夏目漱石





 宗助そうすけ先刻さっきから縁側えんがわ坐蒲団ざぶとんを持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐あぐらをかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和あきびよりと名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄げたの響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕ひじまくらをして軒から上を見上げると、奇麗きれいな空が一面にあおく澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法にくらべて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、まゆを寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、まぼ[#ルビの「まぼ」はママ]しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子しょうじの方を向いた。障子の中では細君が裁縫しごとをしている。
「おい、好い天気だな」と話しかけた。細君は、
「ええ」とったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君の方から、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。しかしその時は宗助がただうんと云う生返事なまへんじを返しただけであった。
 二三分して、細君は障子しょうじ硝子ガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿をのぞいて見た。夫はどう云う了見りょうけん両膝りょうひざを曲げて海老えびのように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、ひじはさまれて顔がちっとも見えない。
「あなたそんな所へ寝ると風邪かぜいてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。
 宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、
「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。
 それからまた静かになった。外を通る護謨車ゴムぐるまのベルの音が二三度鳴ったあとから、遠くで鶏の時音ときをつくる声が聞えた。宗助は仕立したておろしの紡績織ぼうせきおりの背中へ、自然じねんと浸み込んで来る光線の暖味あたたかみを、襯衣シャツの下でむさぼるほどあじわいながら、表の音をくともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
御米およね近来きんらいきんの字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別にあきれた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、
近江おうみおうの字じゃなくって」と答えた。
「その近江おうみおうの字が分らないんだ」
 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指ものさしを出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきりながめ入った。宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と云ったが、冗談じょうだんでもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当に好い御天気だわね」となかひとごとのように云いながら、障子を開けたまままた裁縫しごとを始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少しもたげて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易やさしい字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日こんにちこんの字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほどこんらしくなくなって来る。――御前おまいそんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。
 針箱と糸屑いとくずの上を飛び越すようにまたいで、茶の間のふすまを開けると、すぐ座敷である。南が玄関でふさがれているので、突き当りの障子が、日向ひなたから急に這入はいって来たひとみには、うそ寒く映った。そこを開けると、ひさしせまるような勾配こうばいがけが、縁鼻えんばなからそびえているので、朝の内は当ってしかるべきはずの日も容易に影を落さない。崖には草が生えている。下からして一側ひとかわも石で畳んでないから、いつくずれるか分らないおそれがあるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主やぬしも長い間昔のままにして放ってある。もっとも元は一面の竹藪たけやぶだったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤どての中に埋めて置いたから、は存外しまっていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋のおやじが勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そううまく行くもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんな事があったってえっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするようにりきんで帰って行った。
 崖は秋にっても別に色づく様子もない。ただ青い草のにおいめて、不揃ぶそろにもじゃもじゃするばかりである。すすきだのつただのと云う洒落しゃれたものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残なごりの孟宗もうそうが中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日のすときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味あたたかみながめられるような心持がする。宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日のまるこの頃は、滅多めったに崖の上をのぞひまたなかった。暗い便所から出て、手水鉢ちょうずばちの水を手に受けながら、ふとひさしの外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。幹のいただきこまかな葉が集まって、まるで坊主頭ぼうずあたまのように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、ひっそりと重なった葉が一枚も動かない。
 宗助は障子をてて座敷へ帰って、机の前へ坐った。座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。北側にとこがあるので、申訳のために変なじくを掛けて、その前に朱泥しゅでいの色をしたせつ花活はないけが飾ってある。欄間らんまにはがくも何もない。ただ真鍮しんちゅう折釘おれくぎだけが二本光っている。その他には硝子戸ガラスどの張った書棚が一つある。けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。
 宗助は銀金具ぎんかなぐの付いた机の抽出ひきだしを開けてしきりに中をしらべ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりとあきらめてしまった。それから硯箱すずりばこふたを取って、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐伯さえきのうちは中六番町なかろくばんちょう何番地だったかね」と襖ごしに細君に聞いた。
「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、
「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。
「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」と云い切ったが、細君が返事をしないので、
「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。
 細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷からぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝えんづたいに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行って来るよ」
「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
 三十分ばかりして格子こうしががらりといたので、御米はまた裁縫しごとの手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽をかぶった、弟の小六ころく這入はいって来た。はかますそが五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗くろらしゃのマントのボタンはずしながら、
「暑い」と云っている。
「だってあんまりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は云訳いいわけを半分しながら、あによめあといて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、
「相変らず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢ながひばちの前へ胡坐あぐらをかいた。嫂は裁縫をすみの方へ押しやっておいて、小六のむこうへ来て、ちょっと鉄瓶てつびんをおろして炭をぎ始めた。
「御茶ならたくさんです」と小六が云った。
いや?」と女学生流に念を押した御米は、
「じゃ御菓子は」と云って笑いかけた。
「あるんですか」と小六が聞いた。
「いいえ、無いの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」と云いながら立ち上がる拍子ひょうしに、横にあった炭取を取り退けて、袋戸棚ふくろとだなを開けた。小六は御米の後姿うしろすがたの、羽織はおりが帯で高くなったあたりながめていた。何をさがすのだかなかなか手間てまが取れそうなので、
「じゃ御菓子もしにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」と聞いた。
「兄さんは今ちょいと」と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、
「駄目よ。いつのにか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢のむこうへ帰って来た。
「じゃ晩に何か御馳走ごちそうなさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定かんじょうした。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。
「姉さん、兄さんは佐伯さえきへ行ってくれたんですかね」と聞いた。
「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥くたびれちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮しんちゅう火箸ひばしを取って火鉢ひばちの灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。
「だから先刻さっき手紙を出しておいたのよ」と慰めるように云った。
「何て」
「そりゃわたしもつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」
「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」
「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
 小六はこれ以上弁解のような慰藉いしゃのようなあによめの言葉に耳を借したくなかった。散歩に出るひまがあるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々ページはぐって見ていた。


 そこに気のつかなかった宗助そうすけは、町のかどまで来て、切手と「敷島しきしま」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、くわ煙草たばこけむを秋の日にゆらつかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産みやげうちへ帰ってようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通ゆきかよいには電車を利用して、にぎやかな町を二度ずつはきっとったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体からだと頭にらくがないので、いつでもうわそらで素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中にきていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生へいぜいは忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日なのか一返いっぺんの休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢であうと、不断の生活が急にそわそわした上調子うわちょうしに見えて来る。必竟ひっきょう自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物さびしさを感ずるのである。
 そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上ふところに多少余裕よゆうでもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端にり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙をいましめる程度内にふくらんでいるので、億劫おっくうな工夫をらすよりも、懐手ふところでをして、ぶらりとうちへ帰る方が、つい楽になる。だから宗助のさびしみは単なる散歩か勧工場かんこうば縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉いしゃされるのである。
 この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれもゆったりと落ちついているように見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命をかえりみた。出勤刻限の電車の道伴みちづれほど殺風景なものはない。かわにぶら下がるにしても、天鵞絨びろうどに腰を掛けるにしても、人間的なやさしい心持の起ったためしはいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞとひざを突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、そばに見ていた三十恰好がっこうの商家の御神おかみさんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところをながめていると、今更いまさらながら別の世界に来たような心持がした。
 頭の上には広告が一面にわくめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札ひきふだであった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてそのあと瓦斯竈ガスがまを使えと書いて、瓦斯竈から火の出ているまで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云うのと、バンカラ喜劇小辰こたつ大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。
 宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧ていねいに三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然はっきりと自分の頭に映って、そうしてそれを一々読みおおせた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕よゆうが、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入ではいりには、落ちついていられないものであった。
 宗助は駿河台下するがだいしたで電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子まどガラスの中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青やしまや模様の上に、あざやかにたたき込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中をしらべて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入はいって見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔ひとむかし前の生活である。ただ Historyヒストリ ofオフ Gamblingガムブリング博奕史ばくえきし)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛とっぴな新し味を加えただけであった。
 宗助は微笑しながら、急忙せわしい通りを向側むこうがわへ渡って、今度は時計屋の店をのぞき込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好かっこうとして、彼のひとみに映るだけで、買いたい了簡りょうけんを誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札ねだんふだを読んで、品物と見較みくらべて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。
 蝙蝠傘屋こうもりがさやの前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物こまものを売る店先では、礼帽シルクハットわきにかけてあった襟飾えりかざりに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変がらが好かったので、を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入はいりかけたが、明日あしたから襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口がまぐちの口を開けるのがいやになって行き過ぎた。呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召うずらおめしだの、高貴織こうきおりだの、清凌織せいりょうおりだの、自分の今日こんにちまで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新えりしんと云ううちの出店の前で、窓硝子まどガラスへ帽子のつばを突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍ぬいをした女の半襟はんえりを、いつまでもながめていた。そのうちにちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るやいなや、そりゃ五六年ぜんの事だと云う考があとから出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐみ消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。
 ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯子はしごのような細長いわくへ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。宗助はそれを一々読んだ。著者の名前も作物さくぶつの名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。
 この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽をかぶった三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐あぐらをかいて、ええ御子供衆の御慰おなぐさみと云いながら、大きな護謨風船ゴムふうせんふくらましている。それが膨れると自然と達磨だるま恰好かっこうになって、好加減いいかげんな所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻がすわる。それが尻の穴へ楊枝ようじのような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。
 忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男はにぎやかな町の隅に、冷やかに胡坐あぐらをかいて、身の周囲まわりに何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それをたもとへ入れた。奇麗きれいな床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日がかぎって来たので、また電車へ乗って、うちの方へ向った。
 宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影がつのる頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、みんな離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根やねへかけて、仄白ほのしろい煙りが大気の中に動いているように見える。宗助もの多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、のんびりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまたさみしいような一種の気分が起って来た。そうして明日あしたからまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体からだだと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半むいかはんの非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りにすわっている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
 魚勝と云う肴屋さかなやの前を通り越して、その五六軒先の露次ろじとも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高いがけで、その左右に四五軒同じかまえの貸家が並んでいる。ついこの間まではまばらな杉垣の奥に、御家人ごけにんでも住み古したと思われる、物寂ものさびた家も一つ地所のうちにまじっていたが、崖の上の坂井さかいという人がここを買ってから、たちまち萱葺かやぶきを壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請ふしんに建てえてしまった。宗助のうちは横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこをえらんだのである。
 宗助は七日なのかに一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでもって、暇があったら髪でも刈って、そうしてゆっくり晩食ばんめしを食おうと思って、急いで格子こうしを開けた。台所の方で皿小鉢さらこばちの音がする。上がろうとする拍子ひょうしに、小六ころくてた下駄げたの上へ、気がつかずに足を乗せた。こごんで位置を調ととのえているところへ小六が出て来た。台所の方で御米およねが、
「誰? 兄さん?」と聞いた。宗助は、
「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。先刻さっき郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字もひらめかなかった。宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。
「御米、御米」と細君を台所から呼んで、
「小六が来たから、何か御馳走ごちそうでもするが好い」と云いつけた。細君は、忙がしそうに、台所の障子しょうじを開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、
「ええ今じき」と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、
「その代り小六さん、はばかさま。座敷の戸をてて、洋灯ランプけてちょうだい。今わたしきよも手が放せないところだから」と依頼たのんだ。小六は簡単に、
「はあ」と云って立ち上がった。
 勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへける音がする。「奥様これはどちらへ移します」と云う声がする。「姉さん、ランプのしんはさみはどこにあるんですか」と云う小六の声がする。しゅうと湯がたぎって七輪しちりんの火へかかった様子である。
 宗助は暗い座敷の中で黙然もくねん手焙てあぶりへ手をかざしていた。灰の上に出た火のかたまりだけが色づいて赤く見えた。その時裏のがけの上の家主やぬしの家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側えんがわへ出た。孟宗竹もうそうちくが薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星がきらめいた。ピヤノのは孟宗竹のうしろから響いた。


 宗助そうすけ小六ころく手拭てぬぐいを下げて、風呂ふろから帰って来た時は、座敷の真中に真四角な食卓をえて、御米およねの手料理が手際てぎわよくその上に並べてあった。手焙てあぶりの火も出がけよりは濃い色に燃えていた。洋灯ランプも明るかった。
 宗助が机の前の座蒲団ざぶとんを引き寄せて、その上に楽々らくらく胡坐あぐらいた時、手拭と石鹸シャボンを受取った御米は、
「好い御湯だった事?」と聞いた。宗助はただ一言ひとこと
「うん」と答えただけであったが、その様子は素気そっけないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩しかんした気味に見えた。
「なかなか好い湯でした」と小六が御米の方を見て調子を合せた。
「しかしああ込んじゃたまらないよ」と宗助が机のはじひじを持たせながら、倦怠けたるそうに云った。宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退けて、うちへ帰ってからの事だから、ちょうど人の立て込む夕食前ゆうめしまえ黄昏たそがれである。彼はこの二三カ月間ついぞ、日の光にかして湯の色をながめた事がない。それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居をまたがずに過してしまう。日曜になったら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗きれいな湯に首だけつかってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来て見ると、たまにゆっくり寝られるのは、今日ばかりじゃないかと云う気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代り今度こんだの日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。
「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」と宗助が云った。
「その癖朝湯に行ける日は、きっと寝坊ねぼうなさるのね」と細君は調戯からかうような口調であった。小六は腹の中でこれが兄の性来うまれつきの弱点であると思い込んでいた。彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとってたっといかを会得えとくできなかった。六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。だからやりたい事があり過ぎて、十の二三も実行できない。否、その二三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。自分の気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚こうしょうについてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽さないのは、尽さないのではない、頭に尽す余裕よゆうのないのだとは、小六から見ると、どうしても受取れなかった。兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、真底は情合じょうあいに薄い人だぐらいに考えていた。
 けれども、小六がそう感じ出したのは、つい近頃の事で、実を云うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日きょうあすにもかたがつくものと、思い込んでいたのに、何日いつまでもらちが明かないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。
 ところが今日帰りを待ち受けてって見ると、そこが兄弟で、別に御世辞も使わないうちに、どこか暖味あたたかみのある仕打も見えるので、つい云いたい事も後廻しにして、いっしょに湯になんぞ這入はいって、穏やかに打ち解けて話せるようになって来た。
 兄弟はくつろいでぜんについた。御米も遠慮なく食卓の一隅ひとすみりょうした。宗助も小六も猪口ちょくを二三杯ずつ干した。飯にかかる前に、宗助は笑いながら、
「うん、面白いものが有ったっけ」と云いながら、たもとから買って来た護謨風船ゴムふうせん達磨だるまを出して、大きくふくらませて見せた。そうして、それをわんふたの上へせて、その特色を説明して聞かせた。御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨はぜんの上から畳の上へ落ちた。それでも、まだかえらなかった。
「それ御覧」と宗助が云った。
 御米は女だけに声を出して笑ったが、御櫃おはちふたを開けて、夫の飯をよそいながら、
「兄さんも随分呑気のんきね」と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように云った。宗助は細君から茶碗を受取って、一言ひとことの弁解もなく食事を始めた。小六も正式にはしを取り上げた。
 達磨はそれぎり話題にのぼらなかったが、これがいとくちになって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑のどかな話をつづけた。しまいに小六が気を換えて、
「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入はいったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。
「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」と御米があとから冗談じょうだん半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋かくしの中に畳んである今朝の読殻よみがらを、あとから出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、おおやけには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
短銃ピストルをポンポン連発したのが命中めいちゅうしたんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶をうまそうに飲んだ。御米はこれでも納得なっとくができなかったと見えて、
「どうしてまた満洲まんしゅうなどへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜ロシアに秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目まじめな顔をして云った。御米は、
「そう。でもいやねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたような腰弁こしべんは、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓ハルピンへ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口をいた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」
 この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。宗助もそれに気がついたらしく、
「さあ、もう御膳おぜんを下げたら好かろう」と細君をうながして、先刻さっき達磨だるまをまた畳の上から取って、人指指ひとさしゆびの先へせながら、
「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」と云っていた。
 台所からきよが出て来て、食い散らした皿小鉢さらこばちを食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。
「ああ奇麗きれいになった。どうも食った後は汚ないものでね」と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。勝手の方で清がしきりに笑っている。
「何がそんなにおかしいの、清」と御米が障子越しょうじごしに話しかける声が聞えた。清はへえと云ってなお笑い出した。兄弟は何にも云わず、なかば下女の笑い声に耳を傾けていた。
 しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。藤蔓ふじづるの着いた大きな急須きゅうすから、胃にも頭にもこたえない番茶を、湯呑ゆのみほどな大きな茶碗ちゃわんいで、両人ふたりの前へ置いた。
「何だって、あんなに笑うんだい」と夫が聞いた。けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中をのぞいていた。
「あなたがあんな玩具おもちゃを買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」
 宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と云ったが、あとからゆっくり、
「これでも元は子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、生温なまぬるい眼を挙げて細君を見た。御米はぴたりと黙ってしまった。
「あなた御菓子食べなくって」と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、
「ええ食べます」と云う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。兄弟はまた差向いになった。
 電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだよいくちだけれども、四隣あたりは存外静かである。時々表を通る薄歯の下駄の響がえて、夜寒よさむがしだいに増して来る。宗助は懐手ふところでをして、
「昼間はあったかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもう蒸汽スチームを通しているかい」と聞いた。
「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、蒸汽なんかきゃしません」
「そうかい。それじゃ寒いだろう」
「ええ。しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが」と云ったまま、小六はすこし云いよどんでいたが、しまいにとうとう思い切って、
「兄さん、佐伯さえきの方はいったいどうなるんでしょう。先刻さっき姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」
「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」
 小六は兄の平気な態度を、心のうちでは飽足らずながめた。しかし宗助の様子にどこと云って、ひとを激させるようなするどいところも、みずからを庇護かばうようないやしい点もないので、ってかかる勇気はさらに出なかった。ただ
「じゃ今日きょうまであのままにしてあったんですか」と単に事実を確めた。
「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近頃神経衰弱でね」と真面目まじめに云う。小六は苦笑した。
「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前先刻さっき満洲は物騒でいやだって云ったじゃないか」
 用談はこんなところに往ったり来たりして、ついに要領を得なかった。しまいに宗助が、
「まあ、好いや、そう心配しないでも、どうかなるよ。何しろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」と云ったので、談話はなしに区切がついた。
 小六が帰りがけに茶の間をのぞいたら、御米は何にもしずに、長火鉢ながひばちりかかっていた。
「姉さん、さようなら」と声を掛けたら、「おや御帰り」と云いながらようやく立って来た。


 小六ころくにしていた佐伯さえきからは、予期の通り二三日して返事があったが、それはきわめて簡単なもので、端書はがきでも用の足りるところを、鄭重ていちょうに封筒へ入れて三銭の切手をった、叔母の自筆に過ぎなかった。
 役所から帰って、筒袖つつそでの仕事着を、窮屈そうにえて、火鉢ひばちの前へすわるや否や、抽出ひきだしから一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米およねの汲んで出す番茶を一口んだまま、宗助そうすけはすぐ封を切った。
「へえ、やすさんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら云った。
「いつ?」と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」
「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
 宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらしたあごを、気味わるそうにで廻した。
 御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。それをひざの上へ乗せたまま、夫の顔を見て、
「遠からぬうちには帰京つかまつるべく候間、どうだって云うの」と聞いた。
「いずれ帰ったら、安之助やすのすけと相談して何とか御挨拶ごあいさつを致しますと云うのさ」
「遠からぬうちじゃ曖昧あいまいね。いつ帰るとも書いてなくって」
「いいや」
 御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。そうしてそれを元のように畳んで、
「ちょっとその状袋を」と手をおっとの方へ出した。宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。御米はそれをふっと吹いて、中をふくらまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。
 宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。今日役所で同僚が、この間英吉利イギリスから来遊したキチナー元帥に、新橋のそばったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引きってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき[#「展開されべき」はママ]将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらいへだたっている。
 こう考えて宗助はしきりに煙草たばこを吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方からおそって来るような音がする。それが時々やむと、やんだ間はしんとして、吹き荒れる時よりはなおさびしい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘はんしょうが鳴り出す時節だと思った。
 台所へ出て見ると、細君は七輪しちりんの火を赤くして、さかなの切身を焼いていた。きよは流し元にこごんで漬物を洗っていた。二人とも口をかずにせっせと自分のやる事をやっている。宗助は障子しょうじを開けたなり、しばらく肴からつゆあぶらの音を聞いていたが、無言のまままた障子をてて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。
 食事を済まして、夫婦が火鉢をあいに向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣うっちゃっておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝こようじを着物のえりへ差した。
 中一日なかいちんち置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙のしりに、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過なりゆきがまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫おっくうな事は滅多めったになかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前にかす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日みそかにはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎かげろうのように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄いきわめて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
 上部うわべから見ると、夫婦ともそう物に屈托くったくする気色けしきはなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度こんだの日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、
「うん、行っても好い」ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。御米もそれを見て、責める様子もない。天気が好いと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で仕合せね」と云う。
 幸にして小六はその一度もやって来ない。この青年は、至ってしょうの神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日きのうの事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的明暸めいりょうで、理路に感情をぎ込むのか、または感情に理窟りくつわくを張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返いっぺん筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。
 宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生そせいして、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々にがにがしく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前にえ付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命におちいるために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
 けれども、今日こんにちまで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。彼の弟に対する待遇ほうはただ普通凡庸ぼんようのものであった。彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験をった年長者の素振そぶりは容易に出なかった。
 宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子がはさまっていたが、いずれも早世そうせいしてしまったので、兄弟とは云いながら、年はとおばかり違っている。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕ちょうせきいっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。宗助は剛情ごうじょうかぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、うちの都合も悪くはなかったので、抱車夫かかえしゃふを邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終しじゅう小六の御相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿さおのさきへ菓子袋をくくり付けて、大きな柿の木の下でせみの捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊けんぼうそんなに頭を日に照らしつけると霍乱かくらんになるよ、さあこれをかぶれと云って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は自分の所有物を兄が無断でひとにくれてやったのが、しゃくさわったので、突然いきなり兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へげつけるや否や、け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽むぎわらぼうを踏みつぶしてしまった。宗助は縁から跣足はだしで飛んで下りて、小六の頭をなぐりつけた。その時から、宗助の眼には、小六が小悪こにくらしい小僧として映った。
 二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京のうちへもえれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほど前に死んでいた。だから後には二十五六になるめかけと、十六になる小六が残っただけであった。
 佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、うちの始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないからやしきを売るが好かろうと云う話であった。めかけは相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をしてもらう事にした。しかし肝心かんじんの家屋敷はすぐ右から左へと売れるわけには行かなかった。仕方がないから、叔父に一時の工面くめんを頼んで、当座の片をつけて貰った。叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気やまぎの多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、うまい事を云って金を引き出したものである。宗助の父にも慾があったかも知れないが、このでんで叔父の事業にぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。
 父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」と云った。
 道具類もせきばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品こっとうひんだけは、やはり気長に欲しがる人をさがさないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日こんにちの位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果におちいりそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分よろしくと頼んだ。自分が中途で失敗しくじったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥ふたしかな希望を残して、また広島へ帰って行った。
 それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほどっての返事に、優に例の立替をつぐなうに足る金額だから心配しなくても好いとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云って、例のごとく微笑した。その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地いちと事情のもと束縛そくばくされていたので、ついそれなりになってしまった。
 仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行はんこうで押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪かぜを引いてたのが元で、腸窒扶斯ちょうチフスに変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。
 病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行すいこうせずに、やはり下り列車の走るかたに自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、ふところにして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実のもとに、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果いんがの束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれがおれの栄華の頂点だったんだと、始めてめた眼に遠いかすみながめる事もあった。いよいよ苦しくなった時、
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合かけあってみようかな」と云い出した。御米は無論さからいはしなかった。ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目ふしめになっている様子を見ると、急に勇気がくじける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、のちには二月ふたつきに一返になり、三月みつきに一返になり、とうとう、
いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。
「それで、ござんすとも」と御米は答えた。
 宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、きわめて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛たわいない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さにえかねて、抱き合ってだんを取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
 二人の間にはあきらめとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」とおっとを慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心まごころあるさいの口をりて、自分を翻弄ほんろうする運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達のこしらえた、過去という暗い大きなあなの中に落ちている。
 彼らは自業自得じごうじとくで、彼らの未来を塗抹とまつした。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものとあきらめて、ただ二人手をたずさえて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、もとより多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売すてうりにしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米はさみしそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければほうがつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りにうちと地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」と御米が云う。
 そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度つどしだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
 夫婦がこんな風に淋しくむつまじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分にかえりみて、成効者せいこうしゃの前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。
 ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここにくすぶっている事を聞き出して、いて面会を希望するので、宗助もやむを得ずを折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭おかげである。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助ははしを置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。
 東京に着いてから二三週間は、眼のまわるように日がった。新らしく世帯をって、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙せわしなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜はげしく震盪しんとうする刺戟しげきとにられて、何事をもじっと考えるひまもなく、また落ちついて手をくだす分別も出なかった。
 夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とものせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、ちゃくの時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥まちくたびれた気色けしきであった。
 宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おやそうさん、しばらく御目にからないうちに、大変御老おふけなすった事」という一句であった。御米はそのおり始めて叔父夫婦に紹介された。
「これがあの……」と叔母は逡巡ためらって宗助の方を見た。御米は何と挨拶あいさつのしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
 小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分をしのぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入はいろうという間際まぎわであった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。
 宗助と御米は一週ばかり宿屋住居ずまいをして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。細々こまごましい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取りそろえて送って来た。その上、
「御前も新世帯だから、さぞ物要ものいりが多かろう」と云って金を六十円くれた。
 うちを持ってかれこれ取りまぎれているうちに、はや半月も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸いえやしきの事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時御米が、
「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ云わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」と御米がうす笑をした。
「だって、落ちついて、そんな事を云い出すひまがないんだもの」と宗助が弁解した。
 また十日ほどった。すると今度こんだは宗助の方から、
「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒でいやになった」と云い出した。
「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」と御米が答えた。
「好いかい」と宗助が聞き返した。
「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私はせんからどうでも好いんだわ」と御米が答えた。
 その時宗助は、
「じゃ、鹿爪しかつめらしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会おりがあったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会おりがきっと出て来るよ」と云って延ばしてしまった。
 小六は何不足なく叔父の家に寝起ねおきしていた。試験を受けて高等学校へ這入はいれれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。従兄弟いとこの安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。かえってこの方が兄弟らしかった。
 宗助は自然叔父のうちに足が遠くなるようになった。たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。しまいには時候の挨拶あいさつを済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。こう云う時には三十分とすわって、世間話に時間をつなぐのにさえ骨が折れた。向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。
「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気がとがめるような不安を感ずるので、また行くようになった。折々は、
「どうも小六が御厄介ごやっかいになりまして」とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払ってもらった地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。しかし宗助が興味をたない叔父の所へ、不精無精ふしょうぶしょうにせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父おいの血属関係を、世間並に持ちこたえるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。
「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があった。すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、ながくまであとへ響くものだからな」と答えて、因果いんがは恐ろしいと云う風をする。叔母は重ねて、
「本当に、こわいもんですね。元はあんな寝入ねいったじゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌かっぱつでしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたようにけちまって。今じゃあなたより御爺おじいさん御爺さんしていますよ」と云う。
真逆まさか」と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。
 こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。
 御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居をまたいだ事がない。むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧ていねいに接待するが、帰りがけに、
「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」などと云われると、ただ、
「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けたためしはなかった。さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」とすすめた事があるが、
「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。
 両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎せきずいのうまくえんとかいう劇症げきしょうで、二三日風邪かぜの気味でていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓ひしゃくを持ったまま卒倒したなり、一日いちんちつか経たないうちに冷たくなってしまったのである。
「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が云った。
「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分執念深しゅうねんぶかいのね」と御米が云った。
 それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
 三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田ほたから向うへ突切つっきって、上総かずさの海岸を九十九里伝いに、銚子ちょうしまで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。真黒にげた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色ばんしょくを帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入はいったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、
「兄さん、少し御話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎえずに、小六の話を聞いた。
 小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然ひとりでにできるし、小遣こづかい適宜てきぎに貰えるので、父の存生中ぞんしょうちゅうと同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然ぼんやりしてとかくの挨拶あいさつさえできなかったのだと云う。
 叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かってくわしく説明してくれたそうである。それには叔父のくなった事やら、いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。
「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日きょうまでいろいろ骨を折ったんだけれども」
 叔母はこう云ったと小六は繰り返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、そうさんが若干いくらか置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出おいでの時分から、御前の学資は融通して来たんだから」と答えた。
 小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定かんじょうで、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言ひとことも返しようがなかった。
御前おまえも一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代りわたしも宗さんに逢って、とっくりわけを話しましょうから。どうも、宗さんもあんまり近頃は御出おいででないし、私も御無沙汰ごぶさたばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」と叔母は最後につけ加えたそうである。
 小六から一部始終いちぶしじゅうを聞いた時、宗助はただ弟の顔をながめて、一口、
「困ったな」と云った。昔のようにかっと激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色けしきもなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、にくいと思う様子も見えなかった。
 自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分くずれかかったのを、さもはたの人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子こうしの外に射す夕日をしばらくながめていた。
 その晩宗助は裏から大きな芭蕉ばしょうの葉を二枚って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んですずみながら、小六の事を話した。
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」と御米が聞いた。
「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡りょうけんか分らないがね」と宗助が云うと、御米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇うちわをはたはた動かした。宗助は何も云わずに、くびを延ばして、ひさしがけの間に細く映る空の色を眺めた。二人はそのまましばらく黙っていたが、ややあって、
「だってそれじゃ無理ね」と御米がまた云った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際てぎわじゃ到底とても駄目だ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
 会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、
「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、いつもよりは愛想あいそよく宗助を款待もてなしてくれた。その時宗助はいやなのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母はもとよりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。
 叔母の云うところによると、宗助の邸宅やしきを売払った時、叔父の手に這入はいった金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚みなして差支さしつかえない。しかし宗助の邸宅を売ってもうけたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。宗助はあんな事をして廃嫡はいちゃくにまでされかかった奴だから、一文いちもんだって取る権利はない。
「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」と叔母が断った。宗助は黙ってあとを聞いていた。
 小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田のにぎやかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思ってあきらめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けたうちと同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。
 安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶うかつと云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚おうようおもむきそなえて実社会へ顔を出したのである。専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日こんにちといえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲おやゆずりの山気やまぎがどこかにひそんでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場こうばを月島へんに建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本をぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。叔母の内幕話と云ったのはそこである。
「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文いちもんなし同然な仕儀しぎでいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸いえやしきは持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母おっかさんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青おもとの葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆まさかそうでも無いんですけれども」と叔母が云った。
 宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭がくなった証拠しょうこだろうと自覚した。叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。
「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。うまく行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるでけむにならないとも限らないんですから」と叔母がつけ加えた。
 宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕あこぎなところも見えないので、心のうちでは少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合かけあいもせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。そこで今までの問題はそこにえっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞きただして見ると、叔母は、
「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入はいってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」と答えた。
 宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品こっとうひん成行なりゆきを確かめて見た。すると、叔母は、
「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」と云いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と云いながら、その顛末てんまつを語って聞かした。
 宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方うりさばきかた真田さなだとかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某だれそれがしが何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとかごうして、品物を持って行ったぎり、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつてらちの明いたためしがなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風びょうぶが一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度こんだついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
 叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今日きょうまで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味をち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色けしきのない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせうちじゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
 納戸なんどから取り出して貰って、明るい所でながめると、たしかに見覚みおぼえのある二枚折であった。下にはぎ桔梗ききょうすすきくず女郎花おみなえし隙間すきまなくいた上に、真丸な月を銀で出して、その横のいた所へ、野路のじや空月の中なる女郎花、其一きいちと題してある。宗助はひざを突いて銀の色の黒くげたあたりから、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福だいふくほどな大きな丸い朱の輪廓りんかくの中に、抱一ほういつと行書で書いた落款らっかんをつくづくと見て、父の生きている当時をおもい起さずにはいられなかった。
 父は正月になると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗いくらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんかくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間のとこには必ず虎の双幅そうふくけた。これは岸駒がんくじゃない岸岱がんたいだと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎のには墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水をんでいる鼻柱が少しけがされたのを、父はひどく気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯いたずらだぞと云って、おかしいようなうらめしいような一種の表情をした。
 宗助は屏風びょうぶの前にかしこまって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
 宗助はしかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食ばんめしのち御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣ゆかたを並べて、涼みながら、画の話をした。
「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「随分骨が折れるでしょうね」
 御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言ひとことの批評も加えなかった。
「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と云うだけであった。
理窟りくつを云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠しょうこも何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
 夫婦はこんな話をしながら、また細い空をひさしの下からのぞいて見て、明日あしたの天気を語り合って蚊帳かや這入はいった。
 次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」と教えた。
 小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡りょうけんはないんだから」
「そりゃ、分っています」と弟はけわしい物の云い方をした。
「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日こんにちまで悪いところだらけな男だもの」
 宗助は横になって煙草たばこを吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座敷のすみに立ててあった二枚折の抱一の屏風びょうぶながめていた。
「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
一昨日おととい佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」と宗助が云った。そうして苦笑しながら、
「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂きちがいじみているが、入れておく所がないから、仕方がない」と云う述懐じゅっかいをした。
 小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りにへだたっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩けんかはし得なかった。この時も急に癇癪かんしゃくつのを折られた気味で、
「屏風はどうでも好いが、これからさき僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。
「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」と宗助が云った。
 弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿はきらいである、学校へ出ても落ちついて稽古けいこもできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分にはえられないと云ううったえを切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまりかんの高い不平を並べると、
「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支さしつかえない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫とんざして、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
 宗助はそれから湯を浴びて、晩食ばんめしを済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下がけしたの雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
 蚊帳かやの中へ這入はいった時、御米は、
「小六さんの事はどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりののち夫婦ともすやすや寝入ねいった。
 翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇をたなかった。うちへ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的はっきり眼の前にえがいて明らかにそれをながめる事をはばかった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、そのわずらわしさにえなかった。昔は数学が好きで、随分込み入った幾何きかの問題を、頭の中で明暸めいりょうな図にして見るだけの根気があった事をおもい出すと、時日の割には非常にはげしく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
 それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸のきんが一本かぎに引っ掛ったような心をいだいて、日を暮らしていた。
 そのうち九月も末になって、毎晩あまがわが濃く見えるあるよいの事、空から降ったように安之助がやって来た。宗助にも御米にも思い掛けないほどたまな客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうとすいしたが、はたして小六に関する件であった。
 この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入はいれずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれをさえぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、ひとも中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。元来今度の事も元をただせば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。
 安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまたうちへ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。帰るときに、小六はたもとから半紙を何枚も出して、欠席届が入用にゅうようだからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。
 安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。いずれゆっくりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、御米は宗助に、
「何を考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵児帯へこおびの間にはさんで、心持肩を高くしたなり、
「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、むこうがおれのような運命におちいるだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
 御米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、またとこを延べてた。夢の上に高い銀河あまのがわが涼しくかかった。
 次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信たよりもなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日をひさしの上に見た。夜は煤竹すすだけの台を着けた洋灯ランプの両側に、長い影をえがいて坐っていた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事もまれではなかった。
 それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかにみちはない。佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分うちへ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任たんにんしなければ義理が悪い。ところがそれは家計上宗助のえるところでなかった。月々の収支を事細かに計算して見た両人ふたりは、
「とうてい駄目だね」
「どうしたって無理ですわ」と云った。
 夫婦のすわっている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ひとまある。下女を入れて三人の小人数こにんずだから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物をえた。
「それよりか、あの六畳をけて、あすこへ来ちゃいけなくって」と御米が云い出した。御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯からすけもらったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」と御米が云い添えた。実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対あべこべに相談を掛けられて見ると、もとよりそれをこばむだけの勇気はなかった。
 小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支さしつかえなければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、からかさに音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたようにうれしがった。
「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、うにもどうにかしたんですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば、叔母さんだって、安さんだって、それでもいやだとは云われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。わたし受合うわ」
 御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くようにすすめてくれと催促して行った。
 宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのがおくれるので、この要件を手紙にしたためて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。


 佐伯さえきの叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変ったように寒かった。叔母は竹で編んだ丸い火桶ひおけの上へ手をかざして、
「何ですね、御米およねさん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」と云った。叔母は癖のある髪を、奇麗きれいまげって、古風な丸打の羽織のひもを、胸の所で結んでいた。酒の好きなたちで、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢いろつやもよく、でっぷりふとっているから、年よりはよほど若く見える。御米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと、あとでよく宗助そうすけに話した。すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。御米は実際そうかも知れないと思った。そうしてこう云われた後では、折々そっと六畳へ這入はいって、自分の顔を鏡に映して見た。その時は何だか自分のほおが見るたびにけて行くような気がした。御米には自分と子供とを連想して考えるほどつらい事はなかったのである。裏の家主のうちに、小さい子供が大勢いて、それががけの上の庭へ出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、御米はいつでも、はかないようなうらめしいような心持になった。今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日こんにちでも、何不足のない顔をして、あごなどは二重ふたえに見えるくらいにゆたかなのである。御母さんは肥っているから剣呑けんのんだ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助やすのすけ始終しじゅう心配するそうだけれども、御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福をけ合っているものとしか思われなかった。
「安さんは」と御米が聞いた。
「ええようやくね、あなた。一昨日おとといの晩帰りましてね。それでついつい御返事もおくれちまって、まことに済みませんような訳で」と云ったが、返事の方はそれなりにして、話はまた安之助へ戻って来た。
「あれもね、御蔭おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、まあ若いものの事ですから、これから先どう変化へんげるか分りゃしませんよ」
 御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々あいだあいだはさんでいた。
「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船かつおぶねえ付けるんだとかってねあなた」
 御米にはまるで意味が分らなかった。分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐあとを話した。
「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと云うような訳でしてね。――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」と云いながら、大きな声を出して笑った。「何でも石油をいて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を手間てまがまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械をそなえ付けるようになったら、莫大ばくだいな利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりにかかっているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そうって身体からだでも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」
 叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。もうとうに帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。
 彼はその日役所の帰りがけに駿河台下するがだいしたまで来て、電車を下りて、いものを頬張ほおばったような口を穿すぼめて一二町歩いたのち、ある歯医者のかどくぐったのである。三四日前彼は御米と差向いで、夕飯のぜんに着いて、話しながらはしを取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりとんでから、それが急に痛み出した。指でうごかすと、根がぐらぐらする。食事の時には湯茶がみる。口を開けて息をすると風も染みた。宗助はこの朝歯をみがくために、わざと痛い所をけて楊枝ようじを使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀をめた二枚の奥歯と、いだようにり減らした不揃ぶそろの前歯とが、にわかに寒く光った。洋服に着換える時、
「御米、おれは歯のしょうがよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」と下歯を指で動かして見せた。御米は笑いながら、
「もう御年のせいよ」と云って白いえりを後へ廻って襯衣シャツへ着けた。
 宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。応接間へ通ると、大きな洋卓テーブル周囲まわり天鵞絨びろうどで張った腰掛がならんでいて、待ち合している三四人が、うずくまるようにあごえりうずめていた。それが皆女であった。奇麗きれいな茶色の瓦斯暖炉ガスストーヴには火がまだいてなかった。宗助は大きな姿見に映る白壁の色をななめに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返してながめた。それから「成功」と云う雑誌を取り上げた。その初めに、成効の秘訣ひけつというようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日こんにちまで知らなかった。それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名かなの交らない四角な字が二行ほど並んでいた。それにはかぜ碧落へきらくいて浮雲ふうんき、つき東山とうざんのぼってぎょく一団いちだんとあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。対句ついくうまくできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色けしきと同じような心持になれたら、人間もさぞうれしかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いたあとでも、しきりに彼の頭の中を徘徊はいかいした。彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。
 その時向うの戸がいて、紙片かみぎれを持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
 中へ這入はいると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべく余計取れるように明るくこしらえた部屋の二側ふたがわに、手術用の椅子いすを四台ほどえて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入しまいりの前掛で丁寧ていねいひざから下をくるんでくれた。
 こうおだやかにかされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。そればかりか、肩もせなも、腰のまわりも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。彼はただ仰向あおむいて天井てんじょうから下っている瓦斯管ガスかんを眺めた。そうしてこのかまえと設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣きづかった。
 ところへ顔の割に頭の薄くなり過ぎたふとった男が出て来て、大変丁寧ていねい挨拶あいさつをしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽あわてたように首を動かした。肥った男は一応容体を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いと云う歯をちょっとゆすって見たが、
「どうもこうゆるみますと、とても元のようにしまる訳には参りますまいと思いますが。何しろ中がエソになっておりますから」と云った。
 宗助はこの宣告をさびしい秋の光のように感じた。もうそんな年なんでしょうかと聞いて見たくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、
「じゃなおらないんですか」と念を押した。
 ふとった男は笑いながらこう云った。――
「まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。やむを得なければ、思い切って抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただ御痛みだけを留めておきましょう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中がまるで腐っております」
 宗助は、そうですかと云って、ただ肥った男のなすがままにしておいた。すると彼は器械をぐるぐる廻して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先をいでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと云いながら、それを宗助に見せてくれた。それから薬でその穴をめて、明日みょうにちまたいらっしゃいと注意を与えた。
 椅子いすを下りるとき、身体からだ真直まっすぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうと云う大きな鉢栽はちうえの松が宗助の眼に這入はいった。その根方の所を、草鞋わらじがけの植木屋が丁寧ていねいこもくるんでいた。だんだん露がってしもになる時節なので、余裕よゆうのあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと気がついた。
 帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬こぐすりのまま含嗽剤がんそうざいを受取って、それを百倍の微温湯びおんとうに溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外れんなのを喜んだ。これならば向うで云う通り四五回かよったところが、さして困難でもないと思って、靴を穿こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れている事に気がついた。
 うちへ着いた時は一足違ひとあしちがいで叔母がもう帰ったあとであった。宗助は、
「おお、そうだったか」と云いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎえて、いつもの通り火鉢ひばちの前に坐った。御米は襯衣シャツ洋袴ズボン靴足袋くつたび一抱ひとかかえにして六畳へ這入はいった。宗助はぼんやりして、煙草たばこを吹かし始めたが、向うの部屋で、刷毛ブラッシを掛ける音がし出した時、
「御米、佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい」と聞いた。
 歯痛しつうおのずからおさまったので、秋におそわれるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋ポッケットから取り出して来た粉薬を、ぬるま湯にいてもらって、しきりに含嗽うがいを始めた。その時彼は縁側えんがわへ立ったまま、
「どうも日が短かくなったなあ」と云った。
 やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、よいくちからしんとしていた。夫婦は例の通り洋灯ランプもとに寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行くうちに、自分達の生命を見出していたのである。
 この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産みやげに買って来たと云う養老昆布ようろうこぶかんをがらがら振って、中から山椒さんしょりの小さく結んだ奴をり出しながら、ゆっくり佐伯からの返事を語り合った。
「しかし月謝と小遣こづかいぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。どう見積っても両方寄せると、十円にはなる。十円と云うまとまった御金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ」
「それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
「だから、無理をしても、もう一二カ月のところだけは間に合せるから、そのうちにどうかして下さいと、安さんがそう云うんだって」
「実際できないのかな」
「そりゃわたしには分らないわ。何しろ叔母さんが、そう云うのよ」
鰹舟かつおぶねもうけたら、そのくらい訳なさそうなもんじゃないか」
「本当ね」
 御米は低い声で笑った。宗助もちょっと口のはたを動かしたが、話はそれで途切とぎれてしまった。しばらくしてから、
「何しろ小六はうちへ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。あとはその上の事だ。今じゃ学校へは出ているんだね」と宗助が云った。
「そうでしょう」と御米が答えるのを聞き流して、彼は珍らしく書斎に這入はいった。一時間ほどして、御米がそっとふすまけてのぞいて見ると、机に向って、何か読んでいた。
「勉強? もう御休みなさらなくって」と誘われた時、彼は振り返って、
「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上った。
 寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、しぼりの兵児帯へこおびをぐるぐる巻きつけながら、
「今夜は久し振に論語を読んだ」と云った。
「論語に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、
「いや何にもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとてもなおらないそうだ」と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。


 小六ころくはともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調ととのった。御米およねは六畳に置きつけたくわの鏡台をながめて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少し遣場やりばに困るのね」と訴えるように宗助そうすけに告げた。実際ここを取り上げられては、御米の御化粧おつくりをする場所が無くなってしまうのである。宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側まどぎわえてある鏡の裏をはすながめた。すると角度の具合で、そこに御米の襟元えりもとから片頬が映っていた。それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、
御前おまい、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。びんが乱れて、襟のうしろあたりあかで少しよごれていた。御米はただ、
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側に付いている。一間いっけん戸棚とだなを明けた。下には古いきずだらけの箪笥たんすがあって、上には支那鞄しなかばん柳行李やなぎごりが二つ三つっていた。
「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
 小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じはばかりがあったので、いられるかぎりは下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越をさきへ送っていた。そのくせ彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒じんぜんの境に落ちついてはいられなかったのである。
 そのうち薄いしもりて、裏の芭蕉ばしょうを見事にくだいた。朝は崖上がけうえ家主やぬしの庭の方で、ひよどりが鋭どい声を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭らっぱに交って、円明寺の木魚の音が聞えた。日はますます短かくなった。そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、さやかにはならなかった。おっとが役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。
 宗助は心配した。役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中でひざった。その日は例になく元気よく格子こうしを明けて、すぐといきおいよく今日はどうだいと御米に聞いた。御米がいつもの通り服や靴足袋くつたび一纏ひとまとめにして、六畳へ這入はいあとからいて来て、
「御米、御前おまい子供ができたんじゃないか」と笑いながら云った。御米は返事もせずに俯向うつむいてしきりに夫の背広せびろほこりを払った。刷毛ブラッシの音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前にすわっていた。はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。
 その晩夫婦は火鉢ひばちに掛けた鉄瓶てつびんを、双方から手でおおうようにして差し向った。
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗きれいに浮んだ。
「ちっと、面白くしようじゃないか。このごろはいかにも不景気だよ」と宗助がまた云った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着の事が題目になった。宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖こそでとかを強請ねだられた時、おれは細君の虚栄心を満足させるためにかせいでるんじゃないと云ってねつけたら、細君がそりゃ非道ひどい、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布けっとかぶるとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。
「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套マントこしらえたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋がこも盆栽ぼんさいの松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
「ああ」
 御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、
御拵おこしらえなさいな。月賦で」と云った。宗助は、
「まあ止そうよ」と急にわびしく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
「来るのは厭なんでしょう」と御米が答えた。御米には、自分が始めから小六にきらわれていると云う自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくはそりを合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日こんにちまで仕向けて来た。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅こじゅうとぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一ゆいいつの原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套マントを作るだけの勇気があるんだけれども」
 宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細いあごえりの中へめたまま、上眼うわめを使って、
「小六さんは、まだ私の事をにくんでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度つど慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談じょうだんを云う女であった。宗助は
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 翌日宗助が眼をますと、亜鉛張トタンばりひさしの上で寒い音がした。御米が襷掛たすきがけのまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴てんてきの音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団ふとんの中にぬくもっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るやいなや、
「おい」と云ってすぐ起き上った。
 外は濃い雨にとざされていた。がけの上の孟宗竹もうそうちくが時々たてがみふるうように、雨を吹いて動いた。このびしい空の下へれに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁みそしると暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中がれる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿いて、洋袴ズボンすそ一寸いっすんばかりまくり上げた。
 午過ひるすぎに帰って来て見ると、御米は金盥かなだらいの中に雑巾ぞうきんけて、六畳の鏡台のそばに置いていた。その上の所だけ天井てんじょうの色が変って、時々しずくが落ちて来た。
「靴ばかりじゃない。うちの中までれるんだね」と云って宗助は苦笑した。御米はその晩夫のために置炬燵おきごたつへ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗しまらしゃ洋袴ズボンを乾かした。
 あくる日もまた同じように雨が降った。夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助はまゆを縮めて舌打をした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿けやしない」
「六畳だって困るわ、ああっちゃ」
 夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根をつくろって貰うように家主やぬしへ掛け合う事にした。けれども靴の方は何ともしようがなかった。宗助はきしんで這入はいらないのを無理に穿いて出て行った。
 さいわいにその日は十一時頃からからりと晴れて、垣にすずめの鳴く小春日和こはるびよりになった。宗助が帰った時、御米はいつもよりえしい顔色をして、
「あなた、あの屏風びょうぶを売っちゃいけなくって」と突然聞いた。抱一ほういつの屏風はせんだって佐伯さえきから受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。南へ廻すと、玄関からの入口を半分ふさいでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、
「せっかく親爺おやじ記念かたみだと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞ばふさげで」とこぼした事も一二度あった。その都度つど御米は真丸なふちの焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒ほすすきの色をながめて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。けれども、夫をはばかって、明白あからさまには何とも云い出さなかった。ただ一返いっぺん
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いた事があった。その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。しかしそれは自分がむかし父から聞いたおぼえのある、朧気おぼろげな記憶を好加減いいかげんに繰り返すに過ぎなかった。実際のの価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもそのじつはなはだ覚束おぼつかなかったのである。
 ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成かたちづくる原因となった。過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑ほほえんだ。この日雨が上って、日脚ひあしがさっと茶の間の障子しょうじに射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻えりまきともつかない織物をまとって外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直まっすぐに来ると、乾物かんぶつ屋と麺麭パン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今火鉢ひばちに掛けてある鉄瓶てつびんも、宗助がここからげて帰ったものである。
 御米は手をそでにして道具屋の前に立ち留まった。見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢ひばちが一番多く眼に着いた。しかし骨董こっとうと名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとり何とも知れぬ大きな亀のこうが、真向まむこうに釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子ほっす尻尾しっぽのように出ていた。それから紫檀したん茶棚ちゃだなが一つ二つ飾ってあったが、いずれもくるいの出そうななまなものばかりであった。しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛物も屏風びょうぶも一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入はいった。
 御米は無論夫が佐伯から受取った屏風びょうぶを、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭おかげで、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口をく事ができた。亭主は五十恰好かっこうの色の黒い頬のけた男で、鼈甲べっこうふちを取った馬鹿に大きな眼鏡めがねを掛けて、新聞を読みながら、いぼだらけの唐金からかねの火鉢に手をかざしていた。
「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望をいだいて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。
「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
 御米はこの存在ぞんざいな言葉を聞いてそのままうちへ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。一人でいつものように簡単な食事を済まして、きよに膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのをでていたが、
御払おはらいになるなら」と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」と否々いやいやそうにを付けた。御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。道具屋は出掛に、
「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」と云った。御米はその時思い切って、
「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ほういつですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、
「抱一は近来流行はやりませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿をながめた上、
「じゃなおよく御相談なすって」と云い捨てて帰って行った。
 御米はその時の模様を詳しく話したあとで、
「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。
 宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計くらしを足るとあきらめる癖がついているので、毎月きまって這入はいるもののほかには、臨時に不意の工面くめんをしてまで、少しでも常以上にくつろいでみようと云う働は出なかった。話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。御米のおもわくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金がはいれば、宗助の穿く新らしい靴をあつらえた上、銘仙めいせんの一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風びょうぶを一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙めいせんを並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛とっぴでかつ滑稽こっけいであった。
「売るなら売っていいがね。どうせうちったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」
「だってまた降ると困るわ」
 宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。二人は顔を見合して笑っていた。やがて、
「安過ぎるでしょうか」と御米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
 彼は安いと云われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものとあきらめていた。
「買手にもるだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、あんまり安いようだね」
 宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気をらした。そうしてただ自分だけが弁護にあたいしないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
 翌日あくるひ宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。すると皆申し合せたように、それはじゃないと云った。けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てておくよりほかに仕方がなかった。彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。夫婦は顔を見合して微笑ほほえんだ。もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。すると道具屋がまた来た。また売らなかった。御米は断るのが面白くなって来た。四度目よたびめには知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思い切って屏風を売り払った。


 円明寺の杉がげたように赭黒あかぐろくなった。天気の好い日には、風に洗われた空のずれに、白い筋のけわしく見える山が出た。年は宗助そうすけ夫婦をって日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納豆売なっとううりの声が、かわらとざしもの色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。御米およねは台所で、今年も去年のように水道のせんが氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。夜になると夫婦とも炬燵こたつにばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬をうらやんだ。
「まるで前の本多さんみたようね」と御米が笑った。前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内かまえうちに住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。小女こおんなを一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計くらしを立てていた。御米が茶の間で、たった一人裁縫しごとをしていると、時々御爺おじいさんと云う声がした。それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。門口かどぐちなどで行き逢うと、丁寧ていねいに時候の挨拶あいさつをして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来たためしがない。したがって夫婦の本多さんに関する知識はきわめて乏しかった。ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府とうかんふとかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送しおくりで、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入でいりの商人のあるものから耳にした。
「御爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
 話はそれから前のうちを離れて、家主やぬしの方へ移った。これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もないにぎやかそうな家庭に思われた。この頃は庭が荒れているので、大勢の小供ががけの上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。
「ありゃいったい何をする男なんだい」と宗助が聞いた。この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。
「何にもしないであすんでるんでしょう。地面や家作を持って」と御米が答えた。この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。
 宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。それがしばらくすると、単なる憎悪ぞうおの念に変化した。ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着むとんじゃくになって、自分は自分のように生れついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。御米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもそのは珍らしく、坂井の主人は四十恰好かっこうひげのない人であると云う事やら、ピヤノを弾くのは惣領そうりょうの娘で十二三になると云う事やら、またほかのうちの小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。
「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまりけちなんでしょう。早く悪くなるから」
 宗助は笑い出した。彼はそのくらい吝嗇けちな家主が、屋根がると云えば、すぐ瓦師かわらしを寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。
 その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。彼は十時半頃床に入って、万象に疲れた人のようにいびきをかいた。この間から頭の具合がよくないため、寝付ねつきの悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋をながめた。細いが床の間の上に乗せてあった。夫婦は夜中よじゅう灯火あかりけておく習慣がついているので、寝る時はいつでもしんを細目にして洋灯ランプをここへ上げた。
 御米は気にするように枕の位置を動かした。そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団ふとんの上ですべらした。しまいには腹這はらばいになったまま、両肱りょうひじを突いて、しばらく夫の方を眺めていた。それから起き上って、夜具のすそに掛けてあった不断着を、寝巻ねまきの上へ羽織はおったなり、床の間の洋灯を取り上げた。
「あなたあなた」と宗助の枕元へ来てこごみながら呼んだ。その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元の通り深いねむりから来る呼吸いきを続けていた。御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、あいふすまを開けて茶の間へ出た。暗い部屋が茫漠ぼんやり手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥たんすかんを認めた。それを通り過ぎると黒くくすぶった台所に、腰障子こししょうじの紙だけが白く見えた。御米は火ののない真中に、しばらくたたずんでいたが、やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯をかざした。下女はしまも色も判然はっきり映らない夜具の中に、土竜もぐらのごとくかたまって寝ていた。今度は左側の六畳をのぞいた。がらんとしてさみしい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけにすごく眼にこたえた。
 御米は家中を一回ひとまわり回ったあと、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。そうしてようやく眼を眠った。今度は好い具合に、眼蓋まぶたのあたりに気をつかわないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。
 するとまたふと眼がいた。何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。しかし今眼がめるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。そうして傍に寝ている夫の夜具のそでを引いて、今度は真面目まじめに宗助を起し始めた。
 宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼がめると、御米が、
「あなたちょっと起きて下さい」とゆすっていたので、半分は夢中に、
「おい、好し」とすぐ蒲団ふとんの上へ起き直った。御米は小声で先刻さっきからの様子を話した。
「音は一遍したぎりなのかい」
「だって今したばかりなのよ」
 二人はそれで黙った。ただじっと外の様子を伺っていた。けれども世間はしんと静であった。いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちて来る気色けしきはなかった。宗助は寒いと云いながら、単衣ひとえの寝巻の上へ羽織をかぶって、縁側えんがわへ出て、雨戸を一枚繰った。外をのぞくと何にも見えない。ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌にせまって来た。宗助はすぐ戸をてた。
 ※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かきがねをおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へもぐり込んだが、
「何にも変った事はありゃしない。多分御前おまいの夢だろう」と云って、宗助は横になった。御米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執こしつした。宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、
「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」と云った。
 その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。二人は眼がえて、すぐ寝つかれそうにもなかった。御米が、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と云った。
「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。
 こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。すると表をがらがらとはげしい音を立てて車が一台通った。近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟ひっきょうは毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。そうこうしていると、どこかでとりの声が聞えた。またしばらくすると、下駄げたの音を高く立てて往来を通るものがあった。そのうちきよが下女部屋の戸を開けてかわやへ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。この時床の間に置いた洋灯ランプの油が減って、短かいしんに届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。そこへ清の手にした灯火あかりの影が、ふすまの間から射し込んだ。
「清かい」と御米が声を掛けた。
 清はそれからすぐ起きた。三十分ほどって御米も起きた。また三十分ほど経って宗助もついに起きた。平常いつもは好い時分に御米がやって来て、
「もう起きてもよくってよ」と云うのが例であった。日曜とたまの旗日はたびには、それが、
「さあもう起きてちょうだい」に変るだけであった。しかし今日は昨夕ゆうべの事が何となく気にかかるので、御米のむかえに来ないうち宗助は床を離れた。そうしてすぐ崖下の雨戸を繰った。
 下からのぞくと、寒い竹が朝の空気にとざされてじっとしているうしろから、しもを破る日の色が射して、幾分かいただきを染めていた。その二尺ほど下の勾配こうばいの一番急な所に生えている枯草が、妙にけて、赤土の肌を生々なまなましく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。それから一直線にりて、ちょうど自分の立っている縁鼻えんばなの土が、霜柱をくだいたように荒れていた。宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。
 宗助は玄関から下駄をげて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。御米は掃除屋そうじやが来るたびに、この曲り角を気にしては、
「あすこがもう少し広いといいけれども」と危険あぶながるので、よく宗助から笑われた事があった。
 そこを通り抜けると、真直まっすぐに台所まで細い路が付いている。元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗きれいに取り払って、今ではふしの多い板塀いたべいが片側を勝手口までふさいでしまった。日当りの悪い上に、といから雨滴あまだればかり落ちるので、夏になると秋海棠しゅうかいどうがいっぱい生える。その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。始めて越した年は、宗助も御米もこの景色けしきを見て驚ろかされたくらいである。この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下にはびこっていたもので、古家ふるやの取りこぼたれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」と喜んだ。
 宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次ろじの一点に落ちた。そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。
 彼の足元には黒塗の蒔絵まきえの手文庫が放り出してあった。中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんとすわっているが、ふたは二三尺離れて、へいの根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙ちよがみの模様が判然はっきり見えた。文庫の中かられた、手紙や書付類が、そこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のごとく丸めてあった。宗助は近づいて、この揉苦茶もみくちゃになった紙の下をのぞいて覚えず苦笑した。下には大便が垂れてあった。
 土の上に散らばっている書類を一纏ひとまとめにして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。腰障子こししょうじを開けて、清に
「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。御米は奥で座敷へ払塵はたきを掛けていた。宗助はそれから懐手ふところでをして、玄関だの門のあたりをよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。
 宗助はようやくうちへ入った。茶の間へ来て例の通り火鉢ひばちの前へすわったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。御米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。
「おい昨夜ゆうべ枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんのがけの上からうちの庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走ごちそうまで置いて行った」
 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それにはみんな坂井の名宛なあてが書いてあった。御米は吃驚びっくりして立膝のまま、
「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことにると、まだ何かやられたね」と答えた。
 夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯のぜんに着いた。しかしはしを動かすも泥棒の話は忘れなかった。御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」と御米が宗助をやり込めた。
「なに、宅なんぞへ這入はい気遣きづかいはないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。
 そこへ清が突然台所から顔を出して、
「この間こしらえた旦那様の外套マントでも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅おうちでなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」と真面目まじめよろこびの言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶あいさつきゅうした。
 食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。蒔絵まきえではあるが、ただ黒地に亀甲形きっこうがたきんで置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。御米は唐桟とうざん風呂敷ふろしきを出してそれをくるんだ。風呂敷が少し小さいので、四隅よすみむこう同志つないで、真中にこま結びを二つこしらえた。宗助がそれをげたところは、まるで進物の菓子折のようであった。
 座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂をのぼって、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木かなめ奇麗きれいに植えつけた垣に沿うて門内に入った。
 いえの内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。摺硝子すりガラスの戸がててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルがかないと見えて誰も出て来なかった。宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。そこにも摺硝子のまった腰障子こししょうじが二枚閉ててあった。中では器物を取り扱う音がした。宗助は戸を開けて、瓦斯七輪ガスしちりんを置いた板の間に蹲踞しゃがんでいる下女に挨拶あいさつをした。
「これはこちらのでしょう。今朝わたしうちの裏に落ちていましたから持って来ました」と云いながら、文庫を出した。
 下女は「そうでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働なかばたらきらしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。ちがえに、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしいそろいのリボンをけた子がいっしょにけて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔をながめながら、泥棒よと耳語ささやきやった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、
「どうぞ御通り下さい」と丁寧ていねいに頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。ところへ主人が自分で出て来た。
 主人は予想通り血色の好い下膨しもぶくれ福相ふくそうそなえていたが、御米の云ったようにひげのない男ではなかった。鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、ただほおからあご奇麗きれいあおくしていた。
「いやどうもとんだ御手数ごてかずで」と主人は眼尻めじりしわを寄せながら礼を述べた。米沢よねざわかすりを着たひざを板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆっくりしていた。宗助は昨夕ゆうべから今朝へかけての出来事を一通りつまんで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。主人は机の上に置いた金時計を一つ取られたよしを答えた。けれどもまるでひとのものでもくなした時のように、いっこう困ったと云う気色けしきはなかった。時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味をって、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子ひょうしに、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。宗助はもとより返答ができなかった。
 そこへ最前の仲働が、奥から茶やたばこを運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。主人はわざわざ座蒲団ざぶとんまで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻をえさした。そうして今朝けさ早く来た刑事の話をし始めた。刑事の判定によると、賊はよいから邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。這入口はいりくちはやはり勝手である。燐寸マッチって蝋燭ろうそくともして、それを台所にあった小桶こおけの中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳をむ時刻が来たものか、眼をまして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。
平常いつものように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」と主人は残念がった。宗助も、
「それは惜しい事でした」と答えた。すると主人はその犬のブリードやら血統やら、時々かりに連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。
りょうは好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けてしぎなぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へつかって、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体からだには好くないようです」
 主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。
「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。最後に、
「どうかちと御話に。私も近頃はむしろひまな方ですから、また御邪魔に出ますから」と丁寧ていねいに挨拶をした。門を出て急ぎ足にうちへ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。
「あなたどうなすったの」と御米が気をんで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああゆっくりできるもんかな」と云った。


小六ころくさん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」と御米およねが聞いた。
 小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子しょうじ張替はりかえを手伝わなければならない事となった。彼はむかし叔父の家にいた時、安之助やすのすけといっしょになって、自分の部屋の唐紙からかみを張り替えた経験がある。その時はのりを盆にいたり、へらを使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚ともり返って敷居のみぞまらなかった。それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶわくを洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体そうたいゆがみができて非常に困難した。
「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策しくじるです。洗っちゃ駄目ですぜ」と云いながら、小六は茶の間の縁側えんがわからびりびり破き始めた。
 縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。その向うをへいが縁と平行にふさいでいるから、まあ四角な囲内かこいうちと云っていい。夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色けしきを喜んだ事もあるし、また塀の下へ細い竹を立てて、それへ朝顔をからませた事もある。その時は起き抜けに、今朝咲いた花の数を勘定かんじょうし合って二人がたのしみにした。けれども秋から冬へかけては、花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂漠さばくみたように、ながめるのも気の毒なくらいさびしくなる。小六はこのしもばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙をがしていた。
 時々寒い風が来て、うしろから小六の坊主頭とえりあたりおそった。そのたびに彼はさらしの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。彼は赤い手を無言のまま働らかしながら、馬尻バケツの中で雑巾ぞうきんしぼって障子のさんを拭き出した。
「寒いでしょう、御気の毒さまね。あいにく御天気が時雨しぐれたもんだから」と御米が愛想あいそを云って、鉄瓶てつびんの湯をぎ、昨日きのう煮たのりを溶いた。
 小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑けいべつしていた。ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観をいだいて雑巾を手にしていた。昔し叔父の家で、これと同じ事をやらせられた時は、暇潰ひまつぶしの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲からあきらめさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのことしゃくに触った。
 それであによめには快よい返事さえろくにしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸シャボンと歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢かしゃを思い浮べた。するとどうしても自分一人が、こんな窮境におちいるべき理由がないように感ぜられた。それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも憫然ふびんに見えた。彼らは障子を張る美濃紙みのがみを買うのにさえ気兼きがねをしやしまいかと思われるほど、小六から見ると、消極的な暮し方をしていた。
「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日にかして、二三度力任せに鳴らした。
「そう? でもうちじゃ小供がないから、それほどでもなくってよ」と答えた御米は糊を含ました刷毛はけを取ってとんとんとんと桟の上を渡した。
 二人は長くいだ紙を双方から引き合って、なるべくるみのできないようにつとめたが、小六が時々面倒臭そうな顔をすると、御米はつい遠慮が出て、好加減いいかげん髪剃かみそりで小口を切り落してしまう事もあった。したがってでき上ったものには、所々のぶくぶくがだいぶ目についた。御米はなさけなさそうに、戸袋に立てけた張り立ての障子をながめた。そうして心のうちで、相手が小六でなくって、夫であったならと思った。
しわが少しできたのね」
「どうせ僕の御手際おてぎわじゃうまく行かない」
「なに兄さんだって、そう御上手じゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ぶしょうね」
 小六は何にも答えなかった。台所からきよが持って来た含嗽茶碗うがいぢゃわんを受け取って、戸袋の前へ立って、紙が一面にれるほど霧を吹いた。二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼ乾いてしわがおおかた平らになっていた。三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと云い出した。実を云うと御米の方は今朝けさから頭が痛かったのである。
「もう一枚張って、茶の間だけ済ましてから休みましょう」と云った。
 茶の間を済ましているうちにひるになったので、二人は食事を始めた。小六が引き移ってからこの四五日しごんち、御米は宗助そうすけのいない午飯ひるはんを、いつも小六と差向さしむかいで食べる事になった。宗助といっしょになって以来、御米の毎日ぜんを共にしたものは、夫よりほかになかった。夫の留守の時は、ただひとはしるのが多年の習慣ならわしであった。だから突然この小舅こじゅうとと自分の間に御櫃おはちを置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種な経験であった。それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起った。無論小六よりも御米の方が年上であるし、また従来の関係から云っても、両性をからみつけるつやっぽい空気は、箝束的けんそくてきな初期においてすら、二人の間に起り得べきはずのものではなかった。御米は小六と差向さしむかいに膳に着くときのこの気ぶっせいな心持が、いつになったら消えるだろうと、心のうちひそかに疑ぐった。小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。仕方がないからなるべく食事中に話をして、せめて手持無沙汰てもちぶさた隙間すきまだけでも補おうとつとめた。不幸にして今の小六は、このあによめの態度に対してほどの好い調子を出すだけの余裕と分別ふんべつを頭の中に発見し得なかったのである。
「小六さん、下宿は御馳走ごちそうがあって」
 こんな質問に逢うと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊たんぱくな遠慮のない答をする訳に行かなくなった。やむを得ず、
「なにそうでもありません」ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、御米の方では、自分の待遇が悪いせいかと解釈する事もあった。それがまた無言のあいだに、小六の頭に映る事もあった。
 ことに今日は頭の具合が好くないので、膳に向っても、御米はいつものようにつとめるのが退儀たいぎであった。つとめて失敗するのはなおいやであった。それで二人とも障子しょうじを張るときよりも言葉少なに食事を済ました。
 午後は手がれたせいか、朝に比べると仕事が少し果取はかどった。しかし二人の気分は飯前よりもかえって縁遠くなった。ことに寒い天気が二人の頭にこたえた。起きた時は、日をせた空がしだいに遠退とおのいて行くかと思われるほどに、好く晴れていたが、それが真蒼まっさおに色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪こゆきでもかもしているように、日の目を密封した。二人はかわがわる火鉢に手をかざした。
「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」
 ふと小六がこんな問を御米にかけた。御米はその時畳の上の紙片かみぎれを取って、糊によごれた手を拭いていたが、全く思も寄らないという顔をした。
「どうして」
「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があると云う話じゃありませんか」
 御米はそんな消息を全く知らなかった。小六から詳しい説明を聞いて、始めてなるほどと首肯うなずいた。
「全くね。これじゃ誰だって、やって行けないわ。御肴おさかなの切身なんか、わたしが東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」と云った。肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であった。御米に注意されて始めてそれほどむやみに高くなるものかと思った。
 小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れて行った。御米は裏の家主の十八九時代に物価の大変安かった話を、この間宗助から聞いた通り繰り返した。その時分は蕎麦そばを食うにしても、もりかけが八厘、たねものが二銭五厘であった。牛肉は普通なみ一人前いちにんまえ四銭で、ロースは六銭であった。寄席よせは三銭か四銭であった。学生は月に七円ぐらい国からもらえばちゅうの部であった。十円も取るとすでに贅沢ぜいたくと思われた。
「小六さんも、その時分だと訳なく大学が卒業できたのにね」と御米が云った。
「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」と小六が答えた。
 座敷の張易はりかえが済んだときにはもう三時過になった。そうこうしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度したくも始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃かみそりを片づけた。小六は大きなのびを一つして、にぎこぶしで自分の頭をこんこんとたたいた。
「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」と御米は小六をいたわった。小六はそれよりも口淋くちさむしい思がした。この間文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたと云う菓子を、戸棚とだなから出して貰って食べた。御米は御茶を入れた。
「坂井と云う人は大学出なんですか」
「ええ、やっぱりそうなんですって」
 小六は茶を飲んで煙草たばこを吹いた。やがて、
「兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか」と聞いた。
「いいえ、ちっとも」と御米が答えた。
「兄さんみたようになれたら好いだろうな。不平も何もなくって」
 御米は特別の挨拶あいさつもしなかった。小六はそのままって六畳へ這入はいったが、やがて火が消えたと云って、火鉢をかかえてまた出て来た。彼は兄のいえ厄介やっかいになりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向おもてむき休学のていにして一時の始末をつけたのである。


 裏の坂井と宗助そうすけとは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。それまでは月に一度こちらからきよに家賃を持たしてやると、むこうからその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、がけの上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。
 宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下をしらべに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米およねは始めてうわさに聞いた家主の顔を見た。ひげのないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧ていねいな言葉を使うのが、御米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。
 それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだってはいろいろ御世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますがと云いおいて、帰って行った。
 その晩宗助は到来の菓子折のふたを開けて、唐饅頭とうまんじゅう頬張ほおばりながら、
「こんなものをくれるところをもって見ると、それほどけちでもないようだね。ひとうちの子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」と云った。御米も、
「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。
 夫婦と坂井とは泥棒の這入はいらない前より、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようと云う念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかった。利害の打算から云えば無論の事、単に隣人の交際とか情誼じょうぎとか云う点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気をたなかったのである。もし自然がこのままに無為むいの月日をったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互の家がへだたるごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。
 ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、かわうそえりの着いた暖かそうな外套マントを着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。夜間客におそわれつけない夫婦は、軽微の狼狽ろうばいを感じたくらい驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の礼を述べたのち
「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」と云いながら、白縮緬しろちりめん兵児帯へこおびに巻き付けた金鎖をはずして、両葢りょうぶたの金時計を出して見せた。
 規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいにあきらめていたら、昨日きのうになって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分のくしたのがくるんであったんだと云う。
「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」と坂井は笑っていた。それから、
「何私から云うと、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母ばばが昔し御殿へ勤めていた時分、いただいたんだとか云って、まあ記念かたみのようなものですから」と云うような事も説明して聞かした。
 その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。あとで、
「世間の広いかたね」と御米が評した。
ひまだからさ」と宗助が解釈した。
 次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例のかわうそえりを着けた坂井の外套マントがちょっと眼に着いた。横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。宗助は挨拶あいさつをすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。
「やあ昨夜は。今御帰りですか」と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想あいそなく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調をゆるめながら、帽子を取った。すると坂井は、用はもう済んだと云う風をして、店から出て来た。
「何か御求めですか」と宗助が聞くと、
「いえ、何」と答えたまま、宗助と並んでうちの方へ歩き出した。六七間来たとき、
「あのじじい、なかなかずるい奴ですよ。崋山かざん偽物にせものを持って来て押付おっつけようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」と云い出した。宗助は始めて、この坂井も余裕よゆうある人に共通な好事こうずを道楽にしているのだと心づいた。そうしてこの間売り払った抱一ほういつ屏風びょうぶも、最初からこう云う人に見せたら、好かったろうにと、腹の中で考えた。
「あれは書画には明るい男なんですか」
「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董こっとうらしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋かみくずやから出世してあれだけになったんですからね」
 坂井は道具屋の素性すじょうをよく知っていた。出入でいりの八百屋の阿爺おやじの話によると、坂井の家は旧幕の頃何とかのかみと名乗ったもので、この界隈かいわいでは一番古い門閥家もんばつかなのだそうである。瓦解がかいの際、駿府すんぷへ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然はっきり宗助の頭に残っていなかった。
「小さい内から悪戯いたずらものでね。あいつが餓鬼大将がきだいしょうになってよく喧嘩けんかをしに行った事がありますよ」と坂井は御互の子供の時の事まで一口らした。それがまたどうして崋山の贋物にせものを売り込もうとたくんだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――
「なに親父おやじの代から贔屓ひいきにしてやってるものですから、時々なんだって持って来るんです。ところが眼もかない癖に、ただ慾ばりたがってね、まことに取扱いにく代物しろものです。それについこの間抱一の屏風を買って貰って、味を占めたんでね」
 宗助は驚ろいた。けれども話の途中をさえぎる訳に行かなかったので、黙っていた。坂井は道具屋がそれ以来乗気になって、自身に分りもしない書画類をしきりに持ち込んで来る事やら、大坂出来の高麗焼こうらいやきを本物だと思って、大事に飾っておいた事やら話した末、
「まあ台所だいどこで使う食卓ちゃぶだいか、たかだかあら鉄瓶てつびんぐらいしか、あんな所じゃ買えたもんじゃありません」と云った。
 そのうち二人は坂の上へ出た。坂井はそこを右へ曲る、宗助はそこを下へ下りなければならなかった。宗助はもう少しいっしょに歩いて、屏風びょうぶの事を聞きたかったが、わざわざまわみちをするのも変だと心づいて、それなり分れた。分れる時、
「近いうち御邪魔に出てもようございますか」と聞くと、坂井は、
「どうぞ」と快よく答えた。
 その日は風もなくひとしきり日も照ったが、うちにいると底冷そこびえのする寒さにおそわれるとか云って、御米はわざわざ置炬燵おきごたつに宗助の着物を掛けて、それを座敷の真中にえて、夫の帰りを待ち受けていた。
 この冬になって、昼のうち炬燵こたつこしらえたのは、その日が始めてであった。夜はうから用いていたが、いつも六畳に置くだけであった。
「座敷の真中にそんなものを据えて、今日はどうしたんだい」
「でも、御客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六ころくさんがいて、ふさがっているんですもの」
 宗助は始めて自分の家に小六のいる事に気がついた。襯衣シャツの上から暖かい紡績織ぼうせきおりを掛けて貰って、帯をぐるぐる巻きつけたが、
「ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃしのげない」と云った。小六の部屋になった六畳は、畳こそ奇麗きれいでないが、南と東がいていて、家中うちじゅうで一番暖かい部屋なのである。
 宗助は御米のんで来た熱い茶を湯呑ゆのみから二口ほど飲んで、
「小六はいるのかい」と聞いた。小六はもとよりいたはずである。けれども六畳はひっそりして人のいるようにも思われなかった。御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと留めたまま、宗助は炬燵蒲団ぶとんの中へもぐり込んで、すぐ横になった。一方口いっぽうぐちに崖を控えている座敷には、もう暮方の色がきざしていた。宗助は手枕をして、何を考えるともなく、ただこの暗く狭い景色けしきながめていた。すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の活動のごとくに聞えた。そのうち、障子だけがただ薄白く宗助の眼に映るように、部屋の中が暮れて来た。彼はそれでもじっとして動かずにいた。声を出して洋灯ランプの催促もしなかった。
 彼が暗い所から出て、晩食ばんめしぜんに着いた時は、小六も六畳から出て来て、兄の向うにすわった。御米は忙しいので、つい忘れたと云って、座敷の戸をめに立った。宗助は弟に夕方になったら、ちと洋灯ランプけるとか、戸をてるとかして、せわしい姉の手伝でもしたら好かろうと注意したかったが、昨今引き移ったばかりのものに、気まずい事を云うのも悪かろうと思ってやめた。
 御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。その時宗助はようやく今日役所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に逢った事と、坂井があの大きな眼鏡めがねを掛けている道具屋から、抱一ほういつ屏風びょうぶを買ったと云う話をした。御米は、
「まあ」と云ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。
「じゃきっとあれよ。きっとあれに違ないわね」
 小六は始めのうち何にも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明暸めいりょうになったので、
「全体いくらで売ったのです」と聞いた。御米は返事をする前にちょっと夫の顔を見た。
 食事が終ると、小六はじきに六畳へ這入はいった。宗助はまた炬燵こたつへ帰った。しばらくして御米も足をぬくめに来た。そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たらいいだろうと云うような事を話し合った。
 次の日曜になると、宗助は例の通り一週に一返いっぺん楽寝らくねを貪ぼったため、午前ひるまえ半日をとうとうくうつぶしてしまった。御米はまた頭が重いとか云って、火鉢ひばちふちりかかって、何をするのもものうそうに見えた。こんな時に六畳がいていれば、朝からでも引込む場所があるのにと思うと、宗助は小六に六畳をあてがった事が、間接に御米の避難場を取り上げたと同じ結果におちいるので、ことに済まないような気がした。
 心持が悪ければ、座敷へ床を敷いて寝たら好かろうと注意しても、御米は遠慮して容易に応じなかった。それではまた炬燵でもこしらえたらどうだ、自分も当るからと云って、とうとうやぐら掛蒲団かけぶとんきよに云いつけて、座敷へ運ばした。
 小六は宗助が起きる少し前に、どこかへ出て行って、今朝けさは顔さえ見せなかった。宗助は御米に向って別段その行先を聞きただしもしなかった。この頃では小六に関係した事を云い出して、御米にその返事をさせるのが、気の毒になって来た。御米の方から、進んで弟の讒訴ざんそでもするようだと、叱るにしろ、慰さめるにしろ、かえって始末が好いと考える時もあった。
 ひるになっても御米は炬燵から出なかった。宗助はいっそ静かに寝かしておく方が身体からだのためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清にちょっと上の坂井まで行ってくるからと告げて、不断着の上へ、たもとの出る短いインヴァネスをまとって表へ出た。
 今まで陰気なへやにいた所為せいか、とおりへ来ると急にからりと気が晴れた。肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助は御米もああうちにばかり置いてはくない、気候が好くなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。
 坂井の家の門を入ったら、玄関と勝手口の仕切になっている生垣いけがきの目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。そばへ寄ってわざわざしらべると、それは人形に掛ける小さい夜具であった。細い竹をそでに通して、落ちないように、扇骨木かなめの枝に寄せ掛けた手際てぎわが、いかにも女の子の所作しょさらしく殊勝しゅしょうに思われた。こう云う悪戯いたずらをする年頃の娘はもとよりの事、子供と云う子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有様をしばらく立ってながめていた。そうして二十年も昔に父母が、死んだいもとのために飾った、赤い雛段ひなだん五人囃ごにんばやしと、模様の美くしい干菓子と、それから甘いようでからい白酒を思い出した。
 坂井の主人は在宅ではあったけれども、食事中だと云うので、しばらく待たせられた。宗助は座に着くや否や、隣のへやで小さい夜具を干した人達の騒ぐ声を耳にした。下女が茶を運ぶためにふすまを開けると、襖の影から大きな眼が四つほどすでに宗助をのぞいていた。火鉢を持って出ると、そのあとからまた違った顔が見えた。始めてのせいか、襖の開閉あけたてのたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるか分らないように思われた。ようやく下女が退がりきりに退がると、今度は誰だか唐紙からかみを一寸ほど細目に開けて、黒い光る眼だけをその間から出した。宗助も面白くなって、黙って手招ぎをして見た。すると唐紙をぴたりとてて、向う側で三四人が声を合して笑い出した。
 やがて一人の女の子が、
「よう、御姉様またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」と云い出した。すると姉らしいのが、
「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんは御父さまだからパパで、雪子さんは御母さまだからママって云うのよ。よくって」と説明した。その時また別の声で、
「おかしいわね。ママだって」と云ってうれしそうに笑ったものがあった。
わたしそれでもいつも御祖母おばばさまなのよ。御祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。御祖母さまは何て云うの」と聞いたものもあった。
「御祖母さまはやっぱりババでいいでしょう」と姉がまた説明した。
 それから当分の間は、御免下さいましだの、どちらからいらっしゃいましたのとさかん挨拶あいさつの言葉が交換されていた。その間にはちりんちりんと云う電話の仮色こわいろも交った。すべてが宗助には陽気で珍らしく聞えた。
 そこへ奥の方から足音がして、主人がこっちへ出て来たらしかったが、次の間へ入るや否や、
「さあ、御前達はここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。御客さまだから」と制した。その時、誰だかすぐに、
いやだよ。御父おとっちゃんべい。大きい御馬買ってくれなくっちゃ、あっちへ行かないよ」と答えた。声は小さい男の子の声であった。年が行かないためか、舌がよく回らないので、抗弁のしようがいかにも億劫おっくうで手間がかかった。宗助はそこを特に面白く思った。
 主人が席に着いて、長い間待たした失礼をびている間に、子供は遠くへ行ってしまった。
「大変御賑おにぎやかで結構です」と宗助が今自分の感じた通を述べると、主人はそれを愛嬌あいきょうと受取ったものと見えて、
「いや御覧のごとく乱雑な有様で」と言訳らしい返事をしたが、それをいとくちに、子供の世話の焼けて、おびただしく手のかかる事などをいろいろ宗助に話して聞かした。そのうち綺麗きれいな支那製の花籃はなかごのなかへ炭団たどんを一杯って床の間に飾ったと云う滑稽こっけいと、主人の編上の靴のなかへ水を汲み込んで、金魚を放したと云う悪戯いたずらが、宗助には大変耳新しかった。しかし、女の子が多いので服装に物がるとか、二週間も旅行して帰ってくると、急にみんなの背が一寸いっすんずつも伸びているので、何だかうしろから追いつかれるような心持がするとか、もう少しすると、嫁入の支度で忙殺ぼうさつされるのみならず、きっと貧殺ひんさつされるだろうとか云う話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起し得なかった。かえって主人が口で子供を煩冗うるさがる割に、少しもそれを苦にする様子の、顔にも態度にも見えないのをうらやましく思った。
 好い加減な頃を見計みはからって宗助は、せんだって話のあった屏風びょうぶをちょっと見せて貰えまいかと、主人に申し出た。主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして、召使を呼んだが、くらの中にしまってあるのを取り出して来るように命じた。そうして宗助の方を向いて、
「つい二三日前までそこへ立てておいたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まって、いろいろな悪戯をするものですから、傷でもつけられちゃ大変だと思ってしまい込んでしまいました」と云った。
 宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今更手数てかずをかけて、屏風を見せて貰うのが、気の毒にもなり、また面倒にもなった。実を云うと彼の好奇心は、それほど強くなかったのである。なるほどいったんひとの所有に帰したものは、たとい元が自分のであったにしろ、無かったにしろ、そこを突き留めたところで、実際上には何の効果もない話に違なかった。
 けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び出されて、彼の眼の前に現れた。そうしてそれが予想通りついこの間まで自分の座敷に立ててあった物であった。この事実を発見した時、宗助の頭には、これと云って大した感動も起らなかった。ただ自分が今坐っている畳の色や、天井の柾目まさめや、床の置物や、ふすまの模様などの中に、この屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに取り出して来たと云う所作しょさを付け加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上たっとい品のようにながめられただけであった。彼は即座に云うべき言葉を見出し得なかったので、いたずらに、見慣れたものの上に、さらに新らしくもない眼をえていた。
 主人は宗助をもってある程度の鑑賞家と誤解した。立ちながら屏風のふちへ手を掛けて、宗助のおもてと屏風の面とを比較していたが、宗助が容易に批評を下さないので、
「これは素性すじょうのたしかなものです。出が出ですからね」と云った。宗助は、ただ
「なるほど」と云った。
 主人はやがて宗助の後へ回って来て、指でそこここをしながら、品評やら説明やらした。そのうちには、さすが御大名だけあって、好い絵の具を惜気おしげもなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにもみごとであると云うような、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡った事もだいぶ交っていた。
 宗助は好い加減な頃を見計らって、丁寧ていねいに礼を述べて元の席に復した。主人も蒲団ふとんの上に直った。そうして、今度は野路のじや空云々という題句やら書体やらについて語り出した。宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味をっていた。いつの間にこれほどの知識を頭の中へたくわえ得らるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。宗助はおのれを恥じて、なるべく物数ものかずを云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事をつとめた。
 主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話をの方へ戻した。ろくなものはないけれども、望ならば所蔵の画帖がじょうや幅物を見せてもいいと親切に申し出した。宗助はせっかくの好意を辞退しない訳に行かなかった。その代りに、失礼ですがと前置をして、主人がこの屏風を手に入れるについて、どれほどの金額を払ったかを尋ねた。
「まあ掘出し物ですね。八十円で買いました」と主人はすぐ答えた。
 宗助は主人の前に坐って、この屏風に関するいっさいの事を自白しようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと心づいて、とうとう実はこれこれだと、今までの顛末てんまつを詳しく話し出した。主人は時々へえ、へえと驚ろいたような言葉をはさんで聞いていたが、しまいに、
「じゃあなたは別に書画が好きで、見にいらしった訳でもないんですね」と自分の誤解を、さも面白い経験でもしたように笑い出した。同時に、そう云う訳なら、自分がじかに宗助から相当の値で譲って貰えばよかったに、惜しい事をしたと云った。最後に横町の道具屋をひどくののしって、しからんやつだと云った。
 宗助と坂井とはこれからだいぶ親しくなった。


 佐伯さえきの叔母も安之助やすのすけもその後とんと宗助そうすけうちへは見えなかった。宗助はもとより麹町こうじまちへ行く余暇をたなかった。またそれだけの興味もなかった。親類とは云いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。
 ただ小六ころくだけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そう繁々しげしげ足を運ぶ訳でもないらしかった。それに彼は帰って来て、叔母の家の消息をほとんど御米およねに語らないのを常としておった。御米はこれを故意こいから出る小六の仕打かともうたぐった。しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動静を耳にしない方を、かえって喜こんだ。
 それでも時々は、先方さきの様子を、小六と兄の対話から聞き込む事もあった。一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。それは印気インキの助けを借らないで、鮮明な印刷物をこしらえるとか云う、ちょっと聞くとすこぶる重宝な器械についてであった。話題の性質から云っても、自分とは全く利害の交渉のないむずかしい事なので、御米は例の通り黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、どうして印気を使わずに印刷ができるかなどと問いただしていた。
 専門上の知識のない小六が、精密な返答をし得るはずは無論なかった。彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限り念を入れて説明した。この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用に過ぎなかった。電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へしつけさえすれば、すぐできるのだと小六が云った。色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから色刷などの場合には、絵の具を乾かす時間がはぶけるだけでも大変重宝で、これを新聞に応用すれば、印気インキや印気ロールのついえを節約する上に、全体から云って、少くとも従来の四分の一の手数がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話した通りを繰り返した。そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手のうちに握ったかのごとき口気こうきであった。かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれているように、眼を輝やかした。その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが、聞いてしまったあとでも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。実際こんな発明は、宗助から見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も反対もできかねたのである。
「じゃ鰹船かつおぶねの方はもう止したの」と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。
「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼もこしらえる訳に行かないんだそうです」と小六が答えた。小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振であった。それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱり何をしたって、そううまく行くもんじゃあるまいよ」と云った宗助の言葉と、
「坂井さんみたように、御金があって遊んでいるのが一番いいわね」と云った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。
 こう云う機会に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へれる事はあるが、そのほかには、全く何をして暮らしているか、互に知らないで過す月日が多かった。
 ある時御米は宗助にこんな問を掛けた。
「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣こづかいでももらって来るんでしょうか」
 今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問に逢って、すぐ、「なぜ」と聞き返した。御米はしばらく逡巡ためらった末、
「だって、この頃よく御酒をんで帰って来る事があるのよ」と注意した。
「安さんが例の発明や、金儲かねもうけの話をするとき、その聞き賃におごるのかも知れない」と云って宗助は笑っていた。会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
 越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時めしどきはずして帰って来なかった。しばらく待ち合せていたが、宗助はついに空腹だとか云い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらという御米の小六に対する気兼きがね頓着とんじゃくなく、食事を始めた。その時御米は夫に、
「小六さんに御酒をめるように、あなたから云っちゃいけなくって」と切り出した。
「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。
 御米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。けれども実際は誰もいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが、不安だったのである。宗助はそれなり放っておいた。しかし腹の中では、はたして御米の云うごとく、どこかで金を借りるか、貰うかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑ぐった。
 そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二をりょうするように押しつまって来た。風が毎日吹いた。その音を聞いているだけでも生活ライフに陰気な響を与えた。小六はどうしても、六畳にこもって、一日を送るにえなかった。落ちついて考えれば考えるほど、頭がさむしくって、いたたまれなくなるばかりであった。茶の間へ出てあによめと話すのはなおいやであった。やむを得ず外へ出た。そうして友達のうちをぐるぐる回って歩いた。友達も始のうちは、平生いつもの小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。けれども小六はそう云う話が尽きても、まだやって来た。それでしまいには、友達が、小六は、退屈の余りに訪問をして、談話の復習にふけるものだと評した。たまには学校の下読したよみやら研究やらに追われている多忙の身だと云う風もして見せた。小六は友達からそう呑気のんきな怠けもののように取り扱われるのを、大変不愉快に感じた。けれども宅に落ちついては、読書も思索も、まるでできなかった。要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯かいていとして、おさむべき事、つとむべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。
 それでも冷たい雨が横に降ったり、雪融ゆきどけの道がはげしくぬかったりする時は、着物をらさなければならず、足袋たびの泥を乾かさなければならない面倒があるので、いかな小六も時によると、外出を見合せる事があった。そう云う日には、実際困却すると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢のそばへ坐って、茶などをいで飲んだ。そうしてそこに御米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。
「小六さん御酒好き」と御米が聞いた事があった。
「もうじき御正月ね。あなた御雑煮おぞうにいくつ上がって」と聞いた事もあった。
 そう云う場合が度重たびかさなるにれて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。しまいには、姉さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。そうして御米がかすりの羽織を受取って、袖口そでくちほころびつくろっている間、小六は何にもせずにそこへすわって、御米の手先を見つめていた。これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の例であったが、相手が小六の時には、そう投遣なげやりにできないのが、また御米の性質であった。だからそんな時には力めても話をした。話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたら好かろうと云う心配であった。
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんの事よ。そう悲観してもいいのは」
 御米は二度ばかりこういう慰め方をした。三度目には、
「来年になれば、安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって」と聞いた。小六はその時不慥ふたしかな表情をして、
「そりゃ安さんの計画が、口でいう通りうまく行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船かつおぶねもあんまりもうからないようだから」と云った。御米は小六の憮然ぶぜんとしている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気さっきを含んだ、しかも何がしゃくさわるんだか訳が分らないでいてはなはだ不平らしい小六と比較すると、心のうちで気の毒にもあり、またおかしくもあった。その時は、
「本当にね。兄さんにさえ御金があると、どうでもして上げる事ができるんだけれども」と、御世辞でも何でもない、同情の意を表した。
 その夕暮であったか、小六はまた寒い身体からだ外套マントくるんで出て行ったが、八時過に帰って来て、兄夫婦の前で、たもとから白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦掻そばがきこしらえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買って来たと云った。そうして御米が湯をかしているうちに、煮出しを拵えるとか云って、しきりに鰹節かつぶしいた。
 その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びた事を聞いた。この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起ったもので、小六が房州から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。正式の通知が来ないので、いつまとまったか、宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては、何か聞いて来る小六を通じてのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を予想した。その他には、嫁の里がある会社員で、有福な生計くらしをしている事と、その学校が女学館であるという事と、兄弟がたくさんあると云う事だけを、同じく小六を通じて耳にした。写真にせよ顔を知ってるのは小六ばかりであった。
「好い器量?」と御米が聞いた事がある。
「まあ好い方でしょう」と小六が答えた事がある。
 その晩はなぜ暮のうちに式を済まさないかと云うのが、蕎麦掻のでき上る間、三人の話題になった。御米は方位でも悪いのだろうと臆測おくそくした。宗助は押しつまって日がないからだろうと考えた。ひとり小六だけが、
「やっぱり物質的の必要かららしいです。先が何でもよほど派出はでうちなんで、叔母さんの方でもそう単簡たんかんに済まされないんでしょう」といつにない世帯染みた事を云った。

十一


 御米およねのぶらぶらし出したのは、秋もなかば過ぎて、紅葉もみじの赤黒くちぢれる頃であった。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点に掛けると、東京へ帰ってからも、やはり仕合せとは云えなかった。この女には生れ故郷の水が、しょうに合わないのだろうと、疑ぐれば疑ぐられるくらい、御米は一時悩んだ事もあった。
 近頃はそれがだんだん落ちついて来て、宗助そうすけの気を機会ばあいも、年に幾度と勘定かんじょうができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入でいりに、御米はまた夫の留守の立居たちいに、等しく安心して時間を過す事ができたのである。だからことしの秋が暮れて、薄いしもを渡る風が、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持が悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった。始のうちは宗助にさえ知らせなかった。宗助が見つけて、医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなかった。
 そこへ小六ころくが引越して来た。宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、おっとだけによく知っていたから、なるべくは、人数ひとかずやしてうちの中を混雑ごたつかせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないと云う矛盾した助言は与えた。御米は微笑して、
「大丈夫よ」と云った。この答を得た時、宗助はなおの事安心ができなくなった。ところが不思議にも、御米の気分は、小六が引越して来てから、ずっと引立った。自分に責任の少しでも加わったため、心が緊張したものと見えて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、御米が在来よりどれほどつとめているかがよく解った。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新らしい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張り過ぎる結果が、一度に身体からださわるような騒ぎでも引き起してくれなければいいがと心配した。
 不幸にも、この心配が暮の二十日過はつかすぎになって、突然事実になりかけたので、宗助は予期の恐怖に火がいたように、いたく狼狽ろうばいした。その日は判然はっきり土に映らない空が、朝から重なり合って、重い寒さが終日人の頭をおさえつけていた。御米は前の晩にまた寝られないで、休ませそくなった頭を抱えながら、辛抱して働らき出したが、ったり動いたりするたびに、多少脳にこたえる苦痛はあっても、比較的明るい外界の刺戟しげきまぎれたためか、じっと寝ていながら、頭だけがえて痛むよりは、かえってしのぎやすかった。とかくして夫を送り出すまでは、しばらくしたらまたいつものように折り合って来る事と思って我慢していた。ところが宗助がいなくなって、自分の義務に一段落が着いたという気のゆるみが出ると等しく、濁った天気がそろそろ御米の頭を攻め始めた。空を見るとこおっているようであるし、うちの中にいると、陰気な障子しょうじの紙をとおして、寒さがみ込んで来るかと思われるくらいだのに、御米の頭はしきりにほてって来た。仕方がないから、今朝あげた蒲団ふとんをまた出して来て、座敷へ延べたまま横になった。それでもえられないので、清に濡手拭ぬれてぬぐいしぼらして頭へ乗せた。それがじき生温なまぬるくなるので、枕元に金盥かなだらいを取り寄せて時々しぼえた。
 ひるまでこんな姑息手段こそくしゅだんで断えず額を冷やして見たが、いっこうはかばかしいげんもないので、御米は小六のために、わざわざ起きて、いっしょに食事をする根気もなかった。きよにいいつけて膳立ぜんだてをさせて、それを小六にすすめさしたまま、自分はやはり床を離れずにいた。そうして、平生夫のするやわらかい括枕くくりまくらを持って来て貰って、堅いのと取り替えた。御米は髪のこわれるのを、女らしく苦にする勇気にさえ乏しかったのである。
 小六は六畳から出て来て、ちょっとふすまを開けて、御米の姿をのぞき込んだが、御米がなかば床の間の方を向いて、眼をふさいでいたので、寝ついたとでも思ったものか、一言ひとことの口もかずに、またそっと襖を閉めた。そうして、たった一人大きな食卓を専領して、始めからさらさらと茶漬をき込む音をさせた。
 二時頃になって、御米はやっとの事、とろとろと眠ったが、眼がめたら額をいた濡れ手拭がほとんど乾くくらい暖かになっていた。その代り頭の方は少し楽になった。ただ肩から背筋せすじへ掛けて、全体に重苦しいような感じが新らしく加わった。御米は何でも精をつけなくては毒だという考から、一人で起きて遅い午飯ひるはんを軽く食べた。
「御気分はいかがでございます」と清が御給仕をしながら、しきりに聞いた。御米はだいぶいいようだったので、床を上げて貰って、火鉢にったなり、宗助の帰りを待ち受けた。
 宗助は例刻に帰って来た。神田の通りで、門並かどなみ旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、勧工場かんこうばで紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしている事だのを話した末、
にぎやかだよ。ちょっと行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」と勧めた。そうして自分は寒さに腐蝕ふしょくされたように赤い顔をしていた。
 御米はこう宗助からいたわられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。実際またそれほど苦しくもなかった。それでいつもの通り何気なにげない顔をして、夫に着物を着換えさしたり、洋服を畳んだりしてった。
 ところが九時近くになって、突然宗助に向って、少し加減が悪いから先へ寝たいと云い出した。今まで平生の通り機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚ろいたが、大した事でもないと云う御米の保証に、ようやく安心してすぐ休む支度をさせた。
 御米がとこ這入はいってから、約二十分ばかりの間、宗助は耳のはた鉄瓶てつびんの音を聞きながら、静な夜を丸心まるじん洋灯ランプに照らしていた。彼は来年度に一般官吏に増俸の沙汰さたがあるという評判を思い浮べた。またその前に改革か淘汰とうたが行われるに違ないという噂に思い及んだ。そうして自分はどっちの方へ編入されるのだろうと疑った。彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾いかんとした。彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。したがってまだ欠勤届を出した事がなかった。学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事に差支さしつかえるほどの頭脳ではなかった。
 彼はいろいろな事情を綜合そうごうして考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。そうして爪の先で軽く鉄瓶のふちたたいた。その時座敷で、
「あなたちょっと」と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。
 座敷へ来て見ると、御米はまゆを寄せて、右の手で自分の肩をおさえながら、胸まで蒲団ふとんの外へ乗り出していた。宗助はほとんど器械的に、同じ所へ手を出した。そうして御米の抑えている上から、固く骨のかどつかんだ。
「もう少しうしろの方」と御米が訴えるように云った。宗助の手が御米の思う所へ落ちつくまでには、二度も三度もそこここと位置をえなければならなかった。指でしてみると、くびと肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のようにっていた。御米は男の力いっぱいにそれを抑えてくれと頼んだ。宗助の額からは汗が煮染にじみ出した。それでも御米の満足するほどは力が出なかった。
 宗助は昔の言葉で早打肩はやうちかたというのを覚えていた。小さい時祖父じじいから聞いた話に、あるさむらいが馬に乗ってどこかへ行く途中で、急にこの早打肩はやうちかたおかされたので、すぐ馬から飛んで下りて、たちまち小柄こづかを抜くやいなや、肩先を切って血を出したため、危うい命を取り留めたというのがあったが、その話が今明らかに記憶の焼点しょうてんに浮んで出た。その時宗助はこれはならんと思った。けれどもはたして刃物を用いて、肩の肉を突いていいものやら、悪いものやら、決しかねた。
 御米はいつになく逆上のぼせて、耳まで赤くしていた。頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。宗助は大きな声を出して清に氷嚢こおりぶくろへ冷たい水を入れて来いと命じた。氷嚢があいにく無かったので、清は朝の通り金盥かなだらい手拭てぬぐいけて持って来た。清が頭を冷やしているうち、宗助はやはり精いっぱい肩を抑えていた。時々少しはいいかと聞いても、御米はかすかに苦しいと答えるだけであった。宗助は全く心細くなった。思い切って、自分でけ出して医者をむかいに行こうとしたが、あとが心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。
「清、御前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」
 清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分でございます」と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄をさがしているところへ、うまい具合に外から小六が帰って来た。例の通り兄には挨拶あいさつもしないで、自分の部屋へ這入はいろうとするのを、宗助はおい小六とはげしく呼び止めた。小六は茶の間で少し躊躇ちゅうちょしていたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして、ふすまから顔を出した。その顔は酒気しゅきのまだめない赤い色を眼のふちに帯びていた。部屋の中をのぞき込んで、始めて吃驚びっくりした様子で、
「どうかなすったんですか」とよいが一時に去ったような表情をした。
 宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれとき立てた。小六は外套マントがずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰る間、清に何返なんべんとなく金盥の水をえさしては、一生懸命に御米の肩をしつけたり、んだりしてみた。御米の苦しむのを、何もせずにただ見ているにえなかったから、こうして自分の気をまぎらしていたのである。
 この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほどつらいものはなかった。彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に気を配った。
 ようやく医者が来たときは、始めて夜が明けたような心持がした。医者は商売柄だけあって、少しも狼狽うろたえた様子を見せなかった。小さい折鞄おりかばんを脇に引き付けて、落ちつき払った態度で、慢性病の患者でも取り扱うようにゆっくりした診察をした。そのせまらない顔色をはたで見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやくおさまった。
 医者は芥子からしを局部へる事と、足を湿布しっぷで温める事と、それから頭を氷で冷す事とを、応急手段として宗助に注意した。そうして自分で芥子をいて、御米の肩からくびの根へ貼りつけてくれた。湿布は清と小六とで受持った。宗助は手拭てぬぐいの上から氷嚢こおりぶくろを額の上に当てがった。
 とかくするうち約一時間も経った。医者はしばらく経過を見て行こうと云って、それまで御米の枕元にすわっていた。世間話も折々はまじえたが、おおかたは無言のまま二人共に御米の容体を見守る事が多かった。は例のごとくしずかけた。
「だいぶ冷えますな」と医者が云った。宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。その時御米は先刻さっきよりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。頓服とんぷくを一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。多分寝られるだろうと思います」と云って医者は帰った。小六はすぐそのあとを追って出て行った。
 小六が薬取に行った間に、御米は
「もう何時」と云いながら、枕元の宗助を見上げた。よいとは違って頬から血が退いて、洋灯ランプに照らされた所が、ことに蒼白あおじろく映った。宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざびんの毛を掻き上げてやった。そうして、
「少しはいいだろう」と聞いた。
「ええよっぽど楽になったわ」と御米はいつもの通り微笑をらした。御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかった。茶の間では、清が突伏したままいびきをかいていた。
「清を寝かしてやって下さい」と御米が宗助に頼んだ。
 小六が薬取りから帰って来て、医者の云いつけ通り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。それから二十分と経たないうちに、病人はすやすや寝入った。
「好い塩梅あんばいだ」と宗助が御米の顔を見ながら云った。小六もしばらくあによめの様子を見守っていたが、
「もう大丈夫でしょう」と答えた。二人は氷嚢を額からおろした。
 やがて小六は自分の部屋へ這入はいる。宗助は御米のそばへ床を延べていつものごとく寝た。五六時間ののち冬の夜はきりのようなしもさしはさんで、からりと明け渡った。それから一時間すると、大地を染める太陽が、さえぎるもののない蒼空あおぞらはばかりなくのぼった。御米はまだすやすや寝ていた。
 そのうち朝餉あさげも済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。けれども御米は眠りからめる気色けしきもなかった。宗助は枕辺まくらべこごんで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。

十二


 朝の内は役所で常のごとく事務をっていたが、折々昨夕ゆうべの光景が眼に浮ぶに連れて、自然御米およねの病気が気にかかるので、仕事は思うように運ばなかった。時には変な間違をさえした。宗助そうすけひるになるのを待って、思い切ってうちへ帰って来た。
 電車の中では、御米の眼がいつ頃めたろう、覚めた後は心持がだいぶ好くなったろう、発作ほっさももう起る気遣きづかいなかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮べた。いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周囲の刺戟しげきに気を使う必要がほとんどなかった。それで自由に頭の中へ現われる画を何枚となくながめた。そのうちに、電車は終点に来た。
 宅の門口かどぐちまで来ると、家の中はひっそりして、誰もいないようであった。格子こうしを開けて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出て来るものはなかった。宗助はいつものように縁側えんがわから茶の間へ行かずに、すぐ取付とっつきふすまを開けて、御米の寝ている座敷へ這入はいった。見ると、御米は依然として寝ていた。枕元の朱塗の盆に散薬さんやくの袋と洋杯がっていて、その洋杯コップの水が半分残っているところも朝と同じであった。頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子からしを貼った襟元えりもとが少し見えるところも朝と同じであった。呼息いきよりほかに現実世界と交通のないように思われる深いねむりも朝見た通りであった。すべてが今朝出掛に頭の中へ収めて行った光景と少しも変っていなかった。宗助は外套マントも脱がずに、上からこごんで、すうすういう御米の寝息をしばらく聞いていた。御米は容易に覚めそうにも見えなかった。宗助は昨夕ゆうべ御米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って勘定した。そうしてようやく不安の色をおもてに表わした。昨夕までは寝られないのが心配になったが、こう前後不覚に長く寝るところをのあたりに見ると、寝る方が何かの異状ではないかと考え出した。
 宗助は蒲団ふとんへ手を掛けて二三度軽く御米を揺振ゆすぶった。御米の髪が括枕くくりまくらの上で、波を打つように動いたが、御米は依然としてすうすう寝ていた。宗助は御米を置いて、茶の間から台所へ出た。流し元の小桶こおけの中に茶碗と塗椀が洗わないままけてあった。下女部屋をのぞくと、きよが自分の前に小さなぜんを控えたなり、御櫃おはちりかかって突伏していた。宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。そこには小六ころくが掛蒲団を一枚頭から引被って寝ていた。
 宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で畳んで、押入にしまった。それから火鉢へ火をいで、湯をかす用意をした。二三分は火鉢に持たれて考えていたが、やがて立ち上がって、まず小六から起しにかかった。次に清を起した。二人とも驚ろいて飛び起きた。小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実は余り眠いので、十一時半頃飯を食って寝たのだが、それまでは御米もよく熟睡していたのだと云う。
「医者へ行ってね。昨夜ゆうべの薬をいただいてから寝出して、今になっても眼が覚めませんが、差支さしつかえないでしょうかって聞いて来てくれ」
「はあ」
 小六は簡単な返事をして出て行った。宗助はまた座敷へ来て御米の顔を熟視した。起してやらなくっては悪いような、また起しては身体からださわるような、分別ふんべつのつかないまどいいだいて腕組をした。
 間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど往診に出かけるところであった、訳を話したら、では今から一二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。宗助は医者が見えるまで、こうして放っておいて構わないのかと小六に問い返したが、小六は医者が以上よりほかに何にも語らなかったと云うだけなので、やむを得ず元のごとく枕辺まくらべにじっと坐っていた。そうして心のうちで、医者も小六も不親切過ぎるように感じた。彼はその上昨夕ゆうべ御米を介抱している時に帰って来た小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。小六が酒をむ事は、御米の注意で始めて知ったのであるが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほど何だか真面目まじめでないところもあるようなので、いつかみっちり異見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが、気の毒なので、今日きょうまでわざと遠慮していたのである。
「云い出すなら御米の寝ている今である。今ならどんな気不味きまずいことを双方で言いつのったって、御米の神経に障る気遣きづかいはない」
 ここまで考えついたけれども、知覚のない御米の顔を見ると、またその方が気がかりになって、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐずぐずしていた。そこへようやく医者が来てくれた。
 昨夕の折鞄おりかばんをまた丁寧ていねいわきへ引きつけて、ゆっくり巻煙草まきたばこを吹かしながら、宗助の云うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見致しましょうと御米の方へ向き直った。彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。それを丁寧にあちらこちらと動かした。最後に丸い穴のいた反射鏡を出して、宗助に蝋燭ろうそくけてくれと云った。宗助は蝋燭を持たないので、清に洋灯ランプけさした。医者は眠っている御米の眼を押し開けて、仔細しさいに反射鏡の光をまつげの奥に集めた。診察はそれで終った。
「少し薬がき過ぎましたね」と云って宗助の方へ向き直ったが、宗助の眼の色を見るやいなや、すぐ、
「しかし御心配になる事はありません。こう云う場合に、もし悪い結果が起るとすると、きっと心臓か脳をおかすものですが、今拝見したところでは双方共異状は認められませんから」と説明してくれた。宗助はそれでようやく安心した。医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新らしいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でない事や、またその効目ききめが患者の体質にって、程度に大変な相違のある事などを語って帰った。帰るとき宗助は、
「では寝られるだけ寝かしておいても差支さしつかえありませんか」と聞いたら、医者は用さえなければ別に起す必要もあるまいと答えた。
 医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、先刻さっき掛けておいた鉄瓶てつびんがちんちんたぎっていた。清を呼んで、ぜんを出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。なるほど晩食ばんめしには少し間があった。宗助は楽々と火鉢のそば胡坐あぐらいて、大根のこうものみながら湯漬ゆづけを四杯ほどつづけざまにき込んだ。それから約三十分ほどしたら御米の眼がひとりでにめた。

十三


 新年の頭をこしらえようという気になって、宗助そうすけは久し振に髪結床かみゆいどこの敷居をまたいだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、はさみの音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮あせるような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにもせわしない響となって彼の鼓膜を打った。
 しばらく煖炉ストーブはた煙草たばこを吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしにき込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持をいだいていたのである。
 御米およね発作ほっさはようやく落ちついた。今では平日いつものごとく外へ出ても、うちの事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所よそに比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生よみがえったようにはっきりしたさいの姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠退とおのいた時のごとくに、胸をでおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族をとらえに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念けねんが、折々彼の頭のなかにきりとなってかかった。
 年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意わざと短い日を前へ押し出したがって齷齪あくせくする様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠ぼうばくたる恐怖の念におそわれた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走しわすうちに一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうとながめた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色もしまも全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥のかごが、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥がとまの上をちらりちらりと動いた。
 頭へにおいのする油を塗られて、景気のいい声をうしろから掛けられて、表へ出たときは、それでも清々せいせいした心持であった。御米の勧め通り髪を刈った方が、結局つまり気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。
 水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。すると茶の間のふすまが二尺ばかりいていて、中から三四人の笑い声が聞えた。坂井の家庭は相変らず陽気であった。
 主人は光沢つやの好い長火鉢ながひばちの向側に坐っていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側えんがわ障子しょうじの方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人のうしろに細長い黒いわくめた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左が袋戸棚ふくろとだなになっていた。その張交はりまぜ石摺いしずりだの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
 主人と細君のほかに、筒袖つつそでそろいの模様の被布ひふを着た女の子が二人肩をりつけ合って坐っていた。片方は十二三で、片方はとおぐらいに見えた。大きな眼を揃えて、ふすまの陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応へやの内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所にかしこまっているのを見出した。
 宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻さっきの笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。男は砂埃すなほこりでざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯しょうがいめっこない強い色をっていた。瀬戸物のボタンの着いた白木綿しろもめん襯衣シャツを着て、手織のこわ布子ぬのこえりから財布のひもみたような長い丸打まるうちをかけた様子は、滅多めったに東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。その上男はこの寒いのに膝小僧ひざこぞうを少し出して、こんの落ちた小倉こくらの帯の尻に差した手拭てぬぐいを抜いては鼻の下をこすった。
「これは甲斐かいの国から反物たんもの背負しょってわざわざ東京まで出て来る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶あいさつをした。
 なるほど銘仙めいせんだの御召おめしだの、白紬しろつむぎだのがそこら一面に取り散らしてあった。宗助はこの男の形装なり言葉遣ことばづかいのおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行あるくのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米もあわれないから、やむを得ずくわを植えてかいこを飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。
「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と云って細君は笑った。すると織屋も、
「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆さんぴつのできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道ひどい所にゃ違ない」と真面目に細君の云う事を首肯うけがった。
 織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様な田舎いなかびた答をした。そのたびにみんなが笑った。主人夫婦はまたひまだと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。
「織屋、御前そうして荷を背負しょって、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳ごぜんを食べるんだろうね」と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
 主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出立でたてには飯が非常にうまいので、腹をえて食い出すと、大抵の宿屋はかなわない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、またみんなを笑わした。
 織屋はしまいに撚糸よりいとつむぎと、白絽しろろ一匹いっぴき細君に売りつけた。宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕よゆうのあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜べんぎを説いた。そうして、
「なに、御払おはらいはいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙めいせんを一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
 織屋は負けたあとでまた、
「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
 織屋はどこへ行ってもこういうひなびた言葉を使って通しているらしかった。毎日馴染なじみの家をぐるぐるまわって歩いているうちには、背中の荷がだんだんかろくなって、しまいにこん風呂敷ふろしき真田紐さなだひもだけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕ようさんせわしい四月の末か五月の初までに、それを悉皆すっかり金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。
うちへ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」と細君が注意した。
「実際珍らしい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。宗助はつくづくこの織屋の容貌ようぼうやら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。
 彼は坂井を辞して、うちへ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙のつつみを持ちえながら、それを三円という安いで売った男の、粗末な布子ぬのこしまと、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気あぶらけのないこわい髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。
 宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、おしの代りに坐蒲団ざぶとんの下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた今夜敷いて寝て下さい」と云って、御米は宗助をかえりみた。夫から、坂井へ来ていた甲斐かいの男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙めいせん縞柄しまがら地合じあいかずながめては、安い安いと云った。銘仙は全くしないものであった。
「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞き出した。
「なに中へ立つ呉服屋がもうけ過ぎてるのさ」と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。
 夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外なもうかたをされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価れんかに買っておく便宜べんぎを有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、にぎやかな模様に落ちて行った。宗助はその時突然語調をえて、
「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏なうちでも陽気になるものだ」と御米をさとした。
 その云い方が、自分達のさみしい生涯しょうがいを、多少みずかたしなめるようなにがい調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えずひざの上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好しこうに合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。けれどもって寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。
 二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだめている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなた先刻さっき小供がないとさむしくっていけないとおっしゃってね」
 宗助はこれに類似の事を普般的に云ったおぼえはたしかにあった。けれどもそれはあながちに、自分達の身の上について、特に御米の注意をくために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞きただされると、困るよりほかはなかった。
「何もうちの事を云ったのじゃないよ」
 この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。やがて、
「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟つまりあんな事をおっしゃるんでしょう」と前とほぼ似たような問を繰り返した。宗助はもとよりそうだと答えなければならない或物を頭の中にっていた。けれども御米をはばかって、それほど明白地あからさまな自白をあえてし得なかった。この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談じょうだんにして笑ってしまう方がかろうと考えたので、
「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子をえてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。やむを得ず、
「まあいいや。心配するな」と云った。御米はまた何とも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、
昨夕ゆうべも火事があったね」と世間話をし出した。すると御米は急に、
「私は実にあなたに御気の毒で」と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。洋灯ランプはいつものように床の間の上にえてあった。御米はそむいていたから、宗助には顔の表情が判然はっきり分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まで仰向あおむいて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔をじっとながめた。御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。そうして、
とうからあなたに打ち明けて謝罪あやまろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言いにくかったもんだから、それなりにしておいたのです」と途切れ途切れに云った。宗助には何の意味かまるで解らなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然ぼんやりしていた。すると御米が思い詰めた調子で、
「私にはとても子供のできる見込はないのよ」と云い切って泣き出した。
 宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。
「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、はたから見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただってかないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
 御米はなおと泣き出した。宗助も途方とほうに暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、ゆっくり御米の説明を聞いた。
 夫婦は和合同棲どうせいという点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
 始めて身重みおもになったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯やせじょたいを張っている時であった。懐妊かいにんと事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、うれしい未来を一度に夢に見るような心持をいだいて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉のかたまりが、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然りてしまった。その時分の夫婦の活計くらしは苦しいつらい月ばかり続いていた。宗助は流産した御米のあおい顔を眺めて、これも必竟つまりは世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ちくずされて、永く手のうちに捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。
 福岡へ移ってから間もなく、御米はまたいものをたしむ人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、御米はよろずに注意して、つつましやかに振舞っていた。そのせいか経過は至極しごく順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者にて貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。宗助の手際てぎわでは、室内に煖炉だんろを据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命をまもった。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けたなさけかたまりはついに冷たくなった。御米は幼児の亡骸なきがらいて、
「どうしましょう」とすすり泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土にするまで、一口も愚痴ぐちらしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人の間にはさまっていた影のようなものが、しだいに遠退とおのいて、ほどなく消えてしまった。
 すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶん身体からだが衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣きづかったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。ところがちょうど五月目いつつきめになって、御米はまた意外の失敗しくじりをやった。その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流いどながしそばに置いたたらいの傍まで行って話をしたついでに、ながしむこうへ渡ろうとして、青いこけの生えているれた板の上へ尻持しりもちを突いた。御米はまたやりそくなったとは思ったが、自分の粗忽そこつを面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体からだにも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去のしつを改めて宗助の前に告げた。宗助はもとより妻をとがめる意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
 とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際まぎわまで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子こうしの前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いでうちへ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
 さいわいに御米の産気さんけづいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆もゆっくり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取りそろえてあった。産も案外軽かった。けれども肝心かんじん小児こどもは、ただ子宮をのがれて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子ガラスの管のようなものを取って、さい口のなかへ強い呼息いきをしきりに吹き込んだが、効目ききめはまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴ほうふつした。しかしその咽喉のどから出る声はついに聞く事ができなかった。
 産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧ていねいに胎児の心臓まで聴診して、至極しごく御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹のの発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それがすぐ取り出されない以上、母体は今日こんにちまで平気に持ちこたえる訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡さいたいてんらくと云って、俗に云うえなくびきつけていた。こう云う異常の場合には、もとより産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、うまく頸に掛かった胞をはずして引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸をからんでいた臍帯は、時たまあるごとく一重ひとえではなかった。二重ふたえに細い咽喉のどを巻いている胞を、あの細い所を通す時に外しそくなったので、小児こどもはぐっと気管をめられて窒息してしまったのである。
 罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上は御米の落度おちどに違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅しりもちいた五カ月前すでにみずかかもしたものと知れた。御米は産後の蓐中じょくちゅうにその始末を聞いて、ただ軽く首肯うなずいたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼をうるませて、長い睫毛まつげをしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手帛ハンケチで頬に流れる涙をいてやった。
 これが子供に関する夫婦の過去であった。このにがい経験をめた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のためにさむしく染めつけられて、容易にげそうには見えなかった。時としては、彼我ひがの笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
 御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手をくだした覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇くらやみ明海あかるみの途中に待ち受けて、これを絞殺こうさつしたと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人とおのれ見傚みなさない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責かしゃくを人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
 彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体からだから云うときわめて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さいひつぎこしらえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌いはいを作った。位牌には黒いうるし戒名かいみょうが書いてあった。位牌のぬしは戒名を持っていた。けれども俗名ぞくみょう両親ふたおやといえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥たんすの上へせて、役所から帰ると絶えず線香をいた。そのにおいが六畳に寝ている御米の鼻に時々かよった。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌いはい箪笥たんす抽出ひきだしの底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿でくるんで丁寧ていねいに入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らずたずさえて、諸所を漂泊ひょうはくするのわずらわしさにえなかったので、新らしい父の分だけをかばんの中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
 御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団ふとんの上に仰向あおむけになったまま、この二つのさい位牌を、眼に見えない因果いんがの糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、その厳かな支配のもとに立つ、幾月日いくつきひの自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛のろいの声を耳のはたに聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団ふとんの上にむさぼらなければならないように、生理的にいられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
 御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにもつらかったので、看護婦の帰ったあくる日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心にせまる不安は、容易にまぎらせなかった。退儀たいぎ身体からだを無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆がっかりして、ついには取り放しの夜具の下へもぐり込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅くつぶってしまう事もあった。
 そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体はおのずからすっきりなった。御米は奇麗きれいに床を払って、新らしい気のするまゆを再び鏡に照らした。それは更衣ころもがえの時節であった。御米も久しぶりに綿のった重いものをてて、肌にあかの触れない軽い気持をさわやかに感じた。春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、さむしい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものをき立てて、にぎやかな光りのうちに浮かしたまでであった。御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心がきざしたのである。
 天気のすぐれて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してからじきに、表へ出た。もう女は日傘ひがさを差して外を行くべき時節であった。急いで日向ひなたを歩くと額のあたりが少し汗ばんだ。御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者えきしゃの門をくぐった。
 彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。それが実生活の厳かな部分をおかすようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。御米はその時真面目まじめな態度と真面目な心をって、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭でうらなう人と、少しも違った様子もなく、算木さんぎをいろいろに並べて見たり、筮竹ぜいちくんだり数えたりした後で、仔細しさいらしくあごの下のひげを握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづくながめた末、
「あなたには子供はできません」と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中でんだりくだいたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対してすまない事をしたおぼえがある。その罪がたたっているから、子供はけっして育たない」と云い切った。御米はこの一言いちげんに心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなりうちへ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
 御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細い洋灯ランプが、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。ぜにを出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もそのうらないうちへ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないがいい。馬鹿気ている」
 宗助はわざと鷹揚おうような答をしてまた寝てしまった。

十四


 宗助そうすけ御米およねとは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日こんにちまで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味きまずく暮した事はなかった。言逆いさかいに顔を赤らめ合ったためしはなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心をいだいて、都会に住んでいた。
 自然のいきおいとして、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。彼らは複雑な社会のわずらいを避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分とふさいでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権をてたような結果に到着した。彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。御互が御互にきるの、物足りなくなるのという心は微塵みじんも起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟しげきに乏しい或物が潜んでいるようなにぶうったえがあった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日をまず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かなそびらを向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月さいげつげて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表にしたたった二点の油のようなものであった。水をはじいて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
 彼らはこの抱合ほうごううちに、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満ほうまんと、それに伴なう倦怠けんたいとを兼ね具えていた。そうしてその倦怠のものうい気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとりかすます事はあった。けれどもささらで神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間にうといだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
 彼らは人並以上にむつましい月日をかわらずに今日きょうから明日あすへとつないで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分でしかと認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月としつきさかのぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐ふくしゅうもとおののきながらひざまずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁いちべんこうく事を忘れなかった。彼らはむちうたれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてをやす甘い蜜の着いている事をさとったのである。
 宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出はで嗜好しこうを、学生時代には遠慮なくたした男である。彼はその時服装なりにも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影おもかげみなぎらして、たかい首を世間にもたげつつ、行こうと思うあたりを濶歩かっぽした。彼のえりの白かったごとく、彼の洋袴ズボンすそ奇麗きれいに折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋くつたびが模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢きゃしゃな世間向きであった。
 彼は生れつき理解の好い男であった。したがって大した勉強をする気にはなれなかった。学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退しりぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味をっていなかった。彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。けれどもうちへ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多めったになかった。休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎をからにしては、外を出歩るいた。友達は多く彼の寛濶かんかつうらやんだ。宗助も得意であった。彼の未来はにじのように美くしく彼のひとみを照らした。
 その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎かんげいされるもんだよ」と学友の安井によく話した事があった。実際彼の顔は、ひとを不愉快にするほど深刻な表情を示し得たためしがなかった。
「君は身体からだが丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起る安井がうらやましがった。この安井というのは国は越前えちぜんだが、長く横浜にいたので、言葉や様子はごうも東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞きそくなった所などを後から質問するので、口をき出したのが元になって、つい懇意になった。それが学年のはじまりだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜べんぎであった。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいうにぎやかな町を歩いた。時によると京極きょうごくも通り抜けた。橋の真中に立って鴨川かもがわの水を眺めた。東山ひがしやまの上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人にきたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹藪おおたけやぶに緑のこもる深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情ふぜいを楽しんだ。ある時は大悲閣だいひかくへ登って、即非そくひの額の下に仰向あおむきながら、谷底の流をくだの音を聞いた。その音がかりの鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。ある時は、平八茶屋へいはちぢゃやまで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味まずい河魚のくしに刺したのを、かみさんに焼かして酒をんだ。そのかみさんは、手拭てぬぐいかぶって、こん立付たっつけみたようなものを穿いていた。
 宗助はこんな新らしい刺戟しげきもとに、しばらくは慾求の満足を得た。けれどもひととおり古い都のにおいいで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。彼は暖かな若い血をいだいて、そのほてりをさます深い緑に逢えなくなった。そうかといって、この情熱をき尽すほどのはげしい活動には無論出会わなかった。彼の血は高い脈を打って、いたずらにむずがゆく彼の身体の中を流れた。彼は腕組をして、ながら四方の山を眺めた。そうして、
「もうこんな古臭い所には厭きた」と云った。
 安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。それは浄瑠璃じょうるりあい土山つちやま雨が降るとある有名な宿しゅくの事であった。朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢すりばちの底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨さみだれの降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿しゅくが、四方の山から流れて来る雨の中にかってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。
「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」と不思議そうな顔をして安井に云った。安井も笑っていた。そうして土山つちやまから出た人物のうちでは、千両函せんりょうばこえてはりつけになったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
 その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかりそそがれていた。だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉もみじを迎える必要がなくなった。強くはげしい命に生きたと云う証券をくまで握りたかった彼には、きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様にあたいの乏しい幻影に過ぎなかった。彼は多くのげかかったやしろと、寂果さびはてた寺を見尽して、色のめた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。寝耄ねぼけた昔に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)ていかいするほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
 学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へくだろう、もし時間が許すなら、興津おきつあたりで泊って、清見寺せいけんじ三保みほの松原や、久能山くのうざんでも見ながらゆっくり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書はがきを手にする時の心持さえ予想した。
 宗助が東京へ帰ったときは、父はもとよりまだ丈夫であった。小六ころくは子供であった。彼は一年ぶりにさかんな都の炎熱と煤煙ばいえんを呼吸するのをかえってうれしく感じた。くような日の下に、うずいて狂い出しそうなかわらの色が、幾里となく続く景色けしきを、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。今の宗助なら目をまわしかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。
 彼の未来は封じられたつぼみのように、開かない先はひとに知れないばかりでなく、自分にもしかとは分らなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引たなびいている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対するはかりごとゆるがせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然はっきりと心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。彼らのあるものは、避暑という名義のもとに、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器エレヴェーター煉瓦造れんがづくりの三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎたきた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。
 父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前とまえ湿しめっぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会えどめいしょずえと、江戸砂子えどすなごという本を物珍しそうに眺めた。畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐あぐらいて、下女の買って来た樟脳しょうのうを、小さな紙片かみぎれに取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。宗助は小供の時から、この樟脳の高いかおりと、汗の出る土用と、炮烙灸ほうろくぎゅうと、蒼空あおぞらゆるく舞うとびとを連想していた。
 とかくするうちにせつは立秋に入った。二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。空には薄墨うすずみ煮染にじんだような雲がしきりに動いた。寒暖計が二三日下がり切りに下がった。宗助はまた行李こうりを麻縄でからげて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
 彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。うちへ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日がせまるに従って、安井の消息が気になってきた。安井はその後一枚の端書はがきさえ寄こさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。
 立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣こづかいを渡して、
「なるたけ節倹せっけんしなくちゃいけない」とさとした。
 宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」と云った。その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸なきがらがもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまでその時の父の面影おもかげを思い浮べてはすまないような気がした。
 いよいよ立つと云う間際まぎわに、宗助は安井から一通の封書を受取った。開いて見ると、約束通りいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云うことわりを述べた末に、いずれ京都でゆっくり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内懐うちぶところに押し込んで汽車に乗った。約束の興津おきつへ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺せいけんじの方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹這はらばいになって、安井へ送る絵端書えはがきへ二三行の文句を書いた。そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
 翌日も約束通り一人で三保みほ竜華寺りゅうげじを見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけこしらえた。しかし天気のせいか、あてにしたつれのないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。宿にじっとしているのは、なお退屈であった。宗助は匆々そうそうにまた宿の浴衣ゆかたてて、しぼりの三尺と共に欄干らんかんに掛けて、興津を去った。
 京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃でそろっていなかった。学生も平日いつもよりは数が不足であった。不審な事には、自分より三四さんよ前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。安井のいる所は樹と水の多い加茂かもやしろの傍であった。彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎いなかへ引込んだのである。彼の見つけ出した家からがさび土塀どべいを二方にめぐらして、すでに古風に片づいていた。宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。非常に能弁な京都言葉をあやつる四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話って、ただ不味まずさいこしらえて、三度ずつへやへ運んでくれるだけだよ」と安井は移り立てからこの細君の悪口をいていた。宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえるぬしを知っていた。細君の方でも宗助の顔を覚えていた。細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃いんぎん挨拶あいさつを述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。
 それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日あすは安井の声がするかと、毎日漠然ばくぜんとした予期をいだいては教室の戸を開けた。そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。彼は学友の誰彼に万遍まんべんなく安井の動静を聞いて見た。しかし誰も知るものはなかった。ただ一人が、昨夕ゆうべ四条の人込の中で、安井によく似た浴衣ゆかたがけの男を見たと答えた事があった。しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装なりをした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。
 宗助は着流しのまま麦藁帽むぎわらぼうを手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗きれいに頭を分けていた。そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。
 その晩彼は宗助と一時間余りも雑談にふけった。彼の重々しい口の利き方、自分をはばかって、思い切れないような話の調子、「しかるに」と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。また途中どこで暇取ひまどったため、宗助よりおくれて京都へ着いたかを判然はっきり告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると云った。
「それでどこに」と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊っている宿屋の名前を、宗助に教えた。それは三条へんの三流位のいえであった。宗助はその名前を知っていた。
「どうして、そんな所へ這入はいったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」と宗助は重ねて聞いた。安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、
「下宿生活はもうやめて、小さいうちでも借りようかと思っている」と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚ろかした。
 それから一週間ばかりの中に、安井はとうとう宗助に話した通り、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子こうしを黒赤く塗って、わざと古臭ふるくさく見せた狭い貸家であった。門口かどぐちに誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒にさわりそうに風に吹かれる様を宗助は見た。庭も東京と違って、少しは整っていた。石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面にえてあった。その下には涼しそうなこけがいくらでも生えた。裏には敷居の腐った物置がからのままがらんと立っているうしろに、隣の竹藪たけやぶが便所の出入ではいりに望まれた。
 宗助のここを訪問したのは、十月に少し間のある学期の始めであった。残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘こうもりがさを用いていた事を今に記憶していた。彼は格子の前で傘を畳んで、内をのぞき込んだ時、あらしま浴衣ゆかたを着た女の影をちらりと認めた。格子の内は三和土たたきで、それが真直まっすぐに裏まで突き抜けているのだから、這入ってすぐ右手の玄関めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見える訳であった。宗助は浴衣の後影うしろかげが、裏口へ出る所で消えてなくなるまでそこに立っていた。それから格子を開けた。玄関へは安井自身が現れた。
 座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女は全く顔を出さなかった。声も立てず、音もさせなかった。広い家でないから、つい隣の部屋ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。この影のように静かな女が御米であった。
 安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事については一言いちごんも口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった。その日はそれなり別れた。
 次の日二人が顔を合したとき、宗助はやはり女の事を胸の中に記憶していたが、口へ出しては一言ひとことも語らなかった。安井も何気ない風をしていた。懇意な若い青年が心易立こころやすだてに話し合う遠慮のない題目は、これまで二人の間に何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、息詰ったごとくに見えた。宗助もそこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心はたなかった。したがって女は二人の意識の間にはさまりながら、つい話頭に上らないで、また一週間ばかり過ぎた。
 その日曜に彼はまた安井をうた。それは二人の関係している或会について用事が起ったためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊たんぱくな訪問であった。けれども座敷へ上がって、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、この前来た時の事が明らかに思い出された。その日も座敷の外は、しんとしてしずかであった。宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しない訳に行かなかった。同時にその若い女はこの前と同じように、けっして自分の前に出て来る気遣きづかいはあるまいと信じていた。
 この予期のもとに、宗助は突然御米に紹介されたのである。その時御米はこの間のようにあら浴衣ゆかたを着てはいなかった。これからよそへ行くか、または今外から帰って来たと云う風なよそおいをして、次の間から出て来た。宗助にはそれが意外であった。しかし大した綺羅きらを着飾った訳でもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。その上御米は若い女にありがちの嬌羞きょうしゅうというものを、初対面の宗助に向って、あまり多く表わさなかった。ただ普通の人間を静にして言葉すくなに切りつめただけに見えた。人の前へ出ても、隣のへやに忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ちついた女だという事を見出した宗助は、それから推して、御米のひっそりしていたのは、穴勝あながち恥かしがって、人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったんだと思った。
 安井は御米を紹介する時、
「これは僕のいもとだ」という言葉を用いた。宗助は四五分対坐して、少し談話を取り換わしているうちに、御米の口調くちょうのどこにも、国訛くになまりらしいおんまじっていない事に気がついた。
「今まで御国の方に」と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、
「いや横浜に長く」と答えた。
 その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着ふだんぎを脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋しろたびまで穿いたものと知れた。宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。
「なにうちを持ち立てだものだから、毎日毎日るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」と云いながら安井は笑った。
みちまでいっしょに出掛けよう」と宗助はすぐ立ち上がった。ついでにうちの様子を見てくれと安井の云うに任せた。宗助は次の間にある亜鉛トタンの落しのついた四角な火鉢ひばちや、黄な安っぽい色をした真鍮しんちゅう薬鑵やかんや、古びた流しのそばに置かれた新らし過ぎる手桶ておけを眺めて、かどへ出た。安井は門口かどぐちじょうをおろして、かぎを裏のうちへ預けるとか云って、けて行った。宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口をいた。
 宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たるしたしみを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日こんにちまで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶あいさつをどのくらい繰り返して来たか分らなかった。
 宗助はきわめて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤まっかに、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日をて昔のあざやかさを失っていた。互をがした※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおは、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成行なりゆきを逆に眺め返しては、この淡泊たんぱく挨拶あいさつが、いかに自分らの歴史を濃くいろどったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
 宗助は二人で門の前にたたずんでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀どべいに映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘こうもりがささえぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋はつあきの日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋をふちに取ったむらさきの傘の色と、まだめ切らない柳の葉の色を、一歩遠退とおのいて眺め合わした事を記憶していた。
 今考えるとすべてが明らかであった。したがって何らの奇もなかった。二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。御米は草履ぞうりを引いてあとに落ちた。話も多くは男だけで受持った。それも長くはなかった。途中まで来て宗助は一人分れて、自分のうちへ帰ったからである。
 けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯に入って、灯火ともしびの前に坐ったのちにも、折々色の着いた平たいとして、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみかとこってからは、いもとだと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。安井に問いつめない限り、このうたがいの解決は容易でなかったけれども、臆断おくだんはすぐついた。宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。しかもその臆断に、腹の中で※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)ていかいする事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯ランプをようやくふっと吹き消した。
 こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹あとかたもなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶あいさつに出るとは限らなかった。三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りのへやに忍んでいる事もあった。宗助は別にそれを気にも留めなかった。それにもかかわらず、二人はようやく接近した。幾何いくばくならずして冗談じょうだんを云うほどのしたしみができた。
 そのうちまた秋が来た。去年と同じ事情のもとに、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩たけがりに行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしいにおいを見出した。紅葉もみじも三人で観た。嵯峨さがから山を抜けて高雄たかおへ歩く途中で、御米は着物のすそくって、長襦袢ながじゅばんだけを足袋たびの上までいて、細いかさつえにした。山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くからかされた時、御米は
「京都は好い所ね」と云って二人をかえりみた。それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
 こうそろって外へ出た事も珍らしくはなかった。うちの中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかりさみしい秋の中に取り残されたように一人すわっていた。宗助はさむしいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢ひばちの両側に手をかざしながら、思ったより長話をして帰った。或時宗助がぽかんとして、下宿の机にりかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助のすすめる通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、ゆっくりくつろいだ話をして帰った。
 こんな事が重なって行くうちに、がいつのにか落ちてしまった。そうして高い山のいただきが、ある朝真白に見えた。さらしの河原かわらが白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音を立てずに肌をとお陰忍いんにんたちのものであった。安井はこの悪性の寒気かんきにあてられて、ひどいインフルエンザにかかった。熱が普通の風邪かぜよりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時いちじの事で、すぐ退いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然はっきりしなかった。安井はもちのような熱にからみつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
 医者は少し呼吸器をおかされているようだからと云って、切に転地を勧めた。安井は心ならず押入の中の柳行李やなぎごうり麻縄あさなわを掛けた。御米は手提鞄てさげかばんじょうをおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまでへやの中へ這入はいって、わざと陽気な話をした。プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が云った。
「どうぞ是非」と御米が言った。
 汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙をいた。
 病人は転地先で年を越した。絵端書えはがきは着いた日から毎日のように寄こした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。御米の文字も一二行ずつは必ずまじっていた。宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から帰るとそれがすぐ眼に着いた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかりなおったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾いかんだから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。無事と退屈をむ宗助を動かすには、この十数言じゅうすうげんで充分であった。宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
 明るい灯火ともしびの下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢いろつやの回復して来た事に気がついた。立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣シャツそでまくり上げて、青筋の入った腕をひとりでていた。御米もうれしそうに眼を輝かした。宗助にはその活溌かっぱつ目遣めづかいがことに珍らしく受取れた。今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱りょうらんするなかに立ってさえ、きわめて落ちついていた。そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。
 次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹からやにの出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤にかまどの火の色に染めて行った。風は夜に入っても起らなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
 宗助はもっと遊んで行きたいと云った。御米はもっと遊んで行きましょうと云った。安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。三人はまた行李こうりかばんたずさえて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにしたまだらな雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
 宗助は当時をおもい出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色をえる頃に終った。すべてが生死しょうしたたかいであった。青竹をあぶって油をしぼるほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負しょわした。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然ぼうぜんとして、彼らの頭がたしかであるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女なんにょとして恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛きまぐれに罪もない二人の不意を打って、面白半分おとしあなの中に突き落したのを無念に思った。
 曝露ばくろの日がまともに彼らの眉間みけんを射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣けいれんの苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白あおしろい額を素直に前に出して、そこに※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおに似た烙印やきいんを受けた。そうして無形の鎖でつながれたまま、手をたずさえてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親をてた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしいあととどめた。
 これが宗助と御米の過去であった。

十五


 この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷におさえつけられていた。佐伯さえきの家とは親しい関係が結べなくなった。叔父は死んだ。叔母と安之助やすのすけはまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際つきあいはできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。むこうからも来なかった。いえに引取った小六ころくさえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米およねにくんでいた。御米にも宗助そうすけにもそれがよく分っていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間際まぎわまで来た。
 通町とおりちょうでは暮の内から門並揃かどなみそろい注連飾しめかざりをした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高いささが、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付くぎづけにした。それから大きな赤いだいだい御供おそなえの上にせて、床の間にえた。床にはいかがわしい墨画すみえの梅が、はまぐり格好かっこうをした月をいてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこりゃ、どう云う了見りょうけんだね」と自分で飾りつけた物をながめながら、御米に聞いた。御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と云って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けて御供の位置を直した。
 伸餅のしもち夜業よなべまないたを茶の間まで持ち出して、みんなで切った。庖丁ほうちょうが足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。力のあるだけに小六が一番多く切った。その代り不同も一番多かった。中には見かけの悪い形のものも交った。変なのができるたびにきよが声を出して笑った。小六は庖丁の背に濡布巾ぬれぶきんをあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、
「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
 そのほかに迎年げいねんの支度としては、小殿原ごまめって、煮染にしめを重詰にするくらいなものであった。大晦日おおみそかって、宗助は挨拶あいさつかたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子すりガラスへ明るいが映って、中はざわざわしていた。あががまちに帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もいた。その片隅かたすみ印袢天しるしばんてんを着た出入でいりのものらしいのが、下を向いて、さい輪飾わかざりをいくつもこしらえていた。そば譲葉ゆずりは裏白うらじろと半紙とはさみが置いてあった。若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしいさつと銀貨を畳に並べていた。主人は宗助を見て、
「いやどうも」と云った。「押しつまってさぞ御忙おいそがしいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもうきましたな。いくら面白いものでも四十ぺん以上繰り返すといやになりますね」
 主人は年の送迎にわずらわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。言葉遣ことばづかい活溌かっぱつであった。顔はつやつやしていた。晩食ばんしょくに傾けた酒のいきおいが、まだ頬の上に差しているごとく思われた。宗助は貰い煙草たばこをして二三十分ばかり話して帰った。
 うちでは御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入シャボンいれ手拭てぬぐいくるんで、留守居を頼む夫のかえりを待ち受けていた。
「どうなすったの、随分長かったわね」と云って時計を眺めた。時計はもう十時近くであった。その上清は湯の戻りに髪結かみゆいの所へ回って頭をこしらえるはずだそうであった。閑静な宗助の活計くらしも、大晦日おおみそかにはそれ相応そうおうの事件が寄せて来た。
はらいはもうみんな済んだのかい」と宗助は立ちながら御米に聞いた。御米はまだ薪屋まきやが一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」と云ってふところの中からよごれた男持の紙入と、銀貨入の蟇口がまぐちを出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」と夫はそれを受取ながら云った。
先刻さっき大晦日の夜の景色けしきを見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」と云う御米のあといて、清は大きな声を出して笑った。やがて、
「御若いから」と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄げたそろえた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通のだって」
 御米はその時もうかまちからりかけていた。すぐ腰障子こししょうじを開ける音がした。宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢ひばちの前に坐って、灰になる炭の色をながめていた。彼の頭には明日あしたの日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子きぬぼうしの光が見えた。洋剣サアベルの音だの、馬のいななきだの、遣羽子やりはごの声が聞えた。彼は今から数時間ののちまた年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
 陽気そうに見えるもの、にぎやかそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼のひじって、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。彼はただ饗宴きょうえんに招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事をまぬかれた人であった。彼は自分と御米の生命ライフを、毎年平凡な波瀾はらんのうちに送る以上に、面前まのあたり大した希望も持っていなかった。こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
 御米は十時過に帰って来た。いつもより光沢つやの好い頬をに照らして、湯のぬくもりのまだ抜けないえりを少し開けるように襦袢じゅばんを重ねていた。長い襟首がよく見えた。
「どうも込んで込んで、洗う事もおけを取る事もできないくらいなの」と始めてゆっくり息をいた。
 清の帰ったのは十一時過であった。これも綺麗きれいな頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶あいさつをしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。
 ただ小六だけは容易に帰らなかった。十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話をつないでいた。小六はさいわいにして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。
 白牡丹はくぼたん這入はいって、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉おてだまを一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つつかんだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、たもとから倶楽部くらぶ洗粉あらいこを一袋出した。それを御米の前に置いて、
「姉さんに上げましょう」と云った。それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、
「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」と云った。
 事に乏しい一小家族の大晦日おおみそかは、それで終りを告げた。

十六


 正月は二日目の雪をひきい注連飾しめかざりの都を白くした。降りやんだ屋根の色がもとにかえる前、夫婦は亜鉛張トタンばりひさしすべり落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。夜半よなかにはどさと云う響がことにはなはだしかった。小路こうじ泥濘ぬかるみは雨上りと違って一日いちんち二日ふつかでは容易に乾かなかった。外から靴をよごして帰って来る宗助そうすけが、御米およねの顔を見るたびに、
「こりゃいけない」と云いながら玄関へ上った。その様子があたかも御米を路を悪くした責任者と見傚みなしている風に受取られるので、御米はしまいに、
「どうも済みません。本当に御気の毒さま」と云って笑い出した。宗助は別に返すべき冗談じょうだんたなかった。
「御米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄あしだ穿かなくっちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もからからで、かえってほこりが立つくらいだから、足駄なんぞ穿いちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がたおくれる事になるんだね」
 こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしていなかった。御米も夫の鼻の穴をくぐ煙草たばこけむを眺めるくらいな気で、それを聞いていた。
「坂井さんへ行って、そう云っていらっしゃいな」と軽い返事をした。
「そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう」と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
 その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰って見ると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。三日目の日暮ひくれに下女が使に来て、御閑おひまならば、旦那様と奥さまと、それから若旦那様に是非今晩御遊びにいらっしゃるようにと云って帰った。
「何をするんだろう」と宗助は疑ぐった。
「きっと歌加留多うたがるたでしょう。小供が多いから」と御米が云った。「あなた行っていらっしゃい」
「せっかくだから御前行くが好い。おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ」
「私も久しく取らないから駄目ですわ」
 二人は容易に行こうとはしなかった。しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くがかろうという事になった。
「若旦那行って来い」と宗助が小六ころくに云った。小六は苦笑にがわらいして立った。夫婦は若旦那と云う名を小六にかむらせる事を大変な滑稽こっけいのように感じた。若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑い出した。小六は春らしい空気のうちから出た。そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯のもとに坐った。
 その晩小六は大晦日おおみそかに買った梅の花の御手玉おてだまたもとに入れて、これは兄から差上げますとわざわざ断って、坂井の御嬢さんに贈物にした。その代り帰りには、福引に当った小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。小六は真面目まじめな顔をして、これが袖萩そではぎだそうですと云って、それを兄夫婦の前に置いた。なぜ袖萩だか夫婦には分らなかった。小六には無論分らなかったのを、坂井の奥さんが叮嚀ていねいに説明してくれたそうであるが、それでもに落ちなかったので、主人がわざわざ半切はんきれ洒落しゃれ本文ほんもんを並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに御見せなさいと云って渡したとかいう話であった。小六は袂を探ってその書付を取り出して見せた。それに「このかき一重ひとえ黒鉄くろがねの」としたためた後に括弧かっこをして、(この餓鬼がきひたえ黒欠くろがけの)とつけ加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑をらした。
「随分念の入った趣向しゅこうだね。いったい誰のかんがえだい」と兄が聞いた。
「誰ですかな」と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま、自分のへやに帰った。
 それから二三日して、たしか七日なぬかの夕方に、また例の坂井の下女が来て、もし御閑おひまならどうぞ御話にと、叮嚀ていねいに主人の命を伝えた。宗助と御米は洋灯ランプけてちょうど晩食ばんめしを始めたところであった。宗助はその時茶碗を持ちながら、
「春もようやく一段落が着いた」と語っていた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、
「まだ何か催おしがあるのかい」と少し迷惑そうなまゆをした。坂井の下女に聞いて見ると、別に来客もなければ、何の支度もないという事であった。その上細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。
「それじゃ行こう」と云って宗助は出掛けた。宗助は一般の社交をきらっていた。やむを得なければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。個人としての朋友ともだちも多くは求めなかった。訪問はする暇をたなかった。ただ坂井だけは取除とりのけであった。折々は用もないのにこっちからわざわざ出掛けて行って、時をつぶして来る事さえあった。その癖坂井は世の中でもっとも社交的の人であった。この社交的な坂井と、孤独な宗助が二人寄って話ができるのは、御米にさえ妙に見える現象であった。坂井は、
「あっちへ行きましょう」と云って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へ入った。そこには棕梠しゅろの筆で書いたような、大きなこわい字が五字ばかり床の間にかかっていた。たなの上に見事な白い牡丹ぼたんけてあった。そのほか机でも蒲団ふとんでもことごとく綺麗きれいであった。坂井は始め暗い入口に立って、
「さあどうぞ」と云いながら、どこかぴちりとひねって、電気灯をけた。それから、
「ちょっと待ちたまえ」と云って、燐寸マッチ瓦斯煖炉ガスだんろいた。瓦斯煖炉はへやに比例したごく小さいものであった。坂井はしかる後蒲団をすすめた。
「これが僕の洞窟どうくつで、面倒になるとここへ避難するんです」
 宗助も厚い綿わたの上で、一種の静かさを感じた。瓦斯の燃える音がかすかにしてしだいに背中からほかほか煖まって来た。
「ここにいると、もうどことも交渉はない。全く気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。実際正月と云うものは予想外に煩瑣うるさいものですね。私も昨日きのうまででほとんどへとへとに降参させられました。新年が停滞もたれているのは実に苦しいですよ。それで今日のひるから、とうとう塵世じんせいを遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた眼をまして、湯に入って、それから飯を食って、煙草たばこんで、気がついて見ると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間も随分わがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、また御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、と云うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、と云ってもまだ失敬かも知れないが、つまり一口に云うと、超然派ちょうぜんは一人いちにんと話しがして見たくなったんで、それでわざわざ使を上げたような訳なんです」と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。そうして時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。
 そこへ下女が三尺の狭い入口を開けて這入はいって来たが、改ためて宗助に鄭重ていちょうな御辞儀をした上、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを云わずに退がった。木皿の上には護謨毬ゴムまりほどな大きな田舎饅頭いなかまんじゅうが一つせてあった。それに普通の倍以上もあろうと思われる楊枝ようじが添えてあった。
「どうですあったかい内に」と主人が云ったので、宗助は始めてこの饅頭のして間もない新らしさに気がついた。珍らしそうに黄色い皮をながめた。
「いやできたてじゃありません」と主人がまた云った。「実は昨夜さくやある所へ行って、冗談じょうだん半分にめたら、御土産おみやげに持っていらっしゃいと云うから貰って来たんです。その時は全くあったかだったんですがね。これは今上げようと思ってし返さしたのです」
 主人ははしとも楊枝ようじとも片のつかないもので、無雑作むぞうさに饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。宗助もひんならった。
 その間に主人は昨夕ゆうべ行った料理屋で逢ったとか云って妙な芸者の話をした。この芸者はポッケット論語が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれをふところにして出るそうであった。
「それでね孔子の門人のうちで、子路しろが一番すきだって云うんですがね。そのいわれを聞くと、子路と云う男は、一つ何かおすわって、それをまだ行わないうちに、また新らしい事を聞くと苦にするほど正直だからだって云うんです。実のところわたしも子路はあまりよく知らないから困ったが、何しろ一人好い人ができて、それと夫婦にならない前に、また新らしく好い人ができると苦になるようなものじゃないかって、聞いて見たんです……」
 主人はこんな事をはなはだ気楽そうに述べ立てた。その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に出入しつにゅうして、その刺戟しげきにはとうに麻痺まひしながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じ事を繰り返しているらしかった。よく聞きただして見ると、しかく平気な男も、時々は歓楽の飽満ほうまんに疲労して、書斎のなかで精神を休める必要が起るのだそうであった。
 宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、いて興味をよそおう必要もなく、ただ尋常な挨拶あいさつをするところが、かえって主人の気に入るらしかった。彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去をのぞくような素振そぶりを見せた。しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕迹こんせきが少しでも出ると、すぐ話を転じた。それは政略よりもむしろ礼譲からであった。したがって宗助にはごうも不愉快を与えなかった。
 そのうち小六のうわさが出た。主人はこの青年について、肉身の兄が見逃すような新らしい観察を、二三っていた。宗助は主人の評語を、当ると当らないとに論なく、面白く聞いた。そのなかに、彼は年に合わしては複雑な実用に適しない頭を有っていながら、年よりも若い単純な性情を平気であらわす子供じゃないかという質問があった。宗助はすぐそれを首肯うけがった。しかし学校教育だけで社会教育のないものは、いくら年を取ってもそのかたむきがあるだろうと答えた。
「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、随分複雑な性情を発揮する代りに、頭はいつまでも小供ですからね。かえって始末が悪いかも知れない」
 主人はここでちょっと笑ったが、やがて、
「どうです、わたしの所へ書生に寄こしちゃ、少しは社会教育になるかも知れない」と云った。主人の書生は彼の犬が病気で病院へ這入はいる一カ月前とかに、徴兵検査に合格して入営したぎり今では一人もいないのだそうであった。
 宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春と共におのずからめぐって来たのを喜こんだ。同時に、今まで世間に向って、積極的に好意と親切を要求する勇気をたなかった彼は、突然この主人のもういでに逢って少しまごつくくらい驚ろいた。けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けて置いて、この変動から出る自分の余裕よゆうに、幾分か安之助の補助を足して、そうして本人の希望通り、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいに雑作ぞうさなく、
「そいつは好いでしょう」と云ったので、相談はほぼその座でまとまった。
 宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。また辞して帰ろうとしたのである。ところが主人からまあゆっくりなさいと云って留められた。主人は夜は長い、まだよいだと云って時計まで出して見せた。実際彼は退屈らしかった。宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のない身体からだなので、ついまた尻をえて、濃い煙草たばこを新らしく吹かし始めた。しまいには主人の例にならって、柔らかい座蒲団ざぶとんの上でひざさえくずした。
 主人は小六の事に関聯して、
「いやおととなどを有っていると、随分厄介やっかいなものですよ。わたくしも一人やくざなのを世話をした覚がありますがね」と云って、自分の弟が大学にいるとき金のかかった事などを、自分が学生時代の質朴しつぼくさに比べていろいろ話した。宗助はこの派出好はでずきな弟が、その後どんな径路を取って、どう発展したかを、気味の悪い運命の意思をうかがう一端として、主人に聞いて見た。主人は卒然
冒険者アドヴェンチュアラー」と、頭もしっぽもない一句を投げるように吐いた。
 この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行に這入はいったが、何でも金をもうけなくっちゃいけないと口癖のように云っていたそうで、日露戦争後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに発展して見たいとかとなえてついに満洲へ渡ったのだと云う。そこで何を始めるかと思うと、遼河りょうがを利用して、豆粕大豆まめかすだいずを船でくだす、大仕掛な運送業を経営して、たちまち失敗してしまったのだそうである。元より当人は、資本主ではなかったのだけれども、いよいよというあかつきに、勘定して見ると大きな欠損と事がきまったので、無論事業は継続する訳に行かず、当人は必然の結果、地位を失ったぎりになった。
「それからあとわたしもどうしたかよく知らなかったんですが、そののちようやく聞いて見ると、驚ろきましたね。蒙古もうこへ這入って漂浪うろついているんです。どこまで山気やまぎがあるんだか分らないんで、私も少々剣呑けんのんになってるんですよ。それでも離れているうちは、まあどうかしているだろうぐらいに思って放っておきます。時たま音便たよりがあったって、蒙古もうこという所は、水に乏しい所で、暑い時には往来へ泥溝どぶの水をくとかね、またはその泥溝の水が無くなると、今度は馬の小便を撒くとか、したがってはなはだ臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから、――そりゃあ金の事も云って来ますが、なに東京と蒙古だから打遣うちやっておけばそれまでです。だから離れてさえいれば、まあいいんですが、そいつが去年の暮突然出て来ましてね」
 主人は思いついたように、床の柱にかけた、綺麗きれいな房のついた一種の装飾物を取りおろした。
 それは錦の袋に這入はいった一尺ばかりの刀であった。さやなにとも知れぬ緑色の雲母きららのようなものでできていて、その所々が三カ所ほど巻いてあった。中身は六寸ぐらいしかなかった。したがっても薄かった。けれども鞘の格好かっこうはあたかも六角のかしの棒のように厚かった。よく見ると、つかうしろに細い棒が二本並んで差さっていた。結果は鞘を重ねて離れないために銀の鉢巻をしたと同じであった。主人は
土産みやげにこんなものを持って来ました。蒙古刀もうことうだそうです」と云いながら、すぐ抜いて見せた。うしろに差してあった象牙ぞうげのような棒も二本抜いて見せた。
「こりゃはしですよ。蒙古人は始終しじゅうこれを腰へぶら下げていて、いざ御馳走ごちそうという段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸でそばから食うんだそうです」
 主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりする真似をして見せた。宗助はひたすらにその精巧な作りをながめた。
「まだ蒙古人の天幕テントに使うフェルトも貰いましたが、まあ昔の毛氈もうせんと変ったところもありませんね」
 主人は蒙古人の上手に馬を扱う事や、蒙古犬のせて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ている事や、彼らが支那人のためにだんだん押しせばめられて行く事や、――すべて近頃あっちから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。宗助はまた自分のいまだかつて耳にした事のない話だけに、一々少なからぬ興味をってそれを聞いて行った。そのうちに、元来この弟は蒙古で何をしているのだろうという好奇心が出た。そこでちょっと主人に尋ねて見ると、主人は、
冒険者アドヴェンチュアラー」と再び先刻さっきの言葉を力強く繰り返した。「何をしているか分らない。私には、牧畜をやっています。しかも成功していますと云うんですがね、いっこうあてにはなりません。今までもよく法螺ほらを吹いて私をだましたもんです。それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。何とか云う蒙古王のために、金を二万円ばかり借りたい。もし借してやらないと自分の信用に関わるって奔走しているんですからね。そのとっぱじめに捕まったのは私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、かげへ廻ってさいに、兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって、威張っているんです。しようがない」
 主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、
「どうです一遍逢って御覧になっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっと面白いですよ。何なら御紹介しましょう。ちょうど明後日あさっての晩呼んで飯を食わせる事になっているから。――なに引っ掛っちゃいけませんがね。黙ってむこう喋舌しゃべらして、聞いている分には、少しも危険はありません。ただ面白いだけです」としきりにすすめ出した。宗助は多少心を動かした。
「おいでになるのは御令弟だけですか」
「いやほかに一人おととの友達でむこうからいっしょに来たものが、来るはずになっています。安井とか云って私はまだ逢った事もない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるから、実はそれで二人を呼ぶ事にしたんです」
 宗助はその夜あおい顔をして坂井の門を出た。

十七


 宗助そうすけ御米およねの一生を暗くいろどった関係は、二人の影を薄くして、幽霊ゆうれいのような思をどこかにいだかしめた。彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものがひそんでいるのを、ほのかに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。
 当初彼らの頭脳に痛くこたえたのは、彼らのあやまちが安井の前途に及ぼした影響であった。二人の頭の中でき返ったすごあわのようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた半途で学校を退しりぞいたという消息を耳にした。彼らはもとより安井の前途をきずつけた原因をなしたに違なかった。次に安井が郷里に帰ったといううわさを聞いた。次に病気にかかって家に寝ているという報知しらせを得た。二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。最後に安井が満洲に行ったと云う音信たよりが来た。宗助は腹の中で、病気はもうなおったのだろうかと思った。または満洲行の方がうそではなかろうかと考えた。安井は身体からだから云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。宗助はできるだけ手を回して、事の真疑を探った。そうして、或る関係から、安井がたしかに奉天にいる事を確め得た。同時に彼の健康で、活溌かっぱつで、多忙である事も確め得た。その時夫婦は顔を見合せて、ほっという息をいた。
「まあよかろう」と宗助が云った。
「病気よりはね」と御米が云った。
 二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へりやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。
「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」と或時宗助が御米に聞いた。御米は、ただ、
「あるわ」と答えただけで、すぐ「あなたは」と聞き返した。
 宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。その代りして、御米の信仰について、詳しい質問も掛けなかった。御米には、それが仕合しあわせかも知れなかった。彼女はその方面に、これというほど判然はっきりしたり整った何物もっていなかったからである。二人はとかくして会堂の腰掛ベンチにもらず、寺院の門もくぐらずに過ぎた。そうしてただ自然の恵から来る月日つきひと云う緩和剤かんわざいの力だけで、ようやく落ちついた。時々遠くから不意に現れるうったえも、苦しみとか恐れとかいう残酷の名を付けるには、あまりかすかに、あまり薄く、あまりに肉体と慾得を離れ過ぎるようになった。必竟ひっきょうずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、ほとけに逢わなかったため、互を目標めじるしとして働らいた。互にき合って、丸い円をえがき始めた。彼らの生活はさみしいなりに落ちついて来た。その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味をめ尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識をたなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。――これが七日なのかの晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦の有様であった。
 その夜宗助は家に帰って御米の顔を見るやいなや、
「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」と云って、火鉢ひばちりながら、かえりを待ち受けていた御米を驚ろかした。
「どうなすったの」と御米は眼を上げて宗助をながめた。宗助はそこに突っ立っていた。
 宗助が外から帰って来て、こんな風をするのは、ほとんど御米の記憶にないくらい珍らしかった。御米は卒然何とも知れない恐怖の念におそわれたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚とだなから夜具蒲団やぐふとんを取り出して、夫の云いつけ通り床を延べ始めた。その間宗助はやっぱり懐手ふところでをしてそばに立っていた。そうして床が敷けるや否や、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中にもぐり込んだ。御米は枕元を離れ得なかった。
「どうなすったの」
「何だか、少し心持が悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」
 宗助の答は半ば夜着の下から出た。その声がこもったように御米の耳に響いた時、御米は済まない顔をして、枕元にすわったなり動かなかった。
「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
 御米はようやく茶の間へ帰った。
 宗助は夜具をかぶったまま、ひとり硬くなって眼をねむっていた。彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は満洲にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。もう少しの事で、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合せか、向い合せに坐る運命になろうとは、今夜晩食ばんめしを済ますまで、夢にも思いがけなかった。彼は寝ながら過去二三時間の経過を考えて、そのクライマックスが突如として、いかにも不意に起ったのを不思議に感じた。かつ悲しく感じた。彼はこれほど偶然な出来事を借りて、うしろから断りなしに足絡あしがらをかけなければ、倒す事のできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏当おんとうな手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。
 小六ころくから坂井の弟、それから満洲、蒙古もうこ、出京、安井、――こう談話のあと辿たどれば辿るほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。過去の痛恨をあらたにすべく、普通の人が滅多めったに出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちからり出されなければならないほどの人物であったかと思うと、宗助は苦しかった。また腹立たしかった。彼は暗い夜着の中で熱い息をいた。
 この二三年の月日でようやくなおりかけた創口きずぐちが、急にうずき始めた。疼くにれてほてって来た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。
「御米、御米」と二声呼んだ。
 御米はすぐ枕元へ来て、上からのぞき込むように宗助を見た。宗助は夜具のえりから顔を全く出した。次の間のが御米の頬を半分照らしていた。
「熱い湯を一杯貰おう」
 宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、うそいてごまかした。
 翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変る事なく食事を済ました。そうして給仕をしてくれる御米の顔に、多少安心の色が見えたのを、うれしいようなあわれなような一種の情緒じょうしょをもってながめた。
昨夕ゆうべは驚ろいたわ。どうなすったのかと思って」
 宗助は下を向いて茶碗にいだ茶をんだだけであった。何と答えていいか、適当な言葉を見出さなかったからである。
 その日は朝からから風が吹きすさんで、折々ほこりと共に行く人の帽を奪った。熱があると悪いから、一日休んだらと云う御米の心配を聞き捨てにして、例の通り電車へ乗った宗助は、風の音と車の音の中に首をちぢめて、ただ一つ所を見つめていた。降りる時、ひゅうという音がして、頭の上の針線はりがねが鳴ったのに気がついて、空を見たら、この猛烈な自然の力の狂う間に、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。風は洋袴ズボンまたを冷たくして過ぎた。宗助にはその砂をいて向うの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨のあしのように判然はっきり見えた。
 役所では用が手に着かなかった。筆を持って頬杖ほおづえを突いたまま何か考えた。時々は不必要な墨をみだりにりおろした。煙草たばこはむやみに呑んだ。そうしては、思い出したように窓硝子まどガラスを通して外を眺めた。外は見るたびに風の世界であった。宗助はただ早く帰りたかった。
 ようやく時間が来てうちへ帰ったとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、
「どうもなくって」と聞いた。宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬燵こたつの中へ入ったなり、晩食ばんめしまで動かなかった。そのうち風は日と共に落ちた。昼の反動で四隣あたりは急にひっそり静まった。
「好い案排あんばいね、風が無くなって。昼間のように吹かれると、家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ」
 御米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。宗助は落ちついて、
「今夜は少しあったかいようだね。おだやかで好い御正月だ」と云った。飯を済まして煙草たばこを一本吸う段になって、突然、
「御米、寄席よせへでも行って見ようか」と珍らしく細君を誘った。御米は無論いなむ理由をたなかった。小六は義太夫などを聞くより、うちにいてもちでも焼いて食った方が勝手だというので、留守を頼んで二人出た。
 少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。二人は座蒲団ざぶとんを敷く余地もない一番うしろの方に、立膝たてひざをするように割り込まして貰った。
「大変な人ね」
「やっぱり春だから入るんだろう」
 二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回みまわした。その頭のうちで、高座こうざに近い前の方は、煙草の煙でかすんでいるようにぼんやり見えた。宗助にはこの累々るいるいたる黒いものが、ことごとくこう云う娯楽の席へ来て、面白く半夜をつぶす事のできる余裕のある人らしく思われた。彼はどの顔を見てもうらやましかった。
 彼は高座の方を正視して、熱心に浄瑠璃じょうるりを聞こうとつとめた。けれどもいくら力めても面白くならなかった。時々眼をらして、御米の顔をぬすみ見た。見るたびに御米の視線は正しい所を向いていた。そばに夫のいる事はほとんど忘れて、真面目まじめに聴いているらしかった。宗助はうらやましい人のうちに、御米まで勘定かんじょうしなければならなかった。
 中入の時、宗助は御米に、
「どうだ、もう帰ろうか」と云い掛けた。御米はその唐突とうとつなのに驚ろかされた。
「厭なの」と聞いた。宗助は何とも答えなかった。御米は、
「どうでもいいわ」と半分夫の意にさからわないような挨拶あいさつをした。宗助はせっかく連れて来た御米に対して、かえって気の毒な心が起った。とうとうしまいまで辛抱しんぼうして坐っていた。
 うちへ帰ると、小六は火鉢ひばちの前に胡坐あぐらいて、背表紙せびょうしり返るのも構わずに、手に持った本を上からかざして読んでいた。鉄瓶てつびんわきおろしたなり、湯は生温なまぬるくめてしまった。盆の上に焼き余りの餅が三切みきれ四片よきれせてあった。網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。
 小六は席を立って、
「面白かったですか」と聞いた。夫婦は十分ほど身体からだ炬燵こたつで暖めた上すぐ床へ入った。
 翌日になっても宗助の心に落ちつきが来なかった事は、ほぼ前の日と同じであった。役所が退けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、うちへ帰って行くのが不合理に思われた。同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子がながめたくもあった。
 坂井が一昨日おとといの晩、自分のおととを評して、一口に「冒険者アドヴェンチュアラー」と云った、そのおんが今宗助の耳に高く響き渡った。宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎悪ぞうおと、乱倫と悖徳はいとくと、盲断と決行とを想像して、これらの一角いっかくに触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からいっしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中でえがいて見た。描かれたは無論冒険者アドヴェンチュアラー字面じづらの許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。
 かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者アドヴェンチュアラーを頭の中でこしらえ上げた宗助は、その責任を自身一人で全く負わなければならないような気がした。彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日こんにちの人格を髣髴ほうふつしたかった。そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉いしゃを得たかった。
 彼は坂井のいえそばに立って、むこうに知れずに、ひとうかがうような便利な場所はあるまいかと考えた。不幸にして、身を隠すべきところを思いつき得なかった。もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜べんぎがあると同時に、暗い中を通る人の顔の分らない不都合があった。
 そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつもの通りそこで乗り換えてうちの方へ向いて行くのが苦痛になった。彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくにえなかった。安井をよそながら見たいという好奇心は、始めからさほど強くなかっただけに、乗換の間際まぎわになって、全くおさえつけられてしまった。彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。けれども多くの人のごとくに判然はっきりした目的はっていなかった。そのうち店にいた。電車も灯火あかりもした。宗助はある牛肉店に上がって酒をみ出した。一本は夢中に呑んだ。二本目は無理に呑んだ。三本目にも酔えなかった。宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような眼をして、ぼんやりどこかを見つめていた。
 時刻が時刻なので、夕飯ゆうめしを食いに来る客は入れ代り立ち代り来た。その多くは用弁的ようべんてき飲食いんしょくを済まして、さっさと勘定かんじょうをして出て行くだけであった。宗助は周囲のざわつく中に黙然もくねんとして、ひとの倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついに坐り切れずに席を立った。
 表は左右から射す店の灯で明らかであった。軒先を通る人は、帽も衣装いしょうもはっきり物色する事ができた。けれども広い寒さを照らすには余りに弱過ぎた。夜はごとの瓦斯ガスと電灯を閑却かんきゃくして、依然として暗く大きく見えた。宗助はこの世界と調和するほどな黒味の勝った外套マントに包まれて歩いた。その時彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。
 彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙がしそうに眼の前を往ったり来たりする電車を利用するかんがえが起らなかった。目的をってみちを行く人と共に、抜目なく足を運ばす事を忘れた。しかも彼は根のしまらない人間として、かく漂浪ひょうろう雛形ひながたを演じつつある自分の心をかえりみて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じわずらった。今日こんにちまでの経過からして、すべての創口きずぐち癒合ゆごうするものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。それが一昨日おとといの晩にすっかりくずれたのである。
 彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知けちに見えた。彼は胸をおさえつける一種の圧迫のもとに、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。その時の彼はひとの事を考える余裕よゆうを失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作りえなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。
 彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返すあとからすぐ消えて行った。つかんだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。
 宗教と関聯かんれんして宗助は坐禅ざぜんという記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺しょうこくじへ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶うかつを笑っていた。「今の世に……」と思っていた。その級友の動作が別に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起した。
 彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑ぶべつあたいする以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。もし昔から世俗で云う通り安心あんじんとか立命りつめいとかいう境地に、坐禅の力で達する事ができるならば、十日とおか二十日はつか役所を休んでも構わないからやって見たいと思った。けれども彼はこの道にかけては全くの門外漢であった。したがって、これより以上明瞭めいりょうかんがえも浮ばなかった。
 ようやくうち辿たどり着いた時、彼は例のような御米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷と洋灯ランプ箪笥たんすを見て、自分だけが例にない状態のもとに、この四五時間を暮していたのだという自覚を深くした。火鉢ひばちには小さななべが掛けてあって、そのふた隙間すきまから湯気が立っていた。火鉢のわきには彼の常に坐る所に、いつもの座蒲団ざぶとんを敷いて、その前にちゃんと膳立ぜんだてがしてあった。
 宗助は糸底いとぞこを上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二三年来朝晩使いれた木のはしながめて、
「もう飯は食わないよ」と云った。御米は多少不本意らしい風もした。
「おやそう。あんまり遅いから、おおかたどこかで召上めしやがったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」と云いながら、布巾ふきんなべの耳をつまんで、土瓶敷どびんしきの上におろした。それからきよを呼んでぜんを台所へ退げさした。
 宗助はこういう風に、何ぞ事故ができて、役所の退出ひけからすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末てんまつの大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。御米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒をんだ事も、まるで話したくなかった。何も知らない御米はまた平常の通り無邪気にそれからそれへと聞きたがった。
「何別にこれという理由わけもなかったのだけれども、――ついあすこいらでぎゅうが食いたくなっただけの事さ」
「そうして御腹おなか消化こなすために、わざわざここまで歩るいていらしったの」
「まあ、そうだ」
 御米はおかしそうに笑った。宗助はむしろ苦しかった。しばらくして、
「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」と聞いた。
「いいえ、なぜ」
一昨日おとといの晩行ったとき、御馳走ごちそうするとか云っていたからさ」
「また?」
 御米は少しあきれた顔をした。宗助はそれなり話を切り上げて寝た。頭の中をざわざわ何か通った。時々眼を開けて見ると、例のごとく洋灯ランプが暗くして床の間の上にせてあった。御米はさも心地好さそうに眠っていた。ついこの間までは、自分の方が好く寝られて、御米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのであった。宗助は眼を閉じながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分をさらに心苦しく感じた。その時計は最初は幾つも続けざまに打った。それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。その濁った音が彗星ほうきぼしの尾のようにほうと宗助の耳朶みみたぶにしばらく響いていた。次には二つ鳴った。はなはださみしい音であった。宗助はその間に、何とかして、もっと鷹揚おうように生きて行く分別をしなければならないと云う決心だけをした。三時は朦朧もうろうとして聞えたような聞えないようなうちに過ぎた。四時、五時、六時はまるで知らなかった。ただ世の中がふくれた。天が波を打って伸びかつ縮んだ。地球が糸で釣るしたまりのごとくに大きな弧線こせんえがいて空間にうごいた。すべてが恐ろしい魔の支配する夢であった。七時過に彼ははっとして、この夢からめた。御米がいつもの通り微笑して枕元にかがんでいた。えた日は黒い世の中をとくにどこかへ追いやっていた。

十八


 宗助そうすけは一封の紹介状をふところにして山門さんもんを入った。彼はこれを同僚の知人のなにがしから得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋かくしから菜根譚さいこんたんを出して読む男であった。こう云う方面に趣味のない宗助は、もとより菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。その時同僚は、一口に説明のできる格好かっこうな言葉をっていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうというような妙な挨拶あいさつをした。宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。
 紹介状を貰う四五日前しごんちまえ、彼はこの同僚のそばへ行って、君は禅学をやるのかと、突然質問を掛けた。同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚ろいた様子であったが、いややらない、ただなぐさみ半分にあんな書物を読むだけだと、すぐ逃げてしまった。宗助は多少失望にゆるんだ下唇したくちびるを垂れて自分の席に帰った。
 その日帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わした。先刻さっき宗助の様子を、気の毒に観察した同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたものと見えて、前よりはもっと親切にその方面の話をして聞かした。しかし自分はいまだかつて参禅という事をした経験がないと自白した。もしくわしい話が聞きたければ、幸い自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと云った。宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書き留めた。そうして次の日同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。宗助のふところにした書状はその折席上でしたためて貰ったものであった。
 役所は病気になって十日ばかり休む事にした。御米およねの手前もやはり病気だと取りつくろった。
「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んであすんで来るよ」と云った。御米はこの頃の夫の様子のどこかに異状があるらしく思われるので、内心では始終しじゅう心配していた矢先だから、平生煮え切らない宗助の果断を喜んだ。けれどもその突然なのにも全く驚ろいた。
「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」と眼を丸くしないばかりに聞いた。
「やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている」と宗助は落ちついて答えた。地味な宗助とハイカラな鎌倉とはほとんど縁の遠いものであった。突然二つのものを結びつけるのは滑稽こっけいであった。御米も微笑を禁じ得なかった。
「まあ御金持ね。わたしもいっしょに連れてってちょうだい」と云った。宗助は愛すべき細君のこの冗談じょうだんを味わう余裕を有たなかった。真面目まじめな顔をして、
「そんな贅沢ぜいたくな所へ行くんじゃないよ。禅寺へめてもらって、一週間か十日、ただ静かに頭を休めて見るだけの事さ。それもはたして好くなるか、ならないか分らないが、空気のいい所へ行くと、頭には大変違うとみんな云うから」と弁解した。
「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」
 御米は善良な夫に調戯からかったのを、多少済まないように感じた。宗助はその翌日あくるひすぐ貰って置いた紹介状をふところにして、新橋から汽車に乗ったのである。
 その紹介状の表には釈宜道しゃくぎどう様と書いてあった。
「この間まで侍者じしゃをしていましたが、この頃では塔頭たっちゅうにある古い庵室に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら尋ねて御覧なさい。庵の名はたしか一窓庵いっそうあんでした」と書いてくれる時、わざわざ注意があったので、宗助は礼を云って手紙を受取りながら、侍者じしゃだの塔頭たっちゅうだのという自分には全く耳新らしい言葉の説明を聞いて帰ったのである。
 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。静かな境内けいだいの入口に立った彼は、始めて風邪ふうじゃを意識する場合に似た一種の悪寒さむけを催した。
 彼はまず真直まっすぐに歩るき出した。左右にも行手いくてにも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。けれども人の出入でいりはいっさいなかった。ことごとく寂寞せきばくとしててていた。宗助はどこへ行って、宜道ぎどうのいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回みまわした。
 山のすそを切り開いて、一二丁奥へのぼるように建てた寺だと見えて、うしろの方はの色で高くふさがっていた。路の左右も山続やまつづきか丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。その小高い所々に、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。平地ひらちに垣をめぐらして、点在しているのは、幾多いくらもあった。近寄って見ると、いずれも門瓦もんがわらの下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。
 宗助ははくげた古い額を一二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へさがし出して、もしそこに手紙の名宛なあての坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。それから逆戻りをして塔頭を一々調べにかかると、一窓庵は山門を這入はいるや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあった。丘外おかはずれなので、日当ひあたりの好い、からりとした玄関先を控えて、うしろの山のふところに暖まっているような位置に冬をしの気色けしきに見えた。宗助は玄関を通り越して庫裡くりの方から土間に足を入れた。上り口の障子しょうじの立ててある所まで来て、たのむたのむと二三度呼んで見た。しかし誰も出て来てくれるものはなかった。宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子をうかがっていた。いつまで立っていても音沙汰おとさたがないので、宗助は不思議な思いをして、また庫裡を出て門の方へ引返した。すると石段の下から剃立そりたての頭を青く光らした坊さんが上って来た。年はまだ二十四五としか見えない若い色白の顔であった。宗助は門の扉の所に待ち合わして、
「宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか」と聞いた。
「私が宜道です」と若い僧は答えた。宗助は少し驚ろいたが、またうれしくもあった。すぐ懐中から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切って、その場で読みくだした。やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、
「ようこそ」と云って、叮嚀ていねい会釈えしゃくしたなり、先に立って宗助を導いた。二人は庫裡に下駄げたを脱いで、障子を開けて内へ這入った。そこには大きな囲炉裏いろりが切ってあった。宜道は鼠木綿ねずみもめんの上に羽織はおっていた薄い粗末な法衣ころもを脱いでくぎにかけて、
「御寒うございましょう」と云って、囲炉裏の中に深くけてあった炭を灰の下から掘り出した。
 この僧は若いに似合わずはなはだ落ちついた話振はなしぶりをする男であった。低い声で何か受答えをしたあとで、にやりと笑う具合などは、まるで女のような感じを宗助に与えた。宗助は心のうちに、この青年がどういう機縁のもとに、思い切って頭をったものだろうかと考えて、その様子のしとやかなところを、何となくあわれに思った。
「大変御静なようですが、今日はどなたも御留守なんですか」
「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のあるときは構わず明け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して参りました。それがためせっかくおいでのところを失礼致しました」
 宜道はこの時改めて遠来の人に対して自分の不在をびた。この大きな庵を、たった一人で預かっているさえ、相応に骨が折れるのに、その上に厄介やっかいが増したらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色をほかに動かした。すると宜道は、
「いえ、ちっとも御遠慮には及びません。道のためでございますから」とゆかしい事を云った。そうして、目下自分の所に、宗助のほかに、まだ一人世話になっている居士こじのあるむねを告げた。この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。宗助はそれから二三日して、始めてこの居士を見たが、彼は剽軽ひょうきん羅漢らかんのような顔をしている気楽そうな男であった。細い大根だいこを三四本ぶら下げて、今日は御馳走ごちそうを買って来たと云って、それを宜道に煮てもらって食った。宜道も宗助もその相伴しょうばんをした。この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交って、村の御斎おときなどに出かける事があるとか云って宜道が笑っていた。
 そのほか俗人で山へ修業に来ている人の話もいろいろ聞いた。中に筆墨ふですみあきなう男がいた。背中へ荷をいっぱいしょって、二十日はつかなり三十日さんじゅうにちなり、そこら中回って歩いて、ほぼ売り尽してしまうと山へ帰って来て坐禅をする。それからしばらくして食うものがなくなると、また筆墨を背にせて行商に出る。彼はこの両面の生活を、ほとんど循環小数じゅんかんしょうすうのごとく繰り返して、く事を知らないのだと云う。
 宗助は一見いっけんこだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔けんかくはなはだしいのに驚ろいた。そんな気楽な身分だから坐禅ざぜんができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲水うんすいをして苦しむものはありません」と宜道は云った。
 彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師ろうしから公案こうあんの出る事や、その公案に一生懸命かじりついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言じょごんを与えた末、
御室おへやへ御案内しましょう」と云って立ち上がった。
 囲炉裏いろりの切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、そのはずれにある六畳の座敷の障子しょうじを縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。けれども頭の中は、周囲の幽静なおもむき反照はんしょうするためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
 約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
老師ろうし相見しょうけんになるそうでございますから、御都合がよろしければ参りましょう」と云って、丁寧ていねいに敷居の上にひざを突いた。
 二人はまた寺をからにして連立って出た。山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池はすいけがあった。寒い時分だから池の中はただ薄濁りによどんでいるだけで、少しも清浄しょうじょうおもむきはなかったが、向側むこうがわに見える高い石の崖外がけはずれまで、縁に欄干らんかんのある座敷が突き出しているところが、文人画ぶんじんがにでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物をゆびさした。
 二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段をのぼって、その正面にある大きな伽藍がらんの屋根をあおいだまますぐ左りへ切れた。玄関へ差しかかった時、宜道は
「ちょっと失礼します」と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へれて行った。
 老師というのは五十格好がっこうに見えた。赭黒あかぐろ光沢つやのある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとくしまって、どこにもおこたりのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただくちびるがあまり厚過ぎるので、そこに幾分のゆるみが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩せいさいひらめいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生ふぼみしょう以前いぜん本来ほんらい面目めんもくなんだか、それを一つ考えて見たらかろう」
 宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟ひっきょう何物だか、その本体をつらまえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口をくには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
 晩食ばんめしの時宜道は宗助に、入室にゅうしつの時間の朝夕ちょうせき二回あることと、提唱ていしょうの時間が午前である事などを話した上、
「今夜はまだ見解けんげもできないかも知れませんから、明朝みょうちょうか明晩御誘い申しましょう」と親切に云ってくれた。それから最初のうちは、つめてわるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。
 宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分のへやときまった六畳に這入はいって、ぼんやりして坐った。彼から云うといわゆる公案こうあんなるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言ううったえいだいて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。
 同時に彼はつとめを休んで、わざわざここまで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒な振舞ふるまいはできなかった。彼はまず現在の自分が許す限りの勇気をひっさげて、公案に向おうと決心した。それがいずれのところに彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ちきたすかは、彼自身といえども全く知らなかった。彼はさとりという美名にあざむかれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。
 彼は冷たい火鉢ひばちの灰の中に細い線香をくゆらして、教えられた通り座蒲団ざぶとんの上に半跏はんかを組んだ。昼のうちはさまでとは思わなかったへやが、日が落ちてから急に寒くなった。彼は坐りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気にえなかった。
 彼は考えた。けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんどつらまえようのない空漠くうばくなものであった。彼は考えながら、自分は非常に迂濶うかつ真似まねをしているのではなかろうかとうたがった。火事見舞に行く間際まぎわに、細かい地図を出して、仔細しさいに町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作しょさを演じているごとく感じた。
 彼の頭の中をいろいろなものが流れた。そのあるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌こんとんとして雲のごとくに動いた。どこから来てどこへ行くとも分らなかった。ただ先のものが消える、すぐあとから次のものが現われた。そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。断ち切ろうと思えば思うほど、滾々こんこんとしていて出た。
 宗助はこわくなって、急に日常の我を呼び起して、室の中をながめた。室はかすかなで薄暗く照らされていた。灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。宗助は恐るべく時間の長いのに始めて気がついた。
 宗助はまた考え始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろぞろと群がるありのごとくに動いて行く、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。じっとしているのはただ宗助の身体からだだけであった。心は切ないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。
 そのうちじっとしている身体も、膝頭ひざがしらから痛み始めた。真直に延ばしていた脊髄がしだいしだいに前の方に曲って来た。宗助は両手で左の足の甲をかかえるようにして下へおろした。彼は何をする目的めあてもなくへやの中に立ち上がった。障子しょうじを明けて表へ出て、門前をぐるぐるまわって歩きたくなった。夜はしんとしていた。寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには思えなかった。宗助は外へ出る勇気を失った。じっと生きながら妄想もうぞうに苦しめられるのはなお恐ろしかった。
 彼は思い切ってまた新らしい線香を立てた。そうしてまたほぼぜんと同じ過程を繰り返した。最後に、もし考えるのが目的だとすれば、坐って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。彼は室のすみに畳んであった薄汚ない蒲団ふとんを敷いて、その中にもぐり込んだ。すると先刻さっきからの疲れで、何を考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。
 眼がめると枕元の障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日のせまるべき色が動いた。昼も留守るすを置かずに済む山寺は、夜に入っても戸をてる音を聞かなかったのである。宗助は自分が坂井の崖下がけしたの暗い部屋に寝ていたのでないと意識するやいなや、すぐ起き上がった。縁へ出ると、軒端のきばに高く大覇王樹おおさぼてんの影が眼に映った。宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏いろりの切ってある昨日きのうの茶の間へ出た。そこには昨日の通り宜道の法衣ころも折釘おりくぎにかけてあった。そうして本人は勝手のかまどの前に蹲踞うずくまって、火をいていた。宗助を見て、
「御早う」と慇懃いんぎんに礼をした。「先刻さっき御誘い申そうと思いましたが、よく御寝おやすみのようでしたから、失礼して一人参りました」
 宗助はこの若い僧が、今朝夜明がたにすでに参禅を済まして、それから帰って来て、飯をかしいでいるのだという事を知った。
 見ると彼は左の手でしきりにまきを差しえながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子であった。宗助は宜道に書物の名を尋ねた。それは碧巌集へきがんしゅうというむずかしい名前のものであった。宗助は腹の中で、昨夕ゆうべのように当途あてどもないかんがえふけって脳を疲らすより、いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径ちかみちではなかろうかと思いついた。宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。
「書物を読むのはごく悪うございます。有体ありていに云うと、読書ほど修業のさまたげになるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当けんとうがつきません。それを好加減いいかげん揣摩しまする癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界きょうがいを予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫とんざができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もしいて何か御読みになりたければ、禅関策進ぜんかんさくしんというような、人の勇気を鼓舞こぶしたり激励したりするものがよろしゅうございましょう。それだって、ただ刺戟しげきの方便として読むだけで、道その物とは無関係です」
 宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若なまわかい青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨しょうまし尽していた。彼は平凡を分として、今日こんにちまで生きて来た。聞達ぶんたつほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分よりはるかに無力無能な赤子あかごであると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。
 宜道がへっついの火を消して飯をむらしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端いどばたへ出て顔を洗った。鼻の先にはすぐ雑木山ぞうきやまが見えた。そのすその少したいらな所をひらいて、菜園がこしらえてあった。宗助はれた頭を冷たい空気にさらして、わざと菜園まで下りて行った。そうして、そこにがけを横に掘った大きな穴を見出した。宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方をながめていた。やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏いろりには暖かい火が起って、鉄瓶てつびんに湯のたぎる音が聞えた。
「手がないものだから、つい遅くなりまして御気の毒です。すぐ御膳ごぜんに致しましょう。しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。その代り明日あしたあたりは御馳走ごちそう風呂ふろでも立てましょう」と宜道が云ってくれた。宗助はありがたく囲炉裏いろりむこうに坐った。
 やがて食事をえて、わがへやへ帰った宗助は、また父母未生ふぼみしょう以前いぜんと云う稀有けうな問題を眼の前にえて、じっとながめた。けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出す事はできなかった。そうして、すぐ考えるのがいやになった。宗助はふと御米にここへ着いた消息を書かなければならない事に気がついた。彼は俗用の生じたのを喜こぶごとくに、すぐかばんの中から巻紙と封じ袋を取り出して、御米にやる手紙を書き始めた。まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味まずい事、夜具蒲団やぐふとん綺麗きれいに行かない事、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆をいたが、公案に苦しめられている事や、坐禅をしてひざの関節を痛くしている事や、考えるためにますます神経衰弱がはげしくなりそうな事は、おくびにも出さなかった。彼はこの手紙に切手をって、ポストに入れなければならない口実を求めて、早速山を下った。そうして父母未生以前と、御米と、安井に、おびやかされながら、村の中をうろついて帰った。
 ひるには、宜道から話のあった居士こじに会った。この居士は茶碗を出して、宜道に飯をよそってもらうとき、はばかり様とも何とも云わずに、ただ合掌がっしょうして礼を述べたり、相図をしたりした。このくらい静かに物事をるのが法だとか云った。口をかず、音を立てないのは、考えの邪魔になると云う精神からだそうであった。それほど真剣にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥ずかしく思われた。
 食後三人は囲炉裏のはたでしばらく話した。その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際まぎわに、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼をいて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。こう云う気楽な考で、参禅している人もあると思うと、宗助も多少はくつろいだ。けれども三人が分れ分れに自分のへやに入る時、宜道が、
「今夜は御誘い申しますから、これから夕方までしっかり御坐りなさいまし」と真面目まじめすすめたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。消化こなれない堅い団子が胃にとどこおっているような不安な胸をいだいて、わが室へ帰って来た。そうしてまた線香をいて坐わり出した。そのくせ夕方までは坐り続けられなかった。どんな解答にしろ一つこしらえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕食ゆうめし報知しらせに本堂を通り抜けて来てくれれば好いと、そればかり気にかかった。
 日は懊悩おうのう困憊こんぱいうちに傾むいた。障子しょうじに映る時の影がしだいに遠くへ立ち退くにつれて、寺の空気がゆかの下から冷え出した。風は朝から枝を吹かなかった。縁側えんがわに出て、高いひさしを仰ぐと、黒いかわらの小口だけがそろって、長く一列に見える外に、おだやかな空が、あおい光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなって行くところであった。

十九


危険あぶのうございます」と云って宜道ぎどうは一足先へ暗い石段を下りた。宗助そうすけはあとから続いた。町と違って夜になると足元が悪いので、宜道は提灯ちょうちんけてわずか一丁ばかりのみちを照らした。石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭にかぶさるように空をさえぎった。やみだけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。提灯のにもその色が多少映る感じがあった。その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、はなはだ小さく見えた。光の地面に届く尺数もわずかであった。照らされた部分は明るい灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。そうして二人の影が動くにれて動いた。
 蓮池れんちを行き過ぎて、左へのぼる所は、夜はじめての宗助に取って、少し足元がなめらかに行かなかった。土の中に根を食っている石に、一二度下駄げたの台を引っ掛けた。蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹とつおうが多くて、れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。
 玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。宗助はこごんで、人の履物はきものを踏まないようにそっと上へのぼった。へやは八畳ほどの広さであった。その壁際かべぎわに列を作って、六七人の男が一側ひとかわに並んでいた。中に頭を光らして、黒い法衣ころもを着た僧も交っていた。ほかのものは大概はかま穿いていた。この六七人の男はあがぐちと奥へ通ずる三尺の廊下ろうか口を残して、行儀よくかぎに並んでいた。そうして、一言ひとことも口をかなかった。宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻刻しゅんこくなのに気を奪われた。彼らは皆固く口を結んでいた。事ありげなまゆを強く寄せていた。そばにどんな人がいるか見向きもしなかった。いかなるものが外から入って来ても、全く注意しなかった。彼らは活きた彫刻のようにおのれを持して、火の気のないへや粛然しゅくぜんと坐っていた。宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種おごそかな気が加わった。
 やがて寂寞せきばくうちに、人の足音が聞えた。初はかすかに響いたが、しだいに強くゆかを踏んで、宗助の坐っている方へ近づいて来た。しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現れた。そうして宗助のそばを通って、黙って外の暗がりへ抜けて行った。すると遠くの奥の方でれいを振る音がした。
 この時宗助と並んで厳粛げんしゅくに控えていた男のうちで、小倉こくらはかまを着けた一人が、やはり無言のまま立ち上がって、室のすみの廊下口の真正面へ来て着座した。そこには高さ二尺幅一尺ほどの木のわくの中に、銅鑼どらのような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。色は蒼黒あおぐろく貧しいに照らされていた。袴を着けた男は、台の上にある撞木しゅもくを取り上げて、銅鑼に似た鐘の真中を二つほど打ち鳴らした。そうして、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るに従って、かすかになった。そうして一番しまいにぴたりとどこかで留まった。宗助はながら、はっとした。彼はこの袴を着けた男の身の上に、今何事が起りつつあるだろうかを想像したのである。けれども奥はしんとして静まり返っていた。宗助と並んでいるものも、一人として顔の筋肉を動かすものはなかった。ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。すると忽然こつぜんとして鈴を振る響が彼の耳にこたえた。同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。袴を着けた男はまた廊下口から現われて、無言のまま玄関を下りて、しもうちに消え去った。入れ代ってまた新らしい男が立って、最前の鐘を打った。そうして、また廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。宗助は沈黙の間に行われるこの順序を見ながら、ひざに手をせて、自分の番の来るのを待っていた。
 自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっと云う大きな声が、奥の方で聞えた。その声は距離が遠いので、はげしく宗助の鼓膜を打つほど、強くは響かなかったけれども、たしかに精一杯せいいっぱい威をふるったものであった。そうしてただ一人いちにん咽喉のどから出た個人の特色を帯びていた。自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよわが番が回って来たと云う意識に制せられて、一層落ちつきを失った。
 宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。けれども、それははなはだ覚束おぼつかない薄手うすでのものに過ぎなかった。室中しつちゅうに入る以上は、何か見解けんげを呈しない訳に行かないので、やむを得ず納まらないところを、わざと納まったように取繕とりつくろった、その場限りの挨拶あいさつであった。彼はこの心細い解答で、僥倖ぎょうこうにも難関を通過して見たいなどとは、夢にも思い設けなかった。老師をごまかす気は無論なかった。その時の宗助はもう少し真面目まじめであったのである。単に頭から割り出した、あたかもにかいたもちのような代物しろものを持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥じたのである。
 宗助は人のするごとくに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並にこの鐘を撞木でたたくべき権能けんのうがないのを知っていた。それを人並に鳴らして見る猿のごときおのれを深く嫌忌けんきした。
 彼は弱味のある自分に恐れを抱きつつ、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。廊下は長く続いた。右側にあるへやはことごとく暗かった。角を二つ折れ曲ると、むこうはずれの障子に灯影ひかげが差した。宗助はその敷居際しきいぎわへ来て留まった。
 室中に入るものは老師に向って三拝するのが礼であった。拝しかたは普通の挨拶あいさつのように頭を畳に近く下げると同時に、両手のてのひら上向うえむきに開いて、それを頭の左右に並べたまま、少し物をかかえた心持に耳のあたりまで上げるのである。宗助は敷居際にひざまずいてかたのごとく拝を行なった。すると座敷の中で、
一拝いっぱいよろしい」と云う会釈えしゃくがあった。宗助はあとを略して中へ入った。
 室の中はただ薄暗いに照らされていた。その弱い光は、いかに大字だいじな書物をも披見ひけんせしめぬ程度のものであった。宗助は今日こんにちまでの経験に訴えて、これくらいかすかな灯火ともしびに、夜を営なむ人間をおもい起す事ができなかった。その光は無論月よりも強かった。かつ月のごとく蒼白あおじろい色ではなかった。けれどももう少しで朦朧もうろうさかいに沈むべき性質たちのものであった。
 この静かな判然はっきりしない灯火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。彼の顔は例によって鋳物いもののように動かなかった。色はあかがねであった。彼は全身にしぶに似たかきに似た茶に似た色の法衣ころもまとっていた。足も手も見えなかった。ただくびから上が見えた。その頸から上が、厳粛げんしゅくと緊張の極度に安んじて、いつまで経っても変るおそれを有せざるごとくに人をした。そうして頭には一本の毛もなかった。
 この面前に気力なくすわった宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」
 宗助は喪家そうかの犬のごとく室中を退いた。後にれいを振る音がはげしく響いた。

二十


 障子しょうじの外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞えた。宗助そうすけ半睡はんすいうちにはいとこたえたつもりであったが、返事を仕切らない先に、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。
 二度目に眼がめた時、彼は驚ろいて飛び起きた。縁側えんがわへ出ると、宜道ぎどう鼠木綿ねずみもめんの着物にたすきを掛けて、甲斐甲斐かいがいしくそこいらを拭いていた。赤くかじかんだ手で、濡雑巾ぬれぞうきんしぼりながら、例のごとく柔和やさしいにこやかな顔をして、
「御早う」と挨拶あいさつした。彼は今朝もまたとくに参禅を済ましたのち、こうして庵に帰って働いていたのである。宗助はわざわざ呼び起されても起き得なかった自分の怠慢をかえりみて、全くきまりの悪い思をした。
「今朝もつい寝忘れて失礼しました」
 彼はこそこそ勝手口から井戸端いどばたの方へ出た。そうして冷たい水をんでできるだけ早く顔を洗った。延びかかったひげが、頬のあたりで手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを苦にするほどの余裕はなかった。彼はしきりに宜道と自分とを対照して考えた。
 紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質たちのいい男で、今では修業もだいぶでき上がっていると云う話だったが、会って見ると、まるで一丁字いっていじもない小廝こもののように丁寧ていねいであった。こうして襷掛たすきがけで働いているところを見ると、どうしても一個の独立したあんの主人らしくはなかった。納所なっしょとも小坊主とも云えた。
 この矮小わいしょう若僧じゃくそうは、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏けっかしたぎり少しも動かなかったのである。しまいには足が痛んで腰が立たなくなって、かわやのぼる折などは、やっとの事壁伝いに身体からだを運んだのである。その時分の彼は彫刻家であった。見性けんしょうした日に、うれしさの余り、裏の山へけ上って、草木国土そうもくこくど悉皆成仏しっかいじょうぶつと大きな声を出して叫んだ。そうしてついに頭をってしまった。
 この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝た事はないと云った。冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡ざすいするだけだと云った。侍者じしゃをしていた頃などは、老師の犢鼻褌ふんどしまで洗わせられたと云った。その上少しの暇をぬすんで坐りでもすると、うしろから来て意地の悪い邪魔をされる、毒吐どくづかれる、頭の剃り立てには何の因果いんがで坊主になったかと悔む事が多かったと云った。
「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業は実際苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」
 宗助はただ惘然ぼうぜんとした。自己の根気と精力の足らない事をはがゆく思う上に、それほど歳月を掛けなければ成就じょうじゅできないものなら、自分は何しにこの山の中までやって来たか、それからが第一の矛盾であった。
「けっして損になる気遣きづかいはございません。十分じっぷん坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗きれいにぶち抜いておけば、あとはこう云う風に始終しじゅうここにおいでにならないでも済みますから」
 宗助は義理にもまた自分のへやへ帰って坐らなければならなかった。
 こんな時に宜道が来て、
「野中さん提唱ていしょうです」と誘ってくれると、宗助は心から嬉しい気がした。彼は禿頭はげあたまつらまえるような手の着けどころのない難題に悩まされて、ながらじっと煩悶はんもんするのを、いかにも切なく思った。どんなに精力を消耗しょうこうする仕事でもいいから、もう少し積極的に身体からだを働らかしたく思った。
 提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町もへだたっていた。蓮池れんちの前を通り越して、それを左へ曲らずに真直まっすぐに突き当ると、屋根瓦やねがわらいかめしく重ねた高い軒が、松の間にあおがれた。宜道はふところに黒い表紙の本を入れていた。宗助は無論手ぶらであった。提唱ていしょうと云うのが、学校でいう講義の意味である事さえ、ここへ来て始めて知った。
 へやは高い天井てんじょうに比例して広くかつ寒かった。色の変った畳の色が古い柱とり合って、昔を物語るようにび果てていた。そこに坐っている人々も皆地味に見えた。席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高声こうせいに語るもの、笑うものは一人もなかった。僧は皆紺麻こんあさ法衣ころもを着て、正面の※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくの左右に列を作って向い合せに並んだ。その曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)は朱で塗ってあった。
 やがて老師が現われた。畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱり分らなかった。ただ彼の落ちつき払って曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)る重々しい姿を見た。一人の若い僧が立ちながら、むらさき袱紗ふくさを解いて、中から取り出した書物を、うやうやしく卓上に置くところを見た。またその礼拝らいはいして退しりぞくさま[#「態を」は底本では「熊を」]見た。
 この時堂上の僧は一斉いっせい合掌がっしょうして、夢窓国師むそうこくし遺誡いかいじゅし始めた。思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士こじも皆同音どうおんに調子を合せた。聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文字であった。
「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁しょえん放下ほうげし、専一に己事こじを究明するこれを上等と名づく。修業純ならず駁雑はくざつ学を好む、これを中等と云う」と云々という、余り長くはないものであった。宗助は始め夢窓国師むそうこくし何人なんびとなるかを知らなかった。宜道からこの夢窓国師と大燈国師だいとうこくしとは、禅門中興の祖であると云う事を教わったのである。平生ちんばで充分に足を組む事ができないのをいきどおって、死ぬ間際まぎわに、今日きょうこそおれの意のごとくにして見せると云いながら、悪い方の足を無理に折っぺしょって、結跏けっかしたため、血が流れて法衣ころも煮染にじましたという大燈国師の話もそのおり宜道から聞いた。
 やがて提唱が始まった。宜道はふところから例の書物を出して、ページなからして宗助の前へ置いた。それは宗門無尽燈論しゅうもんむじんとうろんと云う書物であった。始めて聞きに出た時、宜道は、
「ありがたい結構な本です」と宗助に教えてくれた。白隠和尚はくいんおしょうの弟子の東嶺とうれい和尚とかいう人の編輯へんしゅうしたもので、重に禅を修行するものが、浅い所から深い所へ進んで行く径路やら、それに伴なう心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。
 中途から顔を出した宗助には、よくもせなかったけれども、講者こうじゃは能弁の方で、黙って聞いているうちに、大変面白いところがあった。その上参禅の士を鼓舞こぶするためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲歴譚えつれきだんなどをぜて、一段の精彩を着けるのが例であった。この日もその通りであったが、或所へ来ると、突然語調を改めて、
「この頃室中に来って、どうも妄想もうぞうが起っていけないなどと訴えるものがあるが」と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覚えずぎくりとした。室中に入って、そのうったえをなしたものは実に彼自身であった。
 一時間の後宜道と宗助はそでをつらねてまた一窓庵に帰った。その帰り路に宜道は、
「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得をふうせられます」と云った。宗助は何も答えなかった。

二十一


 そのうち、山の中の日は、一日一日とった。御米およねからはかなり長い手紙がもう二本来た。もっとも二本とも新たに宗助そうすけの心を乱すような心配事は書いてなかった。宗助は常の細君思いに似ずついに返事を出すのを怠った。彼は山を出る前に、何とかこの間の問題に片をつけなければ、せっかく来た甲斐かいがないような、また宜道ぎどうに対してすまないような気がしていた。眼がめている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受けつづけに受けた。したがって日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の数が重なるにつけて、あたかも後から追いかけられでもするごとく気をいらった。けれども彼は最初の解決よりほかに、一歩もこの問題にちかづくすべを知らなかった。彼はまたいくら考えてもこの最初の解決は確なものであると信じていた。ただ理窟りくつから割り出したのだから、腹のたしにはいっこうならなかった。彼はこの確なものを放り出して、さらにまた確なものを求めようとした。けれどもそんなものは少しも出て来なかった。
 彼は自分のへやひとり考えた。疲れると、台所から下りて、裏の菜園へ出た。そうしてがけの下に掘った横穴の中へ這入はいって、じっと動かずにいた。宜道は気が散るようでは駄目だと云った。だんだん集注してり固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと云った。そう云う事を聞けば聞くほど、実際にそうなるのが、困難になった。
「すでに頭の中に、そうしようと云う下心があるからいけないのです」と宜道がまた云って聞かした。宗助はいよいよ窮した。忽然こつぜん安井の事を考え出した。安井がもし坂井の家へ頻繁ひんぱん出入でいりでもするようになって、当分満洲へ帰らないとすれば、今のうちあの借家しゃくやを引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別じょうふんべつだろう。こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない。ゆっくり構えて、御米にでも知れるとまた心配がえるだけだと思った。
「私のようなものにはとうていさとりは開かれそうに有りません」と思いつめたように宜道をつらまえて云った。それは帰る二三日にさんち前の事であった。
「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇ちゅうちょもなく答えた。「法華ほっけり固まりが夢中に太鼓をたたくようにやって御覧なさい。頭の巓辺てっぺんから足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然がぜんとして新天地が現前するのでございます」
 宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈なはたらきをあえてするに適しない事を深く悲しんだ。いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。彼は直截ちょくせつに生活の葛藤かっとうを切り払うつもりで、かえって迂濶うかつに山の中へ迷い込んだ愚物ぐぶつであった。
 彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけの事を言い切る力がなかった。彼は心からこの若い禅僧の勇気と熱心と真面目まじめと親切とに敬意を表していたのである。
「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」と宜道はさも残念そうであった。宗助はまた自分のへや退しりぞいて線香を立てた。
 こう云う状態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。いよいよ出立の朝になって宗助はいさぎよく未練をてた。
「永々御世話になりました。残念ですが、どうも仕方がありません。もう当分御眼にかかる折もございますまいから、随分御機嫌ごきげんよう」と宜道に挨拶あいさつをした。宜道は気の毒そうであった。
「御世話どころか、万事不行届でさぞ御窮屈でございましたろう。しかしこれほど御坐りになってもだいぶ違います。わざわざおいでになっただけの事は充分ございます」と云った。しかし宗助にはまるで時間をつぶしに来たような自覚が明らかにあった。それをこう取りつくろって云ってもらうのも、自分の腑甲斐ふがいなさからであると、ひとり恥じ入った。
「悟の遅速は全く人の性質たちで、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくてもあとつかえて動かない人もありますし、また初め長く掛かっても、いよいよと云う場合に非常に痛快にできるのもあります。けっして失望なさる事はございません。ただ熱心が大切です。くなられた洪川和尚こうせんおしょうなどは、もと儒教をやられて、中年からの修業でございましたが、僧になってから三年の間と云うものまるで一則いっそくも通らなかったです。それでわしごうが深くて悟れないのだと云って、毎朝かわやに向って礼拝らいはいされたくらいでありましたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっとも好い例です」
 宜道はこんな話をして、あんに宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しないようにあらかじめ間接の注意を与えるように見えた。宗助はつつしんで、宜道のいう事に耳を借した。けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。自分は門をけて貰いに来た。けれども門番は扉の向側むこうがわにいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、
「敲いても駄目だ。ひとりで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門のかんのきを開ける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中でこしらえた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔とごうも異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便たよりに生きて来た。その分別が今は彼にたたったのを口惜くちおしく思った。そうして始から取捨も商量もれない愚なものの一徹一図をうらやんだ。もしくは信念にあつい善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進しょうじんの程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立たたずむべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿たどりつくのが矛盾であった。彼はうしろかえりみた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気をたなかった。彼は前をながめた。前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
 宗助は立つ前に、宜道と連れだって、老師のもとへちょっと暇乞いとまごいに行った。老師は二人を蓮池れんちの上の、縁に勾欄こうらんの着いた座敷に通した。宜道はみずから次の間に立って、茶を入れて出た。
「東京はまだ寒いでしょう」と老師が云った。「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」
 宗助は老師のこの挨拶あいさつに対して、丁寧ていねいに礼を述べて、また十日前にくぐった山門を出た。いらかを圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼のうしろそびえた。

二十二


 家の敷居をまたいだ宗助そうすけは、おのれにさえ憫然びんぜんな姿をえがいた。彼は過去十日間毎朝頭を冷水れいすいらしたなり、いまだかつてくしの歯を通した事がなかった。ひげもとよりいとまたなかった。三度とも宜道ぎどうの好意で白米のかしいだのを食べたには食べたが、副食物と云っては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。彼の顔はおのずからあおかった。出る前よりも多少面窶おもやつれていた。その上彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣がまだ全く抜け切らなかった。どこかに卵をいだ牝鶏めんどりのような心持が残って、頭が平生の通り自由に働らかなかった。そのくせ一方では坂井の事が気にかかった。坂井と云うよりも、坂井のいわゆる冒険者アドヴェンチュアラーとして宗助の耳に響いたそのおととと、その弟の友達として彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞きただす勇気を有たなかった。間接にそれを御米およねに問うことはなおできなかった。彼は山にいる間さえ、御米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと気遣きづかわない日はなかったくらいである。宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って、
「汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。留守中に別段変った事はなかったかい」と聞いた。実際彼は短かい汽車旅行にさええかねる顔つきをしていた。
 御米はいかな場合にも夫の前に忘れなかった笑顔さえ作り得なかった。と云って、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話しにくかった。わざと活溌かっぱつに、
「いくら保養でも、うちへ帰ると、少しは気疲きづかれが出るものよ。けれどもあなたはあんまり爺々汚じじむさいわ。後生ごしょうだから一休ひとやすみしたら御湯に行って頭を刈ってひげって来てちょうだい」と云いながら、わざわざ机の引出から小さな鏡を出して見せた。
 宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような心持がした。一たび山を出て家へ帰ればやはり元の宗助であった。
「坂井さんからはその後何とも云って来ないかい」
「いいえ何とも」
小六ころくの事も」
「いいえ」
 その小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭てぬぐい石鹸シャボンを持って外へ出た。
 明る日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。中には少しせたようですねと云うものもあった。宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞えた。菜根譚さいこんたんを読む男はただどうですうまく行きましたかと尋ねた。宗助はこの問にもだいぶ痛い思をした。
 その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。
「気楽でしょうね。留守居るすいも何もおかないで出られたら」と御米が云った。
「それで一日いちんちいくら出すと置いてくれるんです」と小六が聞いた。「鉄砲でもかついで行って、りょうでもしたら面白かろう」とも云った。
「しかし退屈ね。そんなにさむしくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう」と御米がまた云った。
「もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあ、やっぱり身体からだによくないでしょう」と小六がまた云った。
 宗助はその夜床の中へ入って、明日あしたこそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞きただして、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。
 次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。って彼は、
「ちょっと坂井さんまで行って来る」と云い捨てて門を出た。月のない坂を上って、瓦斯灯ガスとうに照らされた砂利を鳴らしながら潜戸くぐりどを開けた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一はまず起らないだろうと度胸をえた。それでもわざと勝手口へ回って、御客来ですかと聞くことは忘れなかった。
「よくおいでです。どうも相変らず寒いじゃありませんか」と云う常の通り元気の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、そのうちの一人と掛声をかけながら、じゃんけんをやっていた。相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。赤い幅のあるリボンを蝶々ちょうちょうのように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢で、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。その断然たる様子と、そのにぎこぶしの小ささと、これに反して主人の仰山ぎょうさんらしく大きな拳骨げんこつが、対照になってみんなの笑をいた。火鉢ひばちはたに見ていた細君は、
「そら今度こんだこそ雪子の勝だ」と云って愉快そうに綺麗きれいな歯をあらわした。子供のひざそばには白だの赤だのあいだのの硝子玉ガラスだまがたくさんあった。主人は、
「とうとう雪子に負けた」と席をはずして、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞窟とうくつへでも引き込みますかな」と云って立ち上がった。
 書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀もうことうがっていた。花活はないけにはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花がしてあった。宗助は床柱の中途をはなやかにいろどる袋に眼を着けて、
「相変らず掛かっておりますな」と云った。そうして主人の気色けしきを頭の奥からうかがった。主人は、
「ええちと物数奇ものずき過ぎますね、蒙古刀は」と答えた。「ところがおととの野郎そんな玩具おもちゃを持って来ては、兄貴を籠絡ろうらくするつもりだから困りものじゃありませんか」
御舎弟ごしゃていはその後どうなさいました」と宗助は何気ない風を示した。
「ええようやく四五日前帰りました。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄いてきは東京にゃ調和しないから早く帰れったら、わたしもそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側むこうがわにいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙漠さばくの中で金剛石ダイヤモンドでも捜していればいいんです」
「もう一人の御伴侶おつれは」
「安井ですか、あれも無論いっしょです。ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
 宗助はわきの下から汗が出た。安井がどう変って、どう落ちつかないのか、全く聞く気にはならなかった。ただ自分が主人に安井と同じ大学にいた事を、まだらさなかったのを天祐てんゆうのようにありがたく思った。けれども主人はその弟と安井とを晩餐ばんさんに呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。辞退をしてその席へ顔を出す不面目だけはやっとまぬかれたようなものの、その晩主人が何かの機会はずみについ自分の名を二人にらさないとは限らなかった。宗助は後暗うしろぐらい人の、変名へんみょうを用いて世を渡る便利を切に感じた。彼は主人に向って、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」と聞いて見たくてたまらなかった。けれども、それだけはどうしても聞けなかった。
 下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。一丁の豆腐ぐらいな大きさの金玉糖きんぎょくとうの中に、金魚が二疋いて見えるのを、そのまま庖丁ほうちょうの刃を入れて、元の形をくずさずに、皿に移したものであった。宗助は一目見て、ただ珍らしいと感じた。けれども彼の頭はむしろ他の方面に気を奪われていた。すると主人が、
「どうです一つ」といつもの通りまず自分から手を出した。
「これはね、昨日きのうある人の銀婚式に呼ばれて、もらって来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切ぐらいあやかってもいいでしょう」
 主人は肖りたい名のもとに、甘垂あまたるい金玉糖きんぎょくとうを幾切か頬張ほおばった。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。
「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦がしわだらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客をかせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。
 彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝どぶのような細い流の中に、春先になると無数のかえるが生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠どぶの中で成立する。そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間すきまなく清水谷から弁慶橋へ続いて、互にむつまじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人ひまじんが、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定かんじょうし切れないほど多くなるのだそうである。
死屍累々ししるいるいとはあの事ですね。それがみんな夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのがにくらしいって、石で頭をられる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」と云って、主人はわざとはしで金玉糖をはさんで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。
 こんな冗談交じょうだんまじりの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ず或る辺までは釣られて行った。けれども腹の中はけっして主人のように太平楽たいへいらくには行かなかった。辞して表へ出て、また月のない空をながめた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀と物凄ものすごさを感じた。
 彼は坂井の家に、ただいやしくもまぬかれんとする料簡りょうけんで行った。そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真率しんそつの気にちた主人に対して、政略的に談話をった。しかも知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった。おのれの弱点に付いては、一言ひとことも彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。
 彼の頭をかすめんとした雨雲あまぐもは、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。

二十三


 月が変ってから寒さがだいぶゆるんだ。官吏の増俸問題につれて必然起るべく、多数のうわさに上った局員課員の淘汰とうたも、月末までにほぼ片づいた。その間ぽつりぽつりと首をられる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助そうすけは、時々家へ帰って御米およねに、
今度こんだはおれの番かも知れない」と云う事があった。御米はそれを冗談じょうだんとも聞き、また本気とも聞いた。まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が去来した。
 月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰さたせられた時、宗助は生き残った自分の運命をかえりみて、当然のようにも思った。また偶然のようにも思った。立ちながら、御米を見下して、
「まあ助かった」とむずかしに云った。そのうれしくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちた滑稽こっけいに見えた。
 また二三日して宗助の月給が五円昇った。
「原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。められた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」と云った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。御米は無論の事心のうちに不足を訴えるべき余地を見出さなかった。
 翌日あくるひの晩宗助はわがぜんの上にかしらつきのうおの、尾を皿の外におどらすさまを眺めた。小豆あずきの色に染まった飯のかおりいだ。御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六ころくを招いた。小六は、
「やあ御馳走ごちそうだなあ」と云って勝手から入って来た。
 梅がちらほらと眼にるようになった。早いのはすでに色を失なって散りかけた。雨は煙るように降り始めた。それがれて、日にされるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき湿気がむらむらと立ちのぼった。背戸せどに干した雨傘あまがさに、小犬がじゃれかかって、じゃの目の色がきらきらする所に陽炎かげろうが燃えるごとく長閑のどかに思われる日もあった。
「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今度こんだの土曜に佐伯さえきの叔母さんのところへ回って、小六さんの事をきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでも放っておくと、またやすさんが忘れてしまうから」と御米が催促した。宗助は、
「うん、思い切って行ってよう」と答えた。小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。その上に宗助と安之助が、不足のところを分担する事ができたらと小六に云って聞かしたのは、宗助自身であった。小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判じきだんぱんをした。そうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受けるまでに自分でらちを明けたのである。
 小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜のひる宗助は久しぶりに、四日目のあかを流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭をった男と、三十代の商人あきんどらしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶あいさつを取り換わしていた。若い方が、今朝始めてうぐいすの鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、わたしは二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分にしたが回りません」
 宗助はうちへ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子しょうじ硝子ガラスに映るうららかな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしいまゆを張った。宗助は縁に出て長く延びた爪をりながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたままはさみを動かしていた。





底本:「夏目漱石全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年3月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集5」筑摩書房
   1971(昭和46)年
初出:「朝日新聞」
   1910(明治43)年3月1日〜6月12日
入力:柴田卓治
校正:高橋知仁
1999年4月22日公開
2015年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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