三稜鏡

(笠松博士の奇怪な外科手術)

佐左木俊郎




 街頭はもう白熱していた。しかし白い太陽は尚もじりじりとあらゆるものを照りつけ続けていた。そして路面からの反射光線は室内にまで火矢のように躍り込んでいた。捜査本部では、当事者達が一台の扇風機を囲んで、汗を拭きながら、捜査の方針を練っていた。
「首があると、被害の見当も、それで大体わかるのだが……」
 刑事課長は溜息をくようにして言った。
「首はしかし、あの溝には、絶対に無いですね」
 黒い不精鬚の刑事が煙草に火をつけながら言った。
たとえその首が見つかったところで、五週間からになれば、腐敗してしまっているに相違ないから、それで被害者の身元を探り、そこから犯人を探すことは困難だろう。被害者の身元がわかる位なら、あれほど新聞で書立てたのだから、被害者と関係のある者から届けて来る筈だよ。届出人が無いところを見ると、被害者には身寄りが無いのだろうから、その首が見つかっても、身元は矢張わからないに相違ない。それより、被害者が女であることだけはわかっているのだから、女の持物とか、女の衣類などから探った方が早くないかね」
 署長はそう厳粛げんしゅくな口調で云った。
「犯人は相当の知識階級のようにも思われますね。首と胴とを、別々にして捨てるなどと云うことは余程考えて……」
 司法主任がそう云いかけているところへ、受付係の巡査が、急いで寄って来た。
「署長殿。首無し死体事件の、犯人も被疑者も、両方とも知っていると云う男が参りました。お会いになりますか?」
 受付係は姿勢を正しながら云った。
「参考までに会って見よう」
 署長は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるようにしながら云った。受付係は急いで戻って行った。急に緊張した空気がみなぎって来た。
「この方です」
 受付係の巡査がそう云って、そこへれて来たのは、身窄みすぼらしい洋服の、蒼白い顔の青年であった。
「僕は本当に知っているのです。犯人は間違いなく笠松かさまつ博士ですよ。そして被害者と云うのは博士の令嬢です」
 青年は眼をきょときょとさせながらあえぐようにして云うのだった。
貴下あなたは、うしてそれを、知っているのですか?」
 署長は微笑を含みながらそう云って、青年に椅子をすすめた。
「僕は知っています。僕は、笠松博士の研究助手として、博士のところにいたのですから、何もかも知っているのです。詳しく申し上げると長くなりますが……」

 =暗転=

 笠松博士には、前々から、観念構成虧欠きけつ症性の微弱徴候と、誇大妄想狂的精神欠陥とがあった。併しながら博士をして、外科医術の研究に躍起の努力を続けさせたのは、その精神的欠陥であろう。笠松博士は、そのような精神的欠陥のために、医術の上にも、極めて奇怪な怖ろしい理想を抱いていて、常にその理想が可能であることを信じていたから。
「――外科医学の最大の理想は咽喉部の接合である。Aの首をBの胴体に接合することである。そこまで行かなければ外科医術を完全と云うことは出来ない。腕とか脚とかの接合なら、手先の少し器用に動く田舎の藪医者にだって、容易に出来る。併し、咽喉部の接合は、胸部とか腹部とかの複雑な機関部の、何んなに困難な大手術よりも更に遥かに困難である。何故かと云うと、他の部分の接合に於いては、動脈も静脈も神経も、いずれも生きているものと生きているものとを接合させて、直ぐそれが活動機関を構成するように出来るのであるが、頭部と胴体との接合の場合は全然別項の困難が伴って来る。即ち、胴体からその首を切取ったとき、胴体も首も、何方どっちも死んで了うからである。例え、胴体と首とを切離してから、胴体も首も×時間だけは生きているものとして、そして又その×時間内に、Aの首をBの胴体に接合することが出来るものとしても、何れも仮死状態にまで衰弱している胴体と頭部とを、何うして同時に活動を開始させることが出来るかと云う問題である。頭部と胸部とは、神経系統の活動から云うと、相互扶助的関係にあって、両方同時に活動を開始しなければいけないのだが、それが果して可能か何うかが疑問である。他の部分の接合に於いては、麻酔剤によって仮死体とはなっていても、脳細胞と神経とが麻痺しているだけで、血液は依然として流動しているのであるから、麻酔剤の消耗と同時に、脳細胞の活動も神経系統の活動も開始するわけであるが、頭部と胴体との接合に於いてはそれが無いのである。麻酔剤によって活動を中止されている上に、血液の循環を遮断されて、脳細胞が果して生きているか何うかである。併し、何んな困難を突破してもそこまで行くだけの意気がなければ、外科医学はやらん方がいいと思う。勿論これは、外科医学上の最大の理想で、実現することが、果して人類の幸福かどうかはわからんことだ。それは全く怖ろしいことになる。そして社会の不平等が一入ひとしお激しくなるだろうから、社会人類のためには、却って害毒を流すことになるかも知れない。併し、私は外科医として、例え社会人類には害毒を流すことになるにしても、何うしてもそこまで研究を進めて行きたいと思う。そして、今に、諸君の若い美しい奥さんなり恋人なりの首を取って来て、私のところの婆さんの首と換えるのも面白いからなあ。その時までには、諸君も、私に敗けないだけに研究して置いて、その首を取戻して行かんといけないね。て、それではこれから……」
 笠松博士は、半分ほども銀色の白毛しらがの混っている長い顎鬚あごひげを静かに扱きながら、私達学生席の方を、学生の一人一人の顔を睨みつけるような眼をして、錆のある声で朗々と続けて行った。それはむしろ、話ではなく、朗読の口調であった。講堂には冷厳な異常の雰囲気が籠って、私達学生席からは、荒い息音さえ立たなかった。誰も彼も、っと息を殺して、吸付くようにして博士の口元を凝視しているのであった。
 初講義の挨拶を兼ねての、総論的序説と云うよりもそれはむしろ、怖ろしい奇術の前口上を聞いているようで、私は背中の辺をぞくぞくと銀線のようなものの走るのを感じた。そして博士は、睨みつけるような眼で私達学生席の方を視詰みつめながらも、その口元には絶えず微笑を含んでいるのであったが、併しそれは何処となく凄味のある微笑で、睨むようにして視詰めているその眼の表情を更に冷厳なものにしていた。

 私達はどうしても笠松博士に親しむことが出来なかった。私が幾分でも博士に親しむことの出来るようになったのは、笠松博士の臨床外科医術の研究助手として、博士の邸内にある病院続きの研究室へ通うようになってからであった。それも、博士との直接的な感情ではなく、博士の令嬢を介して初めて感じられる間接的な感情であった。
 笠松博士が、自分の研究の助手として、何故特に私を選んだのかは、私に取っては疑問であった。併し、博士は、追々に、私と令嬢とを、結婚させようとしているのらしかった。同時に、博士は、自分の研究を、私に引継がせようとしているのらしかった。それが私には疑問なのであった。その学理的研究に於いてよりも、臨床医術に於いて知られ、魔術師のように、手先の器用な博士が、何故、殊にも手先の不器用な私を選んだのかは、私にはわからなかった。それを善意に解釈するなら、博士は、博士自身の精神的欠陥と頭脳の不透明とを自覚して、自分に欠けている部分を、私によって補おうとしたのらしくも思われた。そして又それを悪意に解釈するなら、博士は、外科医学上の私の新発見を盗んで、それを自分の魔術師の指のように器用な手先で直ちに臨床医術に応用しようとしたらしくも思われた。私は、手先は極めて不器用であったが、頭脳の透明と敏感と優秀である点に於いては、級中で、私の右に出る者は勿論無かったし、博士も私には遥かに及ばなかったから。
 笠松博士はそして大学の講堂では外科医術上のその奇怪な自分の理想を、遠い遠い先の単なる理想のように云っていながら、実はもう、博士は既にその可能を信じきっているのであった。そして、その可能を信じきっているばかりではなく、自分の研究室では、既にその奇怪な実験に取掛っているのであった。それは全く、戦慄せしむる研究であり、奇怪きわまる実験で、研究室は地獄図絵さながらであった。何処からさらって来るのか、博士は何時も生きている人間をれて来て、それを実験台に載せるのであったから。
「先生! 先生の研究が、果して可能なものとしても、犠牲がひど過ぎはしませんか?」
 私は屡々のことそんな風に云わずにはいられなかった。
「犠牲? 研究のためには何んな犠牲も仕方がないじゃないか? それが悪ければこの研究は抛棄するまでさ!」
 呶鳴どなるような、吐棄はきすてるような、それでいておごそかな響のある声で博士はえるのであった。厳格でしかも凄味のある声であった。私はするともう、猫の声に脅えおののく鼠のように、博士の声に縮みあがって了って、何ももう云うことが出来なくなるのであった。それは何故なのか、その心理現象は私自身にもわからなかった。
「併し、わしは、何処までも続ける。厭なら君は止めるがいい。誰が何んと云おうと儂は医術のために続けるから」
 笠松博士はそうわめきながら、私を研究室のドアの外に残して置いて、研究の実験に供する女を部屋の中に拉れ込むのであった。

 私はもう全くどうしていいかわからなかった。そして私は博士が怖ろしくなって来ていた。精神的欠陥のある博士は、何時、私までもその研究の実験材料に供するかも知れないような感じが、私のこころには日に日に激しくなって来た。併し、私がそうして博士を怖れるようになって来た頃には、私をどうしても博士から離すまいとする一つの感情が、私を固く縛っているのであった。それは博士の令嬢を通じての感情であった。令嬢と私との間に沸騰している恍惚感であった。私と令嬢との間では、一度として(愛)とか(恋)とか云う言葉を使ったことはなかったが、私は併し、令嬢の眼の中に含む表情や微笑の中に含む表情から、言葉以上の意志表示を判然と受取ることが出来た。令嬢も亦そして、私の眼や微笑から、私の意志表示を、判然と受取っていたに相違なかった。そして私と令嬢との間には、お互いがそれを言葉では云わないだけに、恋愛者同士の恍惚感が次第に激しく沸騰して来るのであった。あらゆるものを焼き、総ゆるものを灰にするような、令嬢に対する私の愛情は、博士に対する恐怖感をさえ乗越えて行った。そして私はむしろ、笠松博士の、奇怪な医術上の理想に、却って、未練を抱き出した。しそれが、奇怪な理想ではあるにしても、学理の上で、少しでも可能の曙光しょこうが見え、そして、それが博士の手で博士一代に完成することが出来なかったら、私はその後を継いで研究を続けたい気がするのであった。

 併し、笠松博士のその奇怪な実験は、何時も失敗に終った。麻酔剤によって仮死の状態に置かれてある人体は、首を切断されたまま、あだかも泥人形の首が※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)げたように、何うしてももう附着しなかった。両方の切口には、赤黒い血がねとねとと附いているのに、何処に血管があるのかもわからず、筋肉さえが、粘土のように脆くなっているのであった。博士は、麻酔剤以外の、何か強烈な劇薬物を、この仮死体の上に作用させているに相違なかった。仮死体はそして、最早もはや、×××になって了っているのであった。
「先生! 麻酔剤の他に何か薬品を使ったのですか?」
 私はそんな風に聞いて見ずにはいられなかった。
「当然のことじゃないか?」
 博士は吐捨てるようにして云うのだった。
「何をお使いになったのですか?」
「そんなことがわからんでどうする?」
 博士はもう酷く機嫌が悪くなっていた。そして博士は、自暴自棄的に、死体の各部へぷすぷすとメスを入れるのであった。博士の頭は、発作的に、最早、滅茶苦茶に狂って了っているに相違なかった。それは単に博士ばかりではなく、傍にそれを見ている私でさえが、首を切断した胴体は、首のついていたときよりも更に大きく不恰好ぶかっこうで無気味で、何んとなくこう変になって来るのであった。何もかもを、滅茶苦茶に打毀うちこわして了い度いような、狂的な焦燥が、嵐のように全神経を吹捲ふきまくるのであった。そして博士は、私のその感動を、私の幾十倍の激しさで感じていたに相違ない。博士は先ず、既に首を失っているその胴体から、更に、両脚を切断するのであった。と、首と両脚を失った胴体は、尚一入無気味に、不恰好になって、横の方へばかり大きく大きく拡って行くのであった。
「糞っ!」
 博士は毒々しく吐棄てながら、次第に横の方へ不恰好に膨脹して行く無気味な両腕を、半狂乱になって切断するのであった。否! 半狂乱ではなく、次第に切断されながら次第に却って膨脹して行く胴体が博士を狂気にするのか、博士が既に発作的な狂人になっているから胴体を切り刻むのか兎に角、博士はもう本当の狂人になって了っているのであった。
 私は動悸が激しくなり頭がぐらぐらして来て、何うしてももう、それを見ていることが出来なくなって来る。私は、博士が何か大声に呶鳴っているその研究室から、自分の部屋へと逃出して了うのであった。そして私は、頭の中に火の車が廻っているようなのを感じながら嘔吐おうとをも催し、精も根も無くなって、寝台ベッドの上へどっと突伏して了うのであった。

 博士の怖しい実験の後に、私は肉体的にも精神的にも、酷く衰弱して了って、幾日かの間はもう何もすることが出来なくなるのであった。そして肉体と精神との疲労の上に、更に憂鬱ゆううつな厭世的なものが激しく襲いかかって来て、外科医術に対する私の希望を折取って了おうとするのであった。併し、博士の令嬢との間に沸立っている恍惚感が、矢張、何うしても未練になるのであった。私は激しい煩悶の中に、外科医術の研究を中止しようとする臆病と、博士の令嬢に対する未練との間に立って、愚図愚図と躊躇ちゅうちょしながら、幾日も自分の部屋を出なかった。
「何をぼんやりしているんだね?」
 そんな風に言いながら、幾日も顔を見せなかった博士が、突然に私の部屋をのぞき込むのであった。私はぞっとする。私は驚異の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)るだけで何も答えることが出来なかった。
「実験をやったらどうだ? 実験を! 外科医術は臨床の方が大切だぞ」
「はっ!」
 私はわなわなとふるえながら直立不動の姿勢になる。
「幾ら理論的にはわかっていても、手先が思うように動かなくちゃ、外科医術だけは全く何んにもならんのだからな」
 それはまるで、私の手先の不器用なのを、露骨に罵っているような言葉であった。
 私の自尊心は狂的にむらむらと踊りあがる。併し私は博士が怖ろしかった。
「殊にも君は手先が不器用だから、執刀の練習をしっかりやって置かんと、外科医になどなれんぞ」
「はっ!」
 私はかっと反抗心に燃えて来て、滅茶苦茶な感情になりながらも、何んとなく博士が怖ろしく、表面では従順を装って了うのであった。
「此方へ来給え!」
 博士は引立てるようにして、私を、研究室へ誘うのであった。私はぞっと身顫いがする。一瞬間のうちに、私の心は反抗から恐怖に急変して来る。併し、私はわなわなと恐怖に戦きながらも、矢張、博士の背後に続くのであった。
「さあ! これだ。これで練習をするがいい」
 博士はそう云って、私に、二きれの肉塊を与えるのであった。それは何れも七八斤ほどもありそうな大きなものであった。
 私はそれを眼の前にして、全身の血液が、何処か心臓の辺へ集中してそのまま凝結しそうなのを感ずるのであった。
「――ははあ! 驚いているのか? そんなことじゃ外科医にはなれんぞ! ははあ!」
 侮蔑的に笑いながら、博士は併し、扉をばたんと閉めて出て行って了うのであった。
 私の衷には、再び別の反抗心がむらむらと湧いて来て、猛然と練習に取掛るのであった。私は先ず、その生々しい肉塊の中から、神経を採り、血管を採り出して、神経と神経と、血管と血管とを、克明に接続するのであった。両腕を血まみれにし、全身汗になりながら、出来るだけの努力をしてみるのであったが、併し、不器用な私の手は、何うしても思うようには動かないのであった。そして私は激しい焦燥に襲われるのであった。遣瀬やるせの無い焦燥が全身を駈巡って、心臓が熱く激しく急速度の動悸を打出して来る。同時に頭部がたぎって来る。続いて眩暈が来る。私はそして、何時の間にか二片の肉塊の間に頭を突込んだまま意識を失って了うのであった。

 何時まで経っても、私には、実際の解剖や切開などの、手術の場所へ立会う機会は来なかった。して、私自身が、生きている人間に対して執刀するような機会などは、勿論無かった。何時まで経っても研究のための実験であり技術をみがくための練習であった。
 併し、私にもとうとう、生きている人間の手術によって、自分の腕を試して見ることの出来る日が来た。それは博士の令嬢が首のところへ腫物はれものを出したからであった。私は、博士が丁度留守だったので、早速、令嬢を研究室に連れ込み、手術台の上に仰臥ぎょうがさせた。私を信じきっている令嬢は従順に、而も少しの恐怖をも抱かずに、手術台の上に仰臥して私の手術を待った。私は直ぐ締紐バンドで、令嬢を、全然動くことの出来ないようにその手術台の上に縛りつけたのであるが、困ったことには、私は何等の麻酔剤をも持合せていないことであった。
「困ったね。クロロホルムも、コカインも、何も麻酔剤が無いんだが……」
 私は思わずそう呟いた。
「麻酔剤など無くてもいいじゃないの」
 彼女は案外平気でそう云うのであった。
「併し、麻酔剤が無くちゃ、痛いよ」
「痛いのなど我慢するわ。我慢していれば、後から、気持よくなるでしょう。構わないから早くなさいよ」
「併し可哀想だなあ」
「――だって、あなたは、手術をしたいんでしょう? 構わないわ。我慢しているから早くなさいよ」
 彼女はそう云って私を促すのであった。
「それでは……」
 私はもう躊躇しているべきではなかった。私は直ぐメスを執った。併し、さすがに、私は動悸の激しくなるのをどうすることも出来なかった。私はしかし、動悸を出来るだけ圧鎮おししずめながら、無理にも、令嬢を人間とは意識しないようにして、首の腫物を、一えぐりに抉り取った。その瞬間に令嬢は(きゃあっ!)と悲鳴をあげた。
「直ぐだよ。直ぐだ。直ぐだから我慢しておいで」
 私はそう叫ぶようにして云いながら、腐敗部分をがりがりと、手早くメスで掻取かきとった。彼女はそして、しばらくは(きゃあきゃあっ!)と悲鳴を続けていたが、次第に楽になって来るらしく、声はだんだん低く弱々しくなって行った。併し、再び困ったことに、私は、消毒ガーゼ類を全然用意していなかった。唯一巻の繃帯を持っているきりであった。――が、そのとき、ある一つの、外科医学上の新しい発見が、私の頭の中を、電光のようにかすめて行った。私は直ぐにメスを持直した。そして私は彼女の大腿部から、頸部の傷穴を埋めるための一塊の肉を、素早くずばりと切取った。彼女は再び(きゃあっ!)と悲鳴をあげた。併し、今はそんなことに、拘泥こうでいしている時ではなかった。――だが、第一回目は、完全に失敗であった。手先の不器用な私は、幾分狼狽していたりしたので、頸部と同形同大の肉塊を切取ることが出来なかったからである。そこで私はもう一度その大腿部の肉を抉り取った。頸部に比べれば大腿部は殆んど無神経無感覚のところであり、同一人の肉をもってその傷穴を埋めることは、最も理想的な埋肉療法でなければならないからである。併し、今度も亦、小さ過ぎて、失敗に終った。私は更にもう一片の肉を切取った。そして私の不器用な手先が、ようやく成功したのは、五六回目のことであった。私はそして埋肉が終ると、直ぐ、繃帯をぐるぐると巻付けた。
「こらっ!」
 瞬間、私はこっぴどくなぐりつけられた。博士が、何時の間にかその部屋の中へ這入って来ていて、突然に私を撲りつけたのである。そして博士の背後には、つてこの研究室の中へは這入って来たことの無い病院詰の若い医者達が、幾人も立っていた。私は、頭がくうんとしびれて来て、怖ろしい顔をしながらそこに立っている博士や若い医者達の喚き声を、夢うつつの中の出来事のように、遠くの遠くの方に聞きながら、構成派の絵のように複雑してぐるぐると廻っている風景の中へばたりと卒倒して了った。

 私が再び意識を取戻してふらふらと立上って見ると、博士や若い医者達は、暗い顔をして血まみれの手術台を取囲んでいた。手術台の上には令嬢の死体がばらばらになっていた。博士は、私が令嬢の首に繃帯を巻いている瞬間を見て、私が、頭部と胴体との接合に成功したものと、早合点をしたのであろう。そして、その嫉妬から私を撲りつけ、直ぐその繃帯を解いて見たのに相違ない。併し、傷は一部分だけなので、博士は、既に傷がなおりかけているものと錯覚したのであろう。そしてその錯覚が、酷く博士を焦燥させ、狂的にしたのに相違ない。そこで博士は、自分も頭部と胴体との接合に成功しようとしてその首を切断し、失敗に終って、次から次と、その死体を切刻んだのであろう。兎に角、首だけが、死体の横ににょっきりと立っていた。
(――よし! あの首を持って逃げてやろう)
 私はその瞬間に、と、まあ、考えた。
(そして、俺も、あの首を抱いて、彼女と一緒に死んでやろう)
 私は、彼女だけを死なして置くのは可哀想な気がして、急にそう、彼女の首との心中を企てたのであった。そして、その考えがひらめくと、私は次の瞬間には、もう彼女の首を抱いて、その研究室を飛出したのであった。
「こらっ! おい!」
「待て待て!」
 嵐のような喚き声が起って、若い医者達は、懸命に私を追いかけて来た。併し、私は、研究室を出ると、直ぐ庭へ飛下りて、高い煉瓦塀を乗越えて了った。そして私は、笠松外科病院から、一里とは離れていないあの海岸の、あの絶壁の上まで、駈続けに駈けたのであった。

 私はそして、あの絶壁の上から、彼女の首を抱いて海の中に飛込んだのであるが、幸か不幸か私は、彼女の首を海の中に失ったままおか匍上はいあがることが出来た。私は又更に、あの深い黒どぶの中に飛込んで見たのだが、矢張、それでも死ぬことが出来なかった。併し、これは、私に取っては決して幸福ではない。私はそして、今でも何うかして死にたいと思っているし、それ以来ずうっと死場所を求めて歩いていたのであるが、そのうち、今度の事件をふと耳にしたのであった。
 今度の事件――首無し死体事件――の被害者は、勿論、笠松博士の令嬢で、犯人は、笠松博士に相違ない。
 笠松博士は私が令嬢の首を抱いてあの海岸から飛込んだことは知らずに、あの溝に飛込んだことだけを知っていて、首はあの溝の底にあるものと思い違いをして、令嬢の胴体や腕や脚を、同じ場所に投げ込んだのである。多分、それは、犯罪の一切を、私に転嫁しようとしたのであろう。併し、私がこうして生き残った上には、博士はどうしてもその罪からのがれることは出来ない。

 =暗転=

「直ぐ行って博士を縛って下さい。若し博士をそのままにして置いたら、この先も、実験のために幾人もの人間が殺されるのは勿論ですし、何んなことをするかも知れないのです。早速行って縛って下さい」
 青年は喘ぐようにしながら訴えるのだった。
「勿論それは放っちゃ置けない。それじゃ君と一緒に直ぐ行こう。それから君達も一緒に行ってくれ」
 署長は立上りながらそう云って三人の刑事を顎でしゃくった。
「署長はおいでにならないでもよくないですか? 私達三人だけでも……」
「いや、儂も、一緒に行くよ」
 署長は刑事の言葉を揉消すようにして云いながら、剣をつり、帽子を冠って、玄関口の方へ大股に歩いて行った。青年はすると、誘うまでもなく、酷く焦燥しながら、身悶みもだえをするようにして署長の背後うしろ追縋おいすがって行った。その後から、三人の刑事は、何か目交みまぜをして、薄笑いながら跟いて行った。
 表には自動車が待っていた。署長を先にして五人は飛乗った。自動車は直ぐひゅうっと走り出した。同時に青年は又おしゃべりを始めた。
「笠松博士は、実験に使った人間の死体を、何んな風に始末していたものか、私は遂ぞ見たことが無いのですけど、殊によるとその部分部分の死体も、あの溝の中へ投込んだのじゃありますまいかな? それで、手と足とが別人のものになったり、首と胴とが又別人のものになるものだから、被害者が何うしてもわからなかったのじゃありませんか? 幾らその首に被害者の見当をつけて見ても、胴が別人のだったり、脚が違っていたら、全くわからなくなるわけですから……」

「笠松博士だ。そらっ! あれが笠松博士ですよ」
 青年は自動車の窓から煉瓦の建物の方を指した。
「自動車を止めろ!」
 自動車は病院の門を這入ったばかりのところで停められた。五人は急いで自動車を降りた。赤煉瓦の建物の前を、銀色の顎鬚の老紳士が、白い手術服のポケットに両手を突込んで、静かに歩いているのが庭の樹木の間に見え隠れた。青年は老紳士を目蒐めがけて走って行った。署長と三人の刑事とがそれに続いて走った。
「笠松!」
 青年は老紳士を目蒐けて飛掛った。
「おっ!」
 老紳士は驚きの声をあげて飛退いた。が、もう、遅かった。青年は老紳士の腕を掴んだ。同時に老紳士の鼻眼鏡が地面に落ちて砕けた。
「おうい! 誰か来てくれ! 誰かあ!」
 老紳士は大声に人を呼びながら、青年の腕の中に争ったが、青年はどうしてもその手を放さなかった、そして彼も亦、大声に、刑事達を呼んだ。
「早く縄を! 早く縄を、笠松博士を掴まえたから」
 刑事達はそのポケットから麻縄を出しながらばたばたっと駈けて行った。――が、しかしその縄は、老紳士にではなく、青年の手首にかかった。
「それは僕の手だ」
 青年は叫んで手を引こうとした。同時に、煉瓦の建物の中から、二三人の男達が駈出して来て、毛布の中に青年をぐるぐると包んだ。青年は首だけを毛布から出して最早完全に動くことが出来なくなった。
「おっ! 署長さんもお出で下さったのですか? それはそれは……」
 老紳士は微笑をもって云いながら署長の方へ寄って行った。
「実は、岡埜おかの先生に、お話して置き度いことがあったものですから、儂も一緒に来たのですが……」
「それは又……」
「岡埜先生! 御迷惑でも、署までおいで下さいませんか? 私達の前で、この青年の、心理試験をやって頂き度いのですよ。首無し死体事件の端緒が掴めそうですから」
「それは参りましょうが……」
「では、自動車の中で、ゆっくり話します。それはそうと、岡埜先生は、眼鏡が無いと、御不自由なのじゃありませんか?」
「いや! それほどじゃないです」
 岡埜精神病院長は鼻梁びりょうを押えながら云った。
「それじゃ参りましょうか? それで君達は、その青年を伴れて、別の自動車で来給え、儂は岡埜先生と御一緒に先きに行くから」
 署長はそう云って、岡埜博士と一緒に、喚き立てる気狂いをそこに残して門の方へ歩いて行った。自動車は二人を乗せると市立精神病院を出て、直ぐ繁華な街へ出て行った。署長はその軽い動揺に身体を任しながら語りかけた。
「岡埜先生! あの青年は、首無し死体事件の犯人は先生で、被害者は先生のお嬢さんだと、熱心にそう云っているのですよ」
「ほう! それは面白い。私に娘があるものと思っているのですな?」
「――そうなんです。もっとも、先生を、岡埜精神病院長と思っているわけではなく、笠松と云う外科の博士と信じていて、その笠松博士の令嬢に恋情を寄せていたらしいのですが、笠松博士と錯覚しての先生を酷く怖れていながら、矢張、令嬢への恋情に繋がれていたらしく……」

「そんなことは知らなかった。それは私の失策だった。恋情が介在していることを知っていれば、極く簡単に済んだのかも知れなかったが、残念なことをした」
 岡埜精神病院長はそう云って、溜息を吐くようにしながら、両手の中に頭を抱えた。自動車は街角を彎曲カーブして、一揺れ、大きく揺れた。岡埜博士はぐらりと前の方へよろめいた。
「そんなわけで、あの青年は、岡埜先生と彼女あのおんなとを、笠松博士親娘と思い込んでいて、先生が令嬢を殺したものと、熱心に思い込んでいるのですよ」
 署長は、青年の話を一通り語り終って、煙草に火をつけた。
「全く残念なことをした。恋情が介在していることには全然気がつかなかった。それが私の失策だった」
 岡埜博士は残念そうに繰返した。
「あの青年は又、彼女を、何うして先生のお嬢さんだと思っていたのでしょう?」
「彼女は、私の顔を見さえすると(お父さん!)と云っていたのですよ。そして又あの青年は、私の顔を見さえすると(笠松先生!)と云って、直ぐ外科医術上の質問をするのですなあ。あの青年が、私の病院へ来たのは極く最近なのですが……」

 =暗転=

 彼が病房に落着いていると云う報告を受けると、私は部屋を間違えたような風を装って、彼の病房へぶらりと這入って行った。私は常々から、患者の日常行動をそれとなく注意していて、その行動によって病状を診断鑑定し、或る一つの仮説を立て発病の原因を探り、それからその仮説に基いて療法を研究するのであるが、彼の場合は、その発病の原因徴候が極めて濃厚に露出していた。彼は、私が部屋を間違えたような風を装って這入って行ったのにもかかわらず、私の顔を見ると、驚きとよろこびとの眼をみはりながら腰を上げた。
「おっ! 笠松先生! 西谷にしたにです」
 彼はそう云って丁寧にお辞儀をした。
「やあ!」
 私は軽く会釈した。私は、彼が私を笠松と云う人と錯覚していることを知ったが、今の場合、彼の想像を奔放して置いて、彼の脳の中を覗いて見る必要があった。そのために、私の方からはなるべく語りかけないようにして、彼の話に対しては私は全然受身の態度に出た。
「それじゃあ、僕をここへ拉れて来さしたのは、笠松先生だったのですね?」
 彼は暗い疑惑の中から、漸く安堵したようにして、微笑を含みながら云った。
「あ!」
「何か御用だったのでしょうか?」
「あ!」
 私は簡単にそう云ったが、その先を、何う進めていいかわからなかった。折角そこまで押拡げて来た彼の空想を、そこで壊して了っては、全然手も足も出なくなるからである。
「実験のお手伝いなのでしょうか?」
「君でないと困るものだからね」
「併し、僕のような不器用な人間が、果して、外科医として立つことが出来るのでしょうか?」
「今は、手先の問題じゃなく、頭脳あたまの問題だからなあ」
「僕も、頭脳の方には自信を持てますが、手先の方には全然自信を持てないものですから。この前も、僕は、自分の不器用なのに悲観して逃出したんです。先生の研究の助手にして頂いて、先生と一緒に研究の出来ることは僕に取っては非常に嬉しいことですが、併し、何時までやっていても、外科医として立つことが出来ないのなら、全く仕方のないことですから。でなかったら、僕だって、逃出すのではなかったのですが」
「手先よりも、君、頭脳の問題だよ」
「笠松先生! 併し、外科医術の理想が、首と胴との接合として、そんなことが果して出来るのでしょうか?」
「研究は要するだろうが……」
 私はそんなことを云ってお茶を濁した。併し、私には、それで、患者の発病の原因が、朧気おぼろげながらわかって来て、患者は、外科の医学生か、或いは大学を出たばかりの外科医者で、笠松と云う医者の助手をしていたのに相違なかった。併し、患者は、外科医に取っては極めて重要な手先が、思うように動かないのを気にんで、神経衰弱から、次第に現在の病状に進んで来たのであろう、何れにしても、患者が(――手先が不器用でも外科医として差支えが無いかどうか?……外科医術の上に頭脳の方を必要とする分野はないだろうか?……外科医術の最大の理想とする首と胴との接合は果して可能かどうか?……)と云う問題を、酷く気に悩んで来ていることは確かであった。同時に、患者は、酷く小心の者で、手術の光景を目撃することの出来ないのは勿論のこと、自分の最初の目的である外科医が、自分には不適当であることを知りながらも、世間体を怖れて思い切れずにいることなどが、私には判然と感じられた。これはむしろ、小心者の、何事をも躊躇ばかりしていて、結局は何事も決断の出来ないような、藻掻もがくような焦燥に起因している病状であった。

 私はその療法に就いていろいろと考えた。併し、結局は、彼に、外科医として立つことを諦めさせるのが、一番いいように思われるのであった。彼が最も気に悩んでいる問題を、徹底的に否定し、無理にも(……手先が不器用では外科医には全然なれないし……外科医は職工のようなもので頭脳などは第二第三の問題であろう……理論的には容易に出来そうに思われる胴と首との接合も実際には不可能である……魔術師のように器用に動く手の持主だけが外科医として成功するのだ……)と云う風に思い込ませて、思いきれずに迷っている希望を全然断念させなければならなかった。同時に、外科医の仕事が如何いかに怖ろしい戦慄的な仕事であるかを、彼の頭の中に叩込まないといけなかった。そのためには、恐怖的で而も惨虐的な手術をやって、その手術が結局は失敗に終るのを見せるのが一番よさそうに考えられた。具体的な例としては、私が、首と胴との接合を研究する医学者になって、彼を研究助手にし、最も惨酷的に恐怖的にその実験をやり、何度でも失敗することであった。併し、実際問題としては、その実験の材料を手に入れることが困難であった。――が、ふと、私の頭の中には或る一つの考えが浮んで来た。私は直ぐ病房の一つを片付けさせて、解剖研究室のような、或は手術室のように、それぞれの調度を据えさせた。そして初めて、私は医員達や看護人達や看護婦達に、極端で而も奇怪な私の療法を打明けたのであった。勿論のこと、それに就いては、誰も反対する者が無かった。そこで私は、初めて、その治療にかかった。
「西谷君! 今日は一つ生きている人間で実験をやるから来てくれ。果して首と胴との接合が可能なものかどうか?」
 私は厳粛な顔をしてそう云うと、彼はもう、驚異の表情でわなわなと顫えていた。併し私は、そんなことには構わずに、彼を伴って、応接室に待たしてあった看護婦の一人を、無理矢理に実験室へ引立て行った。看護婦は(きゃあきゃあ!)と声を立てながら拒むのを、私は悪魔のように無理矢理に引込むので、彼は実験室の扉の前に立って顫えているだけであった。私はその間に、看護婦の代りに、等身大の人形を手術台の上に縛りつけた。それから彼を扉の中に引込んで来て、その人形を、混乱しきっている彼の頭に、麻酔剤によって仮死状態にある人間のように思わせることは容易であった。
「麻酔剤の他に何か薬品を作用させたのですか?」
 彼はそんな質問をしながら怖々おずおずとその人間に触って見るのであった。彼は、それを人形とは感付かないで、仮死体が、薬品のために固くなっているように思っているのであった。それは非常に都合がよかった。
「勿論じゃないか?」
 私は呶鳴るように言った。
「何をお使いになったのですか?」
「そんなことを知らないでどうするんだ」
 私は再び呶鳴った。そして私はメスを持直してその首を切断した。切口には血の色の絵具を塗った。そこへ麻酔剤やその他の薬品のようにして持込んであった小瓶は、実は皆んな血の色の絵具で、それを彼が気付かないうちに切口へ塗ることも亦容易であった。そして更に、私は、その首と胴とを接合しようと努力して見せるのであるが、その切口に血管も神経もなく固くぼろぼろになっているのを見て、彼は尚も混乱して来るのであった。そこで私も狂乱したように見せかけ、私はメスを持直して、その人形の脚を切落し、両腕を切落して見せるのであった。すると気の弱い彼は、私をそこに残して研究室から逃出して了うのであった。
 併し、私の療法は、決して失敗ではなかった。西谷青年は、何んなにかその実験を怖れ戦いて、実験室から自分の部屋に逃込むと、それなりもう、一週間位は部屋の外へ出なかったのだから。そして彼は、その一週間の間を、寝食を忘れるようにして自分の途を迷っているのであった。ここに何等の夾雑物きょうざつぶつ的な感情が無ければ、彼が外科医としての希望を断念して了うことは、当然のことであった。断念と同時に、そして気が軽くなり、放心状態が次第に快復へ導くことも亦当然であった。
 私はしかし、尚その上にも、彼が自分の手先の不器用なことを、徹底的に、真価以上に自覚するような、実験を課してやった。それは二片の豚肉を与えて、その肉片の中の神経と神経と、血管と血管とを接合することであったが、死肉の神経や血管を接続することは余程よく熟練している外科医にも容易に出来るものではなく、尚且つ、私は前もってその血管や神経を抜取ってあるのだった。全く悪魔の課題のようで、可哀想ではあったが、彼の病気を癒すためには仕方がなかった。が、しかし、彼は熱心にその課題をやるのだった。両腕を血まみれにして、鼻が肉につきそうになるまで眼を近寄せながら、神経を探り血管を探っているのであった。そして彼は精も根もなくへとへとに疲れて、その二片の肉の間に顔を突込んだまま殆んど気を失って了うのであった。

 私達は十分に看視していた積りであったが、西谷青年が或る女の患者に恋情を寄せていたことを知らずにいたことは、私達の大きな落度であった。西谷青年は勿論のこと、他の患者達も、自分から進んでなど決して這入ったことの無い実験室から、女患者の悲鳴がするので、大急ぎで飛んで行って見たのであるが、その時にはもう遅かった。西谷青年は、女患者の咽喉部に大きな抉穴えぐりあなをあけて、大腿部から抉り取った肉を、その穴に埋めようとしているのであったが、女患者はもう死んでいた。
「こらっ!」
 私はそう呶鳴りながら、彼を撲り倒して置いて、その間に、死体と人形とをえて置いたのであるが、そんなことをしてももう無駄であった。私は、彼に、その人形によって、自分の手の不器用さを徹底的に知らせようとしたのであったが、彼は意識を取戻すと、矢庭やにわにその人形の首をさらって逃出したのであった。私達は直ぐその後を追掛けて見たが、彼の姿はそれなり、何うしてもわからなかった。

 =暗転=

「――ですから、あの患者が抱いて逃げたのは、人間の生首ではなくて、人形の首なのですがな……」
 岡埜博士はそんな風に話を結んだ。
「それで、この事件の裏に、何か犯罪は無いものでしょうか? 唯単に、自分の手先の不器用なのを悲観してのこととすると、幻想が少し念入りじゃないですか? 笠松と云う外科医の先生が、何処かに、実在しているような気がしているんですが……」
「何かそんな、幻想の動機になっている人が、何処かにいるのでしょう」
 丁度そのとき、自動車は、警察署の表玄関に着いた。署長は佩剣はいけんの柄を握って先に降りた。それに岡埜老博士が続いた。同時に、背後に続いて来ていた自動車から、三人の刑事に護られて、西谷青年が降りた。西谷は、その手を縛り上げられながら、三人の刑事を掻除けるようにして、前へ前へと、署長等の背後にせまって行った。署長と岡埜博士とは、その横の階段を、直ぐ階上へ登って行った。西谷は、刑事達の先に立って、階段をとんとんと追縋って行った。そして、階段を上りきると、彼は急に呶鳴り出した。
「笠松! 笠松! 悪魔め!」
 刑事達は、彼の手を掴まえようとしたが、彼はその手からするりと抜けて、叫びながら駈けて上った。
「笠松! 僕に罪を塗りつけようたって駄目だぞ! 悪党め!」

「儂は自分の罪を他人へ塗りつけようなどと思っちゃいませんがな……」
 振向きながらそう云ったのは、併し、岡埜博士ではなかった。岡埜博士よりも更にしょぼしょぼと老けて、長い顎鬚が白銀しろがね色の、酷く身窄らしい老人であった。併し、身窄らしいとは云っても、何処となく気品があり、何処となく岡埜博士に似ているところがあった。
「笠松! 早く白状しろ! 早く!」
 西谷青年はそう、吼え立てるようにして、なおも老人に逼った。
「西谷さん! 何も心配なさるな……」
 言いながら老人は微笑をさえ含んだ。
「何も心配なさるなよ。儂が何もかもわかっているから……」

「何もかもわかっているのなら、さあ、自白して貰おう」
 司法主任の警部補は老人の顔を見上げながら厳粛に促した。
「何もかも申し上げます」
 司法主任の卓の前に立たされて執拗に口をつぐんでいた老人が、西谷青年の顔を見ると、急に素直な態度になって来たのであった。
「それじゃあ、貴方の名前は、笠松――と云うのか?」
 署長がそう横から訊いた。
「笠松――と云うのだそうです。西谷の前住所がわかったので、何か手掛りがあるかと思って刑事をやりましたら、刑事は、この老人を拉れて来たのですが……今来たばかりなものですから……」
 司法主任はそう老人に代って答えた。
「それで、貴方は外科医なのですか?」
「外科医だなんて、私あ、そんな、立派な人間じゃありません。私は人形師ですよ。人形造りなのですよ。西谷さんを知っているのは、西谷さんが私の家の二階に下宿をしていたからでして……」

 =暗転=

 西谷青年は、真面目で而も物静かで、私達の二階へ越して来られた当座など、荒い息一つ立てずに、八九時間も机の前に坐っているようなことは珍らしくなかった。無口な上に、勉強家でもあり、最初は親しみにくかったが、次第に打解けて来ると、私や娘と話をしに自分の方から降りて来るようになって、私達はだんだんと家族的な感じが濃くなって来た。部屋だけの約束だったのが、何時の間にか食事まで一緒にするようになり、そして私の娘は、私の知らない間に、西谷の穢物よごれものなどまで洗ってやるようになっていた。西谷はそして、机に向って本を読み続ける代りに、娘と何か話をしているようなことが多くなった。時には、私の仕事場へ来て、何時までも何時までも私の手先を視詰みつめているようなことがあった。
「爺さんの手は、全く、羨しいほど器用に動くね。外科医も、それだけ器用に手先が動いたら、何んなにいいかなあ。殊にも、僕なんかと来たら、手先が不器用で……」
 突然そんなことを云うことがあった。
「それは、幾ら外科医術が進歩したところで、又、何んなに手先の器用な博士にしたところで、私の真似は出来ますまいって」
 私はそんなことを云いながら、人形の、脚を接合つぎあわせたり、首を接合せたりした。
「いや、外科医術の最大の理想と云うのは、首と胴との接合せなんだそうですがね」
「そりゃあ、勿論、そこまで行かないと、それから云うと、私など、人形の医者にしちゃあ、立派な博士だ。笠松博士と云うところかな……」
 私はそんなことを云って笑った。西谷と私がそうして打解けて話していることが、娘には大変に嬉しいらしく、何時も娘は私達のところへ茶をれて出て来るのであった。娘がそしてどんなに西谷を愛しているか、又、西谷もどんなに娘を愛しているかは、私にはよくわかっていた。私は、西谷の方からそれを云い出しさえしたら、二人を何時でも、一緒にしてやろうと思っていた。併し、西谷は、気の小さな男で、そんなことを云い出せる男ではなかった。唯その心の中だけで悶々と思いわずらっているのであった。

 私の仕事場の窓上の、崖の上のもりの樹木の緑が日に日に深くなって、仕事場の台の上や人形の肌などにまで淡い緑の影がうらうらと動くような季節になると、西谷は酷く暗鬱あんうつになって来た。極度の神経衰弱らしかった。学校では最早、解剖などもやっているらしく、机の前に坐ったまま半日も解剖刀を視詰めていたり、夜遅くまで附属病院の方にいて来ることなども珍らしくなかった。階下したへ降りて、私の仕事場へ来ても、何一つ話をするでもなく、唯じっと、何時までも何時までも私の手元を視詰めているばかりであった。
「――あああ! 僕の手もあんな風に動いたらなあ」
 そして突然そんな風に云いながら、彼はぷいと席から立つのである。
「え!」
 私は、何んのことかよくわからないので、そんな風に聞き返すのであった。
「僕の手だけが、何うしてこう、不器用に出来ているんだろう」
 彼はそう、併し、独語ひとりごとのように云いながら、階上うえへ行って了うのであったが、それはおそらく、解剖のときに、自分の手が思うように動かないことを気にんでいたのに相違ない。そして、西谷は、それから神経衰弱がますます酷くなり梅雨があがってから間もなく、何処か田舎の方へ、保養に出掛けて行ったのであった。

 梅雨があがると、りつけるような暑い日が幾日となく続いて、再び又暗鬱な雨がじめじめと降り続いた。そして市中には急性のチブスが猖獗しょうけつを極めた。私の娘は、この怖ろしい病気に襲われて、僅か三日で死んで了った。私はまるで夢のような気がしてどうしていいかわからなかった。発病と同時に、田舎の方へ保養にいっている西谷にだけは知らせようかとも思ったが、何しろあまりに急激に来たので、そんなことをしている間もなかった。そして火葬にする前に、西谷にだけは、その顔だけでも見せてやり度かったのだが、それには相当の時間がかかるのだし、劇悪性の伝染病で一刻も早く火葬にしなければならないところから、それも出来なかった。私は悲しくなって年甲斐もなく泣き続けた。西谷にその死顔を見せずに葬って了うからばかりではなく、私自身にしても、娘の死体をそのまま火葬にして了うことは堪らない気持であった。私は何等かの形態で娘を残して置き度かった。そこで私は、娘の死体を詰めてある棺をいよいよ焼場へ運ぶと云う一時間ばかり前になってから、夜がまだ明けきらないのと、葬儀人夫がまだ来なかったのを幸いに、棺の中から娘の死体を取出して、仕事場の戸棚の奥へ隠して了った。そして棺の中へは、犬の骨格を剥製はくせいにして店先へ飾ってあったのを胴にし、ろう人形の等身大の首を頭部にして、俄造りに出来上った等身大の人形を詰込んで固く釘を打って了ったのだった。
 蝋や襤縷ぼろの部分はすっかり燃えて了って、針金の断片と、犬の骨とが残っているのを、娘の骨として拾い、勿論、何等の疑いも受けずにその場は済んだ。
 気持が幾分か落着いて来ると、私は毎晩毎晩、夜更よふけになってから他人目ひとめぬすんで、生前の娘にそっくり似ている等身大の人形をつくりにかかった。そして私は、その人形へもって行って、幾らか腐りかけて来ている娘の死体から、髪と眉毛とを抜いて植えた。眉毛も髪も生前の娘の顔に似せて、その生際の工合や、毛のなびき方などまでも研究し、兎に角、自分ながらも見紛うほど、生前の娘そっくりの人形が出来上ったのであった。

 髪や眉毛を抜取った娘の死体は、次第次第に臭気を発散するようになって来たので、何うにか始末をつけなければならなくなって来た。併し、私に取っては、何んなに臭気が激しくなって来たにもしろ、そのまま死体全部を捨てて了うことは出来なかった。娘の骨壺に納めてあるのは、実は娘の骨ではなく、犬の骨なのだから、改めて娘の身体の一部分をその骨壺に納めて、それから葬らなければならないのだった。それには、身体の一部分と云うと、当然、頭部を撰ぶべきであった。私は鋸でその首を切断して、その首が楽に這入るほどの大きなかめにナフタリンと一緒に詰込み、更に白木の小さな箱棺に納め、女房の墓と並べて葬ったのであった。犬の骨壺の方は、壺はくだいて藪に捨て、骨は何れも細かなものばかりであったが、幾度にも持出して溝の中へ捨てたのであった。そして最後に残ったのは、既に首が無くなっている娘の死体であったが、次第に臭気が激しくなって来て、最早一日でもそのままにして置くことは危険になって来た。併し、そのままではとても持出すことが出来ないので、私は夜更けになってから、その胴体を更に鋸で八つに切断した。そして襤縷に包み、更に油紙に包んで八つの小包にしてリヤーカーの箱の底に詰め、その上へ三尺ばかりの高さの四体の人形を積んで掩隠おおいかくした。矢張それでも完全に捨てて了わないうちは酷く焦燥していて容易に落着くことは出来なかったが、午後まで凝っと待っていて、午後の三時頃になってから私はそのリヤーカーを曳いて向島むこうじまの方へ出掛けたのであった。そして私は、周囲が次第に闇に包まれて来るのを幸いに、他人目を偸むようにしながら、箱の底からその包みを一つ取出しては捨て、又一つ取出しては溝の中へ投込んだのであった。

 私の手紙で、西谷は、早速田舎から出て来た。
「何故もっと早く知らしてくれなかったのです。病気になると直ぐ知らしてくれたら間に合った筈じゃないですか? 死んでから知らして貰ったって何になるんです?」
 西谷は私の顔を見るなりそう云って責めるのであった。
「それもそうだが、まあ、怒らないでくれ。死ぬには死んだが、しかし、そこがさすがは笠松博士だって。二階へ行って御覧! 以前もとのようにちゃんといきかえっているから」
「二階に? 僕の部屋にかね? それで、死んだのも、嘘なのですか?」
「兎に角、二階へ行って、何んなものか、笠松博士の腕前を見ておいで」
 私はそう云って銭湯へ逃出して了った。西谷は直ぐ二階へ駈上って行った。そして、生前の娘に似せてある人形は、酷く西谷を驚かしたに相違なかった。私が銭湯から帰って来たとき、西谷はまだ二階にいて、その人形へ、何かしきりに話かけていた。
「僕は何時までも、何時までも、貴女のお父さんと一緒に、貴女の傍にいて……」
 そんな風に云っているのが、歔欷すすりなくような声に混って、断片的に洩れて来るのであった。そして、西谷は、極端にその人形を懐かしみ、滅茶苦茶に愛撫しているようであった。

 日が経つにつれ、西谷の愛撫は、次第に極端になって来た。西谷は二階で、殆んど終日、人形と暮していた。凝っと人形の顔を視詰め続けているようなこともあり、又何かと語りかけているようなこともあれば、何うかすると一緒に寝ているようなこともあるらしかった。私は、一切干渉しないようにして、西谷が二階で人形と一緒にいるときには、絶対に上って行かなかったが、私にはその様子が判然とわかった。
 そんな風にして五六日ばかりが過ぎてからであった。西谷が手拭をさげてぶらりと銭湯へ出掛けて行ったので、私は五六日ばかりも見なかった娘の顔を見に、二階へ上って行った。二階にはすると、寝床が敷かれてあって、そこに人形の首は折れていた。そして酷く汚れていた。併し、にかわか何かで、以前のように接合せられないことはなかった。私は直ぐその首と胴とを階下の仕事場へ運んだ。
 私がそして、その首を作業台の上に置き、胴体の方は、腰から下を台の端から垂らすようにして静かに寝かし、小鍋で膠を溶いていると、そこへ西谷が帰って来た。
「おっ! 何を? 何を?……」西谷はびっくりして、突拍子とっぴょうしな声を上げながら、作業台を覗き込んだ。
「何をするか、まあ見ておいで、笠松博士が、首と胴体とを、立派に接合して見せるで。何んなものかまあよく見ておいで」私は得意でそんなことを云った。
「果してそんなことが……」
「頭をちょっと持っていてくれ」
 私はそう云いながら、胴体の方を持上げるようにし、西谷には首を持って貰って、その折口を合わして見ようとしたのであるが、その首の眼を凝っと視詰めていた西谷は、突然、その首をそこへがたりと投出すようにして突拍子な声を上げながら戸外へ駈出して行った。
「おいっ! 待て! おいっ!」
 私はそう云って、直ぐその跡を追って見たが、併しもう、西谷の姿はそれなり見えなかった。

 =暗転=

「――そんなわけで、私が手にかけて殺したわけではなく、医者の死亡診断書の通りなので御座いますが、その髪を抜いたり眉毛を抜いたり、その上に八つに切り刻むなど、随分と残酷なことをいたしました。今になって考えて見ると、我ながら、娘が可哀想でなりません。この老耄おいぼれめを、御十分に、罰して下さいまし」
「その人形は病院へ借り度いものだな? 西谷の病気は癒るかも知れないぞ。その人形で」
 岡埜博士が銀鬚を扱きながら云った。
「それはどうぞお使い下さいまし。西谷を欣ばしたいばかりに拵えた人形でしてな。それが飛んだ結果になりましたけど、西谷をもう一度以前の西谷にして頂けたら、私もどんなに嬉しいかわかりません」
「爺さんに犯罪意志の無かったことは十分に認める。情状酌量すべきものが十分ある。併し死体遺棄罪として一応は検事局へ……それから、西谷は、市立精神病院の岡埜博士の御手元へもう一度……爺さん! 決して心配などせんでいいから……」
 署長は両の眼を瑞々みずみずしく光らしながら厳粛な調子で、併し抱き取るような口調で云った。
(一九三二年十一月)





底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年2月20日初版1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1932(昭和7)年11月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2011年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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