蟇の血

田中貢太郎




      ※(ローマ数字「I」、1-13-21)

 三島みしまじょうは先輩の家を出た。まだ雨が残っているような雨雲が空いちめんに流れている晩で、暗いうえに雨水を含んだ地べたがじくじくしていて、はねあがるようで早くは歩けなかった。そのうえ山の手の場末ばすえの町であるから十時を打って間もないのに、両側の人家はもう寝てしまってひっそりとしているので、非常にみちが遠いように思われてくる。で、車があるなら電車まで乗りたいと思いだしたが、夕方来る時車のあるような処もなかったのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談していた女のことが意識に登って来た。
(もすこし女の身元や素性すじょうを調べる必要があるね)と云った先輩のことばが浮んで来た。法科出身の藤原君としては、素性も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思うのはもっともなことだが、過去はどうでも好いだろう、この国の海岸の町に生れて三つの年に医師いしゃをしていた父に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしている人の処で大きくなり、三年ぜんに母が亡くなったころから家庭が冷たくなって来たので、昨年になってうちを逃げだしたと云うのがほんとうだろう、血統のことなんかは判らないが、たいしたこともないだろう……。
(一体女がそんなに手もなく出来るもんかね)と云って笑った先輩のことばがふとまた浮んで来る。……なるほど考えて見るとあの女を得たのはむしろ不思議と思うくらいに偶然な機会からであった。しかし、世間一般の例から云ってみるとありふれた珍しくもないことである。じぶんは今度の高等文官試験の本準備にかかるまえに五六日海岸の空気を吸うてみるためであったが、一口に云えばわかい男が海岸へ遊びに往っていて、偶然に壮い女と知己しりあいになり、その晩のうちに離れられないものとなってしまったと云う、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。
 女と交渉を持った日の情景がぼうとなって浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあったが春の日のように空気が湿っていて、顔や手端てさきの皮膚がとろとろとして眠いような日であった。彼は松原に沿うた櫟林くぬぎばやしの中を縫うている小路こみちを抜けて往った。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いているみちであった。櫟の葉はもう緑がせて風がある日にはかさかさと云う音をさしていた。
 その櫟林のさきはちょっと広い耕地になって、黄いろに染まった稲があったり大根やねぎの青い畑があった。そこには櫟林に平行して里川さとがわが流れていて柳が飛び飛びに生えている土手に、五六人の者がちらばって釣を垂れていた。人の数こそちがっているが、それは彼が毎日見かける趣であった。その魚釣うおつりの中には海岸へ遊びに来ている人も一人や二人はきっとまじっていた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃びくのかわりに持っていて、のぞいてみると時たま小さなふなを一二ひき釣っていたり、四五寸ある沙魚はぜを持っていたりする。
 彼が歩いて来た道がその里川に支えられた処には、上に土を置いた板橋がかかっていた。その橋の右のたもとにも釣竿つりざおを持った男が立っていた。それは鼻の下に靴ばけのようなひげを生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯へこおび尻高しりだかに締めていた。小学校の教師か巡査かとでも云う物ごしであった。彼はその脚下あしもとに置いてある魚籃を覗いて見た。そこには五六尾の沙魚が入っていた。
(沙魚が釣れましたね)
 と、彼が挨拶のかわりに云うと、
(今日は天気の具合が好いから、もすこし釣れそうなもんですが、釣れません)
(やっぱり天気によりますか、なあ)
(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なお好いのですが)
(そうですか、なあ)
 彼はちょっと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のようになっていた。彼はその雲を見たのちに川の土手の方へ往こうと思って、板橋の上に眼をやったところで橋のむこう側に立ってこっちの方を見ているわかい女を見つけた。紫の目立つ銘仙めいせんかなにかの華美はでな模様のついた衣服きもので、小柄なその体を包んでいた。ちょっと小間使か女学生かと云うふうであった。色の白い長手ながてな顔に黒い眼があった。彼はどこかこのあたりの別荘へ来ている者だろうと思ったきりで、それ以上べつに好奇心も起らないので、女のことは意識の外にいっしてその土手を上流かみての方へ歩いて往った。
 二丁ばかりも往くともう左側に耕地がなくなって松原の赭土あかつちの台地が来た。そこにも川のむこうへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があったが、彼はそれを渡らずに台地の方へつまさきあがりの赭土を踏んであがって往った。
 そこには古い大きな黒松があってその浮き根がそこここに土蜘蛛つちぐもが足を張ったようになっていた。彼は昨日きのう一昨日おとといもその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでいたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持っていた浮根へ往って腰をかけながら下流かわしもの方を見た。薄いにぶの光の中に釣人達は絵にいた人のように黙黙として立っていた。彼はさっきの女のことをちょっと思いだしたので、見なおしてみたがもうそれらしい姿は見えなかった。
 彼は何時いつの間にかふところに入れていた雑誌をりだして読みはじめた。読んでいるうちに面白くなって来たので、もうほかのことはいっさい忘れてしまって夢中になって読みふけっていた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓ワシントン会議と軍備制限とか、そう云うような見出しを置いた評論文であった。そして、実生活の煩労はんろうから哲学と宗教の世界へと云うような、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押しつけられるような陰鬱いんうつな感じがするので、読むことをめて眼をあげると、もう陽が入ったのか四辺あたりが灰色になっていた。旅館でめし準備したくをして待っているだろうと思ったので、帰ろうと思って雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちょっと離れた草の生えた処に女が一人低まった方に足を投げだし、双手りょうてで膝を抱くようにして何か考えるのか首を垂れている。それは衣服きものの色彩の具合がさっき板橋のむこうで見た女のようであった。
 彼は不審に思った。さっきの女が何故なぜ今までこんな処にいるのだろう。それともじぶんと同じように一人で退屈しているから散歩に来て遊んでいるのだろうか、しかし、あんなにうなれて考え込んでいるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄って往ったら鬼魅きみを悪がるかも判らないが一つ聞いてやろうと思った。で、腰をあげて歩きかけたが、そっと往くのは何か野心があってねらい寄るようでやましいので、軽いせきを一二度しながらいばったように歩いて往った。
 女は咳と跫音あしおとに気がいてこっちを見た。それはたしかにさきの女であった。女は別に驚きもしないふうですぐ顔をむこうの方へ向けてしまった。彼は茱萸ぐみの枝にきものすそを引っかけながらすぐ傍へ往った。女は※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな顔をまたこっちに向けた。
(あなたは、どちらにいらっしゃるのです)
(私、さっきこちらへまいりましたのですよ)
 女が淋しそうに云った。
(それじゃ、宿やどにはまだお入りにならないのですね)
(ええ、ちょっと、なんですから)
 彼はふと女は何人だれか待合わす者でもあるかも判らないと思いだした。
(こんなに遅くなって、一人こうしていらっしゃるから、ちょっとおたずねしたのです)
(ありがとうございます、あなたはこのあたりの旅館にいらっしゃるの)
(五六日前から、すぐそこの鶏鳴館けいめいかんと云うのに来ているのです、もしお宿の都合で、他がいけないようならおでなさい、私は三島と云うのです)
(ありがとうございます、もしかすると、お願いいたします、三島さんとおっしゃいますね)
(そうです、三島讓と云います、じゃ、失敬します、ごつごうでおいでなさい)
 彼は女と別れて歩いたが弱よわしい女の態度が気になって、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだろうかと思いだした。彼は歩くのをやめて松の幹の立ち並んだ陰からそっと女の方をのぞいた。
 女は顔に双手りょうててのひらを当てていた。それはたしかに泣いているらしかった。彼はもう夕飯ゆうめしのことも忘れてじっとして女の方を見ていた……。
 讓はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲ろうとして見ると、そこに一軒の門口かどぐちが見えて、出口に一本のけやきがあり、その欅のうしろになった板塀の内の柱に門燈が光っていたが、それは針金の網に包んだまるい笠におおわれたもので、その柱に添うて女竹めたけのような竹が二三本立ち、小さなその葉がじっと立っていた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点はんてんが見えた。それは壁虎やもりであった。壁虎はを見つけたのか首を出したがその首が五寸ぐらいも延びて見えた。彼はおやと思って足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞うようにくるくると舞いだした。彼はいやなものを見たと思ってみちの悪いことも忘れて小走りに左の方へ曲って往った。

      ※(ローマ数字「II」、1-13-22)

 讓は奇怪な思いに悩まされながら歩いていたがそのうちに頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんなばかげたことのあるはずがない、神経のぐあいであんなに見えたものだろうと思いだした。しかし、それが神経のぐあいだとすると、じぶんは今晩どうかしているかも判らない。もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思いだした。そう思うと憂鬱ゆううつな気もちになった。
 讓はその憂鬱の中で、偶然な機会から女を得たこともほんとうでなくて、やはり奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだろうかと思った。
 何時いつの間にか彼は今までよりは広い明るい通路とおりへ出ていた。と、彼の気もちは軽くなって来た。彼は女が己の帰りを待ちかねているだろうと思いだした。軽い淡白な気もちを持っている小鳥のような女が、隻肱かたひじを突いて机の横に寄りかかってじっと耳を傾け、玄関の硝子戸ガラスどく音を聞きながら、己の帰るのを待っているさまが浮んで来た。浮んで来るとともに、今晩先輩に相談した、女と素人屋しろうとやの二階を借りて同棲しようとしていることが思われて来た。
(君もどうせ細君さいくんを持たなくちゃならないから、好い女なら結婚しても好いだろうが、それにしてもあまり疾風迅雷的しっぷうじんらいてきじゃないか)と、云って笑った先輩のことばが好い感じをとものうて来た。
 職業的な女なら知らないこともないが、そうした素人の処女と交渉を持った経験のない彼は、女の方に特種な事情があったにしても手もなく女を得たと云うことが、お伽話とぎばなしを読んでいるような気もちがしてならなかった。
(僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでいるような気がするんです)と、云った己の詞も思いだされた。彼は藤原君がそんなことを云うのももっともだと思った。
 ……女は真暗になった林の中をふらふらと歩きだした。そして、彼の傍を通って海岸の方へ往きかけたが、泣きじゃくりをしていた。彼はたしかに女は自殺するつもりだろうと思ったので助けるつもりになった。それにしても女を驚かしてはいけないと思ったので、女を二三げんやり過してから歩いて往った。
(もしもし、もしもし)
 女はちょっと白い顔を見せたが、すぐ急ぎ足で歩きだした。
(僕はさっきの男です、決して、怪しいものじゃありません、あなたがお困りのようだから、お訊ねするのです、待ってください)
 女はまた白い顔をすこし見せたようであったが足は止めなかった。
(もしもし、待ってください、あなたは非常にお困りのようだ)
 彼はとうとう女に近寄ってその帯際おびぎわに手をかけた。
(僕はさっきお眼にかかった三島と云う男です、あなたは非常にお困りのようだ)
 女はすなおに立ちどまったがそれといっしょに双手りょうてを顔に当てて泣きだした。
(何かあなたは、御事情があるようだ、云ってください、御相談に乗りましょう)
 女は泣くのみであった。
(こんな処で、話すのは変ですから、私の宿へまいりましょう、宿へ往って、ゆっくりお話を聞きましょう)
 彼はとうとう女の手を握った。……
 みちはまた狭い暗い通路とおりへ曲った。讓は早く帰って下宿の二階でじぶんの帰りを待ちかねている女に安心さしてやりたいと思ったので、つまさきさがりになった傾斜のある路をとっとと歩きだした。彼の眼の前には無邪気なおっとりした女の顔が見えるようであった。
 ……(私は死ぬよりほかに、この体を置くところがありません)
 家を逃げだして東京へ出てから一二軒じょちゅう奉公をしているうちにある私立学校の教師をしている女と知己しりあいになって、最近それの世話で某富豪の小間使に往って見ると、それは小間使以外に意味のある奉公で、往った翌晩主人から意外のそぶりを見せられたので、その晩のうちにそこを逃げだしてふらふらと海岸へやって来たと云って泣いた女の泣き声がよみがえって来た。
 讓は己の右側を歩いている人の姿に眼をけた。路の右側は崖になってその上にはただ一つの門燈が光っていた。右側を歩いている人はこちらをり返るようにした。
「失礼ですが、電車の方へは、こう往ったらよろしゅうございましょうか」
 それはわかい女の声であった。讓にはあかいその口元が見えたような気がした。彼はちょっと足を止めて、
「そうです、ここを往って、突きあたりを左へ折れて往きますと、すぐ、右に曲る処がありますから、そこを曲ってどこまでもまっすぐに往けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです」
「どうもありがとうございます、このさきに私の親類もありますが、この道は、一度も通ったことがありませんから、なんだか変に思いまして……、では、そこまでごいっしょにお願いいたします」
 讓は足の遅い女と道づれになって困ると思ったがことわることもできなかった。
「往きましょう、おいでなさい」
「すみませんね」
 讓はもう歩きだしたがはじめのようにとっとと歩けなかった。彼はしかたなしに足を遅くして歩いた。
「道がお悪うございますね」
 女は讓のうしろに引き添うて歩きながらどこかしっかりしたところのあることばで云った。
「そうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからいらしたのです」
「山の手線の電車で、このさきへまでまいりましたが、市内の電車の方が近いと云うことでしたから、こっちへまいりました、市内の電車では、時どき親類へまいりましたが、この道ははじめてですから」
「そうですか、なにしろ、場末ばすえの方は、早く寝るものですから」
 讓はこう云ってからふと電燈の笠のことを思いだして、あんなことがあったらこの女はどうするだろうと思った。
「ほんとうにお淋しゅうございますのね」
「そうですよ、僕達もなんだかいやですから、あなた方は、なおさらそうでしょう」
「ええ、そうですよ、ほんとうに一人でどうしようかと思っていたのですよ、非常に止められましたけれど、病人でとりこんでいる家ですから、それに、泊るなら親類へ往って泊ろうと思いまして、無理に出て来たのですが、そのあたりは、まだ数多たくさん起きてた家がありましたが、ここへ来ると、急に世界が変ったようになりました」
 傾斜のある狭い暗いみちが尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びていた。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方をり返った。※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいに化粧をした細面ほそおもての顔があった。
「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」
「おかげさまで、助かりました」
「もう、これからさきは、そんなに暗くはありませんよ」
「はあ、これから前は、私もよく存じております」
「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」
「私は柏木かしわぎですよ」
「それは大変ですね」
「はあ、だから、このさきの親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」
 讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。においのあるような女の呼吸使いきづかいがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己のへやで机にひじをもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑をき乱した。
「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」
「どうもすみません」
「好いです、送ってあげましょう」
「では、すみませんが」
「その家はあなたが御存じでしょう」
 女は讓の左側に並んで歩いていた。
「知ってます」
 右へ曲るかどにバーがあって、入口に立てた衝立ついたての横から浅黄あさぎの洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。
「こっちへ往くのですか」
 讓は曲った方へ指をやった。
「このつぎの横町よこちょうを曲って、ちょっと往ったところです、すみません」
「なに好いのですよ、往きましょう」
 みちの上が急に暗くなって来た。何人なんびとかがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。
「すこし、こっちは、暗いのですよ」
 女の声には霧がかかったようになった。
「そうですね」
 女はもう何も云わなかった。

      ※(ローマ数字「III」、1-13-23)

「ここですよ」
 蒸し蒸しするような物の底に押し込められているような気もちになっていた讓は、女の声に気がいて足をとめた。そこにはインキのにじんだような門燈のいている昔風な屋敷門があった。
「ここですか、では、失礼します」
 讓は下宿の女が気になって来た。彼は急いで女と別れようとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願いいたしとうございますが」
 女の顔は笑っていた。
「そうですか、好いですとも、往きましょう」
 左側に耳門くぐりがあった。女はその方へ歩いて往って門の扉に手をやると扉は音もなしにいた。女はそうして扉を開けてからり返って、男の来るのを待つようにした。
 讓は入って往った。女は扉を支えるようにして身をかた寄せた。讓は女の体と擦れ合うようにして内へはいった。と、女はうしろからいて来た。扉は女の後でまた音もなく締った。
「しつれいしました」
 薄月うすづきしたようになっていた。讓は眼が覚めたように四辺あたりを見まわした。庭には天鵞絨びろうどを敷いたような青あおした草が生えて、玄関口と思われる障子にの点いた方には、凌霄にんどうの花のような金茶色の花が一めんに垂れさがった木が一本立っていた。その花のであろう甘い毒どくしいにおいが鼻にみた。
「ここは姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないのですよ」
 讓は上へあげられたりしては困ると思った。
「僕はここにおりますから、お入りなさい、あなたがお入りになったら、すぐ帰りますから」
「まあ、ちょっと姉に会ってください、お手間はとらせませんから」
「すこし、僕は用事がありますから」
「でも、ちょっとならよろしゅうございましょう」
 女はそう云って玄関の方へ歩いて往って、花のさがっている木の傍をよけるようにして往った。讓は困って立っていた。
 家の内へ向けて何か云う女の声が聞えて来た。讓はその声を聞きながら秋になっても草の青あおとしている庭のさまに心をやっていた。
 なまめかしい女の声が聞えて来た。讓は女の姉さんと云う人であろうかと思って顔をあげた。内玄関うちげんかんと思われる方の格子戸こうしどいて銀色のの光が明るく見え、その光を背にして昇口あがりぐちに立った背の高い女と、格子戸の処に立っているの女を近ぢかと見せていた。
 讓はあんなに玄関が遠くの方に見えていたのは、眼のせいであったろうと思った。彼はまた電燈の笠のくるくるまわったことを思いだして、今晩はどうかしていると思いながら、花の垂れさがった木の方に眼をやると、廻転機の廻るようにその花がくるくると廻って見えた。
「姉があんなに申しますから、ちょっとおあがりくださいまし」
 女が前へ来て立っていた。讓はふさがっていた咽喉のどがやっといたような気もちになって女の顔を見たが、頭はぼうとなっていて、なにを考える余裕もないので吸い寄せられるようにのある方へ歩いて往った。歩きながら怖ごわ花の木の方に眼をやって見ると、木は金茶色の花を一めんにつけてしずかに立っていた。
「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたそうで、さあ、どうぞ」
 讓は何時いつの間にか土間どまへ立っていた。背の高い蝋細工ろうざいくの人形のような顔をした、黒い数多たくさんある髪を束髪そくはつにした凄いように※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな女が、障子しょうじ引手ひきてもたれるようにして立っていた。
「ありがとうございます、が、今晩はすこし急ぎますから、ここで失礼いたします」
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとおあがりくださいまし、お茶だけさしあげますから」
「ありがとうございます、が、すこし急ぎますから」
「待っていらっしゃる方がおありでしょうが、ほんのちょっとでよろしゅうございますから」
 女はうるおいのある眼を見せた。讓も笑った。
「ちょっとおあがりくださいまし、何人たれも遠慮のある者はいないのですから」
 うしろに立っていた女が云った。
「そうですか、では、ちょっと失礼しましょうか」
 讓はしかたなしに左の手に持っている帽子を右の手に持ち替えてあがるかまえをした。
「さあ、どうぞ」
 女は障子しょうじの傍を離れてむこうの方へ歩いた。讓は靴脱くつぬぎへあがってそれから上へあがった。障子の陰に小間使のような十七八の島田しまだうたじょちゅうが立っていて讓の帽子をりに来た。讓はそれを無意識に渡しながら女のあとからふらふらといて往った。

      ※(ローマ数字「IV」、1-13-24)

 長方形の印度更紗いんどさらさをかけたたくがあってそれに支那風しなふう朱塗しゅぬりの大きな椅子いすを五六脚置いたへやがあった。さきに入って往った女は華美はで金紗縮緬きんしゃちりめんの羽織の背を見せながらその椅子の一つに手をやった。
「どうかおかけくださいまし」
 讓は椅子の傍へ寄って往った。と、女はその左側にある椅子を引き寄せて、讓とななめに向き合うようにして腰をかけたので、讓もしかたなしに椅子を左斜ひだりななめにして腰をかけた。
「はじめまして、僕は三島讓と云うものですが」
 讓が云いはじめると女は手をあげて打ち消した。
「もう、そんな堅くるしいことは、おたがいによしましょう、私はこうした一人者のお婆さんですから、おいやでなけりゃこれからお朋友ともだちになりましょう」
「僕こそ、以後よろしくお願いいたします」
 讓の帽子を受けった婢が櫛形くしがたの盆に小さな二つのコップと、竹筒のような上の一方に口がつき一方に取手とってのついた壺を乗せて持って来た。
「ここへ持っておいで」
 女がさしずするとじょちゅうは二人の間の卓のはしにその盆を置いてから引き退さがろうとした。
「お嬢さんはどうしたの」
 婢はり返って云った。
「お嬢さんは、なんだかお気もちが悪いから、もすこしして、おうかがいすると申しております」
「気もちが悪いなら、私がお対手あいてをするのだから、よくなったらいらっしゃいって」
 婢はお辞儀をしてからドアを開けて出て往った。
「お茶のかわりに、つまらんものをさしあげましょう」
 女は壺の取手に手を持って往った。
「もうどうぞ、すぐ失礼しますから」
「まあ、およろしいじゃありませんか、何人たれも遠慮する者がありませんから、ゆっくりなすってくださいまし、このお婆さんでおよろしければ、何時いつまでもお対手をいたしますから」
 女は壺の液体を二つのコップに入れて一つを讓の前へ置いた。それは牛乳のような色をしたものであった。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきますから」
 讓はさっさと一ぱい饗応ごちそうになってから帰ろうと思った。
「では、これだけ戴きます」
 讓は手にって一口飲んでみた。それは甘味のあるちょっとアブサンのような味のするものであった。
「私も戴きます、召しあがってくださいまし」
 女もそのコップを手にしてめるようにして見せた。
折角せっかくのなんですけれど、僕は、すこし、今、都合があって急いでいますから、これを一ぱいだけ戴いてから、失礼します」
「まあ、そんなことをおっしゃらないで、こんな夜更よふけに何の御用がおありになりますの、たまには遅く往って、じらしてやるがよろしゅうございますよ」
 女はコップを持ったなりに下顋したあごを突きだすようにして笑った。讓もしかたなしに笑った。
「さあ、もうすこしおあがりなさいましよ」
 讓はあとの酒を一口飲んでしまってコップを置くと、腰をすかすようにして、
「折角ですけれど、ほんとうに急ぎますから、これで失礼します」
 女はコップを投げるように置いて、立って来て讓の肩に双手りょうてを軽くかけて押えるようにした。
「もう、妹も伺いますから、もうすこしいらしてくださいまし」
 讓の肉体は芳烈にして暖かな呼吸いきのつまるような圧迫を感じて動くことができなかった。女の体に塗った香料は男の魂を縹渺ひょうびょうの界へれて往った。
何人たれだね、今は御用がないから、あちらへ往ってらっしゃい」
 女の声で讓は意識がまわって来た。その讓の頭にじぶんを待っている女のことがちらと浮んだ。讓はちあがった。女はもとの椅子に腰をかけていた。
「まあ、まあ、そんなに、お婆さんをお嫌いになるものじゃありませんわ」
 女のなまめかしい笑顔があった。讓は今一思ひとおもいに出ないとまたしばらく出られないと思った。
「これで失礼します」
 讓はドアのある処へ走るように往って急いで扉を開けて出た。
 廊下には丸髷まるまげった年増としまの女が立っていて讓を抱き止めるようにした。
何人どなたです、放してください、僕は急いでるのです」
 讓はり放そうとしたが放れなかった。
「まあ、ちょっとお待ちくださいましよ、お話したいことがございますから」
 讓はしかたなしに立った。そして、の女が追って出て来やしないかと思いながら注意したがそんなふうはなかった。
「すこし、お話したいことがありますから、ちょっとこちらへいらしてくださいよ、ちょっとで好いのですから」
 年増の女は手を緩めたがそれでも前から退かなかった。
「どんなことです、僕は非常に急いでるのですから、こちらの奥さんの止めるのも聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云ってください、どんなことです」
「ここではお話ができませんから、ちょっと次のへやへいらしてください、ちょっとで好いのですから」
 讓は争っているよりもちょっとで済むことなら、聞いてみようと思った。
「では、ちょっとなら聞いても好いのです」
「ちょっとで好いのですよ、来てください」
 年増としまの女が歩いて往くのでいて往くとすぐつぎのへやドアを開けて入った。
 中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形のちがった椅子を置き、そのむこうには青いとばりを引いてあった。そこは寝室らしかった。
「さあ、ちょっとここへかけてくださいよ」
 年増の女が入口に近い椅子に指をさすので讓は急いで腰をかけた。
「なんですか」
 年増の女はその前に近く立ったなりで笑った。
「そんなに邪見じゃけんになさるものじゃありませんよ」
「なんですか」
「まあ、そんなにおっしゃるものじゃありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになったのでしょう」
「なんですか、僕にはどうも判らないのですが」
「そんな邪見なことをおっしゃらずに、奥さんは、お一人で淋しがっていらっしゃいますから、今晩、おとぎをしてやってくださいましよ、こうして、お金がうなるほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るのですよ」
「だめですよ、僕はすこし都合があるのですから」
洋行ようこうでもなんでも、あなたの好きなことができるのじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「それはだめですよ」
「あんたはよくを知らない方ね」
「どうしても、僕はそんなことはできないのです」
御容色おきりょうだって、あんなきれいな方はめったにありませんよ、好いじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「そいつはどうしてもだめですよ」
 年増の女の隻手かたては讓の隻手にかかった。
「まあ、そんなことはおっしゃらずに、あちらへまいりましょう、私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから」
 讓は動かなかった。
「だめです、僕はそんなことはいやだ」
「好いじゃありませんか、年よりの云うことを聞くものですよ」
 讓はもういらいらして来た。
「だめですよ」
 叱りつけるようにつかまえられた手をり放した。
「あんたは邪見、ねえ」
 ドアいて小さな婆さんがちょこちょこと入って来た。頭髪かみの真白なうおのような光沢つやのない眼をしていた。
「どうなったの、お前さん」
「だめだよ、なんと云っても承知しないよ」
「やれやれ、これもまた手数てすうをくうな」
野狐のぎつねがついてるから、やっぱりだめだよ」
 年増の女はあざけるように云ったが讓の耳にはそんなことは聞えなかった。彼はその女を突きのけるようにして外へ飛びだした。へやの中から老婆のひいひいと云う笑い声が聞えて来た。

      ※(ローマ数字「V」、1-13-25)

 讓は日本室にほんまのようになった畳を敷き障子しょうじを締めてあった玄関のある方へ往くつもりで、廊下を左の方へ走るように歩いた。間接照明をしたようなぼうとした光が廊下に流れていた。そのぼうとした光の中には鬼魅きみの悪い毒どくしい物の影がしていた。
 讓は底の知れない不安にられながら歩いていた。廊下がへやの壁に往き当ってそれが左右に別れていた。讓はちょっと迷ったが、左の方から来たように思ったので、左の方へ折れて往った。と、急に四方が暗くなってしまった。彼はここは玄関の方へ往く処ではないと思って、後帰あともどりをしようとすると、そこには冷たい壁があって帰れなかった。讓はびっくりして足を止めた。歩いて来た廊下が判らなくなって一処ひとところ明採あかりとりのような窓から黄いろなが光っていた。それは長さが一尺四五寸、縦が七八寸ばかりの小さな光であった。讓はしかたなしにその窓のほうへ歩いて往った。
 窓は讓の首のあたりにあった。讓は窓の硝子ガラス窓に顔をぴったりつけてむこうを見た。その讓の眼はそこで奇怪な光景を見出みいだした。黄いろに見える土間のような処に学生のような少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られていたが、その傍には道伴みちづれになって来た主婦の妹と云うわかい女と、さっきの小間使のようなじょちゅうが立っていた。二人の女は何かかわるがわるその少年を攻めたてているようであった。少年は眼をつむってぐったりとなっていた。
 讓は釘づけにされたようになってそれを見つめた。婢の方の声が聞えて来た。
「しぶとい人ったらありゃしないよ、何故なぜはいと云わないの、いくらお前さんが強情張ったってだめじゃないの、早くはいと云いなさいよ、いくらいやだと云ったってだめだから、痛い思いをしないうちに、はいと云って、奥様に可愛がられたら好いじゃないの、はいと云いなさいよ」
 讓は少年の顔に注意した。少年はぐったりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けようともしなかった。妹の方の声がやがて聞えて来た。
「強情はってたら、返してくれるとでも思ってるだろう、ばかなかたね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたって、この家から帰って往かれはしないよ、お前さんはばかだよ、私達が、こんなに心切しんせつに云ってやっても判らないのだね」
「強情はったら、帰れると思ってるから、おかしいのですよ、ほんとうにばかですよ、また私達にいびられて、にでもなりたいのでしょうよ」
 じょちゅう鬼魅きみの悪い笑いかたをして妹の顔を見た。
「そうなると、私達は好いのだけれど、この人が可哀そうだね、何故なぜこんなに強情をはるだろう、お前、もう一度よっく云ってごらんよ、それでまだ強情をはるようなら、お婆さんを呼んでおいで、お婆さんに薬を飲ませて貰うから」
 婢の少年に向って云う声がまた聞えて来た。
「お前さんも、もう私達の云うことはわかってるだろうから、くどいことは云わないが、いくらお前さんが強情はったって、奥様にこうと思われたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云って、奥様のことばに従うが好いのだよ、奥様のお詞に従えば、この大きなおやしきで、殿様のようにして暮せるじゃないかね、なんでもしたいことができて好いじゃないの、悪いことは云わないから、はいとお云いなさいよ、好いでしょう、はいとお云いなさいよ」
 少年はやはり返事もしなければ顔も動かさなかった。
「だめだよ、お婆さんを呼んでおで、とてもだめだよ」
 妹の声がすると婢はそのままへやを出て往った。
 妹はそのあとをじっと見送っていたが、婢の姿が見えなくなると少年のうしろまわって双手りょうてをその肩に軽くかけ、何か小さな声で云いだしたが讓には聞えなかった。
 女は少年の左の頬の処へ白い顔を持って往ったが、やがてあかい唇を差しだしてそれにつけた。少年は死んだ人のように眼も開けなかった。
 二人の人が見えて来た。それは今の婢とうおの眼をした老婆であった。それを見ると少年の頬に唇をつけていた妹は、すばしこく少年から離れて元の処へ立っていた。
「また手数てすうをかけるそうでございますね、顔ににあわないごうつくばりですね」
 老婆は右の手に生きたいぼだらけのがまの両足をつかんでぶらさげていた。
「強情っ張りよ」
 妹が老婆を見て云った。
「なに、この薬を飲ますなら、わけはありません、どれ一つやりましょうかね」
 老婆が蟇の両足を左右の手に別べつに持つとじょちゅうが前へ来た。その手にはコップがあった。女はそのコップを老婆の持った蟇の下へやった。
 老婆は一声ひとこえうなるような声を出して、蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾しっぽの処が二つに裂けてその血が裂口さけぐちつとうてコップの中へしたたり落ちたが、それが底へ微紅うすあかく生なましくたまった。
「お婆さん、もう好いのでしょ、平生いつもくらい出来たのですよ」
 コップを持った婢はコップの血をすかすようにして云った。老婆も上からそれをのぞき込んだ。
「どれ、どれ、ああ、そうだね、それくらいありゃ好いだろう」
 老婆はがま脚下あしもとに投げ捨ててコップを受けった。
「この薬を飲んで利かなけりゃ、もうしかたがない、みんなでいびってから、えさにしましょうよ、ひっ、ひっ、ひっ」
 老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコップを持って少年の傍へ往って、隻手かたて指端ゆびさきをその口の中へさし入れ、軽がると口をすこしひらかしてコップの血をぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
 讓は奇怪な奥底の知れない恐怖にたえられなかった。彼はどうかして逃げ出そうと窓を離れて暗い中を反対の方へ歩いた。そこには依然として冷たい壁があった。しかし、戸も開けずに廊下から続いていたへやであるから、出口のないことはないと思った。彼は壁を探り探り左の方へ歩いて往った。と、壁が切れて穴のような処があった。讓は今通って来た処だと思ってそこを出た。
 ぼんやりした微白うすじろい光がして、そのさきに広い庭が見えた。讓は喜んだ。玄関口でなくとも外へさえ出れば、帰られないことはないと思った。そこには庭へおりる二三段になった階段がついていた。讓はその階段へ足をかけた。
 讓を廊下で抱きすくめたような女と同じぐらいな年恰好かっこうをした年増の女が、隻手かたてに大きなバケツを持って左の方から来た。讓は見つけられてはいけないと思ったので、そっと後戻りをして出口の柱の陰に立っていた。
 肥った女はちょうど讓の前の方へ来てバケツを置き、庭前にわさきの方へ向いて犬かなんかを呼ぶように口笛を吹いた。庭の方には天鳶絨びろうどのような草が青あおと生えていた。肥った女の口笛がむと、その草が一めんに動きだしてその中から小蛇こへび数多たくさん見えだした。それは青い色のもあれば黒い色のもあった。その蛇がにょろにょろといだして来て女の前へ集まって来た。
 女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物をつかみ出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになった生生なまなましい肉のきれであった。蛇は毛糸をもつらしたように長い体を仲間にもつらし合ってうようよとして見えた。
 讓は眼前めさきが暗むような気がして内へ逃げ込んだ。その讓の体はやわらかな手でまた抱き縮められた。
「どんなに探したか判らないのだよ、どこにいらしたのです」
 讓はふるえながら対手あいてを見た。それはの年増の女であった。

      ※(ローマ数字「VI」、1-13-26)

「あなたは、ほんとにだだっ子ね、そんなにだだをこねられちゃ、私が困るじゃありませんか、こっちへいらっしゃいよ」
 年増は讓の双手りょうてを握ってひっぱった。讓はどうでもして逃げて帰りたかった。
「僕を帰してください、僕は大変な用事があるのです、いることはできないから、帰してください」
 讓は女の手をり払おうとしたが離れなかった。
「そんな無理なことを云うものじゃありませんよ、あなたの御用って、下宿に女の方が待ってるだけのことでしょう」
「そんなことじゃないのです」
「そうですよ、私にはちゃんと判ってるのですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないじゃありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、こっちへいらっしゃいよ、いくら逃げようとしたって、今度は放しませんよ、いらっしゃいよ」
 女はぐんぐんとその手を引ぱりだした。讓の体は崩れるようになって引ぱられて往った。
「放してください」
「だめよ、男らしくないことを云うものじゃありませんよ」
 讓はへやの中へ引ぱり込まれた。そこは青いとばりを張ったはじめの室であった。
「奥様がどんなに待っていらっしゃるか判りませんよ、こちらへいらっしゃいよ」
 年増は隻手かたてを放してそれで帷をくようにして、無理やりに讓の体をその中へ引込んだ。
 そこには真中に寝台があってその寝台のへり※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな主婦が腰をかけて、じっと眼をえて入って来る讓の顔を見ていた。その室の三方には屏風びょうぶとも衝立ついたてとも判らないものを立てまわして、それに色彩の濃い奇怪な絵をえがいてあった。
「ほんとにだだっ子で、やっとつかまえてまいりました」
 年増は讓を主婦の傍へ引ぱって往って、主婦のむこう側の寝台の縁へ腰をかけさせようとした。
「放してください、僕はだめです、僕は用事があるのです、僕はいやです」
 讓は年増の女をり放して逃げようとしたがはなれなかった。
「だめですよ、もうなんと云っても放しませんよ、そんなばかなことをせずに、じっとしていらっしゃいよ、ほんとうにあなたは、ばか、ねえ」
 主婦の眼は讓の顔から離れなかった。
「おとなしく、だだをこねずに、奥さんのお対手あいてをなさいよ」
 年増はおさえつけるようにして讓を寝台の縁へかけさした。讓はしかたなしに腰をかけながら、ただ逃げ出そうとしても逃げられないから、油断をさしておいてすきを見て逃げようと思ったが、頭が混乱していて落ちついていられなかった。
「そんなに急がなくたって、ゆっくりなされたら好いじゃありませんか」
 主婦は年増のはなした讓の手に軽くじぶんの手をかけて、心持ち讓を引き寄せるようにした。
「失礼します」
 讓はその手をり払うとともにちあがって、年増の傍をり抜けて逃げ走った。
「このばか、なにをする」
 年増の声がするとともに讓はうしろからつかまえられてしまった。それでも彼はどうかして逃げようと思ってもがいたが、揮り放すことはできなかった。
「奥様、どういたしましょう、このばか者はしようがありませんよ」
 年増が云うと主婦の返事が聞えた。
「ここへ伴れて来て縛っておしまい、野狐のぎつねがついてるから、その男はとてもだめだ」
 妹とわかじょちゅうが入って来たが、婢の手には少年を縛ってあったような青い長い紐があった。
「縛るのですか」
 婢が云った。
「奥様のおへやへ縛るのですよ」
 年増はそう云い云いひどい力で讓をうしろへ引ぱった。讓はよたよたと後へ引きずられた。
「そのばか者をぐるぐる縛って、寝台の上へ乗っけてお置き、一つ見せるものがあるから、見せておいて、私がいびってやる」
 主婦は室の中に立っていた。同時に青い紐はぐるぐると讓の体に捲きついた。
「私が寝台の上に乗っけよう、そのかわり、奥様のあとで、私がいびるのですよ」
 年増はふうふうふうと云うように笑いながら、讓の体を軽がると抱きあげて寝台の上へ持って往った。讓はもがいて体をったがそのかいがなかった。
「あの野狐のぎつねれてお出で、野狐からさきいびってやる」
 主婦はそう云いながら寝台のへりへまた腰をかけた。讓の眼前めさきは暗くなってなにも見ることができなかった。讓は仰向あおむけに寝かされていたのであった。
 女達のなにか云って笑う声が耳元に響いていた。讓は奇怪な圧迫をこうむっているじぶんの体を意識した。そして、一時間たったのか二時間たったのか、怪しい時間がたったところで、顔を一方にねじ向けられた。
「このばか者、よく見るのだよ、お前さんの好きな野狐を見せてやる」
 それは主婦の声であった。讓の眼はぱっちりいた。年増がわかい女の首筋をつかんで立っていた。それは下宿屋においてあったの女であった。讓ははね起きようとしたが動けなかった。讓は激しく体を動かした。
「その野狐をひねって見せておやりよ、その野狐がだいち悪い」
 主婦が云うと年増は女の首に両手をかけて強く締めつけた。と、女の姿はみるみる赤茶けた色のけだものとなった。
色女いろおんなが死ぬるのだよ、悲しくはないかね」
 讓の眼前がんぜんには永久の闇が来た。女達の笑う声がまた一しきり聞えた。
 讓の口元から頬にかけて鬼魅きみ悪いあたたかな舌がべろべろとやって来た。

 三島讓と云う高等文官の受験生が、数日海岸の方へ旅行すると云って下宿を出たっきりいなくなったので、その友人達が詮議せんぎをしていると、早稲田の某空家の中に原因の判らない死方しにかたをして死んでいたと云う記事が、ある日の新聞に短く載っていた。





底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
入力:深町丈たろう
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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