薄田泣菫




 少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けてある料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きなをんなを相手に夕方から夜半よなか過ぎまで立続けに呷飲あふりつけたので、大分だいぶん酔つ払つてゐた。
 街灯のともつてゐない真ツ暗がりに、Kは自分の鼻先にのひよろ高い男が立塞がつてゐるのを見たので、酔つ払がよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないのでKは少し※(「弗+色」、第3水準1-90-60)むつとした。
「さあ、退いた/\。たての法学士様のお通りだぞ。」
 Kはとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一寸も身動きしようとしなかつた。
 喧嘩早いKは、いきなり拳をふり揚げていやといふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、Kを見下みおろしてにや/\笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、やけにいきり立つて、
「野郎かうして呉れるぞ。」
といきなり両手を拡げて武者振むしやぶりついたと思ふと、力一杯頭突を食はせた。法律の箇条書で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空殻あきがらを投げたやうに、かんと音がした。
 Kは脳振盪を起してそのまゝ引くり返つて死んで了つた。相手は相変らず身動みうごきもしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つたKは夜目にそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。
 Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭のむきが違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、かんと音のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣き/\向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。





底本:「日本の名随筆66 酔」作品社
   1988(昭和63)年4月25日第1刷発行
   1996(平成8)年2月29日第11刷発行
底本の親本:「完本 茶話 上巻」冨山房
   1983(昭和58)年11月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード