こげつに寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしもくよ。」五百は遂に汐湯にって、湖月で飲食のみくいした。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中ではとうを愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京にったのは、意を決した上の事である。それゆえ年余ねんよの久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百のかたんずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。

その百五


 この年十二月二日にゆたかが本所相生町の家に歿した。優は職をめる時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道きよかわげんどうの治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃ひるごろ「ああ草臥くたびれた」といって仰臥ぎょうがしたが、それきりたなかった。岡西氏とくの生んだ、抽斎の次男はかくの如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
 優は蕩子とうしであった。しかしのちに身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、すこぶ材能さいのうあらわした。優は情誼じょうぎに厚かった。親戚しんせき朋友ほうゆうのその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札ひっさつを善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森枳園きえんと優とを開拓者のうちに算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶ひちょうの名が署してあるが、優の未定稿である。
 抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
 五百は平生へいぜい病むことがすくなかった。抽斎歿後に一たび眼病にかかり、時々じじ疝痛せんつううれえた位のものである。特に明治九年還暦ののちは、ほとんど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬをうれえて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年にって見ると、五百の健康状態はくなった。保は二月九日の母が天麩羅蕎麦てんぷらそばを食べて炬燵こたつに当り、史を談じてこうたけなわなるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食ごしょくに蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年ぜんからは子らのいさめれて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草みせへ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。しばらくして五百は烟草を買って帰って、保の背後うしろに立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。はじめてドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話をめずにいた。
 少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後うしろを顧みた。
 五百は火鉢の前に坐って、やや首をかたぶけていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急にってかたわらに往き顔をのぞいた。
 五百の目は直視し、口角こうかくからはよだれが流れていた。
 保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
 五百は「ああ」と一声答えたが、人事をせいせざるものの如くであった。
 保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師のもとへ走った。

その百六


 渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂ぞんせいどうという松山棟庵とうあんの出張所が最も近かった。出張所には片倉かたくら某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
 片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随ゆうはんしんふずいになっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復ののぞみはありません」といった。
 しかし保はそのことを信じたくなかった。一時くうていた母が今は人のおもてに注目する。人が去れば目送する。枕辺ちんぺんに置いてあるハンカチイフを左手さしゅって畳む。保がそばに寄るごとに、左手で保の胸をでさえした。
 保は更に印東玄得いんどうげんとくをも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
 五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
 五百の晩年の生活は日々にちにち印刷したように同じであった。祁寒きかんの時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水ちょうずを使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐ごさんの支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉ゆうげは七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。めば保を呼んでを囲みなどすることもある。しんに就くのは十時である。
 隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度もうで、親と夫との忌日きにちには別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたるまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
 五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『兵要へいよう日本地理小志』はその文が簡潔でいといって、そばに置いていた。
 奇とすべきは、五百が六十歳をえてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が安積艮斎あさかごんさいの書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ里方さとかたにいた時、或日兄栄次郎が鮓久すしきゅうに奇な事を言うのを聞いた。「人間はよるさかさになっている」云々といったのである。五百はあやしんで、鮓久が去ったのちに兄に問うて、はじめて地動説の講釈を聞いた。そののち兄の机の上に『気海観瀾きかいかんらん』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
 抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井にはえふんをして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎はさいが地動説を知っているのに驚いたそうである。
 五百は漢訳和訳の洋説を読んであきたらぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの読本どくほんに移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
 五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白いしかわていはくが勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。

その百七


 石川貞白ははじめの名を磯野勝五郎いそのかつごろうといった。何時いつの事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚が主家しゅうけの具足を質に入れたために、ながいとまになった。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒いさわしんけんに学んでいたので、すぐに氏名を改めて剃髪ていはつし、医業を以て身を立てた。
 貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎をり五百を識っていた。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓しょうぎ浜照のもとに通って、遂にこれをめとるに至った。その時貞白は浜照が身受みうけの相談相手となり、その仮親かりおやとなることをさえ諾したのである。当時兄の措置そちを喜ばなかった五百が、平生青眼せいがんを以て貞白を見なかったことは、想像するにあまりがある。
 或日五百は使をって貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋のしきいまたいだ。兄の非行をたすけているので、妹にめられはせぬかとおそれたのである。
 然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはおたのみ申したい事があって、あなたをおまねきいたしました」という、態度が例になく慇懃いんぎんであった。
 何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表にでたのに驚いた。
 これよりさき日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれをあずかり知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤松坂屋まつざかや通番頭かよいばんとうで、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦にあきたらぬのを見て、妹に壻を取って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
 壻に擬せられている番頭某と五百となら、はたから見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見うちみには二十四、五にしか見えなかった。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するにくるしんだ。
 そこで五百に問いただすと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。そのことばには道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかった。
 五百は貞白の気色けしきを見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの世帯せたいを譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さんの所へ往って、あのかたに日野屋の後見うしろみをしていただきたいと思います。」
 貞白はひざった。「なるほど/\。そういうお考えですか。よろしい。一切わたくしが引き受けましょう。」
 貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉やすの夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にもかろんぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前にうなじを屈せなくてはならない。五百は里方のためにはかって、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代しんだいを、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これにくちばしれることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、そのすがままに任せていなくてはなるまい。五百はかくの如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏にき、しかもその渋江氏の力をりて、この家の上に監督を加えようとするのである。
 貞白はすぐに抽斎をうて五百のねがいを告げ、自分もことばを添えて抽斎を説きうごかした。五百の婚嫁はかくの如くにして成就したのである。

その百八


 保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員へんしゅういんになった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は沼間守一ぬましゅいち、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎はたのでんざぶろうという顔触かおぶれで、編輯員には肥塚龍こえづかりゅう、青木ただす、丸山名政めいせい荒井泰治あらいたいじの人々がいた。また矢野次郎、角田真平つのだしんぺい高梨哲四郎たかなしてつしろう、大岡育造いくぞうの人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員をめた。九月一日には家を芝桜川町さくらがわちょう十八番地に移した。
 脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
 水木みきはこの年山内氏を冒して芝新銭座町しんせんざちょうに一戸を構えた。
 抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森枳園きえんの五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時いつ往ったらわれようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区水谷町みずたにちょう九番地に住んでいて、家族は子婦よめ大槻おおつき氏よう、孫むすめこうの二人ふたりであった。嗣子養真は父にさきだって歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
 枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先狩谷※(「木+夜」、第3水準1-85-76)かりやえきさいの『倭名鈔箋註わみょうしょうせんちゅう』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館しんこくしかんにおいて刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
 保は枳園のもとめに応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居いぬいき、掛塚かけづかから汽船豊川丸とよかわまるに乗って帰京の途にいた。そして航海中暴風にって、下田しもだ淹留えんりゅうし、十二月十六日にようよう家に帰った。
 机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書しゅしょではなくて、その訃音ふいんであった。
 枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉しゅうえんに当って、伊沢めぐむさんは枕辺ちんぺんに侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次ひつぎ官衙かんがの前にとどめしめ、局員皆でて礼拝した。枳園は音羽おとわ洞雲寺どううんじ先塋せんえいに葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村すがもむら池袋いけぶくろ丸山まるやま千六百五番地にうつされた。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺しょううんじの隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦おおつきふみひこさんに問うてはじめて知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名をした新しい卒堵婆そとばが立ててあった。
 枳園ののちはその子養真の長女おこうさんがいだ。おこうさんは女流画家で、浅草永住町ながすみちょうの上田政次郎まさじろうという人のもとに現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて※(「厥+りっとう」、第4水準2-3-30)きけつし某に嫁し、のち未亡人となって、浅草聖天しょうでん横町の基督クリスト教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
 保は枳園のを得たのち、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智郡すちごおり犬居村いぬいむら百四十九番地に転籍した。保は病のために時々じじ卒倒することがあったので、松山棟庵とうあんが勧めて都会の地を去らしめたのである。

その百九


 抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西あんざい一丁目南裏町みなみうらまち十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助ふじなみじんすけという人で、やとい外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山やまじあいざんさんである。通称は弥吉やきち、浅草堀田原ほったはら、後には鳥越とりごえに住んだ幕府の天文かた山路氏のえいで、元治げんじ元年に生れた。この年二十三歳であった。
 十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎さのつねさぶろうじょ松をめとった。戸籍名はいちである。保は三十歳、松は明治二年正月十六日うまれであるから十八歳であった。
 小野富穀ふこくの子道悦が、この年八月に虎列拉コレラを病んで歿した。道悦は天保七年八月ついたちに生れた。経書けいしょ萩原楽亭はぎわららくていに、筆札を平井東堂に、医術を多紀※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)さいていと伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者奥通おくどおりに至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読そどくの師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生おも守成しゅせいを事としていた。然るに明治十一、二年のこう、道悦が松田道夫どうふもとにあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守にさいが東京にあって投機のために多く金を失った。そののち道悦は保が重野しげの成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父にさきだって死んだ。
 尺振八せきしんぱちもまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
 抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海暁鐘ぎょうしょう新報』の主筆になった。英学校の職はもとの如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎まえじまとよたろうという人を社主としていた。五年ぜんに禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目じもくおどろかした人で、天保六年のうまれであるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等英華えいか学校にへいせられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託ぞくたくを受けて、英語を生徒に授けた。
 抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民なかえちょうみんが静岡を過ぎて保をうた。兆民は前年の暮に保安条例にって東京をわれ、大阪東雲しののめ新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男三吉さんきちが生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町たかじょうまち二丁目に設くることを認可せられた。
 おさむは七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これよりさき脩は渋江氏に復籍していた。
 脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国するがのくに安倍郡あべごおり豊田村とよだむら曲金まがりがねの素封家海野寿作うんのじゅさく娘分むすめぶんである。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
 この年九月十五日に、保のもとに匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇いたずらとも見えぬので、保は多少の心構こころがまえをしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々のうわさが立った。さてその日になると、早朝に前田五門まえだごもんが保の家に来て助力じょりきをしようと申し込んだ。五門はもと五左衛門ござえもんと称して、世禄せいろく五百七十二石をみ、下谷したや新橋脇あたらしばしわきに住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国国府こふを去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め函右日報かんゆうにっぽう社主で、今『大務たいむ新聞』顧問になっている。保は五門とともに終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年をくること七十一であった。

その百十


 抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館のもとめに応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの書肆しょしのために書をあらわすに至った端緒たんちょである。交渉はようやく歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社にとおざかり、博文館にちかづいた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説をそうせんことを請うた。
 脩の嫡男終吉しゅうきちがこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
 抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町ゆうらくちょう二丁目二番地たけ寄寓きぐうした。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華えいか学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田かんだ仲猿楽町なかさるがくちょう五番地豊田春賀とよだしゅんがもとに転寓した。
 保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日にようした。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子ちうんどうじはこの三吉である。
 脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町いいだまち補習学会および神田猿楽町有終ゆうしゅう学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国磐田郡いわたごおり袋井ふくろい駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
 明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地にぼくして、七月十七日に起工し、十月一日にこれをらくした。脩は駿河国駿東郡すんとうごおり佐野さの駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
 二十五年には保の次男繁次しげじが二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教しきょう童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭かいようを請うて入京し、芝愛宕下町あたごしたちょうに住んで、京橋西紺屋町にしこんやちょう秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男行晴ゆきはるが生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
 二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋かわたびの四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男行晴ゆきはるが四月十三日に三歳にして歿した。くがが十二月に本所松井町まついちょう三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅きょたくである。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たびゆたかのために頓挫とんざしたが、そのは継続して今日こんにちに至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎いち工場の欧文校正係に転じて、牛込うしごめ二十騎町にじっきちょうに移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に根本羽嶽ねもとうがくの門にって易を問うことを始めた。長井金風ながいきんぷうさんのことるに、羽嶽の師は野上陳令のがみちんれい、陳令の師は山本北山ほくざんだそうである。栗本鋤雲じょうんが三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村のしょうが歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村こうそんが八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年乃至ないし第四十年である。

その百十一


 わたくしはここに前記をいで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女乙女おとめさんが生れた。三十四年には脩が吟月ぎんげつと号した。俳諧はいかいの師二世かつらもと琴糸女きんしじょの授くる所の号である。山内水木みきが一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主大橋佐平おおはしさへいが十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町そうじゅうろうちょうの国文社にり、校正係になった。修の四男末男すえおさんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西あんざい一丁目南裏みなみうらに渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正澂かわだせいちょうすすめに従って、中学生のために温習の便宜をはかったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田三崎町みさきちょう一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡えばらごおり品川町しながわちょう南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立ぞんりつの必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子いわおが十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安とくあんと改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子信治しんじさんは今赤坂あかさか氷川町ひかわちょうの姉壻清水夏雲しみずかうんさんのもとにいる。三十九年には脩が入京して小石川こいしかわ久堅町ひさかたちょう博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女紅葉もみじが十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
 抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って咳嗽がいそう甚しく、発熱して就蓐じゅじょくし、つい加答児カタル性肺炎のために命をおとした。嗣子終吉さんは今の下渋谷しもしぶやの家に移った。
 わたくしは脩の句稿を左に鈔出しょうしゅつする。類句を避けて精選するが如きは、その道にもっぱらならざるわたくしのくする所ではない。読者の※(「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57)してきを得ばさいわいであろう。

山畑やまはたかすみの上のくわづかひ
塵塚ちりづかに菜の花咲ける弥生やよいかな
海苔のり麦藁むぎわら染むる縁の先
切凧きれだこのつひに流るゝ小川こがわかな
陽炎かげろうと共にちらつく小鮎こあゆ
いつ見ても初物らしき白魚しらお
牡丹ぼたんきって心さびしきゆうべかな
大西瓜おおすいか真つ二つにぞきられける
山寺は星より高き燈籠とうろかな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子とうがらし
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売ものうりの皆頭巾ずきん着て出る
こがらし土器かわらけ乾く石燈籠
雪の日やとりの出て来る炭俵すみだわら

 明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布あざぶ西町にしまち十五番地に、八月二十八日に同区本村町ほんむらちょう八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込船河原町ふながわらちょうの家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。

その百十二


 抽斎の後裔こうえいにして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。けいを漁村、竹逕ちくけいの海保氏父子、島田篁村こうそん、兼松石居せききょ、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従うんじゅうに受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、かたわら新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力をついやしたものは、書肆しょし博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人せいじんを啓発した功はあるにしても、おおむね時尚じしょうを追う書估しょこ誅求ちゅうきゅうに応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟ひっきょう文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
 保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。いわく本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子けいし一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中なかんずく読書五十年の如きは、ただに計画として存在するのみではない、その藁本こうほんが既にたいを成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面をうかがうに足るものである。著者の志す所は厳君げんくんの『経籍訪古志』を廓大かくだいして、いにしえより今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果してくその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
 保さんは今年こんねん大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、じょ乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降鏑木清方かぶらききよかたいてを学び、また大正三年以還いかん跡見あとみ女学校の生徒になっている。
 第二には本所の渋江氏がある。女主人おんなあるじは抽斎の四女くがで、長唄の師匠杵屋勝久きねやかつひささんがこれである。既にしたる如く、大正五年には七十歳になった。
 陸がはじめて長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋馬喰町ばくろうちょうの二世杵屋勝三郎で、馬場ばば鬼勝おにかつと称せられた名人である。これは嘉永三年陸がわずかに四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁とうりょう新八の家へ里子に遣られていて、そこから稽古けいこに通ったことであろう。
 母五百も声がかったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎がめた。節も好くおぼえた。三味線さみせんは「よいは待ち」をく時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々しょしょ大浚おおざらえに往った。
 勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。月六斎つきろくさいと日を期して、勝三郎が喜代蔵きよぞう辰蔵たつぞう二人の弟子でしを伴って、お玉が池の渋江のやしきに出向くと、その日にはくがも里親のもとから帰って待ち受けていた。陸のさらえおわると、二番位演奏があって、その上で酒飯しゅはんが出た。料理は必ず青柳あおやぎから為出しだした。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。

その百十三


 渋江氏が一旦いったん弘前にうつって、そののち東京と改まった江戸に再びかえった時、くがは本所緑町に砂糖店さとうみせを開いた。これは初め商売を始めようと思って土著どちゃくしたのではなく、唯稲葉いなばという家の門の片隅に空地くうちがあったので、そこへ小家こいえを建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨にって砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じたのちに、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
 本所には三百石どり以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫についてたださなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護ひごした稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人のもとに、一旦人に嫁して帰った家附いえつきむすめで四十歳位のが一人、松さん、こまさんの兄弟があった。この松さんは今千秋せんしゅうと号して書家になっているそうである。
 陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗ってれば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々のまげって遣った。
 さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋さとうどいやがあるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目はかりめを知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁昌はんじょうした。しなも好く、はかりも好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋にしめやが買いに来る。小松川こまつがわあたりからわざわざ来るものさえあった。
 或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糖コンペイトーなどを買って、陸に言った。「士族のむすめ健気けなげにも商売を始めたものがあるといううわさを聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途でめないで、辛棒しんぼうをしとおして、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷たかゆき、夫人は一族※(「山/(鬆−髟)」、第3水準1-47-81)たかたけじょであったはずである。
 或日また五百いおと保とが寄席よせに往った。心打しんうち円朝えんちょうであったが、話の本題にる前に、こういう事を言った。「この頃緑町では、御大家ごたいけのお嬢様がお砂糖屋をおはじめになって、ことほか御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思いたちで、たれもそうありたい事と存じます」といった。話のうちにいわゆる心学しんがくを説いた円朝の面目めんぼくうかがわれる。五百はいて感慨に堪えなかったそうである。
 この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中もなかに閉じられて、陸は世間の同情にむくいることを得なかった。家族関係の上に除きがたい障礙しょうがいが生じたためである。
 商業を廃して間暇かんかを得た陸のもとへ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談はたまたま長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりもすきな道である。一しょにさらって見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは素人しろうとじゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」

その百十四


 稲葉の未亡人のことばを聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということをはばかってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百のもとに往って相談した。五百はおもいほか容易たやすく許した。
 陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、おおやけもうして鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛のたなに、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
 この亀沢町の家の隣には、吉野よしのという象牙ぞうげ職の老夫婦が住んでいた。主人あるじは町内のわか衆頭しゅがしらで、世馴よなれた、侠気きょうきのある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお指図さしずをいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸あげどを上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
 吉野の家には二人のむすめがあって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町おおさかまち十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
 吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬あいきょう商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、たちまち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人のことばの妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋やおや肴屋さかなやにお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだそのことば紆曲うきょくにしてただちに相手をして呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那だんなといい、おかみさんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎でにくいのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
 しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子のかずは八十人をえた。それに上流の家々に招かれることがようやく多く、後にはほとんど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車をせることになった。
 最もしばしば往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の祝日いわいびに、必ず勝久を呼ぶことになっている。
 藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は贔屓ひいきになっている。

その百十五


 細川家に勝久の招かれたのは、相弟子あいでし勝秀かつひでが紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。勝久のはじめて招かれたのは今戸いまどの別邸で、当日は立三味線たてさみせんが勝秀、外に脇二人わきににん立唄たてうたが勝久、外に脇唄二人、その他鳴物なりもの連中で、ことごとく女芸人であった。番組は「勧進帳かんじんちょう」、「吉原雀よしわらすずめ」、「英執着獅子はなぶさしゅうじゃくじし」で、すえこのみとして「石橋しゃっきょう」を演じた。
 細川家の当主は慶順よしゆきであっただろう。勝久が部屋へさがっていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江のむすめくががいるということだから逢いに来たよ」といった。つれの女らは皆驚いた。津軽承昭つぐてるは主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたのであろう。
 長唄がおわってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「船弁慶ふなべんけい」を舞った。勝久を細川家に介致かいちした勝秀は、今は亡人なきひとである。
 津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつもひとり往って弾きもし歌いもすることになっている。老女歌野うたの、お部屋おたつの人々が馴染なじみになって、陸を引き廻してくれるのである。
 稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国ぶんごのくに臼杵うすきの稲葉家で、当時の主公久通ひさみちに麻布土器町かわらけちょうの下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄たてうた坂田仙八さかたせんぱち、脇勝久で、皆稲葉家の名指なざしであった。仙人は亡人なきひとで、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀つるかめ」、「初時雨はつしぐれ」、「喜撰きせん」で、末にこのみとして勝三郎と仙八とが「狸囃たぬきばやし」を演じた。
 演奏がおわってから、勝三郎らは花園をることを許された。そのはなはだ広く、珍奇な花卉かきが多かった。園を過ぎて菜圃さいほると、そのかたわら竹藪たけやぶがあって、たけのこむらがり生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰っていから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍がけると共に、尻餅しりもちくものもあった。主公はこれを見て興にった。筍の周囲の土は、あらかじめ掘り起して、ゆるめたのちにまたき寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易たやすく抜くことを得なかった。家苞いえづとには筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数にはれなかった。
 前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相慶寧よしやす、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸かなまる、小笠原家が豊千代丸とよちよまる、黒田家が少将慶賛よしすけ、本多家が主膳正しゅぜんのかみ康穣やすしげの時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑かちゅう家世かせいの事にくわしくないから、もし誤謬ごびゅうがあったら正してもらいたい。
 勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘なびろめの大浚おおざらいを催した。浚場さらいば間口まぐちの天幕は深川の五本松門弟じゅう後幕うしろまく魚河岸問屋うおがしどいや今和いまわと緑町門弟中、水引みずひきは牧野家であった。その外家元門弟中より紅白縮緬ちりめんの天幕、杵勝名取きねかつなとり男女中より縹色絹はないろぎぬの後幕、勝久門下名取女じゅうより中形ちゅうがた縮緬の大額おおがく親密連しんみつれん女名取より茶緞子ちゃどんす丸帯の掛地かけじ木場贔屓きばひいき中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠をこらしたびらを寄せた。縁故のある華族の諸家しょけは皆金品をおくって、中には老女をつかわしたものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。

その百十六


 勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装しておくった。勝久はこの歌に本づいて歌曲「まつさかえ」を作り、両国井生村楼いぶむらろうで新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は奉書摺ほうしょずりの本に為立したててかくわかたれた。緒余しょよに『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもそのじょくがってかくの如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
 勝三郎はついで明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡ほうし花菱院照誉東成信士かりょういんしょうよとうせいしんしという。東成はそのいみなである。墓は浅草蔵前くらまえ西福寺さいふくじ真行院しんぎょういんにある。たずぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家はよよ喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋坂本町さかもとちょう十八番地にあって名跡みょうせきを伝えている。いわゆる植木店うえきだな家元いえもとである。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉わきちがあり、和吉ののちを初代勝五郎がぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名をあらためずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字おさなな小三郎こさぶろうといった。即ち勝久の師匠である。
 二世勝三郎には子女おのおの一人いちにんがあって、姉をふさといい、弟を金次郎きんじろうといった。金次郎は「おれは芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎はおわりに臨んで子らに遺言ゆいごんし、勝久を小母おばと呼んで、後事こうじを相談するがいといったそうである。
 二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿しんじゅく岩松いわまつというもので、養父の小字おさなな小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘なびろめの会を催した。いまだいくばくならぬに、小三郎は養父の小字を名告なのることをいさぎよしとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事はたやすく認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤かっとうを生じて離縁せられた。
 ここにおいて二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚しんせきと父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策べんさくの下に、いやいやながら腕をみがいた。
 金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育がるいをなし、目に丁字ていじなき儕輩せいはいの忌む所となって、杵勝同窓会幹事の一人いちにんたる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ることしばしばであったが、もとよりちとの学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
 明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥びょうがしているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)しゅうきょ海光山かいこうざん長谷寺ちょうこくじの座敷である。勝三郎は病がとかく佳候かこうを呈せなかったが、当時なお杖にたすけられて寺門じもんで、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀びょうしょう慰草なぐさみぐさにもといっておくった。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ※(「やまいだれ+差」、第4水準2-81-66)えざるに東京に還った。

その百十七


 三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取とうどりであったので、高足弟子こうそくていしたる浅草森田町もりたちょうの勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎のつとめぶりにあきたらなかった。そして病のために気短きみじかになっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい釁隙きんげきを生じた。
 五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去ったのちにおける杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を領袖りょうしゅうとしている男名取らは、先ず師匠のいかりが解けて、師匠と勝四郎とのまじわりが昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心をやすんずるには、男女名取総員の盟約を完成するにくはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
 しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元をうて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流していかり、「小母おばさんはどこまでこの病人にさからう気ですか」といった。勝久はここに至ってまた奈何いかんともすることが出来なかった。
 六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島れいがんじまから舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎とうじろう、それに師匠の家にいるかねさんという男、上総屋かずさやの親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
 この桟橋のわかれには何となく落寞らくばくの感があった。病み衰えた勝三郎はついに男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
 勝久は家元を送って四日の後に病にした。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使をって、勝三郎の房州から鎌倉へうつったことを聞いた。
 九月十一日は小雨こさめの降る日であった。鎌倉から勝三郎の病がすみやかだと報じて来た。勝久は腰部の拘攣こうれんのために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄せんりつしてまなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこのゆうべに世を去った。年は三十八であった。法諡ほうし蓮生院薫誉智才信士れんしょういんくんよちさいしんしという。

その百十八


 九月十二日に勝久は三世勝二郎のひつぎ※(「田+比」、第3水準1-86-44)だびしょまで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿したのちに、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙しょうがいがある。それは勝三郎の生前しょうぜんに、勝久らが百方調停したにもかかわらず、ゆるされずにしまった高足弟子こうそくていし勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾しゅゆもこれを忘れることが出来なかった。
 十三日の昧爽まいそうに、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込おんききこみの事とは存じそうらへども、杵屋おん家元様は死去被遊候あそばされそろそれつき私共は今日こんにち午後四時同所に相寄候事あいよりそろことに御坐候。このおん前様御心底は奈何いかがに候。私存じ候には、同刻御自身の思召おぼしめしにて馬喰町へ御出被成候方宜敷おんいでなされそろかたよろしく候様存じ候。田原町たわらちょう一寸ちょっと御立寄被成候おんたちよりなされそうろう御出被成度おんいでなされたく存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様いかようにも都合宜敷様可致候いたすべくそろまずは右申入もうしいれ候。」田原町とは勝四郎にぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引きこもって、杵勝同窓会をもけている。
 勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの行懸ゆきがかり上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の二人ふたりが森田町へ迎えにくことになった。
 馬喰町の家では、この日通夜つうやのために、亡人なきひとの親戚をはじめとして、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎をゆるすことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位もくいを拝し、綫香せんこう手向たむけた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶あいさつした。葛藤はここに全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病をつとめてこの調停の衝に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。
 杵勝同窓会はこれより後※(「目+癸」、第4水準2-82-11)けいかいの根を絶って、男名取中からは名を勝五郎とあらためた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子がいでいる。一番弟子勝四郎あらため勝五郎、二番勝治郎、三番勝松かつまつ改勝右衛門、四番勝吉かつきち改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
 二世勝三郎の花菱院かりょういんが三年忌には、男女名取が梵鐘ぼんしょう一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕一帳ひとはり男女名取中、葡萄鼠縮緬幕ぶどうねずみちりめんまく女名取中、大額ならびに黒絽夢想袷羽織くろろむそうあわせばおり勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げてあわせ修せられたときには、木魚もくぎょ一対いっつい墓前花立はなたて並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華形皿れんげがたさら十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の蓮生院れんしょういんが三年忌には経箱きょうばこ六個経本いり男女名取中、十三年忌には袈裟けさ一領家元、天蓋てんがい一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの何故なにゆえにこれを条記して煩をいとわざるかをあやしむであろう。しかしわたくしは勝久の手記をけみして、いわゆる芸人の師につかうることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に瞞過まんかせられたという人があったら、わたくしはあえて問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。

その百十九


 勝久の人に長唄を教うること、今に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)いたるまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子わずかに七人を得ている。明治三十二年には倉田くらたふでが杵屋勝久羅かつくらとなった。三十四年には遠藤さとが杵屋勝久美かつくみとなった。四十三年には福原さくが杵屋勝久女かつくめとなり、山口はるが杵屋勝久利かつくりとなった。大正二年には加藤たつが杵屋勝久満かつくまとなった。三年には細井のりが杵屋勝久代かつくよとなった。五年には伊藤あいが杵屋勝久纓かつくおとなった。この外に大正四年に名取になった山田政次郎まさじろうの杵屋勝丸かつまるもある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育はすべて官公私立の学校において行うことになっていて、いきおい集団教育の法に従わざることを得ない。そしてその弊をすくうには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。ここにおいて世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお牢守ろうしゅせられていることには想い及ぶものがすくない。尋常許取ゆるしとりらんは、芸人があるいは人のそしりを辞することを得ざる所であろう。しかしの名取に至っては、そのあえ軽々かろがろしく仮借せざる所であるらしい。もしそうでないものなら、四十四年の久しい間に、を勝久にゆだねた幾百人の中で、く名取の班に列するものが独り七、八人のみではなかったであろう。
 勝久のくがただに長唄を稽古けいこしたばかりではなく、いとけなくして琴を山勢やませ氏に学び、踊を藤間ふじまふじに学んだ。陸の踊に使う衣裳いしょう小道具は、渋江の家では十二分に取りそろえてあったので、陸と共に踊る子が手廻てまわり兼ねる家の子であると、渋江氏の方でその相手の子の支度をもして遣って踊らせた。陸は善く踊ったが、その嗜好しこうが長唄にかたぶいていたので、踊は中途でめられた。
 陸は遠州流の活花いけばなをも学んだ。象棋しょうぎをも母五百いおに学んだ。五百の碁は二段であった。五百はかつて薙刀なぎなたをさえ陸に教えたことがある。
 陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が近衛予楽院このえよらくいんの手本を授けて臨書せしめたそうである。
 陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってからのちは、渋江の家では重ねものから不断著ふだんぎまでほとんど外へ出して裁縫させたことがない。五百は常に、「為立したては陸に限る、為立屋の為事しごとは悪い」といっていた。張物はりものも五百がものさしを手にして指図し、布目ぬのめごうゆがまぬように陸に張らせた。「善く張ったきれは新しい反物たんものを裁ったようでなくてはならない」とは、五百のつねことばであった。
 髪をり髪をうことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼妙了みょうりょうが「お陸様がって下さるなら、頭が罅欠ひびかけだらけになってもい」といって、頭をまかせていたのでれた。結うことはおまきあやの髪を、前髪にはりのない、小さい祖母子おばこに結ったのが手始てはじめで、後には母の髪、妹の髪、女中たちの髪までも結い、我髪はもとより自ら結った。唯余所行よそゆきの我髪だけ母の手を煩わした。弘前にうつった時、浅越あさごえ玄隆、前田善二郎の妻、松本甲子蔵きねぞうの妹などは菓子折を持って来て、陸に髪を結ってもらった。陸は礼物れいもつしりぞけて結って遣り、流行はやりの飾をさえ贈った。
 陸は生得しょうとくおとなしい子で、泣かずいからず、饒舌じょうぜつすることもなかった。しかし言動が快活なので、剽軽者ひょうきんものとして家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成った後に、志操が堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。
 牛込うしごめの保さんの家と、その保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。
 下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に津田青楓つだせいふうさんの門人になった。大正五年に二十八歳である。終吉には二人ににんの弟がある。前年に明治薬学校の業を終えた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。





底本:「渋江抽斎」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年8月16日第1刷発行
   1999(平成11)年5月17日改版第1刷発行
底本の親本:「鴎外選集 第6巻」岩波書店
   1979(昭和54)年4月23日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」
   1916(大正5)年1月13日〜5月17日
※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「間暇」では、「門<月」を用いています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年10月1日作成
2016年2月13日修正
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●表記について

「去/廾」、U+5F06    24-15
「大/淵」、U+596B    48-5
「木+邦」、U+6886    87-8
「塵」の「土」に代えて「辰」、U+9E8E    117-6
「衛/心」、U+39A3    165-14、165-15、166-6、168-8、169-9
「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52    192-1、192-1、192-2
「てへん+澑のつくり」、U+3A45    192-1
「てへん+參」、U+647B    198-15
「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC    201-2
「金+蚣のつくり」、U+9206    243-12
「言+圭」、U+8A7F    295-5
「にんべん+暴」、U+5124    298-2


●図書カード