一の一
誰か
慌たゞしく
門前を
馳けて行く
足音がした時、
代助の
頭の
中には、大きな
俎下駄が
空から、ぶら
下つてゐた。けれども、その
俎下駄は、
足音の
遠退くに従つて、すうと
頭から
抜け
出して消えて仕舞つた。さうして
眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の
椿が
一輪畳の上に落ちてゐる。
代助は
昨夕床の
中で慥かに此花の落ちる
音を聞いた。彼の耳には、それが
護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が
更けて、
四隣が静かな
所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、
肋のはづれに
正しく
中る
血の
音を
確かめながら
眠に就いた。
ぼんやりして、
少時、赤ん坊の
頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を
当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の
脈を
聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて
確に打つてゐた。彼は胸に手を
当てた儘、此鼓動の下に、
温かい
紅の血潮の緩く流れる
様を想像して見た。是が
命であると考へた。自分は今流れる
命を
掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此
掌に
応へる、時計の針に似た
響は、自分を
死に
誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに
生きてゐられたなら、――血を
盛る
袋が、
時を
盛る
袋の用を兼ねなかつたなら、
如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に
生を味はひ得るだらう。けれども――
代助は覚えず
悚とした。彼は
血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、
生きたがる男である。彼は
時々寐ながら、左の
乳の
下に手を置いて、もし、
此所を
鉄槌で一つ
撲されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の
中から両手を
出して、大きく左右に
開くと、
左側に男が女を
斬つてゐる絵があつた。彼はすぐ
外の
頁へ
眼を移した。
其所には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、
惓怠さうな手から、はたりと新聞を夜具の
上に落した。夫から烟草を一本
吹かしながら、五寸許り布団を
摺り出して、畳の上の
椿を取つて、引つ
繰り
返して、鼻の先へ
持つて
来た。
口と
口髭と鼻の大部分が全く
隠れた。烟りは
椿の
瓣と
蕊に
絡まつて
漂ふ程濃く出た。それを
白い
敷布の
上に置くと、立ち
上がつて
風呂場へ行つた。
其所で
叮嚀に
歯を
磨いた。
彼は
歯並の
好いのを常に嬉しく思つてゐる。
肌を
脱いで
綺麗に
胸と
脊を
摩擦した。
彼の
皮膚には
濃かな一種の
光沢がある。香油を
塗り込んだあとを、よく拭き
取つた様に、
肩を
揺かしたり、
腕を
上げたりする
度に、
局所の
脂肪が
薄く
漲つて見える。かれは
夫にも満足である。次に黒い
髪を
分けた。
油を
塗けないでも面白い程自由になる。
髭も
髪同様に
細く且つ
初々しく、
口の
上を品よく蔽ふてゐる。
代助は其ふつくらした
頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の
前にわが
顔を
映してゐた。丸で
女が
御白粉を
付ける時の
手付と一般であつた。実際彼は必要があれば、
御白粉さへ
付けかねぬ程に、肉体に
誇を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と
相好で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に
生れなくつて、まあ
可かつたと思ふ位である。其代り人から
御洒落と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。
一の二
約三十分の
後彼は食卓に就いた。
熱い紅茶を
啜りながら
焼麺麭に
牛酪を付けてゐると、
門野と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の
傍へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を
捕まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に
限つて、平気に先生として
通してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして
麺麭を
食つて居た。
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と
嬉しがつてゐる。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる
事でもあるんですか」
「冗談云つちや
不可ません。さう
損得づくで、痛快がられやしません」
代助は矢つ張り
麺麭を
食つてゐた。
「君、あれは本当に校長が
悪らしくつて排斥するのか、
他に
損得問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の
中へ
注した。
「知りませんな。
何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、
得にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、
左様なもんですかな」と
門野は稍
真面目な顔をした。代助はそれぎり
黙つて仕舞つた。
門野は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ
左様なもんですかなで押し通して
澄ましてゐる。
此方の云ふことが
応へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、
其所が漠然として、刺激が
要らなくつて
好いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、
一日ごろ/\してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると
門野は
何時でも、
左様でせうか、とか、
左様なもんでせうか、とか
答へる丈である。決して
為ませうといふ事は
口にしない。又かう、
怠惰ものでは、さう
判然した
答が出来ないのである。代助の方でも、
門野を教育しに
生れて
来た訳でもないから、
好加減にして
放つて置く。
幸ひ
頭と
違つて、
身体の方は善く
動くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも
門野の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと
門野とは頗る
仲が
好い。主人の留守などには、よく
二人で話をする。
「先生は
一体何を
為る気なんだらうね。
小母さん」
「あの
位になつて入らつしやれば、
何でも
出来ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。
何か
為たら
好ささうなもんだと思ふんだが」
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも
御探しなさる御積りなんでせうよ」
「いゝ
積りだなあ。僕も、あんな風に
一日本を読んだり、音楽を聞きに行つたりして
暮して居たいな」
「
御前さんが?」
「
本は読まんでも
好いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」
「
夫はみんな、
前世からの約束だから仕方がない」
「
左様なものかな」
まづ斯う云ふ調子である。
門野が代助の所へ引き移る二週
間前には、此若い独身の主人と、此
食客との間に下の様な会話があつた。
一の三
「君は
何方の学校へ行つてるんですか」
「もとは行きましたがな。今は
廃めちまいました」
「もと、
何処へ行つたんです」
「
何処つて
方々行きました。然しどうも
厭きつぽいもんだから」
「ぢき
厭になるんですか」
「まあ、
左様ですな」
「で、
大して勉強する考もないんですか」
「えゝ、
一寸有りませんな。それに近頃
家の都合が、あんまり
好くないもんですから」
「
家の
婆さんは、あなたの
御母さんを知つてるんだつてね」
「えゝ、もと、
直近所に居たもんですから」
「
御母さんは矢っ張り……」
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも
近頃は不景気で、
余まり
好くない様です」
「
好くない様ですつて、君、
一所に居るんぢやないですか」
「
一所に居ることは居ますが、つい面倒だから
聞いた
事もありません。何でも
能くこぼしてる様です」
「
兄さんは」
「
兄は郵便局の方へ出てゐます」
「
家は
夫丈ですか」
「まだ弟がゐます。是は銀行の――まあ
小使に少し毛の生えた位な所なんでせう」
「すると
遊んでるのは、君許りぢやないか」
「まあ、
左様なもんですな」
「それで、
家にゐるときは、何をしてゐるんです」
「まあ、大抵
寐てゐますな。でなければ散歩でも
為ますかな」
「
外のものが、みんな
稼いでるのに、君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」
「いえ、
左様でもありませんな」
「家庭が
余つ程円満なんですか」
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、
御母さんや
兄さんから云つたら、
一日も早く君に独立して
貰ひたいでせうがね」
「
左様かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な
性分と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に
嘘を
吐く料簡もありませんな」
「ぢや全くの
呑気屋なんだね」
「えゝ、まあ
呑気屋つて云ふもんでせうか」
「
兄さんは
何歳になるんです」
「
斯うつと、取つて
六になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。
兄さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に
為つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、
何しろ、どうか
為るだらうと思つてます」
「
其外に親類はないんですか」
「
叔母が
一人ありますがな。こいつは今、
浜で運漕業をやつてます」
「
叔母さんが?」
「
叔母が
遣つてる訳でもないんでせうが、まあ
叔父ですな」
「
其所へでも
頼んで使つて
貰つちや、どうです。運漕業なら大分
人が
要るでせう」
「根が
怠惰もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の
御母さんが、
家の婆さんに頼んで、君を僕の
宅へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく
怠けない様にして……」
「
家へ
来る方が
好いんですか」
「まあ、
左様ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。
身体の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも
可い」
「ぢや、掃除でもしませう」
門野は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。
一の四
代助はやがて食事を済まして、烟草を
吹かし出した。今迄茶
箪笥の
陰に、ぽつねんと
膝を
抱へて柱に
倚り
懸つてゐた
門野は、もう
好い時分だと思つて、又主人に質問を
掛けた。
「先生、
今朝は心臓の具合はどうですか」
此間から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「
今日はまだ大丈夫だ」
「何だか
明日にも
危しくなりさうですな。どうも先生見た様に
身体を気にしちや、――仕舞には本当の病気に
取つ
付かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
門野は
只へえゝと云つた
限、代助の
光沢の
好い
顔色や
肉の
豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると
何時でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の
頭は、
牛の
脳味噌で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。
話をすると、平民の
通る大通りを半町位しか
付いて
来ない。たまに横町へでも
曲ると、すぐ
迷児になつて仕舞ふ。論理の地盤を
竪に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。
彼の神経系に至つては猶更粗末である。恰も
荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の
為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも
此のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に
振舞たがる。其上頑強一点張りの肉体を
笠に
着て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して
来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた
報に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に
為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。
門野にはそんな事は丸で分らない。
「
門野さん、郵便は
来て
居なかつたかね」
「郵便ですか。
斯うつと。
来てゐました。
端書と封書が。机の上に置きました。持つて
来ますか」
「いや、僕が
彼方へ行つても
可い」
歯切れのわるい返事なので、
門野はもう立つて仕舞つた。さうして
端書と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、
明日午前
会ひたし、と
薄墨の
走り
書の簡単極るもので、表に裏神保町の
宿屋の
名と
平岡常次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう
来たのか、
昨日着いたんだな」と
独り
言の様に云ひながら、封書の方を取り
上げると、是は
親爺の
手蹟である。二三日前帰つて
来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が
着いたら来てくれろと
書いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。
家へ」
「はあ、
御宅へ。
何て
掛けます」
「
今日は約束があつて、
待ち
合せる人があるから
上がれないつて。
明日か
明後日屹度伺ひますからつて」
「はあ。
何方に」
「
親爺が旅行から帰つて
来て、話があるから
一寸来いつて云ふんだが、――
何親爺を
呼び出さないでも
可いから、
誰にでも
左様云つて
呉れ給へ」
「はあ」
門野は無雑作に
出て行つた。代助は茶の
間から、座敷を
通つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に
掃除が出来てゐる。
落椿も
何所かへ
掃き出されて仕舞つた。代助は
花瓶の
右手にある
組み
重ねの
書棚の
前へ行つて、
上に載せた重い写真帖を取り
上げて、
立ちながら、
金の
留金を
外して、一枚二枚と
繰り始めたが、中頃迄
来てぴたりと
手を
留めた。
其所には
廿歳位の女の
半身がある。代助は
眼を俯せて
凝と女の顔を見詰めてゐた。
二の一
着物でも
着換へて、
此方から
平岡の
宿を
訪ね様かと思つてゐる所へ、折よく
先方から
遣つて
来た。
車をがら/\と門前迄乗り付けて、
此所だ/\と
梶棒を
下さした声は
慥かに三年前
分れた時そつくりである。玄関で、
取次の婆さんを
捕まへて、
宿へ
蟇口を忘れて
来たから、
一寸二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄
馳け出して行つて、手を
執らぬ許りに旧友を座敷へ
上げた。
「
何うした。まあ
緩くりするが
好い」
「おや、
椅子だね」と云ひながら平岡は安楽
椅子へ、どさりと
身体を
投げ
掛けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが
肉に、三文の
価値を置いてゐない様な
扱かひ
方に見えた。それから
椅子の
脊に
坊主頭を
靠たして、
一寸部屋の
中を見廻しながら、
「
中々、
好い
家だね。思つたより
好い」と
賞めた。代助は
黙つて
巻莨入の
蓋を
開けた。
「それから、
以後何うだい」
「
何うの、
斯うのつて、――まあ
色々話すがね」
「もとは、よく手紙が
来たから、様子が
分つたが、近頃ぢや
些とも
寄さないもんだから」
「いや
何所も
彼所も御無沙汰で」と平岡は
突然眼鏡を
外して、脊広の胸から皺だらけの
手帛を出して、
眼をぱち/\させながら
拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は
凝と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、
細い
蔓を
耳の
後へ
絡みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番
好いな。あんまり相変るものだから」
そこで
平岡は
八の
字を
寄せて、庭の模様を眺め
出したが、不意に語調を
更へて、
「やあ、
桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか
故の様にしんみりしない。代助も少し気の
抜けた風に、
「向ふは大分
暖かいだらう」と
序同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法
外に
熱した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は
巻莨に火を
点けた。其時婆さんが漸く
急須に茶を
注れて持つて出た。今しがた鉄瓶に
水を
射して仕舞つたので、
煮立るのに
暇が入つて、つい
遅くなつて
済みませんと言訳をしながら、
洋卓の
上へ
盆を載せた。
二人は
婆さんの
喋舌てる
間、紫檀の
盆を
見て
黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、
独りで愛想笑ひをして座敷を
出た。
「ありや
何だい」
「
婆さんさ。
雇つたんだ。
飯を
食はなくつちやならないから」
「御世辞が
好いね」
代助は赤い
唇の両
端を、少し
弓なりに
下の方へ
彎げて
蔑む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の
家から
誰か
連れて呉れば
好いのに。
大勢ゐるだらう」
「みんな
若いの許りでね」と代助は
真面目に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「
若けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角
家の
奴は
好くないよ」
「あの
婆さんの
外に
誰かゐるのかい」
「書生が
一人ゐる」
門野は
何時の
間にか帰つて、
台所の方で婆さんと
話をしてゐた。
「それ
限りかい」
「それ
限りだ。
何故」
「細君はまだ
貰はないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「
妻を貰つたら、君の所へ通知
位する筈ぢやないか。
夫よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。
二の二
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して
後、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に
力に
為り
合ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに
口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の
勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、
出立の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、
直帰つて
来給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其
眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。
家へ帰つて、
一日部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。
嫂を連れて音楽会へ行く
筈の所を断わつて、大いに
嫂に気を揉ました位である。
平岡からは断えず
音信があつた。安着の
端書、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の
来るたびに、代助は
何時も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を
書くときは、
何時でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが
厭になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して
来る場合に限つて、
安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
そのうち段々手紙の
遣り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又
二月、
三月に跨がる様に
間を
置いて
来ると、今度は手紙を
書かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する
為に封筒の
糊を
湿す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の
頭も
胸も段々組織が変つて
来る様に感ぜられて
来た。此変化に
伴つて、平岡へは手紙を
書いても
書かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。
現に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、
此春年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。
時々思ひ
出す。さうして今頃は
何うして
暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄
過して
来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き
上げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は
何分宜しく
頼むとあつた。此何分宜しく
頼むの
頼むは本当の意味の
頼むか、又は単に辞令上の
頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
それで、
逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が
外れて容易に
其所へ
戻つて
来ない。折を見て
此方から持ち掛けると、まあ
緩つくり話すとか何とか云つて、
中々埒を
開けない。代助は
仕方なしに、仕舞に、
「
久し
振りだから、
其所いらで
飯でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、
何れ
緩くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ
上つた。
二の三
両人は
其所で
大分飲んだ。
飲む
事と
食ふ事は
昔の通りだねと
言つたのが
始りで、
硬い
舌が
段々弛んで
来た。代助は面白さうに、二三日
前自分の
観に行つた、ニコライの復活祭の話をした。
御祭が
夜の十二時を相図に、世の中の
寐鎮まる頃を
見計つて
始る。
参詣人が長い廊下を
廻つて本堂へ帰つて
来ると、
何時の
間にか
幾千本の蝋燭が
一度に
点いてゐる。
法衣を
着た坊主が行列して向ふを通るときに、
黒い
影が、
無地の
壁へ非常に大きく
映る。――平岡は頬杖を
突いて、
眼鏡の奥の
二重瞼を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃
広い
御成街道を
通つて、
深夜の
鉄軌が、
暗い
中を
真直に
渡つてゐる
上を、たつた
一人上野の
森迄
来て、さうして電燈に照らされた
花の
中に
這入つた。
「
人気のない
夜桜は
好いもんだよ」と云つた。平岡は
黙つて
盃を
干したが、
一寸気の毒さうに
口元を
動かして、
「
好いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな
真似が
出来る
間はまだ気楽なんだよ。世の
中へ
出ると、
中々それ
所ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。
其所でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた
眼を心持大きくした。
「
大分考へが
違つて
来た様だね。――けれども其苦痛が
後から
薬になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の
諺に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の
中へ
出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の
中へは
昔から
出てゐるさ。ことに君と
分れてから、大変世の中が
広くなつた様な気がする。たゞ君の
出てゐる
世の
中とは種類が
違ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、
何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を
嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の
間に、
一寸不快の色が
閃めいた。赤い
眼を据ゑてぷか/\
烟草を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、
少し調子を
穏やかにした。――
「僕の知つたものに、丸で音楽の
解らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや
飯が
食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、
下読をするのと、教場へ
出て器械的に
口を
動かしてゐるより外に全く
暇がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから
何所に音楽会があらうと、どんな名人が外国から
来やうと
聞に行く機会がない。つまり
楽といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。
麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。
麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡は
巻莨の灰を、
皿の
上にはたきながら、
沈んだ
暗い調子で、
「うん、
何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其
重い言葉の
足が、
富に対する一種の呪咀を
引き
摺つてゐる様に
聴えた。
二の四
両人は
酔つて、
戸外へ
出た。
酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「
少し
歩かないか」と代助が
誘つた。平岡も
口程
忙がしくはないと見えて、
生返事をしながら、一所に
歩を
運んで
来た。
通を
曲つて横町へ
出て、成る
可く、
話の
為好い
閑な場所を撰んで行くうちに、
何時か
緒口が
付いて、思ふあたりへ
談柄が落ちた。
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に
頭の
中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、
何時も取り合はなかつた。
六※
[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が
悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も
分つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが
怖いからの様に思はれた。
其所に平岡の癪はあつた。衝突しかけた
事も
一度や
二度ではない。
けれども、
時日を経過するに従つて、肝癪が
何時となく薄らいできて、次第に自分の
頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に
力めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて
来た。
時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を
出たての平岡でないから、
先方に
解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を
摺るのとは違ふが」と平岡はわざ/\断つた。代助は
真面目な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
支店長は平岡の
未来の事に就て、
色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に
中つてゐるから、
其時は一所に
来給へ
抔と冗談半分に約束迄した。
其頃は
事務にも
慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする
暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の
妨をする様に感ぜられて
来た。
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の
関といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。
所が此男がある芸妓と
関係つて、
何時の
間にか会計に穴を
明けた。それが
曝露したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、
放つて置くと、支店長に迄多少の
煩が及んで
来さうだつたから、
其所で自分が責を引いて辞職を申し
出た。
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、
上になればなる程
旨い事が
出来るものでね。実は
関なんて、あれつ
許の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番
旨い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を
濁して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ
金は
何うした」
「
千に
足らない
金だつたから、僕が出して
置いた」
「よく
有つたね。君も大分
旨い事をしたと見える」
平岡は
苦い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「
旨い
事をしたと仮定しても、
皆使つて仕舞つてゐる。
生活にさへ足りない位だ。其金は
借りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は
何んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には
低く
明らかなうちに一種の
丸味が出てゐる。
「支店長から
借りて
埋めて置いた」
「
何故支店長がぢかに其
関とか何とか云ふ男に貸して
遣らないのかな」
平岡は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。
二人は無言の儘しばらくの
間並んで
歩いて行つた。
二の五
代助は
平岡が
語つたより
外に、まだ
何かあるに
違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を
有つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に
nil admirari の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて
喫驚する程の
山出ではなかつた。
彼の神経は斯様に陳腐な秘密を
嗅いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の
中で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、
何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の
初心と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、
洗ひ
浚ひ自分の弱点を
打ち
明けては、
徒らに
馬糞を
投げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして
愛想を
尽かされるよりは
黙つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が
斯う
取れた。それで平岡が自分に返事もせずに
無言で
歩いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を
小供視する程度に於て、あるひは
其れ以上の程度に於て、代助は平岡を
小供視し
始めたのである。けれども
両人が十五六間
過ぎて、又
話を
遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は
更になかつた。最初に
口を切つたのは代助であつた。
「それで、
是から
先何うする
積かね」
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が
可いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は
緩くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。
何うだらう、
君の
兄さんの会社の方に
口はあるまいか」
「うん、
頼んで見様、二三日
内に
家へ行く用があるから。然し
何うかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「
夫も
好いだらう」
両人は又電車の通る
通へ
出た。平岡は向ふから
来た電車の
軒を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ
出した。代助はさうかと答へた儘、
留めもしない、と云つて
直分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄
歩いて
来た。そこで、
「
三千代さんは
何うした」と
聞いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に
宜しく云つてゐた。実は
今日連れて
来やうと思つたんだけれども、何だか汽車に
揺れたんで
頭が
悪いといふから
宿屋へ置いて
来た」
電車が
二人の前で
留まつた。平岡は二三歩
早足に行きかけたが、代助から注意されて已めた。
彼の乗るべき車はまだ
着かなかつたのである。
「子供は
惜しい事をしたね」
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が
好かつた」
「其
後は
何うだい。まだ
後は出来ないか」
「うん、
未だにも何にも、もう
駄目だらう。
身体があんまり
好くないものだからね」
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で
可いかも知れない」
「
夫もさうさ。
一層君の様に
一人身なら、猶の事、気楽で
可いかも知れない」
「
一人身になるさ」
「冗談云つてら――夫よりか、
妻が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、
未だだらうかつて気にしてゐたぜ」
所へ電車が
来た。
三の一
代助の
父は
長井得といつて、御維新のとき、戦争に
出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を
已めてから、実業界に這入つて、
何か
彼かしてゐるうちに、自然と金が
貯つて、此十四五年来は
大分の財産家になつた。
誠吾と云ふ
兄がある。学校を卒業してすぐ、
父の関係してゐる会社へ
出たので、今では
其所で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、
二人の
子供が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は
縫といつて三つ違である。
誠吾の外に姉がまだ
一人あるが、是はある外交官に嫁いで、今は
夫と共に西洋にゐる。
誠吾と此姉の間にもう
一人、それから此姉と代助の間にも、まだ
一人兄弟があつたけれども、それは
二人とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。
代助の
一家は是丈の
人数から
出来上つてゐる。そのうちで
外へ
出てゐるものは、西洋に行つた姉と、
近頃一戸を構へた代助ばかりだから、
本家には大小合せて
四人残る訳になる。
代助は月に
一度は必ず
本家へ
金を貰ひに行く。代助は
親の
金とも、
兄の金ともつかぬものを
使つて生きてゐる。
月に一度の
外にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に
調戯つたり、書生と
五目並をしたり、
嫂と芝居の評をしたりして帰つて
来る。
代助は此
嫂を
好いてゐる。此
嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく
継ぎ
合せた様な一種の人物である。わざ/\
仏蘭西にゐる
義妹に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な
織物を取寄せて、それを四五人で
裁つて、帯に仕立てゝ
着て見たり
何かする。
後で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。
夫から西洋の音楽が
好きで、よく代助に誘ひ出されて
聞に行く。さうかと思ふと
易断に非常な興味を
有つてゐる。
石龍子と
尾島某を大いに崇拝する。代助も二三度御
相伴に、
俥で
易者の
許迄
食付いて行つた事がある。
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて
時々球を
投げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。
毎年夏の初めに、多くの
焼芋屋が俄然として
氷水屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、
氷菓を
食ふものは誠太郎である。
氷菓がないときには、
氷水で我慢する。さうして得意になつて帰つて
来る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番
先へ這入つて見たいと云つてゐる。
叔父さん
誰か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
縫といふ
娘は、何か云ふと、
好くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃は

イオリンの稽古に行く。帰つて
来ると、
鋸の
目立ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して
遣らない。
室を
締め
切つて、きい/\云はせるのだから、
親は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が
時々そつと戸を
明けるので、
好くつてよ、知らないわと
叱られる。
兄は大抵不在
勝である。ことに
忙がしい時になると、
家で
食ふのは
朝食位なもので、あとは、
何うして
暮してゐるのか、
二人の子供には全く
分らない。同程度に於て代助にも分らない。是は
分らない方が
好ましいので、必要のない
限りは、
兄の日々の
戸外生活に就て決して研究しないのである。
代助は
二人の子供に大変人望がある。
嫂にも
可なりある。
兄には、あるんだか、ないんだか
分らない。
会に
兄と
弟が顔を合せると、たゞ
浮世話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で
遣つてゐる。陳腐に
慣れ
抜いた様子である。
三の二
代助の
尤も
応へるのは
親爺である。
好い
年をして、
若い
妾を
持つてゐるが、それは
構はない。代助から
云ふと寧ろ賛成な位なもので、
彼は
妾を置く余裕のないものに
限つて、
蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる。
親爺は又
大分の
八釜し
屋である。小供のうちは
心魂に
徹して困却した事がある。しかし
成人の
今日では、それにも別段辟易する必要を
認めない。たゞ
応へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共
大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に
処した時の
心掛けでもつて、代助も
遣らなくつては、
嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、
何が
嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分
親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと
已んで仕舞つた。それから以後ついぞ
怒つた
試しがない。
親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに
誇つてゐる。
実際を云ふと
親爺の所謂薫育は、此父子の
間に纏綿する
暖かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が
親爺の腹のなかでは、それが全く
反対に解釈されて仕舞つた。
何をしやうと
血肉の
親子である。子が
親に対する天賦の情
合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る
筈がない。教育の
為め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた
親爺は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた
親爺は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の
息子を作り
上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて
来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が
生れ落ちるや否や、此
親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
親爺は戦争に
出たのを頗る自慢にする。
稍もすると、御
前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が
据らなくつて
不可んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が
人間至上な能力であるかの如き
言草である。代助はこれを
聞かせられるたんびに
厭な心持がする。胆力は
命の
遣り
取りの
劇しい、
親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の
類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。
御父さんから又胆力の講釈を聞いた。
御父さんの様に云ふと、世の
中で石地蔵が一番
偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、
嫂と笑つた事がある。
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は
心から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、
親爺の使嗾で、
夜中にわざ/\
青山の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして
家へ帰つて
来た。其折は自分でも残念に思つた。あくる
朝親爺に笑はれたときは、
親爺が
憎らしかつた。
親爺の云ふ所によると、
彼と同時代の少年は、胆力修養の
為め、
夜半に
結束して、たつた
一人、御
城の
北一里にある
剣が
峰の
天頂迄
登つて、
其所の辻堂で
夜明をして、日の
出を
拝んで
帰つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得
方からして違ふと親爺が批評した。
斯んな事を
真面目に
口にした、又今でも
口にしかねまじき
親爺は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が
嫌である。瞬間の動揺でも
胸に
波が
打つ。あるときは書斎で
凝と
坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて
来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に
敷いてゐる坐蒲団も、
畳も、乃至
床板も明らかに
震へる様に思はれる。
彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。
親爺の如きは、神経
未熟の野人か、然らずんば
己れを
偽はる愚者としか代助には受け取れないのである。
三の三
代助は
今此親爺と対坐してゐる。
廂の長い
小さな部屋なので、
居ながら
庭を見ると、
廂の
先で
庭が
仕切られた様な感がある。
少なくとも
空は
広く見えない。其代り
静かで、落ち付いて、
尻の
据り具合が
好い。
親爺は
刻み
烟草を
吹かすので、
手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、
時々灰吹をぽん/\と
叩く。それが静かな
庭へ響いて
好い
音がする。代助の方は
金の
吸口を四五本
手烙の
中へ
並べた。もう
鼻から
烟を出すのが
厭になつたので、
腕組をして
親爺の
顔を
眺めてゐる。其
顔には
年の割に
肉が多い。それでゐて
頬は
痩けてゐる。
濃い
眉の
下に
眼の
皮が
弛んで見える。
髭は
真白と云はんよりは、寧ろ
黄色である。さうして、
話をするときに
相手の
膝頭と
顔とを
半々に見較べる
癖がある。其時の
眼の
動かし
方で、
白眼が
一寸ちらついて、
相手に妙な心
持をさせる。
老人は
今斯んな事を云つてゐる。――
「さう
人間は自分丈を考へるべきではない。世の
中もある。国家もある。少しは
人の
為に
何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の
好い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が
出るものだからな」
「
左様です」と代助は答へてゐる。
親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、
親爺の考は、万事
中途半端に、
或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、
何時の
間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる
空談である。それを基礎から打ち崩して
懸かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく
触らない様にしてゐる。所が
親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して
来る。そこで代助も已を得ず
親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
「それは実業が
厭なら
厭で
好い。何も
金を儲ける丈が日本の
為になるとも限るまいから。
金は
取らんでも
構はない。
金の
為に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。
金は今迄通り
己が補助して
遣る。おれも、もう
何時死ぬか
分らないし、
死にや
金を持つて行く訳にも
行かないし。
月々御前の
生計位どうでもしてやる。だから奮発して何か
為るが
好い。国民の義務としてするが
好い。もう三十だらう」
「
左様です」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして
居るとは思はない。たゞ職業の
為に
汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。
親爺が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。
親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に
月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き
出してゐるのが、全く
映らないのである。仕方がないから、
真面目な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。
老人は
頭から代助を小僧視してゐる
上に、其返事が
何時でも
幼気を失はない、簡単な、
世帯離れをした文句だものだから、
馬鹿にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ
付かず尋常極まつてゐるので、
此奴は手の付け様がないといふ気にもなる。
三の四
「
身体は丈夫だね」
「二三年このかた
風邪を
引いた
事もありません」
「
頭も
悪い方ぢやないだらう。学校の成蹟も
可なりだつたんぢやないか」
「まあ
左様です」
「
夫で
遊んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら
御前の所へ
善く話しに
来た男があるだらう。
己も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の
可い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ
何処かへ行つたぢやないか」
「其代り
失敗て、もう
帰つて
来ました」
老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「
詰り
食ふ
為に
働らくからでせう」
老人には此意味が
善く
解らなかつた。
「
何か面白くない事でも
遣つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り
失敗になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を
易へて、説き出した。
「若い人がよく
失敗といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。
己も多年の経験で、
此年になる迄
遣つて
来たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、
先ないな」
親爺の
頭の
上に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、
親爺は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの
後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、
刀を脱いで其前に
頭を
下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より
返せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此
額を藩主に
書いて
貰つたんである。爾来長井は
何時でも、之を自分の
居間に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍
聞かされたか知れない。
今から十五六年前に、旧藩主の
家で、
月々の支出が
嵩んできて、折角持ち直した経済が又
崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の
薪を焚いて
見て、実際の消費
高と帳面づらの消費
高との差違から
調べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな
生計をしてゐる。
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、
何によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「
何う云ふ訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が
出来合の
奴を胸に
蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて
火花の
出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者
二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が
悪くつては
起り様がない。
「
御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、
金の
延金を
呑んで入らつしやるから、
左様いふ事を仰しやるんでせう」
「
金の
延金とは」
代助はしばらく
黙つてゐたが、漸やく、
「
延金の儘
出て
来るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
三の五
それから約四十分程して、老人は
着物を
着換えて、
袴を
穿いて、
俥に
乗つて、
何処かへ
出て
行つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して
客間の戸を開けて
中へ
這入つた。
是は
近頃になつて
建て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に
本づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに
欄間の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に
頼んで、色々相談の
揚句に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、
画巻物を
展開した様な、
横長の
色彩を眺めてゐたが、どう云ふものか、
此前来て見た時よりは、
痛く見劣りがする。是では
頼もしくないと思ひながら、猶局部々々に
眼を
付けて吟味してゐると、突然
嫂が這入つて来た。
「おや、
此所に
入らつしやるの」と云つたが、「
一寸其所らに
私の
櫛が落ちて
居なくつて」と聞いた。
櫛は
長椅子の
足の
所にあつた。
昨日縫子に
貸して
遣つたら、
何所かへ
失なして仕舞つたんで、
探しに
来たんださうである。両手で
頭を抑へる様にして、
櫛を束髪の
根方へ押し付けて、
上眼で代助を見ながら、
「相変らず
茫乎してるぢやありませんか」と
調戯つた。
「
御父さんから御談義を
聞かされちまつた」
「また? 能く
叱られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し
貴方もあんまり、
好かないわ。些とも
御父さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「
御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が
悪いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、
些とも云ふ事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して
黙つて仕舞つた。
梅子は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。
脊のすらりとした、色の浅黒い、眉の
濃い、唇の薄い女である。
「まあ、
御掛けなさい。少し話し相手になつて
上げるから」
代助は矢っ張り立つた儘、
嫂の
姿を見守つてゐた。
「
今日は妙な
半襟を掛けてますね」
「これ?」
梅子は
顎を
縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「
此間買つたの」
「
好い色だ」
「まあ、そんな事は、
何うでも
可いから、
其所へ
御掛けなさいよ」
代助は
嫂の
真正面へ腰を卸した。
「へえ
掛けました」
「
一体今日は何を
叱られたんです」
「何を
叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し
御父さんの国家社会の
為に尽すには驚ろいた。何でも十八の
年から
今日迄のべつに
尽してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に
尽して、
金が
御父さん位儲かるなら、僕も
尽しても
好い」
「だから遊んでないで、御
尽しなさいな。
貴方は寐てゐて
御金を
取らうとするから狡猾よ」
「
御金を取らうとした事は、まだ
有りません」
「
取らうとしなくつても、
使ふから
同じぢやありませんか」
「
兄さんが
何とか云つてましたか」
「
兄さんは
呆れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し
御父さんより
兄さんの方が
偉いですね」
「
何うして。――あら
悪らしい、又あんな御世辞を使つて。
貴方はそれが
悪いのよ。
真面目な顔をして
他を茶化すから」
「
左様なもんでせうか」
「
左様なもんでせうかつて、
他の事ぢやあるまいし。
少しや考へて御覧なさいな」
「
何うも
此所へ
来ると、丸で
門野と
同じ様になつちまふから
困る」
「
門野つて
何です」
「なに
宅にゐる書生ですがね。
人に何か云はれると、屹度
左様なもんでせうか、とか、
左様でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
三の六
代助は
一寸話を
已めて、
梅子の
肩越に、
窓掛の
間から、奇麗な
空を
透かす様に見てゐた。遠くに大きな
樹が一本ある。
薄茶色の
芽を全体に吹いて、
柔らかい
梢の
端が
天に
接く所は、
糠雨で
暈されたかの如くに
霞んでゐる。
「
好い気候になりましたね。
何所か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから
仰しやい」
「
何を」
「
御父さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、
秩序立てて
繰り
返すのは困るですよ。
頭が
悪いんだから」
「まだ
空つとぼけて
居らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、
伺ひませうか」
梅子は少しつんとした。
「
貴方は近頃余つ程
減らず
口が達者におなりね」
「
何、
姉さんが辟易する程ぢやない。――時に
今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
十六七の
小間使が
戸を
開けて
顔を出した。あの、旦那様が、奥様に
一寸電話
口迄と取り
次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて
客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、
其所に
居らつしやい。少し話しがあるから」
代助には
嫂のかう云ふ命令的の言葉が
何時でも面白く感ぜられる。
御緩と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め
出した。しばらくすると、其色が
壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の
眼球の
中から飛び出して、
壁の
上へ行つて、べた/\
喰つ
付く様に見えて
来た。仕舞には
眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、
此方の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、
下手な個所々々を悉く塗り
更へて、とう/\自分の想像し
得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と
坐つてゐた。所へ
梅子が帰つて
来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、
何づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の
好い
逃口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に
図迂々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。
口と
顎の角度が
悪いとか、
眼の長さが顔の
幅に比例しないとか、耳の位置が
間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて
来る。それが悉く尋常な
言草でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を
困らせるのだらう。当分
打遣つて置いて、向ふから頼み出させるに
若くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ
口にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄
暮して
来た。
其所へ
親爺が甚だ因念の
深いある候補者を見付けて、旅行
先から帰つた。梅子は代助の
来る二三日前に、其話を
親爺から聞かされたので、
今日の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、
此日何にも
聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、
故意と話題を避けたとも取れる。
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を
有つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。
何故その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
三の七
代助の
父には
一人の
兄があつた。
直記と云つて、
父とはたつた一つ違ひの
年上だが、
父よりは
小柄なうへに、
顔付眼鼻立が非常に
似てゐたものだから、知らない人には往々
双子と間違へられた。其折は父も
得とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で
通つてゐた。
直記と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、
気質も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に
食つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ
燈火を分つた位
親しかつた。
丁度
直記の十八の
秋であつた。ある時
二人は
城下外の等覚寺といふ寺へ
親の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、
二人の
親とは
昵近なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに
留められて、色々話してゐるうちに
遅くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、
市中は大分雑沓してゐた。
二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする
角で、川向ひの
方限りの
某といふものに突き当つた。此
某と
二人とは、かねてから
仲が
悪かつた。其時
某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、
二言三言いひ争ふうちに
刀を
抜いて、いきなり斬り
付けた。斬り
付けられた方は
兄であつた。已を得ず是も腰の物を
抜いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。
黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして
二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
其
頃の習慣として、
侍が
侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で
家へ帰つて
来た。
父も
二人を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が
母が生憎
祭で
知己の
家へ
呼ばれて留守である。父は
二人に切腹をさせる前、もう一遍
母に
逢はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ
母を迎にやつた。さうして母の
来る
間、
二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
母の客に行つてゐた所は、その
遠縁にあたる
高木といふ勢力家であつたので、大変都合が
好かつた。と云ふのは、其頃は世の
中の
動き掛けた当時で、
侍の
掟も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の
家へ
来て、何分の沙汰が
公向からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を
諭した。
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された
某の
親は又、存外訳の
解つた人で、平生から
倅の
行跡の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、
此方から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく
一間の
内に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、
二人とも
人知れず
家を
捨てた。
三年の後
兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、
得といふ一字
名になつた。其時は自分の
命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が
二人あつて、男の方は京都へ出て同志社へ
這入つた。
其所を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ
嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。
私驚ろいちまつた」と
嫂が代助に云つた。
「
御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、
何時もは御
嫁の
話が
出ないから、
好い加減に聞いてるのよ」
「
佐川にそんな娘があつたのかな。僕も
些つとも知らなかつた」
「
御貰なさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が
貰ひ
好い様だな」
「おや、
左様なのがあるの」
代助は苦笑して答へなかつた。
四の一
代助は今読み
切つた
許の
薄い洋書を机の上に
開けた儘、両
肱を
突いて
茫乎考へた。代助の
頭は最後の
幕で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに
寒さうな樹が立つてゐる
後に、二つの小さな角燈が
音もなく
揺めいて見えた。絞首台は
其所にある。刑人は
暗い所に立つた。
木履を
片足失くなした、
寒いと
一人が云ふと、
何を? と
一人が聞き
直した。
木履を
失くなして寒いと
前のものが同じ事を繰り返した。Mは
何処にゐると
誰か聞いた。
此所にゐると
誰か答へた。
樹の
間に大きな、白い様な、平たいものが見える。
湿つぽい
風が
其所から吹いて
来る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を
書いた
紙と、宣告文を持つた、白い手――
手套を
穿めない――を角燈が
照らした。
読上げんでも
可からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう
只一人になつたとKが云つた。さうして
溜息を
吐いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。
只一人になつて仕舞つた。……
海から
日が
上つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた
頸、飛び
出した
眼、
唇の
上に咲いた、怖ろしい花の様な血の
泡に
濡れた
舌を積み込んで
元の路へ引き返した。……
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、
此所迄
頭の
中で繰り返して見て、
竦と
肩を
縮めた。
斯う云ふ時に、
彼が尤も痛切に
感ずるのは、万一自分がこんな場に
臨んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、
如何にも残酷である。彼は
生の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、
未練に両方に往つたり
来たりする苦悶を心に
描き出しながら
凝と
坐つてゐると、
脊中一面の
皮が
毛穴ごとにむづ/\して
殆んど
堪らなくなる。
彼の
父は十七のとき、
家中の
一人を斬り殺して、それが
為め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に
語つてゐる。
父の考では
兄の介錯を自分がして、自分の介錯を
祖父に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。
父が過去を
語る
度に、代助は
父をえらいと思ふより、不愉快な
人間だと思ふ。さうでなければ
嘘吐だと思ふ。
嘘吐の方がまだ余っ程
父らしい気がする。
父許ではない。
祖父に就ても、こんな話がある。
祖父が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、
他の
嫉妬を受けて、ある夜縄手
道を城下へ帰る途中で、
誰かに斬り殺された。其時第一に馳け
付けたものは
祖父であつた。左の手に提灯を
翳して、右の手に
抜身を持つて、其
抜身で
死骸を叩きながら、
軍平確かりしろ、
創は
浅いぞと云つたさうである。
伯父が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや/\と、
旅宿に踏み込まれて、伯父は二階の
廂から飛び
下りる途端、庭石に
爪付いて倒れる所を
上から、容赦なく
遣られた為に、顔が
膾の様になつたさうである。殺される十日
程前、
夜中、
合羽を
着て、
傘に雪を
除けながら、
足駄がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時
旅宿の二丁程手前で、
突然後から長井
直記どのと呼び懸けられた。
伯父は振り向きもせず、矢張り
傘を
差した儘、
旅宿の
戸口迄
来て、
格子を
開けて
中へ
這入た。さうして格子をぴしやりと
締めて、
中から、長井
直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く
度に、
勇ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に
立つ。度胸を買つてやる前に、
腥ぐさい
臭が
鼻柱を抜ける様に
応へる。
もし死が可能であるならば、それは
発作の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して
発作性の男でない。手も
顫へる、足も
顫へる。声の
顫へる事や、心臓の飛び
上がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに
死に易くなるのは
眼に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて
見たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で
違つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
四の二
代助は机の上の書物を伏せると立ち
上がつた。
縁側の
硝子戸を
細目に
開けた
間から
暖かい陽気な風が吹き込んで
来た。さうして鉢植のアマランスの赤い
瓣をふら/\と
揺かした。
日は大きな花の
上に落ちてゐる。代助は
曲んで、花の
中を
覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄
蕊の
頂きから、
花粉を取つて、
雌蕊の
先へ持つて
来て、
丹念に
塗り
付けた。
「
蟻でも
付きましたか」と
門野が玄関の方から
出て
来た。
袴を
穿いてゐる。代助は
曲んだ儘顔を
上げた。
「もう
行つて
来たの」
「えゝ、
行つて
来ました。
何ださうです。
明日御引移りになるさうです。
今日是から
上がらうと思つてた所だと
仰しやいました」
「
誰が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも
何ですな。大分御
忙がしい様ですな。先生た余つ程
違つてますね。――蟻なら
種油を
御注ぎなさい。さうして
苦しがつて、穴から
出て
来る所を
一々殺すんです。何なら
殺しませうか」
「蟻ぢやない。
斯うして、天気の
好い時に、花粉を
取つて、
雌蕊へ塗り
付けて置くと、今に
実が
結るんです。
暇だから植木屋から
聞いた通り、
遣つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の
中になりましたね。――然し盆栽は
好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は
面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「
悪戯も
好加減に
休すかな」と云ひながら立ち
上がつて、縁側へ
据付の、
籐の安楽
椅子に腰を掛けた。夫れ
限りぽかんと何か考へ込んでゐる。
門野は
詰らなくなつたから、自分の玄関
傍の三畳
敷へ引き取つた。障
子を
開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び
返された。
「平岡が
今日来ると云つたつて」
「えゝ、
来る様な御話しでした」
「ぢや
待つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が
此間から大分気に
掛つてゐる。
平岡は
此前、代助を訪問した当時、
既に落ち
付いてゐられない身分であつた。
彼自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の
宿を
訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには
居つた。が、洋服を
着た儘、
部屋の
敷居の上に立つて、
何か
急しい調子で、細君を
極め
付けてゐた。――案内なしに廊下を
伝つて、平岡の部屋の
横へ
出た代助には、突然ながら、たしかに
左様取れた。其時平岡は
一寸振り
向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも
快よさゝうな所は見えなかつた。部屋の
内から顔を出した細君は代助を見て、
蒼白い
頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に
就き
悪くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。
何うしてゐるかと思つて
一寸来て見た丈だ。
出掛けるなら一所に
出様と、
此方から誘ふ様にして
表へ
出て仕舞つた。
其時平岡は、早く
家を
探して落ち付きたいが、あんまり
忙しいんで、
何うする事も出来ない、たまに
宿のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち
退かなかつたり、あるひは今
壁を
塗つてる
最中だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら
家は、
宅の書生に
探させやう。なに不景気だから、大分
空いてるのがある筈だ。と
請合つて帰つた。
夫から約束通り
門野を
探しに
出した。
出すや否や、門野はすぐ
恰好なのを見付けて
来た。
門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵
可からうと云ふ事で
分れたさうだが、
門野は
家主の方へ責任もあるし、又
其所が気に入らなければ
外を
探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか
判然した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、
家主の方へは
借りるつて、断わつて
来たんだらうね」
「えゝ、帰りに
寄つて、
明日引越すからつて、云つて
来ました」
四の三
代助は椅子に
腰を
掛けた儘、
新らしく二度の
世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。
彼の経歴は処世の
階子段を一二段で
踏み
外したと同じ事である。まだ高い所へ
上つてゐなかつた丈が、
幸と云へば云ふ様なものゝ、世間の
眼に映ずる程、
身体に
打撲を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ
左様思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を
打算して見て、或は
此方の
心が
向に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、
其後平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に
外へ
出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に
戻らなければならなくなつた。平岡は其時
顔の
中心に一種の神経を寄せてゐた。
風が
吹いても、
砂が
飛んでも、強い刺激を受けさうな
眉と
眉の
継目を、
憚らず、ぴくつかせてゐた。さうして、
口にする
事が、内容の如何に関はらず、如何にも
急しなく、且つ
切なさうに、代助の
耳に
響いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、
重苦しい
葛湯の
中を
片息で
泳いでゐる様に取れた。
「あんなに、
焦つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の
姿を見送つた代助は、
口の
内でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を
捕まへて、かつて奥さんと云つた事がない。
何時でも
三千代さん/\と、結婚しない前の通りに、
本名を
呼んでゐる。代助は平岡に
分れてから又引き返して、
旅宿へ行つて、
三千代さんに逢つて
話しをしやうかと思つた。けれども、
何だか
行けなかつた。
足を
停めて
思案しても、今の自分には、行くのが
悪いと云ふ意味はちつとも
見出せなかつた。けれども、
気が
咎めて
行かれなかつた。勇気を
出せば
行かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。
夫で
家へ帰つた。其代り帰つても、
落ち
付かない様な、
物足らない様な、妙な心持がした。ので、又
外へ
出て酒を
飲んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、
何うかしてゐたんだ」と代助は椅子に
倚りながら、比較的
冷やかな自己で、自己の影を批判した。
「
何か御用ですか」と
門野が又
出て
来た。
袴を
脱いで、
足袋を
脱いで、
団子の様な
素足を
出してゐる。代助は
黙つて
門野の
顔を見た。
門野も代助の顔を見て、
一寸の
間突立つてゐた。
「おや、
御呼になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段
可笑しいとも思はなかつた。
「
小母さん、
御呼びになつたんぢやないとさ。
何うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の
間の方で
聞えた。夫から
門野と
婆さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が
来た。
取次に
出た
門野は意外な顔をして這入つて
来た。さうして、其顔を代助の
傍迄持つて
来て、先生、奥さんですと
囁やく様に云つた。代助は
黙つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
四の四
平岡の細君は、色の白い割に
髪の黒い、
細面に
眉毛の
判然映る女である。
一寸見ると
何所となく
淋しい感じの起る所が、
古版の浮世絵に似てゐる。帰京後は
色光沢がことに
可くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は
少し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、
左様ぢやない、始終
斯うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代は東京を
出て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、
何うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て
貰つたら、
能くは
分らないが、ことに
依ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし
左様だとすれば、心臓から動脈へ
出る
血が、少しづゝ、
後戻りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した
所為か、一年許りするうちに、
好い
案排に、元気が
滅切りよくなつた。
色光沢も殆んど
元の様に
冴々して見える日が多いので、当人も
喜こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又
血色が悪くなり
出した。然し医者の話によると、今度のは心臓の
為ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは
悪くなつてゐない。
弁の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。――是は三千代が
直に代助に
話した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の
為ぢやないかしらと思つた。
三千代は
美くしい
線を奇麗に重ねた
鮮かな
二重瞼を持つてゐる。
眼の恰好は細長い方であるが、
瞳を据ゑて
凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を
黒眼の働らきと判断してゐた。
三千代が細君にならない前、代助はよく、
三千代の
斯う云ふ
眼遣を見た。さうして今でも
善く覚えてゐる。
三千代の顔を
頭の
中に
浮べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来
上らないうちに、此
黒い、
湿んだ様に
暈された
眼が、ぽつと
出て
来る。
廊下伝ひに坐敷へ案内された
三千代は今代助の前に
腰を掛けた。さうして奇麗な手を
膝の
上に
畳ねた。
下にした手にも
指輪を
穿めてゐる。
上にした手にも
指輪を
穿めてゐる。
上のは細い
金の
枠に比較的大きな
真珠を
盛つた当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
三千代は
顔を
上げた。代助は、
突然例の
眼を
認めて、思はず
瞬を一つした。
汽車で着いた
明日平岡と一所に
来る筈であつたけれども、つい気分が
悪いので、
来損なつて仕舞つて、それからは
一人でなくつては
来る機会がないので、つい
出ずにゐたが、
今日は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間
来て呉れた時は、平岡が
出掛際だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な
詫をして、
「
待つてゐらつしやれば
可かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も
是は此女の
持調子で、代助は却つて其昔を
憶ひ
出した。
「だつて、大変
忙しさうだつたから」
「えゝ、
忙しい事は
忙しいんですけれども――
好いぢやありませんか。
居らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。
例なら
調戯半分に、あなたは何か
叱られて、
顔を赤くしてゐましたね、どんな
悪い事をしたんですか位言ひかねない
間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、
後から
其場を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も
一寸出なかつた。
四の五
代助は
烟草へ
火を
点けて、
吸口を
啣へた儘、椅子の
脊に
頭を
持たせて、
寛ろいだ様に、
「久し
振りだから、何か御馳走しませうか」と
聞いた。さうして
心のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「
今日は
沢山。さう
緩りしちやゐられないの」と云つて、
昔の
金歯を
一寸見せた。
「まあ、
可いでせう」
代助は両手を
頭の
後へ
持つて行つて、
指と
指を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の
間から小さな時計を
出した。代助が真珠の指輪を此女に
贈ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて
遣つたのである。代助は、一つ
店で
別々の
品物を買つた
後、平岡と
連れ
立つて
其所の
敷居を
跨ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り
道をしてゐたものだから」
と独り
言の様に説明を加へた。
「そんなに
急ぐんですか」
「えゝ、
成り
丈早く帰りたいの」
代助は
頭から
手を
放して、
烟草の灰をはたき落した。
「
三年のうちに
大分世帯染ちまつた。
仕方がない」
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には
何処かに
苦い所があつた。
「あら、だつて、
明日引越すんぢやありませんか」
三千代の声は、
此時急に
生々と
聞えた。代助は
引越の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや
引越してから
緩くり
来れば
可いのに」
代助は相手の
快よささうな調子に釣り込まれて、
此方からも
他愛なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、
額の所へあらはして、
一寸下を見たが、やがて
頬を
上げた。それが薄赤く
染まつて居た。
「
実は
私少し
御願があつて
上がつたの」
疳の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、
半意識の
下で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し
御金の
工面が
出来なくつて?」
三千代の
言葉は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の
頬は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな
気恥づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、
明日引越をする費用や、新らしく世帯を持つ
為めの
金が入用なのではなかつた。支店の方を引き
上げる時、向ふへ置き
去りにして
来た借金が
三口とかあるうちで、其
一口を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ
着いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ
堅い約束をして
来た
上に、少し訳があつて、
他の様に
放つて
置けない
性質のものだから、平岡も
着いた
明日から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに
寄したと云ふ事が
分つた。
「支店長から借りたと云ふ
奴ですか」
「いゝえ。
其方は
何時迄延ばして置いても構はないんですが、
此方の方を
何うかしないと困るのよ。東京で運動する方に
響いて
来るんだから」
代助は成程そんな事があるのかと思つた。
金高を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の
中で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が
金に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
「
何でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから
私考へると
厭になるのよ。
私も病気をしたのが、
悪いには
悪いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。
薬代なんか知れたもんですわ」
三千代は
夫以上を
語らなかつた。代助も
夫以上を聞く勇気がなかつた。たゞ
蒼白い三千代の顔を眺めて、その
中に、漠然たる未来の不安を感じた。
五の一
翌日朝早く
門野は
荷車を三台
雇つて、新橋の
停車場迄平岡の
荷物を
受取りに
行つた。実は
疾うから
着いて居たのであるけれども、
宅がまだ
極らないので、
今日迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、
何うしても半日仕事である。早く行かなけりや、
間に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。
門野は例の調子で、なに
訳はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の
宅へ
届けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時
過迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の
家の
部屋を、
青色と
赤色に
分つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に
外ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は
何故ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な
赤の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り
好い心持はしない。出来得るならば、自分の
頭丈でも
可いから、
緑のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を
画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が
好い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
代助は縁側へ出て、
庭から
先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は
新芽若葉の初期である。はなやかな
緑がぱつと
顔に吹き付けた様な心持ちがした。
眼を
醒す刺激の
底に
何所か
沈んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、
鳥打帽を
被つて、
銘仙の不断
着の儘
門を
出た。
平岡の新宅へ来て見ると、
門が
開いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の
着いた様子もなければ、平岡夫婦の
来てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が
一人縁側に腰を
懸けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、
先刻一返
御出になりましたが、此案排ぢや、どうせ
午過だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に
来たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち
着くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ
出た。
神田へ
来たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども
二人の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので
一寸顔を
出した。夫婦は
膳を
並べて
飯を
食つてゐた。
下女が
盆を
持つて、敷居に
尻を向けてゐる。其
後から、声を懸けた。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。
其眼が血ばしつてゐる。二三日
能く
眠らない
所為だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ
方だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。
留めるのを
外へ
出て、
飯を食つて、
髪を刈つて、九段の
上へ
一寸寄つて、又帰りに新
宅へ行つて見た。三千代は手拭を
姉さん
被りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、
襷がけで荷物の世話を
焼いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も
来てゐる。平岡は縁側で行李の
紐を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し
手伝はないかと云つた。
門野は袴を
脱いで、
尻を端折つて、
重ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ
抱へ込みながら、先生どうです、此
服装は、
笑つちや
不可ませんよと云つた。
五の二
翌日、代助が
朝食の
膳に
向つて、例の如く紅茶を
呑んでゐると、
門野が、
洗ひ
立ての
顔を
光らして茶の
間へ這入つて
来た。
「
昨夕は
何時御帰りでした。つい
疲れちまつて、
仮寐をしてゐたものだから、
些とも気が付きませんでした。――
寐てゐる所を御覧になつたんですか、先生も随分
人が
悪いな。全体何時
頃なんです、御帰りになつたのは。
夫迄何所へ
行つて
居らしつた」と
平生の調子で
苦もなく
※舌[#「口+堯」、71-2]り立てた。代助は
真面目で、
「君、すつかり
片付迄居て
呉れたんでせうね」と聞いた。
「えゝ、すつかり
片付けちまいました。其代り、
何うも
骨が折れましたぜ。
何しろ、我々の
引越と
違つて、大きな物が
色々あるんだから。
奥さんが
坐敷の
真中へ
立つて、
茫然、
斯う
周囲を
見回してゐた
様子つたら、――随分
可笑なもんでした」
「
少し
身体の具合が
悪いんだからね」
「どうも
左様らしいですね。
色が
何だか
可くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の体格は
好いですね。
昨夕一所に
湯に入つて驚ろいた」
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本
書いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人
宛で、
先達て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る
姉婿宛で、タナグラの安いのを
見付けて呉れといふ依頼である。
昼過散歩の
出掛けに、
門野の
室を
覗いたら又
引繰り返つて、ぐう/\寐てゐた。代助は
門野の無邪気な鼻の穴を見て羨ましくなつた。実を云ふと、自分は
昨夕寐つかれないで大変難義したのである。例に
依つて、
枕の
傍へ
置いた
袂時計が、大変大きな
音を
出す。
夫が気になつたので、手を
延ばして、時計を
枕の
下へ押し込んだ。けれども
音は依然として
頭の
中へ
響いて
来る。
其音を
聞きながら、つい、うと/\する
間に、凡ての
外の意識は、全く
暗窖の
裡に
降下した。が、たゞ独り
夜を
縫ふミシンの
針丈が
刻み足に
頭の
中を
断えず
通つてゐた事を自覚してゐた。所が
其音が
何時かりん/\といふ虫の
音に変つて、奇麗な玄関の
傍の
植込みの奥で鳴いてゐる様になつた。――代助は
昨夕の夢を
此所迄
辿つて
来て、睡
眠と
覚醒との
間を
繋ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。
代助は、何事によらず
一度気にかゝり
出すと、
何処迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿
気さ加減の程度を明らかに
見積る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり
方が猶
眼に付いてならない。三四年前、平生の自分が
如何にして
夢に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。
夜、蒲団へ這入つて、
好い案排にうと/\し掛けると、あゝ
此所だ、
斯うして
眠るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に
眼が
冴えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら
此所だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も
繰り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく/″\自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、
暗闇を検査する
為に蝋燭を
点したり、
独楽の運動を吟味する
為に
独楽を
抑へる様なもので、生涯
寐られつこない訳になる。と
解つてゐるが
晩になると又はつと思ふ。
此困難は約一年許りで
何時の
間にか漸く
遠退いた。代助は
昨夕の
夢と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正気の
自己の一部分を切り
放して、其儘の
姿として、知らぬ
間に夢の
中へ
譲り渡す方が
趣があると思つたからである。同時に、此作用は
気狂になる時の状態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂しないから
気狂にはなれないと信じてゐたのである。
五の三
それから二三日は、代助も
門野も平岡の消息を
聞かずに
過ごした。
四日目の
午過に代助は
麻布のある
家へ園遊会に呼ばれて
行つた。御客は男女を合せて、
大分来たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは
中々の美人で、日本抔へ
来るには勿体ない位な容色だが、
何処で買つたものか、
岐阜出来の
絵日傘を得意に
差してゐた。
尤も其日は大変な
好い天気で、広い芝生の
上にフロツクで立つてゐると、もう
夏が
来たといふ感じが、
肩から
脊中へ掛けて
著るしく
起つた位、
空が
真蒼に
透き
通つてゐた。英国の紳士は
顔をしかめて
空を
見て、
実に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと
答へた。非常に
疳の
高い声で尤も力を入れた挨拶の仕様であつたので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた。
代助も
二言三言此細君から
話しかけられた。が
三分と
経たないうちに、
遣り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を
着て、わざと島田に
結つた令嬢と、長らく
紐育で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を
喋舌る天才を以て自ら任ずる男で、
欠かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を
遣つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの
楽みにしてゐる。何か云つては、あとでさも
可笑しさうに、げら/\
笑ふ
癖がある。英国人が時によると
怪訝な
顔をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら
可からうと思つた。令嬢も中々
旨い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく/″\感心して聞いてゐた。
代助が
此所へ呼ばれたのは、個人的に
此所の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の
父と
兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ
行つて、好い加減に
頭を
下げて、ぶら/\してゐた。
其中に
兄も
居た。
「やあ、
来たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。
「
何うも、
好い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
代助も脊の
低い方ではないが、
兄は一層
高く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して
来たので、
中々立派に見える。
「
何うです、
彼方へ
行つて、ちと外国人と
話でもしちや」
「いや、
真平だ」と云つて
兄は
苦笑ひをした。さうして大きな
腹にぶら
下がつてゐる
金鎖を
指の
先で
弄つた。
「
何うも外国人は調子が
可いですね。
少し
可すぎる位だ。あゝ
賞められると、天気の方でも是非
好くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を
賞めてゐたのかい。へえ。少し
暑過ぎるぢやないか」
「
私にも
暑過ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い
手巾を
出して
額を
拭いた。
両人共
重い
絹帽を
被つてゐる。
兄弟は芝生の
外れの
木蔭迄
来て
留つた。近所には
誰もゐない。向ふの方で余興か
何か始まつてゐる。それを、誠吾は、
宅にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「
兄の様になると、
宅にゐても、客に
来ても同じ心持ちなんだらう。
斯う世の
中に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、
詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
「
今日は
御父さんは
何うしました」
「
御父さんは
詩の
会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少
可笑しかつた。
「
姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また
嫂が
後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又
可笑しくなつた。
五の四
代助は、誠吾の始終
忙しがつてゐる様子を知つてゐる。又その
忙しさの過半は、
斯う云ふ会合から
出来上がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に
厭な
顔もせず、
一口の不平も
零さず、不規則に酒を飲んだり、
物を
食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、
何時見ても
疲れた
態もなく、
噪ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ
上つたり、晩餐に
出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を
出して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、
斯う云ふ生活に
慣れ
抜いて、
海月が
海に
漂ひながら、
塩水を
辛く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
其所が代助には難有い。と云ふのは、誠吾は
父と
異つて、嘗て小六※
[#小書き濁点付き平仮名つ、77-6]かしい説法抔を代助に向つて
遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ
許も
口にしないんだから、
有んだか、
無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを
積極的に
打ち
壊して
懸つた
試もない。実に平凡で
好い。
だが面白くはない。話し相手としては、
兄よりも
嫂の方が、代助に取つて遥かに興味がある。
兄に逢ふと屹度
何うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の
船底に
大蛇が
飼つてあつた、
誰が鉄道で
轢かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事
許である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄
経つても
種が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。
今日本の小説家では
誰が一番
偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし
易い。
斯う云ふ
兄と差し
向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、
灰汁がなくつて、気楽で
好い。たゞ朝から晩迄
出歩いてゐるから滅多に
捕まへる事が
出来ない。
嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、
兄が
終日宅に居て、三度の食事を家族と共に
欠かさず
食ふと、却つて
珍らしがる位である。
だから
木蔭に立つて、
兄と
肩を
比べた
時、代助は丁度
好い機会だと思つた。
「
兄さん、
貴方に少し
話があるんだが。
何時か
暇はありませんか」
「
暇」と繰り
返した誠吾は、
何にも説明せずに笑つて見せた。
「
明日の
朝は
何うです」
「
明日の
朝は
浜迄
行つて
来なくつちやならない」
「
午からは」
「
午からは、会社の方に居る事はゐるが、
少し相談があるから、
来ても
緩くり
話しちやゐられない」
「ぢや
晩なら
宜からう」
「
晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を
明日の
晩帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
代助は
口を
尖がらかして、
兄を
凝と見た。さうして
二人で笑ひ出した。
「そんなに
急ぐなら、
今日ぢや、
何うだ。
今日なら
可い。久し
振りで一所に
飯でも
食はうか」
代助は賛成した。所が
倶楽部へでも
行くかと思ひの
外、誠吾は
鰻が
可からうと云ひ出した。
「
絹帽で
鰻屋へ行くのは
始てだな」と代助は逡巡した。
「
何構ふものか」
二人は園遊会を辞して、
車に乗つて、
金杉橋の
袂にある
鰻屋へ
上つた。
五の五
其所は
河が流れて、
柳があつて、古風な
家であつた。
黒くなつた
床柱の
傍の
違ひ
棚に、
絹帽を
引繰返しに、二つ
並べて置いて見て、代助は妙だなと
云つた。然し
明け
放した二階の
間に、たつた
二人で
胡坐をかいてゐるのは、園遊会より却つて
楽であつた。
二人は
好い
心持に酒を
飲んだ。
兄は
飲んで、
食つて、
世間話をすれば其
外に用はないと云ふ
態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を
忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り
掛つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間
三千代から
頼まれた金策の件である。
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし
過ぎて、其尻を
兄になすり付けた覚はある。其時
兄は叱るかと思ひの
外、さうか、困り者だな、
親爺には内々で置けと云つて
嫂を
通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には
一口の
小言も云はなかつた。代助は其時から、
兄に恐縮して仕舞つた。
其後小遣に
困る事はよくあるが、困るたんびに
嫂を
痛めて事を済ましてゐた。従つて
斯う云ふ事件に関して
兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。
代助から見ると、誠吾は
蔓のない
薬鑵と同じことで、
何処から手を出して
好いか
分らない。然しそこが代助には興味があつた。
代助は
世間話の
体にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\
話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が
金を
借りに
来た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、
私も気の毒だから、
何うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。
左様かい」
「
何うでせう」
「
御前金が
出来るのかい」
「
私や一文も
出来やしません。
借りるんです」
「
誰から」
代助は始めから
此所へ
落す
積だつたんだから、
判然した調子で、
「
貴方から借りて
置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の
顔を見た。
兄は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御
廃しよ」と答へた。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない
許ではない、
返す
返さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には
放つて置けば
自から
何うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて
住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ
息子を
頼まれて
宅へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、
前以て国から送つてある学資も旅費も藤野が
使ひ
込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを
頼みに
来た事がある。無論誠吾が
直に逢つたのではないが、
妻に云ひ
付けて
断らした。夫でも
其子は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を
済ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる
貸家の
敷金を、つい
使つて仕舞つて、
借家人が
明日引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて
来た事がある。然し是も
断らした。夫でも
別に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ
斯んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、
姉さんが
蔭へ
廻つて
恵んでゐるに
違ない。ハヽヽヽ。
兄さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「
何、そんな事があるものか」
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて
口へ持つて行つた。
六の一
其日誠吾は
中々金を貸して
遣らうと云はなかつた。代助も
三千代が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ
泣言は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない
兄を、
其所迄
連れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を
口にすれば、
兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、
彼方へ
行つたり
此方へ
来たりして、飲んでゐた。飲みながらも、
親爺の所謂熱誠が足りないとは、
此所の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が
気障だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど
気障なものはないと自覚してゐる。
兄には其辺の消息がよく
解つてゐる。だから此手で
遣り
損なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を
落す事になる。と気が
付いてゐる。
代助は飲むに従つて、段々
金を
遠ざかつて
来た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、
旨く
飲めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ
段になつて、思ひ出した様に、
金は借りなくつても
好いから、平岡を
何処か
使つて
遣つて呉れないかと
頼んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\
飯を掻き込んでゐた。
明日眼が
覚めた時、代助は
床の
中でまづ第一番に斯う考へた。
「
兄を
動かすのは、同じ
仲間の実業家でなくつちや駄目だ。単に
兄弟の
好丈では
何うする事も出来ない」
斯う考へた様なものゝ、別に
兄を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今
茲で平岡の
為に
判を
押して、連借でもしたら、
何うするだらう。矢っ張り
彼の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。
兄は
其所迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の
為に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、
兄が
其所を見抜いて
金を貸さないとすると、
一寸意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――
其所迄
来て、代助は自分ながら、あんまり
性質が能くないなと
心のうちで苦笑した。
けれども、唯
一つ
慥な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
斯う考へながら、代助は
床を出た。
門野は
茶の
間で、
胡坐をかいて新聞を読んでゐたが、
髪を
濡らして
湯殿から
帰つて
来る代助を見るや否や、急に
坐三昧を
直して、新聞を畳んで
坐蒲団の
傍へ
押し
遣りながら、
「
何うも『
煤烟』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、
毎朝読んでます」
「
面白いですか」
「
面白い様ですな。どうも」
「
何んな所が」
「
何んな所がつて。さう
改たまつて
聞かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が
出てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の
臭ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
代助は
黙つて仕舞つた。
六の二
紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ
腰を懸けて、
茫然庭を
眺めてゐると、
瘤だらけの
柘榴の
枯枝と、
灰色の
幹の
根方に、
暗緑と
暗紅を
混ぜ
合はした様な
若い芽が、一面に吹き
出してゐる。代助の
眼には
夫がぱつと
映じた丈で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。
代助の
頭には今具体的な何物をも
留めてゐない。恰かも
戸外の天気の様に、それが
静かに
凝と
働らいてゐる。が、其底には
微塵の如き本体の分らぬものが無数に押し合つてゐた。
乾酪の
中で、いくら
虫が
動いても、
乾酪が
元の位置にある
間は、気が付かないと同じ事で、代助も此
微震には殆んど自覚を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して
来る
度に、椅子の
上で、少し
宛身体の位置を
変へなければならなかつた。
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり
口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分丈で信じて居たからである。
代助は露西亜文学に
出て
来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈してゐる。仏蘭西文学に出てくる不安を、有夫姦の多いためと見てゐる。ダヌンチオによつて代表される以太利文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断してゐる。だから日本の文学者が、好んで不安と云ふ
側からのみ社会を
描き出すのを、舶来の
唐物の様に見傚してゐる。
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、
有つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと
留つて、夫から逆戻りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を
抛げた様なものである。代助は今では、なまじい石抔を抛げなければ
可かつたと思つてゐる。禅坊さんの所謂
大疑現前抔と云ふ境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国である。代助は、
斯う真卒性急に万事を疑ふには、あまりに
利口に生れ
過ぎた男である。
代助は
門野の
賞めた「煤烟」を読んでゐる。
今日は紅茶々碗の
傍に新聞を置いたなり、
開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな
金に不自由のない男だから、
贅沢の
結果あゝ云ふ
悪戯をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな余地のない程に
貧しい人である。それを
彼所迄押して行くには、全く
情愛の力でなくつちや出来る筈のものでない。所が、要吉といふ人物にも、
朋子といふ女にも、
誠の愛で、已むなく社会の
外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を
動かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を断行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを断行するに

躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は
特殊人だと思ふ。けれども要吉の
特殊人たるに至つては、自分より遥かに
上手であると承認した。それで
此間迄は好奇心に
駆られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、
眼を通さない事がよくある。
代助は椅子の
上で、
時々身を
動かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、
例の通り
読書に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある
頁の中頃まで
来て急に
休めて頬杖を
突いた。さうして、
傍にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから
外の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で
出てゐる。代助は斯う云ふ記事を
読むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる
為の方便だと解釈する。代助は新聞を放り
出した。
六の三
午過になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し
出した。
腹のなかに
小さな
皺が無数に
出来て、
其皺が絶えず、
相互の位地と、
形状とを
変へて、一面に
揺いてゐる様な気持がする。代助は
時々斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は
昨日兄と一所に
鰻を
食つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て
見やうかと思ひ
出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を
出さして、
着換へやうとしてゐる所へ、
甥の誠太郎が
来た。帽子を手に
持つた儘、恰好の
好い
円い
頭を、代助の頭へ出して、
腰を
掛けた。
「もう学校は引けたのかい。
早過ぎるぢやないか」
「ちつとも
早かない」と云つて、
笑ひながら、代助の
顔を見てゐる。代助は
手を
敲いて
婆さんを
呼んで、
「誠太郎、チヨコレートを
飲むかい」と聞いた。
「
飲む」
代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に
調戯だした。
「誠太郎、御前はベースボール
許遣るもんだから、
此頃手が大変大きくなつたよ。
頭より手の方が大きいよ」
誠太郎はにこ/\して、右の手で、
円い
頭をぐる/″\
撫でた。実際大きな手を
持つてゐる。
「
叔父さんは、
昨日御父さんから
奢つて
貰つたんですつてね」
「あゝ、御馳走になつたよ。
御蔭で
今日は
腹具合が
悪くつて
不可ない」
「
又神経だ」
「
神経ぢやない本当だよ。
全たく
兄さんの
所為だ」
「だつて
御父さんは
左様云つてましたよ」
「
何て」
「
明日学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して
貰へつて」
「へえゝ、
昨日の御礼にかい」
「えゝ、
今日は
己が
奢つたから、
明日が
向ふの
番だつて」
「それで、わざ/\
遣つて
来たのかい」
「えゝ」
「
兄の子丈あつて、
中々抜けないな。だから今チヨコレートを
飲まして
遣るから
可いぢやないか」
「チヨコレートなんぞ」
「
飲まないかい」
「
飲む事は
飲むけれども」
誠太郎の注文を
能く
聞いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ
連れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は
快よく引き受けた。すると誠太郎は
嬉しさうな
顔をして、
突然、
「
叔父さんはのらくらして居るけれども実際
偉いんですつてね」と云つた。代助も是には
一寸呆れた。仕方なしに、
「
偉いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。
「だつて、
僕は
昨夕始めて
御父さんから
聞いたんですもの」と云ふ弁解があつた。
誠太郎の云ふ所によると、
昨夕兄が
宅へ帰つてから、
父と
嫂と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く
分らないが、比較的
頭が
可いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。
父は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。
兄は之に対して、あゝ
遣つてゐても、あれで中々
解つた所がある。当分
放つて
置くが
可い。
放つて
置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か
遣るだらうと弁護したのださうだ。すると
嫂がそれに賛成して、一週間許り前
占者に見てもらつたら、
此人は屹度人の
上に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、
占者の
所へ
来たら、本当に可笑しくなつた。やがて
着物を
着換て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の
家を
訪ねた。
六の四
平岡の
家は、此十数年来の物価騰
貴に
伴れて、中流社会が次第々々に
切り
詰められて
行く有様を、
住宅の
上に
善く代表してゐる、尤も粗悪な
見苦しき
構へである。とくに代助には
左様見えた。
門と玄関の
間が
一間位しかない。
勝手口も其通りである。さうして裏にも、
横にも同じ様な窮屈な
家が
建てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に
付け
込んで、最低度の資本家が、なけなしの
元手を二割乃至三割の
高利に
廻さうと
目論で、あたぢけなく
拵へ
上げた、生存競争の
記念である。
今日の東京市、ことに
場末の東京市には、至る所に
此種の
家が散点してゐる、のみならず、
梅雨に
入つた
蚤の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の
発展と
名づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の
象徴とした。
彼等のあるものは、
石油缶の
底を
継ぎ
合はせた四角な
鱗で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、
夜中に
柱の割れる
音で
眼を
醒まさないものは
一人もない。彼等の戸には必ず
節穴がある。彼等の
襖は必ず
狂ひが出ると極つてゐる。資本を
頭の
中へ
注ぎ
込んで、
月々其
頭から利息を取つて生活しやうと云ふ
人間は、みんな
斯ういふ所を
借りて
立て
籠つてゐる。平岡も其
一人である。
代助は
垣根の
前を通るとき、先づ其
屋根に
眼が
付いた。さうして、どす
黒い瓦の色が妙に
彼の心を刺激した。代助には此
光のない
土の
板が、いくらでも
水を
吸ひ
込む様に思はれた。玄関前に、
此間引越のときに
解いた
菰包の
藁屑がまだ
零れてゐた。
座敷へ
通ると、平岡は机の
前へ
坐つて、
長い
手紙を
書き
掛けてゐる所であつた。
三千代は
次の
部屋で簟笥の
環をかたかた鳴らしてゐた。
傍に
大きな
行李が
開けてあつて、
中から
奇麗な
長繻絆の
袖が
半分出かかつてゐた。
平岡が、失敬だが
鳥渡待つて呉れと云つた
間に、代助は
行李と
長繻絆と、
時々行李の
中へ
落ちる
繊い手とを見てゐた。
襖は
明けた儘
閉て
切る様子もなかつた。が三千代の顔は
陰になつて見えなかつた。
やがて、平岡は
筆を
机の上へ
抛げ付ける様にして、
座を
直した。
何だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を
赤くしてゐた。
眼も赤くしてゐた。
「
何うだい。
此間は
色々難有う。其
後一寸礼に
行かうと思つて、まだ
行かない」
平岡の言葉は
言訳と云はんより寧ろ挑
戦の調子を帯びてゐる様に
聞こえた。
襯衣も
股引も
着けずにすぐ
胡坐をかいた。
襟を
正しく
合せないので、
胸毛が少し
出ゝゐる。
「まだ
落ち
付かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く
所か、
此分ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし
出した。
代助は平岡が
何故こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に
中るのぢやない、つまり
世間に
中るんである、否
己れに
中つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ
腹が立たない丈である。
「
宅の都合は、どうだい。
間取の具合は
可ささうぢやないか」
「うん、まあ、
悪くつても
仕方がない。気に入つた
家へ這入らうと思へば、
株でも
遣るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な
家はみんな株屋が
拵へるんだつて云ふぢやないか」
「
左様かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な
家が一軒
立つと、其
陰に、どの位沢山な
家が
潰れてゐるか知れやしない」
「だから
猶住み
好いだらう」
平岡は
斯う云つて大いに
笑つた。
其所へ
三千代が
出て
来た。先達てはと、
軽く代助に挨拶をして、手に
持つた赤いフランネルのくる/\と
巻いたのを、
坐ると共に、
前へ
置いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤※
[#小書き平仮名ん、94-8]坊の
着物なの。
拵へた儘、つい、まだ、
解かずにあつたのを、今
行李の
底を
見たら
有つたから、
出して
来たんです」と云ひながら、
附紐を
解いて
筒袖を左右に
開いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く
壊して雑巾にでもして仕舞へ」
六の五
三千代は
小供の
着物を膝の
上に
乗せた儘、返事もせずしばらく
俯向いて眺めてゐたが、
「
貴方のと
同じに
拵へたのよ」と云つて
夫の方を見た。
「
是か」
平岡は
絣の
袷の
下へ、ネルを
重ねて、
素肌に
着てゐた。
「
是はもう
不可ん。
暑くて
駄目だ」
代助は
始めて、
昔の
平岡を
当面に
見た。
「
袷の
下にネルを
重ねちやもう
暑い。繻絆にすると
可い」
「うん、面倒だから
着てゐるが」
「洗濯をするから御
脱ぎなさいと云つても、
中々脱がないのよ」
「いや、もう
脱ぐ、
己も少々
厭になつた」
話は
死んだ
小供の事をとう/\
離れて仕舞つた。さうして、
来た時よりは幾分か空気に
暖味が
出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ
出した。
三千代も
支度をするから、
緩りして
行つて
呉れと
頼む様に
留めて、
次の
間へ
立つた。代助は其
後姿を見て、どうかして
金を
拵へてやりたいと思つた。
「君
何所か奉公
口の見当は
付いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な
無い様なもんだ。
無ければ当分
遊ぶ丈の事だ。
緩くり
探してゐるうちには
何うかなるだらう」
云ふ事は落ち
付いてゐるが、代助が
聞くと却つて
焦つて
探してゐる様にしか取れない。代助は、
昨日兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、
構へてゐる向ふの体面を、わざと
此方から毀損する様な気がしたからである。
其上金の事に
付いては平岡からはまだ
一言の相談も受けた事もない。だから
表向挨拶をする必要もないのである。たゞ、
斯うして
黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な
奴だと
悪く思はれるに
極つてゐる。けれども
今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な
人間ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ
回してゐた。
渡金を
金に通用させ様とする
切ない工面より、真鍮を真鍮で
通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が
楽である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て
甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を
来たしたといふ様な、小説じみた歴史を
有つてゐる
為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に
渡金を自分で剥がして
来たに
過ぎない。代助は此
渡金の大半をもつて、
親爺が
捺摺り付けたものと信じてゐる。其
時分は
親爺が
金に見えた。多くの先輩が
金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな
金に見えた。だから自分の
渡金が
辛かつた。早く
金になりたいと
焦つて見た。所が、
他のものゝ
地金へ、自分の眼光がぢかに
打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ
出した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には
兄と喧嘩をしても、
父と口論をしても、平岡の
為に計つたらう、又其
計つた通りを平岡の所へ
来て
事々しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で
已めて、あとは色々な雑談に時を
過ごすうちに酒が
出た。三千代が徳利の
尻を持つて御酌をした。
六の六
平岡は
酔ふに従つて、段々
口が多くなつて
来た。
此男はいくら酔つても、
中/\平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の
悦楽を帯びて
来る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的
真面目な問題を持ち出して、相手と議論を上下して
楽し
気に見える。代助は其昔し、
麦酒の
壜を
互の
間に
並べて、よく平岡と
戦つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が
斯う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで
本音を
吐かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。
今日の
二人の境界は其
時分とは、大分
離れて
来た。さうして、其離れて、
近づく
路を見出し
悪い事実を、双方共に腹の
中で心得てゐる。東京へ
着いた
翌日、三年振りで邂逅した
二人は、
其時既に、
二人ともに
何時か
互の
傍を
立退いてゐたことを発見した。
所が
今日は妙である。
酒に
親しめば
親しむ程、平岡が
昔の調子を
出して
来た。
旨い局所へ酒が
回つて、
刻下の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の
騒がしさやらを全然
痲痺[#「痲痺」は底本では「痳痺」]して仕舞つた様に見える。平岡の談話は
一躍して
高い平面に飛び
上がつた。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても
働らいてゐる。又是からも
働らく
積だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、
其君は何も
為ないぢやないか。君は世の
中を、
有の
儘で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは
嘘だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに
違ない。僕は僕の意志を現実社会に
働き
掛けて、其現実社会が、僕の意志の
為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の
価値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、
頭の
中の世界と、
頭の
外の世界を
別々に
建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。
何故と云つて見給へ。僕のは其不調和を
外へ
出した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、
外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の
度は
少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや
不可ないんだらう」
「
何笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、
嘘だ。ねえ
三千代」
三千代は
先刻から
黙つて
坐つてゐたが、
夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、
三千代さん」と云ひながら、代助は
盃を
出して、酒を
受けた。
「そりや
嘘だ。おれの細君が、いくら
弁護したつて、
嘘だ。尤も君は
人を
笑つても、自分を笑つても、両方共
頭の
中で
遣る人だから、
嘘か本当か其辺はしかと
分らないが……」
「冗談云つちや
不可ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや
昔の
君はさうぢや
無かつた。昔の君はさうぢや
無かつたが、今の君は大分
違つてるよ。ねえ
三千代。
長井は
誰が見たつて、大得意ぢやないか」
「
何だか
先刻から、
傍で
伺がつてると、
貴方の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。
三千代は
燗徳利を持つて
次の間へ
立つた。
六の七
平岡は膳の
上の
肴を
二口三口、
箸で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした
眼を上げて、云つた。――
「
今日は久し
振りに
好い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり
好い心持にならないね。
何うも
怪しからん。僕が
昔の平岡常次郎になつてるのに、君が
昔の長井代助にならないのは
怪しからん。是非なり
給へ。さうして、大いに
遣つて
呉れ
給へ。
僕も
是から
遣る。から
君も
遣つて呉れ
給へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を
昔に
返さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を
認めた。さうして、それに
動かされた。けれども一方では、
一昨日、
食つた
麺麭を今
返せと
強請られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、
頭は大抵
確かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが
厭になつた。
「君、
頭は
確かい」と聞いた。
「
確だとも。君さへ
確なら
此方は
何時でも
確だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、
働らかない/\と云つて、大分
僕を攻撃したが、僕は
黙つてゐた。攻撃される通り僕は
働らかない
積だから
黙つてゐた」
「
何故働かない」
「
何故働かないつて、そりや僕が
悪いんぢやない。つまり
世の
中が
悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから
働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏
震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、
何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ
許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、
奥行を
削つて、一等国丈の
間口を
張つちまつた。なまじい張れるから、なほ
悲惨なものだ。
牛と競争をする
蛙と同じ事で、もう君、
腹が
裂けるよ。其影響はみんな我々個人の
上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、
頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の
今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の
困憊と、身体の衰弱とは不幸にして
伴なつてゐる。のみならず、道徳の
敗退も一所に
来てゐる。日本国中
何所を見渡したつて、
輝いてる
断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其
間に立つて僕
一人が、何と云つたつて、何を
為たつて、仕様がないさ。僕は元来
怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から
怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば
遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち
勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て
来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂
有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其
中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで
外の人を、
此方の考へ通りにするなんて、到底
出来た話ぢやありやしないもの――」
代助は
一寸息を
継いだ。さうして、
一寸窮屈さうに控えてゐる
三千代の方を見て、御世辞を
遣つた。
「
三千代さん。どうです、
私の
考は。随分
呑気で
宜いでせう。賛成しませんか」
「
何だか厭世の様な
呑気の様な妙なのね。
私よく
分らないわ。けれども、少し
胡麻化して入らつしやる様よ」
「へええ。
何処ん
所を」
「
何処ん
所つて、ねえ
貴方」と
三千代は
夫を見た。平岡は
股の
上へ
肱を
乗せて、
肱の上へ
顎を
載せて
黙つてゐたが、何にも云はずに
盃を代助の前に
出した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。
六の八
代助は
盃へ
唇を
付けながら、是から
先はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ
直させる
為の弁論でもなし、又平岡から意見されに
来た訪問でもない。
二人はいつ迄
立つても、
二人として
離れてゐなければならない運命を
有つてゐるんだと、始めから
心付てゐるから、議論は能い加減に引き
上げて、
三千代の
仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて
来やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。
胸毛の
奥迄赤くなつた
胸を突き
出して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に
当つて、現実と
悪闘してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が
貧弱だつて、
弱虫だつて、
働らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の
中が
堕落したつて、世の
中の堕落に気が
付かないで、其
中に活動するんだからね。君の様な
暇人から見れば日本の
貧乏や、僕等の
堕落が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて
口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。
忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡は
※舌[#「口+堯」、104-10]つてるうち、自然と此比喩に
打つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、
其所で得意に一段落をつけた。代助は
仕方なしに
薄笑ひをした。すると平岡はすぐ
後を
附加へた。
「君は
金に不自由しないから
不可ない。生活に
困らないから、
働らく気にならないんだ。要するに
坊ちやんだから、
品の
好い様なこと
許かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が
小憎しくなつたので、突然中途で相手を
遮ぎつた。
「
働らくのも
可いが、
働らくなら、生活以上の
働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな
麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な
眼をして、代助の
顔を
窺つた。さうして、
「
何故」と
聞いた。
「
何故つて、生活の
為めの労力は、労力の
為めの労力でないもの」
「そんな論理学の
命題見た様なものは
分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり
食ふ
為めの職業は、誠実にや出来
悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には
働らけるかも知れないが誠実には
働らき
悪いよ。
食ふ
為の
働らきと云ふと、つまり
食ふのと、
働らくのと
何方が目的だと思ふ」
「無論
食ふ方さ」
「夫れ見給へ。
食ふ方が目的で
働らく方が方便なら、
食ひ
易い様に、
働らき
方を
合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を
働らいたつて、又どう
働らいたつて、構はない、只
麺麭が得られゝば
好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、
何うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では
極上品な例で説明してやらう。
古臭い
話だが、ある本で
斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の
拵へたものを
食つて見ると
頗る
不味かつたんで、大変
小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を
食はして、
叱られたものだから、
其次からは二流もしくは三流の料理を
主人にあてがつて、始終
褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の
為に働らく事は
抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために
働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて
左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる
働らきでなくつちや、
真面目な仕事は
出来るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや
益遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか
話が、
元へ戻つちまつた。是だから議論は
不可ないよ」と云つて、代助は
頭を
掻いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。
七の一
代助は
風呂へ
這入た。
「先生、
何うです、
御燗は。もう少し
燃させませうか」と
門野が
突然入り
口から
顔を
出した。
門野は
斯う云ふ事には
能く
気の
付く男である。代助は、
凝と
湯に
浸つた儘、
「
結構」と答へた。すると、
門野が、
「ですか」と云ひ
棄てゝ、茶の
間の方へ引き
返した。代助は
門野の返事のし具合に、いたく興味を
有つて、独りにや/\と笑つた。代助には
人の感じ得ない事を感じる神経がある。それが
為時々苦しい
思もする。ある時、友達の
御親爺さんが死んで、葬式の
供に立つたが、不図其友達が装束を
着て、青竹を
突いて、
柩のあとへ
付いて行く
姿を見て
可笑しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の
父から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく
父の顔を見たら、急に吹き
出したくなつて弱り
抜いた事がある。自宅に風呂を
買はない時分には、つい近所の
銭湯に行つたが、
其所に
一人の
骨骼の逞ましい
三助がゐた。是が行くたんびに、
奥から飛び
出して
来て、
流しませうと云つては
脊中を
擦る。代助は
其奴に
体をごし/\
遣られる
度に、どうしても、
埃及人に
遣られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の
心臓の鼓動を、増したり、
減したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する
癖のある代助は、ためしに
遣つて見たくなつて、
一日に二三回位
怖々ながら
試してゐるうちに、
何うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
湯のなかに、
静かに
浸つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の
上へ持つて行つたが、どん/\と云ふ
命の
音を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ
出して、すぐ
流しへ
下りた。さうして、
其所に
胡坐をかいた儘、茫然と、自分の
足を見詰めてゐた。すると其
足が変になり始めた。どうも自分の胴から
生えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、
其所に無作法に
横はつてゐる様に思はれて
来た。さうなると、今迄は気が
付かなかつたが、
実に見るに堪えない程醜くいものである。毛が
不揃に
延びて、
青い
筋が
所々に
蔓つて、如何にも不思議な動物である。
代助は又
湯に這入つて、平岡の云つた通り、全たく
暇があり
過ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から
出て、鏡に自分の姿を
写した時、又平岡の言葉を思ひ
出した。幅の
厚い西洋
髪剃で、
顎と頬を
剃る
段になつて、其
鋭どい
刃が、
鏡の
裏で
閃く色が、一種むづ
痒い様な気持を
起さした。
是が
烈敷なると、高い塔の上から、遥かの
下を
見下すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り
終つた。
茶の
間を
抜け様とする拍子に、
「
何うも先生は
旨いよ」と
門野が
婆さんに
話してゐた。
「
何が
旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。
門野は、
「やあ、もう
御上りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が
旨いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ
帰つて、
椅子に
腰を掛けて休息してゐた。
休息しながら、
斯う
頭が妙な方面に鋭どく
働き
出しちや、
身体の毒だから、
些と旅行でもしやうかと思つて見た。
一つは近来持ち
上つた結婚問題を
避けるに都合が
好いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に
掛つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り
三千代の事が気にかかるのである。代助は
其所迄押して
来ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
七の二
代助が
三千代と
知り
合になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の
頃であつた。代助は長井
家の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて
出た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。
色合から云ふと、もつと
地味で、
気持から云ふと、もう少し
沈んでゐた。其頃、代助の学友に
菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく
附合つてゐた。
三千代は
其妹である。
此
菅沼は東京近県のもので、学生になつた二年目の
春、修業の
為と号して、
国から妹を
連れて
来ると同時に、今迄の下宿を引き
払つて、
二人して
家を持つた。其時
妹は
国の高等女学校を卒業した
許で、
年は
慥十八とか云ふ
話であつたが、派出な半襟を
掛けて、
肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ
通ひ
始めた。
菅沼の
家は
谷中の
清水町で、
庭のない代りに、椽側へ
出ると、上野の
森の
古い
杉が
高く見えた。それがまた、
錆た
鉄の様に、
頗る
異しい
色をしてゐた。
其一本は殆んど
枯れ
掛かつて、
上の方には
丸裸の
骨許残つた所に、
夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には
若い
画家が
住んでゐた。
車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な
住居であつた。
代助は
其所へ
能く遊びに
行つた。始めて
三千代に
逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて
来た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を
持つて
出る丈であつた。其
癖狭い
家だから、
隣の
室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と
話しながら、
隣の
室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に
行かなかつた。
三千代と
口を
利き
出したのは、どんな
機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて
居ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に
厭いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦
口を
利き
出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、
二人はすぐ
心安くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく
菅沼の
家へ
遊びに
来た。あるときは
二人連れ
立つて、
来た事もある。さうして、代助と前後して、
三千代と懇意になつた。三千代は兄と此
二人に
食付いて、時々池の
端抔を散歩した事がある。
四人は此関係で
約二年足らず
過ごした。すると
菅沼の卒業する
年の
春、
菅沼の
母と云ふのが、
田舎から
遊びに
出て
来て、しばらく
清水町に
泊つてゐた。此
母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日
寐起する例になつてゐたんだが、其時は帰る
前日から
熱が
出だして、全く
動けなくなつた。それが一週間の後
窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の
為附添として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり
返して、とう/\死んで仕舞つた。それ
許ではない。
窒扶斯が、見舞に
来た
兄に伝染して、是も程なく
亡くなつた。
国にはたゞ
父親が
一人残つた。
それが
母の死んだ時も、
菅沼の死んだ時も
出て
来て、始末をしたので、生前に関係の
深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を
連れて国へ帰る時は、娘とともに
二人の下宿を別々に
訪ねて、
暇乞旁礼を
述べた。
其年の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其
間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に
連なつて貰つたのだが、
身体を
動かして、
三千代の方を
纏めたものは代助であつた。
結婚して
間もなく
二人は東京を去つた。国に
居た
父は思はざるある事情の
為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。
三千代は
何方かと云へば、
今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に
落付いてゐられる様にして
遣りたい気がする。代助はもう一返
嫂に相談して、
此間の
金を調達する工面をして見やうかと思つた。又
三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を
委しく聞いて見やうかと思つた。
七の三
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に
洗ひ
浚い
※舌[#「口+堯」、112-13]り
散らす女ではなし、よしんば
何うして、そんな
金が
要る様になつたかの事情を、詳しく
聞き得たにした所で、
夫婦の
腹の
中なんぞは容易に
探られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、
彼の本当に知りたい点は、却つて
此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、
何故に
金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても
聞かなくつても、三千代に
金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として
金を
拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を
有つてゐなかつたのである。
其上平岡の留守へ行き
中てゝ、
今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が
家にゐる以上は、詳しい
話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄
真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に
見栄を張つてゐる。
見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ
嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄
嫂にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、
斯う短兵急に
痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか
持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。
夫で駄目なら、又高利でも
借りるのだが、代助はまだ
其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、
一層此方から進んで、直接に
三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、
頭の
中に
潜んでゐた。
生暖かい
風の
吹く日であつた。
曇つた天気が
何時迄も
無精に
空に
引掛つて、
中々暮れさうにない四時過から
家を
出て、
兄の
宅迄電車で行つた。
青山御所の
少し手前迄
来ると、電車の
左側を
父と
兄が
綱曳で
急がして
通つた。
挨拶をする
暇もないうちに
擦れ
違つたから、向ふは元より気が
付かずに
過ぎ去つた。代助は
次の停留所で
下りた。
兄の
家の門を這入ると、
客間でピアノの
音がした。代助は
一寸砂利の
上に立ち
留つたが、すぐ左へ切れて勝手
口の方へ廻つた。
其所には格子の
外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな
口を革
紐で
縛られて
臥てゐた。代助の足音を
聞くや否や、ヘクターは毛の長い
耳を
振つて、
斑な
顔を急に
上げた。さうして尾を
揺かした。
入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の
上に立ちながら、
二言三言愛嬌を云つた
後、すぐ西洋
間の方へ
来て、
戸を
明けると、
嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を
動かして居た。
其傍に
縫子が
袖の長い着物を
着て、例の
髪を肩迄掛けて
立つてゐた。代助は
縫子の
髪を見るたんびに、ブランコに
乗つた縫子の
姿を思ひ
出す。
黒い
髪と、
淡紅色のリボンと、それから黄色い
縮緬の帯が、
一時に風に吹かれて
空に流れる
様を、
鮮かに
頭の
中に刻み込んでゐる。
母子は同時に
振り向いた。
「おや」
縫子の方は、
黙つて
馳けて
来た。さうして、代助の手をぐい/\
引張つた。代助はピヤノの
傍迄
来た。
「如何なる名人が
鳴らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、
額に八の字を
寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、
向ふから
斯う云つた。
「代さん、
此所ん
所を
一寸遣つて
見せて
下さい」
代助は
黙つて
嫂と入れ
替つた。
譜を見ながら、両方の
指をしばらく奇麗に
働かした
後、
「
斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。
七の四
それから三十分程の
間、
母子して
交る/″\楽器の前に
坐つては、一つ
所を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう
廃しませう。
彼方へ
行つて、
御飯でも
食ませう。
叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう
薄暗くなつてゐた。代助は
先刻から、ピヤノの
音を聞いて、
嫂や
姪の白い手の
動く様子を見て、さうして
時々は例の
欄間の
画を
眺めて、
三千代の事も、
金を
借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を
出る時、振り返つたら、
紺青の
波が
摧けて、白く吹き
返す所
丈が、
暗い
中に
判然見えた。代助は此
大濤の
上に
黄金色の
雲の
峰を一面に
描かした。さうして、其
雲の
峰をよく見ると、
真裸な
女性の
巨人が、
髪を
乱し、身を
躍らして、一団となつて、
暴れ狂つてゐる
様に、
旨く輪廓を
取らした。代助は

ルキイルを
雲に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此
雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの
付かない、
偉な
塊を
脳中に
髣髴して、ひそかに
嬉しがつてゐた。が偖出来
上つて、
壁の
中へ
嵌め込んでみると、想像したよりは
不味かつた。梅子と共に部屋を
出た
時は、此

ルキイルは殆んど見えなかつた。
紺青の波は固より見えなかつた。たゞ白い
泡の大きな
塊が
薄白く見えた。
居間にはもう電燈が
点いてゐた。代助は
其所で、梅子と共に
晩食を
済ました。子供
二人も
卓を共にした。誠太郎に
兄の
部室からマニラを一本
取つて
来さして、
夫を
吹かしながら、雑談をした。やがて、
小供は
明日の
下読をする時間だと云ふので、
母から注意を受けて、自分の
部屋へ引き
取つたので、
後は差し
向になつた。
代助は突然例の
話を
持ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ
父と
兄が
綱曳で
車を
急がして
何所へ行つたのだとか、
此間は
兄さんに御馳走になつたとか、あなたは
何故麻布の園遊会へ
来なかつたのだとか、
御父さんの漢詩は大抵
法螺だとか、
色々聞いたり答へたりして
居るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは
外でもない。
父と
兄が、近来目に
立つ様に、
忙しさうに奔走し始めて、此四五日は
碌々寐るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が
始つたんですと、代助は平気な
顔で聞いて見た。すると、
嫂も普通の調子で、さうですね、
何か
始つたんでせう。
御父さんも、
兄さんも
私には
何にも
仰しやらないから、
知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか
此間の
御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて
来た。
今夜も
遅くなる、もし、
誰と
誰が
来たら
何とか
屋へ
来る様に云つて呉れと云ふ電話を
伝へた儘、書生は再び
出て
行つた。代助は又結婚問題に
話が
戻ると面倒だから、時に
姉さん、
些御
願があつて
来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
梅子は代助の云ふ事を
素直に
聞いて
居た。代助は凡てを話すに約十分許を
費やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して
下さい」と云つた。すると梅子は
真面目な顔をして、
「さうね。けれども全体
何時返す気なの」と思ひも
寄らぬ事を問ひ返した。代助は
顎の
先を
指で
撮んだ儘、じつと
嫂の
気色を
窺つた。
梅子は益
真面目な
顔をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。
怒つちや
不可ませんよ」
代助は無論
怒つてはゐなかつた。たゞ
姉弟から
斯ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更
返す
気だの、
貰う積りだのと
布衍すればする程馬鹿になる
許だから、
甘んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、
後が大変云ひ
易かつた。――
七の五
「代さん、あなたは
不断から
私を馬鹿にして
御出なさる。――いゝえ、
厭味を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「
困りますね、
左様真剣に
詰問されちや」
「
善ござんすよ。
胡魔化さないでも。ちやんと
分つてるんだから。だから正直に
左様だと云つて御仕舞なさい。
左様でないと、
後が
話せないから」
代助は
黙つてにや/\
笑つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも
構やしません。いくら
私が威張つたつて、
貴方に
敵ひつこないのは無論ですもの。
私と
貴方とは今迄
通りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや
夫で
好いとして、
貴方は
御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
代助は
嫂の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は
左も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「
兄さんも馬鹿にして入らつしやる」
「
兄さんですか。
兄さんは大いに尊敬してゐる」
「
嘘を
仰しやい。
序だから、みんな
打ち
散けて御
仕舞なさい」
「そりや、
或点では馬鹿にしない事もない」
「それ御
覧なさい。あなたは一家族
中悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな
言訳はどうでも
好いんですよ。
貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、
廃さうぢやありませんか。
今日は
中中きびしいですね」
「本当なのよ。
夫で
差支ないんですよ。喧嘩も
何も
起らないんだから。けれどもね、そんなに
偉い
貴方が、
何故私なんぞから
御金を
借りる必要があるの。
可笑しいぢやありませんか。いえ、
揚足を取ると思ふと、
腹が立つでせう。
左様なんぢやありません。それ程
偉い
貴方でも、
御金がないと、
私見た様なものに
頭を
下げなけりやならなくなる」
「だから
先きから
頭を
下げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が
私の本気な所なんです」
「ぢや、それも
貴方の
偉い所かも知れない。然し
誰も
御金を
貸し
手がなくつて、今の御友達を
救つて
上げる事が出来なかつたら、
何うなさる。いくら
偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は
車屋と
同なしですもの」
代助は今迄
嫂が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は
金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の
裡に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから
姉さんに
頼むんです」
「仕方がないのね、
貴方は。あんまり、
偉過て。
一人で御
金を御
取んなさいな。本当の車屋なら
貸して上げない事もないけれども、
貴方には
厭よ。だつて
余りぢやありませんか。
月々兄さんや
御父さんの厄介になつた
上に、
人の
分迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。
誰も
出し
度はないぢやありませんか」
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此
尤を通り越して、気が
付かずにゐた。振り返つて見ると、
後の方に
姉と
兄と
父がかたまつてゐた。自分も
後戻りをして、
世間並にならなければならないと感じた。
家を
出る時、
嫂から無心を断わられるだらうとは
気遣つた。けれども
夫が
為めに、大いに
働らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。
七の六
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の
腹がよく
解つてゐた。
解れば
解る程激する気にならなかつた。そのうち話題は
金を離れて、再び結婚に
戻つて
来た。代助は最近の候補者に就て、
此間から
親爺に二度程
悩まされてゐる。
親爺の論理は
何時聞いても昔し風に甚だ義理
堅いものであつたが、其代り今度は左程権柄づくでもなかつた。自分の
命の
親に
当る
人の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、
貰つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が
返せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、丸で筋の
立たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた事丈は慥かである。だから
父の云ふ事の当否は論弁の
限にあらずとして、
貰へば
貰つても
構はないのである。代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、
結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない。佐川の娘といふのは只写真で知つてゐる許であるが、夫丈でも沢山な様な気がする。――尤も写真は大分美くしかつた。――従つて、貰ふとなれば、
左様面倒な条件を持ち出す考も何もない。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が
出なかつた丈である。
その不明晰な態度を、
父に評させると、丸で要領を得てゐない鈍物同様の挨拶振になる。結婚を生死の
間に
横はる一大要件と見傚して、あらゆる他の出来事を、これに従属させる考の
嫂から云はせると、不可思議になる。
「だつて、
貴方だつて、生涯
一人でゐる気でもないんでせう。さう我儘を云はないで、
好い加減な所で
極めて仕舞つたら
何うです」と梅子は
少し
焦れつたさうに云つた。
生涯
一人でゐるか、或は
妾を置いて
暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。
只、
今の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を
持てなかつた事は
慥である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の
頭が普通以上に
鋭どくつて、しかも其
鋭さが、日本現代の社会状況のために、
幻像打破の方面に
向つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。が代助は
其所迄解剖して考へる必要は認めてゐない。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に
明かな事実を
握つて、それに応じて未来を自然に
延ばして行く気でゐる。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、
何時か之を成立させ様と
喘る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。
代助は固より
斯んな
哲理を
嫂に向つて講釈する気はない。が、段々押し
詰られると、苦し
紛れに、
「だが、
姉さん、僕は
何うしても
嫁を
貰はなければならないのかね」と
聞く事がある。代助は無論
真面目に
聞く
積だけれども、
嫂の方では
呆れて仕舞ふ。さうして、自分を茶にするのだと取る。梅子は其晩代助に向つて、
平生の
手続を
繰り
返した
後で、
斯んな事を云つた。
「妙なのね、そんなに
厭がるのは。――
厭なんぢやないつて、
口では
仰しやるけれども、
貰はなければ、
厭なのと
同なしぢやありませんか。それぢや
誰か
好きなのがあるんでせう。
其方の名を
仰やい」
代助は今迄
嫁の候補者としては、たゞの一人も
好いた
女を
頭の
中に指名してゐた覚がなかつた。が、
今斯う云はれた時、どう云ふ訳か、不意に三千代といふ名が心に浮かんだ。つゞいて、だから
先刻云つた
金を貸して
下さい、といふ文句が
自から
頭の
中で
出来上つた。――けれども代助はたゞ苦笑して
嫂の前に
坐つてゐた。
八の一
代助が
嫂に失敗して帰つた
夜は、
大分更けてゐた。彼は
辛うじて青山の通りで、
最後の電車を
捕まえた位である。それにも拘はらず
彼の話してゐる
間には、
父も
兄も帰つて
来なかつた。尤も
其間に梅子は電話
口へ二返呼ばれた。然し、
嫂の様子に別段変つた
所もないので、代助は
此方から進んで何にも聞かなかつた。
其夜は
雨催の
空が、
地面と
同じ様な
色に見えた。停留所の赤い柱の
傍に、たつた
一人立つて電車を待ち合はしてゐると、
遠い
向ふから小さい火の
玉があらはれて、それが一直線に暗い
中を
上下に
揺れつつ代助の方に
近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。
乗り込んで見ると、
誰も居なかつた。
黒い
着物を
着た車掌と運転手の
間に
挟まれて、一種の
音に
埋まつて
動いて行くと、
動いてゐる
車の
外は
真暗である。代助は
一人明るい
中に腰を
掛けて、どこ迄も電車に乗つて、
終に
下りる機会が
来ない迄引つ張り
廻される様な気がした。
神楽坂へかゝると、
寂りとした
路が左右の
二階家に
挟まれて、
細長く
前を
塞いでゐた。中途迄
上つて
来たら、それが急に鳴り
出した。代助は
風が
家の
棟に当る事と思つて、立ち
留まつて
暗い
軒を見上げながら、屋根から
空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。
戸と障子と
硝子の
打ち
合ふ
音が、見る/\
烈しくなつて、あゝ地震だと気が
付いた時は、代助の足は立ちながら半ば
竦んでゐた。其時代助は左右の二階
家が
坂を
埋むべく、双方から倒れて
来る様に感じた。すると、突然
右側の
潜り
戸をがらりと
開けて、小供を
抱いた
一人の男が、地震だ/\、大きな地震だと云つて
出て来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
家へ
着いたら、婆さんも
門野も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、
二人とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し
様かと思案して見た。然し分別を
凝らす迄には至らなかつた。
父と
兄の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を
極めた。さうして
眠に入つた。
其明日の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の
金を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ
数が大分多くなつて
来て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し
立てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし
出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を
下したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした
後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の
父と
兄の関係してゐる会社に就ては
何事も知らなかつた。けれども、いつ
何んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、
父も
兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜
敷い吟味をされたなら、両方共拘引に
価する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、
父と
兄の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、
誰が見ても
尤と認める様に、
作り
上げられたとは
肯はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ
貰つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。
父と
兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、
暖室を造つて、
拵え
上げたんだらうと代助は鑑定してゐた。
八の二
代助は
斯う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。
父と
兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、
徒手で行くのが面白くないんで、其うちの事と
腹の
中で料簡を
定めて、
日々読書に耽つて四五日
過した。不思議な事に
其後例の
金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて
来なかつた。代助は
心のうちに、あるひは三千代が又
一人で返事を
聞きに
来る事もあるだらうと、
実は
心待に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
仕舞にアンニユイを感じ
出した。
何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を
捜して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から
外濠線へ乗つて、御茶の
水迄
来るうちに気が
変つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は
厭だから文学を職業とすると云ひ出して、
他のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も
上らず、
窮々云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、
何でも
好いから書けと
逼るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に
曝されたぎり、永久人間世界から
何処かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、
己を見ろと云ふのが
口癖であつた。けれども
外の
人に
聞くと、寺尾ももう
陥落するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが
好で、ことに人が名前を知らない作家が
好で、なけなしの
銭を工面しては新刊
物を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと
冷評返した事がある。すると寺尾は
真面目な
顔をして、戦争は
何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや
詰らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は
真中へ一貫
張の机を据ゑて、頭痛がすると云つて
鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を
書いてゐた。邪魔ならまた
来ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう
今朝から
五五、二円五十銭丈
稼いだからと云ふ挨拶であつた。やがて
鉢巻を
外して、
話を
始めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を
誰も
賞めないので、其対抗運動として、自分の方では
他を
貶すんだらうと思つた。ちと、
左様云ふ意見を発表したら
好いぢやないかと勧めると、
左様は
行かないよと笑つてゐる。
何故と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に
暮せる身分なら随分云つて見せるが――
何しろ
食ふんだからね。どうせ
真面目な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、
夫で結構だ、
確かり
遣り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや
些とも結構ぢやない。どうかして、
真面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと
金を
借して僕を
真面目にする了見はないかと
聞いた。いや、君が今の様な事をして、
夫で
真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと
調戯つて、代助は表へ
出た。
本郷の通り迄
来たが
惓怠の感は依然として
故の通りである。
何処をどう
歩いても物足りない。と云つて、
人の
宅を
訪ねる気はもう
出ない。自分を検査して見ると、
身体全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ
乗つて、今度は伝通院前迄
来た。車中で
揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃
嚢の
中で、
腐つたものが、
波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり
宅へ
帰つた。玄関で門野が、
「
先刻御
宅から
御使でした。手紙は書斎の机の
上に載せて置きました。受取は
一寸私が
書いて
渡して
置きました」と云つた。
八の三
手紙は
古風な
状箱の
中にあつた。
其赤塗の
表には
名宛も
何も
書かないで、
真鍮の
環に
通した
観世撚の
封じ
目に
黒い
墨を着けてあつた。代助は
机の
上を
一目見て、此手紙の
主は
嫂だとすぐ
悟つた。
嫂は
斯う云ふ旧式な趣味があつて、それが
時々思はぬ方角へ
出てくる。代助は
鋏の
先で
観世撚の
結目を
突つつきながら、面倒な
手数だと思つた。
けれども
中にあつた
手紙は、状箱とは正反対に、簡単な言文一致で用を
済してゐた。
此間わざ/\
来て
呉れた時は、
御依頼通り取り
計ひかねて、御気の毒をした。
後から考へて見ると、
其時色々無遠慮な失礼を云つた事が気にかゝる。どうか
悪く
取つて
下さるな。其代り
御金を
上げる。
尤もみんなと云ふ
訳には行かない。二百円丈都合して
上げる。から
夫をすぐ
御友達の所へ届けて
御上げなさい。是は
兄さんには
内所だから
其積でゐなくつては
不可ない。奥さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。
手紙の
中に
巻き込めて、二百円の小切手が
這入つてゐた。代助は、しばらく、それを
眺めてゐるうちに、
梅子に
済まない様な気がして
来た。此
間の
晩、
帰りがけに、
向から、ぢや
御金は
要らないのと
聞いた。
貸して呉れと切り
込んで
頼んだ時は、あゝ
手痛く跳ね付けて
置きながら、いざ断念して帰る段になると、却つて断わつた方から、
掛念がつて
駄目を
押して
出た。代助はそこに
女性の美くしさと
弱さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇気を失つた。此
美しい弱点を
弄ぶに
堪えなかつたからである。えゝ
要りません、
何うかなるでせうと云つて
分れた。それを梅子は
冷かな挨拶と思つたに
違ない。其
冷かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた
動作の
裏に、
何処にか引つ
掛つてゐて、とう/\此手紙になつたのだらうと代助は判断した。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈
暖かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が
斯う云ふ気分になる事は
兄に対してもない。
父に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり
起らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。
実を云ふと、二百円は代助に取つて
中途半端な
額であつた。
是丈呉れるなら、
一層思ひ切つて、
此方の
強請つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も
出た。が、それは代助の
頭が梅子を離れて三千代の方へ
向いた時の事であつた。その
上、女は
如何に思ひ切つた女でも、感情上
中途半端なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。
否女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、
快よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、
父であつたとすれば、代助は、それを経済的
中途半端と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は
晩食も
食はずに、すぐ又
表へ出た。五軒町から江戸川の
縁を
伝つて、
河を
向へ越した時は、
先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を
上つて伝通院の横へ
出ると、細く高い烟突が、
寺と
寺の
間から、
汚ない
烟を、
雲の多い
空に
吐いてゐた。代助はそれを
見て、貧弱な工業が、生存の
為に無理に
吐く
呼吸を
見苦しいものと思つた。さうして其
近くに
住む平岡と、此烟突とを
暗々の
裏に連想せずにはゐられなかつた。
斯う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が
先に立つのが、代助の
常であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、
空に
散る憐れな石炭の
烟に刺激された。
平岡の玄関の
沓脱には女の
穿く
重ね草履が
脱ぎ棄てゝあつた。格子を
開けると、奥の方から三千代が
裾を
鳴らして
出て
来た。其時
上り
口の
二畳は
殆んど
暗かつた。
三千代は其
暗い
中に
坐つて挨拶をした。始めは
誰が
来たのか、よく
分らなかつたらしかつたが、代助の
声を
聞くや否や、
何方かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は
判然見えない三千代の姿を、常よりは
美しく眺めた。
八の四
平岡は
不在であつた。それを
聞いた時、代助は
話してゐ
易い様な、又
話してゐ
悪い様な変な気がした。けれども三千代の方は
常の通り落ち
付いてゐた。
洋燈も
点けないで、
暗い
室を
閉て切つた儘
二人で
坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も
先刻其所迄用
達に
出て、今帰つて
夕食を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が
出た。
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり
外へ
出なくなつた。
疲れたと云つて、よく
宅に
寐てゐる。でなければ
酒を
飲む。
人が
尋ねて
来れば猶
飲む。さうして
善く
怒る。さかんに
人を罵倒する。のださうである。
「
昔と
違つて気が
荒くなつて
困るわ」と云つて、
三千代は暗に同情を求める様子であつた。代助は
黙つてゐた。下女が
帰つて
来て、勝手
口でがた/\
音をさせた。しばらくすると、
胡摩竹の
台の
着いた
洋燈を持つて
出た。
襖を
締める
時、代助の
顔を
偸む様に見て行つた。
代助は
懐から例の小
切手を
出した。二つに
折れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び
掛けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「
先達て
御頼の
金ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ
眼を
挙げて代助を見た。
「
実は、
直にもと思つたんだけれども、
此方の都合が
付かなかつたものだから、
遂遅くなつたんだが、
何うですか、もう始末は
付きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな
低い声になつた。さうして
怨ずる様に、
「
未ですわ。だつて、
片付く訳が
無いぢやありませんか」と云つた儘、
眼を

つて
凝と代助を見てゐた。代助は
折れた小切手を取り
上げて二つに
開いた。
「是丈ぢや
駄目ですか」
三千代は手を
伸ばして小切手を
受取つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と
静かに小切手を
畳の
上に
置いた。
代助は
金を借りて
来た由来を、極ざつと説明して、自分は
斯ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を
出さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは
悪く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、
私も承知してゐますわ。けれども、
困つて、
何うする事も
出来ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに
詫を述べた。代助はそこで念を押した。
「
夫丈で、
何うか始末が
付きますか。もし
何うしても
付かなければ、もう一遍
工面して見るんだが」
「もう
一遍工面するつて」
「判を
押して高い利のつく
御金を
借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち
消す様に云つた。「それこそ大変よ。
貴方」
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、
性質の
悪い
金を
借り始めたのが
転々して祟つてゐるんだと云ふ事を
聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として
通つてゐたのだが、三千代が
産後心臓が
悪くなつて、ぶら/\し
出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、
夫程烈しくもなかつたので、三千代はたゞ
交際上
已を得ないんだらうと
諦めてゐたが、仕舞にはそれが段々
高じて、
程度が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば
身体が
悪くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。
私が
悪いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい
顔をして、
責めて小供でも生きてゐて呉れたら
嘸可かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く
此方から
問ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに
弱つちや
不可ない。
昔の様に元気に
御成んなさい。さうして
些と遊びに御
出なさい」と勇気をつけた。
「
本当ね」と三千代は笑つた。彼等は
互の
昔を
互の
顔の
上に認めた。平岡はとう/\帰つて
来なかつた。
八の五
中二日置いて、突然平岡が
来た。其
日は乾いた
風が
朗らかな
天を
吹いて、
蒼いものが
眼に
映る、
常よりは
暑い天気であつた。
朝の新聞に菖蒲の案内が
出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の
君子蘭はとう/\縁側で
散つて仕舞つた。其代り
脇差程も
幅のある
緑の
葉が、
茎を押し分けて
長く
延びて
来た。
古い
葉は
黒ずんだ
儘、日に
光つてゐる。其一枚が何かの拍子に
半分から折れて、
茎を去る五寸
許の
所で、急に
鋭く
下つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は
鋏を
持つて椽に出た。さうして其
葉を
折れ
込んだ
手前から、
剪つて棄てた。時に厚い
切り
口が、急に
煮染む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に
音がした。
切口に
集つたのは
緑色の濃い
重い
汁であつた。代助は
其香を
嗅がうと思つて、
乱れる
葉の
中に鼻を
突つ込んだ。椽側の
滴は其儘にして置いた。立ち
上がつて、
袂から
手帛を
出して、
鋏の
刃を
拭いてゐる所へ、
門野が平岡さんが
御出ですと
報せて
来たのである。代助は其時平岡の
事も三千代の事も、丸で
頭の
中に考へてゐなかつた。
只不思議な
緑色の
液体に支配されて、比較的
世間に関係のない情調の
下に
動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「
此方へ御
通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから
席に
導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を
着てゐた。
襟も
白襯衣も
新らしい
上に、流行の
編襟飾を
掛けて、浪人とは
誰にも受け取れない位、ハイカラに取り
繕ろつてゐた。
話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日
斯うして
遊んで
歩く。それでなければ、
宅に
寐てゐるんだと云つて、大きな声を
出して笑つて見せた。代助もそれが
可からうと答へたなり、
後は
当らず障らずの
世間話に
時間を
潰してゐた。けれども自然に
出る世間
話といふよりも、寧ろある問題を回避する
為の
世間話だから、両方共に
緊張を
腹の
底に
感じてゐた。
平岡は三千代の事も、
金の事も
口へ
出さなかつた。
従がつて
三日前代助が
彼の留守宅を訪問した事に就ても何も
語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に
触れないで
澄してゐたが、
何時迄
経つても、平岡の方で
余所々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日
前君の
所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。
左様だつたさうだね。其節は又難有う。御
蔭さまで。――なに、君を煩はさないでも
何うかなつたんだが、
彼奴があまり心配し
過て、つい君に迷惑を掛けて
済まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に
来た
様なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が
出るだらうから」と丸で三千代と自分を
別物にした
言分であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。
話は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を
持たない方面に
摺り
滑つて
行つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は
已めるかも知れない。実際
内幕を知れば知る程
厭になる。其上
此方へ
来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と
心底かららしい告白をした。代助は、
一口、
「それは、
左様だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを
付けた。
「先達ても
一寸話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「
口があるのかい」と代助が
聞き返した。
「
今、
一つある。多分
出来さうだ」
来た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に
口があるから出様と云ふし、少し要領を
欠いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
八の六
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に
身を寄せて、
敷居の
上に立つてゐた。
門野も御
附合に平岡の
後姿を
眺めてゐた。が、すぐ
口を
出した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの
服装ぢや、
少し
宅の方が御粗末
過る様です」
「
左様でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「
全たく、
服装丈ぢや
分らない世の
中になりましたからね。
何処の紳士かと思ふと、どうも
変ちきりんな
家へ
這入てますからね」と
門野はすぐあとを付けた。
代助は返事も
為ずに書斎へ引き返した。椽側に
垂れた君子
蘭の
緑の
滴がどろ/\になつて、
干上り
掛つてゐた。代助はわざと、書斎と
座敷の
仕切を
立て
切つて、
一人室のうちへ
這入つた。来客に
接した
後しばらくは、
独坐に
耽るが代助の
癖であつた。ことに
今日の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。
逢ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。
誰に逢つても
左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に
過なかつた。
大地は自然に
続いてゐるけれども、其上に
家を
建てたら、忽ち
切れ
/\になつて仕舞つた。
家の
中にゐる
人間も亦
切れ
切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に
泣いて
貰ふ事を
喜こぶ
人であつた。
今でも
左様かも知れない。が、
些ともそんな
顔をしないから、
解らない。否、
力めて、
人の同情を
斥ける様に
振舞つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ
悟りか、
何方かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、
人の
為に
泣く事の
好きな男であつた。それが次第々々に
泣けなくなつた。
泣かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は
寧ろ
之を
逆にして、
泣かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の
圧迫を
受けて、其重
荷の
下に
唸る、劇烈な生存競争場裏に立つ
人で、
真によく
人の
為に泣き得るものに、代助は
未だ
曾て
出逢はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ
嫌悪の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が
萌してゐると判じた。昔しの代助も、
時々わが胸のうちに、斯う云ふ
影を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に
悲しかつた。
今は其
悲しみも殆んど
薄く
剥がれて仕舞つた。だから自分で黒い
影を
凝と見詰めて見る。さうして、これが
真だと思ふ。
已を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯う云ふ意味の孤独の
底に
陥つて煩悶するには、代助の
頭はあまりに
判然し
過てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の
踏むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、
今の自分の
眼に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に
過ないと見傚した。けれども、同時に、
両人の
間に
横たはる一種の特別な事情の
為、此隔離が
世間並よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは
三千代の結婚であつた。
三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に
悔る様な薄弱な
頭脳ではなかつた。
今日に至つて振り返つて見ても、自分の
所作は、過去を
照らす
鮮かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等
二人の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に
頭を
下げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と
何故三千代を
貰つたかと思ふ様になつた。代助は
何処かしらで、
何故三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に
閉ぢ
籠つて
一日考へに
沈んでゐた。
晩食の時、門野が、
「先生
今日は
一日御勉強ですな。どうです、
些と御散歩になりませんか。
今夜は
寅毘沙ですぜ。演芸館で
支那人の留学生が芝居を
演つてます。どんな事を
演る積ですか、
行つて御覧なすつたら
何うです。
支那人てえ
奴は、臆面がないから、
何でも
遣る気だから呑気なもんだ。……」と
一人で
喋舌つた。
九の一
代助は
又父から
呼ばれた。代助には其用事が大抵
分つてゐた。代助は
不断から成るべく
父を
避けて
会はない様にしてゐた。
此頃になつては猶更
奥へ
寄り
付かなかつた。
逢ふと、叮嚀な言葉を
使つて応対してゐるにも拘はらず、
腹の
中では、
父を
侮辱してゐる様な気がしてならなかつたからである。
代助は人類の
一人として、
互を
腹の
中で侮辱する事なしには、
互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた
海嘯と心得てゐた。
この
二つの
因数は、
何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を
較べる日の
来る迄は、此平衡は日本に於て
得られないものと代助は信じてゐた。さうして、
斯ゝる
日は、到底日本の上を
照らさないものと
諦めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ
頭の
中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の
一人として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
代助の
父の場合は、一般に
比べると、
稍特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき
手近な
真を、
眼中に置かない無理なものであつた。にも
拘はらず、
父は習慣に囚へられて、
未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の
為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを
父は自認してゐなかつた。
昔の自分が、
昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し
遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を
狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に
充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、
之を敢てする個人は、矛盾の
為に大苦痛を
受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈
明らかで、何の
為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の
鈍い劣等な人種である。代助は父に対する
毎に、
父は自己を
隠蔽する
偽君子か、もしくは分別の足らない
愚物か、
何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、
左う云ふ気がするのが
厭でならなかつた。
と云つて、
父は代助の手際で、
何うする事も出来ない男であつた。代助には
明らかに、それが
分つてゐた。だから代助は
未だ
曾て
父を矛盾の極端迄追ひ
詰めた事がなかつた。
代助は凡ての道徳の
出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから
頭の中に
硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に
過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る
時、
昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の
父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、
頭の
中に起した。代助はそれを
恨めしく思つてゐる位であつた。
代助は
此前梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から
一寸奥へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御
父さんはゐるんですかと
空とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、
今日はちと
急ぐから
廃さうと帰つて
来た。
九の二
今日はわざ/\
其為に
来たのだから、
否でも応でも
父に逢はなければならない。相変らず、
内玄関の方から廻つて座敷へ
来ると、
珍らしく
兄の誠吾が
胡坐をかいて、
酒を呑んでゐた。梅子も
傍に
坐つてゐた。
兄は代助を見て、
「
何うだ、一盃
遣らないか」と、前にあつた葡萄酒の
壜を持つて
振つて見せた。
中にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を
敲いて
洋盞を取り寄せた。
「
当てゝ御
覧なさい。どの位
古いんだか」と一杯
注いだ。
「代助に
分るものか」と云つて、誠吾は弟の
唇のあたりを
眺めてゐた。代助は
一口飲んで
盃を
下へ
下した。
肴の代りに薄いウエーファーが菓子
皿にあつた。
「
旨いですね」と云つた。
「だから時代を
当てゝ御覧なさいよ」
「
時代があるんですか。
偉いものを買ひ込んだもんだね。
帰りに
一本貰つて
行かう」
「御生憎様、もう
是限なの。
到来物よ」と云つて梅子は椽側へ
出て、
膝の
上に
落ちたウエーフアーの
粉を
払いた。
「
兄さん、
今日は
何うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が
聞いた。
「
今日は休養だ。
此間中は
何うも
忙し
過て降参したから」と誠吾は火の消えた
葉巻を
口に啣えた。代助は自分の
傍にあつた
燐寸を
擦つて
遣つた。
「
代さん
貴方こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から
帰つて
来た。
「
姉さん歌舞伎座へ
行きましたか。まだなら、
行つて御覧なさい。面白いから」
「
貴方もう
行つたの、驚ろいた。
貴方も
余っ程
怠けものね」
「
怠けものは
可くない。勉強の方向が違ふんだから」
「
押の強い事ばかり云つて。
人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は
赤い
瞼をして、ぽかんと
葉巻の
烟を
吹いてゐた。
「ねえ、
貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに
葉巻を
指の
股へ移して、
「今のうち
沢山勉強して
貰つて置いて、
今に
此方が貧乏したら、
救つて
貰ふ方が
好いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、
洋盞を姉の前に
出した。梅子も
黙つて葡萄酒の壜を取り
上げた。
「
兄さん、
此間中は何だか大変
忙しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は
寐転んで仕舞つた。
「
何か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、
忙しかつた」
兄の答は
何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも
楽に其返事の
中に
這入てゐた。
「日糖も
詰らない
事になつたが、あゝなる前に
何うか方法はないもんでせうかね」
「
左うさなあ。実際
世の
中の事は、
何が
何うなるんだか
分らないからな。――
梅、
今日は
直木に云ひ
付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや
不可いよ。あゝ
大食をして寐て
許ゐちや毒だ」と誠吾は
眠さうな
瞼を
指でしきりに
擦つた。代助は、
「
愈奥へ
行つて
御父さんに
叱られて
来るかな」と云ひながら又
洋盞を
嫂の前へ
出した。梅子は
笑つて
酒を
注いだ。
「
嫁の事か」と誠吾が
聞いた。
「まあ、
左うだらうと思ふんです」
「
貰つて
置くがいゝ。さう
老人に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと
判然した語勢で、
「気を
付けないと
不可よ。少し低気圧が
来てゐるから」と注意した。代助は
立ち掛けながら、
「まさか
此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。
兄は寐転んだ儘、
「
何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、
何時拘引されるか
分らない
身体なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を
仰しやるなよ」と梅子が
窘めた。
「矢っ張り
僕ののらくらが持ち
来たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。
九の三
廊下
伝ひに
中庭を
越して、
奥へ
来て見ると、
父は
唐机の
前へ
坐つて、
唐本を
見てゐた。
父は詩が
好で、
閑があると折々支那人の詩集を
読んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい
索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来
上つた
兄でも、成るべく
近寄らない事にしてゐた。是非
顔を
合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、
何方か
引張て
父の
前へ
出る手段を
取つてゐた。代助も椽側迄
来て、そこに気が
付いたが、
夫程の必要もあるまいと思つて、座敷を
一つ
通り越して、
父の居
間に這入つた。
父はまづ
眼鏡を
外した。それを読み掛けた書物の
上に置くと、代助の方に向き
直つた。さうして、たゞ
一言、
「
来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて
穏な位であつた。代助は
膝の
上に手を置きながら、
兄が
真面目な顔をして、自分を
担いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又
苦い茶を
飲ませられて、しばらく雑談に時を
移した。
今年は
芍薬の
出が早いとか、
茶摘歌を
聞いてゐると
眠くなる時候だとか、
何所とかに、大きな
藤があつて、其花の長さが四尺
足らずあるとか、
話は
好加減な方角へ
大分長く
延びて
行つた。代助は
又其方が勝手なので、いつ迄も
延ばす様にと、
後から
後を
付けて
行つた。
父も仕舞には持て
余して、とう/\、時に
今日御前を呼んだのはと云ひ出した。
代助はそれから
後は、
一言も
口を
利かなくなつた。只謹んで
親爺の云ふことを
聴いてゐた。
父も代助から
斯う云ふ態度に出られると、長い
間自分
一人で、講義でもする様に、
述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて
聞いてゐた。
父の
長談義のうちに、代助は二三の
新しい点も
認めた。その一つは、御前は一体是からさき
何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄
父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に
外す事に
慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう
口から
出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ
父を
怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間
父の
頭を教育した
上でなくつては、通じない理窟になる。
何故と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に
道破る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、
父が、其通りを
聞いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯
通じつこないかも知れない。
父の気に入る様にするのは、何でも、国家の
為とか、天下の
為とか、景気の
好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、
述べて置けば
済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは
馬鹿気てゐて、
口へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序
立てゝ
来て、御相談をする積であると答へた。答へた
後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は
次に、独立の出来る丈の財産が
欲しくはないかと聞かれた。代助は無論
欲しいと答へた。すると、
父が、では佐川の
娘を
貰つたら
好からうと云ふ条件を
付けた。其財産は佐川の
娘が持つて
来るのか、又は
父が
呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は
少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて
已めた。
次に、
一層洋行する気はないかと云はれた。代助は
好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として
出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると
父の
顔が
赤くなつた。
九の四
代助は
父を
怒らせる気は少しもなかつたのである。
彼の近頃の主義として、
人と喧嘩をするのは、
人間の堕落の一
範鋳になつてゐた。
喧嘩の一部分として、
人を
怒らせるのは、
怒らせる事自身よりは、
怒つた
人の
顔色が、如何に不愉快にわが
眼に
映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を
傷ける打撃に
外ならぬと心得てゐた。
彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を
有つてゐた。けれども、それが
為に、自然の儘に振舞ひさへすれば、
罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を
斬つたものゝ受くる
罰は、
斬られた
人の
肉から
出る血潮であると
固く
信じてゐた。
迸しる血の色を見て、
清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから
顔の
色を赤くした
父を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、
父の云ふ通りにしやうと云ふ気は
些とも起らなかつた。
彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
其時
父は
頗る熱した語気で、
先づ自分の
年を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に
嫁を
持たせるのは
親の義務であると云ふ事、
嫁の資格其他に就ては、本人よりも
親の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、
他