弘化四年丁未、二月十六日能久親王京都伏見宮第 に生れさせ給ひ、満宮と名のらせ給ふ。
嘉永元年戊申、二歳。京都におはす。仁孝天皇の御猶子 、青蓮院宮の御附弟にならせ給ふ。
二年己酉、三歳。京都におはす。
三年庚戌、四歳。京都におはす。
四年辛亥、五歳。京都におはす。
五年壬子、六歳。京都におはす。梶井宮の御附弟にならせ給ふ。
六年癸丑、七歳。京都におはす。
安政元年甲寅、八歳。京都におはす。梶井宮第に徙 らせ給ふ。
二年乙卯、九歳。京都におはす。
三年丙辰、十歳。京都におはす。
四年丁巳、十一歳。京都におはす。
五年戊午、十二歳。京都におはす。輪王寺宮御附弟にならせ給ふ。一条河原御殿に徙 らせ給ふ。親王宣下 ありて能久 と名告 らせ給ふ。法諱公現。
六年己未、十三歳。二月四日江戸東叡山に入らせ給ふ。
万延元年庚申、十四歳。江戸におはす。一身阿闍梨 の宣下 あり。二品に叙せられさせ給ふ。
文久元年辛酉、十五歳。江戸におはす。御生母堀内氏信子みまからせ給ふ。
二年壬戌、十六歳。江戸におはす。
三年癸亥、十七歳。江戸におはす。
元治元年甲子、十八歳。江戸におはす。一品宣下あり。
慶応元年乙丑、十九歳。江戸におはす。孝明天皇崩ぜさせ給ふ。
二年丙寅、二十歳。江戸におはす。将軍徳川家茂薨 ず。
三年丁卯、二十一歳。江戸におはす。輪王寺宮慈性親王病革 なるをもて、能久親王職を襲 がせ給ふ。尋 いで慈性親王薨ぜさせ給ふ。将軍徳川慶喜政権を朝廷に還しまつる。
明治元年戊辰、二十二歳。初め江戸におはし、中ごろ北国にさすらひ給ひ、後京都におはす。是より先き慶喜大阪より江戸に還る。朝廷慶喜を討たしめ給ふ。慶喜東叡山に入る。二月二十一日能久親王慶喜の請ふによりて京都へ立たせ給ふ。親王駿府に至らせ給ひ、大総督宮有栖川熾仁親王の命によりて駕を回 らし、三月二十日東叡山に帰り入らせ給ふ。慶喜東叡山を出でて水戸に赴く。大総督宮江戸城に入らせ給ふ。能久親王を城に迎へまつらんとせさせ給ひしに、障 ありて果させ給はず。五月十五日官軍東叡山を囲みて彰義隊を討つ。能久親王東叡山を出でさせ給ふ。二十五日親王長鯨丸に乗りて江戸を発せさせ給ふ。これより仙台、白石等に留まらせ給ふ。九月二十日書を白河口なる総督四条隆謌に致させ給ふ。十月十二日仙台を発せさせ給ふ。十一月十九日京都に着かせ給ひ、朝命によりて伏見宮邸に謹慎せさせ給ふ。
二年己巳、二十三歳。京都におはす。十月四日謹慎を解かれ、伏見宮に復帰せさせ給ふ。
三年庚午、二十四歳。京都におはし、後欧洲行の途に着かせ給ふ。是より先き、京都大学に入らせ給ふ。十月二十七日京都を発せさせ給ひ、閏 十月二日東京なる東伏見宮第に着かせ給ひ、尋 いで有栖川宮第に徙 らせ給ふ。能久の名に復 らせたまひ、伏見満宮と称へさせ給ふ。十二月三日独逸 に留学せんと、横浜を発せさせ給ふ。
四年辛未、二十五歳。伯林 におはす。是より先き、二月十八日伯林に着かせ給ふ。
五年壬申、二十六歳。伯林におはす。三品に叙せられさせ給ふ。北白川宮を襲 がせ給ふ。御父邦家親王薨ぜさせ給ふ。
六年癸酉、二十七歳。伯林におはす。
七年甲戌、二十八歳。伯林におはす。
八年乙亥、二十九歳。伯林におはす。聯隊勤務に就かせ給ひ、普魯士 国陸軍大学校に入らせ給ふ。歩兵少佐に任ぜられさせ給ふ。
九年丙子、三十歳。伯林におはす。紀尾井町の第 の地を賜はる。
十年丁丑、三十一歳。初め伯林、後東京におはす。普魯士 国陸軍大学校の業を卒 へさせ給ひ、四月十二日伯林を発せさせ給ひ、七月二日紀尾井町の第に帰り入らせ給ふ。
十一年戊寅、三十二歳。東京におはす。戸山学校に入らせ給ふ。仁孝天皇の御猶子 に復 らせ給ふ。近衛局出仕にならせ給ふ。勲一等に叙せられさせ給ふ。妃山内氏光子を納 れさせ給ふ。
十二年己卯、三十三歳。東京におはす。中佐に任ぜられさせ給ふ。
十三年庚辰、三十四歳。東京におはす。近衛局出仕を罷 められ、参謀本部出仕にならせ給ふ。二品に叙せられさせ給ふ。
十四年辛巳、三十五歳。東京におはす。議定官を兼ねさせ給ふ。歩兵大佐に任ぜられさせ給ふ。紀尾井第を営むとて、姑 く東叡山に住ませ給ふ。
十五年壬午、三十六歳。東京におはす。恒久王生れさせ給ふ。東叡山より新第に帰り入らせ給ふ。
十六年癸未、三十七歳。東京におはす。参謀本部出仕を罷められ、戸山学校次長に補せられさせ給ふ。戸山学校次長を罷められ、同じ学校の教頭に補せられさせ給ふ。
十七年甲申、三十八歳。東京におはす。陸軍少将に任ぜられ、東京鎮台司令官に補せられさせ給ふ。
十八年乙酉、三十九歳。東京におはす。歩兵第一旅団長に補せられさせ給ふ。延久王、満子女王生れさせ給ふ。
十九年丙戌、四十歳。東京におはす。妃山内氏光子病の為に家に帰らせ給ふ。妃島津氏富子を納れさせ給ふ。大勲位に叙せられさせ給ふ。
二十年丁亥、四十一歳。東京におはす。成久王、貞子女王生れさせ給ふ。
二十一年戊子、四十二歳。東京におはす。輝久王生れさせ給ふ。
二十二年己丑、四十三歳。東京におはす。
二十三年庚寅、四十四歳。東京におはす。武子女王生れさせ給ふ。貴族院の議席に列せさせ給ふ。
二十四年辛卯、四十五歳。東京におはす。露国皇太子大津に遭難せさせ給ふとき、勅によりて往きて訪はせ給ふ。信子女王生れさせ給ふ。
二十五年壬辰、四十六歳。初め東京に、後熊本におはす。是より先き信子女王薨ぜさせ給ふ。御母鷹司氏景子薨ぜさせ給ふ。陸軍中将に任ぜられ、第六師団長に補せられさせ給ひて、十二月二十三日東京を発し、二十八日熊本に着かせ給ふ。
二十六年癸巳、四十七歳。初め熊本、後大阪におはす。是より先き、東京にて第四師団長に任ぜられさせ給ひ、大阪に赴任せさせ給ひ、泉布観に住ませ給ふ。
二十七年甲午、四十八歳。大阪におはす。清国との戦始まる。
二十八年乙未、四十九歳。初め大阪、次に東京、次に満洲、後台南におはす。是より先き近衛師団長に補せられさせ給ひ、二月二日大阪より東京に至り、霞関なる海軍大臣官舎に入らせ給ふ。三月二十五日東京を発せさせ給ひ、二十七日広島に至らせ給ふ。四月十日宇品にて乗船せさせ給ひ、十四日柳樹屯 にて上陸せさせ給ふ。五月二十二日旅順 を発せさせ給ひ、三十日台湾三貂角 にて上陸せさせ給ふ。十月二十八日台南に薨 ぜさせ給ふ。