葬列

石川啄木




 久し振で帰つて見ると、かつては『眠れる都会』などと時々土地ところの新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いたあたりと思はれるところへ、吊された大章魚おほだこの足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首縊くびくくりを見た。若しこれが昔であつたなら、う何日も売れないで居ると、屹度きつと、自分が平家物語か何かを開いて、『うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ/\と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居るうちに、早く何処かの内儀おかみさんが来て、全体みんなでは余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れればいいに、と思つた。此家ここの隣屋敷の、時は五月の初め、朝な/\学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此上こよなく嬉しかつた枳殻垣からたちがきも、いづれ主人あるじは風流をせぬ醜男ぶをとこか、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置くていの男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許すこし行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新道しんみちが出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路こうじ、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花崗石みかげいし截石きりいしや材木が処狭ところせきまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲うらがなしくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待てこんな昼日中に、宛然さながら人生の横町と謂つた様な此処を彷徨うろついて何か明処あかるみで考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見みえはばからずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此みつの変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。こん変様かはりやうをする位なら、寧ろ依然やはり『眠れる都会』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前もと平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評ひやかした肴町さかなちやう呉服町ごふくちやうには、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就中なかんづく破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋食店レストウラントの出来た事、荒れ果てた不来方城こずかたじやうが、幾百年来の蔦衣つたごろもを脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭はげあたまに産毛が生えた様な此旧城の変方かはりかたなどは、自分がモ少し文学的な男であると、『噫、汝不来方こずかたの城よ※[#感嘆符三つ、36-上-12] 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。さくの汝が松風明月のうらみとこしなへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く/\思へ、昨日きのふ杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々さいさいたる草裡さうりに落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草てうらざつさうの底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭こんな感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々やうやう開園式が済んだ許りの、文明的な、整然きちんとした、別に俗気のない、そして依然やはり昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供こどもの生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨みじめ死様しにざまをしないとも限らないから、いつそ今うスヤ/\と眠つてる間に殺した方がいいかも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存ぶしよぞんと云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、ちと憚つて然るべき筋の考であるのだが、ここは何も本気で云ふのでなくて、唯ついでに白状するのだから、別段差閊さしつかへもあるまい。考といふはかうだ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳殻垣からたちがきを繞らして、本丸の跡には、希臘ギリシヤか何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露西亜ロシヤの百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。れた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸かしの洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普通ただの奴では面白くない。顔は奈何どうでも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色あけぼのいろか浅緑の簡単な洋服を着て、面紗ヴエールをかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可成なるべく散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔羅馬ロウマ皇帝が凱旋式に用ゐたくるま――それにねて『即興詩人』のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或はあしなへ、或は盲目めくら、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、)其奴そいつの頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌おしやべりは品格をそこなふ所以である。
 立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数マイルを隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人きふをこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇なつやすみ毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさるれつきとした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古のまちには、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る/″\喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸々だんだん文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、すぐ小比公せうびこう気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈何どうかしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンのてつを踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双眸さうぼうの底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、にはかに夜も昼もかぐはしい夢を見る人となつて旦暮あけくれ『若菜集』や『暮笛集』を懐にしては、程近い田畔たんぼの中にある小さい寺の、おほきい栗樹くりのきの下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂でそつと『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべてなつかしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しいまちを舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。
 十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹せうまいとをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
 今年の夏は、校長から常陸ひたち郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵くりやがはのさくを中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社のすぐ背後うしろの、母とは二歳ふたつ違ひの姉なる伯母の家に車のながえを下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、かうさんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日をとつひの秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時たそがれどきであつた。


 遠く岩手、姫神、南昌なんしやう早池峰はやちねの四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山たたらやま黄牛あめうしの背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬にまたがり、水音ゆるき北上の流に臨み、貞任さだたうの昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色したたる許りなるかみなかの二橋、杉土堤すぎどての夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然ぎぜんとして立つ不来方城に登つて瞰下みおろせば、高き低き茅葺ちがや柾葺まさがやの屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵とりようは東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするのを好む。
 この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。このみつを綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開闢かいびやく以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗いまだかつて、『完全なる』といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一人ひとりも、一個ひとつも、一度ひとたびも、出会でつくはした事がない。随つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に『不完全』が転がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして『進化』と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅典アテーネ以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此点ここが却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸がひらいた様な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の堕落は何でもないではないか。加之しかのみならず較々やや完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全にとほざかつた今の我々の方が、却つて/\大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、真理よりも真理を希求する心、完全よりも完全に対する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の静けさ、雨の盛岡の淋しさ、秋の盛岡の静けさ寂しさは愛するけれども、奈何どうして此みつが一緒になつて三足さんぞく揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出来やう。雨と夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の気に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた為めでがなあらう。
 昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り続いた。長火鉢を中に相対して、『新山堂の伯母さん』と前夜の続きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百はんぴやくの話題をぬきにして、話好はなしずきの伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の糸をたてに入れる。此はてしない、しめやかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空気、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時ひる近くなつて、隣町の方から、『豆腐ア』といふ、低い、呑気な、永く尾を引張る呼声が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にもまる五年の間忘れ切つて居た『盛岡の声』ではないか。此低い、呑気な、尾を引張る処が乃ち、全く雨の盛岡式である。此声が蕭やかな雨の音に漂ふて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで来た。そして、遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆声で、矢張低く呑気に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て気が付かなかつたらしい。やがて、十二時を報ずるステーシヨンの工場の汽笛が、シツポリ濡れた様な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四家町よつやちやうの教会の鐘がガラン/\鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が伝はる。これは不来方城はんの鐘楼から、幾百年来同じ鯨音おと陸奥みちのくそらに響かせて居る巨鐘の声である。それが精確に十二の数を撞き終ると、今迄あるかなきかに聞えて居た市民三万の活動の響が、はたと許り止んだ。『盛岡』がいま今日の昼飯を喰ふところである。
『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』
といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、
かうさん、豆腐屋が来なかつたやうだつたネ。』
 此伯母さんの一挙一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。
 朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い銭湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして、泥汁どろを撥ね上げぬ様に、極めて静々と、一足毎に気を配つて歩いて居るのだ。両側の屋根の低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覚えて置いた女の、今は髪の結ひ方に気をつける姉さんになつたのが、其処此処の門口に立つて、呆然ぼんやり往来を眺めて居る事もある。此等旧知の人は、決して先方から話かける事なく、目礼さへる事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を発揮して居る如く感ぜられて、仲々奥床しいのである。総じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆く雨に適して居る。人あり、来つて盛岡の街々を彷徨さまよふこと半日ならば、必ず何街どこかの理髪床りはつどこの前に、銀杏髷いちやうまげに結つた丸顔の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手そりてと次の如き会話を交ふるを聞くであらう。
 女『アノナハーン、アェヅダケァガナハーン、昨日キノナスアレー、シタアナーハン。』
 男『フンフン、御前おめあハンモエツタケスカ。フン、ホンニソダチナハン。アレガラナハン、サ来ルヅギモ面白オモシエガタンチエ。ホリヤ/\、大変テエヘンダタアンステァ。』
 此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事実が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此会話の深い/\意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出来るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶気ものうげな、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。
 澄み切つた鋼鉄色かうてついろの天蓋をかづいて、寂然じやくねんと静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨うろつく楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分はここで、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事のわだかまるありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨うろついて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町さんのへちやう、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、なはてといふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境むにんきやうを一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸路をれて、かの有名な田中の石地蔵のせなを星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生ひごろの癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ/\と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深にかぶつた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎足的ていそくてき関係のあつた花郷かきやうを訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四家町よつやちやう寂然ひつそりとして、唯一軒理髪床の硝子戸に燈光あかりが射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密淫売町ぢごくまち大工町だいくちやうで、芸者町なる本町ほんちやう通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火あかりが射して居る。ヒヨウと口笛を吹くと、矢張ヒヨウと答へた。今度はホーホケキヨとやる、(これは自分の名の暗号であつた。)復ヒヨウと答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平生いつもの如く入つて行かうと思つて、上框あがりがまちの戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然びつくりし乍ら星明ほしあかりすかして見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻さつき畷で逢つた奴に似て居る。
『立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。』
 驚いた、まことに驚いた。この声は我が中学の体操教師、須山すやまといふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。
『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後をけて来て見ると、矢張やつぱり口笛で密淫売ぢごくと合図をしてけつかる。……』
 自分は手を握られた儘、いた口が塞がらぬ。
此間こなひだ職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓ふらちぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一昨夜をととひは呉服町で綺麗なかんざしを買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩ゆうべは古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場げんぢやうを見届けたぞ。案のぢやう大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金銭ぜには持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。』
 自分の困憊こんぱいの状察すべしである。あたかも此時、洋燈ランプ片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝くわいがに堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、
どうしあんした?』
と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐一ちくいち事情を話し、更に須山に向いて、
『先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫売婦ぢごくではごあんせんぜ。』と云つた。
 須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危気あやふげに動かし乍ら、洒脱しやだつな声をあげて叫び出した。
『立花白蘋はくひん君の奇談々々!』
『立花、貴様余ツ程気を付けんぢや不可いかんぞ。よく覚えて居れツ。』
と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中あんちゆうに没したのであつた。

 自分は既に、五年振でこのに来て目前まのあたり観察した種々の変遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又このと自分との関係から、盛岡は美しい日本の都会の一つである事、此美しい都会が、雨と夜と秋との場合に最も自分の気に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も楽しい秋の盛岡――大穹窿だいきゆうりゆうが無辺際に澄み切つて、空中には一微塵いちみじんの影もなく、田舎口から入つて来る炭売薪売まきうりの馬の、冴えた/\鈴の音が、まち中央まんなかまで明瞭はつきり響く程透徹であることや、雨滴あまだれ式の此市ここの女性が、厳粛な、赤裸々な、明哲の心の様な秋の気に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなッす――。』と口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其処此処の井戸端に起る趣味ある会話や、乃至此女性的なる都会に起る一切の秋の表現、――に就いて、出来うる限り精細な記述をなすべき機会に逢着した。
 が、自分は、其秋の盛岡に関する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。
『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐていの突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを的切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ヶ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。
 実際を白状すると、自分が先刻せんこく晩餐を済ましてから、少許すこし調査物しらべものがあるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十畳の奥座敷に立籠つて、余りあかからぬ五分心ごぶじんの洋燈の前に此筆を取上げたのは、実は、今日自分が偶然に路上で出会した一事件――自分と何等の関係もないに不拘かかはらず、自分の全思想を根底から揺崩ゆりくづした一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く/\忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀有けうなる出来事に対する極度の熱心は、如何にして、何処で、此出来事に逢つたかといふ事を説明するために、実に如上によじやう数千言の不要むだなる記述を試むるをさへ、敢て労としなかつたのである。
 断つて置く、以下に書き記す処は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々ごくごく些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を読む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)こんな事を真面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑あざわらふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出会した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分はかう信じたからこそ、此市ここの名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへなげうち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の渋りに汗ばみ乍ら此苦業を続けるのだ。
 又断つて置く、自分は既に此事件を以てみづから出会した事件中の最大事件と信じ、其為に二十幾年来養ひ来つた全思想を根底から揺崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭げんとうに立つた。――さうだ、今自分の立つて居る処は、たしかに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆をさしおく迄には、何等か解決のはしを発見するに到るかも知れぬが、……否々いやいや、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼツタ石』の、表に刻まれた神聖文字ハイエログリフは、如何にトマス・ヨングでもシヤムボリヲンでも、レプシウスでも、とても十年二十年に読み了る事が出来ぬ様に思はれる。

 自分が今朝新山祠畔しんざんしはんの伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名残のみづたまりが路の処々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌てのひら程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空気を岩山の上の秋陽あきのひがホカ/\と温めて居た。
 加賀野新小路の親縁みよりの家では、市役所の衛生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麦煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿々じめじめして居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹おほいてふの、まだ一片ひとひらも落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸でこぼこの劇しい藪路、それを東に一町ばかりで、天神山に達する。しん/\と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石甃いしだたみの両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ/\と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然ひつそりとして居る。周匝あたりにひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石のこまいぬである。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏光あぶらびかりがして居る。そして、其又顔といつたら、けだし是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹をこしらへた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した高士のおもかげ、イヤ、それよりも一段もつと俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、『石狛こまいぬよ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾党の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不格好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を転ずると、杉の木立のひまから見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然さながら一幅の風景画の傑作だ。周匝あたりには心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又、自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野へいだのといふ松原、晴れた日曜の茸狩たけがりに、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其処の松蔭、此処の松蔭と探し歩いたものであつた。――
 昼餐ひるげをば神子田みこだのおそのさんといふ従姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で済ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。奇麗な奥様をサ。』と楽しげに笑ふのであつた。
 帰路かへりには、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵くりやがはのさくへ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の旧師である。
 幅広く美しい内丸の大逵おほどほり、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際な胸から搾り出す様な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘楼の下を西へ歩いて居た。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白のきぬを着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。――
 これはこので一番人の目に立つ雄大な二階立にかいだち白堊館はくあかん、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。巨人? さうだ、慥かに巨人だ。ただに盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、総ての意味に於て巨人たるものは、実にこの堂々たる、巍然ぎぜんたる、秋天一碧の下にこつとして聳え立つ雪白の大校舎である。昔、自分は此巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、学校時代のシルレルとなつた事もある。かつて十三歳の春から十八歳の春までまる五年間の自分の生命といふものは、実に此巨人の永遠なる生命の一小部分であつたのだ。ああ、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、どうやら揺ぎ出す様に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え抜いた様に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を着て突立つたまま。
 印度衰亡史は云はずもの事、まだ一冊の著述さへなく、茨城県の片田舎で月給四十円の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづからかうべるるを覚えた。
 白色の大校舎の正面には、矢張白色の大門柱が、厳めしく並び立つて居る。この門柱の両の袖には、又矢張白色の、幾百本と数知れぬ木柵のかしらが並んで居る。白! 白! 白! 此白は乃ち、此白い門に入りつ出つする幾多うら若き学園の逍遙者の、世の塵に染まぬ潔白な心の色でがなあらう。柵の前には一列をなして老いた桜の樹が立つて居る。美しく紅葉した其葉は、今傾きかけた午後三時の秋の日に照されて、いと物静かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と桜樹の間には一条の浅い溝があつて、むすばばつて掌上てのひらたまともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い桜の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭の尖端とがり々々には、殆んど一本毎に真赤な蜻蛉が止つて居る。
 自分は、えも云はれぬ懐かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此白門に向つて歩を進めた。溝にわたした花崗石みかげいしの橋の上に、髪ふり乱して垢光りする襤褸ぼろを着た女乞食をなごこじきが、二歳許りの石塊いしくれの様な児に乳房をふくませて坐つて居た。其周匝めぐりには五六人の男の児が立つて居て、何か秘々ひそひそと囁き合つて居る。白玉殿前はくぎよくでんぜん、此一点の醜悪! 此醜悪をも、然し、自分は敢て醜悪と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである、市の中央の大逵おほどほりで、然も白昼、きたない/\女乞食が土下座して、垢だらけの胸をはだけて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都会に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常に有る事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を発揮して見せる必要な条件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜悪を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覚えた。そして静かに門内に足を入れた。
 校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れて、ヅカ/\と小使室の入口に進んだ。
鹿川かがは先生は、モウお退出ひけになりましたか?』
 鹿川先生といふは、抑々そもそも創始はじめから此学校と運命をともにした、既に七十近い、徳望県下に鳴る老儒者である。されば、今迄此処の講堂に出入した幾千と数の知れぬうら若い求学者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛然さながらこれ生きた教育の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘、今猶しみ/″\と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。
 自分の問に対して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎時しばらくして、
『イヤー立花さんでアごあせんか? これやうもお久振でごあんしたなあ。』
と聞覚えのある、錆びた/\声が応じた。ああ然だ、この声の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以来既に三十年近く勤続して居る正直者、歩振あるきぶり可笑をかしいところから附けられた、『家鴨あひる』といふ綽名あだなをも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。
『今日はハア土曜日でごあんすから、先生方はみんなお帰りになりあんしたでア。』
 土曜日? おゝさうであつた。学校教員は誰しも土曜日の来るを指折り数へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアツケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の旧制を捨てて此制を採用し、ひいて今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克く研究して知つて居る癖に、怎うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滞留三日にして早く既に盛岡人の呑気な気性の感化を蒙つたのかも知れない。
 此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きなかまどがあつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯をたぎらし居る。自分は此学校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた暖炉ストーブには、力の弱いところから近づく事も出来ないで、よく此竈の前へ来て昼食のパンをかぢつた事を思出した。そして、此処を立去つた。
 門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で楽しく語り合つた事のある、玄関の上の大露台だいバルコニイを振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝めぐりに立つて居た児供こどもの一人が、頓狂な声を張上げて叫んだ。
『アレ/\、がんこア来た、がんこア来た。』がんことは盛岡地方で『葬列』といふ事である。此声の如何に高かつたかは、自分が悠々たる追憶の怡楽いらくの中から、俄かに振返つて、其児供のゆびさす方を見たのでも解る。これは恰度、門口へ来た配達夫に、『△△さん、電報です。』と穏かに云はれるよりも、『電報ツ。』と取つて投げる様なけたたましい声で叫ばれる方が、一層其電文が心配なと同じ事で、自分は実際、※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな珍らしい葬列かと、少からず慌てたのであつた。
 此頓狂なる警告は、嘘ではなかつた。幅広く、塵も留めず美くしい、温かな秋の日に照らされた大逵おほどほりを、自分が先刻さつき来たと反対な方角から、今一群の葬列が徐々として声なく練つて来る。然も此葬列は、実に珍らしいものであつた。唯珍らしい許りではない、珍らしい程見すぼらしいものであつた。先頭に立つたのは、処々裂けた一対の高張、次は一対の蓮華の造花つくりばな、其次は直ぐ棺である。此棺は白木綿で包まれた上を、無造作に荒繩でばくされて、上部に棒を通して二人の男が担いだのであつた。この後には一群の送葬者が随つて居る。数へて見ると、一群の数は、驚く勿れ、たつた六人であつた。驚く勿れとは云つたものの、自分は此時少なからず驚いたのである。更に又驚いたのは、此六人が、揃ひも揃つて何れも、少しも悲し気な処がなく、静粛な点もなく、恰も此見すぼらしい葬式に会する事を恥づるが如く、苦い顔をして遽々然きよろきよろと歩いて来る事である。自分は、宛然さながら大聖人の心の如く透徹な無辺際の碧穹窿あをてんじやうの直下、広く静かな大逵を、この哀れ果敢なき葬列の声無く練り来るを見て、或る名状し難き衝動を心の底の底に感じた。そして、此光景は蓋し、天が自分に示して呉れる最も冷酷なる滑稽の一であらうなどと考へた。と又、それも一瞬、これも一瞬、自分は、『これは囚人の葬式だナ。』と感じた。
 理由いはれなくして囚人の葬式だナと、不吉極まる観察を下すなどは、此際随分突飛な話である。が、自分には其理由がある。――たしか十一歳の時であつた。早く妻子に死別れて独身生活ひとりぐらしをして居た自分の伯父の一人が、窮迫の余り人と共に何か法網に触るる事を仕出来しでかしたとかで、狐森一番戸に転宅した。(註、狐森一番戸は乃ち盛岡監獄署なり。)此時年齢が既に六十余の老体であつたので、半年許り経つて遂々獄裡で病死した。此『悲惨』の結晶した遺骸を引取つたのは、今加賀野新小路に居る伯父である。葬式の日、矢張今日のそれと同じく唯六人であつた会葬者の、三人はすなはち新山堂の伯母さんとお苑さんと自分とであつた。自分は其時稚心をさなごころにも猶この葬式が普通でない事、見すぼらしい事を知つて、行く路々ひそかに肩身の狭くなるを感じたのであつた。されば今、かの六人の遽々然きよろきよろたる歩振あゆみぶりを見て、よく其心をも忖度そんたくする事が出来たのである。
 これも亦一瞬。
 列の先頭と併行して、桜の※(「木+越」、第3水準1-86-11)なみきもとを来る一団の少年があつた。彼等は逸早いちはやくも、自分と共に立つて居る『警告者』の一団を見付けて、駈け出して来た。両団の間に交換された会話は次の如くである。『何家どこがんこだ!』『狂人ばかのよ、繁のよ。』『アノ高沼のしげる狂人ばかのが?』『ウムさうよ、高沼の狂人のよ。』『ホー。』『今朝の新聞にも書かさつてだずでヤ、繁ア死んでエごとしたつて。』『ホー。』
 高沼繁! 狂人ばか繁! 自分は直ぐ此名が決して初対面の名でないと覚つた。何でも、自分の記憶の底に沈んで居る石塊いしころの一つの名も、たしか『高沼繁』で、そして此名が、たしか或る狂人きやうじんの名であつた様だ。――自分が恁う感じた百分の一秒時、忽ち又一事件の起るあつて、少からず自分を驚かせた。
 今迄自分の立つて居る石橋に土下座して、懐中ふところ赤児あかごに乳を飲ませて居た筈の女乞食が、此時にはかに立ち上つた。立ち上るや否や、おどろの髪をふり乱して、帯もしどけなく、片手に懐中ふところの児を抱き、片手を高くさし上げ、裸足はだしになつて駆け出した、駆け出したと見るや否や、疾風の勢を以て、かの声無く静かに練つて来る葬列に近づいた。近づいたナと思ふと、骨の髄までキリ/\と沁む様な、或る聴取り難き言葉、否、叫声が、かつと許り自分の鼓膜を突いた。ツと思はず声を出した時、かの声無き葬列ははたと進行を止めて居た、そして、棺を担いだ二人の前の方の男は左の足を中有ちううかして居た。其爪端つまさきの処に、きたない女乞食が※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)だうと許り倒れて居た。自分と並んで居る一団の少年は、口々に、声を限りに、『あれヤー、お夏だ、お夏だツ、狂女ばかをなごだツ。』と叫んだ。
『お夏』と呼ばれた彼の女乞食が、或る聴取り難い言葉を一声叫んで、棺に取縋つたのだ。そして、彼の担いで居る男に蹴倒されたのだ、この非常なる活劇は、無論真の一転瞬の間に演ぜられた。
 ああ、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初対面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊いしころの一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女きやうじよの名であつた様だ。
 以上二つの旧知の名が、端なく我が頭脳あたまの中でカチリと相触れた時、其一刹那、或る荘厳な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた。

 自分は今、茲に霎時しばらく、五年前ねんぜんの昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、処は矢張此の新山祠畔の伯母が家。
 史学研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辞した日の夕方、この伯母が家に着いて、れゆく秋の三日みつか四日よつか、あかぬ別れを第二の故郷とともに惜み惜まれたのであつた。
 一夜ひとよ、伯母やお苑さんと随分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは遠近をちこちに一番鶏の声を聞く頃であつたが、翌くる朝はうしたものか、例になく早く目が覚めた。枕頭まくらもとの障子には、わづかに水を撒いた許りの薄光うすあかりが、声もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に気を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ/\、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛然さながら初陣の暁と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥床ふしどを離れぬのを、何か安逸を貪る所業の様に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに静かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ様に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、と心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。
 井戸ある屋後をくごへ廻ると、此処は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の広葉や、紫の色せて茎許りの茄子の、痩せた骸骨むくろを並べてゐる畝や、抜き残された大根のこはばんた葉の上に、東雲しののめの光が白々と宿つて居た。いやこれは、東雲の光だけではない、置き余る露の珠が東雲の光と冷かな接吻くちづけをして居たのだ。此野菜畑の突当りが、一重の木槿垣もくげがきによつて、新山堂の正一位様と背中合せになつて居る。満天満地、※(「門<貝」、第4水準2-91-57)げきとして脈搏つ程の響もない。
 顔を洗ふべく、静かに井戸にちかづいた自分は、敢てかしましき吊車の音に、この暁方あかつきがたの神々しい静寂しづけさを破る必要がなかつた。大きい花崗石みかげいしの台に載つた洗面盥には、見よ見よ、こぼれる許り盈々なみなみと、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏れいろうとして銀水の如く盛つてあるではないか。加之しかのみならず、此一面の明鏡は又、黄金こがねの色のいと鮮かな一片ひとひらの小扇をさへ載せて居る。――すべての木の葉の中で、あめが下の王妃きさいの君とも称ふべき公孫樹いてふの葉、――新山堂の境内のあまそそ母樹ははぎの枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり/\と舞ひ離れて来たものであらう。
 自分は唯くわうとして之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて魂無何有むかうの境に逍遙さまよふといふ心地ではない。謂はば、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る様な心地だ。
 較々やや霎時しばしして、自分はおもむろに其一片ひとひらの公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴ひとつ二滴ふたつしろがねの雫を口の中にらした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端に載せた。
 顔を洗つてから、可成なるべく音のせぬ様に水を汲み上げて、盥の水を以前もとの如く清く盈々なみなみとして置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前の如くそれに浮べた。
 かくして自分は、云ふに云はれぬ或る清浄な満足を、心一杯に感じたのであつた。
 起き出でた時よりは余程明るくなつたが、まだ/\日の出るには程がある。家の中でも、隣家となりでも、その隣家となりでも、誰一人起きたものがない。自分は静かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方あちこちと歩いて居た。
 だん/\進んで行くと、突当りの木槿垣の下に、山の端はなれた許りの大満月位な、シツポリと露を帯びた雪白の玉菜キヤベーヂが、六個むつ七個ななつ並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり実割れるばかりふくよかな趣を見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。
 不図ふと、何か知ら人の近寄る様なけはひがした。菜園満地の露のひそめき? 否々、露に声のある筈がない。と思つて眼を転じた時、自分はひやりと許り心をおどろかした。そして、呼吸いきをひそめた。
 前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稲荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か数尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稲荷社の背面には、高い床下に特別な小龕せうがんが造られてある。これは、夜な/\正一位様の御使なる白狐が来て寝る処とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干鯡ほしにしん乃至ないし強飯こはいひの類の心籠めた供物くぶつを入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣をすかして、此白狐の寝殿を内部まで覗ひ見るべき地位に立つて居たのだ。
 然し、自分のひやりと許り愕いたのは、敢て此処から牛の様な白狐が飛び出したといふ訳ではなかつた。
 此古い社殿の側縁そくえんの下を、一人の異装した男が、破草履やれざうりの音も立てずに、此方こなたへ近づいて来る。脊のヒヨロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬にの血色もない、塵埃ごみだらけの短かい袷を着て、よごれた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帯を締めて、赤い木綿の截片きれを頸に捲いて、……俯向いて足の爪尖をみつめ乍ら、薄笑うすらわらひをして近づいて来る。
 自分は一目見た丈けで、此異装の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪気な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々喪狗さうくの如く市中を彷徨うろついて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何かもとむるものの如く同じ道を幾度も/\往来して居る男である事は、自分のよく知つて居る処で、又、嘗て彼が不来方城頭にひざまづいて何か呟やき乍ら天の一方を拝んで居た事や、或る夏の日の真昼時、恰度課業が済んでゾロ/\と生徒の群り出づる時、中学校の門前に衛兵の如く立つて居て、出て来る人ひとり/\に慇懃いんぎんな敬礼を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の県知事の令夫人が、招魂社の祭礼の日に、二人の令嬢と共に参拝に行かれた処が、社前の大広場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい浅黄色の破風呂敷やれふろしきを物をも云はず其盛装した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不拘かかはらず、常に此新山堂下の白狐龕びやつこがんを無賃の宿として居るといふ事も亦、自分の聞き知つて居た処である。
 異装の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして、可成彼にさとられざらむ様に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の挙動に注目した。
 薄笑をして俯向き乍ら歩いてくる彼は、やがて覚束なき歩調あしどりを進めて、白狐龕の前まで来た。そして、はたと足を止めた。同時に『ウツ』と声を洩して、ヒヨロ高い身体を中腰にした。ヂリ/\と少許すこしづつ少許づつ退歩あとしざりをする。――此名状し難き道化た挙動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。
 殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。
 今迄がうも気が付かなんだ、此処にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一色ひといろよごれはてた、肩揚のある綿入を着て、グル/\巻にした髪には、よく七歳ななつ八歳やつの女の児の用ゐる赤い塗櫛をチヨイと※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して、二十はたちの上を一つ二つ、頸筋は垢で真黒だが、顔は円くて色が白い…………。
 これと毫厘がり寸法の違はぬ女が、昨日の午過ひるすぎ、伯母の家の門に来て、『おだんのまうす、おだんのまうす。』と呼んだのであつた。伯母は台所に何か働いて居つたので、自分が『何家どこの女客ぞ』と怪しみ乍ら取次に出ると、『腹が減つて腹が減つて一足も歩かれなエハンテ、何卒どうか何か……』と、いきなり手を延べた。此処へ伯母が出て来て、幾片かの鳥目を恵んでやつたが、後で自分にかう話した。――アレはお夏といふ女である。雫石しづくいしの旅宿なる兼平屋かねひらや(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が来ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに従つて段々愚かさが増して来た。此年の春早く、連合つれあひに死別れたとかで独身者ひとりものの法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め/\、幾等いくら叱つてもおどしても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶然ひよつこり帰つて来た。が其時はモウ本当の愚女ばかになつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の礼さへ云はなんだ。半年有余の間、何をして来たかは無論誰も知る人はないが、帰つた当座は二十何円とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして来たのであらう。此盛岡に来たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日彼様ああして人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『おだんのまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然すつかり普通の女でなくなつた証拠には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通りべにをつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな処に寝るんですかネー。――
 此お夏は今、狭い白狐龕の中にベタリと坐つて、ポカンとした顔を入口に向けて居たのだ。余程早くから目を覚まして居たのであらう。
 中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする様に、唇を尖らして一声『フウー』といがんだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
 お夏も亦何と思つたか、にはかに身を動かして、斜にせなを繁に向けた。そして何やら探す様であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、オヤと思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ唇へ塗りつけた。そして、チヨイト恥かしげに繁の方に振向いて見た。
 繁はビク/\と其身を動かした。
 お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
 繁はグツと喉を鳴らした。
 繁の気色の較々やや動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少許すこし捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。
 自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛然さながら、ヒマラヤさんあたりの深い深い万仭の谷の底で、いはほと共に年をつた猿共が、千年に一度る芝居でも行つて見て居る様な心地。
 お夏が顔の崩れる許りニタ/\/\と笑つた時、繁は三度声を出して『ウツ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分はことばを知らぬ。
 お夏は猶ニタ/\と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁そばえんの下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場所ところへ。
 坦たる広庭の中央には、雲をしのいで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛装をこらして居た。葉といふ葉は皆黄金の色、暁の光の中で微動こゆるぎもなく、碧々としてうつす光沢つやを流した大天蓋おほぞらに鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛然さながら金色こんじきの雲をて立つ巨人の姿である。
 二人が此大公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口疾くちどに囁いた。お夏はうなづいた様である。
 忽ち極めて頓狂な調子外れな声が繁の口から出た。
『ヨシキタ、ホラ/\。』
『ソレヤマタ、ドツコイシヨ。』
とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。
 踊といつても、元より狂人の乱舞である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)だうと衝き当つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打衝ぶつつかつて度を失ふ事もある。そして、かういふ事のある毎に、二人は腹の底から出る様な声で笑つて/\、笑つて了へば、『ヨシキタホラ/\』とか、『ソレヤマタドツコイシヨ』とか、『キタコラサツサ』とか調子をとつて、再び真面目に踊り出すのである。
 ※々さやさや[#「王+倉」、54-下-20]と声あつて、神のゑまひの如く、天上を流れた。――朝風の動きめたのである。と、巨人は其て居る金色の雲をちぎり断つて、昔ツオイスの神が身をした様な、黄金の雨を二人の上に降らせ始めた。嗚呼、嗚呼、幾千万片と数の知れぬ金地の舞の小扇が、もつれつ解けつヒラ/\と、二人の身をも埋むる許り。或ものは又、見えざる糸に吊らるる如く、枝に返らず地に落ちず、つやある風に身を揉ませて居る。空に葉の舞、地の人の舞! 之を見るもの、上なるを高しとせざるべく、下なるをひくしとせざるべし。黄金の葉は天上の舞を舞ふて地に落つるのだ。狂人繁と狂女お夏とは神の御庭に地上の舞を舞ふて居るのだ。
 突如、梵天ぼんてんの大光明が、七彩赫灼かくしやく耀かがやきを以て、世界開発かいほつの曙の如く、人天にんてん三界を照破した。先づ、雲に隠れた巨人のかしらを染め、ついで、其金色の衣を目もくらめばかりに彩り、やがて、あまねく地上の物又物を照し出した。朝日が山の端を離れたのである。
 見よ、見よ、踊りに踊り、舞ひに舞ふお夏と繁が顔のかがやきを。痩せこけて血色のない繁は何処へ行つた? 頸筋黒くポカンとしたお夏は何処へ行つた? 今此処に居るのはこれ、そらの日の如くかがやかな顔をした、神の御庭の朝の舞に、遙か下界から撰び上げられた二人の舞人である。金色の葉がしきりなく降つて居る。金色の日光が鮮かに照して居る。其葉其日光のかがやきが二人の顔をかう染めて見せるのか? 否、さうではあるまい。恐らくは然ではあるまい。
 若し然とすると、それは一種の虚偽である。此荘厳な、金色燦然たる境地に、何で一点たりとも虚偽の陰影の潜むことが出来やう。自分は、然でないと信ずる。
 全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの声で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、『狂者は天の寵児だと、プラトーンが謂つた。』と。
 お夏が声を張り上げて歌つた。
『惚れたーアー惚れたーのーオ、若松様アよーオー、ハア惚れたよーツ。』
『ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。』
と繁が次いだ。二人の天の寵児が測り難き全智の天に謝する衷心の祈祷は、実に此の外に無いのであらう。

 電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた光景は、宛然さながら幾千万片の黄金の葉が、といふ音もなく一時に散り果てたかの様に、一瞬にして消えた。が此一瞬は、自分にとつて極めて大切なる一瞬であつた。自分は此一瞬に、目前に起つて居る出来事の一切すべてを、よく/\解釈することが出来た。
 疾風の如く棺に取縋つたお夏が、蹴られて※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)と倒れた時、懐の赤児が『ギヤツ』と許り烈しい悲鳴を上げた。そして此悲鳴が唯一声であつた。自分は飛び上る程喫驚きつきやうした。ああ、あの赤児は、つぶされて死んだのではあるまいか。…………
(以下続出)
〔「明星」明治三十九年十二月号〕





底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「明星 十二号」
   1906(明治39)年12月発行
初出:「明星 十二号」
   1906(明治39)年12月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月18日作成
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