行乞記

(三)

種田山頭火




   鶏肋抄
□霰、鉢の子にも(改作)
□山へ空へ摩訶般若波羅密多心経(再録)
□旅の法衣は吹きまくる風にまかす(〃)
   雪中行乞
□雪の法衣の重うなる(〃)
□このいたゞきのしぐれにたゝずむ(〃)
□ふりかへる山はぐマヽれて(〃)
    ――――
□水は澄みわたるいもりいもりをいだき
□住みなれて筧あふれる

   鶏肋集(追加)
□青草に寝ころべば青空がある
□人の子竹の子ぐいぐい伸びろ(酒壺洞君第二世出生)

 六月一日 川棚、中村屋(三五・中)

曇、だん/\晴れて一きれの雲もない青空となつた、照りすぎる、あんまり明るいとさへ感じた、七時出立、黒井行乞、三里歩いて川棚温泉へ戻り着いたのは二時頃だつたらうか、木下旅館へいつたら、息子さんの婚礼で混雑してゐるので、此宿に泊る、屋号は中村屋(先日、行乞の時に覚えた)安宿であることに間違はないが、私には良すぎるとさへ思ふ。
すべてが夏だ、山の青葉の吐息を見よ、巡査さんも白服になつた、昨日は不如帰を聴き今日は早松茸を見た、百合の花が強い香を放ちながら売られてゐる。
笠の蜘蛛! あゝお前も旅をつゞけてゐるのか!
新らしい日、新らしい心、新らしい生活、――更始一新して堅固な行持、清浄な信念を欣求する。
樹明君からの通信は私をして涙ぐましめた、何といふ温情だらう、合掌。
・ほうたるこいほうたるこいふるさとにきた
此宿はよい、ていねいでしんせつだ、温泉宿は、殊に安宿はかういふ風でなければならない、ありがたい/\。

 六月二日 同前。

雨、そして関門地方通有の風がまた吹きだした、終日、散歩(土地を探して)と思案(草庵について)とで暮らした。
午後、小串へ出かけて、必要缺ぐべからざるものを少々ばかり買ふ。
山ほとゝぎす、野の花さま/″\。
老慈師から、伊東君から、その他から、ありがたいたよりがあつた。
隣室の奥さん――彼女はお気の毒にもだいぶヒステリツクである――から御馳走していたゞいた。
自己を忘ず――そこまで徹しなければならない。
こゝはうれしい、しづかにしてさびしくない
だん/\酒から解放される、といふよりもアルコールを超越しつゝある、至祷至祝。
緑平老から貰つた薬を、いつのまにやら、みんな飲んでしまつた、私としては薬を飲みすぎる、身心がおとろへたからだらうが、とにかく薬を多く飲むほど酒を少く飲むやうになつたわい。
昨夜はよく寝られたのに、今夜はどうしても眠れない、暁近くまで読書した。
 家をさがすや山ほとゝぎす
 月草いちめん三味線習うてゐる
・ばたり落ちてきて虫が考へてゐる
・旅のつかれの夕月がほつかり(改作再録)

 六月三日 同前。

雨、まるで梅雨のやうだ、歩いたり、考へたり、照会したり、交渉したり……、たゞ雨露を凌ぐだけの庵を結ぶのもなか/\である。
早朝、雷雨に起きて焼香し読経する。
温泉饅頭を坊ちやんに、心経講話をパパに送つてあげる(伊東君にあてゝ)。
夕方、一風呂浴びて一本傾けて、そしてぶら/\歩く、こゝにも温泉情調はある、カフヱーと自称するもの二軒、百貨店と自称するもの一軒、食堂二三軒、そこかしこに三味線の音がする、……いやまて、ビリヤード二軒、射的場も一軒ある。……
妙青寺拝登、長老さんにお目にかゝつて土地の事、草庵の事を相談する(義庵老慈師の恩寵を感じる)、K館主人にも頼む、すぐ俳句の話になる、彼氏も一風かはつた男だ、N館主人もマヽ頼む、彼は何だか虫の好かない男だ、とにかく成行に任せる、さうする外ない私の現在である。
山はうつくしい、茶臼山から鬼ヶ城山へかけての新緑はとてもうつくしい、希くはそれをまともに眺められるところに庵居したいものだ。
・鉄鉢かゞやく
・着飾らせて見せてまはつてゐる
・水音、なやましい女がをります
・暗さ匂へば螢
夜、浴場で下駄をとりかへられた、どちらも焼杉(客用)だつたが、私の方がよかつた、宿に対して気の毒なので、穿き減らされた下駄の焼印を辿つて、その宿屋へ行つてとりかへしてきた、ちと足元に気をつけなさいと皮肉一口投げつけてをいて、――まことに脚下照顧はむつかしい(此句は足元御用心とでも訳すべきだらう)。
今夜もまた睡れさうにないから、寝酒を二三杯ひつかけたが、にがい酒だつた、今夜の私としては。――
アルコールよりカルモチン
   ちよつと一服りましよか

 六月四日 同前。

曇后晴、読んだり歩いたり考へたり、そして飲んだり食べたり寝たり、おなじやうな日がつゞくことである。
午後、小串まで出かける、新聞、夏帽、シヨウガ、壺を買ふ、此代金五十一銭也。
帰途、八幡の木村さんから紹介されて、森野老人を訪ねる、初対面の好印象、しばらく話した、桑の一枝を貰つてステツキとする、久しぶりにうまい水を頂戴する、水はいゝなあ、先日来、腹中にたまつてゐたものがすーつと流れてしまつたやうにさへ感じた。
人は人中田は田中、といひますから……とは老人の言葉だつた。
此宿も一日二日はよかつたが、三日四日と滞在してゐると、だん/\アラが見えてくる、だいたい嬶天下らしいが、彼女はよいとして亭主なるものは人好きの悪い、慾張りらしい、とにかく好感の持てるやうな人間ぢやない。
今夜も睡れない、ちよつと睡つてすぐ覚める、四時がうつのをきいて湯にはいる、そして下らない事ばかり考へる、もしこゝの湯がふつと出なくなつたら、……といつたやうな事まで考へた。
杜鵑がなく、『その暁の杜鵑』といふ句を想ひだした、私はまだ/\『合点ぢや』と上五をつけるほど落ちついてゐない。
・梅雨雲の霽れまいとする山なみふるさと
 仲よく連れて学校へいそぐ梅雨ぐもり
・どこまでも咲いてゐる花の名は知らない
・晴れきつた空はふるさと
 旅から旅へ河鹿も連れて
 更けて流れる水音を見出した
隣室の客の会話を聞くともなしに聞く、まじりけなしの長州辯だ、なつかしい長州辯、私もいつとなく長州人に立ちかへつてゐた。
カルモチンよりアルコール、それが、アルコールよりカルモチンとなりつゝある、喜ぶべきか、悲しむべきか、それはたゞ事実だ、現前どうすることもできない私の転換だ。

 六月五日 同前。

朝は霧雨、昼は晴、夕は曇つて、そしてとう/\また雨となつた。
朝の草花――薊やらみつくさやら――を採つてきて壺に投げ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した。
今日は日曜日であり、端午のお節句である、鯉幟の立つてゐる家では初誕生を祝ふ支度に忙しかつた(私のやうなものでも、かうして祝はれたのだ!)。
方々からたよりがあつた、その中で、妹からのそれは妙に腹立たしく、I君からのそれはほんたうにうれしかつた(それは決して私が私情に囚はれたゝめではないことを断言する)。
隣室のヒステリー夫人ます/\ヒステリツクとなる、宿の人々も困り、私たちも困る。
萩の客人から、夏マヽ柑についていろ/\の事を聞いた、柿と鴉と弓との話は面白かつた。
山下老人を訪ね、借りたい妙青寺の畠を検分する、夜、ふたゝび同道して寺惣代の武永老人を訪ねて、借入方を頼んだ。
・おしめ影する白い花赤い花
 おとなりが鳴ればこちらも鳴る真昼十二時
・お寺のたけのこ竹になつた
    □
・こゝに落ちつき山ほとゝぎす(再作)
今夜もまた睡られないで困つた、困つた揚句は真夜中の湯にでもはいる外なかつた。

 六月六日 同前。

雨風だ、こゝはよいところだが、風のつよいのはよくないところだ。
まるで梅雨季のやうな天候、梅雨もテンポを早めてやつてきたのかも知れない。
さみしさ、あつい湯にはいる、――これは嬉野温泉での即吟だが、こゝでも同様、さみしくなると、いらいらしてくると、しづんでくると、とにかく、湯にはいる、湯のあたゝかさが、すべてをとかしてくれる。……
安宿にもいろ/\ある、だん/\よくなるのもあれば、だん/\わるくなるのもある(後者はこの中村屋、前者はあの桜屋)、そして、はじめからしまゐまで、いつもかはらないのもある(この例はなか/\むつかしい)。
今夜はこの宿は夫婦喧嘩をして、やたらに子供を泣かしてゐる、坊や泣くな、お客がなくなるよ!
隣室の萩老人とおそくまで話す、話してゐるうちに、まざ/\といやしい自分を発見した。
鰒の中毒には、日本蝋、または、海賊のクロミが適薬ださうな、人助けのためにも覚えてをきたいと思つた。
源三郎君から来信、星を売り月を売る商売をはじめます(天体望遠鏡を覗かせて見料を取るのださうである)、これには私も覚えず微苦笑を禁じえなかつた。
捨てたものにしづかな雨ふる

 六月七日 木下旅館(三〇・上)

転宿、チヨンビリ帰家穏座のこゝち。
壺を貸して下さつたので、すい葉とみつ草とを摘んで来て活ける、ほんによいよい。
午前は午マヽ後は晴。
小串へ行つて、買物をする、財布を調べて、考へ考へ、あれこれと買つた、茶碗、大根おろし、急須、そして大根三本、茶一袋、――合計金四十三銭也、帰途、お腹が空いたので、三ツ角の茶店で柏餅を食べる、五つで五銭。
草花を摘みつゝ、柏餅を食べつゝ、酒を飲みつゝ、考へる。――
うつくしいものはうつくしい、うまいものはうまい、それが何であつても、野の草花であつても一銭饅頭であつてもいゝのである、物そのものを味ふのだから
飲める時には、飲める間は飲んだがよいぢやあないか、飲めない時には、飲めなくなつた場合には、ほがらかに飲まずにゐるだけの修行が出来てゐるならば。
私も酒から茶へ向ひつゝあるらしい、草庵一風の茶味、それはあまりに東洋的、いや、日本的だけれど山頭的マヽでないこともある。
茶道に於ける、一期一会の説には胸をうたれた、そこまで到達するのは実に容易ぢやない。
日にまし命が惜しくなるやうに感じる、凡夫の至情だらう、かういふ土地でかういふ生活が続けられるやうだから!
此宿はよい、ホントウのシンセツがある、私は自炊をはじめた、それも不即不離の生活の一断面だ。
 朝の水くみあげくみあげあたゝかい
・いちご、いちご、つんではたべるパパとボウヤ
 旅の人とし休んでゐる栴檀の花や葉や
 まいにちいちにち掘る音を聞かされる(温泉掘鑿)

 六月八日 同前、吉見行乞。

夜が明けきらないのに眼がさめたので湯へゆく、けふもよい日の星がキラ/\光つてゐる。……
朝湯千両朝酒万両
朝から子供が泣きわめく、あゝ、あゝ、あゝ。
吉見まで三里歩いて行乞三時間、また三里ひきかへす、私の好きな山道だからちつとも苦にならない。
満目の青山、汝の見るに任す、――といつた風景、いつまでもあかずに新緑郷を漫歩する。
農家は今頃よつぽど忙しい、麦刈り、麦扱ぎ、そして蚕だ、蚕に食はせるためには人間は食う隙がない、そして損だ!
今日の行乞相は最初悪くして最後がよかつた、彼等が悪いので私も悪かつた、私が善いので彼等も善かつた、行乞中はいつも感応といふ事を考へさせられないことはない。
暑かつた、真ツ陽に照らされて、しばらく怠けてゐたゝめに。
禁札(世間師を拒絶する)いろ/\、今日の禁札は(吉見の一部では)婦人会の名に於て謝絶してあつた(私はいつもそんなものは無視して行乞するが)。
口で嘘をいふのは造作ないが、からだがホントウをいふ、いひかへれば、言葉よりも動作にヨリ真実的なものがある。
こゝはおもしろいところだ、妙青寺山門下の宿で、ドンチヤン騒ぎをやつてゐる、そしてしづかだ!
私は一人で墓地を歩くのが好きだ、今日もその通りだつた、いゝ墓があるね、ほどよく苔むしてほどよく傾いて。――
・墓まで蔓草の伸んできた
    □
 水にはさまれて青草
・山畑かんらんやたらひろがる
・松かげ松かぜ寝ころんだ
・茅花穂に出てひかる
・山ゆけば水の水すまし
    □
・地べた歩きたがる子を歩かせる
    □
 さみしうて夜のハガキかく
川棚温泉の缺点は、風がひどいのと、よい水のないことだ、よい水を腹いつぱい飲みたいなあ!
大根一本一銭、キヤベツ一玉四銭だつた。
教育のない父が、貧乏な父が、とかく子にむつかしい、嫌味たつぷりの名をつける、気をつけて御覧、まつたくさうだから。
緑平老から、いつもかはらぬあたゝかいたよりがあつた、層雲六月号、そこには私のために井師のともされた提灯が照つてゐた。……

 六月九日 同前。

晴、といつても梅雨空、暗雲が去来する。
今日は寺惣代会が開かれる日だ、そして私に寺領の畠を貸すか貸さないかが議せられる日だ。
昨夜もあまり睡れなかつたので、頭が重い。
アルコールよりカルモチン――まつたくさういふ気分になりつゝある、飲まないのではない、飲めなくなつたのだ(肉体的に)、意志が弱いと胃腸が強い、さりとはあんまり皮肉だつたが、その皮肉も真実になつたらしい、少くとも事実にはなつた、健全な胃腸は不健全な飲食物を拒絶する!
年をとると、身体のあちらこちらがいけなくなる、私は此頃、それを味はひつゝある。
川棚温泉には犬が多い、多すぎる。
野を歩いてゐたら、青蘆のそよいでゐるのに心をひかれた、こんなにいゝものがあるのに、何故、旅館とか料理屋とかは下らない生花に気をとられてゐるのだらう、もつたいない、明早朝さつそく私はそれを活けやう。
・柿の葉柿の実そよがうともしない

 六月十日 同前。

晴、めづらしい晴だつたが、それだけ暑かつた。
朝、宿の主人が、昨夜の寺惣代会では、私の要求は否定されたといふ、私はしみ/″\考へた、そして嫌な気がした、自然と人間、個人と大地。……
野を歩いて青蘆を切つて来て活けた、何といふすが/\しさ、みづ/\しさぞ、野の草はみんなうつくしい、生きてゐるから。
つばくろがよくうたふ、此宿にも巣をかけて雛をかへしてゐる。
此宿もいろ/\の生き物を持つてゐる――人間の子、猫の子、燕の子、牛、私、そして花嫁さん!
彼女から送つてくれた荷物が来た、フトン、ヤクワン、キモノ、ホン、チヤワン、ヰハイ、サカヅキ、ホン、カミ、等、等、等。
その荷物の中から二通の手紙が出て来た、一つは彼に送金した為替の受取、他の一つはS子からのたより、前者はともかくも、後者はちよんびり私を動かした、悪い意味に於て、――なるほど、私は彼女が書いてゐるやうに、心の腐つた人であらうけれど、――これは故意か偶然か、故意にしては下手すぎる、私には向かない、偶然にしてはあまりに偶然だ。
子供が子猫をおもちやにして遊んでゐる、その子猫は首玉を握りしめられて半死半生になつてゐる、小さい暴君と小さい犠牲、人間の残忍と畜生の弱さだ。
夕方散歩する、いそがしい麦摺機の響、うれしさうな三味の音と唄声。
今日はいやにゲイシヤガールがうろ/\してゐる。
私の因縁時節到来! 緑平老へ手紙を書きつゝ、そんな感じにうたれた。
 ふたゝびこゝで白髪を剃る
 どうでもこゝにおちつきたい夕月
・朝風の青蘆を切る
    □
・これだけ残つてゐるお位牌ををがむ
    □
・あるだけの酒のんで寝る月夜
・吠えてきて尾をふる犬とあるく
・まとも一つの灯はお寺
昨夜は幾夜ぶりかでぐつすり眠つたが、今夜はまた眠れないらしい、ゼイタク野郎め!
若夫婦の睦言が、とぎれ/\に二階から洩れてくる、無理もない、彼等は新婚のほや/\だ。
どうしてもねむれないから、また湯にはいる、すべてが湯にとける、そしてすべてがながれてゆく。……

 六月十一日 同前。

快晴、明日は入梅だといふのに、これはまた何といふ上天気だらう、暑い陽がきら/\照つた。
農家は今が忙しい真盛りだ、麦刈、麦扱(今は発動機で麦摺だが)、やがてまた苗取、田植。
しかし今年はカラツユかも知れない、此地方のやうな山村山田では水がなくて困るかも知れないな、どうぞさういふ事のないやうに。――
歯が悪くなつて、かへつて、物を噛みしめて食べるやうになつた(しようことなしに)、何が仕合になるか解つたものぢやない。
此宿の裏長屋に、仔猫が四匹生れてゐる、みんな可愛い姿態を恵まれてゐる、毎日、此宿の孫息子にいぢめられてゐるが、親猫は心配さうに鳴いてゐるより外ない、その仔猫を夕方、舞妓が数人連れて貰ひに来た、悪口いつては気の毒だが、仔猫仔猫を貰ひに来た、ソモサン!
・からつゆから/\尾のないとかげで
 いつしよにびつしより汗かいて牛が人が
・ゆふぐれは子供だらけの青葉
 仔猫みんな貰はれていつた梅雨空
また文なしになつた、宿料はマイナスですむが、酒代が困る、やうやくシヨウチユウ一杯ひつかけてごまかす。
やつぱり生きてゐることはうるさいなあ、と同時に、死ぬることはおそろしいなあ、あゝ、あゝ。

 六月十二日 同前。

曇、今日から入梅。
山を歩いて山つつじを採つて戻る、野の草といつしよに、――花瓶に活けて飽かず眺める。
川棚名物の『風』が吹きだした(湯ばかりが名物ぢやない)。
十六銭捻出して、十一銭は焼酎一合、五銭は撫子一包、南無緑平老如来!
リヨウマチ再発、右の腕が痛い。
・明けてゆく鎌を研ぐ
・枝をおろし陽のあたる墓
・山の花は山の水に活けてをき
 客となり燕でたりはいつたり
 考へてをれば燕さえづる
・旅のペンサキも書けなくなつた
・ころげまはる犬らの青草
・ひとりの湯がこぼれる

 六月十三日 同前。

朝のうちは梅雨空らしかつたが、やがてからりと晴れた、そして風も相変らず吹いた。
三恵寺へまた拝登する、いかにも山寺らしい、坐禅石といふ好きな岩があつた、怡雲和尚(温泉開基、三恵寺中興)の墓前に額づく、国見岩といふ巨岩も見た、和尚さん、もつと観光客にあつてほしい。
酒はもとより、煙草の粉までなくなつた、端書も買へない、むろん、お香香ばかりで食べてゐる、といつて不平をいふのぢやない、逢茶喫茶逢酒喫酒の境涯だから――しかし飲まないより飲んだ方がうれしい、吸はないより吸ふた方がうれしい、何となくさみしいとは思ふのである。
南無緑平老如来、御来迎を待つ!
   妙青禅寺
 もう山門は開けてある
 梅雨曇り子を叱つては薬飲ませる
 子猫よ腹たてゝ鳴くかよ
 子をさがす親猫のいつまで鳴く
 仔牛かはいや赤い鉢巻してもろた
   三恵寺
 樹かげすゞしく石にてふてふ
 迷うた山路で真赤なつゝじ
 牛小屋のとなりで猫の子うまれた
・家をめぐつてどくだみの花
 働きつめて牛にひかれて戻る
今日は句数こそ沢山あるが、多少でも自惚のある句は一つもない、蒼天々々。
どうやら寺領が借れるらしい、さつそく大工さんと契約しよう、其中庵まさに出来んとす、うれしい哉。

 六月十四日 同前。

晴、朝の野べから青草を貰つてきて活ける、おばさんから貰つて活けてをいた花は、すまないけれど、あまり感じよくないから。
青草はよい、葉に葉をかさねて、いき/\としてゐる。
来信数通、みんなうれしいたよりであるが、殊に酒壺洞君、緑平老、井師からの言葉はうれしかつた。
返事を書かうと思つても端書がない、切手を買ふ銭がない、緑平老への返事は急ぐので、やうやくとつておきの端書一枚を見つけて、さつそく書いた。
貧乏は望ましいものでないが、かういふ場合には、私でも多少の早敢マヽなさを覚える。
嚢中まさに一銭銅貨一つ、読書にも倦いたし、気分も落ちつかないので、楠の森見物に出かける、天然記念保護物に指定されてあるだけに、ずゐぶんの老大樹である、根元に大内義隆の愛馬を埋葬したといふので、馬霊神ともいふ、ぢつと眺めてゐると尊敬と親愛とが湧いてくる。
往復二里あまり、歩いてよかつた、気分が一新された、やつぱり私には、『歩くこと』が『救ひ』であるのだ。
途上、切竹が捨てゝあつたので拾つて戻つた、小刀で削つて衣紋竹を拵らへた、その竹を活かしたのだが、ナマクサ法衣をひつかけられては、竹は泣くかも知れない。
河があつた、小魚が泳いでゐる、釣心がおこつた、いつか釣竿かたいでやつてきたい(漁猟の中では、私は釣が一番よいと思ふ、一番好きだ)。
君よ、ナマクサと嘲るなかれ、セツシヨウを説くなかれ、ナマクサ坊主は遂にナマクサ坊主なり!
うしろ姿は鬼、こちら向いたら仏だつた、これは或る日の行乞途上の偶感である。
君は不生産的だからいけないと、或る人が非難したのに対して、俺は創造的だよと威張つてやつた。
けふもサケナシデーだつた、いやナツシングデーだつた、時々、ちよいと一杯やりたいなあと思つた、私は凡夫、しかも下下の下だ、胸中未穏在、それは仕方がない、酒になれ、酒になれ通身アルコールとなりきれば、それはそれでまたよろしいのだが、そこまでは達しえない、咄、撞酒糟漢め。
夕方また歩いた、たゞ歩いた。
自から嘲る気分から、自からあはれみ自からいたはる気分へうつりつゝある私となつた、さて、この次はどんな私になるだらうか。
いつからとなく私は『拾ふこと』を初めた、そしてまた、いつからとなく石を愛するやうになつた、今日も石を拾うて来た、一日一石としたら面白いね。
拾う――といつても遺失物を拾ふといふのではない(東京には地見といふ職業もあるさうだが)、私が拾ふのは、落ちたるものでなくして、捨てられたもの見向かれないもの、気取つていへば、在るものをそのまゝ人間的に活かすのである。
いつぞやは、缺げた急須を拾うて水入とし、空マヽを酢徳利とした、平ぺつたい石は文鎮に、形の好きなのを仏像の台座にした。
・冴える眼に虫のいろ/\
・山ほとゝぎすいつしか明けた
・朝風、みんなうごく
・しめやかな山とおもへば墓がある
・春蝉に焼場の灰のうづたかく
    □
・よう泣く子につんばくろ
    □
・いつまで生きよう庵を結んで
・ありつたけ食べて出かける(行乞)
・食べるものもなくなつた今日の朝焼
   楠の森三句
 注連を張られ楠の森といふ一樹
・大楠の枝から枝へ青あらし
・大楠の枝垂れて地にとゞく花
    □
・蜂のをる花を手折る
・田植唄もうたはず植ゑてゐる
・ひつかけようとする魚のすい/\澄んで
・梅雨の月があつて白い花

 六月十五日 同前。

午前は晴、午後は雨、これでどうやら本格的な梅雨日和となつた訳だ、空梅雨ではあるまいかと心配してゐた農夫の顔に安心と喜悦との表情が浮んでゐる、私も梅雨季は梅雨季らしい方を好いてゐる、行乞が出来ないので困ることは困るけれど。
昨日の夕方、私に下関への道を訊ねたルンペン(東京から歩いてきたといつた、歯切れのいゝ中年男だつた)の顔が、どういふ訳からか、今日まざ/\と思ひ浮べられた。
午前は松谷の松原を散歩した、一句も拾へなかつたが、石を一つ拾つた。
昨日今日はまことにきゆう/\うつ/\である、酒の代りにがぶ/\茶を飲み、たび/\湯にはいつた。……
酒をやめるよりも煙草はやめにくいといふ、まつたくその通りだ、胃さへいつぱいならば、酒を忘れてゐられるが、煙草は、手を動かし足を動かし、食べるたびに飲むたびに、歩く時も寝てゐる時も、一服やりたくなつて、やらずにはゐられない。
貧しさと卑しさとは仲のよい隣同士であることを体験した。
しばらくおたよりがないから気にかゝる、とI君がいつてきた(三日間ハガキを出さないものだから)、ハガキを買ふ銭もない、とは私の口からはいへない、それでなくても私は、貧乏を売物にしてゐるやうな気がして嫌でならないのだ、嘘をいふのは嫌だが、此場合、本当をかくことは私の潔癖が、或は見得坊が許さない、明日でも金が手に入つたら、工合がわるかつたものだから、とか何とかいつてごまかしておかうか(私はもつと、もつと卒直でなければならないのだけれど)。
小包が来た、酒壺洞君からだ、うれしかつた、君には嫌な半面がある代りに、極めて良い一面がある、まだ若いから仕方なからう。
こゝに滞留してゐて、また家庭といふものゝうるさいことを見たり聞いたりした、独居のさびしさは群棲のわずらはしさを超えてゐる。
このあたりは、ほんたうにどくだみが多い、どくだみの花マヽ家をめぐり田をかこんで咲きつゞいてゐる。
自殺した弟を追想して悲しかつた、彼に対してちつとも兄らしくなかつた自分を考へると、涙がとめどもなく出てくる、弟よ、兄を許してくれ。
昨日も今日も連句の本を読む、連句を味ふために、俳句を全的に味ふために。
どうやら『其中庵の記』が書けさうになつた。
・竿がとゞかないさくらんぼで熟れる
・花いちりん、風がてふてふをとまらせない
・梅雨の縞萱が二三本
    □
・水は澄みわたるいもりいもりをいだき
だん/\心境が澄みわたることを感じる、あんまり澄んでもいけないが、近来あんまり濁つてゐた。
清澄寂静枯淡、さういふ世界が、東洋人乃至日本人の、つゐの棲家ではあるまいか(私のやうな人間には殊に)。
柿、栗、蕗、筍、雑木、雑草、杜鵑、河鹿、蜩、等々々。
いづれも閑寂の味はひである。
さみしい夜が、お隣の蓄音器によつて賑つた、唐人お吉、琵琶歌、そして浪花節だ、やつぱりおけさ節が一等よかつた。

 六月十六日 同前。

降りみ降らずみ、寝たり起きたり。
予期しないゲルトが少しばかり手に入つた、酒を買ふたり、頭を剃つたり、胡瓜もみをこしらへたり、いやはや忙しい事だつた、嬉しい事だつた。
土地借入について保證人になつて貰ふべく、森野老人を訪ねる、即座に快諾して下さつた。
森野老人に感謝すると同時に、木村幸雄さんに感謝しなければならない。
今夜、はじめて温泉饅頭を食べた、うまい、そしてたかい。
御飯とお香々、――ありがたし、ありがたし。
銭といふものの便利を感じすぎるほど感じた、私は金銀そのものを、その他の以上に有難いとは思はない、貨幣は勤労の表徴として尊いのである、物の価値は物そのものにある
今日といふ今日は、私として、最も有効に金を遣つたと思ふ。
・働らき働らき牛を叱つて
数日たまつてゐた返事を書いてだしたので、ほつとした、はがき十枚、手紙弐通。
五日ぶりに酒を飲んだが、あんまりうまくなかつた、うれしいやうでもあり、さびしいやうでもある、とにかく酒を清算することが私を清算することの第一歩であることはたしかだ。
久しぶりに、ほんたうに久しぶりに、今夜は水を飲んだ、うまくない水である、だいたい、川棚といふところは水がよくない、飲める井戸は数ヶ所しかない、これからは谷川の水を飲まう、水は私を清浄にする、私の生活から、むしろ、私の心から水をとりのぞけば、私はきたなくなるばかりだ。

 六月十七日 同前。

梅雨日和、終日読書、さうする外ないから。
アイバチといふ魚を買つた、十銭、うまくていやみがなかつた(ナマクサイモノを食べたのは、何日目だつたかな)、そしてうどん玉二つ、五銭、これもおいしかつた、今晩は近来の御馳走だつた。
このあたりも、ぼつ/\田植がはじまつた、二三人で唄もうたはないで植ゑてゐる、田植は農家の年中行事のうちで、最も日本的であり、田園趣味を発揮するものであるが、此頃の田植は何といふさびしいことだらう、私は少年の頃、田植の御馳走――煮〆や小豆飯や――を思ひだして、少々センチにならざるを得なかつた、早乙女のよさも永久に見られないのだらうか。
お隣の蓄音器がまたうたひだした、浪花節、肉弾三勇士のなかの、赤い夕日に照らされて、の唄にはほろりとした、あのうたはたしかに我々の心にひゞく、大和民族の血潮を沸き立たせるものを持つてゐる、私にはヂヤズよりも快感を与へる。
土地借入には当村在住の保證人二名をこしらへなければならないので、嫌々ながら、自己吹聴をやり自己保證をやつてゐるのだが、さてどれだけの効果があるかはあぶないものだ、本人が本人の事をいふほどアテになるものはなく同時にアテにならないものもない。
一も金、二も金、三もまた金だ、金の力は知りすぎるほど知つてゐるが、かうして世間的交渉をつづけてゐると、金の力をあまり知りすぎる!
私の生活は――と今日も私は考へた――搾取といふよりも詐取だ、いかにも殊勝らしく、或る時は坊主らしく、或る時は俳人らしくカムフラーヂユして余命を貪つてゐるのではないか。
法衣を脱ぎ捨てゝしまへ、俳句の話なんかやめてしまへよ。
それにしても、やつぱりさみしい、さみしいですよ。
 さみしいからだをずんぶり浸けた
・水田青空に植ゑつけてゆく
 人の声して山の青さよ
・一人で黙つて植ゑてゐる
 夏草いちめんの、花も葉も刈り
・とう/\道がなくなつた茂り
・ひとりきてきつゝき(啄木鳥)
・こゝの土とならうお寺のふくろう

 六月十八日 同前。

快晴、梅雨季には珍らしいお天気でもあるし、ちようど観音日でもあるので、狗留孫山へ拝登、往復六里、山のよさ、水のうまさを久しぶりに味つた。
道を間違へて、半里ばかり岨路を歩いたのは、かへつてうれしかつた、岩に口づけて腹いつぱい飲んだ水、そのあたりいちめんにたゞようてゐる山気、それを胸いつぱい吸ひこんだ、身心がせいせいした。
狗留孫山修禅寺、さすがに名刹だけあるが、参詣者が多いだけそれだけ俗化してゐる、参道の杉並木、山門の草葺、四面を囲む青葉若葉のあざやかさ、水のうつくしさ、――それは長く私の印象として残るだらう。
田植を見て『土落し』を思ひだした、それは私が少年時代、郷里の農家に於ける年中行事の一つであつた、一日休んで田植の泥を落すのである、何といふ、なつかしい思出だらう。
・朝戸あけるより親燕
・こゝもそこもどくだみの花ざかり
・水田たゝへようとするかきつばたのかげ
・梅雨晴れの山がちゞまり青田がかさなり
・つゝましくこゝにも咲いてげんのしようこ
    □
・お寺まで一すぢのみち踏みしめた
・うまい水の流れるところ花うつぎ
・山薊いちりんの風がでた
・水のほとり石をつみかさねては(賽の河原)
 霽れて暑い石仏ならんでおはす
 夏草おしわけてくるバスで
昨日も今日もまたサケナシデー、すこし切ない。
近頃、ひとりごとをいふやうになつた、年齢の加減か、独居のせいか、何とかいふ支那の禅師の話を思ひだしておかしかつたり、くやしかつたりしたことである。

 六月十九日 同前。

曇、時々照る、歩けば暑い、汗が出た、田部、岡林及、岡町行乞、往復六里、少々草臥れた。
朝の早いのは、私自身で感心する、今日も四時起床、一浴、読経回向、朝食、――六時まへに出立して三時すぎにはもう戻つて来た、山頭火未老!
今日の行乞相(十日目の行乞である)はよほどよかつたが、おしまひがすこしすなほでなかつた、反省すべし。
途中、菅生のところ/″\にあやめが咲いてゐた、『あやめ咲くとはしほらしや』である、山つゝじを折つてきた、野趣(山趣?)横溢、うれしい花である。
九州地方はよく茶をのむ、のみすぎる方だらう、隣家のものがちよつと来てもすぐ茶をくむぐらゐ、本県人、概して中国人はあまり茶をのまない、普通ならば、茶でも出さなければならない場合でも、ださないですましてゐる。
此地方には馬は見あたらない、牛ばかりだ、牛を先立てゝ、ゆつたりと歩いてゆく農夫の姿は、山村風景になくてはならないものだ。
此宿は気安くて深切で、ほんたうによろしいけれど、子供がうるさい、たつた一人の孫息子で、母親が野良仕事に精出すので、おばあさんが守をしてゐるが、彼女も忙しくて、そして下手糞だ、のみならず、此孫息子はかなりのヂラ(方言、駄々ツ児と同意義)、いやはや、よく泣く、泣く、誰よりも、それが私にマヽえる、困る、ほんたうに困る。
笠から蜘蛛がぶらさがる、小さい可愛い蜘蛛だ、彼はいつまで私といつしよに歩かうといふのか、そんなに私といつしよに歩くことが好きなのかよ。
・梅雨の満月が本堂のうしろから
・傾いた月のふくろうとして
    □
 けふから田植をはじめる朝月
・朝の虫が走つてきた
・朝月にもう一枚は植ゑてしまつた
・炎天の影ひいてさすらふ
 さみしい道を蛇によこぎられる
今夜は行乞所得で焼酎を買ふことが出来た(十方の施主、福寿長久であれ、それにしても浄財がそのまゝアルコールとなりニコチンとなることは罰あたりである)、そしてほろ/\酔ふた(とろ/\まではゆけなかつた、どろ/\へは断じてゆかない)。

 六月廿日 同前。

雨、梅雨もいよ/\本格的になつた、それでよい、それでよい、終日閉ぢ籠つて読書する、これが其中庵だつたら、どんなにうれしいだらう、それもしばらくのしんぼうだ、忍辱精進、その事、その事。
雨につけ風につけ、私はやつぱりルンペンの事を考へずにはゐられない、家を持たない人、金を持たない人、保護者を持たない人、そして食慾を持ち愛慾を持ち、一切の執着煩悩を持つてゐる人だ!
ルンペンは固より放浪癖にひきずられてゐるが、彼等の致命傷は、怠惰である、根気がないといふことである、酒も飲まない、女も買はない、賭博もしない、喧嘩もしない、そしてたゞ仕事がしたくない、といふルンペンに対しては長大息する外ない、彼等は永久に救はれないのだ。
今日も焼酎一合十一銭、飛魚二尾で五銭、塩焼にしてちびり/\、それで往生安楽国!
・夏めいた灯かげ月かげを掃く
・障子に箒の影も更けて
・わいてあふれるなかにねてゐる
・生えてあやめの露けく咲いてる
    □
・重さ、かきなやむ四人の大地
  魚店風景
 ならべられてまだ生きてゐる
    □
・笠ぬげば松のしづくして
    □
・しぼんだりひらいたりして壺のかきつばた
・こゝろふさぐ夜ふけて電燈きえた(事実そのものをとつて)

 六月廿一日 同前。

昨夜来の風雨がやつと午後になつてやんだ、青葉が散らばり草は倒れ伏してゐる。
水はもう十分だが、この風では田植も出来ないと、お百姓さんは空を見上げて嘆息する。
私にはうれしい手紙が来た、それはまことに福音であつた、緑平老はいつも温情の持主である。
自分でも気味のわるいほど、あたまが澄んで冴えてきた、私もどうやら転換するらしい、――左から右へ、――酒から茶へ
何故生きてるか、と問はれて、生きてるから生きてる、と答へることが出来るやうになつた、此問答の中に、私の人生観も社会観も宇宙観もすべてが籠つてゐるのだ。
 これで田植ができる雨を聴きつゝ寝る
・いたゞきは立ち枯れの一樹
・蠅がうるさい独を守る
・ひとりのあつい茶をすゝる
・花いばら、こゝの土とならうよ

 六月廿二日 同前。

晴曇さだめなし。
小串へゆく、もう夾竹桃が咲いてゐた、松葉牡丹も咲いてゐた。
あんまり神経がいらだつので飲んだ、そして飲みすぎた、当面の興奮はおさまつたが、沈衰がやつてきた、当分また苦しみ悩む外ない。
笑へない喜劇、泣けない悲劇、それが私の生活ではないか。
寺領借入の交渉が頓挫した、時々一切を投げだしたいやうな気分になる、こんなにまでして庵居しなければならないのか。……
子供はほんたうに騷々しい、耳をふさいでゐた。
 夫婦で親子で畑の草とる
・握つてくれた手のつめたさで葉ざくら
・ひとりをれば蠅取紙の蠅がなく

 六月廿三日 同前。

空模様のやうに私の心も暗い、降つたり照つたり私の心も。……
ふりかへらない私であつたが、いつとなくふりかへるやうになつた、私の過去はたゞ過失の堆積、随つて、悔の連続だつた、同一の過失、同一の悔をくりかへし、くりかへしたに過ぎないではないか、あゝ。
払ふべきものは払つた、といつてはいひすぎる、払へるだけは払つた
多少、ほがらかになつたやうである。

 六月廿四日 同前。

やうやく晴となつた。
妹から心づくしの浴衣と汗の結晶とを贈つてくれた、すなほに頂戴する。
血は水よりも濃いといふ、まつたくだ、同時に血は水よりもきたない。
小串へ出かけて、予約本二冊を受取る、俳句講座と大蔵経講座、これだけを毎月買ふことは、私には無理でもあり、贅沢でもあらう、しかし、それは読むと同時に貯へるためである、此二冊を取り揃へて置いたならば、私がぽつかり死んでも、その代金で、死骸を片づけることが出来よう、血縁のものや地下の人々やに迷惑をかけないで、また、知人をヨリ少く煩はして、万事がすむだらう(こんな事を考へて、しかもそれを実行するやうになつたゞけ、私は死に近づいたのだ)。
近来、水――うまい水を飲まない、そのためでもあらうか、何となく身心のぐあいがよろしくない、よい水、うまい水、水はまことに生命の水である、あゝ水が飲みたい。
蠅取紙のふちをうろ/\してゐる蠅を見てると、蠅の運命、生きもののいのち、といつたやうなものを考へずにはゐられない。
終日終夜、湯を掘つてゐる、その音が不眠の枕にひゞいて、頭がいたんできた。
今日は書きたくない手紙を三通書いた、書いたといふよりも書かされたといふべきだらう、寺領借入のために、いひかへれば、保證人に対して私の身柄について懸念ないことを理解せしめるために、――妹に、彼に、彼女に、――私の死病と死体との処理について。――
欝々として泥沼にもぐつたやうな気分だ、何をしても心が慰まない、むろん、かういふ場合にはアルコールだつて無力だ、殊に近頃は酒の香よりも茶の味はひの方へ私の身心が向ひつゝあることを感じてゐる(それは肉体的な、同時に、精神的なものに因してゐると思ふ)。

 六月廿五日 同前。

晴后曇、梅雨の或る日は、といつたやうな気分。
朝焼はうつくしかつた(それは雨を予告するのだが)、自然のうつくしさが身心にしみいるやうだつた。
朝、青草――壺に投※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すために――五六本を摘んだ、露も蜘蛛もいつしよに。
燕の子が、いつのまにやら巣立つてゐる、それらしいのがをり/\軒端近く来ては囀づる。
水田もまた、いつのまにやら、いちめんの青田となつてゐる、そして蛙が腹いつぱいの声でうたうてゐる。
生きのよい鯖が一尾八銭だつた、片身は刺身、片身は塩焼にして食べた、おいしかつた、焼酎一合十一銭、水を倍加して飲んだがうまくなかつた。
たしかにアルコールに対する執着がうすらぎつゝある、酒を飲まないのでなくて飲めなくなるらしい、うれしくもあり、かなしくもあり、とはこのことだ。
捨てられて仔猫が鳴きつゞけてゐる、汝の運命のつたなきを鳴け、といふ外ない。
新聞配達の爺さんが、明日からは魚も持つてまゐりますから買うて下さいといふ、新聞と生魚!
調和しないやうで調和してゐると思ふ。
・待つてゐるさくらんぼ熟れてゐる

 六月廿六日 同前。

曇、近郊散策、気分よろし、御飯がうまい、但し酒はうまくない、これも人生の悲喜劇一齣だらう。
蚤はあたりまへだが、虱のゐたのにはちよいと驚いた、蠅や蚊はもちろん。
今日は日曜日なので一夜泊り、或は一日遊びの浴客がちらほら歩いてゐる、あまりモダンぶりのものは見うけない、こゝにインバイがゐないやうに(カフヱーの女給や芸妓のエロサービスは知らないが)、それはこゝにふさはしいお客さんばかりだ。
妙青禅寺の本堂で、観世流の謡会があつた、日本的でよいと思ふけれど、ほんたうの味は解らない。
青龍園――妙マヽ寺境内、雪舟築くところ――を改めて鑑賞する、自然を活かす、いひかへれば人為をなるたけ加へないで庭園とする点に於てすぐれてゐると思ふ、つゝじとかきつばたとの対照融和である(萩が一株もう咲いてゐた)。
門前の老松もよいが、大タブもよい、その実はうれしいものだ。
午後はあてどもなく山から山へ歩く、雑草雑木が眼のさめるやうなうつくしさだ、粉米のやうな、こぼれやすい花を無断で貰つて帰つた。
おばさんが筍を一本下さつた、うまい、うまい筍だつた、それほどうまいのに焼酎五勺が飲みきれなかつた!(明日は間違なく雨だよ!)
ほんたうに酒の好きな人に悪人がゐないやうに、ほんたうに花を愛する人に悪人はゐないと思ふ。
改造社の俳句講座所載、井師の放哉紹介の記録を読んで、放哉は俳句のレアリズムをほんたうに体現した最初の、そして或は最大の俳人であると今更のやうに感じたことである。
『刀鋒を以て斬るは敗る、刀盤を以て斬るは勝つ』捨身剣だ、投げだした魂の力を知れ。
    緑平老に
・ひさしぶり逢へたあんたのにほひで(彼氏はドクトルなり)
    □
・梅雨晴の梅雨の葉のおちる
    □
  蠅取紙
・いつしよにぺつたりと死んでゐる
・山ふかくきてみだらな話がはづむ
・山ふところのはだかとなる
・のぼりつくして石ほとけ
・みちのまんなかのてふてふで
・あの山こえて女づれ筍うりにきた
晩に土落どろおとし(田植済の小宴)、の御馳走を頂戴した(御相伴といふ奴だ)、煮しめ一皿、まだ飯一椀、私に下さる前に、牛が貰つたか知ら!(此地方は山家だから牛ばかりだ)
今朝はめづらしくどこからも来信がなかつた、さびしいと思つた、かうして毎日々々遊んでゐるのはほんたうに心苦しい、からだはつかはないけれど、心はいつもやきもきしてゐる、一刻も早く其中庵が建つやうにと祈つてゐる。……
近頃また不眠症にかゝつて苦しんでゐる、遊んで、しかも心を労する私としては、それは当然だらうて。

 六月廿七日 同前。

曇、梅雨らしく。
朝蜘蛛がぶらさがつてゐる、それは好運の前徴だといはれる、しかし、今の私は好運をも悪運をも期待してゐない、だいたい、さういふものに関心をあまり持つてゐない、が、事実はかうだつた、東京から送金して貰つた、同時に彼女から嫌な手紙を受取つたのである。
二三日前からの寝冷がとう/\本物になつたらしい、発熱、倦怠、自棄――さういつた気持がきざしてくるのをどうしようもない。
小串へ出かける、月草と石ころとを拾うてきた、途中、老祖母の事が思ひだされて困つた、父と私と彼女と三人が本山まゐりした時の事が、……八鉢旅館の事、馬の水の事。……
近来、妙な句ばかり出来る、私も老いぼれたのかも知れない、まだ老いぼれるには早すぎるが!
・安宿のざくろたくさん花つけた
    □
・六月六日、こゝにおちついた雨(追加)
  蠅取紙
・大きな声で死ぬるほかない
  鑿泉工事
・掘りさげる土の底からふきあがる
  鮮人ルンペン
 拾ふことの、生きることの、袋ふくれる

 六月廿八日 同前。

晴、時々曇る、終日不快、万象憂欝。
不眠が悪夢となつた、恐ろしい夢でなくて嫌な夢だから、かへつてやりきれない。
何もかも苦い、酒も飯も。
最後の晩餐! といふ気分で飲んだ、飲めるだけ飲んだ、ムチヤクチヤだ、しかもムチヤクチヤにはなりきれないのだ。
何といふみじめな人間だらうと自分を罵つた、――こんなにしてまで、私は庵居しなければならないのでせうか――と敬治君に泣言を書きそへた。

 六月廿九日

晴、寝床からおきあがれない、悪夢を見つゞける外ない自分だつた。
寝てゐて、つく/″\思ふ、百姓といふものはよく働らくなあ、働らくことそのことが一切であるやうに働らいてゐる。
私は悔恨の念にたへなかつた。

 六月卅日 同前。

曇、今日も門外不出、すこしは気軽い。
あさましい夢を見た(それは、ほんとうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!)。
・かつと日が照り逢ひたうなつた
私は、善良な悪人に過ぎない。……
    △ △ △ △
自戒三条
 一、自分に媚びるな
 一、足らざるに足りてあれ
 一、現実を活かせ
いつもうまい酒を飲むべし、うまい酒は多くとも三合を超ゆるものにあらず、自他共に喜ぶなり。

 七月一日 木下旅館。

雨、終日読書、自省と克己と十分であつた、そして自己清算の第一日(毎日がさうだらう)。
伊東君に手紙を書く、愚痴をならべたのである、君の温情は私の一切を容れてくれる。
私は長いこと、死生の境をさまようてゐる、時としてアキラメに落ちつかうとし(それはステバチでないと同時にサトリではない)時として、エゴイズムの殻から脱しようとする、しかも所詮、私は私を彫りつゝあるに過ぎないのだ。……
例の如く不眠がつゞく、そして悪夢の続映だ! あまりにまざ/\と私は私の醜悪を見せつけられてゐる、私は私を罵つたり憐んだり励ましたりする。
彼――彼は彼女の子であつて私の子ではない――から、うれしくもさみしい返事がきた、子でなくて子である子、父であつて父でない父、あゝ。
俳句といふものは――それがほんとうの俳句であるかぎり――魂の詩だこゝろのあらはれを外にして俳句の本質はない、月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思ふところ月にあらざるはなし、この境涯が俳句の母胎だ。
時代を超越したところに、目的意識を忘却したところに、いひかへれば歴史的過程にあつて、しかも歴史的制約を遊離したところに、芸術(宗教も科学も)の本質的存在がある、これは現在の私の信念だ。
 さみしい夜のあまいもの食べるなど
・何でこんなにさみしい風ふく
・手折るよりぐつたりしほれる一枝
・とりきれない虱の旅をかさねてゐる
・雨にあけて燕の子もどつてゐる
 縞萱伸びあがり塀のそと
 いちめんの蔦にして墓がそここゝ
ロマンチツク――レアリスチツク――クラシツク――そして、何か、何か、何か、――そこが彼だ。

我昔所造諸マヽ業  皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生  一切我今皆懺悔
衆生無辺誓願度  煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学  仏道無上誓願成

 七月二日 同前。

雨、いかにも梅雨らしい雨である、私の心にも雨がふる、私の身心は梅雨季の憂欝に悩んでゐる。
入浴、読経、漫読、思索、等、等、等。
発熱頭痛、まだ寝冷がよくならないのである、歯がチクチクいたむ、近々また三本ほろ/\ぬけさうだ。
聞くともなしに隣室の高話しを聞く、在郷の老人連である、耕作について、今の若い者が無智で不熱心で、理屈ばかりいつて実際を知らないことを話しつゞけてゐる、彼等の話題としてはふさはしい。
・朝の烏賊のうつくしくならべられ(魚売)
・どうやら晴れさうな青柿しづか
・旅もをはりの、歯がみなうごく
 胡瓜こり/\かみしめてゐる
・松へざくろの咲きのこる曇り
 梅雨寒い蚤は音たてゝ死んだ
・くもり憂欝の髯を剃る
    □
  改作一句
・そゝくさ別れて山の青葉へ橋を渡る
    □
 見なほすやぬけた歯をしみ/″\と
 ほつくりぬけた歯で年とつた
 投げた歯の音もしない木下闇
 これが私の歯であつた一片
    □
・釣られて目玉まで食べられちやつた
例の歯をいぢくつてゐるうちに、ひよいとぬけてしまつた、何となくがつかりとした気持である、さみしいといはうか、おかしいといはうか、何ともいへない感じだ。
△物、心、真実、表現、――芸術、句。
二日かゝつてやつと焼酎一合だつた!
もう二本ぬけさうな歯がある!
夕方、五日ぶりに散歩らしい散歩をした、山の花野の花を手折つて戻つた。
今夜初めて蚊帳を吊つた、青々として悪くない(私は蚊帳の中で寝る事をあまり好かないのだが)、それにしてもかうした青蚊帳を持つてゐるのは彼女の賜物だ。
夜おそく湯へゆく、途上即吟一句、――
・水音に蚊帳のかげ更けてゐる

 七月三日

晴、これで霖雨もあがつたらしい、めつきり暑くなつた。
朝は女魚売の競争だ、早くまはつてきた方が勝だから、もう六時頃には一人また一人、『けふはようございますか』『何かいらんかのう』。
農家のおぢいさんが楊桃ヤマモモを売りに来た、A伯父を想ひだした、酒好きで善良で、いつも伯母に叱られてばかりゐた伯父、あゝ(同時に、私たちの少年時代には果実といふものがいかに貧弱であつたかを考へた)。
朝の散歩はよいものである、孤独の散歩者ではあるけれど、さみしいとは思はないほど、心ゆたかである。
振衣千仭岡、濯足万里流――といふ語句を読んでルンペンの自由をふりかへつた。
いつしよに伸べてゐた手をふと見て、自分の手が恥づかしかつた、何と無力な、やはらかな、あはれな手だらう。
私は貧乏を礼讃するものではない、しかし私は私の貧乏に感謝しなければなるまい、私は貧乏のおかげで、食物の好き嫌ひがなくなつた、何でもおいしくいたゞくことができるやうになつた、そして貧乏のおかげで今日まで生き存らへることが出来たのである、若し私が貧乏にならなかつたならば、私は酒を飲みたいだけ飲んで、飲みすぎつゞけて、そのために死んでしまつたであらうから。
隣室の話はなか/\興ふかく聞かれる、――農家の爺さん婆さんが大きな声で、ねち/\と話しあつてゐる、――働けるだけ働いて、働いても働いても借金がふえるばかり、息子がいふ事をきかないで(世の中に孫ほど可愛いものはないさうな)目先の流行ばかり追うてゐる、あの家の主人が嫁をまた貰ふさうな、四度目の結婚と三度目の結婚で、子供が男に二人、女に三人、それがいつしよになつたら、さぞや面倒だらう、――といつたやうな話。
今日は日曜日のお天気で浴客が多かつた、大多数は近郷近在のお百姓連中である、夫婦連れ、親子連れ、握飯を持つて来て、魚を食べたり、湯にいつたり、話したり寝たり、そして夕方、うれしげに帰つてゆく、田園風景のほがらかな一面をこゝに見た。
・いつしよに伸べた手白い手恥づかしい手
    □
温泉イデユ掘る音の蔦の実
 みんな売れた野菜籠ぶら/\戻る
    □
・なぐさまないこゝろを山のみどりへはなつ
・家のまはり身のまはり蛙蛙

 七月四日

晴、一片の雲もない日本晴。
発熱、頭痛、加之歯痛、怏々として楽しまず、といふのが午前中の私の気分だつた。
裏山から早咲の萩二枝を盗んで来て活ける、水揚げ法がうまくないので、しほれたのは惜しかつた。
萩は好きな花である、日本的だ、ひなびてゐてみやびやかである、さみしいけれどみすぼらしくはない、何となく惹きつける物を持つてゐる。
訪ねてゆくところも訪ねてくる人もない、山を家とし草を友とする外ない私の身の上だ。
身許保證(土地借入、草庵建立について)には悩まされた、独身の風来坊には誰もが警戒の眼を離さない、死病にかゝつた場合、死亡した後始末の事まで心配してくれるのだ!
当家の老主人がやつてきて、ぼつり/\話しだした、やうやく私といふ人間が解つてきたので保證人にならう、土地借入、草庵建立、すべてを引受けて斡旋するといふのだ、晴、晴、晴れきつた。
豁然として天地玲瓏、――この語句が午後の私の気分をあらはしてゐる。
それにしても、私はこゝで改めて「彼」に感謝しないではゐられない、彼とは誰か、子であつて子でない彼、きつてもきれない血縁のつながりを持つ彼の事だ!
・山路はや萩を咲かせてゐる
・ゆふべの鶏に餌をまいてやる父子オヤコ
・明日は出かける天の川まうへ
夜ふけて、知友へ、いよ/\造庵着手の手紙を何通も書きつゞけてゐるうちに、何となく涙ぐましくなつた、ちようど先日、彼からの手紙を読んだ時のやうに、白髪のセンチメンタリストなどゝ冷笑したまふなよ。
とう/\今夜も徹夜してしまつた。

 七月五日

曇、后晴、例の風が吹くので、同時に不眠の疲労があるので、小月行乞を見合せて籠居。
きのふのゆふべの散歩で拾うてきた蔓梅一枝(ねぢうめともいふ)を壺の萩と※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)しかへたが、枝ぶり、葉のすがた、実のかたち、すべてが何ともいへないよさを持つてゐる、此木は冬になつて葉が落ち実がはじけた姿がよいのだが、かうした夏すがたもよかつた。
句集「鉢の子」がやつときた、うれしかつたが、うれしさといつしよに失望を感ぜずにはゐられなかつた、北朗兄にはすまないけれど、期待が大きかつたゞけそれだけ失望も大きかつた、装幀も組方も洗練が足りない、都会染みた田舎者! といつたやうな臭気を発散してゐる(誤植があるのは不快である)、第二句集はあざやかなものにしたい!
払うべきものを払へるだけ払つてしまつたので、また、文なしとなつちやつた、おばさんにたのんでアルコール一罎をマイナスで取り寄せて貰ふ、ぐい/\ひつかけて昼寝した。……
夜は宿の人々といつしよに飲んでしまつた、アルコールのきゝめはてきめん、ぐつすりと朝まで覚えなかつた。

 七月六日

雨、今日も行乞不能、ちよんびり小遣が欲しいな!
終日歯痛、歯がいたいと全身心がいたい、一本の歯が全身全心を支配するのである。
夕方、いたむ歯をいぢつてゐたら、ほろりとぬけた、そしていたみがぴたりととまつた、――光風霽月だ。
これで今年は三本の歯がなくなつた訳である、惜しいとは思はないが、何となくはかない気持だ。
くちなしの花を活ける、花の色も香も好きである、野の貴公子といつた感じがある。
・ほつくりぬけた歯を投げる夕闇
・何だかなつかしうなるくちなしさいて

 七月七日

雨、空は暗いが私自身は明るい、其中庵が建ちつゝあるのだから。――
しかし今日も行乞が出来ないので困る、手も足も出ない、まつたくハガキ一枚もだせない。
時々、どしやぶり、よう降るなあ!
昨日も今日も、そして明日も恐らくは酒なし日。
どこの家庭を見ても、何よりも亭主の暴君ぶりと妻君の無理解とが眼につく、そしてそれよりも、もつと嫌なのは子供のうるさいことである。
歯痛がやんだら手足のところ/″\が痛みだした、一痛去つてまた一痛、それが人生だ!
・くもりおもたくおのれの体臭
・けさはあめの花いちりん
・畦豆も伸びあがる青田風
・雨の山越え苗もらひに来た
・青田青田へ鯉児を放つ

 七月八日

雨、少しづゝ晴れてくる。
がよくなつた、昨春以来の脱肛が今朝入浴中ほつとりとおさまつた、大袈裟にいへば、十五ヶ月間反逆してゐた肉塊が温浴に宥められて、元の古巣に立ち戻つたのである、まだしつくりと落ちつかないので、何だか気持悪いけれど、安心のうれしさはある。
とにかく温泉の効験があつた、休養浴泉の甲斐があつたといふものだ、四十日間まんざら遊んではゐなかつたのだ。
建ちさうで建たないのが其中庵でござる、旅では、金がなくては手も足も出ない。
ゆつくり交渉して、あれやこれやのわずらひに堪へて、待たう待たう、待つより外ない。
臭い臭い、肥臭い、こゝでかしこで肥汲取だ、西洋人が、日本は肥臭くて困るといふさうだが、或る意味で、我々日本人は糞尿の中に生活してる
・朝の道をよこぎるや蛇
・朝しづくの一しづくである
    □
 田植じまひは子を連れて里へ山越えて
    □
・梅雨あかり、ぱつと花のひらきたる
    □
・鯉の児放つや青田風
・曇の日、釣りあげたはいもり
    □
・墓から墓へ夕蜘蛛が網を張らうとする
・墓に紫陽花咲きかけてゐる
・夕焼小焼牛の子うまれた
・家をめぐり蛙なく新夫婦である

 七月九日

空は霖雨、私は不眠、相通ずるものがあるやうだ。
あの晩からちつとも飲まないので、一杯やりたくなつた!
星城子さんの厚情によつて、飯田さん仙波さん寄与の懐中時計が到着した、私が時計を持つといふことは似合はないやうでもあるが、すでに自分の寝床をこしらへつゝある今日、自分の時計を持つことは自然でもあらう(その時計の型や何かは、私の望んだほど時代おくれでもなくグロテスクでもなけれど、三君あればこそ私の時計があつたのである、ありがたい/\、たゞ口惜しいのはチクタクがちよい/\と睡ることである、まさか、私のところに来たといふので、酔つぱらつたのでもあるまい!)。
動かない時計はさみしく、とまる時計はいらだゝしいものである。
うれしいたよりが二つあつた、樹明君から、そして敬治君から。
花ざくろを活ける、美しい年増女か!
石を拾ふついでに、白粉罎を拾うた、クラブ美の素といふレツテルが貼つてあつた、洗つても洗つてもふくいくとしてにほふ、なまめかしい、なやましいにほひだ、しかし酒の香ほどは好きでない、むろん嫌いではない、しばらくならば(これは印肉入にする)。
夕方になつて腹が空いてくると、ひつかけたくなる、大急ぎで、詰めこんで、アルコール虫をママで抑へつけた!
・おちつかない朝の時計のとまつてる
・旅路はいろ/\の花さいて萩
夜は宿の人々と雑談する、行乞の話、酒の話、釣の話、等、等、――此家の人々はみんな好人物である、かういふ人々と親しくして余生を送ることができるやうになつた私の幸福を祝さう。
当地に草庵をつくるについて、今更のやうに教へられたことは、金の魅力、威力、圧力、いひかへれば金のきゝめであつた。
私は私にふさはしくない、といふよりも不可能とされてゐた貯金を始めることになつた、保證人に対する私の保證物として!(毎月壱円)
そして、私がしみ/″\と感じないではゐられないことは、仏教の所謂、因縁時節である、因縁が熟しなければ、時節が来なければ、人生の事はどうすることも出来ないものである。

 七月十日

ほんとうによくふると、けさはおもつた、頭痛がしてぼんやりしてゐた。
夢精! きまりわるいけれど事実だから仕方がない、もつともそれだけ vital force が残つてるのだらう!
 水をたゞようて桐一葉
・夕焼うつくしい旅路もをはり
    □
・青葉ふかくいち高い樹のアンテナ
・ゆふべのラヂオの泣きたうなつた

 七月十一日

四時前に起きた、掃除して、湯にはいつて、朝課諷経してゐるうちに、やうやく夜が明けた。
すなほでない自分を見た、同時に自分の乞食根性を知つた。……
今日はどうやらお天気らしいので近在を行乞するつもりだつたが、どうしたわけか(酒どころか煙草すらのめないのに)、痔がわるくて休んだ、コツ/\三八九復活刊行の仕事をやつた。
晴れて急に暑くなつた、ぢつとしてゐて、汗がたら/\流れる、いよ/\真夏を感じる、私はどんなに暑くても苦しくても、冬よりは夏をえらぶ、私の肉体が寒さよりも暑さに対して抵抗強いからでもあるが、浴衣一枚で何のこだわりもない生活が好ましいからである。
・ふたゝびこゝに花いばら散つてゐる
・この汽車通過、青田風
・旅の法衣がかわくまで雑草の風
夜は妙青寺の真道長老を訪ねて暫時閑談、雪舟庭の暗さから青蟇の呼びかけるのはよかつた、螢もちらほら光る、すべてがしづかにおちついてゐる。
正法眼蔵啓迪を借りて戻る、これはありがたい本であり、同時におもしろい本である(よい意味で)。
また不眠だ、すこし真面目に考へだすと、いつも眠れなくなる、眠れなくなるやうな真面目は嘘だ、少くとも第二義的第三義的だ。
しかし不眠のおかげで、千鳥の声をたんまりと聴くことができた。
どこかそこらで地虫もないてゐる、一声を長くひいてはをり/\なく、夏の底の秋を告げるやうだ。

 七月十二日

雨、降つたり降らなかつたりだが、小月行乞はオヂヤンになつた、これでいよ/\空の空になつた。
啓迪を読みつゞける、元古仏の貴族的気禀に低頭する。……
・なく蠅なかない蠅で死んでゆく
・長かつた旅もをはりの煙管掃除です
ありがたい品物が到来した、それはありがたいよりも、私にはむしろもつたいないものだつた、――敬治君の贈物、謄写器が到来したのである、それは敬治君の友情そのものだつた、――私はこれによつてこれから日々の米塩をかせぎだすのである。
今夜も千鳥がなく、虫がなく。……

 七月十三日

雨、雨、雨、何もかもうんざりしてゐる、無論、私は茶もなく煙草もなく酒もなくてぼんやりしてゐるが。
正法眼蔵啓迪「心不可得」の巻拝読。
白雲去来、そして常運歩(其中庵は如何)。
とう/\我慢しきれなくなつて、おばさんからまた金二十銭借る、それを何と有効につかつたことか――郵券二銭一枚、ハガキ二枚、撫子一包、そして焼酎一合!
私もどうやらかうやらアルコールから解放されさうだ、といつて、カルモチンやアダリンはまつぴら/\。
午後、ぶら/\歩いて、谷川の水を飲んだり、花を摘んだりした、これではあまりに安易すぎる、といつて動くこともできない、すこしいら/\する。
・ひとりなれば山の水のみにきた
・山の仏には山の花

 七月十四日

曇、まだ梅雨模様である、もう土用が近いのに。
今日も、待つてゐる手紙がない、旅で金を持たないのは鋏をもがれた蟹のやうなものだ。手も足も出ないから、ぼんやりしてる外ない、造庵工事だつて、ちつとも、捗らない、そのためでもあるまいが、今日は朝から頭痛がする。……
山を歩く、あてもなしに歩きまはつた、青葉、青葉、青葉で、ところ/″\躑躅の咲き残つたのがぽつちりと赤いばかり。
めづらしく句もない一日だつた、それほど私の身心はいぢけてゐるのだらうか。

 七月十五日

一切憂欝、わづかに朝湯が一片の慰藉だ。
たゞ暑い、空つぽの暑さだ。
南無緑平老菩薩、冀はくは感応あれ。
・暑く、たゞ暑くをる
・蜩のなくところからひきかへす
・あすはよいたよりがあらう夕焼ける
    □
・食べるもの食べきつたかなかな
夕の散歩で四句ほど拾ふたが、今年はじめて蜩を聴いたのはうれしかつた、峰と峰とにかこまれたゆふべの松の木の間で、そこにもこゝにも蜩がしづかにしめやかに鳴きかはしてゐた(みん/\蝉は先日来いくたびも聴いたが)。

 七月十六日

曇、此頃は、日和癖とでもいふのか、午前中は雨模様、午後になると晴、頭痛がして困る。――
朝の散歩はよい、ことに朝の山路を逍遙する時は一切を忘れて一切に合してゐる気分になる、歯朶がうつくしい、池水がおだやかだ、頬白の声がすが/\しい、物みなよろしとはこの事だ。
そこにもこゝにも句が落ちてゐる、かくべつ拾ひたいとも思はないが、その二つ三つ。
・朝の土から拾ふ
・山奥の蜩と田草とる(これは昨夕)
・夜どほし浴泉があるのうせんかつら
・青すゝきどうやら風がかはつた
晴れた、晴れた、お天気、お天気、みんなよろこぶ、私も働かう、うんと働かう、ほんとうに遊びすぎた。
・けふの散歩は蜩ないて萩さいて
・かんがへがまとまらないブトにくはれる
・山のいちにち蟻もあるいてゐる
何だかノスタルヂヤにでもかゝつたやうだ、これも造庵や生活やすべてがチグハグになつてゐるせいかも知れない。
・はだかしたしくはだかをむける(大衆浴場)
・夏の夜のヱンヂンのようひゞく

 七月十七日

晴、小月町行乞、往復九里は暑苦しかつたけれど、道べりの花がうつくしかつた、うまい水をいくども飲んだ、行乞はやつぱり私にふさはしい行だと思つた。
行乞所得はよくなかつたが、句の収穫はわるくなかつた。――
・ぴつたり身につけおべんたうあたゝかい
・朝の水にそうてまがる
・すゞしく蛇が朝のながれをよこぎつた
・禁札の文字にべつたり青蛙
・このみちや合歓の咲きつゞき
・石をまつり水のわくところ
・つきあたつて蔦がからまる石仏
・いそいでもどるかなかなかなかな
・暮れてなほ田草とるかなかな
・山路暮れのこる水を飲み
一銭のありがたさ、それは解りすぎるほど解つてゐる、体験として、――しかも万銭を捨てゝ惜まない私はどうしたのだらう!
なぜだか、けふは亡友I君の事がしきりにおもひだされた、彼は私の最初の心友だつた、彼をおもひだすときは、いつも彼の句と彼の歌とをおもひだす、それは、――
□おしよせてくだけて波のさむさかな
 我れんマヽちさう籠るに耳は眼はいらじ
    土の蚯蚓のやすくもあるかな
労れて戻つて(此宿へは戻つたといつてもいゝ、それほど気安くて深切にして下さる)そして酒のうまさは!
・つかれた脚を湯が待つてゐた
・雲がいそいでよい月にする

 七月十八日

晴れて暑い、ぢつとしてゐて汗がにじみでる、湯あがりの暑さは、裸体になることの嫌いな私でも、褌一つにならずにはゐられない。
昨日の行乞所得の残金全部で切手と端書とを買つた、それでやうやく信債の一部を果した。
酒が好きなために仏門に入るやうになり、貧乏になつたために酒毒から免かれてゐる、世の中の事は変なものであるわい(酒のために自己共に苦しみ悩んだ事はいふまでもないが)。
・朝からぴよんぴよん蛙
・穂すゝきへけふいちにちの泥を洗ふ
・月あかり撰りわける夏みかんの数
    □
・聴くでもないおとなりのラヂオ泣いてゐる

 七月十九日

晴、いよ/\天候もきまつたらしい、私の心もしつかりしてくれ、晩年の光を出せ!
此宿の漬物はなか/\うまい(木賃自炊だが、朝の味噌汁と漬物とは貰へる、今日此頃の私は無一文だから漬物でお茶漬さら/\掻きこんでゐる)、殊に今朝は茗荷がつけてあつた、何ともいへない香気だ、暑さを忘れ憂欝を紛らすことが出来る。
夏は浅漬がよい、胡瓜、茄子、キヤベツ、何とか菜、時々らんきようも悪くない、梅干もありがたい。
 山の夏みかんもぐより売れた
 山からもいで夏みかんやばらばら雨
・朝は涼しい茗荷の子(夏茗荷である)
・はだかではだかの子をだいてゆふべ

 七月廿日

曇、土用入だから、かん/\照ればよいのに。
朝の山へ、蜘蛛の囲を分けて登つて萩を採つて来て活けた、温湯に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)したが、うまく水揚げしてくれるとうれしい。
昨夜はとろりとしたゞけだつた、こんなでは困る。
盆草――精霊草。
人間は(いや、あらゆる生物は程度の差こそあれ)自分の好きなものを中心として(或は基本として)万事万物を観察する(または換算する)、それが自然でもあり真実でもある、といふ訳で、私は酒を以てすべてを観る、山を眺めては一杯やりたいな、野菜のよいのを見るとしんみり飲みたいなあと思ふ、これだけあれば一合やれる、これで一本買へるなと考へる、笑はれても実際だから仕方がない。
・紫陽花もをはりの色の曇つてゐる
・つゆけく犬もついてくる
・ゆふ雲のうつくしさはかなかなないて
私は今、庵居しようなどゝいふ安易な気分に堕した自分を省みて恥ぢてゐる、悔いてもゐる、しかも庵居する外ない自分を見直して嘆いてゐる、私はやむなく背水の陣を布いた、もう血戦(自分自身に対して)する外ない。
緑平老へ、そしてS子へ、S女へ手紙を書いた、書きたくない手紙だつた、こんな手紙を書かなければならない不徳を憤つた。
眠れない、眠つたと思へば悪夢だ。
アルコールが私に対して、だん/\魅力を失ひつゝあることは、むしろ悲しい事実だらう。
・蠅取紙の蠅がまだ鳴いてゐる

 七月廿一日

曇、しかし朝蝉が晴れて暑くなることを予告しつゝある。
山へ空へ、樹へ草へお経をあげつゝ歩かう。
黒井行乞、そのおかげで手紙を差出すことが出来た。
安岡町まで行くつもりだつたが、からだの工合がよくないのでひきかへした、暑さのためでもあらうが、年のせいでもあらうて。
  (草木塔)[#「(草木塔)」は底本では、俳句の上に横書き]
・朝早い手を足を伸ばしきる
・伸ばしきつた手で足で朝風
・いちりん咲いてゐててふてふ
・あつさ、かみそりがようきれるかな
物を粗末にすれば物に不自由する(因果応報だ)、これは事実だ、少くとも私の事実だ!
・夏のゆふべの子供をほしがつてゐる
・墓へも紫陽花咲きつゞける

 七月廿二日

朝曇、日中は暑いけれど朝晩は涼しい、蚊がゐなければ千両だ。
感情がなくなれば人間ぢやない、同時に感情の奴隷とならないのが人間的だらう。
さみしくいらだつからだへ蠅取紙がくつついた、句にもならない微苦笑だつた。
・泣いてはなさない蝉が鳴きさわぐ
・何やら鳴いて今日が暮れる
・水瓜ごろりと垣の中
・虫のゆききのしみじみ生きてゐる
    □
・朝の木にのぼつてゐる

 七月廿三日

土用らしい土用日和である、暑いことは暑いけれど、そこにわだかまりがないので気持がよい。
隣室のお客さん三人は私の同郷人だ、純粋なお国言葉をつかうてゐる、彼等と話しあつてゐると、何だか血縁のものに接してゐるやうな気がする(私としては今のところ、身上をあかしたくないから、同郷人であることが暴露しないやうに警戒しなければならない)。
当地には温泉情調といつたやうなものはあまりたゞようてゐない、むろん、私には入湯気分といつたやうなものはないが。
今日も私はいやしい私を見た、自分で自分をあはれむやうな境地は走過しなければならない。
子供はうるさいものだとしば/\思はせられる、此宿の子はちよろ/\児でちつとも油断がならない、お隣の子は兄弟妹姉そろうて泣虫だ、競争的に泣きわめいてゐる、子供といふものはうるさいよりも可愛いのだらうが、私には可愛いよりもうるさいのである。
   (山水経)[#「(山水経)」は底本では、俳句の上に横書き]
・のびのびてくさのつゆ
・つゆけくもせみのぬけがらや
・事がまとまらない夕蝉になかれ(此一句は事実感想そのまゝである)
夕食後、M老人を訪ねて、土地借入證書に捺印を頼んだら、案外にも断られた、何とかかとか言訳は聞かされたけれど、然諾を重んじない彼氏の立場には同情すると同時に軽蔑しないではゐられなかつた、それにしても旅人のあはれさ、独り者のみじめさを今更のやうに痛感したことである。
これで造庵がまた頓挫した、仕方がない、私は腰を据えた、やつてみせる、やれるだけやる、やらずにはおかない。……
敬治さん、幸雄さんのたよりはほんとうにうれしかつたのに!
今日は暑かつた、華氏九十七度を数へた地方もあるといふ、しかし私はありがたいことには、樹木の多い部屋で寝ころんでゐられるのだから。
幸雄さんの供養で、焼酎を一杯ひつかける、饅頭を食べる、端書を十枚差出すことが出来た。

 七月廿四日

今日も暑からう、すこし寝過した、昨夜の今朝で、何となく気分がすぐれない。
野の花を活けた、もう撫子が咲いてゐるが、あの花には原始日本的情趣があると思ふ。
幸雄さんへ手紙を書く、昨夜、M老人にふられたから、もう一人どうでもかうでも保證人を打出マヽなければならないのである(さういふ次第だから、書くにも気のすゝまない、貰つてもうれしく手マヽ紙である)、度々幸雄さんを煩はしてほんとうにすまないことである。
――百雑砕――
燃ゆる陽を浴びて夾竹桃のうつくしさ、夏の花として満点である。
色身を外にして法身なし、しかも法身は色身にあらず、法身とは何ぞや。
貧時には貧を貧殺せよ
私は拾ふ、落ちた物を拾ふ、落した物を拾ふにあらず、捨てたる物を拾ふなり。
緑平老からの来信は私に安心と落ち着きとを与へてくれた。
・朝曇朝蜘蛛ぶらさがらせてをく
・この木で二円といふ青柿のしづかなるかな
・蒸暑い木の葉いちまい落ちた
・私の食卓、夏草と梅干と
今日は梅干とランキヨウとで食べた、もう三週間あまり魚を買はない、野菜が一等おいしい。
嫁と姑、これはあまりにも古い課題だ、そしていつも新らしい課題だ(今日、昼寝覚に、婆さん連中の会話を聞いて)。
夕涼み、軽い心、軽いからだ、軽い話、涼しい。
さみしさはうるさいにまさる
――一箇半箇――
捨猫がうろついてゐる、彼女は時々いら/\した声で鳴く、自分の運命を呪ふやうな、自分の不幸を人天に訴へるやうに鳴く、そして食べるものがないので、夜蝉を捕へる、その夜蝉がまた鳴く、断末魔の悲鳴をあげる。……
安いものは、マツチ、釘、浴衣、そして。――
近眼と老眼とがこんがらがつて読み書きに工合がわるくて困る、そのたびに、年はとりたくないなあと嘆息する。
・よいゆふべとなりゆくところがない
   青炎郎君にかへし
 夾竹桃、そのおもひでの花びら燃えて

 七月廿五日

何と朝飯のうまいこと! (現在の私には、何物でも何時でもうまいのだが)私はほんとうに幸福だ!
茗荷の子三把で四銭、佃煮にして置く、当分食卓がフクイクとしてにほふだらう、これもまた貧楽の一つ。――
怪我をするときは畳の上でもするといふ、まつたくさうだ、今朝、私は縁側でしたゝか向脛をうつた、痛い、痛い。
こゝの息子さんと土用鰻釣に出かける約束をしたので、釣竿を盗伐すべく山林を歩いてゐると、仏罰覿面、踏抜をした、こん/\と血が流れる、真赤な血だ、美しい血だ、傷敗けをしない私は悠々として手頃の竹を一本切つた、いかにも釣れさうな竿だ、しかし私は盗みを好かない、随つて盗みの罰を受け易い、どうも盗みの興味が解らない。
・押売が村から村へ雲の峰

 七月廿六日

相かはらず暑い、夕立がやつて来さうでなか/\やつて来ない、草も木も人もあえいでゐる。
約束通り、こゝの息子さんと溜池へ釣りに行く、鰻は釣れないで鮒が釣れた、何と薄倖な鮒だつたらう、せい/″\三時間位だつたが、ずゐぶんくたぶれた。
・朝から暑い野の花をさがしあるく
・すゝき活けて誰かを待つてゐる
・蟻や蝉やいちにち孫を遊ばせる
    □
・水底の雲から釣りあげた
・赤い夕日に釣つてやめようともしない

 七月廿七日

今日は土マヽの丑の日。
鰻どころか、一句もない一日だつた!
だが、夕方になつて隣室から客人から、蒲焼一片を頂戴した。
まことに鰻ひときれの丑の日だつた!
・暑さ、泣く子供泣くだけ泣かせて
だから、駄句一つの一日でもあつた!

 七月廿八日

晴、風がすが/\しい、そして何となく雨の近い感じがする、今日はきつとよいたよりがあるだらう。
よいたよりといへば、昨日うけとつたたよりはうれしいものであつた、緑平老からのたよりもうれしかつたが、幸雄さんからのそれは殊にうれしかつた、それは温情と好意とにあふれてゐた。
頭痛がする、頑健そのものゝやうな私も暑さと貧しさとでだいぶ弱つたらしい、だがまゐつたのぢやない。
野百合と野撫子とを活けた、百合はうつくしい、撫子は村娘野嬢のやうな風情でなくて(百合のやうに)深山少女といつた情趣である、好きな花だ、一目何でもないけれど、見てゐるとたまらなくよいところがある、西洋撫子はとても/\だ。
正さん――この宿の次男で、私の新らしい友達の一人――の新居を訪ねる、井戸を掘つてゐる、よい水が湧いて出るといつて喜んでゐる、掘つた穴の底には水が溜つて、そして蛙がもう二三匹飛び込んでゐる、これが文字通りの井底蛙だ。
暑い、暑い、貧乏は暑いものだと知つた。
貧乏はとう/\切手を貼らない手紙をだす非礼を敢てせしめた、それを郵便集配夫がわざ/\持つてきて見せた厚意には汗が流れずにはすまなかつた、それでなくても暑くてたまらないのに、――そしてまた、次のやうな嫌味たつぷりの句を作らないではゐられなかつた。
・炎天のポストへ無心状である
・貧しさは水を飲んだり花を眺めたり
    □
・炎天、夫婦となつて井戸も掘る
・掘ればよい水が湧く新所帯で
    □
 すゞしくなでしこをつんであるく
昔――といつても徳川時代――には大酒飲を酒桶とよんださうな、酒が飲めない酒好きは徳利になりたがる、酒桶には及びもないが!
長い暑い一日がやうやく暮れて、おだやかな夕べがくる、茶漬さら/\掻きこんで出かける、どこへといふあてもない、何をしようといふのでもない、訪ねてゆく人もなければ訪ねてくる人もない現在の境涯だ、たゞ歩くのである、たゞ歩く外ないから。――

 七月廿九日

朝曇、日中は照りつけるだらう。
修證義読誦、芭蕉翁発句集鑑賞、その気品の高いことに於て、純な点に於て、一味相通ずるものがある、厳かにして親しみのある作品といふ感じである、約言すれば日本貴族的である。
みんなよく水瓜を食べる、殊に川棚水瓜だ、誰もが好いてゐる、しかし私の食指は動かない、それだけ私は不仕合せだ。
隣室の旅人(半僧半俗の)から焼酎と葡萄とをよばれる、久振にアルコールを飲んだので、頭痛と胃痛とで閉口した。
私はたしかにアルコールから解放された、ニコチンからも解放されつゝある、酒を飲まなくなり、煙草も喫はなくなつたら、さて此次は何をやめるか!
山百合、山桔梗、撫子、苅萱、女郎花、萩、等等等、野は山はもう秋のよそほひをつけるに忙しい。
とんぼくはえてきた親つばめ子つばめ
あをむけば蜘蛛のいとなみ

 七月三十日

晴、晴、晴、一雨ほしいなあ!
緑平老から来信、それは老の堅実を示し、同時に私の焦燥を示すものだつた、人生不如意は知りすぎるほど知つてゐる私であるが、感情的な私はともすれば猪突する、省みて恥ぢ入る外なかつた(造庵について)。
・ラヂオがさわがしい炎天の花さいてゐて
・日ざかり、われとわがあたまを剃り
・星が光りすぎる雨が近いさうな
・どうしてもねむれない夜の爪をきる
・更けてさまよへばなくよきりぎりす
 殺された蚤が音たてた
・旅のこゝろもおちついてくる天の川まうへ
今日は特種が一つあつた、私は生来初めて自分で自分の頭を剃つた、安全剃刀で案外うまくやれた、これも自浄行持の一つだらう。

 七月卅一日

いよ/\出かけた、五時一浴して麦飯を二三杯詰めこんで勢よく歩きだしたのである、もう蝉がないてゐる、法衣にとびついた蝉も一匹や二匹ではなかつた。
暑かつた、労れた、行程八里、厚狭町小松屋といふ安宿に泊る(三〇・中)、掃除が行き届いて、老婦も深切だが、キチヨウメンすぎて少々うるさい。
行乞相はよかつた、所得もわるくなかつた、埴生一時間、厚狭二時間、それだけの行乞で食べて飲んで寝て、ノンキに一日一夜生かさせていたゞいたのだから、ありがたいよりも、もつたいなかつた。
明日は是非小郡まで行かう、そして宮市へ、そこで金策しなければならない。……
歩くのはうれしい、水はうまい、強烈な日光、濃緑の山々、人さま/″\の姿。
・涼しい風人形がころげる
・泳ぎつかれてみんな水瓜をかゝえ
・夾竹桃、そのかげで氷うりだした
 かぼちやごろ/\汐風に
・何と涼しい南無大師遍照金剛
子のない女は何かペツトを持たずにはゐない、こゝのおばあさんは犬を可愛がつてゐる、もう老ひぼれ犬だ、そのきたない犬を座敷にあげて撫でたり擦つたりしてゐる、夜は抱いて寝るらしい、あれだけのキレイ好きが!

 八月一日

歩いて三里、汽車で三里、そして樹明居だ、いつもかはらぬ友情にひたつた、うれしかつた。
夜は飲んだ、冬村、二三男の二君来訪、四人でおそくまで話しつゞけた。
午前中二時間は厚狭裏町行乞、午後の二時間はまた船木町行乞、時々気分がみだれた、没分暁な奥様、深切なおかみさん、等、等。
昨日は蓮華のうつくしさ、今日は木槿のうつくしさを見た。
糸根(愛寝)といふ和泉式部の古蹟、寝太郎餅といふ名物。
馬占山の最後に一滴の涙をそゝぐ。
朝御飯が最もおいしいほどの健康と幸福とを私は恵まれてゐる、合掌。
樹明居、夏はすゞしく冬はあたゝかい、主人は道としての俳句に精進しつゝある、私は是非とも樹明居の記を書かなければならない(緑平居の記、白船居の記、そして其中庵記と共に)。
女の服装(殊に夏季の)が一変しつゝあるのに驚く、老女のアツパツパは感心しませんね。
駅の待合室の電燈の笠で生れて育つた燕はおもしろい。
着いて、逢うて、すぐ風呂があつたとは!
坊ちやん、あなたは暴君ですね、毎日蝉を虐殺する、虐殺されながら蝉は鳴く。
 空を見てゐる若い女の腹が大きい
・石にとんぼはまひるのゆめみる
・昼寝ふかい村から村へのうせんかづら
・ひるねざめ風があるきり/″\す
 峠下れば青田ふきとほし
・日ざかり、学校の風車まはつたりまはらなかつたり
 山はみどりの、広告文字が夕日にういて
 逢へてよかつた岩からの風に
・水瓜したゝるしたしさよ(樹明居)
 別れる星がすべる
・ふけて雨すこしおちた
 星あかりをあふれくる水をすくふ

 八月二日

朝から酒(壁のつくろひは泥だといふがまつたくその通りだ)、宿酔が発散した。
十一時の汽車で大道へ、追憶の糸がほぐれてあれこれ、あれこれといそがしい。
七年目ぶりにS家の門をくゞる、東京からのお客さんも賑やかだつた、久しぶりに家庭的雰囲気につゝまれる。
伯母、妹、甥、嫁さん、老主人、姪の子ら。……
夕食では少し飲みすぎた、おしやべりにならないやうにと妹が心配してゐる、どうせ私は下らない人間だから、下らなさを発揮するのがよいと思ふけれど。
酒は甘露、昨日の酒、今日の酒は甘露の甘露だつた、合掌献盃。
よい雨だが、足らない、降れ、降れ、しつかり降つてくれ。
寿さんの努力で後山がよく開拓されてある、土に親しむ生活、土を活かす職業、それが本当だ。
樹明兄が借して下さつた「井月全集」を読む、よい本だつた、今までに読んでゐなければならない本だつた、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい。
石地蔵尊、その背景をなしてゐた老梅はもう枯れてしまつて花木が植ゑてある、こゝも諸行無常を見る、一句手向けよう。
 あかつきのどこかで何か搗いてゐる
 朝風に竹のそよぐこと
 青田かさなり池の朝雲うごく
・朝風の青柿おちてゐて一つ
 おきるよりよい風のよい水をよばれた
   S家即事
 伯母の家はいまもちろ/\水がながれて
・水でもくんであげるほかない水をくみあげる
 風ふくふるさとの橋がコンクリート
 ふるさとのこゝにもそこにも家が建ち

 八月三日

風、雨、しみ/″\話す、のび/\と飲む、ゆう/\と読む(六年ぶりにたづねきた伯母の家、妹の家だ!)。
風にそよぐ青竹を切つて線香入をこしらへた、無格好だけれど、好個の記念品たるを失はない。
省みて疚しくない生活、いひかへればウソのない生活、あたゝかく生きたい。
東京からまた子供がやつてきた、総勢六人、いや賑やかなこと、東京の子は朗らかで嬉しい、姉――彼等の祖母――が生きてゐたら、どんなに喜ぶだらう!
東京の子が青紫蘇や茗荷の子を摘んでくれた、おいしかつた。
風雨なので、そして引留められるので、墓参を明日に延ばして、さらに一夜の感興を加へた。
・松もあんなに大きうなつて蝉しぐれ(勅使松)
・やつぱりおいしい水のおいしさ身にしみる
 うれしい雨の紫蘇や胡麻や茄子や胡瓜や

 八月四日

曇、どうやら風雨もおさまつたので、朝早く一杯いたゞいて出立、露の路を急いで展墓(有富家、そして種田家)、石古祖墓地では私でも感慨無量の体だつた、何もかもなくなつたが、まだ墓石だけは残つてゐたのだ。
青い葉、黄ろい花をそなへて読経、おぼえず涙を落した、何年ぶりの涙だつたらうか!
それから天満宮へ参拝する、ちようど御誕辰祭だつた、天候険悪で人出がない、宮市はその名の示すやうにお天神様によつて存在してゐるのである、みんなこぼしてゐた。
酒垂公園へ登つて瀧のちろ/\水を飲む、三十年ぶりの味はひだつた(おかげで被布をマヽの枝にひつかけて裂いたが)。
故郷をよく知るものは故郷を離れた人ではあるまいか。
東路君を訪ねあてる、旧友親友ほどうれしいものはない、カフヱーで昼飯代りにビールをあほつた、夜は夜でおしろいくさい酒をしたゝか頂戴した、積る話が話しても話しても話しきれない。
三田君にちよつと面接、斉藤さんへは電話で挨拶、いろ/\くいちがつたり、こんがらがつたりして、ゆつくり話しあふことが出来なかつたのは残念だつた、またの機会を待たう。
・ふるさとの蟹の鋏の赤いこと
・ふるさとの河原月草咲きみだれ
・蝉しぐれ、私は幸福である
・ふるさとの水だ腹いつぱい
・ふるさとの空の旗がはたはた
・ひさびさ雨ふりふるさとの女と寝る
・日向草の赤いの白いのたづねあてた
    □
・うぶすなの宮はお祭のかざり
・うぶすな神のおみくじをひく
    □ 展墓
・おもひでの草のこみちをお墓まで
 夏草、お墓をさがす
・すゞしくお墓の草をとる
 お墓の、いくとせぶりの夏草をぬく
    □ 追加
 みんなに話しかける青葉若葉のひかり

 八月五日

曇、眼がさめるとまたビールだ、かうしたアルコールはいくらのんでもよろしからう。
名残は尽きないけれど、東路君は勤人、私は行乞坊主なので、再会を約して別れる、八時の列車で小郡へ。――
農学校に樹明さんを訪ねる、いつもかはらぬ温顔温情の持主である、こゝでもまたビールだ、いかな私もビール巻マヽ鮨の方がうまかつた!
樹明さんの紹介で永平さんに初相見した、私たちの道の同行に一人を加へられたことを喜ぶ。
防府で、小郡で、その他で、山頭火後援会の会員が十口くらい出来たのは(いや出来るのは)うれしい。
学校として、農学校は好きだ、動物植物といつしよに学び、いつしよに働らいてゐるから。
樹明居の一夜は一生忘れることの出来ない印象を刻みつけた、酒もよい、肴もよい、家も人も山も風もみんなよかつた、冬村君もよかつた、君のおみやげの梅酒もよかつた、あゝよかつた、よかつた。
あんまり物みながよくて一句も出なかつた。

 八月六日

暁の雨は強かつた、明けても降つたり晴れたりで、とても椹野川へ鮒釣りに行けさうもないので、思ひ切つてお暇乞する、こゝでもまた樹明さんの厚意に涙ぐまされた、駅まで送つて貰つた。
何といろ/\さま/″\のお土産品を頂戴したことよ! 曰く茶卓、曰く短冊掛、曰く雨傘(しかも、それは其中庵の文字入だ)曰く何、曰く何、そして無論、切符から煙草まで、途中の小遣までも。
汽車と自動車だから世話はない、朝立つて昼過ぎにはもう宿にマヽどつた、一浴して一杯やつて、ごろりと寝た。
やつぱり、川棚の湯は私を最もよく落ちつかせてくれる、昨日、学校の廊下でマヽ椅子の上の昼寝もよかつたが、今日の、自分の寝床でのごろ寝もよかつた。
朝湯と昼寝と晩酌とあれば人生百パアだ!
・すゞしく自分の寝床で寝てゐる
・稲妻する夜どほし温泉を掘つてゐる

 八月七日

まだ雨模様である、我儘な人間はぼつ/\不平をこぼしはじめた。
此宿の老主人が一句を示す。――
蠅たゝきに蠅がとまる
山頭火、先輩ぶつて曰く。――
蠅たゝき、蠅がきてとまる
しかし、作者の人生観といつたやうなものが意識的に現はれてゐて、危険な句ですね、類句もあるやうですね、しかし、作者としては面白い句ですね、云々。
動く、秋意動く(ルンペンは季節のうつりかはりに敏感である、春を冬を最も早く最も強く知るのは彼等だ)。
山に野に、萩、桔梗、撫子、もう女郎花、苅萱、名もない草の花。
・秋草や、ふるさとちかうきて住めば
・子に食べさせてやる久しぶりの雨
・秋めいた雲の、ちぎれ雲の
焼酎一杯あほつたせいか、下痢で弱つた、自業自得だ。

 八月八日 川棚温泉、木下旅館。

立秋、雲のない大空から涼しい風がふきおろす。
秋立つ夜の月(七日の下弦)もよかつた。
五六日見ないうちに、棚の糸瓜がぐん/\伸んで、もうぶらさがつてゐる、糸瓜ういやつ、横着だぞ!
バラツク売家を見にゆく、其中庵にはよすぎるやうだが、安ければ一石二鳥だ。
今日はめづらしく一句もなかつた、それでよろしい。

 八月九日

朝湯のきれいなのに驚かされた、澄んで、澄んで、そして溢れて、溢れてゐる、浴びること、飲むこと、喜ぶこと!
野を歩いて持つて帰つたのは、撫子と女郎花と刈萱。
夜、椽に茶卓を持ちだして、隣室のお客さんと一杯やる、客はうるさい、子供のやうに(後記)。
よいお天気だつた、よすぎるほどの。
あゝあゝうるさい、うるさい、こんなにしてまで私は庵居しなければならないのか、人はみんなさうだけれど。
・炎天の電柱をたてようとする二三人
独身者は、誰でもさうだが、旅から戻つてきた時、最も孤独を体験する、出かけた時のまゝの物みなすべてが、そのまゝである、壺の花は枯れても机は動いてゐない、たゞ、さうだ、たゞ、そのまゝのものに雪がふつてゐる、だ。
当分、酒は飲まないつもりだつたが、何となく憂欝になるし、新シヨウガのよいのが見つかつたので、宿のおばさんに頼んで、一升とつてもらつた、ちようど隣室のお客さんもやつてこられたので、だいぶ飲んで話した、……ふと眼がさめたら、いつのまにやら、自分の寝床に寝てゐる自分だつた。

 八月十日

晴れて、さら/\風がふく、夏から秋へ、それは敏感なルンペンの最も早く最も強く感じるところだ。
昨日今日、明日も徴兵検査で、近接の村落から壮丁が多数やつて来てゐる、朝湯などは満員で、とてもはいれなかつた。
妙青寺の山門には『小倉聯隊徴兵署』といふ大きな木札がかけてある、そこは老松の涼しいところ、不許葷酒入山門といふ石標の立つところ、石段を昇降する若人に対して感謝と尊敬とを捧げる。
昨夜、酒を飲んだが(肴も食べて)何となく今朝は工合が悪い、私にはやつぱり禁慾生活がふさはしい。
酒を飲まなくなつたことは事実だ、正確にいへば、飲めなくなつたのだ、経済的でなく、肉体的乃至精神的なもののために、――よし、よし、これからは酒を飲む代りに本を読まう、アルコールよりカルモチンといふほどの意味で。
こゝでもそこでも子供が泣く、何とまあよく泣く子供だらう、私はまだ/\修行が足らない、とても人間の泣声を蝉や蛙や鳥や虫の鳴声とおなじには聞いてゐられないから、そして子供の泣声を聞くとぢつとしてはゐられない。
Sからの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少くとも彼女の心に悪意のない事はよく解つてゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もないといへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。
それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけてその一株を折つて戻つた、花こそいゝ迷惑だつた!
・やつぱりうまい水があつたよ(再録)
・蘭竹の葉の秋めいてそよぎはじめた
・別れてからもう九日の月が出てゐる
・去る音の夜がふかい
夕の散歩をする、狭い街はどこも青年の群だ、老人の侵入を許さなかつた。
真夜中、妙な男に敲き起された、バクチにまけたとか何とかいつて泊めてくれといふ、無論、宿では泊めなかつた、その時の一句が前記の最後の句である。

 八月十一日

コドモ朝起会の掃除日ださうで、まだ明けきらないうちから騷々しい、やがてラヂオ体操がはじまる、いやはや賑やかな事であります。
何となく穏やかならぬ天候である、颱風来の警報もうなづかれる、だが其中庵は大丈夫だよ。
若い蟷螂が頭にとまつた、カマキリ、カマキリ、ウラワカイカマキリに一句デヂケートしようか。
宿のおばさんが「あかざ」の葉をむしてゐる、あかざとはめづらしい、そのおひたし一皿いたゞきたい。
今日此頃は水瓜シーズンだ、川棚水瓜は名物で、名物だけの美味を持つてゐるさうだが(私は水瓜だけでなく、あまり水菓子を食べないから、その味はひが解らない)一貫十二銭、肥料代がとれないといふ、現代は自然的産物が安すぎる。
刈萱を活けた、何といふ刈萱のよろしさ!
今日は暑かつた、吹く風が暑かつた、しかし、どんなに暑くても私は夏の礼讃者だ、浴衣一枚、裸体と裸体とのしたしさは夏が、夏のみが与へる恩恵だ。
・朝焼すゞしいラヂオ体操がはじまりました
・炎天、まけとけまからないとあらそうてゐる

 八月十二日

曇、よいおしめりではあつた。
今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どん/\湯が流れて溢れてゐた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた。
緑平老から返信、それは珍品をもたらしたのである。
早速、小串町まで出かけて買物をする、両手にさげるほどの買物だ、曰く本、曰く線香、曰く下駄、曰く鍋、曰く何、曰く何、等、等、等。
南無緑平老菩薩! 十万三世一切仏、諸尊菩薩マヽ薩、摩訶般若波羅蜜。

 八月十三日

空晴れ心晴れる、すべてが気持一つだ。
其中庵は建つ、――だが――私はやつぱり苦しい、苦しい、こんなに苦しんでも其中庵を建てたいのか、建てなければならないのか。――
夏草ふかく自動車乗り捨てゝある夕陽

 八月十四日

朝から墨をすつて大筆をふりまはす、何といふまづい字だらう、まづいのはいゝ、何といふいやしい字だらう。
うれしいこゝろがしづむ、晴れて曇る!

 八月十五日

何といふ苦しい立場だらう、仏に対して、友に対して、私自身に対して。
やつぱりムリがあるのだ、そのムリをとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリか、ムリか、そのムリは私のすべてをつらぬいてながれてゐるのだ、造庵がムリなのぢやない、生存そのものがムリなのだ。
茗荷の子を食べる、かなしいうまさだつた。

 八月十六日

いよ/\秋だ、友はまだ来てくれない、私はいはゆる『昏沈』の状態に陥りつゝあるやうだ。
待つてゐる物が――それがなければ造庵にとりかゝれない物が来ない。
今日もやつぱり待ちぼけだつたのか。
・虫が鳴く一人になりきつた
・けさも青柿一つ落ちてゐて

 八月十七日

やつぱりいけない、捨鉢気分で飲んだ、その酒の苦さ、そしてその酔の下らなさ。
小郡から電話がかゝる、Jさんから、Kさんから、――来る、来るといつて来なかつた。
また飲む、かういふ酒しか飲めないとは悲しい宿命である。
・あてもない空からころげてきた木の実
此句には多少の自信がある、それは断じて自惚ぢやない、あてもないに難がないことはあるまいけれど(あてもないは何処まで行く、何処へ行かう、何処へも行けないのに行かなければならない、といつたやうな複雑な意味を含んでゐるのである)。

 八月十八日

近来にない動揺であり、そしてそれだけ深い反省だつた、生死、生死、生死、生死と転々した。
アルコールよりカルモチンへ、どうやらかういふやうに転向しつゝあるやうである、気分の上でなしに、肉体に於て。
待つ物来らず、ほんとうに緑平老に対してすまない、誰に対してもすまない。

 八月十九日

何事も因縁時節、いら/\せずに、ぢつとして待つてをれ、さうするより外ない私ではないか。
入浴、剃髪、しんみりとした気持になつて隣室の話をきく、あゝ母性愛、母といふものがどんなに子といふものを愛するかを実証する話だ、彼等(一人の母と三人の子と)は動物に近いほどの愛着を体感しつゝあるのだ。……
父としての私は、あゝ、私は一度でも父らしく振舞つたことがあるか、私はほんとうにすまなく思ふ、私はすまない、すまないと思ひつゝ、もう一生を終らうとしてゐるのだ。……

 八月廿日

やつと心気一転、秋空一碧。
初めてつく/\ぼうしをきいた、つく/\ぼうし、つく/\ぼうし、こひしいなあ。
いよ/\身心一新だ、くよ/\するな、けち/\するな、たゞひとすぢをすゝめ。

 八月廿一日

ほんとうに秋だ、何よりも肌ざわりの秋。
正さん(此宿の二男)と飲んだ、お嫁さんのお酌で、気持よく飲みあつた、ちと新家庭を妨げなかつたでもないらしい。
売家があるといふので問合にいつた。

 八月廿二日

今日も家の事で胸いつぱいだ、売家が二つ三つある、その一つが都合よければ、其中庵も案外早く、そして安く出来るだらう、うれしいことである。
逢うて別れる月が出た

 八月廿三日

何となく穏やかでない天候だつたが、それが此頃としては当然だが、私は落ちついて読書した。
旅がなつかしくもある、秋風が吹きはじめると、風狂の心、片雲の思が起つてくる、……しかし、私は落ちついてゐる、もう落ちついてもよい年である。
・咲いてしやくなぎのはな(改作)
此句は悪くないと思ふが、どうか知ら。

 八月廿四日

晴れてきた、うれしい電話がかゝつてきた、――いよ/\敬坊が今日やつてくるといふのである。
駅まで出迎に行く、一時間がとても長かつた、やあ、やあ、やあ、やあ、そして。――
友はなつかしい、旧友はとてもなつかしい、飲んだ、話した、酒もかういふ酒がほんとうにうまいのである。
・家をめぐる青田風よう出来てゐる

 八月廿五日

朝の散歩、そして朝の対酌、いゝですね!
彼は帰る、私に小遣までくれて帰る、逢へば別れるのだ、逢うてうれしや別れのつらさだ、早く、一刻も早く、奥さんのふところに、子供の手にかへれ。
自動車――バスはいやなものだよ、ゆれるばかりで、さうだ、ゆれるばかりだ。
朝の散歩で摘んできたのは毒薬草だつた、ウツグサとかいふのださうな、毒か薬か、毒即薬だ。
 一人となればつくつくぼうし
    □
・若葉に若葉がかさなつた(酒壺洞第二世出生)
残暑といふものを知つた、いや味つた。
アキアツクケツアンノカネヲマツ
 (秋暑く結庵の金を待つ)緑平老へ電報
夕方、S氏を訪ねる、これで三回も足を運んだのである、そして土地借入の保證を懇願したのである、そしてまた拒絶を戴いたのである、彼は世間慣れがしてゐるだけに、言葉も態度も堂に入つてゐる、かういふ人と対座対談してゐると、いかにも私といふ人間が、世間人として練れてゐないかゞよく解る、無理矢理に押しつける訳に行かないから、失望と反抗とを持つて戻つた。
夜、Kさんに前後左右の事情を話して、此場合何か便法はあるまいかと相談したけれど乗つてくれない(彼も亦、一種の変屈人である)。
茶碗酒を二三杯ひつかけて寝た。

 八月廿六日 川棚温泉、木下旅館。

秋高し、山桔梗二株活けた、女郎花一本と共に。
いよ/\決心した、私は文字通りに足元から鳥が立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。……
形勢急転、疳癪破裂、即時出立、――といつたやうな語句しか使へない。
其中庵遂に流産、しかしそれは川棚に於ける其中庵の流産だ、庵居の地は川棚に限らない、人間至るところ山あり水あり、どこにでもあるのだ私の其中庵は
ヒトモジ一把一銭、うまかつた、憂欝を和げてくれた、それは流転の香味のやうでもあつたが。
精霊とんぼがとんでゐる、彼等はまことに秋のお使である。
・いつも一人で赤とんぼ
今夜もう一夜だけ滞在することにする、湯にも酒にも、また人にも(彼氏に彼女に)名残を惜しまうとするのであるか。……

 八月廿七日 樹明居。

晴、残暑のきびしさ、退去のみじめさ。
百日の滞在が倦怠となつたゞけだ、生きることのむつかしさを今更のやうに教へられたゞけだ、世間といふものがどんなに意地悪いかを如実に見せつけられたゞけだつた、とにかく、事こゝに到つては万事休す、去る外ない。
けふはおわかれのへちまがぶらり(留別)
これは無論、私の作、次の句は玉泉老人から、
道芝もうなだれてゐる今朝の露
正さん(宿の次男坊)がいろ/\と心配してくれる(彼も酒好きの酒飲みだから)、私の立場なり心持なりが多少解るのだ、荷造りして駅まで持つて来てくれた、五十銭玉一つを煙草代として無理に握らせる、私としても川棚で好意を持つたのは彼と真道さんだけ。
午後二時四十七分、川棚温泉よ、左様なら!
川棚温泉のよいところも、わるいところも味はつた、川棚の人間が『狡猾な田舎者』であることも知つた。
山もよい、温泉もわるくないけれど、人間がいけない!
立つ鳥は跡を濁さないといふ、来た時よりも去る時がむつかしい(生れるよりも死ぬる方がむつかしいやうに)、幸にして、私は跡を濁さなかつたつもりだ、むしろ、来た時の濁りを澄ませて去つたやうだ。
T惣代を通して、地代として、金壱円だけ妙青寺へ寄附した(賃貸借地料としてはお互に困るから)。
・ふるさとちかい空から煤ふる(再録)
    □
 このツチのすゞしい風にうつりきて(小郡)
小郡へ着いたのが七時前、樹明居へは遠慮して安宿に泊る、呂竹さんに頼んで樹明兄に私の来訪を知らせて貰ふ、樹明兄さつそ来マヽて下さる、いつしよに冬村居の青年会へ行く、雑談しばらく、それからとう/\樹明居の厄介になつた。

 八月廿八日 小郡町柳井田、武波憲治氏宅裏。

朝から二人で出かける、ちようど日曜日だつた、この離座敷を貸していたゞいた(こゝの主人が樹明兄の友人なので、私が庵居するまで、当分むりやりにをいてもらふのだ)。
駅で手荷物、宿で行乞道具、運送店で荷物、酒屋で酒、米屋で米。
さつそく引越して来て、鱸のあらひで一杯やる、樹明兄も愉快さうだが、私はよつぽど愉快だ。
夜、冬村君が梅干とらつきようを持つて来て下さる、らつきようはよろしい。
一時頃まで話す、別れてから、また一時間ばかり歩く、どうしても寝つかれないのだ。
・墓へ藷の蔓
・秋風のふるさと近うなつた

 八月廿九日

厄日前後らしい空模様である、風のためにマヽまで動く、炊事、掃除、読書、なか/\忙しい。
諸方の知友へ通知端書を出す、三十幾つかあつて、ずゐぶん草臥れた。
入浴のついでに、市場でシユンギクとホウレンサウとを二把買つてきて、さつそく汁の実おひたしにして食べた、やつぱり菜食がよいと思ふ。
人のまこと友のなさけ――それを存分に味はひ味つた。
新居第一日は徹夜して朝月のある風景ではじまつた。
あせらずにゆう/\と生きてゆくこと。
・いちぢくの実ややつとおちついた(再録、改作すべし)
夜おそく、樹明兄来訪、友達と二人で。
いろ/\の友からいろ/\の品を頂戴した、樹明兄からは、米、醤油、魚、そして酒!
友におくつたハガキの一つ。――
何事も因縁時節と観ずる外ありませんよ、私は急に川棚を去つて当地へ来ました。
庵居するには川棚と限りませんからね。
こゝで水のよいところに、文字通りの草庵を結びませう、さうでもするより外はないから。
山が青く風が涼しい、落ちつけ、落ちつけ、落ちつきませう。
いつとなく、なぜとなく(むろん無意識的に)だん/\ふるさとへちかづいてくるのは、ほんとうにふしぎだ。
野を歩いて、苅萱を折つて戻つた、いゝなあ。
どこにもトマトがある、たれもそれをたべてゐる、トマトのひろまり方、たべられ方は焼芋のそれを凌ぐかも知れない、いや、すでにもう凌いでゐるかも知れない。
・風のトマト畑のあいびきで
 やうやう妻になりトマトもいでゐる
    □
 虫がこんなに来ては死ぬる

 八月三十日

風が落ちておだやかな日和となつた、新居三日目の朝である、おさんどんと坊主と、そして俳人としてのカクテル。
今日もまた転居のハガキをかく(貧乏人には通信費が多すぎて困る、といつて通信をのぞいたら私の生活はあまりに殺風景だ)。
樹明兄から、午後一時庵にふさはしい家を見に行かう、との来信、一も二もなく承知いたしました。
大田の敬坊(坊は川棚温泉に於ける私を訪ねてくれた最初の、そして最後の友だつた)から、ありがたい手紙が来た、それに対して、さつそくこんな返事をだしてをいた。――
……私もいよ/\新らしい最初の一歩(それは思想的には古臭い最後の一歩)を踏みだしますよ、酒から茶へ――草庵一風の茶味といつたやうな物へ――山を水を月を生きてゐるかぎりは観じ味はつて――とにもかくにも過去一切を清算します。……
また買物、即ち、バケツ、ゴマイリ、ゴトク、ヒバシ、等、等、一人でも世帯は世帯、一世帯としてのあれやこれやが苦労する、それも誰ゆえ、みんな私自身ゆえ!
酒飲みに酒が飲めなくなり、放浪者が放浪をやめると、それはもう生命がなくなるのではあるまいか。
警戒せよ、石古祖イシゴソ(私に残された墓地)が近いぞ。
酒飲みは酒飲めよ、酒は甘露だ、涙でもなければ溜息でもない、さうだ、酒は酒だ、飲めば酔ふのだ。
樹明兄に連れられて、山麓の廃屋を見るべく出かけた、夏草ぼう/\と伸びるだけ伸んでゐるところに、その家はあつた、気にいつた、何となく庵らしい草葺の破宅である、村では最も奥にある、これならば『其中庵』の標札をかけても不調和なところはない、殊に電燈装置があつたのは、あんまり都合がよすぎるよ。
帰途、冷たいビール弐本、巻鮨一皿、これだけで二人共満腹、それから水哉居を訪ねる(君は層雲派の初心晩学者として最も真面目で熱心だ)。
樹明兄の人柄が渾然として光を放つた、その光に私はおぼれてゐるのではあるまいか。
其中庵、其中庵、其中庵はどこにある。
廃屋から蝙蝠がとびだした、私も彼のやうに、とびこみませう。
水哉居でよばれた酢章魚はほんとうにおいしかつた、このつぎは鰒だ。
ふけてから、ばら/\と雨の音。
・稲妻する過去を清算しやうとする
今夜は寝つかれさうだ、何といつても安眠第一である、そして強固な胃袋、いひかへれば、キヤンプをやるやうなもので、きたないほど本当だ。

 八月三十一日

曇后晴。
四時半起床、朝食七時、勤行八時、読書九時、散歩十一時、それから、それから。――
裸体で後仕舞をしてゐたら、虫が胸にとまつた、何心なく手で押へたので、ちくりと螫された、蜂だつたのだ、さつそく、こゝの主人にアンモニヤを塗つて貰つたけれど、少々痛い。
駅まで出かけて、汽車の時間表をうつしてくる、途上で野菜を買ふ、葱一束二銭也(この葱はよくなかつた)。
川棚から小郡へきた時、私の荷物は三個だつた、着物と書物とで竹行李が一つ、蒲団と机とで菰包が一つ、外に何やら彼やらの手荷物一つである、ずゐぶん簡単な身軽だと思つてゐたのに、樹明兄は、私としてはそれでも荷物が多過ぎるといふ、さういへばさうもいはれる。
ざーつと夕立がきた、すべてのものがよろこんでうごく、川棚では此夏一度も夕立がなかつたが。
・ひとりゐて蜂にさされた
 雨の蛙のみんなとんでゐる
午後、樹明さんが黒鯛持参で来訪(モチ、銘酒註文)、ゆつくり飲む、夕方、山口まで進出して周二居を驚かす、羨ましい家庭であつた、理解ある母堂に敬意を表しないではゐられなかつた。
それから――それからがいけなかつた、徹宵飲みつゞけた、飲みすぎ飲みすぎだ、過ぎたるは及ばざるにしかず、といふ事は酒の場合に於て最も真理だ、もう酒には懲りた、こんな酒を飲んでは樹明さんにすまないばかりでなく世間に対しても申訳ない、無論、私自身に対し、仏陀に対しては頭を石にぶつけるほどの罪業だ。
我昔所造諸マヽ業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、――ほんとうに懺悔せよ。

 九月一日

朝の汽車でいつしよに戻る、そして河へ飛びこんで泳いだ、かうでもしなければ、身心のおきどころがないのだ、午後また泳いだ、六根清浄、六根清浄。
二百十日、大震災記念日、昨日の今日だ、つゝましく生活しよう。
今日も夕立がきた、降れ降れ、流せ流せ、洗へ洗へ、すべてを浄化せよ。
・後悔の朝の水を泳ぎまはる
 ちんぽこにも陽があたる夏草(或はまらか)
    □
・いやなおもひでのこぼれやすいはなだ(改作)
・朝月にこほろぎの声もととなうた
とにかく、更生しなければ、私はとても生きてはゐられない、過去一切のマヽ習を清算せずにはゐられなくなつた。

 九月二日

おだやかな雨、ことに昨夜は熟睡したので、のび/\とした気分であつた。
四時に起きて五時に食べ六時には勤行もすました、この調子で其中庵生活は営まれなければならない。
発熱倦怠、身心が痛む、ぢつとしてゐると、ついうと/\とする、甘酸つぱいやうな、痛痒いやうな気分である、考へるでもなく考へないでもなく、生死の問題が去来する、……因縁時節はどうすることも出来ない、生死去来は生死去来だ、死ぬる時は死ぬる、助かる時は助かる。……
事実を活かす飛躍よりも漸進、そして持続
快い苦しみ、苦しい快さ(今日一日の気分はかうだつた)。
夕方、樹明さんに招かれて、学校の宿直室で十一銭のお辨当をよばれる、特に鶏卵が二つ添へてある、飯盒を貰つて戻る、御飯蒸器では(飯釜を持たないから)どうも御飯の出来栄がよろしくないので。
ごろりと横になつて、襖の文字を読む、――一関越来二処三処、難関再来一関覚悟、――此家の主人が若うして不治の疾にとりつかれたとき書きつけたのださうな。
 いちじくの実や、やつとおちついた
・ゆふべは雨ふる蓮を掘る

 九月三日

今朝も早かつた、四大不調は不思議に快くなつた、昨夜、樹明さんからよばれたタマゴがきいたのかも知れない、何しろ、薬とか滋養物とかいふものがきゝすぎるほどきく肉体の持主だから。
夕立がきた、夕立を観ず、といつたやうな態度だつた。
午後、周二さん来訪、予期しないでもなかつた、間もなく敬治君も来訪、予期したやうに、そして樹明兄は間違なく来訪。
汽車辨当で飲んだ、冬村君もやつてきて、小郡に於ける最初の三八九会みたいだつた。
よい雨、よい酒、よい話、すべてがよかつた、しかし一人去り二人去り三人去つて、私はまた独りぼつちになつた、かういふ場合には私だつてやつぱり寂しい、いや人並以上に寂しいのだ、それをこらへて寝た、夢のよくなかつたのは当然である。
・こばまれて去る石ころみちの暑いこと(川棚温泉留別二句の内)

 九月四日

雨、よう降りますね、風がないのは結構ですね。
午前は、樹明さん、敬治さん、冬村さんと四人連れで、其中庵の土地と家屋とを検分する、みんな喜ぶ、みんなの心がそのまゝ私の心に融け入る。……
午後はまた四人で飲む、そしてそれ/″\の方向へ別れた。
夕方から夕立がひどかつた、よかつた、痛快だつた。
さみしい葬式が通つた。
私はだん/\涙もろくなるやうだ(その癖、自分自身に対しては、より冷静になる)。
飯盒の飯はうまい、しかしこれは独身のうまさだ。
故郷へ一歩近づくことは、やがて死へ一歩近づくことであると思ふ。
――孤独、――入浴、――どしや降り、雷鳴、――そして発熱――倦怠。
私はあまりに貪つた、たとへば食べすぎた(川棚では一日五合の飯だつた)、飲みすぎた(先日の山口行はどうだ)、そして友情を浴びすぎてゐる。……
かういふ安易な、英語でいふ easy-going な生き方は百年が一年にも値しない。
あの其中庵主として、ほんとうの、枯淡な生活に入りたい、枯淡の底からこん/\として湧く真実を詠じたい。
 いつも尿する木の実うれてきた
 秋雨の枝をおろし道普請です
・雨ふるふるさとははだしであるく

 九月五日

曇、どうやらかうやら晴れさうである。
つゝましい、あまりにつゝましい一日であつた、釣竿かついで川へ行つたけれど。――
けふは鮠二つ釣つて焼いて食べて
彼から返事が来ないのが、やつぱり気にかゝる、こんなに執着を持つ私ではなかつたのに!
ふと見れば三日月があつた、それはあまりにはかないものではなかつたか。――
・三日月よ逢ひたい人がある(彼女ぢやない、彼だ)
 待つともなく三日月の窓あけてをく(彼のために)
この窓は心の窓だ私自身の窓だ。
・三日月、遠いところをおもふ
・いつまで生きる三日月かよ
・三日月落ちた、寝るとしよう
どうしても寝つかれない、いろ/\の事が考へられる、すこし熱が出てからだが痛い、また五位鷺が通る。
とぶ虫からなく虫のシーズンとなつた、虫の声は何ともいへない、それはひとりでぢつと聴き入るべきものだ。
味覚の秋――春は視覚、夏は触覚、冬は聴覚のシーズンといへるやうに――早く松茸で一杯やりたいな。
先日は周二さんが果実一籠をお土産として下さつた、そしてみんなで頂戴した、私の食卓にデザートがあるとは珍らしかつた、といふ訳で。
・木の実草の実みんなで食べる
トマトからイチヂクへ、といへないこともなからう、どこの畠にもトマトがすがれてをり、そこにもこゝにもイチヂクが色づきつゝある。

 九月六日

三時になるのを待つて起きた、暫時読書、それから飯を炊き汁を温める。……
気分がすぐれない、すぐれない筈だ、眠れないのだから。
昨日は誰も訪ねて来ず、誰をも訪ねて行かなかつた、今朝は樹明さんが出勤途上ひよつこり立ち寄られた、其中庵造作の打合せのためである、いつもかはらぬ温顔温情ありがたし、ありがたし。
夕立、入浴、そして鮠釣、今日は十五尾の獲物があつた、さつそく焼いて焼酎を傾けた、考へてみれば、人間ほど無慈悲で得手勝手なものはない、更にまた考へてみれば、朝の水で泳ぎ遊んでゐた魚が、昼にはもう殺されて私の腹中におさまつてゐる、無常とも何ともいひやうがない。
小郡には蓮田が多い、経済的に利益があるためであらうか、その広い青葉をうつ雨の音は快いものだ。
肌寒くなつた、掛蒲団なくては眠れなくなつた、これ私マヽのやうな貧乏な孤独人はキタヱられるのである。
 晴れてよい日の種をまく土をまく
・子のないさみしさは今日も播いてゐる
・夕月に夕刊がきた
    □
・まがつた風景そのなかをゆく(再録)
夜は樹明、冬村の二兄来庵、話題は例によつて、其中庵乃至俳句の事、渋茶をがぶ/\飲むばかりお茶うけもなかつた。
今日うれしくも酒壺洞君から書留の手紙がきた、これで山頭火後援会も終つた訳だ(決算はまだであるが)、改めて、私は発起賛同の諸兄に感謝しなければならない、殊に緑平老の配慮、酒壺洞君の斡旋に対して。

 九月七日

朝、天地清明を感じた、いはゆる秋日和である、寒いほどの冷気だつた。
午前は郵便局まで出かけた、途中いろ/\の品物を買つた、今日に限つたことではないが、小郡の商人はサービスといふことを知らない、言葉は知つてゐようけれど、その意味を知らないといつても過言ではない、何といふ愛想の缺乏だらう、彼等は知人と他人とをあまりに明瞭に区別する、買物高の多少によつて挨拶も扱別も違ふ、等、等(私の接触した限りに於て、そして類推した限りに於て)。
前が酒屋で、隣が豆腐屋、これがこの家の位置だ、端唄のほとゝぎすとは何といふ相違だらう!
夕方の途上で泊客を見たら、何と綺麗だつたらう、新秋、二人相携へて箱根へゆく、――そして彼等の会話、――冷たいわねえ、いゝ時候ですわね――モチ、私の白日夢の一片である、ハ、ハ、ハ。――
午後はまた魚釣に出かけた、一時間ほど、今日の獲物は本当の雑魚七尾(其内訳は鮠二、ドンコ二、ニゴヅ三、そしてドンコの一は川で洗ふ時ツルリと逃げた、何といふ幸運なドンコだつたらう)それをコリ/\焼(これは私だけの術語で、小魚を丹念に遠火で焼き、噛めばコリ/\音がするまで焼きあげるのである、ちつとも腥くない、それだけ味は劣るが)にして焼酎を一杯やつた、うまかつた、所謂、ほろ/\とろ/\の境である。
食後、夕べの散歩がてら樹明居へ推参、案の如く不在、一時間ばかり待つたが、待ちきれないで帰る、途中ヒヨツコリ樹明さんと逢ふ、樹明さんは私の所で私を待つてゐて、待ちきれないで帰つて来たのだといふ、二人が別々に二人を待つてゐたのだつた、これも人生の一興たるを失はない。
初めて樹明さんの労働姿を見た、初めて樹明さんの父君と話した、此父にして此子あり、此子にして此父あり、すつかり信服した、大人の風格があるとでもいはうか。
樹明さん再度来訪、何だか嬉しくて飲みはじめた、一時頃別れる、二人ともかなり酔うてゐた。
今日の午後は、樹明さんと冬村君とが、いよ/\例の廃屋を其中庵として活かすべく着手したとの事、草を刈り枝を伐り、そしてだん/\庵らしくなるのを発見したといふ、其中庵はもう実現しつつあるのだつた、何といふ深切だらう、これが感泣せずにゐられるかい。
明日は私も出かけて手伝はう、其中庵は私の庵ぢやないみんなの庵だ
樹明さんからの贈物、――辛子漬用の長茄子、ニンヂンのまびき菜、酒と罐詰。
真昼の茶碗が砕けた、ほがらかな音だつた、真夜中の水がこぼれた、しめやかにひろがつた。……
・汲みあげる水のぬくさも故郷こひしく
・枯れようとして朝顔の白さ二つ
 石地蔵尊その下で釣る
・暮れてとんぼが米俵編んでゐるところ
・灯かげ月かげ芋の葉豆の葉(改作)
一つ風景――親牛仔牛が、親牛はゆう/\と、仔牛はちよこ/\と新道を連れられて行く、老婆が通る、何心なく見ると、鼻がない、恐らくは街の女の成れの果だらう、鐘が鳴る、ぽか/\と秋の陽が照りだした、仰げばまさに秋空一碧となつてゐた。……

 九月八日

酔中、炊いたり煮たり、飲んだり食べたりして、それを片付けて、そのまゝごろ寝したと見える、毛布一枚にすべてを任しきつた自分を見出した。
雨がをり/\ふるけれど、何となくほゝゑまれる日だ。
彼が変人だつたといふことが彼を不幸にしたのである、彼が悪人又は畸人であつたならば、あゝまで不幸にはならなかつたらう(変人の多くは厭人だから)。
其中庵へ行つた、屋根の茸替中だつた[#「茸替中だつた」はママ]、見よ、其中庵はもう出来てゐるのだ、夏草も刈つてあつた、竹、黄橙、枇杷、マヽ柑、柿、茶の木などが茂りふかく雨にしづもり立つてゐた。……
米はKさんが、塩はIさんがあげます、不自由はさせませんよといつて下さる、さて酒は。――
百舌鳥の最初の声をきいた、まだ秋のさけびにはなつてゐない。
辛子漬をするために、壺、鉢、塩などを買ふ、大根も買つた、久しぶりに大根おろしが食べられる。
塩は安い、野菜も安い、高いのは酒である。
こゝの人々――家主の方々、殊に隣家の主人――は畑作りが好きで、閑さへあれば土いぢりをしてゐる、見てゐて、いかにも幸福らしく、事実また幸福であるに違ひない、趣味即仕事といふよりも仕事即趣味だから一層好ましい。
けさ播いてゆふべ芽をふく野菜もある、昨日播いたのに明日でなければ芽ふかないのもあるといふ、しよつちゆう、畑をのぞいて土をいぢつて、もう生えた、まだ生えないとうれしがつてゐる、私までうれしくなる。
どうも枕がいけない、旅ではずゐぶん枕のために苦労した、枕のよしあし、といふよりもすききらひが私の一日、いや一生を支配するのである!
・日照雨ぬれてあんたのところまで
 ふつたりはれたり傘がさせてよろこぶ子
・鳴いてきてもう死んでゐる虫だ
    □
・さみしうてみがく
ひとりがさみしうなると、私はキツパチをみがいてゐる、だからキツパチのツヤ即ワタシのサミシサである。
いろんな虫がくる、今夜はこほろぎまでがやつてきて、にぎやかなことだつた。

 九月九日

相かはらず降つてゐる、そしてとう/\大雨になつた、遠雷近雷、ピカリ、ガランと身体にひゞくほどだつた、多分、どこか近いところへ落ちたのだらう。
午後は霽れてきた、十丁ばかり出かけて入浴。
畑を作る楽しみは句を作るよろこびに似てゐる、それは、産む、育てる、よりよい方への精進である。
出家――漂泊――庵居――孤高自から持して、寂然として独死する――これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型(生活様式)の一つだ。
魚釣にいつたが一尾も釣れなかつた、彼岸花を初めて見た。
夕方、樹明兄から珍味到来、やがて兄自からも来訪、一升買つてきて飲む、雛鶏はうまかつた、うますぎた、大根、玉葱、茄子も、そして豆腐も。
生れて初めて、ナマの鶏肉(肌身)を食べた、初めて河豚を食べたときのやうな味だつた。
Comfortable life 結局帰するところはこゝにあるらしい。
・起きるより土をいぢつてゐるはだか
 ひとり住めば雑草など活けて
・こほろぎがわたしのたべるものをたべた
・くりやまで月かげのひとりで
・月の落ちる方へ見送る
・あさあけ、うごくものがうごくものへ
・蚯蚓が半分ちぎれてにげたよ
    □
・水のながれの、ちつとも釣れない
 水草さいてゐるなかへ釣針ハリをいれる

 九月十日

とう/\徹夜してしまつた、悪い癖だと思ふけれど、どうしてもやまない、おそらくは一生やまないだらう、ちようど飲酒癖のやうに。
こゝまで来たらもう仕方がない、行けるところまで行かう。
夜が明ける前の星はうつくしい、星はロマンチツクだ、星を眺めることを人間が忘れないかぎり、人生はうつくしい。
こほろぎがいろ/\の物をたべるには驚いた、胡瓜、茄子、さゝげ、大根、玉葱までたべてゐる、私のたべるものはこほろぎもたべる、彼等は私に対して一種の侵入者だつた!
過ぎたるは及ばざるに如かず――まつたくさうだ、朝もかしわ、昼もかしわ、晩もまたかしわだ、待人不来、我常独在、御馳走がありすぎた!
どうやらかうやらお天気らしい、風呂にいつて髯を剃り、財布をはたいて買物をした。
身辺に酒があると、私はどうも落ちつけない、その癖あまり飲みたくはないのに飲まずにはゐられないのである、旦浦で酒造をしてゐる時、或る酒好老人がいつたことを思ひだした、――ワシは燗徳にマヽ酒が残つてをつてさへ、気にかゝつて寝られないのに、何と酒屋は横着な、六尺の酒桶コガを並べといて平気でゐられたもんだ、――酒に『おあづけ』はない!
・朝の水で洗ふ
・樹影雲影に馬影もいれて
 こゝでしばらくとゞまるほかない山茶花の実
・草を刈り草を刈りうちは夕餉のけむり
・夕焼、めをとふたりでどこへゆく
・いつさいがつさい芽生えてゐる
樹明さんと夕飯をいつしよに食べるつもりで、待つても待つてもやつてきてくれない(草刈にいそがしかつたのだ)、待ちくたびれて一人の箸をとつた、今晩の私の食卓は、――例のかしわ、おろし大根、ひともじと茗荷、福神漬、らつきよう、――なか/\豊富である、書き添へるまでもなく、そこには儼として焼酎一本!
食事中にひよつこりと清丸さん来訪、さつそく御飯をあげる(炊いてはおそくなるから母家で借りる)、お行儀のよいのに感心した、さすがに禅寺の坊ちやんである。
今夜は此部屋で十日会――小郡同人の集まり――の最初の句会を開催する予定だつたのに、集まつたのは樹明さん、冬村さんだけで(永平さんはどうしたのだらう)、そして清丸さんの来訪などで、とう/\句会の方は流会となつてしまつた、それもよからうではないか。
みんなで、上郷駅まで見送る、それ/″\年齢や境遇や思想や傾向が違ふので、とかく話題がとぎれがちになる、むろん一脉の温情は相互の間を通うてはゐるけれど(私としては葡萄二房三房あげたのがせい/″\だつた)。
     送別一句
また逢ふまでのくつわ虫なく(駅にて)
焼酎のたゝりだらう、頭が痛んで胃が悪くなつた、じつさい近頃は飲みすぎてゐた、明日からは慎まう。

 九月十一日

曇、夕方から雨、ほんとうに今年は風が吹かない。
ふつと眼がさめたのが四時、そのまゝ起きる、御飯をたいて御経をあげて、そしたらやつと夜が明けた。
昨日、隣家の店員から貰つた鶏頭を活ける、野趣横溢、日本式の鶏頭は好きだ。
彼は与へすぎる、私は受けすぎる、与へて情におもねるなかれ、受けて恩になれるなかれ。
しんじつ、けさの御飯はおいしかつた。
中領八幡宮へ参詣する、あまり好意は持てない。
郡市主催の蓄産共進会[#「蓄産共進会」はママ]見物、馬と牛と人とが、こゝでは、少くとも、同権同勢だ、マヽ並のうつくしさ、動物の若さのほがらかさ。
産地熊本県と名札にかいてあるのにも郷愁に似たものをそゝられました。
昼寝でいやな、といふよりも、きたない夢をみた。
樹明さんが、鮒のあらいを芋の葉につゝんで草刈そのままの服装で持つてきて下さつた、たいへんうれしかつた。
清丸さんを見てから、しきりに彼の事が気にかゝる、彼が私の生活にこんなにもくひいつてゐようとは予期しなかつた、それは彼が彼の生活にくひいつてゐないやうに。
私はどんづめのどたんばでは落ちついてゐるだらう、本来無一物でなくて、即今無だから!
私のつけた辛子漬カラシヅケはうまい、それは必ずしも辛子代、私の手間代、彼の労力に対してではない。
よい釣場を見つけたが、雑魚一ぴきも釣れなかつた。
案山子二つ、一つは赤い、一つは白い着物をきてゐた、赤い、……白い。……
あれやこれやと考へまはしてゐるうちに、すこしセンチになつた、そのためでもなからうが、――クシとブトウ!
今日は暑かつた、むしあつかつた、ぢつとしてゐて、『一番つまらないのが百姓』である話を聴いた。
といつたつて、そのせいでもあるまいが、私は野菜と肉類らしくない肉類を味つてゐる、あれもよし、これもよし、それでさつぱすマヽる。
 雑草めい/\の花を持ち百姓
 お祭ちかい秋の道を掃いてゆく
 かつちり時間あつてゐる曇の日のドン
 萩の一枝に日がある
 曇り、時計赤い逢ふ
・とかくして秋雨となつた
雨、こほろぎ(彼の納所坊主でもたづねますか)。
食べるものが無くなつてくるから、松茸、うまからう。
       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
降つてゐる、鳴いてゐる、けさも早かつた。
昨日の日記を読んで驚いた、それは夢遊病者の手記みたいだつた(前半はあれでもよからう)、アルコールの漫談とでもいはうか、書かなくてもよい事が書いてある代りに、書かなければならない事が書いてない、どうせ反古になるのだから、どうでもよいやうなものゝ、このまゝにしてをくことは私の潔癖が許さない。
事実そのものはかうである。――
今日は魚釣にゆかうかとも思つてゐたが、読書することに心が傾いたので読書してゐた、しかし何としても頭がいたいので、夕方、それは四時すぎだつた、ぶらりと釣竿と魚籠ビクとを持つて出かけた、そして草の上の樹蔭によい場所があつたので、そこへしがマヽんで、釣ることよりも考へることをつゞけてゐた、ちつとも釣れない、やうやく雑魚一尾釣りあげたきりなので、見切をつけて戻つてくる、樹明さんが待つてゐた、草刈の寸暇をぬすんで(草刈男、墓刈番は[#「墓刈番は」はママ]こちらにあります)、鮒の洗身を持つてきて下さつた。
やあ、やあで十分である、それだけで一切が通じる、草刈姿と芋の葉と鮒、――日本的百パアである。
例によつて一杯のんだ(焼酎二合)、そして別れた。
……ふと眼がさめて見たら十時半だつた、本式に寝て、二度目の眼がさめたのが四時、それからそれへ。……
昨夜、樹明兄を見送つて、日記を書きはじめたのは覚えてゐる、書いてゐるうちに前後不覚になつたらしい。
意識がなくなる、といつては語弊がある、没意識になるのである(それは求めて与へられるものぢやない、同時に、拒んで無くなるものでもない)。
その日記を通して自己勘検をやつてみる。
案山子二つ、……赤いとあるだけではウソだ。
その前のところに、――即今無――とある、無意味だ、といふよりも缺陥そのものだ、無無無といつた方がよいかも知れない、とにかくムーンだから!
辛子漬カラシヅケ云々は、私といふ人間が御飯ぐらゐは炊けることを証明した事実である。
雑草の句の下の文句が百姓とあるのは、用意のない嫌味だ、それだけに却つて嫌味たつぷり。
お祭の句なんどは全然問題にならない。
その他の句は、長門峡とか、時計とか赤いとか、何とかかとかうるさいばかりだ。
昨日の今日で頭がわるくない、痔もわるくない、腹も胃も、手も足も、――あゝすこしばかり行乞流転したい。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   改
 お祭ちかい朝の道を大勢で掃いてゆく
・萩の一枝にゆふべの風があつた
 曇り日の時計かつちりあつてゐる
 案山子、その一つは赤いべゞ着せられてゐる
   改訂再録
・とかくして秋雨となつた
 鶏頭の赤さ並んでゐる
・咲いて萩の一枝に風がある
 けふからお祭の朝の道みんなで掃く(改)
・芋の葉でつゝんでくれた小鮒おいしい

 九月十二日

晴曇不定、厄日前後らしい天候である。
昨夜は蚊帳を吊らなかつた、昼でも障子を締めてをく方がよい時もある。
自己勘検は失敗だつた、裁く自己が酔ふたから!
樹明兄から米を頂戴した、これで当分はヒモじい目にあはないですむ、ありがたや米、ありがたや友。
――自己を欺かない、といふことが頻りに考へられた、一切の人間的事物はこれを源泉としなければならない。
古浴衣から襦袢一枚、雑巾二枚を製作した。
夕ぐれを樹明来、蒲鉾一枚酒一本で、とろ/\になつた。
今日の水の使用量は釣瓶で三杯(約一斗五升)。
近来少し身心の調子が変だ、何だかアル中らしくもある(たゞ精神的に)。
今夜も楽寝だつた。

 九月十三日

起きたい時に起き、寝たい時に寝る、食べたくなれば食べ、飲みたくなれば飲む(在る時には――である)。
今日は三時起床、昨夜の残滓を飲んで食べる。
何といつても朝酒はうまい、これに朝湯が添へば申分なし。
今朝の御飯はよく炊けた(昨朝の工合の悪さはどうだつた)。
よく食べた、そして自分の自炊生活を礼讃した、その一句として、一粒一滴摂取不捨
めづらしい晴れ、とき/″\しぐれ、好きな天候。
摘んできて雑草を活ける、今朝は露草、その瑠璃色は何ともいへない明朗である。
母家の若夫婦は味噌を搗くのにいそがしい、川柳的情趣。
白船老から来信、それは私に三重のよろこびをもたらした、第一は書信そのもの、第二は後援会費、第三は掛軸のよろこびである。
蛇が蛙を呑んだ、悲痛な蛙の声、得意満面の蛇の姿、私はどうすることもできない、どうすることはないのだ!
廃人が廃屋に入る、――其中庵の手入は日にまし捗りつゝあると、樹明兄がいはれる、合掌。
昼御飯をたべてから、海の方へ一里ばかり歩いて、五時間ほど遊んだ、国森さんの弟さんに逢ふ(必然の偶然とでもいはうか)、蜆貝をとつてきて一杯やる。
夜、樹明兄来庵、ちよんびり飲んでから呂竹居へ、呂竹老は温厚そのものといへるほど、落ちついた好々人である、楽焼数点を頂戴する、それからまた二人で、何とかいふ食堂で飲む、性慾、遊蕩癖、自棄病が再発して困つた、やつと抑へつけて、戻つて、寝たけれど。――
女房といふものは、たとへば、時計に似たところがある、安くても、見てくれはよくなくても、きちんとあつてをればよろしい、困るのは故障の多い品、時計屋をよろこばせて亭主は泣く、ヒチリケツパイ。
・夜あけの星がこまかい雨をこぼしてゐる
・鳴くかよこほろぎ私も眠れない
 星空の土へ尿する
・並木はるかに厄日ちかい風を見せてゐる
 秋晴れの音たてゝローラーがくる
    □
・二百二十日の山草を刈る
    □
・秋の水ひとすぢの道をくだる
 すわればまだ咲いてゐるなでしこ
・かるかやへかるかやのゆれてゐる
 ながれ掻くより澄むよりそこにしゞみ貝
・水草いちめん感じやすい浮標ウキ
    □
 月がある、あるけばあるく影の濃く
  追加三句
 おもたく昼の鐘なる
 子を持たないオヤヂは朝から鳩ぽつぽ
・こほろぎよ、食べるものがなくなつた
いやな夢ばかり見てゐる。……
唖貝(煮ても煮えない貝)はさみしいかな。
根竹の切株を拾ふ、それはそのまゝ灰皿として役立つ。
・別れて月の道まつすぐ

 九月十四日

晴、多少宿酔気味、しかし、つゝましい一日だつた。
身心が燃える(昨夜、脱線しなかつたせいかも知れない、脱線してもまた燃えるのであるが)、自分で自分を持てあます、どうしようもないから、椹野川へ飛び込んで泳ぎまはつた、よかつた、これでどうやらおちつけた。
菜葉二銭、半分は煮て食べ、半分は塩漬にした(私はあまり芋類豆類を好かない)。
漬物石の代りには、一升徳利に水を詰めたのがよろしい、軽重自在、ぴつたりしてゐる。
お祭の旗や提灯がちらほら見える。
あゝ、雑草のうつくしさよ、私は生のよろこびを感じる。
そこの柿の木にいつも油蝉がゐる、まいにち子供がきてはとる、とつてもとつても、いつもゐる、不思議な気がする。
いつもリコウでは困る、時々はバカになるべし(S君に)。
イヤならイヤぢやとハツキリいふべし、もうホレタハレタではない(彼女に)。
大きな乳房だつた、いかにもうまさうに子が吸うてゐた、うらやましかつた、はて、私としてどうしたことか!
・九月十四日の水を泳ぐ
・秋の雑草は壺いつぱいに
昨夜はほんとうにあぶないところだつた、また小郡を去らなければならないやうになつたかも知れない、おかげで――樹明さんのおかげ、仏様のおかげ、何かのおかげで助かつた。
彼此一時、あれもよし、これもわるくない。
今日の雑草は野撫子だつた、その花の色のよろしさ、「日本」そのものを見るやうだ。
一昨夜から蚊帳をやめたが、のう/\した気持である、蚊帳は封建的なところがある(便所のやうに)、それは人をして差別的ならしめて圧迫を加へる、と感じるのは私だけだらうか。
月がよくなつた、蚊もゐなくなり、灯による虫も少くなかつた、暑くなし寒くなし、まことに生甲斐のあるシーズンとなつた、かうしてぶら/\してゐるのが勿躰ないと思ふ。
新町はお祭、四十八瀬川のほとりに組み立てられたバラツクへ御神輿が渡御された、私も参拝する、月夜、瀬音、子供の群、みんなうれしいものだつた。
此頃はよく夢を見るが(私は夢中うなるさうな、これは樹明兄の奥さんの話である)、昨夜の夢なんかは実に珍妙であつた、それは或る剣客と果し合ひしたのである、そして自分にはまだまだ死生の覚悟がほんとうに出来てゐないことを知つた。
夢は自己内部の暴露である。
今日は誰にも逢はなかつた、自己を守つて自己を省みた、――私は人を軽んじてゐなかつたか、人を怨んでゐなかつたか、友情を盗んでゐなかつたか、自分に甘えてゐなかつたか、私の生活はあまりに安易ではないか、そこには向上の念も精進の志もないではないか。――
 月夜の水を汲ましてもらふ
・月かげひとりの米とぐ
 月の落ちる山の灯ちんがり
・どかりと山の月おちた
 月おちた大空のしらみくる
 月おちて風ふく
・月が落ちる山の鐘鳴りだした
    □
 月へあけはなつ
・朝月がある雑草を摘む
・朝月に誰やら拍手鳴らしてゐる

 九月十五日

晴、時々曇る、満月、いはゆる芋名月、満洲国承認の日、朝五時月蝕、八幡祭礼、肌寒を感じる。
昼、ばら/\としぐれた、はじめてしぐれの風情を味ふ。
今日の雑草は夏水仙といふ花、その白いのがうれしい(これは雑草でなくて、どこかのこぼれ種らしい、川土手で摘んだが)。
酒壺洞君から、もつと強くなれと叱られた、たしかに私は弱気だ、綺語を弄すれば、善良な悪人だ。
八幡宮の御神幸をこゝから遙拝する、追憶は三四十年前の少年時代にかへる、小遣銭を握りしめて天神様へ駈けてゆく自分がよみがへつてくる。……
蓮芋一茎をもらつて、そのまゝ食べた。
憂欝な日は飯の出来まで半熟で、ます/\憂欝になる、半熟の飯をかみしめてゐると涙がぽろ/\こぼれさうだ。
朝魔羅が立つてゐた、――まさにこれ近来の特種!
   月蝕四句
 旅の或る日の朝月が虧げる
・虧げつゝ月は落ちてゆく
 虧げはじめた月に向つてゐる
・朝月となり虧げる月となり
    □
・おまつりのきものきてゆふべのこらは
・こどもほしや月へうたうてゐる女
 待てば鐘なる月夜となつて
    □
・お祭の提灯だけはともし
 月夜のあんたの影が見えなくなるまで(樹明兄に)
夜、樹明兄来庵、章魚を持つて、――私がお祭客として行かないものだから待ちくたびれて――今夜こそ酒なかるべからずである、あまり飲みたくはないけれど、そしてあまり酒はよくないけれど少し買うてくる(といつてもゲルトは私のぢやない)、しんみり飲んで話しつゞけた、十二時近くまで。
・月夜おまつりのタコもつてきてくれた
その鮹はうまかつた、まつたくうまかつた。
ねむれない、三時まへに起きて米を炊いだり座敷を掃いたりする、もちろん、澄みわたる月を観ることは忘れない。
・月のひかりの水を捨てる(自分をうたふ)
月並、常套、陳腐、平凡、こんな句はいくら出来たところで仕方がない、月の句はむつかしい、とりわけ、名月の句はむつかしい、蛇足として書き添へたに過ぎない。

 九月十六日

今朝も三時には床を離れてゐた。
月を眺め、土を眺め、そして人間――自分を眺める、人間の一生はむつかしいものだ、とつく/″\思ふ。
・月からヨルの鳥ないて白みくる
 明けてまんまるい月
    □
・秋の空から落ちてきた音は何
・まづしいくらしのふろしきづゝみ
    □
 斬られても斬られても曼珠沙華
・ほつとさいたかひよろ/\コスモス
夕方から其中庵へ出かける、樹明兄が冬村、二三雄その他村の青年と働いてゐられる、すまないと思ふ、ありがたいと思ふ、屋根も葺けたし、便所も出来たし、板敷、畳などの手入も出来てゐる、明日からは私もやつて出来るだけ手伝はう、手伝はなければ罰があたる、今日まで、私自身はあまり立寄らない方が却つて好都合とのことで、遠慮してゐたが、まのあたり諸君の労作を見ては、もう私だとてぢつとしてはゐられない、私にも何か出来ないことはない。
・まづたのむ柿の実のたわわなる
 暮れて戻つて秋風に火をおこす
今夜もよい月である、月はいろ/\の事を考へさせる、月をひとりで眺めてゐると、いつとなし物思ひにふけつてゐる、それはあまりに常套的感傷だけれど、私のやうな日本人としては本当である、しんじつ月はまことなるかな

 九月十七日

晴、うすら寒いので、とう/\シヤツをきた、ことに三時にはもう起きてゐたのだから、――うつくしい月だつた、月光流とはかういふ景情だらうと思つた。
朝から其中庵へ出かける(飯盒そのものを持つて)、大工さんへ加勢したり、戸外を掃除したり、室内を整理したりする、近来にない専念だつた。
樹明さんから、ポケツトマネー(五十銭玉一つ)頂戴、それでやうやく煙草、焼酎にありつく。
夜、さらに同兄と冬村君と同道して来訪、話題は其中庵を離れない、明日は大馬力で其中庵整理、明後日入庵の予定。
これで、私もやつとほんとうに落ちつけるのである、ありがたし、/\。
じつさい寒くなつた、朝寒夜寒、障子をしめずにはゐられないほどである。
秋、秋、秋、今年は存分に秋が味はへる。……
 月のひかりのながれるところ虫のなくところ
・山のの月のしばし雲と遊ぶ
    □
・なつめたわゝにうれてこゝに住めとばかりに(其中庵即時)
    □
・またも旅するふろしきづつみが一つ(改作)

 九月十八日

晴、すこし風があつた。
満洲事変一マヽ年記念日、方々で色々の催ほしがある。
私は朝から夕まで一日中其中庵で働らいた。
庵は山手ヤマテ山の麓、閑静にして申分なし、しづかでしかもさみしうないといふ語句を用ひたい。
椿の木の多いところ、その花がぽとり/\と心をうつことだらう。柿の木も多い、此頃は枝もたれんばかりに実をつけてゐる、山手柿といつて賞味されるといふ。
彼岸花も多く咲いてゐる、家のまはりはそこもこゝも赤い。
樹明は竹格子を造り、冬村は瓦を葺く、そして山頭火は障子を洗ふ。
樹明、冬村共力して、忽ちのうちに、塵取を作り、箒を作り、何やらかやら作つてくれた。
電燈がついてから、竹輪で一杯やつて別れた(こゝはまさに酒屋へ三里、豆腐屋へ二里の感じだ)。
私はそれからまた冬村君に酒と飯とをよばれた、実は樹明兄に昼食として私の夕飯を食べられてしまつたのである。
四日ぶりに入浴、あゝくたびれた。
 月にほえる犬の声いつまでも
・朝の雲朝の水にうつり
・水に朝月のかげもあつて
・水音のやゝ寒い朝のながれくる
・朝寒の小魚は岸ちかくあつまり
 仕事のをはりほつかり灯つた
・秋風の水で洗ふ
其中庵には次のやうな立札を建つべきか、――
歓迎葷酒入庵室
或は又、――
酒なき者は入るべからず
労働と酒とのおかげで、ぐつすり寝た、夢も見なかつた、このぐらゐ熟睡安眠したことはめつたにない。
留守に誰か来て、待つて、そして帰つたやうだなと思つたら、それは先刻別れた樹明兄だつた、……樹明兄はしばらくして、またやつて来られたさうな、そしたら山頭火が酔つぱらつて寝言をいつてゐたマヽうさうな、……私は知らない!

 九月十九日

天地清明、いよ/\本格的秋日和となつた、働らくにも遊ぶにも、山も野も海も空も、すべてによろしいシーズンだ、よくぞ日本に生れける、とはこの事だ。
子規忌、子規はゑらかつた(私としてはあの性格はあまり好きでないけれど)、革命的俳人としては空前だつた、ひとりしづかに彼について、そして俳句について考へた、床の花瓶には鶏頭が活けてあり、糸瓜は畑の隅にぶらさがつてゐる。
朝から其中庵へ、終日掃除、掃いても掃いても、拭いても拭いてもゴミが出る。――
此服装を見よ、片袖シヤツにヅボン、そのうへにレーンコートをひつかけてゐる(すべて関東震災で帰郷する時に友人から貰つた品)、頭には鍔広の麦桿帽、足には地下足袋、まさに英姿サツソウか!
更に此辨当を見よ、飯盒を持つてゆくのだが、それは私の飯釜であり飯櫃であり飯茶碗である。
日中一人、夜は三人(樹明、冬村の二君来庵)。
月を踏んで戻る、今夜もまた樹明君に奢つて貰つた、私は飲み過ぎる、少くとも樹明君の酒を飲み過ぎる。
古釘をぬいてまはる、妙に寂しい気分、戸棚の奥から女の髪の毛が一束出て来た、何だか嫌な、陰気な感じ、よし、この髪の毛を土に埋めて女人塔をこしらへてやらう。
 枝もたわわに柿の実の地へとどき
 彼岸花の赤さがあるだけ
・つかれてもどるに月ばかりの大空

 九月廿日 小郡町矢足ヤアシ 其中庵。

晴、彼岸入、そして私自身結庵入庵の日。
朝の井戸の水の冷たさを感じた。
自分一人で荷物を運んだ、酒屋の車力を借りて、往復二度半、荷物は大小九個あつた、少いといへば少いが、多いとおもへば多くないこともない、とにかく疲れた、坂の悪路では汗をしぼつた、何といふ弱い肉体だらうと思つた、自分で自分に苦笑を禁じえないやうな場面もあつた。
五時過ぎ、車力を返して残品を持つて戻ると、もう樹明兄がきてゐて、せつせと手伝つてゐる、何といふ深切だらう。
私がこゝに結庵し入庵することが出来たのは、樹明兄のおかげである、私の入庵を喜んでゐるのは、私よりもむしろ彼だ、彼は私に対して純真温厚無比である。
だいぶ更けてから別れた、ぐつすり眠つた、心のやすけさと境のしづけさとが融けあつたのだ。
昭和七年九月廿日其中庵主となる、――この事実は大満洲国承認よりも私には重大事実である。





底本:「山頭火全集 第四巻」春陽堂書店
   1986(昭和61)年8月5日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「騷」と「騒」の混在は底本通りにしました。
入力:さくらんぼ
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について