旅日記

種田山頭火




年頭所感――
芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である、芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。
私は私である、山頭火は山頭火である、芭蕉にならうとも思はないし、また、なれるものでもない、良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。
私は山頭火になりきればよろしいのである、自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。
       ×        ×        ×
歩く飲む作る、――これが山頭火の三つ物である。
山の中を歩く、――そこから私は身心の平静を与へられる。
酒を飲むよりも水を飲む、酒を飲まずにはゐられない私の現在ではあるが、酒を飲むやうに水を飲む、いや、水を飲むやうに酒を飲む、――かういふ境地でありたい。
作るとは無論、俳句を作るのである、そして随筆も書きたいのである。

 一月一日 二日 三日 四日 五日……岡山、稀也居。

夫、妻、子供六人、にぎやかだつた。
幸福な家庭。
たいへんお世話になつた。
あんまり寒いので、九州へひきかへして春を待つことにした。
竹原の小西さん夫婦、幸福であれ。
私は新らしい友人を恵まれた。

 二月一日 澄太居。

澄太君は大人である、澄太君らしい澄太君である。
私は友として澄太君を持つてゐることを喜び且つ誇る。
黙壺居。
黙壺君も有難い友である。
初めてお目にかゝつた小野さん夫婦に感謝する。
広島の盛り場で私は風呂敷を盗まれた。
日記、句帖、原稿――それは私にはかけがへのないものであり、泥坊には何でもないものである。
とにかく残念な事をした、この旅日記も書けなくなつた、旅の句も大方は覚えてゐない。
やつぱりぐうたらの罰である。
岡山から広島までの間で、玉島のF女史を訪ねたことも、忘れがたい旅のおもひでとならう。
円通寺、良寛和尚。
(二月)
奈良、桂子居。
(二月)
赤穂附近。

 二月十一日 十二日 十三日

今日から新らしく書き初める。――
雪、紀元節、建国祭。
黙壺居滞在。
第四句集雑草風景の句箋を書く。
こゝでまた改めて澄太君の温情に触れないではゐない。

 二月十四日

日本晴、出立。

 二月十六日 十七日

場末の安宿にて休養、いひかへると、孤独気分になりきるために。

 二月十八日

ぶら/\歩いて宮嶋まで、そこで泊つた。

 二月十九日 大霜、快晴。

生死去来は生死去来である。
大竹に泊る。

 二月二十日 二十一日 柳井津滞在。

この日、この身、この心。……

 二月廿二日

白船老を訪ねる、泊れといふのをふりきつて別れる。
雪、雪、酒、酒、泥、泥。

 二月廿三日

 宮市の安宿で感慨無量。

 二月廿四日 岔水居。

あゝ友はまことにありがたい。

 二月廿五日 曇つて寒い。

戸畑へ、多々桜君を訪ねる。

 二月廿六日 廿七日 牡丹雪が降つた、星城子居。

あたゝかなるかな、友のこころ。
こゝで重大事件(二・二マヽ事件)を知つた。
省みて、自分の愚劣を恥ぢるより外ない。

 二月廿八日

八幡の人々を訪ねまはる。
井上さん、仙波さん、その他。

 二月廿九日 雪、霰。

土筆君に招かれて行く。
寝苦しい夜がつゞく、あたりまへだ。

  追加
   (伊豆海岸、信濃路、その他にて)
また一枚ぬぎすてる旅から旅へ
水の上はつきり春の雲
はてなき旅の遠山の雪ひかる
あれがふるさとの山なみの雪ひかる
街の雑音しづもれば恋猫の月
枯葦の一すぢの水のながれ
春風のテープちぎれてたゞよふ
手から手へ春風のテープ

 三月一日 緑平居、雪、霜、霙。

緑平老は私の第一の友人だ。
遠山の雪ひかるどこまで行く

 三月二日

今日は事務家となつて句集発送。
雪、雪、雪だつた。
ヘツドランプをうたふ。

 三月三日

酔うて、ぬかるみを歩いて、そして、また飯塚へ、それから二瀬へ。
逢うてはならないKに逢ふたが。
とろ/\どろ/\、ほろ/\ぼろぼろの一日だつた。
死に場所が、死に時がなか/\に見つからないのである!
ふりかへるボタ山ボタン雪ふりしきる
雪ふる逢へばわかれの雪ふる

 三月四日 岔水居。

何といふ憂欝、歩く外ない。
若松へ、多君に事情を打明けて旅費を借る、そして門司へ。
黎君を訪ねる、理髪、会食、同伴で岔君を訪ふ。
岔水君はうれしい人だ、黎々火君も。
さびしいけれどあたゝかい家庭。

 三月五日 ばいかる丸。

神戸直航の汽船に乗り込む。
さよなら、黎々火君、さよなら、岔水君よ。
さよなら、九州の山よ海よ。
テープのなげき。
こゝろやすらかな海上の一夜だつた。

 三月六日 詩外楼居。

朝、神戸着。
上陸第一歩、新らしい気分であつた。
詩外楼居。
めいろ君を訪ふ。
あたゝかく、ぐつすり睡れた、ありがたかつた。
詩外楼君に感謝する、奥さんにも。

 三月七日 詩外楼居。

曇、花ぐもりのやうな。
朝湯のあつさ、こゝろよさは。
めいろ居を訪うて、おいしい昼飯をいたゞく、それから新開地を散歩して、忍術映画見物、馬鹿馬鹿しいのがよろしい。
賀英子嬢をめぐまれためいろ君のよろこびをうたふ――
雛をかざらう
雛のよにうまれてきた
何だか寝苦しかつた。
旅の袂草の感想。

 三月八日 愚郎居。

雪中吟行、神戸大阪の同人といつしよに、畑の梅林へ、梅やら雪やら、なか/\の傑作で、忘れられない追憶となるだらう、西幸寺の一室で句会、句作そのものはあまりふるはなかつたが、句評は愉快だつた、酒、握飯、焼酎、海苔巻、各自持参の御馳走もおいしかつた。
夕方私一人は豊中下車、やうやく愚郎居をたづねあてゝほつとした、例によつて酒、火燵、ありがたかつた。
雪は美しい、友情は温かい、私は私自身を祝福する。
・暮れて雪あかりの、寝床をたづねてあるく
・木の葉が雪をおとせばみそさゞい
・雪でもふりだしさうな、唇の赤いこと
・春の雪ふるヲンナはまことにうつくしい
・春比佐良画がくところの娘さんたち
・からたちにふりつもる雪もしづかな家
   追加一句
 みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる

 三月九日 愚郎居。

晴、雪はまだ消えない、春の雪らしくもなく降りつもつたものだ。
整理、裂く捨てる、洗ふ。
朝湯朝酒とはもつたいない、今日にはじまつたことではないけれど。
ほろよい人生、へゞれけ人生であつてはならない、酒、酒、肴、肴と御馳走責めにされた、奥さんの手料理はおいしい。
夜はSさん来訪、書いたり話したり笑つたり。
・火燵まで入れてもろうて猫がおさきに
   (愚郎居)
・雪あかりの日あかりの池がある畑がある

 三月十日

比古君の厄介になる。
比古君は私にピタリと触れてくれる、うれしかつた。
奥さんに連れられて、大阪劇場で、松竹レヴユー見物、まことに春のおどり!
夜は新町でのんきに遊ぶ。
・こどもに雪をたべさしたりしてつゝましいくらし
・きたない池に枯葦の葉も大阪がちかい
・春風の旗がはた/\特別興行といふ
・うらはぬかるみの、女房ぶりの、大根やにんじん
・雲のゆききのさびしくもあるか

 三月十一日

ほつかり覚める。
新町のお茶屋の二階、柄にもない。
比古君が方々を連れ歩いてくれる。
汁といふ店で汁を食べた、さすがに大阪だと思つた。
夜はまた新町へ。

 三月十二日 曇。

ぶらつくうちに日が暮れた。
比古居、蔵の中に寝せて貰ふ、よかつた、よかつた。

 三月十三日

今日も遊び暮らす。

 三月十四日 うらゝか。

松平さんと同行して、街はづれのお宅へ、しづかな生活であつた。
石仏図を観せて貰ふ、松平さんは尊敬すべき画家だ。

 三月十五日 滞在。

比古君、印君来訪。
終日歓談。

 三月十六日 まつたく春。

十時出立、松原まで歩いて、そこからは電車で富田林に後藤さんを訪ふ、泊めて貰ふ。
弘川寺の西行塚に詣でる。
近在には古蹟が多い、楠公の遺蹟も所々にある。
田園風景がうらゝかだつた。
滝池山弘川寺
西行堂 木像、伝文覚上人作
西行塚 円信上人、西行法師のことなり
似雲法師の墓

 三月十七日 曇、時々雨。

八時出立、京都へ。
柏原まで電車、そこから歩く。
瓢箪山。
河内平野、牛はふさはしい。
枚方で泊る、うるさい宿だつた。
小楠公の墓、大樟。
淀川風景はよい。

 三月十八日 曇、肌寒い、彼岸入。

早起出発。
石清水八幡宮。
或るお婆さん、二銭の喜捨拝受。
電車で京都へ、北朗居にころげこむ。
北朗君と同道して陶工石黒さんを訪ねる。
寸栗子翁の訃を聞いて驚く、いよ/\近火を感じる。
夕方、みんないつしよに――奥さんも子供さんも――南禅寺境内の豆腐料理を賞味する、さすがにおいしかつた。
京都の豆腐はうまい。
夜は別れて一人、新京極を散歩する、そしてそこに寝てしまふ。
――飲む食べる、しやべるふざける、――それだけが人生か!

 三月十九日 晴。

朝は寒く昼は暖か。
どこといふあてもなく、歩きたい方へ歩きたいだけ歩いた。――
八坂の塔、芭蕉堂、西行庵、智恩院、南禅寺、永観堂、銀閣寺、本願寺、等々等。
桂子さんから速達で手紙を受取つた、何だか誤解されてゐる、嫌な気持になつた。
夜の北朗居は賑やかだつた、句会といふよりも坐談会だつた。
仙酔楼君と逢ふ、まことにしばらくだつた。
世間はうるさいね、女もうるさいね。
こだはるなかれ。
自分の信ずる道を行く外ない。

 三月廿日 曇、花ぐもり。

朝湯朝酒。
蛇が穴を出てゐた。
同人と共に北野吟行。
鷹ヶ峯、庵、光悦寺、金閣寺、酔つぱらうて、仙酔楼居へ自マヽ車で送られる。

 三月廿一日 雨――晴、滞在。

午后、物安居士、いく子刀自を訪ふ。
愉快な微酔。

 三月廿二日 晴。

もつたいなや、けふも朝湯朝酒。
十時出立、宇治へ。――
平等院、うらゝかな栄華の跡。
汽車で木津まで行つて泊る。

 三月廿三日 晴。

うらゝかな雀のおしやべり。
早朝出発、乗車、九時大河原下車、途中、笠置の山、水、家、すべてが好ましかつた。
川を渡船で渡されて、旅は道連れ、快活な若者と女給らしい娘さんらといつしよに山を越え山を越える。
山城大和の自然は美しい。
山路は快い、飛行機がまうへを掠める。
母と子とが重荷を負うて行く。
二里ばかりで名張川の岐流に添うて歩く、梅がちらほら咲いてゐる。
歩々春だ梅だ、月ヶ瀬梅渓は好きなところだつた、だいぶ名所じみてはゐるけれど。
こゝから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる
バスで上野町へ、遊廓近くの安宿に泊る、うるさい宿だつた。
五月門一目万本月瀬橋

 三月廿四日 晴。

芭蕉遺蹟を探る――
故郷塚、瓢竹庵。
上野は好印象を与へてくれた。
阿保まで三里、うらゝかな道。
阿保から津まで電車。
津はいかにも城下らしいおちついた都会であつた、梅川屋といふのに泊る、一宿二飯で三十四銭!
二角さんを訪ねて御馳走になる。

 三月廿五日

朝、都影さんを訪ねる、二角君に連れられて、都影さんは一見好きになれる人だ。
自働車といふものもよしわるしだと思ふ。
二角君に案内されて山田へ。
内宮外宮はたゞありがたかつたといふより外はない。
二見ヶ浦。
裸木塚
芭蕉塚
平□塚
都影居泊、私にはぜいたくすぎるほどだつた。
夜は自家用で白子町までドライヴ、都影君はドクトルとして、私は妙なお客さんとして。

 おちついてしづけさは青木の実
   (比古君か印君に)
 鎧着ておよろこび申す春の風吹く
   (弘川寺)
 春の山鐘撞いて送られた
 けふのよろこびは山また山の芽ぶく色
 ちんぽこの湯気もほんによい湯で
   (京都)東山
・旅は笹山の笹のそよぐのも
 まるい山をまへに酔つぱらふ
 松笠の落ちてゐるだけで
 こんやはこゝで雨がふる春雨
・旅の袂草のこんなにたまり
 ぬかるみも春らしくマヽりかへしてゐる
   (宇治)
 うらゝかな鐘をつかう
 御堂のさびも春のさゞなみ
・春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏
・たゞずめば風わたる空の遠く遠く
   (月ヶ瀬へ)
 落葉ふる岩が腰かけとして
・どこで倒れてもよい山うぐひす
 落葉してあらはなる巌がつちり
 蕗のとうあしもとに一つ
 後になり先になり梅にほふ
   (伊勢神宮、五十鈴川)
 そのながれにくちそゝぐ
 たふとさはまつしろなる鶏の
 若葉のにほひも水のよろしさもぬかづく
   (二見ヶ浦)
 春波のおしよせる砂にゑがく
 旅人として小雪ちらつくを
   (津にて)
・けふはこゝにきて枯葦いちめん
・麦の穂のおもひでがないでもない
 こどもといつしよにひよろ/\つくし
 春の夜の近眼と老眼とこんがらがつて
 影は竹の葉の晴れてきさうな
 春めく雲でうごかない
   (辨天島)
 すうつと松並木が、雨も春
 とほく白波が見えて松のまがりやう
 裸木に一句作らしたといふ猿がしよんぼり
 ぬくい雨となる砂の足あと
 どうやら晴れてる花ぐもりの水平線
・春の海のどこからともなく漕いでくる
 これから旅も、さくら咲きだした
・茶どころの茶の木畑の春雨

 三月廿六日 あたゝかく。

病室の二階一間を占領して終日、読む、書く、飲む。……

 三月廿七日

九時の列車にて出立、さよなら、さよなら、ありがたう、ありがたう。
途中、四日市下車、折から開催中の博覧会見物、つまらなかつた。
都影君から貰つた正宗をラツパのみしたのはおもしろかつた。
夕方、津島君、おもひでの道をたどつて漁眠洞訪問、なつかしい家庭である、坊ちやんはよい児だ。
鉦たゝきが鉦をたゝいてゐる
などゝ俳句する、まだ小学二年なのに。
ひさしぶりの話がつきない夜の雨になり

 三月廿八日 曇。

身辺整理。
坊ちやんお嬢さん同行で、木曽川あたりへ遊ぶ、お辨当に家人の心づくしがこめられてゐた、酒――それは私にだけの――には殊に。――
鈴鹿山がひかる、伊吹山も。
風が出た、風は何よりもいつも寂しい。
めづらしいよい遊びの一日ではあつた。

 三月廿九日 晴。

朝酒はありがたすぎる。
マヽ旅に出て来て、もつたいないと思ふ。
私は私の友の友情に値しないことを私みづからよく知つてゐる。
津島地方の産物は毛織物と蕗、面白い取合である。
マヽ平野はうらゝかだつた。
午后、漁君と同道して、蓴蓮亭を訪ふ、夜は句会。
例によつて飲みすぎる、しやべりすぎる。

 三月三十日 晴。

きしめん――名古屋名物の一つといはれる揚豆腐をあしらつたうどん――を御馳走になる。
それから秋彦君と共に林五舎へ。
森有一君はほんたうに好きな友人だ。
ヱロ貝! その御馳走もよかつた。
秋彦君去り武朗君来る。
夜おそくまで話しつゞけた、そして睡つた、安らかに睡つた。
林五君よ、幸福でありたまへ。

 三月三十一日 晴、春寒、薄氷が張つてゐた。

徳川園観賞。
二時の汽車で浜松へ。――
浜松は津とも違つて、おちついた都会である。
平野小児科医院、そこに多賀治君が待つてゐて下さつた。
二階の病院の一室を私の部屋として提供された、高等下宿にでもゐるやうで、身も心もくつろいだ。

 四月一日 快晴。

御馳走々々々。
散歩、休養、通信。
私は自殺未遂者だ。
短かいやうな長いやうな一生。
多賀治さんとは初対面だけれど、親しい間柄である。
よい夫でありよい父であり、そしてよいドクトルである多賀治君を祝福する。

 四月二日 曇。

春雨しと/\。
永井さん来訪、野蕗君徃訪。
多賀治君の住宅にも寄つて奥さんに挨拶する、新居普請中。
看護婦さんと相乗で辨天島へ一路ドライヴする、かへりみてブルジヨアすぎる。
松月旅館に送りこまれて、酒、酒、酒、いよ/\ブルジヨアすぎる。
暮れる前に、自働車で送られる、酔がかつと出て、私はたうとう行方不明になつてしまつた!

 四月三日 風雨はげしかつた。

朝湯朝酒、昨夜の今朝で泣きたいやうな気持だ。
一時の列車で鎌倉へ。――
野蕗さんがひよつこり乗り込んで、送つて下さつた、涙ぐましい温情を感じた。
名古屋にも浜松にも同人間に何だか感情のもつれがあるらしい、私としては、そのどちらにも無関心だけれど。
天竜川を渡るとき、先年のおもひでにふけつた。
海は濁つて富士は見えない。
桃の花、菜の花、青麦、――日本は美しい!
丹那トンネル、暗い音がつゞく。
熱海は春たけなは、花見客が騒々しい、うるさいけれどおこられもしない。
――私は憂欝だ――人間が嫌になつたのでなくて、自分自身が嫌なのだ。
大船で乗り換へようとして下車すると、鎌倉同人が眼ざとく私を見つけて、にこ/\、自働車で鎌倉へ。
鳴雨居に落ちつく、くつろいで、酒、酒、話、話。
鳴雨君は想像した通り、奥さんと二人ぎりの、別荘風の小ぢんまりした家庭は春の海のやう。
雪男君、蜻郎君、冬青君、新五郎君、――鎌倉同人はほんたうになごやかだ。
波音があたゝかだつた。
ヒヤとおヒヤ――前者は冷酒、後者は水。

 四月四日 晴。

かたじけなくも、もつたいなくも、朝湯にはいつてから朝酒をいたゞく。
蜻郎君来訪。
三人連れで散歩、光明寺大聖閣、’’’’幡宮、建長寺、円覚寺、長谷の大仏。……
冬青居徃訪。
夜は南浦園で句会、支那料理がおいしかつた。
まことによい日よい夜であつた。
層雲社から電報、明日の句会へ出席せよといふので。――

鎌倉風景。――
東京の印象。――
東京は広い。
伊豆遊吟。
沼津――東京。
朝の富士は白いあたまの春の雲
松の木あざやかに富士の全貌
ぶらんこぶら/\若葉照る
街の騒音何の木か咲いてゐる
東京をうたふ。
さくらちる富士がまつしろ
さくら咲いてまた逢うてゐる
旅ごゝろかなしい風がふきまくる
ぼう/\としてあるくいつしか春
   (追加)
 蘭竹かれ/″\の風にふかれつゝ
・鎌倉は松の木のよい月がのぼつた
大仏さん
異人さん
さくら

いちはやく山ふところのさくら一もと
  斎藤さんに
また逢ひませうと手を握る
東京をうたふ。
ほつと月がある東京に来てゐる
花ぐもりの富士が見えたりかくれたり
ビルからビルへ東京は私はうごく
ビルがビルに星も見えない空
  ビルにて
窓へやつと芽ぶいてきた

 四月五日 快晴、鎌倉から東京へ。

眼が覚めると海がころげてくるやうな波音である。
鳴雨居はしづかな夫婦ずまゐ、別荘風のしやれた家である。
朝湯朝酒、今日に限つたことではないけれど勿体ないなあと思ふ。
雪男さん来訪、散歩する、雪男居に寄る、御馳走になる。
昨夜の召電によつていつしよに上京する、大船で約束通り蜻郎君と落ち合ふ。
うらゝかな日である。
品川へ着いてまずそこの水を飲んだ、東京の水である、電車に乗つた、東京の空である、十三年ぶりに東京へ来たのだ。
大泉園を初めて訪ねる、鎌倉の椿が咲いてゐる、井師にお目にかゝる、北朗君も来てゐる。
句会、二十名ばかり集まつた、殆んどみな初対面の方々だ。
夜は層雲社に泊めて貰ふ、犬に吠えられた、歓迎してくれたのかも知れない。
武二君、五味君、北朗君と夜の更けるのも忘れて話しつゞけた。

 四月六日 花ぐもり。

朝酒二三杯。
北朗君、武二君と同道して銀座へ、磊々子、一石路夢道を訪ねる。
酒、酒、酒、花、花、花、そして女、女、女。
北朗は古道具屋をまはつて、いろんなものを買ふ、私が酒を飲むやうなものだろう。

 四月七日 花ぐもり。

浅草風景(新浅草観賞)。
定食八銭は安い、デンキブランはうまい、喜劇は面白い。
あてもなくぶら/\あるく。

 四月八日 曇、いつしか雨となつた。

やたらに歩いた、――浅草から上野へ、それから九段へ、それから丸の内へ。
砂吐流君徃訪、これは丸ビル。
農平君徃訪、これは海上ビル。
鳳車君徃訪、これは東京ビル。
農平君と、それから魔神明君と日本橋の大 マヽで会食。
東京駅で砂吐流君を待ち受け、新宿聚楽で夕食をする、味覚の殿堂といつてゐるだけ満員繁昌だ。
砂吐流の新居春風亭に泊る。

 四月九日 小雨――曇。

朝からビールを飲む。
いつしよに出かける、君は丸ビルへ、私はかたこと庵へ。
武蔵野はなつかしい、うつくしい。
運よく斎藤さん在庵。
同道して徳富健次郎の墓に詣でる。
櫟林のところ/″\に辛夷の白い花ざかり。
青樫荘に前田夕暮氏を訪ふ。
さらに青木健作氏を訪ふ、三十余年ぶりの再会である、でも、昔なつかしい面影は失はれてゐなかつた。
やがて農平君も来訪、四人で歓談、夜の更けるのも忘れて。
斎藤さんは健作君の宅で、私は農平君の宅に泊めて貰ふ。
まことにまことに珍らしい会合であつた。

 四月十日 曇。

春寒、ばら/\雨。
みんないつしよに出発、そしてそれ/″\の方向へ別れた。
東京ビルに茂森君徃訪、なつかしかつた、連れられて自働車で新宿へ出て、或るおでんやで飲む、そしてまた十二社へ、酒と女とがあつた。
私は自働車で浅草へ、そこで倒れてしまつた。
友、友、友、友、友。

 四月十一日 曇。

農平君の案内で江戸川の花見に出かける、桜はまだ蕾だ、掛茶屋の赤前垂が黄色い声で客を呼んでゐるばかりだが、飲む酒はある。……
柴又にまわつて川甚でも飲む。
私はまた浅草へ。

 四月十二日 曇。

おめでたいおのぼりさんとして。
山谷の安宿に泊る、泊るだけは二十五銭。

 四月十三日 雨。

濡れて層雲社へ帰る、武二君が私の行方不明を心配してゐたさうで、私の癖とはいひながらすまなかつた。
夜は銀座へ、丸ビル人会出席。
かう酒ばかり飲んでゐては困る!

 四月十四日 晴。

さくらが咲いた、散歩、赤坂見附はよい風景だつた。
武二君と共に迎へられて磊々子居へ。
磊々居滞在。

 四月十五日 花ぐもり。

朝湯朝酒とは有難すぎる、身にあまる冥加である。
二人でぶら/\歩く、Iさんのお宅で御馳走になる、天ぷら蕎麦、冷酒、池上本門寺、よい森、松がよい。
高輪泉岳寺、香烟がたえない。
それから明治座へ、面白かつた、井上はやつぱりうまい。
銀座裏で飲んで食べる、おけさ飯とアブサン。
東京は広い、時代錯誤場所錯誤。

 四月十六日 曇つたり晴れたり。

東京では遊びすぎた、やうやく東京を離れる、磊々子夫妻の温情は身にしみて有難かつた。
※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞訪問、あやにく不在、その代りに多摩川観賞、二子橋畔春風マヽ々春光熈々。
雷にどなられ霙にたゝかれた。
風がふいて蛙がないてゐる。
戸塚の松並木は美しかつた。
やつと藤沢で寝床を見つけた。
自分らしく、旅人らしく。

 四月十七日 伊東温泉伊東屋。

晴、うらゝかだつた。
茅ヶ崎まで歩く、汽車で熱海まで、そこからまた歩く、行程七里、労れた。
富士はほんたうに尊い、私も富士見西行の姿になつた。
熱海はさすがに温泉郷らしい賑やかさだつた、伊東も観光祭。
今日の道は山も海も美しかつたけれど自働車がうるさかつた。
山の水をぞんぶんに飲んだ、をり/\すべつたりころんだりした。
旅のおもしろさ、旅のさびしさ。
・松並木がなくなると富士をまともに
・とほく富士をおいて桜まんかい

 四月十八日 滞在、休養、整理。

伊豆はさすがに南国情調だ、麦が穂に出て燕が飛びかうてゐる。
○伊豆は生きるにも死ぬるにもよいところである。
○伊豆は至るところ花が咲いて湯が湧く、どこかに私にふさはしい寝床はないかな!
大地から湧きあがる湯は有難い。
同宿同行の話がなか/\興味深い、トギヤ老人、アメヤクヅレ、ルンペン、ヘンロ、ツジウラウリ。……
焼酎をひつかけてぐつすり眠つた。
・なみおとのさくらほろほろ
・春の夜の近眼と老眼とこんがらがつて
・伊豆はあたゝかく死ぬるによろしい波音
・湯の町通りぬける春風

 四月十九日 雨、予想した通り。

みんな籠城して四方山話、誰も一城のいや一畳の主だ、私も一隅に陣取つて読んだり書いたりする。
午后は晴れた、私は行乞をやめてそこらを見物して歩く、浄の池で悠々泳いでゐる毒魚。
伊東はいはゆる湯町情調が濃厚で、私のやうなものには向かない。
波音、夕焼、旅情切ないものがあつた。
一杯ひつかける余裕はない、寝苦しい一夜だつた。
   (伊東町)
・をなごやの春もにぎやかな青木の実
・まいにち風ふくからたちの芽で
・はる/″\ときて伊豆の山なみ夕焼くる
・かうして生きてゐることが、草の芽が赤い

 四月二十日 快晴、下田へ出立する。

川奈ゴルフ場、一碧湖、富戸の爼岩、光の村、等々を横眼で眺めつゝ通りすぎる、雑木山が美しい、天城連山が尊い、山うぐひすが有難い。
風、風、強い風が吹く、吹きまくられつゝ歩く、さびしい、つかれる。
赤沢あたりから海岸の風景が殊によろしくなる、茫々たる海、峨々たる巌、熱川温泉に安宿があるといふので下つて行つたが断られた、稲取へ暮れて着いて宿をとつてほつとした、行程八里強。
・芽ぶくより若葉する湯けむりをちこち
・山路あるけば山の鴉がきてはなく

 四月二十一日 谷津温泉、一郎居。

しづかな、わびしい宿だつた、花屑がそこらいちめんに散りしいてゐた。
昨夜のルンペン君と別れる、今生ふたゝび逢ふことはなからう。
今日も晴れて風が吹く。
今井浜は伊豆舞子とよばれるだけあつて海浜がうつくしい。
行程三里弱、午前中に谷津の松木一郎君を訪ねる、一郎居は春風駘蕩だ、桜の花片が坐敷へ散り込む。
メロン、トマトを御馳走になる、それは君の手作りだ、内湯の御馳走は何より。
・うら/\石仏もねむさうな

 四月二十二日

雨、ふと眼覚めて耳を疑つた。
こゝはほんたうにあたゝかい、もう牡丹が咲いて、蚊が出てくる。
温泉は湧出量が豊富で高温である、雑木山の空へ噴き上げる湯煙の勢よさ。
今日の雨はまことによかつた。
       △  △  △
朝湯のあつさよろしさありがたさ。
朝酒とは勿体なし。
       △  △  △
ほんたうでないといつてうそでもない生活、それが私の現在だ。
洗濯、身も心も内も外も。
△花菖蒲の輸出。
△栖足寺の甕(銘は祖母懐、作は藤四郎)

 四月二十二日 花時風雨多、まつたくその通りの雨風だつた。

熱い湯を自分で加減して何度も入浴する、奥さんが呆れて笑はれる。
湯、そして酒、あゝ極楽々々。
午後だん/\晴れる、一郎君といつしよに下田へ向ふ。
山蕗が咲きほうけてゐる、ふきのとうが伸びて咲いて、咲きをへてゐるのである。
○伊豆の若葉はうつくしい。
白浜の色はほんたうに美しかつた、砂の白さ、海のみどり。
マヽ平洋をまへに、墓をうしろに、砂丘にあぐらをかいて持参の酒を飲んだ。
至るところに鉱山、小さい金鉱があつた、それも伊豆らしいと思はせた。
下田近くなると、まづ玉泉寺があつた、維新史の第一頁を歩いてゐるやうだ。
浜崎の兎子居に草鞋をぬぐ、そして二三子と共に食卓を囲んで話しつゞける。
酔ふて書きなぐる、いつもの私のやうに。
そして一郎君と枕をならべて熟睡。
伊豆は、はよいけれどはよろしくない、温泉地のどこでもさうであるやうに。
伊豆に多いのは旅宿の立看板隧道と、そしてバス。
・この木もあの木もうつくしい若葉
・別れようとして水を腹いつぱい
△天草を干しひろげる
△来の宮神社の禁酒デー

 四月二十三日 曇、うすら寒い。

朝早く、二人で散歩する、風が落ちて波音が耳につく、前はすぐ海だ。
牡丹の花ざかり、楓の若葉が赤い。
蛙が鳴く、頬白が囀づる。
辨天島は特異な存在である、吉田松マヽの故事はなつかしい。
九時すぎ、三人で下田へ、途中、一郎君と別れる、一郎君いろ/\ありがたう。
稲生沢川を渡ればまさに下田港だ、港町情調ゆたかであらう、私は通りぬけて下賀茂温泉へ。
留置の手紙は二通ありがたかつた。
雑木山がよい姿と色とを見せてくれる。
下賀茂は好きな温泉場である、雑木山につゝまれて、のびやかな湯けむりがそここゝから立ち昇る、そここゝに散在してゐる旅館もしづかでしんみりとしてゐる。
その一軒の二階に案内された、さつそく驚ろくべき熱い強塩泉だ、ぽか/\あたゝまつてからまた酒だ、あまり御馳走はないけれどうまい/\。
兎子君が専子君を同伴して紹介された、三人同伴で専子居へ落ちつく、兎子君は帰宅、私と専子君とはまた入浴して、そして来訪のSさんと飲みだした。
今夜も酔ふて、しやべつて、書きなぐつた、湯と酒とが無何有郷に連れていつてくれた、ぐつすりねむれた。……
ノンキだね、ゼイタクだね、ホガらかだね、モツタイないね!
・波音強くして葱坊主
・道は若葉の中を鉱山へ
・けふのみちはすみれたんぽゝさきつゞいて
・すみれたんぽゝこどもらとたはむれる
△黒船襲来、異人上陸で、里人は牛を連れて山へ逃げたさうな。
△黒船祭の前日。

 四月二十四日 晴、后曇。

早朝、川ぶちの共同湯にはいる、底から湧きあがつてくる湯のうれしさ。
湯けむりが白く雑木若葉へひろがつてゆく、まことに平和な風景。
七時のバスで出発、松崎へ急ぐ。
峠のながめはよかつた、山また山、木といふ木が芽ぶいて若葉してかゞやく。
バスガールと運ちやんとの会話、お客は私一人。
九時松崎着、海岸づたいに歩く。
昨夜、飲みすぎたので、さすがの私も弱つてゐる、すべつてころんで向脛をすりむいマヽ
遠足の小学生がうれしさうにおべんたうを持つてゆく、私の頭陀袋にも一郎君から貰つた般若湯が一壜ある。
田子からすみれ丸に乗つて沼津へ。
今夜は土肥温泉に泊る筈だつたがその予定を変更したのである、だいたい私の旅に予定なんかあるべきでない、ゆきあたりばつたり、行きたいだけ行き、留まりたいところに留まればよいのである、山頭火でたらめ道中がよろしいのである、ふさはしいのである。
凪で気楽で嬉しい海上の三時間だつた。
沼津に着いたのは五時、やうやく梅軒を探しあてゝ客となる。
夜は句会、桃の会の方々が集まつて楽しく談笑句作した。
・明けてくる若葉から炭焼くけむり
・山のみどりを分けのぼるバスのうなりつゝ
・鴉さわぐそこは墓地
・水平線がうつくしい腰掛がある
・山の青さ海の青さみんな甲板に
   (田子浦)
・そこらに島をばらまいて春の波
△さよなら伊豆よ
 やつて来ましたぞ駿河
△伊豆めぐりで
東海岸は陸から海を
西海岸は海から陸を観賞した

 四月二十五日

お天気がまたくづれて雨が降つてゐる、一室にこもつて書くことをする。
ほろゑひ人生でなければならない、私のやうなゑつぱらひ生活ではいけない。
微笑の一生でありたい。

 四月廿五日(続)

雨、そして風だ、昨日、無理にもこゝまで来てよかつたと思ふ。
停電、わびしく寝る。

 四月廿六日 晴。

早く起きて、梅軒・桃月・路耕の三君と共に六時の汽車で東京へ、今日は層雲記念大会である。
一天雲なし、ほがらかな日である。
九時着、孤独な散歩者、乞食坊主、築地本願寺参拝。
一時、会場伊吹へ(物貰ひと思はれて玄関番に断られたりして)。
愉快な大会であつた、なか/\の盛会でもあつた、知つた人知らない人、いろ/\の人に逢つた、誰もが打ち解けて嬉しさうだつた。
句会から宴会、十時すぎて、私は一人街へ出た、酔ふた元気で、銀座のカフヱーに飛び込んだりしたが、けつきよく、こんな服装では浅草あたりの安宿に転げ込むより外なかつた。
今日は旅愁をしみ/″\感じたことである。……

 四月廿七日 廿八日 曇――雨。

法衣も網代笠も投げ捨てゝ、浅草で遊んだ、遊べるだけ遊んだ。
浅草は好きだ、愉快な遊楽場である、私のやうな人間にはとりわけて。

 四月廿九日 雨。

今日も浅草彷徨。

 四月三十日 曇。

おなじく。
労れて憂欝になる、金もなくなつたのだが。

 五月一日 曇。

東京を横断した、もちろん歩いて。
社に戻つて泊る。

 五月二日 曇。

いよ/\東京をあとに、新宿から電車で八王子へ。
多摩少年院に三洞君を訪ねる。
夜は三洞居で丘の会句会。
今日、久しぶりに豊次君に会つて話した、あの頃の事はいつもなつかしい、それにしてもお互に変つたものである。
武蔵野は好きだ、丘、流、草、ことに栃の若葉と春の竜胆とはよかつた。
ゆつくり寝せて貰つた。
・どこかに月あかりの木の芽匂ふなり
・旅もなぐさまないこゝろ持ちあるく

 五月三日

丘の家はしづかである、あたゝかである。
黙太居を訪ねる、昼飯をよばれる。
君は詩人である。
院庭で中井さんが、黙太三洞そして私をカメラにおさめて下さつた。
広次君を宿に訪ねて、さらに話しつゞけた。
憂欝たへがたくなつた、アルコールでごまかすより外なかつた、私は卑怯者だ、ぐうたらだ!
・旅のすがたをカメラに初夏の雲も

 五月四日 日本晴。

甲州路をたどる。――
三洞君がしんせつにも浅川まで送つて下さつた、君の温情まことにありがたし、私はその温情に甘えたやうだ。
汽車で小仏峠を越える、雑木山のうつくしさよ。
山また山、富士がひよつこり白いあたまをのぞける、山はけはしく谿はふかく雑木若葉はかゞやく。
与瀬から上野原まで歩いて、清水屋といふ安宿に泊る、一泊二飯で五十銭は安かつた。
   (追憶)
・何かさみしく死んでしまへととぶとんぼ

 五月五日 晴。

至るところ鯉幟吹流しがへんぽんとして青空でおどつてゐる。
やつと自分といふものをとりかへして私らしくなつたやうである。
五月の甲州街道はまことによろしい。
桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。
山にも野にもいろ/\の花が咲いてゐる。
猿橋。
・若葉かゞやく今日は猿橋を渡る
こんな句が出来るのも旅の一興だ。
甲府まで汽車、笹子峠は長かつた、大菩薩峠の名に心をひかれた。
甲斐絹水晶の産地、葡萄郷、安宿は雑然騒然、私のやうな旅人は何となくものかなしくなる、酒を呷つて甲府銀座をさまよふ。
老を痛切に感じる、ともかくも今日までは死なゝいでゐるけれど!(生きてゐたのではない)
desperate character !
・しつとり濡れて草もわたしもてふてふも

 五月六日 曇。

何も彼も暗い、天も地も人も。
  (自嘲)
どうにもならない生きものが夜の底に
  (追加)
旅はいつしか春めく泡盛をあほる

 五月七日 とう/\雨となつた。

緑平老から旅費を送つて貰ふ。
ありがたしかたじけなし。
孤独な散歩者として。――

 五月八日 曇。

心機一転、これから私は私らしい旅人として出立しなければならない。
我儘は私の性だから、それはそれとしてよろしいけれど、ブルジヨア的であつてはならない、執着しない我儘でなければならない。

・風は五月のさわやかな死にざま
・ひよいと月が出てゐた富士のむかうから

   (甲州から信州へ)
・日の照れば雪山のいよいよ白し
・尿するそこら草の芽だらけ
・こんなに蕎麦がうまい浅間のふもとにゐる
   江畔老に鼻頭橋まで見送られて
 橋までいつしよに、それからまた一人旅
・浅間をまへにまいにち畑打つてふてふ
・落花ちりこむ壁土のねばりやう
・浅間はつきりとぶてふてふ
・芽ぶいて落葉松落葉は寝ころぶによく
・新道が旧道に草萌ゆる
・袂草のいつとなくたまつてゐる捨てる
   碓氷山中雑詠
・木の芽あかるい家があつて誰もゐない
・道がわからなくなり啼く鳥歩く鳥
・遠くなり近くなる水音の一人
・山のふかさはみな芽ぶく
・誰にも逢はない呼子鳥啼く
・はるかにあかるく山ざくら花ざかり
・山ふかうしてなんとするどく
・足もとあやうく咲いてゐる一りん
・春日さんらんとして白樺の肌
・ふと河鹿なくたゝずみて聴く
   (追加)
・古びた鯉幟も、屋根には石をおき
・はてしなき旅空の爆音を仰ぐ
・まともに見えてくる妙義でこぼこ
   ( 〃 )
・行き暮れてほの白くからたちの花
・けふは今日の太陽をいたゞいて行く
・一人となれば分け入る山のかつこう
・うそ寒う夕焼けて山羊がないて
   稔郎居
・ゆうべいそがしい音は打つてくださる蕎麦で
   江畔老と共に岩子鉱泉に
・はなしがとだえると蛙げろげろ
   自省
・衣かへて心いれかへて旅もあらためて
・親馬仔馬みんな戻つてくるあたゝかし
・桑畑芽ぶく中の奉安殿
・浅間朝からあざやかな雲雀の唄です
   (追加一句)追分
・こゝで休むとする道の分れるところ
・芽ぶく林の白樺の白く
「わびしさも」

 五月八日(続)

高原、山国らしく、かるさん姿のよろしさ。
たうとう行き暮れてしまつた、泊めてくれるところがない、ままよ今までの贅沢を償ふ意味でも野宿しよう、といふ覚悟で、とぼ/\峠を登つて行くと、ルンペン君に出逢つた、彼も宿がなくて困つてゐるといふ、よく見ると、伊豆で同宿したことのある顔だ、それではいつしよに泊らうといふので、峠の中腹で百姓家――そこには三軒しかない家の一軒――に無理矢理に頼んで泊めて貰つた。
二人の有金持物を合して米一升金五十銭、それだけ全部をあげる。
旅烏はのんきであるがみじめでもある。
そしてこの家の乱雑はどうだ、きたない子供、無智なおかみさん、みじめな食物、自分の生活がもつたいない、恥づかしいとつく/″\思つたことである。
夜ふけて雨、どうやら雪もまじつてゐるらしい、何しろ八ヶ岳の麓だから。
いつまでも睡れなかつた。

 五月九日 日本晴。

明けきらないうちに起きた、朝日が寒さうな光を投げてゐる、霜柱がかたい。
見よ、雪をいたゞいた山なみのうつくしさ。
早々出立、話しながらゆつくり歩く。
落葉松、筒鳥、清流、あゝその水のうまさ。
石ころ道をだいぶ歩いて清里駅、こゝらの駅は日本で最高地に在る停車場、熊が汽車見物に出て来たといふ話。
やがて信濃路に入る、野辺山風景は気に入つた、第二の軽井沢になるといはれている、いちめんの落葉松林だ。
妙な因縁で、帰りタクシーに乗せて貰ふ、有難かつた、ルンペン君は驚いてゐる。
海ノ口からまた歩いて海尻、そしてやうやく小海駅、こゝでルンペン君に別れる、汽車は千曲川に沿うて下りやがて岩村田町、江畔老の無相庵に客となる、家内中で待つてゐて下さつた、涙ぐましくもうれしかつた。
おゝ浅間! 初めて観るが懐かしい姿。
江畔老の家庭はまた何といふなごやかさであらう、父草君が是非々々といつて按摩して下さる、恐れ入りました。

 五月十日

夜来の雨は霽れて、空の色が身にしみる、雪の浅間の噴烟ものどかだ。
炎の会句会、粋花、如風、等々の同人に紹介される。
山国の春は何もかもいつしよにやつて来て、とても忙しい、人も自然も。
手打蕎麦――いはゆる信州蕎麦の浅間蕎麦――その味は何ともいへない、一茶がおらがそばと自慢したゞけはある。
逢つて何よりお蕎麦のうまさは
鼻頭稲荷の境内で記念撮影。
江畔老から牧水の事をいろ/\聞く。
うれしくあたゝかくやすらけく寝たり起きたり、我がまゝをさせていたゞく。

 五月十一日 晴。

朝の散歩。
軽井沢方面へマヽかける。――
浅間をまへに落葉松林に寝ころんで高い空を観てゐると、しみ/″\旅、春、人の心、俳句、友の情、……を感じる、木の芽、もろ/\の花、水音、小鳥の歌、……何もかもみんなありがたい。
信濃追分、いかにも廃駅らしい(北国街道と中仙道との別れ路)。
浅間大神里宮
芭蕉句碑――
婦支飛寿石者浅間能野分可哉
天然製氷所が散在してゐる。
やうやく沓掛に着く、別荘地らしい風景である。
軽井沢駅前の噴水の味は忘れない。
駅前の旅館に泊る、一泊二食で一円、私には良すぎるが仕方がない。
一人一室一燈はうれしい、一杯ひつかけて、ぐつすりと寝た。
水音をさぐる

 五月十二日 晴。

高原の朝のすが/\しさ、しづけさ。
旧道碓氷越――
遊園道路を登る、吊橋、雑木若葉。
ふと右に浅間があらはれる、小鳥合唱。
見晴台、妙義の奇怪なる山容。
峠町、熊野神社、上信国境。
こゝまで半里、遊覧徃復客。
道を踏み違へて(道標が朽ちてゐたので、右へ下るべきを左へ霧積温泉道を辿つたのである)、山中彷徨、殆んど一日。
山ざくら、山くずれ、落葉ふかく。
すべつてころんで、谷川の水を飲む。
やつと湯の沢といふところへ下つて、杣人と道連れになつて、坂本の宿場に急いだ。
芭蕉句碑(一つぬいで――)。
横川の牛馬宿に泊る、座蒲団も出してくれ茶菓子も出してくれて七十銭。
客は私一人、熱い風呂を浴びて爐辺に胡坐をかいて、やれ/\助かつた!

 五月十三日 晴――曇。

早朝出立。
碓氷関所マヽ、妙義の裏、霧積川の河鹿、松井田町(折からのラヂオは赤城の子守唄だつた)、きんぽうげ、桐の花、安中原市、そこの杉並木はすばらしかつた。
途中で巡査に訊マヽされたりなどして、癪だから理髪する。……
高崎市の安宿に寄ると、ふしぎや、また例のルンペン君に出会つた、人生万事如是々々、そして人生はまた一期一会だ(但会一処でもあるが)、幸にして持合があるので、ビールとビフテキとをおごつてあげた、彼のよろこび、彼のかなしみ、それは私にもよく解る、君よ幸福であれ。

 五月十四日 曇――晴。

こゝから引返すことにして、松井田まで歩き、そこから汽車で御代田まで、また歩いて暮れ方、平原の甘利君の宅に落ちつくことが出来た。
手打蕎麦も酒もうまかつた、よく睡れた。

 五月十五日 曇。

附近散歩、小川でふんどしを洗ふ。
甘酒を頂戴するなど。
炬燵に寝そべつて悠々休養。
椋鳥がしきりに啼く、初めて郭公を聞いた、旅情あらたなり。
夜おそくまで閑談。
親子四人の睦まじい家庭。

 五月十六日 曇、夜は雨。

お早う、椋鳥君、おや鶯も来てゐる。
さようなら、ごきげんよう。
再び江畔居の厄介になる。
午后は岩子鉱泉行、そして平根の粋花居へ、よばれて酔うて夜になつて帰る。
比古君黙壺君からの来信ありがたし、ありがたし。

 五月十七日 雨、曇、そして晴。

稔郎君、粋花君来訪。
終日閑談、悪筆を揮ふ、いつものやうに。――
甲州路。

信濃路。――
・あるけばかつこういそげばかつこう
   (無相庵)
・のんびり尿するそこら草の芽だらけ
・浅間をまへにおべんたうは青草の
・風かをるしのマヽの国の水のよろしさは
歩々生死、一歩一歩が生であり死である、生死を超越しなければならない。
転身一路、自己の自己となり、自然の自然でなければならない。
自然即自己自己即自然
  自問自答
ゆうぜんとして生きてゆけるか
しようようとして死ねるか
どうぢや、どうぢや
山に聴け、水が語るだらう
生の執着があるやうに、死の誘惑もある。
生きたいといふ欲求に死にたいといふ希望が代ることもあらう。

 五月十八日 日本晴。

今日も無相庵江畔居滞在。
朝から郭公がさかんに啼く。
江畔老といつしよに閼迦流山へ遊ぶ、尻からげ、地下足袋、帽子なしの杖ついて、弥次さん喜多さん、とてもほがらかである。
長野種馬所の青草に足を投げ出して休む、右は落葉松林、左は赤松林、前は青々と茂る草のむかうに残雪の八ヶ岳蓼科の連峰、よい眺望である。
初めて林檎の木と花とを見た。
信濃――北国山国はどこでもさうであるが――梅桜桃李一時開で、自然も人間も忙がしい。
此地方には山羊が多い、おとなしい家畜だが、あの鳴声はさびしい。
一里あまり歩いて、香坂明泉寺。
自然石のよい石碑が立つてゐる、曰く
南朝忠臣香坂高宗
お山へ登る、老樹うつさうとして小鳥がしきりに囀づる。
頂上十二丁目、大正十二年八月摂政宮殿下御登臨之処といふ記念碑が建てられてある、眺望がよろしい、白馬連山が地平を白く劃つてゐる。
木蔭の若草に寝そべつて、握飯を食べる、一壜を携へて来ることは忘れてゐない、ほろ/\酔ふてうたゝ寝する、まことにマヽ平楽である。
一杯の水も仏の涙かな――といふ風の閼迦流山くづしがむき出してある、放浪詩人三石勝五郎さんの作。
ぶら/\歩いて戻つたのは四時頃であつた。
電報が二通来てゐた、比古君から、澄太さんからである、どちらも有難い通知だつた。
こゝで私はまた我がまゝ気まゝな性癖を発揮して、汽車で小諸へ向つた、明後日また引返してくるつもりで。
私の滞在もずゐぶん長くなつた、桑が芽ぶいて伸びた。……
今日の収穫
・あるけばかつこういそげばかつこう
・落葉松は晴れ切つてかつこう
・若葉したたるながれで旅のふんどしを
・お山へのぼる花をむしつてはたべ
・岩に腰かけ樹にもたれ何をおもふや
・いただきの木のてつぺんで鳥はうたふ
・おべんたうをひらくどこから散つてくる花びら
・雲かげもない木の芽のしづか
・寝ころびたいスロープで寝ころぶ若草
・落葉松落葉まどろめばふるさとの夢
・落葉松落葉墓が二つ三つ
   懐古園三句
・浅間は千曲はゆうべはそゞろ寒い風
・ゆふ風さわがしくわたしも旅人
・その石垣の草の青さも(牧水をおもふ)
・浅間をむかうに深い水を汲みあげる
・ぞんぶんに水のんで去る藤の花
・風かをる信濃の国の水のよろしさ
・虱がとりつくせない旅から旅
・浅間へ脚を投げだして虱をとる
・まんなかに池がある昼の蛙なく(岩村田遊廓)
・浅間したしいあしたでゆふべで
                   (此の二句父草居にて)
・ゆつくりいくにち桑が芽ぶいて若葉した
   江畔老に
・けさはおわかれの、あるだけのお酒をいたゞく
・草萌ゆる道が分れる角で別れる
・逢へば別れるよしきりのおしやべり
・さえづりかはして知らない鳥が知らない木に
・水はあふれるままにあふれてうららか
○自戒一則――
貪る勿れ、疑ふ勿れ、欺く勿れ、佞る勿れ、いつもおだやかにつゝましくあれ。

 五月十八日(続)

岩村田から小諸まで二里半、汽車の窓から眺める風景は千曲谿谷的なものがある、乙女といふ駅名も珍らしかつた(九州にといふ地名もあるが)。
小諸へ着いたのは夕暮、さつそく宿を探して、簡易御泊処鎌田屋といふのを見つけた、老婆が孫を相手に営業をつゞけてゐるといふ、前金で六拾銭渡す、茶菓子、座蒲団、褞袍を出してくれる、有難い、夜具も割合に清潔だつた。
暮れきらないうちに、懐古園(小諸城マヽ)を逍遙する、樹木が多くて懐かしいが、風が吹いて肌寒かつた。
藤村詩碑は立派なものである、藤村自身書いた千曲川旅情の歌が金属板にしてある、その傍の松の木が枯れかけてゐるのは寂しかつた、……雲白く遊子かなしむ……旅情あらたに切なるを感じた。
二之丸阯に藤村庵がある、古梁庵主宮坂さんが管理してゐる、小諸文化春秋会といふ標札も出してある(藤村氏自身は藤村庵を深草亭と名づけた)。
二之丸阯の石垣の一つに牧水の歌が刻んである――
かたはらに秋くさの花かたるらく
  ほろびしものはなつかしきかな
見晴台からの眺望はよろしい、千曲川のよいところがよく眺められる。
噴き出してゐる水もよかつた。
夜は一杯ひつかけて街を散歩する、小諸銀座といふてもお客は通らない、小川の水音が聞えるだけだ。
なか/\寒い、風が旅愁をそゝる。
また一杯ひつかけて、おばあさんのいはゆる娑婆ふさぎのからだを寝床に横たへた。……

 五月十九日 曇、風、雨。

さすがに浅間の麓町だけあつて、風が強くて雨が冷たい。
やつぱり酒だ、酒より外に私を慰安してくれるものはない(句作と友情とは別物として)、朝から居酒屋情調を味つた。
風雨の中を中棚鉱泉宿に落ちつく、安くして貰つて一泊二飯一円。
あまり待遇はよくないけれど、幾度でも熱い湯にはいれるのがうれしい。
終日ごろ/″\して暮らした、終夜ぐうぐう寝た。

 五月二十日 晴。

八時出立、戻橋を渡つて、千曲川に沿うて、川辺村を歩く。
初めて松蝉を聞いた、初夏気分だ。
谿谷のながめがよろしい、浅間山のすがたも悪くない(浅間山の形容は小諸からはよくない、岩村田からがよい)。
途中人蔘栽培の畠がちらほら見える、人蔘は日光を忌み雨を嫌ひ、一度育つた土では十余年も育てることが出来ないさうな、贅沢な植物ではある。
八ツヶ岳にはまだ雪が光つてゐる。
八幡まで二里、左折して千曲川を渡る、中津といふ田舎町があつた。
○また風が吹きだした、彼がどんなに孤独な旅人を悩ますかは、彼でなくては解るまい。
二里近くで岩村田町、相生の松とよばれる中仙道徃還の名木があつた、赤松黒松の雌雄両木が絡み合ひ結びついてゐる。
書き忘れたが、途中、中佐都といふ部落に蕉翁句碑があつた。
刈かけし田面の鶴や里の秋
岩村田町に着いた時はもう三時、もりそばを味はひ銘酒を味つた。
信濃は一茶がうたつてるやうに、蕎麦の名物を誇つてゐるが、とりわけ、戸隠蕎麦(いはゆる更科蕎麦)浅間蕎麦(浅間山麓一帯の田舎蕎麦)がうまいさうである、私も幸にして浅間蕎麦は再三御馳走になつたことである。
また/\父子草居――これは私の命名――の食客となつた。
夜は最後の一夜といふので、みんないつしよにしみ/″\と語つた、一期一会の人生ではあるが、縁あらばまた逢へるであらう。
うつくしい夕焼が旅情を切にしたことも書き落してはならない。
物みな可かれと祈る。

 五月廿一日 快晴。

いよ/\出立だ、朝早くから郭公がしきりに啼く。
八時、岩村田の街はづれまで江畔老が見送つて下さる、ありがたう。
さよなら、さよなら、ほんたうに関口一家は親切な温和な方々ばかりであつた、羨ましい家庭であつた。
御代田駅まで歩く、一里半、沓掛まで汽車、それから歩けるだけ歩いた。
長倉山の頂上、見晴台の見晴らしはすばらしかつた、山また山である、浅間は近く明るく、白馬は遠く白く眺めて来たが、こゝでは高い山低い山、鋭い山丸い山が層々として重なつてゐる、軽井沢の一望も近代的風光たるを失はない。
別荘散在、赤いのや青いのや、日本風なのや西洋流なのや。
かつこう、うぐひす、からまつ、みづおと、そしてほとゝぎすがをり/\啼く、千ヶ滝の水もおいしかつた。
行人稀で、時々自働車。
峯の茶屋で昼飯、こゝを中心にして自働車専用道路がある、私設の有料である。
こゝからすぐ国界県界、道は何だか荒涼たる六里ヶ原を横ぎる。
浅間村牧場、北軽井沢駅。
白樺が多い、歯朶の芽が興を引く、所有建札が眼に障る。
養狐場が所々にある、銀狐を生育さすのである、狐の食料は人間よりも贅沢で月二十円位はかゝるさうな、そして一ヶ年の後には毒殺されて毛皮は数百金に売れるといふ、資金を要する商売であるが、なか/\儲かるさうな。
吾妻アガツマ駅から電車で草津へ、五里七十四銭は高いやうであるが、登り登るのだから成程と思ふ、駅で巡査さん駅長さんと雑談する、共に好人物だつた。
殺風景な山や家がつゞいてゐたが、嬬恋ツマゴヒ三原あたりの眺めはよかつた。
浅間高原の空気を満喫した。
高く来て肌寒い。
六時頃やつと草津着、やうやく富山館といふ宿をたづねあてた、泊銭七十銭、湯銭十二銭。
同宿は病遍路、おとなしい老人、草津といふところは何となくうるさい、街も湯もきたならしい、よいとこでもなささうだ、お湯の中にはどんな花が咲くか解つたものぢやない!
熱い湯にはいつて二三杯ひつかけて、ライスカレーを食べて(これが宿の夕食だ、変な宿だ)ぐつすり寝た。
夢は何?…………

 五月廿二日 晴、曇る。

朝湯はほんたうによろしいな、朝は共同湯もきれいだつた。
宿の主人は石工、こつこつこつこつ、でもおちついてしづかだ。
病遍路さんは腎臓脚気でよろ/\して軽井沢――の方へ出て行つた。……
今日一日は休養することにして、ノンキにそこらを歩く。
湯ノ沢といふ場所へ行つた、そこは業病人がうよ/\してゐる、すまないけれど、嫌な気持になつて、すぐ引き返した、かういふ場所でかういふ人々に心から接触してゐる宣教師諸君には頭がさがる、ほんたうに。
白根神社参拝、古風で、派手でないのがうれしい。
草津気分――湯町情調。
何だかうるさいと思つたが、一日二日滞在してゐるうちに何となく好きになるから妙、しかし何となくきたない。
湯があふれて川となつて流れてゆく、浪費の快感がないでもない。
山の水を縦横に引いて、山の水はつめたくてうまい。
湯の花、そして草津味噌
○ロクロくる/\椀が出来る盆が出来る。……
昼もレコードがうたひ、三味線が鳴るのは、さすがに草津。
しかし草津シーズンはこれからだ、揉湯、時間湯の光景はめづらしくおもしろい、そしてかなしい。
草津よいとこかよくないとこか、乞食坊主の私には解らん、お湯の中に花が咲くかどうか、凡そ縁遠いものです。
午后、宿のおかみさんに案内されて、しづかなきれいななぎの湯といふのへゆく、なるほど不便なだけしづかで、紙ぎれや綿きれがちらばつてゐない、しかしこゝもやつぱり特有の男女混浴だ、男一人(私に)女五人(二人はダルマ、二人は田舎娘、一人は宿のおかみさんだ)、ぶく/\下から湧く、透き通つて底の石が見える。
皈途、一杯また一杯、酔つぱらつて、おしやべり、――それもよからうではありませんか!
ぼろ/\
 どろ/\

 五月廿三日 雨、霽れて曇。

滞在、昨夜の今朝で身心おだやかでない。
一切万事落々漠々。
私は何故時々泥酔するのか、泥酔しないではゐられないのか。――
私はほんたうにおちついてゐない、いつも内面では動揺してゐる、――それもその源因ではあるが、私は自己忘却を敢てしなければ堪へられないのである、かなしいかな。
私はまだ自己脱却に達してゐないのである、泥酔は自己を忘れさせてはくれるが、自己を超越させてはくれない。
生死を生死すれば生死なし。
煩悩を煩悩せずば煩悩なし。

 五月廿四日 雨。

昨夜の風雨は高原らしい風雨であつた、雷鳴急雨、それは私の荒みつゝある身心を鞭つた。
今日も詮方なしに滞在する、私のやうなものでも、それは時間と旅費との浪費に過ぎなかつた。
よく降る、よく寝る、よく食べる、よく飲める、よく考へる。……
  (草津雑詠)
もめやうたへや湯けむり湯けむり
ふいてあふれて湯烟の青さ澄む
揉湯――時間湯。

 五月廿五日 行程四里(上り三里、下り一里)。

からりと晴れてまさに日本晴、身心あらたに出立する、万座温泉まで四里には近いのだが、七時半から三時までかゝつた、ずゐぶん難かしい山路だつた。
草津の街を出はづれると落葉松林、それから落葉松山、そして灌木と熊笹、頂上近くなれば硫黄粘土と岩石ばかり。
白根山は噴煙をふきあげてゐる、荒凉として人生の寂寥を感じた。
涙のない人生、茫漠たる自然。

 五月廿五日(続)

まことにしづかな道だつた、かつこうもうぐひすもほうじろもよく啼いてくれたが、雪のあるところはすべるし、解けたところはぬかつてゐるし、はふたりころんだり、かなり苦しんだ。
残雪をたべたり、見渡したり、雪解の水音を聴いたり、ぢつと考へこんだり。
山、山、山、うつくしい山、好きな山、歩き慣れない雪の山路には弱つたが、江畔おくるところの杖で大いに助かつた、ありがたし/\。
草津から二里あまり登つて芳ヶ平、ヒユツテーがある、スキーの盛んなことだらうなどゝ思ひつゝ歩いた。
○白根山の頂上は何ともいへないさびしさだつた、噴烟、岩石(枯木、熊笹は頂上近くまであつたが)、残雪、太陽!
落葉松の老木は尊いすがたである。
やうやく一里あまり下ると、ぷんと谷底から湯の匂ひ、温泉宿らしい屋根が見える、着いたのは三時だつた、何と手間取つたことだらう、それだけ愉快だつた。
とりつきの宿――日進館といふ、私にはよすぎる宿に泊る、一泊二飯で一円。
すべてが古風であることはうれしい、コタツ、ランプ、樋から落ちる湯(膳部がいかにも貧弱なのはやつぱり佗しかつたが)、何よりも熱い湯の湧出量が豊富なのはうれしい。
○ぐん/\湧きあがる熱湯が湛へて溢れる湯けむりを見よ。
旅館は並んで二軒、離れて一軒、どれも相当大きい、たゞし今頃は閑散季で、ゆつくりとしづかである。
自炊式であることはよろしい、給仕してくれないのが私には気楽でよろしい。
さつそく洗濯をする、それから鬚を剃り爪を切る、さつぱりする、あかるくなる。
だん/\曇つてきた、とかく山国は雨になりがちだ、明日もまた降るかも解らない。
山国と味噌汁、朝も汁、晩も汁だ、汁はわるくないが、その味噌が臭くて酸つぱいと弱る。
ねむれないので夜ふけてまた入浴、誰もゐない薄暗い湯壺にずんぶりひたつて水音に心を澄ます、……内湯のありがたさ、山の湯のありがたさである、……よくねむれた。
万座よいとこ、水があふれて湯があふれて。
昔風で、行き届かないやうな、気のきかないやうな昔ぶりがうれしい。
遠慮のない、見得を張らないで済む気安さ。
のんびりとくつろげる。
苦湯ニガユへ下つて一浴びしなかつたことは惜しかつた、その豊富な素朴な孤独味を知らなかつた(長野で北光君に教へられて残念がつた)。
草津は金持と患者とが入湯するところだらう、万座はしづかに体を養ひ気を吐くところである、プロでもブルでも。
古来からの有名さと交通の便利さとが草津を享楽郷とし、また療養地とした、たしかに草津の湯は効く、浴してゐるといかにも効くやうに感じる。
万座は交通の不便で助かつてゐる、草鞋穿きで杖をつかなければ登つて行けないところに万座のよさの一つがある。
こん/\と湧いてなみ/\と湛へてそしてどし/\溢れる温泉のあたゝかさ。
この湯宿は案外田舎式であるが、そこによいところ好もしいところがある、ヘマなサービスぶりにもかへつて愛嬌がある。
朝の膳に川魚のカツレツが載せてある、ちようど草津の宿で、夕飯としてカレーライスをどつさり出されたやうなものだ、おかしくもあり、いやでもあり、珍妙々々。
私が温泉を好むのは、いはゆる湯治のためでもなく遊興のためでもない、あふれる熱い湯に浸つて、手足をのび/\と伸ばして、とうぜんたる気分になりたいからである。
豊富な熱湯、閑静な空気が何よりだ。

   ――(山をうたふ)――
・春の鳥とんできてとんでいつた(白根越へ)
・ひとりで越える残雪をたべては
・山ふところ咲いてゐる花は白くて
・杖よどちらへゆかう芽ぶく山山
・墓が一つこゝでも誰か死んでゐる
・山路しめやかな馬糞をふむ
・残雪ひかる足あとをたどる
・山路たま/\ゆきあへばしたしい挨拶
・春の山のそここゝけむりいたゞきから吐く
・いたゞきの木はみんな枯れてゐる風
・残雪の誰かの足あとが道しるべ
   ――(山をうたふ)――
・山は火を噴くとゞろきの残雪に立つ
・すべつて杖もいつしよにころんで
・残雪をふんできてあふれる湯の中
・とつぷり暮れて音たてて水
   万座温泉
・水音がねむらせないおもひでがそれからそれへ
・更けてもう/\とわきあがるもののしゞま
   万座峠
・霧の底にて啼くは筒鳥
・山路なつかしくバツトのカラも
・ふきのとうも咲いてほほけて断崖
・ごろりと岩が道のまんなかに
・あんなところに家がある子供がゐる犬がほえる(追加)
   内山へ
・霧雨しくしく濡れるもよろしく
・けふは街へ下る山は雨
・八重ざくらうつくしく南無観世音菩薩像
・かつこう啼いて霽れさうなみどりしづくする
・こんやの寝床はある若葉あかるい雨
・このみちがをなごやへ霽れさうもないぬかるみ
・こゝろおちつかない麦の穂のそよぐや
・つめたい雨が牡丹に、牡丹くづれる
・ころびやすうなつたからだがころんだままでしみ/″\
・明けるとかつこう家ちかくかつこう
・すぐそこでしたしや信濃路のかつこう
・崖から夢のよな石楠花で
・ゆふべ啼きしきる郭公を見た
・観てゐる山へ落ちかゝる陽を見る
・これが胡桃といふ花若葉くもる空
・ちよいちよい富士がのぞいてまつしろ
・つかれもなやみもあつい湯にずんぶり(追加)

 五月廿六日 曇、后雨。

未明起きてすぐ湯にはいる、朝湯の快さは何ともいへない。
さすがに高原、肌寒い、霧雨が降つてゐる、もことしてあたりが暗い。
今朝はしゆくぜん身心の新たなるを覚えた、私はやうやくまた一転化の機縁が熟してきたことを感じる。
七時出発、長野へ向ふ、身も心も軽い、霧雨しつとり、濡れよとままだ。
万座川の水声、たちのぼる湯けむり、残雪のかゞやき、笹山うぐひすのうた、巨木のすがた、小草のそよぎ、――ゆつたり歩く。
万座峠(山田峠ともいふ県界)の頂上まで半里、それから山田温泉まで下り三里。
雪も残つてをり、破損したところもあるけれど、しづかなよい道、らくな道、好きな道であつた。
岩かゞみ草などがちらほら眼につく、莟はまだ堅い、いろ/\の小鳥がほがらかにさえづつてゐる、しづかな木立、きよらかな水音、くづれた炭焼小屋、ふきのとう、わらび、雑木の芽、落葉松の若葉はこまやかに、白樺の肌は白うかゞやく。
虎杖橋附近の眺望はよかつた、松川谿谷美の一景。
七味橋、それを渡つたところに湯宿一軒、七味温泉と呼んでゐる。
さらにまた五色温泉がある、こゝも宿屋一軒、めづらしいのは河原湯(野天風呂)である、だんだん里近くなる。
雑木山のうつくしさよ、青葉若葉の青さ、せぐりおちる谷水の白さ、山つゝじの赤さ。
道は広くてよいけれど、山崩れがあつて道普請が初まつてゐる。
ほどなく山田温泉に着いた、まさに十二時、薬師堂があつて吉野桜が美しい。
山田温泉場はこぢんまりとして、きれいに掃き清められてゐる、そこがかへつて物足らないやうにも感じられる。
高井橋といふ吊橋も立派なものである。
バスが通マヽ、一路坦々としてすべるやうに須坂へ向ふ、道ばたに蒲公英が咲きみだれてうつくしい。
子安橋、樋沢橋、千曲川が遙かに光つて見える、郭公が啼きつゞける。
途中、酒屋に寄つて一杯また一杯。
須坂まで三里、さらに西風間まで三里、バスも電車も都合よくないので歩く。
晴れそうであつたが降つて来た、小雨だから濡れるままに濡れる。
妙高、黒姫、戸マヽの山々が好きな姿を見せたり消したりする。
千曲川を渡る、村上橋は堂々たるものである、もう長野は遠くない。
やうやく北光居をおとづれる、すぐ着換へさせて下さる、手織木綿らしいぎこちなさが却つて温情と質実とを与へる、やれ/\よかつた/\ありがたい/\。
(今日は強行で十里近く歩いたのである)
再び信州に入つて上野をふりかへると、そこに多少の感想がある――
マヽから信州へはいつてくると明るくなつたやうだ(白根から万座峠を下つて)、概して道がよろしい、道標がしんせつに建てゝある、旅人はよろこぶのである。
青く明るく信濃の国はなつかしきかな
秋山部落の話(北光君から聞く)
平家の残党――秋山美人――
(離れておくれてゐたのが現今では最も新らしい)
――東京へ女給として進出、モダンガール。

   (信濃から越後へ)
・こゝから越後路のまんなかに犬が寝てゐる(関川にて)
・ゆれてゐるかげは何の若葉をふむ
・飲んで食べて寝そべれば蛙の合唱(迂生居即事)
・首だけある仏さまを春ふかき灯に(  〃  )
・ガラス戸へだてて月夜の花が白い(  〃  )
・めづらしく棕梠が咲いてゐて少年の夢(追憶)
・砂丘のをんなはをなごやのをんなで佐渡は見えない(日本海岸)
   柏原にて
・ぐるりとまはつてきてこぼれ菜の花(土蔵)
・若葉かぶさる折からの蛙なく(墓所)
・孫のよな子を抱いて雪も消えた庭に(銀汀に)
・砂丘が砂丘に咲いてゐる草の名は知らない
・とかく言葉が通じにくい旅路になつた
・くもりおもたい空が海が憂欝(日本海)
・みんなかへる家はあるゆうべのゆきき
・なんにもない海へ煙ぼうぼうとして(日本海)
・砂山青白く誰もゐない

 五月廿七日 雨。

まだ明けきらない床の中で話しする、北光君はまじめでそしてあたゝかい人だ。
よしきりが啼きつゞける、お前はまつたくおしやべりだね、裏店のおかみさんのやうに。
よかつた、ほんたうによかつた、万座で雨にふりこめられると、いらない心配をしなければならなかつたであらう。
朝酒、寄せ書、悪筆。
昼酒、雑談、そしてまた乱筆。
夕方から長野銀座を散歩する、雨が降るのに御苦労々々々、郵便局はよかつた、湯屋もよかつた、蕎麦はむろんうまかつた、帰途、すべつてころんだ、そして一句拾つた!
夜は句会、五人で親しく句会、といふよりも座談会、そこには俳人的といふよりも人間的なあたゝかさがあつた、一時近くなつて散会した。
降る、降る、ほんたうに根気よく降りつゞける雨かな。

 五月廿八日

曇、もう霽れてもよいだらう、どうやら霽れさうだ、白馬連峰が遠く白くかゞやいてゐる。
午前中はおとなしく執筆。
酒はやつぱりうまい、朝酒、昼酒、晩酒よろしい、今日は今日の風がふくまゝに、明日は明日の風がふくだらう、/\といつた気分で、さよなら/\、ありがたう/\、はい/\。
午后は北光君に連れられて紅葉城君を訪ねる、一杯機嫌で揮毫。
三人同道して長野見物――
まづ西光寺(刈萱親子地蔵尊)へ詣でる、父寂照坊母千里御前、そのまんなかに道念坊の墓がある、それから美篶ミスズ橋上に立つ、白根山四阿山のすがたもよろしい。
向うは川中島、そこは千曲川と犀川とが合流するところで有名な古戦場、前は杏の里と呼ばれる部落、朝日山の阿弥陀堂はその右手に見える、さらに裾花川に架してある相生橋のほとりへ行く、とても巨大な柳がある、すこし溯ると白岩といはれる戸隠名勝裾花渓最初の観光場所がある、今日は雪解で水が濁り、桜は散つて河鹿はまだ鳴かない。
街をまつすぐにいよ/\善光寺である(途中郵便局でKからの手紙を受取つた、すまない/\ありがたい/\)。
長野の善光寺か、善光寺の長野かといはれるほどであつて、善光寺はまことにうれしい寺院である、お開帳がすんだばかりで、まだその名残がある、八百屋お七物語の吉三郎建立と伝へる濡仏がある、大勧進大本願の建物は、両者の勢力争を示さないでもない、山門も本堂もがつちりとして荘麗といふ外はない(何と鳩、いや燕の多いことよ)、それにしても参道の両側の土産物店の並んでゐること、そしてその品々の月並なこと。
帰途紅葉城君の御馳走でやぶといふ蕎麦中心の料理屋へ寄つた、座敷も庭園も蕎麦も料理も悪くなかつた、私にはよすぎるよさだつた、紅君とは別れて北君と二人で入浴して帰宅して安眠した。

 五月廿九日 曇。

逢ふは別れのはじめ、名残の酒杯をかはして、衣更して、いろ/\御世話になりました、どうぞ御大事に。……
長野駅はそれにふさはしい仏閣式建物である、こゝまで北光君と紅葉城君とが見送つて下さつた、そして切符やら煙草やら何やらかやら頂戴した、八時の汽車で柏原へ。――
車中で遠足の小学生が私に少年の夢を味はせてくれた、山のみどりのうつくしさ、まつたく日本晴の日本国だ、九時すぎてさびしい山駅柏原に着いた。
触処生涯、これが私の境地でなければならない。
□省みて恥づかしくはないか、私はあまりに我がまゝ気まゝではないか、ゼイタクではないか、プチブル的ではないか。……(五月廿九日所感)
活花のお師匠さん――といつてもまだ若い――北光君は語る――
盛花からだん/\投入になつてゆくから面白いですよ。
○白樺は他の植物とは違つて、表皮を剥がれても痛痒を感じない――生育上支障を来さない――むしろそれを喜んでゐるやうに見えるといふ、営林署でも皮を剥ぐことそのことは構はないけれど、観賞上美観を妨げないやうに路傍の白樺だけは皮を剥がないやうにといつてゐるさうである(薪材として役立つより外なかつた白樺が趣味的に色々使用され初めたことはうれしいことの一つ)。
○その土地でその土地の人々にその土地の山の名とか河の名とかを訊ねて、知らない、知りませんと答へられると腹が立つ、これは学校の先生がよろしくない。
○銀汀君から聞いた米若の話。
彼は今浪界第一の人気者だが、若い時は信濃川分水工事の土方だつたさうな、あまり浪花節がうまく、彼がうたひだすと、みんな聞き惚れてしまつて仕事が手につかないので解雇されたといふことだ。
○虹果君から聞いた話。
北国ではよく飲む、冬ごもりは毎日毎夜飲むさうで、酒でも飲まなければやりきれないといふ、そんなわけで、一升飲むとか二升飲むとかいはないで、二日飲めるとか三日飲めるとかいつて酒量を日数であらはすさうな。
海国から輸入された鯡が山国信濃化されて鯡昆布巻となつて特殊の味と値とを持つた。

 五月三十一日 雨。

夢のやうに雨を聞いたが、やつぱり降つてゐる、昨日こゝまで来てゐたことは(宿屋で断られて汽車に乗つたのだつたが)ほんたうによかつた、宿で降りこめられて旅費と時間とを浪費することは私のやうなものには堪へがたい。
早く眼は覚めたけれど家人の迷惑を考へて、床の中でぼんやりしてゐる。
二階の別室に閉ぢ籠つて身辺整理。
信濃川産の生鮭はおいしかつた、生れて初めて知つた鮭の味である。
若葉にふりそゝぐ雨の音はよい、隣は図書館、裏は武徳殿、あたりはしづかである。
虹果君来訪、おもしろい人である。
銀汀君と仕事の合間には話す、なつかしい人だ、よきパパであるらしい。
長岡散歩、入浴、一番風呂で気持がよかつた。
夕方から句会場――おとなりの仕出屋――へ出かける、会者五六人、遠慮なく話し合ひ腹一杯飲み食ひする、例によつて悪筆の乱筆を揮ふ、十二時近くなつて散会、酔ふて戻つてすぐ寝る、酒よりも水、水。
   (越後をうたふ)
・くもつてさむく旅のゆふべのあまりしづかな
・湯あがりの、つつじまつかに咲いて
・春がいそがしく狂人がわめく人だかり(北国所見)
・図書館はいつもひつそりと松の花
・若葉して銅像のすがたも(互尊文庫)
   追加数句
・桑畑の若葉のむかうから白馬連峰
・煙突にちかづいて今日の太陽
戸隠に小鳥の里あり、うれしいではないか。
一茶翁遺蹟めぐり

 六月一日 晴。

四時にはほがらかに眼覚めた、私はたしかに不死身にちかいらしい、それは幸福でもあり不幸でもあるやうだ!
初夏の朝のすが/\しさよ、身も心ものび/\として、おのづからほゝゑましくなる。
街の鳩――飼主のない――が容姿には不似合な声で啼く。
午前中は互尊文庫で読書、探した本は見つからなかつたが。
昼飯は昨日も今日も蕎麦をいたゞいた、蕎麦はうまい、淡々として無限の味。
稲青君に案内されて悠久山へ。
夜は虹果居へ。
飲めるだけ飲んだが。……

 六月二日 曇、雨。

出立、銀汀、稲青の二君に長生橋まで送られて、さよなら、さよなら。
良寛和尚の遺蹟めぐり。
良寛墓、良寛堂。
あらなみをまへになじんでゐた仏。
(国上山中)
青葉分け行く
  良寛さまも行かしたろ
出雲崎泊。

 六月三日 曇。

寺泊へ、それから国上山へ。
水は滝となつて落ちる荒波
弥彦神社。
バスで新潟へ。

 六月四日 五日 六日 七日

新潟滞在。
砂無路居。

 六月八日

おわかれ。
村上東町の詢二居へ。

 六月九日

詢二居飲会。

 六月十日

瀬波温泉にて。

 六月十一日 十二日

ぼう/\ばく/\。

 六月十三日

鶴岡へ、秋兎死居。

 六月十四日

秋君といつしよに湯田川温泉へ。

 六月十五日

散歩。

 六月十六日――廿二日

酒、女、むちやくちやだつた。
秋君よ、驚いてはいけない、すまなかつた、かういふ人間として、許してくれたまへ。
湯田川温泉行。

 六月廿三日 曇。

梅雨らしく降る。
私は遂に自己を失つた、さうらうとしてどこへ行く。――
抱壺君にだけは是非逢ひたい、幸にして澄太君の温情が仙台までの切符を買つてくれた、十時半の汽車に乗る。
青い山、青い野、私は慰まない、あゝこの憂欝、この苦マヽ、――くづれゆく身心。
六時すぎて仙台着、抱壺君としんみり話す、予期したよりも元気がよいのがうれしい、どちらが果して病人か!
歩々生死、刻々去来。
あたゝかな家庭に落ちついて、病みながらも平安を楽しみつゝある抱壺君、生きてゐられるかぎり生きてゐたまへ。

 六月廿四日 快晴。

令弟に案内されて市内見物。
仙台はよい都会だ、品格のある都会である、市内で郭公が啼き、河鹿が鳴く。
広瀬川、青葉城。
東北学院に青城子を訪ねる、君は温厚な紳士である、寂しい人でもある(その事情は後で君の口から聞いた)。
午後青衣子君来訪、抱壺君父子と共に会飲、しめやかな酒であつた。

 六月廿五日 曇。

握飯と傘とを持つて、そして切符までも買つて貰つて、松島遊覧の電車に乗り込む。
塩釜神社参拝、境内神さびて、おのづから頭がさがる、多羅葉樹の姿、松島遊園、――あまりに遊園化してゐる、うるさいと思ふ。
瑞巌寺(雲居禅師の無相窟)。
五大堂、福浦島。
松島は雨の夜月の夜逍遙する景勝であらう。
三時の電車で石巻へ、露江居におちつく、お嬢さんが人なつこくてうれしい。
入浴、微酔、おなじ道をたどるもののありがたさ。
寝ること/\忘れること/\。

 六月廿六日 雨。

早い朝湯にはいつてから日和山の展望をたのしむ、美しい港風景である、芭蕉句碑もあつた。
十時出発、汽車で平泉へ、沿道の眺望はよかつた、旭山……一関。……
平泉。――
毛越寺旧蹟、まことに滅びるものは美しい!
中尊寺、金色堂。
あまりに現代色が光つてゐる!
何だか不快を感じて、平泉を後に匆々汽車に乗つた。
九時仙台着、やうやく青衣子居を探しあてゝ厄介になる。
青衣子君の苦マヽと平静とは尊くも悲しい、省みて私は私を恥ぢた。

 六月廿七日 晴。

――妙な夢を見た。
青衣子が方々を案内して下さる、しづかな日だつた。
政岡の墓、伽羅樹一もと。
躑躅ヶ岡、枝垂桜の老木並木。
乳房の木、萩。
宮城野をよこぎる、蝶々。
Sさんから芳醇一壜頂戴。
夕方、K君わざ/\来訪。
熱い湯からあがつてうまい酒をよばれる。
主人心づくしの鯉の手料理!
手紙二つ書く、――澄太君へ、緑平老へ、――これは悲しい手紙だ、私の全心全身をぶちまけた手紙だ(或は遺書といつてもよからう!)、懺悔告白だ。
良寛遺墨を鑑賞する、羨ましい、そして達しがたい境地の芸術である。
多々楼君、都影君、江畔老、緑平老、……感謝々々。

 六月廿九日 曇。

沈静、いよ/\帰ることにする、どこへ。
とにかく小郡まで、そこにはさびしいけれどやすらかな寝床がある。……
七時、さよなら、ありがたう、ごきげんよう、青衣子よ、坊ちやんよ。
十時の汽車で逆戻り、二時、鳴子下車、多賀の湯といふ湯宿に泊る、質実なのが何よりうれしい。
いつでもどこでも、帰家穏座の心でありたい。
どしや降りになつて旅愁しきり。

 六月三十日 雨――曇。

眼さめるとすぐ熱い熱い湯の中へ、それから酒、酒、そして女、女だつた。
普通の湯治客には何でもないほどの酒と女とが私を痛ましいものにする。

 七月一日 晴。

身心頽廃。
四時出立、酒田泊。
アルコールがなければ生きてゐられないのだ、むりにアルコールなしになれば狂ひさうになるのだ。……

 七月二日 曇。

天地暗く私も暗い。
十時の汽車で南へ南へ。――
雨、風、時化日和となつた。
夜一時福井着、駅で夜の明けるのを待つ。
明けてから歩いて、永平寺へ、途中引返して市中彷徨。

 七月三日 曇。

ぼつり/\歩いてまた永平寺へ、労れて歩けなくなつて、途中野宿する、何ともいへない孤独の哀感だつた。

 七月四日 晴。

どうやら梅雨空も霽れるらしく、私も何となく開けてきた。
野宿のつかれ、無一文のはかなさ。……
二里は田圃道、二里は山道、やうやくにして永平寺門前に着いた。
事情を話して参籠――といつてもあたりまへの宿泊――させていたゞく。
永平寺も俗化してゐるけれど、他の本山に比べるとまだ/\よい方である。
山がよろしい、水がよろしい、伽藍がよろしい、僧侶の起居がよろしい。
しづかで、おごそかで、ありがたい。
久しぶりに安眠。

 七月五日 永平寺にて。

早朝、勤行随喜。
終日独坐、無言、反省、自責。
酒も煙草もない、アルコールがなければ、ニコチンがなければ、などゝいふも我儘だ。
山ほとゝぎす、水音はたえない。
長い日であり長い夜であつたが、うれしい日であマヽ、うれしい夜でもあつた。

 七月六日 曇。

おつとめがすんで、障子をあけはなつと、夜明けの山のみどりがながれこむこゝろよさは何ともいへない。
道即事事即道
行住座臥の事々物々を外にして、どこに人生があるか、道があるか。
生活とは念々撓まざる行である。
貪らざるなり、偽らざるなり、驕らざるなり。
すなほにしてつゝましく、しづかにしてあたゝかく。
愛するなり、敬ふなり、奉るなり。
雨を観、雨を聴く、心浄うして体閑かなり。
五十五才にして五十五年の非を知る、噫、生々死々去々来々転々また転々。
隠すことなく飾ることなく、媚びることなく。
きどらずに、ごまかさずに、こだはらずに。
無理のない生活、拘泥しない生活、滞らない生活、悔恨のない生活
おのづから流れて、いつも流れてとゞまらない生き方、水のやうな、雲のやうな、風のやうな生き方。
自他清浄、一切清浄。
だらけきつた身心がひきしまつて、本来の自分にたちかへつたやうな気分になつた。
古徃今来、幾多の人間が私とおなじ過失を繰り返し、おなじ苦悩憂悶にもがき、そしておなじ最後のものに向つて急いだであらうか。
一切我今皆懺悔。
(後日、私の懺悔はホンモノでなかつたことを、さらにまた懺悔しなければならない私であつた)夕のマヽ行随喜。
独慎、自分で自分を欺くな。
洗へ、洗へ、洗ひ落せ、…………垢、よごれ、乞食根性、卑屈、恥知らず、すがりごゝろ、…………洗ひ落せ。
夜が更けて沈んでも睡れなかつた。

 七月七日 曇。

莫妄想。
暁の鐘の声が――それは音でなくて、声である――が身心に沁みとほる。
永平本山では、ヱレベーターは出来ても、また、水流し式の便所が出来ても、行持は綿々密々でなければならない、それが曹洞禅の本領である。
黙々として、粛々として、一切が調節された幸福でなければならない。
野菜料理の味。
独り遊ぶ、――三日間、私はアルコールなしに、ニコチンなしに、無言行をつゞけた。
これで、私の一生はよかれあしかれ、とにかく終つた、と思ふ。
満心の恥、通身の汗。
流れるまゝに流れよう、あせらずに、いういうとして。

 七月八日 雨。

朝課諷経に随喜する。
新山頭火となれ。
身心を正しく持して生きよ。
午後、裸足で歩いて、福井まで出かけた、留置郵便物を受取る、砂夢路君の友情によつて、泊ることが出来た、そして、久しぶりに飲んだ、そしてまた乱れた。……

 七月九日

とぼ/\と永平寺へ戻つて来た。
少しばかりの志納をあげて、南無承陽大師、破戒無慚の私は下山した。
夜行で大阪へ向ふ。

 七月十日 降る降る。

比古さんのお世話になる、何の因縁あつて、私はかうまで比古さんの庇護をうけるのか。
性格破産か、自我分裂か。

 七月十二日 十三日

滞在。

 七月十四日

夕方、安治川口から大長丸に乗つて、ほつとした。
大阪よ、さよなら、比古さん、ありがたう。

 七月十五日 晴。

朝の海がだいぶ私をのんびりさせた、朝月のこゝろよさ。
二時、竹原着、螻子居の客となる。
螻子君夫妻の温情は全心全身にしみこんだ。
私はいつも思ふ――
私は何といふ下らない人間だらう、そして友といふ友はみんな何といふありがたい人々だらう。

 七月十六日 晴。

滞在。
朝の散歩のこゝろよさ。
ごろ寝して読みちらす、まさに安楽国である。
朝酒、昼酒、そしてまた晩酒、けつかう、けつかう。
打水、そこから涼しい風、煽風器の殺風景な風はたゞ風といふだけ。

 七月十七日 快晴。

ひとりぶら/\的場海岸へ、そこで今年最初の海水浴、ノンキだね。
夾竹桃の花は南国的、泰山木の花は男性的。
身辺整理、やうやくにして落ちつく。

 七月十八日 晴。

散歩、鳩、雀、月草。……
しばらくにして。……
午前一時発動マヽ船で生野島へ渡る、Kさん、奥さん、お嬢さん、お嬢さんも久しマヽに、五人、風もよろしく人もよろしく。
無坪さんは芸術家だ。
夕潮に泳ぐ、私だけ残つて。
星月夜、やつぱりさびしいな。

 七月十九日 晴。

未明散歩。
山鳩、水声、人語。

鶴岡――仙台。

  秋兎死君に
これがおわかれのガザの花か
秋兎死うたうてガザ咲いておくのほそみち
あふたりわかれたりさみだるる
はてしなくさみだるる空がみちのく
  平泉
ここまで来しを水飲んで去る
水音とほくちかくおのれをあゆます
水底の雲もみちのくの空のさみだれ
こゝろむなしくあらうみのよせてはかへす
あてもない旅の袂草こんなにたまり
みんなかへる家はあるゆふべのゆきき
さみだるる旅もをはりの足を洗ふ
梅雨空の荒海の憂欝
その手の下にいのちさみしい虫として
  永平寺
てふてふひらひらいらかをこえた
水音のたえずして御仏とあり
山のしづかさへしづかなる雨
法堂あけはなつあけはなたれてゐる
何もかも夢のよな合歓の花さいて
わかれて砂丘の足あとをふむ
島が島に天の川たかく船が船に
ゆう凪の蟹もそれ/″\穴を持つ
今日の足音いちはやく橋をわたりくる
  竹原 生野島
萩とすすきとあを/\として十分
すずしく風は萩の若葉をそよがせてそして
そよかぜの草の葉からてふてふうまれて出た
  無坪兄に
手が顔が遠ざかる白い点となつて
旅もをはりのこゝの涼しい籐椅子
死にそこなうて山は青くて
  螻子君に
朝風すずしくおもふことなくかぼちやの花
朝の海のゆう/\として出船の船
ヱンヂンは正しくまはりつゝ、朝
ほんにはだかはすずしいひとり

 七月十九日(続)

老鶯しきりに啼く、島の平和。
島もうるさいね、人間のゐるところ、そこは葛藤のあるところ。
昼寝の夢はどんなであつたらう!
水音の
こゝろのふるさと
波がしろくくだけては
けふも暮れゆく
待てば海路のよか船があつた、紫丸に乗せてもらうて竹原へもどることが出来た。
夕凪の内海はほんにうつくしい。
一期一会、いつも、いつも一期の会。
夜は螻子居の家庭をうらやみつゝ寝てしまつた。

 七月廿日 晴。

いよ/\皈ります、随縁去来だ。
煩悩、煩悩、煩悩即菩提、菩提もなくなれ。
煩悩を煩悩せずば(いゝ歌だ!)
煩悩は煩悩ながら煩悩はなし
、それは煩悩がなくなつた境地だ。
いや/\、菩提に囚はれない境地だ。
執着するなよ!
七時半の列車で出発、忠彦君に送られて、お土産として、酒三本、煙草一罐、そして小郡までの切符!
どうぞ、どうぞ、幸福に、幸福に(不幸がすぐ彼を襲うたとは!)。
炎天かゞやく。
九時半広島安着、黙壺居を訪ねて、また甘やかされた。
共にうち連れて、市中見物、生ビールとトンカツ、等々等。
旅といふものは、旅人の心は――
酒、酒、酒。
澄太君の友情に甘える。
憂欝、哀愁、苦マヽはてなし。
身辺整理。

 七月廿一日

ブランク、ブランク、いつさいがつさいブランクで。――

 七月廿二日

憂欝たへがたし、気が狂はないのが不思議だ。
夜行で皈庵。
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大阪――広島
・たれもかへる家はあるゆうべのゆきき
・更けると凉しい月がビルのあいだから
   遊戯場
 やるせなさが毬をぶつつけてゐる
   或る食堂
 食べることのしんじつみんな食べてゐる





底本:「山頭火全集 第七巻」春陽堂書店
   1987(昭和62)年5月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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