駈落

佐左木俊郎




     一

 朝日は既に東の山を離れ、胡粉こふんの色に木立を掃いたもやも、次第に淡く、小川の上をかすめたものなどは、もうくに消えかけていた。
 菊枝は、うまやに投げ込む雑草を、いつもの倍も背負って帰って来た。重かった。荷縄になわは、肩にただれるような痛さで喰い込んだ。腰はひりひりと痛かった。すねはりでも刺されるようであったし、こむらは筋金でもはいっているようだった。顔は真赤まっかに充血して、ひたいや鼻や頬や、襟首からは、汗がぽたぽたとしたたり落ちた。
「ああ、重かったちゃ。俺あ!」
 こう言って菊枝は、その雑草と一緒に、馬小屋の前に仰向きに身体からだを投げ出した。ほつれ下がった髪が、ぺったり顔にくっついていた。
「ああ、暑々あつあつ。」
 菊枝は身体を投げ出したまま、背負っている草の上に、ぐったりとなって、荷縄になわも解かずに、向こう鉢巻きにしていた手拭いを取って顔や襟首の汗を拭った。
 婆さんが、裏の畑から、味噌汁の中に入れる茄子なすをもいで、馬小屋の前に出て来た。春からの僂麻質斯リュウマチスで、左には松葉杖をついていた。
「おう、おう、重かったべさ。二人めえもあっちゃ。」
 あお白いしわだらけの顔に、婆さんは、鷹揚おうような微笑を浮かべて、よろこびの表情を示した。
おれあ、ほんとに腰骨折れっかと思った。まなぐさ、汗はえっし……」
「うむ重かったさ。――それにしても、よくこんなに刈れだで。」
「なあに、あの……」と菊枝は、語尾を濁した。
 実際、菊枝は、こんなに多くの草を刈って帰って来たことは無かった。いつも彼女の刈って来る量は、一回投げ込むだけのものであった。だから、ひるに投げ込むのと、夕方のとは、彼女の爺さんが、一日がかりで刈ることになっていた。併し、今朝は、彼女は不思議にも、いつもの二倍も刈って帰って来た。
「これならばばさん、今朝は、半分やっていがんべ?」と彼女は、濁しかけた言葉を巧みに言いえた。
「いいども、じんつあんはあ、なんぼか悦ぶべ。」
「ああ、暑かった。」
 菊枝は、もう一度こう言って、まだ赤くなっているその顔を、手で拭きながら、婆さんと一緒に馬小屋の前をはなれた。
つめてえ、井戸水でつら洗って。もうおまんまはあ出来でっし、おつけも、この茄子せえ入れればいいのだから、早く食ってはあ。――片岡さ行ぐのに遅ぐなんべ。」
 婆さんはそう言い捨てて、茄子を洗いに井戸端へ行った。

     二

 爺さんは、むっつりと、苦虫を噛みつぶしたような面構えで、炉傍ろばたに煙草をかしていた。弟の庄吾は、婆さんの手伝いで、尻端折しりはしょりになって雑巾ぞうきんけだった。
「爺つあん、今日は、ひるめえは草刈っさ行かねってもいいぞ。」と菊枝は、土間を掃こうと箒を取りながら言った。
「俺あ今朝、ひるの分まで刈って来たから……」
「あ、そうが! そいつは大助がりだ。」
 爺さんは、初めて無愛想な面構えをほどいた。菊枝も大変嬉しかった。
 この爺さんは、昔は非常な働き手だった。二人前出来ないことは、たった一つ、使い歩きだけで、いっぺんに、西へ行ったり、東へ行ったりすることが出来ないから……と言われたほどの働き手だった。事実どんな仕事でも、大抵は二人前近く働いたものだった。が爺さんは、老衰の峠を越してから、急になまけ者の中へ数えられるようになった。
 それでも爺さんは、せがれの春吉と、孫の菊枝とが、毎日のように日傭ひでま稼ぎに行くので、僂麻質斯リュウマチスの婆さんに攻め立てられ、老衰した身体からだを、まるで曳きずるようにして、一日に二回ずつは、草を刈りに出なければならなかった。
「ふんとに俺は、棺桶がんばこえるまで、こうして稼がねえばなんねえんだな……」
 こう言って爺さんは、毎日草を刈りに出なければならなかった。あんなに働いた爺さんだったけれども、いくら若い時働いたことを、今の若い人達に自慢して見たところで、爺さんは、金鵄きんし勲章くんしょうも、恩給証書ももらっていなかったから。
「今の奴等あ、ろぐろぐ稼ぎも出来ねえで、贅沢ぜいたくべえぬかしゃあがって。――機械でねえげ、仕事はあ出来ねえもんだと思ってからあ。贅沢べえぬかしゃあがって……」
 爺さんは口癖のように言うのであった。若い人達は、爺さんのその言葉を嫌った。菊枝は、爺さんのその言葉を、嫌っていたし、怖れてもいた。彼女の要求がいつも爺さんのその言葉で打ちくだかれた。
 菊枝の母が、若い年で死んだ時などは、村中に「あのじんつあまに追い廻されちゃ……よっぽどの稼人かせぎてだって死んでしまうべさ!」という噂が立ったほどだった。
 併し、爺さんも弱ってしまった。今は、怠け者の、口喧やかましい爺さんとしての存在でしかなかった。伜や孫娘のすることに、うるさいほどくちばしを入れるだけで、しょぼしょぼと、薄暗いへやの中にくすぶっていた。

     三

 夜明け前から出掛けて行った父親の春吉が、山畑でひと仕事して帰って来た時は、大百姓の(それは大きな自作農であった)片岡の家に、日傭ひでまに行くので、先に食事を始めた菊枝が、ちょうど食事を終わったばかりのところだった。
とっつあん、俺、先に出掛けて、片岡さ寄って行んから、父つあんは、真っすぐに田圃たんぼさ行ぐんだ。」
 菊枝は、食事の父親に、こう言い置いて、すぐにも出掛けそうな様子だったが、彼女はまだそのままもじもじしていた。
「春吉あ、菊も、いい稼人かせぎにんになったぞ。今朝刈った草なんか、一人めえ以上だぞ、ありゃ。」
 爺さんは煙草をかしながら、非常に機嫌がよかった。菊枝は下をうつむいて、足指で、板の間に何か書いていた。春吉は、菊枝の立っている方へ眼をやりながら、微かに口元を痙攣けいれんさせた。
「ふんとに、いい稼人になってけでまあ。――今朝のなんか、二人前以上もあんべがら……」と婆さんは、庄吾が学校へ持って行く握り飯を焼きながら柔和な微笑を浮かべた。
 春吉は、たまらなく嬉しかった。今まで爺さんからなど、一度だって、ほめられたことなどはなかったではないか? 口喧しい爺さんから、何かにつけては怒鳴られてばかりいる菊枝ではなかったか? 春吉は、浮き立つほど嬉しかった。
「明日は、どっさり小遣い銭やんべでや。なあ菊!」
 春吉は飯をみながら言った。
「うむ、うむ。五十銭はやれよ。」と婆さんが横から言葉をはさんだ。
「俺、小遣い銭などいらねえから、あのう、あの、パラソル買ってもらいでえな。」
 菊枝は、長い間心にひそめていた要求を、初めて言い出していい機会が与えられたように思ったのであった。
 全くそれは、長い間心の中に潜められていたせつなる要求であった。もうみんな、既に二本のパラソルさえ持っている人があるのに、菊枝はまだ、死んだ母がのこして行った古い蝙蝠傘こうもりがさを持っているだけであった。明日の、六社様ろくしゃさまのお祭りのことを思うと、彼女はどうしても一本のパラソルがほしかった。
 併し、菊枝がそれを言い出すと、爺さんや父親の、今の今まで彼女に示していた悦びの感情は、急に一変してしまったかのようであった。
「なに? パラソル? あの、紫色の、へんつくりん格好かっこうの蝙蝠が?」と春吉は、驚きの眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。
「俺、紫色でねえで、水色のいい。紫色では、あんまり派手だから。」
「そんな贅沢ぜいたくなごとばり言って。昔なんか、蝙蝠だって、よっぽどいい人でねえど持たなかったんだ。贅沢ばり言って……」
 爺さんは、眼を三角にして横を向いた。
「水色? あんなもんでも、随分たげえもんだべでや?」
「五円ぐれえ出せば……」
「五円や?」春吉は驚いたように言って、「五円なら、山の草手間てま十日分でねえが? そんな高えもの、とっても我々にゃあ……」
「贅沢ばり言って! ほだから見ろ。なんぼ稼えでも、貧乏ばりしてねえげなんねえ。みんな町さばり持ってかれで……」
 爺さんは、ますます口をがらした。
「このへんで、俺ばんだ持ってねぇの。」
「そんなにたげえもんなら、来年になってからでも、買ってもらうんだや。」と、婆さんはやさしく言った。
「そんなもの持だなげえ、お祭りさ行かれねえごったら、明日は、お祭りさ行かねえで、家の田の草でも取れ!」
 爺さんは怒鳴りながら煙管きせる炉端ろばたを叩いた。父親の春吉は、もう何も言わなかった。深く考え込むようにして煙草を吸った。

     四

 菊枝はえりいじりながら表へ出て行った。
「ほんじゃにしあ、片岡さ寄れよ。おら、真っすぐに田さ行んから(父つぁんは田さ真っすぐに行ぎした)って……」
 春吉が背後うしろから声をかけたが、菊枝は何も答えなかった。彼女の眼には、いっぱい涙が溜まっていた。
 本当に、豊作とよさくさんの言った通りだ! と菊枝は思った。「馬鹿らしくって、こんな田舎にゃあいられねえ。東京さ行って電車の車掌にでもなれば、まさかこんなに、牛馬のように使われねえだって。それにこうしてたんじゃ、いつ一緒になれるか判んねえし……」こう豊作が、今朝、田の水を見に来て、彼女に草刈りを手伝いながら言った言葉が、今、菊枝の心に再び判然と浮かびあがって来た。
 豊作の家も、菊枝の家と同じように、貧しい、小さな小作百姓だった。なまじっか小作百姓をしているおかげで、豊作も菊枝も、日傭ひでまを取りに行く日でさえも、短い夏の夜を、暗いうちに起きて、朝のうちに自分の家の仕事をして行かねばならなかった。
 豊作さんは、あんなに言ってくれるんだがら、一層のことあの人と一緒に東京さ行ってしまおう! 菊枝は手拭てぬぐいの端を噛みしめながらこうつぶやいて、力なく歩いて行った。
 パラソル一本買ってもらわれねえなんて。――そうだわ、そうだわ、豊作さんの言った通りだ。「俺等おららみでえなもの、こんな田舎にいたんじゃ、うだつがあがらねぇ。田作れば小作料がたげえくって、さっぱり徳がねえし、馬鹿馬鹿し。日傭ひでま稼ぎに行ったって賃金がやすいし、なにしたって、売るもの廉ぐって、買うものたげんだから、町の奴等ばり徳さ。」と言った豊作の言葉を彼女は実際だと思った。
 町の人達が、田舎の金をみんな持って行ってしまうことは、爺さんも言っていた。自分の町場へ生まれなかったことを彼女は残念に思った。町場の娘達は、どんな貧しい家の娘でも、自分よりは幸福であるように彼女は思った。
 母さんが生きてでくれたら……と、菊枝は死んだ母のことを想い出した。涙がまた、ほろりとまろび出た。彼女は手拭いの端で眼をさえた。

     五

 その日、菊枝は一日中憂鬱ゆううつだった。
 明日は六社様のお祭りだ! 明後日は、祭りの翌日で、草臥くたびれ休みだ。彼方此方あちらこちらの田圃に散らばって田の草を取っている娘達は、皆んな歌ったり巫山戯ふざけたり、大変な元気だった。併し菊枝だけは、終日黙々としていた。
「菊枝つあん。明日、行ぎしべ?」と川向こうから声をかけた友達にも、彼女は、微笑みを口元に浮かべて首を振って見せただけであった。
 夜になって、片岡の家に日傭ひでまを取りに来た十幾人かは、夕飯の時から乾燥はしゃぎきっていた。今夜は勘定だ。明日は祭りだ。明後日は草臥くたびれ休みだ。その意識はみんなの心を浮き立たせていた。そうして巫山戯ふざけさせた。併し、菊枝と春吉とは父娘おやこ揃ってふさぎ込んでいた。他人が冗談を言っても、春吉と菊枝とは、微かな笑いしか笑わなかった。菊枝は常に落ち着いた娘ではあったが、今日は、落ち着き以上のものだった。
「菊! とっつあん、これがら町さ行って、髭剃ひげそって来っかんな。」
 帰りの途を、途中まで来ると、春吉はこう言って町の方へ行った。菊枝はそれにも、仄暗ほのぐらい中で、眼で挨拶したきりだった。併し、それから先の夜路を、豊作と二人だけの語らいを語ることの出来るのは、彼女にとっては、嬉しいことであった。
「ほんじゃ、明日の二時の汽車にしんべかな?」と豊作は、前々からの約束を、そして今朝のめを、再びそこに持ち出した。
「ほだね。ほうしっと、東京さは、何時いつ着ぐの?」
 菊枝の心の動きは、今は判然と決定されていた。ちかったとは言え、今朝の約束までには、自分の心のどこかに、自分ながら、疑わしい分子が折々頭をもたげていた。併し今は、なんの疑いもない決意に満たされていた。彼女は心に一種の衝動を感じた。全身が微かにふるえた。
「ほんじゃ、二時半までにゃ、停車場さ来んのだぞ。俺、先に行って、切符買って置っから…… ここの停車場でなぐ中新田なかにいだ停車場さ。」
「着物なんかはあ、なじょしんべね?」
「着物なんか、東京さ行ったら、俺、いい流行の着物買ってけるから……」
 いつか二人の手は、仄暗ほのやみの中に握り合わされていた。

     六

 六社様の祭日の九時頃、菊枝は、朝仕事が済むと次の間で、母の嫁入りの時のだった古箪笥たんすから、二三枚の木綿の着物を取り出して、それに顔を押し当て泣いていた。母の位牌いはいの前には、線香が悠長にくすぶっていた。
 そこへ、婆さんが、二つの新聞紙包みを持って、痛む足をきずるようにしてはいって来た。
「なんだけな? 菊枝! 泣いだりなんかして……とっつあんがこりゃ……」
 菊枝は、着物の上に突っ伏したまま顔を上げなかった。
「なあ、菊枝。さあ、泣いだりなんかしねえでや。」
 菊枝の胸の中には、不満な気持ちが満ち満ちていた。彼女は、その幾分かを祖母の前に吐き出そうとして顔を上げた。眼が赤くれあがっていた。
「こりゃ菊枝。父つあんが昨晩ゆんべ買って来たのだぞ。ほら、水色の蝙蝠こうもり。ほれから、この単衣ひとえも……両方で十三円だぢぞ。」
 婆さんは柔和にゅうわな微笑を浮かべて、こう述べたてながら二つの包みをほどいた。素樸じみなメリンスの単衣であった。濃い水色に、白い二つの蝶を刺繍ししゅうしたパラソルだった。
「ああ、いいこと!」
 菊枝は思わず言って、そのパラソルを自分の手に取った。
「この水色の蝙蝠、たげえもんだぢな。なんだが、父つあん、借金して来た風だぞ。じんつあんさ見せっと、まだは、やかましくて仕様ねえがら、見せんなよ。父つあんは、昨晩は、えんの下さ隠して置いで、今、さかなとりに行くどて、爺つあんと一緒に出はって行ってから、まだ馳せ戻って来て、菊枝さやってけれろって……」
 菊枝の頬には、また、別の涙がまろび出た。
「大切にしんだぞ。この着物だって仲々いいもんだようだから……」
「うむ。俺、今日さしたら、後は、ちゃんとしまって置ぐも。」
 菊枝は涙にうるんでいるような声で言った。
「一生懸命稼いでな。自分で稼ぎ出して買った積もりで。――あ、早ぐ支度して出掛けろ。」
 菊枝はすぐに立ちあがった。彼女は、涙が流れて仕方がなかった。

     七

 あくる日は、昨日の祭りの草臥くたびれ休みというので、村では仕事を休むのが習慣だった。
 春吉と菊枝とは、朝のうちに一日分の草を刈って、爺さんも休ませ婆さんも休ませ、皆んなゆっくりしようと、草を刈りに出掛けて行った。
 仲々いい場所が無かった。どこも皆んな、掃いたように刈られた跡か、短い五六寸ぐらいの草のところばかりだった。二人は、川べりや路傍みちばたを歩きまわった。そうして歩きまわっているうちに、町へ通ずる真山まやま街道で、二人は町の方からやって来る豊作の父親に遭った。
「どこさ行って来ました?」
 春吉は立ち止まって煙草に火をつけた。菊枝は横から黙ってお辞儀をした。
「俺どこの、豊作の野郎め、東京さ逃げだべって話でね。そんで、停車場さ行って見だのしゃ。もし昨日、上野まで切符買った奴あるがえが……」と言って、彼も煙管を横にくわえた。
「はあ! 豊あんこ、いねえのがね?」
「昨日出たきりけえらねえので……停車場でいたら、上野までの切符、七、八枚も売れだのだぢがら、見当が付かねえもね。」
 彼は、ちょっと唇を噛むようにして眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったが、ぺっと道路につばをした。菊枝は顔を赤らめて、下水を越え、田圃のあぜを川べりの方へやって行った。
――大正十五年(一九二六年)『文藝戦線』
十一月号所収『逃走』[#「『逃走』」は底本では「「逃走』」]改題――





底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年10月18日公開
2005年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について