日本無政府主義者陰謀事件經過及び附帶現象

石川啄木




明治四十三年(西暦一九一〇)六月二日
東京各新聞社、東京地方裁判所檢事局より本件の犯罪に關する一切の事の記事差止命令を受く。各新聞社皆この命令によつて初めて本件の發生を知れり。命令はやがて全國の新聞社に通達せられたり。
同年六月三日
本件の犯罪に關する記事初めて諸新聞に出づ。但し主として秋水幸徳傳次郎が相州湯ヶ原の温泉宿より拘引せられたるを報ずるのみにして、犯罪の種類内容に就いては未だ何等の記載を見ず。
比較的長文の記事を掲げたる東京朝日新聞によれば、幸徳傳次郎は四十三年四月七日、妻(内縁の妻管野すが)と共に相模國足柄下郡土肥村大字湯ヶ原に到り、温泉宿天野屋に在りて專心「基督傳」の著述に從ひ、五月六日妻と共に一旦歸京、同月十日更に單身同地に到り、悠々として著述の筆を續けゐたるものにして、六月一日に至り、歸京する旨を告げて午前七時三十分頃天野屋を立出で、人力車を驅りて輕便鐵道停車場に急ぐ途中、東京、横濱の兩地方裁判所判、檢事及び小田原區裁判所の名越判事等の一行六名に逢ひ、直ちに取押へられて一旦湯ヶ原駐在所に引致され、令状執行の上身體檢査を受けて同午前九(?)時十六分同地發輕便鐵道により東京に護送せられたるものなり。而して同紙は、幸徳は數ヶ月前より其同志中の或一部より變節者を以て目せられ、暗殺、天誅等の語を蒙るに至りしより、警視廳は却つて刑事を派して同人を警護せしめ、後同志の激昂漸く鎭靜するに及びて戒を解くに至りしものにして、湯ヶ原駐在巡査の如きは、拘引當日、同人の引かれて駐在所に入るに逢ひて其何の故なるかを知るに苦しみし旨、及び同じく天野屋に滯在中の田岡嶺雲氏が、幸徳と同郷の知人たる故を以て、幸徳拘引後種々の迷惑を享けたる旨を附記せり。この記事は「社會主義者捕縛」と題したるものにして、約一段に及べり。
同年六月五日
この日の諸新聞に初めて本件犯罪の種類、性質に關する簡短なる記事出で、國民をして震駭せしめたり。
東京朝日新聞の記事は「無政府黨の陰謀」と題し、一段半以上に亘るものにして、被檢擧者は幸徳の外に管野すが、宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衞、新田融、古川力藏(作)の六名にして、信州明科の山中に於て爆裂彈を密造し、容易ならざる大罪を行はんとしたるものなる旨を記し、更に前々日の記事を補足して、幸徳が昨(四十二)年秋以來友人なる細野次郎氏の斡旋にて警視廳の某課長と數次の會見を重ね、遂に主義宣傳を斷念することを誓ひて同人に關する警戒を解かれたる事、及び其友人荒畑寒村が赤旗事件の罪に坐して入獄中、同人内縁の妻管野すがを妻(内縁)としたる事等によりて同志の怨恨を買ひたるものなるが、近來表面頗る謹愼の状ありしは事實なるも、そは要するに遂に表面に過ぎざりしなるべしと記載し、終りに東京地方裁判所小林檢事正の談を掲げたり。曰く、
今囘の陰謀は實に恐るべきものなるが、關係者は只前記七名のみの間に限られたるものにして、他に一切連累者なき事件なるは余の確信する所なり。されば事件の内容及びその目的は未だ一切發表しがたきも、只前記無政府主義者男四名女一名が爆發物を製造し、過激なる行動をなさんとしたる事發覺し、右五名及連累者二名は起訴せられたる趣のみは本(四)日警視廳の手を經て發表せり。云々。
尚同記事中、東京に於ては社會主義者に對する警戒取締頗る嚴重なるため、爾後漸く其中心地方に移るに至り、特に長野縣屋代町は新村融(忠雄)の郷里にして、同人は社會主義者中にありても最も熱心且つ過激なる者なるより、自然同地は目下同主義者の一中心として附近の同志約四十名を數へ居る事、及び現在日本に於ける社會主義者中、判然無政府黨と目すべき者約五百名ある事を載せたり。
同年六月八日
東京朝日新聞は、去る三日和歌山縣東牟婁郡新宮町にて、祿亭事ドクトル大石誠之助を初め同人甥西村伊作、牧師沖野岩三郎外五名家宅搜索を受け、五日大石は令状を執行され、六日警官三名の護衞の下に東京に護送せられたる旨を報ぜり。記事によれば、大石は米國に遊びて醫學を治め、ドクトルの稱號あり、甥西村はこれも歐米に遊びたる事ありて家には五十萬圓以上の資産あり、地方人士の崇拜を受け、青年團の行動を左右する程の勢力ありと。
翌九日に至りて同紙の載せたる詳報は同人等の名望を否定したり。
同年六月十三日
「婦人社會主義者喚問」と題し、甲府市に在る宮下太吉の姉妹に關する記事東京朝日に出づ。
同年六月二十一日
東京朝日新聞は「無政府主義者の全滅」と題し、和歌山に於ける大石、岡山に於ける森近等の捕縛を最後として、本件の檢擧も一段落を告げたるものとなし、斯くて日本に於ける無政府主義者は事實上全く滅亡したるものにして、第二の宮下を出さざる限りは國民は枕を高うして眠るを得ん云々の文を掲げたり。
文中また今日の如き嚴重なる取締の下に在りて彼等が如何にして此の如き大陰謀を企て、相互の間に連絡を取りたるかに言及し、其巧妙なる連絡法の一例として、彼等が新聞紙中の活字に符號を付して送り、受信者は其符號に從つて文字を拾ひ讀みし、以て其意を汲むに及びて之を燒棄してゐたるものなるを記せり。
因に、本件は最初社會主義者の陰謀と稱せられ、やがて東京朝日新聞、讀賣新聞等二三の新聞によりて、時にその本來の意味に、時に社會主義と同義に、時に社會主義中の過激なる分子てふ意味に於て無政府主義なる語用ゐらるるに至り、後檢事總長の發表したる本件犯罪摘要によりて無政府共産主義の名初めて知られたりと雖も、社會主義無政府主義の二語の全く沒常識的に混用せられ、亂用せられたること、延いて本件の最後に至れり。啻に新聞紙の記事、一般士民の話柄に於て然りしのみならず、本件裁判確定後間もなく第二十七議會に於て試みられたる一衆議院議員の質問演説中、また本件を呼ぶに社會主義者云々の語を以てしたるを見る。而して其結果として、社會主義とは啻に富豪、官權に反抗するのみならず、國家を無視し、皇室を倒さんとする恐るべき思想なりとの概念を一般民衆の間に流布せしめたるは、主として其罪無知且つ不謹愼なる新聞紙及び其記者に歸すべし。又一方より見れば、斯くの如きは以て國民の理解の程度未だ本件の眞意義を咀嚼する能はざる一證左とすべし。
同年 月
(この項缺)

同年八月四日
文部省は訓令を發して、全國圖書館に於て社會主義に關する書籍を閲覽せしむる事を嚴禁したり。後内務省も亦特に社會主義者取締に關して地方長官に訓令し、文部省は更に全國各直轄學校長及び各地方長官に對し、全國各種學校教職員若しくは學生、生徒にして社會主義の名を口にする者は、直ちに解職又は放校の處分を爲すべき旨内訓を發したりと聞く。
同年八月二十九日
韓國併合詔書の煥發と同時に、神戸に於て岡林寅松、小林丑治外二名檢擧せられ、韓人と通じて事を擧げんとしたる社會主義者なりと傳へらる。
同年九月六日
この日安寧秩序を紊亂するものとして社會主義書類五種發賣を禁止せられ、且つ殘本を差押へられたり。
爾後約半月の間、殆ど毎日數種、時に十數種の發賣禁止を見、全國各書肆、古本屋、貸本屋は何れも警官の臨檢を受けて、少きは數部、多きは數十部を差押へられたり。而して右は何れも數年前若しくは十數年前の發行に係るものにして、長く坊間に流布して其頒布自由なりしものなり。若し夫れ臨檢警官の差押へたる書中、其録する所全く社會主義に關せざるも猶題號に「社會」の二字あるが爲に累を受けたるものありしといふに至りては、殆ど一笑にも値ひしがたし。「昆蟲社會」なる雜誌(?)の發行者亦刑事の爲に訊ねらるる所ありたりといふ。發賣禁止書類中左の數種あり。
通俗社會主義(堺利彦著)
七花八裂(杉村楚人冠著)
兆民先生
普通選擧の話(西川光二郎著)
近世社會主義史(田添幸枝著)
社會學講義(大月隆著)
良人の自白(小説)前篇及後篇(木下尚江)
社會主義神隨(幸徳秋水著)
同年九月十九日
東京朝日新聞の左の如き記事あり。
◎社會主義者の檢擧
▽神奈川縣警察部の活動
神奈川縣警察部は數日前より縣下各警察署に命じ市郡に散在せる結社の内偵を爲しつゝありしが、機愈※(二の字点、1-2-22)熟したりと見え服部檢事は各署に到りて密々打合を爲し、遂に加賀町署に命を傳へ一昨夜根岸町柏原田中佐市(四十五)長者町九丁目菓子屋金子新太郎(三十八)の兩人は松山豫審判事の令状を以て直ちに根岸の未決監に收容され、又根岸町字芝生大和田忠太郎(三十)末吉町三の四一畫工高畑己三郎(三十二)の兩人も拘引取調を受け、同町四の五三代書業吉田只次(四十)及び神奈川町字臺獨逸醫學博士加藤時次郎の二人は家宅搜索を受けたれども拘引せられず、右の内第一に逮捕されし田中佐一は土地家屋を所有し相當資産ありて同志の祕密出版其他の費用をも負擔し居たるものなりと。尚今囘家宅搜索の際押收せるものは近頃發賣禁止となりたる書籍と同志間の往復書類及び横濱に於ける祕密出版物等なるが、昨日は日曜にも拘らず警察部より今井警部、山口警部補出動し加賀町署と協力引續き活動を爲しつゝあり。
同年九月二十三日
東京朝日新聞に左の如き記事あり。
◎社會主義者の取調
恐るべき大陰謀を企てたる幸徳秋水、管野すが等の社會黨員に對する其筋の大檢擧は、東京、横濱、長野、神戸、和歌山其他全國各地に亘りて着々進行し、彼の故奧宮檢事正の實弟、公證人奧宮某の如きも、被檢擧者の一人に數へらるゝに至りたり、斯くて大審院に於ては特別組織の下に彼等の審理に着手し、松室檢事總長は神戸より上京したる小山檢事正及び大賀、武富等の專任をして夫々監獄に就きて取調べを進めつゝあり、何さま重大なる案件の事とて各被告は夫々別房に分ちて收禁しつゝありとなり。
◎京都の社會主義者狩
社會主義者に對する現内閣の方針はこれを絶對的に掃蕩し終らずんば止まじとする模樣あり、東京の檢擧に次で大阪、神戸等に於ける大檢擧となり、近くは幸徳秋水等の公判開廷されんとするに際しこゝに又々京都方面に於て極めて秘密の間に社會主義者の大檢擧に着手したる樣子あり、未だ知られざりし社會主義者又は社會主義に近き傾向を有する同地方の青年等は恟々安からずと云ふ。
同年九月二十四日
東京朝日新聞紐育電報中左の一項あり。
◎日本社會黨論評(同上)
二十一、二兩日の諸新聞は日本の社會黨が容易ならざる大逆の陰謀を企て居れりとの報を載せ、中にもウオールド新聞の如きは日本は今日までは善良なる文明を輸入し居りしも今日は追々惡しき文明を輸入し初めたりと論じ居れり。
又左の記事あり。
◎堺大杉等の轉監
▽極秘密に東京へ送る
今囘の社會主義者檢擧に就き赤旗事件に依り千葉監獄に服役中なる社會主義者堺枯川、大杉榮等に對し去月下旬東京地方裁判所小原檢事は同監獄に出張取調ぶる所ありしが、東京檢事局にては審理及び搜査上不便少からざるより、同人等の轉監を申込み來りたれば二十二日夜八時東京監獄より押送吏は刑事巡査數名と共に千葉監獄に來り極めて秘密の中に堺、大杉外一名を東京に護送したり。(千葉電話)
但し右に移監に非ずして滿期出獄となりたるものなり。
同年十月五日
東京朝日新聞左の記事を掲ぐ。
◎社會主義者の疲弊
▽守田文治と福田武三郎拘引
▽社會主義は不自由なものだ
以前より其筋の注意を受け居たる社會主義者守田文治(二十九)福田武三郎(二十七)は昨四日午前何れも自宅より檢事局へ拘引されたり。
▲自然と人の著者  守田は號を有秋と云ひ過ぐる卅二年五月友人山川均と共に雜誌「青年の福音」へ「強力の爲に壓せられたる云々」の記事を掲載して不敬罪に問はれ、重懲役三年六ヶ月罰金百二十圓の處分を受けしが、出獄後兩人とも過劇なる社會主義を唱え山川は例の赤旗事件にて再び入獄したるも、守田は激烈なる虚無黨主義を以て清韓印度等の留學生と結託し何事をか爲さんとしたるも、友人等は守田の思想が益※(二の字点、1-2-22)惡傾向に陷るを見て四面より之を制止したれば、同人も大に感じたりと見て爾來同主義者との交際を斷ち頗る謹愼の状を現し、絶對に社會主義を唱へずと誓約して某新聞社に入り老母妻子と共に府下大久保に居住し極めて平和の生活を爲し居たるも、昨年中同人の出版したる著書「自然と人」の中に端なくも軍隊を詛ひし一節ありて、當時友人は再び眉を顰めしが、幸徳一派とは別に交際し居る形跡を認めざりしに昨日に至り突如檢擧されしなり、其内容は不明なるも矢張秘密の裡に過劇派と往復し居たるものには非ざるか。
▲一介の活版職工  福田武三郎は本所厩橋凸版印刷株式會社の植字職工にして、本所番場町七六森長七方の二階三疊の座敷に起臥し居る微々たる一職工なるが、平素心理、衞生、英文に關する幾多の書籍を藏し、又社會主義に關する書籍を耽讀せり、同人は島根縣の生れにして昨年九月淺草區小島町七三中村八十吉の世話にて凸版會社に入り日給七十二錢を受けしも、高橋勝作と僞名し其後本年七月に至り府下寺島村八九三マルテロ社より森方に轉宿し來りしものにして、一日も會社を休みし事なく、下宿に在つても酒煙草を飮まず只一囘ビールを飮みて酩酊し其夜吉原に遊びし事ありと、下宿の主人森長七の承諾を得て福田の居室を見るに狹き三疊の座敷に大なる机を控へ其の周圍は悉く書籍を以て埋まり如何にも書籍の裡に起臥し居たるものゝ如し、福田が最近友人に送りし書翰を見るに其思想頗る變化せしものゝ如く、彼の大阪に於ける友人が彼の活動を賞讚して主義の爲めに奮鬪せよと激したる書翰に對し左の如く答へ居れり。
吾々は萬の研究を了へた結果社會主義に來たものでない。只社會主義に偶然出會つたら、氣骨のある連中が比較的立派な説を正直に唱へて運動して居る、之が吾々と意氣が一時投合したから暫時御仲間入をして激語を放つたに過ぎない。加之に在京中毎度話をした如く吾々は比較的多くの自由を得んが爲めに叫びつゝあるのに、反て常の人よりも不自由をより多く與へらるゝならば寧ろ叫ばぬが得策であると想ふ。
自由を得んとして反つて不自由を與へられ寧ろ社會主義を叫ばぬ方が得策なりとは、彼の淺薄なる思想を窺ひ知り得べきも、昨朝判檢事出張し書籍及び手紙を押收したりと云へば守田と同じく何事にか關連し居たるものならん。
但し翌々日に至り、守田有秋は單に一時間許りの訊問にて放還されたる旨訂正したり。
同年十一月八日
東京朝日新聞に左の如き記事出づ。
◎社會主義公判
▽愈※(二の字点、1-2-22)開かれんとす
先頃來我國全土に亙りて嚴に物色せられ檢擧せられたる彼の極端なる社會主義者幸徳傳次郎外數十名は、其犯行頗ぶる重大にして我國の史上殆ど空前に屬する事件の由にて、我國最高裁判所たる大審院の横田院長は特に裁判所構成法規定の特別權限に據り、同院の判事末弘嚴石氏外數名に之が豫審を命じ、秘密の裡にも深き秘密を守り窓戸の開閉だに苟くもせざるやう密密豫審を進めしめ居りしが、該豫審も愈※(二の字点、1-2-22)數日前決定したるやの風説あり、夫かあらぬか專任として該事件の檢擧に從事したる檢事の如きも二三日前より夫々他の事件を擔任するに至りたるが、尚聞く所によれば該重大事件の公判は愈※(二の字点、1-2-22)來る二十日前後を以て開廷せらるゝやの飛報あり、該公判は勿論、裁判所構成法第五十條第二項に當るべき事件として大審院は第一審にして終審したるべき特別裁判所を構成し最も鄭重なる手續により審理を行ふべく、而して院長は既に夫々擔任者を任命し院長自ら之が裁判長たるべき豫定なりし處、本事件に關し院長は院長として執るべき事務頗る多きを以て、裁判長は別に某部長を以て當らしむる事に定めたりといへり、扨斯て愈※(二の字点、1-2-22)公判開廷とならば、其審理は傍聽を許すべきや否や目下未定に屬し居れども、當局者の意向によれば公開を禁じ全部判決の後に至らざれば該事件の眞相をも亦公にせざる都合なりといへり。
同年十一月九日
東京朝日新聞に左の如き記事出づ。
刑法第二編第一章又は同第二章に該當せる恐るべき重罪犯嫌疑者として世間に喧傳せらるゝ社會主義者の氏名は、新村忠雄、新村善兵衞、幸徳傳次郎、管野すが、大石誠四郎、高木顯明、崎久保誓一、小池一郎、同徳市、吉野省一、横田宗次郎、杓子甚助、有村忠恕等總計廿五六名にして本件の豫審は普通の豫審事件の如く豫審判事の手に於て終結決定する者にあらず、刑事訴訟法第三百十四條同三百十五條の規定に基き豫審判事は其取調べたる訴訟記録に意見を附して大審院に提出し、大審院長は檢事總長の意見を聽きたる上其事件を公判に附すべきや否やを決定するの規定なり、又本件に關し辯護士は未だ正式に辯護屆を差出さゞれども幸徳の辯護人は花井卓藏、今村力三郎、大石の辯護人は今村力三郎、鵜澤總明、高木、崎久保二名の辯護人は平出秀(修)等の諸氏依頼を受け居る由。
而してこの日大審院長は本件の豫審終了を認め、特別刑事部の公判に附する決定を與へ、其決定書と共に檢事總長より本件犯罪摘要(十日東京朝日新聞所載記事中「大陰謀の動機の一項則ちそれなり)を各新聞社に對し發表し、各新聞社は號外を發行したり。
同年十一月十日
東京朝日新聞が本件に關し掲載したる全文左の如し。(「被告中の紅一點」の一項は松崎天民君の筆。「一味徒黨の面々」は渡邊君の筆。)
◎無政府主義者
公判開始決定
▽空前絶後の犯罪
恐るべき大陰謀を企てたる重罪嫌疑を以て過般檢擧せられたる社會主義者の一團幸徳傳次郎等廿六名の裁判事件は、嚴重なる秘密の裡に着々進行し愈※(二の字点、1-2-22)一昨八日大審院長は特別權限に屬する豫審の終了を認め、檢事總長の意見を徴したる上被告全部を特別刑事部の公判に附するの決定をなしたり、決定書の全文は左の如し
決定書
高知縣幡多郡中村町大字中村町百七十三番屋敷 平民著述業
幸徳傳次郎
明治四年九月廿三日生
京都府葛野郡朱雀野村字聚樂※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)豐樂西町七十八番地 平民無職
菅野事 管野すが
明治十四年六月七日生
岡山縣後月郡高屋村四千五十二番地 平民農
森近運平
明治十四年一月二十日生
山梨縣甲府市本町九十七番戸 平民機械鐵工
宮下太吉
明治八年九月三十日生
長野縣埴科郡屋代町百三十九番地 平民農
新村忠雄
明治二十年四月二十六日生
福井縣遠敷郡雲濱村竹原第九號字西作園場九番地 平民草花栽培業
古川事 古川力作
明治十七年六月十四日生
北海道小樽區稻穗町畑十四番地 平民機械職工
新田融
明治十三年三月十二日生
長野縣埴科郡屋代町百三十九番地 平民農
新村善兵衞
明治十四年三月十六日生
東京市神田區神田五軒町三番地 平民無職
奧宮健之
安政四年十一月十二日生
高知縣安藝郡室戸町大字元無家 平民活版文選職
坂本清馬
明治十八年七月四日生
和歌山縣東牟婁郡屋新宮村三百八十四番地 平民醫業
大石誠之助
慶應三年十一月四日生
同縣同郡請川町大字請川二百八十三番地 平民雜商
成石平四郎
明治十五年八月十二日生
同縣同郡新宮町五百六十四番地 平民僧侶
高木顯明
元治元年五月廿一日生
同縣同郡同町二番地 平民僧侶
峯尾節堂
明治十八年四月一日生
三重縣南牟婁郡市木村大字下市木二百八番屋敷 平民農
崎久保誓一
明治十八年十月十二日生
和歌山縣東牟婁郡請川村大字耳打五百卅一番地 平民藥種賣藥及雜貨商
成石勘三郎
明治十三年二月五日生
熊本縣玉名郡豐水村大字川島八百七十一番地 士族新聞記者
松尾卯一太
明治十二年一月廿七日生
同縣飽託郡大江村大字大江七百五十四番地 平民無職
新美卯一郎
明治十二年一月十二日生
同縣熊本市西坪井町七番地 平民無職
佐々木道元
明治二十二年二月十日生
同縣鹿本郡廣見村大字四千八百七十三番地 平民無職
飛松與次郎
明治二十二年二月廿六日生
神奈川縣足柄下郡温泉村太平臺三百三十七番地 平民僧侶
内山愚童
明治七年五月生
香川縣高松市南紺屋町廿六番地 平民金屬彫刻業
武田九平
明治八年二月二十日生
山口縣吉敷郡大内村大字御堀二百三番屋敷 平民電燈會社雇
岡本頴一郎
明治十三年九月十二日生
大阪市東區本町二丁目四番地 平民鐵葉細工職
三浦安太郎
明治二十一年二月十日生
高知縣高知市鷹匠町四十番屋敷 平民神戸湊川病院事務員
岡林寅松
明治九年一月三十一日生
同縣同市帶屋町四十一番屋敷 平民養鷄業
丑次事 小林丑治
明治九年四月十五日生
右幸徳傳次郎外二十五名が刑法第七十三條の罪に關する被告事件に付刑事訴訟法第三百十五條に依り大審院長の命を受けたる豫審判事東京地方裁判所判事潮恒太郎同河島臺藏同原田鑛より差出したる訴訟記録及意見書を調査し檢事總長松室致の意見を聽き之を審案するに本件は本院の公判に付すべきものと決定す
明治四十三年十一月九日
大審院特別刑事部に於て
裁判長判事 鶴丈一郎
判事 志方 鍛
判事 鶴見守義
判事 末弘嚴石
判事 大倉鈕藏
判事 常松英吉
判事 遠藤忠次
裁判所書記 田尻惟徳
▲大陰謀の動機
幸徳傳次郎(秋水)外二十五名が今囘の大陰謀を爲すに至りたる動機をたづぬるに、傳次郎は明治三十八年十一月米國桑港に至り同國の同主義者と交はり遂に個人の絶對自由を理想とする無政府共産主義を信ずに至り、同港在留の日本人に對し其説を鼓吹し、翌三十九年五月頃社會革命黨なるものを組織し本邦の同主義者と氣脈を通じ、相呼應して主義の普及を圖るの計畫を爲し同年六月歸朝し直接行動論を主唱したるに始まるものにして、同人は爾來現今の國家組織を破壞して其理想を實現せんと欲し無政府主義者の泰斗たるクロポトキン其他の著書學説を飜譯出版して國内に頒布し、盛に無政府主義の鼓吹に努め、遂に多數の同主義者を得るに至り其言論益※(二の字点、1-2-22)過激となり、明治四十年二月十七日東京神田錦輝館に於ける日本社會黨大會に於て直接行動を執るべき旨を公然主張するに至れり、尋で同月二十二日先きに認許せられたる日木社會黨は安寧秩序に妨害ありとし、其結社を禁止せられたり、所謂直接行動とは議會政策を否認し總同盟罷業破壞暗殺等の手段を以て其目的を達せんとするものにして、傳次郎等は其初に當りては秘密出版其他の方法に依り主として其思想の普及を圖りしも、遂に進んで過激なる手段を執るに至り、同主義者は其第一着手として明治四十一年六月二十二日東京神田に於て無政府共産革命と大書したる赤旗を白晝公然街路に飜へし示威運動を爲し、警察官の制止に抵抗して爭鬪を挑み其十數名は處刑せられたり、當時郷里高知縣に於て無政府主義の著述に從事し居りたる傳次郎は、同年七月郷里を出發し途次新宮及箱根に於て同志に謀るに暴擧を決行せんことを以てし、八月上京し屡※(二の字点、1-2-22)同志と會合したる末主義普及の手段として今囘の陰謀を爲すに至りたり、而して本件が本年五月下旬長野縣明科に於て發覺したる際被告となりし者は宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衞、新田融、東京に於て逮捕されたる古河力作、當時東京監獄に勞役場留置中の管野すが及び神奈川縣湯河原に於て逮捕されたる傳次郎の七名に過ぎざりしに、嚴密に搜査を爲したる結果陰謀に參與せし者各地に散在せること發覺し遂に二十六名の被告人を出すに至りしなりと、
▲刑法七十三條の罪
決定罪状の刑法第七十三條は茲に改めて記す迄もなく刑法第二編第一章皇室に對する罪に屬して左の明文あり
第七十三條天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に對し危害を加へ又は加へんとしたる者は死刑に處す
而して公判に於て該條により處斷せらるるものとせば被告等の運命得て知るべきなり
▼公判と辯護人 愈※(二の字点、1-2-22)公判開始と決定したるにより横田大審院長は昨日直ちに鶴裁判長以下各判事を集めて公判開始に關する協議會を開き午後三時より司法省に於ける司法官會議に出席せり、左れば公判開廷の日は未だ公表せられざれども、いざ開廷とならば同院にては普通重罪犯者と同樣辯護士の私選を許す方針なれば各辯護士よりは夫々辯護屆を差出すなるべし、但し開廷の上は傍聽は禁止さるべき事勿論なるべし、
▲桑港に於ける幸徳
▽米國の不平黨に交る
久敷桑港に在りて同地の事情に精通する某氏の談に曰く
▲秋水の渡米 幸徳が桑港に渡つたものは去卅八年の十二月だつた、約一年間滯在して翌年の夏歸國したと思ふ、元來桑港及び對岸オークランドには露西亞人波蘭人伊太利人西班牙人等から成る數個の無政府黨團體があつて、重に日曜及び木曜毎に演説會又は彼等自身の秘密會合を開き一種の國際的團體を成して居る。
▲無政府團體 幸徳が渡米した當時は未だ無政府黨と云ふ程では無かつたやうだが、着後直に前記各國人から成る社會主義乃至無政府黨的團體を歴訪して非常に歡迎されたものだ、元來クロポトキン等を學んで頭の素地が出來て居た處だから、此種の人間と交際を重ねて居る間に徐々渠の頭腦が虚無的に傾いて來た事は爭はれない。
▲過激なる一團 前記各國人から成る諸團體は社會主義と無政府主義とがゴツタになつて居るので、黨員で迫害さるゝ者があれば辯護士を雇つて助けてやるとか又は各種の出版物の手助をするとか、互に連絡氣脈を通じて居るので日本人間にも其の頃から青年社會主義と呼ぶ一團體が出來て渠等の力で或る不都合なる册子パンフレツトを六箇國語で出版した事がある。其處へ幸徳が遣つて來て徐々彼の頭が動搖くと共に三四ヶ月の間に到頭日本人青年間にも過激な色彩を帶ぶる一團體が出來上つて仕舞つた。
▼不平と破壞 で其種の邦人は悉く弱年の無力者で、他の一般邦人在留者は渠等の行動を兒戲視して殆ど一顧をも與へないで居たのだが、幸徳が歸國すると共に從來内部に潜んで居た渠等の行動は段々表面に現れて來て、各所で演説會を開いて過激な言論を弄ぶやうになつては從來會場を貸して居た佛教及び耶蘇教の會堂でも其を斷るやうになつた、其麼工合で居る中に渠等の言動は漸く政治上の社會主義乃至無政府黨的言論以外に迄走つて萬事に不平的破壞的態度を執るやうになり、假令ば或人が新に某事業を企てんとするが如き場合には直に資本家云々と騷ぎ立てると云ふやうな譯で、眞面目な邦人からは相手にされなかつた、先づ大體に於て以上述べたやうな有樣だつたが近來は大分其熱が冷めて來たやうに思つて居た處だつた云々。
▲被告中の紅一點
▽管野すが子の經歴
大陰謀事件に參加した二十六人の内に唯一人の女性が居る、「日本の女と社會主義」と云ふのさへ既に奇異の感がするのに、斯る大事件の大舞臺に唯一人の女性が登場して居ることは、或る意味に於て注目すべき事柄である。
管野すが子は齡卅歳、生れは京都府葛野郡朱雀野村である、春に秋に歌に好く詩に好いこの歴史的匂ひある村に生れた一女性は、小學校を出で世の鹽にもまれる樣になると、種々數奇の運命に弄ばれた、多少の「文字ある女」に能くある慣として、すが子は澤山の男にも關係したし、多くの文學的書籍にも讀み耽つた。一時は大阪の古い小説家宇田川文海と同棲して、夫婦同樣に暮して居た事もあるし、紀州田邊の牟婁新報、大阪の大阪朝報などで、婦人記者として探訪に從事した事もある。その間にすが子は社會主義の事を見聞して、その女性たる身體に相應しからぬ男らしい思想の人となつた。
大阪では雜誌「基督教世界」にも關係して居たが、その東京へ來て前の電報新聞の婦人記者となるや暫時の間は眞面目に働いて居た、幸徳秋水と相知り相許すに至つてから、愈※(二の字点、1-2-22)社會主義の思想、無政府共産主義の猛烈な考へを抱く樣になり、例の赤旗事件で具體的の運動を始めた、管野すが子の名が社會主義仲間に知れ渉ると共に、警視廳の注意人物簿に朱點をうたれ、新聞の雜報に屡※(二の字点、1-2-22)其名を記される樣になつたのは、實に此の赤旗事件以後の事である。
其幸徳秋水と千駄ヶ谷町九〇三番地に同棲してからは、雜誌「自由思想」誌上で折々所感を公にした、この雜誌のためには又四十一年七月十五日から九月一日迄四十七日間を東京監獄の未決監に過した、漸く萌して居た肺病はこれより重く、秋水と共に病躯を横へながら、社會主義のために奮鬪して居る内、遂に今囘の大々事件を起したのである。
二十六人の中に唯一人の管野すが子は、實に京都の女である。(一記者)
▲一味徒黨の面々
△幸徳傳次郎 少うして故中江兆民の玄關番をなし苦學すること多年、國民英學會にも學びてめざまし新聞中央新聞等に記者となり朝報社に入りて文名大に揚る。恩師兆民の自由民權論を承けて之を唱へ後明治三十年頃ユニテリアン教會に出入して社會主義を研究し日露戰爭前非戰論を主唱して朝報社を去り、同志等と平民新聞を起して盛に社會主義を鼓吹し其廢刊後は屡※(二の字点、1-2-22)雜誌を出し書を著はして主義の普及を謀り居たり。
△森近運平 岡山縣立農學校の出身にて同縣屬官として社會主義を唱へ職を免ぜられて出京し、平民新聞社に投じ主義普及の運動をなし後大阪に到り月刊雜誌を出し、近來は郷里に歸りて園藝に從事し、一介の農夫を以て自任しつゝありき。
△宮下太吉 今囘の大陰謀者の巨魁なり、初め紀州にありて後三重、名古屋を經て信州に入り、猛烈なる破壞思想を職工勞働者に直接注入するを以て自ら任ぜり、業は機械職工なり。
△新村忠雄 幸徳秋水の門人なり。
△新村善兵衞 忠雄の實兄にて信州の富農なり、弟の爲に社會主義者となれり、家には老いたる母只一人あるのみ。
△古河力作 府下瀧ノ川康樂園に雇はれて花造りを職とせり、王子に愛人社なるものを組織し社會主義の普及を圖れり、身の丈三尺五六寸胸廓手足之に準じ一見小兒の如し。
△新田 融 新村兄弟の友人なり。
△奧宮健之 有名なる奧宮檢事正の弟にて大井憲太郎等と自由民權論を演説し歩き名古屋事件の頃強盜殺人として九年の入牢を申附けられしが、憲法發布によりて特赦せられ出獄後壯士となり社會主義を唱ふ。
△坂本清馬 幸徳方の玄關番なりしが故ありて幸徳と分離せり、砲兵工廠の巡羅をなせしこともあり、後熊本に赴き松尾等の評論に執筆せり。
△大石誠之助 被告中の一異彩なり、温厚にして聰明なる君子人と傳へらる、醫を業とし其藥代診察料等の掲示には必ず『何十何圓の筈』と書し筈の字なきはなし。蓋し醫は仁術なりの古風を學び謝禮金のみに止めて藥料の如きは貪らざるの主意なり、附近に穢多村あり、多くの醫師之に往診するを恥づ、誠之助一人平然として赴きたりと云ふ、畸人なるべし。
△成石平四郎 高木顯明、峰尾節堂、成石勘三郎、崎久保誓一、何れも大石の親近者にして牟婁新聞の投書家或は記者なり、牟婁新聞は毛利柴庵の經營するものにして、管野すがも曾て在社したり。
△松尾卯一太 新美卯一郎、佐々木道元、飛松與次郎等は何れも熊本社會主義者の中樞にて、熊本評論の記者或は投書家なり、松尾は目下入獄中なり。
△内山愚堂 爆烈彈事件、虚無黨主義事件にて目下入獄せる有名なる惡僧なり、其詳傳既に記載せり。
▲獄裡の被告
▽決定書の交附
本年五月以來隨處に檢擧されし幸徳傳次郎始め廿六名の無政府主義者は今尚東京監獄に在り、昨日に至り愈※(二の字点、1-2-22)公判開始の決定となり其決定書は午後六時木名瀬典獄の手を經て被告等に交附されたり、尚彼等の現状について聞くに取扱は普通在監人と異なるなし、被告は一般に沈着の態度を持して謹愼し居るが健康は概して佳良の方にて、目下特に醫師の投藥を乞ひ居る者なきのみならず、入監前幸徳傳次郎、管野すがの如きは多く健康を害し居りしも、一定の運動一定の食事を享用し居るため體量も増加したり、左れど精神上の缺陷ある爲めにや一見衰弱せるが如し、毎日の食事も所持金ある者は一日一囘又は二囘宛の外食を要求し、衣類其他は他より差入はなきも別に不自由を嘆ずる模樣なし。
△耽讀を事とす 彼等の中には著述家あり新聞記者あり僧侶あり其他醫師職工會社員等ありて、一日の慰安は讀書を主とし、其耽讀の度は他囚中に見ざる程なり、幸徳、管野の兩人は佛耶兩教の宗教書類を最も多く繙讀せり、昨午後六時木名瀬典獄は、各房に就き裁判所より決定書到達の旨を告げ夫々交附せしめたるに、一同謹みて之を受け一讀して只默想し居たるもの多き模樣なりと。
△典獄の談 木名瀬典獄語つて曰く、本官は單に監獄の規則に基きて彼等を監督する外は當然與ふべき保護を與ふるに止まれど、入監後に於ける彼等の言動は極めて靜肅にして未だ曾て一囘の注意を與へたる事なし、攝生上に就きても獄則の許す範圍にて實行せしめ、就眠時間の如きも十分に熟睡せしめんため、各房の附近を歩行するにも足音のせざる樣看守に注意し置きたる程なり、他の衞生的注意も遺憾なきを期し居れり、其れが爲め世間に在りし時の如く今は不規律なる生活を脱して規律正しく食し規律正しく行動するため、一般に健康の佳良なるは其結果なるべし。(註。以上朝日新聞拔萃)
   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 次の一章は、刑法第七十三條の罪に該當する幸徳傳次郎等二十六名の特別裁判進行中、其裁判手續及び公判の公開禁止に關し、歐米新聞の論難、諸團體の決議に據る抗議等漸く旺んなるに當り、其誤解を解かんが爲に、外務省より在外日本人大使に送りて辯證の料に供し、且つ其英譯を内務省より國内諸英字新聞に送りたるものなり。
 而してその東京各新聞社に發表せられたるは明治四十四年一月十五日、即ち同裁判判決の日に先立つこと三日なりき。この寫しは翌十六日の國民新聞に掲載せられたるものに據れり。
 この文によりて、日本政府が裁判判決前已に有罪を豫斷しゐたるを知るに足る。又文中「本年秋季を期し」云々とあるによりて、この説明書が明治四十三年中に成りたるものなるを知るべし。

 目下大審院に於て審問中なる幸徳傳次郎外二十三名に對する陰謀事件に就き、裁判所の構成及其訴訟手續等に關し、世上往々誤解を懷き、裁判所が特に本件に限り、臨時便宜の裁判を爲す者なるが如く思惟する者あるを以て、左に、本件の訴訟手續は固より法令に準據し、毫も批議すべき點なき所由の大要を説明すべし。
 本件の内容は茲に之を詳説すべきものに非ずと雖も、一言以て之を明かにすれば、被告人の多數は何れも所謂無政府共産主義者に屬し、其主義を普及する一手段として、本年秋季を期し、恐多くも 皇室に對して弑逆を敢てし、進んで國務大臣を暗殺し、放火掠奪を行はんとの陰謀を企てたるものにして、此の事實は被告人の多數の自白、爆裂彈の存在、其の他の證據に徴して頗る明瞭なる所とす。
 右は實に刑法第七十三條に該當する犯罪なり。故に裁判所構成法第五十條第二號、及刑事訴訟法第七編に依り、大審院が特別に第一審にして終審として裁判權を有する事項に屬し、他の普通犯罪に付き裁判の審級を認めたるものと全く其規定を異にせり。而も此の如き法制は獨り我國のみならず、獨逸國に於ても其の裁判所構成法第百三十六條第一號に、皇帝に對する弑逆罪(豫備陰謀を含む)並に獨逸帝國に對する内亂外患の罪に付いては、帝國裁判所に於て特に第一審及終審の裁判權を有するものとの規定あり。又英國の法制上、古來弑逆罪に對する訴訟は普通裁判所の外上院に於ても特別權限として之を審問裁判したる事例の存するを見る。我大審院が今囘の事件に付き裁判を爲すに至りたるは、即ち前記法律の汽艇に依るものなり。(刑法第七十三條、裁判所構成法第五十條參照)
 是故に四十三年五月下旬長野縣下に於て本件犯罪の端緒發覺するや、檢事總長は當時犯迹の明なりし被告人幸徳傳次郎他六名に對し起訴の上、大審院長に豫審判事を命ずべき旨を請求し、大審院長は東京地方裁判所豫審判事に本件の豫審をなすべきことを命じ、右豫審判事は其後本件陰謀の共犯者として檢事總長より逐次起訴せられたるものと共に、各被告人に對して豫審を爲したる上、同年十一月一日、各被告人に對し有罪の意見を具して訴訟記録を大審院に差出し、大審院は檢事總長の意見を聽きたる上、同月十日本件を同院の公判に附すべき旨の決定を與へ、茲に本件の公判を開始するに至りしものなり。(裁判所構成法第五十五條、刑事訴訟法第三百十三條乃至第三百十五條參照)
 爾來公判は大に進行し、不日其終局を見んとす。然るに裁判所が公判開廷の初日に於て公開を禁止したる爲に、復疑を容るゝものありと雖も、苟も對審の公開にして安寧秩序を害するの虞ありと認めたるときは、之を停止し得べきは國法の命ずる所にして、裁判所は普通の事件に付ても之を行ふことを得。況んや本件の如き國家の安危に至重至大の關係を有するものに於てをや。故に此點に於ても亦裁判所の措置は頗る其當を得たるものなり。但し右の停止は獨り公判の審理に限るものにして、判決の言渡が公開せらるべきは論を俟たざるなり。尚公開停止と雖も、裁判長は入廷の特許を與ふるを至當と認めたるものに對し、之を入廷せしむるの權を有することは、是亦法律の規定する所にして、本件の審理に際し、公開停止中裁判所の職員、辯護士、其他の者にして特に裁判長の許可を得て審理を傍聽したるものありしは、此手續を履みたるものなり。(憲法第五十九條、裁判所構成法第百五條、同第百六條參照)





底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店
   1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:蒋龍
校正:阿部哲也
2012年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード