三四郎

夏目金之助




一の一


 うと/\としてめると女は何時いつの間にか、となりの爺さんとはなしを始めてゐる。此ぢいさんは〔たし〕かに前の前の駅から乗つた田舎者いなかものである。発車間際まぎはに頓狂な声を出して、馳け込んでて、いきなりはだいだと思つたら脊中せなかに御灸のあとが一杯あつたので、三四郎の記憶に残つてゐる。爺さんがあせを拭いて、はだを入れて、女のとなりに腰をけた迄よく注意して見てゐた位である。
 女とは京都からの相乗あひのりである。乗つた時から三四郎のいた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段※(二の字点、1-2-22)京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時いつにか故郷を遠退く様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州いろであつた。
 三輪田の御光さんとおんなじ色である。国を立つ間際まぎは迄は、御光さんは、うるさい女であつた。そばを離れるのが大いに難有〔ありがた〕かつた。けれども、うして見ると、御光さんの様なのも決してわるくはない。
 唯顔だちから云ふと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明はつきりしてゐる。ひたひが御光さんの様にだゞつぴろくない。何となくい心持に出来上つてゐる。それで三四郎は五ふんに一度位はげて女の方を見てゐた。時々とき/″\は女と自分のが行きあたる事もあつた。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、〔もっと〕も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた。其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた。それからしばらくして、三四郎は眠くなつてて仕舞つたのである。
 其てゐるあひだに女と爺さんは懇意になつてはなしを始めたものと見える。けた三四郎はだまつて二人ふたりはなしを聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――
 小供の玩具おもちやは矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸ちよつと用があつてりたついでに、たこ薬師のそば玩具おもちやを買つて来た。久し振で国へ帰つて小供にふのは嬉しい。然しおつと仕送しおくりが途切れて、仕方なしにおやの里へ帰るのだから心配だ。おつとくれに居てながらく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。もなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼でかせぎに行つた。始めのうちは音信たよりもあり、月々つき/″\のものも几帳面ちやん/\と送つてたからかつたが、此半歳許はんとしばかり前から手紙もかねも丸で来なくなつて仕舞つた。不実ふじつ性質たちではないから、大丈夫だけれども、何時迄いつまでも遊んでたべてゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、さとへ帰つてまつてゐるつもりだ。
 爺さんは蛸薬師たこやくしも知らず、玩具おもちやにも興味がないと見えて、始めのうちは只はい/\と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう/\彼地あつちで死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだかわからない。あとで景気でもくなればだが、大事な子は殺される、物価しよしきは高くなる。こんな馬鹿気ばかげたものはない。い時分に出稼でかせぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戦争の御かげだ。何しろ信心しんじんが大切だ。生きて働らいてゐるにちがひない。もう少し待つてゐれば屹度〔きっと〕帰つて来る。――爺さんはこんな事を云つて、頻りに女を慰めて居た。やがて汽車がとまつたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よくて行つた。

一の二


 ぢいさんにつゞいてりたものが四人程あつたが、入れかはつて、乗つたのはたつた一人ひとりしかない。もとから込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋しくなつた。日の暮れた所為せゐかも知れない。駅夫が屋根をどし/\踏んで、上からいた洋燈らんぷし込んで行く。三四郎は思ひ出した様に前の停車場で買つた弁当を食ひ出した。
 車が動き出して二分にふんも立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室しやしつそとへ出て行つた。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入はいつた。三四郎は鮎の煮浸にびたしあたま〔くわ〕へた儘女の後姿うしろすがたを見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながらしきりに食つてゐる。
 女はやがて帰つてた。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞がけである。したを向いて一生懸命にはしを突込んで二口三口ふたくちみくち頬張つたが、女は、どうもまだもとの席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢っ張り正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かにそとを眺め出した。風が強くあたつて、びんがふわ/\する所が三四郎の這入はいつた。此時三四郎はからになつた弁当のをりちから一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であつた。風にさからつてげたをりふたしろく舞ひ戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途〔ふと〕女の顔を見た。顔は生憎〔あいにく〕列車のそとに出てゐた。けれども女は静かに首をっ込めて更紗〔さらさ〕手帛はんけちひたひの所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角もあやまる方が安全だと考へた。
「御めんなさい」と云つた。
 女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしにだまつて仕舞つた。女もだまつて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客はくら洋燈らんぷしたで、みんなぼけた顔をしてゐる。くちを利いてゐるものはだれもない。汽車丈が凄じいおとを立てゝ行く。三四郎はねむつた。
 しばらくすると「名古屋はもうぢきでせうか」と云ふ女の声がした。見ると何時いつにか向きなほつて、および腰になつて、顔を三四郎のそば迄持つて来てゐる。三四郎は驚ろいた。
「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向要領を得ない。
此分このぶんではおくれますでせうか」
おくれるでせう」
「あんたも名古屋へ御下おおりで……」
「はあ、ります」
 此汽車は名古屋どまりであつた。会話は〔すこぶ〕る平凡であつた。只女が三四郎の筋向すぢむかふに腰を掛けた〔ばかり〕である。それで、しばらくの間は又汽車のおと丈になつて仕舞ふ。
 つぎの駅で汽車が留つた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人ひとりでは気味がわるいからと云つて、しきりに頼む。三四郎も尤もだと思つた。けれども、さうこゝろよく引き受ける気にもならなかつた。何しろ知らない女なんだから、頗る※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)〔ちゅうちょ〕したにはしたが、断然断わる勇気も出なかつたので、まあい加減な生返事なまへんじをして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。

一の三


 大きな行李こりは新橋迄預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズツクの革鞄かばんかさ丈持つて改札場を出た。あたまには高等学校の夏帽を被つてゐる。然し卒業したしるしに徽章丈は※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取つて仕舞つた。昼間ひるま見ると其処そこ丈色が新らしい。うしろから女がいて来る。三四郎は此帽子に対して少々極りがわるかつた。けれどもいて来るのだから仕方がない。女の方では、此帽子を無論たゞのきたない帽子と思つて居る。
 九時半に着くべき汽車が四十分程おくれたのだから、もう十時はまはつてゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の様に賑やかだ。宿屋やどやも眼の前に二三軒ある。たゞ三四郎にはちと立派過ぎる様に思はれた。そこで電気燈のいてゐる三階作りの前を澄して通り越して、ぶら/\歩行あるいて行つた。無論不案内の土地だから何所どこるか分らない。只くらい方へ行つた。女は何とも云はずにいてる。すると比較的淋しい横町のかどから二軒目に御宿おやどと云ふ看板が見えた。〔これ〕は三四郎にも女にも相応なきたない看板であつた。三四郎は鳥渡ちよつと振り返つて、一口ひとくち女にどうですと相談したが、女は結構だと云ふんで、思ひ切つてずつと這入つた。上がり口で二人連ふたりづれではないと断わる筈の所を、〔い〕らつしやい、――どうぞ御上おあがり――御案内――梅の四番〔など〕とのべつに喋舌しやべられたので、〔やむ〕を得ず無言の儘二人ふたり共梅の四番へ通されて仕舞つた。
 下女が茶を持つてくるあひだ二人ふたりはぼんやりむかひ合つて坐つてゐた。下女が茶を持つてて、御風呂をと云つた時は、もう此婦人は自分のつれではないと断わる丈の勇気が出なかつた。そこで手拭をぶらげて、御先おさきへと挨拶をして、風呂場へ出て行つた。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣りにあつた。薄暗うすぐらくつて、大分不潔の様である。三四郎は着物をいで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考へた。こいつは厄介だとぢやぶ/\つてゐると、廊下に足音がする。だれか便所へ這入〔はい〕つた様子である。やがて出て来た。手を洗ふ。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分けた。例の女が入口いりぐちから「ちいとながしませうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、
「いえ沢山です」と断わつた。然し女は出て行かない。〔かえ〕つて這入つて来た。さうして帯を解き出した。三四郎と一所に湯を使ふ気と見える。別に恥づかしい様子も見えない。三四郎は〔たちま〕湯槽ゆぶねを飛び出した。そこそこに身体からだを拭いて座敷へ帰つて、坐蒲団の上にすはつて、少なからず驚ろいてゐると、下女が宿やど帳を持つて来た。
 三四郎は宿やど帳を取り上げて、福岡県京都郡〔みやこぐん〕真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女の所へ行つて全く困つて仕舞つた。湯から出る迄待つて居ればかつたと思つたが、仕方がない。下女がちやんと控えてゐる。已を得ず同県同郡同村同姓はな二十三年と出鱈目〔でたらめ〕を書いて渡した。さうして頻りに団扇〔うちわ〕を使つてゐた。
 やがて女は帰つて来た。「どうも、失礼致しました」と云つてゐる。三四郎は「いゝや」と答へた。
 三四郎は革鞄かばんなかから帳面を取り出して日記をつけ出した。書く事も何にもない。女がゐなければ書く事が沢山ある様に思はれた。すると女は「一寸ちよいと出て参ります」と云つて部屋を出て行つた。三四郎は〔ますます〕日記が書けなくなつた。何所どこへ行つたんだらうと考へ出した。

一の四


 そこへ下女がとこべにる。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、とこは二つ敷かなくては不可いけないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳かやが狭いとか云つて〔らち〕が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸ちよつとましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳かや一杯に敷いて出て行つた。
 夫から、しばらくすると女が帰つてた。どうもおそくなりましてと云ふ。蚊帳かやの影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふおとがした。小供に見舞みやげ玩具おもちやが鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳かやの向ふで「御先おさきへ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜をかして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん/\る。そとではとてもしのぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄かばんなかから、キヤラコの襯衣しやつ洋袴下づぼんしたを出して、それを素肌すはだへ着けて、其上から紺の兵児帯〔へこおび〕めた。それから西洋手拭タウエル二筋ふたすぢ持つたまゝ蚊帳かやなかへ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。
「失礼ですが、わたしかん性で他人ひとの布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除のみよけの工夫をるから御免なさい」
 三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、いてある敷布シートの余つてゐるはじを女の寐てゐる方へ向けてぐる/\き出した。さうして布団の真中まんなかに白い長い仕切りを〔こし〕らへた。女はむかふへ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭タウエルひろげて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭タウエルそとには一寸もなかつた。女とは一言ひとことくちを利かなかつた。女も壁を向いた儘じつとして動かなかつた。
 夜はやう/\明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜ゆふべのみは出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有〔ありがと〕う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目まじめに答へながら、したを向いて、御猪口おちよくの葡萄まめをしきりに突つつき出した。
 勘定をして宿やどて、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車はもなくた。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場のきは迄送つて来た女は、
「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄かばんかさを片手に持つた儘、あいた手で例のふる帽子を取つて、たゞ一言ひとこと
左様さよなら」と云つた。女は其顔をじつながめてゐたが、やがて落付いた調子で、
「あなたは余つ程度胸のないかたですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へはぢき出された様な心持がした。車のなかへ這入つたら両方の耳が一層ほてり出した。しばらくはつと小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らすくち笛が長い列車のはてからはて迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓からくびを出した。女はとくのむかし何処どこかへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりがいた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合のりあひは大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人ひとりもない。只筋向ふにすはつた男が、自分の席にかへる三四郎を一寸ちよいと見た。

一の五


 三四郎は此男に見られた時、何となくきまりがわるかつた。ほんでも読んで気を紛らかさうと思つて、革鞄かばんけて見ると、昨夜ゆふべ西洋手拭タウエルが、うへの所にぎつしりつまつてゐる。そいつをわきへ掻き寄せて、そこの方から、手にさわつたやつを何でも構はず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄つぺらな粗末な仮綴かりとぢである。元来汽車のうちで読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなつたから、片付かたづける序に提革鞄さげかばんの底へ、ほかの二三冊と一所に放り込んで置いたのが、運悪うんわるく当選したのである。三四郎はベーコンの二十三ページひらいた。ほかほんでも読めさうにはない。ましてベーコン抔は無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三ページひらいて、万遍まんべんなくページ全体を見廻してゐた。三四郎は二十三ページの前で一応昨夜ゆふべ御浚おさらひをする気である。
 元来あの女はなんだらう。あんな女が世のなかに居るものだらうか。女と云ふものは、ああ落付いて平気でゐられるものだらうか。無教育なのだらうか、大胆なのだらうか。それとも無邪気なのだらうか。要するに行ける所迄行つて見なかつたから、見当が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見るとかつた。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云はれた時には、喫驚びつくりした。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であつた。おやでもあゝうまく言ひてるものではない。……
 三四郎は此所こゝて、さら悄然しよげて仕舞つた。何所どこの馬の骨だかわからないものに、あたまがらない位どやされた様な気がした。ベーコンの二十三ページに対しても〔はなは〕だ申訳がない位に感じた。
 どうも、あゝ狼狽しちや駄目だ。学問も大学生もあつたものぢやない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があつたらう。けれども相手が何時いつでもあゝるとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受け様がないとも思はれる。すると無暗に女に近付いてはならないと云ふ訳になる。何だか意気地いくぢがない。非常に窮屈だ。丸で不具かたわにでも生れた様なものである。けれども……
 三四郎は急に気を〔か〕へて、別の世界の事を思ひ出した。――是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性のそなはつた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる。と云ふ様な未来をだらしなく考へて、大いに元気を回復して見ると、別に二十三ページなかかほうづめてゐる必要がなくなつた。そこでひよいとあたまげた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見かへした。
 ひげやしてゐる。面長おもながやせぎすの、どことなく神主かんぬしじみた男であつた。たゞ鼻筋が真直まつすぐに通つてゐる所丈が西洋らしい。学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。男は白地のかすりしたに、丁重に白い繻絆〔じゅばん〕を重ねて、紺足袋を穿いてゐた。此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だかくだらなく感ぜられる。男はもう四十だらう。是よりさきもう発展しさうにもない。

一の六


 男はしきりに烟草〔たばこ〕をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんとのびをする事がある。さも退屈さうである。となりに乗り合せた人が、新聞の読みがらそばに置くのに借りてる気も出さない。三四郎はおのづから妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。ほかの小説でもして、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、めにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎あいにく前の人はぐう/\寐てゐる。三四郎は手をばして新聞に手を掛けながら、わざと「御きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「いてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。
 けて見ると新聞には別に見る程の事もつてゐない。一二分で通読して仕舞つた。律義に畳んでもとの場所へ返しながら、一寸ちよつと会釈すると、むかふでも軽く挨拶をして、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
 三四郎は、かぶつてゐるふる帽子の徽章のあとが、此男のうつつたのを嬉しく感じた。
「えゝ」と答へた。
「東京の?」と聞きかへした時、始めて、
「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなりだまつて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故なぜ熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言ひとりごとでも何でもない。ひげのある人は三四郎を見てにや/\と笑つた。三四郎はそれを機会しほに、
「あなたは何方どちらへ」と聞いた。
「東京」とゆつくり云つたぎりである。何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だからたいしたものでない事はあきらかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。ひげのある男は腕組をした儘、時々とき/″\下駄の前歯で、拍子を取つて、ゆかを鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。
 汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きてこすりながらりて行つた。よくあんなに都合よくを覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣きづかひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是でひげのある人と隣りあはせになつた。髭のある人は入れかはつて、窓からくびを出して、水蜜桃を買つてゐる。
 やがて二人ふたりの間に果物くだものを置いて、
べませんか」と云つた。
 三四郎は礼を云つて、一つべた。ひげのある人はきと見えて、無暗〔むやみ〕べた。三四郎にもつとべろと云ふ。三四郎は又一つべた。二人ふたりが水蜜桃をべてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた。

一の七


 其男の説によると、もゝ果物くだもののうちで一番仙人めいてゐる。何だか馬鹿見た様なあぢがする。第一核子たね恰好〔かっこう〕が無器用だ。〔か〕つ穴だらけで大変面白く出来上つてゐると云ふ。三四郎は始めて聞く説だが、随分詰らない事を云ふ人だと思つた。
 次に其男がこんな事を云ひした。子規しき果物くだものが大変きだつた。ついくらでもへる男だつた。ある時大きな樽柿たるがきを十六つた事がある。それで何ともなかつた。自分抔は到底とても子規の真似は出来ない。――三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。もう少し子規の事でも話さうかと思つてゐると、
「どうもすきなものには自然と手がるものでね。仕方がない。ぶた抔は手がない代りにはなる。ぶたをね、しばつてうごけない様にして置いて、其はなさきへ、御馳走をならべて置くと、うごけないものだから、はなさきが段※(二の字点、1-2-22)延びてるさうだ。御馳走に届く迄は延びるさうです。どうも一念程恐ろしいものはない」と云つて、にやにや笑つてゐる。真面目まじめだか冗談だか、判然と区別しにくい様な話しかたである。
「まあ御互にぶたでなくつて仕合せだ。さう欲しいものゝ方へ無暗に鼻が延びて行つたら、今頃は汽車にも乗れない位長くなつて困るにちがひない」
 三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。
「実際危険あぶない。レオナルド、ダ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ンチと云ふ人は桃のみき砒石ひせきを注射してね、其実そのみへも毒がまはるものだらうか、どうだらうかと云ふ試験をした事がある。所が其桃をつて死んだ人がある。危険あぶない。気を付けないと危険あぶない」と云ひながら、散※(二の字点、1-2-22)食ひ散らした水蜜桃の核子たねやら皮やらを、一纏めに新聞にくるんで、窓のそとした。
 今度は三四郎も笑ふ気がおこらなかつた。レオナルド、ダ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ンチと云ふ名を聞いて少しく辟易〔へきえき〕した上に、何だか昨夕ゆふべの女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、つゝしんでだまつて仕舞つた。けれども相手はそんな事に一向気が付かないらしい。やがて、
「東京は何所どこへ」と聞き出した。
「実は始めてで様子が善くわからんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ。
「ぢや熊本はもう……」
「今度卒業したのです」
「はあ、そりや」と云つたが御目出たいとも結構だとも付けなかつた。たゞ「すると是から大学へ這入るのですね」と如何〔いか〕にも平凡であるかの如くに聞いた。
 三四郎は〔いささ〕か物足りなかつた。其代り、
「えゝ」と云ふ二字で挨拶を片付かたづけた。
「科は?」と又聞かれる。
「一部です」
「法科ですか」
「いゝえ文科です」
「はあ、そりや」と又云つた。三四郎は〔この〕はあそりやを聞くたびに妙になる。向ふが大いにえらいか、大いに人を踏み倒してゐるか、さうでなければ大学に全く縁故も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方どつちだか見当が付かないので此男に対する態度たいども極めて不明瞭であつた。

一の八


 浜松で二人ふたりとも申し合せた様に弁当をつた。食つて仕舞つても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往つたり来たりしてゐる。其うちの一組ひとくみは夫婦と見えて、あついのに手を組み合せてゐる。女は上下うへしたとも真白な着物で、大変美くしい。三四郎は生れてから今日こんにちに至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人ふたりは熊本の高等学校の教師で、其二人ふたりのうちの一人ひとりは運わる脊虫せむしであつた。女では宣教師を一人ひとり知つてゐる。随分とんがつた顔で、きす又は※(「魚+師のつくり」、第4水準2-93-37)かますに類してゐた。だから、かう云ふ派出な奇麗な西洋人はめづらしいばかりではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚みとれてゐた。是では威張るのも尤もだと思つた。自分が西洋へ行つて、こんな人のなかに這入つたら定めし肩身かたみの狭い事だらうと迄考へた。窓の前を通る時二人ふたりはなしを熱心に聞いて見たが〔ちっ〕とも分らない。熊本の教師とは丸で発音が違ふ様だ。
 所へ例の男がくびを後ろから出して、
「まださうもないですかね」と言ひながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸ちよいと見て、
「あゝうつくしい」と小声に云つて、すぐに生欠伸なまあくびをした。三四郎は自分が如何にも田舎ものらしいのに気が着いて、早速首を引き込めて、着坐した。男もつゞいて席に返つた。さうして、
「どうも西洋人はうつくしいですね」と云つた。
 三四郎は別段の答もないのでたゞはあと受けて笑つてゐた。すると髭の男は、
「御互は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争につて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物たてものを見ても、庭園を見ても、いづれもかほ相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山ふじさんを見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然てんねん自然しぜんむかしからあつたものなんだから仕方がない。我々われ/\こしらへたものぢやない」と云つて又にや/\笑つてゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひもらなかつた。どうも日本人ぢやない様な気がする。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
ほろびるね」と云つた。熊本でこんな事をくちせば、すぐぐられる。わるくすると国賊取扱こくぞくどりあつかひにされる。三四郎はあたまなか何処どこすみにも〔こ〕う云ふ思想を入れる余裕はない様な空気のうちで生長した。だから、ことによると自分の年齢としわかいのに乗じて、ひとを愚弄するのではなからうかとも考へた。男は例の如くにや/\笑つてゐる。其癖言葉つきはどこ迄も落付いてゐる。どうも見当が付かないから、相手になるのをめて黙つて仕舞つた。すると男が、かう云つた。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸ちよつとつたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。
「日本よりあたまなかの方がひろいでせう」と云つた。「とらはれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負〔ひいき〕の引き倒しになる許りだ」
 此言葉をいた時、三四郎は真実しんじつに熊本を出た様な心持ちがした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であつたと悟つた。
 其晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時迄名前をかさなかつた。三四郎は東京へ着きさへすれば、此位の男は到る所に居るものと信じて、別に姓名を尋ね様ともしなかつた。

二の一


 三四郎が東京で驚ろいたものは沢山ある。第一電車のちん/\鳴るので驚ろいた。それから其ちん/\鳴るあひだに、非常に多くの人間が乗つたりりたりするので驚ろいた。次に丸のうちで驚ろいた。尤も驚ろいたのは、何処どこ迄行つても東京が無くならないと云ふ事であつた。しかも何処どこをどうるいても、材木が放りしてある、石が積んである、新らしいいへが往来から二三間引っ込んでゐる、ふるくらが半分くづされて心細く前の方に残つてゐる。凡ての物が破壊されつゝある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動きかたである。
 三四郎は全く驚ろいた。要するに普通の田舎者いなかものが始めてみやこ真中まんなかに立つて驚ろくと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚ろいて仕舞つた。今迄の学問は此驚ろきを預防〔よぼう〕する上に於て、売薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚ろきと共に四割がた減却げんきやくした。不愉快でたまらない。
 此劇烈な活動そのものがりも直さず現実世界だとすると、自分が今日迄の生活は現実世界に毫も接触してゐない事になる。洞※[#濁点付き小書き平仮名か、293-12]峠で昼寐ひるねをしたと同然である。それでは今日限り昼寐ひるねをやめて、活動の割前が払へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起る活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、学生としての生活は以前と変る訳はない。世界はかやうに動揺する。自分は此動揺を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない。さうして現実の世界は、かやうに動揺して、自分を置きりにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。
 三四郎は東京の真中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども学生々活の裏面りめんに横はる思想界の活動には毫も気が付かなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。
 三四郎がうごく東京の真中まんなかに閉ぢ込められて、一人ひとり〔ふさ〕ぎ込んでゐるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取うけとつた最初のものである。見ると色々書いてある。まづ今年ことしは豊作で目出度〔めでたい〕と云ふ所から始まつて、身体からだを大事にしなくつては不可いけないと云ふ注意があつて、東京のものはみんな利口で人がわるいから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届く様にするから安心しろとあつて、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかにてゐるさうだから、尋ねて行つて、万事よろしく頼むがいゝで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云ふ様な所に野々宮宗八どのとかいてあつた。此欄外には其外二三件ある。さく青馬あをが急病で死んだんで、作は大弱りでゐる。三輪田の御光さんが鮎をくれたけれども東京へ送ると途中で腐つて仕舞ふから、家内うちべて仕舞つた。等である。
 三四郎は此手紙を見て、何だかふるぼけたむかしから届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐるひまはないと迄考へた。それにも〔かか〕はらず繰り返して二返読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触してゐるならば、今の所母より外にないのだらう。其母はふるい人でふるい田舎にる。其外には汽車のなかで乗り合はした女がゐる。あれは現実世界の稲妻いなづまである。接触したと云ふには、あまりに短かくつて且あまりに鋭過するどすぎた。――三四郎は母のつけ通り野々宮宗八を尋ねる事にした。

二の二


 あくる日は平生よりも暑い日であつた。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せかた/″\行つて見様と云ふ気になつて、午後四時頃、高等学校の横を通つて弥生町の門から這入つた。往来はほこりが二寸もつもつてゐて、其上に下駄の歯や、くつの底や、草鞋わらじうらが奇麗に出来上つてる。車の輪と自転車の〔あと〕は幾筋だか分らない。むつとする程たまらない路だつたが、構内へ這入ると流石さすがに樹の多い丈に気分が晴※(二の字点、1-2-22)した。つきの戸をあたつて見たら錠がりてゐる。裏へ廻つても駄目であつた。仕舞に横へ出た。念のめと思つて〔お〕して見たら、うまい具合にいた。廊下の四っかどに小使が一人ひとり居眠りをしてゐた。来意を通じると、しばらくのあひだは、正気を回復する為めに、上野の森をながめてゐたが、突然「御出おいでかも知れません」と云つて奥へ這入つて行つた。頗る閑静である。やがて又出て来た。「御出おいででやす。御這入んなさい」と友達見た様に云ふ。小使にいて行くとかどがつて和土たゝきの廊下をした〔お〕りた。世界が急に暗くなる。炎天でくらんだ時の様であつたが少時しばらくするとひとみが漸く落ち付いて、四辺あたりが見える様になつた。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があつて、其戸がはなしてある。其所そこからかほが出た。ひたいひろの大きな仏教に縁のある相である。ちゞみ襯衣しやつの上へ脊広せびろを着てゐるが、脊広せびろ所々ところ/″\しみがある。せいは頗る高い。瘠せてゐる所が暑さに釣り合つてゐる。あたまと脊中を一直線に前の方へ延ばして、御辞儀をした。
此方こつちへ」と云つた儘、顔をへやの中へ入れて仕舞つた。三四郎は戸の前迄へやなか〔のぞ〕いた。すると野々宮君はもう椅子へ腰を掛けてゐる。もう一遍「此方こつちへ」と云つた。此方こつちへと云ふ所にだいがある。四角な棒を四本立てて、其上を板で張つたものである。三四郎は台の上へ腰を掛けて初対面の挨拶をする。それから何分宜敷〔よろしく〕願ひますと云つた。野々宮君はたゞはあ、はあと云つて聞いてゐる。其様子が幾分か汽車のなかで水蜜桃を食つた男に似てゐる。一通り口上を述べた三四郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。野々宮君もはあ、はあ云はなくなつた。
 部屋のなかを見廻すと真中まんなかに大きな長いかしテーブルが置いてある。其上には何だか込み入つた、ふと針線はりがねだらけの器械が乗つかつて、其わきに大きな硝子がらすはちに水が入れてある。其外にやすり小刀ないふ襟飾えりかざりが一つ落ちてゐる。最後さいごむかふすみを見ると、三尺位の花崗石〔みかげいし〕の台の上に、福神漬ふくじんづけくわん程な込み入つた器械が乗せてある。三四郎は此缶の横腹よこつぱらいてゐるふたつの穴にをつけた。穴が蟒蛇うはばみ眼玉めだまの様にひかつてゐる。野々宮君は笑ひながらひかるでせうと云つた。さうして、〔こ〕う云ふ説明をして呉れた。
昼間ひるまのうちに、あんな準備をして置いて、よるになつて、交通其他の活動がにぶくなる頃に、此静かな暗い穴倉で、望遠鏡のなかから、あの眼玉めだまの様なものを覗くのです。さうして光線の圧力を試験する。此年ことしの正月頃から取り掛つたが、装置が中々なか/\面倒なのでまだ思ふ様な結果が出てません。夏は比較的堪へ易いが、寒夜になると、大変〔しの〕ぎにくい。外套を着て襟巻をしてもつめたくて遣り切れない。……」
 三四郎は大いに驚ろいた。驚ろくと共に光線にどんな圧力があつて、其圧力がどんな役に立つんだか、全く要領を得るに苦しんだ。

二の三


 其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡のそばへ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだふたが取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡のさきかぶせてあるものをけて呉れた。
 見ると、ただ輪廓のぼんやりしたあかるいなかに、物差ものさし度盛どもりがある。したに2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながらむかふまはつて何かしてゐる様であつた。
 やがて度盛どもりあかるいなかで動きした。2が消えた。あとから3がる。其あとから4がる。5がる。とう/\10迄出た。すると度盛どもりがまたぎやくに動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来てとまつた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡からはなして仕舞つた。度盛どもりの意味を聞く気にもならない。
 丁寧に礼を述べて穴倉をがつて、人の通る所へ出て見ると世のなかはまだかん/\してゐる。あついけれども深い呼息いきをした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上さかうへの両側にある工科の建築の硝子窓がらすまどが燃える様に輝やいてゐる。そらは深くんで、澄んだなかに、西にしはてから焼ける火のほのほが、薄赤く吹き返して来て、三四郎のあたまうへほてつてゐる様に思はれた。横にり付ける日を半分はんぶん脊中せなかに受けて、三四郎は左りの森のなかへ這入つた。其森も同じ夕日ゆふひを半分脊中せなかに受けて〔い〕る。黒ずんだ蒼い葉と葉のあひだは染めた様に赤い。ふとい欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池のそばへ来てしやがんだ。
 非常に静かである。電車のおともしない。赤門あかもんの前を通るはづの電車は、大学の抗議で小石川をまはる事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池のはたにしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへとほさないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。
 たま/\其なかに這入つて見ると、穴倉あなぐらしたで半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装なりをして、そとで逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるからえらい。然し望遠鏡のなかの度盛どもりがいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、おのづからあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。
 三四郎がじつとして池のおもてを見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底にうつつて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲うすぐもの様なさみしさが一面にひろがつてた。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人ひとりすはつて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山にのぼつたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。
 活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。

二の四


 不図げると、左手ひだりての岡のうへに女が二人ふたり立つてゐる。女のすぐしたが池で、池の向ふ側がたかがけ木立こだちで、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横にひかりとほしてくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐるひくかげから見ると岡の上は大変あかるい。女の一人ひとりはまぼしいと見えて、団扇をひたひの所にかざしてゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかつた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事もわかつた。もう一人ひとり真白まつしろである。是は団扇も何も持つて居ない。只ひたひに少し皺をせて、対岸むかふぎしから生ひかぶさりさうに、たかく池のおもてに枝をのばした古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩ひとあし土堤どてふちから退がつてゐる。三四郎が見ると、二人ふたり姿すがた筋違すぢかひに見える。
 此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者いなかものだから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、くちにも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。
 三四郎は又見惚みとれてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動きかたではなかつた。自分のあし何時いつにか動いたといふ風であつた。見ると団扇をつた女も何時いつにか又動いてゐる。二人ふたりは申し合せた様に用のないあるかたをして、さかりてる。三四郎は矢っ張り見てゐた。
 さかした石橋いしばしがある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際みづぎはつたつて此方こつちへ来る。二人ふたりは石橋を渡つた。
 団扇はもうかざして居ない。左りの手にしろい小さな花を持つて、それをぎながらる。ぎながら、鼻のしたてがつた花を見ながら、あるくので、は伏せてゐる。それで三四郎から一間許けんばかりの所へ来てひよいと留つた。
「是はなんでせう」と云つて、仰向あほむいた。あたまうへには大きなしいの木が、日のらない程あつい葉をしげらして、丸いかたちに、水際みづぎは迄張り出してゐた。
これしい」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。
「さう。つてゐないの」と云ひながら、仰向いたかほもともどす、其拍子に三四郎を一目ひとめ見た。三四郎は慥かに女の黒眼くろめの動く刹那を意識した。其時色彩の感じは〔ことごと〕く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と云はれた時の感じと何所どこか似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。
 二人ふたりの女は三四郎の前を通り過ぎる。わかほうが今迄いで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人ふたり後姿うしろすがたじつと見詰めて居た。看護婦はさきへ行く。若い方があとから行く。はなやかないろなかに、白いすゝきを染め抜いた帯が見える。あたまにも真白な薔薇ばらを一つしてゐる。其薔薇ばらしい木陰こかげしたの、くろかみなか際立きはだつてひかつてゐた。
 三四郎は茫然ぼんやりしてゐた。やがて、ちいさな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途ふたみちに矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舎出いなかでの青年には、凡てわからなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。
 三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうしていで見た。けれども別段のにほひもなかつた。三四郎は此花を池のなかげ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。

二の五


 三四郎は花からはなした。見ると野々宮君が石橋のむかふに長く立つてゐる。
「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ/\あるいて行つた。石橋いしばしうへて、
「えゝ」と云つた。何となくが抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。
「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又
「えゝ」と云つた。
 野々宮君は少時しばらく池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋ぽつけつとへ入れて何かさがし出した。隠袋ぽつけつとから半分封筒がみ出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物をさがてなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりとげた。さうして、かう云つた。
今日けふは少し装置が狂つたので晩の実験は〔や〕めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」
 三四郎は快よく応じた。二人ふたりさかがつて、岡の上へた。野々宮君はさつき女の立つてゐたあたり一寸ちよつととまつて、向ふのあをい木立の間から見える赤い建物と、がけの高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、
一寸ちよつとい景色でせう。あの建築ビルヂング角度アングルの所丈が少し出てゐる。あひだから。ね。いでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々なか/\うまく出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方このほううまいですね」
 三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方どつちいか丸でわからないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。
「それから、此木と水の感じエフフエクトがね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中まんなかにあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可いけませんね。近頃は東京があまり八釜間敷〔やかましく〕なり過ぎて困る。是が御殿」とあるきしながら、左手の建物をして見せる。「教授会をる所です。うむなに、僕なんか出ないでいのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人のあたまなかは劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。
 青い空の静まり返つた、上皮うはかはに、白い薄雲うすぐも刷毛先はけさきで掻き払つたあとの様に、筋違すぢかひに長く浮いてゐる。
「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつてしたから見ると、ちつとも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風〔ぐふう〕以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
 三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ
「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、
「此そらを写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。

二の六


 二人ふたりはベルツの銅像の前から枳殻寺からたちでらの横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。
「君電車はうるさくはないですか」と又聞かれた。三四郎はうるさいよりすさまじい位である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向うるさい様にも見えなかつた。
「僕は車掌に教はらないと、一人ひとり乗換のりかへが自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と云つて笑つた。
 学期の始まりぎはなので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。
「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつてい。時に君は幾何いくつですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、
「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日つきひち易いものでね。七年位ぢきですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎にはわからなかつた。
 四っ角近くへると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には人が黒山くろやまの様にたかつてゐる。さうして雑誌を読んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、
「みんな狡猾ずるいなあ」と云つて笑つてゐる。尤も当人も一寸ちよいと太陽をけて見た。
 四っ角へ出ると、左手ひだりて此方こちら側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある。其あひだを電車がぐるつとまがつて、非常な勢で通る。ベルがちん/\ちん/\云ふ。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向ふの小間物屋をして、
「あすこで一寸ちよいと買物をしますからね」と云つて、ちりん/\と鳴る間を馳け抜けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速みせへ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、気が付いて見ると、店先みせさき硝子張がらすばりたなに櫛だの花簪はなかんざしだのがならべてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、みせなかへ這入つて見ると、せみの羽根の様なリボンをぶらげて、
「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした。
 それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番うまうちださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理のあぢがする丈であつた。然しべる事はみんなべた。
 西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰る所を丁寧にもとの四っ角迄出て、左りへ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱瓦斯〔ガス〕したに、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物ばけものの様に坐つてゐたので、急にいやになつて已めた。それからうちへ帰るあひだ、大学の池のふちで逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた。――其色は薄くもちがした様な狐色であつた。さうして肌理きめが非常にこまかであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した。

三の一


 学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人ひとりも居ない。自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へつたら、流石に事務員丈は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅の下からたかそらを覗いたら、普通のそらよりもあきらかに見えた。熊笹のなか水際みずぎはりて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通ればい位に考へて、度々たび/\岡のうへを眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲どんが鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた。
 翌日は正八時に学校へ行つた。正門を這入ると、取突とつつきの大通りの左右にゑてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向ふの方で尽きるあたりから、だら/\坂にがつて、正門のきはに立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大学は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝やいてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。
 銀杏の並木が此方こちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少し退がつて博物の教室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角にとがつた屋根が突き出してゐる。其三角のふちに当る赤錬瓦とくろい屋根の接目つぎめの所がほそい石の直線で出来てゐる。さうして其石の色が少し蒼味あをみを帯びて、すぐしたにくる派出な赤錬瓦に一種の趣を添へてゐる。さうして此長い窓と、高い三角が横にいくつもつゞいてゐる。三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝けさは、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並んでゐないで、少し奥へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた。
 法文科の右のはづれから半町程前へ突き出してゐる図書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁にけて、大きな棕櫚しゆろの木を五六本植ゑた所が大いにい。左り手のずつと奥にある工科大学は封建時代の西洋の御城から割り出した様に見えた。真っ四角に出来上つてゐる。窓も四角である。只四隅と入口が丸い。是はやぐら片取かたどつたんだらう。御城丈に堅牢しつかりしてゐる。法文科見た様に倒れさうでない。何だかせいひくい相撲取に似て居る。
 三四郎は見渡す限り見渡して、此外にもまだに入らない建物が沢山ある事を勘定に入れて、何所どことなく雄大な感じをおこした。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふかまへがあればこそ研究も出来る。えらいものだ」――三四郎は大学者になつた様な心持がした。
 けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生はなかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た。さうして念の為めに池の周囲まはりを二遍許り廻つて下宿へ帰つた。

三の二


 夫から約十日許たつてから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて教室へ這入はいつて、ほかの学生と一所に先生のるのをつてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた。神主かんぬしが装束を着けて、是から祭典でも行はうとする間際まぎはには、かう云ふ気分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘ベルが鳴つて十五分立つても出て来ないので〔ますます〕予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいゝ御爺さんの西洋人が戸をけて這入つて来て、流暢な英語で講義を始めた。三四郎は其時 answerアンサー と云ふ字はアングロ、サクソン語の and-swaruアンド、スワル から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトのかよつた小学校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳にしるして置いた。其次には文学論の講義に出た。此先生は教室に這入つて、一寸ちよいと黒板ボールドを眺めてゐたが、黒板ボールドの上に書いてある、Geschehenゲシエーヘン と云ふ字と Nachbildナハビルド と云ふ字を見て、はあ独乙語かと云つて、わらひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許りならべた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。其教室には約七八十人程の聴講者が居た。従つて先生も演説口調であつた。砲声一発浦賀の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には独乙の哲学者の名が沢山出て来て甚だしにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事につてある。余程ひままかせて仕上しあげたものと見えて、堅いかしの板を奇麗にり込んだ手際は素人しらうととは思はれない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画はうまく出来てゐるが、そば久方ひさかたの雲井の空の子規ほとゝぎすと書いてあるのは、何の事だか判じかねた。
 講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下みおろしてゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広い道をけた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此所こゝむかしはかう奇麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、学生の時分馬に乗つて、此所こゝを乗り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地をわるくわざと木のしたを通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の歯があぶみはさまる。先生は大変困つてゐると、正門前の喜多床と云ふ髪結床の職人が大勢て、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金して構内に厩をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とをつて置いた。所が先生が大変な酒呑で、とう/\三頭のうちの一番い白い馬を売つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でもからう。然し呑気な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ画をかいた男が来て、
「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には〔ちっ〕とも判断が出来ないのである。然し此時から此男と口を利く様になつた。

三の三


 其日は何となく気が〔うっ〕して、面白くなかつたので、池の周囲まはりまはる事は見合せてうちへ帰つた。晩食後筆記を繰り返してんで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――学校は始まつた。是から毎日出る。学校は大変広いい場所で、建物たてものも大変美くしい。真中まんなかに池がある。池の周囲まはりを散歩するのが楽しみだ。電車には近頃漸く乗り馴れた。何か買つて上げたいが、何がいか分からないから、買つて上げない。しければ其方そつちから云つてて呉れ。今年ことしこめいまが出るから、売らずに置く方がとくだらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想あいそくしない方がからう。東京へ来て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ様な事をごた/\並べたものであつた。
 手紙を書いて、英語の本を六七ページ読んだらいやになつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。とこを取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。
 翌日あくるひも例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年ことしの卒業生が何所其所どこそこ幾何いくらで売れたと云ふ話を耳にした。だれだれがまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。〔むし〕ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生をつらまへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜ゆふべ始めて、寄席よせへ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席よせへ行つて昇之助が見度なつた。
 昼飯ひるめしひに下宿へ帰らうと思つたら、昨日きのふポンチ画をかいた男が来て、おい/\と云ひながら、本郷の通りの淀見よどみ軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所はみせ果物くだものを売つてゐる。新らしい普請ふしんであつた。ポンチをいた男は此建築の表をゆびさして、是がヌーボー式だと教へた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものかと始めて悟つた。帰りみちに青木堂も教はつた。矢張り大学生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人ふたりで池の周囲まはりを散歩した。其時ポンチ画の男は、んだ小泉八雲やくも先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此周囲まはりをぐる/\まはつてあるいたんだと、〔あたか〕も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故なぜ控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、
「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いてもわかるぢやないか。話せるものは一人ひとりもゐやしない」と手痛てひどい事を平気で云つたには三四郎も驚ろいた。此男は佐々木与次郎と云つて、専門学校を卒業して、ことし又撰科へ這入つたのださうだ。東片町の五番地の広田と云ふうちに居るから、遊びにいと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生のうちだと答へた。

三の四


 それから当分のあひだ三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月とつゞいたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間程になる。如何〔いか〕な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は断へず一種の圧迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなつた。
 或日あるひ佐々木与次郎に逢つて其話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづいめしを一日に十ぺん食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたらからう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいゝ」と与次郎が云つた。三四郎は何か寓意でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮ばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。其時与次郎はげら/\笑つて、
「電車に乗つて、東京を十五六ぺん乗りまはしてゐるうちにはおのづから物足りる様になるさ」と云ふ。
何故なぜ
何故なぜつて、さう、きてるあたまを、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。そとへ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で〔かつ〕尤も軽便だ」
 其日の夕方、与次郎は三四郎をらつして、四丁目から電車に乗つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこでりて、
「どうだ」と聞いた。
 次に大通りから細い横町へまがつて、ひらと云ふ看板のある料理屋へがつて、晩食ばんめしを食つて酒を呑んだ。其所そこの下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿〔てんめん〕してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又
「どうだ」と聞いた。
 次に本場ほんば寄席よせれて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店きはらだなと云ふ寄席よせがつた。此所こゝで小さんといふ話しを聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、又
「どうだ」と聞いた。
 三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し満更物足りない心持もしなかつた。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
 小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時いつでも聞けると思ふからやすつぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――円遊もうまい。然し小さんとは趣がちがつてゐる。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になつた円遊だから面白いので、小さんのる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌々地に躍動する許りだ。そこがえらい。
 与次郎はこんな事を云つて、又
「どうだ」と聞いた。実を云ふと三四郎には小さんのあぢはひがく分らなかつた。其上円遊なるものは未だ〔かつ〕て聞いた事がない。従つて与次郎の説の当否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。
 高等学校の前でわかれる時、三四郎は、
難有〔ありがと〕う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、
「是からさきは図書館でなくつちや物足りない」と云つて片町かたまちの方へがつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた。

三の五


 其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆んど、半分にへらして仕舞つた。さうして図書館に這入つた。広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある建物であつた。書庫は入口いりぐちしかえない。此方こつちの正面から覗くとおくには、書物がいくらでも備へ付けてある様に思はれる。立つて見てゐると、時々書庫のなかから、厚い本を二三冊抱へて、出口でぐちへ来て左へ折れて行くものがある。職員閲覧室へ行く人である。なかには必要の本を書棚しよだなから取りおろして、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎はうらやましくなつた。奥迄行つて二階へのぼつて、それから三階へのぼつて、本郷より高い所で、生きたものを近付ちかづけずに、紙のにほひぎながら、――読んで見たい。けれども何を読むかに至つては、別に判然した考がない。読んで見なければ分らないが、何かあの奥に沢山ありさうに思ふ。
 三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入はこいりのふだ目録を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくらめくつてもあとからあとから新らしい本の名が出てる。仕舞に肩が痛くなつた。顔をげて、中休なかやすみに、館内を見廻すと、流石さすがに図書館丈あつて静かなものである。しかも人が沢山ゐる。さうして向ふのはづれにゐる人のあたまが黒く見える。眼口めくちは判然しない。高い窓のそとから所々ところ/″\に樹が見える。そらも少し見える。遠くからまちおとがする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考へた。それで其日は其儘帰つた。
 次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借りそくなつたので、すぐ返した。あとから借りた本は六※[#濁点付き小書き平仮名つ、319-10]かし過ぎて読めなかつたから又返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊〔ずつ〕は必ず借りた。尤もたまには少し読んだのもある。三四郎が驚ろいたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中此所彼所こゝかしこに見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。ける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底遣り切れないと思つた。所へ窓のそとを楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とう/\青木堂へ這入つた。
 這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車のなかで水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。茶を一口ひとくちんでは烟草を一すひすつて、大変悠然ゆつくり構へてゐる。今日けふは白地の浴衣ゆかためて、背広せびろを着てゐる。然し決して立派りつぱなものぢやない。光線の圧力の野々宮君より白襯衣しろしやつ丈が増しな位なものである。三四郎は様子を見てゐるうちに慥かに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車のなかで此男の話した事が何だか急に意義のある様に思はれ出した所なので、三四郎はそばへ行つて挨拶を仕様かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、烟草をふかし、烟草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し様がない。
 三四郎はじつと其横がほを眺めてゐたが、突然手杯こつぷにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして図書館に帰つた。

三の六


 其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程読書三昧に入つた後、漸く気が付いて、そろ/\帰る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだけて見なかつた、最後の一冊を何気なにげなく引つぺがして見ると、本の見返しのいた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。
「ヘーゲルの伯林ベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。かれの講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、其説く所、云ふ所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義は〔ここ〕に至つて始めて聞くべし。徒らに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麺麭ぱんの為めに、恨を呑み涙を呑んで此書を読む。岑々しんしんたるかしらを抑へて未来永劫に試験制度を呪咀する事を記憶せよ」
 とある。署名は無論ない。三四郎は覚えず微笑した。けれども何所どこか啓発された様な気がした。哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」余程ヘーゲルの好きな男と見える。
「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林ベルリンに集まれる学生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝ふると聞いて、向上求道ぐどうの念に切なるがため、壇下だんかに、わが不穏ふおん底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定けつじようし得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぽうに講義をいて、のつぺらぽうに卒業し去る公等〔こうら〕日本の大学生と同じ事と思ふは、天下の己惚〔うぬぼれ〕なり。公はタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至る迄のつぺらぽうなるかな。死に至る迄のつぺらぽうなるかな」
 と、のつぺらぽうを二遍繰返くりかへしてゐる。三四郎は黙然として考へ込んでゐた。すると、うしろから一寸ちよいと肩を叩いたものがある。例の与次郎であつた。与次郎を図書館で見掛けるのはめづらしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である。
「おい、野々宮宗八さんが、君をさがしてゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口いりぐちの新聞を閲覧する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄関迄出て見たが矢っ張り居ない。石階いしだんりて、首をばして其辺そのへんを見廻したがかげかたちも見えない。已を得ず引き返した。元の席へ来て見ると、与次郎が、例のヘーゲル論をして、小さな声で、
「大分ふるつてる。昔しの卒業生に違ない。むかしやつは乱暴だが、どこか面白い所がある。実際此通りだ」とにや/\してゐる。大分気に入つたらしい。三四郎は
「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。
先刻さつき入口いりくちに居たがな」
「何か用がある様だつたか」
「ある様でもあつた」
 二人ふたりは一所に図書館を出た。其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、もと弟子でしでよくる。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。
 三四郎は又、野々宮君の先生で、むかし正門内で馬に苦しめられた人のはなしを思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事をはなすと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた。

三の七


 其翌日よくじつは丁度日曜なので、学校では野々宮君にわけに行かない。然し昨日きのふ自分を探してゐた事が気掛きがゝりになる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方こつちから行つて用事を聞いて様と云ふ気になつた。
 思ひ立つたのはあさであつたが、新聞を読んで愚図々々してゐるうちにひるになる。午飯ひるべたから、出掛様とすると、久し振に熊本の友人がる。漸くそれを帰したのは彼是かれこれ四時過ぎである。ちとおそくなつたが、予定の通り出た。
 野々宮のいへは頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、さがすに不便はない。実を云ふと三四郎はかの平野家行ひらのやゆき以来飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗つた所が、乗り越して九段迄来て、序でに飯田橋迄持つて行かれて、其所そこで漸く外濠線へ乗り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸がしを数寄屋橋の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以来電車は兎角〔とかく〕物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。
 大久保の停車場を下りて、なか百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺許りの細いみちになる。それを爪先上つまさきあがりにだら/\とのぼると、まばらな孟宗やぶがある。其やぶの手前とさきに一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮のいへは其手前の分であつた。ちいさなもんみちむきに丸で関係のない様な位置に筋違すぢかひに立つてゐた。這入ると、うちが又見当ちがひの所にあつた。門も入口いりくちも全くあとからけたものらしい。
 台所のわきに立派な生垣いけがきがあつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人のせいより高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許である。野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた。三四郎の這入つて来たのを見て、
此方こつちへ」と云つた。丸で理科大学の穴倉のなかと同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)〔ちゅうちょ〕してゐた。すると又
此方こつちへ」と催促するので、思ひ切つて庭からあがる事にした。座敷は即ち書斎で、広さは八畳で、割合に西洋の書物が沢山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は、閑静な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締りのない当座の話をやつたあと、
昨日きのふわたくしさがして御出おいでだつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒さうな顔をして、
なに実は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。
「それでわざ/\れたんですか」
「なに、さう云ふわけでもありません」
「実は御国の御母おつかさんがね、せがれが色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つてくださつたから、一寸ちよつとあなたにも御礼を云はうと思つて……」
「はあ、さうですか。何か送つてましたか」
「えゝ赤いさかな粕漬かすづけなんですがね」
「ぢやひめいちでせう」
 三四郎はつまらんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいちに就いて色々な事を質問した。三四郎はとくふ時の心得を説明した。粕共かすごと焼いて、いざ皿へ写すと云ふ時に、かすを取らないとあぢが抜けると云つて教へてやつた。
 二人ふたりひめいちに就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報がた。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、くちのうちで、「困つたな」と云つた。

三の八


 三四郎はすましてゐる訳にも行かず、と云つて無暗に立入たちいつた事を聞く気にもならなかつたので、たゞ、
「何か出来ましたか」と棒の様に聞いた。すると野々宮君は、
「なに大した事でもないのです」と云つて、手に持つた電報を、三四郎に見せて呉れた。すぐてくれとある。
何所どこかへ御出おいでになるのですか」
「えゝ、妹が此間から病気をして、大学の病院に這入つてゐるんですが、其奴そいつがすぐ来てくれと云ふんです」と一向騒ぐ気色もない。三四郎の方は却つて驚ろいた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院を一所にまとめて、それに池の周囲まはりつた女を加へて、それをいちどきにまはして、驚ろいてゐる。
「ぢや余程御わるいんですな」
「なに左様さうぢやないんでせう。実は母が看病に行つてるんですが、――もし病気のためなら、電車へつてけて来た方が早いわけですからね。――なに妹の悪戯いたづらでせう。馬鹿だから、よくこんな真似をします。此所こゝしてからまだ一ぺんかないものだから、今日けふの日曜にはると思つて待つてゞもゐたのでせう、それで」と云つてくびを横にげて考へた。
「然し御出おいでになつた方がいでせう。もしわるいと不可いけません」
左様さやう。四五日行かないうちにさう急に変る訳もなささうですが、まあ行つて見るか」
御出おいでになるにくはないでせう」
 野々宮は行く事にした。行くとめたに就ては、三四郎に依頼たのみがあると云ひ出した。万一病気の為めの電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女一人ひとりになる。下女が非常に臆病で、近所が殊の外物騒である。来合せたのが丁度幸だから、明日あすの課業に差支がなければとまつて呉れまいか、尤もたゞの電報ならばすぐ帰つてくる。前からわかつてゐれば、例の佐々木でもたのむ筈だつたが、今からではとても間に合はない。たつた一晩ひとばんの事ではあるし、病院へとまるか、とまらないか、まだわからないさきから、関係もない人に、迷惑を掛けるのは我儘過ぎて、強ひてとは云ひかねるが、――無論野々宮はかう流暢には頼まなかつたが、相手の三四郎が、さう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知して仕舞つた。
 下女が御飯はと云ふのを、「はない」と云つた儘、三四郎に「失敬だが、君一人ひとりで、あとつてください」と夕食ゆふめし迄置き去りにして、出て行つた。行つたと思つたらくらはぎの間から大きな声を出して、
「僕の書斎にある本は何でも読んでいです。別に面白いものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」
 と云つた儘消えてなくなつた。縁側迄見送つて三四郎が礼を述べた時は、三坪程な孟宗藪の竹が、まばらな丈に一本宛まだ見えた。
 もなく三四郎は八畳敷の書斎の真中まんなかで小さい膳を控へて、晩食ばんめしを食つた。膳の上を見ると、主人の言葉にたがはず、かのひめいちいてゐる。久し振で故郷ふるさとにほひいだ様で嬉しかつたが、めしは其割にうまくなかつた。御給仕に出た下女の顔を見ると、是も主人の言つた通り、臆病に出来た眼鼻であつた。

三の九


 めしが済むと下女は台所へがる。三四郎は一人ひとりになる。一人ひとりになつて落ち付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になつてた。危篤な様な気がする。野々宮君の馳けけ方がおそい様な気がする。さうして妹が此間見た女の様な気がして堪らない。三四郎はもう一遍いつぺん、女の顔付かほつき眼付めつきと、ふく装とを、あの時あの儘に、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、其そばに野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、あにでは物足らないので、何時いつにか、自分が代理になつて、色々親切に介抱してゐた。所へ汽車が轟と鳴つて孟宗藪のすぐしたを通つた。根太ねだの具合か、土質どしつ所為せゐか座敷が少しふるへる様である。
 三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いかさまふる建物たてものと思はれて、はしらさびがある。其代り唐紙からかみ立附たてつけが悪い。天井は真黒だ。洋燈許らんぷばかりが当世にひかつてゐる。野々宮君の様な新式な学者が、物数奇〔ものずき〕にこんなうちりて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物数奇ならば当人の随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみづからを放逐したとすると、甚だ気の毒である。聞く所によると、あれ丈の学者で、月にたつた五十五円しか、大学から貰つてゐないさうだ。だから已を得ず私立学校へ教へに行くのだらう。それで妹に入院されてはたまるまい。大久保へ越したのも、或はそんな経済上の都合かも知れない。……
 よひの口ではあるが、場所が場所丈にしんとしてゐる。庭のさきで虫のがする。独りですはつてゐると、さみしい秋のはじめである。其時遠い所でだれか、
「あゝあゝ、もうすこしの間だ」
 と云ふ声がした。方角はいへ裏手うらての様にも思へるが、遠いのでしつかりとはわからなかつた。また方角を聞きけるひまもないうちにんで仕舞つた。けれども三四郎の耳にはあきらかに、此一句が、凡てに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実の独白と聞えた。三四郎は気味がわるくなつた。所へ又汽車が遠くからひゞいて来た。其おとが次第に近付いて孟宗藪のしたを通るときには、前の列車よりばいたかおとを立てゝぎ去つた。座敷の微震がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火の如く、先刻さつきの嘆声と今の列車の響とを、一種の因果で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。
 三四郎は此時、じつと座に着いてゐる事の極めて困難なのを発見した。脊筋から足の裏迄が疑惧ぎくの刺激でむづ/\する。立つて便所に行つた。窓からそとを覗くと、一面の星月夜で、土手したの汽車道は死んだ様に静かである。それでも竹格子のあひだから鼻を出す位にして、くらい所を眺めてゐた。
 すると停車場の方から提燈をけた男が鉄軌レールの上をつたつて此方こつちへ来る。はなし声ではんじると三四人らしい。提燈の影は踏切りから土手下どてしたへ隠れて、孟宗藪のしたを通る時は、話し声丈になつた。けれども、其言葉は手に取る様に聞えた。
「もう少しさきだ」
 足音あしおとは向ふへ遠退〔とおの〕いて行く。三四郎は庭先にはさきへ廻つて下駄を突掛つゝかけた儘孟宗藪の所から、一間余の土手を這ひ下りて、提燈のあとを追掛おつかけて行つた。

三の十


 五六間行くか行かないうちに、又一人ひとり土手から飛びりたものがある。――
「轢死ぢやないですか」
 三四郎は何か答へやうとしたが一寸ちよつと声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐるいへ主人あるじだらうと、あとけながら考へた。半町程くると提燈がとまつてゐる。ひととまつてゐる。人はかざした儘だまつてゐる。三四郎は無言でしたを見た。したには死骸が半分ある。汽車は右の肩からちゝしたこしの上迄美事みごとに引き千切ちぎつて、斜掛はすかけの胴を置き去りにして行つたのである。かほ無創むきずである。若い女だ。
 三四郎は其時の心持をいまだに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、かゝとめぐらしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤どてを這ひあがつて、座敷ざしきもどつたら、動悸が打ち出した。みづもらはうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、おくうちで、何だか騒ぎした。三四郎は主人が帰つたんだなとさとつた。やがて土手のしたががや/\する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。
 三四郎のの前には、あり/\と先刻さつきの女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、ぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうないのちが、知らぬに、ゆるんで、何時いつでも暗闇くらやみき出して行きさうに思はれる。三四郎は慾もとく〔い〕らない程こわかつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前そのまへ迄は慥かに生きてゐたに違ない。
 三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、あぶない/\、気を付けないとあぶない、と云つた事を思ひ出した。あぶない/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまりあぶない/\と云ひ得る程に、自分はあぶなくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世のなかにゐて、世の中を傍観してゐる人は此所こゝに面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、つと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔しにがほを見るとこんな気も起る。
 三四郎はへやすみにある洋机テーブルと、洋机テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱のなかに行儀よくならべてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人あるじは、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究するために、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれどもあにつくつた病気ではない。みづからかゝつた病気である。〔など〕と夫から夫へとあたまが移つて行くうちに、十一時になつた。中野ゆきの電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報がた。いもと無事ぶじ明日あすあさかへるとあつた。
 安心してとこに這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つてうちへ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜こんや轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池のはたで逢つた女である。……
 三四郎は明日あくるひ例になく早く起きた。

三の十一


 寐慣ねつけない所に寐たとこのあとをながめて、烟草たばこを一本んだが、昨夜ゆふべの事は、凡て夢の様である。縁側へて、低いひさしそとにあるそらを仰ぐと、今日けふい天気だ。世界が今ほがらかに成つた許りの色をしてゐる。めしまして茶をんで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。
昨夜ゆふべ、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。
「それはめづらしい。滅多に逢へない事だ。僕もうちに居ればかつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」
「もう駄目でせう」と一口ひとくち答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全くよるひるの差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年がわかいからだらう。
 三四郎ははなしを転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈まぎれに兄を釣り寄せたのである。今日けふは日曜だのにて呉れないのはひどいと云つておこつてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此いそがしいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んどわからなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩ひとばん二晩ふたばんつぶしたつて惜しくはない筈である。さう云ふひとつてごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をしてくら月日つきひは寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。
 野々宮君は昨夜ゆふべよく寐られなかつたものだから茫然ぼんやりして不可いけないと云ひ出した。今日けふは幸ひひるから早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分おそく迄きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞にて呉れて、みんなではなしをしてゐるうちに、電車の時間におくれて、ついとまる事にした。広田のうちへとまるべきのを、又妹が駄々をねて、是非病院にとまれと云つて聞かないから、已を得ずせまい所へ寐たら、何だか苦しくつてつかれなかつた。どうも妹は愚物〔ぐぶつ〕だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑おかしくなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひにくいので已めにした。
 其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍みゝにしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生にちがひないとめた。考へると、少し無理の様でもある。
 帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、〔あわせ〕を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。

三の十二


 三四郎は新らしい四角な帽子をかぶつてゐる。此帽子をかぶつて病院に行けるのが一寸ちよつと得意である。冴々さえ/″\しい顔をして野々宮君のいへを出た。
 御茶のみづで電車をりて、すぐくるまに乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作しよさである。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘ベルが鳴り出した。いつもなら手帳のーと印気いんき壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴きそくなつても構はないと云ふ気で、真直ますぐに青山内科の玄関迄乗り付けた。
 あがぐちを奥へ、二つかどを右へれて、突当つきあたりを左へまがると東側ひがしがは部屋へやだと教つた通りあるいて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口にけてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所でたゞずんでゐた。田舎者いなかものだからのつくするなぞと云ふ気の利いた事はやらない。
「此なかにゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」
 三四郎はう思つて立つてゐた。戸をけて顔が見度〔みたく〕もあるし、見て失望するのがいやでもある。自分のあたまなかに往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。
 うしろから看護婦が草履のおとを立てゝ近付ちかづいて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程けた。さうしてなかにゐる女と顔を見合せた。(片手かたて握りハンドルつた儘)
 の大きな、鼻の細い、唇の薄い、はちひらいたと思ふ位に、ひたひが広くつてあごけた女であつた。造作ぞうさく夫丈それだけである。けれども三四郎は、かう云ふかほだちからる、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白あをじろひたひうしろに、自然のまゝれたい髪が、肩迄見える。それへ東窓ひがしまどれる朝日のひかりが、うしろから射すので、かみ日光さかいの所がすみれ色にえて、きたつきかさ脊負しよつてる。それでゐて、かほひたひも甚だくらい。くらくて蒼白あをしろい。其中そのなかに遠い心持のするがある。たかい雲がそらの奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞなだれる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。
 三四郎は此表情のうちにものうい憂鬱と、かくさゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は握りハンドルつた儘、――かほを戸のかげから半分部屋のなかに差し出した儘、此刹那の感に自己みづから放下し去つた。
「御這入りなさい」
 女は三四郎をち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、やすらかな音色ねいろがあつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々なれ/\しいのとは違ふ。はじめからふる相識しりあひなのである。同時に女はにくゆたかでないほゝを動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味あたゝかみが出来た。三四郎の足は自然しぜんと部屋のうちへ這入つた。其時青年のあたまうら[#ルビの「うら」はママ]には遠い故郷ふるさとにある母の影がひらめいた。

三の十三


 戸のうしろまはつて、始めて正面に向いた時、五十あまりの婦人ふじんが三四郎に挨拶をした。此婦人は三四郎の身体からだがまだとびらの影をないまへからせきつてつてゐたものと見える。
「小川さんですか」とむかふから尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈である。頼まれた風呂敷包をすと、受取つて、礼を述べて、
「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寝台ベツド向側むかふがはまはつた。
 寝台ベツドの上にいた蒲団を見ると真白まつしろである。うへへ掛けるものも真白まつしろである。それを半分はんぶはすぐつて、すその方があつく見える所を、ける様に、女は窓をにして腰を掛けた。足はゆかに届かない。手に編針あみばりを持つてゐる。毛糸けいとたまが寝台のしたころがつた。女の手から長い赤い糸がすぢを引いてゐる。三四郎は寝台のしたから毛糸のたまを取り出してやらうかと思つた。けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるのでひかへた。
 御母おつかさんが向側から、しきりに昨夜ゆふべの礼を述べる。御いそがしい所を抔と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせあそんでゐますからと云ふ。二人ふたりが話をしてゐるあひだ、よし子はだまつてゐた。二人ふたりはなしが切れた時、突然、
昨夜ゆふべの轢死を御覧になつて」と聞いた。見ると部屋のすみに新聞がある。三四郎が、
「えゝ」と云ふ。
こわかつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。あにに似てくびの長い女である。三四郎はこわいともこわくないとも答へずに、女のくびまがり具合を眺めてゐた。半分は質問があまり単純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は気が付いたと見えて、すぐくび真直まつすぐにした。さうして蒼白いほゝの奥を少しあかくした。三四郎はもう帰るべき時間だと考へた。
 挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へて、向を見ると、長い廊下のはづれ四角しかくに切れて、ぱつとあかるく、おもてみどりうつあがぐちに、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速さそくの歩調にくるひが出来た。其時透明な空気の画布カン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)なかくらゑがかれた女のかげ一歩ひとあし前へうごいた。三四郎もさそはれた様に前へ動いた。二人ふたりは一筋道すぢみちの廊下の何所どこかでちがはねばならぬ運命を以て互ひに近付いてた。すると女がり返つた。あかるいおもての空気のなかには、初あきみどりが浮いてゐるばかりである。振り返つた女のに応じて、四角のなかに、あらはれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装をあたまのなかへ入れた。
 着物の色は何と云ふ名か分らない。大学の池の水へ、曇つた常磐木〔ときわぎ〕の影がうつる時の様である。それをあざやかなしまが、上から下へ貫ぬいてゐる。さうして其縞がつらぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、かさなつてふとくなつたり、割れて二筋ふたすぢになつたりする。不規則だけれども乱れない上から三分一の所を、広い帯で横に仕切つた。帯の感じには暖味あたゝかみがある。黄を含んでゐるためだらう。
 うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手がこしつた儘前へ出た。手帛はんけちを持つてゐる。其手帛はんけちゆびに余つた所が、さらりとひらいてゐる。きぬためだらう。――腰からしたは正しい姿勢にある。

三の十四


 女はやがて元の通りに向き直つた。せて二足許ふたあしばかり三四郎に近付いた時、突然くびを少しうしろに引いて、まともに男を見た。二重瞼ふたへまぶちきれ長の落付いた恰好である。目立めだつて黒い眉毛まゆげしたきてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此顔色かほいろとは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。
 今日けふは白いものを薄くつてゐる。けれども本来のかくす程に無趣味ではなかつた。こまやかなにくが、程よく色づいて、つお日光げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いてゐる。てら/\ひかる顔ではない。
 肉はほゝと云はずあごと云はずきちりとしまつてゐる。ほねの上に余つたものは沢山たんとない位である。それでゐて、顔全体がやわらかい。肉が柔らかいのではない、ほねそのものが柔らかい様に思はれる。奥行おくゆきの長い感じを起させる顔である。
 女はこしかゞめた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方しかたの巧みなのに驚ろいた。腰からうへが、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然はつきりとまつた。無論習つて覚えたものではない。
一寸ちよつと伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞなつのさかりにしいつてゐるかと人にきさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。
「はあ」と云つて立ちどまつた。
「十五号室はどのへんになりませう」
 十五号は三四郎が今出て来たへやである。
「野々宮さんのへやですか」
 今度は女の方が「はあ」と云ふ。
「野々宮さんの部屋はね、其かどまがつてあたつて、又左へがつて、二番目の右側みぎがはです」
其角そのかどを……」と云ひながら女は細いゆびを前へ出した。
「えゝ、つい其さきかどです」
「どうも難有〔ありがと〕う」
 女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿うしろすがたを見守つてゐる。女はかどた。がらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角このかどですかと云ふ様な相図を顔でした。三四郎は思はず首肯うなづいた。女の影は右へ切れて白い壁のなかへ隠れた。
 三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違へてへやの番号を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に気が付いた。女に十五号を聞かれた時、もう一ぺんよし子のへや後戻あともどりをして、案内すればよかつた。残念な事をした。
 三四郎は今更取つてかへす勇気はなかつた。已を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりととまつた。三四郎のあたまなかに、女のむすんでゐたリボンの色がうつつた。其リボンの色も質も、たしかに野々宮君が兼安で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。図書館の横をのたくる様に正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声を掛けた。
「おい何故なぜやすんだ。今日けふ以太利〔イタリー〕人がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、そばつて来て三四郎の肩を叩いた。
 二人ふたりは少し一所にあるいた。正門のそばた時、三四郎は、
「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑に限るんぢやないか」と聞いた。与次郎はアハヽヽと笑つて、
「○○教授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」と云つて取り合はなかつた。
 正門の所で三四郎は具合が悪いから今日けふは学校を休むと云ひ出した。与次郎は一所にいてそんをしたと云はぬ許りに教室の方へ帰つて行つた。

四の一


 三四郎のたましいがふわつき出した。講義を聞いてゐると、遠方にきこえる。わるくすると肝要な事を書き落す。甚しい時は他人ひとみゝを損料で借りてゐる様な気がする。三四郎は馬鹿々々しくつてたまらない。仕方なしに、与次郎に向つて、どうも近頃は講義が面白くないと言ひ出した。与次郎の答はいつも同じ事であつた。――
「講義が面白い訳がない。君は田舎者いなかものだから、今にえらい事になると思つて、今日迄辛防して聞いてゐたんだらう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢かいびやく以来こんなものだ。今更失望したつて仕方がないや」
「さう云ふわけでもないが……」と三四郎は弁解する。与次郎のへら/\調と、三四郎の重苦おもくるしいくちの利き様が、不釣合で甚だ可笑おかしい。
 かう云ふ問答を二三度繰り返してゐるうちに、いつの間にか半月許り経過たつた。三四郎の耳は漸々ぜんぜんりものでない様になつて来た。すると今度は与次郎の方から、三四郎に向つて、
「どうも妙な顔だな。如何にも生活に疲れてゐる様な顔だ。世紀まつの顔だ」と批評しした。三四郎は、此批評に対しても依然として、
「さう云ふ訳でもないが……」を繰り返してゐた。三四郎は世紀まつ抔と云ふ言葉を聞いてうれしがる程に、まだ人工的の空気に触れてゐなかつた。またこれを興味ある玩具おもちやとして使用し得る程に、ある社会の消息に通じてゐなかつた。たゞ生活に疲れてゐるといふ句が少し気に入つた。成程疲れ出した様でもある。三四郎は下痢の為め許りとは思はなかつた。けれども大いに疲れたかほを標榜するほど、人生観のハイカラでもなかつた。それで此会話はそれぎり発展しずに済んだ。
 そのうち秋は高くなる。食慾は進む。二十三の青年が到底人生につかれてゐる事が出来ない時節が来た。三四郎はる。大学の池の周囲まはり大分だいぶんまはつて見たが、別段のへんもない。病院の前も何遍なんべんとなく往復したが普通の人間に逢ふばかりである。又理科大学の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。玄関で逢つた女の事を話さうと思つたが、先方さきいそがしさうなので、つい遠慮して已めて仕舞つた。今度大久保へ行つてゆつくり話せば、名前も素性も大抵はわかる事だから、かずに引き取つた。さうして、ふわ/\して諸方ほう/″\あるいてゐる。田端たばただの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、――三四郎は新井あらゐ薬師やくし迄も行つた。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て、野々宮君のうちまはらうと思つたら、落合おちあひ火葬場やきばへんみちを間違へて、高田へ出たので、目白から汽車へ乗つて帰つた。汽車のなか見舞みやげに買つたくり一人ひとり散々さん/″\食つた。其あまりは翌日あくるひ与次郎がて、みんな平げた。
 三四郎はふわ/\すればする程愉快になつてた。初めのうちはあまり講義に念を入れぎたので、耳が遠くなつて筆記に困つたが、近頃は大抵に聴いてゐるから何ともない。講義中に色々な事を考へる。少し位おとしてもしい気も起らない。よく観察して見ると与次郎始めみんな同じ事である。三四郎は此位でいものだらうと思ひ出した。
 三四郎が色々考へるうちに、時々とき/″\例のリボンが出て来る。さうすると気掛きがゝりになる。甚だ不愉快になる。すぐ大久保へ出掛けて見たくなる。然し想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくするとまぎれて仕舞ふ。だから大体は呑気である。それで夢を見てゐる。大久保へは中々行かない。

四の二


 ある日の午後三四郎は例の如くぶら付いて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴と云つて、此頃は東京のそら田舎いなかの様に深く見える。かう云ふそらしたきてゐると思ふ丈でもあたま明確はつきりする。其上そのうへ野へれば申し分はない。気がび/\してたましい大空おほそら程のおほきさになる。それで居て身体からだ惣体がしまつてる。だらしのない春の長閑のどかさとは違ふ。三四郎は左右の生垣いけがきを眺めながら、うまれて始めての東京の秋をぎつゝ遣つて来た。
 坂下さかしたでは菊人形が二三日前開業したばかりである。坂をまがる時はのぼりさへ見えた。今はたゞ声丈聞える。どんちやん/\遠くからはやしてゐる。其はやしおとが、したの方から次第に浮き上がつてて、澄み切つた秋の空気のなかへひろがりつくすと、遂には極めて稀薄な波になる。其又余波が三四郎の鼓膜のそばて自然にとまる。騒がしいといふよりは却つてい心持である。
 時に突然左りの横町から二人ふたりあらはれた。その一人ひとりが三四郎を見て、「おい」と云ふ。
 与次郎の声は今日けふに限つて、几帳面である。其かはつれがある。三四郎は其つれを見たとき、果して日頃の推察通り、青木堂で茶を飲んでゐた人が、広田さんであると云ふ事を悟つた。此人とは水蜜桃以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで烟草を呑んで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、一層よく記憶にみてゐる。いつ見ても神主の様な顔に西洋人の鼻を付けてゐる。今日けふも此間の夏服なつふくで、別段さむさうな様子もない。
 三四郎は何とか云つて、挨拶をしやうと思つたが、あまり時間がつてゐるので、どうくちいていゝかわからない。たゞ帽子を取つて礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧過ぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎は何方どつち付かずの中間にた。すると与次郎が、すぐ、
「此男はわたしの同級生です。熊本の高等学校から始めて東京へて来た――」と聴かれもしないさきから田舎ものを吹聴して置いて、それから三四郎の方を向いて、
「是が広田先生。高等学校の……」とわけもなく双方を紹介して仕舞つた。
 此時広田先生は「知つてる、/\」と二返繰り返して云つたので、与次郎は妙な顔をしてゐる。然し、何故なぜ知つてるんですか抔と面倒な事は聞かなかつた。たゞちに、
「君、此辺に貸家かしやはないか。広くて、奇麗な、書生部屋のある」と尋ねだした。
貸家かしやはと……ある」
「どの辺だ。きたなくつちや不可いけないぜ」
「いや奇麗なのがある。大きな石の門が立つてゐるのがある」
「そりやうまい。どこだ。先生、石の門はいですな。是非それに仕様ぢやありませんか」と与次郎は大いに進んでゐる。
「石の門は不可いかん」と先生が云ふ。
不可いかん? そりやこまる。何故なぜ不可いかんです」
何故なぜでも不可いかん」
「石の門はいがな。新らしい男爵の様でいぢやないですか、先生」
 与次郎は真面目まじめである。広田先生はにや/\笑つてゐる。とう/\真面目まじめの方がつて、兎も角も見る事に相談が出来て、三四郎が案内をした。

四の三


 よこ町をあとへ引きかへして、裏通りへ出ると、半町ばかり北へた所に、突き当りと思はれる様な小路がある。其小路こうぢの中へ三四郎は二人ふたりれ込んだ。真直まつすぐに行くと植木屋の庭へ出て仕舞ふ。三人は入口いりぐちの五六間手前で留つた。右手みぎてに可なり大きな御影の柱が二本立つてゐる。とびらは鉄である。三四郎がこれだと云ふ。成程貸家札かしやふだが付いてゐる。
「こりやおそろしいもんだ」と云ひながら、与次郎は鉄のとびらをうんとしたが、錠が卸りてゐる。「一寸ちよつと御待ちなさい聞いてくる」と云ふや否や、与次郎は植木屋の奥の方へ馳け込んで行つた。広田と三四郎は取り残された様なものである。二人ふたりで話を始めた。
「東京は如何どうです」
「えゝ……」
ひろばかりきたない所でせう」
「えゝ……」
「富士山に比較する様なものはなんにもないでせう」
 三四郎は富士山の事を丸で忘れてゐた。広田先生の注意によつて、汽車の窓から始めてながめた富士は、考へ出すと、成程崇高なものである。たゞ今自分のあたまなかにごた/\してゐる世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時いつにか取り落してゐたのをづかしく思つた。すると、
「君、不二山を翻訳ほんやくして見た事がありますか」と意外な質問をはなたれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間にんげんけて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
 三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉ことばになる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ないものには、自然が毫も人格上の感化を与へてゐない」
 三四郎はまだあとがるかと思つて、だまつて聞いてゐた。所が広田さんはそれで已めて仕舞つた。植木屋の奥の方を覗いて、
「佐々木はなにをしてゐるのか知ら。おそいな」と独りごとの様に云ふ。
「見てませうか」と三四郎が聞いた。
「なに、見につたつて、それでる様な男ぢやない。それより此所こゝに待つてる方が手間てまかゝらないでいゝ」と云つて枳殻からたちの垣根のしたしやがんで、小石を拾つて、つちの上へ何かき出した。呑気な事である。与次郎の呑気とは方角が反対で、程度がほゞ相似てゐる。
 所へ植込の松の向から、与次郎が大きな声を出した。
「先生々々」
 先生は依然として、何かいてゐる。どうも燈明台の様である。返事をしないので、与次郎は仕方なしにて来た。
「先生一寸ちよつと見て御覧なさい。うちだ。この植木屋で持つてるんです。もんけさせてもいが、裏からまはつた方が早い」
 三人は裏から廻つた。雨戸をけて、一間ひとま々々見てあるいた。中流の人が住んで恥づかしくない様に出来てゐる。家賃が四十円で、敷金が三ヶ月分だと云ふ。三人はまた表へ出た。
なんで、あんな立派なうちを見るのだ」と広田さんが云ふ。
なんで見るつて、たゞ見る丈だからいぢやありませんか」と与次郎は云ふ。
「借りもしないのに……」
「なに借りる積で居たんです。所が家賃をどうしても弐十五円にしやうと云はない……」
 広田先生は「当り前さ」と云つたぎりである。すると与次郎が石の門の歴史を話しした。此間このあひだ迄ある出入りの屋敷の入口いりぐちにあつたのを、改築のときもらつて来て、すぐあすこへ立てたのだと云ふ。与次郎丈に妙な事を研究して来た。

四の四


 それから三人はもとの大通りへ出て、動坂から田端たばたたにりたが、りた時分には三人ともただあるいてゐる。貸家かしやの事はみんな忘れて仕舞つた。ひとり与次郎が時々とき/″\石の門の事を云ふ。麹町からあれを千駄木迄引いてくるのに、手間が五円程かゝつた抔と云ふ。あの植木屋は大分金持らしい抔とも云ふ。あすこへ四十円の貸家かしやを建てゝ、全体だれりるだらう抔と余計なこと迄云ふ。遂には、今に借手かりてがなくつて屹度家賃やちんげるにちがひないから、其時もう一遍談判して是非借りやうぢやありませんかと云ふ結論であつた。広田先生は別に、さういふ料簡もないと見えて、かう云つた。
「君が、あんまり余計な話ばかりしてゐるものだから、時間がかゝつて仕方がない。好加減いゝかげんにして出てるものだ」
「余程長くかゝりましたか。なにをかいてゐましたね。先生も随分呑気だな」
何方どつちが呑気かわかりやしない」
「ありや何のです」
 先生はだまつてゐる。其時三四郎が真面目まじめな顔をして、
「燈台ぢやないですか」と聞いた。画手かきてと与次郎は笑ひ出した。
「燈台は奇抜だな。ぢや野々宮宗八さんをいて〔い〕らしつたんですね」
何故なぜ
「野々宮さんは外国ぢやひかつてるが、日本ぢや真暗まつくらだから。――だれも丸で知らない。それで僅ばかりの月給を貰つて、穴倉へ立籠つて――、実に割に合はない商買だ。野々宮さんの顔を見る度に気の毒になつてたまらない」
「君なぞは自分のすはつてゐる周囲方二尺位の所をぼんやり照らす丈だから、丸行燈の様なものだ」
 丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、
「小川君、きみは明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、
「僕は二十三だ」と答へた。
「そんなものだらう。――先生僕は丸行燈だの、雁首がんくびだのつて云ふものが、どうもきらひですがね。明治十五年以後に生れた所為せゐかも知れないが、何だか旧式でいやな心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、
「僕は別段嫌でもない」と云つた。
「尤も君は九州の田舎いなかから出たばかりだから、明治元年位のあたまと同じなんだらう」
 三四郎も広田も是に対して別段の挨拶をしなかつた。少し行くとふるい寺のとなりの杉ばやしを切り倒して、奇麗に地平ぢならしをした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てゝゐる。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見てゐた。
時代錯誤アナクロニズムだ。日本の物質界も精神界も此通りだ。君、九段の燈明台を知つてゐるだらう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出てゐる」
「先生冗談云つちや不可いけません。なんぼ九段の燈明台がふるいたつて、江戸名所図絵に出ちや大変だ」
 広田先生は笑ひ出した。実は東京名所と云ふ錦絵の間違だと云ふ事がわかつた。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残つてゐるそばに、階行社と云ふ新式の錬瓦作りが出来た。二つならべて見ると実に馬鹿気てゐる。けれども誰も気が付かない、平気でゐる。是が日本の社会を代表してゐるんだと云ふ。
 与次郎も三四郎も成程と云つた儘、御寺おてらの前を通りして、五六町ると、大きな黒い門がある。与次郎が、此所こゝを抜けて道灌山へ出様と云ひ出した。抜けてもいのかと念を押すと、なに是は佐竹のしも屋敷で、誰でも通れるんだから構はないと主張するので、二人共其気になつて門をくゞつて、やぶの下を通つてふるい池のそば迄来ると、番人が出て来て、大変に三人を叱り付けた。其時与次郎はへい/\と云つて番人にあやまつた。
 それから谷中やなかへ出て、根津ねづまはつて、夕方に本郷の下宿へ帰つた。三四郎は近来にない気楽な半日を暮した様に感じた。

四の五


 翌日よくじつ学校へ出て見ると与次郎がない。ひるからるかと思つたがない。図書館へも這入つたが矢っ張り見当らなかつた。五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするにはくら過ぎる。電燈がくには早過ぎる。細長い窓のそとに見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、へやなかは講師のかほも聴講生の顔もひとしくぼんやりしてゐる。従つて暗闇くらやみで饅頭をふ様に、何となく神秘的である。三四郎は講義がわからない所が妙だと思つた。頬杖をいて聴いてゐると、神経がにぶくなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする。所へ電燈がぱつといて、万事が〔やや〕明瞭になつた。すると急に下宿へ帰つてめしが食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、い加減に講義を切りげて呉れた。三四郎は早足はやあしで追分迄帰つてくる。
 着物をぎ換えて膳に向ふと、膳のうへに、茶碗むしと一所に手紙が一本載せてある。其上封うはふうを見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟つた。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日きのふから今日けふへ掛けては時代錯誤アナクロニズムだの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向あたまなかへ出てなかつた。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとでゆつくりる事として、取り敢ず食事を済まして、烟草をかした。其けむを見ると先刻さつきの講義を思ひ出す。
 そこへ与次郎がふらりと現はれた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探かしやさがしで学校どころぢやないさうである。
「そんなにいそいですのか」と三四郎が聞くと、
いそぐつて先月ぢうに越すはづの所を明後日あさつての天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中あしたぢうさがさなければならない。どこか心当りはないか」と云ふ。
 こんなにいそがしがるくせに、昨日きのふは散歩だか、貸家探かしやさがしだか分らない様にぶら/\つぶしてゐた。三四郎には殆んど合点が行かない。与次郎は之を解釈して、それは先生が一所だからさと云つた。「元来先生がいへさがすなんて間違まちがつてゐる。決してさがした事のない男なんだが、昨日きのふはどうかしてゐたに違ない。御蔭で佐竹のやしきひどい目にしかられてつらかはだ。――君何所どこかないか」と急に催促する。与次郎が来たのは全くそれが目的らしい。〔よ〕く/\原因を聞いて見ると、いま持主もちぬしが高利貸で、家賃やちん無暗むやみげるのが、業腹ごうはらだと云ふので、与次郎が此方こつちから立退たちのきを宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ。
今日けふは大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、ついでに宗八さんのところつて、よし子さんにつてた。可哀さうにまだ色光沢いろつやわるい。――辣薑らつきやう性の美人――御母おつかさんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其はあの辺も穏やかな様だ。轢死もあれぎりないさうだ」
 与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平ぜいからしまりのないうへに、今日けふ家探やさがしで少しき込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所どこかないか/\と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。

四の六


 そのうち与次郎のしりが次第に落ち付いてて、燈火親しむべし抔といふ漢語さへ借用してうれしがる様になつた。話題は端なく広田先生の上に落ちた。
「君のところの先生の名は何と云ふのか」
「名はちよう」とゆびいて見せて、「艸冠くさかんむりが余計だ。字引じびきにあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。
「高等学校の先生か」
むかしから今日こんにちに至る迄高等学校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」
「子供はるのか」
「小供どころか、まだ独身だ」
 三四郎は少し驚ろいた。あの年迄一人ひとりられるものかとも疑つた。
何故なぜ奥さんを貰はないのだらう」
「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ないさきから、細君はいかんものと理論できまつてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京程きたない所はない様に云ふ。それで石のもんを見ると恐れをして、不可いかん/\とか、立派過ぎるとかいふだらう」
「ぢや細君も試みに持つて見たらからう」
「大いにしとか何とかいふかも知れない」
「先生は東京がきたないとか、日本人がみにくいとか云ふが、洋行でもした事があるのか」
「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。万事あたまの方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね。其代り西洋は写真で研究してゐる。巴理〔パリ〕の凱旋門だの、倫敦〔ロンドン〕の議事堂だの沢山つてゐる。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたない訳さ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくつても存外平気だから不思議だ」
「三等汽車へつて居つたぞ」
きたない/\つて不平を云やしないか」
「いや別に不平も云はなかつた」
「然し先生は哲学者だね」
「学校で哲学でも教へてゐるのか」
「いや学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、おのづから哲学に出来上つてゐるから面白い」
「著述でもあるのか」
「何にもない。時々とき/″\論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子〔ふうし〕自身は偉大な暗闇くらやみだ」
「どうかして、世のなかたらささうなものだな」
たらささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にもらない人だからね。第一僕が居なけりや三度さんどめしさへへない人なんだ」
 三四郎は真逆まさかと云はぬ許に笑ひ出した。
うそぢやない。気の毒な程何にもらない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてらうと思ふ」
 与次郎は真面目まじめである。三四郎は其大言に驚ろいた。驚ろいても構はない。驚ろいた儘に進行して、仕舞に、
引越ひつこしをする時は是非手伝に来て呉れ」とたのんだ。丸で約束の出来たいへが、とうからある如き口吻である。さうしてすぐ帰つた。

四の七


 与次郎の帰つたのは彼是十時近くである。一人ひとりすはつて居ると、何処どことなく肌寒はださむの感じがする。不図気が付いたら、机の前の窓がまだてずにあつた。障子をけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快なひのきに、あをひかりがして、くろかげふちが少しけむつて見える。ひのきに秋がたのはめづらしいと思ひながら、雨戸をてた。
 三四郎はすぐとこへ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊家〔ていかいか〕なので、割合書物を読まない。其代りある〔きく〕すべき情景に逢ふと、何遍もこれをあたまなかあらたにしてよろこんでゐる。その方がいのちに奥行がある様な気がする。今日けふも、何時いつもなら、神秘的講義の最中さいちうに、ぱつと電燈がく所などを繰返してうれしがるはづだが、母の手紙があるので、まづ、それから片付かたづけ始めた。
 手紙には新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎をぜて、毎晩さかづきに一杯づゝ飲んでゐるとある。新蔵はうちの小作人で、毎としふゆになると年貢米を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪が強いので、時々女房をまきなぐる事がある。――三四郎はとこなかで新蔵がはちひ出したむかしの事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏のしいの木に蜜蜂が二三百疋ぶらがつてゐたのを見付けて、すぐ籾漏斗〔もみじょうご〕に酒を吹きかけて、〔ことごと〕生捕いけどりにした。それから之を箱へ入れて、出入ではいりの出来る様なあなけて、日当りのい石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々えて来る。箱がひとつではりなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風にふやして行つた結果、今では何でも六はこか七はこある。其うちの一箱ひとはこを年に一度いちどづゝ石から卸して蜂のために蜜を切り取ると云つてゐた。毎とし夏休みに帰るたびに蜜をげませうと云はない事はないが、ついに持つて来たためしがなかつた。が今年ことしは物覚が急に善くなつて、年来の約束を履行したものであらう。
 平太郎が親爺おやぢの石塔を建てたから見にて呉れろとたのみにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の真中まんなかに、御影石みかげいしで出来てゐたさうである。平太郎は其御影石が自慢なのだといてある。山からり出すのに幾日いくかとかかゝつて、それから石屋いしやたのんだら十円られた。百姓や何かにはわからないが、貴所あなたのとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、いし善悪よしあしは屹度わかる。今度こんど手紙のついでに聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺おやぢの為にこしらへてやつた石塔をほめて貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は独りでくす/\笑ひ出した。千駄木の石門より余程烈しい。
 大学の制服を着た写真をこせとある。三四郎は何時いつつて遣らうと思ひながら、つぎへ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間このあひだ御光さんの御母おつかさんがて、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが、卒業したらうちむすめを貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質きだても優しいし、うちに田地も大分あるし、其うへうちうちとの今迄の関係もある事だから、さうしたら双方共都合がいだらうと書いて、そのあとへ但しがきが付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心きごゝろが知れないからわたしはいやぢや。
 三四郎は手紙をかへして、封に入れて、枕元へ置いた儘を眠つた。ねずみが急に天井であばれ出したが、やがて静まつた。

四の八


 三四郎にはみつつの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂〔いわゆる〕明治十五年以前のがする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気ねぼけてゐる。〔もっと〕も帰るに世話は〔い〕らない。もどらうとすれば、すぐにもどれる。たゞ、いざとならない以上はもどる気がしない。云はゞ立退場たちのきばの様なものである。三四郎はてた過去を、此立退場たちのきばなかへ封じ込めた。なつかしい母さへ此所こゝに葬つたかと思ふと、急に勿体〔もったい〕なくなる。そこで手紙がた時丈は、しばらく此世界に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊して旧歓を温める。
 第二の世界のうちには、こけえた錬瓦造りがある。片隅かたすみから片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよくわからない程に広い閲覧室がある。梯子はしごけなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺てずれ、ゆびあか、で黒くなつてゐる。金文字でひかつてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上につもつたちりがある。此塵このちりは二三十年かゝつて漸くつもつた貴といちりである。静かな月日つきひに打ち勝つ程の静かなちりである。
 第二の世界に動く人の影を見ると、大抵精なひげやしてゐる。あるものはそらを見てあるいてゐる。あるものはうつ向いてあるいてゐる。服装なりは必ずきたない。生計くらしは屹度貧乏である。さうしてあん如としてゐる。電車に取りかれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此うちにゐる。野々宮君も此内このうちにゐる。三四郎は此内このうちの空気をほゞ解し得た所にゐる。ればられる。然し折角けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。
 第三の世界は燦として春の如くうごいてゐる。電燈がある。銀匙〔ぎんさじ〕がある。歓声がある。笑語〔しょうご〕がある。泡立あはだ三鞭〔シャンパン〕さかづきがある。さうして凡てのうへかんむりとして美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人ひとりに口をいた。一人ひとりを二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞちかづき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも〔かか〕はらず、円満の発達を〔こいねが〕ふべき筈の此世界が、却つてみづからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。
 三四郎はとこのなかで、此みつの世界をならべて、互に比較して見た。次に此みつの世界を掻きぜて、其なかからひとつの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。
 結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。
 たゞかうすると広い第三の世界を〔びょう〕たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――〔いや〕しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を〔まった〕からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人ひとりを知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。
 三四郎は論理を此所こゝ迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。

四の九


 翌日学校へ出ると講義は例によつてつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。
「アハヽヽ。アハヽヽ」
 偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。
「なんだ」
「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしくあるくがいゝ。丸で浪漫的ロマンチツクアイロニーだ」
 三四郎には此洋語の意味がよくわからなかつた。仕方がないから、
いへはあつたか」と聞いた。
「その事で今君の所へ行つたんだ――明日あす〔いよいよ〕引越す。手伝てつだひて呉れ」
何所どこす」
「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」
 与次郎はいそいで行きぎた。三四郎もいそいで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的ロマンチツクアイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙〔ドイツ〕のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐた。
 翌日あくるひは約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。ふるい家だ。
 玄関の代りに西洋が一つ突き出してゐて、それとかぎの手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。〔ほか〕に二階がある。但し何畳だか分らない。
 三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。
 大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、みきの半分以上が横に杉垣から、此方こつちの領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根のなかに生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞつち丈は平らで、肌理きめこまかで甚だ美くしい。三四郎はつちを見てゐた。実際つちを見る様に出来た庭である。
 そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘ベルが鳴り出した。三四郎は号鐘ベルを聞きながら九時がたんだらうと考へた。何もしないでゐてもわるいから、さくら枯葉かれはでもかうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうといた。さうして思も寄らぬ池の女が庭のなかにあらはれた。

四の十


 二方は生垣いけがきで仕切つてある。四角な庭は十坪とつぼに足りない。三四郎は此狭いかこひなかに立つたいけの女を見るや否や、〔たちま〕ち悟つた。――花は必ずつて、へい裏にながむべきものである。
 此時三四郎のこしは縁側を離れた。女は折戸を離れた。
「失礼で御座いますが……」
 女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、かほけつしてげない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉のどが正面から見ると長くびた。同時に其が三四郎のひとみうつつた。
 二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人のいた女の肖像はこと/″\く※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。あまいものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。あまいと云はんよりは苦痛である。いやしく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付めつきである。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。
「広田さんの御移転こしになるのは、此方こちらで御座いませうか」
「はあ、此所こゝです」
 女の声と調子にくらべると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も気が付いてゐる。けれどもほかに云ひ様がなかつた。
「まだ御うつりにならないんで御座いますか」女の言葉は明確はつきりしてゐる。普通の様にあとにごさない。
「まだません。もうるでせう」
 女はしばし逡巡ためらつた。手に大きなバスケツトげてゐる。女の着物は例によつて、わからない。ただ何時いつもの様にひからない丈が眼についた。地が何だかぶつ/\してゐる。それしまだか模様だかある。その模様が如何にも出鱈目である。
 うへから桜の葉が※(二の字点、1-2-22)とき/″\落ちてる。其一つがバスケツトふたの上につた。つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女をつゝんだ。女は秋のなかに立つてゐる。
「あなたは……」
 かぜが隣りへした時分、女が三四郎に聞いた。
「掃除にたのまれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑おかしくなつた。すると女も笑ひながら、
「ぢやわたくしすこし御待ち申しませうか」と云つた。其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、
「あなたは……」とむかふいた様な事を此方こつちからも聞いた。すると、女はばすけつと〔えん〕の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺をして、三四郎に呉れた。

四の十一


 名刺には里見美禰子〔さとみみねこ〕とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である。三四郎が此名刺を眺めてゐるあひだに、女は椽に腰を卸した。
「あなたには御目に掛りましたな」と名刺をたもとへ入れた三四郎が顔を挙げた。
「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方こつちを向いた。
「まだある」
「それから池のはたで……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、
「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、
「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。両人ふたりは桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が〔わずか〕ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々なかなか遣つて来ない。
「何か先生に御用なんですか」
 三四郎は突然かう聞いた。高い桜のかれ枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚びつくりした、ひどいわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。
わたくしも御手伝てつだひたのまれました」
 三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。
すなで大変だ。着物きものよごれます」
「えゝ」と左右をながめたぎりである。腰をげない。しばらく椽を見廻はしたを、三四郎に移すや否や、
「掃はもうなすつたんですか」と聞いた。わらつてゐる。三四郎は其わらひなかれ易いあるものをみとめた。
「まだらんです」
「御手伝をして、一所に始めませうか」
 三四郎はすぐに立つた。女はうごかない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家ありかを聞く。三四郎は、たゞ空手てぶらたのだから、どこにもない。何なら通りへ行つて買つて来やうかとくと、それは徒費むだだから、隣で借りる方がからうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻ばけつと雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。
「あつて……」と一口ひとくち云つた丈である。
 三四郎は箒をかたかついで、馬尻ばけつを右の手にぶらげて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた。
 女は白足袋たびの儘すなだらけの縁側へがつた。あるくと細い足の痕が出来る。たもとから白い前垂〔まえだれ〕を出して帯の上からめた。其前垂のふちがレースの様にかゞつてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である。女は箒を取つた。
「一旦しませう」と云ひながら、そでうらから右の手をして、ぶらつくたもとを肩の上へかついだ。奇麗な手が二の腕迄出た。かついだたもとはじからは美くしい襦袢のそでが見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然馬尻ばけつを鳴らして勝手口へまはつた。

四の十二


 美禰子がくあとを、三四郎が雑巾を掛ける。三四郎が畳を〔たた〕あひだに、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人ふたり共大分親しくなつた。
 三四郎が馬尻ばけつの水をかへに台所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へのぼつた。
一寸ちよつとください」とうへから三四郎を呼ぶ。
「何ですか」と馬尻ばけつげた三四郎が、楷子段はしごだんしたから云ふ。女はくらい所に立つてゐる。前垂だけが真白だ。三四郎は馬尻ばけつげた儘二三段のぼつた。女はじつとしてゐる。三四郎は又二段のぼつた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離にた。
「何ですか」
「何だかくらくつてわからないの」
何故なぜ
何故なぜでも」
 三四郎は追窮する気がなくなつた。美禰子のそばけてうへへ出た。馬尻ばけつくらい縁側へ置いて戸を明ける。成程さんの具合がわからない。そのうち美禰子もがつてた。
「まだからなくつて」
 美禰子は反対のがはへ行つた。
此方こつちです」
 三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻ばけつ蹴爪けつまづいた。大きなおとがする。漸くの事で戸を一枚けると、強い日がまともにし込んだ。まぼ[#ルビの「まぼ」はママ]しい位である。二人ふたりは顔を見合せて思はず笑ひした。
 うらの窓もける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主やぬしの庭が見える。にはとりを飼つてゐる。美禰子は例の如くき出した。三四郎は四つばいになつて、あとから拭き出した。美禰子は箒を両手で持つた儘、三四郎の姿を見て、
「まあ」と云つた。
 やがて、箒を畳のうへげ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘外面そとを眺めてゐる。そのうち三四郎もき終つた。濡れ雑巾を馬尻ばけつなかへぼちやんとたゝき込んで、美禰子のそばて、ならんだ。
「何を見てゐるんです」
てゝ御覧なさい」
とりですか」
「いゝえ」
「あの大きな木ですか」
「いゝえ」
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」
わたくし先刻さつきからあの白いくもを見てりますの」
 成程白い雲が大きなそらわたつてゐる。そらかぎりなく晴れて、どこ迄も青くんでゐる上を、綿わたひかつた様ない雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲のはしが吹きらされると、あをいて見える程に薄くなる。あるひは吹きらされながら、かたまつて、白く柔らかなはりを集めた様に、さゝくれつ。美禰子は其かたまりゆびさして云つた。
駝鳥〔だちょう〕襟巻ボーアに似てゐるでせう」
 三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、
「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、
「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風〔ぐふう〕以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた。美禰子は、
「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、
「雪ぢやつまらないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。
何故なぜです」
何故なぜでも、雲は雲でなくつちや不可いけないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
「さうですか」
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」
「あなたは高い所を見るのがすきの様ですな」
「えゝ」
 美禰子は竹の格子のなかから、まだそらを眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んでる。

四の十三


 所へ遠くから荷車にぐるまおとが聞える。今、静かな横町をまがつて、此方こつちへ近付いてるのが地響ぢひゞきでよくわかる。三四郎は「た」と云つた。美禰子は「はやいのね」と云つた儘じつとしてゐる。車のおとの動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳をすましてゐる。車は落付いた秋のなかを容赦なく近付いてる。やがて門の前へとまつた。
 三四郎は美禰子を捨てゝ二階をりた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。
「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。
おそいな」と三四郎がこたへた。美禰子とは反対である。
おそいつて、荷物を一度にしたんだから仕方がない。それに僕一人ひとりだから。あとは下女と車屋くるまや許でどうする事も出来ない」
「先生は」
「先生は学校」
 二人ふたりはなしを始めてゐるうちに、車屋くるまやが荷物をおろし始めた。下女も這入つて来た。台所の方を下女と車屋くるまやたのんで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が沢山ある。ならべるのは一仕事ひとしごとだ。
「里見の御嬢さんは、まだてゐないか」
てゐる」
何所どこに」
「二階にゐる」
「二階に何をしてゐる」
「何をしてゐるか、二階にゐる」
「冗談ぢやない」
 与次郎は本を一冊つた儘、廊下伝ひに階子段のした迄行つて、例の通りの声で、
「里見さん、里見さん。書物を片付かたづけるから、一寸ちよつと手伝つて下さい」と云ふ。
「たゞ今参ります」
 箒とハタキをつて、美禰子は静かにりてた。
「何をしてたんです」と下から与次郎がき立てる様に聞く。
「二階の御掃」と上から返事があつた。
 りるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋戸口とぐちの所へれて来た。車力しやりきおろした書物が一杯積んである。三四郎が其なかへ、向ふむきにしやがんで、しきりに何か読み始めてゐる。
「まあ大変ね。これをどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎はしやがみながら振り返つた。にや/\笑つてゐる。
「大変も何もありやしない。これをへやなかへ入れて、片付けるんです。今に先生も帰つてて手伝ふ筈だから訳はない。――君、しやがんで本なんぞ読みしちや困る。あとで借りて行つてゆつくりむがいゝ」と与次郎が小言こごとを云ふ。
 美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つてへやなかの書棚へならべるといふ役割が出来た。
「さう乱暴に、しちやこまる。まだ此つゞきが一冊ある筈だ」と与次郎が青いひらたい本を振りまはす。
「だつていんですもの」
「なにい事があるものか」
つた、有つた」と三四郎が云ふ。
「どら、拝見」と美禰子がかほを寄せてる。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デ※[#濁点付き片仮名エ、380-5]ロツプメント。あらつたのね」
「あらつたもいもんだ。早く御しなさい」

四の十四


 三人は約三十分ばかり根気こんきに働いた。仕舞にはさすがの与次郎もあまりつ付かなくなつた。見ると書だなの方を向いて胡坐あぐらをかいてだまつてゐる。美禰子は三四郎のかた一寸ちよつといた。三四郎は笑ひながら、
「おい如何どうした」と聞く。
「うん。先生もまあ、〔こ〕んなに〔い〕りもしない本を集めて如何どうする気かなあ。全く人泣ひとなかせだ。今〔これ〕を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐あぐらをかいてゐる。
 三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心の主脳が動かないので、二人ふたり共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝のうへひらいた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒※(二の字点、1-2-22)しい。
一寸ちよつとらんなさい」と美禰子がちいさな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へかほを出した。美禰子のあたまで香水のにほひがする。
 画はマーメイドの図である。裸体の女の腰からしたさかなになつて、さかなどうが、ぐるりと腰をまはつて、向ふがはに尾だけ出てゐる。女は長いかみくしきながら、き余つたのを手に受けながら、此方こつちを向いてゐる。背景は広い海である。
人魚マーメイド
人魚マーメイド
 あたまり付けた二人ふたりは同じ事をさゝやいだ。此時胡坐あぐらをかいてゐた与次郎が何と思つたか、
「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へた。三人はくびあつめて画帖を一枚毎につてつた。色々な批評が出る。みんな好加減いゝかげんである。
 所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた。先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気にり始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚のなかつまつて仕舞つた。四人は立ちならんで奇麗に片付いた書物を一応眺めた。
「あとの整理は明日あしただ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である。
「大分御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。
「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える。
「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」
 与次郎はあたまを掻いてゐる。三四郎は真面目まじめになつて、じつ此間このあひだから大学の図書館で、少し宛本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通してゐる。ためしにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢っ張りだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。
「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」
 広田先生の此一言には三四郎も驚ろいた。
「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が云つた。
 広田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へるためだらう。美禰子もいてた。あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。
「あれだから偉大な暗闇くらやみだ。何でも読んでゐる。けれどもちつともひからない。もう少し流行はやるものを読んで、もう少し出娑婆でしやばつて呉れるといがな」
 与次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎はだまつて本箱ほんばこを眺めてゐた。すると座敷から美禰子の声が聞えた。
「御馳走をげるから、御二人ふたりとも〔い〕らつしやい」

四の十五


 二人ふたりが書斎から廊下伝ひに、座敷へて見ると、座敷の真中まんなかに美禰子の持つてバスケツトが据ゑてある。ふたが取つてある。なかにサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其そばすはつて、かごなかのものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。
〔よ〕く忘れずに持つてましたね」
「だつて、わざ/\御注文ですもの」
「其かごも買つてたんですか」
「いゝえ」
うちにあつたんですか」
「えゝ」
「大変大きなものですね。車夫でもれてたんですか。序でに、少しのあひだ置いて働らかせればいのに」
「車夫は今日けふは使にました。女だつて此位なものは持てますわ」
「あなただから持つんです。ほかの御嬢さんなら、まあめますね」
「さうでせうか。それならわたくしも已めればかつた」
 美禰子は食物くひものを小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しもよどみがない。しかもゆつくり落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。
 台所から下女が茶を持つてくる。かごを取りいた連中は、サンドヰツチをした。すこしのあひだは静であつたが、思ひした様に与次郎が又広田先生に話しかけた。
「先生、序だから一寸ちよつと聞いて置きますが先刻さつきの何とかベーンですね」
「アフラ、ベーンか」
「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀はふる過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」
ふるい。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」
「有名ぢや困るな。もう少しうかがつて置かう。どんなものを書いたんですか」
「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」
 三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。
「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでもいちやあ」と与次郎は又美禰子の方へむかつた。
いてもござんすけれども、わたくしにはそんな実見譚がないんですもの」
くろん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」
くちわるい」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
いてもくつて」と聞いた。其を見た時に、三四郎は今朝けさかごげて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひした。おのづから酔つた心地である。けれども酔つてすくんだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。

四の十六


 広田先生は例によつて烟草を呑みした。与次郎は之を評して鼻から哲学のけむを吐くと云つた。成程けむ出方でかたが少しちがふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴をけてる。与次郎は其烟柱えんちうを眺めて、半分背を唐紙からかみに持たした儘だまつてゐる。三四郎のはぼんやりにはうへにある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生のかげで、先生がさつきぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為〔しょい〕と見える。
「今のオルノーコの話だが、君は疎忽そゝつかしいから間違へると不可いけないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸ちよつと途切れた。
「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。
「あの小説がてから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張りおなじ名でね。それを一所にしちや不可いけない」
「へえ、一所にしやしません」
 洋服を畳んで居た美禰子は一寸ちよつと与次郎の顔を見た。
「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ といふ句だが……」それ丈で又哲学のけむりさかんに吹き出した。
「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。ほかのものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれどもだれにも思ひ出せない。ではひとつ訳して見たらからうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、
「これは、どうしても俗謡でかなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。
 そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、
「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だたれたつて事よ」
不可いかん、不可いかん、下劣げれつきよくだ」と先生が〔たちま〕にがい顔をした。その云ひ方が如何〔いか〕にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひした。此笑ひ声がまだまないうちに、庭の木戸がぎいといて、野々宮さんが這入つてた。
「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。
「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速さつそく云ふ。
「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、
大分だいぶにぎやかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向うしろむきに縁側へ腰を掛けた。
「今僕が翻訳をして先生にしかられた所です」
「翻訳を? どんな翻訳ですか」
「なにつまらない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」
「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違すぢかひに向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」
だれにだつてわからんさ」と今度は先生が云つた。
「いや、すこし言葉をつめすぎたから――当り前に延ばすと、うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」
「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」
Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。
 野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へあるき出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面にとまつた。
「成程うまい訳だ」
 三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。

四の十七


 美禰子は台所へ立つた。茶碗をあらつて、新らしい茶をいで、縁側のはた迄持つてる。
「御茶を」と云つた儘、其所そこすはつた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。
「えゝ、身体からだの方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、すこし先生の方へいた。
「先生、折角大久保へ越したが、又此方こつちの方へなければならない様になりさうです」
何故なぜ
いもとが学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのがいやだといひしましてね。それに僕がよる実験をやるものですから、おそく迄つてゐるのがさむしくつて不可いけないんださうです。尤も今のうちは母が居るからかまひませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女丈になるものですからね。臆病もの二人ふたりでは到底とても辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」と冗談半分の嘆声を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客ゐさうらうに置いて呉れませんか」と美禰子のかほを見た。
何時いつでも置いてげますわ」
何方どつちです。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎がくちした。
何方どちらでも」
 三四郎丈だまつてゐた。広田先生は少し真面目まじめになつて、
「さうして君はどうする気なんだ」
「妹の始末さへ付けば、当分下宿してもいです。それでなければ、又何所どこかへ引越さなければならない。一層いつそ学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終られる所でないとこまるんです」
「それぢや里見さんのところかぎる」と与次郎が又注意を与へた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、
「僕のところの二階へ置いてつてもいが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ。
「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつてください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、
「まあ、どうかしませう。――身長なりばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れてけなんて云ふんだから」
れてつて御げなさればいのに。わたくしだつて見たいわ」
「ぢや一所に行きませうか」
「えゝ是非。小川さんも〔い〕らつしやい」
「えゝ行きませう」
「佐々木さんも」
「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」
「菊人形はいよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく〔こ〕んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人ひとりもあるまい。普通の人間なら、どこのうちでも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」
「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。
「昔し教場で教はる時にも、よく、あれでられたものだ」と野々宮君が云つた。
「ぢや先生も〔い〕らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。
 台どころから婆さんが「どなたか一寸ちよいと」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた。
「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰をげる。
「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ。
此間このあひだのものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其かげが折戸のそとへ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう/\」と云ひながら、庭先にいであつた下駄を穿いて、野々宮のあとを追掛た。表で何か話してゐる。
 三四郎はだまつて坐つてゐた。

五の一


 門を這入ると、此間このあひだの萩が、人のたけより高くしげつて、かぶに黒い影が出来てゐる。此黒いかげが地のうへつて、奥の方へ行くと、見えなくなる。葉と葉のかさなるうらのぼつてる様にも〔おもわ〕れる。夫程表にはい日があたつてゐる。手洗水てあらひみづそばに南天がある。是も普通よりはが高い。三ぼん寄つてひよろ/\してゐる。葉は便所の窓のうへにある。
 萩と南天の間に縁側が少し見える。縁側は南天を基点としてはすに向ふへ走つてゐる。萩の影になつた所は、一番遠いはづれになる。それで萩は一番手前にある。よし子は此萩の影にゐた。縁側に腰を掛けて。
 三四郎は萩とすれ/\に立つた。よし子は縁から腰をげた。あしひらたい石のうへにある。三四郎は今更その脊の高いのに驚ろいた。
「御這入りなさい」
 依然として三四郎をち設けた様な言葉づかひである。三四郎は病院の当時を思ひした。萩を通り越して縁鼻迄来た。
「御掛けなさい」
 三四郎はくつ穿いてゐる。〔めい〕の如く腰を掛けた。よし子は座布団を取つて来た。
「御敷きなさい」
 三四郎は布団を敷いた。門を這入つてから、三四郎はまだ一言ひとことくちひらかない。此単純な少女はたゞ自分の思ふ通りを三四郎に云ふが、三四郎からは毫も返事を求めてゐない様に思はれる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持がした。命をく丈である。御世辞を使ふ必要がない。一言ひとことでも先方の意を迎へる様な事をいへば、急にいやしくなる。おしの奴隷の如く、さきの云ふが儘に振舞つてゐれば愉快である。三四郎は小供の様なよし子から小供扱ひにされながら、少しもわが自尊心を傷けたとは感じ得なかつた。
あにですか」とよし子は其次そのつぎいた。
 野々宮を尋ねて来た訳でもない。尋ねない訳でもない。何でたか三四郎にも実はからないのである。
「野々宮さんはまだ学校ですか」
「えゝ、何時いつでもよるおそくでなくつちや帰りません」
 是は三四郎も知つてる事である。三四郎は挨拶に窮した。見ると縁側に絵の具ばこがある。きかけた水彩がある。
を御ならひですか」
「えゝ、きだからきます」
「先生はだれですか」
「先生にならふ程上手ぢやないの」
一寸ちよつと拝見」
「是? これまだ出来てゐないの」とかけを三四郎の方へ出す。成程自分のうちのにはき掛けてある。そらと、前のいへの柿の木と、這入りぐちの萩丈が出来てゐる。なかにも柿の木は甚だ赤く出来てゐる。
中々なか/\うまい」と三四郎がを眺めながら云ふ。
これが?」とよし子は少し驚ろいた。本当に驚ろいたのである。三四郎の様なわざとらしい調子は少しもなかつた。
 三四郎は今更自分の言葉を冗談にする事も出来ず、又真面目まじめにする事も出来なくなつた。何方どつちにしても、よし子から軽蔑されさうである。三四郎はを眺めながら、腹のなかで赤面した。

五の二


 縁側から座敷ざしき見廻みまはすと、しんと静かである。茶のは無論、台所にも人はゐない様である。
御母おつかさんはもう御国へ御帰りになつたんですか」
「まだ帰りません。近いうちにつ筈ですけれど」
「今、いらつしやるんですか」
いま一寸ちよつと買物にました」
「あなたが里見さんのところへ御移りになると云ふのは本当ですか」
うして」
うしてつて――此間このあひだ広田先生の所でそんな話がありましたから」
「まだきまりません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」
 三四郎は少しく要領を得た。
「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」
「えゝ。御友達なの」
 男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑おかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。
「広田先生は野々宮さんのもとの先生ださうですね」
「えゝ」
 話しは「えゝ」でつかへた。
「あなたは里見さんのところ〔い〕らつしやる方がいんですか」
わたくし? さうね。でも美禰子さんの御あにいさんに御気の毒ですから」
「美禰子さんのにいさんがあるんですか」
「えゝ。うちあにと同年の卒業なんです」
「矢っ張り理学士ですか」
「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又うへにいさんが広田先生の御友達だつたのですけれども、はやく御くなりになつて、いまでは恭助さん丈なんです」
御父おとつさんや御母おつかさんは」
 よし子は少し笑ひながら、
「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。
「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入でいりをなさるんですね」
「えゝ。んだにいさんが広田先生とは大変仲善なかよしだつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」
此方こちらへもますか」
 よし子は何時いつにか、水彩画のつゞきをき始めた。三四郎がそばにゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、〔よ〕く返事をする。
「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木のしたにある藁ぶき屋根にかげをつけたが、
「少し黒過くろすぎますね」と画を三四郎の前へした。三四郎は今度こんどは正直に、
「えゝ、少し黒過くろすぎます」と答へた。すると、よし子は画筆ゑふでに水をふくませて、黒い所を洗ひながら、
〔い〕らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。
度々たび/\?」
「えゝ度々たび/\」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきをき出してから、問答が大変楽になつた。

五の三


 しばらく無言の儘、画のなかを覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺家根の黒い影を洗つてゐたが、あまりみづが多過ぎたのと、筆の使ひ方がなか/\不慣ふなれなので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出来た柿が、蔭干かげぼしの渋柿の様な色になつた。よし子は画筆ゑふでの手をやすめて、両手をばして、くびをあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小さな声で、
「もう駄目ね」と云ふ。実際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は気の毒になつた。
「もう御しなさい。さうして、又新らしく御きなさい」
 よし子は顔を画に向けた儘、尻眼しりめに三四郎を見た。大きなうるほひのあるである。三四郎は〔ますます〕気の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。
「馬鹿ね。二時間許り損をして」と云ひながら、折角いた水彩のうへへ、横縦に二三本ふとい棒を引いて、絵の具函のふたをぱたりと伏せた。
「もうしませう。座敷へ御這入りなさい、御茶をげますから」と云ひながら、自分はうへへあがつた。三四郎は靴をぐのが面倒なので、矢っ張り縁側に腰を掛けてゐた。腹のなかでは、今になつて、茶をるといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外どはづれの女を面白がる積は少しもないのだが、突然御茶をげますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。
 茶ので話し声がする。下女は居たに違ない。やがてふすまひらいて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思つた。
 よし子は茶を汲んで縁側へして、自分は座敷の畳のうへへ坐つた。三四郎はもう帰らうと思つてゐたが、此女のそばにゐると、帰らないでも構はない様な気がする。病院ではかつて此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取つたが、今日けふは何ともない。茶を出したのを幸ひに縁側と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞きした。それは、自分の兄の野々宮がすきか嫌かと云ふ質問であつた。一寸ちよつと聞くと丸で頑是〔がんぜ〕ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可いけない。自分を研究すればする程、自分を可愛かあいがる度はるのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究ずきあにが、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、あには日本中で一番い人に違ないと云ふ結論であつた。
 三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又何所どこけてゐる様な気がしたが、〔さて〕何所どこけてゐるんだか、あたまがぼんやりして、一寸ちよつとわからなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹のなかで、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。
 三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書がてゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄〔い〕らつしやい。美禰子」
 其字が、野々宮さんの隠袋ぽつけつとから半分み出してゐた封筒の上書うはがきに似てゐるので、三四郎は何遍もなほして見た。

五の四


 翌日は日曜である。三四郎は午飯ひるめしを済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、ひかつた靴を穿いてゐる。静かな横町を広田先生の前迄ると、人声がする。
 先生のいへは門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目かなめ垣のあひだに見えるさんはづさうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。
「そんな事をすれば、地面のうへへ落ちて死ぬばかりだ」是は男の声である。
「死んでも、その方がいと思ひます」是は女の答である。
「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」
「残酷な事を〔おっ〕しやる」
 三四郎は此所こゝで木戸を開けた。庭の真中に立つてゐた会話の主は二人ふたりとも此方こつちを見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、あたま首肯うなづかせた丈である。あたまに新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、
端書はがき何時いつ頃着きましたか」と聞いた。二人ふたりの今迄つてゐた会話は、これで中絶した。
 縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学をいてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。そばによし子がゐる。両手を後ろへいて、身体からだくうたせながら、ばした足に穿いた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。
 主人は雑誌をげ出した。
「では行くかな。とう/\引り出された」
「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人ふたりで顔を見合せて、ひとに知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人ふたりつゞいた。
せいが高いのね」と美禰子があとから云つた。
「のつぽ」とよし子が一言ひとこと答へた。門のわきで並んだ時、「だから、なりたけ草履を穿くの」と弁解をした。三四郎もつゞいて、庭を出様とすると、二階の障子ががらりといた。与次郎が手欄てすりの所迄出て来た。
「行くのか」と聞く。
「うん、君は」
かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」
「一所に行かう。うちに居たつて仕様がないぢやないか」
「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々なか/\それどころぢやない」
 三四郎はあきれ返つた様な笑ひ方をして、四人のあとを追掛た。四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である。此一団の影を高い空気のしたに認めた時、三四郎は自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。かつて考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野はなのの如く明かである。さうして三四郎のあたまのなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時いつにか、自然と此経緯よこたてのなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所どこかに落ち付かない所がある。それが不安である。あるきながら考へると、いまさきにはのうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄〔だんぺい〕が近因である。三四郎は此不安の念をる為めに、二人ふたりの談柄を再び剔抉ほぢくり出して見たい気がした。
 四人は既にまがり角へた。四人とも足をめて、振り返つた。美禰子は額に手をかざしてゐる。

五の五


 三四郎は一ぷんかゝらぬうちに追付いた。追付いてもだれも何とも云はない。只あるした丈である。しばらくすると、美禰子が、
「野々宮さんは、理学者だから、なほそんな事を仰しやるんでせう」と云ひした。話しのつゞきらしい。
「なにらなくつても同じ事です。高く飛ばうと云ふには、飛べる丈の装置を考へたうへでなければ出来ないに極つてゐる。あたまの方がさきるに違ないぢやありませんか」
「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」
「我慢しなければ、死ぬ許ですもの」
「さうすると安全で地面のうへに立つてゐるのが一番い事になりますね。何だか詰らない様だ」
 野々宮さんは返事をめて、広田先生の方を向いたが、
「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると広田先生が、
「男子の弊は却つて純粋の詩人になりれない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれでだまつた。よし子と美禰子は何か御互の話を始める。三四郎は漸く質問の機会を得た。
「今のは何の御話しなんですか」
「なに空中飛行器の事です」と野々宮さんが無造作に云つた。三四郎は落語のおちを聞く様な気がした。
 それからは別段の会話もなかつた。又長い会話が出来かねる程、人がぞろ/\あるところた。おほ観音の前に乞食こじきが居る。ひたひり付けて、大きな声をのべつにして、哀願を〔たくま〕しうしてゐる。時々とき/″\顔をげると、ひたひの所丈がすなしろくなつてゐる。だれかへりみるものがない。五人も平気で行きぎた。五六間もた時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。
「君あの乞食こじきぜにりましたか」
「いゝえ」と三四郎があとを見ると、例の乞食は、しろひたひしたで両手をあはせて、相変らず大きな声をしてゐる。
る気にならないわね」とよし子がすぐに云つた。
何故なぜ」とよし子のあには妹を見た。たしなめる程に強い言葉でもなかつた。野々宮の顔付かほつきは寧ろ冷静である。
「あゝ始終いてちや、ばえがしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。
「いえ場所がわるいからだ」と今度は広田先生が云つた。「あまり人通りが多ぎるから不可いけない。山の上の淋しい所で、あゝいふ男につたら、だれでもる気になるんだよ」
「其代り一日いちにちつてゐても、だれも通らないかも知れない」と野々宮はくす/\笑ひ出した。
 三四郎は四人の乞食こじきに対する批評を聞いて、自分が今日迄養成した徳義上の観念を幾分か傷けられる様な気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭もげてやる料簡が起らなかつたのみならず、実を云へば、寧ろ不愉快な感じが募つた事実を反省して見ると、自分よりも是等四人の方が却つて己れにまことであると思ひ付いた。又彼等は己れにまことであり得る程な広い天地のしたに呼吸する都会人種であるといふ事を悟つた。

五の六


 行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人ひとり迷子まひごに出逢つた。七つ許りの女の子である。きながら、人のそでしたを右へつたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御ばあさん、御ばあさんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ちどまるものもある。可哀想だといふものもある。然しだれも手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情をきつゝ、しきりに泣きさけんで御婆さんをさがしてゐる。不可思議の現象である。
「これも場所がわる所為せゐぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。
「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。
わたしそばれば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。
「ぢや、追掛おつかけつて、れてくがいゝ」とあにが注意した。
追掛おつかけるのはいや
何故なぜ
何故なぜつて――こんなに大勢おほぜいひとがゐるんですもの。わたしかぎつた事はないわ」
「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。
「矢っ張り場所がわるいんだ」と野々宮がいふ。男は二人ふたりで笑つた。団子坂のうへると、交番の前へ人が黒山くろやまの様にたかつてゐる。迷子まひごはとう/\巡査の手に渡つたのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあかつた」といふ。
 坂の上から見ると、坂はまがつてゐる。かたな切先きつさきの様である。幅は無論狭い。右側の二階だてが左側の高い小屋こやの前を半分遮ぎつてゐる。其うしろには又高いのぼりが何本となく立ててある。ひとは急に谷底たにそこへ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、がるものと入り乱れて、みち一杯にふさがつてゐるから、谷の底にあたる所ははゞをつくして異様に動く。見てゐるとつかれるほど不規則にうごめいてゐる。広田先生は此坂のうへに立つて、
「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入はいつた。其たにが途中からだら/\とむかふまはり込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛よしずがけの小屋を、狭い両側から高く構へたので、そらさへ存外窮屈に見える。往来はくらくなる迄込み合つてゐる。其中そのなかで木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形からる声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。
 一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物をてゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形のしんに、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間すきまなく衣装の恰好となる様に作つたものである。
 よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎はほか見物けんぶつへだてられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎よりさきにゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間そのあひだに立つて、振り返つた。くびばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄てすりから出して、菊の根をしながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又むかふをむいた。見物に押されて、さつさと出口でぐちの方へ行く。三四郎は群集〔くん〕じゆ[#ルビの「〔くん〕じゆ」はママ]を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子のあとを追つて行つた。

五の七


 漸くの事で、美禰子のそばて、
「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄てすりに手を突いて、心持こゝろもちくびもどして、三四郎を見た。何とも云はない。手欄てすりのなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧をした男が、瓢簟を持つて、滝壺のそばかゞんでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかつた。
「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を〔さ〕物憂ものうさうに三四郎のひたひうへに据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼ふたへまぶたに不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、れいつかれがある。にくゆるみがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを予期しつゝある今の場合を忘れて、此ひとみと此まぶたの間に凡てを遺却した。すると、美禰子は云つた。
「もうませう」
 ひとみまぶたの距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従つて、三四郎の心には女のためなければ済まない気がきざしてた。それが頂点に達した頃、女はくびげる様に向ふをむいた。手を青竹の手欄てすりからはなして、出口でぐちの方へあるいて行く。三四郎はすぐあとからいてた。
 二人ふたりが表てゞならんだ時、美禰子は俯向うつむいて右の手をひたひてた。周は人がうづいてゐる。三四郎は女の耳へくちを寄せた。
「どうかしましたか」
 女は人込ひとごみのなかを谷中やなかの方へあるした。三四郎も無論一所にあるき出した。半町ばかりた時、女はひとなかで留つた。
此所こゝ何所どこでせう」
此方こつちへ行くと谷中やなかの天王寺の方へて仕舞ひます。かへみちとは丸で反対です」
「さう。わたくし心持こゝろもちわるくつて……」
 三四郎は往来の真中まんなかたすけなき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。
何所どこしづかな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中やなかと千駄木がたにで出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、まちを左りへ切れるとすぐ野にる。かはは真直に北へ通つてゐる。三四郎は東京へてから何遍此小川の向側をあるいて、何遍此方こちら側をあるいたか善く覚えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此小川が、丁度谷中やなかの町を横切よこぎつて根津へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかりあるけますか」と美禰子に聞いて見た。
あるきます」
 二人ふたりはすぐ石橋いしばしを渡つて、左へ折れた。ひといへ路次ろじの様な所を十間程行き尽して、門の手前から板橋を此方側こちらがはへ渡り返して、しばらくかはふちのぼると、もう人は通らない。広い野である。
 三四郎は此静かな秋のなかへたら、急に※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、411-6]り出した。
「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢おほぜいゐた所為せゐでせう。あの人形を見てゐる連中のうちには随分下等なのがゐた様だから――何か失礼でもしましたか」
 女はだまつてゐる。やがてかはの流れから、眼をげて、三四郎を見た。二重瞼ふたへまぶたにはつきりとりがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。
難有〔ありがと〕う、大分くなりました」と云ふ。
「休みませうか」
「えゝ」
「もう少しあるけますか」
「えゝ」
あるければ、もうすこし御あるきなさい。此所こゝきたない。彼所あすこ迄行くと丁度休むにい場所があるから」
「えゝ」

五の八


 一丁ばかりた。又橋がある。一尺に足らない古板ふるいたを造なく渡した上を、三四郎は大またあるいた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎のには、女の足がつねの大地を踏むと同じ様に軽く見えた。此女は素直すなほな足を真直まつすぐに前へはこぶ。わざと女らしくあまへたあるかたをしない。従つて無暗に此方こつちから手を貸す訳に行かない。
 向ふに藁屋根がある。屋根のしたが一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子を干したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄とまつた。
うつくしい事」と云ひながら、草のうへに腰をおろした。草は小河のふちに僅かなはばえてゐるのみである。夫すら夏のなかばの様に青くはない。美禰子は派出な着物きものよごれるのを、丸で苦にしてゐない。
「もう少しあるけませんか」と三四郎は立ちながら、促がす様に云つて見た。
難有〔ありがと〕う。是で沢山」
「矢っ張り心持がわるいですか」
「あんまりつかれたから」
 三四郎もとう/\きたない草の上にすはつた。美禰子と三四郎のあひだは四尺ばかり離れてゐる。二人ふたりあししたにはちいさなかはが流れてゐる。秋になつて水が落ちたから浅い。かどた石のうへに鶺鴒が一羽とまつた位である。三四郎は水のなかながめてゐた。水が次第ににごつてる。見ると河上かはかみで百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは広い畠で、畠のさきが森で、森の上がそらになる。そらいろが段々変つてる。
 たゞ単調に澄んでゐたもののうちに、色が幾通りも出来できてきた。とほあゐが消える様に次第にうすくなる。其上に白い雲がにぶかさなりかゝる。かさなつたものが溶けてながす。何所どこきて、何所どこくもが始まるかわからない程にものううへを、心持こゝろもちな色がふうと一面にかゝつてゐる。
そらの色がにごりました」と美禰子が云つた。
 三四郎は流れからはなして、うへを見た。かう云ふそらの模様を見たのは始めてゞはない。けれどもそらにごつたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。気が付いて見ると、にごつたと形容するより外に形容しかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。
おもこと大理石マーブルの様に見えます」
 美禰子は二重瞼ふたへまぶたほそくして高い所をながめてゐた。それから、そのほそくなつた儘のしづかに三四郎の方に向けた。さうして、
大理石マーブルの様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、
「えゝ、大理石マーブルの様に見えます」と答へるよりほかはなかつた。女はそれでだまつた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。
「かう云ふそらしたにゐると、こゝろおもくなるが気は軽くなる」
「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。
 三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。
「安心して夢を見てゐる様なそら模様だ」
「動く様で、なか/\動きませんね」と美禰子は又遠くの雲をながした。

五の九


 菊人形で客を呼ぶ声が、折々二人ふたりすはつてゐる所迄聞える。
「随分大きな声ね」
あさから晩迄あゝ云ふ声をしてゐるんでせうか。えらいもんだな」と云つたが、三四郎は急に置きりにした三人さんにんの事を思ひした。何か云はうとしてゐるうちに、美禰子は答へた。
「商買ですもの。丁度おほ観音の乞食こじきおなじ事なんですよ」
「場所がわるくはないですか」
 三四郎は珍らしく冗談を云つて、さうして一人ひとりで面白さうに笑つた。乞食に就て下した広田の言葉を余程可笑〔おか〕しく受けたからである。
「広田先生は、よく、あゝ云ふ事をおつしやるかたなんですよ」と極めて軽く独りごとの様に云つたあとで、急に調子をへて、
「かう云ふ所に、かうしてすはつてゐたら、大丈夫及第よ」と比較的活溌に付け加へた。さうして、今度は自分の方で面白さうに笑つた。
「成程野々宮さんの云つた通り、何時いつ迄待つてゐてもだれも通りさうもありませんね」
「丁度いぢやありませんか」と早口はやくちに云つたが、あとで「御もらひをしない乞食なんだから」と結んだ。是は前句の解釈の為めに付けた様に聞えた。
 所へ知らんひとが突然あらはれた。唐辛子のしてあるいへかげからて、何時いつにか河を向へ渡つたものと見える。二人ふたりすはつてゐる方へ段々だん/\近付いてる。洋服をひげやして、年輩から云ふと広田先生位な男である。此男が二人ふたりの前へ来た時、かほをぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめ付けた。其のうちにはあきらかに憎悪ぞうおの色がある。三四郎はじつすはつてゐにくい程な束縛そくばくを感じた。男はやがて行きぎた。其うしろ影を見送りながら、三四郎は、
「広田先生や野々宮さんはさぞあとで僕等をさがしたでせう」と始めて気が付いた様に云つた。美禰子はむしひやゝかである。
「なに大丈夫よ。大きな迷子まひごですもの」
迷子まひごだからさがしたでせう」と三四郎は矢張り前説を主張した。すると美禰子は、なほ冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、丁度いでせう」
「誰が? 広田先生がですか」
 美禰子は答へなかつた。
「野々宮さんがですか」
 美禰子は矢っ張り答へなかつた。
「もう気分はくなりましたか。くなつたら、そろ/\帰りませうか」
 美禰子は三四郎を見た。三四郎はげかけたこしを又草のうへおろした。其時三四郎は此女にはとてもかなはない様な気が何所どこかでした。同時に自分のはら見抜みぬかれたといふ自覚にともなふ一種のくつ辱をかすかに感じた。
迷子まひご
 女は三四郎を見た儘で此一言ひとこと繰返くりかへした。三四郎は答へなかつた。
迷子まひごの英訳を知つて〔い〕らしつて」
 三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此とひを予期してゐなかつた。
「教へてげませうか」
「えゝ」
迷へる子ストレイ、シープ――わかつて?」

五の十


 三四郎は〔こ〕う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、あたまひやゝかに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へばかつた、うすればかつたと後悔する。と云つて、此後悔を予期よきして、無理に応急の返事を、左も自然らしく得意にき散らす程に軽薄ではなかつた。だからたゞだまつてゐる。さうしてだまつてゐる事が如何にも半間はんまであると自覚してゐる。
 迷へる子ストレイ、シープといふ言葉はわかつた様でもある。又わからない様でもある。わかわからないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使つかつた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に真面目まじめになつた。
わたくしそんなになま意気に見えますか」
 其調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧のなかにゐた。霧が晴れゝばいと思つてゐた。此言葉できりが晴れた。明瞭な女がて来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとの様な、――二人ふたりあたまうへひろがつてゐる、澄むとも濁るとも片付かたづかないそらの様な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位でもどせるものではないと思つた。女は卒然として、
「ぢや、もう帰りませう」と云つた。厭味いやみのある言ひかたではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものとあきらめた様にしづかな口調であつた。
 そらは又かはつてた。風が遠くから吹いてくる。広いはたけうへには日がかぎつて、見てゐると、寒い程淋しい。くさからあがる地意気ぢいき身体からだえてゐた。気が付けば、こんな所に、よく今迄べつとりすはつて居られたものだと思ふ。自分一人ひとりならとうに何所どこかへつて仕舞つたにちがひない。美禰子も――美禰子はこんな所へすはる女かも知れない。
「少しむくなつた様ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し気分はもう悉皆すつかりなほりましたか」
「えゝ、悉皆すつかりなほりました」とあきらかに答へたが、〔にわ〕かに立ちがつた。立ちがる時、小さな声で、独りごとの様に、
迷へる子ストレイ、シープ」と長く引つつて云つた。三四郎は無論答へなかつた。
 美禰子は、さつき洋服を着た男の出てた方角をして、みちがあるなら、あの唐辛子のそばを通つて行きたいといふ。二人ふたりは、その見当へあるいて行つた。藁葺わらぶきうしろに果してほそい三尺程のみちがあつた。其みちを半分程た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へる事にきまつたんですか」
 女は片頬かたほゝで笑つた。さうして問返した。
何故なぜ御聞きになるの」
 三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘ぬかるみがあつた。四尺許りの所、土がへこんで水がぴた/\にたまつてゐる。其真中まんなかに足掛りの為に手頃てごろな石を置いたものがある。三四郎は石のたすけらずに、すぐに向へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘ぬかるみ真中まんなかにある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりくない。あしへ力を入れて、肩をゆすつて調子を取つてゐる。三四郎は此方側こちらがはから手を出した。
御捕おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にあるみぎの足に、身体からだの重みを托して、左の足でひらりと此方側こちらがはへ渡つた。あまりに下駄をよごすまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰がいた。のめりさうに胸が前へ出る。其いきほいで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
迷へる子ストレイ、シープ」と美禰子がくちうちで云つた。三四郎は其呼吸いきを感ずる事が出来た。

六の一


 号鐘ベルつて、講師は教室からて行つた。三四郎は印気いんきの着いた洋筆ペンつて、帳面ノートせ様とした。すると隣りにゐた与次郎が声を掛けた。
「おい一寸ちよつとせ。おとした所がある」
 与次郎は三四郎の帳面ノートを引き寄せてうへから覗き込んだ。strayストレイ sheepシープ といふ字が無暗〔むやみ〕にかいてある。
なんだこれは」
「講義を筆記するのがいやになつたから、いたづらを書いてゐた」
「さう不勉強では不可いかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか云つたな」
「どうだとか云つた」
「聞いてゐなかつたのか」
「いゝや」
「全然 strayストレイ sheepシープ だ。仕方がない」
 与次郎は自分の帳面ノートかゝへて立ちがつた、机の前を離れながら、三四郎に、
「おい一寸ちよつとい」と云ふ。三四郎は与次郎にいて教室を出た。階子段をりて、玄関前の草原へた。大きな桜がある。二人ふたりは其したに坐つた。
 此所こゝは夏の初めになると苜蓿うまこやしが一面に生える。与次郎が入学願書を持つて事務へた時に、此桜のした二人ふたりの学生が寐転ねころんでゐた。其一人ひとり一人ひとりに向つて、口答試験を都々逸で負けて置いて呉れると、いくらでもうたつて見せるがなと云ふと、一人ひとり声で、〔すい〕〔さば〕きの博士の前で、こひの試験がして見たいとうたつてゐた。其時から与次郎は此桜の木のしたすきになつて、何か事があると、三四郎を此所こゝへ引張りす。三四郎は其歴史を与次郎から聞いた時に、成程与次郎は俗謡で pity'sピチーズ loveラツヴ を訳す筈だと思つた。今日けふは然し与次郎が事の外真面目まじめである。草の上に胡坐あぐらをかくや否や、懐中から、文芸時評といふ雑誌をしてけた儘の一ページさかに三四郎の方へ向けた。
「どうだ」と云ふ。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇くらやみ」とある。したには零余子〔れいよし〕と雅号を使つかつてゐる。偉大なる暗闇くらやみとは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二三度聞かされたものである。然し零余子は全く知らん名である。どうだと云はれた時に、三四郎は、返事をする前提として一先づ与次郎の顔を見た。すると与次郎は何にも云はずに其扁平な顔を前へ出して、右の人ゆびさきで、自分の鼻のあたまを抑へてじつとしてゐる。向に立つてゐた一人ひとりの学生が、此様子を見てにや/\笑ひ出した。それに気が付いた与次郎は漸くゆびを鼻からはなした。
おれいたんだ」と云ふ。三四郎は成程さうかと悟つた。
「僕等が菊細工を見に行く時いてゐたのは、これか」
「いや、ありや、たつた二三日前ぢやないか。さう早く活版になつてたまるものか。あれは来月る。これは、ずつと前に書いたものだ。何を書いたものか標題で解るだらう」
「広田先生の事か」
「うん。かうして輿論〔よろん〕を喚起して置いてね。さうして、先生が大学に這入れる下地したぢつくる……」
「其雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」
 三四郎は雑誌の名前さへ知らなかつた。
「いや無勢力だから、実は困る」と与次郎は答へた。三四郎は微笑わらはざるを得なかつた。
「何部位売れるのか」
 与次郎は何部売れるとも云はない。
「まあいさ。ゝんより増しだ」と弁解してゐる。

六の二


 段々聞いて見ると、与次郎は従来から此雑誌に関係があつて、閑暇ひまさへあれば殆んど毎号筆を執つてゐるが、其代り雅名も毎号変へるから、二三の同人のほかれも知らないんだと云ふ。成程さうだらう。三四郎は今始めて、与次郎と文壇との交渉を聞いた位のものである。然し与次郎が何のために、悪戯いたづらに等しい慝名〔とくめい〕を用ひて、彼の所謂〔いわゆる〕大論文をひそかに公けにしつつあるか、其所そこが三四郎にはわからなかつた。
 幾分か小遣取こづかひどりの積で、つてゐる仕事かと無遠慮に尋ねた時、与次郎はまるくした。
「君は九州の田舎から出た許だから、中央文壇の趨勢を知らない為に、そんな呑気な事を云ふのだらう。今の思想界の中心に居て、その動揺のはげしい有様を目撃しながら、考のあるものが知らん顔をしてゐられるものか。実際今日こんにちの文けんは全く※(二の字点、1-2-22)われ/\青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云へる丈云はなけりや損ぢやないか。文壇は急転直下の勢で目覚しい革命を受けてゐる。凡てが悉く〔うご〕いて、新気運に向つて行くんだから、取り残されちや大変だ。進んで自分から此気運を〔こし〕らへげなくつちや、生きてる甲斐はない。文学々々つてやすつぽい様に云ふが、そりや大学なんかで聞く文学の事だ。新らしい吾々の所謂〔いわゆる〕文学は、人生そのものゝ大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。又現にしつゝある。彼等が昼寐をして夢を見てゐるに、何時いつか影響しつゝある。恐ろしいものだ。……」
 三四郎はだまつて聞いてゐた。少し法螺の様な気がする。然し法螺でも与次郎は中々熱心に吹いてゐる。すくなくとも当人丈は至極真面目らしく見える。三四郎は大分動かされた。
「さう云ふ精神でやつてゐるのか。では君は原稿料なんか、どうでも構はんのだつたな」
「いや、原稿料は取るよ。取れる丈取る。然し雑誌が売れないから中々こさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないと不可いけない。何かい趣向はないだらうか」と今度は三四郎に相談を掛けた。はなしが急に実際問題に落ちて仕舞つた。三四郎は妙な心持がする。与次郎は平気である。号鐘ベルが烈しく鳴り出した。
「兎も角此雑誌を一部君にやるから読んで見てくれ。偉大なる暗闇くらやみと云ふ題が面白いだらう。此だいなら人が驚ろくに極つてゐる。――驚ろかせないと読まないから駄目だ」
 二人ふたりは玄関をのぼつて、教室へ這入つて、机に着いた。やがて先生がる。二人ふたりとも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇くらやみ」が気にかかるので、帳面ノートわきに文芸時評をけた儘、筆記の相間あひま々々に、先生に知れない様に読み出した。先生は幸ひ近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没してゐる。三四郎の不心得ふこゝろえには丸で関係しない。三四郎はい気になつて、此方こつちを筆記したり、彼方あつちを読んだりして行つたが、もと/\二人ふたりでする事を一人ひとりねる無理な芸だから仕舞には「偉大なる暗闇くらやみ」も講義の筆記も双方ともに関係が解からなくなつた。たゞ与次郎の文章が一句丈判然はつきりあたまへ這入つた。
「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。又此宝石が採掘の運に逢ふ迄に、幾年の星霜をしづかにかゞやいてゐたか」といふ句である。其他は不得要領に終つた。其代り此時間には stray sheepストレイ、シープ といふ字を一つもかずに済んだ。

六の三


 講義が終るや否や、与次郎は三四郎に向つて、
「どうだ」と聞いた。実はまだ善く読まないと答へると、時間の経済を知らない男だといつて非難した。是非読めといふ。三四郎はうちへ帰つて是非読むと約束した。やがてひるになつた。二人ふたりつて門を出た。
「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入はいる横町のかどどまつた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひして、行く積りだと答へると、与次郎は、
る前に一寸ちよつとさそつて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。みゝうしろ洋筆軸ペンじくはさんでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。
 下宿へ帰つて、湯に入つて、好い心持になつてがつて見ると、机のうへに絵端書がある。小川おがはいて、草をもぢや/\やして、其縁そのふちひつじを二匹かして、其向ふがはに大きな男が洋杖ステツキを持つて立つてゐる所を写したものである。男のかほが甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)したもので、念の為め、そばにちやんとデ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルと仮名が振つてある。表は三四郎の宛名のしたに、迷へる子とちいさくいた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書はがきうらに、迷へる子を二匹いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だうれしく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子のおもはくであつたと見える。美禰子の使つた strayストレイ sheepシープ の意味がこれで漸く判然した。
 与次郎に約束した「偉大なる暗闇くらやみ」を読まうと思ふが、一寸ちよつと読む気にならない。しきりに絵端書を眺めて考へた。イソツプにもない様な滑稽趣味がある。無邪気にも見える。洒落でもある。さうして凡てのしたに、三四郎の心を動かすあるものがある。
 手際てぎはから云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる。よし子のいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。
 しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇くらやみ」を読み出した。実はふわ/\して読み出したのであるが、二三頁ると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず/\のに、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後さいごの一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。を雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた。
 然しつぎの瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑おかしい位何にもない。たゞ大いに〔か〕〔さか〕んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。
 論文は現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒してゐる。早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる。尤も人がなければ仕方がないが、こゝに広田先生がある。先生は十年一日の如く高等学校に教鞭を執つて、薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻〔こうふん〕と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。
 そのなかには「禿はげを自慢にするものは老人に限る」とか「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ーナスはなみから生れたが、活眼の士は大学から生れない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月くらげを田子の浦の名産と考へる様なものだ」とか色々面白い句が沢山ある。然しそれよりほかに何にもない。殊に妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇くらやみ〔たと〕へた序に、ほかの学者を丸行燈に比較して、たか/″\方二尺位の所をぼんやり照らすに過ぎない抔と、自分が広田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間このあひだの通りわざ/\断わつてある。

六の四


 〔よ〕く考へて見ると、与次郎の論文には活気がある。如何にも自分一人ひとりで新日本を代表してゐる様であるから、読んでゐるうちは、つい其気になる。けれども全くがない。根拠地のない戦争の様なものである。のみならずわるく解釈すると、政略的の意味もあるかも知れない書方かきかたである。田舎ものの三四郎にはてつきり其所そこ気取けどる事は出来なかつたが、たゞ読んだあとで、自分の心をさぐつて見て何所どこかに不満足がある様に覚えた。また美禰子の絵端書を取つて、二匹の羊と例の悪魔※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)を眺め出した。すると、此方こつちのほうは万事が快感である。此快感につれて前の不満足は益いちぢるしくなつた。それで論文の事はそれぎり考へなくなつた。美禰子に返事をらうと思ふ。不幸にして絵がかけない。文章にしやうと思ふ。文章なら此絵端書に匹敵する文句でなくつては不可いけない。それは容易に思ひけない。愚図々々してゐるうちに四時過になつた。
 袴を着けて、与次郎をさそひに、西片町へ行く。勝手ぐちから這入ると、茶のに、広田先生が小さな食卓を控へて、晩食ばんめしを食つてゐた。そばに与次郎がかしこまつて御給仕をしてゐる。
「先生うですか」と聞いてゐる。
 先生は何かかたいものを頬張つたらしい。食卓のうへを見ると、たもと時計程な大きさの、赤くつて黒くつて、げたものが十ばかり皿のなかに並んでゐる。
 三四郎は座に着いた。礼をする。先生はくちをもが/\させる。
「おい君も一つつて見ろ」と与次郎がはしつまんでした。てのひらへ載せて見ると、馬鹿貝の剥身むきみしたのをつけやきにしたのである。
「妙なものをふな」と聞くと、
「妙なものつて、うまいぜつて見ろ。これはね、僕がわざ/\先生に見舞みやげに買つてたんだ。先生はまだ、これをつた事がないとおつしやる」
何所どこから」
「日本橋から」
 三四郎は可笑おかしくなつた。かう云ふ所になると、さつきの論文の調子とは少し違ふ。
「先生、どうです」
かたいね」
かたいけれどもうまいでせう。よくまなくつちや不可いけません。むとあぢる」
あぢる迄んでゐちや、が疲れて仕舞ふ。何でこんな古風なものを買つてたものかな」
不可いけませんか。こりや、ことによると先生には駄目かも知れない。里見の美禰子さんならいだらう」
何故なぜ」と三四郎が聞いた。
「あゝ落ち付いてゐりや、あぢる迄屹度んでるに違ない」
「あの女は落ち付いて居て、乱暴だ」と広田が云つた。
「えゝ乱暴です。イブセンの女の様な所がある」
「イブセンの女は露骨だが、あの女はしんが乱暴だ。尤も乱暴と云つても、普通の乱暴とは意味がちがふが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、矢っ張り女らしい。妙なものだね」
「里見のは乱暴の内訌〔ないこう〕ですか」
 三四郎は黙つて二人ふたりの批評を聞いてゐた。何方どつちの批評も腑に落ちない。乱暴といふ言葉が、どうして美禰子の上に使つかへるか、それからが第一不思議であつた。

六の五


 与次郎はやがて、はかま穿いて、改まつて出てて、
一寸ちよつとつて参ります」と云ふ。先生はだまつて茶を飲んでゐる。二人ふたりは表へた。おもてはもうくらい。門を離れて二三間ると、三四郎はすぐ話しかけた。
「先生は里見の御嬢さんを乱暴だと云つたね」
「うん。先生は勝手な事をいふ人だから、時と場合によると何でも云ふ。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女に於る知識は恐らくれいだらう。ラツヴをした事がないものに女がわかるものか」
「先生はそれでいとして、君は先生の説に賛成したぢやないか」
「うん乱暴だと云つた。何是なぜ
う云ふ所を乱暴と云ふのか」
う云ふ所も、〔こ〕う云ふ所もありやしない。現代の女性はみんな乱暴に極つてる。あの女ばかりぢやない」
「君はあの人をイブセンの人物に似てゐると云つたぢやないか」
「云つた」
「イブセンのだれに似て居る積なのか」
だれつて……似てゐるよ」
 三四郎は無論納得しない。然し追窮もしない。だまつて一間〔ばかり〕あるいた。すると突然与次郎がかう云つた。
「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御嬢さん許ぢやない、今の一般の女性はみんな似てゐる。女性ばかりぢやない。〔いや〕しくも新らしい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似た所がある。たゞ男も女もイブセンの様に自由行動を取らない丈だ。腹のなかでは大抵かぶれてゐる」
「僕はあんまり、かぶれてゐない」
「ゐないとみづか〔あざ〕むいてゐるのだ。――どんな社会だつて陥欠のない社会はあるまい」
「それはいだらう」
「無いとすれば、そのなかに生息してゐる動物は何所どこかに不足をかんじる訳だ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠を尤も明らかに感じたものだ。吾々も追々あゝつてる」
「君はさう思ふか」
「僕ばかりぢやない。具眼の士はみんなさう思つてゐる」
「君のうちの先生もそんな考か」
「うちの先生? 先生はわからない」
「だつて、先刻さつき里見さんを評して、落ち付いてゐて乱暴だと云つたぢやないか。それを解釈して見ると、周囲に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何所どこかに不足があるから、そこの方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」
「成程。――先生はえらい所があるよ。あゝいふ所へ行くと矢っ張りえらい」と与次郎は急に広田先生をめ出した。三四郎は美禰子の性格に就てもう少し議論の歩を進めたかつたのだが、与次郎の此一言で全くはぐらかされて仕舞つた。すると与次郎が云つた。
「実は今日けふ君に用があると云つたのはね。――うん、夫より前に、君あの偉大なる暗闇くらやみを読んだか。あれを読んで置かないと僕の用事があたまへ這入りにくい」
今日けふあれからうちへ帰つてんだ」
「どうだ」
「先生は何と云つた」
「先生は読むものかね。丸で知りやしない」
「さうさな。面白い事は面白いが、――何だか腹のたしにならない麦酒ビールを飲んだ様だね」
「それで沢山だ。読んで景気が付きさへすればい。だから慝名にしてある。どうせ今は準備時代だ。かうして置いて、丁度〔い〕い時分に、本名を名乗つてる。――それそれとして、先刻さつきの用事を話して置かう」

六の六


 与次郎の用事といふのはうである。――今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可いけないんださうだ。不振は事実であるからほかのものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢おほぜい一所に挽回策を講ずる事となる。何しろ適当な日本人を一人ひとり大学へ入れるのが急務だと云ひす。みんなが賛成する。当然だから賛成するのは無論だ。次にだれからうといふ相談に移る。其時広田先生の名を持ち出す。其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふはなしである。さうしないと、与次郎が広田の食客ゐさうらふだといふ事を知つてゐるものがうたがひを起さないとも限らない。自分はげん食客ゐさうらふなんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済まん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人ひとりでも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべく※舌しやべ[#「口+堯」、U+5635、435-4]るに〔し〕くはないとの意見である。偖愈〔さていよいよ〕衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く。尤も今夜中に其所迄そこまでは運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其辺は臨機応変である。……
 与次郎は頗る能弁である。惜しい事に其能弁がつる/\してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目まじめに講釈してゐるかと疑はれる。けれども本来が性質たちい運動だから、三四郎も大体のうへに於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた。其時与次郎は往来の真中まんなかへ立ち留つた。二人ふたりは丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる。
「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力じんりよくで装置をする丈だ。自然に背いた没分暁〔ぼつぶんぎょう〕の事を企てるのとはたちが違ふ。細工だつて構はん。細工がわるいのではない。わるい細工がわるいのだ」
 三四郎はぐうのなかつた。何だか文句がある様だけれども、くちて来ない。与次郎の言草いひぐさのうちで、自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然はつきりあたまうつつてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。
「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べてあるした。正門を這入ると、急にまへが広くなる。大きな建物が所々ところ/″\に黒く立つてゐる。其屋根やね判然はつきり尽きるところからあきらかなそらになる。星が〔おびただ〕しく多い。
「うつくしいそらだ」と三四郎が云つた。与次郎もそらを見ながら、一間〔ばかり〕あるいた。突然、
「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しのつゞきかと思つて、「なんだ」と答へた。
「君、かう云ふそらを見てんな感じを起す」
 与次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎はだまつてゐた。
「詰らんなあ我々は。あしたから、〔こ〕んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」
何故なぜ急にそんな事を云ひしたのか」
「此そらを見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」
 三四郎は即答が出来なかつた。
「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が云つた。
「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると与次郎が大きな声で笑ひ出した。静かなよるなかで大変高く聞える。
「知りもしない癖に。知りもしない癖に」
 三四郎は憮然としてゐた。
明日あすい天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山る。是非見にくるがいゝ」
 くらなか二人ふたりは学生集会所の前迄た。なかには電燈が輝やいてゐる。

六の七


 木造もくぞうの廊下をまはつて、部屋へやへ這入ると、早くたものは、もうかたまつてゐる。其かたまりが大きいのとちいさいのとあはせて三つ程ある。なかには無言で備付そなへつけの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。はなし方々ほう/″\に聞える。話のかずかたまりの数より多い様に思はれる。然し割合に落付いて静かである。烟草たばこけむりの方が猛烈に立ちのぼる。
 其中そのうちだん/\つてる。黒いかげやみなかから吹きさらしの廊下のうへへ、ぽつりと現はれると、それが一人ひとり々々にあかるくなつて、部屋のなかへ這入つてる。ときには五六人つゞけて、あかるくなる事もある。やがて人数はほゞ揃つた。
 与次郎は、さつきから、烟草のけむりのなかを、しきりに彼方此方あちこちと往来してゐた。く所で何か小声にはなしてゐる。三四郎は、そろ/\運動を始めたなと思つて眺めて居た。
 しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出来てゐた。みんな、ごた/\に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。
 三四郎は熊本で赤酒許あかざけばかり飲んでゐた。赤酒あかざけといふのは、ところ出来できる下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒あかざけを呑む。それが当然と心得てゐる。たま/\飲食店へがれば牛肉屋である。その牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある。学生は皿に盛つた肉を手攫てづかみにして、座敷のかべたゝき付ける。落ちれば牛肉で、貼付ひつつけば馬肉だといふ。丸でまじなひ見た様な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。よろこんで肉刀ナイフ肉叉フオークを動かしてゐた。其あひだには麦酒ビールをさかんに飲んだ。
「学生集会所の料理は不味まづいですね」と三四郎の隣りに坐つた男が話しかけた。此男はあたまを坊主に刈つて、金縁きんぶち眼鏡めがねを掛けた大人しい学生であつた。
「さうですな」と三四郎はなま返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者いなかものには非常にうまいと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えるとわるいと思つて已めにした。すると其男が、
「君は何所どこの高等学校ですか」と聞き出した。
「熊本です」
「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」
「野蛮な所です」
 二人ふたりが話してゐると、むかふの方で、急に高い声がし出した。見ると与次郎が隣席の二三にんを相手に、しきりに何か弁じてゐる。時々とき/″\ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し与次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひす。与次郎は益得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向にすはつてゐた色の白い品のい学生が、しばらく肉刀ナイフの手をめて、与次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながら、Ilイル a le diableデイアブル auオー corpsコル(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西〔フランス〕語を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時麦酒ビール洋盃コツプが四つばかり一度に高くがつた。得意さうに祝盃を挙げてゐる。
「あの人は大変賑やかな人ですね」と三四郎のとなりの金縁眼鏡を掛けた学生が云つた。
「えゝ。よく※舌しやべり[#「口+堯」、U+5635、439-14]ます」
「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然て君淀見軒へ行かうつて、とう/\引張つて行つて……」
 学生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。

六の八


 やがて※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)〔コーヒー〕る。一人ひとりが椅子を離れて立つた。与次郎がはげしく手をたゝくと、ほかのものも〔たちま〕ち調子を合せた。
 立つたものは、新らしい黒の制服を着て、鼻のしたにもうひげやしてゐる。せいが頗る高い。立つには恰好のい男である。演説めいた事を始めた。
 我々が今夜此所こゝへ寄つて、懇親の為めに、一夕の歓をつくすのは、それ自身に於て愉快な事であるが、此懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じ得ると偶然ながら気が付いたら自分は立ちたくなつた。此会合は麦酒ビールに始つて※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)に終つてゐる。全く普通の会合である。然し此麦酒ビールを飲んで※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其麦酒ビールを飲み始めてから※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)を飲み終る迄の間に既に自己の運命の膨脹を自覚し得た。
 政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単に是等の表面にあらはれ易い事実の為めに専有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。
 吾々はふるき日本の圧迫に堪へ得ぬ青年である。同時に新らしき西洋の圧迫にも堪へ得ぬ青年であるといふ事を、世間に発表せねば居られぬ状況のもとに生きて居る。新らしき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸のうへに於ても、我等新時代の青年に取つては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である。
 我々は西洋の文芸を研究するものである。然し研究は何所どこ迄も研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に〔がっ〕せざる文芸は如何なる威圧のもとに強ひらるゝとも学ぶ事を〔あえ〕てせざるの自信と決心とを有して居る。
 我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つてゐる。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々は此意味に於て文芸を研究し、此意味に於て如上〔じょじょう〕の自信と決心とを有し、此意味に於て今夕の会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。
 社会は烈しくうごきつゝある。社会の産物たる文芸もまた揺きつゝある。うごいきほひに乗じて、我々の理想通りに文芸を導くためには、零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕の麦酒ビール※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)は、かゝる隠れたる目的を、一歩まへに進めた点に於て、普通の麦酒ビール※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)よりも百倍以上の価ある貴とき麦酒と※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)である。
 演説の意味はざつと〔こ〕んなものである。演説が済んだ時、席に在つた学生は悉く喝采した。三四郎は尤も熱心なる喝采者の一人ひとりであつた。すると与次郎が突然立つた。
「ダーターフアブラ、沙翁シエクスピヤの使つた字数じかずが何万字だの、イブセンの白髪しらがかずが何千ぼんだのと云つてたつて仕方がない。尤もそんな馬鹿げた講義を聞いたつて囚はれる気づかひはないから大丈夫だが、大学に気の毒で不可いけない。どうしても新時代の青年を満足させる様な人間を引張つてなくつちや。西洋人ぢや駄目だ。第一幅が利かない。……」
 満堂は又悉く喝采した。さうして悉く笑つた。与次郎の隣りにゐたものが、
「ダーターフアブラの為に祝盃を挙げやう」と云ひ出した。さつき演説をした学生がすぐに賛成した。生憎麦酒ビールがみなからである。よろしいと云つて与次郎はすぐ台所の方へ馳けて行つた。給仕が酒を持つて出る。祝盃を挙げるや否や、
「もう一つ。今度は偉大なる暗闇くらやみの為に」と云つたものがある。与次郎の周囲にゐたものは声を合して、アハヽヽヽと笑つた。与次郎はあたまいてゐる。
 散会の時刻がて、若い男がみなくらよるなかに散つた時に、三四郎が与次郎に聞いた。
「ダーターフアブラとは何の事だ」
希臘ギリシヤ語だ」
 与次郎はそれよりほかに答へなかつた。三四郎も夫よりほかに聞かなかつた。二人ふたりうつくしいそらを戴いていへに帰つた。

六の九


 あくる日は予想の如く好天気である。今年ことしは例年より気候がずつとゆるんでゐる。殊更今日けふあたゝかい。三四郎はあさのうち湯に行つた。閑人ひまじんすくない世のなかだから、午前はすこぶいてゐる。三四郎はいたけてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女がいてある。其女の顔が何所どこか美禰子に似てゐる。能く見ると眼付めつきちがつてゐる。歯並はならびわからない。美禰子の顔で尤も三四郎をおどろかしたものは眼付めつき歯並はならびである。与次郎の説によると、あの女はの気味だから、あゝ始終が出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。……
 三四郎は湯につかつてこんな事を考へてゐたので、身体からだの方はあまりあらはずにた。昨夕ゆふべから急に新時代の青年といふ自覚が強くなつたけれども、強いのは自覚丈で、身体からだの方はもとの儘である。やすみになるとほかのものよりずつと楽にしてゐる。今日けふひるから大学の陸上運動会を見に行く気である。
 三四郎は元来あまり運動きではない。くにに居るとき兎狩うさぎがりを二三度した事がある。それから高等学校の端艇〔ボート〕競争のときに旗振はたふりの役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大変苦情が出た。尤も決勝の鉄砲を打つかゝりの教授が鉄砲を打ちそくなつた。打つには打つたがおとがしなかつた。これが三四郎の狼狽あはてた源因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかつた。然し今日けふは上京以来始めての競技会だから是非つて見る積である。与次郎も是非行つて見ろと勧めた。与次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く価値があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其所そこへ行つて、今日こんちはとか何とか挨拶をして見たい。
 午過ひるすぎになつたから出掛けた。会場の入口いりぐちは運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。日の丸は合点が行くが、英吉利の国旗は何の為だかわからない。三四郎は日英同盟の所為せゐかとも考へた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とはどう云ふ関係があるか、〔とん〕と見当が付かなかつた。
 運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色が大分めてゐる。競技を看る所は西側にある。うしろに大きな築山つきやまを一杯に控へて、前は運動場のさくで仕切られたなかへ、みんなを追ひ込む仕掛しかけになつてゐる。狭い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和がいので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分ある。其代り傘をさして来た女もある。
 三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着たえらさうな男が沢山集まつて、自分が存外幅の利かない様に見えた事であつた。新時代の青年を以てみづから居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでもひとひとあひだから婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから〔よ〕く見えないが、此所こゝ流石さすがに奇麗である。悉く着飾つてゐる。其上遠距離だからかほがみんな美くしい。その代りだれが目立つて美くしいといふ事もない。只総体が総体として美くしい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何所どこかにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人ふたり並んでゐた。

六の十


 三四郎はけ所が漸くわかつたので、づ一段落げた様な気で、安心してゐると、〔たちま〕ち五六人の男がの前に飛んでた。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすはつてゐる真正面ましようめんで、しかもはなさきだから、二人ふたりを見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共是等これら壮漢〔そうかん〕が這入つてる。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸いきはずませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とをくらべて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別にける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別にけて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股さるまた穿いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜ゆふべの親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝせいが高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨をむかふげて、此方こつちをむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時いつになく真黒なフロツクをて、胸にかゝり員の徽章をけて、大分だいぶ人品がい。手帛ハンケチを出して、洋服のそでを二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つてた。丁度美禰子とよし子のすはつてゐる真前まんまへの所へた。低い柵の向側からくびを婦人席のなかばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄あるいて行く。柵のむかふと此方こちらはなしを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうなわらひに充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人ふたりを見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵のそばへ寄つて行く。二人ふたり三人さんにんになつた。芝生のなかでは砲丸なげが始つた。
 砲丸抛程腕の力のるものはなからう。力のる割に是程面白くないものも沢山たんとない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸ちよつと此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になるとわるいと思つたのであらう。柵を離れて芝生のなかへ引き取つた。二人ふたりの女も元の席へふくした。砲丸は時々とき/″\げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎にはわからない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事でかたが付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。
 それから又競走があつて、長飛ながとびがあつて、其次にはつち抛げが始まつた。三四郎は此槌抛つちなげに至つて、とう/\辛抱が仕切しきれなくなつた。運動会は各自めい/\勝手にひらくべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場をして、うらの築山の所迄来た。まくが張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所をすこると、会場から逃げた人がちらほらあるいてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上つまさきのぼりを岡の頂点てつぺん迄来た。みち頂点てつぺんで尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高いがけの下にある池を眺めた。したの運動会場でわあといふ多勢の声がする。
 三四郎はおよそ五分〔ばかり〕石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰をげて、立ちながら、靴のかゝとを向け直すと、岡ののぼぎはの、うすく色づいた紅葉もみぢあひだに、先刻さつきの女の影が見えた。ならんで岡のすそを通る。

六の十一


 三四郎はうへから、二人ふたり見下みおろしてゐた。二人ふたりは枝のすきからあきらかな日向ひなたた。だまつてゐると、前を通りけて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上をすその方へりた。すとい具合に女の一人ひとり此方こつちいて呉れた。三四郎はそれでとまつた。実は此方こちらからあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。
「あんなところに……」とよし子が云ひした。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見てもめづらしさうな眼付めつきをする様に思はれる。其代り、如何いかめづらしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付めつきで迎へるかと想像される。だから此女にふと重苦おもくるしい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒いひとみの御蔭だと考へた。
 美禰子もとまつた。三四郎を見た。然し其此時このときかぎつて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様なであつた。三四郎は心のうちで、火の消えた洋燈ランプを見る心持がした。もとの所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。
何故なぜ競技を御覧にならないの」とよし子がしたから聞いた。
「今迄見てゐたんですが、つまらないからめてたのです」
 よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色かほいろを動かさない。三四郎は、
それより、あなたがたこそ何故なぜたんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」とあてた様なあてない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其わらひの意味がわからない。二ばかり女の方に近付ちかづいた。
「もううちへ帰るんですか」
 女は二人ふたりとも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付ちかづいた。
何所どこかへくんですか」
「えゝ、一寸ちよつと」と美禰子がちいさな声で云ふ。よくきこえない。三四郎はとう/\女の前迄りてた。しかし何所どこへ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。
高飛たかとびよ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」
 美禰子は軽くわらつた許である。三四郎もだまつてゐる。三四郎は高飛たかとびくちすのをいさぎよしとしない積である。すると美禰子が聞いた。
此上このうへには何か面白いものがつて?」
 此上このうへには石があつて、がけがあるばかりである。面白いものがあり様筈がない。
「何にもないです」
「さう」とうたがひのこした様に云つた。
一寸ちよいとがつて見ませうか」とよし子が、こゝろよく云ふ。
「あなた、まだ此所こゝを御存じないの」と相手の女は落ち付いてた。
いからいらつしやいよ」
 よし子はさきのぼる。二人ふたりは又いて行つた。よし子はあしを芝生のはし迄出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」
 美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。
わたくし? 飛び込みませうか。でもあんまりみづきたないわね」と云ひながら、此方こつちへ帰つてた。
 やがて女二人ふたりの間に用談が始つた。
「あなた、〔い〕らしつて」と美禰子がいふ。
「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。
うしませう」
「どうでも。なんならわたし一寸ちよつとつてくるから、此所こゝに待つてらつしやい」
「さうね」
 中々片付かたづかない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時近付ちかづきになつた看護婦をたづねればたづねるのだが、これは必要でも何でもないのださうだ。

六の十二


 よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つてますと云ひ捨てゝ、早足はやあし一人ひとりをかりて行つた。める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人ふたり自然しぜんあとのこる訳になつた。二人ふたりの消極な態度から云へば、のこるといふより、のこされたかたちにもなる。
 三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日はかゞみの様ににごつた池のうへに落ちた。なかちいさなしまがある。しまにはたゞ二本のえてゐる。青い松とうす紅葉もみぢが具合よく枝をかはし合つて、箱庭の趣がある。島を越して向側むかふがはの突き当りが蓊鬱こんもりとどすぐろひかつてゐる。女はおかうへから其くら木蔭こかげを指した。
「あのを知つてらしつて」といふ。
「あれはしい
 女は笑ひした。
く覚えてらつしやる事」
「あの時の看護婦ですか、あなたが今たづねやうと云つたのは」
「えゝ」
「よし子さんの看護婦とはちがふんですか」
ちがひます。これしい――といつた看護婦です」
 今度は三四郎が笑ひした。
彼所あすこですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」
 二人ふたりのゐる所は高く池のなかに突き出してゐる。此をかとは丸でえんのない小山が一段低く、右側みぎがはを走つてゐる。大きな松と、御殿の一角ひとかどと、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。
「熱い日でしたね。病院があんまりあついものだから、とう/\こらへ切れないで出てたの。――あなたは又何であんな所にしやがんでらしつたの」
あついからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所あすこてぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」
「野々宮さんに御ひになつてから、心細く御成おなりになつたの」
「いゝえ、う云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子のかほを見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんと云へば、今日けふは大変働らいてゐますね」
「えゝ、珍らしくフロツクコートを御になつて――随分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」
「だつて大分得意の様ぢやありませんか」
だれが。野々宮さんが。――あなたも随分ね」
何故なぜですか」
「だつて、真逆まさか運動会の計測掛になつて得意になる様なかたでもないでせう」
 三四郎は又話頭を転じた。
先刻さつきあなたの所へて何か話してゐましたね」
「会場で?」
「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顔をじつと見てゐる。少し下唇したくちびるらして笑ひ掛けてゐる。三四郎はたまらなくなつた。何か云つてまぎらかさうとした時に、女はくちひらいた。
「あなたはだ此間の絵端書の返事をくださらないのね」
 三四郎は迷付まごつきながら「げます」と答へた。女はれとも何とも云はない。
「あなた、原口さんといふ画工ゑかき御存ごぞんじ?」となほした。
「知りません」
「さう」
うかしましたか」
「なに、その原口はらぐちさんが、今日けふ見にて入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達わたくしたちも用心しないと、ポンチにゝれるからつて、野々宮さんがわざ/\注意してくだすつたんです」
 美禰子はそばて腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした。
「よし子さんはにいさんと一所に帰らないんですか」
「一所にかへらうつたつてかへれないわ。よし子さんは、昨日きのふからわたくしうちにゐるんですもの」

六の十三


 三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母おつかさんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた。御母おつかさんが帰ると同時に、大久保を引払つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子のうちから学校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。
 三四郎は寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろいた。さう容易たやすく下宿生活にもどる位なら、始めからいへを持たない方がからう。第一なべかま、手桶抔といふ世帯道具の始末はどうけたらうと余計な事迄考へたが、くちして云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其うへ、野々宮さんが一家いつか主人あるじから、後戻あともどりをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、とりなほさず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子のいへへ同居して仕舞つた。此兄妹けうだいは絶えず往来してゐないとおさまらない様に出来あがつてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つてる。すると野々宮さんが又いつ何時なんどき下宿生活を永久にめる時機がないとも限らない。
 三四郎はあたまの中に、かう云ふうたがひある未来を、ゑがきながら、美禰子と応対をしてゐる。一向に気が乗らない。それを外部の態度丈でも普通の如く〔つくろ〕ふとすると苦痛になつてる。其所そこうまい具合によし子が帰つてて呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、みぢかくなりかけた秋の日が大分まはつたのと、まはるに連れて、ひろ戸外こぐわい肌寒はださむが漸く増してくるので、かへる事に話が極まる。
 三四郎も女れんわかれて下宿へもどらうと思つたが、三人が話しながら、ずる/\べつたりにあるき出したものだから、際立きはだつて、挨拶をする機会がない。二人ふたりは自分を引張つて行く様に見える。自分も〔また〕引張られて行きたい様な気がする。それで二人ふたりいて池のはたを図書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いてた。其時三四郎は、よし子に向つて、
御兄おあにいさんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、
「えゝ。とう/\。ひとを美禰子さんの所へけて置いて。ひどいでせう」と同意を求める様に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子がくちひらいた。
「宗八さんの様なかたは、我々われ/\の考ぢやわかりませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんをめ出した。よし子はだまつて聞いてゐる。
 学問をする人が煩瑣うるさぞく用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め〔やむ〕を得ないんだから仕方がない。野々宮の様な外国に迄聞える程の仕事しごとをする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟〔ひっきょう〕野々宮がえらいからの事で、下宿がきたなければきたない程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に対する讃辞のつゞきは、ざつと〔こ〕うである。
 三四郎は赤門の所で二人ふたりに別れた。追分の方へ足を向けながら考へした。――成程美禰子の云つた通である。自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許りである。学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある。先刻さつき、運動会はつまらないから、此所こゝにゐると、おかの上で答へた時に、美禰子は真面目な顔をして、此上このうへには何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかつたが、今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は気がいて、今日迄美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返して見ると、どれも是もみんなわるい意味が付けられる。三四郎は往来の真中まんなか真赤まつかになつて俯向うつむいた。不図ふと、顔をげると向ふから、与次郎と昨夕ゆふべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振つたぎり黙つてゐる。学生は帽子をつて礼をしながら、
昨夜さくやは。うですか。とらはれちや不可いけませんよ」と笑つて行き過ぎた。

七の一


 うらからまはつてばあさんに聞くと、ばあさんがちいさな声で、与次郎さんは昨日きのふから御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手ぐちに立つて考へた。婆さんはかして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出おいでですからと云ひながら、手をやすめずに、膳椀〔ぜんわん〕を洗つてゐる。今晩食ゆふめしが済んだ許の所らしい。
 三四郎は茶のを通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄た。戸がいてゐる。なかから「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机にむかつてゐる。机の上には何があるかわからない。高い脊が研究をかくしてゐる。三四郎は入口いりぐちに近くすはつて、
「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈うしろぢ向けた。ひげかげが不明瞭にもぢや/\してゐる。写真版で見ただれかの肖像に似てゐる。
「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々とき/″\何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、ほかものが読んでもちつともわからない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古ほごたまる許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。
「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」
「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方こつちの用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質たちのものをつてゐたんぢやない」
 三四郎は一寸ちよつと挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来できからうと思つた。しばらくしてから、〔こ〕う云つた。
「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」
「あゝ。与次郎は何でも昨夜ゆふべからかへらない様だ。時々とき/″\漂泊して困る」
「何か急に用事でも出来できたんですか」
「用事は決して出来できる男ぢやない。たゞ用事をこしらへる男でね。あゝ云ふ馬鹿はすくない」
 三四郎は仕方がないから、
中々なか/\気楽ですな」と云つた。
「気楽ならいけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気がうつるので――例へばなかを流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違〔まちがい〕はない。あさくてせまい。しかしみづ丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつともしまりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢ひとはち御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切ねぎつて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんながうちを留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸あまどてて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松がうん気でれて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風でまことに困る」
 実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理わけを聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つてばかりの為替かはせを五円引いて、余りは悉くして仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、
「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、
「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為〔しょい〕は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生にしかられるに極つてるからだまつて居るべきだといふ。話してい時にはおれが話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話をらして仕舞つた。

七の二


 三四郎が広田のうちるには色々な意味がある。ひとつは、此人このひとの生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎はうしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究にる。つぎ此人このひとの前へると呑気のんきになる。世のなかの競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾〔しよく〕を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限ふたりぎりで話してゐると、自分も早く一人いちにん前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮いらついてたまらない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかもたい然と取り澄ましてゐる。其所そこに、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃ちかごろ女にとらはれた。恋人こひびととらはれたのなら、かへつて面白いが、れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、こわがつていんだか、さげすんでいんだか、すべきだかつゞけべきだかわけわからないとらはれかたである。三四郎は忌々敷いま/\しくなつた。さう云ふ時は広田さんにかぎる。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人ひとり二人ふたりどうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜こんや出掛でかけてたのは七分がた此意味である。
 訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子のそばに野々宮さんを置くと〔なお〕苦しんでる。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へると、野々宮さんと美禰子との関係がおのづから明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然める事が出来る。其癖二人ふたりの事を未だ〔かつ〕て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。
「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」
「えゝ、下宿したさうです」
うちつたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんはく……」
「えゝ、そんな事には一向無頓着なほうでね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」
「当分あゝつて御出おいでつもりなんでせうか」
わからない。又突然とつぜんいへを持つかも知れない」
「奥さんでも御貰おもらひになる御考へはないんでせうか」
「あるかも知れない。いのを周旋してり玉へ」
 三四郎は苦笑にがわらひをした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、
「君はどうです」と聞いた。
わたくしは……」
「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」
くにのものはすゝめますが」
くにだれが」
はゝです」
御母おつかさんの云ふ通り持つ気になりますか」
中々なか/\なりません」
 広田さんはひげしたからして笑つた。割合に奇麗なつてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎はこれで、野々宮抔の事を聞くのがづかしい気がしして、質問をめて仕舞つた。すると広田先生が又話しした。――

七の三


御母おつかさんの云ふ事はなるべくいてげるがい。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可いけない。吾々の書生をして居る頃には、する事〔な〕す事いつとしてひとを離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんなひと本位であつた。それを一口ひとくちにいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々〔ぜんぜん〕自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」
「いゝえ」
「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人いちにん――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父おやぢ丈が露悪家で済んでゐたが、今日こんにちでは各自めい/\同等の権利で露悪家になりたがる。尤もわるい事でも何でもない。くさいもののふたれば肥桶こえたごで、美事な形式をぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地きぢ丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫らんまんとしてゐる。所が此爛漫らんまんが度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段※(二の字点、1-2-22)かうじて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、はたから見ればかたくなつて、化石しかゝつてゐる。……」
 三四郎は内心感心した様なものゝ、話がれて飛んだ所へがつて、がりなりにふとくなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。
「一体何をはなしてゐたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「えゝ、わたくしはゝの云ふ事を聞いて……」
「うん、う/\。なるべく御母おつかさんのふ事を聞かなければ不可いけない」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹もたなかつた。
「我々が露悪家なのは、いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「えゝ、まあ愉快です」
「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式丈は親切にかなつてゐる。然し親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでせうか」
「君、元日がんじつに御目出たうと云はれて、実際御目出たい気がしますか」
「そりや……」
「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、ころげかへつて笑ふだのと云ふやつに、一人ひとりだつて実際笑つてるやつはない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々たび/\僕に迷惑を掛けて、始末に〔お〕へぬいたづらものだが、悪気にくげがない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加〔アメリカ〕人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味いやみのないものはいんだから、万事正直にられない様な我々われ/\時代の小六こむづかしい教育を受けたものはみんな気障きざだ」
 此所こゝ迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のあるある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹のなかで美禰子の自分に対する素振そぶりをもう一遍考へて見た。所が気障きざ気障きざでないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。

七の四


 其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひした様である。
「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行はやる。利他本位の内容を利己本位でたすと云ふ六※[#濁点付き小書き平仮名つ、467-5]かしい遣口やりくちなんだが、君そんな人に出逢つたですか」
んなのです」
ほかの言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだわからないだらうな。ちと説明しかたわるい様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人にく思はれたいがさきつんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる。横から見てもたてから見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論いやな心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分〔ふ〕えてた様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番い方法になる。血をさなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々流行はやらなくなる」
 広田先生の話しかたは、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位にみづからを置いてゐる。それで頗る楽天のおもむきがある。〔あたか〕も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎にはこたへた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来できるからである。三四郎はあたまなかに此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生はくちぢて、例の如く鼻から哲学のけむりを吐きはじめた。
 所へ玄関に足音あしおとがした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つてる。〔たちま〕ち与次郎が書斎の入口いりくちすはつて、
「原口さんが御出おいでになりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶をはぶいてゐる。わざとはぶいたのかも知れない。三四郎には存在ぞんざいな目礼をした許ですぐにて行つた。
 与次郎と敷居ぎはちがつて、原口さんが這入つてた。原口さんは仏蘭西式のひげやして、あたまを五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんよりとしが二つ三つうへに見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。
「やあ、しばらく。今迄佐々木がうちへ来てゐてね。一所にめしを食つたり何かして――それから、とう/\引張りされて、……」と大分楽天的な口調である。そばにゐると自然陽気になる様な声をす。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方おほかたあの画工ゑかきだらうと思つてゐた。それにしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合しりあひになつてゐるからえらいと感心してかたくなつた。三四郎は年長者の前へ出るとかたくなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。
 やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧にあたまげた。むかふは軽く会釈した。三四郎はそれからだまつて二人ふたりの談話を承はつてゐた。
 原口さんは先づ用談から片付かたづけると云つて、近いうちに会をするからて呉れとたのんでゐる。会員と名のつく程の立派なものはこしらへない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵あひの間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。
 広田先生は一口ひとくちやう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事はそれんで仕舞つたが、それからあとの原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。

七の五


 広田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。
「矢っ張り一中節いつちうぶしを稽古してゐる。もう五つ程げた。花紅葉吉原はなもみぢよしはら八景だの、小稲こいな半兵衛唐崎心中しんぢうだのつて中々なか/\面白いのがあるよ。君も少しつて見ないか。尤もありや、あまり大きな声をしちや、不可いけないんだつてね。本来が四畳半の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな声だらう。それに節廻ふしまはしがあれで中々なか/\込み入つてゐるんで、うしてもうま不可いかん。今度こんだ一つるから聞いて呉れ玉へ」
 広田先生は笑つてゐた。すると原口さんはつゞきをかう云ふ風に述べた。
「それでも僕はまだいんだが、里見恭助とたら、丸で片無かたなしだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとうとう降参して、もううためる、其代り何か楽器を習はうと云ひした所が、馬鹿囃ばかばやしを御習ひなさらないかとすゝめたものがつてね。大笑おほわらひさ」
「そりや本当かい」
「本当とも。現に里見が僕に、君がるならつてもいと云つた位だもの。あれで馬鹿ばやしには八通やとほはやしかたがあるんださうだ」
「君、つちやうだ。あれなら普通の人間にでも出来さうだ」
「いや馬鹿ばやしいやだ。それよりかつゞみつて見たくつてね。何故なぜだかつゞみおとを聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるからい。どうして今の世にあゝが抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる。いくら僕が呑気でも、つゞみおとの様なはとてもけないから」
かうともしないんぢやないか」
けないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚おほようが出来るものか。尤もにもかぎるまいけれども。――と云へば、此間大学の運動会へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーをいてらうと思つたら、とうとう逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本当の肖像画をいて展覧会にでも出さうかと思つて」
だれの」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布カン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)にはうつりわるくつて不可いけないが、あの女や野々宮さんはい。両方共になる。あの女が団扇をかざして、木立こだちうしろに、あかるい方を向いてゐる所を等身ライフ、サイズに写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味いやみ不可いけないが、日本の団扇はあたらしくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今によめにでもかれやうものなら、さう此方こつちの自由に行かなくなるかも知れないから」
 三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人ふたりの間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。
「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしてゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。なにわるい図どりではないよ。き様にもるが」
「あんまり美くしくくと、結婚の申込が多くなつてこまるぜ」
「ハヽヽぢや中位ちうぐらゐいて置かう。結婚と云へば、あの女も、もうよめに行く時期だね。どうだらう、何所どこくちはないだらうか。里見にもたのまれてゐるんだが」
「君もらつちやうだ」
「僕か。僕でければもらふが、どうもあの女には信用がなくつてね」
何故なぜ
「原口さんは洋行する時には大変な気込で、わざ/\鰹節かつぶしを買ひ込んで、是で巴理〔パリ〕の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴理へ着くや否や、〔たちま〕ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方おほかたあにきからでも聞いたんだらう」
「あの女は自分の行きたい所でなくつちやきつこない。すゝめたつて駄目だ。すきな人がある迄独身で置くがいゝ」
「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんなうなるんだから、それもからう」
 それから二人ふたりの間に長い絵画談があつた。三四郎は広田先生の西洋の画工の名を沢山知つてゐるのに驚ろいた。帰るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段のしたて「おい佐々木一寸ちよつとりてい」と云つてゐた。

七の六


 戸外そとさむい。そらは高くれて、何処どこからつゆるかと思ふ位である。手が着物にさはると、さはつた所だけがひやりとする。人通りの少ない小路こうぢを二三度折れたりまがつたりして行くうちに、突然辻占つぢうら屋に逢つた。大きな丸い提灯てふちんけて、腰からした真赤まつかにしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩がさわる程に、赤い提燈をけて通した。しばらくして、暗い所をはすに抜けると、追分おひわけとほりた。かど蕎麦そば屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾のれんくゞつた。少し酒を飲む為である。
 高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生がひるの弁当に蕎麦そばを食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋そばや担夫かつぎ午砲どんが鳴ると、蒸籠せいろたねものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所こゝの蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でもかま饂飩うどんを食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方おほかた胃がわるいんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼びずてにする。なか一人ひとり広田さんと云つたものがある。それから何故なぜ広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画がけてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だからあてにならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説もた。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き〔ただ〕したものもあつた。
 段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生はえらい人だといふ事になつた。何故なぜえらいか三四郎にも能くわからないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんがすきになつたと云つてゐる。時々とき/″\は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用してる。さうして盛んに与次郎の文章をめてゐる。零余子とはだれだらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。
 三四郎はそばに居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇くらやみ」を書くはづである。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しくかれの所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張りたいしたものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所からがり、又こんな所からちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋そばやた。
 下宿へかへると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だかつまらなくつて不可いけない。机の前にすはつて、ぼんやりしてゐると、下女がしたから湯沸ゆわかしに熱い湯を入れて持つてついでに、封書を一通置いてつた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日けふは母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。
 手紙はなり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口ひとくちも述べてないので大いに難有〔ありがた〕かつた。けれどもなかに妙な助言がある。
 御まへは小供の時から度胸がなくつて不可いけない。度胸のわるいのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津のたかさんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体からだふるへて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事にいまだに月給ががらずにゐる。友達の医学士とかにたのんでふるへのとまる丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んでたが矢っ張りふるへたさうである。御まへのはぶる/\ふるへる程でもない様だから、平生から治薬〔じやく〕に度胸のすわくすりを東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。なほらない事もなからうと云ふのである。
 三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)しいうちに大いなる慰藉を見出みいだした。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母につた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。

八の一


 三四郎が与次郎に金を借した顛末は、うである。
 此あひだの晩九時頃になつて、与次郎が雨のなかを突然つてて、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い。始めは秋雨あきさめに濡れたつめたい空気にかれぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、わるいのは顔色かほいろばかりではない。めづらしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でもくないのか」と尋ねると、与次郎は鹿しかの様な二度にど程ぱちつかせて、かう答へた。
「実はかねくなしてね。こまつちまつた」
 そこで、一寸ちよつと心配さうなかほをして、烟草のけむりを二三本はなからいた。三四郎はだまつて待つてゐる訳にもかない。どう云ふ種類の金を、どこでくなしたのかと段々聞いて見ると、すぐわかつた。与次郎は烟草のけむりの、二三本はなから出切できる間丈ひかへてゐたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすら/\と話して仕舞つた。
 与次郎のくしたかねは、たかで弐拾円、但しひとのものである。去年広田先生が此前このまへいへを借りる時分に、三ヶ月の敷金しききんに窮して、りない所を一時野々宮さんから用つてもらつた事がある。然るに其かねは野々宮さんが、いもと※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンをつてらなくてはならないとかで、わざ/\国もと親父おやぢさんからおくらせたものださうだ。それだから今日けふ今日けふ必要といふ程でない代りに、びればびる程よし子がこまる。よし子は現にいまでも※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンを買はずに済ましてゐる。広田先生がかへさないからである。先生だつてかへせればとうにかへすんだらうが、月々余裕が一文いちもんないうへに、月給以外にけつしてかせがない男だから、つい夫なりにしてあつた。所が此夏このなつ高等学校の受験生の答案調しらべを引き受けた時の手当てあてが六十円此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其使つかひを云ひかつた。
「その金をくなしたんだから済まない」と与次郎が云つてゐる。実際まない様な顔付かほつきでもある。何所どこおとしたんだと聞くと、なにおとしたんぢやない。馬券を何枚とか買つて、みんなくなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎もこれにはあきれ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない。其上本人が悄然としてゐる。是を平常いつもの活溌々地とくらべると、与次郎なるものが二人ふたり居るとしか思はれない。其対照がはげぎる。だから可笑おかしいのと気のどくなのとが一所になつて三四郎を襲つてた。三四郎はわらひ出した。すると与次郎もわらひ出した。
「まあいや、どうかなるだらう」と云ふ。
「先生はまだ知らないのか」と聞くと、
「まだ知らない」
「野々宮さんは」
「無論、まだ知らない」
かね何時いつ受取つたのか」
かね此月始このつきはじまりだから、今日けふで丁度二週間程になる」
「馬券を買つたのは」
「受け取つたあくる日だ」
それから今日けふ其儘そのまゝにして置いたのか」
「色々奔走したが出来できないんだから仕方がない。已を得なければ今月末迄此儘このまゝにして置かう」
「今月すえになれば出来る見込でもあるのか」
「文芸時評社から、どうかなるだらう」
 三四郎は立つて、机の抽出ひきだしけた。昨日きのふ母からたばかりの手紙のなかのぞいて、
かね此所こゝにある。今月は国から早く送つてた」と云つた。与次郎は、
難有〔ありがた〕い。親愛なる小川君」と急に元気のい声で落語家の様な事を云つた。
 二人ふたりは十時すぎあめを冒して、追分の通りへて、かどの蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦そば屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人ふたり共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々なか/\人に払はせない男である。

八の二


 夫から今日こんにちに至る迄与次郎はかねを返さない。三四郎は正直だから下宿屋のはらひを気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れればいがと思つて、日をすごすうちに晦日みそか近くなつた。もう一日いちにち二日ふつかしか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定をばして置かう抔といふ考はまだ三四郎のあたまのぼらない。必ず与次郎が持つてて呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切はあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎のあたま浅瀬あさせみづの様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。
 三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつてた。窓のした仰向あほむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、るか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下みおろして「うん、る」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下うへしたで一句交換されると、三四郎は部屋のなかくびを引込める。与次郎は階子段はしごだんをとん/\がつてた。
つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿てゐる」
「文芸時評から原稿料を呉れたか」
「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞しまつた」
「だつて此間このあひだは月末にる様に云つてゐたぢやないか」
「さうかな。それ聞違きゝちがひだらう。もう一文も取るのはない」
可笑おかしいな。だつて君は慥かにう云つたぜ」
「なに、前借まへがりをしやうと云つたのだ。所が中中なかなかさない。僕にすと返さないと思つてゐる。しからん。僅か二十円ばかりかねだのに。いくら偉大なる暗闇くらやみいて遣つても信用しない。つまらない。いやになつちまつた」
「ぢやかねは出来ないのか」
「いやほかこしらへたよ。君がこまるだらうと思つて」
「さうか。それは気の毒だ」
「所が困つた事が出来た。かね此所こゝにはない。君がりにかなくつちや」
何所どこへ」
「実は文芸時評がけないから、原口はらぐちだの何だの二三軒あるいたが、何所どこ月末げつまつで都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。あすこへつた所が、今度は留守るすで矢っ張り要領を得ない。其うちはらつてあるくのが面倒になつたから、とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」
「野々宮さんの妹が居やしないか」
「なにひる少し過ぎだから学校にいつてる時分だ。それに応接だからたつてかまやしない」
「さうか」
「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」
「あの女は自分のかねがあるのかい」
「そりや、うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、としかない癖にねえさんじみた事をするのがきな性質たちなんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでもい。〔よろ〕しくねがつて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金おかね此所ここにありますが、あなたにはわたせませんと云ふんだからおどろいたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。いやになつちまつた。ぢや小川をよこしますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするがい。君取りに行けるかい」
「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」
「電報はよさう。馬鹿てゐる。いくら君だつて借りにけるだらう」
ける」
 是で漸く弐拾円の〔らち〕いた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。

八の三


 運動は着々歩を進めつゝある。ひまさへあれば下宿へ出掛でかけて行つて、一人一人ひとりひとりに相談する。相談は一人一人ひとりひとりかぎる。大勢おほぜいると、各自めいめいが自分の存在を主張しやうとして、やゝともすれば異をてる。それでなければ、自分の存在を閑却かんきやくされた心持になつて、初手から冷淡に構へる。相談はどうしても一人ひとり一人ひとりかぎる。其代りひまる。金もる。それを苦にしてゐては運動は出来ない。それから相談中には広田先生の名前を余りさない事にする。我々われ/\ための相談でなくつて、広田先生のための相談だと思はれると、ことが纏まらなくなる。
 与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ。それで今日こんにち迄の所はうまつた。西洋人ばかりでは不可いけないから、是非共日本人を入れてもらはうといふ所迄話はた。是からさきはもう一遍つて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望をべにばかりである。尤も会合丈はほんの形式だから略してもい。委員になるべき学生も大体は知れてゐる。みんな広田先生に同情を持つてゐる連中だから、談判の模様によつては、此方こつちから先生の名を当局者へすかもれない。……
 聞いてゐると、与次郎一人ひとりで天下が自由になる様に思はれる。三四郎はすくなからず与次郎の手腕に感服した。与次郎は又此間このあひだの晩、原口さんを先生の所へ連れてた事に就いて、べんした。
「あの晩、原口さんが、先生に文芸家のくわいをやるからろと、勧めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覚えてゐる。与次郎のはなしによると、実はあれも自身の発起にかゝるものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である。先生は変人だから、もとめてだれとも交際しない。然し此方こつちで相当の機会をつくつて、接触させれば、変人なりに附合つきあつて行く。……
う云ふ意味があるのか、ちつとも知らなかつた。それで君が発起人だと云ふんだが、くわいをやる時、君の名前で通知をして、さう云ふえら人達ひとたちがみんなつてるのかな」
 与次郎は、しばらく真面目まじめに、三四郎を見てゐたが、やがてにが笑ひをしてわきを向いた。
馬鹿ばか云つちや不可いけない。発起人つて、表向おもてむきの発起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふくわいを企だてたのだ。つまり僕が原口さんをすゝめて、万事ばんじ原口さんが周旋する様にこしらへたのだ」
「さうか」
「さうかは田臭でんしうだね。時に君もあの会へるがい。もう近いうちに有るはづだから」
「そんなえらい人ばかりる所へつたつて仕方がない。僕はさう」
「又田臭をはなつた。えらい人もえらくない人も社会へあたました順序がちがふ丈だ。なにあんな連中、博士とか学士とか云つたつて、つて話して見ると何でもないものだよ。第一むかふがさうえらいとも何とも思つてやしない。是非て置くがい。君の将来のためだから」
何所どこであるのか」
「多分上野の西洋軒になるだらう」
「僕はあんな所へ這入はいつた事がない。たかい会費をるんだらう」
「まあ弐円位だらう。なに会費なんか、心配しなくつてもい。ければ僕がして置くから」
 三四郎は〔たちま〕ちさきの弐拾円の件を思ひした。けれども不思議に可笑おかしくならなかつた。与次郎は其上そのうへ銀座の何所どことかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひした。かねはあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた。其代り一所に散歩にた。帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞みやげに持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた。

八の四


 三四郎は其晩与次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へかねりに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然しあたまげて金を借りるのは難有〔ありがた〕くない。三四郎は生れてから今日こんにちに至る迄、人に金を借りた経験のない男である。其上貸すと云ふ当人が娘である。独立した人間ではない。たとひかねが自由になるとしても、あにの許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分は〔と〕に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない様にはじめから出来できてゐるかとも思へる。何しろつて見やう。つたうへで、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時しばらく下宿の払をばして置いて、国から取り寄せればことは済む。――当用は此所こゝ迄考へて句切りを付けた。あとは散漫に美禰子の事があたまうかんでる。美禰子のかほや、襟や、帯や、着物きものやらを、想像に任せて、けたりつたりしてゐた。ことに明日あした逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が通りにも廿にじつ通りにもなつて色々にる。三四郎は本来からんな男である。用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方がるだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つてらう抔とは決して考へない。しかも会見が済むとあとから屹度其方そのほうを考へる。さうして後悔する。
 ことに今夜は自分の方を想像する余地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒がかない。さうかと云つて面と向つて、聞き〔ただ〕すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、い加減に最後の判決を自分に与へて仕舞ふ丈である。明日あしたの会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々にむかふを想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合のい光景ばかり出てる。それでゐて、実際は甚だうたがはしい。丁度きたない所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所どこ迄も本当にちがひないが、実物のきたない事もあらそはれないと一般で、同じでなければならぬ筈のふたつが決して一致しない。
 最後にうれしい事を思ひいた。美禰子は与次郎にかねを貸すと云つた。けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭のうへに於ては、信用しにくい男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母たのもしい事になる。たゞかねを貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――三四郎は此所こゝ己惚おのぼれて見たが、〔たちま〕ち、
「矢っ張り愚弄ぢやないか」と考へして、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何のために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味をつてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚おのぼれを罰するためとは全く考へ得なかつたに違ない。――三四郎は美禰子のため己惚おのぼれしめられたんだと信じてゐる。

八の五


 翌日よくじつは幸ひ教師が二人ふたり欠席して、ひるからの授業がやすみになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹をこしらへて、美禰子のいへへ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入はいるのは始てゞある。瓦葺〔かわらぶき〕の門の柱に里見恭助といふ標札がてゐる。三四郎は此所こゝを通るたびに、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだつた事がない。門はしまつてゐる。くゞりから這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影みかげ石が々々とびに敷いてある。玄関は細い奇麗な格子でて切つてある。電鈴ベルを押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥きはづかしい様な妙な心持がした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否ざいひを尋ねた事はまだない。甚だ尋ねにくい気がする。下女の方は案外真面目である。しかも〔うやうや〕しい。一旦奥へ這入つて、又て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふからいてがると応接間へ通した。おも窓掛まどかけかゝつてゐる西洋室である。少しくらい。
 下女は又、「しばらく、どうか……」と挨拶をしてて行つた。三四郎は静かなへやなかに席をめた。正面にかべを切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長いかゞみになつてゐて、前に蝋そくたてが二本ある。三四郎は左右の蝋燭たて真中まんなかに自分の顔を写して見て、又すはつた。
 すると奥の方で※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンのおとがした。それが何所どこからか、風が持つてて捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊にりかゝつて、もう少しればいがと思つて耳をましてゐたが、おと夫限それぎりんだ。約一分も立つうちに、三四郎は※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンの事を忘れた。向ふにあるかゞみと蝋燭たてを眺めてゐる。妙に西洋のにほひがする。それから加徒力カゾリツクの連想がある。何故なぜ加徒力カゾリツクだか三四郎にもわからない。其時※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンが又鳴つた。今度はたかひくが二三度急につゞいてひゞいた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今のおとは、決して、纏つたものゝ一部分をいたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によくつた。不意に天から二三つぶ落ちてた、出鱈目の〔ひょう〕の様である。
 三四郎が半ば感覚を失つたかゞみなかに移すと、かゞみなかに美禰子が何時いつにか立つてゐる。下女がてたと思つた戸がいてゐる。戸のうしろに掛けてあるまくを片手で押し分けた美禰子の胸からうへあきらかに写つてゐる。美禰子は鏡のなかで三四郎を見た。三四郎は鏡のなかの美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。
らつしやい」
 女の声はうしろきこえた。三四郎はかなければならなかつた。女と男はぢかに顔を見合せた。其時女はひさしの広いかみ一寸ちよつと前にうごかして礼をした。礼をするには及ばない位にしたしい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かしてあたまげた。女は知らぬ風をして、向ふへまはつて、かゞみに、三四郎の正面に腰を卸した。
「とう/\らしつた」
 同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言いちげんが非常に嬉しく聞えた。女はひかきぬてゐる。先刻さつきから大分だいぶたしたところを以て見ると、応接ためにわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然とすはつてゐる。くちに笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿すがたに、男は寧ろあまい苦しみを感じた。じつとして見らるゝにへない心の起つたのは、其癖〔そのくせ〕女の腰をおろすや否やである。三四郎はすぐくちひらいた。殆んど発作ほつさに近い。
「佐々木が……」

八の六


「佐々木さんが、あなたのところらしつたでせう」と云つて例の白い歯をあらはした。女のうしろにはさきの蝋燭たて暖炉台マントルピースの左右に並んでゐる。きんで細工をした妙なかたちだいである。是を蝋そくたてと見たのは三四郎の臆断で、実は何だかわからない。此不可思議の蝋燭たてうしろあきらかなかゞみがある。光線はあつ窓掛まどかけに遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間このあひだに美禰子の白い歯を見た。
「佐々木がました」
「何と云つてらつしやいました」
「僕にあなたの所へけと云つてました」
うでせう。――それらしつたの」とわざわざ聞いた。
「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、うです」と答へた。女は全くを隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面そとを眺めした。
「曇りましたね。寒いでせう、戸外そとは」
「いゝえ、存外あたゝかい。風は丸でありません」
「さう」と云ひながらせきへ帰つてた。
「実は佐々木がかねを……」と三四郎から云ひした。
わかつてるの」と中途でとめた。三四郎もだまつた。すると
うして御失おなくしになつたの」と聞いた。
「馬券を買つたのです」
 女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこしつて、「わるかたね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。
「馬券であてるのは、ひとこゝろあてるより六※[#濁点付き小書き平仮名つ、491-13]かしいぢやありませんか。あなたは索引のいてゐる人の心さへあてて見様となさらないのん気なかただのに」
「僕が馬券を買つたんぢやありません」
「あら。だれが買つたの」
「佐々木が買つたのです」
 女は急に笑ひした。三四郎も可笑〔おか〕しくなつた。
「ぢや、あなたが御かねが御いり用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」
る事は僕がるのです」
「本当に?」
「本当に」
「だつて夫ぢや可笑おかしいわね」
「だからりなくつてもいんです」
何故なぜ御厭おいやなの?」
いやぢやないが、御兄おあにいさんにだまつて、あなたからりちや、くないからです」
ういふわけで? でもあには承知してゐるんですもの」
うですか。ぢやりてもい。――然し借りないでもい。うちへさう云つてりさへすれば、一週間位するとますから」
「御迷惑なら、ひて……」
 美禰子は急に冷淡になつた。今迄そばにゐたものが一町許遠退〔とおの〕いた気がする。三四郎はりて置けばかつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭たてを見てすましてゐる。三四郎は自分から進んで、ひとの機嫌を取つた事のない男である。女もとほざかつたぎり近付ちかづいてない。しばらくすると又立ちがつた。まどから戸外そとをすかして見て、
りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。
らなければ、わたくし一寸ちよつとやうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。ひかきぬを着換たのも自分のためではなかつた。
「もう帰りませう」と立ちがつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱〔くつぬぎ〕りて、くつ穿いてゐると、うへから美禰子が、
其所迄そこまで一所いつしよませう。いでせう」と云つた。三四郎は靴のひもを結びながら、「えゝ、うでも」と答へた。女は何時いつの間にか、和土たゝきうへりた。りながら三四郎のみゝそばくちを持つてて、「おこつてらつしやるの」と私語さゝやいだ。所へ下女が周章あわてながら、おくりにた。

八の七


 二人ふたりは半町程無言むげんまゝつてた。其間そのあひだ三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘にそだつたにちがひない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、だれの許諾もずに、自分と一所に、往来をあるくのでもわかる。年寄のおやがなくつて、わかあにが放任主義だから、うも出来できるのだらうが、是が田舎いなかであつたら〔さぞ〕困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、うする気かしらん。東京は田舎いなかちがつて、万事がはなしだから、此方こちらの女は、大抵うなのかもわからないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼ぞくれいかゝはらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所そこわからない。
 そのうち本郷の通へた。一所にあるいてゐる二人ふたりは、一所にあるいてゐながら、相手が何所どこへ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つばかりまがつた。まがるたびに、二人ふたりの足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へまがつた。本郷の通りを四丁目のかどる途中で、女がいた。
何処どこ〔い〕らつしやるの」
「あなたは何所どこへ行くんです」
 二人ふたり一寸ちよつと顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女はこられずに又白い歯をあらはした。
「一所に入らつしやい」
 二人ふたりは四丁目のかどを切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側みぎがはに大きな西洋館がある。美禰子は其前にとまつた。帯の間からうすい帳面と、印形〔いんぎょう〕して、
「御願ひ」と云つた。
「何ですか」
「是で御金おかねを取つて頂戴」
 三四郎は手をして、帳面を受取つた。真中まんなか小口こぐち当座預金あづかりきん通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。
「三拾円」と女が金高きんだかを云つた。〔あたか〕も毎日銀行へかねりに行きけた者に対する口振くちぶりである。幸ひ、三四郎はくににゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々たび/\豊津とよつ迄出けた事がある。すぐ石段をのぼつて、戸をけて、銀行のなかへ這入つた。帳面と印形をかゝりのものに渡して、必要の金額きんがくを受取つてて見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間ばかりあるしてゐる。三四郎はいそいでいた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋ぽつけつとへ手を入れると、美禰子が、
「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。
「まだません」
「招待券を二枚もらつたんですけれども、ついひまがなかつたものだから、まだかずにゐたんですが、つて見ませうか」
「行つてもいです」
きませう。もう、ぢき閉会になりますから。わたくし、一遍は見て置かないと原口さんにまないのです」
「原口さんが招待券を呉れたんですか」
「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」
「広田先生の所で一度ひました」
「面白いかたでせう。馬鹿囃ばかばやしを稽古なさるんですつて」
此間このあひだつゞみならひたいと云つてゐました。それから――」
それから?」
それから、あなたの肖像をくとか云つてゐました。本当ですか」
「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質たちである。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。

八の八


 三四郎は又隠袋かくしへ手を入れた。銀行の通帳と印形をして、女に渡した。かねは帳面のあひだはさんでいた筈である。しかるに女が、
御金おかねは」と云つた。見ると、あひだにはない。三四郎は又衣嚢ポツケツトさぐつた。なかから手摺てずれのした札をつかした。女は手をさない。
あづかつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は〔いささ〕か迷惑の様な気がした。然しこんな時に争ふ事を好まぬ男である。其上往来だから猶更〔なおさら〕遠慮をした。折角にぎつた札を又もとの所へ収めて、妙な女だと思つた。
 学生が多く通る。れ違ふ時に屹度二人ふたりを見る。中には遠くからを付けてるものもある。三四郎は池の端へる迄のみちを頗る長く感じた。それでも電車にる気にはならない。二人ふたり共のそ/\あるいてゐる。会場へいたのは殆んど三時近くである。妙な看板がてゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲まはりについてゐる図案も、三四郎のには悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。なかは猶更である。三四郎のには只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。
 それでも好悪こうおはある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全くわからない。従つて鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、一向くちひらかない。
 美禰子が是はうですかと云ふと、うですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸で張合はりあひがない。話しの出来できない馬鹿か、此方こつちを相手にしないえらい男か、何方どつちかに見える。馬鹿とすればてらはない所に愛嬌がある。えらいとすれば、相手にならない所がにくらしい。
 ながあひだ外国を旅行してあるいた兄妹きようだいの画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つところならべて掛けてある。美禰子は其一枚の前にとまつた。
「※[#濁点付き片仮名エ、498-10]ニスでせう」
 是は三四郎にもわかつた。何だか※[#濁点付き片仮名エ、498-11]ニスらしい。画舫ゴンドラにでも乗つて見たい心持がする。三四郎は高等学校に居る時分画舫ゴンドラといふ字を覚えた。それから此字がすきになつた。画舫ゴンドラといふと、女と一所に乗らなければ済まない様な気がする。だまつてあをみづと、みづの左右の高いいへと、さかさにうつる家のかげと、かげなかにちらちらするあかきれとを眺めてゐた。すると、
あにさんの方が余程うまい様ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。
あにさんとは……」
「此あにさんの方でせう」
だれの?」
 美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。
「だつて、彼方あつちの方がいもうとさんので、此方こつちの方があにさんのぢやありませんか」
 三四郎は一歩退しりぞいて、今通つて来たみち片側かたがはを振り返つて見た。同じ様に外国の景色をいたものが幾点となくかゝつてゐる。
ちがふんですか」
一人ひとりと思つて〔い〕らしつたの」
「えゝ」と云つて、ぼんやりしてゐる。やがて二人ふたりが顔を見合した。さうして一度に笑ひした。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きなをして、しかも一段と調子をおとした小声こごゑになつて、
「随分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん/\さきつて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍※[#濁点付き片仮名エ、499-13]ニスの堀割ほりわりを眺めした。さきへ抜けた女は、此時振り返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女はさきへ行く足をぴたりとめた。むかふから三四郎の横顔よこがほを熟視してゐた。
「里見さん」
 ぬけだれか大きな声で呼んだものがある。

八の九


美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室といた入口いりぐちを一間許はなれて、原口さんが立つてゐる。原口さんのうしろに、少しかさなり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻あともどりをして三四郎のそばた。ひと目立めだゝぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語さゝやいた。三四郎には何を云つたのか、少しもわからない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人ふたりの方へ引き返してつた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、
「妙なつれましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、
似合にあふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりとうしろを向いた。後ろにはたゝみ一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐないなかに、かほばかり白い。かほは瘠せて、ほゝの肉が落ちてゐる。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へてゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日けふは久し振りに、此方こつちへ用があつて、野々宮さんを引張つてた所だ。うまくはしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常にいそがしい。何時いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つつゞけて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像をき上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日おほみそかでもゝして呉れ。
「其代り此所こゝところへ掛ける積です」
 原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間そのあひだぽかんとして同じ画を眺めてゐた。
「どうです。※[#濁点付き片仮名エ、501-10]ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。
「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもつとうまいんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩退がつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまかないね」
 原口はくびげた。三四郎は原口のくびげた所を見てゐた。
「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。
「まだ」
「どうです。もうして、一所いつしよちや。西洋軒で御茶でもげます。なにわたしは用があるから、どうせ一寸ちよつと行かなければならない。――会のことでね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶にい時分です。もう少しするとね、御茶にはおそ晩餐ヂンナーには早し、中途半になる。どうです。一所に〔い〕らつしやいな」
 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもい顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。
「折角たものだから、みんな見て行きませう。ねえ、小川さん」
 三四郎はえゝと云つた。
「ぢや、うなさい。此奥の別室にね。深見ふかみさんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。さきつて待つてゐますから」
難有〔ありがと〕う」
「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可いけませんよ。何所どこ迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々なか/\面白い所がます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影うしろかげを見送つた。二人ふたりは振りかへらなかつた。

八の十


 女は歩をめぐらして、別室へはいつた。男は一足ひとあしあとからつゞいた。光線の乏しいくらい部屋である。細長いかべに一列にかゝつてゐる深見先生の遺画を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎がいちじるしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是もうすくて、かずすくなくつて、対照に乏しくつて、日向ひなたへでもさないとき立たないと思ふ程地味ぢみいてあるといふ事である。其代りふでちつとも滞つてゐない。殆んど一気呵成〔かせい〕仕上しあげた趣がある。したに鉛筆の輪廓があきらかにいて見えるのでも、洒落なぐわ風がわかる。人間抔になると、細くて長くて、丸で殻竿からさほの様である。こゝにも※[#濁点付き片仮名エ、503-9]ニスがいち枚ある。
「是も※[#濁点付き片仮名エ、503-10]ニスですね」と女がつて来た。
「えゝ」と云つたが、※[#濁点付き片仮名エ、503-11]ニスで急に思ひした。
「さつき何を云つたんですか」
 女は「さつき?」と聞き返した。
「さつき、僕が立つて、彼方あつちの※[#濁点付き片仮名エ、503-14]ニスを見てゐる時です」
 女は又真白なを露はした。けれども何とも云はない。
「用でなければ聞かなくつてもいです」
「用ぢやないのよ」
 三四郎はまだ変な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時よじした。部屋は薄暗くなつてくる。観覧人は極めて少ない。別室のうちには、たゞ男女二人ふたりの影があるのみである。女は画を離れて、三四郎の正面につた。
「野々宮さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
わかつたでせう」
 美禰子の意味は、大濤おほなみの崩れる如く一度に三四郎の胸をひたした。
「野々宮さんを愚弄したのですか」
んで?」
 女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、あとを云ふ勇気がなくなつた。無ごんの儘二三歩うごした。女はすがる様にいてた。
「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」
 三四郎は又立ちどまつた。三四郎はせいの高い男である。うへから美禰子を見下みおろした。
「それでいです」
何故なぜわるいの?」
「だからいです」
 女は顔をそむけた。二人ふたり戸口とぐちの方へあるいてた。戸口とぐちる拍子にたがひの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合はした女を思ひした。美禰子のにくれた所が、ゆめうづく様な心持がした。
「本当にいの?」と美禰子がさい声で聞いた。向ふから二三人連にんづれの観覧者がる。
「兎も角ませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、ると戸外そとあめだ。
「西洋軒へ行きますか」
 美禰子はこたへなかつた。あめなかれながら、博物館まへひろい原のなかに立つた。幸ひ雨は今した許である。其上そのうへ烈しくはない。女は雨のなかに立つて、見廻みまはしながら、向ふのもりした。
「あのかげ這入はいりませう」
 少し待てばみさうである。二人ふたりは大きな杉のしたはいつた[#「はいつた」はママ]。雨をふせぐには都合のくないである。けれども二人ふたりともうごかない。れても立つてゐる。二人ふたりさむくなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字をせて、そらを見てゐた顔を女の方へ向けた。
わるくつて? 先刻さつきのこと」
いです」
「だつて」と云ひながら、つてた。「わたくし何故なぜだか、あゝたかつたんですもの。野々宮さんに失礼するつもりぢやないんですけれども」
 女はひとみさだめて、三四郎を見た。三四郎は其ひとみなかに言葉よりも深き訴を認めた。――必竟〔ひっきょう〕あなたのためにした事ぢやありませんかと、二重瞼ふたへまぶたの奥で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、
「だから、いです」と答へた。
 雨は段々くなつた。しづくちない場所は僅かしかない。二人ふたり段々だん/\一つ所へかたまつてた。肩と肩とれ合ふ位にして立ちすくんでゐた。雨のおとなかで、美禰子が、
「さつきの御金おかねを御つかひなさい」と云つた。
「借りませう。だけ」と答へた。
「みんな、御つかひなさい」と云つた。

九の一


 与次郎がすゝめるので、三四郎はとう/\西洋軒の会へた。其時三四郎は黒いつむぎの羽織をた。此羽織は、三輪田の御光さんの御母おつかさんが織つて呉れたのを、紋付もんつきに染めて、御みつさんが縫ひげたものだと、はゝの手紙に長い説明がある。小包こづゝみとゞいた時、一応て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、勿体ないから是非ろ/\と云ふ。三四郎がなければ、自分が持つて行つてさうな勢であつたから、ついる気になつた。着て見るとわるくはない様だ。
 三四郎は此出立いでたちで、与次郎と二人ふたりで西洋軒の玄関に立つてゐた。与次郎の説によると、御客は〔こ〕うして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客のつもりでゐた。かうなると、つむぎの羽織では何だかやすつぽい受附の気がする。制服をればかつたと思つた。其うち会員が段々る。与次郎はひとつらまへて屹度きつと何とかはなしをする。ことごとく旧知の様にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い階子はしご段の横を、くらい廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某だれそれがしだと教へて呉れる。三四郎は御かげで知名な人のかほを大分覚えた。
 其内そのうち御客はほゞ集つた。約三十人足らずである。広田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理学者だけれども、画や文学がすきだからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張りしたのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番さきて、世話をいたり、愛嬌を振りいたり、仏蘭西式のひげつまんで見たり、万事いそがしさうである。
 やがて着席となつた。各自めい/\勝手な所へすはる。譲るものもなければ、争ふものもない。其うちでも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰をおろして仕舞つた。たゞ与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口いりぐちに近く座を占めた。其他は悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた。
 野々宮さんと広田先生の間にしまの羽織を着た批評家がすはつた。向ふには庄司と云ふ博士が座にいた。是は与次郎の所謂〔いわゆる〕文科で有力な教授である。フロツクをた品格のある男であつた。かみを普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈のひかりで、くろうずを捲いてえる。広田先生の坊主あたまくらべると大分相違がある。原口さんは大分離れて席を取つた。彼方あちらかどだから、遠く三四郎と真向まむかひになる。折襟をりえりに、はゞの広い黒繻子くろしゆすむすんださきがぱつとひらいて胸一杯いつぱいになつてゐる。与次郎が、仏蘭西の画工アーチストは、みんなあゝ云ふ襟飾えりかざりけるものだと教へて呉れた。三四郎は肉汁そつぷひながら、丸で兵児へこ帯の結目むすびめの様だと考へた。其うち談話が段々はじまつた。与次郎は麦酒ビールむ。何時いつもの様にくちを利かない。流石さすがの男も今日けふは少々つゝしんでゐると見える。三四郎が、小さな声で、
と、ダーター、フアブラをらないか」と云ふと、「今日けふ不可いけない」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから、三四郎には頗る不思議の思ひがある。与次郎は又此方こつちを向いた。
「其羽織は中々なか/\立派だ。く似合ふ」と白い紋を殊更〔ことさら〕注意して眺めてゐる。其時向ふのはじから、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合がい。今迄むかひ合せに言葉をかはしてゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人ふたりの応答を途中でさへぎる事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんなだまつた。会の中心点が始めて出来あがつた。

九の二


「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」
「いや、まだ中々なか/\だ」
「随分手数がゝるもんだね。我々われ/\の職業も根気仕事だが、きみの方はもつとはげしい様だ」
はインスピレーシヨンでけるからいが、物理の実験はさううまくは不可いかない」
「インスピレーシヨンには辟易〔へきえき〕する。此なつある所を通つたら婆さんが二人ふたりで問答をしてゐた。いて見ると梅雨つゆはもうけたんだらうか、どうだらうかといふ研究なんだが、一人ひとりばあさんが、むかしかみなりさへ鳴れば梅雨つゆけるにまつてゐたが、近頃ぢやうは不可いかないと不平こぼしてゐる。すると一人ひとりうして、/\[#「うして、/\」はママ]かみなり位でける事ぢやありやしないと憤慨してゐた。――画も其通り、今の画はインスピレーシヨン位でける事ぢやありやしない。ねえ田村さん、小説だつて、うだらう」
 隣りに田村といふ小説家がすはつて居た。此男が自分のインスピレーシヨンは原稿の催促以外に何にもないと答へたので、大笑ひになつた。田村は、それからあらたまつて、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きした。野々宮さんの答は面白かつた。――
 雲母マイカか何かで、十六武蔵むさし位の大きさのうすい円盤をつくつて、水晶のいとつるして、真空のうちに置いて、此円盤のめん弧光〔アーク〕燈のひかりを直角にあてると、此円盤がひかりされて動く。と云ふのである。
 一座は耳を傾けて聞いてゐた。なかにも三四郎は腹のなかで、あの福神漬の缶のなかに、そんな装置がしてあるのだらうと、上京の際、望遠鏡で驚ろかされた昔を思ひした。
「君、水晶の糸があるのか」とちいさな声で与次郎に聞いて見た。与次郎はあたまつてゐる。
「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「えゝ、水晶の粉をね。酸水素吹管のほのほで溶かしていて、かたまつた所を両方の手で、左右へ引つ張るとほそい糸が出来るのです」
 三四郎は「うですか」と云つたぎり、引つ込んだ。今度は野々宮さんの隣にゐる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無学なんですが、そんな試験をつて見様と、始めうして気がいたものでせうな」
「始め気がいたのは、何でも瑞典〔スウェーデン〕何処どこかの学者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、るたびに何時いつでも反対の方角になびくのは変だと考へしたのです。それから、もしやひかりの圧力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いたのです」
 批評家は大分感心したらしい。
「思ひ付きも面白いが、第一大きくていですね」と云つた。
「大きいばかりぢやない、罪がなくつて愉快だ」と広田先生が云つた。
「それで其思ひ付がはづれたら〔なお〕罪がなくつてい」と原口さんが笑つてゐる。
いや、どうもあたつてゐるらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物がちいさくなればなる程引力の方が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片ペーチクルから出来てゐるとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ」
 野々宮は、つい真面目まじめになつた。すると原口が例の調子で、
「罪がない代りに、大変計算が面倒になつてた。矢っ張一利一害だ」と云つた。此一言で、人々ひと/″\は元の通り麦酒ビールの気分に復した。広田先生が、んな事を云ふ。
「どうも物理学者は自然派ぢや駄目の様だね」
 物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。

九の三


「それはう云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞きした。広田先生は説明しなければならなくなつた。
「だつて、光線の圧力を試験するために、けて、自然を観察してゐたつて、駄目だからさ。彗星でもれば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ、自然の献立のうちに、光線の圧力といふ事実は印刷されてゐない様ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母マイカだのと云ふ装置をして、其圧力が物理学者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」
「然し浪漫ローマン派でもないだらう」と原口さんがかへした。
「いや浪漫派だ」と広田先生が勿体らしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない様な位地関係に置く所が全く浪漫派ぢやないか」
「然し、一旦さういふ位地関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学の方で云ふと、イブセンの様なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較をち出した。
「左様、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、其装置のしたに働らく人物は、光線の様に自然の法則に従つてゐるか疑はしい」是はしまの羽織の批評家の言葉であつた。
うかも知れないが、う云ふ事は人間の研究上記憶して置くべき事だと思ふ。――即ち、ある状況のもとに置かれた人間は、反対の方向に働らき得る能力と権利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ様に器械的の法則に従つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出来る。怒らせやうと思つて装置をすると、笑つたり。笑はせやうと目論もくろんでゝると、怒つたり。丸で反対だ。然しどつちにしても人間に違ない」と広田先生が又問題を大きくして仕舞つた。
「ぢや、ある状況のもとに、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」とむかふの小説家が質問した。広田先生は、すぐ、
「えゝ、えゝ。どんな人間を、どういても世界に一人ひとり位はゐる様ぢやないですか」と答へた。「実際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、うしたつて想像出来るものぢやない。たゞ下手へたくから人間にんげんと思はれないのぢやないですか」
 小説家は夫で黙つた。今度は博士が又くちいた。
「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈らんぷの一振動の時間が、振動の大小にかゝはらず同じである事に気が付いたり、ニユートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、始めから自然派ですね」
「さう云ふ自然派なら、文学の方でも結構でせう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエと云ふやつがゐる。v※(アキュートアクセント付きE小文字)rit※(アキュートアクセント付きE小文字) vraie[#濁点付き片仮名エ、514-9]リテ、ヴレイ、何でも事実でなければ承知しない。然しさう猖獗〔しょうけつ〕を極めてゐるものぢやない。たゞ一派として存在を認められる丈さ。又うでなくつちや困るからね。小説だつておなじ事だらう、ねえ君。矢っ張りモローや、シヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンヌの様なのもゐるはづだらうぢやないか」
「居るはづだ」ととなりの小説家が答へた。
 食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美くしい芸者の銅像でも拵らへる方が気がいてゐるといふ説であつた。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんとなかわるい人がつくつたんだと教へた。
 会が済んで、そとへ出ると好い月であつた。今夜こんやの広田先生は庄司博士に善い印象を与へたらうかと与次郎が聞いた。三四郎は与へたらうと答へた。与次郎は共同水道栓のそばに立つて、此夏このなつよる散歩にて、あまりあついから、此所こゝで水をびてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢すりばち山へ馳けがつたと話した。二人ふたりは擂鉢山の上で月を見て帰つた。

九の四


 帰りみちに与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳いひわけをしした。月の冴えた比較的さむい晩である。三四郎は殆んどかねの事などは考へてゐなかつた。言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせかへす事はあるまいと思つてゐる。与次郎も決してかへすとは云はない。たゞかへせない事情を色々に話す。其話しかたのほうが三四郎には余程面白い。――自分の知つてる去る男が、失恋の結果、世のなかいやになつて、とう/\自殺を仕様と決心したが、海もいや河もいや、噴火口は〔なお〕いや、首をくゝるのは尤もいやと云ふ訳で、〔やむ〕を得ず短銃ピストルを買つてた。買つてて、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りにた。金はないと断わつたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃ピストル〔か〕してつた。友達はそれをしちに入れて一時をしのいだ。都合がついて、質を受出うけだしてかへしにた時は、肝心の短銃ピストルの主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男のいのちかねりにられたためたすかつたと同じ事である。
「さう云ふ事もあるからなあ」と与次郎が云つた。三四郎には只可笑〔おか〕しい丈である。其ほかには何等の意味もない。高い月を仰いで大きな声をして笑つた。かねを返されないでも愉快である。与次郎は、
わらつちや不可いかん」と注意した。三四郎は猶可笑しくなつた。
「笑はないで、よく考へて見ろ。おれかねかへさなければこそ、君が美禰子さんからかねりる事が出来たんだらう」
 三四郎は笑ふのをめた。
「それで?」
「それ丈で沢山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」
 与次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月のそばに白い雲がた。
「君、あの女には、もう返したのか」
「いゝや」
何時いつ迄も借りて置いてやれ」
 呑気な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時いつ迄もりて置く気は無論かつた。実は必要な弐拾円を下宿へはらつて、残りの拾円を其翌日あくるひすぐ里見のうちへ届けやうと思つたが、今かへしては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入はいられる機会を犠牲ぎせいにして迄、引き返した。其時何かの拍子で、気が〔ゆる〕んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内そのうちからてゐる。自分のばかりではない。与次郎のもそのうちからてゐる。あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬襯衣シヤツを買はうと思つた。
 実は与次郎が到底かへしさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間このあひだ国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々つき/″\もらつてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない。三四郎はあまりうそいた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達がかねくして弱つてゐたから、つい気の毒になつてしてやつた。其結果として、今度は此方こつちが弱る様になつた。どうか送つて呉れといた。
 すぐ返事をしてれゝば、もうとゞく時分であるのにまだない。今夜あたりは〔こと〕によるとてゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ帰つて見ると、果して、母の手蹟で書いた封筒がちやんと机の上に乗つてゐる。不思議な事に、何時いつも必ず書留でるのが、今日けふは三銭切手一枚で済ましてある。ひらいて見ると、なかは例になく短かい。母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図に過ぎない。三四郎はとこを取つて寐た。

九の五


 翌日よくじつも其翌日よくじつも三四郎は野々宮さんの所へかなかつた。野々宮さんの方でもなんとも云つてなかつた。さうしてゐるうちに一週間程つた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使つかひに手紙をこした。御母おつかさんからたのまれものがあるから、一寸ちよつとて呉れろとある。三四郎は講義のすきを見て、又理科大学の穴倉へりてつた。其所そこ立談〔たちばなし〕の間に事を済ませやうと思つた所が、うまくはかなかつた。此夏このなつは野々宮さんだけで専領してゐた部屋に、ひげえた人が二三人ゐる。制服をた学生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、静粛に、あたまうへの日のあたる世界を余所よそにして、研究をつてゐる。其内そのうちで野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顔をした三四郎を、一寸ちよつと見て、無言むげんの儘近寄ちかよつてた。
くにから、かねとゞいたから、りにて呉れ玉へ。今此所こゝに持つてゐないから。それからまだほかに話す事もある」
 三四郎ははあと答へた。今夜でもいかと尋ねた。野々宮は少し考へてゐたが、仕舞に思ひ切つて、ろしいと云つた。三四郎はそれで穴倉をた。ながら、流石さすがに理学者は根気のいものだと感心した。此夏このなつ見た福神漬の缶と、望遠鏡が依然としてもとの通りの位地に備へ付けてあつた。
 次の講義の時間に与次郎に逢つて是々これ/\だと話すと、与次郎は馬鹿だと云はない許に三四郎を眺めて、
「だから何時迄いつまでりて置いてやれと云つたのに。余計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位〔これくらい〕愚な事はない」と丸で自分から事が起つたとはみとめてゐない申分である。三四郎も此問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れて仕舞つた。従つて与次郎のあたまかゝつてない返事をした。
何時いつ迄もりて置くのは、いやだから、うちへさう云つてつたんだ」
「君はいやでも、むかふではよろこぶよ」
何故なぜ
 此何故なぜが三四郎自身には幾分か虚偽のひゞきらしく聞えた。然し相手には何等の影響も与へなかつたらしい。
「当り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕にかねが余つてゐるとするぜ。うすれば、其かねきみからかへしてもらふよりも、君に貸して置く方が善い心持こゝろもちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る〔べ〕く人に親切がして見たいものだ」
 三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書きすと、与次郎が又、耳のそばくちつてた。
「おれだつて、金のある時は度々たび/\人に貸した事がある。然しだれも決してかへしたものがない。それだからおれは此通り愉快だ」
 三四郎は真逆まさかうかとも云へなかつた。うす笑ひをした丈で、又洋筆ペンはしらし始めた。与次郎もそれからは落付おちついて、時間の終る迄くちかなかつた。
 号鐘ベルつて、二人ふたり肩をならべて教場をるとき、与次郎が、突然いた。
「あの女は君にれてゐるのか」
 二人ふたりあとから続々ぞく/\聴講生がる。三四郎は〔やむ〕を得ず無言の儘階子はしご段をりて横手の玄関から、図書館わき空地あきちて、始めて与次郎をかへりみた。
わからない」
 与次郎は暫らく三四郎を見てゐた。
う云ふ事もある。然し能くわかつたとして。きみ、あの女のハスバンドになれるか」
 三四郎はいまだ曾て此問題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事実其物が、彼女のハスバンドたる唯一の資格の様な気がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が云つた。
「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に関係があるのか」
 三四郎の顔はり付けた様に真面目まじめであつた。与次郎は一口ひとくち
「知らん」と云つた。三四郎はだまつてゐる。
「まあ野々宮さんのところつて、御談義を聞いてい」と云ひ棄てゝ、相手は池の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣ぐれつ看板かんばんの如く突立つゝたつた。与次郎は五六歩つたが、又笑ひながら帰つてた。
きみ、いつそ、よし子さんをもらはないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へれてつた。あるきながら、あれならい、あれならいと、二度にど程繰り返した。其内そのうち号鐘ベルが鳴つた。

九の六


 三四郎は其夕方ゆふがた野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過はやすぎるので、散歩かた/″\四丁目迄て、襯衣シヤツを買ひに大きな唐物とうぶつ屋へはいつた。小僧が奥から色々いろ/\持つてたのをでゝ見たり、ひろげて見たりして、容易にはない。わけもなく鷹揚に構へてゐると、偶然美禰子とよし子がつて香水を買ひにた。あらと云つて挨拶をしたあとで、美禰子が、
先達せんだつては難有〔ありがと〕う」とれいべた。三四郎には此御礼の意味があきらかにわかつた。美禰子からかねりた翌日あくるひもう一遍訪問して余分をすぐに返すべき所を、一先ひとまづ見合せた代りに、二日ふつかばかりつて、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送つた。
 手紙の文句は、いた人の、いた当時の気分を素直にあらはしたものではあるが、無論ぎてゐる。三四郎は出来る丈の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆んど借金の礼状とは思はれない位に、湯気ゆげつたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫だから、自然の勢、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は、此手紙を郵函ポストに入れるとき、ときを移さぬ美禰子の返事を予期よきしてゐた。所が折角の封書はたゞつたまゝである。それから美禰子に逢ふ機会は今日迄なかつた。三四郎はこの微弱なる「此間は難有う」といふ反響に対して、確乎はつきりした返事をする勇気もなかつた。〔おおき〕襯衣シヤツを両手でさきひろげてながめながら、よし子がるからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此襯衣シヤツも此女のかねで買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促した。
 二人ふたりの女は笑ひながらそばて、一所に襯衣シヤツを見て呉れた。仕舞に、よし子が「これになさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向わからない。ヘリオトロープといてあるびんつて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それにませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。
 表へわかれやうとすると、女の方がたがひに御辞儀を始めた。よし子が「ぢやつててよ」と云ふと、美禰子が「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、いもとあにの下宿へ行くところだといふ事がわかつた。三四郎は又奇麗な女と二人連ふたりづれで追分の方へあるくべきよひとなつた。日はまだ全く落ちてゐない。
 三四郎はよし子と一所にあるくよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機会を〔いささ〕か迷惑に感じた。いつその事今夜こんやうちへ帰つて、又出直さうかと考へた。然し、与次郎の所謂〔いわゆる〕御談義を聞くには、よし子がそばに居て呉れる方が便利かも知れない。まさかひとの前で、はゝから、ういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を与へるわけはなからう。ことに依ると、たゞかねを受取る丈でむかもわからない。――三四郎ははらなかで、一寸ちよつとずるい決心をした。
ぼくも野々宮さんのところへ行くところです」
「さう。御あそびに?」
「いえ、少し用があるんです。あなたはあそびですか」
「いゝえ、わたくしも御用なの」
 両方が同じ様な事を聞いて、同じ様なこたへを得た。しかも両方共迷惑を感じてゐる気色けしきさらにない。三四郎は念の為め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。ちつとも邪魔にはならないさうである。女は言葉ことばで邪魔を否定した許ではない。かほでは寧ろ何故なぜそんな事を質問するかと驚ろいてゐる。三四郎は店先みせさきの瓦斯のひかりで、女の黒いのなかに、其驚きを認めたと思つた。事実としては、たゞ大きく黒く見えた許である。
※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンを買ひましたか」
うして御存じ」
 三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、う云つた。
「いくらにいさんにう云つても、たゞ買つてやる、つてやると云ふばかりで、ちつともつて呉れなかつたんですの」
 三四郎は腹のなかで、野々宮よりも広田よりも、寧ろ与次郎を非難した。

九の七


 二人ふたり追分おひわけの通りを細い露路ろぢに折れた。折れるとなかいへが沢山ある。くらみち戸毎こごとの軒燈が照らしてゐる。其軒燈のひとつの前にとまつた。野々宮は此奥にゐる。
 三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所こゝうつつてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋はひろい廊下をあたつて、二段ばかり真直まつすぐのぼると、左手ひだりてに離れた二間ふたまである。南向に余所よその広い庭を殆んど縁のしたひかへて、ひるよるも至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのもわるい思付ではなかつたと、始めてた時から、感心した位、居心地ゐこゝちい所である。其時そのとき野々宮さんは廊下へりて、したから自分の部屋ののき見上みあげて、一寸ちよつと見給へ藁葺わらぶきだと云つた。成程めづらしく屋根に瓦をいてなかつた。
 今日けふよるだから、屋根は無論見えないが、部屋のなかには電燈がいてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひした。さうして可笑〔おか〕しくなつた。
「妙な御客が落ちつたな。入口いりくちつたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざるむねを説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣シヤツつたらからうと助げんしてゐる。それから、此間このあひだ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンは和製でわるくつて不可いけない、買ふのを是迄延期したのだから、もう少しいのと買ひ〔か〕へて呉れとたのんでゐる。〔せ〕めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其ほか似たり寄つたりの駄々をしきりにねてゐる。野々宮さんは別段こわい顔もせず、と云つて、やさしい言葉も掛けず、たゞうか/\と聞いてゐる。
 三四郎は此間このあひだ何にも云はずにゐた。よし子はな事ばかりべる。〔か〕つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。あにとの応対をそばにゐていてゐると、ひろ日当ひあたりはたけた様な心持がする。三四郎はきたるべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。
「あゝ、わたし忘れてゐた。美禰子さんの御言伝ことづてがあつてよ」
うか」
うれしいでせう。うれしくなくつて?」
 野々宮さんはかゆい様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。
「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。
「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」
 三四郎は又笑つてゐた。腹のなかではもう笑ふのがいやになつた。
「美禰子さんがね、にいさんに文芸協会の演芸会に連れてつて頂戴つて」
「里見さんと一所に行つたらからう」
「御用が有るんですつて」
「御まへくのか」
「無論だわ」
 野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜こんやいもうとを呼んだのは真面目まじめな用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐてこまると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談のくちがある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をしてた。それに就て本人の意見をよく確める必要がおこつたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、
はゝからあなたに御面倒をねがつたさうで」と切り出した。野々宮さんは、
なにたいして面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出ひきだしから、あづかつたものをして、三四郎にわたした。

九の八


御母おつかさんが心配して、長い手紙を書いてこしましたよ。三四郎は余義ない事情で月々つき/″\の学資を友達ともだちに貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗にかねりるものぢやあるまいし、よしりたつてかへはづだらうつて。田舎いなかのものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸しかたが大袈裟だ。おやから月々つき/″\学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度いちどに弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何いかにも無分別だとあるんですがね――何だか僕に責任がる様にいてあるから困る。……」
 野々宮さんは三四郎を見て、にや/\笑つてゐる。三四郎は真面目まじめに「御気の毒です」といつた許である。野々宮さんは、わかいものを、極め付ける積で云つたんでいと見えて、少し調子をへた。
「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母おつかさんは、田舎いなかの相場で、かね価値かちけるから、三拾円が大変おもくなるんだね。何でも参拾円あると、四人の家族が半年つてけるといてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声をして笑つた。三四郎にも馬鹿気ばかげてゐる所が頗る可笑〔おか〕しいんだが、はゝいひ条が、全く事実を離れた作りばなしでないのだから、其所そこに気が付いた時には、成程軽卒な事をしてわるかつたと少しく後悔した。
「さうすると、つきに五円の割だから、一人ひとり前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだが――いくら田舎いなかでも少し安過やすすぎる様だな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何をべたら、そのくらゐで生きてゐられるでせう」とよし子が真面目まじめに聞きした。三四郎も後悔するひまがなくなつて、自分の知つてゐる田舎いなか生活の有様を色々はなして聞かした。其中そのなかには宮籠みやごもりといふ慣例もあつた。三四郎のうちでは、年に一度いちどづゝむら全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人ひとりづゝ出て、其六十人が、仕事をやすんで、むらの御宮へつて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけにふんだといふ。
「それで十円」とよし子が驚ろいてゐた。御談義は是で何所どこかへつたらしい。それから少し雑談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、う云つた。
「何しろ、御母おつかさんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせてもらひたいといふんだが、かねは事情もにも聞かないうちに、もうわたして仕舞つたしと、――うするかね。君〔たし〕か佐々木に貸したんですね」
 三四郎は美禰子から洩れて、よし子につたはつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金そのかねめぐめぐつて※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンに変形したものとは兄妹けうだいとも気が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「うです」と答へて置いた。
「佐々木が馬券を買つて、自分のかねくなしたんだつてね」
「えゝ」
 よし子は又大きな声をして笑つた。
「ぢや、好加減に御母おつかさんのところへさう云つてげやう。然し今度こんどから、そんなかねはもう貸さない事にたらいでせう」
 三四郎は貸さない事にするむねを答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひした。
先刻さつきはなしをしなくつちや」とあにが注意した。
くつてよ」と妹が拒絶した。
くはないよ」
くつてよ。知らないわ」
 あにいもうとの顔を見てだまつてゐる。妹は、またう云つた。
「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしないひとところへ、くかかないかつて、いたつて。すきでもきらひでもないんだから、なんにも云ひ様はありやしないわ。だかららないわ」
 三四郎は知らないわの本意を漸く会得えとくした。兄妹けうだいを其まゝにして急いで表へた。

九の九


 ひとの通らない軒燈〔けんとう〕ばかりあきらかな露地ろぢを抜けて表へると、風が吹く。北へ向き直ると、まともにかほあたる。時を切つて、自分の下宿の方からいてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄れてつてるだらう。
 下宿の二階へあがつて、自分のへや這入はいつて、すはつて見ると、矢っ張り風のおとがする。三四郎はう云ふ風のおとを聞くたびに、運命といふ字を思ひす。ごうと鳴つてたびすくみたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎のめにこしらへられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気靄然〔あいぜん〕たる翻弄を受ける様にこしらへられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯いたづらものである。向後も此愛すべき悪戯いたづらものゝために、自分の運命をにぎられてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。
 三四郎ははゝからた三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄がんだものである。此三拾円が是からさきどんなはたらきをするか、丸でわからない。自分はこれを美禰子にかへしにく。美禰子がこれを受取うけとるときに、又一煽ひとあほるに極つてゐる。三四郎は成るべく大きくればいと思つた。
 三四郎はそれなり寐付ねついた。運命も与次郎も手をくだし様のない位すこやかなねむりに入つた。すると半鐘のおとで眼がめた。何所どこかで人声ひとごゑがする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻のうへへ羽織を引掛けて、窓をけた。風は大分ちてゐる。向ふの二かいが風の鳴るなかに、真黒に見える。いへが黒い程、いへうしろそらあかかつた。
 三四郎はさむいのを我慢して、しばらく此あかいものを見詰みつめてゐた。其時三四郎のあたまには運命があり/\とあかうつつた。三四郎は又あたゝかい布団ふとんのなかにもぐり込んだ。さうして、赤い運命のなかでくるまはる多くのひとの身のうへを忘れた。
 夜がければつねの人である。制服を着けて、帳面ノートを持つて、学校へた。たゞ三拾円をふところにする事だけは〔わすれ〕なかつた。生憎時間割の都合がわるい。三時迄ぎつしりつまつてゐる。三時すぎに行けば、よし子も学校から帰つててゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふあに在宅うちかも知れない。ひとがゐては、かねかへすのが、全く駄目の様な気がする。
 又与次郎が話し掛けた。
昨夜ゆふべは御談義を聞いたか」
「なに御談義といふ程でもない」
うだらう、野々宮さんは、あれで理由わけわかつた人だからな」と云つて何所どこかへ行つて仕舞つた。二時間後にじかんごの講義のときに又出逢つた。
「広田先生の事は大丈夫うまきさうだ」と云ふ。どこ迄ことはこんだかと聞いて見ると、
「いや心配しないでもい。いづれゆつくりはなす。先生が君がしばらくないと云つて、聞いてゐたぜ。時々くがい。先生は一人ひとりものだからな。吾々われ/\が慰めてらんと、不可いかん。今度こんだ何か買つてい」と云ひつぱなして、それなり消えて仕舞つた。すると、つぎの時間に又何処どこからかあらはれた。今度こんどは何と思つたか、講義の最中さいちうに、突然、
かね受取うけとりたりや」と電報の様なものを白紙しらかみいてした。三四郎は返事をかうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方こつちを見てゐる。白紙しらかみを丸めてあししたげた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。
かね受取うけとつた。此所こゝにある」
うかそれかつた。かへす積りか」
「無論返すさ」
「それがからう。早くかへすがい」
今日けふかへさうと思ふ」
「うん午過ひるすぎ遅くならゐるかもしれない」
何所どこかへ行くのか」
くとも、毎日々々かれにく。もう余っ程出来たらう」
「原口さんのところか」
「うん」
 三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。

十の一


 広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞にた。門を這入ると、玄関に靴が一足揃へてある。医者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手ぐちまはるとだれもゐない。のそ/\あがり込んで茶のると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらくたゞずんでゐた。手になり大きな風呂敷づゝみげてゐる。なかには樽柿たるがきが一杯はいつてゐる。今度こんどる時は、何かつてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つてた。すると座敷のうちで、突然どたり、ばたりとおとがした。だれか組打を始めたらしい。三四郎は必定〔ひつじょう〕喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包をげた儘、仕切りの唐紙からかみするどく一尺許けて〔きっ〕と覗き込んだ。広田先生が茶の袴を穿いた大きなをとこに組みかれてゐる。先生は俯伏うつぶしかほきはどく畳からげて、三四郎を見たが、にやりとわらひながら、
「やあ、御出おいで」と云つた。うへをとこ一寸ちよつと振り返つたまゝである。
「先生、失礼ですが、きて御覧なさい」と云ふ。何でも先生の手をぎやくに取つて、ひぢ関節つがひおもてから、膝頭ひざがしらさへてゐるらしい。先生はしたから、到底きられないむねこたへた。うへの男は、それで、手をはなして、ひざてゝ、袴のひだたゞしく、居住居ゐずまゐを直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起きなほつた。
「成程」と云つてゐる。
「あの流でくと、無理にさからつたら、うでを折る恐れがあるから、危険です」
 三四郎は此問答で、始めて、此両人の今何をしてゐたかを悟つた。
「御病気ださうですが、もうよろしいんですか」
「えゝ、もうよろしい」
 三四郎は風呂敷包をいて、なかにあるものを、二人ふたりの間にひろげた。
「柿をつてました」
 広田先生は書斎へつて、小刀ナイフを取つてる。三四郎は台所から庖丁を持つてた。三人でかきを食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学のはなしを始めた。生活難の事、紛擾〔ふんじょう〕の事、ひとところに長くとまつてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄のだいを買つて、鼻緒はふるいのを、へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度こんど辞職した以上は、容易にくち見付みつかりさうもない事、〔やむ〕を得ず、それ迄妻を国もとあづけた事――中々なか/\尽きさうもない。
 三四郎はかきたねしながら、この男のかほを見てゐて、なさけなくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種じんしゆちがふ様な気がする。此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと文句もんく何度なんどかへされた。三四郎は此文句もんくを聞くたびに、自分の寿命もわづか二三年のあひだなのか知らんと、盆槍ぼんやり考へ始めた。与次郎と蕎麦そばなどをときの様に、気がえない。
 広田先生は又立つて書斎につた。かへつた時は、手に一巻の書物を持つてゐた。表紙が赤黒あかぐろくつて、くちほこりよごれたものである。
「是が此間このあひだはなしたハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」
 三四郎は礼を述べて書物を受け取つた。
寂寞じやくまく罌粟花けしを散らすやしきりなり。人の記念にたいしては、永劫にあたひすると否とを問ふ事なし」といふ句がいた。先生は安心して柔術の学士と談話をつゞける。――中学教師抔の生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なものばかりの様だが、真に気の毒と思ふのは当人丈である。なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣である。切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其証拠には新聞を見るとわかる。新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である。自分の取る新聞抔は、死人十何人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭のきよくである。又泥棒早見はやみと云ふ欄があつて、何所どこへどんな泥棒がはいつたか、一目ひとめわかる様に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可いけない。辞職もその通り。当人には悲劇に近い出来ごとかも知れないが、他人にはそれ程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したらからう。
「だつて先生位余裕があるなら、すこしは痛切に感じてもささうなものだが」と柔術の男が真面目まじめな顔をして云つた。此時は広田先生も三四郎も、さう云つた当人も一度に笑つた。此男がなかかへりさうもないので三四郎は、書物をりて、勝手から表へた。

十の二


「朽ちざるはかねむり、つたはることき、知らるる名に残り、しからずは滄桑〔そうそう〕の変に任せて、のちそんせんと思ふ事、むかしより人のねがひなり、此ねがひのかなへるとき、人は天国にあり。去れどもまことなる信仰の教法より視れば、此ねがひも此満足まんぞくきが如くに果敢はかなきものなり。きるとは、ふたたびわれかへるの意にして、ふたゝびわれに帰るとは、ねがひにもあらず、のぞみにもあらず、気高けだかき信者の見たる明白あからさまなる事実じじつなれば、聖徒イノセントの墓地によこたはるは〔なお〕埃及エジプト砂中さちうに埋まるが如し。常住の吾身わがみを観じよろこべば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟〔たいびょう〕ことなる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」
 是はハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶら/\白山はくさんの方へあるきながら、往来のなかで、此一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。広田先生は其話そのはなしをした時に、笑ひながら、尤も是はわたしせつぢやないよとことわられた。成程三四郎にも何処どこが名文だかわからない。只句切くぎりが悪くつて、字遣じづかひが異様で、言葉のはこかたおも苦しくつて、丸で古い御寺おてらを見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程みちのりにすると、三四町もかゝつた。しかも判然はつきりとはしない。
 ち得た所は物びてゐる。奈良の大仏だいぶつかねいて、其余波なごりひゞきが、東京にゐる自分の耳にかすかにとゞいたと同じ事である。三四郎は此一節のもたらす意味よりも、其意味の上に〔は〕ひかゝる情しよかげうれしがつた。三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりにあたゝぎる。の前には眉をこがす程な大きな火がえてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町あけぼのちやう原口はらぐちの所へ行く。
 小供の葬式がた。羽織をた男がたつた二人ふたりいてゐる。さい棺は真白なぬのいてある。其そばに奇麗な風車かざぐるまひ付けた。くるまがしきりにまはる。くるま羽瓣はねが五しきつてある。それが一色いつしきになつてまはる。しろい棺は奇麗な風車かざぐるま断間たえまなくうごかして、三四郎の横を通り越した。三四郎はうつくしいとむらひだと思つた。
 三四郎はひとの文章と、ひとの葬式を余所よそから見た。もしだれて、ついでに美禰子を余所よそから見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたにちがひない。三四郎は美禰子を余所よそからる事が出来できない様なになつてゐる。第一余所よそ余所よそでないもそんな区別は丸で意識してゐない。たゞ事実として、ひとの死に対しては、うつくしい穏やかなあぢはひがあると共に、生きてゐる美禰子に対しては、うつくしい享楽のそこに、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶をはらはうとして、真直まつすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶がれる様に思ふ。苦悶をる為めに一歩ひとあしわき退く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅じやくめつを文字の上にながめて、夭折の憐れを、三尺のそとに感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、こゝろよく眺めて、うつくしく感じたのである。
 あけぼの町へまがると大きな松がある。此松を目標めじるしいと教はつた。松のしたると、家がちがつてゐる。向ふを見ると又松がある。其さきにも松がある。松が沢山ある。三四郎はい所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣いけがきに奇麗な門がある。果して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理もくめんだくろつぽい板に、みどりあぶらで名前を派出はでいたものである。字だか模様だかわからない位つてゐる。門から玄関迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。

十の三


 玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左みぎひだりで色が違ふ。それで能く覚えてゐる。いま仕事中しごとちうだが、ければあがれと云ふ小女こをんな取次とりつぎいて、画室へ這入はいつた。ひろい部屋である。細長ほそなが南北みなみきたに延びたゆかうへは、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈じうたんが敷いてある。それが部屋の大きさにくらべると、丸でり合が取れないから、敷物しきものとしていたといふよりは、色のい、模様のな織物としてほうりだした様に見える。離れてむかふに置いた大きなとらの皮も其通り、すはための、設けのとは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違すぢかひに尾を長くいてゐる。すなかためた様な大きなかめがある。其なかから矢が二本てゐる。鼠色の羽根と羽根のあひだが金箔でつよひかる。其傍そのそばよろひもあつた。三四郎は卯の花おどしと云ふのだらうと思つた。向ふがはの隅にぱつとを射るものがある。むらさき裾模様すそもやうの小そでに金糸の刺繍ぬひが見える。袖からそで幔幕まんまくつなを通して、虫干むしぼしの時の様にるした。そでは丸くてみぢかい。是が元禄げんろくかと三四郎も気がいた。其外そのほかにはが沢山ある。かべに掛けたのばかりでも大小あはせると余程になる。額縁がくぶちけない下画したゑといふ様なものは、かさねていたはじが、くづれて、小口こぐちをしだらなくあらはした。
 ゑがかれつゝある人の肖像は、此彩色いろどりみだあひだにある。ゑがかれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を〔かざ〕して立つた。ゑがく男は丸いをぐるりとかへして、調色板パレツトつた儘、三四郎に向つた。くちふと烟管パイプ〔くわ〕へてゐる。
つてたね」と云つて烟管パイプくちから取つて、さい丸卓まるテーブルうへに置いた。燐寸マツチと灰皿がつてゐる。椅子もある。
「掛け給へ。――あれだ」と云つて、き掛けた画布カン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、
「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、みゝにもめない風で、
「うん、なか々」と独言ひとりごとの様に、かみと、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇のかげで、白い歯がかすかにひかつた。
 それから二三分はまつたく静かになつた。部屋は煖炉だんろあたゝめてある。今日けふ外面そとでも、さう寒くはない。かぜは死に尽した。れたおとなく冬のつゝまれて立つてゐる。三四郎は画室へみちびかれた時、かすみなかへ這入つた様な気がした。丸卓まるテーブルひぢたして、此しづかさのまささかひに、〔はばか〕りなき精神こゝろを溺れしめた。此しづかさのうちに、美禰子がゐる。美禰子のかげが次第に出来あがりつゝある。ふとつた画工の画筆ブラツシだけが動く。それうごく丈で、みゝには静かである。ふとつた画工もうごく事がある。然し足音あしおとはしない。
 しづかなものに封じ込められた美禰子は全くうごかない。団扇を翳して立つた姿すがたその儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精して、其奥行だけおとして、普通の画に美禰子をき直してゐるのである。にも〔かか〕はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第しだいと第一にちかづいてる。三四郎には、此二人このふたりの美禰子のあひだに、時計のおとに触れない、静かな長い時間じかんが含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへのぼらない程音無おとなしくつに従つて、第二の美禰子が漸やくいてる。もうすこしで双方がぴたりと出合であつてひとつにおさまると云ふ所で、ときながれが急にむきを換へて永久のなかそゝいで仕舞ふ。原口さんの画筆ブラツシそれより先には進めない。三四郎は其所迄そこまでいて行つて、気がいて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎のあたまは此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひした。

十の四


「又くるしくなつた様ですね」
 女は何にも云はずに、すぐ姿勢をくづして、そばいた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又ひかつた。さうしてうごく時のそでともに三四郎を見た。其は流星の様に三四郎の眉間みけんを通り越してつた。
 原口はらぐちさんは丸卓まるテーブルそばて、三四郎に、
うです」と云ひながら、燐寸マツチつて、先刻さつき烟草パイプに火をけて、再びくちに啣へた。大きな雁首がんくびゆびおさへて、二吹許ふたふきばかり濃いけむりひげなかからしたが、やがて又丸い脊中せなかを向けて近付ちかづいた。勝手な所を自由に塗つてゐる。
 絵は無論仕上しあがつてゐないものだらう。けれども何処どこ彼所かしこも万遍なく絵の具がつてあるから、素人しらうとの三四郎が見ると、中々立派である。うまいか無味まづいか無論わからない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の〔もた〕らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠〔せいこく〕を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないとみづからを証拠てる丈でも三四郎は風流人である。
 三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉がいて、光沢つやのない日光あたつた様に思はれる。かげところでも黒くはない。寧ろうすむらさきしてゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙ちよき船に乗つた心持がある。それでも何処どこか落ち付いてゐる。剣呑でない。にがつた所、しぶつた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆ブラツシを使ひながら、こんな事を云ふ。
「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君がいやになつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、わたくしは縁あつて、此家このうち方付かたづいたものですから、仮令たとひあなたが御厭おいやでもわたくしは決して出てまいりません」
 原口さんは其所そこ一寸ちよつと画を離れて、画筆ブラツシの結果をながめてゐたが、今度こんどは、美禰子に向つて、
「里見さん。あなたが単衣ひとへものて呉れないものだから、着物きものにくくつてこまる。丸で好加減いゝかげんにやるんだから、少し大胆ぎますね」
「御気の毒さま」と美禰子が云つた。
 原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、う云つたんだとさ。るのがいやなら、ないでもい。何時いつ迄でもうちにゐるがい。其代りおれの方がるから。――里見さん一寸ちよつとつて見てください。団扇はうでもい。ただ立てば。さう。難有〔ありがと〕う。――細君が、わたくしうちに居つても、貴方あなたて御仕舞になれば、あとが困るぢやありませんかと云ふと、なに構はないさ、御前おまへは勝手に入夫にうふでもしたらからうとこたへたんだつて」
「それから、うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、かたるに足りないと思つたものか、まだあとをつけた。
うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散〔しゅうさん〕、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、ついでに僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。をんなえらくなると、かう云ふ独身ものが沢山出来できる。だから社会の原則は、独身ものが、出来でき得ない程度内に於て、女がえらくならなくつちや駄目だね」
「でもあに近々きん/\結婚致しますよ」
「おや、うですか。すると貴方あなたうなります」
ぞんじません」
 三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「ぞんじません。ぞんじません――ぢや」と画筆ブラツシうごかした。

十の五


 三四郎は此機会を利用して、丸卓まるテーブルわきを離れて、美禰子のそば近寄ちかよつた。美禰子は椅子の脊に、油気あぶらけのないあたまを、無雑作にたせて、つかれたひとの、身繕みづくろひこゝろなき放擲なげやり姿すがたである。あからさまに襦袢の襟から咽喉頸のどくびが出てゐる。椅子にはてた羽織をけた。廂髪ひさしがみうへに奇麗なうらが見える。
 三四郎はふところに三拾円入れてゐる。此三拾円が二人ふたりあひだにある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。かへさうと思つて、かへさなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今かへさうとするのも是が為である。かへすと用がなくなつて、とほざかるか、用がなくなつても、一層いつそう近付ちかづいてるか、――普通のひとから見ると、三四郎はすこし迷信家の調子を帯びてゐる。
「里見さん」と云つた。
「なに」と答へた。仰向あほむいてしたから三四郎を見た。かほもとごとくに落ちけてゐる。丈はうごいた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまつた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。
「丁度ついでだから、此所こゝかへしませう」と云ひながら、ボタンを一つはづして、内懐うちぶところへ手を入れた。女は又、
「なに」と繰り返した。もとの通り、刺激のない調子である。内懐うちぶところへ手を入れながら、三四郎はうしやうと考へた。やがて思ひ切つた。
此間このあひだかねです」
「今くだすつても仕方しかたがないわ」
 女はしたから見上みあげた儘である。手もさない。身体からだうごかさない。かほもとところに落ちけてゐる。男は女の返事さへ〔よ〕くはねた。其時、
「もう少しだから、うです」と云ふ声がうしろきこえた。見ると、原口さんが此方こつちを向いて立つてゐる。画筆ブラツシゆびまたはさんだまゝ、三角に刈り込んだひげさきを引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子のひぢに掛けて、こしおろしたなり、あたま真直まつすぐに延ばした。三四郎はちいさな声で、
「まだ余程かゝりますか」と聞いた。
「もう一時間ばかり」と美禰子もちいさな声で答へた。三四郎は又丸卓まるテーブルに帰つた。女はもうゑがかるべき姿勢を取つた。原口さんは又烟管パイプけた。画筆ブラツシは又動きす。けながら、原口さんがう云つた。
「小川さん。里見さんのを見て御覧ごらん
 三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然ひたひから団扇をはなして、しづかな姿勢を崩した。よこを向いて硝子越がらすごしに庭を眺めてゐる。
不可いけない。よこいてしまつちや、不可いけない。今したばかりだのに」
何故なぜ余計な事をおつしやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。
ひやかしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」
「何を」
「是からはなすから、まあもとの通りの姿勢にふくしてください。さう。もう少しひぢを前へして。それで小川さん、僕のいたが、実物の表情通り出来てゐるかね」
うも能くわからんですが。一体うやつて、毎日毎日いてゐるのに、かれるひとの表情が何時いつも変らずにゐるものでせうか」
「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工ゑかきの方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来がらなくつちやならない訳だが、さうはかない。又たつた一枚でなり纏つたものが出来るから不思議だ。何故なぜと云つて見給へ……」
 原口さんは此間このあひだ始終筆を使つかつてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。

十の六


「かうつて毎日いてゐると、毎日の量がつもつもつて、しばらくするうちに、いてゐる画に一定の気分が出来できてくる。だから、たとひほかの気分で戸外そとからかへつてても、画室へ這入つて、画に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の気分になれる。つまりなかの気分が、此方こつちうつるのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然のまゝほうつて置けば色々の刺激で色々いろ/\の表情になるにきまつてゐるんだが、それが実際うへたいした影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、う云ふ乱雑なつゞみだとか、鎧だとか、虎の皮だとかいふ周囲のものが、自然に一種一定の表情を引き起す様になつてて、其習慣が次第にほかの表情を圧迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此眼付めつきを此儘で仕上しあげてけばいんだね。それに表情と云つたつて……」
 原口さんは突然だまつた。何所どこか六※[#濁点付き小書き平仮名つ、549-4]かしいところたと見える。二歩許ふたあしばかり立ち退いて、美禰子と画をしきり見較みくらべてゐる。
「里見さん、うかしましたか」と聞いた。
「いゝえ」
 此答は美禰子のくちからたとは思へなかつた。美禰子はそれ程しづかに姿勢をくづさずにゐる。
「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。「画工ゑかきはね、こゝろくんぢやない。こゝろそと見世みせしてゐるところくんだから、見世みせさへ手落ておちなく観察すれば、身代しんだいおのづからわかるものと、まあ、さうして置くんだね。見世でうかゞへない身代しんだい画工ゑかきの担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々はにくばかりいてゐる。どんなにくいたつて、れいこもらなければ、死肉だから、画として通有しない丈だ。そこで此里見さんのもね。里見さんのこゝろを写すつもりいてゐるんぢやない。たゞとしていてゐる。此が気に入つたからいてゐる。此の恰好だの、二重まぶちかげだの、ひとみの深さだの、なんでも僕に見える所丈を残りなくいて行く。すると偶然の結果として、一種の表情がる。もしなければ、僕の色のし具合がわるかつたか、恰好の取りかたが間違がつてゐたか、何方どつちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」
 原口さんは、此時又二歩ふたあしばかりあと退さがつて、美禰子と画とを見較みくらべた。
うも、今日けふうかしてゐるね。つかれたんでせう。つかれたら、もうしませう。――つかれましたか」
「いゝえ」
 原口さんは又画へ近寄つた。
「それで、僕が何故なぜ里見さんのえらんだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋画の女のかほを見ると、だれいた美人でも、屹度大きなをしてゐる。可笑〔おか〕しい位大きなばかりだ。所が日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もつとも著るしいのは浮世絵にあらはれた美人、悉くほそい。みんな象に似てゐる。何故なぜ東西で美の標準がこれ程ちがふかと思ふと、一寸ちよつと不思議だらう。所が実は何でもない。西洋にはの大きい奴ばかりゐるから、大きいのうちで、美的淘汰が行はれる。日本はくじらの系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人のは、あれでうしてけるだらうなんてひやかしてゐる。――そら、さう云ふ国柄だから、どうしたつて材料のすくない大きなに対する審美眼が発達しやうがない。そこで撰択の自由のほそのうちで、理想が出来て仕舞つたのが、歌麿になつたり、祐信〔すけのぶ〕になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋画には、あゝほそいのは盲目めくらいた様で見共〔みとも〕なくつて不可いけない。と云つて、ラフアエルの聖母マドンナの様なのは、てんでありやしないし、つた所が日本人とは云はれないから、其所そこで里見さんを〔わずら〕はす事になつたのさ。里見さんもう少時すこしですよ」
 答はなかつた。美禰子はじつとしてゐる。

十の七


 三四郎は此画家のはなしを甚だ面白く感じた。とくにはなし丈聴きにたのならば〔なお〕幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焼点は、今、原口さんのはなしの上にもない、原口さんのうへにもない。無論むかふつてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、丈は遂に美禰子を離れなかつた。かれに映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤もうつくしい刹那に、捕虜とりこにして動けなくした様である。かはらない所に、ながい慰藉がある。然るに原口さんが突然くびひねつて、女にうかしましたかといた。其時三四郎は、少しおそろしくなつた位である。うつやすうつくしさを、うつさずに据ゑて置く手段が、もう尽きたと画家から注意された様にきこえたからである。
 成程さう思つて見ると、うかしてゐるらしくもある。色光沢いろつやくない。眼尻めじりに堪へ難いものうさが見える。三四郎は此活人画から受ける安慰の念をうしなつた。同時にもしや自分が此変化の源因ではなからうかと考へいた。〔たちま〕ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つてた。うつ果敢はかなむと云ふ共通性の情緒は丸で影を潜めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女のうへに有して居る。――三四郎は此自覚のもとに一切いつさいおのれを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。
 其時原口さんが、とう/\筆をいて、
「もうさう。今日けふうしても駄目だめだ」と云ひした。美禰子はつてゐた団扇を、立ちながら、ゆかうへおとした。椅子にけた、羽織をつてながら、此方こちらつてた。
今日けふつかれてゐますね」
わたくし?」と羽織のゆきそろへて、ひもむすんだ。
「いや実はぼくつかれた。また明日あした元気のときりませう。まあ御茶でもんで、ゆつくりなさい」
 夕暮には、まだがあつた。けれども美禰子はすこし用があるから帰るといふ。三四郎もめられたが、わざと断わつて、美禰子と一所に表へた。日本の社会状態で、かう云ふ機会を、随意につくる事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機会をながく引きばして利用しやうと試みた。それで、比較的ひととほらない、閑静な曙町あけぼのちやうを、一廻ひとまはり散歩しやうぢやいかと女をいざなつて見た。所が相手は案外にも応じなかつた。一直線に生垣いけがきあひだ横切よこぎつて、大通おほどほりへた。三四郎は、ならんであるきながら、
「原口さんもう云つてゐたが、本当にうかしたんですか」といた。
わたくし?」と美禰子が又云つた。原口さんにこたへたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使つかつた事がない。大抵の応対は一句か二句でましてゐる。しかも甚だ単簡なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には、一種の深いひゞきを与へる。殆んどほかひとからは、聞き得る事の出来ないいろる。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。
わたくし?」と云つた時、女はかほを半分程三四郎の方へけた。さうして二重瞼ふたへまぶたの切れ目から男を見た。其眼そのめにはかさかゝつてゐる様に思はれた。何時いつになく感じが生温なまぬるた。ほゝいろも少しあをい。
いろすこわるい様です」
うですか」
 二人ふたりは五六歩無言むげんであるいた。三四郎はうともして、二人ふたりあひだかつたうすい幕の様なものをやぶりたくなつた。然し何と云つたらやぶれるか、丸で分別がなかつた。小説などにあるあまい言葉はつかいたくない。趣味のうへから云つても、社交上わかい男女の習慣としても、つかたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでゐる。望んでゐるばかりではない、あるきながら工夫してゐる。

十の八


 やがて、女の方からくちした。
今日けふなに原口はらぐちさんに御用が御りだつたの」
「いゝえ、用事はかつたです」
「ぢや、たゞあそびに〔い〕らしつたの」
「いゝえ、あそびにつたんぢやありません」
「ぢや、んで入らしつたの」
 三四郎は此瞬間をとらへた。
「あなたにひにつたんです」
 三四郎はこれで云へる丈の事をことごとく云つた積りである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつもの如く男を酔はせる調子で、
御金おかねは、彼所あすこぢやいたゞけないのよ」と云つた。三四郎は落胆がつかりした。
 二人ふたりは又無言むげんで五六間た。三四郎は突然くちひらいた。
「本当はかねかへしにつたのぢやありません」
 美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、しづかに云つた。
「御かねわたくしりません。持つて入らつしやい」
 三四郎はへられなくなつた。急に、
「たゞ、あなたにひたいからつたのです」と云つて、横に女の顔をのぞんだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女のくちれたかすかな溜息ためいききこえた。
御金おかねは……」
かねなんぞ……」
 二人ふたり会話くわいわは双方共意味をさないで、途中でれた。それなりで、又小半町程た。今度こんどは女から話しけた。
「原口さんのを御覧になつて、どう御思ひなすつて」
 答へかたが色々あるので、三四郎は返事をせずにすこしのあひだあるいた。
あんま出来方できかたはやいので御驚ろきなさりやしなくつて」
「えゝ」と云つたが、実は始めて気が付いた。考へると、原口が広田先生の所へて、美禰子の肖像をく意志をらしてから、まだ一ヶ月ぐらゐにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼してゐたのは、それよりのちの事である。三四郎は画のみちくらいから、あんなおほきながくが、の位な速度で仕上しあげられるものか、殆んど想像のほかにあつたが、美禰子から注意されて見ると、余り早く出来過できすぎてゐる様に思はれる。
何時いつから取掛とりかゝつたんです」
「本当にかゝつたのは、つい此間このあひだですけれども、其前そのまへからすこづゝいていただいてゐたんです」
其前そのまへつて、何時頃いつごろからですか」
「あの服装なりわかるでせう」
 三四郎は突然として、始めて池の周囲まはりで美禰子に逢つたあつむかしを思ひした。
「そら、あなた、しゐの木のしたしやがんでゐらしつたぢやありませんか」
「あなたは団扇をかざして、たかい所にたつてゐた」
「あのの通りでせう」
「えゝ。あの通りです」
 二人ふたりは顔を見合はした。もう少しで白山はくさんさかの上へる。
 むかふからくるまけてた。黒い帽子をかぶつて、金縁きんぶち眼鏡めがねを掛けて、遠くから見ても色光沢いろつやい男がつてゐる。此くるまが三四郎の這入はいつた時から、車の上のわかい紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間さきると、くるまを急にめた。前掛まへかけを器用に退けて、蹴込みからりた所を見ると、脊のすらりと高い細面ほそおもての立派な人であつた。ひげを奇麗につてゐる。それでゐて、全くをとこらしい。
「今迄つてゐたけれども、あんまおそいからむかひた」と美禰子の真前まんまへに立つた。見下みおろして笑つてゐる。
「さう、難有〔ありがと〕う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼そのめをすぐ三四郎の方へ向けた。
何誰どなた」と男が聞いた。
「大学の小川さん」と美禰子が答へた。
 男はかるく帽子を取つて、むかふから挨拶をした。
「早くかう。にいさんも待つてゐる」
 い具合に三四郎は追分おひわけまがるべき横町のかどに立つてゐた。かねはとう/\かへさずにわかれた。

十一の一


 此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つてまはつてゐる。二三日かつて、知つたものへはほゞけた様子である。与次郎はそれから知らないものをつらまへる事にした。大抵は廊下でつらまへる。すると中々なか/\はなさない。どうか、うかはせて仕舞ふ。ときには談判中に号鐘ベルつて取りにがす事もある。与次郎はこれときあらずと号してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時いつ迄も要領を得ない事がある。与次郎はこれひとあらずと号してゐる。或時あるとき便所からた教授をつらまへた。其教授は手帛ハンケチで手をきながら、いま一寸ちよつとと云つた儘急いで図書館へ這入つて仕舞つた。それぎりけつしてない。与次郎はこれを――何とも号しなかつた。後影うしろかげ見送みおくつて、あれは腸加答児カタルに違ないと三四郎に教へて呉れた。
 与次郎に切符の販売かたを何枚たのまれたのかと聞くと、何枚でも売れる丈たのまれたのだと云ふ。あまり売れぎて演芸場に這入はいり切れない恐れはないかと聞くと、すこしはると云ふ。それでは売つたあとで困るだらうと念を推すと、なに大丈夫だ、なかには義理でふものもあるし、事故でないものもあるし、それから腸加答児も少しは出来できるだらうと云つて、澄ましてゐる。
 与次郎が切符を売る所を見てゐると、引きかへかねを渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない学生にはたゞ切符丈わたしてゐる。気のさい三四郎が見ると、心配になる位わたしてあるく。あとから思ふ通りかねるかといて見ると、無論らないといふ答だ。几帳面に〔わず〕るよりも、だらしなく沢山売る方が、大体のうへに於て利益だからうすると云つてゐる。与次郎はこれをタイムス社が日本で百科全書を売つた方法に比較してゐる。比較丈は立派にきこえたが、三四郎はなんだか心元こゝろもとなく思つた。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事は面白かつた。
「相手は東京帝国大学々生だよ」
「いくら学生だつて、君の様にかねけるとのん気なのが多いだらう」
「なに善意ぜんゐはらはないのは、文芸協会の方でも八釜敷やかましくは云はないはづだ。うせ幾何いくら切符が売れたつて、とゞのつまりは協会の借金になる事はあきらかだから」
 三四郎は念のため、それは君の意見か、協会の意見かとたゞして見た。与次郎は、無論僕の意見であつて、協会の意見であると都合のいゝ事を答へた。
 与次郎の説を聞くと、今度の演芸会を見ないものは、まるで馬鹿の様な気がする。馬鹿の様な気がする迄与次郎は講釈をする。それが切符を売るためだか、実際演芸会を信仰してゐるためだか、或はたゞ自分の景気をけ、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気を出来る丈にぎやかにするためだか、そこの所が一寸ちよつと明晰に区別が立たないものだから、相手は馬鹿の様な気がするにも〔かか〕はらず、あまり与次郎の感化を蒙らない。
 与次郎は第一に会員の練習に骨を折つてゐるはなしをする。はなし通りに聞いてゐると、会員の多数は、練習の結果として、当日前たうじつぜんに役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景がたいしたもので、東京にゐる有為の青年画家を悉く引きげて、悉く応分の技倆を振はした様な事になる。つぎに服装の話をする。其服装があたまから足のさき古実こじつづくめに出来あがつてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外そのほか幾何いくらでもある。
 与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹けうだい里見兄妹さとみけうだいには上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる。三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた。

十一の二


 万歳を唱へた晩、与次郎が三四郎の下宿へた。昼間ひるまとはつて変つてゐる。堅くなつて火鉢のそばすはつてさむい寒いと云ふ。其かほがたゞさむいのではいらしい。始めは火鉢へゝる様に手をかざしてゐたが、やがて懐手ふところでになつた。三四郎は与次郎の顔を陽気にするめに、机のうへ洋燈ランプはじからはじへ移した。所が与次郎はあごをがつくりおとして、大きな坊主あたま丈を黒くらしてゐる。一向えない。うかしたかと聞いた時に、くびげて洋燈ランプを見た。
此家このうちではまだ電気をかないのか」と顔付かほつきには全く縁のないこといた。
「まだかない。其内そのうち電気にするつもりださうだ。洋燈ランプくらくて不可いかんね」とこたへてゐると、急に、洋燈ランプの事は忘れたと見えて、
「おい、小川、大変な事が出来できて仕舞つた」と云ひした。
 一応理由わけいて見る。与次郎はふところから皺だらけの新聞をした。二枚かさなつてゐる。其一枚をがして、新らしく畳みなほして、此所こゝを読んで見ろと差し付けた。読む所をゆびあたまで抑へてゐる。三四郎は洋燈ランプそばせた。見出みだしに大学の純文科とある。
 大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望にうながされて、今度〔いよいよ〕本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此間中このあひだぢうから適当の人物を人撰中であつたが、漸く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於て、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。と云ふ内容である。
「広田先生ぢやかつたんだな」と三四郎が与次郎をかへりみた。与次郎は矢っ張り新聞のうへを見てゐる。
「是はたしかなのか」と三四郎が又聞いた。
うも」とくびげたが、「大抵大丈夫だらうと思つてゐたんだがな。そくなつた。もつと此男このをとこが大分運動をしてゐると云ふはなしいた事もあるが」と云ふ。
「然し是丈これだけぢや、まだ風説ぢやないか。〔いよいよ〕発表になつて見なければわからないのだから」
「いや、それだけなら無論構はない。先生の関係した事ぢやないから、然し」と云つて、又残りの新聞を畳みなほして、標題みだしゆびあたまおさへて、三四郎のしたした。
 今度こんどの新聞にもほゞ同様の事が載つてゐる。そこ丈は別段にあたらしい印象をおこしやうもないが、其後そのあとて、三四郎は驚ろかされた。広田先生が大変な不徳義漢の様に書いてある。十年間語学の教師をして、世間には〔よう〕として聞えない凡材のくせに、大学で本邦人の外国文学講師をれると聞くや否や、急に狐鼠々々〔こそこそ〕運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならず其門下生をして「偉大なる暗闇くらやみ」などと云ふ論文を小雑誌こざつしに草せしめた。此論文は零余子なる慝名〔とくめい〕もとにあらはれたが、実は広田のいへ出入しつにうする文科大学生小川三四郎なるものゝふでである事迄分つてゐる。と、とう/\三四郎の名前がて来た。
 三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎は前から三四郎の顔を見てゐる。二人共ふたりともしばらくだまつてゐた。やがて、三四郎が、
こまるなあ」と云つた。すこし与次郎をうらんでゐる。与次郎は、そこはあまりかまつてゐない。
「君、これをう思ふ」と云ふ。
う思ふとは」
「投書を其儘したにちがひない。決して社の方で調しらべたものぢやない。文芸時評の六号活字の投書に〔こ〕んなのが、いくらでもる。六号活字は殆んど罪悪のかたまりだ。よくよくさぐつて見るとうそが多い。目に見えたうそいてゐるのもある。何故なぜそんなな事をやるかと云ふとね、君。みんな利害問題が動機になつてゐるらしい。それで僕が六号活字を受持つてゐる時には、性質たちくないのは、大抵屑籠くづかごほうり込んだ。此記事も全くそれだね。反対運動の結果だ」

十一の三


何故なぜ、君の名がないで、ぼくの名がたものだらうな」
 与次郎は「うさ」と云つてゐる。しばらくしてから、
「矢っ張りなんだらう。君は本科生で僕は撰科生だからだらう」と説明した。けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかつた。三四郎は依然として迷惑である。
「全体僕が零余子なんて稀知けちな号を使はずに、堂々と佐々木与次郎と署名して置けばかつた。実際あの論文は佐々木与次郎以外にけるものは一人ひとりもないんだからなあ」
 与次郎は真面目まじめである。三四郎に「偉大なる暗闇くらやみ」の著作権を奪はれて、却つて迷惑してゐるのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。
「君、先生にはなしたか」と聞いた。
「さあ、其所そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だつて、ぼくだつて、どつちだつて構はないが、こと先生の人格に関係してくる以上は、はなさずにはゐられない。あゝ云ふ先生だから、一向知りません、何か間違でせう、偉大なる暗闇といふ論文は雑誌にましたが、慝名〔とくめい〕です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさい位に云つて置けば、さうかですぐ済んで仕舞ふわけだが、此際うは不可いかん。どうしたつて僕が責任をあきらかにしなくつちや。事がうまつて、知らんかほをしてゐるのは、心持がいが、そくなつてだまつてゐるのは不愉快でたまらない。第一自分が事を起して置いて、あゝ云ふ善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がして居られるものぢやない。正邪曲直なんて六※[#濁点付き小書き平仮名つ、564-12]かしい問題は別として、たゞ気の毒で、いたはしくつて不可いけない」
 三四郎は始めて与次郎を感心な男だと思つた。
「先生は新聞を読んだんだらうか」
うちる新聞にやない。だから僕もらなかつた。然し先生は学校へ行つて色々いろ/\な新聞を見るからね。よし先生が見なくつてもだれか話すだらう」
「すると、もう知つてるな」
「無論知つてるだらう」
「君には何とも云はないか」
「云はない。尤もろくはなしをするひまもないんだから、云はない筈だが。此間このあひだから演芸会の事で始終奔走してゐるものだから――あゝ演芸会も、もういやになつた。めて仕舞はうかしらん。御白粉おしろいけて、芝居なんかやつたつて、何が面白いものか」
「先生にはなしたら、君、しかられるだらう」
しかられるだらう。しかられるのは仕方がないが、如何にも気の毒でね。余計な事をして迷惑をけてるんだから。――先生は道らくのない人でね。酒は飲まず、烟草たばこは」と云ひかけたが途中でめて仕舞つた。先生の哲学を鼻からけむにして吹き出す量は月に積ると、莫大なものである。
「烟草丈はなりむが、其外に何にもいぜ。つりをするぢやなし、碁を打つぢやなし、家庭のたのしみがあるぢやなし。あれが一番不可いけない。小供でもあるといんだけれども。実に枯淡だからなあ」
 与次郎はそれで腕組をした。
「たまに、慰め様と思つて、少し奔走すると、んな事になるし。君も先生の所へ行つてれ」
「行つてどころぢやない。僕にも多少責任があるから、謝罪あやまつてる」
きみ謝罪あやまる必要はない」
「ぢや弁解してる」
 与次郎はそれで帰つた。三四郎はとこ這入はいつてから度々たび/\寐返りを打つた。国にゐる方が寐易〔ねやす〕い心持がする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎に来て連れてつた立派な男――色々の刺激がある。

十一の四


 夜中よなかからぐつすりた。何時いつもの様に起きるのが、ひどくつらかつた。かほあらふ所で、同じ文科の学生につた。顔丈は互に見知りひである。失敬と云ふ挨拶のうちに、此男は例の記事を読んで居るらしくすいした。然し先方では無論話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかつた。
 あたゝかいしるいでゐる時に、又故里ふるさとの母からの書信に接した。又例のごとながかりさうだ。洋服を着換へるのが面倒だから、たまゝのうへへ袴を穿いて、ふところへ手紙を入れて、る。戸外そとうすい霜でひかつた。
 通りへると、ほとんど学生ばかりあるいてゐる。それが、みな同じ方向へく。悉くいそいでく。寒い往来はわかい男の活気で一杯になる。其なか霜降しもふりの外套を着た広田先生の長いかげが見えた。此青年の隊伍にまぎれ込んだ先生は、歩調に於て既に時代錯誤アナクロニズムである。左右前後に比較すると頗る緩漫に見える。先生のかげは校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨人のからかさの様に枝をひろげて玄関をふさいでゐる。三四郎の足が門前迄来た時は、先生の影が、既に消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台ばかりであつた。此時計とけい台の時計は常にくるつてゐる。もしくはとまつてゐる。
 門内もんないを一寸覗き込んだ三四郎は、くちうちで、「ハイドリオタフヒア」と云ふ字を二度繰り返した。此字は三四郎の覚えた外国語のうちで、尤も長い、又尤も六※[#濁点付き小書き平仮名つ、567-9]かしい言葉ことばひとつであつた。意味はまだわからない。広田先生にいて見るつもりでゐる。かつて与次郎に尋ねたら、恐らくダーターフアブラのたぐひだらうと云つてゐた。けれども三四郎から見ると、二つのあひだには大変なちがひがある。ダーターフアブラは躍るべき性質のものと思へる。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさへひまる。二返繰り返すと歩調がおのづから緩慢になる。広田先生の使つかふために古人が作つて置いた様なおんがする。
 学校へつたら、「偉大なる暗闇くらやみ」の作者として、衆人の注意を一身に集めてゐる気色きしよくがした。戸外そとへ出様としたが、戸外そとは存外寒いから廊下にゐた。さうして講義のあひだふところから母の手紙をして読んだ。
 此冬休みには帰つていと、丸で熊本にゐた当時と同様な命令がある。実は熊本にゐた時分にこんな事があつた。学校が休みになるか、ならないのに、帰れと云ふ電報がかつた。母の病気に違ないと思ひ込んで、驚ろいて飛んで帰ると、母の方では此方こつちへんがなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許によろこんでゐる。わけを聞くと、何時いつつてゐても帰らないから、御稲荷様へうかゞひてたら、こりや、もう熊本をつてゐるといふ御託宣であつたので、途中でうかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其当時を思ひして、今度も〔また〕うかゞひを立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷様の事はいてない。たゞ三輪田の御光さんも待つてゐるとわり註見た様なものがいてゐる。御光さんは豊津の女学校をやめて、うちへ帰つたさうだ。又御光さんに縫つて貰つた綿入が小包こづゝみるさうだ。大工の角三かくぞうが山で賭博ばくちを打つて九十八円取られたさうだ。――其顛末が〔くわ〕しく書いてある。面倒だからい加減に読んだ。何でも山を買ひたいといふ男が三人づれで入り込んでたのを、角三が案内をして、山をまはつてあるいてるあひだられて仕舞つたのださうだ。角三はうちへ帰つて、女房に何時いつに取られたかわからないと弁解した。すると、女房がそれぢや御前さん眠り薬でもがされたんだらうと云つたら、角三が、うんう云へば何だかいだ様だと答へたさうだ。けれども村のものはみんな賭博ばくちをしてげられたと評判してゐる。田舎いなかでもうだから、東京にゐる御前なぞは、本当によく気を付けなくては不可いけないと云ふ訓戒がいてゐる。
 長い手紙を巻き収めてゐると、与次郎がそばて、「やあ女の手紙だな」と云つた。昨夕ゆふべよりは冗談をいふ丈元気がい。三四郎は、
「なに母からだ」と、少しつまらなささうに答へて、封筒ごとふところへ入れた。
「里見の御嬢さんからぢやないのか」
「いゝや」
「君、里見の御嬢さんの事を聞いたか」
「何を」と問ひ返してゐる所へ、一人ひとりの学生が、与次郎に、演芸会の切符をしいといふ人が階下したに待つてゐると教へにてくれた。与次郎はすぐりてつた。

十一の五


 与次郎はそれなり消えてなくなつた。いくらつらまへやうと思つてもない。三四郎は〔やむ〕を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義がんでから、昨夕ゆふべの約束通り広田先生のうちる。相変らず静かである。先生は茶のに長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうかすつたのかと聞くと、うぢやいのでせう、昨夕ゆふべ余り遅くなつたので、ねむいと云つて、先刻さつき御帰りになると、すぐよこに御りなすつたのだと云ふ。長い身躯からだうへ小夜着こよぎが掛けてある。三四郎はちいさな声で、又婆さんに、どうして、さうおそくなつたのかといた。なに何時いつでもおそいのだが、昨夕ゆふべのは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出おいでだつたのだといふ答である。勉強が佐々木にかはつたから、昼寐をする説明にはならないが、与次郎が、昨夕ゆふべ先生に例の話をした事丈は是で明瞭になつた。序でに与次郎が、どうしかられたかいて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の与次郎は学校で取りにがして仕舞つたから仕方がない。今日けふの元気のい所を見ると、たいした事件には成らずに済んだのだらう。尤も与次郎の心理現象は到底三四郎にはわからないのだから、実際どんな事があつたか想像は出来ない。
 三四郎は長火鉢の前へすはつた。鉄瓶てつびんがちん/\鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引き取つた。三四郎は胡坐あぐらをかいて、鉄瓶てつびんに手をかざして、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は静かでい心持になつた。つめ鉄瓶てつびんたゝいて見た。あつい湯を茶碗にいでふう/\いて飲んだ。先生はむかふをむいて寐てゐる。二三日前にあたまを刈つたと見えて、かみが甚だみぢかい。ひげはじが濃く出てゐる。はなむかふをひてゐる。鼻の穴がすうすう云ふ。安眠だ。
 三四郎はかへさうと思つて、つてたハイドリオタフヒアをして読み始めた。ぽつぽつ拾ひ読をする。中々なか/\わからない。はかなかに花をげる事がいてある。羅馬〔ローマ〕人は薔薇ばらaffectアツフエクト するといてある。何の意味だか能く知らないが、大方おほかたこのむとでも訳するんだらうと思つた。希臘〔ギリシア〕人は Amaranthアマランス を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ない。それから少しさきへ行くと、丸でわからなくなつた。ページからを離して先生を見た。まだ寐てゐる。なんんな六づかしい書物を自分に〔か〕したものだらうと思つた。それから、此六※[#濁点付き小書き平仮名つ、571-6]かしい書物が、何故なぜわからないながらも、自分の興味を〔ひ〕くのだらうと思つた。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思つた。
 さうすると、広田先生がむくりときた。くび持上もちあげて、三四郎を見た。
何時いつたの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出おいでなさいとすゝめた。実際退屈ではなかつたのである。先生は、
「いやおきる」と云つてきた。それから例のごとく哲学のけむりを吹き始めた。けむりが沈黙の間に、棒になつてる。
難有〔ありがと〕う。書物を返します」
「あゝ。――読んだの」
「読んだけれどもよくわからんです。第一標題ひようだいわからんです」
「ハイドリオタフヒア」
「何の事ですか」
「何の事か僕にもわからない。兎に角希臘語らしいね」
 三四郎はあとを尋ねる勇気がけて仕舞つた。先生はあくびひとつした。
「あゝねむかつた。い心持に寐た。面白い夢を見てね」
 先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯にかないかと云ひした。二人ふたりは手拭を提げて出掛けた。

十一の六


 湯からあがつて、二人ふたりが、いたに据ゑてある器械のうへつて、身長たけはかつて見た。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。
「まだびるかも知れない」と広田先生が三四郎に云つた。
「もう駄目です。三年来この通です」と三四郎が答へた。
うかな」と先生が云つた。自分を余っ程小供の様に考へてゐるのだと三四郎は思つた。うちへ帰つた時、先生が、用がければはなしてつてもかまはないと、書斎の戸をけて、自分じぶんさきへ這入つた。三四郎は兎に角、例の用事を片付ける義務があるから、つゞいて這入はいつた。
「佐々木は、まだかへらない様ですな」
今日けふおそくなるとか云つてことわつてゐた。此間このあひだから演芸会の事で大分奔走してゐる様だが、世話きなんだか、まはる事がきなんだか、一向要領を得ない男だ」
「親切なんですよ」
「目的丈は親切な所も少しあるんだが、なにしろ、あたま出来できが甚だ不親切だものだから、碌な事は仕出しでかさない。一寸ちよつと見ると、要領を得てゐる。寧ろ得過ぎてゐる。けれども終局へ行くと、何の為に要領を得てたのだか、丸で滅茶苦茶になつて仕舞ふ。いくら云つてもなほさないからほうて置く。あれは悪戯いたづらをしに世の中へ生れてた男だね」
 三四郎は何とか弁護の道がありさうなものだと思つたが、現に結果のわるい実例があるんだから、仕様がない。はなしを転じた。
「あの新聞の記事を御覧でしたか」
「えゝ、見た」
「新聞にる迄はちつとも御ぞんじなかつたのですか」
「いゝえ」
「御驚ろきなすつたでせう」
「驚ろくつて――それは全く驚ろかない事もない。けれども世の中の事はみんな、んなものだと思つてるから、若い人程正直に驚ろきはしない」
「御迷惑でせう」
「迷惑でない事もない。けれども僕位世のなかるした年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思ひ込む人許ひとばかりもないから、ぱり若い人程正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知つたものがあるから、其男に頼んで真相をいてもらふの、あの投書の出所をさがして制裁を加へるの、自分の雑誌で充分反駁を致しますのと、善後策の了見でくだらない事を色々云ふが、そんな手数てかずをするならば、始めから余計な事をおこさない方が、いくらいかわかりやしない」
「全く先生のためを思つたからです。悪気わるぎぢやないです」
悪気わるぎられてたまるものか。第一僕の為めに運動をするものがさ、僕の意向も聞かないで、勝手な方法を講じたり、勝手な方針を立てた日には、最初から僕の存在を愚弄してゐると同じ事ぢやないか。存在を無視されてゐる方が、どの位体面を保つに都合がいか知れやしない」
 三四郎は仕方なしにだまつてゐた。
「さうして、偉大なる暗闇くらやみなんて愚にもかないものをいて。――新聞には君がいたとしてあるが、実際は佐々木がいたんだつてね」
うです」
昨夜ゆふべ佐々木が自白した。君こそ迷惑だらう。あんな馬鹿な文章は佐々木よりほかくものはありやしない。僕も読んで見た。実質もなければ、品位もない、丸で救世軍の太鼓の様なものだ。読者の悪感情を引き起す為めに、書いてるとしか思はれやしない。徹頭徹尾故意こいだけで成り立つてゐる。常識のあるものが見れば、うしてもためにする所があつて起稿したものだと判定がつく。あれぢや僕が門下生にゝしたと云はれるはづだ。あれを読んだ時には、成程新聞の記事は尤もだと思つた」

十一の七


 広田先生は夫ではなしを切つた。鼻から例によつてけむりく。与次郎は此けむり出方でかたで、先生の気分を〔うかが〕ふ事が出来できると云つてゐる。濃く真直まつすぐほとばしる時は、哲学の絶高頂に達したさいで、ゆるく崩れる時は、心気平穏、ことによるとひやかされる恐れがある。けむりが、鼻の下に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊して、ひげに未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきはあなさきうづである。うづると、大変にしかられる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論あてにはしない。然し此際だから気をけてけむりの形状かたちを眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たるけむりちつともて、ない。其代りるものは、大抵な資格をみんなそなへてゐる。
 三四郎が何時いつつても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又はなし始めた。
んだ事は、もうめやう。佐々木も昨夜ゆふべ悉くあやまつて仕舞つたから、今日けふあたりは又晴々〔せいせい〕して例の如く飛んであるいてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つてあるいて居ては仕方がない。それよりもつと面白いはなし仕様しやう
「えゝ」
「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢のなかで再会したと云ふ小説みた御話だが、其方そのほうが、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」
「えゝ。んな女ですか」
「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子ほくろがある」
 三四郎は十二三と聞いて少し失望した。
何時頃いつごろひになつたのですか」
廿年にじうねんまへ
 三四郎は又驚ろいた。
く其女と云ふ事がわかりましたね」
ゆめだよ。ゆめだからわかるさ。さうして夢だから不思議でい。僕がなんでも大きな森のなかあるいて居る。あの色のめた夏の洋服を着てね、あのふるい帽子をかぶつて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物のほかに存在してゐなくてはならない。――めて見るとつまらないが、夢のなかだから真面目まじめにそんな事を考へて森のしたとほつて行くと、突然其女に逢つた。行きつたのではない。むかふじつつてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装なりをしてゐる。かみも昔しのかみである。黒子ほくろも無論あつた。つまり二十年まへ見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたはすこしも変らないといふと、其女は僕に大変年を御りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたはうして、さう変らずに居るのかと聞くと、此かほとし、此服装なりの月、此かみの日が一番きだから、かうして居ると云ふ。それは何時いつの事かと聞くと、二十年まへ、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故なぜ〔こ〕としつたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつとうつくしいほうほうへと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
「それからうしました」と三四郎が聞いた。
「それからきみたのさ」と云ふ。
「二十年まへつたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」
「本当の事実なんだから面白い」
何所どこで御ひになつたんですか」
 先生の鼻は又烟をした。其けむりながめて、当分だまつてゐる。やがてう云つた。

十一の八


「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣がころされた。君は覚えてゐまい。幾年いくつかな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢おほぜい鉄砲をかついでた。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内たけばしうち引張ひつぱつて行つて、路傍みちばたへ整列さした。我々は其所そこへ立つたなり、大臣のひつぎを送ることになつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。うごかずに立つてゐると、靴のしたで足がいたむ。となりの男が僕のはなを見ては赤い赤いと云つた。やがて行列がた。何でも長いものだつた。さむの前を静かな馬車やくるまが何台となく通る。其中そのなかに今話したちいさな娘がゐた。今、其時の模様を思ひさうとしても、ぼうとして〔とて〕も明瞭にうかんでない。たゞこの女だけは覚えてゐる。それも年をつに従つて段々うすらいでた。今では思ひ出す事も滅多にない。今日けふ夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時はあたまなかへ焼き付けられた様に、あつい印象を持つてゐた。――妙なものだ」
「それから其女には丸で逢はないんですか」
「丸で逢はない」
「ぢや、何処どこだれだか全くわからないんですか」
「無論わからない」
「尋ねて見なかつたですか」
「いゝや」
「先生はそれで……」と云つたが急につかへた。
それで?」
それで結婚をなさらないんですか」
 先生は笑ひした。
「それ程浪漫的ロマンチツクな人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来できてゐる」
「然し、もし其女がたら御もらひになつたでせう」
「さうさね」と一度いちど考へた上で、「もらつたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話しした。
「そのために独身を余儀なくされたといふと、僕が其女のため不具ふぐにされたと同じ事になる。けれども人間にはうまいて、結婚の出来できない不具ふぐもあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」
「そんなに結婚をさまたげる事情が世の中に沢山あるでせうか」
 先生はけむりあひだから、じつと三四郎を見てゐた。
「ハムレツトは結婚したくかつたんだらう。ハムレツトは一人ひとりしか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」
「例へばどんな人です」
たとへば」と云つて、先生はだまつた。けむりがしきりにる。「たとへば、こゝに一人ひとりの男がゐる。ちゝは早く死んで、はゝ一人ひとりたよりそだつたとする。其母が又病気にかゝつて、〔いよいよ〕いきを引き取るといふ、間際まぎはに、自分が死んだら誰某だれそれがしの世話になれといふ。子供がつた事もない、知りもしない人を指名する。理由わけを聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某だれそれがしが御前の本当の御父おとつさんだとかすかな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」
「そんな人は滅多にないでせう」
「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」
「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」
 先生はハヽヽヽと笑つた。
「君は慥か御母おつかさんがたね」
「えゝ」
御父おとつさんは」
にました」
「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」

十二の一


 演芸会は比較的さむい時に開かれた。〔とし〕は漸く押しつまつてる。人は二十日はつか足らずのさきはるを控えた。いちきるものは、いそがしからんとしてゐる。越年えつねんはかりごと貧者ひんしやかうべに落ちた。演芸会は此間このあひだに在つて、凡ての長閑のどかなるものと、余裕あるものと、春とくれの差別を知らぬものとを迎へた。
 それが、幾何いくらでもゐる。大抵はわかい男女である。一日目いちじつめに与次郎が、三四郎に向つて大成功とさけんだ。三四郎は二日目ふつかめ切符きつぷを持つてゐた。与次郎が広田先生をさそつてけとふ。切符がちがふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人ひとりほうつて置くと、決して気遣きづかひがないから、君がつて引張出ひつぱりだすのだと理由わけを説明してかせた。三四郎は承知した。
 夕刻ゆふこくつて見ると、先生はあかるい洋燈ランプしたに大きなほんひろげてゐた。
御出おいでになりませんか」とくと、先生はすこわらひながら、無言むごんの儘、くびよこつた。小供こどもの様な所作をする。然し三四郎には、それが学者らしく思はれた。くちかない所がゆかしく思はれたのだらう。三四郎は中腰ちうごしになつて、ぼんやりしてゐた。先生は断わつたのが気の毒になつた。
「君くなら、一所に出様でやう。僕も散ながら、其所そこくから」
 先生はくろ廻套まわした。懐手ふところでらしいがわからない。そらひくれてゐる。星の見えないさむさである。
「雨になるかも知れない」
ると困るでせう」
出入ではいりにね。日本の芝居小屋ごやは下足があるから、天気のい時ですら大変な不便だ。それで小屋こやなかは、空気がかよはなくつて、烟草たばこけむつて、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢が出来できるものだ」
「ですけれども、真逆まさか戸外こぐわいわけにもかないからでせう」
御神楽おかぐら何時いつでもそとつてゐる。さむときでもそとる」
 三四郎は、こりや議論にならないと思つて、こたへを見合せて仕舞つた。
「僕は戸外こぐわいい。あつくもさむくもない、奇麗なそらしたで、うつくしい空気を呼吸して、うつくしい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来さうなものだ」
「先生の御覧になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出来るでせう」
「君希臘ギリシヤの芝居を知つてゐるか」
〔よ〕く知りません。たし戸外こぐわいつたんですね」
戸外こぐわい真昼間まつぴるまさぞ心持こゝろもちだつたらうと思ふ。席は天然のいしだ。堂々としてゐる。与次郎の様なものは、さう云ふ所へれてつて、少し見せてやるとい」
 又与次郎の悪口わるくちた。其与次郎は今頃窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走し且つ斡旋あつせんして大得意なのだから面白い。もし先生をれてかなからうものなら、先生はたしてない。たまにはう云ふ所へて見るのが、先生のためにはの位いかわからないのだのに。いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから〔なお〕面白い。
 先生はそれから希臘ギリシヤの劇場の構造を〔くわ〕しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatronテアトロン, Orch※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)straオルケストラ, Sk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)n※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)スケーネ, Prosk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)nionプロスケニオン などゝ云ふ字の講釈を聞いた。何とか云ふ独乙人の説によると亜典〔アテン〕の劇場は一万七千人を容れる席があつたと云ふ事も聞いた。それはさい方である。尤も大きいのは、五万人を容れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙となまりと二通りあつて、いづれも賞牌メダル見たやうな恰好で、表に模様がしてあつたり、彫刻がほどこしてあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券のあたひ迄知つてゐた。一日丈の小芝居は十二銭で、三日つゞきの大芝居は三十五銭だとつた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演芸会場の前へた。
 盛んに電燈がいてゐる。入場者は続々つてる。与次郎の云つたよりも以上の景気である。
「どうです、折角だから御這入になりませんか」
「いや這入はいらない」
 先生は又くらい方へ向いて行つた。

十二の二


 三四郎は、しばらく先生の後影うしろかげを見送つてゐたが、あとから、くるまける人が、下足のふだを受け取る手間てましさうに、いそいで這入はいつてくのを見て、自分も足早あしばやに入場した。前へ押されたと同じ事である。
 入口いりぐちに四五人用のない人が立つてゐる。そのうちの〔はかま〕けた男が入場券を受け取つた。其男のかたうへから場内をのぞいて見ると、なかは急にひろくなつてゐる。且つ甚だあかるい。三四郎はまゆに手をくはへないばかりにして、みちびかれた席にいた。せまい所に割り込みながら、四方を見廻みまはすと、人間にんげんつていろがちら/\する。自分のうごかすからばかりではない。無数の人間にんげん付着ふちやくした色が、広い空間くうかんで、絶えず各自めい/\に、且つ勝手に、うごくからである。
 舞台ぶたいではもうはじまつてゐる。る人物が、みんなかんむりかむつて、くつ穿いて居た。そこへ長い輿こしかついでた。それを舞台の真中まんなかめたものがある。輿こしを卸すと、なかから又一人ひとりあらはれた。其男がかたないて、輿を突きかへしたのと斬合きりあひを始めた。――三四郎には何の事か丸でわからない。尤も与次郎から梗概を聞いた事はある。けれども好加減に聞いてゐた。見ればわかるだらうと考へて、うん成程と云つてゐた。所が見れば毫も其意を得ない。三四郎の記憶にはたゞ入鹿いるか大臣おとゞといふ名前が残つてゐる。三四郎はどれが入鹿いるかだらうかと考へた。それは到底見込みこみかない。そこで舞台全体を入鹿いるかつもりで眺めてゐた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服きものでも、使ふ言葉でも、何となく入鹿いるかくさくなつてた。実を云ふと三四郎には確然たる入鹿いるかの観念がない。日本歴史をならつたのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿いるかの事もつい忘れて仕舞つた。推古天皇の時の様でもある。欽明天皇の御代みよでも差支ない気がする。応神天皇や称武天皇では決してないと思ふ。三四郎はたゞ入鹿いるかじみた心持こゝろもちを持つてゐる丈である。芝居を見るには夫で沢山だと考へて、からめいた装束や背景を眺めてゐた。然しすぢはちつともわからなかつた。其うち幕になつた。
 幕になる少し前に、隣りの男が、其又隣りの男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子おやこ差向ひの談話の様だ。丸で訓練くんれんがないと非難してゐた。そつち隣りの男は登場人物のこしすわらない。ことごとくひよろ/\してゐると訴へてゐた。二人ふたりは登場人物の本名をみんなそらんじてゐる。三四郎は耳を傾けて二人ふたりの談話を聞いてゐた。二人ふたり共立派な服装なりをしてゐる。大方おほかた有名なひとだらうと思つた。けれどももし与次郎に此談話を聞かせたら定めし反対するだらうと思つた。其時うしろの方でうまい/\中々なか/\うまいと大きな声をしたものがある。隣の男は二人ふたりともうしろを振り返つた。それぎりはなしめて仕舞つた。そこで幕がりた。
 彼所あすこ此所こゝに席を立つものがある。花道はなみちから出口でぐちへ掛けて、ひとかげすこぶいそがしい。三四郎は中腰ちうごしになつて、四方しほうをぐるりと見廻みまはした。てゐるはづひと何処どこにも見えない。本当を云ふと演芸中にも出来る丈は気を付けてゐた。それで知れないから、幕になつたらばと内々心あてにしてゐたのである。三四郎は少し失望した。〔やむ〕を得ずを正面にかへした。
 隣の連中は余程世間が広い男達と見えて、右左みぎひだりかへりみて、彼所あすこにはだれがゐる、茲所こゝにはだれがゐるとしきりに知名な人の名をくちにする。なかには離れながら、互に挨拶をしたのも一二人いちににんある。三四郎は御蔭で此等知名な人の細君を少し覚えた。其中そのなかには新婚したばかりのもあつた。是はとなり一人いちにんにもめづらしかつたと見えて、其男はわざ/\眼鏡めがねを拭きなほして、成程々々と云つて見てゐた。
 すると、幕のりた舞台ぶたいの前を、向ふのはじから此方こつちけて、小走こばしりに与次郎がけてた。三分の二程の所でとまつた。少し及びごしになつて、土間どまなかのぞき込みながら、何かはなしてゐる。三四郎はそれを見当にねらひを付けた。――舞台のはじに立つた与次郎から一直線に二三げん隔てゝ美禰子の横顔よこがほが見えた。

十二の三


 其そばにゐる男は脊中せなかを三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男がなにかの拍子に、どうかして此方こつちを向いて呉れゝばいと念じてゐた。うま具合ぐあひに其男は立つた。すはくたびれたと見えて、枡の仕切しきりこしを掛けて、場内じようない見廻みまはし始めた。其時三四郎はあきらかに野々宮さんの広いひたいと大きなを認める事が出来できた。野々宮さんが立つと共に、美禰子のうしろにゐたよし子の姿すがたも見えた。三四郎は此三人のほかに、まだつれが居るか居ないかをたしかめやうとした。けれども遠くから見ると、たゞひとがぎつしりつまつてゐる丈で、つれと云へば土間どま全体がつれと見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎のあひだには、時々とき/″\談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々くちすと思はれる。
 すると突然原口さんがまくあひだからた。与次郎と並んでしきりに土間どまなかのぞむ。くちは無論うごかしてゐるのだらう。野々宮さんは相図の様なくびたてに振つた。其時原口さんはうしろから、平手ひらてで、与次郎の脊中せなかたゝいた。与次郎はくるりとかへつて、まくすそもぐつて何所どこかへ消え失せた。原口さんは、舞台をりて、人と人のあひだつたはつて、野々宮さんのそばた。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりとひとなかへ飛び込んだ。美禰子とよし子のゐるあたりで見えなくなつた。
 此連中れんぢうの一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作がうらやましくなつた。あゝ云ふ便利な方法でひとそばる事が出来やうとは毫も思ひかなかつた。自分も一つ真似て見様かしらと思つた。然し真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気をくじいたうへに、もうはいせきは、いくら詰めても、づかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎のしりは依然として、もとの席を去り得なかつた。
 其うち幕がいて、ハムレツトがはじまつた。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の〔ふん〕したハムレツトの写真を見た事がある。今三四郎のの前にあらはれたハムレツトは、是とほゞ同様の服装をしてゐる。服装ばかりではない。顔迄似てゐる。両方共八の字を寄せてゐる。
 此ハムレツトは動作が全く軽快で、心持がい。舞台のうへを大いに動いて、又大いにうごかせる。能掛りの入鹿いるかとは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中まんなかに立つて、手をひろげて見たり、そらにらんで見たりするときは、観客の眼中がんちうほかのものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。
 其代り台詞せりふは日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏〔せっそう〕もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢にる。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝばいと思つた。御母おつかさん、それぢや御父おとつさんにまないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合にして、呑気につて仕舞ふ。それでゐて顔付かほつき親子おやことも泣きしさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧に感じたのみである。決してつまらないと思ひ切る程の勇気はなかつた。
 従つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人のかげに隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。
 ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へした。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程ほんで読むとうらしい。けれども、芝居では結婚してもささうである。能く思案して見ると、尼寺あまでらへ行けとの云ひかたわるいのだらう。其証拠には尼寺あまでらへ行けと云はれたオフェリヤがちつとも気の毒にならない。
 幕が又りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄来て見ると、二人ふたりは廊下の中程なかほどで、男と話をしてゐる。男は廊下から出入ではいりの出来る左側の席の戸口に半分身体からだした。男の横がほを見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へかへらずに下足を取つて表へた。

十二の四


 本来は暗い夜である。ひとちからあかるくした所を通り越すと、あめが落ちてゐるやうに思ふ。かぜが枝をらす。三四郎は急いで下宿に帰つた。
 夜半からした。三四郎はとこなかで、あめおとを聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句をはしらにして、其周囲まわりにぐる/\※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊した。広田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんなはしらいてゐるだらう。与次郎は偉大なる暗闇くらやみなかに正体なくうまつてゐるに違ない。……
 明日あくるひは少しねつがする。あたまおもいからてゐた。午飯ひるめしとこうへに起き直つてつた。又一寐入ひとねいりすると今度はあせた。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎が這入はいつてた。昨夕ゆふべも見えず、今朝けさも講義にない様だからうしたかと思つてたづねたと云ふ。三四郎は礼をべた。
「なに、昨夕ゆふべつたんだ。つたんだ。君が舞台のうへて、美禰子さんと、遠くではなしをしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」
 三四郎は少しつた様な心持である。くちすと、つる/\とる。与次郎は手をして、三四郎のひたひを抑へた。
大分だいぶ熱がある。くすりを飲まなくつちや不可いけない。風邪かぜを引いたんだ」
「演芸場があまり暑過あつすぎて、あかぎて、さうしてそとると、急に寒過さむすぎて、暗過くらすぎるからだ。あれはくない」
けないたつて、仕方しかたがないぢやないか」
仕方しかたがないたつて、けない」
 三四郎の言葉は段※(二の字点、1-2-22)短かくなる、与次郎が好加減にあしらつてゐるうちに、すう/\寐て仕舞つた。一時間程して又けた。与次郎を見て、
「君、其所そこにゐるのか」と云ふ。今度こんどは平生の三四郎の様である。気分はどうかと聞くと、あたまおもいと答へた丈である。
風邪かぜだらう」
風邪かぜだらう」
 両方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。
「君、此間このあひだ美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」
「美禰子さんの事を? 何処どこで?」
「学校で」
「学校で? 何時いつ
 与次郎はまだ思ひせない様子である。三四郎は〔やむ〕を得ず、其前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、
「成程そんな事がつたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は随分無責任だと思つた。与次郎もすこし気の毒になつて、考へさうとした。やがてう云つた。
「ぢや、なんぢやないか。美禰子さんがよめくと云ふはなしぢやないか」
きまつたのか」
きまつた様にいたが、〔よ〕わからない」
「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんぢやない」
「ぢや……」と云ひ掛けて已めた。
「君、つてるのか」
「知らない」と云ひ切つた。すると与次郎が少し前へしてた。
うもわからない。不思議な事があるんだが。もうすこたないと、うなるんだか見当がかない」
 三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せばいと思ふのに、与次郎は平気なもので、一人ひとりんで、一人ひとりで不思議がつてゐる。三四郎は少時しばらく我慢してゐたが、とう/\れつたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実をかくさずにはなして呉れと請求した。与次郎はわらした。さうして慰藉のためか何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。

十二の五


「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方しかたがないよ。第一、君と同年おないどし位ぢやないか。同年おないどし位の男に惚れるのはむかしの事だ。八百屋御七時代の恋だ」
 三四郎はだまつてゐた。けれども与次郎の意味は能くわからなかつた。
何故なぜと云ふに。廿前後はたちぜんごの同じ年の男女を二人ふたりならべて見ろ。女の方が万事うは手だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へよめに行く気はないやね。尤も自分が世界で一番えらいと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へかなければ独身でくらすよりほかに方法はないんだから。よく金持のむすめや何かにそんなのがあるぢやないか、望んでよめて置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが。美禰子さんはそれよりずつとえらい。其代り、おつととして尊敬の出来ない人の所へは始からく気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可いけない。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女のおつとになる資格はないんだよ」
 三四郎はとう/\与次郎と一所にされて仕舞つた。然し依然としてだまつてゐた。
「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かにえらいさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年たなくつちや、其えらさ加減がの女のうつつてない。しかして、かの女は五六年じつとしてゐる気遣きづかひはない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
 与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使つかつた。さうして一人ひとりわらつてゐる。
「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれてるよ。日本ぢや今女の方があまつてゐるんだから。風邪かぜなんかいて熱をしたつて始まらない。――なに世のなかひろいから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが。僕の方であんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると云つてね」
なんだ、それは」
なんだつて、僕の関係した女さ」
 三四郎は驚ろいた。
「なに、女だつて、君なんぞの〔かつ〕て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌〔ばいきん〕の試験に出張するから当分駄目だつて断わつちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りにくと云ひしたんで、ぼくは弱つたね」
 三四郎は〔ますます〕驚いた。驚ろきながら聞いた。
「それで、うした」
うしたか知らない。林檎を持つて、停車場につてゐたんだらう」
ひどい男だ。よく、そんなわるい事が出来できるね」
わるい事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方しかたがない。はじめから次第※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)に、そこ迄運命に持つてかれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」
「なんで、そんな余計なうそくんだ」
「そりや、又それ/″\事情のある事なのさ。それで、女が病気の時に、診断をたのまれて困つた事もある」
 三四郎は可笑をかしくなつた。
「其時は舌を見て、胸をたゝいて、い加減に胡魔化したが、其次に病院へつて、見て貰ひたいがいかと聞かれたには閉口した」
 三四郎はとう/\笑ひした。与次郎は、
「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するがからう」と云つた。なんの事だかわからない。然し愉快になつた。
 与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それ丈ならばいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。
 三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした。然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話をそばで聞いてゐた。ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全くうそではないらしい。三四郎は判然はつきりした所が知りたくなつた。序だから、与次郎に教へて呉れと、頼んだ。与次郎は訳なく承知した。よし子を見舞にる様にしてやるから、ぢかに聞いて見ろといふ。うまい事を考へた。
「だから、くすりを飲んで、待つて居なくつては不可いけない」
「病気がなほつても、て待つてゐる」
 二人ふたりは笑つてわかれた。帰りがけに与次郎が、近所の医者にもらふ手続をした。

十二の六


 晩になつて、医者がた。三四郎は自分で医者を迎へた覚がないんだから、始めは少し狼狽した。そのうち脈を取られたので漸く気がいた。年のわかい丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ごふんの後病症はインフルエンザときまつた。今夜頓服〔とんぷく〕を飲んで、成るかぜあたらない様にしろと云ふ注意である。
 翌日が覚めると、あたまが大分かろくなつてゐる。寐てゐれば、殆んど常体じようたいに近い。たゞ枕を離れると、ふら/\する。下女がて、大分だいぶ部屋のなか熱臭ねつくさいと云つた。三四郎はめしも食はずに、仰向あほむけに天井をながめてゐた。時々とき/″\うと/\ねむくなる。あきらかに熱とつかれとに囚はれた有様である。三四郎は、とらはれた儘、さからはずに、寐たりさめたりするあひだに、自然にしたがふ一種の快感を得た。病症がかるいからだと思つた。
 四時間、五時間とつうちに、そろ/\退屈をかんした。しきりに寐がへりをつ。そとい天気である。障子にあたる日が、次第にかげうつしてく。雀がく。三四郎は今日けふも与次郎があそびにて呉れゝばいと思つた。
 所へ下女が障子をけて、女の御客様だと云ふ。よし子が、さう早くやうとは待ち設けなかつた。与次郎丈に敏捷なはたらきをした。た儘、はなしの入口いりくちけてゐると、やがてたか姿すがたが敷居のうへへあらはれた。今日けふむらさきはかま穿いてゐる。あしは両方共廊下にある。一寸ちよつと這入るのを※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇した様子が見える。三四郎はかたとこからげて、「〔い〕らつしやい」と云つた。
 よし子は障子をてゝ、枕元へすはつた。六畳の座敷が、取りみだしてあるうへに、今朝けさ掃除さうじをしないから、〔なお〕狭苦せまくるしい。女は、三四郎に、
「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又あたまを枕へけた。自分丈はおだやかである。
くさくはないですか」と聞いた。
「えゝ、少し」と云つたが、別段くさい顔もしなかつた。「熱が御有おありなの。なんなんでせう、御病気は。御医者は入らしつて」
「医者は昨夕ゆふべました。インフルエンザださうです」
今朝けさ早く佐々木さんが御いでになつて、小川が病気だから見舞に行つてつてください。なに病だかわからないが、なんでも軽くはない様だ。つておつしやるものだから、わたくしも美禰子さんも吃驚びつくりしたの」
 与次郎が又すこし法螺をいた。わるく云へば、よし子を釣りした様なものである。三四郎は人がいから、気の毒でならない。「どうも難有〔ありがと〕う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包のなかから、蜜柑のかごした。
「美禰子さんの御注意があつたからつてました」と正直な事を云ふ。どつちの御見舞みやげだかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べて置いた。
「美禰子さんもあがはづですが、此頃少しいそがしいものですから――どうぞよろしくつて……」
「何か特別にいそがしい事が出来できたのですか」
「えゝ。出来できたの」と云つた。大きな黒いが、まくらいた三四郎の顔のうへに落ちてゐる。三四郎はしたから、よし子の蒼白あをしろひたひを見上げた。始めて此女このをんなに病院で逢つたむかしを思ひした。今でも物憂ものうげに見える。同時に快活である。たよりになるべき凡ての慰藉を三四郎のまくらうへもたらしてた。
「蜜柑をいてげませうか」
 女は青い葉のあひだから、果物くだものを取りした。かはいた人は、ほとばしる甘い露を、したゝかに飲んだ。
美味おいしいでせう。美禰子さんの御見舞おみやげよ」
「もう沢山」
 女はたもとから白い手帛ハンケチして手を拭いた。
「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
「あれりです」
「美禰子さんにも縁談のくちがあるさうぢやありませんか」
「えゝ、もうまとまりました」
だれですか、さきは」
わたくしもらふと云つたかたなの。ほゝゝ可笑をかしいでせう。美禰子さんの御兄おあにいさんの御友達よ。わたくしちかうちに又あにと一所にうちを持ちますの。美禰子さんがつて仕舞ふと、もう御厄介になつてるわけに行かないから」
「あなたは御よめにはかないんですか」
「行きたい所がありさへすれば行きますわ」
 女はう云ひ棄てゝ心持よくわらつた。まだ行きたい所がないにきまつてゐる。

十二の七


 三四郎は其日から四日よつかとこを離れなかつた。五日いつか目に怖々こわ/″\ながら湯にはいつて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋とこやつた。そのあくは日曜である。
 朝食後あさめしご襯衣しやつかさねて、外套をて、さむくない様にして、美禰子のうちつた。玄関によし子が立つて、今沓脱くつぬぎりやうとしてゐる。今あにの所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へた。
「もう悉皆すつかりいんですか」
難有〔ありがと〕う。もうなほりました。――里見さんは何所どこつたんですか」
にいさん?」
「いゝえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂チヤーチ
 美禰子の会堂チヤーチへ行く事は始めて聞いた。何処どこ会堂チヤーチか教へてもらつて、三四郎はよし子にわかれた。横町を三つ程まがると、すぐまへた。三四郎は全く耶蘇〔ヤソ〕教に縁のない男である。会堂チヤーチなかのぞいて見た事もない。まへへ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたりたりした。ある時はかつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子のてくるのをつもりである。
 やがて唱歌の声がきこへた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切しめきつた高い窓のうちの出来事できごとである。おん量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。そらに美禰子のすきくもた。
 かつて美禰子と一所に秋のそらを見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端たばたの小川のふちすはつた事もあつた。其時も一人ひとりではなかつた。迷羊ストレイシープ迷羊ストレイシープくもひつじかたちをしてゐる。
 忽然として会堂チヤーチの戸がいた。なかからひとる。人は天国てんごくから浮世うきよへ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。しまの吾妻コートをて、俯向うつむいて、あがくちの階段をりてた。さむいと見えて、かたすぼめて、両手を前で重ねて、出来できる丈外界との交渉をすくなくしてゐる。美禰子は此凡てにがらざる態度を門際もんぎは迄持続した。其時、往来のいそがしさに、始めて気がいた様にかほげた。三四郎のいだ帽子のかげが、女のうつつた。二人ふたりは説教の掲示のある所で、互に近寄ちかよつた。
うなすつて」
いまたく一寸ちよつとた所です」
「さう、ぢや〔い〕らつしやい」
 女はなかめぐらしかけた。相変らずひく下駄げた穿いてゐる。男はわざと会堂チヤーチかきに身を寄せた。
此所こゝで御かればそれでい。先刻さつきから、あなたのるのをつてゐた」
「御這入はいりになればいのに。さむかつたでせう」
さむかつた」
「御風邪かぜはもういの。大事になさらないと、ぶりかへしますよ。まだ顔色かほいろくない様ね」
 男は返事をしずに、外套の隠袋かくしから半紙につゝんだものをした。
「拝借したかねです。永々なが/\難有〔ありがと〕う。かへさう/\と思つて、つい遅くなつた」
 美禰子は一寸ちよつと三四郎のかほを見たが、其儘さからはずに、紙包かみづゝみを受け取つた。然し手に持つたなり、しまはずにながめてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉がすこしのあひだれた。やがて、美禰子が云つた。
「あなた、御不自由ぢやくつて」
「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、うか取つてください」
「さう。ぢやいたゞいて置きませう」
 女は紙包かみづゝみふところへ入れた。其手を吾妻あづまコートからした時、白い手帛ハンケチを持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛ハンケチぐ様子でもある。やがて、其手を不意にばした。手帛ハンケチが三四郎のかほまへた。するどいかほりがぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はずかほあといた。ヘリオトロープのびん。四丁目の夕暮ゆふぐれ迷羊ストレイシープ迷羊ストレイシープそらにはたかい日があきらかにかゝる。
「結婚なさるさうですね」
 美禰子は白い手帛ハンケチたもとへ落した。
「御存じなの」と云ひながら、二重瞼ふたへまぶち細目ほそめにして、男のかほを見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣きづかぎた眼付めつきである。其癖まゆ丈は明確はつきり落ちついてゐる。三四郎のした上顎うはあご密着ひつついて仕舞つた。
 女はやゝしばらく三四郎を眺めたのち聞兼ききかねる程の嘆息ためいきをかすかにらした。やがて細い手を濃い眉のうへに加へて、云つた。
「われはとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」
 聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様〔かよう〕にしてわかれた。下宿へ帰つたら母からの電報がてゐた。けて見ると、何時いつ立つとある。

十三


 原口さんの画は出来上できあがつた。丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。やすためでもある。画を見るためでもある。休み且つ味ふためでもある。丹青会はかうして、此大作に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊する多くの観覧者に便利を与へた。特別の待遇である。画が特別の出来できだからだと云ふ。或は人の目をだいだからとも云ふ。少数のものは、あの女をかいたからだと云つた。会員の一二は全く大きいからだと弁解した。大きいにはちがひない。幅五寸に余る金のふちけて見ると、見違みちがへる様に大きくなつた。
 原口さんは開会の前日検分の為一寸ちよつとた。腰掛に腰を卸して、ひさしいあひだ烟管パイプを啣へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧にまはつた。夫から又もとの腰掛へ帰つて、第二の烟管パイプゆつくりかした。
「森の女」の前には開会の当日から人が一杯たかつた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、画を見ないために休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。
 美禰子はおつとれられて二日ふつか目にた。原口さんが案内をした。「森の女」の前へた時、原口さんは「うです」と「二人ふたり」を見た。おつとは「結構です」と云つて、眼鏡めがねの奥からじつとひとみらした。
「此団扇をかざして立つた姿勢がい。流石さすが専門家はちがひますね。茲所こゝに気がいたものだ。光線が顔へあたる具合がうまい。かげと日なた段落だんらく確然かつきりして――顔丈でも非常に面白い変化がある」
「いやみんな御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」
「御かげさまで」と美禰子が礼を述べた。
わたくしも、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼をべた。
 おつとは細君の手柄だと聞いて〔さ〕も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのはおつとである。
 開会後第一の土曜の午過ひるすぎには大勢おほぜい一所にた。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人よつたり余所よそ後廻あとまはしにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。与次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が沢山たかつてゐる。三四郎は入口いりぐち一寸ちよつと※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇した。野々宮さんは超然として這入はいつた。
 大勢おほぜいうしろから、のぞき込んだ丈で、三四郎は退しりぞいた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた。
「素敵に大きなものいたな」と与次郎が云つた。
「佐々木に買つてもらつもりださうだ」と広田先生が云つた。
「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる。与次郎はだまつて仕舞つた。
「色のし方が中々洒落しやれてゐますね。寧ろ意気な画だ」と野々宮さんが評した。
「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢやつゞみの様にぽん/\する画はけないと自白する筈だ」と広田先生が評した。
「何ですぽん/\する画と云ふのは」
つゞみの様にが抜けてゐて、面白い画の事さ」
 二人ふたりは笑つた。二人ふたりは技巧の評ばかりする。与次郎が異をてた。
「里見さんをいちや、だれいたつて、が抜けてる様にはけませんよ」
 野々宮さんは目ろく記号しるしけるために、隠袋かくしへ手を入れて鉛筆をさがした。鉛筆がなくつて、一枚の活版ずり端書はがきた。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうにんだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既にぎてゐた。
 野々宮さんは、招待状を引き千切ちぎつてゆかの上に棄てた。やがて先生と共にほかの画の評にり掛る。与次郎丈が三四郎のそばた。
「どうだ森の女は」
「森の女と云ふ題がわるい」
「ぢや、何とすればいんだ」
 三四郎はなんとも答へなかつた。たゞくちうち迷羊ストレイシープ迷羊ストレイシープと繰りかへした。





底本:「定本 漱石全集 第五巻」岩波書店
   2017(平成29)年4月7日第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
   1908(明治41)年9月1日〜12月29日
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※「矢っ張り」と「矢張り」と「矢っ張」、「余程」と「余つ程」と「余っ程」、「あまり」と「あんまり」と「あんまり」と「あまり」、「っ込め」と「引き込め」、「引つ込んで」と「引っ込んで」、「引っ張つて」と「引つ張つて」と「引張つて」、「提燈」と「提灯」、「何所どこ」と「何処どこ」、「子供」と「小供」、「しばらく」と「少時しばらく」、「吃驚びつくり」と「喫驚びつくり」」、「うつくしい」と「うつくしい」、「」と「」、「※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇」と「躊躇」、「六[#濁点付き小書き平仮名つ]かし」と「六づかし」、「うしろ」と「うしろ」、「ひとつ」と「ひとつ」の混在は、底本通りです。
※「二重瞼」に対するルビの「ふたえまぶた」と「ふたえまぶち」、「洋燈」に対するルビの「らんぷ」と「ランプ」、「一寸」に対するルビの「ちよつと」と「ちよいと」、「籃」に対するルビの「かご」と「バスケツト」と「ばすけつと」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わたし」、「兄妹」に対するルビの「きようだい」と「けうだい」、「戸外」に対するルビの「そと」と「こぐわい」、「再」に対するルビの「ふたたび」と「ふたゝび」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「漱石」です。
※〔 〕内のルビは、編集部による加筆です。
※〔 〕内のルビは新仮名とする底本の扱いにそって、〔 〕内のルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本巻末の吉田※(「(冫+熈−れんが)/れんが」、第3水準1-14-55)生氏による注解、宗像和重氏による新注、編集部による補注は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

濁点付き小書き平仮名か    293-12
濁点付き小書き平仮名つ    319-10、467-5、491-13、549-4、564-12、567-9、571-6
濁点付き片仮名オ    369-5、369-5
濁点付き片仮名エ    380-5、498-10、498-11、499-13、501-10、503-9、503-10、503-11、503-14、514-9
「口+堯」、U+5635    411-6、435-4、439-14
  


●図書カード