銀座裏のカッフェ・クジャクの内部はまだ客脚が少なく、閑散を極めていた。
彼は、焦茶色の外套の襟で
「いらっしゃいまし。何になさいますか?」
すぐと女給が寄って来て言った。
「うむ。何にしようかな?……」
彼は言いながら女給の手の指を
「まあ、なんでもいいよ。」
「でも……」
鉛筆で伝票を
「じゃ、カクテルをもらおう。」
彼はテーブルの外に両肘を立ててソフトの外から頭を抱き込むようにした。突き立てた両腕の間から、疲れた者の表情の中に黒い大きな眼が、何かを探るように光っていた。
彼は今日も一日中、女の綺麗な指を探して廻ったのだった。東京中のあらゆる階級の女の、あらゆる指を、彼は
「お待ち遠うさま。」
他の女給がカクテルを運んで来た。彼はそれを受け取らずにその女給の指に眼を注いだ。半透明なほど
「君は、綺麗な指をしてるね。ちょっと!」
彼は左の手を握った。右手ではチョッキの内ポケットに指環を探った。
「私の手なんか駄目ですわ。節が高くて……」
「いや、ちょっと!」
彼はそう言いながら彼女の指に指環を
「どうなさるんです?」
彼女は彼の顔を
「やっぱり君の指も、駄目だね。綺麗は綺麗だが……」
彼は彼女の手を投げ出すようにした。彼女の指は、節が高いばかりでなく、彼の理想と合致するためにはあまりに短かった。
「駄目ですわ。私の指は節が高くて。」
「少し短いね。もう少し細くて長いと、この指環を嵌めてやるんだが……それに爪が……」
彼は眉を寄せるようにしながら、掌の中に指環を振り転がした。
「まあ! そんな立派な指環を? そんな綺麗な……」
「指環が立派過ぎると、結局、立派な指というものが無くなるんだ。馬鹿馬鹿しい。」
「ここに一人、綺麗な指の人がいるわ。そりゃ、とても素敵な指よ。もう少しすると来るわ。」
「よし! その人が来たら会わしてくれ。本当に綺麗な指をしていたら、この指環を上げよう。どうせ綺麗な指に嵌めてやろうと思って買って来た指環なのだから……」
彼は軽い興奮の表情でカクテルのグラスを唇に持って行った。
彼は
彼の愛人だった彰子の手。――石蝋に彫り浮かべたような白い指だった。その一本一本の指は
彼は
巴里での三年間が終わりに近付いた或る日、彼は突然、彰子が危篤だという日本からの電報を受け取った。動き出した電車に飛び込むような場合ではあったが、彼は彼女と約束した指環のことを忘れなかった。
彼はこの急場で三つの指環に魅力を感じた。彼は映画のタイトルを読むような
併し彼がその指環と共に、シンガポール沖で、ピアノのキイの上を走る彰子の綺麗な指に、その素晴らしい指環の輝く芸術的な雰囲気を空想の中に味わっていたころ、彰子はもう死んでいたのだった。
彼は
彼は、だが彰子の指を忘れられなかった。そして、現在の彼の感興を惹くものは、美しい指の他にはないのだった。
短い指の女給が、綺麗な指をしているという他のウエイトレスを
「参りましたわ。この人の指なのよ。」
彼は一瞬間、その女の顔を
「駄目よ。私の指なんか。」
彼は尚もその指を視詰め手を視詰め続けた。甲の方は相当に綺麗だが、
「駄目だ! 指はまあ……」
「だから、初めから駄目だと言っているじゃないの? さあ、私が指を見せて上げた代わりに、あなたの持っている指環を見せてよ。」
「指環はいくらでも見せてやるがね。」
彼は再びチョッキの内ポケットから指環を取り出して女給の手に渡した。
「まあ、なんて綺麗な立派な指環なんでしょう。」
「この小さいのも、皆んな真珠とダイヤだわよ。」
彼女達は顔を寄せ合わせて指環を観賞した。
「幾ら立派でも綺麗でも、どうせ指環なんてものは、第二義的なものさ。綺麗な指に
「凄いわね。」
「私、なんだか、恐いようだわ。この指環!」
「恐い? 立派な指さえ持っていれば、恐くなんかありゃしないんだ。さあ、いいかげんにして返してくれ。」
指環は
「この指環の恐くないような指を持った女は、この東京中にいないんだ。みんな、つまらない指を持った女ばかりだ。」
彼は叫ぶように言って、指環をチョッキの内ポケットに
「一人として、素晴らしい指を持った女がいないなんて……」
彼は唇を噛みしめるようにしながら横を向いた。とそこの、三つばかり先のテーブルに、二十七八の美貌の婦人が、綺麗な左手の指を

婦人は、彼の視線ですぐ横を向いてしまったが、暫く前からこっちを視詰めていたに相違なかった。そして彼女は、彼のした話のすべてを聞いたのだ。彼のした
婦人は悠長に、左の肘をテーブルの上に立てた。そして手首を鶴の首のように曲げてその上に
「お待ち遠うさま。」
給仕女がコーヒーを運んで来た。指の間に煙草を挟んだ婦人の手は、魚のように敏捷に角砂糖を
蝋石のように白く、
「おいくらです?」
婦人の手はコオトの中に
婦人は、鼠色の手袋を
「おい! 勘定だ。ここへ置くよ。」
彼はテーブルの上に一枚の紙幣を投げつけて、婦人の後に引き付けられるようにして出て行った。
婦人は銀座の
彼はその後から、婦人のほっそりとした後姿を見失わない程度に離れて、後から後からと流れて来る漫歩者の肩の間を
最初、婦人は彼の先に立って歩いていた。が間もなく、婦人は彼の背後を歩いていた。そして婦人を見失った彼は、時々立ち止まって背後を振り返ったり、背伸びをするようにしながら先を急いだりした。婦人は彼が背後を振り返ると、露店の前に立ち止まって店の品物などを見ていた。彼が背伸びを始めると、婦人は急ぎ足にそのすぐ背後まで追い付いて行った。彼は何度も背後を振り向く。彼女は素早くショー・ウインドーや露店に吸い付くのだ。
尾張町の街角まで来たとき、婦人がそこに停まっている自動車に乗り込んだように思った。彼は
路を遮られて追っ駈けようの無くなった彼は、舌打ちをして

車内は山の手へ帰る人達で一杯だった。婦人は漸く中の方に腰をおろすことが出来た。彼は無理矢理に
併し、彼は夕刊を読むのでは無かった。彼の空想は婦人の美しい指の上で跳っていた。あの指の上でなら、この指環は、きっと素晴らしい芸術的な雰囲気を描き出すに相違ない。あの白い指の上で、青く赤く紫に、きらきらと、輝いて……。だが一体この話はどう切り出すべきだろう?……。
乗合自動車は停留所ごとに人溜まりを呑んで、身じろぎも出来ないほど詰め込んだ胃袋を
銀座はまだ賑わっていた。その裏露路だった。一方はコンクリートの上層建築。一方はトタン屋根のバラック。その薄暗い街燈の下で、婦人は一人の男と立ち話をしていた。男は毛の立ったハンチングを目深に冠って鼠色の二重廻しを着ていた。
「おかしいったらありやしないわ。先方では逆に、いつの間にか私の後をつけているらしい様子なのよ。今頃、また一所懸命に私を見つけてるかも知れないわ、きっと。可哀想に!……」
婦人は静かに笑いながら話していた。
「実際、おめえの手にかかっちゃ叶わねえな。全くおめえの指は素晴らしい指だよ。俺なんか、今夜はまだ
「しかも私のなんか、バスの中でなのよ。先様が一所懸命で私に注意しているそのチョッキの、内ポケットで拾ったんですからね。」
「うむ。素晴らしいもんだ。どれ、もう一度よく見せな。おめえの指先も素晴らしいが、それも大したもんじゃねえか。どれ、見せな。」
「見せてあげるけど、手をつけさせるわけには行かないわ。そら御覧。さあ!」
婦人は右手を高く上げた。その
――昭和四年(一九二九年)『新潮』八月号――