茶話

大正五(一九一六)年

薄田泣菫




風ぐすり

4・12(夕)

 蚯蚓みゝずが風邪の妙薬だといひ出してから、彼方此方あちらこちらの垣根や塀外へいそと穿ほじくり荒すのを職業しやうばいにする人達が出来て来た。郊外生活の地続き、猫の額ほどな空地あきちに十歩の春をたのしまうとする花いぢりも、かういふてあひつてはなにも滅茶苦茶に荒されてしまふ。
 箏曲家の鈴木鼓村氏は巨大胃メガロガストリイつた男として聞えてゐる人だが、氏は風邪にかゝると、五合めしと味噌汁をバケツに一杯食べて、それから平素ふだん余り好かない煙草をやけに吸ふのださうな。「さうすると身体からだぢゆうの何処どこにも風邪のかくれる場所が無くなつてしまふ。」と言つてゐる。
 昆虫学者として名高い、それがためにノオベル賞金をももらつた仏蘭西フランスのアンリ・フアブル先生は、いつも風邪をひくと、自分の頭を灰のなかに突込つゝこむといふ事だ。すると一しきせきが出て風邪はけろりとなほつてしまふ。
「随分荒療治ですな。」
ある人がいふと、フアブル先生ましたもので、
「何でもありません。一寸ちよつと風邪のお葬式をやつたのです。」


料理人の泣言

4・13(夕)

 大隈伯の台所に長く働いてゐる或る料理人の話によると、伯爵家の台所はかなり贅沢ぜいたくなものだが、それとは打つて変つて伯自身のお膳立ぜんだては伯爵夫人のお心添こゝろぞへで滋養本位のやはらかい物づくめなのでとんと腕の見せどころが無いさうだ。また味加減をつけるにも、例の口喧くちやかましい伯の事とてひとばい講釈はするが、舌は正直なもので、何でもしよつぱくさへして置けば恐悦して舌鼓したつゞみを打つてゐるといふ事だ。
 この料理人の言葉によると、「伯の腰巾着で仕合せなのは武富たけとみや尾崎や高田で、それぞれ大臣の椅子に日向ひなたぼつこをしてゐるが、自分一人は折角の腕を持ちながら一かう主人に味はつて貰へない」のださうだ。
 以前仏蘭西フランスの大統領官舎でフエリツクス・フオウルからルウベエ、フワリエエルと三代の大統領に料理番を勤めた男があつて、ある時こんな事を言つてゐた。
「フオウルは仲々の料理通で牡蠣かきや蟹が大の好物で葡萄酒も本場の飛切りといふ奴しか口にしなかつた。ルウベエは南仏蘭西の田舎生れだが、それでもお国料理の魚羹ブイヤベースのやうな物は滅多に命令いひつけた事は無かつたし、美味うまいものをこしらへると相応に味はつて呉れたものだ。ところがフワリエエルと来てはお話にもなんにもなつたものでは無い。何もかも油でいためて、加之おまけねぎを添へて置かなくつちや承知しないんだからな。こんな男にいつまでついて居るでもあるまいと思つて、ていよく此方こつちからお暇を貰つて来た。」
 これで見ると、腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。


ゴリキイ危篤

4・14(夕)

 ゴリキイが肺炎で危篤だといふ事だ。戦争が始まつてから、ある新聞の特派通信員となつて、戦地に出掛けてゐたから、風邪でも引き込んだのが、肺炎に変つたらしい。
「おなかいてゐる人間の魂は、お腹のいゝ人達の魂に比べると、営養やしなひもよく、ずつと健全ぢやうぶだ。」と言つたゴリキイは、自慢だけに健全ぢやうぶ霊魂たましひつてゐるが、肉体からだは余り達者では無く終始しよつちゆう肺病に苦しんでゐた。
 二三年ぜん伊太利イタリーのカプリ島に謫居たくきよしてゐた頃、日本人の学生がその近所に旅をしてゐる事を聞いて、日本人といふものはまだ見た事が無い、一度会つてみたいものだと、まるで動物園に新着の鸚鵡あうむでも見るやうな物好きな気持で、その日本人に会つた事があつた。
 その折ゴリキイは、くだんの日本人に向つて、日本画をめ、日本人を賞め、日本が東洋一体のお弟子を教育する態度は、歴史にも滅多に見られぬ素晴しいものだといつて賞めちぎつたさうだが、そのお弟子のなかにもお隣のゑん氏のやうな不良書生がゐる事を聞かせたらどんなに言ふだらう。
 いつだつたか、莫斯科モスコーの芸術座の近くでゴリキイが料理屋に入つてゐると、崇拝者の多くがその姿を見つけてぞろ/\店先にたかつて来た。それを見たゴリキイは例の放浪性を発揮して、
「君達はポカンと口をけて何に見惚みとれてるんだね。僕は踊子でもなければ、死人しびとでも無いんだ。ちよい/\小説を書いて暮らす男が、何が面白くてそんなにきよろ/\するんだね。」
と噛みつくやうに怒鳴どなつた。
 翌日あくるひの新聞は、その話を伝へて、自分の崇拝者をこんなに邪慳じやけんに取扱つたゴリキイには、お行儀作法の端くれでも教へ込まなければなるまいと、ひやかしを言つてゐたが、そんな事をいふてあひは崇拝者を持つた事の無い奴で、世の中に崇拝者程うるさいものは無い。
 そのなかでけてうるさいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者につたのは一番事が面倒だ。だからすべての学者、芸術家、政治家にとつて最も無難なかたは、成るべく自分の細君にわからないやうに物を言ふ事だ。新渡戸にとべ博士は婦人雑誌の原稿をかく時には、細君の同意をるやうな考へしか書かないさうだが、もつてのほかの不了見である。


画家と書物

4・15(夕)

 京都大学の新村しんむら教授は日本画家の作物さくぶつけなして、画家ゑかきはどうしても本を読まなければ駄目だと言つたさうだ。画家ゑかきに本を読めといふのは大学教授にひげれといふのと同じやうに良い事には相違ない。だが剃立そりたての顔が学者に似合はない事もあるやうに、どうかすると本に食中しよくあたりをする画家ゑかきもある事を忘れてはならない。新村教授は本を読む画家ゑかきの代表として富岡鉄斎をあげて、あの人のには気品があるといつたさうだが、よしんば気品はあるにしても、鉄斎の画には画家ゑかき敏感センスが少しも出てゐない。画家ゑかきに本よりも大切だいじなのは敏感センスである。
 むかし今津いまづ米屋与右衛門こめやよゑもんといふ男が居た。富豪かねもちの家に生れたが、学問が好きで色々の書物を貪り読んだ。珍らしい働き手で、酒男さかをとこと一緒に倉に入つてせつせと稼いだから、身代しんだいは太る一方だつたが、太るだけの物は道修繕みちなほし橋普請はしふしんといつたやうな公共事業に費して少しもをしまなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てて泣いた。なかに一人智恵の足りない婆さんがまじつてゐて、おろ/\声で、
「これ程学問してさへこんないお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。」
と言つたさうだ。
 ばばあめ、なか/\皮肉な事を言ひをるわい。


ペンキ一缶

4・16(夕)

 紐育ニユーヨークのあるペンキ商店での出来事だ。――ある日主人が店のへ出て来ると、多くのペンキ缶のなかに、たつた一つつひぞ自分の店で取扱つた事の無いペンキ缶が転がつてゐる。主人はそれを見て支配人を呼んだ。
「この缶はうしたのだい。うちで扱つたことの無い代物しろものぢや無いか。」
左様さやうで御座います。扱つた事はありません。」
 主人の眼は不思議さうに支配人の顔を見た。
「扱はないものが、何だつて店に転がつてるんだね。」
 支配人はいつものやうににこ/\顔で、
「さればで御座います。今朝程一人のお客さんがお見えになりまして、このペンキは此方こちらの店で買つたのだが、不用になつたから原価もとねで買ひ戻して呉れまいかと仰有おつしやいます。見ると店で扱つた品では御座いませんが、お客様の機嫌を損じてもと思つて、言ひなり通りお金を渡して、缶を受取つて置きましたやうな訳で……」
 それを聞いた主人は手をつて喜んださうだ。支配人の考へでは、その缶は何店どこで買つたものか知らないが、客がそれを戻さうとする時には、ペンキ屋といへば、直ぐ今の店が代表的に頭に浮んで来たのでそこへ持ち込んだに過ぎなかつた。それをいや違ひます、手前共で扱つた品ではありませんといへば、客の頭にほかのペンキ屋を思ひ浮ばせるのみか自分の店に対して不愉快な悪い印象を与へる事になる。そこが気転のかしどころで、はい/\と言つて二つ返事で買ひ戻しておけば、客は少からぬ好意をもつて店を見る事になる。わづかなペンキ一缶の価でこの「好意」が買へたかと思ふとこんな嬉しい事はないといふのださうだ。
 そんぢよそこらの百貨店デパートメント・ストアや小売店は、牛が※(「齒+台」、第4水準2-94-79)にれをかむやうに、山県やまがた公が擂餌すりゑを食べるやうに、よくこの話しを噛みしめて貰ひたい。


加藤だんの出迎へ

4・17(夕)

 十六日の午前五時四十九分、梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の帰途かへりみちに大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い朝靄あさもやのなかから、一等待合室へ顔を出した待受まちうけの三人衆、一人は北浜花外楼きたはまくわぐわいろう女将おかみ、あとの二人はせたお役人とまる/\ふとつた浪人者。
 女将は皺くちやな鼻先に今朝は薄化粧さへ施してゐる。二人の男の顔を見比べて「もう程なうお着きだつしやろ。ま、雨がれてお出迎へするにもほんまに結構だつせ」と二三日前から取つて置きの愛嬌を、撒水まきみづのやうに寝不足らしい男の顔へぶち撒けてゐる。外には女将が乗りつけて来た男爵お待受けの自動車が、雨上りの道へのつそり匍匐はひつくばつてゐる。二人の男はお茶代をはじいてゐる女将の腹を見透みすかしたやうに、四五銭がとこ顔をゆがめて、一寸笑顔を見せた。
 せた男は役人生活をしてゐるからには、何日いつまた大臣の椅子になほらうかも知れぬ加藤さんだ、一寸出迎へをした位で、そんな場合に官等の一つもあがる事が出来たなら、飛んだまうものだ位は心得てゐる。昨夕ゆうべからこはれかけの眼覚時計に螺旋ねぢを巻いて、今朝はいつもにない夙起はやおきをして来てゐるのだ。
 肥つた男は以前御用雑誌の記者をしてゐる頃、加藤男の計らひで支那視察に出掛ける事になり、しこたま旅費も貰つて、そのなかから流行はやりのフロツクコートも一着こしらへたが、出発間際になつて風邪を引込んで、延々のびのびになつてゐるうち、つい沙汰止さたやみになつてしまつた。旅費はいつの間にかポケツトの内で消えてしまつて、済まない/\とだけは思つてゐるのだが、幸ひ今日男爵が大阪へ来る事なら、一寸顔出しをして、従来これまでの気まづさと旅費の張消しをしようと思つてゐるのだ。で、敬意を表する積りでその折のフロツクコートだけは今朝も着込んでゐる。
 時計はずん/\つてつたが、この三人の他には誰一人出迎へるものもない。三人は人数の少いだけ御利益ごりやくも多からうと、胸をわく/\させてゐると、程なく汽車は夜通し駆け廻つてだらけきつた身体からだ廊下プラツトフオームへ横たへた。三人は息せき駆け出して往つたが、出て来る群集ひとごみのなかには加藤男らしいものは影さへ見せなかつた。
 三人は詰らなささうにすた/\構内を出て来た。――皆は言ひ合せたやうにお腹がいてゐるのだ。実際胃の腑だけは正直なのを持合せてゐるのだから……。


陶庵侯と漱石

4・18(夕)

 西園寺陶庵侯の雨声会がひさぶりに近日開かれるといふ事だ。招かれる文士のなかには例年通り今から、即吟下拵したごしらへに取蒐とりかゝつてゐるむきもあるらしいと聞いてゐる。
 いつだつたかの雨声会に、夏目漱石氏が招待せうだいを受けて、素気そつけなく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひにき合はせてみようと思つたのは、活花いけばな去風こふう流の家元西川一草亭であつた。
 一草亭は露伴、黙語、月郊などにも花を教へた事のある趣味の男で、陶庵侯のやしきへもよく花を活けにくし、漱石氏へも教へに出掛けるしするので、ついこんな事を思ひついて、それを漱石氏に話してみた。
 皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。
「西園寺さんに会へつていふのかい、何だつてあの人に会はなければならないんだね。」
「お会ひになつたら、屹度きつと面白い話があるでせうよ。」
「何だつて、そんな事がわかるね。」
 花の家元だけに一草亭は二人の会合を、苅萱かるかやと野菊の配合あしらひ位に軽く思つて、それを一寸取持つてみたいと思つたに過ぎなかつた。一草亭はこれまで色々いろんな草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
「何だつて会はなければならないんだね。」
などと駄目を押した事は無かつた。胃病持ちは面倒臭めんどくさいなと一草亭は思つた。
 一草亭が思ひついたやうに、この二人が無事に顔を合はせたところで、あの通り旋毛曲つむじまがりの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすまい。二三時間も黙つて向き合つた末、最後に椎茸しひたけ高野豆腐かうやどうふかの話でもしてそのまゝ別れたに相違なからう。


床次とこなみへこ

4・19(夕)

 九州遊説中の原政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切代議士が五分間演説に、かねて大きい/\とは聞いてゐたが、西郷南洲が実際大きかつた事を今度鹿児島へ来て初めて知つたと、南洲を桜島大根か何ぞのやうに言つてのけると、次に立つたのが床次竹二郎代議士で、成程なるほど南洲も大きかつたに相違ないが往時むかしの偉人をめるばかりではつまらぬ、吾々自ら偉人となつた積りで働かなければならぬと、蜀山人しよくさんじんが見たといふうなぎになりかけた薯蕷やまのいものやうに、半分がた偉人になりかけたやうな事を言つて、のつそり引下つた。
 すると、末座の方から「諸君!」といつて立ち上つた一人の男、海老のやうに腰をかゞめ、海老のやうに真赤になつて、「自分は姶良あひら帖佐てうさの住人でへそ切つて以来このかた演説などいふ下らぬ事をやつた事もなし、またやらうとも思はなかつたが、一生に一度の積りで今日は喋舌しやべらして貰ひたい」といふ冒頭まくらで、徐々ぼつ/\皮肉つた一条。
「南洲翁の大きかつた事を今になつて吃驚びつくりするやうでは、いつ吃驚びつくりせずに死んだ方がましだ。何故といふに、そんな人は明日あすになつたら、またぞろ自分の下らぬ事に吃驚びつくりするかも知れないから。また床次君のやうに自分が偉人らしい言草いひぐさも気に喰はぬ、不肖ふせうながら朝夕南洲翁にいてゐたから、翁の面目めんもくはよく知つてゐるが、翁は一度だつて床次君のやうに偉人になつた積りで働いた事は無かつた。」
つたので床次氏は勿論の事、原けい迄が半分偉人になつた積りの顔を歪めて苦笑してゐたさうだ。その男といふのは何でも帖佐辺の村長だといふ事だ。


名士の墓石

4・20(夕)

 亡くなつた市川斎入は茶人だけに、紫野むらさきのの大徳寺にある、千利休の塔形たふがた墓石はかいしひどく感心をして、
「成程、あの墓石はかいしに耳を当てがふと、何時いつでも茶の湯のたぎる音がしてまんな。わて俳優甲斐やくしやがひ洒落しやれ墓石はかいしが一つ欲しうおまんね。」
と言つてゐるので、或人が、
「君は幽霊や宙釣ちうづりがうまかつたから、墓石はかいしにも一つケレンを仕組しぐんでみたらうだい。」
ひやかすと、
阿呆あほらしい。」
と皺くちやな顔を歪めて※(「弗+色」、第3水準1-90-60)くれたさうだ。
 だが、それは斎入が物をらないからで、徳川時代の洒落者の多かつた江戸町人の墓石はかいしには、故人が好物の形に似せた墓も少くなかつた。碁好きの墓に台石を碁盤にこしらへ、碁笥ごげ花立はなだてに見立てたのや、酒飲みの墓を徳利形や、酒樽形に刻んだのもあつた。可笑をかしいのは賭博ばくちが好きだつたからといつて、墓石はかいし骰子さいころの目まで盛つたのがあつた事だ。それを考へてせがれの右団次も亡父おやぢの墓を幽霊の姿にでも刻んだら面白からう。
 この伝で今の名士の墓をめたら、大隈伯のはメガホン型、原敬のは巡査のサアベル型、山本権兵衛のは英蘭イングランド銀行の証券型、尾崎学堂のはテオドラ夫人の……。


春葉氏と子供

4・21(夕)

 洋画家の鹿子木孟郎かのこぎたけしらう氏は、結婚した当座といふもの、子供が無いのをひどく苦に病んでゐたが、巴里パリーで秘方の薬でも授かつたものか、二度目の洋行から帰つて来ると、程なく花のやうな女のまうけた。それはちやうど結婚後十三年目に当つてゐたが、その後間もなく男の児を生んで、今では立派な子持になつてゐる。
 その初めての産があつた時、同じ画家ゑかき仲間のなにがしがどんな婦人をんなでもたつた十ヶ月でる仕事を、画家ゑかきともいはれるものが物の十三年もかゝつて、やつと仕上げるなんて、そんな間抜まぬけな事があるものかと、きつい抗議を申込んだのが、その頃の笑ひ話になつて残つてゐる。
 小説家の柳川やながは春葉氏は大の子供好きだが、自分には子供が居無いので、いぬころや小猫を可愛かあいがつて、お客の前をもいとはず、土足のまゝ上下あげおろしをするので、清潔好きれいずきのお客のなかには気を悪くする向きもあつたが、近頃はうした事か、そんな物も余りかまはなくなつたばかしか、友達の顔を見ると、よくこんな事をいふ。
「君、僕もう結婚後十三年になるよ。」
「へえ十三年にもなるかな。それはおめでたい。」
有難ありがたう。何しろ十三年目だからね。」
「早いもんだな。」
「ほんとにさ。十三年目なんだからね。」
可笑をかしいぢやないか、十三年目がうかしたのかい。」
「うん何だか子供が出来さうなんだよ、何しろ十三年目だからね。」
 聞けば柳川夫人はもう臨月に間もない身体からだださうで、おめでたい訳である。春葉氏の説によると、結婚後一二年で直ぐ出来るやうな、ごく安手な早上はやあがりは別として、少し遅い子供は七年目とか十三年目とかちやんと年期を追うて出来るものなのださうだ。
 してみると、子供の無い者も、心配は十四年目から始めてもまだ遅くない。


美術学校問題

4・22(夕)

 石井柏亭、坂井犀水せいすいの美術学校改革案は、無論ある点では美術学校の宿弊に触れてゐる。正木校長は世間の噂通りに判らず屋の無能だし、その蔭に隠れてにや/\笑つてゐる大村西崖せいがいが、美術界切つての策士であるのは誰も知つてゐる。
 だが、石井柏亭氏後方うしろにも岩村とほるだんといふ茶目が控へてゐる。あの改革案が岩村男の指金さしがねで無かつたら、とつくの往昔むかしに文部省の方でも取りあげてゐたに相違ないといふのは、少しく美術界の消息に通じてゐる者の誰しも首肯する所だ。
 岩村男は洋行帰り当時は、洒脱な交際ぶりと諧謔交おどけまじりの口上手と無学者ばかりの美術界に幾らか本を読んでゐる、もしくは本が読めるといふので重宝がられて、自分でも下手な絵の方はそつちのけに、美術の批評家になりすましてしまつた。
 ところがその美術の批評眼といふのがはなはだ怪しい。文展審査員当時も、出品をじろりと一べつして「まづいな」と顔をしかめて吐き出すやうに言ふが、さういふ口の下から、落款の「石井柏亭」といふ文字が目につくと、打つて変つたやうに「だが、よく見るといね。却々なか/\傑作だよ。」といふやうになつた事もある。
 岩村男は口癖のやうに「八百屋の店先に転がつてゐる大根の曲線が解らぬやうでは裸体美の話は出来ぬ。」と言つてゐるが、世の中には大根の曲線だけが解つて、裸体美の一向解らぬ者が無いでもない。
 誰やらの言ひ草ではないが、美術の批評家には二つの資格が要る。第一には美術が解らぬといふ事だ。第二には解らぬ癖にお喋舌しやべりがしてみたいといふ事だ。この二つを十分に備へたもので、初めて立派な美術批評家といへるが、かうした意味において岩村男を秀れた美術批評家といふのに無論異存はない。
 だが、美術学校改革問題では、むしろ岩村男一派のいふ事に真実があるのだから、美術通を以て任ずる高田文相はこの際同校に思ひ切つた革新が施して貰ひたい。これは極々ごく/\内証話ないしようばなしだが、高田文相も岩村男と同じ意味に於て立派に二つの資格を備へた美術通である。


料理と芸

4・23(夕)

 市内で相応に名を売つてゐる或る鶏肉かしは屋の主人あるじ鶏肉かしはの味はとりおと瞬間ほんのまにあります。」と言つてしかつべらしく語り出す。
「味噌汁をこしらへるのに、味噌の煮え立つ前に、すべつこい焼石やけいしなべ衝込つゝこむものがある。かうすると味噌がはつ吃驚びつくりして、その瞬間に所謂いはゆる味噌の味噌臭い匂ひがくなつて、真実ほんとうの味となる。」
「鶏を料理するにも、この焼石の機転が無くてはならぬ。鶏を安心させておいて、その瞬間にはつと落す。落すにはそれ/″\自分が手につた方法をえらんで差支さしつかへないが、たゞ落すその一瞬間は鶏に気取けどられぬ程の微妙デリケートところが無くてはならぬ。気取られたが最後肉の味はまづくなる。自分は今日まで幾千羽といふ鶏をつぶしたが吾ながらうまかつたと思ふやうなはほんに数へる程しか無かつた。」と。
 巴里パリーの葡萄検査所の横に、銀の塔を看板に出してゐる料理屋がある。三四年ぜんまで其家そこにゐた主人は、家鴨あひる料理の名人で、家鴨を片手でぶら下げながら、一寸庖丁を当てて切つて出すのが得意だつた。その日記を見ると、六十幾つまで二十五年の間三万四千余りの家鴨を料理したと書いてゐる。
 三万四千羽! よくもこれだけの殺生をしたものだと思ふ。
「幾ら職業しやうばいとは言ひながら、そんなに生物いきものを殺す気持はどんなだらう。」
くと、くだん鶏屋とりやの云ふ。
職業しやうばいではありません。職業しやうばいではとても殺生は出来ません。料理は芸の一つで、芸には工夫とそれに附物つきものたのしみといふものがありますからね。」


男女の奉納物

4・24(夕)

 香取秀真かとりほつま氏が法隆寺の峰の薬師で取調べたところにると、お薬師様に奉納物ほうなふものの鏡には、随分すぐれた価値ねうちのものもすくなくなかつたが、同じ献上物けんじやうものの刀剣はみんななまくらで鏡と比べたらてんで談話はなしにもならなかつたさうだ。峰の薬師は祈願を籠めると、霊験れいげんのあらたかなので聞えた仏様で、大願成就の暁には、その祈願者の身につけた物のうちで、一番大切だいじな物を奉納しなければならぬと言伝へになつてゐる。
 身に着けた物のうちで、一番大切だいじな物といふと、往時むかしはいふ迄も無く男には刀、女には鏡で無ければならなかつた。といふ訳で峰の薬師には刀剣と鏡とがどつさりあつて、いづれも素晴しい名作揃めいさくぞろひだといふ噂だつたが、調べてみると鏡には逸品が鮮くないのに、刀は揃ひも揃つてなまくらばかりとは飛んだ愛嬌である。
 これで見ると、女には正直者が多いが、男には仏様の前でもペテンをり兼ねない手合てあひが少くないといふ事になる。ぐわんを掛けて願が叶ふ。掛けた当座は腰の業物わざものを奉納しようと思ひながら、願が叶ふとついそれが惜しくなつて、飛んだ贋物にせもの胡麻化ごまかしてしまふ。お薬師様が刀の鑑定めきゝに下手で、加之おまけに無口だからいやうなものの、しか犬養木堂いぬかひもくだうのやうな鑑定めきゝ自慢で、口汚ない仏様だつたらたまつたものでは無からう。
 しかし今では女も男に負けぬ程ずるくなつた。大隈伯が願を掛けたら、屹度きつと義足を奉納する。貞奴さだやつこだつたら桃介たうすけさんのしんざうでも納めよう。彼等は孰方どちらも、もつと立派な掛替かけがへのあることを知つてゐるから……。


夜の祭

4・25(夕)

 鋳金家の岡崎雪声氏のところへ或る男が牛の彫像を頼みにやつて来た事がある。その男のいふのでは、牛程人間の役に立つものはすくない。田をたがへし、荷車をき、頭から尻尾しつぽさきまで何一つ捨てるところも無い。やくざな軍人の政治家のやうな者が銅像になる世の中に、牛を表彰しないといふ法は無いといふのださうな。
 岡崎氏も人並はづれた牛好きだけに、喜んでその註文を引受けて製作にかゝつたが、くだん註文主ちゆうもんぬしは、牛を馬に乗り替へたものか、その後とんと音沙汰をしないので、岡崎氏は今では身銭みぜにを切つて、こつこつ仕揚しあげに取りかかつてゐる。そして出来あがつた上は太秦うづまさのそれにならつて牛祭を催す事にめて、伊原青々園せい/\ゑん祭文さいぶんを、梅幸ばいかうの振付で、その往時むかし丑之助うしのすけの名にちなんで菊五郎が踊るのだといふ。
 太秦の牛祭は、静かな秋の夜半よなか過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭、宇治の県祭あがたまつりと並んで夜祭の三絶と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の夜祭好きで、東京にそれが無いのを何よりも残念がつて牛祭だけは是非夜の祭にしたいと言つてゐる。――といふのは、氏は何よりも夜が好きなので、いつも夕方になると、ナハチガルのやうに、ふらりと巣を飛び出したまゝ、明方近くまで彼方此方あつちこつちを枝移りして飛び歩くのが癖になつてゐるからだ。
 夜の祭には色々い拾ひ物がある。県祭などにも色々いろんな面白い夢が転がつてゐるのを聞くが、らい山陽なども、その夢を拾つた一にんで、相手は何でも特殊部落の娘だつたらしいといふ事だ。


やなぎの木

4・26(夕)

 摂津の大物だいもつうら片葉かたはあししかきないといふ伝説は古い蘆刈の物語に載つてゐる。
 むかし基督キリストがエルサレムの何とかいふ郊外を通りかかつた事があつた。暖い日で額が汗ばむ程なので、基督は外套を脱いで、そこらの楊の木に引掛ひつかけたまゝ、岡をのぼつて多くの群衆にお説教をしに出掛けた。
 空には小鳥が鳴いてゐるし、おなかには弟子だちが焼いて呉れたこうしの肉が一杯詰つてゐるしするので、基督はこれ迄にない上機嫌で、親父おやぢの神様に代つて、姦通まをとこのほかは大抵の罪はかけ構ひなく、大負おほまけに負けて天国へ通してやつてもいゝやうな事を言つた。実際その日はぶら/\天国へ旅立たびだちでもするには持つて来いといふ日和だつた。
 楊の木は自分の頭にすつぽりせかけられた外套を見た。どこかの金持の女が寄附したらしい立派な毛織で、神様の一人息子が着るのに不足のないものだつた。楊の木は自分にもこんな外套が一枚あつたらなあと思つた。聞くともなしに聞くと、基督は今姦通まをとこのほかは大抵の罪は許してもいゝやうなお説教をしてゐる。楊の木は片足踏み出したと思ふと、外套をかづいた儘こそ/\逃げ出してつた。
 お説教が済むと、基督はいゝ気持で岡の下へおりて来た。見ると外套も無ければ楊の木も見えない。てつきり持逃げされたなと思ふと、基督は楊の木をのろはずには居られなかつた。それ以来その郊外には楊の木は育たなくなつたさうだ。
 自分も基督に劣らぬ上等の外套を一着持つてゐる。このごろの暖い春日和にはそれをいろんな木に懸けて休むが、一度だつて盗まれた事が無い。日本の木は日本の婦人をんなのやうにむやみに外套を欲しがらないものと見える。


男二人女二人

4・27(夕)

 文部視学官の丸山たまき氏は九人の子福者こふくしやで、お湯に入る時には自分が湯槽ゆぶねつかりながら、順ぐりに飛び込んで来る子供達を芋の子でも洗ふやうにあかこすつてやる。それを夫人がタオルで清潔きれいくと、女中が着物をせるといふ手順で子供達をそつくり湯を済ます時分には、親はげんなりと草臥くたびれてしまふといふ事だ。そのせゐかして氏は朋輩ほうばい知人の家に子供が四人もきるといふと、その顔を見るたびに、
「君悪い事は言はないが、もうい加減にしたらうだ。」
と、しみ/″\意見立いけんだてをするさうだ。
 エレン・ケイは子供は男二人女二人が最も理想的だと言つた。――確かエレン・ケイがかう言つたやうに覚えてゐるが、人間は何でも覚えるといふ訳にはかないから、もしかするとケイの言つた事では無かつたかも知れぬが、何だかケイの言ひさうな事のやうに思はれる――実際男二人女二人は何からいつても都合がささうだ。だが、親の間違まちがひで(親といふものはよく間違を言つたり、たりするものなのだ)その四人が五人に殖えたからといつて、何も首をくゝつて死ぬるにも及ぶまい。五人は五人で、その時はまた理論の立て方もある。
 英吉利イギリスの貴族は、恋で平民の娘と一緒になつたり、金で亜米利加アメリカ辺のはねかへりと結婚したりするので、それによつて血統の廃頽を救つてゐると言はれてゐるが、今度の戦争で貴族出の若者の多くは死んだり、傷ついたりしてゐるから、戦後の英吉利は血において最も革命的であらうと目されてゐる。社会上、思想上において英吉利が従来これまで伝統トラヂシヨンを維持してくにはエレン・ケイの所謂いはゆる、男二人女二人ではとて追付おつつくまい。独逸ドイツ仏蘭西フランスでは心配する戦後の人口減少が、英吉利ではその上にまた伝統トラヂシヨンの危機を伴ふところが面白い。


俊子の道連れ

4・28(夕)

 小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の松魚しようぎよはそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司小剣せうけん、正宗白鳥などもちよい/\そのお相手になるが、こんな人達がみんな揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰とのなかはさまるかが一寸問題になる。
 相手は妙齢としごろ縹緻きりやうよしといふでは無し、また別に色つぽい談話はなしをするのでもなしするから、そんなに肩が擦れ合はないでもよかりさうなものだが、そこは男と女だけにまた格別なものと見える。
 けて面白いのは、いゝ加減散歩をして、さてこれから別れようといふ時で、
「俊子は誰と一緒に帰るだらうな。」
とは、言はず語らずの間に、皆の胸に起きて来る疑問なのだ。俊子が一人離れて側道わきみちれてしまへばそれでいゝのだが、帰途かへりの都合からそのなかの一人と途連みちづれになるやうな事があると、あとの二人は何だか物寂しい、だまされたやうな気持になるのださうだ。
 いも甘いも知りぬいた筈の小説家とは言ひ条、男と女だ、無理もないさ――忘れてゐたが、田村俊子は女である。もつとも自分は実地会つてみたといふ訳では無いが、俊子自身のいふのではたしかに女である。


魯庵ろあん友喰ともぐ

4・29(夕)

 新著『きのふけふ』で、今は亡きかずの美妙斎を始め、紅葉、緑雨、二葉亭などの逸事を書いた内田魯庵氏は、友人ともだちの台所の小遣帳から晩飯のさいまで知りぬいてゐるのが自慢で、かくだてをする友人には随分気味を悪がられた程の人だ。
 今では丸善の顧問で、禿げ上つた額をでながら一流の皮肉で納まつてゐるが、時折店の註文帳を調べてみて、A博士は先頃何とかいふ本を取寄せたと思つたら、それが直ぐ論文になつて翌月あくるつきの雑誌に出たとか、B小説家の新作小説は、先日こなひだ月賦払ひでやつと買取つたモウパツサン全集の焼直しに過ぎないとかいふ事を、ごく内々ない/\吹聴ふいちやうするのを道楽にしてゐる。
 むかし笠置かさぎ解脱げだつ上人が、栂尾とがのを明恵みやうゑ上人を訪ねた事があつた。その折明恵は質素じみ緇衣しえの下に、婦人をんなの着さうな、の勝つた派手な下着をてゐるので、解脱はそれが気になつて溜らなかつた。出家の身分で、とりわけ上人とも呼ばれる境涯でありながら、こんな下着を被てゐるとは実際うかしてゐるなと思つた。で、話の途切れに、
「つかない事を言ふやうぢやが、つひぞ見馴れない立派な下着を被てゐられますな。」
と幾らか皮肉の積りで言つてみた。
 すると明恵は言はれて初めて気がいたやうに、
「これでござるかな。」と一寸自分の襟をしごいて見せた。「これはかねて私に帰依きえしてゐる或る町家ちやうかの一人娘が亡くなつたので、その親達から何かのしろにと言つて寄進して参つたから、娘の菩提ぼだいのためと思つて、一寸身につけてゐるやうな仕儀で――えらい所へお目がとまりましたな。」
と言つてつゝましやかに一寸笑つてみせた。
 解脱上人はそれを聞いて、
「要らぬ所へ目がついたな。ほんの一寸のでもそんな所へ心をつたと思へば、明恵の思はくもはづかしい」
と顔から火が出るやうな思ひをしたさうだ。
 何も魯庵氏の事をいふのではないが、世の中には随分緋の下着を見つけたのを自慢に吹聴する者が居ないでもない。――よく断つておくが、何も魯庵氏の事ばかり言つたのではない。


涙と汗の音曲おんぎよく

4・30(夕)

 洋画家の満谷みつたに国四郎氏はこのごろ謡曲に夢中になつて、画室アトリエで裸体画の素描デツサンる時にも、「今はさながら天人てんにん羽根はねなき鳥の如くにて……」と低声こごゑうたひ出すのが癖になつてゐる。
 先日こなひだ備中びつちゆう酒津さかづに同じ画家ゑかき仲間の児島こじま虎次郎氏を訪ねて、二三日そこに逗留とうりうしてゐたが、満谷氏がうかすると押売おしうりに謡ひ出さうとするのを知つてゐる児島氏は、奥の一に子供が寝かしてあるといふのを口実にうまく難をのがれたといふ事だ。
 以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村性禅しやうぜん氏を中心に平曲好へいきよくずきの人達の会合が催されてゐた事があつた。場所は寺町てらまち四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の弾手ひきてが集まつたが、聴衆きゝてはいつも十人そこ/\で、それも初めの一二段を聴くと、何時いつの間にかこそ/\逃げ出して、肝腎の藤村検校けんげうが出る頃には、聴衆きゝては一人も居ないといふやうな事が少くなかつた。
 これではならぬと、仲間の歌詠うたよみ画家ゑかきなすつて貰つた短冊たんざくを五六枚と、茶菓子一皿を景品のつもりで、最後まで聴いて呉れた人に送ることにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の名案も何の役にも立たなかつた事がある。
 人間に馬鹿と悧巧と二いろあるやうに、音曲にも二つの種類がある。一つは涙を流す音曲。今一つは汗を流す音曲。


食物の味

5・1(夕)

 詩人の蒲原有明かんばらありあけ氏は、どんない景色を見ても、そこで何かべねば印象が薄いといつて、かはつた土地へたんびに、土地ところの名物をぱくづきながら景色を見る事にしてゐる。
「僕は景色を見るばかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
とは氏がいつもよく言ふ事だ。
 野口米次郎よねじらう氏は「かへるを食べるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面鳥を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つてゐる。
 つまりこの人達は物を食べる時は、想像をも一緒にくだしてゐるのだ。
 西川一草亭氏はこれとは反対あべこべに、物を食べる時には、その値段から切り離して持前の味のみを味はひいと言つてゐる。甘藷さつまいもやすいからとか、七面鳥の肉は高価たかいからとかいふ、その値段の観念にわづらはされないで、味自身を味はひ度いといふのだ。
 女房と朝飯あさめしと――何方どちら人世じんせいに関係する所が大きいだらうと疑つた者がある。
「なに朝飯さへうまく食べさせて呉れるなら、女房のする事は大抵たいてい見遁みのがしてやるさ。」
と言つたものがある。


栖鳳せいほうの懐中時計

5・2(夕)

 芸術に技巧家があるやうに生活にもまた技巧家がある。尾崎法相の生活は西園寺陶庵侯のそれと比べて技巧がいかにもわざとらしい。中村鴈治郎がんぢらうの生活は片岡仁左衛門にざゑもんや市村羽左衛門うざゑもんのそれと並べてみると、技巧が著しく目に立つ。画家ゑかきでは竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所だ。
 栖鳳と鴈治郎とがある所で落合つた時の挨拶をそばにゐて聞いた者がある。その者の談話はなしによると、二人は柔かい牡丹刷毛ぼたんばけわきの下をくすぐるやうなお上手ばかり言ひ合つて、一向談話はなしに真実がこもつてゐないので、一ことでもいゝから真実ほんとうの事を言はしいと思つて、
「唯今は何時頃でせう。」
いてみた。
 すると、鴈治郎と栖鳳とはめい/\角帯のなかから、時計を取り出してみた。栖鳳氏は言つた。
「私のは三時半です。一寸狂つてやしないかと思ひますが。」
 鴈治郎は一寸時計を振つてみた。
わてのも三時半だす。さつきにから止つてたやうに思ひまんがな。」
 二人は忠実な自分の時計をすらお上手なしには報告出来ないのだ。それを見て取つた第三者は自分の信じてゐる基督の名によつて、二人の懐中時計を持主相応のお上手ものにして欲しいと祈つたさうだ。
 自分の霊魂たましひと自分の女房かないを信じない人も、懐中時計だけは信ずる。その懐中時計をすらお上手なしに報告出来ない人は、世にも不幸ふしあはせな技巧家である。


ニツク・カアタア

5・3(夕)

 飛田とびた遊廓の漏洩問題については主務省と府の当事者とたがひに責任のなすりつこをして、自分ばかりが良いにならうとしてゐる。
 ニツク・カアタアといへば、活動写真好きの茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前巴里パリーにこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、怖毛おぢけふるつて縮み上つたものだつた。時の警視総監は刑事中での腕利うできゝとして知られてゐたガストン・ワルゼエといふ男にこの宝石荒しの探偵を命令いひつけた。
 ワルゼエはよく淫売狩をもつた男で、何でもその当時巴里で名うての白首しろくびを情婦にして、内職には盗賊どろぼうを稼いでゐた。その頃流行の探偵小説から思ひついて、ニツク・カアタアといふ名で宝石屋荒しをつてゐたのが、実はそのワルゼエ自身なので、上官の捜索命令をうけた時は流石さすが苦笑にがわらひをしない訳にかなかつた。所がが悪く徒党なかまの一人がつかまつたので、到頭れて逮捕せられてしまつた。
 自分は知事や警部長などいふ、役人を親戚みうちたないやうに、神様をも伯父さんに持合はせてゐないから、はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。呉々くれ/″\も言つておくが、自分は知事や警部長や神様やを伯父さんには持つて居ない。自分の伯父さん達は何も知らない代りに、何も喋舌しやべらない人ばかりさ。


からすと府知事

5・4(夕)

 悪戯好いたづらずきのある男が弾機仕掛ばねじかけ玩具おもちやの蛇を麦酒瓶ビールびんに入れて、胡桃くるみの栓をしたまゝ瓶を庭先にり出しておいた。すると、食意地くひいぢの張つた鴉が一羽下りて来て、胡桃が欲しさに、瓶の栓をくちばしくはへて力一杯引張つた。胡桃の栓がすぽりと抜けると、弾機仕掛の蛇がぬつと鎌首を出した。吃驚びつくりした鴉は一あしあし後方うしろ退しさつて、じつと蛇の頭を見てゐたが、急に厭世的な顔をしたと思ふと、そのまゝひつくりかへつて死んでしまつた。
 悪戯好いたづらずきの男は不思議に思つて、鴉を解剖してみると、心臓が破裂してゐたさうだ。遊廓問題に行き悩んでゐる府知事の智慧袋ちゑぶくろのやうに、かさの小さい鴉のしんの臓は、この怖ろしい出来事に出遭つてうにも持堪もちこらへる事が出来なかつたのだ。――と言つて、別段笑ふにも当るまい、鴉は維新三傑の子息むすこでは無かつたのだから。
 ある時英国の一文豪が下院の演壇に立つて、
「諸君吾輩が考ふるに……」
しかつべらしく言つてその儘口を閉ぢた事がある。しばらくして文豪はまた口を開いた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
 つまつた文豪は洋盃コツプの水をんで勢ひをつけた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
 こゝまでぎ直して来て、また黙りこくつてしまふと、皮肉な一議員は議長を呼んだ。
「議長。尊敬すべき議員は三たび考へられましたが、到頭何一つお考へになりませんでしたな。」
と半畳を入れたので、弁士は満場の笑声わらひごゑのなかに顔を火のやうにして引き下らねばならなかつた。
 大久保知事は、遊廓問題について府会の十七人組の前で、二十八日迄に何とか考へると約束しながら、その英国の文豪と同じやうに何一つ考へなかつた。――それに何の無理があらう、物を考へるにはなかなか高価な材料が要る。府知事は誠実らしい顔付と、人形のやうな夫人と、流行はやりの山高帽とそのほか色んな物を持つてはゐるが、唯一つ肝腎な物を持合はさない。肝腎な物とは他でもない、「勇気」である。


5・5(夕)

 陰陽博士おんやうはくしで聞えた安倍晴明あべのせいめいの後裔が京都の上京かみぎやうに住んでゐる。ある時日のかたいそあしで一条戻り橋を通りかゝると、橋の下から、
安倍氏あべうぢ々々」
と言つて自分の名を呼ぶものがある。立停たちどまつてみると、附近あたりには誰一人姿は見えない。
 安倍氏あべしじつと耳を傾けた。声は橋の下から聞えて来るらしい。かすめたやうな調子で、
「自分はもと洛中を騒がした鬼だが、余り悪戯いたづらが過ぎるとあつて貴方あなたの御先祖安倍晴明殿のために、この橋の下にふうぜられてしまつた。晴明殿はその後私の事などはすつかり忘れて了はれて、程なく亡くなられ申したが、私こそいゝ災難で、橋の下に封ぜられたまゝあつたら千年の月日を過ごして了つた。うか一生のお願ひだから封を解いて貰ひ度い。」
と言ふのだ。
 安倍氏は亡くなつた父親おやぢの遺言にも、鬼の事は一向聞いて居なかつたので流石さすがに一寸驚いた。家へ帰つて色々古い書物をあさつて見ると、封を解く呪文じゆもんだけはうにか了解のみこめたが、さて封を解いたものかうか一寸始末に困つた。
「折角先祖が封じたものをほどいて、もしか鬼が知事か警部長かの耳の穴にでも入つて、何処かのやうに遊廓でも建て増されては溜らないからな。」
 安倍氏はかうも考へたので、その後はどんな急用があつても、戻り橋だけは通らない事にめてゐると聞いた。
 新約全書の鬼は豚の尻の穴に逃げ込んだので、豚はすつかり気が狂つて海に入つて死んで了つたさうだ。安倍氏も一つ思ひ切つてその鬼を戻り橋の下から引張り出して大学の構内にでも追ひ込んだら面白からう。那辺あすこには頭に鬼の入るだけの空地あきちつた学者がちよつと居る筈だから。


月郊と床柱とこばしら

5・6(夕)

 最近に『東西文学比較評論』といふ著作を公にした高安たかやす月郊氏は飄逸へういつな詩人風の性行をもつて知られてゐる人だが、ずつと以前自作の脚本を川上音二郎一派の手で新富しんとみ座の舞台にのぼした事があつた。
 ある日の事、月郊氏が幕間まくあひの時間を川上の楽屋で世間話に過してゐると、そこへその当時の大立物伊藤春畝しゆんぽ公が金子堅太郎、末松謙澄けんちようなどいふ子分を連れてぬつと入つて来た。何でも御贔屓ごひいきがひにしばゐを見に来たのだが、いつもの気紛れで貞奴さだやつこでも調弄からかはうと思つて楽屋口をくゞつたらしかつた。
 川上夫妻は狭つ苦しい自分の楽屋に、鷹揚な伊藤公の姿を見つけたので流石に一寸どぎまぎした。見ると床の間の上座じやうざには作者の月郊君が坐つてゐる。公爵などいふものは、床柱か女かの前で無ければ坐るべきものでないと思つてゐる川上は、成るべくなら、床柱と女房との真中に公爵を坐らせてみたかつた。で、すがめのやうな眼つきをして一寸月郊君の顔を見た。
 月郊君もうやら川上のこゝろは察したらしかつたが、実は伊藤公とは生れて初めての同座で、今後またこんな機会があらうとも思はれない。それに自分は今度のしばゐでは作者であり、伊藤公は普通たゞ観客けんぶつに過ぎない。作者が観客けんぶつに座を譲るやうな気弱い事では作者冥加みやうがに尽きるかも知れないからと、そのまゝ素知そしらぬ顔でじつと尻をおちつけてゐた。
 流石に伊藤公は無頓着むとんぢやくで、悪い顔もせず、入口にどかりと胡坐あぐらを掻いたまゝ、例の女の唇を数知れずめた口元をゆがめながら、芝居話に興じてゐたが、お伴の小さい政治家二人は苦り切つた顔をして閾際しきゐぎは衝立つゝたつてゐたさうだ。
 何によらず小さいのはみじめなものだが、とりわけ政治家の小さいのは気の毒なものだ。


父と子

5・7(夕)

 この頃京都図書館長を辞めて早稲田大学の図書館に転ずるとかいふ湯浅半月氏は、例の女買ひについてしきりと噂を立てられてゐるが、流石に口上手の男だけに、別に弁疏いひわけがましい事もせず、
「京都にはもう飽いたからな。」
と言つてゐる。
 女買ひをするにも、昵懇なじみになると面倒だからといつて同じ女を滅多に二度とばないのを自慢にしてゐる位だから京都に飽いたといふのに無理も無いが、この評判の女買ひを肝腎の湯浅夫人だけは今日まで少しも知らなかつたさうだ。
 湯浅夫人は神戸の女学院にゐた頃、書庫の図書を一冊も残らず読み尽したといふ程の読書人で、図書館長としては半月氏よりも、ずつと適任者であるが、堅い基督信者クリスチヤンで、終始しよつちゆう神様のおそばに居過ぎたせゐで、つい人間の事を忘れてしまつたらしい。
 神様といふものは随分費用のかゝるものだが、その中で新教プロテスタントの神様は質素じみで倹約で加之おまけ涙脆なみだもろいので婦人をんなには愛されるほうだが、余りに同情おもひやりがあり過ぎるので、時々困らせられる。
 半月氏はいつも笑ひ話しに、
「僕の父は金儲かねまうけと道楽が好きだつたが、性来うまれつき父に及ばない僕等兄弟は父の才能を二人で分担して、兄は金儲を、僕は道楽の方をる事にめてゐるのだ。」
と言つてゐる。半月氏の兄といふのは、洋画家湯浅一郎氏の阿父おとうさん治郎氏のことだ。
 子息むすこの才能の総和が親爺おやぢのそれに匹敵するのはうにか辛抱出来るが、大久保甲東の息子達のやうなのは一寸……。


5・8(夕)

 少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けてある料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きなをんなを相手に夕方から夜半よなか過ぎまで立続たてつゞけに呷飲あふりつけたので、大分だいぶん酔つ払つてゐた。
 街灯のともつてゐない真ツ暗がりに、Kは自分の鼻先にのひよろ高い男が立塞たちふさがつてゐるのを見たので、ぱらひがよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないのでKは少し※(「弗+色」、第3水準1-90-60)むつとした。
「さあ、退いた/\。たての法学士様のお通りだぞ。」
 Kはとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一すんも身動きしようとしなかつた。
 喧嘩早いKは、いきなりこぶしをふり揚げていやといふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、Kを見下みおろしてにや/\笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、やけにいきり立つて、
「野郎かうして呉れるぞ。」
といきなり両手を拡げて武者振むしやぶりついたと思ふと、力一杯頭突づつきを食はせた。法律の箇条書かでうがきで一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空殻あきがらを投げたやうに、かんと音がした。
 Kは脳振盪なうしんたうを起してそのまゝひつくり返つて死んでしまつた。相手は相変らず身動みうごきもしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つたKは夜目よめにそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。
 Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭のむきが違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、かんと音のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣き/\向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。


魔法使まはふづかひ

5・9(夕)

 役人に嘘吐うそつきが多いやうに瓜哇ジヤワ人には魔法使が多い。日本の女で馬来マレー半島に住んでゐる仏蘭西人のめかけが、ある時国許くにもとに送つてらなければならぬ筈の金銭かねの事で心配してゐると、そこへ瓜哇の魔法使が通りかゝつて、
「お前は金銭かねの事で屈託してゐるらしいが、さう心配するが物はない。今日午過ひるすぎに、お前の主人が頭が病めるといひ出す。その折お前は何となくねむつぽくなるだらうからそれをきつかけに主人に相談してみろ、屹度きつと金銭かねは出来る。」
と言つて教へて呉れた。
 女は不審しながらも、魔法使の事はかねて聞いてゐるので幾分いくらか待心まちごゝろで居ると、午過になつて案の定主人が頭が病めるといひ出し、自分は睡つぽくなつて来た。こゝぞと思つてお金銭かねの一件を相談すると、主人は二つ返事で重い財布を投げ出して呉れたさうだ。
 瓜哇の魔法使は又かういふ事をする。多くの人の見る前で、砂を盛つた植木鉢へコスモスの種子たねなどをいて、じつと祈祷きたうこらす。すると種子たねはじけて芽はぐん/\砂を持上げて頭を出して来る。一寸二寸とまたゝうちに茎が伸びたと思ふと、最後に小さい花がぱつと開く。ゐざりを立たせた基督だつて、これ以上の不思議は出来まいと思はれる程だ。言ふ迄もなく基督は神様のお坊ちやんで、瓜哇の魔法使は乞食坊主である。
 日本の魔法使も、埃臭ほこりくさ飛田とびたの土の中から、コスモスの芽生めばえには似てもつかない色々いろんな物を見せてくれる。業突張ごうつくばりの予選派のつらくひしん坊の同志会の胃の腑。泥だらけな市長の掌面てのひら……。


女の親切

5・10(夕)

 むかし津山藩主の何とかいつた奥方は、余程悋気深りんきぶかたちだつたと見えて、殿の愛妾をめ殺した上、太腿の肉を切り取り、それをあつものにして何喰はぬ顔で殿が晩酌の膳にのぼしておいた。殿が何の肉だとくと、
貴方あなた様の御好物でございますよ。」
といつて、にやりと笑つたといふ事だ。
 大和やまと屋のをんな浜勇は、亡くなつた秋月桂太郎とい仲だつたが、いつだつたか秋月が病気の全快祝に、赤飯あかめしだけの工面はついたが、帛紗ふくさの持合せが無いので思案に余つて浜勇に相談した事があつた。浜勇にしても色気は有り余る程たつぷり持合せてゐるが、肝腎のおあしといつては一もんも無かつた。といつて男の頼みを無下むげに断る訳にもかなかつたので、思案の末がたつた一枚きりの縮緬ちりめんの腰巻をはづした。
「これなと染替そめかへておこ。」
といつて新しく色揚いろあげをして、帛紗に仕立てて間に合はせたさうだ。
 画家ゑかきのミレエの細君は貧乏で食べる物が無くなつた時には、雲脂ふけだらけな頭をした亭主を胸に抱へて、麺麭パンの代りだといつて、熱い接吻キツスをして呉れたものださうだ。
 尾崎テオドラ夫人は、「主人やどは国事に頭を使つてゐるから、家庭では成るべく気をつかはないやうに静かにさせてゐる。とりわけ食事は女中任せには出来ないから」といつて手製のオムレツばかりを頬張らせてゐるさうだ。
 散銭ばらせんに色々文字替りがあるやうに、顔立かほだちけると女にも色々種類はあるが、大抵はみんな男に親切なものさ。


雪舟と禿山はげやま

5・11(夕)

 講道館の嘉納治五郎氏は、書画をたのしいが、正真物しやうしんものの書画は値段が張つてとても買へないからといつて、書画代用の妙案を実行してゐる。
 それは他でもない相模や紀州の海岸で、人里離れた、眺望のいゝ山を買込んで、自分の別荘地としておくのだ。別荘地といつたところで、掘立小屋一つ建てるのでは無く、夏になると、南向きの恰好な足場に天幕テントを張つて、飯だけは近くにある田舎町の旅籠屋はたごやから運ばせる事にして、日がな一日天幕テントを出たり入つたりして自然を娯むのだ。
真物ほんものの山水のなかへひたつて、自分も景物の一つになつて暮らす気持は、雪舟の名幅を見てるよりも、ずつと気が利いてるからな。」
と氏は言ひ/\してゐる。
 そんなだつたら何も自分で山を買はなくとも、何処どこでも構はない景色の土地ところへ勝手に天幕テントを持込んだらよかりさうなものだが、嘉納氏に言はせると、さうはかない。
「人間には所持慾つて奴があつて自分のものにしないでは落付おちついて娯まれないのだ。兎一つまないやうな禿山だつて自分のものにするとまた格別だからな。」
 成程なるほど聴いてみれば無理もない。世の中には髪の毛一本生えてない禿頭を、自分の持物だといふだけで、毎朝磨きをかけてゐる人間もある事だから。
「相模や紀州の突端とつぱなだけに、往来ゆききが不自由で、さう/\は出掛けられないが、しかし雪舟の名幅だつて、何時いつも掛け通しにして置く訳のものでは無い。一年に一度が精々なのを思ふと、夏休みに一度でも禿山を見舞つたら、それで十分ぢやないか。」
と言つてゐる嘉納氏は、
「さういふ雪舟代用の山だつたら、一度見せて貰ひ度いものだ。」
愛相あいそを言ふ人があると、急に顔の相好さうがうを崩して、
「是非見て貰ひ度い、富豪かねもちが雪舟を見せ度がる格で、禿山でも自分の者になると、矢張やつぱり見て貰ひたくてなあ。」
 風景画好きの嘉納氏が、雪舟の代りに禿山を掘出したのは面白いが、そんぢよそこらの美人画好きも、春章しゆんしやうや歌麿の美人画代りに、きた女菩薩によぼさつでも探し出して、腰弁当でちよく/\出掛けたらどんな物だらう。


借金の名人

5・12(夕)

 森田草平さうへい氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でもついふら/\となつて、たつた一人しかない女房かないを誤魔化してでも金をこしらへてやり度くなるといふ事だ。
 一部の画家ゑかき仲間に天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人で、どんな画家ゑかきでも出合頭であひがしらにこの男と打衝ぶつつかつて二ことこと話してゐると、慈善会の切符でも押し付けられたやうに、つい懐中ふところから財布が取り出したくなるといふ事だ。もつと画家ゑかきなどいふものは、無駄口と同情おもひやりひとばい持合せてゐる癖に、金といつては散銭ばらせん一つ持つてないてあひが多いが、さういふてあひは財布をける代りに、青木氏を自分のうちに連れ込んで、一つきつき立養たてやしなひをしたものださうだ。
 青木氏が東京に居られなくなつて浴衣ゆかた一枚で九州おちをした事がある、その折門司もじか何処かで自分が子供の時の先生が土地ところの小学校長をしてゐるのを思ひ出した。青木氏は倒れ込むには恰好のうちだとは思つたが、流石に着のみ着のまゝの自分の姿が振りかへられた。
 所へ魚釣うをつり帰途かへりらしい子供が一人通りかゝつた。手には小鮒こふなを四五ひきげてゐる。青木氏は懐中ふところ写生帖スケツチブツクから子供の好きさうなを一枚引き裂いて、それと小鮒の二尾程とかへつこをした。
「いゝ物が手に入つた、これさへあれば大手おほてを振つて先生のうちへ倒れ込まれる。」
 青木氏は独語ひとりごとを言ひ/\、久し振に校長のうちを訪ねた。校長は玄関へ飛び出して来た。(念の為言つておくが、学校教員といふものは自宅うちでは玄関番をしたり、子供の襁褓おしめを洗つたりするものなのだ。)
 青木氏は校長の顔を見て、
先日こなひだから門司へ写生に来てゐましたが、今日は一寸釣りに出掛けて、おかどを通り掛つたものですから……」
と言つて蠱術まじなひのやうに小鮒を校長の鼻先で振つて見せた。校長は、
「さうか、よく訪ねて呉れた。」
といつて、手をばかりにして、青木氏を座敷へ引張り上げた。
 何処をう言ひ繕つたものか、青木氏はそのまゝつき程校長のうちに平気でごろ/\してゐたさうだ。――これを天才といふに何の不思議もない筈だ。他人が顔をあかめないでは居られない事を、平気でつて退ける事が出来るのだもの。


太陽にれた人

5・13(夕)

 月の終りにはタゴオルが来る、七月にはゴリキイが来ると聞いてゐるのに、今度はまた露国詩壇の革新者コンスタンチン・バリモントが来るといふ噂が伝はつてゐる。
 バリモントは仏蘭西のユゴオのやうに太陽と美との熱愛者で、その名高い詩集にも『太陽のやうに』といふのがある位だ。この詩人が文壇に立つてから、二十五年目の記念会が三四年ぜんペテルブルグ大学で開かれたことがあつた。その折ブラウン教授の挨拶に、
「バリモントがこの世に生れたのは太陽を見るためだつた。太陽はこの詩人の心をゆたかに、その夢を黄金にした。太陽はその詩のいづれもに燃えてゐる。」
と言つた程、お天道様てんとさまに惚れてゐる人なのだ。この人が暗い淋しい露西亜を出て、明るい陽気な「日出づる国」へ旅立するのに不思議はない筈だ。
(その自伝によると)バリモントは五歳いつつの時に、婦人をんなを見るとぽつと顔をあかめるやうになり、九歳こゝのつの時には真剣に女に惚れるやうになり、十四の時に肉慾を覚えたと言つてゐる。五歳いつつといへばまだミルク・キヤラメルの欲しい年頃だ、日本では『好色一代男』の主人公が腰元の手を取つて、「恋は闇といふ事を知らずや」といつたのは、確か七歳なゝつだといふから、バリモントはそれ以上の早熟ませた子供で、その頃から乳母ばあやにお尻を叩かれては、くす/\喜んでゐたに相違ない。
 二十二歳の時、友達が自殺をしたのに感化かぶれて、三階の窓から下の敷石を目がけて身投みなげをした事があつた。骨は砕けて、身体からだ血塗ちまみれになつたが、不思議と生命いのちだけは取り留めて、それからはずつと健康たつしやでゐる。バリモントは後にその折の事を思ひ出して、
「お蔭できずなほつてからは、人間も一段と悧巧になり、従来これまでのやうに鬱々くさ/\しないで、その日その日をたのしむやうになつた。」
と言つてゐる。
 女がお産をして強くなり、色男が女に捨てられて賢くなる格で三階から飛下りて吃驚びつくりしたのでそれ迄皮膜かはかぶつてゐた智慧が急にはじけ出したのだ。それを思ふとやくざな知事や大臣は紙屑のやうに一度三階からり出してやり度くなる。


死人の下駄

5・14(夕)

 人間といふものは、生れて来る時下駄げた穿いて来なかつたせゐか、身投みなげでもして死ぬる時は屹度きつと履物はきものを脱いでゐる。それも其辺そこらへだらしなくり出さないで、きちんと爪先つまさきを揃へたまゝ脱ぎ捨ててゐる。まるで借りた物を返すといつた風だ。得て投身みなげでもする人は、借りた金を返さないやうなてあひに多いが、履物だけは自分の持合せでありながら借物ででもあるやうにきちんと取揃へてゐる。だから芝居でもそれにならつて、舞台で情死者しんぢゆうものの身投をする時には、俳優やくしやきまつたやうに履物を揃へる。
 それも古風な身投などの場合に限らず、電車や汽車で轢死れきしをする場合にも、履物だけはちやんと揃へてゐるから可笑をかしい。どんな粗忽屋そゝつかしやでも下駄を穿いた儘で軌道レールに飛び込むやうな無作法な事はしない。家鴨あひるが外套を脱いで鴨鍋へ飛び込むやうに、自殺でもしようといふ心掛こゝろがけのある者は、履物を脱ぎ揃へて軌道レールに横になる位の儀式はちやんと心得てゐる。
 電車の車掌なども、轢死者があつた場合は、其奴そいつが男か女か、老人としよりか子供か、馬鹿か悧巧かを吟味する前に、先づ履物を調べる。そして履物がちやんと揃へて脱ぎ捨ててあるのを見ると、
めた。やつぱり自殺だつた。」
と、ほつと胸先を撫でおろすさうだ。だから間違つて電車にき殺される場合には、成るべく履物を後先あとさきへ、片々かた/\は天国へ、片々かた/\は地獄へ届く程跳ね飛ばす事だけは忘れてはならない。さもないと、自殺にめられて、慰藉金ゐしやきんも貰へない上に、理窟の立たない厭世観さへかされるやうな事になる。
 同じ淵でも身投をする場所は大抵きまつてゐるやうに、長い電車線路でも轢死する場所は、大抵見当がついてゐるさうだ。だから、ずるい運転手になると、その区間だけは速力の加減をする事を忘れない。
 もしか大隈伯が身投でもする場合には、矢張やつぱり履物を脱いで、義足を露出むきだしに死ぬるだらうかと疑つた者がある。すると、いやあの人の事だ、死ぬ前に義足は割引で売つてしまふだらうと言つたものがある。


性慾

5・15(夕)

 トルストイ伯は、息子のイリヤが十八歳の頃、ある日屏風びやうぶの裏表で背中合せになつて、
「イリヤ、こゝでは誰も聞いては居ないし、私達もお互に顔が見えないから、恥かしい事は無い。お前は今日まで女と関係した事があるかい。」
と訊いた。
 息子のイリヤが、
いゝえ、そんな事はありません。」
と答へると、トルストイは急に欷歔すゝりなきをし出した。そして子供のやうにおい/\声を立てて泣き出すので、息子のイリヤも屏風の裏でしく/\泣き入つたといふ事だ。
 トルストイは私に相談して泣いた訳でも無かつたから、何故なぜ息子の返事を聞いて泣き出したか解る筈もないが、察する所、自分が若い頃の不品行ふみもちに比べて、息子の純潔なのについ知らず感激させられたものらしい。
 新渡戸稲造博士は、自分が近眼ちかめの原因をある学生に訊かれた時、次のの夫人に聞えないやうに声を低めて、
「無論本も読んだには読んだがね、しかし本を幾ら読んだからつて、人間は近眼ちかめになるものぢやない。僕は学生時代にね……」と『英文武士道』の表紙のやうに一寸顔をあかくして「気恥しい訳だが、性慾の自己満足を余りり過ぎたもんだでね……」
と言つて、口が酸つぱくなる程性慾の自己満足を戒めたさうだ。
 新渡戸博士が自分の近眼ちかめと性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔してるのはい事だが、世の中には近眼者ちかめといつても沢山たくさんる事だし、その近眼者ちかめが皆が皆まで博士のやうな「良心」を持合せてゐまいから、たつ近眼ちかめを恥ぢよと言つた所でさう/\恥ぢもすまい。
 セントアントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、なほはたの人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとしてあらゆるふざけた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。
 男の聖者ひじりが多く女の聖者ひじり渇仰かつがうするに対して、女の聖者ひじりは大抵男の聖者ひじり帰依きえをする。ロヨラは聖母マリヤの信仰家であつたが、婦人の多くはナザレの耶蘇ヤソと精神的結婚を遂げてゐるのだ。もし耶蘇があの年齢としで髪の毛の縮れた女房かないでも迎へてゐたなら、大抵の女は教会で欠伸あくび居睡ゐねむりかをするだらう。実際女は猫のやうなもので、鼠のゐない時には屹度きつと欠伸か居睡りをする事を知つてゐる。


しらみ

5・16(夕)

 今日阪神電車に乗ると、私の前にとしの頃は四十恰好の職人風らしい男が腰をかけてゐた。木綿物もめんものだが小瀟洒こざつぱりした身装みなりをしてゐるのにメリヤスの襦袢シヤツのみは垢染あかじんで薄汚かつた。てきつた鎧戸よろひどに鳥打帽の頭を当てがつて、こくり/\居睡ゐねむりをしてゐたが、電車が大物だいもつを出た頃に、ひよいと頭を持ち直して、ぱつちり眼をけた。そして手早く胸釦むなぼたんを外して、シヤツを裏返したと思ふと、指先に何かちよつぴりつまむで左の掌面てのひらに載つけた。――よく見ると、会社の重役のやうに血を吸つて真紅まつかになつてゐるしらみなのだ。
 虱は慌てて其辺そこらひ回つたが、職人の掌面は職人の住むでゐる世界よりもずつと広かつた。虱は方角をそくなつて中指にのぼりかけた。生れて唯の一度も運を掴んだ事のない掌面だけに、指も普通あたりまへよりはずつと短かつたので、虱は直ぐと指先にのぼりきつた。
 職人はわざと皆に見えるやうに中指を鼻先に持つて来て、四辺あたりを見越してにやり笑つた。この無作法な素振そぶりを見て誰一人怒り出さうともしなかつた。皆は顔を見合せて苦笑ひするより外に仕方が無かつた。
 のみつぽけな馬車をかす蚤飼の話は噂に聞いてゐるのみで、実地見た事はないが、虱は唯もうその辺を這ひ回るのみで、芸人としては一向価値ねうちが無い。
 職人は暫くそんな悪戯いたづらをしてゐたが、最後にたもとを探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火をつて虱の背に当てがつた。この懶惰なまくらな芸人は手脚てあしをもじもじさせてゐたが、ぴちぜたやうな音がしたと思ふと、身体からだはそのまゝ見えなくなつてしまつた。ちやうど耶蘇の死骸が墓のなかで紛失ふんじつしたやうなもので、不思議は四福音書にあるやうに、職人の掌面にもあるものなのだ。
「人は自分の蚤を殺すには、自分の流儀を使ふ外には仕方が無い。」
――仏蘭西人はよくこんな事をいふが、真実まつたくだなと思つた。


女の手

5・17(夕)

 少し談話はなしが古いが、日独の国交が断絶して、独逸の日本留学生が一まとめに店立たなだてを食はされた時の事、皆は和蘭オランダ経由で英吉利イギリスに落ち延びようとして、日をめて一緒に伯林ベルリンのレアタア停車場ていしやぢやうつた。
 何がさて、急場の事なり、書物や古履ふるぐつ日本魂やまとだましひなどいふ、やくざな荷厄介な物は、みんな一纏めに下宿屋の押入に取残したまゝ逃げて来たので、みんな腑抜ふぬけのやうな顔をして溜息ばかりいてゐた。もしか兵隊さんの大きなつらが窓越しにのぞきでもしようものなら、みんな護謨毬ごむまりのやうに一度に腰掛から飛上とびあがつたかも知れない。
 汽車がレアタアの次ぎの駅に着くと、一人の若い娘が入つて来て空席に腰をおろした。それを見ると其辺そこらの黄いろいしなびた顔が一度にいたやうに明るくなつた。――それに何の無理があらう、娘の直ぐ隣には、A医学士がゐる。医学士は、女をパラピンのやうに掌面てのひらに丸め込む事に馴れてゐる男だ。
 皆は言ひ合せたやうに、眼を閉ぢてねむつた風をしてゐた。医学士は娘に向つて、一言二言話してゐるうちに、いつも女をたらす折にするやうに、掌面の講釈を始めた。支那の哲学者が言つたやうに(A医学士は哲学者とか袋鼠カンガルウとか自分の知らない物は悉皆みんな支那にんでゐると思つてゐるのだ)人間一生の「幸運しあはせ」は掌面の恰好と大きさとに現れてゐるといふ前置まへおきで、
「お嬢さんのと僕のと、何方どちらが掌面が大きいのでせう、一つ比べてみませんか。」
と言つて、安々やす/\と娘のあたゝかさうな掌面と不恰好な自分のをぴたりと合せたと思ふと、そのまゝじつと握り締めた。
 狸寝入の連中は、もう胸をわくわくさせ出した。娘が別に振切らうともしないのに味をしめた医学士は、まるまつちい娘の首根つこを抱いたと思ふと、いきなり唇を鳴らした。
「うまい事をつたのう。」
 直前すぐまへのK法学士が、たまらなささうにわめいて眼をくと、皆は一度に眼をいて笑ひ出した。娘はとう/\居溜ゐたゝまらなくなつて次のに逃げ出したさうだ。
 国境へ立退きのどさくさにも、まだ女の唇を忘れないのは流石さすがに医者だけある。医者といふ者は、死人の枕もとに坐つて、薬代の胸算用が出来る程余裕のある人間だ。
 メフイストフエレスは若い学生に、女の手を握らうと思へば医者になれと勧めた。実際医学ほど詰らぬ学問も少いが、たつた一つ女の手が握れるので埋合せがつく。


漱石氏と黄檗わうばく

5・18(夕)

 京都に今歳ことし八十幾つかになる老人としよりで、指頭画しとうぐわの達者な爺さんがある。古い支那画しなゑなどを指頭ゆびさき※(「暮」の「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88)うつすが、なか/\上手だ。夏目漱石氏が先年京都に遊びに来てからは、
「京都では別にこれといつて気に入つた物もないが、唯黄檗と指頭画とには悉皆すつかり感服させられた。」
と言ひ/\してゐる。
 指頭画は下らぬ芸で、大雅堂なども一しきりこれに凝つた時代があつたが、友達に戒められて思ひとゞまつてしまつた。
「何故黄檗がいんだらう。」
といふと、
「一体お寺の本山などいふものは、山の腹か頂辺てつぺんかに建ててある。見るとけはしく落つこちさうで危い。そこになると、黄檗はあの通り平地ひらちに建つてゐるので、廓然からりと気持がいゝつたらない。」
と言つてゐるが、実の所は胃病持だけに高い所は息切れがして堪らないせゐらしい。
 漱石氏は近頃よくまづく。臆面もなくまづい画をく。正岡子規は画をかくのに、枕頭まくらもとに草花や果物を置いて、よく写生したものだが、漱石氏は一向写生といふ事をしない。他人ひと手器用てきようにさつさと筆をなすつてくのを見ると、羨ましさうにちよつと舌打をして、
「画つてものは、そんなに忙しさうにいちや駄目だよ、ゆつくり落着いて掛らなくつちや。」
と言ひ/\、子供のやうに長く寝そべつて、だらけた胃袋を畳の上に投げ出しながら、何ぞといふと黄檗のやうなお寺の屋根瓦を一枚一枚きにかゝる。そしてそれが出来上ると、今度は黄檗で見たやうな松の樹を描いて、克明にも松の葉を一本々々つけてゆく。
「そんな出鱈目でたらめな山水なぞかないで、何か写生したらよかりさうなものだ。」
といふと、にやりと笑つて、黄檗の禅坊主がするやうに、いかにも意味がありさうに一寸指先きで自分の胸元を指して見せる。そこには黄檗に似てもつかない弱い胃の腑が溜息をいてゐる。


狐と狸

5・19(夕)

 兵庫には化狸ばけたぬきと間違つて婆さんを叩き殺した者があるさうだ。西洋のある学者はみぞれの降る冬の日に蝙蝠傘かうもりがさをさして大学から帰る途々みち/\、家へ着いたなら、蝙蝠傘を壁にたてかけて置いて、自分は暖炉ストーヴに当つて暖まらうとたのしみに思つてゐるうち、うち辿たどり着く頃には、すつかり自分と蝙蝠傘とを取り違へ、傘を暖炉ストーヴに暖ためながら、自分はよつぴて壁にもたれてゐたといふことだ。学者でさへ蝙蝠傘と自分とを取違へる世の中だ。馬鹿者が婆さんを狸と見違へるに無理もない筈だ。
 狸退治の極意を一寸こゝにお話すると、(うか成るべく口の中で低声こごゑで読んで欲しい、さもないと狸が立聞たちぎきするかも知れないから)狸はよく雨夜あまよに出て悪戯いたづらをする。春雨のしと/\降る折、夜道を一人通ると、だしぬけにからかさが重くなる事がある。
「狸だな、やい誰だと思つてるんだ。見違ふない。」
 独語ひとりごとを言ひ/\、てつきり狸がからかさの上につかゝつてゐるものと思つて、誰でもが唯もう無中むちゆうになつて頭の方ばかり気にする。
 だが、これは飛んだ間違ひで、実はこの時狸はからかさにぶら下つてゐるのだ。だから夜途よみちで雨傘が重くなつたら、いきなりこぶしを固めていやといふ程柄の下をなぐつてみる。すると狸はそのまゝ気絶をするか、さもなければつくばつて屹度きつと謝罪をする。
 ついでに狐退治の極意を披露すると、田舎の一軒屋などでは、夜が更けると狐がとん/\とを叩いて悪戯いたづらをする事がある。その時狐は後向うしろむきになつて持前の太い尻尾でさはつてゐるのだ。さういふ折には何気ない調子で、
「どなた?」
と訊いておいて、暫くしてからを開けると、狐は屹度其辺そこらの小陰に身を潜めてゐる。
 わざとぶつくさ言ひながら、またて切ると、直ぐあとからとん/\と聞える。
「どなた?」
を開けると、狐はう居ない。三度目が愈々いよ/\正念場しやうねんばで、を閉めて暫く待つてゐると、きようにはづんだ狐の脚音がして、尻尾のに触る音が聞えたか聞えぬかに、矢庭やにはを引開けると、後向きに尻尾を振りあげた狐は、はづみをつて閾越しきゐごしに庭に転げ込んで来るので、直ぐ手捕てどりにする事が出来る。
 以上狐狸こり退治の秘伝、親類縁者たりともごく内々ない/\の事内々の事。


俘虜ふりよ研究

5・20(夕)

 伊予の松山は日露戦争以来このかた俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から彼地あすこの実業家井上かなめ氏は色々いろんな方面の報道を集めて俘虜研究をつてゐる。
 井上氏の言葉によると、露西亜の俘虜は一向研究心が無いから、長い間日本に居ても、日本語はからきし判らなかつたのに、独逸の俘虜は大抵日本語が解る。解るのみならず、上手にそれを操る事が出来る。
 物を買ふにも、露西亜の俘虜は行きつけの店へ入つて、お昵懇なじみの積りで笑顔の一つも見せる事を知つてゐるが、独逸の俘虜には一向きつけの店といふものが無い。くつした一つ買ふにも、市中の雑貨商を二三軒歩き廻つた上、一番やすい店で買ふ事にする。
 露西亜人は俘虜になつても、自分は大国の国民だ、沢庵たくあんかじつて、紙と木片きぎれとで出来上つた家に住んでゐる日本人などと比べ物にはならないといふので、日本人が滅多に手も着けない飛切とびきりの上等品を買込むが、独逸人は夢にもそんな贅沢な真似まねはしない。買ふ物も買ふ物も、みんな日本人が手に取らうともしない下等品で、値段が廉くさへあれば、喜んで買ひ取る。
 だから露西亜の俘虜は何時でも借金だらけで「霊魂たましひ」が抵当かたになるものなら、書入れに少しの躊躇ちうちよもしないが、可憎あひにく日本では「霊魂たましひ」の相場が安過ぎるので詮事無せうことなしに自分達が本国から送つて貰ふ筈の月給を抵当に、行きつけの店から借り出すものが多かつたが、独逸人は借金どころか毎週きまつたやうに貯金をする。もしか日本の監督将校が首でもくゝりさうな顔をしてゐると、
うだ金が要るのか、利子さへきちんと払つたら幾らでも立替へるぞ。」
といふやうな事をいふ。
 露西亜人はあゝした暢気のんきな、お人好しの国民だから、俘虜になつても、例のオブロモフ主義でつては寝転び、たまに女の顔を見てにや/\する位がおちだが、独逸人となると例の研究好きで、暇さへあると何か取調とりしらべを始める。誰だったか[#「誰だったか」はママ]独逸人を地獄へおとしたら、屹度きつと地獄と伯林ベルリンとの比較研究を始めて、地獄の道にも伯林の大通おほどほりのやうに菩提樹の並樹なみきを植付けたい。それには自分に受負はせて呉れたら格安に勉強するとでもほざくだらうと言つたが、松山に居る独逸の俘虜で、日本の紋の研究を始めて、材料をどつさり集めてゐるのがあるさうだ。
 独逸の俘虜は物を買ふのに、屹度雨降あめふりの日をつて出掛ける。雨降りだと、日本人がうるさくまとはないから、くつした一つ買ふにも町中歩きまはつて、ゆつくり値段の廉いのを捜す事が出来るからださうだ。


一万円の仏画

5・21(夕)

 早稲田大学の美学教授紀淑雄きのとしを氏は、近頃真黒にくすぶつた仏画を持ち廻つてしきりと購客かひてを捜してゐる。幾らだと訊くと、「まあ、ずつと見切つた所で一万円」といふので、大抵の人は肝腎の仏画は見ないできの氏の顔を見て笑つて済ましてゐる。
 紀氏は遅緩もどかしくなつて、友達仲間を説き廻つて、
「誰でもいゝ、このを一万円に周旋とりもつて呉れたなら、手数料として千円位出してもい。」
といふので、仲間の美術通や画家ゑかきなどは、血眼ちまなこになつて得意先を駈けづり廻つてゐる。言ふ迄もなく美術通や画家ゑかきなどいふものは、閑暇ひまがある代りに金銭かねが無い連中れんぢゆうである。
 一体仏画といふものはざらにあるが、名高い二十五菩薩来迎らいかう山越やまごしの阿弥陀などをけると、いづれも凡作揃ひでお談話はなしにもならぬが、美術の好きな者には盲目めくらが多く、盲目めくらには富豪かねもちが多いから、下らぬ仏画に万金を投じても悔いないのだ。
 紀君の仏画はまだ見た事もないし、それに売物の事だから彼是かれこれ言はうとも思はないが、一体何を標準めやすに一万円といふ売値をつけたのだと訊いてみると、亡くなつた岡倉覚三氏がその画を見て、米国へ持込んだら屹度きつと三万円には売れるだらうといつた、その一こと標準めやすに、大負けに負けて一万円といふのださうな。
 岡倉覚三氏は邦画の鑑定めきゝにかけては、随分鋭い鑑識を持つてゐた人だから、あの人の鑑定つきだったら[#「だったら」はママ]、三万円位り出す富豪かねもちがあつたかも知れないが、さうかといつて紀氏も地獄へまで鑑定書かんていがきを取りにもけまい。もつとも大隈伯にでも頼んだら、二つ返事で地獄の門番に添書てんしよだけは書いて呉れるかも知れない。あの人は人に親切を尽すといふ事は、添書てんしよをつける事だとわきまへてゐるのだから。
 その一万円が手に入つたら、紀氏は真面目に支那画しなゑを研究したいと言つてゐる。支那画もいには相違なからう。人間といふものは、金銭かねが手に入らないうちは、いろんないことを考へつくものだから。


貴婦人と音曲おんぎよく

5・22(夕)

 大阪美術倶楽部くらぶで催された故清元きよもと順三の追悼会ついたうゑに、家元延寿太夫えんじゆだいふが順三との幼馴染おさななじみおもひ出して、病後のやつれにもかゝはらず、遙々はる/″\下阪げはんして来たのは美しい情誼であつた。
 延寿太夫はその席上で、『角田川すみだがは』を語つた。清元としてはひどく上品なもので、何も判らない聴衆きゝていづれも手をつて喜んでゐたが、自分はひとあざむかれたやうな気持がしない事もなかつた。
 意気で、うまみで持つてゐる清元を、ひて上品に拗曲ねぢまげようとするのはむしろ当流音曲の自殺である。四代目お葉は二代目の不思議な横死が富本とみもとの手で行はれたかも知れないといふうたがひ一つで、富本の紋章に縁のある桜の花は生涯家に植ゑさせなかつた程だ。家の芸が自分で首をくゝらうとするのを見たら、どんなに言ふだらう。
 先代の延寿は道楽といふ道楽を仕尽しつくして、とどのはてには舌切情死したきりしんぢゆうまでしようとした。さういふ遊蕩的分子をその血にたんと持伝へてゐたから、舌切雀のやうに情死しんぢゆうで損じた舌をも、うにか工夫して独吟となると聴客きゝての魂を吸ひつけるやうなはなわざも出来たのだ。ラムネのびんにはギヤマンの「魂」が、露西亜人にはだらけた「心」が要るやうに、清元に無くて叶はぬものは、この遊蕩的分子である。
 今の家元は所謂いはゆる上流夫人といふ階級の気に入らうとして、清元を『角田川』のやうなお上品なものにしようとしてゐる。今の上流夫人の好くものは、お手製の西洋菓子と、オペラバツグと、新音曲と――いづれもお上品で軽い物揃ひである。


内相の発見

5・23(夕)

 飛田とびた遊廓反対者が一木内相を訪問すると、内相はブリキ製の玩具おもちや人形のやうな謹厳な顔をして、
「人間の性慾といふものは、却々なか/\おさへ切れないものだから、それを遂げさす機関も無くてはならない。」
と言つたさうだ。
 おろし立ての手帛ハンケチのやうに真白でしわの寄らない心を持つた或る真言しんごんの尼僧は、半裸体の仏様のお姿を見て、
「まあ、仏様にもへそがある……」
と言つて、悲しさうな声を出して泣いたさうだ。一木内相が人間に性慾があるのを発見したのは、仏様に臍があるのを見つけたと同じやうに、非常な発見で、この場合内相が若い比丘尼びくにのやうに声を立てて泣かなかつたのは、流石に男である。男といふものは女と同じやうに神様の玩具おもちやに過ぎないが、女には胸を押へると泣き出す仕掛があるのに、男にはそれが無いだけの相違ちがひだ。
 一木内相は男である。男だから毎週土曜日の午後には東京をつて小田原の別荘へ行く事にめてゐる。別荘には夫人が待つてゐる。夫人は言ふ迄もなく女である。――それを思ふと、何事も二宮宗のみやしゆうの勤倹一点張でやり通さうとする内相に、性慾は余り贅沢過ぎるやうだ。
 神様は粘土ねばつちで人間を作るのに、すべて自分にせたといふ事だ。ジヨオヂ・ムアに従ふと、英吉利の男も矢張やつぱり神様のやうに、自分達に肖せて女をこしらへるが、それに要る土だけは亜米利加から取寄せてゐるといふ事だ。
 一木内相の理想おもはく通りに女を拵へさせたら、どんな物が出来上るだらう。堅麺麭かたパンのやうな二宮宗に、ちよつぴり性慾をつまみ込んだ、まるでサンドヰツチのやうな女ができるに相違ない。


仏の笑顔

5・24(夕)

 先日こなひだ来遊した露国の詩人バリモントは、態々わざ/\日光まで出掛けて往つたが、噂と違つて一向結構なところが無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を言つてゐるさうだ。
 日光を結構な土地ところと思つたのが間違で、日光には鋳掛いかけ屋の荷物のやうな、ぴか/\した建物があるだけで、那処あすこでは芸術は死んでゐる。あれを有難いものと思つてゐるのは、関東人に腹の底からの田舎者が多いのを証拠立ててゐる訳だ。バリモントも態々わざ/\日光へ出掛けるなぞ無駄な事をしたものだが、それでも感服しなかつただけが取得とりえだ。矢張評判にそむかないだけの詩人の感覚センスといふものを持つてゐると見える。
 日本の景色をまる楽園エデンのやうに云ふ人がある。エデンに嘘吐うそつきのじやと、だまされやすい女とが居るやうに、日本にもこの二つがざらに居るから、この意味で楽園エデンだといふのに異議は無いが、景色はさう/\自慢する程のものではない。バリモントも詩人だといふからには、景色だけを見に態々わざ/\来なかつた筈だ。
 関西かみがたへ来たなら、是非見せて置きたいものが二つ三つある。一つは京都の博物館にある婆藪ばそう仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何とか言つた仏体だ。(以前まへかた訳のあつた女の名前も時々ちよい/\忘れる事があるやうに、名高い仏様のお名前もどうかすると想ひ出せない事があるものだ。)
 日本に長く居た工芸家のリイチ氏なども、日本の彫刻は大抵見尽したから、価値ねうちはちやんと解つてゐるなどと、ひどつたやうな事を言つてゐたが、くだんの仏像に惚れぬいてゐる富本憲吉氏が、
「頼むから、たつた五分間でもいゝ見て欲しい。」
と、いやがるのを無理に引張つてくと、魂でも吸ひつけられたやうにその前に棒立ぼうだちになつて、
「素敵だな。こんなものが日本にあらうとは思ひ掛けなかつた。ビンチのジヨコンダが思ひ出されるやうな作品だ。いや、ジヨコンダ以上だ。」
賞立ほめたてた事のある仏体だ。
 ジヨコンダも謎のやうに笑つてゐるが、法隆寺の仏様も笑つてゐる。ジヨコンダの笑ひは人間臭いが、この仏様の笑ひは天人の笑ひである。笑ひといへば京都博物館の婆藪仙人も笑つてゐる。これは地獄を見て来た者の笑ひである。


書物

5・25(夕)

 ある男が慶応大学の鎌田かまだ栄吉氏に、ほんの愛相あいさうのつもりで、
「近頃はどんな本をお読みですかい。」
と訊いてみた。すると鎌田氏は馬のやうに気取つて、そして馬のやうににやりとして、
「近頃は本なぞちつとも読みませんさ。世間は私や門野かどの君を――」とそばに居合はせた門野幾之進氏を一寸振り返つて、「まるで本ばかり読んでゐる男のやうに思つてると見えて、よくそんな質問に出会でくはしますがね……」
と言つてゐた。
 先日こなひだまで京都図書館長をしてゐた湯浅半月氏に、
「君の顔はどこかモウパツサンにてゐる。」
出鱈目でたらめの挨拶をした者がある。すると湯浅氏は禿かかつた前額をつるりと撫で下して、
「誰やらもそんな事を言つたつけが……」
と言つて、その翌日あくるひこれまで図書館に持合はさなかつたモウパツサン全集の英訳を丸善に註文したといふ事だ。
 湯浅氏がモウパツサンに少しも肖てゐないやうに、誰も鎌田氏を読書人どくしよにんだと思ふものも無からうが、当人になつてみると、世間がそんなに買被かひかぶりをしてゐるらしく思はれるものと見える。
 だが、かう言つた所で鎌田氏も失望するが物は無い。本を読むといふ事は、ココアをすゝるといふ事と同じで、何も大した事では無いのだ。渋沢男爵などは、婿むこ阪谷男さかたにだんが万国経済会議に出掛ける餞別せんべつにポケツト論語を贈つたさうだが、あれなどもういふ気でした事か一寸考へ及ばれない。
 論語はい本だ。い本だからと言つて、それで人生がひつくりかへるものなら、この世は幾度かう引くり覆つてゐる筈だ。


新画

5・26(夕)

 トルストイは『芸術とは何ぞや』といふ書物のなかで仏蘭西の新しい詩人を攻撃しようとして、作家連の詩集から例証をあげるのに奇抜な方法を選んだ。それはいろんな詩集から廿八頁目の詩を引つこ抜いて来るといふ方法なのだ。
 茶話子は散歩をするのに、四つ辻へ来ると手に持つた洋杖ステツキなり蝙蝠傘かうもりがさなりを真直に立ててみてそれが倒れる方へ歩き出す事がよくある。
 近頃新画の展覧会があちこちで開かれるが、作家と絵の出来栄できばえについて何の好悪すききらひも持たない今の成金のなかには、眼を閉ぢて番組プログラムを押へるとか、又は従来これまで自分と縁起のよかつた、25とか73とかの番号に当つてゐるのを捜すとかして、それを買取る事にきめるのがある。
 そんな時にはうかすると同じやうな買手が顔を出すもので、互に意地を張つた末が、きまつたやうにぢやん拳で縁極えんきめをする。よく新画の展覧会へ出掛けると、一つの画幅の前で火喰鳥ひくひどりのやうな鋭い顔をした男が三四人、ぢやん拳をして、きやつ/\乾躁はしやぎ散らしてゐるのを見掛ける事がある。
 なかには地所を買ふより割高になるといつて、展覧会があると、絵なぞ一とも見ようとはしないで、電話でもつて何号から何号まで総高幾干いくら取除とりのけて置いて貰ひたいと、ちやうど勧業債券でも買込むやうな取引をするのがあるさうだ。
 大浦おほうらの隠居さんが取引した議員政治家の値段と、栖鳳が書きなぐつた雀一羽とを比べてみると、雀の方がずつと値が高い。流石は結構な美術国である。


禁酒のお水

5・27(夕)

 一心寺に元和げんな往時むかし、天王寺で討死うちじにした本多忠朝たゞともと家来九人を葬つたつかのある事は、誰もがよく知つてゐる筈だ。
 忠朝は生きてゐるうちは、鉄の棒をりまはすほかには何の能も無かつた男に相違ないが、死んでからは面白い内職にありついてゐる。内職といふのは、禁酒のぐわんを聞くといふ事なのだ。一体男に禁酒させるのは、女に有難がられる第一の功徳くどくで、世の中に仕事といふ仕事は沢山あるが、女に有難がられる仕事ほど甲斐がひのあるものは無い。
 忠朝の墓前に小さな壺があつていつもふたがしてあるが、中には銀のやうな水が溢れてゐる。酒を断たうとする者は、その水をいたゞいて飲むと、何日いつの間にか酒嫌さけきらひになるといふ事だ。
 ある日其処そこを通りかゝると、頭を島田しまたに結つた十七八の女が、壺から水をむでうちから持つて来たらしい硝子瓶ガラスびんに入れてゐるのがある。
うするんだね。」
と訊くと、
「檀那はんが酒癖が悪うおますよつて、ぶぶうに入れて上げるのだつせ。」
と、女は「救世主」のやうな、おせつかいな顔をして私を見た。実際女といふものは、男の知らぬに、その飲物のなかへ色々いろんな物をつまみ込むのが好きで溜らぬらしい。それが酒断さけだちの水であらうと、塩であらうと、莫児比涅モルヒネであらうと、悉皆みんな持合せのおせつかいからする事なので、男は目をつむつて謹んでそれを戴かなければならぬ。
 ハウプトマンの『沈鐘』を読むと、鐘師のハインリツヒが山の上で怪しい女と酒を飲んで踊つてゐると、村に残した子供二人が、大事さうに小さな瓶をげて坂をのぼつて来る。瓶のなかには何があるのだと訊くと悲しさうな顔をして、
母様かあさまの涙です。」
といふくだりがある。
 母様の涙は少ししほつぽいが、忠朝の墓の水はひやつこい。どちらも妙に酒飲みの阿父おとつさんには効力きゝめがあるといふ事だ。


清方きよかた輝方てるかた

5・28(夕)

 先日ある会で画家の鏑木かぶらぎ清方氏と池田輝方氏とが出会つて、
「どうだいひまだつたら久し振に一緒に築地辺でも※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)ぶらつかうか。」
といふやうな談話はなしが持上つて、二人は嬉しさうに築地へ散歩に出掛けた。
 清方といふ人は江戸ツ子によくあるひどい郷土自慢で、たまに病気にでもかゝつて、箱根辺へ保養に出掛けなければならぬ折には、家族と水盃みづさかづきも仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無いさうだが、その日は築地だつたから、別れに水盃の必要もなかつた。
 だが、これには理由わけのある事、清方氏は輝方氏とは同じやうに築地で育つた人で、子供の時分には互に顔は見知らなかつたものの、清方氏のうちには葡萄棚があつて、夏になると美しい房が鈴生すゞなりるので、腕白者わんぱくものの輝方氏は近所のはなたらしと一緒に、いつも盗みに出掛けたものだつた。或る晩などは逃後にげおくれた輝方氏が女中につかまつて、恋女房の蕉園女史にしか触らせた事のない口のはたを思ひ切りつねられたものださうだ。
 その後二人が同じやうに、水野年方としかた氏の門につた時、色々の世間話からその事が判つて、
「君だつたら葡萄ぐらゐ呉れてやつてもよかつたんだ。」
と言つて笑つたさうだ。かういふ縁で二人は時々築地どほりを散歩するのださうだ。
 画家ゑかきといふものは、うかすると他所よその葡萄を欲しがつたり、相弟子あひでしの女画家に惚れたりするものなのだ。


先輩後輩

5・29(夕)

 鴈治郎と歌右衛門とが大阪での顔合せが、梅玉父子ばいぎよくおやこ意地張いぢばりから急に沙汰止さたやみになつたので、いつものやうに大阪俳優の大顔寄せといふ事になり、旅興行の延若えんじやくへその旨を通じると、延若は承知しない。
 従来これまで興行政策の上から、鴈治郎には随分犠牲になつてゐる。以前もとの延二郎ならばかくも、亡父おやぢの名前を相続してみれば、さう/\お人好しにばかりはなつては居られない。
「今はう競争の時期に入つてゐるのや。どつちやがつかまあ長い目で見てみなはれ。」
胡瓜きうりのやうな長いおとがひに、胡瓜のやうなとげをちら/\させてゐる。
 レオナルドとミケエルアンゼロとは所謂いはゆる文芸復興期の二大天才だが、この二人に就いてこんな話がある。或時レオナルドがいつものやうに長い顎鬚あごひげしごきながら、市街まちを散歩してゐると、五六人の若い市民が、ダンテの詩に就いて、やかましく議論をしてゐるのに衝突ぶつつかつた。
 市民はレオナルドを見ると、
「先生貴方あなたの御意見は如何どうです。」
と訊いてみた。すると丁度またミケエルアンゼロが其処そことほかゝつたので、レオナルドは、
「おゝアンゼロが来た。その事ならばあの男がよく知つてゐる筈だ。」
と言つた。アンゼロは平常ふだんからレオナルドの長い顎鬚をしやくにさへてゐたので、
「君が自分で説明したらいぢやないか、君は何時いつだつたか、青銅ブロンズで馬の模型モデルを作りかけて鋳上げる事もしないで、打捨うつちやぱなしにしたぢやないか、いい恥晒はぢさらしだね。」
と吐き出すやうに言つた。レオナルドはそれを聞いて海老のやうに真紅まつかになつてしまつたさうだ。
 鴈治郎と延若とを、レオナルドとアンゼロとに比べるのは、※(「禾+皆」、第4水準2-82-94)わらしべ黄金きんかたまりの目方を引くやうなもので、天秤はかりを神経衰弱にするに過ぎないが、しかし先輩後輩の関係だけには一寸似寄つたふしがある。
「時」はいつも若い者に味方をする、だが、人間はいつ迄も若くては居られない。


呂昇ろしよう咽喉のど

5・30(夕)

 愛知医専教授中村豊氏(耳鼻咽喉専門)の説によると、芸妓といふものは大抵慢性喉頭加答児かたるかゝつてゐる。それは無理に声を使ひ、無理に酒や煙草を飲み、無理に夜更よふかしをし、無理な借銭や、無理な恋をするといつた風にすべてが無理づくめなからださうだ。唄でもうたふ時はうぐひすのやうになめらかだが談話はなしをすると曳臼ひきうすのやうな平べつたい声をするのは、咽喉を病んでゐる証拠ださうだ。
 中村氏は一度呂昇の咽喉を見た事がある。すべて女の声帯は細いのに呂昇のは男と同じ程度に大きく、咽喉もよく発達してゐるが、扁桃腺へんたうせんが非常にふとつて、どんなに贔屓目ひいきめに見ても健全ぢやうぶな咽喉とは言ひ兼ねたさうだ。余つ程扁桃腺を切らうかとも思つたが、その拍子に浄瑠璃を傷つけてもと思つて見合せたさうだ。素人しろうとの浄瑠璃は鼻の先に巣くつてゐるが、呂昇のやうな黒人くろうとのは、何処に隠れてゐるのか医者にも一寸判らないといふ事だ。
 雲右衛門くもゑもんの咽喉は、大久保知事の頭のやうに滅茶々々に荒れて、声帯は手の着けやうも無い。一体浪花節語なにはぶしかたりは、首をめられたあひるのやうに、一生に一度出せばよい声を、ざらに絞り出すので誰でもが病的になつてしまふ。
 先年大隅太夫が声が出なくなつて、約束の席に差支さしつかへた時、高峰博士のアドレナリンの声帯注射を試みて、無事に席を済まさせた事があつた。これは声帯の充血を一時的に散らすので、長い効能は無いが、女でも口説くどかうといふものはその三十分前にこれを注射して見るのも面白からう。
 だが、或人の説によると、そんなに手数てすうの要る事をするよりも、その注射代だけ手土産てみやげを持つて往つた方が、屹度きつと女の気に入るといふ事だ。


女の鑑定家

5・31(夕)

 神様の数多い作品のなかで女が第一の傑作であるといふ事は、多くの婦人雑誌が主張する所で、自分もそれに就いては少しの異議もない。女の美しさ――それだけでも十分なのに、加之おまけにまた女のずるさ――これを傑作と呼ばないのは盲目めくらである。
 かういう神様の傑作も、へつゝひの前へ置きつ放しにしておくと、何時いつとなくすゝばんで来る。すると浅果あさはかな男心は直ぐ我楽多がらくたのやうな、ぞんざいなあしらぶりを見せて、うかすると神様の傑作に対して敬意を失するやうな事になる。
 このごろ西洋新聞を見ると、ある男女が結婚して四五年経つと、互に鼻に附き出して、顔を見るのもいやになつた。そこでいつそ別れようといふ事で、日をめて弁護士のとこに落合つて、その手続をする事に談話はなしを運んだ。
 その日になつて、女は素晴しく着飾つて来た。身動きするたびに、絹摩きぬずれの音がして、麝香猫じやかうねこのやうなにほひがぷん/\する。男はめまひがしさうになつて来た。
「見違へる程美しいぢやないか、うしたんだね。」
「いえね、貴方あなたにお別れすれば、独身ひとりみでも居られないしと思つて、嫁入口を捜しに往つたんですわ。」
おそろしく早手廻しだな。いのが見つかつたらう。」
男は吐き出すやうにいふ。
「もう御存じなの、貴方にもよろしくつて言つてたわ。」
女は一寸笑つてみせた。
 男はいきなり女の手を取つて少し相談があると言つて、弁護士のうちを出て往つた。三十分後には、この二人は活動写真館に入つて、夫婦鳩めをとばとのやうに肩を並べてふざけ散らしてゐたさうだ。
 謹んで世上の女に告げる。男は皆かうしたものだ。彼は「女」の鑑定家としては最もみし易いやくざ者である。


女といふもの

6・1(夕)

 大杉さかえと伊藤野枝のえとが例の恋愛事件に対する告白を読んで見ると、いづれも理屈ばかりならべてゐる。理屈などはうでもよい、栄といふ男と野枝といふ女とが附着くつつかねばならなかつた真実ほんとうの特殊の事情を告白する事が出来なければ嘘だ。
 彼等はひとに是認されるやうにと思つて、単に自分達のた事に筋道ばかりを附けようとしてゐる。そして自分達二人の間の特殊の境遇と感情とを忘れようとしてゐる。
 女をつかまへたら、力一杯それを引き着けてゐなければならない。女は筋肉のたくましい男の腕の上でのみねむる事が出来る。女は狡猾な鳩のやうなもので、男がうつかり掌面てのひらゆるめると、直ぐぱた/\と飛び出す。そしてそれを男の油断からだとは思はないで、自分に羽があるからだと穿違はきちがへる。
 近頃は別れた女が、以前関係のあつた男を棚卸しをする事が流行はやる。棚卸しの対象あひてとしては、男は恰好の代物しろものである。どの男もどの男も女に対しては悉皆みんな共通の弱味を持つてゐるので、或る一人の棚卸しは、やがて男全体の棚卸しとなる事が出来る。もしか伊藤野枝のやうな女が、
「今だから白状しますが私のせんの亭主には尻尾があつてよ。」
と言ひでもすると、世上の男といふ男は、みんな頭を抱へ込んで、
「野枝め、俺に当てつけてるんぢや無からうか、確か俺にも尻尾があつたつけな。」
と恐縮するにきまつてゐる。
 先年巴里パリーで、人の妻たるものに、有つて欲しい性質を投票させた事があつた。その時の投票に依ると、「慈愛」が一万三千八点。「整理」が一万八千四百四十点。「信任」が一万九百四点といふ結果であつた。このごろのやうに女に油断が出来なくなつたら、いやそれは西洋の事だ、日本はまた別だなどと勝手な事は言はないから、何卒どうか男子保護政策として別れたのちに「亭主の棚卸しをない」といふ点に最高票を投じて貰ひたいものだ。


タゴオルの知人

6・2(夕)

 タゴオルが来ると、友人や知辺しるべやが其辺そこらぢゆうから飛び出して、色々な勝手な事をいつてゐる。
「私はタゴオル家へ二晩泊つた。その晩詩人は歌をうたつた。」
「僕はタゴオルの寝言を聞いた。寝言がすつかり韻が踏んであつたには驚いた。」
「私はタゴオルの外套を見た。左のポケツトには『詩』が入つてり、右のポケツトには『哲学』があつた。財布は――財布は確か洋袴づぼんの隠しにあつたやうに思ふ。」
「詩人は僕の前で欠伸あくびをした。あの欠伸が解るのは、日本で野口米次郎氏位のものだらう。」
と言つたやうなもので、どれもこれも御尤ごもつともの事づくめだ。
 さういふ人達がタゴオルの親友であるのは夢更ゆめさら疑ふのでは無い。だが、実をいふと、そんなに詩人と懇意なのだつたら、もつと早くタゴオルの人物と作物さくぶつとを紹介して貰ひたかつたのだ。
 聖母マリヤが昇天して、神様のおそばに居ると、色々な男や女が、
「マリヤ様の昔昵懇むかしなじみだよつて極楽に入らさせて呉れさつしやれ。」
と言つて、ドヤ/\入つて来た。マリヤがそつとその人達を見ると、いづれも見知らぬ顔で、なかに三四人以前耶蘇を生み落した当時、
「いたづらな阿魔つ子めが……」
みち出会頭であひがしらに石をげつけた女達がまじつてゐたといふ事を何かの本で読んだ事がある。
 タゴオルがしか涅槃ねはんの国へでも往つたら、早速訪ねて往つて、お釈迦様か阿弥陀様かに紹介状をしたゝめて貰ひ度いといふのは、かういふ日本人に一番多からう。


相馬御風の将棊しやうぎ

6・3(夕)

 乞食が頭陀袋づだぶくろの充実をはかるやうに、早稲田派の文士は、絶えず生の充実をはかつてゐる。そのなかでも相馬御風君などは、書いてゐる論文でみると、散髪をするひまもない程、人生の事ばかり思つてゐるらしい。ほんとに殊勝な事だ。もしかこの世界が私の手製だつたら、相馬君のやうな心掛のいゝ人には、そつ内証ないしようで打明けてやりたいものだ。
「人生つてそんなに意味のあるものぢや無いのだよ。」と言つてね。
 京都の西川一草亭氏は、相馬御風氏の論文を見て、こんなに始終しよつちゆう人生の事ばかり考へて居ては、さぞ肩が凝つて溜るまいと、自分の実弟おとうとかねて相馬氏と知合しりあひの津田青楓に訊いてみた。
「相馬君つて毎日どんなにして暮してるね。始終しよつちゆう独語ひとりごとでも言つてるのかい、蟹のやうに。」
独語ひとりごとも言つて無いやうだね。」
「ぢや何をしてゐるね。」
 一草亭は好奇ものずきの目を光らせた。
「さうさなあ――よく将棊をしてるやうだがね。」
と津田氏はいつだつたか、相馬氏が歩と桂馬とを人生の秘密か何ぞのやうに、しつか掌面てのひらに握つてゐた事を思ひ出した。
「え、将棊をさしてるつて。」
 一草亭氏は覚えず吹き出してしまつた。
「将棊をさすなんて、そんな……そんな閑暇ひまがあるのかい。あんな忙しさうな議論を書きながら。」
 それからといふもの、一草亭氏は二度ともう相馬氏の論文を読まなくなつたさうだ。


露伴と島

6・5(夕)

 タゴオルがいたる所で歓迎されてゐるのは喜ばしい。『ギタンヂヤリ』の詩人は私の叔父でも従兄いとこでも無いが、詩人の尊敬せられるのは、軍人や政治家の持てるのとちがつて、見てゐて気持がい。だが、日本人が印度インドの詩人に払ふ敬意の半分でも、自国の詩人に捧げる事を知つてゐたなら、日本はもつと幸福な国になつてゐられたに相違ない。
 タゴオルの一家では、亡くなつた岡倉覚三氏に島を一つ買つてあてがはうとした事があつた。相手は岡倉氏の事だ。買つてあてがつたところで、格別礼も言はないで、一寸うなづいてみせた位で、直ぐ受取つたに相違ない。
 島を貰つてうする? なに心配するが物は無い。住み飽いたら売つてしまふばかりさ。現代仏蘭西の文豪アナトオル・フランスは友達が寄贈して呉れた書物はろくに読みもしないで、セエヌ河の河縁かはぶちにある古本屋に売り飛ばしてしまふといふ事だ。そしてひとが訊くと、
「なに、田舎の友人に送つてやつたのさ。」
何喰なにくはぬ顔で済ましてゐるさうだ。
 岩代いはしろ猪苗代湖のなかに翁島おきなじまといふ小さな島がある。樹木のこんもり繁つた静かな島だが、これが先年三千円からで売りに出た事があつた。幸田露伴氏がそれを欲しがつて、買つてもいと言つてゐたが、買ひ度いと思つた時には三千円の工面がつかず、工面が附きかかつた時には、もつとい考へが起きて来たので到頭沙汰止みになつた。い考へといふのは、島を買つて棲むよりか、借金をしない方がずつと安静だといふ事だ。
 その折露伴氏は、島が万一自分の者になつたら、どんな訪問客はうもんかくでもきたますの子を手土産に持つて来ないものは、面会を謝絶する事にしたい。そしてお客の持つて来た鱒の子は、悉皆みんな湖水のなかへ放してつたら、幾年かの間に湖水は鱒で一杯になるだらうと言ひ/\してゐた。
 露伴といふ人は色んな面白い事を思ひつく人だ。そしてもつと面白いのは、大抵それを実行しないで済ます事だ。


贋物にせもの

6・6(夕)

 村井吾兵衛きちべゑが伊達家の入札で幾万円とかの骨董物を買込んだといふ噂を伝へ聞いた男が、
「幾ら名器だつて何万円は高過ぎよう。それにそんな物をたつた一つ買つたところで、ほかの持合せと調和が出来なからうぢやないか。」
といふと、吉兵衛は女と金の事しか考へた事のない頭を、勿体ぶつて一寸つてみせた。そして一言一句が五十銭づつの値段でもするやうに、をしみをするらしくゆつくりした調子で、
「なに高い事は無いさ、幾万円払つた骨董がうちの土蔵にしまひ込んであるとなると、ほか沢山どつさりあるがらくた道具までが、そのお蔭で万更まんざらな物ぢや無からうといふので、自然が出て来ようといふものぢやないか。」
と言つて笑つたといふ談話はなしだ。
 今の富豪かねもちが高い金を惜しまないで骨董品を集めるなかには、かうして狡い考へをするのが少くない。唯骨董品ばかりでは無い。一人娘に華族の次男を聟養子むこやうしにするなぞもそれだが、多くの場合に骨董に贋物が多いやうに、聟養子にやくざ者が多いのはよくしたものだ。
 京都でさる知名の男が、自分の書斎を新築して立派に出来上つたが、さてその書斎の出来栄に調和するだけの額や軸物の持合せが少しも無い。買ひ集めるとなると、大枚の金が要る事だし、いつ贋物がんぶつで辛抱したら、格安に出来上るだらうと、懸額かけがくから、軸物、屏風、とこの置物まで悉皆すつかり贋物がんぶつで取揃へて、書斎の名まで贋物堂がんぶつだうと名づけて納まつてゐた。
 面白いのは、そこの主人が軸物よりも屏風よりも、もつとひど贋物がんぶつである事だ。――京都の画家ゑかき贋物いかものこさへる事がうまいやうに、京都の女は贋物いかものを産む事が上手だ。いづれにしても立派な腕前である。


フロツクコート

6・7(夕)

 坪内逍遙博士は名高い洋服嫌ひで、洋服と言つてはフロツクコートが一着しか無い。そのフロツクコートといふのが、博士が大学を卒業した当時こしらへたもので、その後長年箪笥たんすの底にしまひ込んで置いたが、博士になつた当座文部省へ出頭する時には、うや/\しくそれを着込んでゐた。
 息子の士行しかう氏が洋行から帰つて来た時、博士はぽんたの娘で士行氏と許嫁いひなづけの養女国子さんと、くだんのフロツクコートを取り揃へて士行氏に呉れようとした。博士の心算つもりでは息子は二つ返事でそのフロツクコートをて、国子さんと結婚するものだと思つて居たのだ。それに何の無理があらう、二者ふたつとも文字通りに箱入はこいりには相違なかつたのだから。
 士行氏は二者ふたつとも気に入らなかつた。国子さんには※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんなに言つたか知らないが、フロツクコートを見た時には、急に歯痛はいたでも起きたやうに、泣き出しさうな顔をして頼んだ。
阿爺おとうさん後生ですから元々通り箪笥に蔵ひ込んで置いて下さい。万一もしか私が沙翁セキスピヤ物でもる事があつたら、その折着させて戴きます。何しろ結構な仕立で、何卒どうか樟脳をどつさり入れてね……」
 博士はイプセンの流行はやつた当時守り本尊の沙翁セキスピヤをしまひ込んだと同じ程度の鄭重ていちようさで、そのフロツクコートをまた箪笥に蔵ひ込んでしまつた。箪笥といふものは、博士のうちにあつても、俥夫くるまやうちにあつても感心な程腹の太いもので、亭主の秘密ないしよも、女房の臍繰へそくりも、流行品も流行後れも同じやうに飲み込んで、ちつとも厭な顔を見せない。
 近頃そのフロツクコートを、博士の箪笥から引張り出さうと目論もくろんでゐる者がある。それは無名会俳優の東儀鉄笛とうぎてつてき氏で、「うするのだ」と訊くと、
「一度申訳だけに舞台でて、あとは縫ひ返して子供の外套に仕立したてるんだ、型は古いがいんだからね。」
と虫のいゝ事を言つてゐる。


独身元帥

6・9(夕)

 キツチナー元帥が不意の横死を遂げたのは、同盟国の為に気の毒に堪へぬ。元帥はあの通りの武断主義者で、加之おまけに独身主義者であつたから、随分敵も多かつたが、例の皮肉屋バアナアド・シヨウが『新聞切抜プレツスカチング』といふ一幕物で、元帥をモデルに扱つたのなぞは最も悪戯いたづらがひどい。
 キツチナー将軍が首相のアスキスと婦人選挙権と兵役強制法の事を論じてゐると、其処そこへ婦人の訪問客はうもんかくが来て、将軍を調弄からかふ。将軍が蟷螂かまきりのやうにむつとした顔をして、
「八たび戦争いくさに出て、生命懸いのちがけの働きをした者は自制の道をわきまへてゐますぞ。」
といふと、女は鸚鵡返あうむがへしに、
「八たび産褥さんじよくで生命懸けの目に逢つた女は、ちつとやそつとの悪口あくこうは利きませんよ。」
と言つて、
「もしか女が死んでくなつたら、貴方あなた寝室ベツドへ往つて双児を産みますか。」
我鳴がなり散らすので、将軍は苦虫を噛み潰したやうな顔をする。
「そんな事は医者に訊きなさい、私は赤面するばかりだ。」
 そこへ女子参政反対運動の婦人が二人訪れて来て、
「男の手で女子参政論者を二マイル以外に放逐する事が出来なければ、女の私達が武器を取つて立ちます。」
と一人の婦人が短銃ピストルを取り出す。キツチナー将軍が武器を取上げるのは私の職務だといふと、今一人の婦人が十八世紀式の短銃ピストルを掴み出して、
「これをもおあげですか。」
と将軍の頭に突きつける。将軍は落付き払つて、
「それは武器ではない、好奇心キユリオシチイです。私の頭にあてがふよりも博物館に持つて往つた方がよろしい。」といふ。
 二人の婦人は短銃ピストルり廻して、
「婦人に選挙権などは要らない、その代り兵役に就かせて呉れ。男子を奴隷とするには、ビスマークの所謂いはゆる鉄と血とが必要だ。さういへばビスマークも屹度きつと男装してゐた婦人に相違ない。歴史上の英雄豪傑は悉皆みんな婦人をんなで世間体を胡麻化ごまかすために男装をしてゐたまでです。」
 トヾ、将軍が以前の婦人へ結婚申込をすると、婦人は娘に相談の電話をかける。それを警察へと思ひ違へをした将軍が、
「巡査にお引渡しは恐れ入る。私は本気なんです。」と逡巡へどもどする。「おとしは?」と婦人が訊くと、将軍が「五十二です」と答へる。すると娘の方から、
「でも who's whoフウズフウ には六十一歳とありますわ。」
といふので将軍が赤面をする滑稽などもある。
 そのキツチナーも六十五歳、独身のまゝ死んでしまつた。「独身」は女に好かれるものだが、それが主義となると打つて変つて女に嫌はれる。女はいぬのやうなもので余り好かれても五月蠅うるさくて迷惑するが、嫌はれても一寸困る。彼等は吠えつくすべを知つてゐるから。


親といふもの

6・10(夕)

 奥繁三郎しげさぶらう氏の母親おふくろは九十近くの老齢としで、今だに達者でゐるが、孝行者の奥氏は東京へでも旅をする時には、一番に母親おふくろへ挨拶にく事を忘れない。すると母親おふくろは、きまつたやうにいふ。
「東京へおきやす言うて、だれぞおつれでもおすのかいな。」
「いゝえ、私一人です。」
「あんた一人で東京までようおきやすか。」と母親おふくろはもう涙を一杯眼に浮べて「しげ可憫かはいさうに、おつれちつとも出来でけよらんのかいなあ。」とそつと溜息をする。
 奥氏はどんな旅行をするにも、母親おふくろの前では屹度きつと
「一週間旅へ往つて来ます」
といふ。するとその翌日あくるひから母親おふくろはもう、
「繁はまだ帰つて来やはらんかいな。」と訊くので、
「まだ昨日きのふちやしたのやおへんか。」といふと、
「さうかいな、もう一週間も経つたやうに思へるさかい。」
と、其辺そこらを捜しでもするやうにうろ/\する。
 親といふものは有難いもので、神様が人間を罪人扱ひにするのに比べて、親はいつ迄もその子を子供扱ひにする。親が神様になつてはけないやうに、神様も親になつては可けないが、親には神様が真似の出来ない長所がある。それは子供の為には「馬鹿」になるといふ事で、神様より人間の偉いとこたしかにこゝにある。丁度「愚痴」を持つてゐる女が、それを持合はさない男より強いやうなものだ。


宮川みやがは氏の雄弁

6・13(夕)

 亡くなつた足立通衛みちゑ氏の告別式が大阪青年会館で行はれた時、とむらひ演説をした宮川経輝つねてる氏は、霊魂たましひの一手販売人のやうな口風くちぶりで、名代なだいの雄弁をふるつて、警察が干渉でもしなければ一日でも喋舌しやべり続けようとする意気込いきごみを見せた。
 宮川氏の説によると、足立氏は高知生れだけに武士魂を持合せてゐたが、同志社で基督魂を、紐育ニユーヨークで亜米利加魂を一つづつ買ひ込んだので、紳士として申分まをしぶんのない男になつたのださうだ。
 宮川氏の説によると、かうした結構な魂を三つ迄持合せた紳士は、いつ亡くなつても構はないのださうだが、さも無い男は死ぬ前に、こんな魂を仕込まなければならないので、牛乳でも飲んで健康に注意しなければならない事になる。
 雄弁もいゝが、時によると飛んだ失策しくじりをする事がある。――チエホフの短篇に『雄弁家』といふのがある。お喋舌しやべりの好きな男で、どんな腹のいた時でも追悼演説を頼まれると、直ぐ出掛けて往つて、宮川氏のやうに悲しさうなことばを料理場の油虫よりも沢山並べ立てて呉れる。
 ある時八等書記がくなつたので、くるま代をはずむで貰つて、告別式の演説に出掛けて往つた。いつもの通り立板に水の弁舌で故人を褒め立ててゐると聴衆は変な顔をし出した。
 それは無理もない、亡くなつた男は一生涯細君と戦争いくさを続けて来たのに、弁士は独身者どくしんもののやうに言つてゐる。また亡者は濃い赤鬚あかひげを一生剃らなかつたのに、弁士はいつも顔を綺麗に剃つてゐたやうに言つてゐる。そのうち弁士も気がいてみると、向ふの墓石はかいしそばに、死んだ筈の書記が立つてゐるではないか。
「あ、亡者が生きてゐる。」
と叫んで、そつと司会者に訊くと、弁士が弔演説をしてゐる男は、今は課長に昇進して、亡くなつた男がその後釜あとがますわつてゐたのを雄弁家がつい早飲込みにその男だと穿違はきちがへてしまつたのだ。かへみちくだんの課長は何故俺を死人扱ひにして加之おまけに顔の棚卸しまでしたと言つて、雄弁家に喧嘩を吹き掛けたさうだ。
 宮川氏が弔演説をした足立氏は、実際死んでゐたのだから差支さしつかへなかつたが、生きて居たらそんなに結構な魂なら三つとも買ひ取つて呉れと、宮川氏に押談判おしだんぱんをしたかも知れない。


臭い果物

6・14(夕)

 馬来マレイ半島にヅリヤンといふ果物のある事は、一度でも船で那処あすこを通つた事のある人は皆知つてゐる筈だ。素敵に美味うまい上に、素敵に臭味くさみをもつてゐる果物で、一度でもあの臭味をいだが最期、一生懸つたつて、それが忘れられる物ではない。
 だが、べ馴れて来ると、そんな臭味でさへたまらなく懐しくなつて来るさうで、ヅリヤンが市場に出盛る頃には、女郎屋町ぢよろやまちでさへが不景気になるといふ事だ。美味うまい果物を鱈腹たらふく食つて女買をんなかひをしたところで、それをやかましくいふ印度の神様でもないが、ヅリヤンが余り美味いのでつい財布の底を叩くやうな始末になるのだ。
 独逸軍の毒瓦斯どくガスに対して、ヅリヤンを砲弾代りに使つたらと聯合軍れんがふぐんに勧めた者がある。命中あたつたが最期殻の刺毛とげ人間ひとの五六人は殺せるし、命中あたらなかつた所で、うまはじけさへすれば激しい臭味でもつて一大隊位の兵士を窒息させるのは朝飯前だといふのだ。
 土人達の習慣によると、ヅリヤンを盗んだ者は重く罰せられるがれて自然ひとりでに落ちたのを拾つた者は、飛んだ幸福者しあはせものとして羨まれるさうで、気の長い土人達は、ヅリヤンの鈴生すゞなりつた木蔭で、朝つぱらから煙管きせるくはへて一日じつと待ち通しに待つてゐるさうだ。巧く落ちたのを拾ふ事が出来れば、美味い果物にありつけるし、落ちて来なかつたところで少しの損もない。そんな時にはきまつたやうに昼寝をする事を知つてゐるから。
 だが、待つてさへ居れば果物は大抵落ちて来るもので、支那では袁世凱ゑんせいがいが落ちた。英国ではキツチナーが落ちた。袁世凱はヅリヤンの味を持たないで、その臭味だけを持つてゐた。キツチナーは味も臭味も無いが、刺毛とげだけは鋭い。


すゞりと殿様

6・15(夕)

 犬養木堂もくだうの硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。その硯については面白い話がある。徳川の末期に鶴笑くわくせう道人といふ印刻家があつた。硯のいのを沢山持ち合せてゐたが、その一つに蓋に大雅堂たいがだうの筆で「天然研」と書いたのがあつた。阿波の殿様がそれを見て、自分の秘蔵のすゞり七枚までも出すから、取り替ては呉れまいかとの談話はなしがあつたが、鶴笑はなか/\うんとは言はなかつた。
 呉れぬ物がほ欲しくなるのは、殿様や子供の持つて生れた性分で、阿波の殿様は、望みとあらば何でも呉れてやらうから、たつて「天然研」を譲つて貰ひたいと執念しふねく持ちかけて来た。鶴笑は一寸顔をしかめた。
「ぢや仕方が無い、阿波の国半分だけ戴く事にしませう。」
と切り出した。鶴笑の積りではそれでも大分見切つた上の申出まをしでらしかつた。何故といつて阿波の国は半分いた処で、別段差支さしつかへもなかつたが、硯だけは半分に割つてはうする事も出来なかつた。あの内閣や政党をこはす事の大好きな木堂ですら「ほう」とやらを見るためには、硝酸銀で硯を焼かなければならぬ、そんな勿体ない事が出来るものぢやないといつてゐる位だから。
 だが勘定高い殿様はそれを聞くと、
「仕方がない、この硯と鳴門の瀬戸はわしの力にも及ばぬものと見えるて。」
と、溜息をいてあきらめた。殿様がこの場合鳴門の瀬戸を思ひ出したのは賢い方法で、人間ひとの力で自由にならないものは沢山どつさりあるのだから、その中からどんな物を引合ひに出さうと自分の勝手である。かうして絶念あきらめがつけばそんな廉価な事は無い筈だ。


の鑑定

6・16(夕)

 或人が海北友松かいほういうしようの画を田能村竹田たのむらちくでんに見せた事がある。
「中井履軒さんの鑑定書かんていがきがついてゐるさかい、正真物ほんものに相違おまへんて。」
といふ自慢なのだ。竹田がその鑑定書かんていがきを見ると、
「海北の画驚目候めをおどろかしそろ、相違はあるまじく存候ぞんじそろ。さりながら素人の目と医者と土蔵とは真実あてにならぬ物と聞及きゝおよそろ。」
と書いてあつたさうだ。
 富岡鉄斎の画を持合せてゐる男が鉄斎の画には随分贋造にせが多いと聞いて、鑑定書かんていがきを添へて置いたら、売物に出す時に便利だらうと思つて、子息むすこの謙蔵さんのもとにそれを持ち込んだ事があつた。
 謙蔵さんは鼻眼鏡を掛けてゐる。大学の構内に転がつてゐる物は、蜥蜴とかげ交尾つるんだのでも鄭重に眼鏡を通して見るが、大学以外の物はみんな眼鏡越しに見る事にめてゐる。その折も眼鏡越しにじろりと画を見てゐたが、ちよつと舌打をしたと思ふと、
「真赤の贋物にせものでさ。」
と吐き出すやうに言つた。
 画の持主は吃驚びつくりした。
「でも君、いつだつたか君の居る前で鉄斎翁にいて頂いたんぢや無いか。それをそんな……」
「それをそんな……」とは言つたが絶念あきらめのいゝ人だつたからそのまゝ持つて帰つて、押入に突込んでしまつた。
 画を逆さまに掛けて置いてそれが逆さまだと判るやうだつたら、う一かどの鑑定家といつてい。その上の心得は余り画を愛しないといふ事だ。


「富士山の如く」

6・17(夕)

 北米の文豪マアク・トエインが、何時だつたか、墺太利オーストリー皇帝フランツ・ヨセフに謁見えつけんした事があつた。その折或る新聞記者がトエインを訪ねて謁見の模様を訊くと、皮肉屋のトエインはにや/\笑つて、
「さればさ、お目に懸つたら恁様こんなに申上げようと思つて、十八語ばかりで立派な御挨拶をこしらへて御殿にあがつてみると皇帝は非常に鄭重なお言葉で色々御物語があるぢやないか、お蔭で十八語の用意はすつかり役に立たなくなつて、ついいつものお喋舌しやべりをして退けた。なにその十八語はう言ふのだつて? そんな事を今迄記憶おぼえて居て溜るものかい。」
と言つたさうだ。
 タゴールも日本へ渡る迄には、日本人に会つたらこんな事も言はうと、腹のなかで十八語ばかりの立派な挨拶を持合はせてゐるらしかつた。日本の土を踏んで、数々の日本人に会つてゐるうちについその取つて置きの挨拶は何処かへ落してしまつたらしい。そして日本人の会合へ出ると、何時でも、
「富士の山のやうにあれ。」
と云ふ事にめてゐるらしい。
 富士の山は御覧の通り結構な山だ。結構な山には相違ないが、
「富士の山のやうにあれ。」
と言ふのは「阿父おやぢのやうにあれ」とか「阿母おふくろのやうにあれ」とか言ふのとは違つて、少しぼんやりし過ぎてゐる。そのぼんやりし過ぎた事を言つたのはタゴールの賢い所以ゆゑんで、彼は日本の阿父おやぢ阿母おふくろが余り理想的で無い事をよく知つてゐるのだ。


小山県せうやまがたの洒落

6・18(夕)

 山県伊三郎氏が先日こなひだ朝鮮へ帰りがけに、関門の山陽ホテルに泊つた。その折訪ねて往つた男が何気なく、
「噂を聞きますと、この頃椿山荘をお売りになつたさうですね。お幾らでした。」
と訊いてみた。
 すると、伊三郎氏は丁度口に頬張つてゐたチヨコレートをぐつと鵜飲みにして、
「そんなにひと懐中ふところ勘定を訊くのは、初めて結婚した男に、
『おい、うだつたい、花嫁さんの……』
と訊くやうなものぢやないか。誰が真面目に返辞するものか。」
と言つて、薬を飲まされる家鴨あひるのやうに、しつかり口をつぐんだが、物の三十分も経つたと思ふ頃、急にはじけるやうに笑ひ出した。そして両手で腹を抱へて可笑をかしさに溜らぬやうに肩をゆすぶつてゐたが、しまひには眼頭めがしらに涙を一杯溜めて椅子の上を転げ廻つた。その恰好を一目でもしうとの山県公に見せたら、顔をしかめて、椿山荘と一緒に養子の株をも売りに出したかも知れなかつた程だ。
 お客は吃驚びつくりした。
「何をそんなにお笑ひになりますか、閣下……」
 平素ふだんは「山県さん」とか、「伊三いさはん」とか言ふ事にめてゐるが、「閣下」と言つて相手が健康体に恢復するものなら、これに越した事は無からうと思つたのだ。このお客は一度間違つて、懸りつけの医者に「閣下」と一こといつただけで、そのお医者から薬代を無代ただにして貰つた事があるので、それ以来まさかの時には、いつも「閣下」を使ふ事に決めてゐる。
 伊三はん閣下は、よこぱらを押へたまゝ、苦しさうな声で、
「何つて君、今の洒落さ。洒落が解らなかつたのかい。」
と言つて、また一しきり可笑しさうに笑ひ崩れた。
 お客は安心した。伊三はんは自分で自分が言つた洒落に感心して笑つてゐるのだ。
手数てすうの懸らない人だな、養子には打つてつけさ。」
独語ひとりごとを言うて帰つて来た。そのお客は新聞記者だつたから、山県氏は待設まちまうけたやうに翌日あくるひの新聞をしこたま買込んで連絡船に乗込んだといふ。


古松研こしようけん

6・19(夕)

 先日こなひだ硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁かはひすんをうといふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
 頼山陽を硯に比べたら、あの通りの慷慨家かうがいかだけに、ぷり/\おこり出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百けん箪笥たんすといつて凝つた箪笥にしまひ込んで女房や鼠などは滅多に其処そこへ寄せ付けなかつた。
 同じ藩に松平太夫たいふといふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ代物しろもので、山陽のめちぎつた箱書はこがきさへはつてゐるので、硯好きの河合はいゝ機会をりがあつたら、何でも自分の方にき上げたいものだと、始終神様に願掛ぐわんかけをしてゐたといふ事だ。
 ある日河合と松平とはいつものやうに碁を打つてゐた。河合はわざと一二番負けて置いて、それからそろ/\、
うも今日はいやまけが込む。こんな日には賭碁かけごでもしたら気が引立つかも知れない。うだい、貴公には古松研、拙者には沈南蘋しんなんぴんの名画があるが、あれを一つ賭けてみようぢやないか。」
と切り出してみた。
 松平は二つ返事で承知をした。
「お気の毒だが、沈南蘋は拙者が頂くかな。」
などと戯談ぜうだんを言ひ言ひ、また打ち始めたが、かね/″\お賽銭さいせんを貰つてゐる氏神様のお力で、河合は手もなく松平を負かして、名高い「古松研」は到頭河合の手に渡つて了つた。
 維新後河合家の名硯は、それ/″\百硯箪笥から飛び出して知らぬ人に買ひ取られて往つた。当地の八田氏の売立会に出てゐた「金星銀糸硯」なども、その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入つて、細君以上に可愛かあいがられてゐるといふことだ。


芸妓げいしやの心得

6・20(夕)

 新橋の老妓らうぎ桃太郎がその往時むかし雛妓おしやくとして初めて座敷へ突き出された時、所謂ねえさんなる者から、仮にもをんなの忘るまじき三箇条の心得を説き聞かされた。
 三箇条といふのは、第一、お客のわるてんがうに腹を立てぬ事。第二、晴衣はれぎの汚れを気にしない事。第三、七けつぱいお客に惚れない事、万一惚れねばならぬ時は、成るべくよぼ/\の老人としよりを見立てる事。
 桃太郎はこの三箇条の心得を、ちやんと頭に畳み込んでお座敷に出た。桃太郎はその頃まだ男よりもチヨコレエトの方が好きな年頃だつたので、お座敷で客に惚れる程の冒険はしなかつた。よしんば※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな冒険好きな女でも、チヨコレエトの代りに男に惚れるやうな心得違こゝろえちがひはしない筈だ。女といふものは、十人が十人、先づチヨコレエトをべて、それから徐々そろ/\男に惚れるものなのだ。
 だが、桃太郎はあとの二箇条には、お座敷へ出る早々、ぶつかつた。その時のお客は、若い医者で、どんな医者にも共通な自惚うぬぼれだけはたつぷり持合せてゐた。で、耳を噛んだり、鼻先を押へたり、色々なふざけたふりをして桃太郎に調弄からかつた。
 桃太郎はてんで頓着しなかつた。それがしやくに触ると言つて、お客は桃太郎の頭から熱爛あつかんの酒をぶつ掛けた。酒は肩から膝一面に流れた。あか長襦袢ながじゆばんの色は透綾すきやの表にまでとほつて来たが、桃太郎は眉毛一つ動かさうとしなかつた。
 姐さんはそれを聞いて、大喜びに喜んで、代りの晴着をこしらへて呉れた。お客はゑひからめて、真青な顔をして謝りに来た。さじ加減や見立違ひで人を殺しておいて詫言わびごと一つ言つた事のない医者にとつて、謝りに来るのは、魂を嘔吐はきだすよりも苦しかつたに相違ない。


馬車の葬式

6・21(夕)

 巴里パリーの辻々にある円太郎馬車がめられて、自動車が代るやうになつた時、その会社員を始め、乗りつけのお客さん達が、サン・シユルピイスのお寺で乗合馬車の葬式をつた事があつた。
 旧教の坊さんが勿体ぶつて聖書を朗読すると、会葬者は声を合せて「アーメン」と唱へた。悧巧な耶蘇だつて、まさか乗合馬車のおとむらひまでしようとは思はなかつたらうから、それに相応した文句は残さなかつたらうが、巴里の坊さんは別に引導には困らなかつたらしい。何故といつて、聖書で見ると、どんな人間ひとだつて乗合馬車位の「罪」は、各自てんでにみんな背負しよつてるのだから。
 式が済むと、円太郎馬車は送られて火葬場くわさうぢやうへ往つた。二里余りの道中を絹帽シルクハツトかむつた会葬者はぞろぞろと続いた。路傍みちばたの見物人は、まるで名士の葬式にでも出会つたやうに、克明に帽子を脱いでお辞儀をしたといふ事だ。
 日本では往時むかしから文塚ふみづか、筆塚、針塚といつたやうなものもあるが、東京新聞の漫画家が寄集まつて、島田三郎氏の漫画葬式をやつたのは面白い企てであつた。大阪のやうな土地柄では名妓の落籍ひかされる場合などには、以前の関係筋が寄つてたかつて葬式をするのも面白からう。坊さんには矯風会の林歌子女史など打つて附けの尼さんだらう。あの人はお説教を聞かないでも顔だけ見れば悲しくなりさうだから。


与里より氏の香油かうゆ

6・22(夕)

 画家ゑかきといふものは、言ひ合はしたやうに、を覚える前に、屹度きつと酒の味を覚えるものだ。なかには生涯画の道が解らないで済ます癖に、酒だけは一人前になり切つてゐるのがある。
 そのなかに洋画家の斎藤与里氏だけは不思議に酒の味を知らない。先日こなひだ氏のとこへ或人から一瓶の進物しんもつを贈つて来た。丁度与里氏はその折頭の事を考へてゐたので(画家だつて、頭の事を考へてはならないといふ法は無い。彼等も世間並に頭を一つ持つてゐるのだから)、てつきりこれは頭髪あたまに塗る香油だと思つてしまつた。
 成程頭髪あたまに塗つてみるとすつとして気持がい。だが香気にほひだけは余り感心しなかつたので、よく調べてみると、上等のウイスキイだつたさうだ。
 ある名高い日本画家が巴里パリーに居た折の事、何処へく折にも、人目に立たないやうに屹度一びんげてゐる。何の壜だと訊いてみても、にや/\笑ふばかりで一向それと打明けない。或時珈琲店カフエーで落合つた悪戯いたづらな友達の一人が、打明けなければかうすると言つて、首をめにかゝると、くだんの日本画家は川向ふの天主教の尼さんにきこえないやうに低声こごゑ加之おまけに京都なまりで、
「ぢや言ひまひよ。これ淫薬どつせ。」
と白状した。
 友達は眼の色を変へて、その瓶を手繰たくつた。そして一字づつ克明に壜の文字を読んでゐたが暫くすると、
「成程さうだ、まあ大事にしまつておいて、ちびり/\飲むんだな。」
と言つて、笑ひ笑ひ壜を返した。壜は安物のシヤンペン酒だつた。


寒山かんざんせがれ

6・23(夕)

 京都大学の構内は博士も通れば土方も通る。博士は右のポケツトには葉巻シガアを、左のポケツトには「真理」を入れてゐる。だが、いつの時代でも大学は葉巻シガアの製造所で無いと同じやうに、「真理」の工場でも無いから、ポケツトの葉巻シガアも、「真理」も博士達の手製でない事だけは争へない。土方はそんな物の代りに弁当をげてゐる。弁当は言ふ迄もなく手製である。
 その博士や土方にまじつて毎朝大学の構内を通る十歳とをばかりの子供がある。子供に似気にげなくいつも歩きながらも書物ほんを読んでゐるので、よくそれを見掛みかける男が、
「ちやんとした身装みなりをしてゐて、可憫かはいさうに貧乏人の二宮金次郎の真似でもあるまい。」
と心配した事があつた。
 その子供が先日こなひだ学校で貰つた賞品を抱へて、いつものやうに大学の構内を通りかゝつた。すると、擦違すれちがつた大学生の一人が、
「やあ褒美を貰つたな。一寸僕にも見せろ。」
とそれをのぞきにかゝつた。その大学生は幼稚園このかたまだ褒美といふものを貰つた事が無かつたので、ひどくそれが珍しかつたのだ。
 子供は一寸小脇にそれを隠した。
無代たゞぢや見せないや、こゝに書いてある僕の名を読んだら見せる。」
「生意気な小僧だな、どれ/\。」
と言つて大学生は名前を見た。名前には「尋常科二年生内藤戊申」と書いてあつた。
「内藤ボシンぢやないか、さあ/\褒美を見せろ。」
「ボシンぢや無いや。」
「ぢやイヌサルか。」
「馬鹿やなあ、シゲノブと読むんや。」と子供は一散に走り出した。「えゝとししてよう読みをらん、あほんだらめ。」
 大学生はくやしがつて、何家どこの子供か知らとたづねてみると、文科大学の内藤湖南博士が秘蔵ひぞだつたさうだ。
「道理で、寒山拾得じつとくのやうな顔をしてたつけ。それにしても変てこな名をつけたものだなあ」
と、無学な大学生はその後もしきりとそれを気にしてゐる。


玄関

6・24(夕)

 そのむかし池大雅が真葛原まくずがはら住居すまゐには、別に玄関といつてへやも無かつたので、軒先のきさき暖簾のれんつるして、例の大雅一流の達者な字で「玄関」と書いてあつたさうだ。上田秋成が南禅寺常林庵の小家こいへにも、くちに暖簾をかけて「鶉屋うづらや」とたつた二字がしたゝめてあつたといふ事だ。
 ものの金龍通人は自分の戸口に洒落た一れんかけておいた。聯の文句はかういふのだ。
「貧乏なり、乞食物貰ひからず」
文盲もんまうなり、詩人墨客ぼくかくきたる可からず」
 乞食物貰ひも五月蠅うるさくない事もないが、それでも詩人墨客よりはまだましな場合が多かつた。何故といつて、乞食は物を呉れてれば、素直に帰つてくが詩人墨客は自分が納得出来るまで「知つたかぶり」を押売しないでは滅多に帰らなかつたから。
 小説家の正宗白鳥氏はひとうち出入ではいりをするのに、がらりと入口いりくちけはするが、その手で滅多に閉めた事は無い。もつともこれには主義のある事で、自分が出入ではいりするのには是非開けなければならぬが、それを閉めて置かなければならぬ何等の理由も発見出来ないからださうだ。かういふ来客に取つては、大雅や秋成のやうな暖簾の玄関は手数てかずが要らないでい。
 玄関にいぬつないでゐるうち、九官鳥を飼つてゐるうちむさくるしい書生を飼つてゐるうち、猫がぞろ/\這ひ出して来るうち――そんなうちへは添書てんしよをつけて悪魔でも送つてやり度くなる。


景年けいねん翁と商人

6・25(夕)

 東京の絵画商人のなにがしが、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏のとこへ、半切はんせつ揮毫きがうを頼みに出掛けた。たかが半切だと聞いて、画家は会はうともしない。
「先生はお忙しうおすさかい、なか/\お出来でけになりまへんぜ。」
と玄関番はしきゐに突立つたまゝ欠伸あくびをしい/\言つた。玄関番といふものは、主人が奥で欠伸をする時分には、自分もきまつてそれをするものだ。
 商人あきんどは四条派の画家ゑかきによく金を欲しがる持病があるのを知つてゐるから、
「それでは伺つた印に潤筆料だけ承はつて参りませう。」
と言つた。玄関番は商人あきんどの前に片手を拡げてみせた。
「半切一枚五十円どつせ。」
 商人あきんど懐中ふところから財布を取り出した。
「それではこゝに五十円差上げて置きますから、お気に向いた時に一枚御揮毫を願つておきます。」
 玄関番はそれを見ると、急ににこにこし出した。
「そんなら一度頼んで来まつさ。なに理由わけを話したら先生の事やさかい、半切の一枚や二枚ちよつくらちよつと書いて呉りやはりますやろ。」
 さういつて奥へ隠れたと思ふと、玄関番はまた表へ飛び出して来た。
「唯今先生がお会ひになりますさかい、まあ何卒どうぞお上り……」
 今度は商人あきんどが承知しなかつた。
「折角ですが、私は絵をお頼みに上りましたんで、先生にお目に懸りに来たのではありませんから。」
と言つて、そのまゝすた/\と帰つてしまつた。
 流石に商人あきうどは目が敏捷はやかつた。絵は売る為めに註文したので、画家ゑかきに会つた為に売値を崩すやうな事があつても詰らなかつた。実際画家ゑかきのなかには、その人に会つたが為めに、折角いて貰つた錦鶏鳥きんけいてうまでが厭になるやうな人も少くなかつた。
「先生はお忙しうおすさかい……」
 先生がお忙しいのは、先生自身に取つても、お客に取つても勿怪もつけ幸福さいはひであつた。孰方どつちも損をしないで済む事なのだから。


英雄の髑髏しやれかうべ

6・26(夕)

 清教徒の英雄オリヴア・クロムヱルの髑髏しやれかうべはオツクスフオード大学の図書館に珍蔵せられて、世界に名高いものだが、その後メエラント附近の牧師ヰルキンソンが発見したものが一つ、今倫敦ロンドンの考古学博物館に納まつてゐる。つまり頭をたつた一つしかたなかつた英雄に、髑髏どくろが二つ出た事になるのだ。
 政治家や実業家の仲間には、「良心」を幾つも持つて、それを自慢にしてゐるのがある。その事を思ふと、クロムヱルの髑髏しやれかうべが二つ出たところで格別差支さしつかへはない。あるひはもつと捜したら、もつと出るかも知れない。
 山科やましな上醍醐かみだいご寺の宝蔵に「平中将将門へいちゆうじやうまさかど」の髑髏しやれかうべがある。桐の二重箱に入れて、大切にしまつてある。将門が醍醐の開基理源大師の法力ほふりきいましめられ、さらくびに遭つたのを残念がつて、首が空を飛んで来たのを拾つたのだといふが、事に依つたら、大師が申請まをしうけたのかも知れない。
 ある夏醍醐に遊んでゐると、その頃の京都府知事大森しよう一氏が山へのぼつて来た。山の坊さん連は知事に何を見せたものだらうかと色々詮議の末が、
「宋版の一切経さいきやう山楽さんらくの屏風を見せたところで、解りさうにもなし、やつぱり将門の髑髏しやれかうべを見せるに限る。あれならばまさか貰つて帰るとも言ふまいから。」
と言ふので、宝蔵から例の髑髏しやれかうべを出して見せた。
 大森氏はためつすがめつ髑髏しやれかうべを見てゐた。ちやう梅雨つゆ時分の事で、髑髏しやれかうべからは官吏や会社の重役の古手ふるてから出るやうな黴臭かびくさ香気にほひがぷんとした。
「成程よくは判らないが、矢張やつぱり将門のこつらしいな。こゝに叛骨はんこつが出てる工合から見ると……」
 暫く経つてから、知事はくすぐつたさうな顔をして言つた。
「へえ……叛骨と申しますと……」
 坊さんが安つぽさうな頭を突き出した。
「ここさ。こゝの骨さ、叛骨といふのは……」大森氏は扇の端で一寸髑髏しやれかうべ後部うしろつゝついた。「むかししよく曹操関羽の頭を見て、此奴こいつは叛骨が飛び出しているから叛反むほんをすると言つた……」
「へえ、そのかた矢張やつぱ叛反むほんをおしやした。争はれんもんどすなあ。」
と坊さんは感心したやうに頸窩ぼんのくぼへ手をやつた。
 見ると、大森氏の頭にも、安つぽい坊さんの頭にも、それらしい骨が一寸飛び出してゐた。なに、飛び出してゐたつて心配するが物はない。叛反むほんにも色々ある。男爵になりたいのも、金持の檀家が欲しいのも、実際叛反むほんには相違ないのだから。


健忘症

6・27(夕)

 先日こなひだ神戸高商の小川忠蔵、小久保定之助ていのすけの両氏が、英語専攻の学生にばれた返礼を、安上りだといつてカフエエ・オリエントでする事になつた。
 饗ばれる学生は多勢おほぜいだし、饗ぶのはたつた二人だしするから、珈琲屋カフエー位で済ます事にめたのは、流石に頭脳明晰であるが、さて肝腎の生徒にそれを伝へる段になると、急に頭が変になつて、
「おい、間違つちやかんぞ、会場はカフエエ・パウリスタだから。いゝかえ。」
と駄目まで押してしまつた。
 その日は小久保氏に誘はれて、小川氏は雨の降るなかをカフエエ・オリエントに着いた。そして二人は円卓テーブルを差向ひに煙草をふかしながら、細君や丸善やのみの話をしてゐた。「細君」と「丸善」とは学校教員が住むでる世界の二大人格だが、蚤は昨夜ゆうべ二人ともそれにされて、とうと寝付かれなかつたからだ。
 談話はなしの種は切れたが、お客は唯の一人入つて来ない。
うしたのだらう、厭に落付いてる。」
ぼやいた瞬間、小川氏の頭に「パウリスタ」の名がぼんやり浮び出して来た。
 パウリスタへ集まつた学生達はいつ迄待つても主人役の二人が見えないので、ごふを煮やしてぶつぶつぼやいてゐる処へ、幽霊のやうに小川氏が入つて来た。
「君達は何だつて、こんな処へたかつてるんだ、蠅のやうに。御馳走が彼方あつち待惚まちぼけてるぢやないか。」
彼方あつちて何処です。」
「判つてるぢやないか。パウリスタだよ。」
 神戸高商にはこんな人達が多いと見えて、或教授は歯医者へ行く途中、咽喉のどが乾いて仕方がないので(学校教員だとて咽喉のかわかぬといふ法はない)珈琲店カフエーへ飛び込んで、立続たてつゞけに紅茶を二杯飲んだ。
 そして代価を払つて立上ると、
「さあ、もう用事は済んだぞ。」
とそのまゝ今下りたばかしの電車の停留場へ来ると、忘れられた奥歯が急にづき/\痛み出したので、
「さうだ、俺は歯医者へく筈だつたんだ。」
と慌てて歯医者へ駆けつけたさうだ。
 珈琲店カフエーや歯医者を忘れる分には差支さしつかへないが、細君と丸善とだけは何時迄も覚えてゐて貰ひたい。彼等は学校教師にとつての二大人格だから。そしてついでに蚤もまた。蚤を忘れると、夜分寝付かれないから。


口は調法

6・28(夕)

 英詩人野口米次郎氏の頭の天辺てつぺんはやくから馬鈴薯じやがいものやうな生地きぢを出しかけてゐた。氏は無気味さうに一寸それに触つてみて、
「これは帽子をかぶりつけてゐるからさ。つまり一種の文明病だな。」
と言ひ/\してゐた。
 サミユエル・ジヨンソンは自分の英辞書で「大麦オホト」ということばの下に、
英蘭イングランドでは馬の餌。蘇格蘭スコツトランドでは人間の食物たべもの。」
といふ皮肉な解釈を下したが、例の高木兼寛博士の説によると、日本人は英蘭の馬ではないが、麦飯さへ食つてれば、哲学を考へたり、女房といがみ合つたりするのに少しの不足も無いさうだ。
 高木氏は病家を診察して、病人がたひの刺身や吸物でも食べてゐるのを見ると、
「こんな物を食つちやかん。麦飯だけで十分さ。」
と言つて、うかすると自分でその御馳走をぺろりと食べてしまふ。そして、
わしは構はん、わしは医者だからな。」
と済ましてゐる。
 その麦飯主義もまだ十分で無いと見えて、高木氏はその後「裸頭跣足らとうせんそく」主義を標榜してゐるが、近頃また関西地方へお説教かた/″\出掛けて来るといつてゐる。「裸頭跣足」は言ふ迄もなく、帽子もかぶらず、くつ穿かない主義で、一口にいふと、日本人を生蕃人せいばんじんにしようとするのだ。生蕃人を日本人にしようとするよりも、この方がいつそ近道かも知れない。
 何分なにぶん氏の事だ。講演会の席上で上等のパナマ帽でも見つかると、例の調子で、
「そんな物をかぶつちやかん。おや履まで穿いてるぢやないか。」
いきなり手操たくつて自分の頭と足とに、それを穿めるかも知れない。「わしは構はん、わしは医者だからな。」と言つて。
 金森通倫つうりん氏が政府の御用弁士で貯金の勧めをしてゐた頃ある処で、
「散髪なんか一々理髪床かみゆひどこでするには及ばない。めいめい剪刀はさみみ切る事にしたら、散髪代だけ儲かる。」
と言つた。すると、正直な聴客きゝての一にんが、
貴方あなたの頭はやはり御自分でお刈りになりますか。」
と訊いた。金森氏は酢を嘗めたやうな口元をして、
「私は自分では刈らない。私は貯金の演説をするので、貯金をするのは貴方方あなたがたですから。」
と答へた。――口は調法なもの、出来る事なら、その口に帽子をせて、ついでに上等な履まで穿かせてやりたい。


露伴の机

6・29(夕)

 今の中村歌右衛門の父、芝翫しくわんは随分常識外れの妙な癖で聞えた男だが、この俳優の数ある癖のなかで一番面白いのは、そら火事だといふと、どんな遠方でも構はない、印半纏しるしばんてんを引つかけて直ぐ飛び出した事で、火のの散るなかをうろ/\駈けづり廻つて、帰途かへりには茶飯ちやめしの一杯も掻き込んで、いゝ気で納まつてゐた。
 今一つ妙な癖は指物さしものが好きで、ひまさへあれば何かこつ/\指物師の真似事をしてゐたが、手際はから下手べたな癖に講釈だけはひとばいやかましく、かんなのこぎりなどは名人の使つたのでないと手にしなかつた。なかでも一番文句が多かつたのは指物に使ふ木で、あゝでもない、かうでもないとぜいを言つてゐたが、一度なぞは一日土蔵に入つてこつ/\やつてゐて、日のがたやつと外へ這ひ出して来た。
「かう見ねえ、立派な煙草盆が出来上ったよ[#「出来上ったよ」はママ]。」
 見ると歪形いびつの煙草盆を大事さうに掌面てのひらに載つけてゐる。もしやと思つて土蔵を覗いてみると、女房かみさんが一番大事の唐木箪笥からきだんすをすつかりぺがしてしまつてゐたさうだ。
 幸田露伴氏もよく指物をした。洒落た机がこしらへたい、それにはつてから百五十年以上経つた材木で無いと、狂ひが出来るからといつて、方々捜し廻つてゐるうち、下谷したやの古い薬舗くすりみせで、恰好の看板を見つけて、やつとそれを手に入れた。
 脚には何がよからう、名人の吹いた尺八が面白からう。さうだ、それに限るといつて、ひまにまかせて方々の道具屋を尋ね歩いた。
「おうちには名人の吹いた尺八がありますまいか。四本ばかりでいゝんだが……」
 仕合しあはせと道具屋は名人をこさへる事にかけては、その道の師匠よりもずつとすぐれた腕を持つてゐるので、幸田氏は十日も経たぬうちに名人の吹いた尺八を三本まで手に入れた。
 だが机の脚は馬の脚と同じやうに四本無くてはならない。あとの一本を発見めつけるために幸田氏は二週間程無駄足を踏んだ。二週間といへば十四日である。男が女を忘れるには七日あれば十分だ。女が男を忘れるには九日で不足はない筈だ。二週間も経つうちに幸田氏はすつかり机の事を忘れてしまつた。忘れてよかつた。すべて自分に都合の悪い事は忘れるに越した事はないのだから。


大森だんの詰襟

6・30

 今度皇后宮大夫くわうごうぐうだいぶになつた大森鍾一氏は官吏は威容を整へなければならぬといふので、何時いつも葉巻をくはへる事に決めてゐる。又ある知辺ちかづきの言ふのでは、あれは三十年ぜん仏蘭西へ往つた時に覚えて来た癖ださうだが、それでも一向差支ない、折角仏蘭西まで往つて何一つ覚えなかつたとすれば、せめて葉巻の味位覚えて居てもいのだから。それに監獄へ入つて道徳を覚えて来たと自慢さへする者のある世の中だ、かういふ事は公然おつぴらに言つて貰ひ度い位のものだ。
 大森氏が京都府知事時代に管内の郡部を巡視中、時々持合せの葉巻が切れる事がある。さういふ折には属官が田舎町の煙草屋を片つ端から尋ね歩く。属官にしても田舎町に葉巻の無い位はわきまへてゐるが、すべて、何かの「長」になつてゐる者は、部下が尻切蜻蛉しりきれとんぼのやうにきり/\まひをするのを見るのがたのしみなものだといふ事を知つてゐる。で彼方此方あつちこつちを捜し廻るのが、とゞのはては京都にある夫人のもとへ、電報で葉巻を催促をする。
 大森氏は同じ主義から、どんな酷暑の候でも、官吏は簡単な服装をしてはならないといふので、洋服のぼたん一つ外した事がない。この意味から詰襟などは巻煙草シガレツト刻煙草きざみたばこと一緒に大嫌ひである。
 ある夏内務部長の塚本清治せいぢ氏が白リンネルの詰襟で来ると、大森氏の顔は妙にゆがみ出した。
「坂本君、今時いまどき詰襟で歩いてゐるものは、郵便配達夫と電車の車掌とそれから……」
 一息にここまでまくし立てると、あとが続かなくなつたのと、葉巻シガーけぶりが咽喉に入つたのとで、大森氏は一寸言葉を切つて、大きなくさめをした。そして苦しさうに涙を目に一杯溜めて、
「巡査と軍人だよ。」
わめくやうに言つた。
 塚本氏はそれ以後滅多に詰襟を着なくなつたが、大森氏が今度宮内官になつて、詰襟を着るやうになつたのを見たら、どんなに言ふだらう。


蘆花氏と本屋

7・1(夕)

 ある時書肆ほんやが徳富蘆花氏の原稿を貰ひに、粕谷かすやの田舎まで出掛けると、蘆花氏は縁端えんばな衝立つゝたつて、大きな欠伸あくびをしい/\、
「この頃は誰にも面会しない事にめてるが、風呂の水をむで呉れるなら会つてもい。」
という挨拶なので、書肆ほんやは不承々々に風呂の水を掬むだ。
 書肆ほんやはへと/\になつて、やつ縁端えんばなに腰をおろすなり、原稿の談話はなしを切り出すと、蘆花氏は頭の天辺てつぺんから絞り出すやうな声で、
「原稿よか、もつとい物があげてある筈ぢやないか。」
といふので、近眼ちかめ書肆ほんやは慌てて膝頭から尻の周囲あたりを撫でまはしてみたが、そこには鉄道の無賃乗車券らしいものは無かつた。旅行好たびずきの書肆ほんやの頭には、原稿よりい物は、鉄道の無賃乗車券よりほかには、何も無かつた。
なんだんね、先生、何もおまへんやないか。」
 大阪生れの書肆ほんや怪体けつたいな眼つきをして、蘆花氏の顔を見た。
「労働の神聖さ。」
 蘆花氏は写真版にあるトルストイのやうに、まぶしさうな眼つきをして言つた。そしてトルストイが使ひ馴れた草刈鎌でも捜すやうに、腰のあたりへ手をやつたが、そこには縄帯の代りに、メリンスの兵児帯へこおびがちよこなんと結んであつた。
「労働の神聖さ」――書肆ほんやは口のなかでそれを繰り返してみた。口のなかは先刻さつきの働きでつばきがから/\に乾いてゐたので、少し苦しかつた。書肆ほんやは持合せの丸薬を二つ三つ取り出して噛んだ。すると気がすうとなつた。この時本物のトルストイが顔でも出したら、書肆ほんやは食べ残りの丸薬をいきなり毛むくじやらの口へ押し込んだかも知れない。だが、蘆花氏にはそれも出来なかつた。
「あの人は胡桃くるみでも噛み割りさうな歯を持つてゐやはるさかい。」
 書肆ほんやはかういつて絶念あきらめた。


苜蓿うまごやし

7・2(夕)

 北欧のある詩人は、外へ出掛ける時には、いつも両方のポケツトに草花の種子たねを一杯詰め込んで、根のりさうな土地を見かけると所構はず何処へでもふりいたさうだ。
 京都の御所を通つた事のあるものは、御苑の植込に所嫌はず西洋だねの苜蓿が一面にへ繁つて、女子供が皇宮警手くわうきゆうけいしゆの眼に見つからないやうに、そのなかに蹲踞しやがんで珍らしい四つ葉を捜してゐるのを見掛けるだらう。
 この苜蓿は丹羽には圭介氏が明治の初年欧羅巴ヨーロツパへ往つた時、牧草としてはこんない草はないといふ事を聞いて、その種子たねをしこたま買ひ込んで帰つた事があつた。さて日本に着いてみると、牛どころかまだ人間の始末もついてゐない頃なので、欧羅巴で考へたのとは大分だいぶん見当が違つた。
 さうかといつて、苜蓿を京都人に食べさせる訳にもかなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)丹羽氏は折角の種子たねを、みんな其辺そこらへぶち撒けてしまつた。
 それが次から次へとはびこつて、今では御苑の植込は言ふに及ばず、京都一体にどこの空地あきちにも苜蓿の生へてない土地ところは見られないやうになつてしまつた。
 苜蓿によく似た葉で、淡紅うすあか色の可愛かあいらしい花をもつ花酢漿はなかたばみも京都にはよく見かける。この花の原産地は阿弗利加アフリカの喜望峰だといふ事だが、あれなぞも何処かの男が禅坊主にでも食べさす積りで持つて来たものかも知れない。禅坊主は家畜の食べるものなら何でも口にする。唯一つばくの食べる「夢」を知らないばかりさ。「夢」は彼等にとつて余りに上品すぎる。


台湾と考へ事

7・3(夕)

 岡松参太郎博士の言葉によると、満洲に居る時は、頭がはつきりと澄んで細かい考へ事や計算やもごく楽に出来るが、台湾へ出掛けると、頭がぼんやりと草臥くたびれてしまつて、考へ事はとんちんかんに、計算は間違ひだらけになる。台湾に三日も過ごすと、満洲に三十日も居た程疲れが出るさうだ。
 台湾のある製糖会社に大学出の支配人がゐる。年に一度同窓生の会合があると、いつも遙々はる/″\東京まで出掛けて来る。そして会が始まつて、皆の者が何か議論がましい事でも言ひ出すと、怪訝けげんな顔をしてそれに聴きとれてゐるやうだが、暫くすると椅子にもたれたまゝぐうぐういびきをかいて寝入つてしまふ。
 一頻ひとしき喋舌しやべり疲れた連中れんぢゆうがどしんと一つ卓子テーブルを叩いて、
「△△君、君のお考へはうだね。」
と訊くと慌てて椅子から飛び上つて、
「さうですね、僕の考へは……」
といつて、きまつたやうにポケツトから鉛筆を引張り出し、ちよつと卓子テーブルの上に立ててみて、誰でも構はない、それが倒れかゝつた方の味方をする。
 心安立こころやすだての友達が、鉛筆もまんざら悪くはないが、いつもあれでは余り無定見ぢやないかといふと、支配人は砂糖臭い大きな欠伸あくびを一つした。
「でも僕には皆の喋舌つてゐる事が、てんで解らないんだもの。僕も今ぢやすつかり台湾向きだよ。」
 この支配人のいふのでは、台湾では考へ事はうしても出来ない。唯二つの選択があるばかりだ。たとへていつたら朝と晩、総督と生蕃せいばん、砂糖と樟脳、成功と失敗といつたやうなもので、それを選ぶにしても鉛筆は人間の頭よりもずつと公平に判断するさうだ。


蜜蜂の失敗

7・4(夕)

 ある蜜蜂飼養家が何かの用事で印度へ渡つて見ると、野にも山にも花といふ花が咲きこぼれてゐるので、蜜蜂飼養家は躍り上つて喜んだ。
「印度つてこんなに花の多い土地ところとは知らなかつた。こゝで蜂を飼つたら、しこたま蜜がれるに相違ない。」
 そして、急いで国へ帰るなり、蜜蜂をもつて又印度へ出掛けて往つた。ちやうど金持を見つけて賭博打ばくちうち骰子さいころを持つて又珈琲屋カフエーへ出掛けてくやうに。
 骰子ほど意地の悪い物は無い。蜜蜂は箱から取り出されて、美しい香気にほひを嗅ぐと狂気きちがひのやうに花の中を転げ廻つたが、何時いつまで待つても蜜をこしらへようとはしなかつた。それもその筈で、印度のやうに何時でも花のある土地では、蜜の臍繰へそくりを拵へておく必要も無かつたのだ。蜜蜂飼養家は大事な蜂を失つた代りに、幾らか賢くなつて郷土くにへ帰つて来た。人間といふものは賢くなるためには、従来これまで持つてゐた何物かを失はなければならない、とすると、女房かみさんや馬にげられるよりは、蜜蜂をくした方が、まだ仕合しあはせだつた。
 岩野泡鳴氏は文士や画家ゑかき片手間かたでまの生産事業じごふとしては養蜂ほどいものは無いといつて、一頻ひとしきりせつせと蜜蜂の世話を焼いてゐた。そして蜂にされない用意だといつて、細君が着古した※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ヴエールをすぽりと頭からかぶつてゐたが、蜂には螫されない代りに、とうと細君に螫されてしまつた。
 蜜蜂を扱ふのに※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ヴエールが要るやうだつたら、女をあしらふにはそれを二枚重ねなければならぬ。臆病者に限つて剣は長いのを持つてる世の中だから。


女を賢くする法

7・5(夕)

 今なか座で『マクベス』をつてゐる東儀鉄笛とうぎてつてき氏に、誰かが、
「君も義歯いればの数が殖えたやうだが、今のうちに恋でもつておいたらうだね。」
と言ふと、東儀氏はあの牛のやうな大きな眼をぐりぐりさせて、
「人間も犢鼻褌ふんどし一つで、子供の枕もとで蚊を焼いて歩くやうになつちや、もうから意気地もない。」
こぼしてゐる。
 旧文芸協会当時、東儀氏が例の明けつ放しの気質かたぎから、ちよい/\松井須磨子に心安立こゝろやすだて戯談ぜうだんでもいふと、そばで見てゐる島村抱月氏は気が気でなく、幾らか誤解はきちがへも手伝つて、
「東儀君、松井を可愛かあいがるのはして貰ひ度いもんだな。」
と倫理の教師のやうな悲しさうな顔をして、
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来るんだからね……」
 流石に島村君は学者だけにうまい事をいふものだ。
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来る。」
 ほんとにさうだと東儀氏は感心をして、又と戯談ぜうだんを言はなくなつた。
 女に頭をこさへるには、島村君のやうなセルのはかま穿いた温和おとなしい学者に可愛がつて貰ふのもよいが、一番良いのは恋人に棄てて貰ふ事だ。女は男に突き放されると、一度に十年も賢くなる。


はらわたから歌

7・6(夕)

 ラフエエル前派の詩人ロゼツチが自分の詩集を、亡き妻の棺に納めて葬つたのを、あとになつて友達の勧めにしたがひ、妻の墓を掘かへして、詩集をとり返したのは名高い話だ。
 新納にひろ武蔵守は薩摩武士の生粋きつすいで例の戯談好ぜうだんずきな太閤様の歌にある、ちんちろりんのやうな長い鬚を生やした男だつたが、矢張り薩摩者に有りうちの、ちんちろりんのやうに雌を可愛かあいがるので聞えた男だつた。
 ちんちろりんは随分な嫉妬やきもち焼きで雌がよその雄と談話はなしでもしてゐようものなら、いきなり相手を後脚あとあしで蹴飛ばすさうだが、薩摩者もこの点ではちんちろりんに劣らぬ道徳家である。
 新納武蔵に可愛がられてゐた若い小間使こまづかひがあつた。ある日雨の徒然つれ/″\に自分の居間で何だかしたゝめてゐると、丁度そこへ武蔵が入つて来た。(男といふものは猫のやうによく女の内証事ないしようごと発見めつけるものなのだ。)
 はつと思つて、女が袖の下へそれを隠すと、武蔵はちんちろりんのやうな顔で袖の下を覗き込む。すると、女は意地になつて、よく小娘がするやうにその反古ほごを口の中に噛みしめて、ぐつとくだしてしまつた。
 武蔵は女が隠し男にふみとでも誤解はきちがへたものか、激しい嫉妬で顔は蟹のやうに真紅まつかになつた。そしていきなり女を手打にして腸のなかからその反古を引張り出した。
 反古には優しい筆のあとで、
「人ならば浮名やたゝん小夜ふけて枕にかよふ軒の梅が香」
したゝめてあつた。武蔵も少しは歌をんだ男だけに、ちんちろりんのやうな顔に涙を流して不憫がつた。
 歌反古だつたから泣かれたやうなものの腸のなかから鼈甲櫛べつかふぐし勘定書かんぢやうがきでも出たらどんな顔をしたものか、一寸始末に困るだらう。


小説家とまき

7・7(夕)

 この頃発売禁止になつた『ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイ夫人』の著者フロウベエルがある婦人と恋をした事があつた。婦人はある時伊太利イタリー語を彫りつけた葉巻入はまきいれをこの小説家に贈つた所が、フロウベエルは小説の女主人公が自分の情夫いろおとこに贈物をする時に、その伊太利語をそのまゝ借用させた。
 それを見た恋女こひをんなは、真剣な自分の恋を馬鹿にしてゐるといつて※(「弗+色」、第3水準1-90-60)くれ出した。温和おとなしいフロウベエルは色々に弁解いひわけをしたが、嫉妬焼やきもちやきの女はうしても承知しないので、小説家もとうと本気になつて怒り出した。そしてまきざつぽうをふり上げてなぐり倒さうとした。(小説家だといつて薪ざつ棒をりあげないものでもない。ニイチエは女を訪問する時にはむちを忘れるなといつたが、鞭を忘れた時には薪ざつ棒でもふりあげねばなるまい。)
 フロウベエルは薪ざつ棒をふりあげた。女は部屋の片隅にふるへながら、まだ家鴨あひるのやうに我鳴り立ててゐる。この時小説家の頭に、しか擲り倒したら、女は直ぐ告訴するだらうなといふ考へが矢のやうに走つた。フロウベエルは薪ざつ棒を足もとに投げ出した儘、ふいとへやを飛び出したが、それきりもう帰つて来なかつた。
 女が口喧くちやかましいからといつて警察の手に引渡した男はない筈だ。それだのに男の手に薪ざつ棒を見ると、女は直ぐ法律のかひなすがらうとする。武器としての女の口は薪などと比べ物にはならない。薪は間違つて肉体を叩き潰すかも知れないが、女の舌は一度に霊魂たましひを窒息させてしまふ。


老婆梅川うめがは

7・8(夕)

 むかし雄略天皇は狩のみちすがら三川に洗濯せんだくをしてゐる田舎娘を御覧になつて、「顔立かほたちのいゝ娘ぢや、大宮に召し抱へよう」とお約束になつた事があつた。その日の狩は獲物が多かつたと見えて、夕方ゆふかた宮にお帰りになる頃には、すつかり田舎娘の事はお忘れになつてゐた。田舎娘は今日か明日かとお迎へを待つてゐるうちに、とうと八十年の月日を過して、白髪頭しらがあたまの婆さんになつてしまつた。
 むかし島原に美しい遊女がゐて、よく物忘れをするので聞えてゐた。何を忘れても覚えてゐなければならぬお客の顔さへ、その夜を過ぎるとけろりと忘れてゐるので、それが浮れ客の評判になつて、
「あんなに忘れつぽくはあるが、何処かに真実がありさうだから、貴方一人は忘られないといふ客もなくつちやならない。」
といふので、男が持前の自惚うぬぼれから、みんな自分がその忘れられない男にならうと、せつせと通つて来るので、ひどく全盛を極めたさうだ。
 このごろ近江あふみ矢橋やばせで遊女梅川の墓が発見めつけられた。物好きな人の調べによると、梅川は忠兵衛に別れてから、幾十年といふ長い月日をこゝで暮し、八十三でころりと亡くなつたさうだ。
 芝雀しじやくる、福助のるあの梅川が八十三の皺くちやばゞあになるまで生きながらへてゐた事を考へるのは、恋をする者にとつて良い教訓である。何しろ長い間の事だ、梅川もしまひには忠兵衛の名なぞは、すつかり、忘れてしまつて、
「忠兵衛つてあの山雀やまがらの事で御座んすかい、もんどり上手の……」
と言つて、こくり/\居睡ゐねむりでもしてゐたか判らない。さう言つたからとて、何も腹を立てるには及ばない。人生はそんなものなのだから。


篁村くわうそん氏といわし

7・9(夕)

 竹のや主人、饗庭あへば篁村氏は剽軽へうきんな面白い爺さんだが、夫人はなか/\のしつかものなので、お尻の長い友達衆は、平素ふだんは余り寄付よりつかない癖に、夫人が不在るすだと聞くと、直ぐ駈けつける。篁村氏自身も夫人が旅立でもすると、
「おい、女房かない不在るすになつたから遊びに来い。」
態々わざ/\使つかひを出して催促する。
 ある夏の事、御多分に洩れぬ幸堂得知かうだうとくち氏が夫人の不在るすねらつて無駄話に尻を腐らせてゐると、表を鰯売が通つた。幸堂氏は急に話をめた。
「おい、饗庭、あの鰯を呼んでくれ、今日は拙者が一つ御馳走をしてくれるから。」
 鰯を買つた幸堂氏はねぎを買ひに主人を近所の八百屋に走らせた。茶気のある篁村氏は一銭がとこ葱をげて嬉しさうに帰つて来た。平素ふだん女房かないにいたぶられてゐる亭主は女房の不在るすに台所の隅で光つてゐる菜切庖丁なきりばうちやうや、葱の尻尾に触つてみるのが愉快で溜らぬものだ。
「や、いゝ葱だね。ついでに気の毒だが、扇子の古いのを一本発見出めつけだして呉れないか。」
「扇子? 扇子をうするんだい。」
 篁村氏は片手に葱をぶら提げながら、神聖な夫人の居間を捜して破けた扇子を一本持ち出して来た。
 幸堂氏は料理人いたばがするやうに、手拭てぬぐひたすき効々かひ/″\しくたもとを絞つて台所で俎板まないたを洗つてゐた。
「や、御苦労/\。ぢや君は其処そこで見てゐ給へ。鰯はかうやつておろすものなのさ。」
 幸堂氏は無駄口を叩き/\古扇子ふるせんすの骨の間に鰯の骨をはさんで、さつとしごくと魚は器用に三枚におろされた。
「な、なある程、うまいもんだな。」
 篁村氏は、帝劇で松助まつすけの芸を賞めるやうに、禿頭をふり/\感心した。
 小一時間も経つ頃、やつと鰯の「ぬた」が出来上つて、食膳の皿に盛られると、味利あぢききだといつて、幸堂氏は一はし口へ頬張つて、もぐもぐさせてゐたが、急に変な顔をして考へ出したと思ふと、はたと膝を叩いて笑ひ出した。
失敗しまつた。あんまり急いだもんだから、鰯のこけをふくのを、すつかり忘れちやつた。」
「さうかい……」と言つて、篁村氏も箸をつけたが、「なに、美味うまく出来てるぢやないか。」とむしや/\食べ出した。ほんとに鰯のうろこつてなかつたが、不断女房かないとげのある言葉を食べつけてゐる者にとつては、魚のうろこなどは何でもなかつた。


坪内博士の傘

7・11(夕)

 先日こなひだ物忘れの事を書いたが、独逸の歴史家モムゼンは専門以外の事は何でも忘れつぽいので聞えた男で、ある時大学から帰つて自分の書斎に入ると、何を思ひ出したものか卓子テーブル周囲まはりを掃除し出した。見ると寝椅子の上に古綿ふるわたのやうなものがあるので、ぶつ/\言ひながらそれを引つ掴むで反古籠ほごかごのなかにり込んだ。
 古綿は急に蛙のやうな声をして鳴き出した。古綿が蛙に化けるなぞは羅馬ローマの帝政時代にも無かつた事なので、流石にモムゼンも吃驚びつくりした。で、そばへすり寄つてよく見ると、古綿のやうなのは、その頃生れたばかりの孩児あかんぼであつた。お蔭で学者は細君にぴどく叱り飛ばされてしまつた。無理はない、どんな学者の事業だつて、女の生む「孩児あかんぼ」に比べると、ほんの無益物やくざものに過ぎないのだから。
 坪内逍遙博士が今の高田文相などと一緒に高野かうやのぼつた事があつた。見物も一通り済んで、いよいよ下山といふ事になると、博士はお寺の土間をうろうろして何だか捜し物でもしてゐるらしい。
「何か忘れ物でもあるんですか。」
 高田氏は鷹揚に訊いたが、いつも出掛でかけには夫人にさう言はれつけてゐるので、言葉の調子に何処か女らしいところがあつた。
洋傘かうもりがさが見えないんです。先刻さつきここへ置いたと思ふんだが……」
 坪内博士は薄暗うすくらい土間の隅つこを、鶏のやうに脚で掻き捜してゐる。
洋傘かうもりがさだつたら、君がわきはさんでるぢやありませんか。」
 高田氏は笑ひ笑ひ言つた。気がついて見ると、博士は大事の/\繻子張しゆすばり洋傘かうもりがさは腋に挟んだまゝ、もう一本捜してゐるのだつた。
 洋傘かうもりがさは二本あつても、一本を高田氏に呉れてやつたら事は済む。「真理」が二つあつたら、博士は首をめなければならなかつたらう。


上田博士の死

7・12(夕)

 上田敏博士が亡くなつたのは、吾が文壇にとつて、京都大学にとつて、また償ふ事の出来ない損失といはなければならぬ。博士は平素ふだん大学教授といふ名前を厭がつてゐたが、多くの大学教授のうちで、博士は京都大学の最も誇るべき人であつた。
 たつた一人きりの愛嬢瑠璃子さんが、京都の銅駝どうだ校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ送り、自分は独身生活を営んで、冷い弁当飯べんたうめしで過してゐたが、その寂しい生活が大分だいぶん健康にさはつたらしい。
 オスカア・ワイルドは亜米利加の婦人達をんなだちは死んで天国へ昇るよりか、巴里パリーへ生れ代るのが願望のぞみらしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるのは、大分だいぶんいやだつたらしかつた。で、小学校を出ると直ぐ東京へ送つたが、それも普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目をつむつたのは博士がせめてもの本望だつたかも知れない。
 幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、家族を同伴しないのを何故だとひとに訊かれて、
「でも、子供に京都語きやうとことばだけは覚えさせたくありませんからね。」
と言つた事があつた。それを人伝ひとづてに聞いた時、上田博士は、
「全くですね。」
と言つて、煙脂焼やにやけのした前歯をちつと見せて笑つてゐた。数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。


谷本博士と名妓めいぎ

7・13(夕)

 亡くなつた上田敏博士が京都大学に初めて来た頃谷本梨庵博士は文科の創設者として早くから京都の土を踏むでゐたから、高等師範以来このかた顔昵懇かほなじみといふので、色々京都についてお説教をしたものだ。
 そのお説教の一つに、ダンテの名句に「見て過ぎよ」といふのがあるが、京都は実際見て過ぎればよい土地で、神社もお寺も拝むよりか見て過ぎるやうに出来てゐる。交通機関の電車にしてからが、(その頃京都にはまだ市の電車といふものは無かつた)横目で見て通ればよいので、あれに乗つては時間ひまが潰れて仕方が無いと言つてゐた。実際谷本博士は長年京都にゐながら、一度も電車に乗つた事はなかつた。そして何時いつも横目で車台しやたいを睨み/\てく/\歩いてゐたが滅多に電車にひけは取らなかつた。
 独逸哲学と一緒に、伯林ベルリンの汽車の時間表まで鵜呑うのみにしてゐる桑木博士なども、
「谷本君のは長い経験から出たので、全く真理だよ。」
ひどく感心してゐたが「真理」といふものは、独逸製以外に、京都でもちよい/\安手なのが出来るものと見える。
 谷本博士はある日教授の溜室たまりで上田博士の顔を見ると、
「上田君一度君に御馳走をしたいと思つてるんだが、君は文壇の名士だから、名妓を引合はしたいと思つて、彼是かれこれ銓衡中せんかうちゆうなんだ。」
と、はつきりした日本語で言つてゐたが(念のため言つておくが、上田博士も谷本博士も数個国すうかこくの国語には通じてゐたが、談話はなしをする時には一番不完全な日本語でしてゐた)色々都合があつて、その御馳走もお流れになつたらしかつた。よしんば都合が無かつたにしても人間には忘れるといふ事があるから。
 ほんとの事をいふと、谷本博士が名妓を引合せたいと思つてゐる頃には、上田博士はもうちやんとそんな者は知り抜いてゐたのだ。


どくだみ

7・14(夕)

 むかし京都の島原に五雲といふ俳諧師が居た。毎月まいげつ二十五日には北野の天神へ怠らず参詣まゐつてゐたが、或日雨の降るなかを弟子が訪ねてくと、五雲は仰向あふむけに寝て、両手を組んで枕に当てがひ、両足をあげて地面ぢべたを踏むやうな真似をしてゐる。うしたのですと訊くと、今日は北野へ参詣の例日れいじつだが、雨が降るもんだからかうして北野へ往復ゆきかへりするだけの足数あしかずを踏んでゐるのだと言つた。
 面白いのはこの足数も踏むに連れて、沿道の人家や立木やが次から次へと眼の前に幻となつて展開する事で、五雲は仰向あふむきになつて、
「やあ、那処あすこにいつもの両替りやうかへ屋の寡婦ごけが見える。」
と、独りでたのしんでゐたさうだ。
 亡くなつた上田敏氏は子供の時静岡へく道中、てくてく歩きで箱根を越えた。丁度梅雨晴つゆばれの頃で、ある百姓家の軒続きに、心臓形の青い葉が一面にはびこつてゐる畑を見て、
「おや/\※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)どくだみがこんなに植わつてる……」
独語ひとりごとをいふと、そこに居合はした百姓が笑ひ/\、
「坊ちやま、これあ※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)菜ぢやござりましねえ、坊ちやまの食べさつしやる甘藷さつまいもでがさ。」
と教へて呉れたさうだ。
 その大学の教室に立つて、欧羅巴ヨーロツパの近代文学を論ずるやうになつても、梅雨晴れの日光が硝子窓からちらちらするのを見ると、いつもその※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)菜の葉が幻のやうに想ひ出されると言つてゐた。


京の水

7・15(夕)

 むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶をせんじて遊んだ事があつた。(菅茶山くわんさざんが言つたやうに、京都は物静かで遊ぶには持つて来いの土地柄だが、とりわけお茶と恋をするには一番よい。)
 水の講釈にかけては人一倍やかましい茶人達の事とて、あつちこつちの名水をかめに入れて各自てんでに持寄りをする事にきめた。で、集まつた水を一つづつ煮て味はつてみたところが、矢張加茂川の水が一番美味うまかつたさうだ。
 或る通人がそれを聞いて、「もつと至極しごくの事で、他所ほかの水はびんたくはへて持ち寄りをしたのだから、時間ときが経つて死水しにみづになつてゐる。加茂川のはたてだけに水がきてゐる。美味いに不思議はない筈だ。」と言つた。
 久保田米僊べいせんは、大阪のはもも、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておくと屹度きつと味がよくなると言つてゐたが、米僊は私に一度も鱧の御馳走をしなかつたから、嘘か真実ほんとうか保証する限りでない。
 京都俳優やくしやの随一人坂田藤十郎はよく江戸の劇場しばゐへも出たが、その都度江戸の水は不味まづくて飲めないからといつて、態々わざ/\飲み馴れた京の水を幾つかの大樽に詰め込んで、江戸まで持ち運んだものださうな。水自慢は縹緻きりやう自慢と一緒で、自慢する人自身のこしらものでないだけに面白い。


7・16(夕)

 梅雨つゆが明けて雷が鳴る頃になつた。雷といへば上州あたりには雷狩かみなりがりをして、とらへた奴をれうつて食べる土地ところがあるげに聞いてゐる。雷といふのは、多分雷鼠らいねずみの事で、打捨うつちやつておくと、芋の根をひ荒して仕方がないさうだ。
 不思議なのは、雷狩をした年の夏は、屹度きつと雷鳴かみなりが少いといふ事だ。この雷狩は山や野原でするばかりでなく、またうみぱたでもやる。翡翠あをせみのやうに寂しい海岸に穴を掘つて、そこから顔を出して遊んでゐるのを漁師がつかまへる事がある。
 政事家が余り喋舌しやべり過ぎて大臣の椅子から滑り落ちるやうに、雷も時偶ときたま図に乗り過ぎて海へ落ちる事がある。さういふ折に漁師が水棹みづさをを貸してやらなければ、空へ帰る事が出来ないので乱暴者の雷も漁師だけにはごく素直だといふ事だ。
 京都は三ぽう山に囲まれてゐるので、夏になると雷が多い。空がごろごろ鳴り出すと、京都の女はチヨコレエトを食べさして、かひこのやうにぶるぶるつと身体からだふるはせる。
貴方あんたはん、また雷鳴かみなりどつせ。どないしまほ、わてあれ聞くと頭痛がしまつさ。」
と言ひ言ひ、あまえるやうに男の顔を見る。
 実のところは雷は嫌ひでも何でも無い。唯かういふと、男の眼に優しく美しく見られるといふ事を女の本能から知つてゐるのだ。男はのろいもので、この瞬間女を飛切り美しいものに見るばかりでなく、自分をも非常な勇者のやうに思違おもひちがへをする。鈍間のろまなる男よ、なんぢはいつも女の前に勇者である。


未亡人の涙

7・17(夕)

 東京三こしの「山と水」展覧会に、故人角田浩々歌客かくだかう/\かかくが世界の各地から集めた石と一緒に、塚本工学博士が出品した瓶詰の黄河の水がある。
 英国のある停車場ていしやぢやうの駅長はグラツドストーンが落して往つたくつかゞとを拾つて、丁寧に箱入にしてしまつておいたといふから、黄河の濁り水を克明に瓶に入れて持つて帰つたからといつて、別にとがだてもしないが、同じ持つて帰るなら、もつと美しい物を見つけて欲しかつた。
 波斯ペルシヤで亭主に死別しにわかれたばかしの、新しい未亡人ごけさんを訪ねると、屹度きつと棚の上に大事さうに瓶が置いてあるのが目につく。他でもない、波斯では未亡人ごけさんといふ未亡人ごけさんは、亭主に死別れてからは、毎日々々涙を一雫ひとしづくこぼさないやうに小瓶に溜めておいて、それが二本溜まると、喪をめる事になつてゐるからだ。
 一雫も零さないやうにするのは、何も追懐おもひでの涙が神聖なからでは無い。成るべく早く瓶を詰めて、喪服を着更きかへてしまひたいからだ。多いなかには亭主の事を追懐おもひだしても一向涙なぞ出ないのがある。(それに不思議はない筈だ。涙は亭主の生きてゐるうちに、みんな絞り出してしまつたのだから。)そんなてあひ涙脆なみだもろい女を見つけて、一瓶幾らといふ値段で涙を買取つて、一日も早く喪を済まさうとする。
 ある皮肉家ひにくやが、むかしの詩人は血で書いた、中頃なかごろになつては墨汁インキで書いた、それがごく近頃になつては墨汁インキに水を割つて書くやうだと言つたが、涙にしても水を割つたら、直ぐ瓶に詰まりさうなものだが、さうはないで、縁もゆかりも無い者からでも、矢張正真物しやうしんものの涙を買ふところに、一寸女房の情合じやうあひが見えて可笑をかしい。
 目薬瓶に涙二杯! 男にとつて申分まをしぶんのない値段である。


贅沢な蟻

7・18(夕)

 ラボツクは蟻の研究で聞えた人だが、ある時一匹の蟻をウイスキイの洋盃コツプり込んで、したたか酒に酔はせた。
 蟻はすつかりべ酔つたが、それでも人間のやうに片手をひとの鼻先で拡げて金を貸せとも言はないで、唯もう蹣跚よろ/\と、其辺そこらを這ひ廻つてゐた。
 仲間の蟻が、五六匹そこへつて来た。そして喰べ酔つた友達を見つけると、こんな不心得者を自分の巣から出したのを恥ぢるやうに、何かひそ/\合図でもしてゐるらしかつた。
 暫くすると、仲間は各自てんでに酔ひどれをくはへて巣のなかへ引張り込み、丁寧に寝かしてやつた。よひめると、くだんの蟻はこそ/\這ひ出して直ぐいつもの仕事にかゝつたさうだ。
 一度他の巣の蟻がこの酔ひどれを見つけた事があつたが、その折は少しの容捨ようしやもしないで、いきなり相手を啣へて水溜りのなかにり込んでしまつた。
 人間にも女中や下男の厄介になつて暮すやくざなてあひがあるやうに、蟻にも奴隷を置いて、その世話になつてゐるのがある。巣をこしらへ、食物たべものを集めるのに奴隷の手をりるばかりでなく、どんなに食物たべものがあつても、奴隷の手でそれを食べさせて貰はなければうにも出来ないので、奴隷の機嫌でも損じると、餓死うゑじにするより仕方がない。
 人間が牛や馬を養つてゐるやうに、蟻もまた家畜を飼つてゐる――といふと、何から何まで蟻は人間と同じやうだが、蟻には人間のやうな懶惰者なまくらものがゐないだけに、女を大事にする事を知つてゐる。何といふ結構な道徳であらう、女は陶器皿せとざらと一緒で、同じ事なら大事に取扱つた方がよいのだ。――蜂はひまさへあれば女王の顔を見てたのしんでゐるさうだ。


鉄扇の威嚇

7・19(夕)

 今は故人の松下軍治がしたゝか者だつた事は知らぬ者もないが、たとへば、金でも借りようとかつるでも発見めつけようとかいふ目論見もくろみで人を訪ねる事があるとする。(松下が金と蔓と、この二つ以外の用事で人を訪ねようなどは夢にも思はれなかつた事だ。)
 先づ応接室に通されて、暫くすると隔てのふすまいて主人の顔が見える。
「ヤ、入らつしやい。お久しぶりですな。」
 松下のやうな男には、誰でもが挨拶だけは成るべく叮嚀ていねいにしようとする。挨拶には別に資本もとでが掛らないで済む事だから。
うです、この頃の暑さは。随分厳しいぢやありませんか。」
 かう言つて、主人はにこ/\顔で椅子に腰を下さうとする。
 この時松下は腹一杯の声で、
「御主人……」
わめくと同時に、手に持つた鉄扇で、思ひ切り強く卓子テエブルどやしつける。(松下はこんな訪問には、いつも「体面」を置いてく代りに、机の抽斗ひきだしから鉄扇を持ち出す事にめてゐる。)
 主人は卓子テエブルの上の葉巻入と一緒に、吃驚びつくりして椅子から飛び上らうとする、松下はじろりとそれを尻目にかけて、
「お気の毒だがお冷水ひやを一つ下さい。」
と静かに言ふ。この場合お冷水だらうが持参金つきの娘だらうが、相手の気に入る事なら、主人はどんな物でも調とゝのへようと思つてゐる。かうなると、もう占めたもので、松下は希望通のぞみどほり相手の魂でも引抜く事が出来る。
 松下のり方は、他人ひとを見ればかたきと思つた封建時代の遺習で、型としてはかびが生えてゐる。往時むかし閑人ひまじんはこんなてあひに驚かないやうに、武士道や禅学できもを練つたものだが、今の人達は、武士道や禅学の代りに、お蔭で「生活難」で鍛へられてゐる。「貧乏」は鉄扇の音に吃驚びつくりしないばかりか、鉄扇を質に入れる事さへ知つてゐる。


明恵みやうゑ雑炊ざふすゐ

7・20(夕)

 栂尾とがのをの明恵上人は雑炊の非常に好きな人であつた。ある時弟子の一人が師僧を慰める積りで、ごく念入ねんいりの雑炊をこしらへた。念入だといつたところで、何も鰹節を使つたといふ訳ではない。鰹節は猫と真宗寺しんしゆうでらとの好物で明恵はあんなものは好かなかつた。
 明恵は何気なく膳にむかつたが、好物の雑炊が目につくとにつこり笑つた。そして、
「今日は御馳走だな。」
といつて、弟子の顔を見た。弟子は師僧の気に入つたのが嬉しいと見えて、蒟蒻球こんにやくだまのやうな顔を下げてお辞儀をした。
「お上人様が平素ふだんからお好きでいらつしやいますから。」
 明恵は箸を取つて一口頬張つたと思ふと箸を取つた右の指先で障子の桟を目にも止まらぬ速さで一寸撫でた。弟子は吃驚びつくりして見つめてゐると、明恵は何喰はぬ顔でその指先をめて、それからまた雑炊を食べようとした。
まじなひだらうかな。」
と弟子は考へたが、これまで一度だつてそんな真似は見た事も無かつたので、不思議さうに訊いた。
「お上人様、つかぬ事をお訊き申すやうですが、たつた今貴僧あなた様は障子の桟を撫でて、それをお嘗め遊ばした。あれは何のお蠱でございます。もしや、食中毒しよくあたりの……」
 明恵は尼さんのやうに口をすぼめて笑つた。
「いや、蠱でも何でもない、其方そなたが拵へて呉れた雑炊が余り美味うまいものだから、つい障子のほこりを嘗めたのだ。」
 成程障子の桟を見ると、埃が白く溜つてゐた。埃は正直なもので、掃除を怠けると、直ぐ溜るものだなと弟子は思つた。だが、雑炊が美味いからといつて、その埃まで嘗めなければならない理由わけが判らなかつた。
 明恵は言つた。
「余り雑炊が美味いので、つい染着心せんぢやくしんでも出来ては怖ろしいと思つたものだから、そんな事の無いやうに一寸埃を嘗めたまでさ。」
 弟子はそれを聞いて、師僧の雑炊を拵へるのはなかなかむつかしいものだなと思つた。
 大隈侯はどんな物でも鵜呑にする事が上手だが、唯それに砂糖をつけないでは承知しない。砂糖とは他でもない「高遠の理想」の事さ。


栖鳳せいほうの天井画

7・21(夕)

 本阿弥光悦が書いた本法寺の額は「法」といふ字の扁が二水にすいになつてゐるので名高いものだ。光悦はあゝいふ洒落者だけに、本法寺の門前を流れてゐる水を、その一水いつすいかたどつて、わざとさうしたのだといふ事だ。
 むかし天龍寺塔頭たつちゆうのある寺にあつた書院の杉戸は、探幽の筆として聞えてゐたが、戸には李白一人がいてあつて、滝らしいものが一向に書いてなかつた。これは嵐山らんざん戸無瀬となせの滝を目の前に控へてゐるので、滝はわざかなかつたのだ。
 池坊の祖先なにがしは、六角堂に立花りつくわの会があつた時、自分の花に態と正心松しやうしんまつを欠いてけておいた。何故だらうとそれが一座の人の噂の種となつてゐる頃、池坊は、
「松は今御覧に入れます。」
と言つて、障子を引明けると、庭にある枝振えだぶりの松がうまく立花のなかに取入れられたさうだ。流石に池坊式でこれにはこしらごとわざとらしさがある。
 竹内栖鳳氏は東本願寺の天井に、天人飛行てんにんひぎやうの絵をく約束で、もう幾年といふもの考へ込んでゐるが、まだ一向に出来上らない。往時むかしあるところに狩野永徳のいた空飛ぶかりといふのがあつた。何でも襖障子ふすましやうじ一面に葦とかりとをき、所々にかり羽叩はばたきして水を飛揚とびあがつてゐるのをあしらつた上、天井にはかりの飛ぶのを下から見上げた姿に、かりの腹と翼の裏をいてつたといふので名高かつた。この伝で往くと、栖鳳氏の天人はへそあなからくすぐつたいわきの下の皺までかねばならなくなる。
 なに、そんなに心配するが物はない。相手は肉食にくじき妻帯の本願寺だ。いつそ光悦や探幽式に裏方や姫達を天人と見立てて、天井へは何も画かない事にしたら、どんな物だらう。すべての画家に勧める、自分の手にきこなせないものはかないに限る。


道成どうじやう寺の石段

7・22(夕)

 むかし徳川初代の頃に本願寺の役人に下間某しもつまなにがしといふものがあつた。乱舞らつぷにかけては却々なか/\巧者人かうしやじんで、徳川家の前などでも、いつも召されて乱舞を舞つてゐた。
 ある時、この男が紀州の道成寺にまゐつた事があつた。その折拍子を踏み/\石段を数へてゐたが、ふと立停たちどまつて、不思議さうな顔をして道伴みちづれに言つた。
「この鐘楼しゆろうの石段は屹度きつと一つだけ土にでも埋もれてゐるんぢや無からうか。今一つづつ踏んで居るのに、うしても段拍子だんびやうしに合はない。」
 道連みちづれ可笑をかしな事を言ふとは思つたが、相手があの通りの巧者人の事なので、笑つてばかり済ます訳にもかないので(世の中には笑つて済まされる事は沢山ある、金の事、女の事、それから……)土を掘り下げてみると、案の定下から石段が一つ出た。
 京都の桂離宮は小堀遠州が豊太閤ほうたいかふに頼まれて、一世一代の積りで拵へた名園だが、ずつとのちになつて遠州の孫がその結構を見に庭へ入つた事があつた。木戸口をくゞつて、庭石を二つ三つ踏むだと思ふと、ひよいと立停つたまゝ
「どうも解らない。」
と、じつと考へ込んでしまつた。
 案内の男が、
「何かお解りになりませんか。」
と訊くと、
「いや。この石だが、も少し右に置いてなければならん筈なのだ。」
独語ひとりごとのやうに答へる。考へてみると、一二年前に庭木を入れる事があつて、その折くだんの庭石をぺがしたまゝ、植木屋の手で勝手に据ゑ直してあつたのだ。
 このやうに物にはちやんと拍子といふものがある。この拍子を見別みわけるやうになると、物の巧者だといへる。だが断つておくが、諸君の夫人の顔立が拍子にかなはないからといつて、それは茶話記者の知つた事ではない。大きい声では言へないが、一体女はしよぱなから拍子に合つたやうに拵へられてはゐないのだから。


醜女と哲学

7・24(夕)

 伊勢の山田から二里ばかりの在所に磯村といふ土地ところがある。言ひ伝へによると、白拍子しらびやうししづかが母の磯禅師いそのぜんじはこゝに住むでゐたのださうで、禅師の血統ちすぢはその後も伝はつてゐるが、うまれる娘は皆醜婦揃すべたぞろひである。
 これは静が人並外れた美人だつたので、多くの男にも苦労をさせ、女自身にも悲しい事ばかり見て来たのを思ふと、もう美人はり/\だとあつて、
「娘が生れます事なら、いつそ醜女にしてやつて下さい。」
と神様に祈願をめたのが、お引受になつたのださうだ。
 美人を生ませて下さいと、ぐわんを籠めたところで、神様は滅多に承引しては下さらないが、醜女すべたはらませて下さいと頼むと、大抵はお引請ひきうけになる。お引請になるのは、何も神様の手並がまづくて、醜女すべたの方が丁度手頃なからでは更々ない。神様は女に哲学を教へようとなさるからだ。
 女は美人に生れると、悲哀かなしみが多い、「芸術」が必要な所以ゆゑんだ。醜女に生れると絶念あきらめなければならぬ、「哲学」が無くてはならぬ訳である。哲学は蛇と共に女の一番嫌ひな物である。


富豪の顔につばき

7・25(夕)

 希臘ギリシヤのある皮肉哲学者が富豪かねもちばれた事があつた。哲学者が富豪かねもちに思想を説きたがるやうに、富豪かねもちはまた哲学者に自分の住んでゐる世界を見せびらかしたいものなのだ。
 その富豪かねもちも皮肉哲学者に、自家の邸宅やしきを自慢したいばかりに、飾り立てた客室きやくまから、数寄すきを凝らした剪栽うゑこみの隅々まで案内してみせた。
如何いかゞでげせう、これでも先生方のお気には召しますまいかな、あつしとしては相応かなり趣向もこらした積りなんでげすが……」
 かういつて、富豪かねもちはその大きな顔を、哲学者の方へぢ向けた。
 哲学者はそれには何とも答へないで、いきなり痰唾たんつば富豪かねもちの顔に吐きかけた。富豪かねもち西洋茄子トマトのやうに真紅まつかになつておこつた。
「何をしなさるんだ。ひとの顔につばきをしかけるなんて、余りぢやごわせんか。」
 皮肉な哲学者は落つき払つたもので、
「いやはや余り結構づくめなお邸宅やしきなんで、つばきが吐きたくなつても、何処にも恰好な場所が見つからないもんですから、ついお顔を汚しましたやうな訳で……」
と別にあやまらうともしなかつた。
 勿論いつの時代でも富豪かねもちの顔と霊魂たましひとは、数あるその持物のなかで、一番汚いにきまつてゐるが、それにつばきを吐きかけたのは流石に皮肉哲学者のつけものである。
 一番無難なのは、哲学者なぞ御馳走しない事だが、もしたつて饗ばなければならないとすると(渋沢だんが孔子を先生扱ひにするやうに、一体富豪かねもちすべて哲学者が好きらしい。何故といつて、孔子は色々むつかしい事を聴かせて呉れる上に滅多に金を貸せなぞ言はないから)何を忘れても痰壺だけは用意しておく事だ。


大きな鼻

7・26(夕)

 むかし通尖つうせん上人といふ坊さんがあつた。内外諸宗にわたつて博識の名が隠れもなく、自分にも大分だいぶんそれを自慢に思つてゐた。
 ある秋のの事、お説教が済んで、上人はひどく気持がささうな顔をしてゐた。一体お説教とか講演とかいふものは、よく出来た場合は聴衆きゝてよりも演者やりての方がずつと気持のいゝもので、基督のやうな真面目な男でさへ、名高い山の上のお説教を済ましたのちは、すつかりい気持になつて、汚い癩病患者なども直ぐなほしてやつた。だから、お説教の済んだあとで、
「どうも素敵でしたね。皆もすつかり感心しちまつて、もつと何か聴きたさうな顔をしてまさ。」
と言つてみるがいい。坊さんは屹度きつと袈裟けさの袖をたくしながら、手品の隠し芸でもして見せるにきまつてゐる。
 通尖上人はすつかり上機嫌で、この分ぢやどんな難問が出ようとも、直ぐ解いて聞かせて呉れる。ほんとに吾ながら偉い博識ものしりになつたものだと高慢さうな顔つきで、附近あたりをじろ/\見まはしてゐると、だしぬけに隔ての障子が破れて、なかから大きな鼻が一つ飛出した。おやと思ふうちに、鼻はまたすつと引込んで障子はもとのやうになつた。
 流石の通尖も、これには度胆どぎもをぬかれてしまつた。変な顔をして暫く眼をぱち/\させてゐたが、すうと席を滑り下りたと思ふと、そのまゝ見えなくなつてしまつた。あとでよく調べてみると、大樹寺たいじゆじといふのに入つて専修念仏せんじゆねんぶつぎやうをおこなひ済ましてゐたさうだ。よく/\自力じりきには懲りたものと見える。
 寺内元帥なども、近頃少し高慢な相が見えて来た。今の内に誰か障子のあなから大きな鼻でも覗かせてやらなければならぬ。


玉泉と緑青ろくしやう

7・27(夕)

 ある画家ゑかきの使つてゐるあかの色が、心憎いまで立派なので、仲間は吸ひつけられたやうにそのの前に立つた。そして不思議さうに訊いた。
「素晴しい色彩いろぢやないか、一体何店どこで掘出して来たんだね。」
 画家ゑかきはそれに答へようともしないで、牛のやうに黙りこくつて、せつせと仕事に精出してゐたが、画がけるに連れて、身体はだん/\衰へて来た。そして仕揚しあげに今一息といふ際どい時になつて、刷毛はけを手に持つたまゝ、画の前に突伏つゝぷして倒れてゐた。仲間が死骸を片付けようとして見ると、画家ゑかきは耶蘇のやうに胸にあながあいて、孔からは真紅まつかな血が流れてゐた。仲間はそれを見ると、
色彩いろだと思つたのは、自分の血だつたのか。」
声を揚げて驚いたといふ話がある。
 四条派の名家だつた望月玉泉が、晩年に京都のある高等女学校に、邦画の教師として一週幾時間か酸漿ほほづきのやうな真紅まつかな顔をのぞけてゐた事があつた。普通なみの絵具は生徒が買合せの安物の水絵具で辛抱してゐたが、緑青と群青ぐんじやうとだけは、自分のうちから懐中ふところぢ込んで来てそれを生徒に売つてゐた。
「これは緑青と群青やで。どつちやも高い絵具やが、貴女方あんたがたはお弟子やさかい、やすう負けといて一度分五銭にしときまつさ。」
 玉泉はこんなに言つてその緑青と群青とを使つた生徒からは、その場で五銭づつ受取つてたもとに投げ込んでゐた。
 生徒が草花さうくわの写生でもすると、玉泉はじつと覗き込んで、
「よう出来よつたな。それに緑青をお塗りやすと、ぐつと引立ちよる。お塗りやすいな、緑青を……」
といつたやうな調子で、つい懐中ふところの緑青を押売する。
 もしか自分の血がい絵具になる事を知つてゐたら、玉泉さんは緑青や群青の代りにしなびた自分の胸を切売きりうりしたかも知れない。


保証人

7・28

 慶安太平記の由井正雪が大望たいまうを企てた時、その一味徒党には浪人ものが多かつた。これは当時の法度はつととして養子といふものを禁じた結果として、甚六でない二男三男四男五男……が有り余つた。
 養子にくのは、戦争いくさに出かけると同じやうに敵をそつくり生捕いけどるか、さもなければ身一つで逃げ出すだけの気転が無くてはならぬが、それでも養子にけぬとなると、先を折られたやうな気持がするかして、こんなてあひは養子にけない鬱憤を晴らす為に大抵浪人になつた。
 この浪人者をどんなにして救済したかといふ問題を提示したのは穂積ほづみ陳重博士。それをまた例の福本日南が、頭の禿に触られでもしたかのやうに博士につてかゝつて、往時むかしの事を疝気せんきに病むよりは、いつそ博士の育てた高等遊民の救済法でも考へたがよからうと口をとがらせた。
 高等遊民も部類分けにすると色々あるが、なかで法学士が一番多い。この七月には又ぞろこんなてあひが東西の両大学から一千人近くもぞろ/\這ひ出して来るのだ。
 彼等は今から養子口とくちとを同時に捜してゐるが、何処へくにも紹介人や保証人が無くてはならぬ今日こんにち、一度出た門を急に後退あとかへりをして厄介ついでに成るべく人の好ささうな教授連に紹介やら保証やらを頼み廻つてゐる。
 京大の跡部あとべ博士なども、
「保証人になつたからといつて、証書に書いてある通りの責任を負はなければならぬものなら、自分のせがれの保証人になる者もあるまいて。保証書にあるやうな責任は負はない積りでこそ保証人にはなれるのだ。」
と言つて、頼まれると二つ返事でべたべたと印をしてゐる。
 それでいさ、それでいさ。実際保証書などはそれでいが、どうか学問だけはよく吟味して教へて欲しいものだ。


油が足りない

7・29(夕)

 石油王ロツクフエラアが、ある時自動車に乗つて出掛けようとすると、直ぐそば何家どことも知れない六歳むつつばかりの小娘が立つてゐて、この富豪かねもちの顔をしげしげと見てゐるのに気がついた。
 一体富豪ものもちといふものは、十人が十人石のやうに冷たい顔をしてゐるもので、平素ふだん人形や阿母おつかさんやの莞爾にこ/\した顔を見馴れてゐる子供にとつては、まるで別世界の感じがするに違ひない。
叔父をぢちやん、何処へくの、自動車へ乗つて。」
 子供は不思議さうに訊いた。もしか同じ問が紐育ニユーヨークの新聞記者からでも訊かれたのだつたら、ロツクフエラアは急に感冒かぜをひいたやうな顔をして、大きなくさめでもしたのだらうが、相手が可愛かあいらしい子供だけに、にこ/\して、
「さあ、何処へ出掛けようね。叔父さんはいつそ天国へでもきたいんだが。」
と、いつもに似げなく冗談口をきいた。
 子供はそれを聞くと、吃驚びつくりしたやうに眼をまるくした。そして気の毒さうに言つた。
「おしなさいよ、叔父ちやん。天国へくには油が足りない事よ。」
「さうか油が足りないか。」
 ロツクフエラアは子供の言つた事を繰返し/\、首をめられた家鴨あひるのやうな顔をして、暫くは其処そこ衝立つゝたつてゐたさうだ。
「天国へくには油が足りない。」
 子供といふものはうまい事を言ふものさ。富豪かねもちはどこの国でもみんな油の足りない連中ばかりだ。


男女の幽霊

7・30(夕)

 ある男が寺へ泊つた事があつた。夜が更けて眼が覚めてみると、誰だか障子の外でひそ/\話をしてゐるのが聞える。気になるものだから、起き上つて窓から見ると、あかるい月明りの下に男と女とが立つてゐる。男は二十四五の、草臥くたびれたやうな顔、女は六十ばかりの皺くちやなばあさんで、談話はなしの模様でみると、親子といふやうな調子があつた。
 男は幽霊か知らとは思つたが、それにしても二人の年齢としが一向合点がてんかないので、そのまゝ夜明よあけを待つた。東がしろんでから、二人が立つてゐた附近あたりへ往つてみると、小さな合葬の墓があつて無縁になつてゐる。訊いてみると、墓の主人あるじは大分以前二十四五で亡くなり、その女房は久しく生き延びて、洗濯婆せんだくばゞとなつて暮しを立ててゐたが、二三年前に六十幾つかで死んだのでここに合葬したのださうだ。
 それを聞いた寺の住職は、
「無縁だし、加之おまけに月がよいので、二人とも遊びに出たのだつしやろ。」
と言つてゐたが、二人とも丁度亡くなつた年齢とし相応の姿をしてゐたのには笑はずには居られなかつた。
 男にせよ、女にせよ、連添つれそひに死別れてから、四十年も生き延びてゐると、色々いろんな面白い利益ためになる事を覚えるものだ。洗濯婆せんだくばあさんだつて六十迄もながらへてゐるうちには大英百科全書にもないやうな智識もたに相違ない。さういふ智識から見れば、二十四五で死んだ亭主はまるで子供のやうでひ足りなかつたらうと思はれる。
 それを思ふと、情死しんぢゆうする場合の他は、相手に二の約束だけはしない方がよい。多くの場合、女は男よりも長生ながいきをするものだが、来世で皺くちやな女の顔を見るのは、男にとつて胃の薬を飲むよりもつらいものだ。だが、それよりも辛いのは、色々いろんな事を知つた女が、うぶで、無垢な昔馴染の男に出会つた時の事で、女はそんな時には、きまつたやうに頭のを掻き/\、その後昵懇なじみになつた男の数を懐中ふところみながら、
「もう何時でせうね。」
と時間を訊きたがるものなのだ。よく言つておくが、女が時計の針を気にするのは、大抵逃げ出したい時に限る。


神様と接吻きつす

7・31(夕)

 マベル・ボードマン嬢といふのは、米国の赤十字社でちやき/\の働き手だが、嬢の意見によると、赤十字の勤務つとめは、ひとり戦時のみでなく、平常ふだんの衛生状態をも、もつと立派にし、そして出来る事なら天国へ送る死人の健康状態をも申分の無いものになければならないのださうだ。
 嬢は先頃南米地方へ旅行をした事があつた。その折ある地方で、皮膚はだの赤茶けた土人が、地面ぢべた蹲踞はひつくばつて玉蜀黍たうもろこし煙管パイプやにくさい煙草をすぱすぱやつてゐるのを見かけた。
 ボードマン嬢は雌狗めいぬのやうに鼻を動かした。そして言つた。
「爺や、お前そんな脂臭い呼吸いきをして天国へ往けるとお思ひかい。」
「ひひひ……」と土人は歯の抜けた口で笑ひ出した。「脂臭やにくせ呼吸いきだと言はつしやるが、おいら死ぬ時や呼吸いき引き取りますだよ。」
 むかし道命どうみやうといふ名高い坊さんがあつた。怖ろしく声のい人で、お経をむと、その調子が自然に律呂りつりよかなつて、まるで音楽でも聴くやうな気持がするので、道命が法華ほつけを誦むとなると、大峰おほみねから、熊野から、住吉すみよしから、松尾まつのをから色々の神様が態々わざ/\聴きに来たものだ。そんな折には、道命は一寸後を振り向いてみて、
「今日も神様が来てるな……」
と、得意になつて一段と声を張り上げたものださうな。
 道命は和泉式部とい仲だつた。(道命だつて男だから女を愛するのに不思議はないが、僧侶ばうずといふ身分に対してちと不都合だと思われるむきは、どうか成るべく内聞にして置いて欲しい。道命も名僧だし、和泉式部も聞えた歌人うたよみの事だから。)ある夜式部のうちで寝て、あくる朝何喰はぬ顔で寺へ帰つて、いつものやうに法華を誦みにかゝつた。
 ふと後方うしろを振り返つてみると、いつも見馴れた立派な神様達の代りに薄汚い乞食のやうな仏様が一人居る。道命はお経を誦みさして訊いた。
「貴方は誰方どなたですかい。」
 仏様は一寸お辞儀をした。
「私は五条西洞院辺にしのとうゐんへんにゐる仏ぢやが、つね/″\評判のお前様の読経を聴きたい/\と思つてゐたが、平素ふだん梵天帝釈ぼんてんたいしやくなどのお入来いでがあるので遠慮してゐた。所が今日はお前様の身体からだけがれてゐるから、他様ほかさまはお出でがない、そこでつて来ましたぢや。」
 成程気がついてみると、道命は前の夜和泉式部とい事をした口を、そのまゝすゝがないでお経を誦んでゐたのだつた。


俳優やくしやの家庭

8・1(夕)

 ある時門司もじで若い芸妓げいしやが病気で亡くなつた。流行はやりだけあつて、生きてゐるうちには、色々いろんな人に愛相あいそよくお世辞を言つてゐたが、亡くなる時には誰にも相談しないでこつそり息を引取つた。
 枕許まくらもとに坐つて看護をしてゐた妹芸者が、何か言ひ残す事は無いかとたづねると、
「三毛猫を空腹ひもじがらさんやうに頼みまつさ。」
と言つて寂しさうに笑つた。呉々くれ/″\も言つておくが、その芸者が最後まで気にかけてゐたのは、三毛猫の事で、贔屓筋ひいきすぢのお医者さんや、市会議員を空腹ひもじがらせるなと言つたのでは更々ない。
 その事が土地の新聞に載つたのがふとした事で俳優やくしやの鴈治郎の目に止つた。鴈治郎はその折玉屋町たまやまちの自宅で、弟子に按摩あんまませながら新聞を読んでゐた。で、その芸者の亡くなつた記事が目につくと「」と言つたが、直ぐ顔を揚げてせがれの長三郎を呼んだ。
「長公、長公は居やへんか。」
 長公は隣のへやから返事をした。
「何や、阿爺おとつさん。」
 鴈治郎は声のする方を覗き込むやうに一寸首を伸ばした。
「そこに居よつたんか。お前あの門司の△△はんと関係があつたんやろ。そやなあ。」
 長三郎は他事ひとごとでも訊かれたやうな軽い調子で答へた。
「ふん、関係しとつた。うしたんや、それが。」
「△△はん、死によつたぜ。」
「さよか。」
 長三郎は起き上らうともしなかつた。彼は腹這はらばひになつて、舶来の玩具おもちやひねくつてゐるのだ。
 親子が顔をもあかめないで、平気で自分の情事いろごとを話し合つてゐるのが俳優の家庭である。舞台で人生を演活しいかすためには、平素ふだんからかうしたとらはれない情態が必要なのか、それとも舞台の心持が家庭生活にまで伝染うつつてゆくのだらうか。
 孰方どちらとも真実ほんとうだらう。そしてもつと真実ほんとうなのは、親子のどちらもに取つてこれが一番都合がよいからであらう。


女の途連みちづ

8・2(夕)

 七月三十一日午後六時すぎの事、阪神電車の梅田停留場から神戸行の電車に乗込んだ。ベルが鳴つて電車がこれから出かゝらうとした時、席の真中程からあわたゞしく衝立つゝたち上つた若い男がある。
 その男は目敏めさとく自分の両側を見渡した。
うだ。みんな野郎ばかりだ。女気をんなけといつたらこれつぱかしも居やしない。」
と誰かに話しでもしてるやうな調子で、
「次ぎを待たう、次ぎまで待たなくつちや仕方が無い。」
と言ひ捨ててあたふた下りて往つた。
 皆は気がいたやうにカアのなかを見渡した。成程男ばかりだ。揃ひも揃つて、安つぽい顔に安つぽい帽子をかぶつた男ばかりだ。
「成程野郎ばかりだな。はゝゝ……」
 誰かが詰らなささうに笑つたが、それでも誰一人続いて下りようとはしなかつた。
 下りた男は何所どこの誰か判らない。女が好きなのか、男が嫌ひなのか、それも判らない。次ぎの電車で望み通りに若い美しい女と差し向ひに坐る事が出来たらうか、それもまた判らない。
 女は教会へくにも、地獄へ落ちるにも道連みちづれたるを失はない。真実ほんとの事をいふと、始終しよつちゆう一緒に居ても厄介なものだが、さうかと言つて、離れても居られないのが女の取柄である。
 男ばかりの電車は、少し逆上気味のぼせぎみけもののやうに風を切つて飛んだが、やつ大物だいもつまで来て一人の女を乗せる事が出来た。女といふのは、四十ちかい、四角い顔をした、愛国婦人会の幹事でもしさうな女だ。
 辛抱するさ、婦人会の幹事でも女には相違ないのだから。


北畠男きたばたけだんの帽子

8・3(夕)

 英国の文豪キプリングが、ある時米国の雑誌が見たいから、五六種送つて欲しいと、紐育ニユーヨークにゐる友達のとこへ頼んでよこした事があつた。
 米国の雑誌はいづれも広告のペエジがどつさりあるので、知られてゐる。キプリングの友達は、幾らか郵税を倹約しまつしたい考へから、広告の頁だけ引裂いて、残つた内容を一まとめにして送つてよこした。
 キプリングは包みをほどいてみると、雑誌はみんな広告の頁だけ引き裂かれてゐる。何故だらうとキプリングは小首をかしげたが、それが郵税の節倹しまつからだと聞いて、文豪は蟹のやうにぶつぶつおこり出した。
 キプリングの言ひ条では、米国の雑誌は広告欄が面白いので取柄がある。内容と広告と孰方どちらに新知識が多いと訊かれたら、誰だつて選択に迷はない筈だ。
「そんなに郵税が節倹しまつしたかつたら、内容の方だけ引裂いて呉れればよかつたに。」
と、友達まで不平を申込んださうだ。
 世の中には米国の雑誌みたいな人も少くない。法隆寺にゐる北畠男爵などはその一にんで、暴風あらしのやうなあの人一流の法螺ほらは一寸困り物だが、夏帽だけはパナマの良いのを着けてゐる。もしかキプリングの友達のやうに、郵税を節倹しまつしなければならないとすると、「男爵」は捨ててしまつても、あの帽子だけは撰びたいものだ。


食物と格言

8・4(夕)

 むかし滝川たきかは雪堂といふ男が百人組のかしらになつて、当直の行厨べんたうにつかふ食器を新しくこしらへた。そのふたに食事をするたびに、見て心得になるやうな文句を書いて欲しいと、学者の大郷おほがう信斎に頼んでよこした。信斎は佐藤一斎の先輩で、鯖江さばえ侯のお抱へ儒者であつた。
 信斎は自分の学問の底をはたいて、色々利益ためになりさうな名句を拾ひ集めては比べてみたりした。そしてやつと出来上つたのが、ひらの蓋に、
咬得菜根さいこんをかみえば百事可做ひやくじなすべし
汁の蓋に、
不素餐兮そさんせず
飯の蓋に、
粒々皆辛苦りふ/\みなしんく
といふ固苦しい文字であつた。言ふまでもなくわう信民や、朱雲や、李紳の往事むかしごとから拾つて来て戒めたのだ。
 役人とか会社の重役とかの弁当箱には是非書いておきたいやうな文句だが、普通たゞの人には一寸咽喉のどつかへさうでけない。こんな文句を毎日眼の前におきながら、弁当をぱくついてゐた雪堂といふ百人頭は性来うまれつきはぐきつよい、胃の腑の素敵に丈夫な男だつたらしい。
 そこへ持つてくと、売酒郎※(「口+會」、第3水準1-15-25)ばいしゆらうくわい/\が、所謂七の絹で七たびした酒を飲ませたといふ、東山の竹酔館は、表の招牌まねきかんばんも、
「このみせ下物かぶつ、一は漢書かんしよ、二は双柑さうかん、三は黄鳥くわうてうせい」といふ洒落た文句で、よしんばつまさかな一つ無かつたにしろ、酒はうまく飲ませたに相違ない。
 飯を食ふにも、酒を飲ませるにも、それと一緒に想像を喰べさせなければ嘘だ。肉皿に新しい野菜と想像とを一緒につまむ事の出来る細君にして初めてお台所をまかせる事が出来る。


毒草どくぐさの味

8・5(夕)

 幸田露伴氏が今のやうに文字の考証や、お説教やに浮身うきみやつさない頃、春になると、饗庭篁村あへばくわうそん氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐた。
 それは他でもない、仲間が五六人行列を作つて、味噌を盛つた小皿を掌面てのひらに載せて野原に出る。そして真先に立つた一人が、其辺そこら道傍みちばたに芽ぐんでゐる草の葉を摘むで、それに味噌をつけて食べると、あとに続いた者は順繰じゆんぐりにその葉を摘取つみとつて食はなければならぬ。
 先達せんだちは仲間を懲らさうとして、わざと名も知らぬ草の葉に手をつけるが、それがどんな変てこな草だらうが、先達が食つたとあれば、仲間はいやでもそれを口にしなければならぬ。
 たまには見る/\先達せんだちの唇が腫上はれあがるやうな毒草にも出会でくはしたが、仲間は滅多に閉口しなかつた。
「なに、文久銭と蟹の甲殻かふらの他だつたら、味噌さへ附ければ、どんな物だつて食べられまさ。」
 こんな事を言ひ合ひながら、負けぬ気になつて、味噌をつけてはばり/\毒草の葉を噛んだ。丁度のちになつてどんな物事にも理窟をつけてはみ込み嚥み込みするやうに。
 で、ものの五丁も歩くと、今度は先達せんだちを代へて、また同じやうな事を繰返すのだ。の悪い日になると夕方家に帰る頃には、皆の両唇がむくみ上つてろくに物も言へなくなつたやうな事さへあつた。
「お蔭で食べられる草と、食べられない草との見別みわけはちやんと附くやうになりました。」
と露伴氏は今でも言ひ/\してゐるが、真実ほんとに結構な事さ。
 人間はひよつとした神様の手違てちがひで、後の世に牛か馬かに生れ代る事が無いとも限らないのだから。


殿様のへそ

8・6(夕)

 ある薩摩の殿様に、九十を過ぎても色々の道楽に憂身うきみやつさないでは居られないやうな達者な人があつた。
 かぞふる道楽のうちで、殿様は一番変り種の小鳥やけものが好きで、自分の力で手に入れる事が出来る限り、いろんな物を飼つてたのしんでゐた。
 英雄僧マホメツトもひどく小猫を可愛かあいがつたもので、ある日なぞ衣物きものの裾に寝かしておくと、不意に外へ出掛けなければならない用事が持ち上つた。だが可愛い猫は起したくなしといふので、わざ/\大事の衣物きものの裾を剪刀はさみでつみ切つてち上つたといふ事だ。
 政治家のリセリウもまた愛猫家として聞えてゐるが、死ぬる時には遺言で、莫大の遺産金まで猫に呉れてやつた。猫がその遺産金をつかつたかは、自分がその相談にあづからなかつたから、よくは知らないが、唯愛国婦人会や赤十字社に寄附しなかつた事だけは事実らしい。
 薩摩の殿様は、ある日籠のなかから、栗鼠りすふくろとを取出させて喧嘩をさせてみた。栗鼠も梟も詮事せうことなしに喧嘩をおつ初めたが栗鼠はふだん殿様が自分を可愛かあいがつて呉れるのは、自分の芸が見たいからだらうと思つて、籠のなかで飜斗返とんぼがへりばかり稽古してゐたので、こんな喧嘩にはすつかり用意が欠けてゐた。で、梟のために散々につゝかれた。
 栗鼠は逃足になつて、いきなり殿様の懐中ふところに飛び込んだが、くやしまぎれに厭といふ程主人の臍を噛んだ。
 殿様はそのせゐで四五十日ばかり傷療治をしなければならなくなつたが、傷が治つたあとでも、別段賢くはなつてゐなかつた。賢くなるには余りにとしを取り過ぎてゐたから。老人としよりといふものは、こんな場合にも、栗鼠が狂者きちがひだつたとか、臍がうつかりしてゐたとか、て言訳をしたがるものなのだ。


醜男ぶをとこ

8・8(夕)

 女流文学者として盛名を伝へられてゐる某女史が、一夏ひとなつ男の友達五六人と、信州辺のある山へ避暑旅行を企てた事があつた。
 東京を立つて初めての、一行は山の上の旅宿はたごやで泊る事になつた。旅宿はたごやには大きな部屋が無かつたので、一行は廊下を隔てた二つのへやに分宿しなければならなかつた。
 女流文学者は、
「あたし女の事で、草臥くたびれてますから、お先へ失礼します。」
と言つて、皆の食事が済むか済まないうちに、一つの蚊帳かやに入つてしまつた。
 男達五六人のなかに、一人の美男子びだんしと一人の醜男とがまじつてゐた。顔の見つともないのは、頭の悪いのと同じやうに恥づべき事で、葛城かつらぎの神様などは、顔が醜いのをはづかしがつて、夜しか外を出歩かなかつたといふ事だ。それだのに一人の醜男は無遠慮に皆と同じやうに口をけて食つたり笑つたりしてゐた。
 女流文学者はそれを心憎い事に思つた。そして出来る事なら、自分と同じ蚊帳には、片つ方の美男子を寝させたいものだと思つた。
 女流文学者はいつの間にかぐつすり寝込んだ。そして夜半過よなかすぎに眼をさまして見ると自分の次ぎの床には、例の醜男が口をあんぐりけて眠つてゐた。女流文学者は毎月晦日みそかにはきまつて厭世観を起す例になつてゐるが、しかしこの瞬間ほど世の中を厭に思つた事はない。
 女流文学者は信州の山から下りて来ると、ちゆうぱらの気味で、
「私が醜男を避けて、美男子と一つ蚊帳に居たいと思つたのは、好色の念からでせう。ですが、恋愛は非難される場合もありませうけど、好色は美に伴ふもので、結構な事だと思ひますよ。」
 と言ひ言ひしてゐる。
 何も心配する事はない、好色は結構な事さ。油断すると醜男が同じ蚊帳に寝てるやうな、まゝならぬ世の中だ。好色位結構な事にしておくさ。


女博士をんなはかせ

8・9(夕)

 ケエリイ・トオマス嬢といへば、かなり聞えた女博士をんなはかせで、今は威耳斯ヱールズのブラン・モウル大学の校長を勤めてゐる。
 トオマス嬢はある日の夕方ゆふかた美しく刈込まれた学校の校庭カムパスを散歩してゐた。晩食ばんめし消化こなれのいゝ物でうまく食べたし、新調のくつ繊細きやしやな足の裏で軽く鳴つてゐるので、女博士をんなはかせはすつかりいい気持になつた。そして出来る事なら天国へく折にも、こんな消化こなれのいい物を食つて、こんな軽いくつ穿いてゐたいと思つた。
 だしぬけに寄宿舎の一からけたたましい騒ぎが聞えた。拍手の音さへそれにまじつてゐる。
「何事だらう。」
女博士をんなはかせは静かな眉尻に一寸皺を寄せた。そして天国の黄金きん梯子はしごでも下りるやうな足つきをしてかたことと廊下をあゆんで、騒ぎの聞える一室の前に立つた。
 トオマス嬢はとん/\とを叩いた。
「どなた。」
 内部なかから誰かが訊いた。
Itイテ isイス meミイ. ミス・トオマスですよ。」
博士はかせは静かに返事をした。
「違つてよ。」となかから突走つつぱしつた声が聞えた。「トオマス博士はかせだつたら、『Itイテ isイス meミイ』なんて仰有おつしやらずに、『Itイテ isイス Iアイ』と仰有つてよ。」
 女博士をんなはかせは困つたなと思つてそのまゝそつと逃げ出さうとしてゐると、内部なかからいて悪戯盛いたづらざかりの女学生が「ばあ」と言つて顔を出した。
 岩野清子のやうに、自分の離婚問題にも、婦人全体のためだと気張つてゐる女は、かういふ折には屹度きつとWeヰイ」とでも言ふだらう。ああいふ女は、物を考へる折には「わたくし」といふ事を忘れて、新聞の論説などと同じやうに「We」といつて考へ出すことになつてゐるから。


儒者の独身

8・10(夕)

 西依にしより成斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津いまづへも十年ばかり住むでゐて弟子取でしとりをしてゐたので、京阪かみがたではよく名前が通つてゐる。
 その成斎の弟子に、度々たび/\色街へ出掛けて、女狂ひに憂身をやつしてゐる男があつた。いろ/\と両親が異見をしてみても、一向効力きゝめが無いので、
「一つ先生様の御力で……」
といふ事になつた。
 成斎はその弟子を呼びつけた。そしてたつた今朱文公に会つたかへみちだといふやうな生真面目な顔をして、
「お前はこの頃しきりと色町に出浮でうくさうだが、しからん事だ、以後は屹度きつと慎んだがよからう。」
高飛車たかびしやに叱りつけた。
 弟子は先生の剣幕のひどいので、両手を膝の上に揃へて、鼠のやうに縮み上つてゐると、成斎は変な眼つきをしてその手首を見つめた。若い弟子の手首はをんなの握り易いやうに繊細きやしやに出来てゐた。
廓通くるわがよひといふものは、第一金が掛るばかしでなく、身体からだの養生にならない。わしなどはそんな遊びをめてから、今年でもう廿年にもなるが、そのせゐかしてこんなに達者になつた。」
と言つて、先生は大きな両手を、弟子の鼻先でふり廻してみせた。成程うでぷしつよさうに出来てゐるが、その二十年といふもの、金なぞたんまり握つた事の無ささうな掌面てのひらだなと弟子は思つた。
 弟子はおそる/\先生の顔を見た。
「有難うございました。お言葉は夢にも忘れないやうに心掛けませう。」といつて叮嚀にお辞儀をした。
「で、一寸伺ひますが、先生は当年お幾つでいらつしやいます。」
 成済は案外叱言こごと効力きゝめが早かつたのと、自分の達者な腕つ節に満足したらしく、声をげて笑つた。
わしかの、わしは当年九十三になる。」
「してみると……」
 弟子は先生が道楽を思ひ止つたといふ二十年前のとしを繰つてみた。そして眼を円くして驚いた。言ひ忘れたが、成斎は生涯独身で暮した男である。


クンカン

8・11(夕)

 亡くなつた上田敏博士は晩年、京都知恩院境内の源光院にある広岡氏の別荘に間借をして住んでゐた。
 その広岡氏と博士とがある時祇園の大友だいともへ遊びに往つた。大学教授には二いろあつて、一いろは芸者を女中のやうに「お前」と呼びつけ、一いろはお嬢さんのやうに「あなた」と言つてゐる。博士は後者の方で、どの芸者をも「あなた」呼ばはりをするので、芸者の方でも「びんさん/\」と近しくなつてゐた。
 その頃から少し加減の悪くなつてゐた博士は一足先きへ帰つた。夜半よなか過ぎ広岡氏がうちへ帰つてみると、博士はまだ起きて東京にゐる瑠璃子さんに手紙を書いてゐた。
 博士は階段はしごから顔をのぞけた広岡氏を振りかへつた。
「まあ、お上りなさい。私が帰つてから何かはずみましたか。」
 広岡氏はのこ/\上つて博士の前に坐つた。
はずみましたとも。あれからこども達と一緒にクンカンなんかりましてね。ひどはしやぎましたよ。」
 博士は「クンカン?」といつて、一寸小首をかしげたが、そのまゝ起上たちあがつて書棚から新版の辞書を引下ひきおろして来た。そして物の十五分も黙りこくつてあちこちを繰つてゐたが、やつと何か見つかつたらしく、上品な声で「はは……」と笑つた。実際上品な声で、古文書こもんじよの入つた桐の箱が笑ひでもしたら、あんな声をするだらうと思はれた。
 博士は辞書を伏せて、
「クンカンぢやありません。カンカンですよ。あれはタンゴをどりなどと一緒に最新の流行ですが、もう日本に来てるとは驚きましたね。この次に往つたら是非見せていたゞきませう。」
 広岡氏は辞書といふものは色々いろんな事を教へて呉れるものだと感心した。そしてそれからといふものは博士の前では忘れてもクンカンの事は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さないやうにしてゐた。祇園の芸妓げいこは辞書と同じ物識ものしりだとも思へないのだから。


大発明

8・12(夕)

 三高教授の安藤しようらう氏は人も知る音楽学校の安藤幸子かうこ女史の亭主で、幸子女史と比べると、ずつと女性的の優しい顔立を持つてゐる。
 良人をつとは三高の語学教授で京都に住み、細君かないは音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、まるで七夕様のやうに夏休みをたのしむ他には、いい機会もあるまい。いつそ幸子女史が音楽の先生なぞめてしまつて、京都へ来て世話女房になるか、それとも安藤氏が語学の教師を思ひとゞまつて、東京へ帰つて、嬰児あかんぼもりでもするか、二つに一つ、どちらかに決めてしまへばかりさうなものだのにと飛んだおせつかいを言つてるむきも無いではない。
 だが、心配するが物はない。必要は色々な事を教へるもので、安藤氏夫妻はこの頃になつて素晴しい発明をした。実際驚くべき発明で、こんな発明が猿のやうな日本人の頭から生れようとは、どんな国贔屓くにびいき人達ひとだちでもおもけなかつた事だらう。
 発明とは他でもない。汽車を利用する事で、安藤夫妻は、毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふさま楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ学校へ帰り着くといふ寸法だ。「日曜日」と「汽車」とは電話や巡査おまはりさんと同じやうに、幾ら利用しようとも利用し過ぎるといふ法はないのだから。
 恋をするものにとつて、こんな結構な媒介なかだちがあらうか、それを思ふと、今日まで兵隊や氷詰こほりづめの魚ばかし輸送してゐたのは勿体ないやうな気持がする。それから、これはごく内々ない/\の話だが、汽車には寝台車といふものがあつて、相当の料金さへ出せば、誰にも顔を見られず、一人でカーテンのなかで思ひ出し笑ひが出来る仕掛になつてゐるさうだ。有難い世の中さ。


紋どころ

8・13(夕)

 紋所といふもの、もとは車の紋から起きたといふ説があるが、真実ほんとうの事かうか知らない。徳川家があふひを紋所に用ゐるやうになつたのにも、色々な伝説がある。
 酒井家の説によると、家康の祖父清康が岡崎にゐた頃いくさがあつた。酒井家の主人は気の利いた男だと見えて、円盆まるぼんに勝栗を盛つて主人の前へ差し出した。
 清康はそれをじつと見て、
「ほゝう、勝栗ぢやの、これは縁起がいゝ。」
といつて、こはつぱしい掌面てのひらにそれを取り上げたと思ふと、ばりばり音をさせて噛んだ。
 栗の下には葵の葉が二三枚いてあつた。その日のいくさは無事に徳川家の勝となつたので、清康は記念に葵の葉を紋所に使ふやうになつたといふのだ。
 本多家ではまたちがつた伝説を持つてゐる。本多家の祖先なにがしはもと加茂の社家しやけであつたが、豊後の本多荘ほんだのしやうに流されたので、本多を名乗るやうになつた。
 加茂の社家だつただけに本多家では二葉葵を紋所に使つてゐると、それを清康が見て、
「いゝ紋ぢや、俺のうちで使ふ事にしよう。」
と言つて勝手に取り上げてしまつた。もと/\加茂の二葉葵には長い葉茎はぐきがくつ附いてゐるのだが、清康はそんな物は無益やくざだといつて摘み切つてしまつた。家康の祖父ぢいさんだけにこんな事にもしみつたれだつたと見える。
 ラフカヂオ・ヘルン又の名小泉八雲氏は時偶ときたま日本服を着る事があつたが、羽織の紋にはヘルンといふ自分の名からもじつて蒼鷺ヘロンをつけてゐた。鷺はヘルン氏の紋として恰好な動物であつた。
 京都にある若い画家ゑかきがあつた。まづかつたせゐか、度々たび/\女に捨てられた。だが、うしても絶念あきらめられなかつたと見えて、羽織の紋所には、捨てられた女五人の名前を書き込んで平気でそれをてゐた。羽織は最初に見捨てた女がこさへてくれたので、は薄かつたが、女の心よりは長持もしたし、値段も幾らか張つてゐた。


男装婦人

8・14(夕)

 獅子や驢馬ろばと共同生活を営んでゐた仏蘭西の女流画家ロザ・ボナアルは、何処に一つ女らしいところのない生れつきで、夕方ゆふかた野路のみちでも散歩してゐると野良のらがへりの農夫達ひやくしやうだちは、
「へい、檀那様、今晩は。」
と丁寧にお辞儀をして、別れ際にあとをふりかへつて、
「あの小柄な檀那衆はいつも今時分此辺こゝいら※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊、第3水準1-84-32」)ぶらついてるな。」
と朋輩に言ひ言ひしたものださうな。
 米国にメエリイ・ヲルカアといふ有名な婦人がある。この婦人は他の事でもつと聞えてもよいのだが、しあはせ不幸ふしあはせか、いつも男装をしてゐるので、それで一層名高くなつてゐる。
 なぜ男装してゐるかに就いて、この婦人のこたへは至極しごくはつきりしてゐる。
「私にとつては女着をんなぎはかまよりも、ヅボンの方がずつと気持がよござんすから。」
 尤もな理屈で、かういふ勇気のある婦人は、素足がヅボンよりも気持がいゝ事を知つたら、思ひ切つてそのヅボンをも脱ぎ捨てるかも知れない。
 ある時この婦人がマサチウセツツの某市なにがしまちへ旅をした事があつた。途中で道を迷つてひどく当惑してゐるところへ、農夫ひやくしやうが一人通りかゝつた。農夫ひやくしやうといふものは、どんな時にでも、どんな所へでもよく通りかゝるもので、基督がお説教をしたがつてる時にも、追剥おひはぎが物を欲しがつてる所にも農夫ひやくしやうがそこへ通り合はせる。そして霊魂たましひられたり、外套をぱがされたりする。農夫ひやくしやうといふものは、四福音書へ出るにも、探偵小説へ出るにも、ごく日当がやすくて、加之おまけに物が解らないから手数てすうが掛らなくていゝ。男装婦人はその農夫ひやくしやうに訊いた。
「一寸お訊ねしますが、某市なにがしまちへはこの道をきますか。」
「あゝ、おつ魂消たまげた。」農夫ひやくしやうは眼をこすり/\言つた。「おらはあ、何にも知んねえだよ。おめえ様のやうな女子あまつこみたいな男初めて見ただからの。」
 折角柔かい乳房を持ちながら、男のやうな硬い考へ方をする婦人をんながある。正直な農夫ひやくしやうめ、そんなのを見たら、どんなに言ふだらう。


博士の逆立さかだち

8・15(夕)

 蕪村のの門人に田原たはら慶作といふ男がある。ある日日のがたに師匠を訪ねると、蕪村のうちでは戸を締め切つてゐる。よひぱりの師匠だのに、今日に限つて早寝だなと慶作は思つた。(蕪村が宵つ張なのに何の不思議もない筈だ、彼は画家ゑかきであると共に、夜更よふかしが附物つきものの俳諧師でもある。よしんば俳諧師でなかつたにしたところで、文部もんぶ留学生の洋画家が、昼間はカルチエル・ラタンの居酒屋と球突たまつき屋で暮し、夜になつてやつと絵具箱をかつぎ出すのが多いのを見ると、蕪村にしても夜をかいたかも判らないのだから。)
 慶作は出直さうと思つて、逡巡もぢ/\してゐると、寝鎮まつた筈の家の中から、ぱた/\物をはたく音がして折々何か掛声でもするらしい容子ようすがある。
怪体けつたいやな。一遍訊いてみよか。」
 慶作はとんとんと表戸おもてどを叩いてみた。
 すると、なかから「どなた?」といふ声がして、は静かに開けられた。たしかに蕪村の声に相違ないので、慶作は不審しながら、入つてくと、其辺そこらぢゆうにはうき塵掃はたきがごた/\取り散らされて、師匠はひとりで窃々くす/\笑つてゐる。
 理由わけを訊くと女房と娘とは女中を連れて逗留とまりがけで里へ帰つた。その留守事るすごとに一寸芝居の真似をしてゐたのださうな。
「こなひだ、芝耕しこうの芝居を見て、すつかり感じたもんやさかい、ちよつくら真似てみたが、なか/\出来でけよらんわい。」
 蕪村は声を出して笑つた。
 京都大学のある法学者は、家族がみんな不在るすになると、すつくと逆立になつて、書斎からのそり/\這ひ出して来て、玄関から台所まで一廻り廻つて来る癖がある。法学者だけにこの男も色んな事に理窟をつけないでは承知しないが、たつた一つこの逆立だけには理窟をつけてゐない。理窟が無い筈だ、本人の積りでは逆立は芸術ださうだから。
 男といふものは、女房の居る前では公然おおぴらりかねる「芸術」をそれ/″\もつてゐるものだ。芝居の真似事だらうが、逆立だらうが、女房かない不在るすになつたら、さつとおさらへをするがい。――これは女にしても同じ事だが、女はかういふ時には、大抵パン菓子を食べるものらしい。それにしても立派な芸術だ。


お湯きら

8・19(夕)

 最近希臘ギリシヤの各地方を巡遊して帰つて来た京都大学の浜田青陵氏は(幾ら古い物好きな浜田氏だつて、まさか希臘ばかしを見て来た訳では無からうが、希臘だけは幾度見て来たといつても差支さしつかへない)希臘ほど失望させられた土地ところはない、那地あすこは唯想像でだけ楽しむでゐればいゝ国だとひどくこきおろしてゐる。
 浜田氏の言ふのによると、希臘には道路が無い、旅館が無い、山には樹が無い、河には水が無い。やつと旅屋やどやを見つけて、泊り込むと、直ぐと南京虫がちくちくしに来るので、とても寝つかれない。留学費のなかから買込むだ大缶おほくわん蚤取粉のみとりこを、惜気をしげもなくばらいてみたところで一向利き目が無い。
 それから今一つの難渋は洗湯の高い事で、入浴料が日本のかねで一円二三十銭。浜田氏の白状によると、氏は二ヶ月余りの旅に湯に入つた事は唯の一回だけしか無かつたといふ事だが、それも真実ほんとうの事かうだか判らない。もしか原勝郎かつらう君のやうな人が、
「なに、希臘では偉い学者はみんな湯に入らぬものなんだ。」
と言ひでもすると浜田氏はその口の下から、
真実ほんとうは僕も一度だつてお湯に入つた事はなかつた。」
と白状するかも知れない。
 だから、希臘人といふ希臘人はみんなあかまみれで、そばへ寄つてみると、(考古学者だつて、たまにはきた人間の側に寄らないとも限らない)酸つぱいやうな匂ひがぷんとする。
「ソクラテスやアリストオトルも矢張あんなにほひがしたかも知れないと思ふと厭になる。」
と浜田氏は鼻をしかめて厭がつてゐるが、そんなに厭がらなくともよからう。幾ら異教徒嫌ひの神様だつて、まさかソクラテスと浜田氏を同じをりには打込ぶちこむまいから。
 湯好きな日本人にも随分な湯嫌ひが居ない事はない。俳優やくしやの中村鴈治郎などもその一人で、彼はこの頃よく東京の劇場こやへ出るが、あの通りに白粉おしろいをべた塗りする職業しやうばいでありながら、一興行二十六日間一度だつてお湯に入る事はないさうだ。彼はそれがめに清潔好きれいずきな東京の女に嫌はれるかも知れないが、持つて生れた癖だけに平気で垢塗あかまみれで通してゐる。


赤栴檀しやくせんだん

8・20(夕)

 むかし観世くわんぜの家元に豊和とよかずといつて家の芸はもとより、香聞かうきゝにも一ぱし聞えた男がゐて、金春こんぱる流のなにがしと仲がよかつた。で、ひまな折にちよい/\遊びにくと、金春家では香好きな豊和への御馳走とあつて、いつも秘蔵の香を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)いたものだ。
 豊和はそれを嗅ぐたんびに、
「どうも素的すてきな香だ、何でもいはつきの物に相違ない。」
とは思つたが、迂濶に言ひ出して、主人に物惜みされても詰らないと思つて、わざと黙つてゐた。言ふ迄もなく、金春家の主人は香道にはごくの素人で、今時いまどきの文学者と一緒に蚊取線香の匂ひを嬉しがる方の男だつた。
 ある時、香道の家元蜂谷貞重はちやさだしげが江戸にくだつて来た。豊和は蜂谷の顔を見ると、懐中ふところから懐紙に包んだものを取出して、蜂谷が生命いのちより大切だいじの鼻を引拗ひきちぎるやうにしてそれへ押しつけた。
「一寸聞いてみて呉れ給へ。実は先日こないだから君がくだつて来るのを待ちくたびれて居たのだ。」
 包は豊和がこつそり金春家から取つて来た香炉の灰であつた。
 蜂谷は自慢の鼻を一寸その灰に当てがつたと思ふと、眼を円くして吃驚びつくりした。
「これあ君、赤栴檀ぢやないか、うも素的なものを※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)いてるね。」
「え、赤栴檀だつて!」
 豊和はさう言ふなり、直ぐ表へ駈出して往つて金春家を訪ねた。
 豊和は何気ないふりで、色々と世間話を持出してゐたがふと思ひ出したやうな口風くちぶりで、
「時に近頃御無心の次第だが、先日中こなひだちゆういつもお※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)きになつてゐたあの御秘蔵の香ですな、あれを少しばかり戴かれますまいかな。」
と切出してみた。
 金春の主人は金でも貸せといふのかと思ふと、香の話なので、
「いや、お安い御用で……」
と、その場でくだんの香を小指の先ほど割つて呉れた。
 豊和はそれを左の掌面てのひらで戴いたと思ふと、しかと右の掌面てのひらで押へつけた。そして嬉しまぎれに大きな声で言つた。
「や、有難う。今だから言ふがこの香こそ名代なだいの赤栴檀だよ。」
「え、赤栴檀だつて。」
 金春家の主人はさう聞いて、直ぐ手を延ばして香を取り戻しにかゝつたが、豊和は敏捷すばしこ内懐中うちふところにしまひ込んでしまつた。
 骨董好きの富豪かねもちに教へる。いつ迄も秘蔵の骨董を失ふまいとするには、自分達の家族を成るべく物識ものしりにしておくが一番手堅い。


虫の声

8・21(夕)

 むかし公家くげなにがしが死にかゝつてゐると、不断顔昵懇かほなじみの坊さんが出て来て(医者が来るのが遅過ぎる時には、きつと坊主が来るのが早過ぎるものなのだ)枕頭まくらもと珠数じゆずをさらさら言はせながら、
「早く念仏をお唱へなさらなくつちや。さもないと中有ちゆううでお迷ひになるかも判らないから。」
ひどく心配さうな容子ようすで、最後の念仏を勧めにかゝつた。
 看護みはりの者がべそを掻いたやうな顔をして、
「中有と申しますと……」
と訊くと、坊さんは嘘をつく者に附物つきもの小鼻こはなを妙にぴくぴくさせて、
「広い荒野あれのでな、西も東も判りませんぢやて。」
低声こごゑで答へた。
 その談話はなしを苦しいなかにも病人が洩聞もれぎきをした。病人は骨張つた顔を坊さんの方へぢ向けた。
「お上人しやうにん、そんな荒野あれのにも秋が来ますと、虫が鳴きませうな。」
 お上人は急に行詰ゆきつまつたやうな表情をして、てれ隠しに一寸空咳からぜきをした。無理もない、中有の野に虫が居るか居ないかといふ事は、どのお経にも書いてなかつた。お上人はもしか間違つてゐたら、お布施を返す積りで独断ひとりぎめの返事をした。
「さやうさ、野といひますから、虫もゐるにはゐませうて。」
 公家は死顔に寂しさうなゑみを洩らした。
「虫さへ居る事なら、中有とやらに迷つてもいゝと思ひます。だからお念仏だけは申しますまい。」
 坊さんは苦笑ひをして口の中でぶつ/\言つてゐたが、病人はとうとお念仏の一遍も唱へないで亡くなつてしまつた。その中有の野とやらには虫が居たか居なかつたか、今だにはつきりしない。
 上田敏博士の追悼会ついたうゑ先日こなひだ知恩院の本堂で営まれた時、九十余りの骸骨のやうな山下管長が緋の袈裟けさかぶつて、叮嚀にお念仏を唱へた。そしてその声一つで博士も浄土へ送り込まれたやうな顔をして入つて往つた。
 自分はそれを見た時、博士のやうな運命のためにだまうちに遭つたものが、念仏の声くらゐで成仏出来るものかと思つた。よしまた成仏出来るにしても博士は成仏すまいと思つた。
 生前仏道は信じなかつたものの大学教授だつたから無切符で浄土へ入れると言ふかも知れないが、博士も矢張その公家と一緒に、虫の声に心をかされてゐるに相違ない。


中橋氏と狸

8・22(夕)

 中橋徳五郎氏はしきりと狸の焼物を集めてゐる。京都の高台寺焼を始めいろんな瀬戸物屋へ自分で出掛けて往つて、狸だと見ると値段を問はず買ひ込んで来るので、今では百幾つも溜つてゐるといふ事だ。
 成程よく見ると、中橋氏の顔はどこか狸にたところがある。さういつた所で何もむきになるにも及ぶまい。ソクラテスに「先生のお顔はブル・ドツグにてますね。」といつた処で、まさか決闘を申込はしなかつたらう。それどころか、あの哲学者の事だもの、「そんないぬがどこに居るね。」とその足で直ぐ訪ねて往つて、幼昵懇おさななじみのやうに狗と一緒に転げ廻つたかも知れない。
 中橋氏は実業家(氏は今ではもう政治家の積りかも知れない、ちやう※(「萬/虫」、第3水準1-91-67)やご塩辛蜻蛉しほからとんぼになつたやうに)には珍しく書物ほんを読むが、狸にしても文字をよく知つてゐるのがある。むかし植木※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)ぎよくがいの親類に居た狸などはそのいゝ例である。
 この狸はうちの者の見ぬには、下手な字で障子襖に皆の棚下たなおろしをする。「誰こわくない」「誰少しこわい」といつたやうな調子で。ある時来客がその噂を聞いて能勢の黒札を狸が怖がる話をすると、いつの間にか後の障子に、「黒札こわくない」と書いてゐたさうだ。
 そのうち女房かみさんが芝居の八百蔵やほざうが大の贔屓ひいきだつたが、その頃不入続きで悄気しよげてゐると、狸は「八百蔵おほへいこ」と書いて済ましてゐたさうだ。――中橋氏の狸も例の金沢の選挙無効を聞いて「徳ちやん大あたり」と書く位の洒落気はあつてもよからう。


節用集をくら

8・24(夕)

 先日こなひだ七十三の老齢としまで女遊びをしたといふ西依成斎の事を書いたが、成斎の生れたうちは、熊本在の水呑百姓で、両親は朝はやくから肥桶こえたごを担いで野良へ仕事に出たものだ。
 そんななかに育ちながら、成斎は野良仕事を助けようとはしないで、日がな一日青表紙にかじりついてゐた。親爺おやぢは幾度か叱り飛ばしてやつと芋畑に連れ出しはしたが、成斎はいたちのやうにいつの間にか畑から滑り出して、自分のうちに帰つてゐた。百姓だけに仇花あだはなちぎつて捨てるものと思ひ込んだ親爺は、とうと成斎をうちからり出す事に決めた。
 成斎は泣く泣くうちを出たが、それでも出がけに節用集一巻を懐中ふところぢ込む事だけは忘れなかつた。節用集といつただけでは今時の若い人には解らないかも知れない。ある大学生が国史科の教授に「先生、赤穂義士の仇討かたきうちといふのは一体京都であつた事なんですか、それとも東京なんですか」と訊いた事があつたといふ程だから、節用集といふのは今の小百科全書の事だと言ひ添へて置きたい。
 成斎はその節用集を抱へ込んで、狗児いぬころのやうに鎮守ちんじゆの社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、その覚えた個所かしよだけは紙を引拗ひきちぎつて食べた。書物ほんを読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はそのまゝ飯の代りにもなつた訳だ。で、十日も経たぬうちに、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。
 灰屋紹益はひやぜうえきは自分が生命いのちまでもと思ひを掛けた吉野太夫が死ぬると、そのこつを墓のなかにめるのは勿体ないからと言つて、酒に混ぜてすつかり飲み尽してしまつた。
 だが、かういふ事は余り真似をしない方がいゝ。今時の書物は鵜呑にすると、頭を痛めるやうに胃の腑を損ねる。それから女のこつを飲むなどは以ての外で、七周忌目に箪笥たんす抽斗ひきだしから、亭主をこきおろした日記を発見めつけたからといつて、一度くだした後ではうとも仕兼しかねるではないか。
 そして、そんな女なぞ居ないと誰が請合ふ事が出来るのだ。たつて嚥みたかつたら三周忌を過ぎてからでも遅くはない筈だ。


強制姙娠

8・25(夕)

 独逸では戦争から起る人口の減少を気遣つて、戦線に立つてゐる元気な壮丁さうていに、時々休暇ひまを呉れて郷里くにに帰らせ、婦人をんなと見れば無差別に子種を植付うゑつけようとしてゐる。
 先日このあひだ京大の松下てい二博士と大阪大学の木下東作博士とが或所で落合つた時、木下氏がこの話を持ち出して、
「まさかとは思ふが、真実ほんとか知ら。」
といふと、松下氏は自分が下相談にでもあづかつたやうに、
真実ほんとだともさ、実際つてるんだよ。」
ときつぱり答へた。
「でも。……」と木下氏は兎のやうな長い耳を一寸かしげた。「戦線に立つてる兵士の多くは女房かないや娘やを持つてるだらうが、自分の家族がそんな目に遭つてるのが黙つて辛抱出来るだらうか知ら。」
「それは出来ようともさ。国家のめだからね。」とこのとしまで細君をも迎へず、一人で研究室に閉ぢ籠つてゐる松下博士は、モルモツトの話でもしてゐるやうな平気な調子で言つた。「兎に角つてるのださうだ。」
「だが、まあ考へてみ給へ。」木下氏は大きな掌面てのひらで汗ばんだ鼻先を一気に撫で下した。鼻はその邪慳さに腹立はらだちでもしたやうに真赤になつた。「もしか自身に奥様おくさんやお嬢さんがあるとして、君はその人達ひとだちがそんなひどい目に遭つてるのを平気で辛抱してゐられるかね。」
「さうさなあ」と松下氏は初めて気がついたやうに木下氏の真赤な鼻先を見つめた。そして「吾輩自身の事にしてみると……」と独語ひとりごとのやうに言つてゐたが、急に笑ひ出した。「成程こいつはとても辛抱出来ないわい。してみると、独逸もそんな乱暴なことはつてらんかな。やつぱり噂だけで、真実ほんとうつてないんだらうて。」
 学者に教へる。帽子を買ふ時には自分の頭にかぶつてみる。履物はきものを買ふ時には自分の脚に穿いてみる。そして男女問題は真先に自分の細君に当てはめて考へてみる事だ。唯こんな場合にはみつともない細君よりは美しい方がずつと恰好なものだ、丁度帽子をきせる頭は禿げたのよりも、髪の毛の長いのが恰好なやうに。


性悪しやうわる

8・26(夕)

 ある婦人が市街まちを歩いてゐると、一人の男が横合よこつちよから飛び出して来て、じつと婦人をんなの顔を見てゐたが、しばらくすると黙つて婦人の跡をつけた。婦人は立ち止つた。
「何故あなたは私にいていらつしやるの、そんなにして。」
「何故つて……」男は一寸揉手もみでをした。「実をいふと、貴女あなたに惚れつちまつたのでさ。」
 婦人はそれを聞いてビスケツトのやうに乾いた唇を一寸へし曲げたが、直ぐ愛嬌笑ひをした。
「まあ、有難いわね。だが、一寸御覧なさい、あそこへ私の妹が来かゝつてるでせう。妹は私に比べると、それは美しいんですよ。同じ手間なら貴方あなた、妹にお惚れなすつたら如何いかゞ……」
 男は直ぐ引返して婦人が教へて呉れた女に近づいてみた。それは美人どころか、鼻のひしやげたいぬのやうな顔をした女だつた。男はぶつくさとぼやきながら、先刻さつきの婦人を追駈おつかけた。
「どうも恐れ入りましたね、ひとかつぐなんて。貴女あなたは見掛によらない性悪ですね。」
「性悪……」と婦人は立ち止つて男の顔を見た。すべての男はこんな時くつかゞとのやうな痛ましい表情をするものだ。「何方どつちが性悪なんでせう、もしか仰有る通り、貴方が私にお惚れなすつたのだつたら、あの女のかた追駈おつかけはなさらなかつた筈ぢやなくつて。」
 これは土耳其トルコ昔譚むかしばなしにある話だが、寺内総督が政権譲渡ゆづりわたしで大隈侯の撞木杖クラツチ周囲まはりをうろ/\したのなぞは、すつかりこれに似てゐる。土耳其人だつて馬鹿には出来ない。


静かな死

8・27(夕)

 茶人橘広樹の死際しにぎはこそこの上もなく静かなものだつた。その日は大阪にゐる友達から、名高いお城の黄金水わうごんすいを送つて来たからそれでお茶を煮るのだといつて、仲よしの田能村竹田やなぞを招いて気軽さうに働いてゐた。
 火を吹きおこしたり、水瓶みづかめを洗つたりしてゐるうち広樹は急に気分が悪くなつたといつて横になつた。竹田は今更茶でもないので、枕頭まくらもとに坐つて看病してゐると、暁方あけがたに広樹は重さうな頭をもち上げて竹田を見た。
「いろ/\有難う、だが、今度はとても助かるまい。もう茶を立てるも無ささうだから、あの黄金水を飲んでお別れがしたいものだな。」
 竹田は水瓶みづかめを引張り寄せて一口飲んで広樹にさした。病人は鶴が水を飲むやうな口つきをして美味うまさうに一口に飲みほした。そして今一度といつて竹田にさした。竹田はまた飲んだ。
 広樹は枕に顔をもたせて「今歌が出来たから、一つ書留てくれ給へ」といふので、竹田は筆を執つた。
ちよろづと
こそむすぶべき黄金水こがねみづ
汲みかはすれば
水泡みなわとぞ
 広樹はだるさうに頭をもたげてそのまづい歌を見てゐたが、独語ひとりごとのやうに、
「おや、水の字がさし合ひになつてゐる。死ぬ迄の気紛きまぐれに一つ考へ直してみよう。」
と言つてゐたが、暫くすると、
「さうだ、『泡と消えゆく』でよかつたんだ。」
と言つたかと思ふと、そのまゝ息が絶えてしまつたさうだ。
 静かな死際だ。唯一つ慾をいふと、歌だけが余計だつた。日本人は地味でぽんほか言分いひぶんはないが、たつた一つ辞世だけは贅沢すぎる。死際にはお喋舌しやべりは要らぬ事だ。狼のやうに黙つて死にたい。


哲学者と兎

8・29(夕)

 独身哲学者で名の通つた田中王堂氏は、近頃耳の長い白兎を二匹飼つて、ひまさへあればその面倒を見てゐる。
「何だつてまたそんな気になつたのだ。」
と訊くと、独身哲学者はもじや/\した頭の毛に掌面てのひら衝込つゝこんで、智慧ちゑを駆り出しでもするやうに其辺そこらを掻き廻した。
「でも、近頃は世間が物騒になつて、滅多に人交際ひとづきあひも出来ないんだから、かうして兎と遊んでるやうな始末さ。」
 多分一頻ひとしきり噂のあつた岩野清子女史との結婚問題を気にして、それで一寸ね出したものらしい。
 哲学者が結婚しても差支さしつかへないのは哲学者が白兎を飼つても差支ないのと同じ理由わけだ。唯兎は飼主の掌面から黙つて餌を拾ふばかしだが、女は時々飼主の指先を噛む事がある。
 岩野氏夫妻がまだ大阪にゐた頃、良人をつとの泡鳴氏が新聞社に出掛けると、清子女史は時々良人の監督だといつて、自分も新聞社へ出掛けたものだ。そんな時には屹度きつと丸髷まるまげ金縁眼鏡きんぶちめがねをかけて、すぽりと※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ヴエールかづいて、足にはくつ穿いてゐる。
 女房だから丸髷を、近眼ちかめだから眼鏡を、風が吹くから※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ヴエールかぶつてゐるのに仔細しさいは無いが、何故また履を穿いてゐなければならないのか、その理由が解らない。訊いてみると女史はにこりともしないで、
「履は貰ひ物ですよ。」
と言つて、その貰ひ物の履のかゞとで馬のやうに床板をつたさうだ。
 神様の謎を知つてゐる筈の哲学者だつて、あながち女の急所を知りぬいてゐるとも限らない。兎で辛抱出来るものなら、女房かないは取らぬに越した事がない。たつて取らなければならぬとすれば、履だけは穿かせないに限る。履は険呑けんのんな上にあしのうらを台なしにする。蹠の綺麗な女は叱言こごと一つ言はれずに亭主の顔をさへ踏みつける事が出来る。


質屋の通帳かよひ

8・30(夕)

 少し以前の事、茶話記者がまだ京都に住むでゐる頃だつた。ある日小栗をぐり風葉氏の弟子分にあたる岡本霊華といふ小説家がひよつくり訪ねて来た。何だか一人ぽつちでこの世に生れて来たやうな、寂しい顔をしてゐる男だ。
「時にだしぬけに失礼ですが、質屋の通帳かよひをお貸し下さいませんか。」
 岡本氏は両手を膝の上に置いて言つた。
「え、質屋の通帳かよひを。」
 私はあきれて相手の顔を見た。相手は私のうちのどこかに質屋の通帳かよひの二つか三つは懸つてゐさうな眼つきをしてゐた。
「旅に出て来て一寸つかひ過ぎたもんですから、羽織でも入れたいと思ひましてね。なに、決して御迷惑は掛けません。」
 岡本氏はかういつてその入れたいといふ羽織の襟を指先でしごいてみせた。細かい銘仙のかすりで大分皺くちやになつてゐる。
「そんなにしなくともいいでせう。少しで足りる事なら私が立替たてかへませうから。」
とでも言つたらこの小説家の気に入つたかも知らないが、実際の事をいふと、私はその折ひとに貸す程の金を持合せてゐなかつたし、それに折角質屋の通帳かよひがあるとにらむで来た小説家にもそれでは済まなかつた。
 私は言つた。
「妙な事があればあるもんですね。昨日きのふ丁度君のやうな人が来て、通帳かよひは借りてきましたよ。」
 小説家はそれを聴いて、自分が「こゝには通帳かよひがある」と睨んで来た眼の違はなかつた事を満足して帰つて往つた。通帳かよひの手に入る、入らないは全く運と言つてもいゝのだから。


片腕

8・31(夕)

 虎列拉コレラ流行はやり出した為め大阪名物の一つ、築港の夜釣よつりが出来なくなつたのは、釣好きにとつて近頃の恐慌である。
 むかし釣好きの江戸つ児がきすを釣りに品川沖へ出た。ちやうど鱚釣に打つてつけの日和で、獲物も大分だいぶんあつたので、船のなかで持つて来た酒など取り出して少し飲んだ。
 ほろ酔の顔をくすぐつたい程の風に吹かせて、その男はまた釣り出した。すると、直ぐ一寸手応てごたへがしたので、
「おいでなすつたな。」
独語ひとりごとを言ひ言ひ、はりを合はせてぐつと引揚げた。
 鉤には誰かが河豚ふぐにでも切られたらしい釣鉤と錘具おもりとが引つ懸つてゐるばかしで鱚らしいものは一ぴきをどつてゐなかつた。
「へつ、られたかな。」
と男はぼやきながら何気なくその釣綸つりいとを引張り寄せると、ちらと釣竿の端が見え出した。
 半分程引寄せてみると、これはまた結構な釣竿で、自分の持合せなどとはとても比べ物になりさうもない。
「いゝ竿だ、大分金目かねめの掛つたこしらへだぞ……」
 こんな事を言ひ/\、竿の根元まで引揚げると、しつかり握り詰めた人間の片腕がずつと揚つて来た。
「や、死人が……」
 釣好きの男は覚えず声を立てて、手を放さうとしたが、打捨うつちやるには余りに結構な釣竿なので、
「気の毒だが余り結構だからこの竿だけは貰ふよ。」
と、言訳をしいしい、その片腕をつかまへて堅く握りつめた五本の指をほどいた。竿から外された片腕は黙つて沈んで行つた。
「金目の懸つた竿だけに溺死おぼれじぬ場合にも心が残つて、あんなにしつかり握りめてゐたのだらうて。」
と拾つた男は後々のち/\まで噂をしながら、その竿で鱚を釣り、蟹を釣り、ある時は剽軽へうきん章魚たこを釣つて笑つたりした。
 だが、そんな金目な竿と一緒に溺れた男は誰だつたらう。左手に竿を握つてゐなかつたのを見れば、寺内伯で無かつた事だけは事実だ。それに考へてみると、時代も江戸の頃だ。まあ安心するさ。


泡鳴と王堂

9・1(夕)

 岩野泡鳴氏は厭になつて自分が捨てて逃げた清子夫人と哲学者の田中王堂氏とがをかしいといつて、態々わざ/\探偵までつけて二人の行動しうちを気をつけてゐたが、とうと辛抱出来ぬ節があつたと見えて、持前の癇癪玉かんしやくだまを破裂させた。
 岩野氏が田中に当てつけた厭味を読むと、
おまへつばくろ不在るすつばくろの巣に入り、の十二時過ぎ迄も話し込み早く帰れよがしに取扱はれても、それを自分に対する尊敬と思ふ程、それ程自信の深い好人物だ。」
「人の見限つた女でも、欲しければ貰つてやつてもい。しかしまだ籍が抜けないのに態々わざ/\離婚訴訟の渦中に飛び込んでその女の旅先までも追ひゆき、女のうちへは行き度くないからだととぼけ顔。そして実はうだ、探偵の報告によると、口に婦人のやうな声を出させて、度々たび/\ほくろの鼻をのつそりと女の門に入れるのはいつも午後の九時過ぎからである。なんぢ薄のろの哲学者よ……兎角汝は人の亭主の明巣あきすねらひたがる。」
といふ激しい文句がある。
 岩野氏のやうな、女を捨てる事を草履を穿き換へる位にしか思つてない人でも、その草履を独身者ひとりものの哲学者が、つい足に突つ掛けるのを見ると、急にまた惜しくなつて、けてけて溜らなくなるらしい。
 そこが女の附込つけこどころで、世の中の賢い女は、この急所をちやんと知りぬいてゐて、何喰はぬ顔で亭主を操縦する。さういふ女に懸つては、男は馬よりも忠実である。清子夫人がそんな女かうかはよく知らないが、唯この婦人を中心に泡鳴氏と王堂氏がかけつこをしてゐるのは面白い。手製ではあるが二人とも日本一の文学者ださうだ。こゝでいふ日本一は箕有電鉄みのでんの沿線にたんと転がつてゐる日本一と同じ意味である。


聟選むこえら

9・2(夕)

 ベンヂヤミン・フランクリンが女房かないを迎へようとした時、その女の母親は聟がねフランクリンの職業しごとは何かと訊いて寄こした。フランクリンは幾らか自慢のつもりで、
「新聞記者です。」
と答へた。
「え、新聞記者だつて……」女の母親は飛び上るばかり吃驚びつくりした。「新聞記者のやうな、そんな忙しい職業しごとてる男に、うちの娘は添はせたくないものですね。」
 母親の積りでは、可愛かあいい娘の事だ、出来る事なら教会の牧師のやうな、日曜日にだけおきまりの御祈祷をして、あとの六日はぼんやりして過すやうなひまな男にりたかつたものらしい。
 フランクリンの頃には亜米利加全国を通じて、たつた六いろの新聞しか無かつたといふからにはフランクリンの携はつてゐた仕事だつて、忙しいとは言ひ条たかの知れたものだつたに相違ない。だが、それすら忙しいからといつて、一度は縁談が破談になりかけたのだ。
 ところが今では女の好みも大分移り変つて、聟選みをするには、成るべく男の職業しごとが忙しいのを好くといふ事だ。著作家や牧師のやうな始終しよつちゆううちばかしにくすぶつてゐるのは一番の困り者で、出来る事なら船乗ふなのりや海軍軍人のやうな月の半分か、一年の何分なにぶんの一かを海の上で送つて、滅多にうちへ帰つて来ないのへかたづきたがるといふ事だ。
 ある日本汽船が独逸の潜航艇に沈められたといふ噂の立つた時、ある男がその船の機関長の不在宅るすたくを見舞つた。電報を見せてくやみを言ふと、若い夫人はこはれた玩具人形おもちやにんぎやうのやうに胸をぺこ/\させて泣き出した。
「貞女かな。」
とお客はその泣声を聞きながら思つた。お客といふのは、ハム・サラダと貞女とが大の好物なのだ。
 一しきり泣き止んだ時、お客は機関長の年齢としを訊いた。
ちやうど三十二なんですわ。」
 おつかけて平素ふだんの好物を訊くと、夫人は低声こごゑで答へた。
「カツレツと尺八が一番好きでございましてね。」
 お客はかへみちに、会社に寄つて、同僚にたしかめてみると、夫人の言葉は大抵間違で、機関長の年齢としは三十七。尺八が好きなのは船長で、無器用な機関長は吹くすべさへ知らなかつたさうだ。
 夫人が出鱈目でたらめを言つたに少しの不思議もない。なが不在るすに女は男を忘れてゐたに過ぎないのだ。尤もカツレツだけは機関長もよく食べさせられた。女といふものは、亭主の不在るすには大抵一つ位は新しい料理を覚えてゐるものだ。そしてそれを亭主に頬張らせる事によつて不在中るすちゆう色々いろんな事は帳消しになると思つてゐる。


謡曲を武器に

9・4(夕)

 自分の隣家となり謡曲うたひの師匠が住んでゐる。朝から晩まで引切しつきりなしに鵞鳥の締め殺されるやうな声で、近傍あたり構はずうたひ続けるのでそのやかましさといつたら一通ひととほりの沙汰ではない。謡曲うたひが済む頃になると、其家そこせがれが蓄音機を鳴らし出す。それがまた奈良丸の浪花節なにはぶし一式と来てゐるので、とても溜つたものではない。
 華族と法律とをこしらへる事を情慾のやうに心得てゐる国家が、何故「音曲おんぎよく」に関する法律だけは打捨うつちやぱなしにしてゐるのか理由わけが分らない。短銃ピストルは弾一つで人一人しか殺さないが、騒々しい音曲は近所隣りの良民をすつかり狂人きちがひのやうにしてしまふ。実際自分などは下手な謡曲うたひを聴かされると気が荒くなつて直ぐに決闘でも申込みたくなる。
 独逸の宰相ビスマルクが議会で反対党のヰルヒヨオからぴどく攻撃された事があつた。ヰルヒヨオは独逸のお医者さんだから、その攻撃に謡曲や蓄音機を持込んだ訳でもなかつたが、ビスマルクは鉄瓶のやうに湯気を立てていかつた。
 で、相手の事務室に飛び込むなり、直ぐ決闘を申込んだ。ヰルヒヨオはきこんだ大宰相の顔をじろ/\見て、気味が悪い程落付いてゐた。
「いや御申込おんまをしこみはたしかに承知しました。だが、武器の撰好えりこのみは申込まれた方の権利にある。ところで……」
とお医者さんは薬焼くすりやけのした指で棚にある壜の一つを指し示した。「私はあれを貴方と二人で飲みたいと思ふ。」
 ビスマルクは英吉利製のヰスキイでもある事かと振り返つて壜を覗いてみた。壜にはこの政事家の好きな独逸語で「虎列拉コレラ菌の培養液」と書いてあつた。
 ビスマルクはそれを見ると、急に悄気返しよげかへつてゐたが、都合よく仲裁者が出て来て、決闘は沙汰止みになつて了つた。
 自分は隣家となりの謡曲家に決闘を申込む位はいとはないが、武器に「謡曲」でも撰ばれはしなからうかと内心びく/\してゐる。あれはうかすると、決闘者ばかりか、介添人をも一度に頓死させてしまふから。


貯金筒ちよきんづつ

9・5(夕)

 色街で女買をんなかひをするのを男の自慢のやうに心得てゐる男が一年程過ぎて算盤そろばんを取つて見ると、つひへが思つたよりは意外にかさんでゐるのに気がいた。
「これではどむならんわい。女買も悪くはないが、こんなに費用が掛つては一寸考物かんがへものやな。」
と、じつと両手をんで思案に暮れてゐたが、ふと忘れ物をしてゐるのに気が注いてにやりとした。
 忘れ物とは他でもない女房かないの事だ。女房かないといふものがあるのに、態々わざ/\外へ出て女買ひにふけつたのは勿体なかつた。
「魔がさしたんやな。これからは一心に金を取り返さなならんわい。」
と、その男は気が注いたやうに女房かないの顔を見た。女房かないは板のやうに平べつたい顔をして笑つた。
 その男はそれからといふもの女房かないと寝るたんびに、以前の放蕩を思ひ出して、一両づつ貯金筒に投げ込んで置いた。そして半ヶ年の後にその筒をしらべてみると、随分な高にのぼつてゐるので、男も女も声をあげて喜んだ。
 それからといふもの、夫婦は一生懸命になつて金をめた。そして一年の後になつて勘定してみると、三百八十五両溜つてゐたさうだ。これは言ふ迄もなく往時むかしの訪だが、往時むかしだからといつて、一年は三百六十日しか無かつたのだ。


利休の女夫喧嘩めをとげんくわ

9・6(夕)

 千利休がある時昵懇なじみの女を、数寄屋すきやに呼び込んで内密話ひそひそばなし無中むちゆうになつてゐた事があつた。世間の人は利休といふと、一生涯お茶の事しか考へなかつたやうに思ひ違へをしてゐるらしいが、利休はお茶と同じやうに色々世間の事も考へてゐた男なのだ。
 利休の女房は、余程よつぽど疳癪持かんしやくもちだつたと見えて、亭主と女との逢曳あひびきがんづくと、いきなり刀を引つこ抜いて、数寄屋へ通ふ路地の木を滅茶苦茶にりつけ、加之おまけに数寄屋に並べてあつた大切だいじの茶器を手当り次第にたゝつて了つた。
 ソクラテスの女房は、うかして機嫌の悪い時には、一しきり我鳴りたてた揚句あげくはてが、いきなり水甕みづかめの水を哲学者の頭に、滝のやうにけたものだ。すると、哲学者は魚のやうに水のなかで溜息をついて、
雷鳴かみなりのあとに、夕立の来るのはおまりさ。」
といつて平気な顔をしてゐたさうだ。
 利休は女房のたゝつた茶器を、一つ一つ拾ひ上げて、克明にそれを漆で継いだものだ。そして女房のちんちんなどは素知らぬ顔で相変らずお茶をすゝつてゐた。
 ある人がその茶器を不思議がつて由緒いはれを訊くと、利休は何気ない調子で、
「さればさ、茶器など申すものは、そのまゝでは一向面白味が御座らんから、わざと割つて漆を引いてみました。路地の木も同じ趣向で、あのやうに枝を一寸すかして置きましたが……」
と言つて、態々わざ/\立つて障子をけて見せて呉れたさうだ。


高野かうやの英霊塔

9・7(夕)

 工学博士田辺朔郎さくを氏は、軍人軍属のためには靖国神社を始め、色々の鎮魂たましづめの道具があるのに、学者や芸術家にはそんな設備が少しも無いのは国家として国民として片手落な次第だ。これだけは是非何とかしなければといふので近々きん/\高野山に素晴しく大きな英霊塔を建立する考へださうだ。
 考へは結構だが、自体学者や芸術家などいふ連中れんぢゆうには旋毛つむじの曲つたのが多いから、英霊塔を建てたからといつて、そのまゝ成仏はしなからう。尤も学者や芸術家は生前忙しく暮したせゐで、まだ高野山を見ないで死んだてあひも多からうから、博士の手で無賃乗車券でも配つたら、その人だち霊魂たましひも一度は屹度きつと登山するに相違ない。
 高野山には色々いろんな人のおこつがたんと納まつてゐる。あれは弥勒みろく出世しゆつせの暁に弘法大師が皆の手を執つてお迎へに出られる誓願があつたからださうだが、大師の考へでは高々たか/″\三十人位の積りらしかつたが今のやうにたんと納まつては一寸始末に困るだらう。そんな事から弥勒菩薩も今では一寸顔出しが出来なくなつたらしい。
 むかし熊坂長範ちやうはんが山で一稼ぎする積りでが更けて高野へ登つた事があつた。大きな伽藍がらんは皆門を閉ぢてゐるなかに、たつた一つ小さなの見える所がある。覗いてみると皺くちやな坊さんが一人立つてゐて、附近あたりには人間の骨がごろ/\転がつてゐる。長範は自分が盗賊どろぼうに来た事も忘れて理由わけを訊くと、坊さんは例の弥勒出世の大師の誓願を説いて聞かせた。
 長範はそんな事なら、自分も御一緒に願ひ度いと言ひ出した。長範の腕は盗みをするだけに寸も長かつたし、納骨にはつてつけの代物であつたが、山でもまだ一稼ぎしなければならぬので、一寸をしみをした。で、石でもつて前歯を一つ叩き折つた。
「ぢや前歯を一つ納めて置きませう、何卒どうぞお忘れのないやうに。」
と言つて駄目をおしてその歯を坊さんの手に載つけた。前歯はこれまで幾度か嘘をいた歯ではあつたが、その歯が一本無くなつたからといつて今後これから嘘をくのに別段差支へる訳でもなかつた。
 長範はい物を納めた。だが、時期が少し早過ぎた。もつととしをとつて、入歯いればをする頃にしても遅くは無かつたのだ。弥勒は今だにぐづ/\してゐられるから。


寺か女か

9・8(夕)

 むかし嵯峨に独照といふ僧が居た。黄檗わうばく隠元いんげんが日本へやつて来た折、第一に払子ほつすを受けたのは、この独照だつたといふからには、満更まんざらの男では無かつたらしい。
 この独照がまだ小さな庵室に籠つてゐる頃、ひと秋雨のしよぼ/\しきる夕方とん/\と門のを叩くものがある。独照は何気なく出てみると、若い女が外に立つてしく/\泣いてゐる。
 独照が「うかなすつたのかい。」と訊くと、娘はなまめかしい京言葉で理由わけを話した。それに依ると、娘は中京なかぎやう辺の商人あきんどの一粒種だが、今日店の者大勢と一緒に山へ茸狩たけがりに往つた。初めて山へ来てみた嬉しさに、娘は一人で木立を分けてゐるうちに、つい連れにはぐれた。その内、日は暮れるし、雨は降り出すし、方々捜し歩いた末、やつとここまで下りて来る事が出来た。
「ほんまに御気の毒さんどすが、今夜一さだけお泊めやしてお呉れやす。」
 女はかういつて丁寧に頭を下げた。
 独照は女を庫裏くりに連れ込み、湿とほつたその着物を脱がせて鼠色の自分の着物をせてやつた。そして囲炉裏にほだをくべて、女はそこに打捨うちやらかしたまゝ、自分ひとり煎餅蒲団にくるまつてごろりと横になつた。
「まあ、いゝ気な和尚おつさんやわ、御自分ひとりお蒲団にくるまつて。」
 女は蓑虫みのむしのやうに坊さんのくるまつた蒲団をめくりに掛つた。そしてその端の方に自分も小さく横になつた。
 が更けて、本尊様が寝言でも仰有らうといふ頃、独照はがばと跳起はねおきた。
「何をする、不届者ふとゞきものめが……」
と、解けかゝつた帯を締め直して、その儘女を引きずり起して門の外へ押出してしまつた。女は扉につかまつて、
「あんまりどすえ、和尚おつさん……」
と泣き入つてゐたが、独照は耳をさうともしなかつた。
 その噂が村の人に伝はつて心堅い和尚様だといふので、独照は立派な寺を建てて貰つた。
 寺がいゝか、女がいゝか。いつ迄経つても味のある問題である。


記者へこ

9・9(夕)

 トルストイ伯は、その名著『アンナ・カレニナ』のなかで、塞耳維セルビア土耳其トルコ紛紜いきさつから、もしか戦争でもおつぱじまるやうだつたら、筆一本でやかましく主戦論を吹き立てた人達だけで、別に中隊を組織して、一番前線にそれを使ふ事にしたい、「すると、屹度きつと立派な中隊が出来る。」と皮肉を言つてゐる。
 イダ・ハステツド・ハアパア女史といふと、婦人参政権の賛成論者として相応かなり名を売つてゐるが、この女が最近紐育ニユーヨークの有名な新聞記者に会見を申込んで来た。それはこの記者を生擒いけどりにして、新聞紙の上でさかんに賛成論を書き立てさせたら、屹度効力ききめがあるだらうと思つたからだつた。
「婦人参政権ですつて? 今時そんな下らない……」と新聞記者は吐き出すやうに、「もしか私達の国が欧洲戦争に引張り出されるとして、誰が武器一つ取る事を知らないてあひに投票なんかするもんですか。」
とそつなく言つたが、相手の険しい顔色を見ると、一寸調弄からかつて見たくなつて、
奥様おくさん貴女あなただつたらうなさいます、もしか戦争でも始まりましたら。」
「はい、貴方のしてゐらつしやる通りにりますわ。」と夫人は急に雌鳥めんどりのやうに鼻息を荒くした。「お国の為めだからつて、ほかの人達はみんな戦線に立つて血を流すやうに書き立てませうよ。そして自分一人は編輯室へんしふしつの安楽椅子にりかへつてね。」


ひげ有無ありなし

9・10(夕)

 高安月郊氏が同志社女学校で東西比較文学の講義をしてゐた頃、講話はなしついでから話題が「文学者と髯」といふ事にまで及んで来た。
 高安氏の持論によると、詩人芸術家すべて傑出してゐる人物には、きまつたやうに髯が無いといふのだ。氏はその例として、ダンテ、ゲエテ、シルレル、ミルトン、シエリイ、キイツ、芭蕉、馬琴、巣林子さうりんし……などいふ名家を引張り出して来た。
 談話はなしに聴きとれてゐる女学生は、かういふ詩人の肖像を頭のなかで描き出してみた。大抵安雑誌の口絵で見覚えてゐるので、誰も彼も天然痘をわづらつたやうな顔をしてゐるが、実際髯の無い事だけは確かであつた。
 女学生は詩人や芸術家のなかから、髯の無い例を探り出すのが面白くなつて、てんでに自分達の記憶から色々いろんな人達の口元を思ひ浮べて見た。
「紫式部、清少納言、ヂヨオヂ・エリオツト、クリスチナ・ロセツチ……成程ほんとやわ、みんな髯があらへん。」
 若い娘達は感心したやうに高安氏の顔を見た。成程この人にも髯といつては一本も生えてゐない。
 女学生の眼は言ひ合はしたやうに、高安氏の立つてゐる講壇の後方うしろに注がれた。そこには写真版のロングフエロオの肖像が掛つてゐる。それを見ると、皆は一度に声を揚げて笑ひ出した。
 高安氏は何気なく後方うしろを振向いてみると、ロングフエロオが悪性の風邪でも引込んだやうに、顎髯をもじや/\生やしたまゝ、後で苦り切つてゐるのが目についた。
 氏は一流のおろすやうな調子で、「うん、この男か。この男なざ小詩人だからまるで問題にならん。」
 この談話はなしを聴いた女学生は今ではそれ/″\巣立すだちをして人の細君かないになつてゐるが、誰一人詩人や芸術家にはかたづいてゐないらしいから、髯の有無あるなしは余り問題にはしてゐない。実際髯などうでもい、問題は尻尾の有無あるなしである。女の嫁きたがる男には狐の様によく尻尾を引摺ひきずつてゐるのがある。


猶太ユダヤ人といぬ

9・11(夕)

 マリイ・アンチンといふ猶太種ユダヤだねの女は、火のやうな激しい性格で、今アメリカの各地方でしきりと演説をし歩いてゐる。その演説といふのは、猶太人が伝説的に持ち伝へてゐる、神様がお約束の理想郷は、他でもない亜米利加の事だといふのだ。
 成程聴いてみると、もつともな話で、亜米利加には猶太人の好きな金は有り余る程あるし、口喧くちやかましい神様は居無いし、加之おまけに男はみんな女に親切だといふから、猶太種ユダヤだねの女が理想郷とするに打つて附けの土地柄だ。そして今一ついゝ事には亜米利加人といふ奴は、こんなお世辞をいふと、きまつたやうににこ/\して、
「マリイ・アンチンはよく物の解つた女で、加之おまけに素敵な美人だ。」
と直ぐもう美人にして呉れる。
 この女が最近土耳其トルコから帰つたばかしの男の友達と何処かで会つた。男は色々いろんな面白い旅行話を聞かせた後、指のふしをぽき/\鳴らしながら、
「さうだ、忘れてゐたが、土耳其には面白い二つの習慣があるんですよ。」
と妙に調子をはずませて話し出した。
「それはね猶太人と狗だと見ると、ふんづかまへるなり、直ぐ叩き殺してもいゝんですとさ。」
 マリイ・アンチンの円い顔は銀貨の様に真青になつた。
「まあ、仕合せだつたわね、貴君あなたや私がそんな国に住んで居なかつたのはね。」
 男の友達は眼を円くして吃驚びつくりした。自分は猶太種ユダヤだねではない。してみると、相手は自分を狗と間違へてゐるのだと思つて……。


三十一文字みそひともじ

9・12(夕)

 元良もとら勇次郎博士が、生前大学で心理学の講義をしてゐた頃、ある時何かの例証を和歌から引いた事があつた。(和歌といふものは、手際よく例をひくと、旱天ひでりに雨を降らす事も、借金の日限を延ばす事も出来るものなのだ。)
 博士はフロツクコオトの隠しから皺くちやな手帛はんかちを取出して、一寸みづばなをおしぬぐうた。そしていつもの几帳面な調子で、
「一体和歌といふものは、諸君も御存じかも知らんが、三十一文字みそひともじといつて、ちやんと三十一字から成立なりたつてゐる。こゝに一つ例をあげると……」
と博士は一寸言葉を切つて記憶から手頃な歌を一つ探り出さうとした。
 甜瓜まくはうりの恰好をした博士の頭のなかには、歌といつては『百人一首』が二つ三つ転がつてゐるに過ぎなかつた。博士は※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみ拇指おやゆびで押へたまゝじつと考へ込んでゐると、都合よく道真みちざね公の歌がひよつくりと滑り出して来た。
「こゝに一つ例をあげると……」と博士は繰返して、「名高い百人一首にある歌だが丁度三十一文字で出来てゐる。」と叮嚀に節高ふしだかな指を折つて数へ出した。「菅家くわんけ、このたびはぬさもとりあへず手向山たむけやま……」
 歌をしもの句までんでしまふと、忠実な博士の指は三十五文字を数へてゐた。それに何の不思議があらう、歌は第二句目で一字延びてゐる上に、博士は「菅家」といふ名前までもみ込んでゐたのだから。
 博士は数へた片手をちゆうけたまゝ、世間が厭になつたやうな顔をして棒立になつてゐたが、暫くするとぐつと唾を飲み込んだ。
「あゝこれは字余りでした。和歌にはちよい/\字余りといつて、普通のより文字が延びてゐるのがあります。丁度猿に尻尾の長いのがあるやうなもので……」
 高芙蓉こうふようがある時弟子を集めて、蒙求もうぎうの講釈をしてゐた。「車胤集螢」の章になると、高芙蓉は肝腎の車胤しやいんの事なぞは忘れたやうに、これまで自分が見て来た方々の螢の話をし出した。そして最後に宇治の螢を引張り出して、「那処あそこの螢は大きいね。さやうさ、雀よりももつと大きかつたかな。何しろげん頼政の亡魂だといふんだからな。」と吹いてゐたさうだ。
 笑つてはけない。先生といふものは、大抵こんな事を教へるやうに出来てゐるものなのだ。


楽書らくがき

9・13(夕)

 京都といふ土地は妙な習慣のあるところで、少し文字をつた男が四五人集まると、屹度きつと画箋紙ぐわせんし画絹ゑきぬをのべて寄書よせがきをする。亡くなつた上田敏博士は、そんな時にはきまつたやうに、ヘラクリトスの、
「万法流転」
といふことばを書きつけたが、それが少し堅過ぎると思はれる場合には、『松の葉』のなかから、気の利いた小唄を拾つて来てそれをさら/\と書きつけた。
 博士は詩歌もうまかつたし、警句にも富んでゐたから、自分の頭から出たそんな物を書きつけたらよかりさうなものだのに、うしたものか、何時でも「万法流転」と『松の葉』の小唄を借用してゐた。
 むかし王羲之わうぎし※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)しふざんといふところに住んでゐた頃、近所に団扇売うちはうりばあさんがゐた。六角の団扇で一寸洒落た恰好をしてゐた。ある時王羲之のうちへも売りに来たが、こゝの主人は、唯の一本も買はないで、加之おまけにその団扇へべた/\楽書をした。(どこの国でも文学者や画家ゑかきなどいふてあひは、滅多に物をはないで、直ぐ楽書をしたがるものなのだ。)
 それを見ると、ばあさんは火のやうにおこつて、折角の売物を代なしにした、是非引取つて貰はうと懸合つたが、王羲之は黙つて財布をつてみせた。財布には散銭ばらせん一つ鳴つてゐなかつた。
「何そんなに怒るがものは無いさ、わしの楽書だと言つたら、誰でもが手を出すよ。」
 王羲之は落着き払つてこんな事を言つた。
 ばあさんはぶつくさぼやきながらも出て往つたが、町へ持つて出ると、色々な人がたかつて来た。
「なに王羲之の楽書だつて。」
と言つて、めい/\ふんだくり合ひをして、高い値段で引取つて往つた。
 姥さんはにこ/\もので帰つて来た。そして六角団扇をしこたま抱へ込んで、また王羲之のもとへやつて来た。
「さ、遠慮なしに、も一度楽書をして呉れさつしやれ。その代りには気に入つたのを一本お前さんに進ぜるからの。」
と言つたが、今度は王羲之の方が相手にならなかつた。
 王羲之がどんな文句をなすつたか、私はその団扇を買はなかつたから、そこ迄は知らない。


墓の中

9・14(夕)

 法隆寺の雷爺かみなりおやぢ北畠治房老人などが寄つてたかつて北畠准后じゆごうの墓に相違ないといつて、態々わざ/\発掘にかゝつた室生寺むろふでらの境内から、ろくな物といつては何一つ出て来なかつたのは面白い。もしか親房ちかふさ卿から今の北畠男爵になる迄の歴とした系図でも出たら、法隆寺の老人も煙草入たばこいれのやうな口をけて喜んだに相違ないが、惜しい事をしたものだ。
 支那の三国時代に※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)しようえうといふ名高い書家があつた。この男が書いた草書は「飛鴻ひこう海に戯れ、舞鶴ぶくわく天にあそぶが如し」とあるから、こんな人から手紙を貰つたところで仮名が振つてなかつたら少しも読めなかつたかも知れない。
 この鍾※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)が先輩の韋誕といふ男に、※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)さいようの筆法を訊きに往つた事があつた。すると韋誕はそれを惜んでうしてもうんと言つて教へて呉れなかつた。
 間もなく韋誕が死ぬると、鍾※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)は小躍りして喜んだ。そして人に知られぬやうにこつそりその墓を掘りかへして、棺のなかから蔡※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)の秘書を盗み出した。鍾※(「搖鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)の書が急にうまくなつたのは、それからだといふ話だ。
 ある人が元の張伯雨といふ男の墓を掘つてみた。すると中から青い表紙の珍らしい書物が二冊見え出した。
「これだ/\。自分が見たいと思つてるのは。やつこさんやつぱり懐中ふところぢ込んで御座つたな。」
と無駄口を言ひ/\、泥のついた手で先づその一冊を取り出した。そしてそれを附近あたりの乾いた石の上に置いて、今一冊の方を取り出さうとすると、その本はもう影も形も見えなくなつてゐた。
やつこさん、惜しがつて引込めたな。無理もないさ、あんなに見せともなかつた本だからな。」
と、その男は幾らか気味も悪かつたので、一冊だけですつかり絶念あきらめて、また以前もとのやうに墓へ土をかけて置いたさうだ。


就職口

9・15(夕)

 新しい文科大学の卒業生が就職口に困つて、その周旋かたを井上哲次郎博士に頼みに往つた事があつた。博士はその朝何処かの新聞で二行ばかし自分を賞めてゐた記事があつた。それでも読んだかして大分だいぶん機嫌がよかつた。
「うむ、君一人位だつたらうにかならん事もなからう。今日はまあゆつくり遊んでくさ。」
と言つて、色々な世間話をし出した。
 一しきり世間話が済むと、博士は、
「一寸こつちへいて来たまへ、君にはまだ自宅うち書庫ライブラリーを見せなかつたね。」
態々わざ/\立つて自慢の書庫へ案内してくれた。大学でも書物好ほんずきの友達を探し出す時のほかは、滅多に書庫に入つた事の無かつたその男は、一寸厭な顔をしたが、それでも不承々々に蹤いて往つた。
 薄暗い書庫のなかには、色々な書物ほんがさつと一度に猫のやうな金色な眼を光らせて、この昵懇なじみの薄いお客を見つめた。博士は「真理」を掴むために特別にこしらへさせたらしい脂つ気の無い手で、隅の方を指さした。
「あすこが哲学、それから文芸、神学――とまあ、東西古今の書物で目星めぼしいものだけは残らず集めてあるがね。困つたのは火事だて。」と博士は火災保険の会社員のやうに一寸眉をしかめて、「実際火事には困る。他の家財はみんな焼いたつて構はないが、この書庫だけはくし度くないからな。」
と心配さうに言つたが、ふと気がついたやうに後方うしろを振かへつて訊いた。
「君達はまだ書物ほんも格別溜つてゐなからうが、一体書庫はどんな設備にしたものかな。」
「書庫の設備ですか。」と卒業生はついうつかり口を滑らした。「そんな物は私達には要りません。読んだだけの書物はちやんと此処ここをさめてありますからね。」と調子に乗つて雲脂ふけだらけな頭を指さした。だが真実ほんとうの事をいふと、その頭のなかには探偵小説の二三冊と、女の手紙と、誤訳だらけのタゴオルの哲学がごつちやになつてゐるに過ぎなかつた。
 博士はそれを見て、「ふふむ」と言つて、不機嫌な顔をしたが、座敷に帰るなり相手の頭を見下みおろして、
「就職口と言つたところで、何処にも椅子をけて君なぞ待つてるところは無いんだから、自分にもせつせと捜さんければかん。」
と素つ気なく言つたさうだ。


キ元帥の幽霊

9・16(夕)

 このごろ欧羅巴ヨーロツパの西部戦線にゐる英軍の塹壕ざんがう内では、彼方あつちでも此方こつちでもキツチナア元帥に遭つたといふ風説がさかんに行はれてゐる。オウクネエ島附近で溺死した元帥が今頃蘇生いきかへつてゐる筈もないが、それでも彼方あつちでも見た、此方こつちでも見た。なかには埃塗ほこりまみれの手で、湯気の立つたスウプの皿を持つてゐるのを見掛けたと言ふからには、これも満更まんざら嘘だとばかしは言はれない。
 先年オスカア・ワイルドが巴里パリーの汚い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから彼方此方あつちこつちの町でワイルドを見掛けたといふ人がちよい/\あつた。
 伊勢は寂照寺の画僧月僊げつせんは乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料をめ込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐて、沈黙家むつつりやで石のやうに手堅いうまれつきであつた。
 沈黙家むつつりやではあつたが、世間並に母親おふくろが一人あつた。この母親おふくろがある時芝居へくと、隣桟敷となりさじきかね知合しりあひなにがしといふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、俳優やくしやの顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
 その日も二人は夢中になつて、芝居や俳優やくしやの噂をした。あくる日になつて、月窓の母親おふくろが挨拶かた/″\その女を訪ねてゆくと、鼻のとがつた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
阿母おつかさんですか、阿母おつかさんは貴女あなた、亡くなりましてから、今日で三つき余りにもなりますよ。」
「え、お亡くなりですつて。でも、私は昨夜ゆうべ芝居でお目に懸りましたが……」
「まさか。」
といつて嫁さんは相手にしなかつた。そしてうかすると、此方こつち狂人きちがひ扱ひにしさうなので、月窓の母親おふくろは黙つて帰つたが、道々あしのうらは地に着かなかつた。


石黒だんと女中

9・17(夕)

 石黒忠悳男は今ではひまにまかせて茶の湯を立てたり、媒人なかうどをしたり、また喧嘩の仲裁をしたりして暮してゐる。その石黒男のやしきに長年奉公つとめてゐる女中が、ある日の事、男爵の前に両手を突いて、
「檀那さま、一寸お願ひが御座いまして……」
たての頭を下げた。
 夫人に子種が無いからといつて、頑丈な田舎娘を女中にやとひ入れて、立派な男の子をこしらへた程の男爵ではあるが、近頃はとしを取つてゐるので、別に女中から相談を持込まれる程の悪戯いたづらも無かつた筈だ。それだけに男爵も一寸見当に困つた。
 男爵は禿げた頭をつるりとおろした。
「何ぢや、宿下やどさがりなら奥にでも頼んだがよからう。」
「いえ」と女中は言ひにくさうに一寸膝の上を見つめた。「はなはだ申し兼ねますが、乃木さんのお手紙を二本ばかし戴かれますれば……」
「うむ、乃木の手紙が欲しいといふか。」
と男爵は今更のやうに気をつけて女中の顔を見た。円々まるまると肥えた顔に細い目がいてゐるので、いつも膃肭臍おつとせいのやうだとばかし思つてゐたが、今見ると何とかいつた芝へんの女医者によくてゐる。膃肭臍と女医者、大層なちがひぢや、矢張やつぱやしきにゐるお蔭だと男爵は思つた。
「乃木の手紙を欲しがるとは近頃感心なこつちや。だが、何故また二本要るかの。」
 女中はもう貰へる物だとばかし思ひ込んで、丁寧に頭を下げた。
「はい二本御座いますと、帯が一本買へるさうに承はりました。」
 石黒男は大きな掌面てのひらで鼻先を撫で下されたやうに目をぱちくりさせた。よく見ると女医者に肖てゐた女中の顔は、やつぱり膃肭臍に生写しだ。
「俺はな、乃木がそんなに名高くなるとも思わなかつたので、手紙は残して置かなかつたよ。」
 男爵はかう言つたきり、立ち上つて次のへ入つた。
「まあ勿体ない、お手紙をみんなくしちまつたんだつて。」と女中は膃肭臍のやうな細い眼で檀那の後姿を見送りながら惜しさうにぼやいた。「ほんとに手紙だけは残して置かなくつちや、誰が腹を切るか知れたもんぢやないんだから。」


崋山の手紙

9・18(夕)

 昨日きのふ乃木さんの手紙二通で帯一本が出来る話を書いたが、乃木さんと同しやうに腹を切つて死んだ渡辺崋山の手紙は、今ではたつた一通で帯が幾本も買へる。
 崋山の手紙も今ではそんなに値段が高まつて来たが、以前もと素麺箱そうめんばこに一杯で、たつた十円の時代もあつた。――断つておくが、素麺の値段は、今とその頃と大した差違ちがひはない。
 崋山の親友に真木まき重兵衛といふ男がゐた。その重兵衛にゆたかといふ遊び好きな孫があつて、ある時廓返くるわがへりに馬を連れて、古い素麺箱を一つ、豊橋のさる骨董屋に担ぎ込んだ。
 骨董屋の主人はその素麺箱を見て、ぶつくさぼやきながら懐中ふところから惜しさうに十円紙幣さつを出して呉れた。豊はそれを持つて馬と一緒に帰つて往つた。その跡で骨董屋は素麺箱を引繰返して居ると、なかから皺くちやになつた崋山の手紙が、座敷一杯に転がり出した。
 その日の夕方、骨董屋の店先へぬつと顔を出したのは、豊の親父おやぢであつた。
「崋山の手紙を十円で引取つて呉れたさうで、色々有難う。だがあのなかには藩公に関係した秘密の手紙がまじつてるから、あれだけは返して貰はなくつちや。」と言つて、その手紙を五六通捜して持つて帰つた。
 今豊橋辺にあつちこつち崋山の手紙がちらばつて、虎の子のやうに大事がられてゐるが、あれはみんなこの素麺箱から転がり出したものなのだ。
 石黒男爵の女中に教へてやりたい。乃木さんの手紙が無かつたら、崋山の手紙でもいのだ。崋山の手紙が無かつたら呉服屋の切手でもいではないかと言つて。何方どちらにしても女中は新しい帯さへ締める事が出来たらそれで結構なのだ。


小説家の面会

9・19(夕)

 仏蘭西の小説家エミイル・ゾラは、寺内伯と同じやうに新聞記者との会談をひどく怖がつてゐた。例のドレエフス事件の折などは、自分も進んでその関係者の一にんとなつただけに、新聞記者につかまつて、大袈裟に畳み掛けた質問にでも出会でくはしはしなからうかと怯々びく/\ものでゐた。
 ところが、その事件の最中に或る新聞記者は是非ゾラに面会しなければならぬ用事が出来た。だしぬけに名刺を突き付けたところで、時節柄この文豪が直ぐお目に懸らうとも言ふまいし、記者はほとほと当惑した。
 記者はそんな折にいつもするやうに煙草をふかさうと思つて上衣うはぎのポケツトに手を入れた。指先に触つたのは煙草では無くて、矢張その頃の文士の一人フランソア・コツペエの詩集であつた。
 記者は先刻さきがた友達に出会つた時、コツペエの詩集を読みさしのまゝ、ポケツトに入れた事に気がいた。そしてその頃コツペエが風邪か何かでふせつてゐるのを思ひ出すと、覚えず小躍りして叫んだ。
「さうだ、コツペエさんの御厄介にならう。」
 記者はその脚で直ぐゾラを訪ねた。そして受附うけつけの男を見ると急に悲しさうな顔をして、
「フランソア・コツペエが亡くなりました。御主人がまだ御存知でなければ一寸しらせて上げて下さい。」と出鱈目でたらめな事を言つた。
 間もなく、ゾラは右手にペンを持つた儘、あたふたと飛び出して来た。
「なにコツペエが亡くなつたつて。まあ、此方こつちへ通つて委細くはしく話して聞かせて下さい。」
 応接室へ通されると、年若な記者は突如いきなり頭が卓子テーブル打突ぶつつかる程大きなお辞儀をした。
「まことに申訳が御座いません。コツペエさんはお風邪のやうには聞きましたが、お生命いのちに別条は御座いません。唯さうでも申さなければ、先生がお会ひ下さるまいと思つたものですから……」
 かういつて、記者はまた一つお辞儀をした。
 ゾラはそれを聴くと、鉄瓶のやうに湯気を立てて怒り出した。何しろあの通りの駄文家の事だから、いつも長文句ながもんく立続たてつゞけに口汚くのゝしつたに相違ないが、一しきり嵐が過ぎてしまふと、それでも一々記者の質問に答へて、自分の意見を聞かせて呉れたさうだ。


蘆花の置土産

9・20(夕)

 金尾かなを文淵堂の主人といふと、どんな見ず知らずの大家の許へでも、その人が何か書いてゐるといふ噂を聞きつけると、
「ゲンコウイタダキタシ」
といふ電報を打つてよこすので同業者間に名を知られてゐる。
 徳富蘆花がエルサレム巡礼のみちのぼつた時、文淵堂の主人はいつもの通りに幾通か電報を打つたが、相手が相手だけに一向手応へがないので、態々わざ/\見立てるのだといつて、神戸から門司まで蘆花君と一緒に薄汚い汽船の三等室に滑り込んだ。
 船が播州沖を出かゝると、色々の世間話に取り交ぜて、それとなく原稿の事を切り出してみると、蘆花君は円い色眼鏡の奥からじろ/\本屋の顔を見つめた。本屋は魚のやうな冷い顔をしてゐた。
「原稿も原稿だが、それよりももつとい物をあげませう。」
 蘆花君はこんなに言つて、立上つて甲板へ出た。
 本屋は一刻も早くその「い物」が見度みたさにあとからいて甲板に出た。船の前にはつまんで投げたやうな島が幾つか転がつてゐる。蘆花君は一寸後を振向いて見て、
「いゝ景色ですな。」
と言つたきり、大きな腕を胸の上でんだまゝ大跨おほまた其辺そこらを歩き廻つてゐたが、いつの間にか姿が見えなくなつた。
 本屋は慌ててまた船室へ帰つてみた。蘆花君は薄暗いへやの隅つこで、膝小節ひざこぶしを抱へ込んだ儘、こくりこくりと居睡ゐねむりをしてゐる。附近あたりには見窄みすぼらしい荷物が一つきりで、何処にもその「善い物」は見つからなかつた。
 船が門司に着かうとする時、本屋の主人あるじはそれとなくまた原稿の一件を切り出して見た。すると蘆花君は急に思ひ出したやうに、
「さうでしたつけな。いや、原稿も原稿だが、それよりももつとい物をあげませう。」
と、また同じ事を繰り返した。
「原稿より善い物つて何ですか。」
 本屋は直ぐ訊きかへした。
「信仰です。」
 蘆花君はトルストイのやうな口元をしてきつぱりと言つた。おとがひにトルストイのやうな※(「參+毛」、第3水準1-86-45)もじや/\した髯のないのが口惜しかつた。
「先づ神をお信じなさい、その外の事はみんな詰りません。」
 本屋の主人は眼を円くして蘆花君の顔を見た。そして鸚鵡返あうむがへしに、
「先づ原稿をお呉んなさい。その外の事はいづれ考へてからにしませう。」
と言ひたかつたが、相手を怒らせてもと、その儘別れて小蒸汽船に乗つた。


土をまろめて

9・21(夕)

 むかし支唐禅師ぜんじといふ坊さんが、行脚あんぎやをして出羽の国へ往つた。そして土地ところ禅寺ぜんでら逗留とうりうしてゐるうち、その寺の後方うしろに大きな椎の木の枯木かれきがあるのを発見めつけた。
 禅師は寺の住職に勧めて、その枯木を根から掘らせた。だん/\掘つてくうちに、椎の木のなかが深い洞穴うろになつてゐるのに気がいた。
 樵夫きこりをのが深く幹にひ込むやうになると、急にばた/\と音がして、洞穴うろのなかから何か飛び出した物がある。見るとつがひのふくろで、厭世哲学者のシヨオペンハウエルのやうな眼をして、じつと其辺そこら※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みまはしてゐたが、暫くすると背後うしろの藪のなかへ逃げ込んでしまつた。
やつこさん、巣をくつてたな、洞穴うろのなかへ。」
 こんな事を言ひ/\、樵夫きこりやつ枯木かれきり倒すと、なかから土でこさへたふくろの形をした物が、三つまでころころと転がり出した。よく見ると、その一つには毛が生えて、ちよつぴりつまむだやうなくちばしも伸びかゝつてゐたさうだ。
 禅師の説によると、ふくろは土をねて、それを暖めてひよにするものださうで、禅師は古人の歌やら伝説やらを引張り出してそれを証明した。そばで聴いてゐた人は禅師の物識ものしりに驚いたといふ事だ。
 ふくろが土をまるめてひよにするか、うかは真実疑はしいが、人間にはよくこんな真似をするのがある。官僚派が寄つてたかつて寺内伯を第二の山県やまがた公に仕立てようとするなぞがそれで、伯の尖つた頭からふくろのやうに毛がむくむく生え出して来たらお慰みである。


難船した人

9・22(夕)

 ある男が由緒ゆいちよのある古いお寺にまゐつた事があつた。そこには壁一面におびたゞしい金ぴかの額が懸つて、額のなかには各自てんでにぐつと気取つた人達の顔がいてあつた。
 参詣したその男は、案内の僧侶ばうずに訊いてみた。
「ちよつと伺ひますが、これは何をなすつた方々で御座いますか。」
「さればさ。」と僧侶ばうずは高慢さうな咳払せきばらひをした。「この方々はみんな海で難船した人達ぢやが、平素ふだん神様御信心の御利益ごりやくで、不思議にも生命拾いのちひろいをなすつたぢや、その御礼とあつて、こんなにして額をあげて御座るのぢや。」
 その男は、それを聞いて、も一度額の顔を見直した。成程誰も彼もが、神様のお力でもりなければ、陸の上でも難船しさうな顔をしてゐる。
「いや、よく解りました。ところで……」とその男は皮肉さうな眼つきをして僧侶ばうずの顔を見た。「平素ふだん神様を御信心致しながら、それでも難船して死んだ人の額は何処に懸つてりますな。」
 僧侶ばうさんは兎のやうに口をもぐ/\させたが何とも答へなかつた。実際答へやうは無かつたのだ。何故といつて、そんな人達の額を懸けるにはお寺の壁は余りに狭かつたから。


無心状

9・23(夕)

 著述家が書物を出版すると、見ず知らずの人からたんと手紙が来る。その多くは無代価ただで書物を貰はうとするけちてあひで「平素ふだんから貴君あなたを尊敬してゐる」とか、「御著作は欠かさず読んでゐるが、近頃手許が苦しくて買へないから」とか言つたやうな文句がよくある。
 なかには郵便切手を二三枚封じ込むで、郵税だけは此方こつち持ちにするから、書物だけ恵むで欲しいといふのがある。そんなのに出会でつくはした場合、大抵の著作家は郵便切手だけは預りつ放しにして、一切取合はない。
 かういふ虫のい事を言つてよこす手紙の宛名は十人が八人まで女名前になつてゐる。女といへば大抵の無理は通るものと思つてゐるらしいが、実際多くの著作家のなかには女名前の手紙には、喜んで返事を書くやうなあまたるてあひが居ないとも限らない。
 米国にアリス・ヘガン・ライス夫人といふ女流作者がある。この人が著作を公にすると毎度いつもうるさい程いろんな手紙が舞ひ込んで来る。
 ある時、テキサスの老軍人から来た手紙は「お前は幼い時別れた私の娘ぢやないか。」と、生みの娘扱ひに、ぞんざいな言葉で書いてあつた。また二人の男から同時に結婚の申込を封じ込むだ手紙を受取つた事があつた。
 シカゴの或るお婆さんは、「私はつんぼ加之おまけおしです。気の毒だとお思ひなら、貴女あなたの書物を一冊送つて呉れ」と申込んで来た。これには流石の女流作家も弱らされたが「私は聾や唖を好かないから。」と返事を出して、やつのがれた。
 可笑をかしかつたのは何処かの小娘のよこした無心状で、
「先生、あなたの直筆で書いた物を送つて下さい。何卒どうぞリチヤアド・デヰスさんや、マリイ・ヰルキンスさんの真似をして下さいますな。あの人達は私の切手を取つちまつてよ。」
と書いて、手紙の端にアラビヤ護謨ごむで滅多にめくれないやうに切手が貼つてあつた。言ふ迄もなくデヰスやヰルキンスは、切手を取りつ放しにした連中れんぢゆうである。


懸賞短篇小説

9・24(夕)

 最近米国のある雑誌の主催で「短篇小説競技会」といつたやうなものが催された。一体短篇小説はどの程度まで文字が切り詰められるものかといふ、言はば一種の悪戯いたづらから思ひ立たれたものだ。
 応募原稿は総て三万余通、世界の各方面から送つてよこされたもので、なかには仏蘭西の塹壕のなかで書いた物さへあつた。内容には色々な世相をうつしてゐるが、秀れたものは、矢張り恋愛と戦争を書いたものに多かつた。
 唯一の規定は「総語数一千五百以下たるべし」といふ一箇条で、これより長いものは取上げない。原稿料は無論払つたが、その払ひ方が随分奇抜で、書いた物には払はないで、書かなかつた物にだけ払ふといふ約束きめなのだ。
 といふのは、応募原稿が規定の千五百語より少かつた場合には、その少い語数だけ一語十セントの割合で原稿料を払ふのだ。だから、千五百語ぽつきりで書き上げた人は、どんな立派な短篇小説を書いたつて、びたもんも貰へない。もしかそれを千四百九十語で書き上げてゐたら、一ドルだけ貰ふ事が出来るし、たつた十語で済ます事が出来たら、百四十九弗貰ふといふ勘定だ。
 数多い応募原稿のうちで、一番長いのが千四百九十五語で、その作者は原稿料大枚たいまい五十仙を貰つた。一番短いのは七十六語で、その作家は雑誌社から百四十二弗四十仙を貰つて、にこ/\してゐたさうだ。
 もしか、こんな事が日本で出来たなら、多くの不仕合せな女は、自分が持合せてゐる離縁状を書留郵便で送つたがよからう。たつた三行半みくだりはんで、あれだけ意味の長い物語は、どんな小説家だつで書きやうがない。応募者は少くとも百四十二弗四十仙位は手に握れる勘定だ。それだけあつたら第二の男をこしらへる支度に不足はない筈だ。


正宗氏の油絵

9・25(夕)

 つい先頃島崎藤村氏と一緒に仏蘭西から帰つて来た正宗得三郎氏、あの人が洋行ぜん大阪で自作の展覧会を開いた時、ある文学者がそれを見にくと、正宗氏は多くのなかから一つの絵をゆびさして見せた。
「君にはこの絵がお気に入りませう、僕には何だかさう思へる。」
と言つて笑つてゐる。
 文学者はその絵を見た。こんもり繁つた雑木林のなかから、田舎家の白壁が見えて、夕日が明るくそれにあたつてゐて、いかにも気持のだ。文学者は平素ふだんからこんな画を一枚壁にかけて、その下で馬のやうに欠伸あくびでもしてゐたいと思つてゐたが、今多くの人の前で自分の選好えりごのみをひとに言ひ当てられてみると、何だかしやくに触つて一寸かぶりつてみたくなつた。
「さうですな、絵はなか/\よく出来てゐるが、好き嫌ひから言ふと余り好きません。それよか――」と文学者は盲滅法に隅にある一枚の絵をゆびさした。「あの方がずつと気に入りました。」
「あれが?」と正宗氏は腑に落ちなささうな顔をしてちらとその絵を見返つたが、「へえあれが気に入つた。ぢや、差し上げますから持つて帰つて下さる?」
 その一刹那せつな、文学者は失敗しまつたと思つた。それによく見ると、自分がゆびさした絵は絵柄から言つてもさきのとは比較くらべものにならぬ見劣りがしてゐるし、幅も思ひ切つて大きく、持つて帰つたところで、自分のうちにはそれを懸けるやうな場所すらない。
「いや、僕はひとから貰物もらひものをするのは、余り好かないから。」
と文学者は泣き出しさうな顔をして手を掉つたが、正宗氏はそんな事には頓着なく、大きな絵を壁から引き下して文学者の前に突きつけた。


成金気質かたぎ

9・26(夕)

 欧羅巴ヨーロツパ戦争は、交戦国に寡婦ごけさんをたんとこしらへたやうに、日本には成金をたんと生み出して呉れた。寡婦ごけさんと成金と、どちらも新生活の翹望者げうばうしやたる点において同じである。
 神戸に成金が一人ある。しこたま金が出来てみると、女房かないの顔と現在いま住家すみかとが何だか物足りなくて仕方がない。だが、女房かないの顔はうにも手の着けやうが無いので、住家すみかだけをあらたに拵へる事にめた。
 自分の財産から割り出して、建築費をざつと十二三万円とめて、ぼつ/\普請にかゝつたが、住家すみかが八九分がた出来上つた頃には、株の上景気で財産が二三倍がた太つてゐるのに気注きづいた。
「困つたな、ああして拵へはしたものの、今のおいらの身分では、あんな安つぽいうちには入れんからな。」
 かう言つて、成金は女房かないの方を振向いた。女房かないは有合せの顔で一寸笑つてみせた。
 成金は建ち上つたうちを、そのまゝ番頭に呉れてやつて、自分はまた現在の財産から割出して四十万近くの建築費を見込むで、素晴しいやしきを拵へにかかつた。が、間が悪い時には悪いもので、邸がまだ半分も出来上らない昨今、身代しんだいはまたバアクシヤアだねの豚のやうに留め度もなくふとり出して来た。
 成金は算盤そろばんはじいて泣き出しさうな顔になつた。
「厭になるよ。こんなに身代が肥つて来ちや、今度の邸が出来上つたからつて、おいらの身分として今更あんな土地ところにも引込ひつこめなからうしさ。」
と、ぶつ/\ぼやきながら、その男は今度の新建しんだちをも誰ぞ貰つて呉れ手は無からうかと、人の顔さへ見ると無理強むりしひに押しつけてゐるさうだ。
 何事も急ぐには及ばない。暫くするうちに貰ひ手は屹度きつと出来て来る。その折こそ成金が住み馴れた古家と古女房を初めて身分相応だつたと気のく時である。


南画と娘

9・27(夕)

 貫名海屋ぬきなかいをくの系統を伝へた谷口藹山あいざんが、まだ京都の下長者町しもちやうじやまちに居た頃、南画好きのある男が態々わざ/\大阪から訪ねて往つて弟子入りをした。
 藹山は娘と二人で其処そこに住んでゐたが、その日は娘に留守番でも言ひつかつたと見えて、皺くちやな藹山は、
「今日は誰も居ぬでの……」
と断つて薄茶一服立てようともしなかつた。その代り薄茶よりも水つぽい南画の講釈をくど/\と言つて聞かせた。
 南画を習はない先に、南画はとても習へないものだと知つたその男は、折を見て帰らうとすると、藹山は押へるやうな手つきをして引留めた。
「一寸待ちな。今娘が帰つて来たさかい、お引合せする。」
 その男は南画も好きだつたが、それ以上に女が好きであつた。南画にはまだ解らないところもたんとあつたが、女の事だけは何もも大抵知り抜いた積りでゐた。それだけに娘に引合せると聞いては帰る訳にもかなかつた、で、居ずまひを直したり、一寸襟に手をやつたりした。
 間もなく隔ての襖がいてお茶が運び出された。
「これがわしの娘や、不束者ふつつかもんでの……」
といふ藹山の言葉に、初めて気が附いたやうに、その男は鄭寧ていねいにお辞儀をした。そして顔を上げて相手を見た時吃驚びつくりした。
 娘さんは小皺の寄つたお婆さんなのだ。
 よくよく考へてみると、不思議でもない。その頃藹山はもう七十の上を越してゐたらしかつたから、五十ぢかい娘があつたところで、別段腹を立てる程の事でも無かつた。
 その男はお茶もろくに飲まないで、そこ/\に挨拶して帰つた。そして二度と藹山の門をくゞらうともしなかつた。


高田実

9・28(夕)

 ある劇場しばゐの楽屋で、松崎天民氏が亡くなつた高田実に訊いた事があつた。
「君達も今は劇は芸術だからつて、高くとまつてゐるが、芝居に足をむだ抑々そも/\は、まさか芸術家になつてみたいと思つた訳でも無かつたらう。」
といふと、高田は血色の悪い顔を一寸しやくつてみせて、
「さうですとも。僕が俳優やくしやになつた動機は、唯女に惚れて貰ひたかつたからです。その外の事は、みんな後から附けた理窟でさ。」
と言つて、乃木大将のやうな口をして「ははは」と声を出して笑つた。
「ところで、君は今自分のつてゐる芝居を真実ほんとうに芸術的だと思つてますか。」
そばにゐた男が訊くと、高田は赤禿のかづらをすつぽりとかぶつたばかしの頭を強くつた。
「何の/\。中途半端の贋物いかものばかりでさ。私も何日いつ迄もこんなでは詰らないから、自信のある物をもつてみたいとは思ひますが、何しろ一かねが入つたに連れて、生活くらしの程度を身分不相応に引揚げてるでせう。そのせゐで自然収入みいりがあるやうにと思つて見物にびる事になります。」と言つて、白粉刷毛おしろいばけで鼻先をぞんざいに塗りたくつた。「好きな茶器も、つい買ひ度くなりますね。」
 何でも噂によると、高田は一つ一万円もするにせ急須きふすを大事にしまひ込むでゐたさうだ。――贋の急須が買ひ度さに、贋の女の気に入りたさに、男といふものは、せつせと飛んだり跳ねたりする。あながち高田ばかりではない。キングスレエも言つたぢやないか――「稼がにやならぬ男の身」さ。


黒人くろんぼの犯罪

9・30(夕)

 イネズ・ミルホオランド・ボアス※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン女史といふと、米国の女権論者のちやき/\で、加之おまけに数へる程しか無い女流弁護士の一にんとして相応かなり名を売つてゐる女だ。
 この女弁護士と同じ建物のなかで、隣り合せに住んでゐる男が、ある時洋服を一着盗まれた。色々詮議の末が、門番の黒人くろんぼに嫌疑がかゝつて、黒人くろんぼは自分の部屋で朝食あさめしを食つてゐるところを押へられた。(忘れても用心しなければならないのは、すべての訪問客はうもんかくは大抵朝早く来るといふ事だ。)
 黒人くろんぼは女弁護士に手紙を出して、熱心に自分の弁護を頼んだ。黒人くろんぼを法廷で弁護するのは、黒人くろんぼを天国へ引張りあげるよか、ずつと愉快な事に相違ない。何故といつて、天国へ引揚げられた黒人くろんぼは、多時しば/\地獄へ落ちてゆくが、牢屋から出て来る黒人くろんぼは、また同じ弁護士の事務室に顔出しするにきまつてゐるから。
 女弁護士はその弁護を引請ひきうけて、法廷に立つた。そして色々の方面から熱心に喋舌しやべつたかひがあつて、黒人くろんぼうまく無罪になつた。
 黒人くろんぼはその翌日朝早く女弁護士の事務室に入つて来た。そして、
「先生昨日きのふは色々どうも有り難う御座いやした。」と白い歯を見せて追従ついしよう笑ひをした。「実際あの服はわつちがちよろまかしたに相違ありやせんが、先生の弁護を聞いてると、うやらわつちが盗んだつてえのも怪しくなつて来やした。事によつたら、わつちの仕事ぢや無かつたかも知れやせんぜ。」
 例の涜職とくしよく議員の公判記録を読んでみると、ある議員などは、自分で自分の附会こじつけた議論に感心して、洋服を盗んだ黒人くろんぼのやうに、涜職事件を、結局つまりは政事家らしい行動とでも思つてゐるらしく見られる。こんな人達は手で犯した罪よりも、ずつと大きな罪を頭の中で犯してゐる。


渓水の落款

10・1(夕)

 亡くなつた高田実は、道頓堀の劇場こやへ出る時には、いつも日本橋北詰きたづめにある定宿ぢやうやどへ泊つたものだ。その旅館はたごやは高田を始め、新旧俳優の多くが巣のやうにしてゐるが、松井須磨子なども、文芸協会の往時むかしから、いつも其家そこに泊つてゐる。
 ある時、須磨子が湯上りの身体からだに派手な沿衣ゆかた引掛ひつかけてとんとんと階段はしごだんあがつて自分の居間に入ると、ふと承塵なげしに懸つた額が目についた。従来これまでも幾度かこの部屋に泊り合はせてはゐたが、ついぞ目に着かなかつたものだ。さうかと言つて何も須磨子を責めるには及ばない。世の中には結婚後八年目に初めて女房かない笑窪ゑくぼ発見めつけたものがある。亭主が有卦うけつて従来これまで隠してゐた真実ほんとう年齢としを打明けると、女房かないも、
「まあ、さうなの。ぢや私も言つてしまふわ。私かう見えても真実ほんとう三十ちやうどなのよ。」
と、すつかり白状して初めて笑窪を見せたといふ事だ。つまり亭主は女房かない年齢としで笑窪を二つつた事になつた。
 須磨子が見つけた額には、気取つた筆で無意味な文字を二三字なぐがきにして、渓水と落款があつた。須磨子は、疳走かんばしつた声で「ちよいと先生」と呼んだ。すると隔ての襖が開いてセルのはかま穿いた先生がぬつと入つて来た。先生は言ふ迄もなく島村抱月氏である。
 須磨子は抱月氏の顔を見て、
「この額の渓水つてだれなの。」
と一寸あまえたやうな口を利いた。抱月氏は怠儀さうに額を見た。
「さあ、渓水といふと……金子堅太郎かな。確かあの人が渓水といつたやうに思ふ。」
と言つて胡散うさんさうな顔をした。
 丁度そこへ襖をけて入つて来た座員の一にんがそれを見て、
「この額ですか、こりや貴方、高田実ぢやありませんか。」
といふと、抱月氏は須磨子と目を見合せて、
「何だ、高田か。そんな物を吾々の部屋へは懸けて置かれないね。取外とりはづしたらいでせう。」
と詰らなささうな顔をしたが、それでも別に手を延ばしておろさうともしなかつた。なに、気に入らないものは目を上げて見なければいのだから。
 しかし金子堅太郎と高田実と何方どつちが人間らしい仕事をしたかといふ段になると、誰でもが高田の方へ団扇うちはをあげる。


神通力

1012(夕)

 近頃東京の文学者仲間に妙な神様が流行してゐる。神様といふのは、ある鉱山師の女房で、その女は何処かで掘出して来たらしい大黒さんを座敷にまつり、そこに引籠つて、ゐざりを立たせたり、一寸した頭痛持をなほしたりしてゐる。
 お弟子は随分あるが、世間に聞えてゐる人達には、生田長江いくたちやうかう、小山内薫、沼波瓊音ぬなみけいおん、栗原古城こじやう、山田耕作、岡田三郎助などいふ顔触かほぶれがある。なかにも沼波瓊音氏は家族を挙げて、その女神様をんなかみさまもと入浸いりびたりになつてゐる。
 千里眼問題このかた、かうした女の好きな福来友吉ふくらいともきち博士が、ある時沼波氏を訪ねると、主人は乗地のりぢになつて女神様のお蔭話を持ち出した。福来博士も夢中になつて膝を進めてゐると、急に夕立がざつと降り出して来た。
「困つたな。雨が降つて来た。僕は雨傘を用意して来なかつたが……」
と、福来博士は心配さうな顔をして空を見上げた。博士は心理学者だけに人間の事はよく注意してゐるが、お天道様てんとさま雨降あめふり雪降ゆきふりかで無ければ余り気には掛けてゐなかつた。
 その顔色を見て取つた沼波氏は、
「なに雨ですか。雨だつたらお帰途かへりまでには屹度きつと止めて上げませう。」
と平気な調子で言つた。博士は一寸返事に困つた。
「いや、雨傘が拝借出来たら……」
「雨傘は荷厄介ですから」と沼波氏は蠱術まじなひのやうに一寸自分の鼻をつまんでみせた。「いつそ雨を止めてしまひませう。」
 暫くして福来博士が帰る頃になると、果して夕立はからりとれ上つてゐた。博士はそれを見てすつかり沼波氏の神通力に驚いてしまつた。――霽れたのに何の不思議があらう。相手は気短きみじかの夕立で、博士はお尻の長い話し好きである。


豆猿

1013(夕)

 文展がまた開けた。入選した画家ゑかきの苦心談を読んでみると、大抵影に忠実な細君が居て、塩断しほだち茶断ちやだちをしたり、神様に百日の願を掛けたりしてゐる。女といふものはよく目端の利くもので、平素ふだんから良人をつとの腕前はちやんと見貫みぬいてゐるから、その力量ちから一つでとて背負しよひ切れないと見ると、直ぐ神様のとこへ駈けつける。
 日本の画家ゑかきがかうした目端の利く、忠実な女房をざらに持つてゐるのはまことに結構な事だが、支那では女の出来が日本ほど思はしくないので那地あちら画家ゑかき女房かないの他に今一つ豆猿を飼つてゐる。
 豆猿といふのは、ポケツトや掌面てのひらのなかにでもまるめ込んでしまはれさうな小さな猿で、支那でも湖南あたりにしか見受けられないやつこさんだ。
 この豆猿は大層木炭が好きで、おなかくと、直ぐ木炭を強請ねだつて食べる。だが、画家ゑかきといふものは、時々ちよい/\木炭をぜににも事を欠くもので、そんな時には猿はまつたやうに墨汁すみの使ひ残しをめる。
 何処の画家ゑかきでも墨汁すみの使ひ残しに難渋するもので、幾ら忠実だからと言つて、女房かないにそれを食べさす訳にもかないが、豆猿は好物だけに舌鼓したつゞみを打つてぺろりとそれを嘗め尽してしまふ。
 だが、豆猿の好きなのは使ひ残しの墨汁すみの事で、文展に落選した女画家をんなゑかきの涙までも嘗めて呉れるか、うかは請合うけあはれない。豆猿は余り水つぽい物は好かないさうだから。


結婚と奴隷

1015(夕)

 米国はヰスコンシンの上院議員ラ・フオレツト氏の愛嬢フオラ・ラ・フオレツト女史は彼国あちらでも新しい女として名高い人で、先年脚本作家のヂヨルヂ・ミツドルトン氏と結婚したが、結婚後も良人をつとの姓は名乗らないで、矢張里方さとかたの娘のまんまで押通してゐる。
 何故そんなにするのだと訊くと、女史は、「真理」や「婦人問題」を語るには勿体ないやうな美しい唇から、「何事も婦人の独立のためです。」
と、きつぱり返事をする。
 フオラ女史のお友達に、婦人運動に憂身をやつしてゐる或る貴婦人があつた。この婦人がある時、民主党議員クラウド・キチン氏の夫人を訪ねた事があつた。
 女同士ははやくからの知己ちかづきではあつたが、亭主のキチン氏と貴婦人とはまだ一度も会つた事が無かつた。
 丁度お天気のい日だつたので、キチン氏は薄汚い園芸服に破けた麦稈帽むぎわらぼうかぶつて、せつせと玄関前の花壇で働いてゐた。
 婦人は花壇の前で立停たちどまつた。すべての女は男が草掻くさかきをもつて、土塗つちまみれになつてゐるのを見るのが、好きで溜らぬものらしい。婦人は一寸鼻眼鏡に手をやつて訊いた。
「爺や、御精ごせいが出るね。お前こちらの奥様おくさんのお宅に長らく御奉公してるの。」
「さうですね。もう相応かなりになりますな。」
「こちらはお給金はいのかい。」
「いや、もうやつと食つてけるだけでさ、てんと詰りません。」
 園芸服のキチン氏は、せつせと土を穿ほじくりながら答へた。
 婦人は一あし前へ乗り出して、身をかゞめるやうにして、
「ぢや、うちへ来たらうだい、食べるだけの、お小遺こづかひも上げるよ。」
「有難う。」と麦稈帽は一寸お辞儀をした。「だが、一生涯こちらの奥様おくさんとここに御厄介になる約束をしてしまつたもんですからね。」
「え、一生涯! まあ可憫かはいさうに。」と婦人は小皺の寄つた顔をくしや/\させた。「そんな約束が何処にあるもんかね。まるで奴隷だわね。」
「さうかも知れませんね。」とキチン氏は土塗れの手をして立ち上つた。「だが、私共ではそれを結婚と申しますよ。奥さん。」


如来によらい失敗しくじり

1016(夕)

 文展の彫刻部に『瓢箪鯰へうたんなまづ』を出品した米原よねはら雲海氏は、この頃の眼も眠らないで、せつせと仁王さんを刻んでゐる。仁王さんはぢやう六のかなり大きい木像だ。
 信濃の善光寺から七八里ばかしの村に近郷切つての富豪かねもちがゐる。女房かないは世間並に一人あるが、醜婦すべたかせにんで、加之おまけに子供を生む事を知らないので、金は溜る一方であつたが、夫婦とも揃ひも揃つた吝嗇坊しわんばうで、寄附事といつたら鐚銭びたせん一つでも出し惜みをした。
 先頃村に火事が起きて、近所は丸焼に焼けてしまつたが、その富豪かねもちやしきのみは奇異ふしぎと無事に助かつた。富豪かねもちはこれも全く神仏のお影だ、何か御恩報じしなければなるまいが、それにしては何処の仏さんにめたものだらうかと一寸思案をした。
 幸ひ長野には善光寺がある。自分の村からは汽車でも通へるので、お影を授かるには一番便利だからと、富豪かねもちは善光寺へ仁王さんを寄附する事にした。
 善光寺の如来さんは、富豪かねもちの殊勝な心掛に感心して、何か心許こゝろばかりのお礼をしてらねばなるまいと思つた。さいはひ富豪かねもちには子供が無かつたので、如来さんは子供を一人授ける事にめられた。別に仏さんのおなかを痛める訳でも無いので、お礼にはこんな手頃なものは無かつた。
 富豪かねもち女房かみさんは程なく一人の子供を生み落した。その子の顔を見ると、富豪かねもちは急に仁王さんの寄附が惜しくなつて来た。仁王さんには大抵一万円もかゝる予算だつたから。富豪は取りあへず寄附の申込みを取消して来た。
 それを聞くと、善光寺の世話方せわかた吃驚びつくりしたが、一番魂消たまげたのは矢張やつぱり如来さんであつた。今更子供の取消とりけしも出来ないので、困つた事をしたものだと、可愛かあいらしい顔をしかめてゐたが、仕合しあわせ小才こさいの利いた男が、
「今更そんな事を言つては、出来た嬰児あかんぼにどんなばちが当るかも知れないから。」
と言つて、やつ富豪かねもちを説き伏せる事が出来た。
 二度ある事は三度あるで、又子供が出来でもすると、どんな事にならうかも知れないからと、米原氏はせつせと仁王さんを彫急ほりいそいでゐるのだ。


子福者こぶくしやの女

1017(夕)

 維也納ウヰンナのある医者の報告によると(医者といふものは色々な報告をする。吾々はその報告に依つてナポレオンが男色好きだつた事や、医者自身が余り人間の事に通じてゐないのを知る事が出来る)、ある墺太利オーストリーの婦人は四十五歳の間に三十回姙娠して三十六人の子供を生んだ。そのうち四回は双児ふたごを産み、一回は三を生んだといふ事だ。
 今市俄古シカゴに住んでゐる、米国アメリカ首歌妓プリマ・ドンナシユウマン・ハインク女史は、無論声楽家としても聞えてゐるが、それよりも子供のたんと有る音楽家として名が通つてゐる。
 ハインク女史が舞台へ立つて一寸愛嬌笑ひでもしてみせると、屹度きつと大向うから、
阿母おつかさん、しつかり頼みますぜ。」
といふ掛声がかゝる。成程乳房のだらりと垂れた工合から、下腹したばらのだらしなさ加減が、誰の眼にも子福者とは直ぐ判る。
 ある時若い画家ゑかきが女史を訪れて来て、肖像画をかせて呉れと頼んだ。「阿母おつかさん」はぷくぷくした自分のしたぱらあたりを眺めて、逡巡もぢ/\してゐると、若い画家ゑかきはにこ/\しながら一寸愛相あいさうをいつた。
「お気遣ひなさいますな、奥様。出来るだけ正直にやりますから。」
「いえ/\」と女史は笑ひ/\かぶりつた。「私何も正直にいて戴きたいんぢやありませんわ。どうぞ出来るだけ御贔屓振ごひいきぶりをお見せなすつてね。」
 画家ゑかきはこの一刹那せつな女史の顔中の皺が一緒くたになつてお辞儀をしてゐるやうに思つたといふ事だ。


性慾錯乱

1018(夕)

 人間に性慾の錯乱があるのは、誰でもがく知つてゐる事だが、鳥類にもそれがある。たゞ鳥類にそんな間違があるからといつて、余りやかましく言ひ立てる事だけはして貰ひたい。鳥は人間程道徳的でないから、事によると顔をあかめるかも知れない。
 ある学者の報告によると、その男の飼つてゐた一羽の孔雀くじやくは、どうかすると鶏小舎とりごやのなかへ忍び込んで、おめかしやの雄鶏をんどりあとをせつせと追ひ廻したさうだ。孔雀はその前の年に雌に死別れた男鰥をとこやもめだつたのに、雌鶏めんどりには一向見向きもしないで、鳥冠とさかあか雄鶏をすばかりをつけ廻してゐた。
 また或る鵞鳥がてうは、自分の雌を殺されて(雌が牧師の胃の腑に納まつたかうかは知らないが、牧師は気持よささうに鵞鳥の殺されるのを見てゐた)このかた、同じうちいぬに惚れだした。狗が外から帰つて来ると、嬉しさうに我鳴り立てるし、狗が日向ぼつこでもすると、自分もその前に蹲踞込しやがみこんで、太いくちばしで相手の鼻つ先をつゝき廻したりする。
 飼主が見かねて、雌を一羽当てがつたが、鵞鳥はそれに振向きもしないで、狗が迷惑さうな顔をするにも頓着とんぢやくなく、相変らずべたべたしてゐたさうだ。
 政党にもよく性慾の錯乱がある。政友会はその何よりもい例である。


お国自慢

1019(夕)

 米国の戦時通信記者として名高いゼエムス・バアンス氏が、今度の戦争の当初、白耳義ベルジユームにゐた折の事、ある日ブラツセルの市街まち※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)ぶらついてゐると、前方むかうから独逸の自動車が一りやう風を切つて飛んで来た。その一刹那バアンス氏の頭には、
やつこさん、てつきり独探どくたんだな。」
といふ考へが矢のやうにひらめいた。
 と、見ると、そのうしろから白耳義の自動車が一台、けもののやうにうなりを立てて追駆けて来るのが目についた。
「面白いぞ、どんな芸当をやるだらうな。」
 バアンス氏は胸をわく/\させながら、この自動車のけつくら見惚みとれてゐた。
 白耳義の自動車は、全速力を出してやつと追着いたと思ふと、獣が餌をつかまへる折のやうに、いきなり運転手台を、相手の尻つ骨に乗り揚げて、車台も前輪まへわも滅茶滅茶に押し潰してしまつた。
うまいぞ。とうとつつけた。」
とバアンス氏は直ぐ現場に駆けつけてみた。
 かすきず一つ負はなかつた白耳義の運転手は、にこにこもので其辺そこら群集ひとごみを見廻してゐたが、ふとバアンス氏の亜米利加式の顔が目につくと、いきなり帽子を脱いで頭の上でりまはした。
「いよう、亜米利加の先生……」と運転手は大きな声で我鳴り立てた。「今の芸当だね、あれを何処で習つたと思はつしやる。一年前紐育ニユーヨーク大通おほどほりで、せつせと辻自動車タキシき使つたお蔭でさ。」
「紐育の大通で習つたからだと言つてたよ。彼奴あいつめが……」
とバアンス氏は、それからといふもの、会ふ人ごとにお国自慢をしてにこ/\してゐる。アメリカ人といふ奴は、巾着切でも、人殺しでもい、これはアメリカから習つたのだとさへ言へば、自分の財布をられても、女房のしんの臓を引抜かれても平気でゐる。


女中の返事

1020(夕)

 上田敏博士が文科大学教授として初めて京都の土を踏んだ時、腹が空いてゐたので、停車場ていしやぢやう近くの或る旅館はたごやへ飛込んで、昼飯ひるめしき立てたことがあつた。
 女中がいそいそ持ち出して来た膳部を見ると鯛の塩焼だの、すゞきの洗ひだのがごたごた一しよに並べてあつた。博士は水つぽい吸物すひものすゝりながら、江戸つ子に附物つきものの、東京以外の土地は巴里パリーだらうが、天国だらうが、みんな田舎だと見下みくだしたやうな調子で、
「ほう、京都にも鯛や鱸があるんだね。一体何処から来る?」
と訊いてみた。
 女中は博士の好きな希臘ギリシヤ彫刻のやうな冷い顔をして、眉毛一つ動かさないで、
「須磨や明石のあたりから。」
と言つて、そのまゝじつとくちつぐんだ。
 博士はそのをり鯛の塩焼をつゝついてゐたが、吃驚びつくりして箸を持つた儘女中の顔を見た。女中は笑つたら所得税でも掛るやうに、両手を膝の上に重ねて、ちやんと済ましてゐる。
 博士はその折、女中が自分の膝側ひざわきに朱塗のやぐらのやうな物を置いてゐるのを見つけた。それを漬物台と知らうやうのない博士は一寸覗き込むやうにして、
ねえさん、その櫓みたいな物には、何が入つてるんだね。」
と訊いてみた。
 女中は矢張眼を伏せたまゝ、『千本桜』の若葉わかば内侍ないじのやうに上品に口をつぼめて、
「海の物やら山の物やら。」
と答へた。そしてその海の物や山の物を出し惜しみをするやうに、心持こゝろもち後ろへ引張つた。
 博士はトラムプの水兵ヂヤツクが『百人一首』のなかに紛れ込んだやうな、勝手違ひな変な顔をして、二度ともう口を利かうとしなかつた。そして昼飯ちうはんを済ますなり、直ぐ表へ飛び出して、逃げるやうに大学の構内へくるまを走らせた。大学は世間体せけんてい最高学府といふ事にはなつてゐるが、誰一人この女中程上品な口を利かなかつたし、それに揃ひも揃つてお喋舌しやべりが過ぎた。


牧師の杖

1021(夕)

 ある牧師がすつかり上機嫌でいつものやうに、ステツキ小腋こわきに抱へ込んで市街まちをぶらぶら散歩してゐると、ふとみちの片側に乞食が一人衝立つゝたつて、往来ゆききの人にお鳥目てうもくをねだつてゐるのが目についた。
 牧師は自分のすまつてゐる界隈に、乞食が迂路うろつかうなどとは夢にも思はなかつた。(何処の国でも宗教家といふものは、富豪ものもちのなかに住んで、「貧乏」を説くのが好きなものだ。)で、づか/\とそのそばに歩み寄つたと思ふと、いつもお寺でするやうに、額へ一寸手を当てがつて、
「神よ、この哀れなる者をお恵み下さい。」
と言つて、そのまゝ立ち去らうとした。
「ちよいと旦那様……」と乞食は牧師を呼びとめた。「御祈祷おいのりは有難うがしたが、神様はとてわしらがとこには御座らつしやるまいから、此方こつちから出向きますべい。近頃御無心な次第ぢやが、そのステツキをお貸し下さるまいかな。」
と乞食は垢塗あかまみれの手でそのステツキに触らうとした。
 牧師は慌ててステツキ引込ひつこめた。ステツキといふのは、さる富豪ものもち寡婦ごけさんが贈つて来たもので、匂ひの高い木に金金具きんかなぐが贅沢に打ちつけてあつた。牧師は死ぬる時は天国にまで持つてく積りで、この世では成るべくよごすまいとして、いつも小腋に抱へ込んで歩いてゐたものだ。
 牧師は叱るやうに言つた。
「基督も『せまき門よりれよ』と仰有つたぢやないか、お前達がこんなステツキなぞ持つてたら窄い門を入るのに邪魔にならあ。」
「へへへ……」と乞食は無気味な笑ひ方をした。「御心配さつしやりますな。その窄い門とやらに入ります前に、わしステツキを売る事を知つとりますな。」
 これは英吉利イギリスのある田舎町であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに見向みむきもしない。そしてステツキや聖書の代りに汽車の時間表をポケツトに入れてゐる。彼は神様よりも可愛かあい女房子にようばうこが、郊外の家に待つてゐるのを知つてゐる筈だから。


鵞鳥

1022(夕)

 ずつと以前まへ、丁度この頃のやうな秋日和に東京の近郊、雑司ざふし附近あたり※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)ぶらついてゐると、一人の洋画家が古ぼけた繻子張しゆすばり蝙蝠傘かうもりがさの下で、其辺そこらの野道をせつせと写生してゐた。
 そこには美しい灌木くわんぼくが二三本風に吹かれて立つてゐた。洋画家はそれをかうとして、幾度か刷毛はけを取り直してゐたが、うしても思ふやうにけないので、自暴やけを起したらしく、すつとち上つたと思ふと、いきなり駈け寄つて、手当り次第にその灌木をへし折つてしまつた。この洋画家は誰でもない、中村不折ふせつである。
 その不折がやかましく言ひ立てる王羲之わうぎしは、大層鵞鳥が好きだつた。その頃近所にばあさんが居て、鵞鳥を一羽飼つてゐた。美しく鳴くので王羲之はすつかりそれに惚れ込んでしまつて、姥さんの顔さへ見ると、
「どうだ、あの鵞鳥を売つて呉れないか、値段は幾らでも出すから。」
懸合かけあつてみるが、姥さんはなか/\うんと言はなかつた。
 ある時仲のいゝ友達が王羲之を訪ねて来て、いつものやうに鵞鳥の談話はなしをし出した。王羲之は、
「鵞鳥といへば、近所の姥さんが素晴しく立派なのを飼つてる。あとから見に出掛けよう。」
と言つて、態々わざ/\使つかひを立て、姥さんにその由を申込んで置いた。
 暫くつて出掛けてみると、姥さんは色々の御馳走を出して饗応もてなして呉れた。
「御馳走も結構だが、いつもの一件だね、那奴あいつを一寸見せて貰つた上で、ゆつくり戴きたいもんだね。」
と王羲之が言ふと、姥さんはもない顔でこんな事を答へた。
「あの鵞鳥の事を言はつしやりますのか。あれはおまへ折角のお越ぢやからと思つて、たつた今絞め殺して汁の身に入れときましたぢや。」


女の泣顔

1023(夕)

 アメリカのペンシルヴアニヤ州のクリヤフイルド市にヘンズレエといふ今歳ことしとつて十九になる妙齢としごろの娘がある。町内きつての縹緻きりやうよしなので、そんぢよ其辺そこら放蕩息子どうらくむすこがそれとなく言ひ寄るが、娘はてんで見向きもしなかつた。
 ところが、近頃米墨べいぼく両国の間に、行違ひがしきりに起きるので、米国政府は国境に向つてどん/\兵隊を送り出す。それを見たヘンズレエ嬢は、毎日朝つぱらから停車場ていしやぢやうに詰めて、兵士を載せた汽車がプラツトフオームに着くと、飛蝗ばつたのやうに飛んで往つて、汽車の窓につかまつたまゝ、誰彼の容捨なく接吻キツスをする。
 兵士達はみんな大喜びに喜んで雀のやうに口を鳴らしてゐる。何でも今日まで千名ばかしの兵士を喜ばせたさうで、意固地いこぢな牧師の細君かないなどはおつ魂消たまげてしまつて、
「まあ、飛んでもない。今に神様のお怒りで、鶏卵たまごとキヤベツの値が上るに違ひない。」
と言つてゐるが、ヘンズレエ嬢は済ました顔で、
「お国のめだと思へば接吻キツス位何でもない。」
洒蛙々々しやあ/\してゐる。
 林歌子や矢島楫子かぢこなどのお婆さんが棒頭ぼうがしらになつて、二百余名の婦人達が飛田とびた遊廓の取消請願をその筋に持出したのは近頃結構な事だ。――実際結構な事には相違ないが、あの人達がもつと若く、もつと美しかつたなら、一段と結構な事に相違なかつたらう。
「真理」や「道徳」は、今日まで長い間気の弱い男や、醜い女と道伴みちづれとなつたので懲々こり/″\してゐる。近頃は強い男と、美しい女と一緒でなければ滅多に尻を揚げようとはしない。
 婦人運動者にお勧めする。大抵の事は辛抱するが、うか善い事をする時に、泣き顔だけは見せないやうに願ひたい。


俳優の盗み

1024(夕)

 英国の名高い俳優なにがしがある時、倫敦ロンドンくすぼつた市街まちをぶら/\歩いてゐると、大きな紙包を抱へ込んで、ある雑貨屋から飛び出して来た男が、ふと俳優の顔を見るなり、急ににこ/\してその前にはだかつた。
「いよう久し振だな。」その男は言つた。「馬鹿に艶々つや/\した顔をしてるぢやないか、何を食つてるんだね、近頃は。」
 その俳優やくしやは名代の食道楽で、数ある珍味のなかで、とりわけ牛の脳味噌と女のしんの臓とが一番好きだつた。紙包を抱へた男が「何を食つてるね。」と訊いたのは、その実「どんな女が出来たかな」といふ積りであつたらしかつた。
「うむ、雛児ひよつこばかりつてるのさ。」と俳優やくしや可愛かあいらしい口元をして言つた。「君も知つてるだらうが、今度のしばゐに僕の持役は、そら泥的どろてきと来てるだらう。実を言ふと、僕はこのとしになつて、まだ泥棒をした事が無いんだから、うまく往けるやうにと思つて、毎日うち鶏小舎とりこやから雛児を盗んでは、それをれうつてるんだあね。」
「へえ、雛児を盗んでるつて毎日……」
と友達は大事さうに紙包を左の腋下わきしたに持ち替へながら、可笑をかしさうにかぶりを振つた。
「うむ、毎日つてるが、今日でもう卅も食つたかな。お蔭で顔もこんなに若くなり泥的もすつかり巧くなつたよ。」
俳優やくしやは自慢さうに、雛児を盗み出す自分の両手でもつて顔を撫でてみせた。
 中村鴈治郎が、北陽しんち芸妓げいこ喜代治と、だらしのない恋をしてゐるのは、鴈治郎自身のまへによると、いつ迄も色気を無くさないで、若くありたい為めの事らしい。
 成程聞いてみると、結構な訳だが、唯それだけの事なら、いつそ英吉利の俳優やくしやと同じやうに、自分とこの雛児を盗み出したが、一番手つ取早い。雛児の卅も取り出すうちには、顔も艶々つや/\しくなる上に、立派な芸さへ覚える事が出来る。


石碑と文展

1025(夕)

 むかし唐の欧陽詢おうやうじゆんが馬に乗つて、ある古駅こえきを通りかゝると、崩れかゝつたみちぱたに、苔のへばりついたふるい石碑が立つてゐるのが目についた。碑の文字は瞥見ちよつとみにも棄て難い味はひがあつた。
 丁度そこへ百姓が一人通りかゝつた。手には引いたばかしの大根をげてゐる。欧陽詢は「一寸……」と言つて呼びとめて訊いてみた。
「この碑はだれの書だね、お前知つては居なからうな。」
「知らねえと思ふ人間ふとに何故聞かつしやるだ。」と百姓は蟷螂かまきりのやうに※(「弗+色」、第3水準1-90-60)くれた顔をあげた。「これはあ、索靖さくせいといふえれえ方の書だつぺ。」
「ふむ、索靖か」
と、欧陽詢は百姓の方には見向きもしないで、馬をめたまゝ、じつと石碑の文字に見惚みとれてゐた。馬は幸福しあはせと文字の鑑定めきゝが出来なかつたので、そのにせつせと道つ端の草を食べてゐた。
 暫くすると、欧陽詢は気がいたやうに馬を促立せきたてた。馬は食べさしの草をくはへた儘ぽか/\と歩き出した。やつちやうも来たかと思ふと、欧陽詢はだしぬけに手綱を引張つて馬を後退あとかへらさうとする。馬はむらな主人の仕打を笑ふやうな顔をして、また後退りをした。
 欧陽詢は馬から飛び下りて、石碑の前に立つた。そして、
うまいな。」
と言ひ言ひ、小首をかしげた儘いつ迄も/\じつと文字に見惚みとれてゐたが、とうと草臥くたびれたかして、馬のせなから敷物を取り下してその上にべつたり尻をおろした。
 そしてその晩も、あくる晩も、また翌る晩もその石碑のもとに野宿をして、じつと石碑の文字に惚々ほれ/″\してゐるので、馬はとうと腹を立てて、其処そこらくさぱらにごろり横になつた。横になつたからと言つて、馬は猫や大学教授のやうに哲学なぞは考へない。馬は日本の実業家と同じやうに食ふ事と雌の事ばかり考へてゐる。
 欧陽詢が馬を起して、やつと石碑のとこを去つたのは、丁度四日目の朝だつたさうで、彼が索靖の文字にどんなに心をかされたかが、これでよく判る。
 文展には色々の大家名家が数知れず出品してゐるが、ある批評家は、あのなかをたつた四十五分で見歩く事が出来ると自慢してゐる。欧陽詢とい比べ物である。


名士と好物

1026(夕)

 露西亜の文豪プウシキンは自分が職業的詩人で無いのを見せるために、ひとと話す時には成るべく文学の事なぞは話さないで、馬だの、骨牌かるただの、料理だのの事ばかし話してゐたといふ事だ。
 その癖亜剌比亜アラビア馬とはんな馬をいふのか、一向区別みさかひがつかず、骨牌の切札とはどんなものか、それも知りもしなかつた。とりわけひどいのは料理で、仏蘭西式の本場の庖丁加減よりも、馬鈴薯じやがいも天麩羅てんぷらが好きで、何かといふとそればかりを頬張つた。
 名士の好物調べも一寸面白いものだが、こゝに少しばかり挙げると、頼山陽は餅、梁川やながは星巌は羊羹、佐藤一斎は蕎麦そば、大橋訥庵とつあんは鰻の蒲焼、鈴木重胤しげたね五目鮨ごもくすしが大好きであつた。
 菊池容斎は寺納豆てらなつとう、藤田東湖は訥庵と同じやうに鰻の蒲焼、森春濤しゆんとう蚕豆そらまめ生方鼎斎うぶかたていさいはとろゝ汁、椿椿山つばきちんざん猪肉やまくぢら、藤森弘庵は鼠のやうに生米なまごめかじるのが好きで好きで溜らぬらしかつた。
 ある西洋の学者の説によると、人間一生の間に食べるものは、七千二百九十一貫六百四十八もんめ食物しよくもつと六千六百四貫六百四十匁の飲料とが要るさうだ。女は男よりも比較的菓子が好きで、女一生の間に食べる菓子類は、ざつと見積つたところで四百十九貫三百二十八匁を下るまいとの事だ。
 女の名家がどんな物を好くかといふ事は、余り興味の無い事で、女は男のお世辞とお菓子とを等分に好くと思へば間違まちがひはない。だが、何方どちらも人によつて砂糖の加減をしなくてはなるまい。


おまへけるか」

1028(夕)

 むかし柴田是真ぜしんが鈴木南嶺の添書てんしよを持つて京都へ入つて来た。「笠につく蝶と一つに都入り」といふのは、その時の句ださうで、一向詰らないものだが、こんな句よりも京都に来て山陽や景樹かげきや豊彦やに会つたのは、彼の生涯にとつて忘れられない事柄だつた。
 是真はその折塩川文麟をも訪ねた。文麟は、
「折角の珍客ちんかくやさかい、一こんやりまほか。」
と、是真を木屋町きやまちの料理屋に案内した。
 料理屋の二階からは、紫ばんだ東山の夕景色が絵の様に見えた。灰色のもやの底に鴨川の水が白く流れてゐるのも捨て難いおもむきであつた。文麟はそれを指ざしながら言つた。
「どうどす。お江戸は将軍家のお膝下ひざもとやさうどすが、まさかこんない景色はたんとおすまい。」
 先刻さきがたから文麟の土地ところ自慢に虫の居所を悪くしてゐた是真は、それを聞くと、
「ほんまにたんとおへんな。」
調弄気味からかひぎみ京訛きやうなまりを一寸まねてみせて、
「だけどさ、京都にはこの景色がける画家ゑかきはたんと有るまいて。」
と、江戸ツ子一流の※(「くさかんむり/斂」、第4水準2-87-15)ゑぐい皮肉を投げつけたので、文麟は目を白黒させたといふ事だ。
 それは京都の景色の事。今大和の法隆寺村に隠棲してゐる北畠治房だん狂人染きちがひじみた眼の色から顎髯あごひげの長く胸元に垂れかゝつた恰好を、ある洋画家がひどめ立てておいて、
如何いかゞです、私に一つかせて下さいませんか。」
と頼んでみた。
 すると老人はじろりとその画家ゑかきの顔を見た。
「お前は油絵きだつたな。」
「さうです、油絵きです。」と画家ゑかきは無気味さうに答へた。
「五六年司馬江漢でも研究しろ。」と老人はわめくやうに言つた。「そしたらかせんとも限らん。」
 画家ゑかきはその声に吃驚びつくりして弾機細工ばねざいくのやうにお辞儀をしたが、その瞬間、この老人がそれ迄達者でゐるだらうかと思つて、また一つお辞儀をした。


中沢博士の

1030(夕)

 京都高等工芸の中沢岩太博士が洋画をくのは、世間によく聞えた事実で、博士自身は、
ひまな折、ちよい/\浅井黙語君に見て貰つたといふばかしで、てんでお話にもならんさ。」
と言つてはゐるが、真実ほんとうはいつぱし画家ゑかきの積りでゐるらしい。
 以前菊池大麓だいろく氏が文部大臣を勤めてゐた頃、ある宴会で誰かがこの話を持ち出した。すると、大麓氏は、「へえ、中沢君が油絵をく。」と言つて、不思議さうに卓子テーブル向側むかうがはにゐた中沢博士の顔を見た。「それは初耳だ、真実まつたくですか。」
 中沢博士は「ははは……」と言つて、あんぐり口をけて笑つたばかしで、別にくともかないとも判然はつきり返事をしなかつたが、腹のなかでは、
「大麓め、まだ俺の絵を見た事も無いと見えるな、迂濶だなあ。」
と位は思つてゐたらしかつた。
 大麓氏は大臣らしい物の言ひ方をしようと思つてぎさしの平野水ひらのすいを一杯ぐつと飲んだ。
「ぢや、是非一枚いて貰はう、中沢君の物なら、吾輩喜んで書斎にける。」
 大麓はかういつて、両手を胸の上でエツキスといふ字にんだ。根が数学者だけに文字の恰好もよかつた。
「有難う。」と言つて中沢氏は禿げた頭を一寸下げた。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて大麓さんも口をけて大臣のやうに作り声をして笑つた。
 その後奥田義人氏が文部大臣になつた時、ある所で中沢博士と顔が合ふと、奥田氏も大麓さんと同じやうに油絵を一枚呉れろと言ひ出した。(大臣などいふものは、誰でも同じ事をたり、言つたりするよか仕方がないのだ。)
 それを聞くと、中沢博士はまた「有難う。」と言つて頭を下げたが、以前に比べると、余り禿げ過ぎてゐるので、一寸手加減をした。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて、奥田氏はにや/\笑つてゐたが「だが君、それは値段のある物の事だらう。まさか君のいた絵が値段もあるまいぢやないか。」

「なんぼ悧巧でも、美術の鑑賞めきゝはまた別の物さ。」
 画家ゑかきはよくこんな事をいふが、中沢博士もそれからといふもの、奥田氏に対してこんな考へをつて居るかも知れない。博士も画家ゑかきの一人だから。


椅子

1031(夕)

 オルガ・サマロフ女史がある時音楽会を開いた。女史がいつも出演する折のやうに、その聴衆きゝては会場にぎつしり詰つて、身動きの出来ない程であつた。
 そこへ髪の毛の長い、お洒落な紳士が一人入つて来た。一体どこの芝居でも、どこの音楽会でもお洒落な男や女は大抵人が一杯詰まつた頃に、のつそり入つて来るものなので、彼等はかうして満場の視線を自分の身一つに集める事に、ぞく/\した嬉しさを感ずる。
 だが、その紳士は余り念入りに髪の毛に香水を振りかけてゐたせゐで、入つて来るのが二分がた遅過ぎた。何処を見渡しても椅子一ついてゐないので、紳士は少しどぎまぎした。
 もともと見え張りの男だけに椅子が無いなと気がくと、いきなりその晩の演奏者サマロフ女史のもとへ駈けつけた。
「どこも椅子が無くて閉口してゐる所なんです。貴女あなたのお口添で一つ捜して戴けないでせうか。」
 女流音楽家はじろりと相手の顔を見た。
「私の坐る席が一つ明いてます、何ならお使ひになつても苦しくありません。」
「有難う、何処で御座います。」
と紳士はぴよこ/\お辞儀をした。
「ピアノの前なんです。」
 女史はもないふりで言つた。紳士は吃驚びつくりして馬のやうな顔をした。


出雲いづもの墓

11・1(夕)

 大阪劇団の恩人として、優に大近松以上の手柄を興行上に残した竹田出雲の墓は、今日迄かいくれ判らなかつたのを、今度浄曲研究家木谷蓬吟きたにほうぎん氏の手で偶然ひよつくり発見せられた。
 それは生玉寺町いくたまてらまち青蓮しやうれん寺の墓地で、この寺は明治三年神仏混淆こんかうの時にお廃止になつた生玉東門とうもんの遍照院の後身である。
 出雲の法名は「文明院ぶんみやうゐん岑松立顕居士しんしようりつけんこじ」で、同寺保存の旧過去帳を見ると、宝暦六年十一月四日歿といふ事になつてゐる。従来これまでの記録に十月二十一日とあるのに比べると、十二三日生延びてゐた事になる。歴史や記録やは、時によると医者よりも手荒い療治をする事があるものだ。
 この墓地はかちには、出雲のほかに、その女房子にようばうこと、親父おやぢ近江あふみ、兄弟など六十幾人かの墓が並んでゐる。過去帳にも竹田氏一族五十余名の名前がちやんと書き残してあるのを思ふと、竹田一族が寛文以後七八十年の間ゆたかに生活を送つてゐた事がよく判る。出雲の父近江は竹田のからくり芝居の元祖で、自分が発明した砂からくり、水からくりの人形自動劇を竹田の芝居で打つて素晴しい成金となつたのは、その頃流行はやつた、
「大阪道頓堀竹田の芝居
ぜには安いが面白い。」
といふ俗謡でもよく推察し得られる。
 出雲は二男か三男からしく、相応かなり資本もとでを父からけられると、それでもつて竹本座のあやつり芝居を買取つて、座主、興行ぬし、兼作者として奮闘し、正面のゆかを横に、人形遣ひてすりを三人に改めたり、背景や変り道具を試みるといつた風に、色々と舞台むきの改革を施して、その多くは成功した。
 かういふ劇界の功労者の墓が、蓬吟氏の手で発見めつけられたのは喜ばしい事だ。今浪花なには座で『忠臣蔵』をつてゐる鴈治郎なども、おかる道行みちゆきのやうな濡事ぬれごとを実地ひまがあつたら一度青蓮寺に参詣まゐつたがよからう。


肥大婦ふとつちよ

11・2(夕)

 亜米利加のある田舎に居酒屋があつた。そこの女将おかみは娘のうちから出嫌ひの上に、店の仕事が忙しづくめなので、十年ばかりといふもの、滅多に戸口から外へ出なかつた。
 さうかうするうち、女将は多くの居酒屋の亭主にあるやうに、むくむくふとり出した。脂ぎつた顔が河馬ヒポポタマスのやうにだらしなくなりかけると、客足は現金なもので毎日のやうにさびれ出した。
 つい手許てもとが不如意なので、女将は租税を納めるのを怠つた。一体租税とか女房かないから頼まれた手紙とかいふものはよく忘れ勝なもので、そんな物を忘れたり、怠つたりした所で、一向掛構かけかまひの無ささうなものだが土地ところの収税吏は怖い顔をして催促に出掛けて来た。
 収税吏は痩せた男だつた。痩せてゐるだけに女将の脂ぎつた顔を見ると、つい胸が悪くなつて、悪口あくこうの二つ三つを投付けた。すると女将はいきなり大きな掌面てのひらでもつて収税吏のよこぱらを押へてぐつと締めつけた。羸弱ひよわな役人の腹は薄荷ペパミント酒の空壜あきびんのやうな恰好になつた。
 収税吏は女将の手許を潜りぬけて、空壜のやうに表へ転がり出したと思ふと、直ぐ巡査を連れて戻つて来た。暴行犯として女将を拘引しようといふのだ。
 巡査は女将の手首をつかまへて、表へ引張り出さうとはするが、肥つた女の体躯からだが入口に一杯になつてうにも仕方が無い。強ひて拘引しようとすれば、入口をこはさなければならぬ。巡査にそんな力は与へられてゐないので、二人は仕末しまつに困つて、ぶつ/\言ひながら引揚げたさうだ。


鈴木松年しようねん

11・3(夕)

 画家ゑかき田能村直入たのむらちよくにふは、晩年年齢としを取る事が大好きになつて、太陽暦で八十のとしを迎へてまだ二つきと経たぬうちに、旧暦のお正月が来ると、
「さあ、俺も八十一になつたぞ。」
と、すつかりその積りで、ひとに齢を問はれると、「確か八十一ぢやつたかな。」と答へたものだ。
 ひとがそれを真実ほんとうに受けると、直入はいゝ気になつて盆節季や、祇園祭といつたやうに、世間が酒や金勘定に夢中になつて、画家ゑかきの事なぞ、すつかり忘れてゐる頃に、また一つづつ年齢としを殖やしておく。たまにそれに気付いたらしい相手が、
「へい、八十八におなりやす? でも、昨年の春どしたか、八十三やさうに、お聞き申しましたが……」
胡散うさんさうな顔でもすると、直入は急に風邪でも引いたやうにくさめをして、
「齢をとると、月日が短かうての。」
と言ひ言ひしたものだ。
 鈴木松年氏はこの二三年来外へ出掛ける時には、いつも珠数じゆずを一つたもとの底へ投げ込んで置く事にめてゐる。だがたま清水きよみづへ参る時はあつてもそんな折には袂の珠数はすつかり忘れてしまつて、松年氏は観音様の前へ立つなり、持合せの両手を合せて、一寸お辞儀をする。その両手といふのは、従来これまで幾度か観音様を半殺しにした事があるので、仏様はそれが目につくと、急に生娘きむすめのやうに真青な顔になつて、平素ふだんのたしなみも何も忘れておしまひになる。
 ある人がそんなに使ひもしない珠数を何故袂に入れておくのだと訊くと、松年氏は、
「俺も御覧の通りとしが寄つたでの」と死神に立聴きでもされないやうに、急に声を低めて、「何時何処で死ぬかも知れんやらう、そんな折にひとが袂を触つてみて、松年さんは偉い、ちやんと死ぬる日を知つてはつて、袂に珠数を入れときやしたと言つて感心するやらう。」と言つたといふ事だ。
 ついでに松年氏に教へる。片つ方の袂には毎日一銭銅貨を一つ入れておく事だ。頓死でもしたらそのまゝ六道銭にもならうし、死ななかつたら代りに夕刊新聞を買ふ事が出来る。夕刊には画家ゑかきの知らない、色んな面白い世界が載つてゐる筈だ。


富岡鉄斎

11・5(夕)

 画家ゑかき仲間の達者人たつしやじんといはれた富岡鉄斎翁も近頃大分だいぶんほうけて来た。ずるい道具屋などはそれをい事にして、よく贋物にせものを持ち込んでは、うま箱書はこがきを取らうとする。先日こなひだもある男が一ぷくそんなのを抱へ込むで来た。
 鉄斎翁は眼鏡をとほして、うそ/\見てゐたが、
「よう出来でけとるな。このがまの顔が何とも言へんな。いつ頃の作やつたかなあ。」
とその男の顔を見た。絵は蟇仙人の図で、蟇が人間の顔をしてゐる代りに、人間は蟇のやうな顔をしてゐた。
「確か二十年ばかし前のやうに記憶しとりますが……」
 その男はかう言つて頭を一つ下げた。その頭は三月前の事も何一つ記憶してはゐなかつた。
「そや/\。確かさうやつたなあ。」と鉄斎翁は惚々ほれ/″\にせに見とれてゐた。「わしもあの頃は達者にいたもんや、とても今はこんな真似は出来上でけあがらんて。」
 かういつた風で、いつも偽物ぎぶつに箱書をしたり、薄茶でも一服饗応ふるまはれると、出先で直ぐ席画をいたりするので、家族連の心配は一とほりでない。新画の高い今時、そんな勿体もつたいない事があるものかと、鉄斎が外出そとでをする時には、途中が危いからと言つて、屹度きつと附人つきびとを一人当てがふ事にしてゐる。
 附人の役目は鉄斎翁に何も書かさないで、お喋舌しやべりさへさせて置けばよい事になつてゐる。鉄斎のやうな老人としよりだからといつて、時偶ときたま「真理」を喋舌しやべらない事もないが、今の世の中では口で言つた「真理」は、紙にいた雀一羽程の値段もしないので、鉄斎は手を懐中ふところに入れたまゝ安心していろんな事を喋舌しやべる事が出来る。
 家族といふものは、みんな親切なものさ。


小切手

11・6(夕)

 今芸術座の理事をしてゐる中村吉蔵きちざう氏は、ひとが大阪一流の芸妓げいこはと訊くと、急に莞爾こに/\して、
大和屋やまとや若久わかひささ。」
と答へる。
「ぢや、三流どこではどんなのが居るね。」
と訊くと、
「やつばり大和屋の若久かな。」
と云つて、にや/\してゐる。実の所を言ふと、中村氏が知つてゐるのは、数多い大阪の芸妓げいこを通じて、若久一人しか無いのだ。
 その中村氏が以前まだ早稲田の学生で居た頃、ある新聞の懸賞小説に当選して、大枚だいまい三百円かの賞金を貰ふ事になつた。
 その折新聞社の会計係が、三百円の小切手を渡すと、中村氏は大事に懐中ふところしまひ込んであつた右の手を出してそれを受取つた。受取るには受取つたが、三百円といへば一円紙幣で三百枚、五十銭銀貨で六百枚の事だとばかし思つてゐた中村氏は、
「随分嵩張かさばるだらうからな。」
と、下宿を出る時、手織木綿の風呂敷を用意までして来てゐたので、うすぺらな小切手を見ると変な顔をした。
「これは何ですか。」
 中村氏は駝鳥だてうのやうな長い首を会計課の窓にのぞけて言つた。
「それは三百円の懸賞金です。」
 会計係が窃々くす/\笑ひながら答へると、中村氏は腑に落ちなささうな顔をして、小切手を裏返してみたり、すかしてみたりしてゐたが、暫くすると、
うも困りますな、こんな物で戴いては。矢張一円紙幣か銀貨かで戴きませう、その方が都合ですから。」
と言つて、小切手を窓口から押し返した。
 会計係が解り易い日本語で、小切手の決して心配な物で無い事、銀行へ持つてけば何時いつでも好きな銀貨や銅貨に替へて呉れる事を説き聞かすと、中村氏は幾らか納得が往つたやうな素振そぶりで、地球でもくるまれさうな大風呂敷に、その小切手一枚を畳み込んで大事に持つて帰つたさうだ。
 だが、笑つてはけない。習ふよりは馴れろで、今では中村氏も芸術座の為めには手形を振出す事をすら知つてゐる。


お茶一杯

11・7(夕)

 茨城の北相馬郡桑原くははら村といふ土地ところ伝右衛門でんゑもんといふ爺さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公よりほかに偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山は無いと思つてゐるのが多いが、伝右衛門もその一人で、仕合せと文字もんじを知らなかつたから、烈公の方は絶念あきらめて、ひまさへあると筑波山へばかり登つてゐた。
 ある夏、草鞋作わらぢづくりにもいたので、ひよつくり思ひ立つてまた筑波山へ登つた。すると、にはかに空が曇つて雷がごろごろ鳴り出したと思ふと、夕立がざあつと降つて来た。伝右衛門は慌てて其辺そこら掛茶屋かけぢややに駈け込んで雨上あまあがりを待つ事にした。
 見ると、茶店の縁端えんばたには、誰にいだともないお茶が一つ置いてあつた。咽喉のどの渇いてゐた伝右衛門がそれを飲まうとすると、茶店のばあさんは慌てて止めた。
しにさつしやれ。お前には此方こつちのを上げますべい。それは雷様に上げてあるのだからの。」
 伝右街門が不思議な顔をして、雷様がお茶をあがるのかいと訊くと、
あがるともさ。」と媼さんは茶飲友達の噂でもするやうに「雷さまは、えらお茶が好きだあよ。」と言つた。
「へえ、そんなにお茶が好きなのかい。」と伝右衛門は感心したやうに首をつた。「そんなだつたらうちへ来れば浴びる程お茶を饗応ふるまつてやるのに。」
 それから五六日経つと、大雷おほかみなりが鳴つて雨がどしやぶりに降り出した。窒扶斯チブスの熱度表のやうな雷光いなづまがぴかりと光つたと思ふと、大隈侯のやうな顔をした雷さまがにこにこもので一人伝右衛門の家へ転げ落ちて来た。
 そして台所の附近まはりをうろ/\捜し廻つてゐたが、お茶が入れてないのを見ると、急にむつかしい顔をして薬鑵やくわんの湯を台所一杯にぶちけて引き揚げて往つた。
 伝右衛門は吃驚びつくりして尻餅をついたが、でもまあ、雷様でよかつた。それが大隈侯だつたら、代りに酒でも菓子でも出せといつてそのまゝ居据わつたかも知れない。


竹内栖鳳

1117(夕)

 文学者や画家ゑかきとこへは、何ぞと言つては書いた者を強請ねだりに来るてあひが少くない。とりわけそれに幾らかの市価があるといふ事になると、色々の手段てだてを尽して引出しに来る。
 この頃竹内栖鳳氏のがづば抜けて値が高いので、栖鳳氏のとこへは取り替へ引き替へ色々の事を言つて、無代たゞの画をかしに来る者が多いといふ事だ。先日こなひだもこんな事があつた。
 それは幸野楳嶺かうのばいれいふくを持合せて居る男が、一度手隙てすきにその画を鑑定して貰ひ度いと言つて来たから起きた事なので、はくをつけるといふ事は、滅多に人に会はない事だと思つてゐる栖鳳氏も、ほかならぬ師匠の画の事なので、不承不承に会う事にした。
 その男は楳嶺の画を抱へて入つて来た。画は尺八かなんかの大きさで、随分手の込んだ密画で、出来も決して悪い方では無かつた。
「これや立派なもんや。」と栖鳳氏は言つたが、いつもの癖で直ぐ有合せのお上手が言つて見たくなつた。「うちにも前方まへかたからこんな出来のが一幅欲しい欲しい思つてましたんやが、さて欲しいとなると、却々なか/\手に入りよらんでなあ。」
 その男は目の前の機会を取逃さなかつた。
「そんなにお気に召しましたか。」と覚えず膝を乗り出した。「そんなら物は御相談でございますが、実はこの幅は手前共の床の間にははゞつたくて困つてゐる所なんです。で、一つ何でも結構で御座いますから、先生の小幅せうふくと御交換が願へましたら……なに、ほんの一寸した小幅で結構でございますから。」
「成程な。」栖鳳氏はにやにや笑ひ出した。「交換いつた所で、手の込むだ師匠の密画と換へるのやさかい、私が粗末な略画をいたんぢや師匠に済まんし、いつそ換へるなら私もこの大きさでこの位の密画をかんならんが……」
「いや誠に有難うございます。」
と言つて、その男は蠅取蜘蛛のやうに畳の上に平べつたくなつた。畳の目は一度に皺くちやになつて笑ひ出した。
「そいぢや、おうちの床の間には、師匠のこの幅はかゝらんで、私のは懸る事になりますな、同じ大きさのふくでゐて。」と栖鳳氏は一寸窄口つぼぐちをして笑つた。「ところで、私がくにしても、この位の密画やと四五年は懸るさかい、このふくはまあ持つてんで、懸けて置いて下さい。」


拍子木

1118(夕)

 南画家富岡鉄斎老人の幼友達に、京都は新町丸太町辺に住んでゐる丸兵まるひやうといふ傘屋からかさやの爺さんがゐる。
 爺さんはいつも仕事場に坐ると、
わしが一日怠けでもしようもんなら、京の奴ら、悉皆みんなぐしよ濡れになるやらう。可哀かあいさうなもんや。」
独語ひとりごとを言ひ/\からかさを貼つてゐる。実際爺さんの心算つもりでは、からかさ貼りは一ぱし他助ひとだすけの仕事らしいが、それに少しの嘘も無い、何故といつて京都人は霊魂たましひよりも着物がずつと値段の張つてゐる事をよくわきまへてゐる人種だから。
 その爺さんのうちに秘蔵の拍子木がある。それには池大雅いけのたいがが例の達筆で、
「火の用心」
と書き残してゐるので、それが鉄斎老人の耳に入ると、(老人は名代の金聾かなつんぼだが、耳で聞えぬ事は目で読む事が出来る)いつもの癖で何とかして自分の手に入れたくなつて来た。
 鉄斎老人は久し振に傘屋からかさやを訪ねた。そして蛤御門はまぐりごもんいくさや、桃太郎の鬼が島征伐などの昔話をして、二人とも目頭に涙を浮べて喜んだ。話に油が乗つて来ると、鉄斎老人は例の大雅堂の拍子木の事を持出して、あれを譲つては呉れまいかと切り出した。
 傘屋かさかさやの爺さんは、たてからかさに油を塗るやうに、皺くちやな掌面てのひらで顔を撫でまはした。そして、
「よろしおす。傘屋からかさやにおした所で何の役にも立ちよらんが、貴方あんさんとこやと拍子木にも値打が出ますやろからな。」
と二つ返事で承知をして、拍子木を取り出して鉄斎老人の膝の上に置いた。
 老人は拍子木を貰つた礼に何を返したものだらうかと色々思案の末が、矢張仏手藷つくねいものやうな山水をいていつもの禿山の代りに精々せい/″\木立のこんもりした所を見せて送ることに決めた。――んといふ立派な考へであらう、どんなにどつさり立木をいた所で、木は有合せ物で、画家ゑかき懐中ふところ一つ痛めずに済む事なのだから。


鼠の貿易

1119(夕)

 御影みかげに住んでゐる男が、国元に相応かなり田畑でんばたを持つてゐるので、小作米の揚つたのを汽車で送らせて、御影の家でたくはへてゐるのがある。そんな田畑があるなら、それを売払つて、そのかねで白米を買つたなら、かりさうなものだが、その田畑は亡くなつた親父おやぢこしらへたものだけに、その男の自由にもなり兼ねるらしい。
 御影の家には米を貯へる倉が無い。御影にだつて倉の附いてゐるうちも無い事もないが、そんなうちは得て家賃が高い。で、その男は送つて来た米俵を、内庭に高く積み、その上へ大きな金網をかぶせて鼠除ねずみよけをしてゐる。
 ところが、この頃の夜長にふと気がいてみると、金網の中に何かぱり/\音をさせて米をかじつてゐる物がある。カーキ色の軍人が軍器を噛るやうな音だ。その男は蝋燭らふそくをつけて俵の下を覗いてみると、大きな鼠がうろ/\してゐる。
 その男は金網を調べてみたが、何処に一つこはれた所も無かつた。で、この鼠は以前子鼠であつた頃網の目をくゞつてちよく/\走り込んだものと判つた。
 だが、さる物識ものしりの説によると、基督が言つたやうに人は麺麭パンのみで生きるものでないと同じく、鼠も米のみで生きる事は出来ない。人間に宗教が要るやうに、鼠には水気みづけのある菜つ葉が必要だ。
 その菜つ葉を鼠がうしてたかといふと、それは朋輩の力を借りて、台所の隅から持つて来て貰ふほかには仕方が無かつた。彼等は長い間金網の内と外で米と菜つ葉とを交換してゐたのだ。ちやうど神戸の貿易商が絹とお茶とを積み出して、代りに毒薬と護謨細工ごむざいくの人形とを持つて帰るやうに……。


狂人きちがひ

1120(夕)

 アメリカにオテイス・スキンナアといふ聞えた俳優やくしやが居る。浪漫的ロマンチツクな芸風で、倫敦ロンドン巴里パリー伯林ベルリンなどで興行した時も、相応かなりな評判を取つたものだ。
 この俳優がある時紐育ニユーヨークの舞台へ出るために、夫人と一緒に、その頃すまつてゐたフイラデルヒヤから紐育行きの汽車に乗り込んだものだ。
 スキンナアは汽車中の二時間ばかしで、今度の持役の台詞せりふを、すつかり記憶おぼえ込む積りで、外套の大きな隠しから台詞書せりふがきを引張り出した。そして低声こごゑでそれを暗誦あんしようし出した。時々顔をしかめたり、鼻先で掌面てのひらをぱつとけたりして。
 夫人はいつもの事なので良人をつとの方には見向きもしないで、せつせとくつしたを編むでゐた。女といふものは韈を編む時には、
「ほんとに私は親切者だわ、一寸の暇も無駄にしないで、こんなにしてうちの人のを編んでるんだもの。」と思ひ/\、針を運ぶものだが、ついその「親切」を見せびらかす積りで、韈の丈を余り長くするので、良人は永久に足の裏が韈の底に届かぬやうな事になる。
 夫人があみさしの韈を膝の上に引伸ばしてじつと良人の足と見比べてゐると、後から右肩をちよい/\つゝくものがある。振り向いてみると髪の毛の縮れた五十婆さんで、手には十五六の小娘の読みさうな恋愛小説を持つてゐる。
 婆さんは夫人に耳打をした。「お気の毒さまですね。あたしすつかり身につまされちまつた。と言ふのはね……」と小説本を大事さうに畳みながら、「うちの人もちやうど御主人と同じやうな病気でね。」
 スキンナアは狂人きちがひと見違へられたのだ。だが、怒るにも及ぶまい、すべての女は自分の亭主以外の男子をとこは大抵狂人きちがひか馬鹿だと思つてゐるのだから。


仏語通ふつごつう

1122(夕)

 露西亜の若い、ハイカラ紳士が気取つた身振で巴里パリーの料理屋に入つた。別段おなかが空いてもゐなかつたが、滑らかな仏蘭西語で献立を註文するのが嬉しくてならなかつたのだ。
 紳士がやゝ反身そりみになつて卓子テーブルの前の椅子に腰をおろすと、鵞鳥のやうに白いうはぱりを着た給仕人がやつて来て註文を聞いた。紳士は一寸その方へ顎をしやくつて、Uneユヌ portionポルシヨン de bifteckビフテク aux pommeオーパム de terreテル馬鈴薯じやがいもつきのビフテキ)と一皿いひつけて、「うだ、うまからう」といつたやうに四辺あたりを見廻した。
 すると、丁度帳場にかゝつた古時計が悲しさうに午後三時を打つた。紳士はそれを自分を褒めて呉れたもののやうに思つて、態々わざ/\懐中時計を引張り出して、今正規の時間に合はしたばかりの針をまた古時計の通りに引直ひきなほした。古時計は年を取つて気短きみじかになつてゐたので卅分ばかり進んでゐた。
 直ぐ隣りの卓子テーブルにまた一人お客が入つて来た。指先で軽く給仕人を呼んでGar※(セディラ付きC小文字)onガルソン bifteckビフテク pommeパム(ちよいと、じやがテキをね。)と言つて、どかりと椅子に腰をおろした。何処から見ても五すきもない巴里パリーツ子である。
「隣の奴め馬鈴薯じやがテキと言つたな。」と思ふと、ハイカラ紳士は顔から火が出るやうにはづかしくなつた。「Bifteckビフテク pommeパム ――それに比べると、俺の仏蘭西語はまるで鼠のやうに長いやしてら。」
 紳士は泣き出しさうな眼付きして古時計を見た。古時計はナポレオン三世のやうな気忙きぜはしさうな顔をして、露西亜人などには頓着とんぢやくなく息をはづませてゐる。紳士はいつになく露西亜が恋しくなつて来た。
 だが、その露西亜へ帰つて来ると、紳士は何処の料理屋へ往つても、巴里へでも聞えさうな大きな声で、「Bifteck pomme」とあつらへる事にめてしまつたさうだ。
 囃子方はやしかたの六がふ新三郎は西洋料理屋に入つて、ライスカレーの註文をするのに、
「おい、辛子のおじやを持つて来い。」
と言つたといふ事だ。新三郎が仏蘭西語で註文しなかつたのは無理もないが、「辛子のおじや」は聞いて呆れる。恥ぢよと言つた所で、恥ぢもすまいから困る。


女の秘密

1123(夕)

 ある美顔術師が千里眼問題で名を売つた福来友吉ふくらいともきち博士を訪問した事があつた。すると盛装した夫人がひよつくり応接室へ顔を出して、これから或る婦人会へ出掛けるといふ挨拶なので、美顔術師は、
「ぢや、一寸お待ちなさい、こゝでお化粧して上げますから。」
と言つてひきとめた。
 美顔術師は掌面てのひらでパラピンのやうに夫人の顔をもじやくつてゐたが、暫くすると、見違へる程美しくなつた。そこへ入つて来た福来博士は吃驚びつくりして艶々つや/\した夫人の顔を見てゐたが、やつとそれが自分の最愛の妻だと判ると、実験心理学でごちや/\になつた頭を鄭寧ていねいに下げてお辞儀を一つした。
 先刻さつきから夫人のおつれが玄関で待つてゐる由を聞いた美顔術師は、何もついでだからその人の顔をも一緒にもじやくつてやらうかと云ひ出した。すると博士夫人は生みたての卵のやうな顔を一寸しかめた。
して置いて下さいな。そんなにて戴くと、折角の私の顔が晴れなくなつちまふわ。」
と、たつだてをしたといふ事だ。
 美顔術師の所へ通う多くの婦人連は、途中でその美顔術師に遭つても、ぽうを向いて成るべく素知らぬ顔をする。そしてあとから直ぐ訪れて来て、
「お宅に通ふのが知れると、直ぐなんのと言ひ触らされるんですからね。」
とお詫をする。
 だから美顔術師となるものの第一の心得は、途中で自分のお得意に出会つても、成るべく素知らぬ顔をする事だ。――一寸内証ないしようで言つておくが、これは亭主にとつても同じ事で、女房に好かれようと思つたら、途中で自分の連合つれあひに出会つても、成るべくぽうを向いてゐる事だ。女といふものは、亭主持で居ながら、外へ出ると処女きむすめ独身者ひとりものからしい顔をしたがるものなのだ。


茶匙ちやさじ

1125(夕)

 住友の鈴木馬左也まさや氏が中学時代にひどく世話になつた教師がある。その後教師は職に離れて色んな事に手を出してみるが、多くは失敗続きなので、馬左也氏はそれが気の毒さに泣き付かれるまゝに二度ばかり千円程出した。
 教師はそれを持つて、何かまた事業しごと目論もくろんだらしかつたが、それも結果が悪かつたかして、また馬左也氏の応接間へひよつくり出て来た。そして閾際しきゐぎはに立つて鄭寧ていねい胡麻白頭ごまじろあたまを下げてお辞儀をした。
 物が欲しくて来たものは、閾際でお辞儀をする。喧嘩がしたくて来たものは、卓子テーブルつかまつてお辞儀をするものだと知つてゐる馬左也氏は、直ぐ老教師の用事を見貫みぬいて苦い顔をした。
「貴方にも困りますな。さう繁々しげ/\いでになつては。無論私は以前御厄介にもなつた事があるし、今は幾らか金銭かねの融通もつく身分ですから、出来るだけはお尽ししたいが……」
と言つて氏は机の抽斗ひきだしから紙入を取出した。そしてその中の幾枚かを紙に包んで、老教師の前に出した。
「今日はこれでお帰りが願ひ度い。そして今後これからは私の事は一切お忘れになるやうに。」
 老教師はその紙包を戴いて※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな事があつても、馬左也氏の名前だけは忘れまいと胡麻白ごましろの頭を幾度か下げて引下ひきさがつた。
 それから一週間程経つて、馬左也氏はある骨董物の売立会うりたてくわいで、茶匙を一本二千円で買つた。茶匙がそんな値打のあるものかうか、馬左也氏はよく知らなかつたが、道具屋がさう言つたから、それに違ひあるまいと思つた。
 馬左也氏は二千円を払つて茶匙を受取つた時、覚えずはつと思つた。(馬左也氏はちよい/\参禅をするが、禅に入つた人はよくはつと思ふものなのだ。)
「自分は先日こなひだ以前の教師が困つてゐるのを見ながら、つい金銭かね出惜だしをしみをした。それが今二千円もはづんで茶匙一本を買ふなんて、何て矛盾した事だらう。」
と気がいてみると、うしてもその茶匙をひねくる気になれなくなつた。
 で、そのは「良心」が吃驚びつくりするとけないからと言つて、茶匙は道具箱にしまひ込んで滅多に見ない事に決めてゐる。茶人馬左也氏に教へる。もつとい「良心」の保護法は、その茶匙をその儘老教師に呉れてやる事だ。すると、恩人に物を恵んだといふ満足のほかにその匙が真実ほんとうは十円の値段がなかつたといふ事を知る事が出来る。


飛行機

1126(夕)

 近頃市電の運転車輛がひどく少いので、何処の停留場にも、乗客のりてが一杯たかつて、険しい眼を光らせながら、
「もう小一時間も立たせやがる。これだけのひまがあつたら地獄へでも用達ようたしけら。」
「電鉄の杉山め、車輛を処女きむすめのやうにいたはつてるから可笑をかしい。」
と、口々にぼやいてゐる。
 その杉山清次郎氏が、電鉄部長といふ職掌柄から、市電の操車振さうしやぶりを見ようとして時々電車で市内を乗り廻す事がある。すると辻々に立つてゐる監督がそれを発見めつけるが早いか監督詰所に駆け込むで、その電車が通つて途々みち/\の箱番へ直ぐ電話をかける。
「おい、君は本町ほんまち交叉点かい。今飛行機が君の方へ飛んだから用心するんだぞ。」
 電話を受取つた監督詰所では、居睡ゐねむりをめ、笑ひ話を切り上げて、見合でもしさうな顔をしてきちんと取済ましてゐる。すると、杉山氏は電車の窓から色の黒い顔を覗けてみて、
「俺が口喧くちやかましく言ふもんだから、みんなあの通りに一生懸命につてら。」
と「小細工」やら「電気の知識」やら混雑ごちや/\に入つた頭を撫でて喜んでゐる。
「何故飛行機なんて綽名あだながついたんだね。」
と監督の一人に訊いてみると、
「何だつて貴方あなた、しよつちゆう羽を拡げてぶう/\うなり散らしてるんですもの、加之おまけに目方が軽くつてね……」


三人画家

1127(夕)

 先年横山大観、寺崎広業てらさきくわうげふ、山岡米華べいくわの諸氏が連立つれだつて支那観光に出掛けるみちすがら神戸へ立寄ると、土地ところ富豪連かねもちれんつてたかつて三人を招待せうだいした。
 一体富豪かねもちひと招待せうだいするのは、何か見せつけ度いとか、何か強請ねだり度いとかいふ時に限る事で、もしかお客が一かう物に感心しなかつたり、何一つ持合もちあはせの無い男だつたら、富豪かねもちといふものは二度ともうそんな人を招侍せうだいしようとはしない。
 神戸の富豪かねもちもちやんとさういふ型にはまつてゐたから、宴会半ばになると、そろ/\画絹ゑきぬを引張り出して三人の画家ゑかきの前に拡げ出した。
「何か一寸したもので結構です、のちの記念になる事ですから。」
 かういつて、缶詰のなかへ石を入れる事を忘れない頭を鄭寧ていねいに下げた。
 それを見た大観は急にべ酔つたやうな顔をし出した。蹣跚よろよろと立ち上つて、
「何か一つけませうかな。」
と、だらしなく画絹の前に坐ると変な手附てつき馬鈴薯じやがいものやうなものをさつなすくつた。そしてとろんこの眼でじつと見てゐたが「此奴こいつかん。」と言つて、画絹をさつと放り出した。
 で、今度はまた新しい画絹の上に、蝌蚪おたまじやくしのやうなものをきかけたが、「駄目だ、駄目だ。」とぼやいてまた其辺そこらへおつり出した。
 すると最前からそれを見て居た富豪連かねもちれんは、いつの間にか各自てんでにそつと画絹を抱へ込んでげ出した。そして言ひ合はせたやうに米華の前にたかつて来た。
「山岡さんはいつ見てもお若いですな。――どうぞおついでに一寸……」
 米華は山のやうな画絹を前に、汗みづくになつて滝をき、山をき、鶴をき、亀をき、洋妾らしやめんのやうな観音様をき、神戸市長のやうな馬をきしてゐるうちに、到頭めまひがして自分にも判らぬやうな変な物をき出した。
うまいぞ……」
 だしぬけに後で大きな声でわめく者があるので、皆が吃驚びつくりして振りかへると、両手を懐中ふところに大観が欠伸あくびをしい/\衝立つゝたつてゐた。
 なに、広業が居ないつて。――そんな筈はない。敏捷すばしこい広業は画絹が取出されたのを見ると、いつの間にかかはやに滑り込んで、そのまゝそこで居睡ゐねむりをしてゐたのだ。


馬越まごし恭平

1128(夕)

 先日こなひだ藤田家の茶会に、故人香雪軒かうせつけんの遺愛品として陳列せられてゐた漢田村文琳かんたむらぶんりん茶入ちやいれについては面白い話がある。
 あれは以前なにがしの売立会で、馬越恭平氏の手に入りかゝつたのを、横つちよから飛び出した藤田伝三郎氏が、一目見るなり欲しくて欲しくて溜らず、
たつての頼みだ、是非譲つて欲しい。」
と、きつい所望に、馬越氏も止むを得ず譲る事にしたものだ。
 馬越氏の腹では、
「藤田があんなに欲しがつた茶入だ。千円も贈つて来るかな。」
と、その千円が手につたら、腹癒はらいせに一つ思ひ切つて洒落しやれた茶会でも開いてやらうと、心待こゝろまちにしてゐると、其処そこへ届いたのは藤田氏からの一封で、けて見ると六千円の小切手が一枚無雑作に包んであつた。
 馬越氏が最初の心積りだと、それだけ有つたら洒落た茶会の六七度は出来る筈だつたが、馬越氏は茶会の代りに一度にやつと笑つて、それで済ましてしまつた。そしてこんな場合、笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと、つく/″\感心をした。
 さういふ履歴附の文琳の茶入が陳列されるといふので、廿一日の茶会には東京から名高い五人組の茶人がくだつて来た。五人組といふのは、益田孝、朝吹英二、加藤正義、野崎広太、高橋義雄といふ顔触かほぶれ
 五人はその茶入の前に来ると、一斉に眼を光らせた。成程結構な茶入だ、滅多にられない名器だなと思ふと、五人の頭に言ひ合はせたやうに馬越氏の事が浮んで来た。
「馬越は何処に居るだらう。惜しい物を手離したもんだな。」
「確か大連たいれんに旅行してる筈だ、電報をやらうか。」
「よからう。皆で一緒に笑つてやれ。」
といふので、その場で直ぐに電報が打たれた。
 大連の旅館はたごやで馬越氏は五人名前の電報を受取つた。
「タムラブンリンミタ バカヤロウ」
 幾度読み返してみても同じ事なので、馬越氏はお婆さんのやうな顔をゆがめてにやつと笑つた。そしてこんな場合笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと熟々つく/″\また感心をした。


黄金仏

1129(夕)

 京大文科の教授某氏のうちに、昔時むかしから持伝へた封印つきの仏様がある。何でも純金むくきんで出来上つたものださうで、封を解くと眼が潰れるかも知れないといふ言伝へになつてゐた。
 教授某氏は、物心のつく時分から、一度けてみたくて仕方がなかつたが、その都度信心深い阿母おつかさんに止められて残り惜しさうに思ひとまつてゐた。
 すると、近頃阿母おつかさんが亡くなつたので、教授は一七回向ゑかうを済ますと、直ぐ封を解きにかゝつた。大学教授といふものはすべて「真理」を窮めるために生きてゐるものだが、某氏がづしけにかゝつたのは、何も研究の為めでは無かつた。実をいふと、それを売つてまとまつた金が握りたかつたのだ。仏様はまじりつなしの純金むくきんだと聞いてゐたから。
 教授はおそる/\づしを開けにかゝつた。定めし黄金きんまぶしい光でもす事だらうと、心持眼を細くしてゐると、なかから転げ出したのは鼠のやうな真黒な仏さんだつた。
 教授は慌ててそれを取り上げた。そして眼を一杯にけてじろ/\見廻したが、何処に一つ純金むくきんらしい光は無かつたし、それに持重もちおもりが少しも無かつた。
をかしいな。こんな筈ぢや無かつたつけが……」
と、教授は腑抜ふぬけのした顔でそれをもじやつてゐるうち、ふと仏様の笑顔が家主の因業爺いんごふぢいのやうに見え出した。
「糞ツ、勝手にしろ。」
と教授はふくれつつらをしてゆかにそれを投げつけた。仏様は将棋の桂馬のやうな足音をさせて、其辺そこらを飛び廻つた。
 その瞬間教授の頭にきのこのやうにむくりと持上つたものがある。理髪床かみゆひどこ親仁おやぢが好く地口ぢくちといふものだ。
「俺はキンの像が欲しかつたのだ。そして飛び出したのは御覧の通り(木)の仏様だ。つまり俺には(運)が無いんだな。」
 かういつて教授は泣き出しさうな顔をして笑つた。まづい洒落だが、それでも納得出来れば無いよりはましだ。丁度田舎者の腹痛はらいた買薬かひぐすりで間に合ふやうなものだから。


疳癪玉かんしやくだま

1130(夕)

 故人井上かをる侯が素晴しい癇癪持だつた事は名高い事実だ。故人は自分でもよくそれをわきまへてゐて、自分の都合の悪い時には、滅多に癇癪を起さなかつたからなほ始末に困つた。
 数多い故人の昵懇ちかづきのなかで、鴻池こうのいけH氏のみは、よく侯爵に対する手心を知つてゐて、滅多に疳癪玉をはじけさせなかつた。もし井上侯を猛獣にたとへるなら、H氏は差し詰め手練しゆれんな猛獣使ひといふ事になる。猛獣使ひが余り名誉な職業しごとで無いと同じやうに、井上侯を手管てくだに取るのも、大して立派な事業しごとでは無かつた。
 H氏が東上して井上侯を訪問する場合には、いつも鴻池の埃臭い土蔵から一つ二つ目星めぼし骨董物こつとうものを持参する事を忘れなかつた。
「ええ、御前、これは光悦の赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)あかちやわんで御座いますが、形が俵形で面白いと存じましたから、一寸お目に懸けます。」
「なに光悦の赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ぢやと。」
 侯爵は嬉しさうににこ/\して「ほゝう、これは又面白い出来ぢやの、成程俵形で……」と皺くちやな掌面てのひらひねくり廻して悦に入つてゐる。こんな時には、よしんば鼻先をつままれたつて侯爵は決して腹を立てない。赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)つこい物で、腹を立てるとれるといふ事を知つてゐるから。
 かういふ理由わけで、H氏が上京する報知が来ると、井上侯はいつも迎へ車を停車場ていしやばまでよこす事を忘れなかつた。もしかH氏が乳母車で乗りつけ度いと言ひ出したら、侯爵は態々わざ/\乳母車を停車場ていしやばまで廻したかも知れない。
 だが、井上侯が亡くなると、H氏は長い目録を侯爵家に持出した。そして、
「これだけの品はかねて老侯にお目に懸けて置きましたから、お調べの上お返し下さいますやうに。」
といふ挨拶なのだ。
 もしか老侯が地獄で(井上侯が地獄に入つてないと誰が言ふ事が出来る)この事を聞いたなら、持前の疳癪玉を破裂させて、一度婆婆しやばへ帰るとでも言ひ出すかも知れないが、まあ安心するがい、地獄には乗りつけの乳母車は往つてゐない筈だから。――乳母車が死んだらそのまゝ天国へく事が出来る。


抱月氏

12・1(夕)

 島村抱月氏はよく欠伸あくびをするので友達仲間に聞えた男だ。会つて談話はなしをしてゐると、物の二分間も経たないうちにいぬのやうにあんぐり口をいて大きな欠伸をする。まるで霊魂たましひでも吐出はきだしさうな欠伸だ。
 五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事だから、羅甸ラテンまじりで詩人ホラチウスの話でもしたに相違ないと思ふ人があるかも知れないが、実際は二人とも調子の低い日本語で、
「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて……」
「それはけませんね、私も二三日ぜんから少し風邪気味なんですが……」
と、土地で引いた鼻風邪の話をしたに過ぎなかつた。
 だが、二言三言そんな談話はなしをしてゐるうち、島村氏はおきまりの大きな欠伸を出した。そしてそれを手始めに、一時間足らずの談話はなしに三十七の欠伸をしたので流石に上田氏も吃驚びつくりした。そして島村氏の帰つたあとで、夫人と顔を見合せて言つた。
「よく欠伸をするとは聞いてゐたが、それにしても余りひどい。余程身体からだうかしてゐると見える。」
 さう言つて島村氏の健康を気遣つた上田氏は、不図ふとした病気からもろくも倒れてしまひ、草臥くたびれて欠伸ばかり続けてゐた抱月氏は、そのずつと健康を恢復とりかへしてぴち/\してゐる。そして近頃ではその名代の欠伸も滅多に見られなくなつた。
 何でも噂によると、須磨子が欠伸が嫌ひだから自然癖が直つたのだともいふが、事によるとさうかも知れない。一に武士道、二に小猫の尻つ尾、三にへつゝひの油虫……すべて女の嫌ひなものは滅びてゆく世の中である。


旅銭代用

12・3(夕)

 書家細井広沢がまだわかかつた頃、ある日僧侶ばうずが一人訪ねて来て、
「私は房州某寺なにがしでらの住職でござるが、先生の御作ごさくを戴いて、永く寺宝としてのちに伝へたいものだと存じますので。」と所禿ところはげのある頭を鄭寧ていねいに下げた。「はなはだ勝手がましいおねがひでは御座るが、百ふく程御寄進が願へますまいか。」
といふ挨拶なのだ。
 広沢は自分の書いた物で、仏様に結縁けちえんが出来る事なら、こんな結構な事は無からうと思つて、安受合やすうけあひ引請ひきうけた。そして僧侶ばうずを待たせておいて直ぐその場で書き出した。
 三十幅四十幅と書いてゐるうちに、広沢は徐々そろ/\厭になり出した。仏様のお引立で極楽に往つたところで、そこで好きな書が書けるかうか疑はしいし、それに仏様が書を奉納したからといつて、贔屓目ひいきめに見てくれるかうかも判らなかつた。僧侶ばうずの話では、仏様はそんな物よりもお鳥目てうもくの方が好きらしかつたから。
 広沢は五十幅目ををはると、草臥くたびれたやうに筆を投げ出した。
「これでやめにしときませう。もう厭になりましたから。」
 僧侶ばうずが驚いて、うろ覚えの華厳経の言語ことばなど引張り出して色々頼んでみたが、広沢は二度と筆を執り上げようとしなかつた。僧侶ばうずはぶつ/\ぼやきながらも、流石に三つ四つお辞儀をして帰つた。
 のちになつて聞くと、広沢がその折寄進した書が、房州路のあちこちの宿屋に一枚づつちらばつてゐる。理由わけたゞしてみると、あの僧侶ばうずが道筋の宿屋々々で、旅籠銭はたごせんの代りに、その書を置いて往つたといふ事が判つた。
 広沢はい事をした。お慈悲深い仏様さへ手の届かなかつた売僧まいすを一人助けた上に、自分の書が田舎の房州路でさへ旅籠銭の代りになるといふ事を知つたのだから。


手錠の音

12・5(夕)

 殺人狂入江三郎を護送した巡査に聞くと、三郎の両手を縛るのに革製の手錠を穿めると、彼は手首を前後に振つてみて、革の裏表がきゆつ/\と擦れて鳴る音にじつと耳を引立ひつたててゐる。そして、
「これはい音がする、やつぱり手錠は革に限りますな。」
と、その手錠を娯む色が見える。
 革製の手錠を試しに金属製のに取換へてやると、矢張同じやうに手首をかち/\鳴らせてみて、
「うむ、これもい音がする。なか/\い手錠だ。」
と、骨董好きが古渡こわたりの※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ちやわんでも見るやうな、うつとりした眼つきで自分の手首に穿はまつた手錠に見惚みとれてゐる。
 今度はその手錠をほどいて麻縄で縛つてみると、三郎は以前と同じやうに手首を振つてゐたが、急にけはしい眼附めつきになつて、
なんにも音がしない、こんな手錠は厭だ。」
と、そこいら一杯に唾を吐き出した。その手錠から、巡査の面附つらつきから、署長の小鼻から、まるで汚い物づくめなやうに顔をしかめながら。
 手錠といふと、数年前西伯利亜シベリアの監獄にゐる或る囚徒が本国の文豪ゴリキイに手錠を一つ送つてよこした。自分が牢屋でこさへた記念品だから、遠慮なく納めて呉れと言つた。
 牢屋でこさへる物にも色々ある。そのなかで手錠は少し気味が悪かつたし、加之おまけに銀貨や女の鼻先と同じやうに手触てざはりが冷た過ぎた。だが、旋毛つむじ曲りのゴリキイは顔を顰めてそれを受取つた。そして新聞紙でそのお礼状を発表した。
 お礼状の文句に「露西亜は詰らぬ凡人を西伯利亜へ送るが、西伯利亜からはドストイエフスキイ、コロレンコ、メルシンなどいふ偉い男が帰つて来た。多分将来もそんな事だらう。」といふ一節があつた。


落書無用

12・6(夕)

 むかし王献之わうけんしの書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償たゞでそれを手に入れようといふ、虫のい事を考へるむきが多く出来て来た。
 さういふ狡いてあひのなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。
 で、白い切り立てのしやで特別仕立のうはぱりのやうなものをこしらへ、それを着込んでにこにこもので王献之のとこへ着て往つた。王献之は熟々つく/″\それを見てゐたが、
い紗だな。こんな奴へ一つ腕をふるつて書いてみたら面白からうな。」
独語ひとりごとのやうに言つた。
 若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。
「無けなしのぜにこさへたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮つてみて下さい。」
 王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、
「や、近頃になく良く出来た。お蔭で思ふ存分腕が揮へたよ。」
と言つて、そつと筆をさし置いた。そばにゐた弟子の誰彼は舌打しながらじつ見惚みとれてゐた。
 若者は手を出してそのうはぱりをさつとさらつたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、うはぱりは滅茶々々にたくられ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲んだか、うかといふ事は私の知つた事ではない。
 今、仙台の第二高等学校にゐる登張とばり竹風は、酒に酔ふと、筆を執つて其辺そこらへ落書をする。障子であらうと、金屏風きんびやうぶであらうと一向いとはないが、とりわけ女の長襦袢ながじゆばんへ書くのが好きらしい。昵懇なじみ芸者のなかには、たまには竹風の書いた長襦袢を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀にしまひ込んでるのもあると聞いてゐる。
 そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢をまづい書画の酔興から保護しなければならぬ。


高浜虚子

12・7(夕)

 先日こなひだ横山大観氏が席上せきじやう揮毫きがうで、画絹ゑきぬ書損かきそこなひをどつさりこしらへて、神戸の富豪ものもちの胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、大地震おほぢしん大海嘯おほつなみの前には平気でゐて、かへつて女の一寸したくさみや、紙片かみきれの書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。
 高浜虚子氏が以前なんかの用事で大阪に遊びに来た事があつた。その頃船場せんば辺の商人あきうど坊子連ぼんちれんで、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一かたまりになつて高浜氏をその旅宿やどやに訪問した。
 博労ばくらうが馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切つてゐるものだ。坊子連ぼんちれんは俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三行半くだりはんなのと同じやうにきまつた型である事、その離縁状がたまに四くだりになつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に差支さしつかへるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。
 そのうち一人の坊子ぼんち懐中ふところから短冊たんざくを一束取り出した。そして、
「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ……」
といつて、大阪人に附物つきものの茶かすやうな笑ひ方をした。
 高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程したゝめたと思ふと、急に厭な顔をして、
まづいな、うしたんだらう……」
と言つて、さつとその短冊を引裂いた。
 かうして高浜氏はつゞざまに五六枚ばかしやけに引裂いた。短冊は本金ほんきんを使つた相応かなり上等な物だつたので、勘定高い坊子ぼんちは、そのたびに五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何かしたゝめて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。
 そこに居並んでゐた連中はみんな懐中ふところにそれ/″\短冊を忍ばせてゐたが、なにも引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の顔色がんしよくを見て、誰一人それを取出さうとはしないで、匆々そこ/\に座を立つて帰つて来た。
 その連中も今ではもう一かどの俳人気取りで、田舎者の前などで、矢鱈やたらに短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。


米大統領

1210(夕)

 米国の大統領ウヰルソン氏は、二度目の今の夫人を迎へてからは、日曜日日曜日に一度だつて教会へお参りするのを忘れたことが無い。――実際あのとしでゐて、あのやうに若い美しい後添のちぞひを貰ふ事の出来たのは、ほかならぬ神様のお蔭で、幾度お礼を言つたつて、言ひ過ぎるといふ訳のものではない。
 先日こなひだ独逸の潜航艇問題が起きた時、ウヰルソン氏は色々心配の余り、幾日か夜徹よどほしをして仕事に精を出した。で、その問題も先づ無事に片がつくと、大統領は久し振で可愛かあいい夫人のかいなりかかつて教会に往つた。
 教会にはあいにく神様がお不在るすだつたので、若い牧師が留守番をしてゐた。(事によつたら、その牧師が居たせゐで、神様の方が逃出されたのかも知れない。)その牧師はいつも判り切つた事を長つたらしく喋舌しやべり続けるので名高い男だつた。
 その日も牧師はフライ鍋の底を掻くやうな声をして、神様の吹聴を長々と述べ出した。何でもその説によると、地面ぢべたに起きる事も、海の上で持上る事も何一つ神様の摂理で無いものはない。近頃米国の近海で起きた独逸の潜航艇問題の如きも、みんな基督が心あつてつた事だといふのだ。
「さうか知ら。ぢや、基督はちやんと潜航艇の事まで御存じなんだな。」とウヰルソン氏はねむさうな眼で牧師の顔を見ながらじつと考へてゐたが、そつと夫人の方を振向いて「私にはどうもあの人の言ふ事がさつぱり判らん。」とぼやいた。
 夫人は気の毒さうに、三毛猫でもあやすやうに大統領の頭を撫でて言つた。
「ぢや、帰つてゆつくりおやすみなさい、すると少しはくなつてよ。」
 この言葉は日本でもそのまゝ真理で、実際牧師のお説教を聴くよりも、一寝入ひとねいり寝ておきた方がずつと利益ためになる事が多い。だが唯一つ感心なのは、ウヰルソン氏に解り兼ねた牧師のお説教が、うやら夫人には了解のみこめたらしい事だ。猫の声、あかんぼの声――すべて男に解らないものを読みわけるのが女の能力である。


広岡浅子

1212(夕)

 先日こなひだある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、あねさんごつこのやうな事をして遊ぶ為にこしらへてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。
 その日も思つた程顔触かほぶれが集まらないので、お婆さんは徐々そろ/\※(「弗+色」、第3水準1-90-60)むくれ出した。
うしてこんなに顔触が少いんでせうね。今のお若い方はどうも因循で困る。」
と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸調弄気味からかひぎみになつた。
「広岡さん、貴方が何ぞといつてはお叱りになるもんですから、つい皆さんの足が遠退とほのくんでせうよ。」
 お婆さんは大きな膝を夫人の方へぢ向けた。椅子はその重みに溜らぬやうに、お婆さんの腰の下でかはづのやうに泣き声を立てた。
「何ですつて、夫人おくさん。私の叱言こごとが過ぎるから、会員が減るんですつて。ぢや、もうこれからは一切この会へ寄りつきませんからね。」と顔を歪めてわめくやうに我鳴り立てたが、隅つこに小さくなつてゐた何家どこかの未亡人ごけさんが覚えずくすりと笑つたので、今度はその方へ捩ぢ向いた。「今のお若い婦人方は大抵男子の玩弄物おもちやになつて満足してゐるんだから困る。」
「さうかも知れませんが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひ/\言つた。「私は母として子供を立派に育て上げるといふ真面目な仕事を持つてますから。」
「子供を?」と広岡のお婆さんは吃驚びつくりした顔をした。お婆さんは女が子供を生むといふ事は少しも知らなかつた。少くともすつかり忘れてゐたのだ。「成程貴女あんたはたんと子供さんをお持ちだ。さうしてみんな男の子供さんだと聞いてゐる。どんなに立派におなりか、今から目をあいて見てらう。」と言つて婆さんはち上つた。
 大久保の子供達は皆をさない。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りでゐるらしい。大変な事を約束したものだ。


大発見

1215(夕)

 近頃その筋の手で、大和唐招提寺にある国宝の修繕をするに就いて、偶然にもそこの金堂こんだうで素晴しい大発見をした。発見といふのは、寺の敷地が伝説通り新田部にたべ親王の邸跡やしきあとに相違なかつたとか、開基の鑑真がんじん和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。
 問題はずつと大きい。それはほかでもない、あの堂に安置してある等身大の梵天ぼんてんの立像に手を入れる時、台座をはづしてみると、そのあはせの所に、男子の局部が二ついてあつたといふ事だ。
 その横に同じ墨色で二三の文字が落書らくがきしてある、その文字の字体から見ると、この可笑をかしな楽書は、徳川時代に幾度か行はれたらしい修繕当時の悪戯いたづらでは無く、全くこの木像を刻んだ最初の仏師の楽書に相違ないといふ事が判る。
 してみると、楽書としては随分古いもので、なにによらず古いものでさへあれば珍重がる京都大学などでは、この剽軽へうきんな楽書の研究に、一生を棒に振つてもいないだけの学者が出なければならぬ筈だ。
 往時むかしから仏像の創作には、一とうらいとか、精進潔斎とかやかましく言ひ伝へられてゐるが、まんざらさうばかりでもないのはこの楽書がよく証拠立ててゐる。――と言つたところで、仏様をけがす積りではさら/\ない。仏様は何事も御存じで、知らないのは坊さんと学者ばかりである。


増田

1217(夕)

 自動車に乗る人は多いが、実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで来た。
 増田氏は朝早く自宅うちを出る時には、いつも背広に中折帽なかをれぼうといふ身軽な扮装いでたちで、すつと自動車のなかに乗込む。そして南紺屋町の社へ駈けつけると、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばつたのやうに車を飛び出し、二つ三つ指図をして、やがてまたゆつたりと自動車の人となる。
 増田氏は雑誌社を経営してゐる他に、色々な会社へ頭を突込んでゐる。自慢の自動車がけもののやうな声を立てて、関係会社の前へ来て止まると、増田氏はドアのなかから、山高やまだかにモーニングといふ扮装いでたちですつと出て来る。
 居心地のいゝ会社の椅子に暫くモーニングのせなもたらせて、こくり/\おきまりの居睡ゐねむりをすると、増田氏は大きな欠伸あくびをしい/\のつそりと立ち上る。そしていつぱし立派な仕事をつてのけた積りで、上機嫌で受附のぼん/\時計にまで会釈をしながら、のつそり自動車に乗り込む。
 それから二十分経つて、増田氏の自動車がある宴会の式場へ横づけになると、氏はいつの間にか婦人雑誌の口絵から抜け出して来たやうな絹帽シルクハツトにフロツクコートといふ、りうとした身装みなりで、履音くつおと軽くドアのなかから出て来る。
「まるで活動役者のやうな早業はやわざぢやないか。」
とそれを見た或人が不思議がつて訊くと、増田氏はその男を態々わざ/\自動車へ引張り込んで、衣裳箱スウツケースから料紙インキ壺の特別装置まで、自慢さうに説明して聞かせたさうだ。
 結構な自動車さ。こんな自動車に乗つて、一度天国へでも往つたらどんなものだらうて。


大森博士

1220(夕)

 先日こなひだ東京の銀行集会所へ全国の重立おもだつた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森博士を招待せうだいして、講演を頼んだ事があつた。実業家が地震や天国の談話はなしを聞いた所で仕方がないが、彼等は学者に勝手な事を喋舌しやべらしていて、そしてあとから、
「どうも学者などいふものはあんな迂遠な事ばかし考へてゐて、よく生きて往かれるもんですな。」
と笑ひ話にする事が好きなのだ。
 それを見て取つた大森氏は講壇の上から銀行家の禿頭を見下みおろして、
「諸君は朝から晩まで金をいぢくり廻してゐられるが、一体一億円の金塊の大きさはの位あると思ひます。」
と変な事を言ひ出した。
 銀行家は「さあ」と言つたきり顔を見合せて誰一人返事をするものが無かつた。大森氏はにやりと笑つて、
「お答へが無いのに無理もありません。銀行家だからといつて、まさか金塊を懐中ポケツトに入れてゐる訳でもありますまいから、一億円の金塊は恰度ちやうど三尺立方のかさがあります。ついでに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと幾干いくらになるとお思ひですか。」
まるで小学校の生徒にでも訊くやうな事を言ひ出した。
 銀行家は今度もまた「さうさ、なあ」と言つたきり誰一人返事をする者が無かつた。大森氏は小学教員のやうな安手な勿体振をつけて、
「三千七百万円になります。」
と言つて聞かせた。
 先刻さつきからこんな問答にごふを煮やしてゐた森村市左衛門氏は、「大森さん」と言つて衝立つゝたち上りながら、
「一寸伺ひますが、往時むかしのうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」
と切り出した。居合せた銀行家は、「森村のお爺さん、うまくやつたな。」とにやにや笑つて大森氏の顔を見た。
 大森氏は「さやう」と言つて、森村氏の禿頭を見た。頭はニツケルのやうに光つてゐた。「御殿場を標準めやすにして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります。」
 森村氏は「なる程な。」と言つて、そのニツケルのやうな頭を両手に抱へて笑ひ出した。頭のなかでは「耶蘇教」と「貯金」と「長生術」とが混雑ごつちやになつてゆすぶれてゐた。


馬の顔

1221(夕)

 東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。
 学習院の平素ふだんの制服といふのは、ぼたんのない詰襟つめゑりのホツクどめだが、加之おまけに帽子の徽章きしやうが桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。
 その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野栄氏が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に垂下ぶらさがつてゐると、直前すぐまへに腰を掛けてゐる海驢あしかのやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。
 岡野氏も画家ゑかきの事だから、画家ゑかきに無くてならない暢気のんきさ加減は十分持合せてゐた。
「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、婦人をんな乗客のりてもあるのに態々わざ/\画家ゑかきの俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに似合にあは怜悧りこうな軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」
 岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、そのまゝそこへ腰を下した。
 だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。
「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」
 岡野氏はいつもの停留場へ来ると、その中佐のやうな気持で、胸をらしながら電車を下りて往つた。
 それ以後お礼心の積りで、馬でもく折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、因業いんごふな家主を地獄におとした事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうなばかな真似はしないから。


狂人きちがひほん

1222(夕)

 先日こなひだ亡くなつた喜劇俳優やくしや渋谷天外は、何処へくのにも、紫縮緬むらさきちりめんの小さな包みを懐中ふところにねぢ込むで置くのを忘れなかつた。
「何をそんなに大切だいじがつてるんだね。」
他人ひとが訊くと、
「これだつか、喜劇の酵母もとだつせ。」
と言ひ/\、自慢さうに膨らむだ懐中ふところを叩いたものだ。
 帛紗包ふくさづつみのなかに入つてゐるのは他でもない、小本こほんの『膝栗毛』の一冊で、この剽軽へうきんな喜劇俳優やくしやは、借金取に出会でくはすか、救世軍を見るかして、気が真面目にふさぎ出すと、早速その紫縮緬の包みをほどいて、『膝栗毛』を読み出したものだ。
「すると、何時の間にかおもしろくなつて、つい俄師にはかしの気持になられまんがな。やすいもんだつせ、本は古本屋で五十銭だしたよつてな。」
と言ひ/\してゐた。
 伊東胡蝶園の祖父伊東玄朴は蘭書の蒐集しうしふ家として聞えてゐたが、数多いその書物のなかで、たつた一つだけ風呂敷包みにして、その上に封印までして、うしても他人ひとに見せなかつた。
 仲よしの高野長英が、それを見つけて、
「どんな本だ、一寸でいゝから見せてくれ。」
強請せがむと、慌てて膝の下に押し隠して、
けない/\。これを読むと狂人きちがひになる。」
と顔色を違へて謝絶ことわるので、
「へえ、狂人きちがひになる。気味の悪い本だな。」
と、長英はそんな本を読まない内から狂人きちがひになりかけてゐた頭をつて不思議がつたといふ事だ。
 玄朴が封印をしてゐた本はほかでもない和蘭オランダ版の「民法」の本で、旧幕時代でこんな本を読まうものなら、さしづめ狂人きちがひにでもならなければなるまいと、お医者だけに玄朴は考へたものらしい。尤もの事だ、日本には今だに狂人きちがひになる本はどつさりある。





底本:「完本 茶話 上」」冨山房百科文庫、冨山房
   1983(昭和58)年11月25日第1刷発行
   1984(昭和59)年11月15日第8刷発行
底本の親本:「大阪毎日新聞」
   1916(大正5)年4月12日〜12月22日
初出:「大阪毎日新聞」
   1916(大正5)年4月12日〜12月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「6月30日」、「7月28日」に「(夕)」がないのは、底本通りです。
※〔〕内の編集者による注記は省略しました。
※底本凡例に、「内容は別個で題を同じくする作品は題名の直下に*印を付し、*印の数の違いによって弁別することとした」とあります。
入力:kompass
校正:仙酔ゑびす
2013年5月7日作成
2014年6月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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