ただ大異の困ったのは、目的地がまだなかなかこないのに日が暮れかかって、宿を取るような人家のないことであった。大異は普通の人のようにあわてはしないが、寒い露の中で寝ることは苦しいので、どんな小家の中でも好い、また家がなければ
森があり、丘があり、遥かの地平線には遠山の
鴉の声が騒がしく聞えてきた。大異はもうあわててもしかたがないから、このあたりで一泊しようと思った。
林の外側に並んだ幹には
頭の上の方で騒がしく鳴いていた鴉が、急に枝葉をかさかさいわしながらおりてきはじめた。五羽、十羽、二十羽。それが鳴きながら一方の
鴉はみるみる数百羽になって、かあかあ、があがあと何か事ありそうに叫びながら廻った。大異はもう食事するのを
冷たいしめっぽい風が枝葉に音をさして吹いてきた。大異が気が
大異は雨に濡れないように後頭をぴったり木の幹へくっつけた。横になっていた死骸が不意にむくむくと起きて、それが大異を見つけたようにして走りかかってきた。大異はこうしてはいられないとおもったので、そのままそこの木へのぼって往った。雨はざあざあと音を立てて降っていた。
大異は梢の高い所へ往ったが、ここなればいいだろうと思ったので、うまく足のかかった枝を足場として、下の方を透して見た。暗い雨の中でも不思議にはっきり見えている死骸の一つは、
「あがれ、あがれ、あいつを逃がしたら大変だ」
「今晩のうちに、あいつを取らないと、俺達がひどい目に逢わされる」
「
「あいつを逃がしたら、俺達に咎がある」
大異はあがってこられたら大変だと思った。彼は油断せずに死骸の行動をじっと注意していた。
急に
死骸は依然として木の下で罵っていた。大異はさっきの鴉はどうしたろうと思って注意した。黒い鴉の影はもう一つも見えなくなっていた。
遠くの方で叫ぶとも呼びかけるとも判らない声が聞えた。大異はその方へ眼をやった。背の高い怪しい者が月の光を浴びて、こちらへ向いて大
怪しい者はみるみる近くなってきた。それは額に二本の角のある青い体をした
夜叉は死骸の側へ来た。そこには木の上に向って何か言っている一つの死骸があった。夜叉はひょいと手を延べてその死骸の頭へやった。と、頭はぼっきりと折れたようになって夜叉の手に移った。それと同時に死骸は
夜叉は手にした死骸の頭を大きな赤い口へ持って往ってむしゃむしゃと
夜叉のっていた死骸の頭はすぐなくなった。夜叉はまた手を出して次に立っていた死骸の頭を取って、またむしゃむしゃといだした。その死骸も麻殻の倒れるようにもっそりと倒れてしまった。大異はこれからまたどんなことを始めるだろうと思って、不安な中にも後が待たれるような気がした。
夜叉はその頭をってしまうと、また次の死骸の頭を取っていだしたが、その頭を取ることもうことも非常に早くなって往った。
夜叉は次から次へ死骸の頭をって往って、八つか九つかの頭を皆ってしまったが、い終るとそのまま木の下へ倒れるように寝てしまった。
その夜叉の
大異は野の明るい所を選んで足の向くままに走った。百足ばかりも往ったところで、後の方で物の気配がした。大異は走りながらちょっと後の方を見た。かの夜叉が赤い大きな口を見せて追っかけてくるところであった。大異ははっと思って死力を出して走ったが、このままでは夜叉に追っつかれるので木へあがろうと思って、ちかちかする眼をせわしく動かして前の方を見た。五六本の木立があって、その下に家の屋根のような物が見えた。大異は喜んでその方へ走った。
一条の月の光が朽ち腐れて塵の中に埋れている仏像などを照らしていた。大異はどこか隠れる所はないかと思って注意した。壇の上に
その穴は仏像の腹の所で拡がっていて、体を置くにはちょうどよかった。大異はここにおれば大丈夫だろうと思って、やや安心しながら穴の口へ注意していた。と、仏像の腹を外から木のような物で叩く音がした。
「あいつは、つかまえようとしてもつかまえられないが、俺はつかまえようともしないのに、むこうからつかまりにきたぞ」
それは仏像が両手で腹つづみを
「今晩は好い
仏像は背延びをするようにしてのろりのろりと歩きだしたが、十足ばかり往ったところで
大異は夜叉の見ていない所から逃げようと思って、そこを離れようとしたが、自分を弄んだために禍を
「この
大異はそのまま
大異は寺から見当をつけて前へ前へと歩いた。その往っている方向に当って、月の陰になったように暗い所があって、そこから
燭の光の中に数人の人の動く影が見えた。その人びとは
人びとの面白そうに話す声が聞えてきた。大異はもうその人びとといっしょになったように思って、とかとかその側へ寄って往った。そして、大異はそこでまた恐ろしいものを見た。それは頭のない者や、頭があれば手の一本か足の一本かがないような者ばかりが集まっているところであった。大異はまた厭なものを見たと思ったので、そのままその傍をそれて走った。
背後の方から怒り罵る声が聞こえてきた。
「そいつを逃がすな、つかまえろ」
「俺達が飲んでいる所へ、やってくるとは大胆な奴じゃ、つかまえて
「つかまえろ、逃がすな、俺達の邪魔をした奴じゃ」
背後からばらばらと飛んでくる物があった。それは人の骨のような物もあれば、牛の糞のような物もあった。大異は走りながらちらと背後に眼をやった。自分の物であろう片手に頭を持った頭のない者が、前にたって追っかけてきていた。
大異は一生懸命になって走った。小さな川の流れがすぐ前にきた。水は月の光を受けてちらちらと光っていた。大異は橋などを尋ねる暇がないので、そのまま水の中へ走り込んで、全身をずぶ濡れにしながらやっと
怪しい者たちは川の手前で罵り叫ぶだけで、水を渡ってくるらしい形勢がなかった。大異はそれでも走るのを止めなかった。二三町も往ったところで、
月が不意に入って
冷たい厭な物が骨にまで浸みたように思って大異は我に返った。そして、眼を開けて四辺を見ようとした。
「とうとう
「そうだ、めでたいことじゃ」
「早速大王の前へ連れて往こう」
大異の頸には
「こっちへこい」
「歩け」
大異の体へひどい力が加わった。大異は痛いのでしかたなしに歩いて往った。
すぐ一つの庁堂があって、その正面には大王であろう、奇怪な姿の者が坐っていた。怪しい者たちはその前へ大異を連れて往った。
「吾が徒を凌辱する狂士を連れてまいりました」
大王は頷いて大異を睨みつけた。
「その方は五体を具えて、知識がありながら、どうして鬼神の徳の盛んなことを知らないのじゃ、孔子は大聖人であるけれども、なお敬して之を遠ざくと言ったではないか、
大王はそう言ってから命令した。
「まず
大異は冠も衣裳も剥がれて、裸にせられて鞭を加えられた。みるみる肉が破れて全身は血みどろになった。大王はそれを見て言った。
「鞭が厭なら、泥を
大異は早く鞭を逃れたいと思ったが、泥を調って醤をこしらえることはできないので三丈の鬼になろうと思った。
「どうか鬼にしてくださいますように」
大王は笑った。
「鬼になるか、よし、よし、では皆で三丈の鬼にしろ」
大異の体はそのまま石床の上へ横倒しにせられた。怪しい者たちは、その大異の体へそれぞれ両手をかけて
大異の体は皆の手に支えられて起された。それは竹竿を立てたような長い長い体になって、独りでは動くことも立っていることもできなかった。
「出来た出来た、
皆が手を叩いて
「それが苦しければ代えてやってもいい、石を
大異は自分独りで立っていられないよりも、一尺の体の方がいいと思った。
「どうか、一尺の体にしてくださいますように」
「よし、一尺の体になりたいのか、皆、その人間を一尺の体にしてやれ」
大異の体はまた石床の上へ引擦り倒されて、縮めるように頭と足を捺されたり、また
「
「彭※[#「虫+其」、267-16]怪」
皆が手を拍って笑った。大異は苦痛に耐えられないで体を
そこに年取った怪物がいた。怪物は掌を拍って笑って言った。
「お前さんは、
老鬼はその後で皆に向って言った。
「この人間は無礼な奴だが、これくらい辱しめたなら充分だろう、赦してやろうじゃないか」
老鬼はそこで両手を延べて大異をつかまえて起した。起すと同時に大異の体は
「どうか私を還してください」
皆が口々に言った。
「まだ返さないよ」
「ここまで連れてきた者を、ただは返さないよ」
「そうさ、人間に、我輩どもの有ることを知らす必要があるからな」
「皆で贈物があらあ」
大異を故の体にしてくれた老鬼が言った。
「贈物とはどんな物だ、どんな物を贈るのだ」
すると一つの怪物が言った。
「俺からは、
その怪物は二本の角を持ってきて、それを大異の額に当てた。と、角はそのまま生えたようにくっついてしまった。
「俺からは、
他の怪物の一つは、鉄の嘴を持ってきて大異の
「俺は
次の怪物は赤い水を桶に入れてきて、それを大異の髪にかけた。髪は火のように赤い色になって、それが頭の周囲にまくれあがった。
「俺は碧光の
も一つの怪物は二つの青い珠を持ってきて、大異の両眼に
「これで贈物はもう済んだらしいな、では、もうこの人間を帰してやろう、さあお前さん、帰るがいいよ、そこいらまで俺が送ってやろう」
大異は老鬼に促がされて歩いた。老鬼はことことと後から
暗い坑の口が見えてきた。その坑の口へ往ったところで老鬼が言った。
「この坑はお前さんがきた坑だ、これを出ると、すぐお前さんの家だ、ずいぶん達者で暮すがいい、さっきお前さんはひどい目に逢ったが、もうあんなことは忘れてしまうがいいよ」
大異はそこで老鬼と別れて坑を出た。坑の
そして、やっと家へ帰り
「俺は鬼に辱しめられて死ぬるから、棺の中へたくさん紙と筆を入れて置け、俺は天に
家内の者は大異の言う通り紙筆を棺の中へ入れたところで、三日過ぎて、白昼不意に暴風雨が起って、それに雷鳴が加わり、屋根瓦を飛ばし、大木を抜いて、翌日の朝まで荒れて、朝になってやっと
その時、大異の柩の中から声が聞えた。
「俺の訟えが勝って、鬼どもは
大異の家ではそこで大異を葬ったが、葬る時その柩の周囲に、大異の霊の