所謂今度の事

林中の鳥

石川啄木




(一)


 二三日前の事である。途で渇を覺えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さいしよくを圍んで語つてゐる三人連の紳士が有つた。私が入つて行くと三人は等しく口をつぐんで顏を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を點け、口をうるほし、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かつた。
 やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」に就いてゞ有つた。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、又知らうとする氣も初めは無かつた。すると、不圖手にしてゐる夕刊の或一處ひとところに停まつた儘、私の眼は動かなくなつた。「今度の事は然し警察で早く探知したからかつたさ。燒討とか赤旗位ならまだ可いが、彼樣あんな事を實行されちやそれこそ物騷極まるからねえ。」さう言ふ言葉が私の耳に入つて來た。「僕は變な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年から散々さんざ味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのを態と彼樣あんなに新聞で吹聽させたんだつて噂も有るぜ。」さう言ふ言葉も聞えた。「然し僕等は安心して可なりだね。今度のやうな事がいくら出て來たつて、殺される當人が僕等で無いだけは確かだよ。」さう言つて笑ふ聲も聞えた。私は身體中を耳にした。――今度の事有つて以來、私はそれに就いての批評を日本人の口から聞くことを、或特別の興味を有つて待つてゐた。今三人の紳士の取交してゐる會話は即ちそれで有る。――今度の事と言ふのは、實に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈彈事件の事だつたのである。
 私の其時起した期待は然し何れだけも滿たされなかつた。何故なれば彼の三人は間もなく勘定を濟して出て行つたからで有る。――明治四十年八月の函館大火の際、私も函館に在つて親しく彼の悲壯なる光景を目撃した。火事の後、家を失つた三四萬の市民は、何れも皆多少の縁故を求めて、燒殘つた家々に同居した。如何に小さい家でも二家族若くは三家族の詰込まれない家は無かつた。其時私は平時に於て見ることの出來ない、不思議な、而も何かしら愉快なる現象を見た。それは、あらゆる制度と設備と階級と財産との攪亂された處に、人間の美しき性情の却つて最も赤裸々に發露せられたことで有つた。彼等の蒙つた強大なる刺戟は、彼等をして何の顧慮もなく平時の虚禮の一切を捨てさせた。彼等はたゞ彼等の飾氣なき相互扶助の感情と現在の必要とに據つて、孜々として彼等の新らしい家を建つることに急いだ。そして其時彼等が、其一切の虚禮を捨てる爲にした言譯は、「此際だから」といふ一語であつた。此一語はよく當時の函館の状態を何人にも理解させた。所謂言語活用の妙で有る。――そして今彼の三人の紳士が、日本開闢以來の新事實たる意味深き事件を、たゞ單に「今度の事」と言つた。これも亦等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言方だらう!」私は快く冷々ひや/\する玻璃盃コツプを握つた儘、一人幽かに微笑んで見た。
 間もなく私も其處を出た。さうして兩側の街燈の美しく輝き始めた街に靜かな歩みを運びながら、私はまた第二の興味に襲はれた。それは我々日本人の或性情、二千六百年の長き歴史に養はれて來た或特殊の性情に就いてゞ有つた。――此性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ廣いもので有る。彼の偏へに此性情に固執してゐる保守的思想家自身の値踏みしてゐるよりも、もつともつと深く且つ廣いもので有る。――そして、千九百餘年前の猶太人が耶蘇基督の名を白地あからさまに言ふを避けて唯「ナザレびと」と言つた樣に、恰度それと同じ樣に、彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかつた。

(二)


 蓋し無政府主義と言ふ語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機會は、今日までの所、前後二囘しか無い。無政府主義といふ思想、無政府黨といふ結社の在る事、及び其黨員が時々じゞ兇暴なる行爲を敢てする事は、書籍に依り、新聞に依つて早くから我々も知つてゐた。中には特に其思想、運動の經過を研究して、邦文の著述を成した人すら有る。然しそれは洋を隔てた遙か遠くの歐米の事で有つた。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間に其主義を信じ、其黨を結んでゐる者の在る事を知つた機會は遂に二囘しかない。
 其の一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白晝不穩の文字を染めた紅色の旗を飜して、警吏の爲に捕はれた者の中には、數名の年若き婦人も有つた。其婦人等――日本人の理想に從へば、穩しく、しとやかに、よろづに控へ目で有るべき筈の婦人等は、嚴かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なくおもてを揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言つた。それを傳へ聞いた國民の多數は、目を丸くして驚いた。
 然し其驚きは、仔細に考へて見れば決して眞の驚きでは無かつた。例へば彼の事件は、藝題だけを日本字で書いた、そして其せりふの全く未知の國語で話される芝居の樣なもので有つた。國民の讀み得た藝題の文字は、何樣なにさま耳新らしい語では有つたが、耳新らしいだけそれだけ、聞き慣れた「油地獄」とか「吉原何人斬」とか言ふものよりも、猶一層上手うはてな、殘酷な舞臺面を持つてゐるらしく思はれた。やがて板に掛けられた所を見ると、喜び、泣き、嬌態しなを作るべき筈の女形をんながたが、男の樣な聲で物を言ひ、男の樣に歩き、男も難しとする樣な事を平氣でた。觀客は全く呆氣あつけに取られて了つた。言ひ換へれば、舞臺の上の人物が何の積りで、何の爲にそんな事をするのかは少しも解することが出來ずに、唯其しぐさの荒々しく、自分等の習慣に戻つてゐるのを見て驚いたのである。隨つて其芝居――藝題だけしか飜譯されてゐなかつた芝居は、遂にあてを取らずに樂になつた。又隨つて觀客の方でも間もなく其芝居を忘れて了つた。
 尤もそれは國民の多數者に就いてゞ有る。中に少數の識者が有つて、多少其芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社會主義者諸君、諸君が今にしてそんな輕率な擧動をするのは、決して諸君の爲では有るまい。そんな事をするのは、漸く出來かゝつた國民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。これは當時に有つては、確かに進歩した批評の爲方しかたであつた。然し今日こんにちになつて見れば、其所謂識者の理解なるものも、決して徹底したもので有つたとは思へない。「我は無政府主義者なり。」と言ふ者を、「社會主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを證明してゐるでは無いか。

(三)


 さうして第二は言ふまでもなく今度の事である。
 今度の事とは言ふものゝ、實は我々は其事件の内容を何れだけも知つてるのでは無い。秋水幸徳傳次郎といふ一著述家を首領とする無政府主義者の一團が、信州の山中やまなかに於て密かに爆烈彈を製造してゐる事が發覺して、其一團及び彼等と機密を通じてゐた紀州新宮しんぐうの同主義者が其筋の手に檢擧された。彼等が檢擧されて、そして其事を何人も知らぬ間に、檢事局は早くも各新聞社に對して記事差止の命令を發した。如何に機敏なる新聞も、唯敍上の事實と、及び彼等被檢擧者の平生に就いて多少の報道を爲す外に爲方しかたが無かつた。――そして斯く言ふ私の此事件に關する智識も、遂に今日迄に都下の各新聞の傳へた所以上に何物をも有つてゐない。
 若しも單に日本の警察機關の成績といふ點のみを論ずるならば、今度の事件の如きは蓋し空前の成功と言つてもからうと思ふ。啻に迅速に、且つ遺漏なく犯罪者を逮捕したといふ許りで無く、事を未然に防いだといふ意味に於て特に然うで有る。過去數年の間、當局は彼等所謂不穩の徒の爲に、啻に少なからざる機密費を使つた許りでなく、專任の巡査數十名を、たゞ彼等を監視させる爲に養つて置いた。斯くの如き心勞と犧牲とを拂つてゐて、それで萬一今度の樣な事を未然に防ぐことが出來なかつたなら、それこそ日本の警察が其存在の理由を問はれても爲方の無い處で有つた。幸ひに彼等の心勞と犧牲とは今日の功を收めた。
 それに對しては、私も心から當局に感謝するものである。蓋し私は、あらゆる場合、あらゆる意味に於て、極端なる行動といふものは眞に眞理を愛する者、確實なる理解を有つた者の執るべき方法で無いと信じてゐるからで有る。正しい判斷を失つた、過激な、極端な行動は、例へば導火力の最も高い手擲彈しゆてきだんの如きものである。未だ敵に向つて投げざるに、早く已に自己の手中に在つて爆發する。これは今度の事件の最もよく證明してゐる所で有る。さうして私は、たとひ其動機が善であるにしろ、惡であるにしろ、觀劇的興味を外にしては、我々の社會の安寧を亂さんとする何者に對しても、それを許す可き何等の理由を有つてゐない。若しも今後再び今度の樣な計畫をする者が有るとするならば、私は豫め當局に對して、今度以上の熱心を以てそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。
 然しながら、警察の成功は遂に警察の成功で有る。そして決してそれ以上では無い。日本の政府が其隸屬する所の警察機關のあらゆる可能力を利用して、過去數年の間、彼等を監視し、拘束し、啻に其主義の宣傳乃至實行を防遏したのみでなく、時には其生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加へたに拘はらず、彼等の一人と雖も其主義を捨てた者は無かつた。主義を捨てなかつた許りでなく、却つて其覺悟を堅めて、遂に今度の樣な兇暴なる計畫を企て、それを半ばまで遂行するに至つた。今度の事件は、一面警察の成功で有ると共に、又一面、警察乃至法律といふ樣なものゝ力は、如何に人間の思想的行爲にむかつて無能なもので有るかを語つてゐるでは無いか。政府並に世の識者の先づ第一に考へねばならぬ問題は、蓋し此處に有るであらう。

(四)


 歐羅巴に於ける無政府主義の發達及び其運動に多少の注意を拂ふ者の、先づ最初に氣の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の今日迄に爲した行爲は凡て過激、極端、兇暴で有るに拘はらず、其理論に於ては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問はず、殆ど何等の危險な要素を含んでゐない事で有る。(唯彼等の説く所が、人間の今日に於ける生活状態とは非常に距離の有る生活状態の事で有るだけで有る)。も一つは、其等無政府主義者の言論、行爲の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の關係を保つてゐる事で有る。――これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの樣な有名な地理學者が有るからといふ洒落しやれではない。
 前者に就いては、私は何も此處に言ふ可き必要を感じない。必要を感じない許りでなく、今の樣な物騷な世の中で、萬一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身亦無政府主義者で有るかの如き誤解を享ける樣な事が有つては、迷惑至極な話である。そして又、結局私は彼等の主張を誤りなく傳へる程に無政府主義の内容を研究した學者でもないのである。――が、若しも世に無政府主義といふ名を聞いただけで眉をひそめる樣な人が有つて、其人が他日彼の無政府主義者等の所説を調べて見るとするならば、屹度、入口を間違へて別の家に入つて來た樣な驚きを經驗するだらうと私は思ふ。彼等の或者にあつては、無政府主義といふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで發達した状態に對する、熱烈なる憧憬に過ぎない。又或者にあつては、相互扶助の感情の圓滿なる發現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言つてるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言ひ、相互扶助の感情と言ふが如きは、如何に固陋なる保守的道徳家に取つても決して左迄耳遠い言葉で有る筈が無い。若し此等の點のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき兇暴なる人間と見られてゐる無政府主義者と、一般教育家及び倫理學者との間に、何れだけの相違も無いので有る。人類の未來に關する我々の理想は蓋しいつで有る――洋の東西、時の古今を問はず、畢竟一で有る。唯一般教育家及び倫理學者は、現在の生活状態の儘で其理想の幾分を各人の犧牲的精神の上に現はさうとする。個人主義者は他人の如何に拘はらず先づ自己一人の生涯に其理想を體現しようとする。社會主義者にあつては、人間の現在の生活が頗る其理想と遠きを見て、因を社會組織の缺陷に歸し、主として其改革を計らうとする。而して彼の無政府主義者に至つては、實に、社會組織の改革と人間各自の進歩とを一擧にして成し遂げようとする者で有る。――以上は餘り不謹愼な比較では有るが、然し若しも此樣な相違が有るとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急せつかちなる理想家」のいひでなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、其理論の堂々として而して何等危險なる要素を含んでゐないに拘らず、未だ調理されざる肉を喰ふが如き粗暴の態と、小兒をして成人の業に就かしめ、其能はざるを見て怒つて此れを蹴るが如き無謀の擧あるは敢て怪しむに足らぬので有る。

(五)


 もしれ後者――無政府主義の地理的分布の一事に至つては、此際特に多少の興味を惹起すべき問題でなければならぬ。地理的分布――言ふ意味は、無政府主義と歐羅巴に於ける各國民との關係といふ事で有る。
 凡そ思想といふものは、其思想所有者の性格、經驗、教育、生理的特質及び境遇の總計で有る。而して個人の性格の奧底には、其個人の屬する民族乃至國民の性格の横たはつてゐるのは無論である。――端的に此處に必要なだけを言へば、或民族乃至國民と或個人の思想との交渉は、第一、其民族的、國民的性格に於てし、第二、其國民的境遇(政治的、社會的状態)に於てする。そして今此無政府主義に於ては、第一は主として其理論的方面に、第二は其實行的方面に關係した。
 第一の關係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考へる時に、直ぐ氣の付く所で有る。蓋しスチルネルの所説の哲學的個人主義的なる、プルウドンの理論の頗る鋭敏な直感的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的モオラルな色彩を有する、それらは皆、彼等のおの/\の屬する國民――獨逸人、佛蘭西人、露西亞人――といふ廣漠たる背景を考ふることなしには、我々の正しく理解する能はざる所で有る。
 そして第二の關係――其國の政治的、社會的状態と無政府主義との關係は、第一の關係よりも猶一層明白である。
(昭3210雑誌「文学」にはじめて発表)





底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店
   1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行
初出:「文学」
   1957(昭和32)年10月10日
入力:蒋龍
校正:阿部哲也
2012年6月3日作成
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