鈴木三重吉宛書簡―明治三十九年

夏目漱石




          三〇五
 明治三十九年一月一日 午前零時―五時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
加計君の所へいつか手紙をやりたい。宿所を教へ玉へ
 拜啓
 御通知の柿昨三十日着直ちに一個試みた處非常にうまかつた。コロ柿は堅過ぎるがあれは丁度好加減です。小供にもやりました。君の神經衰弱は段々全快のよし結構小生の胃病も當分生命に別條はなささうです。君が芝居をやる抔は頗る見ものだらうと思ひます。全體何の役をやる積りか一寸御一報にあづかりたい。今日は大晦日だが至つて平穩借金とりも參らず炬燵で小説を讀んで居ます。ホトヽギスを見ましたか。裏の學校から抗議でもくれば又材料が出來て面白いと思つて居る。此學校の寄宿舍がそばにあつて其生徒が夜に入ると四隣の迷惑になる樣に騷動する。今夜も盛にやつて居る。此次は是でも生捕つてやりませう。仕舞には校長が何とか云つてくればいいと思ふ。喧嘩でもないと猫の材料が拂底でいかん。伊藤左千夫の野菊の墓といふのをよんだですか。あれは面白い。美くしい感じする。一昨日から雪今日も曇中々寒い。昨日は中川が來ました。
 君が芝居をやる所を猫にかきたい。多々良三平と自認せる俣野義郎なるもの五六度も親展至急で大學へむけ猫中の取消を申し來る。新聞で廣告して取り消してやらうかと云つたら御免と云ふてきました。當人は人格を傷けられたとか何とか不平をいふて居る。呑氣なものである。人身攻撃も文學的滑稽も區別が出來ないで自ら大豪傑を以て任じて居るのは餘程氣丈の至りだと思ふ。
 君早く出て來給へ
 早稻田文學が出る。上田敏君抔が藝苑を出す。鴎外も何かするだらう。ゴチや/\メヤや/\其間に猫が浮きつ沈みつして居る。中々面白い。猫が出なくなると僕は片腕もがれた樣な氣がする。書齋で一人で力んで居るより大に大天下に屁の樣な氣※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)をふき出す方が面白い。來學年から是非出て來給へ
 明日丸山通一といふ獨乙語の先生の所へ午飯に呼ばれた。何の因縁か分らないがまづ御馳走になる方が得策だと思つて承引した。
 うれしきも悲しきも眼前の現象 月も花も刻下の風流。定業は何十年か知らないが、御駄佛となる迄はまづ/\此の如くであらうと思ふ 珍重
        三十八年大晦日の夜
     三重吉樣
 今日野村傳四と上野を散歩したら、耶蘇教の戸外演説があつた。聞き手は一人もない。大晦日である。人間は衣食の爲めには狂氣じみた事も眞面目にやるものですな。其例澤山あり。

          三一六
 明治三十九年二月十一日 午前十一時―十二時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 昨夜君の手紙がつきました。加計君が結婚をしたのは御目出たい。男爵の娘だなんてそんなものが山の中で役に立つでせうか。然しそれは餘計な事だ。とにかく御目出たい。君小説をかいたら送り玉へ。早く拜見仕りたい。近頃は色々な雜誌屋や何か來ていやになつて仕舞ふ。文章も作るひまがない。芝居は是からやるのですね。東京でも坪内さんの門下生がやりますよ。押入のなかで三味線をひくのは近世奇人傳にでもありそうだ。そんな事が出來れば病氣はまづ大丈夫ですね。猫の原書をかひにくるのは猫中の材料だ。色々な人があるものだ。大町といふ男が猫をよんで作者は氣の小さい陰氣な少し洒落氣のある男だと二度も三度も繰り返して居る。人民新聞といふのには僕が猫を作つて以來細君と仲が惡るくなつたとあるさうだ。すると高等學校で其きり拔きを大事に校長に御目にかける。内田魯庵といふ男は夏目君は金田夫人に談判されて迷惑して居るさうだとある男に話したさうだ。
 僕も此位有名になれば申分はないと思ふ。昔はこんな事が氣にかゝつて一々正誤しないと心持ちがわるかつた。今では却つて面白い心持ちがする。是から文章でもかいてながく居ると益僕の惡口をいふものが出て來ます。仕舞には漱石は昨日死んださうだ。いや瘋癲院へ這入つた。華族の御孃さんから惚れられたなんて妙なのが出て來るでせう
 今日は紀元節でいゝ天氣です、一昨日は雪でね。大變積つた。今日も道がわるい。昨夜は中川や何か四人ばかり來て夕飯をくつて快談をして暮らしました。
 廣島といふ所はどんな所か行つて見たい。廣島のものには僕の朋友が少々ある昔は大分つき合つたものだ。猫のうちにある甘木先生も廣島の人だ。毎日役々としてくらすのが人間の目的だとあきらめて仕舞つたが本もよめず、樂に坐つてる事も出來ないとなると一寸弱りますね。
 もつと何かかゝうと思ふがいやになつたからやめ。
 加計によろしく云つてくれ給へ。妻君は美人ですか。 以上
        二月十一日紀元節朝
     三重吉樣

          三三八
 明治三十九年四月十一日 午後十一時―十二時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ
 御手紙も小説も屆いて只今兩方とも拜見千鳥は傑作である。かう云ふ風にかいたものは普通の小説家に到底望めない。甚だ面白い。強いて難を云へば段落と順序が整然として居らん。第一回の藤さんと瀬川さんの會話が少々振はない。(其代りあとの會話は悉く活動して居る)。最後に舟を望んで藤さんを想像する所は少しくど過ぎる(其代り袂の貝をなげる所なぞはうまいものだ)。夫から法學士との問答もない方がいゝ。繪本の御姫さまは前後ともない方が明瞭である。尤もあれば妙な趣味は生ずる。壁の畫がけ出すのも考へものだ 以上は僕の感じたわるい方だがそれを除いては悉くうまい。會話といひ所作といひ仕草といひ悉く結構である。一つ二つ取り出して云ふとほかゞまづい樣になるから云はない。總體が活動して居る。僕が島へ遊びに行つて何かかかうとしても到底こんなには書けまい。三重吉君萬歳だ。そこで千鳥を此次のホトヽギスへ出さうと思ふが多分御異存はないだらう。構ひますまいな。尤も緒言はぬく積りだ。
 どうか面白いものをもつと澤山かいて屁鉾文士を驚ろかして呉れ玉へ。僕多忙でこまる。昨日から講義をかきかけたら半ページ出來た。講義を書くより千鳥をよむ方が面白い。加計の縁談は破談とやら氣の毒な事だ藤さんでも貰つてやり玉へ。血統なんて構やしないよ。別嬪で※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンが上手ならわるい病氣なんか出やしない。大丈夫なものさ。先祖代々の血統を吟味したら日本中に確たる家柄は一軒もなくなる譯だ。序によろしく 以上
        四月十一日夜
     三重吉樣

          三四〇
 明治三十九年四月十五日 午前十一時―十二時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ
 拜啓二三日前君に手紙を出すと同時に虚子に手紙を出して名作が出來たと知らせてやつたら大將今日來て千鳥を朗讀した。そこで虚子大人の意見なるものを御參考の爲めに一寸申し上げる
○全篇を通じて會話が振つて居らん。藤さんのホヽヽヽが多過ぎる藤さんが田舍言葉で瀬川さんが田舍言葉で掛合をしたらもつと活動するかも知れん([#「漱」の「欠」に代えて「攵」、309-15]石曰く虚子の云ふ所一理あり。然し主人公が田舍言葉でやつつけたら下女や何かの田舍言葉が引き立つまい。但し全篇を通じて若い男女の會話はあまり上出來にあらずと思ふ)
○虚子曰く章坊の寫眞や電話は嶄新ならずもつと活動が欲しい(※[#「漱」の「欠」に代えて「攵」、310-1]石曰く章坊の寫眞も電話も寫生的に面白く出來て居る)
○女と男が池の處へしやがんで對話する所未だ室に入らず。且つ其景色が陳腐なり(※[#「漱」の「欠」が「攵」、310-3]石曰く會話はあの位で上の部なるべし。池の景色鮒の動靜悉く寫生なり陳腐ならず)
○虚子曰く若い男女が相會して互に思ふはありふれた趣向なり但二日間の出來事と云ふに重きを置いて、それを讀者にわからせる樣につとめた所がよし。(漱石曰く趣向は陳腐にもあらず又陳腐でなき事もなし要するに技倆如何にて極る。此篇の大缺點はどうしても作り物であるといふ疑を起す點にあり。然し所々に寫生的の分子多きために不自然を一寸忘れさせるが手際なり)
 虚子曰く狐の話面白し全篇あの調子で行けばえらいものなり(漱石曰く全篇大概はあの調子なり)
 要するに虚子は寫生文としては寫生足らず、小説としては結構足らずと主張す。漱石は普通の小説家に是程寫生趣味を解したるものなしと主張す。
 以上は虚子の評なり。君は固より僕に示す丈の積りだらうが僕以外の人の説も參考に聞く方が將來の作の上に利益があると思ふから一寸報知する。虚子と云ふ男は文章に熱心だからこんな事を云ふので僕が名作を得たと前觸が大き過ぎた爲め却つて缺點を擧げる樣になつたので、いゝ點は認めて居るのである。
 それで原稿は一度君の許諾を得た上でと思つたが虚子が持つて歸ると云つたからやりましたよ。尤も長いから少々削るかも知れない。是も不平を云はずに我慢してくれ玉へ 以上
        四月十四日夜
     三重吉樣


          三四六
 明治三十九年五月三日 午前八時―九時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ [はがき]
 寺田寅彦が千鳥をほめて好男子萬歳とかいて來た。四方太が手紙をよこして四方太抔は到底及ばない名文である傑作であると申して來た。僕も是で鼻が高い。あれにケチをつけた虚子は馬鹿と宣告してしまつた。 以上

          三五〇
 明治三十九年五月十六日 午前八時―九時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ [はがき]
 拜啓寫眞は先日中川君から屆けてくれました。難有う。あの寫眞は大理石の像の樣には見えない。幽靈の樣だ。君の顏や咽喉の所があまりやせて居るせゐだらう。是も全く十七八の別嬪の祟と思ふ御用心

          三五七
 明治三十九年五月二十六日 午後三時―四時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 拜啓漾虚集が出來ました一部あげます。諸方々に誤字があり誤植がある樣だから見當つたら教へて頂戴
 人間の價値は何かやつて見ないとどの位あるか分らない。君どうぞ勉強してやつてくれ玉へ。
 然し世の中には駄目な事が分り切つて居ても眼が見えないのでうん/\やつてる奴がある。そんなものは教へてやつても説諭してやつても分りつこない。矢張自分が斃れる迄やつて念晴らしが出來ないと氣が濟まんものである。勝手に覺りがつく迄やらせるがいゝが、はたから見ると憫然なものだ。是は此間中からたつた一人で感じて居る事だが誰にも云はない。然し文藝上の事でも何でもない。
 君にやり玉へといふのは文學の事だ自分で何か作つて見ないとどの位作れるものか自身にもわからない。いくら作つてもそのつぎの自分はどんな風にあらはれるか决して分るものでないから君も千鳥のあとに萬鳥でも億鳥でも大にかき給はん事を希望する。
 僕も漾虚集丈でつきた譯でもないから是から又何ぞかく積りで居る。 以上
        五月二十六日
夏目金之助
     鈴木三重吉君
 先日來卒業論文を漸く讀み了つた。中川のが一番えらい。あの人は勉強すると今に大學の教師として僕抔よりも遙かに適任者にな〔る〕。しかも生意氣な所が毫もない。まことにゆかしい人である。只氣が弱いのが弱點である。

          三六三
 明治三十九年六月七日 (以下不明) 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 昨夜君の所へ手紙をかいた處今朝君のを受けとつたから書き直す原稿料は遠慮なく御受取可然。小生抔は始めからあてにして原稿をかきます
 漾虚集の誤字誤植御親切に御教示を蒙り難有候。實は僕も訂正の積で一度よんで誤の多いので驚ろいた位人が見たら定めし見苦しき事なるべし御蔭にて僕の見落したる分を大分直す事が出來て結構だ。どうか序にあとも教へて下さい
 君は九月上京の事と思ふ神經衰弱は全快の事なるべく結構に候然し現下の如き愚なる間違つたる世の中には正しき人でありさへすれば必ず神經衰弱になる事と存候。是から人に逢ふ度に君は神經衰弱かときいて然りと答へたら普通の徳義心ある人間と定める事に致さうと思つてゐる
 今の世に神經衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か左らずば、二十世紀の輕薄に滿足するひやうろく玉に候。
 もし死ぬならば神經衰弱で死んだら名譽だらうと思ふ。時があつたら神經衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覺させてやりたいと思ふ。
 大分あつ〔く〕なつた。[#注記の「く」は底本では欠落]拙宅疊替なり。書齋をかへる時は大騷ぎ中川先生と今一人を手傳にたのみたいと思ふ 艸々不一
        六月六日
     三重吉樣

          三六六
 明治三十九年六月十九日 午後六時―七時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より廣島市猿樂町鈴木三重吉へ [はがき]
 漾虚集の誤植御報知難有候三版には大分正さねばならぬ。
 神經衰弱論をかゝうと思つて居る。僕の結論によると英國人が神經衰弱で第一番に滅亡すると云ふのだが名論だらう。いづれ出たら讀んでくれ玉へ

          三八九
 明治三十九年八月十二日 午後十一時―十二時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より山口縣玖珂郡由宇村三國屋鈴木三重吉へ [はがき]
 君は一人で大きな屋敷に居るよし。御大名の樣でよからうと思ふ。僕例の如く多忙長い手紙をかく餘暇なし。君文章をかきたいならどん/\御かきなさい。書いてわるければ其時修養がたりないとか何とかはじめてわかる也。かゝないうちはどんな名作が出來るかわからん。何でもどんどんやるべしと存候

          四四〇
 明治三十九年十月二十六日 午後三時―四時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より本郷區彌生町三番地小林第一支店鈴木三重吉へ [封筒表左側下に「第一信」とあり]
 君の夜中にかいた手紙は今朝十一時頃よんだ。寺田も四方太もまあ御推察の通の人物でせう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ。さうして貴族種だから上品な所がある。然しアタマは餘りよくない。さうして直むきになる。そこで四方太とはない。僕は何とも思はない。あれがハイカラならとくにエラクなつて居る。伯爵ノ伯父や叔母や、三井が親類でさうして三十圓の月給でキユキユしてゐるから妙だ。さうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ來て坐り込んで飯時が來て飯を食ふに、恰も正當の事であるかの如き顏をして食ふ。「今日も時刻をハヅシテ御馳走ニナル」とか「どうも難有う御座います」とか云つた事がない。自分のうちで飯をくつた樣にしてゐるからいゝ。
 君は森田の事丈は評して來ない。恐らく君に氣に入らんのだらう。あの男は松根と正反對である。一擧一動人の批判を恐れてゐる。僕は可成りあの男を反對にしやう/\と力めてゐる。近頃は漸くの事あれ丈にした。それでもまだあんなである。然るにあゝなる迄には深い源因がある。それで始めて逢つた人からは妙だが、僕からはあれが極めて自然であつて、而も大に可愛さうである。僕が森田をあんなにした責任は勿論ない。然しあれを少しでももつと鷹揚に無邪氣にして幸福にしてやりたいとのみ考へてゐる。
 君をしかるつて、夫で澤山だ。そんなにほめる程の事もないが叱られる事もなからう。
 僕の教訓なんて、飛んでもない事だ。僕は人の教訓になる樣な行をしては居らん。僕の行爲の三分二は皆方便的な事で他人から見れば氣違的である。それで澤山なのである。現在状態がつゞけば氣である。死んでから人が氣違ときめて仕舞つたつて少しも耻とも何とも思はない。現在状態が變化すれば此狂態もやめるかも知れぬ。さうしたら死んでから君子と云はれるかも知れん。つまり一人の人間がどうでもなる所が自分ながら愉快で人には分らないからいゝ。氣違にも、君子にも、學者にも一日のうちに是より以上の變化もして見せる。人が學者といふも、氣違といふも、君子と云ふも、月給さへ渡つてゐればちつとも差支ない。だから僕は僕一人の生活をやつてゐるので人に手本を示してゐるのではない。近頃の僕の所作を眞似られちや大變だ。 草々
        十月二十六日
夏目金之助
     鈴木三重吉樣

          四四一
 明治三十九年十月二十六日 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五十七番地より本郷區彌生町三番地小林第一支店鈴木三重吉へ [封筒表中央下に「第二信」とあり]
 只一つ君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらつて决して損のない事である。 僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思つてゐた。旨いものが食へると思つてゐた。綺麗な着物がきられると思つてゐた。詩的に生活が出來てうつくしい細君がもてゝ。うつくしい家庭が〔出〕來ると思つてゐた。
 もし出來なければどうかして得たいと思つてゐた。換言すれば是等の反對を出來る丈避け樣としてゐた。然る所世の中に居るうちはどこをどう避けてもそんな所はない。世の中は自己の想像とは全く正反對の現象でうづまつてゐる。
 そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イやなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出來ぬといふ事である。
 只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅少な部分かと思ふ。で草枕の樣な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない。
 此點からいふと單に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に歸着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遙して喜んで居る。然し大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る樣では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。苟も文學を以て生命とするものならば單に美といふ丈では滿足が出來ない。丁度維新の當〔時〕勤王家が困苦をなめた樣な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神經衰弱でも氣違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。文學者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる樣な小天地ばかりに居ればそれぎりだが大きな世界に出れば只愉快を得る爲めだ抔とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める爲めでなくてはなるまいと思ふ。
 君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり。自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文學者だと澄まして居る樣になりはせぬかと思ふ。現實世界は無論さうはゆかぬ。文學世界も亦さう許りではゆくまい。かの俳句連虚子でも四方太でも此點に於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文學者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰拔文學者の樣な氣がしてならん。
 破戒にとるべき所はないが只此點に於テ他をぬく事數等であると思ふ。然し破戒ハ未ダシ。三重吉先生破戒以上の作ヲドン/\出シ玉へ 以上
        十月二十六日
夏目金之助
     鈴木三重吉樣

          四六八
 明治三十九年十二月八日 午後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五十七番地より本郷區臺町福榮館鈴木三重吉へ 
 拜啓別紙山彦評森田白楊より送り來り候御參考の爲め入御覽候ホトヽギスを書き始めんと思へど大趣向にて纒らず切ればカタワとなる、時間はあらず困り入候 艸々
        十二月八日
夏目金之助
     鈴木三重吉樣

          四七三
 明治三十九年十二月九日 午後三時―四時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より本郷區臺町二十七番地鳳明館中川芳太郎、鈴木三重吉へ [はがき]
僕の家主東京轉任で僕は追ひ出されるにつきよき家あれば見當り次第教へて下され
白楊先生の批評を見たりや
        九日

          四八六
 明治三十九年十二月二十四日 午後三時―四時 本郷區駒込千駄木町五十七番地より本郷區臺町福榮館鈴木三重吉へ [はがき]
天氣ならば二十七日轉宅の筈どうか手傳に來てくれ玉へ。西片町十ロノ七ノアタリナリ。但シ千駄木へ御出張ヲ煩ハシタシ
        十二月二十四日





底本:「漱石全集 第十八卷」漱石全集刊行会
   1928(昭和3)年9月5日発行
※底本(書簡集)から、明治39年の鈴木三重吉宛書簡のみを抜き出しました。
※各書簡冒頭の番号は、底本に振られた通し番号です。
※句点の有無は、底本通りとしました。
※「[]」付きで添えられた底本の注は、そのまま入力しました。
※底本で対象文字の右に添えられた、「原文通り」を意味する「原」と、「〔〕」付きで示された正しいと推定される表記を、XHTML版では、組み版通りに再現しました。
※「漱」と「[#「漱」の「欠」に代えて「攵」]」の混在は底本通りです。
※欠落を、「漱石全集 第十八巻」19368(昭和11)年12月10日発行を参照して、補いました。
入力:石塚一郎
校正:柳沢成雄
2002年10月12日作成
2006年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について