庭の怪

田中貢太郎




 加茂の光長は瓦盃かわらけに残りすくなになった酒を嘗めるように飲んでいた。彼はこの二三日、何処となしに体が重くるしいので、所労を云いたてにして、兵衛の府にも出仕せずに家にいた。未だ秋口の日中は暑くて、昼のうちは横になったなりに体の置き処のないようにしているが、ついうとうとして夕方になってみると、幾らか軽い気もちになっているので、縁側に円蓙まるござを敷かして、一人でちびりちびりと酒を飲むのであった。
 月の無い静な晩であった。庭のさきには萩が繁り芒が繁っていたが、その芒にはもう穂が出て、それが星の光を受けてかすかな縞目を見せていた。光長はその眼をおりおり庭のほうへやったが、おもいだすと瓦盃の縁に唇を持って往った。
 静な跫音がすぐ傍で聞えたので、光長はちょと顔を左のほうへ向けた。其処には切灯台のうす紅いがほっかりと青い畳の上を照らしていたが、その灯の光に十五六に見える細長い顔をしたわらべの銚子を持った姿をうつしだしていた。
「おお、酒を持って来たか、其処へ置くが好かろう」
 女の童は静に傍へ寄って来て、口の長い素焼の銚子を光長の前へ置くなり、黙って引きさがって往った。
 光長は思い出したように空になった瓦盃の銚子の酒をいだが、注いだなりにそれを持つのが如何にも大儀だと云うようなさまをして見詰めていた。庭の何処かで虫の鳴くのが聞えて来た。光長はそれを聞くともなしに聞いていたが、手許が淋しくなったので、やるともなしに瓦盃に手をやって、今度はひと思いに口の縁へ持って往って、飲んで見ると気もちが宜いから一口に飲んでしまった。
 光長の頭はみょうに重どろんでいた。何を考えるにも億劫で、それで何もかも面白くなくて、じぶんの存在を持てあましているとでも云うような状態にあった。しかし、光長にはこれと云う不平があると云うわけではなかった。公のことも家庭のことも、皆彼の思うようになっていて、すこしも神経をいらだたせるようなことはなかったが、それでいて物事が面白くなかった。
「やっぱり、俺は体のせいだ」
 光長はそう云うことを思うのも苦しくなって、坐っているのが億劫になって来たので、盃を置くなり、体をごろりと横に倒して、左の手に頭を支えながら庭の方へ顔を向けた。涼しい風がもそりもそりと動いて来た。光長は気もちが好かった。
「好い気もちだ」
 暗かった庭が次第に明るく見えて来た。芒の穂の縞目がはっきり見えるような気がして、光長はその芒の叢に眼をやっていた。と、強い風が吹いて来たようにそれがさわさわと動きだした。犬か猫かなにかそうした物が寝ているのではないかと思って、じっと眼を据えたところで、その中から這いでて来たように一人の少年が起ちあがって、それが此方こっちの方へ向いて歩いて来た。十二三に見える痩せた男の子であった。光長はすぐの少年は盗人に来たに違いないから、もすこし見届けたうえで、もし盗人であったら酷い目にあわした後に将来を戒めてやろうと思った。光長はしわぶきもしないようにして見ていると、少年はすぐ立ちどまって、後の方を見るようにした。ついすると他の大人の盗人があって、の小供に用心を見せに来ているかも判らないと思った。
 光長はじっと少年の容子を見ていた。と、物の気配がして今度は萩の繁みの中から黒いまん円い影が見えて来た。光長はいよいよ大人が這いながら出て来たところだと思った。もし盗人であったら一矢に射殺してやろうと思った。彼は座敷に立てかけてある弓のことをすぐ考えた。考えながらその黒いまん円い影に注意した。それは背のひくい横に肥った少年であった。彼は痩せた少年を追って来るように、ひょこひょこと歩いて来たが、痩せた少年の傍へ往くなり、いきなりそれに組みかかって往った。すると痩せた少年はそれを組ませずに突き倒そうとした。
 光長は盗人の用心のことを忘れてしまって、不思議な少年のさまを見はじめた。円く肥った少年と痩せた少年は、いっしょになったり離れたりして、相手を突き倒そうとするふうであった。光長はやっとその少年達が角力を執っていると云うことを知った。しかし、草の繁った中から這い出て来て角力を執る少年の素性がどうしても合点が往かなかった。庭のさきは築地になって用心を厳しくしているので、少年達が入って来られる隙はない。それに夜になって人の家の庭前にわさきなどへ来て角力なんか執るものではない。それに芒や萩の中にあんな少年が入っておる筈のものでない。どうしてもこの少年は怪しい少年であると思った。
「どうしても人間の子供でない」
 二人の少年は組んずほぐれつやっていたが、力が合っているのか何方どっちも倒れない。
「何者だ」
 光長は思わず声を出した。と、二人の少年はびっくりしたように両方に離れるとともに、痩せた方は芒の繁みの方へ往き、肥ったのは萩の繁みの方へ往ったが、そのまま二人とも見えなくなった。
何人たれか来よ、何人か来よ」
 光長が声を出して呼ぶと、しもての縁側に跫音がして、釣り刀をした背の高い侍の一人がのそのそと来てひざまずいた。
「怪しい小供が二人、萩と芒の中へ入った、引っ捕えて来い」
 侍はそのまま立って庭へおりて往った。光長は起きあがっていた。
 侍は萩と芒の繁りの中へもうじぶんの体を置いて捜していたが、暫くして帰って来た。
「何者も見当りませんが、如何いたしましょう」
 光長はやはり今の少年は人間ではないと思った。
「見えねばそれで好い、捨てておけ」

 光長はその翌晩も縁側へ出て一人で酒を飲んでいた。酒を飲みながら時々前夜の怪しい少年のことを考えていた。そして、また酒も厭になったので横に寝そべって庭の方を見ていた。その晩も涼しい風が吹いて虫の声が静に聞えていた。
 光長は睡くなったのでうつらうつらしていたが、何か物の気配がしたので眼を開けてみた。庭では痩せた少年と肥った少年が、昨夜と同じように角力を執っていた。
 光長はそれを見るなり、そっと体を起して両手を立て、音のしないように座敷の中へ入って往った。
 右の方の壁の傍には、張った弓をかけ、下へ立てた※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)やなぐいに十本ばかりの矢が入れてあった。光長はその弓をおろすなり、二本の矢を執って縁側の簾の陰へ往って、一本の矢を口にくわえ、一本の矢を弓に仕かけながら庭の方を覗いた。
 庭では二人の少年が未だ組んだり離れたりして一生懸命になっていた。光長はその二人がいっしょになったところを見るといきなり矢を放った。矢は二人を合せて縫うたように見えたが、そのまま二人の姿は見えなくなった。光長は二本目の矢を弓に仕かけながら声を立てた。
を持て、灯を持て、曲者をしとめた」
 遠くの方で返事があったが、暫くすると庭の方に灯が見えて二人の侍が来た。
「小供の形をした曲者をしとめた、そのあたりを捜して見よ」
 光長が矢を持った手を庭の方にさした。侍は庭の中を彼方此方捜して歩いた。矢が落ちているだけで何も見えなかった。

 翌朝になって光長はじぶんで庭へ出て見た。昨夜少年の角力をとっていたあたりに、一匹の黒蟻と牛蝨だにが並んで死んでいた。





底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
   1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年初版発行
入力:大野晋
校正:松永正敏
2001年2月23日公開
2012年3月18日修正
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