猫八

岩野泡鳴





「おい、大将」と呼びかけられて、猫八ねこはちは今まで熱心に読みふけってた講談倶楽部こうだんクラブから目をその方に転じた。その声ですぐその人だとは分ってたので、心易こころやすい気になって、
「いよう、先生!」わざととぼけた顔つきをしてみせながら、「よくこの電車でお目にかかるじゃアございませんか――さては、何かいい巣でもこッちの方にできました、な?」
「なアに、巣鴨の巣、さ!」
「………」それには彼もさっそく一本まいった。が、この時あたりの乗客どもがすべて聴き耳を立ててきたので、彼は今手が明いて引き上げてきた高座こうざのうえの気分をまた自分の心に引きだしていた。そして乗客どもが皆自分のお客のように見えてきたので、ここはやッぱり何とかやり返してやらねばならぬような気になった。「そうでげしょう、な」と、にわかにもっともらしい顔になって、ちょうどこの時顛狂てんきょう病院の前を自分らの電車が通ってるのをじろりと見て取って材料に入れた、
「巣鴨なんかにゃア、どうせ気違いか猫八のような化け物しか住んでおりませんから、な」
「は、は、はア」と笑った物があるので、彼はこんな場所ででもいつもの手応てごたえを得るには得たが、場所柄を思ってそのうえの軽口かるくちをさしひかえようとすると、何だかこの口が承知してくれないようにも思えた。
「まア、おとなしくしていなよ」ひそかに自分で自分を制しながら、相手の顔を見ていた。この人は高見といって、一二度あるもよおしに自分を招いてくれた人で、人のよさそうな黙笑をその少し酔いの出た、そして睡そうなあの顔に続けている。「おい、小奈良こなら小大仏こだいぶつ」とのどまで出たが、朋輩ほうばいの者でもない人にと思って、ぐッと呑みこんでしまった。それから、さしさわりのないと思えた言葉がべらべらと飛びだした。「もう、一杯すみました、な――この不景気に先生はなかなか景気がよさそうじゃアございませんか? 少しあやかりてい、な、――えい? わたくしなぞはこれから自宅うちけえって、やッと――その、な――熱いのにありつけるかと思ってますのでげすが、な、かかアがその用意をしてあるかどうかも分りません」
「は、は、はア!」筋向すじむこうに座を占めてこちらを見詰めていた男がまた笑った。
 人の笑いさえ聞えれば、自分には気持ちよく響くのであるが、自分自身には少しもおもしろくないのが不思議であった。芸人としての理窟りくつを言えば、それはたくさんあることはある。人を笑わせるには自分から笑っていては利き目がないということもその一つだ。けれども、自分は人の好む酒をもさし控えて、この商売に使う自分の声を保護ほごしているくせに、人に向ってはやッぱり酒を呑むかのごとく見せかけなければならぬ。こんな苦しいことが他の仕事にもあろうか? 人は芸人なんてしゃアしゃアして、世に苦労もないように思ってるが、その本人にもなってみるがいい。人の知らない苦労をこてこてとしている。自分なんかはまるで苦労の固まりでもってできたような人間である。
 それでも、一つ楽みなことには、自分の長屋住いのうら垣根をぶん抜いて、そこから出たところの明き地を前々から安く借りて、野菜を作っている。そして多くできた時は、自分の家族がそれを喰うばかりでなく、隣り近所のものにも分配してやる。近所のものが喜ぶのを見るだけでもまた一つの楽みである。
 小かぶや大根の葉につく青虫や黒虫は、畝並うねなみにみぞを掘っておいて、そこへ向って葉を振うと、皆ころころと落ちてしまう。それを一どきに踏みつけたり、子供なぞ棒の先で突ッついたりして、殺すのである。
 昨今は胡瓜きゅうり茄子なすの苗をも植えつけたので、根切り虫に注意してやらねばならぬ。この虫は泥棒や自分たちと同様、夜業ばかりする奴だから、昼間探しても少しだッて姿を見せぬ。今夜はひとつ、晩飯をすませるとすぐ、自分はふんどし一つになり、子供に提灯ちょうちんを持たせて畑に行き、十分に根切り虫の退治をやってやろうと考えられた。
 すると、この時、小大仏こだいぶつの先生が目を見ひらいて、
「今夜は、もう、用がなかろう」と尋ねた。
「へい、高座は二個所すましてまいりましたが――」これでは自分の返事が足りないようにも思えたので、彼は向うの意味をみ取って、「どこかうまいところへおともできますか、な?」
「なアに、どうせうちへ帰って寝るだけのことなら、どうだ、おれについてこないか?」
「まいりましょう――あなたのお指図さしずなら、どこへでも」どこ、華厳けごんの滝までもという歌を――思わず――口もとまで思い浮べた。
「ある文士たちの研究会だが、ね、聞いていてためにならないことでもない。これから行けば、もう、たッた二時間の辛抱しんぼうだ。そのあとはお前の世界にしてやるから」
「そりゃアおもしろいでしょう、な、わたくしも後学こうがくのためにおともいたしましょう」そうは軽い気持ちで答えたけれども、今しがたやッと下してきた重荷を今夜また今一度背負しょわされはしないかということを案じられた。自分には、毎晩組合の義務を果して帰るさの電車の中ほど軽い身心みごころになってる時はほかにないのである。聴いたところでは、今からなお少くとも二三時間は家に帰れない。してみると、その間にも畑の植えつけ苗の根を二本でも三本でもあの根切り虫に切られているかもわからないのだ。
 一方にそれを気にしながらも、やがて電車が終点に着いたので、彼も講談倶楽部を懐中にねじこんで、高見さんの後から立ちあがり、ひょこりひょこりと、不自由なからだを出口の方へ運んだ。彼はこの十数年来リョウマチのために半身不随のようになってるのである。人並みならぬこんな身体をしていても、芸が身を助けるのことわざで、妻子をまず人並に養って行けるのがありがたかった。
 黙って歩いてると、こんなきまじめな考えに沈みがちであるのを、ふと、知り合のでぶでぶ女に出会ってまたうち破られた。
「猫八さん!」かの女はその太った図体ずうたいを自慢そうに前の方へ運ばせながら、行き違いに、止せばいいのに、こちらへ、その図体にも似合わぬ優しい声をかけた、「今、お帰り?」
「いよう、大山大将!」彼はついまた冷かしてみたくなって、いつもどおり冷かした。横にその方へ向いてぎょうぎょうしく立ち停ったのだが、女が笑いながら行ってしまうので、自分の目を放して言葉でだけ追いかけさせた、「今一つお座敷があるので、な」
「そう」という返事は後ろに聴えていた。「ほんとにあなたはかせぎ手よ!」
「………」なアに、金になるのかどうかは分らないのであるが、向うがいかにも自慢げに見えるようにあのからだを運んでるので、こちらもただ何か自慢してやりたくなって、今からさして行く所をお座敷と言ってみたのだ。
「でッぷりした女だ、な」と、高見さんは言った。
「どうして――あれでなかなか亭主にゃア可愛がられておりますからたまりませんや!」
「へい――?」
 高見さんはまじめに聴いていたが、自分にはじつはそんなことは分ってないのであった。ただ冗談でありさえしたらよかったのだ。この人も案外話せないと思いながら、話題を転じた。
「なかなか暑いじゃアございませんか? このぶんじゃア、この梅雨は乾梅雨からつゆでげしょうか、な? 困ります、な」
「そりゃア、雨が降れば寄席よせの客あしも減じようから、な」
「お客の足なら、小木こぎにもなれでさア。わたくしはちッとばかり人の地面を借りて野菜を作っております。困るのアそれが、雨が降るべき時に降らないとうまく行きませんから、な」


 こんなことを語ってるうちに、ある家の門をはいった。ここにもわずかばかりだが胡瓜きゅうりの畑を作ってあるのが彼には奥床おくゆかしかった。
 その家の二階へ上るにも、彼は変てこに尻をひょこひょこ曲げてでなければ上れなかった。けれども、自分の事を、
「今夜は珍らしいお客さんを一人連れてきた」と言って、高見さんが六七名の一座へ紹介してくれた時には、自分もいつもどおりお客にあまえこんだ時のような誇りを感じた。「あとでひとつやってもらってもいいと思って――例の猫八です」
「こりゃアおもしろかろう」と叫ぶものもあった。
「例のは気に入りました、な、わたくしも多少は知られた芸人ですから。あなたがたのような偉い文士方の前へ出ましても、な、その、そうおじ気が出ないのは仕合せです」こう言ってじろりと一座を見わたすと、無邪気に笑ったものもあるし、別に感触かんしょくを害しているようなものもないらしいので、こちらの洒落しゃれを皆寛大に理解してくれる人々だと分った。が、なお念のためにもッと分らせておくつもりで、「ただし前もっておことわりしておきますが、わたくしはリョウマチのために人様のようにはからだがきません。したがって、こうわざとかしこまってますように見えるのもそのためでげして、あながち諸君をこわがってるわけではございません」
「は、は、は」と来たので、彼はまず安心して、もう、こちらの物だとしばらく口をつぐんでしまった。
 誰かの書いた小説の研究が初まってるのであったが、題目は俳優の事であるから、彼も縁の近い芸人として聞き耳を立てた。
 当家の主人らしいのは、二三年前にはよく銭湯でいっしょになり、近ごろでも時々途中で出会うことがある人だが、これが高見さんに向って、
「今、『虎』が問題になってるところです」と言った。
「誰れのです?」
久米くめ氏の虎です、五月の文章世界に出た」
「僕は読んでませんが」と、高見さんは答えた。
「ここにも読んでる人は少いのだが――これをわざわざ六月の会に持ちだしておいたその人が今夜出席していないので、何も言わないで通過してしまおうかと思ってるのです」
「どんなすじなんでしょう」という問いに主人は答えて、
「僕もその人が問題にしてくれろと、ハガキで言ってきてあったのでちょッと読んでおいただけなのですが、――浅薄と言えば浅薄な物だが、低い程度で器用にはまとまってると思う。作者にもそう深い要求がなかったのだろうから、あの作者としてはあれでもいいのでしょうが――虎とは作の主人公なる三枚目俳優がふんすることになった役目です。この俳優には、原文を引くと、『もう、八歳になる子があった。そしてその子は去年初舞台を踏んで彼と同じくいな、彼よりももッと正式な、新派俳優になる未来をもっていた。彼はその子をけっして三枚目にはしたくないと思った』」
「………」この本読みを聴いて猫八はえらいところへ飛びこんできたものだと思われた。この思いは自分でも少しおおげさな考えだとは承知しながら、まるで自分の事を言われているようであった。自分には男の子が四人あって、総領は十四で高等一年、次ぎは十二で尋常五年、いずれも出来がよくて級長をしている。この十二のが父親の真似まねが上手で、しかも父親以上の芸を持ってるが、それでも第二の猫八にはしたくないのである。否、父親が猫の喧嘩や動物の声を真似して、高座のうえから客の機嫌を取ってるところを子供に見せたくないためにこそ、早くからわざわざこんな不便な郊外を選んで住んでるのだ。猫が虎に変っても、そこにたいした相違はない。
「彼の振られた役というのは、ただ虎の一役だッた」主人が読んでるのはその小説の本文らしかった。「人の名ではない。ほんとのけだ物の虎に扮する一役だけだッた。動物役者という異名いみょうをさえ取っていたので、今さら虎の役を振られたとて、それが何の不思議であろう。けれども、ちょッと悲しく感じた。長年馴れてきていながら、職業だと思っていながら、どうせ茶化ちゃかしているのだとは思いながら、自分の中なる人間がばかにされてるような気がして、ちょッと腹立たしくさえ思ったというようなシチュエイションにある主人公です」
「なかなか器用きようには作者のねらったところは一貫しています」と、天神さまみたような顔つきの人が熱心な口調くちょうで口を出した。
「………」猫八には、今主人が言ったシチュエイションという英語が耳に残って、苦しいはめといったような意味の言葉ではないかしらんと想像された。そして自分は実際にお客様方の御贔負ごひいきについはめられて、それに自分もついはまりこみ、とうとう二進にっち三進さっちも動けない今の身分になってるのだとひそかに洒落れてみた。が、その心の奥ではますます芸人のいやなことを感じた。
「座長がそりゃア深井君のはまり役だと指摘するところがあります、ね」と、五分刈りあたまの前後へむッくり山脈のできた善智識顔ぜんちしきがおの坊さんらしいのが言った。
「それから他のものにもその幕はすッかり深井君の虎に喰われてしまうというようなことを言われて」と、主人は言葉を進めた、「彼はいくらかまた得意にさえなった。けれども、虎だから、台辞せりふを言うことがないので稽古にも出る必要がない。その日を利用して子供は上野の動物園へ行ってくれろと言うのを幸い、じゃア近ごろ評判の河馬でも見せてやろうかと言って、その実、自分は虎の様子をでも研究してくるつもりになった。すると、途中、電車のうちである劇評家に出会い、どこへ行くのだとたずねられたので、じつは、子供に大評判の河馬を見せに動物園までと答えたが、機敏な劇評家からそりゃアうそだろう、もう聴いてるよ、じつは虎だろうと目星をさされた」
「そういうところにも一種の悲哀は出ています」と、天神さまが言った。
「………」猫八は悲哀という言葉を聴いて、今さらのように目を見張った。ますます自分のことでも作りえて、うがってあるように思えたからである。右の手を畳に突いて、左りの手をひざの上にある畳んだ手拭てぬぐいの上に置いてたのだが、人情というものは誰れが感じても結局こう同じところに落ちるのかと感心して、その横坐わりのままあたまを少しうしろへらせて「なるほど! わたくしのような無学のものには小説なんかはいい加減に作り事を書いて、うそ八百を並べてあるものと思っておりましたが、――もっともこれはお歴々の先生方には初めから失礼であったかもしれませんが――今伺ってみますと、なるほど本統ほんとうのことをねらってあるものでげす、な」
「今の小説はむろん皆そうだよ」例のは少し怒ったように答えた。「うそを書いて満足している小説家とは吾々は小説家が違います!」
「ふ、ふん」と鼻で笑うのは智識がおであった。
「なかなか憤慨するじゃアありませんか」と、ひどい近眼きんがんらしい人もにッこりして冷かしを言った。
「別に憤慨しているのではないけれど、世間にはよくばか者があって、碧瑠璃園へきるりえん徳富蘆花とくとみろかのようないい加減な通俗小説をえい方の標準にして俗悪な批評をするものが多いから」
「どうもすみません」猫八はすました顔でちょッと頭を下げたので、皆が笑った。が、それだけでは今度は自分が満足できないような気になって、一つ冗談を言った。「わたくしは、しかし研究の途中でまだ劇評家にはお会いしたことがございませんが、ある時、蚯蚓みみずき声を研究するために、あの、そこの廃兵院の森に夜明しをしてしゃがんでおりましたら、泥棒と見誤られて刑事に誰何すいかされたことがございます」
「それも、君、一種の悲哀かまじめかの結果だよ」という天神様の説明があっただけで、別に誰からも、は、は、はッとは来なかった。
「………」猫八は予期に反して、がッくり調子抜けがした。そして初めて思い及んだのであるが、これは自分のお客ではない。自分は芸人として人を泣かせたり笑わせたりしても、自分の泣いたり笑ったりする余地を持たない。ところが、この人々はまた自分らよりも一段うわ手で、人を泣かせたり笑わせたりする芸人その物の自分では泣いたり笑ったりできないその心持ちまでも研究しているらしい。さすがはその方の専門家たちだろう。これじゃア自分はいさぎよかぶとごうという正直な謙遜心けんそんしんを起して、「そうしてその俳優はそれからどういたしました」と尋ねてみた。おもに子供との関係を知りたかったのである。それでも、たぶん、役不足を言って舞台に出なかったとか、子供だけは芝居へ見に来させなかったとかいうのが落ちだろうとたかをくくっていた。


「そうれ見たまえ。みごとに白状に及んだじゃないかね、しかし虎を見たいんならわざわざ動物園まで行くにも及ぶまいぜ。――一二升飲ませれゃ誰だってなりますが?――どうだい、そッちの虎を見に行こうじゃないか?――そいつアいけません。何しろこいつをくわけには行きませんからね、と彼はまた子供をかえりみた。というところもあるのだが」と、主人はなお本を見い見い語って行った。そして皆が猫八などのいるのを忘れて虎の方へ心を傾けたが、猫八にはその虎が自分のようであった。「ばかさ加減を言えば由井ゆいの役だッて同じようなものさ。むしろ君の虎一役が名誉かもしれんぜ、人気が虎の一身に集まったりして、ね。――そう思ってわたくしも一生懸命やるだけはやるつもりなんですが、ね。――そうとも、僕たちだッてむしろ君の虎に期待しているよ。――恐れ入ります、と深井は苦笑をしながらも、内心少からず慰められた」
「いけません、な」と、猫八は顔をしがめてみせながら、「そんなところで例のシチュエイションをやっては!」
「うふ、ふ」と、おつな笑いが聞えた。
「先生がたの前で、わたくし風情ふぜいが、生意気な英語の使い方をしたのは間違ってるか存じませんが――」この英語はいわゆる妥協だきょうということに当るのではないかと思いなおしたのだが、「とにかく、その深井とかいう俳優がその場合にせっかく持った真人間らしい考えを、劇評家のおだてでなくさせてしまい、うかうかとまた調子づいて行っちゃア困ります、な」
「ところが、そうであるからかえっておもしろくもあるのだが――」と、主人は言った。
「しかしわたくしならそんなことは」と、彼は自分をそんなばかでもないと弁護するように熱心じみたが、主人ばかりでなく皆も耳をかたむけてくれなかった。
「動物園に行って虎のじッとしているところや欠伸あくびをしたのを見ただけでも、彼はとにかく色男の気持ちよりも虎の気持ちをよく分ったと思って帰宅した。いよいよ初日が来て、縫いぐるみの虎が舞台に出て欠伸あくびをすると、それだけでも大向うから深井、深井! と呼ぶ声がかかったので、すくなからず得意になった。そしてその幕切れのところで劇の女主人公におどりかかると、大向うを初めとして諸見物の大喝采だいかっさいを得た」
「人をばかにしているじゃアありませんか?」これは初めて口に出すずッと若い人の言葉であった。
「そりゃ人をばかにしたもの、さ」と、天神さまも今度は笑いながら口出しをした。
「………」猫八もまた何か言ってみたくなったほど高座こうざで受けるお客からの待遇に対する不平が浮んでいた。「そりゃア、わたくしから見ますと、つまらないことを嬉しがる見物人の事をばかにしているのでごぜいまして、たぶんその俳優の本人には同情していてくれてるのでげしょう、な――見物なんて、寄席よせのお客も同様でげすから」
「いったい、それは」と、高見さんはおだやかな顔つきで初めて質問を出した、「作者が皮肉を言ってる作でしょうか――僕はさッぱり読んでいませんから、意見のあろうはずはないのですが、――今、聴いたところをもってみれば?」
「皮肉には違いないのですが」と、知識がおが切り口上で答えた、「こんな浅薄せんぱくな程度の皮肉でも作者が満足できるかどうかが問題でしょう」
「そこだろう、ね」近眼は近眼らしくもなく案外にはきはきした言葉であった。「僕もこれは読んでいないが、いったい、あアいう連中の書いてる物はいずれも小器用にはまとまってるが、少しも背景バックや深みがない」
「今、猫八君も言われたとおり」と、知識がおは続けた、「主人公に対する作者の同情は見えてるが、その同情の現わし方がきわめて薄ッぺらなのです」
「薄ッぺらでも生活背景がないことはない」これは主人の発言であった。「ただ薄ッぺらな背景しか持たせることのできない作者だと言えば言えるのだ。T君がこの作をわざわざ提議したのも、今夜出席していないからその真意は分らないけれども、たぶん、纒まってもいるし、またどこか物足りないしというようなところを疑問にして評議ひょうぎしてみたかったのだろうと思われる」
「そりゃたぶんそうだろう」
「………」猫八にはバックとかハイケイとかが何のヘラだか分りませんと言って、皆を笑わしてみたかったが、自分の言ったことを問題に採用してもらったので鼻を高くして、まじめくさった顔で、「そうして、この小説はそれでお終いでげしょうか――何か別に落ちでも?」
「は、は、はア!」二三名がただ笑うだけであった。
「………」猫八には変なところでどッと来たものだと思われた。
落語家らくごかじゃないよ」と、天神さまがまたらざる口を出したと思われたが、猫八はすぐ自分の無学を冷かされたのだと分ったので、きまりが悪いのをまた謝罪にまぎらせてしまった。
「へい、どうもすみません」
「小説には落ちなんかはないが」と、主人は言葉を改めた、「猫八なら落ちともみるだろうと思われることがこの小説を結んでいて、しかもそれがためにこの一篇を浅薄ながら生かしているのだ。深井は幕切れに大喝采を得て縫いぐるみの姿で得意そうに引上げる時、暗い書き割りのかげから『お父さん』と言って自分に飛びついたものがある。びッくりして見返ると、自分の子供が父のあまりばかばかしい役をしたのを子供ながら泣いているのであった。自分も今さらのごとく泣かざるを得なかった。そして『虎と人間の子とは暗い背景のかげでしばし泣き合った』というのです」
「最後のところはなかなか振ってる、ね」と、近眼は皆に向って言った。
「それがなければ全篇が引きたたないのをみても」と、知識がおもつけ加えた、「この小説があまりに心細い出来であることが分ると思いますが――?」
「そうだ、ね」主人は、もう肩が抜けたというような返事であった。「結局、そうたいした作ではない」
「………」猫八はそれでもこの最後の泣き合いの一件を聴くにいたってびッくり仰天ぎょうてんをしたほどに目を見張ってみせた。これもやはりわざと誇張してみせた表情だとは自分ながら知らないでもなかったが、同時にわれ知らず、いつもは心の奥にのみ秘めていた物が顔にまで現われた気がしたというのは、自分の職業に対する悲しみと次男を第二の猫八にさせようかどうかというまどいとが一ときに誘いだされたからである。彼は自分の滑稽こっけい商売にも似合わぬ顔つきを人には見せたくないとつとめているのだが、努めれば努めるほど顔その物が反対に言うことをきかなくなって、鏡にでも映してみれば、自分の顔がべそき面になってるように思われた。が、もう、それを取りつくろうことをしないで素直すなおに、「いや感心いたしました」と、その小説が一座の作その物ででもあるかのように敬意を表した。「わたくしにも同じような悲哀がございまして、いかにも感心いたしました。けれども、もしわたくしにも、その、先生方のおしになる批評と申すのを一つ言わせていただきますと、その深井というのが自分の本意でない役を演じながら、それを子供に見せておいたのははなはだしい間違いだと思われますが――?」
「そりゃアどうでもえいことで、作者としては問題でない」
「ところが、わたくしにはどうでもいいわけに行かないのです」と、彼は自分もいよいよ討論会とうろんかいの仲間入りをでもしているかのごとく少しひざをにじりだして、天神さまの意見に反対するのであった。「わたくしにも子供がごぜいまして、総領と次男とは小学へ通ってますが、次男の十二になるのがわたくしの真似にかけちゃア天才で、わたくしが病気ででも席を欠勤いたしますと、お父アんの代りに行ってやろうなんて申します」
「は、はア」と、天神さまは感心したような、またばかにしたような笑い方をした。
「商売とは申しながら、たださえおやじがばかな真似をしておりますのに、わたくしはまた子供までばかにされたくないので、子供がおやじの出る寄席よせへ接近しないため、わざわざこんな不便な郊外にも住んでるのでげすから、な」
「そういうほうの気分も多少は出ていないことはないが」と、主人は答えてくれた、「そこをばかり主とした作ではないから、これはこれでいいのでしょう」
「猫八君は自分の芸をあまりばかにしてはいませんか?」近眼きんがんがこう自分に質問した。
「むろん」ちょッと行き詰ったが、そう考えなおすまでもなかった。「そうよりしようがございませんから、な。いやしくも人間でありながら、虎の啼き声までして飯を喰わにゃアならないのでげすから」
「けれども」と、一方の言葉は続いた、「この作の主人公は君とは反対に、早く芸人になれるようにと子供をつねに劇場へ伴ってきているのでしょう」
「そんなおやじが世間には多いので困ります」猫八は少からず不平であった。芸人だッて人間だのに、この席の人間には自分に対する同情がないとみえた。こんなところにぐずぐずしていたッて、一文の御礼さえもらえないんだろうからという気になって、心で、陶淵明とうえんめいの「帰んなん、いざ――いざ、帰んなん」をとなえた。この方が自分をいさぎよくしたのだ。そして明けッ放してある二階のそとに夜がだんだんふけて行くにしたがって、子供の事とともに自分の畑のなえの事がまた一番心配になってきた。


 そこへ、
「そんなことよりも、僕が一番しゃくに障ったのは」と来たので、また天神さまのお喋舌しゃべりかと言ってやりたかったが、さきは例の熱心な調子であった、「この作者の軽薄な態度である。時事新報に出た匿名とくめいの月評にこの作を非常に悪口言って、久米くめもこんな浅薄な物に満足している男だからだめだというようなことが書いてあったので、じつは、僕もほん気でどんなに浅薄な物だろうと思って読んでみたのですが、僕にはそうばかにした物でもないと思われた。ところが、今夜ここの御主人にうかがってみると、その月評子とはその久米自身であるそうです」
「へい」と、猫八はしぶしぶ口を出したつもりであったが、われ知らずにたりと笑っていた。そしてやはり自分の考えどおり、この作者には、この作の落ちまたは結論は自分の本意に出たのでなく、実際の本意は人をばかにした物だとうなずかれた。そして久米とかいう人ばかりをすッかり気に入ってしまった。「昔の三馬などのようにちょッとおもしろい人じゃアございませんか?」
「そんなに軽薄なんか、なア、久米という作者は」と、知識がおが言った。
「そりゃア、これまでの作を見ただけでも分ってるじゃないか?」これは近眼の言葉であった。
「もし軽薄な人なら、軽薄な作をするのが当り前で、――それを好いたり、嫌ったりするのは読者がわの勝手だろう」
「やはり、お客次第でげすか、な」猫八は主人の説をこう受け取った。そしてそれにあまえこむ気になって、「しかしずいぶん茶気のある人で、わたくしは偉いと思いますが?――」
「偉いにも、いろいろあるから、ね」
「わはッ、はッ」と、二三名の者がいっしょに声を挙げた。
「先生」と、これまで一言も言わなかった書生らしい人が言葉にその神経質らしい口調くちょうを帯びさせながら、初めて口を出した。「わたくしは久米氏の物を一つも読んでおりませんから、あの人の事については何事も言う権利はございませんが、――創作にはどうもその作者の人物が裏づけられていないと深くないようにわたくしには思われますが――?」
「君はいつも理想主義者的に物を言う人だが、いかにその反対のげんじつ主義者だッて、それはけっして否定しちゃアいません」
「それなら、安心ですが――」
「ただ君の言うようなことにばかり僕らは停止してはいない」
「そこがどうも」と、一方は小首をかしげた。
「たとえその人の人格が出たとて、その人格的生活が出ていなけりゃアやッぱりぐたい的にはならないではないか?」
「………」書生の神経質は今度は微笑しながら、お辞儀じぎをして、「それなら、わたくしにも分ります」
「………」わたくしにはちッとも何のことだか分りませんと猫八は言ってみたかった。げんじつ主義も自分には分らなければ、ぐたいとか空体くうたいとかも分らないので、ただかの落語家のこんにゃく問答を思いだしていた。
 その間に、なお二三の小説が問題になってるようであったが、虎ほどには自分の興味を引かないので自分の坐ってる右手の壁にかかってるわけの分らぬ西洋画や、自分の前方の左り手にあるビール箱で組みたてた書棚の本の金文字やらに目をやりながら、出ようとするあくびをみしめた。もっとも、主人は「猫八には酒を出すがよかろう」と言ってくれたけれども、
「いいえ、やッぱり、かつぶしの方が」と答えて、主人の細君に餅菓子をそなえてもらった。そしてかのじょとともに野菜作りの楽しみやお互の子供教育のことを語り合ったために、子供に読めそうな雑誌を二三冊もらった。
 そのうちに、高見さんから、
「じゃアひとつやってもらおうじゃアないか」と来た。
「………」さて、これからがいよいよおれの世界だと思うと、虎の小説に得た湿しめッぽい気分などはどこへやら行ってしまって、自分の芸の評判を虎以上にしてもらいたかった。いつしか坐りなおしていた自分の用意には、高座におけると同様の引きしまった精神が現われてまだやらぬうちから自分の物真似声ものまねごえが自分には聴こえていた。右の手の小指をかぎの手に曲げて、すぐ明いた口の中へ持って行きかけたが、ちょッと中止してその指を調べてみながら、半ばひとごとのように、「汗で油切ってるから、うまく行くかどうか?」
 いちおうその指のあせを手拭いで拭き取ってから、どこを風が吹くと言わぬばかりにして、ほうほけきょうとやった。
「巧いものだ、なア」と、天神さまはいきなりこうめたのだが、それがうるさかった。
「今のはかごの中でのうぐいすですが、今度は谷わたり」けきょけきょけきょほうほけきょう! それから引き続いて松虫、鈴虫、轡虫くつわむしの声。また、からす、ひばり、うずら。合わせた唇をひらたく前の方へ突きだして、おけらの声。寝静まったらしい近所へは少し迷惑だろうがと言って、雄鶴雌鶴のき分け。また草ひばりの声もきかせた。
 どの啼き声にも、啼き声にも、聴き手が聴き手だけにこちらが奮発ふんぱつできたので、皆も静かに耳を傾けた様子が見えて、自分の思いどおり自分も満足した、そしてお負けとして蚯蚓みみずの声をしてみせるつもりで、
「一般に蚯蚓みみずが啼くと申すのは、あれはおけらの声だそうですが、蚯蚓もやはり啼きます、な」こう前置きしてちッとまたおけらに似た声を出してから、「これで向うの声を出してみると分ります。わたくしはその研究に廃兵院の森で夜明かしをしたことがごぜいますが、人の足音がしますと、いったん向うの声が途切れます。そこへしゃがんでしばらく待っておりましてそれからまたやってみるのですが、こちらの声が向うのにそッくりだと、すぐ応じてきますし、間違ってると御返事がありません」
「は、は、はア!」主人は特別の高笑いをした。
「まったくですよ」と、自分はまじめを訴えた。御返事には、つい、いつもの冗談が出たにすぎないのだから。
「だから、さ、外国にはもッと大仕掛けに猿の言葉まで研究してみた人もある」
「わたくしも英語でも学んでおりますと、やってみますが――」
「しかし、猿は英語を使わない」
「わはッ、はッ」と、二三名。
「………」まるでお株を取られた気がして、ちょッと興ざめた。そのごまかしにだが、「学術上では、猿が人間に進化したと申すそうですが、ここのお話は虎が猿になりました」
「いや、君の動物まね声にもなってありがたいよ」と、主人は答えた。


「それはそうと」と、これまでいやな奴だと思われた天神さまが、この時いいことをたずねてくれた。「君がそういうことをするようになった動機を聴きたい、ね」
「動機と申しますと――?」
「まア、言ってみれば、初まりの思いつき、さ」
「なるほど、な。――わたくしはこれでも初めから百姓ひゃくしょう、いや、ドン芸人じゃアございません。もっとも、どなたでもそうでしょうが」と洒落しゃれてから、自分にも思い出の多い昔を語った。自分は片手片足がかなくなってから、女房とも相談して飴屋あめやになった。が、ただ唐人笛とうじんぶえを吹いてひょこりひょこり歩いてるのでは、どんな鼻垂はなたれ小僧でも買ってくれようはずがなかった。最初の日はまるでゼロであったが、二日目にやッと十銭分だけ売れた。その銀貨一つを子供に喜ばせかたがた預けておいたら、子供のことだから、それを橋の欄干らんかんに置き棄てて遊んでる間に他の子供に取られてしまった。三日目にも商売に出たは出たものの、こんなことではとてもだめだと失望して、かの吉原土堤の上に足を投げだして、ぼんやり考えこんでいた。「ここでわたくしは天来の思想を得て、他日芸人になる素養ができましたのでげすが」と、ちょッと聴き手を笑わせてから、かわずの啼き声を覚えた話しに移った。「ふと、気がつきますと、でかわずがたくさんいている」自分は今、目をその方に向けた時の様子をして、顔を少し横に突きだし、その時やってみたよりもずッと上手な具合ぐあいに、玉子なりににぎった手のうえの方の穴へ自分の口を持って行き、ちょッとくッくッという啼き声をきかせ、「自分もやってみると、多くのかわずのうちから六七匹だけがこちらの方へ向きなおった。これは不思議だとしばらく考えておりましたが、今一遍」と言って、かッかッと言う声に改めてみせ、「やってみると、今度はその六七匹を除いたあとのかわずがすッかりこちらを向いた」
 じつはそうすッかりうまく行ったとは思われなかったのだが、その時そばに見ていた証人があるわけでもないから、安心して話を綺麗にしてしまった。「そして分りましたのですが、前の啼き方はめすで、あとのはおすです。そうしてそこにはおすが六七匹いただけで、あとは皆めすであったのです」
「おもしろい!」
「……」自分は天神様のおめにあずかって、いっそう自分の興もいてでた。「これがわたくしの思いつきでして」、それから子供の集まってるところへ行ってその真似まねをしてみせると、案外によくあめが売れた。そしてその翌日からはかわずの飴屋がどこへ行っても待ち設けられた。
「先生、飴というものはなかなかもうかるものでげして、わずか五銭のもと手でその時三十銭から四十銭にはなりました」
「そんなにいい儲け口を止めてしまったのには?」
「そりゃア、わたくしの道楽がこうじましたのです、な。わたくしには物の啼き声を真似るのが持ち前に備わってたとでも申すのでしょうか? 何でも真似ます。いや、すべて啼く物で真似ができなけりゃア、できるまで研究いたします。お客さまのうちにはよくほたるを啼けとか、疝気せんきの虫を啼けとかいう註文が出ますが、それはわたくし以上の天才にもおそらくできますまい。わたくしとしては、今じゃア、猫の喧嘩や虫、鳥の啼き声では平凡になって、飛行器や自動車の真似もしなけりゃア追ッつきません」
「そりゃア、物真似にも油断があって」と、主人は言った、「その油断で多くのものは通俗化させられてしまう」
「そんなことでは君も」と、また天神さまが言った、「みすみす堕落だらくするばかりじゃないか? それよりも、いッそ、今君が自分の経歴を語ったような具合いに、自然で飾りがなく、寄席よせへ行ってもそのとおりしゃべったらどうや? その方がよほど自然でおもしろいやないか?」
「僕もそれがいいと思う」と、近眼が賛成した。
「しかし、わたくしのいのちは高座のうえからお客をばかにしてみせるところにあるのです」
「そりゃそうだ、ね」高見さんは両のひざを両手で抱いていながら、こちらの味方みかたらしく言った。「この人の臨機応変りんきおうへんの皮肉や冷かしと来たら、ずいぶん痛快ですよ」
「その代り、こちらもまたあるところまで行くていと、妥協だきょう譲歩じょうほをしておきます、な。螢や疝気の虫をいてみせることもございます。どうせ啼く物でないから、どういう風にでもかまわないわけでげすが」と、それからきッとした見えになり、「おめえさんもずいぶんわからねい、な、疝気の虫が啼けるかい? それが不満足なら、どうせ、もう木戸銭は取ってあるのだから、とッととけいってもいいぞ――これだけではあまり殺風景になりますから、最後には向うにも花を持たせまして――だが、おめえさんだッても途中からけいりたくはなかろう。おいらもじつはけいしたくねいんだ――てなことにしてしまいます」
「それも一種の落ちだろうか、ね?」近眼が笑いながらの問いであった。
「やはり、一種の結論でしょう、な」これは猫八には先に虎のお終いでちょッと言いそこないをしたと思えた、その取り返しのつもりであった。「ところが、これが宮様がたなどへ招かれてまいりますていと、ぎゃぎゃぎゃアなんて」と、突然歯をむきだし、目を躍らせ、顔を珍妙にしがめて、猫の喧嘩する時の様子をしてみせ、皆を一度に吹きださしめた。が、自分はすまして、言葉を続けた、「庭鳥にわとりじゃアない、猫の蹴合いをお見せ申すにはまだ差し支えはございません。先様が御婦人である場合などには、やんごとなきお顔をお隠しになる扇の影からもそのお笑いがよくうかがわれます。が、時によりますと、――○○○様へあがった時などは、お前は物真似ばかりでなく、落語というものも巧みだそうだから、ひとつおもしろいのをお客さま方にお聴かせ申せと言われましたので、わたくしはお断りいたしました。とてもおそれ多くてできません。けれども、たってと言われたので、一席願いましたことは願いましたが、――妙なもので、初手から少しもお分りになりません。どうせわたくしどもはわたくしどもの劣等な社会の事しか存じませんから、自然その話もそこへ落ちます。――おい、八公、いたか」と言って、尻をくって上りかまちへ腰かける様子をしてみせ、「これがそもそも何の事だか通じないのですから、――べらんめい裸じゃア尻は捲くれねいから、な、なんていう気を利かしたおもしろ味も通じません。失礼な申し分ではございますが、まったく張り合いがない、どッと来べきところをでも皆様がたはおすましになっておられます」
「そりゃ生活がまるで違ってるから、ね」
「そうでげしょう、な」彼はさすがに学問ある人の仲間は違うものだと考えられた。こちらが自分で実際に当ってきながら、しかも自分では説明しきれなかったことをも、彼らのうちではたッた一言いちごんで分らせてくれた。本統に上つ方と自分らとの生活がまるで違ってるのだ。暮し方に月とすっぽんとの相違がある。
 こう思って、自分は自分らの裏長屋の事を心に浮べていた。とッつきがなまけがちの鍛冶屋かじやで、いつもその山の神に怒鳴どなられてる。その次ぎが女髪結いで、男が何人代ったか分らない。その隣りが自分の家で、そのまた次ぎには電車の車掌がいて、人のまだよく眠ってる時からがたッぴしやりだして、ちんちん屋の商売に出て行きゃアがる。そしてどん詰りには、目ッかちで跛足びっこ蜆屋しじみやがいる。夏は皆ほとんど真ッ裸かの社会であるが、そのうちでも人間らしいのはまず自分のところばかりだ。百姓はほんの自分の片手間仕事だが、それでもそこにあのがりがり妄者もうじゃどもの知らぬ余裕よゆうがある。そして大根や菜ッ葉をも時々は彼らにただ分配してやってる。これでも自分らは宵越しの金は持たぬちゃきちゃきの江戸ッ子で、自分は芸者の腹から浅草の有名な料理屋に生れ、女房も神田上水に産湯うぶゆを使ったものだ。ついでに自分の見識を皆の前に披露ひろうしたくなった。
「ある時、わたくしの長屋の入り口に立派な馬車が停りました。どうせまずい生活をしているのは御承知であったでげしょうが、――猫八と申す芸人の家はこちらか?――へいと、わたくしはちょッと当惑いたしました。――では、本人は在宅かどうか?――へい、師匠は今湯にまいって留守ですが――まさか、ふんどし一つのわたくしがその本人ですとは出られませんから、な。――ちょッとお待ちを願います、ただ今すぐ呼んでまいりますから――と言ってひとまずそとへ出ました。女房にはちょッと目くばせいたしましたが、気まずい顔をしておりました。――わたくしは家を出るていと、すぐ入り口の鍛冶屋へはいり、そこのかみさんに訳を話して衣物きものと帯とを持ってきてもらいまして、今湯から帰ってきた風をして、借りた手拭いを水にらしたのと石鹸箱とを持って、――お待たせいたしました、すみません、わたくしが猫八ですが、御用は?――弟子と師匠とが少しも顔が違ってませんから、向うも不思議に思ったのは止むを得ません。――じつは、○○家から来たのだが、同家ではただ今お前の話が出て、おもしろい芸をする者だそうだからすぐ来るように言ってこいとのことだが、と言うのでした」


 この時、近眼きんがんがあまり遅くなると困るからと言って席を立った。その横顔をじろりと見上げて、自分は少し不愉快の意を表したけれども、彼は気がつかなかった。その上に、また他の二人も立って、いっしょに帰って行ったのである。これが寄席よせなら、どうせ木戸銭はすんでるものだからというあきらめもつきやすい。けれども人がせっかく心を落ちつけて正直に語り続けているその中途で失敬して行くのは、本統の失敬ではないかと思えて、諦めがつきかねた。途中の暗い横丁からけてでてやるぞと言ってやりたかったが、主人を初め、まだ熱心な相手が残ってるので話の調子はさほど折れもしなかった。
「今話が出たと言ってすぐ呼びに来るていなことはいかにも華族らしいです、な。そういう場合にでも、わたくしは行かないこともないのでげすが、――江戸ッ子の気性として、あたまから金のことを言われると、反抗心が起りまして、な」
「しかし商売なら、そんな必要はないじゃアないか」と、主人は反駁はんばくした。
「いや、いかに商売でも、四角張っていくらで来てくれるかと出られちゃア、もう、なに、くそッ、勝手にしろという気になります、な。寄附なら寄附でようごぜいますし、出せるならまた黙って身分相当に出せばいいでしょう」
「そんな旧式なことアだめだよ。それよりゃア初めから何円以上でなけりゃア招かれない、そして貴族なら貴族のように平民よりもずッと高く出せと、前もって請求する方が今時いまどきはかえって見識だろう」
「しかし金銭のことを申すときたなくなりますから、な」
「それが今の芸人どもの旧臭味ふるくさみ、さ!」
「どうせ今の芸人にゃア新らしい真似などはできません。奇麗に出てこなけりゃア、おそらく、たいていぴッたり断りましょう。ある時など、わたくしがはだかでくわを運んでますていと、畑のところまで○○子爵からのお使いがあって、いつ、何時からという約束になりましたが、いくらやればいいのだと聴かれたので断然止めてしまいました。芸人は意気で生きてますから、な――その代り、気が進めば、ただでも行ってやります」
「それも悪いことはなかろう――ところで、高見君のやりだそうという養豚の事はどうなりました」と言って、主人は話題を転じてしまった。そして小説とはまったく別なことをもよく知ってるかして、その方の話がしばらく皆とともに続いた。
「わたくしが来ておりますからッて、そう動物の事をばかりお話になるにゃア及びますまい」と、洒落を言ったことは言ったが、自分は、もう、だいぶんにんでいた。取るべき晩食ばんしょくをまだ取らないので、腹がすいてきたにもるのだろう。
「どうせ電車はなくなったのだから」というようなのんきなことをあとの客は語り合ってたが、自分は皆が早く引き上げればいいと思われた。そして気がめいってくると、不思議に気にばかりなったのは、今夜の謝礼を――出なければ出なくてもいいのだが――高見さんから出すのか、ここの主人からか? それとも、このままになってしまうのか、ということだッた。本職の自分とともにお喋舌しゃべりばかりする奴らはいるが、聴き手としての気が利いていそうなものはなかった。
 この会が今にも解散する時には分ることだろうと辛抱しんぼうしているのである。それにもかかわらず高見さんを始め、皆が思いやりなく動きもしないので、だからッてしかしぼんやりさきへ帰るのもつまらないので、自分はまた奥さんを相手に今までまだ忘れていた自分の畑の事を語った。別にこれは商売にしているものではないけれども、畑のことに話が向くと、どんな相手にだッても自分は時々われを忘れるほどにおもしろく、元気が出るのであった。これは自分としての趣味だ、楽しみだと、かねてから思ってる。で、
「お茄子なすでも胡瓜きゅうりでも、これからやがて取れるようになりますから、御入用の節はいつでもさしあげます」など言いながら、とかく不平そうになる自分のいやな顔を自分でまぎらしていた。そして前には少々さしひかえられた手を餅菓子へ三度も続けてだした。


 廃兵院で鶴の啼く声がみわたってよく聞える午前の一時近くになって、皆が席を立った。自分もわざといさぎよく立って、皆といっしょに二階を下りたが、ふところへねじこんだ古雑誌と菓子や煎餅せんべい残物ざんぶつとが今夜のお礼代りかと思えば、ばかばかしいような気もして、ここでひそかに例の虎と抱き合ってしばらく何だか泣いてみたかった。けっして金のもらえないのをくよくよ思ってるわけでないのは、自分が江戸ッ子たる点に照り合わせても分ってるが、――そしてこれも江戸ッ子たる女房が、女の弱い気に負けて、時々よい越しの金を残そうとするのを、自分がぐりつけてまで使わせてしまうところを見てもらっても、分ってるが、――百姓の労働生活に比べてみると、自分は人にくだらない芸などを見せてそれで生活をしなければならぬ身が、今さらに何となく悲しかった。
「わずかだが、ね――」気が利かないでもなかった高見さんが、外へ出てから円助えんすけ二枚をこッそり渡してくれたので、自分もちょッと気を取りなおすことができた。そしてそれがためにだろう、あとからついてきて、
「散歩がてら送って行きます」と皆に言葉をかけた主人に対しても、いっそう敬意を払うことができた。が、自分ながら――いやな習慣から出たのだろうが――なんて、けちな根性だろうと卑しまれた。そしてなろうことなら、あすからでも芸人をやめたかった。
 今や自分が気に懸るのは天気ばかりであった。いつ雨が降ってくれるのだろうと空を仰ぎみつつ、自分は皆の後からひょこりひょこり足を運んで行って、道が薄暗くて誰とも分らない人に聴こえるよう、
「虎――猿――豚、今夜はほんとに動物の話ばかり出ました」
「それに、君のかわず、さ」返事は知識がおのであった。
 ふとこんにゃく問答の神経質を思いだすと、天神さまといっしょに前方を語り合って行く声がしている。やがて廃兵院の森を過ぎると、二三間で自分の長屋横丁の入り口なので、
「この奥がわたくしの住居すまいですから、むさいところですけれども、もしお通りすがりにはお立ち寄りを願います」と言って、彼は皆に別れを告げた。が、今一つ自分としては言い残したことがあるので、足を一歩進めてつけ加えた、「それから、わたくしの畑はすぐそこの枳殻垣きこくがきをおのぞきになれば見えます。今は暗うございますから、よくはお見えにならないでしょうが、これからお茄子でも胡瓜でもずいぶんたくさんなります、家族だけではとても喰いきれないほどで――」
「………」
「では、皆さん、わたくしはこれで失礼いたします」
 茄子や胡瓜のなるのを今から、もう待ってるらしい長屋のものらは、すべて寝静まっていた。そしてこの江戸屋猫八なる自分のお帰りに挨拶をしてくれたのは、近所の酒屋が飼ってる犬ばかりであった。が、今夜ほど謙遜けんそんな、そして人間らしい気持ちになってる時は自分でも珍らしいと思えた。
 廃兵院は森道があまりに暗いので、電車通りから曲ってくる通行人のため、かねては自分の広告のために、自分の名を書き入れた瓦斯灯ガスとうを立てさせてくれるように願いでてある。その許可が何だかむずかしそうだが、そんなことは、もう、どうでもよかった。誰れも無意義に自分の腹を痛めるものはないだけのことだ。
 ふと自分のけちな根性で受けたこの宵越しの金が気にならないでもないが、何を買ってやろうにも子供は、もう、熟睡じゅくすいしているに違いない。電車通りのおもちゃ屋や喰い物みせも、戸が締まってるに違いなかった。で、これも、自分で月謝を払うべきところで、あべこべにそれを貰ってきたことに笑いまぎらせてしまえるだろう。
 とにかく、自分の女房にはさっそく今夜の小説の話をして、つくづく芸人の悲哀をそこに覚えたとおりかのじょにも味わしめようと決心しながら、彼は自分の家の戸ぐちへ近づいた。





底本:「日本文学全集13 岩野泡鳴集」集英社
   1969(昭和44)年4月12日発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1918(大正7)年9月〜10月
入力:岡本ゆみ子
校正:荒木恵一
2015年3月8日作成
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