都会地図の膨脹

佐左木俊郎




     序景

 窓は広い麦畠の、濃緑の波に向けて開け放されていた。擽るような五月の軟風が咽せかえるばかりの草いきれを孕んで来て、かるく、白木綿の窓帷カーテンを動かしていた。
 南面の窓に並んで、鉄筋混凝土コンクリートの上層建築が半分ほど出来あがっていた。その上に組まれた二本の大きな起重機は、艶消電球のような薄曇りの空から、長い鉄骨の手を伸して、青い麦畠やそのまわりの小さな建物を掴みあげようとしていた。
 北側の窓の真ん前には、建築混凝土用の捲揚機が組まれて、大規模の工場が建築されかけていた。その建築場と校庭との間には、焼跡のような住宅予定地が拡っていた。塵埃ごみや紙屑や、瀬戸物の破片、縄端、木片などが散らばり、埋め、短い青草の禿げている空地。校庭から子供達がときどきそこへ転り込んで行った。
 建築場の空では、カラカラカラララララと、ひっきりなくクレインが鳴っていた。混凝土をあける音は一日中、一定の時間を置いて、窓窓の硝子を震動させた。
 尋常五年の教室では地理の時間が始っていた。黒板の片隅には、縮尺五千分の一の「本郡全図」が掛けられていた。地図に対する概念を固めるために、生徒の熟知している土地の地図に就いて、踏査的教授を与えているのであった。
「この地図の上で、煉瓦色に塗られてある部分は、市街から続いて来ている郡部の町で、この緑色の部分は、田舎なのです。即ち私達の村がこの緑色の部分なのであります。ところが、これは三四年前に拵えた地図で、毎年一度ずつ訂正を加えているのですが、現在いまでは又この地図とは大部違って来ているのであります。」
 そこで教師は、ぽんと、細い竹鞭で地図の上を打った。動きかけていた生徒の視線が又一斉にそこへ集って行った。
「何処がどんな風に変ったか? 今日は一つ、皆さんにその変ったところを見つけて貰らおうと思うのだが、さあ誰かわかる人はありませんか?」
 教師は又ぽんと地図を打った。
「地図の中央を流れている川の、水の色が変ったのであります。以前もとは綺麗な水が流れていたから水色になっていますが、川上に住宅地が出来てから、住宅の人達が、塵埃だの洗濯水だの、いろいろな穢いものを川へ流すので、現在では、黒い水が流れているのであります。」
「川の、水の色か? うむ。」
 教師は唸った。そして言った。
「併し、地図の上で川を水色にしてあるのは、第一の目的が(これは川だぞ)と云うしるしなので、黒い水が流れているからと云って黒く描いたら、道路か何かと間違われやしないかな? 誰か他に……」
「学校の前から、住宅地の方へ行く、真直ぐな四間道路が新しく出来たのであります。」
「学校の前から住宅地の方へ行く新道。よろしい!」
 言いながら教師は、赤い白墨で、地図の上に一本の直線を引いた。
「この新道が、去年の今頃から今日までに出来たものの一つ。それから何処かに変ったところが無いかな? さあ、誰か……」
 教師は生徒等へ微笑みかけながら言った。
「わからないかな! よしっ! じゃ一つ先生が見つけて見よう。いいか? この煉瓦色の部分だ。これは前にも言ったように、人家の建混んでいる都会の色、市街地の色なのであるから、この地図の上で、当然この色が塗られていなければならない部分に塗り落されているように思うが……誰か、わかる人?……」
「市街地は学校の前までふくらんで来ているのに、地図の上では、用水堀のところまでが市街地のようになっているのであります。」
「よろしい! そうだ。去年の今頃は、市街地はまだ用水堀のところまでしか膨らんで来ていなかった。そしてこの学校は、この地図の上でもわかるように、青い麦畠の真中にあった。ところが市街地は僅か一年の間に、丁度、校長先生のお腹のように、う弓なりに学校の前まで膨らんで来た。そしてこの小学校は、田舎の小学校だか、都会の小学校だかわからなくなって了った。」
 教師は言いながら、煉瓦色の白墨で、地図の上に一本の彎曲線を描いた。生徒等は忍び笑いをして、低声こごえに囁き合った。
「騒いではいけない。さあ、此方を見て……」
 彎曲線の内部は煉瓦色で塗り潰されていた。
「ところでと、一体、どうして市街地は、斯うどんどん拡って行くのだろう? まさか校長先生のように、御馳走をどっさり喰べたと云うわけでもあるまい。」
「人口が殖えたからであります。」
「うむ。それもたしかに一つの原因だ。はいっ!」
「田舎の人が、百姓をめて、誰も彼も町へ行って商人になるからであります。」
「それもあるだろう。他に……」
「工業が発達して来たからであります。」
 ガザガザアン!
 凄まじい音が建築場で撥ねた。混凝土捲揚機の樋がはずれたのだ。空で鳴っていたクレインの音が止み、人夫等が呶鳴どなり合い騒ぎ合った。
「おおっ!」
「どうしたんだろう?」
 生徒達は総立ちになって窓に眼をやった。
「騒ぐんじゃない。騒ぐんじゃない。」
 教師は鞭をたわめながら、教壇をおりて、ゆっくりと窓際へ歩み寄って行った。

       一

 部落むらの中央部に小高い台地の部分があった。
 台地の一帯は、南向きの斜平なだらか斜面スロープになっていた。そして、西から北にかけては、厚い雑木林がうねっていた。その青い雑木林のところどころから、黒い杉杜がぬいていて、例えば空から続く大きな腕のように、台地の斜面を抱き込んでいた。
 赭土の飛沫を運ぶ春先の暴風に、自然の屏風を備えたこの地帯は、部落中での優良な耕作地であった。此処に三人の地主が巣を喰い、八九家族の小作百姓が生活の大半を托していた。
 処が、耕作のために年十五円で貸していたその土地を、坪当り月五銭で借り度いと云う借手が出て来た。住宅地にするのである。十五円の貸地代は、一躍八十円にまで飛んだ。
 貸地代によって生活している地主達にとって、耕作価値など全然問題ではない。彼等の知っているのは、所有価値だけである。その土地が、どんな目的に使われようと、唯地代が多ければ地主達はそれでいいのだ。彼等は何んの躊躇もなしに、小作人達からその耕作地を取上げ、そして更に地代を上げて、借手の出るのを待つことにした。
「併し、われわれはどうすればいいんだ? 手前等は、そんで地代が余計這入って来るようになったからよかんべが、一体、われわれは何処から食う物を掘出せばいいんだ?」
 斯うそこの小作人達は叫んだ。
「けれども、私等にしたところで、月十五円で貸してくれと頼まれている方を断って、年十五円の方の口さ貸して置かねばならんと云うこともあるまいからな。せめて、あんたらが、その三分の二位の地代でも出してくれると云うのなら格別として……」
 群山は、他の二人の地主に代って返事を与えた。
「馬鹿馬鹿しいっ! 百円からの地代払って、地代分だけも儲けられしめえ! 群山さん。そんな馬鹿なこと、あの禿頭にでも教えられたのかね?」
 甚吉は太い腕を、胸の上に腕組みながら言った。群山の話の口調が、彼の地所に家を建てた男にそっくりであったから。
「併しね。此処へ、別に働かねえでも段当り百八十円からの金が湧いて来るってえのに、そこを畠にしていたんじゃ、全く勿体ねえですからなあよ。」
「勿体ねえ? ハハハ……」
 重次郎が笑い出した。地主の野本は、笑い出した小作人の青年を、怪訝けげんそうに視詰めた。
「勿体ねえって云うんなら、住宅にすんのこそ勿体ねえ話だ。畠にして置けえあ、それこそいろんな食う物が湧いて来るのにさ。住宅にして了ったら、せえぜえ、塵埃ごみが関の山だべ。」
「併し、黙って腕組みしていて、百八十円ずつの地代が這入って来んのですかんな。」
 野本は斯う反駁した。
「幾ら地代が這入ったって、地代がその土地から湧くもんじゃあるめえがな。他所で働いて取って来る金じゃねえか?」
「何れにしろ、私等の懐中さ這入る分にゃ同じことだから、地主としちゃ、やっぱり地代のいい方さ貸すことになるね。全く、借手の誰彼を問題にしちゃいねえんだ。問題は、唯、地代なんだから……」
 群山はそう言って頭から小作人達を抑えつけた。土地の使用目的から、地代で及ばない小作人達は、それ以上言葉ではもう何も出来なかった。
「お気の毒ですが、まあ、此処の地所はそう云うわけですから、あんたがたも一つ、百姓なんかやめて了って、商売でも始めたらどんなものでしょうね?」
 河上が微笑みかけながら言った。この穏やかな地主の言葉に対しては、誰もさからわなかった。
「それさね。」
「そう云うことになれば、何んかで、出来るだけのことはいたしますから。店を開くと云うような場合には……」
 斯う河上は更に付け加えた。
資本金もとででもあれば店も結構だが、われわれ、どうして商売など始められんべ? 工場さでも通うより仕方がなかんべ。」
「そこですよ。私の言っているのは……勿論、大したことは出来かねますがね。まあ、及ぶだけのことは……」
「併し、皆んな商売をやり出したら、一体、誰が買うんですかね?」
 甚吉は煙草に火をつけながら、皮肉らしく言つた。
「ですから、それは、斯うしてこれから、住宅地を貸すことにして、どんどん部落へ人を呼ぶんですよ。そうするてえと、部落はどんどん発展して来る。私達は地代がどっさり這入るし、あんたがたは商売が繁栄するってことになるじゃありませんか?」
「それはそうですね。じゃ一つ、御援助を願って、商人になりますかな。」
「俺の言ったのは、そう云う意味じゃねんだ。今に言わなくたって、わかるときが来るさ。一体全体百姓を廃めて、皆んな商人になれなんて、何処の世界にそんな馬鹿な話があるんだ。」

       二

 南向きの斜面は、雑木林の腕の中で、耕地から住宅地に整理された。
 混凝土の泥溝どぶをもった道路が、青い雑草の中に砂利の直線で碁盤縞に膨れあがった。碁盤目の中には、十字にさわらまがきが組まれた。雑草は雨毎に蔓延はびこって行った。荒地野菊が地肌を掩い、姫昔蓬ひめむかしよもぎが麻畠のように暗い林になって立った。たでは細いちょろちょろの路をあけて、砂利の上にまで繁った。
「われわれから取上げやがって、ああして荒して置けあどうだと云うんだ。借手のつくまで、耕させて置けあ、幾らかなりの収穫みいりがあんのに……」
 そこの土地を取上げられた小作人達、甚吉等はそれを見て、吐き出すように罵った。
 併しこの場合は、地主達三人は、借手の要求のままに耕作中の畑の一隅を分割していたのでは、二重にも三重にも損なことを体験していた。彼等はひそかな戦術をもって、一本の「住宅地分割貸地」の棒杭に合同したのだった。
「ちょっと考えると、斯うして遊ばして置いちゃ損なようだがね。なあに、町が直きそこまで拡って来てんのですもの。三人が一緒になって頑張ってれあ……」
「斯うして置けあ、なあに、一年も経たねえうちに、もう、皆んな住宅になって了いまさあ。」
 そこで地主達に残されてある一つのことは、そこの住宅地を市街地に繋ぐ道路の計画であった。
「どんなにしても、二間道路よりゃ狭く出来ますめえが、坪十円で売って貰うことにしても……」
「馬鹿馬鹿しい! あんた! 道路にする土地を買っていられますか? 買手があって、われわれの方から売るんなら別問題ですがね。われわれは寄附して貰うんですな。」
「寄附して貰えるもんなら、そりや、勿論、それに越したことはありませんがね。」
「そこですよ。あんた!(土地の発展のため!)と云うことで、店を出したがってる奴等をあおるんですなあ。尤も、そうなれば、われわれの住宅地へだけ引張ると云うわけには行きますめえ。その辺へ二三本、余計な道路も引張らなくちゃね。」
「それで寄附してくれますかな? 一坪幾らって、皆んな勘定していますからなあ。」
「なあに、皆んな寄附しますよ。百姓を廃めて、店を出したがっている奴等ばかりですもの。店を出すにあ、どうしたって、自分の地所続きに賑かな道路がほしいですからなあ。」

       三

 市街地は黒い雲のように、青い耕地の上へ、日に日に幅広く這出した。
 そしてこのくろずんだ膨らみの中で、嵐のような叫び声がひっきりなく続き、市街地は耕地の真中へと千切れて行った。家……家……家…家、家、家。住宅が出来、商店が開かれ、工場が建って、市街地の黒い雲は、青い耕地の中の破片に繋がり、続き、そこを直ぐ黒い市街地にして了うのだ。すると、直ぐ又、その膨らみの尖端から黒い破片が千切れて飛び、黒い雲がその破片に向って幅広く這出して行く。同じことが繰返され、繰返され、萎縮を知らない膨脹が続いた。
 道路は先ず市街地から住宅分割貸地へ、第一の幹線が通された。併し、地主達の予定通り、それだけでは済されなくなって来た。そこえら一帯の自作百姓達は、誰も彼も、自分の地所の中に道路を通したい希望を持っているからであった。
「土地の発展のためだ。五十坪や百坪、道路にされたって仕様ねえ。」
 彼等は進んで道路のための土地を寄附した。その新道を前にして、新しくその附近へ移り住んで来る人達を相手の、新しい店を開こうと計画しているからであった。そして更に、新道を控えたその辺一帯の土地が耕作価値から所有価値へ、無限に騰貴して行くからであった。
 そのために、市街地から住宅分割貸地への四間道路を幹線にして、そこから直角に走る二間道路が、幾本も幾本も開かれた。
「馬鹿馬鹿しい! 土地を寄附してまで道路を開かせてさ。自分の耕す土地を無くなすなんて……」
 斯う言って小作人の甚吉は、白い眼でそれを見るようにした。
「だって、あの人達は、その方が得なんだべから……」
「得かも知んねえが、得だから得だからで、耕す土地を皆んな町場にして了ったら、人間は一体、何を食ってればいいんだよ? 町場になって、工場が出来たからって工場からは食うものが出来めえ? そう云うと俺ばかり馬鹿に食意地が張ってるようだが……」
「工場から、食う物は出来ねえか知んねえが、俺、工場さでも行って働くより仕様がねえ。耕す土地がねえのだから、どうも仕様がねえからな。」
 耕作価値が急に所有価値に変り、所有価値が暴騰したために、却って職を失った耕地を持たない小作百姓達は何れにしても土地の発展をよろこんではいなかった。
「われわれ、百姓でありながら、始めっから土地を持ってねえのだから、どうも仕様がねえ。働く分にゃ、畠だろうが、工場だろうが、何処で働いたって同じことだろうから。」
「それさ。われわれの暮しにだって、工場で出来たものも必要なのだからな。」
「俺、工場さ行くだ。百姓が出来なくなっても、俺、工場でせえ使って貰えば、それでいいだ。」

       四

 畠の中に開かれた平坦な新道は、雨の降る毎にひどくぬかった。わけても、雨の降り続く季節には苗代のような泥濘になった。
 その新道端に店を開き、所有地を住宅のために貸してそれで生活をして行こうと云う人達は、新道へ砂利を敷くための寄附金をあつめに奔走した。
 部落内の農家へは、自作百姓の豊作と栄三と金平とが雨の降る日毎に廻った。
「どうもよく降りますね。新道は、まるで泥田のようですよ。それで一つ。住宅の人達にも寄附して貰って、砂利を敷き度いと思うんですが、幾らでも、お思召しで結構ですから寄附して頂き度いと思いましてね。」
 豊作が先ず斯う、はしゃいだ口調で切り出したのであった。
「砂利を敷くんですって? わたしゃあ、砂利を敷いた道路を歩くのあ大嫌いでさあ。わたしの歩くどこだけ、細くあけて置いて貰いますべ。砂利を敷いたごろごろ路ばかりあ、わたしゃあ、何んと思っても嫌いでさあ。」
 斯う言って甚吉はその寄附を撥付はねつけた。彼は、極端に土地の発展を嫌っているのだ。彼は何処までもじみに百姓を続けて行こうと思っているからであった。
「冗談は冗談として、住宅の人達にも気の毒ですし、土地の発展のためですかんね。」
「商売でもやろうて者にゃ発展かも知んねえが、われわれ小作百姓にゃ、その反対でさあ。これまで作っていた地所は、やれ工場の敷地に貸すの、やれ住宅に貸すのと言っちゃ、片端から取上げられるし、砂利を敷いた道路の真中で百姓が出来るものでねえしさ、ね。」
「併し、いくら百姓だからって、道路を歩かねえってことはねえんですからね。」
「だから、わたしゃあ、砂利の敷いてねえどころを歩きますあ。どうせ、道路いっぱいには、敷くわけであんめえからね。何処の道路だって、泥溝際のどころは少し残してあるもんだから。」
 甚吉は煙草を燻していて、彼等の方には見向きもしなかった。
「じゃ、甚さんは、自分の土地が、発展しようがしまいが、構わねえってんだね?」
 金平はとうとう角のある語調で言い出した。
「構わねえようだねえ。」
「構わねんだね? そりゃ、一体、甚さん、どう云うわけかね?」
「何んのわけで、そんなことまで調べるんだね? 一体その寄附っての、何処から出た話なんだね? 手前達が、勝手にきめて来て、俺が寄附しねって云うの、手前達にせえわかったら、そんでいいじゃねえか?」
「まあまあ、甚さん、そう腹を立てねえで……」
 栄三が顔に微笑を刻みながら宥めた。
「面白くもねえ。人を調べるようなことしやがって……」
「では又、気が向いたら寄附して貰うとして……」
 栄三は腰を上げながら言った。
「向かねえようだね。わたしゃあ、何時まで経ったって……」

       五

 併し新道には間もなく砂利が敷込まれた。砂利を敷くための寄附金など、最早、彼等に取っては問題でなかったのだ。寄附ではなく、彼等に取っては、一種の投資であった。店を開くための、土地の所有価値を暴騰させるための投資であった。
 部落の形態はそこで完全な分散作用を開始した。誰も彼も半自給自足の素材生産から足を洗って、扮飾術師になり、消費者になろうとして。
 先ず、新道端に店が並び、畠の中に住宅が出来、工場が建って、耕地は急に市街地の形態を整えかけ、積極的な機構をもち出した。丁度これは、膨脹しつつある団雲に近付いて行く一片の雲に似ている。膨脹しつつある機構に合体するためには、矢張、膨脹しつつ近付いて行かねばならないのだ。
 耕地はそうして市街地に変って行った。其処から自分の生活資料を掘出していた百姓達は、当然のこと、他の職業に転ずるか、何処かの耕地へ移って行かなければならないことになって来た。
「いよいよ賑かになりましたな。斯うなると儂等わしらの家も、どうもあのままじゃ置けねえようですよ。目障りで……」
 河上は地主仲間に言っていた。
「一つ、お屋敷風に建てかえるとしますかな? この町中さ、茅葺は、どうもね。」
 彼等は市街地から、自分達の不調和な茅葺屋根の家を掻消して、新らたに瓦屋根の邸宅を構えた。それが現在の彼等の生活に、最もふさわしい居宅であった。土地の所有価値が暴騰して来たため、地主の彼等は、何等職業らしい職業を必要としなくなっていたからである。
 そして金平や栄三や豊作など、自作百姓だった人達は大抵、道路を控えている自分の所有地の片隅へ店を開いた。資金の余裕につれて貸家を建てて行った。
「今度、店を開いたんですがね。なあに、百姓をしていたと思えば、そう儲けなくてもいいんですから……」
 彼等はそう言って、住宅から住宅へ、葉書ほどもある大きな名刺を配って歩いた。
「若し、知ってる人で、土地を借り度いって人がありましたら、他所より、地代をまけて置きますから。」
 斯う、彼等は、屋敷続きの荒地のことも忘れてはいなかった。
 全然自分の耕地を持たなかった小作百姓の重次郎や長助ら七八人の者は、何処かへ移って行かないかぎり、近くの工場へでも這入って働くより途がなかった。住宅や工場のために、自分達の耕していた土地が完全に取上げられて了ったからであった。そして土地の所有者達は、その土地を荒して置きながらも、耕作のためには貸してくれなかったからだ。
「なあに、工場さ通って、飯せえ食いれあ、われわれに取っちゃあ、何方だって同じごったから……」
「わたしゃあ、どんなことしたって、そこえらの工場だけは行かねえ。面白くもねえ。一体、何んの機械を拵えんだか知んねえが、食う物の湧いて来る土地を潰してそんな工場なんか建てやがってさ。最後に、その機械でも食ってるつもりか? 俺は矢張、何処までも百姓を続けるだあ。」
 甚吉は斯う言って、隣り部落の方へ移って行った。そして又そこで、ささやかな小作百姓を続けていた。その甚吉の気持が、工場へ行った重次郎には判然と呑込めなかった。
「甚吉さあに言わせるど、食う物を作るのが一番いいことになるが、工場だって同じごってねえか? なあ、おうい! 例えば、百姓仕事に使う機械だったら、その機械を、他の土地で使ってさ、その土地からうんと収穫があるようにしたら、そんでいいわけだからな。そのために少しばかりの耕地を潰したって、百姓をやめて職工になるものがあったって……」

       六

 隣り部落へ移って行った小作百姓の甚吉に取って、以前に自分の住んでいた部落であった現在の市街地は、まるで自分に関係のない場所となって行った。
 殆んど自給自足に近い生活をしている甚吉は、自分の収穫物を、市街地へ売りに行くと云うようなこともなかった。時折に、荷車を曳いて人糞をあげに行くだけが、以前に自分の住んでいた部落とのわずかな繋がりであった。
 併し又それが、以前の小作人仲間と自分との気持を、纔かながらに繋ぐ機縁となっていた。甚吉は人糞をあげに行って、どうかすると、工場通いをしている人達に行き会うことがあった。そして、昔のことや現在のことや未来のことに就いて立話をした。けれども、重次郎に行き会って立話をするのは、それ以来今度が始めてであった。
「おめえの方はどうだえ? 甚さん、その後の具合は……」
 重次郎は機嫌よく微笑んでいたが、その顔には、何処となく憔悴した影が流れていた。
「うむ。俺の方はまあ、どうにかやってるが、なあに、相変らず追われ通しだ。おめの方はどうだ? 少しは景気がいいのか?」
「景気がいいどこじゃねえ。悪くて仕様がねえよ。日給一円八十銭で、家族七人と来ちゃ、景気のいい筈がねえじゃねえか? そんで、近近のうちに何んかおっ始まりそうなんだよ。」
「やっぱりな。やっぱり、じゃ、工場だなんて大きな顔していても、景気はよくねえんだな?」
「工場は景気がいいんだ。工場の方じゃ、どんどん儲かって、又、分工場を建てるって話だからな。われわれ、そんで黙っちゃいられなくなって来たわけさ。幾ら工場の方が大きくなったって、われわれの賃銀は一向あがらねえんだからひでえや。」
「大きくなるもの、大きくなる一方だ。われわれは又われわれで……」
「今度の分工場ってのは、とても大きいらしいんだ。そら、甚吉さんのつくっている畠のところに、川に沿うて桑畠があるな。なんでもあそこらしいって話だぞ。」
「俺の畠のとこへ建てるって? 一体、工場の野郎共はなんと云う野郎だべ! この俺を、一体、何処まで追払うつもりだんべ? あそこへ工場が出来れあ、俺の耕ってる畠なんか、住宅に貸すからって、直ぐ又取上げられて了うのだから……」
 甚吉は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりながら、急に、狂人のように叫び出した。
「だからよ。甚さん! 工場はそうして大きくなって行くのに、われわれは一向に……」
「一体、何処まで手を拡げて行くつもりなんだ? あんなどこへまで工場を建てるなんて。糞面白くもねえ。」
「われわれ、われわれの言い分を通さねえうちは、どんなことがあったって建てさせるものか。俺、何時か、甚さんに言ったことがあったけがよ。耕地を潰して工場を建てたって百姓をやめて職工になるものがあったって、金目にしてその工場から、耕地から収穫していた以上の収穫があればそんでいい筈だって。――ところが、いくら収穫があったって、われわれ、同じことなんだ。耕地を潰しちゃ奴等だけ膨らんで、われわれは一向に同じことなんだ。」
 重次郎も、眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)りながら、叫ぶように云うのだった。
「あそこへ工場を持って来るなんて、百姓するものは、一体、何処へ行って百姓をすれあいいんだ?」
「工場の方じゃ、われわれの耕地を潰して置きやがって、幾ら儲かったって、われわれには全然同じことなんだから、そんで、われわれも、黙っちゃいられなくなって来たんだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。」

       七

 部落の中央部にあった台地の上は、人家で埋め尽されて、完全に住宅街になっていた。
 空から続く腕のように、南向きの斜面を抱込んでいた雑木林は、何時の間にか伐払われて、赤黒青、三色の瓦に埋め尽されていた。そしてラジオのアンテナの竿がその屋根屋根から林立していた。
 瓦の海の沖の方では、空高く組まれた捲揚機が、カラカラカララララと、ひっきりなく鳴り、黒煙に濁った空から、鉄骨の長い手を差伸していた。大きな煙突がそのところどころから、幾本も幾本も、黒い煙を吐いていた。そして瓦の海は、隣り部落を乗越え、何処までも何処までも拡って、青葉の中に消えていた。
――一九三○・四・二五――





底本:「日本プロレタリア文学集・11 「文芸戦線」作家集(二)」新日本出版社
   1985(昭和60)年12月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「都会地図の膨張」世界の動き社
初出:「プロレタリア文学」
   1930(昭和5)年6月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2002年3月12日公開
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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